衆議院

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第2号 平成16年10月21日(木曜日)

会議録本文へ
平成十六年十月二十一日(木曜日)

    午前九時一分開議

 出席委員

   会長 中山 太郎君

   幹事 近藤 基彦君 幹事 福田 康夫君

   幹事 船田  元君 幹事 古屋 圭司君

   幹事 保岡 興治君 幹事 枝野 幸男君

   幹事 中川 正春君 幹事 山花 郁夫君

   幹事 赤松 正雄君

      伊藤 公介君    大村 秀章君

      加藤 勝信君    河野 太郎君

      坂本 剛二君    柴山 昌彦君

      渡海紀三朗君    永岡 洋治君

      野田  毅君    葉梨 康弘君

      平井 卓也君    平沼 赳夫君

      二田 孝治君    松野 博一君

      三原 朝彦君    森山 眞弓君

      渡辺 博道君    稲見 哲男君

      大出  彰君    鹿野 道彦君

      鈴木 克昌君    園田 康博君

      田中眞紀子君    辻   惠君

      中根 康浩君    長島 昭久君

      古川 元久君    馬淵 澄夫君

      笠  浩史君    和田 隆志君

      渡部 恒三君    太田 昭宏君

      佐藤 茂樹君    福島  豊君

      山口 富男君    土井たか子君

    …………………………………

   衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 日本国憲法に関する件


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     ――――◇―――――

中山会長 これより会議を開きます。

 日本国憲法に関する件について調査を進めます。

 本日の午前は、議会オンブズマンその他の行政に対するチェックの仕組みについて自由討議を行います。

 この際、一言申し上げます。

 本調査会では、さきの常会におけるオンブズマン制度、財政統制のあり方、行政訴訟のあり方等に関する調査を行うなど、これまで行政に対するチェックのあり方について幅広く調査をしてまいりました。本調査は、さきの海外調査におけるスウェーデンやEUのオンブズマン制度に関する調査を踏まえ、オンブズマン制度を中心としつつ、広く行政に対するチェックのあり方について再度議論を深めることを目的としたものでございます。

 さて、ここで我が国における行政に対するチェックの諸手段について概観いたしてみますと、国会は、法律の制定、改廃を通じて行政に対し授権し、あるいは制限を加えるほか、議院の決議や委員会質疑、議院の国政調査権によって内閣や行政各部に対し日々チェックを加えております。このチェックをいかに実効あらしめるかがまさに問題であり、今後、議会オンブズマンの導入の検討を含め、アイデアを幅広く検討していくことが必要だと思います。

 納税者の視点からすると、今後の国民負担率の上昇に伴い、税金の使途に対する関心は厳しくならざるを得ず、その代表者としての国会は、行政の諸活動の適法性のチェックのみならず、その効率性についても監視を深めていくことがますます要請され、その際に大きな役割を果たすのが会計検査院であると考えます。平成九年には会計検査院に対する議院からの検査要請制度が創設されたところでありますが、なお国会と会計検査院の協働のあり方について検討していくことが必要であると考えられます。

 また、裁判所も行政訴訟や国家賠償訴訟等を通じて行政に対するチェックの機能を果たしております。先週、関西水俣病訴訟において、国と県に損害賠償を命ずる最高裁判決が出たところでございますが、行政訴訟については、従前より、諸外国に比して事件数が少なく、原告の請求の認容率も低いという指摘がなされてきたところであります。これに対して、今般の司法制度改革の一環として、より利用しやすいものとするために行政事件訴訟法の改正が行われたところでございますが、その効果を検証し、国民の実効的な権利救済のためにどのような改正が必要かについて不断に検討していく必要があるものと考えられます。

 以上の外部的チェックに対して、行政に対する内部的チェックとしては、行政評価制度や行政相談制度を挙げることができます。特に行政相談制度は、日本型オンブズマンとも位置づけられ、オンブズマンの導入を検討するに当たっては、同制度とオンブズマンの関係を検討する必要があると考えられます。

 なお、地方自治体では、監査委員に対する住民監査請求及び住民訴訟が、財務会計事項のチェックを契機としながら、広く行政活動に対するチェック機能を果たしているほか、外部監査制度も導入されております。また、一九九〇年の川崎市を初めとして、約三十の自治体において行政府型オンブズマンが設置されており、例えば、川崎市のオンブズマンでは毎年約百六十件の事件が処理されていると聞いております。

 さて、我が国においてオンブズマン制度を導入すべきかということが最大の論点になるわけでございますが、この点につきまして、本年三月の調査において、積極的な意見とやや慎重な意見が述べられたように思います。

 導入に積極的な意見としては、行政が肥大化している現状において、行政機関から独立して、国民の権利救済、行政統制または行政監視を行うために必要な制度である、行政を統制、監視するという国会の機能強化の観点から大きな役割を果たす等の意見が述べられております。

 これに対して、導入にやや慎重な意見としては、コストの問題もあることから、現行制度に屋上屋を架すべきではなく、まず、衆議院の決算行政監視委員会その他の衆参両院の委員会、総務省の行政相談制度といった現行制度の充実を図るべきである、議会が行政に対するチェックという本来の職務を果たしていれば必要がない等の意見が述べられました。

 この点、現代国家が大きな政府となったことに伴い、その統制の要請が高まったということがオンブズマン制度の世界的発達の背景にあるということは、統治機構小委員会において参考人も指摘されたところであります。北欧のような高福祉・高負担の国家においてオンブズマン制度が発達してきたことは、偶然ではなく、大きな政府に対する統制の要請が高まったためではないかと考える次第であります。

 次に、オンブズマン制度を導入するとした場合、その法的措置についてどう考えるべきかが問題となります。

 この点、さきの海外調査において、欧州オンブズマンのディアマンドロス氏が、オンブズマンの独立性の観点から、オンブズマン制度は憲法の中に明文化されていることが望ましいと述べられたことが印象に残っておりますが、今後真摯な議論が必要であろうと考えております。

 以上、本調査に当たっての発言とさせていただきます。

 議事の進め方でございますが、まず、各会派を代表して一名ずつ大会派順に十分以内で発言していただき、その後、順序を定めず自由討議を行いたいと存じます。

 発言時間の経過については、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせいたします。

 それでは、まず、柴山昌彦君。

柴山委員 発言の機会を与えていただきましたことをお礼申し上げたいと思います。

 ただいま中山会長の方から詳しく御説明がありましたとおり、オンブズマン制度、日本においても自治体レベルではかなり発展してきた、そういうような状況にあります。このような中で、私は、前回のこの調査会で、オンブズマン制度を憲法上位置づけるということに関してはやはり慎重な議論が必要ではないかという立場から意見を申し上げました。もちろん、各会派を代表してというお話ではありますが、私の発言については私の個人の信条に基づくものであるということを冒頭にお断りをさせていただきたいというように思います。ただ、その上で、私は、立法措置の上であれば、このオンブズマン制度を国のレベルでも導入するということは検討に値するのではないかなというように思っております。

 以下、前回に申し上げたところを敷衍して若干説明を補足したいと思います。

 まず、このオンブズマン制度を導入することの必要性の検討を行い、その後、これを仮に導入した場合、それに問題点というものがないかということについて見解を申し上げたいと思います。

 まず、ただいま中山会長から御指摘のあったとおり、オンブズマン制度を導入しているEU諸国、特に今回視察に行かれたスウェーデンあるいはフィンランドといった国と日本との差異について着目をしなくてはいけません。

 平成十六年度の予算案ベースによりますと、日本の国民所得に対する租税負担率は二一・一%、社会保障負担率は一四・四%、合計で三五・五%となっております。もちろん、これに財政赤字を含めた潜在的な国民負担率というものが一〇%程度あるわけでありますけれども、日本ではそういった負担率となっていることです。

 一方、これはOECDのレベニュー・スタティスティックスによるものでありまして、若干古いデータなんですが、二〇〇一年度のスウェーデンの租税負担率は五二・〇%、社会保障負担率は二二・三%、合計で七四・三%となっております。フィンランドの租税負担率も四七・四%と、スウェーデンの五二・〇%とほぼ同程度の水準となっております。

 近年、日本が行政国家と言われますが、これら北欧の国家はまさしく超高福祉・高負担の国でございまして、そういった行政サービスの適正化、これは日本にも増して極めて重要な課題なのであるということを冒頭に申し上げたいと思っております。

 さて、私は、行政国家化している日本において、それをどうやって統制する機能が現行制度において認められているのかということをまず、若干、中山会長の御説明と重複する部分はありますが、申し上げたいと思います。

 もちろん、日本は議院内閣制をとり、また衆議院による内閣不信任制度もある以上、国会を通じてコントロールが及ぶということが建前となっております。また当然、行政は議会の定めた法律あるいは予算に従って執行されるという意味におきましても、議会が一義的な行政に対するチェック機能を期待されていることは言うまでもありません。また、各院に認められた国政調査権も行政統制に資するわけであります。

 なお、これに関連して、正確には行政行為についてではなく法案の提出についてでありますけれども、前回の議論で、国会の審議で内閣法制局が説明をするのはおかしいのではないかというお話を何人かの先生がされていたと思うんですけれども、私は、これは少し正確ではないんじゃないかなというように思います。

 というのは、内閣が提出する法案については当然、まず提出の段階で、内閣自身が既存の法律や憲法との適合性というものを判断しなくてはいけないわけですから、その提出に当たっての判断ということについて内閣法制局の見解をただすということは、私は特段おかしくはないのではないかと思っております。もちろん、ただ、法案審議に際して、その法制局の見解をうのみにするということは確かに問題があるというように思っております。

 いずれにせよ、政府組織がこのように大規模化、専門化しているという中で、また議院内閣制が政府・与党の協調型であるという限界もあることから、こうした議会によるチェック機能が十分機能していないのではないかという疑問は当然のことながら出てくるということでございます。ただ、国政調査を補完する制度である予備的調査制度、これも特に野党の皆様が積極的に活用されているところでもございますし、世論を喚起する機能というものは一定程度を期待できるのではないかなというように思っております。

 さて、こうした国会のチェックというものを補完する立場としての裁判所、この権限行使が非常に重要になってまいります。もちろん各種の不服審査制度、これは自己チェックをするわけですけれども、自己チェックであることの限界ということがやはりありまして、独立した裁判所による判断が極めて重要である、行政訴訟制度が重要であるということは論をまたないわけでございます。

 ただ、これについては、先生方御案内のとおり、門前払い、従来の行政訴訟は原告適格が非常に厳しかった、また行政裁量というものを余りにも広く認めていた、憲法判断を行うに当たって司法消極主義と伝統的に言われていた、そういう嫌いがあったわけでございまして、こういう裁判所のスタンスあるいは行政事件訴訟法の限界というものが従前から声高に叫ばれていたわけであります。

 ただ、この点につきましても、御案内のとおり、私も所属しておりますが、法務委員会において行政事件訴訟法の一部が改正され、取り消し訴訟の原告適格が大幅に拡大された。法律の目的、趣旨あるいは処分において考慮されるべき利益の内容、性質など、こういうものを考慮して原告適格を広く認めていく。あるいは、これまで認められていなかった行政の義務づけ訴訟あるいは差しとめ訴訟というものが法定されるようになっておりますし、また審議の充実のための釈明処分、裁判所が行政庁に対して裁決の記録や処分の理由を明らかにする資料を求めることも新設されたわけであります。

 さらに、仮の義務づけ、仮の差しとめという制度も新設をされ、私は、行政訴訟というものは、大幅にユーザー、国民の利益を図るものに生まれ変わっているのではないかなというように思っております。

 これまで行政訴訟は、新受件数が、例えば平成十二年におきましては二千件、そして勝訴率は二割弱という極めてゆゆしい制度であったわけですけれども、こうした法改革によって一定の成果が出てくるのではないかと私は思っておりますし、平成七年から平成十二年にかけて勝訴率が一一%から一七%に伸びた、これもやはりこれからの司法改革に伴って改善がなされていくのではないかなというように思っております。

 もちろん私は、今後、この行政訴訟法制度というものをやはりしっかりと見直していかなければいけないと思っております。ただ、恐らく先生方、御懸念されているところだと思いますけれども、やはり訴訟というのは金がかかる、手間がかかる、なかなか気軽に行政についての不満、不服というものを申し立てる機会というものがないんじゃないかというところであります。

 これについて私は、行政型のADR、今ADR法につきましても法務委員会の方で検討しているわけですけれども、この行政型のADRというものを法制度として積極的に位置づけていくということが考えられるのではないかなというように思っております。

 次に、問題点についての指摘であります。

 憲法上オンブズマン制度を位置づけるということについては、やはり私は若干問題があるのではないかなと思うのは、欧州型のように、予算権、予算措置を伴って、あるいは調査権をこのオンブズマン制度に与える、非常に強力な制度として位置づけられているわけでありますけれども、そのような強力な機関を憲法上設けるということになりますと、当然のことながら質の確保ということが重要な問題となってくると思います。これは、量とは反比例する、必然的にそういった限界があるわけでございます。

 あと一分ほどではしょって申します。

 そして、これについて、やはり権限の強さということと反比例しまして独立性ということが懸念されるということは否めないのではないかと私は思っておりますし、また、こうしたオンブズマンが、裁判所という公的な手続と比較しまして、公益性というものについてきちんと配慮できるのかという懸念が否めないと私は思っております。

 また、こうした制度を憲法上位置づけることによりまして、民間のオンブズマンの活動、今、例えば地方で設けられている行政型オンブズマンと違いまして、民間レベルで私的オンブズマンがいろいろ、世論喚起、裁判、勧告等の活動を行っておりますが、こうした民間オンブズマンの活動を軽視する、そういうような役割があるのではないかというように懸念をしているところであります。

 専門的な分野においてオンブズマンをどうやって法律で設けていくのか、その人選はどうか、各論等につきましていろいろと申し上げたいことは多々あるわけでございますが、とりあえず私からの問題提起は以上のような形で終わらせていただきたいと思います。

 ありがとうございました。

中山会長 次に、辻惠君。

辻委員 民主党の辻惠でございます。

 二十一世紀の日本の国家像を考える場合のキーワードは三つあるというふうに私は考えております。一つは国民国家、二つ目が行政統制、三つ目が地方自治というふうに考えております。

 まず一点目でありますが、これは何度も申し上げておりますけれども、一七八九年のフランス革命や一七七六年のアメリカ独立宣言、市民革命に端を発して、十九世紀の産業革命を経て、二十世紀の第二次大戦を経て、国民国家というのがワールドワイドに広がって成立しているという現実があります。

 しかし、これは、ある意味で歴史的な所産であって、人類史の中における国家のあり方等という観点から見れば、過渡的な存在にすぎないのではないかという思いを深くしております。現にヨーロッパにおいては、一九五〇年代から欧州の経済共同体、そしてそれが発展して、現実にはEUという形で、国民国家の主権が一部移譲されるような、そういう地域的な共同体ができ上がっているということを考えるべきであろう。今、歴史で問われているのは、国権主義を声高に語ることではなく、また偏狭な民族主義をこれまた声高に語ることではなくて、そういう地域共同体をしっかりと、広がりをしっかりと形成していくことであろうというふうに思います。

 日本にかんがみてみれば、北東アジアにおいて今やはり中心的な課題は、北朝鮮が暴発することをどう防ぐのか、そして将来の崩落という状態に対してどういう手を打っていくのか、日中韓のそういう地域共同体を形成する中で、ソフトランディングを含めてどう政治的な選択をしていくのかということが非常に重要であります。靖国問題で日本の選択肢を狭めてしまう、そういう北東アジアの地域共同体、経済的、政治的なそういう連携をつくっていくということを日本が目指すべきときに、今小泉政権がなしている政策は極めて日本の未来を危うくするものであるというふうにまず考えております。

 三つ目に申し上げたキーワードの地方自治ということについて、市町村合併ということが進んでおりますが、問題は、地方自治の本旨ということで、憲法九十二条で住民自治、団体自治ということがうたわれている。これは、自民党の中の憲法問題をめぐるプロジェクトチームの中では、今の地方自治において住民自治が強過ぎて、団体自治をもっと強調すべきではないかというような議論がなされているように見受けられますが、しかし、これは全く間違いであって、住民自治こそしっかりと充実させていくということが重要であろうというふうに思います。

 地方自治をどう徹底させるのかというのは、国の権限を道州や、道州ということを前提にするかどうかはともかく、基礎自治体に移譲すればそれで事足れりということではなくて、もっと下からの行政的な合意を地域のコミュニティーの中でどう培っていくのか、このことが本当の意味で地方自治を全うたらしめるためのかぎであろうというふうに考えておるわけであります。このときに、やはり行政統制を地方自治においても図らなければいけない。行政を、地域住民のみずからの、下からの行政的な合意で、統制ではなくて、行政的な合意を形成していくことが重要である、このように思います。

 そして、二点目の行政統制であります。

 これが今の国内政治を考えるための、統治機構のあり方を考えるときの最も大きな課題である。議院内閣制のもとで、行政国家化現象と言われるように、行政権がどんどんどんどん肥大化していく中において、行政がひとり歩きをする、行政が本当に国民のサービス、国民の利害から離れて機能していくということをどうチェックしていくのかということがやはり基本的には大きな問題である。

 本来は、三権分立ということで、立法権、司法権が行政権をチェックするということが期待されておるわけでありますが、議院内閣制のもとでそういうことがやや制限を受けているということと同時に、立法機能が十分に果たし得ていないという側面があります。そしてまた、同時に、司法権というのが、司法消極主義ということで、本当に行政権の基本的なことをチェックするという機能を果たしていない。そしてまた、日本の司法に期待されている役割が、行政事件訴訟法で見られるように、確かにさきの通常国会で原告適格やいろいろな要件が一部広がったということはありますけれども、しかし、まだまだ行政事件訴訟法は十全に機能し得るような形では成り立っていないというふうに思います。

 そういう意味で、司法権に期待すべき役割が非常にある。憲法裁判所の設置も含めて考慮していかなければならない問題であろうと考えます。

 そういうような脈絡の中で、立法機能をきちっと強化する、立法の権能を強化する、その一環として、オンブズマン制度というのは非常に有益な存在なのではないかというふうに思います。

 先ほど柴山委員は、憲法上の規定をすることにはやや消極的だとか、また調査権限を与えること等について消極的な意見を述べられましたけれども、もともとオンブズマン制度は住民からの苦情処理という機能から出発しているのも事実でありましょう。しかし、オンブズマンに問われているのは、苦情処理機能と同時に、行政の監視、統制機能が同時に重要であり、私は、時代的には、この行政の監視、統制機能こそオンブズマン制度に最も問われている役割なのではないかというふうに思います。

 そういう観点に立ったときに、これは憲法改正問題とはまた別の問題として、いずれは憲法上の存在として規定されることが望ましいというふうに思いますし、何よりも、それが行政監視、統制機能を十全に果たし得る存在として機能するためには、権限をしっかりとうたわなければいけない、調査権限をしっかりと与えなければいけないというふうに思うものであります。

 調査権限と申し上げたときに、現在、例えば、警察が人権侵害的な行為を起こした、それに対して国家賠償、損害賠償請求を行おうというときに、裁判所において証拠保全の決定をとって警察に証拠の提出、資料の提出を求めても、押しなべて警察は今は提出を拒否しております、拒否することが許されている。そういうような問題点、ここをどう切り込んでいくのかということが非常に重要な課題であろうと思います。

 そういう意味で、オンブズマン制度を考えるときに、一般オンブズマンだけではなくて、特殊的なオンブズマン制度として、とりわけ統治機関、警察や刑務所や軍隊に対してしっかりとこれを統制、監視していくための特殊的オンブズマン制度ということの確立が求められているというふうに思います。そのために調査権限をしっかりと認めるべきであろうし、通常は勧告権限というふうにされておりますが、勧告にとどまらない何らかの権限を工夫して考えていくべきであろうというふうに思います。

 今回のヨーロッパ調査において、スウェーデンや、そして欧州のオンブズマン制度についても視察をされてこられた、その結果が今回の資料に載っております。いずれの国においても、やはり苦情処理ということにとどまらない、行政の監視という観点からオンブズマン制度がしっかりと位置づけられ、機能しているということについて、やはり日本は学ぶべきであろうし、今、日本の抱えている行政統制をどう行っていくのかという観点でのオンブズマン制度の有効性というのは、これは三月のこの憲法調査会でも十分論議されておりますし、少なくとも議会の中では明らかになってきているのではないか、このように考える次第であります。

 以上です。

中山会長 次に、赤松正雄君。

赤松(正)委員 公明党の赤松正雄でございます。

 オンブズマンにつきまして、今も柴山委員そして辻委員からお話がございましたけれども、私、公明党に所属はいたしておりますけれども、党の見解というよりも、個人的見解ということをお断りいたしまして、言わずもがなのことでありますけれども、見解を申し上げさせていただきたいと思います。

 まず、結論から申し上げますと、将来において仮に憲法が全面的に改正をされる、二十一世紀にふさわしい、全く全面的に見直すというふうな憲法をつくる、こういったときが訪れるとするならば、その場合にはこのオンブズマンの仕組みというものは取り入れられるべきだろう、こんなふうに思います。ただし、部分的な改正と申しますか、私たち公明党が今主張しておりますいわゆる加憲、アメンドメント方式、いわゆる修正項目をつけ加えていく、こういうふうな加憲という方式をとる場合には取り上げられるべきではないというか、要するに、優先度が高くない、こんなふうな言い方ができるんじゃないか。ちょっと今のお二方とは違う切り口だと思いますけれども、そんなふうなことをまず冒頭に申し上げさせていただきまして、以下にその簡単な理由を述べます。

 まず、さきに言いました、憲法を仮に全面的に改正するといった場合に、その対象とすべき理由。これはもう既に三月の当調査会小委員会における積極論者の方からいろいろ述べられたこともオーバーラップするわけですけれども、一つは、立法、司法、行政という三権分立の本来的なあり方からいって、立法部門が意図した法律が実際に行政部門によって実行されているかどうかを立法部門が監視し、統制し、司法部門が実施された結果を司法審査するというのが本来の求められた姿であろうと思うわけですけれども、それが十全とうまく機能していないという部分がある、そういうふうに思われることが一つ目の理由です。

 二つ目は、各国において現実にこの制度が取り入れられた結果、先ほど中山会長のお話にもありましたけれども、適切な成果を上げてきているという事実であります。十九世紀初頭のスウェーデンに始まって、北欧諸国から西欧各国へと広がって、今や全世界的規模で導入されているという事実は大いに参考にしていいという、素朴な関心を高めるものだということが二つ目の理由です。

 三つ目は、将来において憲法が新たに制定される際には、当然のことでありましょうが、今よりもより一層国民主権に根差したものといいますか、さらに国民のための憲法というありようを一層深化させ、深めるものでなくちゃいけないということであります。市民が行政によって不利をこうむったとか被害を受けたという場合に、迅速にこれをカバーする仕組みというものはしっかりと憲法上においても担保されなくちゃいけないということが、先ほど述べたようなケースの場合、一段とそういう要請が高まっていく、そんなふうに思われるというのが三つ目の理由です。

 以上、三つ挙げましたけれども、そういうことなら別に憲法に掲げるまでのことはない、法律で対応すれば十分であるとの考え方があろうと思います。まさに、それであるがゆえに、全面改正といった大きく今の憲法を二十一世紀の今の段階で見直すといったときに必要になってくるのであって、とりたてて急ぐ必要はない、そんなふうな考え方を持つわけであります。そのことが、次に述べる優先度が高くないということの理由に大きく関係をしてまいります。

 まず第一には、先ほどの会長の報告にもありましたように、行政への苦情をくみ上げる仕組みについては既に幾つかあるということであります。行政相談委員制度がその最大のもので、全国に五千人にも及ぶ人々が任命を受けられて、黙々と市民のために、行政によって不利をこうむっていないかどうかをチェックされているということは大変に貴重な制度であろうかと思われます。日本型オンブズマンと呼ばれるわけですけれども、そういったものの現状をどう評価するかということが第一のポイントに上がってまいります。

 第二には、今のは個別具体的な権利救済の側面を持った制度でありますけれども、議会の役割強化という観点からは、九七年に衆議院の決算委員会が決算行政監視委員会になり、また、参議院でも行政監視委員会が設けられました。これは、臨調の最終答申を受けて八〇年代半ばにできたものですけれども、いわば諸外国に見るオンブズマン制度に比肩し得る現時点での日本の答えだという点が挙げられます。

 第三に、今諸外国に導入されているオンブズマン制度そのものは日本の政治風土に直ちになじむかどうかという点であります。広範な調査権限や視察権あるいは調査権といったものが与えられた公平な調査官であって、政治的にも立法府から独立したもので、党派的な影響は受けないということがその本質だとされていますけれども、そう理想的にいくかどうか懸念を持たざるを得ないということであります。

