衆議院

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第3号 平成28年11月24日(木曜日)

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平成二十八年十一月二十四日(木曜日)

    午前九時開議

 出席委員

   会長 森  英介君

   幹事 伊藤 達也君 幹事 上川 陽子君

   幹事 中谷  元君 幹事 根本  匠君

   幹事 平沢 勝栄君 幹事 古屋 圭司君

   幹事 武正 公一君 幹事 辻元 清美君

   幹事 北側 一雄君

      青山 周平君    赤枝 恒雄君

      安藤  裕君    池田 佳隆君

      大塚 高司君    大西 英男君

      大野敬太郎君    小松  裕君

      後藤田正純君    佐々木 紀君

      佐藤ゆかり君    助田 重義君

      瀬戸 隆一君    園田 博之君

      田畑 裕明君    高木 宏壽君

      高橋ひなこ君    辻  清人君

      土屋 正忠君    長尾  敬君

      野田  毅君    福山  守君

      船田  元君    古川  康君

      星野 剛士君    宮崎 政久君

      村井 英樹君    八木 哲也君

      山際大志郎君    山下 貴司君

      山田 賢司君    枝野 幸男君

      奥野総一郎君    岸本 周平君

      北神 圭朗君    中川 正春君

      古本伸一郎君    細野 豪志君

      山尾志桜里君    太田 昭宏君

      斉藤 鉄夫君    遠山 清彦君

      赤嶺 政賢君    大平 喜信君

      足立 康史君    小沢 鋭仁君

      照屋 寛徳君

    …………………………………

   衆議院憲法審査会事務局長 齋藤 育子君

    ―――――――――――――

委員の異動

十一月二十四日

 辞任         補欠選任

  池田 佳隆君     青山 周平君

  衛藤征士郎君     大西 英男君

  鬼木  誠君     小松  裕君

  田畑 裕明君     瀬戸 隆一君

  保岡 興治君     古川  康君

同日

 辞任         補欠選任

  青山 周平君     池田 佳隆君

  大西 英男君     衛藤征士郎君

  小松  裕君     長尾  敬君

  瀬戸 隆一君     助田 重義君

  古川  康君     八木 哲也君

同日

 辞任         補欠選任

  助田 重義君     田畑 裕明君

  長尾  敬君     高橋ひなこ君

  八木 哲也君     大野敬太郎君

同日

 辞任         補欠選任

  大野敬太郎君     保岡 興治君

  高橋ひなこ君     鬼木  誠君

    ―――――――――――――

十一月十八日

 立憲主義の原則を堅持し、憲法九条を守り、生かすことに関する請願(畑野君枝君紹介)(第六二〇号)

 同(赤嶺政賢君紹介)(第六七九号)

 同(池内さおり君紹介)(第六八〇号)

 同(梅村さえこ君紹介)(第六八一号)

 同(大平喜信君紹介)(第六八二号)

 同(笠井亮君紹介)(第六八三号)

 同(穀田恵二君紹介)(第六八四号)

 同(斉藤和子君紹介)(第六八五号)

 同(志位和夫君紹介)(第六八六号)

 同(清水忠史君紹介)(第六八七号)

 同(塩川鉄也君紹介)(第六八八号)

 同(島津幸広君紹介)(第六八九号)

 同(田村貴昭君紹介)(第六九〇号)

 同(高橋千鶴子君紹介)(第六九一号)

 同(畑野君枝君紹介)(第六九二号)

 同(畠山和也君紹介)(第六九三号)

 同(藤野保史君紹介)(第六九四号)

 同(堀内照文君紹介)(第六九五号)

 同(真島省三君紹介)(第六九六号)

 同(宮本岳志君紹介)(第六九七号)

 同(宮本徹君紹介)(第六九八号)

 同(本村伸子君紹介)(第六九九号)

同月二十四日

 立憲主義の原則を堅持し、憲法九条を守り、生かすことに関する請願(小宮山泰子君紹介)(第七五九号)

 同(本村伸子君紹介)(第七七二号)

 同(小宮山泰子君紹介)(第八六三号)

 同(赤嶺政賢君紹介)(第九七三号)

 同(池内さおり君紹介)(第九七四号)

 同(梅村さえこ君紹介)(第九七五号)

 同(大平喜信君紹介)(第九七六号)

 同(笠井亮君紹介)(第九七七号)

 同(穀田恵二君紹介)(第九七八号)

 同(斉藤和子君紹介)(第九七九号)

 同(志位和夫君紹介)(第九八〇号)

 同(清水忠史君紹介)(第九八一号)

 同(塩川鉄也君紹介)(第九八二号)

 同(島津幸広君紹介)(第九八三号)

 同(田村貴昭君紹介)(第九八四号)

 同(高橋千鶴子君紹介)(第九八五号)

 同(畑野君枝君紹介)(第九八六号)

 同(畠山和也君紹介)(第九八七号)

 同(藤野保史君紹介)(第九八八号)

 同(堀内照文君紹介)(第九八九号)

 同(真島省三君紹介)(第九九〇号)

 同(宮本岳志君紹介)(第九九一号)

 同(宮本徹君紹介)(第九九二号)

 同(本村伸子君紹介)(第九九三号)

 同(池内さおり君紹介)(第一〇三七号)

 同(塩川鉄也君紹介)(第一〇三八号)

 同(宮本岳志君紹介)(第一〇三九号)

 同(赤嶺政賢君紹介)(第一一九一号)

 同(梅村さえこ君紹介)(第一一九二号)

 同(大平喜信君紹介)(第一一九三号)

 同(笠井亮君紹介)(第一一九四号)

 同(穀田恵二君紹介)(第一一九五号)

 同(斉藤和子君紹介)(第一一九六号)

 同(志位和夫君紹介)(第一一九七号)

 同(清水忠史君紹介)(第一一九八号)

 同(島津幸広君紹介)(第一一九九号)

 同(田村貴昭君紹介)(第一二〇〇号)

 同(高橋千鶴子君紹介)(第一二〇一号)

 同(畑野君枝君紹介)(第一二〇二号)

 同(畠山和也君紹介)(第一二〇三号)

 同(藤野保史君紹介)(第一二〇四号)

 同(堀内照文君紹介)(第一二〇五号)

 同(真島省三君紹介)(第一二〇六号)

 同(宮本徹君紹介)(第一二〇七号)

 同(本村伸子君紹介)(第一二〇八号)

 同(梅村さえこ君紹介)(第一二九〇号)

 同(高橋千鶴子君紹介)(第一二九一号)

 同(斉藤和子君紹介)(第一四六〇号)

 同(清水忠史君紹介)(第一四六一号)

 同(塩川鉄也君紹介)(第一四六二号)

 同(畠山和也君紹介)(第一四六三号)

 同(牧義夫君紹介)(第一四六四号)

 憲法を守り、生かすよう求めることに関する請願(塩川鉄也君紹介)(第一〇四〇号)

 憲法を改悪せず、第九条を守り抜くことに関する請願(塩川鉄也君紹介)(第一一九〇号)

 憲法の改悪反対、九条を守ることに関する請願(畠山和也君紹介)(第一四五九号)

は本憲法審査会に付託された。

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制に関する件(立憲主義、憲法改正の限界、違憲立法審査の在り方について)


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     ――――◇―――――

森会長 これより会議を開きます。

 日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制に関する件、特に立憲主義、憲法改正の限界、違憲立法審査の在り方について調査を進めます。

 これより自由討議に入ります。

 この自由討議につきましては、幹事会の協議に基づき、まず、各会派を代表する委員が順次発言を行い、その後、各委員が自由に発言を行うことといたします。

 それでは、まず、各会派を代表する委員の発言に入ります。

 発言時間は十分以内とします。

 発言は自席から着席のままで結構です。

 発言の申し出がありますので、順次これを許します。上川陽子君。

上川委員 おはようございます。自由民主党の上川陽子です。

 今回、立憲主義、憲法改正の限界、違憲立法審査の在り方についてをテーマに、会派を代表して意見表明の機会をいただき、大変光栄に存じます。

 立憲主義は、憲法による政治と言われます。その字義どおり解釈すれば、憲法によって国家権力の行使に何らかの制限を加えることを意味すると考えられます。このような意味での立憲主義は、近代市民革命以前から存在したものではありますが、国家、公に対して、個人、私の存在を積極的に評価する観念のもとに成立したものではなく、むしろ、個人の幸福は国家の幸福の中においてこそ存在するとの考え方を基盤とするものであったということができます。

 このような立憲主義の考え方は、十八世紀の近代市民革命を経て、私、すなわち個人の存在を積極的に評価するものとして再構築されました。個人個人が人間らしい平和的な社会生活を送ることができるように、価値観が多様であることを認めるとともに、互いの価値観を尊重して生きていくことができる社会を目指し、そのような社会の実現のためには、単に憲法によって権力行使に制限を加えるというだけでは足りず、権力分立により基本的人権を保障するという構造を憲法に規定することが主張されました。我が日本国憲法も、このような近代立憲主義的な考え方を重要な要素として構成されていることは言うまでもありません。

 このような近代立憲主義の考え方は、近代市民革命の当時から、さらに大きな変容を遂げてきました。すなわち、行き過ぎた自由主義による貧富の差の拡大を背景として、人間、特に社会的、経済的弱者の自由と生存を確保するために、国家が市民社会の領域に一定限度まで介入するという社会権の考え方が取り入れられるなど、人の支配ではない、法の支配の実現による人権保障が追求されています。また、憲法的正義を実現するため、裁判所に違憲立法審査権が付与されるなど、時代や国家観の変化に対応した変容も認められるところです。

 自由民主党は、このような近代立憲主義に基づき、多様な価値観をよりどころとして、個人個人が人間らしく生きていくことができる社会を構築するために一貫して努力してきたものであり、今後もその努力を続けてまいります。

 ここで目標とされる社会は、個人個人が自分がよって立つ価値観、アイデンティティーを唯一絶対の正しいものと位置づけることなく、相手の価値観を尊重して生きていくことが当然の前提となっている社会のことです。我が国において、個人個人のよりどころとなっている価値観は、個人が生まれながらに有しているものではなく、社会における共同体の中で育まれ、成長していく過程で培われていくものなのです。

 憲法論議に際しても、我が国の歴史的、文化的背景のもと、個人個人が共同体の中で他者とのつながりを大切にし、他者への寛容の精神を持ち、生き生きと人間らしく生活してきたという事実にも目を向ける必要があるのではないでしょうか。日本国民は、数ある選択肢の中で、このような社会のあり方、そしてそのような社会を守るための国の形を選び取ってきました。今後予想される大きな環境変化を受けて、あるべき国の形を絶えず模索しながら、そのよりどころとなる憲法について議論を進めることが重要と考えます。

 ところで、さきに述べましたように、立憲主義という概念自体、現代的変容を遂げて日々進化しています。

 我々憲法審査会においては、憲法と社会の実際との間にずれが生じているとされるさまざまな論点について、さまざまな角度から議論を深めていく必要があります。その際、立憲主義に反するといった抽象的な言葉のみで豊かな憲法論議が閉ざされることがあってはなりません。

 議論に際しては、立憲主義の究極の目的が個人の権利、自由の保障にあることを十分に認識し、さらに、立憲主義の概念自体が、社会的、経済的弱者保護のための社会権の考え方が取り入れられるなど変容していること、さらに、諸外国には、立憲主義を具体化する規定に加え、国家の歴史的、文化的背景を前提とした規定を設けている立法例があることも無視すべきではないと考えます。

 例えば、近代立憲主義の母国であるフランスは、共和国の標語は自由、平等、博愛である、共和国の原理は人民の人民による人民のための政治であるなどと規定しています。これらの規定は、必ずしも国家権力を縛るものではありませんが、フランス国民が打ち立てた建国の理念を高らかにうたい、単なる過半数、時の権力によって容易に変更できないようにしたものと理解されているものです。

 ところで、国の形は、憲法典と憲法附属法規や一連の基本法などの総体から成る生きた憲法、リビングコンスティチューションとして具体的なものとしてあらわれます。

 我が国は、条文の抽象度が高いとともに条文数が少ないという日本国憲法の特色を生かしながら、憲法典そのものの改正ではなく、法改正などを通じて時代の変化に向き合う努力を続けてきました。しかしながら、制定以来七十年を経て、その特色であった、条文の抽象度が高いとともに条文数が少ないという点につき、規律密度が低く、権力を統制する力が弱いのではないかといった指摘があります。

 規律密度が低いと指摘されている分野としては、例えば、憲法第八章において、地方自治体の組織及び運営に関する事項を全て法律に委任している点などがあります。

 このように、規律密度が低いと指摘されている分野について、国民の権利、自由の保障を究極の目的とする立憲主義の観点から、憲法改正の要否も含め、それを補うのであればどうしたらよいかという発想で、今後、憲法審査会において議論をしていくべきと考えます。

 次に、現代における立憲主義の重要な要素である違憲立法審査のあり方について申し述べます。

 かつて、人権は議会が制定する法律によって保障されると考えられていましたが、現代においては、人権は法律からも保障されなければならないと考えられるようになってきました。

 その典型例が、裁判所による違憲立法審査権の行使です。かかる違憲立法審査権に関しては、裁判所による違憲立法審査が機能不全に陥っているといった指摘や、終審裁判所として違憲立法審査権を行使する最高裁判事の任命手続に対する民主的統制が諸外国に比べて弱いといった指摘がなされています。

 違憲立法審査権の問題については、裁判所に違憲立法審査権が委ねられた趣旨や、三権分立の理念のもとで、政治的権力から独立し、個別具体的な事件の解決を通じて国民の人権保障を図っている司法の役割等を踏まえた慎重な議論が必要であると考えます。

 最後に、憲法改正の限界に触れつつ、冒頭発言の結びとしたいと思います。

 先ほど、日本国民は数ある選択肢の中から国の形を選び取ってきたことを申し述べました。この国の形が端的にあらわれている日本国憲法の基本原理、すなわち、基本的人権の尊重、国民主権、平和主義の変更は、憲法改正の限界を超えるものであると考えます。

 この憲法審査会においても、あくまでも日本国憲法の基本原理を堅持するとの共通の認識の上で、憲法が我が国の民主主義国家、平和主義国家としての礎を築く上で果たしてきた役割をしっかりと踏まえ、国民目線で建設的な憲法改正論議を進めていくことが肝要であることを訴え、意見表明といたします。

 以上です。

森会長 次に、枝野幸男君。

枝野委員 民進党・無所属クラブを代表して、立憲主義についての見解を申し述べます。

 近代立憲主義は、絶対王政を制約する原理としてスタートしましたが、国民主権と民主制のもとでその意義がますます大きくなっています。というのも、国民主権のもとでは、立法、行政や司法という公の権力について、その正統性の根拠が憲法にこそ存在するからです。

 公の権力は、主権者たる国民が憲法によって定めた手続、選挙などでありますが、この手続に基づく場合に限り、かつ憲法で定めた範囲に限って正統性を有します。初期の近代立憲主義が、王権の存在を前提に、それを制約するにとどまる考え方であったのに対し、国民主権のもとでは、そもそも憲法に定められた範囲でしか公権力の行使が認められないのですから、立憲主義の意義は飛躍的に拡大をしています。

 私たち公権力をお預かりしている者が、憲法によって拘束されているという立憲主義の意味を否定したり軽視したりすることは、みずからの正統性を自己否定することにほかなりません。自由民主党の改正草案は、立憲主義に反し、憲法を統治の道具であるかのごとく考えていると受け取られても仕方がない内容になっています。

 言うまでもなく、統治権の正統性の根拠である憲法を統治の道具として扱うのは矛盾です。憲法で国民を拘束しようなどという考え方をしている皆さんは、公権力の正統性の根拠をどのように考えているのでしょうか。憲法なくして公権力に正統性はなく、憲法を統治の道具とするかのごとき考え方は、天賦人権説ならぬ、天賦公権力説とでも呼びたくなります。

 こうした立憲主義の本旨を踏まえるならば、憲法議論は、公権力行使の手続や限界について、主権者たる国民が統治者をどう制御するかという観点からなされなければなりません。

 国家国民をどう統治するかという問題や、その統治権を通じて日本という国家と社会の未来をどう描くのかというのは、憲法に規定された手続と憲法によって預けられた権限の範囲内でそれぞれが主張し、実現を図るものです。憲法についての議論を意味あるものとするためには、この点の認識の共有が必要であります。

 ところで、立憲主義を無視したり軽視したりする声は、保守を自称したり、保守と位置づけられる側に目立つように思います。

 保守主義は、フランス革命の急進過激な変革に対するアンチテーゼとして生まれました。歴史と伝統を重視し、急激な変化を否定する考え方です。その背景にあるのは、人間は不完全な存在であり、完璧な洞察力と判断力を有する人間は存在しないという謙虚な人間観です。

