平成27年6月4日(木)(第3回)

◎会議に付した案件

日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制に関する件(憲法保障をめぐる諸問題(「立憲主義、改正の限界及び制定経緯」並びに「違憲立法審査の在り方」))

1.参考人から意見を聴取することに、協議決定した。

2.上記について、参考人長谷部恭男君、小林節君及び笹田栄司君から意見を聴取した後、質疑を行った。

(参考人)

早稲田大学法学学術院教授    長谷部恭男君

慶應義塾大学名誉教授

弁護士             小林  節君

早稲田大学政治経済学術院教授  笹田 栄司君

(参考人に対する質疑者)

山田 賢司君(自民)

中川 正春君(民主)

小沢 鋭仁君(維新)

北側 一雄君(公明)

大平 喜信君(共産)

園田 博之君(次世代)

◎長谷部恭男参考人の意見陳述の概要

1.立憲主義とは何か@〜中世立憲主義(広義の立憲主義)

  • 立憲主義には広義・狭義の意味がある。広義の立憲主義は、政治権力を制限する考え方一般を指す。「中世の欧州にも立憲主義があった」と言う場合はこの意味であり、中世の欧州では、当時の支配的な宗教・世界観であるキリスト教に基づき、何が正しい生き方であるかは決まっており、為政者についても同様に、キリスト教という一元的な思想・世界観に基づいて政治権力も制限されていた。

2.立憲主義とは何かA〜近代立憲主義(狭義の立憲主義)

  • 他方、我が国を含む先進諸国で共通に理解されている立憲主義は狭義のものである。これは近代立憲主義とも呼ばれ、近代初めの欧州で確立された考え方である。当時の欧州は、宗教改革後の激烈な宗派間対立を経験する一方で、大航海時代の中で世界各地の多様な暮らしぶり・考え方を経験し、人にとっての生き方や世界の意味付け方は唯一つには決まっておらず、多様な相互に両立し得ない価値観があることを認めざるを得なくなった。
  • 近代立憲主義は、多様な価値観・世界観の存在を正面から認めることを出発点とする。客観的に判断する基準がないため、いずれの価値観が正しいかを議論する意味はない。どのような世界観・人生観を持とうと、人間らしい平和な社会生活を送れるようにするには、どのような社会の在り方を基本とすべきか、それをまず考えるべきだということになる。
  • 近代立憲主義は、そのような社会生活の基本的な枠組みとして、「私」と「公」の区別を提案する。「私」の領域では、各自が選ぶ世界観によって生きる自由が保障され、他方、社会全体の共通の利益に関わる「公」の領域では、各人の世界観はひとまず脇に置き、世界観に関わらず人間らしい社会生活の便宜を享受するために必要なことや各自の公平なコスト負担の在り方が、理性的に決定される必要がある。
  • 近代立憲主義に立脚する国々の憲法には、憲法上の権利として基本権が定められることが通常である。「私」の領域で、各自が自らの信ずる宗教を奉じ、正しいと考えることを表現し、プライバシーの守られる空間で自らの財産を使いながら生きる自由が保障されているが、これは、自由な「私」の領域を確保するための諸権利の保障であると言える。
  • 他方、報道・取材・結社の各自由や参政権といった、主に「公」の領域における社会全体の共通の利益の確保を効果的に実現するためには何が必要であるかを理性的に決定するために定められた権利もある。もちろん、こうした権利に支えられた民主政治の具体のプロセスについて定める統治機構の規定も、近代立憲主義に立脚する国々の憲法には、備えられている。

3.近代立憲主義と硬性憲法

  • こうした近代立憲主義に立脚する憲法は、通常の法律と比べて変更が難しいこと、つまり、硬性憲法であることが通常である。基本的人権を保障する諸条項や民主政治の根幹に関わる規定は、選挙の都度起こり得る多数派・少数派の変転や時の政治指導者の考え方からは切り離されるべきものであり、その社会の全メンバーによって中長期的に守られるべき基本原則であることが、その理由である。
  • 硬性憲法であることの背景には、人間の判断力に対する悲観的な見方もある。人間は、感情や短期的利害に囚われやすく、中長期的には不合理な、自分たちの利益に反する判断をすることが少なくない。よって、国の根本原理を変えるときは、将来世代を含めた我々の利益に本当に繋がるのか、国民全体を巻き込んで考えるべきであることになる。それを可能とするために、憲法改正は難しくなっている。
  • これに加え、憲法の内容が遵守され、具体化されるよう、多くの国々では違憲審査制度が定められている。

