衆議院

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第7号 平成18年6月1日(木曜日)

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平成十八年六月一日(木曜日)

    午前九時開議

 出席委員

   委員長 森山 眞弓君

   理事 岩永 峯一君 理事 小渕 優子君

   理事 河村 建夫君 理事 田中 和徳君

   理事 町村 信孝君 理事 大畠 章宏君

   理事 牧  義夫君 理事 池坊 保子君

      稲田 朋美君    岩屋  毅君

      臼井日出男君    遠藤 利明君

      小此木八郎君    大塚  拓君

      大前 繁雄君    海部 俊樹君

      北村 誠吾君    小島 敏男君

      小杉  隆君    坂井  学君

      塩谷  立君    島村 宜伸君

      下村 博文君   戸井田とおる君

      中山 成彬君    西銘恒三郎君

      鳩山 邦夫君    松浪健四郎君

      松野 博一君    矢野 隆司君

      若宮 健嗣君    奥村 展三君

      田名部匡代君    達増 拓也君

      中井  洽君    西村智奈美君

      羽田  孜君    鳩山由紀夫君

      藤村  修君    松本 大輔君

      山口  壯君    横光 克彦君

      笠  浩史君    太田 昭宏君

      斉藤 鉄夫君    石井 郁子君

      保坂 展人君    糸川 正晃君

      保利 耕輔君

    …………………………………

   議員           高井 美穂君

   議員           達増 拓也君

   議員           鳩山由紀夫君

   議員           藤村  修君

   議員           笠  浩史君

   内閣総理大臣       小泉純一郎君

   文部科学大臣       小坂 憲次君

   国務大臣

   (内閣官房長官)     安倍 晋三君

   国務大臣

   (少子化・男女共同参画担当)           猪口 邦子君

   文部科学副大臣      馳   浩君

   文部科学大臣政務官    吉野 正芳君

   政府参考人

   (文部科学省生涯学習政策局長)          田中壮一郎君

   政府参考人

   (文部科学省初等中等教育局長)          銭谷 眞美君

   衆議院調査局教育基本法に関する特別調査室長    清野 裕三君

    ―――――――――――――

委員の異動

六月一日

 辞任         補欠選任

  小此木八郎君     坂井  学君

  森  喜朗君     塩谷  立君

  やまぎわ大志郎君   矢野 隆司君

  奥村 展三君     鳩山由紀夫君

  西村智奈美君     田名部匡代君

同日

 辞任         補欠選任

  坂井  学君     小此木八郎君

  塩谷  立君     森  喜朗君

  矢野 隆司君     大塚  拓君

  田名部匡代君     達増 拓也君

  鳩山由紀夫君     奥村 展三君

同日

 辞任         補欠選任

  大塚  拓君     やまぎわ大志郎君

  達増 拓也君     西村智奈美君

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 政府参考人出頭要求に関する件

 参考人出頭要求に関する件

 教育基本法案(内閣提出第八九号)

 日本国教育基本法案(鳩山由紀夫君外六名提出、衆法第二八号)


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     ――――◇―――――

森山委員長 これより会議を開きます。

 内閣提出、教育基本法案及び鳩山由紀夫君外六名提出、日本国教育基本法案を一括して議題といたします。

 この際、お諮りいたします。

 両案審査のため、本日、政府参考人として文部科学省生涯学習政策局長田中壮一郎君、初等中等教育局長銭谷眞美君の出席を求め、説明を聴取いたしたいと存じますが、御異議ありませんか。

    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕

森山委員長 御異議なしと認めます。よって、そのように決しました。

    ―――――――――――――

森山委員長 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。小渕優子君。

小渕委員 おはようございます。自由民主党の小渕優子でございます。

 私に与えられた時間、二十分ということであります。大変限られておりますので、早速質問に入らせていただきます。きょうからクールビズということで、大変さわやかな総理に出席をいただきました。忌憚のない御所見を伺ってまいりたいと思いますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。

 前回、総理にこの特別委員会の初日に出席をしていただきました。その際に町村筆頭理事からもお触れをいただきましたけれども、今回、この取りまとめに至るきっかけといたしまして、今から六年前、当時の小渕内閣が教育改革を公約と掲げ、教育基本法の見直しを柱とした教育改革国民会議を立ち上げたという経緯がございます。小渕内閣、そして森内閣、小泉内閣と、三代の内閣によって議論を重ね、その間、きょうも委員として出席をされている多くの高い見識を持たれる諸先輩、先生方がかかわり、意見の取りまとめをいたしました。

 今国会においてこの教育基本法が閣議決定をされ、国会に提出され、こうして審議が進んでいます。私は、改めて、この場に立たせていただけることに、また、この審議に加えていただけることに、大変ありがたい気持ちとともに、非常に感慨深い思いを持っております。

 教育改革国民会議、第一回目の会合が開かれたのは二〇〇〇年の三月二十七日でありました。くしくも、その五日後に、当時の自由党が離脱をするという、大変慌ただしい時期でもございました。

 改めまして、教育改革国民会議、この中の基本法についての提案を読み返してみますと、当時の並々ならぬ教育改革への情熱、その思いが伝わってくるとともに、その情熱が今回の提出法案に多く反映されていると思っています。

 小泉総理におかれましても、就任以来、教育改革の必要性を演説の中で述べていらっしゃいます。就任直後の平成十三年五月の所信表明演説におきましては、米百俵の精神に言及をされました。それ以後、平成十五年、十六年、十七年、十八年と、毎年の施政方針演説の中でも教育基本法について触れていらっしゃいます。教育の現場、行政に従事する方々ばかりでなく、多くの方々が教育改革について高い関心を持ち、この審議の中身、そして行方にも注目が集まっています。

 この教育改革国民会議の報告を改めて見直してみますと、初めの部分にこのようなことが書かれていました。ちょっと読ませていただきたいと思います。「今求められているのは、何よりも実行である。それぞれの立場で、できることは直ちに実行し、やる気のある者はどんどん活躍できるようにしていくことが重要である。私たちは、失敗を恐れず、必要な改革を勇気をもって実行しなくてはならない。また、実行の結果を見守り、評価し、さらなる改革につなげなければならない。」「道は厳しい。しかし、厳しくなかった道はどこにもなかった。私たちは、国民の皆さんとともに教育の未来を希望し続ける。」このように書いてあります。私は、この言葉を読むときに、改めまして、多くの方々の努力が、汗が、それによってきょうの日を迎えることができているんだということを痛感しております。

 審議もきょうで六日目となりました。与党、野党にかかわらず、真剣なる議論を交わしているところであります。改めまして総理に、教育改革、そして、現在審議されている教育基本法にかける熱意と教育に関する御所見をお伺いしたいと思います。

小泉内閣総理大臣 教育の重要性は、私は、与野党を超えて多くの議員が認識を共有していると思います。だからこそ民主党も対案を出されたんだと思いますし、私は、本来、教育の基本的なあり方、いわば教育基本法について、国会でそれほど与野党が対立する法案かなと疑問を持っている一人であります。今回の審議におきましても、それぞれ建設的な議論も行われていますし、お互いが十分審議をし、協議をし、歩み寄っていただければ、成立は、十分、今国会で可能ではないかなと期待しております。

 教育の問題については、さまざまな角度からこの委員会でも論じられておりますが、人間がこの世の中で生きていくという上において、そして、みずからの能力を向上させる、人格を完成させるという点において、教育の重要性は十分認識しているわけでありますので、審議を通じて何とか共通点を見出せないか。しかも、これは、小渕さんの父上の時代から多くの方が議論し、協議し、長年の懸案でありますので、ようやく国会で審議をするような、日の目を見るに至った。

 今後、将来、長くわたって、子供たちがこの日本を担う、世界に羽ばたく上においても、教育の重要性を認識して、家庭も学校も、社会全体が子供は社会の宝と認識するんだったらば、教育によってそれぞれのよさを引き出していこうという、教育が基本であるということをよく認識の上に、いい教育をすべての人に与える環境をつくるべきだと思っております。

小渕委員 ありがとうございます。

 総理のリーダーシップを心から期待しております。どうぞよろしくお願い申し上げたいと思います。

 次に、家庭教育について質問をいたします。

 総理は、この前の党首討論で、民主党の小沢党首の、教育の責任はどこに、だれにあるのかといった問いかけに、家庭の責任が一番大きいということをお答えになりました。今回の教育基本法でも、第十条に家庭教育というものが新設され、父母その他の保護者が子の教育について第一義的責任を有するということになっています。私自身も、家庭教育につきましては、この基本法の中でも最も重要な部分の一つではないかと認識しています。

 しかし、現在の家庭教育、親子を取り巻く環境を考えますと、核家族化あるいは住宅事情、また女性の社会進出、昨今の情報化社会などによって、むしろますます希薄化する現状にあるのではないかと心配をしております。この基本法により、親を含めた保護者が第一義的に子供を教育する責任があるとするのなら、ほかの社会政策にも関連する要素がたくさんあると思われます。住宅政策、育児・保育政策、男女共同参画社会の推進など、そういった関連施策とこの基本法との関係はどのようにお考えになっていますか。

 これまで進んできた状況として、もちろん、戦後、いい部分としては経済が大きく発展してきた。しかし、マイナスの部分としては、情報化社会などが進み、家庭的な人間関係が薄くなる、そのような状況も進んできたのであると思います。

 そんな中で、小泉総理が、家庭、親の役目が大きいとあえて言われたその意味はどこにあるのか、その点をお伺いしたいと思います。

小泉内閣総理大臣 教育、子の教育、第一義的な責任があるのは親であり、家庭である。子供にとって最良の教師は親である。これはだれもが認めるところだと思います。しかし、最近、その親も、子供の教師になり得ない親御さんがふえてきている。

 そういう状況になって、核家族化、親にかわるべき親戚も周りに少ない、身内も少ない、あるいは、声をかけたり、ちょっと子供を留守中に頼む近所のつき合いも少なくなった。

 そして、まだ子育ての経験のない夫婦だけで、子供が生まれて、そういうだれの助けもない中で若い夫婦が子育てを一人でするというのは大変御苦労も多いと思います。昔の大家族制だったら、子育ての経験のある年配の方も周りにいたから、子供が泣いたらどうなるのか、ちょっと熱が出たら、おなかを壊したらどうなるのか、どういう食事がいいんだというのを教えてくれる人が周りにいたわけですね。だんだんそういう環境でもなくなってきた。

 そういう面から、私は、今の核家族で、若い夫婦、あるいはまた片親のもとで育っているお子さんのことを考えると、これは親や家庭だけに任せておくというのも問題がある。

 そこで、社会全体で子供たちをしっかりといい環境で育てる環境をつくっていこうということで、初めてお子さんを授かった若い親御さんには、どこで相談したらいいんだろうか、何か問題があったら病院にすぐ電話ください、保育園でもいいです、幼稚園でもいいです、あるいはほかの助けてくれる近所の方でも結構であります、そういう環境を整備していく必要があるんじゃないか。

 教育というのは法律に書いてあることだけじゃありません。むしろ法律に書いていない部分での教育が多い。法律がすべてじゃないんです。法律以前の問題で、子供がしっかりしている、日常生活の中で子供が健やかに育っていけるような環境をつくっていくのが政治だと思います。法だけがすべてじゃないんです。それをよく大人がわきまえて、子供は社会の宝である、それにふさわしい環境を整備していくのが政治だと思っております。

小渕委員 ありがとうございました。

 おっしゃるとおり、確かに法律だけではない、そのほかの環境整備が必要だということは、まさにそのとおりであると思います。特に、今、日本は、人口減少社会、少子化の社会を迎えています。そんな中において、家庭のあり方をいま一度考えていくということは本当に大切なことであると思いますし、それに伴う環境整備、しっかりしていかなければならないと思っております。

 話がかわりますが、平成十一年に、広島県立世羅高校の校長先生が、県の教職員組合から卒業式で国旗・国歌の実施に反対され、苦しみ、自殺をするという痛ましい事件がありました。この事件がきっかけとなって国旗・国歌法が成立をいたしました。この法案は、混乱する現場に対し、一定のガイドライン、指針を与えるべく提起されたと理解をしています。しかしながら、その後の現状を見ますと、残念ながら、幾つかの現場においてさらに新たな問題も発生しているということも事実であるかと思います。

 教育基本法改正において、教育の目的、理念として、「我が国と郷土を愛する」と記されています。国と郷土を愛するということを規律化し、評価する方向に向かうとの懸念が示される向きもありますけれども、先般、大臣も御答弁されましたが、これは客観的に評価されるものではなく、心の内側から沸き上がる心情を養うものである、私もそのように考えています。

 近く、ワールドカップがドイツで開催されます。きのうも朝早くからごらんになった方も多いのではないかと思います。あのワールドカップを見ていますと、世界の多くの国々の人たちが、それぞれの国旗を持ってチームの勝敗に一喜一憂し、国旗を振り、国歌を歌うというのは、まさに、これはだれから強制されるということでもなく、自然に沸き上がってくる感情であると思います。

 サッカーの応援の際は、日本においても、だれに言われるまでもなく、当然のように誇らしく国旗を振り、また国歌を歌います。そうした沸き上がってくるという感情が何よりも大切かと思いますけれども、総理の描かれる国旗・国歌に対する思い、また、いろいろと懸念されるわけでもありますけれども、国と郷土を愛するというのはいかなるものでしょうか、御所見をお伺いしたいと思います。

小泉内閣総理大臣 国に愛着を感ずる、郷土を愛する。国を愛するというのは、人間が成長していくにつれて自然に身についていく感情だと私は思っております。

 その根底には、国に住む自分の親、兄弟、家族がいる、その生まれ育った環境を通じて、人を大切にする、ひいては郷土、地域を愛する、そして、同じ地域、国に住む人が活躍するのを見れば喜ぶ。同時に、各国それぞれそのような愛国心というのを持っているからこそ、これから始まるサッカーのワールドカップ競技におきましても、それぞれが自国の選手を応援し、国旗を振り、国歌を歌う。まさにこれは、多くの人々が、みずからの国を誇りに思い、みずから、出ている選手を激励しよう、応援しよう、そしてそれを自分の喜びとする。自然に身につけた一つの愛国心の発露だと思います。

 こういう点につきまして、自分を愛する、自分の国を愛する、同時にこれは、他人を愛する、他国を尊重する、今まで自分が生まれ育ってきた歴史、伝統を大切にするということを、日ごろからの行動において、あるいは教育において身につけられるような人間を育てていこう、あるいは、そういう面において情操豊かな人間を育てよう、そういう気持ちを持って、教師が子供に、また親が子供に接し、教育活動をするということは、私は、自然な、また大事なことだと思っております。

小渕委員 ありがとうございました。

 もう時間がなくなってまいりました。

 教育改革国民会議を立ち上げた際に、その会議の冒頭で委員の皆様にお配りしたという一冊の本があります。「自由と規律」という、池田潔先生がお書きになった御著書であります。これは、イギリスのパブリックスクール、共同生活の中で、教養を高め、人格の形成を高めて、ノーブレスオブリージュにもつながる未来の紳士を育てようという学校の話であります。

 この池田潔先生は慶応義塾大学の教授を務めていらっしゃいました。また、この本の序文は小泉信三先生が記されています。昭和二十四年という昔に出版されたものであるんですけれども、大変みずみずしく、またおもしろく、得るところの多い書物であります。

 富国有徳という言葉がありますが、これもまた、人と同じように、国も紳士であれという教訓の言葉だと思います。

 慶応義塾大学、そしてイギリスで学んだ総理に、もう既にお読みであるかもしれませんけれども、御多忙のところ大変恐縮でありますが、ぜひ御一読いただければと思っております。

