第16号 令和7年6月13日(金曜日)
令和七年六月十三日(金曜日)午前九時開議
出席委員
委員長 中村 裕之君
理事 今枝宗一郎君 理事 小林 茂樹君
理事 永岡 桂子君 理事 青山 大人君
理事 亀井亜紀子君 理事 坂本祐之輔君
理事 高橋 英明君 理事 日野紗里亜君
井野 俊郎君 遠藤 利明君
小渕 優子君 加藤 竜祥君
木原 稔君 柴山 昌彦君
鈴木 英敬君 渡海紀三朗君
船田 元君 古川 直季君
松野 博一君 三谷 英弘君
簗 和生君 山本 大地君
荒井 優君 安藤じゅん子君
五十嵐えり君 小山 千帆君
佐々木ナオミ君 高橋 永君
竹内 千春君 辻 英之君
波多野 翼君 眞野 哲君
吉川 元君 うるま譲司君
美延 映夫君 村上 智信君
西岡 義高君 浮島 智子君
金城 泰邦君 大石あきこ君
…………………………………
文部科学大臣政務官 金城 泰邦君
参考人
(白梅学園大学名誉教授) 無藤 隆君
参考人
(東京学芸大学現職教員支援センター機構教授) 大森 直樹君
参考人
(東京学芸大学教職大学院教授) 堀田 龍也君
参考人
(上智大学総合人間科学部教授)
(教職・学芸員課程センター長) 澤田 稔君
文部科学委員会専門員 藤井 晃君
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委員の異動
六月十二日
辞任 補欠選任
三谷 英弘君 宮内 秀樹君
同日
辞任 補欠選任
宮内 秀樹君 三谷 英弘君
同月十三日
辞任 補欠選任
鈴木 貴子君 鈴木 英敬君
萩生田光一君 加藤 竜祥君
阿部祐美子君 荒井 優君
前原 誠司君 村上 智信君
同日
辞任 補欠選任
加藤 竜祥君 萩生田光一君
鈴木 英敬君 井野 俊郎君
荒井 優君 阿部祐美子君
村上 智信君 前原 誠司君
同日
辞任 補欠選任
井野 俊郎君 古川 直季君
同日
辞任 補欠選任
古川 直季君 鈴木 貴子君
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六月十日
国際基準の給付奨学金・無償教育の実現に関する請願(小山千帆君紹介)(第一九五七号)
同(赤嶺政賢君紹介)(第二〇八〇号)
同(安藤じゅん子君紹介)(第二〇八一号)
同(志位和夫君紹介)(第二〇八二号)
同(塩川鉄也君紹介)(第二〇八三号)
同(辰巳孝太郎君紹介)(第二〇八四号)
同(田村貴昭君紹介)(第二〇八五号)
同(田村智子君紹介)(第二〇八六号)
同(堀川あきこ君紹介)(第二〇八七号)
同(本村伸子君紹介)(第二〇八八号)
国の責任による二十人学級を展望した少人数学級の前進、教職員定数増、教育無償化、教育条件の改善に関する請願(阪口直人君紹介)(第二一八〇号)
同月十二日
教育費負担の公私間格差をなくし、子供たちに行き届いた教育を求める私学助成に関する請願(津村啓介君紹介)(第二三〇一号)
同(塩川鉄也君紹介)(第二四五二号)
学費値下げ、給付奨学金拡充、奨学金の返済免除に関する請願(塩川鉄也君紹介)(第二四五三号)
専任・専門・正規の学校司書の配置に関する請願(塩川鉄也君紹介)(第二四五四号)
設置基準を生かし特別支援学校の教室不足解消を求めることに関する請願(塩川鉄也君紹介)(第二四五五号)
同月十三日
教育費負担の公私間格差をなくし、子供たちに行き届いた教育を求める私学助成に関する請願(階猛君紹介)(第二六〇九号)
同(遠藤利明君紹介)(第二七八三号)
同(田村智子君紹介)(第二七八四号)
高等教育無償化を求めることに関する請願(田村貴昭君紹介)(第二六一〇号)
同(田村智子君紹介)(第二七八六号)
設置基準を生かし特別支援学校の教室不足解消を求めることに関する請願(阿部祐美子君紹介)(第二六一一号)
同(田村智子君紹介)(第二七八八号)
同(柳沢剛君紹介)(第二七八九号)
てんかんのある人とその家族の生活を支える教育に関する請願(安藤じゅん子君紹介)
(第二七八〇号)
同(小山千帆君紹介)(第二七八一号)
同(竹内千春君紹介)(第二七八二号)
教育の無償化を目指して全ての子供たちに行き届いた教育を求めることに関する請願(田村智子君紹介)(第二七八五号)
国の責任による二十人学級を展望した少人数学級の前進、教職員定数増、教育無償化、教育条件の改善に関する請願(柳沢剛君紹介)(第二七八七号)
直ちに学費半額・入学金ゼロ、奨学金を給付中心にすること及び奨学金返済の半額免除に関する請願(志位和夫君紹介)(第二七九〇号)
は本委員会に付託された。
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本日の会議に付した案件
文部科学行政の基本施策に関する件(学校教育を取り巻く諸課題について)
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○中村委員長 これより会議を開きます。
文部科学行政の基本施策に関する件、特に学校教育を取り巻く諸課題について調査を進めます。
本日は、本件調査のため、参考人として、白梅学園大学名誉教授無藤隆君、東京学芸大学現職教員支援センター機構教授大森直樹君、東京学芸大学教職大学院教授堀田龍也君、上智大学総合人間科学部教授、教職・学芸員課程センター長澤田稔君、以上四名の方々に御出席をいただいております。
この際、参考人各位に一言御挨拶を申し上げます。
本日は、御多用のところ本委員会に御出席をいただき、誠にありがとうございます。参考人各位におかれましては、それぞれのお立場で忌憚のない御意見をお述べいただきたいと存じます。どうぞよろしくお願いいたします。
次に、議事の順序について申し上げます。
まず、参考人各位からお一人十五分以内で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑に対してお答えをいただきたいと存じます。
なお、御発言の際はその都度委員長の許可を得て御発言くださいますようお願いいたします。また、参考人から委員に対して質疑をすることはできないことになっておりますので、あらかじめ御了承願います。
それでは、まず無藤参考人にお願いいたします。
○無藤参考人 白梅学園大学の無藤でございます。
今日は、お呼びいただいて、ありがとうございます。
学校教育の課題というのは極めて多様だとは思いますけれども、私は幼児教育を専攻しておりまして、主に幼児教育がどういうような状況にあるのかということを申し上げたいというふうに思います。
お手元に資料配付をお願いいたしましたけれども、それと同じ内容をもう少し短く、十五分ということでお話しさせてください。
幼児教育と今私が呼んでいるのは、幼稚園、保育園、認定こども園の教育をまとめて呼んでおります。近年、その三つを合わせて幼児教育という言い方が定着してまいりました。
現在の幼児教育の体制というのは、おおむね二〇一〇年前後につくられてきたというものであります。もとより、幼児教育は、明治の初めから始まり、幼稚園、明治の終わりぐらいには保育所が始まって、戦後に引き継がれたわけでありますけれども、それらが本当の意味で幼児期の教育として有効かということについては、主に平成期に議論され、最終的に制度としてまとまってきたのが二〇一〇年から二〇一三年ぐらいというふうになるわけです。
特に、二〇一三年においては、内閣府において子ども・子育て会議というものを発足させ、当時の厚生労働省と文部科学省が協力しながら進めております。現在は、こども家庭庁と文部科学省の協力の下で、子ども・子育て支援制度、その中における幼稚園、保育園、こども園とともに、それと別途の形で、私学補助による私立幼稚園というものを併置しながらの体制をつくり、そして、その三つが、根拠法律としては異なっておりますけれども、同様に幼児期の教育を進めるという立場での共通性が非常に高いということで、十数年かけてその共通性を確立してきたというのが現状であります。
その上で、幼児教育の中身につきましては、幼稚園においては幼稚園教育要領、保育所は保育所保育指針、認定こども園は幼保連携型認定こども園教育・保育要領と名前が異なりますけれども、その中身の、いわばガイドラインというものを作ってございます。これは二〇一七年に同時改訂をいたしました。その同時改訂において、幼稚園、保育所、認定こども園の教育というものは基本的には共通であるということを認識し、その趣旨を確立したわけであります。
その後、幼児教育、保育の量的な充実、これは保育所が足りない等々のことで努力してまいりましたけれども、同時に、単に量を拡充するだけでは足りないので、その質を上げていく必要があるということで、その施策を様々に打ってまいりました。
特に文部科学省における施策としては、幼児教育センターを各都道府県につくっていくということが、半ば以上の段階に来ております。そして、幼児教育は、当然子供たちは全て小学校に行くわけですので、小学校教育とのつながりという意味で、架け橋プログラムと呼んでおりますけれども、それを数年前に発足して、現在、それを全国化してございます。それ以外にも、重要なのは、やはり、園で実際に携わる先生方、幼稚園教諭、保育士の皆さんの力量を上げていくことですので、そのための研修の充実を工夫している最中であります。
以上のような形で幼児教育体制をつくってまいりましたけれども、その上で改めて、どういうことが今幼児教育において言えるということになるのか。非常にはっきりしてきたのは、幼児教育、乳幼児期でありますけれども、そこでの教育が人生の土台づくりなんだ、そして、小中高と続く学校教育の基盤なのだということであります。
それについては、極めて多くの国際的な欧米における研究、また続いて日本の国内における研究、また実践が多く二十一世紀に入り出てきて、いわゆるそのエビデンスを通して、幼児期の教育が、その後の人生、また学校教育において不可欠であり、重要であることが分かってきたわけであります。
また同時に、幼児教育のもう一つの特徴は、家庭教育との連動であります。家庭教育というものが、丁寧に、愛情を込めてなされることと並行しながら、そこと手をつなぎながら幼児教育が進められるということが肝腎だということもはっきりしてきたところであり、さらに、三番目といたしましては、その幼児教育の成果が小学校において生かされていくことということが実は極めて肝腎であるということも分かりました。
そのようにして幼児教育というものの望ましさがはっきりしてきましたけれども、では、より具体的な中身は何かということで、国内的にも整備し、また国際的にもそれが議論され、ある程度の方向が見えてきたというのがこの十年と言っていいと思います。その考えは、例えば幼稚園教育要領などに示されておりますけれども、すごく簡潔に言えば、四つほどの特徴を持ちます。
一つは、園の環境を通しての教育だということです。教科書などはないのですけれども、その代わり、園庭や積み木や絵本があるということであります。
二番目は、子供の遊びというものが学習活動の要なんだということであります。幼い子供ほど、楽しいから学ぶということであります。
三番目は、その具体的な中身が保育内容として五つの領域に分けてありますが、それがいわば小学校以上の教科の基、芽生えであるということであります。
そして、そこで、いわゆる保育者、幼稚園教諭、保育士は、直接的にあれこれ指示することは比較的に控えるのでありますけれども、それを、子供たちの活動を援助し、そこから子供たちがいろいろなことを学ぶことを助け、成果を上げていくということが基本になるということです。
そのような考え方は、日本国内のみならず、国際的には、特にOECDを中心とした教育部門がありますけれども、そこにおいて、様々な形で発信されております。その要点というのは、日本と同様でありますけれども、子供の遊びを中心とする教育でなければならないこと、環境あるいは教材を重視すること、とりわけ保育者の研修がその要にあるということであります。
以上がこの十数年の概要をざくっとまとめたものでありますけれども、それを踏まえて現在の課題というものを整理いたしました。羅列して九つというふうに、ちょっと多いのでありますけれども、挙げさせていただきます。
第一は、幼児教育センターに触れましたけれども、それをもっと増やしていくことであります。幼児教育センターというのは、基本的には都道府県などに置かれ、幼稚園、保育所、認定こども園を問わず、その保育の質を上げるための研修の中心的な仕組みであります。
二番目は、これも申し上げた、架け橋プログラムの全国化、普及、そして拡充であります。幼児教育の成果が小学校教育に生きるようにしていくためには、幼児教育とともに小学校教育の中身を変革させていかなければならないというふうに考えております。
三番目は、保育者の研修体制であります。勤務時間の厳しい中、どうやるかの工夫、また、単に偉い先生のお話を聞くということにとどまらず、それをいかに保育の質を具体的によくするために使うかの工夫をこの十年、進めてまいっております。
四番目は、保育の質であります。量的な拡充は相当進みましたので、保育の質を高めていく必要がある。そのための実践的な研究を盛んにやっておりますけれども、同時に、量的に、客観的に保育の質の尺度を構成して、それによってチェックするという試みを進めてまいりました。これは、文部科学省においては国立教育政策研究所が中心になって行っております。
五番目は、保育者が子供たちを保育する場合の人数、いわゆるクラスの人数でありますが、それが余りに多いとやはり難しいので、それを減らしていくという試みで、現在、保育所などにおいては一、二歳児、そして幼稚園などにおいて三、四、五歳の先生一人当たりの子供の数を減らすという試行に入っているところであります。
六番目は、家庭、地域側の困難に応じていくということでありまして、様々ないわゆる格差というものがあることは否定できません。経済的な問題や、あるいは発達的に困難があるお子さんの問題、また、この何年かは外国系のお子さんが増えておりますけれども、そこでは日本語をうまく話せるかどうかの問題が出てまいりますが、それに十分幼児教育側の体制ができているのかという問題が問われると思います。
七番目は、先ほどから申し上げている保育者の皆さんの処遇の改善でありますが、この十数年、先ほどの子ども・子育て会議などの働きにより、著しく処遇が改善されてきましたけれども、なお、例えば、民間企業の平均と比べたときに、そこにまだ到達していないという問題、それと相まって、保育士不足というものがかなり深刻な状況になってきております。
八番目でありますけれども、現在、この数年、少子化が急激に進行しておりますけれども、当然、まずは乳幼児というものは減るわけですが、それによって、特に地方において著しくお子さんが少ない地域が生まれ、そうすると、幼稚園でも保育所でもこども園でも、その数が激減するということになり、統廃合も求められるでありましょうけれども、その中で、なおかつ、保育の質を高く保つにはどう工夫すればいいのかということが大きな課題になってまいりました。
最後に九番目でありますけれども、幼児教育を量的にも拡充するとともに質を上げていく中で、特に私は幼稚園の働きが非常に大きかったというふうに考えております。
幼稚園というものは、明治の初めにできて以来、いろいろな形で発展し、特に戦後、昭和四十年代以降、私立幼稚園が拡充する中でこの保育の質の改善に取り組んできたわけですけれども、その私立幼稚園の働きとともに、全国の国立大学には附属幼稚園がありますが、その附属幼稚園が実践研究を行って、近隣の保育の質の改善に成果を上げてきたこと。さらに、全国の市町村の多くには公立の幼稚園があります。いろいろな事情で今、数は減りつつありますけれども、なおかつ、その地域の幼児教育の質を担保し、更によくしていく上で、公立幼稚園の働きも大きいというふうに考えておりますので、是非、その拡充も課題であるというふうに申し上げて、私の話とさせていただきます。
以上です。ありがとうございました。(拍手)
○中村委員長 無藤参考人、ありがとうございました。
次に、大森参考人にお願いいたします。
○大森参考人 私からは、教育課程基準の問題点と改訂の課題について、カリキュラムオーバーロード論も手がかりにしながらお話をさせていただきます。
カリキュラムオーバーロードという言葉が日本語の文献に表れるようになったのは、二〇二〇年頃からです。文部省からOECDに出向して、小中の指導要領が二〇一七年に告示された直後に文部科学省に戻る、そうした経歴の白井俊は、その語義について、一般に、カリキュラムにおいて、学校や教師、生徒に過大な負担がかかっている状態と説明しています。お手元の資料には、私と同じく大学教員の奈須正裕の説明と、私の説明も載せています。
論者により語義の説明に違いはありますが、共通しているところが三点ございます。第一、カリキュラムの子供への過大な負担を問題にしていること。第二、二〇一七、告示された小中の学習指導要領、これを以下、二〇一七学習指導要領と略称します、その下での学校をカリキュラムオーバーロードと判断することがこの論の前提になっていること。第三、ある学校の教育課程がいかなる条件を満たせばカリキュラムオーバーロードと判断されるのか、まだ明確な判断基準の説明はしていないことです。
判断基準がないのに、なぜ二〇一七指導要領下の学校をカリキュラムオーバーロードと判断しているのか。
