衆議院

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第2号 平成16年3月11日(木曜日)

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平成十六年三月十一日(木曜日)

    午後二時二十五分開議

 出席小委員

   小委員長 山花 郁夫君

      小野 晋也君    倉田 雅年君

      棚橋 泰文君    平井 卓也君

      船田  元君    古屋 圭司君

      松野 博一君    園田 康博君

      辻   惠君    村越 祐民君

      笠  浩史君    太田 昭宏君

      山口 富男君    土井たか子君

    …………………………………

   憲法調査会会長      中山 太郎君

   憲法調査会会長代理    仙谷 由人君

   参考人

   (学習院大学法学部長)  野坂 泰司君

   衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君

    ―――――――――――――

三月十一日

 小委員土井たか子君同日委員辞任につき、その補欠として土井たか子君が会長の指名で小委員に選任された。

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 基本的人権の保障に関する件(市民的・政治的自由)


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     ――――◇―――――

山花小委員長 これより会議を開きます。

 基本的人権の保障に関する件、特に、市民的・政治的自由について調査を進めます。

 本日は、参考人として学習院大学法学部長野坂泰司君に御出席をいただいております。

 この際、参考人に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたいと存じます。

 本日の議事の順序について申し上げます。

 まず、野坂参考人から市民的・政治的自由、特に、思想良心の自由、信教の自由・政教分離について御意見を四十分以内でお述べいただき、その後、小委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。

 なお、発言する際はその都度小委員長の許可を得ることとなっております。また、参考人は小委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。

 御発言は着席のままでお願いいたします。

 それでは、野坂参考人、お願いいたします。

野坂参考人 ただいま御紹介にあずかりました学習院大学の野坂でございます。

 本日は、このような機会を与えていただきまして、まことにありがとうございます。

 早速ですが、本題に入らせていただきます。

 お手元のレジュメに従いまして話を進めたいと存じます。

 私に与えられました課題は、市民的、政治的自由、特に、思想、良心の自由、信教の自由、政教分離原則について意見を述べることでございます。

 一口に市民的、政治的自由と言っても一様ではありませんが、このうち思想、良心の自由、信教の自由は、いわゆる内心の自由、内面的精神活動の自由としての性格を持つところに特徴がございます。そのような内心の自由としては、さらにほかに学問の自由、憲法二十三条で規定されておりますが、これがございますが、本日はそこには立ち入りません。これらの内心の自由は、外面的精神活動の自由、表現の自由、これは、政治的な表現の自由もあれば宗教上の信条の表明というようなこともございますが、その基礎となる重要な人権であります。政教分離原則は、信教の自由の保障を確保するために導入された原則であり、それ自体は人権ではないのですが、信教の自由と一体的にとらえられるべきものであるというふうに考えております。

 日本国憲法は、十九条で思想、良心の自由を、二十条で信教の自由と政教分離原則を規定し、さらに、八十九条で財政的な側面から政教分離原則について規定しております。以下においては、これら憲法の規定が意味するところを明らかにしつつ、我が国においてその趣旨が訴訟等を通じてどこまで実現されているのか、あるいはいないのか、また、そこにはどのような問題があるのかといった点を検討してまいりたいと存じます。

 それでは、レジュメの2のところですが、憲法十九条、思想、良心の自由のところへ入ります。

 まず、思想、良心の自由の意義でございますが、思想と申しますのは、一定の価値観に基づく体系的な思考や信念、いわゆる主義主張、世界観、人生観などを指す、また良心とは、事物や自己の行動の是非について判断する内心の作用を意味するというふうにいたしまして、両者を一応区別することが可能であろうと思います。良心とは倫理的性格を持った思考ないし内心の状態、思想とはそれ以外の論理的思考として区別されることもございます。これは、かつて宮沢俊義先生が区別された考え方でございます。しかし、両者は重なり合うところがありまして、しかも、ともに憲法十九条で保障されております以上、あえてこれを区別する実益はないものと思います。

 むしろ重要なことは、思想、良心の自由、より広い意味の思想の自由というものが、人間存在の根源にかかわる自由だということでございます。言うまでもございませんが、人は、物を思い、考える動物であります。精神活動を行う存在です。思想、良心の自由は、人が人たることに基づいて享有する天賦人権の最たるものと言うこともできましょう。そうであればこそ、思想、良心の自由が憲法上保障されたことの意義は大きいと言えると思います。

 憲法十九条成立の背景でございますが、言うまでもなく、思想、良心の自由が日本国憲法に規定されるに至ったのは、明治憲法下において思想の自由が抑圧されたという苦い経験への反省に基づくものであります。治安維持法による思想調査の実施とか思想犯の処罰ということはよく知られた事実であります。

 また、そもそも明治憲法には思想の自由を保障した規定そのものが欠落しておりました。もとより明治憲法の二十九条は言論の自由を規定しておりましたので、思想の自由も、それ自体は規定されていなくても、当然に前提とされていたはずだというふうに言えなくもありません。

 しかし、明治憲法下における言論の自由は、あくまでも「法律ノ範囲内ニ於テ」という法律の留保つきで、日本臣民に対して保障されていたものであります。すなわち、明治憲法第二章の臣民の権利は、十九世紀的なドイツ型基本権にならって、初めに国家ありきというところから出発した後国家的な権利であります。国家の後の権利ということです。だからこそ、法律による制限もまた可能であったわけです。

 つまり、臣民の権利は、人が人たることに基づいて生まれながらにして持っている権利、いわゆる前国家的な自然権、天賦人権とは全く異なる論理構造を持つものでありました。すなわち、万能の国家権力が自己制限を行ったことの反射として国民に自由な領域が与えられるという構造になっていたわけであります。それゆえ、天賦人権の最たるものとも言える思想の自由が、言葉の真の意味において明治憲法で保障される余地は元来なかったのだというふうに言えましょう。

 その意味では、思想の自由の確立を求めたポツダム宣言の十項であるとか、思想の自由を制約する一切の法令の廃止というものを求めたGHQの自由の指令というものには歴史的な根拠があり、日本国憲法十九条が「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」と規定したのは、このような過去からの決別を宣言したものというふうに受け取ることができると思います。

 そこで、思想、良心の自由の位置づけでございますが、日本国憲法十九条のように、思想、良心の自由を独立に規定した例というものは、諸外国の憲法を見ますと、実は余りございません。一九八七年の大韓民国憲法は、二十条の「宗教の自由」とは別個に、十九条で、たまたま同じ十九条ですが、「すべて国民は、良心の自由を有する。」というふうに規定しております。しかし、これはむしろ珍しい例でございます。

 確かに、西欧諸国の憲法では、良心の自由を信仰の自由と同列に規定する例が多く見られます。恐らく、これらの諸国、これはキリスト教国でございますが、世界観、人生観の核心を宗教的信念が占めているということからそのような傾向が生まれたのではないかと思われます。しかし、今日では、同一の条項で保障される場合でも、宗教的な意味にとどまらず、世俗的な意味の良心の自由が保障されているのだという理解が広がりつつあるようでございます。

 既に、一九四八年の世界人権宣言の十八条は、「すべての人は、思想、良心及び宗教の自由に対する権利を有する。」というふうに規定しております。一九四九年のドイツ連邦共和国基本法四条一項には、「信仰、良心の自由、並びに宗教上及び世界観上の告白の自由は、これを侵してはならない。」というふうに規定しておりますし、それから、一九九九年のスイス連邦憲法の十五条一項には、「信仰及び良心の自由は、これを保障する。」と規定されているのですが、これらは必ずしも、そこで言う良心というのは宗教上の良心というふうにとらえられているわけではございません。

 その意味では、日本国憲法十九条で、二十条とは別個に思想及び良心の自由を規定することには何の問題もありませんし、むしろ適切であるというふうに思われます。信仰の自由や宗教的良心の自由については憲法二十条で保障されているのだとしましても、十九条からそれらの自由を排除すべき必然性はなく、十九条において、宗教的信条をも含めて、包括的に内面の思想の自由というものを保障したものであるというふうに解すればよいというふうに思われます。

 そこで、思想、良心の自由の保障と限界に進みたいと思います。

 思想、良心の自由を侵してはならないというのは、人は内心においてどのような思想を抱こうと自由であり、国家はそれを制限したり禁止したりすることは許されないということを意味します。人の内心には国家権力といえども立ち入ることはできません。しかし、であればこそ、歴史上国家権力は、拷問などさまざまな手段を用いて思想、信条の告白を迫ったということでございます。それゆえ、憲法で思想、良心の自由を保障するということの意味は、まず何よりも思想の告白強制を禁止するというところにあるというふうに言えましょう。いわゆる沈黙の自由の保障ということでございます。そしてさらに、ここには、思想を推知せしめる具体的事実や知識の探知というものを禁止する、そういうことも含意されているというふうに見なければならないと思います。さもなければ、思想、良心の自由というのは大きな脅威にさらされるということになるでありましょう。

 この点に関しまして、最高裁判所は、三菱樹脂事件、これは学生運動歴等を秘匿する虚偽の申告をしたということを理由に、試用期間満了直前に本採用を拒否されたということを不当として争った事件でございますが、この事件におきましては、最高裁は、人の思想、信条とその者の外部的行動との間の密接な関係というものを指摘いたしまして、外部的行動に関する事実を尋ねるということは直接、思想、信条の開示を求めるものではないが、さればといって、その事実が思想、信条と全く無関係のものであるとも言えないということを認めておりました。三菱樹脂事件では、最高裁は、結論的には、使用者が雇い入れに際して労働者に思想、信条に関係する事項の申告を求めても違法ではないといたしました。雇い入れ後に思想、信条を理由に解雇することは違法となる、そういう判示をしておりました。

 レジュメに書きました東電塩山営業所事件というのがございますが、この事件では、雇い入れ後に労働者に対して思想、信条に関係する事項の申告を求めたということでございますが、解雇等の不利益取り扱いを伴うものではなかったのでございます。この事件では、営業所長が労働者に対し共産党員であるか否かということを尋ね、これを当事者が否定しますと、では党員ではないということを文書で提出するようにというふうに求めたのでございますが、最高裁は、返答を強要したわけではないとして、違法性を否定いたしました。

 さらに、麹町中学内申書事件という事件がございますが、内申書の不利益記載のゆえに本来の志望高校へ進学することができなかったとして争った事件、有名な事件でありますが、この事件では、内申書に外部的な行動について記載しても、それによって思想、信条を了知し得るものではない、したがって、思想、信条自体を入学者選抜の資料に供したことにはならないのだとして、訴えを簡単に退けております。

 前の二つの事件は、いわゆる私人間の事件であります。憲法十九条が直接適用される問題ではないとする見解が実は多数説でありますが、しかし、このことは、憲法の基本的人権が専ら対国家的な権利であるという趣旨を述べていることでございまして、十九条に規定されたからといって、私人間において思想、良心の自由というものが主張できなくなるとか、あるいは存在しなくなるという趣旨ではございません。当然、私人間においても思想、良心の自由というものの侵害が問題となり、その問題状況に変わりはないというふうに言えると思います。

 今御紹介した後の二つの判決というのは、学界でもかなり批判されておりますが、いささか内心の自由に対して、また、それを外から探知するという問題に対して、やや無神経な判断ではないか、問題があるというふうに思われます。

 憲法十九条は、思想に基づく不利益の賦課や差別的取り扱いを禁止しております。これは、信条による差別を禁じた憲法十四条とも重なり合うものであります。この点に関しましては、例えば、特定の政党の党員であることに基づいて企業内で差別的処遇が行われるというようなことが問題になった例がごく最近でもございます。これについては、下級審でも違法とされる判断が出ております。

 また、しばしば、裁判官の任官拒否とか再任拒否問題に際して、思想、信条が問題になっているのではないかということが疑われたりしておりますが、もちろん、そういう内心を理由としての拒否ということであれば当然問題になるのですが、現在は下級裁判所裁判官指名諮問委員会というものでよく検討しておりますし、恐らくそのようなことはないだろうというふうに考えております。

 なお、この点に関して、レジュメに参考としてヘイトクライムの加重処罰ということを書きましたけれども、これは我が国では見られませんけれども、アメリカの例で、人種的な憎悪や偏見に基づく犯罪に対して通常の場合よりも重い処罰をもって臨むということがございます。この種の法令について合衆国最高裁は実は合憲だという判断を下しているのですが、人の内心の思想を評価して通常の場合と異なる取り扱いをするという点で問題がないとは言えません。

 憲法十九条は、自己の思想、良心に反する行為の強制も禁止しております。この点に関する判例としては、レジュメに書きました二つの事件が代表的なものですが、強制加入の公益法人内部の決議にかかわる事件というものがございます。南九州税理士会事件というのは政治献金目的での特別会費の徴収であり、群馬司法書士会事件は大震災からの復興支援目的での特別負担金の徴収の事案でございましたが、最高裁は、前者については会員の思想、信条の自由との関係で問題があるという指摘をいたしました。後者については自由の侵害を否定しております。これも、いずれも私人間の事件でございます。

 いわゆる良心的兵役拒否、これが内心の問題としてはよく出てくる典型的な問題でございますが、我が国には兵役の義務がございませんので、事実上、問題とはなり得ないものと思います。ただし、自衛隊員が自己の良心に基づいて特定の命令を拒否するというようなことがあるとすれば、そのような形では問題となる余地があるというふうに思います。諸外国では、憲法や法律で免除を認めるというのが通例でございます。例えば、ドイツ連邦共和国基本法の四条三項というようなところに規定されております。

 司法制度改革の一環として導入が決まった裁判員制度でございますが、これについて、思想、信条を理由とする辞退が認められるというふうに聞いております。一つの見識であるというふうに思いますが、具体的にどう判断するか難しい場面もあるというふうに推測されます。

 例えば、人が人を裁くことはできない、人を裁けるのは神だけだというような真摯な深い宗教的確信を抱いているとすれば、これは辞退理由にまさに該当すると思われます。しかし、単に、人を裁くような重い仕事はしたくないというのはどうでしょうか。さきの宗教的確信に近い場合もあるでしょうが、単純に負担を感じるという程度のこともあるのではないでしょうか。

 良心を口にされた場合に、どのように判断し、どこで線を引くのか。逆に、そういう重い仕事であるということを自覚して臨んでいただくというのも大変必要なことのようにも思いますし、そういう自覚を持たない人ばかりが残るということもこれは困ったものだろうというふうに思います。また、死刑になるかもしれないような重大事件には関与したくない、こういうふうに選択的な辞退も認められるのかどうか。これは今後の検討課題ではないかというふうに思われます。

 最後に、国旗・国歌の問題について一言触れたいと思います。

 この問題は、思想、良心の自由にかかわる最も重要な問題の一つでありますし、教育基本法の改正問題ともかかわるものかと思います。特に、卒業式等の学校行事に際して紛争が生じ、訴訟の場で争われるに至っております。

