衆議院

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第2号 平成14年3月14日(木曜日)

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平成十四年三月十四日(木曜日)
    午後二時一分開議
 出席小委員
   小委員長 島   聡君
      石破  茂君    近藤 基彦君
      土屋 品子君    長勢 甚遠君
      葉梨 信行君    大出  彰君
      小林 憲司君    今野  東君
      太田 昭宏君    武山百合子君
      春名 直章君    金子 哲夫君
    …………………………………
   憲法調査会会長      中山 太郎君
   憲法調査会会長代理    中野 寛成君
   参考人
   (成蹊大学教授)     安念 潤司君
   衆議院憲法調査会事務局長 坂本 一洋君
    ―――――――――――――
二月二十五日
 小委員松島みどり君同月二十一日委員辞任につき、その補欠として土屋品子君が会長の指名で小委員に選任された。
三月十四日
 小委員金子哲夫君及び井上喜一君二月二十八日委員辞任につき、その補欠として金子哲夫君及び井上喜一君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
 小委員茂木敏充君同月十一日委員辞任につき、その補欠として石破茂君が会長の指名で小委員に選任された。
    ―――――――――――――
本日の会議に付した案件
 基本的人権の保障に関する件


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     ――――◇―――――
島小委員長 これより会議を開きます。
 基本的人権の保障に関する件について調査を進めます。
 本日、参考人として成蹊大学教授安念潤司君に御出席をいただいております。
 この際、参考人の方に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多用中にもかかわりませず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたいと存じます。
 次に、議事の順序につきまして申し上げます。
 本日は、基本的人権の小委員会、二回目でございますが、最初に参考人の方から外国人の人権というテーマで御意見を四十分以内でお述べいただきます。その後、小委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。
 なお、発言する際はその都度小委員長の許可を得ることになっております。また、参考人は小委員に対しまして質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。
 御発言は着席のままでお願い申し上げます。
 それでは、ただいまから四十分ほど、安念参考人、お願いいたします。
安念参考人 御紹介いただきました安念でございます。このような機会を与えていただきまして、まことにありがとうございます。
 外国人の人権につきましては十年ほど前に論文を書いたことがございまして、本日申し上げることも格別この中身と違ったことではございません。よほどお暇でしたら、ぱらぱらとめくっていただきたいと存じます。
 私もある程度論文を書いたつもりでございますが、一貫したものがございまして、それは、中身が一貫しているわけではなくて、私の論文は一貫してだれにも読まれた形跡がないということでございます。この論文も、私の非常にマニアックな二、三の友人が読んだということの裏はとれておりますけれども、決して学界の権威ある通説などというものでは全然ございませんし、その上、机の上の議論を頭の整理のために整理したという程度のものでございますので、毎日毎日起こるビビッドな事件に対処しておられます先生方の御参考になるかどうかについては大変怪しいと思っておりますが、そういうものとしてお聞きをいただければ幸いでございます。
 日本国憲法については、先生方の議論も含めて実にさまざまな議論がなされております。ただ、私の立場から申しますと、日本国憲法の特色は、格別特色がないということであろうと思っております。つまりそれは、先進国の憲法であればどこの国の憲法にも書いてあるようなことを、どこの国の憲法にも書いてあるような言葉で書いてあるというだけのことでございます。それはほかの国の憲法も大体同じなんですね。先進国であれば皆同じような憲法を持っております。つまり、幾つかの自由を保障いたしまして、また一方では民主的な政治機構の根幹部分を規定しているというものでございます。
 どこの国の憲法も大体先進国であれば同じであるというのはなぜかといえば、それは、憲法の役割と申しましょうか、守備範囲というのは実は非常に限定されているからだと思います。つまりそれは、国家権力を制限して国民の自由を保障するという、この一点に結局尽きるわけでございまして、そうだといたしますと、そのための法というものがそれほどバラエティーを持たないというのは、これは一応当然のことではなかろうかと存じます。
 恐らく、日本国憲法の特色は、憲法の条文に特色があったのではなくて、議論のされ方に特色があった。つまり、一方では憲法がすごく好きという人がおる。一方ではすごく嫌いという人がいる。そういうものとして議論され、時には、言葉は悪いかもしれませんが、消費されてきた、コンシュームされてきた、そういうところに日本国憲法の特色があるというふうに存じます。
 ところで、憲法の役割は、結局、国家権力を制限して国民の自由を保障することだというふうに申しました。恐らく、このことはそう大きな異論はないだろうと存じます。
 問題は、どんなものにも、表玄関と申しましょうか、正面玄関と勝手口があるということでございます。つまり、正面玄関はきれいに掃き清めて水を打ってある。一方、勝手口の方に回りますと、ごみ箱があって、空き瓶が置いてある。これはどんなものにも大体共通するだろうと思うんです。憲法も、そう言ってしまえばそうです。
 憲法の正面玄関はすなわち自由の保障でございますが、その理念は実に気高いものでございます。日本人の感覚からいたしますと、非常に突拍子もないような概念に聞こえるんですが、自由の保障という概念の背景には、少なくとも欧米の知的な伝統から申します限りは、自然法という発想がございます。その自然法というのは、神様が人間に与えた法でございますから、人間の種類、どういう人間かにはかかわりなく、人間が人間である限りにおいてはすべての人が享受できる、そういう自由、権利を与えたのだ、こういうふうに建前としては掲げるわけでございます。これが正面玄関でございます。これは大変美しいもの。
 ただ、これは、実はという話が勝手口の方にございまして、どういうことかと申しますと、すべての人に文字どおり等し並みに権利を保障するというのが理念であっても、現実にはそうはいかないという問題が歴史的には多々あったということでございます。つまり、実は同じ人間なんだけれども、その中には、ありていに言えば二等市民と申しましょうか、そういう存在を実は憲法も勝手口の方では認めてきたわけでございます。
 その典型例はもちろん奴隷でございます。そもそも人間じゃない、財産権の対象として売買される。生物学的にはそれは人間だということはだれも認めているわけですが、しかし、いわば真っ当な市民とは同じ権利を認めることができない。これはアメリカの南北戦争が終わるまで西欧にも存在していたわけでございます。つまり、一八六〇年代まで存在しておりました。
 もう一つは女性でございまして、女性に対する差別が少なくとも法的なレベルでほぼ撤廃されるのは、先進国でも第二次大戦後のことでございます。
 もう一つは植民地でございまして、これも第二次大戦が終わるまで、終わってからもかなりの間でございますが、欧米諸国はアジアやアフリカに相当の植民地を持っておりまして、植民地の人間に対しては、本国の人間とは違うんだと、平等の扱いをしてこなかったというのは、これは事実でございます。
 それはいろいろなテクニックを用いて正当化してきたのでございますが、しかし、理屈のレベルでは、同じ人間なのにどうして違いがあるのかということを証明するのは、結局無理だったんだと思います。歴史の流れもありましょう、それから人間の知的な発達もありましょうが。いずれにいたしましても、こうした裏玄関、勝手口のさまざまな問題は、第二次大戦の終結あるいはそれからしばらくの間、一応、法のレベルでは清算されたというふうに言ってよろしかろうかと存じます。
 しかし、最後まである意味で残っている大規模な問題は、外国人の問題でございます。外国人にも憲法が保障している権利が保障されるのかというのは、これは現代まで残っている憲法のいわば鬼門と申しましょうか、最もタッチーな痛い部分でございます。
 建前から申せば、自国民であろうが外国人であろうが、すべて人なんですから、人である以上、すべての人が例えば表現の自由、例えば財産権、例えば参政権というものを持ってよいはずのものでございます。しかし、この理屈を実地に適用することはできないということは、これは少なくとも先進国である以上ははっきりしております。もし外国人にも自国民と同じ権利を認める、文字どおりの内外人平等を認めるということは、移民を無制限に認めるということでございますから、自国民にとっては破壊的な影響を及ぼすということは、これははっきりしております。
 したがって、どこの国でも、憲法に明文の規定のあるなしにかかわらず、外国人の憲法上の権利の享有は制限されているのだというふうに学説や判例がずっと唱えてまいりました。
 しかし、そうなんだけれども、では、なぜ制限されるのか、外国人は自国民とはなぜ違う扱いを受けるのかということを理論的に証明することは大変難しいことでございまして、それは、憲法の人権の考え方が、自然法という言葉を使うかどうかはともかくといたしまして、すべての人間に、人間であるというただそれだけの理由で認められるとすれば、これはどうしても突破することのできない大変に難しい問題となって残るわけでございます。これは、今日においても、すべての先進国の憲法が抱えている問題でございます。日本だけではございません、アメリカでもイギリスでもドイツでもフランスでも、皆抱えている問題だ。そして、いまだに解決はできていない。きっちりと、非常にすっきりとした理論的な解決はできていなくて、今後もきっとできないだろうと私は思います。
 さて、外国人が憲法上の権利をどこまで享有できるのかという問題についての判例、学説の態度は、伝統的に驚くほど一致しております。それはこうでございます。
 憲法上の権利は、日本国民にしか認められないもの、例えば参政権だというのですが、そうしたものを除いては、できる限り外国人にも認めるべきだと言ってまいりました。例えば政治活動の自由、これは表現の自由の中に含まれるものでございましょうが、政治活動の自由もまた外国人にも認められるべきだというふうに主張してまいったのでございます。この点について、こうした抽象的なフォーミュラとして見ますと、判例と学説の間に対立はなかったというふうに言ってよろしかろうかと思います。
 問題は、実地の、具体的な問題への適用のレベルでございます。このような一般的な形式、フォーミュラの真価が試されましたのが、昭和五十三年、一九七八年のマクリーン事件最高裁判決と言われております、この分野では最も有名な判決でございます。
 この事件は、アメリカ合衆国市民であるアラン・マクリーンという人物が原告となりましたのでマクリーン事件と言うのでございますが、彼は、日本に、英語学校の教師として、在留期間一年で入国いたしました。その間、当時ベトナム戦争のころでございましたので、外国人ベ平連という、今となっては懐かしい名前でございますが、そこに所属をいたしまして、平和的デモに随行するというような反戦活動をいたしました。
 さて、一年の在留期間が切れそうになりまして、まだ日本に在留したいということで、当局に、厳密に申せばもちろん法務大臣にでございますが、一年間の在留期間の更新の申請をいたしましたところ、法務大臣はそれを不許可といたしました。その理由は、日米関係を損なうような活動に日本国内で従事した、したがって、日本国政府にとっては好ましくない人物であるというので、これ以上在留を認めるわけにはいかない、ただ、引っ越しの時間は必要であろうから若干の猶予は認めるということで、一年間の在留期間の更新の許可の申請に対してはこれを不許可とする、このような行政処分をしたのでございます。マクリーン氏がその行政処分の取り消しを求めたというのが、この訴訟でございます。
 途中の経過をばっさりと抜いて、最高裁に行ってしまいますと、結局、最高裁は、その処分は適法であると申しました。
 その理由づけでございますが、最高裁の判決の理由づけは大きく二つに分かれておりまして、まず第一に、それまでの判例や学説に大いに敬意を表しまして、外国人にもできるだけ基本的人権の享有を認めるべきだと申しました。もっとも、日本人でしか行使できないような権利は別だがという留保をいたしました。
 では、マクリーン氏が国内で行った外国人ベ平連の平和的デモに随行する行為はどうであったかと申しますと、最高裁は、ここが大変注目すべきことですが、そのような活動は外国人にも認められる政治的自由の範囲内だと言ったのです。その範囲を超えているからおまえは追い出されても仕方がない、こういうふうには言っておりませんでした。そうなりますと、どうもマクリーン氏が勝つような感じがするのですが、そうではありませんでした。
 そこからが第二番目でございまして、最高裁は、確かに外国人にも平和的な政治活動に従事する自由は憲法上保障されているのだが、そうした権利は在留資格制度の枠内でしか認められないのだという言い方をしております。
