衆議院

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第3号 平成14年4月11日(木曜日)

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平成十四年四月十一日(木曜日)
    午前九時一分開議
 出席小委員
   小委員長 島   聡君
      石破  茂君    土屋 品子君
      長勢 甚遠君    葉梨 信行君
      平井 卓也君    大出  彰君
      小林 憲司君    今野  東君
      太田 昭宏君    武山百合子君
      春名 直章君    原  陽子君
      井上 喜一君
    …………………………………
   憲法調査会会長      中山 太郎君
   憲法調査会会長代理    中野 寛成君
   参考人
   (広島大学法学部長)   阪本 昌成君
   衆議院憲法調査会事務局長 坂本 一洋君
    ―――――――――――――
四月十一日
 小委員井上喜一君三月二十八日委員辞任につき、その補欠として井上喜一君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
 小委員近藤基彦君及び金子哲夫君同日小委員辞任につき、その補欠として平井卓也君及び原陽子君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
 小委員原陽子君同日委員辞任につき、その補欠として金子哲夫君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
 小委員平井卓也君同日小委員辞任につき、その補欠として近藤基彦君が会長の指名で小委員に選任された。
    ―――――――――――――
本日の会議に付した案件
 基本的人権の保障に関する件


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     ――――◇―――――
島小委員長 これより会議を始めます。
 基本的人権の保障に関する件について調査を進めます。
 本日、参考人といたしまして広島大学法学部長阪本昌成君に御出席をいただいております。
 この際、参考人の方に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多用中にもかかわりませず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。本日は、この基本的人権の保障に関する調査小委員会、三回目となりましたが、新しい人権という形で御意見を賜れることを楽しみにいたしております。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたいと存じますので、よろしくお願い申し上げます。
 次に、議事の順序につきまして申し上げます。
 最初に参考人の方から御意見を四十分以内でお述べいただき、その後、小委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。
 なお、発言する際はその都度小委員長の許可を得ることとなっております。また、参考人は小委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。
 御発言は着席のままでお願いいたします。
 それでは、阪本参考人、お願いいたします。
阪本参考人 広島大学法学部長阪本です。独法化と法科大学院、二つの課題を背負って、毎日呻吟しております。
 きょうは、新しい人権についてお話をさせていただきます。
 これまで、いろいろな議事録を読ませていただきますと、憲法学者としては、高橋和之、長谷部恭男、安念潤司、棟居快行、そういう方々がここで話をされたようでありまして、特に、この人権に関しましては、棟居教授、そして前回が安念教授と伺っております。
 私は、安念教授のような巧みな比喩を用いながら人々を魅了するというテクニックを持っておりません。よき法律家は比喩を使うべきではない、ウェンデル・ホームズはそう言っておりますので、できるだけ直言型で、ストレートに物を言わせていただきます。そしてまた、質疑応答につきましても、棟居教授のように、うねりを加えてああ言いこう言い、ああ言いこう言いというようなことも一切やめるつもりでおりまして、質問に対しては一言、二言で、まさに将棋でいいますと香車のごとく突き進んでいって、ほかのことは申しません。不要なことは申しません。これが私のパーソナリティーでありますし、私の学風でもあります。
 私がきょう何をお話しするかということは、私が一体どういう人物であり、どういう学風を持っているかということを冒頭に申し上げない限り、ひょっとしたら何を言うんだろうかと疑心暗鬼になられるかもしれませんので、冒頭に一つ、二つ私の学風についてお話をしておきますと、前々回、棟居教授が古典的自由主義という話をなされた。私は典型的な古典的自由主義者でありまして、憲法学界においてはごくごく少ない、アダム・スミス、それからデービッド・ヒューム、その流れをくみますスコットランドの啓蒙の父、中でも、フリードリッヒ・フォン・ハイエク、H・L・A・ハート、あのあたりの哲学、法理論を信奉しておりまして、公法学界ただ一人のハイエキアン、フリードリッヒ・フォン・ハイエクの理論を継承している古典的な自由主義者であるということが第一です。
 第二は、先ほど申しましたように、直言型、香車のごとく突き進んでいってサイドステップすることを知らない、そういう人物であります。
 第三番目は、あいまいな用語を嫌うということです。大きな概念を振り回して、美しいラッピングで着飾って、あたかもそれが解釈であるかのような様相を呈するという学風を嫌います。ある大きな概念もできるだけ定義を精密にして、私は厳格解釈主義者だと自称しております。
 きょうの報告は一部棟居報告とダブるところがありますが、あえてそのことを承知の上で、総論部分から話をさせていただきます。
 まず、何といいましても、国民の多くは、そしてまた大学レベルで学んでいる子供たちも、憲法に対する見方を誤っております。これは、中学の教科書の記載の仕方がよろしくないからです。人権の話をするときに、クラスにおけるいじめの問題を取り上げて、これは人権侵害ですと言うんですが、これは厳格な意味での人権侵害ではありません。あれは、権利侵害、または不法行為、あるいは刑事法上の犯罪の問題でありまして、こういう事柄について人権という言葉を出すこと自体が子供たちを惑わしていると考えております。
 西洋の人たちに聞きますと、日本では、単なる私法上の権利を人権と呼んで、人権という言葉が乱用され、その乱用がかえって人権の重みをそいでいるということを言いますが、このことをまず冒頭に私が申し上げるということです。
 憲法は、ありていに平たく言いますと、国家の構造をどういうようにするかということと、それから、公務員がどう行動してよいか、どこまで行動できるかということを決めるルールでありまして、市民に対してこうしなさい、ああしなさいという行為規範ではありません。
 ところが、日本においては、憲法典のいろいろな条文とその精神が人々の行為規範であるかのような錯覚に陥って、憲法がまるで道徳的行為規範として援用されるというムードがありますが、これは憲法に対する誤解であります。憲法は、あくまで国家を名あて人にしているのでありまして、原則として、我々国民の間の行為を統制するものではないということです。
 そこで、きょうは、憲法全体の話をするよりも、人間の権利、人権、ヒューマンライトの意義から始めることといたします。
 ヒューマンライトというものは、私法上の権利と違いまして公権であります。公権というのは、国家を名あて人にしている。国民対国家、この関係を明確にしようというのがヒューマンライトの意義であります。私権と違うところは、私権は基本的に裁判所によって我々が訴え出れば救済されるわけですが、公権の場合、必ずしも裁判所によって強制される、また執行される、エンフォースされるとは限らないのです。ヒューマンライトと私法上の権利の区別というのは、これは厳格に考えておかなければなりません。これがヒューマンライツを考えるときの第一の出発点であります。
 第二は、ヒューマンライトという、ライトである以上、ザッツ・ライトのライトでありまして、正しいこと。ドイツにおきましても、権利はレヒトですが、レヒトはまさに正義をも意味します。権利を主張する以上、それは正義にかなった主張、正しき論拠を持った利益の主張でなければなりません。
 最後にもう一度確認をする際に申し上げますが、権利主張というのは、相手方が特定可能であり、そしてその名あて人となっている人の責務が明確である、そして、その中身として正義にかなっているという条件がそろって、権利主張が成立するということです。
 きょうのレジュメの冒頭に書きましたように、何か重要なもの、何か価値あるものを権利と呼ぶということは、結局、権利の重みというものをそぐだろうと考えております。そのことは、格別人権について言えることでありまして、何か望ましいもの、こうした方が政策的によろしい事柄、または、ある集団にとって利益になる事柄を人権だと主張することは、人権の重みをそぐことだ。
 アメリカのある有名な哲学者ロナルド・ドゥオーキンは、「テーキング・ライツ・シアリアスリー」、権利というものを真剣にもう一遍考えてみようよという著作を物しておりますが、権利、人権という言葉を真剣に使う、厳格に使うということをしなければならないというのが私の基本的な発想であります。
 さて、そのヒューマンライト、基本的な権利または基本権というのは、国家と市民社会との相対的な分離という基本構造の中で成立します。国家についてというのは、国家の統治構造を決める部分です。憲法典の中の、統治構造を決めて、その中の担当者はどういう権限を持ち、どういう手続にのっとって行動するかということを決める部分です。
 憲法は統治機構と基本的人権保障の部分から成ると言うんですが、それは国家と市民社会の二分法を前提としておりまして、国家の部分が統治機構、市民社会の部分が国民に対する権利、自由の保障ということになっているんです。それは、別名、公的領域、私的領域と呼ばれたり、政治的領域、私的領域と呼ばれたりします。
 近代立憲主義は、市民社会をできるだけ自由に開放してその自律性にゆだねる、この基本思想に依拠してきました。その基本思想は、アダム・スミスに出て、ヘーゲルによって完成されたと考えてよろしかろうと思います。
 国家の領域を規律するルールが公法であり、市民社会を規律するルールが私法である。公法と私法の区別は、実は近代立憲主義の前提でありました。ところが、社会国家という新しい領域が出てきまして、国家でもない、市民の領域でもない、いわゆる社会的領域という第三領域が出てきて、それが社会権を保護するような領域だ、国家が市民社会の中に介入していって調整をするというようなあいまい領域、第三の領域が出てきました。
 ある時点から、昭和三十年代後半から四十年代、公法、私法の区別はもう峻別する必要がない、公法、私法の区別は相対化したものだ、こういう旧態依然たる公法、私法の体系で物事を言うべきではない、十九世紀的な、いわば古典的自由主義の時代から二十世紀的な社会国家へ転身している以上、公法、私法の区別はあいまいにしてしかるべきだという論調が公法学界全体を席巻しました。が、私のような古典的自由主義者にとっては、公法と私法の区別を重視することが学問の出発点であると思います。
 公法、私法の峻別というのは何かといいますと、国家の側に対して自由はゼロしか配分されていない。つまり、自由は国家に対抗する法的な力ですから、国家の側に自由があるはずはない。それに対して、国民の側には自由は一〇〇%配分されている。〇対一〇〇という配分を憲法がしようとしている。
 カール・シュミットというドイツの偉大な憲法学者がおりますが、彼は、配分原理ということを言って、国民の側にはたっぷり自由は保障され、国家の側はその自由に対した客体だ、そういうことを言っております。国家、市民社会という二分法は、配分原理を組み入れている憲法という名前であらわすこともできるでしょう。
 配分原理を組み入れているということを別の観点からいいますと、近代立憲主義にとっては、国家に対して不作為を要求するということ。国家がある行為に出てくるときに、その妨害を排除するという自由権こそがヒューマンライトの人権の中核でありました。これを、時に国家からの自由と呼びます。
 ところが、次第次第に社会国家理念が浸透してきますと、国家への自由であるとか国家による自由であるとか、そういう言葉が乱用されて、自由というものの持っている意味合いの中核部分がぼけてきました。私は、国家への自由、国家による自由などという望洋な言葉によることはありません。国家への自由は、これはデモクラシーの問題だ、国家による自由というのは、これは結果平等の平等の問題であって、決して自由の問題ではない、そう確信しておりまして、学者の中で、国家による自由、国家への自由という、その言葉を用いている学者の知性を私は疑っております。
 それで、一応レジュメの一の(1)、(2)が終わりました。
 それは、言いかえますと、憲法典に保障されていますいわゆる人権は、あくまで国家を名あて人とするもので、私人間を統制するルールではないということです。これは憲法学界においても通説の地位を占めまして、人権の規定は私人間を直接に統制することはない、これは既に棟居教授の方からも、この場で発言があったところです。
 そのことを最高裁判所もちゃんと確認しておりまして、それが三菱樹脂事件最高裁大法廷判決です。憲法はあくまで統治権力を独占している国家を対象としているのでありまして、私人間の間の問題はできるだけ私法上の処理をする。個別的な規定がなければ、民法一条の権利乱用の規定、民法九十条の公序良俗、その他七百九条以下の不法行為、これらの規定によってまずは処理することを考えるのが原則であって、憲法が突然顔を出すということは異例である。
 憲法というのは、非常にあいまいな、外延のはっきりしない言葉をたくさん持っておりまして、我々は憲法によってこの自由を保障されていると思ったときに、私人間にそのことが適用されますと、私の自由や権利であったものが途端に私人の関係で責務となる。権利の体系が責務の体系になるというような事態を許してはいけないということが、最高裁大法廷判決の背景にあります。これは適切な思考であると私は考えております。できる限り私人間の問題は私法によって処理をするという原則を貫くべきであろうと思います。
 では、レジュメの二へ行きまして、日本国憲法第三章のいわゆる基本的人権というのが一体どういう類型を持っているかです。
 これは、先ほどちょっとだけ歴史的な展開の話を言いましたが、ドイツ基本法、当時は西ドイツ基本法ができたときに、西ドイツは社会的法治国家である、これを標榜しました。社会的法治国家であるというわけですが、日本国憲法と違いまして、いわゆる生存権規定であるとか労働基本権規定であるとか、その他の教育を受ける権利であるとかというものをさほど持っているわけではありません。自由権中心の規定なんですが、自由権のその規定も、実は、社会的法治国家のためには、妨害排除請求権のみならず、国家の作為請求もできるんだという流れが来て、一部判例もそのように理解をしてきております。社会権を憲法典に組み入れる。戦後日本におきましては、ドイツの社会国家理念というのは、恐らく輝いて見えたんだろうと思います。
 そこで、宮沢俊義、憲法の大家は、社会国家というのが日本国憲法の一つの柱ではないかというようなことまで言われました。社会国家を入れたときに、憲法の基本的人権の類型はこうなる。当然、自由権、国家に対する妨害排除請求権、これはあります。受益権というのは、刑事補償であるとか国家賠償という、国家に対して救済を求めるということです。参政権。
 参政権も実に望洋に憲法学界では使われておりますが、この自由権、受益権、参政権という体系を打ち立てたのは、ドイツのゲオルグ・イエリネックでありまして、イエリネックの参政権は、あくまで選挙人資格請求権でしかありません。
 我々が政治において一票を投じるというのは、これは選挙権の問題ではありません。それは投票。法学的には、選挙と投票というのは概念上別なのです。選挙というのは有権者団全体としての行為であって、我々が国家に対して請求するのは、選挙人資格を付与せよという請求権にしかすぎない。参政権というのはそれだけでした。