4.近代立憲主義と改正限界

  • 基本的人権の保障や民主政治は、普遍的な理念として捉えられるべきものとされているが、問題は、これらが憲法典に規定されているかに限られず、これらの考え方の前提となる認識の有無、つまり、相互に両立し得ない多様な立場の存在を認め、異なる立場の人々を公平に扱う用意があるか、これこそが普遍的な理念に忠実であるか否かを決していると言える。近代立憲主義の理念に忠実であろうとすれば、例え憲法改正の手続を経たとしても、この理念に反する憲法改正は許されない。つまり、改正には限界があることになる。
  • 近代立憲主義の理念に立脚する国々であっても、各国固有の理念・制度を憲法によって保障していることがある。我が国であれば、天皇制や徹底した平和主義がこれに当たる。これらは、多数派・少数派の変転などによって動かすべきものではないからこそ、憲法に書き込まれている。もっとも、これらは普遍的な近代立憲主義の理念と両立し得る範囲内に留まっている必要がある。つまり、特定の人生観等を押しつけることは、憲法に基づいたものであっても認められない。

5.憲法保障

  • 価値観・世界観は人によって様々であり、しかし、その違いにもかかわらず、互いの価値観に寛容な、人間らしい暮らしのできる、公平な社会生活を営もうとするという近代立憲主義の理念を守ること、憲法に書き込まれた我が国固有の理念・制度を守り続けることが、憲法を保障することの出発点である。

◎小林節参考人の意見陳述の概要

1.立憲主義

  • 立憲主義は、権力者の恣意ではなく、法に従って権力が行使されるべきであるという政治原則である。立憲主義は、人間の本質が神のごとき完璧なものではないという事実を前提とするもので、現代においては選択の対象ではなく所与の前提である。
  • 憲法が現実との間で齟齬が生じてはいけない。仮に齟齬が生じたらそれをどのように予防・匡正するかということが問題になる。予防・匡正の具体例として、まず、日本国憲法のように最高法規であることの宣言が規定されることがあげられる。権力は民間人が担うものではなく、国家の中で行動し得る資格のある自然人が権力を帯びた瞬間から権力者になる。それは政治家から町役場の職員まで全てに言えることである。そこで、公務員の憲法尊重義務を憲法に明記することが次の具体例としてあげられる。

2.憲法保障

  • 違憲立法審査権だけでなく、三権分立も憲法保障である。国会が裁判所のまねごとをして叱られたこともある。内閣は行政府であるので立法権はない。外交についても、交渉を担当する内閣と条約承認権のある国会との間でチェック&バランスが図られる。さらに、二院制も国会内の権力分立である。つまり非効率を当然としながら、その中で正しさを図っていく。しかし、全ての人の正しさは違うことから、全ての人が等価値であるとするならば、一定任期は多数決に従い、トライアル&エラーでやり直していくという非効率の中で正しさを担保していくことになる。
  • 憲法保障として一番期待されるのは司法審査であるが、日本はアメリカ型の司法なので、具体的な事件にならなければ裁判所は憲法問題を扱ってくれない。例えば今問題となっている新安保法制に関しても、同様である。当事者の負担を考えれば訴訟提起はなかなか想定されにくく、司法審査は最後に抜く刀ではあるが簡単には抜けない床の間の刀であると言える。そこで、他の憲法保障が重要となる。
  • ドイツ型の憲法裁判所制度も、結局は国会内の少数派が出訴にチャレンジすることにより国が動かなくなっては困るので、出訴資格を国会議員3分の1以上としたり、内閣自体を原告にしたりするなどしているが、これも完璧なものではない。
  • 改正手続が存在すること自体が憲法保障である。すなわち、ジョージ・ワシントンに言わせると、憲法は不完全な人間が歴史の曲がり角で時間をかけずにつくらないとまとまらないということである。日本国憲法にも誤字脱字があり、当時予想し得ない事態にも直面している。そのため、憲法改正の道を残しておかないと、憲法は破壊されるしかなくなるので、改正手続の存在も憲法を生かす手段なのである。法律のように多数決ですぐに改正できるのでは、憲法が憲法でなくなってしまう。憲法は憲法である以上、硬性であるのが当たり前である。

