衆議院

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第3号 平成27年6月4日(木曜日)

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平成二十七年六月四日(木曜日)

    午前九時開議

 出席委員

   会長 保岡 興治君

   幹事 後藤田正純君 幹事 河野 太郎君

   幹事 根本  匠君 幹事 平沢 勝栄君

   幹事 船田  元君 幹事 古屋 圭司君

   幹事 武正 公一君 幹事 井上 英孝君

   幹事 北側 一雄君

      赤枝 恒雄君    穴見 陽一君

      安藤  裕君    池田 佳隆君

      石崎  徹君    江崎 鐵磨君

      衛藤征士郎君    木原  稔君

      小島 敏文君    佐藤ゆかり君

      白石  徹君    田畑 裕明君

      高木 宏壽君    土屋 正忠君

      寺田  稔君    豊田真由子君

      中山 展宏君    牧島かれん君

      牧原 秀樹君    松本 文明君

      宮崎 謙介君    宮崎 政久君

      武藤 貴也君    務台 俊介君

      村井 英樹君    山下 貴司君

      山田 賢司君    山本 有二君

      若宮 健嗣君    大島  敦君

      鈴木 克昌君    辻元 清美君

      中川 正春君    長妻  昭君

      古本伸一郎君    鷲尾英一郎君

      小沢 鋭仁君    馬場 伸幸君

      吉村 洋文君    國重  徹君

      斉藤 鉄夫君    浜地 雅一君

      赤嶺 政賢君    大平 喜信君

      園田 博之君

    …………………………………

   参考人

   (早稲田大学法学学術院教授)           長谷部恭男君

   参考人

   (慶應義塾大学名誉教授)

   (弁護士)        小林  節君

   参考人

   (早稲田大学政治経済学術院教授)         笹田 栄司君

   衆議院憲法審査会事務局長 阿部 優子君

    ―――――――――――――

委員の異動

六月四日

 辞任         補欠選任

  棚橋 泰文君     中山 展宏君

  土屋 正忠君     田畑 裕明君

  宮崎 謙介君     豊田真由子君

  務台 俊介君     牧島かれん君

  村井 英樹君     穴見 陽一君

同日

 辞任         補欠選任

  穴見 陽一君     村井 英樹君

  田畑 裕明君     土屋 正忠君

  豊田真由子君     宮崎 謙介君

  中山 展宏君     石崎  徹君

  牧島かれん君     白石  徹君

同日

 辞任         補欠選任

  石崎  徹君     棚橋 泰文君

  白石  徹君     務台 俊介君

    ―――――――――――――

五月二十八日

 集団的自衛権行使容認の閣議決定撤回に関する請願(照屋寛徳君紹介)(第一三一七号)

 同(仲里利信君紹介)(第一三一八号)

 政府に集団的自衛権の行使容認の閣議決定を撤回させることに関する請願(照屋寛徳君紹介)(第一三一九号)

 日本国憲法第九条を守り、生かすことに関する請願(篠原孝君紹介)(第一三二〇号)

 同(田村貴昭君紹介)(第一三二一号)

 同(高橋千鶴子君紹介)(第一三二二号)

 同(仲里利信君紹介)(第一三二三号)

 同(畑野君枝君紹介)(第一三二四号)

 同(畠山和也君紹介)(第一三二五号)

 同(藤野保史君紹介)(第一三二六号)

 同(堀内照文君紹介)(第一三二七号)

 同(真島省三君紹介)(第一三二八号)

 同(宮本岳志君紹介)(第一三二九号)

 同(宮本徹君紹介)(第一三三〇号)

 同(本村伸子君紹介)(第一三三一号)

 憲法改悪に反対し、第九条を守り、生かすことに関する請願(藤野保史君紹介)(第一三三二号)

六月二日

 閣議決定を撤回し、日本国憲法第九条を守り、生かすことに関する請願(塩川鉄也君紹介)(第一三五二号)

 憲法九条を守り、九条改憲につながる九十六条の改憲に反対することに関する請願(本村伸子君紹介)(第一三五三号)

 集団的自衛権行使容認の閣議決定撤回を求めることに関する請願(本村伸子君紹介)(第一三五四号)

 集団的自衛権行使容認の閣議決定を撤回し、日本国憲法第九条を守り、生かすことに関する請願(塩川鉄也君紹介)(第一三五五号)

 同(赤嶺政賢君紹介)(第一五〇四号)

 同(池内さおり君紹介)(第一五〇五号)

 同(梅村さえこ君紹介)(第一五〇六号)

 同(大平喜信君紹介)(第一五〇七号)

 同(笠井亮君紹介)(第一五〇八号)

 同(穀田恵二君紹介)(第一五〇九号)

 同(斉藤和子君紹介)(第一五一〇号)

 同(志位和夫君紹介)(第一五一一号)

 同(清水忠史君紹介)(第一五一二号)

 同(塩川鉄也君紹介)(第一五一三号)

 同(島津幸広君紹介)(第一五一四号)

 集団的自衛権の行使を容認した閣議決定を撤回し、日本国憲法を尊重・遵守することに関する請願(塩川鉄也君紹介)(第一三五六号)

 日本を他国のために戦争をする国へ変える閣議決定撤回に関する請願(藤野保史君紹介)(第一三五七号)

 政府に集団的自衛権の行使容認の閣議決定を撤回させることに関する請願(阿部知子君紹介)(第一三五八号)

 日本国憲法第九条を守り、生かすことに関する請願(藤野保史君紹介)(第一三五九号)

 同(堀内照文君紹介)(第一三六〇号)

 同(堀内照文君紹介)(第一四四八号)

 憲法改悪に反対し第九条を守り生かすことに関する請願(畑野君枝君紹介)(第一四三九号)

 同(畠山和也君紹介)(第一四四〇号)

 憲法改悪に反対し、第九条を守り、生かすことに関する請願(大平喜信君紹介)(第一四四一号)

 同(高橋千鶴子君紹介)(第一四四二号)

 憲法を改悪せず、第九条を守り抜くことに関する請願(堀内照文君紹介)(第一四四三号)

 憲法を守り、生かすよう求めることに関する請願(藤野保史君紹介)(第一四四四号)

 憲法の改悪反対、九条を守ることに関する請願(島津幸広君紹介)(第一四四五号)

 集団的自衛権行使容認の閣議決定撤回に関する請願(赤嶺政賢君紹介)(第一四四六号)

 同(真島省三君紹介)(第一四四七号)

 集団的自衛権行使を容認する閣議決定を撤回し、日本国憲法九条を守り、生かすことに関する請願(小宮山泰子君紹介)(第一四九二号)

 日本国憲法を守り生かすことに関する請願(赤嶺政賢君紹介)(第一四九三号)

 同(池内さおり君紹介)(第一四九四号)

 同(梅村さえこ君紹介)(第一四九五号)

 同(大平喜信君紹介)(第一四九六号)

 同(笠井亮君紹介)(第一四九七号)

 同(穀田恵二君紹介)(第一四九八号)

 同(斉藤和子君紹介)(第一四九九号)

 同(志位和夫君紹介)(第一五〇〇号)

 同(清水忠史君紹介)(第一五〇一号)

 同(塩川鉄也君紹介)(第一五〇二号)

 同(島津幸広君紹介)(第一五〇三号)

は本憲法審査会に付託された。

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 参考人出頭要求に関する件

 日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制に関する件(憲法保障をめぐる諸問題(「立憲主義、改正の限界及び制定経緯」並びに「違憲立法審査の在り方」))


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     ――――◇―――――

保岡会長 これより会議を開きます。

 日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制に関する件、特に憲法保障をめぐる諸問題(「立憲主義、改正の限界及び制定経緯」並びに「違憲立法審査の在り方」)について調査を進めます。

 この際、参考人出頭要求に関する件についてお諮りいたします。

 本件調査のため、本日、参考人として早稲田大学法学学術院教授長谷部恭男君、慶應義塾大学名誉教授・弁護士小林節君及び早稲田大学政治経済学術院教授笹田栄司君の出席を求め、意見を聴取いたしたいと存じますが、御異議ありませんか。

    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕

保岡会長 御異議なしと認めます。よって、そのように決しました。

    ―――――――――――――

保岡会長 この際、参考人各位に一言御挨拶を申し上げます。

 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただき、まことにありがとうございます。参考人それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたいと存じます。

 本日の議事の順序について申し上げます。

 まず、長谷部参考人、小林参考人、笹田参考人の順に、それぞれ二十分以内で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑に対しお答え願いたいと存じます。

 なお、発言する際はその都度会長の許可を得ることとなっております。また、参考人は委員に対し質疑することはできないこととなっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。

 御発言は着席のままでお願いいたします。

 それでは、まず長谷部参考人、お願いいたします。

長谷部参考人 本日は、このような形で発言の機会を与えていただきまして、本当にありがとうございます。

 本日は、主に立憲主義についてお話を申し上げようと思います。

 立憲主義という言葉は、いろいろな意味で用いられますが、大きく広い意味と狭い意味を区別することができます。

 広い意味の立憲主義、これは、政治権力を何らかの形で制限する考え方、これを広く指して用います。例えば、中世のヨーロッパにも立憲主義があった、そう言われるときには、この意味で立憲主義という言葉が使われております。

 中世のヨーロッパでは、当時の支配的な宗教であり世界観であるキリスト教に基づきまして、何が正しい生き方かがあらゆる人にとって決まっておりました。為政者についても当然、政治権力の正しい行使の仕方が決まっています。そして、それに違反をすれば、教会を破門され、臣下の服従義務は解かれる、そうしたリスクにさらされておりました。

 また、ローマ教皇についても、彼が異端の思想に染まったときは、全クリスチャンの代表から成る公会議によって、あるいはさらに公会議を代表する枢機卿会議によって教皇がその地位を追われる、それもあり得ると考えられておりましたし、実際、コンスタンツの公会議におきましては、教会を分裂させた三人の教皇を廃位いたしまして、新たな教皇を選出しております。

 キリスト教という一元的な思想そして世界観に基づいて、政治権力も制限されていたわけです。

 他方、現在、日本を含めた先進諸国で共通に立憲主義として理解されておりますのは、狭い意味の立憲主義です。これは近代立憲主義とも言われ、近代初めのヨーロッパで確立した考え方です。

 当時のヨーロッパは、一方では、宗教改革後の激烈な宗派間の対立を経験し、他方では、大航海時代でもありましたために世界各地で多様な暮らしぶりや考え方に出会った経験から、人にとっての生き方や世界の意味づけ方、これはただ一つには決まっていない、多様な、相互に両立し得ない価値観、世界観があるのだ、そのことを事実として認めざるを得ない状況に置かれておりました。

 宗派間の対立をとってみますと、プロテスタントにしろ、カトリックにしろ、それを信仰する人にとっては、自分にとっての正しい生き方、世界の正しい意味づけ方を教えてくれる大事な、かけがえのないものであります。そうである以上、自分だけではなく、ほかの人も全て信じてしかるべきだと考えるのが人としての自然の傾向でありますが、ただ、その自然の傾向のままに、各自にとっての正しい信仰をほかの人に押しつけよう、押しつけようとしますと、そうすると、ここに深刻な対立が起こります。現在でも、世界の各地におきまして、何が正しい信仰であるか、それがもとになって大変に激しい紛争が起こっていることは、御承知のとおりであります。

 これに対しまして、近代立憲主義は、価値観や世界観は人によってさまざまである、これを正面から認めるべきだ、そういう認識から出発をいたします。多様な価値観、世界観について、いずれがより正しいかを議論しても意味がありません。客観的に比較する物差しがそもそもそこにはないからであります。むしろ、どのような世界観、人生観を持つ人であろうと人間らしい平和な社会生活を送ることができるようにするためには、どのような社会のあり方を基本とすべきか、それをまず考えるべきだということになります。ホッブズ、ロック、ルソー、カントといった近代立憲主義の基礎を築いた政治思想家たちは、いずれも、この問題に回答しようとした人たちであります。

 近代立憲主義は、そうした社会生活の基本的な枠組みといたしまして、公と私とを区分することを提案します。

 私の領域におきましては、各自がそれぞれ、自分が正しいと思う世界観に従って生きる自由が保障されます。志を同じくする仲間や家族と生きる自由も保障されます。

 他方で、社会全体の共通の利益にかかわる公の領域におきましては、各人が抱いている世界観はひとまず脇に置いて、どのような世界観を抱いている人であっても人間らしい社会生活の便宜を享受するためには何が必要なのか、各自がどのようにコストを負担すれば公平な負担と言えるのか、それを落ちついて理性的に話し合い、決定をしていく必要がございます。

 日本国憲法もそうですが、近代立憲主義に立脚する国々の憲法、これは、基本権、憲法上の権利を保障する条項を定めていることが普通です。それらは、一方では、私の領域におきまして、それぞれの人がみずからの信ずる宗教を奉じ、各自が正しいと考えることを表現し、プライバシーの守られる空間でみずからの財産を使いながら生きる自由を保障します。自由な私の領域を確保するためのさまざまな権利が保障されております。

 他方で、報道の自由、取材の自由、結社の自由、参政権等、主に公の領域におきまして、社会全体の利益を効果的に実現するために何が必要か、それを理性的に審議し、決定するために保障されているさまざまな権利もあります。そうした権利に支えられた民主政治の具体のプロセスについて定める統治機構に関する規定ももちろん備えられております。

 こうした近代立憲主義に立脚する憲法、これは、通常の法律に比べますと変更することが難しくなっていること、つまり硬性憲法であることがこれまた通常でございます。今述べました基本的人権を保障する諸条項、民主政治の根幹にかかわる規定、これは、政治の世界におきまして、選挙のたびに起こり得る多数派、少数派の変転や、たまたま政府のトップである政治家の方がどのような考え方をするか、そういったものとは切り離されるべきだから、つまり、その社会の全てのメンバーが中長期的に守っていくべき基本原則だからというのがその理由であります。