 ところが、今では、政治に参与することが全部参政権だと、これまた望洋に、インフレ流に使われてきておるということだけはここで指摘しておきます。私のような厳格解釈主義者からすると、参政権を余りにも散漫に使い過ぎる憲法学界の風潮に警鐘を鳴らしたいと考えております。
 その三つのカタログに対して社会権というものをつけ加えて、日本国憲法も、自由権、受益権、参政権、社会権、この体系から成っているというんですが、この軸は、実は何もありません。四つの種類を並べただけで、それがどういう相互関係にあるかということを明らかにした憲法学者はおりません。これは、羅列すると誤ると私は思っています。
 私の観点からすると、自由権と社会権は両立しがたい。社会権は、ある人の自由権を一部簒奪することによって初めて成立すると考えております。それは私だけの見解ではなくて、ドイツの穏当な憲法学者は、社会権を権利として本当に承認するんであれば、自由権の一部は侵奪されるよ、簒奪されるよ、これは両立不可能なことが多いということを言っておりますから、このように四つのカタログを並べて事足れりとしているような教科書は、実は洞察力に欠けると考えた方がよろしかろうと思います。
 そのことは、もう一度、すぐ後に申し上げますが、この四つを類型化したとしても、漏れ出るものはいっぱいある。英米において一番重視されているのがデュープロセス思想でありまして、適正な手続によって国民が処遇されると。このデュープロセスの権利が四つのカタログの中で漏れ出ておりまして、この類型を教科書で述べたとしても、大きな空白部分があるということに気づかなければなりません。英米の人権保障の中核は適正手続保障、デュープロセス保障にあるのでありますから、ドイツ流のこのイエリネック修正版を持ってきて学生たちにしゃべったとしても、漏れ出るところがたくさんあるということは気づいておかなければなりません。
 それはさておきまして、自由権、社会権等のカタログを提示したときに、今からお話しします新しい人権は一体どれなんだろうか。
 例えば、知る権利の話を後ほどしますが、知る権利というのは、私がある雑誌を外国から輸入したいと。ところが、これは風俗、公安を害する文書だと税関検査でけられることがある。これは妨害排除請求の、知る権利の自由権的な側面で処理をします。これは自由権じゃと。
 ところが、今日喧伝されております知る権利は、国家に対して、これこれのファイルを見せなさいと国家の作為請求をするわけですから、知る権利は、一面自由権であるとともに、社会権的な、国家の作為義務を根拠づけるようなものとなってしまうだろう。
 プライバシーについても後ほどお話ししますが、国家によって私生活を暴かれないということだけではなくて、国家に対して、私の個人ファイル持っていますか、見せなさいという作為請求となる。
 そうすると、新しい人権というのは、この四つの分類の中でどれで処理をすればよいのかという混迷の事態になってきて、どれに該当するか、教科書においても記述の仕方は実にまちまちとなってきています。
 そのことは後ほどお話ししますので、ここではもう一点、重複になりますが、自由権については十九世紀的なものだ、それに対して社会権は二十世紀的な基本権だという論調があります。それは、十九世紀はもう古いよ、二十世紀は新しいよ、新しい視点と新しい社会権を尊重しないといけないねという背景に、何かそういう発想があります。新しいものはこれから十分尊重していって、芽を生やしていかないといけないねという、それがあるんですが、自由権を十九世紀、社会権を二十世紀という分割の仕方は紋切り型でありまして、国家の公的な扶養義務というのは、古くから、フランス革命の時代から言われたわけですから、決して二十世紀的な権利ではありません。これが一つ。
 もう一つは、自由権と社会権を両立させることは決して容易ではないということです。自由と平等というのは、これも実に散漫に用いられてきておりますが、社会権によって対処しようとしている平等というのは結果の平等なんです。
 ところが、憲法の教科書に、平等概念が幾つかに類型されて、結果の平等というものを明確に論じたものはこれまでありませんでした。実質的平等、そういう言葉ですべてをカバーしてきたんですが、実質的平等というのは、実はアリストテレス以来の比例的平等なんです。その人の功績に応じて処遇すること、これが実質的平等。
 ところが、その実質的平等の古典的な用法を憲法学者の多くは忘れまして、恵まれない者をかさ上げして、ここまで地位を上げてやることが実質でしょう、手段を持っていない人に対して手段を与えて対等な地位を与えるのが実質的平等でしょうという言い方をしてきましたが、平等がそこまで含んでいる保障はありません。
 特に、金銭的な貧富の格差是正、所得の再分配というのは、結果の平等の達成であるということを明確に明らかにしておかなければなりません。結果の平等は、一遍所得の配分がなされたものを所得移転して、だれかの懐からだれかの懐へ移転するわけですから、ある人の自由の簒奪、ある人の財産権の簒奪によって所得の再分配が可能になるということです。
 ドイツの有名なライプホルツは、自由であればあるほど不平等になるということを言っております。それは、自由と平等が容易に両立しがたいことを早くも見抜いていた学者でありまして、その達見に私は敬服をしております。ところが、日本の憲法学者は、結果の平等というものに今まで気づいておりませんでした。
 自由と平等をどう調整するかですが、これはちょっと難しい話になりますけれども、この調整に初めて成功したのが、ジョン・ロールズの「正義論」です。ジョン・ロールズというハーバードの哲学者がおりますが、それが三つの正義というのを出しまして、順序づけました。第一位が自由、第二位が機会の平等、第三位が結果の平等じゃと。自由と平等というのは単純に並べておくというんじゃなくて、自由が第一位、機会の平等が第二位、第三位が結果の平等、こういう正義を配列して、その正義にかなった国家構造をつくろうではないかというのがジョン・ロールズの構想でありました。
 少し日本の憲法学界でもそれが導入されて、おお、自由と平等というのもいろいろな側面があって、価値序列があるんだなということに次第に気づいておりますから、今後の憲法学者が自由と平等を並列的に羅列的に述べるということはないでありましょうし、もしも羅列的に述べているとすれば、その憲法学者の知性は劣っていると考えてよろしかろうと思います。
 次のページの(2)へ行きますと、第三章はいろいろな基本的人権カタログを並べておりますが、これはあくまで例示にとどまって、それ以外の基本権をも保障しているのだ、これは憲法学界の通説であります。名もない基本権を保障しているわけですから、それを無名権と称することにします、まだ名前はない。まだ名前はないんですが、社会的、経済的な変化に対応して、これを保護しないといけないかなということが次第に気づかれ、学説、判例を通してある一定の名称を持った新しい人権保障がどんどん出てくるというわけです。
 無名権であって、根なし草では困りますから、ある憲法の条文またはフレーズを依拠にして、これはもともとこういう条文の中から出てくるよなという理解の仕方をします。新しい人権の多くの論拠は、憲法十三条の幸福追求権に求められております。
 レジュメの三にいきますと、その幸福追求権の理解の仕方には学説上二つがありますということです。
 第一が通説、判例の立場でありまして、十三条の幸福追求権は人間の人格的生存にとって必要不可欠な利益を保障していると。それが、社会経済的な変化の中で無名権であったものが次第次第に名前を持ってきて、例えば環境権であるとか情報権であるとか文化権であるとか通行権であるとか、そういうものになってくるんだと言います。
 ところが、それはあくまで人格的生存という一定の重みがあって初めて具体的な基本権カタログと肩を並べるようになるのであって、例えば私がここで髪を何度もかいてみるとか首を何度も振るとか、こういう自由をあえて人権と呼ぶ必要がないだろうと。ひげを生やすだとか長髪にするであるとか、そんなのは人格的な生存にとって不可欠でないから、こんなものまで人権と言っちゃいかぬだろうと。たばこを吸うとか、刑務所でたばこを吸ってよいかという有名な最高裁判例がありますけれども、最高裁風に、または通説風に言うと、たばこを吸うというのは人格的生存に不可欠じゃないだろう、そんなのを人権と言っちゃいけないよという切り方になるかもしれません。
 それに対して、二番目は一般的行為自由説というのがありまして、これは人格概念が非常に定着しているドイツにおいて、不思議にも判例、通説なんです。ドイツは、カント以来の人格を非常に重視する国家なんですが、ところが不思議なことに、憲法に明文規定がない場合、一般的行為自由として憲法が保障しているという。
 人権は、人間が理性的で道徳的で人格的であるから保障されているんじゃなくて、人間の限られた知性、その場その場でいろいろなことをやってみて初めて自分の行為の結果を習得してくるんだ、人間の限られた能力、限られた知性で個々の場面においてこうしてみたいと、そうするとその人にとって何か結果がわかる、そこまで自由というものは包括的に保障されているんだというのがこの一般的行為自由という説です。
 例えば、私は広島の出身ですが、広島の平和公園にはハトがいっぱいおりますが、私がハトにえさをやっている、これも一般的行為の自由として保障されると。市の役人が来まして、ハトにえさをやっちゃいかぬというのが訴訟になったとしたら、ドイツの憲法裁判所であるとすれば、ハトにえさをやる自由も一般的な自由として保障されているよと。
 その人にとっては、恐らく人間とコミュニケートするよりもハトとコミュニケートする方が望ましいんですよ。それを、一般的な通常人の人格というものを持ってきて、人格的にどこまで必要なのかというようなことをいいますと、その人の好みというものを無視することになる。人格的かどうかという線引きをしますと、下劣な好みを保障しないということの危険性があるだろうと思います。
 市民社会は限られた知識を持っている人間の実験の場ですから、いろいろなことをやらせてみればええじゃないかと。個別的に何でもやらせてみて、それを人間の自由として、包括的な場として憲法が保障しているのだというのがこの立場であります。
 いずれの立場をとりましても、十三条の幸福追求権はあくまで補充的に出てくる。個別的な基本権があるとそれで勝負をして、それで漏れ出るところがありましたら幸福追求権で論拠を考えるという順序をとることになっています。
 それでは、新しい人権に入ります。
 新しい人権と呼ばれますが、もう相当古い人権で、こういう表題をつけること自体、私は余り好みませんが、幾つかあります。一つがプライバシー、二番目は肖像権、三番目、自己決定権、四番目、氏名権、五番目、環境権、六番目、知る権利、このあたりを私としてはピックアップしてまいりました。
 プライバシーからまいります。
 プライバシーにも二つの意味合いがありまして、一つは古典的なプライバシー、アメリカでは、一八九〇年にウォーレンとブランダイスが「ハーバード・ロー・レビュー」に論文を書きまして、それ以来、プライバシーの権利が判例により、そしてまた州によっては制定法によって承認をされてきましたが、この場合のプライバシーというのは、他人に知られたくない要秘匿事項を他人に知られるということから保護される権利のことです。
 これは、典型的にはマスメディアと私生活という対立関係の中で展開をしてきたことですから、ある論者によれば、マスメディアとの関係のプライバシーだと言います。これは私法上の権利として処理をすれば足る、不法行為の問題として処理をすれば足ると私は考えております。
 もう一つは、コンピューターが出てきまして、秘匿領域であろうとなかろうと、私の氏名、年齢、肩書、ひげを生やしているこの風貌、すべてがコンピューターに入力されてくる。そうしますと、累積効果がありまして、ああ、あの阪本なる人物は、ああいう服装をして、ああいう肩書で、何歳でということになると、恐らく、年収何ぼかな、趣味はこうこうこうだろうかなという、内容領域まで見透かされるような、ちょうどジョージ・オーウェルの「一九八四年」のような世界になるかなと恐れられて、自分の情報は自分でコントロールする権利だという、新しい自己情報コントロール権としてのプライバシーが提唱されてきました。これはアメリカ産でありまして、一九六〇年以降であります。
 自己情報コントロール権の中心部分は、自分の情報を相手方が、特に国家であり大きな組織体であるようなところがファイルとしてまとまりを持っているかどうか、私がそこへ行って閲覧をし、間違っていれば訂正するという閲覧・訂正権を中心とした権利であります。これを憲法学界は、憲法十三条の幸福追求権が抽象的権利として保障していると述べておりますが、私は、自己情報コントロール権は権利ではないと考えております。権利としての具体的な性質を持っていないと思っております。
 各地方公共団体が個人情報保護条例を制定しまして、住民の閲覧・訂正権を認めてきているところでありますが、それに関する裁判例も幾つかありますが、裁判所はこう言っております。個人情報の閲覧等の権利は、憲法十三条によって保障されているものではなくて、条例によって新しく創設された権利であるということです。
 こういうものは、憲法から導き出さなくても、条例を制定すればその条例上の権利であると考えればよろしいのだ。となりますと、この国会に上程されます個人情報保護法においても閲覧権があるとすれば、それはあえて憲法上の論拠を出さなくても、法律上新たに創設された権利であると考えればよろしいので、多くの新しい権利を憲法から引き出そうと、打ち出の小づちのようにそれを使いまくるというのは、冒頭申しましたように、人権の重みというものを結局軽んじ、人権のインフレを招くと私は考えております。
 肖像権についても同じでありまして、肖像権は未成熟の権利でありまして、判例上、肖像権という名称で承認されたことはありません。最高裁大法廷判決を一つここで抜いておきました。「肖像権と称するかどうかは別として、」と裁判所もちょっと留保をつけております。
 時間がありませんので急ぎまして、自己決定権、人によっては人格的自律権と言います。人格的自律権という言葉は、十三条の人格利益総体保障説論者がつける言葉です。私のような一般的行為自由論者は、人格的自律なんという大仰な言葉をつけるなと、自己決定権でよいと考えております。
 人格的利益総体保障説で自己決定権または人格自律権を定義しますと、またここでも人格的生存にとって必要不可欠なみずからの事柄について決定する事柄だということになりますし、もう片方の一般的行為自由説によれば、国家による妨害、干渉を受けないで私個人の私的事柄についてみずから決定する権利だということになります。
 上の方の説をとりますと、例えばマリファナを吸う――マリファナは反復性またはだんだん強いものを求めるというものがないわけですから、麻薬とは一線を画す、アメリカではそういう処遇をされていますが――たばこを吸う、賭博をする、酒を飲む、自分の家でどぶろくをつくる、こういうものは人格的利益にとって必要不可欠じゃないだろうと、上の説はけります。
 それに対して下の一般的行為自由説は、髪型も私の自由だ、同性愛にふけるかどうかというのも私の自由なんだ。危険な行為、山登りをするとかハンググライダーをする、これも一般的行為の自由として私個人にかかわる事柄だから保障されている。散歩するというのも自己決定権、一日何度寝返りをするか、夜寝返りをするかというのも自己決定権、歩き方をどういうふうにするかというのも自己決定権だと考えております。
 判例を見ますと、自己決定権という言葉は熟しておりません。
 修徳高校、私学の高校でパーマをかけたという女性がおりますが、これも自己決定権という言葉を使わないで、私生活上の自由、いわばプライバシーの亜流であるかのような理論によって保障されているといいます。
 重要な最高裁判例が出ました。判例の二の方を見てください。
 エホバの証人で、輸血拒否訴訟。他人の血を自分の体内に注入されることは死の宣告以上であると輸血を拒否した。ところが、説明不十分なまま大学の関係者が輸血をした。これは患者の人格権を侵害する不法行為であると述べました。自己決定権という言葉は述べておりません。この処理も実は私法上の処理でありまして、憲法上の自己決定権を持ち出す必要もないことだと思うております。
