衆議院

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第4号 平成14年5月23日(木曜日)

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平成十四年五月二十三日(木曜日)
    午前九時開議
 出席小委員
   小委員長 高市 早苗君
      伊藤 達也君    奥野 誠亮君
      谷垣 禎一君    中曽根康弘君
      中山 正暉君    額賀福志郎君
      島   聡君    仙谷 由人君
      伴野  豊君    松沢 成文君
      斉藤 鉄夫君    藤島 正之君
      山口 富男君    金子 哲夫君
      井上 喜一君
    …………………………………
   憲法調査会会長代理    中野 寛成君
   参考人
   (大阪大学大学院法学研究
   科教授)         松井 茂記君
   衆議院憲法調査会事務局長 坂本 一洋君
    ―――――――――――――
五月二十三日
 小委員土井たか子君四月二十五日委員辞任につき、その補欠として金子哲夫君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
 小委員斉藤鉄夫君及び山口富男君同月十六日委員辞任につき、その補欠として斉藤鉄夫君及び山口富男君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
 小委員金子哲夫君同日小委員辞任につき、その補欠として土井たか子君が会長の指名で小委員に選任された。
    ―――――――――――――
本日の会議に付した案件
 政治の基本機構のあり方に関する件


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     ――――◇―――――
高市小委員長 これより会議を開きます。
 政治の基本機構のあり方に関する件について調査を進めます。
 本日、参考人として大阪大学大学院法学研究科教授松井茂記先生に御出席をいただいております。
 この際、参考人の方に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、大変お忙しい中、遠路お出ましいただきまして、まことにありがとうございます。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただきまして、私たち調査の参考にいたしたいと存じますので、よろしくお願いいたします。
 次に、議事の順序について申し上げます。
 最初に参考人の方から御意見を四十分以内でお述べいただき、その後、小委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。
 なお、発言する際はその都度小委員長の許可を得ることとなっております。また、参考人は小委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。
 御発言は着席のままでお願いいたします。
 それでは、松井参考人、お願いいたします。
松井参考人 大阪大学の松井と申します。お呼びいただきまして、どうもありがとうございます。
 私は、大学で日本国憲法を教えておりますが、比較の対象といたしましてアメリカの憲法を勉強してまいりまして、特に、アメリカの最高裁判所が法律の合憲性等を審査する権限を有しておりますが、この権限についてアメリカの建国以来闘わされてきました議論をずっと研究してまいりまして、それとの比較におきまして、日本の最高裁判所の同様の権限についていろいろと発言をさせていただいてまいりました。きょうは、そのような立場に基づきまして、少し意見を述べさせていただきたいと思います。
 日本国憲法の第八十一条は、「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」と定めております。この規定は、裁判所に司法審査の権限を付与したものと理解をされております。
 この司法審査という言葉ではなく、法令審査権とか憲法裁判権とか、いろいろな言葉が用いられますが、実は、この第八十一条の権限をどのように理解するのかによって、若干、この権限をどう呼ぶのか異なってまいります。後でお話しさせていただきますように、私は、この第八十一条の権限は、アメリカの最高裁判所が行使してきた権限、つまり司法審査の権限と同じものだと理解しておりますので、八十一条は司法審査の権限を最高裁判所に付与したものだと理解しております。
 これに関連いたしまして、きょうお話しさせていただきたいのは、この権限はどのような性質の権限なのかという点と、最高裁判所はこの権限を適切に行使してきたかという点と、この権限を行使するに当たって最高裁判所にふさわしい役割は何なのかという点と、そして最後に、憲法改正の必要性はあるのか、もしあるとすればどう改正すべきなのかという点の四点でございます。
 まず第一点でございますが、この権限は果たしてどのような性質の権限かという点に関しまして、日本の最高裁判所は非常に早くから、この規定は合衆国最高裁判所がマーベリー対マディソン事件判決で認めた司法審査の権限を明文の規定で確認したものだと理解してまいりました。
 レジュメに最高裁判所の判決を引いておきましたが、
 現今通常一般には、最高裁判所の違憲審査権は、憲法第八十一条によって定められていると説かれるが、一層根本的な考方からすれば、よしやかかる規定がなくとも、第九十八条の最高法規の規定又は第七十六条若しくは第九十九条の裁判官の憲法遵守義務の規定から、違憲審査権は十分に抽出され得るのである。米国憲法においては、前記第八十一条に該当すべき規定は全然存在しないのであるが、最高法規の規定と裁判官の憲法遵守義務から、一八〇三年のマーベリー対マディソン事件の判決以来幾多の判例をもって違憲審査権は解釈上確立された。日本国憲法第八十一条は、米国憲法の解釈として樹立せられた違憲審査権を、明文をもって規定したという点において特徴を有するのである。
と述べております。
 そして、一般にこの趣旨は、いわゆる警察予備隊違憲訴訟の判決で確立されたと理解をされております。ここで最高裁判所は、
 わが裁判所が現行の制度上与えられているのは司法権を行う権限であり、そして司法権が発動するためには具体的な争訟事件が提起されることを必要とする。我が裁判所は具体的な争訟事件が提起されないのに将来を予想して憲法及びその他の法律命令等の解釈に対し存在する疑義論争に関し抽象的な判断を下すごとき権限を行い得るものではない。けだし最高裁判所は法律命令等に関し違憲審査権を有するが、この権限は司法権の範囲内において行使されるものであり、この点においては最高裁判所と下級裁判所との間に異るところはないのである。
このように述べております。
 この解釈に従いますと、憲法第八十一条の権限は司法権に内在する権限であって、裁判所は、最高裁判所と下級裁判所とを問わず、司法権行使に付随して当然この権限を行使することができる。しかし、逆に、司法権行使の要件を満たすような事件ないし争訟がなければ裁判所はこの司法審査権を行使することはできない、こういう結論になるはずでございます。それゆえ、この権限はしばしば付随的違憲審査権であるとも述べられているとおりでございます。
 ただ、この点につきまして、警察予備隊違憲訴訟判決が、「わが裁判所が現行の制度上与えられているのは」というふうに述べておりますため、この「現行の制度上」というのが、法律がないということを指すと解釈する学説も一部にございまして、この学説によりますと、警察予備隊違憲訴訟判決は、必ずしも先ほど述べたような趣旨を明確にとったものとは言いがたいと解釈されておられます。
 ただし、この警察予備隊違憲訴訟の判決だけを見ると確かにそのような若干不明確な点がございますが、さきの判決と照らし合わせて解釈いたしますと、最高裁判所としましては、先ほども述べましたように、憲法上、司法権に付随して司法審査権を行使することができるという考え方を早くからとっていたと考えることができるのではないかと思います。学説の多くは、この最高裁判所の解釈を支持してまいりました。
 これに対しまして、学説の中には有力な反対説もございます。それによりますと、憲法第八十一条は、通常の司法権に内在する司法審査権を超えて、特別な憲法裁判権を最高裁判所に付与しているとされます。反対説のAというふうに呼んでおきたいと思いますが、この立場は、ドイツにおきまして連邦憲法裁判所がございますが、その連邦憲法裁判所の権限を念頭に置きまして、事件や争訟が存在しなくても、最高裁判所は法律、命令等の憲法適合性を審査、決定できるというふうに主張されるわけです。
 ただし、同じように、憲法第八十一条は、通常の司法権に内在する司法審査権を超えて、特別な憲法裁判権を最高裁判所に付与しているとしながらも、現状ではこのような憲法裁判権を行使する手続を定める法律が制定されていないため、最高裁判所が実際にこの権限を行使することはできないという立場もございます。反対説Bと私は呼んでおきたいと思います。
 この立場は、結果的に言いますと、憲法第八十一条は、その権限の性質について特定の立場をとっておらず、国会が裁量によって最高裁判所に憲法裁判権を付与することは妨げられないという立場、反対説のCと呼んでおきたいと思いますが、これと変わらないのではないかと思います。
 この後者二つの立場によりますと、国会が例えば憲法裁判権を行使する手続を定める憲法訴訟法というような法律を制定すれば、現行の日本国憲法のもとでも、最高裁判所はそのような憲法裁判権を行使することができるということになります。
 私はどのように考えるのかという点でございますが、やはり憲法第七十六条は、最高裁判所を含む裁判所に司法権しか付与しておりません。そして、言われるような司法権行使の枠を超える憲法裁判というものについて、憲法上、手続等何ら規定は置かれておりません。したがいまして、私は、最高裁判所の立場と同様、憲法第八十一条は、合衆国最高裁判所が行使してまいりました司法審査の権限を明文の規定で確認したものだと解釈すべきではないかというふうに考えております。
 この解釈によりますと、最高裁判所を含めすべての裁判所は司法権行使に付随して司法審査権を行使できますが、逆に、司法権行使の要件を満たすような事件や争訟がなければ司法審査権を行使することはできないということになります。そして、裁判所は、司法権を行使する際に付随して、つまり具体的事件の解決に付随いたしまして、その具体的事件に適用された限りで法律の憲法適合性を審査、判断することになります。それゆえ、ドイツの連邦憲法裁判所のように、提訴に基づき、事件、争訟がなくても法律の憲法適合性を審査し、しかも具体的事件を離れておよそ法律の憲法適合性を審査、判断するということはできないと考えております。
 ただし、一般にはアメリカの司法審査制度とドイツの憲法裁判制度というものが対比されるわけでございますが、実際には両者の間の違いはそれほど大きくはございません。しばしば憲法学者が、合一化の傾向があるというふうに指摘しておりますように、両者の間は極めて接近しております。
 それはどうしてかと申しますと、アメリカにおきましても、裁判所は司法権行使に付随してしか司法審査権を行使することができないと考えられておりますが、連邦議会や州の議会が法律を制定したときには、国民がその憲法適合性を争う道がかなり広く認められております。そのため、アメリカにおきましては、法律ができますとほとんど常に裁判所がその法律の憲法適合性を審査することが可能になっております。
 また、アメリカにおきましても、裁判所は、当該具体的事件に適用された限りで法律の憲法適合性について審査、判断するんだと言われておりますが、実際には、場合によっては、法律そのものの憲法適合性を審査し、そして法律そのものが憲法違反だと判断することもしばしばございます。
 したがいまして、アメリカはかなりドイツに近いというふうに言うこともできます。
 さて、二番目の点でございますが、最高裁判所は、果たしてこの権限を適切に行使してきたのかという点です。
 この点、日本国憲法制定後、この半世紀ぐらいの間に、最高裁判所はこの司法審査権を極めて消極的に行使してきたと言うことができるのではないかと思います。最高裁判所が法律、命令等を違憲と判断した事例は極めて少のうございます。
 この点につきましては、既に衆議院のこの会合におきましても最高裁判所の方から御説明があったというふうに承知しておりますので、それぞれの事件について詳しくお話をするのは避けさせていただきたいと思いますが、大まかに申しますと、平等権に関して言いますと、刑法の尊属殺の規定を違憲だと判断いたしました尊属殺事件判決と、それから、公職選挙法の議員定数の不均衡が著しく平等権に違反していると判断いたしました二件の議員定数不均衡訴訟判決。
 それから、政教分離原則について申しますと、愛媛県知事が靖国神社に参拝して玉ぐし料等を公金で支出したことが政教分離原則違反だと判断いたしました愛媛玉ぐし料訴訟判決。
 それから、経済的自由に関して言いますと、薬事法の定めておりました薬局開設の距離制限規定を違憲だと判断いたしました薬事法訴訟判決と、森林法にありました共有林の分割制限規定を憲法違反だと判断いたしました森林法訴訟判決。
 それから、裁判を受ける権利に関して言いますと、金銭債務臨時調停法に基づく強制調停の制度を違憲だと判決をしたもの。
 それから、適正手続の権利に関して言いますと、第三者所有物の没収を、告知、弁解の機会を与えることなく没収を命じている点で違憲だとした判決等、こういったものが重立ったものでございます。
 これ以外にも、訴訟手続上の権利につきまして憲法違反の判決が幾つかございますが、実際に法律が違憲だと判決をされた事例は、尊属殺の事件、二件の議員定数不均衡訴訟判決、薬事法判決、森林法判決の五件でございまして、それ以外は、法律に基づく具体的な行為、あるいは公金の支出等の具体的な行為を違憲だと判断したにとどまります。したがいまして、この半世紀の間に、法律を違憲だと判決をした例は、恐らく五件だというふうに言ってもいいのではないかと思います。
 果たして最高裁判所は、法律、命令等の憲法適合性をきちんと審査し、司法審査権を適切に行使してきたのかと問われますと、最高裁判所は、当然その権限を適切に行使してきたと答えております。したがいまして、最高裁判所の立場では、きちんとその権限を行使してきたということになります。しかし、憲法の学説の多くは、最高裁判所は余りにも消極的ではないかと批判的でありまして、同じように批判的な考え方を持つ市民の数は少なくないと考えております。
 では、どこに問題があったのかという点なんですが、第一点はやはり、先ほど触れましたように、違憲判決が非常に少ない。どうも最高裁判所は、法律、命令等の合憲性が問題となったときに、しっかりと審査をしていないのではないかという点が批判の対象になっているわけです。
 それからもう一点、この点も重要な点であると思いますが、そもそも最高裁判所が憲法事件を審査することが極めてまれでございまして、逆に言えば、国民の側が法律、命令等の憲法適合性を争うことが著しく困難だと言うことができます。