 不完全な人間がつくる社会も常に不完全であるとして、理想の社会を目指してまっしぐらに社会を変えていこうという理想主義や急進改革を否定したのです。過去も現在も未来も社会は常に不完全であり、理想の社会というものはあり得ないのだから、過去から積み重ねられた現在をベースに、その間に得られた経験知を生かして社会を少しずつよくしていこうと考えるのです。

 政治論における保守主義は、法の世界で立憲主義となります。特に、民主制のもとにおける立憲主義の重要な根拠の一つは、保守思想に求められます。

 人間も社会も常に不完全であるという保守主義の謙虚な人間観に基づけば、民主制度といえども理想とは位置づけられません。民主制のもとでも社会や人間は間違えることがある、その場合に社会全体が一気に間違った方向に進まないよう、経験知の結集である憲法によって歯どめをかけ、より慎重な手続を求める、これが保守思想に基づく近代立憲主義の意義です。

 したがって、立憲主義を重視しない保守はまがいものです。さらに言えば、少なくとも、現代においていわゆる押しつけ憲法論を振りかざしたり、憲法典の全面改正、すなわち、新憲法制定を唱えたりする方々は、保守と対極にあります。

 日本国憲法の制定経緯についてどのような見方に立とうとも、日米戦争に敗れ、ポツダム宣言を大日本帝国の国家主権に基づいて受諾したことは間違いありません。我が国が七十年にわたって日本国憲法のもとで歴史を積み重ね、主権者国民の間にその憲法が定着していることも間違いありません。歴史と伝統を重視するなら、これらの歴史も当然直視すべきです。自分に都合のよい部分だけを取り上げて歴史や伝統と位置づける立場は、真の保守とは言えません。

 そして、急進過激な変革を否定する保守の立場と、新憲法制定、すなわち革命にも匹敵するような憲法典の全面改定案を唱えることは、本来両立しがたいものであります。こうした観点から、最大会派である自由民主党の認識をぜひとも伺いたいと思っています。

 十七日の当審査会における中谷筆頭の御発言、それから今の上川幹事の御発言では、立憲主義と、あるいは現行憲法の三大原則を守る旨の御発言がございました。それが安倍総裁を含めた自由民主党の総意であるならば歓迎をしたいと思います。ところが、他方で、自民党は、立憲主義を踏まえず、三大原則を大きく変更する内容の憲法全面改定草案を発表しています。

 どうやらその草案は棚上げをされたようですが、撤回はされていません。中谷筆頭などの発言との整合性はどうなるのでしょうか。本当は草案のような立憲主義を否定する改正をしたいのだけれども、それを言うと議論が進まないから二枚舌を使っているのでしょうか。あるいは、あの草案について、立憲主義を踏まえたものだと認識しているのでしょうか。そうだとすれば、立憲主義についての認識が百八十度違うと言わざるを得ず、建設的な議論は困難です。

 草案をこれからどのように扱うのかを含め、これらの点の御説明と、それが安倍総裁を含む自由民主党の総意と受けとめてよいのかどうかについて明確な御認識をお示しいただきたいと思います。

 同時に、約半世紀にわたってみずからが述べてきた集団的自衛権の解釈を一方的に変更したいわゆる安保法制について、立憲主義や保守思想との関係を明確に説明していただきたいと思います。

 最後に、ここから先は今後の議論に向けた私見として申し上げたいと思います。それは行政府による議会の解散権の問題です。

 王権を制約する初期の近代立憲主義においては、議会が徐々に権能を強める一方で、王権の側に議会を牽制するための解散権が認められるというのが普通でした。その後、王権は民主制に根拠を持つ行政府へと変わってきましたが、議院内閣制を採用する多くの国で、王権の有していた議会解散権は行政府に引き継がれました。しかし、二十世紀の半ばから現代まで、行政府による議会の解散権は徐々に縮小しています。というのも、議院内閣制では行政府と議会の多数派は一致するのが基本であり、その場合には行政府と議会との間に緊張が働かず、一方に解散権を持たせる合理的な理由が見出せないからです。

 議会による不信任に対抗する手段としての議会解散ならば、立法府と行政府の適度な緊張をもたらします。しかし、不信任もされていない状況、つまり、議会の多数派を占めながら議院内閣制のもとでの行政府が議会を解散することを認めれば、多数派である行政府による恣意的な選挙が可能になり、議会に対する行政府の優位性を強めるだけで、権力分立原則からも、議会や、あるいはそれを通じての選挙民、有権者による行政に対するチェック機能という観点からも望ましいものではありません。

 こうした認識が主流になり、ドイツでは第二次世界大戦後の基本法で行政府による解散の制度がなくなり、英国では二〇一一年から不信任の場合を除く解散が認められなくなっています。立憲主義の現代的意義を踏まえるとき、権力の濫用を防ぐ観点から適切、妥当な流れです。

 日本国憲法の衆議院解散権について不信任を要件としないいわゆる七条解散が可能であることは、当初の立法意思はともかくとして、少なくとも慣習憲法として認められていると言わざるを得ません。

 私は、このいわゆる七条解散を禁止し、衆議院の解散を内閣が不信任された場合に限定することが、立憲主義をさらに深化させる意味から合理的であると考えます。これこそが、世界の潮流を踏まえ、時代の変化に対応した憲法議論であると思います。私も党内でこの論点について議論を進めますので、各党会派においてもぜひ御議論をいただきたいとお願いを申し上げます。

 最後に、前回も申しましたとおり、憲法に密接に関連する基本法制の調査は、国会法に定められた憲法審査会の任務です。皇室典範はまさにこの憲法に密接に関連する基本法制そのものでありますから、これについて調査するのは、国会法に規定された憲法審査会の任務です。天皇の譲位について有識者の閉ざされた議論が先行するのは、天皇が国民統合の象徴であるというその地位に照らしても妥当ではありません。譲位の問題について国民の代表機関である国会において速やかに議論する責任があり、それを担うのは、国会法に照らして憲法審査会しかありません。このことを改めて強く強調して、私の発言を終わります。

森会長 次に、斉藤鉄夫君。

斉藤(鉄)委員 おはようございます。公明党の斉藤鉄夫です。

 本日は、立憲主義、憲法改正の限界及び違憲立法審査のあり方の三点について、私の考えを申し述べさせていただきます。

 まず第一に、立憲主義についてです。

 立憲主義とは、主権者たる国民が、その意思に基づき、憲法において国家権力の行使のあり方について定め、これにより国民の基本的人権を保障するという、近代憲法の基本となる考え方と理解しております。

 別の言い方をすれば、国民の基本的人権の保障のため、主権者である国民が権力を名宛て人として権力の行使の原則を定めたのが憲法であるということです。

 日本国憲法は、人間の尊厳に価値の根源を置き、全ての人が生まれながらに有する基本的人権を保障すると規定しています。基本的人権を保障するその目的のため、国民主権のもと、権力分立を定め、権力の濫用から国民の自由、人権を守る統治機構を規定しております。さらに、最大の人権侵害ともいうべき戦争を放棄し、国民を守る平和主義を宣言しております。

 すなわち、まず基本的人権の尊重があり、それから国民主権、恒久平和主義という原理が導き出されます。この三つが日本国憲法の三原則となります。

 このように、日本国憲法は権力から国民の人権を保障しようとする立憲主義憲法であって、三原則は立憲主義と不可分の一体のものというべきであります。立憲主義は、これからも日本国憲法の本質として維持していかなければなりません。

 さて、立憲主義の根幹である国民の基本的人権の保障の基本的人権の意味について考えてみたいと思います。

 基本的人権の中身は、人類史の中で歴史的な議論、闘争の積み重ねがあり、変容してきました。すなわち、フランス人権宣言に見られる権力の分立によって権力を制限するという権力からの自由という考え方を基礎にして、時代の変遷の中で、生存権や社会保障など社会権を保障する権力による自由、また普通選挙など参政権の拡大を実現する力となった権力への自由なども含まれるようになってきました。自由、基本的人権の意味が時代とともに豊かになってきた、拡大されてきたわけです。

 今、我々は、第四の産業革命、地球環境問題、グローバリズムと反グローバリズムの対立などと称される激動の世界の中にいます。その大きな変化の中にあって、憲法が保障すべき基本的人権の中身についても、常に、どうあらねばならないのか、拡充していかなければならないのではないかを考え続ける必要があると思います。

 例えば、さきに挙げた地球環境問題です。

 十数億年にわたる地球上の生命と時間と環境がつくった高分子、化石燃料を、我々人類はたった数百年で使い果たそうとしています。そして、それは人類生存の根幹を脅かす地球環境問題として我々の前に立ちはだかっています。

 そして、この環境の中で、健康で豊かに生きていきたいという基本的人権は、今を生きる我々だけでなく、将来を生きる我々の子孫のものでもあります。今を生きる我々は、将来を生きる人たちによりよい環境を残していかなければならないし、それが将来の世代の基本的人権の基礎となります。立憲主義を考えるとき、これら新しい基本的人権の保障についても考える必要があるのではないかと考えます。

 以上、論じてきたように、立憲主義とは国民の基本的人権を保障するための憲法であるということですが、憲法にはもう一つ大きな役割があると思います。それは、国家の理念、別な言葉で言えば、こういう国を皆でつくっていこうという目標を掲げることです。もちろん、国民的議論を十分行って、大部分の国民が納得するものでなくてはならないのは当然です。例えば、国際協調主義のもとの平和国家、文化国家を目指すとか、地球環境の保全のため世界のリーダーになるなどです。世界の平和と文化、そして環境のため日本が貢献したいという意思を明確にするのも、憲法の役割であっていいと考えます。

 次に、憲法改正の限界について述べます。

 憲法第九十六条に憲法改正の手続が定められていることから、改正そのものは否定されていないが、憲法の最高法規性を定めた第九十七条に、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、」中略しまして「現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」とあり、基本的人権の保障については変えてはならないと明確に宣言されていると考えます。

 また、憲法が改正されたとして、その新憲法と現行憲法との同一性、一体性が疑われるような改正は限界を超えていると考えるのが自然ではないかと考えます。その同一性、一体性とは、日本国憲法の場合、基本的人権の尊重、そしてそこから導き出される国民主権と恒久平和主義の三原則が貫かれているかどうかだと思います。この三原則の原理を損なうような変更は、憲法改正の限界を超えたものと公明党は考えています。

 最後に、違憲立法審査について述べます。

 違憲立法審査について、我が党の議論として、司法消極主義、司法積極主義、両方の意見があるというのが正直なところであります。ただ、具体的な事件から離れて抽象的審査を行うことになる憲法裁判所の設置は、実質的に裁判所の政治化を招くのではないか、ひいては社会の混乱と分断を助長するのではないかとの懸念の声が多くありました。現在の個別具体的な案件について個別に違憲審査を行う制度が妥当ではないかと私は考えます。

 その上で、裁判所が憲法判断に消極的過ぎるのではないかとの批判も他方であります。例えば、裁判所に憲法部を設置する案や、最高裁と高等裁判所の間に特別高等裁判所を設けて最高裁の違憲審査機能と上告審機能を切り離すなどの改革案が提案されております。裁判官やそのスタッフの増員が必要ですが、検討に値すると考えます。

 以上、立憲主義、憲法改正の限界及び違憲立法審査のあり方の三点について申し述べさせていただきました。

 最後に、今後の衆議院憲法審査会での論議について、時の政局から一歩離れて、冷静に議論を積み重ねることが大切だと申し述べさせていただき、私の本日の意見表明といたします。

森会長 次に、大平喜信君。

大平委員 日本共産党の大平喜信です。

 立憲主義に関して幾つか意見を述べたいと思います。

 まず何よりも重大なことは、安保法制ほど立憲主義を踏みにじったものはないということです。安倍政権は、これまで歴代内閣によって憲法の九条のもとで集団的自衛権の行使は認められないとされてきた憲法解釈を、一内閣の閣議決定によって容認へと変更し、これに基づき安保法制を強行しました。これこそ立憲主義に反するのではないか、こんなことが許されるのかという多くの批判を浴びたのであります。

 しかし、こうした批判に対し安倍首相は、立憲主義とは、主権者たる国民が、その意思に基づき、憲法において国家権力のあり方について定め、これにより国民の基本的人権を保障する考えだと述べられ、国家権力を縛るという考え方は、かつて王権が絶対権力を持っていた時代の主流的な考え方であると述べられました。ここには、権力を拘束し、制限するという立憲主義の最も基本的な問題を殊さら曖昧にしようとする意図を感じざるを得ません。

 昨年六月四日の本審査会参考人質疑でも、長谷部参考人は、立憲主義の意味の一つは、何らかの形で権力を制限することであると述べられ、小林参考人も、立憲主義というのは、権力者の恣意ではなく、法に従って権力が行使されるべきであるという政治原則であると述べられました。憲法の拘束のもとで政治を行うべき安倍政権が、憲法を乗り越える恣意的な解釈によって集団的自衛権の行使を認めたことこそ、立憲主義に反するものだと指摘しなければなりません。

 次に、安倍政権が踏みにじった歴代政府の憲法解釈はどのようにして形成されたのかということについてです。

 そもそも憲法九条は、戦争放棄、戦力の不保持、交戦権の否認を定めており、海外での武力行使など到底認めておりません。しかし、日本政府は、アメリカからの再軍備の圧力に従って警察予備隊を創設しました。政府は、警察上の組織であり戦力ではないから九条には違反しないと述べたのであります。

 その後、日米安保のもとでの軍備増強のため、保安隊を自衛隊に改組するに当たり、警察権なので戦力ではないという論理が通用しなくなったため、自国に対して武力攻撃が加えられた場合に国土を防衛する手段として武力を行使することは憲法に違反しないとして、九条のもとで認められる自衛権の行使の範囲は、他に方法がなく、急迫不正の侵害があって、それを排除するために必要最小限度の措置であるという答弁をしたのです。

 この九条に関する政府の解釈は、幾度も国会において議論になりました。例えば、朝鮮有事における米軍と自衛隊の共同作戦を研究した三矢作戦計画や、韓国の安全が日本の安全にとって緊要と述べた佐藤・ニクソン声明によって自衛隊のアジア派兵が議論になった際、当時の佐藤栄作首相は、朝鮮有事は日本の有事であり、集団的自衛権の発動があり得るのではないかという質問に対して、韓国が侵略された、あるいは韓国に事変が起きた、それが直ちに日本の侵略あるいは日本の事変と考える、これは行き過ぎだと思うと否定されました。そして、この根拠として、外国に危害を加えられた、武力行使を阻止することを内容とする、いわゆる集団的自衛権の行使は憲法上認められないとする政府統一見解を出したのです。その後、自衛隊の海外派兵が問題となるたびに、集団的自衛権は認められないという答弁を政府は繰り返してきました。

 こうした長年の議論によって積み重ねられたのが政府の憲法解釈です。これを一内閣の判断によって覆したのが安倍政権であります。この閣議決定が立憲主義にもとると批判したのは、六月四日に来られた憲法学者の方々だけではありません。

 参議院での安保法制特別委員会の参考人質疑では、大森政輔元法制局長官は、「閣議決定による集団的自衛権の行使認容は、超えることができない憲法則ともいうべき基本原則からの重大な逸脱である」と述べられました。また、山口繁元最高裁判所長官は、集団的自衛権は憲法違反だとする憲法解釈が六十余年とられ、国民の支持を得てきたという事実は重い、それは単なる解釈ではなく規範へと昇格しているのではないか、九条の骨肉化している解釈を変えて集団的自衛権を行使したいのなら、九条を改正するのが筋だと語られました。

 さらに、安全保障関連法に反対する学者の会は、その声明の中で、歴代の政権が憲法違反と言明してきた集団的自衛権の行使を、解釈改憲に基づいて法案化したこと自体が立憲主義と民主主義を侵犯するものであると述べています。この学者の会が出したアピールには、一万四千人以上の学者、研究者が賛同をしています。憲法学者、法制局長官、最高裁判所長官、そして分野を超えた学者、研究者の方々が閣議決定と安保法制を立憲主義違反だと指摘し、多くの市民が立憲主義を守れと国会を包囲し、安保法制の廃止を求める署名は一千五百八十万筆を超えています。

 その上で私が指摘をしたいのは、この立憲主義の当然の原則を、集団的自衛権行使容認の閣議決定の前には自民党議員の方々も認めていたということです。

 この憲法審査会に臨むに当たり、私も先輩方の過去の議論を学ばせていただきました。その中で、例えば二〇〇二年六月六日の憲法調査会で高村委員は、法というのは、権力の側も拘束するのであるから、内閣が今までずっと集団的自衛権はだめだという解釈をとってきたのに、必要だからぱっと変えてしまうというのは、私はそこにやはり問題があると言わざるを得ない、本筋からいえば、やはり国民的議論のもとで憲法改正をしていく、集団的自衛権を認めるような形でとおっしゃっておられます。