 また、憲法の改正が難しくなっている背景には、人間の判断力に関するある種悲観的な見方があると言ってもよろしいでありましょう。人間というのは、とかく感情や短期的な利害にとらわれがちで、そのために、中長期的に見たときには合理的とは言いがたい、自分たちの利益に反する判断を下すことが間々あります。ですから、国の根本原理を変えようというときは、本当にそれが、将来生まれてくる世代も含めまして、我々の利益に本当につながるのか、国民全体を巻き込んで改めて議論し、考えるべきだということになります。それを可能とするために、憲法の改正は難しくなっております。さらに、改正を難しくするだけではなく、国政の実際においても憲法の内容が遵守され具体化されていくよう、多くの国々では違憲審査制度が定められております。

 近代立憲主義の内容とされる基本的人権の保障、そして民主的な政治運営は、時に普遍的な理念、普遍的な価値だと言われることがあります。

 ここで、普遍的というのが、世界の全ての国が大昔から現在に至るまで、全てこの近代立憲主義の理念に沿って運営されてきた、そういう意味であれば、これは正しい言い方ではございません。実際には、現在でさえ、こうした理念にのっとって国政が運営されているとは言いがたい国は少なからずございます。また、日本も、第二次世界大戦の終結に至るまでは、この近代立憲主義に基づく国家とは言いがたい国でありました。

 さらに、民主主義について申しますと、十九世紀に至るまでは、民主主義はマイナスのシンボルではあっても、プラスのイメージで捉えられることはまずなかったと言ってよろしいでありましょう。それでも、現在では、基本的人権の保障や民主的な政治運営は普遍的に受け入れられるべきものとされております。

 ただ、問題は、憲法典の中に基本的人権を保障する条項、民主的な政治制度を定める条項が含まれているか否か、それには限られておりません。これらの条項の前提となる認識、つまり、この世には、人としての正しい生き方、あるいは世界の意味や宇宙の意味について、相互に両立し得ない多様な立場があるということを認め、異なる立場に立つ人々を公平に扱う用意があるか、それこそが、実は普遍的な理念に忠実であるか否かを決していると言うことができます。

 そして、近代立憲主義の理念に忠実であろうとする限り、たとえ憲法改正の手続を経たとしても、この理念に反する憲法の改正を行うことは許されない、つまり改正には限界があるということになります。

 ただ、近代立憲主義の理念に立脚する国々も、各国固有の理念や制度を憲法によって保障していることがあります。日本の場合でいえば、天皇制や徹底した平和主義がこれに当たるでありましょう。こうしたそれぞれの国の固有の理念や制度も、その時々の政治的多数派、少数派の移り変わりによっては動かすべきではないからこそ、憲法に書き込まれているということになります。

 もっとも、これら国によって異なる理念や制度は、普遍的な近代立憲主義の理念と両立し得る範囲内にとどまっている必要があります。つまり、特定の人生観や宇宙観を押しつけるようなことは、近代立憲主義のもとでは、憲法に基づいても認められないということになります。

 憲法を保障するという言葉もいろいろな意味で使われることがございますが、現在の日本で申しますと、価値観や世界観、これは人によってさまざまである、しかし、そうした違いにもかかわらず、お互いの立場に寛容な、人間らしい暮らしのできる公平な社会生活を営もうとする、そうした近代立憲主義の理念を守るということ、そして憲法に書き込まれた日本固有の理念や制度を守り続ける、それが憲法を保障することのまずは出発点だということになるでありましょう。

 まことに雑駁な話でございますが、以上で、立憲主義に関する私の説明を終わらせていただきます。

 どうも御清聴ありがとうございました。(拍手)

保岡会長 ありがとうございました。

 次に、小林参考人、お願いいたします。

小林参考人 私は、このレジュメを目で追いながら語らせていただきます。

 立憲主義の歴史につきましては、先ほど長谷部教授がおっしゃったところで尽きていると思いますが、現代において憲政実務を考えるとき、結論をはっきり申し上げますと、立憲主義というのは、権力者の恣意ではなく、法に従って権力が行使されるべきであるという政治原則で、これは先ほどのお話の中にもありましたけれども、人間の本質が神のごとき完璧なものではないという、これはもう紛れもない事実認識でありまして、これを前提とするものであります。

 改めて申し上げておきたいことは、立憲主義というのは、歴史が流れてきたこの現代においては、選択の対象ではない、とる、とらないを議論するものではなくて、これは所与の前提であるということを申し上げておきます。

 であるからこそ、この憲法が現実との間でそごが生じてはいけないし、生じたらそれをどうやって予防、匡正するかという憲法保障という話になってくるわけであります。

 具体的には、日本国憲法の中に、まず、当たり前のことでありますが、最高法規であるということの宣言、これがないと全て始まりませんので、まずこの確認。

 そして、権力は、我々一般民間人が担うものではなくて、国家という法人格は肉体がありませんので、約束事の権力主体でありますから、結局は、国家の名で行動し得る資格を持った自然人、つまり、生身の人間が権力を帯びた瞬間から権力者になるわけでありまして、それは、政治家のような最高権力者から町の役場の職員まで全てであります。つまり、公務員の憲法尊重擁護義務を明記するということが次の順番であります。

 それから、憲法保障というと違憲立法審査権の話にすぐなるんですが、それだけではなくて、三権分立もまさに憲法保障でありまして、国会は立法権を持っているが、立法権以外のものを行使してはならない。だから、国会が裁判所のまねごとをして叱られたこともありますし、それから、内閣は行政府であって立法府でありませんから、内閣は立法権はありません。それから、外交に関しても、交渉担当の内閣と、それに対して承認権を持つ国会という役割分担の中で、チェックス・アンド・バランシズが図られるわけであります。

 さらに、国会の中に目を転ずれば、二院制というのも国会内権力分立でありまして、つまり、非効率を当然としながら、その非効率の中で正しさを図っていく。もちろん正しさというのは、先ほどの話にもありましたけれども、全ての人にとって正しさは違うわけですから、全ての人が等価値となれば、とりあえず一定任期は多数決に従って、そしてまたトライアルズ・アンド・エラーズでやり直していく、こういう非能率の中で正しさを担保していく。

 国会と内閣の関係は議院内閣制、これも権力分立の一側面です。

 やはり一番期待されるのは司法審査でありますが、ただ、御存じのとおり、日本はアメリカ型のいわゆる司法型をとっておりますので、具体的な事件にならない限り、裁判所は憲法問題は扱ってくれません。

 ですから、例えば、今問題になっている新安保法制でも、憲法違反だと訴えて退けられた人がいるんです。それは当たり前の話でありまして、例えばこういうことですよね。海外派兵を下令された部隊の隊員が出発の朝に逃げ出して懲戒処分を受ける、そうしたら、その懲戒処分が違法、無効である、なぜならば、その前提となる法制度及び海外派遣命令が憲法違反であるから、こういう議論を四、五年かけてやるわけですよね。これはやはり、当事者の負担を考えてみても、なかなかこういうことは起きようがない。

 ですから、意外と司法審査というのは、最後に抜く刀ではあるけれども、簡単には抜けない。ということは、逆に言えば床の間の刀であるわけでありまして、ほかの憲法保障が重要になってくるわけであります。

 よく、ドイツ型の、まだ事件化していないときに訴え出られることを議論するんですけれども、それまた、つまるところ、そうすると、国会内の少数派が一々それをチャレンジして国が動かなくなっても困るので、国会議員三分の一とか、それから内閣自体が原告になるとか、そういう出訴資格を制限することしか方法はないわけでありまして、これまたやはり、決して完璧なものはないわけであります。

 それで、これも意外と思われるかもしれません、改正手続が存在すること自体が憲法保障であるということを申し上げておきます。

 つまり、不完全な人間が、歴史の曲がり角で、半ば一種興奮した中で、ジョージ・ワシントンに言わせると、余り時間をかけずに憲法というのはつくらないと、とっ散らかってまとまらない。ということは、今の日本国憲法の中にも誤字脱字はございますし、それから、当時予想し得ていなかった事態に直面しております。ですから、憲法改正の道を残しておかないと、憲法は破壊されるしかなくなってしまうんですね。だから、改正手続の存在も、憲法を生かしていく手段であるということはお気づきいただきたいと思います。

 ただし、だからといって、法律のごとく相対多数決でくるくる変わってしまうのであれば、権力、政権を持っているということは常に国会内相対多数決を持っているわけですから、その方たちが一番憲法に縛られる立場でありますから、それだけに一番不愉快に思っておられるでしょう。その方たちが簡単に改憲を発議できるようでは憲法ではなくなってしまうわけでありますから、先ほど長谷部教授のお話にもあったように、憲法は、憲法である以上、硬性、かたい、削りにくいようにつくられて当たり前であります。

 改正権の限界でございますが、私は簡単に、論理的限界と価値的限界と分けておきます。

 論理的限界というのは、憲法というのは理論的には憲法制定権力によってつくられるものですから、改正権力は、いわば制定権力と比べると親と子の関係にありまして、子の権利で親の権利の領域に踏み込むことはできないだろうという論理展開であります。ですから、憲法改正権力ごときもので憲法制定権力を動かす、主権を動かすとか、そういうようなことはそもそもできないということであります。

 それから、価値的限界というのは、やはり人類は歴史の中で試行錯誤しながら英知を磨いて生きてきておりますから、先ほどの長谷部教授のお話の中にもありましたけれども、現時点での到達点で浮かび上がってきた譲り得ない価値というのがあると思うんですね。人権の尊重とか、それから、その意味についていろいろ争いはあると思いますけれども、平和主義の反対は軍国主義ですから、軍国主義を選ぶとは、さすがに常識があったら言えないですよね、平静な状態では。

 ですから、平和主義という価値とか人権の尊重とか、つまり人が人であることを尊重し合うということを否定する憲法は、それは手続的には可能でしょうけれども、あってはならないという意味で、価値的限界にぶつかるということを申し上げておきたいと思います。

 それから、後でちょっとお試し改憲と押しつけ憲法論についてまとめてお話ししたいので、ちょっと飛ばして、最後のところにいきます。

 既に憲政の現実の中におられる先生方はお気づきと思いますけれども、憲法というのは、六法全書の中で唯一最高権力を縛る位置にあるものですから、最高権力の上に置かれるものだから、ありがたくも最高法という名前で神棚に載っちゃうんですね。でも、逆に言えば、最高法である以上、後ろ盾は何にもないんですよね。

 例えば、私が民法とか刑法に反することをして逃げ回っていたら、最終的には、日本国憲法が機能している限り、裁判所と法務省でけりをつけられてしまうわけですよね。ですから、民法とか刑法などは憲法がきちんと機能している限り機能できるんですけれども、憲法というのは、最高権力を管理しなければならないから最高法の位置に上げられているということは、後ろ盾が一つもない。よく考えたら、ただの紙切れになってしまうんですね。ですから、権力者が開き直ったとき、ではどうするかという問題に常に直面するわけであります。

 ただ、これは、ある意味で簡単でありまして、なぜ権力者が権力者の地位でいられるかは、日本の憲法構造からいけば、選挙で過半数の議席を獲得したからでありまして、それに国民が気づいたら、選挙でその過半数を奪い返せばいい、これまた簡単でありまして、まるで高校の社会科の授業みたいになってまいりましたけれども、やはり民衆のレベルにふさわしい政府に行って戻って、行って戻ってということなんだと思います。

 あと、お試し改憲という言葉と押しつけ憲法論についてちょっとお話しして終えさせていただきます。

 お試し改憲というのはどなたがネーミングしたか知りませんけれども、なかなかいいネーミングだとは思うけれども、おちょくっている側からいくと、大変無礼な言い方になるんでしょう。

 私、もう三十年以上前から、自主憲法制定国民会議かな、その種類の会合にずっと毎月出ていまして、そういう中で、はっきり覚えているんですけれども、憲法九条を改正する必要がある、いや、今でも思っています。余りに混乱の原因になりますから、これは整理した方がいい。

 ただ、戦争体験と、それからやはり占領時の一種の情報コントロールのせいで、国民は、憲法九条にさわることについて感情的な反発を持ってしまっている。だから、これを和らげるために、まずは、国民にショックの少ない、新しい人権とかそういうところから改憲のプラクティスを、練習をしてということを私自身申し上げた記憶があるし、かつ、そういう発言にくみしたことはあります。

 それは非常に真面目なお試し改憲だったんですけれども、今は何かお試し改憲というとおちょくり言葉になっているので、それは随分失礼な話だなと思うんですけれども、日本の憲法風土を考えたら、やはりお試し改憲というのは僕はあり得ると思うんです。真面目に、真面目にお試し改憲はあり得ると思っております。

 ただ、最近、大分、中国のおかげといったら変なんですけれども、風雲急になってまいりまして、九条神話に浸っていていいのかという議論は立つようなった。もちろん、九条の使い道は私はあると思っています。おかげで七十年間海外に行かないでいたという、これは大変な実績でありまして、改憲論者の私としては盲点でありましたけれども。

 あと、押しつけ憲法論なんですけれども、これはぜひ実務家である政治家の方に御意見申し上げたいのは、この押しつけ憲法論の押し問答というのは、生産的でないと思うんですね。

 いわば、もう戦後七十年も来て、現実の前で我々この国をどうするかの話をするとき、突然七十年前に戻って、押しつけられたの、いや押しつけられていなかったのという、史料などというのは発掘すればどちらでも出てくるわけであります。

 もちろん、客観認識として、負けた国が占領されていたわけですから、押しつけられたのはこれは歴史的事実でありまして、それを悔しいと言っても、戦をして負けた以上それはしようがない話であります。いや、民間にそれを受け入れる意見があったとかそういう歴史論争にくみする気は私はないのですけれども、要は、その後、この憲法のもとで現にこの国会がここに存在する、すばらしい発展を遂げたことは間違いない事実だと思うんですね。ですから、過去に向かって恨み節を言い合うよりも、今どうするかに国としてのエネルギーを使っていただきたい。

 ですから、私は、よく問われるんですけれども、押しつけ憲法論、そのとおりだと思います。でも、だからこの悔しさを改憲に変えなければという感情にくみすることは無駄であると私は思っております。

 以上であります。(拍手)