 在留資格制度というのは、先生方御承知のように、今日では、出入国管理及び難民認定法によってつくられている制度でございますが、では、最高裁はこの在留資格制度というものをどのように理解しているのかと申しますと、こうでございます。法律の規定している在留資格制度によれば、在留期間の更新を認めるか認めないかは法務大臣の自由な裁量に任されているのだ、このように申しました。自由な裁量に任されているというのは、つまりこういうことです。認めるも認めないも、それはどちらでもよい、仮に認めないとして、どのような理由で認めなくてもよい、こういうことでございます。
 つまり、日本国内で、日米関係にとって日本政府は好ましくないと思うような活動をしたということを理由として、在留資格の更新を認めなくてもよいのだ、それは法律が認めている裁量権の行使の範囲内の話なのだ、このように言ったのでございます。
 考えてみますと、この判決のつくり方は、やや木に竹を接いだというのでしょうか、異質のものを何か無理やり接着剤でつけてしまったような、そういう印象がございます。
 前半部分では、あなたには憲法上の権利として政治活動オーケーよと言いました。しかし後半部分では、その政治活動の自由も在留資格制度という枠内でしか認められていない、その在留資格制度のもとでは、あなたに期間の更新を認めるかどうかは法務大臣の自由な裁量だ、だから、ノーと言ってもそれは自由な裁量の範囲内なんだから、出ていってください、こう言ったわけです。
 この判決の結論を導く上で決定的な意味を持っているものは、もちろん第二の部分でございます。在留資格制度の枠内でしか憲法上の権利が認められないという部分でございますが、そうだといたしますと、では、最高裁はその在留資格制度というものをどのように理解しているのかということが次に問題となると申しますか、これは最大の問題でございます。
 最高裁の理解によりますと、在留資格制度というのは、憲法の外国人の地位に関する基本的な発想を踏まえてできているものでございます。それはどういう発想かと申しますと、外国人は日本に、この分野では本邦にという言い方をよくするのでございますが、本邦に入国し、在留し、引き続き在留する権利を憲法上は持っていない、そういう考え方に基づいてできている。では、なぜ憲法は外国人に入国その他の権利を認めていないと言えるのかといえば、その理由は、国際慣習法がそうだからだ。
 国際慣習法によれば、国家が外国人を自国内に受け入れるかどうかは、その国家の自由な裁量によってよろしい。つまり、外国人の立場からいえば、外国に入国し、在留する権利はない、これが国際慣習法である。その国際慣習法がある上で、日本国憲法には、その国際慣習法を修正するというような態度を見せた条文がない。とすると、日本国憲法は国際慣習法を受け入れているのである。ということは何を意味するかというと、外国人は、本邦に入国し、在留し、引き続き在留する憲法上の権利はないということでございます。
 さて、憲法上の権利がないということを前提にして在留資格制度ができているといたしますと、入国し、在留し、引き続き在留したいという外国人の希望をかなえるかどうかは、これは日本政府が自由に決めてよいこと、つまりは、立法府がどのように決めてもよろしいわけです。すべて受け入れるという立法をしてもよろしいし、全く受け入れないという立法、つまり鎖国にしてもよろしいし、ある場合には受け入れ、ある場合には受け入れないというルールの仕方にしてもよろしい、そのようにできているのだというのが、最高裁の認識でございます。
 したがって、引き続き在留を求める申請、つまり在留期間の更新の申請については、法務大臣が自由な裁量に基づいて判断すればよろしいのだ、このように言ったのでございます。
 この判決の仕方は、先ほど木に竹を接いだような表現だということを申しましたが、私は、前半部分と後半部分は結局矛盾しているというふうに思います。と申しますのは、憲法上の権利は外国人にもあると言っておきながら、しかし後半部分で、憲法上の権利が在留資格制度の枠内でしか認められないと言っている。ところで、在留資格制度は法律に基づいてできているわけでございます。出入国管理難民認定法という法律に基づいてできている。憲法上の権利が法律の枠内でしか認められていないということは、言いかえますと、憲法上の権利はないということです。
 なぜかと申しますと、その枠組みをつくっている法律をどんどん外国人に厳しくして、憲法上の権利の享有がまるでできない、あるいはほとんどできないような法律をつくってしまえば、これは憲法上の権利を享有していないというのと同じでございますから、そういう状態が許されるというのであれば、そして最高裁はそれを許されると考えていると思いますが、そうであるとすると、結局、外国人には憲法上の権利はないと言っているんだと私は思います。
 この認識は、考えてみますと、恐ろしく薄情なように聞こえますが、頭の整理の問題としては、私はそう言わざるを得ないのではないかと考えております。それはなぜかと申しますと、これは最高裁も言っていることですが、くどい表現を何度も用いて恐縮でございますけれども、外国人には、本邦に入国し、在留し、引き続き在留する憲法上の権利はないからでございます。そして、外国人が本邦に入国する憲法上の権利がないという点については、判例も学説も全く異論はございません。みんながそう言っております。このことを前提といたしますと、外国人には憲法上の権利を享有する資格はないんだと言わざるを得ないのではないかと思われるのです。
 もちろん、そう申しますと、いやいや、そうではなくて、入国、在留の権利はなくても、他の憲法上の権利は享有できるはずではないか、少なくともそういう理屈を組み立てることが可能ではないかという反論は当然あるだろうと思うんです。
 しかし、最高裁も判決の中で示唆しているのですが、私は、その構成は苦しいと思います。と申しますのは、外国人には憲法上本邦に入国する権利がないのだといたしますと、先ほども申しましたように、日本は鎖国をしても憲法には違反しないということでございます。なぜかというと、外国人には日本に入国する憲法上の権利がないんですから、すべての外国人の入国を拒んでも憲法には違反しないわけです。愚かな政策ですよ、これは。全く愚かな政策ですが、憲法には違反しないと言わざるを得ないわけです。もちろん、入国させなくても憲法に違反しないというだけでございますから、入国させても憲法に違反するわけではございません。もちろん入国させてもいいんです。
 しかし、させなくても憲法に違反しないという以上は、入国させるに当たって条件をつけてもいいはずだという発想に自然になると私は思います。最高裁もそういう発想をとっております。つまり、こういうことです。入国は認めてやろう、ただし、これはあなたの憲法上の権利ではありませんよ。さて、その場合に条件がある。それは、あなたは日本国内に入国し、在留してもよろしいが、憲法上の権利は放棄する、あるいはそれを行使しないという条件でだという条件をつけることが許されるはずでございます。そのことは、すなわち外国人には憲法上の権利を享有する地位と申しましょうか、資格がないということを意味しているのではなかろうかと思います。
 このことは、先ほども申しましたように、えらく割り切った、ドライな結論のように聞こえるかもしれませんが、実は、在留資格制度というのは、今申しましたように、外国人には憲法上の権利がないという前提でつくられていると考えませんと説明ができないんでございます。
 外国人の在留資格は、いわゆる活動資格というものについて申しますと、ある特定の領域の活動しかできないという組み立てになっております。日本国民にはこんなことは許されるはずないと思うんですね。例えば、私には研究しかできない、ほかのことを一切やっちゃいけない、そういう人間のカテゴリーをつくることはできないはずです。例えば、先生方について、演説しかすることができない、そんなカテゴリーをつくることは許されないはずです。原則は何をやったっていいはずです。それが、外国人に適用される在留資格制度は逆なんです。ある特定の行為しかできないんです。そして、そのような仕組みが、少なくとも、今まで違憲だと言われたことはございません。
 だとしますと、外国人在留制度というのは、外国人には憲法上の権利を享有する資格はないんだという前提でできているというふうに説明するしかないのではないかと私は思います。したがって、私の考えでは、マクリーン事件の最高裁の判決は正しい結論をとったのではないかというふうに思います。そういたしますと、結局何が残るのかというと、外国人には憲法上の権利はないという、それだけの話でございます。
 この言い方は、恐らく非常に多くの人の反感を買うだろうと思うんですが、私の言いたいことは、外国人は、外国人として入国させてやった以上は、煮て食おうと焼いて食おうと自由だ、いきなり水際で拷問にかけてもいいんだ、そんなことを言いたいわけではもちろんございませんで、結局のところ、外国人の法的地位は法律でつくられるのだからそれでよいではないかという考え方でございます。法律によりさえすれば、私は外国人にどのような権利を認めてもいいと考えております。これはこれでかなりこの世界では過激な考え方なのですが、憲法上の権利はゼロ、しかし法律によって日本人と同じように扱ってもいいというのが私の考えでございます。
 多くの学説は、例えば国務大臣でありますとか、裁判官であるとか、国会議員であるとか、そういった公務員には外国人は就任できないと言っておりますが、私は、これはどうしてなのかよくわかりません。
 私は、公務員というのは基本的には国民のサーバントでございますから、国民にとって役に立つのであれば、外国人であっても日本国民であってもそれはどっちでもいいというふうに考えるべきなのではないかと思っております。それは、法律でそう認めればよろしい。もし働きが悪いのであれば首にすればよろしい、それだけのことではないかと思います。憲法上の権利はゼロであるが、法律によって日本人と全く平等な扱いをしても許されるのではないかというふうに私は考えております。
 私は、憲法上、外国人には人権享有の資格はないと考えます。一つの帰結でございます。それは法律で認めればよろしいではないか、しかもそれは日本人と同じように、いわば制限なく認めてもよろしいのではないかというふうに私は考えております。
 第二点でございますが、外国人に人権がないというその結論のさらに奥にある問題の第二点目は、では、外国人には憲法上の権利を享有する資格がないとして、そうなると、憲法上の権利を享有できるのはだれか、それはもちろん日本国民だ、こういうことになるわけです。では、その日本国民というのは一体何者であるのか。
 先生方も私も日本国民でございますが、日本国民がだれであるのかということについて、憲法は何も語っておりません。ただ、憲法第十条で、日本国民たる資格は、法律でこれを定めると規定しているだけでございまして、それに基づいて、御案内のとおり国籍法という法律がございます。
 私を含めて大多数の日本国民が日本国民であるという理由は、何か実体的な価値に基づいてあるのではございません。日本国に貢献したからではないし、日本語がしゃべれるからではないし、日本の法令に忠誠を誓っているからではないし、日本食を好むからでもないし、とにかくそういう実体的な価値とは何の関係もございませんで、単純に、父親、母親のどちらか一方が日本国民であったという、それだけの話でございます。全く形式的な基準に基づいて日本国民であるかないかが決まっております。
 これは、諸国の例、皆同じことでございまして、国籍の付与に関して一々実体的な関係を審査するなどということはコストがかかってできませんので、出生によってすぱっと割り切るわけでございます。しかし、このすぱっと形式的に割り切るということは、日本国民であるという地位が実はある意味で便宜的なものであるということを物語っております。なぜ私が日本国民でなければならないのか、あるいは日本国民であることが許されるのかということについて、実体的なことは何もないわけです。ただ、生まれたときにおやじが日本国民だ、それだけの話でございます。そうだといたしますと、本来の人権の享有主体、本来人権を享有することができるとされている日本国民という地位もまた、実は憲法上の基礎は大変あやふやだということでございます。
 だといたしますと、ここからは私は政策論として申し上げたいことでございますが、日本国民と外国人との間に非常に大きな差異があるというような立法政策は、フィロソフィーの問題としては望ましくないのではないかというふうに考えております。
 さて、最初の問題へ戻りますと、憲法上の権利の根拠が、人間がただ人間であるというだけのことにあるという原理に立脚いたしますと、自国民と外国人を人権の享有において差別するということの理由づけは大変に難しいものでございます。というか、恐らく成功しないだろうと思います。しかし、同じように扱うことは破滅的な結果を導いてしまう。そこで、何だかんだと理由をつけて、違った扱いをしてもよいというふうに理屈をこねるわけでございます。
 そのこね方の一つが、今私が申しました、昭和五十三年のマクリーン判決が述べている、あるいは示唆しているところでございまして、結局、外国人には憲法上の権利を享有する資格はないのだということでございます。
 しかし、だからといって、繰り返しになりますが、立法政策の問題として、外国人をまさに煮て食おうと焼いて食おうと自由だという扱いをするのは賢明だとは私には到底思われません。ここから先は、まさに国権の最高機関である国会のお仕事であろうと思います。もちろん、これに対しては、憲法を改正して外国人の法的地位を明瞭にせよという御主張はあるいはあるかもしれません。しかし、私は、余りそれは御推奨できる方法ではないと思うのです。
 と申しますのは、憲法というのは、事柄の性質上、非常に抽象的なあるいは一般的な規定の仕方しかできない法典でございまして、そうであるといたしますと、仮に憲法を改正して外国人の地位を決めるといたしましても、さまざまな意見があるわけでございますから、結局のところは、判例、学説が今まで言ってきたように、できるだけ人権を認めましょうといったような書き方しかできないと思うのでございます。