二〇〇八の指導要領と比べたときに、削除した内容基準は皆無で、追加が多数ございました。子供にとっても教員にとっても、二〇〇三年頃以降、学校は多忙になっております。それらのことから、誰がどう見ても今の学校はカリキュラムオーバーロードという相対的な判断を行ったものとなっています。判断よりは解消の道筋に重点を置いた論ということになっております。
教育課程基準と教育課程の関係についても説明をいたします。
日本の教育課程は、国が省令と告示で教育課程基準を定めて、国がその法的拘束力を主張し、それらに基づき学校が定めるという制度の下に置かれております。
教育課程基準の範囲も明確にしておきたいと思います。三つを整理しておきます。
一つ、学校教育法施行規則五十条が定める教科と領域、二つ、同五十一条が定める標準時数、三つ、同五十二条に基づく学習指導要領が別に定める内容に関する事項となります。
これまで、教育課程基準といいますと、どうしても学習指導要領が論じられることが一般的でした。学校への影響の大きさを考えたとき、それ自体は間違ったことではございません。ただし、標準時数についても、それに負けるとも劣らない学校への影響力の大きさがあります。
十一年ほど前のことです。私は、埼玉県所沢市において、学童保育の指導員の言葉に接しました。近頃は子供たちがなかなか学校から学童に来ない、やっと来ても、ぐったりしている、放課後の遊びを通じて子供は育ってきたのに。放課後の子供の様子を一つの場所でずっと見詰めてきたベテラン指導員の言葉は重かったです。
そこから標準時数の研究に着手してまいりましたので、そこから見えたことを陳述してまいります。
まず、制度的な変遷を振り返っておきます。
戦前は、国が省令で週当たりの時数を定めておりました。
四七年に施行規則が出されて、週時数を国定した制度は廃止となります。
五八年、省令改正により、今度は、年当たりの最低時数の国定が始まります。ここで言う最低とは、最低でも○○時数は教えなければならないということを意味しました。
六八年、省令改正により、この最低という言葉を標準に置き換えることが行われました。○○時間を上回ってもよいし、下回ってもよいという意味になりまして、この制度がずっと運用されてまいりました。
ただし、二〇〇三年に文科から通知が出されてから、この標準という言葉の意味に実質的な変更が行われます。通知には「標準を上回る適切な指導時間を確保」という文言がありました。上回っても下回ってもよかった制度が、下回ってはいけない制度になり、今日に及んでいます。
これまで標準時数の変遷はどう捉えられてきたのか。この点については、文部科学調査室の整理を見ておきたいと思います。
四ページの上にある表を御覧ください。
国は、小中全学年の総標準時数の合計を見ることを基本にしているようです。ここでは、小学校の一九七七と二〇一七の標準時数がいずれも五千七百八十五であることに着目します。それぞれの時期の把握としては正確なものとなっていますが、変遷を見るには不都合があります。この二つの五千七百八十五を同じ数字と見てよいのか。子供への影響を考えるときには違うだろうというのが私の考えです。
理由は三つございます。
一つは、五千七百八十五における特別活動の内訳が異なっていることです。一九七七標準時数は三百十四を数えているが、二〇一七は二百九だけです。この間、小学校の指導要領の特別活動の内容の柱は変わっていないので、二〇一七の教育課程の方が、子供にとっては実際にはより多くの時数を学ぶことを求めている標準時数ということになります。変遷を捉えるときは補正が必要です。
二つは、同じ五千七百八十五でも、一方は週六日で行い、もう一方は週五日で行っているということがございます。
五ページの折れ線グラフを御覧ください。
標準時数の子供への影響を考えるときには、平日一日時数を見る必要があります。平日一日時数とは、各学年の標準時数について、特別活動の数え方のばらつきを補正、六日制の標準時数については、土曜の時数を引いた値を基礎にして平日一日当たりの時数を求めるものです。
小学六年の変遷を概観してみます。一九六八標準時数のとき五・八時間、これは一九五八年の最低時数の値を引き継いだものです。これらの時期の学校の様子については、数学者で教育学者の遠山啓が、肥大なカリキュラムという言葉を用いて二つの弊害を指摘しています。一つは、内容も時数も多過ぎて、多くの子供がついていけない。二つは、何とかついていく子供も、上から注入される内容を消化するのに忙しくて、自分の頭で考える習慣を奪われてしまっている。こうした認識は、国と現場と研究者の共通認識となりました。これを肥大型標準時数と呼びます。
一九七七時数のとき、五時間になります。これを第一次ゆとり標準時数と呼んでおきます。教育界は二つの弊害を追放しようとしたわけです。これが次にも踏襲されます。
一九九八標準時数のとき、五・六時間に増えています。五日制の導入と総合的な学習の時間の導入がございました。国も既存の教科の時数の削減に努力をしましたが、二つのことを行うにはその削減幅は足りないものだったようです。これを一応は第二次ゆとり標準時数と呼ぶことにしますが、現場の事実はゆとりとは離れていきました。
二〇〇八標準時数のときに五・八時間。外国語活動の新設。一九六八標準時数のときと同じになっていることを踏まえ、肥大型標準時数の再来と押さえます。
二〇一七のとき、六時間になります。外国語科を新設したからです。肥大型標準時数がスケールアップして踏襲されました。
教育課程基準の変遷と不登校率についてもお示ししたいと思います。
まず、教科と領域の数が、かつては九だったのが、今では十四、一・五倍になっています。
不登校率とは、学校に在籍する児童生徒数に占める不登校児童生徒数の割合を百分率で示したものです。一九九三年の中学校生徒は一・二%、これが二〇二三年には六・七%です。全国の中学生の十五人に一人が不登校です。小学生を見ても四十七人に一人。
これが日本の義務教育諸学校の現実です。国が定める教育課程基準が学校の教育課程を通じて子供に与える影響の大きさを踏まえますと、その在り方を根本から捉え直すことは待ったなしの課題である。ここまで見てきた教育史的な整理からは、そのような結論を導くことができます。
一昨年度と昨年度、現場の先生方の声も聞いてみました。次のページになりますけれども、一九八九の標準時数から二〇一七の標準時数まで四期の標準時数を経験した教員に、各期の標準時数下の教育課程は子供の生活に合っていたかを尋ねると、七ページの結果となりました。
第一次ゆとり標準時数については、七七%が合っていた、やや合っていたと回答。第二次ゆとり標準時数については、プラスの評価が四八%、マイナスの評価が五二%で拮抗。これは、五日制と総合が子供に好感されて、それと同時に肥大型標準時数に近づきつつあった、そうした評価の難しさが表れたものと分析しています。二〇〇八からは逆転です。八二%がやや合っていなかった、合っていなかった。二〇一七については、九〇%がそのような回答になっています。中学校についても、大きくは同じ傾向の回答でした。
自由記述から先生方の声も御紹介します。低学年の五時間、高学年の六時間の多さが子供たちにゆとりをなくしている。一日六時間の授業に苦痛を感じる児童もいる。六時間が増え、どんどん日々、教師、児童とも忙しくなり、授業の準備時間や対話時間が減り、一時間の授業を充実させることが難しくなってきた気がします。放課後にのんびりと子供たちとたわいのない話をして、ゆったり過ごす時間はない。
平日一日時数と不登校増の関係についても、先生方の声が寄せられています。中学校の先生、これは二つのタイプを経験した先生ですけれども、授業時数の確保のため、夏休みは短縮され、土曜授業が増え、終業式やテストの日まで授業がある。働き方改革の名の下に、子供たちが発散するはずの行事はカットされ、授業ばかりの毎日。唯一カットされないのは、本来存在しないはずの全国学テのためのプレテストや問題演習の時間。勉強や点数、宿題のことばかり先生から言われ、息抜きの行事はなくなっていくのだから、不登校の子供たちが増えるのは当然であろう。
では、この七七と八九の標準時数下の教育課程はなぜ高評価なのか、裁量の視点から分析をしてみました。三つの理由がございます。
一つ目、放課後の教員と子供の裁量がこのときにはございました。やりくりしなくても、放課後に遊び、絵本読み、話合い、居残り勉強が自由にできました。二つ目、特別活動の子供の裁量がありました。これは時間がかかりますが、子供たちがゆっくり決められた。時間割り組替えの裁量もございました。
では、どうしたらよいかということです。カリキュラムオーバーロードを解消するために、私は以下の提案をしています。
一つ目、時数の過多からの見直しです。授業は小学校一日五時間までに、中学校も週五日のうち六時間授業は二日までに。
二番、特別活動の時数は七十時間に。
三番、教科、領域の時数は三十五の倍数に、これが時間割りを分かりやすくするメカニズムのところになっております。
二〇〇三年の通知の見直しも必要です。これが時数の積み増しを助長しています。
もちろん、学習内容の削減も一つです。これが時数の積み増しを助長しております。
六番、全国学力調査を抽出調査にすることも必要です。悉皆調査が続いておりまして、時数を減らしたら学力調査の点数が下がるという強迫観念が現場を覆っております。
最後に、カリキュラムオーバーロードには、論者により違いもありますが、子供への過大な負担を問題視し、その解消を必要とする点では一致しております。時数基準の歴史、教員の見解を踏まえると、その解消の道筋とは、子供の生活と学習に合った標準時数を定めて、その枠内で内容基準を定めることになるべきです。
今、標準時数と学習指導要領の不合理を解消して、八〇年代、九〇年代の学校では普通にあった教員と子供の裁量を教育課程から取り戻すことこそが急務であると考える次第です。
以上になります。(拍手)
○中村委員長 大森参考人、ありがとうございました。
次に、堀田参考人にお願いいたします。
○堀田参考人 堀田でございます。本日はよろしくお願いいたします。
私はスライドで用意をしてまいりました。皆様のところには、一枚当たり四枚ずつのスライドが印刷されておりまして、小さいですけれども、各スライドの右下にページが打ってございます。このページを基にお話を差し上げたいと思います。
私は、まず最初に、こういう場にお呼びいただきましたことを御礼申し上げたいと思います。
二ページ目に参りますが、私は、情報化に対応した教育の在り方について専門に研究をしてございまして、三ページ目、四角の一と書いてありますけれども、大きく今日は三つのお話を差し上げます。
一つ目は、二〇二〇年から、先生方のお力で、日本の全ての義務教育段階の子供たちに端末が配付され、高速ネットワークがつながりました。GIGAスクール構想と呼びますが、これから五年ほどたちまして、今、学校現場が着々と変わりつつあるというお話から差し上げます。
四枚目にありますように、子供たち一人一人が、端末も、もちろん紙のものもいっぱい使っていますけれども、両方使いながら、必要に応じて様々な情報にアクセスしながら学ぶということができるようになりました。先生は間に入って子供たちの支援をして回る、そういう時間が授業時間の中の多くの部分を占めるようになってきました。
五枚目に参りますが、子供たちは、お友達と違う画面を見ながら学んでいても、そばにいて学びたいという気持ちがございます。これは、子供たちの心理的安全性を考えると、一つの机にずっと座っているよりも、場所を少し変えながら友達と一緒に学ぶということが実現することで、過ごしやすい学校になっている部分がございます。
六枚目にありますが、体験が重要であるということはもちろん当然のことでございまして、理科の実験のような直接体験は非常に重視されております。
七枚目にありますが、だからこそ、子供たちは、しっかり録画して、再生し、何度もそれを見て、どこで泡が出たのか、どうしてなのかということを考察するようなことをしています。
八枚目は、前時間の授業を録画している先生がいまして、これがクラウドで共有されていますので、欠席したお子さんとか、あるいはよく分からなくなって戻りたいお子さんがこれを見て確認できる、こういう環境を実現しているものでございます。
九枚目。ここには立方体が幾つか出ていますが、これは八人分の画面を今一覧しているところでして、お友達がやっていることが同時にこういうふうに可視化されるということによって、例えば、ちょっと勉強は余り得意じゃないんだよな、分からないなという子も、ほかの方の様子を見ながら自分なりのペースで進めていくということが可能になってきております。
十枚目。子供たちはノートに書くこともたくさんありますが、これも一旦写真に撮ってクラウドに上がれば、友達と同じように一覧化できますので、それぞれの考えを比べるというのが紙とデジタルの融合でできるようになっております。
先生方は、十一枚目ですけれども、このクラウドで子供たちがどういう学びをしているかを把握しながら、一人一人の子供たちに関わっていく、介入するということができるようになります。
十二枚目にありますが、外国籍の児童生徒が大変増えてきておりまして、これも、英語であれば先生方は何とか対応しますけれども、実際、外国の数が多くなってくるとそれも難しい、かといって、加配で先生方を増やすということも難しい。こういう現実の中で、例えば翻訳のツールが手元にある、それによって、この子たちもまた、学校に来て学ぶということがハードルが下がるということになります。
十三枚目ですけれども、学校に来れないお子さん、来れない時期もございます。けがをしているとか、あるいは感染症の濃厚接触者になっているとか、そういうときも、オンラインでつないだり、クラウド上では同じアカウントで入れば家にいながらも見れますので、具合が悪いときは別ですけれども、元気な場合はこういう形で子供たちとつながっていることで、次、また来れるようになるというふうになっております。
十四枚目ですが、これは子供たちのまとめの様子ですけれども、非常に多角的に、情報をいろいろ集めていますので、教科書一辺倒ではなく、様々なところから情報を集め、整理するという力がついております。この画面の左下にテレビの画面がありますが、こういう外のリソースとリンクさせるみたいなことができるようになっているということです。
十五枚目は、これはある小学校の子供たちが学んでいるときの今日の授業の目当てですけれども、公式を導き出すというところで終わりではなくて、それぞれの公式に共通するものを見つけて説明するというような一段上の深い学びに近づいているような、これはそれぞれの子供たちが様々な活動で学びますので、それを合わせていくことで、こういう学びに達するということができるようになっている。
先生が一人で教えるということには限界がございます。十六ページにありますが、真ん中のB層に合わせて私たちは授業をしますが、実際、A層、簡単過ぎると思っている子は、待ち時間が長いということになります。C層の子は、分からないまま先生は先に進んでしまう。先生も実は分かっていますが、もうどうしようもなくて、そうするしかないという現実がございました。
今のは小学校ですが、十七枚目は中学校です。中学校では難し過ぎると思っている子の割合が増えるという形になります。
十八枚目にあるように、授業を山登りのように例えて、全体で一番下から始まって、それぞれの子が、それぞれの興味、関心に基づいて、自分なりの調べ方で様々にアクセスし、調べる。それを時に応じて友達と協力しながら協働で活動し、また全体に戻ってみんなで議論する。こういう授業の形が、多様性を包摂しながら、みんなで一体感を持ちながら、それぞれの個性を生かしながら学ぶ学び方として今イメージされているところでございます。
今までGIGAスクール構想の現状のことをお話ししましたが、二番につきましてです。二番は、デジタル学習基盤がもたらす効果と課題というお話をします。
デジタル学習基盤というのは、この端末始め、ネットワーク、あるいはデジタルの教科書、教材、様々なツール、こういう子供たちが学びに使う環境のことを指しておりまして、学習基盤、基盤ですから、これはインフラ、学びのインフラと言ってもよろしいでしょうか。これは紙のインフラが今までは整っていたわけですけれども、これに加えて、デジタルのインフラ、デジタルのいいところをうまく使うことによって、子供たちの学びを積極的に支援していこうというものでございます。
ところが、この右側にあります、二十ページにあります、これは小学校の都道府県別の端末の利用の頻度でございます。これは都道府県でまとめてありますが、実際は市町村によって結構な差がございまして、都道府県で丸めてみても、このぐらいの差がございます。全体としては九割強はまあまあ使っているということになっていますが、そうでない自治体もやはり幾つかある。
これは中学校になるとこの差はちょっと大きくなりまして、二十一ページですけれども、地域差が今大きく課題になっているところでございます。
これは、端末の環境が地域によって少しずつ違うという現実と、例えば、ネットワーク環境が自治体によっては十分ではないみたいな、整備が追いついていないみたいなところもあります。あるいは、先生方の授業に対する意識がまだ十分に変わり切れていない、そういう現実もございます。
二十二ページ目にありますが、OECDの調査によると、日本の学ぶICT環境というのは、OECD諸国では五位、相当上位に来ております。
