衆議院

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第3号 平成18年10月20日(金曜日)

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平成十八年十月二十日(金曜日)

    午前九時三十分開議

 出席委員

   委員長 桝屋 敬悟君

   理事 鈴木 恒夫君 理事 田野瀬良太郎君

   理事 西村 明宏君 理事 平田 耕一君

   理事 藤村  修君 理事 笠  浩史君

   理事 遠藤 乙彦君

      阿部 俊子君    秋葉 賢也君

      新井 悦二君    伊藤 忠彦君

      飯島 夕雁君    江崎 鐵磨君

      小川 友一君    小野 次郎君

      小渕 優子君    加藤 紘一君

      小島 敏男君    佐藤  錬君

      坂井  学君    柴山 昌彦君

      鈴木 俊一君    冨岡  勉君

      西本 勝子君    馳   浩君

      平口  洋君    福田 峰之君

      藤田 幹雄君    二田 孝治君

      安井潤一郎君   山本ともひろ君

      内山  晃君    奥村 展三君

      田島 一成君    高井 美穂君

      野田 佳彦君    牧  義夫君

      松本 大輔君    松本 剛明君

      柚木 道義君    横山 北斗君

      漆原 良夫君    西  博義君

      石井 郁子君    保坂 展人君

    …………………………………

   文部科学大臣       伊吹 文明君

   文部科学副大臣      池坊 保子君

   文部科学大臣政務官    小渕 優子君

   政府参考人

   (内閣官房内閣審議官)  山中 伸一君

   政府参考人

   (内閣法制局第一部長)  山本 庸幸君

   政府参考人

   (文部科学省生涯学習政策局長)          田中壮一郎君

   政府参考人

   (文部科学省初等中等教育局長)          銭谷 眞美君

   政府参考人

   (文部科学省スポーツ・青少年局長)        樋口 修資君

   政府参考人

   (文化庁次長)      加茂川幸夫君

   政府参考人

   (国土交通省道路局長)  宮田 年耕君

   文部科学委員会専門員   井上 茂男君

    ―――――――――――――

委員の異動

十月二十日

 辞任         補欠選任

  井脇ノブ子君     伊藤 忠彦君

  飯島 夕雁君     安井潤一郎君

  小島 敏男君     新井 悦二君

  藤田 幹雄君     小野 次郎君

  馬渡 龍治君     坂井  学君

  田島 一成君     内山  晃君

  横山 北斗君     柚木 道義君

  西  博義君     漆原 良夫君

同日

 辞任         補欠選任

  新井 悦二君     小島 敏男君

  伊藤 忠彦君     井脇ノブ子君

  小野 次郎君     藤田 幹雄君

  坂井  学君     冨岡  勉君

  安井潤一郎君     飯島 夕雁君

  内山  晃君     田島 一成君

  柚木 道義君     横山 北斗君

  漆原 良夫君     西  博義君

同日

 辞任         補欠選任

  冨岡  勉君     馬渡 龍治君

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 政府参考人出頭要求に関する件

 文部科学行政の基本施策に関する件


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     ――――◇―――――

桝屋委員長 これより会議を開きます。

 文部科学行政の基本施策に関する件について調査を進めます。

 この際、お諮りいたします。

 本件調査のため、本日、政府参考人として内閣官房内閣審議官山中伸一君、内閣法制局第一部長山本庸幸君、文部科学省生涯学習政策局長田中壮一郎君、初等中等教育局長銭谷眞美君、スポーツ・青少年局長樋口修資君、文化庁次長加茂川幸夫君及び国土交通省道路局長宮田年耕君の出席を求め、説明を聴取いたしたいと存じますが、御異議ありませんか。

    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕

桝屋委員長 御異議なしと認めます。よって、そのように決しました。

    ―――――――――――――

桝屋委員長 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。鈴木恒夫君。

鈴木(恒)委員 皆さん、おはようございます。

 本委員会は、何代か前の斉藤鉄夫委員長のときに、たしか理事会で合意があったと思いますけれども、朝のあいさつをまずしようということになっておりまして、改めて、新委員長にもお願いいたしまして。

桝屋委員長 わかりました。

鈴木(恒)委員 おはようございます。自由民主党の鈴木恒夫でございます。

 きょう、新しい安倍内閣のもとで文部科学大臣に就任されました伊吹大臣、本当におめでとうございます。この内閣は、教育再生を掲げていらっしゃるわけでありまして、伊吹大臣には格別の御奮闘をいただきたく、御期待申し上げているところでございます。

 きょう、私、三十分の時間ということでございますが、二十五分ぐらいでやめたいと思っております。

 大臣、御存じと思いますけれども、現行の教育基本法は、昭和二十二年三月三十一日施行でございます。実は、私は昭和十六年の二月生まれでございますから、この教育基本法が施行された一期生みたいなものでございまして、新しい教育基本法のもとで教育を受けて今日に至っているというものでございます。

 同僚の議員の中に、麻生太郎とか古賀誠とか久間章生とか、そうそうたる方々がみんなこの二十二年に小学校に入った口でございまして、そこにおかけの石井郁子さんも新教育基本法のもとで育ってきたという。伊吹大臣は十三年生まれでいらっしゃいますから、教育勅語のもとで育てられたと思いますが、私のきょうの質問を聞いていただいて、新教育基本法の、現行教育基本法のもとでの教育というものがどの程度の人物を生んだか、そうそうたる方々は別ですが、御判定をいただきながら、御答弁をいただきたいと思っております。

 まず、何よりも、また北海道と福岡でいじめによる児童の自殺事件が表面化いたしました。文科省は、現地に調査に出向き、そして、きのうは都道府県の代表などを集めて会議をされたようでありますけれども、今後の具体的な取り組みについて、大臣は記者会見などで、臨床心理士を配置したいとか、スクールカウンセラーをどうのとかいう具体的な話も少しされておるようでありますが、来年度の予算編成に向けての予算要求なども含めて、具体的に当面の問題についての対応を大臣の口からお聞きしたいと思います。

伊吹国務大臣 おはようございます。

 いじめというのは、どの時代にも、どの子供にも、どの場所にも、私たち、子供のときを思い出すと、あったものなんですが、それを大きな事故にならないように、見つけ出して、そして指導して、みんなが共生できるような子供にしていかなければならない。これはもう原点だろうと思います。

 先生御指摘のように、北海道、福岡に調査に入らせまして、その結果をもって昨日、都道府県、市町村の責任者を招致いたしまして、初等中等教育局長が皆さんにお願いをしたことは、私が最初文部科学大臣に就任をして文部科学省で職員の諸君に話したとおりのことを言ってくれと言いました。

 それは、人間は一生懸命やっても間違うことはあるんですね。善意でやっても結果がよくないことはございます。しかし、必ず、報告と連絡と相談と確認、この四つのことを、隠し立てすることなく、文科省の中でやってもらいたい、失敗をしたら、それは最終的に大臣が責任をとるから、その四つさえしっかりできているのなら、伸び伸びと仕事をしてもらいたい、実はこの四つが、学校と教育委員会との間、教育委員会と文部科学省との間で十分機能していないということをもう一度皆さんに訴えて、しっかりとやってもらいたいと。

 そして、きのうの会議は、率直なところ、報告を受けておりますと、かなり熱意を持って盛り上がったようでございますし、こういうことをやったら結果的にいじめを受けていた子供が救われたという成功事例の発表などもあったようでございます。

 ですから、学校だけではなく、地域社会と、それから家庭ですね、家庭もやはり、核家族化と共働きという中で、教育力が非常に落ちておりますので、そういう現状を忘れて、家庭に多くのことを望むというのも、またこれはいけないと思います。

 ですから、みんなが現実の中で、いじめを受けている兆候をできるだけ早く把握して、報告、連絡、相談、確認をし合いながら、カウンセラーという話を先ほど鈴木先生からおっしゃいました。カウンセラーの方は臨床心理士の資格を持っておられる方もかなり多うございます、御承知のように。そして、このあたりの配置を一層充実するような予算編成上の要求が御承知のように入っておりますので、来年は、どんなにお金をかけてどんなに制度上の注意をしても、最後は人間の力でございますので、隠し立てすることなく、子供のためにやってもらえるように、文部科学省としても、各都道府県あるいは市町村の教育委員会にお願いをしてまいりたいと考えております。

鈴木(恒)委員 ありがとうございます。しっかりと対応策を立てていただきたいと思います。

 私は、このいじめによる自殺問題のみならず、子供の親殺し、親の子殺しを初めとする最近の世間の風潮を考えますときに、例えばいじめによる自殺の報告の仕方がおかしかったじゃないかとか、文部省の統計のとり方が悪かったじゃないかなどという、その程度の議論ではなしに、やはりもっと根源をお互いに問いかけ直す、その議論が絶対に必要だろう。そういう意味で、私は、教育基本法の改正の与党のチームの最初からのメンバーでございまして、七十回にわたりまして本当に真剣な議論を積み重ねてまいりましたから、この教育基本法の改正は、現在継続審議中でございますけれども、何としても実現をさせたいと思っている一人であります。

 新内閣は、教育再生の名のもとに、安倍さんは、志ある国民の育成と品格ある国家、社会づくり、これが教育再生の目的だと所信表明で述べられました。

 私は、五年前に大臣がこの「シナリオ 日本経済と財政の再生」という本を書かれまして、私はいただきまして、その当時読みました。その当時これほど教育のことを触れていらっしゃるとは実は思っていなかったのですが、大臣になられて、読み返してみますと、大臣は、五年前でも相当教育のことに、財政論、経済論をやりながら、冒頭とおしまいのところで結構書いていらっしゃる。感服して読みました。

 例えば、「日本の保守主義の特徴は、儒教的道徳、宗教に共通する自然にたいする人間の謙虚さ、武士道や商人道に代表される「公」への義務感、恥を知る気持ちであろうか。」というようなことを書かれている。大臣は京都の江戸時代からの繊維問屋さんのお生まれでございますから商人道ということを書かれておるのかわかりませんが、私は、この大臣の本を改めて読ませていただいて、やはり、教育のあるべき姿、まさに安倍さんの言うように、強い個人をつくる、と同時に、人間性あふれる、社会性を持った、そういう人間も同時に育てる、この公共か個人かという議論は、実は与党のチームの中でも相当の議論を呼びました。

 これは若干支障があるかわかりませんけれども、例えば、国を愛するということについての議論の中で、公明党の代表の方々は、愛国、国といったときに、国民、国土、統治機構ではないか、統治機構まで愛するのかと、こういうことを言われて、結果、時間がありませんのではしょって申し上げますけれども、ああいう表現になったわけであります、国を愛する態度を養う云々と。

 そこで、私は最近、何かいい言葉がないかということを頭にずっと、例えば議員立法で、自慢げに言うのではありませんけれども、環境教育法をつくってみたり、文字・活字文化振興法をリードしてみたり、文化芸術振興法を超党派でつくってみたり、いろいろやりました。しかし、やはり、教育基本法をこれで仕上げて、そして、いいフレーズで世間を直していくきっかけ、国民運動をつくりたい、それには、人に優しく自分に強くというのはどうだろう。人に優しく自分に強く、これならどんな宗教団体も、組織も企業も、もちろん社会教育団体も、どんな思想を持った人も、人に優しく自分に強く、つまり、人に優しくというのは公共心だ、自分に強くというのは自律心、道徳、倫理も含めた自制心。

 で、大臣にお問いかけをいたしたいのは、この著書の中で「「公」への義務感」ということを書かれておるわけでありますが、個人なのか公共なのか、ここのところはこれからの教育論議の中で大きなターニングポイントになると私は思っておりますので、大臣の所信を伺いたいと思います。

伊吹国務大臣 私が書きましたものを読んでいただいて本当にありがとうございます。「シナリオ 日本経済と財政の再生」に私は副題をつけておりまして、「いま、改革する保守の時」という副題をつけております。

 できるだけ短くお答えしたいと思いますが、小泉さんのやった改革というのは、言うならば、他人依存、あなたの努力で助けてもらいたいという社会システムと国民意識を、長寿社会の中でもう一度見直そうじゃないかということであったと思います。

 自由競争、市場原理というのは、効率的に資源の配分をするという意味ではやはりこれしかない制度なんだと思いますが、一番いい制度にもやはり欠点、副作用があるんですね。その副作用をどう直していくかというときに、自由競争というのは常に間違うものだから、政府が介入して欠点を正していこうという、リベラリズムという思想がありますね。これは、ヨーロッパ、北欧その他を中心に大変力を持っていた、ケインズ経済学なんかもそうだと思いますが。

 しかし、もう一つは、人間が本来持っている、ハイエク流に言えば自制的な抑止力、よき人間の力、こういうものをもって、金はもうけるけれども、村上ファンドやライブドアのようなことはしない、優越的地位の乱用はしないし、保険金の不払いをもってバランスシートをつくるなどということはしないという、抑止の仕方があるんですね、政治の思想としては。安倍内閣が目指しているのは、教育再生というのは、まさにそういうところに着目したものだと私は思います。

 したがって、個人の生きる権利というものはまず尊重されねばなりません。しかし、守るべき権利には義務が伴わなければ、権利というものは野方図なわがままになる。そして、とうとぶべき自由には必ず規律がある。これはもう、例えば英国などでは伝統的に子供に教え込んでいることですね。ですから、どちらが優先するかということは、私はないと思っております。個人の権利はとうとばなければならない。とうとばなければならないだけに、権利を主張する人には自己抑制というものが必要であり、その自己抑制を担保しているのが、私たちが営々と守ってきた社会の、法に書かれざる、一言で言えば暗黙の了解事項であると思いますので、どちらが優先ということは、私は考えておりません。ともに重要視すべきことだと思っております。

鈴木(恒)委員 教育改革の論議が始まりましたときに、例えば、国立大学の独立法人化の議論をいたしましたときに、私は当時竹中大臣にも申し上げたのですが、教育界にも競争原理の導入、これはいいだろう、しかし、市場原理は入れないでくれよ、これがどれほど教育を破壊するかということを竹中さんに申し上げたことがございますが、残念ながら、少し教育界に市場原理が入り過ぎてきている気配はないのかと思うんですね。

 例えば、安倍さんがよくおっしゃることに、学力の向上ということをよくおっしゃる。私も、世界の最先端を行く、それこそ野依先生のような、ノーベル賞がどんどん出るくらいの頭脳がなければ、日本のこの国の未来は開けないとは思っております。学力の向上は絶対必要だと。しかし一方で、人間性、社会性の付与ということ、人間味あふれる人間ということをやはりいつも頭に置くべきだと。

 私は、よく例に引くのですけれども、オウム真理教の幹部のことをよく言うんです。大臣御存じかどうか、松本智津夫被告はさることながら、オウム真理教の幹部は、これ以上ないというくらいの名門、高学歴の連中ばかりであります。例えば、青山という幹部は、大臣の後輩の京大法学部。もう一人京大がおりまして、遠藤というのが京大の医学部の大学院。東大医学部から、早稲田の理工から、慶応の工学部から、阪大から、北大から、みんな幹部は、これ以上ないというくらいの学歴を持った連中です。頭脳はすぐれていても、決定的に彼らが持っていないものは、人間性である。ここはやはり教育改革の中で、私は、これから最も重きを置いていただかなきゃならぬ点だと思っております。

 小泉内閣は、米百俵を言われたまま、私どもは随分文科省の後も押し、また議員としても活動をしてきたつもりでおりますが、決して教育の面で十分な議論も成果もあったとは、私は残念ながら思っておりません。その反省から安倍内閣は教育再生を掲げられているんだと思いますが、時間が余りありませんのではしょりますけれども。

 いわゆるゆとり教育という言葉がございます。これはつまり、詰め込み教育で、人間味が失われるような、頭でっかちの人間はつくってはならぬという反省からゆとり路線が出た。ゆとりという言葉が誤解を生んでおりますから、私は変えてもいいと思います。

 きょうの日経新聞に、前の事務次官で今度再生会議のメンバーになられる小野さんが、自分が次官のときにゆとり教育は方針転換したんだなんて今になって言っていらっしゃるけれども、私は余りこの言葉には納得できないんですが、しかし、人間性をはぐくむというこの路線はやはり変えてはならない。だから、学校五日制について見直すべきだみたいなことを言っている委員もいらっしゃるし、何を今さら言っているんだという気もいたしますが、そこを、つまり総合的な人間力をどうやって植えつけていくか。ここにぜひとも再生会議の議論も深めていただきたいと思って、大臣も関与されるわけですから。

 そこで、最後にまとめて大臣から御答弁いただきますが、五分前にやめなきゃいけませんので。

 再生会議の中間報告が一月ごろ出される。それを受けて、教員の免許更新制とか、何か、少し法律整備をするんだという。これも私はつけ焼き刃的で、決して十分なものではないと思いますが、しかし、文科省がその再生会議の中間報告なりなんなりを受けて、具体的な政策を進められるとおっしゃいます。この再生会議と中教審と文科省、一体これはどういう連関性になっているんでしょうか。

 特に一言申し上げれば、家庭教育という言葉をさっき大臣は言われました。私は、戦前型の家庭に戻せなんて、そんなことは全然思いません。しかし、新しい時代に即応した新たな家庭のあり方というものも当然議論されるべきだ。それには保育の問題も出てまいりますから、総合的な教育論議が絶対に必要だ。

 これも含めて、大臣、二、三分で答弁をいただくにはちょっと事が大き過ぎるかわかりませんけれども、時間の制約がございます。以上、お問いかけして質問を終わります。

伊吹国務大臣 先生の御指摘は、政治家として最も心しなければならない大切なお話だと思います。

 教育とかあるいは社会保障、福祉という分野は、実は、市場経済で決まってくる効率とかあるいは利潤とかというものを超えた価値を扱っているわけですね。みんなが優しく共生をしていくとか、あるいは教育の分野でいえば、先ほど来お話があるように、公のためにみんなが尽くしていけるような一体感とか、これはビジネスでは処理できないものなんですね。ですから、義務教育というのは、基本的に国家が関与している。

 ですから、やはり教育は二つに分けて考えるべきだと思いますが、義務教育の部分は、親がどんな地位にあろうと、どんなに金持ちであろうと貧しかろうと、日本人として生きていく最低限の学力と最低限の集団のルール、これをやはりしっかりと教えていかねばなりませんので、私としては、ここへ余り市場原理が入ってくることは感心しないと思っております。

 高校、大学ということになりますと、それから初等教育におきましても、市場原理が入ってくることは感心しないということをいいことにして、市場化は困るけれども、先生がおっしゃったような効率化を怠っているという当事者が余りにも多いということなんですよ。であるからこそ、初等教育においては地方を合わせて約十兆円、教育そのもの、大学教育も含めていえば二十兆円の血税を我々は預かっておるわけですよ。その納税者の負託にこたえられるような運営が行われているかと。

 だから、国立大学なども独立行政法人にすれば、リベラルアーツだとか、社会の市場原理に乗らない部分の学問、先生がおっしゃった、優しく一緒に暮らしていく基礎的な部分についてはどうなるんだと。もちろん国民の税金を文科省がお預かりして助成金を出しておるわけですが、その多くを見てみると、医学の研究とか工学の研究とか、これから大変もうけ仕事に直結していくところに出ているわけですよ。だから、人間の機微のわからない裁判官に裁判をされるほど不安なことはありませんし、患者心理が十分わからない医師に強引に病理学を押しつけられるということは困ったことなんですね。

 ですから、一番いいのは、やはり私は、大学は従来のままであって、しかしそこに携わる人が国民の税金を預かっているという、効率をもって処置しておかれたらよかったわけですよ。しかし、その効率をもって処置するという気持ちが余りにも薄かったから、それをオーバーライドするために独立行政法人という仕組みを、好んでかどうかは別として、国民世論を配慮してやむを得ずやったということですから、今先生がおっしゃったように、単なるもうけに直結するような学力だけじゃなくて、最低限の基礎学力と規範意識を身につけるために、そしてそれを平等にみんなが身につけられるように私たちも努力し、納税者にも納得していただく成果を出していきたい、これがまず第一点です。

 それから、再生会議はいろいろ議論をすると思いますが、大切な、もう既に免許の更新制などは中教審で答申をいただいているわけですから、私は国会でもお答えしたように、これが出てくる、中教審ができる前に既にもう、来年は国会の御審議を得なければならないということを言っております。

 ですから、家族の復権ということになりますと、やはり地方に定住の場所がなければ家族はなかなか復権できないです。そうすると、公共事業の話から工場誘致の話にまでなる。また、都市における家族の復権ということになると、子供を持っている人たちに超過勤務を禁止する、あるいは懲罰的な超過勤務の手当を払わせるというところまで踏み込んでいくと、これはもう労働法制の話になってくる。むしろそういう話を私は再生委員会でしていただきたいなというのが私の希望でございます。

鈴木(恒)委員 ありがとうございました。

 時間が足りませんで、少し浅薄な議論に終わってしまったかわかりませんが、幸い、教育基本法改正特別委員会の方にも理事で入ることになりましたので、またそこで大臣の御見解をたださせていただきます。

 ありがとうございました。

桝屋委員長 次に、遠藤乙彦君。

遠藤(乙)委員 公明党の遠藤乙彦でございます。

 伊吹大臣には、この重大な局面に当たりまして、大変見識の高い伊吹大臣が誕生されたことを大変心強く思っております。特に昨今、やっと教育の中身について議論が始まったという認識を私は持っております。従来、財源の部分ばかりが議論されてきて、ちょっと順序が逆なんではないかと私は思っておりました。まず教育の中身をしっかり議論して、その上でどう財源の手当てをするかを議論すべきだと思いますが、ちょっと順序が逆だったように思いますけれども、やっと本格的に教育の中身を議論することができるようになった、大変大事なタイミングだと私は思っております。ぜひ伊吹大臣の御活躍を、心から期待をまず申し上げたいと思っております。

 それで、私もまずいじめの問題から入りたいと思っております。これは単にいじめの問題というだけではなくて、やはり教育システム全体にかかわる大きな問題だろうというふうに思っております。福岡の問題、また北海道の問題、非常に痛ましい、心を痛める事件でありますけれども、なぜいじめがなくならないのかということは、本当に真剣にこれから取り組んでいかなければならないと思っております。

 実際の報告、統計数字と、例えば七年間いじめによる自殺がゼロだったというような報告になっておりますけれども、今回の問題の発生は、それはちょっと違うんではないか、報告と実態がかけ離れているんではないかということで、国民の間に深い疑念が生じております。これは、さっき大臣が報告、連絡、相談ということを言われまして、これを徹底していくことが大事だということで既にお答えをいただいておりますので、それはそういうことにして、次のテーマとして、私もちょっと今回の問題に絡んで資料を調べてみて、今までも随分いじめの問題が取り上げられ、議論されてきている。例えば、平成八年七月十六日に出された調査研究協力者会議の報告ですね、いじめに関する問題。これも、よく見ますと、非常によくできているという印象を私は持っております。非常に専門家の方がしっかり議論して、問題を提起し、よく議論してできたガイドラインだなという気はしております。

 多分、問題は、ガイドラインを出しても、それが現場で実施されない。現場の取り組む意識。学校、教師、教育委員会等々、現場のそういったいじめに対する、深刻さの認識がやはり欠けているんではないかということ。あるいはまた、個々の教師がいじめの問題に取り組んでいくに当たって、十分な時間がないとか、雑務に追われるとか、実施体制の問題。あるいは、教育委員会と学校との連携とか、先ほど大臣も指摘しておられましたが、実施体制においてまだまだ欠けるところがあるんではないかという気がいたしております。