 委員長、総理にお渡ししてもよろしいでしょうか。

森山委員長 どうぞ。

小渕委員 ありがとうございます。

 時間もなくなりましたが、この本にさまざまな思いを託しまして、質問を終わらせていただきます。ありがとうございました。

森山委員長 次に、太田昭宏君。

太田(昭)委員 公明党の太田でございます。

 十分しかありませんので、端的に聞きます。

 社会が発展して、激変をして、動きも速い。そして、グローバル化が進んで、競争社会になっている。情報社会、メディア社会によって不安が非常に増しているし、ストレスも大変多くなっている。洪水のような情報に対して、夜遅くまで子供たちが起きていたりというようなことで、翻弄されているところもありますし、それに対応する家庭、地域、学校も、教育力ということを低下させている。

 私は、なぜ改正するかということで、足らざるものを補うというんですか、単にそれだけではなくて、二十二年当時とはけた違いに社会の激変ということに翻弄されるという、スピードや激変ということの中で、人間の力というものがもっと増さなければ幸せを築くことができないというところに、今回の教育基本法の改正、つまりそれは、今こそ人間教育に力を入れなくてはいけないというところに最大のものがあろうというふうに思っています。

 人間が、率直に言って、社会の変化に負けている。哲学不在であり、学ぶ力が低下している。何を教えるかというよりは、どうやって自分の人生を切り開いていくかという学ぶ力がなくなっているということ自体をどうするかというところにも思いをいたして、教育というものに力を入れるということが大事だと思います。

 人間には、アクティブな、攻め込むというような能動の力も必要でありましょうし、そして、苦難に耐えてそれをはね返す受動の力というものも私は大事だというふうに思いますし、人間教育というものが大事で、とにかく、この教育基本法の理念ということについては、人づくりである、人をつくるんだ。そして、一人一人の心の広がり。本会議でも私は申し上げましたが、ビクトル・ユゴーが、海よりも広いものがある、それは大空である、大空よりも広いものがある、それは人間の心であると。

 国家の中に県があり、そして人間があるというのは事実でありましょうが、しかし、それを、国家というものや、そして県や家庭や、その中に一人の人間がいることは事実だけれども、その一人の人間の持っている心というものは、非常に宇宙大の広がりを持ち、時空を超えるというところをどういうふうに教育というもので栄養を与えるかというところが私は大事だというふうに思うんです。

 心に踏み込むなと言う人がいますが、私は間違いだと思います。そうではなくて、最終価値を押しつけるというのは、これはいけないでしょう。しかし、心というものを耕して、そして手入れをし、陶冶し、豊かにし、鍛えていくということが、まさに私は、耕すというのは文化でありますけれども、そうしたことが大事で、そうしたことに非常に造詣の深い総理でありますから、よくおわかりいただけるというふうに思っています。

 最近、脳の学者等が例えばクオリアという概念を提起したり、あるいは、唯物論、唯心論とありますが、唯識論というのが東洋にはあって、無意識の領域の深さというものをどういうふうに分析するかということが長い間言われてきている。心の深さや大きさ、そこに栄養を与えたり豊かにする。だからこそ、社会が大変であるからこそ、人間の教育、人格の完成、個人の尊厳、そうした理念というものが非常に今回の教育基本法では大事である。

 私は、そうした理念に立って、今回、前文、そして第一条、第二条、目的、目標というところの理念というものを、もう一遍、そうした人間の教育、人格の完成、そして、人の心というのは広いものである、深いものである、それを陶冶しなければこの激変する社会には立ち向かっていけないという今回の教育基本法の理念について、ぜひとも総理のお考えを述べていただき、そして、教育というのがますます大事な時代であるという認識を示していただきたいと存じます。

小泉内閣総理大臣 教育、それは心である。心は、教育の基本的根底にある問題だと思います。

 幕末、病で二十九歳で倒れた高杉晋作は、辞世の句として残っているのが、「おもしろきこともなき世をおもしろく」と言って事切れたようであります。その後を継いだのが、そばにおられた望東尼という尼さんです。「すみなすものは心なりけり」。高杉晋作は必ずしもそういう言葉を期待していなかったと言う人もいますけれども、今、辞世の句として残っているのが、「おもしろきこともなき世をおもしろくすみなすものは心なりけり」。おもしろくない世でもおもしろい世でも、心によって変わってくる。

 どんなに恵まれた人でも、足りない足りないといえば何でも欲しがる。ああ、粗末な服を着ているな、粗末なうちに住んでいるな、豪勢なグルメじゃないなといっても、一汁一菜でも、食事をしながら元気で活動している方もいる。人さまざまであります。

 欲望には切りがありません。どこで人間足るを知るかということは昔から教えられた言葉でありますが、まさに心の教育、これは法律に定める以上に、日々の生活の中で、どのようにみずからを向上させようとするか、みずからの能力を伸ばそうとするか。自分は一人で生きているのではない、助け合って、支えられて生きているんだというような感受性を持ちながら教育を受けるということ、そして、さまざまな教育を受けるチャンスがあるということ、そういうのが、政治として、人々の心を豊かにしながら教育を受ける環境をつくっていくのがいかに大事か、その基本をあらわしたのがこの教育基本法ということであります。

 時代が変わってくれば、教育の重要性は変わらないでしょう。世の中、幸せになるのも不幸になるのも、心の持ち方によって随分変わってくるという点も違わないでしょう。しかし、時代によって、非常に教え方も違ってくると思います。

 先生によっても、生徒は、ああ、この先生のもとであったらば自分はついていこうという人もいるでしょう。別の先生だったら、教育を受けるのも嫌だという生徒も出てくるでしょう。

 そういう中にあって、どのように指導していくかというのは非常に難しい問題でありますけれども、お互い、教育がやはり人を向上させていくんだ、教育によって人間は伸びていくチャンスをつかむんだというような環境を整えていく。その基本が政治としてどうあるべきかという今大事な議論をこの場でお互いがしているんだという認識を持って、何とか合意点を見出して、あるべき新しい時代の、六十年ぶりの改正であります、いい基本法をつくって成立させていただきたいと思います。

太田(昭)委員 高杉のおもしろさというところからありましたが、おもしろいという言葉は、もともと、いろいろな刺激を受けて目の前がぱっと明るくなるというところに、迷妄が晴れたというところにおもしろいという言葉があるそうです。インタレストというのは、二人のインター、間に、エストという何らかのものが生ずると。

 おもしろいという授業がどういうふうに行われていくかというようなことが非常に私は大事だと思っていて、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するということが政府案ではありますが、愛国心論争というのがここでは行われているけれども、愛国心、国を愛するに至るという中で、日本の文化というものがどういうふうにすぐれているかということをどういうふうに表現し、話をしていくかという、そこまで私は思いをはせていかなくてはならない、こういうふうに思っています。

 十分を終わりましたから、残念ですけれども、きょうは終わりますが、改めてまた御質問させていただきたいと思います。

 以上、終わります。

森山委員長 次に、糸川正晃君。

糸川委員 国民新党・日本・無所属の会の糸川正晃でございます。

 前回、総理に、教育改革や、この法案の審議に挑むに当たっての決意などをお伺いしたわけでございます。本日は、これまでの委員会で質疑された論点と重なるところもあると思いますが、特に重要な部分だというふうに思っておりますので、ぜひお答えいただければと思います。

 まず初めに、今回の法案で新たに掲げられた目標の一つであります、第二条第五項、日本の伝統、文化の尊重、郷土や国を愛する態度についてお尋ねをしたいというふうに思います。

 先般、この規定を設けた趣旨について、文部科学大臣からは、グローバル化が進展する中の国際社会を生き抜いていく上で、我が国の伝統と文化についての理解を深め、そして尊重し、それらをはぐくんできた我が国や郷土を愛する日本人が求められているという認識に立って、また同時に、国際社会の一員として、他の国を尊重し、そして国際社会で活躍できる、世界に貢献できるたくましい日本人を目指してもらう、こういう気持ちを込めて規定した、こういうふうに発言をされたわけでございます。

 私も、このグローバル化の時代の国際社会を生き抜いていくためには、我が国を愛する人間を育成していくことは重要であるというふうに考えておるわけでございます。これは全く私も同感でございます。ただ、そのためには、今後、教育において我が国を愛する心を養っていかなければならないのではないかなというふうに思っております。

 しかし、今回の法案では、心という率直な表現ではなくて、態度という若干わかりにくい表現になっているような気がするわけでございます。私は、このような遠回し的な表現で、きちんと国を愛する心を育成できるのか、こういう不安を抱かざるを得ないわけでございます。

 そこで、我が国と郷土を愛する態度という規定で、我が国と郷土を愛する心をきちんと育成できるのか、総理にお伺いしたいというふうに思います。

小泉内閣総理大臣 態度は心をあらわす、その心をあらわすには形が大事だ、この前もそのような議論を行いました。自分の心のあり方をどのように形で、態度であらわすか。幾ら思っていたって、どう考えているか、敬意を持っているのか、軽蔑しているのか、初対面の人と会うときに、なかなか難しい問題であります。

 だからこそ人間は、長い間の人間生活の中でそれぞれの形を持っていたわけですね、礼儀というものを。まず、人に会って、敬意をあらわすためにはどういう態度が必要か。心を相手にわかってもらう、理解してもらうためには、どういう形をもって接したらいいか、これが態度だと思いますね。

 そういう意味において、態度というのは、心のあり方を実際の行動で示していくこと。態度ということを考えると、どのような態度をとるか、それが、どういう心を持っているかということにつながってくる。だから、私は、態度と心というのは一体である、一体として大事なものではないかなと思っております。

糸川委員 それであるならば、大変わかりやすい言葉で、国民の皆さんがわかる、すぐにこの条文を読んだらわかるという心にした方が、なおさらすっきりと入ってくるんではないかなという気もするわけでございます。

 今度は文部科学大臣にお尋ねしたいんですけれども、我が国と郷土を愛する態度のこの規定につきましては若干私もまだ不安があるわけで、この我が国という文言の解釈についてお尋ねをしたいんです。

 一般に、国には、主権ですとか領土、国民、こういう三要素があるというふうにされておるわけでございます。私は、この規定の我が国には、この三要素のうちの主権は含んではいけないんではないかなというふうに思うわけでございます。

 そこで、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」、この対象には、主権、すなわち統治機構というものは含まない、こういう理解でよろしいのでしょうか。

小坂国務大臣 ただいま委員も読んでいただきましたように、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた」ということで、歴史的に形成されてきた国民、国土、そして伝統、文化から成る歴史的また文化的な共同体としての我が国ということをあらわしているわけであります。今おっしゃったように、国ということは、すなわち、そこに国土、国民、統治機構というものが入るわけでございますが、ここで言う我が国というのは、そういった説明を付することによって、統治機構は含まないということを明確にしたわけでございます。

糸川委員 ありがとうございます。

 次に、教育に関する国の責任についてお尋ねをさせていただきたいというふうに思います。

 先般の小泉総理と小沢党首との会談の中でもそこの議論がされたわけでございます。天然資源に恵まれない我が国においては、人材こそが国の宝であり、教育はこの国の将来を左右する国政上の重要課題である、このように小坂文部大臣が今国会の所信で述べられたわけであります。

 今回、約六十年ぶりに教育基本法を改正して、今日、そして今後重要と考えられる理念が明確にされようとされておるわけでございます。しかし、これらの理念というものが明確にされることもとても大事なことだというふうに思いますけれども、この法案の改正を受けて、学校現場で充実した指導が行われていく、そこにつながっていってさらに大きな改革になっていくんだ、こういうふうに思っているわけでございます。

 こういった観点からも、私は、やはり教育については国が最終的な責任を持って、国策として我が国の未来を担う人材の育成を図っていくべきではないのかなというふうに思います。

 しかしながら、今回の政府案につきましては、義務教育について定めた第五条第三項において、国と地方が、適切な役割分担、相互協力のもと、その実施に責任を負う、こういうことが規定されておりまして、教育行政につきまして定めた第十六条においても、国と地方の双方に、教育の振興に関する施策の実施を義務づけているわけでございます。しかし、この政府案では、教育における国の責任が不明確ではないのかなというふうに考えるわけでございますが、総理の御見解をお聞かせいただけますでしょうか。

小泉内閣総理大臣 教育の責任は、国も地方も両方、共同して役割を担っていこうということだと思います。

 その中で、国がやるべきことと地方がやるべきことというのはよく協議して、これからも教育環境を整備していかなきゃならないということは、今までの補助金の改革あるいは交付税の改革、税源の移譲の問題でも、地方にもっと役割をよこせという地方側の意見と、いや、ある程度国が財源の面でも保障することが教育の責任であると盛んに議論をされたところであります。

 お互い協力していこうということで、現在、一つの決着を見ておりますが、まだまだこの議論は続くでしょう。財源がなくても国で責任を見られると言う方と、いやいや、教育に国の責任があるというんだったらば財源は国で持つべきだという議論が国会でもなされましたし、今でも、地方と国との協議の中で行われております。お互い、国と地方が協力して責任を担っていく問題だと思っております。

糸川委員 確かに、国と地方のあり方の中で役割分担がある、こういうことは承知しておるわけでございます。

 学校教育法や地方教育行政の組織及び運営に関する法律、そういうものにおいて規定されているものがあるというふうに思いますが、教育行政の国と地方公共団体の役割分担、これがどういうものなのかというふうにちょっと疑問に思うものですから、これは文部科学大臣、どのようにお考えなのか、お聞かせいただけますでしょうか。

小坂国務大臣 ただいま総理からお話をいただきましたように、また、委員も御指摘のように、法案の第五条では、義務教育についての国と地方の役割分担においてこれを果たす責任を負うと書いておりますし、法案第十六条では、教育行政についての国と地方の役割また責任を明確にしたつもりでございますが、さらにそれを、具体的には、委員も御紹介をいただきました学校教育法や地方教育行政の組織及び運営に関する法律などでこれを受けまして、さらに明確にしているところでございます。

 国は、国民の教育を受ける権利、特に無償の義務教育を受ける権利を保障するために、学校教育の基本的な仕組みを整備する責任を負っているわけであります。特に義務教育については、教育の機会均等や全国的な教育水準の維持向上、無償制という義務教育の根幹を保障する責任を負っております。また、この責任を果たすために、国は、学校教育法等の法律によりまして、基本的制度の枠組みを設定すること、全国的な基準を設定すること、さらには教育条件整備に関する財源の保障等の具体的な役割を担っております。

 その上で、市町村は、小中学校を設置し、学校教育を直接実施する主体としての責任を負っているわけでありまして、都道府県は、給与負担や人事などの広域的な水準確保の責任を負い、それぞれが適切な役割分担を行いながら、地域の実情に応じた教育の実現を図っていくように、仕組みとして設計をされているわけでございます。

 文部科学省といたしましては、教育の実施面では、できる限り市町村や学校の権限と責任を拡大する分権改革を進めるとともに、国が教育の機会均等や全国的な教育水準の維持向上をしっかりと確保する責任を果たしてまいりたい、このように考えているところでございます。

糸川委員 そうすると、最終的には国が責任をとっていくのかなという発言にも受け取れるわけでございます。

 現状におきましては、国と地方公共団体が適切な役割分担のもとに教育行政が展開されている、こういうことでございますが、それでも、国としての、教育の質の保証というものはきちんと国が行っていくべきである、こういうふうに考えるわけでございます。

 総理は、前回の質疑でも、全国学力テストを行うことを肯定されていらっしゃいましたが、全国学力テストや学校評価など、教育の質の保証についてはきちんと国が責任を持つべきだというふうに考えますが、これは、総理、どのようにお考えでしょうか。