3.憲法改正権の限界

  • 憲法改正には、論理的限界と価値的限界とがある。
  • 論理的限界とは、制定権力と改正権力とは言わば「親と子の関係」にあり、子の権利で親の権利の領域に踏み込むことはできないという考え方である。つまり、憲法改正権力が憲法制定権力に踏み込むことはできないということである。
  • 価値的限界は、人類が歴史の中で磨いてきたものであるから、現時点での到達点であり譲りえない価値なのであって、人権の尊重、平和主義などの価値を否定する憲法改正は手続的には可能かもしれないが、あってはならないという考え方である。
  • 憲法は、六法全書の中で唯一最高権力を縛る位置にある。逆に言うと、最高法であるから後ろ盾が何もない。民法や刑法の違反を犯しても、憲法が機能している限り、違反者は裁判所において相応の責任を負わされることとなる。民法も刑法も憲法が機能していればこそ機能するが、憲法は最高権力を管理しなければならないため、後ろ盾が何もなく、権力者が開き直った時どうするかという問題に常に直面するわけである。
  • しかし、権力者がなぜ権力者の地位にいられるかといえば、選挙で過半数の議席を獲得しているからであって、それに国民が気づいたら選挙で過半数を奪い返せばよいという簡単なことである。これにより民衆のレベルにふさわしい政府に徐々になっていくということである。

4.お試し改憲

  • 「お試し改憲」という文言は、良いネーミングであるが、無礼な言い方でもある。
  • 私は、30年以上前から自主憲法制定国民会議の会合に出席しており、憲法9条は改正の必要があると今でも思っている。しかし、戦争体験と占領時の情報コントロールにより、国民は憲法9条に触ることについて感情的な反発を持ってしまっている。これを和らげるために、まずは新しい人権などから改憲の練習をした方がよいと発言したこともあるし、そういう発言に与したこともある。
  • 「お試し改憲」という言葉は、昔は真面目な意味であったが、今はおちょくるための言葉になってしまっている。日本の憲法風土を考えれば、「真面目なお試し改憲」はあり得ると思う。
  • ただ、最近は中国のおかげで、9条神話に浸ってよいのかという議論が出てきた。しかし、9条のおかげで70年間(自衛隊が)海外に行かなかったということは大変な実績である。これは、改憲論者の私としては盲点であった。

5.押しつけ憲法論

  • 押しつけ憲法論について、この議論は生産的でないということを申し上げたい。戦後70年を経て、現実の前でこの国をどうするかという議論をしているときに、70年前に戻って、押しつけられた、押しつけられていないという議論は意味がない。歴史的資料はいくらでも出てくる。もちろん客観認識として、戦争に負けて占領されていたので押しつけられたというのは歴史的事実であるが、それを悔しいと言っていても仕方がない。
  • この憲法の下で現に国会が存在し、国が発展してきたということは間違いない事実であるので、恨み節を言い合うよりも、今をどうするかにエネルギーを使ってほしい。押しつけ憲法論はそのとおりだが、だからその悔しさを改憲に変えなければならないという感情は無駄である。