 そういった意味で、ぜひとも、そういったガイドラインを出すのみならず、実施体制の部分においてもさらなる強化をお願いしたいということなんですが、まず、これにつきまして大臣の御所見を伺いたいと思っております。

伊吹国務大臣 今先生おっしゃった、全くそのとおりでして、幾ら報告を求めて制度を整備しましても、少なくとも今の法制では、地方の学校にまでは直接国家の調査権限は及びませんので、靴の上からやや足をかいているようなことなんですけれども。

 昨日の会議でも、こういう事例についてはこういうことをやって、うまく物がおさまったよという、成功のシステムをかなりの教育委員会が積極的に開陳したようでございますので、単に報告を求めるとかどうだとかという通達をするだけじゃなくて、今おっしゃったように、ソフトですね、どういう仕組みでそれをやればうまくいったんだというようなことは、それはもちろん徹底させたいと思っております。

遠藤(乙)委員 ぜひ、そういう具体的な運動論等につきましても、しっかりと議論して徹底をしていただければと思っております。

 続いて、いじめの問題について、いじめられている子供の立場から気軽に相談できるシステム、また、すぐ何か手を打ってくれる、そういうシステムがやはり十分ではないんじゃないかという気がいたしております。学校の先生に相談してもなかなか動いてくれないとか、直接の学校の場ではなかなか言いにくい。また、カウンセラーのところに行っても、そのこと自体が何かまたいじめの原因になるようなこともあり得るかもしれない。いろいろな意味で子供の立場に立った、いじめを解決するシステムが必ずしも十分ではないんじゃないかという気がいたしておりまして、ある意味ではいじめられた子供にとっての駆け込み寺みたいな、そういったものを強化する必要があるんではないかというふうに考えております。

 例えば、第三者機関であって、しかも子供が身近に感じられる第三者機関であって、電話とか、あるいはメール等ですぐいじめのことを相談でき、また、一定の権限を持って、直ちに調査なり、しかるべき対応について動けるような、そういうシステム、例えばいじめ一一〇番みたいな、いじめに特定をした、そういったシステムといったものを検討することは私は大事じゃないかと思っておりますけれども、この点についてはいかがなものでしょうか。

伊吹国務大臣 先生がおっしゃることでいえば、牟田さんなんかがやっておられる、いのちの電話というのがあるんですね。いろいろ伺ってみると、これは、立ち上がりのときは、少し文科省を通じて国民の税金を入れていたようなんですが、今はもう全く自分たちの努力でやっておられる。私は、寄附を免税にしてもらえるNPOの資格をぜひ取りなさい、それは私がバックアップしますからと、この前来られたときに申し上げたんです。こういうことも必要です。

 しかし、昔はやはり母親が家庭にいて、そして子供を胸に抱きしめていたわけですが、今は共働きですよね。これは、共働きをしていただかなかったら日本の社会と日本経済は動かないほどの規模になっちゃっているわけで、女性に家庭へ帰れということを言える状況ではないわけですから、それを踏まえて、できるだけ早く両親がうちへ帰れるように、これは少子化対策の面からも大切なことだと思うんですが、帰れるようにするとか、あるいは地域社会で先生御承知のように学校協議会のようなものができておりますから、この中でそういう御相談に乗れるようなものを考えてみるとか。

 結構、地域の教育委員会ではやっているところもあるんですよね。その成功事例を昨日の会議でも少し話していった教育委員会もあるようですので、我が省としても、まとめてみて、そして、いいものは教育委員会に、また全国的にお知らせをするということもやったらどうかなと思っております。

遠藤(乙)委員 ぜひ、そういう方向で具体的なシステムづくりを推進していただければと思っております。

 続いて、今までのいじめの議論、ずうっと書類等を調べてきてみますと、気がつくことは、対症療法的なんですね。いじめはどこでもある、いつでも発生する、だから発生したらどうするか、またその予兆をどうとらえてやるかということはるる書かれておりまして、どうもいじめの発生を前提として、対症療法的に発想がなっていると。

 ただ、なぜいじめが発生してくるのかという、その部分の追及が非常に弱い。分析が弱いんですね。ここを本当に分析、研究して、それへの根源的な対処をしないと、いじめそのものがなくならないのではないかと。いろいろな規制をしても、いろいろな指導をしても、形を変えていじめがどんどんまた陰湿なものになってつながっていくというわけであって、何か社会の構造的な問題がやはりあるような気がしてなりません。

 特に、いじめる側の子供の背景とか動機とか、ここら辺がまだ十分分析されていないんではないかというふうに思っておりまして、例えば、いじめの特徴として、小学校の高学年から中学生にかけて非常に発生がふえるわけですね。それで高校になるとおさまっていくということがあって、やはり子供が身体的に大人になっていく、しかし精神的にはまだ非常に不安定な時期にいじめが集中しているというふうなこともあります。

 また、個々のいじめをする子供たちの背景には、家庭の問題、両親が離婚しているとか、家庭で親とのコミュニケーションがないとか、あるいは、学業成績が振るわなくて、なぜ勉強するかわからないとか、いろいろな意味でフラストレーション、ストレスがたまっていると。そのかわりにいじめによってある意味では解消するようなこともあります。

 また、いじめは集団主義的な特徴があって、要するに、日本の社会の特徴かもしれませんけれども、みんなと同じになることによって自分がいい位置を確保していく、そしていじめをされないようにみたいな、何か非常に日本の社会の特徴みたいなこともあって、ここら辺をもう少し分析して本質的なところに迫っていかないと、いじめそのものを根絶することはできないんではないかと。

 だから、だれが悪いかという議論よりも、そういういじめが発生してくる社会学的、心理学的背景をよく探求して、それに対する本当の意味での予防的な方策を講じていく必要があるんではないかと思っておりまして、この点について、池坊議員、大変現場にお詳しいと思いますけれども、もしこれに対する御所見があれば、お伺いしたいと思います。

池坊副大臣 遠藤委員がおっしゃいますように、いじめを初めとして、さまざまな問題を起こす子供たちの心理は、ストレスがあったり、それから、あり余るほどのエネルギーをほかに転化することができない、そして陰湿な事件やいじめになってしまうということが多いと思いますので、これからはもっと科学的にも子供のそうした心理を解明する必要があると思います。そして、そういうことをなくすためには、短期ではなくて、長期な学校現場の取り組みが必要と私は思います。

 いつも言っておりますけれども、その一つに体験活動があると思うんです。自然と触れ合うことによって都会の子供は生き生きと、何か、生きる喜びを肌で感じます。私が秋田で視察いたしましたのは、東京の子供が牧場に参りました、最初は、汚いな、いられないよと言っている子が、三日たつとすごく感動して、これはリピーターがふえているそうです。また、地域の子供たちが触れることのないオペラとか、そしてコンサート、バレエ、もう帰りには手を振って、また来てねと言うんですね。

 つまり、感動する心だと思います。私は絶対、自然体験、文化芸術体験、そして読書だと思うんですね。

 今の子供たちは潤沢ですけれども、ちょっと離れていれば貧困で苦しんでいる人もいるんだと。中学三年生の子供がヘレン・ケラーを知らない、ヘレン・ケラーというのは何だ。つまり、伝記というのを読まないんですよ。それで、三重苦なのにどうして意思の疎通ができるんだと、本当に集まっている子供たちがびっくりして聞くんですね。

 つまり、私は道徳の時間に本を読むこともしてほしい。そして、みんながそういうことについて語る。やはり、本を読むことによって思考力も、公平さとか正義感とか、そういうことを身につけることができると思うんですね。スポーツもそうだと思います。ですから、そういうふうに総合的な対策というのをしていかなければいけないと思いますので、そういうことには力を注いでいきたいと思います。

遠藤(乙)委員 全く同感でございますけれども、日本の教育が、大変大事なんですけれども、どうしても学力だけに偏っているというところがいじめにもつながっているんではないかという点を感じているんですね。要するに、日本の明治維新以降の近代化の成功の最大の理由は教育だろうと思いますけれども、キャッチアップ型の発展の中で、非常に質の高い、知識を持った労働者をつくっていく、そういうモデルの中で教育がされてきた。

 それが成功している部分は、非常によくワークしたと思うんですけれども、やはり今の時期になって、日本が、世界で最も賃金水準も高く、バブル崩壊後の長い不況も経験して、新しい局面に入ってきている。特に創造革新型の日本にしなければならない中にあって、そういう過去の追いつき発展型モデルの中の教育システムがいまだにあるということが、そのひずみがいろいろなフラストレーションやあるいはまたストレスになっているんではないかという気がいたします。

 特に学力は、大変大事なものですけれども、それだけが価値基準になってしまって、それにはまらない子供はある意味で疎外されていくというところに、何か、いじめの背景があるような気がいたします。

 やはり、価値基準は学力だけではなくて、いろいろな、どんな子供でも個性、創造性、持ち味があるわけであって、それを見つけてあげて、引き出してあげる、それに光を当ててあげるということがあれば、そういった問題は大幅に減っていくのではないかと思いますので、やはり教育システムの根幹的な問題としてぜひとらえていただきたいなという気がしている次第でございます。ぜひこの点、今後、大臣また副大臣の御指導を期待したいと思っております。

 そこで、このいじめの問題とも関連しますが、人間力ということにつきまして御質問したいと思っております。

 大臣もごあいさつの中で人間力ということを大変強調されておられて、これはこれからの日本の教育を考える非常に大事なキーワードではないかというふうに思っております。ただ問題は、人間力という言葉だけが走ってしまって、では具体的にどういうことなのか、何が問題なのかということを本当に深く考えていかないと、従来型の価値基準をそのまま持ってきたものを、人間力ということで、言葉だけがレトリックとして動くのではほとんど意味がないので、やはり人間力がなぜ必要なのかということを本当に深く考えて、それに合った教育システムを考えることが必要だと思っております。

 先ほど鈴木委員の御質問にもありましたように、単なる知識、手段的知識ではなくて、人間としてどう生きるか、そういった部分、人間性とか、やはりそこら辺の部分が非常に大事だと思っておりまして、しかもそれをどう教育の現場で、具体的なメソッドとして、プログラムとしてそういったことを定着させていくかということが一つの重要なポイントだと思っております。

 そこで、まず人間力ということにつきまして、これは大臣にお聞きしたいと思っておりますけれども、どう定義し、またどうそれを具体的に教育の場でプログラムとしてやるかということにつきまして、大臣の御所見を伺いたいと思います。

伊吹国務大臣 先生がおっしゃいましたように、言葉だけがひとり歩きをすることは注意しなければなりません。教育再生会議の第一回会合の際に私がごあいさつの中で申し上げたことをもう一度お話ししたいと思うんですが、いろいろ居酒屋談義をしておりまして、政治が悪い、教育が悪いと言うと、話はもうそこで閉ざされちゃうんですね。

 つまり、民主党の議員の先生方もこれだけいらっしゃいますけれども、理想の人間像はどういう人間像だ、共産党の先生、公明党の先生、自民党の先生方、これはやはりその人の人生観と価値観によって大いに違います。理想の国の形というものはどうなのかというと、その政党あるいは政治家の持っている政治理念によってかなり違ってきますね。それだけに、最後は集団として意思決定をしなければならないんですから、私たちは多数決という意思決定の仕組みを適用しているだけなんです。

 であるからこそ、特に価値観に非常に左右される部分をどうするかについては、謙虚でなければならないし、対話をして、説得をして、そして最後に多数決で決めていく、このルールだけは社会保障とか教育に携わる者は大切にしなければいけない。

 私が考えている人間力というのは、先ほど鈴木委員がおっしゃった、鈴木先生の主張と非常に近いんですが、まず日本人として生きていく最低限の基礎学力、そして我々が伝統的に大切にしてきた規範、弱い者をいじめちゃいけないよ、そしてともに優しく共生していこう。その気持ちがあるから、社会保障制度というのは日本にあるわけだと思います。そういう気持ちをしっかり持って、そして、権利は権利として、義務をしっかり果たしていく。自分の人間としての尊厳を主張する限りは、人間の尊厳の基礎である公へ貢献する気持ち、こんなものをしっかり持っている人、これが今非常に衰えてきている。

 そして、その上にさらに創造性を持っている人は、ノーベル賞をもらわれたり、日本の科学やその他の人文科学を引っ張っていかれるということはあってもいいと思うんです。

 私は、少なくとも基礎的な、これを学校教育だけに期待するということが現実的かどうかということは我々は謙虚に考えないといけないので、家庭の教育力を失っている者、地域社会の教育力を失っている者が一方的に学校を非難しても問題の解決にならないと思うんですね。ですから、地域、家庭の教育力の復活というところをむしろ再生委員会でしっかりとやっていただきたいということを私は最初に申し上げたんです。

遠藤(乙)委員 私も大臣のお考えとは、共有する点が多々あるわけであります。

 あと、私自身が非常に感じているのは、今の日本の人間力という点から見ますと、学力が落ちてきている、体力が落ちてきている、それから意欲が衰えてきている、モラルが落ちてきている。本来、天然資源が少なくて人材立国であるべき日本が、一番の人間の大事な部分がみんな低下していて、人材の劣化が起こっているというふうに認識をしております。これは非常に深刻な事態である。

 私は、この中で特に意欲の問題、やる気がうせているという、実はモチベーションの部分が非常にポイントではないかという気がいたしております。豊かになって、あるいは先進国になって、さまざまに変わってきたこの日本の状況の中で、どうやってモチベーションを新たに奮い起こしていくかということが、多分、人間力ということの非常に重要なポイントではないかという気がいたしております。伝統的な価値観とか、規範意識は当然だと思いますけれども。

 あと、個々の人に即してそういうモチベーションをどうやってつくっていくか。

 私は、総理が言われた「志ある国民」の志、昔から言われている志というのは、ある意味では、個々の人間が、自分というものを見詰め、また社会を見詰め、自分がそこでどういう位置を占めて社会に貢献していくか、そういう個々の人間に即して、パーソナルビジョンといいますか、それをしっかりつくり上げることが今の日本にとって非常に大事なポイントではないかと思っております。

 また、最近の若い人の議論を見ると、自分探しということが非常にキーワードになっております。学校を出て大学院に行ったり、会社をやめてまた何かをやったり。三十ぐらいになっても自分探しということにこだわっているということは、いろいろな意見があると思いますが、本来、非常に重要な、自分を見つけるということが、学校教育を終えるまでにできていない、これはやはり非常に大きなロスではないかというふうに思うんですね。

 昔は十五歳で元服をして社会人として生きるという一つのあれがあったわけで、「十有五にして学に志す」と言いますけれども、大体十五歳ぐらい、義務教育終了のときぐらいまでに、自分はどういう特色を持ち、どういう個性があり、社会というのはどういうもので、その中で自分はどういう地位を占め、どういう貢献をするかということを、かなり具体的にそういう志としてつくっていくということが大変大事なポイントだと思うんですね。

 それが、今の日本の教育システムでは、手段的知識ばかり洪水のように入ってくるけれども、自分探しに向けての、自分としてどう生きるかということについての具体的なビジョンなり方向性をつかんでいく上においてほとんどこれが余り役立っていないということだと思いますので、ここはやはり重要な、学校教育の間に自分探しをしっかりとできるような、そういうことも必要ではないか。もちろん、これは家庭であり地域であり、協力してやらなければなりませんけれども、一番長い時間を過ごす学校教育の中でそういうこともしっかりとヘルプしていく必要がある。

 また、多分キャリア教育とも絡むと思うんですが、やっと最近キャリア教育ということが言われ始めましたけれども、今まではなかなか、学校の授業と社会の役割が分離されていた感が強くて、学校で学ぶことがどう役に立っていくのかということが非常に問題意識のないままに知識を与えられれば、子供たちもやはりフェッドアップしてしまうということでありまして、ここら辺も含めて、もっとパーソナルな生き方、ビジョンの形成について、どう生きるかについて、志の形成について、学校システムが、地域と社会も協力しながら、家庭も協力しながら、しっかりと自分探しの少しサポートをしてあげる、そういう発想が必要ではないかと思っておりまして、この点につきまして、もし大臣の御所見をいただければと思います。

伊吹国務大臣 今先生がおっしゃったことの一番根底にあることが、私が申し上げたことだと思うんですね。これは、教育の仕方、その他いろいろ、御指摘のようにあると思います。

 総じて言いますと、物質的にこれだけ豊かになった中で、志を持って、上昇志向を持っていくということは、生物学的にいえば非常に難しいですよね。それから、競争至上主義的なことをやると、金をもうけたいとかいう、いろいろな志が出てきますが、それがライブドアや村上ファンドであっては困るわけで、過去のいろいろな人間社会に貢献した方々の事例を教えていくとか、表に出てはいないけれども、実は地域社会でこんなに敬愛されていた人が自分たちのふるさとの中にいるとか、そういうことをやはり事例として教え込まないと、ああいう人になりたい、こういう人になりたいというのはなかなか出てこない。

 そして、一番大切なことは、教え込み、褒めてやらねば人は動かずということですから。先生の教育の仕方にもいろいろあると思います。

 これはだから、何かという妙薬はございません。みんながトータルなシステムとして、先生がおっしゃるような、志を持った人を育てていく、これが日本の将来の活力ということだと思います。

遠藤(乙)委員 大臣とかなり、共有している部分が非常に多いと思っております。

 ただ、志というのは上昇志向ということでは決してなくて、多分日本の価値観も、より豊かに生きることから、よりよく生きる、自分の本来の持ち味を生かしながら社会にどう貢献するか、そういう方向に今動いてきている面がありまして、そういった意味での志はぜひともしっかりと持たせることが必要であって、それがないからいろいろな社会病理学的なものが出てくるんだろうと思っております。

 私は、一人の人間でも、本当に何か目的意識を持ってやる気になったときとそうじゃないときは全然開きがあることはだれでもわかるわけでありまして、そういった意味で、日本の教育システムに欠けているモチベーション革命といいますか、そこら辺をどう取り組むかということが大事だと思っております。

 ちょっと例は飛躍しますが、例えば日産を立て直したカルロス・ゴーンとか、あるいは千葉ロッテマリーンズを立て直したバレンタイン監督、最近ではまた日本ハムのヒルマン監督とか、非常に日本人の文化をよく理解し、どうモチベーションを与えるかということに非常に意を用いて、陰に隠れている選手の個性を評価して、それを、先発完投は無理としても、リリーフで用いれば非常に力を発揮するとか、いろいろなそういう力を引き出すこと、それを発揮させることに意を用いてやることによって、そういった下位球団を上位に持っていったというようなことがありまして、やはりモチベーションを高めるようなことをする。教室の現場においてもそれはぜひやるべきだ。

 単に学業だけではなくて、この子はボランティア活動とかスポーツとか芸術に持ち味があるとか、いろいろなことを発見してそれを引き出していく、そういう意識に教師が立ってくれれば、これは非常に学校も楽しくなるし、よくなるだろうと思っておりまして、そんなことも含めて、教育再生会議の場等も含めまして、ぜひ新しい発想に立った議論をお願いしたいと思っております。

 そういうことで、大臣、また副大臣にも強い期待を表明した上で、質問を終わらせていただきます。

 ありがとうございました。

桝屋委員長 次に、藤村修君。

藤村委員 伊吹文部科学大臣には、この国会から、文部科学の責任者として、また安倍内閣では最重要とされる教育の問題について、大臣に御就任されたということで、大変だとは思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。

 民主党の藤村修でございます。私もこの国会から民主党における文部科学の担当の部門の責任を担うことになりましたので、何とぞよろしくお願い申し上げます。

 きょうは、そういうことから、冒頭の伊吹大臣の大臣所信に対する質疑ということで、余り細かいことは伺いません。非常に基本的なお話のみにさせていただきたいとは存じます。ただし、今の鈴木委員あるいは遠藤委員からもございました、いじめ、自殺の最近の問題についてはちょっと触れておかねばならないと思います。

 福岡県の筑前町、中二男子、それから北海道滝川市、小六女子、これは去年の話であった。いずれも自殺された。大変ショッキングな事件でございました。さらに、報道が相当大きく取り上げる理由は、今日までの子供たち同士のいじめとは違って、どうも今回は教師の問題があったのではないか、あるいは一方で、もう一つの方は、何か教育委員会のその後のいろいろな隠ぺいがあったのではないかという、多分ちょっと違った観点からの報道の取り組みだと思います。

 先ほど鈴木委員の方からは、対応等をお伺いになったので、私の方からは、一問だけお伺いしたいと思います。

 昨日も、全国の教育委員会の担当課長を集めて、文部科学省からさまざま説明をされたりお願いをされたりということでありました。そのときの資料はこれだけの分量になりますので、この中身を拝見いたしまして、非常にきちっとした中身であるなと思います。

 ただ、これだけのものが、地方からいうと、お国から下がってきた、これを一生懸命また勉強して、これを都道府県教育委員会、きのうは都道府県教育委員会ですから、今度はまた市町村教育委員会に、そして今度はまた市町村教育委員会は学校現場にということで、順に送られていくんだろうと思います。

 私が思うのは、そもそも学校の子供たちの教育の問題は一体だれが最も近いところにあるかといったら、それは学校であることはすぐわかるわけです。ですから、いわゆる関係部署、学校そして地元の教育委員会、県の教育委員会、そして文部科学省という中央の役所、それぞれの役割とその責任というものがどうもあいまいなままで今日まで来ているのではないか。

 それは、私どもが提出をいたしました日本国教育基本法において、割にはっきりと、義務教育においての国の責任、普通教育における国の責任はこうこうこうだ、それから、大半の責任はやはり地方に持ってもらうんだという、その両極にある程度分離をした基本の政策を打ち出しておりますが、現時点での学校、地元教委、県教委、文科省、それぞれの役割及び責任を伊吹大臣はどのようにお考えか、お聞かせ願いたいと存じます。

伊吹国務大臣 私は、いわゆる族議員的にこの分野の専門家ではございませんが、文部科学省へ行ってみまして、今先生が御質問になったことを私も同じように痛感いたしております。

 法律によりますと、やはり文部科学省というのは、基本方針を決めて都道府県及び政令市の教育委員会に助言、指導を行う。そして、都道府県の教育委員会は、それを受けて政令市を除く市町村の教育委員会に同じような指導、助言、援助等を行う。そして市町村の教育委員会は、小中学校の設置と管理を行う。それでもって、設置された学校において、校長が管理権を持ちながら、教諭は児童の教育をつかさどる。これは、法律的なそっけない説明になっちゃうわけですね。

 実際はそれがどう動いているかということになりますと、福岡へ行った場合にも、直接その小学校へ文部科学省の人間が権限として行けるかどうかということになってくると、今先生がまさに御質問になったように、教育委員会に対して調査をする権限はある、教育委員会と御一緒に学校へ行くことはできても、直接学校へ行くことはできないという方向性になっておりますね。

 そして、これは国会がお決めになったことですが、地方分権法のときには、文部科学省が持っていた改善措置命令という権限を外してしまったわけですね。例えば、地方の自主性をしっかりと認めるということと、国が義務教育として最低限のことを保障する権限を保持するということは、二律背反的な面があるんですね。

 やはり私は、今の法律では私が説明したようなことだと思いますが、今後、教育基本法の議論の中で、民主党さんも今のままではよくないと思われるからこそ対案をお出しになっているわけで、双方の議論を国民の前に国権の最高機関としてさらしていただいて、お互いに、これから日本を担う児童のためにいい結論が出るのならば、そこは話し合って、審議を進めていけばいいんじゃないかと私は思っております。