 そうだといたしますと、具体的な問題が起きると、今度は、憲法にはそれだけしか書いてないわけでございますから、裁判所での裁判官の判断ということになります。つまり、憲法にざっくりとした条文を置けば、最終的な判断権者は裁判官でございます。一方、法律で決めれば、最終的な判断権者は国会議員でございます。結局、どっちを信用するかという問題でございます。裁判官を含む官僚を信用するか、国会議員を信用するか、これはつまるところ、物すごく単純化して言えば、試験を通ってきた人間を信用するか、選挙をくぐってきた人間を信用するか、こういう二者択一でございます。
 もちろん、大変な失礼な言い方ですが、どちらも全面的に信用はできないでしょう。しかし、私の趣味を申せば、試験よりは選挙の方がよろしいと私は思っております。これは別に先生方にお世辞を申し上げるつもりで言っているのではありません。選挙は厳しいなと。厳しいなというのは、私は渋谷を通って通いますが、あそこで演説をしておられる先生方を拝見しておりますと、本当にそう思います。私ども学校の教師も、学生が講義をまともに聞かないといって怒るんですが、しかし、私どもは、試験とか単位とかというもので学生をおどすことはできるわけです。しかし、先生方はそうはまいらない。
 渋谷のハチ公を通っている連中というのは、私も含めてですが、先生方の演説を聞かなければならないいかなる義理もございません。そういう人間を振り向かせて話を聞かせる、これは大変な技術でございます。それだけのことができるんだから、やはりメリットがあるんだと、こういう言い方を申しますと大変失礼なことを申し上げているようでございますが、選挙の洗礼を定期的にくぐらなければならないということは大変厳しいことでございまして、意識が有権者と一致する、せざるを得ない、そのことの意義はやはり大きいと思います。
 憲法でざっくりとした規定を置いて裁判官に決めさせるよりも、法律で決めて国会議員に決めていただいた方がよりよい、あるいはより少なく悪いというのが私の結論でございます。
 時間が余りましたが、これで終わらせていただきます。ありがとうございました。(拍手)
島小委員長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。
 ありがとうございました。
 極めて端的に、また我々政治家に対する激励もいただきまして、ありがとうございました。
    ―――――――――――――
島小委員長 これより参考人に対する質疑を行います。
 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。
 参考人に申し上げます。
 全部で十分しかございませんので、質疑に対しましては、端的にお答えいただきますようお願いを申し上げます。
 葉梨信行君。
葉梨小委員 自民党の葉梨信行でございます。
 今先生のお話を聞いていて、なかなか難しくて、御質問をするのもちょっとなんでございます。
 今先生言われたことの繰り返しになるかもしれませんけれども、外国人を法律によって日本人と同等に扱うことは禁じられていないという立場に立ったとしましても、結局、どのような人権をどの程度外国人にも日本人と同様に認めるべきかを判断する必要がございます。それはどのような基準によって判断したらいいか。もう一度、繰り返しになるかもしれませんが、お話を伺わせていただきたいと思います。
安念参考人 判断基準についての葉梨先生の御指摘でございますが、これは大体、どう考えてもそんなに違った結論にならないと思うんです。
 まず、就労と申しましょうか、労働に関する権利を認めることはできません。それは内国の労働市場を完全に崩壊させるからです。一方、表現の自由とか宗教の自由といったような、経済的な意味でのマーケットに関係しないものは大いに認めればよろしいと私は思うんです。それは、それまでなかった情報を、より多くの情報を国民にもたらすメリットがあるからというふうに思います。
 結局、経済的な活動に関する自由を少なくとも幅広く認めることはできないだろうと思うんです、特に労働市場を考えればです。一方、表現に関する自由は大いに認めればよろしいのではないか、私はこう考えております。
葉梨小委員 外国人の参政権といたしまして、定住外国人の地方及び国政での選挙権及び被選挙権の付与の問題がございますが、そして、これは二、三年前から国会でも議論になっておりました。これらに関しまして、憲法上どのような問題が存在するか、先生としての御見解を伺いたいと思います。これらの権利につきまして、どうしたらいいとお考えになるか。
 私自身の考えをちょっと申し上げますと、参政権というのは国民にのみ与えられるべき権利であろう。日本国は日本国民、アメリカはアメリカ国民、定住外国人は日本国籍を得た上で参政権を行使すべきである、こう私は考えております。
 先生の御感想、お考えを伺わせていただきたいと思います。
安念参考人 先ほど申しましたように、憲法上の選挙権が外国人にはないということは、私はそう思います。では、問題は、付与をすると憲法に違反するのか、そういう問題だろうと存じます。
 私は、先ほど申しましたように、国籍というのは結構あやふやなものでございまして、形式的にしか決まっていないもので決定的な分裂、断絶をつくることができるかどうかというのは疑問でございます。したがって、私は、外国人に参政権を認めても憲法には違反しないと思っております。
 しかし、そのことは、繰り返しでございますが、認めなければならないということでは全然ございませんので、国会がその自由な御判断によって認めない方がよいとお考えになるのであれば、それでちっとも構わないというふうに思います。
葉梨小委員 先生、日本経済新聞に、経済欄かどこかにお書きになった論文が、二年ぐらい前の論文がございますね。あれをちょっと拝見したんですけれども、それから先生のお書きになった御本の中にも出ておりましたけれども、日本国憲法が支持されてきたのは、それが自由を保障しているからではなく、平和と繁栄という御利益を与え続けてきたためで、この種の御利益が雲散霧消すればあっさり見切られるかもしれない、こう書いていらっしゃいましたね。
 先生は、日本国憲法が見切られないようにするためには、今のままの憲法でいいとお考えでしょうか。また、どのような憲法にすれば国民に見切られない憲法になるでしょうか。
安念参考人 まあこんなものだろうというのが私の感想でございます。
 日本国憲法が支持されてきたのは、私はやはり戦後がリッチな社会だったからだろうと思います。もちろん、私は憲法のおかげでリッチになったとは思わないんですけれども、何となく表裏一体な感じを持たれてきたんだと思うんですね。ですから、憲法を変えるとどうなるという話ではなくて、日本をこのままリッチにしておいていただければ、憲法に対してもそれほどの反感は募らないだろう、こういうことでございます。
 ですから、どちらかといえば、経済が先で、日本国憲法は後からついてくる、これが実情ではないかと思いますし、そのことを悪いと非難しても仕方ございませんでしょうね。
葉梨小委員 先生のきょうのお話、大変難しいものですから、これで質問を終わらせていただきます。
 ありがとうございました。
島小委員長 次に、今野東君。
今野小委員 きょうのこの小委員会が開かれることについて、先生がお話しくださるということがあらかじめわかっておりましたので、幾つか先生がお書きになった論文を読ませていただき、またきょうもその質問に備えようと思っておりました。
 私は、日本国憲法は、先生がおっしゃるように、戦後の国際社会の標準的なものだという説に賛成でございまして、しかし、それに私たちは土俗的な感情をまみれさせて都合よく使ってきたというところも確かにあるなと思っております。ただ、これまでの憲法は広く国民に都合よく使ってきたのでありまして、一部の憲法を改正した方がいいと言う人たちの中には、どうも自分たちのために都合よく使いたい、直したい、改正したいというところがあるような気がして大変気になっております。
 そんなところからお話を伺おうかなと思っておりましたら、けさの新聞に実は、今国会で恐らく話題になるであろう有事法制、民間人の罰則規定も盛り込まれそうだということがありました。それで、外国人の権利というところからは少し離れるのかもしれませんが、まず先生にこのことをお尋ねしたいと新聞を見て真っ先に思いました。この有事法制の中で、物資を保管するよう業者に命令できる、これに違反した場合には、どうも災害救助法に準じて六カ月以下の懲役か三十万円以下の罰金を科すようにしているというような内容のようなんですけれども、先生のお考えの中から、こういう有事法制についての民間人の罰則規定というのはどういうふうにお考えでしょうか。
安念参考人 合憲だと思います。災害が起きた場合と有事とで違うという理屈は、私は見出しがたいように思うんですが。
 私は、有事法制自体が賢明な立法かどうかを議論しているんじゃございませんよ。それは、しばしば先走っていると思いますけれども、あるいは、少なくともロシアが攻めてくるというそんなとんまなこと考えて、とんまなことと言ってはなんですけれども、まさかそういう時代ではないのにそんなことを前提にするんだとすれば、それは私、政治的には賢明ではないと思いますが、仮にそういう事態があって、今のような物資の保管等の義務づけがなされて、そしてその命令に対して従わなければ刑罰とか制裁があるというのは、私は至って自然なことではないかと思います。
今野小委員 災害と有事というのは同じで、この罰則規定に関してはいいということですね。(安念参考人「はい」と呼ぶ)ありがとうございます。
 それから、外国人の入国に関連して、難民の受け入れについてお尋ねしたいんですが、我が日本は難民の受け入れに対して慎重過ぎるという批判がありますね。
 法務省のデータによりますと、平成三年から十二年までで、千二百八十三件の申請があって、我が国では六十四件しか認定していません。一方、国連難民高等弁務官事務所によりますと、アメリカ、イギリス、ドイツ、カナダなどは、難民認定者が年間一万人を超える年もあって、さらに、フランス、スイス、オーストラリアでも年間数千人単位で認定しているということなんですが、仮に日本の周辺地域で有事が起こって、そして難民が流入してきた場合、我が日本はどのような対応をすべきとお考えでしょうか。
安念参考人 それは政治家に考えていただかないと、私などにはわかりませんが、来た場合には受け入れざるを得ませんでしょう。
 それは、ボートで来るわけですから、陸地を来るほどそんなにべらぼうに来るとは思われません。タンカーに人をいっぱいにして積んでくるなどということは考えられないんですから、一時的には庇護せざるを得ない場合が多いだろうと私は思います。それを追い返してしまうと日本の国際的な立場は非常に危うくなるだろうと思いますが、しかし、それは素人の考えでございます。ぜひ先生方に御賢明な判断を願いたいと存じます。
今野小委員 真剣に考えたいと思います。
 さて、先生が論文の中で、条約に対する憲法優位説を前提に恐らく議論されていらっしゃると思うんですが、国際環境が変化して、国際的な取り決めが重みを増す時代にと変化してきていることを考えますと、国際条約と憲法の関係をどうとらえるかという問題は大変重要であると思います。
 その中で、ある意見には、国際条約に沿う形に憲法を変えていった方がいいんだという意見があるんですが、その点についてはどうお考えでしょうか。
安念参考人 私は、憲法優位説で構わないと考えております。そもそも、国際条約が優位するとか憲法が優位するというのは、考えられているほど重要な問題ではございません。
 と申しますのは、そもそも憲法は九十八条で、先生御案内のとおり、日本国が締結した条約については誠実に遵守しなければならないという義務も定めておりますし、その上、日本が締結していないものであっても、国際慣習法については日本を拘束するわけでございます。
 そうだといたしますと、日本が拘束される必要があるものについては現在の憲法で十分賄えるわけでございまして、それ以上憲法を改正しないと特に困るというようなことが起きるというふうには、私はそれほど思わないのでございます。今までのドグマ、今までのドクトリンの中で十分に処理することの可能な問題であるように思われます。
今野小委員 最後に確認をしたいんですが、先生は、今の憲法を変えることなく、時代に合わないものがあれば法律で対処していって、それで十分なのではないかということなんでしょうか、先生のお話は。
安念参考人 基本的に私はそのように考えております。
今野小委員 ありがとうございました。
島小委員長 次に、太田昭宏君。
太田(昭)小委員 公明党の太田昭宏です。
 きょうは、貴重な御意見をいただきまして、大変参考になりました。
 葉梨先生が質問されましたいわゆる外国人の地方参政権について、国会が認めればよい、それは憲法上の問題ではないということについてはわかったんですが、先生はどうお考えなんですか。
 憲法上これはいけないとかいいということではない、そのことはわかりましたが、付与した方がいいと思っているのか、そうではないというふうに思っているのかということについて、いわゆる憲法の尺度から違反しないんですが、現在出されている法案について、いいというふうに思っていらっしゃるのかどうなのかという、次の段階のお話を聞きたいと思います。
安念参考人 立法政策の問題として見れば、私は、外国人に参政権を与えることは賛成ではございません。それは私、別に外国人を締め出した方がいいなんて全然思いませんけれども、差し当たりは定住外国人に参政権を与えるべきかどうかという話になるだろうと思うんですが、定住外国人の多くは、要件も相当満たしているはずでございますし、私は、帰化でいくべきだ、それがまず第一選択であるべきだというふうに考えております。
太田(昭)小委員 その永住外国人の地方参政権付与のことで最高裁で九五年の二月二十八日の有名な判決があるわけですが、その物の考え方というのは、私話を聞いていて、先ほどお話しになったマクリーン事件と同じような憲法に対する姿勢というものの上に判決がなされているような気がするんですが、いかがでしょうか。