 あるいは、二〇〇四年二月五日の憲法調査会で中谷委員も、集団的自衛権に関して、日本は法治国家でもありますし、また、私も立法府の人間として、このような重要問題を解釈の変更によって実施すべきではない、この自衛権の考え方は、きちんとした学説と理論によって構築をされておりますので、これで集団的自衛権も読むとなりますと、常道からしても改正の手続をとるべきと。日本国憲法のもとで集団的自衛権は行使できない、解釈で変えるべきではないと明確に述べておられます。

 それが今では、これまでずっと認められないとされてきたものを一内閣の解釈で変更してもいいのだと言われる。これこそ立憲主義に反する姿勢ではないでしょうか。安倍政権が、幾多の批判にもかかわらず、さらに過去のみずからの考えを覆してまで強行した閣議決定、安保法制は、たとえどれだけ時がたっても、立憲主義違反、憲法違反のままです。

 私たちは、安保法制を廃止し、閣議決定を撤回する闘いを国民とともに進めていくこと、戦争するための憲法改正ではなく、九条を生かした平和外交を行うことこそ大切であるということを述べまして、発言を終わります。

森会長 次に、足立康史君。

足立委員 日本維新の会の足立康史でございます。

 党を代表して意見を申し述べます。

 本日のテーマであります立憲主義については、民進党の武正筆頭や辻元幹事らの強い求めに応じる形で幹事会として決定したものでありますが、そもそも、民進党の皆様がこうした立憲主義というテーマのもとで一体何を議論したいのか、私、よくわかりません。私が拭い切れない懸念は、今、前回の憲法審査会もそうでしたが、安保法制は立憲主義にもとるといったレッテル張りがこの憲法審査会で繰り返されることを強く懸念している次第であります。

 実際、先週の憲法審査会においても、民進党の武正筆頭は、一昨年からの安保法制に係る一連の動きについて、立憲主義にもとると決めつけ、憲法解釈変更の閣議決定や安保法制の白紙撤回を求められました。また、きょうも枝野委員の方から、安保法制と立憲主義の関係について疑問を投げかけられる御発言があったと承知をしています。

 また、憲法改正の限界についても、平和主義に関係して、集団的自衛権を認めれば、いわゆる日本国憲法の基本理念である平和主義が揺らぐと武正筆頭は断じ、あたかも、集団的自衛権について議論するのであれば憲法改正の発議に向けた議論には参加できない、そのような主張をされました。

 しかし、そもそも近代立憲主義とは、多様な価値観の共存という大目的のために、権力の分立によって権力を制限するという考え方であります。それに対して、いわゆる平和主義、徹底した平和主義という日本国憲法の基本理念は、いわば近代立憲主義の例外として、まさに特定の価値観を選び取って憲法に規定し、それを固定化しようとする試みであると私は理解をしています。

 仮に民進党が、日本国憲法の平和主義と個別的自衛権を無理に結びつけ、安倍政権に対する批判を続けたとしても、それは単なる民進党の価値観の表明でしかありません。特定の価値観を他党に押しつけ、集団的自衛権についての議論は認めない等と独自の価値観を表明していても、憲法改正論議の入り口において自由闊達な意見表明を遮るのであれば、それこそ多様な価値観の共存という近代立憲主義の大目的に反するものであり、立憲主義を破壊する所業であると私は断じざるを得ません。

 さて、安保法制の制定過程において明らかとなったことがあるとすれば、民進党や共産党がおっしゃるような安倍政権による立憲主義の破壊ではなくて、まさに現行憲法の違憲審査制度が機能不全に陥っているということであります。

 日本国憲法にあっては、司法消極主義のもと、最高裁がいわゆる統治行為論をとってきたため、憲法の最終解釈者としての司法、すなわち最高裁の役割が十分に発揮されない状況が続いてまいりました。

 こうした中、二〇〇五年に取りまとめられた憲法調査会の報告書では、現在の付随的違憲審査制のもとでは、最高裁に憲法の番人としての積極的な役割を期待することはできないといった議論が行われ、憲法裁判所を設置すべきであるとする意見が多く述べられた旨、報告書に記載がされております。

 憲法九条に関する内閣法制局の解釈が、安保国会を通じて、時の政権の影響を受け、野党の追及をかわすために糊塗されてきたにすぎないことが白日のもとにさらされたのであります。

 そうした中、私たち日本維新の会は、まず第一に、憲法適合性を有する対案としての安保法制の立案に取り組みました。存立危機事態の概念では違憲のおそれが大きい、そう考え、集団的自衛権行使の要件をさらに厳格化をし、存立危機事態にかえて米軍等防護事態を規定する安保法制の対案を国会に提出をいたしたわけであります。

 残念ながら、昨年の延長国会においては、民進党の審議拒否等に関心が集まり、政府案と維新案との比較検討が十分に深まったとは言えません。しかし、だからといって、安保法制を戦争法呼ばわりしたり、政府・与党や安倍総理をナチスやヒトラーに例えて、立憲主義にもとると政府批判を展開しても何も生まれません。最高裁が統治行為論をとる限り、内閣が決定した憲法解釈と国会の多数派が成立せしめた法律に対抗するすべはないからであります。

 そこで、私たち日本維新の会は、次になすべき仕事として、まさに機能不全を起こしている違憲審査制度の見直し、すなわち憲法裁判所の創設を提案したのであります。本年三月に公開した維新の憲法改正原案の三本柱の一つに、憲法裁判所の創設を打ち出したものであります。

 違憲立法審査権を有しない憲法学者の一部意見を殊さらに振りかざして、現行憲法下で正当に決定された憲法解釈と法律に対して立憲主義にもとるとレッテル張りをすることこそ、立憲主義を破壊する所業であると断じざるを得ません。

 三点目に、私から申し上げたいことは、憲法改正を考えるに当たって、大きく三種類の検討事項があると思っています。

 第一には、権力を縛るための規定であります。これを繰り返し申し上げることはいたしません。

 今回、私たちが三つの提案として提案をしている、その中でも、教育無償化と統治機構改革については、まさにこれから、少子高齢化の日本、少子高齢化を乗り越えて、日本国をさらに発展させ、繁栄させていくための、国が政権を超えて固定化していくべき基本政策として提案をしているものであります。

 権力を縛るのが一つ目。今申し上げた基本政策が二つ目。

 そして三つ目は、国家としての基本理念や価値観の表明であります。この点については、自民党の憲法草案について、るる野党の方から批判があることは承知していますし、私たち日本維新の会としても、自民党の草案が決して国民の多くの賛成を得て日本国憲法に規定し得る内容であるとは考えておりません。

 なお、最後に、先週の憲法審査会で議論されたことについて、私が質問したことについて民進党から一切の御回答がありませんでした。

 一つは、二〇〇五年の民主党の憲法提言の取り扱いであります。武正筆頭は、「議論の土台である」、このようにおっしゃいましたが、「議論の土台である」というのが回答であれば、自由民主党が議論のベースであると言っているのと全く一緒であって、民進党が自民党を批判する理由は全くなくなります。

 第二に、細野委員が、今後、内容の検討を、考え方をまとめていくとおっしゃっていますが、野田幹事長は、改正案を出すということはしないとおっしゃっています。

 また、山尾委員が憲法裁判所に言及されましたが、個人の意見なのか党の意見なのか、わかりません。

 ぜひ、きょうの自由討論で御回答いただきたい。お願いを申し上げて、私からの発言を終わります。

森会長 次に、照屋寛徳君。

照屋委員 社会民主党の照屋寛徳です。

 限られた時間で、本日のテーマについて意見を述べます。

 最近、決められない政治から決められる政治への転換をとの声がよく聞かれます。私は、衆参両議院ともに、いわゆる改憲勢力が三分の二以上の議席を占め、巨大与党のもと、一強多弱とやゆされる国政の状況にあって、安倍内閣は、決められる政治から反立憲の決めてはいけない政治へと暴走し続けていると思います。その典型的なものが、安倍総理と自民党日本国憲法改正草案の理念に見られる立憲主義の無視であり、改憲という名の憲法破壊であります。

 二〇一四年四月に、憲法学者、政治経済学者らによって設立された立憲デモクラシーの会は、その設立趣旨書において、一時の民意に支持された為政者が暴走し、個人の尊厳や自由をないがしろにすることのないようにするよう、さまざまな歯どめを組み込んでいるのが立憲デモクラシーである、それは、民衆の支持の名のもとで独裁や圧制が行われたという失敗の経験を経て人間が獲得した政治の基本原理であるとうたっております。まさにそのとおりです。選挙で多数を占め、巨大与党を形成しているからとおごり高ぶり、憲法が定める三権分立を無視して行政権独裁と化し、人間が獲得した正義の基本原理である立憲主義を破壊してはなりません。

 立憲主義とは、憲法によって権力を制限し、憲法を権力者に遵守させる、国家の統治を憲法に基づき行うという原理です。安倍総理が、二〇一四年二月三日の衆議院予算委員会において、憲法は国家権力を縛るものだという考え方は、かつて王権が絶対権力を持っていた時代の主流的な考え方である、今の時代には絶対的なものではないとの持論を展開しております。その底流には、憲法は国家権力を縛るものではなく国民を縛るものであり、国民に義務を課すものであるとの自民党日本国憲法改正草案の理念と思想があります。

 太陽王とも呼ばれたフランス国王ルイ十四世には、朕は国家なりという有名な言葉がありますが、安倍総理は、朕は憲法なりと考えているのではと批判せざるを得ません。その言動に、立憲主義の危機と国家の危機を強く感じます。

 次に、憲法改正の限界について論述します。

 衆参両議院でいわゆる改憲勢力が三分の二以上の議席を占めているのだから、憲法第九十六条が定める改正手続に従えば、いかなる内容の改正も許されるのでしょうか。断じて否であります。

 確かに、憲法に定めた手続による限り、その内容については制約を課すことはできないとする無限界説もあります。しかし、私は、国民主権、基本的人権尊重、平和主義という日本国憲法の三大原則や、憲法第九条の改正、憲法の同一性を損ねる改正などは許されないとする限界説こそが正しいと考えます。

 日本国憲法は硬性憲法と呼ばれます。実際、憲法公布から七十年たって、一度も改正されておりません。一方、ドイツ基本法は五十九回改正されましたが、同基本法第七十九条第三項で、人間の尊厳の不可侵、民主制、法治国家、連邦制などの憲法原則については改正の対象にならないと定めています。フランスも、現在の第五共和国憲法第八十九条第五項で、共和政体は改正の対象とすることはできないと定めています。

 このような理念に基づく憲法改正の限界説に立脚すると、自民党日本国憲法改正草案に見るような憲法前文の全面的書きかえ、憲法九条第一項の改正及び第二項を削除した上での新条項による国防軍創設、審判所という名の軍法会議の設置のための改正などは認められません。また、憲法第十三条の個人の尊重から抽象的な人の尊重への変更、公共の福祉から公益及び公の秩序の概念による人権制限などは、憲法改正の限界を超えた憲法破壊、憲法クーデターそのものであります。

 立憲主義と憲法改正の限界とも絡む論点として、自民党日本国憲法改正草案が、基本的人権の根本、本質を無視、憲法第九十七条を全面的に削除した点に論及しなければなりません。

 結論を先に言うと、憲法第九十七条の全面削除は、立憲主義の破壊であり日本国憲法の三大原則の破壊であって、憲法改正の限界を超えるものであります。しかも、自民党日本国憲法改正草案には、国防義務、領土・資源保全義務、家族助け合い義務、緊急事態指示服従義務、憲法尊重義務などを国民に課しており、到底承服できません。

 最後に、違憲立法審査のあり方について述べます。

 憲法第八十一条が裁判所による付随的違憲審査制であるとの通説、判例は理解します。一方で、三権分立が三権一体と化しているのが現実であり、統治行為論や第三者行為論の採用などによって、国民の権利救済を忘れた違憲審査のあり方、時の政治におもねる安易な司法判断の回避には大いに問題ありと批判し、最高裁判所は憲法の番人であることを忘れてはならないと申し上げ、意見表明を終わります。

森会長 これにて各会派を代表する委員の発言は終了いたしました。

    ―――――――――――――

森会長 次に、委員各位による自由討議に入ります。

 発言を希望される委員は、お手元にある名札をお立ていただき、会長の指名を受けた後、御発言ください。発言が終わりましたら、名札は戻していただくようにお願いいたします。

 発言は自席から着席のままで結構です。また、発言の際には、所属会派及び氏名をお述べいただくようお願いいたします。

 なお、幹事会の協議によりまして、一回当たりの発言時間は五分以内といたしたく存じます。委員各位の御協力をお願い申し上げます。

 発言時間の経過については、終了時間一分前及び終了時にブザーを鳴らしてお知らせします。

 それでは、発言を希望される委員は、名札をお立てください。

中谷(元)委員 先ほど自民党の改正草案は立憲主義を否定するものではないかという御意見がありましたが、自民党の改正草案は、人権を保障するために権力を制限するという立憲主義の考え方を何ら否定するものではありません。

 先ほど上川委員や、私も先週、発言しましたが、主権在民、平和主義とともに、日本国憲法の三大原則の一つである基本的人権の尊重、これは権力の分立の構造において、何ら変えたわけではありません。むしろ、前文において、現行憲法でこの三大原則のうち唯一記載が欠けていた基本的人権の尊重、これを明確に盛り込んでいるところでございます。

 また、改正案の基本的な考え方として、我が国の社会や憲法を取り巻く状況が変化をして、実際にずれが生じている部分があるということで改正を提案したものでありまして、憲法の三大原則はしっかり堅持するということを明言いたしております。

 また、先ほど、平和安全法制は立憲主義に反するといった趣旨の御発言がありました。

 平和安全法制の合憲性などの個別の立法政策の是非につきましては、本来の所管の委員会で議論すべき事柄でありまして、政局から離れた冷静な憲法議論を行うべき憲法審査会で議論すべき事柄ではないと考えます。

 しかし、憲法改正につながる観点から調査するということで、憲法審査会の所掌事務でもありますので、あくまでも本日のテーマである立憲主義との関係から意見を申し上げますと、この平和安全法制の定める限定的な自衛の措置は、憲法九条とともに、前文の平和的生存権、十三条の生命、自由、幸福追求の権利を規定する日本国憲法の構造に照らして、国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に対応するためにやむを得ない措置であり、現行の憲法の枠内のものでございます。

 また、集団的自衛権の行使を一部容認いたしておりますが、それは、あくまでも自衛のための必要最小限度の措置に限られると。集団的自衛権の行使を丸々全部認めるということではなくて、他国の防衛それ自体を目的とする行使は認めておりません。あくまでも国民の命と平和な暮らしを守ることが目的でありまして、極めて限定的なものであります。

 これは、法案の中で新三要件、これで明確に示しておりまして、憲法上の明確な歯どめとしておりまして、これを法律に盛り込んでおりますので、こういった点の指摘は当たっていないということで、従来の四十七年の政府見解の基本的論理の枠内であるということでございます。

 そして最後に、立憲主義に反すると批判をされる方は、立憲主義違反と称して現政権の活動を批判しているだけでありまして、立憲主義という言葉を先ほど上川委員が言いましたが、権力の分立によって基本的人権を保障するという構造を憲法に規定するという考え方であります。その本来の意味を超えて、単なる政権に対する好き嫌いといった意味で使っているのではないでしょうか。

 こういう点におきまして、引き続き本質的な御議論をお願いいたしたいと思います。

辻元委員 民進党の辻元清美です。

 今、中谷委員が、政権批判のために立憲主義という言葉を使っているのではないかという御認識であるならば、立憲主義という意味をよく理解されていないのではないかと思いますので、その点も含めて反論をしたいと思います。

 きょうも傍聴の方が立ち見が出るぐらいたくさんいらっしゃっています。市民の間で立憲主義という言葉の認識がこれほど広がったときはないと思います。

 昨年の安保法制のことは、やはり避けて通れないんですよ。あのとき国会を囲んだ人たちも、立憲主義を守れという、その声が非常に全国に広がったんですね。私たちは、なぜそんな声が出たのかということを真摯に受けとめるのが憲法審査会の役割だと思います。

 これは、一つの政策への賛否という視点ではなかったわけです。立憲主義という、社会を規定する最高の規範そのものが根底から覆されたのではないかという危機感を市民が共有したということです。

