衆議院

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第4号 平成15年5月8日(木曜日)

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平成十五年五月八日(木曜日)
    午後二時一分開議
 出席小委員
   小委員長 保岡 興治君
      奥野 誠亮君    中曽根康弘君
      葉梨 信行君    平井 卓也君
      平林 鴻三君    森岡 正宏君
      島   聡君    鈴木 康友君
      仙谷 由人君    中野 寛成君
      伴野  豊君    遠藤 和良君
      藤島 正之君    山口 富男君
      北川れん子君    井上 喜一君
    …………………………………
   憲法調査会会長      中山 太郎君
   憲法調査会会長代理    仙谷 由人君
   参考人
   (東京大学名誉教授)   坂野 潤治君
   衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君
    ―――――――――――――
五月八日
 小委員北川れん子君及び井上喜一君四月十七日委員辞任につき、その補欠として北川れん子君及び井上喜一君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
 小委員大畠章宏君同日委員辞任につき、その補欠として鈴木康友君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
 小委員近藤基彦君及び島聡君同日小委員辞任につき、その補欠として平林鴻三君及び仙谷由人君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
 小委員鈴木康友君同日委員辞任につき、その補欠として大畠章宏君が会長の指名で小委員に選任された。
同日
 小委員平林鴻三君及び仙谷由人君同日小委員辞任につき、その補欠として近藤基彦君及び島聡君が会長の指名で小委員に選任された。
    ―――――――――――――
本日の会議に付した案件
 最高法規としての憲法のあり方に関する件(明治憲法と日本国憲法)


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     ――――◇―――――
保岡小委員長 これより会議を開きます。
 最高法規としての憲法のあり方に関する件、特に明治憲法と日本国憲法について調査を進めます。
 本日は、参考人として東京大学名誉教授坂野潤治君に御出席をいただいております。
 この際、参考人に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にしたいと存じます。
 本日の議事の順序について申し上げます。
 まず、坂野参考人から明治憲法と日本国憲法について、特に明治憲法の制定過程を中心に御意見を四十分以内でお述べいただき、その後、小委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。
 なお、発言する際はその都度小委員長の許可を得ることになっております。また、参考人は小委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。
 御発言は着席のままでお願いいたします。
 それでは、坂野参考人、お願いいたします。
坂野参考人 時間が四十分ですので、早速話させていただきます。
 一番目に「普通の憲法成立史」と書いて、aとbと書いてありますものは、実は、事務局がおつくりになった明治憲法と日本国憲法に関する基礎的資料の二十七が基本的にこれでできておりますので、細かい中身には入らないで、問題点だけを指摘して、私がなぜ、二以下、こういう構成で物を言うかの説明だけをさせていただきたいと思います。
 aの方は「民権派の憲法史」でして、明治七年一月七日に板垣退助たちが民撰議院設立建白をやってから民権派の運動が続いていって、四番目に書きましたように、一八八一年、明治十四年に民権派のすごいたくさんの、すばらしい憲法構想が出た。いかに民主的で、いかに立派な憲法が民間から出たかというものです。
 bの方は、その運動がほぼ最初の一年だけかみ合うんですが、明治十四年、一八八一年七月に井上毅の憲法意見、太政官大書記官、法制局長官に当たるかと思いますが、それが出て以来の、今度は明治政府側がいかに苦労して憲法をつくっていったのか。特に二以下の、伊藤博文らの憲法調査のための一年半にわたる調査とか、それから、帰ってきてから伊藤のもとで、金子堅太郎、伊東巳代治も含めた、それからドイツからはレースラーを連れてきてやった原案づくりの過程、それから枢密院での審議活動。要するに、明治憲法をつくった側がどういう憲法を考えて、どれぐらい苦労したかの話が書いてあります。