◎笹田栄司参考人の意見陳述の概要

1.違憲審査制の二つのタイプ

  • 立憲主義の最後の実現過程としての違憲審査制には、ドイツのような憲法裁判所制度と、日本やアメリカのような司法裁判所型の二つのタイプがある。
  • 司法裁判所型は、自分の法的利益が侵害された際にそれを回復させるもので、具体的事件の存在が必要である。アメリカの司法審査が典型であるが、これは合衆国憲法に明文に規定されているわけではなく、判例によって1803年以来確立されたものである。これに対し憲法裁判所型は、具体的な事件が存在しなくても、憲法裁判所への訴訟の提起が可能な制度である。
  • 例えば3年前にESM(欧州安定メカニズム)にドイツが予算をどれくらい拠出するのかが議論となり、ドイツ連邦憲法裁判所は、制限付で拠出を認める判決を出した。これが抽象的規範統制と言われるものであり、憲法裁判所の力は非常に強い。
  • この二つのタイプは、近年接近していると言われている。アメリカの連邦最高裁も事件性の要件を緩め、従来であれば具体的事件がないとされたものにも事件性を認めてきている。また、カナダはアメリカ型の司法裁判所型に属するが、ここでは政府が最高裁判所に勧告的意見を求める「照会(reference)」が憲法裁判の3分の1から4分の1程度を占めている。これは、具体的事件は存在しなくても、違憲審査権限を行使しているのではないかと言われているものである。
  • ドイツの連邦憲法裁判所は様々な機能を保持しているが、抽象的規範統制の申立件数は年間3件から5件程度、機関争訟が3件(2013年度)であり、申立件数全体の97〜98%(6477件)を憲法異議の訴えが占める。これは、公権力により人権が侵害されたとして憲法裁判所に訴えるものであり、裁判所の判決に対する訴えという形をとるところが司法裁判所型の訴訟によく似ている。

2.日本国憲法及び裁判所法で具体化された違憲審査制

  • 日本国憲法の制定過程で最高裁判所が違憲審査権を持つという大改革が行われた際に、三つの選択肢があった。一つ目は、明治憲法の改正に備えて政府に置かれた委員会が唱えたもので、裁判所がある法律を違憲と判断した場合に、その違憲法律を適用しないという消極的な形での違憲審査を認めようというものである。これだと明治憲法も改正は必要がないということで、当時の代表的な憲法学者達の見解はおおよそこのようなものだった。二つ目は、マッカーサー憲法改正草案で、人民の権利義務を定めた憲法第3章を除く事例について、最高裁の違憲判決に対し国会の再審を認めようとした。これは、イギリスの貴族院が持つ終審裁判所の役割を参照したものと言われているが、日本側の不要との主張をGHQも了承し、現在のスタイルとなった。三つ目が現在の憲法81条である。
  • 11年前に国会で発言したときは、違憲審査について一定の活況が出るかどうかという時期であり、裁判所にあまり元気がなかった。1990年代の法令違憲判決はゼロであった。2002年から増え始め、ここ最近は、重要な違憲判決が出てきている。
  • 最高裁が初めて法令違憲判決を出したのは1973年であり、1947年の最高裁の発足からは1947年である。26年を経てようやく法令違憲が出た。違憲判決の少なさについて、矢口洪一元最高裁長官は「戦後の裁判所を御覧になって違憲立法審査権をもっと行使すべきと言うが、今まで二流の官庁だったものが、急にそんな権限をもらってもできやしないのです。」と述べている。
  • 違憲審査が活況を示すようになった理由としては、第一に、世代交代があり、最高裁判事、調査官が交代し、最高裁裁判官も全員が全教育課程を日本国憲法の下で受けた者となったていること。第二に、国会等からの外圧としての憲法裁判所導入論があったこと、。第三に、司法制度改革で、裁判員制度が始まり、国民的基盤が確保され、また、司法制度改革の最終意見書がにおいて違憲審査権が不十分であると明言したことが挙げられからである。以上の三つの理由により活況を示すようになったのではないか。
  • 伊藤正己元最高裁判事は、の1993年の提言で、通常事件は最高裁判所でよいが、憲法裁判は別の憲法裁判所に委ねた方がよいのではないかと主張した。その際、伊藤は最高裁判所が違憲審査に積極的に踏み込まない理由として、@政治部門への礼譲の意識の存在、A最高裁の処理件数の多さから、特に小法廷にあっては通常事件の最終審という意識が強く、憲法の裁判所であるという考え方は生まれにくいこと、B大法廷回付に慎重であり、結局のところ小法廷で憲法事件が処理されること等を挙げている。