 これは、民主主義を守れとか立憲主義を守れという声が出るような国は、よく開発独裁国家であることなんです。政策一つ一つの賛否というよりも、そこの点をつかれているということを私たちは真剣に受けとめるべきだと思います。

 私は、理由は三つあったと思います。

 一つは、先ほどから出ております安保法制。

 中谷さんは、一九七二年、昭和四十七年見解のことについて合憲の理由とされましたが、これそのもの、そして砂川判決まで出してきて、一部だけだったら集団的自衛権を認められると真逆に解釈したのではないかという点をつかれているわけです。これは憲法改正の限界を超えるのではないか。

 先ほどから出ていますが、これは、内閣法制局の、今まで憲法解釈をしてきた人たちまでもが、これは限界を超えるという発言をしているわけです。白を黒で言いくるめているという発言が国会で出たわけです。さらに、今まで安保法制をつかさどってきた防衛省の最高の官僚を務めていた人たちからも反対の声が出たということです。元最高裁判所長官もその点をついたわけです。これは避けて通れません。それが一点目。

 ですから、違憲立法を進める政党に憲法改正を論じる資格があるのかと問われていることをもっと真摯に受けとめるべきだと思います。

 二点目は、自民党の憲法改正草案は立憲主義にもとるのではないかということで、中谷さんが今発言をされましたが、憲法九十九条で、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、」これは現行憲法です、「裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」とされています。自民党の改正案では、天皇を元首とすると。その上で、百二条で、天皇、摂政を憲法尊重擁護の義務から外し、さらに、「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。」「しなければならない。」という義務を負わせているわけです。

 それでは、中谷さんに私はお伺いしたいと思います。

 国民が権力者に守らせる規範が憲法であります。国民に憲法尊重の義務を負わせるという発想は立憲主義の本質から外れるものではないかと私は考えますが、この点について具体的に私たちは指摘をしたいと思います。例えば、こういう国民に尊重の義務を負わせているのは、中国やロシアの憲法と同じような発想です。

 そして、三つ目です。

 先ほどから出ておりますが、安倍総理の発言が健全な憲法論議を阻害してきた点は指摘せざるを得ません。

 安倍総理が立憲主義を問われて、何人もの委員が今指摘をいたしましたが、かつて王権が絶対権力を持っていた時代の主流的な考えで、あたかも今は違うというようなニュアンスの発言をされているわけです。この点、これは市民からも疑問が出ているわけです。

 ですから、安倍総理は、予算委員会でこの点などを質問されると、予算委員会は答弁する場ではない、憲法審査会で議論するべきだとおっしゃっていますから、この点の疑念を晴らすためにも、いろいろな参考人に当審査会にはお出ましいただいて御意見を承っておりますので、元会長の中山太郎先生にも御意見を伺いましたが、安倍総理をこの審査会にお招きいたしまして、この点、どういう意味なのか、しっかりと説明をしてもらう、それがこの点の疑念をしっかり晴らして健全な憲法論議を進める上での一つの大きなステップになると思いますので、幹事会でぜひ御提起をしたいと思いますので、会長、お取り計らいをよろしくお願いしたいと思います。

森会長 はい。承りました。

辻元委員 今、三点、私は指摘をいたしましたけれども、私たちは健全な憲法論議をしたいと思います。ですから、今申し上げたような点をしっかり市民の疑問に答えるように審査会は役割を果たす。

 そして、維新の足立さんの立憲主義の認識が維新の党としての認識だとおっしゃいましたが、小沢委員も党としての認識でいいのか。もしそうであるならば、立憲主義という土台の考え方が違う政党があるということであれば、それが阻害要件に新しくなる可能性があるということを申し上げて、発言を終わります。

遠山委員 公明党の遠山清彦でございます。

 前回と本日の会議で昨年の平和安全法制と憲法及び立憲主義の関係が話題となっておりますので、私からも一言、意見表明を行いたいと思います。

 憲法九条は、一項で戦争の放棄を定め、二項で戦力の不保持と交戦権の否認を定めております。その文言からすると、憲法九条は国際関係における武力の行使を一切禁じているようにも見えます。しかし、憲法を初めとする法の解釈というものは、およそ一部の条文だけを切り取って行えばよいというものではなく、その全体構造の中で整合的な解釈を追求することが求められるものと理解をしております。

 昭和四十七年に参議院決算委員会に提出された政府見解、いわゆる四十七年見解では、このような体系的な法の解釈という観点から、憲法九条のもとでの武力行使の可否とその限界について、一般論の提示に当たる基本的な論理と、これを具体的な状況に当てはめた記述とを截然と整理しながら、見事な定式化を行っております。

 まず、基本的な論理では、憲法前文の平和的生存権や十三条の幸福追求権の趣旨をも踏まえれば、以下、引用します。平和主義を具体化した九条も、外国の武力攻撃によって我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態、そのような極限的な場合においては、我が国と国民を守るためのやむを得ない必要最小限度の武力の行使をすることまでをも禁じているとは解されない旨を述べています。

 その上で、「そうだとすれば、」という接続語を用いて、当時の国際環境への当てはめの論述に入り、以下、引用です。「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」「したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」と述べて、当時考えられていた他国防衛を目的とするような集団的自衛権を念頭に、いわゆるフルセットの集団的自衛権を否定しているのであります。

 その後、弾道ミサイルや核の開発が進み、軍事技術も飛躍的に高度化するなど、我が国をめぐる安全保障環境は厳しさを増してきました。このような安全保障環境の変化と、我が国の安全保障に日米防衛協力体制が中核的な役割を果たしていることを踏まえれば、いまだ我が国に対する武力攻撃に至っていない状況でも、新三要件にあるとおり、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険が発生することもあり得るとの認識に至ったのであります。

 すなわち、四十七年見解の基本的な論理を維持した上で、それを現在の安全保障環境に当てはめた結果、このような極めて限定的な事態に対応するための、自国防衛を目的とする集団的自衛権の行使を認めることは、憲法前文や十三条の趣旨を踏まえた、憲法九条に反するものではないと位置づけたものであります。

 ところで、平和安全法制について、憲法違反と言うのではなく、立憲主義に反するとか、非立憲的ななどという批判を、しばしばこの審査会でも耳にいたします。憲法に適合するにもかかわらず、立憲主義に反するという論理が成り立つかはさておき、そもそも国民の権利、自由を守ることが近代立憲主義の本質という観点からいたしますと、国民の生命、自由、幸福追求の権利をいかに守るかという観点から制定された昨年の平和安全法制は、立憲主義違反どころか、まさに立憲主義を具現化したものと評価されるべきものと考えます。

 以上です。

赤嶺委員 日本共産党の赤嶺政賢です。

 私は、立憲主義について米国との関係を三点指摘したいと思います。

 第一に、日本の再軍備の問題です。

 一九四八年一月にロイヤル米陸軍長官が日本を極東における反共の防壁にすると演説したのを契機に、米国防総省が日本の限定的再軍備計画をまとめました。これが再軍備の出発点です。計画には、日本の限定的軍備は、米国によって主として組織、訓練され、厳重にコントロールされるべきとあります。日本の再軍備、自衛隊は、米軍への従属のもとにつくられたものでした。

 そして、一九五一年、サ条約の調印の際に、沖縄を切り離した上で日米安保条約を国民に秘密裏に締結しました。米軍の駐留を認める安保条約を合憲とした砂川最高裁判決は、駐日米大使が当時の田中最高裁長官に直接面会して圧力をかけたのが歴史の事実であります。九条に反する再軍備と自衛隊、日米安保条約が、米国の圧力のもとにつくられたことを忘れてはなりません。

 次に、自衛隊の海外派兵の動きも米国の要求に基づいていることを指摘したいと思います。

 一九九一年、湾岸戦争の際に、米国の要求に従って、日本は、閣議決定による政府声明のみでペルシャ湾の機雷除去のため自衛隊を出動させました。それ以来、米国の自衛隊派兵圧力が強まります。

 二〇〇一年の同時多発テロを契機とした米国のアフガニスタン報復戦争に、小泉内閣は、テロ特措法をつくってインド洋への海上自衛隊の補給艦と護衛艦を派遣しました。

 二〇〇三年には、米国のイラク戦争にいち早く支持を表明し、イラク特措法をつくってイラク本土へ自衛隊を出動させました。その際、航空自衛隊の輸送部隊は、米軍の武装兵士や弾薬を運び、米軍の戦争を直接支援しました。これは名古屋高裁からも憲法違反と断罪されました。

 第三に、今回の安保法制は、日米新ガイドラインの実行法としてつくられたものであることです。

 安保法制の核心は、地球上のどこであれ、どのような戦争であれ、自衛隊が出動して米軍を支援するところにあります。そのために、集団的自衛権の行使容認を初め、米軍支援のさまざまな内容を決めました。

 特に重大なのは、日米一体となって共同対処に当たる同盟調整メカニズムを設置したことです。これは、日米統合司令部にほかなりません。そのもとで、垂直離着陸機オスプレイやF35、グローバルホークなど、日米軍事一体化と基地の再編強化を進められています。こうした動きは、アジア太平洋地域に米軍兵力を重点的に配備し、同盟国の役割拡大を求める米軍の軍事戦略に沿ったものにほかなりません。

 今私が挙げたこの三点と、前回指摘した、沖縄に憲法がないという問題は何を示しているか。そこには、日本国憲法を超える日米安保体制の存在を指摘しておかねばなりません。日本の立憲主義を問題にするに当たって、このことを根本的に問い直すべきです。

古屋(圭)委員 自由民主党の古屋圭司でございます。

 きょうのテーマは、一つは立憲主義ということでございますが、この視点から具体的な提案をさせていただきたいと思います。

 皆さん、御記憶にもあるように、昨年十一月にフランスでテロが発生をいたしました。フランスでは、現行法で定める緊急事態宣言というのがございますが、これを憲法にも明記をするという憲法改正を目指して、今その取り組みを進めている、こういうふうに承知をいたしております。すなわち、法律の規定のみではなくて、憲法上にもその根拠を与えて憲法的正当性を確保するため、こういうふうに言われております。これは、立憲主義という観点から見ると、この取り組みは日本においても参考になる取り組みではないか、こういうふうに考えております。

 今、日本には、緊急事態に対処するために幾つかの法律があることは皆さん承知をしておられると思います。

 具体的には、まず一つ、自衛隊法。これに基づく緊急事態の際の治安出動等のほかに、病院の管理とか土地の利用、物資収用等のための知事の緊急措置、これが規定されています。また、災害救助法に基づきまして、医療従事者への知事による従事命令等の知事の緊急措置、これが規定をされています。また、三番目ですけれども、災害対策基本法、これは内閣総理大臣による緊急事態の布告、これが規定をされています。また、そのほかにも、新型インフルエンザ等対策特別措置法、いわゆるパンデミック法、これについては、医薬品等の売り渡し要請に応じない者への物資収用命令、こういったものが規定をされています。

 こういった規定があるのではありますが、三・一一、東日本大震災の際、憲法上の懸念があるということなのでしょうか、知事による緊急措置というのは一切発令をされていません。なぜならば、職業の自由とか居住の自由、財産権の自由などの現行憲法上触れる可能性が否定できないこともその背景にあったというふうに考えています。

 そこで、立憲主義を守るという観点から、現行法に規定をされている緊急事態の布告等を憲法にも盛り込むという考え方、これは提案をさせていただきたいと思います。法律上の規定のみではなく、憲法上の根拠を与えることによって憲法的整合性を確保する、こういう考え方です。その際には、あわせて、例えば終期であるとか始期等々、憲法上にも明記することも、これも立憲主義に応える考え方というふうに思います。

 平成二十六年十一月に、解散の前でございますが、憲法審査会が行われまして、各党を代表して意見表明がございました。共産党を除く全政党は緊急事態対処の必要性に言及をいたしております。立憲主義の観点からも、また、共通認識のテーマという視点からも、憲法審査会をしっかりと稼働して、主権者である国民の皆様の期待に応えて理解促進を進めるということになると思います。

 このような具体的議論を進めていこうではありませんか。

 以上、具体的提案とさせていただきます。

小沢(鋭)委員 会長、ありがとうございます。

 きょうは、立憲主義、こういうテーマであります。後ほど、近代立憲主義、現代立憲主義的な解釈の仕方を申し上げますが、まず、私どもが申し上げたかったことは、憲法に則して法律制度あるいはまた政治が行われていくことという一番基本的な最小限の認識は各党共有できるんだろう、こう思います。

 そうした中で、昨年は安保法制の議論があって、これが違憲かどうかという大変大きな議論になりましたから、そういった意味では、我々は、そうした議論を議論として延々と続けていくのではなくて、制度の中できちんと決着をつける場所をつくることが必要だ、そういう考えに基づいて憲法裁判所の設置を掲げ、そして、さきの参議院選挙でも公約としてしっかりと掲げて戦ってきたわけであります。

 でありますので、どうぞ、この審査会においても、立憲主義かどうか、こういう基本的な考え方とは別に、まさに現実の問題として、今行われている話の中でそういった制度論をしっかりと、憲法裁判所の設置というのが必要なのかどうか、これを議論いただきたいと改めて申し上げたいと思います。

 それから、安保法制について、先ほど足立委員からも申し上げましたが、維新の考え方をもう一度整理して申し上げますと、私たちは、限定的集団的自衛権は合憲であって、そして、今日の国際情勢のもとでは不可欠であるという考え方を、これは自民党あるいは政府の当時の審議会でしたでしょうか、を決める以前に、これは私が党の責任者として決めさせていただいて、公表をさせていただいております。

 ですから、限定的集団的自衛権は私たちは必要であるというふうに申し上げておりますが、ただし、政府の提案した案については、存立危機事態あるいは重要影響事態の後方支援のあり方等々に関しては、行き過ぎのところがあって、これは歯どめをかけなければいけないという認識のもとで、我々は、武力攻撃危機事態というコンセプトをもとにして、我が国を守るために行動している同盟国と共同行動をとれる法案を修正案として出させていただいたわけであります。

 これについては、自民党案を違憲だと言った多くの憲法学者の皆さん方、多くのというのは我々が確認した憲法学者という意味ですが、全てこれであれば合憲である、こういう認識をいただいたということも改めて申し上げたいと思います。

 こうした建設的な議論が、昨年の審議の中で、最後ちょっとやらせてもらって私も答弁に立ちましたけれども、もっとされるべきであったと改めて申し上げたいと思います。

 それから、辻元さんから、我が党の立憲主義についての考え方はどうだと、こういう話がありました。どの点だったかよくわからないんですが、足立さんが申し上げたのは、近代立憲主義は、多様な価値観の共存という目的のために、権力分立によって権力を制限するという考え方ですねという、これは資料にあるところを申し上げました。

 さらにはまた、現代的な立憲主義の考え方として三種類の考え方を申し上げました。今のような考え方と、基本的な法制、それから最後は理念、価値観の表明、こういう三つの考え方がありますねという話を申し上げたわけでありまして、この最後の価値観の表明ということに関しては、最終的に党の見解は決めておりませんけれども、議論があるところですが、この三つの考え方というのは決しておかしくないなと私は思っているんです。

 若干、御党に対する過激な発言がありますが、これはキャラクターの問題ですから、どうぞ中身の議論とは別にお考えいただきたいと思います。なかなかいい男ですから。

平沢委員 自民党の平沢勝栄でございます。

 昨年、この場で三人の憲法学者が平和安全法制について違憲ということを述べまして、そして、きょうもこの問題が出ていますので、私の見解を述べさせていただきます。

 まず、昨年七月の朝日新聞の憲法学者アンケートによりますと、回答した百二十二人の憲法学者のうち、自衛隊は憲法違反あるいは憲法違反の疑いありとした学者は七十七人で、六割以上に上っています。こうした憲法学者は、自衛隊を違憲とするだけでなく、日米安保条約、PKO、そして平和安全法制も違憲とすることは当然と考えます。

 次に、平和安全法制は違憲と述べた憲法学者の小林節先生は、昨年六月二十二日の衆議院平和安全法制特別委員会で次のように述べておられます。我々学者は、利害を超えた世界の、坊主みたいなものでありまして、利害は知りません、ただ条文の客観的意味はこうなんですという神学論争を言い伝える立場にいるわけです、それに対し、政治家は現実と向き合っていますので、必要優先の議論をなさるわけです。

 要するに、政治家は現実と向き合っているが、学者は現実とは関係なく大学内で神学論争をしている、それが学者と政治家の違いだということを小林先生は言っておられるわけで、私は小林先生の言われるとおりだと思います。多くの学者は、そのもたらす結果や影響については全く関係なく憲法を語っているわけです。

