重光葵(しげみつまもる)とその時代
−昭和の動乱から国連加盟へ−特別展
日本は東西の架け橋となる。
重光葵は外交官として活躍し、1945年(昭和20年)8月、東久邇宮内閣で三度目の外相となり、首席全権として降伏文書に調印した。戦後はA級戦犯として服役後、鳩山内閣で副総理兼外相となり、1957年(昭和32年)1月26日に亡くなった。本年は没後50年にあたる。重光葵の御遺族から憲政記念館へ寄託された関係資料を中心にして、重光葵の足跡を回顧し、昭和の動乱から国連へ加盟するのまでを紹介する。
開催日時:平成19年11月8日(木)から11月30日(金)まで
開館時間:9:30〜17:00(入館は16:30まで)
場所:憲政記念館(東京都千代田区永田町1−1−1)
(東京メトロ:丸ノ内線・千代田線「国会議事堂前駅」2番出口
半蔵門線・有楽町線・南北線「永田町駅」2番出口)
入館料:無料
主な展示品
-昭和の動乱から国連加盟へ-
1.絵画「重光葵肖像」 柴田完画
重光篤氏所蔵
2.降伏文書
外務省外交史料館所蔵
昭和20年9月2日ミズーリ号上で重光は首席全権として調印した。
3.重光葵書 昭和20年9月2日
重光葵記念館所蔵
「願わくは御国の末の栄え行き…」9月2日、重光が調印式に臨む心境を詠んだものである。
4.重光葵歌稿
重光篤氏所蔵
憲政記念館保管
鳩山内閣が総辞職し、閣僚を辞した重光は1957年(昭和32年)1月初め、故郷に帰り父母の墓参を行った。これは、帰郷の感慨を詠んだものである。重光は26日夜半、狭心症のため湯河原の別荘で急逝した。
5.恩賜の義足
重光葵記念館所蔵
皇太后(大正天皇の貞明皇后)より賜ったものである。
-「重光葵の書斎」「素顔の重光葵」-
1.重光家三兄弟の集合写真
重光家無迹庵所蔵
兄簇(あつむ)、葵、弟蔵(おさむ)の兄弟三人で撮った唯一の写真である。
2.印顆及び印影
山渓偉人館所蔵
葵(あおい)は中国では向日葵(ひまわり)を意味するので、向陽と号した。
3.インク壺・ペーパーナイフ
山渓偉人館所蔵
4.硯・墨
重光葵記念館所蔵
5.愛用のランプ
重光葵記念館所蔵
6.水墨画
重光葵記念館所蔵
中華民国(台湾)で書記官・公使などを務め、晩年の重光と親交のあった清水薫三(東翠)の水墨画に重光が賛を書いた品である。
-戦後の政党復活から二大政党まで-
1.片山哲手帳と内閣総理大臣の名刺 昭和22年5月23日
湘南大庭市民図書館所蔵
4月25日の衆議院議員総選挙で日本社会党は第1党となり、新憲法下の第1回国会において、同党委員長の片山は、衆議院で420名、参議院205名の賛成を得て首班に指名された。当日の本会議に臨んだ片山は、指名された喜びをメモにした。
2.吉田茂愛用の葉巻切り
憲政記念館所蔵
3.浅沼稲次郎演説原稿 昭和35年
憲政記念館所蔵
-外交官として-
1.パリ講和会議の通行証 1919年4月8日
重光篤氏所蔵
憲政記念館保管
2.「爆弾前後」重光蔵記 昭和7年5月4日
重光篤氏所蔵
憲政記念館保管
1931年(昭和6年)9月の満州事変後、中国の排日運動が激化した。翌年上海では、日本海軍陸戦隊と中国第一九路軍が衝突、上海事変が勃発した。3月3日、白川義則上海派遣軍司令官は重光の説得により停戦命令を発し、国際問題化は避けられた。停戦協定交渉中に開催された天長節祝賀式で、重光は朝鮮人尹奉吉が投じた爆弾を受けて瀕死の重傷を負った。この資料は5月4日、弟の蔵が枕頭で口述筆記したもので、翌日、重光は病床で停戦協定に調印した。
3.大東亜会議列国代表公式日程概要 昭和18年11月
重光篤氏所蔵
憲政記念館保管
重光外相は、英米の大西洋憲章を意識して、大東亜共栄圏内の国家による共同機構を創設し、平和回復後も視野に入れた大東亜憲章を構想した。1943年(昭和18年)11月5、6日に大東亜会議が東京で開催され、日本、中国、タイ、満州、フィリピン、ビルマ、インド仮政府の代表が出席し、戦争完遂とアジア建設の方針について協議し、大東亜共同宣言を取りまとめた。