3.違憲審査制の活性化に必要なファンダメンタルズ

  • 最高裁には二重の役割がある。一つは最終審として違憲立法審査権を行使することであり、もう一つは民事、刑事、行政事件の上告審としての役割である。一つの小法廷で年間3200件を処理しているが、その大半は憲法訴訟ではなく、最高裁は上告審としての機能に傾斜している。憲法裁判所と五つの連邦最高裁判所があるドイツでも、事件処理件数の多さに音を上げている。アメリカは、裁量上告制であり、州最高裁もあるため、年間100件程度である。
  • 最高裁の重労働を支えるのが、40名程度の最高裁調査官(身分は東京地裁判事)である。我が国ではこういう状態が30年以上続いているが改善されない。最高裁の調査官の増員による対応が一つの対策であるが、結局、最高裁の「改革」は、最高裁に何を期待するかによって変わってくる。通常事件の最終審として適正な判決を下すことを中心に考えるのであれば、現在の体制を維持すればよいが、それだけでなく憲法事件についての最高裁判所の積極的な憲法判断を期待するのであれば、上告審機能を大胆にカットするしかない。私案だが、特別高裁をつくり、上告審は特別高裁が担当することで、最高裁は、本来の機能を発揮し、違憲審査に今よりも集中することができるようになるのではないか。
  • さらに、カナダで行われている政府が最高裁判所に勧告的意見を求める「照会(reference)」も検討の余地がある。これは法的拘束力を有さず、事実上の拘束力を持つにすぎないが、インパクトは無視できず、我が国の憲法上も立法によって導入可能との見解もある。ただし、この案を導入するにしても、最高裁の上告審機能の軽減は不可欠である。
  • 統治システム全体の解決のためにより強力な権限を司法が持つべきということであれば、さらに大胆な改革としてということになり、それが憲法裁判所の創設がである。この柱は抽象的違憲審査の導入であるが、これには憲法改正というハードルが存在する。

◎参考人に対する質疑者及び主な質疑事項等

山田 賢司君(自民)

<発言>

  • 私は現行憲法の無効という立場をとっておらず、問題はあるが有効という前提で質問を行う。憲法制定の経緯については大いに疑問を持っているが、もしこの憲法に正当性があるとするならば、施行後68年間日本国民がこれを受け入れてきた一点に尽きると考える。

<長谷部参考人に対して>

  • 参考人は憲法改正限界説の立場であるが、日本国憲法の改正には限界があるとする一方で大日本帝国憲法の改正には限界はないのか、限界を無視してよいと考えているのか。
  • 大日本帝国憲法の改正に限界があるならば、その改正手続に従って改正したとしても、大日本帝国憲法の根本原理である天皇主権を国民主権に変えることは憲法改正の限界を超えているのではないか、意見を伺いたい。
  • 大日本帝国憲法をポツダム宣言で変更した、というのであれば理解できるが、ポツダム宣言を受諾したのは昭和20年8月で、その2年後に憲法が変わった。その間、大日本帝国憲法の下で国民主権の時代があったということか。
  • 日本国憲法には「日本国民の総意に基づいて」と書いてあるが、日本国民の総意が本当にあったのか疑問だ。当時は言論統制の下にあり、日本国憲法に対する批判は許されなかったということが、様々な資料によって明らかになっている。GHQの資料によれば、連合国最高司令官がこの憲法を書いたことに対する批判を書くことは禁止され、書いたものは削除すべきとの指令が連合国によって行われたとされる。言論統制により、日本国憲法の制定過程に対する批判も許されないという状況下において国民の総意があったと言えるのか、見解を伺いたい。

<発言>

  • 憲法は、日本国民の総意で受け入れて制定されたのではなく、日本国の代表者が作った案が連合国から受け入れられなかったため、連合国が作った草案に基づいて作ったが、その後日本国民が68年間受け入れてきたという流れだということは事実として確認したい。

