@それぞれの道 1939年(昭和14)〜1945年(昭和20)
■時局ノ変遷ト政府ノ指導ニ関スル質問主意書 昭和16年2月15日
衆議院議事部所蔵
各界の期待を受け大政翼賛会が発足した。翼賛会は憲法の精神を蹂躙するものと確信していた鳩山は、尾崎行雄に協力して首相と政府に対する質問を作成した。
尾崎は、第76回議会に質問主意書を提出し、翼賛会の違憲性や外交政策など近衛内閣の基本政策について厳しく追及した。
■近衛文麿上奏覚書 昭和20年2月14日
陽明文庫所蔵
政権交代後も戦局は悪化の一途をたどった。このため天皇は、重臣から個別に時局についての意見を聴取することにした。
近衛は上奏前夜、吉田を訪ねて内容の検討を行った。「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」から始まる上奏文には、
軍部内の共産主義的な革新勢力を排除し、1日も早く戦争終結の方途を講ずるべきであるなどと記されている。
■ 鳩山一郎書状 安藤正純宛 昭和20年6月5日
安藤正純関係文書 国立国会図書館所蔵
この頃になると東京も連日のように空襲にさらされた。1945年5月25日の山の手大空襲では、音羽の鳩山邸も被害を受けた。軽井沢にいる鳩山は、「廟堂ニ立って
責任を解するものなく重臣の位ニあって其の職を知らず何時迄此の有様か続くのでせうか」と書状に憤りを認めている。
■吉田茂書状 鳩山一郎宛 昭和20年6月28日
鳩山由紀夫氏所蔵 鳩山会館保管
投獄されていた吉田は、空襲のため何度か刑務所等を移動した後、不起訴となって釈放された。出獄した吉田は、鳩山にあて「小生も憲法々律の保証保護なき戦一
面を体験致我国前途甚ダ遼遠なるを思老兄常々小生の楽観論を笑ハれ候所以を体得致候」などと書き送った。
A敗戦から立ち上がって 1945年(昭和20)〜1952年(昭和27)
■近衛文麿遺書 昭和20年12月16日
陽明文庫所蔵
戦争犯罪容疑者として東条英機らが逮捕されるなど、戦争責任問題の追及が始まり、近衛に対する世論も厳しさを増した。11月22日、近衛は憲法改正要綱を単独
上奏し、同日爵位返上の手続きをとった。翌月になると近衛をはじめ、木戸らにも逮捕令が出された。その出頭前夜、近衛は「僕の志は知る人ぞ知る」と遺して自らその命を絶った。
■吉田茂書状 池田勇人宛 昭和25年4月19日
池田紀子氏所蔵
吉田は講和の方針を固め、その早期実現に向けてアメリカ政府の動向を見極め、自らの意向を伝えるため、池田をワシントンに派遣することを決した。渡米につい
ては、財政事情視察のためとされ、その真の目的は極秘事項された。徹底した箝口令が敷かれ、吉田は池田に対しても、「パブリシテーは特ニ御用心肝要」と諭した。
■ダレス特使との会談内容 昭和26年2月6日
鳩山由紀夫氏所蔵 鳩山会館保管
1951年1月、ダレスは講和問題に当たるアメリカ大統領特使として再び来日した。ダレスは吉田との会談を行う一方、鳩山や各界代表者らとも会って精力的に意見聴
取を行った。鳩山との会談では朝鮮動乱、再軍備や講和問題などについて取り上げられた。警察予備隊についての質問に鳩山は、自衛体制としても充分でないとしてその欠点を述べた。
■公職追放指定理由取消書 昭和26年8月6日
鳩山由紀夫氏所蔵 鳩山会館保管
療養生活を送っていた鳩山に、ついに公職追放解除の報せがもたらされた。万歳を唱え歓喜に沸く友人や選挙区の人々の声が病床まで届いたという。回復途上にあ
った鳩山のもとには、三木や河野らが幾度も訪れて叱咤激励し奮起を促した。懸命のリハビリに取り組んだ鳩山は再起し政界に復帰した。
Bもはや戦後ではない 1952年(昭和27)〜1960年(昭和35)
■吉田内閣不信任決議案 昭和29年12月6日
衆議院議事部所蔵