 以上述べた点からしまして、まず急がれるべきは、今ある制度、仕組みを補充、強化することだと言えると思います。既に何回もお話に出ておりますように、地方自治体におきましては、川崎を初めとして、いわゆる行政府型のオンブズマンが次々とできてきております。また、これはそれなりの成果を上げております。

 これに対して、立法府型のいわゆるオンブズマンというのはできていない。その理由の最たるものは、やはり本来は、議会そのものが本来的には果たすべき役割じゃないのか、議会がチェックすることを十分にやらずして新たな組織をつくることに意義があるのかという疑問だと思われます。したがって、先ほど申し上げましたような決算行政監視委員会の充実といった問題は、非常に重要なテーマとして浮かび上がってくると思います。

 ただ、こう述べましても、理想としてのといいますか、本来のオンブズマン制度からしますと日本の現状はほど遠いものがあるという指摘は十分に首肯できるものがあります。オンブズマンの重要性というのは、四六時中行政機関をウオッチしているということでありますがゆえに、行政機関が常に緊張して仕事をし、ミスがなくなるといったことをさきに当調査会の小委員会に出られました参考人が述べておられました。なるほどと思う一方、事はそう簡単かなと。既に導入されている各国の行政機関にあっても、そんなに見事な官僚の仕事ぶりが見られるのかなというふうな、そういうことについても疑問なしとしません。

 もっとも、ないよりもあった方がいいという考え方や、今ある仕組みと新たなオンブズマン制度といったものを組み合わせていくことが重要であるという考え方もあります。そういう意味では、これからさらに時間をかけて知恵を結集することが大切じゃないかと思います。

 以上申し上げましたように、冒頭に述べましたけれども、抜本的な憲法見直しにあっては導入されるべきことが検討されるということでありますけれども、現状の制度を強化する、さらには、現在の憲法第十六条の国会請願権というものにおいて、それをもとにして法律で対応する。先ほどの私どもの加憲という立場でいけば、加憲ということでもしずっと将来にやるとしたならば、この今の憲法十六条を生かした形で、それにオンブズマン制度というものを加憲の形で加えていくということも可能性としてはあろうかと思いますけれども、急いで今の憲法に加えていかなければならないほどの緊急性を持ったテーマじゃないということを申し上げまして、私の発言とさせていただきます。

中山会長 次に、山口富男君。

山口(富)委員 日本共産党の山口富男です。

 きょうは、冒頭に中山会長から発言があったんですけれども、先日事務局の方から、このテーマについて会長から発言したいという趣旨が伝えられたんですが、私はちょうど出かける間際でしたので、この点については慎重だ、やはり幹事会でテーマが確認され、動き始めているものですから、そこにあえて発言されるというのであれば、当日の調査会での議論を聞いて、一委員としての発言ということになるんじゃなかろうかと申し上げたんですが、そのことを改めて冒頭申し上げておきたいと思います。

 さて、きょうは、議会オンブズマンを中心にしまして、三つの点で発言したいと思うんですけれども、まず第一は、オンブズマンをめぐる世界の動向とその特徴についてです。

 オンブズマンについては、三月十一日の統治機構小委員会で宇都宮参考人が大変詳しい報告をされています。二十世紀後半にヨーロッパ諸国で広く広がったわけですけれども、これは行政国家の肥大化と称される事象への対応という面を強く持っていた動きだったというふうに言われております。その多くは議会型のオンブズマンで、行政府から独立して調査を行う権限を持っている。そして、そのことを通じて、議会が行政部門を監視し、また主権者からの苦情処理という機能をあわせ持つという特徴があると思います。

 これらの諸国では、憲法上の措置を新たにとった国もあれば、法改正で対応した国もありますので、各国の歴史と条件に応じて具体的な対応は実にさまざまだった。そういうものとして、多様性の中で、各国の経験は検討されるべきだというふうに考えます。

 二点目に、日本におけるオンブズマン制度をめぐる問題についてなんですけれども、一九七〇年代にいわゆるロッキード事件などが起こった際に、行政への厳しい監督が要請されました。その時期から、政府部内にも研究会がつくられるなど、このオンブズマン制度自体の議論はあったわけですけれども、近年の大きな動きというのは、一九九〇年代の後半に、行政改革の中身が問われてきたこと、そして、当時、薬害エイズ問題や住専処理なんかをめぐりまして情報の隠ぺいや問題の先送りが起き、しかも、厚生労働省の、当時は厚生省でしたけれども、事務次官の汚職や大蔵官僚の不祥事というのが相次ぐ中で行政と官僚組織への不信が非常に広がるというもとで、各政党から、このオンブズマン制度についていろいろな提案がありました。

 私たち日本共産党も、一九九七年に、行政改革三法案といいまして、これは企業・団体献金禁止法、天下り禁止法、情報公開法案なんですけれども、それとあわせて、国会自身が本来持っている行政監視機能と国民の苦情救済機能をあわせ持つ制度として、行政監視院法案大綱、オンブズマン法案大綱というものを発表いたしました。

 ここで言う行政監視院というのは、憲法が定めている国会の国政調査権や行政監督権を積極的に発揮する、そしてその機能を機動的に発動するための機構として国会に設置するもので、国民の皆さんからの行政への批判や苦情、要望を反映した国民本位の行政のあり方を実現するという機構になるだろうということで提案いたしました。

 当時の法案大綱の主な内容を見ますと、国会の任命する行政監視員に行政の内容について調査、監視させ、その経過、結果を国会に報告させることによって、行政の過誤や公務員の不正行為を防止し、公正で民主的な行政の運営を確保すること。行政監視員は、七人で構成し、各議院、常任委員会を含む、または国会議員の付託に基づいて調査を開始する。監視員は、内閣や官公庁などの関係機関に必要な資料の提出や証人の喚問の要求ができ、職権での調査などもできるようにし、監視員を補佐する調査員が立入調査ができるようにするというふうになっています。

 この行政監視院は、複雑で専門化して巨大化している現在の行政機構に対応するために、専門性を持って行政を監視する調査機関になるわけですけれども、行政と国民の接点という点でも、法令の違法や不正による行政行為だけではなくて、違法とは言えないけれども国民の権利侵害を生む不適正な行政、そこには遅延、無礼、不正直、説明不足、不作為などさまざまな問題がありますが、こういうものに対応するものとして提案いたしました。

 さて、三月十一日の調査会でも、憲法上の位置づけにつきまして参考人の方から詳しく述べられたわけですが、国会に国政調査権がある、そして、立法や予算の議決権、大臣の議会への出席と答弁、説明の要求、こういう行政監督権が広く認められていること、それから、十六条で国民の請願権が認められているというところから、こういうものに包み込まれる形でオンブズマン制度が憲法上根拠を持つし、法改正で新たな制度の構築ということが可能であるということが参考人から述べられました。私もこの点は全く同感です。

 今、地方自治体で、議会型ではない、市長などの執行機関の附属機関として市民オンブズマン制度が設置され動き始めておりますけれども、そして、きょうはこの資料の附属としてその具体的な姿が示されていますが、これについての検討も、そういうものとして必要だというふうに思います。

 最後に、三点目なんですが、行政に対するその他のチェックの仕組みなんですけれども、私は、日本の場合、オンブズマン制度の導入を検討しながらも、我が国に既にある既存の権限や制度が積極的に機能しているかどうかの吟味がやはり欠かせないというふうに思うんです。

 実は昨年のことなんですけれども、労働基準法の改正問題というのがありまして、私は常任委員会は厚生労働委員会に所属しているんですが、そこで、総務省がやった行政監察の結果を、いわば政府の部内での行政監察の結果を立法の側が使って行政府を問いただすということをやってみたんです。そのときに大変驚きましたのは、例えば労働基準監督署で調査に入りますけれども、文書で問題を指摘するものが極めて少ない、そして、口頭で指摘した後も、その後のフォローアップがほとんどないということで、総務省が行政監察に入ってみると、一度指摘された問題は実はそのまま残っているというのが全国に共通に指摘されていたんです。

 私は、こういう点については直ちに改めなさいということで国会で尋ねたんですが、この点については、当時の大臣が、それはぜひそのようにしていきたいというふうに言ったんですけれども、これはやはり、一つの行政監察のあり方としては、我々自身が日常の仕事の中でも大いに研究すべき事柄じゃないかというふうに思っております。

 それから、最近、予備的調査の活用の問題、それから国会での少数会派の調査権の強化の問題というものが出ておりますから、私は、こうやって見ますと、行政に対するチェックの仕組みというのは、既存のものが一体現状はどうなっているのか、その改善はどういう点の改善が必要なのかということを、オンブズマン制度という新たな制度の設計の問題とあわせて見ていくということが、もともとオンブズマン制度というのが行政監視の問題と国民の皆さんからの苦情処理機能というところにあるわけですから、その両面を踏まえた検討や議論というものが必要であるというふうに考えております。

 以上です。

中山会長 次に、土井たか子君。

土井委員 オンブズマンの問題につきましては、今最後に山口委員が言われたとおりで、行政監視、そして民主主義の政治に対してこれを具体的に保障していくという制度としてこれは考えられていると思うんですけれども、日本の場合はそれを具体的に、もう既に憲法の十六条で請願権として保障し、六十二条で国政調査権として国会に対して行うことを認めているというのが意識されなければならないと私は思っているんですね。

 ただ、問題は、十六条にいたしましても、また六十二条にいたしましても、実は、この中身が、憲法が予期しているとおり、決められているとおりに行われているかどうかという問題なんです。

 請願権について言うと、十六条で、「何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。」と規定されてございます。そして、国の方でも各地方公共団体の方でも、議会はこの請願に対して、これを受理する、そして了知する、そしてこれに対して顧慮する、誠実に処理するという義務を負っているわけなんですね。

 この憲法の条文に従って、国会法の第九章は、国会の各議院に対して、請願について、請願は委員会の審査を経て議決して会議に付する場合を定めて、また、必要によって内閣の措置を求めるべきことを定めているわけです。地方自治法も請願について同様の規定を設けております。

 現実の問題として、本当にただいま国会が請願に対して、今申し上げたとおり、これをしっかり受理して、了知して、顧慮して、誠実に処理しているかどうか、そこが大変問題だと思うんですね。現に、この趣旨に反して請願をどうも誠実に処理していないではありませんかということが指摘されることがたびたび実はございます。

 私どもは、毎国会の会期が終わる直前にその国会中に来た請願がどれくらいあるかということを初めて知るというようなことが、慣例上そうなってきたんでしょうけれども、取り扱いの上では初めて請願の中身を知る。そして、翌日が恐らく閉会を迎える日ですから、本会議でそのことに対して採択されたか採択されなかったかだけが問題になるという取り扱いでございます。

 実は、この問題について、私は、議長という職責をお預かりしていた間に、やはり請願に対しては誠実にこれに対してこたえなければならない、その取り扱いに対しては各委員会で会期末に、言ってみれば、おざなりと言ったら語弊があるかもしれませんけれども、しかし、それまでに全くその中身も知らない、それに対して討議もしない、それをどのように取り扱うかということをましてや決めもしないということは、これはいかがかと思うと。

 少なくとも、会期中に二度三度、どういう請願があるかということぐらいはやはり各委員会で取り上げて問題にして、中には立法が必要な問題もあるでしょう、法の改正を要求される場合もあるでしょう、行政に向かってある処置を申し入れなければならないという場合もあるでしょう。また、事実、どういうふうに行政サイドが処理をしてきているかということもしっかり知らなければならない場合もあるだろうと思います。

 そういうことからすると、ただいまの請願ということに対しても、国会自身が誠実にこれを受理して、しっかりその趣旨を生かしてやっていくということこそ大事なんじゃないでしょうか。

 六十二条の国政調査権においてもしかりでございます。

 これは、両院おのおの国政に関する調査を行うということが憲法上保障されているのは、その根拠になっているのは、四十一条の国権の最高機関性にあると実は私は思います。

 というのは、立法に対しても行政に対しても司法に対しても国政調査を行うことができるわけですから、また、しなければならないわけですから、したがって、これは一種の、国会について言うならば、国政に関する調査それ自身は、性質上は議院によって行われる行政権限だというふうに考えていいわけで、言ってみれば、この中身については、唯一の立法機関であるというところに問題があるのではなく、むしろ、国権の最高機関であるという国会の性格としてただいまこの六十二条の国政調査権というのが保障されている。

 ただしかし、国会がこの国政調査権を実行する場合に、行政機関の行政権、これに対しては、資料一つ要求してもなかなか提出をしてもらえないという場面が多々ございます。そして、国会で法案を審議している最中に、審議上必要である場面でも、資料に対して提出を要求してもなかなか出してもらえないという場面がございます。つい先日のことでございますが、年金法のときなどはさしずめそういう経験をつぶさに持ったわけで、こういう例を挙げていったら枚挙にいとまがないんですね。そしてまた、この問題に対して、院自身が国政調査権をしっかり行うということがどれほど国政にとって大事かという認識をしっかり持つということによって、随分この中身に対しての取り扱い方をさらにスムーズにしていくということができると思うんです。

 今申し上げた六十二条の国政調査権、そして先ほど申し上げた請願権の問題、これを実のあるものにしていくということこそ先決問題なんじゃないでしょうか。

 私は、国民に対して周知徹底させるということも大事だし、そして、国政の中身がどういうことになっているかということがわかる状況をつくっていくということも大事でありますけれども、そのこと自身は、今の憲法で保障している中身をまずは実行していくということで、具体的に、ただいま求められている行政に対しての監視とか行政に対しての調査とか、それから、行うこと自身が民主主義ということを尊重して行うという本来オンブズマン制度が考えられた中身を実行していくことになるだろうと思うわけです。

 したがって、結論から申しますと、わざわざオンブズマン制度というのを導入する必要はない、ただいまの六十二条、それから十六条というのを実施する、中身を充実させることが先決というふうに思います。

中山会長 これにて各会派一名ずつの御発言は終わりました。

    ―――――――――――――

中山会長 次に、委員各位からの発言に入ります。

 一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、会長の指名に基づいて、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いいたします。

 御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。御発言が終わりましたら、戻していただくようお願いいたします。

 それでは、ただいまから御発言をお願いいたします。

 御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。

枝野委員 民主党の枝野でございます。

 お話ししたいことがたくさんあるので、早口でお話をさせていただきます。

 最初に、まず、柴山委員から、国民負担率との関係でオンブズマンについて触れられておりました。ヨーロッパの視察でヒアリングしてきた状況によると、必ずしも北欧諸国に限らず、北欧諸国がオンブズマン制度のスタート、生みの親であるのは間違いありませんが、今やEU各国にこの制度が広がっている。それから、その役割は、税の使い道の監視という側面ももちろん含まれておりますけれども、それ以上に、行政の憲法適合性あるいは違法性のチェックということで、必ずしも国民負担とダイレクトにつながる話ではないというふうに理解をしてまいりました。

 また、裏返して言えば、日本では、顕在的な国民負担率と潜在的国民負担率、つまり財政赤字の部分が、その差が非常に大きいということは、逆に言うと、行政に対する信頼が国民の間で低いからこそ、財政赤字という形で、顕在化させないで国民負担を後世に先送りをしている。だからこそ、日本は行政に対するチェック機能がより必要だ、重要である、むしろそうした根拠になるのではないかと私は考えます。

 それから、赤松先生から、行政相談委員などのお話がございました。行政相談委員を初めとして、現行の行政システムの内側から行政をチェックする、あるいは苦情などをお聞きするという仕組みが存在している、そして、そのことが大変大きな意味を持っていることは否定をいたしません。

 しかしながら、やはり物事は、内側からのチェックと外側からのチェックというものは本質的に違っているというふうに思っておりますので、行政相談委員さんには頑張っていただくと同時に、やはり外側からのチェックということが必要ではないかと考えます。

 そして、最後に、一番本質的なところですが、私は、最後に土井先生がおっしゃられたとおり、現在の行政監視システムが機能をしていないというところは同感でございます。ただ、現行の行政監視システムが十分に機能していないということをどこに求めるのか。私は、例えば今の与党の皆さんにそれを帰するのは、それは酷なんだろうと思っています。むしろシステム的な問題であろうというふうに思っています。

 つまり、議院内閣制というもとで議会の行政監視システムというものを機能させようと思った場合には、議会は最終的には多数決原理で物が決まる民主的な手続の場所でありますから、常に与党が多数を持っている。そして、与党と政府は一体として政治的な行動をしなければならないというシステムを内在しているわけであります。

 私も、かつて与党であった時代に、与党でありながら厚生省の問題点を国会などで激しく追及をいたしましたり、政府提出法案を与党でありながら修正をさせたりということをいたしまして、当時の与党の先輩方には一種御迷惑もおかけしました。しかし、それは、そういう努力をしましたが、やはり一方で、システム的に、政府・与党の中で与党が政府と矛盾をする行動、発言をするということがシステマチックに行われていけば、それはまた逆に、それはそれで議院内閣制というシステムの合理性に疑問符を投げかけることになるのではないだろうかと言わざるを得ないというふうに思います。

 こうしたことを改める方法としては、やはり三つあり得ると思います。

 一つは、本来であれば、内閣と行政各部との間を遮断する、もっとしっかりと仕分けをする。つまり、政府・与党といった場合の政府は、内閣は与党と一体化であってもいいけれども、内閣と行政各部との間はもっと遮断をしなきゃならないという状況でありますが、しかし、役所のつくったメモを朗読するどころか、役所のつくったメモすら朗読できない大臣をかばっているような政治の状況でありますから、とてもそれは期待をすることはできないであろうというふうに思います。

 もう一つは、議会の側が行政監視のような問題に限っては多数決原理をとらないという例外的な手続をそもそも決めてしまう、こういうことがもう一つあるんだろうと思います。私はこれは、議会というのは基本的に多数決原理が我々の正当性、我々の権限、権威の正当性の根拠ですから、そこには若干疑問があるのではないかというふうに思います。

 そういたしますと、やはり議会の持っている行政監視システムを機能させるためには、与党のためにも、与党から切り離した形での行政監視のシステムをきちっと位置づけるということが必要であり、それが議会オンブズマン制度がヨーロッパでどんどん発展をしてきたということの背景にあるのではないだろうか。そういうことを考えますと、これは、十九世紀型の三権分立から一世紀以上を経て、権力分立の新しい仕組みとして、議院内閣制下においては、議会のそばに、横にもう一つの三権とは異なった意味での権力分立をさせるという位置づけになり、それはやはり憲法上の位置づけが必要な存在ではないだろうか、こんなふうに考えます。

船田委員 自民党の船田元でございます。

 オンブズマン制度につきましては、北欧の先見的な、先駆的な事例、私もつぶさに調査をしてまいりましたけれども、議会それから行政、そして国民、もちろん司法、国を構成しているいろいろな分野の中で、やはり国民の権利あるいはさまざまな活動においてどうしても救済できない部分が存在する。そういうことについて、やはり補完的措置としてオンブズマン制度を考えるべきだ、そういう先人の知恵を十分に感じ取ることができました。

 現在の日本に当てはめてみると、確かに行政改革、累次にわたって行われておりますが、行政機構が肥大化していること、また複雑化していること、そのような現状においては、やはりなかなか、国民の権利を救済すること、さらに行政を統制する、あるいは行政を監視する、このシステムがまだまだ十分ではない、このように認識をしているわけでございます。

 そこで、このオンブズマン制度を考えるときに、一方では行政府型のオンブズマン、もう一つは議会型のオンブズマン、大きく分けると二つの類型があると思いますが、やはり行政府型というのは、どうしても行政の内部でのチェックということにとどまってしまう。そこには、やはり第三者的といいますか、国民の側に立ったオンブズマン制度というものにはなりにくいと考えておりますので、やはり議会型のオンブズマンを我が国においては求めていくべきであろうというふうに思います。

 ただ、やはり、その議会、そのときそのときの政党の構成要素、そういったものに対して影響をオンブズマン自体が受ける可能性がございます。議会型のオンブズマンで気をつけなければいけないのは、そのときそのときの政党の勢力分野、そういったものにすら左右されない、非常に中立公正な立場をオンブズマンは求められている、またそういうものを求めていかなければいけない、こう考えております。

 それから、オンブズマンと類似の現在における制度あるいは仕組みとして幾つか既に挙げられておりますが、私もこの類似の制度との調整は十二分に行っておく必要があると思っております。

 一つは、衆参両院に既に置かれております行政監視に関する委員会がございます。この行政監視の委員会におきましても常時行政をチェックするということにはなっておりますけれども、ただ、残念ながら、なかなか小回りがきかない、きめ細かな対応がなかなかしにくいという点、あるいは国民からのアクセスというものが必ずしも十全ではないというようなこと、国民の目線で行政をチェックするということに関して若干まだ弱い部分がある。そういった部分をやはりオンブズマンの制度によって補完するということは、極めて有益であるというふうに思っております。ただ、行政監視の委員会とオンブズマンとの関係、これはよほど工夫していかなければいけないんじゃないかなと思っております。

 それからもう一つ、行政相談委員の制度との類似性ということが挙げられましたけれども、確かに行政相談委員は一般的な行政と国民を結ぶ一つの太いパイプにはなりつつあります。しかし、専門的分野ということについてはやはり行政相談委員の力はまだ十分でないということがありますので、この辺を調整するのであれば、オンブズマンというものは、一般オンブズマンよりは特殊オンブズマンを分野ごとに設けるという方向が望ましいのではないかというふうに思っております。

 もちろん、現在、各分野ごとに幾つかの相談制度がございますので、そういった現行の相談制度との調整もやはりこれは必要であると思いますけれども、最初に申し上げましたように、オンブズマン制度自体は、我が国の行政の機能をより高めていく、あるいは国民の利益あるいは権利の救済のためにも私は必要な制度であるというふうに感じております。

 以上です。

土井委員 先ほど枝野委員がおっしゃったことなんですけれども、少なくとも議院内閣制であれば、三権以外に、言ってみれば第四権みたいな形でオンブズマン制度というのを考えることが、よりよい行政に対してのチェック機能ということを国政の中で果たしていくことができるんじゃないかというふうに言われている方もあるようでありますけれども、ずっと見ていくと、どうも、議院内閣制であれ大統領制であれ、近代国家がいずれも行政府が政治の主役となる行政国家となってしまった事情を反映して、行政に対するチェックという意味でのオンブズマン制度というのが特にヨーロッパ中心に今日に至っているという認識が非常に強く研究者の間ではあるようです。

 そういうことから考えると、日本の場合は、立法一つを取り上げましても、前回もそれは少し問題になりましたけれども、議員立法であってしかるべきだと。唯一の立法機関なんですから、国会は。「唯一の」と憲法の四十一条にあるところ、非常に意味深長と思うんですね。だから、それからすると、国会自身がまだその機能を発揮できるような体制がなっていなかった。

 それはどういうことかというと、国会の立法補佐機構として議院法制局がありますし、常任委員会の調査室があります。国立国会図書館の調査及び立法考査局がございます。しかし、そこの機能が質、量ともに国会の立法機構というものの中で動いているかというと、枢要な役割を担う職というと、もう率直に申し上げれば、調査室長というのは国会の職員の中から人材が出ているわけではございませんで、各省庁から出向の形で調査室長というポストにおられるのが大半だったんですね。これは、私は知ったときびっくりしました。

 したがって、各省庁の出先みたいな形に国会の調査室がなっている。調査室自身は立法に対しての補佐的役割を果たすべき場所ですから、したがって、国会は唯一の立法機関であるという機能からするとその状況自身を正さなきゃならぬということから、これは考えていかなきゃならなかったんですね。言ってみれば、日本の場合はどうもやはり、行政府が政治の主役となるという意味で行政国家化しているというわけでなくて、帝国憲法、あの帝国議会以来のならわしが延々と続いているというふうに思わなきゃならないんじゃないかなと私は思います。

 だから、そういうことからすると、その後大変な努力がこれはありまして、実はこのことを鯨岡副議長と一緒に、立法に対しての、「議員立法の活性化に関する一つの提言」というのを提案したわけですが、一九九三年八月から勉強を続けましてその提案をしたわけですが、その後非常にこれに対する努力というのがだんだんだんだん効果を上げてきているということだという現実もございますから。

 したがって、やはり国会自身がみずから、今のオンブズマンという意味での機能も憲法で定められているとおりを具体的にやはり実行していくということに、どういうふうな体制が必要かということもあわせて、これは努力する必要があるなというふうに私は思います。

柴山委員 先ほど少ししり切れトンボになった点もありますし、また、いろいろな先生方から問題提起もありましたので、若干補足をさせていただきます。

 まず、行政国家について枝野先生から御指摘がございました。

 まず、日本が財政赤字になった理由としましては、必ずしも行政の乱費ということによるものだけではないと私は思っております。やはり非効率的な行政システム、特にスウェーデンは各省の職員数は平均が二百人という効率的な、簡素な政府であるにもかかわらず、あのような、いわゆる行政の質というところにお金をかけているのに対して、日本の行政についてはやはり政府自体が大きかった。