小泉内閣総理大臣 子供たちの学力を向上させようという点において、学力テストは一つの参考になるのではないかと思っております。

 どの地域のどの学校の学力と、他の地域の学力と基本的な学力を調べて、余り違いがあったらば、劣っている地域をいかに向上させるかという点においても参考になるでしょう。

 日ごろの勉強の成果をあらわす一つの材料として、学力テストというのは、生徒の学力向上に役立てるような形で生かせるのではないかなと思っております。

糸川委員 ありがとうございます。

 もうほとんど時間がないんですが、宗教教育について少しお尋ねをさせていただきたいんですが、宗教教育につきましては、現行法においても第九条に規定されておるわけでございます。

 宗教的情操といった文言をめぐって現在議論されておるわけでございますが、人間は、一生を生きていく間に幾度となく挫折を味わって、苦しんで、みずからと向き合いながらそれを乗り越える、そして成長していく存在であるわけでございます。

 変化の激しい我が国の社会の中で、あすの我が国を背負っていく人となるためには、私は、人間のあり方、こういうものを考える宗教教育は、これまでに増して一層大切にしていかなきゃいけないのかなというふうに考えておるわけでございます。宗教教育というものは非常に価値があるというふうに考えておりまして、これは積極的に法案に位置づけていく必要があるというふうに考えておるわけでございます。

 現行法の制定時の国会質疑においては、宗教に関する寛容の態度は教育上これを尊重しなければならないと。宗教の社会生活における地位は教育上これを尊重しなければならないというより、むしろ重点は寛容の態度に置かれているのでありまして、宗教の社会生活における地位を尊重していかなければならぬ、その地位を特に重んずるというのではなくして、その地位がいかにあるかということを重要視していかなければならぬ、こういう意味に解釈すべきものというふうに考えております。最初はむしろ、宗教的情操の涵養、こういうことを説くということになったのでありますが、かくのごときものは改めたらよいだろうという意見が強くなってまいりまして、そうしてここには、特に宗教に関する寛容の態度を尊重しなければならぬ、かくのごとく改められた次第でございますというふうにあるわけでございます。

 宗教教育を行う際には客観性に留意する必要があることはわかるわけでございますけれども、それでは、こういうことを踏まえて、宗教に関する一般的教養、こういうことについては、今後、学校において具体的にどのような指導が行われるようになるのか、総理の御見解をお聞かせいただければというふうに思います。

小坂国務大臣 まずもって私の方から説明をさせていただきます。

 一般的な教養としての宗教に関する授業はどのようにやっていくかということでございますが、まず、世界の中で三大宗教のような宗教があること、違いがあることを述べるとともに、その世界的な分布、あるいは、宗教というものが人知を超えていくという、道徳の教育の分野で今行っているような、そういった、人間の宇宙の神秘や、命がどのようにはぐくまれ、そして、我々は一体どこから来てどこに行くのか、そういったことに対する疑問について考える。

 そういったことを通じて宗教に対する一般的な教養をまず身につけていただくということによって客観的に宗教に対する知識を積んでいただき、また、宗教の社会的な地位について、現行に引き続いて規定をすることによって、教育の現場において適切な宗教教育がなされるように、委員御自身がおっしゃったように、宗教に関する取り組みというものを教育現場で客観的かつ積極的に取り組んでいただきたい、そういう趣旨から一般的な教養の規定を加えたところでございます。

糸川委員 では、ぜひ総理にも、今文部科学大臣がおっしゃられたとおりなのか、御見解をお伺いしたいと思うんですが。

小泉内閣総理大臣 宗教は、生まれて、家庭に育つと、親の持っている宗教だけしか触れる機会はない。しかし、学校に行って、社会に出れば、ああ、仏教だけじゃない、キリスト教もイスラム教も、さまざま世の中には宗教というのがあるんだなと。やはり、人間の能力といいますか、人間の存在を超えた何者かがあるんだ、我々は人間だけで生きているのではないなと、自分を超えた存在に対して敬意をあらわす、恐れを持つ、畏敬の念を持つ。そして、自分を大事にしたい、同時に、自分と違った者を愛するという気持ちを持つということにおいて、私は、さまざまな、人間を超えた神様なり仏様なり天の力があるんだという意味において、長年人間が宗教心を持って、全世界、それぞれの地域にはそれぞれの、自分たちとは違う何か恐れ多い存在があるぞという形でこの世界は成り立ってきたと思うのであります。

 そういうものの理解を増すということにおいては、私は、人間性を豊かにする上において有用だと思っております。

糸川委員 ありがとうございました。

 私は、今回のこの改正を踏まえて、国を愛する心をきちんと身につけさせる、それから、教育は国がきっちりと責任を持ってやっていかなければならない、そうであってこそ今回の改正の本当の意味が出てくるんではないかなというふうに思います。

 改めてこのような私の考えを申しまして、私の質問を終わりたいと思います。ありがとうございました。

森山委員長 次に、鳩山由紀夫君。

鳩山(由)委員 久しぶりに総理とさまざまな質疑の時間を持ちたいと思っておりまして、余り細かい議論をするつもりはありませんので、基本的には小泉総理にお答えを願えればと思っております。

 まず、二年ほど前になろうかと思いますが、中曽根元総理に私どもが行っております憲法の勉強会においでいただいて、お話をいただいたことがあります。その中で中曽根元総理がお話しされたのは、やはり、つくるのならば、憲法は五十年ぐらい先のビジョンを持って、五十年はもつんだというぐらいの立派な憲法の議論をしてまとめてもらいたいという話がございました。

 そのとおりだと思っておるわけでありますが、今回、教育の議論が大変盛んになされ、教育基本法を変えるという議論がなされております。それはそれで私は好ましいことだと思っておりますが、総理は、どのぐらいのビジョンというか、この教育基本法、つくった以上、どのぐらいのスパンをもって、この教育基本法を改正されたものを、あるいは新しい教育基本法をもたせるようにお考えになっておられるか、お聞かせを願えればと思います。

小泉内閣総理大臣 現行教育基本法、成立してからもう六十年ほど経過いたします。ということは、五十年以上もっているわけですよね。憲法も制定されてから六十年近くたっている。そういうことを考えますと、この改正教育基本法も数十年先を見越したものであった方がいいなと思っております。

鳩山(由)委員 ぜひそのような教育基本法の議論を進めていただきたいと思っておりますが、憲法改正と教育基本法改正の議論、これはある意味で大変結びついた議論だと思っておりますので、まず憲法の話を申し上げたいと思っております。

 私は、五年間、総理が在任中に、もっと本当は憲法の改正の議論を前向きに進めていただけるものだと期待をしておりましただけに、五年間の間に改正の議論が成立をいたさなかったということは残念に思っておりますが、しかし、これからの日本をリードする方々にぜひ憲法改正は、それこそ国民の皆さんの喜ぶ方向でなし遂げていかなければならないと思っています。

 なぜならば、また早々にジャワの地震対策に陸上自衛隊が派遣をされるというふうにも伺っております。こういった自衛隊が国防を含めて大変に努力をしておりますのに、憲法には一切触れられておりません。一方では、イラクへの自衛隊派遣が、必ずしも憲法の議論どうなんだというところが十分尽くされないうちに派遣をされたという事実もございます。

 また、総理は、先ほどもお話しされました、家族あるいは親というものが大事なんだ、教育においてはそれが原点のように重要だというお話もございました。ただ、憲法の中には、これはアメリカの意向だと思いますが、家制度というものが復活されてはまた日本が力を蓄えてしまう、これはいかぬということで、家族の尊重という、ほとんどの国の憲法には議論されて載っているような文言が、実は日本の憲法の中にはない。

 私は、教育基本法の改正の議論も十分必要だとは思っておりますが、一方で、憲法を改正する議論ももっともっと速度を速めていかなければならないと思っております。そういう意味で、憲法の改正に向けた総理の意思、あと数カ月でおやめになっていかれる総理にこのことを聞かれてもせん方ない話かもしれませんが、あるいは後の総理に対して、どのぐらいでやってもらいたいという思いがおありになれば、聞かせていただきたいと思います。

小泉内閣総理大臣 私も鳩山さんと、たしか党首討論だったと思うんですけれども、憲法の問題を議論したことがあると思うんです。お互い、憲法改正には賛成だという認識を持って議論をしたと思います。だからこそ、国会におきましては憲法調査会も設置されて、これに対しての報告も出ている。自由民主党も、結党五十年、昨年、その機会に憲法改正案を世に出しております。民主党も憲法改正が必要だという認識でありますので、これは民主党とも協力しながら憲法を改正したいなと自由民主党は思っております。今回、国会にはその憲法改正手続の国民投票法案も審議されていると聞いております。これも協力して成立させていただければなと思っております。

 戦後六十年近くたって、これからの新しい時代に日本としてのあり方ということを考えると、私は、憲法改正も、お互い与党と野党第一党、民主党と率直な議論を重ねて、新しい時代にふさわしい憲法はどうあるべきかという点については、相違点ばかり広げないで、むしろ共通点を見出していこうという形で協力して憲法改正を実現することが望ましいと今でも思っております。

鳩山(由)委員 その意思をぜひ大事にしていただきたいと思います。私どもも当然、この国の形を議論する憲法の議論でありますだけに、積極的に申し上げてまいりたいと思いますし、その中で、当然最初から百点満点ということにはならないかもしれませんが、五十年ぐらいは十分に役に立つ新たな憲法というものをつくるために民主党としても努力を申し上げたい。民主党は、政権をとる予定でおりますので、民主党政権になりましたならば、数年間、それこそ四、五年の間には憲法改正を実現申し上げたいと思う意思を持っております。同じように、自民党さんも、憲法改正にそのぐらいのスパンではできるというふうに思っておられると思いますし、そのぐらいの意思をぜひ持っていただきたい。

 私が申し上げたいのは、ということになれば、教育基本法は憲法の附属法であるという認識を私どもはいたしております。

 かつて、亡くなられてしまいました後藤田正晴先生、先ほどと同じ勉強会に来ていただいて、憲法の議論を進めていただいたときのことであります。最後に後藤田先生がお話しされたのは、歴史的に見ても、そして内容的に見ても、今、憲法改正の議論も進められている、教育基本法の改正の議論も進められている、どっちが先かということを議論すれば、やはり、国の形、大もとを決める憲法改正をして、そして、それに合わせた形で教育基本法を論じて変えるべきではないか、むしろ基本的には同時期に改正をすべきだというお話をされました。

 そのとおりだと思っていまして、私はぜひその思いで、なぜ、憲法改正があと数年間にできるという状況の中で、したいという思いを持っておる、我々国会の中で努力をしている中で、教育基本法があと、例えば数年間、五年間待つことができないのか、その間に大いに議論をして、憲法の中での教育論を議論してからでも十分ではないかと思うんですが、いかがでしょうか。

小泉内閣総理大臣 私は、憲法改正も大事である、それは鳩山さんが言うとおり、憲法改正は大事だ、そういう認識は同じだと思っております。ただ、憲法を改正しなければこの教育基本法を改正できないという点にはなかなか賛同しかねる点がある。憲法改正も結構、教育基本法改正も結構だ。現に、憲法を改正してから教育基本法を改正しろという御指摘だと思うのでありますが、民主党は今、対案を出しています。今、憲法改正なされていないんですよね。ということは、民主党が対案を出しているということは、この民主党の対案を成立させろということじゃないんですか。ということは、憲法改正なされなくても教育基本法は改正しろということにつながるんじゃないでしょうか。私は両方できればいいと思いますよ。もし民主党が、では、憲法改正、早くやろうというんだったらば、自由民主党もその体制を整えますから。

鳩山(由)委員 小泉総理、よく我々の前文を読んでいただきたいと思いますが、私たちは、現在の日本国憲法の精神にのっとりながら、さらに新しい理念をつけ加えてということを書かせていただいておりまして、その中には新しい、例えば憲法の中での教育の部分というものが変更されたときに、その理念に合った形での教育基本法をもう既に用意しているという話でありまして、我々の方が先を行っている。むしろ、こういう憲法をつくるべきだという議論があって、すなわち、その中での教育の議論をしておいて、そこで我々としては教育基本法を日本国教育基本法として提出申し上げているのでありまして、そこのところはどうぞお間違えにならないでいただきたいと思っています。

 私が申し上げたいのは、要するに、今、自民党さんあるいは政府は、憲法の中で教育に関する部分は変えないでいいのかというふうに思っておられるのか、あるいはやはり変えるべきだという思いなのか、憲法における教育の部分の改正の議論を聞かせていただきたいと思います。

小坂国務大臣 戦後半世紀が経過をいたしまして、昭和二十二年に制定をされました現行の教育基本法、世界の情勢も変化し、戦後の社会情勢も変化して、その上に幾つかの社会的な問題としての課題が生じてまいりました。具体的に申し上げれば、子供、児童をめぐる犯罪がふえてきた、あるいは尊属殺人のようなまことに痛ましい事件が毎日報道されてくる、また核家族社会になってきた、少子化社会になってきた。こういった社会情勢の変化、また教育をめぐる環境もいろいろな課題が指摘をされている中で、五十九年、約半世紀たった教育基本法をやはり改正すべきだという議論がずっと継続していることは委員も御承知のとおりでありますし、新日本教育基本法を提出された意図もそこにあると思うわけでございます。

 ただいま総理から御答弁いただきましたように、私どもは、憲法と教育基本法は密接に関係する法律でありますけれども、附属法、従属的な法律という考え方ではなくて、密接に関連する法律でありながら、私どもが提出した今回の教育基本法改正案というのは、現行憲法のもとで、今日求められている社会的な情勢に対応し、教育をめぐる課題に対応した教育改革を進める上で、この改革の、教育の根本的な理念を明確にする意味での教育基本法を提出したわけでございます。

 したがいまして、今後憲法が改正を御賛同いただきましてできるような情勢になったときに、その上で、改めて教育基本法で憲法に沿って改正をすべき点が生じれば、その時点でまた教育基本法を改正する必要が生じるかもしれません。しかし、今日的な社会情勢と教育をめぐる環境というものに対応できる内容として今回提出をさせていただいておりますので、そういった意味で、今後とも十分に対応し得る内容であるとは考えているところでございます。

鳩山(由)委員 だから、最初に私は、小泉総理に、この教育基本法の改正はどのぐらいの長さを持つものかというふうにお尋ねをしたら、やはり数十年もつような教育基本法の改正にしたいとお話をされた。今小坂大臣は、まず教育基本法を改正して、そして憲法が変わったら、またそこで必要ならば教育基本法を変えればいいではないかとおっしゃった。

 私は、変えることが必要だと思っているんです。すなわち、憲法の中で教育の部分を変えなきゃならぬと思っているんです、後でまた申し上げますが。そうなると、二度手間じゃありませんか。数十年もつとおっしゃったのに、実際には数年間で、今せっかく改正をされたとしても、それをまたすぐに変えなきゃならないという話になるんじゃないですか。これは先ほどの総理の答弁と矛盾すると思いますが、いかがですか。

小坂国務大臣 今答弁の最後のところで申し上げましたけれども、私どもは、今日の社会的な情勢に対応し、教育に求められる課題に対応できるような内容にしてあるということを申し上げ、先ほど申し上げたように、前段で申し上げた憲法を改正する。そういう中で、もし必要があればこの教育基本法も改正されますけれども、私どもが提出しました教育改革のための今回の教育基本法は、今日的な課題に対応し、そしてその課題を解決するに十分な内容として提出をさせていただいた、そういう内容でありますと申し上げたところでございます。

