衆議院

メインへスキップ



第9号 平成15年3月25日(火曜日)

会議録本文へ
平成十五年三月二十五日(火曜日)
    午前九時開議
 出席委員
   委員長 遠藤 武彦君
   理事 荒井 広幸君 理事 佐藤  勉君
   理事 林  幹雄君 理事 八代 英太君
   理事 安住  淳君 理事 武正 公一君
   理事 桝屋 敬悟君 理事 黄川田 徹君
      浅野 勝人君    伊藤信太郎君
      岩永 峯一君    上川 陽子君
      左藤  章君    佐田玄一郎君
      谷  洋一君    谷本 龍哉君
      野中 広務君    平林 鴻三君
      宮路 和明君   吉田六左エ門君
      渡辺 博道君    荒井  聰君
      伊藤 忠治君    大出  彰君
      玄葉光一郎君    島   聡君
      中沢 健次君    松崎 公昭君
      山田 敏雅君    山元  勉君
      山名 靖英君    山岡 賢次君
      春名 直章君    矢島 恒夫君
      重野 安正君    横光 克彦君
      金子善次郎君    三村 申吾君
    …………………………………
   総務大臣政務官      岩永 峯一君
   総務大臣政務官     吉田六左エ門君
   参考人
   (評論家)        田原総一朗君
   参考人
   (脚本家)        市川 森一君
   参考人
   (上智大学助教授)    音  好宏君
   総務委員会専門員     大久保 晄君
    ―――――――――――――
委員の異動
三月二十五日
 辞任         補欠選任
  滝   実君     渡辺 博道君
同日
 辞任         補欠選任
  渡辺 博道君     滝   実君
    ―――――――――――――
本日の会議に付した案件
 情報通信及び電波に関する件(放送のあり方)


このページのトップに戻る

     ――――◇―――――
遠藤委員長 これより会議を開きます。
 情報通信及び電波に関する件、特に放送のあり方について調査を進めます。
 本日は、参考人として、評論家田原総一朗君、脚本家市川森一君、上智大学助教授音好宏君、以上御三名の方々の御出席をいただいております。
 この際、参考人各位に一言ごあいさつを申し上げます。
 きょうのこの会議は、安住委員の発議、八代英太委員のお肝いりによりまして開催することに至ったものでありまして、むしろ、特定のテーマを持つわけじゃなくて、放送全体についていろいろと議論を交わしたい、ある意味ではフォーラムかシンポジウムのようなものだと思っていただきたいと思います。また、形としては参考人招致という形をとっておりますが、どうぞひとつ、かた苦しい会でなく、何も決議する会ではございませんので、自由な発言、腹蔵なくおっしゃっていただければ大変ありがたいと思います。また、自由質疑という時間も設けてございますので、その節もよろしくお願いします。
 本日は、お忙しいところ御出席いただきまして、まことにありがとうございました。参考人各位におかれましては、それぞれのお立場から忌憚のない御意見を述べていただくようお願い申し上げます。
 次に、議事の順序について申し上げます。
 まず、各参考人の方々からそれぞれ十五分程度御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答えいただきたいと存じます。
 なお、念のため参考人の方々に申し上げますが、御発言の際にはその都度委員長の許可を得て御発言くださるようお願い申し上げます。また、参考人は委員に対し質疑をすることはできないことになっておりますので、よろしくお願い申し上げます。
 御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、田原参考人、お願いいたします。
田原参考人 今紹介いただきました田原総一朗です。
 こんなことを最初に言うのはあれですが、そもそも何のために来たのかよくわかっていない、どういう話をすればいいのかもよくわかっていないので、ちょっと困っているところなんですが。
 民主党の人が来ていないということは、関心がないということなんですね。まあそれはどうでもいいでしょうけれども。
 テレビ全体のことを私はとてもしゃべる立場ではないので、私が一体何をやろうとしているのか、そして私から見て、つまり、政治家の人たちがどう見えるかという話を少ししたいと思います。
 私は、日曜日の午前中の「サンデープロジェクト」という番組と、月に一回、最終金曜日の深夜に「朝まで生テレビ!」、この二本をやっております。二本の番組とも共通しているんですが、ともかく今の日本の政治そして経済の状態をできるだけわかりやすく視聴者に伝えたい、これが私の番組のねらいです。
 ところで、政治家の人たちがテレビというものに関心を持たれたのはごく最近のことだと私は見ています。長い間、テレビメディアは、政治家にとっては、多分スポーツとエンターテインメントのメディアだというふうに考えてこられたと思います。
 私がやっています体験でいきますと、政治家がテレビというものを意識したのは、高度成長が終わったときからだと思っています。高度成長の時代までは、政治家はテレビに出て、平和とか民主主義と言っていればよかったわけでして、ほとんど何も言うことがなかったと思います。
 なぜならば、特に自民党、権力政党の政治家にとっては、要するに、高度成長の時代には、国民には成長の配当を配ることだ、地域に道路をつくる、あるいは工場を持ってくる、いろいろなものを持ってくる、しかも減税であり、それから福祉は拡充するということで、つまり国民に向かって与えるものだ、プレゼント、言ってみれば、政治家はサンタクロースだったと思います。サンタクロースも、赤いサンタクロースもいれば黒いサンタクロースもいて、その辺はいろいろあると思いますけれども、サンタクロースの役割だった。このときにはテレビと政治はほとんど関係なかったと思います。
 政治家が初めてテレビというものに関心を持たざるを得なかったのは、やはり高度成長が終わってからだと思います。高度成長が終わると、サンタクロース型の政治ではなくて、国民にお願いして、説得して納得してもらわなきゃいけない。なぜならば、例えば、税金でいえば増税になるし、福祉は削減ですね、切り下げになるし、いろいろ国民にお願いしなきゃいけないことがたくさん出てきた。ここが政治家がいや応なくメディアというものに、特にテレビというものに関心を持たざるを得なくなった。今でも、正直言って、政治家はテレビへの関心が非常に鈍いと私は思っていますが、それはともかくとして。
 そういう問題と、もう一つは、湾岸戦争が起きて国際貢献ということを考えなきゃいけなくなった。この国際貢献は、金と同時に人的協力・貢献も必要になると。
 あの湾岸戦争のときに、アメリカで日本のことをNATOというふうに呼ばれていました。御存じだと思います。NATOというのは、ノー・アクション・トークン・オンリーという、つまりNATOですね。このトークンというのはいろいろな意味がありまして、しゃべるという意味もあるんですが、ニューヨークの地下鉄に乗る小銭のことをトークンと言うんですね。だから、ちょっと金出した、ちょっとじゃないんですよ、百三十億出したんですけれども、要するに、しゃべっているだけで、小銭を出しただけであって人的貢献をしていない、こういうものが出てきた。
 増税、福祉のカット、それから国際貢献というようなことが出てきまして、政治家は初めて国民に説明し説得をしなきゃいけなくなった。これが私は、政治家がテレビというものに関心を持たざるを得なくなったきっかけだと思います。
 つまり、今はやりの言葉で言えば、アカウンタビリティーというのが必要になってきた、説明責任がですね。その場合、テレビは新聞メディア、活字メディアというものと全く違います。なぜならば、新聞、活字メディアは文字で表現するからです。声が大きくても小さくても、全部文字の大きさは同じなんですね。ところが、テレビはそれに対して、全表現能力を総動員することができる。声を大きくする、顔が真っ赤になる、ジェスチャー、いろいろなものがあります。時には殴ったりもしますけれども。そういうあらゆる表現手段を使うことができる。そういう意味では、国民に対しても説得しやすい、あるいは国民にわかってもらえる、こう思います。
 私自身が政治とテレビについて考えさせられた最初は、竹下登さんという人がいました。もう御存じではない方が多いと思いますけれども、かつて首相だったんですが、この竹下さんが消費税の導入をしようとした。時の官房長官だった小渕さんが、これは国民の八〇%が消費税の導入に反対だった、こういう場合、一体どうすればいいんだろうかという相談をある勉強会で私にされましたので、それはテレビで、竹下さんという人は大勢の人に講演するのは大してうまくないけれども、二、三十人の人にしゃべるのは、そういう話術はうまいから、テレビで消費税導入に反対の人十人ないし二十人ぐらいを前にして竹下さんが説得していく、それをそのまま生で中継したらどうかということを進言しました。
 実は、小渕さんは大乗りになって、竹下さんも大乗りになりました。ところが、これは実現しませんでした。私の番組でと言っているんじゃなくて、NHKでも何でもいいからテレビでやれと、実現しませんでした。どうして実現しなかったんだと聞いたら、大蔵省が大反対したと。国民になんて本当のことをしゃべったらとんでもないことになっちゃう、これはやはり国民には本当のことはしゃべらない、こんな大事な消費税なんということをしゃべっちゃだめだと言われて、つまり、総理大臣も官房長官も実現できなかった。これは、竹下さんも小渕さんも後で私に言っていますから、事実だと思います。
 実は、こういう国民に向かって説得して国民を納得させなきゃいけない場面がその後どんどん出てきます。出てくるけれども、政治家はほとんど失敗しています。
 その次に私が覚えていますのは、政治改革というものなんですね。結局、細川内閣ができるきっかけなんですが、ところが、政治改革とは何かということを、やっている人たちもほとんど理解していませんでした。余計なことですけれども。私は、当時の総理大臣の宮澤さんに、政治改革って何なんだねと、こうちょっと突っ込み過ぎて、結局、宮澤さんはそれで内閣終わっちゃったんですが、こういう問題とか。
 それから、橋本内閣のときの財政再建ということがありました。これもやはり、テレビでやるべきだやるべきだと私は何度も言ったんですが、結局、大蔵省が大反対して、テレビでそういうことを橋本さんが出てきてやるということはできませんでした。
 それから、今度の小泉さんの問題です。私は、日本がアメリカのイラク攻撃を支持した、そのことについてはここでは論議しませんけれども、少なくとも小泉さんは、なぜ支持するのかということをできる限り何でも国民に説明すべきだった。例えばイギリスのブレア首相、これはもちろんアメリカと一緒に戦っているわけですけれども、ブレアさんは、これを決意するまでに何度も国民に、テレビでタウンミーティングみたいなことをやったり、必死にしゃべっています。ブッシュさんもそれなりに必死にしゃべっている。あるいはシラクさんも。
 その中で、小泉さんはただの一度も国民に向かって話をしなかった。つまり、決まってからやっと記者会見。この記者会見は私はマスコミもけしからぬと思っているんですが、あの記者会見について、小泉さんがしゃべった、それについて質問をろくにしなかった。NHKとそれから西日本放送と日本テレビ、これも一回ずつ、二の矢、三の矢を全く継がない。どうしてああいうくだらない、なれ合い、談合の記者会見をやったんだと聞いたら、時間がなかったものでと。まあ余計なことですが。
 要するに、これは政治家、与党の政治家も野党の政治家も、そしてマスコミも含めて、どうも、国民に本当のことを知らせる、知らせなきゃいけない、わかってもらわなきゃいけないという態度が基本的に欠落している。私は実際にテレビの場にいまして、そういうことを痛感します。
 今で何分ですか。
遠藤委員長 どうぞ、後で紙を差し上げます、五分ぐらい前に。
田原参考人 わかりました。残り時間五分ですね。つまり、テレビというのは、国民に最もわかりやすく説明できるところでして、もっと政治家からすればテレビメディアを使うべきだし、ただし、それは宣伝ではなくて、こちらからいえば、政治家がごまかしている、あるいは本当のことを言わないというときは、いかに本音を探り出すかということだと思います。
 具体的に言いますと、この間、私は一月にイラクに行きまして、ラマダンという副大統領とインタビューしました。一時間半やりました。途中で、私が余り厳しいことを聞くので、ラマダンが怒り出した。つまり、あなたはいろいろ言っているけれども、結局はフセインのスポークマシンだろう、フセインに言われたとおり言っているにすぎないだろうと言ったら、彼は怒ってがっときて、立ち上がった。彼はけん銃を持っていますから、私は、追い出されるのか、捕まるのか、殺されるのかと本当に思いました。
 でも、私は構わずに、そんなことで怒るとは何だ、あなたの国は世界じゅうから疑われているんだぞ、私ごときのインタビューに怒るということは、つまり、隠しているんだねと。あなたが私を殺してもいいけれども、そうしたら隠しているのを世界じゅうからむしろますます疑われるぞと言ったら、ラマダンは、わかった、何でも聞いてくれとなりまして、その後もいろいろ聞きましたけれども、こういう、これほど覚悟を決めた日本の政治家に私は出会ったことがない。これは特に政権与党の方がひどいんですけれども。ともかく、何とか国民から逃げようとしている、こういうことをとても感じまして、そのことが国民にとって不信感。
 私は、はっきり言って、今度の問題で小泉政権が、小泉さんがアメリカを支持したということは、それなりにわからないではないんですよね。ところが、小泉さんは、一度も国民に向かって真剣に、我々はこうしなきゃならないんだという説明をしていない、途中でも。あんな形式的な、談合のような記者会見、一回しかやっていない。これは大いに不満です。
 野党にも言いたいんです。深夜の国会討論会、何度も見ました。実にくだらない質問で、あんなこと今やるべきことかと。もう始まる前から、始まっても、今も同じことを聞いている。やはり国民は、そんなんじゃないぞ、今聞いてほしいものは。そういう国民の気持ちをどうもわかっていない、そういう気がとてもしております。
 以上です。(拍手)
遠藤委員長 ありがとうございました。
 次に、市川参考人、お願いいたします。
市川参考人 田原さんのお話は、議員の皆様には極めて直結したお話だろうと思いますけれども、私はテレビドラマのシナリオライターの立場での話でございますので、どうぞお気軽な気分でお耳をおかしいただければと思います。
 テレビが生まれましてちょうど五十年がたちました。こういう節目の年に、もう一度、テレビ文化とは何か、こういうようなことを議員の皆様にこういう形で総括をしていただくということは、私どもにとりましては非常にありがたいことだし、テレビ文化と言われるこの社会全体にとっても重要なことではないかというふうに思います。
 私は、テレビにかかわりましてから三十七年、この業界で禄をはんでまいりましたけれども、その立場はテレビライターという立場でございますので、テレビ全体を語ることは毛頭できません。本当にマンモスのつめの先ほどのところで生きてきた、その範囲のことを皆様に語らせていただくということを御了承を得たいと思います。
 三十七年テレビにおりますと、大体テレビの創成期からかかわってきたことになります。振り返ってみますと、やはり高度成長とともに活況を呈しました創成期、これは六〇年代ということになりますけれども、六〇年代から七〇年代の中盤、そして八〇年代に入りますと、何となくテレビが制度疲労を起こしているのではないかというような諸問題がいろいろ出てまいりました。そして、恐らくその打開策というようなことも含めてでございましょうけれども、ハード面では、多チャンネル化そしてデジタル化というような方向に向かい、組織的には、制作現場を切り離していくというような分散化、多極化の方向へ九〇年代以降は向かっているように思われます。
 一口に申しますと、当初はいわゆる制作中心、いわゆる現場中心から、編成、営業、デスク中心へその司令といいますか、中心が移行していったように思います。
 その制作現場というのも、初めは、つまり六〇年代から七〇年代は、ディレクター中心の時代と俗に言われている時代でございました。テレビがとにかく右も左もわからないところからいきなりスタートして、やはりどういうものをつくればいいかというときに、その最前線にいるディレクターが中心になって物をつくらなければならなかったということは当然のことだったろうと思います。そういう中で、私どもドラマの世界では、和田勉とか、「私は貝になりたい」というようなものをつくりました岡本愛彦さんとか、「マンモス・タワー」というような当初の名作をつくりました、初代テレパック社長の石川甫さんとかというような有名ディレクターが続々と出てきた時代でもございました。
 その次、七〇年代中盤から以降、短い期間ではございましたけれども、脚本家の時代と言われる時代がございました。御存じかと思いますが、亡き向田邦子、倉本聰、山田太一、早坂暁というような名立たる脚本家が活躍をしましたのは、主にこの時代でございました。近年、NHKでは、テレビ五十周年を記念した番組が多く放映をされておりましたけれども、その中で、この五十年の代表的なテレビドラマというようなものがNHKを中心に紹介をされましたが、それらの作品は、ほとんどが、この脚本家の時代と言われていた時代に生まれた作品ばかりに集中をしているということも一つ特徴的なことでございました。
 脚本家の時代が終わりまして、少しすべてが秩序化されていく、あるいは管理化が強くなってまいりますと、プロデューサーの時代というような時代が参りました。そして、それを経て瞬く間に、つまり、テレビ局が制作の現場を、効率化も含めてでしょうけれども切り離していく。民放ではTBSなどが率先してそれをやっておりますけれども、制作というのは、スタートのときにはまさにテレビ局の中心であったはずのものでございますけれども、これが九〇年代以降になりますと切り離されていく。
 そして、テレビ局そのものは、編成を中心にした、本当に参謀本部とでも呼べるようなものだけが残って、制作は、第一制作、第二制作、第三制作というようなものが、それぞれのTBS何々プロダクションというような、名前を変えて切り離されていく。そして、プロデューサーというのはそういうところに配属をされる。そしてかつ、それぞれの制作が、さらに町場のドラマの制作プロダクションに下請を出していく、下請のまたさらに下請が出されていくというような状況が生まれております。
 こういうふうに、司令と制作というようなものが今のようにばらばらな形になりますと、一本のドラマをつくるコンセプトというものも極めてあいまいなものになってしまうのは当然のことだろうと思います。