保岡会長 ありがとうございました。

 次に、笹田参考人、お願いいたします。

笹田参考人 笹田でございます。

 こういう会にお招きいただきまして発言の場を与えていただきまして、どうもありがとうございます。

 十一年前の衆議院の憲法調査会でも、ほぼ同じようなテーマで私はお話ししたことがございます。それを思い出しながら、若干、先生方と比べまして、私、数字を使ったレジュメをつくりましたので、長目のレジュメとなりましたので、それを見ながらお話をさせていただきたいと思います。

 今お二人の先生方のお話にもありましたように、とりわけ小林先生のお話にありましたけれども、立憲主義のかなめ、最後の実現過程として違憲審査制というものがあります。

 例えば、ドイツを考えてみますと、ドイツで憲法の優位、そして憲法裁判が初めてやはりリアルに出てきたのは戦後でございます。同じように、日本もそういう形で出てくるわけですけれども、ただ、ドイツは憲法裁判所という制度をつくり、日本はアメリカ型の司法裁判所という型をつくったということになります。

 そこに二つのタイプというふうにお書きしておりますが、具体的事件の存在、これも小林先生の方から少し御説明ありましたとおりでございまして、やはり我々のとっている司法審査型というのは、自分の権利、法的利益が侵害されたときにそれを回復するというのがベースになります。したがって、この具体的事件の存在というのがどうしても大きなものとなります。

 アメリカの司法審査が典型でございますが、アメリカの場合は、合衆国憲法に明文で規定されているわけではなくて、判例によって、一八〇三年以来確立されている。

 これに対して、憲法裁判所型というのは、具体的な事件が存在しなくとも、憲法裁判所への訴訟の提起が可能であるということになります。

 資料をまた別に用意しておりますが、資料の一に出しております。三年前でございますが、ESM、欧州安定メカニズムにドイツが予算をどれぐらい拠出するのかということでもめたことがございました。そのときに、ドイツ連邦憲法裁判所は制限つきで拠出を認めると。それによってEUがだめになるんじゃないかということを言っている向きもありまして、私も、この判決が出る二週間ぐらい前に、イタリアの研究者が、ドイツ人でありましたけれども、すごく心配していたことを覚えております。

 ですから、それぐらいこの憲法裁判所がすごい力を持っているのは、これはもう確か。特に、ドイツの力が強いことと一緒に、やはり憲法裁判所が強くなっているということだと思いますが、それが抽象的規範統制と言われるものでございます。

 先ほどもちょっと御説明ありましたように、政府であるとか連邦議会議員の三分の一が申し立てて行います。したがって、連邦議会で負けても、カールスルーエでリターンマッチをする、カールスルーエでまた会おうという、本当に言っているのかどうかわかりませんけれども、そういうことがよく伝わってきます。

 ただ、三に入りますが、この区別は最近になって非常に接近している。これは大分前から接近していると言われております。つまり、アメリカの連邦最高裁も事件性の要件を緩めてきておりまして、具体的事件が従来であればないと言われていたものでも認め始めているという点が大きくて、そうしますと、実は、アメリカの連邦最高裁も憲法保障にかなり近づいてきている、やっているというふうなことを言っております。

 今回、カナダの例を挙げておりますが、カナダはアメリカ型の司法裁判所型に属するのでございますが、ここでやっている、政府が最高裁判所に勧告的意見を求める照会、レファレンスというものがございます。これは憲法事件の三分の一と書いておりますが、現在、これより大分少ないと言われております、恐らく四分の一ぐらいかもしれません。これは、具体的事件は存在しなくとも、違憲審査権限を行使しているのではないかと言われているものでございます。ですから、このやり方は、実は日本でも使えるのではないかという主張が大分前から出てきております。

 一方、憲法裁判所型の代表であるドイツの連邦憲法裁判所をちょっと見ていただきますと、資料の二でございます。

 これは私がつくりました資料ですが、ドイツの憲法裁判所というのはいろいろな機能を持っておりまして、一番興味深い抽象的規範統制を見ていただきますと、申し立てられている件数は、実は毎年五件から三件ぐらいであります。実際、判決を出しているのも五件以内ということであります。そして、機関争訟という国家機関相互の争いも二〇一三年度は三件なわけです。

 そうしますと、何が多いかといいますと、六の憲法異議の訴えというものでして、これは、公権力によって人権が侵害されたとして憲法裁判所に訴えるものです。だから、司法裁判所型の訴訟と非常によく似ているわけです。

 ただ、これはドイツの裁判所の判決に対する訴えという形をとるものですが、しかし、これが六千四百七十七件、九七、八%を占めているということになります。ですから、この点、憲法裁判所と言われても実はこういうものであって、アメリカと比べてもそんなに議論が、日本と比べて全く違う世界という気はないのではないかなという気がいたします。

 次に、大きな二でございますが、日本国憲法の制定過程で、最高裁判所が違憲審査権を持つという大改革が行われました。このときに、実は、憲法制定過程では三つの選択肢がございました。

 一つは、明治憲法の改正に備えて政府に置かれました委員会が唱えましたもので、裁判所がある法律を違憲と判断した場合に、その違憲法律を適用しない、消極的といえば消極的でございますが、そういう形での違憲審査は認めようと。これだと明治憲法改正は必要ないよねということでありました。当時の代表的な憲法学者たちの見解はおおよそこういうものでございました。

 マッカーサー憲法改正草案は、人民の権利義務を定めた憲法第三章を除く事例について、最高裁の違憲判決に対して国会の再審を認めようとしました。ですから、人権侵害を除いて、国会に改めて審査をしてもらう。これはイギリスの貴族院が持つ終審裁判所としての役割を参考にしたものと言われておりますが、国会が最終的判断をするという余地を認めるものでございました。

 現在の憲法八十一条は、これが抜けております。これは、日本側が、なぜそういうものを入れるのか、要らないのではないかと言ったわけですね。そうすると、連合国も、それならそれでよろしいということで現在のスタイルになりました。いわゆるひょうたんから駒という表現をされている先生方もいらっしゃいますけれども、そういう形で現在のスタイルになっているというわけです。

 最高裁は、もう御承知のとおりで、十五名の大法廷と五人の裁判官から成る三つの小法廷がございます。やはり特徴的なのは、全て小法廷で審理されて大法廷には回らない、年間で恐らく二、三件程度が大法廷に回るんだろうというわけでございます。これはなぜそうなのかは後で述べます。

 憲法裁判の沈滞と一定の活況ということでありまして、十一年前に衆議院の憲法調査会で、私、参考人として申し述べたときには、実は、一定の活況がちょっと出るかなぐらいのときでございまして、余り元気がなかったわけです。一九九〇年代に法令違憲判決はゼロなわけです。見ていただきますと、二〇〇二年からふえ始めまして、ここ最近は非常に重要な違憲判決が飛び出してきている。恐らく、霞が関とか国会の方でも、これは何なんだというような違憲判決が出てきているというわけでございます。

 まず、先に沈滞の方から若干見ていきますと、最高裁がまず法令違憲をしたのは一九七三年であります。最高裁の発足が一九四七年ですから、二十六年かかってようやく法令違憲が出た。したがって、なぜこんなに少ないのかというのが批判の的でございました。

 これについて、二〇〇四年に、矢口洪一元最高裁長官、ミスター司法行政と言われた辣腕の方でしたが、こんなふうにおっしゃっていました。皆さんは戦後の裁判所をごらんになって違憲立法審査権をもっと行使すべきだとおっしゃるけれども、今まで二流の官庁だったものが急にそんな権限をもらってもできやしないのですと、極めて率直なお考えを述べられております。

 なぜこれが一定の活況を示すようになったのかというのは、いろいろ考えてみますと、まず第一に、これは藤田宙靖前最高裁判事もお書きになっていると思うのですが、世代交代を挙げられております。最高裁判事、その裁判官を支える調査官が交代してしまった。最高裁裁判官も一九四五年以降に誕生した者が三名、全員が日本国憲法のもとでの教育を受けている。これが一つでございます。

 次が、外圧としての憲法裁判所導入論、これはやはり意味があった。衆参両院の憲法調査会で、憲法裁判所導入論というのが非常に出てまいりました。私も十一年前にここに来たときに、そのときは最高裁の事務総長でありました方が同席されておられましたけれども、その前でもそういうお話が非常に出てまいりまして、それはやはりあったのではないか。

 それが、例えば定数不均衡訴訟における福田反対意見、この方は外交官出身でありますが、このまま違憲判断を回避し続ければ、独立した憲法裁判所の動きに直結して、現在の司法制度から違憲審査を奪う結果につながるんじゃないかという危惧感を反対意見の中で述べられております。

 三番目は、やはり司法制度改革があったのかなと思います。裁判員制度が生まれまして国民的基盤が確保されたということと、最終意見書が違憲審査権は不十分だということを明言しましたので、これはあったのかなと思います。

 これを考えていく上で、伊藤正己元最高裁判事の提言というのがやはり大きいのかなと思います。一九九三年に伊藤正己先生は、最高裁判事として十年の経験を経て、さらに東京大学の英米法の教授でありましたから、この方が、憲法裁判所をやった方がいいんじゃないかということをお書きになった。通常事件は最高裁でよろしいんだけれども、憲法裁判は別の憲法裁判所に委ねる方がいいんじゃないかということをおっしゃったわけです。

 その理由としてやはり出てくるのが、なぜ最高裁が違憲審査に踏み込まないかということでございますが、政治部門への礼譲の意識の存在、これは現在でもあるかなと思います。当然だと思います。二番目が、処理件数がとても多くて、特に小法廷にあっては通常事件の最終審という意識が強くて、憲法の裁判所という考え方は出てこない。三番目に、二から続いてくることでございますが、大法廷回付を慎重にする、結局のところ小法廷でやっちゃうということになります。

 そうしますと、最高裁を考えていく上で、やはり事件処理件数の多さというのは考えていかなきゃいけないということになります。

 それが、次の三の違憲審査制の活性化に必要なファンダメンタルズ、基礎的条件は何かということでございますが、まず、最高裁について、二重の役割があるということであります。

 一つは、最終審として違憲立法審査権を行使するということでございますが、もう一つは、民事、行政事件、刑事事件の上告審という役割であります。これが、年間三千件を一つの小法廷が処理しておりまして、その大半は憲法事件ではありません。最高裁は、こういう意味では上告審としての機能に傾斜しているというわけでございます。

 これに対して、ドイツは憲法裁判所と五つの連邦最高裁判所がございまして、そういう意味でいいますと楽なのかなと思われますが、しかし、先ほど言いましたように、実はドイツでも事件処理件数の多さに音を上げておりまして、憲法裁判所の長官が、これは何とかならないのかと。つまり、いろいろな訴訟が起きてくるので、特に憲法異議の訴えでございますが、中にはどうしようもないのもあるので、そういうものに対しては罰金を科したらどうかということまで言うのだけれども、議会は反応してくれない、しかしこれは何とかしてほしいということを言っていらっしゃるようでございます。

 アメリカは、その点、裁量上訴というのをやりますし、州最高裁がございますので、年間百件程度というわけでございます。

 最高裁の負担というのを最後に述べますが、藤田宙靖最高裁判事は、おやめになった後に、「最高裁回想録」の中で、一つの小法廷で三千件を処理すると。これは、現在は三千二百件に伸びております。このうち九五%が持ち回り審議と言われまして、これは合議するまでもなく上告棄却あるいは上告不受理ということで裁判長が判断して、一件書類の押印欄に判こを押す。全部判こを押すんだそうです。一年間におよそ二千五百五十枚に印鑑を押すと。藤田先生は、チャップリンの「モダン・タイムス」に出てくる機械工とか養鶏場の鶏だという、非常にある種不謹慎でございますけれども、率直な御感想を述べられております。

 こういう回想は、「最高裁回想録」に非常に頻繁に出てきます。十一年前に私ここにお呼びいただいたときに、最高裁の事務総長は、この件につきまして私がこう言ったところ、御自身が最高裁の現職の最高裁判事全員にお尋ねされたところ、どなたもそういうことはおっしゃらなかったとおっしゃいまして、私はそのときに反論がなかなかできなかったのでございますけれども、実は、在職中はそういうことは決して言わないというのがやはり不文律だそうでございます。そういうことは言ってはいけない、申しわけないと。ですから、おやめになった後にいろいろ出てくるということであります。

 その最高裁の重労働を支えているのが、実は最高裁調査官であります。この調査官は、三十代後半から四十代の裁判官でありまして、身分は東京地裁判事で、同期の優秀な方がお入りになるわけですが、その上に民事、行政、刑事の上席調査官がいて、さらに首席がいるということになります。現在、三十九から四十名前後です。非常に事細かな内容が上がってくるわけです。事実関係とか先例の有無とか論点の学説、判例とか、毎朝行くと、風呂敷に包まれたものがどんと載っかって、さあ、次を読んでくださいと来るというのが、聞いたり見たりしたところでございます。これなくして、最高裁判事は判決を下すことはできないだろうということであります。

 最後になりますが、我が国の違憲審査制の行方というところになりまして、こういう状態はもう既に、三十年、いや、戦後の二十年代の後半から続いているわけでございますが、なぜこれが改善されないのか。改善しようとしたことも実はございます、五十年代に。しかし、さまざまな事情でうまくいかなかった。

 最高裁の調査官の増員による対応が一つの対策です。十一年前は三十名だった調査官が、現在は四十名にふえております。この方々の努力というのは大きいかなと思います。

 最高裁の改革というのは、最高裁判所に何を期待するかによって変わってくるだろうと思います。先ほど小林先生もおっしゃいましたように、憲法保障の最後のかなめというようなところをここに期待するのか、民事、刑事、行政事件の最終審として適正な判決を下していただければよいのではないかということでよいのかとか、いろいろあると思いますが、民事、刑事、行政の最終審としての適正な判決を下すことを期待したのであれば、現在の体制を維持すればよいのではないか。

 あるいは、それだけではなくて、憲法事件についての最高裁の積極的な憲法判断を期待するのであれば、上告審機能を大胆にカットするしかない。これは、資料の五番目に私が考えた案がございますが、特別高裁なるものをつくって、上告審機能はここに全部やっていただいて、カットするしかない。そうすることによって、最高裁の本来の機能が発揮できるのではないかということですね。だから、ここでは判例変更であるとか新しい法律問題の処理とか、もしかしたら、死刑事件はやはり最高裁でということになればそこも入るのかもしれませんけれども、大胆にカットしてしまえばよろしいということであります。これによって、違憲審査に今よりもより集中できるだろう。