鳩山(由)委員 もしという話がありましたが、私はやはり、憲法の中での教育の議論をもっともっと、できれば自民党さんでもやっていただかなきゃいかぬなと今つくづく感じた次第であります。

 私の私見ではありますが、先ほど家族のことを申し上げました。憲法の中に家族に対する記述は一切ありません。私はやはり、憲法の条文の中にはっきり、例えば、家族は社会の基礎的単位として尊重されなければならないとか、こういう文言を入れることによって、家族というものの重要性、きずなの大事さ、そういったものを憲法として記述されるべきだと思っているんです。

 もう一つ申し上げれば、これも、私のこの間の代表質問に対する総理の答弁の中で、どう考えても逃げておられるんじゃないかなと思いましたが、教育を受ける権利でありますが、私はこれは、すべての国民ではなくて、何人もであるべきであろうかと思うんです。この日本という国の中で日本人が主として暮らしているわけでありますが、それだけではありません。やはり外から、外国からやってきて、一生懸命努力をして学んでいる人たちもいるし、働いている人たちもいる。そういう人たちも含めて、何人も教育というものに対する権利を与えるべきではないか。

 憲法の中に、ここのところがすべての国民となっているものですから、教育基本法の改正の中でも何人もになれないで、総理は、いや、外国人も必要に応じて含めていいんだというお話をされました、それならば、本来、憲法の改正の議論の中でそこの部分を改正すべきではないか。そこをまず先にして、そして教育基本法の議論に入るべきではないかと思っていますが、いかがでしょうか。

小坂国務大臣 過日、総理も御答弁をいただいたわけでありますけれども、家庭は教育の原点であり、この教育の第一義的責任は父母その他保護者が持つことが大原則である。この中で、総理は、抱き締めて、そっとおろして、歩かせる、愛情というものをしっかり感じさせて、そしてしっかり見守っていく、その責任は家庭にあるということを強調していただいたわけでございます。

 一方、昭和二十二年の教育基本法の制定以来、社会環境が大きく変化する、そういう中で、我が国の未来を切り開く教育が目指すべき目的や理念、これをこの中に盛り込んであるわけでございまして、政府案におきましては、第十条で「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。」とし、また十三条において「学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるもの」としているわけでございます。

 一方、日本国教育基本法、民主党さんが提案された第十条におきましても、同様に「家庭における教育は、教育の原点であり、子どもの基本的な生活習慣、倫理観、自制心、自尊心等の資質の形成に積極的な役割を果たすことを期待される。保護者は、子どもの最善の利益のため、その能力及び資力の範囲内で、その養育及び発達についての第一義的な責任を有する。」ほぼ同じ内容を規定されているところでありまして、私どもも、その意味では、家庭の教育の重要性については意見を共有するところでございます。

鳩山(由)委員 家族とか家庭とかいうものの重要性をそこまで認識しておられるのならば、あえて、六十年前の憲法がつくられたときに、アメリカ、他国に配慮をして、結果として家族というものが、家庭というものが無視されて、憲法の中に入らなかった。その悔しさを、あるいはその家庭の部分、尊重するというところがなかったがゆえに、憲法の中にうたわれていないということが起因して、家庭というものの重要性が国民の皆さんの中に十分に浸透してこなかったとすれば、やはり大きな問題ではないか。そのことを申し上げて、だからこそ憲法の中できちんと議論をして入れるべき話ではないかと申し上げているのでございます。

 先ほどの、すべての国民と、それから何人もに関しては言及はありませんでしたが、できれば総理に、こういったことを本当に憲法の中にも入れようじゃありませんかという話になれば、さらにそこで教育基本法の改正の議論が出てくるわけでありまして、数十年もつような教育基本法をつくりたいとせっかくおっしゃっている総理であるならば、なぜ今ここで急いで教育基本法の部分だけ改正しようとされるのか。例えば数年間がおくれたことによって、何がおかしなことになるんですか。何か基本的にこのことによってまずいことが起きるんですか。

 小坂文部科学大臣も、かつてこの議論の中で、必ずしも、教育基本法が改正されたからといってすぐにさっと何かが大きく新しく変わるというものでもないんだというお話をされていた。ならば、物には順序というのがあるんですから、憲法というものをしっかりと議論して決めていって、その終わりの時期に教育基本法もそれに合わせてつくりかえることが望ましいということをあえてもう一度申し上げておきますが、総理の御答弁をいただければと存じます。

小泉内閣総理大臣 憲法も重要であります。それぞれの基本法も重要であります。しかし、イギリスのように、憲法なくてもさまざまな政治制度をつくられて、国民は家族も大事にしているでしょうし、国防も大事にしているでしょうし、憲法以前に、重要なことは政治でできる面もたくさんあるんです。法律がないからできる、そういう、憲法がなければ何もできないという問題ではない。しかし、日本は憲法というものを基本にやっている。憲法のない国が民主的ではないかというと、そうでもないということを言いたいわけです。

 ですから、今言ったような認識というのは、私は、鳩山さんとは共通の認識を持つ部分が多いんですから、別に否定はいたしません。憲法を改正しよう、いいですよ。教育基本法も家庭の重要性を強調すべきだ、あるいは、すべての国民、何人、これも大事だ、別に否定するものではありません。法律以前に人間社会には大事な点がたくさんあると思っております。

鳩山(由)委員 憲法がなくてもできることはたくさんあるというお話をされると、一体法治国家としての、あるいは憲法という一番この国の礎になる議論をないがしろにするような発言と受けとめられかねません。

 ぜひ、そうではなくて、例えば、何人もなのかすべての国民なのか、やはりここはかなり大きな議論が必要なところがあると思います。そして、我々は議論の中で、やはり日本に住んでいるあらゆる人たちに学ぶ権利というものは与えられるべきだという結論に達したわけでありまして、そして、それも憲法の中にきちんと本来ならばうたうべきではないか。学習権というものも、学ぶ権利というものも、国家にあるのか国民にあるのか、これは相当長い憲法の論争になっているわけですが、こういうものも決着をさせていくためにも、憲法の中での教育の議論をもっともっとしっかりさせていかないと、そこがないからふらふらしてしまう話じゃないですか。

 憲法がなくてもできないことはないというふうにおっしゃいますが、それはすべての文言が憲法の中に書かれているわけではありませんから、そういう言い方も成り立ち得るとは思いますが、しかし、国の礎としての大変重要な理念の部分に対しては、今からでもきちっと議論をして、そして憲法を直して、新しい教育基本法をつくろうじゃありませんか。やはり、くどいようですが、順序というものを間違えるとこの国の将来というものを危うくするということを申し上げたいのでございます。

 余り時間が、この問題ばかり申し上げていくつもりはありませんので、私はむしろ教育基本法を――何かありますか、小坂大臣。

小坂国務大臣 今総理からは、議論としての一つの考え方を示していただいたわけでございます。

 憲法第二十六条は国民の教育を受ける権利を保障しているわけでございまして、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」このように書いてあることから、この教育基本法も、これを受けて本法案も「すべて国民は、」としているわけでございまして、当然のことでございますけれども、外国人の児童生徒が希望する場合には、日本人の児童生徒と同様に教育を受ける機会が保障されているのが我が国の教育の現状でございます。

鳩山(由)委員 私は、もうこの議論を、先に行こうと思いましたが、大臣のお話を伺って、やはりもう一度確認をしていかなきゃならぬなと思いました。

 義務教育は、確かに、義務という部分に関しては、すべての国民、日本の国民というところが正しいと思うんです。しかし、教育を受ける権利はだれなんですかという話をしたら、それは、すべての国民ではなくて、さらに何人も、海外から来られた方々にもその権利は与えるべきではないか、それが当然だと思って代表質問でお尋ねしたら、総理も、そうである、基本的には希望するすべての外国人にはその機会を与えているということをおっしゃっている。

 ですから、こういう部分に関して、憲法ですべての国民となっているからすべての国民なんですという答弁をされたから、ならば、憲法の部分を基本のところで変えるべきではないですか。憲法を変えてから、きちんとそこのところも、教育基本法もそれに合わせて変えればいいんじゃないでしょうか。憲法の中で制約されているから教育基本法も制約されるけれども、しかし、希望される人には与えてあげますよという話とは私はまるで違うと思うんですが、もう一度お答え願いたい。

小坂国務大臣 私は、今回の教育基本法の改正につきましては、現行憲法のもとでの改正という形で提案をさせていただいていると申し上げました。

 もし、委員がおっしゃるように、何人も、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う、義務教育はこれを無償とするということを憲法で書き込むことになれば、そういう場合には、先ほど申し上げたように、もし憲法の改正によって必要な改正が生じた場合には教育基本法の改正も行われるという、これにつながるわけでございまして、私は、そういう意味で、現行憲法であるすべての国民というものを受けて、今回の教育基本法においても、すべて国民と表現をさせていただいたということを申し上げているわけでございます。

鳩山(由)委員 今大臣がお答えいただいたわけでありますが、大臣は、一度基本法をつくって、そしてまた、憲法が新しくなって、必要ならばまた変えればいいと。ただ、総理は、数十年間もつような教育基本法の議論をして成立させたいとおっしゃっている。やはりここはお二人の考え方を合わせていただかなきゃなりません。

 私は、さらに、この教育基本法の議論の前に、もっと重要な議論があるなと思っております。

 これは我が党の輿石東議員の方からちょうだいした資料でありますが、岩手県花巻市の教育委員会東和事務所長の役重真喜子さんの記事であります。私は、この記事を読んで、やはりそうだと本当に合点がいったのであります。

 彼女は、農水省に入省した後、牛を飼う夢を追って東和町の職員に転身をした女性でございまして、その女性が、ことしだと思いますが、東和町のある神楽の舞を見ていた。そうしたら、それを同じように見ていた三歳ぐらいの坊やが、立派に舞っているあるおじいさんの姿を見て、突然にまた舞い始めた。それがなかなか見事なものだった。伺うと、その三歳の坊やの実のおじいさんで、心から尊敬をしているおじいさんで、だから、自分がまねたい、まねて一緒に踊りたいということで舞を始めた。非常にさまになっているものだから、聴衆がむしろそちらにくぎづけになったという話であります。

 そこで彼女が言っている言葉なんですが、学ぶという言葉は、実はまねぶ、まねるのまねぶから来ているということでございまして、私は、ここは非常に大事なことで、子供の間は、お父さんやお母さん、あるいはおじいちゃんたち、おばあちゃんたちを見て、それをまねたいというところから、学ぶという発想というものの重要性が認識されるということであります。

 にもかかわらず、その彼女が最後に言っているのは、最近の大人たちは、なかなか子供たちに、この人をまねたい、そして学びたいというような大人たちが少なくなった、だから、教育の問題を議論するのは重要だとしても、まず直さなきゃならないのは大人たちではないか、大人の責任というものがまず先にあって、そこから子供たちの議論を進めるべきではないかという話であります。

 お聞きになってどうお感じでしょうか。

小泉内閣総理大臣 それは私は、教育、大人の責任だと思います。子供じゃない、今の社会を見て。

 言葉だって、最初、赤ちゃんが生まれる。若い人の中には、これはうそか本当かわかりませんけれども、驚くべき話を聞いた。子供が話さないから話すまで待っていると。親が話しかけなきゃ子供が言葉を覚えるわけないじゃないですか。そういう驚くべき親もいるという嘆かわしい話を聞きました。

 まず、言葉を覚える過程を見てください、まねるんです。毎日話しかけられるんです、子供は話せなくても。話さないから話しかけない、これじゃ、どういう子供が育っていくかというのは、大変憂うべき状態だと思うんですが、まず大人がしっかりと、子供に対してどう接するか、これは教育の基本ですね。

 私は、今の教育の問題も大人の責任が一番大きいと思っております。

鳩山(由)委員 大人の責任が一番大きいとお話をされた。私もそのとおりだと実は思います。

 でも、今回の教育基本法改正で、改正されて、では、大人の部分がどう変わるんですか。そこの議論が抜けているのではないか。すなわち、今総理はそこが一番大事だとお話しされた部分が変わっていないのに、教育基本法を変えて、子供の責任のように、こういうふうに子供を変えなきゃいけない、教育しなきゃいけないというふうにすりかえられてしまっているおそれがあるじゃないですか。

 まずその前に、大人の責任をしっかりと認めて、そこを直すことが教育の原点なんだという議論をすべきなんじゃないんですか。いかがですか。

小坂国務大臣 委員御指摘のとおり、また総理が御答弁されましたとおり、今日の子供をめぐる課題というのは、その背景にあるのは大人社会の問題の反映である、こう考えます。大人社会の教育力の低下が今日の子供をめぐる多くの課題の遠因になっている。直接的な原因ばかりではないですが、少なからず遠因になっていることは事実だろうと思っております。

 そういう意味で、生涯学習の理念をしっかりと打ち立て、そしてまた大学教育についても明確に規定をし、そして幼児期の教育についても新たな規定を設けるなど、今回の教育基本法は、この大人社会の教育力の低下を補うために各般の規定を盛り込んでいるわけでございまして、そういった意味で、今回、教育基本法のこの理念が、今日の社会が生む問題や教育をめぐる問題に対応できるように、その根本的な理念を明確にする、そういう法律である、そういう理念法であるということを御理解いただきたいと思います。

鳩山(由)委員 そのようにうまく機能すればいいんですが。

 実際には、例えば、子供たちはテレビをよく見ます。このテレビに映る大人の姿というのは、割合に政治家が多い。その政治家が、例えば、公約なんて守らなくたって大したことじゃないというふうに言われれば、これは子供は、約束なんて守らなくていいんだなと思うじゃありませんか。(発言する者あり)ですから、政治家の皆さん方、いろいろと教育力は身につけてこられたはずの方々が実はテレビを通じて必ずしも子供にいい影響を与えていないという部分がある。

 私は、余り総理のことばかり申し上げるつもりはありません。ただ、一番わかりやすいものですから申し上げているわけであります。当然、我々も、先ほど後ろから話がありました、反省しなきゃならないことはたくさんありますよ。我々も、おっしゃるとおりです、大いに反省をしなきゃならないと思っています。

 ただ、ある意味では、そういう反省する気持ちを持つことが非常に重要であると申し上げたいのでありまして、例えば、イラク戦争に対して総理は、イラク戦争を支持する理由として、大量破壊兵器というものを持っているイラクだからこそ国際的にみんなでそれを破棄させなけりゃならないんだと盛んにおっしゃっていた。そのときの思いからある意味でやむを得ざる発言だとしても、その後、国際社会は、大量破壊兵器は実はなかったということを認めたわけでありまして、ある意味で、イギリスやアメリカも指導者たちが反省をしたわけであります。しかしながら、小泉総理、あなたの口から、これは間違っていた、申しわけなかったという言葉は今まで一度も聞かれていない。

 こういう一つ一つ反省とか責任を明らかにする社会というものをつくっていくことが私は子供の教育に大変影響を与えることだと思っていまして、まずは、大人というのは単なる家族だけじゃない、我々、特に政治家、テレビで映っているときが特にその責任が大きいかと思いますが、そういう姿こそ大事にしていかなきゃならないんじゃないか。すなわち、そこの部分が十分に議論されていないまま、生涯学習を進めれば大人たちの教育力が高まるので大丈夫ですとは、とてもとても私は自信を持って言えない。違いますか。いかがですか。

小坂国務大臣 テレビに映るいろいろな事件、そして政治家のみならずいろいろな大人の姿、これが子供に大きな影響を与える、あるいは、テレビのみならず雑誌やいろいろな読み物の中に登場する大人の姿が今日の子供の多くの教育をめぐる課題に投影していることは、委員のおっしゃるとおりだと、私も同感でございます。