 だから、これを統制するのは、むしろやはり行政改革という政治の分野が重立った役割を果たすべきなのではないか。だから、財政赤字を統制するがゆえに行政の適正がヨーロッパよりも高く認められるのではないかという御指摘は、私は必ずしも当たらないのではないかと思っておりますし、先ほど申し上げたとおり、日本は所得税等かなり低い水準にとどまっておりますから、やはり消費税を含めた税制の改革というものを行っていくのが本道であって、行政オンブズマンとこの財政赤字の問題というものが必ずしも連動するものではないというように私は思っております。それがまず第一点。

 それから、私が先ほど指摘をさせていただいた憲法上の位置づけに伴う問題点というものについての正面からの御反論というものが余りないように思いますが、私は、法律上のシステムとしてオンブズマンを設けたことによって、それが不十分ではないかという御懸念は必ずしも当たらないのではないかと思っております。

 というのは、先ほど辻先生から御指摘があった調査権の問題にしても、今情報公開法がかなり整備をされておりますし、また、先ほど申し上げた行政事件訴訟法における釈明制度あるいは文書提出命令などの活用、これはもちろん訴訟上の制度なんですけれども、そういうものも十分整備をされてきているわけであります。

 また、土井先生からも御指摘のあったように、オンブズマン制度というものが、憲法上位置づけたときに、それがいわゆる議会の附属機関として、要するに、議会というのは多数決主義ですから、議会の側の機関になるのか、あるいは個人的な権利を侵害された個々の市民の救済機関というものになるのか、その位置づけが、第四権というようなお話がありましたけれども、私はちょっと今の時点でまだちゅうちょする部分がありまして、そういう意味からも、先ほどの、憲法上位置づけるということの懸念に今申し上げた懸念をつけ加えたいなというように思っている次第であります。

 結論としましては、今、行政相談の仕組みというものをやはり充実させる、あとは個別的な相談、苦情というものをもう少し拾い上げていく、そういう機関をつくっていく、あとは決算行政監視委員会、先ほど船田先生からありましたとおり、決算行政監視委員会に市民の側からもう少しアクセスができるようにする、あるいは決算行政監視委員会の外局あるいは調査委託機関としてしかるべきそういった行政をチェックする機関をつくっていく、そういうような形で現行制度をやはり充実させていく、それを立法に基づいて充実させていくのが現実的なオプションではないかなというように私は思っております。

 以上です。

枝野委員 まず、先ほど土井先生から二度目にお話しになられたお話は私も同感です。

 つまり、議会の機能が今十分に果たせていない、その部分をさらに努力して、議会としてもしっかり機能を果たしていけるようにする。そのことを前提とした上で、ただ、それでも議会ダイレクトでできることというのはやはり限界があるのではないだろうか。

 しかも、行政がどんどん肥大化している今の状況の中で、例えば国民の権利が侵害されたり、あるいは不当な行政が行われたことに対して、例えばオンブズマンのところには相当な数の苦情が上がってくるだろうと思います。その苦情に対して、一つ一つを議会のような多数決原理あるいは合議制システムの中で物を処理していけるかというと、例えばスウェーデンやEUでオンブズマンにお話を聞かせていただいても、一種もう形式的に、調査にも値しないというような案件が圧倒的多数であるというのが現実だ、上がってくる案件の。しかし、何割かはまさにきちっと調査をしなきゃならず、そのうちの何割かはまさに問題があるという結果になっている。

 こういう処理を合議機関でできるのかというと、やはりなかなか難しいところがあって、そこはある程度の権限をどなたかに与えて、一種行政的に、ある部分までのふるい分けということはさせていかないといけないだろうし、あるいは調査そのものも、合議機関でこういう調査をしよう、ああいう調査をしようということよりも、例えば、事前に調査対象に対して準備をさせると情報を隠すということなどもあり得ますから、そこは一種行政的な側面、性質を持った調査なども行われないといけないんではないだろうか。

 そういうことを考えると、議会の機能は強化する一方で、もう一つ、しっかりとチェックをするオンブズマン的な機能が、議会の多数決原理、合議システムとは、近くだけれども別に必要があるのではないだろうかというふうに思っているところであります。

 それから、非効率的な行政が問題であって、行政改革を進めていかなきゃならないという御意見は全くその限りは同感でありますが、今の与党の皆さんだけを批判するつもりは全くありませんけれども、残念ながら、日本の戦後六十年間の議会制度と議院内閣制度のもとで、我々や我々の先輩たちが行政の肥大化を許してきてしまっている。

 議会が行政をチェックするのではなくて、むしろ行政の片棒を担いで予算の獲得とか組織の拡大の方にむしろ議会人が動いてきたという残念ながら歴史があって、議会人の仕事は、この予算をつけろではなくて、この予算を削れが本来であって、それが議会の本来的意味なのに、私が十一年前、国会議員になって初めて与党の会議のところで、この予算、むだじゃないか、削ったらどうだという発言をしたら、物すごく唖然とそのときにされました。ああ、そういうことは少ないんだなとびっくりしましたけれども。

 残念ながら、歴史的にそういうことが行われてきていて、では、今例えば五年とか十年とかの間にこの構造が転換できるのか、我々議会人が役所に対して徹底して予算を削れ削れと、削ることが我々の仕事なんだということに転換できるのかというと、そこもなかなか困難な政治的現実があるんではないだろうか。

 また、有権者との関係では、この部分をふやしてねということに対しての仕事も我々の仕事の一つであるのは間違いない。そのことと、行政のむだを削っていく、行政改革を進めていくということとを両立させていくためには、議会が一定のコントロールはするけれども、つまり人選その他の一定のコントロールはするけれども、独立して職務を執行するという形でのオンブズマンというのは、大変いろいろな歴史的な経緯の中ででき上がったシステムだと思いますけれども、議院内閣制のもとにおける議会の政治的立場と現実の必要性というのをうまく調和させたシステムではないだろうかと私は考えます。

渡海委員 自由民主党の渡海紀三朗でございます。

 先ほど来の議論を聞かせていただいていて、特に枝野委員からいろいろと発言があったわけでありますが、現状こういうことが起こっているということと、それは制度上起こっていることなのか、実態としての運用上の問題の中で起こっているのか。

 例えば、土井委員が御指摘をいただいたように、ある機能が弱いために、実際はこうなければいけないのに、現実にはなかなかそう働いていない、そして、今まで与党を運営してきた中で、非常に慣例的に本来の役割というものが少し違ってきているんじゃないかという指摘もあったわけでありますけれども、議論の中でやはりディメンションを少し整理していかないと、いわゆる制度上の問題として、議院内閣制というものがオンブズマンというものがなければ実はうまく働かないのかどうか、そこのところをやはりクリアにしていかないとなかなかこの議論が収束しないなという感じがいたしております。

 私の個人の印象としては、実は、議院内閣制であろうと大統領制であろうと、党派がはっきりしていれば現実には同じことは起こり得るわけでありまして、むしろ、いわゆる議会に対するチェック機能というものをどういうふうに考えていくかということが大事であろうと思います。

 最大のチェック機能は、言うまでもなく国政選挙であります。しかし、しょっちゅう国政選挙をやっているということになれば、衆議院の場合は解散がありますから、大事なときにはそういった手法をとるわけでありますけれども、国政も滞りがちになりますし、そういった意味では、もう少し頻繁に、いい意味でチェック機能が働くような、そういったシステムというのは必要なのかなというのが率直な印象でございます。

 そして、先ほど船田委員からも決算行政監視委員会のお話がございました。ちょうど三年前でございますが、私も委員長をやらせていただいて感じたことでございますけれども、この審議の仕方も、現実には、要は調査権というものがそれほど大きく変わったという印象をなかなか持てない。ですから、やはりこの調査機能みたいなものを従来のものに頼るのではなくて、もう少し違った、独立した調査機能というものを持つようになれば、議会のチェック機能というのはかなりカバーできるのではないかな。

 現実に、今の調査機能というのは、例えば会計検査院であるとか、そして、例えば何らかの調査に関して、資料が必要だ、実態はどうだ、情報公開をしろということになれば、今の行政官庁というものにかなり頼らざるを得ないというところになりますと、これは先ほど土井委員が御指摘になりました、調査室が各役所の出先機関になっているというような、すべてそうだとは申しません、しかし一面もありますから、そういった点も大いに改めていかなきゃいけないだろうと考えます。

 そんなに整理された結論ではありませんが、そういったことを、制度上の問題なのか、それとも実態上の問題なのかということをきっちりと整理した上で、私は、最終的には、基本的に制度上の問題はかなり運用上の問題と区別してカバーできるのではないか。やれるとするならば、やはり行政をチェックしていくのは議会がやるわけでありますから、行政型のオンブズマンということではなくて、議会型というよりも、議会に対してチェック機能を強化していくということを今することが一番大事なことではないかというふうに考えております。

葉梨委員 自由民主党の葉梨康弘です。

 先ほど枝野委員の方から、オンブズマンの必要性について、最近の行政の肥大化、それから与党によっては行政のチェックができない、議院内閣制のもとにおいては行政のチェックができないというような御発言がございました。行政の肥大化という点については私もその意味では同意見なんですが、与党による行政のチェックが本当に議院内閣制のもとでできないかということについては非常に異論を持っております。

 といいますのは、最近の行政の不祥事、チェックすべき行政の不祥事というのは、かつてはやり過ぎの不祥事に対する対応であったんですが、最近は不作為の不祥事というのが相当大きな部分を占めるようになっております。枝野委員が与党時代にあったという薬害エイズ事件、あれもある意味では不作為の不祥事でありましたし、埼玉の桶川のストーカー事件、あれも不作為の不祥事。

 不作為の不祥事、行政がやらないことによる不祥事というのは、憲法十六条に言う「損害の救済」というのを立証することがなかなか難しい。そういうのをぜひとも行政をアクセレレートしてやらせるようにしていかなければいけないという行政のチェックというのもあると思います。その意味で、我々与党としても、いろいろな国会の場で、あるいは党の場でもいろいろな提案を行って、行政をチェックしてアクセレレートする、もちろん行政改革についても一生懸命やっているということを申し上げて、野党が行政をチェックするのではなくて、国会全体として行政をチェックするんだということをぜひ御認識いただきたいと思います。

 ただし、私は、オンブズマン制度の必要性を、憲法上の措置とするかどうかは別として、認めていないわけではありません。

 苦情処理という機能は持ちませんが、行政がある程度人事のコントロールを持って、そして国会が人事のコントロールを持って、行政と独立したところで行政を監視する機能というか機関というのは、現在の日本でもあります。例えば、公安委員会である、教育委員会である。そしてその公安委員会についても、最近、先ほど不作為の不祥事というのが多くなっている中で、公安委員会の機能はぜひ強化すべきだというような、そういう世論も高まっております。

 ですから、よりさらに苦情の処理の機能を持たせる形で行政がそういった機関に対する人事的なコントロールを持つ、そういうような仕組みの立て方、これは法律になるのか憲法になるのかという議論はあるでしょうけれども、やはり今後検討すべきではなかろうかというふうな考えを持っております。

 以上です。ありがとうございました。

鹿野委員 私は、このたびのヨーロッパにおける憲法調査会の調査団、いろいろと報告を聞きまして、大変参考になりました。

 その中でのオンブズマン制度をどうするか。

 基本的に、我が国においては、オンブズマンというものに対するイメージもまだ確固たるものがないと思っております。それは結局、我が国においては公的オンブズマンが発達をしてこなかった、むしろ市民オンブズマンが発達をしてきた。こういうふうなところに結びついておるんではないかと思っております。

 このことは、宇都宮参考人が前の憲法調査会参考人として、市民オンブズマンはいわゆるオンブズマンの範疇に入らない、こう考える、こういうふうにおっしゃっておられました。そのことは、まさしく今回の調査の結果、私ども改めて考えさせられるところだなと思っております。

 歴史の違いもあると思います。ヨーロッパにおいては、いわゆる権力に対する、権威に対する闘いの歴史であった。こういうふうなことから、法の支配というふうなもの、また民主主義というふうなものに対する基本的な考え方がきちっと確立されておる、こういうところの違いもあると思います。

 そこで、この公的オンブズマンの必要性というふうなものは、当然のことながら、行政に対するチェック、こういうこともありますけれども、もう一方、よい行政が行われておるのかどうか、よい統治なのかどうかということの役割に対する期待もあるというところだと思います。

 私は、日本の国においては、国民総じて、また私どもも、統治というものに対して関心が非常に薄いんではないか。すなわち、憲法論議においても、実質的にこの憲法調査会の議論等々も含めて、そのように感じております。

 しかし、統治そのものは、近代憲法における基本的人権とともに、まさしく民主主義の根幹である。そうすると、よい統治がなされておるかどうかというふうなことのその判断をしていくということは、民主主義の質の向上に結びつく。こういうことからいたしまして、この公的オンブズマンというものを、やはり我が国においても、これからの法の支配の国をきちっと担保する、民主主義の質の向上ということからして大事な、基本的な機関である、私はこういうふうなことの認識に立つわけであります。

 そこで、このオンブズマンというふうなものを憲法上どうするか。私は、これは完全に独立したものである、中立、公正、独立性というふうなものが明確でなければならない、これは名目上だけでなしに実質上。そういうことからしますならば、真にオンブズマンが国民から信頼されるというふうな位置づけをするためにも、憲法上きちっと明記をする必要があるんではないか、こういうふうに考えております。

 それから、我が国の歴史なりあるいは風土なりからいたしますと、アメリカのように、どちらかというと勝ち負けというふうなものがきちっとする、こういうふうな国は、その一つの国の形でありましょう。しかし、日本の国からするならば、穏やかな紛争解決。一方においては、もちろん裁判によって法の判断、合法か違法かというような判断がなされるわけでありますけれども、その緩やかな紛争解決というふうなものも我が国においてはなじむものではあるんではないか。

 そういうふうな意味においても、このオンブズマン制度というふうなものを我が国の憲法上きちっと明記して、重ねて申し上げますけれども、法の支配の国である、民主主義の確立された国であるというふうなことの、その国の形をきちっとつくり上げていく上においてもこのオンブズマン制度というものは必要ではないかということを申し上げたいと思います。

山口(富)委員 日本共産党の山口富男です。

 きょうは、制度と運用ですとか権限と実態ということで行政監視の問題を議論されたんですけれども、オンブズマン制度そのものについて言いますと、私は、憲法が定める国政調査権や行政監督権を積極的、機動的に発動するための機構として、やはり議会型のオンブズマン制度を設ける条件と必要が今あるというふうに考えております。

 憲法六十二条自体は、現行憲法で初めて設けられた定めであって、やはりこれを日本においてどう具体化するのかという中で、私は、オンブズマン制度の世界の経験や日本での必要というものを考えたらいいと思っておりまして、特段、その点で憲法上に新たなオンブズマン制度をめぐる規定を現状では入れる必要はないというふうに考えるんです。

 それと、先ほどから指摘されているんですが、確かに、議院内閣制、それから議会とオンブズマンとの関係をどうするのかということがありまして、そこは、私は、議会型ですから、日本の場合は国会に附属するものとして設置されることを考えますけれども、当然、中立性、独立性を確保するというのは決定的なことになりますから、それはきちんとやっていく必要があるというふうに考えております。

中川(正)委員 民主党の中川正春です。

 まず、先ほどのいわゆるオンブズマンの議論について、これは設置すべきだという観点から、もう少し違った切り口でお話をさせていただきたいと思うんです。

 ヨーロッパで発達をしてきたその背景というのがあるんだと思うんですね。いわゆる行政というものの運用形態というのが、日本独自の、いわゆる業界団体との話し合いの中で、護送船団方式とよく言われますが、業界団体自身が自主的にルールをつくりながら、それを指導指針とか行政指導とかいうような形で行政を進めてきた背景というのが日本にある。

 ヨーロッパの場合は、今、特に金融関係で、ビッグバン以降、大きな変化が起こってきていますが、いわゆるルール行政、結果行政であるということ。そんな中で、例えばSECであるとか、あるいはアメリカの場合はGAOという組織ができて、膨大なといいますか、エネルギーを使いながら、この結果行政、ルール行政というのを現実のものにしようとしてきた努力があった。これは、ヨーロッパでも、そういう意味では癒着型の行政指導による行政権の発動というようなことじゃなくて、恐らく、ルールでやってきた、そのルールでやってきた中で、このオンブズマンというのがその一環として育ってきたという背景があるんじゃないかというふうに思うんです。

 そんな中で、日本もそうした体質の変化というのをつくり上げていかないとだめだ。いわゆるグローバルスタンダードという名前で指摘されて、その努力をしつつあるわけでありますが、そんな中で考えていくと、やはり今の日本のシステムというのは十分じゃないんだろうというふうに思いますし、業界団体と特にこの行政との関係を、市民のサイドあるいは生活者の立場からしっかりこれを批判していくあるいは見ていくということのためにも、ちょうど司法とそうした監視機能の中間にあるような、そんなような機能を持たせたオンブズマンというのが非常に効果的に働いていくんだろうというふうに思います。

 そうした意味でも、位置づけは行政の中じゃなくてやはり議会ということで、そんな中で、各党の思惑でその調査あるいはその動きというのが左右されるという形じゃなくて、やはりしっかりとした独立機能を持たせるということ、そんなことを前提にした設置ということをしっかり考えていくべきだというふうに思っております。

中根委員 民主党の中根康浩でございます。

 まだこの憲法調査会の雰囲気に、水になれ切っておりませんので、あるいは、きょう大変遅参をしてまいりまして、不適切であったり既に出た議論であったりした場合にはお許しをいただければありがたいと思います。

 国会の行政に対するチェック機能という話が今出ておりましたけれども、私ごとであったり個別的な話であったりして大変恐縮でございますけれども、例えば質問主意書。

 与党の皆さんが質問主意書の提出に対して大変制約を課そうとしている。具体的に今、この臨時国会で、私が十二本初日に質問主意書を提出いたしましたけれども、内閣の方に転送されたのはいまだに五本。七本は、議運で与党の方々がこれは単なる資料請求ではないかとかなんとかいうふうにおっしゃいまして、なかなかお答えいただく手続に入らないというようなこと。まさに国会がみずからの機能あるいは役割を、首を絞めている、みずから制約を、ハードルを高くしているというようなこと、この現実に対してぜひ考え直していただきたいということ。

 あるいは、社会保険庁の周りで今いろいろな汚職事件がありますけれども、会計検査院が社会保険庁の業務に対して検査をしようとした。それに対して想定問答集のようなものをつくって、そして社会保険庁の検査はその想定問答集にのっとって行われて十分な検査が行われない。そのあげく、警察が入らなければチェックがされないというようなことになっておるわけなんですが、会計検査院というもののあり方、その人事のあり方、他の省庁と交換人事が行われていたり、検査対象に対して天下り、再就職をしているというような現実をまず改めていかなければ、会計検査院の機能もしっかりとしたものに、十分なものとして働いていかないというようなこともあろうかと思いますので、意見として述べておきたいと思います。

 以上です。

山花委員 民主党・無所属クラブの山花郁夫でございます。

 先ほど葉梨委員から、行政の作為、不作為ということで分けて議論されておりましたけれども、少し異なった観点から非常に重要な指摘ではないかと思っております。

 先ほど来議論で出てきておりますけれども、議会による行政統制、その中でいろいろな手段があって、それを充実させなきゃいけない。それはそうだと思うんですけれども、行政の側が何かやろうとするとき、アクションを起こそうとするのに対して議会の側がそれはちょっとどうだろうかとブレーキをかけるというのは比較的構図としてはやりやすいというか、つまり、我々が行政のやることすべて見ているわけじゃないですから、一年じゅう、どこで何が起きているか、そんなことは、チェックしろと言われても恐らく現実的に無理な話であって、何かやろうとするときにそれに対してどうだということは構造としてはやりやすいんでしょうけれども、何もしていないということに対してそのチェックをせよと言われても、例えばメディアから指摘を受けたとか、何かそれによって事件が起きたとかいうことでないと、なかなか認識すらできないのが残念ながら実態ではないかと思っています。

 そこで、ここのところ、事前規制から事後規制へ、こういう大きな流れの中で、事前規制型のやり方をしているときには、事前規制、言葉は事前ですけれども、そこで役所側が何かこういう規制をかけますとかあるいはこういうふうにやりますという提案があれば、それを議会の側がそれはどうだろうかと審査するという仕組みなんでしょうけれども、事後規制になったときに、やや観念的な議論かもしれませんけれども、今後ますます議会の側が見えなくなる部分というのは出てきてしまうのではないか、このように思っております。

 また、オンブズマンの場合ですと、適法か違法かということだけではなくて、苦情処理なども受け付けるというイメージで私は考えているんですけれども、先ほど柴山委員が、ここのところ行政訴訟なんかも改革があってというようなお話もされていました。それもそのとおりだと思いますけれども、一方、訴訟の場ということになると、やはり、違法とまでは言えないけれども、こういう行政の運営はどうかというようなケースも多々出てくるのではないかと思うんですよ。そういったことも、オンブズマンのところに持ち込まれていくことによって、どうもこういう類型の苦情の件数が多いとか、そういうことが認識できるようになるということは非常に大事なことではないかと思います。

 したがって、形態についてはいろいろ議論があるんでしょうけれども、オンブズマンという制度についてはやはり積極的に考えていくべきではないのかなと。

 その上で、法律でやるのか憲法上の位置づけをするのかということなんですけれども、私も確信はまだ持てていないんですが、ただ、法律上のものとしたときに、やはり権限の上でいろいろ限界が出てきてしまうのではないかという懸念がございます。

 というのも、情報公開制度もありますしいろいろな制度もあるんですけれども、例えば、ある行政事件でこんな判決が出たというときに、弁護士さんであっても、よその事件で判決書を読みたいんだけれどもといって、そう簡単に手に入るものではないのが実態でありましょうし、オンブズマンが、例えば、どうもよそでこんな事件があったようだ、判決が出たというときに、もちろんプライバシーその他いろいろな事情があるので出せないというケースもあるでしょうけれども、法律上のものであるとすると、資料を出せと言ったときに、いや、これは行政上のなので出せないとか、もろもろの事情があって出せないというようなケースというのが、いい悪いは別として、事実上やはり出てきてしまう懸念があるので、憲法上のものとしてしっかりと位置づけた方が好ましいのではないかな、私はそんな印象を持っております。

 以上です。

大出委員 民主党の大出彰でございます。

 今、山花さんからお話があったように、確かに憲法上のものがいいのかということはありまして、確かに新しい憲法ができるとき、例えばEU憲法なんかにもオンブズマン制度が入っていますね。そういう意味では、機能するならばその方がいいんだろうと思っておりますが、もともとは、原点にやはり返ってみるべきではないかと思うんですね。

 というのは、三権分立を考え出してつくったのは、要するに抑制と均衡することによって政府をチェックしていこうと考えたわけですね。その中で、その真っただ中に我々もいるわけなんですが、どうも全体的に、オンブズマンというのが出てくるのは、中央も地方も、議会の機能が実は低下をしているということからなのではないかと思うんですね。

 何でなのかというと、先ほどから調査室の話が出ておりますが、調査室をよく利用させてもらうんですが、残念ながら資料が、野党だからそうなのかわかりませんが、十分なものが出てこないというのが現状でありまして、例えば、全部の銀行のつもりで、全部の銀行の利子の利益はどれくらいあるんですかと言うと、全部の銀行は出てこないんですね。大手何社とかいうことしか出てこない。こういうことをするのかなと思うようなことばかりでございまして、これはどうしてそうなるかというと、野党に全部の資料を出すと質問に使われてしまうとか、そういうことが多分あるんでしょう。

 そういう意味では、もともとチェックする機能をそういうところで抑えられてしまうような感じになるという、多分これについては、いや、実はその全部を出してくれと言わなかったからとか、いろいろな理由をつけられるんだと思いますが、これは無理もないことなので、問題なのはやはり、立法の側が情報を持っているところの人たちを使えるといいますか、行政情報にアクセスできる人たちを秘書にできるとか、そうでないと、秘書が幾ら東大出で弁護士で会計士であったとしても、内部情報をとれない限りはまともに質問なんかできなかったりするんですね。

 そういう意味で、チェック機能をちゃんとできるようなものであれば、それがオンブズマンという名前であろうが構わないんじゃないかと思うんですね。

 ところが、現実にチェックするのができないものですから、特に外国なんかだと、公的機関に対してかみつく機関あるいはほえつく機関というようなオンブズマンみたいなものをつくるんですね。これはなぜかみつくとか名前がつくかというと、現実にしょっちゅう公的機関にかみついているわけですよ。おかしいじゃないか、おかしいじゃないかとやっているわけですね。ですから、自然と市民の皆さんから、かみつく機関とかほえる機関とかいうことになるんです。

 日本の場合にはそうならない可能性が、よく三条委員会なのか八条委員会なのかというように、行政の側がそこのところをコントロールしてしまうとチェック機関にならないという部分があるので、制度的なものでちゃんとチェックができるという、もともと三権分立というのはチェックするための機能なんだということに返って、そういうものとしてつくらなければだめなのではないかと思うんです。

