衆議院

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第6号 平成22年3月19日(金曜日)

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平成二十二年三月十九日(金曜日)

    午前九時一分開議

 出席委員

   委員長 鈴木 宗男君

   理事 木内 孝胤君 理事 小宮山泰子君

   理事 空本 誠喜君 理事 中野  譲君

   理事 和田 隆志君 理事 平沢 勝栄君

   理事 赤松 正雄君

      大山 昌宏君    吉良 州司君

      熊谷 貞俊君    齋藤  勁君

      阪口 直人君    末松 義規君

      中津川博郷君    萩原  仁君

      浜本  宏君    早川久美子君

      平岡 秀夫君    松宮  勲君

      森岡洋一郎君    横粂 勝仁君

      安倍 晋三君    岩屋  毅君

      河井 克行君    河野 太郎君

      高村 正彦君    笠井  亮君

      服部 良一君

    …………………………………

   外務大臣政務官      吉良 州司君

   参考人

   (元衆議院議員)     森田  一君

   参考人

   (元毎日新聞記者)    西山 太吉君

   参考人

   (元外務事務次官)    斉藤 邦彦君

   参考人

   (元外務省条約局長)   東郷 和彦君

   外務委員会専門員     清野 裕三君

    ―――――――――――――

委員の異動

三月十九日

 辞任         補欠選任

  武正 公一君     森岡洋一郎君

  萩原  仁君     熊谷 貞俊君

同日

 辞任         補欠選任

  熊谷 貞俊君     萩原  仁君

  森岡洋一郎君     武正 公一君

    ―――――――――――――

三月十九日

 刑事に関する共助に関する日本国とロシア連邦との間の条約の締結について承認を求めるの件(条約第一号)

 刑事に関する共助に関する日本国と欧州連合との間の協定の締結について承認を求めるの件(条約第二号)

 刑を言い渡された者の移送及び刑の執行における協力に関する日本国とタイ王国との間の条約の締結について承認を求めるの件(条約第三号)

は本委員会に付託された。

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 国際情勢に関する件(いわゆる「密約」問題)


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     ――――◇―――――

鈴木委員長 これより会議を開きます。

 国際情勢に関する件、特にいわゆる「密約」問題について調査を進めます。

 本日は、本件調査のため、参考人として、元衆議院議員森田一君、元毎日新聞記者西山太吉君、元外務事務次官斉藤邦彦君、元外務省条約局長東郷和彦君、以上四名の方々に御出席をいただき、御意見を賜ることにしております。

 この際、参考人各位に一言ごあいさつ申し上げます。

 本日は、御多用中のところ本委員会に御出席いただきまして、まことにありがとうございます。参考人各位におかれましては、それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただきたいと思います。

 次に、議事の順序について申し上げます。

 まず、森田参考人、西山参考人、斉藤参考人、東郷参考人の順序で、お一人十分以内で御意見をお述べいただき、その後、委員長及び委員からの質疑にお答えいただきたいと存じます。

 なお、念のため申し上げますが、御発言の際は委員長の許可を得ることになっております。また、参考人は委員に対し質疑をすることができないこととなっておりますので、あらかじめ御了承お願いいたします。

 それでは、最初に森田参考人にお願いいたします。

森田参考人 ただいま御指名をいただきました森田一でございます。

 私が関与をいたしましたのは、大平外務大臣、大蔵大臣、総理大臣の秘書官としての一九六〇年一月の安保改定時の核持ち込みに関する密約と、大蔵事務官としての一九七二年の沖縄返還時の原状回復補償費の肩がわりに関する密約でございます。

 まず、前者に関しましては、私は、外務大臣の秘書官、大蔵大臣の秘書官、総理大臣の首席秘書官ということでございましたが、次のとおりでございます。

 第一点として、池田内閣の大平外務大臣は、ライシャワー大使とは肝胆相照らす仲でございましたので、時折、外務省の附属施設で、かつ英国大使館の近くにあります霞友会館で会っておりました。

 第二点として、一九六三年の四月の三日に、ライシャワー大使の秘書の方から、今度は霞友会館ではなくて公邸でお会いしたいという申し入れがありまして、これは何かあるなということを感じたわけでございます。

 第三点として、大平大臣はよく、その日の出来事について私に語って聞かせることが多かったわけでございますが、この会談の後につきましては、何も申しませんでした。

 第四点としまして、しかし、それからしばらくして、私は秘書官のときも秘書官でないときも大平正芳のゴルフのお供をしておったわけでございますが、その一日でございますが、スリーハンドレッドクラブにゴルフに行く途中で、小さな声でイントロダクションというのをつぶやいて、考え込んでおる姿を見まして、会談の中身を察した次第でございます。

 第五点として、このイントロダクションというつぶやきはその後も続いたわけでございますが、そのうちに、会談の内容を打ち明けられました。

 それで、時が移って、第六点として、田中内閣になりまして、大平は二度目の外務大臣となり、私も再度、大蔵省から出向して、外務大臣の政務の秘書官になったわけでございます。そのときに、大平大臣から、将来回顧録を書くときに参考にしたいので日記をつけるようにと言われたのでございます。

 その日記を今読み返してみますと、木村俊夫外務大臣がアフリカの出張に出発するに際して、大平大蔵大臣が外務大臣を兼任することとした、それは、核問題に一応の決着をつけるためであるとか、あるいは、十月三十一日のところには、ホテルオークラで外務省幹部と核問題について打ち合わせをしたとか、あるいは、田中総理はこの問題を処理して退陣する決意を固めているようだと書かれております。特に、最後のこの記述に関しましては、私も鮮明に覚えておるのでございますが、書かなければよかったという思いから、日記に斜線が引かれております。

 ちなみに、このとき、大平外務大臣が大蔵大臣に横滑りをする際に、その後任になったのは木村俊夫先生でございました。木村先生は、そのときはよく知らなかったのですが、後でいろいろ知るところによりますと、佐藤内閣の官房長官のときからこの問題についていろいろ考えられ、悩んでおられたようでございますが、このように、この問題に悩む二人が偶然に田中内閣で顔をそろえることになったわけでございます。そこで、田中総理に対する働きかけということになったんだろうと思います。

 第七点として、一九七八年、大平が内閣総理大臣になってから、伊藤圭一氏が国防会議の事務局長になられたときに、大平総理から言われて、何かこの問題を解決するのについていい知恵はないか聞いてくれということで、電話をいたしました。もちろん、なかなかこれといったいい知恵はなかったわけでございますが。

 第八点として、一九八〇年四月に総理の執務室で、伊東正義官房長官と加藤紘一副長官と首席秘書官をしておりました私が顔をそろえて、大平総理と話すことがあったわけでございます。それぞれ忙しいので、このように四人が顔をそろえるということは余りなかったものですから、そのときにいろいろな話をいたしました。

 そのときに問わず語りに大平総理の口をついて出たのは、例の核の問題について、国民にわかってもらえるような何かいい方法はないだろうかと言われたわけでございます。三人はそれぞれ考えて、三人ともほとんど同時に、いや、それは難しいでしょうねと答えました。というのは、四十日抗争の後でもあり、この問題に手をつければ党内が大変やかましくなるという思いがあったからでございます。大平はそれを聞いて憮然として、難しいからこそ君たちに聞いているんだということを言って、再びこの問題に言及することなく、六月十二日に他界をしたわけでございます。

 以上が、いわゆる核持ち込みの密約について私が関与した全貌でございます。

 次に、後者の、沖縄返還時の原状回復補償費の肩がわりに関する密約につきましては、私が大蔵省主計局法規課の筆頭課長補佐として関与したものでございます。私は、一九七〇年七月十日から一九七一年七月九日まで、この課長補佐をいたしておりました。そのときの模様は次のとおりでございます。

 まず第一点として、法規課というのは主計局のいわば法制局のようなところでございまして、財政支出に関係のあるいろいろな問題について各省から問題が持ち込まれておりました。この問題については、沖縄返還に関しては、外務省の条約局から持ち込まれたわけでございます。そして、条約局の中島敏次郎条約課長と栗山尚一法規課長と主計局の戸塚岩夫法規課長と私の四人で、事の性格上、外務省に出かけまして、外務省の会議室で協議をしたわけでございます。

 その中で、戸塚課長の方から、あなた方の説明を聞いていると、日本側がアメリカ側に支払う話ばかりしているけれども、アメリカ側からもらう話もあるんじゃないかという発言がございました。外務省側が、ちょっともらう話というのはという発言をいたしますと、戸塚課長は、例えば、飛行場が返還されても、農民にそのまま返すわけにはいかぬじゃないか、原状回復をしなきゃいかぬでしょう、その費用だと言いました。

 第三点として、戸塚課長は、大蔵省としては、金額の大小よりも、アメリカからもらうべきものはちゃんともらったということが大事なんだということを力説すると同時に、金額については森田を沖縄に派遣して確定させるから、アメリカ側に要求してもらいたいということを言ったわけでございます。

 第四点として、私は、その結果、沖縄に一週間出張して、戸塚課長の指示がありましたので、私が沖縄返還交渉の一環として沖縄に来たということは一切悟られることなく、琉球政府といわば雑談のような形で会談をして、四百万ドルという金額を割り出したわけでございます。

 第五点として、外務省がアメリカ側に要求したところ、日本側から支払われるお金については金額が幾らであっても何の問題もないが、アメリカ側が支払うお金については、その金額がたとえ小さくても、歳出権を議会からとるのが大変だということを外務省の方から連絡を受けました。

 第六点として、その連絡を受けたとき、これは大変厄介なことになったなと思ったわけでございますが、しばらく推移を見るほかはありませんでした。それから若干時間がたちまして、外務省の方から、上とも相談したのですが、四百万ドルについては、アメリカ側が、日本側が支払う三億二千万ドルの中から支払うということにしたいので、主計局としても了解してほしいということでございました。これは極秘にするからということでもあり、問題が難しくなっていることはよくわかっておりましたから、主計局としても特に異議を差し挟まなかった次第でございます。

 以上が、沖縄に関する私が関与したいわゆる密約の全貌でございますが、ちょっと申し上げておかなきゃならぬのは、同じ大蔵省でありながら、私たちは柏木財務官とは話し合いはなく、いわゆる有名な柏木・ジューリック会談の中身についても、外務省の方を経由して内容を聞いておったわけでございます。

 それからなお、皆様方、御関心があるかと思いますが、いわゆる無利子預金の件につきましては、これは主計局のマターではございません。国際金融局のマターでございましたので、私どもは一切聞いておりません。

 以上でございます。

鈴木委員長 ありがとうございました。

 次に、西山参考人にお願いいたします。

西山参考人 どうも、西山でございます。

 私は、当局の内部には携わっていませんので、外部からの私なりの認識、あるいはまた、私がその後にいろいろ調べましたアメリカの関連文書、相当たくさん読みましたけれども、そういうものとの対比においての、主として沖縄返還交渉を中心として、簡単な意見を述べさせていただきたいと思います。

 その前に、これは密約の調査に関連しての委員会でございますから、まず、密約というものがなぜ日米関係だけに集中して行われているのかという、これはお気づきになったでしょうかね。外務省、財務省を含めて、この四つの調査対象項目というのは、全部日米同盟に関する密約でございます。戦後のいろいろな外交史の中でも、重要な外交案件がたくさんありましたけれども、密約に関して今までのところ発覚しているのはすべて日米同盟に関するもの、ここに注目していただきたいと思います。

 なぜ日米同盟に密約が集中するのか。私の認識では、戦後の戦勝国アメリカと戦敗国日本という冷厳な上下に近い関係が冷戦構造の中に組み込まれて、そしてその後、非常に冷厳な日米同盟の関係が維持され、強化された、そしてそれが一種の日本の寄りかかる聖域のような形で認識されていたということですね。

 しかし、その一方では、これは五五年体制にかかわらず、その前も後もそうですけれども、もう一つの流れがあった。それは何かというと、やはり、反核、非核であり、憲法九条による戦争放棄に対する非常に強い感覚がありましたし、それからまた、戦後、断絶したいわゆる近隣諸国、特に中国、朝鮮を中心とした近隣諸国との関係をもう一回再構築しなくちゃいけない、何とかしてこれを調整してもう一回日本との関係を樹立しなくちゃいけない、片方ではそういう一つの潮流が根強くあったわけですね。

 したがいまして、もし、前者の日米同盟、絶対的な形の聖域の方にそのときの政策なり方針がぐっと傾斜していった場合には、必ずそこに日本国内政治独特のあつれき、摩擦というものが生じてきます。それをいわゆるカムフラージュするというか、それを調整するというような一つの機能を密約という形で持った、まず私はそのように認識しております。

 それからもう一つの要素は、これは、今、一つの大枠的な考え方ですけれども、やはり、そのときの内閣の政治思想、それから内閣の性格、それからまた、いわゆる内閣を取り囲む政治環境、そのときの国内政治事情からくる政略論というようなものも、やはり密約という問題には絡んでくる。そのいい例がまさに沖縄返還交渉でありまして、ニクソン政権と佐藤政権による沖縄返還交渉というのは一九六九年の事実上五月から始まった。今ではもう有名になっていますけれども、例のアメリカの対沖縄施政権返還交渉方針の基本方針であるメモランダム十三号、これができましたのが五月の二十八日です。それで、そのときの沖縄返還協定にまつわる大綱がすべて固まったのが、いわゆる佐藤・ニクソン共同声明、十一月二十一日です。

 ですから、このわずか五カ月ちょっとの間に、あの重大、複雑多岐な日米間の最大の懸案と言われた沖縄返還問題が全部実質的に解決した。というのは、要するに、そのときの総裁の任期が七〇年から七二年、これは四選で最後の任期だったという、もう既にその方から逆算されてきた政治日程があるわけですね。したがいまして、結局、どうしても七一年の前半には調印を終えていなくちゃいけない、そのためには六九年中に絶対に日米間の諸懸案を全部解決してしまわなくちゃいけない、そういうような逆算的な一つの政治日程がありました。

 それで、アメリカはこのときに、今言ったメモランダム十三号、これは、もし日本が七二年返還を望むのであれば、この六九年中に米軍の使用にかかわる不可欠の諸問題、これを細目に至るまで全部解決しろ、それが解決されない限りは七二年返還には応じられないという鉄の方針を打ち出してきたわけです。その最大のものが、要するに朝鮮半島、台湾及びベトナムに対する最大限の基地の自由使用であり、そして、そのもう一つの大きな柱がいわゆる財政問題、これをいうわけなんです。

 ですから、結局、そのときの国内的な政治情勢、国内的な政治環境というものがやはり密約を促進させる一つの大きな材料になる。今さっき私が申し上げましたように、大きな二つの潮流を埋めていく、これを調整していくということが密約の大きな機能ですけれども、もう一つの機能は、やはりそういう促進機能は、そういったような国内の内閣の性格及び内閣を取り囲む政治的環境というものが大きく影響しているということでございます。

 その中で、私が申し上げたいのは、結局最大のテーマは、やはり今度の基地の問題、それから核の問題及び財政問題でございますけれども、今度の調査委員会の報告書との関連で申し上げますと、まず私の調査委員会に対する簡単な一つの感想を述べさせていただきますと、一九六〇年安保に関する密約が二本、それから沖縄返還にかかわる密約が二本。前半、後半、二本ずつです。

 その中で、前半の六〇年安保における核の持ち込み問題、今、森田さんがおっしゃいましたけれども、それともう一つは朝鮮半島に対する直接戦闘作戦行動。これはいずれも、そのときの岸内閣としては、日米同盟を再編強化する、要するに、相互の義務を確定するということを打ち出しましたけれども、やはりそこに、私が今さっき申し上げました、もう一つの潮流に対する配慮、それから日本の自主性、日本の自主的ないわゆる選択権といいますか、日本の国家としての独立性、これを定義するためにいわゆる事前協議三項目を出したわけです。ところが、そのときの事前協議三項目のうちの二項目については、やはりこれは虚偽の表示であったということが判明した。それは今度の調査委員会における報告で明確になりましたけれども。

 私が問題にするのは、前半の二つよりも後半の二つについてです。

 後半の二つについては、まず第一に、沖縄に対する核の持ち込み、緊急事態における核の持ち込みについての佐藤・ニクソン秘密合意議事録、これは若泉さんが暴露しましたけれども、これを今度の調査委員会は密約ではないというように言い切っております。

 その密約ではないということを断定した二つの根拠は、一つは、これはあくまでも、日本側からいえば、全部総理大臣の私邸に隠匿されていたということもありますけれども、要するに、次の政権に引き継ぎがなかった、引き継がれていないんです。これが一つの理由ですね。

 二番目は、佐藤・ニクソン共同声明の第八項に、いわゆる事前協議あり、事前協議というものをやるぞということを核の問題に関連して言っているんだから、この秘密合意議事録の中身といわゆる共同声明の第八項とはそんなにニュアンスは違わないということで、その二つを理由に挙げております。