 しかし、テレビに映る政治家の姿ばかりが強調される、これは、政治家はみずからその模範として襟を正すべきということは十分に私も認識をするところでありますけれども、委員がみずから、政治家が政治家がとおっしゃることが、政治に対する国民の信頼をまた失うことにもなりかねない。私は、政治家がみずから襟を正すことはそのとおりでありますから、その規範意識を持ってやるべきであります。しかし、それは私どもが努力することであって、それがテレビに映るから悪いんだということとは必ずしも直結しないということを私は申し上げたいと思います。

 その中で一部を担っているということは確かでしょう。しかし、それは、イラクの問題を引き合いに出されましたけれども、それぞれの世界の流れの中でのいろいろな出来事というのは、その背景にいろいろなものがございます。これを一面をとらえて、それが子供に与える影響が云々と言うことは、やはり今のこの教育をめぐる議論をしている中では、私は必ずしもそれは前向きな議論にならないのではないかと。

 むしろ、正面から、今日子供をめぐる環境の中での、大人社会の、もっと子供に悪い影響を与えている多くの、直接的な悪い影響を与えている事件というのはあると思います。そういったもの全体に対しての、社会の教育力を再生させるということ、そういうことに対してやはり私どもは前向きに取り組んでまいりたい、このように考えるところでございます。

 そういった意味において、先ほど委員が御指摘になった家族に対することは、私も同じように思っております。それはもう委員も御存じのとおりでありまして、我々はやはり、家族というものを、法律、必ずしも憲法でなくてもいいかもしれない、しかし民法の中でも、どこかで家族というものをしっかりさせていきたい、そういう思いは私も共有をいたしているつもりでございます。

鳩山(由)委員 昭和二十一年の四月の七日、これは敗戦後の最初の総選挙であったかと思いますが、日本自由党総裁、後の自民党の初代総裁でありますが、祖父の一郎が述べた放送用の原稿というものがつい最近出てまいりました。

 その中に、まず、自由主義は民主主義の骨組みであって、その自由主義という意味は、なすべきことをなし得るの自由、あわせて、なすべからざることをなさざるの自由と。自由というものを、何でもやっていいんだ、自由なんだという放縦とはき違えたり、放らつとはき違えたりしている世の中と、そのように論じているわけでありまして、もう既に六十年前の話でありますが、この自由主義あるいは民主主義というものの原点はこれに尽きるんだと、結局、真の自由主義は自己の人格の尊厳に目覚めることしかないのだと喝破をしているわけであります。

 そして、その後続いて、こういう箇所もあるんですが、両親が、デモクラシーの基礎、民主主義の基礎をなす相互に人格を尊重し合うありさまを子供が日夜目撃しておれば、その子供は立派に育っていくはずでありますと。これはもう、あるいは釈迦に説法なのかもしれません。しかし、私はこういう発想、すなわち、例えば夫婦が、夫婦の間で何か常に痴話げんかみたいなことをやっているような家庭とか、お父さんが全く認められていない……(発言する者あり)おかげさまで我が家庭は兄弟大変仲がいいものですから、このような発言も出てくるわけでありますが、一番重要なことは、そういったお互いに人格を尊重し合う、そういう家族、家庭をつくることだ、それを自然に見て子供は立派に育っていくんだという話があります。

 私は、さらにこれに加えて、子供に対しても一人の人間としての、当たり前なんですが、人格の尊厳を認めてやる。よく、あなたは子供なんだからみたいな言葉で捨てられてしまうことによって、その影響というものが心の中に大変大きくのしかかってくる、こういう部分を本当は直していかなきゃならないんだ。

 ですから、教育力というのは、ある意味で自由主義とか民主主義というものを、本気でこの国の中で、政治の中で培養していくことが最高の教育なんだ。すなわち、政治の責任で、こういった自由主義、民主主義というものが、デモクラシーが本当に成り立つ国会運営とかあるいは政治が行われていることをテレビなどでも国民の皆さんにしっかりと知らしめていくということが、最高の、教育基本法を改正する以上に重要な発想なんだということを、祖父がもう六十年前に申しているわけであります。

 こういう部分を大切にすれば、今、学校の中でさまざま行われている残念な現象、いじめとか、あるいは校内暴力とか、あるいは学校嫌い、不登校の生徒さんとか、そういったものが自然自然になくなっていくのではないか、こう思っておりまして、教育基本法の文言以前の問題として、こういった議論を行うべきではないか。あるいは、我々は、自由な学校をつくりましょう、もっと建学の自由を認めるということを日本国教育基本法案の中に入れておりまして、こういう議論こそが、望ましい学校をつくることによって、いじめを減らし、校内暴力を減らし、不登校を減らしていくことになるのではないか。型にはまってしまうような学校を認めるということではなくて、もっともっと自由な、ある意味でのコミュニティ・スクール、少しずつ出てきてはおりますが、こういったものこそ本髄なんだというような教育基本法の改正にするべきではないかと思いますが、いかがでしょうか。

小坂国務大臣 日本の戦後復興を果たされた政治の先達の言葉は非常に重いものがありますから、私も尊敬を申し上げるところでございます。そこにある、夫婦相和し、家庭を中心に、家族がそれぞれ協力、そして助け合いながら社会を築いていくという精神において、私は何ら異論を挟むものではありません。また、委員がおっしゃる、教育をめぐるいろいろな議論をもっと積極的にしたいということについても、賛成でございます。

 ただ、私が申し上げたいのは、戦後の教育の中でいろいろ議論されたこと、本日の最初の質問者である小渕委員の御指摘なさいました「自由と規律」という本がありました。これは、私ども慶応に学んだ者はほぼ全員が、恐らく委員も、また総理も皆、この池田潔先生の、小泉信三先生の言葉を引いた、自由と規律、自由には必ずそれに伴い責任が生じるものである、自由と責任は表裏一体であって責任のない自由というのはないのだ、それはわがままであるということを我々学んできたはずでございますから、その御指摘についても同感でございます。

 そういった数々の共通する概念の中で、私は、やはり今日の教育の課題、そして社会環境の是正のために、今、教育改革を推進するために、私どもが提案をしております教育基本法をぜひとも速やかに通していただきたい、そのようにお願いを申し上げるところでございます。

鳩山(由)委員 最後の部分に関しては、やはり慎重に、しっかりと、十分な時間をかけて、国民の皆さん方に理解をしていただけるような基本法にしていかなきゃならないと思っております。

 最後になりますが、面従腹背という言葉があります。お休みになっておられるとあれですから、では、小坂文部科学大臣に。

 面従腹背、すなわち、表づらは、はいはいわかりましたと従っているふりをしながら、態度を見せながら、実は心は全くその裏にあるという態度。これは、しばしば見られる、特にこの国を統治してきている我々政治家と官僚の間の中にも生まれてくる態様でありますが、それはまさに、先ほど、心と態度が一体ではないかとお話をされた。理想としてはそうなんでしょうが、現実にはそうではない。官僚システムをつくり上げていく中で出てきた巧みな発想なんだろうとは思いますが、態度と心というものが実は一体ではないところに大変に問題があって、だから私たちは、日本を愛する心というふうにきちんと記述をしたいと考えているわけでありまして、こういう議論をもっともっと時間をかけて行わないといけない。

 最後に申し上げたいことは、私どもは、この問題、教育の問題でありますから、一番最初に総理がお話しされたように、完全に与野党が全く別の議論をするという話ではないと思っております。したがいまして、例えば、今衆議院で議論されているわけですから、衆議院の院の中にきちっと調査会というものを構えて、調査会の中で大いに議論をして、一つの、両案を妥協して二で割るみたいな話じゃなくて、本当にいい教育基本法をつくろうじゃありませんか。その提案に対してお答えを願います。

小坂国務大臣 委員は、そのようにして調査会をつくって議論をすべきだとおっしゃいますが、今日まで、教育改革国民会議また中教審、そしてまた与党における議論、これらの審議の過程においても、国民の皆さんから御意見を聞く教育フォーラムあるいはタウンミーティング、いろいろな機会、意見募集、そして今日、またホームページを通じて、国民の皆さんからの意見募集をしたり、また広報に努めたり、そういうことをずっとやってきているわけですね。

 この五年間にわたるこういった議論の中から、国民の皆さんにも、教育をめぐる問題に、やはり教育の根本的な改革が必要だという、そういうお気持ちが芽生えていると思います。そういった期待にこたえるためにも、私どもは、速やかにこの教育基本法を成立させていただいて、そして教育改革に抜本から取り組める、そういう法律体系の全般的な整備につなげていきたい、このように考えているわけでございまして、どうも考え方がなかなか一致はしないようでありますが、しかし、最初に総理が申し上げたように、教育をめぐる問題は、これはやはり与野党が対立するような問題ではないという考え方で、ぜひとも私どもの法案に御理解を賜り、速やかな賛成に御協力をいただきたいと思います。

鳩山(由)委員 これで終わりますが、速やかに成立を図って、そして憲法が改正されたときにまたすぐに教育基本法を改正する、その意味が私にはわかりません。やるならば、議論するならば、最初に小泉総理がお話しされたように、数十年もつような教育基本法の議論をぜひともやっていただきたいということを申し上げて、質問を終わります。

森山委員長 次に、達増拓也君。

達増委員 鳩山委員の質問を受けまして、憲法との関係について総理に伺いたいと思います。

 導入的な質問を飛ばしまして、憲法との関係についての質問に、もう核心に入っていきたいと思いますけれども、これは、総理が一生懸命進めてきていたいわゆる三位一体の改革とも関連するんですけれども、教育予算、義務教育予算の財源が大幅に国から地方に移されることになっているわけですね。義務教育の財源を国が保障する仕組みから、地方が自主財源で集めなければならないようになっていく。これで、今まで二分の一国が負担していたものが三分の一に減らされたりしておりますけれども、今、地方は未曾有の財政危機に直面しているわけでありまして、そういう財政危機に直面する自治体に、これからは義務教育の財源は皆さんで自主的に調達して自由にやってくださいねということは、その自治体の子供の学ぶ権利を危険にさらすことであって、これは憲法違反じゃないかと私は思うわけであります。総理、いかがでしょうか。

小泉内閣総理大臣 私はそうは思っておりません。

 ということは、達増議員は、今まで地方六団体の要求というものは憲法違反と思っておられるわけですか。

達増委員 だから憲法の議論が大事なわけです。恐らく、政府は、現行憲法の教育を受ける権利の解釈として、こういう財政措置は教育を受ける権利の侵害にはならない、また、義務教育の無償の保障の違反にもならないという解釈をして、今の憲法に基づいて教育基本法改正案を出してきたということなんでしょうけれども、我々は、現行憲法下にあったとしても、そのような憲法解釈では足りない。

 教育を受ける権利、世界的にはユネスコでも学習権という言い方をしておりまして、国の役割としても、昔は夜警国家といって、軍事、警察、裁判とかだけやっていればいいという夜警国家から、二十世紀は福祉国家、国民の生存権というものも保障し、働く権利も認めていかなきゃならないというような福祉国家に二十世紀は進んできて、恐らく二十一世紀は教育文化国家、学習国家と言ってもいいと思いますけれども、国民一人一人、さらには何人も、学んで生きる力を身につけて、また国政にも参画していくような教育文化国家あるいは学習国家、そういう憲法体系を持っていなければならないと思うんですね。

 ですから、端的に、これはもう憲法を改正して、そういうはっきりしたわかりやすい学習権、学習権というと子供の学習が主としてイメージされるので、今回の日本国教育基本法案では学ぶ権利という言い方をしておりますけれども、それを憲法ではっきり決めた上で民主党が提出している日本国教育基本法を成立させますと、地方財政の危機に直面するところで、地方に義務教育を任せてしまうようなことは国としてとり得ないということがはっきりするわけであります。

 これは総理に紹介したいと思うんですけれども、統治することを古語で「しる」と言うんですね。明智光秀の最後の連歌の句で「ときは今あめが下しる五月かな」という、あの「しる」です。天下統一の統、統治の統、「統る」。日本は古語で、治める、統治することを「統る」と言ってきたわけですけれども、古事記では、その「しる」というのを知識の知という漢字を当てているんですね。つまり、「知る」ことが統治すること、治めること。これは物すごい、古代日本人の直観といいますか、本質をついていることだと思うんです。

 そういう日本の伝統、文化を大切にしながら二十一世紀の国のあり方を考えると、これも重ねて総理に伺いますけれども、やはり、知る権利や情報へのアクセス権、そういったものも含み、知識、情報に関する権利、広く学習に関する権利、そういうものを憲法にきちっと定め直して、学習国家、教育文化国家として二十一世紀の日本をつくっていかなければならないと思いますが、いかがでしょうか。

小泉内閣総理大臣 日本国憲法は基本的権利を定めた大事なものでありますが、文章に規定されていないから大事ではないとは言えないと思うんです。文章に規定されていない、憲法の条文になくても、大事なことはやっていかなきゃならないのが政治だと私は思っています。

 学習の権利、また、憲法二十六条、教育を受ける権利、これは大事でありますけれども、仮に憲法でそういう規定がなかったとしても、日本は教育を重視してきたでしょう。憲法でそういうような条文を入れるということには賛成でありますけれども、日本国民というのは、仮に文章で規定されなくても、教育の重要性を十分認識している国民だと私は思います。

 これからも、文章に規定していなくても、さまざまな形で、国も地方も、また各地域も協力して、教育の重要性を認識しながら、国民参加のもとでいい教育環境をつくっていこうという政治の方向については多くの共感を得るんじゃないかなと思っております。

達増委員 一つ総理に確認させていただきたいんですけれども、日本国政府のやることというのは、何一つ、憲法や法律以外のことはやっていないんじゃないでしょうか。

 直接、憲法がああすべき、こうすべき、あるいは法律でこうすべきと書かれたことをやるほかに、ある程度行政の裁量という分野もあるんですけれども、その行政の裁量というのも、実は裁量でやっていいということが憲法や法律で規定されている。各省庁の設置法などで、これこれこういうことについてはやるんだと書かれているからやっているんであって、近代立憲主義国家において、政府というものは憲法や法律の外にはあり得ない、必ず憲法、法律に基づいて政府は何かするんだという理解でよろしいですよね。

小泉内閣総理大臣 さまざまな行政なり対応が、憲法の条文にないからやってはいけないということじゃないんです。基本的な総論の中で、自由と民主主義を大事にする国家としてどういう対応が必要か、行政として何が必要かというのは、文章に規定されなくても、その総論の中で各論をどうしていくかという問題でありますから、各論を全部文章で決める必要はないというのが私の真意であります。

達増委員 この後の議論にも関係するので、もう一度確認しますけれども、政府のやることというのは、日本国憲法のもとにある、そして、すべて法律に基づいて国の行政が行われるというのは、それでよろしいですね。

小泉内閣総理大臣 それは、法治国家ですから、法律に基づいてやる。しかし、法律以前に大事なこともたくさんあるということであります。

達増委員 先人は、政治というものをきちんと憲法のもとに置き、また、政府は法律に基づかなければ、勝手に、ほしいままに事を起こしてはならないということのために、幾多の先人が犠牲になり近代民主主義というのをつくってきていますので、そこは確認しながら前に進む必要があると思いますし、その辺の議論から教育基本問題調査会のようなことを国会でやる必要があるのかもしれないなと今思いつつ、さらに質問を続けますけれども、国を愛する態度、この態度の問題について伺います。

 実は、態度という言葉は、教育法制上かなり厳密な意味を持って使われております。先ほどからの質問、答弁を聞いていますと、態度も心も同じようなものだというような抽象的な答弁、そういうやりとりが続いていたので、ちょっとこれはまずいなと思って確認をさせていただきますけれども、まず、この態度という言葉が端的に出てくるのは、学習指導要領の中で使われております。各教科の目標の中に態度という言葉が使われているんですね。

