女性参政への歩み
明治初期から戦後女性が参政権を獲得するまでの道のりを関連資料等を通じて紹介します。
◆主な展示品(写真・上右から時計回りに)
錦絵「幻燈写心競 女史演説」 周延画 (明治23年・憲政記念館所蔵)
自由民権運動のさなか、女性民権家の演説は人々の注目を集めた。1884年(明治17)に高知の中島信行(後の衆議院議長)と結婚した岸田俊子の演説は評判となり、景山英子など、彼女の影響で運動に身を投じる女性も数多く出た。
「国民総決起」ポスター (昭和19年5月・昭和館所蔵)
1937年(昭和12)、日中戦争が始まると、政府は国民精神総動員運動により戦争遂行のため思想統制を行い、その後さらなる挙国一致をめざし新体制運動を展開した。1942年には官製の女性団体である大日本連合婦人会、大日本国防婦人会などを統合、20歳以下の未婚者を除く全女性を網羅した大日本婦人会を組織した。ほどなく大政翼賛会の傘下へと組み込まれ、女性を総力体制に動員、強制的に戦争協力に駆り立てた。
「御婦人方投票をお忘れなく」ポスター 内務省 (市川房枝記念会所蔵)
戦前の女性参政権運動の3大目標のうち、まず1945年(昭和20)10月、治安警察法の廃止により結社権が実現した。次に国政への参加の権利、参政権が実現した。そして少し遅れて1946年9月、地方自治制が改正され公民権が与えられ、すべてが達成された。
「女の権利を自覚せる女 女の義務を自覚せる女」 北沢楽天画 『東京パック』女権号 (明治44年6月10日刊・さいたま市立漫画会館所蔵)
1911年(明治44)、女性だけの手による雑誌『青鞜』を創刊した平塚らいてうらは、新しい時代を模索し、既存の枠にとどまらず、「新しい女」と呼ばれた。『青鞜』は後の女性解放運動に影響を与えた。
潮流−時代と人と−
戦後女性の地位向上に尽力した女性たちとその時代について関連資料等を通じて紹介します。
◆主な展示品(写真・上から)
絵画「主権者たち」 遠藤健郎画 (千葉市美術館所蔵)
第1回婦人週間ポスター(複製) (女性と仕事の未来館所蔵)
婦人少年局は、女性が初めて参政権を行使した日を記念して、1949年(昭和24)以来、4月10日に始まる1週間を「婦人週間」と定め、女性の地位向上のための啓発活動を全国に展開した。
<その他の主な資料>
終戦の詔書草案 第90回帝国議会議席表
終戦の詔書草案 川田瑞穂 (憲政記念館所蔵)
鈴木貫太郎内閣嘱託の早稲田大学教授川田瑞穂は、1945年(昭和20)8月10日、迫水(さこみず)久常内閣書記官長から、天皇の御前会議におけるお言葉を筆記したものを渡され、終戦の詔書草案を作成するよう依頼された。川田の作成した詔書草案は修正を施され、詔書案として14日の閣議に提出された。
第90回帝国議会議席表 (憲政記念館所蔵)
初の女性参政となった第90回帝国議会は、公職追放の影響で、新人議員が約8割を占めた。帝国憲法改正案の審議等が行われ、帝国議会史上最長の114日間にわたった。
松谷天光光選挙ポスター (憲政記念館所蔵)
松谷天光光は、餓死防衛同盟の委員長として立候補し、初の女性議員の1人となった。ポスターには、その名前から男性と間違われる恐れがあったため、特別に「女性」の表記が認められた。
紅露みつ選挙運動用たすき・腕章・演説草稿 (紅露昭通氏所蔵、憲政記念館保管)
紅露みつは、公職追放を受けた夫の代わりに立候補し、初の女性議員の1人となった。演説原稿には女性が参政権を正しく行使することが重要であると記されている。
女性参政権の実現と民主化 1945年(昭和20)〜1955年(昭和30)
◆主な展示品(写真・上から)
重光葵手記 (昭和20年10月20日・重光篤氏所蔵 憲政記念館保管)