 しかし、私は、そういうような見方はやはり一つの誤認だと思います。むしろ少数意見じゃないか。

 二〇〇〇年に、若泉・キッシンジャーの間にできたあの例の秘密合意議事録の草案をそのままつけて、朝日新聞ですけれども、これを米国の国務省に、これと同じ文案があるかないかということを提示したわけです。そうすると、それと同じものがあるかないかということで、その文案そのものをここで開示することはできないけれども、その文案に相当するものは国務省にちゃんとあります、イエスだ、イエスと言ったわけです。

 そういうことから考えて何が言えるかというと、アメリカ側は、日米の最高のトップが実名で署名した文書はそれは絶対に揺るがすことのできない両国政府の合意事項である、秘密合意であろうと何であろうと合意事項である、そういう認識のもとに国務省にちゃんとおろしているわけです。国務省におろしているということは、国防省にもおろしているということでしょう。

 そういうようにして、日本側において、内部において引き継ぎがなかったとかという国内的な手続上の問題を仮に言ったとしても、アメリカには何らの影響もありません。アメリカは、そういう最高のトップの実名による合意を前提として対日政策を立案し、それを前提にして対日政策を進めていきます。ですからこれは、見方としては完全に、今言ったように、引き継ぎがないからこれは密約ではない、そういうのは全く、これは学者の概念論争としても間違っている。

 第二番目は、合意議事録の中身は共同声明の第八項とほとんど変わらないじゃないかという見方、これも間違っていると私は思います。

 というのは、合意議事録の中身は、辺野古、那覇、それから今言った嘉手納、この三カ所の核貯蔵施設はそのまま維持する、そして、非常事態のときにはいつでもナイキハーキュリーズ基地と一緒にそれを全部すぐ動かすことができる、そういう体制を持っている。そして、結局、緊急事態のときには、事前協議はするけれども、遅滞なくその必要を満たす。はっきり言えば、イエスの予約です。事前協議はやるけれども、事実上はすぐイエスするということを言っている。片一方の共同声明の方は、ただ単に、共同声明というものの事項に反することなくと言って、イエス・オア・ノー、そういうことを言っているわけで、これは重大な差があるというのが一つ。

 それで、私は、これは密約というものの条件を備えていると思います。

 それからもう一つ、最後の問題ですけれども、財政問題。

 これは、四百万ドルについては、広義の密約は認めるけれども、狭義の密約は認めない、こういうこともまたある、これも言っています。しかし、一九七一年の六月十七日の日に沖縄返還協定は調印されたんです。そして、吉野・スナイダーの例の密約文書、VOAの肩がわりの密約は六月の十一日です、局長室で。六月十二日の日に吉野・スナイダー、これは今言った軍用地復元補償の肩がわりの議事録、議事要旨です。これは十一、十二と連続しているんです。これが最後の懸案だったんです。

 ところが、そのときの直前の九、十の、今はもう秘密解除をされておりますけれども、八百七十七号という極秘電信文並びに五百五十九号という極秘電信文は、詳細に書いております。いわゆる、もう完全に秘密書簡は合意したと。秘密書簡の内容は合意したんだけれども、これはひょっとしたら外部に漏らすんじゃなかろうかということを愛知外務大臣の方からアメリカ側にただしております。そうすると、アメリカ側は、国会に説明するという場合もあるから、ひょっとしたらそれは発表、公表せざるを得なくなるかもわからないと言ったものですから、それは大変なことだということで、どうしても字句を修正して和らげよう、和らげようということで十日は終わっているんです。

 そして、その字句を修正した結果が、最初は日本側が四百万ドルを全部支払うということを明確に述べた秘密書簡案だったんです、ところが、それをだんだん緩めて、今言ったのが、発表するかもわからないというものですから、字句を徹底的に緩めようという形で行われた字句調整の結果があの吉野・スナイダーであって、これは吉野・スナイダーというものが愛知・マイヤーにかわってやった。愛知さんが警戒心を持ったから、それは恐らくリタイアしたんでしょうけれども、少なくとも、吉野・スナイダーが代行した。

 例えば、柏木・ジューリックがあのときに福田大蔵大臣とケネディ財務長官の代行としてすべてを調印して、そして、それによってあの沖縄返還に伴う財政問題というのはほとんど全部解決して、それに基づいて動いていったという面から見れば、吉野・スナイダーがやっても何にも差し支えない。

 私は、だから、そういう意味で、秘密書簡というものの、秘密取り決めというもののジャンルにやはり入るというように認識しております。

 最後に、財政問題というのは、四百万ドルであるとか千六百万ドルであるとか、あるいはまたアメリカに対する無利子預金であるとかといって、項目ごとに分析しても何にもならないんです。これは氷山の一角をあらゆる面からなでているだけで、財政問題の本質というのは、アメリカの最高方針というものに基づいて分析しなくちゃいけないんです。

 その最高方針は、二十七年間にわたるアメリカのいわゆる沖縄に対する投資七億ドル、これを全部回収する、第二番目は、返還に伴っては一切の支出をしない、ドルを一文も出さない、第三の方針は、要するに新たなる財政負担の枠組みというものをつくるということで、これから全部流れてきておるわけです。そして、それがつかみ金、ランプサムという方式で、全部アメリカ側の要求を底上げする形でのんでいったということでございます。

 そして、最後に私が申し上げたいのが、最後の、日本側に対する新しい枠組み。これを要求したのが六千五百万ドルの米軍施設改良工事費で、これは七二年から七七年までの五年間にわたって、協定外において盟約されながらも、国会にかかることなしに、全部アメリカ側に物品及び役務によって供与された。それが終わったのが七七年の三月です。そして、それに続いたのが七八年四月からの思いやり予算。だから、思いやり予算というのは、七八年の四月から始まったんじゃなくて、七二年の沖縄施政権返還に伴う六千五百万ドルから始まったんだ。

 これは私は、最大の秘密だと思う。密約というのはこれが最大だと思っています。ほかの密約と性質が違う。というのは、前向きの新たなる後年度負担であり、新たなる安全保障の枠組みをつくり出した、安全保障の枠組みを変えたということです。ですから、これは、最も国民が知らなくちゃいけないという意味では、最大の密約であった。この点の解明を、国会の調査権なるものを発動していただいて、今後ともひとつ検索していただきたいと思います。

 以上です。

鈴木委員長 ありがとうございました。

 次に、斉藤参考人にお願いいたします。

斉藤参考人 ただいま御指名をいただきました斉藤邦彦でございます。

 最近公表されました、いわゆる「密約」問題に関する有識者委員会報告、それから、外務省調査チームによります、いわゆる「密約」問題に関する報告書、これを読みました。

 まず最初に、多大の時間と労力を費やしてこのような報告書をまとめられた北岡先生を初めとする有識者委員会の委員の方々、それから外務省調査チームのメンバーの方々に、僣越でございますが、深い敬意を表したいと思います。

 有識者委員会の報告は、四つの項目について検討をしておられます。私は、このそれぞれの項目について、意見あるいは感想を申し上げたいと思います。

 一番目は、核搭載艦船の一時寄港の問題でございます。

 私は、この問題につきまして、何が持ち込みであるかという点につきまして、日本とアメリカの間に了解の差が存在していると思っておりました。直接のきっかけとなりましたのは、昔の国会の議事録を読んだことでございます。

 一つは、昭和四十三年、一九六八年四月十七日の衆議院外務委員会における三木外務大臣の答弁でございます。これは有識者委員会報告書の二十四ページの脚注の上の方にも引用されております。ここで三木外務大臣は、核兵器を常備している軍艦の航行は無害通航とは考えない、したがって、これを拒否する権利を留保するという趣旨の発言をしております。

 もう一つの議事録は、昭和四十三年三月十二日、ほぼ一カ月前でございますが、これは衆議院の予算委員会で、三木外務大臣の答弁で、領海をさあっと通り抜けていくものは無害通航であって、事前協議にはかからないという発言をしております。

 この一カ月の間で、これは無害通航、領海通過に関する日本政府の立場でございますが、日本政府の立場は明らかに変わったわけでございます。これをアメリカ側に相談をした形跡はございませんので、日本政府が一方的に認識、理解を変更したということでございます。

 私は、これは、日本国内の強い反核感情、それから、アメリカの核抑止力に日本の安全は最終的に依存しているという安保体制全体、それから、核の存在は肯定も否定もしないといういわゆるNCND政策、これらの要素を考慮して下された政治決断であったと理解しております。

 これに対しましてアメリカ政府側から抗議があった形跡はございません。これは、アメリカ側におきまして、日本の強い反核感情を理解し、この点を追及すれば、日本政府がその認識、理解を変えたことを追及すれば、日本政府を窮地に追い込む、日米安保体制にも非常に深刻な悪影響を与えるという判断のもとに、日本政府には何も言わないという、これまた高度の政治判断を下した結果であったと思っております。

 二番目は、朝鮮半島有事と事前協議という問題でございます。

 私は、一九五九年、六〇年当時、朝鮮の停戦からまだ七年しかたっていないわけで、朝鮮情勢に対してアメリカは非常に強い危機感を持っていたと思います。万一の場合は一瞬の遅滞もなく出動をしていく必要がある、そのためには日本の基地からの出動も行うという権利、これを確保しておく必要があるという強い希望があったと思います。事前協議制度というのは、米軍の行動に対して日本政府が一定の発言権を持つという新しい仕組みでございますが、朝鮮有事に関しては、そういうことに拘束されることなく、直ちに行動に移れる状態を確保したいというのがアメリカの立場であったと思います。日本政府は、当時の情勢にかんがみまして、このようなアメリカ政府の要求を十分に理解して、これに応じたということであろうと思います。

 なぜ不公表にしたかということについては、これは私の推測にすぎませんけれども、少なくとも、大きな理由の一つは、このような合意文書を公表すれば、北朝鮮、中国を無用に刺激することになるので、それを避けたいと判断されたのではないかと考えております。

 三番目は、沖縄返還と有事の核の再持ち込みでございます。

 私は、若泉さんの本が出ましたときこれを読みましたが、当時から、総理大臣ではあっても、外務大臣を含む外交当局と全く協議をせず、政府の職員でない方を使って協議をして署名をされ、またその文書は外交当局には見せないという合意は、これは政府あるいは国を拘束いたしますいわゆる国際約束には当たらないのではないかと考えておりました。

 ただ、今申し上げたことは、いわゆる非公開朝鮮議事録と言われているものが意味のない文書であったということでは全くなくて、これは佐藤総理の総理大臣としての非常に重要な政治的な決定であったと思います。総理大臣として、沖縄の核抜き返還という至上命令をどうしても実現するためにはこういう約束が必要だという判断をされて、それで、もし有事の際にアメリカから沖縄への核の再持ち込みの要求があれば、これは総理大臣としてそれにイエスと言う約束をアメリカに与える、これが沖縄の核抜き返還実現のためには必要だという御判断のもとに、政治家としての判断をされた結果がこの文書であったと思っております。

 いずれにいたしましても、この文書は、これは有識者報告書にも書かれておりますけれども、一九六九年の佐藤・ニクソン共同声明及び総理大臣のナショナルプレスクラブの演説によりまして、朝鮮有事の際、事前協議があれば、日本政府はそれに前向きかつ速やかに対応するという合意に変わったと理解しております。

 四番目、沖縄返還と原状回復補償費の肩がわりについてでございますが、私はこの問題にかかわったことは一度もございません。したがって、私の知識は、新聞、雑誌あるいは本、こういうものを読んだ結果の知識にとどまっておりましたが、今度のこの有識者委員会の報告を読みまして、こういうことであったのかと理解したところでございます。

 最後に、この有識者委員会報告書は、外交文書の管理と公開についても検討を加えておられまして、審査のおくれと、それから公開の不十分さについて御批判をされておられます。かつて外務省の職員だった人間として、この御批判は、残念ながら的を得たものだと考えざるを得ません。

 資料は何分にも膨大でございまして、それに携わる人員は不十分でございますし、これは弁解になって申しわけございませんが、審査のおくれがあるというのは事実だと思います。それから、公開が不十分だという点につきましては、やはり我々の審査はどうしても安全サイドに立ってしまう、疑わしいときは公開しないという結論になることが多かったと思います。

 今度、外務大臣を本部長とする文書の管理、公開についての検討委員会ができたそうでございますけれども、まことに時宜を得た適当な措置ではないかと考えております。

 以上でございます。

鈴木委員長 ありがとうございました。

 次に、東郷参考人にお願いいたします。

東郷参考人 東郷和彦でございます。

 私は、一九九八年七月から九九年八月まで外務省条約局長として勤務いたしました。本日は、まず、六〇年安保条約改定時の核持ち込みに関するいわゆる密約問題に関連して、条約局長在任中及びその後いかなるかかわりを持ったかを御報告し、次に、今回発表されました調査報告について意見を申し述べたいと存じます。

 まず、条約局長在任時、日本の安全保障に関する最大の問題は、日米ガイドラインに関する周辺事態法の国会審議でありました。密約問題は、この国会審議で何回か取り上げられましたが、政治的に大きな問題になったことはありませんでした。

 しかし、この問題は、政府が行っている答弁内容と実態との間に大きな乖離が生じており、全く説明不能という事態を余りに長期に抱え込むことになりかねない、いずれこのままでは済まなくなると考え、局長の任期が終わりになるころ、本件が将来問題化したときに、その任に当たる人たちが問題の本質とこれまでの検討の経過を直ちに把握できるようにと考えまして、条約局長室にあった資料を整理いたしました。

 本件については、前任の条約局長より一束の資料を引き継いでおり、これに条約局長室の中より探した若干の資料を加え、日米安保関連資料を五つの赤い色の箱型のファイルに年代順におさめました。

 第一の箱より、六〇年の安保条約改定時、第二の箱に六八年、小笠原・沖縄返還交渉時、第三の箱に七四年のいわゆるラロック発言への対応、第四の箱に八一年のいわゆるライシャワー発言への対応、最後に九〇年代、それぞれに関連する資料をおさめました。その上で、全資料五十八点のリストを作成し、そのうち最重要資料十六点に二重丸を付記し、さらに本件についての政策的評価についての意見書を書きました。

 A4の紙で、意見書は三ページ、リストは四ページ、計七ページの文書を二部作成し、一部は、赤ファイルの第一の箱の一番上に入れ、資料とともに後任の条約局長に引き継ぎ、もう一部は、封筒に封をして北米局長にしかるべく送付いたしました。その際、文書作成作業の過程で使用した私物のフロッピーが手元に残ったままになりました。

 以後、手元に残ったこのフロッピーはどなたにもお見せすることなく、この問題についても外務省在職中かかわることはないままに、二〇〇二年外務省を退官し、その後、この問題に大きな関心を寄せないままに歳月が過ぎました。

 しかしながら、昨年五月、四名の元外務次官が、核持ち込みに関する非公式了解が存在していたという趣旨の発言を匿名で話したという報道に接しました。四名の次官の発言は、もうそろそろこの問題を明らかにしないといけない時期に来たのではないかと考えさせるものがありました。そこで、このときから、アメリカ側発表資料、我が国における各種報道などを勉強し直し、八月以降、幾つかの記事をメディアに発表しました。

 以上の経緯を経て、昨年十二月四日、有識者委員会より本件に関する見解を聴取されました。よって、私は、フロッピーの中にあった七ページ文書を委員会に提出し、これに関し私が承知するすべてを詳細にお話しいたしました。

 退官後、その扱いに苦慮してまいりました七ページ資料を、有識者委員会という場を通じ、外務省、日本国民、そして歴史に対してお返しすることができたというふうに考えております。

 次に、今般発表された調査報告についての意見を五点述べたいと存じます。

 第一に、発表された資料の中には、赤ファイルの中核をなしていたと記憶する非常に貴重な文書が含まれておりました。その主要なものを読み、私は、この問題についてこれまで大筋何が起きていたのかということは理解できるようになったと考えます。

 第二に、それでは何が起きたのか。

 この点につきましては、一九六八年一月二十七日付の東郷文彦北米局長が記した、小笠原への出張の途次、機中での牛場次官、ジョンソン大使、東郷局長の懇談記録が大要を語っていると思います。この文書は赤ファイルの中で非常に印象に残っていたものですが、第一ページの欄外の書き込みの記憶はなく、したがって、歴代の次官が書き込みをする前のもののコピーが条約局長室にあったと思います。

 この文書により、三つの段階で、すなわち、六〇年安保条約改定時のとき、核持ち込みにつき、日米の間に認識の差があったこと、次に、六三年、ライシャワー大使より大平正芳外務大臣にこの点について問題提起がなされたけれども日本側で明確な意思統一に至らなかったこと、そして最後に、六八年、機中での話し合い以降、本件を深追いしないという方針が固められ、それが実に今日まで続いたという経緯が明らかになったと考えます。

 第三に、それでは、当時の政治家、外務省の人たちが、そういう処理でよいとして安閑としていたのか。今回公開された文書は、決してそうではなかった経緯を示していると思います。