 例えば、中学校国語の目標、「国語を適切に表現し正確に理解する能力を育成し、」云々「国語に対する認識を深め国語を尊重する態度を育てる。」国語科の目標の中に態度を育てるという言葉が出てきます。数学、「数量、図形などに関する基礎的な概念や原理・法則の理解を深め、」云々「それらを進んで活用する態度を育てる。」。理科、「自然に対する関心を高め、」云々「科学的に調べる能力と態度を育てるとともに」云々。外国語、「外国語を通じて、言語や文化に対する理解を深め、積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り、」云々。

 ですから、教育法制上、態度を育てるというのは既に学習指導要領の中にも使われておりまして、恐らく、推測すると、それを参考にして今回の政府の教育基本法改正案は、第二条、目標の中で、愛国心についても、国を愛する態度を育てるというふうに書いてきているんじゃないかと思うんですけれども、これが教育現場を拘束しないはずがないんですね。

 さらに、この態度という言葉は、クラスの、毎日、授業のチャイムが鳴った瞬間から鳴り終わるまで、いや、家庭にいるときすらも、生徒に対して、これは束縛と言っちゃうとあれなので指導と言っておきましょうか、今の学校教育法制上、生徒は、この態度という言葉から離れられないような仕組みになっております。

 それは、観点別評価というものが一九八七年の教育課程審議会で答申がありまして、小中学校の学習指導要領、八九年制定のものに取り入れられ、小学校では九二年、中学校では九三年から施行されて、今も続いている観点別評価というものなんですが、これは、すべての教科を、一、関心・意欲・態度、二、思考・判断、三、技能・表現、四、知識・理解、大体こういう四つの観点で評価するというやり方であります。

 授業や学習内容に対する態度というのは昔からチェックされてはいたんでしょうが、昔は知識・理解というのがメーンだったわけですね。ところが、八七年の答申以降、知識・理解というのは四分の一の評価の対象でしかなく、一方、関心・意欲・態度というものが評価の四分の一を占めるようになってきている。

 このことについては、教育の専門家からいろいろ批判が出ております。例えば、この十年間、子供たちの関心・意欲・態度を重視する指導に偏り、知識・理解を軽視した結果、学力低下というようなことが起きているという指摘があったり、さらに深刻な指摘もございます。これまでも小中学校で観点別評価を行っている県は多く、教室で手を挙げる回数で点数が決まるなど、その弊害が指摘されていました。事実、文部省が観点別評価の内申書への導入を全国拡大した一九九四年を境に中学校での生徒間暴力事件が二倍に増加するなど、生徒に与える過大なストレスが問題視されています。

 ですから、態度問題と言っていいと思うんですけれども、実は、今の教育界において態度問題というのは非常に深刻な問題なんですね。

 まず、これは文部科学大臣に伺いますけれども、こういう関心・意欲・態度を学力評価の柱の一つとする観点別評価が、生徒にストレスを与え、校内暴力の増大などを招いたという批判がありますが、どう考えますか。

小坂国務大臣 各教科の学習の評価というのは教育においては非常に大きな課題でありまして、委員が今「どうする「理数力」崩壊」という著書の一節を引用されましたけれども、学習における態度というもの、それから、今委員が御指摘になった観点は、まさに観点別学習状況の評価、このやり方についての御意見だと思っておるわけです。

 各教科の学習の評価につきましては、基礎的な、そしてまた基本的な知識、技能のみならず、思考力あるいは表現力や学習意欲などを含む幅広い学力というものを多面的に評価するために、知識・理解や関心・意欲・態度などの評価の観点ごとに学習状況を評価しているわけでございます。その上で教科全体の評価を五段階の評定で行うこととしているわけでありまして、これらは、高校入試の選抜の資料として用いられる調査書、いわゆる内申書に、生徒指導要録に準じて作成されるわけでありますが、その内容や取り扱いにおいては、基本的には、各都道府県教育委員会において判断されるべき事柄でございます。

 また、調査書は、一回の学力検査だけでは把握できない学力や平素の学習状況、生徒の個性、生徒のすぐれた点などを多面的にとらえて、これらを積極的に評価していく趣旨から作成されているものであります。そのことは委員も御存じのとおりであります。

 御指摘の校内暴力の増大などの問題行動について、その要因に、これらの調査書等が背景にあるのではないかという御指摘でございますが、学校での人間関係、本人の意識や家庭の問題等の要因が複雑に絡み合ってこれらの事柄は発生している、こう考えられるわけでありまして、一概に、こういった調査書あるいは観点別評価というものが学生のストレスを増すことによって起こっているという判断をすることは早計であろうと思いますし、その関連性は明らかではないと考えております。

 いずれにいたしましても、文部科学省としては、生徒が生き生きとした学校生活を送ることができるように、今後とも生徒の評価の改善という点について不断の努力を重ねてまいりたいと存じます。

達増委員 関係者はよかれと思ってこういうやり方を導入し、もう十年以上現場で行われていることですから、うまくやれば、まさに子供の関心、意欲を引き出し、その態度を評価しながら、うまくいくようにやれているところもないわけではないでありましょう。ただ、かなり悩んでいる人たち、苦しんでいる先生たちもいるようであります。

 例えば、これはある県の教育センターがつくった社会科の場合の「社会的事象への関心・意欲・態度」の評価方法というマニュアルなんですけれども、観察法と質問紙法という二つのやり方を紹介して、観察法だと、「行動をチェック項目として作成する」と書いて、図書室やインターネットなどで調べようとしている、ごみ処理のためのプランを粘り強く練り直している、政治課題について友達と積極的に意見を交換している、こういうのをチェックせよと。

 こういうのをやっていれば態度がいいと評価されるのでありましょうが、政治課題について友達と積極的に意見交換していることを高く評価するというときに、いろいろ、今起きているイラク戦争をめぐり政府はこう言っているというような、そういったことについて意見交換していることが高く評価されていくというようなことが実際に起きるわけですね。

 質問紙法というのは、これはおもしろいんですけれども、生徒に次のような質問を紙で渡しまして、それぞれの質問で自分の考えや行動と近い答えを一つ選びなさいと。学習全体を通しての自分の考え、一、楽しかった、二、余り楽しくなかった、三、難しかった、四、もっとやってみたい。これは、楽しかったよりも、もっとやってみたいに丸をしたときに、ああ、これは関心、意欲、態度があるなと評価されちゃうような質問の仕方なんですね。

 つまり、本当に楽しかったという喜びで楽しかったに丸をする人よりも、もっとやってみたいというところに丸をした方が評価され得るような紙のつくり方がガイドラインに載っているんですね。

 価格の決まり方を勉強したとき、それについて自分の考え、一、自分で調べることができた、二、自分で調べようとしなかった、三、どうでもいいと思った、四、他の価格の決まり方も調べてみたい。これも、自分で調べることができたよりも、他の価格の決まり方も調べてみたいというところに丸をつけた方が、ああ、これは関心、意欲、態度が高いと。

 これは業者のテストなんかにももう導入されていて、これはある学校の先生のブログなんですけれども、「昨年度末に実施した学力検査の、「関心意欲態度」の項目の得点が他の領域よりも低かった。そこで、発行した会社にお願いして検査用紙をもう一度送ってもらった。テスト中には気がつかなかったけれど、だいたいこんな内容だった。」ということで、そういう業者が関心、意欲、態度をペーパーでチェックできるようなものを使い、あるクラスでやってみて、多分そこだけ妙に点数が低かったのでありましょう。それで先生が慌てているわけです。

 実際、今学校現場は、そういう混乱をしているところもあると言っていいと思うんですね、態度をめぐる問題で。そういうときに、教育基本法で、第二条、目標という中に我が国を愛する態度を養うことというような文言を定めますと、これは大分教育現場を混乱させてしまうことになるんじゃないかと思いますが、文科大臣、いかがでしょう。

小坂国務大臣 第二条五項に、伝統、文化を尊重し、それをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、そして国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う。これはすなわち、これらを総合的に教育の中で取り組んでいくことによって、最終的に、自分の郷里を愛し、そして国を愛する、そういった心、態度が養われていく、こういうことであります。

 ほかの委員の御質問にもありましたけれども、まず、自分の郷土というものについて歴史を学び、そしてそこにはぐくまれた文化、その文化の流れ、そして伝統芸能を初めとした伝統というもの。さっき、おじいちゃんが一生懸命伝統文化を継承している、それを見て孫がひとりでに合わせて舞っている姿、これを見てみんなが感動した。これはまさに、理想的な郷土愛を培っていく一つの流れだと思います。

 そのように、自分の育った地域について学び、それを築いてきた偉人たちの活動について学び、そしてまた、同じように、日本の選手たちが外国で活躍していること、伝統について、文化について、歴史について、そして地理的な環境について学んでいくに従って、ああなるほど、私の国はすばらしい国だ、やはり誇りに思う。誇りに思うということが、次第に、自分の国を尊重し、あるいは地域を尊重し、そしてまた、そこに愛情を芽生えさせることになっていく。そういうことが、地域を愛すること、そして国を愛することにつながる、そういう学習の仕方であります。

 ちょっと答弁が長くなって恐縮でございますが、過日、夜中にテレビをひねりましたら、NHKで授業のシーンをやっておりました。学校の先生が、この地域に住んでいるある方はずっと伝統的な和紙のつくり方を継承しています、でも、今はそれをする人は一人しかいない、昔、この地域ではたくさんの人がつくっていました、でも、その人だけなんです、では、この人はなぜまだ和紙をつくり続けているんだろう、みんなどう考える、こうやって質問をしているんですね。そして、その後、この先生は、その方を招いて実際の話を聞いて、そしてその中から、地域の偉人について、そして地域を守ることについてどう考えているか、その人が和紙をつくる製法が自然的な製法で薬を使わない、だから何百年ももつんだ、そういうことを継承する人がだれかいなきゃいけないんだ、そういうことを勉強して、子供たちが、本当にそうなんだ、私も何か地域のために役立ってみたい、そういう人の活動を知って、自分もそういうようなものを何か学んでみたいと思う心、まさにこれが、郷土を愛し、国を愛する心につながる。そういう態度を学んでいくこと、そういう形で全体を評価してもらうこと、それを私どもは求め、そういう指導をしてまいりたい。

 決して、内心を直接評価するような、あなたは国を愛していますか、郷土を愛しますか、こういったことに評価をつけるようなことにならないように、しっかりとした指導もしてまいりたいと存じます。

達増委員 理想はわかります。ただ、教育現場あるいは学校というのは、これは端的に言って、優越感と劣等感が渦巻く、コンプレックスみなぎるような世界だと思うんですね。

 何か、いい材料で、いい発表をしてそれが先生に褒められた場合に、よし、負けないで自分もとか、ああ、やはりああいうことをやらなきゃだめなんだなとか、そういういろいろな子供の思いもあるだろうし、教育行政がいかに内申書についてこだわらないようにと言ったって、子供や保護者の中にはこだわる人というのはやはり出てきますよ、みんながみんなこだわるとは言いませんけれども。そういう中でやっていくにはよほど先生方がうまくやっていかなきゃならないし、これは子供や親もうまくやっていき、それでもいろいろなトラブルや混乱は起きる。でも、そういうトラブルや混乱、コンプレックスを、またそれを乗り越えていくことが教育でもあるんでしょうから、殊さらこれ以上ややこしくするような教育基本法の決め方をしない方がいいと思っているわけであります。

 そこで、これは総理に伺いますけれども、愛国心教育というのは既に学習指導要領でやっている話ですよね。これを混乱させない、特に押しつけにしないということが大事だと思うんですね。

 これも一つ紹介しますと、私も小泉首相とも五年ぐらい質問、答弁をやっておりますので、小泉首相が気に入りそうな引用をもう一つ持ってきたんです。

 これは孟子であります。論語、孟子にあるんですが、助長という故事成語、助長という言葉は、あれはもともと孟子に出てくる言葉で、ある人が稲を育てようと思って、稲、長くなれ長くなれと稲を引っ張って歩いたら、稲が全部だめになってしまった。そういうふうに、無理に育てようとして引っ張り過ぎるとかえってだめになるというのが助長という言葉の意味で、これについて孟子は、心に忘るることなかれ、助けて長ぜしむことなかれと。

 心に忘るることなかれ、助けて長ぜしむことなかれ、私は、愛国心というのもこういうものだと思うんですね。それは、心に忘るることなかれではあるんですが、助けて長ぜしむことなかれ、そういう、無理に引っ張ってだめにしちゃうようなことがあってはならない、押しつけになることは決してあってはならない。

 そういうところに本当に配慮した教育基本法の決め方というのをしなきゃならないという問題意識に立てば、やはり態度という、今、教育現場で混乱がないことはない、そういう態度という言葉、教育法制の中で、学習指導要領の中で、到達目標として教科の目標の中で使われている態度とか、そういう言葉を使わずに、また、第二条、教育の目標というところに掲げるのではなく、もっと、理念なんだよ、決して押しつけにはしない、自然な形でそういうものが涵養されていけばいいというような形で前文に入れた方がいいと思うんですけれども、総理、いかがでしょうか。

小泉内閣総理大臣 前文に入れようが条文に入れようが、態度も心もやはり大事だと思います。

 態度を教えるのも教師の一つの役割です。学校で教えるときに、勝手に携帯電話で私語をしたらいけないでしょう。あるいは、みんな聞いているとき、一人が寝そべって、がらがら教室を走り回っていたら、こういう態度はよくない、社会に出て、そんなことじゃ君は社会から相手にされなくなるよと、それを教えるのはやはり教師の役割でしょう、静かに聞きなさいと。今の子供は小学生でも携帯電話を持っているといいますから、授業を受けているときは携帯電話を切りなさいよと。

 国会議員だって、委員会で携帯電話が鳴る人がいる。もう教育以前の問題だ、こういうのは。そのぐらいの注意は政治家はしていかなきゃいけない。委員会に出て、質問している最中に、携帯で慌てて出ていく人が最近ふえている。本会議中でも携帯電話でやっている人がいる。こういうのを見たら、子供は、大人は何をやっているんだと思いますよ。そういうのは、もう人に言われなくても、国会議員になっていれば、そんなことはするべきでないというのは、心でわかっているなら態度で示さなきゃいけないのに、最近の国会議員は、平気で委員会で携帯電話を使っている。私、あきれて見ているんです。

 ともかく、態度と心、両方大事であります。心をどう自分は持っているんだろうかということで態度で示す。子供さんたちに、世の中に出て人に認められるために、人に不快な気持ちを持たせないためにはどういう態度が必要かという教育は必要であります。しかし、子供に対して、愛国心があるかどうか、それは評価はできないでしょう。その点はやはり教師というのはよく考えていかなきゃならないし、指導要綱というのも考えなきゃいけない。

 ともかく、愛国心というのは自然に日常生活の中ではぐくまれるものであるし、自分の家族を大事にしよう、自分のはぐくまれた郷土を愛す、これは自然に涵養されるものであり、それが態度になってあらわれるものだ。そういうことによって他人とのつき合いも円滑にいくということで、私は、態度も心も、ともに重要なものだと思っております。

達増委員 携帯電話の問題は、委員長、ひいては議長の指導のもと、院の自治の問題として解決されなければならないと思います。

 あとは、現行法制下でも、学習指導要領の道徳ですとか社会科の中に、自国を愛する、国を愛するというのは、内容として、教えるべきこととして入っていますので、評価は実はしなければならないんじゃないかということを指摘しつつ、猪口大臣に質問したいと思います。