 平成十一年、一九九九年の国旗・国歌法の制定に当たって、政府は国旗・国歌を強制しないということを繰り返し表明しておられましたが、現実には、法制定後に、学習指導要領に基づいて、学校行事に際して国旗掲揚とか国歌斉唱が求められる例がふえておりまして、職務命令違反を理由とする教員に対する懲戒処分というものが行われるに至っております。

 この問題をどう考えたらよいか。大変難しい問題ですが、まず、国家が国旗や国歌のようなシンボルを用いて国民の統合を図るということは、民主主義国家においても必ずしも否定されるべきことではないというふうに私は考えます。公教育の場で国旗を掲揚し国歌を斉唱するということも、それ自体が問題であるというわけではないと思われます。

 問題なのは、日の丸・君が代に対して複雑な思いを抱いている人たちがたとえ少数であっても存在するということであります。これは、教師の場合もあれば、児童生徒の場合もあるでしょう。教師は教える側に立つものでございますので、児童生徒という未成熟な子供とは必ずしも同列に論じられない。この辺もきめ細かく区別して本来は考えるべきでしょうが。

 いずれにしましても、これらの人々の内心に全く配慮することなく、国旗掲揚とか国歌斉唱を強行してよいのかということが問題の核心であるというふうに思います。

 ここで重要なのは、自己の思想、良心に反するからといって反対者が学校行事における国旗掲揚や国歌斉唱を実力でとめるというようなことはできないだろうということであります。それは逆に、反対する者の特定の信条を押しつけるということになります。つまり、行事の妨害などは認められないと思うのです。しかし、逆に、内心を理由とする不参加であるとか消極的な参加、これは、例えば歌わないということ、あるいは起立する場面で着席したままというのは、これは確かに、荘厳であるべき式、儀式、式典というものを考えますと、いささか異様な光景ということになってまいりますけれども、少なくともそのあたりまでは認められるべきではないかというふうに思われるわけであります。

 この点で、アメリカのバーネット判決、レジュメに書きましたが、これが参考になると思います。この事件は、エホバの証人の生徒による公立学校での国旗敬礼拒否事件として大変有名なものでありますが、ほかでもない一九四三年という時期に問題になりまして、下された判決であります。すなわち、戦時中でありますので、異端に対して不寛容になりがちなまさに愛国心が一段と高揚している、こういう時期に下された判決であります。合衆国最高裁は、自己の宗教的良心に基づいて国旗敬礼を拒否することを認めました。私は、まさにこれは自由社会アメリカの真骨頂を示すものだと思います。いろいろ問題はあっても、アメリカの強さというのはこういうところにあるのではないかという気がいたします。

 沈黙の自由との関係では、謝罪広告の強制であるとか取材源の証言拒否ということがございますけれども、いずれも沈黙の自由の侵害にはならないというふうに考えられておるところでございます。謝罪広告の強制につきましては、今日ではむしろ、謝罪広告をどこに出すかという、その場所を裁判所が指定するということによって表現の自由を侵害することにならないかというあたりが問題になっております。

 駆け足で恐縮ですが、3の信教の自由と政教分離原則ですが、まず、信教の自由の意義でございます。

 改めて申し上げるまでもありませんが、これは内心の自由として重要なものの一つということになります。人権宣言の中核をなす最も重要な人権であるということについては、異論のないところであろうと思います。

 信教の自由という文言は一般に広く用いられているわけではありませんが、明治憲法の用語でございまして、日本国憲法はそれを踏襲しております。その内容としては、信仰の自由、これは信仰しない自由を含むという点が重要ですが、その信仰の自由、宗教的行為の自由、宗教的結社の自由という三つの内容を含むというのが学界の通説となっております。

 政教分離原則の意義についてですが、政教分離とは国家と宗教とを分離するという原則であります。国家の宗教的中立性の原則と呼ばれることもございます。この場合の宗教とは、特定の宗教が問題になるのはもちろんですが、それだけではなく、宗教一般を意味すると広く解すべきであります。ただ、ある程度組織的なものを意味するというのが通説となっております。この原則は、国家と宗教の結びつきが個人の信教の自由にとって脅威になると見られることから、これを防止し、信教の自由の保障を確保しようとするものと言えます。

 政教分離原則の法的性格をめぐっては、これを制度的保障としてとらえるべきか否かという争いがございます。制度的保障といいますのは、これもまたドイツから輸入された概念でありますが、一言で言えば、ある制度の核心を立法による侵害から守ろうとするというものでございます。これはまさに、基本権の保障に法律の留保がついていたかつてのドイツであるとか明治憲法下の日本においては意味のある概念ということになります。

 しかし、日本国憲法は法律の留保というものを認めておりませんので、その意味では、制度的保障という概念自体がもう不必要な概念ではないかということ、あるいは政教分離という国家と宗教とを分離するというようなことが一つの制度であるのかどうかという疑問などが出されているわけであります。

 いずれにしましても、この原則が信教の自由の保障を促進または補強するためのものであるとする点では基本的な一致がございます。津地鎮祭の大法廷判決も、政教分離というのはいわゆる制度的保障であると言いましたけれども、しかし、それが信教の自由の保障を一層確実なものとするためのものであるということを述べているわけであります。

 日本国憲法では、この原則を、宗教団体の特権享受、政治上の権力行使の禁止、これは二十条一項後段ですね、それから国家の宗教的活動の禁止、同条三項、それから宗教上の組織または団体への公金支出の禁止、八十九条前段という形で詳細に規定しております。

 例えば、アメリカ合衆国憲法は、第一修正において、連邦議会は、国教を樹立する法律を制定してはならないとのみ規定しておりますし、一九五八年のフランス第五共和国憲法一条は、フランスは、非宗教的な共和国であるというふうに宣言するのみであります。また、一九八七年の大韓民国憲法は、二十条二項におきまして、国教は、これを認めず、宗教と政治は分離されるといった述べ方をしております。これらに比べて極めて詳細であるということがわかります。

 政治上の権力行使という言葉をめぐって若干の争いがございます。しかし、これは統治権力の行使を意味する。すなわち、宗教団体が統治権力を行使するということを禁止しているという意味に解されております。一定の宗教的信条に基づいて政治活動を行うことは、むしろ憲法二十一条で保障されるところでございます。特定の政党名を出して恐縮ですが、公明党が創価学会と政教分離していないというふうな言われ方をすることがありますが、言葉の適切な使用とは言えないと思います。

 憲法八十九条前段の宗教上の組織または団体とは何か、これをめぐっても解釈論上若干の争いがございますが、宗教法人法上規定されているような宗教団体という狭いとらえ方ではなく、宗教上の事業や活動を目的とする団体であれば、広くそれに該当するという理解をすべきでありましょう。

 なお、非宗教団体が宗教的活動を行う場合、非宗教団体の宗教的活動に対する国の援助というものも当然禁止されるものと解されますが、その旨は、日本国憲法には明文で規定されておりません。

 政教分離については、これを厳格分離とするか相対分離とするかということが議論されることがありますが、憲法上、厳格分離が要請されているということは疑いの余地がないと思います。

 その点は、憲法二十条、八十九条成立の背景を見れば明らかであると思います。

 日本国憲法が何らの留保なく信教の自由を保障し、あわせて政教分離原則を詳細に規定したのは、戦前の国家神道体制のもとで信教の自由が抑圧された我が国独自の経験を踏まえてのことであります。決して、我が国の実情にそぐわない原則を導入したというものではありません。

 明治憲法二十八条は信教の自由を保障しておりましたが、それは「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」でありまして、神社非宗教論に基づいて神社参拝が「臣民タルノ義務」として強制されれば、これに抗することはできなかったわけであります。また、同条には法律の留保がなかったために、命令によっても制限が可能であるとする解釈をもたらしたのであります。

 そこで、信教の自由の保障と限界でございますが、信教の自由には、信仰の自由と信仰に基づいて行為する自由とが含まれます。

 前者については、内心の自由として絶対的にこれは保障されるということですが、信仰告白の強制、信仰あるいは不信仰を理由とする不利益賦課の禁止、これらもそういう意味で思想、良心の自由の場合と同様であります。

 これに対して、後者の宗教的行為というのは外部的な行為でありまして、社会における他者とのかかわりを生ずるために、おのずから一定の制約に服さざるを得ないというふうに考えられます。

 ただし、宗教的行為は内心の信仰に基づく行為であり、信仰と行為とを単純に区別できるものではないだけに、かかる行為の規制に当たっては慎重な対応が求められると思います。すなわち、規制は必要不可欠な公共的利益を達成するための最小限度のものでなければならないというふうに考えます。この点につきましては、事前にお配りしました拙稿の中に、アメリカの合衆国最高裁の判例法理の検討を若干いたしましたので、御参照いただければと存じます。

 もっとも、一九九〇年のエンプロイメント・ディビジョン・バーサス・スミスという事件がございますが、アメリカ合衆国最高裁は、第一修正の宗教の自由な行使に対する権利を主張することによって、一般的に適用され得る有効かつ中立的な法律に従うべき義務から免れることはできないとする考え方を打ち出しておりまして、いわば、今申しました必要不可欠の利益テストともいうべきものを放棄したととれる判示を出しております。その意味で、これは学界においては大変強く批判されておりまして、論議が続いているところでございます。

 我が国では、問題となる事例がこれまでさほど多くなかったこともありまして、判例上、一貫した判断基準というものは明示されておりません。

 レジュメに少し挙げておきましたが、加持祈祷事件、これは古い先例でございます。治療と称して加持祈祷を行って傷害致死罪に問われた事件でございますが、こういうものは信教の自由の保障の限界を逸脱したものであるとして異論のないところであります。

 宗教法人オウム真理教の解散命令事件、これは宗教法人法八十一条一項に基づいて解散命令を請求して、一、二審がその請求を認めたために、最高裁に特別抗告がなされ、これが棄却されたというものでございます。

 この事件の問題点は、加持祈祷事件と異なりまして、犯罪行為に関与しなかった一般信者の信教の自由というものが問題になるという点でございます。しかしながら、決定は、宗教上の行為へのあり得べき支障というものは、解散命令に伴う間接的で事実上のものであるにとどまるといたしました。この点は、この教団が起こした犯罪行為のことを考えますと、やむを得ざる判断であろうかというふうに思いますし、判旨は、十分に宗教上の行為へのあり得べき支障というものについても考慮しているというのは適切であろうというふうに思います。

 同じオウム真理教関係では、一九九九年十二月に、無差別大量殺人を行った団体の規制に関する法律、いわゆる団体規制法による観察処分の問題がございますが、これも極めて痛みを伴うものではありますけれども、やむを得ない処分なのであろうというふうに判断いたします。

 エホバの証人の剣道実技拒否事件、これは非常に重要な事件でありまして、私も少しコミットいたしたのでございますが、自己の宗教的信条に基づいて剣道実技の受講を拒否した高専の学生に対する進級拒否処分や退学処分の取り消しを求めて争った事件であります。

 この判決は、学生の剣道実技の受講拒否理由というものを信仰の核心部分と密接に関連する真摯なものであると認めまして、本件各処分は、社会観念上著しく妥当を欠くものであるというふうに判断いたしました。考え方の筋道は、私が事前にお配りした拙稿の中で示したものとほぼ同じものになっております。適切であろうかと思います。

 以上は、信教の自由の限界に関する問題点でございました。

 この最後の事件というのが特に重要だと申しましたのは、そこでは、信教の自由に対する国家の配慮が果たして、また、どこまで認められるかという問題が提起されているということでございます。この点は、政教分離原則違反の有無を判断する基準の問題ともかかわりますので、次のところでも、その基準の見直しのことを少し申し上げたいと思います。

 政教分離原則違反の有無の問題ですが、日本国憲法の政教分離規定は、国家と宗教との厳格な分離を要請いたします。学説の多数もこのような理解で一致しているところであります。

 しかしながら、この規定が国家と宗教との文字どおりの完全な分離を要請すると見るのは適当ではないというふうに考えます。宗教の社会的意義というのは尊重されるべきでありますし、また、政教分離を貫徹しようとする余り、個人の信教の自由を損なうことになっては本末転倒だからであります。国家が宗教と一定のかかわり合いを持つ場合はあるというふうに考えられます。

 ただし、その判例の理解というのはこれと同じではないのであります。すなわち、判例は、国家と宗教とのかかわり合いを前提とし、いかなる場合にいかなる限度においてそれが許されないことになるかというのを問うております。つまり、判例は、宗教とのかかわり合いを持つ国家行為のうち、そのかかわり合いが我が国の社会的、文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えると認められるもののみが許されないというふうに判断するわけです。これは原則と例外が逆になっているのではないかというふうにしばしば指摘されるところであります。憲法の政教分離規定は、国家と宗教との関わり合いを原則として禁止していると解すべきでありまして、問われるべきは、何が許されないかではなくて、何が例外的に許されるのかということではないでしょうか。

 そこで、この例外的な場合を一つ一つ見きわめていくことが必要になりますが、その判断基準として、いわゆる目的効果基準というものが判例上確立したものとして用いられております。学説もこれを用いるのですけれども、若干それは判例の用いているものとは異なっております。

 もともとこれはアメリカのレモン・テストと言われる基準を参考にしたのではないかというふうに考えられているのですが、レモン・テストは、政府の行為が合憲とされるためには、当該行為が世俗目的を持ち、その主要な効果が宗教を促進しまたは抑制するものではなく、政府と宗教との過度のかかわり合いを促すものではないという三つの要件をすべてクリアしなければならないというふうに述べるのでありますが、我が国の判例の目的効果基準は、宗教とかかわり合いを持つ国家行為のうち、その目的が宗教的意義を持ち、かつ効果が宗教に対する援助、助長、促進または圧迫、干渉等になるような行為が憲法の禁止する宗教的活動であるというふうにどうもとらえているように見えます。そのような行為に該当するか否かということを、実に複雑ないろいろな諸要素を勘案する。

 すなわち、ちょっと判例を引用しますと、「当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない。」というふうに述べるのであります。

 これは結局、総合的に判断するということでありまして、本来のアメリカで使われていたテストとはかなり違ったものではないか。しかも、我が国独自のものとしても、どのように判断していくのか、その過程が明確ではないという問題をはらんでいるように思います。そして、この基準を判例は憲法二十条三項、八十九条の両者に適用しようとするものであります。

 私自身は実は、レモン・テストのように三つの要件をという学説の多数説にはくみしないものでありまして、独自の考え方をとっているのですけれども、それは事前にお配りしました拙稿の中に少し触れております。

 問題は、目的効果基準というものを用いるにしましても、目的については、国家が、無宗教に対して宗教、また諸宗教の中から特定の宗教のみを公的に承認したり勧奨したりする、あるいは否認する、そういう目的を持っているかどうか、効果についてもまたそれと同じような効果がもたらされるかどうか、これを問うべきではないかというふうに考えております。この場合、国家が、宗教と無宗教、また諸宗教に対して等距離に接しているかどうか、そのいずれをも平等に扱っているかどうかということが決め手になると思います。このように考えることで、宗教とかかわる国家行為が個人の信教の自由を尊重するものとして許容されるのか、それとも国家の宗教的活動として許されないのかという、その見きわめができるのではないかというふうに考えております。