 しかし、私たち政治家は現実を見なければなりません。安全保障の問題だけを見ても、日本を取り巻く情勢は大きく変わっています。現憲法はそもそも自衛隊が全く存在しないときにできたものであります。その後、国際情勢は大きく変わり、中国は軍事費を大きくふやしています。

 昨年、私は、民進党の長島昭久議員と一緒に中国でのシンポジウムに参加しました。そこで、私は中国側に、中国は国際法と国内法のどちらを優先するのか聞いてみました。これに対し、中国は、現在の国際法は中国が発言する力がなかったときにできたもので、今中国はその国際法をアジャストするべく動いていると答えました。要するに、現行の国際法に従う必要はないと明言しているわけでございます。中国の公船が頻繁に日本の接続水域や領海にあらわれていますが、これはまさに確信犯と言えると思います。

 今の憲法にある国民主権、基本的人権の尊重、平和主義など、すばらしい内容について私たちは絶対に変えるべきではないと思います。しかし、国際情勢が大きく変わっている中で、変えるべきところは変え、加えた方がいい項目は加えたりすることは自然と私は考えています。

 そこで、私たちは平成二十四年に憲法改正草案を出しましたが、これについて多くの御批判をいただきました。しかし、この草案は、あくまで議論のたたき台、土台として出したものであって、ファイナルなものでは全くありません。にもかかわらず、見当違いの批判が多く寄せられていることは全く納得できないものであります。

 憲法九条については、第一項の平和主義については変えるつもりは全くありません。しかし、自衛隊については、現憲法には全く規定されていないことから憲法学者が違憲としている者がいるわけでございまして、したがって、自衛隊の存在を憲法に明記し、そして、自衛隊は何ができ、何ができないかを書き込んでいくことが、これこそが立憲主義にかなっていることと私は考えます。

 憲法二十一条の表現の自由などの規定については、公益及び公の秩序を害する目的の場合は認められないとしましたが、このことに対し、表現の自由を侵害するなどと厳しい批判を受けました。

 しかし、私は通常国会で成立したヘイトスピーチ解消法の立法にかかわりました。この法は、不当な差別的言動の解消に向けた努力義務を課す理念法で、罰則を設けることはいたしませんでした。これに対し、なぜヘイトスピーチ法に罰則を設けないのかといった御批判を表現の自由は絶対だと言っている人たちから多くいただきました。もしそのような罰則規定を設ければ、デモの現場で警察官が発言を聞いてやめさせたり、場合によっては検挙したりすることが可能となるわけです。表現の自由は絶対と言っている人がヘイトスピーチの場合に限っては罰則を設けよと言っていることは全くのダブルスタンダードで、私には全く理解に苦しむところでございます。

 最後に、最近のFNNの世論調査では、各政党は、憲法に関する党の考えをまとめ、それぞれの憲法草案を提案すべきと思いますかどうか、この問いに対しまして、実に八一・四%の人が各党はそれぞれの憲法草案を出すべきと思うと答えています。国民は、各党が草案を出して、それをもとに議論することを期待しているわけでございます。どうか、我々の草案を批判する前に、まず自分たちの草案を出してもらいたいと思います。

 今や、世論調査を見ると、国民の多くが改憲に賛成しています。問題は、どこをどのように変えるかです。現行憲法には明らかな文言の間違いがあります。裁判官の報酬の規定のように、誰が考えてもおかしいと思う規定もあります。私たちは国民の声に謙虚に耳を傾け、そして、この審査会の場で憲法改正の改定項目の具体的議論に入っていくべきではないかと考えています。

 以上で私の発言を終わります。

中川(正)委員 本論に入っていく前に、入り口論といいますか、この審査会に臨む我々それぞれの基本的な立場といいますか、それをしっかり確認して、その中から同じ土台に立って議論をするという信頼感みたいなもの、それを醸し出さないといけないのではないかというふうに思いますので、そういう意味で少し指摘をしたいんです。

 まず、基本的に、私たちは、あるいは国民の多数も、この憲法議論というのは、今の憲法をまず肯定して、その上に立って時代の変遷に合った改正をすることだというふうに理解をしているのだと思うんです。ここを確認したいんです。成立の経緯はいろいろあっても、私たちのこの憲法の基本理念を国づくりの理想として、そして、戦後の七十年をこの憲法のもとに生きてきた日本の、そして私たち国民の生きざまに誇りを持っているんだということ、これが基本だというふうに思うんです。

 その中で、実は私たちにとって自民党の今の体制というものに疑念を感じるというのは、一つは、自民党の設立時の綱領というのが自主憲法を前提にしています。今はそれが新しい憲法という形で表現が変わっていますけれども、そこにある基本的な考え方というのは貫いておられるんだろうというふうに思うんです。これは、その考え方に基づいて私は自民党の憲法草案が出されているんだというふうに解釈をします。

 そうなると、この中身も見ていくと、今それぞれで批判されているように、どうも戦前に回帰していくような復古主義的な条文というのがこの中に含まれているということもあって、各方面から非常に懸念の対象になっている。それは、ある意味では、現在の憲法を否定した形で憲法草案というのが自主憲法として出されてくるという、そんな議論になっているのではなかろうかということ、ここが一つ払拭できない懸念であります。

 それだけに、では、それぞれ各政党から草案を出したらいいじゃないかということ、この議論がさっきなされましたけれども、しかし、これには私は反対なんです。実は、憲法調査会から憲法審査会へと憲法議論が進んでいる中で、憲法改正発議へのプロセスについて、これももう一度ここで確認をしていく必要があるんだというふうに思うんです。

 憲法改正条項の、それぞれ分野別に改正条項というのをつくっていきましょうということが今の審査会の中での前提になっていますけれども、これをつくる過程というのは、この審査会で各党のコンセンサスをつくって、そして、その草案というのはこの審査会から出てくるんだ、そういう議論をしなきゃいけないというふうに私は理解をしているんです。

 ところが、このまま各党が草案をつくって、それをそれぞれの分野にまとめて出してくるにしても、もう一つの懸念は、自民党がひょっとして、この提出してくる改正条項に対してこの審査会で採決をして、採決しようと思ったらできるんですよね、本会議の三分の二以上の多数で可決をして国民投票にかけていくという、一般の各委員会でやっているようなプロセスでこの審査会でも事を進めようとしていくのではなかろうかというような、そういう懸念がこのままいったらあるということ。

 これについて、いや、そういうことではないんだ、そういうことではなくて、この審査会で一緒に、それぞれのコンセンサスをまとめていきながら、ここで草案をつくるんだということを確認していかなきゃいけないというふうに思うんです。

 そこのところの押さえを、会長、改めてお願いしたい。この審査会の基本的なプロセスについて確認をしていただきたいというふうに思います。

 それから、違憲立法審査権についての問題でありますが、安保法制、先ほどからいろいろな議論が出ました。しかし、最終的には、これはやはり司法が積極的に出てきて判断すべきことだというふうに思います。

 その中で、最高裁の中身、これについて改革をしていかないと積極的な司法決着というのはつけられないという議論がある。これに対しても私たちはやはりしっかりコミットをしていくべきだというふうに思いますし、憲法裁判所についても提案が出ていますが、これの有無についてもやはり議論は進めていくべきだというふうに思います。

 同時に、前々から私が申し上げているレファレンス、参照意見制度でありますが、これも、今の憲法がなかなかそこまで達していくのに時間がかかるとすれば、カナダでその例があるように、非常に有効に活用されているように、この参照意見制度を活用して、法律の中で、憲法までいかずに法律の中で、憲法の判断というのが裁判所によってなされるということを可能にしていくような議論もぜひやっていただきたいというふうに思います。

 そんなテーマを理事会の中で整理していただきながら、ぜひ前向きに進めていただきたい、このことを主張していきたいというふうに思います。

森会長 ただいまの中川正春君の、この審査会の持ち方についての共通認識については、前回の十七日の審査会の冒頭におきまして私が申し上げておりますので、議事録を御確認いただければと思います。

船田委員 会長、ありがとうございます。自由民主党の船田でございます。

 いささか原則論に戻ることをお許しいただきたいと思います。

 まず、立憲主義でありますが、立憲主義は、為政者や権力者、政権を担う者が憲法に従って政治を行うべきこと、国民を権力の横暴から守るためのものと言うことはできると思います。しかし、最近のマスコミ論調や野党の一部におきましては、立憲主義イコール護憲という誤った定義が横行しているのではないかということを危惧しております。

 立憲主義とは決して護憲第一でもなく改憲第一でもない。時代の変化や国民の権利の増進につなげるために、改正すべきところがあれば、政府の意思ではなくて国民の意思として、勇気と英知を持って、しかもルールに従って改正をする、改正された憲法には国民みんなが従うという態度こそ立憲主義の趣旨に沿うものであると思います。

 立憲主義イコール護憲というすりかえによって、憲法をよりよいものにしようとする国民の主権を行使する機会を奪ってはならない、このように考えています。

 次に、改正の限界について申し上げます。

 憲法改正の限界については、理論的に限界はないとする説もありますが、憲法改正権は憲法制定権力を超えることができないとする、より一般的な学説を採用すべきであると思っています。

 我が国の憲法制定権力は、言うまでもなく、民主主義国家を愛好する日本国民にあるわけであります。民主主義国家としての普遍の原理である国民主権、基本的人権の尊重、そして、国民が過去の戦争の悲惨な経験から学び取った平和主義は、憲法制定権力を持った日本国民の総意であって、決して憲法改正権が侵してはならないと思っております。

 次に、違憲立法審査につきましてであります。

 世界の違憲立法審査の類型は、付随的違憲審査制と抽象的違憲審査制に大別をされます。前者は、アメリカを初めとして、司法裁判所がその役割を担い、後者は、ドイツを初めとして、憲法裁判所が役割を担うという形であります。

 我が国は、従来から付随的違憲審査制を採用しておりますが、個別具体的な訴訟において、当該行政措置などが憲法に適合しているか否かを下級裁判所が判断し、その最終審は最高裁で行われることになっています。

 しかし、最高裁は、憲法以外の案件において多忙をきわめ、なかなか手が回らないこともあり、また、安全保障関連の憲法判断はいわゆる統治行為として門前払いをするなど、十分にその機能を発揮しているとは言いがたいと思っています。戦後、これまでに違憲判断を下したのはわずか十件しかないことも周知の事実であります。

 我が国は、今後、国際情勢の変化、少子高齢、人口減少といった急激な変化に対応するために、迅速な憲法判断、そして憲法保障という仕組みをやはりきちんとつくっておく必要がある。そのために、具体的には、抽象的違憲審査制に移行すべく、憲法裁判所を設置するか、あるいは最高裁判所に憲法部を附置することが検討課題としてあります。

 なお、憲法裁判所の設置には、誰を原告とするのか、裁判官の資質はどう考えるのか、裁判官の任命はどういう方法でどういう人物を選ぶのが望ましいのかなど、解決すべき問題が多いことは、三年前の当審査会でのドイツ・カールスルーエにおける憲法裁判所の視察でしっかり学んだことと思います。また、憲法裁判所の判断が政治的にも国民的にも受け入れられるためには、国民からその憲法裁判所が絶対の信頼を持っているということが欠かせない要素であるということも学びました。

 これらを踏まえて、今後の憲法改正論議においてこれは前向きに扱うべきである、このように思っております。

 以上でございます。

奥野(総)委員 民進党の奥野総一郎でございます。

 憲法改正の限界について、やはりきっちり議論の土俵として議論しておくべきだと思います。

 先ほど来、中谷筆頭幹事は、憲法の三大原則を自民党の日本国憲法改正草案は守っている、逸脱しておられない、こういうことをおっしゃっていました。

 一つお尋ねしたいのは、逐条で一条一条全てが日本国憲法の三大原則を逸脱していないとはっきり言えるのかということをまず伺いたい。

 そして、その上で、ちょっと私が気になるのは、一例ですが、先ほどお話がありましたけれども、二十一条、表現の自由の問題ですね。

 日本国憲法改正草案では、二十一条、表現の自由に新しく第二項を設けて制約を加えています。言うまでもなく、第一項は、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。」こう書いてあるんですが、二項で、「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。」という形で制約を設けています。

 日本国憲法は、ダブルスタンダード、いわゆる経済的自由、基本的人権の経済的自由については公共の福祉による制約を認めています。二十二条と二十九条ですね。そして、それ以外の、心の自由、精神的自由については個別の規定には制約を設けないという、十三条で一般的な公共の福祉の制限はありますが、設けないということになっています。

 これは、いわゆるアメリカで出てきたダブルスタンダード理論ということで、精神の自由は尊重していこう、規制しない、厳しい判断をしていこう、これが憲法に反映されているものであります。これはまさに日本国憲法の基本原理中の原理だと思うんですね。これに修正を加えるということは、私は、日本国憲法の改正限界、これを超えていると思います。

 これは世界の常識でして、フランスは確かに、第五共和制ですから、何回も憲法が変わっているんですが、人権宣言はそのまま現在も生きていますよね。ドイツも、基本法の中で改正しちゃいかぬ事項ときちっと入っているわけです。ですから、やはりそういった常識を踏まえながら、こういった精神の自由については制限を加えないということをしっかり守るべきではないかと思います。

 私はずっと総務委員会の方で報道の問題も取り上げてきたんですが、この表現の自由というのは報道の自由にもつながってくる重要な規定であります。言論の自由、報道の自由というのはやはり民主主義の基礎ですよね。それをもとに国民は意見を闘わせて世論を形成していく、その世論に基づいて投票が行われているということですから、こういう条文、二十一条の表現の自由に制限を加えるということは、民主主義の基盤を崩す、改正の限界を超えていると重ねて言いますが、重要な問題だと思います。

 重ねて尋ねますが、この二十一条は改正の限界を超えているのかいないのかということを明確にお答えいただきたいと思います。それから、もう少し言えば、この二十一条をもとに、報道の自由への制限が認められるのか、報道の自由について制限される場合があるとお考えかということもお答えいただきたいというふうに思います。

 以上が、表現の自由についてです。

 それから、違憲立法審査権、憲法裁判所について、抽象的違憲立法審査権の話が出ています。これは憲法判断を明確にすべしということで一考に値すると私も思いますが、ただし、NHKの状態を見ていると、きちんと人事を、任命を中立にしていかないと、むしろ政府の判断にお墨つきを与える、合憲判決ばかり出すようなそういう裁判所になりかねない、そこに注意をして議論を進めるべきだと思います。

 以上、二点申し述べさせていただきます。

中谷(元)委員 ただいまの第二十一条の二項につきましてのお問い合わせでありますが、自民党の草案におきましては、集会、結社及び言論、出版その他の表現の自由について、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動及びそれを目的とした結社、これを禁止する規定を設けました。これは、オウム真理教に対して破防法が適用できなかったことの反省を踏まえ、公益や公の秩序を害する活動や、それを目的とした結社を認めないということにしたのであります。

 内心の自由、これはどこまでも自由でありますが、それを社会的に表現する段階になれば一定の制限を受けるのは当然です。二十一条二項では、他の箇所の公益や公の秩序に反するという表現と異なり、公益や公の秩序を害することを目的としたという表現を用いて、表現の自由の制限を厳しく限定しているところであります。かつ、その禁止する対象を活動と結社に限っています。活動というのは公益や公の秩序を害する直接的な行動を意味し、これが禁じられることは極めて当然のことと考えます。また、そういう活動を行うことを目的として結社をするということを禁ずるのも、同様に当然のことと考えます。

 したがいまして、この規定をもって、公益や公の秩序を害する直接的な行動及びそれを目的とした結社以外の表現の自由が制限されるわけではございません。

 いずれにしても、この規定を伴ってどのような活動や結社が制限されるかについては具体的な法律によって規定されるものであって、憲法の規定から直接制限をされるものではないということであります。

 それから、辻元議員の、憲法の尊重で国民をこれにしたのはということでありますが、これはやはり憲法の制定者たる国民も憲法を尊重すべきということは当然であることから規定をいたしました。

 これについては、国民は遵守義務でいいのではないかという意見もありましたが、憲法も法であり、遵守するのは余りにも当然のことであって、憲法に規定を置く以上、一歩進めて憲法尊重義務を規定したものです。

 なお、その内容は、憲法の規定に敬意を払い、その実現に努力をするということで、あくまでも訓示規定でございます。

 公務員につきましては、同条二項で憲法尊重義務を定めております。

 なお、天皇及び摂政が規定をされているということは、憲法九十九条において憲法尊重擁護義務規定の主体として天皇、摂政が規定をされておりますが、草案では、政治的権能を有しない天皇及び摂政に憲法擁護義務を課すということはできないと考えて規定をしなかったということでございます。