 四番目の氏名権、氏名保持権についてですが、国立の図書館情報大学、既婚者が旧姓を使いたいということを言いましたが、公務上旧姓を使うということは人格的生存にとって不可欠とは言えないという人格利益総体説によって処理をしておりますし、また、氏名というのは個人的なものではなくて、社会に開かれている符牒のようなものだ、社会に対してぴょっと張り出している附せんのようなもので、個人の選択問題ではないというのもこの論拠であります。
 NHK日本語読み訴訟最高裁判決がありますが、これは、韓国人の名前を日本語読みされたくないと、精神的な苦痛を覚えたという損害賠償請求事件ですが、最高裁判所は、氏名は人格の象徴であって、人格権の一部である、こういうことを言いました。ただし、これは極端な事例でありまして、韓国・日本との対立の中で、国民感情、国際的な背景があってこういうものが出たんでありますから、この判例を一般化しないことが重要であろうと思います。
 恐らく一番皆さんにとって関心があるだろう環境権に行きますと、通説は、人格的生存を再び出しまして、人間の人格的生存にとって不可欠な自然環境を享受する権利は、十三条と二十五条によって保障されているというわけです。
 ところが、環境権を承認した裁判例は一つもありません。それはなぜか。
 環境権の外延と内包という言葉を使わせていただきますが、環境権というのはどこまでを呼ぶか、中身は何か、こういうものが明確でない限り権利として成立しないのです。中身は何であり、それはどこまで及ぶかという外延と内包が明確でない限り、権利として成立しません。
 知る権利についても同じでありまして、知る権利には、先ほどちょっとだけ申しましたように、消極的な自由権の側面と積極的に見せなさいという側面があるんですが、これの政治部門についてだけお話ししましょう。
 政治部門を名あて人とする知る権利、国民の側の知る権利は、積極的に国の側に対して情報を提供しなさいと、国はファイルを用意して、そのファイルキャビネットをあけるという作為義務を負わされるということですが、憲法通説は、市民自治の要請からして、国民が主権者だから、主権者であることと二十一条の知るという側面からして、知る権利は憲法上の権利であると言うんです。ところが、判例はそれを承認したことはありません。
 そしてまた、情報公開法においても、知る権利を明文化されることなく、国家の側の、また政治部門の側のアカウンタビリティー、責務の問題だということで処理しました。私も、知る権利は、権利の問題ではなくて、責務の問題として処理をすれば足ると思うております。
 このように、問題を処理するときに二つの視点があります。
 一つは、私法上の処理が可能な場合にはそれでやる。二番目は、人権だと言わないで、国家の側の責務だということで処理をすればそれでよい。人権、人権ということを声高に言わなくても、二つの処理の仕方があると考えてみればよろしかろうと思います。
 そこで、最後の、新しい人権をもしも憲法典に組み入れるということを考える際の留意点です。
 一です。私的な自治にゆだねられていること、すなわち市民社会の自律性、これに期待をした方がよろしかろう。市場における自発的な取引に任せた方がいい場合には、あえて憲法的な解決を図る必要がない。憲法は公法ですから、民間部門の市民社会に対して公法的な規制を加えるということは、原則としてしない方がよいだろうと思います。
 二番目は、反復です。私法上の処理が可能である場合には、人権として組み入れる必要がない。できるだけ市場内部の取引で解決をする方法を考えるべきだ。
 環境権しかりであります。環境権という権利を保障するよりも、国家の責務として環境整備いたしましょう、これは権利じゃありませんよ、国家の政治的な方針ですということを憲法典でうたうのはよい。それ以外は、排出権という市場取引に任せて、公害問題を市場において内部化するということをすればいい。公害問題は、外部効果とよく言います。負の外部効果、社会的なコストを生んでいるわけなんです。負の外部効果をもたらすような事柄も市場において内部化する、市場の中へ取り込んでその取引対象にするということをやれば、インセンティブが働いて公害もできるだけ抑えられるであろう。
 公害を法的規制しようとすれば、その専門家が要る。ところが、専門家がやろうとしてもエージェンシーコストがかかる。企業の側は報告書をいっぱいつくらなくちゃいけない。取締役の監督官庁をできるだけ刺激しないように都合の悪い情報は隠すかもしれないという、これはエージェンシーコストですが、こういうエージェンシーコスト等を考えた場合には、政治における外部効果の方が強い。市場における内部化を図る方が賢明であろうと思っております。
 諸外国は、公害問題についても排出権取引という商売を始めたということですから、これで対処する方がより効果的であろうと思います。
 それと不可分ですが、私人間の法的問題に憲法を理由にして公的介入を容認すれば、統治の過剰、市民社会の国家化を呼ぶことになって、閉塞状態となる。また再び日本は過剰な規制国となるであろうと思います。そしてまた、ある人の利益を保護するために介入したときには、ある人の自由を削減するという可能性がある。この規制は、ある人に対する自由の規制でもあるというその両面性を考えなければいけません。この両面の調整に成功していることを、私は、公共の福祉に適合的だと考えています。
 公共の福祉というのは、私たちの基本的人権を乱用するなよというんじゃなくて、この基本権とこの基本権をうまく調整している立法だね、そういう立法をつくりなさいよということを議会に求めているんでありまして、私たちに対して、あなたは公共の福祉を侵害しなさんなということを言っているわけではないのです。公共の福祉は国家機関に向けられている。国民に対して公共の福祉を乱用するなよということを言っているのではないんです。これも憲法学界が公共の福祉に対する見方を誤りました。
 公共の福祉は、人権を制限しようとするときに国家を制限するルールだ。私は、制限の制限ルールという言葉を使っております。公共の福祉は、制限する際の国家を制限するルールだ、国民を制限するルールではないと。
 四番目、私法上の処理ができないときには新たな私法的な立法を考えればよいということです。できるだけ公法規制をやめる方がよろしいだろうと思います。
 もしも新しい人権を憲法の中に取り込みたいということであれば、こういう条件をクリアしていただきたい。まず、その権利は非常にプライオリティーが高い、そして、外延と内包が明確だ、どこで終わるかということとその中身が何であるかということが明確であって、さらに、相手方の憲法上の自由を不当に侵害しないという条件をクリアする必要があって、簡単に、環境権だとか、知る権利である、情報権だ、通行権だという耳ざわりのいい権利を憲法典の中で次から次へ羅列するべきでありません。もしも国家として何かやりたいときには、それは国家の責務だけで、権利保障ではない、国家の責務だということでとめていただきたいと思います。
 最後、公権であれ私権であれ、権利を主張するということは正しいことの主張でなければなりません。そしてまた、それは相手方が特定可能であること、相手方に責務の範囲を明確にしているということが必要だということです。
 私は、社会全体に対して、自分の家を焼かれない権利を持っているなどという権利は主張できません。成立不可能だ、相手方がだれかわからない。権利の主張というのは、相手方が特定可能であり、相手方が何をしてはならないか、また何をすべきかが明確であって初めて明らかとなって権利として主張できるということです。環境権という耳ざわりのいい言葉は、国家や私人に対して、一体、何をしようと、何をしたらいいのかという責務の内容がわかりません。権利として法定するということにはよほど慎重でなければならないと考えております。
 ちょっと時間をオーバーしましたが、申しわけございません。(拍手)
島小委員長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。ありがとうございました。
    ―――――――――――――
島小委員長 これより参考人に対する質疑を行いますが、携帯電話等の御使用は、ちょうど基本的人権の保障等の議論もしておりますが、慎重にお願いしたいと思います。
 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。石破茂君。
石破小委員 本日はまことにありがとうございました。短い時間ですが、幾つか教えていただきたいと思います。
 権利とは何かということで、正しき論拠も持った利益主張でなければならないということで、そうだろうなと思いました。私ども、今、議論を幾つかしておりますのは、憲法との関係で、例えば国家の自衛権は権利か否かという議論がありまして、これは権利だという説と宥恕だという説と両方がある。つまり、権利というものは、それが実現されないときに、何らかの力を持ってそれを実現せしむるという担保がないとそれは権利とは言わないのではないか。つまり、国際社会において、自衛権が守られないからと何を泣いてもわめいても、国連警察とかいう権利があるわけじゃなくて、それをだれかが実現するわけではないから、それは権利とは言わなくて宥恕というのではないかいというようなお話があります。
 私も、一面、そういうことなのかなと思いますが、他方、日本国は集団的自衛権は行使できないという説があって、行使できない権利なぞというものは権利と言うのかね、こういう議論があります。
 そこで、権利とは何なんでしょうねということについて、そういう観点から先生の御見解があればお教えをいただきたいと思います。
 それから、何点かまとめて質問させていただいてよろしゅうございますか。
 権利の章典というもの、そしてフランスの人権宣言というもの、アメリカの最初の憲法というもの、つまり、日本国憲法は一体どの思想を継いでいるのかということを考えてみると、どうも、ルソーの主張というのが結構強く出ているような感じがしないでもない。つまり、人権宣言というものがあって、それは社会契約論みたいなものから出てくるのだろうと思っているのですが、人権なるものが自然法から出てくるという考え方、これは何かおかしな考え方じゃないのかな。
 人間が人間であるがゆえに権利を有するというようなことは本当にあるんだろうか。それを実現する文明社会が存在して初めてそういうことが言えるのであって、人間が人間であるがゆえに権利を有するというのは、一見そうかなと、文明社会に住んでいる我々は思うんですが、それは多分ルソーの主張なんだろうと思うんですが、それは本当なのかねという感じを、何か、最近、幾つかの著作を読んで私は思っておるのです。せめて、それが自然法に淵源を求めるという考え方はもう一回洗い直してみる必要があるのではないかというような感じがしております。
 以上につきまして、御見解を御教示いただければ幸いです。
阪本参考人 第一点ですが、自衛権ですけれども、自衛権は、国家を擬人化しましたから、正当防衛と同じように、自己保存権を持っているはずだ、そうすると、国家が国家によって急迫不正の侵略を受けた場合には、自己保存権としての自衛権を持っているという説明の仕方がありました。
 ところが、これは二つの点で間違っております。
 一つは、国家を擬人化するというのは安易な発想で、国家は人間とは全然違う。その意味で、自己保存権ということを国家について言うということが間違っています。国家は実体として存在しません。政府機構やそれを担当する人々は実在しますが、国家は統治の機構を透かして見える抽象物でありますから、国家が自己保存権を持つというようなことはありません。
 たとえ何か持つとしましても、自衛権は、実は権利ではなくて、急迫不正の場合に、反撃する行為をその相当の範囲でやった場合には違法性が阻却されるという理屈であります。ところが、国際社会は、自衛権を権利であるという名称を付すことによって、不戦条約やその他の条約の加盟国をできるだけ多数にしようとするために、あえて自衛権という言葉を使ったのです。法的な正確な理解としましては、自衛権は、権利ではなくて、違法性阻却事由だと考える方がよろしかろうと思います。
 集団的自衛権につきまして、私は、存在するのだが行使できないというこれは、あしき法律家のペテンだ、詭弁だと考えております。権利は行使可能であって初めて権利となり得るんです。ただ、それが、国際社会の場合には、裁判所によってエンフォースされることがないという意味では通常の権利とは違いますけれども、集団的自衛権は国連憲章によって当然認められているわけですから、そろそろ、集団的自衛権もあるのであれば行使してよい、個別的自衛権があるとすれば、それで行使できるとすれば、集団的自衛権も行使できるというのが平仄の合うことだろうと私は考えております。
 二番目の、人権に対する基本的な見方ですが、フランスの人権宣言、特にフランス革命時のフランス人権宣言は、正確には人及び市民の権利宣言なんですが、これには二つ重要な、人及び市民、人は人であれば当然に保障されるということ、それから、市民、シチズン、シトワイヤンであって初めて保障されるという二つの権利の性質がありますよということを言ったわけで、自然権思想さながらではないということなんです。しかし、その違いはあるにしても、自然権思想、社会契約論に深く彩られておるということはもう否定できません。
 ところが、フランス人権宣言の流れとアメリカのビル・オブ・ライツの流れは全く違うと言っていいでしょう。これは、私が去年かおととしか出しました「「近代」立憲主義を読み直す」という本がありますが、フランス人権宣言とアメリカの権利保障の流れを直線的に理解するという考え方は間違っている。どちらが自由の確保また人権の確保に成功したかというと、明らかにアメリカだ。フランスのあの急進主義的な、平等主義的な人権の保障体制というのは確実に失敗をしました。これも、私はヘーゲルが大好きで、ヘーゲルは、無限定の自由をフランス人権宣言で保障しようとしたとき、それは何ももたらさないと予言して、そのようになりました。
 ところが、アメリカの場合には、アメリカのビル・オブ・ライツは、スコットランド啓蒙思想の影響を受けております。アダム・スミス、デービッド・ヒュームの話を先ほど言いましたが。この影響を受けて、経験的なもの、自由というのは、伝統の中で生まれ出るもの、本来的に人間がこうであるから当然持っているというものではない。伝統的に培われているもので、人為的につくろうとしても無理。自然に、おのずからあると言っても無理。伝統の中でだんだん浮かび上がってくるもの、歴史の中で淘汰されて生き残ってきている自由が一番重要なのだということを言って、それを保障しようとしたアメリカの流れがあるわけです。
 アメリカは、決して社会契約の国ではありません。メイフラワー号でどうのこうのと言うのですが、あれは宗教上の儀式ですから。アメリカの建国は、イギリスの伝統に戻りたかったのです。
 フランス革命は、完全なリボリューションです。リボルトというのは、リボルバーと同じように一回転して戻るのですが、フランスのリボルトは戻りませんでした、完全にがらりと変える。ところが、アメリカのリボリューションは、イギリスのよき伝統に戻る、リボルトすることが目的だったのです。この意味で、アメリカ流の人権の見方とフランス流の人権の見方は全く異なると考えていいでしょう。
 アメリカの上院はセネットと言います、元老院ですよ。ああいう元老院の保守的な中心部分をつくっておくということが大衆民主主義に対する歯どめになると見たのです。権力分立についても、急進的な権力分立ではなくて、国民の参加はごく一部にしておくということによって、激情が政治の中に流れ出ないように歯どめをした。建国の父たちは実に偉大だと私は考えております。
 それを振り返って、日本のことを考えますと、日本は、ルソー・ジャコバン主義の自然権、社会契約、そのための国家、これはもう壮大なるフィクションで、何の論拠もありません。人が人であればというようなことはないので、人は生まれながらにして自由、平等だというのも、これも宗教上の信念であって、人は生まれながらにして千差万別だということがあって、その人間が個別的であるということが重要です。