 aの方は、運動の側がどんな立派な構想を考えていたかという話になっていまして、「問題点」で指摘しましたように、反体制派の憲法史が明治憲法にどういう影響を与えるのか、あるいは、体制派の憲法が憲法制定過程で反体制派の憲法草案にどういう影響を与えたとか、そういう話は全く出てこないんであります。それと同時に、今度はbの「明治憲法成立史」、稲田正次先生の立派な本があるんですが、それを幾ら読んでも、実際に、一八八九年、明治二十二年以降展開していった憲法と制定過程とはどういう関係にあるのかが全く関心の外にある。
 そういうことを考えますと、この二点の問題を考えまして、まず第二としまして、明治憲法の実際運用上の問題点を指摘しておいて、それが制定過程からどういうつながりがあるのかをお話しした方がわかりいいんではないかというのがきょうの報告の趣旨でございます。
 最初に、明治憲法そのものについて、やや面倒くさい話です。
 御存じのように、明治憲法の第一条は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあって、第四条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」とある。
 二つ問題がありまして、一つは、これは同義反復というか重複しているんじゃないか。万世一系の天皇がこれを統治する、その天皇が国の元首で統治権を総攬するなんて当たり前で、なぜ二つあるのかというのがまず一つの問題。
 次は、第四条で、前半と後半で随分違うじゃないか。「国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」する天皇が「此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」。憲法で縛られているのか。それでは、「万世一系ノ天皇」は一体どうなるのかという話があります。
 制定者たちは当然このことに気がついておりまして、伊藤博文と井上毅の合作によります明治二十二年の「憲法義解」、「大日本帝国憲法義解」ではこういうふうに説明しています。第四条の前半の「統治権ヲ総攬」するというのは主権の体であって、後半の「此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」というのは主権の用だと。体だけあって用がなければ専制になってしまう。用だけあって体がなければこれは散漫になる。言いたい放題になってオーダーがとれない、だからそのバランスをとるんだというのがつくった人間の側の解釈です。
 明治の末年になりますと、東京帝大法学部の美濃部達吉さんの「憲法講話」というのが出まして、これが、後半だけにアクセントを置いて憲法を解釈改憲いたします。読んでみますと、「憲法実施の後は統治権の行使は憲法に依つて一定の制限を設けられて居つて、」、後ろだけですね、「此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」、「憲法の条規に従つてのみ統治権を行はせらるるのであります。是が立憲政治の専制政治と異つて居る所以でありまして、天皇の統治権に斯の如き制限が有るが為めに、我国は立憲政体の国たるのであります」。これは、さっきの伊藤博文の警戒したこと、「用ありて体無ければ之を散漫に失ふ」方の解釈になるわけです。
 それに対して、前半の方に重点を置いたのが、同じ東京帝大法学部の穂積八束の「憲法提要」。美濃部の二年前に出ています。全文は引用いたしませんけれども、中身だけ言いますと、統治主体の天皇が憲法上の統治機関に従って運営するというだけであって、前段の「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」するというその主体と、その下にある機関、議会あるいは憲法なり、そういうものは本末、主従の分界があるんだと。天皇が総攬するのが本で、この憲法の条規によるという方が末なんだという解釈をする。同じときにこの二つの解釈が行われているわけです。
 なぜこういう正反対の解釈が出てくるのかが、三で述べる憲法制定史のプロセスであります。
 次は、「立法権」です。
 これは、衆議院でのお話ですから一応述べておきますと、割と簡単で、明治憲法のもとで、議会には立法権は完全にあります。第五条で、天皇の側から規定しますと「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」と書いてある。第三十七条で、議会の方からいいますと「凡テ法律ハ帝国議会ノ協賛ヲ経ルヲ要ス」と書いてある。合わせると、議会の同意なくして天皇は法律をつくることができない。これは明治憲法のもとでそうなっております。学者によりましては、この「協賛」というので議会の権限は認めていないという方もありますが、これは、英文版の「憲法義解」を読みますと、コンセントになっております。だから、はっきり同意なんです。