 両者においては物の考え方ということに若干の違いがあるのか、同じ物の考え方の中から判決がなされたというふうにお考えなのか、教えてください。
安念参考人 御指摘のとおり、同じであると思います。憲法上の権利はない、しかし法律で付与するのはよい、こういうことだと思います。
太田(昭)小委員 私は、永住外国人の地方参政権付与法ということについては、これからの日本を考えると、三つの観点からこれは付与すべきであるというふうに思っています。
 一つは、共生社会にこれからはなっていくべきである。目前の課題で言うならば、人口が非常に減ってくるというようなこともありますし、あるいは、日本は、明治以前はむしろまさにそうした多民族の共生国家であったというふうに思いますし、あるいは、いわゆる日本民族ということだけで構成される社会は、私は力強い社会ではないというふうに思いまして、これからは共生社会という観点が付与するかどうかの一つの基準にならなくてはいけないと考えています。
 第二番目は、人権という角度です。
 これは、自然権としての普遍的な人権という観点から、マクリーン判決においてもまさに言っているように、外国人にも基本的人権を認めるべきだという前提、原則のもとで、ある意味では法的にそれを裁量でやればいいということであって、最初の方からいきますと、私は、これからのグローバリゼーションという時代の中で、人権というものはかなり共通したものとして大きく掲げた方がこれからの社会ではいい、こう考えております。
 三番目には、地方自治、地方分権、あるいは地方主権ということの中から、これからは、そうした身近なところでの自治、主権というものがもっと前面に出てくる時代が二十一世紀は好ましい、私はそういうふうに実は思っておりまして、地方参政権付与ということについて積極的に推進をする考えを持っているわけです。
 憲法という考え方からいきますと、二つだけ聞きたいと思いますが、私は、今の共生社会という観点で、もっと積極的にそうしたことをやるべきだという考えを持っているわけで、それがいかがということが一つ。
 もう一点は、現在の日本国憲法は、地方主権とか地方自治ということについては九十二条以降のわずか三つぐらいしかないということからいきますと、ここをもっとしっかり打ち立てていく憲法をある意味では模索をする必要があるだろう、こういうふうに思っておりますが、地方主権とか地方自治ということについての観点が少し弱過ぎるということを私は申し上げているわけですが、この共生社会ということと地方主権ということについて、先生のお考えを率直に教えていただきたいと思います。
安念参考人 貴重な御示唆だと存じますが、結論から申しますと、私は賛成ではございません。
 まず第一に、共生社会でございますが、それは大変結構だと思いますが、私は、日本国籍を持つ人間の民族的な構成がミックストになればもっとよいと思っております。日本国籍を持つ人間の民族的な構成、あるいは人種的な構成と申しましょうか人類学的な構成が、いわゆる人類学的な意味での日本国民に偏り過ぎているのではないか、私は個人的な趣味としてはそう思っております。いろいろな人に容易に帰化していただいて、いろいろな人種から成る日本国民をつくるのは、私は大変よろしいことではないかと思います。目標としての社会像は恐らく太田先生のおっしゃることとそんなに変わらないんですが、法的な手段についてはやや認識の差があるのかなという気がいたします。
 それから、地方自治の観点でございますが、地方分権の推進というそのお考え、私は全く賛成でございますが、それこそまさに法律でやっていただきたいというふうに思います。例えば、一括法ができましたが、しかし、財源の方は、先生方御承知のとおり、ちっとも地方の方に行きませんでした。起債の問題一つにしても、まあ、それはちょっとは、規制緩和だと自治省は言いますけれども、大した緩和だとは私は思いません。法律で権限を地方に持っていけないようなありさまでいて、憲法を改正すればできるというのは、私は、ちょっと話が違うんじゃないかと思うんです。まずは、大いに国会に頑張っていただいて、地方分権を推進していただきたいというのが私の意見でございます。
太田(昭)小委員 先生のお話で大変興味深く伺ったのは、国籍も実は極めてあいまいなものでというお話がありました。そうした国籍とか国民という概念をどういうふうに法的にとらえ、また表現するかということによって、物の考え方が変わってくるということを私は改めて思ったわけですが、いわゆる血統主義に立つということと出生地主義に立つ、そうしたことが国によって違っているわけですね。これらについて、我が国の場合はこれからどういうふうに考えたらいいのかということについて、お考えがあったら教えていただきたいと思います。
安念参考人 国籍を取得する要件をどのように決めるのかというのは、これは憲法が立法者に任せていることでございますので、血統主義でも生地主義でもよろしいんだろうと思うんです。これも私の個人的な趣味でございますが、血統主義プラス生地主義にすればいいと思います。人口もどんどんこれから減るという話でございますし、聞いたところによりますと、三千何年だかには日本の国民の人口は何か七人になってしまうという話でございますので、そうならないうちに、人口をふやすような方策をぜひ国会で御立案いただければ幸いでございます。
太田(昭)小委員 ありがとうございました。
島小委員長 次に、武山百合子君。
武山小委員 自由党の武山百合子です。きょうは、いろいろとお話を伺わせていただきまして、ありがとうございます。
 まず、外国を比較しまして、例えば外国人の人権を先進ヨーロッパ、アメリカなりで憲法に明記されている国はありますか。
安念参考人 ドイツの基本法がそうであったと思いますが、ほかに、具体的に私は存じません、勉強不足で申しわけございませんが。アメリカ連邦憲法には少なくともございません。
武山小委員 きょうはいわゆる外国人の人権というお話ですけれども、私は、長いことアメリカに住んでおりまして、永住権というものを取って住んでおりました。何が国籍を持っている者と在留している者の差かといいますと、国政の、もちろん小さな州の、市の選挙権、参政権がないということが一番大きな差なんですね。ほかには何の差もないんですね。納税の義務から、もちろん職業の選択もありますし、子供の義務教育ももちろん受けられます。
 では、日本はどうかというところに入りますと、印象的に、感情論でいいますと、狭き、非常に限定された国というような印象をするんですね。ところが、アメリカは多民族国家ですから、それをどんどん受け入れて社会が構成されている。
 ところが、日本は、今までの歴史上、単一民族であった。ところが、今、グローバリゼーションでどんどん外国人が入ってきている。私は、今入ってきている方々は、言葉のハンディそれから違法在留、いろいろな面で、まだ人権なんということを考えている暇もない方がかなり多いんだと思うんですね。考えて、良識のある人は、恐らく法律に触れない、そういうきちっとした身分で来られている。
 ですから、これから日本に、外国人としての人権に対するいろいろな、おれたちにも人権というものがあるんだということで、問題は当然起こってくると思うんですね。そのときどうしたらいいかということを、今からやはり考えておかなければいけないと思うんです。
 それから、今、国際結婚、むしろ、日本国内で外国人と結婚する女性も男性も大変ふえているんですね。そうしますと、おのずと文化が融合して、そこに新しい日本民族ができるわけですけれども、そういう中に立って、どんな人権をどう広げていったらいいか、先生の見識、所見を聞きたいと思います。
安念参考人 人権というのは、私は、そもそも広げるようなものではないという気がいたします。
 少なくとも、憲法上の権利という意味でもし人権を使うとすれば、それは、国政を進めていく上でどうしても侵害してはいけない少数のものを列挙するということになるのは当然でございます。つまり、どんなゲームのルールをつくるのもそれは国会の自由である。しかし、どんなゲームのルールにせよ、絶対に侵してはいけない禁じ手がある。しかし、絶対に侵してはいけない禁じ手である以上、それは少数である。これは一応当然のことでございまして、それを我々は経験上、例えば表現の自由とか信教の自由とかいうような形で、幾つか、多分、せいぜい両手でおさまるぐらい、そのくらいのものを列挙してきたわけでございまして、私は、基本的にそれでよろしいのだというふうに考えております。
 問題は、先ほども申しましたように、外国人には憲法上の権利がないという前提に立つとしてのことでございますが、しかし実際に、共生社会あるいはグローバリゼーションの中で、外国人を文字どおり無権利にすることはできない、これは当然のことでございますので、その場合は立法によって、日本国民に相応するような権利を与えられる場面では与えるべきだという一般論が言えるだけではないかという気がいたします。
武山小委員 今はあるかないかわかりませんけれども、アメリカなんか非常に人種差別、それは住宅を選ぶとき、それから職を選ぶとき、あらゆるところで起こっているわけですね。表向きは平等だと言われても、実際あるわけです。それは日本にも起こり得ることであるし、また現にあることでもあると思うんですね。
 確かに、人間として本当に平等だといっても、感情的に、私自身、例えば肌の違う人が来たとしたら、わっと囲まれたとしたら、人間は感情ですから、やはりそれは人間として、感情というものはあるわけですね。
 これからそういうものが日本でも起こって、訴えられてくることがあると思うんですね。ですから、司法の中できちっと判断というものがされていくんだと思いますけれども、その辺もやはり欧米に似た判断を日本もしていかなきゃいけないんじゃないかな、近くして遠い将来に起こり得ることではなかろうかと思うんですけれども、その辺の見解はどうでしょうか。
安念参考人 全く御指摘のとおりと存じます。
 ただ、理念や司法の場でできるだけ内外人あるいは人種差別をしないようにしようというのは、これはできないことじゃございませんけれども、結局、今武山先生御指摘のように、人間、感情の動物でございますから、感情の問題として、実際に受け入れることができるかどうか、これはまた別の問題です。
 受け入れられるようになるには、結局、人間を精神的にタフにする以外方法がないのですね。つまり、異物をたくさん見る。最初は気持ちが悪い。それは、気持ち悪いと最初に思ったってちっとも構わないと思うのです。しかし、そのうちにだんだんとなれてくる。それは、机の上の勉強でわかるようなことじゃなくて、要するに異物をたくさん周りに置く、そういうことによって精神を訓練していく、つまり嫌なものに耐える練習をする、それ以外の方法はないと存じます。
武山小委員 今日本に滞在している外国人の職種を見ておりますと、日本人がつきたくない仕事、それから本当に日本人がその職を選ばない仕事に多いわけですね。それは、どちらかというと大変な仕事、それから汚い仕事と言われているわけですね。でも、その彼らも、将来は経済的に基盤ができて、きちっとした生活基盤ができて、また家庭を持ち納税の義務も果たしというふうにどんどん成長していくと思うのですね。
 そういうふうになった場合に、日本は、今異物を飲むというお話をしましたけれども、国民こぞって教育、啓蒙、非常に大事だと思うのですね。外国人を受け入れるということは、すなわち、基本的には日本人の誇りやプライドをきちっと持った上で外国人を受け入れるということだと思うのですけれども、その辺、やはり教育の中できちっと、文部科学省またあらゆるところで啓蒙活動が大事じゃないかと思いますけれども、その辺はどうでしょうか。
安念参考人 御指摘のとおりでございますが、きちっと異物を入れて教育をしていただきたいと思います。
 先生が、さあみんなで仲よくしましょうね、私は、これは全然意味がないと思うのですね。ちゃんと三割は外国人、あるいは五割は外国人、そういう中で鍛えられればおのずから、子供はフレキシビリティーがございますから、我々よりもはるかに明るい未来があるというふうに思います。私の子供を見ていてもそう思います。異物に対してはるかになれやすい。とても希望の持てることだと存じます。
武山小委員 先日、参議院の方で、たしか外国人の方で日本国籍を取りましたツルネンマルテイさんという方が国会議員になったわけですけれども、これから日本もどんどんそういう形でふえていくのではなかろうかと思うのですね。
 そうしましたら、もっともっと日本人の人権というものに対して、外国との差はなくなるのではなかろうかと思いますけれども、ヨーロッパでは、例えば人権という意味で、国内と外国との差の非常に近いところというのはどのあたりなんでしょうか。
安念参考人 詳しく存じ上げているわけではございませんが、地方参政権はまさにそうだろうと思うのですね。外国人であっても、域内、つまりEU内の国民であれば自国の地方参政権を認めるというのがEU条約の態度だと聞いておりますので、その点はやはりヨーロッパならではのものかなと思います。
武山小委員 日本も地方参政権の問題が出ておりまして、法律もつるされておるのですけれども、その辺は、いわゆる地方参政権、私自身は、国籍を取るための大変なハードルを低くして、取っていただきたいという考え方が基本にあるのですけれども、でも、大勢の方はそこに認めてもいいんじゃないかという意見があるのですね。先生はどうでしょうか。
安念参考人 先ほど申し上げたかと存じますが、私は、帰化を第一選択にして、その帰化のハードルをうんと低くしていただくのが一番よいのではないかと個人的には思っております。
武山小委員 どうもありがとうございました。
島小委員長 これにて武山百合子君の質疑時間は終了しました。
 次に、春名直章君。
春名小委員 日本共産党の春名直章でございます。
 きょうは、外国人の人権ということで、大変大切なお話をしていただきまして、ありがとうございます。
