「激動の明治国家建設」特別展
1873年(明治6)、いわゆる明治六年の政変により明治政府は分裂し、西郷隆盛、板垣退助らが下野しました。板垣らは、翌年、愛国公党を組織し、民撰議院設立建白書を左院に提出、自由民権運動の出発点となりました。1877年9月、西郷を擁する鹿児島士族らによる西南戦争が政府に鎮圧されると自由民権運動は全国的に拡がり、各地で国会開設と憲法制定が叫ばれました。政府はこれを抑圧する一方、明治十四年の政変を契機にプロシア流君権主義を基本方針とする憲法の制定及び明治23年の国会開設を決定しました。1889年(明治22)2月、伊藤博文を中心として起草された大日本帝国憲法が発布されました。これらを関係資料により紹介します。
開催日時:平成21年11月5日(木)から11月27日(金)まで
開館時間:9:30〜17:00(入館は16:30まで)
場所:憲政記念館(東京都千代田区永田町1-1-1)
東京メトロ:丸ノ内線・千代田線「国会議事堂前駅」2番出口
半蔵門線・有楽町線・南北線「永田町駅」2番出口
入館料:無料
主な展示品
-西南戦争と維新の三傑の終焉-
1.江藤新平書状 諸参議宛 明治7年3月27日
澤禎朗氏所蔵
戦場を脱した江藤は、鹿児島に西郷隆盛を訪ね、再挙への協力を求めたが得られず、高知へ逃れた。江藤は東京において自分の真意を述べた後、刑に服したいという諸参議宛の書状を認めた。これはその書状及び当時全国に配布された江藤の指名手配写真であり、逃亡中の江藤一行が休息のために立ち寄った高知県佐香美郡(現香南市)の茶屋(現澤餅茶屋)に代々伝わるものである。
2.錦絵「鹿児島新報田原坂激戦之図」 永濯画 明治10年3月
東京都立中央図書館東京誌料文庫所蔵
田原坂をはじめとする熊本周辺で展開された激しい戦闘は、熊本城に籠城する鎮台兵に合流しようとする政府軍と、その阻止を図る西郷軍の間に繰り広げられた。この後、西郷軍は敗走を重ねて鹿児島城山に籠った。
3.木戸孝允扇面
山口県立山口博物館所蔵
-自由民権運動のはじまりと展開-
1.参議就任につき家族へ遺せし秘書【重要文化財】大久保利通 明治6年10月
大久保家資料
国立歴史民俗博物館所蔵
岩倉使節団派遣中、いわゆる征韓論が持ち上がり、1873年(明治6)8月、参議西郷隆盛の朝鮮派遣が内定した。帰国した右大臣岩倉具視はこれに反対し、大蔵卿大久保利通を参議に任じて西郷に当たらせようとした。同年10月、大久保は悲壮な覚悟でこれを引き受けた。これはアメリカ留学中の大久保の長男彦之進(利和)と次男伸熊(牧野伸顕)にあてて心情を吐露したもので、西郷との対決が避けられないものであり「この難に斃れて無量の天恩に報答奉らん」との覚悟が示されている。
2.立志社趣意書 明治7年4月
高知市立市民図書館近森文庫所蔵
愛国公党は設立間もなく資金不足に陥った。また、1874年1月14日の岩倉襲撃事件の犯人が旧土佐藩士族であったことや、同年2月、佐賀の乱が勃発し、主唱者の1人である江藤が反乱軍に擁せられたことなどにより、活動が困難な情勢となった。板垣は高知へ帰郷し、同年4月10日、片岡健吉、林有造らと立志社を設立した。その趣意書には民会(国会)の設立にも触れているが、当初は政治活動より士族授産が主な活動であった。
3.国会開設ノ儀ニ付建言 明治13年6月8日
小田原市立図書館所蔵
国会開設請願運動が全国に広がる中で、神奈川県小田原郡など9郡は独自の建白書を作り、23555名の署名を集め、元老院に提出した。福沢諭吉が起草したとされている。
4.国会期成同盟合議書 明治13年11月
高知市立市民図書館所蔵
5.付 林包明書状 内藤魯一宛 明治14年8月29日
内藤泰彦氏所蔵
知立市歴史民俗資料館保管
1880年11月、第2回国会期成同盟大会において、国会期成同盟合議書が制定され、同4条において、次期大会までに各政社が、憲法見込案を持参することとなった。国会期成同盟本部常任委員の林包明は、「各地方ニ先チ」憲法草案を起草した愛知県民権家内藤魯一に感謝の書状を送った。
-点景 私擬憲法-
1.日本帝国憲法(五日市憲法草案) 千葉卓三郎 【東京都指定有形文化財】
あきる野市中央図書館所蔵
西多摩郡五日市の小学校教員千葉卓三郎が、五日市周辺の人々と学芸講談会等の学習活動を積み重ねて作った憲法草案である。5編に分けられるが、国民の権利を36項目にわたりきめ細やかに保障している点に最大の特徴がある。嚶鳴社憲法草案とともに五日市の深沢家土蔵で発見された。