 その結果どうなるかと申しますと、伊藤博文の解釈がもう一つありまして、確かに立法権は議会に全面的にあるんだけれども、一院の可とするところにして他の一院が否とするところは、これを法律とすることはできない。そうすると、例えば衆議院がオーケーしても貴族院がノーと言えば、これは法律にならない。こうなりますとどうなりますかというと、当時、今の参議院と違いまして貴族院ですから、貴族院は政府案は必ず通る、そのかわり衆議院で通らない。今度は衆議院が減税をやれという法案を出して衆議院を通したら、貴族院がノーと言うから、今度貴族院は通らない。
 要するに、政府も議会も守ろうと思えば、どんな増税案も衆議院は否決できるけれども、減税案は貴族院が否決するから、これは通らない。どこかで妥協せざるを得なくなるというのがくだんの立法権の問題。その問題、貴族院と衆議院の関係を除けば、基本的に立法権は明治憲法で認められておりました。
 次のページに行きまして、最初の第八条、緊急勅令は飛ばします。
 三の天皇の四大大権、行政大権、統帥大権、編制大権、外交大権、これが明治憲法のかなり重要な、基本と言ってもいい。もう余り中身を詳しく言っていると時間がありませんけれども、第十条の問題は、要するに、天皇は藩閥の政治家を総理大臣に任命してもいいし、しなくてもいい、政党員をしてもいい、どちらも合憲だというのが第十条の行政大権でして、ただし、総理大臣が天皇によって任命され、各大臣も天皇によって任命されるという、そこが戦後憲法と別の決定的な違い。
 問題は、御存じ、統帥大権、第十一条。これは「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」というだけしか書いてない。何のことかといいますと、要するに、作戦用兵のことを統帥権という。これに対しては議会はもちろん内閣も介入できないというのが明治憲法十一条の意味でありまして、注目すべきことは、史料五で、あの天皇機関説、大正デモクラシーの憲法学者と言われる美濃部達吉の「憲法講話」におきましても、この統帥大権は認められておるのであります。
 ちょっとだけ大急ぎ読んでみますと、史料五ですね、「軍令権といふのは軍隊の統帥権を謂ふのであつて、是は天皇が大元帥として親しく総括し給ふ所であります。」「是に付ては全く自由で、何等の制限もなく、帝国議会の協賛を要しないばかりではなく、国務大臣の輔弼をも必要としないのであります。」軍令権、すなわち統帥権についての輔弼機関は元帥府や軍事参議院というのがあって、さらには陸軍には参謀本部、海軍には海軍軍令部がある。
 これは内閣の権限外だということを美濃部達吉も明瞭に明示しているわけであります。
 その結果、後でもちょっと時間があれば触れますけれども、一九三一年の九月以降の関東軍の暴走については美濃部憲法学は無力でありまして、一番リベラルな憲法に従っても、関東軍の行動は内閣はチェックできないということになります。
 第十二条の編制大権というのが、これが満州事変の一年前のロンドン海軍軍縮条約のときに、海軍軍令部長加藤寛治との間で物すごい問題になる話でありますけれども、これもちょっと面倒な問題があります。
 まず、要するに国防方針の決定、基本方針ですね、五年計画とか八八艦隊とかそういうものに関しては、軍隊が作戦用兵の指揮をする話とは違いますから、国防計画の基本については、これは内閣に権限があるというのが大体の解釈だったわけであります。これをめぐって昭和五年、一九三〇年に大問題になる理由は、以下ちょっと簡単に述べさせてもらいたい。
 史料六は、伊藤博文、憲法制定者の意見。これもとより責任大臣の輔弼によると書いてありますから、陸海軍大臣の責任であって議会の干渉は要らないのだ、議会は関係しないと書いてあります。
 そのことを持ってきまして、要するに、伊藤博文たちがかなり権威のある憲法解釈を出して、それを修正することによって美濃部憲法学が出てくる。
 史料七が美濃部の立場でありまして、本条の大権は統帥権と異なって、要するに戦争の本陣ですね、本陣の大権に属する、天皇の大権に属するものでなくて、政務上の大権に属するのだから、内閣が責任を持つんだというのが美濃部解釈。そうなりますと、浜口内閣がロンドン海軍軍縮条約に調印したことは、これは美濃部解釈によれば合憲になります。そして、伊藤博文の解釈もそれを支持しているように見える。
 ただ、ちょっと面倒くさくなりますけれども、史料八には、海軍には軍令でできました軍令部条例というのがあって、これによると、十一条だとか十二条だと言わず全部、海軍軍令部長が総理大臣をパスして天皇に直接意見を上奏して認可をもらってから海軍大臣に移すんだと書いてありますから、これはどっちに属するのか。明治憲法が極めて多義的というかあいまい、解釈が分かれる。