 さらに、いや、これでも足りないということになりますと、カナダで行われております、政府が最高裁に勧告的意見を求める照会、レファレンスという制度も検討の余地があろうかと思います。この勧告的意見は、法的拘束力を有しておりません、事実上の拘束力しか持ちませんが、そのインパクトは無視できません。司法裁判所の機能に適合するように十分司法化された制度設計をすれば、現在の憲法上も立法において導入可能ではないかという見解もあります。ただ、この案を導入するにしましても、最高裁の上告審機能の軽減は不可欠であろうかなと思います。

 最後に、統治システム全体にかかわる問題の解決のためには、より強力な権限を司法が持つべきだとするのであれば、さらに大胆な改革ということになるかと思います。それが憲法裁判所だろうと思います。この柱は、抽象的違憲審査です。

 例えば、読売新聞社がかつて出しました案がそうでございまして、条約、法律、命令等について、内閣あるいは一定数の国会議員の申し立てがあった場合に憲法判断を行う抽象的審査を任務の一つとする憲法裁判所の設置を提言しております。ただし、これは憲法改正というハードルがあることは否めません。

 すなわち、現在の憲法解釈では、学説、判例ともにそうだろうと思いますけれども、法律の効力をその公布とともに直接に違憲審査の対象とする抽象的違憲審査は、現行法のもとではできない、憲法でできないというのが一致した見解だろうと思います。何かやはり一つの国家行為があって、それに基づいて、処分があればそれをとっつかまえて、少なくともそれが要るという理解でございます。

 さらに、制度設計上の問題もございまして、資料二の四の方をあけていただきますと、ドイツの憲法異議の訴えというのが現在多大の負担を強いております。しかし、憲法異議の訴えがないとしますと、逆に憲法裁判所の担当する事件は本当に少ない、年間でいくと三、四十件になっちゃいます。そうすると、このような憲法裁判所を創設することはどこに意味があるのかということも一方において出てくる。しかし、憲法異議を出してしまいますと、すごい件数になってしまう。

 ちなみに、アジアで最も今元気のいい違憲審査制を持っているのは韓国だろうと思いますけれども、韓国は、憲法裁判所を、ドイツ的なものをつくりました。しかし、抽象的規範統制の権限は入れなかったという点は、やはりそこには何か原因があるのかなという気がいたします。

 以上で終わります。どうもありがとうございました。(拍手)

保岡会長 ありがとうございました。

 以上で各参考人の御意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

保岡会長 これより参考人に対する質疑を行います。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。山田賢司君。

山田(賢)委員 私は、自由民主党の山田賢司でございます。

 先生方の貴重な話をお聞かせいただきまして、本当にありがとうございます。

 私も、実は現行憲法無効という立場をとってはおりません。非常にいろいろな問題点はあるけれども有効だという前提に立った上での話を質問させていただきたいと思います。

 ただ、この憲法制定の経緯に対しては大いに疑問を持っておりまして、むしろ欺瞞に満ちているというふうに考えております。この憲法に正統性がもしあるとするならば、これは、施行後六十八年間、日本国民がずっとこれを受け入れてきた、この一点に尽きるんだと思っております。

 そこで、まず長谷部先生にお伺いをさせていただきたいと思うんです。

 先生は、憲法の改正には限界があるという憲法改正の限界説をおとりなんですが、日本国憲法の改正には限界があるんだけれども、大日本帝国憲法の改正には限界はないのか。限界は無視してもいいと考えていらっしゃるのか。この辺の矛盾についてお聞かせいただけますでしょうか。

長谷部参考人 現在、憲法学界の通説と申しますか、標準的な見解によりますと、大日本帝国憲法には改正に限界がございました。それは、大日本帝国憲法のまさに基本原理と言われる天皇主権の原理、これもドイツの君主制原理を日本に導入して、天皇主権というふうに、その当時の日本の学界、それから政治の世界では呼んでいたものでございますが、これは変えられない、明治憲法の改正手続を経ても変えられない、そういう考え方がとられておりました。

 以上です。

山田(賢)委員 ありがとうございます。

 もし、改正の限界があったとしたら、いわゆる天皇主権の欽定憲法を、改正手続にのっとったとしても、根本原理であるものを国民主権の憲法に変えるということは、憲法改正の限界を超えている、これは変えられないはずではないかと考えるんですが、いかがでございましょうか。

長谷部参考人 まさに、現在の日本国憲法のもとでの憲法学界の標準的な理解ですと、そういうことはできないはずであったということになっております。

 ただ、その点についての現在の標準的な理解と申しますのは、ポツダム宣言を受諾したその時点におきまして、いわば法律的な意味での革命が起こりまして、天皇主権の原則というものが国民主権の原則へ、いわば非連続的に移行したのであると。その非連続的に移行した後の明治憲法というのがまだ残っております。その時点以降は、国民主権の原則に基づいてでき上がった明治憲法に変身を遂げたということになります。

 そうした大きな変革を遂げた後の大日本帝国憲法は、その改正手続に基づきまして、現在の日本国憲法への改正が可能になった、そういった説明が通常受け入れられているところでございます。

山田(賢)委員 ありがとうございます。

 私、憲法学界でもなく、法曹界にいる人間でもないので、今の説明を聞いても全然よくわからないんですけれども、大日本帝国憲法をポツダム宣言で変えたというならわかるんですけれども、ポツダム宣言を受諾したのは八月で、憲法を改正したのはその後で、二十二年に、二年後に変わっているわけですね。その間、大日本帝国憲法なんだけれども国民主権の時代があった、こういうことでございましょうか。

 はい、ありがとうございます。

 また、日本国憲法は、日本国民の総意に基づいてというふうに書いてあるんですけれども、日本国民の総意が本当にあったのかということを大変疑問に思っております。確かに、皆さんが受け入れたということでいえば、それは、その後六十八年間受け入れているんですから総意はあったんでしょうけれども、当時は言論統制のもとにありまして、日本国憲法に対する批判は許されなかったということがいろいろな資料で明らかになっています。

 私がまた陰謀論にくみしていると思われてもいけないので、GHQが出している資料というのがありまして、これの中を見ると、「クリティシズム オブ スキャップ ライティング ザ コンスティチューション」と書いていて、スキャップ、連合国最高司令官がこの憲法を書いたということに対する批判は書いちゃいけない、そういったことを書いたものは削除しなさいという指令が連合国においてなされているんですね。

 日本国憲法というのは、今まで大日本帝国憲法下においては、いろいろな人権が、国民の人権が制限されてきた、あるいは言論の自由がなかったといっているんですけれども、日本国憲法が施行された後も言論統制が行われていて、日本国憲法の制定過程に対する批判は許されなかった。そんな中で日本国民の総意があったと果たして言えるのか。この点について、長谷部先生、御見解がもしありましたら教えていただけますか。

長谷部参考人 御指摘の、日本国民の総意に基づくというその文言ですが、これは日本国憲法の第一条、天皇の地位は主権の存する日本国民の総意に基づく、この点を御指摘のところなんだろうと思います。

 この文言はその言葉どおりに受け取ることができるものでございまして、天皇というのは日本国の象徴である。象徴というのは、言ってみれば、国という、これは先ほど小林先生もおっしゃったとおりで、いわば一種の約束事で、抽象的な存在でございますので、ただ、その抽象的な存在をわかりやすく理解するために具体的な何かシンボルが必要で、それが現在は天皇である、そのことを示しているわけです。

 何か具体的な人が、天皇が日本という抽象的な存在のシンボルであるかどうかというのは、それはとりもなおさず、多くの人々、まさに多くの日本国民がそのように考えているかどうか、そのことに基づいている、そのことを素直に言っているということでございまして、天皇が日本国の象徴である、その地位は主権の存する日本国民の総意に基づいている、そのことをまさに正しく述べていることだろうと思います。

 それから、ついでに申し上げますと、憲法の制定の経緯について情報が余り外に漏れないようになっていたというのは、これはいろいろな国の憲法についてある話でございます。

 例えば、アメリカ合衆国憲法。アメリカ合衆国憲法の制定の経緯がどのようなものであったのかということは、これは実は、マディソンという、この人も、大統領も務めた、そして憲法制定の経緯にも主要な役割を演じて携わった方ですけれども、この人のとったメモが実は頼りでありまして、かつ、マディソンのとったメモというのは、マディソンが亡くなるまでは公開をされておりませんでした。したがいまして、アメリカ合衆国憲法の制定の経緯がどういうものであったのかというのは、制定以降、非常に長期の間、公開されていなかったわけですね。

 ただ、そのことと、現在のアメリカ合衆国憲法が正統なものとして多くの人に受け入れられているか、あるいは内容が正統なものだというふうに評価されているか、それは全く別のレベルのものではないかというふうに私は受け取っております。

山田(賢)委員 ありがとうございます。

 私も、だから無効と言うつもりは全くなくて、そういう経緯があったということ、これが意外に知られていないので、やはり憲法は日本国民の総意でみんなが受け入れてやったんだではなくて、そのときは曲がりなりにも、押しつけられたという言い方がいいかどうかは別ですが、日本国の代表者がつくった案というのは連合国から受け入れられなかった。そして、連合国がつくった草案に基づいてつくったんだけれども、その後、日本国民が六十八年間受け入れてきたという流れだということは、これは事実として確認をさせていただきたいと思っております。

 この点、小林先生にお伺いしたいんですが、小林先生はむしろ物すごくストレートに物をおっしゃっておられて、「「憲法」改正と改悪」という本の中で、やはり押しつけ憲法だということを認めておられて、でも、ただ無効と言うのは時代錯誤だろうということをおっしゃっておられた、これはそのとおりだと思っております。ただ、日本は敗戦したんだ、結局のところ、日本はみずから自由と民主主義を手に入れることのできない民族だったんだから受け入れることはやむを得なかった、ペナルティーを受けるのは当然であるというようなことを書いておられます。

 本当に正直に書いておられるのかなとは思うんですけれども、これはむしろ欺瞞で、先生が欺瞞というわけではなくて、連合国。もし、日本国憲法の理念がどんなにすばらしいものであったとしても、占領している国の国民の意思に基づかずに、俺たちが考えるすばらしい理念なんだから、おまえたち劣等国の国民は考えられないんだろう、だから俺たちが授けてやろうという形は、これはやはり戦勝国の欺瞞ではないかと思うんですが、小林先生、いかがでございましょうか。

小林参考人 一面の真理をおっしゃったと思うんですけれども、戦勝国のそれは傲慢な意思というよりも、歴史の意思として私は受けとめているんです。

 当時の日本人は、大日本帝国憲法の運用としてもちょっととんがってしまった異常な数年間の中にあって、一種の思考停止の状態であって、あの戦も、非常に変な戦をしてしまって、やめどきも間違えてしまった。そういうときに大空襲と原爆で黙らされて、とまった。そのときに受け入れたポツダム宣言は国家の意思として受け入れたわけですから、民主化と軍国主義の除去と人権の補強、これは日本の意思として紛れもなく当時の権力者たちが受け入れた。それを実施するためには、ヘーグの陸戦条約にありますように、占領の目的を達するために必要な改正は許されるという条文ですから、不必要な改正をしてはいけないということですから、まさに、あの戦を終えて、日本が立ち直るためにポツダム宣言を受け入れて、それを実現するためにせざるを得ない改正であって、それを当時の権力者が、私にしてみれば、つまらぬ抵抗をして、またおどされて、押しつけられて。ただ、その後、みんなで理解して受け入れた、それでいいじゃないですかと思っているんですけれども。

山田(賢)委員 ありがとうございます。

 皆さん、はてなというような感じはするんですけれども、事実として、やはり六十八年間この憲法を使っているんだから、国民が受け入れているのはそのとおりだと思うんです。ただ、こういう経緯があったという前提に立って、憲法に改正の限界があるのかないのかという議論をしないといけないかなと私は思っております。

 それで、ちょっと話をまたかえまして、小林先生、先ほど、お試し改憲ということについて、真面目なお試し改憲という話をされました。

 私は、むしろ、前回の憲法審査会でも申し上げたんですけれども、真面目にやはり、今の憲法の問題がある九条であり、前文であり、あるいは緊急事態、そういったところ、何が今現実に困っているんだ、こういうことを考えて、国民の皆さんにきちんと説明して、そして改正すべきだという考えを持っておるんですが、先生のお考えの真面目なお試し改憲というのは具体的にどんなものか、教えていただければと思います。

小林参考人 本当に改憲すべきは、私は九条だと思います。九条が大変な混乱を招いている。どちらの側にとっても、九条は真正面から議論すべきものであります。

 ところが、今、その議論を避けて、私は、自民党が改憲政党でありながら、ずっと安倍政権までその議論をせずに来たことがとても悪いことだと思っているんですね。ずっとその間つき合っていて、なぜ動き出さないんだといらいらしていました。今度は、準備もなく飛び出して大変なことになっているわけですけれども、やはり、すべきは九条なんです。

 だけれども、国民の中に、憲法にさわるのは危ないという、これはもう感情の世界なんですね、戦後教育であるんです。だから、それを問いたいんだとしたら、肯定的な意味でお試し改憲、いいじゃないですか。船田先生なんか、言われて怒っているのかもしれません。だけれども、そろそろお試ししましょうよでいいじゃない、乗ったらいいじゃないですか。

 それで、プラクティス、練習と言うと大変失礼な言い方ですけれども、あの三・一一の後の緊急事態条項、それから憲法制定時には全く考えられてもいなかったプライバシー、これはやはりテクノロジーの進化で起きちゃったし、母法国のアメリカでもプライバシーなんて当時まだまだ未熟だった。それから、国民の知る権利については、情報公開の根拠条文ですから、そういうものをきちんと入れたらいいのではないか。これなら説得できると思うんですね。