 私の能力と皆さんの能力とそれぞれ違うから、それぞれにおいて比較優位を実現して、先生方は政治家になり、私は適性のない学者をやっていてというような、そういう分業体制ができるというのは、まさに人間は生まれながらにして平等でないから、その不平等であるということを寛大に、それでまたそれを自由に開放しておくということが重要なので、日本国憲法の例の自然権、社会契約で、人権というのは前国家的なものであるなどというつまらないお題目はもうそろそろやめた方がいいと思います。
石破小委員 済みません。質疑時間が十分しかございませんので、また後ほどの自由討論の時間で機会を与えていただけると思います。ありがとうございました。
島小委員長 次に、小林憲司君。
小林(憲)小委員 先ほど来、先生のお話を大変興味深く聞かせていただきました。
 私は、先生の論文を事前に少々読ませていただきまして、教育に関する権利について述べられているところがございましたが、これは大変興味深く思ったのです。ベッカー教授の、すべての産業を活性化するのに必要なのは競争である、この原理は教育にも通じるとの考え方を紹介されてみえまして、要するに、教育バウチャーですか、クーポンを発行して、受けたい人がそのクーポンを買って、自分たちで、教育を受けたい親または生徒が学校を選択していく。
 こういうことをもし本当に、今実際に少子化になってきまして、私学も個性ある教育をしていこうということでいろいろな特色を持って教育サービスをしておりますが、まだまだ日本の国においては私学助成法などによって、教育を与える方の権利が強いわけです。教育を受ける方の生徒及び親が選ぶという状態になった場合に、私学は別といたしましても、国立の学校などは、どんな教育制度に変えていったら、一番教育バウチャー制度を導入した場合に変わっていくのであろうかということを、学校制度のあり方について先生の御見解をお伺いしたいと思いますので、よろしくお願いします。
阪本参考人 これが来ましたか。
 教育を考える場合には、義務教育レベルとそれ以上の教育レベルというものを考えなければいけません。
 義務教育というのは、すべての人間が最低限の教養を身につけるということの外部効果といいますか、それが必要ですから、全員が同じような知識を持っていればうまくコミュニケートできるということですから、義務教育で強制をするということは、これは自由な国家においても必要なことだろうと思っております。
 それ以上の、大学であるとか、それからこれからできてくるかもしれません法科大学院においても、国家が助成をするということは、私は反対であります。
 それは、個々人の経済性を高めるためのそれでありますから、自己責任で個人が奨学金なりまたはローンを組むなりしてどんどん自分でやるべきだと思っております。その際に、国立と私学は、基本的に対等なスタートラインで、対等な条件で競争するということが望ましいと思っております。
 対等な条件でということを考えるときに、私が発想したのが、親または子供に対してクーポン券を与えるというやり方なんです。私がクーポン券を持って、私学であろうと公立であろうと、自分が受けたい学校に対してそれを持っていって授業料の一部にしてもらうというやり方をする。
 教育の内容は学校によってそれぞれ違いまして、かなりバリエーションがあって、自分は英語ができるような中学校へ行きたいなというと、小学校から英語をやっているようなところへ行きたいなという選択をする。自由というのは、選択の幅があればあるほど自由ですから、クーポン券でその選択をするという制度がよろしかろうと思います。そうしますと、クーポン券を獲得しようとして、国立であろうと公立であろうと私学であろうと、競争をして、より良質の教育サービスを提供するのではないか。
 ところが、それに対して今の私学助成は、親、子供ではなくて学校側にやるわけですから、学校は競争しなくても一定の財源をもうける。競争しなくてもええよ、工夫しなくてもええよという制度をつくり上げているようなもので、これは私はよろしくないと考えております。
 教育制度をどうするかということは私にはちょっと力量の及ばぬところで、クーポン制にした方が、国立であれ私学であれ、担当の教師が創意工夫をして、よりよき子供たちをつくるようやるのではないかなと考えているわけです。
小林(憲)小委員 ありがとうございます。
 次の質問ですが、大変抽象的なことかもしれませんが、先生にぜひともお尋ねしたいのですが、最近、グローバルスタンダードという言葉のもとにおいて、大きな力を持った国が世界に対して大きな力を持つというような現象があると思います。
 その場合に、憲法というのは、国が国民に対しての約束、国民が国に対する約束。その中で、新しい国はやはり多種多様な文化や人種が入ってきているわけですから、多種多様な人たちをまとめるためにルールで社会を縛っていかなければいけない場合もあります。
 しかしながら、我が国のように、長い民族の歴史とその魂によって成り立ってきた、哲学的な流れを持ったそういう場合において、違う社会があるわけですが、これがまたグローバルスタンダードという言葉において、二十一世紀いろいろな世界的な動きがあった場合には、これは自国の憲法に対する権利が失われるということではないかと思うのですが、いかがお考えでしょうか、教えてください。
阪本参考人 国際化という言葉とグローバリゼーションという言葉は相互に区別すべきですが、国際化というのは、国家間がいろいろな連携を持つ。ところが、グローバリゼーションというのは、国境を無視した動きになるという話で、国境が無視されたときに、国家そしてまたは憲法が今後どうなるかという御質問でしょうけれども、私は、国家がグローバリゼーションによって揺らぐということはないと考えております。
 国家というのは、もう何千年もの歴史を持って、これまた人為でもない、それからナチュラルなものでもない、いつの間にか出てきた人間の新しい創作物といいますか、いつの間にか出てきたもので、それが国内においてさまざまな重要な役割を、国家でしかできない役割をしていると考えております。
 その重要な役割の何といっても最大のものは、公共財の提供です。だれに対しても利用可能な公共財、教育もそうですし、道路、港湾もそうです。そういう公共財を提供するというのは、国境が明確にあって、納税者があって、それをファイナンシャルな資源として吸収して、それを公共財を提供する財源とするというこのメカニズムは、恐らく何十年、何百年不動のものとなって、いかにグローバリゼーションが進んでも、国家という単位、そして、そのまたやるべき役割というものは不動であり、NGOとNPOでいろいろ喧伝されておりますが、それを法上認めるのも国家ですから、国家の役割が軽くなるということは決してないと考えております。
 そうしますと、国の形をどうするかですが、私の個人的な趣味は、国は公共財の提供に徹するということをやれば、市場は活性化して、その市場はグローバリゼーションにうまく乗っていける。しかし、国家がグローバリゼーションの俎上にのるかもしれないという発想をする必要は、私はないと思っております。国家の問題は国内の問題と国際化の問題、グローバリゼーションは市民社会、市場の問題だというふうに線引きをしてやればよろしいのではないか。
小林(憲)小委員 ありがとうございました。
島小委員長 次に、太田昭宏君。
太田(昭)小委員 大変興味深くお伺いしました。公明党の太田です。
 端的に、新しい人権ということついて、人権のインフレ化というのはよくないということで、きょうは大変僕は勉強したんですが、先生がお考えになっている新しい人権として確立するものがありますか。環境権はそういうものではないでしょうと、プライバシー権もそうではないでしょうというような話がありましたが、先生が、これは新しい人権の範疇に入るものだと思われるものがありますか。
阪本参考人 新しい人権としてですか。
 私にとって、今の日本社会において必要な新しい人権は思い当たりません。ほとんどの場合、私法的な処理で足ると考えております。
太田(昭)小委員 きょうお話しの、人格的利益総体保障説の通説と、一般的行為自由説という有力説というものは、どっちが正しいとか正しくないとか、この比較というのは、どういう位置づけに両者はあると考えたらいいんでしょうか。
 つまり、人格的生存にとって必要不可欠だという重みが加わって初めて人権たるという前者のものと、後者のドイツにおける通説というのはぶつかっているような気がするんですが、並立するものなのか。先生自身はどちらの方が正しいとお考えなのか。どういう位置づけを両者はしたらいいんでしょうか。
阪本参考人 人格的利益保障説は、まさに自然権論をベースにしているものだと考えたらよろしいでしょう。人間は、自然状態において理性的、人格的、道徳的なものである。これはジョン・ロックの自然権理論さながらです。その人間の人格に必要不可欠なというその重みを、ハードルを越えているものが、日本国憲法の第何条の何々権、何々権、何々権としてあるはずだ。そうすると、そのハードルを越えるぐらいの重みを持った新しいものだけを人権として保障すればいいのだというのが前者の立場です。
 それに対して、後者は、人権は、人間が道徳的であろうとなかろうと、その人がやってみたいなと思うチャンネルを国家として開放しておいて、その中から新しい試みも出るだろう。また、その人にとってはハトにえさをやるということが非常に重要なことかもしれないね。一般的平均的な人間像を想定しないで、その人にとっては重要だよ。例えば、私がバイクに乗るのに、ヘルメットをかぶらないで髪をすぱっと逆なでながら運転しているとき、ああ、生きているぜと、こう思えば、それを、何か他害に及ばない限り、自由と呼んでいいじゃないか、保障してやれよという出発点があるのですね。
 ということは、この二つは、要するに人間の見方の違いなんです。人間というのは無知で、非合理なこともするだろう。非合理、無知だということから切るんじゃなくて、他害に及ぶかなという段階で、その自由を、ああ、だめだよ、ここで終わりだと言えばよいというのが後者の立場だと考えていただければいい。
 私は、後者が正しいと考えています。
太田(昭)小委員 日本国憲法というものは、私は、十三条、人間の尊重とかそういうことは、このでき上がったときの経過ということもあるでしょうが、いわゆるヨーロッパ近代という、フランス革命以来、人間は自由で平等で尊厳なるものであるという、アプリオリな、そうしたことからかなり色濃くそれが出ている。
 私は、先生がおっしゃるように、人間は、生まれながらにして自由でもなければ、平等でもなければ、差別と宿命の呪縛にとらわれてきた存在である、こういうとらえ方をしていますが、日本国憲法は、先生が考えるようなこのBというドイツにおける通説ということからいきますと、ちょっと、全体の体系が、どこにどうということではありませんが、色合いとして違ってきているのではないか。
 これは、憲法が制定されたときの問題から当然あると思いますが、日本的な文化、伝統というものとヨーロッパ近代を接ぎ木したという表現があるのですが、そういう欠陥があるというふうにお考えでしょうか。
阪本参考人 別に欠陥とは思っておりません。
 ドイツの憲法は人間の尊厳と言い、ところが、日本国憲法十三条は個人を尊重すると書いております。人間の尊厳と個人の尊重というのは重大な違いがあると思っております。
 このことは、憲法学界の相当数の人間が言うわけで、日本の言う個人の尊重というのは、類としての人間を尊重するというドイツ流のそれではなくて、個々人の持っている個別性、違い、可能性、それを尊重するという意味だ。それは、私が言いましたように、私と先生方の適性であり、能力であり、すべてが違うわけですから、その個別性を尊重しよう、私は、それが正確な意味での個人主義だと思っております。
 日本国憲法の十三条というのは、個々人がその望むところを自由に許され行動すれば、何か望ましいものが登場するのではないかという意味の個人主義。個人主義は利己主義というあしきニュアンスを持っておりますが、そうではなくて、個々人の個別性を承認し、それを許し、個別性を社会の過程の中で実験して、誤りは社会過程の中で流して初めてわかるわけですから、そういうことをしてみなさいという開放社会というものが十三条の前提にあるのだというのが私の理解で、これは、憲法学界でも体系からすると相当違うんです、はっきり、比べると。おっしゃるとおり、体系は今までとは違います。
太田(昭)小委員 東洋の思想、哲学という中には、人間というものをジンカンというふうに読んで、人と人との間、関係性、仏教哲学ではこれを縁という形にしたりして、その人と人との間としての人間、つまりジンカンというとらえ方があるわけですね。その人と人との間柄という、和辻哲郎さんなんかも人と人との間の倫理学という中でも言っているわけですが、そこに、単なる人と人とだけではなくて、環境ということもまた人と人との間、動物との間も人と人との間という範疇の中で人間観をとらえるというものが私はあるんだというふうに思います。
 その中から、環境と人間存在の一体感というものがエコロジカルな視点として出てくるわけですが、基本的人権というものが、これが確立されない、人権ではない、余りにもあいまいでもあるということであるならば、憲法の前文とかいうような形で、その環境というものが極めて大であるという表現の仕方が、私はこれから必要ではないかというふうに思っているわけなんですが、先生いかがでしょうか。
阪本参考人 私はスコットランドの啓蒙思想の話をしましたが、ヒュームであるとかスミスであるとかは、人間の本来的な性質はソーシャルなものだと断言しています。確かに個別性があるんですが、その個別性というのは、ソーシャルの中で人の交わりを繰り返すことによってわかる。個人主義というのはそこまで含んでいるんです。ソーシャルな存在であって、ホッブズのような原子論的な人間ではないのだという出発点が、アダム・スミス、デービッド・ヒュームにはあります。
 そこのときに、人間相互が社会の中で動く、その条件を考えましょうと。まず、私たちの主観的な条件を考えましょう。人間の知性は限られているねと。見通しはないわけです。人間が万能であって人格的であれば法なんか要らない。人間はなぜこうやって法の中に生きるかというと、見通しがきかない、何をやっていいかわからない、ルールを破ってしまうような不届きな者がおる。主観的な条件は、知性は限られ、寛容度も限られということです。
 次に、環境を考える。環境を考えたときに、我々が活用できるリソースは限られている。必ず人間は希少性問題に直面するわけですよ。では、希少性問題に直面したときに我々はどういう行動をすべきかということを、スコットランド啓蒙の父は考えた。そうすると、自然状態でパラダイスのような、そういう状態を考えるのじゃなくて、希少性問題に直面した人間はどう行動するであろうかと。合理的な行動というのは、恐らく自分にとって、自分のプリファレンス、自分の好みを最大化するような行動をするであろう、これが彼らの人間関係と私権、環境の中の総体的な人間の見方です。その点は、個人主義という名前を使ったときに人々はよく間違うんですが、そこまで射程に入れた個人主義の思想であるということは御理解ください。
 次は、環境問題なんですが、環境がこれだけ、これも希少性問題に直面しているわけですよ。よき空気、美しい景観というのもどんどん希少財となっている。そうすると、希少財を財産権的な扱いをしながら私法上処理していくか、または憲法の何かのところで、国家の今後の責務としてうたい上げる。うたい上げる必要は特に私はないと思っております。二十五条の二項は、まさにそれをねらっているわけですから。環境整備に国家が努力すればよいということを恐らく含意しているわけですから、解釈上、エコロジカルな国家の環境整備というのは何とか処理できるのではないかと思います。
太田(昭)小委員 ありがとうございました。
島小委員長 次に、武山百合子君。
武山小委員 きょうは、新しい人権ということで、いろいろと勉強させていただきました。
 まず、先ほどのお話の、自由と平等という考え方の中で、自由権といわゆる社会権は両立しないというお話の中で、結果の平等という話が出たんですけれども、日本では、まさにこの平等というそのものの考え方を非常に履き違えておると思うんですね。なぜこのように履き違える社会になったのかというところを、先生の見解を聞きたいと思います。