 つまり、いいドラマだの内容がどうだのというようなことが、こういうばらばらな系統の中で、統一的なテーマ性というようなものを語ってそれが統一できるわけではなく、それをまとめるには、一番簡単な、つまり数字が便利なのでございまして、視聴率をとれというようなことが発せられますと、それは一遍に末端まで浸透いたします。そして、一本のドラマをつくるそのスタッフたちは必ずしもドラマティストばかりではなく、ドラマのことは全くわからない人たちでも、視聴率をとりなさいというような指令は極めて簡単に言えることでありますし、そういう一言でドラマづくりに参加ができるというようなことでドラマがつくられているということは事実でございます。
 結果として、その全体のコンセプトというものは、内容を離れたところで、共通目標として、数字をとれ、視聴率をとろうということでどのドラマも制作に向かってまいりました。
 そうしますと、視聴率をとるにはどうすればいいのかというようなことは、あらゆるデータがありますが、すべての統一したデータが語るところでは、やはり人気タレントをつかまえれば視聴率がとれる。キムタクと松嶋菜々子なら間違いなく、どんな内容も問わない、キムタクが出るのならもうそれでゴーだというようなことが現状でございます。
 そうしますと、ディレクターの時代、脚本家の時代、プロデューサーの時代を経て、今は、では職業でいうと何の時代かといいますと、芸能プロダクションの時代というようなことも言われております。つまり、人気タレントを抱えているプロダクションが一番主導権と発言力を持っているというような中でドラマがつくられております。
 その結果、人気タレントに頼った連続ドラマが、去年、二〇〇二年は百六十シリーズつくられました。単発ドラマ四百八十本は非常に多い数だろうと思いますけれども、驚くべきことは、この大半がサスペンスドラマ。かつての山田太一や早坂暁の「夢千代日記」というようなドラマは影を潜めてしまいました。そのほとんどがサスペンスのドラマ。人間性の、愛とか真実とかというようなものを追求するのではなくて、滑った、転んだ、だれが犯人かというようなドラマが主流というよりも、ほとんど全部と言ってもいいくらいの驚くべき状況を呈しております。
 そういうドラマ群というのは、では一体どのくらいの制作費でつくられているかといいますと、単発ドラマといいますと、大方がサスペンスドラマ、二時間、ゴールデンタイム、八時、九時、十時というような非常に放送料の高い時間帯の中では、約五千万円の制作費が平均とされております。
 私どもが一番関心がありますのは脚本料ということになります。制作費の内訳もございますが、あと五分でございますので、もう手短に申し上げます。脚本料が、二時間で七十万円から、一番高いところで四百万円でございます。これは、欧米の脚本料というのは制作費の約一割と言われる状況の中では、極めて低い査定がされていると言ってもよかろうと思います。しかも、その一本四百万円を取る作家は十指おりません、十人おりません。
 御承知のとおり、不況によって制作費はこの二十年間ダウンの一途をたどっております。今、ライターの数は約千人おりますけれども、そのうち、去年連続ドラマを担当した脚本家は八十五名にすぎません。四百万円の作家たちというのは、ほとんど仕事がございません。多くは、使い勝手のいい、ランクの安い脚本家がどんどん起用されては使い捨てにされていくというような状況でございます。つまり、シナリオライターとしても、特に人間を描けているなどという作家はかえって邪魔でございまして、恋愛ドラマとサスペンスドラマを器用に書けるライターであれば、一番そういうライターが重用されるというのが悲しいかな現状でございます。
 テレビドラマは社会全体のニーズにこたえているかといいますと、これもノーでございます。視聴率競争の中で多くの視聴者そのものも切り捨てられて、恋愛ドラマとサスペンスドラマに偏っているという現状でございます。本来は、社会はもっと価値観の多様な中にあるわけですけれども、そこに合わせた、百花繚乱のいろいろなジャンルのドラマがそこにあるという姿が最も健全な状況ではないかと思うんですけれども、そういう状況とはほど遠い実情が現実はございます。
 私どもが抱えております問題は、ドラマづくりに必要な中心が喪失をされている。つまり、だれも決定権を持たなくなってしまっている。第二に、ランニングコストに追われる制作現場の中で、有能なライターがほとんど仕事を失っている。そういう状況の中で、私ども日本放送作家協会は、放送作家の社会的地位の向上というものをここ三十年間叫び続けておりますけれども、それもほとんど、実情はドン・キホーテ的な妄想というような認識をされております。
 もし、テレビドラマも映画、演劇同様の文化芸術としてお認めいただけますなら、具体案を私どもは提示しているんです。さまざまな具体案がありますが、もう時間もありませんので、一言だけ提案というか、この場をかりてお願いをさせていただきたいんです。
 私ども放送作家は、シナリオ、放送台本の資料館が欲しいんです。つまり、シナリオライブラリーというようなものがぜひ欲しいんです。これは欧米にもございます。この東京には、これだけテレビ文化と言われる中で、テレビ台本、シナリオのライブラリーが全くないということは本当に悲しい状況でございます。何とかシナリオライブラリーというものを東京のどこにでもいいからつくっていただきたい。
 現状はどうかといいますと、本当にすべてのドラマが電波の藻くずと消えております。そして、台本だけがそのよすがとして残るわけなんですけれども、それも、作家それぞれの個人の所有としてしか残っておりません。その作家が亡くなりますと、それもまた捨てられてしまう。有能な作家たちがどんどん死んでいく中で、私たちは、奥さん、遺族に頼んでその脚本をお預かりして私どもの協会の倉庫にためておりますけれども、とにかく、ほっておきますとなくなってしまいます。しかし、それももう、今は倉庫いっぱいで行き場がない状況でございます。
 これを何とか、テレビをもし文化というふうに認めるならば、つまり、現場は一過性のものでもいいんですけれども、やはり、その質の向上とか、それを系統立てて研究していく、過去はどんなものがあったのかというようなものを系統立てていく、音先生みたいな方には絶対必要なそういう資料館としても、私どもは、シナリオそして放送台本というようなものの保管をしていく、そういう手だてを何かお考えいただければ大変ありがたいことだと思います。
 申し上げたいことはまだほかにもたくさんあったんですけれども、時間切れでございますので、そのことだけをお願いして、終わらせていただきます。
 ありがとうございました。(拍手)
遠藤委員長 ありがとうございました。
 次に、音参考人、お願いいたします。
音参考人 上智大学の音好宏と申します。よろしくお願いいたします。
 本日、参考人としてお招きいただくに当たりまして、事務局の方からいただいたお話では、テレビ五十年の節目を迎えて、日本の放送に関して考えていることを述べるようにということでございましたので、私は、大学に籍を置くメディアの研究者として、日本の放送に関して幾つか考えていることを述べさせていただければと思います。
 最初、やや大学の授業風な言い方になってしまうんですけれども、メディア研究において、メディアの社会的機能としてしばしば指摘されることとして三つございます。最初に申し上げますと、英語なのですけれども、ティーチャー、フォーラム、ウオッチドッグという三つの言葉です。
 このティーチャーというのは、同じ社会に住む者として必要な情報を的確に伝えていくこと、まあ歴史も含めてでございますけれども。
 それから二つ目、フォーラムといいますのが、私たちの社会にあるさまざまな意見、問題というものを共有し、議論をする場というもの、それがフォーラムという機能でございます。
 それから三点目、ウオッチドッグ、これはしばしば言われるところですけれども、権力を含めた社会の環境監視でございます。
 この三つの機能というのが、特に政治学に近いコミュニケーション研究の研究者たちから、メディアの社会的機能というふうにして言われてきたものでございます。
 もちろん、これらのメディアの社会的機能が活発に働くことによって目指されるものというのは、民主主義社会の健全なる発展でございます。つまり、メディアの発展、メディアが活発に活動をするということは、民主主義社会というものが発展することとイコールなのであるという考え方でございます。
 研究者によりましては、メディアの社会的機能として、もう一つ挙げる方もいらっしゃいます。エンターテインメントでございます。それで、ややこのエンターテインメントの部分が非常に強く出ているのではないのかというような指摘、批判ももちろんございます。
 テレビ五十年の節目を迎えて、では、このメディアの社会的機能というものがこの五十年の中で十分に果たされてきたのかどうなのかということを振り返って考えることが、実は今問われていることなのではないのかなというふうに私自身思います。
 別な言い方をいたしますと、ことしの年末から、東京、大阪、名古屋の三地区におきまして、地上デジタル放送が日本においても始まります。この地上放送のデジタル化というのを契機に、既存の放送事業の存立の枠組みを見直さざるを得ない状況があるというふうにいろいろなところで言われております。
 ということは、放送のデジタル化というのは、日本の放送サービスにとって大きな節目であるわけですから、だからこそ、この五十年間に、言うなれば、テレビ放送が何を求められて、何を果たすことができたのか、何を果たすことができなかったのかという、ある種の通信簿を採点する必要があるのではないのかというふうに私自身は考えております。
 では、私自身はどう考えているのかということなんですけれども、それでは、これまでのこの五十年の日本のテレビというのはどういうふうに発展してきたのかといいますと、多くのメディアの利用者に支持をされ、比較的安定的に右肩上がりの成長をしてきた事業であるというふうに思います。テレビは最も接触率の高い身近なメディアとして私たちの生活の中に定着をしております。
 このような発展を支えましたのは、戦後の日本の放送制度の一つの特色でありますNHKと民間放送の併存体制というものがよかったのではないのかなというふうに、ある部分評価できるかと思います。つまり、異なる二つの放送システムというものがバランスよく併存することで、効率的な発展を遂げたのではないのかというふうに思います。
 現在、先進諸国では、公共放送と商業放送が併存しているところが多いわけですけれども、そのバランスは日本とはいささか異なります。例えば、アメリカにおきましては、商業放送が放送サービスの中心であり続けております。また、西ヨーロッパの先進諸国におきましては、公共放送がそのサービスの中心で、後発として商業放送が入ってきたというような状況でございます。つまり、日本のNHKと民放のバランスというものは、世界的に見ても、ある種特色のあるものだというふうに見ることができると思います。
 さて、NHKと民間放送の比較で言いますと、NHKは、受信料に基づき全国にあまねく放送サービスを提供する公共放送として、放送サービスをリードしその普及発展に努めてきました。他方、地上民間放送に関しましては、広告収入をその財源とする広告放送として、戦後の日本の経済成長を追い風にして発展をしてきたわけです。その地上民放は、チャンネルプランによりまして、県域を単位として免許が与えられ、地域のメディアとして活躍することが期待されてきました。ただし、民間放送に関しましては、これは、一番最初の歴史をさかのぼりますと、ニュース協定を軸にして始まったネットワークを構築することによって効率的な発展を遂げてきたというふうに見ることができると思います。
 このネットワークを構築したことは日本のテレビ放送の発展に寄与したわけですが、他方におきまして、地域のメディアとしての役割というのをどちらかというと後ろに置いてきた部分があったのではないのかというふうに私は感じます。
 テレビ放送といいますのは、先ほどの田原さんのお話とも重なるんですけれども、みずからの姿やみずからの住む社会というものを可視化する、目に見えるようにする、その総体、実態というものを非常にわかりやすく見ることができる、そういう装置として有効に機能してきたと考えることができると思います。とすると、戦後の日本のテレビ放送は、その発展の仕方からしましても、東京を中心とした情報を再生産する装置としてより強く機能してきた側面があったことは否めません。戦後日本の社会構造の問題として、東京への一極集中はしばしば指摘されてきておりますけれども、その原因の一端として、テレビ放送における東京集中型の情報発信システムという問題は指摘できるのではないのかなというふうに思います。
 ちなみに、私、しばしば米国に調査に出かけることがあるんですけれども、その米国におきましては、ABC、CBS、NBC、FOXなどという四大ネットワークというものがございます。これらのネットワークは制度的に規定をされておりますし、その制度の中で制限もなされております。日本におきましては、自然発生的に成立をしたもので、ネットワークに関しての制度的な規定はございません。したがって、民放に五つのネットワークというのがありますけれども、その性格は微妙に異なる部分ももちろんございます。
 米国の場合も、先ほど述べました四大ネットワーク、特に先発のABC、CBS、NBCといったネットワークが牽引となってテレビ放送を発展させていきましたが、このネットワークへの集中を抑制し、多様な放送サービスを発展させるさまざまな方策というものがなされてまいりました。
 特に地域ということで申し上げますと、例えばでございますが、一九七〇年代から約二十年間にわたり、プライムタイム・アクセスルールという規定を設けて、プライムタイムの時間、プライムタイムというのは夜の七時から十一時のテレビ視聴が最も多い時間でございますけれども、そのうちの一時間はネットワークの番組をやめるようにという規定がございました。これによって、その加盟局、地方の放送局は、プライムタイムに自分の自主制作番組、つまり地元の番組を用意するか、または、シンジケーションといいまして別なところから番組を調達してくる、ネットワークとは違う番組を調達してくるというようなことをいたしました。それによって番組流通市場も成立、発展をいたしましたし、もう片方で地域のニュースというものをより重視するというようなことになりました。
 ちなみに、米国のことをもう少しだけ申し上げさせていただきますと、米国の放送政策の基本的なスタンスというのを、アメリカの教科書を読んでみて出てきますのは、それを示すキーワードが三つございます。一つは公共の利益ということです。二つ目は競争ということです。三点目は地域主義ということです。
 放送事業が公共の利益に即した活動をすることはもちろんでございますけれども、その放送事業者同士が競争することによって健全な発展を促すというのが、二つ目のキーワードの競争でございます。それとともに、地域主義、放送サービスが地域性を重視することというのを明確にうたっているところも注目すべきところだというふうに思います。
 つまり、アメリカのような、極めて市場競争というものを重視する、事業者間の単純な市場競争というものを片方で重視しますけれども、もう片方で、その場合、ネットワークを中心とした効率的な番組流通が市場を覆ってしまうことになるという危惧も十分あるわけで、それに対してさまざまな政策的な方策がなされてきたというふうに見ることができるかと思います。
 ただ、もう片方におきまして、日本の民間放送はどうかといいますと、日本の地方の民間放送を考えてみますと、米国に比べてみても、その事業性を度外視した、公共性を重視した事業展開を図ってきたこともまた確かでございます。
 例えばその一つの例が、アメリカの放送事業者とは決定的に違うところは、中継局をたくさん置きまして、そのエリアの中での放送サービスというのを非常に苦労してなさってきたというところがございます。アメリカの場合は、その部分をケーブルテレビが担ってきたという部分がございます。アメリカのケーブルテレビは六〇%以上の普及というふうに今なっております。ただし、アメリカの地方の放送局を見てみますと、地元のニュースを非常に積極的に放送をし、それがその放送局の看板になり、また、非常に重要な収入源になっているというのもたくさんあるわけです。
 今、日本の地上放送のデジタル化というものが進められようとしておりますけれども、そのときしばしば言われますのは、地方の放送事業者の経営が非常に厳しい状況に置かれるであろうということが指摘をされております。
 地域の放送は、地域の文化を可視化する装置でございます。つまり、先ほどは、日本というものが可視化をされる装置としてこの五十年発展をしてきたということを申し上げましたけれども、もう片方で、地域のそれぞれの顔、多様な顔というものを確認する装置として地域の放送事業というものがあるのではないのか。とすると、この五十年の中でもう一度その部分を再検討し、今後の五十年につなげる必要があるのではないのかというふうに思います。
 広島の中国放送の金井社長さんという方が、情報の地方分権ということをおっしゃっております。極めて示唆的な言葉なのではないのかというふうに私は思っております。つまり、地方に情報が分権されることが、豊かな社会、日本の豊かさをつくっていく、それが必須条件なんだということを述べております。まさにそのようなシステムづくりがこの五十年目の節目というふうに考えられるのではないのかなというふうに思います。
 実は、先週まで私、同様にアメリカに調査に行っておったんですけれども、そのときに、アメリカの幾つかのアーカイブを調査いたしました。先ほどの市川先生のお話と非常に重なるところなのでございますが、アメリカにおきましては、放送というものを自分たちの文化的な資産だというふうに考え、自分たちが放送してきたものというものをいろいろな形でアーカイブに保存するということを一生懸命やっております。日本と比較をいたしましても相当そこに力を入れているということがございます。
 もちろんのことですけれども、それはナショナルアーカイブというような形で全国的なレベルでのアーカイブということもやっておりますし、先週一番最後に私もお邪魔をしたのはニューヨークでございましたけれども、例えばニューヨーク大学やニューヨーク・パブリックライブラリーというような、その地域にある図書館や大学が地元の放送サービスを保存していくということをやっております。
 つまり、放送は文化であるという考え方を非常にはっきり持っている。それから、自分たちの姿というものを確認するものなのだというふうに、はっきり文化政策として考えていらっしゃる。そこに非常にお金をかけてそういうものを守っていこう、そして、それを再生産、発展をさせていこうということをやっているわけです。この五十年という節目の中で、自分たちがつくってきたものというものをどういうふうに考えていくのかということをもう一度考え、評価をし、整理をする、そういうことが必要なのではないのかなというふうに思います。
 それから、あと一点だけ申し上げさせていただこうかと思っております。それは、地上放送のデジタル化ということを一番最初に申し上げましたので、そのことについてのコメントでございます。
 恐らく、この年末から地上放送のデジタル化というものが進むに当たりまして、日本の社会を私なりに拝見をしておりますと、私のようなメディア研究者や放送事業者や行政の関係者の方々は非常に御努力をされていらっしゃる、メーカーの方々等御努力をされていますけれども、実際の利用者の方々がそれをどこまで理解されているのかということを考えてみますと、まだまだ周知されていない部分が非常に多いのではないのかというふうに思います。