藤村委員 伊吹大臣も問題意識をお持ちの中で、つまり、今のままのこの教育行政全般についての責任の所在であったり、あるいはだれがどのように役割を果たすのであったりがあいまいであるということの認識をお持ちだということでありました。そのことは、長年やってきて、どうも無責任体制がだんだんに充満してきているということの一つの結果というか一つの兆候として、今こういう問題が起きているということが言えると思うんですね。

 ですから、この際に、教育再生を考えられるわけですから、地方教育行政という分野、この点ではだれがどのように責任を持つのか。さっき伊吹大臣が、文科省において職員の皆さんに、最終的には私、大臣が責任をとると。つまり、そういうきちっとした、文科省の中では大臣が責任をとる、それはそのとおりなんですし、そういうまさにリーダーシップを持ちながらやっていかないといけない。

 私は、このいじめ問題だけでなしに、やはり教育そのものが、特に学校教育においてはということでありますが、地域と学校と家庭との連携、ずっとこれは言われているわけですが、これが本当にうまく連携していない。仮定ではありますが、そこに弊害がもしあるとして、どうも教育委員会が邪魔しているんじゃないかとか、場合によっては文科省が口を出し過ぎているんじゃないかとかということも感じる部分がありますので、この役割分担あるいは責任分担の整理は、別な委員会になりますが、ぜひとも基本の問題として議論をしていただいたらと思います。

 私たちの主張は、今までの四段階ですか、国、都道府県、市町村そして学校、もう一つ言えば家庭とありますが、これの役割分担をできるだけ、本当に子供にかかわることは家庭、学校、地域という一番近いところ、そしてスタンダード、標準、あるいは、伊吹大臣は財政、経済にお詳しいわけですが、やはり財政の問題、この教育費、先ほど義務教育で全体で十兆円とおっしゃいました。すなわち、その大きなお金の確保とか、これはやはり国がきちっと責任をとる。そういう両方にきちっと分担をしていけば、中間的な教育委員会は不要になってくると私は思っておりますが、別な委員会ではありますが、そういう一つの議論をぜひともしていただいたらと思います。

 それで、教育基本法の話が今ちょっと大臣からも出たものですから、ちょっと質問順番を変えまして、通告書でいいますと三番になります。ここで教育基本法の中身を詳しく論じようとは思いません。ただ、ちょっと大臣の発言で、私気になりましたので申し上げたいと思います。

 九月二十六日に大臣が任命されて、その日の多分夜なんでしょうか、文部科学省における大臣記者会見がございました。このとき、幾つかのことをおっしゃっているわけで、最初の思いを述べられたという意味では非常に重要な部分であります。

 教育基本法の改正について、成立時期などを含めてどのような考えをお持ちでしょうかという質問があったから答えたということだろうと思いますが、普通、この程度のボリュームの法案であれば、大体七十時間から八十時間も審議すれば十分ですとお答えになったわけですね。この日は、まだ衆議院の、つまり国会の側の議員でありながら、大臣になったばかりですから、その頭の仕分けがなかなかいっていなかったと推測はするものの、しかし、政府が出してきた法案の審議を、国会で七十時間から八十時間審議すれば十分だというのは、これは国会軽視甚だしいんじゃないかということで、真意をお伺いしたい。

伊吹国務大臣 私は、今は行政権を持っております内閣の一員でありますから、提出した法案については、国会で御審議をいただく、国会の委員会の御指示に従いながら答弁をしていくというのは当然のことであります。しかし、議院内閣制の建前からいって、私は、国民に選ばれた国会議員であることもまた事実です。

 私は、さきの国会で行政改革特別委員長をしておりましたが、これはもう日本全般にわたる広範な行政のあり方を、委員長も理事として御協力をいただいたわけですが、これで大体六十三時間なんですね。ですから、日本の教育の根幹にかかわる理念法としての教育基本法程度のボリュームの法案であれば、一般論としては、八十時間以上審議をしているという例は私の二十二年間の国会議員経験の中ではほとんど見当たらないということを申し上げた、一般論として申し上げたと御理解いただけたらありがたいと思います。

藤村委員 御理解いただけたらということで、理解できません。

 まず、七十時間から八十時間で十分だと、いや、そのぐらいの審議でお願いしたいというその姿勢が必要だと思いますよ。今度は提出者の文部科学大臣ですからね。

 それで、もう一つ。私、今読み上げましたのは、冒頭に、この程度のボリュームということでございました。今、そのボリュームの内容を、ちょっとこの前の行革特のことでおっしゃっていたんだと思いますので、これは、いわゆる議員の、私、伊吹大先輩に国会における審議の問題について伺いたいんですけれども、まず、ボリュームというのは分量という意味でよろしいんでしょうか。

伊吹国務大臣 法案の条文のボリュームと、そのボリュームの中に含まれている国家的な大切さと両方あると思います。

藤村委員 委員の皆さんも、あるいは基本法の特別委員会でもしょっちゅう話題にされることが、憲法に次ぐとか、憲法付随のとか、憲法従属法だとかという言い方をされる教育基本法でありますから、そのボリュームの中に価値というか重要度がもし入っているなら、これは大変重要な法案であるということはお認めになりましょうか。

伊吹国務大臣 これはもう当然そういうことでございましょう。そして、既に各先生が審議をなさった五十時間の議事録を私はみんな読んでみましたけれども、御質問の内容その他について、やはりその重要性、ボリュームにうまく合致しているだけの御審議は十分行われていると思いますし、同じ問いが二度、三度、四度と出てくることもまた事実でございます。

藤村委員 まず、ボリュームの中に含まれる意味で、その重要度というのはお認めになる、こういうことでございますね。

 比較するまでもなく、憲法論議もされておりまして、これはもう五年間、衆参で調査会をつくってずっとやってきたわけで、今やっとその手続法のところでどうしようかというところに差しかかったばかりでありますから、もう六年目ですね。それに従属するという意味では、一年や二年の話ではないのかという、価値から見ればこういうことであろうかと思います。

 それから、もう一つのボリュームというのは分量という意味でありますと。

 私も内閣委員会で携わったんですが、国旗・国歌法、これはなかなか今の価値の部分では重要な法案でございました。だから、相当慎重に審議されたんですね。ただ、分量という意味では、国旗・国歌法、施行は平成十一年八月十三日でありますが、二条の法案でございます。読んでしまってもすぐなんです。「国旗」、第一条「国旗は、日章旗とする。」二項「日章旗の制式は、別記第一のとおりとする。」「国歌」、二条も似たようなものです。分量でいいますと、一つは字数でいうと七十四字、条文数でいうと二条、こういう法案でございます。

 これを当時どれだけ審議したかといいますと、内閣委員会と、それから文教との合同もございました。いわゆる政府質疑、この法案に対する直接の質疑を十一時間四十分やっています。それから公聴会は二回やっています。それから地方公聴会は四カ所でやっています。

 これと、今の政府案、教育基本法を比べますと、条文数でいうと十八条ですから九倍でありますね。法文の文字数でいいますと、国旗・国歌は七十四字で、政府案が、基本法は三千三百十文字ですから四十四・七倍。これをちょっと当てはめていきますと、政府質疑、国旗・国歌のところから考えると、条文数でいっても二十七回ぐらいの審議が必要で、文字数でいっても今度は百三十四回ぐらいの審議が必要です。時間でいいますと百五時間ぐらい、条文数だけでいいますと、九倍の審議時間。それから公聴会は十八回ぐらいするんだろう。それから地方公聴会、全国で四カ所やっていますから、今回でいえば、九倍だったら三十六カ所でやろうということでございます。

 ですから、私が言いたいのは、何もこのことの数字ではなしに、国会の大先輩でございますので経験多数で、しかし私も国会の審議についていろいろ関与させていただいたこともございますので、この程度のボリュームだからこのぐらいでやってくれとか、あるいはこのぐらいでやるべきだというこの発言自体が、少し、やや配慮が足りないのではないか、こういうことが言いたいわけで、これに対して御意見がありましたらおっしゃってください。

伊吹国務大臣 今先生がお示しになった国旗・国歌法との比較も一つの比較だと思います。しかし同時に、先般提出された行政改革の五法案は、私たちが生きているこの国家の統治システムそのものの大変革をする法案であって、条文、ボリューム、その他からいえば、今出ている法案は、これに比べると、物理的な条文あるいは活字数からいえばはるかに少ないわけですから。

 そういう数字のやりとりをするよりも、民主党御自身も、今の教育でよくないと思われて、対案をお出しになって、そして国民のために早く教育を変えていこうというその使命感を共有しているわけですね、我々は。ですから、できるだけ協力をし合って、迅速に国会でこの基本法の審議を始めていただいて、御協力をしながら国民のために早く結論を出していただきたい、私はそういう気持ちでおりますので、よろしくお願いします。

藤村委員 気持ちはそういうことで結構だと思います。

 ただ、憲法論議に本当に近い教育の基本法を論議するわけですから、かつ、伊吹大臣も会見等、ほかでも言っていらっしゃるか、教育基本法を変えたからとか、こういうふうに改正したから、すぐ教育がこうなるという話ではないということは、あちこちでおっしゃっていると思うんですね。まさに骨格というか仏つくって、魂入れていくのはその後の話ですよ。だから、魂を入れることが肝心なので、重要なので、できるだけこの骨格を早く決めてちょうだい、これはこれで理屈はわかるんです。しかし、骨格ですから、コンストラクションですから、教育の憲法ですよね。そういう意味では、ここを決め間違ったら、本当に今後数十年、日本の教育の方向を大きく間違うことになりかねない。

 私、この年になって最近ゴルフを始めまして、あれは最初のちょっとした角度というか、あれがその先に飛んでいったら物すごく違いますね。このことは実感いたしました、それまでしたことがなかったものですから。そういう意味で、この骨格の、まさに最初の第一打を打つわけですから、このときに、ちょっと角度がこっちに行ったりこっちに行ったりという、このことは十分に注意して、ある意味ではそれなりの練習をして、トレーニングをして、準備をしてと、こういうことだろうと思いますので、私どもは、この程度のボリュームでこの程度の内容であれば、本当に、それも基本の法律ですから、慎重に、十分な時間をかけてやるべし。

 この国会で何としても上げるというふうな、そういう何か終わりがある案件ではないだろうと思いますし、しかし、当然我々も対案を出し、我々の法案を制定したいと思っておりますので、もちろん終着点をちゃんと見ながら進んでいきたい、熱心にやりたい、このようなことを申し上げたいと思います。

 二番目に戻ります。

 教育の目的論議が、実は基本法の、私どもでいえば前文と一条なんですが、政府案でいってももちろん前文とそして一条、二条は目標ですかね、その辺にかかわることなんです。

 今回、安倍首相が就任して、その最初の所信表明演説において、私、全体を見たときに、あれだけ教育とおっしゃったにもかかわらず、若干教育の部分が少ないのかな、分量からいうと、まさにボリュームからいうと、ちょっと少ないんじゃないかなと思ったんですが、その中の「教育再生」という小見出しがついている演説の中の一つで、「教育の目的は、志ある国民を育て、品格ある国家、社会をつくることです。」と主張されました。このことは教育の目的の一つであろうと思いますが、伊吹大臣は、教育の目的というと物すごく大きいかもしれませんが、しかし、教育をつかさどる文部科学大臣として、教育の目的いかんというときには、どういうふうにお答えになるんでしょうか。

伊吹国務大臣 これは、先ほど来私がお答えしているように、理想の日本人をつくるということだと思いますが、理想の日本人像というのは、その人の人生観や価値観によってみんな違うということをさっき申し上げましたね。理想の国家像というのは、その人の政治家としての政治理念あるいは政党の持っている政治理念によって違う。しかし、最後は、集団の意思は多数決で決めねばならない。しかし、価値観の違うものであるだけに、それを扱う分野の人間は常に謙虚さを持って対話をし、説得をし、そして結論へ導いていくという姿勢でやらねばならないと思います。

 ですから、今の教育の目的というのもそれに符合することだと思いますが、私は、日本という国に住んでいる国民がお互いに共生をし、仲よく温かく暮らしていき、そして世界の中で尊重され尊敬を受ける、そういう社会を構成していける人間である。そこには最低限の基礎学力を身につけなければならないし、日本人としての規範意識を大切に持っていなければならない。だから、教育基本法の第一条には、人格の完成を目指し、国家及び社会の形成者として心身ともに健康な国民を育成するということが書いてある。まさにそのとおりだと思います。

藤村委員 今回の安倍首相の所信表明の中では、そのうちの一つを切り取って、特にというふうな気持ちで述べられたというふうに、伊吹大臣はそういうふうに解釈されるのか。「教育の目的は、」という主語で何々ですという一文ですから、教育の目的はそういうことか、これだけかというふうに勘違いする可能性がありますので、そこはちょっと補足してあげないといけないと思うのですが、いかがでしょうか。

伊吹国務大臣 安倍総理の所信表明ですから、表現をなぞってお答えしないといけないと思いますが、総理が言っておられる「教育の目的は、志ある国民を育て、品格ある国家、社会をつくることです。」というまさにその意味は、人格の完成を目指し、先ほど来私が申し上げたような国民を育成することであり、それが基盤となって国家や社会ができていくということを総理は言っておられるから、私は別に、一部を切り取ったとか、あるいは教育基本法の考え方と何かそごをするとかいうことではないのじゃないかと理解しております。これは理解の仕方の問題だと思います。

藤村委員 私の質問は午前と午後に、二つに分かれますので、今、私の方からちょっと投げかけておきますので、午後またお答えをいただくということで。

 我々が教育基本法を考えたときに、教育の目的を一生懸命考えました。これは政府も当然であります。我々が今やろうとしているのは、つまり法律でやろうとすることですよね。法律でやるというのは、それは国及び地方公共団体が行う行為であって、しかし考えてみたら、教育というのはもっともっと広い人たち。地域、家庭も含めたら、そういうこと。だから、法律でやる教育の目的というのは、割に、一つの役割を果たす国及び地方公共団体がどういう目的で行うかということであろうと思うんですね。

 しかし、その中にも、一人一人の、政府案でいえば「人格の完成」、我々は「人格の向上発展を目指し、」ということでございまして、広義の教育、それから、狭い意味ではないにしろ国及び地方公共団体が行う一つの部分である教育、これは切り分けて、大きいものと小さいもの、それぞれに考え合わせて基本の法律などはやはり構成されないといけないなと思っておりますので、国及び地方公共団体という限定でどう考えていくかということを私今質問しておきまして、後ほどお答えを願いたいと思います。

 午後にもう一回繰り返し申し上げてもいいと思いますが、公務の御都合でちょっとここを出られた方がいいと伺っておりましたので、早目に終わります。午後に回します。ありがとうございます。

桝屋委員長 午後零時四十分から委員会を再開することとし、この際、休憩いたします。

    午前十時五十三分休憩

     ――――◇―――――

    午後零時四十分開議

桝屋委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。

 質疑を続行いたします。藤村修君。

藤村委員 午前中に引き続き、残り三十分の時間をいただいております。途中にコマーシャルが入って、一遍リプレイしないといけないのかなと思いますが、教育の目的の論議を始めさせていただいたところでございました。

 余り細々と申しませんが、私どもは、教育という広い概念の目的というのは、今度の私どもが提出しました日本国教育基本法においても、広義、広い意味の教育というとらえ方をして、その際には、これは前文に書いておりますが、「心身ともに健やかな人間の育成は、教育の原点である家庭と、学校、地域、社会の、広義の教育の力によって達成されるものである。」という理念を掲げ、そして、一条の方で、まさにこれが法で国及び地方公共団体というとらえ方をして、「教育は、人格の向上発展を目指し、」云々ということを書いている。こういう整理をさせていただいております。

 すなわち、教育という大きな概念からの目的というのは、やはり一人一人の人間を育てること。我々は、実は言葉を使い分けまして、一条では、人材という言葉を使っています。伊吹大臣の午前中の答弁を聞いている中で、それは国及び地方公共団体という枠の中でお考えで、やはり人材という方により強いというか、あるいは、天下国家を論じる元大蔵官僚でもございますので、そういうお考えの仕方が定着しているというか。しかし、広く教育というときには、一人一人の人が、人間が育っていく、こういうまさに個に目を向けた考え方というのが本当に重要であろう、このように思っております。

 この点について、もしコメントがございましたら。

伊吹国務大臣 先生がおっしゃっていることに全く異論はございません。日本社会の中で基本的に生きていくのに必要な学力、人間としての素養を身につけて、そして、創造性とその人の持っている本来のタレントというものが自由に発揮されながら、みんなが共生していける日本が一番いいわけでございますから、そのとおりだと考えております。

藤村委員 その点をどうしても、天下国家の中で、人を鋳型にはめたいという考え方は教育になじまない、こういうことが言いたかったわけでございます。

 そして、教育の分野においてそれぞれが目的を持ってやっていらっしゃる。例えば、一番身近な例でいうと、家庭における教育というのは、これは親がみずから自分の子供たちをどう育てるかということで、将来ちゃんとそれぞれの才能を発揮し、そして、ちゃんと日本社会なり世界の中で立派に生きてほしいし、場合によっては成功もしてほしいと思うわけでありまして、それぞれやはりその家庭の教育の目的があるわけであります。地域においては、地域で育てられた子供はまた将来必ず地域のためになって働いてくれる、そういう言い方をよくしますが、やはり地域においてもそういう教育の目的を持ってやる。

 そこで、文科省あるいは国及び地方公共団体というのは、やはり学校を中心として教育を構築し、考えていく。その際の教育の目的というのが、先ほど午前中申しました、安倍首相の所信表明はどうもやや国づくりに偏ってはいますが、しかし、文部科学大臣として、個の、一人一人の人間に注目しながら教育というのはそもそも行われるということをぜひ腹に据え、念頭に置いて進めていただきたい。

 エデュケートという英語の言葉は、実はラテン語ではエックスカールという言語がございまして、エックスというのはエクジット、外、カールというのは引っ張る。大学などで、教員養成の課程などでは、学生はみんな最初に教えられるそうです。教育というのは、一人一人の中にある、内在するいいものを外へ引っ張り出す。エックスカール、ラテン語の言語はそうなんです。

 そういうところに語源があるということをぜひ念頭に置いていただきたい中で、今からお伺いする具体的な話は、国及び地方公共団体が行うと。これは、法律に盛って、基本法を筆頭にしてそれら法体系がございますが、国及び地方公共団体が行う教育というものの位置づけ、そして役割、さらに責任ということについての大臣のお考えをお聞きしたいと思います。

伊吹国務大臣 これはもう申すまでもなく、日本は法治国家でございますから、憲法に定める国権の最高機関である国会が議決をされた法律によって日本の教育制度は動いているわけです。

 したがって、国としては、基本的な制度の枠組みあるいは全国的な基準、そしてまた義務教育費国庫負担金等の財政支援、こういうものを担っているとともに、地方に必要な指導、助言、援助を行うということは、これはもう先生には釈迦に説法でございますが、学校教育法、義務教育費国庫負担法あるいは地方教育行政の組織及び運営に関する法律等によってこれが決まっている。

 その法律を受けて、都道府県は、高等学校それから義務教育段階の学校の教職員の人事、給与の負担を行うとともに、今度は市町村の教育委員会に対していろいろな助言指導を行う。市町村は、政令市は別でございますが、小中学校を設置、管理し、これに基づいて学校が運営されている。

 これが、先生がおっしゃった、家庭とかあるいは地域の教育力を除いた法で定められているところの、日本の、国会の意思がこういうことになっているということですね。

 この運営について、実態から見ると、責任の所在がどこにあるとか、あるいは国の指導力がもう少し行き渡った方がいいじゃないかとか、民主党さんの教育基本法の対案も読ませていただきましたが、そういう思想もところどころあるなということも私は理解しております。

 これは、ありていに言うと、どのような制度にも長所と短所があるということなんですね。あえて言えば、私たちは、中選挙区というものは非常な弊害があるというので、あのとき大変な世論の流れの中で小選挙区制度を導入いたしましたね。しかし、今になると、小選挙区制は小選挙区制に伴う大変な弊害があってという話がまた起こってきている。

 ですから、どのような制度にしろ、先ほど来各先生からお話があるように、それを担う者の使命感とやる気がなければやはりうまくいかないんじゃないかと私は思いますので、制度に根本的な欠陥があるのなら、それには手を入れていかねばならない。しかし、余りにも悪平等がはびこった大学を独立行政法人にした結果、今度は独立行政法人の弊害が多々あるということは、先生方御指摘になっているとおりなんですね。ここのところを、制度論だけにとらわれず、やはりみんなで未来のために議論していただきたいと私は考えております。

藤村委員 今お答えの中で、国の役割というのを割に明確にお答えいただいたと思うんです。我々が主張しているのとほぼ近いんですが、学習指導要領を一つの例としてナショナルスタンダードを示す。それからもう一つは、義務教育費というふうにおっしゃったんですが、財源の措置をきちんとする。これがやはり国の大きな中心的役割であろうと思います。

 しかし、いずれにせよ、それらは、今大臣答弁の中では、それを実行するリーダーといいますか、人にかかっていますとおっしゃった。このことは先ほど鈴木委員の質問でも、どんなに金をかけても云々、最後は人間の力とおっしゃったんですが、国は、人間の力に期待するのはいいんですが、それを発揮してもらうためには責任を果たすと。そういう意味で、まさにどんなに金をかけてもとおっしゃいますが、今、金は減らそうとして、それで人間の力に期待すると言っていたのでは、これは地方は動かない。午前中に例を出した、きのうの各県教委に対して分厚い、本当に中身のあるものを差し上げたけれども、これを現場に持っていって、それぞれまた勉強し、そしてそれを具体化していくには、これは人も要るし、時間もかかるし、すなわちそれは金がかかることであるという御認識が必要だと思うんです。

 私は、安倍首相の所信のところで、教育再生を声高におっしゃった、そのことはさっきちょっと議論いたしましたが、一つ欠けていたのが、きちんと国は必要なものを手当てするというか、その姿勢がないのではないか。教育に関する財政支援といいますか、そのことに全然触れられていなかったですね。文科大臣の方から、この点についてちょっと表明しておいていただきたいと思います。

伊吹国務大臣 小泉内閣のときも米百俵という最初の打ち出しがありましたが、その後、教育改革については見るべき進展がなかったと私は率直に思います。

 ですから、政府は打ち出の小づちを持っているわけではありませんので、現在の国民負担の中でやるのであれば、どこを減らすかという話は、民主党を含めてみんなで議論をしなければならないでしょう。それ以上に、将来のために必要だという国民認識を民主党さんも自民党も、あるいはその他の政党の皆さんも共有するならば、我々は恐れることなくその負担を国民に求めるという議論とあわせて、今の議論はする必要があると思います。

藤村委員 伊吹大臣が直接かかわられた簡素で効率的な政府を実現するための行政改革の推進に関する法律が、平成十八年六月二日施行ということになりました。

 この中で、我々、多分ここにいらっしゃる皆さんが非常に懸念を抱いているのが、五十五条の三項に、これは教員の話ですけれども、「児童及び生徒の減少に見合う数を上回る数の純減をさせるため必要な措置を講ずるものとする。」と。児童生徒が減っていくから少し先生は減らしていいという考えは、それなりに理屈は通るんですが、純減を上回る減をするという、その必要な措置を講ずる。この点については、文科大臣の立場で今どのようにお考えでしょうか。