阪本参考人 近代立憲主義が成立したころは、自由、平等をできるだけ形式的にとらえて、みんなが、今皆さんの財力であるとか、地位であるとかというのをチャラにします。国会議員であれ、私であれ、だれであれ、いろいろな生活条件をチャラにして抽象化したら、それは人ですよ。人であるということを法人格と言うんですね。法人格は全員が持っているわけですから、それを形式的にとらえたときに、自由、平等な法主体であるとやるのです。これが基本権の単位なんです。みんな一人として法主体だと数えられるわけですから、一人として数えられ一人以上には数えられないというのが、これが正義です。形式的な正義で、ジェレミー・ベンサムは、それを正義の基本としたのです。
 ところが、一人として数え一人以上に数えないという形式に対して食らいついたのがマルクスでした。抽象的に考えちゃいかぬでしょう。人間の具体的な生活状況を考えたら金持ちも貧乏人もおると。そうすると、自由や平等を形式的、抽象的に考えてきた今までの法学がブルジョアジー法学だったんだ。人ではなくて具体的な状況を考えなさい。富める者富めない者というものを考えたときには、自由、平等というのは、これはブルジョアたちのイデオロギーにすぎなかった。そうすると、自由や平等の中身を考えることなんだと。
 私は表現したい、しかし輪転機を持っていないとなったら、マルクス主義者は、あなたは表現の自由を形式上持っているが、しかし実質上表現の自由を持っていない、実質的自由でない、こういう言い方がある。平等についても同じです。私は年収三百万しかない、そうすると、あなたはビル・ゲイツと比べて中身を見たら何の平等でもないんだと。そうすると、実質的にいって平等ではないという言い方がある。
 自由や平等の形式ではなくて、抽象化ではなくて、中身を考えることになる。そうすると、自由や平等は財に対する請求も持っておるんじゃないか、表現の手段に対する請求も持っているんじゃないかということになります。そうすると、ソビエト憲法は表現の自由を保障して輪転機やインクも貸しましょうという保障をする。ところが、それは国家体制を乱さない範囲でという条件をつける。こういうふうに、自由や平等が形式的ではなくて、どんどん中身や手段、有効な行使の方法というものまで権利の射程に取り込んできた。これが間違いである。
 大体、私がどれだけの機会コストを負担して表現をするかというその心持ちや、実際に負担するコスト、全員が違うわけですから、そこまで実質を云々して平等化しようとしたら、まるで監視社会です。そういうことをすると国家統治の過剰になる。
 そこで、もう一度、自由や平等は、一応スタートラインの人だということでよいと。それを競争させておいて、差がつく。この差がつくということが実は重要なんですよ。差がつかない社会というのは、私がイチローと同じようなバッターだったらどうなるんですか。みんながイチローだったらイチローおりゃしませんよ。差があるということが重要だ。それが個別性という意味ですからね。それがインセンティブになるわけです。
 市場は差をつける。相対的優位ということで差をつける。この働きを、弱肉強食の世界というああいうまやかしの議論をしてはいけません。比較優位の構造を全員に発見させるんです。そうすると、私はまだこれに劣っているな、こっちをやりたいんだけれども、ああ、しかしビル・ゲイツには勝てないかな。それじゃ学問をやるかなというようなことをやるんですよ。
 ところが、今の社会は、競争させておいて、格差がついちゃいけない、それで、一番この辺にあるものをやらないといけない。自由にしておれば、ちょうど、磁石の周りに鉄粉をぱあっとばらまいたらパターンができる。市場というのはその自由なパターンなんですよ。そのパターンを変えて、入れかえるともうぐちゃぐちゃになるんです。結果の平等を、国家がパターンつきの社会を考えて、自由に配列された磁石の鉄粉を一々書きかえるという社会だろうと私は見ております。
武山小委員 世間一般に、人権人権と言って、本当に権利を主張している人が大勢いるわけです。最近の新聞の中で、公立の学校の音楽の先生が、卒業式に国歌斉唱の伴奏をしなかったというわけです。それで、教育委員会も処分をしない、県も処分をしない。ここ数年そういう状態が続いた。その先生は、私は、国旗掲揚、国歌斉唱に、人権を無視して反対だということで、音楽の先生としてピアノを弾かなかったということが新聞記事に出ておるんですけれども、こういう場合の人権と、先ほどお話しの公法という意味、国家、市民社会という意味では、どう先生は位置づけておりますでしょうか。
阪本参考人 それは公立高校ですね。
 我々の生活は、市民社会において活動する場合と、ある組織体に入って生活する場合とあります。私は公務員で、国立大学の中で勤務するときにはその階層構造にあって、公務員であるがゆえに私の持っている市民的自由は当然に制約されるという局面にあります。そういうのを、従来の法学では特別権力関係と呼んできました、または特殊な法律関係。
 我々がある組織に入りますと、一般的な市民自由をそこでは断念して、その組織にふさわしい、その秩序の中で生活をしないといけない。人権の問題というは、組織以外で我々が一般的に生活をしているときに、私は国歌・国旗に対して反対だ、こういう自由を主張するのならばいい。ところが、学校という組織の中に入って一定のヒエラルヒー構造にあり、一つの役割を背負った人間が市民社会における権利主張をここでするということは間違っています。
 組織の中における行動と市民社会における行動というものは、人権主張の程度、やり方が違っているということを大学では教えるはずなんですが。
武山小委員 それではもう一つ、知る権利の分野で、政治的部門ということで先ほどお話を聞きましたけれども、国民の側の積極的情報受領権ということですけれども、国民の側ももちろん積極的に知りたい、政治の状況を、国家の機構を、政策を。と同時に、また、知らせる権利も持ち合わせるべきじゃないか、国家の方も、また行政機構も。それは国家の責務じゃないかと、私自身は、説明責任と同時に、これは立法化すればよいということですけれども、知る権利と知らせる権利とやはり両方必要じゃないかと思いますけれども、先生の見解はいかがでしょうか。
阪本参考人 これはもう法上処理済みでありまして、情報公開法の中には、積極的な情報提供と請求がありたる場合の開示請求と二本立てになっておりますから、それで十分対処しておられるはずです。
 国立大学でも、国立大学設置法で、大学は説明責任を果たすべく、請求がなくても、さまざまな事柄、財政状況、人事、それから入試、その他について国民の側に積極的に情報提供するようにということがうたわれておりますから、これは別に矛盾するものでもなければ、一つの法制の中ですべて処理可能な事態です。
島小委員長 時間が来ておりますので。
武山小委員 どうもありがとうございました。
島小委員長 次に、春名直章君。
春名小委員 日本共産党の春名直章でございます。きょうは、貴重なお話を本当にありがとうございました。
 単刀直入に教えてほしいんですが、サミット参加七カ国ありますね。その中で、基本的人権の条項、第三章、三十条にわたって日本の憲法はあるわけですけれども、他の国との比較で、基本的人権の条項というのは日本の憲法はどういう特徴を持っているのか、先生の御見解を教えていただきたいと思います。
阪本参考人 そのすべての比較をやったわけではありませんので何とも言えませんが、日本国憲法は、基本的人権の保障規定をかなり詳細に数多く持っているということが第一。第二は、まあアメリカの影響なんですが、逮捕等の刑事手続保障、三十一条から四十条まで全部それですから、手続保障に関して非常に詳細であること、これが第二。第三は、社会権規定に関してかなり詳細なものを持っているということです。
 アメリカは社会権規定はありませんし、人権保障規定、ビル・オブ・ライツというのは一条から基本的には十条までですから、南北戦争で修正十五条まで入りましたけれども、アメリカにおいては非常に簡素で自由権だけを持っているということからしますと、日本の憲法典、特に人権保障の部は、詳細で、社会権規定を持っている点、手続規定を多く持っている点、これが特徴だろうと思います。
春名小委員 ありがとうございました。
 それで、きょうの議論の中で一つの核心の部分の十三条の幸福追求権のことで少し教えていただきたいんです。
 私の聞きかじった勉強では、初期の十三条の学説は、その名のとおり、個人の自由、生命、幸福追求の権利、人権一般原則としての宣言といいますか、表明というようなものとして理解されていたと思うんですが、同時に、最近、とりわけ六〇年代以降になると思いますけれども、今お話があったように、具体的権利性がその中で承認されるように変化してきているということではないかと思うんです、人格的な利益説と一般的自由説の対立があるにしても。そういうふうに変化してきている背景、そこはどういうふうに認識したらいいんでしょうか。
阪本参考人 今おっしゃるとおり、六〇年代までは、宮沢先生を中心にして、十三条幸福追求権は自然権思想を確認したものだ、または、十四条以下の個別的な人権のベースにあるその理念を原理的に宣言したものであって、幸福追求権そのものが独立の権利を保障したものではないと言われました。
 ところが、ある時期から、一つは、公共の福祉というフレーズが、同じ十三条の後段にありますね。この公共の福祉が法的な統制力を持つという理解を皆さんするようになったんです。十三条の公共の福祉は、単なるお題目ではなくて、それによって人権を制約する法的な力を持っているんだ、法規範だ、法的な意味合いを持つ。そうすると、同じところに羅列されてある幸福追求権というのも、単なる倫理、原理原則の言葉ではなくて、法的な意味合いを持っているはずだな、これが第一ですね。
 第二に、十三条の前段と後段、「すべて国民は、個人として尊重をされる。生命、自由及び幸福追求」を……。幸福追求を原理、宣言だとすれば、個人の尊厳と同じことになりますよ。個人の尊厳、人間として尊重されるという原理原則と、もう一回後半に同じことを言う。二度同じことを並べているような条文というのは意味がないな。前段が原理原則を、それを受けて後段が幸福追求権という理解の仕方をする方が条文としては整合的かなということ、これが第二点。
 第三点は、幸福追求権は、何といいましてもジョン・ロックのプロパティーライトに淵源を持っている。そうすると、プロパティーライトというのは、生命、自由、財産その他の権益を総称するという意味合いで使われてきたはずだ、そのように、ロックに忠実に理解をすれば、単なる原理原則、訓示規定という理解の仕方をしない方がいいだろうと。これです。
 以上です。
春名小委員 その御質問をさせていただいたのは、私の問題意識の中に、明文にはプライバシー権などないわけですけれども、一つは、国民の運動といいますか、環境権という問題も、やはり公害が出てきて環境を守るという訴訟の運動があって、その運動の根拠として憲法十三条の幸福追求権や二十五条を活用して、国民が運動するということを通じてその中身が具現化していく、そういう過程が私はあるように認識しているんですが、そのことは、背景としてはどうなんでしょうか。憲法学界ではどういう議論になっているんでしょうか。
阪本参考人 憲法学界で、環境権にしろ知る権利にしろ、これは政治運動用の道具であるという正面切っての批判はまずありません。それを言うのは私ぐらいのものです。
 恐らく、真剣に、憲法学者は、環境権は十三条と二十五条によって保障されている、知る権利も二十一条と国民主権原理からして保障されていると理解をしているようですね。
 私は、それは、政治運動論、つまり、もう少しやわらかい言葉で言いますと、法律の必要性を論拠づけるというロジックであれば十分私も納得する。しかし、それが人権であるかとなったときには、先ほど申しましたように、内包と外延、相手方の責務というものが本当に明確であるかを問い直してください。そうすると、法の言葉としては人権だと言わない方がいい。政治運動上のあれであるとすれば、人権だ、人権だと言えばいいのかもしれませんが、しかし、それを憲法学者が相乗りして、人権だ、人権だと言うことは、人権の重みをみずからそぐと私は危惧をしておるわけです。
春名小委員 ありがとうございました。
 憲法で規定されている人権の規定と現実の法律のそごの一例として、一点だけちょっと聞いておきたいと思うんですが、通信傍受法という法律ができまして、ことし一月にそれが実施をされたという報道がこの間されておりまして、そのときに、憲法第二十一条の通信の秘密、それから、きょうお話があったプライバシーの保護の内容をなすものなんですが、同時に、三十五条の令状主義などをじゅうりんするのではないかという議論が国会でもかなりされました。
 憲法の規定と法律のそごの具体的な一例として私は挙げているんですが、憲法学界では、例えばこの通信傍受法などについてはどのような御議論がされているのかを教えてください。
阪本参考人 この法律は、一九六〇年代、アメリカにオムニバス・クライム・コントロール・アクトというのができまして、組織犯罪について、一定の期間、裁判官の発付する令状に基づいて、犯罪の会話が回線を通してなされることの可能性があれば、何十日間、最大三十日か何かだったですが、通信傍受できるという法律ができました。
 それを基本にしてなされているもので、学界においては、一部、違憲だ、または違憲の疑いが強いという意見もありますが、恐らく多数派の憲法学者は、法に定められている一定の要件、組織犯罪で重大犯罪にかかわり、そして傍受令状に基づいて一定期間こうこうこうで、それで立会人を置いて、犯罪が回線を通してなされる可能性が思料される、こういう条件があるとすれば、違憲ではないと考えていると私は判断をしております。私も違憲論ではありません。
春名小委員 時間が来ましたので終わります。
 どうもありがとうございました。
島小委員長 次に、原陽子君。
原小委員 社会民主党の原陽子です。
 きょうは、先生には貴重なお話をいただきまして、ありがとうございます。
 きょうお話を聞いていて、阪本先生は、憲法に論拠を置く権利のインフレについては反対のお立場にあるとお見受けをしました。自己情報のコントロール権については、条例などによって新しく創設される権利であるという考え方も、私は非常に興味深い考え方だなと思ってお話を聞かせていただきました。
 これは私の考え方なのですが、国民がさまざま持てる権利というものは、個々の法律の中にやはり具体的に書き込まれていくべきではないかと思っております。一人の国民が何か困った状況に陥ったときに、その法律を盾にして一体何ができるのか、どのように自分の権利が主張できるのか、もしそれが侵害されたらどのように救済が可能かということが、わかりやすく書かれていることが私は重要だと考えております。
 ここで一つ例を挙げさせていただきたいのですが、私、つい最近まで環境委員会に所属をしておりまして、その中で、土壌対策基本法という新しい環境に関する法律が衆議院を通過しました。その中で、野党共同で、土壌の調査に関しては住民の方からも都道府県知事に調査をしてくださいと申し立てることができるという権利も修正案として出したのですが、これはちょっと残念ながら否決されてしまったんですが、先ほど阪本先生は、憲法に環境権が書き込まれることは必ずしも賛成ではないということを述べられたと思います。
 確かに、環境権という言葉が入ったとしても、それが具体的に法律に生かされなければ、こうした複雑化した社会の中では、一人の国民が、自分は何ができるのかということが非常にわかりづらいのだと思います。個々の法律の中で、その権利というものがはっきりと書き込まれていかなければならないということを、私はきょう思いました。
 ここで一つお尋ねをしたいと思っておりますのが、先生が先ほどお話しの中にありましたプライバシーに関してです。
 先ほど、自己情報コントロール権についてお話をなされておりましたが、情報公開法が施行されていろいろな請求が行われている中で、プライバシー情報というものを不開示にされている例が出てきております。
 プライバシーというのは、時の権力とか社会情勢で変わるということを私は聞いたことがあります。一方、変わってはいけない一定の線というものもあって、恐らくそれは憲法の中で、人権とか信条、性別、社会的身分、門地というふうに言われているものだと思いますが、今のこの現代において、政治的そして経済的または社会的関係において侵害されるべきではないプライバシーというものを先生はどのように位置づけておられるか、教えてください。
阪本参考人 一つの質問に三つぐらい論点を出されましたね。