 つまり、日本では、国会が法律を制定しても、国民はその憲法適合性を争う道がございません。国民がその法律に違反をして逮捕、起訴され、刑事事件になり、法律の違憲性を主張するか、あるいは、その法律が具体的に行政機関によって適用され、その処分の適法性を争う行政訴訟を提起するか、あるいは、法律等によりまして権利を侵害されて、国民が国家賠償を求める国家賠償訴訟を提起するか、こういった形でないと法律の合憲性等を争うことができないわけです。
 しかし、現実には、刑事事件におきまして被告人が法律の違憲性を主張しましても、裁判所は極めて冷たく、また行政訴訟の提起は極めて困難であります。しかも、実際にはその数は極めて少ないわけです。また、国家賠償を得るためには、国家賠償法上違法な行為であったと認められないと賠償は認められませんし、公務員に故意、過失がないと賠償は認められません。しかも、たとえ賠償が認められたといたしましても、賠償というのは金銭的な償いですので、実効的な救済とは言えないわけでございます。
 この点、日本と同じく付随的違憲審査制をとっておりますアメリカでは、先ほども触れましたように、議会が法律を制定したとき、その法律が適用されて不利益を受けるおそれのある人は、その法律の違憲性の確認と執行の差しとめを求めて当然訴訟を提起することができると考えられておりまして、裁判所はそのような訴訟で法律の憲法適合性について司法審査権を行使しております。
 したがいまして、日本の司法審査制度は、アメリカ型と言われながら、実はそのアメリカから大きく隔たっているのが現状でございます。
 最高裁判所がその権限を適切に行使してきたのかどうか、その評価は、最高裁判所が日本国憲法のもとでどのような役割を果たすことが期待されているのかについての考え方によって異なり得ます。したがいまして、先ほどの問いに答えるためには、その前提といたしまして、最高裁判所にふさわしい役割は何かということを考える必要がございます。この点が三番目の点でございますが、最高裁判所はどのような役割を果たすべきか、みずからの哲学と申しますか、立場を明確にはしておりません。
 これに対しまして、先ほど触れましたように、学説の多くは、最高裁判所の立場を批判してまいりましたが、従来は、必ずしも最高裁判所にふさわしい役割が何であるのかということを明確にすることなく議論してきたように思います。
 基本的人権は、憲法に先立って存在する自然権でありまして、この人権を守るということが最高裁判所の役割だととらえられてまいりました。最高裁判所は、しばしば憲法の番人だとも呼ばれております。そして、多数者あるいは多数決の手続によりますと少数者の権利が侵害されるおそれがあるので、多数者の決定を常に監視する必要性があるというふうに言われ、いわば人権は多ければ多いほどよく、裁判所の役割は広ければ広いほどいいというような発想方法が暗黙のうちにとられていたのではないかと思います。
 その根底には、民主主義よりも自由というものを非常に重視する考え方があったのではないかと思います。もちろん、後でも触れさせていただきますように、自由が保護されることが民主主義だという考え方に立てば、両者の間に矛盾はないということになりますが、従来の憲法学の支配的な考え方はやはり自由中心の考え方であったというふうに言うことができると思います。この考え方によりますと、最高裁判所の違憲判決が非常に少ないということは、人権保障の役割を怠ってきたことだとされまして、最高裁判所は司法審査権を十分適切には行使してこなかったという批判が出てくるわけでございます。
 しかし、その後、このような漠然とした批判にかわりまして、アメリカにおきます司法審査をめぐるさまざまな議論を契機にいたしまして、より緻密な憲法理論を展開する動きが見られるようになってまいりました。
 これがいわゆる二重の基準論と呼ばれる考え方でございまして、それによりますと、民主主義原理のもとで、国会は国民の選挙によって選出された全国民の代表によって構成されておりますので、裁判所は、原則としてその判断を尊重し、国会の制定した法律は憲法に適合すると推定をいたしまして、それが合理的かどうかを審査すべきであると考えます。いわゆる合憲性の推定と言われるものでございます。
 ただ、一定の権利につきましては、それは民主政過程に不可欠な権利であるため、その権利を国会にゆだねておくことができない、それゆえ、裁判所がそれを擁護する最終的な責任を持っているはずだと考えられます。そこで、このような権利については裁判所の厳格な審査が正当化されると考えられました。
 この立場におきましては、裁判所が積極的に司法審査権を行使できるのは、基本的人権すべてではなく、そのうちの一部に限られるということになります。特に、表現の自由等の民主政過程に不可欠な権利については、裁判所は積極的に司法審査権を行使すべきであるが、それ以外については国会の判断を尊重すべきだ、こういう考え方になるわけでございます。
 ただ、このように、この学説は、民主政過程に不可欠な権利についてだけ固有の裁判所の役割を認めたわけでございますが、実際には、民主政過程に不可欠な権利とは言いがたいのではないかと思われる経済的自由につきましても、最高裁判所はある程度厳しい審査をすべきだと考えております。また、人格的自律ないし人格的生存に不可欠な権利だといたしまして、生存権等につきましてもやや厳格な審査が正当化されると考えてまいりました。その結果、憲法の保障する基本的人権につきまして、裁判所の司法審査権はかなり積極的に行使することができるという結論が結果的に擁護されたのではないかというふうに思います。
 この点、私は、現在の憲法学の支配的な考え方とは若干異なった意見を持っておりまして、確かに、憲法の保障している基本的人権のほとんどは国民が政治参加するために必要不可欠な権利でありますので、これらの権利については、民主政過程に不可欠な権利であるとしてそれを保護することは裁判所の固有の権限だと考えるべきではないかと思っております。また、それが裁判所にふさわしい役割でもあると考えております。
 しかし、この立場を貫きますと、逆に、このような意味で民主政過程に不可欠とは言えない権利については国会の判断を尊重し、緩やかな審査をすることが妥当なのではないかと思っております。国会の判断あるいは多数者の判断を常に裁判所が監視すべきだという考え方は、私は妥当ではないと考えております。と申しますのは、国民がもし選択を誤り、国会が国民の利益を害するような結果になった場合には、国民は次の選挙でその意思を示すことができるはずであり、また示すべきではないかと考えるからです。
 民主主義の原則のもとでは、国民の権利を守るということも国民あるいは国民の代表者の責任でありまして、裁判所が常にこのような役割を担うべきだと考えるのは、裁判所に余りにも多くのものを期待し過ぎなのではないかと思います。また、裁判所にそのような役割を期待することは、裁判所にかなり困難な課題を負わすことになり、実際、期待可能以上のものを期待することによって、逆に裁判所が身動きできなくなってしまうのではないかというふうに考えるからです。
 私は、このような考え方をプロセス的な司法審査理論と呼んでおります。この考え方では、裁判所の役割は、民主主義プロセスの擁護者であって、それに尽きると考えるべきではないかと考えております。この立場の前提は、現在の支配的な憲法学の考え方は、憲法は実体的な目標ないし価値を定めたものだと考えておりますが、それとは異なり、憲法というのは、あくまで統治の手続を定めた手続的ないしプロセス的な文書だと考えるプロセス的な憲法観でございます。
 現在の支配的な考え方は、憲法の目的は人権の保障で、民主主義を含む統治の原理はすべて人権保障のための手段だと考えておりますが、私は、統治の原理と人権の保障はコインの裏表の関係で、表裏一体ではないかと考えております。基本的人権というのは、政治が手を出してはならない実体的な価値だと考えるのが支配的な考え方で、私はこれを実体的な価値の基本的人権観と呼んでおりますが、これに対し、私は、憲法の保障している人権というのは、守らなければいけない手続的なルールだと考えるべきではないかと思っております。これを私はプロセス的な基本的人権観と呼んでおります。
 そこから、司法審査の目的は、実体的価値として理解された基本的人権の価値の実現と見る支配的な考え方、これを私は実体的価値の司法審査理論と呼んでおりますが、これと異なり、司法審査はあくまで憲法の定めている手続の保障だというプロセス的な司法審査理論が導かれるのではないかと考えているわけです。
 もちろん、このような考え方の違いには、日本国憲法が前提としている個人あるいは政治のシステムについての理解の違いがございまして、支配的な考え方が前提としている個人の考え方というのは、私は、好きなことをさせておいてくれ、ほっておいてくれと主張する個人ではないかと考えておりますが、憲法は実はそうではなく、他の人とともに政治共同体を組織し、互いに他を尊重しながら一緒にやっていくことを求める市民としての個人ではないかと考えております。
 そして、憲法の目標あるいは目的は人権の保障だと考えるリベラリズムの考え方とは異なりまして、政治に参加をする市民が、政治の中でさまざまな意見を調整し、望ましい政治のあり方を決定していく、その政治のプロセスを憲法は保障したものだととらえ、そのプロセスをプリュラリズム、いわゆる多元主義と理解すべきではないのかと考えております。したがいまして、この政治のプロセスを超えた問題は、憲法の問題ではなく政治の問題だと考えるべきではないかと考えております。
 したがいまして、私は、憲法学の支配的な考え方よりも裁判所にふさわしい役割をやや限定的にとらえておりまして、余りたくさんのことを裁判所に期待するよりか、裁判所にふさわしいことだけをしっかりと裁判所にしてもらいたいという考え方をとっております。
 この立場によりますと、最高裁判所は基本的に、経済的事由に関する事例では国会の判断を尊重すべきであったと思われます。したがいまして、国会の判断を幾つかの判決で覆しておりますけれども、このような事例には疑問があるのではないかと思っております。他方、逆に、表現の自由など市民の政治参加に不可欠な権利につきましては、このような権利を擁護することが裁判所の固有の役割だと私は考えておりますので、国会の判断を裁判所がしっかりと見きわめることなくこれらの権利の制約を非常に簡単に認めてきたことは、やはり疑問なのではないかと思っております。
 したがいまして、私も、最高裁判所は適切に司法審査権を行使してきたとは言いがたいと考えております。
 また、先ほども触れましたように、日本の司法審査制度がアメリカ型だと言われながらも、司法権行使の要件を、アメリカとは異なり、非常に狭く理解いたしまして、事実上法律、命令等の憲法適合性を争う道が閉ざされてまいりましたが、このような理解も妥当ではなかったのではないかと考えております。特に、日本国憲法は第三十二条で国民に裁判を受ける権利を保障しておりますが、現在のような運用の仕方は、国民の裁判を受ける権利を無意味にするものであって、極めて疑問だと言わないといけないのではないかと考えております。
 では最後に、憲法改正の必要性はあるか、あるとすればどのように改正すべきかという点でございますが、このような現状を打開するために、憲法裁判所の構想がいろいろな形で打ち出されております。例えば、伊藤正己元最高裁判事もそのような提言をしておりますし、読売新聞社等の憲法改正案などでも憲法裁判所の構想が出されております。
 このような構想につきましては、先ほどの最高裁判所の立場に関する解釈を前提としますと、これは現行の憲法の趣旨に反することになりますので、このような憲法裁判所の設置には憲法の改正が必要だと私は考えております。
 では、そのような改正は必要なのか、あるいは望ましいのかどうかという点でございますが、私は、このような憲法裁判所の設置が問題の解決となるかどうか疑問ではないかと考えております。
 既に諸先生方も御承知のように、伊藤正己元最高裁判所判事は、日本の最高裁判所が司法審査権行使に消極的な理由につきましていろいろな要素を指摘しておられます。裁判官の中に和の尊重の意識が存在して、なかなか個々の裁判官の意見を言うことが難しいとか、あるいは、他の政府の機関との間でも正面的な対立を避けたいという和の気持ちがあることとか、あるいは、最高裁判所が非常に多くの事件を抱えていて、その中で憲法事件について十分考える余裕がないこととか、あるいは、大法廷と小法廷の区別によって憲法判断が非常に難しくなっている、等々の要素を指摘しているところでございます。
 経験に裏づけられた指摘として非常に重く受けとめるべき必要性があるのではないかと思うのですが、伊藤正己元最高裁判所判事が提言をされる解決策としての憲法裁判所の設置がこれらの問題点の解決につながるかどうか疑問ではないかと思います。また、憲法裁判所を設置すれば、果たしてその憲法裁判所が急に法律、命令等の合憲性を厳しく審査するようになるだろうかと考えますと、そのように考える理由はどうもないのではないかと思います。
 そして、事件、争訟性の要件があるから裁判所が法律、命令等の憲法適合性を審査することが非常に困難なのだと一般に言われますが、実際には、先ほど申しましたように、事件、争訟性の要件そのものは極めて柔軟でありまして、アメリカにおきましては、非常に簡単に法律、命令等の憲法適合性が争われております。したがいまして、問題点はどこか別のところにあるのではないかという気がいたします。しかも、事件、争訟性の要件を満たさないと司法権を行使することができないという考え方にはそれなりの理由がございまして、それをすべて否定してしまうことが妥当かどうか、疑問ではないかというふうに思っております。
 ではどのようにすればいいのか、私もまだ決まったこれという意見を持っているわけではありませんが、当面のところ必要なのは、憲法改正ではなく、意識改革と制度改革ではないかというふうに私は考えております。
 先ほども触れましたように、裁判所の司法権は憲法第七十六条によって憲法上付与されたものであって、法律によって付与されたものではありません。したがいまして、裁判所は、その憲法上の固有の司法権を行使して、もっと積極的に司法権を行使することができるはずでございます。事件、争訟性の要件もアメリカでは極めて緩やかに解釈されておりますので、日本でももっと柔軟に解釈をすれば、国会が法律を制定すれば、それが適用されて不利益を受けるおそれのある人は、だれでも法律の違憲性の確認とその執行の差しとめを求める訴訟を当然提起することができるんだと考えることが可能ではないかと思いますし、また、そのような解釈の方が日本国憲法に適合的なのではないかと思います。
 その上で、国民の政治参加に不可欠な権利につきましては、裁判所が憲法上固有の権限と責任を負っているのだということをしっかりと自覚をしていただければ、もっと積極的に司法審査権を行使していただけるのではないかと思います。
 ただ、そのためにはやはり、いろいろな形で制度改革が必要なのではないかと考えております。最高裁判所の裁判官の任命等につきましては、現在実質的に、下級裁判所や検察官、弁護士等の名誉職的な最終ポスト的な扱いがされておりますが、このような人事を根本的に改めるとともに、もっと若い人を積極的に登用する等の新たな改革が必要になるのではないかというふうに思います。
 また、現状では訴訟の提起が極めて困難であって、憲法事件を争うことも困難な状況でございますので、訴訟の上でも憲法事件を争うことができるように、さまざまな形で制度を改革することは十分考えてもよいのではないかと思っております。