 そして、オンブズマンについての議論は、多分必要性が先に来ているんだと思うんですね。例えば、軍隊であれば捕虜に対して虐待をすることだってあるだろうし、軍隊の中で何が起こっているかということはわからないわけですよね。現に自衛隊の中でも自殺者が多いということがあって、別に中で虐待されたとは思いませんけれども、軍隊ともなれば必ずチェックする機能が必要なはずでありますし、刑務所においてもだれかがチェックしなければ、中で何が起こっているかわからないところがあります。あるいは、近々でありました無認可の保育所なんかもそうですが、密室の中で何が起こるかわからないというようなことがあるので、そういう必要から実はオンブズマンが必要だと言われているのではないかと思います。

 そして、地方の例でございますが、市民オンブズマンという方々と私も接触を持ちますけれども、それは何で市民がオンブズマンをやるかというと、一般の市民から見ると、地方の政府というのは、立法府、つまり議会もそれから首長さんも両方とも行政側だと映っているんですね。行政側だと映っているんです。機能していないわけですね。有名な首長さんたちがいるところについては議会と闘っていますが、そうでないと、議会ごと、丸ごと行政だと考えているものだから、機能していないと思うから市民の方々がオンブズマンで出てくる。しかし、公的制度でないものですから自分で金を払わなきゃならないということがあるので、地方の議会こそ、地方政府ほどオンブズマンが必要なような状況なのかな、そんな感想を持ちながら、時間ですのでやめます。

 ありがとうございました。

馬淵委員 この議会オンブズマン、その他行政に対するチェックの仕組みについて、私は、まず、主権者たる国民の統制、あるいは憲法の十六条に定められている請願権といった根本理念が貫徹されていれば、まずこの一点について貫徹されていることが重要であるというふうに考えております。既存の行政に対するチェックの仕組みがまず十分に機能しているかどうか、このことの再考が必要ではないかということを考えます。

 二点ございまして、一つは、少数者、野党に配慮したチェック機能が果たして十分機能しているか。予備的調査につきましても、現在はある意味では出しっ放しの状態になっている。これに対して、報告書を活用した委員会の開催などといった考え、方法もとられるのではないかというふうに思います。

 また、先ほど来議論に上がっております質問主意書に関しましても、八月六日の定例記者会見では、細田官房長官が質問主意書が多過ぎるという旨の発言を行われておられますが、これは、議会による行政のチェックの流れに反するものであり、特に少数者あるいは野党の権利を制限するおそれがある、ある意味、これは許されるべきではない発言だというふうに考えます。こうしたチェック機能を現行の憲法下で十分機能させることが重要である。

 そしてもう一つ、十六条に定められた請願権でありますが、これは現実の運用として見ますと、会期末の処理が常態化されていて、先ほども土井委員の方からありましたが、常態化されていて、フォローが全くなされていない。この請願の採択あるいは処理経過などについても、委員会などで十分な議論あるいは報告の聴取などがなされるべきではないかというふうに考えます。

 例えば、過去におきましても、平成十四年、参議院の外交防衛委員会などでは採択をし、参議院議長より内閣に送付した請願の処理経過をその委員会の中でも議論をされているといった事例がありますが、実体の委員会の中ではそれが十分なされていない。これも、システムありきにもかかわらず、それを運用する議員の側の問題であったりするというふうに考えています。

 また、請願に関しては、ハードルが高い。議員の紹介などが必要であったり、あるいは書式等の難しさといったことでハードルが高いということがあります。これに対して、決算行政監視委員会で苦情処理という形での受け付けをされておりますが、これも、国民に対しての十分な窓口として機能しているかは甚だ疑問である。

 こうしたシステム上の問題、あるいは運用する側の議員の問題ということも踏まえて、オンブズマンという形が、新たな行政監視あるいは議会監視という意味でのチェック機能を十分発揮する可能性は秘められているのではないかというふうに思います。スウェーデンなどにおきましては、先ほどもありましたが、報告の中で、五千件の七五%は即座に請求棄却されるような、あるいは即座に処理されるような案件であるということから、こうした現実に開かれる場というものを考えていかねばならないと思います。

 以上です。

鈴木(克)委員 民主党の鈴木克昌でございます。

 私も、基本的にはオンブズマン制度は導入すべきだという視点で申し上げていきたいと思うんですが、今、日本の国が直面をしておる課題というのは、一つには、やはり政治に対して国民の信頼をどうやって得ていくか、もう一つは、直面する諸問題をどうやって大きく改革していくか、この二点だと思います。

 確かに制度的には、三権分立、そして憲法に基づいていろいろとできてはおるわけでありますが、その実態ということを考えていったときには、やはり残念ながら、幾多の問題が出てきておるということではないのかなというふうに思います。とりわけ、大きな改革を進めていくという視点の中で、従来の延長の中での物の進め方で果たして国民の合意、納得が得られるかということになりますと、私は非常に難しいのではないかなと思います。

 実は私は、私ごとで恐縮ですが、議会とそれから首長を経験してきておりまして、そういう意味で、先ほど大出議員から、議会と首長が有権者の目線、市民の目線から見れば一体だというような発言もちょっとあったわけでありますが、ある意味では、議員という立場で予算を審議して、それを可決するわけですね。そして今度は、一年たち、一年半たって、それを決算でチェックしていくということであります。

 仮に、その中でいろいろ問題が、市民の目線から見て結果的に問題があったという場合に市民はどう見るかというと、一体あなたは何をやっているんだ、その予算を認めたのは議会の議員じゃないのかと。それで、決算になったら、今度、いっぱしの理論でそれが違っておるということは、一体あなたはどういうことなんだと。ちょっと理論的じゃないかもしれませんけれども、率直にそういうような部分があるわけですね。

 ということは、よく考えていってみると、今の制度というものがやはり行き詰まってきておるのではないのかな。順調に物事が進んでいくときはいいわけですが、大きく改革をしていこうとか変革をしていこうというときには、やはり違った形の制度というものを考える必要があるのではないのかなというようなことを率直に思うわけであります。

 そういう視点からいっても、私は、やはり憲法にきちっと位置づけたオンブズマン制度というようなものを真剣に考えるべきときが来ておるのではないのかな、このように思います。

 以上です。

加藤(勝)委員 自由民主党の加藤勝信でございます。

 私も、今回から憲法調査会に入れていただきましたので、これまでの経緯がわからないところがありますけれども、私見を述べさせていただきたいと思います。

 基本的には、お話をいろいろ聞かせていただく中で、オンブズマンというものの役割、あるいはそれに対する期待、それぞれ若干違うような気がするわけでありますが、私自身は、いわば、現行の法律、それに基づいて行政がそれを執行する、それが適正に運用されているかどうかをチェックする機能として十分考えていってもいいのではないかなというふうに思います。

 そういう中で、先ほど、行政の肥大化という議論がありました。

 肥大化の面には、一つは非常に財政的な意味で肥大化をしている、あるいは権能の面において肥大化しているという意味があると思います。

 ただ、この肥大化については、運用というよりも、むしろ制度の部分、特に財政でいえば、よく言われますように、コスト意識がどこまで反映するような仕組みになっているかどうか、今の地方分権の議論もそういう脈絡ではないかと思いますが、そういう意味で、制度的な対応をしていかなければいけない。

 また、権能的にいえば、ある意味では、現行の法律においてもかなり行政に裁量権をゆだねてしまっている、ゆだねられている、こういう現状があるのではないかな。この辺を、これから法律をつくっていく中でどう考えていくか。

 そういう制度的な議論は一方でしていきながら、さはさりながら、実際の運用面できちんとした運用がなされているか。それは、先ほど葉梨委員からもお話がありましたように、作為の部分と不作為の部分、両方含めて議論していかなければ、チェックをしていかなければいけない。そして、そのチェックをする中で、現行、行政に基づくものか議会に基づくものか、議会型かという議論がありましたけれども、私は基本的に、いわば議会が果たすべき機能の一部をそこにゆだねてやってもらう。今のいろんな現状、御指摘がありました。さまざまな問題点を考える中で、それを解決する一つの手法として、議会型オンブズマンに期待をしていくというのが一つの考え方ではないかなというふうに思っております。

 ただ、そうした中で、では、それを憲法上どう位置づけるか。基本的に私は議会権能の一部をゆだねるという理解でありますけれども、そうした中で、ただ権能を明確化するという意味において、それを憲法に書くというのも一つの考え方ではないかな。

 ただ、その場合、憲法というものを、これまでのように五十年間全くいじらないままの憲法というものを想定するのか、あるいは適時適切に変更されていくという憲法を想定するかによっても状況は変わっていく。

 そういう意味では、私は、日々日々、その状況状況に応じて憲法というものは改正されていくべきだというふうに考えておりますので、現状の状況を克服するにおいて必要なものを挿入していく、そしてその機能が終了すれば、その時点においてまた変更していく、削除していく、そういう対応を考えてもいいのではないかなというふうに思います。

 以上です。

園田(康)委員 民主党の園田康博でございます。

 今までさまざまな先生方からのお話を伺っておりまして、私なりにもひとつ整理をさせていただき、お話をさせていただきたい、御意見を述べさせていただきたいと思っております。

 まず、このオンブズマンといいますか、私はオンブズパーソンということで申し上げておりますけれども、このオンブズパーソン制度というのは、本来ならば、迅速あるいは簡易的な、そして第三者、公平性というものの中から生まれてくる制度でありまして、なおかつ、議会型か行政型かということの議論もありましたけれども、その中で、一つの視点としては、やはり国民の権利擁護という立場から、国民の中から出てくる、そういう位置づけで考えていかなければいけないのではないかという思いがいたしております。

 すなわち、行政へのチェック機関というのは、さまざまな観点の中から議会がチェックをするべきであるというのは当然のことでありまして、しかしながら、それが今の現状の中ではなかなか、肥大化してしまった、あるいは多様化してしまったものに対して対応し切れていない。あるいは、先ほど先生からもお話がありましたけれども、不作為の部分が出てきてしまっているということに対するきちっとしたチェックが働いていない。でいくならば、最終的には国民の権利がそこで奪われてしまっているという状況からすれば、国民の側からの選択肢、主権者である国民の選択肢の一つとして、こういうオンブズパーソン制度というものが導入されてもいいのではないかというふうに私は考えております。

 そして、憲法上のものであるか、あるいは法律上のものであるかという議論の中で、さまざまな観点から、法律上の観点でいうならば、中野区あるいは川崎市から始まったこの市民オンブズマン制度、我が国における市民オンブズマン制度でありますけれども、これにつきましては、やはり法律上といいますか、首長の委嘱あるいは附属機関という形でスタートしてきているわけであります。しかしながら、川崎オンブズマンに代表されますように、運用上これをきちっとやっていけば、市民の皆さんからも認識をされ、信頼されるという制度になっていったという経緯からすれば、法律上でも、仮にこれができる可能性というのは往々にしてあるのかなという気はしております。

 しかし、議会の附属機関という形で、あるいは独立した機関として設置をするということであるならば、やはりきちっとした明確な憲法上の権利、位置づけ、権限というものがこの中に盛り込まれる必要があると私は思っているところであります。それによりまして、憲法上の機関という形で設置されるということであるならば、これすなわち国民の信頼にこたえ得る機関ということが認識をされ、また新たな制度としてここで明確になってくるのではないかなという気がいたしております。

 以上でございます。

鹿野委員 このオンブズマン制度導入の問題を議論するときに、今、いろいろ与党側とかあるいは野党側という視点からの議論もあるわけでありますけれども、私は、そういう考え方ではなしに、我が国、官僚国家と言われているところからいかにして本当の国民国家を築くかという、新たな国の形をつくっていくというふうな視点で考えていくべきだと思います。

 特に、あの歴史上も独裁を振るったロシア皇帝ですら、実は官僚の意のままであったというふうに言われております。それは、情報をすべて官僚が独占した、こういうふうなことからそういうふうに言われておるわけです。

 私も実はかつて与党におりましたけれども、では、与党だから本当に行政側がすべて与党の議員の言うとおりに全部提出するのかということになれば、全くそうではありません。御承知のとおりに、大臣にすらまさしく何の情報も上げられなかったというふうなことは、いろいろな場面で、局面で、明らかになっておるわけです。これは、まさしく日本の国の実態そのものをあらわしている。こんな国でいいのか、こんな官僚国家でいいのかというようなときに、議会がもっと機能しなきゃいかぬ、機能しなきゃいかぬ、現実的には何の機能もしていないというのが、先ほど来のお話のとおりであります。

 そういう意味で、本当の、新たな国をつくっていく上において、このオンブズマン制度というふうなもの、特に、すべてヨーロッパのことがいいというわけではありませんけれども、スウェーデンにおいては、いわゆる調査あるいは監査のアクセス権というものを軍事事項、秘密事項まで与えておるというふうなことからいたしまして、私は、このオンブズマン制度を、明確に、本当にオンブズマン制度そのものを国民に対して承知をしていただくという、その努力をしていく中で憲法上位置づけをしていくというふうなことになりますならば、それは、新たな日本の国の、真の民主主義をつくる上での一つの切り口じゃないか、こういうふうに考えております。

和田委員 私は、憲法調査会に今国会で初めて所属させていただきますので、過去の経緯が不勉強であることをお許しいただきながら、発言させていただければと思います。

 私自身は、昨年まで行政府の方に身を置かせていただいて、去年の十一月からこちらの方に来させていただいている身でございますが、どちらも経験してみて、このオンブズマン制度については、二つの面からの検討によって結論を出すべきかなというふうに考えております。

 その第一は、いわゆる行政についてチェックするという機能なわけですが、そのうちの、行政の中での自律的なチェック機能がどの程度これから働き得るのかということにかかっているのかなという気がいたします。その面では、今いろいろと議論はされ始めましたけれども、公務員制度改革がどのような帰趨をたどって、どのような結論を得るのかということが一つ重要なメルクマールになるのではないかというふうに考えております。

 すなわち、それを少しばかり具体的に申し上げますと、自分で仕事をしておって非常に感じたことでございますが、自分が起案したものが最終的に予算や制度として結実して、その後どのような経緯をたどって、国民の皆様方が最終的に満足されているかどうか、これをチェックする機能が今の行政府にはやや不足しているのではないかなという反省を持ちながら仕事をしておりました。

 この点において、公務員制度改革が、もっともっと一人一人の公務員が責任を持って仕事をする、もっと言えば、結果責任まで負うことになるのかもわかりませんが、そういう制度として改革をすることになるのかどうか。これによっては、自律的な機能が発揮されるのであれば、オンブズマンという特殊な名前をつけなくてもいいのかなという方向に働き得るのかもわかりませんが、それがなかなか難しいということになりますと、やはりオンブズマン制度は必要ではないかというふうに持っていかれるのではないかと考えております。これが一つ目の視点でございます。

 二つ目は、他律的に行政をチェックする機能が必要かどうかという観点を持っていかなければいけないのかなというふうに感じております。

 これは、先ほど来いろいろなところで先生方の御議論が出ておりますが、国政調査権を発揮して、どの程度行政権に対してきちんとしたチェックが行えるか。また、これは、行政に身を置きました人間としまして、この調査権の発動としていろいろな調査依頼やレク依頼が参りましたけれども、そんな中でも、やはり議員の先生方のきちっとしたモラルも必要ではないかなというふうには感じました。我々今、野党におりますけれども、そこはひとつ自覚を持って、聞くべきところを聞く、自分で調査すべきところは調査するというところは、議員各位の自覚を促さなければいけないのかなと考えております。

 ただ、この国政調査権について、先ほど来議論が出ておりますように、とにもかくにも、与野党間での議論の対象にするというよりは、やはり最終的には、国民の皆様方に一人一人責任を負った議員としてどの程度自分が国政について報告できるかということを視点の第一に据えるべきかなと考えております。この点におきましては、国政調査権の範囲それから行使の仕方について将来議論すべきかなと考えておりまして、この議論の帰趨によって、このオンブズマン制度が他律的な機能の観点から必要になってくるのかどうかというふうな検討になってくるものと思われます。

 私自身は、今の段階ではやはりそこが十分に自覚と節度を持って運用されているとはなかなか思いがたい状況にあると認識しておりまして、そういった観点から、オンブズマン制度は、今の現状においてはつくってもよいのではないかと考えておる次第です。

 以上でございます。

柴山委員 先ほど来、やはり行政へのチェック、特に現行の制度が非常に不十分である、鹿野先生初めさまざまな委員の先生から御指摘をいただいたところでもあります。

 ここで再度申し上げたいのは、やはり、一義的にこれをチェックするべき議会あるいは民主的な制度というものが機能不全を起こしていることは率直に認めつつ、そういったものを例えば訴訟の場でしっかりと補っていくことが私は現実的ではないかなと思っておりますし、また、実効性という点でも、勧告しかできないオンブズマン制度よりも、行政訴訟ということの充実によって図っていく方が私はいいのではないかと思っております。

 もちろん、コストの面からして、必ずしも市民的に十分な救済ができないのではないかという懸念はあろうかと思いますけれども、こういった強制的な契機、モメントを持つ救済制度というものを私は充実していかなければいけないと思っておりますし、繰り返しになりますけれども、先ほど来出ている行政の不作為の場面については、一定の処分がなされないことによって重大な損害を生じるおそれがある、ほかに適当な方法がない、そういった場合の義務づけ訴訟というものが今般新たに新設をされたところでもあります。また、不作為の違法、違憲の確認訴訟、これも認められる。行政関係の権利義務に関する確認訴訟を、当事者訴訟の一類型として明確に明示をされているというような形での改正が行われているところを御理解いただけたらなというふうに思っております。

 また、先ほど山花先生の方から、情報公開制度では不十分ではないかというようなお話がございました。そういう御批判は私も共通の認識を持っているんですけれども、オンブズマン制度を仮にとった場合に、それでは劇的に情報公開のシステムとして有益に機能するかというところは、私は疑問に思っております。

 というのは、例えば軍事の場面あるいは警察の場面、こういった部分についてはやはり公益性とのしっかりとした緻密な利益衡量というものが必要になるわけでありまして、これが憲法上の制度となったからといって、そこの利益衡量というものが不要になるということでは当然ないわけであります。

 ただ私は、革手錠の事件を初めとする行刑システムのあり方ですとか、非常に密室で行われている人権侵害というものに対して、より情報をオープンにしていかなければいけないのではないかという問題意識は常に持っておりまして、そこは、例えば監獄法の改正ですとか、そういった特別権力関係と従来言われているような方々の声を積極的に吸い上げる、これはまさしく市民レベルのオンブズマンとか苦情処理機関というものでも十分行っていけるのではないかなというように思っております。

 いずれにいたしましても、憲法上の機関として位置づけることの懸念を、再度、大きなものを申し上げますと、それによって、そういった今申し上げたような市民オンブズマンが一段下に見られるのではないかというような懸念があるのではないかと私は思っております。私は市民オンブズマンの活動をかなり積極的に評価をしている立場の者でございまして、また、憲法上位置づけることによる質の確保の問題あるいは予算を伴うことによるコントロール、独立性の懸念、それから手続的なあり方、裁判所の手続に比して公益についてきちんと配慮できるのか、そういった部分について、やはり私は十分懸念を払拭できないでいる。少なくとも、まだ欧州に比べてそういった制度が熟していないんじゃないかなというところは、再度申し上げたいと思っております。

 以上です。

園田(康)委員 民主党の園田でございます。

 再度発言をお許しいただきたいと思います。

 今、柴山委員の方からるるお話があったわけでございます。私の調査あるいは研究、知識の範囲から申し上げさせていただきたいと思うんですが、まず、オンブズパーソン、オンブズマン制度と言われるこの制度に関して、先ほど私も申し上げましたけれども、やはり国民の権利擁護と、そしてその中から出てくる苦情処理あるいは行政へのチェックという形で、あくまでもこれは国民の側から出てきた制度であるというふうに認識をしているところでございます。であるならば、既存のさまざまな行政訴訟法上の制度、あるいは情報公開制度という法律で明記された制度があるわけでございますが、これが決して私は不十分だというふうには思っておりませんけれども、ただ、十分に機能していないということは多々言えるのではないか。

 同時に、情報公開制度に関しましては、委員も御承知だと存じ上げますが、本来ならば、国民の知る権利というものをこの中できちっと明記しておくべきものであったわけでございますが、この条文、法律の「目的」のところにありますのは、行政の国民に対する説明責任という形でこの情報公開制度というものが設けられているという現状からすれば、本来ならば、国民の請求権にかかわってこの情報公開制度というものがなければいけないと私はずっと思っておったわけでございますけれども、それが本末転倒、変わってしまった。知る権利というものを十分入るようにするということは伺っておりますし、当然のごとく、それが運用上なされているというものも、私も理解をしているところでございますが、そもそものスタートラインがこの法律の欠陥の部分ではないのかなという気がいたしております。

 であるならば、この法律そのものを変えていく、性質をもっと本質的に変えていくか、あるいは、そうでなければ、このオンブズパーソン制度というものを積極的に導入ということを考えながら、今の国民の選択肢、さまざまなチェック機能の選択肢、あるいは苦情処理機関としての選択肢というものを広げていくということは、大変重要な、意味のある議論ではないのかなという気がいたしております。

 以上でございます。

山花委員 民主党・無所属クラブの山花郁夫でございます。

 柴山委員からの御指摘について、多少見解の相違になってしまうところもあるかもしれませんけれども、再度発言をさせていただきたいと思います。

 まず、行政訴訟ということについて先ほど来言及をされているんですけれども、繰り返しになってしまいますけれども、訴訟のケースですと、つまり、違法かどうかということが、処分の違法性ということが争点となるわけですし、また、不作為で義務づけ訴訟ということも今度新設されたじゃないかというお話なんですけれども、それも重大な結果が生じてしまうであろうというケースなわけです。

 もちろん、それはそれで大事なことだと思うんですけれども、必ずしもそうではないけれども、もっとこうした方がいいよねというケースというのは多々あるわけで、つまりは、裁判になったら勝てないけれども、世の中もっとこうした方がよくなるじゃないかというケースというのはいろいろあるわけです。つまりは、違法とは言えないけれども不当じゃないかという、オンブズマンというところにそういう類型が累積されていくことによって、例えば、そこから議会の方に、もっと法改正をしたらどうだという勧告をもらったりとか、そういうことは非常に私は意味のあることではないかと思います。

 また、憲法上のものか法律上のものかということで、調査対象あるいは権限にどの程度の差異があるのだろうかというお話ですけれども、これは野党の議員としての経験なのかもしれませんけれども、例えば委員会で与野党で合意をしたときに、つまりは国政調査と言う人もいるしそれに準じるものと言う人もおりますけれども、それは憲法上の国政調査権としてやるわけですから、役所もどうぞという形で出してきますが、先ほど来こちらの側の席にいる人が出てこないこともあると言っているのは、それは憲法上のではなくて、法律上できますよという程度の話だから出てこなかったりいろいろあるわけで、やはりそれは決定的に憲法上のものか法律上のものかということで扱いは違ってくると思います。

 そうした経験も踏まえて再度申し上げさせていただきますと、これは司法権のそもそも固有のものだからちょっと勘弁してくれとか、いろいろ行政事務に差しさわるから勘弁してくれとか、そういう形で出なくなってしまう懸念があるものですから、憲法上のものとして位置づけた方がいいのではないか。ただ、もちろん何でもかんでもそうしたら出てくるのかという話は、そこはまたさらに制度設計のところの議論ではないか。オンブズマンに守秘義務を課すのか課さないのかであるとか、あるいは、直ちには出せない、例えば国防に関する情報で直ちには出せないけれども十年たったら出してもいいよというような制度にするのかとか、そこは制度の設計の話なのではないか、このように思います。

 改めて、やはり、どうせつくるのであれば、法律上のものではなくて、もちろん法律でつくることも可能でしょうけれども、今多くの方が指摘をされているような議会による行政のチェックというのが必ずしも十分じゃない、それを補完するという形でつくるのであれば、憲法上の根拠を持つものでないと結局また中途半端なものの再生産に終わってしまうのではないか、このように考えます。

三原委員 自民党の三原です。

 私、初めてここの調査会に入れさせてもらったものですから、議論の方法なんかもわからなかったもので、ちょっといろいろ聞かせていただきまして、今から大いに勉強させてもらいたいと思います。

 今、オンブズマンの議論になっていますけれども、私の認識は、法律あたりで救われないものの、我々が市民生活する上での一種のお助けマンみたいなことがオンブズマンなのかな、そうまず思ったんですね。

 それが広がっていくと、今、山花議員も議論があったような、例えば国防とか外交等に関する秘密事項あたりまでも踏み込んでいくような形に入るのかもしれませんけれども、私自身は、訴訟型でもない社会を日本がやってきて、その中で、お助けマン的なオンブズマンみたいな意識で物事を考えることはすごくイメージとして合うんですけれども、そうでないような感じのものがもしあるとするならば、何か絵に描くことができないんですね。スウェーデンでも議会の代理人としてと言われますが、代理人というけれども、実は、我々議会の、国民から選ばれた代弁者として物を言っておる者に対する手腕、力量が足りないから代理人か何かが、では必要なのかななんて思ってしまいますね。