 最後に、以上の前提に立ちまして、政教分離原則のもとで許される国家行為というのはどういうものなのかということを考えたいと思います。

 まず、判例上、自治体が主催した神式の地鎮祭につきましては合憲という判断が出ております。津地鎮祭の大法廷判決であります。また、靖国神社等への玉ぐし料等の公金支出については、これは違憲であるというふうに判断が出ております。いわゆる愛媛玉ぐし料判決というものでございます。また、自衛官合祀訴訟の大法廷判決、これは隊友会による県の護国神社への殉職自衛官の合祀申請に対する国の協力行為を合憲としたものでございます。

 また、いわゆる忠魂碑に関しては、箕面の忠魂碑・慰霊祭訴訟あるいは補助金支出訴訟というものがあります。最高裁は、公務員の慰霊祭への出席であるとか遺族会への補助金支出というのをいずれも合憲としております。それから、長崎忠魂碑訴訟というのがございますが、補助金支出を合憲とする福岡高裁の判決が確定しております。

 即位礼、大嘗祭関係では、大嘗祭や関連儀式への知事の参列につきまして、最高裁は合憲とする判断を下しております。ただし、下級審では、傍論ながら、違憲または違憲の疑いが指摘されているところであります。

 最後に、内閣総理大臣の靖国神社参拝問題でありますが、いわゆる公式参拝というものにつきましては、最高裁の判断は出ておりません。中曽根元総理の公式参拝については、二つの下級審で違憲の疑いが指摘されておりますし、また、岩手靖国訴訟の控訴審判決では、公式参拝について明確な違憲判断というものが示されました。ただし、これらはいずれも傍論にとどまっているのでございます。

 小泉首相の二〇〇一年、平成十三年の靖国神社参拝をめぐっては、全国で五つの違憲訴訟が提起されましたが、そのうちの一つについて、先日裁判所の判断が下されました。大阪地裁の平成十六年二月二十七日の判決でございますが、政教分離違反の有無については明確な判断を示さずに、その点は判断しておりませんが、国家賠償法一条の解釈として、首相の参拝を内閣総理大臣としての職務を行うというものに当たるとした点は注目されるというふうに思います。

 以上の判例の動向は、憲法の政教分離原則の趣旨にかなうものかどうか、その適正な実現となっているかどうかということでございますが、津地鎮祭事件に関する最高裁の合憲判断には、やはり私はいささか疑問がございます。法廷意見の内部にも、これが許されるぎりぎりの線であるという理解があったというふうに聞いております。

 ただ、忠魂碑訴訟に関しては、私は学界の多数説とは別な考え方を少し持っております。特に、長崎の忠魂碑訴訟に関しては、これは合憲という結論になるのではないかというふうに考えているところでございます。

 なお、即位礼、大嘗祭関係につきましては、下級審の判断に傾聴すべきものがあると思います。ただ、政策的には、即位礼はともかくとして、少なくとも大嘗祭については、皇室の私事とする方向で検討されるべきではないかというふうに考えます。

 また、内閣総理大臣の靖国神社参拝問題でございますが、事前にお配りしました拙稿におきまして判断を述べておりますが、靖国神社を中心的な戦没者追悼施設として公的資格で参拝するということは、特定宗教との特定の結びつきとして憲法に違反することになるというふうに考える次第でございます。

 少し時間をオーバーして恐縮でございます。結びにかえて一言申し上げます。

 以上のとおり、思想、良心の自由、信教の自由、政教分離原則に関する日本国憲法の規定は、諸外国の憲法に共通する近代憲法の基本理念を定めたものであると同時に、我が国の実情にもかなった妥当な規定であるというふうに考えます。

 ただ、強いて言えば、上で指摘しておきましたように、政教分離原則に関しては、非宗教団体の宗教的活動に対する国の援助の禁止というものが明文で規定されておりませんので、この点を憲法にさらに加えるということは立法論として検討の余地があるかと思われます。政教分離原則の趣旨をより明確にするということになると思われます。もっとも、現在でも解釈論上、非宗教団体の宗教的活動に対する国の援助というのは当然禁止されるというふうに解されますので、また下級審の中にもそのことを明言しておるものがありますので、現行規定に不備があるというほどのことではございません。

 思想、良心の自由、信教の自由、政教分離原則に関する日本国憲法の諸規定の趣旨がよりよく理解され、より一層実現されていくということを期待いたしまして、私の意見陳述を終えることとしたいと存じます。

 御清聴ありがとうございました。(拍手)

山花小委員長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

山花小委員長 これより参考人に対する質疑を行います。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。棚橋泰文君。

棚橋小委員 自由民主党の棚橋泰文でございます。

 まずもって、野坂先生におかれましては、大変お忙しい中、貴重な御意見を御開示いただきまして、本当にありがとうございます。

 私の方から、特にきょうお話がございました思想、良心の自由あるいは信教の自由あるいは政教分離原則についてお聞きしたいことがたくさんございますが、いただいておる時間が十分でございますので、限られた時間の中で、特にポイントを絞ってまた参考人の先生の御意見を伺えればと思っておりますので、どうぞよろしくお願いします。

 第一は、思想、良心の自由でございまして、きょう先生がおつくりをいただいた資料、レジュメにもございましたように、幾つかの最高裁を初めとする判決が出ておりますが、特に三菱樹脂事件あるいは東電塩山営業所事件等がこの最たる例だと思うんですが、どちらかといえば、思想、良心の自由に関しては、今日は、特に私人間での議論の方が現実にフリクションになりやすいのではないかと思っております。

 もちろん、そもそも憲法の成り立ちが国家権力による個人の人権の侵害というものを守るという観点からなされておることは重々承知しておりますし、また、憲法の私人間適用に関してもさまざまな議論があることは承知をしておりますが、特に思想、良心の自由という観点から考えると、私人間において憲法の規定の適用のあり方がどうあるべきかということを、今後さらに私どもは検討していかなければいけないと思っておりますが、参考人はこの点について今どのようにお考えか、お教えをいただければありがたいと思います。

野坂参考人 どうも御質問ありがとうございます。

 いわゆる基本権の私人間適用でございますけれども、これは私は、もともとはこれもまたドイツ的な理論というものが導入された結果、そういう議論の構造になっているというふうに思っております。そういう意味では、必ずしも、日本国憲法のもとで、通説が言いますように、憲法の人権規定というものは専ら対国家権力というものであって、私人間では主張できないというか、直接憲法の人権規定が適用されるものではないというふうに考える必要はないと思っているわけです。

 先ほどちょっと報告の中で申しましたけれども、本来、思想、良心の自由というものは天賦人権の最たるものと言いましたけれども、人が人に対して、だれに対してでも、本来は侵害してくれるなというふうに主張できる性質のものであろうと。したがって、憲法に規定されたから当然にもう権利ではなくなるとか、あるいは主張できなくなるという性質のものではないと考えます。

 その意味では、実は東電塩山営業所事件の一審の甲府地裁の判決が述べているところでございますけれども、思想、良心の自由というのは私人間においても本来人間の根源にかかわる自由として主張し得るものである、そういう重要な法益として民法上も人間の尊厳という形で法律上も保障されているものである、つまり、いわゆる公序として守られるべきものであるという言い方をしておるのですけれども、私の考え方はそれに近いものでございます。憲法の人権規定を私人間に適用するという考え方ではなく、むしろ私人間において本来人権として主張できるものである、だから憲法は専ら対国家的にそのことを明確に規定したものであるというふうに考えるべきではないかと思っております。

棚橋小委員 ありがとうございました。

 まだ思想、良心の自由についてお伺いしたいことがございますが、限られた時間の中でございますので、もう一点、特にお伺いしたいのは、信教の自由といわゆる政教分離原則でございます。

 まさにこれは参考人のお話にもございましたように、ある意味では政教分離原則ということは、一般に誤解をされたり、あるいは意図的に誤解をして使われるケースが残念ながら少なくない憲法の規定の一つではないかと思いますが、参考人のお話にもございましたように、制度的な保障の概念という議論もございますが、基本的には最高裁の判例にもありますように、政教分離の原則というのは信教の自由の保障をより一層確実なものにするためのものである、まさに信教の自由を促進、補完する観点からのものであるということは私も全く同感でございます。

 そういう意味では、政教分離というよりも国家と宗教の分離という参考人からのお話がございましたが、まさにそこに本質があるわけでございまして、と同時に、さらに参考人のお話にあったように、宗教ないし宗教団体の活動あるいは布教活動等で社会とのかかわりを宗教が持つことは当然のことでございまして、その中で国家と宗教がいかに憲法の予想する形で分離されるかというのが、多分その政教分離原則の一番の問題ではないかと私は思っております。

 基本的には、政教分離原則の本質は、いわば宗教ないし宗教団体が国家権力の根幹にかかわる部分を直接に行使してはならないということであって、政治的な活動あるいはそれに類するような社会的な活動を宗教団体がしてはいけないということではないというふうに理解をしておりますが、その点について、まず第一に参考人はどうお考えなのかということ。

 それから、政教分離原則の基準に違反するか違反しないかということに関しての目的効果基準についてもお話がございましたが、あくまで政教分離原則というのは信教の自由をより確実に補完するための制度であって、それ自体に価値があるわけではなくて、その目的たる信教の自由を、現実の社会を前提にして、より確実に、一番ベターな形で保障するという、ある意味では目的と手段の関係に立つというふうに私は理解しておりますが、この二点について、参考人はいかがお考えでしょうか。

野坂参考人 まず、第一点でございますけれども、主として政治上の権力を行使してはならないという部分のお話でしょうか。そうだとしますと、実は憲法の規定自体が、しばしば政治上の権力を行使するということが、何かその政治活動自体も禁じているかのようにとられる節があって、その点は先ほども申したとおりでございまして、宗教団体が統治権力を行使してはならないという意味に解すべきであるというふうに私も考えております。

棚橋小委員 質問の趣旨が、その観点からと、いわゆる国家権力の本質的な機能を行使してはいけないということであって、いわゆる政治活動をしてはいけないということではないと。その点について参考人も先ほどおっしゃったように、残念ながら誤解をされて、あるいは意図的な誤解をされて、その政教分離原則を理解されている、誤解されている方もいらっしゃるのではないかという趣旨でございます。

野坂参考人 その意味では、国家権力の本質といいますか、その核心というふうにおっしゃられたと思うんですが、私は、その点はそのとおりだろうというふうに思います。それでよろしいでしょうか。

棚橋小委員 いわゆる政治的な活動あるいは社会的な活動を宗教団体がしてはいけないということではないというのも、これも参考人がおっしゃったとおりでございますね。

野坂参考人 先ほど申し上げたとおりでございます。

 第二点に行ってよろしいでしょうか。

 第二点の目的効果基準、それから政教分離原則が制度的保障であって、信教の自由と目的、手段の関係にあるのではないかというお話なんですが、私は確かに、信教の自由を確保するために制度的保障というものがあるんだというのは、そのとおりだと思うんです。

 その限りでは、確かに目的と手段のような関係になるんですが、しばしば気をつけなければいけないのは、制度的保障は、それでは単なる手段にすぎないのかということになりますと、そのようなとらえ方をすると、例えば国家と宗教とを分離するというときに、これは信教の自由を保障するためだから信教の自由の核心を侵害しなければ別に国家と宗教とのかかわりというのは緩やかであっても問題ないのだという理解になりがちのような気がするんですね。

 そういう意味でいいますと、しばしばこのとらえ方は難しいですけれども、単なる目的と手段の関係ではなくて、分けること自体にやはり意味があるというふうに考えるべきではないかと思っております。

棚橋小委員 ありがとうございました。

 もう少しだけ時間がございますので、今の点について、もう少し深くお聞きをしたいと思います。

 いわゆる政教分離の原則は当然のことながらございますけれども、参考人がお話しされたように、宗教活動というのは社会的な活動あるいは政治的な活動と全く無縁ではないわけでございますので、この根幹に触れない形でこれをやっていくことは当然容認されることですし、と私は理解していますが、それは参考人はどうお考えでございましょうか。

野坂参考人 それはもちろん、先ほど来申しているとおりでございまして、具体的には、それは、そのかかわり合いの程度というものを目的効果基準等で判断していくことになるでしょうけれども、一般論として、先生がおっしゃっている政治活動なり社会的活動というものを宗教団体がしてはならないということにはならないというのは、そのとおりだと思います。

棚橋小委員 ありがとうございました。

 それでは、私の方からの質問は終わらせていただきます。

山花小委員長 次に、笠浩史君。

笠小委員 どうも参考人御苦労さまです。民主党の笠浩史でございます。

 ちょっと幾つか私も聞きたいことがあるわけでございますけれども、先ほどの思想、良心の自由において、今まさに、裁判員の制度をお触れになりましたけれども、これがこれから恐らく国会の方でもかなり大きな議論になっていくと思うんです。先ほど、思想、信条の自由による拒否ができるというところを一定の評価をされたわけでございますけれども、これは本当に大変な負担になると思うんですね。人それぞれ、知識も違いますし、また受けとめ方も違うと思いますし、あるいは死刑自体が、それが例えば信条になるのか、自分としては死刑そのものに廃止をすると言った人が極刑の裁判にかかわるというような。

 こうした中で、この思想、信条の自由によって拒否をするということを一定の評価をされたところをもう少し、ちょっと具体的にお聞かせをいただければと思います。

野坂参考人 裁判員の問題でございますが、私もまだ、思想、信条の自由を理由として辞退ができるという考え方で、政令によって定めるところによりそういうふうに辞退が認められるということを伺ったばかりなものですから、具体的に深く突っ込んで考えているわけではありませんが、先ほど少し申しましたように、まだ思いつくままに述べた程度でございます。

 まさに内心の問題というのは、非常に千差万別であります。先生がおっしゃられたように、死刑になりそうな事件にはかかわりたくないというような場合に、死刑制度に反対であるというような信条もあるでしょうし、そこまで深く考えてはいないんだけれども、つまり、死刑制度に反対ではないけれども、自分が死刑という結論に手をかすのが嫌だというふうなところもあるでしょう。それから、もっと漠然と、何となくそういう大それたことにはかかわりたくないという程度のこともあるかもしれません。

 そういったものをどう仕分けするかということで、基本的に考えられることは、内心の問題は、やはりその人の生き方、人格形成といいますか、そういうものに深くかかわっているというものかどうかの見きわめで決まってくるだろうと思うんですね。ですから、先ほど挙げた例で、深い宗教的確信として自分は人を裁くというふうなことはできないということがはっきりすれば、それは尊重すべきだというのは、かなりはっきり言えると思うんです。それと同程度に、宗教的なというものではないんだけれども、自分の信念としてこういうことにはかかわりたくないということがはっきり示せれば、その人の信条なり良心の問題として、尊重すべきだということが言えると思います。

 ただ、そうしますと、辞退したいというときに、どなたかが面接するなり、あるいは何か文書にして自分の信条というものを出すのかというようなことになりまして、何か手だてを講じなければ、ただ単に自分の良心に反するから拒否しますということで済むとは、ちょっと思えないんですね。