 したがいまして、私は、基本的には、憲法裁判所の設置ではなく、憲法の付与している司法権あるいは司法審査権についての考え方を改めること、そして、もっと裁判所が司法権あるいは司法審査権を行使しやすいようにする制度改革、そして、そのような制度改革を実質的に意味のあるものとするためには、裁判官の増員や訴訟手続の改正による訴訟の提起の要件の緩和化、そしてさらに、憲法訴訟を支えることができるような大幅な弁護士の増員等、根本的な司法制度改革なのではないかというふうに考えております。
 以上、簡単ではございますが、現行の憲法第八十一条の定めております司法審査の権限について、私の考えているところを述べさせていただきました。御拝聴ありがとうございます。(拍手)
高市小委員長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。
    ―――――――――――――
高市小委員長 これより参考人に対する質疑を行います。
 質疑の申し出がございますので、順次これを許します。伊藤達也君。
伊藤(達)小委員 伊藤達也でございます。どうもおはようございます。
 本日は、先生から大変貴重なお話を伺うことができまして、本当にありがとうございます。
 私からは、まず最初に、先生がお話しになられた司法審査権の活性化についてさらにお話をお伺いさせていただきたいと思います。
 先生は、今のお話の中で、基本的に国会の判断を尊重しつつも、国民の政治参加のプロセスに不可欠な諸権利の保護について、裁判所が司法審査権というものをもっと積極的に行使していくべきだというお話があったと思います。これを積極的に行使していくために、憲法の改正ではなくて、意識の改革と制度改革にというお話をいただいたわけでありますが、この二点についてもう少し具体的にお話をお伺いしたいと思うんです。
 まず、意識改革のところでありますけれども、私たちが考えていかなければいけない裁判官の理想像というのはどういうところにあるのか。ともすると、私たちからすると、どうも裁判官というのは、顔が見えなくて没個性で画一的であるのがいい裁判官なのかどうかというところがあるんだと思うんです。そういう意味で、先生の裁判官としての理想像はどういうところにあるのか。
 それと、私どもは、司法の裁判所の現場がよくわからないんですが、本当に最高裁の判事の方々は、憲法に対する感覚がどれぐらい鋭いのかというところがよくわからないところがあるんですね。その感度を高めていくというのも意識改革の一つだというふうに思うんですが、その点について、どのように考えておられるのかお伺いしたいと思います。
 それから、制度改革について幾つか例示がございましたけれども、やはり根本的に、訴訟制度でありますとか、裁判官、裁判所全体を変えていかなければいけないということで、先生から少し訴訟の要件の緩和等々のお話がございましたが、さらに具体的に変えていかなければいけない御提案がありましたら、ぜひお聞かせいただきたいと思います。
松井参考人 順番にお答えさせていただきます。
 まず、どのような裁判官が望ましいのかということでございますが、この点につきましては、伊藤正己元最高裁判所判事も、現在の裁判所制度のもとでは、顔のない裁判官が理想的とされ、個性的な方はどちらかというと好感を持って受けとめられないということを指摘しております。
 これは、やはり司法制度全体の一つの問題点ではないかと思いますが、もっと個性のある裁判官がいろいろとおられるということの方が望ましいのではないかと思いますし、最高裁判所の裁判官につきましても、穏当な方ばかりではなく、いろいろな意見の方が入ってこられるのが望ましいのではないかというふうに思っております。その上で、いろいろな形で議論を行って、そして、法律の憲法適合性について異なった考え方を持たれる方がお互いに議論を闘わすというのが、やはり憲法訴訟の活性化にとっては望ましいのではないかと考えております。
 それから、第二点でございますが、裁判官の憲法に対する感覚がどの程度鋭いものなのかという点でございますが、現在の裁判所の中におきましては、私のように外から見ている者の感覚といたしまして、憲法というのは、どちらかというと、余り触れたくない問題だととらえられているのではないかという気がいたします。特に、刑事事件等におきまして憲法問題が提起されましても、多くの裁判官の方は、ほかに争うことはないのかというふうな意識で対応されているのではないかとしか思われないようなところがございます。
 私は、どうも現在の裁判官の方たちの憲法に関する意識というのは、民法や刑法というような目に見える法律と違いまして、憲法というのは非常に抽象的であって、しかも、根本原則を定めているものなので、具体的な内容のある法律とは言えないのではないかと思っておられるのではないかと思っています。
 実際には、先ほど触れましたマーベリー対マディソン判決でアメリカの最高裁判所が一番重視したのは、憲法が一番最高位の法律であって、法が何であるのかを確認することができるのは裁判所の固有の権限だという考え方でございますので、日本で司法審査制度が定着するためには、憲法が最高位の法律であるということを確立することではないのか。そのような意識を裁判官の方に幅広く持っていただくということが必要なのではないかと考えております。
 それから、三番目につきましては、さまざまな司法制度改革が必要ではないかと思いますが、アメリカを一例に申し上げますと、憲法事件は、先ほども触れましたように、ほとんどが法律の違憲の確認と執行の差しとめを求める予防訴訟として提起されております。しかも、その際には、クラスアクションと申しますが、多くの方が集団として訴訟当事者に加わるという制度が幅広く利用されております。
 また、違憲の確認と法律の執行の差しとめを求める訴訟でございますので、現在の日本の訴訟制度のもとで要求されるような裁判費用等につきましても、アメリカの場合には、訴訟提起が非常に容易になっております。さらに、アメリカにおきましては、弁護士さんが勝訴したときにだけ弁護士費用を受け取るということを約束して訴訟の代理を引き受けておりますので、勝ち目のある訴訟かどうかということを考えて弁護士さんが憲法訴訟を引き受けるという制度になっております。これは、訴訟を起こしたいと考えております国民の立場からは非常に便利な制度でございます。
 このようなさまざまな仕組みにつきましては、日本でも導入を検討する余地は十分あるのではないかというふうに考えております。
伊藤(達)小委員 先生のきょうのお話が大変興味深いものがあったものですから、少し広く憲法のお話をお伺いさせていただきたいというふうに思います。
 先生のきょうのお話、そして先生の資料を見ておりますと、「「ほっといてくれ」の憲法学から「みんなで一緒にやろうよ」の憲法学へ」という御提言もされておりまして、こうした先生の御提言を伺っておりますと、私なりに解釈しますと、ほっておいてくれという先生の御主張は、みんなで一緒にやっていこうよという形にパラダイム転換をしていく中で、憲法において個人の社会参加のプロセスというものをもっと明確にしていく、よって、憲法の要諦は、統治の目的ではなくて、統治のプロセスを定めるところにあるということを大変強調されているように思うんです。
 その場合の理念は多元主義。つまり、各個人から、みずからの福祉と考えるもの、つまり公益の実現ということを考えておられて、そして共同体形成へ向かう運動哲学というものがそこにあるような気がいたすんですが、そうなった場合に、先生は、主権とは自己決定権であり、それを論拠に各人が共同体を形成するということをお考えになられているわけですが、一方で、現在の主権の概念が、個人ではなく総体として主権が観念されているという憲法解釈があるわけでありまして、こうしたことをどのようにお考えになられているのかというのをぜひお伺いしたい。
 それと、先生のお考えの中でもう一つ、きょうのテーマから外れてしまいますが、地方自治というものをどうとらえておられるのか。先生のお考えを敷衍していくと、やはり分権思想というものが出てくると思うんですが、この分権を進めていく中に、中央集権と対立する概念として分権、そこに地方自治体があるという考え方と、もう一つ、NPOの運動や民というものを大切にして、そこから地方自治をつくり上げていくという考え方も成立すると思うんですが、そうしたことも踏まえて、残された時間、わずかでありますけれども、先生のお考えを伺えれば、よろしくお願いいたします。
松井参考人 国民主権につきましては、実は憲法学の中でも非常に意見が分かれているところでございますが、私は、基本的には、国民主権というのは、日本国憲法を制定したのが日本国民であるということの趣旨だというふうに理解をしております。したがいまして、日本国憲法という憲法を制定し、現在の国の統治の基本を定めたのは国民でございます。では、その憲法のもとで具体的な日々の統治をどのように行っていくのか、これが問題になるわけなんですけれども、従来の憲法学では、この日常的な統治のあり方の問題が十分議論されてこなかったのではないかと考えております。
 私は先ほど、日本国憲法は民主政原理あるいは民主主義原理に立っているということを前提にしてお話をさせていただきましたが、実は私は、日本国憲法は、国民主権を宣言するとともに、日々の日常的な統治のあり方としましては、代表民主政原理をとっているということを基本にいたしまして、そのことを前提として、その代表民主政原理に根本的に背反しないような司法審査制度のあり方というものを考えてきた次第でございます。先ほど私がお話しさせていただきました民主主義プロセスの擁護者としての司法審査というのは、まさに代表民主政原理と調整のつくような司法審査のあり方として考えているものでございます。
 また、このような私の考え方から申しますと、国政に関しましては、憲法は国会を中心といたします代表民主政をとっておりますが、地方におきましてはもっと積極的な住民の参加というものを考えておりますし、また、政治のあり方につきましては、人々が市民として政治に参加するということを当然前提にしておりますので、さまざまな市民運動やあるいは公益団体等を通して政治に参加するということをもっと積極的に評価し、それが政治の中に反映されることをぜひ期待したいというふうに考えております。
伊藤(達)小委員 どうもありがとうございました。
高市小委員長 次に、島聡君。
島小委員 民主党の島聡でございます。
 憲法裁判所構想につきまして、伊藤正己元最高裁判所判事の提言、読売新聞社の憲法改正案が取り上げられておりますが、我が党、民主党の憲法調査会の中間報告でも憲法裁判所構想を出していますので、ぜひ御記憶にとどめていただきたいと思います。
 その観点から質問させていただくんですが、私は、現在の司法消極主義というのは、今の日本の憲法をうまく機能させるために非常に問題ではないかというふうに思っています。それは私の意見でありますが、現実の国会でやりますと、内閣法制局についてお聞きしたいんですけれども、具体的に憲法解釈、これは違憲か合憲かというのは、国会審議というのは内閣法制局が権威を持っているんですよ。不思議なことでは、例えばテロ防止特別委員会で、私も委員でしたが、これはどこまで憲法で可能か、内閣が法律を提出してくるわけですから、内閣法制局を通るわけですから、合憲と言うに決まっているわけですよ。政府の一機関にすぎない内閣法制局が憲法解釈をする、これは、権力分立のあり方としては非常に問題が大きいんじゃないかと私は思います。
 もちろん私は、現在のテロ特もあるいは事態対処法も、本当に合わなくなったら憲法自身見直すべきだという判断のもとに申し上げているんですが、閣法で提出してきて、内閣法制局がやって、答弁を聞いたら合憲と言うに決まっているわけであります。これは権力分立のあり方として問題が大きいと私は思うんですが、先生のお考えの中では、例えば司法消極主義と内閣法制局のあり方ということに関連してはどういうふうにお考えですか。
松井参考人 まず、前提問題として、現在の日本国憲法のもとで内閣に法案提出権があるのかどうかにつきまして、現状ではそれを肯定する考え方が支配的ですし、実務もそのようになっておりますが、憲法学の中にはそれに異論を唱える考え方もございまして、私は、どちらかというとそれに反対する立場をとっております。国会というのは唯一の立法機関でございますので、私は、法律案を提出することができるのは国会議員だけだと考えるべきではないかというふうに思っております。
 それはおいておきまして、現行の制度を前提にして考えますと、内閣法制局というのはあくまで行政権の中の組織でございますので、内閣法制局が憲法問題について合憲だと言ったかどうかというのは、裁判所にとっては本質的な問題ではないはずでございまして、伊藤正己元最高裁判事が、日本には内閣法制局があるのでその解釈が非常に重きを置かれるということを、裁判所が司法審査権行使に消極的になる理由の一つとして挙げておられますけれども、これはやはり本末転倒ではないかと考えます。裁判所が憲法上の権限に基づいて法律の憲法適合性について審査をするので、内閣法制局がどのような解釈をとっていたのかということは、一つの参考にはなるかもしれませんけれども、それが決定的なものではございません。
 したがいまして、私は、最高裁判所を初め裁判官は、裁判官としての立場で法律の憲法適合性について判断すべきではないかと考えております。
島小委員 基本的な枠組みについてちょっとお尋ねしたいんですが、例えば、司法がこの法律は違憲であるとする。立法府は、これはもう出したと。今、先生のお話でいくと、意識改革があって、司法審査要求をして、これは差しとめだという意見が出たとする。それがどんどん続いていった場合、具体的に言うと、例えば安全保障上の問題なんかにおいて、これは必要であると言う。でも、これは違憲だ、違憲だ、違憲だと司法が出てくる。とはいうものの、統治的な問題においては必要だと言う。そういうような状況になった場合にはどのように考えればいいんでしょうか。
松井参考人 アメリカでも、先ほど申しましたように、裁判所が司法審査権を行使するほとんどの事例は、法律の執行に先立ちまして法律の違憲の確認と執行の差しとめを求める訴訟でございますけれども、裁判所にそのような訴訟が起こされますと、当事者の方は、仮処分といたしまして、暫定的に、裁判所の判決がおりるまでの間、法律の執行を仮に差しとめることを裁判所に求めるのが通例でございます。
 その際に、裁判所は、執行の差しとめを認めないとどのような不都合が生じるのかということを一方で検討し、さらに、この訴訟にどの程度勝訴の見込みがあるのかということを検討し、その上で、執行の差しとめを認める必要性があると考えた場合にのみ、裁判所の判決がおりるまでの間の仮の差しとめを認めるわけでございます。したがいまして、当事者が執行の差しとめを求めれば常に法律の執行が差しとめられるというわけではございません。
 また、アメリカの場合には、このように法律の執行の仮の差しとめが認められた後も、極めて迅速に審査をすることが可能でございます。アメリカの裁判所は、先般のアメリカ大統領選挙のときの訴訟にも見られますように、わずか数日間で判決を下すことも行っております。したがいまして、極めて重要な案件であれば、裁判所がそのような柔軟な形で処理をすれば極めて短期間の間に事件は処理されますので、御指摘のような弊害というものはそんなに起きないはずでございまして、そのことを考えれば、日本でも、差しとめ等の救済を認めるということは妨げにはならないのではないかと考えております。