 それといま一つは、枝野議員も言及されましたけれども、私自身も実は、非自民の形で、七会派の党の中にいたことがあるんです。そのときやはり思ったのは、政権がかわるということがどれほどまでに議員一人一人に緊張感を与え、なおかつ、その後ろで働くことになる行政、法律で決められたものを実行する行政の側にすごい驚愕と刺激を与えるかということを経験したことがあるんですね。ですから、我々は、悔しい、残念だけれども、この前の参議院選でも、比例区では明らかに民主党さんに負けましたね。そういうことなんかも認識しますと、私は、これから先の政権交代の可能性が大いにあるこの政治の中では、今我々が議論しておるオンブズマンの存在価値、存在理由あたりもかなり解消される場面が、政権交代が起こったようなことになればできるんじゃないかな、そんな気持ちもいたしております。

中山会長 他に御発言はございませんか。

 それでは、発言も尽きたようでございますので、これにて議会オンブズマンその他の行政に対するチェックの仕組みについての自由討議を終了いたします。

 午後二時から調査会を再開することとし、この際、休憩いたします。

    午前十一時二十四分休憩

     ――――◇―――――

    午後二時二分開議

中山会長 休憩前に引き続き会議を開きます。

 日本国憲法に関する件について調査を続行いたします。

 本日の午後は、国際機関と憲法について、特に国連憲章を中心に自由討議を行います。

 議事の進め方でありますが、まず、各会派を代表して一名ずつ大会派順に十分以内で発言していただき、その後、順序を定めず自由討議を行いたいと存じます。

 発言時間の経過については、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせいたします。

 それでは、まず、葉梨康弘君。

葉梨委員 自民党の葉梨康弘です。

 発言の機会を与えていただきありがとうございます。本日は、国連を中心とする国際機関と憲法の問題について意見を申し述べます。

 さて、小泉総理は、さきの国連総会及びその後の記者会見において、我が国は安保理の常任理事国となるべきである、そして、現行憲法下でも常任理事国として国際社会における義務を果たし、必要な貢献を行うことが可能である旨表明しました。もちろん、常任理事国としての義務を果たすことに違憲のおそれがあるという意見があることも承知していますが、私は、現行憲法でも、無制限でないが必要な国際貢献を行うことができると解するのが妥当と考えています。

 ただ、私は、どのような憲法解釈が妥当か、あるいは何が違憲のおそれがあるかといった観点とは別に、例えば武力の保持、集団的自衛権の行使、集団的安全保障の行使等について、どこまで合憲の可能性があるかという観点から憲法を見ていくことが重要と考えています。

 すなわち、憲法はもともと国家の権力行使の限界を定めるものであり、合憲の可能性がある行為はすべからく行使できるという考えが成り立ちます。加えて、裁判所が統治行為論をとり、さらに国会で憲法解釈が論じられない現状において、憲法の有権解釈は時の政権の一つの機関である内閣法制局にゆだねられています。このことは、合憲の可能性さえあれば、時の政権の意思により、また国会のコントロールもなく、法解釈として許される最大限まで憲法を拡大解釈できることを意味します。

 このような観点から現行憲法について検討すると、必ずしも明確な歯どめが書き込まれていないがゆえに、実は相当なことができる。そして、このような状態下、現行憲法に固執することは、決して、私たち自身が戦後教育の中で学んできた平和主義を実現することにはならないと考えます。

 以下、何が妥当かという観点でなく、合憲の可能性という観点から国際機関と九条の問題を検討いたします。

 まず、一項についてです。

 この条項は、国際紛争解決のため戦争に訴えることを非とし、相互間の一切の紛争、紛議はすべて平和的手段により処理されることを宣言した一九二八年のパリ不戦条約の翻訳であることはよく知られています。この条約は、日本のみでなく、米、英、仏なども締結しています。

 しかし、パリ条約で戦争を違法としたため、○○事変などと称する戦争ではない武力行使が蔓延し、このような脱法的行為をも防止するため、国連憲章で、およそ武力による威嚇や武力の行使を行わないこととされ、パリ不戦条約の規範が受け継がれました。もちろん、国連による集団的安全保障や国家の自然権である自衛権の行使は、武力行使の禁止とは矛盾しないものとして整理されています。

 となると、九条一項に定める規範は、戦後、我が国は憲法において、戦前の我が国や米、英、仏、露、中などは国連憲章という国際約束において受け入れているという法形式の違いはあるものの、我が国にのみ特別の規範というものではありません。ですから、九条一項は、我が国が軍事的に普通の国として存在することを何ら妨げるものではないという議論が成り立ちます。

 次に、二項です。

 まず、いわゆる芦田修正を重く見て、国連憲章上も武力行使の禁止とは別なものとして整理されている自衛権の行使や集団的安全保障のための戦力は保持できるという議論があります。このような解釈に立てば、九条二項の戦力不保持の規定自体が意味を失ってまいります。

 もっとも、この考えはさすがに法律論としていささか乱暴としても、現在の政府見解をより拡大し、自衛のための実力や国際貢献のための実力の保持は戦力に当たらず合憲の可能性ありという見解は、憲法の制定経緯も踏まえた論理上の問題として必ずしも不当とは言えません。

 これは、九条二項に言う戦力が、戦闘力、ファイティングパワーなのか、あるいは戦争力、ウオーポテンシャルなのかという問題です。前者とすればまさに非武装憲法ということになりますが、GHQの原文でも戦力はウオーポテンシャルとされ、芦田修正もその趣旨をより明確にしたものと解すれば、戦力とは、第一項により放棄された戦争を遂行する力ということとなり、自衛力や国際貢献のための実力は保有し得ることになります。

 そして、二項で否定される交戦権についても、さきに述べたように、パリ不戦条約の締結後、宣戦布告のない戦闘行為が常態化した現状において、交戦国としての権利を否定することがどの程度の意味を有するか、少なくとも自衛権の行使や国連の安全保障活動への貢献を妨げるものではないと考えます。

 そして、現在、米国は、イラクに対する軍事行動について個別的自衛権の行使と説明しています。このように論を進めてくると、我が国が今、米国と同じことをしても合憲の可能性があるということになってまいります。

 もとより、私はこのような解釈が妥当とは考えていません。しかし、憲法の解釈権は当然その憲法を持つ国が有するわけで、何をしても合憲の可能性がある不気味な憲法が諸外国から本当に平和憲法と認識され続けるのかどうか、疑念を持たざるを得ません。

 現行憲法は、自衛隊についても自衛権についても集団的安全保障についても何も書いてない、合憲である自衛隊の組織法上の根拠は何も書いてない、すなわち、具体的な歯どめは書かれていません。しかも、その解釈は、裁判所や国会でなく、時の政権の一機関である内閣法制局にゆだねられています。

 さきの調査会で、憲法論議は、憲法委員会等で国会議員同士が議論するのではなく、関係する常任委員会で、つまりは、議員と政府のやりとりで行えばよいという意見が出されました。しかし、その常任委員会で、例えばある党が自衛隊や集団的自衛権、集団的安全保障は違憲ではないかと質問したとして、もしも時の政府がすべて合憲で、しかも行使できると答弁したら、国会で議論するまでもなく、その解釈が確定してしまい、ミイラ取りがミイラになってくる危険性を指摘せざるを得ません。

 私は、安全保障の面での我が国の人的貢献がある程度抑制的であったとしても、国連加盟国としての責任、安保理常任理事国としての責任を果たしていないということにはならないと考えています。しかし、現行憲法は、その解釈により、我が国としての責任を果たし過ぎてしまう危険すら有していることを指摘したいと思います。このような現行憲法の危険性あるいは不気味さは、我が国が平和国家として生きていくためには絶対に払拭されなければなりません。

 そこで、意見表明の終わりに二つのことを訴えます。

 第一は、早急に国会に常設の憲法委員会を置き、現行憲法の問題点の洗い出し、よりよい仕組みの提案、解釈の問題等を審議できるようにしていくことの必要性です。時の政権の一機関に憲法解釈をゆだねることの問題点は既に述べました。私たち国会議員が全国民の代表として国民の意思を憲法解釈や新たな仕組みづくりに生かすことは、国会議員として当然の責務と考えます。

 第二は、国連による集団的安全保障の枠組みに対し我が国がどの程度コミットすべきか、また、集団的自衛権の行使をどの範囲で認めるべきか、自衛隊の装備はどの程度防衛的なものに限るべきかといった点を、我が国の生きざまの問題として国民とともに考え、憲法事項としていくことの必要性です。

 私は、自衛隊、自衛権、集団的安全保障などの位置づけと歯どめが諸外国にも理解可能な形で具体的に書き込まれていない憲法が、果たして世界の標準から見て平和憲法と言えるかどうか、疑念を持っています。戦後五十九年、我が国の国民は、我が国の内在的規範として平和主義を培ってきました。その国民とともにしっかりした議論を深めていけば、どこまでも合憲の可能性がある不気味な憲法ではなく、しっかりと歯どめの書き込まれた真の平和憲法を形づくっていくことが可能と考えています。

 以上でございます。ありがとうございました。

中山会長 次に、中川正春君。

中川(正)委員 民主党の中川正春でございます。

 きょうは、民主党での議論を踏まえて、私個人の気持ちを議論させていただきたいというふうに思っております。

 特に、安全保障、安保理との関係で申し上げたいと思うんですが、先ほどのお話のように、憲法は、民主主義を法的に担保することと同時に国家権力を制限していくためにあるということだと思うんです。それを踏まえて過去の日本の歩みを見てきますと、やはりどう考えても、素直に考えて、GHQの撤退を契機にしまして、それを日米安保という形だけでとどめずに、本来は、自衛隊という軍事力の保持と専守防衛という考え方、これを憲法九条に明文化していくべきであったんだろう。

 そのときの議論として、例えば、周辺国への配慮とかあるいは国内の状況というのはあったんだろうと思うんですが、逆に、これを解釈改憲で来たために日本の意思があいまいになって、今、周辺国から日本が一番求められているのは、どこに日本の本当の意思があるのだと。その解釈で中身が変わっていくということに対する不安、それから、その周辺から出てくる反動的な行為というものに対する不安、これが非常に、アジアに対して日本自身の信頼というのが欠如をしてしまった基本ではなかろうかというふうに思っております。

 その条文を変えないままに、いわゆるアメリカの国際戦略に追随する形で解釈改憲を繰り返してきたというのは、もう今の小泉内閣がまさにそれを受け継いでいるだけのことでありまして、それに対するいわゆる社会あるいは世界の情勢の変化というのが問われている、それに対しての日本の意思をここではっきりさせていくということが問われているということだと思っております。

 その変化を考えていくのに、私は二つの局面で議論をしたいと思うんです。一つは、国際貢献という切り口で国連憲章を見ていく見方と、それからもう一つは、自衛権という切り口で憲章五十一条に沿って見ていく行き方と、この二つを議論したいと思うんです。

 一つ、最初に国際貢献という形で切り口を求めていきますと、さっきの話のように、世界情勢が大きく変わった、その中身というのは、冷戦が崩れて、人類の課題というのが、新しい世界秩序を今求めつつある、それをいかにして形づくっていくかということ、そのさなかにあるんだろうと思うんです。そんな中で、貧困や宗教あるいは民族的対立に根を持っている無差別テロの克服であるとか、あるいは、北朝鮮やイラク、アフリカの国々で現実化している、政治の指導者とその体制が国民や一部の民族を犠牲にしてとんでもない方向に走り出す、いわゆる破綻国家をどうしていくかというような、そういった中身が追加されてきた、それに変質とともに追加をされた課題となってきているということだと思います。

 国連は、こうした新たな安全保障の課題に対して、憲章第六章の平和的手段から六・五章のPKO、あるいは七章の多国籍軍や国連軍などを想定して軍事的措置を可能ならしめる、いわゆる法的枠組みというのを段階的に用意をしているんだろうというふうに思うんです。最近の情勢を検証すると、私は、このように想定された国連の枠組みが現実の紛争に対して実際に機能している場合と完全に失敗をしてきた場合、それが考えられます。

 これは、類型的に考えていくと恐らくこういうことじゃないのかなと思うんですが、成功例というのは、一たんクラッシュが起こって、紛争の当事者間に、例えばその兵力を引き離す形で入ったり、あるいは、破綻国家の権力の空洞化、レジームチェンジを果たしてしまったその後の権力の空洞化を埋める形で暫定的な統治をするために入っていったり、あるいは、そういう意味では、国民みずからがその後のネーションビルディング、国家構築を実現していく過程の中でその道筋をつくっていく役割、こうした意味では国連がなくてはならない存在になっていると思いますし、言いかえれば、この作業というのは事後処理的平和構築の分野だと思うんですが、それはその機能をしているんだろうというふうに思います。

 一方で、失敗、あるいはまだ私たち恐らく、それぞれのネーションステート、民族国家というのが構築していないシステムなんだろうと思うんですが、紛争や国家破綻をいかに事前予防していくかということと、あるいは、今アメリカが一国、超大国になったという関係から、この間のイラクで見られたように、一国主義でプリエンプティブに、先制攻撃をかけてそのレジームをチェンジしていく、変えていくということ、これは国連の機能が果たされていない、それぞれの段階で果たされてはいないということが証明されてきたのではないだろうかと思います。失敗の連続だと思うんです。

 その理由はいろいろあるんでしょうけれども、一つは、拒否権の発動で国連としての意思決定ができないということもあったでしょうし、あるいは、紛争事態にそれで介入できなくて何百万人単位の犠牲者を方々で出してきたということ、こういうことであります。あるいは、逆に、大国の一方的な武力行為が国連の名のもとに強引に実行されたりして、実際の国連の意思じゃなくて、大国一国の意思でそれがなされたというふうなことがある。こういうことがいかに国際社会の中で制御されつつ、国連という枠組みの中で新しいシステムが構築されるかというのは、これが課題として残っているように思います。

 そのことを大別して考えた上で、日本が憲法の中で明文化して、武力行使の可能性も認めながら積極的に参加する分野としては、私は、前者のいわゆる事後処理的平和構築に限定をしていくべきなんだろうというふうに思うんです。もう一方の先制攻撃的平和構築というのは、これは平和構築どころかその逆さまを歩いていまして、泥沼化していくという要素をつくっていく。それであるだけに、国連の枠組みの中にはこれは乗っていけないのではないかということ、このことがあろうかと思います。

 さらに、もう一つの問題。

 自衛権、これは五十一条の問題でありますが、これを今の日本の課題に置きかえれば、日米安保とアジアの情勢に対してどのような安全保障の構築を打ち立てるかということだと思っております。

 アメリカ軍の再編、トランスフォーメーションでは、日本に陸軍の第一軍団や空軍の司令部が置かれようとしておりまして、それに同意する意向を小泉総理は打ち出しているようであります。これは矛盾が多いことでありまして、一方で靖国神社への参拝というのは人を食ったような小手先のごまかしで中国や韓国などの近隣諸国を刺激しており、あるいは、中国では逆に、中国政府自身が、経済発展の結果、貧富の差や激しい社会の変動で不満とストレスのはけ口が日本に対して今向けられておりまして、中国政府は、そうした日本のスケープゴート化に輪をかけるがごとく歴史問題にこだわり続けている、そんなことが現実なんだと思うんです。

 そんな中で、世論を反中国的に誘導して、日本がアメリカのトランスフォーメーションの中に入っていくような環境をつくっているというのがどうも小泉さんの靖国参拝なのではないだろうかな、そんなことを勘ぐりたくなるような稚拙な、今、外交戦略のない形が進んでいるんだろう。

 それに対して、第五十一条の、国連の安全保障体制というのが機能するまでは自衛権の発動で日本の安全保障を確保するという建前、これは日本国憲法にも明記をされるべきだと思いますが、その一方で、現実は、国連の安全保障体制が本当に機能するかどうかということだと思います。

 そういった意味では、アメリカとの同盟だけで自衛権を論じて相互的にやっていくということに対しては、これは、さっき申し上げたように、危険きわまりない、この議論はだめなんだというふうに思うんです。

 しかし、もう一方で、アジアにブリッジをかけて、アジアを含んでいくような形で地域の安全保障体制を考えていく、あるいはその相互間のシステム、新しい、いわゆるNATO型とそれは言ってもいいし、中国も含めた形で、その域内でコントロールをしていくシステムの中に例えば日本が入っていく、その中で自衛権を議論していくということ、これが正しいんだというふうに思います。

 さらに、それに国連がどうかみ込んでいくかというのは、これはこれからの課題でありまして、まだここも解けていないところだというふうに思っています。

 済みません。ちょっと時間が超過をいたしましたが、以上の観点をもって議論を進めていただければというふうに思います。

 ありがとうございました。

中山会長 次に、佐藤茂樹君。

佐藤(茂)委員 公明党の佐藤茂樹でございます。発言の機会を与えていただきまして、感謝申し上げます。

 党を代表してということでございますので、我が党は、今月末の党大会に提出する運動方針案に、「憲法問題への視点」として、現段階での憲法に対する見解を取りまとめさせていただきました。既に公明新聞等にも掲載されているんですが、読んでおられる方は少ないかと思いますので、あえてその中から、この機会に、本日のテーマに関係する部分を前半部分では抜粋させていただきまして、後半では、時間の許す限り、私の個人的見解を述べさせていただきたいと思います。

  わが党は、現行の日本国憲法は優れた憲法であり、戦後の日本の平和と安定・発展に大きく寄与してきたと高く評価しています。なかでも、「国民主権主義」「恒久平和主義」「基本的人権の保障」の憲法三原則は、不変のものとして、これを堅持すべきだと考えます。また、憲法九条は、アジアの諸国民に多大な犠牲を強いた先の戦争に対する反省と、再び戦争を繰り返さないというメッセージを諸外国に発信してきた平和主義の根拠であり、戦後の日本の平和と経済的発展を築くうえで、憲法九条の果たしてきた役割は極めて大きいものがあったと認識しています。

しかしながら、例えば、

  冷戦終結後、憲法前文でうたわれた国際協調主義の具体的な実践として、国連を中心とした紛争予防、平和維持、平和構築の活動にわが国としてどうかかわっていくか、貧困や飢餓、感染症対策など個々の人間の生命、生活、尊厳の確保を目指す「人間の安全保障」の実現にどうかかわっていくかなど、わが国を取り巻く環境も大きく変化してきています。

  憲法九条の問題については、わが党においてもタブーを設けず議論を積み重ねてきました。その主な論点は、「自衛隊の存在」「国際貢献のあり方」「集団的自衛権の行使の問題」などに立て分けることができますが、これまでの党内論議では、「現行九条を堅持すべき」との議論が大勢です。

  党内の九条論議を概括しますと、「平和の党」として九条を大切にし、今後も堅持すべきだという強い意見があります。一方、専守防衛、個別的自衛権の行使主体としての自衛隊の存在を認める記述を憲法に置くべきだという意見や、その反対に、既に実態として合憲の自衛隊は定着しており、あえて書く必要はないという指摘もあります。

  また、国連憲章は、国連による国際公共の価値を追求するための集団安全保障における武力行使を認めていますが、日本政府は、集団安全保障にあっても、武力行使は許されるべきではないとしています。わが党においては、あくまで民生中心の人道復興支援を主体とすべきだとの意見が大勢です。また、国際貢献については、明確化を望む指摘がありますが、九条に書き加えるか、前文に盛り込むか、別建てで起こすか、また法律に委ねるかなど意見が分かれています。

  一方、集団的自衛権の問題については、個別的自衛権の行使は現行憲法でも認められているが、集団的自衛権の行使は認められないという意見が大勢です。

  国民の間には、憲法九条を変えることに対する危惧があることも事実であり、見直しについては、国民的な合意を形成する観点から慎重に議論を進める必要があります。今後の九条論議に当たっては、九条の一項の戦争放棄、二項の戦力不保持の規定を堅持するという姿勢に立ったうえで、自衛隊の存在の明記や、わが国の国際貢献のあり方について、「加憲」の論議の対象として、より議論を深め、慎重に検討していく方針です。

 以上が今の段階での我が党の憲法九条及び国際貢献に関係する見解でございますけれども、私は、その上に立って、個人的見解としてこれから二点ほど意見を述べさせていただきたいと思うんです。

 先ほど、冒頭、葉梨委員の方から、国連安保理常任理事国入りに関する見解がございましたけれども、九月二十一日の第五十九回の国連総会において、小泉総理は安保理常任理事国入りへの決意を表明されました。日本政府は今後実現への取り組みを強化する方針と言われておりますけれども、私は、この問題に対する現段階の考え方は、ただ安保理常任理事国の地位につきたい、なる資格が日本にはあるというだけではなくて、日本として常任理事国入りに臨む原則と、何をやりたいのか、何で貢献するのかという日本の役割を鮮明にして取り組むべきである、そのように思っております。

 我が国はこれまで八回にわたりまして非常任理事国を務め、来年から二年間、非常任理事国に再びなることが決まっております。また、国連分担金を二〇%近く拠出し、これはアメリカを除く常任理事国四カ国の合計を上回る規模でございますけれども、国連内外においても、軍縮や不拡散、対人地雷除去、開発、人間の安全保障、非軍事分野での人道復興支援や平和維持活動など、さまざまな貢献をしてまいりました。

 現在の常任理事国とは異質かもわかりませんけれども、我が国は、海外での武力行使を禁じる憲法九条を持った上で、戦後の荒廃から復興へと経済をよみがえらせ経済発展をなし遂げ、世界唯一の被爆国として非核三原則を持ち、また武器禁輸三原則をみずからに課し続けてきた国家であり、非軍事分野での国際平和協力活動を積極的に行ってきております。

 ですから、常任理事国入りについても、軍事力を行使しての紛争介入に日本が名乗りを上げるという点ではなくて、平和憲法を最大限に生かしながら、日本が持てる力を総動員して、平和を構築するために多面的に行動するという、日本独自の平和構築力で積極的に貢献するという強い意思表示を国際社会にさらに強く表明することが必要であります。

 特に、最近、国際社会で大きな課題となっているテロや地域紛争についての対応では、武力行使による制圧や治安活動だけでなく、非軍事分野での人道復興支援や平和維持活動が重要となっており、ライフラインの復興や医療、さらには貧困、飢餓、感染症、環境破壊などをどう手当てするかといった、いわゆる人間の安全保障を推進することも大切です。特に、この分野は日本の得意の分野であると思います。

 そのためには、PKOやODAの活用、NGOへの支援などを有機的に組み合わせた多面的な国際平和構築能力を高めていくことが必要であると考えます。そのことによって、武力行使に参加せずとも、現行憲法下で、日本は常任理事国にふさわしい役割を十分に果たすことができると考えます。

 もう一点、国連の集団安全保障や平和活動と憲法についての考え方を簡潔に申し述べたいと思います。

 現行憲法の前文には、国際協調主義という理念が書き込んであります。しかし、憲法の条文には、国連憲章のもとにおける集団安全保障措置やその他の国連の場における国際協力については明文規定は持っておりません。

 二十一世紀において、日本が平和を維持し、存続していくためには、国際社会と真の協調を図らなければなりませんし、さらに、アメリカに次ぐ世界第二の経済大国として、国際社会の中でその国力にふさわしいだけの大きな役割、責任分担を求められているわけでございます。現に、冷戦後のこの十年余り、我が国は、平和維持活動や各種の国際平和協力活動、さらには災害時の緊急援助活動などに、国際社会の平和と安定の構築のため、あらゆる努力をしてきました。実績が上がっているわけでございます。

 二十一世紀のこれからの日本が、国際の平和の維持、人道支援活動などの国際平和協力活動に積極的に参加する意思を明確に打ち出すために、先ほど党内の議論ではいろいろ分かれていると申しましたけれども、私は、憲法の中に、国際協力あるいは国際貢献の条文を、根拠規定を設けるということが望ましいのではないか、そのように考えております。すなわち、我が党の加憲という立場で言うならば、国際協力あるいは国際貢献の条文を加えるのが望ましい、そのように考えているわけでございます。

 ただし、その際、その平和維持活動や国際平和協力活動が、一、国連決議に基づいていること、二、武力行使を目的としないこと等の、幾つかの原則を明確にしておく必要があると考えます。

 あわせて、この憲法から少し離れますけれども、自衛隊による国際社会の平和と安定のための活動、すなわち、国際平和協力業務を、自衛隊法上、現在のように運動競技会に対する協力や、南極地域観測に対する協力と同列に扱うような付随的な任務との位置づけを改めて、自衛隊の本来任務に格上げすべきであると考えます。このことは、この十数年間のPKO活動などの結果として、国民の合意は得られるものと考えております。

