憲政記念館所蔵
政友会は衆議院本会議冒頭、施政方針演説の前に首相臨時代理問題に関する決議案を審議するよう求める緊急動議を提出した。動議の趣旨説明に立った鳩山一郎は、民政党員でもなく衆議院議員でもない幣原が首相代理となるのは政党内閣として国民に対し無責任であると批判した。動議は与党民政党の絶対多数で否決されたが、その後もこの問題が追及された。憲政記念館所蔵
予算委員会ではロンドン海軍軍縮条約批准の条件とされた海軍補充計画等について議論された。質疑中幣原が、条約は批准されたのだから国防上問題なしと答弁し、政友会から天皇に責任を押し付けるものであるとの批判を受け、委員会は大混乱に陥った。これは守衛長が騒ぎの顛末を記録したものである。憲政記念館所蔵
二・二六事件当日、陸相川島義之の要請に基づき、宮中で軍事参議官会議が開催された。天皇は既に鎮圧の意向だったが、相撃ちを避けたい陸軍上層部は説得策をとった。反乱部隊が警備実施部隊に編入されたこともあいまって、青年将校は決起が認められたものと認識した。憲政記念館所蔵
27日には東京市に戒厳令の一部を適用する緊急勅令が公布され、翌28日、反乱部隊に対する原隊復帰の奉勅命令が下された。戒厳司令部はビラ等により復帰を呼びかけ、事件は4日目にようやく収束した。憲政記念館所蔵
広田弘毅内閣総辞職に伴い、1937年1月24日に陸軍大将宇垣一成へ組閣の大命が下った。上京の途次、憲兵司令官中島今朝吾から、陸軍の不穏な情勢が伝えられている。宇垣の起用は軍部への抑止であり、これに陸軍中堅層が強く反発していた。憲政記念館所蔵
1936年11月5日、天皇が議事堂を内覧した。この図は屋上展望所で説明に使われたものである。憲政記念館所蔵
議事堂竣功を祝って、天皇から貴族院・衆議院にそれぞれ下賜されたものある。憲政記念館所蔵
広島、長崎への相次ぐ原子爆弾投下、ソ連参戦などを受けて1945年8月9日、御前会議が開かれたが、ポツダム宣言受諾に当たり付する条件をめぐって議論は二分された。会議は翌日未明に及び、天皇は国体護持のみを条件として宣言を受諾するとした外相案を支持すると述べた。詔書草案の作成を依頼された川田瑞穂は、会議における天皇の発言を引用して案文を練り上げた。憲政記念館所蔵
1945年10月10日、政治犯として長く獄中にあった徳田球一、志賀義雄らが釈放された。出所後、徳田らは活発に言論活動を開始させ、党機関紙『赤旗』を再刊し、刑務所内でまとめていた「人民に訴ふ」を発表するなどした。12月、第四回党大会が開かれ、日本共産党は正式に再建された。法政大学大原社会問題研究所所蔵
1928年2月20日、初の男子普通選挙となる第16回衆議院議員総選挙が行われた。これは、投票を呼びかける内務省のポスターである。憲政記念館所蔵
1929年7月、田中内閣総辞職後、民政党の浜口雄幸が内閣を組織した。首相浜口は、井上準之助を蔵相に起用し、緊縮財政を断行した。また、幣原喜重郎を外相として協調外交を展開した。1930年11月、東京駅にて右翼青年に狙撃されて重傷を負い、翌年4月、総辞職した。憲政記念館所蔵
1931年12月、政友会総裁犬養毅が内閣を組織した。首相犬養は、高橋を蔵相に起用し、直ちに金輸出再禁止を実施した。また、積極財政を展開し、経済回復に努めた。犬養は、満州事変を推進する軍部への対応に苦慮しつつ、日中関係の打開をめざしたが、軍部勢力と結んだ一部閣僚らに阻まれた。1932年5月15日、海軍青年将校らに襲撃され、凶弾に斃れた。憲政記念館所蔵
宇垣内閣が流れた後、陸軍大将林銑十郎が内閣を組織した。尾崎行雄は一九三七年二月一七日、決死の覚悟で登壇し、国防費の増大や軍部の政治関与について追及した。林内閣は、政党と対立し議会を解散するも短命に終わった。憲政記念館所蔵
政治家斎藤の行動記録である。晩年、万年筆が握れなくなるまで、日々の出来事を緻密にノートへ綴った。巻末は出納帳に使っている。憲政記念館所蔵
憲政記念館所蔵
いわゆる反軍演説の後、斎藤の議員除名をめぐっては各政党内で異論が続出していた。除名決定の衆議院本会議においても大量の棄権者を出した。当時の新聞記者は、秘密会が解かれた後も、場内には何ともいえぬ粛殺の気が残っていたと報じている。憲政記念館所蔵
斎藤は、他日国民は衆議院を除名する時が必ず来るに相違ないと一詩作った。「吾が言は即ち是れ万人の声」と言い切る斎藤には、誇張ではない確かな手ごたえがあった。憲政記念館所蔵
演説から約一ヶ月、斎藤家には辞職を勧める議員や潔く除名を勧める地元同志が訪れた。電報・書簡類も連日届けられ、斎藤は激励に意を強くした。戦争の拡大に伴い、言論統制が厳重になる中での国民の心情をうかがい知ることができる。憲政記念館所蔵
1948年2月、日本社会党・民主党・国民協同党の連立政権である片山哲内閣は総辞職するに至り、斎藤も大臣を辞職した。憲政常道論から野党第一党(自由党)の吉田茂に次期政権を譲るべきだと発言した斎藤は、民主党総裁芦田均と袂を分かつことになった。