一方で、二十三ページにありますが、それを使って、特に探求的な、子供たちが探求していくような学びをしているということについては、二十九位、二十九か国のうちの二十九位です。ですので、これは最低ということになっています。せっかくよい環境があるのに、それを生かした学びの形になっていない。そうすると、これは大変もったいないことかと思います。
これは全体としてはこういうスコアになっておりますけれども、努力している、早くから整備をきちんとし、新しい授業に取り組んでいらっしゃる先生方のところでは着々と効果が出ておりまして、二十四ページのスライド、これは、このような、さっきの山登りのような授業をやっているかどうかと学力調査のスコアは明確に相関が出ておりまして、つまり、一人一人のペースに合わせて学ぶことで、全ての子がそれなりにしっかりと学んでいくことができる、こういう多様性を許容したような授業の組立て方に変えるということが、学力に影響するということでございます。
二十五ページにありますが、そういう授業を試みているところほどICTをよく使っています。先生は一人しかいませんけれども、子供たちは多様な学習リソースにアクセスしますので、そうすると、ICTがない頃はプリントを何枚も用意しなきゃいけなかったわけですので、先生の多忙化に拍車をかけていたわけですけれども、こういう昔からやりたかったことだけれどもできなかったことを、皆さんのおかげで用意された端末がこれを支えているということになります。
二十六枚目にありますが、文部科学省は、リーディングDX事業ということで、このリーディングDXスクール事業で利活用の強い推進をしてございまして、今年も七百五十四校が指定されております。これで子供たちの学習、授業を変えるということを全国キャンペーンで様々な取組がされているところです。
二十七ページ目には、デジタル教科書があります。教科書が、デジタルの強みも生かしていくということによって、例えばネイティブの音声を聞きながら学ぶ、これもそれぞれの子供のペースで学ぶことができるということが実現しています。
二十八ページ目には、これは数学の問題が出ていますけれども、点Pが動くと言ってもちょっとイメージできない子供がいる中で、点Pが動いてくれれば、子供たちは理解が促進されるみたいなところがあると思います。
二十九ページ目には、デジタルのよさみたいなことには幾つかありますよということ、これは文部科学省がまとめている資料ですけれども、拡大とか書き込みができる、保存ができる、音声の読み上げができる。総ルビ、これは外国人のお子さんなんかには非常に有効ですけれども、こういうようなことができるということがあります。
このデジタル教科書は何もあらゆるデジタルのものを全て教科書にしようということではありませんで、この三十枚目にありますが、真ん中に、デジタル教科書、検定の範囲でできたようなああいう教科書をデジタルにしたものが真ん中にありまして、このことと、右側のツールですね、様々なツールを併せて使う。そのときに、左側に、いろいろな教材、AIも含めていろいろな教材がこれから出てきます。これは技術の発展がどんどん進んでいきますので、これを全部検定するというのは難しいことでございまして、そういう多様な教材とうまく連携するような、そういう動きをできるようにしてはどうかということになります。
これが三十一ページ目に、文言として、デジタル教科書のワーキング、中教審の、一部ですけれども、これに書かれていることで、連携性の向上が重要であるということが書かれてございます。
三十二枚目は、ネットワーク、さっき申し上げましたが、自治体によってはネットワークの整備が十分でないところがございまして、これは学校外の部分、右側と、学校内の部分、この両方をアセスメントしていただく必要があります。学校内のところは調整で済みますが、学校外のところは、そもそもその地域にどのぐらいの回線が来ているのかということになりますので、地域の情報化と関係する部分でございます。
三十三ページに参りますが、GIGAスクール構想は第二期に入りまして、先生方のおかげで、都道府県に基金を造成するということが決まり、着々とこれが都道府県から市町村に下りまして、端末の更新が進み始めたところでございます。
これもまた、数年たったら第三期がやってきます。これは新しい時代の学びのインフラであることを考えますと、この第三期につきましても、先生方の強い働きかけをお願いしたいところでございます。
三十四枚目、四角の三番、次の学習指導要領に向けて大事だと思っていることを二つ申し上げます。
一つ目は、三十五枚目にありますが、教員に余白をという、先ほどの大森先生の話とも関係することでございます。
三十六枚目にありますが、現在、中教審では、学校現場に教育課程上の裁量を、権限を与えていく方向で検討が進んでいます。つまり、学校によっていろいろな事情の差があるので、そこを各学校の判断でできるようにしましょう、また、いろいろな子供たちがいるので、子供によっては個別の教育課程が提供できるようにしましょうということです。
多様になれば先生は苦労が膨らむわけですけれども、ところが、三十八ページにグラフがありますが、これは日頃からICTを使って授業を展開している先生に聞いたものでして、三百七十五人の先生の回答では、大体いつも、昔に比べると板書の時間は減ったと言っています。また、子供たちが整理したりまとめたりするのはそれぞれのペースでやるので、昔は時間はかかっていたけれども今は子供たちがさっさとやる。また、その様子が見て取れますから、学習活動の評価も時間は大分短縮している。これが先生方の実感でございます。
また、三十九枚目にありますが、これは授業が終わるたびに先生が職員室で授業を今日はこれをやったということを記録していくと、右側の赤い四角にありますように、今、国語の時間は何時間使っていて、あと何時間分だ、ちょっと遅れているのはこの教科だみたいなことがすぐ分かるようになっていて、自分のペースでカリキュラムを進めていくということができるようになる。こういう可視化の機能をうまく使えば、標準の授業時数を適切なタイミングで学んで、遂行できるようになるのではないかということでございます。
最後に、四十枚目にありますが、山登りで学んでいくときに大事なことをちょっとお伝えして、終わりにしたいと思います。
この次にありますが、情報活用能力という言葉があります。一人一人がそれぞれのペースで様々なリソースに当たるということは、一人一人がそれを適切に読み取る力が必要です。また、適切にまとめる力も必要です。
しかし、四十二ページ目にあるように、タイピングのスキル一つ取っても、小学生はまだ、十分に速度、十分にタイピングができないお子さんがまだ三割ほど残っているという現実があります。これは、情報活用能力というのは、現行の学習指導要領でもしっかりとやることになっていますが、明確に教科に位置づいておりませんので、こういうことになっていると。
また、四十三ページにあるように、SNSでやっていいこととか、よくないこととか、不適切な利用についてもしっかりと教えていかなきゃいけない、そういう時代になっております。
こういう情報技術のうまい活用、適切な取扱い、特性の理解というのを四十四ページに書いておりますが、こういう形でやっていくことが必要で、四十五ページにありますように、これを小学校、中学校、高校としっかりと教育課程上位置づけることが今日重要であると思います。
私からは以上でございます。(拍手)
○中村委員長 堀田参考人、ありがとうございました。
次に、澤田参考人にお願いいたします。
○澤田参考人 先生方、おはようございます。上智大学の澤田と申します。よろしくお願いいたします。
私の専門はカリキュラム・教育方法論ですので、ふだん様々な学校で授業づくりのお手伝いをしたり、あるいは、本務校では教員養成に携わっておりますので、この学習指導要領の改訂には高い関心を寄せております。
私の意見陳述は、お手元の資料ですけれども、一枚目に番号をつけて目次的なものをつけさせていただいておりまして、その後、資料番号をつけて資料を御用意させていただいておりますので、一番最初のページと資料のページを行き来しながらお聞きいただくことになるかなと思いますので、よろしくお願いいたします。
まず最初に、私の意見陳述は、今回の学習指導要領改訂に向けて示された中教審への諮問の内容から始めさせていただきたいというふうに思います。
お手元の資料の一、一枚めくっていただいて、資料の一に、その概要のメモをまとめさせていただいております。その中で特に注目すべきだと私が考えるところに下線を施させていただいておりますけれども、一つには、総論的課題として、不登校、特別支援、外国人、特異な才能といった子供たちの多様性を重視した教育の在り方に改善が望まれることが示された上で、下の各論部分で、この解決に向けて、より多様な生徒の包摂、インクルージョンに向けた柔軟な教育課程の実現ということが目標として明記されたということです。
もう一つは、教員負担への配慮の必要性が、この各論部分のところで、これほど学習指導要領の改訂に向けた諮問で教員負担への配慮ということが強調されたということは、これまでなかったのではないかなというふうに思います。それほど深刻な問題として、この教員の多忙化、長時間勤務の問題が認識されているということではないか。この二つが、諮問文の中で特に私が注目しているところでございます。
それで、目次的に言いますと二番の方に、教員の多忙化問題から見た学習指導要領をめぐる諸課題という方に移らさせていただきます。
二の一になりますけれども、私がここで提起させていただきたい問題というのは、先ほど申し上げた二つの、多様な生徒の包摂性と教員の多忙化問題の両方に関わることなんですけれども、危機的な状況として認識されている教員の多忙化状況にまず焦点を合わせて意見を述べたいというふうに思います。
もちろんそれは、子供、若者よりも大人の方が、教員の方が大事だという意味では全くありません。子供、若者を守るためにも、あるいは大事にするためにも、教員の危機的状況の改善がまず必要ではないかなということです。
親子で飛行機に乗っていたりするときに、緊急時に酸素マスクが下りてきたりしたときにどちらが先にマスクをつけるのかというと、親がまずマスクをつけるというようなアナウンスがなされることがありますけれども、それに似ているかなというふうにも思います。
二の一の一のところですけれども、教員の多忙化問題に関しては、次に、二枚めくっていただきまして、資料の二、これは実は、日本大学の広田照幸先生が参議院の文教科学委員会で五月の末に意見陳述された際の資料をそのまま転載させていただいております。
これは広田先生の研究によるデータですので、また、その中継録画も御覧いただけるわけですので、これについて、詳細、その意味を繰り返し御説明差し上げることは控えて、その結論だけ申し上げたいと思いますけれども、この図表による結論結果というのは、要するに、授業以外の全ての業務時間を半減しても、授業の持ちごま数を減らさない限り、教員の勤務時間を法定労働時間内に収めることは不可能だということがこの研究結果で明らかになり、したがって、教員の定数増が不可欠であるということがこの研究結果から明らかになる、それが結論になってございます。
次に、二の二の方に移らさせていただきますけれども、しかし、その教員の定数増の早期実現ということがなかなか難しいということになりますと、今度は授業の持ちこま数の側で削減の可能性が考えられてよいということになるかと思います。
そこで、可能性、どうやったら持ちごま数を減らすために年間授業時数の削減が可能なのか、これを考えていく必要がある。
二の二の一ですけれども、最初のページの。年間授業時数の削減のために、まあ、年間授業時数が削減されると持ちこま数が削減されるわけですので、このために考えられる措置として最も重要なのが、やはり、程度問題はともかくも、先ほど大森先生の方から言われたような標準時数の削減ということになるかと思います。こうした大なたが振るわれることも是非検討していただきたいというふうに考えております。
また、この点が大事なのは、後に触れますけれども、裁量権によって、現場裁量で柔軟な対応をするということになったとしても、多忙化で、その現場裁量を十分に使うだけの体力が現場に残っているかどうかという問題がありますので、標準時数の再検討というのはやはり大事な問題になるかなというふうに考えております。
その次ですけれども、二の二の二になりますけれども、また、年間総授業時間数を削減するためには、学習指導要領に関連して文科省が発出している通知も重要な意味を持ちます。
これも先ほどの大森先生の報告と、御発表と重なるところがありますけれども、資料の三の方に目を移していただきたいと思いますけれども、これが現物のコピーに当たりますけれども、文科省は、昨年六月に事務連絡として、標準時数を大きく上回る年間授業時数を設定している学校、自治体に注意喚起をして、是正を呼びかけてはいます。
しかし、資料四にありますように、この通知が明示的にまだ改定されていないかと思いますので、この中にある下線を引いた部分、標準を上回る適切な授業時間数を確保するように配慮することという通知内容が早急に改定される、そういう必要があるのではないかなというふうに考えております。
この二〇〇三年の通知ですけれども、二〇〇三年というと、二〇〇〇年から二〇〇二年頃に学力低下論みたいなものが吹き荒れて、ゆとり教育批判みたいなものが物すごく広がった頃ですけれども、それで、文科省の方で、すぐに対応すべきだということで学びのアピールといったものが公表されて、文科省がこういった国民不安に手当てをすることに追われたということでした。
しかし、それから四半世紀近くがたっておりますので、しかも、不登校児童生徒の存在を含めて、学力というものだけではなくて、生徒と教師のウェルビーイングの重要性というものが最新の教育振興基本計画でも明記されている時代ですので、この通知を取り巻く環境というのは既に大きく変わったと考えるべきだと思われますので、やはり見直しが迫られているのではないかなというのが私の意見でございます。
その次ですけれども、最初のページの二の二の三の方に移らせていただきます。二の二の三の方ですけれども、現在の中教審の教育課程特別部会で検討されている柔軟な教育課程編成に関する内容です。これは、先ほど堀田先生の方からも触れられたところでございますけれども、再度、図をということで資料の五に目を移していただければと存じます。
この資料の五ですけれども、柔軟な教育課程編成の、特に教員の多忙化ということを考えますと、資料の五の裁量的な時間(仮称)というのがありますけれども、これが注目されるところだというふうに見ております。
ここに示されている柔軟な教育課程編成の全体イメージというのは、何よりも、冒頭でお話ししましたように、まずは、より多様な生徒のインクルージョン、包摂に向けたものとして構想されているわけです。それは、これまで授業時数特例校とか学びの多様化学校などにしか認められてこなかったような類いの教育課程編成を一般の学校にも拡充して認めようという、そういう方向です。
しかし、同時に、この柔軟な教育課程編成というのは、教員負担への配慮という点にも対応しているというふうに私は見ております。この裁量的な時間というのは、御存じの先生方も多くおられると思いますけれども、必ずしも授業に充当することはなく、教員研修の時間に充当することも認められてよいものとして検討されつつあるからです。
授業時数特例校制度をベースにしますと、各教科の標準時数の一割程度を別の教科とか新たな教科、あるいは裁量の時間に移せるということが視野に収められているようですけれども、それが最終的にどの程度、どのような幅を持つ案として提出されるのか、また、各教科から削減した一割程度ずつの時数をどの程度までこの裁量的な時間に充当できるのかどうかということもまだこれからの審議をお聞きしないと分からないという状況ではございます。
もし標準授業時数の見直しが余りなされないという場合には、この裁量的な時間に関する大幅な裁量を学校現場に与えられるかどうかが教員の持ちこま数減を実質的に実現できるかどうかを大きく左右することになるのではないかと考えられます。
裁量的な時間に関しては、文科省、教育委員会や管理職等が各教員に対して信頼ベースではなくて不信ベースで対応されて、ちゃんとチェックしないとこんな裁量的な時間というのはいいかげんに使われてしまうんじゃないかというような不信ベースで運用されてしまいますと、せっかくのこの時間が裁量というよりは縛りになってしまうということも考えられるわけですので、この裁量的な時間の運用は最大限、教員集団とかあるいは各教員の自主的な判断に任せるという方向で検討を目指していただきたいというのが私の意見でございます。
その次ですけれども、二の三の方に移らせていただきます。行ったり来たりで申し訳ございませんけれども。
この柔軟な教育課程編成に関してですけれども、先ほど少し申し上げましたが、こういった現場裁量を伴う政策ですが、これは、多忙化に見舞われている多くの現場には、その裁量を十分に行使できる体力が残っていないということが懸念されると思います。
ある意味で、一つの授業でも、従来型の一斉授業のように一律に教師がコントロールして進める授業に対して、いろいろな子供の持ち味を引き出したり、それを生かしたりすることが求められるようなアクティブラーニングの方が、準備や評価を含めてコストがかかると思います。もちろん、先ほど堀田先生がおっしゃったように、ICTなどを利用して部分的にそれが軽減されるということはあると思うんですけれども、やはりコストがかかる。