 憲法によれば、浜口内閣のロンドン軍縮条約調印は合憲なんですけれども、海軍軍令部条例によれば、やはり国防も用兵もともに天皇の認可を軍令部長あるいは参謀総長が直接得てから、それから陸海軍大臣を通じて内閣に渡すというんですから、これは統帥権の独立の余地がある。
 余りゆっくりしゃべっていると時間がありません。もうわかっている話は簡単にします。
 第十三条は外交大権で、これは議会は関係できないということが明記してあります。
 問題は、第五十五条の国務大臣単独責任制でありまして、憲法には、「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」という「国務」の後の「各」という、これだけしか書いてない。その意味することは、政党内閣のような連帯責任、イギリス的な連帯責任なのか、もう外務のことは外務大臣、大蔵省のことは大蔵大臣だけの個別の単独責任なのかの、もめる大もとの文章は、この「各」だけです。
 史料九―a、bはちょっと細かくなりますから飛ばしますけれども、ここから解釈して出てきたのが、行政学の大権威の辻清明さんの、要するに、日本明治憲法によって国務各大臣が単独責任で、連帯責任がなかったから、あの戦争をも終わらすことができなかったという解釈が出ている。
 ただ、次のページで、大先生の批判は私はもう既に公のところでしておりますから別に構わないのでさせていただきますと、辻先生が引用しなかった部分、単独責任、連帯責任はとらないというのが二ページの終わりから三ページの初めに書いてありますけれども、「此我が憲法の取る所に非ざるなり…。」とあるその「…」に何があるかというと、史料の十が間に一字もなくつながっていく。伊藤博文は、そんなむちゃなことは言っていない。
 「若夫れ国の内外の大事に至ては、政府の全局に関係し、各部の専任する所に非ず。而して謀猷措画必各大臣の協同に依り、互相推委することを得ず。」譲り合うことはできない。「此の時に当て各大臣を挙げて全体責任の位置を取らざるべからざるは固より其の本分なり。」
 要するに、内閣全体が責任があるんだと、国の内外の大事に対しては。さもなきゃ明治国家は運営できませんから、これはある程度当たり前の話なんですが、後に行くに従って、日本は連帯責任がないから内閣の権限が弱くて、陸軍大臣は陸軍大臣、外務大臣は外務大臣でばらばらにやっていたからあの戦争を終結できなかったんだという話が出てくる。
 これは伊藤博文の意図にはかなり反した。それが証拠に、史料の十一に内閣官制第五条というのがありまして、憲法のできた年の十二月二十四日に内閣がつくった。これによれば、大体かなり大きな、さっきから言っています陸軍、海軍の作戦用兵以外の大部分のことは閣議を経なければならない。閣議を経るということは内閣が全体責任をとるということなんでありまして、そこの中の第七条で書いたことから、要するにさっき言いました作戦用兵だけは内閣の閣議を経ませんけれども、他のすべての条件は入るわけであります。
 これに気がつきましたときに私もちょっと、美濃部達吉はこれを根拠に統帥権以外は全部内閣だと言っているんですけれども、最初、ちょっとこれを読んだときには、片っ方は内閣官制でございます、片っ方は憲法です、国の最高法規たる憲法を内閣の官制で解釈していいのかなという気持ちが少しありました。
 しかし、私の最終結論は、要するに、明治で言わせてもらうと二十二年の二月十一日に明治憲法ができて、その年の十二月に内閣官制ができたとすれば、この内閣官制にはそのときの政府、伊藤博文だとか山県有朋たちの、明治政府の公式な憲法解釈がこの内閣官制にあらわれている、同じ政府が違うことをやるわけありませんから。そうすると、五十五条という単独責任制というのはかなり怪しいものですよという話になります。明治政府の伊藤博文たちの中心には、やはり作戦用兵以外は全部内閣がとるんだという感じを持っていた。先ほどからちょくちょく出てきますように、内閣が責任を持つ、ただ議会じゃないよという、そこが明治憲法のほかとの違いであります。
 もう時間も大分なくなってきましたから、史料十二は説明だけにしますけれども、今の内閣官制第五条を中心に、明治末年に美濃部達吉が、すべては内閣が責任を持つ、内閣が全体として、一体として閣議を決定しなきゃいけない、意見が一致するためには何がいいかというと、同一の政党が内閣をとるのが一番いいじゃないか、明治憲法が一番求めているのは政党内閣制であるという、制定者からいえばとんでもない憲法解釈が出てくるのであります。
 あと、肝心の方が時間がなくなってきましたけれども、なぜこんなに違う憲法解釈が出てくるのかというのは、憲法制定過程にあったんだというのが私のポイントです。
 第一の点は、一八八一年七月、明治十四年七月に、岩倉具視が大綱領、小綱領という憲法構想を出します。これは井上毅が実質的に全部やったことは史料的に明らかであります。
 問題は二つありまして、一つは、これを読むと、さっきあれした伊藤博文たち、一年半もヨーロッパに行って何してきたんだろう、遊んできたんじゃないかと思うぐらい、明治憲法の骨格はここでできております。