12月6日、日本民主党は両派社会党とともに吉田内閣不信任決議案を提出した。決議案は翌日の本会議で可決されかねない情勢となり、吉田は対応を協議するため
閣僚と党幹部を呼び寄せた。緒方は党内の大勢や憲政の常道に反する旨を説いて総辞職を進言した。しかし吉田は、自ら後継指名した緒方を罷免してまでも解散に踏
み切ろうとし、池田や周囲に説得されてようやく総辞職の途を選んだ。
■重光葵日記 昭和29年12月7日
重光家所蔵 憲政記念館保管
■鳩山首相談話 昭和31年10月2日
鳩山由紀夫氏所蔵 鳩山会館保管
河野は鳩山に直接交渉を促し、1956年10月2日、鳩山訪ソが閣議決定された。党内批判もある中で鳩山は「政治の要諦は、あくまでも国民の生命と福祉とを守り
抜くことにある」「戦後十幾年かを経て、今なお異境に抑留されている数多くの人達とその家族の心情を察する時断腸の思い」であると述べ、国民の力強い支援を求め
た。19日、モスクワにおいて日ソ共同宣言が調印された。
2.宰相の風貌
■創作こけし
大磯町郷土資料館所蔵
■香炉
城西館所蔵
城西館で吉田が宿泊する部屋は鳳の間と決まっていた。この香炉は鳳の間に置かれていたもので、当時城西館では各部屋で香を焚き客人をもてなしていた。
■吉田茂書「五賢堂」
大磯町郷土資料館所蔵
吉田は大磯の邸内に三条実美・岩倉具視・木戸孝允・大久保・伊藤博文を祀り五賢堂とした。この書は吉田が揮毫したものである。現在は西園寺公望・吉田も祀られ七賢堂となっている。
■メルセデス・ベンツ SEロングセダン 1963年式
前山健一氏所蔵
これは、吉田茂の愛車である。
※第2会場で展示
■人形
鳩山由紀夫氏所蔵 鳩山会館保管
■眼鏡
■『TIME』 1955年3月14日刊
鳩山由紀夫氏所蔵 鳩山会館保管
首相就任後、雑誌『TIME』の表紙を飾った。眼鏡は、この時着用していたものである。
■大礼服
鳩山由紀夫氏所蔵 鳩山会館保管
これは、鳩山一郎が宮中参内の折に着用していたものである。
■鳩山一郎書「剛柔自在」
鳩山由紀夫氏所蔵 鳩山会館保管
文相の頃に書かれたといわれている。
3.それぞれの8月15日
■K型円盤録音機
NHK放送博物館所蔵
玉音盤を録音する際に使用されたものと同型のものである。
■一如庵随想録 宇垣一成 昭和20年8月15日
憲政記念館所蔵
戦況はますます悪化し、敗北必至と捉えた陸軍大将宇垣一成は、新日本の建設に向けた意見を日記に記すようになった。玉音放送で敗戦を知った宇垣は、「只々恐懼、
悲壮、痛恨!!以外に吾胸中を形容すへき言辞なし」と感想を述べている。
■斎藤隆夫日記 昭和20年8月15日
憲政記念館所蔵
空襲で自宅が全焼した衆議院議員斎藤隆夫は、郷里の兵庫県出石町に疎開し、終戦を迎えた。当日、玉音放送があった旨を聞いた斎藤は、戦争終結を予測し、上京
しようとその詳細を聞きに警察署を訪れたが分からず、翌日の新聞によって降伏の経過を詳知することとなった。
■徳富猪一郎(蘇峰)書状 奥村喜和男宛 昭和20年8月23日
憲政記念館所蔵
大日本言論報告会会長等を務めていた徳富猪一郎は、元情報局次長奥村喜和男に8月15日をもって60年にわたる文筆業の看板を下ろすことを告げ、今日生きていることは死より苦しいと終戦の感想を送った。
4.激動昭和の群像−吉田茂・鳩山一郎に連なる人々−
■林譲治書「浴衣とりに行きし・・・」
憲政記念館所蔵
俳人としても知られた。画は中村静思によるものである。
■近衛文麿書「黙」
憲政記念館所蔵
近衛が自ら命を絶った前夜に書いたものと伝えられる。
■岸信介書「為萬世開太平」
憲政記念館所蔵
北宋の儒家張横渠の言葉で終戦の詔書にも採用された。
■佐藤栄作書「上符天心下合人意」
憲政記念館所蔵
上は天心と一致させ、下は人意に合わせるといった意味である。