2.小田為綱憲法構想
久慈市教育委員会所蔵
「憲法草稿評林一」と題する小冊子には、元老院第3次国憲案本文とこれに対する評論が記されているが、その上段に国憲と評論に対する論評が朱書きされている。このいわゆる「上段評論」は、岩手県の民権家小田為綱によるものと推定されている。廃帝・廃位に言及している点に特徴がある。
3.私草大日本帝国憲法案 田村寛一郎
越後国西蒲原郡中之口村小柳家文書
立教大学図書館所蔵
新潟県平民田村寛一郎が起草したもので、交詢社案に皇権、民権など28条を追加した内容となっている。民間憲法案最後のものといわれている。
-明治十四年の政変と諸政党の勃興-
1.福沢諭吉書状 伊藤博文・井上馨宛(控) 明治14年10月14日
慶應義塾福澤研究センター所蔵
福沢諭吉は1880年末より大隈、伊藤、井上馨の3名から政府系新聞発行の依頼を受けたが、政変で立ち消えとなった。このため、新聞のこととともに、3名は国会開設に関して緩急の差はあっても意見が一致していたはずではないかと問いただした。
2.井上馨書状 福沢諭吉宛 明治14年10月16日
慶應義塾福澤研究センター所蔵
福沢の書状に対して井上は「人情ハ日ニ軽薄にて時とシテハ合シ或は離ルゝハ生等不好処ニ御座候」と返書を送ったが、伊藤はついに回答しなかった。
3.無名館報 明治15年4月7日
三春町歴史民俗資料館所蔵
自由党は地方部と連携して運動を展開し、政党活動を本格化させた。このような中、板垣が遊説中の岐阜で暴漢に襲われる事件が起こった。この情報はすぐに伝達され、各地の自由党員が岐阜に急行した。これは、自由党福島部の「無名館報」とよばれる党報で、事件の翌日に速報されたものである。この事件で「板垣死すとも自由は死せず」の文句とともに自由党の名声は一層高まった。
4.吉野泰三書状 青木正太郎宛 明治16年6月26日
個人所蔵
町田市立自由民権資料館保管
板垣は翌年6月に帰国した。党員らは帰国歓迎のため横浜で待機していたが、髭を伸ばし日焼けして太った人物が板垣とは誰も気付かず、本人を目の前に板垣を探すという珍事が起きた。この時の混乱ぶりを出迎えに行った吉野泰三は、地元の同志に報告している。帰国後の板垣は、日本は第1等の上国であるなどと述べ、以後、藩閥政府打倒の姿勢は弱まった。
-点景 自由民権激化事件-
1.議案毎号否決の決議書 明治15年5月12日
福島県所有
福島県歴史資料館所蔵
高知と並び自由党の有力な拠点であった福島に県令として自由党撲滅を豪語する三島通庸が着任した。三島は、県民に過重な賦役を強いた会津三方道路開削施策を強行した。一方、議長河野広中のもとに開かれた県会に県令三島の出席は一度もなかった。県会は、民意に背く県令の圧政を理由に全議案を否決するという異例の決議を行った。県令は、内務卿の許しを得て予算を執行したが、県令と県会の対立は決定的となった。
2.絵画「耶麻郡入田付村新道」 高橋由一画
山形県立図書館所蔵
三島は、会津若松から山形、新潟、栃木3県に通じる会津三方道路の土木事業の成果を記録として残すこととし、洋画家の高橋由一に委嘱した。
3.三浦文次・五十嵐武彦書状 小針重雄宛 明治(16)年7月19日
加波山事件関係資料
国立国会図書館所蔵
福島事件は、高等法院における最初の国事犯事件となった。この裁判の様子は、各新聞に掲載され世間の注目を集めた。これは、福島事件に参加した三浦文次が、事件の初公判を傍聴したことを医者を志して上京していた同郷の小針重雄に伝えたものである。小針は、三浦らの自由党急進派と交わり、その後、医学の道を捨て自由民権運動に身を投じた。新出資料。
4.埼玉県秩父郡暴徒概略「矢尾店日記簿之写」 明治17年11月1日
株式会社矢尾百貨店所蔵
1884年10月末、埼玉県の養蚕地帯である秩父地方に起きた秩父事件は、不況の煽りをまともに受けた秩父農民約1万人の武装蜂起であった。負債農民と自由党員が困民党を結成し、高利貸や警察署を襲って郡役所に革命本部を設けたほどの大暴動だったが、憲兵隊・鎮台兵と警察によって鎮圧された。これは、事件当日の記録が残されている大宮郷の商店の営業日誌である。
5.山県有朋書状 井上馨宛 明治17年11月3日
井上馨関係文書
国立国会図書館所蔵
