徳富蘇峰記念館所蔵
総選挙後、九州同志会を中心として旧自由党系3派と立憲改進党を合同しようとする動きが活発となった。改進党の実力者であった矢野文雄は政界引退を表明していたが、この運動を裏面から支えた。これは、矢野が『国民新聞』主筆徳富蘇峰(猪一郎)に「党名ヲ改ムルコト」、「改進ノ二字ヲ加ルコト」を条件に改進党が合同に加わることを報じたものである。しかし、この主張はいれられず改進党を除いた各派は立憲自由党を結成した。憲政記念館所蔵
体制を立て直した自由党と立憲改進党との民党連合によって第2回議会においても予算案が大幅に削減される事態となった。さらに海相樺山資紀によるいわゆる蛮勇演説は民党を激昂させ、1891年(明治24)12月25日、ついに議会は解散となった。これは、解散時に出された号外記事である。衆議院議事部所蔵
第2回総選挙の結果は、民党が政府系の中央交渉部等の議席を上回った。選挙干渉は、閣内にも大きな波紋を呼び、内相品川が辞任するに至った。選挙後の第3回議会では、両院とも松方内閣の責任を追及する声が挙がり、衆議院では、自由党河野広中提出の「選挙干渉ニ関スル上奏案」は僅差で否決されたが、無所属中村弥六提出の「選挙干渉ニ関スル決議案」が可決され、内閣に打撃を与えた。参議院所蔵
第4回議会に臨んだ第2次伊藤内閣は、軍艦製造費等予算をめぐって議会と対立し、内閣弾劾上奏案が大差で可決された。伊藤は参内し、政府と議会に和協の議事を開かせるか解散を命じるかの聖断を仰いだ。1893年(明治26)年2月10日、政府・議会の和衷協同を希望し、軍備拡充のため内廷費30万円を下賜し、文武官吏の俸給の1割を納付させるとの「和協の詔勅」が発せられた。これにより局面は打開され、製艦予算も可決された。石川県立歴史博物館所蔵
記名投票であり、投票用紙に氏名、住所を記入し、捺印しなければならなかった。1人区は単記であるが、2人区は連記であった。憲政記念館所蔵
憲政記念館所蔵
大隈文書
早稲田大学図書館所蔵
竜野周一郎関係文書
国立国会図書館所蔵
財団法人山縣有朋記念館所蔵
財政問題は落着したかに見えたが、次に渡辺は明治35年度以降の公債支弁事業中止を主張し始めた。渡辺の強硬な態度に窮した伊藤は山県に、一旦辞職して背水の陣(元老総出の内閣)を張るしかないと訴えた。この後、閣僚間の対立は前回より激しく、政友会員からも渡辺排斥の声が高まった。伊藤は首相としても総裁としてもこれを収めることができず、単独で辞表を提出した。防衛省防衛研究所所蔵
各新聞社は従軍記者を戦地に送り込み戦況を詳しく報道した。当時、日本新聞社の記者であった正岡子規(常規)は結核を患っていたが、従軍記者として渡清した。これは、子規が大本営に提出した従軍願に添付された書類一式である。個人所蔵
戦時の最高統帥機関である大本営は東京から広島に移った。戦争終結まで広島に大元帥である明治天皇が滞在していたため、第7回議会は広島で開催した。東京以外で議会が開かれた唯一の例である。これは、大本営の正門であった広島城の城門に掛けられていた門標である。乃木神社所蔵
乃木は、旅順開城後の水師営でロシア旅順要塞司令官ステッセルと会見した。この石には、乃木の筆で「旅順爾霊山」「旅順水師営会見」と記されている。財団法人三笠保存会所蔵
1905年(明治38)5月27日、東郷の指令のもと連合艦隊はウラジオストクヘ向かうロシアのバルチック艦隊を対馬沖で迎え撃ち日本海海戦が始まった。この時、「皇国ノ興廃此ノ一戦ニアリ、各員一層奮励努力セヨ」の信号文を伝達するZ旗が旗艦三笠のマストに翻った。防衛省防衛研究所所蔵
1905年(明治38)5月27日朝、哨戒艦信濃丸は、対馬沖にロシアのバルチック艦隊をついに発見し、「敵艦隊見ユ」の第一報を発信した。この電報に秋山は、「本日天気晴朗ナレ共波高シ」の一文を加え大本営へ打電した。秋山哲兒氏所蔵
日露戦争で最大の激戦となった奉天会戦においても秋山支隊は最前線で戦った。その際に流れ弾で負傷したことを「戦争之良記念ヲ残セリ」と表したり、ユーモアと愛情溢れる手紙を戦地から子どもたちに書き送った。井上馨関係文書
国立国会図書館所蔵
小川平吉関係文書
国立国会図書館所蔵
財団法人大慈会所蔵
1906年(明治39)2月、片山潜・堺利彦・西川光二郎らによって合法的に結成された日本社会党は、普選運動や足尾銅山争議などを支援した。翌年2月の第2回大会において、幸徳秋水らの直接行動派と田添鉄二らの議会政策派が激しく対立した。西園寺内閣は、大会後の2月22日、社会党の急進的傾向を理由に解散命令を出した。これは、結社禁止を決定した際の閣議書である。桂太郎関係文書
国立国会図書館所蔵
桂太郎関係文書
国立国会図書館所蔵
財団法人大慈会所蔵
後継内閣の人選に窮した元老山県有朋は、再度西園寺公望に組閣を促した。しかし、陸軍側が増師を取り下げないため、西園寺は再考の余地はないと断り、「事こゝにいたりてハ全然手切れニ相成候」と立憲政友会幹部の原敬に書き送った。鳴門市ドイツ館所蔵