 赤ファイル作成当時、七四年のラロック発言の後、約一カ月にわたり松永信雄条約局長が作成した一連の文書の原義が強い印象に残っておりました。今回その一部が公開され、松永局長は、問題の放置は重大な政治不信、国内政治の混乱を招くとし、事態の打開のためにいわゆる非核二・五原則への転換を提言、これが田中総理の発言案と説明資料の紙になっていった経緯が明確に読み取れました。

 実現こそしませんでしたが、当時の政治家、官僚ともに、事態の打開のために必死の努力をしたことを認識できるものと思います。

 第四に、以上の事態に対する総括でございますが、問題の本質は、日本の安全保障であると思います。

 冷戦時代、同盟国アメリカは、対ソ抑止の中核として、NCND、すなわち艦船上の核兵器がどこにあるかを明言しない戦略をとっておりました。他方、二つの原爆の投下を受けた日本国民は、いかなる核兵器も持ち込ませないという強烈な国民感情を持っていました。この二つの立場は絶対に両立しません。その不可能のぎりぎりの中で、事前協議制度とお互いが深追いしないという共通の立場を通じ、我が国の安全保障が追求されました。結果として、冷戦時代、日本の安全保障は完全に担保され、日本は米国を恐れさせる一大経済発展をなし遂げたのだと思います。

 しかしながら、そこに政府と国民との大きな乖離が生じてしまいました。冷戦終了後二十年、今回ようやくその乖離を埋められたと思います。

 第五に、今後どうすべきか。

 冷戦終了とともに、九一年以降、アメリカは核兵器の艦船への搭載を原則やめました。したがって、現時点では、非核三原則を唱えても日本の安全保障は損なわれません。しかし、今後については、何らかの理由でアメリカが艦船搭載核兵器についてNCND政策に戻るかもしれません。私は、万一そのような事態になったら、日本は海上への持ち込みは認めるという非核二・五原則に立つことが最善と考えます。

 いずれにしましても、今後は、少数の政治家と官僚だけではなく、国民レベルで真剣に議論し、成熟した安保政策を導いてほしいと心から願うものであります。

 最後に、文書管理についてですが、赤ファイルにおさめた文書すべてが今回発表されたわけではありません。有識者委員会は、当然あるべき文書が欠落し、一部の文書は廃棄された可能性があると指摘しました。もしそれが本当なら、外務省は、文書管理の実態と今後の対応について、きちんと向かい合ってほしいと願うものであります。

鈴木委員長 参考人の皆さん、ありがとうございました。

 これにて参考人の意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

鈴木委員長 これより参考人に対する質疑に入ります。

 まず、私から質疑をさせていただきます。

 今、東郷参考人が、最後に、文書管理について触れられました。東郷参考人は、いわゆるこの密約に関する文書を、だれから引き継ぎ、だれにまた引き継がれましたか。

東郷参考人 引き継ぎを受けましたのは前任の竹内条約局長で、引き継ぎを行いましたのは後任の谷内条約局長でありました。

 ただ、今申し上げましたように、作成しましたリストに関しましては、藤崎北米局長にも送付いたしました。

鈴木委員長 引き継がれた谷内さんへの文書というのは、局長には直接説明されておりますか。

東郷参考人 局長としての引き継ぎを一回行いまして、その際に、この文書の話をしたというふうに記憶しております。

鈴木委員長 今、東郷参考人は、当然あるべき会議録、議事録が欠落していたと有識者委員会でのお話をされましたが、この破棄されたのではないかと言われる文書、これについて、もし破棄されたとするならば、破棄する立場にあった人はどなたでしょうか。

東郷参考人 私の記憶では、外務省の文書管理規程というのがございまして、文書の廃棄の権限は局長にあったように記憶しております。

鈴木委員長 廃棄の権限は局長にあったとするならば、当時は谷内さんですね。同時に、では、その谷内さんはだれに指示できるのでしょうか。

東郷参考人 条約局のいわゆる責任範囲下にある文書に関しては、条約局長だと思います。

 条約局長がその廃棄をどういうふうにするかということに関しては、それぞれの局長の判断で行われると思いますので、ちょっとよくわかりません。

鈴木委員長 先ほどの東郷参考人の話の中で、十二月四日、有識者委員会から意見陳述を求められた際、五十八点のリストを出された、こう言われました。その五十八点のリストは、今回のこの委員会の報告書にはすべて出ていますか。

東郷参考人 私は、発表された文書を全部は読んでおりません。しかし、私が読んだものの中で申し上げれば、五十八点のリスト全部は今回発表されていないというふうに思います。

 私が読んだものの中に非常に貴重なものがあったということを申しましたが、発表されていなかったものもあったと思います。

鈴木委員長 先ほど、東郷参考人の話の中に、その五十八点のリスト中、十六点、二重丸をつけて出したと言われます。

 では、この重要な二重丸をつけた十六点は出ていますか。

東郷参考人 私が数えましたところでは、二重丸をつけた文書のうち、八点、今回発表されました。残り八点については、私は見ておりません。

鈴木委員長 東郷参考人は、先ほどの証言の中でも、昨年の八月以降、メディアに自分の考えや思いを伝えた、こう言われておりました。

 雑誌では、二〇〇一年四月、情報公開法が施行される前に破棄されたという話が自分の耳に入ってきたというふうに公に東郷さんは述べられておりますけれども、その認識は、今も変わりありませんか。

東郷参考人 当時、外務省の内情をよく知っていると思われる人から、情報公開法の施行の前に、本件に関連する文書も破棄されたという話を聞いたことがありました。

鈴木委員長 そうしますと、東郷さんが七ページのリストを出した、さらには外務省の内情に詳しい人から破棄されたという話も聞かされ、さらに今回の報告書で欠落する部分があったということも明確になっております。

 ということは、中の文書管理上、破棄された可能性が高いと思われますが、そういう認識でよろしいですか。

東郷参考人 最終的に外務省の中でどのように行われたかということに関しましては、ぜひ、委員長より、あるいはこの委員会で外務省に御照会を願いたいと思います。

 私の個人的な感触を申し上げれば、私が残した文書の全部は残っていない、ここまではそのように思いますが、その後、本当にどうなったのかということは、率直に申し上げてわかりませんので、ぜひこれから委員長及び委員会において御調査いただけたらと存じます。

鈴木委員長 今の東郷参考人のお話についてまた理事会等で協議していきたい、こう思います。

 東郷さんも御存じかと思いますが、引き継いだ谷内条約局長は部下にその書類管理等をよしなに計らえという指示をしたという話が新聞なり雑誌等にも出ていますけれども、それは御存じでしょうか。

東郷参考人 そういう報道があったことは承知しております。

鈴木委員長 今までの東郷参考人のお話、さらには今のこの委員会における答弁からすると、間違いなく、あるべき書類は破棄された、特に東郷さんが精魂込めてまとめられたその文書がなくなっているということも、これは事実だということでよろしいですか。

東郷参考人 繰り返しになって恐縮でございますが、外務省の中に本当に今どの文書が残っているかということに関しては、私は承知する立場にありません。

 ただ、今まで出てきている資料で見る限り、私が残した五十八点の文書の中の重要なものは幾つか出てまいりましたが、出てきていないものは明らかにある、私はそう認識しております。

鈴木委員長 その明らかになっていないものがいわゆる破棄された可能性が高いということなんですね。

東郷参考人 この点については、私、推測で物を申し上げることは差し控えた方がいいと思います。

鈴木委員長 推測ではなく、明らかに文書が欠落しているということは、有識者委員会でも明らかになりました。さらに、東郷さんが赤いファイル、青ファイル、黒ファイルとつくったことも、これも明らか、公になっております。

 そのことを、公になっていることを前提にしてお尋ねするんですけれども、ないということは、これは破棄された。先ほど東郷さんは、情報公開法施行、二〇〇一年四月以降ですね、いわゆる外務省の関係者、情報筋からその破棄されたという話を聞いたということも、ここで今お話しされました。それらをあわせてトータルでお尋ねするんですが、破棄されたと見るのが、私は当然、自然な成り行きでないかということをお尋ねしているんです。

東郷参考人 委員長のお考えに私は今、特に異なった感触はありませんが、ただ、これは、元外務省に勤務した者として、あの文書がどうなったかということは本当に大事な問題でございまして、文書がどうなったかについての最終的な判断は、今外務省で勤務している人たちにしかできません。したがって、私は、今外務省で勤務している人たちがこの問題を正確に調べ、きちんとした発表をしていただきたいというふうにお願いするものであります。

鈴木委員長 わかりました。

 今の東郷さんの発言は重いと思いますから、この委員会でも国民への情報開示あるいは情報の透明性に向けてさらなる努力をしていきたい、こう思います。

 斉藤参考人にお尋ねします。

 このいわゆる密約問題、歴代の次官が総理にいわゆる引き継ぎをされているということが明らかになりました。斉藤参考人は、細川総理、羽田総理、村山総理のときの事務次官ですけれども、この三総理には説明、報告はなされておりますか。

斉藤参考人 私は、今委員長が言及されました三人の総理の前に、宮沢総理にも、短期間ではございましたけれども、お仕えいたしました。この四人の総理どの方に対しても、いわゆるこの密約問題でお話ししたことはございません。

鈴木委員長 斉藤参考人にさらにお尋ねしますが、宮沢総理は外務大臣もやられていますね。外務大臣のときは、その説明はされておりますか。

斉藤参考人 ございません。

鈴木委員長 今回の有識者委員会の報告によると、海部総理までは引き継がれた、同時に、サインもされた文書があることが明らかになっておりますね、こういう資料で。これは斉藤さんは御存じですか。

斉藤参考人 その文書は、今回公表されてから読みました。

鈴木委員長 斉藤参考人は条約局長もされておりますが、条約局長のころは、この文書は見たことがありますか。

斉藤参考人 ございませんでした。

鈴木委員長 この点も、今、有識者委員会で明らかになっているのは海部内閣までの話だということと、お話を聞きますと、その後の総理には説明されていないという認識でよろしいですか。

斉藤参考人 そのとおりでございます。

鈴木委員長 斉藤参考人は、外務省においてはまさに条約畑の専門家といいますか、一貫してその道を歩いてきました。今回、この有識者委員会の報告で、斉藤参考人も最後に触れられましたけれども、やはり資料の管理あるいは審査のおくれ、これは不十分であった、この点、有識者委員会の報告は的を射たものと言わざるを得ないという、非常に私は、国民目線に立った斉藤参考人の見識あるお話だった、こう思っているんですね。

 では、外務省がなぜこういう流れというか体制であったかということについて、参考人はどういうふうに受けとめますか。

斉藤参考人 もし弁解のように聞こえたら申しわけございませんが、一つには、資料が余りに膨大で、処理をする人員が著しく不十分であったということ。

 それと、公開すべきかすべきでないかという判断をするとき、外務省職員はどうしてもやはり安全サイドに立った判断をしてしまう。もし、疑問というか、公開すべきかどうかが争点になっております文書を公開して、万一、日本の政府、外交姿勢に悪影響が出るようなことになったらそれは大変ぐあいが悪い、そういう判断の方が先に来て、簡単に言ってしまえば、公開、非公開の判断をするに際して慎重に過ぎたということがあるかと思います。

 今度設置されます本部、岡田外務大臣を本部長にいたします検討委員会におきましては、有識者の意見も公開、非公開に当たって参考に入れるべきだという結論が出るのではないかと思いますが、私としてはそれは大変有意義なことだと考えております。

鈴木委員長 最後に、斉藤参考人にお尋ねしますけれども、鳩山政権になりまして、外務省の報償費が官邸に上納されていたということが明らかになりました。この報償費、官邸に上納されておった時期はいつからで、いつまでかというのは御存じでしょうか。

斉藤参考人 そこは、私は存じません。

鈴木委員長 それでは、私からの質疑は終わります。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。齋藤勁君。

齋藤(勁)委員 民主党の齋藤勁でございます。参考人の皆さん方、ありがとうございます。

 きょうの参考人質疑に同席させていただくにつけ、改めて私ども政党の立場でいいますと、国民の立場に立った情報が長い間公開をされてこなかった、そして、西山参考人もいらっしゃいますけれども、御自身の裁判が既に、最高裁で有罪判決がすべて確定をしているということがあり、もっと早く情報が明らかになればということを思っているところであります。

 政権がかわったからだということだけで私自身は申し上げるつもりはありませんが、既に本委員会に私もいる中で、自民党の議員の方々が、本来ならば私どもが公開、そういった立場に立つべきだったろう、そういう発言もありますので、このことについては今多く申し上げる段階ではないんではないかというふうに思います。

 しかしながら、今、委員長から、まず冒頭、破棄をされた、あるかないかわからないということについてやりとりがございました。私も、今、東郷参考人からの御発言につきましては、既に月刊誌等でも拝見をしているところであります。

 それで、冒頭、委員長、委員長自身も理事会にお諮りするということを言っておりましたけれども、やはりこれは大変な問題だと思います。本来、あったと御自身の記憶しているということについて、そうしたことをこの場でも発言されており、そしてそのことが情報公開法施行前になくなったということについて関係者の方が聞いているということに関しましては、これは有識者委員会ということよりも、行政内部、そして政治がむしろそのことをしっかり政府の方に指示をして、解明をさせていくということに関して、この委員会をもって理事会に諮っていただきまして、取り組むということについて御確認いただきたいというふうに思います。

鈴木委員長 今の齋藤勁君の意見につきまして、理事会に諮りまして、この委員会できちっと対処していきたい。さらなる説明責任なり情報開示というものを進めていきたいと思いますので、また委員会に御報告をしたいと思います。

齋藤(勁)委員 そこで、それぞれ伺うわけですが、もう一つ、この委員会で、やはりきょうの場でこれからの取り組みに関して、私ども意思統一をしておいた方がいいんだろうというふうに思いますが、いわゆる有識者委員会報告書の末尾の方に、「三十年原則に基づき速やかな公開が望まれるものとして、」ということで、在日国連軍地位協定一九五四年、あるいは日米安保条約一九六〇年及び関係・関連取極め等、沖縄返還協定、さらには日中共同声明等々ございます。あるいは、日ソ国交回復交渉や日韓国交正常化交渉について、日朝・日露平和条約交渉の見通し、これらにつきまして、しっかりとやはり公開性の再点検をすべきだということが報告書に明らかになっております。

 したがいまして、政治の場として、このことは積極的に取り上げるということについて、私は、またさらに今それぞれ御発言になった中で、残念ながら、資料の問題もそうですし、お亡くなりになっている、さまざまな問題がありますので、早急にこのことについては、国会、政府一丸となって取り組むべきだと思いますので、このことについての取り計らいをお願いします。

鈴木委員長 今の齋藤勁君の発言につきましても、理事会に諮り、また委員会できちっと報告したい、こう思っております。

齋藤(勁)委員 そこで、西山参考人にお伺いいたしますけれども、今回の外務省の報告あるいは有識者委員会の報告の中で、ある意味では、心の中からのさまざまなお気持ちがあると思うんですが、限られた時間ですので、恐縮でございますが、これについては割愛をさせていただきます。

 先ほどの冒頭のお話の中で、いわゆる沖縄返還における密約の代名詞と言えます肩がわり問題、いわゆる財政負担問題について御発言がありました。

 そして、財政負担というのは密約の一部にすぎないんだ、もっと大きく、アメリカ自身が沖縄にかかわる問題についての戦略を持って、いわゆる資金回収、財政回収というのでしょうか、そういうことについて取り組んできたことがあったということで、アメリカの公文書がそのことについて物語っているんだということでありますが、具体的に、大きなアメリカの方針というのはどういう文書で示されているんだ、そして、今回の有識者委員会ではこのことについて触れられているのか、触れられていないのかについて、お聞かせください。

西山参考人 財政問題というのを、四百万ドルとか千六百万ドルだとか、やれ、アメリカに対する無利子預金だとか、項目別に分けて分析しても何にもならないと私は思うんですよ。有識者委員会というのは、平たんに、横にずっと項目を羅列してそれぞれを述べているだけで、私は、これは財政問題も含む密約の実態というもののほとんど氷山の一角にもさわっていないと思っています。

 それは、何といっても、一九六九年のあの佐藤・ニクソン共同声明における財政問題というのは、共同コミュニケから全部削除されました。全部終わっているのに、全部今から始める。ここから密約は始まるんですけれども、やはり根幹をなすものは柏木・ジューリック合意議事録です。

 柏木・ジューリック合意議事録というのは、はっきり言えば、アメリカにおいては徹底的に解明されておりますし、私は、その点で、財務省が今度行いました調査というのは、外務省の調査よりもちょっとグレードが高いと思います。我々は今、訴訟を起こしておりますけれども、四月九日に判決が出ますけれども、我々原告を相手にあの報告書を出していただいているんですよ。それほど、結局、財務省は切迫感を持っている、それが一つ。