伊吹国務大臣 これは、当委員会の委員長もそうですが、特別委員会の委員長というものは、提出された法案には常に中立でなければなりませんから、誤解のないように申し上げておきますが、私が委員長だからその法案を推進したわけではありませんし、また、推進すべき立場に委員長というものはございません。

 問題は、減らすべき必要があれば減らせばいいし、教員の現場の、結局、教え方、担当の子供たちの数、それに対しての教員の対応、そして実際教員がどういう仕事をしているのかという、現場をやはりしっかり認識して、減らすべきところと、減らしてはならないところと、ふやすべきところということは、やはりしっかりと分けて考えるべきで、まさに先生が午後の一番冒頭におっしゃった、そこのところに直接文部科学省の手が及ばないということが、もどかしいといえばもどかしい、私はそういう気がしておりますので、現場の実態と合わないような減らし方をするというようなことは、私は余り感心したことじゃないと思っております。

藤村委員 国及び地方公共団体が行う教育の中で、先ほど伊吹大臣からは国の役割ということで割に整理していただいたので、その路線といいますか、その路線をきちっと実現していただければというふうに思っております。これは現教育基本法のもとで今動いております。

 そこで、午前中にも質疑が若干ありました教育再生会議であります。一昨日ですか、第一回会議が開かれたと伺いました。メンバーは民間の方々十七人でしたか。加え、この教育再生会議に総理そして文科大臣というメンバーが加わっているのでしょうか。それとも、第一回会議でいわばあいさつをされたのでしょうか。今後の再生会議のあり方というのは、文科大臣はどうかかわるのか、教えてください。

伊吹国務大臣 これは、組織上の位置づけは閣議決定によってつくり上げた総理の諮問機関というもので、法律に根差したものではございません。そして、その閣議決定をいたしました際の文章は、民間の有識者と内閣官房長官、文部科学大臣がメンバーとなり、内閣総理大臣がこれを主宰するということは明確に閣議決定いたしております。

藤村委員 そこで、午前中に御質問があったのは、この教育再生会議と、それから教育を中心的に担う役所である文科省、文科省はまた諮問機関である、審議機関である中央教育審議会と一体になって、さまざまな教育に関して審議をし、必要な法改正をずっとされてきました。

 今後、これはどうなるのかなと。今、大臣おっしゃるように、再生会議は、法的根拠はあるわけではないけれども、閣議決定によって設置された機関。中間報告を来年早々出し、最終報告を来年ひょっとしたら年末かと言われている中で、すると、その最終報告を閣議決定いたしますと、それは法的拘束力を持ちますね。だから、法的事項までをそこで決定し、それを閣議決定でまさにオーソライズするのかどうか。その辺の見通しというのはどういうふうになるんでしょうか。

伊吹国務大臣 閣議決定をいたしますと内閣を拘束することになりますが、それは国家行政組織法上、憲法上の内閣の地位という意味では、法的な意味はございますが、国権の最高機関がつくられた、国会の議決を経た法律的な意味での拘束力は、これはございません。

 ですから、先ほど来先生が御議論になっているように、大きな教育の要素というのは、やはり従来の考え方からいえば、家庭でのしつけ力、地域での子供を優しく包む力、それから学校でのその足らざるところを補う役割と、学校は多くは基礎的な学力をつける場というのが日本の伝統的な流れであったと思います。

 しかし、残念ながら、残念ながらという表現はよくないと思いますが、今はもう経済がこれだけ大きくなっちゃって、働き場所が都会に集中しておりますから、三家族同居の従来型の家族制度というのはもうなくなってきていると思わねばなりませんし、女性が社会に進出して自己実現をされる機会を大いに持たれるのはいいという表現以上に、女性が社会に出て働いていただかなければ、日本経済と日本社会はもたない規模の大きさになってきているということです。

 そういう中で、家庭の教育力というのはやはり必然的に非常に落ちてきている。それから、それに従って地域の包容力というのも落ちてきている。その現状を傍観しておいて、学校にすべての責任を押しつけて、学校がけしからぬ、けしからぬと言うだけでは、私はやはり問題の解決にならないと思いますね。

 ですから、家族の復権、地域社会の復権をやるということになりますと、極端な話、サッチャーはそういう考えを私は持っていたんだと思うんですが、やはり地方での働き場所を確立するために、あれだけ市場経済重視を言った人が、工場誘致のためには税金の補助金を気前よく出しています。それで英国に進出したのが日産自動車ですよね。

 そして、同時に、公共事業の役割もあります。できるだけ早くお母さん、お父さんに家庭に帰ってもらうような働き方、あるいは労働基準法のとらえ方、こういうものをすべて包含してもらわないと、本当の意味での三つの力を取り戻して、規範意識を持って、基礎学力がどうで、創造性があって、世界から尊敬されという言葉どおりの子供をこれから百年仕事でつくっていくのは、非常に難しいと思いますね。その仕事は、文部科学省だけで担うのは少し難しい。だから、そういう大局的な議論をしてもらいたいと私は思っているんです。

 であるからこそ、私がお願いしたからやっているわけじゃなくて、総理直属でやってはおりますけれども、地域と家庭の再建の小委員会というのをつくっておりますね。その中で、まさに先生がおっしゃった、法律に基づいて学校教育としてやる場のことは、これはすべて我が省がそのまま引き受ける。そして、それについては中教審の御意見を広く伺って、いろいろな価値観の中から結論を出していただく。これはもう当然のことであって、既にこの再生会議の議論の前に、中教審としては、免許制の問題その他いろいろ御議論はあると思いますが、答申をいただいておりますから、いただいているものは、文科省としては当然、既定方針に従って粛々と国権の最高機関で御議論をいただく準備を進めたいと思っているわけです。

藤村委員 今の話で大体整理されていたように思います。

 伊吹大臣が就任された当初に、記者会見でその件を新聞記者から聞かれて、それでこう答えていらっしゃいます。山谷えり子さんが担当の首相補佐官になりましたから、一度こちらに来てもらって事務局ともよく意見交換したらよいのではないかとおっしゃっています。これは実現したんでしょうか。

伊吹国務大臣 率直なところ、山谷さんとはもう何度も何度も、私自身、マスコミや何かに気づかれないようには会っております。

 それはなぜかというと、私は、この再生委員会というのは、やはり総理が主導でやる委員会、再生会議ですから、私は、その人選だとかここの運営だとかについて口を出すべき立場ではありません。ですから、そういうことについては、私は一言も言ったことはございませんが、今後、お互いの役割分担をどうするかというような議論は再生会議が立ち上がるまでに十分やっておこうということは、既に何度も意見交換しております。

 しかし、これを平場でやりますと、人選について文科省が口を入れたとかどうだとかという実態じゃないとらえ方をされるということがあってはならないから、できるだけ目立たないようにやったということです。

 そして、やっとここで再生会議が立ち上がりましたから、一度、先生の今の御示唆のように、私が申し上げたとおり、平場で意見交換を山谷さんや山谷さんのスタッフと我が方のスタッフとでやってもらったらいいな、そう考えております。

藤村委員 そこで、スタートしたからということで、今大臣はきちんとやりましょうと。実は、国会でもやらないといけないと思うんですね。

 私、昨日、文科省に、再生会議と文科省、あるいは中教審との関係など質問項目を出したら、いやちょっと文科省だけで答え切らぬという声も出てきたので、そこで内閣に、山谷首相補佐官が国会に来て、委員会で答えてほしいと要請しましたところ、これは国会法とか内閣法とか持ち出して、何かできないようなことをおっしゃるんですが、しかし、そんなに、補佐官制度自体が相当新しく発想をして、今回、数をふやして担当をつけてやり始めるわけですから、これは大臣に言ってもしようがないことで、委員長に対しては、このことは今後きちんと、担当補佐官、そして再生会議事務局長という立場で国会に出て、バッジをつけている人ですからね、民間の人を呼び出そうというわけじゃないんですから、きちんと来るようにはからっていただきたい。委員長に申し入れしたいと思います。

桝屋委員長 ただいまのお話につきましては、先刻の理事会でも議論をいたしまして、引き続き議論しようということになっておりますので、理事会において議論を続けたいと思います。

藤村委員 それから、再生会議と文科省、中教審との関係で一点だけ確認させてください。

 まず、再生会議をやっている間は、中教審はまた淡々と動くということであるのか。かつて臨教審が動いたときは中教審は休みましたね。だから、それがどうなるのかということと、それから再生会議で、まさに文科省関係の教育基本法を頂点とする法体系の一部に変更を生じる法改正が必要だとなったときは、それはまた改めて中教審、文科省、政府提案、こういうことになるんでしょうねということを確認したいと思います。

伊吹国務大臣 今のお尋ねは、再生会議で出た結論が、何か現在、内閣として提出している法案と矛盾する結論を出した場合ということですか。

 それは、再生会議というのは一つの、総理に対していろいろ意見を言う場ですから、これをすべて受け入れるかどうかは、今度は内閣として考えなければいけませんよね、行政権は内閣が共同して責任を負うべき憲法上の権限ですから。ですから、おっしゃっているようなことは当然、文科大臣と官房長官と総理大臣がこのメンバーである限りは生ずることは私はないと思うし、また生じないような運営をさせるのが私の責任だと思っております。

 それから、再生会議で議論をしているテーマだけを実は中教審に今諮問をして、御審議をお願いしているわけじゃありませんので、中教審については、再生会議が開かれている間といえども、私の責任において常に審議を継続するようにお願いをしたいと思っております。

藤村委員 もう一問、ちょっと大きな課題で、七月に、先ほどもお話があった中教審答申の今後の教員養成、免許制度のあり方ということでお尋ねをしたかったんですが、時間的制約があるので、この一問だけにいたします。

 教員の免許、おおむね中教審答申から見ると、十年で一度見直したらどうか、更新したらどうか、その際には講習を受けたりなんかする、こういうことで、私も免許制度更新に全然反対と言っているわけではないんですが、大臣がお考えになるこの免許制度更新に伴うメリット、デメリット、さまざまあると思うんですが、今どういうふうにそのメリット、デメリットをお考えなのか、この点だけをちょっとお伺いしておきます。

伊吹国務大臣 まず、免許制度の更新を中教審のこの御答申どおり仮に十年ということにいたしますと、どのような基準でその不適格、適格を判断するかということが一番のやはりポイントになってくると思います。だから、そこのところを誤ると、何か免許の更新を取るための受験勉強のために授業の時間が、授業に割く、指導に割くべき時間がなくなるということは、あってはならないだろうと思いますね。

 しかし、同時に、今のままの教師のあり方でいいのかどうなのか、これは特定の方というわけじゃありませんよ。一般論として言えば、十年間の間に刻々と知識が、社会情勢が変わってくるわけですから、その社会情勢に合わせて子供を指導できる能力をやはり日々研修でつけていただくということ、そのメリット、デメリットというのは、やはり更新をどういう基準で、どういうふうに運用していくかという、まさにそこにかかっていると思います。

 それから、では不適格だとなった場合の教師の扱いをどうするかということ、これは、御承知のように、公務員の分限がありますので、どういう形でこの人たちを、もう一度教師の場へ戻っていただくのか、他の職種についていただくのか、その辺をこれから詰めて、運用によって、先生が御懸念になっているメリットとデメリットがはっきりと出てくるんじゃないかというふうに考えています。

藤村委員 その辺の中身をちょっと議論したかったんですが、次回に譲りたいと思います。

 私、デメリットの部分で、今お触れになりませんでしたが、現場の教員の立場からいうと、その間、講習を受けたりなんかするということでどうしても抜けないといけない、それをちゃんと補充する仕組みができるのか。これは、さっきの行革法を持ち出すまでもなく、午前中の論議で、いじめの問題が出ればまた国があれだけの資料をつくり、都道府県教育委員会、市町村教育委員会、学校へおろしてくる。今非常に多忙になっていることは、大体皆さん御承知のとおりであります。加えて、百万人の教員の、十年ごとですから、十万人ごとを毎年更新制度で、制度と仕組みとしてやっていくからには、これは、教員の補充とかそれに伴う予算措置など、相当のお金がかかる話だということ、これをかけないでやるのは無理だということを最後に申し上げまして、終わらせていただきます。

 ありがとうございました。

桝屋委員長 次に、野田佳彦君。

野田(佳)委員 民主党の野田佳彦でございます。

 私は、この文部科学委員会に入ったのが、今当選四回なんですけれども、初めてです。いつも第一希望で出していたんですが、入ったことはなかったんです。そのうち、所属委員会を、皆さんの御希望を聞いてそれを配置する国対の仕事になり、ほとんど縁がなかった。特にことしは、当初は懲罰委員会、その後財務金融、経済産業、これで四回目ですね。ここでちょっと心を落ちつけて、日本の教育のあり方というのを、じっくりとこれからはやっていきたいと思っておりますので、ぜひよろしくお願いをしたいと思いますし、特に、きょうは十月二十日、これは私にとっては忘れられない日なんです。

 ちょうど十年前の平成八年の十月二十日、落選をしました。全国で二百九十九の選挙区で当選者が決まった中、三百選挙区目で、開票率九九%のとき二百十票勝っていたんですが、疑問票の判定作業で百五票差で逆転負けをして、以来三年八カ月浪人をしまして、ちょうど前厄、本厄、後厄のときが厳しい浪人生活だったんですけれども、こうやってバッジをつけて、国民の皆さんの声を代表して、こうやって質疑に立てるということは、本当にうれしいことだというふうに思います。そのことを強く自覚しながら、きょう初めて文部科学委員会で質問をさせていただきたいというふうに思います。

 それでは、まず大臣所信についてなんですけれども、せんだっての伊吹大臣のごあいさつの中で、教育基本法の早期成立に向けて御決意を述べておられました。当然、これはお立場上、最優先で取り上げられる文部科学部門の最大の課題だというふうに受けとめておりますけれども、一方で、この教育基本法案が閣議決定をされる寸前だったと思います、四月の二十七日、法案が国会に提出をされる直前だと思いますが、自民党伊吹派の派閥総会で、伊吹大臣がごあいさつをされているんです。それは、改正案への不満は当然あると思う、しかし、連立政権を組んでいる、腹八分の姿勢でやらないと元も子もなくなるとごあいさつをされています。

 ということは、本音は、大臣としてはおなかいっぱいの内容ではないわけですよね。ということで、その残り二分というのは一体何が足りないのか、ぜひこれは教えていただきたいと思います。

伊吹国務大臣 まず、野田先生、私も昔文教委員長を拝命したことがあるんですが、ここにおられる文教行政の先輩の先生方のように委員席に座った経験がございません。初めてこの国家百年の計に携わることになりましたので、先生ともども切磋琢磨をして、日本のために、いい教育の推進のために努力をしたいと思いますので、ひとつよろしく御協力をいただきたいと思います。

 それで、御質問をいただきまして、私も当時、うちの政策集団の仲間も何人かおりますので、私の記憶に間違いがあれば正していただきたいと思うんですが、我が政策集団は割に保守的な考え方の人が多いんです。それで、公明党さんとの協議の中でまとまってきたいわゆる愛国心のところの議論で不平不満がいろいろ出たんですよ、一般のメンバーから。そこで、私が会長として、あなた方にはこの法案には不平不満もあるだろうけれども、しかし、その不平不満を言うことによって日本の将来を決していく国会の、率直に言えばパワーゲームの力をそぐということは、かえっていろいろな面でマイナスが起こることがあるから、連立を組んでいる場合はお互いに譲り合って、腹八分でやりなさいよということを会長としてむしろ訓示したわけでして、私が腹八分と言っているわけじゃございません。

野田(佳)委員 訓示ということで、そうですか。

 隣に桝屋委員長もいらっしゃいますし、お話ししにくい点もあるので、この話はこれ以上申し上げませんけれども、いずれにしても、教育基本法については、特別委員会には私もメンバーになりましたので、その際にじっくりとこれからお聞きをしていきたいというふうに思います。

 次の質問なんですが、さはさりながら、若干やはり、教育基本法に少し触れちゃいますけれども。

 我が党は、日本を愛する心を涵養、一方で、与党の方は、我が国と郷土を愛する態度を養う、こういうところが違いとして出てきて、さきの通常国会でも随分この点が議論になったようなんです。だけれども、その前に、国を愛するとか我が国を愛するとか日本を愛するとかという以前に、我が国の歴史をしっかりと子供たちが勉強するということが前提ではないかと私は思っていまして、そこで、ちょうど大臣が京都大学御出身でございますので、京都大学の著名な先生の言葉を引用したいんですが、それは、皆さん御存じの会田雄次先生で、恐らく大臣が在学中、多分京大で教壇に立っていらっしゃったころだと思うんです。

 私は、そこの大学の卒業生の先輩からお聞きしました。その方は今還暦を少し越えたところで、四十年ほど前に会田雄次先生からアドバイスを受けたというお話なんですが、君たちが将来この大学を出て、そして社会に出て、いずれ国や地域や会社のリーダーになったとき、そのときの日本が心配だというお話なんです。なぜかというと、君たちは戦後教育の影響で三つのことを教わっていない、一つが歴史、二つ目が信仰、三つ目が人の道ということでした。私の先輩は、その言葉を今さらながらしみじみと思い出されるという話をされていたんです。

 宗教教育と道徳教育はまた別の機会に議論したいと思いますが、私は、その第一に挙げられた歴史の教育のあり方、きょうはこの問題を中心に質問をしていきたいと思っていまして、国を愛する心を涵養したり、態度を養う以前に、我が国の歴史をしっかり勉強させるということが大事だと先ほど申し上げましたけれども、大臣の基本認識はいかがなのか。残念ながら、所信というか、ごあいさつには全く歴史に触れておりませんでしたので、お尋ねをしたいと思います。

伊吹国務大臣 今回の教育基本法改正を与党が審議し、内閣が国会に提出した最大のものは、現在の教育基本法というのは、私は大変よくできていると思います、率直に言って。そして、このもとで日本は大変な経済発展を遂げ、国民生活が豊かになったということは評価しなければなりません。しかし、同時に、この今の教育基本法というのは、インドへ持っていってもイギリスへ持っていっても、アメリカへ持っていっても、立派なものなんですね。

 ところが、今まさに先生がおっしゃったことに関連するのは、各国というものはどういう形で成り立っているかといえば、それはまず主権の及ぶ領土と国民と、その国民がその領土の中で果たしてきた人間の営みとで成り立っているわけですね。この営みの中が、社会生活であったり文化活動であったり、時には政治であったり、公明党さんの主張でいえば、そこに統治のシステムがあったり、いろいろなことがあるわけです。

 それで、その人間の営みの中から自然に、ハイエクの言葉でいえば自生的に出てきた倫理観のようなもの、これがやはり社会規範というか、法律以前に社会の秩序を守っている大きな力なんですね。これを今非常に重視をするということを安倍さんも言い、そして教育基本法の政府提案の中にもそういう趣旨のことがいろいろなところに盛り込まれているときに、それをマスターする一番の根本は、先生がおっしゃった歴史教育に私はあると思うんです。

 問題は、歴史を教育するということと歴史を評価するということは、これは違うんですね。ですから、歴史の評価は、例えば日本から見る歴史と他国から見る歴史が違うと同じように、おのおののイズム、あるいは政党の理念によって違いますから、余りに歴史認識、評価が偏ることを恐れる余り、歴史的事実を教えることにおいて、私は非常に日本は足らないという気持ちは先生と共有いたしております。

野田(佳)委員 おっしゃるとおりで、全く私も同意見です。

 ただ、最近の歴史認識の話というのは、大体昭和三年から昭和二十年ぐらいの話、あるいはせいぜいサンフランシスコの講和条約ぐらいまでをどう見るかが歴史観なり歴史認識と言われていますけれども、これは本当にわずかの時代なんですね。もっと悠久からの歴史を踏まえて、どうやって我が国を我々は愛し、そしていいものをどうやって将来に残していくかという議論をしなきゃいけないと思うんですが、残念ながら、歴史の大切さは共有できたと思いますけれども、現実にきちんと歴史教育が行われているかどうかというと、果たしてどうなのかなというのが私の問題意識でございまして、資料をお配りしておりますけれども、資料一、これは神奈川県の県立高校における状況なんです。

 なぜ神奈川県かというと、この後で触れますけれども、高等学校における日本史の必修化に向けて一番熱心なのが神奈川県なんですね。こちら民主党の笠理事、自民党の鈴木理事が神奈川県で、僣越でございますけれども、ちょっと神奈川の資料を取り寄せてまいりました。

 そうすると、資料の一の真ん中のところ、ごらんをいただきたいと思うんですが、日本史Aのみ履修、Aというのはこれは近現代を学ぶところですが、一万三百九十一人ですね、全日制、定時制。二八・四%。日本史Bのみ履修、これは縄文からずっとの通史ですけれども、一万一千四百六十一人、三一・三%が履修をする。日本史AとB両方履修している生徒たちも四千四百八十七人、一二・三%いるんですが、全部合わせて二万六千三百三十九人で、七二%なんです、神奈川県の県立高校で。約三割は日本史を勉強しなくても、履修しなくても卒業できるというのが現状で、たまたまこれは神奈川で申し上げましたけれども、恐らく全国共通だろう、ほぼ同じような状況だろうと思います。

 このように、世界史は必修だけれども、日本史は選択履修ということによって、一番吸収できる十代の半ばに全く我が国の歴史を学ばないで、そして大学を受けたりする、あるいは社会に出たりするということが本当にいいのか。歴史をとうとぶお話をされましたけれども、現状はこういう状況ですので、中にはアメリカと日本が戦争をしたことを知らなかった高校生もいると。あるいは、この間、私の友人で大学で教鞭をとっている若手の助教授が言っていたんですが、昭和二十年、一九四五年はどんな年か、答えられない生徒が二割いたと言っていました。

 というように、大事な歴史というのを学んでいないと、その酌み取り方とか切り口はあるかもしれませんが、事実すら知らないで出ていくというのは本当に問題があると私は思っていますが、この点についての大臣のお考えをお聞かせください。

伊吹国務大臣 私は多くの考えを今先生がおっしゃったことと共有いたしておりますが、制度的なことを申し上げますと、もう御承知のように小学校、中学校が義務教育になっておりまして、小学校に入りますと、三年、四年で、例えば地域の学習をさせるという指導をしているわけですね。その三年、四年の間で、千葉の自分たちのある小学校あるいはその周辺にはどういう人がいて、どういう生活を営んでいたかというようなことを、どうも三年、四年の間にかけて教えるようです。

 それから、六年生になりますと、人物を中心とした日本史という時間がありまして、これは必修になっているわけですよ。それから、中学校の一年生、二年生というのは日本史が必修になっている。そして、中学校段階では、世界史というものはほとんど触れられていない。ですから、高等学校に入ってきてから世界史にウエートが移っているというのが現実だと思います。

 問題は、小学校、中学校段階で教えている日本史が、今先生がおっしゃった感覚からいって十分なのか、十分なことが教えられているのかと。もし十分なことが教えられていれば、それにプラスして、今度は世界の歴史を高等学校で学ぶということはあっていいと思います。

 ですから、私も、少なくとも日本の伝統的社会規範というものを重視してやるならば、それが形成されてきた歴史的過程をやはりマスターしていなければだめだと思いますので、いずれにしろ、来年、全国統一の学力テストをやり、そして、これは教育基本法の改正を受けてなんですが、学校教育法の改正をやり、その学校教育法の、法的に言うと告示である指導要領、これをやはり見直す。その中で、もう少しやはり日本の歴史の、評価じゃなくて、事実を教えるということですね、これに力を注いだようなことを一度中教審にも考えてもらおうじゃないかということを私が申し渡してございます。