島小委員 先生は表現の自由の専門家でもあるというふうに承っております。例えば、個人情報保護法というのが今議論されています。これは憲法二十一条で問題がある、だれかが請求するとする。今おっしゃったように、アメリカは迅速に結論が出ますけれども、日本は、司法制度改革をしなくちゃいけないのも迅速なものだという話になっている。そういう場合にでも問題がないと思われますか。
松井参考人 現在、訴訟を通常の手続に従って処理しますと、やはりかなり時間がかかるということは否めないと思います。私は、訴訟の処理等は裁判所の固有の権限であると考えておりますので、裁判所が憲法上の権限に基づき裁量で判断をすればいいのではないかというふうに考えておりますが、先ほど意見を述べさせていただきましたように、現行の司法制度はかなり窮屈にできておりますので、そういう差しとめ等の救済を認めるに伴いまして、やはり法律等を改正して、裁判所がもっと柔軟に訴訟手続を行うことができるような整備をするということは十分考えてもいいのではないかと思っております。
島小委員 きょうは憲法調査会にお越しいただいているんですが、この憲法調査会は発議権がない調査会となっておるんです。例えば、今、日本において憲法と法律というものがぎりぎりどうかという判断をするときに、司法消極主義で、裁判も今のところはなかなか難しい。
 例えばですけれども、この憲法調査会を常任委員会にして、そこに、立法と憲法、いろいろな問題が出てきますが、その意味で本当に憲法を調査するというような権限をこの憲法調査会に付与するようなことを考えた場合、いわゆる三権分立の考え方からすると何か問題が出てくるでしょうか。
松井参考人 国会が憲法改正につきまして発議をする権限がございますので、そのために必要な調査を行うということは、私は国会の権限内だと考えておりますけれども、そのことと、常時憲法問題について調査をするような会議が必要かどうかというのはまた別問題ではないかと思います。
島小委員 ありがとうございました。
高市小委員長 次は、斉藤鉄夫君。
斉藤(鉄)小委員 きょうは大変ありがとうございました。
 ちょっと、ある意味では非常に幼稚な質問からさせていただきたいと思いますが、三権分立の中で、例えば立法と行政については正当性の根拠が非常に我々理解しやすい。例えば国会は、国民から直接選挙で選ばれた、それから行政については、その選挙で選ばれた議員で内閣を組織するということなんですが、いわゆる司法がよって立つところの正当性の根拠というのはどこにあるんだろうかな、こう考えますと時々わからなくなるんですけれども、この点について、学校の授業の質問のようですけれども、教えていただきたいと思います。
松井参考人 もともと、司法というのは法をつかさどる作用ということでございますけれども、一般的な理解によりますと、司法というのは法の支配と呼ばれる考え方を制度化したものだととらえることができるんではないかと思います。
 国民主権原理に基づきまして、国民が憲法を制定し、その憲法のもとで国民が政治に参加をして、代表民主政に基づき統治を行うわけでございますが、憲法というのは、その国民によって制定をされ、みんなが守らなければいけない法として定められたものでございます。裁判官は、その法が遵守されるように確保する役割を担っているわけでございまして、国民の選挙に対比されるところの法が司法のすべての正当性の根拠を提供していたというふうに言うことができるだろうと思います。
 ただ、昔は、法を解釈し、適用する司法の制度というものは、客観的に存在する法の意味を探り、それを裁判官は法律的な訓練によって身につけた特別な技術で確認し、そしてそれをそのまま具体的な事件に適用するものだと考えられておりましたが、その後、現在に至るまで、実際には、裁判というのはそのような単純なプロセスではなく、裁判官の考え方ですとかいろいろなものによって影響を受ける、複雑な複合的なプロセスであるということが認められるようになってまいりました。
 その結果といたしまして、裁判官が、例えば国会の制定いたしました法律を憲法違反だと考えたときに、なぜそれは憲法違反なのかと問われたとき、昔は憲法にそう書いてあるからだと答えることができたんですけれども、今は、憲法にはそう書かれているとは限らない、私の考えではそう言ってはいないというふうに言われますので、従来のような考え方で司法権の行使を正当化することは難しいのではないかと考えております。
 現在の支配的な考え方は、憲法はそれぞれ具体的な実体的価値を定めておりますので、裁判官はその実体的な価値を擁護する役割を担っているととらえられておりまして、その実体的な価値によって司法権の行使が正当化されるという構図になっておりますが、私は、司法と立法の間には違いがあって、その違いのゆえに司法というものが正当化されるのではないかと考えております。
 その違いはどこにあるのかと申しますと、立法の手続というのは、国会議員の先生方がそれぞれ集まって国会の場で議論をして、そして最終的には多数決によって法律を制定するわけですが、裁判の手続というのは、原告、被告という相対立する二人の当事者がそれぞれ自分の利益あるいは自分の主張を掲げて対立している、その対立している手続の中で、裁判官がいわば第三者的な立場から法のあり方を考えて具体的な事件を解決する。このような裁判という手続の特殊性と申しますか、そのような特殊性のゆえに裁判には独自の存在価値があり、そしてその裁判の独自の手続のゆえに司法権の行使が正当化されるのではないかと私は考えております。
斉藤(鉄)小委員 法そのもの、そして手続そのものに正当性の根拠があるということなんですが、非常に率直に申し上げまして、例えば、法に細かく具体的なことが書いてあれば、それに基づいて裁判官に我々判断してもらう、これはよくわかるような気がするんです。ところが、先ほども先生おっしゃっておりましたけれども、憲法というふうに、ある意味では非常に広い概念のことが抽象的に書いてある場合について、その正当性だけを根拠に判断を司法にゆだねることについて心配する向きがないでもない。
 国会の場合は、ある意味では開かれた、今ワイドショー政治とかいろいろ言われておりますけれども、かなりオープンになってきて、いろいろな議論が国民に見えます。また、使っている言葉も国民にわかりやすい言葉なわけですけれども、司法の場合、なかなか見えにくい、また使われている言葉も大変難しい。まあ、それは当然なのかもしれませんが。そういう中で、限られた人の、また先ほどの根拠によっての判断にすべてがゆだねられるということについて多少の危惧があるということについて、先生の御意見をお伺いできればと思います。
松井参考人 憲法の規定は抽象的で、憲法の規定だけから見ると具体的な結論がなかなか出てこないのではないかということは、よく指摘されるところでございます。
 私は、そのような指摘がなされたときには、憲法の規定も、先ほど触れました民法や刑法の規定と本質的には変わらないではないかというふうに答えることにしております。例えば、私がよく挙げるのは、民法七百九条の不法行為の規定でございます。他人の権利、利益を侵害しまして損害を与えた場合には、その損害を賠償しなければならないということを定めている規定でございますが、これは、生命の侵害から、名誉毀損から、プライバシーの侵害から、交通事故から、すべての事例をカバーしておりまして、しかも、法律上に書かれている言葉はほんのわずかですので、極めて抽象的なんですね。この規定と憲法二十一条の規定とどちらが抽象的かと言われれば、私は変わりはないんじゃないかと思うんです。ということは、法を解釈するという点で、特段憲法だけが特別だと考える必要性はないのではないかというふうに思います。
 ただ、その上で、御指摘のように、やはり国民主権原理に基づきまして、日々の統治は代表民主政原理に基づいて行われるべきだと考える私の立場から申しますと、国会というのは、国民が選挙で選出した国民の代表者によって構成されておりますので、国会の行為というのは、いわば選挙、国民の選択というものによって正当性を経ております。これに対して、裁判官の方は、法を適用し、法という正当性だけでその判断を覆すことになるわけでございますので、先ほど申しましたように、やはり裁判所が常に政治を監視すべきだとか、国会の判断はすべて一応おいておいて、裁判所が独自に法を解釈すべきであるというのは、ちょっと危険性が高いのではないかと考えております。
 そのために、先ほど申しましたように、私は、裁判所の固有の役割というのを考え、その役割のところでだけしっかりと権限を行使してほしい。それは、民主主義のプロセスがしっかりと作動するように保障することだ。そのように考えれば、裁判所が司法審査権を行使するということは、民主主義のプロセスが作動するように確保することですので、おっしゃられるような危険性は比較的少なくて済むのではないかという感じがします。
 また、そのような観点からいきますと、憲法の解釈につきましては、固有の裁判官だけの問題ではなく、もっと広い視野と申しますか感覚が当然要求されることになると思いますので、固有の意味での裁判官だけが憲法事件を扱うというのはやはり適切さを欠くのではないかな。そういう観点からいけば、最高裁判所の裁判官等にはもっと幅広い知識を持ったいろいろな人が入っている方が望ましいのではないかというふうに考えております。
斉藤(鉄)小委員 ありがとうございました。
高市小委員長 次に、藤島正之君。
藤島小委員 自由党の藤島正之でございます。
 先生のおっしゃっている、民主政過程に不可欠な権利については厳しく、それから経済的自由については緩やかに違憲審査をすべきである、これは私も大変賛成なんですけれども、それはそれとしまして、統治行為論というのがあったわけですけれども、これについてはどういうふうにお考えになりますか。
松井参考人 一般に、国の統治の基本にかかわるような根幹的な問題については、裁判所が司法権あるいは司法審査権を行使すべきではないというのが統治行為論と呼ばれるもので、政治問題の法理というふうに呼ばれることもございます。御承知のとおり、日本の最高裁判所は苫米地事件と砂川事件等でこのような考え方をしております。学界におきまして、このような法理を認めるのかどうかをめぐって意見が分かれているところでございます。
 私自身は、統治行為論と呼ばれるものが極めて不明確であるということと、何かいろいろなものが統治行為論という言葉で語られているために、非常に適切でない状況を招いているのではないかというふうに考えております。
 司法権が憲法によって裁判所に付与されておりますが、日本国憲法は、裁判所以外の機関に一定の事件の紛争の解決を明文の規定でゆだねております。また、明文の規定がなくても、憲法の規定を読んでおりますと、そこから暗黙のうちに裁判所以外の機関に対して一定の事件の処理をゆだねていると考えることができるような事例がございます。私は、例えば衆議院の解散などはそういう事例ではないかと考えております。したがいまして、このような事例では、やはり裁判所の司法権行使には限界があると思っております。
 ただ、それを超えて、高度に政治的であるとか、あるいは統治の根幹にかかわるような問題だからであるという、ただそれだけの理由で司法権の範囲から外れると考えるのは妥当ではないんじゃないかと私は思っております。
藤島小委員 それから、憲法裁判所の問題です。
 先ほど先生、説明あったんですけれども、伊藤元判事のおっしゃっている和の問題だとか、他の行政機関との融和の問題だとか、あるいは熟慮している時間がないとか、人事だとか、いろいろな問題があるということなんですけれども、そうであればあるほど、私は、独立した憲法裁判所をつくって専門にこれを審議する、こういう方がいいんじゃないかと思うんです。この点、先生は、余り詳しい御説明がないまま、憲法裁判所には賛成できない、こうおっしゃっているんですけれども、もう少し詳しく教えていただけますか。
松井参考人 憲法裁判所にどのようなことを期待されるのかということによっても異なってくるのではないかというふうに思いますけれども、私は、現状のようなアメリカ型の付随的審査制というもののもとでも、十分裁判所は司法審査権を積極的に行使することができるはずだと考えております。
 それから、先ほどもちょっと触れた点ですが、私は、裁判の正当性の根拠というのは裁判の手続にあると考えておりまして、その手続は、原告と被告という相対立する当事者が、自己の利益をベースにいたしまして、憲法問題につきまして積極的に主張を展開する、その中で裁判所が、具体的な事件の重みの中で法律の憲法適合性を審査するというところにあるのではないかと考えております。
 ですから、事件・争訟性の要件にはそれなりの理由があると考えておりますし、現行の制度のもとで、裁判所が原則として具体的な事件を目の前にしながら、その具体的な事件の解決に適用される限りで法律の憲法適合性について審査をするということは、やはり重要な意味があるのではないかというふうに考えているわけでございます。
 これに対しまして、憲法裁判所を設置いたしますと、憲法問題は実質的にその憲法裁判所に専属することになります。それは確かに憲法の事件ばかりを扱うことができるので専門的だと言われるかもしれませんけれども、でも憲法というのはそんなに特殊なものではなく、先ほど紹介させていただきましたように、私は民法とか刑法と変わらないという考え方をとっておりますので、特定の専門的な方だけが憲法事件を審査、判断するというのではなく、むしろすべての裁判官の方が日々の司法権行使の中で憲法問題について検討していただく方が望ましいのではないかというふうに思っております。
 また、ドイツ型の連邦憲法裁判所ですと、およそ法律が憲法に適合するかどうかということを審査、決定することになるわけでございますが、先ほど触れましたように、アメリカ型の考え方では目の前にある具体的な事件を念頭に置いて法律の憲法適合性を審査しますので、どちらがいいのかと考えたときに、私は、一概には言えないと思うんですけれども、具体的な事件の重みの中で法律の憲法適合性を審査するということの意義はあるのではないかというふうに思っている次第です。ですから、憲法裁判所という独自の制度をつくることについては否定的な考え方をとっている次第でございます。
藤島小委員 もう一つ、司法と行政との関係なんです。
 最高裁判所が違憲審査である法律を違憲とした場合に、国会がそのままほっておくというケースは間々あるわけですけれども、その際に、行政府はどういうふうに行動するのがいいのかという点はどうでしょうか。
松井参考人 それは、最高裁判所の違憲判決がどのような重みを持つのかという問題でございまして、行政府が訴訟当事者である場合には、当然、訴訟当事者といたしましてその違憲判決に拘束されることになりますが、当該具体的な事件を離れて、行政府が違憲だとされた判決にどのように対応すべきなのかというのは、また別問題として考える必要があると思います。
 この点につきまして、日本では、一般に行政府は法律を誠実に執行する義務がございますが、最高裁判所によって違憲とされた以上はその法律を執行すべきではないという考え方が支配的でございまして、現行の制度のもとで日本国憲法が裁判所に法律の憲法適合性について判断をする権限を与えた趣旨から考えれば、私はその解釈が妥当ではないかと考えております。