武正委員 前回私の方から申し述べました立憲主義につきまして、もう一度、なぜかということで繰り返させていただきます。

 近代立憲主義とは、権力を制限し、個人の自由、権利を守るものであるとの認識について、憲法改正の限界として、日本国憲法の三原則は守るべきであるということなどが、共通の土俵として、認識が衆参両院の憲法審査会で共有されることが三分の二以上の発議の大前提となるのではないかと考えますということでございまして、当然、九十七条、基本的人権の由来特質でも、特に三原則の中で基本的人権については再度現憲法では触れているということもお伝えをさせていただきます。

 今、立憲主義については、当然、権力分立ということが求められる中でいえば、戦後の最高裁の統治行為論、これについてはやはりいかがなものかということもあり、違憲立法審査権については、前回もお話しいたしましたが、民進党は先ほどの参議院選挙の政策集で「政治、行政に恣意的な憲法解釈をさせないために、憲法裁判所の設置検討など違憲審査機能の拡充を図ります。」と明確に党としての考えを述べております。

 その上で、きょうの三つのテーマということ、これは幹事懇で協議をして決めたわけでありますが、一年半前、六月四日、この審査会で安保法案について憲法違反と三名の参考人の方が、当時、立憲主義と改正の限界とそして違憲立法審査権についてのテーマで触れられたときに、それ以来、一年半、この審査会がとまってしまって、それを仕切り直し、スタートするに当たって、いま一度このテーマについて始めようじゃないかということできょうを迎えているということでございます。

 その上で、先ほど御指摘ありました憲法解釈変更の閣議決定、そして安保法についての白紙撤回、これは民進党としての姿勢を前回述べたところでございます。また、二〇〇五年憲法提言について、土台ということを申し上げましたが、前回もこの場で確認をさせていただきました。

 この憲法審査会を迎えるに当たって、私どもはやはり、二〇一二年自民党憲法草案が、立憲主義、改正の限界などについて大変危惧を覚える、この審査をこの場で始めるについては、先ほど言った共通の土俵大前提で、確認する必要があるだろうということを申し上げてまいりました。

 ただ、この間も、審査会を迎えるに当たって、自民党の本部では撤回だ、あるいは棚上げだというお話がありましたが、前回のこの審査会では中谷委員からもそうした明確な表明はございませんでした。

 また、参議院の筆頭幹事からはバージョンアップだというような御発言がありましたので、それは総理の言う議論のベースなんだということと符合するなというふうに感じておりますので、やはり改めて見解を述べていただきたいというふうに思っております。

 なお、参議院で自民党の筆頭幹事からは、バージョンアップとともに、平成二十四年日本国憲法改正草案、これは自民党のものでありますが、それをそのまま当審査会に提案するつもりはないというふうに明言がございました。先ほどの平沢委員からの、各党が案を出すべきということとそごがあるわけでありまして、こういったところをやはり整理してこの審査会で議論を積み上げていく必要があるのではないかというふうに思っております。

 なお、先ほど自民党、公明党のそれぞれ意見表明の中で、国家の歴史的、文化的な考え方を書くべきではないかとか、あるいは目標を掲げることというような御発言がありましたが、欧米各国を見ても、米国憲法あるいはフランス憲法などは前文が非常に少ないこと、イタリア憲法にあっては前文がないこと、また、国と国民が共同して目指すべき国の形に関する規定ということについて申せば、アメリカでは奴隷制の廃止のみ、また、フランスでは国旗、国歌、首都のみ、オーストラリアも同様といったことでありまして、そうしたことを憲法に書くべきかどうかについては、やはりいかがなものかというふうに言わざるを得ないところでございます。

 また、昭和四十七年見解、当てはめについては、やはり無理があるのではないかというところがありますし、また、小林節先生のお話などがございましたが、そうであれば、やはり参考人質疑というようなことも必要ではないかということも付言をして、以上とさせていただきます。

 ありがとうございました。

土屋(正)委員 自民党の土屋でございます。

 私の見解を申し述べさせていただきます。

 今、最初に辻元委員から、自民党の憲法草案は国民に義務を課している、憲法というのは国民に義務を課すものではないという趣旨の御発言がありました。

 これに関連して会長にお願いをいたしたいわけでありますが、世界各国の憲法の中で、憲法に義務を記載している憲法はどのぐらいあるのか、ぜひ法制局を通じて御調査をお願いいたしたいと思います。(発言する者あり)いっぱいあることはわかっておりますが、ぜひ調査していただきたいと思っております。

 現憲法の中でも、勤労、教育、納税の三大義務があるわけであります。ヨーロッパの各国の中には徴兵の義務を設けているところも幾つかあるわけでありますが、また、中国、ロシアも含めて、ぜひ御調査をお願いいたしたいと思います。

 二番目に申し上げたいことは、権力の濫用から基本的人権を守り、国民に保障するという大変すばらしい憲法観があります。私も、そういう憲法観のもとで青春時代を過ごし、今日を迎えているわけでありますが、ただ、世界じゅうの実情をつまびらかに見てみますと、必ずしもそういうことだけでは、なかなか国民に保障された基本的人権を守るというふうに機能していないケースがたくさんあるわけであります。

 二点目に申し上げたいのは、国家権力が機能不全に陥ると途方もない悲劇が起こるということを申し上げたいわけであります。これは、シリアの例を見てもそうでありますし、至るところでこういう例は枚挙にいとまがないわけであります。

 したがって、現実には、基本的人権の保障は、国家の機能が十分発揮され、法の支配が確立されている、秩序が保たれている、国家作用がきちっと行われているということのもとに基本的人権が保障されている、このことを深く銘記すべきではなかろうかと存じます。

 三点目は、権力のありよう、たたずまいのことであります。

 成文化された基本的人権があるだけでは、なかなか普遍的なものとして保障されていくわけにはいかないわけであります。

 不肖私の経験したことを申し上げるわけでありますが、一九九〇年に北京市を親善訪問いたしました。都内の区長、市長、町村長が団をつくって、姉妹友好都市であります北京市を訪問したわけであります。一九九〇年というのは、その前の年、一九八九年の六月に天安門事件が発生をし、言論の自由が弾圧され、少ない人数で千人、多くて十万人が殺された、こういう場面の翌年でありました。世界じゅうが人権侵害の非難をして、日本もODAを停止する、こういう場面でありました。そこに我々は行ったわけであります。

 ところが、せっかく友好のために来たんだから天安門事件は触れるのをよそうと言っていたところ、案に相違して、相手の北京市長、陳希同さんでありますが、当時、共産党のナンバーフォーということでしたが、歓迎の宴で、人権を言う者がいるが、中国は発展途上、国内秩序が第一、世界の安定はアジアの安定、アジアの安定は中国の安定だ、中国が本格的に乱れたら日本にも百万人単位の難民が行きますよとおっしゃったのにびっくりしたわけであります。

 つまり、さまざまな基本的人権といわゆる権力との緊張関係、置かれた歴史的状況、その国の成り立ち、こういったことによって初めて立憲主義が求める基本的人権の保障があり得るのだということを実感したわけであります。

 以上、意見として申し上げ、これからの前向きの議論にしたいと思います。

辻元委員 今、土屋委員から御指摘の点のみお答えいたします。

 私が指摘しましたのは、自民党憲法改正草案の百二条の「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。」という義務を規定していることについての疑問を呈したものです。

 そして、各国憲法における国民の義務に関する規定は、本審査会の前の委員会等でも既に議論がされておりまして、義務がある国は、インド、中華人民共和国、ブータン、イタリア、そしてロシア連邦という報告がなされております。ですから、この調査の結果に基づいて発言したものでございます。

 以上です。

星野委員 会長、発言の機会をいただきまして、まことにありがとうございます。

 自民党の星野剛士でございます。

 今回、国家主権について私の考えを述べさせていただきたいというふうに思っております。

 現行憲法に国家主権の記述はございません。国家主権の三要素とは、領土、国民、統治機構の三つであります。国家の独立を守ることは、この三要素を守るということであります。国家主権、他国からの侵略から自衛権を行使して国の独立を守るのが、一般に言われている軍隊でございます。警察権を行使して国民の生命と財産、公の秩序を守るのが警察でございます。これは世界共通でありまして、多くの国の憲法にも明記をされております。

 しかし、憲法が施行されたときに日本が独立をしていなかったという事実ゆえに、現行憲法には国家の独立に必要な規定が盛り込まれておりません。現行憲法が施行されたのは連合国占領下の一九四七年でありまして、そのとき日本には主権はありませんでした。日本国に主権がなかったときに施行された現行憲法に国家主権の規定が盛り込まれていなかったという事実は、重く受けとめておかなくてはならないのではないでしょうか。

 同時に、第九条第二項には、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」という条項はしっかりと盛り込まれております。当時の連合国の意思が色濃く反映されていると感じざるを得ません。

 日本が独立したのは、一九五二年四月二十八日のサンフランシスコ講和条約が発効したときでございます。本来、独立を果たしたこの時期以降、速やかに憲法改正をして、国家主権を憲法に明記するべきであったと考えます。

 日本が独立を果たし、主権を回復した一九五二年の約二年前、一九五〇年六月二十五日に朝鮮戦争が勃発をいたしました。七月には、マッカーサーは、警察予備隊の創設と海上保安庁の増員を指令いたしました。連合国、突き詰めれば米国の対日政策の大幅変更が起きたと言えると思います。

 その後、一九五二年には、自衛隊の前身となる保安隊が発足をし、一九五四年、自衛隊が発足をいたしました。

 こうした歴史的事実を顧みて、憲法論議が深まることを願い、私の発言とさせていただきます。

 以上でございます。

岸本委員 会長、ありがとうございます。

 簡単に、奥野委員の前段の発言の補足も踏まえて発言したいと思います。

 いわゆる立憲主義は為政者の権力を縛るものであるという基本的な認識は当審査会で共有されていると思いますけれども、近代立憲主義にはもう一つの意味があるということも御理解いただいているとおりであります。

 それは、必ず相対立する世界観あるいは歴史観、そういう考え方がある場合に、それを国は国民に押しつけない、こういうことも近代立憲主義の一つの大変重要な要素であります。国際的には、これもウエストファリア条約で確立された考え方でありまして、ともかく、相対立する概念がある、考え方がある、それはお互いに押しつけない、こういうことであります。

 その意味で、今話題になっております自民党の憲法草案の中にはいささか一定の価値観を押しつけるような部分があるので、私どもは、立憲主義に反する部分があるのではないかということを申し上げているのであって、必ずしも護憲主義ということで立憲主義という言葉を使っているわけではないということだけ付言させていただきます。

太田(昭)委員 今、岸本先生からの話もあったんですが、立憲主義ということについては、既に多くの方からお話があったように、国民の基本的人権の保障のために、主権者たる国民が、名宛て人である国の権力の行使ということについて制限を与えたり、あるいは縛り、あるいはまた原則を定めるということが基本であるとともに、後から申し上げますが、国家と国民の関係性というものは、ぜひともここで論じていただきたいというふうに思います。

 そして、私は、憲法十三条というものが極めてこの憲法で重要で、その憲法十三条の個人の尊重というものがあって、そこに平和主義ということ、そして主権在民ということが描かれている、そういう構成にこの憲法はなっていると思います。

 それでは、人間の尊厳、個人の尊厳ということ、この憲法十三条にある生命、自由、幸福の追求の権利というものの定める個人の尊重という個人とは一体どうであるかという人間観、人間哲学、ここのところを自民党の方々も含めて私はしっかり論議していただかなくちゃならぬというふうに思います。

 教育学者の梶田叡一先生が、人間の教育ということの中に、我の世界を磨き、我々の世界を磨いていくという、両面というものが大事であるということを指摘しておりまして、私は全く同感です。

 この人間観という中には、実は、日本国憲法ができてきたとき以上に、今大きくこれが大事だということが定着をしてきたというふうに思いますが、東洋の思想において、人間というのはジンカンというふうに読みます。人と人との間、つまり、人間は、人間の生命自体というものの充実ということ、あるいは開花ということと同時に、人間と人間との間という人間(じんかん)というものをどう充実させていくかということがあって初めて人間観であると。

 そういう意味では、我の世界というものをもっと掘り下げて磨いていくということが大事で、ビクトル・ユーゴーが、海よりも広いものがある、それは大空である、大空よりも広いものがある、それは人間の心であると。そういう世界をどう磨いていくか、これはここでの憲法論争ではないというふうに思います。

 しかし、我の世界と我々の世界の、我々の世界というものの中に、人間ということの、ヨーロッパではどちらかといいますと人間中心主義的な人間関係というものだったと思います。しかし、私たちがこれまで来た東洋思想の中における我々の世界の中には、単なる人間というだけでなくて、人間(じんかん)として表現したものの中に、自然とか、あるいは動植物も含めた人間観というものが包摂されてある。そこのところに、私は、環境権というようなこともまたこの十三条に書かれている生命というものの中に我々はよく組み込んで、環境権というものをどのように表現するかということを模索する時期が今ではないかというふうに思っています。

 付言しますが、国家と個人の問題は立憲主義では極めて重要なんですけれども、国家というものは一体どういうものであるかという論議を、この憲法調査会と教育基本法の改正というものの中の往復作業で共鳴板のようにさせていただきました。

 そこでの国家というものについて、ネーションというものと、そしてステーツというものの機能的なこと、これが、違うものが融合したネーションステーツというものがあるが、本来は、我々はここについては、ナショナリズムではなくてパトリオティズムという国家観というものを表現しなくてはいけないんだということを強く私は主張させていただきました。

 そうしたパトリオティズムとしての国家観というものの中で、教育基本法の中に愛国心論争というものがありましたが、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」というのが条文になっております。それはまさにケネディが言うように、自分が国のために何をなせるかを問えということがありますが、アスク ホワット ユー キャン ドゥー フォー ユア カントリーということで、そのケネディが言った有名な演説の中の国という概念は、これはカントリーというパトリオティズムとして表現をしているということでございます。

 私は、立憲主義の肝は十三条にあり、そして、十三条の肝は個人の尊厳、人間(じんかん)の尊重であるということを主張させていただきます。

 以上です。

枝野委員 太田先生の大変高尚なお話の後でしゃべりにくいんですが、先ほど来の話に私からも何点か反論させていただきたいと思います。

 まず、自民党の草案が立憲主義違反であるということについては、先ほど奥野委員などもお話をいたしましたが、二十四条などを初めとして、いろいろなところで新しく人権制約に向けての条項が加えられているというところが立憲主義に反すると申し上げております。幾ら基本的人権の尊重をお題目で唱えても、結局、法律をもってしても侵してはならない人権が憲法でどう保障されているかということが問われています。

 その上で、これはぜひ共有していただきたいんですが、現行憲法の基本的人権については、表現の自由も絶対ではありません。これも奥野さんがおっしゃったとおり、経済的自由権については公共の福祉の名のもとに幅広い制約が認められている。そして、表現の自由などの精神的自由権については、人権と人権のぶつかり合い、つまり、表現の自由といえども人の人権を侵してはならない、この調整原理としての公共の福祉の名のもとに制約を受ける。これは私の意見とか憲法学者の意見ではなくて、最高裁の確定判決です。二重の基準という言い方は使っていませんが、その考え方に基づいた確定している判決があります。

 それがあるにもかかわらず、新たに制約に向けた、あるいは法律の留保とも読めるような規定を書き加えれば、現行の、最高裁が示している人権制約の理念を超えた制約が行われる、あるいはそれを意図していると疑われるのが当たり前であります。

 百歩譲って、書き加えるとすれば、従来の定着した最高裁判例の文言を引っ張ってきて、こういう制約を受けるというのを確認的に書くところまでならともかくとして、それを超えた制約規定を書くということは、従来の人権の衝突による人権制約というのを超えた制約をしようとしている、つまり、基本的人権を守るという立憲主義の精神に反する案だと指摘をされることはやむを得ないと私は思います。

 それから、安保法制と立憲主義の関係について、中谷先生や遠山先生のお話は、白地の、つまり真っさらな状態における解釈としては十分成り立つものだと思います。四十七年見解についての見方も、四十七年当時の真っさらな状態の見解としては僕は成り立つものだと思います。そもそも、九条について、白地で、真っさらな状態で解釈すれば、自衛隊違憲論、個別的自衛権違憲論も成り立つし、私は、真っさらな状態なら、集団的自衛権も読み取ることも可能ではないかというふうに思います。

 事柄の本質は、憲法によって縛られている権力の側が、長年にわたって積み重ねてきた解釈について、その根幹を動かした。四十七年見解がありますが、四十七年見解以降も、何の留保なく、四十七年見解に基づいて集団的自衛権は違憲であるとみずから、先ほど共産党さんが御紹介していただいたとおり、中谷先生も高村先生も御自身で繰り返してきた。権力の側が、自分たちを縛っているルールについての解釈を、それも一回言って、三年ぐらいたって、間違えました、変えますというならともかく、四十年にわたって積み重ねてきた解釈について、いろいろな解釈の幅はあるにしても、それを権力の側が一方的に覆す、だから立憲主義に反するんだ。その立憲主義に反するがゆえに憲法違反なんだ。