 第一点は、先ほど参考人は、日本に外国人が入国する権利は憲法上保障されていないということで、これは通説の立場だと思うのですけれども、国際慣習法上、国家には外国人の入国を規制する自由が認められている、それから、自国や自国民の安全等を守るために入国規制の利益が存在するということなどが理由だということだと思うのです。
 ただ、外国人の出国の自由とか自国に戻る権利、これを保障して、移動の自由を可能な限り広く認めようとする、そういう方向に進んでいると思うのですね。つまり、国際人権規約のB規約で、十二条の二項と四項にその趣旨が明記されているわけです。
 そうしますと、外国人の再入国の自由、それから一時旅行の自由を国家が自由裁量によって制約できるというように解することが妥当ではないという指摘が今生まれているのじゃないかと思うのですが、こういう点については、参考人はどうお考えでしょうか。
安念参考人 先ほども申しましたように、外国人には入国しあるいは再入国する自由がないといっても、これを法律によって認めることはちっとも構わないわけです。法律によって認めることは構わないということは、条約によって認めることも構わないということでございます。
 人権規約によって自国に戻る権利というものが外国人にも適用があるんだとすれば、多分立法意思的にはそうだろうと私は思うのですけれども、それによって外国人に再入国をする権利を条約上認めたのであれば、当然日本はそれに拘束されるわけでございますから、それは自国に帰る権利があるな、こうならざるを得ないと思います。
春名小委員 それから、憲法上の権利の享有が認められるか否かということについては、法律の世界で具体的に決めていくというお話を今いただいたと思うのですが、この点でいいますと、先ほどから議論になっておりますが、最も熱い外国人の人権にかかわる問題の一つが、定住外国人への地方参政権の付与という問題について、今大きな焦点になってきていると思います。
 先ほどお話もありましたけれども、九五年二月の最高裁の判決の中では、法律をもって地方公共団体の長それから議会の議員等に対する選挙権を付与する措置を講ずることは憲法上禁止されているものではない、こういうふうに述べられていますし、要するに国会の裁量に任されているということだと思うのですが、その御認識をもう一度、それでいいかどうかということと、先ほどの、帰化が一番いいのじゃないかというお話なんですが、ただ、それには私は同意しかねるもので、だれもが母国を持つ権利がありますので、帰化して国籍を取りたい方は取るということは、それはいいと思うのですね。しかし、そうでない権利もあるわけなんで、母国を持つという権利もあるわけですね。
 そうしたときに、地方自治の担い手として現実に今定住している、定住して益も受けているし、それから義務も果たしている、納税の義務も、そういう方々が、そこが言えば定住の地であるという方々にとっては、やはりその地方の政治に参加する権利を保障するというのは理の当然ではないかと私は考えるわけなんですね。
 それは、帰化するかしないかというレベルの話ではないのじゃないかというように考えるのですが、その二点、その認識ということと、この帰化の問題と、どうでしょうか。
安念参考人 一つのお考えであろうし、また有力なお考えであろうと思うのですが、しかし、やや情緒的な言い方で恐縮でございますけれども、母国というのは国籍のことでございましょうかね。国籍がどうあれ、母国があるという人はいてもよろしいのではないでしょうか。
 ついでに申しますと、母国を保持しつつ参政権も欲しいというのを、私は無制限に認めなければならないとは思いません。どこかでは切りをつけてくれというふうに迫るというのは、それはそれで一つの態度ではなかろうかと思います。
 ただ、私は、先ほどから申しますように、国籍というものを極めて重々しいもの、あるいは人間の人格とか骨絡みになっているもの、そういうものとしてそもそも考える必要がない、そういう基本的な立場でございます。
春名小委員 大体、日本に生活の本拠を置いて日本で生活をしている外国人の方々に、国籍を持っていないからという理由だけで人権の保障について日本の国民と異なった取り扱いをするということは、率直に言って、私も情緒的に言わせていただければ、それは余り合理性がないなということを感じるのですね。
 先ほどの話で、国会でそのことをきちっと議論して判断をする時期に来ているというように私も思います。
 それから三番目に、外国人の人権を考える上で、日本特有の問題を避けて通ることはできないと思っているのです。
 つまり、定住している外国人のうちの約三八%は韓国そして朝鮮出身の方々であるということ。その多くの方々は、あの韓国併合以来の侵略戦争の忌まわしき歴史の中で、日本国籍を無理やり持たされて、そして、講和条約以降、無理やりまた日本国籍を剥奪されて、そして外国人にさせられる。こういう非常に御都合主義的な政府の侵略戦争の悲劇のもとで生まれて、そして今定住されている。そういう方々が非常に多数なわけですね。ですから、日本における外国人の人権を考える際に、絶対にこの問題を避けて通ることは私はできないと思うんです。
 その際に、この侵略戦争への反省ということと、そして、国際的にも批判を浴びた指紋押捺制度などが続いてきたわけですけれども、そういう排外主義といいますか、政治あるいは歴代政府の外国人を差別していくその姿勢こそ、私は、今問われるとき、まだ問われているというように、いろいろな改善はありますよ、ということが原点じゃないか、外国人の人権を語る上で。
 この点、日本の歴史の特殊性ということとの関係で、この外国人の人権をどうお考えになっておられるか、お聞かせいただきたいと思います。
安念参考人 日本の歴史的な事情について、念頭に置くというんでしょうか、深く心にとどめておくということが重要であるということは、私は先生の御認識のとおりだと思います。
 しかし、法的に外国人の人権あるいは日本国民の地位ということを議論するときには、私は、在日コリアンかどうかという問題とは離れて、一般的、抽象的に議論すべきだと思っております。
 それは、同じだと言っているんじゃないですよ。歴史的な負荷というんでしょうか、歴史的なバックグラウンドが同じだからというのではなくて、理論の立て方としては、やはり等し並みに議論すべきだというふうに思っております。
 ただ、私は、これは余りそう思っている人はいないと思うんですが、そもそも、在日韓国・朝鮮人が日本国民ではないのはなぜかということについては大変疑問に思っております。
 先生既に御承知のとおりと思いますが、昭和三十七年でしたか、最高裁の大法廷判決があって、サンフランシスコ平和条約の発効によって自動的に、朝鮮人というんでしょうか、実は、最高裁は、朝鮮戸籍に登載されている者が日本国籍を失ったと言っているんですが、しかし、この理論構成は、私は、何を言っているのか、率直に言ってわかりません。
 つまり、戸籍というような極めてテクニカルな制度を基礎として国際法上の地位の変動について論ずるというのが、方法として妥当であるのかどうか、私は大変疑問に思っております。つまり、私個人は、サンフランシスコ平和条約の発効によってコリアンズが日本国民でなくなったと言えるかどうかに強い疑問を持っております。
 これは全く理論上の問題を私は申し上げているだけですよ。実際の在日コリアンの方々が日本国籍をそのまま保持していたいかどうか、そういうことは、私、一切何の関係もなしに議論していることでございます。
春名小委員 もう一点、今日的な問題で、指紋押捺制度は今廃止されるということになったわけですけれども、例えば、七九年の国際人権規約の批准、それから八二年の難民条約への加入、こういう流れの中で、社会保障の関係は、国民年金、児童諸手当、公共住宅などについてはようやく対象になるというようになった。ところが、まだ援護法令は国籍条項があって、恩給も支給してもらえない、こういう重大なおくれがあると思うんですよ、私は国会でもこのことを取り上げたんですけれども。こういう差別を残すということはいかがなものかというように感ぜざるを得ないんですけれども、このあたりの点はどうでしょうか。
安念参考人 援護関係の、旧日本国民と言うべきでしょうか、に対する適用の問題を、これは私の全く個人としての感想でございますけれども、ナショナリストの側がなぜ主張しないのか、大変不思議でございます。
 つまり、先生のお立場とは全く逆だと思うんですが、天皇陛下のためにともに戦ったのではないか、なぜ見捨てておくのだという議論がほうはいとして起きないのが大変不思議でございます。
島小委員長 質疑時間が終了いたしました。
 次に、金子哲夫君。
金子(哲)小委員 社会民主党・市民連合の金子でございます。
 いろいろお話をお伺いして、外国人の人権にかかわる問題は、政治の場で解決すべき点、それから解決できる権利というものが非常に幅広いということが、先生の先ほどのお話では、憲法上の問題というよりも、そういう法律によって、国の政治のありようによって、幾らでも、いわば憲法の枠内、日本国籍を持つ人々が保障された権利ということの上に立つと思いますけれども、それが可能だ、参政権の問題はとりあえずおきましても、ということだと思うのですけれども。
 ただ、その際、先生もマクリーン判決のお話をされまして、それで、結局のところ、在留資格制度というものが、おもしといいますか、大きくのしかかっているということで、結果としては、それによって人権がやはり保障されている部分が狭められているということがあると思うのです。結局、この在留資格制度というものについて、本来なら、社会の国際化とかいう状況の中で、もっと変えられていくべき、日本ももっと変わっていくべきというふうに考えるんですけれども、今日の先生の考えの中で、この判決が出た当時から見て、法務大臣の裁量に任せられているこの状況というものは、例えば前進というか後退、ちょっと表現も難しいのですけれども、私どもから見ると、権利を拡大していく、そのことによって、外国人の権利がそういう制度によって抑制されていくということは少なくしていかなければならない。
 しかも、裁量ということであれば、そういうことを政治的に判断してもっと広めていけば、結果としてそれを広げていくこともできるということになると思うのですけれども、先生の研究の中で、この判決以降の全体の流れとしては、そういう法務大臣のさまざまな裁量の範囲ということの中で解釈されたこととして、どのような印象といいますか、日本の場合、国際社会の中での位置が進むように、この制度が拡大されてきているというふうにお考えかどうかをお伺いしたいと思うのです。
安念参考人 学説というのでしょうか、法律家の議論というのは、私はそれほど変わってはいないという気がいたします。
 変わってはいないというのは、マクリーン事件の立場が正しいかどうかということではなくて、法務大臣の裁量権は、これはやはり、今の法律の書き方だと、これを狭めるというのはなかなか難しいんじゃないかと思うのですね。法律の文言自体を変えていただいて、裁量権を無際限にいわば政治的に利用するというのを制限していただかないと、現行法のままではマクリーン事件のころとそう大きな変化はないのではないかと思います。
 ただ、恐らく、これは国際情勢が少なくとも冷戦のときに比べると緩和したという事情はあると思うのですが、日本国内で政治的な発言を盛んにしたからといって、もうお引き取り願おうというようなセンチメントというのはだんだんと退潮している、衰えていると思います。それは、私は好ましい変化だというふうに考えております。
金子(哲)小委員 それから、今、参政権の問題で帰化という問題がありまして、先生は端的に帰化をすればいいのではないか、特に永住外国人の場合ということであります。それも一つの方法だと思いますけれども、私は、今の、これは法律の制度だけではないと思いますけれども、日本の全体のありようといいますか、国民の持つ意識を含めて、いわゆる外国人の人たちの、例えばアイデンティティーなどに対しての認識といいますか、そういったものが結果として広がっていかないと、帰化の問題ということではなくて、国際社会の中に、外国人と、もっとより広く受け入れて共生していくというような観点から見ますと、そういうところが日本の社会の中に不足をしているんじゃないかというふうに思うのです。
 先生のお考えは、もっと外国人と、いわば日本の民族性とか文化以外のものをもっと大切にする、そこの育ってきた民族性を大切にするというものが日本の社会の中に育っていかないと、法律上の問題だけでなくて、実質上人権が抑圧されていくような問題になるんじゃないかというふうに考えているのですけれども、いかがでしょうか。
安念参考人 御指摘のとおりだと思います。
 ただ、余り心配しなくてもいいんじゃないかなという気がするんです。それはどうしてかと申しますと、リッチな国というのは、先生、黙っていてもよそから来るんですね、稼ぎに。日本もそうなっております。それは津々浦々に外国人がいるという状況ではないと思いますが、例えば大手町をお歩きになってみれば、霞が関、永田町というのは全くドメスティックな世界でございますが、大手町はかなりグローバルになっております。日本の若年労働者も減る、若い者は稼ぎたいという意欲が余りないとなれば、外国人がその穴を埋めるのは当然のことでございまして、それはマーケットの原理からしてそうなる。
 というわけで、嫌であってもグローバライズすると私は思っております。嫌だなという感じもしないではないんですけれども、しないではないというのは、私個人の職をとられる可能性は十分あると思うんです。私よりも有能な外国人がたくさんいるのは、それは当たり前の話なんですが、だから、私の利己的な利害を言えば、嫌だなという感じもしないじゃないんだけれども、仕方がないでしょうな。そういう時代が来る、もう既に来つつあると私は思っています。
金子(哲)小委員 これまた政治のことだと先生にお答えされるような質問になると思いますけれども、いわば難民の問題なんです。
 私も実は東日本の入管センターに行ったんですけれども、入国が認められないということで、国外退去を求められてあそこにいる人たち、あそこの入管センターそのものが、一体本当に人権、どうかと。
