「大正デモクラシー期の政治」

H23ポスター表


○特別展概要

今年度の特別展では、原敬政友会内閣の成立から、関東大震災、加藤高明護憲三派内閣の誕生、普選法の公布を経て金融恐慌に至るまでの歩みを関係資料により紹介いたします。

○展示の紹介


○開催場所・期間・アクセス等
開催期間平成23年11月10日(木)から12月2日(金) 期間中無休
開館時間9:30〜17:00(入館は16:30まで)
場 所東京都千代田区永田町1-1-1
交通手段東京メトロ:丸ノ内線・千代田線「国会議事堂前駅」2番出口
半蔵門線・有楽町線・南北線「永田町駅」2番出口
都 バ ス :橋63系統「国会議事堂前」下車
入 館 料 無料


主な展示品 (順次掲載予定)

※画像の転載を禁止します。


 1. 原敬内閣・点景 大国の中の日本−パリ講和会議− 


◆対支借款善後ニ関スル覚書 大正7年10月29日
外務省外交史料館所蔵

わが国は、第一次世界大戦を機に中国への勢力拡張を図り、前寺内正毅内閣では、中国の段祺瑞ら北方派勢力に対して巨額の借款を行い欧米列国の不信を招いていた。かねがねこの政策に反対していた原は、対中政策の転換を図り、内政不干渉方針をとって中国統一の促進と欧米列国との協調を基本とすることを閣議決定した。

◆原敬首相演説草稿
憲政記念館所蔵

原は首相就任早々、経済産業の発展等を促すため四大政綱を打ち出した。中でも教育については、大学令・改正高等学校令を公布し私立大学や単科大学等を認可して高等教育機関の拡張を図った。これは、拡張計画の資金として天皇より御内帑金1000万円が下されたことを報告するための演説草稿で、内閣書記官長高橋光威が起草し、原が加筆修正したものである。


○点景 大国の中の日本−パリ講和会議−



◆西園寺公望書状 原敬宛 大正7年12月18日
財団法人大慈会所蔵

原内閣が元老西園寺公望を首席全権と発表した後も、69歳の西園寺は、病弱を理由に辞意を漏らしていたが、原の強い要請に意を決し、この書状で最終的に全権を承諾した。翌年1月13日、日本全権として、西園寺をはじめ、牧野、駐英大使珍田捨巳、駐仏大使松井慶四郎、駐伊大使伊集院彦吉の5名が正式に 任命された。

◆パリ講和会議の通行証  大正8年4月8日
重光篤氏所蔵
憲政記念館保管

外務事務官であった重光葵は、随員として講和会議に参加した。1919年6月28日、敗戦国ドイツは、ベルサイユ条約を受け入れ、ベルサイユ宮殿鏡の間において調印式に臨んだ。そこには、山東省権益譲渡に反対する中国全権の姿はなかった。

◆西園寺公望キャビントランク
エース株式会社所蔵

1919年1月14日、西園寺は、神戸港から丹波丸にてインド洋経由でパリへ向けて出発した。一行には、随員として近衛文麿や、西園寺八郎をはじめ、娘の西園寺新子(八郎の妻)、料理人、医師、看護婦、女中などが含まれていた。途中、香港、ペナン島等に立ち寄りながら、3月2日、パリに到着した。これは、渡航の際に使用したものである。





2. 高橋是清内閣から清浦奎吾内閣まで



◆保険会社ニ対スル貸付金ニ関スル法律案  大正12年12月11日
衆議院議事部所蔵

関東大震災発生に伴う諸問題への対応と処理のため、第47回議会が召集された。本法案は、政府が保険会社に対し長期貸付を行い、羅災者に1割の見舞金を支払わせるとするもので、委員会の審議に付されたが議会の形勢は厳しく、特に政友会が法案握り潰しの形勢に傾いた。論議はまとまらず、審議は中止され法案は審議未了となった。

◆護憲三派共同声明書 大正13年2月25日
大竹邸記念館所蔵

選挙戦のさなか、護憲三派は「期する所は一清浦内閣を倒すに非ずして先づ之を倒して憲政を確立せんとするに在り」とし、清浦内閣打倒と政党政治の確立をめざすとした3派共同の声明を発表した。各派幹部も総出で全国を行脚し選挙戦を戦った。貴族院議員であった高橋は、爵位を息子に譲り自ら総選挙に出馬して激戦を制し当選を果たした。




 3. 加藤高明内閣の誕生から金融恐慌まで



◆婦選運動のビラ    大正14年3月
法政大学大原社会問題研究所所蔵

普選法の成立が濃厚になると、女性参政権運動は、さらに活発化した。衆議院では、3月10日、婦人参政に関する建議案等が上程されることとなった。婦人参政権獲得期成同盟会は、この日を「婦人デー」として宣伝し、議会傍聴を呼びかけた。