 まさにデジタル化というのは世界的な大きな流れであることは明らかなわけですが、一方で、これまでの放送サービスのあり方というものを再検討し、その中で今後の五十年を考えるとともに、もう片方で、これからのデジタルというものを考えるのであれば、広く理解を浸透させていく、そういう政策をする必要があるのではないのかなというふうに思います。
 ちょうど五分になりましたので、ここまでで終わらせていただきます。ありがとうございました。(拍手)
遠藤委員長 ありがとうございました。
 以上で参考人の方々の意見の開陳は終わりました。
    ―――――――――――――
遠藤委員長 これより参考人の方々に対する質疑に入ります。
 質疑につきましては、理事会の協議により、まず、各会派を代表する委員が順次質疑を行い、その後、各委員が自由に質疑を行うことといたします。
 なお、御発言は着席のままで結構であります。
 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。八代英太君。
八代委員 三先生、きょうはどうもお忙しいところありがとうございました。
 きょうは、テレビ放送が始まって五十年という節目で、この総務委員会、先般もNHK予算、六千七百億円という莫大な予算の審議を終えたところでもございまして、この際、テレビというものが、まさに昨今は生活のすべてになっている、あるいは、政治のすべてが暮らし、暮らしのすべてが政治ということになりますと、何となく今のメディア的政治という流れというものも、いろいろな意味で、皆さんのお話を聞きながら、我々自身も反省をしながら、また、これから新しい時代のメディアとともに生きる暮らしということを考えましても、また、そこにテレビの持つ意味合いというものも大変重要な存在であるということの観点から、三人の先生方のお話を先ほど来伺ったところでございます。
 私も放送局に勤めたことがありますし、民主党の安住さんもそうだし、きょう浅野さんもいらっしゃるし、そういう意味では、割合メディアから政治へ転出するということを考えましても、私は、むしろ語る側の仕事をしていたものですから、政治も語ることと同じだ、言ってみれば、タレントも政治家もそう変わったことではない、みずからの表現力である、表現力が中身がなければ、それはそれで捨てられていくわけでありますけれども、そんな思いを感じております。
 しかし、私も、ちょうど昭和三十一年、放送局に入ったときには初任給が四千五百円でございました。昭和二十八年にテレビが放送されて、あのころは一台が十五万ぐらいですから、三年の年収分が一台のテレビの受像機の額だったというふうに思いますと、今はもう秋葉原へ行くと一万円のテレビもあります。
 そんなことを考えますと、いかにこのテレビというものが日本の経済の中においても大きなウエートを占めてきたかということを思いますと、ますますこれから政治もテレビ向け的な発想で動いていくような気配も感じますし、そこにまたテレビ局の責任というものも大変大きなものになっていく。時には世論をテレビ局の考え方によって誘導されていく、第四権力なんということを言う人もいるわけでございます。
 そこで、三人の先生にそれぞれの視点に立って伺いたいんですが、今ちょうどイラク戦争をしておりまして、この間、CNNを見ておりましたら、最前線も最前線にレポーターがいて、目の前の射撃を実況しているわけですね。そこまでもテレビが入っていく時代なのかという驚異というか驚きと同時に、また一方では、つい先ごろまでの北朝鮮フィーバーとでもいいましょうか、北朝鮮のことを各局が同じように、同じ流れで北朝鮮の問題を放送している。今度は、今はイラクの問題で、北朝鮮の問題を取り上げるテレビ局は全くなくなってしまう。
 こういうふうに、テレビ局の心の移り変わりというか、その時々の一つの現象に対しての報道ということだから無理はないにいたしましても、一つの流れに沿ったときには、すべてが、みんなで渡れば怖くないじゃないけれども、一斉に各局が同じ方向に走っていく気配を、私は、時としては、驚きと同時に恐ろしさも一方では感ずるわけです。
 そういう意味では、特に政治も、ワイドショー政治とかメディア政治とかと言われる中で、特に田原さんなんかのあの「サンデープロジェクト」というのは、まさに政治家はあの番組を見ずして選挙活動はできないぐらいに、今大きなウエートを占めていると思うんです。ですから、その司会をされている田原さんは割合公平な立場ですけれども、あとの司会者のいろいろな番組を見ましても、政治に触れるときには必ず司会者の主観というものが、つまり、視聴者を私の考え方に流していきたいという意図が見えるというものが非常にあって、そこがまた、その会をつかさどる人の責任というものも非常に大きいんです。
 その辺のいろいろな、レポーターも初め、司会者も含め、そうした政治番組をつかさどる立場から、田原さんは、今のワイドショーが非常にメディア政治、特に政治家のことをたたくことに喜びを感ずるような風潮も非常に多いわけなんですが、その辺はどんなふうに考えておられるか、まず田原さんに伺いたいと思います。
    〔委員長退席、佐藤(勉)委員長代理着席〕
田原参考人 まず、メディアの第一の役割は、権力ウオッチャーだと思います。つまり、政府が何をやっているかということを監視して、それに対して間違っていることは間違っていると言うこと、これがまず大きいと思います。だから、権力に対して厳しいのは、これは当然であると思います。
 もう一つ、イラクと北朝鮮の問題で私が非常に不満を持っているのは、特にイラクの問題について。日本の、これは小泉さんを初め政府も自民党も、それから野党も、何か主体性がない。私からいえば、観客席の議論を言う、こういう不満がとてもあります。観客席で一体いいのかということをもっと言いたい。さっきも言いました、小泉さんがなぜもっと、この支持を表明するまでに国民に向かって直接、こうしなきゃいけない、これしかないんだということを言わなかったのか。そういう何か、ブレアさんやなんかに比べて感じ取れない、これが一つ。
 もう一つ、こういう場だから言います。北朝鮮の問題で、政府・自民党の態度が極めてあいまいである。これは野中さんもいらっしゃるので、ぜひこれは、お聞きするといけないので、私が言いたいんですが。少なくとも私が取材をしている限りでは、これはかなり正確な取材だと思いますけれども、北朝鮮から五人が帰ってきた、あれは、外務省は、一時帰国だったはずです。だから、帰すということを約束して連れてきて、帰さなくなった。これは、北朝鮮が悪い、いいじゃなくて、外交というものは、やはり約束したことは、この約束を守るべきだ。ところが、あの約束を守るべきだという意見が、私は、政府の中からも自民党の中からも出てこないし、なぜその約束を破ったかということも説明がされない、大いに不満です。
 政府もあるいは外務省の人たちも、私なんかがオフレコで取材すると、全部そう言います。それを公共でなぜ言えないのか。言ったら大変なことになると。大変なことになると言わないんじゃ、そんなものは政治家じゃないよ、こう言いたい。そういう不満がみんな募っていると思います。よろしいですか。
 それから、色つきだというのは、多分、久米宏とか筑紫哲也のことを言っているんだと思いますが、久米宏はやはり事実に基づいて彼が時々感想をぽんと言うだけ、筑紫さんもその筑紫さんの意見を露骨に言わないと思います。これは、八代さんには八代さんの色があるんですよ。言葉というものはすべて価値観から出てきたものです。だから、中立公平な言葉なんというものはないんですよ。その人が言うときには、必ずその人の色があるものなんです。そんなことは八代さんも承知ですよね。だったら、さっきのはもう言うまでもないですよね。
 以上です。
    〔佐藤(勉)委員長代理退席、委員長着席〕
八代委員 しかし、そこまで、テレビが裏の裏までということになると政治は要らなくなるおそれがあるので、やはり政治は政治としての責任というものを……(田原参考人「そんなことないよ」と呼ぶ)いやいや、だから、それは大事で……(田原参考人「テレビが政治をするわけないので、政治が大事だから、もっと政治がしっかりしろと言わないと」と呼ぶ)わかりました。はい。また、きょうは野中委員もいますから、後でその辺はまた、ぜひ自由討議のところでやっていただければと思います。
 さて、市川さんにお聞きしますが、テレビドラマ全盛時代、まあそのころは放送局もこういう一つの、我が社はこういう方向でいこう、昔、教育テレビなんという、今はテレビ朝日になりましたけれども、そういう一つの社のポリシーというものがありましたね。そこで選ばれたディレクターが、まずディレクターの考えで責任を持ってやる。言ってみれば、テレビ局というものがすべて責任を持ってやって、こういう方向でやっていこうと。だから、非常に名作も、まさに命をかけたようなドラマがあります。
 昨今は非常に下請時代にテレビ局も入っていって、何となく、国から電波を預かっている、その電波料も三百万円、年間三百万円というのは私は安いような気がするんですけれども、そういう公共の電波の中でドラマをつくっているんです。ドラマでも、一時期は非常にホームドラマ、いろいろないい名作がありましたが、昨今は、やはり時代の流れで、例えば殺伐としたもの、あるテレビ局は一日に数えたら三十回殺しの場面が放送されていたとか、青少年に与える影響とか、やはりドラマというものにもっともっと国民が心を寄せるような、そういうものが一番やはり私はテレビの中でも重要だというふうに思うんです。
 ただ、だんだんだんだんテレビ局も安易な方向ですから、ワイドショーとか生中継とかというのは、これは金がかかりませんから、ちょいと有名なタレントさんを呼んでぱっとやって、そして怒ったりはねたり跳んだり、それで視聴率を稼ぐ。これはスポンサーも視聴率万能主義の中に振り回されていますので、これも問題だと思うんですが。
 そういう、今のドラマが非常に停滞している。今「おしん」を繰り返しNHKでやっていましたけれども、ああいう名作も含めて、テレビドラマが教育に与える影響というのは非常に大きいと思うんです。倉本さんの「北の国から」なんかも名作だったと思いますし、また市川さんのいろいろな作品も私ども見ますが、そういう一つのメディアと生活の中におけるかかわり合いというものはどんなふうにお感じになっていますか。
市川参考人 一つ、テレビドラマというのは、映画と演劇と違いまして、電波メディアの中でつくられているという特徴があります。これは電波に乗る限り、今はビデオとかDVDとかございますが、基本的なところでは、それはその瞬時において消え去っていくものという認識でテレビドラマもまたつくられてきたと思います。
 そうすると、勢い私たちは、今その瞬間に見られるものをつくらなければならないという命題をしょいます。後からじっくり、二回、三回見ようというようなテレビドラマの見方はまずされないことを前提としてよろしかろうと思います。そうしますと、今その瞬間に見られるテレビドラマをつくるということと、じわっと何年でも心に残り続ける「夢千代日記」のようなドラマをつくろうというつくり手の意識は相当に違うものがございます。今瞬間に受ければいいんだというようなドラマは一つある。しかし、もうちょっとじっくり人間の心の奥まで描こうというようなドラマは、往々にしてその瞬間にはなかなか理解されないというようなこともございます。
 そうすると、その両立を一応私たちは目指すんですけれども、なかなかそれは勇気が要ることになります。つまり、今その瞬間で勝負しなくてもいい、人の記憶、心に残るものをこのテレビ媒体を使ってつくろうということは、ある種の原則に背くことでもございますので、それはつくり手がリスクをしょいます。そして勇気が要ります。勝負はやはり、そこにはもう視聴率という価値観だけが厳然とよかれ悪かれあるわけですから、つくり手がどう意識してそこと立ち向かっていくかということ、それだけの問題といっても過言ではなかろうかと思います。
 そうしますと、議員御指摘のとおり、テレビドラマが多少とも文化的な認知の中で存続していくことを是としていただけるならば、やはりそれは、今のような商業主義ベースの機構の中で勝負をするというのは大変につくり手に勇気が要りますし、非常に過当競争の中で、ちょっとした冒険が失敗すれば二度と使われないという状況の中では、なかなか内部で闘うということには限度がございます。
 そうしますと、一つの方法として、音先生も援護射撃をしてくださいましたとおり、地域社会が、私たちが放送文化を育てるんだというような意識で、物はつくらないけれども、つくったものを保存してやろうじゃないか、保管してやろうじゃないかということで、そういう放送文化としての認識でライブラリーというようなものを地域でつくっていこうとか、それから、これだけ世界では、モンテカルロでも上海でもあります、テレビ祭、テレビドラマ祭というものを盛んにやっております。それはお互いの内外の、世界のドラマを交流させようと。
 狭いところでドラマをつくると、価値観が狭くなりますから、どうしても閉塞的なものになります。もうちょっと日本のドラマを世界に売ろう、日本をわかってもらうために日本のドラマを売ろうと。世界からも世界のドラマを放映し、いいものをつくろうというようなマーケットを世界じゅう持っております、テレビがある文化国家であれば。ところが、不思議なことに、日本では一つもないんです、テレビ祭というようなそういうマーケットが。
 だから、できれば僕は、いずれ東京テレビ祭というような、既成の電波の上でだけの価値観じゃなくて、そういう別のマーケットでテレビが売り買いされるような場をつくっていただくとか、そしてライブラリー活動をしていただくとか、いずれにしても、テレビを見詰める社会の方でテレビを育てる機構というようなものをつくっていただく以外にはなかろうかと思っております。
八代委員 時間になりましたが、そういう意味では資料館というのは大変いい御提案だと思いますし、また、私たちも積極的に協力させていただければありがたい、このように思っております。
 音先生には実は、さっき、NHKと民間放送の共存を評価するというお話で、日本でももうこの際、全部民間放送にしたらというふうな話もあるので、それを本当は聞きたかったんですが、もう時間になっちゃいましたから、あと、自由討論のところでそのことはまたお答えいただければと思います。
 終わります。
遠藤委員長 次に、玄葉光一郎君。
玄葉委員 民主党の玄葉光一郎です。
 三人の先生方、ありがとうございました。
 まず、田原さんに、ひとつぜひ御見解をといいますか、どういうふうにごらんになっているかお尋ねをしたいと思うんです。
 イラク攻撃が始まりました。我々はイラク攻撃を大体、映像を通して見るわけです。率直に言って、映像が戦争の成否を決めるという側面があるのではないかというふうに思います。そして、米国もイラクも、情報操作といいますか、メディア操作に懸命になっているはずだというふうに私は思うわけでありますけれども、これまでの日本のこのイラク攻撃に対する放送メディアの報道のあり方、もちろん、いろいろな番組をどこまでごらんになっているかという問題はあるかもしれませんけれども、特にニュースなんかも含めて、田原さんとしてこれまでの日本の放送メディアのイラク攻撃に対する報道の仕方をどのようにごらんになっているかというのをぜひお尋ねしたいと思います。
田原参考人 さっきもありました、最前線を走っている戦車をCNNが中継している。まるでドラマみたいだということを言っている人がある。CNNがこの最前線の戦車を中継しているということは、つまり、米軍が許しているということですよ。だから、ある意味では、CNNが最前線の戦車を中継しているということは、つまり、米軍のいわば戦争広告だというふうに見てもいいと思います。
 アメリカは、既にイラク戦争について何度もメディアを、しょっちゅう利用していますね。例えば、戦争を四十八時間してやると言って、一時はアメリカのメディアが先に延ばすと言って、先に延ばすとメディアが放送したころは、もう始まっていたわけですね。だから、アメリカは、当然ながら、メディアというものは自分たちの政策に利用するものだと思っている。一つは、日本のメディアは、そこでは、歯がゆいんですけれども、そういうものだととらえないで、そのままの、それがいかにも客観的な事実であるかのように放送しているというのが、これは一つ問題だと思います。
 それからもう一つは、つまり戦争で今何が行われているかということは、これは本当に真剣そのものの問題ですが、この解説が、いろいろな番組をやっていますが、極めてリアリティーがない。何かバラエティーの解説と同じような調子でやっているのもある。こういうものはやはりテレビ局がもっときちんと自己責任を持たなきゃいけない。
 そういうことを含めて、さっきの繰り返しですが、私は、どうも日本は、政府も野党もマスコミも、このイラクの戦争を観客席で見ているという感じ、つまり参加していない。
 ちょっと長くなっていいですか。(玄葉委員「どうぞ」と呼ぶ)だから、例えば、小泉さんがアメリカに支持表明したということは、当然イラクは、アメリカ、イギリスに次ぐ日本を第三の敵というふうに考えるわけで、イラクだけじゃない、それはイスラムの国々から、あるいはどこからか、テロが当然日本にやってくる可能性がある。つまり、そういうアメリカ、イギリスに次ぐ第三の標的になるぞということを小泉さんは支持表明の前に国民に説明したか。だから皆さん、そういうことを覚悟しろ、しかし、これは覚悟せざるを得ないんだと。そこをもっと、自民党もだらしないと私は思うんだけれども、覚悟せざるを得ないんだということをもっと国民にちゃんと言うべきです。
 そこの点を民主党も追及すべきなのに、民主党が何か、理解しないとかくだらない、あんなことは国民は聞きたくないんです。つまり、民主党もまさに観客席にいる。ここに非常に不満を感じます。
玄葉委員 きょうは、報道のあり方、あるいはメディアのあり方ということなので、イラクの議論は少し避けますけれども、ただ……
田原参考人 ちょっと一つ、聞いちゃだめなの。でも、聞きますよ。
 民主党は盛んに、アメリカが単独で攻撃したのは反対と言っている。だから、やはり国連の安保理決議をとるべきだったと言っている。では、安保理決議をとったら日本は何をしようと思っているんですか。そのときはどういう協力をするんですか。
玄葉委員 いや、それは基本的に我々は支持をするということに恐らくなったと思いますよ。
田原参考人 だから、国連の安保理決議が通ったときには一体日本はどうすべきだとあなたは考えているんですか。それを考えなくて、ただ支持だけというのは無責任じゃないですか。(玄葉委員「支持しないということをですか」と呼ぶ)いや、アメリカが独自に行くのはけしからぬ、こんなものは支持すべきじゃない、それは国連の安保理決議を経てやるべきだと。だから、国連の安保理決議を経た場合には民主党はどうすべきだと思っているんですか。日本はどうしようとあなたは思っているんですか。
玄葉委員 現実には法律の枠内で最大限協力すると……
遠藤委員長 ちょっと待って。
 委員と参考人の方々に申し上げますが、理事会の協議において、発言者に対する質問は行わないということを冒頭に申し上げておりますので、お含みおきください。
玄葉委員 法律の枠内で最大限協力するということになったと思います、すぐ新法はつくれませんからね。民主党の場合はそういうことになったと思います。