 私が心配していることはもう一つあるんですが、それは、この愛国心問題ということを、どうも政府・与党側では、一種既に終わった問題、つまり、過去の戦争のときの問題であって、戦後六十年たって、もういいだろうということで、これをはっきり教育基本法にも入れよう、そういう一種過去の問題として愛国心問題をとらえているのではないかなと懸念しておりますが、実は、愛国心問題はこれからの問題でもあると思います。

 今、テロの問題が国際社会最大の問題ですけれども、このテロというのも、国、国民、民族あるいは宗教、そういったものが関連したアイデンティティーの問題として出てきていると思いますし、グローバル化が進む中で、愛国心問題はますます国際社会の中心問題であると思います。

 最近の国際政治学でも、昔は、現実主義、リアリズムと、平和主義的リベラリズムと二つあったのに、今、第三の立場で、コンストラクティビズム、構成主義、そういうアイデンティティー、国民あるいは国際社会の主体の気の持ちよう、意識のありようとかが実は国際社会を決めていくんだ、そういう論も、これはソフトパワーで有名なジョセフ・ナイ教授の新しい教科書にもちゃんと構成主義という立場が紹介されているんです。やはり、この愛国心というのをうまく扱っていくことはこれからの問題でもあると思うんですけれども、猪口大臣、いかがでしょう。

猪口国務大臣 達増先生に、難しい御質問なんですけれども、お答え申し上げたいと思います。

 まず、古い問題か新しい問題かということですけれども、国や郷土を愛する気持ちや態度はどういう場合によく見られるのかということをちょっと調べましたところ、一般的には、苦難に耐えて共同体を守ろうとするとき、歴史的にもよく見られる態度ではないかと思います。

 それで、そもそも我が国においては、根本において非常に不利な条件をたくさん抱えてきていると思います。そして、多くの国がきっとそのような自己理解をしているのだと思います。

 そういう場合において、その条件がもう永久に変わってしまったというのであれば別かもしれませんが、例えば、日本は、無資源国でありますとか、島国でもあり、また、いろいろなさらに不利な条件もあるかもしれませんが、そういうことの認識をもし最近の若い世代が共有せず、したがって、国についてしっかりとした思いをいたさなければ、自分たちの共同体を維持、守ることが困難になる局面もあるかもしれないということを考える、そういうところから、そもそも、もともとの愛国的な、パトリオティズムといいますか、そういうものが出てきたようにも思います。

 それで、コンストラクティビズムにつきましては、考え方の起源は非常にたくさんあるんですけれども、もともと客観的な事実というのがありますが、人間の社会の制度というのは主観的に了解したことによって成り立っていく。ですから、間主観性といいますけれども、その主観がどう形成されるかというところが非常に重要だ。それで、主観というのは自分たちが生きていた履歴ですね、経路依存的といいますけれども、例えば、先ほど文科大臣が説明されました、郷土について考えるというようなこともそのような部分であると思います。

 ですから、コンストラクティビズムの考え方は、集団的な一種の帰属意識、アイデンティティーを重視していくというのがコンストラクティビズムの中にあるんですけれども、その根底にあります考え方は、客観的な事実ということもあるでしょうが、制度をつくるときは、その構成されている要件、生きてきた履歴、その国の歩んできた道、こういうものを重視しながら、制度というものが、その共同体や国民、社会にとって一番適切な形で設計される必要がある、こういう考え方です。

 ですから、ただ一つの正しい制度の答えがあるということではなくて、民主主義国家として普遍に共有する考えはありますけれども、制度に落としていくときには、いろいろな、間主観的にその国民社会において合意される考え方に基づく必要があり、したがって、その国が歩んできた道のり、あるいは抱えている困難、これについての理解をしていくということから、国を思う気持ち、あるいは共同体に対する感情というものが議論されるということでございます。

 長くなりまして、済みませんでした。

達増委員 ぜひ、今の説明をもとに政府案を検証していきたいということを申し上げまして、私の質問を終わります。ありがとうございました。

森山委員長 次に、石井郁子君。

石井(郁)委員 日本共産党の石井郁子でございます。

 提出の教育基本法案に関しまして、私、きょうは具体的に御質問させていただこうと思っております。

 政府案の十七条、教育振興基本計画となっております。これは、教育振興基本計画は政府が定めると。国会の承認すら経ずに教育の具体的なあり方を全国の学校に、そういう意味じゃ押しつけることができる、こういう制度となるものでございます。

 では、この教育振興基本計画で政府は何を定めようとされているかということなんですが、中教審答申では例示がされておりまして、第一に、全国一斉学力テスト、これはしばしば問題になっております。二番目に、少人数指導や習熟度別指導の推進ということが挙げられております。私はきょう、この少人数指導や習熟度別指導の問題についてお尋ねをしたいと思うのでございます。

 総理はたびたび、習熟度別指導で結構じゃないかというお立場かと思いますが、今、学校現場は一体何を求めているでしょうか。これは、文部科学省が〇五年の四月、調査をしましたところ、少人数学級と少人数指導とではどちらが効果的であるのかというアンケートなんですね。学級編制人数を引き下げた方が効果的だというのが小学校で八一・八%あります。中学校では八六・〇%です。それに対して、少人数指導とかチームティーチングの方が効果的だという方は、小学校で三〇・六%なんですね。中学校でも四二・二%でございまして、圧倒的にやはり少人数学級がいい、効果的だと答えがあるわけでございます。

 そこで、文部科学省に伺いますけれども、これは文部大臣に伺います。昨年、文部科学省も「今後の学級編制及び教職員配置について」という協力者会議の最終報告を出されたと思いますが、小学校低学年ではせめて三十五人学級など少人数学級や副担任制という提案を行っていると思いますが、これに間違いありませんか。

小坂国務大臣 そのとおりであります。

石井(郁)委員 それで、きょう、私、資料を配付させていただいておりますけれども、パネルも用意してまいりました。

 諸外国の学級編制基準です。これは初等中等学校ですけれども、イギリスでは三十人が上限です。フィンランド、二十四人が上限。ドイツ、イタリア、カナダ、ロシア、まとめて見ていただきましても、大抵二十人台ですよね。カナダでは、中等教育は二十二人ということになっています。それに比べて、日本は、言うまでもありません、四十人ということでございます。

 私、ちょっとフィンランドの例を申し上げたいんですが、このところ、日本でも学力問題ということが大変いろいろ各界から論評されております。国際調査がありまして、日本の学力が下がったということを問題にされる方もあるわけですが、その学力の国際調査で、フィンランドは過去二回世界一なんですね。読解力、数学ともに二回とも世界一です。そのフィンランドが、今申し上げたように、二十四人を上限ですから、二十一、二人というクラスだってあるわけです。ですから、二十人程度の少人数学級になっているんですよ。

 そして、それは単なる学級の、クラスの数だけじゃないんですね。ここでは、授業についてこういうやり方をしているということを伺いました。つまり、どうしても子供には理解の差がありますから、わかる子とわからない子がやはり出てきます、その年齢で。しかし、わかる子がわからない子を教える、わかる子は教えることでもっとわかっていく、理解が深まるということなんですね。そういう子供同士の助け合いを大事にしながら授業を進めている。実は、この話は、私はフィンランドに行っておりませんけれども、昨年、我が国会の文部科学委員会にフィンランドの国会議員の方がいらっしゃいました。文部科学委員の方でございます。懇談をいたしました。そのときにその方々からお聞きしたことなんですね。

 つまり、フィンランドでは、七〇年代の一時期にはいわば能力主義の、能力別の学級編制がいいと取り入れたこともあったけれども、それでは効果が上がらなかった。それで、今はそれをやめて、そして、能力にはいろいろ差があるけれども、その子供たち同士で助け合いをする、これを基本にして公教育を進めてきている。ある方がはっきりおっしゃっていました。やはり教育というのは平等の原則が大事だ。実は、その平等の原則というのは日本の教育基本法から学んだということまでおっしゃっているんですね。私たちは、改めて、日本の教育基本法が世界的にも読まれているのかというそのことも感動もしたんですけれども、やはりここにはそういう実際に進んでいるということにつきまして、まず総理大臣、この経験あるいはこういう実態をどのように思われますか。

小泉内閣総理大臣 私も少人数の方がいいと思っています。

 私の世代は生徒が多過ぎて、学級数も十以上あったんですよ、小学校、中学校ともに。それで、教室も足りないし、先生も足りないから、早番、遅番と分けられて、一週間交代で、きょうは早番、午前中、次の週は遅番、午後。同じ年なんだけれども、それだけ生徒が多かった。

 今、四十人学級以下が望ましいということで、だんだん子供が少なくなって、いずれ三十人学級になってくると思います。生徒にとっても、教える先生にとっても、多いよりも少人数の方が教えやすいと思っています。

 そういう中でも、算数とかあるいは国語とか英語とか、基本的な学力については、やはり一定の水準を理解しないと、次の高度の水準に臨んでもわからない、理解できない教科があります。そういう点については、わかっている人を基準にしないで、わかっていない人にわかるまで教える、これが私は必要だと思います。

 そういう点において、全部習熟度別授業にする必要はないけれども、基本的な学力、将来、社会に出て困らないような教科については、私は、わからない子についてはわかるように教える、理解の進んでいる子は、さらに進みたいならば、そういうクラス編制にするというのがあってもいいのじゃないか。また、わからない子が学校に出て、これほどおもしろくないことはない。先生が何を教えているのかわからなくなったら、学校に行く気なくなりますよ。わかればおもしろくなる。そして、わかっている子がもう当たり前のことを教えられたら、それこそほかのことをしたくなっちゃう。先生の話なんか聞きたくなくなっちゃう。これもおもしろくない。だから、わからない子についてはわかるように教える、さらに、能力のある子については、もっと上の水準に行きたいんだったらば、そういう道を提供するというような習熟度別クラスというのも必要ではないかな。

 生徒も少人数の方が、生徒にとっても、教師にとっても、教えやすい、そういうことについては私は否定いたしません。

石井(郁)委員 私も、わからない子供をわからないままにしておく、これは本当にやってはいけないと思います。わからない子供の発達に応じてきちんとした指導をしていく、これはもう教育者はみんな心を配っていることだというふうに思います。

 ただ、問題は、その習熟度別、これは結局能力別になるんですよ。能力別に一つの学年あるいは一つのクラスを編制するということでいいのかなという問題でございます。

 実際今、日本のあちこちで私ども聞くところでは、これは、ウサギさんクラスといったりカメさんクラスといったり、名前はつけますけれども、結局、あなたはおくれていますよという子供を一まとめにする。そうすると、今まさに総理が言われたように、自分はだめな子だと、そこでもうレッテルを張られてしまう、そのことでもう学校に行きづらくなってしまう、こういう話は本当にあるんです。それは最近本当に出てきています。

 私は、そういう意味で、本当に基本はやはり少人数の学級にする、そして、そこですべての子供たちに発達してもらうということだと思うんですが、能力別という指導がなぜいけないか。これは学力との関係で、先ほどフィンランドの例を申しましたけれども、日本でカリキュラム論を専攻されている佐藤学さんという東京大学の教授がいらっしゃいますけれども、日本の各地の学校、それから世界の学校、アジア、ヨーロッパ、ともに実証的に研究されているんですね。その中で、このようにおっしゃっています。学力水準が高く学力格差が少ない国は、いずれも能力別指導によるグループ分けをしていない、逆に、学力水準が低く学力格差が大きな国は、早期から能力別指導によるグループ分けをしているというんです。これはもう実証研究でのいわば研究成果ですから、私は真摯に受けとめなきゃいけないかなというふうに思います。

 総理大臣は、将来的には少人数がいい、少人数学級がいいという御答弁をいただきました。しかし、これはやはり早くに、一刻も早くすべき課題だというふうに思いますので、総理、本当に日本の子供たち、学力のことを考えるならば、この本当に世界的にも大いにおくれている四十人というクラス編制、早くやはり少人数にするということでの決断をお聞きしたいと思いますが、再度、いかがでございますか。

小泉内閣総理大臣 それは、少人数の方が私は子供にとっても教師の側にとってもいいと思います。

 私が習熟度別と言っているのは、全部習熟度別にしろと言っているわけじゃないんですよ。私の学生時代も、クラスは同じでも、たしか英語と数学のときには分けられましたね、学年。だから、ふだんは同じクラスでも、ある教科になると習熟度別にしないと困るだろうという教科はあると思うんです。そういうことをやった方が、わからない人はぽかんと聞いたって、これはますますつまらなくなっちゃいますから、わかるように教えて、別に、ああ、おれは低度のクラスに編制された、できるようになろうと。だれだって人間、劣等感と優越感ありますから、ある部分においては劣等感持ったっていいんです。ある部分においては優越感持ってもいいんです。できない子とできる子が一緒にやってもいいんです。しかし、ある部分においては、一緒にやったらできない子が困る場合もあるわけです。足の速い子と一緒にさせらせて、おまえあそこまで行けと言われたら、足の遅い人、足をけがした人は困っちゃう。

 だから、今、全部が全部習熟度別にしろということじゃありませんけれども、習熟度別編制の方がいいのではないかというクラスもある、教科もある。そこは柔軟に対応すべきだと私は思っております。

石井(郁)委員 総理は高等学校の例をちょっとお出しになったかなと思いますけれども、私も、いろいろな方法があるということは決して否定しないし、それは、本当に現場はいろいろな方法を、まさに教師の創意工夫でされていると思うんですね。

 ただ、ここで何が問題かと申しますと、日本のクラス編制が四十人ということでしている。多過ぎるわけですよ。そのことを手をつけないで、そして、少人数指導とか習熟度別指導とか、そこで小分けはできますよというやり方をしている。ここに問題があるんですということを申し上げているんです。もっと本当にクラス単位の人数が少なくなれば、異常なというか、早くからいろいろと競争させなくても済むような、そんなことができるじゃないですかということを申し上げているんです。

 それで、少し先に進みますけれども、教育基本法ではこの問題をどのように明記していたかと申しますと、たびたび引用されることですけれども、現行は第十条で「教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立」ということがうたわれています。これは、今もいろいろ議論になりますけれども、教育行政というのは、教育の外にあって、教育を守り育てるための諸条件を整えることにその目標を置くべきだと。だから、教育の諸条件の確立ということがきちんと法律に明記されていた、これは大変大きな意味を持っていたと思うんです。

 それで、私たちは、今のこの四十人はおくれていると言いますけれども、いろいろな諸条件を見て、やはり政府は整備されてきたと思います。しかし、今度は、提出の教育基本法案には、この規定が削除されているんです。そうなりますと、今でもこの条件整備というのが不十分な中でこの規定が削除されたら、どんどん後退するのではないかという疑念は当然出てくると思いますが、それはいかがでございますか。

小坂国務大臣 教育の現場において、私どもも定数改善を進め、総人件費改革を進める中にあっても、少人数教育、そしてまた習熟度別教育が十分に機能するような定数改善を目指していることに違いはないわけでございまして、規定があるなしということではなくて、私ども文部科学省としては、本年十八年度においては第八次の定数改善計画は見送りましたけれども、今後とも定数改善に向けて努力することに変わりはないということを申し上げて、答弁とさせていただきます。

石井(郁)委員 この点に関しては、ちょっと総理にぜひ答弁をいただかなくちゃいけません。

 文科省としては、小学校一年生で三十五人学級を可能にする第八次定数改善ということを出しましたが、今の御答弁のように、見送られているんですよ。これは、総理、いかがですか。やはり、教職員の純減を求めるということが先で、この改善計画そのものを認めなかった、それが今回の小泉内閣のされたことじゃないんでしょうか。総理、いかがですか。