 それで、憲法改正を一度経験したら、そんなに怖いことではないということがわかる。それから堂々と九条論争をやって、九条に手をかけたらいいと思います。

 以上です。

山田(賢)委員 ありがとうございます。

 私ども、憲法の学界の議論というのがどうもなかなかわかりにくくて、きょうの小林先生の話は大変よくわかったんですけれども。

 何か、八月革命説にしても、現状の日本国憲法というのは正しいものだ、その正しいものの正統性を証明するのが憲法学なのかなと思ってしまうぐらいで、我々政治家が現状肯定するというのは、これは政治判断としてあるんですけれども、ぜひ学界の先生方におかれては、純粋な学問的な見地からおかしいものはおかしいと言っていただいて、むしろ、憲法学界の方から、自主憲法を制定すべきだということをぜひ声を上げていただきたいなと思いながら、私の質問を終わらせていただきます。

 ありがとうございます。

保岡会長 次に、中川正春君。

中川(正)委員 きょうは本当にありがとうございました。

 さっきの山田さんの話にちょっと刺激をされて、もう少しそこのところを確認していきたいというふうに思うんです。

 一つは、押しつけの話ですけれども、さっき小林参考人がまさに言われましたが、そこにこだわっていく、過去にこだわっていくということがどれだけ建設的な議論になるのかということ、ここに尽きるんだというふうに思うんですよね。

 私たち、六十八年かけて、この憲法、これを誇りを持って私たちのものにしてきた。その事実に立って事を運ぶということであれば、自主憲法にさかのぼっていくということじゃなくて、今の憲法をそのまま見詰めて、これを改正していくということ、ここにしっかりとしたコンセンサスをつくっていくということが一番大事なんだと思うんです。

 そこについては、小林参考人、どのように考えられますか。

小林参考人 今の憲法をまず是として受け入れたところで、それを前提に、憲法も、はっきり申し上げて道具でありますから、主権者、国民、大衆が国家権力を正しく管理して、皆の幸福を最大限ふやしていこうという営みの道具でありますから、それから、もともとつくった人間が神ならぬ不完全な人間で、戦後の一種の興奮状態の中で急いでつくったものですから、必ず道具として不都合があり得る。

 だから、今の憲法のよきところを、三大原理を中心としてメンテナンスかブラッシュアップかという方向で、まず、国民啓蒙を政治家たちにやっていただきたいと思っております。

中川(正)委員 お試しの方は、私たち、九条に関連して、これはどこかで憲法自体を議論はしていかなければいけないだろう。ここはまさにそのとおりだと思うんですが、安倍さんが今いて、その思惑の中で憲法改正議論が進んでいるとすれば、これは、政治的に、国民がそこまでの信頼感を持って、安心感を持って憲法議論に乗ってこれるかというと、今、決してそういう状況ではないということ、ここに懸念があるということだと思うんです。

 これは私の考え方、意見ということでお話をさせていただいて、その関連の中で、今、安保法制が進んでいますけれども、それに基づく議論、ここで起こっている問題について、少しお話を聞きたいと思うんです。

 一つは、基本になる言葉というのが、揺れているといいますか、変遷をしてきています。

 例えば、専守防衛。これは、今の九条を語る基本理念というか規範みたいな形で説明をされてきた言葉でありますが、これを定義すると、相手から直接の武力攻撃を受けたときに初めて自衛隊が防衛力を行使するということ、それで、だからこそ必要最小限にとどめて、保持する防衛力も自衛のための本当に必要最小限のものにしていく、こういう定義、これが一般的にこれまで使われてきた定義だと思うんですね。

 今回、それに対して、三要件が出てきました。二つのことにおいて、これは超えると思うんですよね。

 一つは、我が国に直接ということだけではなくて、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃の発生が前提だということ、これで一つ超えています。

 それからもう一つは、直接の武力攻撃でありますから、三要件の中の最後の可能性とかおそれとかいうことではないわけですね。そこが、三要件というのをそのまま持ってくると、可能性とかおそれという形で、超えているというような形。

 これをもって、私は、この専守防衛という言葉は超えた、だからこれは使うべきでないというふうに思っているんですが、政府の方は引き続き、我が国の防衛の基本的な方針である専守防衛を維持することに変わりはないということを言い続けています。

 それからもう一つ、幅が広過ぎるというのは集団的自衛権なんですね。これは定義が、いろいろなものを見るとまちまちでありまして、日本がベースを提供しているということ自体がもう集団的自衛権だということから始まって、いや、これは限られた形で武力を前提にしたものなんだという定義までさまざまでありまして、そのときそのときで使い分けしている。限定的な集団的自衛権とか、一般的なとかという言い方。平和という言葉もそうですよね、法律の名前自体がとんでもない欺瞞的な使い方をされている。

 こういう話になってくると、議論にならない。国民にとって、ますますわけがわからなくなってくる。両方が同じ言葉を使いながら意味していることが全く違うということをわかってもらわないと、議論が進まない状況になっているというふうに思うんです。

 この言葉の定義を誰がどこで確実に制御していけるのかということも一つのキーだと思うんですけれども、これは憲法解釈そのものとの関連、いわゆる解釈で変えていくということとの関連もあるんですが、そこはどう考えられますか。

 これは笹田参考人とそれから小林参考人、お願いします。

笹田参考人 今の御質問について、中身の一つ一つについては、違憲審査制のあり方そのものとどう絡むのかというのが御趣旨なので、それをどう取り扱ってどこが判断するのかという御質問であろうかと思うのですが、現実において、それを法律化、法制するときには内閣法制局で最後はチェックするということになるだろうと思いますけれども、恐らく、私の先ほど出してきました案でございますと、カナダでありますと、こういうものをレファレンスという形で最高裁判所に御判断を願うということを既に長いことやっております。

 ですから、何らかの形で、憲法保障を考えたときに、裁判所にどこかで、組み込んでいただくというのは一つの案としてこれから考えてよろしいのではないかなと思いますが、現時点ではそういうことを考えております。

小林参考人 最近の特別委員会の議論は、真剣に私も、見られる限り、まだ不確定の速記録を見せていただいたりして見ていますけれども、これは有権解釈の問題というよりも、常識と非常識の問題だと思います。ですから、日本語の乱れというか、あるいは、政治家がプライドがあったらこういう議論はしないだろうと本当に思います。仮に名誉毀損で訴えられても私は言い続けます。本当に、日本国の最高機関でこういう話し合いがされて、とても恥ずかしい。

 ですから、この原因は、やはり自民党側から議論をしかけたわけですから、言葉がくるくる動くようなのはおかしいと思うんですね。

 つまり、戦後七十年間、少なくとも憲法九条の縛りで海外に軍隊は出せないできたものが、これからは集団的自衛権と後方支援という説明がつくなら出せることになるから、これは、今までしたことのない国際法上の戦争に参加することになる以上、戦争法なんですよね。

 だけれども、それが必要だと言っているならそれでいけばいいのに、平和だ、安全だ、レッテル張りだ、失礼じゃないですかと言っている方が私ははっきり言って失礼だと思います。

 ですから、そういうレベルの話でありますから、有権解釈の問題ではなくて、むしろ、今の議論の中で野党の方たちが明確に論争をしかけて、その異常さを、私は異常だと思います、異常さを我々国民大衆に知らせてください。そこから先は、さっきの、憲法の最後の歯どめの有権者の投票行動になると思います。

中川(正)委員 率直にここでお話を聞きたいんですけれども、先生方は、今の安保法制、憲法違反だと思われますか。それとも、その中に入っていると思われますか。先生方が裁判官となるんだったら、どのように判断されますか。全員。三人とも。

長谷部参考人 安保法制というのは多岐にわたっておりますので、その全てという話にはなかなかならないんですが、まずは、集団的自衛権の行使が許されるというその点について、私は憲法違反であるというふうに考えております。従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつきませんし、法的な安定性を大きく揺るがすものであるというふうに考えております。

 それからもう一つ、外国の軍隊の武力行使との一体化に自衛隊の活動がなるのではないのか、私は、その点については、一体化するおそれが極めて強いというふうに考えております。

 従前の戦闘地域、非戦闘地域の枠組みを用いた、いわばバッファーを置いた、余裕を持ったところで明確な線を引く、その範囲内での自衛隊の活動にとどめておくべきものであるというふうに考えております。

小林参考人 私も違憲と考えます。憲法九条に違反します。

 九条の一項は、国際紛争を解決する手段としての戦争、これはパリ不戦条約以来の国際法の読み方としては侵略戦争の放棄。ですから、我々は自衛のための何らかの武力行使ができると、ここに留保されています。

 ただし、二項で、軍隊と交戦権が与えられておりませんから、海の外で軍事活動する道具と法的資格が与えられておりません。ですから、自民党政府のもとで一貫して、警察予備隊という第二警察としての自衛隊をつくって、だからこそ、軍隊と違って、腕力について比例原則、軍隊に比例原則なんかありません、軍隊は勝つために何をやってもいいんですから、本来。世界の常識。だから、比例原則で縛られて、警察のごとき振る舞い。だから、攻めてこられたら、我が国のテリトリーと周辺の公海と公空を使って反撃することが許される。例外的に、もとから断たなきゃいけない場合は、理論上、敵基地まで行けるというこの枠組みは、ずっと自民党がつくって守ってきたもので、私はこれは正しいと思っています。

 この九条をそのままにして、海外派兵。集団的自衛権というのは、いろいろな定義がありますが、国際法というのは、まだ法自体が戦国乱世の状態で中心的有権機関なんかないわけですから、世界政府がないわけですから。ですから、それぞれがいろいろ言っているおおよそのところからいけば、少なくとも、仲間の国を助けるために海外に戦争に行く、これが集団的自衛権でないと言う人はいないはずです。これをやろうということですから、これは憲法九条、とりわけ二項違反。

 それから、先ほど長谷部先生がおっしゃった、後方支援という日本の特殊概念で、要するに、戦場に後ろから参戦するだけの話でありまして、前から参戦しないよというだけの話でありまして、そんなふざけたことで言葉の遊びをやらないでほしいと本当に思います。これも恥ずかしいところです。ですから、露骨に、憲法……。

 ただ、今、公明党と法制局が押し返していますよね。でも、あのとおりになったら、何も集団的自衛権という言葉は要らないじゃないですか。個別的自衛権に押し戻したんですかという疑問もあります。

 以上です。

笹田参考人 ちょっと違った角度から申し上げますと、例えば日本の内閣法制局は、自民党政権とともに安保法制をずっとつくってきていたわけです。そして、そのやり方は、非常にガラス細工と言えなくもないですけれども、本当にぎりぎりのところで保ってきているんだなということを考えておりました。

 一方、例えばヨーロッパのコンセイユ・デタのような、日本の法制局の原型となりますが、あそこは、憲法違反だと言っても、時の大統領府なんかが押し切って、ではやるんだということで、極めてクールな対応をとってきて、そこが大きな違いだったと思うんですね。

 ところが、今回、私なんかは、従来の法制局と自民党政権のつくったものがここまでだよなと本当に強く思っておりましたので、お二方の先生がおっしゃいましたように、今の言葉では、定義では踏み越えてしまったということで、やはり違憲の考え方に立っているところでございます。

中川(正)委員 ありがとうございました。私もその思いでいっぱいなんです。

 同時に、笹田先生からレファレンスの話が提起されたというか、こういうこともできるよということを言っていただきましたが、私は、これは憲法調査会の一つのテーマにしていいと思うんですよ。今の範疇の中で裁判所が違憲性を判断できるという枠組みになっていくわけですから、そのことをあわせて私も提案させていただいて、ありがとうございました。ちょっと超過しました。

保岡会長 筆頭間協議によりますけれども、またこれを受けて自由討議もありますので、よろしくお願いいたします。

 次に、小沢鋭仁君。

小沢(鋭)委員 維新の党の小沢鋭仁でございます。

 お三方の先生方には、きょうの御出席、まことにありがとうございます。まずもって御礼を申し上げます。

 話の中身が特別委員会のような話にもなってまいりまして、大変興味深く聞かせていただきました。

 制度論で、私はまず笹田先生にお聞かせいただきたいんですが、我が党は、先ほど先生方が違憲ではないか、こうおっしゃられた集団的自衛権に関しては、限定的集団的自衛権は容認、こういう立場をとらせていただきました。その際に、いろいろな議論をしたんです。

 まず一つは、笹田先生がおっしゃいましたように、これまで日本の有権解釈は、どちらかというと内閣法制局がやってきていた。制度論としてこれはおかしいだろうと、それは行政府の中の一つですから。ですから、そういう意味では、安倍総理が、最後の判断は私がやるんだという話は、これは御批判もありましたけれども、制度論としてはそうなんだろう。こういうふうに認めた上で、しかし、内閣も国会も政治家だけでありますので、そういった意味では、日本国憲法においては、司法が最終的な違憲審査をする、こういう形になっているわけですから、司法がきちっと関与できる体制をつくるべきだ。こういう意味で、我々は、憲法裁判所をつくるべきだ、こういう話を申し上げました。

 同時に、それはなかなかやはり時間がかかるだろうから、先ほど先生からもお話がありました、憲法八十一条を活用すれば現行制度でも司法の判断が出せるのではないか、こういう話も同時にさせていただいたところでございます。

 こうした事案に関して、やはり司法が関与すべきだ、どういう形にせよ、関与すべきだということに関しての御見解をお願いしたいと思います。

笹田参考人 どうもありがとうございます。

 若干制度が違っていて恐縮なんでございますが、例えばフランスとかベルギーにはコンセイユ・デタという、行政裁判と諮問機能、立法の調整機能というか法制局の機能を持っている機関が存在してございます。ここがやはり非常に興味深い組織でありまして、身分保障を見ていても、行政官僚ではないんだけれども司法官ではない、しかし、身分保障は結構きちっとしている。そして、ここで、例えばコンセイユ・デタが政府から諮問を受けて憲法違反だと言っても、先ほど言ったように大統領府が突っ込んでくる。そうしたときに、最終的に、フランスの場合は憲法院がございますので、憲法院が判断を下す。憲法院の主たるバックアップメンバーはコンセイユ・デタから事務総局に入ってしまっているということで、歴史的なものもございますので、これをすぐ参考にするというわけではございませんけれども、現在の最高裁の機能で私はもうパンクしていると思いますので、やはり何らかの機構改革を経た上で、先ほど述べましたようなものを入れていくということ。