 ただ、ちょっときょう、少し音先生にも質問したいので……(田原参考人「じゃあ、そのときには新法をつくるわけね。新法をつくって自衛隊が参加するんですね」と呼ぶ)いやいや、そこまでは言っていませんよ。それは先の話ですよ。(田原参考人「あいまいじゃないですか」と呼ぶ)いや、だから、現在の法律の枠内で最大限協力するということに間違いなくなったと思います。
遠藤委員長 今はディベートの時間でございませんので、どうぞ、発言の場合は挙手して、許可を得てやってください。
 玄葉委員。
玄葉委員 それで私、イラクの報道を土曜日、日曜日に地元で少し見ていたんで、実はCSとかなかったんですね。そうすると、情報がすごく限られるんですよ。ですから、音先生にも私お尋ねしたいんですけれども、実情は、日本は多チャンネルになっていないと私は思うんですね。多チャンネルの仕組みはつくったように見えるけれども、残念ながら、実情は多チャンネルになっていないというところがあるんじゃないか。
 政治の討論番組もいいけれども、我々みずからが、視聴者が判断する材料がたくさん欲しいというのを今回のイラクの問題なんかでも思うんですね。だけれども、実情は何か多チャンネルになっていない。これは放送の産業構造にも問題があるのではないだろうかと思うんですけれども……
田原参考人 ちょっと僕が答えた方がいいと思う。
 それは単純に、日本がアメリカ情報に頼っているということです。だから、NHKを見たって民放を見たって、全部アメリカ情報なんです。
遠藤委員長 音参考人。
音参考人 一つは、私の方から質問してはいけないのかもしれませんけれども、今おっしゃっている多チャンネルになっていないというのは、チャンネルの数がなっていないということを、つまり、量をおっしゃっているのか、質のことをおっしゃっているのか、どちらなんでございましょうか。(玄葉委員「量」と呼ぶ)量ということですか。つまり、チャンネルの数が少ないのではないかということですか。
 チャンネルの数ということでいえば、地上放送でいいますと、民間放送を全国四つにしていくということを一生懸命やってきたわけですし、それからNHKの二チャンネルでありますとか、先ほどお話にありましたCSのお話ですとかということで、チャンネルの数は比較的、海外と比べると多チャンネル化は進んでいるんだと思います。
 問題はやはり質だというふうに私も思っております。それは、多分先ほどの田原さんのお話と非常に重なるところがあるんだと思いますけれども。これは、大学に籍を置く者ですから、こういうふうなお話をさせていただく方がいいのかもしれませんけれども、放送の質というものをどういうふうに評価するかといったときに、例えば多様性がどのぐらいあるのか、私たちに提供されるサービスというのが、どのぐらい多様性のある情報が入ってきているのか。これは、実はいろいろな研究者がその数量化をしようというふうなことで研究をしております。そのことからすると、日本はどこまで多様性が進んでいるのかというのは非常に問題があるのではないのか。
 私は、どこまでがアメリカの情報に頼っているのかという数量化をしたものは持っていませんので、アメリカ情報に頼っているというふうにどこまで言えるのかわかりませんが、ただ、少なくとも、今私が実際に、例えばイラクの問題で接する限りにおいて、アメリカ側ではない情報というのはそんなに多くはないのではないのか、例えばアルジャジーラのようなものというのが見える。
 ただ、このことは、二つだけ追加で申し上げさせていただくと、先週まで私はニューヨークにおりまして、では、アメリカのメディアは今どうなっているかというと、これは私の感想でございますが、もうちょっとひどい状況というふうな気がいたします。私は九・一一のときも実はニューヨークに住んでおったんですが、そのとき以降、相当アメリカは、多様なメディアがある、多様な情報が提供されるというふうに言われていたのにもかかわらず、随分狭くなってきているのではないのかなというのが印象でございました。もちろん戦争の当事国であるということは加味しなくてはいけません。
 それからもう一点でございますが、テクノロジーの発達ということでいいますと、これは私の知る限りなんですけれども、フォークランド紛争、イギリスとアルゼンチンが戦ったあのフォークランド紛争のときに初めて、戦争報道におきましては、自国の軍隊が攻めているところの相手の国の、つまり、言うなればミサイルが飛んでくる側の映像というものがその攻めている国の国民に届いたということがございました。つまり、イギリスの国民は、フォークランド紛争で初めて弾が飛んでくる側の映像を見たんです。多分、人類の歴史ではそこで初めて出てきたんですね。湾岸戦争のときには、ピーター・アーネット氏がああいうようなことでやりました。今回は、まさに両方からカメラが入っているわけです。
 つまり、これはテクノロジーの進歩なのでございますね。つまり、これはつい最近のことなんですよ。こういうふうな状況になったのはつい最近のことだということもあります。
玄葉委員 確かに、今の、特に地上波なんかは、私は、アメリカの同行記者とかそういうところからの情報の垂れ流しというところが、率直に言ってちょっとあると思います、私も、率直に言って。
 だからこそ、例えばCS番組なんかがばっとあって、ほとんどの国民が入っていて、いろいろなニュースをそこで見られる、情報がとれるという状況になっていた方がとても健全だと。だけれども、なかなかならない。いろいろなニュースをNHKの衛星なんかは流してくれていますよね。F2だとかZDFだとかアルジャジーラとか、流してくれている。非常に参考になります。だけれども、仮に衛星が入っていなかったら私はかなり偏っていると思いますよ、今の日本の地上波の場合は。
 ですから、構造的にというか、これは番組の質、ソフトの問題もあるんですけれども、放送の産業構造という観点から考えたときにどうなのかなというふうに思ったものですから、音先生にも尋ねてみたということです。
 あとは、これは政治もそうかもしれません、最後は選挙民というところがあるのと同じで、最後は視聴者というところもあるのではないかと思います。
 私も二年ぐらい前に初めて知った言葉でしたけれども、メディアリテラシーというんですか、番組を批判的にというか、主体的にというんですかね、読み解く能力を子供のころから身につけさせようということで、カナダなんかではそういう学習、学習というかトレーニングをさせているということなんですけれども、これは効果的だと思われますか、音先生。
音参考人 メディアリテラシーというのは非常に重要だというふうに思っております。
 カナダにつきましては、私もNHKの番組等で御紹介させていただいたこともあるのですけれども、ただ、それが学校教育の中に入っていった場合には、どういうふうな形でカリキュラムの中に組み入れていくのかという点についてはいろいろな議論があるのではないのかなというふうに思います。
 カナダに関しましては、学校教育の中に非常に早い段階で取り入れましたけれども、当然のことですけれども、ある種の文化政策の側面もあるわけでございます。つまり、隣には非常に大きな、圧倒的なエンターテインメント情報を提供するアメリカという国がございまして、その中でカナダという国の文化政策という側面も、カナダの中におけるメディアリテラシーというのはもちろんございます。
 つまり、何を言わんとしているのかというと、この人がメディアリテラシーが非常に高まったというのをだれが評価するのか。つまり、それは学校カリキュラムの中では、私も大学で学生にメディアリテラシーの授業をやって評価をするんですけれども、評価することというのはすごく難しいですね。そこの問題がもう一つ片方で出てくるということもございます。
玄葉委員 もう一ついいですか。まだ時間ありますか。
遠藤委員長 どうぞ、玄葉委員。
玄葉委員 先ほど、情報発信の一極集中という話がありましたよね。私も、そういうところはあるだろうなというふうに思いますけれども、ただ、実はますますそういう傾向が強まる基盤というか構造になっているんじゃないかと。キー局とローカル局の関係もそうだけれども、このキー局の力がどんどん強くなっていく傾向をどう是正していったらいいのか、あるいは、それはそれでいいというふうに考えるのか。これは、田原さんもコメントがあればお聞かせいただきたいし、音先生なんかも一言あれば。
田原参考人 戦争が始まって、テレビを見ていて、テレビリテラシーの問題です。
 テレビをごらんになっている人がみんな気がついていると思います。戦争が始まる前はバグダッドに各局の社員がいました。戦争が始まると全部フリーになりました。つまり、各局は、身の安全、自社の社員に対しては安全で、フリーはどうでもいいよという、これが非常に露骨に出てきた。こういうものを一回やはり視聴者がとらえなきゃいけないというのが一つですね、メディアリテラシーの。
 もう一つ、実は、これは、きょう発売の週刊朝日の表紙を見て僕はびっくりした。イラクへ行く米軍の、要するに群れを撮っているんですよ。ところが、見ましたか、帽子に、ヘルメットに全部マークがついている。鳥居みたいなマークなんですよ。変だなと思って、何だと言ったら、これは守礼門なんです、沖縄の守礼門。つまり、沖縄の軍が行っているんですよ。全部が沖縄じゃなくて、ほかはあるかというと、余計な話になりますが、守礼門のマークをつけたら、これがはやりまして、お守りになるというので、みんなはやっている。まあ余計な話になりますが、守礼門のマークをつけたのがイラクへ行っているんだ。これは日本と関係ないわけがないんですね。こういう問題が一つある。
 もう一つ、さっきの本筋に答えたいんですけれども、報道は一極集中化する可能性がある、戦争になれば殊にある。だから、そこでいかにこれを、そうじゃなく、一極じゃない報道をとりたい、実はこれは各局が願っているんですよ。各局が願っている。
 でも、ここは、むしろこれは局の問題もあるんだけれども、やはり安全第一なんですね。社員がもし死んだり事故を起こしたらまた問題になるというので、安全第一になっていって、そうすると、そういうのはどうでもいい、どうでもいいじゃなくて、要するに、突貫小僧がいっぱいいるアメリカがやはり強いんですよね。
 だから、そこは、必ずしも資本の問題とか何かじゃなくて、どうも我が日本に、これはもう私の、つまり自分の悩みでもあるんだけれども、日本のマスコミに突貫小僧がいなくなった。また、突貫小僧をなくすように、個人情報保護法なんて、あれは全部、突貫小僧縛りの法律なんですよね。八代さん、頑張ってください。
遠藤委員長 次に、山名靖英君。
山名委員 公明党の山名靖英でございます。
 三人の先生方、大変お疲れさまでございます。
 先ほど来よりお話が出ましたように、テレビ開局五十周年ということで、一つの大きな節目にあるということで今回のこういった場が設けられたわけでございますが、この五十年のテレビ時代、それが今大きくテレビ革命が起きようとしております。地上波デジタル化、こういった形で、従来、新聞でもラジオでもテレビでも、国民の知る権利、これをどう満たすかというところに大きな目的もあったわけでございます。
 特にそういう意味では、田原さんなんかは、もう歯に衣を着せず、まさに国民の知りたい部分を強烈に切り込んでいらっしゃる。そういう中では、切り込み過ぎて、一部で苦々しく思う人も政治家の中には多いわけでございますが、しかし、そういった意味で、報道は、国民の知る権利をどう満たしていくか、国民のニーズにこたえていくか、ここに大きな目的があるし、報道、表現の自由というのはやはり守られていかなきゃならない、こういう認識に立っております。
 とともに、放送、まあテレビを含めて、報道のあり方をもう一回私どもとしても見直していかなきゃならないんじゃないか。といいますのは、要するに、報道というのは当然バリアフリーで、自由な報道、表現の自由、こういったものは当然でありますけれども、一方で、受けとめる側にしてみればそれが大きく人権問題にかかわる、こういったことも事態として過去にもあったわけであります。
 そういう意味では、制作者側、それを報道するニュースキャスターの皆さんも含めて、これが放映されたときにどのように国民に影響を与えるのか、その社会的責任。特に個人的な人権の問題に絡んでくれば、これは行き過ぎた報道という形でそれなりの影響を与えるわけでありますから、きちんとした規制といいますか、こういったものも一部で当然必要ではないか。
 報道のバリアフリー化、それから、そういう意味での受けとめる側のリテラシーの問題、そういった意味では、もう一度この五十周年という機会に、そういう報道と人権という問題も含めて、見直すといいますか考え直す機会ではないかと思っております。
 まず、田原さんに聞きたいんですが、田原さん自身が国民の知る権利を代弁していらっしゃる中で、個々の個人情報といいますか、そういう人権問題についてはどのように心がけていらっしゃるのか、その点についてまずお聞きしたいと思います。
田原参考人 少なくとも私の番組では、私は余り意見を言いません。キーパーソンをお呼びして、そのキーパーソン、例えば来週は外務大臣をお呼びしようとしていますけれども、外務大臣に、あいまいな部分、日本はどうすべきかということを聞いていきたい。そこで、外務大臣はそういうことはないと思うけれども、もしはぐらかそうとすれば、それは、その姿勢おかしいぞ、もっとはっきりしなさいと。
 私は、ちょっと余計なことですが、日本の政治に一番抜けている部分で一番これから取り入れなきゃいけない部分は、やはりデュープロセスの透明化だと思います。それから、ルールの政治をやるべきだと思っています。私はその立場で聞いていますよ。ルールの政治であり、それからデュープロセスの透明化だと。そこをあいまいにされたら、そこは突っ込んでいく。そこは突っ込み方に行き過ぎなんというのはないと思っています。
 それから、プライバシーの問題では、一般の国民のプライバシーはもちろん守らなきゃいけない、しかし、皆さんのような人にはプライバシーはないと思っています。つまり、公人にはプライバシーはない。そういう意味で私もプライバシーがないと思っています、それを聞く人間は。
 ただし、私は、趣味の問題で、政治と金の問題は追及しますけれども、女性問題は追及しません。また、追及できる私はあれでもないと思うし、それは余計なことですけれども。そこは私は追及しませんが、それ以外のことはとことん追及する。また、それを追及されて困るような人は政治家になるべきではないと思っています。
 それからもう一つ、さっき行き過ぎの報道とおっしゃった。私は、この行き過ぎの報道というのは、例えば事件報道に起きるんだと思います。殺人事件とかストーカーの事件とか起きたときに、その被害者と加害者に向かって、つまり、加害者の家族の人権とかあるいは被害者の人権になりますから、ここに向かっては報道は非常に慎重にすべきである。これはしばしばテレビのワイドショーや週刊誌には行き過ぎがあるということ、私はそこはそう思っています。
山名委員 音先生にお伺いしたいんですが、かつて松本サリン事件がございました。そのときの報道のあり方が大変過剰な報道であって、あのときの河野さん御自身が後ほどその実態も明らかにされたわけでありますが、その河野さんがあえて、メディアリテラシーの必要性を感じた、こういうふうにおっしゃっております。
 確かに、今日のように情報がこれだけ多極化し、発信される、こういう中で何がどうなのかという取捨選択、それを持つ能力というのは一方で私は当然必要だと思っておりますが、なかなか、これは日本だけか、諸外国の例はよくわかりませんが、先ほど出ましたけれども、こういったメディアリテラシーの問題として、これを今後どういうふうに取り組んでいけば一番そういった意味での能力がつくのか。そのリテラシーの問題についてどのようにお考えになっているのか、この機会にぜひお聞かせいただきたいと思います。
音参考人 先ほど玄葉議員から御質問いただいたところで、やや舌足らずだった部分がございますので、そのことも含めて私の考えを述べさせていただければと思います。
 メディアリテラシーの定義というのも実は研究者によって少しずつ違うんですが、私は、メディアメッセージ、マスメディアから提供されるメッセージということですけれども、それに批判的、主体的に向き合う能力というふうなことで考えております。メディアメッセージを主体的、批判的に読み解く能力というふうな考え方であります。今後ますますテクノロジーが発達をしてメディアが多様化するでございましょうし、私たちはその中で生活をしていかなくてはいけないわけですから、こういう能力はそれぞれが身につけていかなくてはいけない、言うなれば、情報化社会を生きるパスポートのようなものだというふうな認識をしております。
 それをどういうふうに私たちが身につけていくのかということなのでございますけれども、その教育システムといいましょうか、それを身につけていく仕掛けというのは実は結構難しいものがあるのではないのかなというふうに思っております。つまり、学校教育の中でメディアリテラシーのことをいろいろな形で説明していくということは非常にできるんですけれども、もう片方で、教育システムの中で、例えば評価というような問題が当然絡んでくるんですが、そのときに、では教師側がそのことをうまくできるかどうか、これは非常に難しいところもあるわけなんですね。そのあたりは、いろいろな形でのある種のトライ・アンド・エラーが世界的に見てもなされているというふうに見ていいのではないのかなというふうに思います。
 例えば、カナダの事例を先ほどお話がございましたけれども、カナダの場合は、学校教育の中で、メディアリテラシーというものをカリキュラムの中にも組み込んでいるところがございます。それから、先ほど私、アメリカに最近出張してきたというお話をいたしましたけれども、アメリカの中でも、シカゴにPTAの本部があるんですけれども、例えばシカゴなどでは、PTAと地元のケーブルテレビが一緒になって、自分たちのメディアというものを考えるための番組をつくるというようなことをなさったりですとか、それから、今回の出張のときに、ちょうどカナダのテレビ・ラジオ博物館のようなところへお邪魔したんですが、これは先ほどの市川先生のお話とまさに重なるんですけれども、番組ライブラリーだったんですけれども、そこのスタジオで子供たちが実際にテレビ番組をつくることによってテレビというメディアを理解していく。
 そういうようなさまざまな取り組みというのがいろいろなところで、先進諸国でいろいろなされている。同様に、日本の中でもそういうようなことをトライ・アンド・エラーされているところがございます。
 そういうものをやっていくことによって何が起こっていくのかといいますと、多分、メディアと視聴者、読者との距離関係というのは縮まっていくのではないのか。そのことに意味があるのではないのかというふうに思っております。
山名委員 ありがとうございました。
 情報社会を生きるためのパスポートということでございますが、この問題は極めて大事な問題だと思いますし、私たちもしっかりこれから勉強し、取り組んでいきたいと思います。
 そこで、市川先生の方に御質問したいと思うんです。
 先ほど来お話がございましたように、たくさんの放送作家がいらっしゃる中で、それが取り上げられて放映されるという人はなかなか少ない、ごく限られた人たちだけだということでしょうけれども、要するに、映像というのを通して国民は放送作家の皆さんの思い、夢、希望、勇気といったものを受けとめるわけでありまして、そういう中では、いわゆるコンテンツといいますか、報道の中身というものがこれから特に問われてくる。そういう中で、作家の皆さんも、現状の国民のニーズを的確に受けとめた形の作品をつくらなければ結局取り残されていくのではないか。