4.重光葵手記「戦争を後にして 鐘漏閣之雨」 昭和20年
重光篤氏所蔵
憲政記念館保管
重光は東条内閣の時代から、木戸内大臣と連携を深め、終戦の場合、各々政府と宮中の収束を図る密約をしていた。8月9日昼、軍部提案の条件付降伏を憂慮した近衛との面談後、木戸へポツダム宣言受諾の勅裁を仰ぐように進言した。
当初難色を示した木戸は、「政府内閣の出来ない処を陛下に御願して日本の運命を切り開き度い」と重光から説得され、聖断を仰ぐ内奏をした。
-降伏文書調印から東京裁判へ-
1.重光葵書状 寺崎英成宛 昭和20年9月1日
外務省外交史料館所蔵
東久邇宮稔彦内閣の外相に就任した重光葵は、降伏文書調印の全権委員を命ぜられた。重光は調印式の前日、部下であった元外交官の寺崎英成に、「今回ハ人の嫌ふ事を一身に引受け将来の建国上少しでも御役に立つことを念願仕居候」と調印に臨む決意とともに、「日本も日本人も生れ変るを要し申候」と心境を書き送った。
2.重光葵手記 「東久邇宮内閣」 昭和20年
憲政記念館所蔵
1945年(昭和20年)9月3日、アメリカ海軍の旗艦ミズーリ号上で調印式が行われた。艦上には新聞記者や兵士たちが鈴なりになって一行を迎えた。重光はその時の様子を図入りで詳しく書き残した。
3.重光葵書状 木戸幸一宛 昭和20年9月17日
国立民俗博物館所蔵
当時、政府は天皇が戦争の最高責任者とされることを回避しようと苦慮していた。このような時、重光のもとに終戦連絡事務局の鈴木九万公使が、先に捕らえられた東条と嶋田が戦争責任を自らが引き受ける決意でいるということを伝えてきた。重光は早速内大臣木戸幸一に、天皇の「宸襟を安ぜ給ふ一助」となるようにと鈴木の書状を転送した。
4.巣鴨日記 重光葵 昭和21年8月16日
重光篤氏所蔵
憲政記念館保管
8月16日にはソ連に抑留されていた元満州国皇帝溥儀が証言台に立った。キーナン首席検事の尋問に答える様子を、重光は溥儀の似顔絵とともに「日本側ノ脅迫ヲ語ル處幾多白々しき点アル趣ナリ」と日記に記し、溥儀は現在ソ連の俘虜でありまた中国からの刑を免れるため全ての罪をA級戦犯に帰すれば最も安全であると考えているようだと不快感を書き残した。
5.「昭和の動乱」草稿 重光葵
重光篤氏所蔵
憲政記念館保管
重光は巣鴨拘置所に収監されている間、満州事変から終戦に至るまでの15年間のわが国の動きを、自らの体験をもとに「昭和の動乱」と題して執筆した。これは獄中で便箋に書き綴った草稿である。出所後、この草稿をもとに『昭和の動乱』は出版され、好評を博した。
-改進党総裁から国連加盟へ-
1.松村謙三日記 昭和26年1月31日
松村家所蔵
戦後、東久邇宮稔彦内閣の厚相兼文相及び幣原喜重郎内閣の農相を歴任した松村謙三は、公職追放解除後、政界に復帰し改進党の結成に参画した。日記には「余は兼々政党再編成の際、重光葵氏を総裁に推すも一方策と考え居れる」と、改進党結成に向けた松村の構想が記されている。
2.重光葵書状 芦田均宛(控) 昭和27年5月7日
重光篤氏所蔵
憲政記念館保管
重光葵は追放解除後、岸信介らの日本再建連盟に加わっていたが、芦田均の尽力によって改進党総裁就任を受諾した。この2つの書状は、総裁就任説得と応諾に至る芦田と重光の往復書簡である。重光は6月13日、改進党総裁に正式就任した。
3.重光葵書状 吉田茂宛(控) 昭和27年5月9日
重光篤氏所蔵
憲政記念館保管
改進党総裁就任を受諾した重光は自由党総裁吉田茂に書状を送り、「赤化工作の激しい現状下、2つの政党により民主主義政治運用を円滑ならしめ、新日本建設に残躯を用立てたい」と決意を述べた。
4.重光葵日記 昭和29年11月24日
重光篤氏所蔵
憲政記念館保管
反吉田新党結成の動きは着々と進み、11月24日、自由党鳩山派・岸派、改進党、三木らの日本自由党が合同し、日本民主党が結成された。総裁には鳩山が、そして重光は副総裁に選出された。