 それからもう一つは、柏木・ジューリック、調べてみたけれどもなかった、やはりない。要するに、吉野・スナイダーがないのと同じように。VOAに関する吉野・スナイダーもない、軍用地復元補償に関する吉野・スナイダーもない。それがないにもかかわらず栗山メモはあるというのですから、これまた変な話なんですよ。栗山メモというのは、例の一九七二年の衆議院予算委員会で密約問題が沸騰したときに、そのときの国会対策用の資料として作成されたもの。そのときは、政府は何と言ったかといったら、密約は絶対ない、秘密書簡は絶対ないということで政府の基本方針を決めていた。そのときの国会対策のメモですから、それが秘密書簡がないなんということに利用されているように思いますけれども、私はそうじゃないと。

 したがいまして、柏木・ジューリックメモというものが、はっきり私から言えば、今度の財政問題に対するアメリカの考え方、それから日本がどの程度でそれを受けていて、どの程度で妥協し、どの程度それをのみ込んだかという全貌を全部解明できる唯一絶対の資料であるというふうに思っておりますよ。

 その柏木・ジューリックメモも、私が財務省はグレードが高いというのは、これは探してみたけれどもなかった、やはり外務省と同じような、有識者委員会と同じように言っておりますけれども、その後です。我々はあえてアメリカの国立公文書館に職員を派遣して徹底的に調べた、そうしたら柏木・ジューリックと全く同じ文書が発見されたということをわざわざ追加して言ってくれているんですね。

 そして、その文書の冒頭にまず、日米の財政問題というものはほとんど全部解決したということを示唆する、要するに、この柏木・ジューリックの合意文書によって、これからの財政問題というものが、このガイドラインができたんだから、全部これに基づいて解決されるということを書いている。それも今度の財務省の調査報告書にはわざわざ引用している。そして、それに基づいて無利子預金というものを全部また解明しております。

 私は、それだけ、はっきり言えば、財務省は、ないことはないんだけれども、まずその時点ではあったんだよということを明らかに示唆してくれているわけです。その点では、非常に突っ込んだ分析をされていると思います。

 いずれにしても、アメリカの財政問題に対する態度というものは、三原則があって、まず第一に、全部回収する、二十七年間の投下費用も全部回収する。同時に、一文も、一ドルも出さないよ、返還においては。しかし同時に、これだけじゃだめだよ、今から新しい財政負担を日本に求める、この三つの項目に沿って分析していけば全部解けていくんですよ。

 それで、いわゆるランプサムというものをまず出していって、日本側がそれに全部応じた。その応じた内容というものが、最初はこんなに離れていたのが、とうとう最後はここまで来た。そして、結局、その内訳づくりを全部日本側が適当にやったわけですね。そして、それを国会に説明した。だから、アメリカは、自由にやりなさい、我々はつかみ金だから、つかみ金をいただければいいんだ、あとの内訳は全部おたくが自由につくりなさい。ですから、核抜き七千万ドルになるわけです。核抜きは四百万ドルもかかっていないんです。そういうふうにつくられていきますから、だから、そういうようなランプサムでつかみ金だという方式でいけば、全部解明されていくんです。

 その中で私が一番申し上げたいのは、今言ったような無利子預金であるとか、それからまたはVOAの肩がわりであるとか、それからもう一つ、軍用地復元補償の肩がわりであるとか、これは大体後ろ向きの解決、今までの既成の決算書みたいなもの。ところが、三億二千万ドルから外されてしまった六千五百万ドルだけは、これは完全に日本の将来に向けての安全保障の枠組みを形成するものなんです。新しい枠組みなんです。それが米軍施設改良工事費。それをわざわざ外しちゃって、全く国民には知られていない。

 しかも、あなた方、国権の最高機関の国会に対しても、六千五百万ドルの税金を支出したのが決まったにもかかわらず一切報告しないで、それを果たしてどういうように予算を講じていたか、全く知られていないんです、今。それについてアメリカは詳細に報告しています。柏木・ジューリック関連文書にみんな出てきます。ですから、そういうような落差が激し過ぎるんです。要するに、アメリカの文書の管理、それに対する認識と、日本側の文書の対応と認識は、余りにも激し過ぎる。

 ですから、それを埋めるのが、やはり国会における国政調査権を発動していただかなくちゃ、要するに、官僚機構のペースの中では到底その問題は解決されない、そういうのが私の認識です。

齋藤(勁)委員 ありがとうございます。

 いわゆる沖縄返還に伴う日本側の財政、そしてまた経済負担につきまして重要な柏木・ジューリックメモ、文書が、私ども新しい政権になって、このことについて役所内部、財務省も探したけれども、なかった。そして、菅財務大臣が指示をして、アメリカの公文書館に行きまして、これをひもといていくわけでありますけれども、これも東郷参考人のファイル、情報公開法、当時廃棄をしたということは外務省の問題ですけれども、財務省側も大変ずさんであったということであり、これは政府全体がやはりしっかりとした、今、外務大臣自身が改めて情報公開を含めまして文書の保存のあり方、公開のあり方というのは取り組み始めましたけれども、これは財務省自体も、そして、言ってみれば政府自体がしっかりしていきませんと、この説明責任を含めまして、ある意味では、日米だけでなく、これから国際的な関係についても対応というのは大変難しいのではないか、問題であるのではないかというふうに私は指摘をせざるを得ません。

 そこで、これは西山参考人が冒頭、日米関係が密約ということに関して、非常に何でも日米、日米ということに皆さん方お気づきでありませんかというふうに言われました。これは西山参考人以外の方々にお聞きしたいんですが、とりわけ東郷参考人、そして斉藤参考人のお二方にお伺いしたいんですけれども、密約問題に関して日米で何かたくさん出てまいりますねということを一番最初、西山参考人が陳述されました。一緒にお聞きになっていると思うんですが、このことについての事情とか背景とか理由とか、いかがでしょうか。

斉藤参考人 その理由としては、私は、日本とアメリカとの関係が非常に多岐にわたっておりまして、特に安全保障の関係におきましては緊密な同盟関係がございます。その中で、米国の核の抑止力を最大限確保し、それと同時に、日本の国民の我々の間に存在します極めて強い反核感情、こういう要素が存在しておりますので、時には政治判断によって一般に公表されない了解が存在したということであろうと思います。ほかの国との間にはそういう事情が必ずしもありませんので、日米間にだけそういうことが起こっていたという事情ではないかと思います。

東郷参考人 ただいまの斉藤参考人の意見と基本的には同じでございますが、やはり戦後の日本の安全保障というものがどういう形でできてきたのかということを考えますと、必要最小限の自衛力というものを持ち、それ以外の部分に関しては日米同盟というものを基礎にして日本の戦後の安全保障をつくってまいりました。特に、冷戦のもとで、アメリカの世界政策と、それから必要最小限の自衛力しか持たないというこの日本の政策との間に、いろいろな面で緊張関係が生じたんだと思います。その結果の一つとして、こういう密約の問題も生まれてしまった。しかし、それは時代とともに解消されていく過程の中に今、私たちがいるのではないかというふうに思っております。

齋藤(勁)委員 森田参考人にお伺いいたします。

 大平総理の時代に秘書官をされていたということで、きょう陳述されたこと、あるいは昨年から報道の各社からいろいろインタビューに答えられて、新聞は拝見しております。そして、新たに回顧録を発行されたというふうに情報も入っているんですが、その中に、きょうも陳述をされましたけれども、八〇年の四月ごろ、首相官邸の執務室でのやりとりで、伊東正義官房長官あるいは官房副長官の加藤紘一さん、そして森田さんに、例の核の問題について国民にわかってもらえるようなそんな方法はないだろうかというふうな発言があったということで、先ほどもお話がございました。

 問題は、今回の有識者委員会の中でも、いわゆる大平・ライシャワー会談とか佐藤・ライシャワー会談、こういう実はさかのぼっていく話ですが、先ほどですと、そうそう余り具体的には、大平外務大臣なり、つぶさに言われていないのかなというふうに思いますが、あえて再度お聞きさせていただきますが、当時、大平・ライシャワー会談等について、ゴルフ場へ行く車中等のお話がございましたけれども、改めて今日時点に至って、この場で解明していただくということについてもう少し情報提供いただけないでしょうか。

森田参考人 先ほど申し上げましたように、大平・ライシャワー会談の後は、私にも何も申しませんでしたし、私の記憶だと、すぐに外務次官、事務次官を呼ぶとかいうようなこともなかったと思います。

 恐らく、私のこれは推測でございますが、これはなかなか大変な問題なんで、池田総理にも報告はするけれども、具体的な方法は自分が考える以外にはないんではないか、また逆に、自分が考えれば何らかの方法があるというふうに当初は思っていたと思います。

 しかし、その後、大平総理というか、政治家として考えておったことは三つございまして、日本社会党の穂積七郎先生に対する日中国交正常化の見通しの問題、それから、大蔵大臣をやった以降は、自分が大量の赤字国債を発行したんで、財政再建をこれから一生どうやってやるかということ、それから、この核の問題、ライシャワー会談の核の問題、三つ考えておりましたが、国交正常化は実現しましたし、それから、財政再建の問題につきましては、成功はしませんでしたけれども、総理になって一般消費税という形で世の中に提起することができたわけですが、この核の問題については、最後まで考えに考えたんだけれども、結局、田中内閣で処理しようとして、それから以降は方法がなかった、方法がないまま他界した、以上のようなことでございます。

 ライシャワー会談の中身について細かく説明を聞いたことはございません。私が大体のことは察したろうという前提で、大平総理は、伊藤圭一君に電話していい知恵がないか聞いてくれないかと言ったし、それから、先ほど、伊東官房長官、加藤副長官の前で言ったときも、みんながおおよそのことは知っているという前提で話しかけたものだと思います。

 以上です。

齋藤(勁)委員 ありがとうございます。

 限られた時間で、あと一、二点のみなのかなという感じがいたしますが、いわゆる今回の幾つかの報告の中で、沖縄の核再持ち込みについて、密約ではない、こういう有識者委員会の報告がございました。

 このことについて、私は、密約だろうということについて多くの論を今言う時間はありませんが、改めて、この再持ち込み、密約であるかないかについて、西山参考人へはもう伺っておりますので、斉藤参考人そして東郷参考人に、有識者委員会の密約でないという記述についていかがであるか、伺いたいと思います。

斉藤参考人 私は、有識者委員会の結論に同意をするものでございます。

東郷参考人 私は、密約であるというふうに考えております。

齋藤(勁)委員 東郷参考人、密約であると明快にお答えいただいたんですが、限られた時間ですが、なぜということについて再度お尋ねしたいと思います。

東郷参考人 先ほど西山参考人からもお話がありましたが、佐藤・ニクソン共同声明第八項、これは、事前協議においてアメリカから核持ち込みの要請があった場合に対する日本側の反応はイエスもありノーもあり得る、こういう形で第八項ができているというふうに私はずっと解釈しておりました。

 他方、佐藤・ニクソン合意議事録の方は、再持ち込みの要請があれば必ず核を認めるというふうになっておりましたので、佐藤・ニクソン共同声明の内容を一歩超えて、日本の総理大臣として、こういう状況のもとでは核を必ず入れます、こういうことを言っております。

 その問題がいかに日本の国内で引き継がれたかということは、私の理解では、これは日本の国内問題でございまして、アメリカとの関係では、日本の総理大臣がアメリカの大統領に対して、こういう状況のもとであればこういうことをいたしますと言っている以上、これは言葉の通常の意味における約束と、国際法上の権利義務関係を設定する約束であるかということについては、いささか勉強が必要だと思います。しかし、普通の常識的な意味で言えば、これは私は、約束というふうに言っていいことであり、かつ、それが国民に対して伏せられたわけでありますので、密約というふうに考えるのではないかというふうに思うわけです。

齋藤(勁)委員 時間がなくなりましたので終了いたしますが、今回の有識者委員会あるいは外務省調査というのは大変画期的なことだと思いますが、改めて浮き彫りになりましたのは、冷戦崩壊後二十年、そして情報公開法が施行されて十年、いかに日本の外交に関して、国民の立場に立つならば、知らされなかった、そして、そのことが日本の国益に与えた損失というのは、大きな損失があったんではないかということを感じざるを得ません。

 したがいまして、さまざまこれから解明しなきゃならない問題について、私ども、冒頭、委員長にもお願い申し上げましたけれども、本委員会でも積極的な対応をすることが、日本の将来のありようにつきましても、切り開いていく大変なことではないかというふうに私は思いますので、このことを申し添えさせていただきまして、また、つたない参考人の方へのお尋ねでございましたけれども、終わらせていただきたいと思います。

 ありがとうございました。

鈴木委員長 ただいまの齋藤委員の発言は、しっかり理事会でも受けとめて、また委員会に御報告してまいります。

 次に、服部良一君。

服部委員 おはようございます。社会民主党、服部良一です。

 この密約の議論を聞いておりまして、若干私は違和感を感じるのは、安全保障の立場からやむを得ない現実的な判断ではなかったのかというような言い方がされるわけですけれども、私は、これは国民主権という立場から考えますと、やはり時の政府とあるいは一部の外務官僚によって、いわゆる行政が立法府である国会を、あるいは国民を無視して、独断専行しているわけでありまして、三権分立あるいは民主主義の根幹にかかわる戦後の憲政史上最悪な事件だ、安全保障の懸念があろうとも、それは政治が決めることであって、本来、外務省の一部の官僚の皆さんが勝手に判断していいというものではないはずだというふうに思うわけです。そういう意味で、非常に言葉は過ぎますけれども、外務省の傲慢ではないかというふうに思います。

 外務省のお二人の参考人の方に感想をお聞かせいただきたいと思います。

斉藤参考人 私は、最初の陳述の中でもある程度申し上げましたけれども、現在問題とされておりますこれらのいわゆる密約あるいは了解、これはすべて、重要なものは少なくともすべて政治レベルで決定されたと考えております。

東郷参考人 外務官僚のみで本件を判断したことはないというふうに私も認識しております。これは、時の総理大臣、外務大臣、そういう政治の最高指導部との間で外務省の人たちが対処してまいった問題であると思っております。

 傲慢と考えるかという御質問がありましたが、私は傲慢という言葉では認識しておりません。

服部委員 この密約を決めたのは、確かに時の政治家だったでしょう。しかし、それを、外務省がずっと資料を手元に持ったまま、その中身を知り得る立場にあって、そしてなおかつ、そのときの首相や外務大臣に報告した人があったり、あるいは報告をしなかったり、一体それはどういう基準で外務省は報告をしたりしなかったりされたんでしょうか。お二人にお伺いいたします。

斉藤参考人 私の場合はそういう報告をしたことが一度もございませんので、もし仕分けをしたとすればどういう基準でしたのか、私には判断つきかねます。

東郷参考人 条約局長をしておりました一年の間の私の認識は、この問題は外務省の事務当局からしかるべき形で総理、外務大臣に報告されているというふうに一貫して思っておりました。去年の五月に勉強し直して、報道の中で、一部の総理大臣には報告されていなかったという事態があったという報道に接しましたが、それは去年、私が勉強し直した後に知ったことであります。外務省で勤務しておりました間は、一貫してこの問題は総理、外務大臣に報告されていたというふうに認識し、政策提言として書いた文書にもそのように記述を残していたと記憶しております。

服部委員 実は、この非核三原則という問題については、国会、衆参の本会議あるいは外務委員会で、六回にわたり、非核三原則は国是であるというふうに決議がされているわけですね。

 それで、外務省は手元に、その密約を知り得る立場の人がそういうものを持っている、しかし、それをすべての外務大臣や首相に報告していたならいざ知らず、それも報告したりしなかったりしている。こういった判断を、やはりこれは外務省の、ちょっと言葉は悪いかもしれませんけれども、独断専行といいますか傲慢な判断だったんじゃないかということを私は申し上げたかったわけなんです。

 そういう立場におられなかったり、あるいは報告はもうされていたということですので、それは個々の方を別に責めるわけじゃないわけですけれども、しかし、決めるのはやはり政治であって外務省ではないということを申し上げておきたいと思います。

 西山参考人におかれましては、私もいろいろな市民集会で何度か西山さんのお話を聞かせていただきました。正直者がばかを見るではいけませんけれども、密約の当事者の一人である佐藤元首相はノーベル平和賞までもらっておられるわけですね。西山さんは、告発をし、逮捕され、そして今七十八歳とのことですけれども、ある意味、自分の人生をむちゃくちゃにされたとはちょっと言い過ぎかもしれませんけれども、いろいろな思いがあって、国に対する損害賠償や名誉毀損の裁判までやって闘ってこられたというふうに思います。

 今、せっかくのこの機会ですので、国や外務省に言いたい自分のお気持ち、今までの人生を歩んでこられて言いたいお気持ちを、あればお聞かせいただきたいと思います。

西山参考人 個人的な問題を、こういう最高度の、国会において述べるということについては、私の内的な面からいえば、心理的な面からいえば、余り好ましくないことです。

 ただ、私が言いたいのは、公平なる裁き、法の前の平等という司法の最大の原則というものは完全に破られてしまったということであって、裁く場合は全部法の前に平等に裁くべきである。だから、私からいえば、裁かれてしかるべき者が全く裁かれていないままに今日に来ている。