 今までは一方的に一方向で報道があったわけですが、これからは双方向という時代にも入りますし、単に情報は受ける時代からとりに行く時代に入ってくる、こういうシステムの大きな変化も当然出てくると思うんですね。そういった中で、先生の方の、これからの作家の皆さんのあり方というもの、単に商業主義で、おもしろかろう安かろうではちょっと困るということの中から、大いに努力もしていただかなきゃならないんじゃないか。
 我々も、さっきおっしゃったような資料館を含めた、そういうシナリオの保存というものも当然一方で考えていかなきゃいけないと思いますが、そういった、時代に即した新しい放送作家としてのあり方、この辺についてはどのように受けとめられてお考えになっているのかお聞きしたいと思います。
市川参考人 テレビドラマが、連続が年間百六十シリーズ、単発ドラマで四百八十というような、ドラマが本当に間断なく流されている状況の中では、テレビドラマのメッセージ性というものが随分と想像以上に大衆操作の力があるということは、政治面というよりはむしろ情緒面のところで強く影響を与えていることは事実だろうと思いますし、また、テレビドラマがそれだけの力を持っているということも事実だろうと思います。
 そしてまた、一朝事があったときには、ドラマ、映画が国威高揚のために利用されていったというような歴史も現実にもございます。戦争が起こって、一つ全体に向かうときには、真っ先に映画、テレビがその先兵となって大衆を操作していく力に多分なるのだろうと思います。
 日本の政治が一体どこの方向に向かっていくのかということは私どもはわかりませんけれども、ただ、そういう状況になったときにテレビドラマの力というのは、実は、報道はその瞬間の真実を伝えることが責務だろうと思いますが、テレビドラマというのは、その先の未来を予測する力がある。つまり、起こるかもしれない悲劇を予感していく力は、報道が余り先読みをしますとそれは先走りになりましょうけれども、ドラマにはその予見をしていく能力というものがございます。ですから、今は起こっていなくとも、これから先、このまま進めばこんな悲劇が待っているんだぞというようなテーマのドラマをつくることも実は可能でございます。
 ところが、現状は、先ほどるる御説明しましたとおり、中心のない状況にございます。だれも責任を持たない。プロデューサー制度も、脚本家も監督もその中心にいないテレビドラマ状況にございます。そういう状況の中では、実に、何か全体が動き出すときに、もう今はサスペンス全体ですけれども、これが何か一つの主義主張の中にさっと一括して利用されてしまうというようなことは、これだけ主体性を奪われたテレビドラマ状況の中で大いにあり得ることでございます。
 もちろん、個々の自覚を問われれば、私は個々に頑張りますという自覚はありましょうけれども、やはりそれは、そういうことよりは、もうちょっとテレビ状況全体の改善とか主体性の確立とかというようなものをお考えいただければというふうに思います。
田原参考人 一言言いたいんですけれども。
遠藤委員長 はい、どうぞ。
田原参考人 今のに対して、テレビリテラシーという問題であります。
 私は、日本の視聴者はテレビリテラシーは持っていると思います。私はよく言うんですが、視聴者は、利口じゃないけれどもばかじゃない。
 例えば、幾つも例はありますけれども、簡単に言いますが、一つは、小泉内閣がこれほどこてんぱんにマスコミから言われていても、支持率が依然四〇%を保っているというのは、佐藤内閣の四〇%というのは、一番佐藤さん人気が高かったときが四〇%ですから、持っている。それから、きょうの読売新聞では、別に読売が意図的にやったとは思いませんが、小泉さんのイラク戦争支持、これが半数より多い。相当多いんですね。
 だから私は、日本の国民はテレビリテラシーは相当持っているというふうに見ています。もしかしたら皆さんよりも持っている。皆さんの方がむしろ、番組がバラエティー番組だか報道番組だかわけがわからなくて、めちゃくちゃに出ている人がたくさんいるけれども、それよりは国民の方が持っている。
 もう一つ、ちょっとこれは市川さんにあれかもしれませんが、去年の暮れから、フジテレビのドラマ番組はみんな視聴率が落ちました。これはもうはっきりしています。フジがタレントを持っている、タレントを持っているのがフジの強みだったんだけれども、そのタレントを使わなきゃいけない、あるいは、タレントは非常に力を持っている、タレントの言うとおりの台本を書かなきゃいけない、これがまさに出てきた。だから、お客さん、つまり視聴者はむしろリテラシーがあるということです。
遠藤委員長 次に、黄川田徹君。
黄川田委員 自由党の黄川田徹であります。
 参考人の皆さんには、本当にお疲れさまです。私は一回生でありますので、市民の一人一人に語りかけるような形で、ひとつよろしくお願いいたしたいと思います。
 先ほど山名委員さんからもありましたけれども、基本的人権と、それからマスコミの横並び報道といいますか、そういうことをまず初めに田原さんからお聞きいたしたいと思います。
 刑務官による受刑者への暴行致死事件が相次いだ名古屋刑務所のほか、府中、大阪、横須賀の四刑務所で、過去十年間に死亡した二百六十人のうち、病死、老衰でない変死が百人以上にも及ぶことが明らかになりました。本当に憂慮すべき事態であります。
 この中にあって、先般、野党四党ですけれども、作家の安部譲二さんを招きまして勉強会を行いました。安部さんの講演では、刑務所の中の生活、すさまじいものである、そういう生活実態をここで紹介することは本旨でないんだけれども、しゃばと違わないのは空気を吸うことと夢を見ることの二つしかないとお話しされました。
 受刑者の人権でありますが、これがいかに侵害されているか。同氏は、並みいるマスコミ、カメラ、本当にたくさんあったのでありますけれども、そこで話されました。あなた方マスコミは、国会や政府の情報を一応伝えはしているが、それ以前に、この問題に関して、人権擁護の観点からどれだけそれぞれ独自の調査をし、独自の本質に迫る情報伝達を行ってきたか、これを強調されたわけなのであります。
 マスコミのオピニオンリーダーであります田原さんに、安部譲二さんの発言を踏まえまして、この基本的人権のあり方、あるいはまたマスコミの報道の、横並び報道といいますか、私、地方自治体におりまして、県庁の中でも記者クラブなんかがあって、それを当局も活用するとかいろいろあるわけかもしれませんけれども、何か独自の発言がない、少ないな、こう思うところがありますので、その辺もあわせてお伺いいたします。
田原参考人 検察、地検、そういうものに対して、あるいは刑務所も含めての情報は、私はそこはやっていませんで、本当のことはよくわかりませんけれども、マスコミは、例えば検察情報をとるには検察にパイプが要るわけですね。パイプがあるということは、逆に検察に弱みもあるわけですね。そこの関係がきっといろいろ難しいんだと思います。
 一つここで、私が最近、これはむしろちゃんと追及しなきゃいけないと思っていますが――やめようかな。要するに、長崎の自民党の県連の問題が出ました。張り切り検事が頑張っていました。あの張り切り検事が突如配転になります。それであれは終幕になります。あれは一体何だろうと私は疑問を持っています。それでいろいろ今取材をしています。
 何であれが途中で終わってしまったのか。あのやった検事が配転になります、東京へやってくるんですかね。そういうことは興味ありますか。(黄川田委員「非常にあります」と呼ぶ)あったら、どうぞ頑張ってください。
黄川田委員 わかりました。自由党も、長崎にも国会議員たくさんおりますので。
 それで、田原さんにはまた自由討議でさまざまありますので、せっかくお越しの市川さんにお尋ねいたしたいと思います。
 最近、放送番組向上協議会ですか、ここで、放送倫理セミナーの、テレビ五十周年を問うというものが開かれたわけであります。そこで、席上、ジェームス三木さんは、ドラマにしろニュースにしろ説明が過剰だ、そしてまた視聴者の想像力を阻害し低下させた、こういうふうに酷評しているわけであります。そしてまた、曽野綾子さんは、大人が見るにたえる番組が乏しく、幼児化が進んでいるとしております。
 また一方、私も子供四人おるわけなのでありますけれども、子供といいますか、若年層の意識変化といいますか、自分自身、国会に来まして全然子供の世話もしないで、父権の喪失、あるいはまた父親と母親の権力が逆転しているとか、幼児のしつけ、教育に異変をもたらしておるのではないか、よい番組が少なくなっているというか、逆に言うと、よい番組を見きわめる眼力が養われていないんじゃないかとか、さまざま課題があるんではないかと思っております。
 そこで、数々のすぐれた番組、あるいはまた茶の間にドラマを提供していただきます市川さんに、こういう現象をどうとらえておるのか、そしてまた、二十一世紀、この時代を背負う若い人たちに対して何かメッセージを送るためのドラマづくりをしていただきたいと思うんですが、この辺、どうお考えでしょうか。
市川参考人 お答えします。
 ジェームス三木さんがどういう範疇で今のテレビドラマが説明過剰とおっしゃったのかよくわかりませんけれども、よく言われることは、社会全体が、性的には早熟化がありますけれども、何が原因かわかりませんけれども、幼児化していっているという傾向がまず全体にあるのではないかと思います。
 つまり、見る側が想像力を失ってきている。ですから、相当にかんで含めたドラマをやらないとちゃんと見てくれない。いいドラマというのは、多少、半分ぐらいは見る側に想像をゆだねるドラマがいいドラマというのを我々はシナリオを勉強するときにも学んだものでございますけれども、そういうことをやっても受け手側が少しも物を想像的に見てくれないというのは、全体の傾向としてはあるように思います。
 ですから、説明過剰というのは、そういうことの何がしかのあらわれになっているのじゃないかという感じもいたします。
 それから、情緒面で見ますと、テレビドラマのメッセージ性というのは、やはりその時代時代のニーズに何となくこたえている面がございます。
 私どもの調査では、例えば、それは時代によっても少しずつ変わってまいりますけれども、一九八六年、つまりバブルの最盛というような時期には、テレビドラマも、極めてライトな、恋愛ドラマというようなもの、いわゆるトレンディードラマと言われるようなものがはやりました。それから、いろいろな第三次産業みたいなものがもてはやされている世相を反映して、八七年には業界ドラマというようなものが占めました。それから、極めて理想的なアーバンライフを演出したものとか。
 九〇年代も、ずっと純愛とか恋愛とかというようなものが盛んになってまいりました。九〇年代といっても、後半になりますと、何となく世の中の不況を反映してなのか、非常に不安定な世相を反映してか、記憶喪失ドラマというようなものがやたら多くなったりもいたしました。それから、自分探し。それから、自分を過酷な立場に置いて、その逆境からはい上がっていくというようなドラマも九〇年代の特徴でございました。
 現在はどういうテーマが主流になっているかといいますと、一つは、弁護士ドラマというのが形の上では多く出てきておりますけれども、メッセージとしては、そういうドラマにしろ、恋愛ドラマにしろ、何か、お説教するというんですか、警告を発していくドラマというようなものがもてはやされているようでございます。それは、見る側が何か不安な状況に置いてだれかに何かを言ってもらうことを求めているという世相を反映しているのではないかなというようなことも考えられるのではないかと思います。
 私の意見というよりは、そういうデータがここにあるということを一応開陳して回答にかえさせていただきます。
黄川田委員 それで、残り時間があと五分でありますので、では、音さんにお尋ねいたしたいと思います。
 先ほど玄葉さんからもお話があったんでありますけれども、そしてまたそのお答えにもあったんですけれども、ここ総務委員会というのが、旧自治省と郵政が一緒になった委員会でありまして、地方行政の推進にかかわることをやっております。今何が自治体で動いておるかといいますと、三千二百の市町村の平成の大合併といいますか、そういう動きであります。
 経済成長してきたときは、それぞれ三千二百独自の町づくりだ、そして地方の時代という流れの中、そしてまた、今は地方分権という大きな枠組みなんでありますが、地方から来た私にすれば、分権分権と言いながら、財源移譲のない、かけ声の分権であって、財政破綻した国家の再建のために合併がなされるんじゃないかという意見もこれまた多いわけなんであります。
 そしてまた、地上波のデジタル化、これに伴って地方局もこれまた投資をしなければいけないということで、これが経営を圧迫しているんじゃないのかという方向性がありまして、キー局から系列局というような流れよりも、むしろ、田舎にあれば、例えば私、岩手なんですけれども、地方局が一つ、二つとふえてくるごとに野球が火曜も水曜も木曜も見られるようになったなというような形なんですが、逆に地方局も、合併といいますか、そういう生き残り策を講じなければいけないのじゃないのかということにもなっております。
 ですから、ある一方では、そういう地方の放送局が元気になっていろいろ情報を発信するのも大事だし、これから三千二百の市町村がどんどん情報を発信して、それこそ国家にとって大きな力になるということになればいいんですけれども、その逆の動きになっておるので、そういう逆境の中にあっても、例えば自治体も、自主自立、自己責任の時代でありますから、受け皿が大きくなって足腰を強くするのも大事ですし、それから地方局の再編の中で動きがあると思うんですが、それらの流れの中で、本当に地方から、一極集中じゃなくて、情報なり、あるいはまた自治体が国を動かすみたいな動きになればと思っておるわけなんでありますけれども、その辺、また改めてお話をいただきたいと思います。
音参考人 恐らく、合併という話というのを経済学的に見てみますと、多分規模の経済というものにある種の解答を求めている状況なのではないのかなというふうに思います。つまり、スケールを大きくすることによって効率をよくして、そこで解を得ようと。ただ、私は、このスケール・オブ・メリット、規模の経済という解答というのはすべてに当てはまるものではないというふうな認識を持っております。
 つまり、合併をしてうまくいくところもあれば、そうではなくて、小さいけれども、その小さいがゆえにある種の循環系が成立をしているエリアというのももちろんあるのではないのか。実は、そういう部分をきめ細かく見ていくということが非常に重要なのではないのかなというふうに認識をしております。
 御回答になるかどうかあれなんですけれども、私の個人的な体験で申し上げますと、私、大学院の時代に、大分県の一村一品運動の、やや発祥といいましょうか、モデルになった町の研究をしておりました。二つ町がございまして、一つは湯布院、もう一つは大山町という町でございました。
 湯布院は、イベントを一生懸命やることによって地域の活性化ということをやる、牛食い祭りですとかそういうのをやる。
 私が調べましたのは大山町という町の方で、そこは昭和三十年代に、山間部なんですけれども、お米を捨てて梅とクリを植えるというふうな形での転換をしました。当時、「トリスを飲んでハワイへ行こう」というコマーシャルがありましたけれども、そのキャッチフレーズをうまく使って、「梅栗植えてハワイへ行こう」というような、そういうような町だったんですが。
 その町が何をしたかといいますと、梅とクリへ作物転換をし、その後エノキ栽培へと作物転換をしていくんですが、自分たちが自信を持てるような町にしなくちゃいけないということで、八〇年代にやりましたのが、実はケーブルテレビを自分の町に置くということでした。農村型ケーブルテレビを町の中に置くことによって、自分たちの姿を自分たちで見られるようにしよう、そうすることによって自信が持てるんじゃないのかという町づくりでございます。この大山町のケーブルテレビというのは、今でも農村型ケーブルテレビの中で非常にユニークな存在というふうに言われております。
 というように、それぞれの町、それぞれの放送事業者の特色に合わせた形での処方せんというものがやはりあるのではないのか、そういうものをきめ細かく見ていくという作業が今求められているのではないのかというふうな考えを持っております。
遠藤委員長 次に、矢島恒夫君。
矢島委員 日本共産党の矢島恒夫でございます。
 きょうは、三人の参考人の皆さん方、貴重な御意見を本当にありがとうございました。
 最初に、音さんに質問したいと思います。
 地上波デジタル放送の問題でお尋ねしたいのですけれども、「ニューメディア」という雑誌の中で、BSデジタル放送の普及の伸びというものが当初の予想を大きく下回る推移をしていると。まさにそのとおりだと私も思います。委員会の中でもこの問題を私たちは取り上げてまいりました。
 こうした中で、ことしの末からいよいよ三大広域圏でのデジタル地上放送が開始されるわけです。
 私たち、何回も取り上げた問題ですが、一つはアナ・アナ変換の問題です。非常にずさんな調査の中で、日程的にも、それから予算的にも大幅に狂ったわけです。その結果、全体的な計画も後ろにずれ込んでおります。つまり、当初計画に比べたら相当のおくれになってきているというのが今日の状況です。そういう中で、二〇一一年というゴールだけは決めてしまって、そこへ向かってしゃにむにやっているというのが今の状況だと思うのです。
 この問題では、国民が本当に理解しているのか。大体、テレビを買いかえなければならなくなるわけですから、テレビの買いかえ周期から考えてみても、やっとことしの末に三大広域圏でやる、二〇〇六年に今度は全体をやろうというわけですが、どこまでカバーできるのかも、その計画についても、はっきりとした内容を国民に説明していないという状況の中で進んでいるわけです。
 そこで、先生にお尋ねしたいのは、一つは、アナ・アナ変換大丈夫か、こういう考え方を持っている国民はまだ関心を持っている方なんです。そんなことすら知らないという状況の中で、計画を、政府の方針あるいはデジタル放送推進協議会の方針で進めていいのかどうかという点。それから、二〇一一年というゴールを決めてやっているわけですけれども、ここでアナログ放送が打ち切られる、そうするとテレビの買いかえという問題が起こる、まさに国民へのテレビの買いかえの強要ではないかという点を私たちは問題点として挙げているわけですが、それらについてお考えを。
音参考人 御質問が、アナ・アナ変換の問題と二〇一一年の問題、二つあったかと思うのですけれども、私、これは両方とも同じことかなというふうに思っております。つまり、何かといいますと、やはり説明が余りされていないんだと思うのですね。これは本当に、一生懸命説明し、そして理解を求めていく、または視聴者の側からわかるような形での、利用者の側からわかるような形での、説明もそうですし、それから、何がわからないのかということをきっちりやりとりしていくことが重要なんだと思うのですね。