終戦直後の東久邇稔彦内閣の重光葵外相は、日本全権として1945年(昭和20)9月2日、降伏文書に調印した。マッカーサーの五大改革指令における女性の解放について、重光はこの手記で「婦人の地位向上は単に之に選挙権を与ふると云ふのみで実現出来るものではない。(中略)男女同等の地位を認むることは日本が今後国際的地位を回復するの重要なる要素であるから之に全力を挙ぐべきである。」と述べている。
緑風会結成関係資料 (昭和22年5月10日・憲政記念館所蔵)
戦後第1回の参議院議員通常選挙では、著名な文化人を含む多くの無所属議員が当選した。この無所属議員を中心に、政党にとらわれない超党派的院内会派として緑風会が結成された。この発起人の中に、女性で初めて参議院議員に当選した宮城タマヨ・井上なつゑの名前がみえる。
市川房枝書状 加藤寿々子宛 (昭和24年1月20日・大町市文化財センター所蔵)
戦前から婦選運動を精力的に展開してきた市川房枝は、終戦直後の1945年(昭和20)11月、新日本婦人同盟(後の日本婦人有権者同盟)を結成した。しかし、戦時中に大日本言論報国会理事として言論統制に関わったという理由で、1947年から3年間公職追放となった。
この書状は、ともに女性解放運動を行った長野県の加藤寿々子にあてたものである。
そこで市川の公職追放中の心境と日本婦選運動史執筆への決意が述べられている。
高度経済成長期と女性環境の変化 1955年(昭和30)〜1975年(昭和50)
◆主な展示品(写真・上から)
国際連合への婦人の協力についての要望書(草稿) 市川房枝 (昭和31年12月5日・市川房枝記念会所蔵)
1956年(昭和31)10月、鳩山一郎首相が訪ソして日ソ共同宣言に調印し、ソ連との国交を回復した。12月18日には日本の国連加盟が実現し、わが国は国際社会に復帰した。これに先立って、女性団体は、重光葵外相に国連の代表団に女性を加えることや国連婦人の地位委員会の委員国になれるよう努力してほしい旨の要望書を提出した。
第12回国連総会日本政府代表代理辞令 藤田たき (昭和32年8月9日・津田塾大学津田梅子資料室)
市川房枝と出会い女性参政権運動にも参加し、戦後は第2代婦人少年局長に就任した藤田たきは、1957年(昭和32)9月、わが国が初めて参加した第12回国連総会に女性で初めて政府代表代理として出席した。この後も藤田は、国内外のさまざまな舞台で女性の地位向上への尽きることのない情熱を発揮していった。
『女性自身』 (昭和38年11月25日刊・国立国会図書館所蔵)
当時、職場で働く女性を称して「BG(Business Girl)」としていたが、アメリカでは別意(Bar Girl)があり、放送業界でも使用しないこととなった。それに代わる名称を女性週刊誌誌上で
募集した結果、OL(Office Lady)が第1位となった。これをきっかけにOLという言葉が広く使
われるようになった。
国際婦人年から女子差別撤廃条約 1975年(昭和50)〜1980年(昭和55)
◆主な展示品(写真・上から)
「国際婦人年―男女平等と社会参加―」リーフレット・国際婦人年記念バッジ(昭和50年) (女性と仕事の未来館所蔵)
1975年(昭和50)は、国連が全世界の女性の地位向上をめざして宣言した国際婦人年となり、女性の地位向上のための気運が全世界的規模で大きく盛り上がった。国会では、「国際婦人年にあたり、婦人の社会的地位の向上をはかる決議」が全会一致で採択され、日本における女子差別撤廃への道をさらに切り開く契機となった。
国際婦人年世界会議首席代表演説原稿 藤田たき(昭和50年6月20日・津田塾大学津田梅子資料室)