<小林参考人に対して>

  • 参考人は、著書の中で押しつけ憲法であると認められているが、無効というのは時代錯誤であるとも述べられており、これはそのとおりである。一方、「日本は敗戦し、結局のところ自ら自由と民主主義を手に入れることができない民族であったのだから、受け入れることはやむを得ず、ペナルティーを受けるのは当然である」と書いてある。しかし、日本国憲法の理念がどんなにすばらしいものであっても、占領している国の国民の意思に基づかずに自分たちが考える理念を授けたという形は、戦勝国の欺瞞ではないかと考えるが、意見を伺いたい。

<発言>

  • 事実として68年間この憲法を使用しているのであるから、国民が受け入れているのはそのとおりである。ただ、このような経緯があったという前提に立って、憲法改正の限界があるのか否かという議論をしなければならない。

<小林参考人に対して>

  • 私は憲法の問題点である憲法9条、前文、あるいは緊急事態など、何が今現実に困っているかを考えて国民に説明し憲法を改正する考えを持っているが、「真面目なお試し改憲」とは具体的にどのようなものか伺いたい。

<発言>

  • 憲法の学界の議論は分かりづらい。8月革命説にしても、「現状の日本国憲法は正しいものだ。」として、その正当性を証明するのが憲法学なのかと思ってしまうくらいだ。政治家が現状を肯定するのは政治判断としてあるが、是非学界の先生方に純粋な学問的見地から「おかしいものは、おかしい。」と言っていただき、むしろ自主憲法を制定すべきであると声を上げていただきたい。

中川 正春君(民主)

<小林参考人に対して>

  • 押しつけ憲法であるという過去にこだわることがどれだけ建設的な議論になるのか。戦後68年かけてこの憲法に誇りをもって自分たちのものにしてきたとの事実に立ち、自主憲法に遡るのではなく、現行憲法をそのまま見つめて改正するというコンセンサスを作ることが大事だと思うが、いかがか。

<笹田参考人及び小林参考人に対して>

  • 安倍総理の思惑により改正議論が進み、国民が安心感をもって議論することのできる現状ではないことを懸念する。現在、安保関連法案が審議されているが、基本となる言葉の意味が変遷してきているように感じる。例えば「専守防衛」は9条の規範のように説明されてきたが、「相手から直接の武力攻撃を受けたときにはじめて自衛隊は防衛力を行使する。そのため保持する防衛力も本当に必要最小限度にしていく。」というのが一般的なこれまでの定義だ。それに対して新三要件が出てきたが、二つの点において「専守防衛」を超えている。一つは、「我が国に直接」だけでなく「我が国と密接な関係にある他国への武力攻撃の発生」が前提となっていること。もう一つは、「直接の武力攻撃」であるから、新三要件にある「可能性、おそれ」ということではないこと。そのため「専守防衛」という言葉は使うべきでないと思うが、政府は引き続き維持すると言っている。また、「集団的自衛権」の幅が広すぎる。「基地を提供すること」から、「限られた形で武力を行使することを前提とするもの」まで様々だ。「平和」という言葉も安保関連法案の名称にされるという、欺瞞的な使い方をされている。このような状況は国民にとって分かりづらく、議論が進まない原因である。誰がどこで言葉の定義を確実に制御していけるのかについて、憲法の解釈で変えていくこととの関連も含め、どのように考えるか。

<全参考人に対して>

  • 現在の安保法案は憲法違反か否かについて、各参考人が仮に裁判官だとするならばどのように判断するか。

<発言>

  • 笹田参考人から紹介のあったカナダの「照会(reference)」については、憲法審査会の一つのテーマとして議論することを提案したい。

小沢 鋭仁君(維新)

<発言>

  • 我が党は、限定的集団的自衛権を容認する立場をとっている。これまで日本の有権解釈はどちらかと言えば内閣法制局が行ってきたが、これは行政府の一組織が行っているという点でおかしい。その意味では、安倍総理の「最後の判断は私が行う」という発言は、制度論としては正しいと考える。