 これはやや技術的な話になるのですけれども、以前のテレビであれば、スイッチをオンにすればつくとか、機器が非常にわかりやすかったんですね。パソコンとテレビを比較すれば一番わかりやすいと思うのですが、パソコンはどういうふうに使ったらいいのかソフトの解説書を見なければわからないというのが一番わかりやすいと思うのですが、恐らくこれからのデジタル化というのは、その説明が今まで以上に非常に難しいものなんだと思うのですね。だからこそ、説明をきっちりやらなくてはいけない。
 これは、変な言い方ですけれども、放送事業者とかメーカーだけの責任ではないんだと思います。もう少しスケジュールを、国会でも審議をなされて決定をされてきたわけですから、先ほどアカウンタビリティーというお話がございましたけれども、その説明をきっちりしていく、理解をきっちり求めていくための仕掛けをつくっていく、システムをつくっていく。これは、ある部分は政治の責任でもあるのではないのかというふうに私は認識をしております。
矢島委員 次に、市川さんにお聞きしたいと思います。
 日本放送作家協会の理事長になられたときだと思うのですけれども、以前は放送局側に脚本家を育てる土壌があった、今は使い捨ての傾向があるというコメントが読売新聞にその当時載ったのです。
 いよいよ地上波デジタル放送が始まろうとしている、メディアの状況が大きく変化しようとしているわけですが、放送文化を担われるという立場から、先ほどシナリオライブラリーをつくっていく問題が提起されました、同時に質問の中で、テレビ祭を考えたらどうかという提案もございました。
 やはり、これからの放送文化という点を考えますと、もっともっといろいろな御要望があるんだと思います。先ほどは、時間がなくてこれだけ言っておくということでライブラリーの問題だけが出ましたけれども、ぜひこの際、いろいろなことを、御要望をお聞かせいただきたいと思います。
市川参考人 ありがとうございます。
 御指摘のことを私が理事長になりましたときに一つの慨嘆としてつい口走ってしまいましたのは、私がいっぱしのライターになり得ましたのは、駆け出しのころでございますけれども、NHKで五年間育ててもらった、そういう体験の中で思わず出たことなんです。
 あのころは、テレビライターは、一度組んだプロデューサーやディレクターといつまでもつき合うことができました。一つ番組が終われば、そこには失敗も成功もありましたが、失敗をしたら失敗したなりに、次は成功させようという、その失敗をまた一つステップにして物をつくることができました。つまり、現場の時代でございました。私を起用するもしないもそのプロデューサーの裁量一つで、僕がいる限り君とはつき合うよ、君を育てるよというような人間関係ができたものでございます。その環境が、NHKでも民放でも、いつの間にかなくなってしまった。
 ドラマというのは、やはり人間同士が一緒に意気投合してつくり合う世界のはずでございますけれども、私の時代、私もいまだに現役のつもりではおりますけれども、育ててもらった時代というのは、そういうふうに、数は少のうございますが、少なくとも五人、十人の限られた人たちと長いつき合いをする結果の中で、栄光もともにしましたし挫折もともにした、そしてその中で少しずつ作品がよくなっていったという体験をいたしました。
 あの環境が、いつの間に、何が原因で消えてしまったのか。何でこんなふうにばらばらになって、つまり、だれも主導権を持たない、全く自分が会ったことも見たこともない、編成のどなたかが私を指名したからあなたを呼んだんですよというようなことで、そのディレクターも私とは初対面、あなたのことをよく知りませんが、編成で決めましたから、あなたとおつき合いさせていただきます、でも、視聴率が悪かったら打ち切る可能性が出てきますから、そのときはあしからずと。まさに、数の切れ目が縁の切れ目というような、非常に寒々しい人間関係が現状としてあるということを嘆いたんです。
 少なくとも、テレビドラマというのは人間の愛とか夢とかを描くジャンルでございますから、そのつくり手がせめてもうちょっと豊かな気分で物がつくれる、それにはやはり、これはもう全体の、組織の形態の問題だろうと思いますが、もうちょっとつくり手がゆったりと、長く、責任を持ってその仕事に取り組めるような環境づくりを取り戻してもらいたい。
 余りにも秩序化され、管理化されてしまったことも原因の一つにはあろうかと思いますけれども、どうすればあの時代が取り戻せるのか。渦中にいますとわからないので、かえって田原さんなんかの方が、その辺、いいアドバイスをしてくださるのかもしれませんけれども。
矢島委員 田原さんにお尋ねいたします。
 以前、立教大学の服部教授との対談だと思うのですけれども、湾岸戦争について、対談はテロ事件とアメリカのメディア戦略というような表題がついておりましたけれども、こんなのがあるのです。
 いま思えば僕も湾岸戦争の時に「金を出したのに何が悪いんだ」と言っておくべきだったんだけど、当時は「サンデープロジェクト」もまだ土台がしっかり固まってなくて、そんなことを言う自信もなかった。
という一文があるんですが、現在、その辺の自信、「サンデープロジェクト」は自信があるぞというあたりをお聞かせいただければ。
田原参考人 湾岸戦争というのは、日本が初めて突きつけられた問題だと思います。それまで日本は、少なくとも自衛ということは考えていたけれども、国際協力をするということはなかったんですね。ベトナム戦争のときにも、アメリカは日本に協力してとは言ってこなかった。初めて、国際協力という、考えもしなかったことが出てきたわけです。
 多分、今、名前は言いませんけれども、割合、「正論」とか「諸君!」とか、右側の雑誌に書いている人の多くも、湾岸戦争のときに自衛隊が出ていくことは反対だった人もいる。あのときに初めて考えさせられて、そこから日本の世論がずっと変わってきたんだと思います。そういうことを言ったんだと思います。
 それから、もう一つ言えば、金を稼ぐためには命をかけているんですよ。だから、金を出すということは、つまり命をかけるということとほとんど同じ意味があるということを言いたかったんだと思います。
矢島委員 もちろん、そういうことを言っておくべきだったんだけれども。
 そして、「サンデープロジェクト」、これはそんなに突っ込んでお聞きする問題じゃないんですが……(田原参考人「いや、突っ込んでください」と呼ぶ)気軽に聞いていただければいいんですが、当時、まだ土台がしっかり固まっていなかったからそんなことを言う自信がなかったんだと。今は自信をお持ちだろうと思うんですけれども、その辺についてお話しいただければ。
田原参考人 私が今申し上げたいのは、共産党は違うんだけれども、民主党が、さっきも言ったことですが、アメリカが独自でイギリスと組んでイラク戦争をやったのはけしからぬ、よくない、やはり国連の安保理の決議を経るべきだったという意見が強い。これは、自由党もそうですね。
 では、そこで聞きたいんですが……(発言する者あり)何、だめ。アメリカが勝手にやる戦争には反対でいいんですよ。では、国連の安保理決議に賛成した場合には日本は何をするのか、共産党を含めて聞きたい。どっちにしても何もやらないというのでは、これはやはり世界の一員として無責任じゃないか。そこをちょっと説明してください。
矢島委員 先ほど委員長が、参考人の方からは質問ができないんだというお話があって、それに答えてしまうと……(田原参考人「それは国会の方が間違っているんだ」と呼ぶ)はい、この間違いを正さなきゃいけないと思いますが……(田原参考人「そうでしょう」と呼ぶ)きょうの段階はそういうことで進めておりますので、またの機会にいろいろと……(田原参考人「いやいや、どうぞ答えてください、それは」と呼ぶ)
 その前に、もう時間がなくなりそうなので、実は、市川先生にもう一つだけお願いしたいんです。
 いわゆるテレビドラマの問題なんですけれども、昭和四十年ごろまではホームドラマだった、それから五十年代になりますと家族劇になっていった、五十年代後半からは疑似家族だ、そしてトレンディードラマになっていっていると。先ほどサスペンスドラマというお話もありましたけれども、私は、今後のテレビドラマの進む方向、とりわけ地上波のデジタル化という状況の中で、それを有効に使ったテレビドラマの進む方向、こういうものがこれから検討され、研究されていくんだと思いますが、先生、このところについて何かお考えがありましたら。
市川参考人 極めて限られた数の視聴率というものの中で、もうこれ以上テレビドラマの質が落ちていくということは、さすがに見るにたえないものがございます。何よりも恐れるのは、要するにテレビドラマの画一化というようなことなんですね。テレビドラマは、もっとテレビドラマの魅力が一〇〇%発揮できるような環境をこの世界でつくってもらいたいということは、やはり実感としてございます。一つ僕は、デジタル化が今の視聴率体制の解体につながればテレビドラマにとってはありがたいことだろうと思っております。
 それから、今の地上波全体がよくも悪くも報道中心であることは、見てのとおりなんです。何かテレビドラマがテレビのおかずのような感じでそこにたまに窮屈に存在しているよりは、やはりもう、テレビドラマ専門チャンネルというようなものができて、自由に、古いものも新しいものもと。
 それから、今はもう全部極めて限られた層にしかターゲットを絞っておりません。そこに絞らないと視聴率が実際とれないということもあります。老人、中年以降は、男女ともドラマの視聴者の対象にすらされていない。アンケートも行かないんですよ、今の五十代以上のところには。あなた、どんなテレビドラマを見ていますかというアンケートも行かない。問題にされていないというのは極めて異常なことだと私は思います。これから老齢化に向かうときに、テレビドラマを見るのが楽しみという層を切り捨てる法はないじゃないか。そういう人たちのためのチャンネルというようなものは、当然、求められればそれはできるわけですから、そういう時代になることを私は個人的には望んでおります。
矢島委員 ありがとうございました。終わります。
遠藤委員長 次に、横光克彦君。
横光委員 社民党の横光克彦でございます。
 きょうは、お三方、それぞれのお立場からの貴重な御意見、ありがとうございました。
 テレビがスタートして五十年ということになるわけですが、やはり、私たちが持っている印象、テレビのスタート時期、創成期というのは、ニュース、報道、そしてまた、ほとんどが娯楽であったという印象がするんですね、ドラマを含めて、スポーツを含めて。そういった創成期の時代から、ドラマの分野の変遷は市川先生から詳しくお話ございましたが、この五十年間で、テレビの存在そのものは物すごい勢いで生活の中に入ってきた、生活の一部というより、生活そのものにテレビはもうなってきた、そういった印象を私は持っております。
 視聴率競争が激化する中で、今度は逆に、視聴者の方はあらゆるチャンネルを自由に選べる、視聴者にとりましては、割とのんびりと、テレビが与えてくれる媒体を自由に選べる、その裏では激しい視聴率競争の激化がある、そういった状況だと思っているんですね。
 そういった中で、今回、イラク戦争の報道が始まりました。ここで国民は改めて、テレビの持つ報道のすさまじさというものをかなりショッキング的に感じておられるのではなかろうかと私は思うんですが、このことについて、まずちょっと田原さんにお聞きしたいんです。
 報道というのは、まず事実を報道しなきゃなりませんね。そしてもう一つ、その上に、客観的な立場で報道するのが筋だと私は思うわけですね。
 ところが、今回のイラク戦争の報道は、もちろん知る権利というものもあるでしょうが、果たしてここまで知る権利を求める必要があるのかというほど、すさまじい報道が連日されております。これは、事は戦争であるということ、そしてまた時差があるということ、生と録画と随時放送すると一日じゅう絶え間なく報道されているという物理的な問題もあります。
 しかし、ここまで果たして報道が事細かく、微に入り細に入りやる必要があるのか。知りたい部分もあるけれども、知りたくない部分もある。見たい部分もあるけれども、とりわけ子供には見せたくない部分もある。いろいろなものがテレビ画面から発信されるわけですね。戦争のときの報道というのは、ちょっとエスカレートし過ぎているところまで来てしまったんではないか。
 ついきのう見た画面で、ある兵士が横を向いてレシーバーを持って、北北西の方から攻撃を受けていますということがアップで映ったんですね。これはまさにドラマの映像のワンカットでもあるし、ここまで果たして報道することの意味がどこにあるのかという気がしてならなかったんです。やはり戦争になりますと、情報の戦争ということもまた新たに加わってきてしまったというような気がした。これが果たしていいのかどうか。やはり事実を、的確に、公平に、なるたけ早く、この三原則を守ればと。
 私は、一分一秒を争って、先を争うような報道合戦によって、逆に誤報とかいろいろなものを生んでしまうような事態になりかねない、そういったことをちょっと危惧しておるんですが、今回のイラク戦争の報道に対して、余りにも情報過多、激しい、やり過ぎる、ここまで報道はやる必要もないんじゃないかという意見と、もっともっと知りたいんだから今のでいいんだという意見と両方あろうかと思いますが、田原さんはどのようにお考えなんでしょうか。
田原参考人 テレビがイラク戦争の報道をするのは、それはもう視聴率が来るからです。視聴率が来なきゃ直ちにやめます。だから、今、ワイドショーやいろいろなものが全部、つまり、イラク報道の番組をつくっているんじゃなくて、ワイドショーやいろいろなものが全部イラク報道をやっているということなんですね。では、なぜワイドショーやいろいろなものがイラク報道をやるかといえば、やれば視聴率が来る、視聴率が来るというのは、お客さんがそれを求めているということなんですよ。
 そこで、ちょっと、聞いちゃいけないというので聞きたい。
 知りたくない行為って、どんな行為が知りたくないのか。こういうことは放送しない方がいいというのはどういう部分ですか、例えば。
横光委員 それは、やはり残虐性の部分でしょうね。
田原参考人 残虐性は、アルジャジーラなんか、例えばアメリカの捕虜を出してやったところが残虐性に見えるんだけれども、では、アルジャジーラの報道はするなということですか。少なくともアメリカは、アメリカ発の報道では残虐シーンはありません。
横光委員 例えば、九・一一のテロがございましたね。あのときの映像というのは、それこそ、考えられないようなショッキングな映像でしたね。それと、今度の戦争の報道を見ると、バグダッド、きょうはもっと激しいのかもしれませんけれども、バグダッドの攻撃の映像を見ますと、あのショッキングな九・一一のビル破壊よりもっとすさまじい攻撃がもう当たり前のようにやられている姿を見たときに、そこに今度、事細かに、捕虜の問題とかあるいは子供の問題とか、そういった具体的な残虐性を伴った絵が出ると、やはり、そこまで報道する必要があるのかと。
 例えばアメリカでは、イラクがアメリカ兵を捕虜した映像はアメリカでは放送しないような形をとっているらしいんですね。やはり、こういったことも必要じゃないかと。
田原参考人 あれは明快ですよ。つまり、そういうアメリカ兵が捕虜になって残虐なことをされている映像をアメリカに流すと、アメリカの戦意が失われるからですよ。アメリカが戦争したいという気持ちをなるべく高めたいと思っている、ブッシュ大統領は。それを損なう情報はみんな切っている。
 私は、残虐な報道はけしからぬと言うけれども、もし国家が、国家権力が、これは残虐だというふうに判断して、こういうものは放送するなと言ったら、そっちの方がはるかに危険だと。(発言する者あり)ですよね、これは自民党もそうですよね。
横光委員 ですから、確かに、知る権利、知りたいというところはもうエスカレートするだけなんですよ。ですから、BBC……
田原参考人 だから、もっと言いたい。
 あなたはちょっと間違っている。もし戦争で残虐な報道をすればするほど、日本の国民も世界の国民も、だから戦争しちゃいけない、こんな事態になっちゃいけないんだという世論が高まると私は思います。
横光委員 ですから、そういった残虐性のこともさることながら、いわゆる取材源の確かさとかいろいろなものが、報道合戦のエスカレートによってまちまちになることだってあるわけですよ。
田原参考人 もう一つ言いたい。
 ベトナム戦争のときに、アメリカは報道をみんな自由化した。そうしたら、アメリカ・ルートで行った人たちが反米の報道をどんどんやった、日本のマスコミもありますが。それに懲りて、湾岸戦争は一切報道を禁止したんです。プール取材というんですね。一切報道させなかった。これに対して、特にアメリカの報道機関から、これはやはり報道規制もいいところだ、管理だ、けしからぬという話になって、今度のイラク戦争では六百人という枠で報道を認めたわけですね。
 私は、湾岸戦争と今度の戦争、報道を認めたのと認めないのとどっちがいいかといえば、それは、認めた方がいいと思う。あなたが、アメリカ、ブッシュと同じとは思わなかった。
横光委員 いやいや、そうじゃなくて、やはり、のべつ幕なしに画面に出ていると、結局それは、見たくない人は余り……
田原参考人 見たくない人は見なきゃいい。ドラマもやっているんだから。
横光委員 見なきゃいいんですよ。いやいや、それはそうなんです。ただ、やはり私がちょっと非常に気にかかったのは、子供たちがどうしても見ちゃうんですね。見ちゃうというか、テレビがいつもあるからどうしても見ちゃう。そうすると、そういった映像というのは、大人は判断できますけれども、子供はそのことがずっと残ってしまう。
田原参考人 だから、少なくとも親は、こんな残虐な戦争をしちゃいけませんねということを子供に言うべきです。それはもう義務があります。
横光委員 ですから、報道の自由を否定しているわけじゃありません。ただ、やはり戦争の報道になりますと、例えばBBCの場合は、報道の指針というものをつくって、それなりに、公平公正、そして事実、客観性というものを重要視した報道をしようという放送局もあるわけですね。
田原参考人 ちょっと聞きたい。イラク戦争における公平というのは、何を公平というんですか。
横光委員 報道の場合の公平を言っただけで、イラク戦争の場合は……
田原参考人 いや、だから、イラク戦争を報道する場合の公平性って何ですか。
横光委員 それは、ですから、情報源の確かさでしょう。結局、はっきり情報源を確かめなくて、撮った映像をそのまま報道することによって偏るということだって起こるわけですね。そういったこともやはりひとつ……
田原参考人 ちょっと、あなたは基本的に間違っている。事実というのは、本当にそれが事実かどうかというのは、時には十年たたなきゃわからない、時には百年たたなきゃわからない。
 例えば、西山事件というのがありました、毎日新聞の。あの西山事件のときには、西山さんは逮捕された。それはまあいいんだけれども、あの西山さんの流した情報はなかった、あんなことはないんだと政府は言っていました。ところが、この間、アメリカの情報開示によって、あれはやはりあったんだとわかった。つまり、あの西山事件の事実がわかるのに何年かかったのかな、三十年とかかかるわけですね。
 だから、そんな、事実ということを言えば、これは百年かかってわかる事実もある。例えば、最近になって、極東軍事裁判には間違いもあるということをいろいろ言い出しました。だから、そこが問題なんだ。だから、その場でわかる限り、やはり事実に近い、あるいは事実を報じるわけで、そういう事実は後で間違う可能性もあるんですよ。