 例えば、カナダの勧告的意見の制度というものは、これはアメリカには若干あるようですけれども、メーンとしては存在しておりません。ただ、これは事実上の拘束力でございます。法的拘束力がない。ここがポイントでして、法的拘束力を認めますと抽象的違憲審査になっちゃいますので、これは認められないということで、事実上にとどめている。ただし、事実上といいましても、最高裁判所の判断でございますので、それはそう軽いものではないということで、カナダでは、やはり英米法の国でございますけれども、出したものに行政府は正面から反対することは余りないということも聞いております。

 先生がおっしゃいますように、日本の内閣法制局は、最初の段階ではフランス型のように行政裁判機能を持っていたわけですね、明治期の最初は。ところが、行政裁判は別の裁判所に移りまして、それは消えました。ですから、やはりヨーロッパのコンセイユ・デタの強さというのは、裁判所であり、なおかつ、そういう諮問機能を持っているという、そこの権威性は高いのかなと考えておりますので、私も、先生のおっしゃるとおり、何らかの改革は必要ではないかと考えております。

 以上です。

小沢(鋭)委員 ありがとうございます。

 ぜひ、中川委員からも御提案がありましたけれども、現行の八十一条でもかなりやれると思っておりますので、そういった司法の関与というのを本当にこの国会でも検討していただきたいと、改めて私からも提案を申し上げたいと思います。

 少し現実的なところに入らせていただきます。大変興味深いお話を聞かせていただきました。その前提で、長谷部先生の陳述の中で、今の憲法は、ある意味では、各国、普遍の価値をベースにしながら、それぞれ特徴のあるものを持っている、こういうお話があって、その中に、天皇制の話は私もすっと入ったんですが、同時に、平和主義ということをおっしゃいました。

 平和条項というのは、最近、各国かなり持っているわけですけれども、先生があえてここで平和主義が日本の特徴だとおっしゃるその真髄といいますか、そこはどこがほかの国の平和条項と違う、こうお考えなんでしょうか。

長谷部参考人 どうもありがとうございます。

 御案内のとおり、日本国憲法の第九条というのは、およそ戦争はしない、武力の行使はしない、武力による威嚇はしない、そして、戦力と言い得るようなそういった制度は保持をしないということを文言上は言っております。

 ただ、さはさりながら、国民の生命、財産、安全を保持するというのは、これは政府としての最低限の任務でございますから、その観点からいたしまして、先ほど小林先生も御指摘のとおり、個別的な自衛権だけは、それもまた必要最小限度、比例性原則の範囲内においてのみ行使できるということになっております。

 このような憲法原則をとっている国、これはやはり類を見ないものでございまして、日本固有のものであろうかというふうに考えております。

小沢(鋭)委員 ありがとうございました。

 そこで、小林先生にお尋ねをしたいと思います。

 そういう、いわゆるまさに平和主義を持っている我が国でありまして、先生の先ほどの陳述の中にもありましたが、今回の集団的自衛権の容認に関しては、我が党の立場は先ほど申し上げました。

 ここも大変賛否両論あるところだと思いますが、同時に、先生もお挙げになったいわゆる後方支援の話、重要影響事態における後方支援という話は、これは特に、今まで特措法でやってきたじゃないか、こう政府は言うんですけれども、やってきていないことがあるわけです。弾薬の提供だとか、もう既に発進準備中の航空機への燃料補給とか、これは先生、国際法上は武力行使ですよね、まず一般に。

小林参考人 イエスでございます。

小沢(鋭)委員 ということになれば、先生は第二項をお挙げになって憲法違反だとおっしゃいましたが、第一項の、紛争を解決するための手段としての武力行使は永久に放棄する、一項ですね、私はここが物すごく重要だと実はずっと思ってきていました。

 なぜならば、これはある先輩から言われた言葉ですが、全ての戦争は正義の名のもとにおいて戦われるんだ、だからそれに対する反省で、我が国は紛争を解決する正義のための戦いというのを放棄したんだ、こう言われたことをずっと私は思っておりまして、今言った武力行使であるならば、まさに紛争を解決するための手段としての武力の行使になるわけで、ここはもう決定的な憲法違反だと私は思うんですが、先生の御見解をお願いしたいと思います。

小林参考人 私も、戦後教育を受けましたので、先生と同じように習ってまいりました。ただ、長じていわゆる専門家になって、言葉の読み方で、先ほど申し上げたように、国際紛争を解決する手段としての戦争の放棄というのは、これは侵略戦争の放棄と読みかえる、だから自衛についての武力紛争は留保するよと。

 これは、全ての国が、パリ不戦条約の後、他国を信じ切れなかったという事実がありまして、結局その後、自衛戦争を重ねて第二次大戦に突っ込んじゃったじゃないですか。この地球上で戦争のないときというのは、今も含めてありませんよね。

 ですから、終戦直後の理想主義的な条文の読み方に、私はかけることはできません。そこで先生とは見解の相違があります。

小沢(鋭)委員 ありがとうございます。

 ただ、いずれにしても、現行法制は憲法違反である、こういう御判断はお持ちだということでよろしいですよね。(小林参考人「はい」と呼ぶ)ありがとうございます。

 さらに、憲法改正についてお尋ねをしたいと思います。

 我が党は、憲法改正をずっと各種選挙で公約に掲げて言ってきております。我が党の特徴は、御存じかもしれませんが、統治機構の改革、やはり時代の変化に合わせて国の仕組みとか社会の仕組みを変えなきゃいけないんじゃないか、これが出発点で、いわゆる戦後の憲法改正あるいは護憲の議論が、右とか左とか、あるいは保守とか革新とか、そういう話ではなくて、まさに目の前の話のシステム改革が必要なんだ、こういう思いで我が党は憲法改正というのを一貫して主張してきています。

 ただ、問題は、発議すらできないくらい硬性憲法というか、改正条項が難しいということで、九十六条改正も我が党は言っているんですけれども、これは学者の先生方に言わせても、世界で最も厳しい改正規定ではないか、こういう意見がありますが、この九十六条改正を訴えると、それは裏口入学だ、こういう話を、お叱りを受けたりもするんです。

 それに関しては、これはとにかく、もう少し国民の手に憲法の議論を取り戻さなきゃいけないし、改正はしなきゃいけないので、ここのところを手をつけなくてどうやってやるんだろう、こう思うんですが、特に小林先生はその辺、御意見をおっしゃっていますので、御意見を聞かせてください。

小林参考人 これは、ボタンのかけ違いが起きちゃったと思うんですね。私も、九十六条の改正は考えていいと思っています。だけれども、そこから入るというのは闘いの仕方としてアンフェアであるという入り方をしてしまった。

 先ほど来、船田先生の方を見てずっと言っていますけれども、三十年ぐらい自民党の改憲論議につき合ってきて、やはり改憲政党なんですから、自民党がもっと国民に働きかけなきゃ、語りかけなきゃいけなかったと思うんです。それがないから、国民が改憲という話題に対して非常に反発的。私は、手続じゃない、そこに問題があると思っているんです。

小沢(鋭)委員 ということは、先生も九十六条改正はあっていいと。

小林参考人 選択肢だと思っています。

小沢(鋭)委員 長谷部先生、いかがですか。

長谷部参考人 九十六条、各院総議員の三分の二の同意を得て発議するという、この条件はとても厳しいという議論はよくございます。よくございますが、ただ一方で、例えば衆議院に関して申しますと、相当部分の国会議員の先生方は小選挙区制で選出されるということもやはり注目をする必要がございます。

 と申しますのも、済みません、これは頭の体操のような算数で申しわけないんですけれども、例えば、今、八十一人しか国民がいない、そういう小さな国があったとして、全体が九つの選挙区に分かれている、九つの選挙区がそれぞれ一人ずつの国会議員を小選挙区制で選出するということになっているとすると、三分の二は九人のうちの六人ですね。六人を選出しようと思うと、それぞれ九人の有権者がいるわけですけれども、五人いれば過半数がとれます。ですので、九分の六、つまり、五掛ける六で、三十人の有権者が一致すれば、協力をすれば国会議員の三分の二が確保できる。つまり、八十一人中の三十人で三分の二は確保できる可能性があります。しかも、これは投票率が一〇〇%の場合です。六〇%ぐらいになると、もっと少ない人数で国会議員の三分の二の数を確保できるということになります。

 ですから、これは、憲法の条文だけを見るのではなくて、選挙制度も含めて全体を見ないと、果たして厳格なのか厳格でないのか、なかなか簡単には結論が出ない問題ではないかというふうに考えております。

小沢(鋭)委員 時間ですから終わりますが、今先生、小選挙区の話をおっしゃっていただきましたが、これは両院でありますし、さらにはまた、これまで全くできていない、こういう話はここから何とか抜け出さなきゃいけないんじゃないか、こういうことを我が党は言っているということを申し上げて、終わります。

 ありがとうございました。

保岡会長 次に、北側一雄君。

北側委員 公明党の北側一雄でございます。

 きょうは、先生方、大変貴重な御意見を賜りまして、ありがとうございました。

 先ほどから安保法制に関する御議論が続いておりまして、きょうは私は別の質問をしようと思っておったんですけれども、あそこまで議論されましたので、少し私からもお聞きをさせていただきたいと思うんです。

 先生方にお話しするようなことではないのかもしれませんが、憲法九条には、自衛の措置の限界ということについては明確に書いておりません。憲法九条そのものが極めて世界的には特別な憲法条項になっているわけですが、その憲法九条のもとでどこまで自衛の措置が認められるのかという議論、これは、残念ながら、先生方御承知のとおり、最高裁判所では明確に述べていない中で、これまで政府とそして国会との間の論議の中で形成されてきた、こういう歴史にあるわけです。

 憲法九条のもとでどこまで自衛の措置が許されるんだということについて、突き詰めて議論をさせていただいたつもりでおります。あの昨年の七月一日の閣議決定に至るまで、相当突き詰めた議論をさせていただいたというふうに私は思っておるんですが、例えば、これを個別的自衛権というふうに表現するのか、集団的自衛権と表現するのか。そもそも、個別的自衛権、集団的自衛権という言葉自体も、憲法規定には何にも書いてない。また、日本の安保法制の中にも何にも書いてない。書いてあるのは、国連憲章の中に書いてある言葉なわけですね。国際法上の観念なわけです、あくまで。

 そういう中で、どこまで自衛の措置が許されるのかということを突き詰めて議論したときに、従来の個別的な自衛権、我が国に対する武力攻撃があった、着手があったという場合はもちろんですけれども、必ずしもそこが、着手があったとは国際法上は言えないような場面においても、憲法十三条にうたわれています国民の権利、生命、自由、幸福追求の権利を最大限尊重するという憲法十三条規定からもともと自衛の措置の根拠になっているわけでございますけれども、そういう規定からすると、その限界がどこにあるかというのは、個別的自衛権とか集団的自衛権という観念の世界ではなくて、やはり十三条から考えると、国際法上、一部、集団的自衛権が根拠となる場合もあるのではないか、こんな議論があったわけですね。そういう中で、あの七月一日の閣議決定に至ったということでございます。

 これについても恐らく先生方はいろいろな御意見、御批判があるかと思いますけれども、そういう中で、あの閣議決定があったということでございます。それを今回、法案に明文化したということでございまして、改めて先生方の御意見を賜れればと思います。三人の先生方からお願いいたします。

長谷部参考人 どうもありがとうございます。

 先生御指摘のとおり、憲法九条を見ただけでは、自衛の限界というのははっきりとわからないわけです。ただ、文言を見た限りでは、たとえ自衛が認められるとしても、極めて極めて限られているに違いないことは、それは大体わかります。

 その上で、内閣法制局を中心として紡ぎ上げてきた解釈があるわけです。解釈というのは何のために存在するかというと、先生御指摘のように、文言を見ただけで、条文を見ただけではわからない、わからない場合に、解釈を通じて意味を確定していくということになります。

 従来の政府の見解というのは、我が国に対する直接の武力攻撃があった場合に、かつ、他にそれに代替する手段がない、必要性があるという場合に、必要な最小限度において武力を行使する、それが自衛のための実力の行使だということを言っていたわけでございまして、これはまことに意味は明確であるというふうに私は考えます。

 ただ、昨年七月一日の閣議決定において示されていた、限定的ながら集団的自衛権行使ができる場合があるのであるという、そういう変更がなされているわけなんですけれども、その結果、一体どこまでの武力の行使が新たに許容されることになったのか、この意味内容が、少なくとも、従来のいろいろな先生方の御議論を伺っている限りでははっきりしていない。

 文言を見ただけではわからないから、それを意味を明確にするために解釈をしているはずなんですが、解釈を変えたために意味はかえって不明確化したのではないかというふうに私は考えております。

 また、先ほどの繰り返しになりますけれども、従来の政府の見解、御指摘の憲法十三条に言及された、その基本的な論理の枠内におさまっているかといえば、私は、おさまっていないと思います。他国への攻撃に対して武力を行使するというのは、これは自衛というよりはむしろ他衛でございまして、そこまでのことを憲法が認めているのか、そういう議論を支えることは、私は、なかなか難しいのではないかというふうに考えているということでございます。

小林参考人 長谷部先生と最近しばしば議論をさせていただいております。重なっちゃうといけないので、別の観点から申し上げますと、ホルムズ海峡で機雷が敷設されたとき、これは日本にとっては何かといえば、我が国の艦船の無害航行権が害された。ですから、一面においては、我が国に対する、あそこはすごく使っていますから、邪魔、意地悪、攻撃でもあるわけでありまして、ですから、それを我が国の自衛隊が、テクノロジーが発達した時代ですから、領土、領海を越えて、その接続する公の海はみんな自由に使えるわけで、自由に使えるはずのものを害されたから、それを排除しに行く。自衛隊というよりも、これは海上保安庁の仕事になりますけれども、海の警察。