首席代表の藤田はこの演説で、日本政府が国連の宣言や決議を国内の施策に反映し、行動計画を策定、実現すべきである旨の決議を国会が可決したことを報告した。また、女性参政30年にあたり、わが国の女性問題の現状についても述べている。藤田は、演説の冒頭でこの原稿にはない一句を付け加えた。それは、女性解放の先駆者である平塚らいてうの「元始、女性は実に太陽であった」の一節であった。
婦人に対するあらゆる形態の差別撤廃条約の署名式に日本政府の参加についての要望(控) (昭和55年6月16日・国際婦人年連絡会所蔵)
政府が女子差別撤廃条約の署名を見送る方針を決定したとの報道がなされると、早期批准を希望する女性たちは早速行動を起こした。国際婦人の10年中間年日本大会実行委員会は「署名式に日本が参加しないとなれば、誠に恥しいこと」として外務省や総理府に申し入れを行い署名式への参加を強く要求した。
男女雇用機会均等法から男女共同参画社会 1980年(昭和55)〜1999年(平成11)
◆主な展示品(写真・上、中、下右、下左へ)
婦人少年問題審議会婦人労働部会会議メモ 山野和子 (昭和58年8月16日・泉ミツ子氏所蔵)
専門家会議の報告を受け、審議会の婦人労働部会では、法制化を含めた諸施策について検討を始めたが、労働側と使用者側は真っ向から意見が対立した。これは、部会の内容を委員の山野が筆記したもので、このメモからも専門家会議の報告について労使で見解の相違があることが分かる。
新しい政権に向けての3党政策合意確認書 (平成8年10月31日・自由民主党所蔵)
1995年(平成7)に北京で開かれた第4回世界女性会議を契機として、わが国でも男女共同参画社会実現への動きが盛り上がった。当時橋本龍太郎内閣は、自由民主党・社会民主党・新党さきがけの3党連立から自民単独となったが、その後も社民・さきがけは閣外協力することで合意した。この時の合意事項に女性基本法の制定などが盛り込まれ、基本法制定への道筋がつけられた。
男女共同参画社会基本法案の閣議書 (平成11年2月26日・内閣官房所蔵)
男女共同参画社会基本法 御署名原本 (平成11年6月23日・内閣官房所蔵)
1999年(平成11)、男女共同参画社会基本法は第145回国会に提出され、衆参ともに全会
一致で可決成立した。
基本法の前文には、男女共同参画社会の実現を21世紀のわが国社
会を決定する最重要課題と位置付けることが明記された。
女性たちの彩り
戦後、解放された女性たちを彩るファッションや化粧品、また、女性たちの暮らしや生き方に影響を与えた雑誌などを紹介します。
◆主な展示品(写真・上右から左に、下右から左へ)
口紅スペシァル コロネット (株式会社資生堂所蔵)
1958年(昭和33)、現皇后の美智子妃殿下が皇太子妃に決定した時から、日本中がミッチーブームとなった。御成婚記念としてこの口紅が発売された。
香水 (ポーラ・コレクション所蔵)
高度経済成長の波にのって人々の生活はより豊かになり、女性の社会進出の機会も増えていった。香りの楽しみ方も身近で多様になり、化粧品としての香水のほか、アロマテラピーなど健康的な生活をサポートする効果も注目された。
杉野芳子作タウン・ウェアー (杉野学園所蔵)
戦後、女性の服装はモンペからロングスカートへと変貌を遂げた。占領軍の夫人を通じて日本に上陸したアメリカンスタイルは、日本女性の洋裁熱の高まりとともに流行した。
『週刊女性』創刊号 (昭和32年3月17日刊・憲政記念館所蔵)
初の女性週刊誌で、1週間の女性のファッションと髪形を提案。独身女性向けの記事を掲載した。
『女性明星』創刊号 (昭和37年12月1日刊・憲政記念館所蔵)
若い女性のための実際的な男性研究講座が特集で組まれ、三島由紀夫が「第1の性」と題して、男性論を論じている。
『週刊明星』創刊号 (昭和33年7月27日刊・憲政記念館所蔵)