 要するに、機密、秘密という問題の事件であった場合は、その機密、秘密はどの程度要請があるのか。国のための秘密なのか、政府のための秘密なのか。そして、その秘密というものについて、ではどの程度追及されたのか。全く追及されないままに終わった。そして今日、密約を含めて機密の問題が、ようやく三十数年たって今検証されている。

 要するに、日本全体を覆っているグレードの低さというのが問題なんであって、それは、司法も政府権力も、極端に言えばメディアも、あるいはまたは主権者、大衆の政治意識状況というものも、全部その中に入っているわけなんです。だから、これを一概に、だれがどうだ、何だといって、個人的に、あるいはまたは一つの単位を相手にして、そういうのに私は怒りを覚えているわけじゃなくて、日本全体の構造というものがこの問題に反映しているんだということであって、それを矯正するのはやはり政治主導であって、要するに、政治家が国会という国権の最高機関を舞台にして矯正していくということでなくてはならぬというのが私の思いです。

 それで、今、私は開示請求訴訟を起こして、これは私一人じゃなくて、二十五人の原告団、多数の優秀な弁護団でやっております。そして、これは私個人の問題を全部乗り越えて、一つの大きな、主権者対国、主権者対権力というものに問題を置きかえて、いや、この問題は本来そういうものなんです、それを今展開しておりますけれども、これがどのような結果を生むか。この結果によっては、非常に大きな、情報公開の問題も含めて、民主主義の根幹に触れるような前進があるんだろうと思って、私は今、個人の問題を超えて、そういった大原告団が今闘っております開示請求ということの方に重大な関心を寄せております。

服部委員 どうもありがとうございます。

 それでは、書類の隠ぺいといいますか廃棄の問題についてちょっと私も触れさせていただきたいんですけれども、東郷参考人にお聞きいたしますが、先ほどフロッピーという話が出ましたけれども、このフロッピーは我々国会なり国民の前に公表されるということでよろしいんでしょうか。

東郷参考人 先ほど申し上げましたように、そのフロッピーの中の本件に関連するものを打ち出しまして、十二月四日、私の認識としましては、有識者委員会を通じまして、外務省、国民そして歴史に対してこれをお返ししたという認識でおります。

 フロッピーの中の該当文書は、十二月四日の委員会に四部お持ちしまして、出席された先生方に三部、それから説明用に私が一部使っておりました。ただ、その席に外務省からノートテーカーで来ていた方がおりまして、もう一部自分にも欲しいという要請がありましたので、その方にもお渡ししました。

 以上でございます。

服部委員 赤いファイルということが大変話題を呼んでいるわけですけれども、佐藤優さんでしたか、たしか新聞か何かに書かれた記事を読みますと、東郷さんは非常に記憶力のいい方だと。この有識者の報告書が出たら、自分が整理した赤いファイルに何が載っていないかを言い当てるであろう、証言するであろうというようなお話がありましたけれども、この赤いファイルを整理されて、今表に出ていない内容で特に重要と思われている点について、ぜひ御説明いただけたらと思います。

東郷参考人 数点申し上げます。

 まず第一に、最初の箱、これは六〇年安保条約締結のときの箱でございますが、この箱の中には四つ文書を残しました。

 一つは、いわゆる一番問題になりました討議の記録で、条約局長としてこの文書を扱っておりましたときの認識は、その箱の中に入っていた討議の記録は本物からコピーしたものという認識でありました。

 ただ、記憶をたどってみまして、署名欄に署名があったかなかったかは私記憶できておりません。もし署名欄に記録のあった文書がその中、箱に入っていたのであれば、これは今回の調査で出てこなかったということですので、その文書はなくなったということかと思います。

 それからもう一つ。六〇年の一月の二十日に、当時の高橋条約局長とマウラというアメリカの、カウンターパートだと思うのですが、その二人の間の会談の記録というものがございました。内容の詳細は覚えておらないのですが、この会談で、アメリカ側が核持ち込みと言う場合は陸上のことを指しており、NCND政策に立てば、海の上での核についてはアメリカはあるともないとも言わないという趣旨のことを言っていた記録だというふうに覚えております。

 この文書は、有識者委員会の方から、なかったというはっきりした見解が表明されておりますので、この文書はなくなったのかなというふうに思っております。

 それからもう一つ。先ほど、ラロック証言の後の七四年の秋、これは森田参考人からお話ありました、大平大蔵大臣、田中総理、木村外務大臣、外務省においては東郷次官、それから松永条約局長、こういう人たちが、もうこの問題を国民に対して隠すことはできないというふうに思って、必死になって皆様がおやりになった大変貴重な記録が残っており、その中の松永条約局長が残した三つの文書が今回公開され、それを読むだけでも当時の松永局長がいかにこの問題に心を砕いていたかということがよくわかる文書なのですが、赤ファイルのその時期に関しては、それ以外にも松永局長が記した文書がたくさんありました。

 特に私が、今回、できればぜひもう一度読んでみたいと思っておりましたのは、十月の中旬から十一月の半ばまでの約一月間、松永局長は日誌風に毎日何が起きていたかという記録を残しておりました。この松永日誌を見ますと、いかにその一カ月間本当に皆さんが苦労したかということが手にとるようにわかるものでしたので、これが今回発表されていないということは、この文書もなくなったのかなというふうに思っております。

服部委員 これもぜひ委員長にお願いしたいんですけれども、まだまだ表に出ていないさまざまな文書があるという御指摘だろうというふうに思います。これもぜひ、国民あるいは国会の知る権利として、解明のために委員会としても努力をいただきたいと委員長の方に切にお願いを申し上げたいと思います。

鈴木委員長 今の件に関しましては、先ほども東郷さんの方から二重丸をつけた十六点のうち八点しか出ていないというお話もありましたから、さらに、先ほども、いわゆるフロッピー、リスト四ページ、自分の意見三ページと、七ページの書類も出したということが明らかになっていますし、これまた民間の人らにも渡っている書類でありますから、これは理事会、委員会に諮って、外務省から開示をしていただきたいというのが先ほどの東郷さんのまた参考人としての陳述でもありましたから、それに沿って手続をとっていきたい、こう思っております。

服部委員 情報公開法が施行される前に廃棄したのではないか、その当時の北米局長という話が出ましたけれども、当時の北米局長は、多分、今、某国の現大使だろうというふうに思うんですが、もし、仮にの話なんですけれども、密約を隠すために意図的に廃棄したというのであれば、これは一つの犯罪行為というふうに認識してもよろしいんでしょうか。外務省として、当時の考え方としていかがでしょうか。東郷参考人にお聞きします。

東郷参考人 私、この御質問に対しては、元外務省に在職した者として、できればお答えを差し控えさせていただきたいと思います。これは非常に重要な問題であり、まさに今の外務省において判断していただきたいというふうに思っておりますので、ぜひ御理解を賜りたいと思います。

服部委員 先日、東郷参考人の新聞記事をちょっと読ませていただいた中で、事前協議がないから核持ち込みはないんだ、それに関連して、「「ないと信じています」というところに万感の思いが入っているんです。」ということをおっしゃっているわけですね。非常に意味深な言葉であるわけですけれども、当時外務省としては、現実としては核の持ち込みはされているというふうな認識だったんでしょうか。

東郷参考人 当時、条約局長として勤務しておりましたときの私の認識としましては、核の持ち込みはあり得た、あり得るというふうに思っております。

 ただ、これはもちろん九一年以前の話でございまして、九一年以降はもうアメリカは艦船に核を積んでいないということをはっきりさせておりましたので。しかし、九一年以前の状況に関しては、先ほど申し上げましたように、アメリカは、NCNDということで、艦船の上に核を載せているか、載せていないかは言わないと。その状況のもとで、載せているかもしれないという発言がアメリカ側の方から幾つか、ラロックを含めて出ていたわけであります。したがって、それはあり得る。

 それに対して日本が、先ほどの万感の思いの点でございますけれども、日本の方は、日本の国内世論上、どうしてもそれを認めることはできない、しかし、アメリカとの安全保障関係は、これは維持しなくちゃいけない、そのはざまから、事前協議でアメリカが言ってこない以上、日本は核の持ち込みがないということを確信します、信じていますということを国会でそれ以降ずっと申したわけで、これは信じるという世界の話でありますので、アメリカの方は、日本がそういうふうに信じているということに関しては何も言わない、黙って聞きおく、そんなふうに信じていると言われても、NCNDからすれば、あるかもしれない、ないかもしれないですよということは言わない。お互いにこの問題は深追いしないという形で冷戦の時代の日本の安全保障というのが結果的に担保されたということだというふうに認識しておりました。

服部委員 その評価はさておき、外務省としては、その当時は核は持ち込まれているというふうに認識をしていたということですね。九一年以前はあり得ると。

東郷参考人 外務省としてはという御質問でしたが、私が今申し上げているのは、条約局長として一年間勤務をしていた間の私の認識でございまして、私は、九一年以前、NCND政策のもとにすれば、それは持ち込みはあり得る話だというふうには思っておりました。

服部委員 もう一つお聞きしますと、この六九年の合意議事録、ニクソン大統領と佐藤首相が合意したこの議事録ですけれども、これが日本のというか、この前の報告書の中では、引き継がれていないと。しかし、先ほどもありましたけれども、アメリカ側にしたら当然引き継いでいる、そういう認識だったんでしょうか、当時。東郷参考人のお考えとしては。

東郷参考人 私は、先ほども申し上げましたけれども、これはアメリカ合衆国大統領それから日本国総理大臣としてのニクソンと佐藤総理が署名した文書であり、普通の国家間の、政府間のやりとりとしては、恐らくアメリカ側は何らかの形で引き継ぎがされていただろうというふうに思う種類の文書だというふうに、若泉先生の本が出たときも思いましたし、今もそう思っております。

服部委員 私もそういうふうに理解するわけですけれども、ただ、その合意議事録が外務省になくて佐藤首相の個人宅にあるということは、本当に国民の目から見たら非常に理解しがたいことなんですけれども、その点はどういう御感想でしょうか。あるいは、何でそういうことになったのか、御存じであればお答えいただきたいと思います。

東郷参考人 まず、何でそのようなことになったかということに関しては、一切承知しておりません。佐藤総理が議事録に署名され、なおかつそれを御自宅の方にしか残されなかったということに関しても、一切私は事情を承知しておりません。

服部委員 それでは、時間となりましたので、質問を終わらせていただきます。

 参考人の皆様、大変御苦労さまでした。ありがとうございます。

鈴木委員長 次に、河野太郎君。

河野委員 自由民主党の河野太郎でございます。

 参考人の皆さん、きょうは、お忙しい中、ありがとうございます。

 核持ち込みの密約に絞って質問をさせていただきたいと思うんですが、まず森田参考人にお伺いをさせていただきます。

 大平総理は急逝されてしまいましたから、総理としての引き継ぎはなかったと思いますけれども、大平外務大臣は、核のいわば持ち込みの密約について後任の外務大臣にはどのように引き継がれたんでしょうか。

森田参考人 これは私もつまびらかにはいたしませんが、まず、大平外務大臣がライシャワー大使から話を聞いたときに、これはなかなか簡単にいかない、だから自分として最大の知恵を絞ってやろうというつもりでございましたので、事務的な引き継ぎにはなかなか向かないというふうに考えておって、そして、具体的な口頭ないし文書による引き継ぎはなかったと私は思っております。

河野委員 私がこれを非常に不思議に思うのは、いわば国民に対して政府が真実を言わない、それはよかった悪かったという評価はあるとして、少なくとも真実を国民に対して言わないというのは、これは政治決断であったはずでございます。

 ですから、本来、この件については、外務大臣が次の外務大臣に、あるいは総理大臣が次の総理大臣に、政治家から政治家に引き継がれるべきものであったと思うんですが、文書では引き継がなかったにしろ、口頭なりなんなりで大平外務大臣は後任の外務大臣にこの件について引き継ぎをされていらっしゃいますか。

森田参考人 これは具体的には私自身つまびらかにいたしませんが、大平外務大臣の考え方としては、例えば、帰ってきてすぐに私や事務次官を呼んだという形跡がない、呼ばなかったと思いますが、そういうことについても何らか、それから、総理大臣にも報告はしたんでしょうが、具体的な解決方法については、自分が考えて、そして何か案を出さなければなかなか、事務的に話をして解決できるような種類の問題ではない。それがある意味では傲慢というか思い上がりという面もあったと思いますが、もっと自分が一生懸命考えれば何らかの解決案が考え出せて、そして、その案を持って関係者にこういうふうにしたらどうだということで、田中内閣のときはそれが一つのやり方だったわけですが、そういうふうに考えていたと思います。

河野委員 そうすると、外務大臣をおやめになるときに、そのままこの話は持っておやめになってしまった。つまり、大平外務大臣の後任の方は、こういう問題があるよというのを逆に外務省から言われて初めて後任の外務大臣はこの問題があることに気づいた、そういうことでしょうか。

森田参考人 そもそも大平外務大臣も、ライシャワー大使に言われるまでに、事務当局からこういう問題があるよというような説明は受けていなかったと私は思っております。そして、ライシャワー大使から話を聞いて、これはアメリカ側の言うのがもっともだ、日本の安全保障政策からいって、一々事前協議の対象とするのは適当でないというふうに思ったと思います。

 しかし、日本側としてこれを何とかしなきゃいかぬということも同時に思っておって、そして、私が思うのは、大平外務大臣としては、自分が全力で考えれば何らかの方法が見出せるに違いない、逆に言うと、自分しかなかなか簡単に見出せないような種類の問題ではないか、このように認識しておったと思います。

河野委員 斉藤参考人にお伺いをしたいと思います。

 斉藤参考人は、条約局長あるいは次官として何人かの外務大臣のもとで勤務されたわけでございますが、そのときに、外務大臣から次の後任の外務大臣に、この問題あるいはほかの密約の問題が外務大臣から外務大臣の引き継ぎの中で引き継がれていたのか、御存じでいらっしゃいますか。

斉藤参考人 引き継がれていたのかいなかったのか、私は存じません。

河野委員 東郷参考人、いかがですか。

東郷参考人 私が確実に申し上げられるのは、条約局長をしておりました間、外務大臣、総理大臣がこの問題についてどういう認識を持っておられたか、私がお仕えしたのは高村外務大臣でございますが、私の認識としては、高村大臣は御存じでおられたというふうに思っておりました。

 ただ、それが、どなたがいつ大臣に御説明したかということについては、はっきりした知識は持っておりませんでした。しかし、外務省の幹部から説明がされていたというふうに私は思っておりました。

河野委員 非常に不思議なのは、なぜ外務大臣がそれぞれこれを、要するに、これは政治判断で真実を隠しているわけですから、役所が事務的に引き継ぐべき問題ではなくて、政治家として、こういう問題があるからこれは対応してくれというのを次の政治家に本来言うべきものなんだと思うんです。

 大臣がかわるときには引き継ぎ書に署名をするわけですが、例えば、斉藤参考人は事務次官としてこの引き継ぎ書の内容は把握されていたと思うんですが、この引き継ぎ書の中にはこの件は含まれていなかったんでしょうか。

斉藤参考人 私は、大臣同士の引き継ぎ書を見たことがございません。したがって、その内容について把握しておりませんでした。

河野委員 外務省の大臣の引き継ぎ書は事務方が作成しているようでございますが、事務次官はその引き継ぎ書の内容を確認されないんでしょうか。

斉藤参考人 どういう問題を大臣に御説明するかということについては、もちろん事務次官のところで検討いたしますけれども、でき上がった引き継ぎ書自体、私の決裁を経るということはございませんでした。

河野委員 大臣の引き継ぎ書を最終的に決裁するのは大臣だけなんでしょうか。事務方がそれを見て決裁をするということはなかったんでしょうか。

斉藤参考人 私の知る限りでは、事務方の決裁というのはなかったと思います。

河野委員 先ほど東郷参考人から、二重丸をつけたもののうち、八つ公開がされていないというお話がございました。そのうち二つが、高橋・マウラの会談記録、もう一つが松永条約局長の日誌風のメモということでございますが、あとの六つが何であったか、御説明を賜りたいと思います。

東郷参考人 今手元にその文書を持っておりませんので、これは記憶で申し上げますが、松永条約局長の後、栗山条約局長、それから小和田条約局長、丹波条約局長、この残り三人の方々が、条約局長になる前、どの立場におられたかはちょっと記憶しておりませんが、ラロック発言とそれからライシャワー発言について、それぞれ意見書を書いて省内の議論に提出しておられました。