藤島小委員 最後に、裁判も余り専門家ばかりでやるのはいかがかなという感じがするんですが、そういう観点から、今陪審制の問題が議論されているんですが、その点についてはどういうふうにお考えでしょうか。
松井参考人 憲法の問題、憲法裁判所の問題とは離れますが、私もやはり裁判に市民が参加をするということは望ましいことだと考えておりますので、陪審制等の導入というものは十分考慮に値するというふうに考えております。
藤島小委員 ありがとうございました。
高市小委員長 次に、山口富男君。
山口(富)小委員 日本共産党の山口富男です。
 きょうは、参考人のお話をお聞きしまして、司法審査についての憲法の定めと五十年間それが持ってきた意味、それを踏まえたお話で、特に二十一世紀の初頭に当たって、今必要なのは憲法改正ではなくて、もともとの憲法の定めの方向での改革が必要じゃないかという提議をいただきまして、大変興味深くお聞きいたしました。
 まず、第一にお聞きしたいのは、今の憲法が定めている司法審査の盛り込まれた意味合いなんです。
 それで、先ほどのお話ですと、実体的な価値の問題なのか、プロセス的なものと見るのかという違いはあるようなんですけれども、いずれにしても、日本の憲法が、平和と人権の問題で他の国の憲法と比べても非常に広範囲なくだりというような規定を持っておりまして、そういうものと司法審査というのは当然調和しているものだと思うんですね。
 それで、世界で見ますと、一九七〇年代以降、特に各国で、違憲審査という言葉を使うこともありますけれども、司法審査というものが強調されて、いわば普遍化する傾向にあると思うんですね。そうなりますと、日本の憲法はアメリカ型だというふうにとらえたとしても、明文という形で憲法の中に司法審査の規定を設けたという点ではかなり早い部類に入ると思うんです。その点で参考人は、憲法に司法審査の権限が盛り込まれた意味合いについてどのようにとらえているか、まずお尋ねしたいと思います。
松井参考人 先ほども申し上げましたように、憲法というのは、憲法という法律を制定いたしまして国の統治の基本を定め、そして政治が守らなければいけないルールを遵守することを確保しようという試みでございます。
 ただ、憲法が制定されたからといって、その憲法がだれによって執行されるのかによって憲法の実際のあり方は大きく変わってくるわけでございまして、例えばフランスなどでは、憲法が制定されましたが、もともとは、憲法を裁判所が議会に対して執行するという考え方がとられてはおりませんでした。ですから、議会が法律をつくるときに、それが憲法に適合するかどうかは議会が判断することであって、その判断を覆すことができるようなだれかはいなかったわけでございます。これに対してアメリカは、早くから裁判所が憲法を執行し、立法者が制定いたしました法律が憲法に適合しているかどうかは裁判所が審査するんだという制度を樹立したわけでございます。
 ですから、私は、もともとの憲法の趣旨であります法の支配というものを具体化する仕組みから見れば、司法審査制度というのはむしろ不可欠の制度だったのではないかというふうに思っておりますので、司法審査制度あるいは裁判所による憲法の執行という仕組みが取り入れられて初めて、もともと持っていた憲法という仕組みが生かされるようになったというふうに考えております。
 ですから、次第にアメリカあるいはドイツを含め、いろいろな違いは若干ありますけれども、裁判所を通して憲法を立法者に対しても執行するという仕組みが普遍化してきたということは、もともとの憲法という考え方がようやく貫徹されるようになってきたというふうに理解することができるのではないかと思います。
山口(富)小委員 そうしますと、二つ目に、先ほど最高裁の問題で、今の最高裁が司法審査について大変消極的だと。それで、出している内容も問題だし、政治への寛容の態度もかなり評判が悪いわけですけれども、きょう、参考人はお話の中で、適切に司法審査権を行使してきたとは言いがたいというお話をされました。
 そうしますと、私は二つお尋ねしたいのですが、行使してきたとは言いがたいということは、最高裁の現状が、憲法の定める司法審査権のいわば阻害要因になってきたのじゃないか、そういうふうに認識されているのかということを一点お尋ねしたいのと、もう一つは、その際に、参考人が、表現の自由などに関する事例で、「裁判所が国会の判断をしっかりと見きわめることなく基本的人権の制約を簡単に認めてきたことも疑問とされなければならない。」というふうにされたところを、もう少し具体的にお話を聞かせていただきたいと思います。
松井参考人 司法審査権を行使する最終的責任を負っておりますのは最高裁判所ですので、最高裁判所がどのようにその権限を行使するのかということによって、司法審査権の存在意義が生かされるかどうか、やはり変わってきてしまうと思います。ですから、そういう点でいえば、日本の最高裁判所がもっとしっかりと司法審査権を行使してきていただければありがたかったなというふうに思います。
 ただ、現状のような形になってしまった要因というのは非常に複合的でございまして、最高裁判所だけには責められないような理由もございます。ですから、一方的に最高裁判所が何か怠慢であったというふうな言い方は少し適切さを欠くのではないかというふうに考えております。
 それから、次に、表現の自由等につきまして、裁判所が法律の憲法適合性についてしっかりと見きわめることなく制約を支持してきたのは疑問だというふうに述べさせていただきましたが、通常、法律は、一定の目的を達成するための手段としてとらえることができます。憲法の保障しております基本的人権は絶対無制約なものではございません。公共の福祉のために、必要な場合には制約を受けることもやむを得ないと考えられます。
 ただ、その場合に、裁判所といたしましては、制定されております法律が一体どのような目的を達成しようとしているのか、そして、その目的はどのように重要なものなのか、これを当然見きわめるべきだと思いますし、法律がとっている手段、手続が、その目的を達成するために必要なものなのか、どの程度必要なものなのか、これをやはり裁判所はしっかりと見きわめる必要があるのではないかと思うわけです。
 ところが、現実には、最高裁判所の判決で、特に表現の自由等に関する判決の中には、今お話をしたようなことについてほとんど触れることなく、重大な害悪をもたらす危険のある行為であるからとか、おそれがあるから、したがってその制約はやむを得ないというふうに、いとも簡単に制約を認めてしまっている判決がかなりございます。
 私は、表現の自由についても絶対無制約だとは思いませんけれども、その制約を認めるに当たりましては、今お話をしたような、立法目的が何なのか、その目的は正当なのか、どの程度重要なのか、とられようとしている手段はその目的を達成するために必要なのか、どの程度必要なのか、それをもっとしっかりと審査した上で、本当にやむを得ないものだけを合憲といい、そうでなければやはり憲法違反だと判断すべきではなかったかと考えているわけです。
山口(富)小委員 私は、基本的人権については、これは憲法がとわの権利、永久の権利として定めたもので、その制約というのは非寛容の立場なんです。
 それで、最高裁がそういう現状にあるのは共通の認識があると思うのですが、下級審の方で、例えば朝日訴訟で生存権について光が当てられたり、長沼ナイキ訴訟で平和的生存権について非常に意義深い判断がなされたりする形で、下級審での憲法判断というのは幾つかあるわけですね。そうしますと、最高裁の現状と、それから下級審の、そういう憲法についてその後解釈や理解を深めたような判決の問題、それはどういう関係にあるというふうにごらんになっていますか。
松井参考人 日本の現状の制度のもとでは、下級裁判所の裁判官も最高裁判所の裁判官と同様、司法審査権を行使することができますので、下級裁判所の裁判官も裁判官として法律の憲法適合性を審査し、憲法違反だと考えれば当然違憲の判決を下すことができるはずでございます。
 ただ、私は、日本の現行の制度のもとで、裁判所の判決というものには重みがあるので、一たん裁判所が判決を下した以上はその判決の重みをしっかりと受けとめるべきだと考えておりますので、先例があればその先例に従うべきだ、原則として従うべきではないかと考えております。したがいまして、下級審の裁判官といたしましては、最高裁判所の先例があればその先例に原則として従うというのが本筋ではないかと思います。
 ただし、最高裁判所の判決が常に正しいとは限りませんし、また時代の流れの中で最高裁判所の判決が疑問とされるような場合もございます。したがいまして、下級審、下級裁判所の裁判官は、そのような一定の制約はございますが、その中で、みずからの裁判官としての良心に基づき、法律の憲法適合性を審査していけばいいと考えております。
 ただ、現状のもとでは、最高裁判所の司法行政権の縛りの中で、下級裁判所の裁判官は必ずしも、先ほどお話をしたような、自由な立場で憲法解釈をすることができないような事態に陥っているのではないかということがしばしば指摘をされております。ですから、私は、そういう点でも、下級裁判所の裁判官の任命あるいは人事のあり方等について、一定の制度改革を行い、それによって下級裁判所の裁判官もしっかりと独立して司法審査権を行使することができるように促進すべきではないのかと考えております。
山口(富)小委員 時間が参りましたので終わりますが、最後におっしゃいました司法制度の改革で、官僚的な裁判官への行政指導、そういう問題についても改革が必要だという点は全く同感です。
 ありがとうございました。
高市小委員長 金子哲夫君。
金子(哲)小委員 社会民主党・市民連合の金子でございます。
 幾つか、お話の中でお伺いをしたい点がございますので、質問させていただきたいと思います。
 参考人は、憲法は市民の政治参加のプロセスを保障するものという考え方に立たれて、裁判所の役割というものも、司法審査というのは市民の政治参加のプロセスに不可欠なものを中心に行うべきだということで、逆に言いますと、基本的人権をめぐる憲法訴訟にあっても、問題とされるような基本的人権が市民の政治参加のプロセスに不可欠な権利である場合には積極的にやるべきで、そうでないような場合には、国会の判断を尊重して緩やかな審査をすることが妥当だというようなお考えのようにお伺いいたしました。
 そうしてみますと、基本的人権の中に市民の政治参加のプロセスに不可欠な人権、例えば今表現の自由というようなこともおっしゃいまして、そういうのはそういうことになるのかな。そうでないもの、例えば経済的な自由とかいうことを指されているのかなというふうに思うんですけれども、その他にさまざまな基本的人権が保障されているわけですけれども、一体それは何が政治的な参加のプロセスというふうに考え、そしてそれは政治にゆだねればいい、憲法上に規定されている問題に対しても、というふうな判断になりますと、具体的にもうちょっと詳しく、先生のお考えの中で、例えばの事例で結構ですけれども、こういうものとかというふうなことがありましたら、お教えいただきたいと思います。
松井参考人 もともと基本的人権の発達の過程の中で、本来、基本的人権の出発点となりましたのはイギリスのマグナカルタでございますが、イギリスでずっと認められてまいりましたのは、主として、裁判手続によらないで財産や生命等を剥奪されないというような手続的な権利ですとか、同意がなければ課税をされないというふうな、そういう権利でございます。ですから、私は、本来の国民の権利というのは、そのような意味で、手続的な性格を持っている権利だったのではないかととらえているわけです。
 日本国憲法は、そのような諸外国、特に欧米等で発達してきた権利保障の考え方を引き継いで、第三章の中で国民の権利を保障しているわけですが、私は、そこで保障されている権利のほとんどについて言えば、そのような意味で手続的な権利だと考えることができるのではないかと思っているわけです。特に典型的な権利として、十五条の選挙権、それから二十一条の表現の自由を挙げさせていただきましたが、私は、十五条を含め、ずっと挙がっているもののほとんどは、そういう意味で政治参加に不可欠な権利と考えることができると考えております。
 ただ、二十九条が財産権を保障し、また二十二条が職業選択の自由を保障しておりますが、これらは一般的に、経済的な自由を保障したものだと理解されております。
 これらの経済的自由や財産権の問題につきましては、私は先ほどお話をしたような観点から申しますと、代表者を信頼できないと考えるような特別な理由はないのではないかと考えておりまして、代表者の判断に原則としてゆだねておき、そして、もし何かその代表者の判断に不都合があった場合には、国民が次の選挙でその判断を覆す機会があるわけですので、そのような機会が確保されているということを条件にしてでございますけれども、これらの問題については、裁判所は国会の判断を尊重し、国会に原則としてゆだねておくのが望ましいのではないかと考えている次第です。
金子(哲)小委員 ありがとうございました。
 一つ具体的なことでお伺いしたいんですけれども、民法の相続にかかわって、婚外子の差別規定があるわけです。これについて、最高裁は今のところ合憲というような判断を出しておりますけれども、この点について参考人の御意見をお伺いしたいことと、もし、仮にそのかかわりの中において、今お話が出てきました、例えば違憲だというふうに考えられるとしたら、この市民の政治参加のプロセスに不可欠の関係からいいますと、どういうふうに考えたらいいのかということをお伺いしたいと思います。
松井参考人 憲法の仕組みの中では、私は、個々の市民が政治参加の権利を持っていると同時に、憲法第十四条に示されますように、すべての市民が平等に扱われるということが不可欠ではないかと考えております。
 その観点から申しますと、日本国憲法の第十四条が特に人種、信条、性別、社会的身分または門地による差別を禁止しておりますけれども、これらは、過去の経験のもとにおきまして、不合理な差別が行われてきた典型例だと考えられて、明示的に禁止をされたのではないかと考えております。
 したがいまして、私は、そこに挙がっているような理由に基づきまして国民相互間で差別を行う場合には、極めて例外的な場合を除いて、許されないと考えるべきではないかと思っております。
 いわゆる婚外子ないし非嫡出子と呼ばれる方がこの列挙されている事由に当たるかどうかということでございますが、最高裁判所はそのようには判断しておりませんが、私は社会的身分の中に当たるのではないかと考えておりますので、婚外子ないし非嫡出子の方に対する異なった取り扱いは、極めて例外的な場合を除いて、許されるべきではないと考えておりますので、私自身の理解では、相続上の差別は憲法第十四条に反し、憲法違反なのではないかと考えております。
金子(哲)小委員 それでは、国際条約との関係でお伺いしたいんです。
 特に、一九七九年に日本が批准した国際人権規約のB規約、いわゆる社会権規約を援用して憲法訴訟を起こした場合、日本の裁判所は、条約の解釈とか適用について極めて消極的な状況にあると思うんです。最高裁に至っては、実際には民事訴訟法の三百十二条によって、上告の理由に当たらないということで棄却をするというような決定を下していると思いますけれども、このような国際条約との関係の中における裁判の現状について、参考人はどのようにお考えでしょうか。