 それから、日本人の母子が、朝鮮動乱で、たまたま乗せてくれた米軍の船で逃げてきて、そこへどこかの国が攻撃をかけてきた場合、日本国は日本人を守るわけですから、乗り物の国籍いかんにかかわらず、これは我が国の主権的行為としてできる。

 つまり、何を言いたいかというと、どちらも個別的自衛権で説明がついちゃうんですよね。たまたま、行きがかり上、アメリカの船を守ってあげる、行きがかり上、そこの戦争をしているどちらかの国の機雷をのけるということによって反撃に参加してしまうけれども、我々の主観においては間違いなく個別的自衛権の行使なんです。これは国際法の世界ですから、それをこちらが言い切れば済むことであると私は思うんです。

笹田参考人 お二方の先生方がもう詳しく述べられましたので、つけ加える点はそうないのでございますが、昨年の閣議決定が出ましたときに、その文章をやはり学生諸君とかが見て読んでいくと、これは一読してわからないどころじゃなくて、読めば読むほど、どうなるんだろうという、そこがございました。それを今回、落とし込んでいく作業をされているわけでございまして、そうすると、概念がやはり本当にわからない。

 だから、今、国民の理解がという話が出てくるのはやむを得ないところでございまして、やはり最初の七月の閣議決定のところの文章から理解することがすっきり来なかったということから始まっているとは思いますけれども、もちろんそれが努力の成果であることは私もわかっている上で、しかし、やはりこの解釈がどうしても使われざるを得ないのがこの業界でございますので、こういう我々の結論はやむを得ないと私は考えております。

北側委員 今のお話をお伺いしておりまして、例えば小林先生のお話でいうと、それは個別的自衛権で処理できるじゃないかというお話のように私はお聞きをさせていただきました。ここが恐らくちょっと見解の異なるところなんだろうというふうに思っております。

 確かに、個別的自衛権として解釈できるような事態の場合も当然あると思います。ただ、そうではなくて、これはなかなか、第一撃が、他国に対する武力攻撃が、例えばアメリカ、米艦船に対してあった、それが、なおかつ日本の近海上で、公海上で、我が国防衛のために警戒監視をしている米艦船に対する第一撃であったという場合に、本当に個別的自衛権として処理できるのか。

 確かに、私どもの感覚では、それでできるじゃないかと言うかもしれませんが、国際法の立場からいいますと、公海上でそうした他国船に対して第一撃があった場合に、それを排除していくというのは、それはやはり、国連憲章上、違法性阻却事由とされています集団的自衛権の一部を根拠とする場合が出てくるのではないか、こういう議論なんです。

 だから、国際法の先生方の考えと憲法の先生方の考えとが、率直に申し上げますと、ちょっと次元が異なっているような場合も多々あるかというふうに私はお見受けしております。

 国際法上きちんとそれを正当化させるためには、国連憲章で言っているところの集団的自衛権の一部が含まれるよというふうに言った方が、国際法上はより明らかになるということでございまして、そういう趣旨で、あのような極めて限定的な集団的自衛権の容認という形になったということでございます。

 また、これにつきましては改めてぜひ別途論議をさせていただきたいと思います。

 あと一点だけお話しさせていただいて終わりますが、先ほどの憲法保障の問題で、笹田先生のお話というのは、非常に私は参考になりました。初めて聞かせていただいたお話も多々ございまして、非常に参考になるなと。ぜひ今後参考にさせていただきたい。

 やはり、日本の最高裁判所は、八十一条で、憲法適合性を審査する終審というふうに言っているわけでございまして、そういう意味では、少し今の最高裁は機能が弱いと思います。ただ、そこに、いろいろな最高裁の持っている課題、問題点等についても御指摘ございましたので、ここはぜひ議論をさらに続けさせていただきたいと思います。

 安保法制の問題とともに、今、憲法問題で政治課題になっておりますのが、やはり一票の価値の問題なんですね。

 特に、これは他院の話なので大変恐縮なんですけれども、参議院の選挙制度、選挙区の方については、一票の格差が四倍を超えてしまっているんですね。二年前の参議院選挙についても最高裁は、これは違憲、ただし無効とはしておらないわけでございますが、違憲というふうに判断をされていらっしゃるわけでございます。

 今、参議院の方でまさしくこの一票の価値の是正に向けて御議論がなされているわけでございますが、憲法の四十三条一項の、両議院は、全国民を代表する選挙された議員で組織する、この四十三条の規定からは、一票の価値というのは、今の参議院の選挙区の選挙制度においても二倍以内にしていかないとやはり違憲となるのではないか。

 先日最高裁で違憲と判断されておって、これは今回でやはり二倍以内にきちんとしていかないと、私は、選挙そのものが今度は無効になってしまうのではないかというふうに心配をしております。

 これほど立法上の不作為はないわけでございまして、この件に関する先生方の御意見を、簡単で結構でございますので、お聞かせ願えればありがたいと思います。

長谷部参考人 どうもありがとうございます。

 私も、先生の御指摘のとおり、一票の格差は極めて深刻な問題だと考えております。

 最高裁の判例が、一票の格差は許されないというふうに言って、根本は、有権者一人一人というのは平等な価値、平等な尊厳を持っている存在であって、その観点からして投票価値は平等にしなくてはならない、そういう要求があるという話でございます。

 かつ、これは二〇一三年であったかと思いますが、一人別枠制に関しまして、もはや合理性は失われたとした最高裁の判決がございます。その判決の中で指摘されているのは、今先生御指摘のとおり、国会議員はいずれも全国民の代表なのである、いずれかの県の利益を代表しているわけではないと。

 そういった観点からいたしますと、いずれかの一定の地域の利益を代表するために格差を正当化することは許されないのである、そういう考え方が示されておりますので、やはり参議院につきましても、必ずしも都道府県の枠にこだわる必要はないということになるであろうかと考えております。

小林参考人 私は、二院制であって、参議院は地方代表院的な側面もあるということを考えますと、衆議院と参議院は原理が違うような気がします。つまり、不均衡を是正するために県の境を越えて合併するというのは論外である、合併する県にとっては大変失礼な話であると思っております。

 いずれにしましても、アメリカは一九六〇年代に最高裁判決で一気に片づいたんですけれども、あれは判例法国の最高裁ですから、国会がやらないなら、最高裁が判決という名で公職選挙法別表を書いちゃうよということができる国家構造ですから、日本の最高裁に、そのアメリカの先例を見ながらいらいら期待することに無理がある。これはやはり、なかなか難しいですけれども、国会自身の立法裁量の領域であるということを改めて申し上げたいと思います。

笹田参考人 お二方の御意見に尽きるところと、しかしそうではなくて、一つは、都道府県のやり方がもうもたないというのが最高裁の発想にあるのではないかというところもあります。そうすると、ある意味でブロック制のようなものも考えていいのではないかということもあります。

 さらに、選挙無効が起こり得る可能性というのも確かにあるのかもしれません。ただ、最高裁はそこまで踏み切れるのか。現在、見るところ、最高裁の判決を出して、国会がそれに応答するということを期待しているわけですね。いつもシグナルを強く出しております。ところが、なかなかそのシグナルに、気づいていらっしゃらないのかもしれませんけれども、反応されないので。

 そうしますと、今、小林先生がおっしゃいましたように、アメリカのようなやり方は日本は多分できないわけです。ただ、その一方で、やはり選挙無効というものが、何らかのテクニックを使えばあるんじゃないかという意見は最近少しずつ出始めていますので、これは学者でやることだろうと思いますけれども、そこをやはり考えていきたいということでございます。

 以上です。

北側委員 ありがとうございました。

保岡会長 次に、大平喜信君。

大平委員 日本共産党の大平喜信です。

 三人の先生の皆さんには、大変貴重な御意見をいただきまして、まことにありがとうございます。議論も後半になりまして、少し、準備をしている質問がほかの方とかぶるところもあるんですけれども、博識な先生方ですので、ぜひ多面的な御意見をいただければというふうに思います。

 早速、質問をさせていただきます。

 戦後の日本は、侵略戦争と植民地支配のもとで、アジアと日本国民に多大な犠牲をもたらし、その反省の上に立って、政府の行為によって再び戦争の惨禍を起こさない、このことを世界に誓って、再出発をしました。戦争放棄、戦力の不保持、交戦権の否認を憲法九条に明記して、徹底した非軍事、平和主義を定めました。

 しかし、その後、日本の再軍備を求めるアメリカの対日要求によって、自衛隊が創設をされました。歴代自民党政府は、自衛のための必要最小限度の実力組織は憲法に違反しないと弁明をしまして、活動する地理的範囲でも、また装備の面でも、次々と拡大をしていき、九〇年代以降は、自衛隊を海外に派兵するまでに至りました。

 私たちは、その都度、これは憲法違反だということを訴えまして、こうしたたくらみは断固許されないと訴え続けてきました。

 しかし、ともかくも、戦後の日本政府の憲法第九条の解釈の根本は、一貫して、日本に対する武力攻撃がないもとでの武力の行使は許されない、つまり、海外の武力行使は許されないというものでした。

 ところが、昨年七月一日の閣議決定、そして現在審議されている安保法制では、こうした従来の政府見解をも百八十度転換するような、そうした解釈改憲が行われています。つまり、日本に対する武力攻撃がなくても、政府が新三要件を満たしていると判断をすれば、武力の行使を認めるものとなっています。

 三人の参考人の皆さんにお伺いをしたいと思うんです。

 きょうは立憲主義ということが一つのテーマでもありますから、まずその点でお伺いしますが、こうした重大な変更を一内閣の判断で行い、さらに立法作業まで強行したことは、私は、立憲主義の破壊そのものであり、断じて許されるものではないと考えますが、こうしたやり方が立憲主義との関係で許されるのかどうかについて、三人の皆さんにお伺いしたいと思います。

長谷部参考人 どうもありがとうございます。

 内閣法制局を中心とする政府の憲法解釈を変更することが決して許されないのかということになりますと、私は、そうではないというふうに考えます。

 現に、政府の憲法解釈は変更された例がございます。例えば、靖国神社への公式参拝の可否の問題でありますとか、自衛官と文民条項との関係が典型的な例として知られているところでございます。

 ただ、これは先ほどの私の話と重なるところでございますけれども、昨年七月一日の、集団的自衛権も行使されることが許容される場合があり得る、あの閣議決定による政府の憲法解釈の変更は、要するに、あの閣議決定の文面自体が、基本的な論理の枠内であることと法的な安定性が保たれることを政府の憲法解釈変更の許容度を示す要件としているんですけれども、いずれの点でもやはり大いに欠陥がある。従来の政府の憲法解釈の基本的な論理の中におさまっていない。個別的な自衛権のみが許されるという、その論理によって、なぜ集団的自衛権の行使が許されるのか、その説明が十分とはとても言えないものであるというふうに考えますし、その変更の結果として、では、どこまでも武力の行使は許されることになったのか、その点も不明確でございまして、法的な安定性も保たれているとは言えないというふうに考えております。

 その点におきまして、立憲主義に対してももとるところがあるというふうに私は考えております。

小林参考人 閣議決定がやたら文句を言われますけれども、内閣は行政権を預かっているわけですから、そのために法律と予算を国会でつくってもらって仕事をしようということで、政策目標として閣議決定することは日常的にやっていることで、その行為自体は僕は問題ないと思うんですね。一内閣の閣議決定でとよく怒りますけれども。

 ただ、その内容が、今、長谷部先生おっしゃったとおり、憲法の条文にも、そして内閣自身がというか日本国政府が積み上げてきた先例とも、ちょっと論理的に吹っ飛んでしまっている。これはもう、憲法を尊重して政治をしなさい、立憲主義に反する。そして、今その場は国会に移っているわけですけれども、国会が多数決でそれを承認する法律をつくってしまったとしたら、それ自体が国会による憲法軽視、これも立憲主義に反するということになりつつあると私は危惧しております。

 以上です。

笹田参考人 先生お二人方の御発言で大体尽くされているところはございますけれども、違った角度からお話ししたいと思います。

 やはり、ワイマール、ドイツのことをふと思うんですね。そうしたときに、あのときは憲法裁判権というものはほとんどありませんでした。結局、大統領も直接選挙で選ばれていますし、議会も選ばれている。そして、大統領は緊急命令権をいっぱい出しまして、そうした中で、また、憲法の番人は大統領だとカール・シュミットという人が言い出しまして、それは一定の強さを発揮するわけですね。それはとめられることなく、ドイツは、ワイマールは崩壊していくということもあります。

 日本においてはそういうことは僕はないだろうとは思っておりますけれども、私のきょうの報告の枠内で申しますと、先ほどから時々申しますように、どこかでやはりそれを少しクールに考える部門、場所が必要なのではないかなということを思っております。

 以上でございます。

大平委員 ありがとうございました。

 今度の安保法制の内容について、改めて、現行憲法の範囲内で許されるのかどうか、このことについて、次にお聞きしたいと思います。

 今度の法案では、非戦闘地域という概念を取り払い、自衛隊の活動範囲が拡大をし、そこで、戦闘行為と一体不可分である兵たん活動を行うこと、また、米軍等の部隊の武器等防護、こうした武器使用の権限が拡大すること、そして、集団的自衛権行使による他国領域内での敵基地攻撃についても憲法解釈上は可能だという答弁もありました。

 私は、このどれをとっても、明らかに、先ほどもありましたが、憲法九条の一項、二項に反していると考えますが、先生方のこの法案の内容についての御意見を伺いたいと思います。

長谷部参考人 現在審議されております安保法制と言われるものは、極めて多岐、広範に及ぶものでございますので、内容については一つ一つ本当は議論しなくてはいけないことでございます。

 例えば、私は、PKO活動に参加する自衛隊の武器使用の範囲の拡大については、必ずしも直ちに憲法に反するというふうには言えないところがあるとは思います。

 ただ、先ほども申し上げたことですけれども、他国の軍隊の武力行使との一体化の問題に関しましては、従来の政府の見解というのは、よくこれは大森四要素と言われる。具体的に言うと、他国の軍隊の武力行使の内容、そして自衛隊の後方支援活動の内容、両方の地域的な関係等を個別具体に総合的に考慮していく、その結果として武力行使の一体化が起こっているかどうかを決めるという話になるんですが、ただこれは、では現場の指揮官がその都度その都度判断できるかというと、それはそうはいかない。いかないものですから、一歩引いたところで、余裕を持って明確な線を引くというのが、戦闘地域と非戦闘地域を分ける、そういう工夫であったはずであります。