横光委員 報道の自由、そして知る権利、そういったものを否定しているわけじゃありません。ただ、やはりもうちょっと、ある程度の、何といいますか、事戦争に関しての報道は、もうちょっと……
田原参考人 規制すべきであると。
横光委員 いや、規制じゃない。考える必要があるんじゃないかという気がしたわけで今こういった質問をしたんです。ちょっと時間がないので、もう一つ、別な方にちょっと質問をしたい。後でそれは自由討論のときにまた出るかと思いますが。
 市川さんにお聞きしたいんですが、ドラマの変遷、つくられ方の変遷を詳しくお話しされました。私も一時期そういった世界におったものですからよくわかるんですが、私がおるころからも、七〇年代ごろからも自主制作、局制作というのはだんだん減って、下請、外注というのが中心になりつつあったんですね。それが今、さらに外注、下請、さらにその下請の下請というお話もございました。
 こういったときに、メディアに携わるいろいろな人のことを考えたときに、そこには実演家というのが存在するんですね。脚本家の方たちの著作権、これはかなり確保されていると思います。音楽家もかなり、非常にはっきりと著作権が確保されておるんですが、権利を。ところが、一番この権利が侵害されているのが実演家、いわゆる俳優さんとかその他の人たちですね。そういう人たちは、制作したドラマ等がビデオ化で二次利用されたり再放送されたり、そういったときの著作権の保障はこれまでほとんどなかったんですね。そして、これから再々放送あるいは二次利用、三次利用というのが非常に中心になってくるときに、この著作権の問題というのは非常に重要になってくると私は思うんです。NHKアーカイブスが今非常に盛況で、見る人が多いと聞いておりますが、ここでも、まだたくさんの作品がありながら、著作権問題が処理できなくて見られないという作品もあるらしいんですね。
 ですから、これから二次利用、三次利用あるいは再放送、再々放送の時代になりますと、余計この著作権の問題が大きいと思うんですが、この実演家の著作権の件については、どのようなお考えをお持ちでしょうか。
市川参考人 議員お話しのとおり、私どもの組織は、日本脚本家連盟といって、放送作家協会のいわば組合的な活動、もう四十年ぐらいの歴史の中で、その辺は結構闘って、放送作家の著作権というのはほぼ確立しております。
 おっしゃるとおり、俳優の肖像権というのは若干あいまいなところもあろうかと思います。今の段階は、今もまだNHKを中心に結構それは目配りがきいていると思いますよ。これからデジタル化、DVD化されていくときに、再放送が繰り返されていくことも含めて、俳優さんたちの映像権、著作権というものへの配慮というのは、それはライターたちもそうなんですけれども、御承知のとおり、実はその辺が、今、法的にも全然整備されていないと思います。そういう法整備みたいなものは、それこそ、俳優の代表でいらっしゃる横光議員が議員としていらっしゃるわけですから中心になってやってくださらないと、なかなかそこまで目が行き届かないということはありましょうから、私は私で脚本家連盟で頑張りますので、議員もどうぞ俳優を代表して。
 特にこれから、デジタル化すると、本当にスタッフも著作権を守る職員たちの数も全く足らないんだろうと思うんですね。だから、恐らくそちらは俳優協会だろうと思いますが、その辺の事務局の強化というものを同時になすっていくべきではないかというふうに思います。
横光委員 わかりました。終わります。
遠藤委員長 次に、金子善次郎君。
金子(善)委員 保守新党の金子善次郎でございます。
 参考人の先生方には、どうも御苦労さまでございます。
 最初に、音先生の方に御質問をさせていただきたいと思うわけであります。
 先ほど来のお話の中で、これからの放送というものは、地域重視あるいは地方分権という観点が特に必要だというような論調でのお話だったと思います。ただ、実際の日本の放送の環境というものは、どちらかといえば中央集権に向かいつつあるというようなことが言われているわけであります。確かに建前としては、これから行政の分野でも地方分権が大切だと。一方において、いわゆるマスコミ、テレビ、ラジオも含めまして、国民生活、住民生活に与える影響というのは大変大きいものがあることは、現実の姿であります。
 一方において、中央集権化にむしろ向かっている、一方においては、分権が必要だというような流れが今言われているわけですが、その辺はどうやったら本当にうまくいくのか。その辺について、どのようなお考え方を持っておられるか、お聞きしたいと思います。
    〔委員長退席、佐藤(勉)委員長代理着席〕
音参考人 先ほど規模の経済のお話をさせていただきましたけれども、まさに、市場に任せてしまってうまくいかない部分といいましょうか、先ほどアメリカの事例も御紹介をさせていただきましたが、アメリカのような、日本以上に市場主義といいましょうか、市場性を非常に重視した形で事業者たちがやりとりをする、競争をする、その中でも、もう片方で、制度的なところで、例えば地域主義というものを大事にする。それは、まさに政治の問題なのではないかなというふうに私は思うんですね。
 つまり、一方では自由濶達な競争をさせながら、もう片方では、私たちの社会にとって必要なものは何なのかという議論を活発に行って、その中で、例えば今、日本においては中央集権的な情報の発信というものが非常に多いわけですから、とすれば、分権的な情報発信のあり方、仕掛けというものをどういうふうに考えていったらいいのか。文化的な問題ももちろんございますし、産業的なところから見ても、そのことの可能性はないだろうかということを積極的に議論をし、その枠組みづくりやシステムというものを検討していくことが必要なのではないのかというふうに考えております。
金子(善)委員 突っ込むようで恐縮でございますけれども、具体的に言いますと、例えば放送時間で、この時間は地方の番組を流す時間だといろいろな規制をかけていく、こういうようなお考えなんですか。
音参考人 それは、方法はいろいろあるかと思います。
 コンテンツの中身について、番組の中身について政治ですとか行政というものが介入していくことに対しては私は非常に批判的なのでございますけれども、それは先ほどの田原さんの話と私とつながるところがあるのですが。もう片方においては、ある部分、地方からの発信を支援していくですとか、その枠組みをつくっていくですとかというようなことは、十分検討に値するものなのではないのかというふうに思います。
 アメリカのパブリックアクセスの例を先ほど御紹介いたしましたけれども、アメリカのパブリックアクセスがすべていいとは私全く思っておりません。けれども、先ほど事例を紹介したのは、というようなやり方をしているところは諸外国を見てみればいろいろあるということを御紹介したのでありまして、日本に最もいいやり方というものを議論してつくっていく、また考えていくことが、今ちょうど五十年という節目でできるのではないのかというふうに思った次第でございます。
金子(善)委員 どうもありがとうございました。
 引き続きまして、音先生に御質問したいと思います。
 先ほどもちょっと質問が出ていたと思いますけれども、デジタル放送が二〇一一年の七月の二十四日までに切りかえられようとしている。これで、東京のキー局というか、こういうところはいろいろな投資の資金力もあるだろうと思われますけれども、地方の局はこの切りかえがなかなか大変なのではないかというようなことがあちらこちらで今言われている状況にあるわけでございます。
 先ほどは、各家庭のテレビをかえなきゃならないというようなことで、ざっと計算しても、一日当たり四万台交換していかなければこれから普通にやっても間に合わないんだというような計算が成り立つんですけれども、この点について、これは政策的な助成措置とかいろいろなものが必要になってくる可能性は大だとは思いますけれども、その辺どのようにお考えでいらっしゃいますか。
音参考人 先ほど矢島議員からの御質問にお答えをさせていただいたことが、まずは第一点であるかと思います。
 つまり、知られていないということ、それから理解されていない。そのことを積極的にPRしていく必要というのはあると思います。まず、利用者の問題でございますね。その中で、デジタル化によってどういうふうなことが具体的に起こっていくのかということをもっと説明していく必要があるんだと思うんですね。
 先ほどの話の繰り返しになりますけれども、当然のことですけれども、それは放送事業者もなさなくちゃいけないことでしょうし、それからメーカーなどがそういうものに対しての積極的な対応をしていかなくちゃいけないということはもちろんあると思いますけれども、もう片方では、今議員がおっしゃったように、政策的な枠組みの中でそういうものを考えていく、示していく必要があると思います。
金子(善)委員 ありがとうございました。
 続きまして、市川先生の方にお尋ね申し上げたいと思います。
 先ほど来からのお話をお聞きしまして、シナリオライターと申しますか脚本家の世界、大変な寒々しい状況にあるようなお話で、びっくりした次第でございます。
 確かに、視聴率万能主義というようなことから、もっともっと本当にいいものをつくるライターというものを大切にする土壌を醸成していく必要があるというようなお話だったと思います。これは、諸外国、特にアメリカなんかと比較いたしまして、どんな状況なんでしょうか。日本は日本特有のそうした事情があってそうなのか、アメリカなんかも大体そんな状態になっているのか。
 我々一般的に聞きますと、映画の世界なんかでは、脚本家というか脚色家というのかよくわかりませんけれども、かなり大切にされているようなことになっているんじゃないかということを頭の中で想像していたんですが、日本のそういう状況というものは、なぜそうなってきているのか、単にお金だけの問題なのか、その辺も含めてちょっと御説明いただきたいと思います。
市川参考人 視聴率競争ということだけで言えば、アメリカのテレビ局の方がはるかにシビアだと思います。しかし同時に、アメリカのテレビドラマの状況というのは、テレビドラマの制作現場、制作者というものが非常に強いんです。権利関係も、それからギャラ交渉等々、非常に強い力を持って自分たちのつくりたいものをつくる。そして、つくりたいものをつくると同時に、もちろん、高い視聴率をとるためのドラマづくりというようなものに専念している。勝ち負けは非常にはっきりしておりますけれども、少なくとも、こういうものをつくりたいんだ、こういうものをつくれば勝負できますよというのを、いわゆる編成とか営業任せではなくて、つくり手が自分たちの体験と実感の中から自信を持ってつくっているという状況がある。これは大きな違いです。
 日本の場合には、本当にそれはもう、何だか、寄せ集められて、下請の下請に出されて、しかも下請に出されれば出されるほど制作費というものも削られながら、それを断れば次のところに仕事をとられるだけですから、赤字になっても自転車操業でやっていく、それで、残念ながら安いライターしか使えませんというような現状です。
 時間に限りがありますので、私の脚本の分野だけで言いますと、一つ、アメリカにあって日本にないものは、脚本マーケットなんです。
 つまり、アメリカの場合には、脚本プロダクションというものがございまして、そこで脚本は自由に売り買いをされております。ですから、局も、プロデューサーが何かドラマをつくろうとした場合に、個人的にだれか知り合いの脚本家に頼むというよりは、脚本プロダクションに、こういうコンセプトでドラマをつくりたいんだと、何かいい脚本はないかと、これは映画もテレビも共通しておりますけれども、そうすると脚本プロダクションが、大方が、自分が契約した作家の台本を預かっておりますので、こういうのはどうかといって、サンプルを幾つか見せて、その中から選ばせる。そうすると、プロデューサーのサイドも、これから本を発注して一体どんな本ができるか見当がつかないところでやみくもに作業を進めるよりは、もうその発注した段階からぽんとそこに本が出てくるわけですから、仕事の効率も非常にいい。
 それから、自分のつくりたいように直したいというときも、もうその本はある種買い取られてもおりますので、作家は権利を全部そのプロダクションに預けておりますから、そこに何人もの作家たちが入ってそれを直すということも可能です。ですから、向こうの映画なんかごらんになれば、クレジットをごらんになればおわかりになりますように、脚本家の名前が何人も出てくる。それは、脚本家がだめだから直し直されたということじゃなくて、それだけにさまざまな手を渡って、そしてその人たちには正当なギャラが支払われてきたという、非常に名誉のあかしにもなるというようなことになります。そこがやはり大きく違う。
 一言で申し上げれば、日本にそういう脚本マーケットというものができれば、いい脚本が競り上がっていけば、この間の「サイン」とかいう映画は一本が何億という脚本料、それは、競り落とされた結果そうなっているというようなマーケットの確立というようなものも日本には全く存在をしておりませんので、私たち放作協では、何かそういうものもつくれないかなというような志向は現在しております。
 済みません、ちょっと答えが半端で。
金子(善)委員 ぜひ頑張っていただきたいと思います。
 最後でございますが、田原先生にお伺いしたいと思います。
 ある雑誌の一部で、前後を申し上げないで恐縮でございますが、特に、テレビというメディアでございますけれども、目に見える映像は必要としているけれども、目に見えないものを報道することが大切なんだというようなことをおっしゃられているわけでございますけれども、それは具体的にどんなことをイメージされているんでしょうか。(田原参考人「いつ、どんな雑誌でしゃべりましたか」と呼ぶ)
 いろいろたくさんありまして、今すぐ探し出すのはちょっと……
田原参考人 見えないというのは、例えば政治がどう動いたか、このデュープロセスというのは基本的に見えないんですよね。この見えないところを、幾つでも例はあるんだけれども、例えば小泉さんが今度アメリカのイラク攻撃を支持すると決めるについて、彼はどう悩んで、どこでどう判断して、どう決めたのかというのは見えないんですね。やはりこれからの政治は、このデュープロセスを国民に透明にするというのが大事なので、つまり、私たちの役割はそこを明らかにしていくものだ、こう思っております、政治でいえば。あらゆる部門であります。
 それから、もっと言いましょうか、具体的に。例えば、私の番組に麻生太郎さんという人が登場した。そのときに、もしもイラク攻撃を国連安保理の決議なしでアメリカがやったときには日本はどうするかと。当然待ったをかけると彼は言った。政調会長です。宮澤さんも、それは一〇〇%だめと言った。
 翌日になって、政府は慌て始めた。どうも政府は、要するに、最終的にはフランスがアメリカに妥協すると見ていたんですね。ところが、その翌日、妥協しないということがわかってきた。それで慌てた。そこで、みんな意見が変わってくる。なぜ変わったのかということを私は聞きたいと思ったら、そこはみんな出演は拒否しちゃった。
 大きな変化というのは、必ず見えないところで起きているんですよ。そこを知りたいということです。
    〔佐藤(勉)委員長代理退席、委員長着席〕
金子(善)委員 もっとお聞きしたいところでございますが、時間が参りましたので、どうもありがとうございました。
遠藤委員長 以上で各会派を代表する委員の質疑は終了いたしました。
 これより自由質疑を行います。
 この際、委員各位に申し上げます。
 質疑のある委員は、挙手の上、委員長の許可を得て発言されるようお願いいたします。また、発言の際は、着席のまま、所属会派及び氏名を述べた上、お答えいただく参考人を御指名いただくようお願いいたします。なお、理事会の協議によりまして、一回の発言時間は二分以内となっておりますので、委員各位の御協力をお願い申し上げます。
 それでは、質疑のある方は挙手をお願いいたします。
大出委員 民主党の大出彰でございます。
 田原参考人にお聞きいたします。
 十二年前の湾岸戦争のときに、いたいけないクウェート脱出少女の映像と、それから原油まみれの水鳥の映像、あれがデマであったということを、いつお知りになって、それがデマだということをどのようなときに報道なさったかをお聞きしたいんですね。
 それから、それについて、今回も、パウエルさんがごみ情報をいっぱい出してくるわけですね。その中に炭疽菌というのがありますね。あれは、乾燥炭疽菌を見せるわけですが、実際は、イラクがつくったのは水性の炭疽菌で、三年間しか寿命がなくて、その培養装置も五年で終わりだから、九六年から数えたら無害であるという情報がありますね。そういう情報をちゃんと検証して出しているのかどうかということもお聞きしたいと思います。
田原参考人 まず、湾岸戦争のときの証人になったクウェート大使の娘さんの問題、それと水鳥の問題。あれは、残念ながらアメリカからの情報でした。それで、私の番組では、「サンデープロジェクト」で両方とも取り上げました。一年後ぐらいだったかと思います。
 それから、化学兵器あるいは生物兵器でいえば、これは情報が錯綜して、よくわかりません。多分、今一番アメリカが恐れているのは、炭疽菌ではなくて、やはりオウムが使ったサリンだというふうに見ています。
吉田(六)委員 自由民主党の吉田六左エ門でございます。
 田原先生に、ふだんテレビを見ながら私が感じておることを申し上げますので、それに対する先生のお考えを聞かせていただきたい。
 実は、昔、アナウンサーはニュースを読むという言い方をよくされました。そしてもう一つは、ワイドショーのごとく、田原先生が司会をされる、御自身のお考えを……(田原参考人「僕のはワイドショーじゃないですよ。あれは政治番組です」と呼ぶ)いや、ワイドショーじゃなくて、政治家の意見交換をコーディネートしながら、視聴者にわかりやすく、今の時代、政治の動きを説明するという番組がありますね。それで、そのちょうど中間ぐらいで、お笑い出身者とかいろいろな方々と女性とが、二人とか三人がペアになって、そしてニュースを読むがごとく、しかし若干味つけをしながら伝えていくという番組が最近多うございます。
 これらの番組のときに、くちばしの先が青いとか黄色いとかまで言いませんけれども、何か簡単にいろいろなコメントが入るんですね。こんなこと言わなきゃいいのにな、真っすぐ物を聞かせていただければ、国民みんな、それぞれに判断するのになと時々思うことがあるんですけれども、こういう取り扱いについてどんなふうにお考えになっていますか。
田原参考人 それは、視聴者は全部わかっていますよ。ああ、あれはつまりワイドショーで、一見政治風のことを言っているけれども、あれはバラエティーだ、だからおもしろおかしく言っているんだなと。昔自民党にいて今引退した人が割におもしろおかしく言っていますね。ああいうようなのは、つまり、お笑いと同じように視聴者は聞いています。大丈夫です、そこは。
伊藤(信)委員 田原参考人と音参考人にお聞きします。
 まず、田原参考人ですけれども、さっき、司会にも当然思想があってそれが反映されるということをおっしゃいましたね。私も全くそのとおりだと思うんです。ニュースは映像だから客観性というけれども、これはそうではないんで、何を事実と見るか、どういう編集をするか、どういう文脈でやるかによって必ず主観性を持ちますので、そういう意味で、私は、放送法より各放送局でうたわれている公平性とか客観性というのは相当欺瞞のあることだと思うんです。