 まず「一、天皇ハ陸海軍ヲ統率スルノ権ヲ有スル事」、これが憲法十一条でございます。「天皇ハ宣戦講和及外国締約ノ権ヲ有スル事」、これは第十三条でございます。「天皇ハ大臣以下文武重官任免ノ権ヲ有スル事」、これが第十条であります。
 問題は、その次の「大臣ハ天皇ニ対シ重キ責任アル事」というのが、ここが五十五条にどっちへ行くかという分かれ目であります。
 その中に、井上毅はもう一個細かい小綱領をつくっていまして、それによりますと、「大臣」というのはこの場合総理大臣になります。「執政」が一般の大臣になると思います、太政大臣です。「大臣執政」首相及び大臣「ノ責任ハ根本ノ大政ニ係ル者ヲ除ク外、主管ノ事務ニ付各自ノ責ニ帰シ、連帯責任ノ法ニ依ラサル事」よらないという。単独責任制だとさっき、辻先生が言っていたとおりのことが井上毅の原案にはあるのであります。
 そして、では、「根本ノ大政」とは何かというと、括弧のところですね、政体の改革とか領土の分割譲与とか議院を開閉、中止するとか、戦争をするか講和を結ぶか、外国条約。
 井上毅の原案によりますと、物すごい国家緊急非常事態だけ内閣、あとは単独責任。ですから、ここで言いたいのは、井上毅の案によれば、辻先生のような単独責任制が正しかった、原案は。伊藤博文かだれかがそれをもうちょっとリベラルに変えて明治憲法になったんだという話になります。
 あとはちょっと飛ばしまして、四ページに行きますけれども、要するに、岩倉具視と井上毅がつくった綱領の中に、最初に明治憲法について述べました行政大権、統帥大権、外交大権、国務大臣単独責任制、全部出ているんだ。だから明治十四年七月に明治憲法の骨格はできたと言っていいんだ。そこが一つの問題点であります。そして、そのときには、非常にリジッドな、本当に国家非常の戒厳令でもしくとき以外は国務各大臣が単独でやっていいはずになっていた。
 第二番目がきょうのポイントなんですが、こう言うと井上毅がすごい天才的な学者で、明治憲法のすべてが井上毅の頭脳から出てきたように思われます。確かに、それ以後の枢密院の議論とかあるいは伊藤博文たちのヨーロッパの調査なんということは、このことから見ればお飾り、飾りをつけ、箔つけに行ったぐらいしか見えません。ただし、それにもかかわらず、私のちょっと乱暴な言葉を言わせていただくと、井上毅の基本案の前提として、福沢諭吉を中心とする交詢社の私擬憲法があったんだということを言いたい。
 史料十四だけはちょっと読ませていただきますけれども、自分たちがつくった、第一項、第二項において大臣の進退を専ら天子に帰して、連帯責任を免れさせようとしたのはなぜかというと、二行目で、「交詢社ニ於テ起草セル私擬憲法案第九条ニ「内閣宰相ハ協同一致シ内外ノ政務ヲ行ヒ連帯シテ其責ニ任スヘシ」」とある。これが七月ですから、四月につくった福沢系の交詢社がつくった憲法第十二条に、首相は天皇が衆庶の望み、すなわち民意によって親しくこれを選任し、だから多数党の総裁が総理大臣になる。その他の大臣は首相の推薦によって行われるんですから、完全な政党内閣。多数党の総裁が首相になって、その首相が大臣を任命するんですから、完全な政党内閣になる。
 あと、ちょっと十七条は除きますけれども、史料十四の下から三行目、「以上各条ノ主意ハ」意図は「内閣執政」大臣「ヲシテ連帯責任セシメ、」ということで、「而シテ議院ト合ハサルトキハ輙チ其職ヲ辞シ、議員中衆望アルモノ之ニ代ル所謂政党内閣新陳交替」、今の言葉で政権交代、「ノ説ニシテ、正ニ英国ノ模範ニ倣フモノナリ。」と。
 要するに、明治十四年四月に交詢社がかなりはっきりした、この事務局がおつくりになった資料で、明治憲法の関係法規に全部載っております。
 ここで言いたいのは、明文化されたイギリス流の連帯責任・議院内閣制の憲法があって、それを目の前にして、井上毅がこれではまずいというところを直すと、さっき述べた岩倉大綱領になって、それに箔をつけて、いろいろ尾ひれをつけると明治憲法になるんだということであります。
 要するに、大もとが福沢諭吉らの交詢社の憲法にありますから、どんなに明治憲法でリジッドにつくろうと思っても、大もとのリベラルな原案が透けて見えざるを得ない。そこでさっきの美濃部達吉のような見解が出てくる。明治憲法の解釈改憲が可能だった根本というのは、大もとに交詢社案があって、そこのまずいところを手直しして井上毅案が出てきているからであって、言ってしまえば、井上毅と福沢諭吉の合作として明治憲法があるから、冒頭に述べましたように、明治憲法というのは相当リベラルにもなるし、相当に専制的にも、どっちにもなるようになっているのは、この合作だからだということが言いたかったのでございます。
 あと一つだけ尾ひれをつけて、話は結論に持っていきたいと思うのです。