 栗山元条約局長のメモというのは今回の有識者委員会の中から発表されておりますが、それ以外の、小和田元条約局長、それから丹波元条約局長がそれぞれの機会に、ラロックであったかライシャワーであったか、ちょっと今記憶しておりませんが、書いたメモも非常に印象に残るものでありました。いかにこの問題を乗り越えるべきかということについて、あらゆる知恵を絞って献策をしようとしたメモであり、これが今回発表されていないようなのは、非常に残念でございます。

 主なものはそういうものだったと思います。

河野委員 そのほか、あと四つあると思いますが、御記憶にありますか。

東郷参考人 お答え申し上げます。

 ちょっと申しわけないんですが、今すぐ出てきません。

河野委員 この小和田、丹波、それぞれのメモは、この問題にどう対応せよと述べておられたでしょうか。

東郷参考人 私の記憶では、この諸先輩のメモの大筋は、非核二・五原則という方向でこの問題を収れんし、それをきちんと国民に説明すべきである、大筋そういう方向だったと思います。

 しかし、それぞれのメモにおいてのニュアンスの問題がありまして、ですから、これはメモをもう一度読んでみたいというふうに私も切に思っていた次第であります。

河野委員 その五つの箱を谷内局長並びに藤崎局長に引き継いだわけでございますが、そのときに、外務省は文書管理規程に基づいて文書番号というものがつけられると思うんですが、文書番号がきちんとそれにはつけられていたんでしょうか。また、その文書番号というのはどこかに記録されているんでしょうか。

東郷参考人 まず、引き継ぎの形につきましては、後任の条約局長でありました谷内局長には、その五つの箱と、それからその七ページの文書を引き継いだと記憶しております。その第一の箱の中の一番上に乗せて引き継いだ。

 藤崎局長に関しましては、その七ページの文書だけを封筒に入れて、しかるべき形で送付した。したがって、文書そのものは藤崎局長には引き継いでおりません。

 それから、番号等は一切とっておりません。

河野委員 そのときに文書管理番号をとられなかったというのは、それは何か意図があったんでしょうか。これは余り外へ出すべきものではないということだったのか、それとも個人的な書類であるという認識であったのか、その辺はいかがでしょうか。

東郷参考人 個人的な書類というのは当たらないと思います。

 しかし、累次御説明しましたように、これは、条約局長室の中に先輩の条約局長の方々が残し、それから私も若干それに加えた、そういう条約局長室の中に残っていた書類であり、そういうものとして後任の条約局長に引き継げば、それを見て十分彼はその文書の内容、重みというものを判断して、きちんと対処してくれるだろうというふうに思っておりましたので、文書番号をとるということは全く考えませんでした。

河野委員 先ほど、有識者委員会にその七ページのメモのコピーを渡された、そこで返還したよ、そういう気であるというふうにおっしゃいましたが、それはそうであるとして、そのもとになっているフロッピーというのはまだ物理的にファイルを内在したまま存在しておりますか。

東郷参考人 存在しております。

河野委員 わかりました。

 先ほどの服部委員の質問の中だったかと思いますが、東郷参考人が、九一年以前持ち込みがあり得るというふうにおっしゃいましたが、先ほどの高橋・マウラの会談記録の中で、持ち込みというのは陸上であるというようなことをおっしゃいましたが、そうすると、先ほどの核持ち込みがあり得るというのは、核が陸上に持ち込まれていたことがあり得るという認識なのか、それとも、NCNDで船に積んだ核兵器が港に入っていることがあり得るという御認識なのか、そこをちょっと明確にしていただきたい。

東郷参考人 船に載った核兵器をNCNDのもとに、実際問題、アメリカが日本の港に持ち込んでいることもあり得るという点を申し上げました。

河野委員 若干、用語がこの件に関して問題になっているのは、持ち込みというのが日本語で何を指しているのか。これは陸上へ揚げるのが持ち込みなのか、一時寄港も持ち込みなのかということがあると思うんですが、具体的に、持ち込みというのは定義上どういうことで、核を積んだ船が港に入っているのは何と呼ぶのか。また、それぞれを英語で外務省、国務省が会談するときには何と呼んでいるのかを、東郷参考人に教えていただきたいと思います。

東郷参考人 持ち込みはイントロダクションという言葉が使われていたと記憶しております。それから、寄港、これは私の今の記憶ではポートエントリーであったのではないかと思います。それ以外に、通過、トランジットという言葉が使われておりました。

河野委員 トランジットというのは、領海をいわば無害通航するようなことがトランジットなのか、船に積まれた核が一時寄港をして出ていくのもトランジットなのか、その辺はいかがでしょうか。

東郷参考人 この辺は、ちょっと記憶で申し上げますが、過去の国会答弁等で、トランジットというのが、無害通航という形で本当に領海の中をさっとかすめて通っていくのか、それとも、領海の中に入って、しばらくの間、しばし遊よくしてそのまま出ていくというのがトランジットなのか、そういう点について国会の中でいろいろ議論があったというふうに記憶しております。

 したがって、通過というものがそもそも何なのか。先ほど斉藤参考人の方から、三木大臣のときにその通過についての定義が変わったという話がありましたけれども、まさに、その通過、すなわちトランジットが何かということ自体が過去の経緯での大きな問題の一つになっていたように記憶しております。

河野委員 斉藤参考人並びに東郷参考人にお伺いをいたしますが、この有識者委員会は、四つの密約について調査が行われました。お二人が知る限り、これ以外に密約がありますか。また、もしあるとすれば、どんなことに関する密約がありますか。

斉藤参考人 この四つが密約かどうかという点は別にいたしまして、有識者委員会はいろいろ区別をして慎重に言葉を使っていると思いますが、これ以外に密約あるいはそれらしいものがあるかという御質問に対しては、私はないと思っております。

東郷参考人 私もないと思っております。

河野委員 斉藤参考人が事務次官でいらっしゃったときに、あるいは条約局長であったときに、三十年ルールで公開の時期が来ることになっていた文書というのがあると思いますが、その公開の時期が来ていた文書の中で、実際どれぐらいのものが、割合として何%のものが公開をされたのか。

 それから、公開をされなかったものについては、これはだれの判断で公開をしないということにしたのか、教えていただきたいと思います。

斉藤参考人 公開される割合についての数字というのはなかなか難しい御質問でございますが、非常に大ざっぱなことを申し上げれば、審査の対象になった文書の八割程度が公開されていたのではないかと思います。

 公開、非公開の最終決定権がだれにあるかということでございますが、これも記憶で申し上げますが、外務省の文書公開規則、あるいはその正確な名前はちょっと違うかもしれませんが、それによれば、私は官房長の決裁によるということになっていたと記憶しております。

河野委員 斉藤参考人が在職中、三十年ルールで公開されなかった、そしていまだに公開されていないもの、例えばどんなものがありますでしょうか。

斉藤参考人 例えば、日米安保条約の交渉に関する一九六〇年代の記録。全部ということではございませんが、その一部。それから、日ソ平和条約交渉に関する文書。これらは公開になっておりませんでした。

河野委員 その文書は、こうした密約について調査が行われ、内容が公開されるようになった今日、当時非公開とされた文書が今日公開されることについて、まだ問題があるとお考えでしょうか。

斉藤参考人 それはケース・バイ・ケースであろうと思います。今回、こういう新しい状況のもとで再審査をしても、やはりこれは公開できないという結論に至る文書というのはあり得ると思います。

河野委員 それは、どういう理由で公開できないということになるんでしょうか。

斉藤参考人 外務省の公開、非公開の基準といたしましては、公開の原則の例外として、国の安全を害するもの、それから個人の利益を害するもの、この二つが挙げられておりますが、そのいずれかに該当すれば、やはり公開しないという結論になるかと思います。

 具体的に、もちろん今から私が予断するようなことは申し上げるべきではないかもしれませんけれども、日ソ平和条約交渉の記録、これはいまだに交渉が続いている問題でございますので、これを公開するということはこれからのロシアとの間の交渉に悪影響を与えることがあり得る、そういう判断になることもあり得るかと思っております。

河野委員 最初に東郷参考人がおっしゃいましたように、この核持ち込みの密約は、いわばアメリカがNCNDという原則を持っていて、核を持ち込んでいるかどうか言わない。ところが、日本側は、船に積んだ核が一時寄港するあるいは通過するのもだめだという非核三原則を持っている。これは明らかに相入れないわけでして、ニュージーランド路線をとるというわけでなければ、論理的にはこの密約の形にせざるを得なかったんだろう。これがよかったかどうかという判断は別として、論理的にはもうこうやる以外には選択肢がないというふうに思います。

 九一年に戦術核を船からおろした、だから、今の時点では、アメリカはNCNDと言っているけれども、実は日本の非核三原則と抵触をする可能性は余りないから大丈夫なのかもしれませんが、このNCNDの原則があるということは、有事に当たり、アメリカがもう一度戦術核を積んでいる可能性がある、あるいは戦術核は積まないけれども戦略核は積んでいる可能性がある、あるいは船には積まないかもしれないけれどもほかのものに積んでいる可能性があるということを考えると、アメリカがNCNDと言っている以上、あるいは北朝鮮の核ミサイルを抑止するために日米安保で抑止をするんだと言っている以上、やはりここで非核三原則堅持と言ってしまうと、アメリカの核兵器がどうなっているのかという説明を国民に対してできない以上、またあの密約の状態と同じように戻ってしまうのではないかと私は思うんです。

 この調査が行われた後、今となっては、少なくとも、アメリカが持ち込んでいるかあるいは一時寄港しているかどうか明確にしないというアメリカのポジションが変わらない以上、日本として非核三原則と言ってしまうわけにはいかないのではないか。

 先ほど、小和田、丹波メモ等で非核二・五原則という話があったと思いますが、斉藤、東郷両参考人に、この調査が行われた後、日本としてどういう非核三原則を打ち出すべきか、個人的な御意見をお伺いさせていただきたいと思います。

斉藤参考人 そこは、まさに政治判断が行われるべき事項であろうと思います。

東郷参考人 私は、冒頭の十分陳述の最後に申し上げましたが、確かにアメリカはNCND政策は変えていない、他方、現状においては艦船の上の核兵器というのは積んでいない、これが昨年の五月から私がもう一回勉強し直したまさに現状でございます。そうであるならば、日本が非核三原則ということを日本の政策として堅持、打ち出していても、実質的に日米間の安全保障上の問題は生じないというのが現時点の私の認識であります。

 そうであるならば、非核三原則というものを堅持しているというのは一つの政治判断だと思いますが、まさに委員御指摘のように、それでは、現在の東アジア、太平洋における安全保障環境というのが変わって、実際、アメリカの船の上に核兵器がまた積まれ得るような事態が起きたときにどう考えるのかという非常に重要な問題は残ってしまいます。これに関しては、私は、そういう事態になったときには日本は非核二・五という立場に立つのが最善ではないかというふうに考えております。

河野委員 私が前外務委員長としてこの密約の調査をすべきだと申し上げたのは、北朝鮮が核兵器を、核を積んだミサイルを配備する時期がそう遠くないうちに来る、すると核抑止の議論を日本は始めなければならないだろうし、有事ということが起こり得る時期がもう一度来るだろう、そのときにこの密約を隠して建前で議論をしても余り意味がない、これを表に出すことによって国民の皆様に今の安保の現実をきちっと理解していただいた上で、日本として核の問題にどう対応するのか、本当に真摯に現実的な議論をせにゃいかぬと思って、この調査をやるべきだということを申しました。

 岡田外務大臣がきちっと調査をして、やり方その他にはいろいろな御意見があるかもしれませんが、少なくともここまでの調査がまず行われたわけですから、我々は建前の世界に戻るのではなくて、現実的にどうしたらいいのかという議論をここから始めなければならぬというふうに思っております。

 四人の参考人に感謝を申し上げて、私の質問を終わります。ありがとうございました。

鈴木委員長 次に、赤松正雄君。

赤松(正)委員 公明党の赤松正雄でございます。

 きょうは、四人の参考人の皆様、大変にお忙しいところ、貴重な御発言、御主張をしていただきまして、大変にありがとうございます。

 鈴木委員長も含めて、戦後日本史、とりわけ近過去の日本の外交をめぐって大変重要な役割を果たされたというか、大変に歴史的な、歴史的人物を前にしてこうやって質問ができるということは大変にありがたい機会だと。ただ、先ほど来、同僚の委員の皆さんが私が質問しようと思ったこともされたり等しまして、何からどうしようかと多少混乱をしているところでございます。

 まず、斉藤参考人にお聞きしたいんです。

 斉藤参考人の話を聞いていて、非常に基本的な部分でぜひ教えていただきたいなと思いますことは、海部総理大臣までのときは通常、引き継ぎがなされていた。海部さんの後、宮沢総理大臣になって以降、最後の短い期間でありますが、宮沢さんからその後、細川、羽田そして村山と合計四人の政権におつき合いされて、明らかにくっきりと、斉藤参考人がかかわられた前と後ろで大きな差が出ている。そして、先ほど来、同僚委員からの質問に対して、そういういわゆる報告があったとき、なかったことについて自分は知らないという御発言をされました。

 その辺の大きな差、何ゆえにそういう差が出てきたのかということを、事実関係云々ではなくて、今の時点でどのようにそれを評価されるというか、認識をされているか、これについてまずお聞きしたいと思います。

斉藤参考人 私の数代前の事務次官までと私のときのこの問題についての取り扱いは、明らかに違っておりました。それは今度公表された文書でも証明できるところであろうと思います。

 どうしてそうなったのかということにつきましては、これは私の推測でございますけれども、九一年以降、アメリカは艦船には核兵器を搭載しないという政策に変わりましたので、この問題が現実の問題として起こってくる可能性はなくなりました。したがって、この問題について各総理にお話をする必要がなくなったという判断がいずれかの時点でなされたのではないかと思います。

赤松(正)委員 今、斉藤参考人が、一つのキーワードというか、キーイヤーとしての九一年ということをおっしゃいました。その九一年以降、アメリカのいわゆる戦術核をめぐる、とりわけそれまでの政策の方針に大きな転換があったからその必要はなくなったんだというふうに思うとおっしゃいました。

 実は、この部分は、今の現政権の外務大臣である、この調査を命じた岡田外務大臣自身が、そういうふうな大きな起点としての九一年以降について、外務省当局並びにそれを受けての政府の判断というものが、その時点で、言ってみれば引き継ぎをしなくなったという部分で、今参考人がおっしゃったように、大きくそれ以前と変わっていながら、それ以降の政権の判断というものが従来どおりであるというふうなことについて、御自身、大変重要なお立場につかれて、そういう問題が大きな関心であったことは間違いないと思うんですけれども、今、岡田さんがそのことについて、正確な表現は覚えておりませんが、非常に悔しい思いをするというふうなことを言っておるということについて、斉藤参考人はどのように感じられますでしょうか。

斉藤参考人 その外務大臣の発言は存じませんでしたけれども、もしただいまの御質問が、九一年以降、現実の事態、可能性がなくなったのにその前の事態と同じようなことが続いた、なぜ国民にそれを知らせなかったのかという御質問であったとすれば、私は、少なくとも一つの理由は、核兵器の艦船搭載はなくなりましたけれども、日本をめぐる情勢というのは、冷戦構造そのものがなくなった後も、いわば冷戦的な状況が続いておりました。日本の隣には、独裁国家であり、特に近年、ミサイル実験をし核実験もしている国が存在しておりますので、日本の安全を守るため何が必要かという状況には基本的には大きな変わりがない、そういう判断のもとに、それまでの、九一年までの、何という言葉を使えばいいのか、お互いの了解というのは、核兵器の艦船搭載はなくなったけれどもそのままにしておいた方がいいという判断がなされたのではないかと思います。

赤松(正)委員 東郷参考人にお伺いします。

 東郷参考人がお書きになられた、赤いファイルはどこへ行ったかというのも読ませていただきました。先ほど来のお話も聞かせていただきました。そういう流れの中で、今、河野委員から、八つの大事だと思われるファイルの中身についても少し詳しく質問がありました。

 私、聞いておって印象的なのは、東郷参考人が非常に印象に残ると言われた、ないメモが小和田メモとそれから丹波メモ、こういうふうにさっきおっしゃったと思いますが、この二つのメモの中身は、さっき、二・五原則を主張していたというふうに受けとめましたけれども、もう少しその中身について、何ゆえに印象に残ったのか、印象に強いインパクトを感じられた中身、それから、二つの丹波メモと小和田メモに違いはあったのか、全く同じなのかメモに違いはあったのか、そのあたりをお願いします。

東郷参考人 小和田メモも、丹波メモも、それから今回公表されました栗山メモも、ラロック発言それからライシャワー発言という、当時非常に大きなインパクトを持って受け入れられた発言が出た後に、この問題をどうしたらいいかということについて必死になって考えたメモでありました。そのことは、私、鮮明に記憶しております。ただ、基本的にはそのファイルを整理しながらざあっと読み込んでいっただけの作業でありますので、正確な内容は記憶しておりません。