 以上でございます。

中山会長 山口富男君。

山口(富)委員 日本共産党の山口富男です。

 二十一世紀を迎えた世界では、国連憲章とは何か、憲章が目指した平和のルールとは何かということが繰り返し問われてきたと思います。きょうは、そのことを念頭に置きながら、国連憲章と日本国憲法について、以下発言したいと思います。

 まず、国連憲章ですけれども、私は、その特徴として、二つの点に注目しておきたいと思います。

 第一は、国際の平和と安全を維持するためのルールを明確にしたことです。二十世紀の二つの世界大戦、国際連盟の経験などを通じて戦争の違法化が明確となり、その到達は国連憲章に結実しました。

 その中身は、憲章の第二条で言えば、「すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によつて国際の平和及び安全並びに正義を危くしないように解決しなければならない。」国際紛争の平和的手段による解決です。そして、「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、」「慎まなければならない。」武力による威嚇、武力の行使の禁止規定です。

 憲章は武力の行使を禁止しましたけれども、二つの例外を認めました。一つは、国連が行う軍事的措置、そしてもう一つは、武力攻撃を受けた際の五十一条による個別的、集団的自衛権の行使の問題です。このうち、五十一条は、安保理決定に基づく措置がとられるまでという例外的、暫定的権利である、このことを集団的自衛権を考える場合には明確に踏まえておく必要があると思います。

 イラク戦争でも問題になったわけですけれども、安保理決議もなしに行われた違法な武力行使であったということ、それから、攻め込んだ口実そのものが虚構のものであったという無法性が世界の批判を浴びたところです。

 国連による強制措置は、三十九条で規定されておりますけれども、ここでは、「平和に対する脅威、平和の破壊又は侵略行為の存在」を安全保障理事会が決定するものだというふうに定めていて、個別国家の判断に任せていないところが極めて重要な中身だと思います。

 以上の点をまとめて言いますと、個々の国が勝手に行う戦争を認めないし、平和のルールが守られる世界秩序をつくり上げようとしたところに国連憲章の基本的立場があると思います。

 残念ながら、国連憲章が目指したこうした平和の国際秩序は、発足当初は米ソの冷戦によってなかなか実現に大きな障害を持ったわけですけれども、その後、アジア、アフリカ、ラテンアメリカを初めとして、さまざまな独立諸国が生まれ、そして、それぞれの国での民主的な国づくりが進んでいくもとで、今、国連加盟国の多数が新しい独立国によって担われているわけですけれども、そういう条件からいきましても、国連を中心とした平和の秩序の構築というのは、今日の世界政治の中でも生きた原則でありますし、その実現が求められている中心的課題だというふうに思います。

 国連憲章の特徴として、第二に私が注目したいのは、国連憲章が基本的人権の保障と生活水準の向上を恒久平和の土台と位置づけたところです。

 前文では、「基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し、」そして「一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること」「すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いること」、これが明確にされています。

 こうした方向のもとで、一連の国際条約が生まれました。代表的なものだけを挙げますと、国際人権規約、人種差別撤廃条約、女性差別撤廃条約、子どもの権利条約、拷問等禁止条約。そして、これらの諸条約は、締約国がその条約の内容を守っているかどうかを監視する制度を設けています。個人の資格で選ばれた独立の専門家で構成されている委員会が政府に報告を求めるという制度ですけれども、大体、二年から四年ないし五年の間隔でその報告が求められ、そして、委員会から違反が認められた場合には意見や勧告が出されるということになっています。

 世界は、こうしたやり方を通じて、国際的な人権の条約の解釈やそこで要求された人権の保障の水準を国内で実現するというやり方をとり、今、政府の報告というのは国内法と条約との調整手段として大変重要なものになってきているというふうに思います。

 この点では、日本は、国連機関から随分勧告を受けているわけですけれども、昨年は、国連女性差別撤廃委員会から、男女平等の施策のおくれの改善が求められました。そして、ことし一月には、国連子どもの権利委員会から、教育制度の過度に競争的な性格が子供に否定的な影響を及ぼしていると批判をされました。

 こうした批判、勧告の中で、私が注目しますのは、例えば女性差別撤廃委員会の勧告は、その冒頭で、憲法は両性の平等を規定してはいるが、国内法には差別の明確な定義が含まれていないことに懸念を表明するというふうに述べているように、日本国憲法とのかかわりで国際条約の水準にまで至っていないではないかという批判が多いということです。

 次に、大きな二つ目として、日本国憲法と国連憲章のかかわりについて述べたいと思います。

 平和の問題では、憲法九条は、二回にわたる世界大戦の深刻な反省を踏まえまして、戦争のない世界を目指し、国連憲章に実った世界の平和の流れの中で生み出されたものですけれども、これは、日本だけでなくて世界各国に、戦争違法化の方向というのは憲法原則としてかなり盛り込まれるようになっています。

 九条では、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」というふうに定められています。この第一項にある、国際関係における武力による威嚇または武力の行使を禁ずるということは、先ほども読み上げましたけれども、国連憲章の条文を取り入れたものですし、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求するという文章も、国連憲章に盛り込まれた内容です。

 こういう意味で、日本国憲法は、国連憲章の平和の達成をこの日本で具体化したものであるというふうに言ってよいと思います。

 しかも、日本国憲法の場合は、戦争放棄条項をさらに進めまして、第二項をつくり、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」というふうに定めて、ここに世界の平和の流れの中でその先端を行くという到達点があるというふうに賞されるわけですけれども、そこにはやはり、戦前、二十世紀前半までの日本軍国主義の歴史の経験というものが背景にあると思います。

 先ほども紹介されましたが、一九二八年の国際紛争を解決する手段としての戦争を禁じた不戦条約、これを最初に破って、自存自衛とか大東亜共栄という口実で侵略戦争に入り、アジアに甚大な被害を与えたのが日本軍国主義でした。九条二項は、その経験を踏まえて、戦力の保持と国の交戦権を認めないということで、国権の発動としての戦争と武力行使に何重にも縛りをかけて戦争放棄を徹底したわけです。

 この点は、五月の中央公聴会で猪口さんが次のように述べられた点でも確認できると思います。憲法の九条一項、二項を通しまして、「今日では広く国際社会において知られており、その志と理念は、戦禍に苦悩した歴史を真剣に受けとめるという国民の真摯な生き方及び国家の賢明な選択を伝えるものとして、世界で特別の評価を獲得するに至っていると感じております。」という発言です。

 さて、憲法制定議会では、日本が国際連合に参加したときに、憲法九条と憲章第七章に係る強制措置との関係が議論になりました。当時の幣原喜重郎大臣は、憲法九条があるもとで国連から軍事力による協力の命令があろうと、留保によってそれはできないというような方針をとると明確に答弁し、実際、五二年に国際連合に加盟申請したときにその趣旨を通告して、日本は国連に参加しております。

 ですから、これは今後も引き継ぐべき基本的原則ですけれども、日本は九条を持つ国として、国際協力に当たっても憲法の原則を貫いて、紛争の平和解決、災害、難民、貧困、飢餓などの人道問題に対して、非軍事的な手段による国際的な支援活動を積極的に行う、この立場は、九条を生かして世界に貢献する積極的な立場の表明になると思います。

 少し時間が限られてきましたので簡単にいたしますが、あわせまして、日本国憲法が平和の条項と同時に人権規定として大変豊かな内容を持っている。それは、十一条、二十五条、二十七条にもあらわれているわけですけれども、ここにも国連憲章との深い関係を私は指摘できると思います。

 このように、二十一世紀という世界の中で、国連憲章の掲げる平和と人権、生活向上の立場と、日本国憲法の平和、民主主義の原則は、引き続き実現を求められる課題であるというふうに思います。

 それから、時間がなくなりましたので、後ほどの発言で、日本の安全保障理事会入りについては発言したいと思います。

中山会長 次に、土井たか子君。

土井委員 最近、国連では、安保理の常任理事国を日本が志向しているということが大変取りざたされることになったんですが、決してこれは初めてではございませんで、恐らく常任理事国入りということを希望されたのは、今までに二回、そして、今回で三回目ぐらいの波があるように思うんですね。そしてその都度、一体、日本が常任理事国になることが果たしていいのかどうかという政治的判断というのがあることは、当然です。これに対していろいろ取りざたされます。

 その政治的な判断をどう考えるかというのはちょっと横に置きまして、法的に考えて、国連に日本が加盟をすること、そしてその後、今回は非常任理事国になりましたけれども、今までどういうふうな国連に対しての認識を持ってきたか、そして、これから何を国連に対して求め、みずからも国連に対して活動の場という認識を持っていかなければならないか。こういう問題を法的な側面から見たときに、大きく二つのメルクマールが国連の側にあると思うんですね。

 一つは、申し上げるまでもございませんけれども、憲章の前文、これは、紛争に対しては平和的解決というのが基本になっております。この憲章の前文と日本国憲法の前文、これは、紛争の平和的解決あるいは非軍事的解決というのは国連憲章の最も基本的な精神とされておりますが、日本国憲法と比較した場合、細かい点は、細部においては相違があるものの、全体として同じような基調となっているというところが大変に大きな問題だと思うんですね。少なくとも、国連憲章の目指すところ、そしてまた、日本国憲法の方向性という点からすると、大変マッチした、同じ方角を同じような対応でもって求めているということが、まず言えると思うのです。

 二つ目には、一九五六年の十二月に我が国は国連への加盟が認められるということになったわけですが、その際、大変論議の対象になったのは、国連憲章の第七章でございます。第七章で、平和に対する脅威、そして平和の破壊及び侵略行為に関する行動についてそこでは述べられている。いわゆる国連軍についての問題が、御存じのとおり、第七章では取り上げられているわけですけれども。

 平和の破壊及び侵略行為に関する行動について、四十三条では、「安全保障理事会の要請に基き且つ一又は二以上の特別協定に従つて、国際の平和及び安全の維持に必要な兵力、援助及び便益を安全保障理事会に利用させることを約束する。」こう規定されています。つまり、平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為があった場合には陸海空軍の行動をとるという、四十二条の条文の内容に当たって必要な兵力の提供を要請するということを決めているんですね、第七章は。

 そこで、憲法第九条を持つ我が国では、この点が加盟の際の議論の対象と当然のことながらされました。よく外務委員会の場所でもこの問題がずっと長い間、事あるたびごとに論議の中身になったわけでありますけれども、ここで一つ、言ってみれば問題になるキーワードがあるのです。四十三条です。

 国連憲章の四十三条を見ますと、兵力、援助及び便益の提供と決めているわけでありまして、提供の具体的内容は、安全保障理事会と当事国との間での特別協定で決められるということになっているわけです。だから、兵力の提供だけを義務づけるものではないということが、非常にはっきりしているんですね。したがって、国連加盟の障害と日本の場合はなるわけでなく、現に加盟のときに国連側からも問題とされたことはありませんでした。つまり、クレームはつかなかったわけです。

 そういうことからすると、我が国は、集団安全保障活動への自衛隊の参加については否定的であったんですね。国連の制裁のための武力行使の場合にも、自衛隊の海外派兵については、武力行使の目的を持って武装した部隊を他国の領土、領海、領空に派遣することは自衛のための必要最小限を超えている、したがって、憲法上許されないというのが、歴代の内閣の立場であり、解釈であったわけですね。こういう立場をとってきたわけです。

 今、先ほどキーワードと言ったところが実は大変問題になるんですけれども、これは、つまり特別協定を結ぶことによって、日本とすれば、その協定の中身でできることはできる、できないことはできない、きっぱり、はっきり言うということが、一つは一番大事なポイントだと思うんです。したがって、極端に言うと、集団安全保障を全うするために協力の仕方は、今加盟国が百九十一カ国ですから、百九十一通りの協力の仕方があると言ったっていいんですよ。

 したがって、日本は集団安全保障活動へ参加をするということを考えると、そのためにも憲法を変えなければならないという、改憲についての意見をお持ちの方がおありになるわけですけれども、一切変える必要はないというのが私の理解です。一切変える必要はない、憲法を。憲法を変える必要なく、今のこの国連に対して加盟が認められたわけでありますから、今問題になっていた常任理事国に対しても、これは一般加盟国以上の法的義務を負っているという、憲章上、根拠になる法条は見つけることができません。ただ、あるのは、常任理事国は拒否権という特権を保有しているというところが問題で、常に国連の改革のときにこれが取りざたされるということにもなっているわけでございます。

 したがって、国連において日本が活動をさらに続けていこうとすると、これは、少なくとも憲法については、第九条をそのために変える必要があるとおっしゃる意見に対して、私は、その必要は一切ないということをはっきり申し上げたいと思うのでございます。

 この特別協定というのが、実は大変問題になるところであるというふうに考えております。

 さて、政治的に考えると、これはもう安全保障問題になると、軍隊を出すか出さないかというのが常に論議を呼びまして、日本の場合には、それはできないという姿勢で今まで参りました。武装して海外に出動するということは認められない。しかしながら、国際貢献ということを最近はしきりに言われている中身を注目いたしますと、テロ行為に対してこれを防止する、これに対して対応するという、テロとの対応ということが実は大きな課題としてあるわけです。

 これも、人間の安全保障という考え方からいたしますと、やはりテロ防止というのは、テロの原因になる問題を取り除いていくということが大変大事なのではないんでしょうか。人間に生存権を保障する、食を確保する、衛生を行き渡らせる、教育を普及させる、そういう手当てをする能力というのが国連に十分果たされているかといったら、まだまだなんですね。経済社会理事会等々で日本が率先をして、非軍事、そして民政、文民、この立場を貫いてやっていくという役割をしっかり担って頑張っていくことが大事だというふうに思います。

中山会長 これにて各会派一名ずつの発言は終わりました。

    ―――――――――――――

中山会長 次に、委員各位からの発言に入ります。

 一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、会長の指名に基づいて、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いいたします。

 それでは、御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。

船田委員 自民党の船田元でございます。

 国際機関と憲法、特に国連憲章を中心としてというテーマで、既に各会派からの代表される御意見が出されました。

 私は、国連憲章と第九条の関係というのか、もっと端的に言うと、国連中心主義を標榜している我が国の第九条が実は国連憲章を無視している、あるいは、矛盾とまでは言いませんけれども、非常にその整合性がとれないということをまず指摘したいと思います。

 御承知のように、また御指摘ありましたように、国連の安全保障理事会では、第四十二条による、いわゆる強制措置というものが決められております。その強制措置が発動するまでは、五十一条によって個別自衛権あるいは集団的自衛権が認められている、こういう記述もあります。このことについて、日本国憲法の第九条は何の言及もございません。

 また同時に、その四十二条に従って強制措置が発動されたときには、このいわゆる集団安全保障措置に協力をしなければいけない。先ほど土井たか子委員の御発言では、それは軍事的には参加をしなくていいんだというお話ですが、果たしてこういうつまみ食いが許されるかどうかということについては、議論の分かれるところだと思います。

 いずれにしても、四十三条に基づく加盟国の協力ということについても、第九条では何も触れられていないわけであります。もちろん、制定過程のさまざまな制約もございました。無理からぬところはあったと思いますが、今後、日本国憲法を前向きに見直していくのであれば、私は、まず国連憲章と第九条との整合性をとる、こういう観点から憲法の見直しを議論していくことが有益であるし、国連中心主義を標榜する我が国としては大事なスタンスであるというふうに感じております。

 もう一つ、安保理の常任理事国入り、我が国が、小泉総理も発言をされ、明言をされているわけでございますけれども、これについて少し私は、やや慎重な部分がございます。

 なぜならば、従来の常任理事国というのは、憲章上は、国連軍を組織する各国の兵力を提供する義務がある、あるいは軍事参謀委員会に入らなければいけない、あるいは軍事力による実際の寄与を求められている。このような常任理事国としての責務、これが現状である限りは、今の憲法を改正せずして我が国が常任理事国になるということは、これはちょっと、かなり慎重に考えなければいけないと思っております。

 しかしながら、アナン事務総長が昨年諮問機関として設置をいたしましたハイレベル委員会などで国連の改革が適切に行われ、例えば、常任理事国の数が拡大されると同時に、常任理事国としての役割、機能、あるいはその責務というものがより緩やかになる、例えば、軍事的な寄与というものも余り強くは求めないというような条件に改められるのであれば、それは憲法改正なくして常任理事国に入るということは不可能ではない、そのように感じております。

 しかし、その場合においても、やはり、五十三条に述べているいわゆるエネミーコード、敵国条項ということについては、これは国連改革の中できちんと消却、消去をしていただかないと、この常任理事国入りというのは絵にかいたもちになりますので、そこはきちんと担保しておくべきである、このように考えております。

 以上です。

枝野委員 民主党の枝野でございます。

 私は、国際機関と憲法という観点から少し、これから二十一世紀の国際社会がどうなっていくのかという一つの私なりの見方からお話をさせていただきたいと思っているんです。

 十九世紀はいわゆるパクス・ブリタニカの時代、二十世紀はパクス・アメリカーナの時代であったと言えるんじゃないかというふうに思います。私たちはそうした中で近代日本をつくり上げてきましたので、アングロサクソンの国々とうまくやっていけば大体うまくいくだろうという成功体験のもとに生きています。そしてまた、長い鎖国をあけての近代化でありましたので、十九世紀以降の国民国家間の紛争、そしてそれをどうやって防ぐのかという国際秩序の中で当たり前のように生きてまいりました。

 ただ、二十一世紀の国際社会を見たときに、今までのような、例えば、アメリカによる平和や、あるいは国民国家を前提とした国際紛争とその予防という概念自体が、かなり二十一世紀は変わるのではないかと私は思っております。それは、ある意味では、ソ連の崩壊というのがアメリカによる平和の一種の絶頂期であったのかもしれません。大体、歴史を振り返ってみますと、その国の絶頂期というものが下り坂に行く原因をもたらす出発点になっています。

 九・一一も起こりましたけれども、今まで国際社会は、国民国家あるいは主権国家間の争いで国際紛争が生じてきたというのを私たちは当たり前のように受けとめていますが、ある意味ではここ数百年の話であります。都市国家であったり、あるいは一つの、日本も鎖国以前はそうでありましたけれども、国民国家というレベルではなくて、一つの国家の中で紛争が行われていたり、あるいは、ヨーロッパは地続きでありますから、いわゆる民族、国家を超えた、例えば何とか選帝侯とかいろいろな領主間によって紛争が行われたり、こういうことがむしろ歴史的に当たり前であった中で、近代以降、国民国家、主権国家による国際紛争という中に秩序立って整理をされてきたと受けとめることができるのではないかと私は見ております。

 そして、国民国家間の紛争あるいは主権国家間の紛争ということに対しては、今も、そして当面、アメリカの圧倒的な軍事力というものが国際社会の秩序を維持していくに値するだけの力を持っているだろうというふうに思いますけれども、どうやら二十一世紀は、そうした国家間の紛争以上に、テロであるとか地域紛争であるとかというものが国際紛争として一番頭の痛い、頭痛の種になる状況に今入りつつあるんだろう。そして、アメリカの持っている、あるいはアメリカに代表されるこれまでの主権国家、国民国家が持ってきた紛争解決能力としての軍事力は、国家間の紛争に当たっては大変威力を持つものであるけれども、テロであるとか民族紛争、地域紛争に対しては必ずしも有効に機能しない。それは、近いところではアフガニスタンやイラクで今示されていますし、アメリカ自身がベトナム戦争という大変大きな犠牲を払った中で、我々人類は経験をしてきているものであります。

 もちろん今も、北朝鮮の問題を初めとして、国家間の紛争あるいはその種というものも存在をしています。そうした意味で、アメリカの正面戦争の能力というもの、これを一定の国際社会の中で評価をし、意味づけをした中でなければ物事は救っていけないと思いますけれども、しかし、こうした正面戦争あるいは国家間の戦争を前提としない中で、テロや民族紛争をどうやって解決していくのか。このための機能として、私は、これから国際機関というものの意味づけは大きくなるのではないか、また、そういうことを視野に入れた議論が必要なのではないかと。

 つまり、例えばテロを防ごうと思ったときには、国家間の争い以上に、それぞれの国家がその国内でしっかりとした法秩序を維持してもらう、その中で国家間で協力をしていくということが欠かせないのではないだろうか。現に、独裁国家を倒したという意味ではイラクでのアメリカの行動は一定の評価をできるかもしれません。しかしながら、国内における社会秩序が崩壊したことによって、むしろイラクはテロの温床に今なってしまっています。

 それぞれの国が自国内の秩序、治安をしっかりと維持しつつ国際社会でどうやって協力させるかという二つのことを同時にやらなければ、テロを単独の国家で、あるいは正面戦争で防いでいくことはなかなか難しい。民族紛争の問題、地域紛争の問題も、少しテロとは意味が違いますけれども、それぞれの国内における秩序あるいは治安というものをどうやって維持していくのか。それを、国内の一国の政治だけではなかなか民族紛争あるいは地域紛争というものは解決しない要素を持っている中では、国家を超えた役割としての国際機関がますます重要な意義を持たざるを得ないのではないだろうか。

 そういったことを考えると、我々はEUの知恵を学んできたところでありますけれども、国際社会、国際機関にどういった役割を担わせ、そうした社会をつくっていくために我が国がどう動き、そうした秩序の中で我が国がどういう役割を果たしていくか、現在の主権国家、国民国家を前提とした国連憲章を超えた議論というか大きなビジョンというものが必要ではないだろうか、そんなふうに考えております。

 ありがとうございました。

葉梨委員 幾つかございます。三点です。

 一つは、一点、先ほど船田幹事がおっしゃったことの関連ですけれども、現行九条とそれから国連憲章が矛盾するかということですが、現行の九条については、先ほども申し上げましたけれども、一九二八年の不戦条約において、国際紛争を解決する手段として武力を行使しないというのがそのまま受け継がれている。ところが、国連憲章は、一般的にもう国際紛争を解決する手段としてというような前提はなく、武力の行使自体を禁止して、そしてその規定は、自然権である自衛権を侵すものではない、安保理の決定があるまでというような形の整理になっています。

 ですから、一九二八年の不戦条約そのままであったとしても、あの規定自体は自衛権の行使を妨げるものではないと当時も解されていたというふうに私も聞いておりまして、必ずしも九条と国連憲章が矛盾を来しているというふうには私は考えてはおりません。

 それから、二点目なんですけれども、今枝野議員からもテロとの闘いという問題がありました。ただ、我が国においては、やはり国家というもののある程度の重要性というのを二つの面から考えていかなければいけないというふうに思います。

 一つは、テロとの闘いといっても、例えばアフガニスタンについてもあるいはイラクについても、テロ支援国家という、やはり間に国家をかましているわけです。例えば、オウム真理教がニューヨークで地下鉄サリン事件を犯したときに、アメリカ軍は山梨県の上九一色村を日本政府の了解なしに爆撃できるかという問題があります。ですから、やはり間に国家というのがどうしても国際紛争という中では一つ出てくる。

 それからもう一つは、東アジアの場合は、特に現状がそうなのかもわかりませんけれども、一文明一国家ということを前回の調査会のとき申し上げさせていただきましたけれども、ちょっとEUとかあるいはほかの地域と比べて、どうしてもこの国民国家間同士のぶつかり合いの真っ最中みたいなところもありますので、国家の防衛ということ、これは片っ方でやはり大いに重視していかなければいけないというふうに思います。

 ただし、私は枝野議員と反対の意見を言っているわけではございませんで、例えば、私もインドネシアに駐在した経験がございますが、あそこで海賊がたくさん出ている。それはもう日本のシーレーンも侵すものである。ところが、その海賊の取り締まりも、なかなかインドネシアの政情不安もあってやってくれない。そういったときに、やはり地域間の枠組みだとか国際機関の枠組みでそういうような治安、取り締まり、そういったこともしっかり支援していこう、そういう意味での総合的な安全保障というかその役割というのはやはりこれから二十一世紀において非常に大きくなるものであるというふうに思っております。

 以上です。ありがとうございました。

赤松(正)委員 公明党の赤松正雄でございます。

 先ほど同僚の佐藤委員が述べましたけれども、関連する角度で二つほどつけ加えたいと思います。

 一つは、私は、今イラクをめぐる状況というのは、約十三年前の時点でそれまでの日本が、あえて大胆に言えば一国平和主義に陥っていたその段階からは大きく変質を迫られた。ある意味で、十三年たってあのときの、言ってみればあれから以降回り道をしていたものが、あのとき突きつけられた状況が今改めて迫られている。私どもは、あえて私流な言い方をさせていただきますと、一国平和主義から言ってみればPKO至上主義、あえてそういう言い方をしますけれども、PKOに、国連平和維持活動にかかわっておれば多くの部分が日本の平和主義的行き方がそれで解決されるというふうなある種思い込みがあったと思うんですけれども、今の時点でそれが許されなくなってきている。言ってみれば、十三年間の回り道だった、そんなふうに思います。

 今、先ほど来同僚の委員がいろんな角度から述べておられますが、私も大いに賛同する部分が多いわけですけれども、今必要なのは、一国平和主義でも、またはPKO至上主義でもない、多面的な側面から行動する平和主義というものが求められているんじゃないか、そんなふうに思います。それが一点。