野田(佳)委員 小学校、中学校における歴史の授業のあり方ということも、後でちょっと、また時間があれば触れたいと思いますが、今は高等学校における日本史必修化に向けての話をしばらくやりたいと思います。

 資料二の方に、今年度の大学入試センター試験科目の受験者数というのを記載させていただきました。これを見ると、必修である世界史で受験をされている人数というのは全体の二五・六%、選択履修である日本史が四一・七%と地理が三二・七%ということで、傾向としては日本史、世界史、地理という順番なんですね。下に私立大学、これは限られた大学の学部しか出ていませんが、一番多いのはやはり日本史で受験をされる方なんです。生徒さんのニーズとしては、やはり日本史をしっかり勉強しようというニーズはこれを見ても間違いなくあると思いますし、加えて、そもそも、これはそもそも論になっちゃいますけれども、世界史というのは何なんだろうと、もうかねてから思っていまして、ほとんどあれはヨーロッパの歴史と中国の歴史で、世界史と言えるかどうかという疑問もあります。

 基本的に、やはりほかの国々も、まずみずからの国の歴史をしっかりと勉強した上で、その上で世界の話になっていくはずですが、その高等学校の段階において自国の歴史よりも世界史を必修させるという、やはりそもそも論に私は立ち戻って議論すべきだなというふうに思っておりますけれども、そもそもこういう国というのはほかにあるんでしょうか。

伊吹国務大臣 これは先生、やはり国の成り立ちによって随分違うんじゃないでしょうか。我が国は世界の中で極めて例外的な国でございまして、もう申し上げるまでもなく、アイヌの方とか在日で日本国籍をお取りになった方ももちろん共生して暮らしているわけですが、基本的に言うと、一民族で成り立ち、一民族の言語が主権の及ぶ国家のどこででも通用して、そしてその一民族が常にその国をコントロールしてきて、宗教的、日本はほとんど宗教が判然と出てこないという意味での宗教的な雰囲気を共有している。ですから、ハンチントンなんかに言わせると、一国家一文化圏という極めて希有な文化圏を形成しているという国なんですね。

 ところが、ヨーロッパへ参りますと、なるほど、自国の歴史を教えていないようなところは結構たくさんあるんですよ、国別に見ると。何なら具体名を申し上げますが。しかし、これらの国はそもそも、自国の歴史を教えるよりも、ローマ帝国史を学んだ方が自分たちの国の成り立ちがわかる国が多いわけですね。ですから、日本のような国においては、私は先生がおっしゃっていることは正しいと思います。

野田(佳)委員 正しいと言っていただいたので励みになりますが、それを踏まえてまた御質問しますけれども、過日、九月十二日ですね、高等学校における日本史必修化を求める要望書というものを、神奈川県の教育委員会教育長、それから東京都、埼玉県、千葉県、四人の教育長が連名で文部科学大臣あてにこの要望書を出しておられます。これはちょっと大事なところなので文面をさらっと読ませていただきますけれども、

  現在の日本は、高度経済成長を経て、今まさに成熟した社会を迎えておりますが、我が国が国際社会の中で今後も発展していくためには、我が国の歴史を振り返ってこれからの日本の在り方を考え、その上で国際社会に貢献していくことが重要であると考えております。

  中でも、次代を担う子どもたちが、国際社会の中で日本人としての自覚をもち主体的に生きていく上で必要な資質や能力等を育成することは極めて重要であり、その基盤として、我が国の歴史や文化、伝統に対する理解を深め尊重する教育がこれまで以上に求められていると考えます。

云々で始まって、そして具体的には、世界史が今必修科目になっているけれども、ぜひ日本史も必修にしてくれというような内容につながっていくんですが、内容を見る限りにおいては大変妥当な要望書だと私は思っています。

 一都三県というと、人口でいうと日本の総人口の三分の一です。そこの教育長から出されたという重みと、それから、ほかには東京都の教育委員会も同趣旨の要望を出されていると聞きますし、茨城県の県議会でも同様の決議をされたと聞いていまして、この動きに連動して、各地で日本史の必修化を求める動きが私は強まってくると思いますので、中央教育審議会で、中教審で御検討いただくということでございましたけれども、これは学習指導要領を変えて実際に動き出すにはまた何年かかかるわけですから、ぜひやはり今年度中に検討した結果を出していただいて、前向きに取り組んでいただくということが望ましいと思いますけれども、改めてその御決意をお聞きしたいと思います。

伊吹国務大臣 申すまでもなく、高等学校も、朝八時半なら八時半、九時から授業が始まって、朝は四こまですよね、午後二こま、五日間でやるわけですから、どれを入れてどれを、時間をさらに延ばしていけばこれは結構なことなんですが、やはりクラブ活動とかそういう社会性を伴う活動の時間をとっているというのが普通でございます。

 ですから、先生がおっしゃったことの大切さは私も価値観を共有しておりますので、小学校、中学校と高等学校を含めて、どういう形で日本史と世界史とをはめていくか。地理という話をどうするかというのがあるんでしょうが。それから、昔は公民が入って社会科という教科になっておりましたからね。このあたりの再編をやはり少し考えないといけないのかなという気がしておりますが、何分、教育というのは価値観によって非常に違うものですから、一度中教審の御意見をよく承って、できるだけスピード感を持ってやらせていただきます。

野田(佳)委員 スピード感を持ってやっていただくという、大変前向きなお話をしていただきまして、本当にありがとうございます。また、小学校、中学校、高校と、それぞれの過程において全体的に見直しをしていただくということも、これは後で質問しようと思っておりましたけれども、お答えをもういただいたような形でございまして、基本的に了としたいというふうに思います。

 中教審と教育再生会議についての質問もしようと思っておりましたが、先ほど藤村議員がお聞きをしておりまして、そのお話を聞いていて私も理解をしましたので、そのことは省いて必修化の具体論の話を少しさせていただきたいと思います。

 資料の五番目を見ていただくと、これは高等学校における学習指導要領における社会科の推移を、これは戦後の動きをまとめたものになっていますけれども、昭和二十二年に告示をされ、二十三年に実施をされて、いわゆる社会科がスタートし、そのときには東洋史、西洋史、人文地理、時事問題という選択履修からスタートして、日本史が必修であったころがいっときあるんですよね。これを見ると、昭和三十五年告示、昭和三十八年実施の学習指導要領のときでございまして、このときは倫社が必修、政治経済必修の上に、世界史、日本史、地理も、これはみんな必修という、全部が必修だったころに日本史が必修でした。

 このころの話を聞いてみると、例えば文系でも数3を履修しなければいけないとか、一番詰め込みの激しかったころだと思うんです。そのときとはちょっとまた時代が違うんですが、改めて日本史の必修化というのは、これはすべてが必修じゃなくて、今限られた時間の中でどう調整するかというお話をされましたが、そういう選択をしながらの日本史必修が実現可能かどうかということをやはり検討すべきだと思うんです。

 平成一年告示、平成六年実施の学習指導要領から世界史が必修となったわけですが、これは多分グローバル化が叫ばれた時代という状況もあってそういうことになったのかなと。あるいは、中教審では、西洋史の大家だった林健太郎先生もいらっしゃったからそういうことになったのかなという気もしますけれども。

 しかし、今また時代状況は変わって、先ほど申し上げたようなニーズというのは間違いなく出てきていますので、日本史をどうやって高等学校で必修化させていくか。具体的に考えたときに、考えられるのはもう三つしかないと思うんですね。一つは、世界史にかえて日本史を必修とするというやり方。それから、世界史に加え日本史も必修とするというやり方。ただ、その場合はちょっと地理が置いてきぼりになる可能性はあります。もう一つは、世界と日本の近現代史を総合した新しい科目をつくって必修とするというやり方。具体的には多分そういう方法だと思いますが、まだこれから中教審に御議論をいただくわけで、余り踏み込んだ御答弁をここで求めるということはしませんけれども、イメージとして望ましい方向性を少しお持ちだったらお考えをお聞かせいただきたいと思います。

伊吹国務大臣 いや、これは難しいですね、御質問は。おっしゃった一番目の、世界史にかえて日本史を必修とするということになりますと、高等学校を卒業するまで世界の歴史を一度も学ばないという子供が出てきますね。そして、日本という国は、やはり中国、韓国との文化の交流によってかなりの影響を受けて今日の日本文化というものがある。それから、同時に、明治維新以降は、和魂洋才と言われるように、西洋の文物を取り入れることによって日本の近代化が果たされたということになると、その大もとの中国、韓国、あるいは中国に影響を与えているシルクロード諸国の変遷を学ばずしていいのかという一つ問題がございますね。

 それから、二番目におっしゃった、世界史に加えて日本史も必修とするということになると、地理というものをどう扱うか、これは先生がおっしゃった。インドという国はどこにあり、フランスという国はどこにあるかわからない日本人というのも困りますし、それ以上に、青森県と秋田県がどこにあるかというのがわからないんじゃ、これまた困ります。そして、世界と日本の現、近代史ということになると、これは、歴史というものはやはり永続性の中での人間の営みでできてくるものですから、どれもなかなか難しいなと、私はすぐに名案が浮かばないんですよ。思い切って何かほかの科目を削っちゃうとか、そうすると、その科目を大切に思っておられる方からまた反論が出てくるということがありますから、どれがいいかということを今教育行政を預かっている私がこのオープンな場で申し上げるより、今のようないろいろな問題があるということを添えて、先生からそういう大切な御提言があり、大きな流れとしてはやっていかなければならない方向の御提言があったということを添えて、中教審で私は一度意見を聞きたいと思います。

野田(佳)委員 ありがとうございます。

 基本的には、先ほどの一都三県の教育長の連名の要望も、今の問題認識を持って、そして、理念、大枠は要望として提示をされていますが、具体論はやはり国に預けている形になると思いますので、ぜひ、それは中教審を中心に、よく御議論をいただいて、妙案を出していただければなというふうに思います。

 その上で、やはり大切なのは、現に高等学校で学んでいる生徒さんたちがどういうお気持ちなのかということなんですけれども、これも神奈川県のアンケート調査、これは資料の三枚目なんですが、「日本史の学習についてのアンケート」を、これは全日制の県立高校五校で実施をしていまして、回答総数が九十九と、ちょっと限られたサンプルですから、これをもってすべてと推しはかることはできませんが、一つの傾向は出ていると思いまして、資料として出させていただきました。

 「問1」で、「高校で日本史を学ぶことは必要だと思いますか。」、「必要だと思う」という答えがこれは約八割ですね。これはもう当然だと思うんですが、その必要だと思うと答えた理由で、「自分の国の歴史を知ることは大切だと思う」、六一・六%、「中学校での日本史の学習では不十分である」、一四・一%、「日本の歴史や文化に興味がある」、三七・四%、「大学等への進学上必要である」、二九・三%、それぞれおもしろい傾向と思いますが、これは健全な感覚が生徒たちの間でちゃんと芽生えているなと私は思いました。

 そして、その上で、「問2」のところで、「現在、高校の地理歴史科では、学習指導要領によって世界史が必修と定められていますが、このことについてはどう思いますか。」という問いかけがありまして、「現在のまま世界史必修がよい」という方が約三割近く、「日本史必修がよい」、三六・四%、「日本史・世界史両方必修がよい」、三四・三%ということで、この日本史必修がよいと世界史必修と合わせた必修を足すと約七割なんですね。

 ということで、限られたサンプルですが、高等学校に通っている生徒たちの間にも日本史必修待望論みたいなものがあるというふうに、このアンケートからすると、そういう傾向が読み取れると思いますが、これはもう少し大きな規模で生徒の意識調査をぜひやっていただいて、それを踏まえて中教審等で御議論をいただければなと私は思いますけれども、いかがでございましょうか。

伊吹国務大臣 アンケートというのは、選挙の世論調査と一緒で、非常に読み方が難しいんですよね。これは、今先生がおっしゃったように、自分の国の日本史を学ぶことが必要だと思いますか、必要、自分の国の歴史を知ることが大切だからと思う、その他云々という、この七八・八%の理由づけなんですよ。それで、授業時間数がふえてもあなたは日本史の必修が必要と思いますかという問いかけをしないと、これの判断はなかなかちょっと難しい。

 文部科学省で平成十五年に国立教育政策研究所というところで調査をしてもらったのを見ますと、あなたはこの科目の勉強は大切だと思いますかという問いに対して、日本史のBを大切だという人が五五%、世界史は五一%なんですね。そして、入試や就職試験に関係なく大切だと思いますかという問いに対して、日本史が四七・六、世界史が四五・八、非常に均衡しております。

 ですから、中教審にお願いするときは、先生がおっしゃったように、もう少し大規模で、かつ授業時間がふえてもやりたいということなのか、この科目がなくなってもやりたいということなのかということも聞かなきゃいけませんし、生徒がしたいと言っても、そのとおりさせられないこともあります。やりたくないと言ってもやらさなければならないこともありますから、その辺も踏まえて、やらせていただきます。

野田(佳)委員 確かに、問いかけの仕方によって随分と回答も違いますし、その意味では、もう少し規模を大きくして、精緻なアンケートをとっていただくということは、今お約束をいただいたというふうに思いますので、了とさせていただきたいと思いますし、ぜひ、そういう基本的な調査をした上で、丁寧な御議論をしていただきたいというふうに思います。

 それから、先ほど大臣がもう既に触れていただいていますけれども、高等学校だけではなくて、小学校、中学校を含めて、どうやって歴史を教えていくかという点についてなんですが、改めて、資料の四番目を見ていただきたいと思いますけれども、先ほど大臣が答弁で触れていた内容がここに、資料の四のところに出てきまして、小学校の社会科の学習で、第六学年になって、我が国の歴史上の主な事象が出てきます。六年生になってこういう勉強が行われて、人物の働きとか、代表的な文化遺産なんかを中心に勉強するということです。中学校だと、これは社会科の履修として、地理的分野と歴史的分野と並行して学習をし、第一学年、第二学年でこの歴史的分野が入っているということでございまして、我が国の歴史の大きな流れと各時代の特色を、世界の歴史を背景に理解させるということなんですが、とどまっているんですよね。

 加えて、その後日本史を学ぶ高校生もいますけれども、大体、自分の経験もそうですけれども、大まかな歴史の流れで、大体明治に入って、鹿鳴館で踊っているぐらいで終わっちゃったり、せいぜい頑張って大正デモクラシーぐらいまでいっているかなというぐらいで、その後の近現代は余り詳しくないままで終わってしまっているということが、これはずっと言われていますけれども、余り改善されていないようですね。ということで、結局やはり、歴史を本当に学んだと自信を持って卒業できる生徒さんというのは、やはり少ないようだと私は思っています。

 その意味からも、高等学校における日本史の必修化は、先ほど来申し上げたように、私は必要だと思っておりますけれども、加えて、小学校と中学校と、あわせてこれはうんと力を入れるべきだと。例えば、中国だと、国語の副読本で歴史を学んで、それを、全部副読本のページを合わせると三千ページぐらいになるといいますから、本当の正しい歴史が出ているかわかりませんけれども、それぐらい歴史の勉強をさせている国もあるわけで、それに比べて、我が国の子供たちが、例えば、中国やアメリカの子供たちと歴史の議論をしていて、事実関係すら知らないとかということが往々にしてあるようですから、私はやはり、その弊害を改めるためにも、学習指導要領を、小学校、中学校、高等学校、それぞれ全面的な見直しの中で、歴史の位置づけをもっと力強く明確にしてほしいということを重ねて申し上げたいと思いますが、改めて御決意をお伺いしたいと思います。

伊吹国務大臣 昔のような、昔というか、戦前のような意思決定はできない時代になっておりますので、私は先生とほぼ価値観を共有しているように今のお話を伺って思いますが、少し、中教審によく、小中高も含めてお尋ねさせていただきたいと思います。

 それから、昭和の時代に入ってからの歴史を教える時間がないのか、それとも、この期間は非常に歴史認識、歴史評価が難しいので、教師自身がそこへ入っていくことをためらっているのか、その辺もちょっと、やはり調べる必要があるんじゃないかという気も、今お話を伺って、しておりました。

野田(佳)委員 その点も、余り同感でいいのかなと思っちゃうんですが、全く同感でして、大臣は自民党の中でも保守主義を掲げて、その論客でありますけれども、私も、党内の中ではどちらかというと守備位置がライトで、時折ファウルフライまで行ってしまいまして、言いにくくなってきましたけれども、その点、私も全く同感なんです。

 そういう歴史の学び方と学ばせ方と、やはりセットで考えて、しかも、一番大事な政治的な争点になっているようなことも、偏った物の見方じゃなくて、やはりちゃんと事実を積み重ねて勉強する仕組みをどうやるかということを真剣に考えるべきときが来ていると思いまして、政治家の歴史認識を語る前に、歴史的事実がどうだったのかということを、お互いにいろいろな立場の人が、その立場を超えて、事実は何だったのかということをよく学んでいく、そういう機会をぜひつくっていくべきだなというふうに思います。

 そういう意味では、そもそも論になっちゃいますが、社会科として最初に小学校で歴史を学ぶというやり方で戦後の日本の教育はスタートしたんですが、社会科というのは、やはり現代の社会を学ぶということが前提でありますから、もちろん、歴史の連続性があって、歴史を学んで現代社会に生かすということもあるかもしれませんが、やはり歴史は歴史で、独立の範疇として、教科として本当は位置づけるべきではないかなと。

 学習指導要領を小学校、中学校、高等学校、全般で見直しをされるというお話の中に含まれますけれども、私はやはり、社会科とは何だったのかというところも含めて御議論をいただいて、歴史という科目をしっかりと小中学校から入れていくべきではないかという、これは持論なんですが、その点について御意見があればお伺いをしたいと思います。

伊吹国務大臣 今、先生と私の立場は与野党ですから、余り常に共感をし合っていちゃいけないんですが、おっしゃっていることも含めて、そして、公民という中にはやはり政治経済というものも入っているわけですね。まさに政治経済に続いてくるのが日本の近代史であるわけですから、少しそのあたりの、余り朝令暮改になって現場を困らせてもいけませんが、少し、今の御意見を踏まえて、議論をよくさせてください。

野田(佳)委員 基本的には、さまざまなお話をさせていただきましたけれども、中教審でしっかりと議論をいただく方向で、しかも大臣からそれぞれにわたって大変前向きな御答弁をいただきましたので、きょう、限られた持ち時間でありましたけれども、初めての文科委員会デビュー戦、私にとっては大変ありがたい質疑でございました。感謝申し上げて、次はもっと違う角度から手厳しい質問をさせていただきたいと思いますが、きょうはこれで終わりたいと思います。

 どうもありがとうございました。

桝屋委員長 次に、田島一成君。

田島(一)委員 民主党の田島一成でございます。

 私も野田委員と同じで、第一希望にずっと書き続けたこの文部科学委員会に、議員になって二回目。一回目、ならせてもらったんですけれども、なった途端で質問の機会すらなかったということでありますから、実質、委員として質問させていただける絶好の機会をちょうだいいたしました。

 伊吹大臣には、それこそ昨年は行革特別委員会の中で委員長としての名裁きぶりを目の当たりにさせていただき、あのとき失礼にも小言で、大臣と委員長がかわった方がいいんじゃないかとさえ思ったこともございましたが、あのときの大岡裁きで、ぜひ、今日混乱するこの文部科学行政に大なたを振るっていただくことを心から期待を申し上げたいと思います。

 さて、きょうは、大臣のごあいさつに対する質疑ということで四十五分をちょうだいいたしましたけれども、まず冒頭、やはり皆さんも一番関心をお持ちの、連日のいじめ報道、いじめ事件についての言及を避けるわけにはまいらないと思います。とりわけ、担任の先生が今回のあの福岡でのいじめの事件を主導したということが本当に事実であるとするならば、これは本当に悪質きわまりない、ゆゆしき事態だというふうに考えます。

 実際にいじめが起こっていながら、そのいじめの件数はゼロだったとあの地元の学校長も報告をし、そして、そのままうのみにして教育委員会も文科省の方に報告していた。このことは、はっきり申し上げて、事を荒立てずに内々で、内密に済ませていこうとする学校幹部、そしてまた、都合のいい情報、報告をそのままうのみにして、教育委員会そして文科省にいい顔をしている、そんな教育委員会、文科省の実態すら浮き彫りになってきたのではないかというふうに私は思います。

 考えてみれば、この教育界というのは、まだ具体的な分析を進めてきていたわけではありませんけれども、幹部であれ、そしてまた現場で働く先生であれ、教育界全体が比較的ファミリーのような、全体としての連帯感、一体感で包まれてきたこれまでの戦後の六十年間の教育界ではなかったかというふうに思います。いい意味での連帯感が日本の教育を支えてきたと思う半面、裏では、身内の、仲間のこうした問題点をひた隠し、そして包み隠ししてきたもたれ合いの体質がこれまであったのではないか。その一例が今回のいじめ事件の騒動ではなかったかというふうに思いますが、大臣はどのようにお考えいただきますか。

伊吹国務大臣 北海道と福岡で起こった悲しい出来事については、やはり事実関係をしっかりと確認した上で議論をした方が私はいいと思って、現地調査を早急にするように言って、ある程度の事実関係は判明いたしました。それを受けて、昨日、全国の教育委員会の責任者、政令市及び県の責任者に文部科学省に来ていただいて、その事実をお話しし、それから各県からも成功事例、失敗談その他をお互いに共有する機会を持ったわけです。

 文部科学省はかねてから、いじめがあった数字を報告しなさい、それから自殺者を報告しなさいということを頼んでおるわけですね。当初これを依頼したときは、かなりのいじめの報告がありました。しかし、徐々に徐々にその報告の数は減ってきておりますね。これは、小学校、中学校の段階で、先生が今おっしゃったように、事なかれ主義、外へ事を漏らさずに中で処理してしまおうという考えがあるのか、それとも、教育委員会までは行っているけれども、教育委員会から都道府県の教育委員会あるいは文部省へ、隠ぺい体質があって来ていないのか。いろいろなことがあって、そして再度通達を出していたわけですよ。

 それで、再度通達を出していたというのは、教育委員会がいじめと認定をしなくても、児童から申し出があった件数を報告しろということをやったわけですね。しかし、その数字は、あるとき通達を出すと高く出てくるんですが、またずっと下がってきて、そして、自殺に至ってはゼロ、ゼロという数字がずっと来て、もちろん自殺の原因の認定は非常に難しいと思いますが。

 ですから、私は、先生がおっしゃったように、やはりある意味では協調してやっていくということはいいことかもわからないけれども、これが悪くいきますと、出先の教育委員会と、教師と、教師の管理者である校長さん、教頭さんを含めて、教職員組合との関係も含めて、悪く言えばなれ合いというところがあるということはやはり否定できないと思いますね。そういうことを制度を直しながら直していくというのは、先ほど藤村先生がおっしゃったように、一つ大切ですけれども、同時に、みんなが使命感を持つ教師でなければならないから、教師の免許の更新制だとか学校の外部評価だとかということを今やっている、こういう位置づけになるんだと思いますね。

田島(一)委員 見て見ぬふりをする、また、もたれ合いであるとかかばい合いによって隠ぺい体質が生まれてきたのであるならば、私も、やはりこれは徹底した厳しい目で現場を指導いただきたい、このことを強くお願い申し上げたいと思います。

 ただ、先ほど大臣がおっしゃったように、それこそ外部評価制度であるとか免許制度がそのすべての解決になるかどうかは、また今後の議論というふうにさせていただきたいと思いますので、この点については一たびここで締めさせていただきたいと思います。