松井参考人 もちろん、日本国憲法のもとで条約は十分尊重されるべきだと思いますし、また、特に国際的な人権保障に関する条約の趣旨は十分尊重されるべきだと考えております。
 したがいまして、日本の国内におきましても、特別な法律上の措置がなくても自動的に執行可能であるような、いわゆる自動執行的な条約につきましては、当然裁判所において適用され、裁判所におきまして、その条約に違反しているかどうかということを争うことができるべきだと考えております。
 ただ、さまざまな国際条約が保障していますいわゆる国際的人権のほとんどのものは、実は日本国憲法が保障している基本的人権とかなりのところオーバーラップしておりまして、訴訟当事者の方が憲法違反と同時に条約違反を主張されましても、実質的には同じ論点になっておりまして、憲法違反を主張すれば当然上告の可能性はありますので、条約違反だけでは上告できないということがそんなに致命的な問題かどうかといいますと、必ずしもそうは言えないかなというふうに思います。
 他方で、最高裁判所が事件を取り上げるかどうかということにつきましては、私は、ある程度最高裁判所が引き受ける事件数というものを制限し、それによって個々の事件を十分審査、検討する時間的な余裕を確保することが望ましいのではないかと考えておりますので、ある程度最高裁判所が上告を受理する裁量をきちんと認めていく方がむしろ制度的には望ましいのではないかなと考えております。
金子(哲)小委員 時間になりましたので、これで終わります。ありがとうございました。
高市小委員長 次に、井上喜一君。
井上(喜)小委員 井上喜一でございます。
 きょう、参考人、お忙しいところ本当に御苦労さまでございます。簡潔に質問をいたしたいと思うのであります。
 法律解釈、これは憲法解釈を含めてでありますけれども、私は、司法が判断する場合、大変重要なものだと思います。今、内閣法制局が、いわゆる有権解釈と称しまして、憲法を初めいろいろな法律につきまして公定の解釈をいたしております。特に解釈が必要でないような法律もありますが、私は、要するに立法と司法は別なんだという考え方をすれば、それは司法が独自に判断していいんだ、そういうことも言えるかと思うんでありますけれども、現実には、法律解釈、大変大事だと思うんですね。そういう点からいいますと、立法府が憲法を含めて法律の解釈のガイドラインをきちっと出していく、こういうことについてどういうお考えをお持ちですか。
松井参考人 法の解釈というのは司法の権限でございますので、それは憲法上裁判所に与えられた権限だと考えます。
 したがいまして、その法解釈をどうあるべきだということを国会が裁判所に対して命じるということは、やはり許されないのではないかと思います。
井上(喜)小委員 ただ、立法の趣旨はこうなんだ、こういう条文はこういうことで規定されたんだということは、立法府として当然言うべきじゃないかと思うんですが、いかがですか。
松井参考人 立法目的あるいは立法の趣旨等を法律を制定する際に明記すること、あるいは、その法律の解釈に当たって考えなければいけないことを法律の中に規定すること、これは当然許されることでございます。また、国会が法律を制定するに当たりましては、立法目的をしっかりと明記するということは非常に意味のあることでございまして、そのようなことが行われれば、当然、裁判所はその立法に明記をされている目的に照らして法律を解釈することができますので、それは非常に参考になると思います。
 しばしば、立法ができる過程でいろいろな妥協がなされた結果、立法目的が非常に複雑になっているような事例では、裁判所はその法律の趣旨を解釈する際に非常に困難を覚えますので、そういうふうな形で明記をされているというのはやはり望ましいと言えると思います。
井上(喜)小委員 解釈で百八十度違うような結果になる場合もあるわけです。現に、憲法九条、自衛権で、特に集団的自衛権の解釈につきまして大きく割れているわけですね。自衛権もある、集団的自衛権もあるんだけれども、その行使はできないんだというのが今の内閣法制局の解釈なんです。ところが、いやいや、それは解釈を変更すれば集団的自衛権だって行使ができるんだ、そういう政党もあるわけであります。これなんかは、解釈の問題とはいえ、日本の政治にあるいは国際社会とのかかわりに非常に大きな影響を与えるものだと思うんですよ。単に解釈の問題としてあるいはそれを司法に判断してもらうというようなことが適切なのかどうなのか。
 統治行為論なんかあります。ありますけれども、憲法九条の解釈というのは若干違うんじゃないかとも思うんです。ですから、私は、統治行為に関連する分野は司法の判断の外だということ、大体それは定説的になってきていると思いますけれども、それ以外にも、司法が判断をする、それが日本の命運を決するような分野については判断を控えるべきじゃないかという感じがするんですね。
 ですから、統治行為以外に何かそういう分野があるんじゃないかと思うんですが、これについての参考人の御意見をお伺いしたいのです。
松井参考人 憲法の解釈におきまして、先ほどお話をさせていただきましたように、私は、裁判所の固有の分野といいますか責任のある領域と、それから国会の判断を尊重すべき分野と二つあるのではないかというふうに考えておりますけれども、統治行為論と呼ばれますように、高度に政治的であるというだけの理由で裁判所の司法審査が及ばないという領域は認められないのではないかというのが私の考え方でございまして、憲法が統治のプロセスの基本を定めております以上、その統治のプロセスの手続について言えば、裁判所に固有の権限があると考えてもいいのではないかと思っております。
 ただ、先ほどもちょっと出た点ですが、憲法の中には、経済的自由の問題も含め、必ずしも守らなければいけない手続的な約束事とは言えないようなものも含まれております。九条の問題は非常に微妙な点でございますが、そういう問題につきましては、裁判所が独自に司法審査権を行使して憲法解釈を行うよりは、国会あるいは国会と内閣を含め、政治の場における解釈あるいは判断に基本的にはゆだねておくというのが望ましいのではないかというふうに考えていますので、高度に政治的かどうかという観点よりは、裁判所の固有の領域かどうかという観点で区別をした方がいいのではないかというのが私の考え方でございます。
井上(喜)小委員 まさにそれでありまして、その固有の分野がどういう範囲まで入るのか、その辺のところをもう少し具体的にお話しいただけたらと思うのです。
松井参考人 私の理解では、憲法の定めている基本的人権のほとんどのものは手続的な約束事だと考えておりますが、先ほど触れさせていただきましたように、選挙権ですとか思想、良心の自由、表現の自由等の国民が市民として政治参加をするために不可欠な手続、そして、そのようにして国民が政治参加をし、その上で国会が法律を制定し、その法律が具体的に適用される際に問題になるさまざまな手続的な権利、これは刑事裁判ですとか行政手続上の権利も含まれると思いますが、これらの問題については裁判所の固有の権限だと考えてもいいのではないかと考えています。
井上(喜)小委員 それから、憲法と条約の関係です。
 日本国憲法は、九十八条、九十九条、あるいはその他の条文も関連したものはありますけれども、今のこの運用は、国内法では憲法を頂点にした法律体系を前提にしていると思うのですね。仮に、その国内法が、日本が批准をしております条約と矛盾することがありましても、国内法というものを前提にして今制度が組み立てられている、こういうことだと思うのであります。この点について、そうでない、いやいや国際法が優位で、国際法と矛盾するといいますか、背馳する国内法は無効なんだというような説もあろうと思うのでありますが、参考人自身、この解釈についてはどんなお考えなんですか。
松井参考人 国際法と国内法の関係につきましては、御指摘のように、いろいろな考え方がございまして、憲法を頂点といたします国内法よりも国際法の方が優位するという考え方が確かにございます。ただし、現在の日本の憲法学説の支配的な考え方は、国内法の仕組みといたしましては憲法が最終的に優位するという考え方に立っておりますので、国際法であります条約が国内法的に適用される限りにおきましては、憲法が条約に優位するというのが支配的な考え方でございます。
 その点に関しましては、私もその支配的な考え方と同様、国内法秩序におきましては憲法が最高法規でありまして、条約が国内法に適用される限りにおきましては、条約は憲法に違反することはできないと考えております。
井上(喜)小委員 ありがとうございました。
 以上です。
高市小委員長 次に、額賀福志郎君。
額賀小委員 松井先生、もう二時間近くなるわけでありますが、どうも御苦労さまであります。どうぞリラックスしてください。
 多くの委員の皆さん方からお話があったわけでありまして、私は視点を変えまして、先生のコメントをいただいた中にこういう文章があります。「日本国憲法が前提としている個人は、好きなことをさせてくれ=ほっておいてくれと主張するだけの個人ではなく、他の人と共に政治共同体を組織し互いに他を尊重しながら一緒にやっていくことを求める「市民」としての個人。」そういうものが憲法の前提になっているというお話でございます。
 そうすると、現在の国民の皆さん方の意識とか認識というものが、民主主義の原理原則の一つである個人主義について、先生が前提としておっしゃったようなことが共通の認識として持っておられるかどうかについて、まず聞かなければなりません。私は、そうはなっていないというのが現状だと思います。
 そうすると、憲法の前提が崩れていくことになるわけであります。そういたしましたならば、では、そういう今の私の認識のように、現状は先生がおっしゃったようなことにはなっていないとするならば、それはどういうわけで先生が理想とするような形になっていないのか、その原因を探らなければならないと思います。
 私は、やはり戦後の教育とかあるいは憲法の導入の仕方とか、あるいは憲法が国民になじんでいない背景、こういうものをきちっと整理していかなければ、国民の間に、おっしゃるような個人主義というようなもの、あるいは憲法というものが定着していかないのではないかという思いがするわけでありますが、まずこの認識について、お聞かせいただきたい。
松井参考人 御指摘のように、現在国民の多くの方が私が考えるような考え方を共有しているかとおっしゃられますと、私も、確かに必ずしもすべての方によって共有されているわけではないということを認めざるを得ないと思います。
 また、実際、先ほども申し上げましたように、日本の憲法学においてすら、個人というのは裸の人間であって、それは干渉されることなく、みずからの命の生き方をみずから決定していく、それが個人だという考え方が支配的でございまして、私のように、個人というのは本来政治参加をする政治的な存在なんだという考え方は極めて少数の立場でございます。ですから、前提条件が満たされていないのではないかというのは御指摘のとおりだと思います。
 ですから、私は、むしろ本来の日本国憲法の趣旨は私の考えるような意味での個人主義だったのではないか。それが、残念ながら、日本国憲法制定後の歴史の中で十分理解されることなく、現在のような支配的な考え方になってしまったのではないか。そうだとすれば、むしろもう一度原点に立ち戻って、日本国憲法の本来の趣旨というもの、私の考えるところの趣旨というものを見直し、そこに復帰をする、そしてその上で、新しい世紀にふさわしいような日本国憲法の理解をつくっていくということが望ましいのではないかと考えている次第です。
 なぜ私の考えるような考え方が共有されないような状況になったのか、理由については私なりにいろいろと考えることがございますが、やはり戦後の歴史の中で、政治というものが身近なものではなく、どちらかというと一般の方からいうと遠い存在であったということと、本当は一般の方々にとって日常の生活というのは極めて政治的だと思うんですが、何か政治的だということが望ましくない事柄であるかのように思われてきてしまったということ、それが非常に問題だったのではないか。
 それから、教育制度のことも御指摘ございましたが、私は、子供のうちから政治参加をするということがもっと強調されておれば、教育の場におきましても、政治参加ということがもっと積極的に評価されたのではないかというふうに思っております。
 一例を申し上げますと、日本では未成年者が選挙運動等を行うことができないことになっておりますが、アメリカ等におきましては、選挙におきまして子供もいろいろな形で政治参加をしております。もちろん、未成年者はまだ判断能力が十分ではありませんので、完全な市民として参加をすることはできないわけでございますけれども、子供のうちから積極的に市民参加をするということが促進され、そしてそれがもっと身近な問題として意識されるようになれば、多くの方が積極的に市民参加をしていただけるのではないか。
 そして実際、現状におきましても、さまざまな形で、市民運動ですとか、身近なところから政治参加をしていただける方々はどんどんふえてきておりますので、私は、必ずしも政治参加する市民を前提とした私のような考え方が全く異質な考え方だとは思っておりませんで、この考え方が多くの方によって共感していただければ、もっとこういう考え方が広く受け入れていただけるのではないかと考えております。
額賀小委員 私も、松井先生と共有する部分があるのであります。やはり、これから多くの住民の皆さん方が、行政が簡素化されていく、あるいはまた政治が小さくなっていく中で、NPOとかNGOとか、市民の参加、住民、国民の参加というものは不可欠でありましょう。そういう中で新しい民主主義のシステムがつくられていくんだと思います。
 もう一つは、先生もおっしゃったように、政治が身近でないという原因の一つは、憲法にはいろいろと、人権主義だとか、国際主義だとか、あるいはまた平和主義だとかがありますが、一つ一つ概念が我々の体の中にそしゃくされていないものだと思います。それはやはり原点に返って、長い歴史の慣例だとか、伝統だとか、そういう中からもう一つ再構築していく必要があるんではないかなという思いをいたしております。
 もう一つ先生にお聞きしたいのは、日本の裁判は、事件とか訴訟がなければ司法審査権というか、そういう司法の活性化が生まれてこなかった一つの要因であると。アメリカみたいに、司法が、事件とか訴訟がなくてもいろいろ関与できることはできるんだから、やったらどうだという話をなされましたね、どんどん司法を活性化していくためには関与していっていいのではないかと。そうすると、いわゆる司法が立法府のように政治化していくおそれというのはどうなんでしょうか。
松井参考人 先ほど申し上げましたように、日本の裁判所の制度というのはアメリカ型だと一般に考えられておりますので、アメリカも日本も、事件、争訟がないと司法権を行使することができません。したがいまして、裁判所は司法審査権を行使することができないという仕組みになっております。
 この建前はアメリカと日本は変わらないんですが、アメリカでは、それにもかかわらず、法律が制定をされた場合には、その法律の違憲の確認と執行の差しとめを求める訴訟を通常提起することができて、司法審査を行使することができるんですが、日本ではなぜかそれができないと考えられている。
 私は、その日本の考え方が日本国憲法の解釈としては誤っているのではないか、だから、アメリカでできるのであれば、アメリカのように考えることも可能だということを申し上げさせていただきました。その結果といたしまして、裁判所が法律等の憲法適合性について審査をする範囲といいますか機会は、私のような考え方をとりますとかなり拡大するだろうというふうに思います。