埼玉県は、警察の力では鎮圧できないと判断し、内務卿山県有朋に憲兵隊派遣を要請した。一地域の農民らの武装蜂起が政府を震撼させ、山県の書状からはその治安機構がめまぐるしく動く様子がうかがえる。
6.田代栄助尋問調書 【重要文化財】 明治17年11月15日
埼玉県行政文書
埼玉県所蔵
埼玉県立文書館管理
蜂起に加わった者のほとんどが全く無名の農民たちであった。これは、その首領、困民党総理田代栄助の取調べ記録である。この尋問調書には、蜂起の目的や自由党に入党した経緯等の供述が残されている。
-内閣制度創設と大日本帝国憲法の誕生-
1.『帝国憲法義解』 伊藤博文 明治22年4月22日刊
谷干城・谷家関係文書
立教大学図書館所蔵
伊藤は憲法条文の意味、趣旨、立法例を載せたこの本を谷干城に進呈した。谷はヨーロッパ留学した経験を踏まえて読後感を朱書きしており、熟読の跡がうかがわれる。
2.絵画「憲法発布式之図」 伊藤芳峡画
憲政記念館所蔵
-人物回想-
1.絵画「木戸孝允肖像」 レオポルド・ヴィターリ画
お茶の水女子大学所蔵
この肖像画は1878年(明治11)、木戸孝允が亡くなった翌年に、イタリア人画家ヴィターリが写真を元に描いたものといわれている。
2.西郷隆盛書
酒井忠久氏所蔵
財団法人致道博物館保管
庄内藩主酒井忠篤が所蔵していたものである。
3.内務卿大久保利通印 【重要文化財】
大久保家資料
国立歴史民俗博物館所蔵
1873年、内務省が創設され大久保は初代内務卿となった。その執務ぶりは厳正で、大久保の姿を見ると庁舎内は水を打ったように静まったといわれる。
4.大久保利通書(複製)
鹿児島県歴史資料センター黎明館所蔵
鹿児島市立美術館原蔵
5.大久保利通碁盤・碁石 【重要文化財】
鹿児島県歴史資料センター黎明館所蔵
囲碁は大久保の趣味の1つであり、その腕前は、薩摩藩主の父島津久光に認められる一因にもなった。
6.板垣退助書
竹村守博氏所蔵
高知県立歴史民俗資料館保管
7.河野広中陣羽織
河野広明氏所蔵
三春町歴史民俗資料館保管
8.大隈重信煙草盆
早稲田大学大学史資料センター所蔵
9.山県有朋扇面
財団法人山縣有朋記念館所蔵
10.伊藤博文書
個人所蔵
神奈川県立金沢文庫保管
陸奥宗光が所持していた岩瀬可隆の絵に、伊藤博文が書を添えたといわれる。
11.黒田清隆書
函館市中央図書館所蔵
12.福沢諭吉携帯用机・硯・筆・墨壺・スプーン
慶應義塾福澤研究センター所蔵
硯は、筆の上げ下げが少ない高さの低いものを用い、スプーンは、すって貯めておいた墨汁を硯に移すために用いた。道具の選択ひとつとっても福沢諭吉の合理的発想の一端がうかがわれる。
13.渋沢栄一書
渋沢史料館所蔵
-明治時代アルバム-
1.ガワーベル電話機
逓信総合博物館所蔵
1890年(明治23)12月、電話交換業務が東京・横浜間で開始された。当初の加入者は東京で155名、横浜で42名であった。このガワーベル機は、わが国初の実用機として1896年まで使用された。
2.義経号・開拓使号(模型)
北海道開拓記念館所蔵
1869年7月、北海道開拓のため開拓使が設置され、さまざまな事業が実施された。鉄道事業もその1つで、北海道で最初の鉄道となった幌内鉄道は1880年11月に運輸営業を開始した。「義経号」と「開拓使号」はアメリカより最初に輸入された車両の1つである。
3.福原衛生歯磨石鹸 明治21年
資生堂企業資料館所蔵
1888年、資生堂の創業者福原有信によって、わが国で最初の煉歯磨石鹸が発明された。従来流通していた粉歯磨に比べ高価であったが、衛生的で使用感も良好であったため好評を得た。
4.「東都名勝図絵 鹿鳴館」 薮崎芳次郎画 明治26年
早稲田大学図書館所蔵
ジョサイア・コンドル設計の鹿鳴館は、東京都麹町区内山下町(現千代田区内幸町)に建設された。この瀟洒な西洋館は東京の新名所となった。
5.昭憲皇太后着用の中礼服
文化学園服飾博物館所蔵
1886年、宮内大臣伊藤博文から欧化政策の一環として、洋装を奨励する通達があった。洋装の宮廷服も制度化され、中礼服(ローブ・デコルテ)は、夜会や晩餐会などで着用された。
6.錦絵「東京築地ホテル館表掛之図」 三代広重画 明治2年
早稲田大学図書館所蔵
築地ホテルは1868年8月に築地居留地において創業した日本人による最初の本格的ホテルで、外国人の間では江戸ホテルとよばれた。和洋折衷様式を取り入れた建築は東京の新名所として人気を得たが、1872年2月に起きた銀座の大火により焼失した。