 大臣のごあいさつの中にありました文章の中で、私、どのようなニュアンスでおっしゃられたのかが引っかかる部分もちょっとありましたので、お尋ねをしたいと思います。

 文書でちょうだいしましたのは、ちょうど二ページ目でありました。大臣も随分この原稿に加筆修正なさったのか、原稿でおつくりいただいた文章にも随分言葉をお足しになって先日の委員会でごあいさつをいただきましたので、その意味では、非常に強い思いでお読みをいただいたんだな、ごあいさついただいたんだなというふうに受けとめているんですが、その中で、「恥と共生の文化など、日本が大切にしてきた伝統的社会規範の価値を、もう一度見直すことが大切であると考えます。」というふうにございます。

 昨今の日本人のマナーであるとかルールの規範意識の低さは、それこそ飲酒運転の増加であるとか、また、つい先日も、私この国会へ来るまでに地下鉄に乗ってきましたけれども、地下鉄の中で、座って、お化粧に熱心な女性の方とも出会いました。

 私、まだ、当年とって四十四歳でありますが、ちょうど大臣は私の父と同い年でありまして、そういう意味から申し上げますと、こういった社会規範、ルールやマナーに対しては非常に厳しく育てられた年代ではなかったかというふうに思います。私の父などもそういう点には非常に厳しく、人前でやってはいけないこと、やっていいことというのを随分幼いころからしつけられたようなものでございますが、昨今の社会規範をごらんになられて、大臣、この価値を見直すということは一体どういうことなのか。私は、それこそ社会規範をさらに強化し涵養に努めるというようなぐらいの思い切った突っ込み方をされるべき時代に今あるのではないかというふうに思うんですが、いかがでしょうか。

伊吹国務大臣 先生に誤解を与えるような表現になっていたら大変申しわけないと思うんですが、そこに書いております意味は、例えば日本人が大切にしてきた法律以前のいろいろな我々の祖先の暗黙の了解事項、例えば、私の実家は非常に昔から細々と仕事している京都の室町というところの繊維問屋なんですが、昭和の初めごろまでは、みんな自分の家の前を掃きました。お向かいも同じようにお掃きになる。隣も同じように掃く。左隣も同じように掃く。そうすると、室町という通りは、端から端まで市役所が何の手を入れなくてもきれいに掃けている。こういうものは、人様に迷惑をかけないという、祖先が築き上げてきた社会の規範なんですね。

 その規範の価値がなくなっているというのか、軽んじられているからこそ、その価値をもう一度見直したいということを私は言っておるわけです。むしろ、見直したいというのは、軽んじるということじゃなくて、余りにもその価値観が軽んじられて評価されていることをもう一度取り出して大切にしたいということを言っているわけです。

田島(一)委員 私も地方議会を随分長く経験してまいりました。私は滋賀県の彦根ですが、冬になると雪が降ります。自分のところの門先を雪かきするのは当然のことであります、室町の商人と全く同じ発想でありますが。最近は、自分のうちの車庫から車が出せないじゃないか、雪をどけに来いと市役所へ電話をする、そんな方も中にはいらっしゃいます。恐らく、このことをおっしゃっているんだというふうに理解をさせていただきました。

 少し引っかかったのは、最近、本当に世間の前で恥ずかしげもなくということが随分多く見られるようになりました。私よりも先輩であります安倍総理が先日中国へ訪問された折、政府の旅客機からおりてこられる最中に奥様と仲よく手をつないでおりていらっしゃったあのシーンを見て、私だったらできないなというふうに思いました。

 大臣は総理から比べるとまだまだずっと先輩でいらっしゃるわけですけれども、あれは恥ずかしいと思うことは、私自身のこの考えはおかしいと思いになられますでしょうか。

伊吹国務大臣 それは人それぞれですが、やはりタラップからあの坂をおりてくるときに、お互いに足元を注意してよろけちゃいけないときに、私は大事な妻の手は当然とってやりますね。それが夫婦の昔から大切にしてきた愛情だと思います。

田島(一)委員 想定内の答弁でありましたので、これ以上突っ込むこともいたしません。

 ただ、かつては三歩下がって師の影を踏まずであるとか、先祖が残してきたいろいろな言葉があります。そういったことも、いわゆる先ほど大臣がおっしゃってくださった、先人が築いてきた社会規範であったり恥の文化といったものに通じるのかもしれないなとふと思ったわけでございましたので、引用させていただいたところであります。

伊吹国務大臣 それは、恥の文化というのは、人前で三歩下がってというふうに女性を、自分の妻をそのように扱うということではないと私は思いますよ。例えば、商いをしている限り、必ず利を上げなければならない。しかし、仕入れ先をいじめて、仕入れ先をたたいて利を上げる、お得意さんに不義理をしながら利益を上げるということをするのを恥と言うんじゃないでしょうか。ですから、ライブドアや村上ファンドの結末は法廷でつくでしょうけれども、法律で許されていても、してはならないことというものを平然とやるということを私は恥だと認識しております。

田島(一)委員 ちょっと余談が過ぎたかもしれませんので、御容赦をいただきたいというふうに思います。

 さて、こうした恥の文化も含め、また社会の規範意識が薄らいできている、これはやはり大人のモラル低下が大きな原因ではないかというふうに私は思います。ややもすれば今日の教育が、改革しなければならないと子供たちにばかり目を向けがちな、そんな教育改革論が横行しているところでありますけれども、何はともあれ、子供たちにしっかりと、後ろ姿、いえ前からでも結構です、堂々と見せられる大人であり続けなければならない。にもかかわらず、この大人のモラルが低下してきている問題が非常に目立つようになりました。

 きょう実は皆さんにお配りをしたホッチキスでとじてあります資料の二枚目、一番裏側をごらんいただきたいと思います。「保護者のモラル低下一因」とありますが、これは学校の給食費の滞納がふえ続けているという問題を取り上げた新聞記事であります。この読売以外にも、各紙がこのところずっとこの給食費の滞納問題を特集的に記事にされていたので、私、きょうはこれを資料として皆様におつけをさせていただきました。

 昔ですと、どんなに貧しくても親が頑張って給食費を持たせて子供を学校へ送った、当たり前のことのように給食費の徴収事務というものは学校でなされていたわけですが、最近では、それこそ家ではぜいたくなといいますか、ごく普通の生活をしていながら、払わなくて済むならば払いたくない、義務教育だから払う必要はないとわけのわからない理由をつけて学校給食費を払わない、そんな保護者が随分ふえているというふうに聞いています。

 具体的にこの記事の中にもありますが、仙台市が調査をした小中学校の累積未納額は、二〇〇四年までに、就学援助世帯や生活保護世帯を除いて約六千三百万円、千三百九十五件に上っているという数字が挙がっています。非常にゆゆしき事態になってきており、この学校給食費の徴収に追われているのは現場の先生方であります。

 全国で一体どれぐらいの数字があるんだろうかと随分調べてみたところ、残念ながら、文部科学省の方では、学校給食自体は自治体の業務であるから承知していない、調べてもいないというような回答が返ってきましたけれども、これは、この問題一つをとっても、社会規範のあり方であるとか、また、この後に質問をさせていただく現場の混乱に大きなきっかけをつくっていると思うんです。

 大臣、文科省のこれまでの、この把握や指導をしていないということ等々も含めてどのようにお感じか、お答えいただけますか。

樋口政府参考人 お答え申し上げます。

 ただいま御指摘をいただきました学校給食費の未納問題でございますが、御案内のとおり、学校給食におきます食材費等につきましては、これは保護者負担ということが法律上明らかでございます。その徴収というものは、基本的に、学校給食の実施主体でございます地方公共団体と保護者の間で処理されるべき事柄であろうと。

 また、給食費の徴収については、保護者のプライバシーに係る問題等、こういったこともございまして、これまでのところ、国としてその実態を把握していないところでございますが、委員御指摘のとおり、この未納問題というものが、学校や地方公共団体が今さまざま対応に苦慮しているというお話も私どもお聞きしているわけでございまして、今後、文部科学省としても、しかるべく現場の声を聞き取りながら、まずは実態把握に努めてまいりたいと考えておるところでございます。

伊吹国務大臣 ただいま参考人がいろいろ話しておりますが、結局、調べられていないということなんですよね。ですから、ただ、先生がおっしゃっているように、払えるのに平然と恥ずかしげもなく払っていないのか、それともいろいろな家庭の事情その他でやむを得ず払えないのか、そういうことも含めて、少し教育委員会に、どうなっているのかという問い合わせをさせてみたいと思います。

 その上で、それが現場でどの程度の他の業務の支障に、御指摘のように教諭の他の業務への支障になっているのかを判断して、これは先ほど藤村先生の御質問になったように、法律で、国と都道府県の教育委員会と市町村の教育委員会と学校の関係はもう少し、藤村先生というより、むしろ御党の西岡大先輩が我が自民党におられたころから主張しておられたようなやり方でやるというのだと、すぱっといくんですが、逆に、このやり方を強力に推し進めると、国家権力の教育への介入という非難が必ず出てくるので、そこの、何というか絶妙のバランスをとりながらやっていかなければいけませんから、給食の問題もその一つのあらわれだと思いますので、こちらでできる範囲で、一応まず実態調査をして、一度また一緒に御相談させていただきたいと思います。

田島(一)委員 今、樋口局長がいみじくも保護者のプライバシーということを引用されました。私は、プライバシーというのは、個別にだれがというふうに特定されればやはりプライバシーの問題にも及ぶと思うんですが、現に自治体それぞれでは、仙台市や東京の葛飾区のように、きちっと数字を拾い出しているところもあるわけであります。それならば、ここがプライバシーを侵しているのかということを問わなければならないわけでありますし、そんなことはまずありません。

 やる気があるかないか、調べる気があるかないかだけの問題でありますが、今、大臣が前向きなお答えをされましたように、やはりこの業務がどれだけ現場の先生方に負担を押しつけているのかとか、そして、実際に、格差問題ではないところで、甘えであるとか親の怠慢で払っていないことが事実としてあるならば、これはきちっと指摘しなきゃならないし、本当に現場の先生方がやらなきゃいけないことかどうかも含めて、ぜひ調査をしていただきたいと思います。この点は要望としてとどめさせていただきたいと思います。

 さて、今日の学校の先生方が現場でどれくらい忙しい思いをしているのか、これについては、それこそ文部科学省の方でもいろいろと、勤務実態調査であるとか、また、その勤務の過剰ぶりに反映するかのような形で健康被害等を引き起こしているということもあわせて調査をされた結果もあります。

 きょうお配りをした資料の、表裏両面を使わせていただきましたので、表裏の表でございますが、表十一とあります「病気休職者等の推移」、これは文科省の資料から抜粋をしたものであります。在職者数自体は、平成七年度に比べて十六年は減っております。職員の方の数は減ってきているが、病気の休職者は倍近くにはね上がっています。その中で、精神性の疾患、Cとありますが、精神疾患を訴える先生が実は三倍にふえています。この在職者比のA分のCそしてB分のCというところをごらんいただきたいと思いますが、病気で休まれる先生のうち精神性疾患による休職者は何と五六%、半分以上が精神性疾患であるという、そんな数字が出ております。

 現在のところ、まだ十七年度が出ていないので、ことしどのような動向にあるのかわからないところでありますけれども、一枚ページをおめくりいただいて、裏に勤務実態調査の一覧を挙げさせていただきました。これは、平成十八年の四月六日から十二日、わずか一週間だけの調査なんですけれども、この一週間、関東のとりわけ一都四県の二十校だけでやられた試行調査でありますから、必ずしも有効データとは思えないんですけれども、またこの先、この勤務実態調査を全国的に展開されるというふうに聞き及んでおりますが、実際に、現場の教職員が一週間当たりどれぐらいの超過勤務時間を上げているのか、そしてまた、学校で仕事ができなかった場合、家へ持って帰ってやっている時間はどうなのかというのが、一週間、一日、そしてまた土日、一カ月当たりというふうに一覧が挙がっています。4の一カ月当たりの時間外勤務そして持ち帰り平均時間を調べた、これはわずか二十校のデータですけれども、超過勤務時間は、小学校、中学校合計で六十五時間に及んでいます。そしてまた、持ち帰りの時間も二十時間。

 この主な理由はといいますと、下に挙がっておりますが、教材研究であるとか部活動、そして、このあたりがもう少し深くメスを入れなければならないと私は考えますが、学年、学級事務、それから教務指導関係事務という、わかったようでわからない理由がこのようにして挙げられています。

 教材研究等も、本来ならば時間内でやっていただくべきことでありましょうが、ふだんの仕事の枠を超えてこれだけ超過勤務をやらなければならない。そして、先ほど示したように、精神性疾患による休職者数が七年度からこの十年間で約三倍にふえているという数字を考えると、これは相当現場に負担としわ寄せが押し寄せているのではないかという数字だと思いますが、大臣、いかがお考えでしょうか。

銭谷政府参考人 お答えを申し上げます。

 ただいま先生からお話ございましたように、教員の病気休職者数、特に精神性疾患による休職者数が著しく増加をしている現状はゆゆしいことだと考えております。

 また、お話のございました教員の勤務の実態でございますけれども、これは、この四月に試行調査ということで実施をしたものでございまして、一週間、時期的にはちょうど新学年、新学期の始まる時期でございますけれども、その時期の勤務実態を調べたものでございます。時間外勤務が大体二時間程度ということが結果として出ているわけでございます。

 私ども、まず病気休職者数が増加していることにつきましては、やはり学校内での同僚や保護者との関係あるいは児童生徒との関係などが、かつてに比べていろいろ複雑なものが出てきているということや、勤務時間全体がかなりハードな方もいるといったようなことが背景にあるというふうに考えております。

 なお、教員のこういったメンタルヘルスにつきましては、やはりこういった状況を踏まえまして、校務の効率化、適正な校務分掌、あるいはカウンセリング体制の整備、こういったことにつきまして、工夫、改善を図るということを指導通知等によりまして現在指導しているところでございます。

伊吹国務大臣 実態は今参考人が話したとおりだろうと思いますが、先生の役割というのは、どこまで先生に期待するかということがあると思うんですね。ですから、学校教育法によれば「児童の教育をつかさどる。」ということが書かれていて、そのつかさどるという意味は、教科の指導や生徒の指導というのは当然中心になってくるわけですが、しかし、それを周辺的にサポートしていく、例えば施設の整備だとか機材、あるいは物品管理だとか調査事務、学内の内部管理事務だとか教育委員会、PTAとの連絡、折衝というのを、これを抜きにしてやはり先生の役割は果たせませんので、どういうやり方がいいのかわかりませんが、人材活用法だとかなんかをいずれ見直して、よくやっていただく先生についての給与上の配慮だとかなんかを少しやはり考えてやっていく。

 努力をしたけれども結局報われないままいっては困りますし、一方、余り対外折衝がハード過ぎて、今先生がおっしゃったような状況になるのも困るわけですが、これが、仕事が多過ぎるのか、教員がうまく処理できないことに理由があるのか、いろいろなことがあると思いますから、よく教育委員会の実態を聞かせて、少しでも努力をした先生が報われ、そして総体的にトラブルが少なくなるように頑張ってやってみたいと思います。

田島(一)委員 先ほどの試行調査ですけれども、銭谷局長、具体的な全国調査というのはやられるお考えはあるのか、やるならばいつやるのか、まずそれだけちょっとお聞かせください。

銭谷政府参考人 お答えを申し上げます。

 ことしの四月に教職員の勤務実態について試行調査を行いまして、そのときのいろいろなやり方をよくチェックした上で、ことしの七月から十二月までの約六カ月間につきまして、現在教職員の勤務実態調査を実施いたしております。四週間ごとに全国の公立小中学校からそれぞれ百八十校程度の学校を抽出いたしまして、在籍をする教員、小中学校合わせて約八千人に対しまして、調査期間全日の勤務状況について調査票に記入をしてもらって回答をしてもらうということにいたしております。

 その中で、子供の指導に関するものとして、授業の時間はどのぐらいかとか、成績の処理に関する時間はどれぐらいか、部活動の指導の時間はどれぐらいかとか、あるいは学校の運営に関する時間はどれぐらいか、学校内外の方々への対応に関するものではどういったようなことがあるのか、教育委員会等との連絡に、あるいは調査書類の作成にどれぐらい時間を要しているのかとか、こういったようなことにそれぞれ職務を分類いたしまして、その内容がわかるようにしたいということで、今調査を行っております。

田島(一)委員 ありがとうございます。ぜひこの実施結果を心待ちにしたいと思います。

 今回の調査ですけれども、大臣、何年ぶりに行われるか御存じですか。実はこれは四十年ぶりなんですね。一九六六年に行われて以来、一度もやられなかった。私は、やはりここは文科省の怠慢だったというふうに指摘をしたいと思います。

 今これだけ教育界の現場が混乱をし、また問題を抱えてきている。それで、ようやく今ここで重い腰を立ち上げた。それでも、遅いけれども立ち上げたことを評価はしなければならないと思っておりますけれども、どうかこの結果を数字の結果としてただ単にペーパーに印刷するだけではなく、これをどのように分析していくのかが私は非常に問われると思います。このことをぜひ肝に銘じていただいて、これからの教育行政のあり方を考えていただきたい、このことを強く要望しておきたいと思います。

 学校で、それこそ教科の指導や、また地域等々とのつながりなど、それこそ学校が抱えている業務の範疇は非常に大きくなってきました。そんな中で、一番学校で忙しい思いをしていらっしゃるのはだれかといえば、紛れもなく、ナンバーツーである教頭先生であります。

 きょう添付資料でつけた二枚目の新聞記事をごらんいただきたいと思います。これは、実は北海道内の公立小中学校で、教頭昇任試験を受ける教諭の数が十年前に比べて何と三分の一に減っているという、そんな記事であります。

 教頭先生といえば、それこそどの教職員よりも一番に学校に乗り込んでかぎをあけ、そして一番最後にかぎを閉めて出ていくという役割に始まり、それこそ地域とのつながり、またPTAの担当窓口であったり、またさまざまな教科指導もあわせて抱えるという点では、学校の中で一番忙しい職務を担っていらっしゃるのが教頭先生だというふうに思います。もちろん、校長先生もトップに立たれるわけでありますから、対外的なさまざまな会議や行事にお出になられなければなりません。それでも、実務的に忙しいのは教頭先生だというふうに思います。

 そんな中で、これは北海道だけのケースですけれども、十年間で三分の一に受験者数が減った。これは本当にゆゆしき状態であろうかというふうに思います。三分の一に減ったけれども、世代交代していけば、教頭の数は必要最低限は当然必要になります。そのために受験者数が減れば、必然的にレベルは落ちていくというふうに考えられます。学校の中で一番忙しくされている方、教頭先生のレベル、レベルという言い方は不適切かもしれませんけれども、力不足というふうに言われるようなことが現実問題としては起こっている、そんな記事だと思いますが、大臣、どのようにお考えか、お聞かせいただけますか。

伊吹国務大臣 これは人それから地域によってかなり違うと思いますね。私の地元では、率直に言って、今度教育再生会議に入った教育長がおりますが、私も幾つか学校の現場をよく見に行きます。校長先生とも教頭先生とも教務主任の先生とも話をしてみることがありますが、学校内の役割分担とシステムがうまくいって、そして、学校外の、地域社会の協力がうまくいっているところは生き生きとやっておられるんですね。

 ですから、何もかにもすべて教頭先生に押しつけているというような地域も、それは確かにあるんじゃないかと思います。ですから、成功事例をよく共有して、うまく学校を動かしていくシステムをできるだけ共有して、そして、今おっしゃっているように、なり手がないだとかノイローゼになっちゃうということがなくなるように、それから、お金だけで本来教職者は動くべきではないと私は思いますが、給与の面でも、やはり人活法の活用等を通じて少し考えなければいけないなという気もいたしますから、先生の御指摘をよく受けとめてやらせていただきます。

田島(一)委員 ありがとうございます。

 大臣の御地元京都は、それこそコミュニティ・スクールなども本当に全国の先進的な取り組みをしていただき、地域と非常にうまい形で進めている、そんな学校経営の実態を私も拝見いたしました。そういう意味で、大臣が現場に視察に行くとなると、恐らく、地元の教育委員会などはこれでもかというところの一番いい学校を御紹介されるのではないかというふうに私などは勘ぐってしまうわけであります。全国にそれこそいろいろなケースがあると大臣も御認識いただいているようでありますが、必ずしもうまくいっているところばかりではない。全体を見渡していただく中で、問題のあるところはどこかということをできる限り現場の声として吸い上げられるような、何か仕組みを私は文部科学省の中にぜひおつくりをいただきたいと思います。

 先ほど勤務実態調査のお話をさせていただいたわけでありますけれども、きょうは添付資料にはつけませんでしたが、実は、この調査校の分類でおもしろい数字があります。文部科学省が訪問をした学校と訪問していない学校別でこの超過勤務時間を分類された数字があります。文部科学省が訪問をされた学校は超過勤務時間が小学校で十六時間、文科省が訪問していない学校はわずか十二時間というふうに、文部科学省が来るとなると超過勤務時間がふえているんですね。このことは、実はこの文科省の資料にもしっかりとお認めになっていらっしゃいます。文科省による訪問を行った学校の方が時間外勤務時間が多い傾向が見受けられると。これは見受けられるじゃなくて、それで終わっちゃだめだと思うんですね。なぜ多いのかをぜひお考えいただきたい。それこそ大臣が現場を視察に行くといったら一気に、何をか言わんや、わかっていただけますね。ここのところをぜひ御認識いただきたいと思います。

 何か意見がありましたら、お願いします。

伊吹国務大臣 残念ながら、私は大臣になってから地元の学校を視察したことはございません。国会に忙殺されて、とてもそんな余裕はございません。

 ただ、私が地元の小学校や何かを気楽に見に行くときは、教育委員会の人も来ておりませんし、校長先生や教頭先生とは私は大変仲よくなっておりますから、行ってみる。そして、京都は、先生がおっしゃったように、地域との連携が非常にうまくいっているところですから、長寿者の方々の会合があるときも学校を使います。行くと児童が出てきます。そして、あいさつを私が老人クラブでした後、教員室へ入っていって、お茶をもらって、雑談をして帰る。だから、私が行ったから超過勤務がふえるということは一切ございません。

田島(一)委員 了解です。

 これからもし行かれるのであるならば、ぜひ、抜き打ちでこっそりやっていただきたい。そのことが実際の姿を見るいい機会に私はなろうかというふうに思いますので、そのことをぜひお願いしたいと思います。文科省の役人の方々も、大臣が抜き打ちで行かれるからといって根回しをするというようなことはしないでいただきたい。これはぜひお願いをしたいと思います。

 今し方もお話がずっとありましたけれども、うまくいっているような京都市の学校の事例ばかりではありません。ややもすれば、教頭先生の仕事が余りにも多過ぎてもうなりたくないというこの北海道の事例も含め、今学校の中では非常にいびつな職務体系になっているように思います。若い先生に至ってはとりわけ勤務時間が長いという傾向も出ていますし、そういう意味では、現場での負担や不満が直接子供たちに響かないようにする、そんな工夫も何より必要だというふうに思います。