 もう一つ、要するに、交詢社案の手直しが明治憲法だという典型が史料十五。交詢社の第二条は、「天皇ハ聖神ニシテ犯ス可ラサルモノトス政務ノ責ハ宰相」大臣「之ニ当ル」と書いてある。ところが、この後ろを落としてみますと、明治憲法第三条の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」となる。同じ文章だけれども、後を落とすと意味は百八十度違う。
 福沢たちがこれをつくったのは、天皇は神聖だから棚に上げておいて、政務の責は内閣、大臣がそれに当たるというためにつくったんです。後ろを消せば、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」になって、天皇親政になって、正反対のものになるんだということが言いたいわけであります。
 それで、ちょっと時間がないから飛びます。
 史料十八の下に丸がありまして、仮に明治の末年までに井上毅と福沢諭吉が生きていたらどうなったかという設問をしている。井上毅は明治二十八年に亡くなっており、福沢諭吉は明治三十四年に亡くなっている。
 井上毅の方からいえば、さっきも述べましたような美濃部の政党内閣論、もう完全に解釈改憲しちゃった、リベラルになった明治憲法を、井上毅が生きていたら、何でこうなっちゃうの、おれが死に物狂いで直したじゃないの、手直ししてちゃんとした憲法をつくったのに、何でこんなになっちゃうのという話になり、福沢諭吉が生きていたら、まだこんなこと言っているの、おれが明治十四年に全部言ってあるじゃないですかという話になるはずなんであります。
 だから、ここで、井上毅案と福沢諭吉のその論争の結果、それが一たん終わって、次にまた福沢案にまで戻るのに三十三年ぐらいかかっているんだということが一つ言いたいことであります。
 最後にごく簡単に、きょうは民権派のあれはしゃべることができなかったので、大急ぎで。
 五ページの史料二十一で何を言いたかったかといいますと、リベラルな方の福沢とそれから保守的な井上毅の間には一対一の関係があることは、今述べた。それと違う第三の立場というのは植木枝盛や中江兆民など自由党左派の立場であって、これは読みませんけれども、基本的にいえば、政権参画しないということです。内閣は、政府は政府で勝手にやってくれ、我々は議会のマジョリティーをとって、そのかわり妥協はしない。治者気取りと言うのですけれども、為政者を気取ると、国家財政が苦しくなれば消費税も増徴しなきゃならなくなる。だから、為政者にならないで、だめなものはだめという立場をとるべきだというのが自由民権運動の植木枝盛たちの立場なんです。
 これを読みましたときには、やはりこれじゃいつまでたっても事態が解決しないな、植木のはだめなんじゃないかなと思ったのですけれども、最近になってみますと、割と五五年体制というのも懐かしいなという感じもありまして、政府は政府のやりたいとおり、議会はそれに対して徹底的に拒否権を行使するというのは、政治のあり方としては、システムとしては好きじゃないけれども、結果としてはなかなかいいものが出てきたという面もあるんじゃないかな。いずれにしろ、井上毅と福沢だけではアンフェアだから、植木枝盛の立場もここに入れておきました。
 植木の立場からいえば、政党内閣にならない、行政権に責任を持たない、そのかわり、議会は国民、民意を代表して、だめなものは徹底的に拒否するというのが自由党の立場であります。
 今言いましたのは、だめなものはだめの自由党がそのまま続くんじゃないんですけれども、急回転して仲よくなります。そうすると何が起こるかというと、衆議院の多数派の板垣退助は絶対、行政をとろうとはしない。そのかわり、伊藤博文に官僚を抑えてもらって、自分は衆議院をとって、だから、さっきの植木などのは、だめなものはだめで永遠に対立しますけれども、ところが、もう一つ別のあれでは、伊藤博文に行政権を握ってもらって、自分は衆議院をとって、官と民が調和するという機構に行くのです。
 だから、一見、植木枝盛の立場から――御存じ立憲政友会がそうです、伊藤博文を総裁にして自由党が衆議院を握る。これに行くのは正反対、百八十度の転換のように見えますけれども、実は考え方は似ていて、何がないかというと、政権を担当する、多数党が行政権を握るという発想がないのが自由党の考え。このために、結局、議院内閣制的な話が出てくるのが、三十三年おくれの一九一二年段階になって初めて出てくるんだ。そのおくれ、議院内閣制をつくる、憲法解釈で実現するためにこんな三十三年もかけちゃったために、実は一番大事だった、例外条項であった統帥権の独立というものについてリベラル派がこれを手直しする時間が、余裕がなかった。