 ただし、先ほど来申し上げましたように、私は、裁判所のすべき事柄というのは、すべての社会正義の実現でもないし、社会に存在するすべての害悪を除くことでもないし、国会の判断が常に正しいかどうかということを監視することでもなく、もっと限定的だと考えておりますので、御指摘のように、裁判所が何か国会にかわるようなオールマイティーな存在になるということはないというふうに考えております。
額賀小委員 時間が来ましたので、ありがとうございました。
高市小委員長 次に、伴野豊君。
伴野小委員 民主党の伴野豊でございます。
 松井先生におかれましては、お忙しい中をお越しいただきまして、ありがとうございます。
 お聞きするところによりますと、愛知県御出身ということで、私も同郷でございまして、先生のような優秀な方を輩出しているということで心強く思っている次第でございます。
 私なりには、きょうのお話を、知的好奇心を刺激していただく非常に有意義なお話ということで承らせていただいたんですが、時間の許す限り、幾つか質問させていただきたいと思うわけでございます。
 まず、素朴な疑問として、言葉じりをとらえるつもりはないんですが、先生のこのレジュメの中にも出てまいります「学説の多くは」というこの表現の仕方なんですが、自然科学におきまして、その手の学説の確からしさというのは、再現性という、例えばどの実験室でやっても同じ前提条件であれば、Aという物質とBという物質を合わせればCというものが出てくる。例えばプログラムであれば、一つのモデル式の中に同じ前提条件のデータをぶっ込めば同じ結果が出てくる。いわゆる再現性をもってその確からしさというのを表現するんですが、この先生のいわゆる憲法学界ということにおいては、これは私のうがった見方をすると、それは権威というもので代表されてしまっているのではないかという嫌いがあるんですが、先生のこの「学説の多くは」という表現の意味と、憲法学界においての学説の確からしさというのは何をもって表現するのか、教えていただければ。
 二つ目でございますが、先生の、裁判所は役割を果たすべきみずからの立場を明確にしてこなかったというところとか、あるいは、学説も最高裁判所の立場を批判しながら云々というくだりがあるわけでございますが、国会も政治家も、私ははっきり申し上げて、この点のお話についてサボってきたと思っているんですが、今後はどうあるべきかということを教えていただければ。私は、やはり最高裁判所はみずからの立場を明確にすべきだと思いますし、学説も、それをきちっと、批判を覚悟で明確にすべきではないか、そんなふうに思います。先生の御意見をいただければ。
 それから三点目でございますが、先ほど伊藤先生の質問のお答えの中で触れていらっしゃいましたが、最高裁判事すら憲法に触れたくない潜在意識があるというようなお話があったと思うんですが、私は、これはやはり、どういうことを唱えようと、解釈によって随分言葉じりをとらえられる可能性がある憲法であると。
 もっと言うならば、中学生が読んでわかるように書きかえるべきだという持論を私持っているんです。先生の著書の中に「日本国憲法を読み直す」というのもあったわけでございますが、読み直した上で、だれが読んでもそのように解釈できる、一つの基準として、中学生の方が読んでわかるようなものにすべきではないか。そういうことをしてこなかったから、最高裁判事すら憲法に触れたくない、抽象論になっているんではないかなというような感じがいたしているので、そのあたりのところ、いかがでしょうか。
 それから、先ほど額賀先生の質問の中にも出ておりましたが、やはり私は、教育と憲法あるいは法律というのは不可分のものだと思っております。それで、私のみずからの経験からしましても、最低限義務教育の中で憲法なり法律なり、こういう憲法があります、こういう法律があります、いついつできましたぐらいのことは社会科の中でやるわけですが、その中身に対して伺ったというのは、私の経験上もほとんど皆無でした。
 ですから、先ほど先生の持論の中の政治に参加する市民という感覚からすれば、選挙権を持つまでに、義務教育の中で、我が国の憲法なり法律なりはこういうものだ、あるいはまた国際法とはこういうものだと、派生してくる周辺の歴史とか哲学とあわせもって、できることなら私は義務教育の中でしっかりやるべきではないかという考えを持っております。そういう基本的なことすら教えられない現代の大人は、ゆとり教育とかそういうことを語る以前の問題ではないかというふうに思っているんですが、そのあたり、先生はどうお考えか。
 それから、時間がありませんが、もう一つ質問させていただければと思うんですが、いわゆる統治の手続を定めたプロセス的な文書と見るプロセス的な憲法観ということを前提にした場合、憲法はそれだけを書き込めばいいのでしょうか。そうした場合に、現行の憲法九条のような条項はどうとらえるべきなのでしょうか。
 以上五点、時間の許す限り、お教えいただければ。
松井参考人 学説と申しましても、日本で憲法学者という明確な定義がございませんし、学会に所属をしている方も非常に多く、私が所属をしております日本公法学会の会合におきましても、場合によっては千人近い方が来られますので、アンケートをとって数的に確認をしたわけではございませんので、通常、我々が通説とか支配的な学説というふうに言うときには、やはり有力な指導的立場にある学説のことを指して使っております。これは、憲法の個々の条文等に関します解釈に関する学説でございますので、その解釈につきまして、正当か、客観的に検証することができるようなものはございません。したがいまして、解釈が妥当かどうかというのは、ひとえにその解釈の説得力にかかっております。
 したがいまして、先ほど触れましたように、学説の多くが、あるいは支配的な学説が私とは違った考え方をとっておりますけれども、それは一般にそのように考えられているということでございまして、私としましては、それとは違う考え方を提唱することによって、一人でも多くの方に違った考え方をとっていただきたいというふうに考えているわけでございます。
 それから第二点でございますが、最高裁判所におきましても、なかなか憲法について触れることが難しいといいますか消極的な形での姿勢が多いというのは、やはり何か憲法が特別だというふうな意識が非常に強いのかもしれません。私は、先ほど触れましたように、憲法がそれほど特別なものだとは考えておりませんので、もっと身近なところで憲法を見出していくべきなんではないかというふうに考えています。その点が、多分、先ほどの三番目の点にかかわっていくのではないかと思いますけれども。
 ただ、憲法というのは統治の基本を定めたものでございますので、そうたびたび改正することは望ましいかどうかは、やはり疑問ではないかと思います。そのことを考えますと、憲法の規定というのは、何年、何十年という先を見据えて規定をしなければいけませんので、余りにもきっちりとした規定にするということは困難だと思いますし、またそれが望ましいとは言えないのではないかと思います。
 先ほどお話をしましたように、私自身は、憲法というのは、本来は、目的を定めたものではなくて、手続的な約束事を定めたものだと考えておりますので、そのようなとらえ方をすれば、現在の日本国憲法の規定の程度でも十分一般の市民の方にわかっていただけるのではないかと思いますし、そんなに日本の憲法が難しい条文だとは考えておりません。
 それから、教育の場におきまして憲法をもっとしっかりと教える必要があるのではないかという点でございますが、私も、子供のころからの教育の中で憲法の趣旨をもっとしっかりと教えていただくということは、非常に必要なことだと考えております。
 しかも、ただ単に趣旨を教えるというだけではなく、先ほど触れさせていただきましたように、子供のうちからさまざまな形で政治にかかわる、あるいは社会に参加するということが実践として行われるようになることがむしろ望ましいのではないか。その中で、子供がみずから主体的に政治の事柄、あるいは社会の事柄について考え、そしてその上でみずからの考え方を形成していって、最終的には成人になって選挙権を行使することができる、そういう全体のプロセスの中で教育を考えていく必要性があるのではないかと思いますので、できれば、教育の中で憲法の趣旨が教えられると同時に、そういう実践的なものが幅広く行われるような仕組みになってもらえるとうれしいなというふうに考えております。
 それから最後に、憲法九条の点でございますが、私自身、憲法九条につきましてはずっと考え、その間、どのように考えるべきなのか何度も悩んできたところでございます。したがいまして、九条をどのようにするのかということにつきましての私の考え方をすっぱりと申し上げるということは、非常にまだ難しいということをあらかじめお断りした上ででございますけれども、私は、日本国憲法が九条で平和主義を定めたということの意味は非常に高く評価しております。ただ、平和を実現するためにどのような手段をとったらいいのかということについて、日本国憲法の九条が余りにも一義的に定め過ぎているのではないかという批判は、当然あり得るところだろうと思います。
 先ほど来、憲法の解釈について、いろいろな解釈があるのではないかということが御指摘されましたが、私も、憲法九条につきましては必ずしも一義的な規定ではないと考えておりますので、この憲法九条の平和主義の枠の中でどのような措置が許されるのかということについては、解釈は分かれ得るのではないかと思っております。その際に、裁判所がそのうちの一つの解釈をとって、国会あるいは内閣がとった措置を憲法に照らして判断すべきなのかという点が当然問題となると思います。
 私は、先ほど触れさせていただきましたように、統治行為という考え方は適切ではないと思いますので、裁判所は、憲法九条に関しても、統治行為だとして逃げることなく憲法の解釈を行い、そして国会、内閣のとった措置を憲法に適合しているかどうかということを判断すべきだと思いますが、現時点におきましては、私は、この問題について裁判所が憲法九条に照らして踏み込んだ審査をするというのは非常に困難ではないかと考えておりますし、また、先ほどお話をしたような私の考え方では、この問題は、最終的には国民の政治的な判断というものを尊重した方がいいのではないかと考えております。
 ですから、この九条に関する問題に関して言えば、裁判所が、政治プロセスの判断を尊重し、最終的には国民の政治的な決定にゆだねるのが適切な対応なのではないかと考えております。
伴野小委員 ありがとうございました。
高市小委員長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言ごあいさつを申し上げます。
 松井先生におかれましては、長時間御一緒いただき、貴重な意見をお述べいただき、また大変明快な御答弁もいただき、心から感謝を申し上げております。小委員会を代表いたしまして、御礼といたします。ありがとうございました。(拍手)
    ―――――――――――――
高市小委員長 これより、本日の参考人質疑を踏まえ、政治の基本機構のあり方について、小委員間の自由討議を行いたいと存じます。
 一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、小委員長の指名に基づいて、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いをいたしたいと存じます。
 小委員の発言時間の経過につきまして、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせしたいと存じます。
 御発言を希望される方は、お手元にあるネームプレートをこのようにお立てください。御発言が終わりましたら、またネームプレートを戻してください。
 それでは、ただいまから御発言を願いたいと存じます。
島小委員 きょうは、私どもは憲法裁判所の話をさせていただきました。先ほど仙谷委員にちょっと教えていただいたんですが、例えばドイツの憲法裁判所があって、法律が違憲であるといったときには、法律を執行停止するのか、それから憲法を変えるのか、どちらなんですかというふうにお聞きしましたら、要するに両方ともあると。もちろん、憲法を変える方が難しいんだ。ただ、そういう憲法の改正についてあいまいなまま五十年も置いておかないということだという話をお聞きしました。非常にそれは重要な考え方だと思うんです。
 きょう、司法消極主義の話、これは私の思い込みかもしれませんが、日本の憲法は変えるのに余りに厳しい。九十六条で、御存じのように、非常に厳しい憲法状況になっています。そうなってくると、司法の方も消極主義にならざるを得なかったんじゃないかなと思うときがあるわけです。
 例えば、きょうはドイツやアメリカの例を出されましたが、アメリカやドイツの憲法改正手続には国民投票はありません。国民投票を規定した日本国憲法が制定された当時の日本人口は約七千万人で、今は一億二千万人です。これだけの国民投票というのは、今国民投票法の議論もありますが、物理的にもかなり難しくなってきています。国民投票を規定している先進国で一番大きい国はフランスで、これは五千九百万人ぐらいであります。
 何を申し上げたいかというと、本当にこの憲法を生きたものにする。塩野七生さんがおっしゃったように、ローマ繁栄の原因が、人間を法に合わせたんじゃなくて、法を人間に合わせたことにあるとするならば、司法消極主義になってしまった原因も、ひょっとしたら、物すごいかたい、硬性憲法であったことにも原因があるんじゃないかということも含めると、憲法改正手続を伴う九十六条というものをある意味で検討して、例えばアメリカやドイツのように、国民投票の部分もあってもいいし、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で憲法の改正案が可決されるということにしておけば、そこまで取り上げていけば、ある意味で、司法の問題というのも、消極主義というのも、もう一歩前進するのかなということを私自身思った次第でございます。
 私どもは、憲法裁判所というものをやはり議論していく必要があるという思いを、きょう改めて、先生の御意見はちょっと慎重論でありましたけれども、私は、憲法裁判所というものをきちんと考えて、先ほどうちの伴野議員が、政治家の方も問題を先送りにしたというような御趣旨で言われましたけれども、本当にそうだと思いますので、国会としては、内閣法制局にゆだねるのじゃなくて、きちんとした憲法の判断ができるような形をとっていくべきであるということを、改めてきょう思った次第でございます。
 以上です。
中山(正)小委員 私は、昭和四十四年から国会におらせていただいておりますが、その中でちょっと疑問に思ったことをこの際指摘しておきたいと思うんです。憲法九十八条の二項、「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。」
 日中条約のころのことなんですが、日中条約というのは、御承知のように、一九五二年から日本と中華民国との平和条約がありました。これは、一九七二年、廃棄されるときに、大平外相が記者会見で廃棄したんですね。これは永久条約で、期限がなかった。私はそのときに非常に疑問に思って、一秒間の国会審議にもかけずに永久条約を廃棄するとはどういうことかと疑問に思いました。