 環境の問題ですが、何ですか、土壌対策基本法ですか。これは、だれがだれに対して土地の調査をしろ、どういう場合に……
島小委員長 それでは、原君、説明をしてください。
原小委員 大まかに内容を言いますと、要するに、汚染があったと、健康に被害を及ぼすおそれがあるんじゃないかと思われる土壌に関して、この中では、都道府県知事がその汚染者に対して調査命令を出すことができるという内容になっております。その中で、私たちは、住民もそこに、おそれがあると思った場合には、調査をしてくださいと言うことができる権利というものを盛り込みたいと思ったということです。
阪本参考人 なるほどわかりました。
 今言われたように、環境権という大きな概念ではなくて、こういう場合にはこういう手続参加権として法定される、こういう個別的な条文として生かされるべきで、憲法の中に環境権だという大きな概念を持ってきても役に立たない。また、それは混乱を呼ぶ、エージェンシーコストをやる、また行政機関が要る、過剰な統制の可能性が出る。それよりも、こういう個別的な法令の中で、具体的な、何々ができる、これができる、これができるということを詳細に検討することが立法府の役割だと私は考えています。
 自己情報コントロール権についてですが、情報公開法の中で、自己情報、個人を識別する情報は不開示だということなんですが、私はその理屈がわかりません。これはちょうど氏名権を保護するというのと同じで、私の名前が公文書に出てきたら、私は公務員の場合ですから簡単には言えませんが、私の名前が出てきたら黒塗りするという、なぜだろうかと、私は理解できないんです。
 個人の名前はなぜ保護されるべきか、その実体的な法益は何かと考えたときに、実は理屈はないんです。私の名前がある事柄と絡んでいて、それが他人に知られたくないことだから、その名前とある行為というものの関連づけを消してもらうというならいいです。名前があれば消しなさいというような法制度は誤っていると私は考えています。
 アメリカの情報公開法を見てください。アメリカの情報公開法のプライバシーの部分の適用除外は、医療、犯罪、その他他人に知られたくない個人情報の部分だけを適用除外としております。
 ところが、日本の場合には、個人識別項目を適用除外にするという選択肢を選びましたがゆえに大混乱を呼んで、では公務員の場合はどうするんだという話になって、公務員の場合にはちょっと例外の例外を置こうというような――他人に知られたくない事柄について適用除外を設けるのが本道でした。ところが、自治体の条例についても、個人情報だけでも非開示にするという選択を東京がやりましたがゆえに全国に蔓延してしまう。私は、あの発想は間違っていると思っております。
 個人情報保護に関しましては、いろいろな制定のテクニックがあると思います。巨大な個人情報ファイルを持っている組織体に対して閲覧・訂正請求権を持つ、これは新しく法律で制定して、閲覧・訂正請求権を法上創設するという選択肢は、私は反対ではありません。
原小委員 では、もう一つ質問させてください。
 氏名権のところなのです。これは、私の一個人の興味として先生がどうお考えになられているかということをお聞きしたいんですが、今、一応議論になっている夫婦別姓のことについて先生のお考えをお聞きしたいんです。
 憲法の中では、個人の尊厳と本質的平等ということが書かれていて、私はその中に姓の選択制も含まれるというふうに考えております。これはあくまで選択制であって、また、別姓に反対する一つの理由として、要するに家庭が崩壊するというような論点がよく挙げられております。それはしかし、それを選択する人物とはかかわりのない人たちが、その人の人生について一般論として他人が言っている話であって、私はその選択権というものを認めていかない社会は、やはり多様性のある社会のあり方というものを不自由なものにしていると思っております。この選択制夫婦別姓についての先生のお考え方と、そうした反対派の意見についての先生のお考え方を教えてください。
阪本参考人 私は、自由というものは選択肢の幅が広ければ広いほどいいと考えております。したがいまして、今の法律でどちらかの姓にするというよりも、どれでもよいということが、より自由な社会の選択であると考えております。
 そしてまた、夫婦別姓にすれば家庭が崩壊するおそれがあるという、おそれだけを言及しながらそれに反対するというのは、論証のない事柄でもって反対をするわけですから、反対の論拠として非常に弱い。家庭が崩壊するというのは、名前だけの問題ではなくて、それ以前の実体的な何かがあるのであって、名前がどうのこうのという表面的な事柄を取り上げて、崩壊するかもしれないなどという議論を、私は全く信用しておりません。
原小委員 時間が来たので終わります。ありがとうございました。
島小委員長 次に、井上喜一君。
井上(喜)小委員 保守党の井上喜一でございます。きょうは、参考人、御苦労さまでございます。
 二、三質問をいたしたいんですが、まず、先生は、人権、ヒューマンライツというのを古典的に考える、古典派に属するんだという話でやりましたが、その説をとられる背景を知りたいんです。それは先生の人生観あるいは人生哲学というようなものなのか、あるいは学問的な正統性で言われるのか、少しその背景をお聞かせいただきたいんです。
阪本参考人 私の関心は、専ら学問的なことにあります。私は厳格解釈主義者ですから、自由、平等、民主、これはすべて厳格な定義を追い求めてきました。デモクラシーを民主主義と訳す日本人のメンタリティーそれ自体を疑っております。デモクラシーは主義ではありません。リベラリズムは主義なんです。デモクラシーが、また自由、平等を含むなどというような望洋な理解の仕方をするということに対して、私は憤りすら感じております。
 それと同様に、自由、平等というものをどんどん拡散していって、自由は実質でなければいけない、または国家への自由も含まなければならない、国家による自由も含まれなければならないという、その自由という言葉を非常に私は厳格に使いたいと考えておりまして、これはホッブズ以来、自由はただ一つ、他者から強制を受けないこと。この場合、憲法で言う他者とは国家です。自由というのは、国家から妨害を受けないこと。それを我々の立場からいいますと、国家に対して不作為を要求すること、国家に対する妨害排除請求権であること、これに徹しております。
 その自由を乱用して、自由というのは輪転機を貸してくれることだね、こうやって保護をもらえることだね、こういうのが国家によるパターナリズムをどんどん呼んできて、自由を少しずつ譲り渡す。我々の自由が官僚の管理の対象となる。この事態を私は非常に懸念して、そのことを早くも予言したのが、一九四四年に出されたフリードリッヒ・ハイエクの「隷従への道」でした。福祉国家や自由を実質化しようとする国家は、次第次第に自由を削減してしまって、国家に飼いならされるおそれがある。
 その意味では、ハイエクはケインジアン政策に反対をしました。福祉国家は必ず自由を削減されて、私たちの自由が官僚の統制の対象になるであろうということを予言し、統治の過剰を呼ぶだろうと予言して、それが、私は当たったんではないかと思って、こういう純粋学問的な厳格解釈主義者の立場からこのように申しました。
井上(喜)小委員 次に、国家権力とマスコミとの関係であります。
 国家権力というのは、マスコミについては大変ナーバスなんですね。非常に慎重だと言っても私はいいと思うのであります。これは通信傍受法でもそうでありますし、今国会に提案されております個人情報の保護法案でもそうでありますし、いずれ提案されてくるであろう有事法制なり、あるいは機密保護関係でもマスコミ関係の規定が出てくると思うんですね。
 そういう場合に、出版の自由、表現の自由とか等々と関連いたしまして、マスコミに対する規制というのはどの限度まで許されるのか、先生のお考えをお伺いしたいんです。
阪本参考人 一般論として質問されると非常に苦しいんですが、私は、プロ表現の自由、つまり表現の自由を優先するタイプで、中でもマスメディアの表現の自由をぜひとも尊重したいなと考えております。
 個人の表現の自由、つまりスピーチに期待されることは限られております。アメリカの合衆国憲法を見ますと、スピーチ・オア・プレスの自由を保障すると書いてあります。スピーチというのは個々人の発言の自由、プレスはまさに組織体としてのプレスの自由なのです。
 それと同じように、日本の場合、言論、出版の自由といいますが、その言論、出版の出版とはプレスを意味すると私は理解して、言論、出版とは別建てにプレスの自由という項目を私が立て、個人にはできないでプレスにしかできない事柄が多々あると思います。
 プレスも確かにいろいろな害悪を流しておりますが、その害悪だけに注目するんじゃなくて、総体的に見たとき、プレスががんじがらめになっている社会というのは自由な社会ではない。特に、プレスの最大の役割は、不透明な組織体に対する情報を国民に提供するという重要な役割を持っております。
 その意味では、できる限りプレスの自由を優先的に、例えば名誉毀損に関しましても、相手方がプレスであるとしたときには、通常の私人間とは別の違法性阻却事由を考える。名誉毀損だけではなくて、プライバシーについても同じでありまして、プレスの表現の自由をできるだけ尊重するような枠組み、または判例の理論というものをつくり上げたいなと思っておりますし、アメリカでは実際にそうなっていると確信しております。
 日本は、ちょっとプライバシーの方に寄り過ぎ。アメリカでは到底考えられないようなプライバシー保護まで裁判所がやっているような気がして、私はプライバシーの研究をずっとやってきたんですが、日本はアメリカのプライバシーを導入しながら、今や独自のプライバシー保護の方に向かっている。これは、プレスの自由に対するある種の制約になりかねないかなと考えております。
井上(喜)小委員 最後に、現行憲法の第三章、国民の権利と義務の各条文、これを改正するといたしまして、先生としては、このベストの改正案というのはどういうものだと思いますか。どういうぐあいにお考えですか。
阪本参考人 私は、統治構造に関して憲法を改正すべき箇所が相当数あると思っております。
 人権の部分に関しまして言うとすれば、公共の福祉のフレーズがつく条文を限定する。全部に公共の福祉がかぶさっているような理解の仕方を多くの人はするんですが、そうではありません。公共の福祉という限定がかぶさる領域を限定し、そして公共の福祉というのは、この場面については何を意味するかということの明確さを組み入れるということです。
 第二には、こういうことを言うと、もう憲法学界で生きていけないんですが、社会権規定、特に生存権を権利としないで、国家の責務にとどめる。社会権と自由権というのは両立不可能です。私は自由国家の方を優先させますので、これは正面から正直に両立不可能だと考えて、今の形を維持するんであれば、社会権規定というのは例外なんだ、原則と例外という関係を明確にすること。
 できれば、教育を受ける権利、労働組合の保護、生存権規定、これを削除するか、または、労働権規定に関しては、労働組合の団結権を保障するだけではなくて、経営者の団結権も保障すべきだ、対等の立場で保障すべきだ。これは、ドイツの基本法は両者とも団結するんですから。労働者だけの団結権を保障しているというのは社会主義的かなと考えております。
井上(喜)小委員 終わります。
島小委員長 次に、土屋品子君。
土屋小委員 自由民主党の土屋品子です。
 いろいろと私も考えてまいりましたが、何かほとんど私の考えていたことが出てしまったような気もいたします。重なるかもしれませんが、お話をさせていただきたいと思います。
 それから、先ほど原先生からお話があった選択的夫婦別姓の問題ですけれども、これは私も一生懸命推進しておりますが、なかなか難しい環境でございまして、先生の、選択肢を広げるということは大変いいことだという御意見、本当に力強く受けとめましたので、頑張りたいと思っております。
 一つ、先ほど、教育を受ける権利という中でバウチャーの問題が出てまいりましたが、先生のバウチャーというのは、義務教育ではなくて高等教育、特に大学の中でのお話だったと受けとめましたが、それでよろしいんでしょうか。
阪本参考人 いや、基本的には義務教育を考えております。
土屋小委員 義務教育を考えていらっしゃる。ということは、小学校、中学校でもバウチャーという考え方でよろしいんでしょうか。
阪本参考人 義務教育というべきか普通教育というべきか、日本においては、普通教育というのが高等学校まで来ておりますから、高等学校まではバウチャーでよろしかろうと思うんです。大学以上は自己責任で、ローンを借用するなり民間の奨学金に期待するなり。そのためには、民間の法人税でも安うして、こういうことをやったら社会的な貢献度大だよというような国家的な方策をやって優秀な大学生を育てるというのが、大学以上のレベルにおいては、国家の補助はない方がよろしかろうと私は思っております。
土屋小委員 そこでお伺いしたいのは、最近、少年の逮捕、補導が非常に多くなっておりまして、十四万四千二百二十八人というのが平成十年一月から十一月の数字なんですけれども、こういう中には、学校へ行かない、不登校それから引きこもりという子供たちが最終的にそういう状況になるというのが含まれていると思いまして、今大変な社会問題になっております。
 私自身も、引きこもりの問題について非常に頑張って、何とか社会的に何か教育を受けさせることができないかということで考えているわけですけれども、どうしても義務教育の中では、学校へ行って教育を受けるという形で、フリースクールとかいうものが認められていない、学校教育の単位にならないということで、卒業したことにならない状況であります。
 こういう点は、教育改革の中で法的に何か変えていかなければならない問題ではないかと思っておりますが、先生、いかがお考えでしょうか。
阪本参考人 これは私の専門領域を超えることで、回答する適性もありませんけれども、恐らく何十年後は、昔は毎日毎日、何時から何時まで学校へ行っていたんだね、そういう時代が来ることを私は望んでおります。ミシェル・フーコー風に言えば、学校は一つの収容所だということでもありまして、私自身、高校時代は不良でしたから、学校と教師に対しては反抗することが役割だと思っておりました。まさにあれは収容所で、もう少し自由濶達で、バリエーションがあって、何かそれこそ規制緩和をして、教育の方法にもいろいろなやり方があるわけですから。
 私は、最低限、学校で直線配列を子供たちに強いるというやり方だけは反対でして、私が大学で教育するときにはこういう円卓方式でやることにできるだけしております。直線配列で、挙手をしない限り話ができないというああいう教育体制、抑圧型というのはよろしくないでしょう。
土屋小委員 どうもありがとうございます。先生の御専門じゃないことを御質問させていただいて、申しわけありませんでした。
 それではもう一つ。現在ある憲法十四条から四十条までの中で、今の新しい人権についてはほとんど解釈論で包括できるというようなことであろうということを言う方も多いですし、先生もそういうお考えであろうと私は理解したんですが、いかがでしょう。
阪本参考人 私の理解は、解釈論で処理をしようとし過ぎるからこそ、新しい外延も内包もわけのわからない人権を出してくるんだ。解釈ではここまでしかできないという厳格な線を引いて、できなければ法律を制定して処理をすべきだ。いろいろな処理、必要な立法事実が出てくれば、それは憲法問題として、また憲法解釈で処理をするんじゃなくて、法律で処理をすべきだというのが私の立場なのです。
土屋小委員 そうすると、先ほど、どなたかの質問に対して、新しい人権で今特に憲法を改正するということは見当たらないというようなことをおっしゃっていたと理解しているんですが、それはそれでよろしいんでしょうか。
阪本参考人 そのとおりです。
土屋小委員 そうすると、私のつたない考えの中では、今、判例を積み重ねることによって、結局、何か事例が起こったときに、判例主義というか、判例で決まっていくという形になっていますが、常に判例判例で決まっていくと、司法権が立法権を行使するというような矛盾が生じるのではないかという気がするんですけれども、この点はどのようにお考えでしょうか。
阪本参考人 少なくとも日本におきましては、裁判所が、こういうのをポリシーメーキングというんですが、条文にどうもはっきりしない事柄であるにもかかわらず、これは憲法上保障されている、そういう判例をしたことはないでしょう。その意味で、日本の裁判所は極めて実務的で堅実だと考えてよろしいんではないかと思います。