 白地の解釈として解釈が成り立つことは私も否定しません。しかし、積み重ねてきた解釈を変えるというのは、これは立憲主義に反するし、それを正当化するだけの説明は、先ほどの遠山先生や中谷先生のお話では全く示されていないということを申し上げたいと思います。

 まだ時間があるようなので、もう一点。

 違憲立法審査権の強化というのは、先ほど武正筆頭幹事から申し上げましたとおり、私どもの党のコンセンサスでありますが、斉藤先生が率直に、憲法裁判所について党内にいろいろな意見があると言っていただきましたので、私も実は、先ほどの武正さんの公式見解どおり、憲法裁判所などの検討を初めとして、違憲立法審査権の強化ということにとどめています。この後、山尾さんが発言したら、私と山尾さんが多分意見が違うのかなと思うんですが、私も、斉藤先生のおっしゃるとおり、裁判所、司法の政治化というリスクを憲法裁判所とか抽象的違憲審査制というのを導入する場合には相当考慮しないと危ない、慎重に考えないといけないというふうに思っています。

 現在の司法消極主義や具体的違憲審査制がこのままでいいとは思っていない。それは一定の強化の方向に進むべきですが、その場合に、どういうふうにそれをジャッジする裁判官を選ぶのかというのを、政治性を帯びずに国民の信頼を得られる機関をつくれるかどうか、これは相当慎重にやらなければならないということを、斉藤先生と意見が一致しているかなと思いましたので、申し上げておきたいと思います。

 以上です。

根本(匠)委員 今いろいろな議論が出ていましたが、私は、きょうの議論を聞いておりまして、個別の具体的なテーマになるほど議論は深まっていくなと。その意味では、個別のテーマになるほど議論が深まって闊達な議論ができますから、これから個別の議論をぜひやっていただきたいと思います。

 そして、きょうは立憲主義と改正限界ということですから、私も、これについてどう考えるかということを、多少理屈っぽい話になるかもしれませんが、改めて意見を述べたいと思います。

 立憲主義という言葉、ただいまもいろいろな方からいろいろな意味合いでの立憲主義の開陳がありました。さまざまな意味で用いられております。一つの考え方として、私は次のようなものがあると思います。

 すなわち、第一に、他の法形式と区別して制定される成文法、憲法があること。第二に、その成文法が政府の正統性の唯一の法的根拠であること。第三に、その成文法は、個人の自律的存在性を尊重する趣旨に立つ基本的人権を保障し、権力の濫用を防止するための統治構造、権力分立ないし抑制均衡を定めていること。第四に、その成文法は他の法形式に対し優位し、その優位性を確保するため、独立の機関、司法裁判所などが違憲審査権を持つこと。立憲主義とは、このような、憲法を土台として国を運営する方法をとることという考え方であります。

 立憲主義をこのように捉えると、基本的人権の尊重、権力の分立、均衡、憲法の最高法規性、独立機関への違憲審査権の付与が維持されていなければ、その国が憲法を持っているということは言えないと考えられます。

 こういう考え方に立って、憲法を改正する場合には、立憲主義の精神に沿ったものである必要がある。例えば、個人の権利、自由の保障、民主主義を否定する改正、これは許されないと思います。当審査会によってこのことに配慮すべきこと、これは言うまでもありません。

 一方で、例えば、基本的人権の尊重という基本原則が維持される限り、個々の人権規定に補正を施すなど、多少の改正を加えることは認められるでしょう。

 また、国民主権との関係でも、憲法改正の国民投票を廃止する改正は許されないとしても、憲法改正の発議要件を一切変更してはいけないとも考えるかどうか、これは議論のあるところだと思います。

 さらに、三原則の一つである平和主義に関して言えば、戦力不保持を定める九条二項につき、一切の改正は不可能とまで解する必然性があるか、これも議論の余地がある。

 そして、古屋委員から、緊急事態について、立憲主義の観点からの提起がありました。私は、こういう議論もあると思います。

 今後、憲法改正を議論していくに当たっては、このように、立憲主義や改正限界の考え方はよく踏まえる必要があると思います。その上で、現在我が国が置かれている状況を考慮して、憲法に今日的な視点を取り入れていくこと、これも忘れてはなりません。当審査会においては、そうした観点から具体的な改正案が十分に検討されることを期待します。

 なお、きょうも平和安全法制は立憲主義に反するという指摘もありました。これについては、私は、繰り返しは避けますが、中谷委員、遠山委員、平沢委員の言ったように、今回の平和安全法制を整備したことが立憲主義に反するという批判は当たらないと思います。

 ただ、このように、個別具体的なテーマになるほど議論が闊達になり、深まり出す。今後の審査会においても、我が国を取り巻く情勢を踏まえた上で、テーマを具体的に絞って議論していくことが必要ではないかと御指摘申し上げ、私の発言を終わります。

山尾委員 貴重な五分をありがとうございます。民進党の山尾志桜里です。

 先日の憲法審査会の議論を受けて、まず最初に、憲法の規律密度の低さは改憲の必要性を導く理由となり得るのか、複数の方から言及がありましたので、感じたことを申し上げます。

 まず、私は、規律密度の相対的な低さは改憲の必要性に直結しないと考えます。なぜなら、憲法は、時代を超えて共有する普遍的な価値を次世代に引き継ぐという重要な役割を担っており、規律密度の低さ、言いかえれば抽象性の高さは、この役割を果たすために一定程度維持すべき先代からの大事な知恵であると考えるからです。

 さらに、この点に関し、憲法の人権項目と統治の項目から、二つの問題意識を申し上げます。

 十三条の個人の尊重や二十一条の表現の自由など、いわゆる人権規定は、確かに規律密度が相対的に低いです。そして、この規律密度を埋める役割を担ってきたのが膨大な判例の蓄積です。その判例蓄積によって、私たちは憲法の安定性と時代の変化に伴う可変性を両立させてきました。

 新しい人権規定を議論するに当たっては、その膨大な判例蓄積を正確に把握、分析した上で、いかなるエッセンスを憲法上に明文化すれば保障の実効性を現実的に高めることになるのか、相当精緻な作業が必要とされると思います。ただ明文化することによって空気を変えるということではない丁寧な検討が必要であると申し上げます。

 もう一つは、統治の規定です。統治の規定は人権規定に比べれば規律密度は高く、条文を具体的事案に当てはめて解答を導きやすい性質を持っています。

 そこで、昨年の秋を思い起こしていただきたいんです。十月二十一日、総議員の四分の一以上を優に超える議員が、憲法五十三条に基づき臨時国会の召集を要求しました。しかし、内閣は、憲法上の義務に違反して、召集をしませんでした。「いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。」こういう相当規律密度の高い憲法規範であっても、これを容易に踏みにじる内閣が存在するというファクトそのものをもう一度この場で確認すべきです。

 規律密度が低いからもっと精緻にするんだとおっしゃる方は、まず、みずから、既に存する規律密度の高い規範を守っていただきたい。規律密度がいかに高い規範があっても、それを容易に踏みにじる政権が存在するままで、しかも、その政権を構成する政権与党が規律密度を高めるため憲法を改正しようという論陣を張ることの一種の滑稽さを感じていただきたいと思います。

 次に、やはり先回の憲法審査会において、他党の委員から、いわゆるバリューフリーというか、価値観から離れて変えていくという趣旨の話がありました。

 私は、憲法議論の前提として、価値を党派を超えて共有し続けることこそが大切だと思います。改正を議論するならなおさらです。その価値の中核は、個人の尊厳、そして国民主権、基本的人権の尊重、平和主義であり、そのことをこの憲法審査会で確認し続けることは大変とうといことです。そうした価値を国民の人生に還元していくために憲法がいかにあるべきかという議論と、バリューフリーに価値観から離れて問題を解決していくということは違うのではないかと私は感じました。

 その点で、私は、先日、同じく他党ではありますけれども、理想的、普遍的な価値を大事にするという委員の御発言、また、国の形を論ずるという重厚な議論が大切という委員の御発言の方にシンパシーを感じ、学ばせていただいております。

 次に、私からも、天皇の皇位継承に関して、この憲法審査会で速やかに落ちついた議論をスタートすべきだと申し上げます。

 いわゆる生前退位を議論するに当たっては、憲法二条との関係で特措法が許容されるか否かという大きな論点があります。憲法二条は、皇位継承について、「皇室典範の定めるところにより、」と明文で規定しております。憲法の中で、ある事柄を法律事項として委任している規定は、勤労に関する二十七条や選挙に関する四十七条など複数ありますが、それらは全て法律で定めると規定するのみで、特定の法律を指名してはおりません。皇室典範と委任する法律を特定している、指名している憲法二条ということを考える必要があります。

 とするならば、皇位継承につき、皇室典範ではなく特措法で定めることは違憲の疑いが生じ、陛下の地位の正統性からして、疑いすら生じるようなことがあってはならないのではないかという論も十分に成り立ち得ます。まさにこの皇位継承と憲法二条についていかに考えるか、この問題については、政局に左右されず、党派を超えて落ちついた議論をするこの場がふさわしいと申し上げます。

 最後に、憲法裁判所についての御指摘が幾つかありました。民進党の見解としては、先日、武正委員が申し上げたとおりですし、私もその認識に立っております。

 そして、一点つけ加えさせていただきますと、確かに、いわゆる憲法裁判所の議論をするに当たっては、人事の手続、構成、効果をどう考えるのか、それに対して国民の信頼をいかに醸成することができるのかという本当に極めて困難な課題があることは私も承知しております。しかし、この極めて困難な課題に立ち向かい解決せざるを得ないほど、現政権が成立させていく閣法にリーガルマインドのブレーキがかかっていない現状を憂えているということを申し上げて、きょうの発言とさせていただきます。

 以上です。

上川委員 二回目の発言をお許しいただきまして、大変ありがとうございます。

 ただいま、山尾委員から、規律密度の低さにつきまして、滑稽であるというような御表現をなさいましたけれども、きょうの私の一番初めの発言の中でもこの規律密度の低さにつきましての問題提起をさせていただきましたので、一言だけ申し上げたいというふうに思います。

 私も、先ほどの中で、条文の抽象度が高いとともに条文数が少ないという、これは日本国憲法の特色の一つではないかというふうに思っております。その意味では、この間、憲法典そのものの改正ではなく、法改正などを通じて、また、先ほど御指摘があったように、判例の蓄積の中で、可変的な、また柔軟な対応をしてきたこの憲法の大きな位置づけというものについては評価をしているものでございます。

 しかしながら、制定七十年を経て、また特色であった、条文の抽象度が高いとともに条文数が少ないという点について、この目線から憲法の問題についてあるいは憲法全体の総合的な体系について見直していく、あるいは問題提起をする、このことについては、私は、それを否定するということ自体がまた滑稽ではないかというふうに思うものでございます。

 謙虚に、この日本国憲法の特色を見定めながら、また、ここで七十年間果たしてきた役割について十分に検証しながら、この問題についてもしっかりと議論をしていくという姿勢が大事ではないかというふうに思っております。

 そこでまた、それはちょっと冒頭の御発言ですけれども、先ほど、枝野委員から、また山尾委員から皇室典範につきましての御発言がありましたので、今この時点での発言をちょっとさせていただきたいというふうに思います。

 まず、憲法審査会についての権限ということでございます。

 憲法審査会の権限につきましては、日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制についての広範かつ総合的な調査という規定がございます。

 この基本法制についての調査ということでありますが、あくまでも日本国憲法の改正の是非を含めた憲法論議に必要な範囲内で行われることが前提とされているということでありまして、個別の立法政策の是非という観点から行うことを予定しているものではない、この認識につきましてはちょっと共有をしていきたいと思います。

 その上で、憲法審査会で今の時点で取り上げることにつきましての御提案であったというふうに思いますが、まず、生前退位に係る問題を憲法論として議論するには、それに必要な、皇室制度あるいは天皇行為に関する立法事実に関する資料が必要となるわけでございます。

 天皇の行為につきましては、内閣の助言と承認に基づくものとされておりまして、皇室制度を考えるに当たっての基礎的な事実について把握しているのは基本的に内閣でございます。その内閣におきまして、現在、皇室制度について精力的に検討が行われているということでありまして、皇室制度についての基礎的な事実を十分に踏まえた上で論点整理がなされていくものというふうに考えております。その論点整理を待ってから本審査会で取り上げるべきか否かについて検討するというのが適当ではないかというふうに思っております。

 現時点で取り上げるということは適当ではなく、今後の検討課題としておくべきではないかと考えております。

 以上です。

森会長 予定の時間を過ぎましたが、現在札を立てている委員には御発言をいただこうと思います。なるべく手短に、二、三分程度でお願いいたしたいと思います。

細野委員 会長、ありがとうございます。

 私からは、緊急事態についての考え方を少し述べさせていただきたいと思います。

 先ほど、古屋委員の方から、緊急事態について、自民党側からの提案というふうに受けとめさせていただきました。

 私は、三・一一のときに総理の補佐官をやっておりまして、その数カ月後に原発事故の対応の閣僚をやりました。したがって、戦後のさまざまな緊急事態の中でも最も厳しい局面の一つに直面をしたという経験を持っております。

 あの場面というのは、古屋委員が例として挙げられました災害救助法、自衛隊法、さらには災害対策基本法、それに原災特措法も含めて、既存の法律がフル稼働した場面だったというふうに承知をしております。

 その観点から申し上げるならば、私が経験をした中でいうならば、これらの法律がフル稼働することによって法的な制約を感じるということはありませんでした。ただ、古屋委員がおっしゃったように、知事の権限については非常に強く書かれているが、政府の権限は書かれていないというところがあるのだとすれば、それはさらにシビアなケースも含めてあり得るのであれば、それはきちっと法律の改正によってやるというのが本来の筋ではないかと私は考えます。

 自民党案の九十八条、九十九条を何度も読ませていただいておりますが、ほぼ白紙委任の形で、ほぼというよりは、法律のかわりができるわけですから、白紙委任の形で、超法規とまでは申し上げませんが、法律を超えて政府が法律に類するものを決められるというこの枠組みは、私は少なくとも立憲主義の考え方、さらには我が国のあり方としては好ましいものではないのではないかと考えております。

 むしろ、我々が考えるべきは、あらゆる事態において立憲主義の観点から国会が機能することをきちっと考えるべきだ。国権の最高機関であり、さらには全国民を代表するのが国会です。その観点から、二点少なくとも検討しなければならないことがあると思います。

 まず、選挙の延期です。三・一一のときに被災三県の選挙については延期いたしましたが、あれは法律事項だからできたのであって、憲法上、任期が書いてある憲法ではできません。あの場面において、衆議院、参議院のそれぞれの任期が来ていて国政選挙になった場合は相当の混乱が予想をされましたので、これについて大いに改正の議論をしておくべきだというふうに思います。

 ただし、その際は、選挙というのは国民が意思表示をする非常に重要な局面です。その延期を内閣が判断するのは好ましいことではない。やはり、国権の最高機関である国会自身が必要性を認めた場合に絞り込んでの延期を議論すべきではないか、これが一点です。

 第二に、定足数及び議決であります。

 議決については、三分の一以上の出席がなければ議決ができません。我々はさまざまな事態を想定すべきです。多くの議員の皆さんが衆議院の赤坂宿舎にお住まいだと思いますが、一カ所に住んでいるリスク、すなわち、首都直下の地震が起きる場合、テロに遭う場合、我々が、それこそ多くの議員が命を落とすことも、これも想定をしなければなりません。そういった場合に、三分の一以上が集まらなければ議決できないということになりますと法律は一本も通らない、そういう事態にもなり得るわけですね。

 ちなみに、調べましたら、米国の下院では、炭疽菌の事件があって以降、この定足数についての規則が定められておりますが、我が国の場合は憲法です。この部分について、きちっと、いかなる最悪の事態においても議会が動くという状況をつくっておくことは、私は少なくとも国民の命を預かる国会議員として考えなければならないことだというふうに思います。

 すなわち、自民党が出してきている緊急事態に対する考え方と少なくとも私が今述べた考え方には相当開きがありますが、しっかりと国民を守るという意味でさまざまな議論をし、前向きな改正の議論ができるのであれば、私はそれ自体について否定するものではないということは明確に申し上げておきたいと思います。