小泉内閣総理大臣 教育環境の整備振興に国として努めていく、そういう中で、できるだけ少人数のクラスの方が教えやすいし、生徒にとってもいいだろうということで、これは進めていきたいと思っておりますし、また、今さまざまな方策がとられておりますけれども、地域によっては、教員の資格がなくても、経験のある地域の教育熱心な方に、一緒にクラスの中に入って見ているだけで生徒の態度が違ってくる。

 先生の中には、知識を教えるのに適した先生はいるけれども、一人どうしても言うことを聞かないような生徒がいると、ほかの子が気が散っちゃう。ところが、一人だけ他人が教室の後ろで黙って見ているだけで態度が違って、教えやすい環境が出てくる。暴れちゃまずいな、先生よりもおっかない人が後ろにいるな、あるいはおっかないおばちゃんがいるなというだけで、もう態度が変わっちゃって、教えやすい環境になる。こういうのも自由に地方でやったらいい。

 一律に削減するというんじゃない。そういう多様な、柔軟な対応をもって、日本の教育というのはよくなってきたな、生徒も学校へ行くのが楽しいな、先生も自分の足らざる点は地域のベテランなり教育熱心な地域の協力を得られるなという、多様な対策を提供できるような環境をつくっていくのが大事だと私は思っております。

石井(郁)委員 本当にこういう国際比較が厳然とあるわけでございますから、この状態をやはり早く改善しなきゃいけないというのは、国民が最も望んでいる、願っていることです。

 一昨日、当委員会でも参考人質疑をいたしまして、そのときに、これは国立大学の財務・経営センターの名誉教授、市川昭午さん、参考人としておっしゃっていました。

 昔は、政府も国民も、貧しい中で教育には熱心で、他国に例を見ないほどの割合で教育投資をしていました。それが、六〇年代から目立たなくなり、七〇年代には国際比較で下位グループになり、最近では大きくおくれをとるようになりました。皮肉にも、我が国が豊かになるにつれて米百俵の精神が失われてしまったのですと。

 私は、本当にこれが大方の教育関係また国民の率直なお気持ちだろう、そしてまた教育改革にやはり一番願っていることではないのかというふうに思います。

 今、日本の中で、本当に地方自治体、苦しい財政の中でも少人数学級に踏み出しています。長野を先頭に踏み出しています。今踏み出していないのは東京都と我が政府だけなんですね、国だけなんですよ。ですから、やはり予算をふやさないで、四十人学級のままで、今教育の格差、子供たちのいろいろな問題が出ている中で、勝ち組、負け組の教育を進める、競争と選別の教育を進めていこう、こういうことを一層促進するのが今回提出の教育基本法案だというふうに思うんですね。

 私は、やはりそういう教育改革に子供たち、そしてまた日本の将来をゆだねるわけにいかないということで、撤回以外にないということを申し上げて、きょうの質問を終わります。

森山委員長 次に、保坂展人君。

保坂(展)委員 社民党の保坂展人です。

 総理に、前回、先週に引き続いて、ちょっと確認をさせていただきたいんです。

 前回、愛国心を通知表で評価することについては、必要ないという明快な総理の答弁をいただきました。

 前回の通知表とは違う文面なんですが、簡単に紹介したいと思います。「我が国の歴史と政治及び国際社会での日本の役割に関心を持って意欲的に調べ、自国を愛し、世界の平和を願う自覚を持とうとする」という項目ですね。これについて小学校六年生で通知表という例があるんですけれども、これについても前回同様の見解ということでよろしいでしょうか。総理に伺います。

小泉内閣総理大臣 それは、一般的に全体的に考えれば、郷土に対する愛とか国に対する愛情を持つというのは、日ごろの生活の中ではぐくんでいくということは必要だと思いますが、実際の生徒を評価する項目として、今言ったような、この子には愛国心があるかとかなんとか、そういう項目は私は必要ないと思っております。

保坂(展)委員 それは、前回、先週のはもう使われていなかった通知表なんですが、今御紹介したのは現に今使われている通知表だということで、この辺はしっかり見直しをしていただきたいと思います。

 続けて、少し愛国心について考えてみたいんですけれども、今回の政府案では我が国と郷土を愛する態度を養う、あるいは中教審では涵養という言葉も出てきますよね。

 一般的に、愛国心を持って、その国を愛する、郷土を愛する、私もそれでいいと、全く自然なことだと総理がおっしゃることは、そのレベルでは同じだと思うんです。ただ、では、愛国心教育なるものをして、例えば愛国者を育てるべきなのかというようなことを考えていくと、愛国者とは何かというふうな話になっていくだろうと思います。

 例えば、愛国者だけの人がいるならば、私は熱烈な愛国者だと言う人も出てくるかもしれない。そして、自分は愛国者だと言いながら他人の意見や価値観には余り耳をかさないという人もいるだろうし、あるいは、愛国者とはみずから全く言わないけれども、国や社会の危機的状態に命をかけて多くの人の安全や人命を守るという働きをして、後からあるいはほかの人から愛国者というふうに言われる人もいるかと思います。

 ですから、愛国者という概念あるいは愛国心という概念について、これはそもそもみずから、内側から出てくるものであって、ひな形があって、このようにしなさいというものではないというふうに思うんですが、この点について総理の答弁をお願いします。

小泉内閣総理大臣 人間の徳目として大事なことはと聞かれると、昔からよく言われてきたことが、仁、義、礼、智、信ですかね。仁であり、義であり、礼であり、智であり、信用の信であると。そういう中で、そういうのをはぐくむためには、日本なり外国の国でも、自国の長い歴史の中で、こういう人が勇気ある行動をした、あるいは地域の人にこのような助け合うために献身的な活動をしたという過去の歴史上の人物の尊敬すべき点というものを話しながら、あるいは本を読みながら、ああ、こういう人に自分もなりたいなとか、ならなければいけないなという教育はあると思います。

 しかし、それは、お互い自分たちの共同体を守っていこう、自分の家族が乱暴を受けたり襲われたりしたら守らなきゃいけないというのは、日ごろのお互いの家族の中での生活、あるいは地域で助け合っている中での生活、そういう中で、私は、さまざまな行動において、学校における教育活動なり地域での活動なり家庭でのしつけ等ではぐくまれていくものだと思います。それを子供に対して愛国心、愛国者になれというのはまた違うんじゃないかなと思っているんです。

保坂(展)委員 少し例を挙げたいと思うんですが、五月十五日、沖縄が本土に復帰した記念の日、私は沖縄に行ってまいりました。そのときに、なかなか進まない普天間基地の周辺、そしていわゆる海上ヘリ基地という移設予定地でありまた今も焦点の辺野古の人たちと、特に七十代の昔からこの地に生きた方のお話を聞いてきたんですね。

 確かに、美しい海があり、そして豊かな自然の恵みで漁業は盛んですし、また大変豊かな生態系である。そこで、彼らが、海上ヘリ基地に反対をして、船やボートを出して、抗議というよりは説得活動といって、若い工事作業員に対して我々の心をわかってくれということを繰り返されていたんですね。彼らが、自然や郷土を守る人たちであることは疑いないと思うんですが、しかし、統治機構である国は、方針として海上基地をつくるということを急いでやろうとしましたから、郷土、自然を守るために声を上げている人たちと形の上では衝突をするといいましょうか、そういうことになりました。

 今回の教育基本法から見ると、こういう人たちの抱くふるさとを守る、美しい自然、郷土を守る心と法律に掲げられるいわば我が国を愛する態度、ここはどういうふうに関連をするんでしょうか。総理に伺います。

小泉内閣総理大臣 これは、政治問題であって、地域の問題であって、愛国心とは別の問題だと私は思いますけれども……(保坂(展)委員「いや、愛郷心」と呼ぶ)

 愛郷心というのは、どなたにもあるし、それは、普天間の飛行場を返還していく地域の人は賛成でしょうし、地域だって、同じ沖縄県でも、賛成、反対いるんですから。日本国民だって、沖縄の基地負担軽減賛成、しかし自分のところは反対でしょう。ここが基地問題の難しさなんですよ。日本の安全を確保してくれ、賛成、日本独自で今の日本の安全は守れない、日米安保条約賛成、しかし自分のところは基地はだめだと。これを解決するのが政治の難しいところですよ。だから、それは愛国心とはまた別の問題だ。反対する人も賛成する人も愛国心はあると思いますよ。

保坂(展)委員 反対する人も賛成する人も愛国心はあるということでした。

 今度は、教師、教員について総理のお考えをお聞きしたいと思うんですが、生徒に対して、内心に介入をしてABCで評価したり、そういうのはいけないということですけれども、教員については、つまり授業において子供たちに伝えていくという場を持っているわけですが、教員についてはどう総理はお考えになっているでしょうか。

小泉内閣総理大臣 教員に対しては、当然、評価はあるでしょうね。教え方のうまい人、下手な人、社会に出て困らないように生徒に礼儀なり礼節、そういうのをうまく教える人。外国へ行って国旗・国歌なんか軽蔑していいというような人は、教師に適しているとは私は思わない。国旗・国歌に敬意を払うというのは、当然の、法律以前の礼儀の問題ですよ。こういう教員に対して評価というのは、私はあってしかるべきだと思いますよ。

保坂(展)委員 教員に対しては評価が必要だということなんですが、今の愛郷心と愛国心のやりとりでもわかるように、極めて解釈の幅もありますし、総理は基地に反対する人も賛成する人も愛国心はあると思いますよ、そういう非常に幅広い考えを今言っていただいたんですが、しかし、場合によっては、総理と同じことを教室で教えたあるいは語ったとすれば、これはどうも学習指導要領や公共の精神を重んじるということに逸脱しているんじゃないか、こういうような指導が教育委員会から入って、例えば、その教員が処分を受ける、あるいは愛国心をどれだけ強調したかどうか、授業の記録をきちっと示すべきだ、こういう議論になって、しかし、愛国心の授業といったって、いろいろなアプローチが御存じのようにあるわけですね。それを一つのひな形にはめるようなことになっていかないか、これが心配な点なんですが、総理はどう考えますか。

小泉内閣総理大臣 それは、具体的にどういう指導が行われて、政治問題までどの程度生徒に教えるかという問題だと思います。小中学生に教師の政治信条を教えるという必要はないと思います。どういう見方があると。教師が、自分は基地反対だ、日米安保条約は反対だ、これを生徒に教えていいかどうか。こういう意見がある、こういう意見があるというのはいいですよ。あえて小中学生に政治的信条を押しつけるというのは適切とは思いません。

保坂(展)委員 こういう意見がある、こういう意見があるというふうに例示することは構わないということですか、総理。政治についていろいろな意識を持ってもらわなきゃいけないという話もありますから。

小泉内閣総理大臣 それは、子供に合わせて、今最近の社会教育の中でどういうものが問題か、この問題に対してはこういう意見がある、ああいう意見がある、Aの意見、Bの意見、そういうのは私は、年齢によって、あるいは時世の大きな社会問題が起こっている場合に、生徒に理解をしてもらおうということで教えるのはいいと思います。しかし、教員がこう考えているからこれが正しいんだと、教員の考えを押しつけるというのはよくないと思っております。

保坂(展)委員 同時に、教育行政がひな形をつくって、ある価値観を押しつけるということもよくないというふうに思います。

 この教育基本法の議論、いろいろ幅広いんですけれども、きょうは総理にも来ていただいているので、実は、きょうは六月一日でございます。二年前に佐世保で痛ましい事件が起こって、ちょうど二年たつわけであります。二度とああいう事件が起こらないように、これは立場を問わず、親たちの、そして教育関係者、あるいは政治にかかわる者すべての共通の気持ちだと思います。

 ただ、実は、命の教育、命の大切さということをどうやって子供に伝えていったらいいのかということについて、いろいろ考えさせられる出来事が起こっておりまして、例えば、あの事件が起きた、二年前でございますけれども、十月三十日、事件から四カ月後に、長崎県の五島市の十一歳の小学校五年生が、道徳の授業で命の大切さについて作文を書いているんですね。「苦しい時に笑って生きるのは素晴らしい」と書いて、翌日、命を絶ってしまった。これは、なぜこういうことになったのか深くはわかりません、また、大きく報道された事件でもございませんから。

 ですから、子供たちが非常に命について希薄に、自分は生きているんだということを実感し得ない状態というのは、必ずしも、先生が命は大切なんだよということを教える、あるいは指導要領に盛り込むとか、そういう問題ではないんじゃないか。むしろ、子供たちが今楽しいというふうに実感できるような場面や、例えば子供たち自身の生活をもう一回検証してみると、そこらに問題があるんじゃないか。

 分刻みのスケジュール、都会ではもちろんですけれども、地方でも子供たちはかなり忙しくなっています。自由で、自分自身を回復していける時間というのは、案外、今の子供たちは、子供だから自由だろう、遊べるだろうというけれども、そんなこともないんですね。

 総理、その辺のことを、自分の子供時代のこともおっしゃっていますので、どうお感じになったか、お話しいただきたいと思います。

小泉内閣総理大臣 どういう感じになったかというのは、質問の趣旨に答えているかどうかわかりませんけれども、私は、まず、学校に初めて行く生徒にとって大事なことは、先生が子供たちをしっかりと受けとめて認めるということ、学校に来るのが楽しい、そういう雰囲気を先生がつくること、そして、学ぶことの楽しさを理解してもらうこと、生徒にとって。その前にもっと大事なことは、子供が、親から、周りから、自分は愛されているな、受けとめられているな、認められているなということを持つことが一番大事だと思っています。

 それを、本来、子供は愛されるべき存在でありながら、最近、親の一部の中には、虐待するという、もう人間にあるまじき行為をする大人、親が出てきたというのは憂うべき事態でありますけれども、まず大事なことは、この世に生まれてきて、ああ、自分は周りから愛されているんだな、そういう心持ちをしっかり持ってもらうような周りの大人たちの環境、学校に行ったら、学校は楽しい、学ぶことは楽しい、それが教育の大前提だと私は思っております。

保坂(展)委員 命の大切さについて、授業や作文ということで迫るスタイルがあるわけですけれども、それだけではやはり子供の日常に届かないし、心にも届かないのではないかという趣旨で今のお話を紹介したんですね。この点についてどうお考えか、お願いします。

小泉内閣総理大臣 文章で書く能力というのも急にはできませんし、自分の気持ちを作文しなさい、文章で書きなさい、この能力を身につける場合でもかなり大変ですよ。そういう能力を身につけるということも教育の過程の中では大事ですけれども、その文章を書いた後にすぐ自殺したという例を出されましたけれども、それもどういう事情があったか私はわかりません。さまざまなその生徒の環境があったと思います。今、その生徒の心の中まで私はそんたくする能力もないし、立場でもない。

 しかし、命の大切さを知るということの原点は、この世に生まれて、ああ、自分は認められているな、受けとめられているな、愛されているなという感情をまず持ってもらうような大人の対応、周りの環境、これが一番大事だと思っております。

保坂(展)委員 「苦しい時に笑って生きるのは素晴らしい」というその文章に私は非常にショックを受けております。

 時間となりましたので、終わります。

    ―――――――――――――

森山委員長 この際、参考人出頭要求に関する件についてお諮りいたします。

 両案審査のため、来る六日火曜日午前九時、参考人の出席を求め、意見を聴取することとし、その人選等につきましては、委員長に御一任願いたいと存じますが、御異議ありませんか。

    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕

森山委員長 御異議なしと認めます。よって、そのように決しました。

 次回は、明二日金曜日午前八時四十分理事会、午前九時委員会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。

    午後零時六分散会


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