それと同じように、多様な生徒に応じた柔軟な教育課程編成というものにも、生徒との対話とか、教員同士の連携とかいったことで、あるいは専門家との連携も含めて、コストがかかる。
その意味で、現場裁量というものに関しては、現場のそういった意味での多忙化状況を併せて考えて運用が図られるべきじゃないかなと考えております。
教育課程企画特別部会では、もちろん現場の学校の先生方による実践発表を踏まえて審議が進められておりますけれども、学校現場の実現可能性を一生懸命考えていただいているということは、その意味で理解できます。
しかし、そこで発表いただいているのは研究開発指定を受けた学校の先生方であることが多いので、そうではない、もっと一般的な、私がよく行くような学校を考えると、そこまでうまくいかないなというような埋め難いギャップを感じるところもございますので、その点で、学校現場の声を聞くとか実態を把握するというときには、そういった研究指定校を受けて優れた実践を重ねられている学校だけではない、もっと一般的な学校の先生方の声や実態を踏まえていることが伝わるような、そういう審議もしていただきたいというふうに考えております。
というわけで、その意味では、柔軟な教育課程編成というものが絵に描いた餅に終わらないようにするためには、それを、その編成を支えるサポート体制をどう構築するかということの議論も審議していただきたいというふうに考えております。
私自身は、例えば、総合的な学習の時間が始まった平成十年の改訂のときですけれども、このときに、ポジティブに見ておりましたが、その後、先ほど申し上げたように二〇〇三年の通知が出たような状況のときには、ゆとり教育バッシングとともに総合学習もかなり批判されたところがあったように思います。
ということからしますと、理念とか設計とかがどんなにすばらしくても、現場での実現可能性をできるだけ丁寧に担保しないと、有意義なアイデアも潰されかねないという教訓がここから得られたように思うので、こういった柔軟な教育課程編成の理念、これはもうもちろん大事だと思いますし、国連による障害者権利条約に関する総括所見で是正勧告を受けた日本のインクルーシブ教育を一歩でも前に進めるという意味でも、非常にこの柔軟な教育課程編成というのは意義が大きいと感じますけれども、こういった現場裁量の行使というのは試行錯誤がつきものになるだけに、やはり、サポート協力体制の設計をどうするかということも是非御議論いただきたいというふうに考えております。
その次に、三番の方に移らさせていただきます。より多様な生徒の包摂という視点から見た学習指導要領改訂動向をめぐる諸課題ということで、少し日本語が抜けておりますけれども、資料六の方に目を移していただければと思います。
この資料六の方ですけれども、先ほど堀田先生の御発表にもありましたが、二階建てというたてつけになっております。これは、下の学校レベルの教育課程編成と、学校レベルの教育課程編成だけでは包摂できない、もっといろいろな特性を持つ子供の個人レベルの、両方を視野に収めてこういった設計がなされている。こういうものを特例校制度のような特別な申請なしに全ての学校で認めようというわけですので、この設計というかアイデアというのは目をみはるべき、非常に感心して拝見したところではございます。
しかし、先ほど申し上げましたけれども、実際に運用する場合には試行錯誤がつきものになると思われます。一階、二階とこういうふうにすっきり分けられるわけには現実にはいかないかもしれませんし、やってみたら、中二階みたいなものも必要じゃないかとか、あるいは一階と二階の移動をどうすればいいんだろうとか、そういった柔軟な教育課程編成の更に柔軟な対応みたいなものが出てくる可能性がある。もちろん私の理解が及んでいないところはたくさんあるかもしれませんけれども、こういったところがあるかなというふうに考えております。
そのときに注目したいことですけれども、二階部分では、時間がもう来ておりますのでこの辺りで終えさせていただきますが、資料六の方ですけれども、下の方は教科ということが目立つんですけれども、裁量的な時間とか、それから特に必要な教科等がある場合というところには、学習機能だけではなくて、居場所機能みたいなものも重視していただけるようなことが、今後、不登校児童生徒の増加ということを考えると重要になってくるかなと思います。
時間が来ておりますので、私の方の発言はここまでにさせていただきます。どうも御清聴ありがとうございました。(拍手)
○中村委員長 澤田参考人、ありがとうございました。
以上で参考人の方々からの意見の開陳は終わりました。
―――――――――――――
○中村委員長 これより参考人に対する質疑を行います。
質疑の申出がありますので、順次これを許します。船田元君。
○船田委員 皆様、おはようございます。
久しぶりの質問の時間でありますが、今日は、参考人、四人の先生方にお越しをいただきまして、誠にありがとうございました。主に学習指導要領、いよいよこれから次の改訂に向けてのステップを踏み出すというところだと思いますけれども、大変貴重なお話をいただきまして、ありがとうございました。
それぞれの先生方に質問したいところなのでありますが、私は、自分のところでも私立の幼稚園をやっておりまして、幼稚園教育あるいは幼児教育ということについてやや危機感を持っているのが今私の状況でございます。したがいまして、主に、幼児教育を取り扱われた無藤先生に質問したいと思っております。
かつて、幼児教育におきましては、いわゆる幼稚園教育要領、それから保育所については保育指針がそれぞれございまして、前者はどちらかというと子供たちの教育に焦点を当てまして、後者は主に子供たちの養護、あるいは健康とか安全、そういうことに焦点を当ててきたものと理解をしています。
ところが、先ほどの無藤先生のお話にありましたように、いわゆる認定こども園という新しいジャンル、あるいは新しい形の制度がスタートいたしまして、両方を兼ね備えた教育・保育要領というのが設定をされたと聞き及びます。
さらに、それぞれの施設の共通課題として、いわゆるその次の小学校への接続、これをどうやってスムーズにやっていくのかということがまた意識をされ、課題となりまして、それに向けての三種類の施設の教育、保育内容の整合性、これが一層現在図られている途中だというふうに伺いました。
そうした中で、この幼保、そして小学校の接続への取組を後押しするということで、幼児教育センターというのが各都道府県に設置をされ始めているんです。まだまだ全体には行っていないようでございますが、この幼児教育センターの位置づけ、あるいは役割、先ほども触れていただきましたけれども、より詳細に、参考人のお考え、あるいは今後に向ける期待がありましたらば、お知らせいただきたいと思います。
○無藤参考人 御質問ありがとうございました。
幼児教育センターというものの働きでありますけれども、幼児教育センターというのは、主には都道府県設置、一部政令市等にもありますけれども、今、八割ほどに設置されていると聞いております。
ついでに、船田先生の御地元は栃木県と思いますけれども、幼児教育センターが先駆的につくられた県であります。
その幼児教育センターは、先ほどから出ているように、今、幼児教育は、幼稚園、保育園、認定こども園、極めてある意味で多様になっておりますけれども、それらを包含して、どのお子さんがどの園に行こうと、良質の共通の幼児教育を受けられる仕組みをつくっていく、それが、幼児教育が、今後の学校教育、ひいては人生の基盤をつくる意味で重要だというふうに思います。
幼児教育は、今や九十数%のお子さんが通う、義務教育ではありませんが、それに準ずる重要なものであるので、そのような形で都道府県が責任を持ち、それを、幼児教育センターについては文部科学省がサポートしております。
その中身でありますけれども、中心は、幼稚園、保育園、認定こども園の先生方の研修を担うこと、共通にしていくこと、それとともに、各園ごとに、センターから訪問いたしまして、その園の保育に指示というよりは、その園の理念を生かした良質な保育になっていくように手助けする、そういう働きを担うということで、今努力している最中でございます。
以上です。
○船田委員 そこで、幼稚園、それから認定こども園、保育園、それぞれのちょっと現状というか、数を申し上げたいと思いますが、現在の公立、私立幼稚園は全国で約七千五百園、それから認定こども園は九千二百園、保育所が二万三千園程度ということであります。さらに、幼稚園は、現在は減少傾向にあります。一方の認定こども園は増加傾向にある。純粋な保育所というのはやや減っているというふうに聞いておりますけれども。
そういう中で、様々な事情によりまして、認定こども園に移行するということをやらずに、幼稚園として、これはまさに幼児教育をしっかりとやっていこう、支えていこう、そういう施設が少なからず存在している、現在でも存在している。こういうことについては、無藤先生は、どのようにお考え、どのように評価をされますでしょうか。
○無藤参考人 無藤でございます。
日本の幼児教育の発祥というのは、先ほどの意見陳述で申し上げたように、明治の初めから、まずは幼稚園からスタートいたしました。その後、保育所、この数十年で認定こども園が入りましたけれども、日本の幼児教育の、特に教育としての質を確保するという意味においては、幼稚園が先導してきたし、そして、今も幼稚園がその先導を担っていると思います。
それは幼稚園の特色によるわけであります。幼稚園は、基本的には、標準時間、保育時間が四時間程度、これは幅がもちろんありますけれども、それ以外の時間において、片づけをしたり等々の中に、保育の準備、また保育の見直しということを幼稚園の先生方は毎日のように行っている。これが、保育所ではなかなか難しいけれども、幼稚園の特色になるわけであります。
そういう意味で、幼稚園というものが、幼児教育の質を高めていく上で、非常に重要な働きを担っていると認識しております。
ちなみに、幼稚園というのは公立と私立とございますけれども、先ほどの子ども・子育て支援制度の中に組み込まれるものは、公立幼稚園はそこに入ります。そして、私立幼稚園は、その半分近くはその制度の中にあり、そして残りの半分近くがいわゆる私学補助を得るという形で制度の外側に位置しておりますけれども、中身としては、相互に協力しながら、同じ形を取る。ただ、補助の仕組みが若干違うということでありますが、共に幼稚園として頑張っているというふうに理解し、今後ともそうあってほしいと私も考えております。
以上です。
○船田委員 最近、言うまでもなく、共稼ぎ世帯の増加、あるいはその保育需要、これが非常に拡大をしているということは否めないことであります。しかし、家庭教育と幼稚園での幼児教育をいい形で組合せをして、そしてしっかりと子供たちに教育を受けさせたい、そういう御家庭があるというのも、また一方では事実だと思っております。ですから、幼児教育の灯を消さないということは、大変我々、行政でもそうですし、政治の世界でも大事なことかなと思っております。
また、幼児教育の先端というか、模範と言っては言い過ぎかもしれませんが、先端を行くのが幼稚園の教育であって、そこから、じゃ、認定こども園ではどこまでその教育ができるか、保育所でも、極端に言えば、幼稚園教育のある部分についてはしっかりやっていこうということで、高いところから、まあ、高い低いは言っちゃいけないんでしょうが、幼児教育という面からすると、一つの高まりから、ずっと多くの幼児教育施設、あるいは保育施設に流れていっている、そんな感覚を持っているんですが、そういう考え方はいかがでございましょう。
○無藤参考人 船田先生の御指摘のとおりだと私も考えておりますけれども、もちろん、保育所においても、優れた保育園というのは近年いろいろなところで増えてまいりまして、その独自の保育というものが注目され、また広がってきております。
ただ、幼稚園の場合には、先ほど申し上げたように、比較的に保育する側にとってのゆとりがあるというのが一つと、それから、保育所においてももちろん家庭と連携し、認定こども園においても同様でありますけれども、幼稚園は、家庭と連携するのみならず、家庭の保護者が幼稚園教育に協力し、あるいはまた、家庭として、その家庭の考えの下で当然家庭教育を行うわけでありますから、そのような組合せというものを標榜し、実践しやすくなっているというのが特徴です。
乳幼児期でございますので、全てが園の中の教育で済むわけではなくて、むしろ、家庭において愛情を持って保護者の方がお子さんを育てていく、それと共になって幼児教育が意味を担うということでありますので、そういう意味で、幼稚園の働きに期待し、今後とも、是非その優れた幼児教育実践を進めていただきたいと願っております。
以上です。
○船田委員 ありがとうございました。
幼稚園の教育、特に私立幼稚園の場合には、どうしても、高等学校等の経常費助成費補助が行っているわけであります。なかなか、その中では、幼稚園の教諭の給与というのが十分に、出しておりますけれども、十分な水準にまで達していない、そんな状況があります。
一方で、保育所それから認定こども園の場合には、これはいわゆる公定価格によりまして、もちろん、保育士さんの給与を上げようということで様々な施策が行われて、そして、実際にもその公定価格が徐々に上がってきている、そんな状況であります。
昔は幼稚園教諭の方が給与が高かったという時代もあったと思いますけれども、それが現在、かなり逆転をしている、そんな状況が現場にございまして、幼稚園教諭になり手がいなくなっている、少なくなっているという現状があるので、幼稚園の教育についてのその先行きというのが非常に危ぶまれているという状況がございますので、その辺りも、我々もこれをしっかり見ていかなければいけませんけれども、そういう観点も大事かなと思っております。
最後に、あとのお二人でございますが、大森先生と澤田先生に御質問をちょっとしたいと思います。
皆様がそれぞれおっしゃっているように、かつて、ゆとり教育というので、非常に批判を受けた時代がございました。その後、かなり、詰め込みというのか、授業時間数を増やして、そして内容も充実をさせるということでやってきた。そのこと自体は、私は方向としては間違っていなかったと思っていますが、一方で、その詰め込み過ぎによって様々な弊害というのが起こっている。
それは、先生方が非常に多忙である、子供たちが本当に目の回るような学校教育を過ごしてしまっている。加えて、やはり、毎日毎日学校に通い、そして六時間、七時間という授業を全てこなしていくということに苦痛を感じる子供たち。もちろん、ほかには、元々、学校に行きにくいという不登校、あるいは不登校ぎみの子供たちもいれば、一方で、そういったカリキュラムが過重であるということによって、いわゆる全日制の高校を敬遠をしてしまう、どちらかというと、広域通信制高校のようなところに行って、少しカリキュラムの緩やかなところで教育を受けて、それで高卒の資格を取る、こういう傾向が実は最近非常に増えてきております。
全日制高校の進学率が、かつては九二%、三%ありましたのが、現在では八七%、八六%まで減ってしまっております。この数字の差というのが、まさに広域通信制高校に流れていく、安易につくということは言いませんけれども、そういう傾向があることも事実なので、是非、学習指導要領の改訂におきましては、そういう学校現場の現実があるということも御理解いただいた上で、いろんな形の、柔軟なカリキュラムが必要であるということを私は思っておりますけれども、大森先生、澤田先生、いかがでございましょうか。
○大森参考人 御質問いただきまして、ありがとうございます。
今御指摘のございました、通信制高校の広がりですね。
実は、私のゼミ生の中にも、かつて、通信制高校を経て大学に来た学生がおりました。その学生が申しますには、進学の普通高校に、いわゆる進学校に進んで張り切って勉強したんだけれども、何かそこになじむことができない、そういったところで随分悩みまして、通信制高校に行きまして、そこでは本当に温かく受け止めてもらえたということが、本人が言っておりました。
ですから、現状、通信制高校は様々ですけれども、それが多様な子供たちを受け止める役割を果たしていることはすごく大きなことだと思っています。
でも、その一方で、普通高校が、決して少数ではなくて、かなり多くの子供にとって学びづらい場所になったり、私の方では、御報告させていただいた義務教育諸学校が、幾つかの数字を見ても、かなり多くの子供たちにとって厳しい状況になっておりますので、いろいろなところは、受け止めるところは高く評価しつつも、本体という言い方が当たっているかどうかは分かりませんけれども、普通高校であったり義務教育学校の基盤のところ、そこを子供たちにとってほっとできる場所にして、学習を充実させるということが大事ではないかなというふうに考えております。
○澤田参考人 御質問ありがとうございます。
今の御質問をお聞きして、やはり一番痛感するのは、私も昔、京都の公立高校で教員をしておりましたけれども、私が教員になったとき、指導ということが教員の仕事というふうにみなされていたかと思うんですけれども、今、広域通信制に行った生徒さんが温かく迎えられたというようなエピソードも御紹介いただきましたが、やはり支援とかケアとか、こういったところも、教員にとってはとても大事な仕事の一部として強く意識されてきているところだというふうに認識しております。