 もう一点は、それと関係するわけですけれども、そういった多面的に行動する平和主義を日本がとっていくには、今の憲法はそういった部分についての言及がいかにも少ないという感じがいたします。

 私は、午前の会議の中で、いわゆるアメンドメント方式、修正で加憲していく、加えていくというのを我が党が今主張しているという話を申し上げましたけれども、その分でいきますと、朝のテーマは際立って優先度は低うございましたけれども、きょうのこの午後のテーマ、憲法九条に関しては、極めて優先度が高い、そんなふうに感じる次第でございます。

 その場合、私どもは、現行憲法、いわゆる言ってみれば一九四六年憲法というものが持っている非常に高い資質といいますか、憲法三原理というものをしっかり持っている、そして日本の社会の中にしっかり定着している、これをしっかり認めた上で、その上で、今、二十一世紀を迎えた現状の中で、日本はこれから二十一世紀を生きていく上において足らざる部分を加えていこう、こういう観点が一番、思い込みかもしれませんが、合意を得やすいのではないかという感じはいたします。

 例えば、国際平和協力に関して言えば、前文の第三番目のパラグラフに出てくるわけですけれども、これだけ。そして、九条の一項、二項しかない。こういう状況の中で、例えば将来において、また、仮に二〇一〇年憲法というものをつくった場合に、前文のみ二〇一〇年の前文という格好で、必要な部分を補充して変えていく。あるいは九条におきましても、個別的な自衛権すら認められないんだというふうな、そういう解釈が出てくるような現状をそのまま認めるのではなくて、より広い、私どもの立場から言わせますと、個別的自衛権は認める、そして集団的自衛権については概念の整理をして、認められない部分と認められる部分、私はこの場で何回か申し上げてまいりましたけれども、そういう整理をした上での記述を新たに加憲していく。

 また、集団安全保障の問題についても、九条に加憲をするか、あるいは新しい条項をつけ加えるかは別にいたしまして、将来において、例えばさっきも申しました二〇一〇年憲法の中にそういったものをつけ加えていく、今ある一九四六年憲法はしっかりそのまま置いておく、こういうふうな行き方が望ましいんじゃないか、そんなふうに思うということを申し上げて、今回の発言にいたします。

山口(富)委員 日本共産党の山口富男です。

 まず、国連安全保障理事会の常任理事国入りの問題なんですけれども、九月に国連総会で小泉首相がその立場を表明したわけですが、一つは、日本が今国連の中で重要な役割を果たすというならば、よく批判される、アメリカ言いなりと言われるような現状から抜け出して、国連憲章に基づく平和の秩序をつくるために、自主的、平和的な外交努力を大いにやって、世界の国々の信頼をかち取るための努力をするというのがまず先決だと思います。

 それから二つ目に、国連憲章は、安全保障理事会に対して、第四十五条で国連軍に兵力を提供すること、そして四十七条で軍事参謀委員会に代表を送ることを求めているわけですけれども、これは憲法九条の平和原則と相反するもので、その義務と責任ということに踏み込むことは、我が国の場合、憲法上できません。

 さらに、実際の動きを見ましても、日本政府が今進めようとしております常任理事国参加の動きというのは、小泉首相の繰り返しての発言にも出されていますように、憲法九条の改定の問題、それから自衛隊を海外に送る問題、そういう動きと一体のものになっていますし、米国のパウエル国務長官が常任理事国に参加するためには憲法の改定が必要であるというふうに発言したことでも明らかですが、常任理事国への参加問題というものが、日本の憲法の改定の問題、それから軍事大国化の問題、こういう動きにつながっていくてこになっていきますから、私たちはこれには反対です。

 それから、先ほど船田幹事から、九条と国連憲章に関しまして、きちんと書いてないんじゃないかという指摘がありました。

 私、先ほど、国連憲章に盛り込まれました世界の平和の秩序の問題で、各国憲法にも当時盛り込まれたというふうに紹介しましたけれども、例えばイタリアの憲法は、他の人民の自由を侵害する手段及び国際紛争を解決する方法としての戦争を否認する、それから韓国の憲法は、国際平和の維持に努め、侵略的戦争を否認する、ドイツの基本法は、侵略戦争の遂行を準備するのに役立ち、かつそのような意図を持ってなされる行為は違憲であるというふうにしているわけですが、どこにも国連憲章との関係というのは別に書いてないんです。それは当たり前のことで、それぞれの国の憲法が生きている世界というのは国連憲章が普遍的な役割を果たしている世界ですから、当然そのことを前提にして各国の憲法の体系がつくられているというふうに見るべきだというふうに私は思います。

 それから、きょうは集団的自衛権の問題で幾つか発言がありましたけれども、これは、単に政府の解釈論にとどまるのでなくて、九条からいけば日本が集団的自衛権を持たないというふうに憲法上考えるのが憲法学界でもごく当たり前の物の見方であって、ここのところを突き崩すようになるということになれば、これは憲法九条の本体部分を丸ごと外すことになるという動きになってしまうというふうに私は考えます。

野田(毅)委員 三点ほど申し上げたいと思うんです。

 一つは、集団的安全保障への参加の問題なんですけれども、率直に言って、この日本国憲法ができた時点というのはまさに日本は被占領下に現にあったわけで、しかも国連から見れば旧敵国でもあったわけですから、その旧敵国で、無条件降伏してGHQの管理下にあった日本が、国連のために汗をかくなどという発想は最初からなかったということだと思います。そういう意味で、いわば国連軍への参加ということは日本国憲法の想定外の話であったということがまずあるんじゃないか。

 そこで、今改めて、世の中の状況がうんと変わりまして、では、この憲法のもとでその集団的安全保障への参加が憲法上どういう制約があるんだろうか、どういう条項に抵触するのかということなどを見ると、九条は、基本的には自衛権に関する制約要因を強く書いてあることであって、ここに書いてあるこの事柄は集団的安全保障への参加を否定しているのではないのではないか、むしろ、前文などからの脈絡からすれば、しっかりと日本は国連に、いわば管轄下にあったわけですから、協力をするという、そちらの方が、日本のあり方として素直な読み方になっていくのではないかというふうにも読めるのであります。

 それから、いま一つ、現実に小泉総理も国連総会でいろいろ常任理事国入りへの思いを述べたということでありますが、私は本当だろうかと。それだけの戦略的なことをやっておられたのかというと、多少どうかと首をかしげる部分もあります。

 それは、現実論として、拒否権を持っている常任理事国みんながウエルカムであるということを、特に周辺国が積極的に、ドイツをフランスが担ぐがごとく、そういうような環境整備をしていくということが当然連動して初めて可能なことであって、ちょっとそういうことがなくて、神経を逆なでして、さあやりますよと言って本当に現実論としてできるんだろうか、私は、必ずしもそれはうまくいかないのではないか、そんなことを常々感じております。

 一方で、アメリカ側からすれば、積極的に日本の周辺国を説得するためにアメリカ自身が汗をかくというほどの日本の常任理事国入りを熱望するような環境があるかといえば、それはやはり、一方で集団的安全保障に関する日本のいわばスタンスがはっきりしていないというようなことが、アメリカが逆に積極性を持てない背景にもつながっているんではないか。

 いずれにせよ、この常任理事国入りに関して見ると、どちらの面から見ても、今日までそれだけの戦略的な発想があってやってきているようにも見えないんで、もう一遍反省をして、きちんと構想を組み立て直す必要があるのではないかということを実は感じております。

 以上です。

枝野委員 二度目になりますが、御指名をいただきましてありがとうございます。

 先ほど来、常任理事国入りの話、それから集団安全保障への日本の参加、協力の話が出ております。私は、どちらも否定をするものではない立場であることをまず明確にした上で申し上げたいのであります。

 事実上死文化しているとはいいながら、現行の国連憲章にはやはり敵国条項が残っているということのクリアこそが最優先課題なのではないか。常任理事国入りとセットでやるという議論はあるのかもしれませんが、敵国条項が残っていながら常任理事国入りを目指すというのは物事の順序が明らかに違っていると思いますし、敵国条項が残っている国連という組織のもとで日本がどこまで汗をかくのかというような議論というのは、実は、若干ピントがずれているのではないか、お人よし過ぎるのではないだろうかと言わざるを得ないというふうに思っています。

 念のために申し上げれば、敵国条項は単に日本が旧敵国であったということを書いてあるだけではなくて、事実上死文化しているとはいいながら、国連は、日本に対しては、他の国に対するものとは違って、安保理決議等を要さずに武力行使等ができる、集団安全保障行為を発動できるという条文は残っているわけでありまして、こうした条項に対して、まずは順序として、日本も国際協力をこれからどんどんしていく中で幾ら何でもひどいだろうということからまず始めていくというのが、これは諸外国にも理解を得やすい話であろうと思いますし、また敵国条項がなくなったときに初めて次のステップとして、さらに協力をしていく上で、常任理事国入りという話のプロセスというのが物事の筋ではないだろうか。このことは申し上げておかないといけないなということで、二度目でございましたが、札を立てさせていただきました。

 以上です。ありがとうございます。

渡海委員 この午後のテーマは大変大きなテーマだというふうに、先ほどからいろいろな方々の意見を聞いております。

 その中でも共通しておりますのは、やはり一九四六年に憲法が制定された当時と現在の状況というのは、これはもう言うまでもなく、大変大きく変わっているわけであります。

 大きく整理すれば、やはり日本の国そのものの変化というのが一つあると思います。先ほど野田委員からも御指摘があったように、被占領国であり、そして敗戦の中から立ち上がろうとした当時の日本。現在の、国力を持つ、基本的に経済大国として日本は今世界にさまざまな面で影響力もあり、また、世界の中で存在をしている。こういった状況の変化というものを考えたときに、今のままでいいのか、これは当然考えなければいけない一つの論点であろうと思いますし、これも何人かの方が指摘をされたわけでありますが、国際情勢が大変大きく変化をしたということがあろうかと思います。

 その中でも一番大きな変化というのは、やはり冷戦が終えんして、そして、これまで実は国連がやろうとしてできなかったさまざまな国連としての活動というものが今後やれるのではないかということが非常に現実化してきている。そして、そういう状況の中で、現在我が国が国連の中において何を果たすべきかということが実は問われているということであろうと思います。

 その中でも大変大きなのは、これもきょうもう既にたくさん意見が出されておりますが、一つは、安保理に対してどういうスタンスで日本はこれから考えていくのかということであります。

 今、枝野委員から敵国条項の問題も指摘され、それはそのとおりだと思います。しかし、常任理事国入りをするしない、そして、常任理事国入りをするとしたならば、それはどういう形で日本は貢献をしていくのかということをまずクリアにしなければいけないというふうに思います。

 そこで、先ほどの国際情勢の変化というものが大変大きく関係をするわけでございまして、パウエル長官などがいろいろな発言をされているようでございますが、現在の国際情勢の中で、例えば武力行使を伴わなければ常任理事国としての役割を果たせないか否か、ここの部分は再度我々はしっかりと考えていかなければいけないと思います。

 二十一世紀に入って人類にとって新たな脅威というものが起こっている。これも、単に戦争という国家の紛争のみならず、さまざまな形での人類に対する脅威というものが存在をしている中において安全保障理事会が果たす役割、こういったものを考えた上で我が国が何ができるか、また何をすべきか、こういう観点が必要なんだろうなというふうに実は考えております。

 私自身は個人的には、しかし、いずれにしても日本自身が役割を果たす上で、国家の意思としてしっかりとしたといいますか、選択肢を持ち得る形に憲法というものはしておくべきではないかというふうに考えてはいるわけでございますけれども、しかし、現状においても、私は、常任理事国になって果たし得る役割というものはあるのではないかと。それは、現在の安全保障というものが単に、先ほど、これは中川委員だったと思いますが、時間の関係で少し簡潔に申し上げますけれども、先制攻撃的と後処理ということを言われましたが、そうではなくて、攻撃的ではなくて先制的なさまざまな安全保障に対する国際貢献というのはあり得ると思います。軍縮であるとか、もちろんさまざまな形でいろいろな貢献は現在の日本もなし得る、しかも、大いに得意種目としてなし得ることでもあろうと思いますし、そういった形の中で国際貢献を果たしていくべきではないかと思います。

 なお、もう一点、これも多くの委員から指摘をされたところでございますが、集団安全保障というこういったことが、例えば極東地域、アジア地域、今すぐできると思いませんが、やはり議論の俎上にのろうとしているときに、しっかりと現行憲法で、その中に日本は参加ができるのかどうかということを私は議論をしておくべきであろうと思いますし、個人的には、現行憲法の中では、集団安全保障にも、これは野田委員とちょっと意見が違うかもしれませんが、入ることはなかなか難しい、また、そのことが制約になってくるのではないかなという懸念をいたしておりまして、しっかりとした議論の上で、日本が国際貢献を果たし得るような形の新しい国民的議論を展開して憲法をつくっていかなければいけない、そういうふうに考えているところでございます。

三原委員 自民党の三原でございます。

 やらないというのとやれないというのは明らかに違うことでありまして、やれないというのは初めから手足を縛っておるようなことでありまして、やらないというのは、自由であるけれどもみずからの意思によってデシジョンメーキングをする、政策決定をして、するかしないか、こういうことだと思うんですね。今の日本の安全保障の議論をするとやれないということが前提にあるものですから、そこのところは変わるべきだ、変えるべきだともいう、つまり改憲の方向での物の考え方に私は賛成いたしております。

 その中で、国連に対する我が国のコミットメントでありますけれども、今歴史的なことを皆さん言われました。確かに、戦後、日本は灰じんの中からここまで来ました。そうすると、やはり国内でも、国家として世界の中で信頼され、尊敬されるような国になりたい、こういう行動をしようとするのは当然のことでもあると私は思いますし、それが、国際機関の国連の中で、我が国は非軍事的なことに関してはどこにも負けないぐらい今活動していることはもう言わずもがなのことでもあります。

 では、それ以外の面、つまり軍事的な面でどうなのかというと、制約の中でやれるだけやりましょうというんで、今一生懸命で、PKOあたりもやってきました。しかしそれも、一つの例を引いてすべてを語るわけにいきませんが、例えば国連が行った予防展開というのがありました。これは、新ユーゴスラビアのコソボ地域とマケドニアというところで、事が起こりそうだというので、国連が出ていって、ただ軍事的なモニターをやるというので、兵士を置いておくだけで、事が起こらなかった。どれほど安上がりになったか。

 これが、もし、混乱が起こって、軍事的な戦いが起こり、なおかつ難民が出ておれば、今の何十倍、何百倍という、人的コストもそうですけれども、経済的な面でも私は悲惨なことが起こっておったと思うんですね。そういうことには我が国は実は出れないわけであります。

 そういうことを考えますと、やらないこととやれないことというのは明らかに差異があると私は考えるわけであります。

 それで、船田幹事がおっしゃったことは、今の憲法の中では、国連の常任理事国に我が国が入ったとしても、これはおかしなことになるというのですね、憲法に抵触することになるという意見でありましたけれども。それも、まあ厚顔無恥のようですが、留保条件あたりも堂々と言えるような立場で、今チャンスを逃すよりも、今機運が乗っておるときに、我が国も国連の常任理事国入りに汗をかくことに何ら問題はないと私は考えております。

 いま一つ問題は、テロとかあとは国境を越えた麻薬の不正取引みたいなことは、もう警察権力だけではやれないことは明らかなことでもあります。そういう場合に、もっと我が国が活動しようということになれば、活発に活動を国連をもとにしてやらなきゃいけないということになったときにも、我が国の今の状況の中では問題が大いにあるわけでありますから、そういう面から考えると、私は、さらに、我が国は憲法の議論もしながら、国際社会、国連の中でも活動をより、やれないじゃなくて、やらないかやるかという問題にまで踏み込んだ動きを、形を我が国はつくるべきだと思っています。

佐藤(茂)委員 二回目の発言でございますが、お許しいただいて、五分で述べたいと思います。

 常任理事国入りについては、先ほど冒頭でも申し上げたんですけれども、その臨む原則というものを日本としてやはり明確にしておくことが必要であるし、その上で、何をしっかりと国際社会の中で貢献するのか、やりますよという役割を明確に鮮明にさせることが必要である。臨む原則というのは、先ほどの三原委員のお話にも通じますけれども、現行憲法の範囲内では、日本は集団安全保障の枠内では武力行使はできないということなので、本当にそういう日本でも常任理事国入りをしていいのかどうかということを具体的に国連の場で、また各国、具体的に既得権益として持っている常任理事国としっかりと詰めることがまず必要ではないかな、そういう感じがいたします。

 その上でも日本が常任理事国入りにふさわしいというのであれば、今の現下の国際情勢の中にあって、日本にしかできない、日本ならではの貢献というのは多くある。特に、枝野議員が発端で話をされましたけれども、国家間の安全保障だけではなくて、今、非国家との安全保障、さらには一人一人の人間の尊厳とか、また生存というものに光を当てた人間の安全保障という分野については日本が先駆的に取り組んできているわけでございまして、こういう分野で、今までの常任理事国とは違う、そういう特色が十分発揮できるであろう、そのように考えております。これが一点です。

 二点目は、国連自体がまだまだ不十分でございますし、発足六十年近くになりますけれども、当初考えていた情勢から大きく変わっていて、国連憲章でなかなか合わない部分が出てきております。

 まず我々にとって大事なことは、先ほどから意見がありますように、旧敵国条項という、この五十三条だけではなくて、百七条もそうだと思うんですけれども、そういうものをしっかりとまず撤廃させるということが大事でありますとともに、集団安全保障という点で見ても、現実に、憲章上の国連軍というのは今まで一度も編成されていないわけでございまして、このPKOという平和維持活動自体もどの条文で読むのか、これもはっきりしない、六章半と言われている状態ですし、さらには、このイラクを含め、今まで出されてきた多国籍軍というのも、結局どの条文で読んだらいいのかというのがはっきりしない、第七章のもとでというような表現でしかできないような、そういう今、国連憲章が現実のこの国際の情勢の実態と合わなくなってきている部分についても、しっかりと日本は意見を言っていくべきではないかな、そのように考えております。

柴山委員 柴山でございます。

 大きな問題としましては、やはりこの国連憲章と日本の憲法の関係を考えた場合に、この日本の憲法九条、これを変えた方が果たして平和なのか、変えない方が平和なのかというそこの分かれ道が、まだコンセンサスが得られていない部分があるのではないか。

 九条を全くいじらないことが結局のところ平和維持に資するというような議論があって、そして、その根拠としては、もちろん確かに現行の内閣法制局の運用、解釈は非常に融通無碍になされている部分はあるけれども、それでもやはり国権の発動たる戦争を禁止している以上、侵略戦争は禁じられているじゃないか、あるいは陸海空軍といった名前の戦力は保持しないというように入れているではないか、そういったいわゆる歯どめ論、要するに、融通無碍な解釈はされてはいるけれども、歯どめというものはやはりあって、そして、時の政府の解釈もそこを最終的には尊重せざるを得ないという部分から、やはりこの部分についてはそのままにしておいてもいいのではないかという議論が一方ではもちろんあります。

 ただ、やはり先ほど来野田先生、渡海先生を初めとする皆様方の御指摘のとおり、この憲法が定められた当時は、自衛戦争すら、あの第二次世界大戦の後でする、そういうような状況ではなかった。ただ、当然のことながら、この日本国憲法が定められている中で、さまざまな妥協的な修正、芦田修正というお話もありましたけれども、が加えられて、将来に含みを持つ規定が設けられた。

 そういうような世界情勢と、現在の国際テロ頻発あるいはボーダーレス社会における国際貢献ということが問題となってくる世界情勢というのは明らかに異なるわけでして、こうした世界情勢の変化というものを的確に憲法の条項に反映していく、これこそがまさしく平和主義憲法のあり方ではないか。

 冒頭、葉梨委員からも御指摘がありましたとおり、そういった解釈というものにある程度枠をはめるためにも、そういった文言の明確性というものをしっかりとしていかなければいけないのではないかというところをまず冒頭に申し上げたいと思います。

 それから、やるのかやれないのかというような御議論も先ほどありましたけれども、これは、私は前回の調査会でも申し上げたとおり、国際貢献を一たび表明した以上は、しっかりと有形力の行使の部分についても行っていくのが筋ではないかというようには考えておりますけれども、これはあくまでも長期的なスパンで考えるべき問題でありまして、当面におきましては、やはり現行憲法と現実の運用との乖離ということを解消するということが私は喫緊の課題だと思っておりますし、そういった側面から、平和的な実力行使を伴わない、直接的な形でそれにコミットしないという形での、限定つきの括弧書きの集団安全保障、こういったものは、やはり一定の歯どめを設けた上で憲法上書き込んでいくべきではないかなというように思っております。

 集団的自衛権の問題についてはこれとは別個の問題でありますし、私は、集団的自衛権については、これは自然権の一つとしてやはり行使も存在も両方認められてしかるべきだ。あくまでも日本は自重してその行使を認めていないのではないかという立場に立つものであります。

 国連憲章との関係では、やはり常任の安全保障理事国になった場合に、三十九条、四十条、そして四十二条の軍事的措置、これに加わる必然性は、少なくとも法解釈上はないということは私もそのとおりだと思っておりますし、常任理事国に加わることによって、国連において積極的に発言をする、また、この集団的な安全保障においてもしっかりと議論をリードできる立場に日本が立つことができるということで、積極的に考えているということを申し上げたいと思っております。

 以上です。

船田委員 二回目の発言、お許しいただきまして、ありがとうございます。

 先ほど私が、国連憲章と第九条との関係を、ややレトリックといいましょうか、多少誤解を与えるような表現をしてしまいまして、少し修正といいましょうか、つけ加えたいと思っております。

 先ほど私が、第九条と国連憲章とが矛盾する、あるいは、第九条で国連憲章の存在というものを無視しているというような表現をいたしましたけれども、これは、もちろん私自身、各国の憲法というのは、それぞれのその国の成り立ち、歴史、そして現在そこで暮らしている国民の総意というものによってみずから選ぶべきものである、このように感じております。

 ですから、国連憲章というものがこうであるから第九条もこうでなければいかぬ、そういう意味で言ったことではないのでありまして、ただ、我が国の現在の第九条がやはりどうしても、国連中心主義をうたっていながら、それに、矛盾ではないんですが、超越した形で存在をしているということ、ここにちょっと私自身ひっかかるところがあったということで、そういう表現をさせていただきました。

 今後、憲法の改正、見直しが行われる時期があるとすれば、やはりそのときには、既に存在をしている、そして世界の安全保障問題を第一義的に対応しようとしている国連のいわゆる国連憲章の、特に安保理関係の条項について、やはりある程度の配慮をしながら第九条というものを新たな条文に直す、そういうことが考え方として必要ではないかということを申し上げたかったのが私の真意であります。

 もう一つの安保理常任理事国入りの問題について、これも三原委員からも御指摘がございましたけれども、私自身も決して、常任理事国入りをちゅうちょする、あるいは否定的に考えているつもりではございません。ただし、やはり現在の国連憲章のもとでの常任理事国のさまざまな責務、そういったものが現にあるうちは、そういうものをフルサイズの形として、我が国が常任理事国として入っていくのであれば、それはやはり、現在の憲法、特に第九条の条項に照らして、ちょっとやはりそこは無理があるんではないかということは、どうしてもこれは指摘をしなきゃいけないかと思っております。

 ただ、国連の改革が適切に行われる、その中で、常任理事国の拡大や、あるいは常任理事国の性格がもう一度定義をされ直すということであれば、その中で大いに、我が国としては、常任理事国の役割、議論をし、それに積極的に参加をしていく、こういう態度を示すことは、我が国の現在の世界情勢の中での立場としては当然のことであるというふうに思っております。

 以上でございます。

辻委員 民主党の辻惠でございます。

 本日は、国際機関と憲法ということで、とりわけ国連憲章と九条との関係での議論が主になされているように思います。

 九条を改正する必要があるのかどうなのかということの幾つかの理由として、一つは、国連憲章との整合性がどうなのかという問題が提起されている。また、日本が安保理の常任理事国入りをするに当たって、九条の改正ということが必要なのではないかということが指摘されている。この問題については、いわば理論的な面で考察すると同時に、やはり本来的には、政治論として、政治的な論議としてどうなのかということを議論しなければいけないというふうに思います。

 理論的な面ということであれば、これはたしか先ほど葉梨委員がおっしゃったように、九条と国連憲章、必ずしも整合性を持たないわけではないという、私もそれは同感であります。また、九条を変えなければ常任理事国入りがあり得ないということは、必ずしもそうではなくて、十二月に予定されているハイレベル委員会の報告書も含めて、国連改革の中での常任理事国の役割や機能ということで解決できる余地のある問題ではないかというふうに思うわけであります。