<笹田参考人に対して>

  • 内閣も国会も政治家のみで構成されており、最終的な違憲審査は司法が行うことが憲法上定められているので、我が党は司法がきちんと関与できる体制をつくるべきとの観点から、憲法裁判所の創設を提案した。同時に、憲法裁判所の導入には時間がかかるので、憲法81条の活用により、現行制度でも対応が可能ではないかとも思うが、見解を伺いたい。

<発言>

  • 現行の81条の下での対応も含め、司法の関与について、国会でも検討すべきだと提案する。

<長谷部参考人に対して>

  • 長谷部参考人の意見陳述の中で、今日の各国憲法は普遍の価値をベースにしながらそれぞれ特徴をもっており、日本の特徴は天皇制や平和主義であるとの話があった。各国憲法にも平和主義条項はあるが、日本の平和主義条項は諸外国のそれとどこが異なるのか。

<小林参考人に対して>

  • 今回の集団的自衛権の容認に対しては賛否両論ある。また、重要影響事態における後方支援には、弾薬の提供や発進準備中の航空機への給油等、今まで行っていないことも含まれている。これらの活動は国際法上、武力行使に当たるか。
  • 9条1項の「紛争を解決する手段としての武力行使は永久に放棄する」旨を規定している部分は重要だと考える。全ての戦争は正義の名の下で行われるが、その反省で、我が国は戦争を放棄した。今回の安保法制に含まれる活動が「紛争を解決する手段としての武力行使」であるならば、これは憲法違反だと考えるが、見解を伺いたい。

<長谷部参考人及び小林参考人に対して>

  • 我が党は統治機構改革を出発点とした憲法改正を公約に掲げているが、現行憲法は、発議すらできないくらい改正条項が難しいので、96条を改正すべきと主張している。96条は世界で最も厳しい改正規定ではないかという学者の意見もある一方で、96条改正を訴えると「それは、裏口入学だ」との批判も受けることもある。しかし、96条改正なしにどのようにして国民の手に憲法の議論を戻すことができるのか、見解を伺いたい。

<発言>

  • 憲法改正には両院の賛成が必要であり、またこれまで全く改正できていない状況からは抜け出さなければならないと我が党は考えている。

北側 一雄君(公明)

<全参考人に対して>

  • 先ほどから安保法制整備に関する議論が続いているので尋ねるが、自衛の措置の限界については、憲法9条に明確に書かれておらず、最高裁判所の判断もないため、国会と政府による議論によって形成されてきたし、昨年7月1日の閣議決定についても、これに至る過程で突き詰めた議論が行われてきた。個別的自衛権や集団的自衛権の言葉自体は、そもそも憲法や諸法律には書かれておらず、国連憲章に書かれているのみである。また、憲法9条の下で許容される自衛の措置としての武力行使は、従来の我が国に対する武力攻撃に着目した個別的自衛権としてはもちろんのこと、国際法上は着手があったとは言えないような場面においても、憲法13条の趣旨からすれば、国際法上は一部集団的自衛権が根拠となる場合もあるのだろう。このような議論を行う中での閣議決定であり、それを今回の法案に明文化したのだが、各参考人はどのように考えるか。

<発言>

  • 小林参考人は、「個別的自衛権で処理が可能」と主張されていると理解した。ここに見解の相違がある。確かに、個別的自衛権として解釈できる場面はあるだろうが、公海上で我が国防衛のために警戒監視する米艦に対する第一撃があった場合、それを排除することは本当に個別的自衛権で処理できるのか。国際法の立場からはそのように解釈できない場面もあるのだろう。国際法学者と憲法学者では思考の次元が異なるようだが、「国際法上は、集団的自衛権が根拠となる場合がある」と整理した方が明快となる。このような趣旨で、極めて限定的な集団的自衛権の行使を容認することとなった次第だ。これについては、改めて議論させてもらえればと思う。
  • 憲法保障に関する笹田参考人の意見陳述は、非常に参考になった。最高裁判所は、憲法81条によって憲法適合性を判断する終審裁判所とされている割には、少しその機能が弱いのではないかと感じている。