日本軍は青島を攻略し、約4700名のドイツ軍捕虜を収容した。このうち徳島県の板東俘虜収容所では、所長松江豊寿による人道的な運営のもと、捕虜は新聞の発行、手工業品の製作、オーケストラの演奏などを手がけ、地元民との幅広い交流が行われた。吉野恒子氏所蔵
東京帝国大学教授吉野作造は、『中央公論』に「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」を発表し、民衆の意向による民衆の利福のための政治、いわゆる民本主義を提唱して論壇での地位を確立した。1915年(大正4)の日記にはようやく筆記がまとまり、編集者滝田樗陰が「中央公論始って以来の長論文なり」と喜んだ様子が記されている。財団法人大慈会寄贈
原敬記念館所蔵
財団法人山縣有朋記念館所蔵
財団法人山縣有朋記念館所蔵
天皇家より下賜された貴重な美術工芸品である。早稲田大学會津八一記念博物館所蔵
早稲田大学大学史資料センター所蔵
緋のガウンは、遭難によって右脚を失った当時の大隈重信の体の負担にならないよう軽い紙で作られた特別なものである。拓殖大学所蔵
桂繁太郎氏所蔵
拓殖大学保管
桂繁太郎氏所蔵
拓殖大学保管
憲政記念館所蔵
財団法人大慈会所蔵
懐中時計の一つは、陸奥宗光が原に贈ったもので、裏蓋には「陸奥宗光伯記念敬」と刻まれている。個人所蔵
神奈川県立金沢文庫保管
国立国会図書館所蔵
陸奥が、病気療養のためハワイに赴くに当たり認めた遺書である。家訓を守るよう求めた後、遺産分与について書いている。陸奥が署名捺印した後、妻亮子・長男広吉・次男潤吉の家族と、古河市兵衛、岡崎邦輔、原らの親戚・友人が連署している。憲政記念館所蔵
星さち子氏所蔵
第3回議会において星亨は、議長に当選、第2代衆議院議長に就任した。台東区立朝倉彫塑館所蔵
この像は、日露講和会議においてロシア全権ウィッテと対峙した際の小村寿太郎を象ったもので、まさに立ち上がり、発言しようとする姿勢をあらわしている。乃木神社所蔵
徳富蘇峰記念館所蔵
徳富蘇峰記念館所蔵
第30回議会は、第3次桂内閣にとって試練の議会となった。いわゆる憲政擁護派は、内閣弾劾決議案を提出した。桂は議会解散も辞せずと、解散奏請の理由書を懐に議会に向かった。これは徳富蘇峰が認めたその理由書である。東京農工大学科学博物館所蔵
蚕糸業はわが国の基幹産業の1つとして発展し、長く輸出産業の花形であった。明治時代半ばになると手工業的な座繰製糸に代わり、器械製糸が普及するようになった。これにより生糸の大量生産が可能となり、1909年(明治42)には、清国を抜いて世界最大の生糸輸出国となった。商標は生糸を輸出する際に用いられ、ローマ字表記が多かった。株式会社ノリタケカンパニーリミテド所蔵
貿易を手がけていた森村市左衛門は、1884年(明治17)頃から、日本からの輸出品を取り扱うために既に店舗を構えていたニューヨークのモリムラブラザーズを軸に、インポートオーダー制(注文生産)を導入した陶磁器販売を行い、安定した受注を得た。取り扱う輸出品目が次第に陶磁器中心となっていく中、1904年(明治37)、森村らを中心として日本陶器合名会社が創立され、本格的な西欧式製陶工場における製造が始まった。日本郵船歴史博物館所蔵
当時、盛んとなっていたわが国の紡績業の更なる発展のため、綿花の輸入先であったインドとの間の航路開設が切望されていた。1893年(明治26)、神戸・ボンベイ(現在のムンバイ)間が開設された。日清戦争を経て、1896年(明治29)には欧州、北米、豪州航路を相次いで開設し、1915年(大正4)には世界一周航路を実現した。このガイドブックは乗船者及び船員用に準備された冊子で、時刻表や寄港地の概要、また日本の観光地についても紹介されている。横浜みなと博物館所蔵
大阪商船は、1884年(明治17)に設立され、国内営業を基盤として発展した。日清戦後、台湾への航路権を得て社業を拡大し、日露戦後は日本の大陸進出に伴い、大連や朝鮮等への航路を開設した。第22代横綱太刀山を起用したこのポスターは英語版も作成されたが、デザインに領事館から苦情が寄せられたことで、かえって話題をよんだ。早稲田大学図書館所蔵
『みだれ髪』は、与謝野鉄幹によって1900年(明治33)に創刊された雑誌『明星』において鳳(与謝野)晶子が発表した作品を編集したもので、女性の恋愛感情を率直に謳いあげた斬新な作風は、賛否両論の大きな反響をもって迎えられた。表紙装丁は、東京美術学校(現在の東京藝術大学)で教鞭を執り、黒田清輝らとともに西洋画の発展に貢献した洋画家藤島武二の手になるものである。早稲田大学図書館所蔵
1890年(明治23)11月、イギリス人スペンサーが上野公園の博物館広場において風船乗りを披露した。これが評判をよび、翌年には歌舞伎にも取り入れられた。