それは、やはり今までとは違う、様々な角度から生徒を見るとか教員の連携とかが必要になりますので、またそこから翻って、そういった専門性も要求されるとすると、教員の側での多忙化、長時間勤務を解消して、そういったことへの研修とか、あるいはそういったことへの学びに時間をかけられるような環境をどのようにしてつくっていただけるか、我々がつくっていくかということが大事になってくる、そんなことを考えながら御質問をお聞きしたというところです。
以上です。
○船田委員 どうもありがとうございました。
終わります。
○中村委員長 次に、荒井優君。
○荒井委員 おはようございます。立憲民主党の荒井優でございます。
今日は、このような機会を本当にありがとうございます。今の船田先生の質疑も含めて、すばらしい参考人陳述だと思っております。
先ほど、澤田先生から、まさに指導の言葉についていろいろと話がありました。実は、僕自身も、国会議員になる前に札幌、北海道で高校の校長を五年間務めていましたが、民間人校長として着任して、一番最初に違和感を感じたのが、まさに学校の中にある指導、そういう言葉だったんですね。
先生たちといろいろ話をすると、先生たちが割と気軽に、それはちゃんと指導済みですとか指導しておきましたというふうに言うわけですが、では、その指導とは一体何をしたのかなというのをよくよく聞くと、そんなに重い意味があるわけではないような、言っておいたとか、そういう感じの言葉にすぎないような感じがするんですが、でも、学校には実はこの指導という言葉がはびこり過ぎているんじゃないかと思っていました。
そのとき、ちょうど文科省の委員も務めていましたので、そんな話をその委員会の始まる前に少し皆さんに伝えたところ、そうすると文科省から出てくる文章に黒塗りがたくさんになっちゃいますねなんて話をしていまして、まさに文科省から指導という言葉が各学校現場に行き渡っているんだなと思いましたし、今日、四人の参考人の皆さんがまさに関わられている学習指導要領、まさにこの指導という部分が文科省から、国から決められていることもその一因なんじゃないかと思います。
ちなみに、今日はちょっと学習指導要領のことをお話を伺いますが、実は、学習指導要領というのは、これは英語で言うと、ザ・ナショナル・カリキュラム・スタンダーズというふうに日本政府は、文科省は訳しているんですよね。ザ・ナショナル・カリキュラム・スタンダーズ、どこにも指導というニュアンスはこの文言の中には含まれていないんですが、なぜか日本語では指導という文言をザ・ナショナル・カリキュラム・スタンダーズに入れているのは、やはり、僕はちょっとこの指導という言葉に強い思いを込め過ぎているんじゃないかというふうに思っています。
ただ、一方、僕は学習指導要領を否定したいわけではありません。非常に大きな効果をもたらしているというふうに思っています。
平成元年の学習指導要領の改訂で、家庭科の授業に関しては、男女共修になりました。男子生徒と女子生徒が共に学ぶ、そういう家庭科のカリキュラムになりました。今日、ここの場所にいる方でも、一九七七年以降に生まれた人たちは、まさに今四十八歳以下ですけれども、男女共修をしているはずです。その子たちがやはり社会に出たときに、男性の育児休業の取得率が二五%上がっていたり、女性の平均年収も一一%上がっている、こういうことが明治大学の原ひろみ先生の研究なんかで出ているわけです。
ですから、学習指導要領、十年に一回、まさに今改訂しているわけですが、社会をデザインしていくという非常に大きな役割があるというふうにも思っております。その意味で、今日は、四人の参考人の皆さんに学習指導要領のことに関してお伺いしたいわけです。
先ほど、大森先生のペーパーの中にもございましたが、二〇〇八年の学習指導要領から二〇一七年に変わっていくときに、減るものがなかったというふうに、全てアドオンされたというふうに書かれているわけです。
ここは非常に重要な指摘だと思っていまして、学校現場は、とかくやめるということが非常に難しいわけですね。学校で行われていることはすべからくやはり生徒のためなので、先生たちもそれは一生懸命やっていこうと思うわけですが、何を減らすのかということを決めるのは、管理職であったり教育委員会であったり、若しくは文科省の大きな役割だと思います。
今ちょうど、次期の学習指導要領の改訂、議論がなされているところですが、四人の先生方は、次の学習指導要領に向けて、今の何をやめるべきだというふうにお思いなところがあるのか、御説明いただければというふうに思います。先生方からお願いいたします。
○無藤参考人 私の専門は幼児教育ですので、学習指導要領は小中高ですから、それほど詳しくはありませんけれども、簡単に申し上げると、今後ですけれども、学校週五日制の中で、学校の授業そのものに割ける時間の当然もう上限に来ている、あるいは上限をもしかしたら少し超えているかもしれませんが、同時に、これからの社会において、ますます、子供たちに伝えておきたい、学んでほしい教育内容は増えているというよりは高度化していると思います。それを一つ一つ羅列的に教える限りは、ただただ内容が増え、時間が増えますので、いかにしてそれを組み合わせて、よりクロスした形で進めるか。
となりますと、教科の枠、時間の枠、単元の枠を超えながら、総合的な学習における探求と連動させていく。また、補助の手段としての様々なICT、今後はAIを含めた活用が望まれる、そんなふうに思っております。
以上です。
○大森参考人 御質問ありがとうございます。
減らすのはやはり難しいところがございます。私も大学で教員をしておりますので、小学校でも大学でも、教員には、学生のためになるなら、子供のためになるなら頑張ってこれもあれもやはり教えていこう、そういう気概のようなものもございます。
でも、この間、もうそういったことが限界になっていますし、教員のサイドだけではなくて、日本の教育課程の在り方というのは、やはり教育課程基準の影響が大きいものでございますから、やはりそれも減らすところを考えなければいけないというふうに思っております。
では、どこなのかということなんですけれども、やはり一つは、標準時数のそもそものボリュームを変えないと、今はもう本当に、小学四年から中学三年まで、額面どおりにやると毎日六時間という状況ですから、ここは、簡単ではないかもしれないけれども、減らしていくということが必要だと考えております。
それから、簡単ではないというふうについ申し上げたんですけれども、突き詰めて考えると、減らせるんですね。
よく言われるのは、時数を減らすのはいいかもしれないけれども内容が減らせないじゃないか、内容を減らさないで時数を減らしたらかえってきつくなってしまうということがよく言われるんですね。
それで、今、私たちは、具体的な内容の大きさというのは、基準そのものというより、基準の結果としての教科書に表れますので、教科書の分析を行っております。お手元の私の資料の十三ページを御覧いただけたらと思います。
大前提なんですけれども、教科書会社も、それから恐らく文部科学省も、こうすることが子供にとっていいことだろうということの善意だというふうに私は考えているんですけれども、その善意が重なったときに何が起きるかということをお話しします。
例えば、最近の教科書、こういう問題が増えております。十三ページの一番下なんですけれども、小学二年生です。「二十八円のラムネと十七円のカステラを一つずつ買います。あわせて何円になるでしょうか」。一つ前の教科書ですと、「計算のしかたを考えましょう。」になっています。これは、四則計算の基本のところ、考え方、これだって結構大変なことです。今の教科書です、「計算のしかたを考えましょう。はるとさんとゆきさんの考えをいいましょう。」。
教室の中で子供たちから複数の解法が出てきて、それを先生が取り上げるのはすごくいいことなんです。でも、教科書の中にあらかじめ二つの解法が印刷されていて、それを子供に見せて、それぞれの解法の違いを言葉で説明させるということが全国の学校で行われています。二年生にこれが本当に必要なのか。二年生に必要なのは、まず一つの基本的な考え方を習得して、手を使って何回も何回もそれをやって、算数を使いこなせることなんですね。
共同研究をしている、公立小学校の教員であると同時に公教育計画学会の会員である水本王典さんの一番最近の研究成果なんですけれども、教科書における不合理な教材のページ数を全部書き出しています。分類がございますけれども、一番多かったのが八十五ページです。「思考力・判断力・表現力等に形式的に対応した難解な内容」です。
私は、思考力、判断力、表現力が大事でないと申し上げているのではなくて、それに形式的に対応する余りに、ひねり込んだ、御紹介したような問題が増えているというところがございますので、そこを減らすことはむしろ子供にとってメリットになる、そのように考えている次第です。
○堀田参考人 御質問ありがとうございます。
私は、どちらかというと、新しい時代に合わせたことをしっかりと子供たちに教えるべきだと申し上げる立場からすると、何も減らさずそれをアドオンするということは適切ではないということは了解しております。かといって、今までの教育活動で価値がないものはないと思うんです。みんなよかれと思ってやっていることだし、学習指導要領に入っていることだし、教科書にも載っていることなんですよね。
ただ、これをどんどん増やしていっていいわけではないことを考えると、私は、こうしてはどうかと思っていることがございます。
この度、学校現場の裁量で授業時数を減らしたりするようなことが、特定の教科の授業時数を融通したりするようなことができるように、中教審では今検討済みですけれども、こういうことによって教育内容の一部を選択可能にするということをしてはどうか。
例えば、現在でもそうなっていますけれども、体育では、ゴールがあるようなボール運動はこれかこれかこれ、どれかやればいいんだけれども、学校では、これもやった方がいい、あれもやった方がいいというふうになって、全部やるみたいになりがち。こういうようなことを選択、これを算数でも理科でも、そろばんは選択する、プールは選択する、そういうようなことを少しずつやって、どこの地域が、どのぐらい、どれをやっているかということを正確に把握し、選択される率が低いものから少しずつ削減していくようなことを少し長期にわたって検討していってはどうか。それによって、各学校は個性を出せる部分もあるのではないかと考えております。
私からは以上です。
○澤田参考人 御質問ありがとうございます。
私の方で少し補足させていただきたいところで、この視点というのは文部科学省もこれまで認めてこなかったと思うんですけれども、標準授業時数がそのままでも総授業時数を減らせる可能性があるもう一つの方法があると私は考えておりまして、それがダブルカウントです。
つまり、特別活動とかと道徳とか、学習指導要領を見ていただくと、いわゆる今カリキュラムマネジメント、そして資質、能力ベースということが言われていますので、一定の一時間の活動の中に道徳の目的も特別活動の目的もこれは十分成立しているよねということが判断できる場合には、その一時間を両方にカウントするということがもし現場裁量でできるようになると、それだけでもかなり年間の授業時数は軽減できる部分が増えると思いますので。
しかし、このダブルカウント、トリプルカウントというのは、先ほどの無藤先生のお話とも重なると私は思うんですけれども、そういった意味での教科横断的な取組の中での柔軟な教育課程編成の中に取り入れられてはいいと思っているんですけれども、まだそういう議論は聞かないので、私自身としては、そういった標準授業時数が、まあ、減ってほしいんですけれども、減らなくても、それができるだけでも違うところは出てくるかなというのが一つ考え方として持っているところでございます。
以上です。
○荒井委員 ありがとうございます。
今、学習指導要領は校則は射程には入っていないわけですが、校則に関しては、生徒指導提要で、令和四年に新しく決められたものの中に、生徒たち同士で、子供たち同士で議論して校則を決めていこう、こういうムーブメントが今動いているわけです。
学習指導要領に関しても、確かに、大人たちが、有識者の皆さん、学校現場の皆さんがいろいろな形で今議論しているわけですが、ここはやはり、子供たち自身がどういう学びをしたいのかという意見をしっかりと言う必要があるんじゃないかというふうに思います。
なぜなら、今の学習指導要領でまさに主体的、対話的、深い学びをしてきた子供たちだからこそ、どういう学びがしたいのか。実際、東日本大震災の後に双葉郡の子供たちと一緒にこういう対話をしてきまして、それが双葉郡のふたば未来学園という中高一貫校をつくるときに大きく、子供たちの声によってつくられてきたという経験がございます。
時間がありませんけれども、四人の先生方に、この学習指導要領の改訂に向けて、是非子供たちの声を聞いていただく場を設けていただきたいというふうに思うんですが、何かやり方や方法、サジェスチョンがありましたら、教えていただけますでしょうか。
○中村委員長 荒井議員、時間がありませんので、答弁者を絞ってください。
○荒井委員 分かりました。それでは、無藤先生にお願いします。
○無藤参考人 今の御指摘のことは非常に重要だと私も考えております。
子供たち、生徒たちの参加を求めるというのが、おっしゃるように、校則などについて今広がりつつあるのは非常にいいことだと思います。
そこで考えるに、そもそも、総合的な学習の時間というものは、探求を目指すという中で、子供たち自身が何を本当にそこで目指したいのかを考えていく時間、もちろん教師がそこに助言していくわけですけれども、そういう意味では、総合的な学習の時間というものが十分機能するならば、まずはそこにおいて生徒の主体的な参加が成り立つべきだ。
そして、それがうまくいきながら、今度はその生徒たちの参加を他の教科ではどうできるか。いきなり、例えば算数、数学を子供たちの判断でという、まだ理解していない生徒に任すのは不可能でありますけれども、しかし、部分的には、かなり活動的な部分とか、あるいは、本当に、これをやったけれども君たちはそれを通して何を学んだかを改めて、テストということではなくて、子供たちに意見を出してもらうということを随時盛り込むことというのは、今後の学校の一つの大きな可能性だと考えております。
以上です。
○荒井委員 どうもありがとうございました。
終わります。
○中村委員長 次に、高橋英明君。
○高橋(英)委員 日本維新の会の高橋英明でございます。
本日は、先生方、誠にありがとうございます。
早速質問に入らせていただきたいと思いますけれども、まず初めに、やはり教育というのは、まさに国家の大計を作る、極めて重要なものだと考えております。教育が崩壊したら国が滅ぶというように思っていますので、そういった意味でも、今回の学習指導要領の改訂というのは、これはもう本当に極めて重大だというように思っています。
そして、何となくなんですけれども、目先のことばかりをやっているような気がしてならないんですね。やはり、将来我が国が目指す社会像とか理想像とかいうものがあって、それを達成するために学習指導要領があるというように思うんですけれども、我が国が目指す社会像というのが明確に示されているのかどうかというのをまずお聞きをしたいというふうに思います。何となく、外国人問題とか、そういった目先のことを取り上げるというのは非常に分かるんですけれども、そういった大きな目的、目標というのが明確に示されているのかというのを、まず無藤先生と堀田先生にお聞きしたいと思います。
○無藤参考人 ありがとうございます。
学習指導要領として何を目指すかということについては、直接的には中央教育審議会の答申などにありますけれども、今回の学習指導要領、幼稚園教育要領などもそうですけれども、かなり長い前文を入れてございます。
そこにおいて、もちろん教育基本法、学校教育法を担うということではあるけれども、まさに、御指摘のように、この日本社会が今後どうなっていくのかということ、どうあるべきかという姿を思い描いて、本当に、子供自身の権利が拡充されるとともに、日本社会が維持可能になり、さらに、日本の国が、あるいは日本の人たちが、この世界のために、その平和とまた環境の保全のために活動できるようになる、その中で同時に、子供たちが大人になる中で、その力を発揮し、生きがいを持ち、幸せに暮らせるようになってほしい、そういう願いを、学習指導要領の用語に置き換えてはございますけれども、現在の要領においても記してきたし、私の知る限り、今、中央教育審議会でもその御議論をいただいているというふうに理解しております。
以上です。
○堀田参考人 御質問ありがとうございました。
私が用意した資料の中で使わなかったものがございまして、五十六ページにそれがございます。恐らく、今後極めて重要なのは、この人口減少社会、これが教育に与える影響は非常に大きいかと思います。ここにありますように、二〇五〇年には、人口、我が国は九千五百万人になり、そして、高齢率が約四割ぐらいになるというふうに今言われておりまして、六十五歳では元気ですけれども、その後、介護等にかかる費用等はどんどん大きくなるのだろうと思いますし、生産年齢人口が減るので、効率よく社会を保っていく必要があると思います。
こうなったときに、テクノロジーとの共存というのは、これは不可欠でございまして、そういう時代に生きていく子供たちが適切にテクノロジーを理解し、これを自分たちの幸せのために使っていくような、そういう人材の育成というのがとても大切だというのが一つ。