 例えば、行ってみれば、畳の部屋しかない、ほとんど外国人が入るんですけれども、畳の部屋しかない。そして、六畳か八畳、六畳の間に四人ぐらい入る。しかも鉄格子の中というような状況にあるんですけれども、そういう意味では、外国人の人権というのは、憲法に保障するとかしないとかいう以前に、国の機関がそういう状態だということが、私自身は、確かに行政処分は受けているけれども、犯罪者ではないのにもかかわらず、そういう状況にあるということが、ちょっとびっくりしたんですけれども、それと同時に、難民の受け入れということに対して、これは先ほど言いましたように政治の課題だということですけれども、そういう状況を見てみますと、実は本当に難民を受け入れるというような状況になっているんだろうか。
 そしてまた、例えば法律的に、先生には専門家として、法律的にはもっとこういうことを改善すれば、難民の皆さんを日本国はもっと受け入れられるようになるんではないかというようなことがもしあれば、ぜひ示唆を与えていただきたいと思います。
安念参考人 難民をより多く受け入れる方法というのは、私は、基本的に難民の世話をしないということだと思います。
 日本国民は、いいところなのか悪いところなのか、両面あると思うんですが、外国人の世話をやき過ぎるんですね。つまり、難民を受け入れるときっちり面倒を見なきゃいけないというふうに考えてしまうと、これは受け入れられませんよ。後は自分たちで勝手にしろ、受け入れるから後は飢え死にするなり栄えるなり勝手にしてくれ、こういう態度をとりませんと、難民の受け入れをふやすことは不可能でございます。
 これは非常に残酷なことを言っているように聞こえるかもしれませんが、間口をふやすには冷たくするしかないんです。アメリカなどは移民の受け入れに大変寛容だという言い方をしますけれども、それは入り口が広いだけの話でございまして、そこから後はアメリカの過酷な競争社会にそのまま投げ出されるわけでございます。そのことがいいかどうかについて、もちろん議論はありましょう。しかし、恐らく、こってりと世話をしつつたくさん受け入れるというのは、これは不可能な話だ、このように私は思います。
金子(哲)小委員 ありがとうございました。
島小委員長 質疑時間が終了いたしました。
 次に、長勢甚遠君。
長勢小委員 先生、どうもありがとうございます。専門家でもありませんので、ちょっと情緒的な質問ばかりになると思いますので、よろしくお願いをいたします。
 お話にもありましたが、最高裁判決などによりますと、憲法三章に定める権利というものは、権利の性質上日本国民だけが享受できるものを除いては、日本に在留する外国人にも及ぶと言うと同時に、一方で、外国人の有する憲法上の権利は、外国人在留制度の枠内でのみ与えられるということが通説のようでございますが、外国人の在留制度において、在留外国人に、憲法とかかわりなく、あらゆる基本的人権といいますか、政治活動、言論あるいは通信等々についても無制限に制限するということが在留資格制度においてできるというふうに考えていいのかどうか、憲法上。かつ、それができるとすると、それは憲法上の根拠に基づくものではないということになるわけですから、それはいかなる根拠に基づいてそういうことが許されるのか。
 今やかましい国際テロなどがこれからどんどんふえるということになりますと、こういうことに対して、国内秩序を維持する、また国際協力を進めなきゃならぬということがさらに高まることが想定されるわけでございますが、これに対処するために、例えばテロ組織に何らかの関係がある外国人に対しては特別な措置も必要になるということもあり得ますし、こういう国際テロ対策と憲法との関係は整理をしていく必要があるんじゃないか。
 現実に、今入管制度ではテロにかかわる行為を直接行わない場合には退去強制などはできないようなことになっておるわけですが、より広くといったらおかしいんですけれども、テロに関係する組織におるとか、そういうおそれがあるような者等を退去させるというふうに入管法を変えるようなことは、憲法上何か問題があるとお考えか。また、あるとすれば、どういうことなのかという点についてお伺いいたしたいと思います。
安念参考人 憲法上の問題はないと考えます。退去させたいときに退去させればいいのだと思います。もちろん、それは憲法上は問題がないだけの話でございまして、外交上の礼譲とか、それから立法政策としての賢明さということはもちろんあることでございますけれども、憲法上は問題がないと思います。
長勢小委員 恐らく、こういう法制を考えるとすると、何らかの意味で政治上の判断、今おっしゃったようなことではない、人権というのか人道というのか、という観点から公的な意味での批判もあるんじゃないかと思うのですが、そういうことはあり得ないとお考えですか。しかし、それは何らかの根拠があっての話なんだと思うのですが、どういう根拠をお持ちなんでしょうね、そういう主張をする人たちは。
安念参考人 根拠は、外国人は憲法上の権利を享受しないという根拠でございます。つまり、日本国に居続けるという憲法上の権利はないわけでございます。したがって、立法によって随時退去を強制することができるという、それが根拠といえば根拠でございます。
長勢小委員 先生の御主張はわかったわけですが、先生の説と違う主張をする人というのはどういう主張をするんでしょうね。
安念参考人 一つは、こういうふうに言う人がいます。
 一定程度在留してしまった後では、在留を続けるある種の既得権と申しましょうか、期待権が生まれる場合があるのではないか、そういう主張をする人はいると思います。
 いま一つは、これは人権規約にもある権利でございますが、家族を形成する権利というのがありまして、家族を形成していて、例えば子供だけ放逐するとか、まだ手のかかる子供を置いて親だけ放逐するとか退去強制する、そういったことが許されないのではないかという議論をする人もありますが、いずれにいたしましても、そういう議論が正しいとしても、限定された場合にだけ適用される議論だろうと思います。テロリストであるという人間を国内にそのまま在留させておかなければならないなどという義務が日本政府にあるとは、私は到底思えませんが。
長勢小委員 おっしゃるとおりだと私も思いますけれども、何か私も理解できないこともありますけれども、国際社会の通念だとか、人道上の権利だとか、憲法より上なのか下なのか、何かよくわかりませんが、その趣旨の議論が行われるケースをよく今までも目にしましたが、こういうのは何なんでしょうね。
安念参考人 私が申したわけではありませんので何とも申しかねるのですが、さて人道上、確かに、それは退去強制をさせるにせよ、何か非常に残酷な措置をとるようなことは許されないことははっきりしておりますよ。例えば、身体を無用に傷つけてしまうとか、それから船の中から海にほうり出すとか、そんなことはまさかできるはずもございませんけれども、そうではなくて、ノーマルなプロシージャーで退去強制をさせるのであれば、私は格別の問題が生ずるとは思えないのでございます。
長勢小委員 外国人の人権の問題とはまた少し別ですが、さらに情緒的なお話をさせていただいて恐縮でございますけれども。どうも我が国は欧米のような人権思想という土壌、伝統がなかったわけで、むしろ、個人の権利だ義務だというような硬直的な法的関係ではなくて、状況に応じて、現実的に効率的な、また合理的な、良好な人間関係、そういう生活状態というものを柔軟に構築してきたという風土であったんじゃないかと私は思っております。どうも人権に当たるような言葉というのはいつから日本に入ったのかわからなくて、人間を大事にするというか、みんなが大事にし合っていく言葉というのは、日本では、優しさとか思いやりとか慈しみとかというような言葉であったので、どうもこの憲法第三章に書いてあるような話とは相当程度に違った形で日本の社会が、秩序が維持されてきたという感じがしないでもないですね。
 最近、人間関係が極めてぎすぎすしたものになっておることと、この憲法思想が定着をしつつあることとは無縁ではないのではないかとすら思えるわけでございます。特に、国家権力以外のものによる人権侵害がますます増加をしておるし、さらに規制緩和を進めていけばそういうものがますますふえる。こういうものに対処していかないと、社会全体としては深刻な問題が大きくなるということも懸念をするような状況になりつつあるんではないかということを心配しております。
 日本が、今言ったように、法的な硬直的な関係というよりも、調和ある秩序ある社会をつくっていくということによって、いわゆる一人一人の権利も守られ幸福も守られてきたということを考えますと、この憲法においても、基本的人権と言われるものと現実の社会生活との調和でありますとか、あるいは基本的人権相互間の優劣でありますか調整でありますか、というものについて国民が理解できる、また納得できるようなものに少しは考え直さなきゃならぬ部分があるんじゃないか。短視的な、硬直的な主張、独走的な主張が社会全体の混乱の原因にならないように、少し考えることもあるんではないかなということを余り理論的根拠もなく思ったりするのでございますが、こういう私の感想についてもしお考えがあれば、お伺いをさせていただければ大変勉強になるのでございますが。
安念参考人 立法府におられる先生から、法的な概念について、余り望ましくないというお考えを伺うのはちょっと意外な感じもいたしますが。
 ただ、欧米の発想が日本人と物すごく違うかというと、私はそうではないと思うんですね。恐らく、例えば人権とか権利とかいう発想をするにしても、今先生御指摘のように、やはりその根底にはもっとエモーショナルな、感情的なものがあって、それは優しさであるとか思いやりというものだと実は思うんです。ただ、それを優しさ、思いやりのままに表現するのか、我々から見てやや硬質なと申しましょうか、権利とか義務とかいうかたい言葉に翻訳するのかという、そのいわばテクニックの違いではないかという気がいたします。
 ですから、余り大したことない法律家というのは、まさに硬直的な言葉を硬直的にだけ使うんですね。すぐれた法律家は、やはりその背後にあるエモーショナルなものを尊重するということだろうと思うんです。だとすると、私は、先生がおっしゃるように、日本と欧米の社会の言葉遣いが違っているというふうには思っておりません。
 ついでに申しますと、憲法があるから人間関係がぎすぎすしたかというと、憲法というものは、日本人の感情生活にそれほど大きな影響を与えているとは思いません。しばしばそういう御意見があることは私も知っております。例えば、親孝行しなくなったのは憲法のせいだ。しかし、それはある意味で憲法を過大評価していることになりはせぬかというのが私の感想でございます。
長勢小委員 どうもありがとうございました。
島小委員長 次に、大出彰君。
大出小委員 民主党の大出彰でございます。
 私は国籍についてお伺いをしようかなと思っていまして、実は、二重国籍を求めている方々がおられまして、配偶者の方が外国人という方々ですね。イスト・請願の会という方々が、イストというのは、何々を推し進めようという意味なんでしょうね、皆さん外国人を伴侶に持っておられて、子供さんが生まれたり当然するわけですが、大変不都合なことがいっぱい起こったりするんですね。何とか二重国籍を持った方が本人たちも便利ですし、それから、当然、宇多田ヒカルさんなんかも持っているでしょうね。それとかペルーの元大統領のフジモリさんなんかも二重国籍ですし、日産のカルロス・ゴーンさんなんかもフランスとブラジルの二重国籍で、非常に現実に二重国籍がないために不自由をしているという。
 それと同時に、そんなに多くいるわけじゃないものですからなかなかその声が国会に届かないということで、私も請願の紹介人になることになっているんですが、そのときに、国籍というのが問題になってきまして、どうなんでしょうか、私はあえて間違えるかもしれないことを言いながら、少なくとも外国、どこで生まれてもいいんですが、要するに出生で国籍を取得する子供さんには、基本的に二重国籍を求める権利があるんではないかと実は思ったりするんです。
 憲法だと、国籍という言葉が出てくるのは二十二条二項の国籍離脱の自由というのがありますね。そうすると、実証的に考えれば、言葉としてあるわけですから、権利としてあるのではないか。そうでないと、本人は、生まれたのは自分の責任ではございませんでしょう。そうすると、日本の国籍ともう片方の国籍、どっちかを選ばなきゃならないとなると、お父さんかお母さんかということになりますので、非常に酷な話なんですね。
 そこで、人権享有主体性のところで、実は、生まれながら持っているといいますか、生得の権利というか天賦人権といいますか、そういったものを考えないといけないんではないかなとか思ったりもしているんですが、国籍についてはどんなふうにお考えでしょうか。
安念参考人 国籍はある意味で便宜的なものだということは何度も繰り返し申し上げたところでございまして、そう考えますと、二重国籍をあえて排除しなければならないような事情があるとは私には思えないのです。
 かつては、忠誠義務が衝突するという言い方をして、二重国籍はだめなんだというふうに申しました。実際、そういう例はかつてはあっただろうと思うんです。戦争が決して非日常ではなかった時代にはそうだろうと思うんです。先生御存じかと存じますが、吉田満さんの「戦艦大和ノ最期」の中には、日米二重国籍の学徒士官が、最後には大和に乗って出撃して死ぬという極めて印象的な場面がございまして、そういう悲劇を生まないというか、そういう義務の衝突を生まないようにすることが必要なんだというようなかつての説明はあったと存じます。
 しかし、私は、そういう義務の衝突がどうしても起こるのならば、それはそのときにその御本人のリスクで判断すればいいことであって、あらかじめ二重国籍を排除しなければならないというようなせっぱ詰まった必要性が現代社会においてあるとは思っておりません。したがって、私は、二重国籍を求める権利があるというふうに言われますと、そういう権利は少なくとも憲法上はないと思いますけれども、二重国籍を排除しなければならない立法政策上の差し迫った必要があるとも考えておりません。