 その一方で、かつて私たちが子供のころ通っていた学校の先生方と今の学校の先生方とでは、やらなければならない仕事の量も随分変わってきたこと、これは大臣も御理解をいただいていることだと思いますが、かつては、学校の授業と放課後の部活動や生徒指導、そして、今にはなかった土曜日の授業というのもありました。が、その範疇を超えることはほとんどありませんでしたが、今では、この土曜日の課外活動への期待も学校に寄せられる。そして、先ほど言ったように、給食費の徴収事務なども、今まで滞納者などはいなかったのにそれを集めて回らなければならないという仕事もふえている。さらには、私の地元でも、朝御飯を食べてこない子供たちがいるからといって、学校で朝御飯を用意する、そんな学校すらもう出てきています。余りにふびんになったからといって、先生がポケットマネーでパンを買って与えている、そんな事例もあります。こういう事例を美徳だけで済ますわけにいかないと私は思うわけであります。

 仕事がこれだけふえてきた、とりわけ地域や家庭との密接な連携を深めていかなければ成り立たなくなってきた今の学校において、欠けているのは何かといえば、地域との深いつながりを持った先生の存在ではないかと私は思います。

 学校の先生も、それこそ人事異動で、校長先生に至っては一年から二年、長い人でも三年ぐらいでかわられます。教頭先生も、もちろん人事異動されます。ですから、せっかく一年から二年、三年の間に築かれた地域とのコミュニケーション、コミュニティーを、残念ながらうまく引き継ぎせぬまま人事異動されて、またゼロから構築されるというそんな苦労も、私は現場から声を聞かせていただいていますし、私自身、PTA等の活動をやらせてもらっている中で、去年の校長先生はよかったけれどもことしはだとか、そんな声も実際に現場のPTA会長さんから聞かせてもらったりもしています。そうなると、これまでは授業であるとか放課後活動さえやっていればそれで十分だった先生の枠が大きくなってきている。しかしながら、それが十分に対応し切れていないというのが現場の問題ではないかと思います。そのために、地域とのパイプ役を専門的にやる先生が、言いかえれば学校のマネジメントを専門的にやる先生が必要なのではないかというふうに考えるんですが、どうでしょうか。

 例えば、学校によっては、教頭先生を二人配置されている学校もあります。アメリカに及んでは、校長先生を二人配置されて、教科専門の校長先生、そして学校のマネジメント並びに地域の対応を専門とする校長先生と、二人制を置かれていたりするわけでありますが、これが全国均一でやられているわけではありません。こうした地域との窓口を専門にやる先生、言ってみればネットワーク型の先生をこれから常設的に配置していく必要があるのではないかと考えるのですが、お考えをお聞かせいただけませんでしょうか。

桝屋委員長 時間が迫っております。簡略にお答えをお願いいたします。

伊吹国務大臣 先生、二つ問題があると思いますが、これは、教師が大変だということと同時に、今先生がおっしゃったことまでを教師に要求するという住民の姿勢、甘えの姿勢ということに一つやはり問題があるんじゃないでしょうか。それをみんな聞き入れないといい先生じゃない、聞き入れると大変だから人をもう一人増員しろという論理は、少し私は違うんじゃないかという気がいたしますね。

 ただ、今のようなことだけを私が言っておれば、間に挟まっちゃった教師が身動きができなくなるということもよくわかっておりますから、これは何か、朝御飯を食べてない人にポケットマネーでパンを買ってやる教師がいい教師だというのは、私は少し違うと思いますね。

 ですから、やはり、学校の教師が地元との連携を十分とる中で、それこそ家族、地域社会、学校、その地域社会と家族が崩壊し始めている中でということはありますけれども、やはり教育というものは成り立っていくんですから、先生にはその仕事はしていただかなければならない。しかし、その苦労をできるだけ軽減していくために、人事異動その他、先ほどおっしゃったようなことは配慮するところがあれば配慮していく。それでどうしても人数が足りない場合には先生がおっしゃったようなことを考えるということだと思いますが、余りにもそれは、今のお話どおりであれば、教師に地域住民というものが多くのことを甘え、期待し過ぎているという気がいたしますね。

田島(一)委員 地域にこびへつらう先生が必ずしもいいと私も思っておりません。ただ、地域に対して物を言えるような地位に学校はないというのもこれまた現実だと思います。そういう意味で私が申し上げたのは、一人とにかくだれでもいいから増員しろということじゃないんですよ。言ってみれば、学校は本来学校がやるべき教科の指導なり放課後の指導にとどめて、それ以外の、地域とつなぐ役の専門職というものをつくるべきではないかという提案であります。まだきょうがスタートでありますから、これから私自身ももう少し調査を進める中で提案していきたいと思いますので、どうかよろしくお願いを申し上げ、質問を終わります。

 ありがとうございました。

桝屋委員長 次に、石井郁子君。

石井(郁)委員 日本共産党の石井郁子です。

 きょう、私は二つのテーマで御質問をいたしますが、基本的に伊吹文科大臣の御認識を伺いたいと思いますので、どうかよろしくお願いいたします。

 まず、いじめ問題でございます。

 福岡県筑前町で自殺した子供の学校の教師ですね、クラスの生徒に対して、成績に応じて、「あまおう」という、イチゴの銘柄なんですか、赤くて甘くて大きなイチゴのことのようです、「とよのか」などと呼んで、成績の悪い生徒を出荷できないイチゴと呼んでいたということが報じられています。自殺された、御両親が生徒を人間として扱っていない証拠だと言っていましたが、私もこういう表現はそのとおりだというふうに思います。

 そして、こういうふうに言った教師は、なぜ息子をいじめたのかとの両親からの問いに対して、からかいやすかったからだということを御両親の前で答えたというんですね。教師としては、これはもう言語道断の言動と言わなければなりません。だから、教師がいわばいじめの先頭に立っている、この教師を見て子供の間でさらにいじめが助長される、こういう構図になっているということであって、私は断じて許せないというふうに思います。

 生徒をイチゴになぞらえていわばランクづけをしているわけですね。これこそ、よい材料を仕入れてよい製品を出荷するという、まさに市場原理の発想そのものが学校に行き渡っている、学校はここまで来ているのかと言わざるを得ないわけであります。

 福岡県では、昨年五十七の市町村で独自の学力テストを行っている。今年度は全校で学力テストを行うという形で、競争教育というのはやはり強まっているわけですね。だから、点数の高い生徒はよい生徒、低い生徒は悪い生徒、できが悪い生徒ということで、これはやはり子供を商品のようにしか見ない考えがこういう中で生み出されているというふうに言わざるを得ません。

 この問題については私は後日改めて質問したいと思っておりまして、今回は、いじめが起きた、文科省が発表されている数字と、それから現状というのが余りにも乖離している、かけ離れているんじゃないか、これが今大きな問題になっているわけでございますので、この点で伺いたいと思っています。

 例えば、不登校の生徒の数は、福岡の場合、千人当たりに二十・七人なのに対して、いじめの発生件数が〇・三人なんですよ。これはだれが見てもおかしいというわけですけれども、この三輪中学校の校長先生は、ここ数年七、八件のいじめがあったにもかかわらず、報告はしていなかったというわけですね。

 今、メディアなどでも、いじめによる自殺が九九年度以降ゼロということが話題になっている。文科省の統計の発表数字ではゼロなんですよね、いじめの自殺がゼロ。

 このようにして、報告されている数と実態というのが本当に乖離しているという現実、まずこの問題について文科大臣としてのお考えを伺わせていただきます。

伊吹国務大臣 いじめの問題の調査の際に私が痛感をいたしましたことは、先ほど民主党の藤村先生から御質問があったことなんですが、文部科学省というのはどこまで個別の小学校に関与できるかということです。

 文部科学省、都道府県教育委員会、市町村教育委員会、学校という流れの中で、どこかで物事を隠すというのか、外へ出したくないという流れがあって、最終的に文科省へ上がってくるときは、いじめによる自殺がゼロと。自殺の原因は確かに非常に多重的ですから、原因の認定というのは非常に難しかったんだと思いますが、先生が御指摘のように、現在の実態を見ると、余りにも実態離れしている。

 ですから、何度も何度も通達を出しておるんです。例えばいじめについては、教育委員会がいじめと認定できなくても、児童からいじめがあったという訴えがあった場合は数字として出せとか。そういうことを必ずやっておるんですが、それでも、このかばい合いの体質の中でこういうことになっておりますので、昨日もう一度、そこのところをきっちりと、その数字を隠さずに出す。

 私は、先ほど申しましたように、文科省へ行きましたときは、報告、連絡、相談、確認だけはきっちりやれと。隠すなと。失敗はだれでもあるから、隠すなと。それさえやれば、失敗した責任は私がとるからと。ただ、隠した場合はやめさせるぞということは言ってあります。

 ですから、どういう調査をしたか、ちょっと、お許しいただければ、参考人からきのうの状況をお話しさせたいと思います。

石井(郁)委員 やはり数字が正確な実態を反映していないということをお認めになったと思うんですが、何かが隠されているという問題だと思うんですね。これはやはりこのままにしておくわけにいかないということだと思うんですね。

 そこで、私はきょう、いじめや不登校に関する調査が現実にどのように行われているんだろうか、このことでちょっと事例をお示ししたいと思って、資料を用意いたしました。これは十八年度の新潟市の学校評価表というものなんですが、四月に学校が新潟市の教育委員会に提出するという資料のようです。

 これによりますと、一枚目、「取組分野」として「いじめ・不登校の減少」というのがあるんですね。年度当初には、「評価項目」で、いじめ発生件数がゼロ件だ、二つ目には、不登校の件数が十件未満であるということがあって、これがいわば目標に当たるものですけれども、このように、いじめ発生件数をゼロというふうにしないと教育委員会からは突き返されるというんですよ。だから、もうゼロと書いて報告をする。

 それで、「評価基準」として、ここにはA、B、C、Dというふうにありますが、Aだったらゼロ件、Bは一件等々とありますけれども、こんなふうに四段階の評価基準というふうになっているということですね。不登校についても、A、B、C、D、それぞれ十件未満、十二件未満等々というふうに四段階の評価基準になっているわけです。

 いじめについては、年度当初の数値目標がゼロ件だから、九月末と年度末評価も、ゼロ件のAにしないと受け付けないというふうに言われている。だから、ゼロ件のAに丸をつけて提出するというふうになっているわけです。

 文科省はこういう実態というのは把握しているんでしょうか。

銭谷政府参考人 お尋ねの、児童生徒の問題行動等に関する数値の目標を挙げて取り組んでいる都道府県、政令市につきましては、本年度については私どもちょっとデータは持ち合わせておりません。

 平成十五年度の調査結果では、いじめに関する数値目標を市としてあるいは県として掲げているという県、政令市が十県政令市でございました。それは、例えばいじめをことしはその市として一割減らしましょうとか、二割減らしましょうとか、半分にしましょうとか、こういったような目標を掲げていじめの問題に取り組んでいるという市でございます。

 なお、私ども従来から、先ほど大臣の方からもお話ございましたように、いじめの把握につきましては、教育委員会が確認をしたあるいは学校が確認をしたいじめではなくて、子供の方からいじめに遭ったと申し出たものをぜひ報告してほしいということを言っているわけでございます。

 ですから、私ども、件数の多寡にこだわるとか、そういう姿勢でいじめの問題に取り組むわけではもちろんありませんで、昨日緊急に行いました課長会議などにおきましても事例報告がございましたけれども、いじめが一件もないという、本当に実態を把握できなくていじめが一件もないというよりは、仮にいじめが五件あっても、その五件についてこういう取り組みをして、迅速にやったというところの学校の方が本当はいいんだといったような事例報告もございました。ただ、こういうふうに、学校としていろいろ取り組みをやって、いじめの未然防止に努めようということは、これはあり得ることだと思っております。

石井(郁)委員 現実に、いじめがどんなふうに調査されて、実態報告をされているかということで私は伺ったわけです。

 もう一つ、きょうの資料で、「学校訪問資料」という中にもそれははっきりと書かれておりまして、ここでも評価基準としてあるんですね。これは指導主事が学校訪問の際に、その学校が提出する資料となっているわけですが、ここでも、「生徒指導にかかわる実態」というところに「いじめ」と、「不登校」という項目がありますけれども、十七年度の件数はそれぞれゼロになっているんですね、一年生ゼロ、二年ゼロ、三年ゼロと記入されています。だから、これは学校評価表でAをゼロ件としたために、ここでもゼロ人というふうになっているわけですね。不登校の方は、数字を隠せないために一定の数字が出ておりますけれども。この数字はこの資料では学校が特定されるので消してあります。

 私は、こういう数字の操作というのはそもそも許されるわけではないと思うんですね。しかも、これは教育委員会の指導のもとで行われている、これが現実だ、実態だというところが重大だというふうに思うんですよ。だから組織的ないじめのいわば隠ぺいがこういうところで進んでいると言わざるを得ませんけれども、大臣、いかがでしょう。

 これは大臣に。もう時間がありませんので、大臣にきょうはお願いします。

伊吹国務大臣 やはり、自分をよく見せたい、自分の組織をよく見せたいという中から、実態と違うような数字を出してくるということは、それは否定できないと思いますね。

 しかし同時に、一定の目標を決めて、その目標に合うように学校をうまく運営し、つくってくれというやり方を、これもいけないと言われると、ちょっと学校の指導の基準というものをなかなか見つけにくいというものがありますから。要は、これはやはり校長、教頭あるいは教育委員会の人の、まあ、言葉は悪いですが人間力をしっかりしてもらうより仕方のないことなので、そこはきのうの会議でも厳しく、隠すよりも実態をしっかりした人の方が立派なんだということを厳しく言えということを言ったわけです。

石井(郁)委員 私も目標一般を否定するつもりはありませんが、事はいじめ、あるいは不登校、しかも子供たちが命をかけて訴えている、こういう深刻な問題なんですよね。この問題の性格からして、一年間ことしはもうゼロにしますと言ったところでできるわけがないということがあるじゃないですか。だから、主観的なそういう希望はわかります、そうしたいという。それは皆さんもそうだと思うんです。そのことと、このことを数値化してやるということとはやはり別問題だというふうに思うんですね。

 それで、もう一つですが、なぜこういうことが今現実に起こったのかということなんですよ。大臣、その点ではいかがですか。教育界に一般的にそういう問題があるという話もされましたけれども、今あちこちで、ある面で、進んでいるわけですね。こういう、数値化して何年に何割削減とかいう形のことが行われているんですけれども、実は、この背景となっているのに、平成十五年、三年前の中央教育審議会、中教審の答申がどうもあるんですよ。

 中教審の答申「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について」という中にありまして、今後の審議において計画に盛り込むことが考えられる具体的な政策目標の例として、いじめ、校内暴力の五年間で半減を目指すというのがきちんと書いてあります、これはもう当然大臣は御存じと思いますけれども。それで、安心して勉強できる学習環境づくりを推進すると。だから、いじめも不登校も大幅な減少を目指すということがここに掲げられているんですよ。まさにこれと同じことがある面で現場に一斉におりていっている、そういうことではないのかと思いますが、大臣、いかがでしょう。

伊吹国務大臣 やはり、困ったことは減らすということを目標として、人間は努力しなければその目的を達成できないわけですから。ただ、そういう目標があるからといって、失敗しているのに、意図的にその目標に合うように事実を隠ぺいするということに問題があるんじゃないでしょうか。

 だから、そういう体質を除去するように、我々は各教育委員会にお願いしますし、都道府県教育委員会や政令市の教育委員会でも、必ずしも数値目標をすべてが掲げて学校を指導しているわけではないんですよ。先ほど参考人が申しましたように、十の教育委員会ではそういうことをやっている。そこでどういう問題が起こったか、掲げていないところではどうだったか、これは一度調べさせていただきます。

石井(郁)委員 今問題の福岡県でございますけれども、ここでは不登校については十四年度の数値目標を設定しました。五年間で十三年度比二割削減というふうに掲げたんですね。それから、いじめについては一件もあってはならない、その基本スタンスで根絶を目指すというふうに書いているわけです。ですから、先ほどの福岡県の挙がっている数字は〇・三人などという信じられないような数字なんですよ。目標を掲げるけれども、だから数字をごまかす、隠ぺいする、これはおかしいじゃないですか。

 私は、こういう対応というのが、こういうやり方というのが、こんな異常な報告数の少なさと、そしていじめの隠ぺい、さらなるいじめが深まっていく、そして死にまで追いやっている、いじめが解消するどころか、深刻化しているという実態につながっているんじゃないですか。ここはやはりきちっと考えるべきだというふうに思いますし、私は、何年間で半減だとか、これはもうこの中教審の教育基本法絡みで新教育振興基本計画にありますから、いわば先取り的に進んでいるんじゃないのかと言わざるを得ないわけですけれども、こういう数値目標の設定はやはりもう間違いだということをこの時期に文科省としてお認めになるべきだと思いますが、大臣、いかがでしょう。

伊吹国務大臣 それは、先生のおっしゃるように、すぐ、そうだと私はお答えはすることはできません。

 やはり、困ったことはこの程度努力をして減らしていくんだという目標を立てないといけないので、先生がそういうことをおっしゃっているわけじゃないと思いますが、いじめについては目標を達成、いじめはこういう目標を持って減らしていくということを記述しなくてもいいというわけにはいきませんよね、これは。

 では、先生の場合はどういう記述が適当だとお考えになっているんでしょうか。むしろ、いじめというものはやはり直さねばならない、直すのであればその直すべき目標をある程度持って指導してもらわねばならない。ただし、その目標があるからそれに合うようにつくって、自分はいかにも、うまくやっていないのに、やったような表現をする人に問題があるんだと私は思いますよ。

石井(郁)委員 私は、やはり、前年度比何割減らすとか、五年間で半減とか、こういう設定の仕方は無理があるでしょうということを申し上げているわけです。それは、いじめや不登校というこの問題の性質を全く理解していないということから出ているというふうにも言わざるを得ないわけですね。

 私はこれから本格的な議論をぜひさせていただこうと思いますけれども、やはり、いじめは早期に発見する、早く解決をする、それは傷が深まらないわけですよ。そのためにも、学校、地域、親、家庭、一体となって取り組まなきゃいけませんし、それから教育的にその克服を考えていく。それから、どういう取り組みをして一つ一つの事例が解決されたかという、その取り組みにこそ意義があるわけであって、そこを支援するのがやはり行政の一番のやるべきことだ。ゼロになったからいいと、ゼロになることはいいことですよ、いいことですが、事はそれほど機械的にはいかない性質の問題だということを申し上げているわけで、そういう取り組みのプロセス、そういうものをきちっと支援するという姿勢に立ってもらいたいということを申し上げているわけであります。

 だから、ぜひ、その数値目標を押しつける、まあ、それぞれの地方自治体、教育委員会がやるということ自身が問題なんですけれども、文科省としてはそこをきちっと見るべきだということを申し上げているわけであります。

 それで、委員長にぜひこの機会に提案したいと思うんですけれども、このいじめ問題というのは本当に深刻ですし、また大きな問題、いろいろな角度から考えなきゃいけない問題をはらんでおりますので、また学校の評価とか人事評価制度、そして、今の学校のあり方等々を含んでおりますので、また社会の問題としてもいろいろあると思いますし、やはりこの問題での当委員会での集中審議を私はぜひ要請したいと思いますが、いかがでしょう。

桝屋委員長 理事会で議論をさせていただきます。

石井(郁)委員 もう一つのテーマのことですが、ちょっと、がらりと変わるんですけれども、文化財の保護に関係したことでありまして、これは木簡の保護ということなんです。

 つい先ごろも、大阪難波宮、難波宮跡とも言いますけれども、七世紀中ごろの万葉仮名が書かれた木簡が発見されてちょっと話題になりました。木簡というのは古代の文字史料として非常に貴重だ、また歴史的な史料だというふうに思うんですが、今、平城宮跡のすぐそばに地下にトンネルを掘って高速道路を建設するという計画があります。平城宮跡は、申し上げるまでもなく、国指定の特別史跡であります。またユネスコの世界遺産にも登録されております。それで、問題は、トンネル工事によって水位が下がると地下に埋蔵されている木簡が消滅の危機にさらされるのではないかという危惧の声が市民の方々、市民団体、研究者の間から上がっておりますので、この機会に一つ伺いたいと思うんです。

 ちょうど今、九月二十二日から十月二十六日までに、大和北道路の環境影響評価準備書、いわばアセスメントの準備書ですね、その公告がされて地元で縦覧されております。それによれば、予測結果について非常に簡単な記述しかありませんで、このようにあるんですね。道路建設による地下水位変動は数センチ程度だ、年間平均変動幅約八十一センチメートルより小さいため、地下水位変動への影響は極めて小さいと予測されるという、これだけの記述なんですね。

 私は、これでは住民の方々がわからないんじゃないかということで、きょうはちょっと国交省にもおいでいただきましてお聞きしたいんですが、水位観測点は二十カ所にあるんですよ、平城宮跡の中とその周辺とで。しかし、その観測点ごとの水位変動の数値は示されておりません。だからそのバックデータがわかりませんので、その影響は小さいという結論だけがあります。

 そういうことで、ちょっとお伺いしたいのは、各観測点の水位変動はどれだけなのかということと、数センチ程度の変動というのは水位が下がったままだというふうに理解していいのかどうか、これは簡潔に、国交省にお願いしております。

宮田政府参考人 お答えを申し上げます。

 大和北道路に関しましては、この九月から公告縦覧されております環境影響評価準備書には、これまでに実施しております地下水調査の結果や地質調査の結果を踏まえて、二十一カ所の観測データを用いてコンピューター解析を行い、大和北道路が整備された場合の地下水位変動の予測結果として、道路建設による第一帯水層、これは木簡が埋蔵されていると考えられる層でございますが、第一帯水層の地下水位変動は数センチ程度であり、季節変動より小さいため、地下水位変動への影響は極めて小さいと予測されます。先生がおっしゃったとおりでございます。

 この根拠でございますが、道路建設による地下水位変動数センチ程度と判断しておりますのは、地下水位に影響を与えると考える地域の中で最大の変動量が二・五センチとのシミュレーションによる予測結果、これによるものでございます。なお、文化財が集中していると想定される平城宮跡内の地下水観測をしている四地点の変動量は、〇・五センチあるいは一・三センチの幅でございます。

 引き続き、地下水の状況を把握しまして、地下水保全の考え方について検討するために設置いたしました大和北道路地下水モニタリング検討委員会で検討するとともに、いろいろな方の御意見を伺い、文化財の保全と調和のとれた大和北道路となるよう計画を進めてまいる所存でございます。

石井(郁)委員 現在国交省で進めている調査結果については以上のようなことかと思うんです。

 それで、文化庁にぜひ伺いたいと思うんですが、やはり文化財保護というのは文科省文化庁の管轄だと思うんですね、範囲だと。それで、この水位の変化なんですが、地下の木簡にこれでどういう影響が出るというふうに考えておられるんでしょうか。また、問題なく木簡が保存されるというふうに認識をお持ちなのかどうか。いかがでしょう。

加茂川政府参考人 お答えをいたします。

 平城宮跡の発掘調査で見つかりました木簡につきましては、委員御指摘のように、私どもも大変貴重な文化財だと認識をしておりまして、この保護を図っていくことが課題であることも十分承知をしておるわけでございます。

 したがいまして、今の大和北道路建築にかかわることにつきましても、この保護の立場から積極的にかかわっていきたいと思っておるわけでございますが、御指摘のございました環境影響評価準備書に記載されております事項は、私ども関心を持って注視しておりました専門家の意見、地下水についての専門家から成る地下水検討委員会の調査結果が既に出ておりますけれども、これ等も同様の評価になってございまして、私どもとしては、木簡保護の立場からもってしてもその影響は少ないのではないかと考えておるわけでございます。