その次の五十七ページにございますけれども、人生百年時代でございますので、終身雇用はもうほぼ終わっておりますので、マルチステージモデルと言われるような形で、何度もキャリアチェンジしていく時代でございます。自分の学びを、自分で責任を持って常に学び直し、学び足していくような、そういうことができる力を義務教育段階でしっかり身につけるということが今後の学習指導要領においては非常に重要なことと思います。
私の見解は以上でございます。
○高橋(英)委員 ありがとうございます。
まさに人口減少社会。それで、皆さんにお聞きしたいんですけれども、それを補うために、私はこれは違っていると思うんですけれども、外国人をやはりどんどん受け入れようと。これは安易にしちゃいけないと思っていますけれどもね。実際問題、今、外国人が非常に増えている。ある学校では、もう小学校の半分が外国人になっているような、そんな状況もあるんですけれども、この現状ですよね、現状でもそうだと思いますし、将来でもそうなんですけれども、外国人の対応に関してはどのようにお考えなのか。これは全員の皆様にお聞きしたいです。
○無藤参考人 私としては、幼児教育における現状で今のお話をしたいと思います。
幼児教育、幼稚園、保育所、認定こども園においても、この三年ほど、いわゆるコロナ明けですけれども、急激に外国人の子弟の割合が増えております。それは、当然ながら、日本に来る外国人の方々で、家族を連れていらっしゃる方が増えたんだろうと思いますし、都内でも、区によりますけれども、外国人が増えている、また、地方においても、例えば、突然工場ができて、急にある国の人たちが増えるという状況で、おっしゃるように、幼稚園、保育園などでも、半数以上が外国系というところが珍しくはなくなりました。
そこでの問題は、一つは、お子さんが日本語をしゃべれるようになるか、また、日本の習慣になじむかなんですが、同時に、保護者の方も外国系である場合に、保護者と幼稚園、保育園の先生方のやり取りが不十分だ。あるいは、慣習がいろいろ違うわけでありますけれども、例えば、遠足でお弁当を持っていくというときのお弁当が通じないみたいなことから始まって、お弁当の習慣が余りほかの国にないので通じないということから始まって、いろいろなところでずれるわけでありますので、一生懸命そのための資料を作り、例えば、横浜市などは十か国ぐらいの資料を配付しております。
つまり、今までと違って、英語、中国語だけでは済まないので、今や、都内などでは十数か国語でのやり取りが必要になりますので、その通訳のサポートとともに、それらの習慣を伝えるような役割。これは今、外国の方々の在日のグループというんでしょうか、支援団体が生まれてきておりますので、その方々にサポートしていただきますが、なかなか全国的にはそれが難しい。北海道から沖縄までの、かなり田舎の方でいきなり、先ほど言ったように、工場ができたりしますので。そういう意味で、恐らく、ICTを使ったサポートを含めて考える必要があるというふうに考えております。
以上です。
○大森参考人 御質問ありがとうございます。
私は、常々、教育研究の最前線は小中高の現場にあると考えているんですけれども、東京で、葛西であったり、あるいは新宿であったり、外国にルーツを持った子供たちがたくさんいる学校でずっと勤められてきた先生方からこういうことを教わったんですね。
その先生方、初めのうちは、やはり、外国から来た子供たち、日本語がハードルが高いですから、そこをケアするのが一番大事だろうと思って、一生懸命教えるんです。でも、それだけじゃ、何か子供たちの顔が晴れていかないんですね。何が必要かということを考えたら、外国から来た子供たちが自分のルーツの文化のことを自然に話せる、日本の子供たちがそれを一緒に話せる、そういう教室が必要なんだということに気がつかれたとおっしゃっています。
その先生方、どういうふうにやったかというと、学校でギョーザを作るんです。そのギョーザを作るときの何が起こるかの順番が、こう解説をされていたんですけれども、学校で、まずいギョーザじゃなくて本当においしい本物のギョーザを作ると、まず、先生たちが少し中国のことが好きになるんだそうです。二番目に、そうすると、日本の子供たちが前よりちょっと中国のことが好きになるんですね。そうすると、最後に、外国にルーツを持っている子供たちが中国のことが好きだという気持ちを出せるようになる。そういう順番で仲よく暮らせる学校をつくってきたんだというふうにおっしゃっていました。そんな辺りにヒントがあるのかなというふうに考えております。
○堀田参考人 非常に重要な課題だと私も認識してございます。
まず、コミュニケーションの力を子供たちに今まで以上に多様性を踏まえた形で身につけさせていくということが、学校教育においては大事だと思います。それは、そもそも日本人の中でも様々な考え方が多様にある、こういう時代でございまして、まして、外国から来たお子さんたちは、宗教上のこともあって、日本で育った子供たちにはなかなか理解がし難いようなこともいろいろあるけれども、それでもみんな仲間として一緒にやっていくんだという、国際化の時代ですから、そういう多様性の理解をこのことと絡めてしっかりと教えていくようなことが学校現場では必要かと思います。
もう一つは、今、大森先生もおっしゃいましたけれども、翻訳の話を先ほど私はしましたが、実際、日本語がまだ十分でないお子さんが、端末でプリントや教科書を撮影して、自国の言葉に翻訳しながら理解し、授業についてくるみたいなシーンは、僕は何度も見ています。これはテクノロジーがなかったら恐らくほぼ無理ですけれども、それによって、その子たちも教室で学びに、一緒に共同体に関わることになりまして、また加えて、それが、日本のコミュニティーに子供たちが、そういう外国人児童生徒がうまく適合するみたいなところもあります。
こういうようなことをこのGIGAの端末を用いて力にしていきたいということと、もう一つは、子供たちを見ていると、そういう子たちと一緒にユーチューブを見たり、一緒にダンスしてそれを録画して喜んだり、言葉は通じなくても結構心は通じているみたいなところがいろいろあって、これは、これ自体がこれからのグローバル社会において非常に重要な学習なのかなと思っております。
私は以上です。
○澤田参考人 御質問ありがとうございます。
今、高橋先生が御質問いただいたことというのは、私の知る限りでは、学習指導要領という関連でいくと、二〇二一年の一月の末頃に出た令和の日本型学校教育答申と呼ばれる答申の中のたしか2部だったと思うんですけれども、増加する外国人児童生徒、ちょっとタイトルは忘れましたが、そういった教育の在り方についてというところで、外国人児童生徒のアイデンティティーの確立とかあるいは日本語の習得のためにも、母語、母文化の習得というのがすごく重要な意味を持つということが明確に初めて学習指導要領関連で書き込まれたというふうに思います。
これが、単なる同化主義ではなくて多文化主義的な、つまり、日本のことを習得してもらうためにも、その母語、母文化を尊重することが非常に有意義であると。これは欧米の様々な事例もありますので。実際、そして、先ほど言われたような、日本の学校でもそういった実践を積み重ねられてきている実践事例もありますので、そういった令和答申の文言と実践事例を結びつける形で様々な情報が展開されると次のイメージが見えてくるのではないかな、そんなふうに考えております。
以上です。
○高橋(英)委員 ありがとうございます。
これからどんどん外国人は増えていくのかなと思いますけれども、やはり、これは一番最初に言いましたけれども、我が国の社会をどういうふうにしていくのかという絵を描くのは我々政治家の役目だというふうに思いますので、その辺をしっかりと描いてまいりたいというふうに思います。
最後に、やはり、どう見ても、教員と子供たちが非常にどんどんどんどん負担が多くなっていっているのが現実なんだろうというように思います。これはやはり、冒頭言いましたけれども、何となく目先のことに追い回されているからどんどんどんどんやることが増えていっているんじゃないかなというようにも思いますし、先ほど澤田先生がおっしゃっていましたけれども、研究指定校ばかりを見るのではなくて一般的な学校現場をしっかりと見ていただきたいというのがありましたけれども、まさにそのとおりなんだろうなというふうに思います。
やはり、現場を見ないとしっかりと学習指導要領には反映できないというように思いますので、一般的な学校現場、これをどうやったら学習指導要領に反映させていくことができるのかというのを、もう時間がないので、じゃ、澤田先生にお願いします。
○澤田参考人 御質問ありがとうございます。
とても難しい御質問で、私も十分にお答えできませんが、私もやはり現場に関わっておりますので、パブリックコメントとかそういった意見表明をする場が設けられているので、先生方にも、やはり、単に上から下りてくるものではなくて、自分たちの現場の現状を学習指導要領を学びながら意見をみんなで言っていきましょうというような、そういったこともお話ししているところですので、今あるリソースを使いながら少しでも現場を見ていく。それから逆に、審議会の方では、そういった指定校以外の先生方へのアンケートとか声を聞く機会みたいなものもあえてつくっていただけると、より望ましいのではないかなと。非常に素朴な回答で恐縮ですけれども、そんなふうに考えております。
以上です。
○高橋(英)委員 ありがとうございます。もう時間になりましたので終わりにしますけれども、しっかりと現場の声を反映させていただきたいというように思います。
今日は本当、勉強になりました。ありがとうございました。
○中村委員長 次に、西岡義高君。
○西岡(義)委員 おはようございます。国民民主党の西岡義高でございます。本日は、先生方、ありがとうございます。
早速質問に入らせていただきます。
まず、無藤先生と堀田先生にお伺いしたいと思います。
現在の学習指導要領の中には、人の受精に至る過程は取り扱わないものとする、また妊娠の過程は取り扱わないという、いわゆる性教育に関する歯止め規定、これがあることによって、学校現場では性教育ができない、ちゅうちょしてしまうというような現状がございますけれども、この性教育に対しての歯止め規定、また性教育の必要性について、先生のお考えをお聞かせいただければと思います。
○無藤参考人 性教育という場合に、性行為といいますか、肉体的な性行為自体、またそれに伴って性器の名称や働き、その結果としての妊娠、出産等々を含めて、また、性をめぐって、社会的な意味ではジェンダーと呼んだりしますけれども、男性、女性、またそれ以外の、異性愛以外の在り方などなど、多数の問題があります。
それらについて、学校を通してどのように示していくか。これは既に、幼児期において、性教育とは呼びませんけれども、当然、男の子と女の子の違いというのは四歳ぐらいで認識し始めますので、それに応じて、普通の保育の中での言及はいたします。より積極的にというのは、小学校、中学校の主には保健の時間だと理解しておりますけれども、同時に、理科の生物の時間でもあるということであります。そういう意味で、客観的なしっかりとした情報は、それらで科学的な理解を伝えるということ。
しかし、同時に、それぞれが性的な行為に近づくのは、法律上は十五歳以上あるいは十八歳以上ですけれども、現実には中学生でも見られることですので、そのようなことに対して、現場の先生方がいわゆる生徒指導の中でいろいろと苦労されております。それらをサポートする意味で、それらに対してどこまで示していくか。
実を言えば、今やSNSを通してほとんどの子供がいろいろな、ある意味で、場合によっては間違っているかもしれない、半端な知識とでもいいましょうか、得ていますので、正しく、また倫理的、道徳的にまともな知見というものを伝える方法また在り方を是非中教審でも御議論いただきたいと願っております。
以上です。
○堀田参考人 よろしくお願いいたします。
今、無藤参考人がおっしゃったとおりですが、体の仕組みとか機能、こういうことについていつ教えるかというのは実際の体の発達に伴って適時性があろうかと思いますし、歯止めをどこまでというのは非常に難しい問題でございますけれども、早過ぎても難しいんだろうし、遅過ぎたら学ぶ価値が下がるのかと思いますので、このところは非常に専門の方々がしっかりと議論していただく必要があろうかと思いますが。
私が一番気にしているのは、もうちょっと、性といっても今はもう精神的な部分が大きいかと思います。ジェンダーとか、こういうことについて、性役割みたいなことが例えばテレビの中でどういうふうに描かれているかとか、こういうようなことを子供たちはいつも見るわけです。ネットには不適切な画像もたくさんございますし、こういうことについて、ある意味、考え方、正確な、正しい考え方ですか、望ましいと言ったらいいでしょうか、そういうことをきちんと教えていくということが大事で、また、様々な形でジェンダーについてはバイアスがかかった形でそういうふうに表現されますので、こういう私どもの持っているバイアス、こういうようなことがメディアに表れるんだという、メディアリテラシーといいますけれども、こういうようなことについて、情報に関する学びの中でしっかりと教えていくということが今日、特に重要だと思っております。
以上です。
○西岡(義)委員 ありがとうございます。
では、次に、大森先生と澤田先生にお伺いしたいと思います。
ちょっとこれまでのお話と重複する部分があるかと思いますけれども、給特法の今回の改正審議の中で、参議院の附帯決議に、「教育職員の担当授業時数を軽減するための教育課程の実施」という文言が書き込まれました。
この附帯決議、これを実現するために、具体的にどのような方策、教育課程を実施すれば教育職員の担当授業数を軽減できるのか、お考えをお聞かせください。
○大森参考人 御質問ありがとうございます。
やはり今いただいた内容というのは、教育課程の在り方と本当に直結するなというふうに思っているところでございます。
お手元の私の資料なんですけれども、八ページをちょっと御覧いただけるとありがたいです。
一番下のところなんですけれども、例えばなんですが、小学校で教員の勤務が八時十五分から十六時四十五分という場合です。これは、学校によって違いはございますけれども、今の標準時数ですと一日六時間ですから、子供が帰る放課後は十五時三十分ということになります。現状どうなっておりますかというと、この十五時三十分から十六時四十五分の一時間十五分の中で、法律が定める休憩を取って、それから職員会議をして、教材研究をして、それから、今は時数がぴったりなので、時間割りを毎日のように組み直す必要がございます。それで、保護者対応していく。収まるのか。収まりません。
そうすると、やはり大きなところでは、標準時数を減らす。これは、減らすという言い方をしておりますけれども、子供たちが五時間で帰るというのはかつては当たり前の学校の風景でしたので、それを取り戻すことではないかなというふうに思います。もちろん、教員の定数を増やして教員の空きこまを増やしていくということも大変有効なやり方だと思いますけれども、それと併せて時数自体も減らさないと放課後の終わりは変わりませんので、併せてこの二つが必要なところかなというふうに考えております。
○澤田参考人 御質問ありがとうございます。
繰り返しになってしまいますけれども、今日、標準授業時数の削減、それから二〇〇三年通知の見直し、そして柔軟な教育課程編成の活用、三つの話をまずさせていただいて、それに加えてダブルカウント、トリプルカウントというものの可能性を探っていただくということを申し上げたんですけれども、標準時数のことに関しては大森先生の方から詳しく御議論いただきましたが、標準時数を変えなくても可能な部分というのが三番目と四番目ということですので、この辺りのところについても審議に入れていただいて。
ダブルカウント、トリプルカウントというのは、考え方によっては乱暴にも見えるところがありますので、しかし、授業時数の中の何割までを、どの程度であればという制限をつければ十分可能というふうに思いますし、実際、私が行っているごく普通の学校の校長先生に聞いても、それだったら、こことこことここを結びつけて、それで一時間というのであればいろいろ考えられますよという声はそこかしこでお聞きできましたので、その辺りのところは、私がちょっと補足的に申し上げましたけれども、再度強調させていただきたいというところでございます。
以上です。
○西岡(義)委員 ありがとうございます。
次に、「道徳教育と愛国心」という著書を著された大森先生にお伺いしたいと思います。
先日、現役の高校生たちと懇談する機会がございまして、その中で、グローバルな人間を形成するためには、まずはローカル、すなわち、自国のことをよく知る必要がある。自国の文化をよく知って、誇りを持てるような教育を取り入れてほしいという意見がありました。彼らは総合探究の中に日本学というのを入れてはどうかというような提案をしていました。
特に、留学を経験したり帰国子女の子で、海外に行ったときに、自国のことを誇りを持って語れないとかルーツを語れないとか、そういった思いが強いようです。
この点において、道徳教育をもってどのようにアプローチしていったらいいのか、大森先生のお考えをお伺いできればと思います。