 そういう意味で、私は、そのときの外務委員会で、私たった一人でしたが、日中条約に反対をしました。それから、本会議、衆議院で、出席して反対したのはたった三人でした。それから、参議院では源田実、玉置和郎、衆議院では中山正暉、浜田幸一、林大幹、両院を通じこの五人が出席して反対しました。おかしいではないかと言う理由は、新しい条約は、日本が戦争に負けて四年たった昭和二十四年の十月の一日に建国をした中華人民共和国と、戦争を終わらせる、世界に一つしかない平和友好条約、過去と未来を結ぶ条約を結んでいいのかとの趣旨からです。
 総理大臣に、一人十五分、総理官邸の小食堂で、六人でしたが、一人十五分意見を言えというから、私は福田総理にそれを言いました。あなたは、戦争を終わらせる平和条約というのを、戦争が済んで四年もたってできた国と、平和条約という戦争を終わらせる条約を結ぶのはおかしいとは思いませんか、我々は中華民国という蒋介石の政府と戦争をしたはずだと。
 その国とは、御承知のように、ビルマというところでハーレーという公使とスティルウェルという将軍がいて、これが蒋介石に、おまえたちは日本と戦っていないから毛沢東と結ぶと言われたときに、蒋介石は、それでは日本と和睦するぞと言ったんですね。それが原因で、蒋介石はヤルタ秘密協定にも参加していませんし、ポツダム会議にも、連合国の中にありながら全く参加させられなかった。
 そして、結果的には、新中国の外交戦略が成功して、永久条約が記者会見で破棄されたということです。私は、こんなことが二度とあってはいけないんじゃないかと。私は、二つ中国があるではないか、一つだと言うからおかしいではないですかということで随分議論をしましたが、そのころは、まるで大きな力が働き、犬はほえる、されどキャラバンは進むという形で、私どもはキャンキャンワンワンほえましたけれども、キャラバンは進んでいきました。
 その結果が、今の中国との瀋陽事件等で、日本が非常にばかにされる原点だと思います。私は世の中の進歩のぐあいはわかっています。わかっていますが、私は、こういうときにこそ、もう一度、日本国憲法のこういう条項を再認識するべきです。堂々と吉田茂総理大臣が、単独で中華民国との平和条約を結びました。サンフランシスコ平和条約には、御承知のように、英国は中国を出そうとした、アメリカは台湾を出そうとした。その両方がぶつかったために、サンフランシスコ平和条約には両中国は出ていません。
 先般、九月の五日から七日まで、土井たか子先生と私と二人でしたが、韓国で、日本におられる崔相龍大使の御推薦で国際フォーラムに参加し、韓国へ行って議論したときに言いました。八月十五日になぜ総理大臣が靖国神社に参るかという話が向こうから出ましたから、あれは戦争に負けた日ですと。
 日本は戦争に負けたときに、岡村寧次という支那派遣軍の司令官は、日本の参謀本部に対して、おまえたちはアメリカに負けたのならばアメリカにだけ手を上げろ、おれたちは中国では戦争に勝っているから続けてやると言って、結局、暴に報いるに徳をもってするといった蒋介石の言葉で決断し、中華民国何応欽将軍に、降伏文書にサインして提出したのが上海で九月の十二日だと。だから、あなた方に価値のある日は九月の十二日、アメリカの日本に対する戦勝記念日は九月の二日、ソ連の戦勝記念日は九月の三日。八月の十五日は終戦の日であり、それ以上の意味がない。開戦の日、十二月八日に参ったらお怒りになって結構でございますと言いました。反対はありませんでした。
 ですから、その意味で、この憲法解釈という中での条約等の解釈に、そういうときに裁判所がしっかりしていたら、私は、手続も経ず、間違って永久条約を破棄するような結果にはならなかったと思っております。
 以上です。
奥野小委員 先ほど来の議論の中で、憲法九条をめぐってのお話もございました。同時にまた、日本の憲法が大変改正の難しい憲法になっているという話もございました。私はそういうことを聞いておって、難しくしているのは政治家じゃなかったかな、こう思っているわけでございます。当時から、あの憲法にいささかも手を触れさせないというグループがあった。こういういきさつを持った憲法だから、早く日本の憲法を自分たちでつくりたいという空気もあった。昭和三十年ですか、岸内閣のときに憲法調査会をつくっても、反対をされるし、政党に割り当てられた人数の委員を全く出さない政党もあった。
 憲法についても、だんだんと自由に議論ができるようになってきたわけでございますから、せめて憲法調査会ぐらいは、あの当時のことから今日に至るまで、言論の自由を本当に守り通す憲法調査会であり続けたいな。あんなことを言うたからけしからぬということじゃなしに、自由濶達に議論し合いながら、日本の将来にふさわしい憲法をつくっていきたいな。これは私のお願いであります。
 先ほど来、たびたび内閣法制局の話が出ておりました。日本占領軍は、あの憲法ができましたときに、直ちに、内閣法制局の局長といいましたか、佐藤さん以外は全部交代を命じたのであります。法制局の職員、全部かえた。新しい日本国憲法の精神に基づいて、日本の法制を見直させたわけでございました。
 一つの例だけ申し上げますと、日本国憲法で戦争を放棄したんじゃないか、戦争を放棄した日本国でスパイ罪なんて要らないじゃないかということで、ばっさり刑法からスパイ罪を削ったわけであります。今スパイ罪をつくろうとすると、大変な反対される政治勢力もあるわけでありますけれども、そういうふうなことで、いつの間にやら、内閣法制局が字句どおりにあの憲法を解釈するような癖が出てきたと思うのであります。
 また、当時の日本も、軍事力は完全に武装解除されておりましたし、国民総生産も世界の一、二%だったと思います。反対にアメリカは、全世界を相手に戦ってもアメリカが勝ったと思います。同時に、アメリカの国民総生産は、世界の総生産の半分以上を生産しておったと思います。だからアメリカは、日本を占領いたしましても、何ら軍事的に日本の力を必要としなかった。だから全面的に軍事力を持たせない、軍事力につながるようなものも持たせませんでした。例えば、大学の航空学科、全部廃止になりました。そして、ほかの学科に移したわけであります。
 またこういうことを言いますと時間がかかりますからほどほどにしておきますけれども、あの当時と今とは、国際情勢も日本の姿もすっかり変わっているんです。だから、余り日本国憲法の字句にとらわれないで、これからの日本はいかにあるべきかということをあわせて議論した方がいいじゃないかと私は思うんです。
 あわせて議論をしながら、やはり日本もある程度は軍事力を持っていなかったら世界に貢献できない、世界と歩調を合わせて世界のために役に立つことができない。そんなことなら、もう一遍九条を読み直してみたら、国際紛争解決の手段としてはという言葉が入っております。御承知のとおり芦田修正だったと思います。国際紛争解決の手段としては陸海空軍は持てないと書いてあるんだから、相手から攻撃を受けた、その場合にはある程度これに備える力を持たなければならない。というなら、侵略のための軍隊を持てないんだと読むなら、ある程度の軍事力を持つことは許されるじゃないか、こう思うわけでございます。
 こういうように、何か私は、この憲法調査会が、基本の姿勢をまず議論しておいて、我々がいかに日本国憲法制定に対して貢献できるかというぐらいのところから意思統一ができればありがたいな、こう思うんです。
 私も一人の被害者であります。二十二年前でしたでしょうか……
高市小委員長 済みません、御発言は……
奥野小委員 じゃ、もうやめておきましょう。
高市小委員長 申しわけございません。ありがとうございます。
仙谷小委員 最近の事象を見ておりまして、政治の基本機構との関係で感ずるところを少しばかりお話をさせていただきたいと思います。
 経験上、十数年前に、私ども国会議員一年生が例の湾岸戦争のときにバグダッドに行こうと計画をいたしました。パリで、まだ現在外務省の要職にある外交官につかまえられましてというか、呼び出しを受けまして、外交は外務省の我々がやる、国会議員の一年坊主あたりが行くことは国益に反する、だから行くのはやめろ、こういうふうに横柄に物を言った外務官僚がおりました。現在もまだ大きな顔をして外務省で働いております。
 事ほどさように、私はこのときに、日本の官僚システムを構成する官僚、この人たちの意識というのは、外務省は特に、在外公館に菊の御紋章をつけていますから、ほとんど変わっていないんじゃないか。つまり、天皇制官僚として国家高権をまさに実現するエリートとして振る舞っている。そのみずからのポジションの根拠が、国民の意思、あるいは選挙、そういうものに全く関係ないということに気づかないままに、みずからの強大な権限を行使しているということになっておるんではないかというふうにそのときに感じました。
 そして、今や日本が多くのところで大変な制度疲労を起こして窒息状況になっているというのも、そのことと大いに関係があるんではないか。つまり、官僚のある種の天皇制官僚の意識を引きずったままの独特の機構というのが護送船団や規制と保護と無差別に結びついて、みずからの権益を保持するためだけにベクトルが働く。そこに改革を妨げ、国民生活を顧みないことになっても、そのことについては思いをいたさないということになっておるんではないか、そんな気がしてなりません。
 最近感ずるところ、例えば、私はちょっとした病気をしたものですから、医療のシステムについて考えるときに、今の医師ほか医療従事者の研修といいましょうか、あるいは育成といいましょうか、そういうことを少々考えなければいかぬなというふうに思いました。
 昨日、一昨日もそのことで、例えば厚生省に、現在のいわゆる医師国家試験を受かった人の研修のシステムがどうなっているんだ、こういうふうに聞きますと、いや、大学病院については文部省です、こういう話であります。さらに、じゃ、公立病院についてはどうなんだ、ああ、それは自治省ですと。そのほかに、例えば旧労働省管轄の労災病院もあるよね、ここはどうしているんだ、いや、それはわかりません。
 事ほどさように、医師という国民の非常に関心の高い医療にかかわる人々の養成すらも一元的に行われない。それぞれの各省庁の官僚が、その養成システムなり、あるいはそこで行われている医療の実態も顧みることなくある種の既得権化するという、この構造を何とか変えなければならないと思います。
 一つの道は、私は、官僚システムの中にもポリティカルアポインティーを導入するということが必要だと思いますし、これから私どもが憲法、統治機構について考えるときに、あらゆる意味で政治がそこに関与できる、あるいは国民が関与できる。きょう、参考人の松井先生のお話ですばらしいなと思いましたのは、やはり、国民の選挙によって選出された全国民の代表によって構成される国会が決めるという部分が大事なんだというお話であったんではないか、そんなふうに感じたところでございます。
 以上でございます。
山口(富)小委員 日本共産党の山口です。
 先ほど中山委員からお話がありましたけれども、日本の外交や国益が辱めを受けているんじゃないかというお話で、私も、その原因として、憲法が掲げている旗印があるわけですね、国際社会に対して。それと違うことをやっている、乖離しているじゃないかというところがやはり一つの大きな問題だと思うんです。
 この点は、いろいろな問題で立場は違いますけれども、立憲主義を掲げている国なんですから、憲法の定める方向での外交努力が一番基本であるということを感じました。それは、仙谷委員がおっしゃった、外交の中で、戦前来のいろいろな構造的な問題があるじゃないかという指摘とも関連した問題だと思っているんです。
 それと、島委員から憲法裁判所の問題が出されましたので、私どもは、憲法裁判所については、その導入に消極的な立場です。それは、きょう参考人もおっしゃっていたことなんですが、憲法上、司法審査の権限が現実にあって、それを生かすべきだという問題と、今の最高裁の現状からいって、憲法改正を伴うようなそういう機構をつくった場合に機能するのかという実際上の問題があります。
 それと、九十六条なんですが、私は、この問題は、やはり主権者国民の立場から見て、このハードルは高いのかということを真剣に考える必要があると思うんです。
 といいますのも、私たちは選挙によって洗礼を受けて、代表民主政として国会に出てきているわけですけれども、国民主権者にとって憲法をどうするかという判断をしたときに、あれだけの国民の意思表示を求めたというのは、私はきちんと踏まえて今後当たるべきだというふうに考えておりますので、高いか低いかという議論は、九十六条についていいますと、なじまないのではないかというふうに考えています。
 以上です。
金子(哲)小委員 社会民主党・市民連合の金子です。
 私は、きょうのお話を聞いて、今の討論もお聞きをしながら、憲法の解釈をめぐってさまざまな意見があり、また、この調査会でもいろいろ意見が出てまいりますけれども、この中で、もう一つの側面として、そういう議論を起こさざるを得なかった、また政治的な法律の問題、そこまで進んだ中に、やはり最高裁判所の違憲審査権が正当に行使されてこなかった。すべて政治の判断にだけゆだねてきた、何のために憲法上保障されていた問題が行使をされなかったかということも大きな側面の一つではないかというふうに思います。そのことの判断をしなかったがために、ある意味では、現実の政治の状況と憲法との間の乖離をさらに拡大していった側面というのはあるというふうに思うんですね。
 そうしますと、憲法裁判所の問題もありますけれども、そこにもし政治の方が優位に働きながら判断、仮に同じようなシステムで同じような、そこの中に憲法裁判所を行えば、きょうの先生のお話にもありましたけれども、一体、ではどこがどう改善をされて、どのようにそのことが本当に判断ができるのかという問題は、やはり私は残るように思うんですね。
 現在の裁判のシステムの中に、むしろ問題とすれば、きょうも御指摘がありましたけれども、そういう本来憲法で定められた最高裁判所の役割というものをきっちりと果たしてこなかったところにも、現状の政治と憲法との乖離を生み出してきたことがやはりあるんではないかということを私自身は今強く感じております。
 そういう意味では、やはりそういう意味の側面で、私ども憲法調査会の中で改めて、この五十有余年の憲法のありようと国民生活についてきっちりと、過程というものをしっかりと論議するということもこの憲法調査会の役割ではないかということを申し上げて、私の意見とします。
藤島小委員 自由党の藤島正之でございます。
 隣にいてあれなんですけれども、山口委員の方から発言が二点ありましたので、それについて私の方から意見を述べさせていただきたいと思います。
 まず、憲法裁判所でございますけれども、きょうの松井先生は反対のようですけれども、私どもは賛成でございます。ぜひつくるべきだというふうに思っております。
 それと、九十六条の改正規定ですが、やはり私は、ハードルがちょっと高過ぎるという点が一つと、これに関する法律ができていないので、速やかに法律を制定すべきである、この二点を申し上げておきたいと思います。
高市小委員長 それでは、討議も尽きましたようですので、これで終了いたします。
 本日は、これにて散会いたします。
    午前十一時三十七分散会


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