 ただ、この後のウオッチングといいますか、影響評価についてきちんとした対応をとるべきという認識もまた同時に持っておるわけでございます。

石井(郁)委員 影響は少ないというのは、非常にあいまいな表現なんですよね。影響がないとは言い切ってないわけですから。そういう意味では、私は問題は非常に残っているというふうに思うんですね。

 先ほども、季節変動と比べると数センチだから少ないという話があるんですが、季節変動というのは、これは国交省がコンサルタントに委託した調査結果にあるんですけれども、夏場には水位が下がるけれども、これは農業用水のくみ上げが終わるともとに戻る、こうあるわけですね。平城京というのは、千三百年間変わらなかった水位がこれから水位が下がったままだ、数センチといえ水位が下がったままになる、これははっきりしているわけですから、では、本当に今後木簡が安全だというふうに断定できるのかどうか。いろいろ不測の事態ということも考えられるんじゃないかというふうに思いますが、その不測の事態という問題は考慮に入れていますか。

加茂川政府参考人 先ほど影響は少ないのではないかと私ども考えておると申し上げましたのは、お話にも出ておりましたが、評価準備書における地下水位の変動幅が数センチである、一方で季節変動による地下水位変動が平均で、これは場所によって上下ございますけれども、八十センチ程度あるということの比較において影響が少ないのではないかということを申し上げておるわけでございます。

 それから、今後もしっかり注視していく必要があると認識を持っておることは申し上げましたけれども、大和北道路地下水モニタリング検討委員会というのが既に設置をされておりまして、私どもの奈良文化財研究所の責任者もこれに加わっておりますが、この委員会にかかわることによりまして、予測しないような変動に対してもきちんと対応できる体制をとっていきたい、努力をしていきたいと思っております。

石井(郁)委員 もう時間でございますので、できれば最後に大臣からも伺いたいと思いますけれども、やはり文化財の保護というのは文科省が第一義的に責任を負って進めなければいけない、また国民の財産であり、後世にそれをちゃんと残していくというのは私どもの責任でもあろうというふうに思うんですね。やはりそういう立場でこういう問題でもぜひ対処をしていただきたい。

 文化庁として主体的にかかわって、道路建設というのはいろいろな利害が絡むわけですけれども、やはり文化庁の立場でしっかりと意見を上げていただくということが私は非常に今大切ではないのかと。ユネスコの世界遺産でもありますので、そういう立場できょうは申し上げましたが、ぜひ大臣から一言いただければと思います。

伊吹国務大臣 文化財というのは、一度壊しちゃったら、もうこれはだめですから、我々の職務としては、これは日本人、人類の大切な宝である文化財というものは、できるだけこれは守っていかねばならない。一方、道路を通すことによって、公益というか、地域住民のみならず、その道路を利用する人の公益は増進するわけですが、受忍の範囲というものがございますから、よく国交省と協議して、我々の立場も侵されないようにしっかりとやらせていただきます。

石井(郁)委員 以上で終わります。どうもありがとうございました。

桝屋委員長 次に、保坂展人君。

保坂(展)委員 社民党の保坂展人です。

 実は私は、二十四、五歳のころに、集英社という雑誌社から「明星」という雑誌が、今でも出ておりますけれども、その雑誌の読者コーナーで、いじめ問題、それから学校の中の悩み、こういうものを一ページ、子供たち向けに書き出す、そういう仕事を始めたんですね。そのタイトルが「元気印レポート」というタイトルだったんですね。ということで、今日、元気印という言葉が芸能界経由でいろいろなところで使われている。実はそのぐらい読者層の反応が強くて、その連載は十年続いたんです。それから「セブンティーン」という、週刊で出ていた、これはもう子供しか読まない雑誌なんですが、やはりいじめの問題を中心に毎回取り上げてきました。

 当時、そういった子供向けのジャーナリズムの仕事をしながら、手紙がたくさん来るんですね。その手紙が、時によると三百通とか、段ボールに入るような、それが一つ一つが大変痛ましい悲鳴みたいな、何とか助けてほしい、あるいは復讐したいとか死にたいと、いろいろな声がありました。そういう声を一人一人受けられないのかなと、全部に返事を書くこともできませんので、留守番電話を使って子供たちの声を受けとめよう、こんなことを始めてみますと、朝から晩まで電話が続いて、一日百人以上の子がいじめについてSOSを吹き込んでくるようなことが、十数年前にやりました。そういうことで、後ほど触れるチャイルドラインなどを日本に本当に広げていきたいという活動を国会に来てからも行っています。

 そこで、まず初中局長に伺いたいんですが、昨日、いじめ対策の緊急会議があったということですね。そのいじめ対策の緊急会議の際に配られた資料を私の方でもちょっと見させていただきました。

 こちら、「平成十七年度生徒指導上の諸問題の現状について」という中に、今問題になっている、いじめ自殺ゼロ、九九年以降ですね。ここの四十二ページには、平成十六年、十七年ゼロというのは、確かにいじめではゼロなんですね。ところが、見ると、「友人との不和」というところが、これは合わせると五人でしょうか、友人との不和。あるいは世の中嫌になった、「厭世」ですかね、こちらの方も十八人、こうあるんですね。

 例えば、友人との不和といじめの区別を文科省はどうつけていらっしゃるんでしょうか。

銭谷政府参考人 この自殺の原因別状況の調査は、自殺をした小学生、中学生、高校生の自殺の理由として主なものを一つ学校の方で、いじめの理由として考えられる主なものを一つ学校の方で記入をするということで今まで調査を行っていたものでございます。

 「いじめ」あるいは「友人との不和」、そういう欄をつくってあるわけでございますけれども、いじめにつきましては、文部科学省がこの調査で行っておりますいじめの定義に当たるもの、そのいじめがあった場合に、それが自殺の原因と考えられる場合にここに記入をしていただく。つまり、いじめの定義というのは、自分より弱い者に対して一方的、身体的、心理的な攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じているもの、それで子供の方から自分はいじめられていると訴えたというふうなものがいじめになるわけでございまして、その定義に当てはまらない友人間のトラブルとか不和といったようなものは「友人との不和」というところに記入をするということになっております。

保坂(展)委員 それでは、文科大臣に率直な感想をお聞きしたいんですが、私は、いじめというのは、子供のグループの中、子供集団あるいは一対一の中での人間関係の調節障害だというふうに思っているんですね。いろいろなケースを見てまいりました。例えば、長崎県佐世保市で起きた同級生殺傷事件なども、あの事件以外にも、子供同士というのは今きしみ合って、干渉したりはね返したり、あるいは外されたり、あるいはまた仲直りした、いろいろな葛藤を経ています。

 今の初中局長の答弁なんですけれども、思い切ってもうちょっと掘り下げて、いじめという類型の隣に、実は友達とうまくいかないということといじめというのは非常に密接な関係があるんですね。あるいは、いじめを受けて、しばらく文科省の心の教室などに通って、学校、クラスに入れないという時期が続いている子供がいます。そういう子供が生きていくのは嫌になったといって亡くなるケースもあるんですね。これも、どちらが原因なのかと。しかし、密接にこれはかかわっているのは間違いないですね。

 そういうところも含めて、もう一度見直していただきたいというふうに思うんですが、大臣、いかがでしょうか。

伊吹国務大臣 先生がおっしゃっているのは、見直せというのは、調査の区分をという意味ですか。そういう意味ですか。

 これは、私も専門家じゃないから、私の考えが正しいかどうかわかりませんが、いじめというのは人間関係の適合障害であるということは、私は先生の御意見を認めますが、私と保坂先生の間に適合障害があっても、委員長と私が非常に仲よくしておれば、私は救われるんですね。そういう救われる関係がないような追い込まれたものがやはりいじめじゃないのかと私は思うんですが、いかがでしょうか。

保坂(展)委員 今の例でいうと、委員長が助け役ということになりますけれども、なかなかそういうお子さんは今いないんですね。やはり、そういうお子さんが出てくると、今度は自分が標的になってしまうかもしれないというところにおびえてしまって、せいぜい黙っている、自分は加担しないという形が多いんですね。

 では、大臣のお手元にもあると思うんですが、こちら、配付資料の方ですね。これは、九九年以降文科省の統計でいじめがゼロだというのが出たので、少なくとも報道されたケースの中で二十八件、この中には二件ほど今文科省が調査をしている案件もあります。

 備考のところに少し字が書いてあります。「「タバコを吸え!」と強要された――と遺書には他に数人の名も。」とかですね。これは、遺書があってというケースを一応書き抜いてみたものなんですね。中には、市原市議会では、教育長はいじめが根底にあり、痛ましい結果を招いたと答弁しているケースとか、これだけあっても、どうも文科省のシステムでは、いじめ、自殺、あるいは自殺の原因がいじめという項目に挙がってこないんですね。

 私は、この調査の仕方なんですが、二つあると思うんです。文部科学省の調査というのは九九年以降本当にゼロなんですかと国民の皆さんも今ちょっと不思議がっていると思うんですね。ましてお子さんを亡くされた親御さん、こんな数字信じられませんよとおっしゃっています。この調査は、文科省から都道府県教委、都道府県教委から各市町村、こうおろしていって、どうだったのかというやり方もありますが、とりあえず明らかになって報道されているケースについて、これはなぜカウントされなかったのか、これを調べるという方法もあるかと思うんですが、いかがでしょう。

伊吹国務大臣 そういう調査の仕方もあると思います。

 先生からいただいたこの資料は、いじめによる自殺が疑われるケースになっておりますね。だから、疑われるということをきちっと書いていらっしゃるというのはそういう意味だと思います。ですから、このケースについてどうだったかということを、文科省は今の法律では直接はここへ介入はできませんので、教育委員会を通じて問い合わせてみても私はよろしいと思いますが、やはり先ほどの例でいいますと、いじめられたと感じている者の相手が、無関心を含めてすべての仲間か多くの仲間であって、自分を理解してくれる人がいない場合、これは明らかに私はいじめだと思うんですね。一対一で非常に仲が悪くて常ににらみ合っているというのは、これはいじめにはやはりならないんでしょうね。人間関係の悪化という範疇なんだと思います。

 ですから、この中にも私が申し上げたようなものが多々入っている可能性がありますから、これは個別に問い合わせてみるということは、先生の御指摘を受けてやってみてもよろしいと思います。

保坂(展)委員 重ねてぜひお願いをしたいのは、私どもは自分なりの子供時代を持っております。大臣にもここにいらっしゃる皆さんも子供時代があったと思うんですが、まだ我々のころは子供の時期に遊ぶことができたんですね。きょうは何をしようかな、この指とまれ式で遊ぶという世界があって、少々嫌なことがあってもその中で忘れていったりとか、あるいは遊びの楽しさの中でもう一回元気になるということもあったかと思うんですが、今の子供たち、実は外で自由に遊ぶという環境はいろいろな状況の中でありません。

 我々が予想しているよりも、いじめられている子のつらさというのは、聞いてみるともう本当に背筋がよだつぐらい、やはり本当に生きていけなくなって身を投げてしまう、首をつってしまう、そのつらさというものを何とかぎりぎり乗り越えて生きてきた若者たちもいます。当事者は、一番苦しい時期の子供は話ができませんけれども、かつてそういう苦しい時期を乗り越えた若者の声もぜひ大臣、聞いていただきたいと思うんですけれども、いかがですか。そういうふうにいじめの問題を、当事者の、一番つらいところのふちにいる子たちからもぜひ聞いていただきたい。

伊吹国務大臣 国会審議その他等から解放されて、時間があれば、喜んでそうさせていただきます。

保坂(展)委員 それでは、池坊副大臣に。

 実は、きのう別の委員会で、この二十八例についても一つ一つ、これはどうなのかなという新聞記事を拾った二十八例の、今お配りしている表はその集計表なんですけれども、そういう一つ一つたどってみてぜひ解き明かしていただきたいのは、ただ、どうしてゼロだったんだという追及をしていても仕方がない、ゼロだったのはおかしいけれども、なぜゼロになってしまうのかというメカニズムをぜひ池坊副大臣には解き明かしていただきたいと思うんですね。なるほど、これでゼロになったのかと。

 そして、これからは、確かにいじめ自殺はよくないです。減った方がいいです。しかし、現にあるものは我々は知らなければいけない。だから、現にあるものは現にある数字として、例として私たち社会にも伝わってくるような仕組みも一緒に考えていただければと思うんですが、いかがでしょうか。

池坊副大臣 委員がおっしゃるように、確かに今までは学校もそして教育委員会も、いじめらしいなと思うものは隠蔽してしまった。なるべく表に出さないようにというような風潮があったことは確かだと思います。でも、昨日、教育委員会の担当課長を集めまして、そういうことはいけないのだ、みんなでもう出し合いましょう、そしてみんな共通認識のもとでどうしたら解決できるかをそれぞれがいい方法を探り合いましょうということで、そういう合意がなされたというふうに私は思っております。ですから、学校現場においてもしっかりとその通達を受けとめて、これからは小さないじめも見逃さないように、担任の先生方が生徒をしっかりと見詰め、そして、担任の先生だけでは解決できないと思うんですね。ですから、これは保護者のお力、地域のお力もおかりして解決に向ける。

 私、考えておりまして、いじめ対策というのは何があるのだろうかと思いましたとき、やはりいじめその他の理由によって自殺なさったお子様は、その無念さの中にあっても、これからそういうことがないような社会になってほしいときっと願っているだろうと思います。ですから、そうあるように、私たちはしっかりとこの問題とも向き合って指導していけたらと思います。

 そして、委員がおっしゃいますように、学校だけでなくてどこかに逃げ道があれば、いじめが自殺にまで結びつかないのではないか。午前中にも申し上げたように、そのためにいろいろな総合的な対策が必要だと思います。それは体験活動であったり、読書であったり、また民間のチャイルドラインであったり、民間の力もおかりする必要があると思います。子供たちが追い詰められないように、いじめに遭っても自殺までいかないような、それはどうしたらいいかを私たちはきちんと考え、そして対策を練り、実行していきたいと思っております。

保坂(展)委員 文科大臣、今、池坊副大臣の方からチャイルドラインという名前が出たんですけれども、実は九七年に小杉隆先生が文部大臣だった当時、やはりこのいじめの議論をいろいろしていく中で、当時の文教委員会、ちょうど海外視察というめぐり合わせで、ぜひイギリスのチャイルドラインをみんなで見に行こうではないかということで各党委員で見に行きまして、なるほどこれはすごいと。年間予算十億円で、イギリスじゅうの子供はすべて知っている。番号はそらんじているんですね。そしてそのかかってきた声は、いろいろ専門家もバックアップする中で、ボランティアが受けている、こういう仕組みなんです。日本でもやりましょうということで超党派の議員連盟をつくって、池坊先生も私もその仲間なんでございますけれども、これをやはり文部科学省ももっともっと日本全体に広げていこうということで御努力をいただけないかなというふうに思いますが、いかがでしょうか。

伊吹国務大臣 私も、チャイルドラインではないんですが、いのちの電話というのがありまして、これは子供だけを対象としたものではないんですが、それに関与していたことはございますので、大体のイメージはございます。

 先日、牟田さんが来られていろいろお話がございました。立ち上げのときには国民の税金を少し立ち上げ資金としてお入れしたようですが、今はもうNPOをお取りになって、独自の活動に入っておられる、しかし、お金がなかなか集まらないということでした。

 まず、もちろん国がそういうものを引き受けるというのも一つの考え方でしょうし、それから、せっかくNPOをお取りになっているんですから、免税NPOの団体の要件にかなり適合する事業じゃないかと思いますので、そういうお口添えをしてもいいなという話もしておりました。

 要するに、しこたま金をもうけた人も、寄附をして少しこういう事業をやっていただく社会というのが私はいいと思うんですね。免税をしないとお金を出さないというのは本当の慈善事業じゃないと思いますけれども、お金を出しやすいようにひとつ私もお力添えをしてみたいなといってお話をしました。

保坂(展)委員 ありがとうございました。

 それでは、次のテーマに入らせていただきたいんですが、資料でお配りしている新聞記事で、これは文化庁所管の財団法人日本美術刀剣保存協会の記事が、「理事の刀剣審査に出せる? つばぜり合い」。文化庁は、関係者は問題だ、刀剣協会の方は、これは関係者といっても差別はできない、つばぜり合いとかいう表現で出ておりますけれども、こういう記事でございますね。

 まず、文化庁にお聞きをしたいんですけれども、こういった刀剣の審査に関係者が当たらないようにという指導を平成十三年以降しているけれども、うまくこれが実現していないという現状は事実ですか。

加茂川政府参考人 御指摘の日本美術刀剣保存協会の刀剣審査、審査制度の運用についてでございますが、平成十三年度に、適正な審査が行われているかいないかということが問題になりまして、当時の文化庁が現地調査、実地調査に入って、改善、見直し方を求めた経緯がございました。その折に、これは文化庁と法人側が十分話し合って結論は得たことでございますが、法人から審査の透明性を確保する上で、役職員、審査員本人及びその親族については、審査会への申請はしない、刀剣審査についての審査はしない、そういう自主規制を図るという報告が出されて、文化庁としては、これを了としたわけでございます。

 最近になりまして、本年五月でございますが、文部科学大臣あてに、この自主規制が守られていない、具体には、これは匿名の投書でございましたが、重要刀剣、特別重要刀剣の審査制度が一部の理事と業者の癒着によってゆがめられているという旨の投書があったわけでございます。投書でございますから、真偽のほどは定かではございません。私どもは、これを受けて、協会に対しまして、法人に対しまして、事実関係の問い合わせをいたしたところでございますが、その事実確認の過程で、協会側の説明から、今の、十三年の協会自身の自主規制に反した旨の説明があったものでございます。

 そこで、私どもとしましては、より詳しい事実調査、ないしは不適切な場合があった場合には、改善の方策も含めた調査報告書の提出を求めているというのが現状でございます。

保坂(展)委員 その際に、役職員の関係者の方が刀剣の審査に当たらないようにという文化庁の指導だったと思うんですが、これをやると、法のもとの平等ないしは営業の自由を規定しているところの憲法に違反する、こういう反論があったやに聞いているんですが、そういうことはありましたでしょうか。また、見解はいかがでしょうか。

加茂川政府参考人 今申し上げましたように、正式な報告書がまだ届いておりませんので、協会としての正式な見解として、今委員御指摘のような意見が私どもに正式に表明されておるわけではございません。ただ、一部の役員の中でそういう憲法云々の話が出ているようにも、昨日確認をいたしました、出ておるようでございます。

 私どもの理解としましては、先ほど申しましたように、法人の自主規制はあくまでも、事前の話し合い、十分な合意のもとに法人自身がみずから規制をかけた、審査の公平性、客観性を担保するために、いわゆる窓口規制をみずから設けたというものでございますから、そういった憲法に違反する云々の議論は前提としては生じていないのではないか、こう理解をしております。

保坂(展)委員 念のために法制局に来ていただいていますが、憲法における法のもとの平等であるとか営業の自由だとかは、これはきちっと守らなければいけない原則だと思いますけれども、かかる原則をしっかり確保していくためには、例えば、国務大臣、副大臣、政務官などが営利企業等の役員を兼職してはいけないとか、あるいはインサイダー取引が禁止されているとか、さまざまな、いわば、ここはこれ以上超えちゃいけませんよという規制は、それぞれの分野にあろうかと思います。これらの関係を簡潔に言うとどういうふうに整理できるのか、答弁、お願いします。

山本政府参考人 それでは、一般論としてお答え申し上げます。

 御承知のとおり、憲法第十四条第一項は法のもとの平等を規定しておりますけれども、これは絶対的なあるいは機械的な平等を意味するものではございませんで、むしろ合理的な理由に基づく区別というものは当然許されるというふうに解釈されております。

 また、御指摘の憲法第二十二条の職業選択の自由でございますけれども、これにつきましても、公共の福祉の観点からの必要かつ合理的な限度の規制というものは許されているというふうに解されてきております。

保坂(展)委員 では、文科大臣にお尋ねしますけれども、実は、これは、先日お亡くなりになった橋本龍太郎元総理大臣がこの協会の会長になられて、何とか、今、平成十三年以来いろいろな整理できていないことを整理して、しっかり信頼も回復して、いわば愛好家からの信頼回復をしていこうというふうに努力されているさなかでお亡くなりになってしまったという経過もあったそうです。文化庁にも早く回答するようにと指示をしていたそうでございますけれども、こういった機関というのは非常に限られた分野で一つしかないそうなんですね。ということで、ぜひ関心を持って信頼回復にたえるようにしていただきたいと思うんですが、いかがでしょうか。

伊吹国務大臣 まさに先生おっしゃったように、一つしかないという鑑定機関がいやしくも疑義を挟まれるような行為をするということはあってはならないことでしょう。

 私も、現在、橋本先生の後、会長を引き受けておられる佐々さんから会いたいというお話を伺っているんですが、どういう方向のお話なのかを確認しないまま責任者がお目にかかるということは適当じゃないと思って、今は少し実情をよく聞いてからと思っているんですが、一番いいのは、一つしかない機関が、先ほどおっしゃったように、インサイダーだとか行為規範というのと同じ疑いを差し挟まれないように厳正に行動していただくという原点が確立されれば一番いいわけですから、その方向で文化庁が努力をすると思います。

保坂(展)委員 この委員会でも、通常国会でスケート連盟の問題について、当時の馳副大臣に随分とお取り組みをいただいたということで、やはりスポーツの世界でもしっかり自浄化作用を、いろいろちょっと犠牲はあるかもしれませんけれども、信頼回復に向かっていくのかなというふうに思っていますし、今の大臣の答弁もしっかり関係者に受けとめていただけるように私も望むところでございます。

 残り一問なんですが、きょう教育再生会議について実は深く聞きたいと思ったんですが、ちょっと時間がありませんので、教育再生会議のこれから議論していく内容と、安倍総理の「美しい国へ」、この中に教育についてかなり分量を割いて書かれています、具体的に一々は言いませんけれども。この本の内容を、再生会議で議論するという関係になっているのか、直接的にはそういう関係にないのか。安倍総理のきのうのあいさつは具体的には余り列挙していないんですね。どうなっているんでしょうか。

山中政府参考人 お答え申します。

 十月十八日に、先生御指摘のとおり、開催されました第一回の教育再生会議におきまして、安倍総理から大きく三つの事項について検討の要請を行ったところでございます。

 すなわち、質の高い教育を提供し学力の向上を図る方策、二番目に、規範意識や情操を身につけた美しい人づくりのための方策、三番目に、家庭や地域の教育力を高め地域ぐるみの教育を再生するための方策の検討、この三つでございます。

 さらに、大学、大学院の国際競争力の強化についても述べましたほか、これ以外のテーマにつきましても、有識者の方々から御提起いただき、幅広い視野から教育再生のための抜本的な施策を検討いただきたいということであったわけでございます。

 このように、教育再生会議で議論する内容につきましては、今後、総理からの検討事項の要請、こういうものを踏まえまして、会議において決められていくということになるというふうに考えております。

 安倍総理の著書「美しい国へ」に書かれている内容も含まれているものもございますが、そういうものも含めまして、十八日の総理からの要請を踏まえて、会議の場で今後検討していくということになると考えております。

保坂(展)委員 本の中に書いてあることも含まれるということですが、どこが含まれていてどこが含まれていないのかはぜひ聞きたいところですが、時間になりましたので終わりたいと思います。ありがとうございます。

桝屋委員長 次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。

    午後三時四十二分散会


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