○大森参考人 小学校、中学校、高校、これは大学も共通かもしれませんけれども、例えば国についての理解が曖昧なままの状態でいいのかということでもあると思います。
やはり、教育、特に小学校のことでいいますと、子供たちを科学の世界にいざなっていくということがあると思います。そうした中で、社会の仕組みであるとか、自国のこともそうですし、他国のことも含めて、しっかりとした認識を形成していく。段階としては、子供たちは、やはり初めは、低学年ではすごく身の回りの小さな世界の中で生きていますけれども、そういった子供たちの生活の問題とも結びつけながら科学にいざなっていって、その延長線上には、今御指摘をいただいたような国家とは何であるかとか社会とは何であるか、それに関してもしっかりとした認識を形成していくということが大切ではないかなというふうに考えております。
○西岡(義)委員 ありがとうございます。
次に、堀田先生と澤田先生にお伺いしたいと思います。
生成AIについてなんですけれども、今後、教育分野にもどんどん取り入れられていくかと思います。ただ、データを学習させる際に、ジブリ風の動画などの問題がありましたけれども、データを取り込む際の著作権の問題であったり、またディープフェイクと言われるものの問題であったり等、しっかりとある程度の法規制、ルールを作って健全な発展をさせていかなければ、教育の中に取り入れていくためにも、その前提となるルール作りが必要だと思います。例えば、自転車に乗るなら交通ルールを教える、そういったものだと思います。ただ、そのルールがまだ生成AI等にはしっかりできていないと思うんですけれども、まず、生成AIについての規制の在り方とかお考えをお伺いできればと思います。
○堀田参考人 御質問ありがとうございます。
生成AIについては、この二年ほどでかなり急速に発展しておりまして、社会への普及も物すごい勢いで進んでおりまして、民間企業ではこれを使わずに何かをするということがもはや難しくなってきているところです。学校でも、文部科学省が生成AIの活用について一部の学校に研究指定しまして、その学校においては積極的に、子供たちに使い方を教えた上でですけれども、積極的に使うということをプロモートしております。
上がってきている事例は、子供たちの相談相手として、相談相手というのは、生活の相談というよりも、自分の作ったレポートを、これをどう思うかということを生成AIに聞いて、生成AIが、ここのところが論点が弱いんじゃないかということを指摘してくれ、それを基に自分のレポートを直していくような、そういうことですね。英語でいうとコミュニケーションの壁打ちの相手みたいなことをしてもらうような、そういう使い方をしていることが多いと思います。
これらも、使っていっているうちに、だんだんどういう使い方が子供たちに適しているかということを先生も子供たちも分かっていくという部分がありますので、現在はパイロット的な実践ですけれども、これを基に、このように用いるとよいという一種のガイドラインみたいなことを出していくことが大事かと思います。
また、学習指導要領においても、この生成AIなるものの仕組みがどのようなメカニズムなのかということ、これは恐らく中学生以上じゃないと正確には分からないと思いますけれども、こういう技術の発展が速いものをしっかりと教育課程内に位置づけて、そのことを教えた上で、だから私たちはこのように使っていく必要があるということを、適切な利用の仕方ということで教えていく。このことが、今までは何となく生活の体験の中で済んでいたものを、これからの時代は教育の内容としてしっかりと中高には位置づけていくことが必要であると私は考えております。
以上です。
○澤田参考人 御質問ありがとうございます。
そういった生成AIというような、こちらの方でも使い方に関する明確な答えを持っているわけではないことであるとすると、今、堀田先生もおっしゃいましたけれども、まずは、教員が教えるというよりは、一緒に考えるとか一緒に使って課題を整理して、そして教員は専門家の方と一緒に使ってというような、そういう循環を続けていくしかないのかなというふうに思っております。
うちの学生でもまだまだそういった意味で課題を感じている学生が多いんですけれども、それでも、やはりそういった生成AIを一緒に使っていくと、例えば、学生とやったときの経験ですけれども、意外と、日本語でそれって本当に正しいんですかみたいなことをチャットGPTに聞くと、チャットGPT、結構謝るんですね、日本語だと。済みません、間違っていましたみたいなですね。英語だとそうでもないんですね。
うちの学校、大学は英語が得意な学生もいますので、英語と日本語で反応を見ると、文化バイアスがそういう形で見えてくるというか、やはり日本には日本のカスタマーに合う回答が返ってくるんだみたいなことを学生が気づいて、そういう話を学生同士がして、チャットGPTとか生成AIの特徴を把握したりということもありますので。
そういった意味で、そこでの気づきを一緒に取り上げながら、しかし、教員だけでは分からないところは専門家の方とも検証を重ねながらということで、何かこちらが指示、指導するという文化からちょっと離れて、一緒に考えていって、それを循環的にということしかないのかな、そんなイメージしか持っておりませんけれども、私の方の見方としては以上となります。
ありがとうございました。
○西岡(義)委員 ありがとうございます。
時間となりましたので、質問を終わります。ありがとうございました。
○中村委員長 次に、浮島智子君。
○浮島委員 公明党の浮島智子でございます。
本日は、四人の参考人の皆様方には、貴重な御意見をいただき、またお時間をいただきましたこと、心から感謝を申し上げさせていただきたいと思います。本当にありがとうございます。
今国会においては、いわゆる給特法について、私は七回ほど質疑に立たせていただきました。その中で、学校の働き方改革の目的は、やはり学校業務の三分類、これを徹底し、教師が教師でなければできない業務にしっかりと集中するようにして、教材研究あるいは研修等に取り組む余白を確保することによって、子供たちの特性や関心に応じた教育の充実を図ることが大切であるということも訴えさせていただいてまいりました。
既に各地におきましては、私も視察に行かせていただきましたけれども、鳥取の青翔開智中学校、高等学校、また、午後は全て探求学習に充て、子供たちが地域企業を巻き込んだ探求的な学びや体験活動を行っている渋谷区のシブヤ未来科、また、ビー・ザ・プレーヤー、自分の学びを自分で調整する力を育む石川県の加賀市といった新しい流れが着実に、確実に進んでいると私は思っております。
現在、中教審において、この学習指導要領の改訂に向けての精力的な議論が行われているところでありますけれども、その中で、一つ目に、不登校の子供や特定の分野に特異な才能を持つ子供、日本語指導が必要な子供たちについて、個別の指導計画や作成、日本語と母語の双方を見据えた学びの実現、また、各教科の授業時数から時間を生み出し、子供たちの特性や関心に応じた裁量的時間を設定、また、学習指導要領の構造を各単元における本質的な問いや貴重な概念を知識を軸にしたシンプルなものに転換していくなどが審議をされているということで、中教審における専門的な議論が進んでいることを私は期待をさせていただいているところでもあります。
そこで、四人の参考人の方それぞれにお伺いをさせていただきたいと思いますけれども、公明党といたしましては、この柔軟な教育課程の実現を進めていくことが必要だと考えております。その中で、この渋谷区のように、子供一人一人が多様で柔軟な学びができるような学校の教育というのをしていくという方向性について、この御所見と、また、実現していくために必要となる方策、それをそれぞれの参考人の方々に御教示いただきたいと思います。
○無藤参考人 渋谷区などについては、御指摘の学校などにおいて、実は幼児教育からのつながりを非常に先導的に図っておられます。その場合に、小学校、特に低学年の進め方について相当に柔軟にやられております。それは、既に現行の学習指導要領においても、低学年の教育においては合科、関連的な指導を十分行っていいのだということが明記されておりますので、それに従ってやれるところがたくさんあるということであります。
その際に、先ほど申し上げましたけれども、例えば低学年の場合には、算数を学ぶというときにリンゴが幾つとかという足し算がありますが、それは、例えば生活科の中の実際の活動の中でいろいろ出てくる部分とつながります。国語教材というのも、教科書に教材があるわけですが、その他のところで、文章教材、文章に触れる、あるいは人とやり取りする、あるいは地域の方等、いろいろお話を聞くことがある。そういうようなつながりを図ることによって、一定の授業時間の中で柔軟に取り組む余地というのは一割、二割、十分にあるし、それによってむしろ学力というものがより深く根差したものになるというふうに私は確信しております。
以上です。
○大森参考人 御質問ありがとうございます。
私も、柔軟性であったり裁量という言葉はとても大切な言葉だなというふうに思っております。そのときに、柔軟性あるいは裁量性、言葉は一つでも、歴史の中でちょっと意味合いが異なっているのかなというふうに考えております。多くの人が思っている以上に、戦前にも実は柔軟性や裁量性も部分的にはございました。
例えば、授業時数ですと、週二十こまという形に決まっておりますから、これは大変分かりやすいですよね。年間千十五時間やりましょうと言われるよりも、二十こまやりましょうというとイメージがしやすいので、このときは教員も子供も、学校での学習というのは、教育というのはこういうことなんだということが理解されていて、それを把握した上で、じゃ、今日はちょっと校外に、遠足に行ってみようかとか、そういった裁量であったり柔軟性が実はございました。
これは戦後も同じでして、やはり一九八〇年代、九〇年代ぐらいまで、ちょっと細かな話になりますけれども、戦前の今ちょっと分かりやすい仕組みについてお話ししましたが、戦後も、年千十五こまという世界には入りましたけれども、実はこれ、三十五の倍数を使うことによって、全部の教科、領域、ずっと三十五の倍数で割り切れていました。だから、音楽七十と言われても、三十五で割れば二こまということで、このときは子供も先生も時間割りをしっかり把握。
私のような世代は、学校に行きますと、新学期に小さな時間割り表をもらいました。それに国語、算数、理科、社会と書いて、ランドセルにセルロイドの窓がついていて、一年間それで時間割りがもったんですけれども、今はもう三十五の倍数を崩してしまっていますので、音楽五十と言われてしまったら、今週は一こまだけれども来週は二こま、もう先生方はくるくるくるくる授業時数を変えることにお時間を使っています。
かつてあったような、シンプルなところがしっかりシンプルに決まっていて、その中で裁量性を発揮するという世界と、恐らく渋谷は、午前中、学習して、午後、活動的なこと、探求的なことをやるというのは、これも戦前の教育実践から続いているよいやり方を継承している意味のある実践だと思うんですが、恐らくそれをやるのに相当の苦労をされているのではないかな、そういうふうに考えております。
○堀田参考人 浮島先生、御質問ありがとうございました。
私は、大事なことは三つあると思っております。
まず一つ目は、弾力的に運用できるような学習指導要領、渋谷のようなことがどこの学校でも校長のリーダーシップの下でできるような、そういう学習指導要領の柔軟性みたいなことがまず一つ。これは、次の学習指導要領はそういう方向に向かっていると思っております。
二つ目は、子供たちが自分の学びたいことをしっかりと自覚できているかどうかということだと思います。これは、いろいろな勉強の中で、僕は特にここに興味があるみたいなことを語る場があればあるほど子供たちは自覚できるようになります。自分はこれが得意だとか、これが好きだとか、でもあの子はあれが好きなんだ、あれが得意なんだ、そういうようなことをたくさん見てきていて、その上で自分の得意なことをしっかりと調べてみると、もうやっている人がいるとか、ああいうふうになりたいという憧れを持ってみたりとか、これはネットで検索するといろいろ出てきますので、この辺りに情報活用能力と関係する部分があろうかと思いますし、そうやっていろいろな情報に出くわすためにも、適切な情報活用能力を子供たちにしっかり身につけておくということは、小学校段階から大事なことだと思います。
三つ目に、教師の仕事が、教師はティーチャーと訳されますけれども、とっくに先生が知っていることを少しずつ子供たちに切り売りするという考え方ではないやり方が特にこの探求的な学びにおいては大事になります。子供から見ると、信頼できる、頼りになるアドバイザーであってほしいというふうに思います。だから、教科の指導をうまくやるということとはまた少し違うスキルを先生方に要求する、ここの部分の先生方の研修、考え方、ここは非常に大事になるところかと思います。
私の意見は以上です。
○澤田参考人 御質問ありがとうございます。
私も、そういった探求型の学びが拡充していくことというのは非常に大事なことだろうというふうに考えております。
それで、御質問いただいて二つのことを考えておりますけれども、一つは、今までの知識中心の学習指導要領の場合には、それが書き込まれたらそれを教えるということでストレートにそれを受け止めればよかったんですけれども、探求型というのは子供たちの主体的な学びということになりますので、私の解釈でいうと、先生がレールを敷いているだけでは駄目ということになるので、どうしてもやはり試行錯誤、失敗もあるし、それから、生徒に振り回される。振り回される授業の方がいいというふうにも言えるぐらいだと思うんですけれども、つまり、振り回されていないとすると、こっちが引いたレールを敷いているだけということになりますので、そっちに行ってそこまでやるのかというような予想外の子供たちの姿が出てきて初めて探求であり主体的な学びであったりするものが出てくると思いますので。
というわけで、学習指導要領に書き込まれたものに関する成功談だけではなくて、いろいろな、これは二つ目につながるんですけれども、そういった学習指導要領の文言がどういう具体的な実践と結びついているのかというのが分かるようなアーカイブとかがそれこそデジタルで展開していくと、今、未来の教室プロジェクトみたいなところで動画等も拝見できますけれども、縦横無尽に検索できて、自分の学校でこういう学びをやりたいんだけれども、学習指導要領の文言はどう実現できるのか実践事例が分からないというときに、そういった様々な、失敗例もあった方が僕はいいと思うんですけれども、失敗談とか。成功例だけだとどうしてもそこまで行けないと思いますけれども、いろいろな苦労とか失敗談みたいなものを聞けたりすると、そして、そういったものも含めて、成功例も失敗例もいろいろなところで検索できて、それが見られるような、具体例が見られるようなアーカイブなんかをどこかで作っていただけると学校の助けにはなるのかな、教材のアーカイブも含めてですけれども、そんなことを考えておりました。
以上です。
○浮島委員 ありがとうございました。
また、給特法をめぐる審議の中であったのは、教育課程の実施に伴う負担について、これも議論になりました。この点について、教師の働き方の視点のみならず、子供たち一人一人がこれからの時代で幸福に生きていくために必要な教育を実現するという、学習者の視点で考えるということも重要だと我々は訴えてまいりました。
例えば学習内容については、昔と比べて学習をする内容が多岐にわたるという指摘もあります。また、単に減らしていけばよいというのではないということもあります。以前にも増して高度化、複雑化する社会の中で、子供たちが幸福に生き抜いていくために必要な力、これをしっかりつけてあげないと将来困るのは子供たちであって、これからの社会で求められる学習内容の充実と子供たちの学習の負担のバランス、これを考えていかなければならないと思っております。
また、授業時数についても、単に減らせば子供たちの負担が減るのではなくて、仮に一日五時間だったとしても、自分で考える余地のない一方通行の授業であれば、子供たちにとって負担感は大きいと考えられます。一日に六時間の授業があったとしても、子供たちが温かい雰囲気の中で学び合いながら、自ら興味、関心に応じた学びをできる時間、これがあれば、子供たちにとって負担感は小さく、また、資質、能力の育成や不登校の減少にもつながっていくのではないかと考えられると思っております。
また、加えて、学校での学びの時間が減れば、学校外学習への投資ができる家庭に一層有利な環境となり、教育格差が広がるのではないかという懸念の声もいただいていたところでもございました。
そこで、無藤参考人と堀田参考人にお伺いをさせていただきますけれども、このように、教育課程の実施に伴う負担を考えるときに、時数や学習内容の単純な量だけで議論するのではなくて、子供たち一人一人が輝く授業づくりの在り方、また格差拡大の防止といった様々な視点から、バランスのよい議論を行っていくことが重要だと考えています。我が国の公教育の質を一層高めて、様々難しい環境にいる子供も含めて、多様な子供たちが誰一人取り残されない環境を整えつつ、過度な学習負担を生じさせない在り方について御意見をお聞かせいただければと思います。