 最後になりますけれども、史料二十七を読んでいただきますと、昭和二年、一九二七年に美濃部達吉が「逐条憲法精義」を出しているのですが、要するに、ずっと議院内閣制のためにこの人たちは勉強してきたもので、何を言っているかというと、統帥権は独立しているということを書いたのです。そこに何て書いてあるかというと、「天皇の下に兵権の一部を委任せられて居る者は、国務大臣の監督の下に属せずして天皇に直隷する」、統帥権は独立していると。それを具体的に、「参謀総長・海軍軍令部長等の輔弼機関は勿論、師団長、朝鮮軍・台湾軍」、殊に、よりによって「関東軍の各司令官」は皆天皇に直属していて、内閣に直属していないという本を出した、当時の一番リベラルな人が。
 これから四年後に満州事変で関東軍が行動を起こす。そうすると、美濃部さんも言っているじゃないかということで、美濃部憲法学からは関東軍の暴走、現地軍の暴走というのを阻止することができない。
 最後に、このことに気がついていたのは、今はもう読みませんけれども、六ページの史料二十五を後でお読みいただければ、大正十一年、一九二二年二月に、美濃部憲法学のこれだと関東軍的な現地軍の独走は抑えられませんよ、統帥権の独立も抑えなきゃいけないんですよと言ったのは吉野作造さんであって、だから、僕は政治学の方で憲法学じゃないから、よくこれを引用するんですけれども。吉野さんは、憲法学でやっていると美濃部さんみたいに統帥権の独立を認めなきゃならなくなる、政治学でやれば抑えられるんだと。だから、憲法学がだめで、政治学がいいんだと言うときに必ずこれを引用するんです。立場として吉野はそうだったということで、何はともあれ、おわかりいただけたかどうかわかりませんけれども、時間が来たので、終わらせていただきます。(拍手)
保岡小委員長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。
    ―――――――――――――
保岡小委員長 これより参考人に対する質疑を行います。
 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。森岡正宏君。
森岡小委員 私は、自由民主党の森岡正宏と申します。
 きょうは、坂野参考人に大変貴重なお話を伺いました。しかし、私は、明治憲法については余り今まで勉強していなかったものですから、本当に、何といいますか、難しいなというふうにも感じましたし、また、制定過程でいろいろな考え方があったんだなということを改めて知った思いでございます。
 そして、私、戦前、軍部の力が台頭をして、日中戦争、そして第二次世界大戦、そして敗戦に至った経過を思い起こしながら、明治憲法の構造的な仕組みと実際の運用の間に非常な隔たりがあったんじゃないかということを感じるわけでございます。
 明治憲法が制定の過程で、この事務局のつくってくださった資料によりますと、難しい言葉が使ってあるんですけれども、公議輿論の徴取に配慮しながらも、欽定憲法として、建国の体に基づきつつ、海外各国の成法、すなわち西洋近代の憲法思想をしんしゃくし、その制定後、その解釈、運用において憲政の常道がうまく機能していた時期もあった。だけれども、昭和十年の美濃部達吉天皇機関説事件で、国体明徴声明が出された、そして天皇主権説が力を持つに至ったという過程がございます。
 ところが、昭和天皇は、お若いころ英国に学ばれ、国王の大権が実質上骨抜きになって、中世以来議会が力を持っていた英国の歴史から、英国流の立憲君主制を描きながら、機関説天皇論に徹しようとしておられたようでございます。また、それは、昭和四年の田中義一内閣総辞職の苦き経験に基づくものであったとも言われております。
 その証拠に、昭和天皇のもとで、御前会議は、昭和になりまして、昭和十二年から終戦に至るまで合計十五回開かれております。天皇は、全くと言ってよいくらい発言しておられません。
 天皇が大本営の方針に初めて異議を唱え発言されたのは、昭和十六年九月六日の御前会議で、日米交渉が袋小路に入って、打開の見込みがなく、戦争準備を始める国策案が出た、このとき明治天皇の御製を引き合いに出して、なお外交交渉による解決に力を尽くすよう訴えられたことと、昭和二十年八月九日の御前会議で軍部の反対を押し切ってポツダム宣言受諾の御聖断を下された、その二回だと言われております。
 実質的な最高議決機関である御前会議という制度が明治憲法の規定にはありませんでした。しかし、この御前会議が大日本帝国最後の日のときに天皇親政という本来の機能を最もよく果たしたというのは、歴史の皮肉だと言われております。
 明治憲法が明治、大正、昭和という歴史の中で十分機能をしなかったことについて、坂野参考人は、憲法に欠陥があったからだと思われるでしょうか、それとも運用した人間が悪かったからだと思われましょうか。改めてその辺の御感想を伺いたいと思います。
坂野参考人 先ほども御説明申し上げましたように、統帥権だけは美濃部達吉でも独立を認めています。それ以外のもの、例えば軍縮をやるかやらないかは内閣がやれるというのが美濃部憲法学ですし、伊藤博文自体もそういうふうに言っております。