 したがって、問題は、日本の今後の外交戦略、政治論としてどうなのか。では、九条を変えれば今安全保障理事会の常任理事国入りができるのかといえば、中国、韓国を初めアジアの国々は一様に否定的な反応を示しております。九条を変えること自体について、では、中国なり韓国を説得できるのかという問題もあるわけであります。

 現在、とりわけ戦争の形態というのは変化してきているわけでありまして、従前の、国連憲章も前提とした国際連合の枠組みの中の国家対国家という戦争のありようを超えて、テロリズムや民族対立や地域紛争という形で、新たな二十一世紀の平和に対する、破壊に対する、どう対処をするのかということについての日本のリーダーシップが問われている。そのときに、やはり世界的なルールを、原理原則をきちっと立てて、日本が世界に対して存在感をアピールできるような外交戦略、方針を持たなければいけない。

 そのときに、国連憲章の認める自衛権にすら当たらないアメリカの先制的な戦争、イラクに対する戦争にただただ無条件に従う、それを支持するというような日本の姿勢は、二十一世紀の国際協調、世界に対する日本のプレゼンスをはっきりと打ち出していくに当たって、非常にこれは戦略観を欠いた態度であろう。

 したがって、九条と国連憲章の整合性、安保理入りに当たっての九条の改変の必要性とかいう字面の問題ではなくて、問われているのは、日本がいかなる外交戦略を、アメリカのくびきから脱して独自の戦略をきちっと打ち出せるかどうか、それが問われている問題であろう、このように思います。

山口(富)委員 日本共産党の山口富男です。

 議論の中で、私は、国連という集団安全保障の機構の問題と、それから国連がさまざまに行う平和維持活動を含めまして諸活動のことと、それから集団的自衛権と、ややいろいろな側面が一緒に論じられたり、区分けされずに出てきているように思うんです。

 平和維持の活動についても、先ほど佐藤委員から発言ありましたように、六・五章と言われるようにさまざまなものがあるわけですけれども、少なくとも、日本は憲法九条を持つ国として集団安全保障の機構である国連に加盟をした。そして、その際に、私先ほど読み上げませんでしたけれども、当時の西村条約局長は国会へ次のように報告をしております。「日本政府はその有するあらゆる手段によつて国際連合憲章から生まれる義務を遵守するが、日本のディスポーザルにない手段を必要とする義務は負わない、すなわち軍事的協力、軍事的参加を必要とするような国際連合憲章の義務は負担しないことをはつきりいたしたのであります。」ということで、私は、やはりこれが基本であって、国連の行う平和維持活動についても、それぞれ具体的に吟味して、日本として非軍事的な部分での協力ということに当然なると思います。

 それから、集団的自衛権なんですけれども、これは国連憲章の五十一条で国際法上はただ一カ所規定されているわけですが、先ほど冒頭の発言で述べましたように、これはあくまで暫定的、例外的なものとして置かれている条項でして、私は自然権というふうに見ることはできないと思います。何よりも、現実の国際社会においては、既に集団的自衛権のいわば実態としての裏づけである軍事同盟から離れている国の方が多数なわけですから、何かそこに世界の本流があるという見方はとるべきでないというふうに思います。

 最後に、当時の、憲法をつくった時期の制定議会は、政府の答弁や委員の発言も含めまして、かなり国連憲章を念頭に置いた発言をやっております。ですから、汗をかく発想がなかったというその汗の中に軍事がないという点ではないわけですけれども、しかし、国連に参加して国際社会にどう貢献するのかというのは、当然視野に含まれていた。

 きょう、私が、国連の特徴として、平和の秩序の構想の問題と、もう一つ、平和の土台として基本的人権の尊重や生活向上を図るということが憲章上の柱に据えられているというふうに強調しましたのも、九条を持つ国として、きちんと、基本的人権や生活向上の問題でも日本は国際社会への貢献が九条の立場でできるということを言わんがための、いわば国連憲章から二つの特徴づけというものを見てとったわけですけれども、最近、国連や国連憲章というと、どうしても国連が行う集団安全分野の活動だけに目が行きますが、やはり、二つの世界大戦を経て設けられたときに、どうやったら戦争を防止できるのかという問題意識でこの憲章は貫かれておりますから、私は、ぜひ全面的に読み込んでいく必要があるというふうに思います。

中川(正)委員 二回目の発言を許していただきまして、ありがとうございます。

 先ほどから、国連中心主義という憲法の理念みたいなものが強調されて出てきていますけれども、実際のところは、この建前と日本が歩んできた道筋というのは相当違っているんじゃないか。現実的に言えば、アメリカ中心主義で、それは、自衛隊を再武装したのもアメリカとの関係の中で言われてやった、それから、その後、最近のところでいけば、イラクにしても、あるいは湾岸戦争からの経緯にしても、これまたそうですし、その傾向というのが最近加速してきているんじゃないかという感じがするんですね。

 特に、今のトランスフォーメーションを受け入れていく姿勢とか、それからMDに対しての、その議論が盛り上がらないままにずるずるとアメリカのトータルなシステムの中に、いわゆる軍事システムの中に入っていく流れであるとか、これを客観的に見ていると、やはり、中国に対してエンゲージメントで変えているんだ、こう言いますけれども、逆で、全くこれはもうコンテーンメント、つまり、周辺をぐっと武装しながら中国を囲んできているような、周辺事態法なんかもそうですが、そういう流れが出てきているんだろうというふうに思うんです。

 さらに言えば、国連の中でも、核軍縮についての日本の姿勢というのはどういうことかというと、中堅国家、カナダやニュージーランドやスウェーデンが上げてきた、現在持っている超大国の核についてもこれを廃棄するような形で進めていこうという決議に対して、日本は二の足を踏んで、アメリカの意向を配慮しながら日本独自の案をそれにぶつけていくような形で国連の中でもやっているというようなことであります。

 そんなことから考えていくと、国連中心主義で理事国に入っていきましょうと私たちは言っていますけれども、それを周辺で見ていて、いや、日本はそこで何を言うの、やはり同じようなことで、一言で言ったら、アメリカに追随する、あるいはアメリカの一つの部分としての発言しかないのということを問われても、これは仕方がない現実があるんだろうというふうに思います。

 その上で考えていったら、やはり、アジアに対して軸足を求める、あるいは国連に対して求めるということであれば、現実の今のアメリカが言ってきている問題に対して、日本の構想力を出して、アジアとの、例えば中国も含めた形の地域の安全保障体制をつくろうと思ったら、そこへ向いて、私たちは意思があるんですよ、だから、日米安保は大事、同盟も大事だけれども、そこを行き過ぎないようにここにとめてくださいよと言うぐらいのスタンスが出てこないと、これはうそだというふうに思うんですね。

 そこのところを、しっかりとした議論というのは、恐らく我々も責任があるんだと思うんです。国会の中でも、そこまでいかずに、どこか方向の違ったところで建前だけの議論をしてしまっているという反省が大きくあるんじゃないかという気がしておりまして、そういう意味で、私はこの国の今の方向性に対して危機感を持っております。

 そのことをつけ加えさせていただきたいと思います。

保岡委員 やはり、憲法を考える上で、国際的な安全保障というものに参加する意味でも、まず何といっても一番肝心なのは、自分の国をしっかり防衛するシステム、法の根拠を持つことは、もう決定的に重大な問題だと思います。

 そういった意味で、兵器の、あるいは戦争の遂行が技術の向上によって非常にハイテク化したりして、一国で防衛をするということはもはや不可能な状態と言っていいほど多くの負担と、その負担が生ずる地域への安全保障の緊張がもたらす結果などを考えると、やはり、現実に日本の防衛を考えるときに、日米同盟は日本の防衛のために決定的な同盟関係と言えると私は思います。

 その中で、実は政府の解釈によると、いわゆる周辺事態という我が国の安全と独立に重大な脅威を生じた状況で、領域外においてこの危機と戦ってくれる、この危機の排除のために対応するために行動する米軍というものに対して、今の政府の集団的自衛権の解釈では対応ができない、手が縛られているということでは、これはもう決定的に我が国の防衛というものの基本に障害を抱えていると私は思わざるを得ません。もしそういう事態になったときに、日本がそういった共同防衛に立つ米軍に手が出せないということになれば、アメリカとの同盟関係は決定的な信頼を失って崩れる。こんな基本的なところはきちっとしなきゃならないというのが、一つの大事な、憲法改正あるいは国の安全保障の法的根拠を考える上で、決定的に重要だと思います。

 同時に、今度は、国連中心主義といいますけれども、アジアにおいては常任理事国というものにロシアや中国が入って、このアジアの地域の集団安全保障措置が果たして安全保障理事会で適正なものとして決議できるかというと、それもなかなか難しい。大きなリスクがある以上は、やはりそういった意味でも、日米同盟が中心になって日本の防衛が、安全保障が構築されてきた現実の歩みは、私は肯定すべきものだと思わざるを得ません。

 同時に、国際安全保障という観点で国連ということを考えた場合には、私は、確かに日本は、現在、軍事力においていろいろな制約を憲法で課しています。しかし、この憲法調査会にお出になった猪口邦子公述人がおっしゃっているように、そういう制約下においても、日本の平和に対する努力あるいは平和の回復へのいろいろなプロセスでの得意とする分野の努力というものは高く評価されて、そういった意味では、平和大国というような大きな信頼があるということを言っておられましたが、そういうことを踏まえても、我々は今までの日本の歩みに自信を持って、私は、常任理事国の中にもそういう国がいてもいいと。

 今まさに国連の安全保障理事会の改革が始まろうとしているときに、そういう姿勢を強く打ち出した小泉総理は、私は、時宜を得ている。確かに、先ほどの野田先生や船田先生のいろいろな御意見もありますが、私は、そういう御意見も十二分に踏まえるところが大切だと思いますが、やはり国連の常任理事国入りは日本は目指すべきであると。

 その上で、私は、国際貢献において、確かに危機が発生した場合に、武力行使を目的とする集団安全保障措置の直接前面に立つことは、これは日本はやはりやっていいのかなと思いますが、後方支援とか、あるいは人道支援とか、平和回復のプロセスに得意な分野をしっかり持っていく。

 ただ、その場合に、任務の遂行上、いろいろな危機に及んで、あるいは共同して行動している他の国の方々の危機管理が一緒にできないようなそういう憲法を持っていたのでは、あるいは憲法解釈では、国際的な信頼あるいは集団安全保障措置に円滑に参加して高く評価されるということはあり得ない、そういった意味でも、その点が憲法改正の重要なテーマになると私は思っております。

大出委員 民主党の大出彰でございます。

 今まで議論を重ねてきて、私は、さまざまな国際関係の中で、不安定要因といいますか、アメリカが先制攻撃を認める戦略を持っているものですから、最近はロシアもその先制攻撃についてやぶさかでないみたいなことになってくる。こういうのを認めておくと、やられる前にやれということにやはりなりますので、日本としても、それはやめた方がいいということを言わなければいけないのではないかと思っておりますし、国内的に言いましたら、集団自衛権の方も、あるいは集団安全保障の方も、解釈としては、できるけれどもしない、あるいはできないからしないとありますが、結論的には武力行使をしないで、先ほどから我が党の方も言っておりますような、事後処理的な平和構築というようなことを言いましたけれども、そういう問題ではないかと思いますし、先ほど赤松さんがおっしゃったような多面的な行動する平和主義といいますか、その面でいくべきだろうと思うんですね。

 そして、常任理事国入りの問題なんかでは、当然、敵国条項がございますので、私は、その前に実は、もう少しアメリカとの関係で、日本は主権を取り戻さないといけないんだというふうに思っているんですね。

 というのは、この間、沖縄でヘリコプターが落ちたわけでございますけれども、すぐに事故調査をすることができなかったんですね。これは今に始まったことではなくて、昔、一九七七年に私の神奈川の緑区というところでファントムがおっこちた事故があったんですね。子供さんが二人死んで、お母さんが四年後に亡くなったりしているんですが、そのときもすぐに事故調査はできない。当然のことながら、基地の外ですから、警察権を持っているわけですから警察権を行使できるはずなんですね。そしてまた、地位協定の十七条でもできることになっているんですが、ところが、現実にはいまだにできていない。

 何でなのかと思ったら、日米の合意事項があって、アメリカの財産権については捜索や押収や、あるいは検証ができないという合意事項があるんですね。この合意事項については公表していないという言い方なんですね、外務省は。これは治権の問題でございまして、要するに、一部警察権を放棄していることになるわけですね。こういう問題をずっとほっておいて、ドイツなんかはこういう問題に関してはちゃんと対等な関係をつくっているわけなんで、日本の場合も、まずこういう問題についての主権をちゃんと取り戻す、悪く言えば、独立をするということがないと、対等なパートナーシップをつくっていかないと、それから先へは進めないのではないか、そんなふうに考えているところでございます。

 以上です。

山口(富)委員 日本共産党の山口富男です。

 保岡幹事が席を立たれましたので、いらっしゃらないところで言うのもフェアではないので、少し、論点だけにいたしますが。

 私は、同盟関係についての認識と評価は、全く立場を異にしております。それは当然、政党間の違いもありますから。

 きょうのテーマは国連憲章とのかかわりですから、それとの関係で言いますと、同盟というのは、仮想敵を前提にしますので、集団安全保障の体制である国連憲章との関係でいきますと、それに反する流れなんですね。ただし、五十一条がある関係で、軍事同盟そのものを直ちに国際法上違反であると言うことはできないと思いますが、少なくとも国連憲章が求める方向からいきますと、流れは違うものになっているというふうに思うんです。しかも、今、先ほども私、集団的自衛権の問題で申し上げましたが、世界を広く見れば、軍事同盟のくびきから放れた非同盟の国々の方が既に多数になっているんですから、その点から、私は、同盟という問題をきちんと見直すべきだというふうに思うんです。

 そして、今必要なのは、やはり憲法に反しまして、これは占領下からの講和条約や旧安保条約の締結にかかわる一連の問題があるわけですけれども、今必要だということになりましたら、私は、憲法に反する事態の方を変えることが筋であって、今お戻りになりましたけれども、話を巻き戻すわけにいきませんので、一応そういう意見表明とさせていただきます。

鹿野委員 国連の常任理事国入りのことについて、私は、かつて今の小泉総理大臣が、閣僚懇談会におきまして、安保理入りなんというのはとんでもない、こういうような発言をされておったことを今明確に思い起こしております。それが、なぜ常任理事国入りの国連演説をされたか、これは明確でありません。この十五、六年の間にそれだけの国際情勢の変化があったのか、国際情勢の変化の中で、日本を取り巻く環境というものが、そのような対応ということをしなければならない、そういう状況にあるのか、定かでないと思います。

 いわば、国連に一九%の金も出している、大事な安保理の会議にこれだけのお金を出しながら会議が終わるまで外で待っていなきゃならないなんということはとても耐えられない、正直なところ。そんなような、いわば情緒的なそういう判断もあるかもしれませんが、それはしかし、国の方針としてどうするかということとはまた違った議論だと思います。

 本当に国連の常任理事国入り、このことに対してよほどの覚悟を持つということでなければ、単なる安保理入りというふうなことは、言葉だけに終わってしまう。当然のことながら、軍事的行使というふうなもの、これはやりません、あるいは、集団的自衛権というふうなものに参加しません、あくまでも非軍事的な分野で貢献します、これもそれは一つの常任理事国入りの基本的な考え方であるかもしれません。

 しかしながら、状況の変化においては、今我が国において、その国際情勢、特に北朝鮮の問題を抱える中で、国民の間でも、今はやはり日米の安保というものを重視しなきゃならぬということだから、とにかく国連も大事だけれども、日本とアメリカとの関係はこれ以上悪くできないね、こういう世論の考え方にもつながっていると思います。

 すなわち、私が申し上げたいのは、国連というものを重視して、そして、国連をもっともっと機能する、そのために常任理事国入りするんだというふうなことであるならば、国連の象徴的存在であるアナン事務総長が、今回のイラク攻撃に対して、法の支配にとって問題だ、こういうふうに言っている中において、我が国の総理大臣が、いや、それは問題でないんだと言うようなこと、この関係をどう説明するか。私はとてもわかりません。

 そういう意味で、本当に国連の常任理事国入り、また、我が国の憲法と国連憲章の関係というものを考えたときに、我が国が本当に、これからの国際情勢の変化、また、アメリカだってブッシュ大統領からケリー大統領になったときにはもう政策は全く変わってくるわけでありますし、そういう将来を見据えた中で我が国の行動というものをこれから判断していかなきゃなりませんし、また、そういう視点に立っての議論をしていくべきではないか、こういうふうに思います。

保岡委員 山口富男委員からのお話、今同僚の船田委員からちょっと伺って、お答えしたいと思いますが、確かに、非同盟で平和を求める、そういう国が国際的に広がっている、そういう点も踏まえなければならないんじゃないか、日米同盟を強化することだけが安全保障と思えないという、何か基本的なお考えを述べられたんじゃないかと伺いました。

 私は、核の脅威というものがなければ、恐らくそういう選択もある程度可能だと思います。しかし、私は、現に核の脅威というものが、身近な北朝鮮や、最近は韓国でも古い話として話題になっていますが、核の脅威というものを、これを我が国だけで全く対応しないのか。我が国だけで対応するなら、その負担、そしてそれが地域に与えるすさまじいばかりの新たな軍事緊張を呼んでいくんじゃないかというようなことを現実に考えたときに、やはり私は、日米同盟というのは非常に現実的な我が国の安全保障の中心に据える政策だと確信せざるを得ないんです。

 それから、平和貢献の軍事力にしても、私は、先ほど申し上げたような、武力の行使を目的とする集団安全保障措置の前面あるいはその中心に出ていくような国ではないんじゃないかと思っている理由は、やはり我が国が古くから命を慈しんで本当に平和を愛する国柄を持っていると私は思っておりますし、また、さきの大戦の、悲惨な戦争の教訓というものを未来に生かすという国柄がもう一つある、これはもうかねてこの調査会でも強く述べられているところですが。

 この二つのことから、やはり軍事的には抑制的な国としての平和大国の道というものを考える。しかし、先ほど申し上げたように、集団的安全保障措置、国際安全保障措置に参加していく意味でも、我が国の防衛をする意味でも、そこに円滑な防衛や安全保障措置を欠く結果になるようなことについては法的根拠を明確にして、また、我が国の国家権力の行使についてきちっとした管理をする必要があるだろう、そういうふうに考えていることをつけ加えたいと思います。

赤松(正)委員 公明党の赤松正雄です。

 先ほど来の国連の安保理入りのお話で、今、鹿野委員の方からお話がありましたことに刺激を受けまして、少しそのテーマで、若干の私の考え方というか受けとめ方を申し上げたいと思います。

 私は、小泉総理のことを、他党のトップであり、一国の総理大臣のことについてどうこう言うのは避けようかなと思ったんですが、この問題に関しては、私は、明らかに小泉総理のねらいというのは、国内政治の国際化といいますか、要するに日本の事情というものを国際社会の中に反映させるといいますか、あるいは憲法改正の論議のてこにしようとされているんじゃないかと。

 きょうこの場でさまざまな意見が展開をされたということも、一つの大きな小泉総理の発言のいわば影響という部分が多いわけですけれども、そういう観点で、さっき野田委員からもお話ございましたけれども、あるいは鹿野委員から、かつては違った、こうおっしゃったんですが、正直なところ、前からの考えは余り変わっておられないんじゃないかと。この問題を提起することによって、国内政治の国際化、憲法改正に向けての一つの議論のきっかけにしようとされているんじゃないのかな、そんな感じがしてなりません。

 私どもの考え方は、先ほど佐藤委員からもお話ありましたけれども、まず第一に、敵国条項の廃止というものを第一に掲げるべきであるということ、この方を優先させるべきであり、そして日本が、今の日本の国の国柄といいますか国のありようそのままで入るということ、それを強く主張していくということが大事だろう。

 一つ思いますことは、今の常任理事国に日本とかあるいはもう一国がそこに加わっていくという形では、まず一〇〇%違うんだろうと思います。日本の常任理事国入りが仮にもし可能になった場合でも、それは今の非常任理事国ですか、こういったものとあわせた格好でかなりたくさんの数の常任理事国というふうな、今とはおよそ違う形になった状況の中で日本が入るというふうになるんじゃないのかな、そういう部分では可能性はあるのかなという感じがいたしておりますが。

 いずれにしましても、冒頭、小泉首相の本心はわからないわけですけれども、今申し上げたようなことを含めて大いにいろいろな角度から議論をすることは大事である、そんなふうに思う次第でございます。

 以上です。

山口(富)委員 繰り返しの発言になりますが、日本共産党の山口富男です。

 一つは核兵器の問題なんですけれども、私は、これを同盟関係との関係で論ずるのはうまくないと思うんです。国連総会が戦後の第一回の総会決議で上げたのが原子兵器をなくすという問題だったんですけれども、これは、私は、各国の違いを超えて、例えば北東アジアでしたら、非核地帯化にすることも含めまして、核兵器廃絶へのイニシアチブを日本自身が大いにとるべきだ、そういう筋のものだと思うんです。

 それからもう一点、保岡委員は、同盟関係について、日米関係が決定的に重要だというふうに発言されましたが、現実のアメリカがとっている今の道というのは、国連憲章にも反する先制攻撃戦略を公式の外交方針に掲げているわけですね、軍事方針に。そういう国と同盟関係を持っているというのが決定的に重要だという考えに立ちますと、私は、日本の平和にとってそれは決定的に不幸な道に入り込む、そういうものだというふうに私自身は考えております。

長島委員 民主党の長島昭久です。どうぞよろしくお願いいたします。

 今、赤松先生の御意見を拝聴して、触発されて発言をさせていただきます。

 小泉総理が国連安保理の常任理事国入りを国連で表明された、その理由が改憲をしようというところにあるのかないのか私は承知をしておりませんけれども、私は、もともと今の日本国憲法下でも、第七章の強制措置を含む我が国の参加というのは最大限できるだろうというふうに解釈をしておりました。それを阻んできたのは、何を隠そう内閣法制局の第九条に対する誤った憲法解釈だというふうに思っておりました。そういう点で、冒頭で葉梨委員が御指摘になられた、内閣の一部局の局長に憲法解釈をすべてゆだねていいのかという問題意識は相当程度共有させていただいております。

 せっかくの機会ですから、私の憲法解釈を披瀝させていただきますけれども、日本国憲法第九条を読んでみますと、これは、国権の発動としての戦争、そして武力の行使、威嚇を禁じているわけですね。

 先ほど来、国連憲章の二条三項、四項、そして日本国憲法九条の、ほとんどその精神は同じだ、戦争の違法化、そして紛争は平和的に解決すべきだ、そして武力の行使、威嚇はこれを禁ずるという、これはほとんど九条と符合するラインなんですね。その国連憲章が、集団的安全保障の概念に基づいて、侵略したり平和の破壊をした場合においては強制措置を伴う集団的措置を行うということを定めているわけです。

 ですから、今の日本国憲法を読む限りにおいては、国権の発動としての武力の行使は禁じられていますけれども、国連のもとでの集団的な強制措置、国連に指揮権をゆだねた場合においての日本の参加というのは、禁じている日本国憲法の条項は一つもないというのが現状だと思うんです。それを内閣の法制局は、武力の行使という、あるいは武力の威嚇という文言だけ取り出してきて、自衛権の行使であろうが、国連のもとでの集団安全保障の措置であろうが、武力の行使を伴う場合には違憲の疑いがある、こういう解釈をしているんですね。

 私は、この解釈を変更することがまず必要じゃないだろうか、こういう解釈を続けているから、アメリカのパウエル国務長官やあるいはアーミテージ国務副長官に、憲法九条を改正しなかったら国連常任理事国なんて入れないでしょう、こういう内政干渉めいた介入を許してしまっているんだと思うんですね。

 ですから私は、この点をまず、先ほどの葉梨先生の意見に賛同する立場から言わせてもらえれば、常設の憲法委員会というようなものをつくって、しっかりとした日本国としての、つまりは、内閣法制局長一人にゆだねるのではなくて、全国民の代表である国会議員が九条の解釈についてもう一度し直す、そういうことは実は必要なんじゃないだろうかというふうに思っておるところであります。

 以上です。

中山会長 おおよそ多くの議員が、国連憲章と我が国の憲法の関連について極めて有意義な御発言をちょうだいしたことを、調査会長として心からお礼を申し上げたいと思います。

 ややもすれば神学論争で終わっておった問題を、具体的に国家国民の安全保障という観点からどう考えていくのかという議論が国会の場で行われることは、極めて大切なことだと思います。内閣法制局長官の判断で憲法解釈をされるということは、憲法調査会長としても極めて大きな国家的な問題だと考えておりまして、憲法について、ぜひ国会が責任を持って国民の生命と財産の安全を保障するために御議論をいただく、こういう姿勢で今後とも臨んでいただきたいことをお願い申し上げて、閉会のあいさつとさせていただきます。

 ありがとうございました。

 次回は、来る二十八日木曜日午前八時五十分幹事会、午前九時調査会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。

    午後四時二十三分散会


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