○無藤参考人 日本の学校教育は、あくまで、小中は義務教育であり、高校はそれに準ずるものであるわけですが、当然、公教育として目指すところがあります。それは、日本人としてしっかり生きていくと同時に、これからの高度化する社会に応じて、それを自分なりにこなしていかなければならない。そういう意味で、学習内容はある意味で高度化していくものである。先ほど申し上げましたけれども、その高度化を単に羅列的に増やすのではなくて、いかに構造的にしていくか、これが問われるというのが第一。
もう一つは、その構造というのは与えられるものではなくて、子供自身が教師の手助けの下でつくり出していかなければならないので、そのために、主体的云々というような学び方や探求的な学びが求められます。同時に、委員が御指摘のように、ただ授業時間を減らすだけでは、その中の教え方、子供の学び方というものが、よりよく分かる、楽しい、そして今申し上げた構造化されるようなものになってこそ意味があるわけですので、単純に減らすというよりは、ある与えられた範囲をいかに生かすかということを是非考えていただきたい、これが一つ。
それからもう一つ、御指摘の、課外の時間、学校外の時間が増えれば子供にとって幸せで有益かというと、現実の中では例えば塾通いが増える等々の弊害もあり得るわけですので、十分課外のその地域でのお子さんの在り方も考えながら、適切に学校の時間というものをその中の指導の在り方とともに御検討いただきたいというふうに考えております。
以上です。
○堀田参考人 ありがとうございます。
教師の負担の観点は非常に重要だと思う一方で、子供たちの目線で考えると、子供たちにとって学びやすいかどうかというのはとても大切なことかと思います。先生おっしゃったように、同じ授業でも、ずっと先生がしゃべっているのを聞いていなきゃいけない苦痛というのは、子供によっては非常にしんどいものでございます。
先ほどから私が紹介している、ICTも使いながら子供たちが自分のペースで様々なリソースに当たりながら学ぶ、この割合を全体の教育課程の中である程度増やしていくという考え方は、子供たちは非常に学びやすくなり、そして自己実現感が非常にありますので、結果的に学校は楽しいという方向に向かうということが分かっております。
そのときのコツみたいなことなんですけれども、多くの先生は、今日学ぶことはこういうこととこういうことですよということがいつでももう一回見直せるようにクラウド上に共有していたり、前に学んだこととか手順とかそういうようなこと、あるいは参考になる動画、例えば、デッサンしているときにうまく影がつけられないみたいなときは、影の上手なつけ方の動画がショート動画で見られるようになっているとか、こういう必要なリソースがリンクされているようなそういう学習環境の中で、子供が必要なときに必要なものにアクセスしながら学ぶ、こういうようなことがICTを使ってうまくできるようになっているかなと思っております。
子供の学びやすさがうまく保障されれば、先生は本当に支援が必要なお子さんにできるだけ時間を割けることができて、これは教師にとっても自己実現につながるかと思います。
以上です。
○浮島委員 ありがとうございました。
これで終わらせていただきます。
○中村委員長 次に、大石あきこ君。
○大石委員 れいわ新選組、大石あきこです。
参考人の皆様、今日はありがとうございます。どの参考人の皆様からも、現場での教育実践をお伺いすることができて、本当によかったです。子供たちが障害の有無とか、また国籍とか母国語に関係なく共に学んでいく、愛情を持って接していくという実践をされていることを拝聴できまして、感銘を受けました。本当にありがとうございます。
私は、本日は、学習指導要領についてお伺いしたく、大森参考人と澤田参考人にお伺いしたいと思います。
学習指導要領については、現状、もう既に参考人の方々からも話されましたけれども、どうも罰ゲームとして機能しているだろうと思っています。それで、これは何とかならないのかという観点からお伺いしたいんですけれども、大森参考人と澤田参考人にお伺いしたいのですが、なぜお伺いするかというと、裁量や柔軟性のことを語られているんです、おっしゃられているんですね。
私は、これはすごく大事だと思っていて、この裁量を奪われて、罰ゲームというか、場合によっては処分だったり、事細かにこれを守らなきゃ絶対駄目だみたいにやられていることによって起きる現場でのデメリットというのが、致命的なものがあるんだと思っています。
まず、そういった、現場での、学習指導要領がもう絶対なんだと、裁量を奪われているかのように機能しているということの具体的なデメリットとか不合理というのを聞かせていただけますか。
○大森参考人 御質問ありがとうございます。
まず、裁量の問題については、問題の大きさに対する整理がまだ教育学では十分にできていないところもあるかもしれません。
まず、裁量の主体の問題がございまして、一般的に教育界で裁量という言葉を使うと、それはたくさんあった方がいいよねということになりがちなんですけれども、裁量の主体が誰なのかということが一つポイントになってまいります。
例えば、地方分権の時代ですから、国との関係で教育委員会や学校に裁量権があるというのは、その関係の中では地方分権を前進させるということになると思いますし、だけれども、子供の視点から見た場合、子供自身の裁量というのは子供自身が持っていないと、それ以外の人が持っていても子供にとっては裁量性が狭くなるというところがあるんですね。
ですから、裁量についての議論は、その局面局面でどこにどれだけの裁量があるべきかということを、歴史的な事実も整理しながら考えることが大事なんですけれども、やはり、教育界全体としては、この間、子供の裁量は少ないことが続いておりますので、そういったことを増やしていくことについては合意も随分でき始めていますので、その辺りが大事なところかなというふうに考えております。
○澤田参考人 御質問ありがとうございます。
現場への縛りということを考えるときに注意したいなと思っているのは、学習指導要領そのものもやはり大事な部分はあると思うんですけれども、つまり、拘束性というものがありますので、学界では、もうそろそろ、一旦、手引的な、戦後の、もう少し柔軟な運用がそれこそ可能になるような部分を、考え直してもいいのではないかという議論も行われているぐらいですので。
しかし、一方で、今、学習指導要領だけを見ていても現場の縛られ感というのが見えない部分があるというふうに申し上げるのは、これは現場の責任も部分的にはあるかもしれないので難しいんですけれども、一つは、検定教科書です。
検定教科書には、学習指導要領の項目を複数回、同じ学年の中で重複して掲載していたりとか、学習指導要領を中心に考えると必ずしもそのページをやらなくても構わない部分があるんですけれども、教科書に頼るという形でやっていると、教科書に縛られてしまって、学習指導要領がそこまで書き込んでいないことも学校でやらなければいけないという感覚に陥ってしまっているという問題があり、もう一つは、間に立つ教育委員会とかが、学習指導要領には、こういうこともできるとか、典型的には道徳の別葉というのがあるんですけれども、それは、作ることもできると書いてあるだけなんですが、ほぼ全ての自治体が作らせているという状態にありますので。
したがって、学習指導要領ではそこまで言っていないことを、検定教科書が丁寧にやっている、そして、教育委員会が丁寧にやらせる。これは全部善意で動いているので非常に難しいんですけれども、そこのところも含めて全体の設計とか全体像をもう少し再構築するという視点がないと、学習指導要領の書き込みだけを考えていても現場の縛り感というのが余り変わらないという可能性も考えられますので、そんなことを考えながら先生の御質問をお聞きしていたというところです。
以上です。
○大石委員 そうですね、学習指導要領の法的確認だったりは本当に必要だと思っています。結果として、必要な法改正があったりとか通知の出し直しがあったり、法制度整備というのも必要かもしれませんけれども、そういうある意味の勘違いといいますか、そこまでそもそもやらなくてもいいのに、やらなければいけないものとして罰ゲームとして機能しているのではないかなという問題意識がありまして、引き続き、大森参考人と澤田参考人にお伺いします。
お二人とも、二〇〇三年の文科省の通知を資料の中に引用されていますよね。この通知によって標準の解釈の実質的変更が、実質的になされてしまったんだよという文脈でお書きになっています。アとイから構成されて、アが、授業時数の実績の管理を厳格化して、併せてイで、標準を上回る適切な指導確保により、標準の解釈の実質的変更、上回っても下回ってもよいというところが、下回っちゃいけないよという解釈変更として実質的に全国で進んだというふうに資料にも提示されていると思うんですけれども、私も公務員でしたので、この通知というのは通知にすぎないわけで、やらなきゃいけないわけではないんですよね、言ってしまえば。なのに、この通知が、もう絶対やらなきゃいけないものとして実質的に機能してしまっているのではないかと考えていまして。
ただ、通知にすぎない上で、これがすごく機能しているのであれば、見直しが要ると思うんですね。それは、見直しましたという通知まで送って、その通知の実質的効果を通知で打ち消すべきではないかと思うんですけれども、その辺り、二〇〇三年の文科省通知に関して、何らかのその見直しに関してアドバイスというか御意見がありましたら、お願いします。
○大森参考人 今の御指摘は、通知そのものの問題と、それから、通知を支えている様々なメカニズムもあるかもしれないというお話であったように思います。
その通知を支えているものということでいいますと、ちょっと三ページを御覧いただけるとありがたいです。ここで、六八年から二〇一七まで、小学校、中学校それぞれの標準時数、五年生と中学一年生だけですけれども、全体像を示しております。
この中で、ゴシックの数字があるんですけれども、これが何かと申し上げると、三十五の倍数が崩れたところなんですね。これは細かな問題に見えるんですけれども、先ほど音楽の事例を出しましたけれども、五十時間、図工もそうですよね、五十時間になると分かりづらさが出てくるんですね。
それ以前のやはり標準時数というのはよい意味でシンプルなところがございまして、年時数の制度ではあるんですけれども、この三十五の倍数を使うことによって、もう立ち所に週の時間がイメージできた。そうすると、学校の先生方というのは基本的に真面目な先生方が多いですから、週時間割りが決まりますよね。
それで、現実に統計を取りますと、大体二百日、教育は授業日が取れますので、それをもう普通にやっていくと、例えば裁量で入学式から授業をするのはやめようとかしたとしても、三十五は必ずできる。だから、先生方が小まめに時数をチェックすることも要らないし、教育委員会が管理しなくても、ある意味では、標準時数が要求している世界を現場で自然に実現できた。
しかし、この三十五の倍数を崩したのも、いろいろなものを入れていこうという本当に御苦労の結果ではあるんですけれども、こうなった結果によって、例えば音楽、倍数を崩してしまうと、カウントをしないとやはりこの五十の時数を守るということができなくなるわけですね。
そういう意味でいうと、通知もありますけれども、時数を日々数えながらでなければ標準時数を守れないというのは、制度の問題としては大きなところかなというふうに考えております。
○澤田参考人 御質問ありがとうございます。
ただ、やはり、私の専門ではないので、本当にちゃんとお答えすることができないということだけ正直に申し上げたいと思います。教育行政学とか、そういった方々の御専門の知識をかりたいというところがございます。
その上でですけれども、要するに、現場は、通知はかなり縛りが強いものとして受け止めています。事務連絡と通知は全然違うものとして受け止めていますので、したがって、現場の受け止め方は、通知と来たときには、そんな、やってもやらなくてもいいという感覚で通知を受け止めている自治体とか学校というのは恐らくないのではないかというふうに思っていますので、そう思われているよということと、文科省はそうは言っていないよと言うと思うんですけれども、この間を埋めていただかないと今の問題は解決しないのではないかと、一アドバイザーとして学校に関わっている立場で校長先生としゃべっているときの感覚から申し上げますと、そういうことになるかと思います。
そして、二〇〇三年の通知に関しては、やはり学力低下論が非常に大きかったので、あのとき、国会でもあるいは様々な議会でも、学力が落ちて大変じゃないかとたたいた先生方もたくさんおられましたので、点数学力だけで判断しない先生方ももっと増えていただきたいなということが、もう一つここで申し上げたかったことです。
以上です。
○大石委員 ありがとうございます。
お二人のお答えとも、やはり政治的だったり文科省の方での見えない力といいますか、学校の先生が思考停止したり硬直化している性質だというよりは、もうちょっと違う、見えない力といいますか、そういう空気によって、通知が厳格に守らないと死ぬものみたいなルールとして機能してしまっているのかなと思いました。
先ほどの三十五の倍数という話も、滑稽といえば滑稽なんですよね。究極、裁量とは何かというと、これは五十に必ずしもしなくていいぞという話があればそうはならないわけですけれども、三十五の倍数でないことによっていろいろな混乱を来すというのは、確かに私の子供も、先ほどランドセルのお話もありましたけれども、ランドセルにちゃんと入らないんですよね、時間割りが。何かちょっと、線とかが引いてあって変なんですよね。そういうのがここに、私の時代のシンプルな時間割りではなく、表現に苦労されていて長く伸び過ぎて入らないとか、そういうことがつながっているのだなというふうには思いました。
私は、学習指導要領は、もう本当に、守らないと死ぬみたいなのを崩したいなと思いまして、それが実は、子供たちの憲法上の教育を受ける権利ですとか個人を尊重される権利というのが守られ、かつ、学校の先生も、人たるに値する生活を営む権利を保障するという労基法の定めを守ったような先生の生き方ができるという両立のためには、この学習指導要領が罰ゲームとして機能しているというのはやはり崩す必要があると考えます。やはり政治的とか又は文科省の力が働いているという御示唆だったとしたら、そこは、私なり、立法府の責任というのは大きいんだろうと思っています。
学習指導要領の、いろいろ調べたんですけれども、やはり、法的性質として、絶対守らないといけないものではないはずなんです。かつ、それはすごく大事なことで、元々学習指導要領ができたときというのが一九四七年なんですけれども、こう書いてあるんですね。
学習指導要領一般編(試案)、この書は、学習の指導について述べるのが目的であるが、これまでの教師用書のように、一つの動かすことのできない道を決めて、それを示そうとするような目的で作られたのではない、新しく児童の要求と社会の要求とに応じて生まれた教育課程をどんなふうに生かしていくかを教師自身が自分で研究していく手引として書かれたものであるというのが、一九四八年、学習指導要領の起こりなんです。
この起こりには私はすごく意味があると思っていて、これは一九四八年、いわゆる戦後ですけれども、やはり、憲法の前文にもあります、政府が再び戦争の惨禍を起こすことのないようにということで、どういうメカニズムで戦争が起きたのかということに着目しますと、政府が教育だったり学術、学問に介入してはいけないんだという、そういう線引きのために、憲法もあるし、様々な法律にも反映していった。それは学習指導要領の哲学もそうであります。それが時代によって少しずつ変えられてきて、法的性質を帯びさせられてきたかのようになっています。
しかし、最高裁判決というのが多分唯一なんですけれども、学テの最高裁判決というのが、北海道の学テの判決がありまして、この判決をめぐってはいろいろな解釈が存在するんですけれども、共通の理解している部分としては、北海道の、昭和五十一年五月二十一日の、最高裁大法廷判決なので非常に重いものなのですが、そこで四原則が示されています。
済みません、まとめますね。四原則だけ言わせてください。
学習指導要領には法的拘束力を予定していない部分があること、細か過ぎるなど法的拘束力を持つべきではない部分があること、学習指導要領は地域及び教師の自主的教育の余地を十分残していること、学習指導要領は教師に一方的教育内容を強制していないことという四つの原則が、最高裁大法廷でも確認されているんですね。
だから、やはり、学習指導要領に従わなかったら死ぬんだ、罰ゲームみたいな世界というのから解放するということが、これは子供のためにも教師のためにもなると考えています。
時間が来たので、私の演説になって終わってしまいましたが、ありがとうございました。終わります。
○中村委員長 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。
この際、参考人各位に一言御礼を申し上げます。
参考人の皆様には、大変貴重な御意見をお述べいただきましたこと、本当にありがとうございます。今後の文部科学行政の参考にさせていただきたいと思います。委員会を代表して、心から厚く御礼申し上げます。ありがとうございます。(拍手)
次回は、来る十八日水曜日午前八時五十分理事会、午前九時委員会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。
午前十一時四十三分散会