 ただ、ライシャワー発言、それからその前のラロック発言、いずれについても、外務省の事務当局が、もうこの問題について国民にうそをつきたくない、そのためにどうしたらいいかということの方向性としては、これは非核二・五原則ということをはっきり国民に説明すべきじゃないかという議論がどの紙も中心であったというのが、私の記憶でございます。

 ただ、具体的にどうなのか。それぞれもちろんニュアンスに差がありました。ありましたけれども、そういう点は全く記憶しておりません。

赤松(正)委員 ということは、確認ですが、先ほどのお話では高橋さんとマウラさんのいわゆる会議のメモ云々もありましたけれども、一九六〇年の時点で、東郷参考人がいろいろな資料をごらんになられて、明らかに、その時点、ほとんど日米安保条約改定の時点から、言ってみれば、先ほど来強調しておられる二・五原則、つまり核を搭載した艦船が日本にしばしば寄港しているということについての事実認識というものは、そうした資料からも厳然と持たれていた、こういうことですね。

東郷参考人 今、メモで申しましたのは、六八年の北米局長がつくったメモで、この問題については、それぞれ政治的、軍事的に動きのつかない問題であり、さればこそ米側も我が方も深追いせずという考え方が固まった後の話でございます。

 今の御質問は、六〇年安保改定のときに何が起きたのかという点でございまして、この点については、この東郷北米局長の六八年一月二十七日付のメモで、「安保条約改定交渉、特に事前協議条項に関する交渉を通じ、我方は総ての「持込み」(イントロダクション)は事前協議の対象であるとの立場をとり、艦船航空機の「一時的立寄り」について特に議論した記録も記憶もない。」というふうに書いております。

 私は、条約局長として当時これを読みまして、東郷北米局長は、本当にイントロダクションという話をするのであれば、これは全部の、海におけるイントロダクションも含めている、日本側はそういうふうに判断していた、したがって、そこから両方の認識が生まれたのではないかと当時思いました。当時そう思いました。けれども、昨年来勉強し直しまして、どうもちょっと違うんではないかと。

 それは、今回の有識者委員会の先生方がいろいろな例を挙げて述べておられるように、東郷北米局長を含めて、アメリカの言うところのイントロダクションは陸のものだけであって、海のものについてはNCND上の対応しかしないんだということについての若干の認識があったんじゃないのかと。ただいまお読みしました、すべての持ち込みは事前協議の対象であるとの立場をとる、この表現の中に、そういう含みがあるのではないかというふうに今は考えるようになりました。

 しかし、いずれにせよ、認識に差があったということは事実だったと思いますし、その認識に差があったということを政府全体として受けとめ、それが今後の方針としてきちっとなったのは、実に、六八年の飛行機の中で会談したことの記録の最後の「五」に書いた半ページの表現によって、それがその後の方針になったということを、今回、文書が発表されまして改めて読ませていただきました。

赤松(正)委員 ありがとうございます。

 東郷参考人、ちょっと視点を変えますが、御自分の後の条約局長が谷内さん、その重要なパートナーとしての北米局長が藤崎さん。私、御両人ともよく知っているんですが、このお二人に引き継がれたからといって、この二人があたかも破棄にかかわっているというふうには私はもちろん直接的には結びつけないわけです。つまり、その後に、次のまたさらに条約局長とか北米局長もいるわけです。

 そこで、ぜひお聞きしたいのは、東郷参考人が御自身でさまざまな資料を読み込んで、そしてフロアに資料を並べていって、外務省の仲間、後輩の皆さんの手をかりながら順次その資料を整理していって、だんだん高い山が低くなったんだということもおっしゃっていますけれども、こういった作業は当然外務省の中で、東郷がこういうことをやった、その結果こう思っている、ああ思っているというようなことを、谷内さんとか藤崎さんとか、その二人だけではなくてそれ以後につながる、つまり同僚、仲間の皆さんと、そういう資料をめぐる議論というか、あるいは、それを通じて自分がこういう印象を受けたんだというふうな話をなさった記憶はおありなんでしょうか。

東郷参考人 資料を整理して引き継いだ後は、どなたとも話をしていないと思います。

 ただ、さっき申し上げましたように、若干、こういう思いを持って資料をつくったよという話は、引き継ぎとして後任の条約局長にはいたしたと思っております。

 しかし、その資料をつくる過程で、一年間条約局長として勤務している間に、この問題について若干の話は同僚の者とした記憶はあります。

赤松(正)委員 次に、西山参考人にお伺いします。

 先ほどの冒頭でのお話、あるいはまた委員とのやりとりの中で、いわゆる旧大蔵省、今の財務省の今回の調査は非常に真摯な取り組みがうかがえるという意味合いのことをおっしゃいました。

 実は、私、ことしの予算委員会で岡田外務大臣並びに菅財務大臣を前にして、要するに、今回のいわゆる密約の調査は単に外務省だけの問題に終わらせてはいけない、なべて政府全体としてこの調査に当たるという姿勢がないと、民主党という新しい政権にかわって、言ってみれば、単純に岡田さんが外交の流れの中で大きな得点を稼ぐ、適切かどうかわかりませんけれども、そういうことに終わらせてはいけない、日本国全体としてこの問題を受けとめて、そして政府も挙げてやるべきだ、こういうふうに申し上げたんです。

 私の事実認識が間違っているのかどうか、これは西山参考人に聞くのも変な話なんですが、私の認識では、岡田さんの指示を受けて外務省は外務省でやり、財務省も岡田さんの指示を経て財務省の調査をやった。それぞれ役所の調査は出てきた。ただ、外務省の全体の報告書の中に四つのパートが分かれていて、四番目に旧大蔵、財務関係の話が出てくる。その話は出てくるけれども、そのことは旧大蔵関係の調査をした財務省の調査結果を踏まえたものになっていない、こう思うんですが、そのあたり、西山参考人はどういうふうな認識をしておられるでしょうか。

西山参考人 沖縄の施政権返還に伴ういわゆる密約というものは、その前に、大きなテーマというのは、米軍の基地を最大限自由に使用することが一つですね。核は貯蔵だけだ、そのために米軍の基地を自由に使用できるというのが最大の目標ですね。そのために核は一種のカードの役割を果たしたということですね。それで、結局、最後には貯蔵だけ。

 それから、もう一本の柱は、私は、核の問題それ以上に、基地の問題以上に、やはりアメリカの関心は財政問題だったと思うんですね。それで、その財政問題についてアメリカは徹底的に日本にいろいろな要求をしてきた。そのときに対したのは、御存じのとおり、外務省は全くタッチしていないんですよ。この沖縄返還交渉の財政問題に関する限りは、六九年の佐藤・ニクソン共同声明で大体九五%終わったんですね。それで、あとの、要するに、二千万ドルの積み増しと今度出ましたけれども、その二千万ドルを積み増した時点というのは、七〇年の後半から七一年のときに初めて外務省が入ってきて、そして最後の条約協定化の作業の中に吉野アメリカ局長と井川条約局長が入ってきたんです。それ以前は、それこそ何も知らないような状態。福田大蔵大臣の専権事項です。そして、柏木財務官。それで、福田さんが佐藤総理に一体となって指導していった、こういう構図なんですね。

 外務省なんというのは外務大臣さえも知らない、そういうような状態でずっと推移しまして、一番難しくて一番厄介な問題の財政問題というのはそういうように、それで、そのときにアメリカに対して日本側が頼み込んだのは、とにかくアメリカの財務省と我々の大蔵省がこの問題をやるんだから、これを絶対におまえたちも国務省、外務省のペースにしないでくれよと言って頼んでいるんですよ。それで、共同声明には、とうとう財政問題は、全部まとまったのにもかかわらず、そのときも福田大蔵大臣の要請で、一行も載せないでくれといって削除しちゃった。

 そういう経過から見てもわかりますように、今度の密約調査だけじゃなく、ほかの核の問題は、直接戦闘作戦行動の問題はやはり主流は外務省でしょうけれども、もう一つの問題、四百万ドルという形だけで外務省が設定しちゃったものですから、これの設定の仕方がもう間違っているんですよ。財政問題全般の密約を解明する、そういうタイトルで、そしてそれは岡田外務大臣と菅財務大臣の共同作業でそれぞれ合同チームをつくってやる、そういう形式によって初めて密約の全体像が解明されたはずなんですけれども、残念ながら、断片で切り離しちゃって、それぞれ個々の個々のという項目ごとでやり出したものですから、全く氷山の一角しか解明されない。

 ですから、私は、これは菅さんの方の問題と外務大臣の問題を最初から一緒に作業して、今あなたがおっしゃったように全体に迫っていくような形でやれれば、もうちょっと違った結論が出て、そしてそれは国民にもわかりやすい形で出るんですけれども、今の場合は全く、はっきり言えば、財政問題の密約に関する限りはほとんど、全体像のうちの三〇%もいっていないというような状態でございます。

赤松(正)委員 今、西山参考人が言われたことは、私もかねて思っていたことと全く一致するなという思いです。つまり、外務省発でいっていて、先の方が分かれていっちゃっている、全体をとらえていないという感じが強くいたします。

 西山参考人に最後にお聞きしたいのは、冒頭におっしゃったことの一番最後に、本当の問題はいわゆる思いやり予算という、あの時点から、後年度負担という形でアメリカが日本にそういうことをしむけてきた、こういうことが一番大きい問題だというふうなお話がありました。

 私は、実は大森実さんの学校の後輩でございまして、そういう意味では、かねて同じ職場にいらした、どちらが先輩か後輩かは若干の差はあるんでしょうけれども。かねてこういう日米関係というものに関心を持ってきましたけれども、要するに、一言で言えば、日本はいまだ真実の意味で独立していないということで、過去において、思いやり予算なるものを見たときに、そういうことかという妙にわかりやすい理解をしてしまうところがあったわけですけれども。

 先ほど来強調しておられる、むしろ財政の問題が日米関係で大きいんだということは、どうでしょう、その当時はそうだったと私は思いますが、今もなおそうなんでしょうかということが一つ。

 それからもう一つ。これは最後にお聞きしたいんですが、御自身の岩波新書の本の一番最後のくだり、ある種、全体とそれから終わりの部分に感銘を受けたんです、私も新聞記者の端くれでございましたので。つまり、言ってみれば若い記者に対する思い入れ、一生懸命追っかけているということもあると同時に、もう一方で、メディアも含めて全体に対する厳しいお言葉がさっきありましたが、その辺について、もう時間も来たようですので、多くを語っていただかなくてもいいですけれども、簡単にポイントを、おくれて来る後輩に聞かせていただきたいと思います。

西山参考人 要するに、核の問題は、今非常に論争されていますけれども、沖縄に対する核持ち込み、それからいわゆるあのときの艦船寄港の核持ち込み問題、私は、はっきり言って、九一年のブッシュ政権声明、今のヨーロッパ、ベルギーを中心にして戦術核を一斉に撤去の動きです、もうほとんど沖縄に、ましてメースBなんてもう廃止されていますし、B61を今持ってくるなんという、もうそんなことは全く核戦略体系からいって必要ないんですから。だから、朝鮮半島に対する直接戦闘作戦行動、これも沖縄の施政権返還に伴う共同発表、それからその後の周辺事態法、これでもう全部クリアしちゃったんですよ。

 それで、結局、残るのは何かといったら、今、在日米軍の日本に対する最大のよりどころというのはやはり財政問題だと思うんですよ。アメリカの今の経済状況、財政状況から見ても、それからまた今後のいわゆる新しい不安定の弧対策にしても、グアムに移転するだけでも、日本にあのグアムのインフラ整備を依頼してくるぐらいの状態ですからね。だから、私は、財政問題というのは日米同盟を支える一つの大きな柱、はっきり言えば、日米安全保障体制の枠組みの中では一番大きな要素になってきたと思うんですよ。

 要するに、中国、朝鮮半島に対する脅威論が今言われていますけれども、それよりも、相対的に言えば、やはりアメリカの方向は、中国、朝鮮半島よりずっと不安定の弧の方に向かっているという、戦略体系の変更から見ても、これからやはり財政問題の比重の方が大きくなるという認識です。

 それから最後に、メディアはもちろん、私は若いメディアの人たちとたくさん接触しておりますけれども、メディア個人個人の人たちの中にも、非常に優秀で、時代認識も正確だし、問題意識も非常に立派なものを持っている人がいます。いますけれども、結局、彼らが入っている一つの組織体だとか全体の動きを見ると、まだまだメディアとしての本来の、要するに機能、はっきり言えば、権力に対する監視機能であり、権力に対する正確なる情報伝達、権力の問題を主権者に正確に緻密に伝達する、そういう非常に重要な機能があるんですけれども、その面ではまだまだ相対的に不十分であると私は思います。

 それから、若い記者たちが、今からそれらの問題点を十分掌握して、新しい一つのメディアの世界をつくっていっていただきたいというふうに思います。

赤松(正)委員 終わります。ありがとうございました。

鈴木委員長 次に、笠井亮君。

笠井委員 日本共産党の笠井亮です。

 きょうは、四人の参考人の皆さん、ありがとうございました。最後になりますが、よろしくお願いいたします。

 端的に伺ってまいりますが、まず東郷参考人。

 一九六〇年の一月六日の日米間の討論の記録、レコード・オブ・ディスカッションですけれども、これについて先ほど触れられましたが、条約局長の地位というのは、こういう文書を知り得る、そういう部署だったということで理解してよろしいでしょうか。

東郷参考人 そのように御理解いただいてよろしいと思います。

笠井委員 東郷参考人自身は、この討論記録をいつ、何によって知り得たんでしょうか。

東郷参考人 少なくとも、今確実に申し上げられるのは、前任者からの一束の資料を引き継ぎまして、それを整理した。整理していく過程の中で、はっきり、討議の記録という文書があったということを認識しました。

笠井委員 東郷参考人は一九八六年七月から倉成外務大臣の秘書官をされておりましたが、いわゆる六八年の東郷メモによりますと、この年の八月四日に、倉成新大臣に口頭にてブリーフ済みというふうに書かれております。そのときに、実はこの討論の記録というのを承知したんじゃないんですか。いかがでしょう。

東郷参考人 倉成大臣にこの点についてどういうブリーフィングをされたかということについては、私、全く記憶がありません。今から推測するに、このブリーフィングは、当時の柳谷次官から大臣に行われ、私はその席にはいなかったと思います。

笠井委員 斉藤参考人に伺いますが、参考人は在任中にこの討論の記録の存在を知っておられましたか。

斉藤参考人 知っておりました。

笠井委員 お二人に伺いたいんですが、どういう性格の文書だと説明を受けて了解しておったのでしょうか。

斉藤参考人 説明を受けたことはないんですけれども、最も直接にこの討議の記録を見ましたのは、アメリカの文書公開によってこの文書が公開されて、それを入手した日本人の新聞記者から見せられたときのことでございます。それは一九九九年、多分、私がまだアメリカにいるときであったと思います。

東郷参考人 累次申し上げておりますように、この問題については、実際に起きていることと、それから政府が説明してきたことの間にギャップができてきたというふうに当時も思っておりました。そして、そのギャップのできてきた経緯の中で、日米間で取り交わされた討議の記録という文書がある、その文書の解釈、その文書の位置づけによって、この問題がどういう問題であるかということが明らかになる、交渉上、そういう意味を持っている文書だったというふうに理解していたと思います。

笠井委員 先ほど東郷参考人が、条約局長はこういう文書を知り得る立場だったと言うんですが、斉藤参考人はその条約局長時代は知らなかったということで、そういうことなんですか。

斉藤参考人 知らなかったと申し上げたわけではございません。条約局長は、そういう文書の存在を知る立場にございます。

 私自身、大変残念なことに記憶がはっきりしていないので、先ほどは、九九年の記憶がはっきりしている方を申し上げたんですが、多分、条約局長のときだったと思いますが、この討議の記録という文書を見たことがございます。ただ、私は、それを読んで、これが密約に当たるという認識はいたしませんでした。したがって、必ずしもはっきり覚えていないということになっております。

笠井委員 東郷参考人に伺いますが、この討論記録というのは、岸・ハーター交換公文として公表された第一節の部分と、非公表、秘密の第二節から成っております。

 第二節には、同交換公文は、以下の諸点を考慮に入れ、かつ了解して作成されたとあって、AからDの記載があって、そのCは、先ほどエントリーというのが寄港という意味だというふうに理解しているとおっしゃったことを含んでいるわけですが、これらは交換公文の解釈についての了解事項ということで理解されていたんでしょうか。

東郷参考人 この文書が安保条約の改定交渉のときにつくられたほかの文書とどういう位置関係にあるかということに関しては、私は特段の意見を形成しませんでした。こういう文書がある、その文書が、先ほど申し上げたように、核兵器の日本への搬入に関連のある重要な文書だったという認識はありましたが、今御質問のありましたように、条約の本体、交換公文等とどういう位置関係にあるかということは、特段の意見を形成しませんでした。

