B 帝国議会の歩み
◆桂太郎書状 山県有朋宛 明治31年6月27日
公益財団法人山縣有朋記念館所蔵 憲政記念館保管
大隈が首相に、板垣が内相に就いて発足した第1次大隈内閣は、軍部大臣を除く全ての閣僚が憲政党員からなるわが国最初の政党内閣となった。天皇の勅命により陸相桂太郎、海相西郷従道は引き続き閣内に留った。山県と気脈を通じていた桂は硬直した態度を貫き、大隈内閣を閣内から動揺させることに奔走した。
◆徳富猪一郎書状 松方正義宛 明治31年11月19日
同志社大学同志社社史資料センター所蔵
後を継いだ山県は藩閥勢力を中心とした内閣を組織したが、民党の協力なくして議会運営が困難なことは明らかであった。山県は、憲政党との提携をめざしたが条件をめぐり交渉は難航した。第2次山県内閣に蔵相として入閣していた松方と深い交流のあった徳富は、憲政党幹部の星らと面会を重ね、提携条件に妥協の余地があることを報せた。
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点景 大隈重信 進取の精神
◆遭難時の衣服・帽子・靴 明治22年
早稲田大学大学史資料センター所蔵
懇請を受け、外相に就任した大隈は、各国別に条約交渉を進めたが、その改正案をめぐり世論の猛反発を招いた。1889年10月18日、大隈は外務省前で、条約改正交渉に反対する玄洋社社員来島恒喜が投じた爆弾により重傷を負った。
◆義足
早稲田大学大学史資料センター所蔵
当時のわが国の義足製造技術は発展途上にあったため、米国製の義足が届けられ、改良が重ねられた。