 私が今ぱっといろいろな裁判例を見渡したときに、アメリカ、ドイツで問題になるような、判例による法形成というところはさほどない、日本の裁判所は非常に堅実だと考えております。
 英米においてはこれが常に問題視されて、中絶の自由が憲法によって保障されているという判例を出して、本当に憲法のどこに書いてあるんだと大騒ぎになったことがあって、いつも大統領選挙で中絶の自由が選挙戦の中心になるという、あの論争の玉は最高裁判決にあったんです。
土屋小委員 どうもありがとうございました。
島小委員長 次に、大出彰君。
大出小委員 民主党の大出彰でございます。
 御講義ありがとうございます。お聞きをしていて、国民の国家からの自由というのが大切であるということが、改めて認識をいたしましたと同時に、私もいささか権利のインフレ化に加担をしていたかなというような思いでお聞きをいたしました。
 そこで、外延と内包ということで、先生も新しい人権の話をしているわけなんですが、私は、もともと憲法ができたときに、新しい権利ができてしまうんではないかというのを予想していたんではないかと実は思っていたんですが、今後も先生は、新しい人権としてこれは憲法上の権利になっているんだとかいうことはないんでしょうか。今後も新しい人権というのは認めないんでしょうか。
阪本参考人 いや、認める、認めないの問題じゃなくて、その権利の内包と外延と、それからいろいろな立法事実が出てきて、その必要度が高ければ、ある無名権も名前をつけてこれこれ権という、その余地は、憲法典というのは閉じられた体系ではありませんので、オープンな部分があって、それから派生するということは大いにありますけれども、今の時代に、当面、これこれ権という新しい人権として必要度が非常に高いというものに私は気づきません。
 将来どうなるかというんですが、これはもう、社会的、経済的な変化は予想できないわけですから、今後を予想する能力は私にはありません。
大出小委員 裁判所の方を見たときに、裁判所もほとんど、特に最高裁はそうでしょうけれども、例えば環境権、知る権利も含めて、新しい人権というのは認めていませんね。その辺はどうでしょうか。
阪本参考人 認めることに対して非常に慎重です。というのは、実務家は、条文に取っかかりがあって、その条文から演繹可能なものだけを法上認める。これは、私は法律家の基本的な素養だと思うておりますから、別に今の日本の最高裁判所または下級裁判所が誤っているとは考えておりません。堅実だと思うております。
大出小委員 私は、今までずっと、新しい人権ができてきて、そうしたらそれは研究の成果として憲法に取り込んだ方がいいのではないかと実は考えてきたんですね。そのときに、新しい人権をつくると、必ず他人に対する制約になりますね。そういうものがあるだろうし、逆に、つくればつくるほど、インフレ化といいますか、権利が希薄化しますね、古典的な権利が。その両方の中で、人格的生存にとって必要不可欠な権利をというような考え方をとってきたんですね。
 ところが、先生のお話だとそういうお考えではないということなので、先生のお考えの中で、個々の問題をどのように解決なさるか、お聞きをしたいと思うんです。
 一つは、先ほどエホバの証人の輸血の問題が出ていますが、このときに、医者の方からしますと、輸血して助かるものなら助けてあげたいと当然使命的に思うでありましょうし、医者の方の義務もあると思うんですね。ぶつかったときに、多分自己決定権でおっしゃると思うんですが、その場合どのように考えたらいいのかということと、自己決定権の、個人の自殺の自由みたいなものも認めるのかどうか、この二点、ちょっとお聞きしたいんですが。
阪本参考人 おっしゃるとおり、自己決定権の最後の終着点は、自殺の自由も自己決定かというところなんです。これを数年前の公法学会でテーマとして取り上げて、阪本理論からするとどうなるんだという質問を公法学会で受けたんですが、私は回答を避けました。これはちょっと、言いますと非常に波紋が大きいわけですから、もっともっと慎重に、相当文献を読みこなして回答をしない限り責任をとれませんので、何とも言えませんが、まずエホバの証人の話からまいりましょう。
 ヒポクラテスの誓いで、医者は必ず生命を救いなさいという倫理がある。ところが、片や患者の方は、他人の血液を注入されるということは死の宣告よりも罪深い、こういうことがある。
 ただ、この事件においては、論点は簡単でありまして、要するにインフォームド・コンセント、十分説明しないままやったことが違法な身体侵襲で、これは不法行為だ、これは民法上のそれですからね。その処理で済みました。
 それでは問題は、十分説明をした、しかし本人はなお拒否している、しかし、このままほっておるともう死は間近であるというときに、医者が輸血した場合どうなるか。私が裁判官であれば、緊急避難行為として違法性はない、こういう法処理をするだろうと思います。
 自殺に関してですが、現在のところ、公法学会、私法学会を含めまして、自殺の自由を認めると自己決定をするその基盤を失わせると。自己決定というのは、よりよい自己決定、または本人が、何か今から上昇するといいますか、自分のプリファレンス、自分のやりたいことを進めるために自己決定権というのを認められるんですが、そのベースにある命をなくしたら自己決定権そのものもなくなるではないかと。そうすると、自分のベースを打ち消すような自己決定権は背理として認められない。これが現在到達したところの理論です。
大出小委員 その理論の前提として、憲法という学問自体がもともとヨーロッパの神学からずっと来ていますよね。キリスト教は自殺はだめだったんですよね。そこが絡んでいることはありますか。
阪本参考人 そのとおりです。キリスト教からしますと、死は罪深いことである。
大出小委員 次に、プライバシーの権利、いわゆる自己の情報をコントロールする権利としてとらえているわけなんです、私の場合は。そのときに、例えば、公の場に私の間違った情報が登録されているので訂正をしてくれとか、あるいは抹消してくれ、こう言いたいわけですね、こちらからしますと。その場合に、一般的には法律がないとだめだ、こう言うんですが、私は法律がなくてもできるんではないかと思っているんですが、先生はこの点についてはどのような、訂正するとか、抹消するとかいうときに。
阪本参考人 はい、わかりました。
 最近、これに類似した事件がありまして、勝手に離婚届を出されて、区役所がそれを受理して、妻のところに×をした。バツ一です。それを本人が知った。あれは勝手に離婚届を出されたんだから、そのバツ一を消してくださいと、区役所に言った。そうすると、戸籍法にはそこを抹消するという規定がない。区役所は、何の法的な規定もありませんから抹消する権限はありません、こう言った。
 訴訟になったらどうなるかですが、これには先例がありまして、厚生省身上調査抹消請求事件というのがありました。元台湾人で日本軍に入っていて、戦争直前に、もう台湾が勝つだろうと。そうすると、日本軍におったということは大変ですから、直前に上司の許可を得て離隊をした。ところが、厚生省の記録には逃亡と書いてあった。厚生省に行って、あれは逃亡ではない、離隊だ、または上司の同意を得たんだ、書き直してくれと抹消請求または訂正請求をした事例があります。何の法令の定めもない。そのときに、下級審ですが、重大な事実の誤りであって、この情報が残ったことによって重大な利益に対する何かの影響、これがある場合には、法令の根拠なく、人格権に基づいて抹消請求可能であるというのがありますから、不可能ではありません。
大出小委員 ありがとうございました。
 時間ですので終わります。
島小委員長 次に、平井卓也君。
平井小委員 きょうは、先生の大変興味深いお話を聞かせていただいたんですが、我が国も含めて規範なき社会に最近なりつつあると認めざるを得ないところがあるんですが、その規範の回復というためには、やはり憲法上の義務規定をもっと充実させるべきではないかという議論があります。しかし、これを憲法で保障する場合は、その弊害もあると思いますし、人権規定との矛盾というものもあると思います。この義務規定の制定に関して、先ほど先生は権利と義務ということでお触れにはなりましたけれども、その義務をどのような形で憲法の中で入れていくかということについて、ぜひ持論を聞かせていただければと思います。
阪本参考人 戦後一貫して、憲法改正の動向の中で、日本国憲法は人権人権だと。国民が人権ばかり主張して義務を軽んじているという論調がありますが、ビル・オブ・ライツ、基本的人権保障規定は、義務をうたうことではなくて、権利を保障することにあり。これはもう明治憲法制定のときから、伊藤博文、森有礼あたりから、森有礼はちょっと例外かもしれませんが、憲法制定の要諦は義務を定めることにはなくして権利を保障するにありということです。権利を保障するということが国家の責務を明らかにすること。責務の主体は国家でありまして、国民が義務の主体であるというのは憲法の常道ではありません。
 が、最小限、国民の義務について言及をするということは必要かもしれません。今のところ、教育、納税そのほかですが、これを入れておりますが、まあその程度で十分ではないか。義務をうたうと、それは権利保障とは別の義務の体系となると私は思っております。
平井小委員 主権国家論からすれば、基本的人権というのは、要するに国家権力から国民を守るための一つのプロテクターというような解釈で、その紛争の解決というものは司法権が担当するという整理でよろしいんですよね。
 そうなったときに、先ほどからいろいろ話が出ていましたが、今は国家以外の疑似権力、これはマスコミがよく言われますが、それ以外の、例えば企業であったり自治体であったり労働組合であったり、いろいろなものから国民を守るというふうに考えた場合、現行の憲法の人権規定というものが有効に機能しているか否か、先生のお考えをお示しいただければと思います。
阪本参考人 企業、労働組合、その他のいわゆる中間団体、これにおける、正確には権利侵害と言うべきでしょう。この場合、人権侵害という言葉を使うのは不正確です。企業が労働者の権利をあれこれ制限する、中間団体が制限する、これに対して憲法はどのように機能しているかですが、これは私人間効力の問題ですから、基本的にはノータッチでよろしかろう。その問題がクローズアップされれば法律でもって対処をする、これが三菱樹脂事件における最高裁判決の道筋ですから、それで対処していただくのがよろしいだろうと思います。
平井小委員 先ほど何度も出てきた環境権という言葉です。これは耳ざわりがいいからみんなよく持ち出すんだと思うんですが、一方で、七八年制定のスペイン憲法、また、九〇年代に制定された新憲法六十五のうち五十一の憲法が環境に関する規定を設けている。私、済みません、中身は勉強していないんですが、そう言われるんですが、そのあたりのところは、先生、どのように解釈すればよろしいんでしょうか。
阪本参考人 規定の仕方を精密に見てみない限り何ともお答えできません。環境権で個別的な、具体的な権利を国民に与えているものか、それとも、権利と名称を打ちながら、ちょうど生存権と同じように、これはプログラム規定としての趣旨を持つものなのか、それとも、権利という名称を使わないで、国家の責務として、今後の政治方針としてこうやろうという明文規定を置いたものか、その辺の区別を読まない限り、私は正確にここでもって回答することはできません。
 もう一つ、プライバシーの権利をアメリカの州においては幾つかの憲法改正で入れたんですが、他の州とさほど変わりがありません。私法的な処理をしている州と憲法上プライバシー権があると銘打った州と、プライバシー保護についてさほどの違いがあるとは思いませんので、法的なレベルでの処理がしっかりしておれば、特に憲法を持ち出さなくても十分保護できるのではないかと考えております。
平井小委員 最後に、ちょっとこれは先生に、専門ではないかもわかりませんが、私個人的な興味としてお聞きしたいんですが、よく正義という言葉がありますね。その正義というのは、何もかもを超えてしまう場合がある。例えば今回のアフガンの問題であったり、例えば大使館の人質事件とか、思い出すといろいろな問題があったと思います。
 それで、そういうときに国家が動く場合に、一つの、何のもとにおける正義かわからないけれども、正義という言葉が最終的な行動規範になっているケースが多いと思うんですが、先生、そういうものはどのように解釈すればよろしいんでしょうか。
阪本参考人 いやいや、国際社会における正義論について、私は解答を持っておりません。
 しかし、こういういわゆる市民社会や国家との関係においては、正義をいろいろな分類の仕方でアプローチしなければならないと考えています。ちょうど平等についていろいろな分類の仕方があるのと同じように、正義についてもいろいろな分類の仕方があります。
 その古典的なものは、アリストテレスの「ニコマコス倫理学」において標榜されている比例的正義、矯正的正義。もう一つ重要なのが、ジェレミー・ベンサムの形式的正義というあれで、形式的正義というのが、何ぴとも一人として数えられ、一人以上には数えられない、すべてが法上一単位であるというところでとまるということです。
 ところが、その正義が実質的正義となって、人々の身分や財力やそれに応じた扱いをすることが正義であると言われてきて、正義概念が乱用される。その正義概念の最大の乱用例が、社会的正義という言葉です。社会について正義を語ることはできません、社会は実体ではないわけですから、人間の行為ではないわけですから。正義は人間の行為について語るだけで、社会について正義を語るということが間違っておると思います。
 正義は、人類始まって以来の難問で、だれも解答を与えたことがないと思っております。
平井小委員 ありがとうございました。
島小委員長 これをもちまして参考人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言ごあいさつを申し上げます。
 阪本参考人におかれましては、御自身最初におっしゃられましたように、まさに古典的自由主義に基づいた、香車のごとく見事な御意見をいただきまして、ありがとうございました。私自身も、小委員長でなければ何か質問したいと思ったような次第でございます。
 きょうは、貴重な御意見をお述べいただきまして、ありがとうございました。小委員会を代表いたしまして、心から御礼を申し上げます。(拍手)
    ―――――――――――――
島小委員長 これより、本日の参考人質疑を踏まえ、基本的人権の保障について、小委員間の自由討議を行いたいと存じます。
 一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、小委員長の指名に基づいて、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いをいたしたいと存じます。
 小委員の発言時間の経過につきましてのお知らせでございますが、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせしたいと存じます。
 御発言を希望される方は、お手元にあるネームプレートをこのようにお立てください。御発言が終わりましたら、戻していただくようお願いいたします。
 それから、自分の持ち時間以内で、例えばほかの委員に対してもう一回聞かせてほしいということがありましたら、その方に御質問していただくことも構いませんので、自由闊達な御意見をお願いしたいと思います。
 それでは、ただいまより自由討議を開始させていただきます。
葉梨小委員 きょうの参考人に対する質疑を伺っている中で、夫婦別姓についての御質疑が、与党、野党、お二人からございました。
 どちらにも伺ってみたいと思うんですけれども、夫婦別姓ということがどんなところから出てきたのか。男女共同社会という理念を実現したいということなのかなと思いますが、どういう人々がどの程度要求をしておられるのか、必要性を感じておられてこういう運動になってきたのか。
 具体的に、実際、今までも、例えば結婚をした女性が勤め先では前の姓のままで勤める、あるいは大学の先生、研究者が、研究の継続性というようなことでそのままの姓を通称として使っておられるというようなことがあったわけで、私は、聞いていて、それで不都合はないんじゃないか、法律を新たに制定するということにどれほどの意味があるか、どれほどの必要性があるかということについて、大変疑問に思っております。