 これは国民の義務だとすれば、それを免除するというなら、それなりのしっかりとした根拠が必要だというふうに考えますので、繰り返しになりますけれども、その人の内面にある、自分の生き方にかかわる核心的な部分から出た拒否理由なのだということが判断できるかどうかを最も大事な基準とすべきでしょう。ただ、それをどうやって調べるのですかというところがかなり困難ではないかなというふうに私は思いましたので、先ほどちょっと申し上げたという次第でございます。

笠小委員 ありがとうございました。

 ちょっと時間がないので話題を変えさせていただくわけでございますけれども、この数年、靖国神社の問題というのが、非常に中国や韓国の反発もあって、内外ともに大変大きな問題になっているんですけれども、私は、若い世代の政治家として、これから二十一世紀、この靖国というもの、総理の参拝というものとどう向き合っていくのかということは、やはりひとつ整理をきちんとしないといけない。政教分離、これにのっとって憲法というものに照らしたときにどうなのかという。

 例えば、A級戦犯を分祀するとか、あるいは新たな追悼施設をつくるとかということも検討されたり、かなり出てくるわけですけれども、それはあくまでも対外的に、外国の反発があるということについての手段であって、やはりその前に、我々が日本人として、この国としてどう向き合っていくかという議論が必要なのではないかなと思っておるわけでございます。

 そこで、先ほど先生が、最高裁もまだ総理の公式参拝についての明確な判断は下していないということをおっしゃったんですけれども、かなり長いわけですね。多分、問題になったのは、中曽根総理の公式参拝のときからだと思うんですけれども、最高裁がなかなか判断を下し切れないというものの一番大きな問題というのは、先生としてはどのように考えておられますか。

野坂参考人 今の点は、いわゆる公式参拝訴訟と言われている一連の訴訟がありまして、中曽根元総理の公式参拝をめぐって争われました。

 ただ、それが最高裁に行かなかった理由は、高裁の段階で、先ほど少し申しましたけれども、大阪と福岡の二カ所で高等裁判所の判決が出ましたけれども、その中で、違憲の疑い、すなわち、これを継続して行えばやはり違憲になりますよという趣旨の判断が示されたということなんですね。しかしながら、それは、総理の公式参拝によって国民個々人のいわゆる信教の自由が侵害されたわけではない。すなわち、訴えを起こした人たちはさまざまな、例えば宗教的人格権というようなものを主張いたしましたけれども、それらはまだ権利としては成熟していないのだと。判決の言葉によれば、一種の感情といいますかイデオロギー的なものを主張しているのであると。つまり、法的な保護に値しないという判断が出たものですから、そのために請求自体は退けられているわけですね。

 ただ、退けられているけれども、その退けた判決の中で、公式参拝については、それをこのような形で継続して繰り返せば違憲になるとか、あるいは違憲の疑いをぬぐい切れないのだという、いわゆる傍論という形で判断を示した。そこで、訴えを起こした側は、自分たちの請求は退けられましたけれども、裁判所がとにかく違憲の疑いということを曲がりなりにも示したということで上告していないわけですね。そのために高裁段階で確定した。したがって、最高裁の判断が出ていないということでございまして、最高裁が判断を回避しているということではございません。

 これは、少し外れますけれども、先ほどの棚橋先生の御質問と絡むことで、いわゆる制度的保障ということと、基本的人権、信教の自由との関係の問題ですね。つまり、信教の自由の侵害があれば、これは法的に救済できるということなんですけれども、そもそも権利侵害がないのだよというのがこの高裁の判断ということになるわけです。

 そういう意味で、実は、国の政教分離原則違反というものを訴訟で争うということは非常に難しいという別個の問題がございます。そのことの一つの反映として、今、最高裁の判断が出ていないということだというふうに私は認識しております。

笠小委員 ありがとうございました。

山花小委員長 次に、太田昭宏君。

太田小委員 公明党の太田でございます。

 靖国の問題の中で分祀の問題があります。分祀を政治が強要することは、当然、政教分離違反ということになりますが、分祀をしても、みたまは神社に残るから神道的にはこれは意味がないということが言われるわけですが、この宗教上の、神道的に意味がないということと、いわゆる法的なルールという世界の中での外形的なものとしての意味、私はそういう意味があるというふうに見るわけですが、いかがでしょうか。

野坂参考人 これは大変難しい御質問ですね。憲法学者に答えを求められるのは非常に厳しいのですけれども、先生おっしゃったとおり、まず、分祀をするということ自体が、本来の分祀というのは一つの神社で祭ったものをほかでも祭るという意味ですから、私はやっぱり神道的に意味がないというのはそのとおりだろうというふうに思います。それを強要するということになれば、これは政教分離違反という、そちらの問題が生じます。

 しかし、なおかつ、政治的には意味があるのではないかという御質問かと思うのですけれども、これは、結局、宗教的に見て意味のないことを行って政治的に効果を持ち得るかという問題だろうというふうに思いますね。ただ、そこで、政教分離違反という問題がありますので、神社の側がそれを拒否した場合に、あえてそれでも強行するということは避けなければならないというふうに判断いたしますが。

太田小委員 目的効果説ということで、六十年、八五年の八月の藤波談話ということがかなり基本になっているわけです。

 土井先生が質問主意書を出された、あれは三年ぐらい前でしたかね、その答えにもこれが出てくるわけですが、国民や遺族の方々の多くが、靖国神社を我が国の戦没者追悼の中心的施設であるとし、同神社において公式参拝が実施されることを強く望んでいるという事情を踏まえたものであり、こういう前提のもとで、そして、その目的はとしながら、追悼ということが行われ、なおかつ、そこの追悼の形式自体が神道にのっとらないことをあえてするという形というものによって、その効果自体というものをある意味では変容させる意思を持ってやるというようなことがかなり藤波談話の中で出ているわけです。

 これらの国民や遺族の多くがということと、それから強く多く国民が望んでいるという前提ということ自体、そしてその目的の効果というもののありようというものが、いわゆる通説としての目的効果説というものの先生のお考えと、合体と言うのがいいのかどうか知りませんが、通説というか、それを教えてください。

野坂参考人 まず、靖国神社の問題というのは大変不幸な状況になっているというふうに思うのです。

 まず、第一点。国民の多くが望んでいるというその事柄ですが、確かにそうかもしれません。しかし、ある統計によりますと、例えば、内閣総理大臣あるいは国の代表者が靖国神社に戦没者追悼のために参拝することは是か非かというふうに問うと、多くの人は、それは是である。それはむしろ、戦争で亡くなった、非業の死を遂げたというような表現をとられることもありますが、不本意ながらも命を失った、国のために命をささげた人たちに対してやはりそれなりの礼を尽くせという思いというのは、これはかなり広く国民の間にあるのではないかというふうに思うんです。

 ある統計によればそういう国民の多くが実は望んでいるというのが出ておりますが、同時に、では、その人たちに、日本国憲法には政教分離という原則が規定されているということを御存じですかと言うと、かなりの人がやはりこれは知らない、そういうことを知らない、あわせてそういう結果が出ているんですね。

 これは問題をまさに如実に示していると思うのですが、国民が望んでいるというのは、実は、先ほど申しましたように、やはり国のために犠牲になった人に対して、粗末にしちゃいけないんだ、みんながそのことを忘れないできちっと追悼すべきである、そういう心情だろうと思いますし、これは全く、人間として、国民として当然の心情であろう、これは尊重しなきゃいけないと私は思うのですが、同時に、憲法の政教分離原則は国家と宗教との分離を定めているわけですね。

 靖国神社は戦後、単立の宗教法人となりましたので、これは紛れもない宗教団体ということになります。また、靖国神社の側でも、みずからを宗教として位置づけ生きていくということを戦後決断されたわけですから、それに対してやはり特定のかかわり方をするということは避けるべきであるというふうに考えるわけです。

 そこで、目的効果基準ですけれども、目的が戦没者追悼ではないか、世俗的ではないかということなんですが、そもそも私は、目的効果基準の目的で、世俗目的というものを、純然たるものを求めるということは無理ではないかというふうに考えているわけです。

 ですから、この場合も、もちろん追悼という、これは戦没者追悼は世俗的であるというふうに言ってもよろしいかと思うんですけれども、しかし同時に、それが特定の宗教施設に参って祭神に拝礼するという行為になりますので、どうしてもこれは宗教的意味を払拭できないと思うんですね。そういう意味では、目的で結論は出ない。

 むしろ、目的のところはどういう目的を持って行っているかということでありますから、私は、それは戦没者追悼であると真摯に言われるのであれば、それはそういう意味で、目的は世俗的といいますか、目的の点ではそれは是とされるというふうに言ってもいいのだろうと思うんです。ただ、あくまでも祭神に対する拝礼ということですから、完全には払拭できないという問題はございます。

 したがって、効果の方が問題でございますけれども、それによってではどうなるかということなんですが、先ほど申しましたように、私は、特定の宗教、無宗教に対して宗教、あるいはいろいろな宗教がある中で特定の宗教と特に結びつくということがいけないというふうに考えておりますので、そういう意味でいいますと、そういうところに配慮した形であれば許されることになるのではないか、目的効果基準で判断しても。

 しかし、現状では、今おっしゃられましたように、靖国神社が中心的な施設である、専らそこへ参ることに意味があるんだという形でしか行い得ないものですから、そうなると、どうしても特定の宗教との結びつきという形になってしまう。そうすると、さっき私が申し上げたような基準でいいましても、効果の点でどうしてもこれは疑問が残るというふうに考えている次第です。

太田小委員 戦没者の追悼は国が主催しまたは関与する公的行事足り得るが、戦没者の祭りはあくまで私的行為にとどまるべきものであるという先生の御主張、この追悼ということと祭りということはどういうふうに分けていらっしゃるんでしょうか。

野坂参考人 私自身は、追悼という言葉を書きましたものの中でも、亡くなった方に対する人間の自然な感情として、亡くなった方を追慕するという意味合いで使っております。それはもちろん、それだって宗教的なものじゃないのと言われれば、およそ人間の社会において、人の生き死ににかかわることで宗教的でないものはないと言うこともできると思うんですね。

 ただ、憲法で問題にしているのは、そういう人間の自然な感情としての追悼と言われるような事柄をも禁ずるというようなことではない。つまり、憲法は決して反宗教ではないわけでありまして、信教の自由を保障しているのであって、ただそれを、いろいろな人々が、それぞれの信教の自由を、あるいは信じないということを尊重してもらえるようにということが大事なのであるというふうに考えております。

 したがって、追悼ということ自体はそういう意味合いで用いておりますし、また、全国戦没者追悼式であるとかあるいは各地のいろいろな慰霊祭などがございますけれども、そういったことでも、慰霊とか追悼という言葉を用いても、それは全く無宗教なんだとは言えないわけですけれども、そういうことが禁じられているわけではないというふうに考えるわけです。

 それに対して、祭りというのは、これは語弊のある表現かもしれませんが、あえて対比したかったのは、特定の宗教式による、あるいはそういうものによらないまでも、非常に宗教的な意味合いを持って行われるもの、特定宗教が行うのはまさに祭りだと思いますけれども、いろんな形のものがあると思います。そういうものを指しているわけです。

 そういう特定宗教によってやりたいという者はそれぞれに行うべきであって、しかし、およそ人たることによって共通する感情であるところの追悼というようなものは憲法の禁ずるところではない、そういう区別をしたつもりでございます。

太田小委員 ありがとうございました。

山花小委員長 次に、山口富男君。

山口(富)小委員 日本共産党の山口富男です。きょうは、限られた時間でしたけれども、思想、良心の自由、信教の自由、政教分離原則について、学問的に大変行き届いた論点を示していただいたように思います。

 それで、報告いただいた流れに即して質問したいんですが、一つは憲法十九条の成立の背景にかかわる問題で、先ほど治安維持法の問題をお出しになりました。私どもの先輩も、また政治家も宗教家も、これで随分弾圧されたわけですけれども、この十九条の問題で、過去からの決別の宣言なんだ、そういう位置づけを与えられたわけですが、日本国憲法の場合、治安維持法体制を拒否したということは、十九条だけに限らず人権規定全体に及ぶような非常に大きな歴史的経験だったと思うんですが、この点についてはどういう評価をされていますか。

野坂参考人 それは、もうまさに先生のおっしゃったとおりだというふうに思います。

 日本国憲法の人権規定というのは、表現こそ「国民の権利及び義務」となっておりまして、明治憲法の「臣民権利義務」と余り変わらないように見えるのですけれども、その中身たるや全く大違いでありまして、そもそもその基本の考え方が違うということは先ほども申し上げたとおりでございます。

 その意味で、基本的人権条項、それは、例えば人身の自由に関する三十一条以下などは非常に詳細になっておりますけれども、それ自体が長い歴史を持っている。それはアメリカの権利章典に非常によく似ているということがありますけれども、もとを正せばさらにマグナカルタまでさかのぼる非常に歴史を持った人権規定でありますし、それらがそのように詳細に規定されたということ自体が、それは戦前との決別であるという御指摘は、まさにそのとおりであろうというふうに思っております。

山口(富)小委員 私は、マグナカルタの一連の積み重ねたものは、実は仙谷会長代理と一緒にロンドンで見てきたんです。これは質問とは直接関係ありませんが。

 さて、治安維持法の問題で、被害者の皆さんが戦後、戦後補償の対象になり得ると国家賠償請求されておりますが、これについてはどういうお考えをお持ちですか。

野坂参考人 いわゆる戦後補償の問題一般でございましょうか。

山口(富)小委員 治安維持法の被害者の皆さんが出している……。

野坂参考人 それは、戦後、十七条によって国家賠償という制度がきちっと憲法上位置づけられましたし、国家賠償法という法律によって国家に対して責任を問うということが可能になっておるわけでありますが、ただ、いわゆる治安維持法下での被害に対するというようなことになると、それをさかのぼってどこまで補償できるのかという点はちょっと難しい問題があろうかというふうに思っております。

山口(富)小委員 思想、信条の自由にかかわって、三菱樹脂事件が取り上げられました。ちょうどこのとき私は大学一年生で、当時、当事者の名前をとって高野さん事件とか高野君事件と言われたように思いますが、憲法学者の長谷川正安氏がこれに題材をとって「思想の自由」という名著を出されたわけですね。

 きょうのお話をお聞きしていますと、やはり憲法条文がつくられた背景を押さえ、そしてそれが現実にどう機能してきたかというのをいろんな事件や判例の法理も含めてとらえていく、そういう形でやはり憲法原則というのは学問上も豊かになっていくというふうに考えてよろしいんですか。

野坂参考人 おっしゃるとおりだと思いますね。

 憲法というのは、言ってみれば、それは単に紙に書いた文章でありまして、オリジナルがありますけれども、実際にはいろいろな場所にそのコピーがあって、しかし、オリジナルが大事でコピーが大事じゃないということではないわけですね。すなわち、まさにそれはこういった文章の上に立ち上がっている内容が重要だというふうに、いわば比喩的ですけれども、言えると思います。したがって、文言というのはもちろん重要なのでありますけれども、実際にはそれがどういう趣旨で制定されたのかということを考えるべきであろうというふうに常日ごろ考えております。