大出小委員 権利があるというのは、あえて誤解を覚悟で質問してみたんですが。
 どうしても一番ひっかかるところは、子供さん自体は自分の責任ではなく生まれついて、それで取れないということですと、その部分でなぜなのかということがあるものですから思っているわけですね。
 それで、国籍を考えたときに、ある意味では一つの国の構成員を決める枠ですよね。そして、その枠という問題と、この枠の中にどんなものを入れるかという二つの問題があると思うんですね。私は、その枠の部分では権利としてあるのではないかと実は思ったりするんです。中身をどんなにするかというのは、先生のようなお考え方で、法律で決めていくという考えもあるかもしれませんが、その辺はどんなふうにお考えでしょうか。
安念参考人 まあ親は選べませんから。そうお思いになりませんか。
 つまり、国籍だけじゃなくて、いや、この親の子供に生まれなきゃよかったのになと思うことは、大抵の人は人生に一度や二度はあるものでございますけれども、私は、国籍においてもそれはしようがないんじゃないかと思いますね。
 それは確かに、どの親に生まれてくるのかというのは子供が選択しているわけじゃありませんので、ある意味でそれは過酷な話ですよ。自分の選択じゃないのにアフガニスタン人の子供に生まれてしまった、あるいは日本国民の子供に生まれた、何も子供の選択じゃないのに、そこから人生は大違いでございますね。
 しかし、それなら、多少なりとも日本国と関係のある親から生まれた子供に日本国籍を権利として与えよというのであれば、そして、その主張の根拠が、子供は選択できないんだからというのであれば、アフガニスタンに生まれたアフガニスタン人の両親の子供にも日本国籍を与えるべきではないかという議論に対してこたえなければならないと思うんです。それは、だって、選択していないんですから。それはできない相談だろうと私は思うんです。
 いや、非常に博愛主義的に、非常に普遍主義的に見れば、私は、そう考えるべきだと思いますよ。すべての人が日本国籍を選びたいのなら選ぶべきだというのが理想です。しかし、それはできない相談だと言う以外にはないのではないかと思います。
大出小委員 まさに世界市民にならない限りは無理だろう、それは確かでございます。
 それで、その問題で、現在のところは法律が少し変わって、いわゆる二重国籍を防ぐような法律になってしまったんですね。その部分があって、本当は二重国籍になれるんですけれども、実際取る方からすると非常に怖いわけですよ。もしかして剥奪される、後になってどんなことになるかということがあるものですから、片一方の方の国籍を放棄したりすることになっちゃうんですね。その辺で法律の改正を求めながら、皆さんにも協力をしていただきたいと実は思っているところなんです。
 次の質問に移りますが、先生の理論でいくとなかなか質問がしにくいところがあるんですが、例えば外国人の人権の中での教育権なんかの問題は、これも多分先生だと、法的な枠の中で決めればいいということになってしまうんでしょうけれども、これ自体は、例えば、この日本の中で、外国の、自分の国の教育を子供に教えたいというのも権利的にはあるのではないかと思うんですが、その辺はどうでしょうか。
安念参考人 教える自由があるという意味ではそうだと思います。教える自由がある、自国の文化、自国の言語、自国の風習を教える自由があるというのは全くそのとおりだろうと思いますが、問題は、日本の税金を使って自国の、自国のというのは日本から見れば外国ですが、外国の文化の教育をする義務が国家にあるかという御質問でもしあるとすれば、私は、ないと考えております。
大出小委員 教育の自由の方でございます。ただ、そのときに、法律で日本の国内では何々を教えてはいけないよということも先生のお考えだとできることも起こりますよね。ですから、そのときに、それはできないんだと言おうとすると、天賦人権みたいなことを言わないとやりにくいのではないかと思うんですが、その辺はどうでしょうか。
安念参考人 私の理屈からしますと、憲法上の根拠はありません。つまり、そういう自国の文化に沿った教育をしてはいけないというような規制を政府がした場合に、それを妨げる憲法上の根拠はございません、私の立場では。それは先生御指摘のとおりでございまして、それは私も、結論として見ると、非常に落ちつきが悪いというのか、非常にアンカンファタブルな結論でございますが、しようがない。しようがないというのは、私の頭の整理をそういうふうにしてしまった以上、それは仕方がない。しかし、それは大変に賢明でない立法政策だ、こういうふうに思います。文明国がすべき立法政策ではない。大変逃げの言い方でございますが、そう思います。
大出小委員 先生の中で、何度も言って大変申しわけないんですが、非常に質問しにくいんですが、再入国の自由というのと、あるいは公務就労権というんですかね、そのことについて触れていなかったんですが、どんなようなお考えでしょうか。
安念参考人 再入国の自由については、入国の自由がないのと同様に、憲法上の権利として外国人にはないと考えております。
 しかし、そのことと、先ほど春名先生でいらっしゃいましたかな、要するに、国際条約が再入国の権利を認めていて、それに日本国が加入していれば、条約に拘束されるのは当然のことでございますので、その意味での再入国の権利はあるというふうに考えます。
大出小委員 公務就労権の方はどうですか。
安念参考人 憲法上ないと考えます。もちろん、認めることは自由でございます。
大出小委員 以上でございます。
 ありがとうございました。
島小委員長 それでは、近藤基彦君。
近藤(基)小委員 自民党の近藤でございます。
 最後の質問になりますので、もうしばらく我慢していただきたいというよりも、最後の質問者であるだけに、前の質問の方々にほとんど私がお聞きしたいことを聞かれてしまったという部分と、余りにも先生の御回答が歯切れがよ過ぎて十五分も早く進んでおりますので、歯切れがよ過ぎて聞くことが非常に難しいという部分があります。
 私、この憲法調査会に入れていただいて一年半になります。それなりに勉強してきたと思っておるんですが、今回のテーマ、十条の、いわゆる国民の要件という、外国人を規定しているというよりも日本人を規定しているという部分。十条だけ読むと、「日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」ということだけなわけですね。憲法に、特別に法律でこれを定めるという条項を入れたという部分ですけれども、これは法的根拠で、本来ですと、司令部案には全然別の条項が入っていた、外国人は法の平等な保護を受ける云々という部分。これがなぜゆえ、この外国人の平等という部分が外されて、日本の、いわゆる衆議院の審議過程においてこういう条文になったのか、先生なりのお考えをお聞かせいただければ。
安念参考人 積極的な理由、つまり、今現在先生が御指摘の憲法十条があの条文でなければならなかった積極的な理由があるとすれば、第一には、明治憲法の国民権利義務の章の冒頭の条文が、やはり日本国民たる要件は法律をもってこれを定むと規定しているので、それに合わせたということと、現在の日本国憲法第三章が「国民の権利及び義務」となっているので、その章の題名に言う国民とは何かということを第三章の冒頭で規定しておくのが論理的な筋だったということに求められるだろうと思うんです。
 しかし、それならそうだとして、では、今先生御指摘の総司令部案のいわば外国人条項が落ちなければならなかった理由は、それによっては説明できない。これは政治的なものだったんだろうと思うんです。私もその審議の詳細については存じておりませんが、やはり据わりが悪かったのでございましょうね。外国人を日本国民と同じように待遇しなければならないのか、それは大変なことだという反応があったのは、少なくとも当時の日本人にしてみれば無理もないかなという気がいたします。
近藤(基)小委員 もう一つ、公務員の就労問題の件で、先ほどからも議論が出ているんですが、端的に言うと、この前、鈴木宗男先生の私設秘書が外国人であったというよりも外国の公務員であったという、特別、外国人だからということではないんですが。例えば、公務員就労を認める場合、いわゆる国民という、日本国籍を持たない在留資格を持っている方にも公務員の権利を認め、今もちろん認められている地方もあるんですが、ただし、これもある意味制限がかかっております。先生は、それも外して、すべてのことに関してと。
 先ほど、憲法的にはないというお話、それは確かにないのかもしれませんが、しかし国益を考えたとき、日本国憲法というのは、やはり日本国の国益、国内の国益、あるいは、前文によると非常にグローバルな形になっていますが、条文はすべて日本国内の国益を考えて、あるいは国民の利益を考えての基本法でありますから、そういった意味で、公務就労に関して、例えば国家公務員でも地方公務員でも、ある種国益あるいは地域益に触れるような部分が当然出てくるだろうと思うんですが、そこまでも開放していいとお考えでしょうか。
安念参考人 先ほど申しましたように、憲法上は問題ないと考えております。どのような中央政府、地方政府の官職であっても、私は、外国人を任命できるという法律を国会がおつくりになって、それで憲法には違反しないと考えております。
 しかし、そういう法律をつくるかどうかは、近藤先生まさに御指摘のように、国益の問題でございますから、国益に反すると国会が御判断になるのであれば、そのような法律をおつくりにならなければいい、それだけの話だと思います。
近藤(基)小委員 ちょっと観点違うんですが、きょうのとちょっとかけ離れるかもしれませんが、私自身は新潟県出身なんであります。ここ三、四日、拉致問題がかなりクローズアップをされて、これはヨーロッパの方で留学していた方が拉致されたということでありますが、我が県には一応三名、じゃないかと言われている、疑いのある事案があります。
 こういったことと、先ほども長勢先生の方からテロの話が出ていましたけれども、いわゆる国対国の表立った戦争行為、武力行使という部分に関してはかなりどこも国際条約あるいは平和条約的な部分で規制をされていますが、こういったスパイ行為あるいはある種国家侵略行為、武力を伴わない侵略行為といいますか、そういったものに関して、憲法上で規制する必要があるのか、あるいは、これはもう、例えば入管法あるいは刑事罰等、あるいはスパイ防止法という法律だけの対処でいいのか。この辺、先生のお考えをお聞かせください。
安念参考人 ぜひ法律で御対処をいただきたいと思います。しかも、早急に御対処をいただけると、国民の一人としては大変ありがたいと存じます。
近藤(基)小委員 大変長期間、特に一番最初は昭和五十二年からの発生を見ていますので、もう二十五、六年になるんですか、三十年近くという話。親御さんにとっては、大変な痛手を受けていらっしゃるわけです。しばらく途絶えてはおる。それは、巧妙になって、行方不明がほかにあるのかどうかもまだ全然つかめていないという状況。そういった意味で、例えばグローバルな世界になればなるほどこういった問題が非常にクローズアップされてくるだろうと思っております。
 確かに、先生がおっしゃるように、憲法そのものを改正するというより、それに基づいた法律を改正し、あるいは新法をつくっていく、あるいは新しい人権も多分そうなのかもしれません、環境権においても。先生は、御著書とかそういう文の中で、大いに憲法を論議すべきだという話はなさっておられる。そうすると、論議をするということは、別に改憲に向かうということではなくて、もしそれをベースにして法律をつくるとなると、解釈改憲という形がずっと続いてしまうんではないか、それがもっと広がりを持ってきてしまうんじゃないかという、ちょっと制度疲労的な部分を含めて、これは解釈が拡大し過ぎて、もうそろそろちょっと壁にぶつかっているのかなという部分もある条項ではないわけではないんじゃないかという気がしているんですが、その辺、先生、どうお考えですか。
安念参考人 基本的なテクストというものは、どこの世界でも解釈改憲の連続でございます。その最も典型的な例は聖書でございまして、ヨーロッパの政治思想は、基本的には十七世紀まで聖書からすべての政治体制を正当化するのでございます。そうだといたしますと、ありとあらゆる政治体制が聖書を基礎にして正当化されたのでございますから、これは憲法第九条などという比ではございません。アクロバットをどんどんやってまいりました。これがテクストというものでございます。基本的なテクストの運命は、解釈改憲は免れないということでございます。
 私は、もし第九条を改憲すべきだという御意見があるとすれば、それはあるのは承知しておりますが、では、どう改憲するのかという、その文言の問題、表現の問題で莫大なエネルギーを投入しなければならないだろうと思います。私は、それよりも、テロ対策であるとか有事立法にリソースを割く方が有益なことであるというふうに考えております。
近藤(基)小委員 時間でございますので、長時間、本当にありがとうございました。
島小委員長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言ごあいさつを申し上げます。
 安念参考人におかれましては、貴重な御意見をお述べいただき、本当にありがとうございました。理論的に、時には情緒も交えて御意見をいただきましたことを、小委員会を代表いたしまして、心から御礼を申し上げます。本当にどうもありがとうございました。(拍手)
    ―――――――――――――
島小委員長 それでは、これより本日の参考人質疑を踏まえまして、基本的人権の保障について小委員間の自由討議を行いたいと存じます。
 一回の御発言は、五分以内でございます。小委員長の指名に基づきまして、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただきましてからお願いをいたしたいと存じます。
 小委員の発言時間の経過につきましてのお知らせでございますが、終了時間一分前にブザーを鳴らします。終了時にもブザーを鳴らしてお知らせしたいと存じます。