 この非戦闘地域、戦闘地域の区別をなくしてしまうということになりますと、本当にその場その場の指揮官の判断に結論が委ねられるということになりますので、その結果として、武力行使の一体化が生ずるおそれが極めて高くなる、そういうふうに私は恐れております。

小林参考人 長谷部先生は、一体化のおそれが極めて高くなるとおっしゃいましたが、僕は一体化そのものだと思うんです。

 つまり、兵たんなしに戦闘というのはできませんから。要するに、アメリカのコンバット部隊が最前線でドンパチやっていて、あとの機能は全部日本が引き受けることができる法案になっています。ということは、例えは悪いですけれども、長谷部先生が銀行強盗に行くとき、僕が車で送迎して、強盗は彼で、私は何もしていません。共犯は正犯に準ずるわけですから、一緒に強盗したことになるんですよね。そういう意味では、これは露骨な戦争参加法案でありまして、もうその一事だけでも、私はついていけません。

 以上です。

笹田参考人 今の後方支援と兵たんのところでやはり一番大きな疑問を感じているところでございまして、今、小林先生のクリアな説明で私も十分、そうだろうと思っております。

大平委員 内容の面でもう少し踏み込んで、少し横道にそれるのかもしれないですけれども。

 今度の安保法制は、憲法九条にもそうなんですけれども、日米安保条約の取り決めからも逸脱をしているではないかという意見も伺いますが、皆さんの御意見はいかがでしょうか。

長谷部参考人 御案内のとおり、日米安保条約というのは、それぞれ、締約国が各国の憲法の規定と手続に基づいてそれぞれの義務を果たすということになっておりますので、その点からいたしましても、憲法に反することはそもそもできないはずでございます。その点で、先ほどの私の答えと重なることになりますが、幾ら日米安保条約に基づいているからといっても、憲法に反することができるはずはないということになるだろうと思います。

小林参考人 私も一点だけ。

 日米安保条約というのは、これまでの私の理解では、アメリカと日本が一緒になって世界の警察をやるという話ではなかったと思うんですね。もっと事項とか地域に制限があったはずなんです。それをどうオペレーションするかのガイドラインでありまして、本体が変わっていないのにガイドラインで世界警察に広げてしまうというのは、これは全くの筋違いだと思います。

 以上です。

笹田参考人 私の報告の範囲とは大分ずれてきましたけれども、それを強く引きつけて言いますと、恐らくこういう議論は、司法の場でいきますと統治行為の議論がよく今まで出てまいったところでございます。

 結局、先ほど私がカナダの例を御説明しましたところでありますが、統治行為、いわゆるポリティカルクエスチョンというような議論をどうするのかというのが、私のテーマでいいますと非常に重要でありまして、例えばドイツの憲法裁判所は、もう最初からそういうものはない。我々はそういうふうにコミットする、憲法の番人であるということをうたってつくられているわけです。そして、先ほど照会について述べましたカナダの最高裁も、そこはとらないと言っております。

 ただ、我が最高裁は、かつてから、統治行為の理論というのは、ここ最近全く言われませんけれども、言ったこともございますので、私の議論に引きつけてきますと、そこはそれで、どういう場面で訴訟になるのか、これはいささか理解に苦しむところがございますけれども、そこは議論の余地が出てくるかなと思っております。

 以上です。

大平委員 ありがとうございました。

 きょうの質疑を通じても、やはり安保法制の問題点が浮き彫りになったと思います。徹底審議の上、廃案に追い込まなければならないとの決意も申し上げて、質問を終わります。

 ありがとうございました。

保岡会長 次に、園田博之君。

園田委員 次世代の党の園田ですが、一応党の方針なので、一つ意見として申し上げたかったのは、我が党は自主憲法制定を党是としているんですね。それは現行憲法のつくられた経緯が認められないという主張なんですが、しかし、そうはいっても、この憲法審査会では現行憲法を前提に議論をするということに大方なっておりますので、そのことをここで議論する気は全くありませんし、また、事実、この現行憲法が、やはり国民主権で、基本的人権が守られ、平和主義、民主主義というのが国民の間に根づいておりますので、私は、現行憲法で足らざるところをどう議論して改めていくのかということにすべきだというふうには思っております。

 きょうは、立憲主義とか改正の限界だとか、こういうことが大体テーマになっていたんですが、聞いていると、後半、九条と平和、安保法制に意見が集中されておりまして、特に私は、北側委員はお気の毒だと思ったのは、この議論の経緯をずっと眺めておりますと、自民党と公明党で議論をして、北側委員は特に、憲法違反には絶対ならないように、そして軍事行動に日本の自衛隊が巻き込まれないようにという前提で相当議論をして、私は、結果としてかなり制約された法案が現在国会に出されているんじゃなかろうかと思うんですね。

 そういう意味では、私は、今の安保法制が憲法に抵触するのかどうかということを、簡単に抵触するおそれがあるなんて言われると残念でならないわけであります。現在の国際情勢、これからの国際情勢を考えますと、やはり最低限の行動をとるべきだという前提で今議論されているわけでありまして、改めてこのことについては、時間をとってここでも議論してもらったらいいと思いますし、現在特別委員会でも議論をしておりますから、そこをよく聞いてお考えいただけたらいいんじゃなかろうかと思います。

 そこで、この立憲主義ということは、よく私はわからないんですが、権力が憲法を超えるなんということはあり得ないわけでありまして、そのために憲法があるんだろうと。したがって、全てが憲法をもとに、法律がつくられたり、あるいは政治行動が行われるのは当たり前だと思っておりますが、そういう簡単な考え方ではいかないということを言っておられるのかどうかを、まず長谷部先生にお聞きしたいと思うんです。

長谷部参考人 どうもありがとうございます。

 大体の国には、成文の憲法はないかもしれませんが、そういう国はございますが、ただ、大部分の国はやはり成文の憲法がございます。

 ただ、成文の憲法は持っていても、先ほど私が申し上げました、世界観あるいは価値観は世の中多様なのである、それはそれぞれの人個人として選び、自由にそれを、自分の人生を生きていく、そういう考え方をとっている国と、とっていない国があります。

 とっていない国もそれなりに憲法はございまして、その憲法に基づいて政治権力が行使されているわけでございますけれども、ただ、そういった国は、先ほど私が説明した意味での立憲主義の建前はとっていないということになるだろうと思います。

園田委員 小林参考人、いかがでしょうか、同じ質問で。

小林参考人 先生は長いこと権力の側におられたからすごく楽観的で、権力が憲法を超えることはない、あり得ないとおっしゃいましたけれども、去年の七月一日の閣議決定の翌日の読売新聞であったと思いますけれども、自民党のトップブレーンと思われる東京大学の名誉教授が、憲法とは権力者が使いこなすものであると言い切っているんですね。

 だから、そういうことが公然と行われている現代において、憲法が権力者によって踏み越えられることは幾らでもある。

 最初に申し上げたように、憲法というのは、最高権力を抑えなきゃならないから、その上に、いわば神棚に置かれちゃうから、形において最高であるから、後ろ盾が誰もいない、とても弱いものであるということは、権力の中に長くおられる先生には改めて申し上げたいと思います。

 以上です。

園田委員 権力に余り長くいたことはないんですけれども。

 同じく、では、笹田参考人にもお願いします。

笹田参考人 どうもありがとうございます。

 権力が憲法を踏み越えないかどうかという点については、やはり、歴史上そうであったということを前提に各国はそれをつくってきている。

 特にアメリカ合衆国憲法が、その先駆けとして、権力分立というものを非常にきれいな形でつくって、それに違憲法令審査権を付与するものをつくった。これは「フェデラリスト」というものの中でいろいろな人が書いていますけれども、権力に対する抑制は要るんだというのを後々大統領になった人たちが書いているということが、やはり今でも私は重く受けとめられるべきではないかと思っております。

 以上でございます。

園田委員 次に、改正の限界についてお伺いしたいと思うんです。

 私は、理屈の上で限界はありませんが、現実的にはやはりあるんだろうと思うんですね。

 それはなぜかというと、さっき私が申し上げた、現行憲法の主権は国民にあって、天皇制は、もちろん象徴であっても天皇制がしかれていて、しかも基本的人権が守られ、平和で民主主義という現行憲法の底流に流れるものを侵してはいけないから限界があるとおっしゃっているのかどうか、あるいは違った意味で限界のことをおっしゃっているのか、それぞれまた、参考人にお伺いしたいというふうに思います。

長谷部参考人 学説上はいろいろな議論があるのですが、ただ、これは本日冒頭で小林先生も御指摘の点でございますが、第二次大戦、日本はこれを戦って敗れたわけですが、第一次大戦もそうです、あれだけの大規模な戦争が長期にわたって行われるという場合には、必ず政治体制と政治体制の根本的な対立があります。それは、別の言い方をいたしますと、異なる憲法の基本原理を持つ国々が相互に対峙をし、それが激烈な対立に至る、その経過を経て、あれだけの大規模な、そして長期にわたる戦争が発生するということになります。

 そうした大規模で長期にわたる戦争はいかにして終結するかといえば、負けた側が勝った側の憲法の基本原理を採用することによって、そういった大規模な戦争は終結をいたします。日本はまさにそうした選択をしたということでございまして、そうして選択をした憲法の基本原理は、これは変えられない、そこに改正の限界がある、そういうことになるだろうと思います。

小林参考人 世界に二百くらいの国家がありますけれども、それを統計的に並べると、いろいろな憲法とか憲法原理があるんですけれども、私の立場は、歴史の流れの中で我々がたどり着いた国民主権、基本的人権の尊重、平和主義、これは選択すべき余地のない、たどり着いた最先端の価値である、だからこれは価値的にさわってはいけないものであるという立場に立っております。

 以上です。

笹田参考人 ちょっと違った角度から申しますと、日本と同じくドイツも敗戦国でありますが、ドイツが憲法制定過程で、後の首相になるアデナウアーは、やはり個人の独裁のみならず、議会多数派の独裁に対しても基本権侵害から必要な保護を個人に与える、人間の尊厳が議会から守られるべきだということを強く言って、これが基本的テーゼとなって、つまりドイツの体験、もちろん、敗戦国ですからそういうものからの影響力も受けますけれども、そこはやはり経験であろうかと思います。

園田委員 三人の先生方に最後の質問を申し上げたいと思うんですが、最初申し上げたように、改憲というのは九条だけじゃないわけですね。

 それで、いろいろな意見がありますが、現行憲法の中に足らざるものがやはりあるんじゃなかろうか。いろいろな意見が出ています。環境に対する権利の問題だとか、あるいは統治機構を、やはり憲法上、改めて新しい統治機構をつくる、その筋道をつくったらどうかであるとか、それから、国にはやはり、国民にとっても緊急事態というのは起きますから、そういう場合に、現在の憲法や法律を超えた対応ができる、そういうことが憲法に書き込めないかとか、いろいろな意見があるんですね。

 そういう点で、三人の参考人の方々に、現行の憲法でぜひ検討したらいいというものが多分おありになると思うので、意見をお聞かせいただきたいと思います。

長谷部参考人 これは憲法そのものをさわることには実はならないんですよ。

 私、先ほど笹田先生が御提案になりました、最高裁にかえて上告審、司法裁判所としての上告審というものを新たに設け、それと別に、憲法問題を主として扱う、そういった裁判所として最高裁の役割を限定する、これは極めて重要な問題提起でありまして、検討に値するというふうに考えております。

 私の知っている限りにおきましては、ブラジルがこういう体制をとっておりまして、司法裁判所のトップに三審裁判所、要するに第三審裁判所という上告を主に取り扱う裁判所を設け、それとは別に、最高裁判所が憲法問題を取り扱う裁判所として存在をしておりまして、外国にはそういった例があるということでございます。

小林参考人 新しい人権とか、それから首相公選制とか地方分権の明確化とか、いろいろ家の建てかえみたいに考えてきたんですけれども、今ここに至って私が考えますことは、やはり九条が一番大変で、九条の文言がたくさんの解釈を生んで、争いを生んでいますが、やはりこの憲法で改正すべき点は九条だけだと今思っております。あとは全部運用の問題で、新しい人権なんて全部、十三条があるわけですから、使いこなしていけば済むことです、地方分権もそれから二院制の活性化も。

 とにかく、これまで、大変な大混乱を今起こしている九条の改正こそが、先生とまた真反対になっちゃいましたけれども、急務であると思っております。

笹田参考人 どうもありがとうございます。

 まず、現行憲法と実定法でつくられている今の法状況で精査して、本当にこれはどうしようもないのかというところで一つ考えていくと、私の今回のテーマでございます違憲審査のあり方でいくと、私が先ほどから言っているような幾つかのことはまだ、いずれにしろ、現行法の枠内で、これはつくり方次第でございますけれども、可能なのではないか。

 憲法裁判所というのも魅力的な一つの提案でございますけれども、ドイツが大成功をおさめたのは確かでございますが、それに至るのもやはり相当努力があったのは当たり前の話で、やはりつくっちゃうと、現行の最高裁との確執、これは韓国で既に起きておりますが、これがなかなか厄介な問題で、現行の最高裁の方にプロがいっぱいいますので、憲法裁判所が果たしてどうなのか。

 例えば、ベルギーの憲法裁判所とか、いろいろ話を聞いてみますと、コンセイユ・デタの担当者たちは、大変な評価をしているかと言われると、何かそうでもないようにインタビューでは受けましたので、やはり歴史と伝統というのは大事なことだなと思っております。

 以上でございます。

園田委員 ありがとうございました。

 もう結構です。ありがとうございました。

保岡会長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、一言御挨拶を申し上げます。

 参考人各位におかれましては、貴重な御意見をお述べいただき、ありがとうございました。憲法審査会を代表して、心から御礼を申し上げます。

 次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。

    午前十一時二十六分散会


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