 この点も、実は私自身は学界の支配的見解とちょっと違う立場をとっておりまして、学界の支配的見解は、いわゆる目的解釈論というか、合目的的な解釈というものをするということでありまして、現在の立場から最もよいと思う結論を引き出そうとするのですけれども、しばしばそれが、イデオロギーとまでは申しませんけれども、主観的な価値判断によって左右されるということがあると思います。私自身は、むしろ憲法は、本来、制定のときにどういう趣旨でつくられたのかということをやはり常にさかのぼってきちっと押さえるべきであろうと思います。

 きょう、若干ですけれども触れさせていただいたのはそういう趣旨でございますが、そういう本来の趣旨をそれぞれの具体的な場面でどう生かすかということが問題でありまして、その際に、裁判所の判断というものが、いわゆる判例というものがあれば、それは、その時点においてある具体的問題に即して憲法の特定の条項に規定された原理原則というものをどう生かすか、どういうふうに実現したかということを示すことになりますので、その時点において何が憲法であるかということを示すものだというふうに考えます。そういう意味で、非常にその考え方に賛成でございます。

山口(富)小委員 最近起こった事例で、ある公務員が、自分の職務とはかかわりなく、みずからお住まいのところで、しかも休日に政党の宣伝物を郵便受けに入れた、それが国家公務員法の政治活動にかかわるというので逮捕されるという事件が起きたわけですけれども、これは、そこまでやりますと、憲法が広く国民に認めている基本的人権の侵害に入っていく、そういう性格の問題になるんじゃないですか。

野坂参考人 その点だけをとらえては必ずしもすぐにそうだとかそうでないとか言えないと思うんですけれども、問題は、その事件と同様の判断が行われているのかどうか。つまり、やはりさっきの内心の問題とかかわると思うんですが、内心の思想、信条、あるいは特定の思想、信条を持ったグループに属しているかどうかというふうなことを理由として特にその行為だけをとりたてて処罰するとか制裁を加えるということになると、やはり問題が表面化してくると思います。そういうことはあってはならないというふうには考えます。

山口(富)小委員 靖国神社にかかわる問題なんですけれども、先ほど参拝は、内閣総理大臣、憲法上の存在ですね、国の代表者としては避けるべきだという話がありましたけれども、参考人の御意見では、これは、内閣総理大臣の参拝になると特定の宗教法人に対する関係を持つことになりますから、やはり憲法違反の疑義が高くなるという見解をお持ちなんですか。

野坂参考人 今の御趣旨は、内閣総理大臣が公的な資格で参拝した場合に違憲になるかというお話でしょうか。

 その点は、先ほども申しましたけれども、私は、無宗教の自由も抑圧してはならないし、特定宗教だけが優遇されてもならないという考え方ですので、あくまでも、靖国神社というものを中心的な戦没者追悼の施設であると、特別にそこだけに参拝するという形で戦没者の追悼を行うという行為を公的な資格で行うとすれば違憲になる、こういう考え方でございます。

山口(富)小委員 もう一点、ちょっと時間の都合で最後になるかもしれないんですが、国旗・国歌にかかわる問題なんですけれども、先ほど職務命令の問題が出ました。確かにこれを強制するということは絶対許されないわけですけれども、私、職務命令の場合も、これは一種の強制措置に入ってきますから、憲法上の要請からいって許されないと思うんですが、この点についてはどういうお考えをお持ちですか。

野坂参考人 現実には、下級審の判断などで、職務命令とは何かということが問題で、職務命令の是か非かということがまさに争われているわけですけれども、そこで、職務命令とは校長の命令であるとして、校長の命令が職務命令だから、それに従わねばならないのだという、何か、校長の命令であっても妥当な職務命令でないから従わないという余地がないような判断が少し出ておりまして、そういう考え方はやはりおかしいと思いますね。職務命令ならば何でも従わなきゃならないということではないだろうというふうには考えます。

山口(富)小委員 どうもありがとうございました。

山花小委員長 次に、土井たか子君。

土井小委員 先生、きょうはありがとうございました。先生の御論稿を読ませていただきました。大変に示唆に富んでいて、私自身も教わるところが多大でございました。

 さっき太田議員がおっしゃった質問主意書は、約三年前に、たしか小泉総理が自民党の総裁選挙を終えて本会議場で首班指名を受けられた、その直後に私、実は質問主意書を一回出しておりますから、そのときの内容だろうというふうに思います。

 それで、この靖国参拝なんですけれども、私的であるか公的であるか、それは私はこだわりませんと言われるのには、私はびっくりするんですね。これは実は、メルクマールは私的か公的かに尽きるんじゃないですか、簡単に言えば。内閣総理大臣でおありになる間は、端的に言いますと、靖国神社の参拝というのはすべて公式参拝だと考えなければならないと私は思っております。

 いろいろそれには異論がたくさんあると思います。例えば、玉ぐし料を公費でもって出さなければいいとか、それから、あそこでの記名をするときに内閣総理大臣という肩書きを書かなければいいとか、公用車を使用しなければいいとか、いろいろ言われますけれども、内閣総理大臣という方は一人、一人しかいないんです。その方が内閣総理大臣である間は、他人は内閣総理大臣ではないんですよ、その方お一人なんですからね。したがって、そういうことからすると非常にはっきりしていると思うんです。

 実は、私は読んでおりまして、目的効果基準の適用ということに先生が独特のこれに対する説を出していらっしゃいます。しかし、独特の説をお出しになるのは、やはりこの目的効果基準というのが前提にあって、これをどのように適用するかというときに、先生が御自身で独自のお考えをここに披瀝されているというふうに私は思うんですが、この考えは間違っておりますか。

野坂参考人 そこの判断基準の問題は私、やはり根本的にもっと再検討しなければいけないというふうに思っているんですが、何分、時間的余裕がなくて十分にまだなし遂げられないでおるわけです。

 そこに書きましたのは、判例も学説も目的効果基準という同じ名称でその判断基準を用いて政教分離違反の有無を判断しておりますので、その意味で、差し当たり、その目的効果基準という判断で考えるとすれば、どのように考えるべきかと。

 その際に、判例の用いている目的効果基準というのは、最高裁内部でも批判がありますけれども、いささかあいまいで明確さを欠いている。かつ、学説の方で主張しているアメリカのレモン・テストのように三要件を、厳格に三つの関門を用いてという判断ですけれども、私は、レモン・テストというのは必ずしも厳格な基準として機能し得ないんじゃないかというふうに思っているわけです。

 つまり、世俗目的か否かということは、はっきりと分けられる場合というのはむしろ少ないと思いますし、それから、援助、助長、促進というのは、実は何がそれに当たるのか、もっと具体的に言わなければならないと思います。それからさらに、過度のかかわり合いがあるかどうかという三つ目の要件を加えろというのが学説の多数の見解なんですけれども、国家と宗教が過度にかかわっているかどうかというのは、その程度がどうかというのは、場合によっては非常に恣意的な判断になってしまうおそれがあるというふうに思いますので、私は、それは必ずしも有用ではないと思っております。

 なおかつ、アメリカでもその三つの基準から成る、三つの関門から成るテストというのは、実はもう既に使われなくなっておりまして、そこに書きましたエンドースメントテストという、修正版ともいうべきものの方がむしろ時々あらわれるという状況なんですね。私自身の考えはそのエンドースメントテストに少し示唆を得ておりますけれども、しかし、もっと日本の状況に即して考えればこのように考える、使うのがいいのではないかという形に少しモディファイしているということでございます。

土井小委員 わかりました。それは、この論文の中に書いていらっしゃるのは、目的効果基準とその適用がなお議論の余地あるものであることもまた事実であるというふうにお書きになっていらっしゃる内容ですよね、今お聞かせいただいたのは。わかりました。これを少しどのようにお考えかというのを聞かせていただこうと思っておりました。

 先ほどのお話、ずっと国の政教分離原則違反ということを、訴訟を起こして問題にするということはまことに制度上難しいというふうなお話でございました。今の、内閣総理大臣の靖国参拝というのは憲法から見て許されることではないという思いの人が、それでは、提訴しても恐らく提訴の意味がないでしょうということになったら、どのような方途がございますか、その意見を生かすために。

野坂参考人 それは司法権の問題になってくるわけでございますけれども、日本の司法権の行使は事件性の要件というものを必要とするというのが大原則になっているわけでございますね。その事件性の内容でございますけれども、これは結局、提訴する側が具体的な権利侵害というものを主張していくという形になるのが通常であります。

 そこで、公式参拝訴訟の場合でも、公式参拝によって自分たちの信教の自由あるいは宗教的人格権のようなものが侵害されたのだという主張をしております。したがって、それは権利侵害の主張でございますので、当然訴訟にはのるわけです。ただ、のることはのるんですけれども、信教の自由の侵害といいますのは、やはり強制の要件が必要であろうというふうに言われております。

 といいますのは、公式参拝が行われた、政教分離違反があったとしましても、自分も参拝しろというふうに強制されたのであれば信教の自由は侵害されますけれども、強制されているわけではない、あなた方は自由にしなさい、自分たちは国の代表として行くのであるという形態の場合、その場合、信教の自由の侵害があったというのはなかなか難しいだろうというのが一つの論拠になっております。

 ただ、大阪高裁の播磨訴訟と言われているものですけれども、その中で、これも全く傍論なんですけれども、そういう直接的な強制でなくても、それに匹敵するほどの、つまり間接的な心理的な圧迫、つまり直接行けというふうな強制ではないけれども、間接的にもう行かざるを得ないような状態というんでしょうか、そういう心理的な圧迫であっても、そして間接的なものであっても、直接的な強制に匹敵するようなものが認められれば、それは信教の自由の侵害と言えるのだという考え方が示されております。これはしかし一般論でございます。

 かつ、宗教的人格権と言われるものは実はなかなか難しいものでして、自分の心の中で静かに宗教生活を送るとか宗教的な感情をはぐくむとか、そういうふうな言い方がされておりますけれども、これを法的に保護に値する利益であるかどうかという点について裁判所がまだ確たる判断をしておりませんで、下級審ではそういう判断を示したものもあります。しかし、自衛官合祀訴訟では、そういう宗教的人格権なるものは否定されているわけです、最高裁によって。そのため、残念ながら、訴訟にはのりますけれども、権利侵害はないという判断が出るということですので、政教分離違反だけを争うということが難しい。

 例えば、地方自治体の問題ですと、住民訴訟がございますので、これは主観訴訟ではなく客観訴訟だということで、現実にたくさんの憲法訴訟が、岩手靖国訴訟なんかもそうですけれども、そういうふうにして起こっておりますけれども、国の場合ですと、大嘗祭の訴訟のように、結局、国の行為というものを直接、では政教分離違反だからといって違憲確認を求めても、これはちょっと今認められない。

 そういうところは、立法論的に、裁判所にそういう違憲確認をなし得るように、つまり、違憲の宣言と差しとめというふうなことが認められれば、これは付随的審査制のもとでも、現にアメリカでも認めているわけですから、私は、ぜひそれは我が国でも立法論的に可能なんではないかと思いますので、導入していただければ、随分これは事態は変わるんではないかというふうに思っております。

土井小委員 ありがとうございました。

 今先生おっしゃったことは、現行憲法をしっかり守って、生かしていこうという努力をすれば、今の裁判のあり方も違うだろうと私自身思っております。八十一条というのが具体的に問題になりますね。

野坂参考人 おっしゃるとおりでして、八十一条の付随的審査制ですね。八十一条の規定は、最高裁判所が最終的に憲法問題について判断、決定するという規定ですけれども、付随的審査制であると解されていると。それはそれで、私は、現行訴訟法を使って十分に付随的審査制のもとで憲法訴訟をやっていけるというふうに判断しているんですけれども。

土井小委員 ありがとうございました。

山花小委員長 次に、倉田雅年君。

倉田小委員 自由民主党の倉田雅年でございます。

 本日のお話の中で、司法改革で言われておりますところの裁判員制度、これにつきまして、裁判員が本当に、例えば人が人を裁けないというような深い心情のもとに拒否することができる、私もそれは賛成なんです。きょうのお話と少し枠が外れているかもしれませんが、裁判員制度そのものについて、先生のお考えを少しくお伺いしたいなと思っているんです。

 私も、裁判員制度と言われているのは、もともとの陪審制度に関連したものとして出てきているということはよくわかっておりますし、陪審制度が十三世紀のイギリスで出発しているということも知っております。しかし、陪審制といったときに、どうしてもイメージするのは、いわゆる民衆裁判といいますか大衆裁判というか、例えば中世においては、閉鎖的な村落の中で、裁判という名において一種リンチ的な縛り首が行われたとか、そういうのもイメージしますし、民衆裁判ではないけれども、宗教裁判の中では、いわゆる魔女裁判というのもあったし、ガリレオが宗教裁判で有罪にされて、それでも地球は回る、こう言った、こんな例もあるわけです。

 私が幼いころかいつころか忘れましたけれども、特に印象に残っていますのは、キューバ革命のときに旧バチスタ政権の要人が、大勢の大衆の中で、有罪か無罪かというので、わあっという声とともに有罪でギロチンにかけられた、ギロチンか縛り首か、短波放送か何かで聞いたのが非常に印象的に残っているんですけれども、どうしても、陪審制あるいは参審制ですか、裁判員制度ということになると、そういうのをイメージしちゃうんです。

 一方、日本においては、戦前に十五年ほど、大正デモクラシーの影響でしょうか、陪審制度をやられましたですね。たしか、戦時中だからやめるという理由でこれはやめられたので、これはちょっと別としまして、新憲法が制定されるときにも、占領軍の中には、日本にも陪審制を復活させるべきじゃないか、あるいは新憲法の中に入れるべきじゃないか、こんな議論がもちろんあった。しかし、結局のところ、日本人というのはまだ民主主義を自分でかち取ったことのない国だから、まだ民主的に未熟である、あるいは国民性に合わないとか、こんな理由でやめになった、こういうのがこれまでの歴史だと思うんですね。

 それから現在、六十年たちまして、政治にも当然国民が参加しなきゃならない、市民参加が求められる、これは当たり前なんですが、司法にも市民参加が求められるという理由で、裁判員制度は今や当然だというぐあいに考えられているようなんですね。

 だけれども、よく考えてみると、憲法は、三十七条のあれは何項でしたか、刑事被告人はすべて公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する、こうあるわけですね。公平な裁判所の意義というのは、もちろん御承知のとおり、へんぱとかあるいは不公平のおそれのない組織、構成を持った裁判所だ、こういうぐあいに定義されているんですが、そういう被告人の権利、公平な裁判所によって裁かれる権利ということも考慮しなきゃならないんじゃないか、こう思うわけですね。