 なお、前回もそのようにさせていただきましたが、五分間以内に、例えば他の委員に対する意見を求めたり、そういう相互の交流、相互の討論ということも可能でございますので、よろしくお願いを申し上げます。
 御発言を希望されます方は、お手元にあるネームプレートをこのようにお立ていただきまして、お待ちいただければと思います。御発言が終わりましたら、戻していただくようにお願いを申し上げます。
 それでは、ただいまから御発言をお願い申し上げます。
今野小委員 きょうの参考人の安念先生のお話、ある意味では大変私はおもしろく聞かせていただきました。しかも、国会でよく聞くさまざまな方々の答弁よりもはるかに短くて、何かなたで切り取るようにすぱっすぱっと答えが出てくるのには、ある意味、小気味よさもあったわけですけれども、外国人の入国、在留に関して、もともと外国人は憲法上日本に入国そのほかの権利はない、憲法上は認めないけれども、外国人の入国、在留が認められた場合は、法律によって加えられる制限の範囲で自由が認められる、そこには憲法と法律の間の矛盾があるのだということは、今回のこの委員会で感じさせていただいたんです。
 しかし、残念ながら議論はそこまでで、仮にそれがずっと進んでいくと、憲法なんかなくとも法律さえしっかり整備されていればいいのだよというような話のような気がいたしまして、そうすると、我が国の憲法と法律の関係はますます複雑怪奇なものになっていくのではないかという気がいたしました。
 ですから、私たちは、もう少し憲法の持っている理念というものに近づいて、そして基本的な人権、外国人の方々も含めて、どうあるべきかということを議論すべきなのではないかなと思いました。
 以上でございます。
春名小委員 日本共産党の春名直章ですが、二点発言させてもらいます。
 外国人の人権を考える場合には、やはり日本で考えているわけですから、日本の特殊性や歴史、これを抜きには語れない。
 先ほども発言したんですけれども、今、日本に住む外国人の方は百六十八万人を超えていますけれども、そのうちの約三八%が韓国そして朝鮮籍の方で、約六十四万人を占めております。要するに、その大部分が、一九一〇年の韓国併合以来の日本による植民地支配、そのもとで強制連行などによって日本に無理やり連れてこられた方、またその子孫。そして、韓国併合で、朝鮮の人たちは、自分の意思に全く関係なく、帝国臣民といいますか、日本人にされる、そして、侵略戦争に駆り出されるという点になってきました。同じく、台湾の住民の方々も、日清戦争の結果、一八九五年の五月に、日清講和条約によって日本国籍を押しつけられました。
 それで、日本が敗戦しました。講和条約が発効したのは一九五二年です。再び、本人の意思と関係なく日本国籍を喪失させられました。外国人の地位に置かれることになりました。日本の都合によって勝手に日本人にされ、勝手にまた外国人にされる、こういう歴史を通りました。
 戦後の憲法制定時なんですが、日本政府は、一貫して外国人の文言の削除にこだわって、外国人の平等保護を憲法条文から削除しようとされました。
 一九四六年二月十三日の総司令部の案によりますと、憲法十三条、すべての自然人は法の前に平等である。人種、信条、性別、社会的身分、カーストまたは出身国により、政治的関係、経済的関係または社会的関係において差別がなされることを授権しまたは容認してはならない。それから、十六条、外国人は法の平等な保護を受けるという条文が最初あったわけです。
 ところが、政府とのやりとりの結果、政府の三月五日案では、第十三条で、すべての自然人はその日本国民たると否とを問わず法律のもとに平等にして、人種、信条、性別、社会上の身分もしくは門閥または国籍により政治上、経済上、または社会上の関係において差別せらるることなし、こういうふうに一応なりました。しかし、これでもなお不満だということで、政府は、今述べた条文から、日本国民たると否とを問わずという条文と国籍という文言を削除しました。
 こうした姿勢、一貫して外国人に対する排外的な考え方というのがあったわけですね。それが今日まで指紋押捺制度が続くということになってあらわれましたし、それから、先ほど私申しましたように、国籍要件を課して、外国人の当然の権利、人権を排除するということも長い間続いてきたわけですから、やはりここを、この政治のあり方を正していくということ抜きに外国人の人権の保障ということはあり得ないと思いますし、これは不可欠の問題だというのが第一点です。
 二つ目は、到達点と課題についてなんですけれども、先ほどのお話と少し角度は違うんですけれども、外国人の人権を考えるときには、消極説というのがあって、もう一つ、積極説というのがあって、消極説というのは、憲法三章の権利と義務というのは国民にのみ権利として認められていて、外国人にはそもそもないんだというのが消極説で最初はあったわけですね。ところが、積極説というのは、人権というのは前国家的性格だ、さっきお話が出ましたけれども、自然権的な性格なんだから、あるいは、日本国憲法は国際協調主義をとっているから、外国人の人権享有主体を肯定しているという積極説があったわけで、こういう議論の中で、一九六六年に国連総会で国際人権規約が採択されて、今、外国人を含むすべての個人に対して平等に人権を保障しよう、こういう方向に進んできているわけですね。
 もう時間がなくなりましたので。そういう到達点の上で二十一世紀を展望することが大切になっていると私は思います。
 その点で、永住外国人への地方参政権の問題とか国籍条項の撤廃とか、こういう課題は一刻も早く、二十一世紀の日本が進むべき道として進めていかなきゃいけないという課題になっているということを申し上げておきたいと思います。
 以上です。
島小委員長 ほかに御発言ございませんか。
金子(哲)小委員 社会民主党の金子です。
 私は、まず、きょうの先生のお話を聞きまして、政治の課題、特に外国人の人権ということに関しては政治的な課題が大きいということを感じたわけですけれども、その点でいいますと、日本の場合には、政治が本当にそうした課題にこたえてきたのかという点では、もっと政治の中で外国人の権利を、人権というものを拡大していく方向性というものがつくられていかなければならないんではなかったのかということを実は思うわけです。
 先ほどの話の中でもちょっと出しましたけれども、入管センターなどの状況を見ても、そこに象徴されているように、国家というか政府というか、国の機構そのものが、外国人に対しての権利というか人権というものに対して非常に狭い範囲でやってきたのではないか、そのことが、国民全体に対してやはりそういう影響をもたらしてきているというふうに私は思うわけです。
 私は、例えば、先ほどもお話がありましたけれども、外国人の場合には、日本の場合、一つの特殊な問題もあると思います。先ほども議題になりました在日朝鮮・韓国人と言われる人たちの問題があると思います。
 私は、教育の問題一つとってみても、実は、いわば外国人の人権を本当に確保するといったときに、宗教とか教育ということは重要になってくると思うんです。
 例えば、今、在日朝鮮人の場合には朝鮮人学校がつくられておりますけれども、この学校は各種学校の扱いで、例えば、これまで、ようやく開かれたとはいえ、高校総体にも出れないというような問題があったし、かつては、国体にも出れない、夏の高校野球には一緒にチームを組んで参加をしたけれども、国体に選抜されても国体の中では出れなかった。そして初めて、その人が在日の韓国人であったということがそのことを通じてわかるというようなことまで起きた時代が実はあって、子供たちの形成の中に大きな意味があったと思います。
 そしてまた今、例えば民族的な教育というものを課外の授業でやろうという努力も、実は大阪などでも行われているんですけれども、そういったことに対して、日本の場合には、その補助をしていくというか、積極的な意味を見出しているかというと、残念ながらそこに行っていないんではないかというふうに思うんです。
 そういう意味でいいますと、私は、外国人の人権を考えるときに、本当に、それぞれの、これから、国際社会の中にあって、先ほども言いました民族的なアイデンティティーというものをお互いが尊重し合う、そしてまたそれがつくられていくような、政治の中で、法律の中でそれが可能だとしたら、それをつくらなかった怠慢というのは非常に大きいんではないか。むしろ、それをより積極的にそういう場を広げていくことが重要ではないかというふうに思っております。
 それともう一つは、これは国内の外国人の人権ということでありませんけれども、私、戦後補償の問題を考えてみますと、このことをどう考えていくかという問題は人権にもかかわってくる問題だと思います。
 かつての従軍慰安婦の問題もそうでありますけれども、まさに、これそのものが外国人の人権にもかかわる問題であって、これが日本の場合には、被爆者援護法のときにも、そして日本の戦災者、日本国籍を持つ者もそうですけれども、国家との身分関係があったのかなかったのかということが、例えば軍人軍属であったのか、そういう関係があったのかなかったかということが戦後の補償の問題でも大きな問題になっておりまして、今、同じ被爆者でも、外国に住むからといってこれが補償されないという問題も実はあるわけです。
 これは経済的な問題であるかもわからないけれども、私は、人権の側面から見ても同じような問題として、一人の被爆者をどう政府が救っていくのかという立場でいうと、そんな全体のトータルの中に、日本の戦後のありようの中に、外国人というか外国籍を持つ人たちとの関係というものについて、本当に整理をし、そういう関係にあったのかということを、二十一世紀に向かって、そこはやはり一番大事な視点として考えなければいけないのではないかというふうに思っております。
 以上です。
大出小委員 民主党の大出彰でございます。
 先ほども質問をいたしまして、その続きのようなことになりますが、よろしくお願いいたします。
 二重国籍ということを、実は請願の紹介人になってくれということでやっているわけなんですが、どういう不都合があるかというと、日本に、二重国籍でなくて、国籍離れて外人として来るわけですね。そうすると、例えば住宅購入のためにお金を借りようとすると、外国籍ではだめですと言われたりするんですね。この方は大学教員だったものですから、教えているわけなんですが、教員の任期も、日本国籍がないものですから、三年ごとに更新をしなきゃならないというような不便があって、それからもう一回入ってこようとすると、再入国許可書が必要になってくるということがあるんですね。
 この方たちは、二重国籍にした方がいろいろなメリットが多いのではないかということを言っていまして、特に、これから少子化になってくるわけですね。データでいくと、二〇〇六年に一億二千七百七十四万人をピークにして一挙に減ってくるというわけですね。二一〇〇年は六千万人になってしまうと言われていますね。
 そうすると、当然、外国人がいっぱい入ってこられるわけですね。外国人労働者というのをどこかで決断をして、先ほど先生も似たようなお考えだと思いますが、入れなきゃいけないことが起こるんだと思うんですね。そういうときに、自分の国の国籍を、もし日本が好きであれば日本の国籍も持てるし、自分の国も持てるしという方がいいのではないか。
 それで、アイルランドの例を実は出してありまして、アイルランドは昔から二重国籍をずっと認めてきた国なんですね。最近になって、海外に移っていた人たちが自国へ帰ってきたわけなんです。そうしたところ、マンパワーがアップしまして、経済的に好況になった、そういうことがあります。
 日本は、日系人がいっぱい出ているわけですね。世界に散らばっていまして、日本にとっては宝物がいっぱいいるわけだ。ですから、二重国籍ができるならば、すぐ戻ってこられる、便利なわけですからね。そういうことも言われているんです。
 ところが、現実には二重国籍にならないような方策を、政府は防止策みたいのをとっていまして、この理由は何かというと、古い考え方と言ったら怒られるかもしれませんが、国籍というのは国家に対する忠誠のあかしなんだとさっき先生もおっしゃっていますけれども、あるいは運命共同体なんだというんですが、今、国際結婚がはやって、アメリカ人と日本人の子供さんは、宇多田ヒカルさんみたいな方もいるわけですから、両方行ったり来たりできる方が便利ではないかと思いますし、グローバルな物の考え方が聞けるのではないかと思いまして、どうかそんな意味でも皆さんに、二重国籍でいいのではないか。
 外国の方はどうなっているかというと、ヨーロッパでは、九七年にヨーロッパ国籍条約というのができまして、むしろ二重国籍を許容するようになっていまして、二〇〇〇年の三月に発効されております。ですから、日本もそういう国になるような時代にもう来ているのではないかなと思っています。
 ただ、二重国籍については、兵役の義務だとかあるいは外交保護権とかの問題点があるんですが、兵役については、例えば韓国と日本なんかの場合ですと、日本の国籍を持っていたりすると、韓国では兵役を免除するとかそういうことができていますし、日本はむしろ、平和憲法もございますので、戦争にならないようにすることが、予防アクションが一番重要なんだと思います。
 こうしますと、コリアンの問題なんかも、自国の国籍も取れるし日本の国籍も取れるといったら、すんなりいくのではないか。どっちかにしろというから踏み切れない面もありまして、参政権を超えるのではないかと思っていますので、そんな意味で、ひとつ二重国籍を、御協力をお願いしたいと思います。
 以上でございます。
島小委員長 ほかに御発言ございますでしょうか。
 それでは、討議も尽きたようでございます。これにて自由討議を終了いたします。
 次回は、来る四月十一日木曜日午前九時から小委員会を開会することとしまして、本日は、これにて散会いたします。
    午後四時十四分散会


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