 そういう意味からいいますと、「サンデープロジェクト」のような番組は、堂々と、やはり報道番組というよりは言論番組として主張すべきだと思うんですね。それで、「サンデープロジェクト」だけじゃなくて、多くの報道番組と言われているものは、私は言論番組だと思うんです。その辺についてのお考え。
 それから、音参考人には、さっき、同じ社会で必要な情報を得ると言われましたけれども、その同じ社会というのは、文化的範疇を言っているのか、地理的概念を言っているのか、それはどちらですか。
田原参考人 私は、随分公平で客観的にやっているつもりですよ。
 つまり、僕が力を入れているのは、政治家に、「サンデープロジェクト」は、まずそのときのキーパーソンに出てもらいます。だから、どうしても自民党が多くなるんです、つまり大臣とか。それで、そのキーパーソンに出てもらって、そのとき国民が、私が疑問を持っていることを聞いていくわけです。聞いていって、あいまいだ、違うんじゃないかと言うんで、私の意見を例えば川口大臣あるいは安倍官房副長官に押しつけたことはほとんどないと思いますよ。
音参考人 文化的概念か地理的概念かというお話なんですけれども、私、文化的概念は極めて重層的なものであるというふうに考えております。
 つまり、私たちが住んでいる社会、例えば、きょうたびたび出ておりましたイラクでの今の戦争の問題、このことも、考えてみますと地球の裏側でやっているわけでして、まさにグローバル、一つの地球という同じ社会に生きているわけですし、それから、先ほど私がやや強調させていただきましたコミュニティー、地域ということを、すごく大事にすべきだというお話がございましたけれども、それは、同じグローバルの社会の中でのある特定の地域ということで言っていることでございますし、つまり、そういう重層的な中で私たちは今という時代を生きているというふうに認識をしております。
 つまり、例えば私であれば、私が生きているこの今という時代の中で、私がアイデンティティーを持つものというのは幾つかあるんだと思うんですね。それは重層的にあるんです。そこを共通のものとして扱うことができるようなチャンネルをたくさん手に入れていく、そこで私たちが情報を制していく、そこが大事なんじゃないのかなと思います。
安住委員 きょうは、ありがとうございます。民主党の安住です。
 田原参考人に伺いますけれども、私も報道する方に十年いまして、こっちの世界に来て十年といいますか、非常に思うのは、実は田原参考人の番組を見ていて、それを超える現場の記者がいないというか、乱暴さとか、たけだけしさがないんで、非常に私は、残念ながら、日本の権力というのに対してメディアというのは、全く迫ろうという気迫を実は余り感じないんですね。それがまた私が報道をやめた原因でもあったんですけれども。
 私は、それに起因するのは、やはり根源的には記者クラブ制度の談合社会というか、これがもうどうしようもない状況にまで来ていると思うんですね。先ほど小泉氏に対する質疑のことをいっても、多分相当な遠慮と、ある意味での配慮の中で……(田原参考人「それは談合ですよ」と呼ぶ)まあ、おっしゃるとおりですね。これをやはり廃止して、権力に対してもう少し、たけだけしさというか、権力に迫っていくという努力をしないから、例えば、小泉氏が首相になって非常に支持率が高いときに、日本テレビに至っては、それを主役にしたばかげたテレビドラマまでつくってやっている。
 つまり、そこに私は、非常に今のテレビ世界の、テレビでなくても新聞もそうですけれども、大きな問題が内在しているんじゃないかと思うんですね。その点について。
田原参考人 僕が大胆で乱暴だとすれば、そうではないと思っていますけれども、それは、私はちょっとジャーナリストから少し最近外れていると思っているんですよ、自分で。この国をよくしたいと思っているんですよ。この国をよくしたいと思っているので、この国をよくしないような人間に対しては、やはりこてんぱんに言いますよ。
 だから、さっきから言っているように、どうもイラク問題について、この国は観客席で物をしゃべっている。これは、自民党もそうだし、民主党もそうだ。やはり国際社会の一員として、日本は何ができるか何ができないか、そこをちゃんと論議して国民にちゃんと伝えるようにしてほしいということを、私は、この国をよくしたい、それから日本人として世界でやはり誇りを持ちたいと思っているから言っているんです。
安住委員 記者クラブ制度について、どうですか。
田原参考人 あれはない方がいいと思いますけれども、あれがないと、今度はマスコミに対して政府なりが何にも話さないといけない。だから、記者クラブのあり方を変えなきゃいけない。これは努力してください。NHKなんて一番悪いよな、記者クラブは。
安住委員 政権をとったら、もう記者クラブ制度は廃止しますよ。
岩永委員 滋賀県出身なんです、先生。
 先生の「サンデープロジェクト」を見ていて、今の安住先生の発言とよく似ているんですが、本音を呼び出そうとする先生のお気持ちというのは、きょう聞いてわかりましたし、また、これは先生の持ち味だ、このように思うわけでございますね。しかし、反論を許さない強引さがやはりあるんですね。そして、びくびく離れて我々聞いているんですが。
 あれは何かというと、出てくるのは、やはり政府の発言を国民に向けてしたら、その発言というのは取り返しがつかない部分で、先生の突っ込みがやはりかなり影響力を及ぼしている。だから、そのことが、その場の一時的な、瞬間的な発言であっては困る。やはり政治というのは全体を含めて動いているというような部分でございますので、そこらあたり、間違いを起こさなかったらいいがな、先生に突っ込まれて、失言しなかったらいいんだがと。
 そういうような部分での考え方というのは、先生、どういうふうに思っていますか。
田原参考人 僕は、失言を出そうと思っていない。本当のことを聞きたいと思っている。
 例えば、もっと言いましょう。この間の日曜日に、山崎さんと冬柴さんと、それから岡田さんと、四党の幹事長に出てもらった。山崎さんは、僕の質問に逃げまくったわけですね。あれは、反論も何もしていない、もう恥も外聞もなく逃げまくったわけですよ。なぜあんなことをするんですか、あなたのところの幹事長は。あれは、反論を聞いたんじゃなくて、言ってくれと言ったのに、逃げまくっているんです。
岩永委員 田原先生、政治の現場というのはあるんですよね、やはりこの中で議論をしながら積み上げていく、そしてその中で解決していくという。
田原参考人 政治の現場のことは国民に言えないと。
岩永委員 いや、言ってもいいけれども、その過程というのがあるんです。
田原参考人 言ってもいいんじゃなくて、それを言うのが政治家じゃないですか。
岩永委員 いや、過程を積み上げていくのが、先生、やはり私は政治にはあると思うんですがね。
田原参考人 だって、アメリカ支持を決めたんですよ。戦争が始まっているんですよ。なぜ支持したんだということを聞いていったら、答えるのは当たり前じゃないですか。
左藤委員 自由民主党の左藤章です。
 実は前、森さんのときに、えひめ丸の事件がありました。そのときに、ゴルフをしていたという映像なんですが、一年前か一年半前の清和会、僕は清和会じゃありませんけれども、清和会の派閥のときのゴルフの映像を絶えず流したわけですね。
 我々にとってみれば、その場のときのゴルフじゃない、一年以上前、一年半以上前の映像を絶えず流すと、視聴者を、国民を洗脳する、ああいう場合に、にこやかに、事件が起きたにもかかわらず、うれしそうな顔をしてゴルフをしている総理というイメージになってしまう、はっきり言うと、おかしいんじゃないか、こういうような話になってしまう。
 こういう映像の使い方、これは非常に私は、一回はいいかもしれませんけれども、それから絶えず、そのときには、これは一年前のと何かテロップを入れてもらうとか、こういうことはやはり考えてもらえないだろうかと私は思うんですが。
田原参考人 そのとおりだと思います。私は、あれは問題があると思う。
 だから、森さんが総理大臣をやめてから、私の番組に出てもらって、その辺の話を全部してもらいました。それから、さらにその後もう一回森さんに出てもらって、実はあのとき自分はがんだったんだ、でも、がんで手術をすると総理大臣を一カ月とか二カ月休まなきゃいけないので、がんの手術をしないで総理大臣をして、やめてからがんの手術をしたということも言っておられました。そういう意味では、私は、客観的、公平的にやっているつもりです。
 それで、あれはよくないと思います、さっきのその映像はね。
荒井(広)委員 自由民主党の荒井広幸でございます。きょうはありがとうございます。
 放送と通信について、まだ出ていないようですので、二つほどお尋ねしたいと思います。
 インターネット時代になりました。こういう時代の放送、そして、その中でハードとソフトを分離しましょう、これが非常に議論として我が国では出ているわけです。つまり、放送、送り出し、コンテンツのところを分けちゃう、そうするとソフトは今度通信に乗っけられる、こういったことも一つの文化のあり方としてあるのではないかという提起がされておりますが、音先生、市川先生、田原先生の順で。
田原参考人 ハードとソフトを分けるのは、もう既に現実は相当分かれていますけれども、完全に分けるのは反対です。
 なぜならば、もしハードとソフトを分けると、ハード部門はどうしても管理という姿勢が強まってきます。今テレビが何とか頑張っているのは、制作部門を持っているからです。これはもう、市川さんも言うように、制作部門は頑張るんですよ。編成やそういう部門は管理したい。この制作部門を持っていることでややバランスが保たれて、これがなくなったら管理したものになる。その場合のソフトをプロダクション化すると、プロダクション、オールプロダクションが下請化する可能性がある。これは市川さんが説明しますかね。
市川参考人 制作面で、制作現場が相当弱くなっていく、そうすると上下関係が明確になってしまうという嫌いはあろうかと思いますが、もう一つ、テレビドラマですから、ドラマというのは、大方のドラマはテーマを持って挑むわけですが、どうしてもそこには、現代でいろいろ問題になっている愛とか夢とかというような情緒面だけではなくて、現実に、ドキュメントに問題になっているものをドラマでしか表現できないものとして扱わなければならない義務を、私たちドラマティストは、テレビの現場では、少なくとも放棄してしまっていると思うんです。
 例えば、在日の人を主人公にしたテレビドラマをごらんになったことがありますか。ないでしょう。アメリカでだったら、例えばこれだけ北朝鮮の帰国問題なんかが取り上げられていますね、即これはドラマにしています。そして、ドキュメントでは、ひょっとしたら報道でもできないような、これはフィクションという名目の中で逆に真実を追求していくというようなことを、アメリカのドラマティストなら果敢にやっていると思います。それはもう、命をかけなければつくれないドラマというものが、報道だけではなく、ドラマ屋にもあるわけなんです。
 長い歴史でいえば、被差別部落の問題だって、例えば藤村の「破戒」のような、ああいうドラマが現実にできますでしょうか。これはドラマだから一つの問題提起としてやろうじゃないかというときに、これは真っ先に管理側が反対します。現場はやりたいんです、そういう企画も上がってきます。しかし、それは日の目を見たことは一度もありません。
 しかし、そういう現実に本当にみんなが問題にしていることを、本当は我々はもっともっと勇気を持ってドラマにしなければならない。そういう組織をつくっていただくならば、議員もおっしゃるような、僕はそういう技術的な、組織的なことはよくわかりませんけれども、少なくとも私たちが、言葉狩りをされないような、今、例えば九尾のキツネなんということを言ってもだめなんですよ、歌舞伎でよくございますでしょう、ちょっと今ど忘れしましたけれども。えっというような使ってはならない言葉が随分とやはりございます。
 そういうことも含めて、もうちょっと言論の自由というのは、単なる言論機関だけではなく、ドラマの方にもそれは大きく影響するということも、少し話がずれるかもしれませんけれども、しかし、少なくともドラマ屋が、そういうタブーとされているものをできるだけ排除して、自由な表現ができるような未来志向をしていただければと思っております。
音参考人 インターネット時代の放送ということで、恐らくインターネット上に放送番組が流れるということをイメージされての御質問かと思います。
 このことを考えていくときに非常に重要になっていくのは、放送というのは何なのかという、多分、放送の概念をもう一度考え直さなければいけないのであろうということだと思います。
 日本の場合は、放送というのは非常に範囲が広いんですね。ケーブルテレビも有線テレビジョン放送もありますし、それから衛星放送サービスの番組も今放送ですし。例えば、アメリカの例を先ほど御紹介したのでアメリカのことを申し上げますと、アメリカは逆に、地上放送は放送ですけれども、それ以外のものは通信というふうなことで、非常に限定をしているというようなことがございます。逆に、ドイツのような場合ですと、インターネット上に放送が流れるというものもそれは放送の概念だと。これは、もともと免許に問題があるからそういうことになってくるわけですけれども。というように、放送の概念をどう考えるかということをやらなくてはいけないというのが一つであります。
 それからもう一つ、ハード、ソフトの分離のお話ですけれども、ハード、ソフト、どんどん分離をしていっているわけですが、お二人からはハードの部分が管理というお話がございましたけれども、私、ソフトの部分が問題だと思っております。
 例えば、何でもいいんですけれども、何とか放送会社で、その放送会社は番組をつくっているソフト部分の会社だとすると、では、そのソフト会社に免許を与えるのはだれなのかということが今度は出てくるわけです。では、そのソフト会社が放送事業者として非常に健全であるということを評価する人というのが、今の放送法でいきますと、総務大臣お一人が免許を与えるという権利を持っているわけですね。では、それは一人でいいのかということですね。複数の人でそれは議論して決めなくちゃいけないんじゃないかというふうなこともあるかと思うんですね。つまり、コンテンツの中身を評価するということが一人でいいのかという議論が当然出てくるわけです。
 そのあたりのところも一緒に、この免許制度の問題も一緒に考えなくてはいけないというようなことがありまして、先ほどハードの問題をおっしゃいましたけれども、逆に私、ソフトの問題を申し上げますけれども、そのあたりも含めて議論をしないと、このあたりの問題というのは相当いろいろ問題を起こしていくのではないのかなというふうに思います。
浅野委員 独裁政権を取り除くために戦を決意したアメリカを支持する、日米同盟を優先するのは国益に沿うと確信する。小泉さん、割合はっきりしているんですね。背景説明が足らぬのか、発言のタイミングなのか、頻度なのか、そのトータルなのか、その指摘をいただきたいことと、それに関連して、一連の政治現象における、ワンフレーズ・ポリティックスというんですかワンバイトコメントのテレビの功罪について、送り手の側にいる田原先生がどんな思いで眺めているのか、一度伺ってみたいと思っていたので、お聞かせください。
田原参考人 日本がアメリカの支持をしないといけないという事情は、多くの国民はわかっていると思う。それは多分、そうするしかないだろうというのはわかっている。だけれども、それならば、その事情を国民に、もっと丁寧に、何度も何度も時間をかけて説明してくれと。さっき言ったブレアさんにしても、世界のリーダーは全部言っている。その結果、仕方がないと思うならいい。それが全くできていないというのが一つですね。
 それから、疑問がある。例えば、もちろん世界の人たちで、フセイン政権、独裁政権がいいと思っている人はほとんどいないんですよ。それはよくないと。しかし、例えばブッシュさんがイラクを民主化すると言っている。ところが、民主化するという手段は全く民主的でない。デモクラシーというのは、むしろ手段、プロセスが問題であって、民主的ではない手段で民主化するなどというのはちゃんちゃらおかしいじゃないかということになる。
 それと、ドイツやフランスは、フセインに賛成しているんじゃなくて、査察をもっと続けろと言っている。中立の六カ国も、もう少し査察を続けろと言っている。それに対して、なぜ今ブッシュがここでやるんだ、なぜ今ということを決めたのか、こういう疑問がたくさんあるんですよ。それに対して、やはり小泉さん、もっと説明をすべきである。
 それから、ワンフレーズというと、小泉さん、この間もテレビで言っていたけれども、私はワンフレーズで言っていないのにテレビや新聞がワンフレーズしか使わないじゃないかと。確かに、森さんが何か言って、いろいろ失言問題が起きた。あのときに、森さんに私は文句を言った、もっとちゃんと話したらどうかと。田原さん、あいつら人間じゃないよ、あんな対応は。私が五分とか十分とか時間をとってちゃんとしゃべっても、そこは全く使わない。最後にサービスでちょっと言ったことだけぼんと行くと。そういう問題もあると思う。
 だから、もっと言えば、そんなぶら下がりになんてしゃべっちゃだめなんです。やはり、ちゃんと記者会見を開くなり、ちゃんと時間をとって、私の番組とは言わないけれども、テレビに出てちゃんとしゃべる。小泉さんに言ってくださいよ、それをやれと。
玄葉委員 さっき、傍観者だという話だったんで。
 我々も、ある意味で態度は明確だと思っているんです。まさに、査察を強化する、人員とか装備をふやして、強化して対応していく。最後の武力行使は我々は否定しません。ただ、まさに手段として、査察の強化という手段をとるべきだ、それを同盟国である米国に対して注文をつけようということを言ってきたわけですよね。
遠藤委員長 玄葉委員、きょうの会議のテーマではありません。
田原参考人 ちょっと今のに答えます。
 例えば、フランスは査察をもっとやれと言う。もし安保理決議で決まったら、あの国は当然参加するんですよ。ドイツもそういう意味では集団的自衛権を持っている。韓国も参加する。つまり、安保理決議をやれやれと言うならば、やったらどうするかということがないと、やってもやらなくても、つまり、アメリカが勝手にやっても、あるいは安保理決議を経ても、結局両方とも何にもやらないんだというのでは世界に通用しない、そういう論議は。
遠藤委員長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言御礼を申し上げます。
 参考人の皆さん方には、貴重な御意見をお述べいただくとともに、また、忌憚のないお話を承りまして、まことにありがとうございました。委員会を代表いたしまして、厚く御礼を申し上げます。
 次回は、来る四月三日木曜日午前八時五十分理事会、午前九時委員会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。
    午後零時二分散会


このページのトップに戻る
衆議院
〒100-0014 東京都千代田区永田町1-7-1
電話(代表)03-3581-5111
案内図

Copyright © Shugiin All Rights Reserved.