 以上です。

森会長 ちょっと流れで、古屋君、それから枝野君に一分ずつ発言を許可します。

古屋(圭)委員 今、細野委員から私の発言について指摘がございましたので、申し上げさせていただきます。

 あくまでも、今回、三・一一を含めて、現行の法律が稼働しなかった、これは職業の自由であるとか居住の自由、財産権の自由という憲法に明確に規定されたことに違反をする可能性があるという懸念があるからこの稼働がなされなかったわけでありまして、だからこそ私は、立憲主義という視点に基づけば、こういったことをしっかり憲法にも裏打ちをしておく、これはもうフランスがやろうとしていることでありますから、世界でも例があります。そういう趣旨で申し上げたということをぜひ、改めて強調したいというふうに思います。

 それからもう一点、衆参両院の任期の延長については、基本的に考え方としては私は賛同いたします。

 以上です。

枝野委員 まず、憲法審査会の設置根拠である国会法第十一章の二、これはまさに船田先生、保岡先生と一緒につくってきた中身ですが、私の理解は上川先生のような理解ではない、明確に申し上げておきたい。

 そもそも、実質的な意味の憲法と日本国憲法という憲法典にはずれがあります。実質的な意味の憲法だけれども憲法典以外に規定されているものもあるし、憲法典の中に実質的意味では憲法ではないものも含まれている。憲法を議論し審議するという我々の場は、実質的意味の憲法については、憲法典以外の部分も当然議論しなければならない。

 そして、皇室典範における皇位の継承だなんというのはまさに実質的意味の憲法ですから、ここで議論をしないなんてあり得ないし、論点整理をしているという話ですが、本当に政府は論点整理なんですか。案を出してきたりしないんですか。論点整理だけなら、それをお待ちして、その整理された論点に従ってここで議論しましょう。だけれども、どうも今の流れでは案を出してくるんじゃないですか、政府は。僕は、皇室典範なんというのは、議員立法で全会一致で国会でつくるべきだというふうに思っていることを申し上げます。

 それから、古屋先生に申し上げたいのは、今、いろいろな憲法上の疑義があるから使われなかったみたいなことをおっしゃっていますが、どこに、先ほど細野さんが言った、いろいろな法律について憲法違反の疑義があるだなんて意見があるんですか。憲法学者から野党からみんなが憲法違反だ憲法違反だと言っていることは合憲だと言っていながら、野党や憲法学者から憲法違反だという疑義なんかほとんど出されていないものについて憲法違反の疑義があるから使われなかったなんて、これは便宜主義過ぎると申し上げたいと思います。

山下委員 自由民主党の山下貴司です。

 立憲主義という根源にかかわるテーマで発言させていただくことを光栄に思います。

 国民が憲法を制定し、憲法で定められた権利、自由の保障のもとで、そして三権分立の権限の中で各機関が立法、法執行、法解釈を行い、そして、憲法論についても、国民の代表から成る国会において議論し、必要があれば国民投票をもって憲法を改正する、これが立憲主義であり、国民が憲法制定権力たるゆえんであると思っております。

 そうしたことに照らせば、私は、憲法上授権されていない権利や権限について憲法上の拘束力を認めるということは、むしろ立憲主義に反するのではないかというふうに考えております。

 例えば、内閣による憲法解釈を一内閣で変更するのは立憲主義に反するという指摘でございます。というのは、最高裁による憲法判断と異なり、行政権による憲法解釈については法的拘束力を認める憲法上の根拠がないからであります。比較法で見ても、憲法上の根拠もないのに行政権による憲法解釈に拘束力を認めている国などはございません。

 この点については、国会で明言されております。昭和二十九年四月、吉田内閣においてMSA協定が審議されている際、九条における自衛戦争の許容性について、この審議会でも出された資料にもある二十一年の六月の自衛戦争をも否定する吉田総理答弁を持ち出して批判したところ、言論人として朝日新聞副社長も務めた緒方竹虎副総理は国会答弁として次のように述べています。

 「同じ吉田茂でありますけれども、内閣の閣議によつて公式にきめれば前と解釈が違つたつて差支えないと思います。今の我々がとつておりまする解釈は、これは昨年の総選挙にもこの解釈の下に選挙がなされております。国民の批判も受けておりますし、それによつて国民の判定も得た次第であります」「何か十年たつても云々と言われますが、内閣が変つておるので、その新らしい内閣が閣議を以てきめればその意見が前と違つておつても差支えない。」

 この発言について、先日の審査会でも御紹介した佐藤達夫当時の法制局長官は、引き続く国会答弁において、「内閣々々において正しいこと信ずるとてその憲法解釈を打出すことは理論上は当然」と述べ、さらに次のように述べております。「神様の目を以て憲法を見ておるならば、神様が変りません以上は憲法の解釈というものは変らないはずだと思います。」「遺憾ながらその解釈に携る者は人間でございまして、人間というものには進歩があるわけであります。その進歩によつて解釈がだんだんと進化を遂げて行くということは、これはもう否定すべからざる事実であると思います。」

 これが、この日本国憲法下において、内閣による憲法解釈の変更について、国会で明言された法制局長官の見解でございます。

 これは法的安定性を無視するという議論ではありません。法的安定性は重要であります。しかし、法的安定性と法的拘束力は違うんです。従来の憲法の文言の枠内で、従来の法的論理の根幹を変更せず、根幹から導かれる副次的な論理や結論的な当てはめを変更することは、法的安定性を必ずしも害するものではありません。

 御指摘の集団的自衛権の解釈変更については、我が国を防衛するため、限定的な集団的自衛権を昨今の国際情勢に即して解釈変更するものでございまして、最高裁砂川事件判決に反するものではなく、四十七年資料が示した基本的論理を踏まえつつ、安全保障の環境の変容を踏まえて当てはめを変更したにすぎず、これまでの解釈との論理的整合性と法的安定性は保たれております。

 なお、積み重ね論議というものがございますが、従来の議論を積み重ねてきた法の番人とされる内閣法制局は、八十余名の職員のうち、現在、法曹有資格者はわずか六名の組織でございます。昔から数名しかいなかったんです。長官も十八名中七名しか法曹有資格者はおりませんでした。集団的自衛権を一律に否定するかのように見える答弁をされた長官の多くは法曹資格はありませんでした。もちろん、内閣法制局職員は官僚の中の官僚と言っていい優秀な方々であります。その解釈を行政府として可能な限り尊重することは必要であります。しかし、必ずしも法曹資格を持たない官僚の答弁に憲法上の法的拘束力を認めるというのは、かえって立憲主義にふさわしくないと考えます。

 集団的自衛権を認めるための憲法改正または憲法解釈の変更の必要性については、二〇一二年の選挙に際してのアンケートで、現在の民進党所属の衆議院議員の約四割が賛成またはどちらかといえば賛成とおっしゃっており、さらに言えば、野田幹事長も岡田前代表も、過去の時点において同趣旨のことを言っていると考えております。それらは決して立憲主義をないがしろにしたものではないと信じます。

 我々は共通の基盤において、この審査会において、与野党、党派を超えてしっかりと議論してまいりたいと思います。(発言する者あり)

山田(賢)委員 ちょっと静かにしていただいていいですか。

森会長 御静粛に願います。

山田(賢)委員 ありがとうございます。

 山田賢司でございます。

 時間もないので、端的に申し上げさせていただきたいと思います。

 今回、憲法改正の限界についてということでございます。もはや私も憲法の無効論とかはとりませんので、これを前提にお話をさせていただきます。

 違憲なものは幾ら時間がたとうが違憲なのか、時間がたって国民が受け入れればこれは合憲になるのかというと、それはそうではないはずです。何を申し上げたいかというと、日本国憲法、これは制定経緯に瑕疵はあるんだけれども、これを有効とする説の多くは、七十年間にわたって国民が受け入れてきたじゃないかということを申し上げることがあります。これは現実論としてそのとおりで、この憲法のもとでいろいろなものが行われてきているので、今さら無効というわけにはいかないと思います。

 ただ、憲法改正の限界を論じるときに、大日本帝国憲法には限界はなかったのか。改正の限界を超えた改正をやったのが日本国憲法であります。

 立憲主義に基づいて、もし憲法というものが為政者、権力者を縛るということであれば、その憲法の改正の限界を超えた、日本国憲法への改正を行った帝国議会の議決行為、これは立憲主義に反しないのか。さらには、その改正が行われた日本国憲法、これが制定された後もGHQによる人権制限が行われていました。GHQの人権制限を日本国憲法は縛ることができたのだろうか。

 これは、日本国の国家権力だけを縛るんだと考えれば、GHQに人権が制限されたこと、これもやむを得ないということになるでしょう。そして、その憲法改正の限界を超えた日本国憲法への改正も、ポツダム宣言という外部の力を受けたものだということ、これを受け入れざるを得ないということであれば、これもまた現実として受けとめなければいけないでしょう。

 何が重要かというと、すなわち、主権を守るということがいかに大事かということでございます。日本国憲法がGHQから日本国民の人権を守れなかった、これは日本国憲法制定後のことでございます。もちろん、我々は二度と戦争を起こしてはいけない、他国を侵略してはいけないのと同時に、二度と他国に侵略されてはいけない、二度と他国に占領されてはいけない、このことを肝に銘じないといけないと思っております。だからこそ、自衛権というものが存在するのであると考えております。

 日本国の主権を守る、これがひいては一番重要な日本国民の人権を守ることにつながるんだと思っております。

 そこで、自衛権は無制限に認められるべきなのか。無制限だと皆様方がお考えならばそれでいいと思います。しかし、もし自衛権においても制限をかけないといけないということであれば、立憲主義の観点から、制限を加えるべく憲法に明記するべきではないか、これが私の考えでございます。

 以上でございます。

足立委員 時間もないので簡潔に申し上げたいと思います。

 先生方の御意見を賜って大変勉強にはなるんですが、そもそも、この憲法審査会の前身であります憲法調査会で大変な議論が尽くされてきて、その報告書も二〇〇五年にまとまっているわけであります。その後についても、憲法審査会になってから、三つの宿題もやり遂げ、そして、一巡、二巡、何度かこういう勉強をずっと続けているものと承知をしています。

 やはり、我々としては、調査もいいんだけれども、そろそろ本格的な審査のフェーズに入らなければ、さきの選挙も含めて、国民の皆様から負託を受けている国会議員の責任を果たすことができないということを強く危惧しております。

 これは私の言葉ではありませんが、一部の方からは、いつまで放談会をやっているんだ、こういう大変失礼な、私も含めて大変失礼な言葉もいろいろなところで聞きます。

 特に、民進党さんは三分の二と掲げて選挙をやったわけですから、ぜひ党の考え方をまとめていただきたいと思います。

 きょう、実は細野委員だけが私にとっては今希望でありまして、前回の憲法審査会で、党としての考え方をしっかりとまとめていくべきだと私は思っているんだ、こうおっしゃいました。それを確認しようと思ったら、やはり席を外されて、大体私の議論はかみ合わないようになっているんですが、ぜひ武正先生、一言でいいんですけれども、民進党として、幹事長とかいろいろな方が発言されています、要は、民進党という政党として、二〇〇五年はいいです、これから将来に向けて、党としての憲法改正の考え方をまとめる考えがおありなのか、ないのか。ぜひ、ちょっときょう御回答いただければ幸いです。

森会長 時間も押しておりますので、それはまだまだこれから議論が続くわけですので、きょうはその話はここで打ちどめにさせていただきます。

安藤委員 自民党の安藤裕でございます。

 本日は、発言の機会をいただき、ありがとうございます。

 きょうは時間もないので端的に申し上げたいと思いますけれども、まず、立憲主義というテーマできょうは議論が進められております。そして、自民党の改正草案についていろいろな意見が出ておりますけれども、しかし、やはり私は、自民党が何で憲法改正というものを党是に掲げているかということを改めて皆様方に確認をしていただきたいと思っています。

 ここに、昭和三十年の「党の使命」の文章がありますけれども、「思うに、ここに至った一半の原因は、敗戦の初期の占領政策の過誤にある。占領下強調された民主主義、自由主義は新しい日本の指導理念として尊重し擁護すべきであるが、初期の占領政策の方向が、主としてわが国の弱体化に置かれていたため、憲法を始め教育制度その他の諸制度の改革に当り、不当に国家観念と愛国心を抑圧し、また国権を過度に分裂弱化させたものが少なくない。」こういった文章があります。したがって、私たちは、最初から、党が立党したときから自主憲法の制定というものを党是としてきたものであります。

 そして、きょうは保守主義というものについても意見がございました。

 保守主義というものは、今の理想主義とかを否定して、経験知に基づくもので、そこに立場を置くというのが保守主義であるということが言われております。

 私たちは保守主義者ですから、その保守主義の原点をどこに置くかということだろうと思います。戦後七十年の間に積み重ねられたものに対して価値観を置くのか、それとも、日本の千年以上にわたる歴史の積み重ねられたものに対して価値観を置くのか、ここに一番大きな差があるように感じました。

 以上です。

宮崎(政)委員 会長、ありがとうございます。

 きょうは、時間も超過して議論していただいて、立憲主義をテーマとしております。

 最後になると思いますけれども、私は、立憲主義を持ち出して今の憲法に一文字たりともさわれないという考えは、歴史を学んでいない、いわゆる思考停止をしているとしか言えないということでもありますし、また、立憲主義というものを、無用なレッテル張りであったりとか、議論に入ることをいたずらに引き延ばすようなことに使うべきではないということを指摘したいと思います。

 既に御承知のとおり、よく、きょうも議論になりましたけれども、近代立憲主義というものだって歴史的に形成されてきた概念であります。

 立憲主義の母国と言われているイギリスであっても、国王も神と法のもとにあるというふうに言われた、今確認されている最古のものは一二一五年のマグナカルタであるわけでありますが、これは要するに、国王の権力に対して、封建領主がその権利を守るために国王に王権制限を認めさせていった中から先ほどのような言葉があったわけでありまして、ここでは、いわゆる封建社会において封建領主の特権を認めるという形で成立をしてきたものであります。

 これが、その後、都市の市民の力が強くなっていく過程を経て、普遍的な市民の権利というものが主張されるようになって、国王の王権を制限するこの法というものの中身が、封建的な特権を守るということに使われるところから市民の権利を守るというところに実質的に変化をしていったわけであります。これが、例えばイギリスであれば、一六二八年の権利請願であったり、その後の権利章典というところで、近代立憲主義というもので確立をされていくわけであります。

 こういった経緯を踏まえて順次形成をされてきたのが立憲主義。特に、きょう議論になっている立憲主義は、この近代立憲主義というものを中核としているものであって、ここは、この形成の経緯からもわかるとおり、国家と国民というのが二項対立で考えられることが前提として考えられているわけであります。

 自民党の憲法改正草案も含めて、私たちの考えはこれを否定しているものではありません。国家と国民の間に緊張関係をはらみながら、さらに、人権の規定であったり統治機構であったり、さまざま憲法として定めるものについて、どういったことを示すべきなのか。また、前文を初めとして、目指すべき国家像、伝統や歴史や将来像を示すということを提案した議論をしているわけであります。

 そして、この立憲主義、現代的な変容があるということについては既に野党の委員の方からも指摘をされていることでありまして、すなわち、立憲主義を根拠として一文字たりとも譲ってはいけないのだということであれば、立憲主義というものの歴史的な経過に学んでいない、思考停止としか言いようがないわけでありまして、そのような議論は成立しないと私は考えております。

 また、きょう、草案の百二条の国民の憲法尊重義務であるとか草案十二条、二十一条二項の公益や公の秩序に関する指摘がありましたけれども、こういった新たな規定を定めていくこと、また、平和主義を堅持した上で、自衛隊についても憲法に明記をするというふうに主張すること、こういった提言も、まさに時代の進展に応じて、日本人の英知と経験知の結集として示されているものだと考えております。

 私たちは、こういった形で、たたき台ともいい、また所見ともいうものを示しておりますので、各党からも見解を示した上で、議論にしっかりと入っていく、いたずらに引き延ばすことのない議論をこれから展開するべきであると申し述べます。

 以上です。

武正委員 武正でございます。

 きょうも立憲主義等について議論を行いましたが、やはりまだまだ議論を深めていく必要があるかなという感じを持ちました。

 また、先ほど足立委員からお話がありましたが、それぞれの党の見解もやはり、示されなかったり、あるいは明確でなかったり、あるいはまた委員の発言がそれぞれまた違っていたりというところもありますので、民進党ももちろん、何度か申し上げておりますが、役員会を中心に、総会も含めて、精力的に党としての議論を深めていきたいということは申し上げておりますが、各党におかれましても同じことをまた進めていただければということもお願いをしたいというふうに思っております。

 以上です。

森会長 これにて自由討議は終了いたしました。

 次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。

    午前十一時五十九分散会


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