 そこで、一つ先生にお聞きしたいのは、先生の個人的なお考えでいいんですが、今やもう、日本に裁判員制度を取り入れるほどに民主制は熟したのか、あるいは、国民性が云々と言われたのは変化があったのかということが一点。

 もう一点は、では仮に、裁判員制度をこのままつくりましょうといったときに、被告人の権利ということを考えると、従前の裁判官による裁判との選択制、こんなのはどうだろうかと私は考えているんですが、先生はいかがであろうかと。この二点をお伺いしたいと思います。

野坂参考人 裁判員制度自体についてのお尋ねでございますけれども、この問題につきまして、今先生おっしゃられた陪審制の問題、それがまず最初に浮上してきたわけなんですが、陪審制に関しては、これは英米では民主主義の基礎である。つまり、国民がきちっと裁くというのが本来原点だというふうに考えられているようですけれども、しかし、実際には、アメリカの陪審制の例を見ましても、さまざまな、人種問題等がそこにかかわってきまして、非常に裁判の公正さというものが疑われるというような場面も出てきているのは御指摘のとおりかと思います。

 一方で、国民が司法参加をするというのは望ましいことであるわけですね。専門家としての裁判官が独善に陥ってはいけないということを是正するという意味があるんだろうと思います。それから、特に刑事裁判においては事実認定のあり方なんかが問題ですけれども、そういうところで、裁判官というのは、特に日本の場合には、裁判官養成は非常に直線的になされておりますので、難しい試験を通った後に、研修所で、特に成績のいい人がまた裁判官として養成され、かつ、キャリアシステムで裁判所内部でずっと上がっていく、そういう人たちだけに任せておいていいかという疑問が恐らくあるんだろうと思います。

 ただ、陪審制は本当に、私も実は、どちらかといえば少し疑問を持っている方なんです。裁判員という制度についても、急速に導入されることになったというのは少し危惧しているというのが正直なところでございますけれども、国民性という点でどうかと言われましても、なかなかこれは人によって判断がいろいろでございまして、かつて日本で行われていた陪審制は結構うまくいっていたという意見もあるわけですね。日本人には、割合そういうものをうまく使っていたという御意見もありますので、一概にうまくいかなかったんだということでもないようだと。

 よく、国民が論理的に考える態度が十分できているかどうかとか、日本人は果たしてどうなんだろうかとか、どうも感情的になりやすいんじゃないかなどという意見もありますけれども、実際がどうかということはなかなかよくわかりませんので、私は危惧を持ちながらも、最終的には陪審制ではなくて裁判員制度という形になりました。

 もうここまで来てしまったらやるしかないと思いますが、やっていく上で大変裁判官の方は御苦労されるだろうというふうに、我々法律専門家の間では、よく裁判官ともお話はしますけれども、正直なところ困った、大変な負担であるというふうにおっしゃっている方は多いですね。しかし、これはもうやっていくしかないという意味では、後はよりよい制度にするように努力するしかないのではないかと。

 民主主義の成熟度というのは、私は、これもまた一概に、どの程度成熟したかというのも一口に言えないと思いますし、日本人というのは、実は、戦後民主主義になったというのではなくて、戦前においてもみずから民主主義の経験を持っているわけですから、その意味では、かなり民主主義に対しては成熟しているという面も持っていると思います。ただ、それと裁判員制度というのは必ずしもストレートには、だからすぐやれるとかやれないとかということではないように思います。

 それからもう一点、被告人の権利の観点から、これをすべて裁判員制度にするのではなくというお話ではないかと思いますけれども、それは政策的にあり得るかとは思うんですが、ただ、選択制になると、こちらではそうだったけれどもこっちの事件では違うというふうに、異なる制度で裁かれることを、これは本人が望めばということなのかなとは思うんですけれども。ですから、選択というのは、本人の意思で選べるというのは、その限りではあり得る政策の一つであろうというふうに思いますが、しかし、導入する以上は、本来は、私は一貫してやった方がいいのではないかなというふうに思っております。

倉田小委員 私の言った選択制というのは、もちろん被告人の側から選択できるようにということでございました。ありがとうございました。

 時間終了と言われていますが、もう一点だけ聞きたいのは、先ほど土井委員からの御質問の中で、私も実は弁護士ですからわかるんですが、総理の資格における靖国参拝ですが、これは結局は、司法によっては、つまり最高裁によっては結論が出にくいだろうということが先生のお話でしたね。ただ、最高裁がそういう判断を出し得るんだということを立法政策でやればできるじゃないかというぐあいに伺いましたが、それは私の理解で正しいんでしょうか。

野坂参考人 最高裁が出しにくいということではないと思うんです。先ほど申し上げましたのは、まず、訴訟にはのるんだけれども、なかなか原告側の請求が認められるかというと、その権利侵害の判断のところが難しいだろう。やはり権利として主張するとすれば、宗教的人格権になろうかと思うんですが、それについての中身が十分詰まっていないという問題があるだろうということでして、もし最高裁まで行けば当然それは最高裁も判断はできるというふうに思います。

 先ほど立法政策としてと申しましたのは、直接政教分離違反の有無だけを争うような場合、これについては立法政策で新たな制度を設けた方がいいだろう。つまり現行でも、解釈上、私は必ずしもできないということではないと思っているんですが、現実にもう裁判所はそういう判断でございまして、事件性がない、つまり主観的な権利侵害というものがきちっと問題にならない限り、国の政教分離違反だけを判断することはできないんだというのが裁判所の態度なものですから、それでさっき申し上げた、そういう趣旨でございます。

倉田小委員 すぐ終わりますけれども、先生のおっしゃるとおり、大阪地裁が二月二十七日に、やはり個人の宗教的な侵害じゃないんだというようなことで判断を示さなかったというのがございます。

 一点だけ聞きたいのは、憲法裁判所、例えば政教分離に違反するかしないかという、端的に総理の参拝を問うというような憲法裁判所も必要だというぐあいにはお考えになりますか、なりませんか。

山花小委員長 野坂参考人、恐縮ですが、時間が来ておりますので、端的にお答えください。

野坂参考人 私は、憲法裁判所は必ずしも必要ないという考え方でございます。

倉田小委員 ありがとうございました。

山花小委員長 次に、村越祐民君。

村越小委員 民主党の村越でございます。

 本日は、お忙しいところ、本当にありがとうございました。これまでの諸先生方の質疑ですとか、もとより先生のお話を踏まえまして、何点か質問をさせていただきたいと思います。

 私も、先ほど先生のお話にありましたとおり、憲法解釈だったり憲法学のだいご味というのは、条文の背後に控えている思想だったり、哲学だったり、歴史というものをひもといていくことにあると思っていまして、その点で、先生が先ほどおっしゃっていました原意主義、テキストを忠実に解釈していくという考え方は大変興味深いと思っていまして、その点に関しまして、先生のおっしゃるテキストに忠実に解釈するという原意主義というものと、日本の宗教的、文化的な背景との関係に関して、ちょっと一点お伺いしたいと思います。

 日本の宗教的、文化的背景というのは、よく言われるように、生まれたときは神式でお祝いをする、そして結婚するときはキリスト教式の結婚式をする、そして葬式は仏式で挙げるというように、いろいろ入り組んだ状況にあると思います。非常に、宗教的に何というか寛容な部分を日本人は持っているかと思います。

 そういう環境の中で、原意主義の観点から二十条だったり八十九条をどう読むのか。

 つまり、具体的に言えば、例えば、地方自治体が地域振興だったり町づくりの観点からある神社の整備に公金を出す。それが例えば、参道の補修だったり、鳥居の補修だったり、あるいは社殿の補修だったり、いろいろな場合が考えられますし、また、それを判断するときに、当該自治体が、江戸時代から続く神社を中心に栄えてきた町だったりあるいは門前町だったり、いろいろなケースがあると思うんですけれども、先ほど来お話があるような、厳格な基準を適用する、あるいは裏書きをしているかどうか、ほかの宗教に対して圧迫感を与えているかどうか、いろいろ考えても非常に、神社にそういうお金を出すというのは厳しいところがあると思うんですが、もとに戻って、住民の感覚からすれば、非常にファジーなところがあると思うんですね。そういうものを踏まえて、テキストに忠実に二十条、八十九条を読むとどうなるのかというのをちょっと簡単に御教示いただければと思います。

野坂参考人 原意主義ということは、実は私が用いている言葉ですので、使っていただいて大変ありがたいのですけれども、ただ、その趣旨は、テキストに忠実にとおっしゃられたんですが、少し違いまして、テクスト主義ではないんですね。テクストを制定したときのその趣旨、本来の意図というものを重視すべきだという考え方ですので、ちょっとそれは違うんですが、しかし、その本来の趣旨を重視すべきだという点では今の御質問にお答えできると思うんです。

 日本の文化的、社会的な背景といいますか、諸条件のことにお触れになったと思うんですね。しばしば裁判所がこれを宗教的雑居性などという言葉を用いていて、私は非常にそれは不謹慎な表現ではないかと思っております。むしろ、日本の社会には、多様な神々を尊重するという、あるいは異なるものに対するおおらかさというか、そういった、本来よい文化的、社会的な伝統があるんだというふうに私は考えております。

 そういう点からいったら、例えば、今例に挙げられたような、地方自治体のちょっとした宗教施設の修復みたいなものは認められてもいいんじゃないかというお話ではないかと思います。

 実は、これは高知地裁の平成十年の七月十七日という判決がございまして、高知県の十和村というところの事件ですが、古くなった神社を、これはかなり昔からあるもののようですけれども、その神社を公金をもって修復したという事件がございまして、これを高知地裁の判決が違憲であるというふうにしたものでございます。

 これなどは、私の立場からしますと非常につらいというか、ぎりぎりのところの、本来これは合憲となる余地もあったのではないか。つまり、それはどういうふうにすれば合憲になるかといいますと、私の立場でいえば、同じように、ほかの宗教の宗教施設もある、あるいは無宗教だけれどもみんなが重要だと考えている施設がある、そういったものにひとしく援助をするという形になれば、恐らくこれは違憲とは言いにくくなるということだろうと思うんです。

 つまり、そういった村落共同体の問題というのは、もともと、この事件もそうでしたけれども、過疎の村でして、氏子と言われるような特定の人たちだけではもう支え切れないんですね、神社を。その神社が共同体の憩いの場になっていて、実際にはいろいろな伝統芸能みたいなものをその場でやっているというようなことがありまして、それを公金で、住民もみんな了解しているわけですね。そういうところで違憲判断を出さなきゃならないというのは、非常に厳しい判断だということになると思います。

 私は、そういう意味ではちょっと厳しいとは思うんですが、ただ、憲法二十条、八十九条、先ほど原意主義の立場でどうかというふうにおっしゃったんですが、私は、こういった宗教的なおおらかさが本来あるところに、かつての明治国家は明治憲法のもとで、むしろ一神教的な非寛容なものを持ち込んでしまった。

 つまり、国家神道体制というのは、まことに残念なことに、一元的な、むしろ西欧列強に伍して近代国家をつくっていかねばならないという明治国家の苦渋の選択で、やはり国家の基軸となるものをどうしてもつくらなきゃならなかった。あちらはキリスト教がある、こちらは万世一系の天皇、そしてそれを、皇室祭祀であるとか神社神道であるとか、そういうものを再編して国家神道体制をつくった。これは時代的なものはもちろんあるとは思いますけれども、むしろこれは一神教的なものに近くなっている。そういうものに対して、より伝統的な日本の文化的、社会的な条件というものを考えると、私は、二十条とか八十九条は、本来の日本の伝統にむしろ適合的であり、より親和性を持っているというふうに考えている次第です。

村越小委員 ありがとうございます。

 もう一点お伺いしたいんですが、思想、良心の自由というのは基本的に、頭の中では何を考えても自由だということだと思うんですが、そういう意味での価値相対主義というのがこの国の前提となっているのかなと。それは皆さんがそう理解されていると思うんですが、一方で、ドイツのように、いわゆる闘う民主制みたいに、民主主義の障害になるようなものは進んで取り除いていこうという考え方も、我が憲法の予定しているところではないでしょうが、民主主義の一形態として成り立ち得るのかなと思ったりもしているんです。今、イデオロギーの対立よりも、宗教的な対立だったり文明の対立、衝突だったりということが問題になっていると思うんですが、そういった状況の中で、あくまで憲法政策としてどのようにして民主主義を守っていけばよいのか、ぜひ御意見があればお伺いしたいと思います。

野坂参考人 まさに、民主主義と一口で言いますけれども、どのような民主主義社会を、あるいは国家をつくっていくのかという重大な問題だと思います。

 今先生御指摘のとおり、大きく分ければ、戦後ドイツ型の闘う民主制というタイプと、それからアメリカ型、日本もそうだと思いますけれども、そういう自由で民主的な基本秩序に対して、敵対的なものには人権も保障しないんだというやり方ではなく、むしろ寛容に接する、つまり異端の自由を認めるというところにむしろ自由社会の、あるいは民主主義社会の強さを見出そうとする二つの路線があると思います。

 闘う民主主義は、やはり戦後ドイツが置かれた特殊な地理的な状況もあると思います。単にナチスの惨禍に対して、自由で民主的な基本秩序というのみならず、当時は西ドイツと東ドイツに分かれておりましたから、共産主義という全体主義に対抗する、そういう意味合いもあったと思うんですね。そういう中にあって、むしろ、国家が自由で民主的なという特定の価値を国民に対しても押しつけるというのが戦後ドイツの選択であったと思います。これはもう、ナチス・ドイツがああいう状況でありましたので、それのいわば裏返しとして、再生自然法というふうに言われることもありますけれども、人間の尊厳を絶対守る、自由で民主的な基本秩序は断じて守らなきゃいけないという選択になったというふうに考えるわけです。

 しかし、これの問題点は、結局、憲法というものに規定された価値が、国家を縛るものというよりもむしろ国民を縛るという側面をもたらすのではないかと思うんですね。つまり、憲法に規定された価値がありとあらゆる市民社会の中の一つ一つの秩序に対して浸透しなきゃいけないという考え方につながると思います。先ほどの私人間適用でいえば、もう直接適用になるわけですね。そうすると、私的自治、つまり市民社会の中で私人同士にゆだねられるべき問題というのがむしろ国家的に決裁されるという危険をもたらすものだと思いますので、私はそれは、ドイツにおいてはやむを得ない選択だったと思いますけれども、日本には適合的でないと思います。

 むしろ、非常に苦しくても、異端の自由といいますか、そういうものを、まさにきょうお話ししました、思想、良心の自由が内心にとどまる限りはそれを認める、そして、それが外部に出て他に害を及ぼす場合にはそれを抑えるという、ぎりぎりのところで頑張るというタイプの民主主義が望ましいのではないかというふうに考えております。

村越小委員 ありがとうございました。

山花小委員長 次に、小野晋也君。

小野小委員 いよいよもう最後の質問者ということになりました。長い時間本当に御苦労さまでございます。

 もう最後ですから、端的に一つまずお伺いしておきたいなと思いますのは、現在の憲法は、この自由、権利という問題を考えていく上で妥当なものなのか否か、この点についてお尋ねしたいと思います。