笠井委員 一九六〇年一月六日にマッカーサー駐日大使がハーター国務長官に送った電報には、藤山氏と私は、以下のそれぞれについて、二つの英文の原本に頭文字署名し、取り交わしたということで、この文書の中に、協議方式に関する討論記録とあって、二つの原本はマル秘指定され、日本が保持する複写は後に極秘指定されると書いてあります。

 原本、英文の複写をお二人の参考人はごらんになったことがありますか。

斉藤参考人 複写を見たことはございますけれども、それが今ここで記述されているコピーと同じ文書かどうか、そこについては確信がございません。

東郷参考人 私の整理しました第一の箱の中に、この討議の記録のコピーというものはありました。ただ、先ほども申し上げましたが、その署名欄に何が書いてあったかということについては記憶がございません。

笠井委員 一九六〇年一月七日にマッカーサー大使がハーター国務長官に送った電報では、日米安保条約を構成する文書群というのがありまして、その一つに、藤山と私が一月六日に頭文字署名した討論記録というのを挙げております。

 二国間の取り決めですから、日本側にも同様の安保条約に係る文書群というのがなければおかしいと思うんですが、そういう文書群があることを、条約局長として東郷参考人は承知していましたか。

東郷参考人 当然、安保条約の本体、それからそれと一緒に署名された交換公文があったことは承知していたと思います。

 それから、今の討議の記録という文書があったということも、累次申し上げたように認識しておりましたが、全体としてどういう位置づけを持っているかということに関しては、その段階でそれ以上の研究はいたしませんでした。

笠井委員 一九六〇年一月九日、マッカーサー駐日大使がハーター国務長官に送った電報では、日米安保条約にかかわって、我々が承知している条約文書の全リストというのがあります。これがこのリストですが、十七項目ありまして、その十四番目にまさにこの討論記録というのが入っているわけです。

 このように、この討論記録を含めた安保条約に係る文書群についての全リストというのは、条約を結んでいるわけですから、日本側にも当然ありますね。

東郷参考人 そういうものはあったかもしれませんが、私のところにありました、条約局長室の中に残っておりました文書の中には、そういうリストはありませんでした。

笠井委員 斉藤参考人、いかがですか。

斉藤参考人 条約局長室には安保条約関連のファイルが幾つかございましたけれども、番号を付したリストというのは、私も見たことがございませんでした。

笠井委員 これはおかしいと思うんですよね。条約を二国間で結んでいて、アメリカが安保条約に係る文書群はこれだと十七あって、日本側にはそういうリストがなかったとなりますと、先ほど西山参考人が、長い間の思いを込めて、実感を込めておっしゃったんですが、米側が公式文書として国務省が認定したら、日本側がどう言おうと関係ないと。これはもう条約ですから、日本側にその証拠がない、これから協議事項、交渉があるわけですが、その文書がないというのは、一体条約の履行をお互いにどうやって担保するということになるのか。扱いをどうするかは別として、日米間の外交、その中での条約、取り決めの基本問題じゃないかと思うんですが、これがリストだというのが。

東郷参考人 外務省で、安保条約に関連するすべての原資料、ただし条約の署名本書を除きますが、それ以外のすべての資料というのは、北米局に所管されます。条約局にある資料は、それのコピーでございます。

 条約局長室の中には、さらにそのうちの一部が残されたということでございますので、条約局長室の中にその文書がなかったということは、条約の交渉全体のファイルになかったということを全く意味しません。北米局の中に、今回の調査で調べられた膨大なファイルがあったと聞いております。その中にそういうものがあるとすれば、当然残っているべきものだと思います。

笠井委員 これは大変ですよ。やはり米側の方で、この文書は条約文書群にあるんだ、これに基づいて、こうしようじゃないか、こうじゃないかと言われたときに、条約局長室と限定していないんですよ、外務省の中にあるかないか、条約局長がそれを知らないと、どれがその文書群かわからないということになったら、安保条約とはそういうものかということになっちゃうんじゃないか、私、これは非常に心配になります。

 では、東郷参考人に伺いますが、一般論で、二つの国の政府間で了解して作成されて、両国政府代表が頭文字で署名をする、そして秘密文書として扱う確認を行った場合に、これは両国政府間の公式の合意文書ということで、一般論でよろしいでしょうか。

東郷参考人 合意文書の意味でございますが、国際法上の権利義務関係を設定する約束としての合意文書という御質問であれば、必ずしもそういうことにはならないと思います。しかし、交渉の過程で、双方の考えるところを記録として残した、その記録として残す内容については意見の一致があるという意味であれば、合意文書というふうに申し上げてよろしいと思います。

笠井委員 そうだとすれば、当然、討論記録というのは、日米両国政府間の公式の合意文書であるということで間違いないですね。

東郷参考人 今申し上げたような意味であれば、そういうふうに御理解をいただいてよろしいと思います。

笠井委員 今回の調査の中で明らかになった内部文書の一つに、先ほど来のいわゆる東郷メモというのがございます。これは今回の報告書にもありますが、それ以降、政府内でこの問題に関する説明資料として使われてきて、歴代の首相、外相、外務省の幹部が対象で、欄外に、だれからだれにということで説明がついて、ずっと書いてあります。

 確認できるところであったように、佐藤政権から海部政権までの首相、外相などに説明をしたという記述があるわけでありますが、これは、東郷参考人は、いつ、どの役職のときに最初にごらんになりましたか。

東郷参考人 私は、今回発表されましたメモの第一ページ目にいろいろな書き込みのないものを条約局長室で読んだ記憶があります。書き込みがあるものについては、今回、資料が発表されまして初めて知りました。そのような形でこのメモが使われたということも、全く知りませんでした。

笠井委員 斉藤参考人は、これは公表されてから読んだというふうにおっしゃったんですが、実際に読むかどうかは別として、こういうものがあるとか、あるいは口頭でもそういうことについて聞いたとかということは、条約局長時代を含めて、それまでないんでしょうか。

斉藤参考人 ございませんでした。

笠井委員 これは、最初にメモで書き込みがあるところが、一番最初のところが佐藤条約局長ということになっているんですね。そういう形から回ってきているということでいっているわけですが、条約局長がこれを承知していないということでずっと来ていたことがあるということでしょうか。

斉藤参考人 恐らく、どのレベルで扱うかという判断が最高レベルで行われて、私が条約局長だった時代には条約局長のところには回ってこなかったということだったと考えます。

笠井委員 斉藤参考人は、最初のお話の中で、日米間に了解の差があると思っていた、それは、直接的には国会議事録を読んだときに、六八年の三月、四月で変わったというお話がありましたが、この国会議事録を読まれたのはいつですか。

斉藤参考人 そこが、申しわけないことに余り記憶がはっきりしないんですけれども、もしかすれば、私が条約課長をしていたときだったかと思います。

笠井委員 それは、年代でいうといつごろでしょうか。

斉藤参考人 私が条約課長になりましたのは一九七六年でございます。七八年まで在職をいたしました。

笠井委員 東郷参考人、この東郷メモというのが、なぜ極秘で、歴代の首相あるいは外務大臣、外務省幹部に説明して引き継がなければならない文書だったかということについて、どういう認識を持たれましたか。

東郷参考人 今回発表されたメモの第一ページを見まして、通常であれば、これは飛行機の中でどういう話し合いが行われたかということを記録したもので、その最後に、今後この問題についてはこういうふうに考えるべきではないかという北米局長の意見が記されているだけのものでございますので、そのメモが歴代の総理に対する説明の基礎になったということは、私、非常にびっくりいたしました。

笠井委員 斉藤参考人に伺いますが、あなたが仕えたという言い方はおかしいかもしれませんが、上司だった村田元事務次官は、昨年三月に共同通信のインタビューに答えて、「次官引き継ぎ時に「核に関しては日米間で(非公開の)了解がある」と前任者から聞き、次の次官に引き継いでいた。大秘密だった。政府は国民にうそをついてきた」と証言をされております。そして、さらに昨年六月には、次官が外務大臣に密約内容を伝達するのは秘密の義務だったとも言われております。

 斉藤参考人もそういう認識だったんじゃないんですか、次官もされている。

斉藤参考人 そういう認識という御質問の趣旨が、代々次官が引き継いで、それを総理に報告すべきものだと考えていたかという御質問であれば、私は引き継ぎを受けませんでしたし、どの総理にもこの問題をブリーフしたことはございませんでしたので、そういう認識は持っておりませんでした。

笠井委員 こういう大事な問題で、歴代、こうやってサインもして、だれからだれにやったという問題について、条約局長もされて、そして次官もされた方で、斉藤参考人が知らなかった、引き継がれなかったということについては、どういう意味を持っている、あるいはどういう御感想をお持ちでしょうか。

斉藤参考人 九一年の核兵器を艦船には搭載しないというアメリカの政策の変更以降、この問題は現実の問題ではなくなってきておりますので、私が次官になったのは九三年でございますけれども、その当時は引き継がれなかったということだろうと思います。

 私が条約局長のときになぜ知らされなかったかという点につきましては、これは私の不徳のいたすところかもしれませんけれども、上層部の判断で、どのレベルまで話をするかという決定があったためではないかと思います。

笠井委員 東郷参考人に伺いますが、いわゆる東郷メモでは、核搭載艦船の寄港問題と討論記録に関するアメリカとの行き違いの経緯について振り返って、双方が双方の立場に異論を唱えることなく黙視を続ける、その結果、米核搭載艦船の事前協議なしの寄港が可能になるという問題の処理は動かしようがないものなので、現在の立場を続けるのほかなし、今のままでいくしかないというふうにしているわけです。

 およそ条約を扱う部署にいた方として、米国側は、討論記録に基づいて、核搭載艦船の日本寄港は事前協議の対象外とする立場をずっととっていて、日本はそうではないという立場をとって、そのままにしておく。先ほど来、歴代安閑としていたわけじゃないということで、必死になっていろいろやられたんだということはありましたが、東郷参考人御自身は、こういうやり方、こういう対処の仕方について、疑問を持って何とかしようと思われたことはあるんでしょうか。

東郷参考人 その点につきましては、四ページのリストと一緒に、三ページの意見書を条約局長をやめるときに書きました。おおむね三つのレベルで考えるべきだと。

 第一のレベルは、国会における質疑を何とか破綻がないようにするためには今後どういうふうにやっていったらいいかということについての若干の意見を書きました。けれども、いずれ、この討議の記録という文書の存在を含めて、もっと世の中にこの話が出てくる、そのときにこれまでの説明ではとても対応できない、したがって、六〇年に問題が起きたとき以来、日米間に認識の差があった、その認識の差があったという状況がそのまま続いてしまったんだという経緯をもっとわかりやすく説明すべきではないか、これが二番目の段階でありましたが、そういうことをいたすとしても、安全保障の将来のことを考えるのであれば、根本的な矛盾は解決しない、したがって、ラロック、ライシャワー等に歴代の先輩がいろいろ述べた非核二・五原則というような方向でもってこの問題を省内で再検討すべきではないか、大体その三つの段階での三ページの意見書を書きました。

笠井委員 一九五八年からの日米安保条約改定交渉時に外務官僚のトップだった山田久就事務次官が、退官後に、国際政治学者の原彬久さんに語った重要証言がございます。核兵器を積んだ艦船の寄港は事前協議の対象になるとした一九六〇年の安保国会での政府閣僚答弁は、野党の追及を恐れる取り繕いにすぎなかったというものであります。マッカーサー大使が言っているだけではなくて、討論記録にかかわった本人自身の発言でありますが、ところが、原さんがこの証言テープを今回の有識者委員会に提供したのに、無視をされてしまった。

 東郷参考人は、これはお父上にかかわることでもありますが、当時のあいまいな理解ではない証拠として、このテープについてもきちんと吟味されるべきだとはお思いになりませんか。

東郷参考人 テープの取り扱いにつきましては、私、特に強い意見はないんですが、今回の有識者委員会全体の結論は、恐らくは、そのテープの存在をも念頭に置いて、当時の岸総理、藤山外務大臣、それから東郷安保課長、この問題についてのアメリカ側の考え方をある程度は知っていたのではないかという結論を出しておられます。その一つの根拠になっていたのではないかというふうに私は思っております。

笠井委員 もう一問、東郷参考人に伺いますが、九一年以前は持ち込みがあり得たという話がありましたが、それ以降について、アメリカの政策の変更ということは言われましたが、局長が御在任時代、私もガイドライン特別委員会で御一緒していましたけれども、九九年に、竹内北米局長が答弁の中で、通常の状況においてはないんだと。

 そうでないという点でいえば、いざというとき、特別の場合についていえば、九一年、九四年以降も核搭載能力を維持した原潜が入港するという可能性はあるという立場だったんじゃないんですか。それはいかがですか。

東郷参考人 今の竹内局長の答弁というのは、私、全く記憶しておりません。

 基本的には、私の当時の認識は、従来の答弁を踏襲する。ただ、その踏襲する中で、できるだけうそのない答弁をしようという気持ちはありました。けれども、答弁の基本はもう固まっていて、それをそのまま踏襲するというのが私の記憶でございます。

笠井委員 最後に、端的に森田参考人とそれから西山参考人に伺いたいんですが、ちょうど大平元総理が生誕で百周年ということで、この「茜色の空」という辻井喬さんの実録ドキュメント小説が出たところで、私も興味深く読みました。

 それで、回顧録などをもとにということでつくられたということなんですが、まさにその大平氏が外相などとして、あるいは総理としてかかわった核密約の問題や、西山参考人にかかわる事件のエピソードについても書かれておりまして、そこで、イントロダクションというひとり言を口にするようになったというお話や、ライシャワー氏が核兵器を搭載した艦船の寄港について事前に外務大臣である正芳に通告したということや、それから、「表向きは核を持たず、作らず、持込ませずという非核三原則を厳守することになっているが、正芳とは心が通いあっている元駐日アメリカ大使のライシャワーから、九年ほど前の話なのだが、アメリカの艦船は、この原則に縛られずに自由に寄港出来るという含意があると念を押されていた。ということは、アメリカが使っている基地はアメリカの領土なみ、ということなのだ。」ということを述懐されているような表現が出ております。

 こうしたことを含めて、何か、おそばにおられて、今言ったようなことにかかわって気づかれたことがあるか。西山参考人も、御自身のことについて、名前は違う形で出ていますが、お読みになったとすれば、何か御感想はあるかどうか。端的に伺いたいんです。

森田参考人 一言で言えば、先ほどもちょっと申し上げましたように、この問題は大変難しい問題だが、自分が全力を尽くせば何らかの方法があり得る。そして、現実に、田中内閣のときには、大蔵大臣として、木村俊夫外務大臣と一緒になって田中内閣で解決しようとしたわけでございますが、いずれにしても、先ほど答弁を申し上げましたように、自分がこの問題を、十字架を背負っていくんだ、そういうつもりであったが、結果的には、亡くなるまでそれを解決することができなかった。非常に残念だったと思います。

西山参考人 私の個人的な印象というのが、もう随分前の話ですけれども、大平外相時代というのは池田内閣のときでして、池田内閣から佐藤内閣へというバトンタッチの、あのときの状況ですけれども、いずれにしても、このときに、宏池会を中心とした、あれは保守本流中の本流でございますけれども、彼らの姿勢というのは、やはり非常に印象に残っているんですね。

 というのは、非常にイデオロギー的に違う勢力が目の前におったとしても、そのイデオロギー勢力を抹殺しよう、そういうイデオロギーを持たないんですね。絶えず、相手は相手としての、その存在を認めるんですね。そして、こっちと立場は全く違うし、考え方も違うけれども、とにかく、相手がそこにがっちりとした勢力を持っておれば、例えば極端に言えば中国ですね、絶えず接触して、そこから妥協点を見出そうとする、そういう政治姿勢といいますか、相対主義的な政治姿勢、相手の立場というものを絶えず理解して、その存在を確認した上で自分たちの行動もそれに合わせるようにして、そこからいわゆる妥協点を見出して一つの調和点をつくり出していく。昔のいわゆるニューライト、新保守主義と言われましたけれども、そのときのいわゆる政治姿勢といいますか、それをずっと、その後のいわゆる保守勢力の政治姿勢と絶えず比べてみて、私はいろいろなことを思い浮かべるときが多いんですけれども、そういうようなものが、案外、現代の政治に非常に必要じゃないかと思うんです。

 要するに、脱イデオロギーで、それが非常にあのときの強烈なイメージとして今残っている、それが一番のあれです。

笠井委員 終わります。ありがとうございました。

鈴木委員長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。

 参考人の皆様方に一言お礼を申し上げます。

 本日は、貴重な御意見、本当にありがとうございました。さらに、本委員会としましては、この問題につきましては、国民へのさまざまな形での情報開示、透明性を高めていきたい、こう思っております。またの機会に参考人としてお越しをいただく場面もあるかもしれませんので、この点もぜひとも御協力をいただきたいと思っております。

 ありがとうございました。(拍手)

 次回は、来る二十四日水曜日午後一時二十分理事会、午後一時三十分委員会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。

    午後零時二十四分散会


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