 結婚して、どちらかの姓になる。だんなさんの姓になる人もあれば、大多数はそうだと思いますが、奥様の方の姓になる人もありまして、そういう生き方が、日本の歴史始まってずっと、何千年とは申しませんが、長い長い間、そういうことの中で新しい家庭が築かれ、そしてそこから生まれたお子さんがその姓で名前をつけられて成長していくということであったわけでございます。
 伝統的に、家族という一つの社会の単位があって、その中で子供がはぐくまれてきた、そういうよき伝統、日本における伝統でございます。例えば中国とか韓国でしたか、お父さんの姓、お母さんの姓、それぞれ別々に名乗っているという国もあると聞きましたけれども、日本ではそういう伝統、習慣、習俗によって子供が育てられてきて、成長して独立していく、こういう過程をたどっていたわけでございます。ですから、夫婦別姓ということは、長い間培われた日本の伝統をこの理念によって変えていこうという運動かなと思います。
 そして、今大事なことは、戦後、特に家族のつながり、家庭のぬくもり、そういうものがやや失われてきた。そしてまた、それが子供の非行やその他の問題、あるいは男女の性の乱れなど、結果として混乱してきている状況が、北ヨーロッパあるいはその他別姓の国の中でどんどん蔓延してきているというようなことを考えますと、私は、ここでそういう法律制定をするということが大変危ないステップを踏む第一歩にならなければいいがなということを恐れているわけであります。
 男女共同参画社会、男女同権だということはもう当然でございまして、私も家内のことを尊敬しておりまして、家内の言うことをよく聞いているわけでございますが、そういうこととまた違って、大変重大な問題であろうということを感じているわけでございますが、先生方からお考えを聞かせていただきたいと思います。
土屋小委員 葉梨先生から投げかけられましたけれども、私の考えを述べさせていただきます。
 私は、男女共同参画社会が根底にあってやっているのでは全くありませんので、それをまず一つ。
 それから、一部の人のために選択肢を広げるという意味で、私はつくりたいと思っております。
 それは、具体的に言いますと、先生は、今までの社会の中でも、お医者さんでも別に通名で済んでいるからいいんじゃないですかと今おっしゃいましたけれども、私も思いもしなかったんですけれども、世界じゅう飛び回る方が多くなりまして、日本の中では余り必要性を感じなくても、学者さんで世界的に活躍している方なんかは、論文が、結婚する前から論文を書かれている名前と、それから結婚した後に名前が変わったからといってその論文で出すと、今まで出していたものとつながりがないということで認められないことがあるということなんですね。そういうのは本当に気の毒ですし、ほんの一部の人のためかもしれないけれども、それだけ優秀で外国へ出ていかれるということは、日本のためにもいいことだと思うのです。
 それから、士のつく方、弁護士さん、司法書士さんとか、そういう年じゅう書類に判こを押さなければならない方。例えば、裁判の途中で結婚した、名前が変わった、そうすると、実名でなきゃ判は押せない、サインはできないわけですね。そうすると、裁判の途中で名前が変わっていく、それもまた一々皆様に説明していかなければならない、たくさん裁判を抱えていたりすると物すごく大変だという現実。やはり、現実社会に合った形の生活ができるようにさせてあげたいなという思いでございまして、決して、これによって社会を乱そうとか、そういう考えは全くありません。
 それから、現実に今いろいろな非行の問題とかが起きているのが、私は、今までの制度の中で起きたことであって、今まで別姓であってこういうふうに社会が変わってきたわけではないので、別姓にしたからといって、さらにそれが加速するとは思えません。やはりそれは夫婦の家庭のつくり方の考え方、子供たちの育て方、二人で真剣にしっかりとしつけをして育てていけば、私は、親の名前が違っていても問題ないと思います。
 それから、現実的には子供が、家庭の中では多分どちらかの名前を名乗って、全員が同じ名前で暮らすと思うんです。これは戸籍上の問題であって、戸籍謄本を取り出して何かしなきゃならないときというのは、何かの節目とか証明書を出すときであって、小さいとき、子供にじかに、自分の名前、親の名前が両方違うんだということを毎日の生活の中ですごい肌身に感じて、自分は何か差別されているというようなことはあり得ないと思っておりますので、私はぜひ先生に御理解をいただきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
 では、原先生、よろしくお願いします。
原小委員 原陽子です。
 今お話を聞いていて、大分世代が違うと思うのですが、何か昔話を聞いているような御意見であったと率直に私は思います。別に夫婦別姓がいいとか同姓が悪いとかいう考えではなくて、そんなに難しい考え方ではなくて、私たち世代の感覚としては、どっちでもいいじゃないかという感覚です、この夫婦別姓に関しては。もちろん、仕事上の面でずっと同じ名前で活動していくことが望ましいという方もいらっしゃるとは思いますが、そんなに難しく、日本の古きよき伝統とかなんとかとかいう考えではなくて、別に、好きな名前、どっちでもいいじゃないかというのが、この夫婦別姓に関しては私たち若い世代の中での考え方です。
 これは、あくまでも選択制であるということが私は重要なポイントだと思っておりますし、多分これも世代間の考え方のギャップだと思うのですが、家族というものの考え方がやはり大きく私たちの世代とは変わってきているのだと思います。
 いわゆる家族というのがありますよね、お父さん、お母さんがいて、子供がいて、一緒のところに住むという。もちろん、それも一つの家族の形であり、家族というもの自体もいろいろ形を変えて、今の世の中ではいろいろなカップルが生活をしているし、私たちもそういう感覚を持って生活をしているんだと思います。
 もう一つは、家庭崩壊につながるのではないかというお話があったと思うのですが、それは別に、個人の問題だ、個々の人の人生だと思うんですよ。
 私が例えば夫婦別姓を選択したときに、ほかの方が、私の人生に何のかかわりもない、何の責任も持たないのに、家庭が崩壊するおそれがあるからといって反対なさるというのは、ちょっとこれは、選択肢のたくさんある世の中に生きたいと思っている私たちの考え方や、そうした社会を不自由にしていく考え方だというふうに思っておりますので、名字だけでつながっている家庭なんて、私は逆に寂しいというふうに思ったりします。
 というのが私の率直な意見です。終わります。
葉梨小委員 今お話をお二人から伺いましたが、本人の都合によってという御指摘がございましたね。私は、本人もさることながら、お子さんとか家庭、家族というものを中心にして考えた場合に、ちっちゃなことだといえばそれだけかもしれない。しかし、今、日本の社会が非常に混乱しつつある、その中でその混乱を強めるんじゃないだろうか、こういうことを恐れるから言ったわけなんです。
 そして、それは私の感じだけじゃなくて、北ヨーロッパと申し上げましたが、そっちの方の事情に詳しい方のいろいろな研究というかレポートを拝見しまして、そういう流れができてきた。それは一体、これからの二十一世紀の日本のあり方、あり方の基本はやはり家族ですから、家族とか家庭生活、健全な家庭生活をしっかりつくっていっていただくということにマイナスの影響が出てくるんではないだろうか。今、それは単に姓を変えることだ、戸籍の問題だとおっしゃいますけれども、それが大きな崩れにつながらないだろうかということを恐れているわけなんです。
 それから、今、年の違いだとおっしゃいましたが、私は自分のことを心配しているんじゃないんですね。子供のことじゃなくて、孫の時代、これから成長していく若い世代、日本を担っていく若い世代が健全な二十一世紀の日本をつくってもらわなきゃならない。そこにそういう乱れ、崩れ、崩壊現象が出てきたら、これは私どもにとって大変責任重大なことになる、こういうことを恐れているわけでございます。
原小委員 済みません、またお時間をいただきまして。
 次の世代、私たち世代のことを考えてくださっているというお気持ちは非常に私もうれしく受けとめておりますので、ぜひ、私たち若い世代にとっては、この別姓ということは認めてもいいんじゃないかという意見、これは女性にも男性にも多いという。その制度の中で生きていくのは、委員から見ると私たちは孫の世代になるかもしれませんけれども、になっていくと思うので、次の世代がどういうふうに考えているかということもぜひ知っていただきながら、この問題については、いろいろな意見交換をしながら進めて、私はぜひこれは実現していきたいなと思っています。
 終わります。
島小委員長 ただいま、憲法十四条の、すべて国民は、法のもとに平等であって、性別等によってはというところについての議論を進めておりますが、武山小委員は、同じような、そのテーマですね。それから、中山会長も同じテーマでございますので、じゃ、武山小委員にお話しいただいて、中山会長にお話しいただきたいと思います。
武山小委員 私自身も、夫婦別姓という問題、真剣に考えました。今、本当に現実問題といたしまして、一人っ子同士の結婚、それから家が絶えていく、そういう現実に直面した問題もあります。
 それで、実は、私は何げなく、昔の慣習どおり、無意識のうちに結婚して夫の姓を名乗りましたけれども、現実的に、私の実家の方が、弟が結婚しないものですから、子供がいないということで、跡を継ぐ人がいないという現実問題がありまして、結局私が戻るようなことになりそうなんですね。
 そうすると、こういう問題も現実問題として出てきまして、武山百合子ですけれども、戸籍上は旧姓の中田百合子に戻らざるを得ないような今状況なんです。お墓を守って名前を絶やさないでくれというのが母の気持ちでもあるわけなんです。そうすると、私の子供は、現実に、僕たち中田になるのは嫌だよと言っているわけなんですね。ずっと武山で来た子供たちが、急に旧姓なんて考えられないわけです。
 ですから、これはしっかりと議論して、例えば韓国なんかは、生まれたお子さんは必ず全員お父さんの姓を名乗るというふうになっているのです。ですから、お嬢さんも息子さんもお父さんの姓を名乗って、お嬢さんが結婚した場合はその父親の姓を生涯名乗っていくわけですね、別姓なものですから、韓国の場合。ですから、そういうことも諸外国にある。それから、ずっと生まれたときの姓を生涯、通称といいますか、名乗れて、結婚したときは結婚した姓で夫の名前を名乗る、いろいろな選択肢がありますけれども、しかし、原理原則を何に置くかということをきちっと決めてつくるべきじゃないかと思っております。
中山会長 古い世代と言われるかもわかりませんが、私は、夫婦別姓の問題を子供の権利、子供の立場から考えてやることが必要なんじゃないかと思います。
 というのは、子供が自分の親の姓を選ぶ権利がないわけですね。親の方が勝手に決めてしまうということで、例えばお母様が御主人と全然別の姓で名乗っていく、そうすると、子供がお父さんの名前を頭につけるということになってくると、例えば学校のPTAなんか行ったときに少し混乱が起こるんじゃないかと思うんですね。子供の授業をやっている先生が、PTAで来ているお母さんが全然姓が違うわけです。こういう、社会に一つの混乱してくる要素が出てくるけれども、一番大きな問題は、子供に選択する権利が全くないということだと思います。
 だから、子供が将来、自分がお父さんの姓を名乗っていて、やはり私はお母さんの姓を名乗るといったような自由を保障するといったことも大いに議論してから、どうして子供たちの権利を守ってやるかということをやはり議論していただきたい、私はそういうふうに希望します。
島小委員長 ありがとうございました。
 この問題につきましてはよろしゅうございますか。それでは、若い世代だと思いますが、今野さん、お願いします。
今野小委員 夫婦別姓、どちらの姓を名乗るかというのは、結婚する時点でお互いにどちらを名乗るか決めればいいことでありまして、その後で生まれてきた子供に姓を選ぶ権利がないということは確かに問題でありますが、であるとすれば、子供に姓を選ぶ権利を与えてやればいいだけのことでありまして、何も問題はないのではないかと思います。
 それから、この議論の中で取り除いておかなければならない論点があるなと僕は思っておりまして、夫婦別姓を望む人がごくごく少数であって、だから、どこからこの議論が起こってきたのかわからないというような話もありましたけれども、私たちは国政に携わる者として、少数意見だから、それを話し合う、議論をする必要がないという論点は、これは取り除いておかなければいけないのだろうと思います。少数の人でも、必要があればそれを整備してやらなければいけないというのが国会の仕事ではないかと思います。
 それからもう一つは、夫婦別姓と性の乱れというのは、これは私は、余りにもかけ離れていて関係がないと思います。源氏の世界から性は乱れております。その乱れをどのようにするかというテーマも私たちに与えられてはおりますが、別姓と性の乱れは関係がないと思っております。
 以上でございます。
島小委員長 それでは、時間も制限がございますので、この議論はここまでとさせていただきまして、春名さん、お待たせしました。
春名小委員 私、夫婦別姓の問題では、やはり民主主義の成熟と発展という問題だと思います。当然の流れとして、そういう方向に前進していくということが時代的に要請されている。世代間の違いとかそういう問題じゃないと私は思っております。
 一点だけ、新しい人権と日本国憲法がきょうの議論ですので、それにかかわって私の感想を申し上げます。
 きょうのお話を聞きまして、日本国憲法が新しい人権を主張することを許容しているということが明確になったと思いますし、実際に、必要に応じて、憲法の規定を使って新しい人権の主張が行われてきたということも明確になったと思います。とりわけ十三条の幸福追求権が豊かにされてきたことを認識いたしまして、改めて憲法の懐の深さということを実感した次第です。
 特に私が言いたいのは、十二条、この憲法が国民に保障する自由、権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない、それから九十七条、この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果である、こういう見地に立っていることです。つまり、多年にわたる努力の結晶がこの人権規定に凝縮していますし、この規定は国民の努力によって生かされなければならないし、国家はそれを守る責務があるということだろうと思います。
 きょうの議論の中で無名権というのが出ました。無名権から新しい人権が語られるようになったというのは、社会の変化、発展ということとともに、それに応じて、この憲法の精神に立った国民的な粘り強い努力があったから、それが大きな要因であるというように思います。したがって、大いにこの新しい人権を、憲法をよりどころにして、一層生かして豊かにして実質化していく我々の運動、行政、立法、司法の努力がいよいよこれから大事だ。参考人もおっしゃられましたが、わざわざ憲法に明文化しなければ守れないような新しい人権はない、私はこの見地が大事じゃないかと思います。
 以上です。
島小委員長 ほかにございますか。
 それでは、討議も尽きたようでございますので、これにて自由討議を終了させていただきます。
 本日は、葉梨委員から具体的な問題提起をいただきました。男女共同参画社会基本法の前文には、「我が国においては、日本国憲法に個人の尊重と法の下の平等がうたわれ、男女平等の実現に向けた様々な取組」というようなことがございます。このように、具体的な議論をもとに憲法を考えていくという自由討議も極めて重要だと思いますので、今後またよろしくお願い申し上げたいと思います。
 次回は、来る五月二十三日木曜日午後二時から小委員会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。
    午前十一時五十八分散会


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