創刊号は100万円分の電化製品が当たるゴールデンクイズを掲載。テレビ、冷蔵庫、洗濯機のいわゆる三種の神器が景品となった。
時代を拓いた女性たち
各界で先駆的な活躍をしてきた女性たち7名をパネルや関連資料等を通じて紹介します。
◆主な展示品(写真・上、中右から左へ、下右から左へ)
上村松園 縮図帖 (松柏美術館所蔵)
松園が「生命にも等しく大切なもの」と語り、古画の模写や展覧会で心にとまった作品の縮図を筆で描いたもの。
高橋展子 色紙 「Girls be Ambitious!」(昭和55年2月・福島みつ子氏所蔵)
駐デンマーク大使として赴任する年の日本有職婦人クラブ別府大会で参加者に請われて「色紙に横文字はおかしいかしら」と言いながら、100枚あまりを揮毫して全員に贈った。
田部井淳子 登山靴 (日本山岳会所蔵・松本市立博物館保管)
エベレスト登攀の際に使用したもの。
美空ひばり 舞台衣装 (株式会社ひばりプロダクション所蔵)
芸能生活35周年を迎えた1981年(昭和56)6月25日、東京・日本武道館での記念リサイタルで着用した。
林雅子 海のギャラリー模型(縮尺100分の1) (林昌二氏所蔵)
林の設計により、1966年(昭和41)、高知県土佐清水市に建設された貝類の展示館の模型である。
宮城まり子 じゃがいものネックレス (宮城まり子氏所蔵)
ポーランドでのおみやげ、琥珀の代りのじゃがいもでつくったネックレスをみて2人のこどもが、「冬の一番寒い夜、つくったの」という。3年間かかってつくってくれた。「冬の夜。琥珀より美しい愛のボールは投げれば返る」、大切にしている。(宮城まり子氏談)
向井千秋 フライトスーツ (向井千秋氏所蔵)
2度目の宇宙飛行で着用したもの。
(参考)
上村松園 日本女性初の文化勲章受章者 (1948年(昭和23)に受賞)
高橋展子 日本女性初の大使 (1980年(昭和55)デンマーク大使任命)
田部井淳子 世界女性初のエベレスト登頂 (1975年(昭和50))
世界女性初の7大陸最高峰登頂(1992年(平成4))
林雅子 日本女性初の日本建築学会作品賞受賞(1981年(昭和56))
美空ひばり 日本女性初の国民栄誉賞受賞(1989年(平成元))
宮城まり子 初の肢体不自由児養護施設開設(1968年(昭和43))
向井千秋 アジア女性初の宇宙飛行士(コロンビア搭乗1994年(平成6))
(ディスカバリー搭乗1998年(平成10))
女性議員一覧
女性参政による初の選挙は、衆議院が1946年(昭和21)4月10日、参議院が翌年4月20日に行われました。以来、衆参合わせて269名の女性議員が国政の場に登場しました。これらの女性議員を写真パネルで紹介します。現職議員については、女性参政60年に寄せるコメントを頂き、合わせて展示します。
女性閣僚一覧
初の女性閣僚は、1960年(昭和35)第1次池田勇人内閣の厚相として入閣した中山マサです。以来、近時の内閣では女性閣僚が起用されるのが常となりました。これまでに誕生した女性閣僚を一覧するとともに、閣僚経験者の中から当館所蔵及び寄せられた色紙を紹介します。
◆特別展 館内の様子
衆議院憲政記念館の紹介
衆議院憲政記念館は、昭和45年(1970年)に我が国が議会開設80周年を迎えたのを記念し、議会制民主主義についての国民の皆様の認識を深めることを目的として設立され、尾崎記念館(憲政の功労者である尾崎行雄を記念し昭和35年に建設)を吸収し、昭和47年(1972年)に開館しました。
毎年、議会政治に関し特定のテーマで「特別展」を開催しております。
また、常時、国会の組織や運営などを資料や映像によってわかりやすく紹介するとともに、憲政の歴史や憲政功労者に関係のある資料を展示する「常設展」が催されております。