<全参考人に対して>

  • 一票の価値について、2年前の参議院議員選挙では選挙区で較差格差が4倍を超えており、最高裁は、選挙自体は無効としなかったものの、これを違憲と判断した。現在、参議院で一票の較差格差是正について議論されているところであるが、憲法43条1項からすれば、較差格差を2倍未満にしなければ違憲となるのではないか。このまま較差格差が是正されない状態が続くと、今度は、最高裁判所は選挙自体を無効としてしまうのではないかと心配するが、どうか。

大平 喜信君(共産)

<発言>

  • 戦後の日本は侵略戦争と植民地支配の下でアジア諸国と日本国民に多大な犠牲をもたらし、その反省の上で、政府の行為によって再び戦争の惨禍を起こさないということを世界に誓って再出発した。戦争放棄、軍隊の不保持、交戦権の否認を憲法9条に明記し、徹底した非軍事、平和主義を定めた。
  • しかし、その後、日本の再軍備を求めるアメリカの要求で自衛隊を創設。歴代自民党政権は、必要最小限度の実力組織は憲法に抵触しないと弁明して、活動する地理的範囲も、装備の面でも次々と拡大していった。90年代以降には、自衛隊を海外に派兵するに至った。我々は、その都度憲法違反であると訴え続けてきた。
  • 日本政府の9条解釈は、日本への武力攻撃がなければ武力行使は許されない、つまり海外での武力行使は許されないというものであった。しかし、昨年7月1日の閣議決定及び現在審議している安保法制では、こうした従来の政府見解を180度転換するような解釈改憲がされている。日本に対する武力攻撃がなくても、政府が新三要件を満たしていると判断すれば武力の行使ができることとしている。

<全参考人に対して>

  • こうした重大な変更を一内閣の判断で行い、立法作業まで強行したことは立憲主義の破壊であり、許されないと思うが、こうしたやり方が立憲主義との関係で許されるのかどうか。
  • 安保法制では、非戦闘地域という概念をなくして、戦闘行為と一体不可分の兵站活動を行うこと、米軍等の武器等防護、武器使用権限の拡大、さらに集団的自衛権行使による他国領域内での敵基地攻撃も憲法解釈上は可能としている。これらは、9条1項、2項に反していると思うが、各参考人にこの法案の内容についての意見を伺いたい。
  • 安保法制は憲法9条だけでなく日米安保条約からも逸脱していると思うが、どうか。

園田 博之君(次世代)

<発言>

  • 我が党は自主憲法制定を党是としている。これは、現行憲法の制定経緯が認められないという主張であるが、憲法審査会では現行憲法を前提として議論することになっているので、それについて議論するつもりはない。また、現行憲法下で、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義、民主主義が国民の間に根付いているので、私は現行憲法で足らざる部分をどう改めていくかということを議論すべきであると考えている。
  • 現在国会に提出されている安保法制は、議論の結果、かなり制約された内容となっており、これが憲法に抵触するおそれがあると簡単に言われるのは残念でならない。将来及び現在の国際情勢を考えると、最低限の行動をとるべきであるという前提で議論がなされており、この件に関しては、改めてこの場で議論するのもよいし、特別委員会の議論等を聞いて考えてもよいと思う。

<全参考人に対して>

  • 立憲主義についてだが、権力が憲法を超えるということはあり得ないことであって、そのために憲法があると考える。憲法を基にすべての法律が制定され、政治行動がなされるのは、当たり前のことと考えるが、どうか。
  • 憲法改正の限界について、理屈の上では限界はないが現実的にはあると思っている。改正の限界というのは、国民主権、天皇制、基本的人権の尊重、平和主義、民主主義といった現行憲法の底流に流れるものを侵してはいけないという趣旨なのか、あるいは異なる意味なのか伺いたい。
  • 改憲について議論されているのは9条だけではなく、現行憲法の中にも足らざるものがあるのではないかと思う。例えば環境権の創設、新しい統治機構の構築、緊急事態条項の制定など、様々な意見があるが、是非検討した方がよいというものがあれば伺いたい。