 例えば、先ほど来靖国神社参拝問題が随分議論の俎上にのっておりましたけれども、これなどは、もともと日本人としてもう当然のこととして、戦没者追悼は靖国に行ってやるのが当然だと何の違和感もなくやっていた部分というのはあったと思いますね。ところが、あるとき突然、これは憲法違反ではないかというふうに言われて、そしてそれに対していろいろな制約が加えられてくるということに対する違和感と戸惑いがあると思います。

 また、あの愛媛県の玉ぐし料訴訟の問題も、このレジュメの中に書いておられましたが、県政の責任者の戦没者追悼は当たり前のことであり、神社に追悼のために行くとするならば、玉ぐしをささげるならその玉ぐし料を供えるのも当たり前ではないかと思っていたら、またこれも違憲だというふうなことで判決が出されてくる。

 先生のきょうのいろいろなお話をお伺いしておりましても、自由ということについてのあいまいな部分、相互の調整部分について特にそれが多々あるわけでありまして、国家の基本法たる憲法というものが、これほどまでにあいまいなものを内包しながらその場その場の環境の中で判断を変えざるを得ないというふうな憲法であるということについて、これが妥当なものなのか否かという問題、まずそれをお尋ねしたいと思います。

野坂参考人 日本国憲法に規定された権利、自由、その規定の仕方ということでしょうか、それがあいまいである、あるいは、実際の適用上、いろいろ不明確であるがゆえに問題が生じているのではないかという御指摘ではないかと思うんですが、先ほど少し御紹介しましたように、外国の憲法におきましても、非常に端的にしか書いていないという場合が多いわけですね。

 もともと憲法というものは、最高法規でございますので、詳細にはなかなか規定しないのがむしろ普通であります。端的に規定して、あとは、それを現実に即して具体化していくということにどうしてもならざるを得ない。逆に細かく書きますと、今度はそれに外れるものは何かということが問題になってまいります。非常に煩瑣になってまいりまして、判断がまた非常に混乱するということも生ずるのであります。

 これは、ですから、日本の場合だけではないんですね。むしろ長い伝統を持っているアメリカにおきましても、アメリカの憲法は現在使われておる成文憲法としては最古のものでありますけれども、何しろ十八世紀につくられたものであって、規定も、例えば社会権の規定なんかないわけですから、そういうままで、ずっと修正条項をつけ加えながら、それを生かしながら今日に至っているということですけれども、膨大な憲法関係の判例が出ておるわけですね。それはもちろんあいまいといえばあいまい、不明確といえば不明確というのは多々ありまして、ですから、私は、規定の仕方は、それは多少の工夫はもちろんあると思います。

 それから、先ほど来お話ししております宗教的人格権というようなものをもし法的に認め得るのであれば、新たに規定するということも考える余地はあるんだろうと思うんですけれども、そういうものを規定していけば、何が憲法上の権利であり、そうじゃないのかというのは、もう少しは仕分けができてくると思います。しかし、それは書いたから、ではもう紛れがなくなったかというと、決してそうではなくて、例えば幸福追求権というのがございますけれども、あれなんかも、最初はむしろ総則的な規定であるというふうに理解されておったわけですが、今日では、もっとより具体的に、自己決定権というようなものもそこで保障されているのだというのが、むしろだんだん判例や学説で認められるようになってきており、やはりそうやって徐々に具体化されていくというのが必然的な流れではないかなというふうに思っております。

小野小委員 今、村越委員からは、日本の伝統的な宗教に対する見方、考え方の問題提起がされて、参考人からもそういう部分を決して捨てちゃならないみたいな観点での御意見、私も非常に傾聴に値する御議論だったと思いながら拝聴させていただきました。

 そこで、今、裁判というものが、これは白黒を決着つけなきゃいけないという役割を担っているわけだから、どちらかが勝ち、どちらかが負けというふうに、途中で和解すればそれは別ですけれども、判決というのはやらざるを得ないということになっておりますけれども、もう少し、それは両立するような判決が出せるような考え方というものは、日本の国の中でつくり上げることはできないだろうか。お互いが侵し合っていないとするならば、それぞれの言い分を両方認めて、両方よしというふうな知恵が生まれてもおもしろいのではないかなと。これは諸外国の裁判の考え方からいうと、それはとんでもない発言かもしれませんが、そんな思いを持つところもございます。

 次いで、もう一つお話しさせていただきますと、ここできょうお話が出されましたのは、思想、良心の自由ということについてのお話でありましたが、これはもう当然の話であろうと思いますし、逆に言うならば、国家権力であろうとも、思想や良心の自由というのは、これは基本的に踏み込めないものだと私は思いますね。いかに権力が強圧的なことを行ったって、本人の心の中に持っているものを動かす力は国家権力の中に基本的にないわけでありますから、ですから、この自由は当然のこととして、しかしながら、その思想、信条、良心の自由というものを外に発露して何らかの発言をしたり行為をした場合には、それは他との衝突が生まれてくるわけでありますから、当然そこに調整的な役割、機能がどこかに生まれてこなきゃならない。

 そうすると、憲法の中に思想、良心の自由だけが書き込まれておりますが、それはそうとして、しかし、それが外にあらわれる形となったときには、当然ながら制約が加えられるというふうな条文を書き込むことはできないものだろうか。

 さらに言うならば、インドのマハトマ・ガンジーが、権利主張ばかりしている会議の中で言われたというのでありますが、あなたたちは権利ばかりを語っているからなかなか結論が出ないのだと。むしろ、みんなが共通してやらねばならない義務の話をまずやって、それで、その後に権利の話をするならば、その話というのはおのずから決まってくる問題ではないのかというふうなことを言っているわけでありますが、私は、自由、権利というものが先に存在するということよりも、まず義務だとか責任というものを明示した上で、そこに触れない限りにおいての自由だとか権利だとか、こういうものが完全に認められるのである、こういうふうに論理を持っていく方が世の中の問題がもっときれいに整理できるのではなかろうかと思うわけでありますが、参考人の御意見、いかがでございましょうか。

野坂参考人 まず、権利の規定について、制約も書き込んではというお話だったと思うのでありますが、もともと、憲法に規定された基本的人権条項というものが無制限であるという前提がそもそもないわけですね。絶対的な保障というのはあくまで内心の問題でありまして、それは事実上、内心にはだれも踏み込めないからでありまして、実際にはどのような人権も、例えば日本国憲法の十三条にも公共の福祉による制約というものは書いてあるわけですね。つまり、そこで一般的に、個人の尊厳、個人として尊重しなきゃいけないということは言いながらも、しかし、それは公共の福祉に反してまで個を主張するということはできないというのは、もう既に当然の前提になっているわけですね。

 そういう意味では、個別の権利のところに規定しなくても、いわゆる内在的制約というふうに申しますけれども、権利が認められるということは、すなわちそれに内在的な制約が伴っている。すなわち、先生おっしゃったような他の権利との衝突等が生じた場合には、他に害を加えてまで自己の権利を主張するということはできないわけですから、そういう意味では、権利を保障した規定に制約を逐一、逐一かどうかわかりません、しかし、明示的にそういうふうに規定していくということは、余り例のないことであろうというふうに思います。

 それから、もう一点、権利も重要だが、義務や責任というものをもっと明確にすべきだという御指摘だと思います。

 これは、まさに人間の社会において、私人間において、通常の法律関係、権利義務関係がございますけれども、そういう中にあって、権利ばかり主張するということはできないので、当然義務も果たさなければ権利を主張できないという関係になると思います。

 ただ、憲法の基本的人権というのは、もともとが、憲法自体、国家権力に対する制限ですね。つまり、憲法自体は、伝統的には国家の権力を有効に組織するというところに眼目がありますので、単に制限するというのではなくて、むしろ有効な組織化というのがもともとの出発点であろうというように思います。

 ただ、そこにきちっと書くことによって、それが制限される。それから、国家権力の役割として、人権を保障しなきゃいけないということ、人権を尊重しなきゃいけないということがあって、人権規定というものが、もともと歴史的には憲法と、コンスティチューションというものとビル・オブ・ライツという権利章典とは別のものでありましたけれども、それが合体していくという経緯をたどって、現代憲法においては、世界のどの憲法でも、人権規定は憲法の中に入っているわけですね。

 そういう経緯がございますので、基本的人権というのはやはり国家権力がそれを侵害してはならないものとして規定されるわけですね。たまたま明治憲法のように、つまり現在の人権思想より以前の考え方に基づいておりますので、これは「臣民権利義務」というふうに規定されていまして、日本国憲法もそれを引きずってといいますか、「国民の権利及び義務」と規定されておりますけれども、実質は憲法第三章は国民の権利、基本的人権を保障したというところに意味があるわけで、義務については必ずしも憲法上規定しなくてもよろしいものというふうに私は考えております。

小野小委員 ちょっと異論はございますが、質問時間が終わりましたので、終えさせていただきます。

山花小委員長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、一言ごあいさつを申し上げます。

 野坂参考人におかれましては、貴重な御意見をお述べいただき、ありがとうございました。小委員会を代表して、心から御礼を申し上げます。(拍手)

    ―――――――――――――

山花小委員長 これより、本日の参考人質疑を踏まえて、小委員間の自由討議を行います。

 一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、小委員長の指名に基づいて、自席から着席のまま、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いいたします。

 御発言を希望される方は、お手元にあるネームプレートをお立てください。御発言が終わりましたら、戻していただくようお願いいたします。

 発言時間の経過については、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせいたします。

 それでは、ただいまから御発言を願いたいと存じます。御発言を希望される方は、ネームプレートをお立てください。

辻小委員 民主党・無所属クラブの辻惠でございます。

 最後に小野委員の方から、靖国神社参拝、玉ぐし料問題、ある日突然違憲問題になったというような御発言がありました。私は、ある日突然ということではなくて、やはり歴史的ないろいろな反省に立って敗戦後出発しているわけでありますから、そういう人類の試行錯誤、失敗等々を踏まえて戦後の日本国憲法は出発している、そういう観点におきまして、突然とかいうものではなくて、深い歴史的な洞察と未来に対する責任という観点でこのことが問題にされているんだというふうに考えます。

 明治憲法では、二十八条に、「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」というふうになっているわけであります。きょうの野坂参考人は、思想、良心の自由、そして信教の自由も、その内心にとどまる限りにおいては絶対的な自由なんだ、臣民の義務とかそういう範囲の中において権利があるということではないんだということをおっしゃっているわけであります。まさに、明治憲法の限界を踏まえた歴史的な立場に立って日本国憲法が出発しているという点をしっかりと踏まえなければいけないと私は思います。

 過去、思想、良心の自由、信教の自由が政治に翻弄されてきた。そういう現実を踏まえて、日本国憲法は、単に国家からの自由として、二十条一項前段で「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」というふうに規定するにとどまらず、その後段において「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」まさにこれは政教分離原則を制度的保障としてうたっているわけであります。

 このことの意味は、思想、良心の自由、信教の自由、内心的な自由を絶対的な自由として保障するだけでは、政治に翻弄され、現実にはそれが危殆に瀕するような場面も生じかねないということをおもんぱかって、制度的保障として政教分離原則をわざわざ規定したものであります。

 その意味におきまして、私は、やはり靖国参拝問題や玉ぐし料問題というものが、この政教分離原則との比較、兼ね合いにおいてどのような問題があるのかということを歴史的に踏まえて考えるべきであろうと。その意味におきまして、きょうの野坂参考人の御意見は、理論的水準も含めて、今の憲法状況、問題点、私たちが今後学んでいかなければならない原理原則について非常にしっかりとした意見を述べていただいたものというふうに非常に感謝する次第であります。

 以上でございます。

小野小委員 私の地元におきましても、一つこの宗教の問題をめぐりまして問題になったケースが起こったんですけれども、これは何かというと、地域全体がいやしの村づくりというようなことを言って、そして外部の皆さん方を招いて村の活性化を図ろうと。

 それについては、その地域に昔から観音信仰があるものだから、観音様をモニュメントとして建てて、そしてそれを観光施設のシンボルとして使っていこうというふうにやったところが、この信教の自由から問題提起されたわけではなくて、別の、工事の値段の問題から問題提起されまして、裁判が始まったところで信教の自由に触れる問題だということになって、結局、一審で村側が敗訴したものですから、もうそれで、村をずっとけんかさせちゃいけないから、負けた形でもいい、損害賠償も、移転の費用だとか、それにかかったお金も全部、その企画した人間側が出しておさめたというケースがありました。

 このとき、実は、問題なのは旧自治省ですね。こういうところにも相談をして、計画書もきちんと持っていって、こういうことでやりますけれどもいいですかという話をして、承認を受けているわけですね。モニュメントとして使う限りは別に問題ありませんというふうな形でやっているものですから、こういう裁判で訴えられたときに、村の方が本当にびっくりしてしまって、何でこんなもので裁判になるんだいというふうなことが起こってしまう。こういうふうなことが実際のケースとして起こり得るわけです。

 それならば、先ほどあいまいなままになっているところの問題ということでの指摘をさせていただきましたが、事前にこれはいいのか悪いのか、どこかに相談して判断してくれるところがあるのかといったら、現実にないわけですね。靖国神社の問題にしたって、どういう参拝方法をしたらいいかというのは、問題が起こった後で、ではどんな参拝をしたら問題が起こらないのかみたいなことをやっているわけです。ですから、何らかの、そういう憲法に基づいて判断、これは当然のことではあるんですけれども、どういう判断が下されるのか、やってみた後でないと、しかも、それが裁判されてみないとわからないというふうな姿が妥当な姿なんだろうかという基本的な問題を私は持っております。

 また、憲法の方が世間の常識に対して反するならば、逆に、その世間の常識と言われるものの方に憲法を引き戻す改正を行うというふうな議論を活発に行うべきである、こんな思いを持っているわけでございまして、御意見がございましたらお聞かせいただきたいと思います。

辻小委員 時間の関係もありますから、余りキャッチボールをしないようにしたいというふうに思いますけれども、小野委員のおっしゃられたのは、やはり本末転倒というか、転倒した議論のように思います。

 やはり、地方自治体の首長の方、また小泉首相だったら総理大臣ですよね、これは明らかに日本国憲法九十九条で憲法尊重擁護義務というのがあるわけでありますから、具体的な行動を起こす以前に、憲法は何を規定しているのか、どこまで何ができるのかということを当然わきまえていなければいけないわけであります。

 それをわきまえないで、玉ぐし料を出すとか、政治的判断もいろいろおありかもしれないけれども、靖国神社に参拝される、その行為が問題にされているわけでありますから、それは憲法があるから、それが問題にされるから憲法を変えよう、そういう話じゃなくて、現に憲法がある中で、私たちはルールに基づいて議会を構成し、毎日の生活を送っているわけでありますから、その憲法の尊重擁護義務の内容を踏まえるというのがやはり公務員としての義務ではないかというふうに考えます。