◆一如庵随想録 宇垣一成 昭和2年4月20日
憲政記念館所蔵

政府は、緊急勅令によって台湾銀行に融資する方針を固めた。しかし、勅令案は17日の枢密院本会議において憲法違反を理由に否決された。宇垣はその後の閣議で、「反駁的緊急意義を上奏して聖断を仰げ、枢府の意見に屈服するは将来に悪例を貽すもの」と進言したが、若槻の意志は堅く、総辞職するに至ったと回顧している。





4.時代と人と


◆絵画「原敬肖像」 上野広一画
憲政記念館所蔵

1918年(大正7)9月、政友会総裁原敬が首班に推薦され、本格的政党内閣が誕生した。原は強力な指導力で政友会の四大政綱をもとに積極政策を推進し、3年余にわたり政権を維持した。この肖像画は政友会総裁室に掲額されていたものである。

◆原敬遺書      大正10年2月20日
財団法人大慈会所蔵

多数与党を背景に安定していた原内閣であったが、普選の即時実施に反対するなどの政治姿勢や政党員の汚職については批判を浴びた。原は暗殺の企てがあることを内聞されたためか遺書を認めていた。これは、その中の1つで自身の葬儀について詳細に記している。

◆絵画「普選演説」 森谷重夫画
憲政記念館所蔵

「憲政の神様」尾崎行雄は、普選実施は選挙民を教育してからと考えていたが、大衆運動の激化に危機感を抱き、暴動を防ぐためには即時普選を実施するしかないと考えるようになった。この絵は1922年2月、尾崎が東京芝公園における普選要求の集会で演説をしているところを描いたものである。

◆映画「無明地獄」ポスター
東京国立近代美術館フィルムセンター所蔵

活動写真と呼ばれた映画は大正期に発展し、代表的大衆娯楽となった。

◆山本権兵衛書
奥州市立斎藤實記念館所蔵

1923年9月2日、震災直後に第2次山本権兵衛内閣が成立した。内閣直属の帝都復興院総裁後藤新平を中心として震災処理を行ったが、同年12月、摂政宮狙撃事件により総辞職した。

◆清浦奎吾書
憲政記念館所蔵

清浦奎吾は、元老山県有朋の信任厚く官界、政界に大きな勢力を保持し、山県死後に枢密院議長となった。1924年1月7日、貴族院を中心に組閣すると政党に基礎を置かない特権内閣との批判が各政党、言論界等でなされ、第二次護憲運動が展開された。

◆加藤高明モーニング上衣
憲政記念館所蔵



◆さぐり式鉱石受信機
NHK放送博物館所蔵

針先で鉱石の検波作用の一番良い所を探って聞いたところから「さぐり式」と呼ばれた。感度は悪かったが、安価であったため一般に愛用された。

◆ラジオ番組表(複製)   大正14年7月12日
NHK放送博物館所蔵

本放送当日の番組表である。




5.関東大震災と帝都復興


◆焼けた丸帯
株式会社三越伊勢丹所蔵

三越は9月1日の晩、関東大震災により焼失した。この丸帯は焼け跡から見つかった。

◆「関東戒厳地域内警備配置要図」
憲政記念館所蔵

『大正震災志』に付随する図面集の第15図で、9月3日における戒厳令下の関東地域の司令官直轄部隊配置状況を示している。

◆「HELP JAPAN!」ポスター
東京都復興記念館所蔵



◆絵画「後藤新平肖像」 石橋和訓画  大正13年
東京市政調査会所蔵



◆後藤新平電報 ビーァド宛  大正12年9月5日
東京市政調査会所蔵

震災直後、後藤はビーァドに打電し、東京の被害の様子を伝え、直ちに来日するよう要請した。

◆ビーァド電報 後藤新平宛    大正12年
東京市政調査会所蔵

後藤からの招電と入れ違いにビーァドから電報が入った。「新街路を決定せよ。街路決定前の建築を禁ぜよ。鉄道駅を統一せよ。」という内容で東京再建への進言があった。

◆永田秀次郎手帳      大正12年9月1日
永田秀次郎・亮一関係文書
国立国会図書館所蔵

永田秀次郎は、1919年に東京市長後藤の下で助役となり、1923年5月に東京市長に就任し、大震災に際会した。罹災時の手帳には、被災の状況や救護活動の模様が簡潔に書き留められている。





衆議院憲政記念館の紹介

 衆議院憲政記念館は、1970年(昭和45年)にわが国が議会開設80周年を迎えたのを記念し、議会制民主主義についての国民の皆様の認識を深めることを目的として設立され、尾崎記念会館(憲政の功労者である尾崎行雄を記念し1960年(昭和35年)に建設)を吸収し、1972年(昭和47年)に開館しました。
 毎年、議会政治に関し特定のテーマで「特別展」を開催しております。
 また、常時、国会の組織や運営などを資料や映像によってわかりやすく紹介するとともに、憲政の歴史や憲政功労者に関係のある資料を展示しております。
憲政記念館