小野小委員 いや、キャッチボールはもうやるまいと言われていますが、やはり一言申し述べなくちゃいけないような状況ですので話させていただきますと、玉ぐし料訴訟の話も、先ほど辻委員からおっしゃられましたけれども、これは慣行としてずっとやってきていた問題であって、多分、日本国憲法以前からずっとそういうことをやり続けてきていると思うんですね。それまでどこからもそれが違憲であるという指摘がされてきたわけでもなかった。だから、当然のこととしてやってきて、一部の人たちが、戦没者追悼がおかしいという議論をする中で、憲法の条文を引っ張ってきたら、これは違憲ということでの裁判がやれるのではないかということで、こういう裁判が展開されたというふうに私は理解しているんです。

 ですから、決して当事者たちには何らの悪意もないし、これが憲法を侵しているということ自身の認識もない。それぐらい憲法というのは、先ほど野坂参考人と議論させていただいた点にもありましたけれども、あいまいな書き方をしているから、何をやったら違憲になり、何ならセーフなのかという、こんなこともよくわからない。ならば、そういうところは慣例として今までやってきてそれで通用しているのなら、別にそれをあえて違憲だから中止しなきゃいけないという結論は出ないんじゃないか、こういうのが実態の問題なんですね。

 ですから、裁判に訴えて、それでしか結論が出ないということではないようなスタイルも、何かできるものならば考えていく必要があるのではなかろうか、こんな問題提起も含めて発言させていただいた次第です。

辻小委員 これ以上この場で繰り返すことは避けたいというふうに思います。

 ただ、憲法教育をもっと徹底して、国民全体、また公務員たるべきもの憲法教育をもっと徹底すべき、それが解決の一つの方策ではないかというふうに今の御意見を伺って痛感いたしました。

 以上でございます。

船田小委員 自民党の船田元でございます。

 ちょっと話題を変えた方がいいのかなと思っております。

 きょうは、思想、良心の自由ということで十九条、それから信教の自由の二十条、基本的人権の本当に根本のところの議論をみんなですることができまして、非常に奥の深い議論であると思います。

 そういう中で、野坂参考人からもお話がありましたような、憲法のまさに中心的な部分、その思想や信条、良心というのが、これはどんなものであっても思想である限り、内面的である限りは、それはすべて保障される。これは日本国憲法においても尊重されていること、保障されていることということであります。

 やはり、先ほど村越委員からもちょっと御指摘のありました、ドイツ型の闘う民主制というのか闘う民主主義。ドイツは、かなりナチズムという非常に戦前のひどい状況を経験し、それを絶対に起こしてはいけないというところから、やはりこの闘う民主制と言われるようないわゆるボン基本法の十八条の条項ができたというふうに私も理解をしております。

 こういうことを考えますと、日本の場合には、アメリカやその他の国のように、もうすべて内面的にある限りは自由であるということですけれども、何かそこに、これは小野先生が少し御指摘いただいたところですけれども、若干、これはすべて自由であるのか。民主主義そのものを否定する、あるいはその国の存在そのものを否定するような思想を持ったとしても、極端な例としても、それは自由であるのかどうかということになると、やはりそこに私は、今の日本国憲法全体を見ても、憲法自体がそのことまで許しちゃうということには私はなかなか思えない部分がある。やはり、一定の限界というものも、外にあらわれないとしても、そういう限界というのかな、そういったものを、やはり十九条、二十条というところではなくて、別のところで規定をしておく必要はある程度あるんじゃないかというのが私の考えでございます。

 それから、ちょっと具体的になりますが、それとちょっと関連をして、国旗と国歌の問題であります。

 これは、国民の統合のシンボルとしてそれを使用する、あるいはそれを儀式のときに使っていくということは当然のことであると思います。問題は、その内面の良心に従って、国旗・国歌、国歌を歌わない、それから国旗に対しての礼をしないということの自由、これもやはり憲法を素直に読めば、それは許されることであるとは思っております。

 ただ、同時に私は、今の考えもちょっと援用いたしますと、その国の憲法が果たして国家としてのまとまりをある意味で阻害するようなそういう思想までも認めていいのかどうか。それを認めるから、だから強い民主主義になれるんだという議論もありますけれども、そこはやはり一定の秩序というものがある、あってしかるべきじゃないか。良心あるいは思想の自由、内面的な自由の中においても、やはり一定のものは必要ではないのかなというふうに考えております。

 ただ、それを憲法で明記をするか、あるいは運用で行うのか、あるいは判例によって示していくのか。これはいろんなレベルがあると思いますが、そういう物の考え方はひとつ踏まえておく必要があるというふうに私は考えております。

 以上です。

土井小委員 きょうの野坂参考人もそうでいらっしゃいましたけれども、大体このところ参考人として御出席いただいて御見解を披瀝されているそれぞれの方々のその思いの中には、急いでこの憲法に対してどう変えるかという改憲の道を急ぐより、今の現行憲法を着実に生かすことの方が先決であるという姿勢が非常にはっきりしていると私は思うんですね。これは非常に大事なことだと思います。

 先ほど来、憲法に対して何だか時宜にそぐわないからこれは変える必要があるという意思を披瀝されている御発言もございますけれども、しかし、辻議員もさっきおっしゃっていましたけれども、やっぱり、憲法の中で九十九条に私たち国会議員は憲法尊重擁護の義務がはっきりあるわけですから、まずは、ただいまの憲法に対して的確に理解をして、これを適切に生かしていくということのために具体的にどうすべきかという努力、それこそ先決問題だと私は思っておりますから、いよいよそういう思いをこの憲法調査会に来させていただいて強く持つようになってきたということをあえて披瀝させていただきたいと思います。

松野(博)小委員 自由民主党の松野博一でございます。

 一点、政教分離と皇室の儀式の問題、行事の問題という点で発言をさせていただきたいというふうに思います。

 現在の裁判の判例の流れは、この資料の中に、儀式そのものは宗教的色彩を持つとしても、社会的儀礼としての敬意、祝意等をあらわすために儀式に参列することは政教分離に反しないというような解釈が今流れになってきているというふうなことであります。

 しかし、一方で、天皇家、皇室の地位というのは憲法の中でいわば例外規定として規定をされているものでありまして、それは単に人間個人としての地位保障というよりも、天皇家、皇室にまつわる宗教的要素も含めての伝統的、慣習的儀式、これをパッケージと言っていいのか、システムと言っていいかわかりませんが、それ全体を通して天皇家を日本国憲法におけるさまざまな原則から超越した特別の存在として認めているわけであります。ですから、皇室儀式に公が関与をする場合において、政教分離の原則に規制されず、特例として認められるというふうに解することもできると考えます。

 そういうふうに解釈をすれば、皇室の儀式に関して現状の判断の流れというのは、非常に消極的な賛成というような儀式参加に関しての判断でありますけれども、消極的な賛成というよりも、これは一つの現状の憲法における皇室の地位の問題として積極的にとらえることができるんじゃないかなというふうに考えております。

園田(康)小委員 本日の参考人の話の中にもございましたけれども、アメリカ型の厳格分離を採用するというようなお話があり、さらに我が国の憲法の中で当然にこの要請があるのは読み取れるものであるというような発言がありました。

 そこで、先ほど少し土井委員の方からも、なおかつ辻委員の方からもお話がありましたけれども、やはり日本人の、我が国の国民的な議論の中で、まだこの部分についてもなかなか成熟していない部分があり、歴史的なあるいは政治的な流れの中で、ある面誤解を生じてきてしまっている部分が多々あるのかなと思っております。それによって、靖国神社問題あるいは自衛官合祀の問題、さまざまな観点の問題等々が出てきてしまっているというふうに思っております。

 それに対しては、私は実は、ある種不毛な議論ではないのかなというふうに感じておるところでございます。

 つまり、さらに憲法を進化させていくという立場に私も立っておりますので、このような中から、合理的な基準、例えば先ほど来話が出ておりますアメリカの目的効果基準等々が、レモン・テスト以来の形で行われてきている。それがまたさらに、先ほどの参考人の話によれば、進化を遂げてきているということがございます。一方、我が国の判例等々を見てみますと、五十二年の津地鎮祭事件、これをリーディングケースとして、ずっと目的効果基準が、ある種社会的通念と照らし合わせた上での総合的な判断をして違憲か合憲かというような結論が出されてきているということでございます。

 したがって、判例の中における深化といいますか、解釈をもっともっとさらに深めていく必要があるわけでございますが、同時に、国民的議論も、もう少しやはり教育の面も通じて活発化させていく必要があると思っております。

 同時に、憲法擁護義務という話も出ておりましたけれども、いわばこの議論の中で、憲法改正ありきということではありませんが、例えばこの憲法の中の条文、二十条一項の後段の部分の中にこの目的効果基準という概念を入れ込んで、さらに厳格な分離を形づけることも考えられるのではないかなという気がいたしております。

中山会長 自民党の中山でございます。

 土井委員と論争するつもりはございませんけれども、憲法九十九条で、御指摘のように憲法擁護義務が課せられております。天皇及び摂政、国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負うと明確に規定されておりますけれども、その前の九十六条では、憲法改正の発議、国民投票及び公布の条項が書かれております。

 「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。」こういう条項がございますから、やはり、憲法を擁護するという立場から考えると、九十六条の憲法改正条項というものも守っていかなきゃならない、私はそのように考えております。

土井小委員 今、中山会長がおっしゃったとおりだろうと思います。

 というのは、九十六条というのは、この憲法を不磨の大典とは思っておりません。よい憲法に変えていくことが必ずできるということが前提なんです。ただ、ここで見落としてはならない、忘れてはならない、それは何か。よい方向にこの憲法を変えるということを改正と申します。私は、改正についての手続を決めているということを認識しなきゃいけないなと常日ごろ思っております。

 なぜそこに力こぶを入れて言うかといいますと、改悪というのがあるからです。今の憲法を、さらに程度、レベルが落ちるような状況になることをわかっていて変えるなんということは、この憲法は予測だにしておらないだろうと思います。それは言ってみれば憲法の法理だと私は思うわけです。したがって、生々発展していく、人権を充実させていく、そして平和ということを確かなものにさらにしていく、そういうことを考えれば、よい憲法に、もっとよい憲法にということを考えたときに、それができる条件があるとき、これは三分の二ということで国会は発議をするということがあってしかるべきだと私は思います。

 しかし、今、国民の中には非常に不信が強いんですよ。特に昨今は、周辺事態法それから今の有事関連立法、それからテロ特措法、イラク特措法。これは、考えてみると、日米新ガイドライン後、随分急テンポで、憲法から考えたら従来はやらなかったことを平気で進められるようになってきた。憲法に対しての解釈からすると従来は認められなかったこと、許されなかったことが、何だか堰を切ったようにどんどんどんどん現実の問題として立法されていく。これはちょっと危ない、とんでもないという気持ちの方がかなりあることも事実です。

 だから、世論調査のときには、他の条文に対しては、改正をするということに対して賛成の意を表される方も、憲法第九条に対しては、このままでよろしい、改正することに対しては私は賛成しません、このままで結構ですとおっしゃる方が半数以上必ずあるんですね。その現実を直視してしっかり受けとめるということが、九十九条を具体的に生かすことだろうと私は思っております。

 したがって、これはあくまで三分の二ないと国会で発議できないということが現実の問題なんですから、言ってみれば、憲法について、改正ということに対する大事な場面というのはやはり国会だということを私自身忘れずに、ひとつ、現行憲法をまずしっかり生かさないと。生かしていないと、憲法を変えたときに、変えてからさてどうなるかといったら、その憲法もしっかり守るような体制じゃないですよ。これはやはり、今の憲法をしっかり大事にする、尊重するという状況であって憲法を変えたときに、それからの憲法もさらに尊重されるということが約束されるんじゃないんでしょうか。

 やはり、粗末に扱うとかいいかげんに考えているとかいうふうなことがいささかでも思われる間に憲法を変えるときには、よい憲法に変えられるはずがないと私は実は思っているんです。

 ありがとうございました。

中山会長 土井先生からそういう御発言ございました。

 あえて私も反論するつもりはございませんけれども、私は、会長に就任したときに、この調査会の運営の基本方針を三つ挙げました。一つは、どのようなことがあっても侵略国家を目指さない、それからもう一つは、民主主義を守る、それから第三点に、人権を尊重する、この三つの原則を維持しながらこの調査会で議論をしていこう、こういうことを申しております。

 私どもも、いわゆる憲法解釈がこれ以上進むことは非常に危険だ、私はそのように認識をしております。ただいまも、行政に関して、最高裁判所が違憲の判断を避けているという事実もございます。ここいらのところで、国民の主権をはっきりさせるために、やはり憲法の番人である最高裁判所というものが違憲かどうかということをはっきり国民に知らせるということが、私は、最高裁判所の裁判官会議の大きな使命だというふうに思っております。

 土井先生にぜひお願いしておきたいことは、議長もお務めいただいた先生ですから、憲法を守る上からも、国民投票法を、ぜひひとつ、憲法の規定に沿って成立に賛成していただきたい、このように思っております。

土井小委員 もうそれに対してお答えを申し上げながら反論をするという必要はないと私、実は思いながら承っておりましたから、もうここらあたりで打ちどめにしたいというふうに思いますけれども。

 ただ、九十六条の中身も、これは内容が、今の憲法が認識をし、予期しているという方向に合致しているかどうかということは、非常に大事な検討の中身になっていくだろうと私は思っております。

 ありがとうございました。

小野小委員 先ほどの土井委員からの御発言に対して、私も、反論するわけではございませんが、一言申し上げたいと思いますのは、土井委員いつも、憲法の精神をもとにして、憲法を守ってやらなくちゃいけないということを当然のことながらおっしゃっておられるんですが、そうすると、先ほどのイラクへの派遣の問題を初めとするいろんな法律というものは、すべてこれは憲法にのっとって正当に選ばれた国会議員が審議をした上で、きちんとした手続を経て国会が決議した問題でございまして、ですから、それが改悪であるというふうな方向に向かう法律であるということは、やはり論ずるのはみずからの論理矛盾になっていくところもあるのではなかろうかというような気持ちがいたします。

 ですから、手続がきちんと定められたところで決められた法律に対しては、御批判はもちろん結構なんだろうと思いますが、それが、憲法改悪の方向に向かうことが進められているというふうな言い方は、やはり余り妥当なことではなかろうというような思いがする次第でございますので、その点、よろしくお願い申し上げたいと思う次第でございます。

 なお、中山会長からは、憲法改正の手続法の整備をきちんとやるべきだと。これは私も賛成でございまして、明らかに憲法の中に改正の条項があるわけでありますから、その条項を具体的に実現するための法律が整備されていないというのは、まさにこれは国会としての不作為の状況を生んでいるわけでありますので、いろいろな議論はあるだろうと思いますから、活発に議論を行いながら、やはり改正条項がある以上、改正手続を決めるのは国会の責務であるという原点だけは大事にしていただきたいと思います。

山花小委員長 他に御発言ございますか。

 それでは、討議も尽きたようでございますので、これにて自由討議を終了いたします。

 次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。

    午後五時十二分散会


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