 そうすると、問題は、現地軍が行動を起こしたときに、さっきの史料でありましたように、関東軍司令官は全部天皇に直隷するという明治憲法の解釈になっていますから、一番リベラルな吉野作造さんを除くすべての人がそういう解釈ですから、関東軍が何かやったときにどうやって抑えたらいいか。これは天皇がやるしかないわけなんです。天皇は大元帥であり、天皇は内閣、国務の元首ですから。
 ですから、実際には、昭和天皇は昭和八年の連盟脱退のときに御前会議を開きたいと。それで、牧野伸顕内大臣に対して、あるいは鈴木貫太郎侍従長等が協力して御前会議を開けば、関東軍の参謀総長も呼べるし、総理大臣も呼べるから、これでやりたいということを何度も言っていて、牧野もやっていたのですが、結局、反対したのは元老西園寺です。
 なぜ反対したかというと、もし御前会議をやって、その前に参謀総長も呼んできて、連盟脱退をしないという決定をして、でも、連盟脱退をしないためには関東軍を抑えなきゃいけない。ところが、天皇が御前会議を開いて、抑えるという決定をして、石原莞爾がさらにやっちゃった場合に、天皇制は崩壊するだろうという。それで、西園寺はそれにどうしても乗れない。
 ただ、天皇側近は、内大臣、侍従長、宮内大臣一木喜徳郎を含めまして、これは国家の大事だから御前会議でやると。御前会議以外に関東軍を抑えて連盟脱退を回避することはできないということをやっていたんですから、私は、ぎりぎりのところまではやったと思います。
 ただ、御指摘の日中戦争以後になりますと、問題は二・二六事件があります。昭和八年に一生懸命関東軍を抑えようとした内大臣、侍従長、これがみんな二・二六青年将校のターゲットになって、それで、斎藤実内大臣は実は殺されちゃいます。
 ですから、昭和十一年二月二十六日に今までかなり英米協調で不拡大をやっていた天皇側近が、実際に殺されるか政治的に殺されるかになったので、天皇は「本庄日記」に実際の言葉で書いてあるんですけれども、青年将校が余の重臣を全部殺して、真綿でもって余の首を絞めるのかというふうに、実際、天皇は、周りの側近、平和主義のというか、平和主義と言うとまた言い過ぎかもしれませんけれども、英米協調主義、不拡大の重臣を全部失ってしまった。
 それ以後の天皇について、私はちょっと責任をとる気がない。天皇と牧野内大臣で一生懸命、何とか抑えよう抑えようとしていった、その連中が青年将校に全部やられてしまって、以後、全部腰が引けた。天皇ひとり頑張れば憲法上何かやれたじゃないかというのは、幾ら何でも、私はそこまでは言いたくないという……。
森岡小委員 今のお話にも関連するわけでございますが、天皇の地位について、明治憲法を読ませていただきますと、三十一条に非常大権というのがありまして、戦争や内乱が起こった場合は、憲法上の臣民の権利義務条項に拘束されることなく、天皇が大権をもって臣民の行為を規定できるというような、大変な権能がございました。しかし、これは実際行使されたことは一度もなかったということでございますけれども。
 天皇の地位が、私は、感想なんですけれども、明治憲法ができるまではそれほどお強い立場ではなかった。それが、明治憲法で天皇とか軍とか神道というものが一体的なものになって、非常に大きな権能を持つに至りましたよね。明治、大正、昭和それぞれの天皇が自己抑制した方であったから今日の日本があるんじゃないかなという気がするんですけれども、憲法上これだけ大きな権能を持たせておって、とんでもない人が天皇になっておったら、それこそヒトラーやサダム・フセインのような人が天皇になっていたら大変なことになっていたんじゃないかなという思いが私はするんです。
 しかし、今の日本国憲法では、占領軍によって天皇の地位が象徴天皇という形になって、余りにもそのお立場が弱くなりました。私は、天皇は象徴天皇でいいと思うんですけれども、せめて国を代表する立場で、元首という位置づけを明確にすべきだというふうにも思っております。また、占領軍によってすべての戦力をもぎ取られてしまって、解釈によって最小限の防衛力は持っておりますものの、もはや国際社会の動きに対応できなくなってきている今の現状を考えますと、明治憲法から日本国憲法への振幅、振れが余りにも大き過ぎたんじゃないかという印象を持っておるんですけれども、坂野先生の御感想をお聞かせいただければありがたいと思います。
坂野参考人 私はきょう、明治憲法の実際のメカニズムについて詳しく説明しました。だから、そのことから、戦後の憲法、あるいは今どういう憲法にするかという問題については、参考人として戦後日本国憲法の専門家をお呼びになったときにお話しいただきたい。
 それと同時に、さっきから言っていますのは、条文ではなくて、天皇のもとには参謀本部も関東軍もある。天皇のもとには内閣総理大臣も外務省もある。だから、天皇ひとりが何かできるという考え方は、およそ憲法を字面で解釈するもので、実際に、例えば連盟脱退のときにどういうふうにして関東軍を抑えようとしたか、そのときになぜそれができなかったかというのを見ていく必要はあるんですけれども、突然、これだけの権限を持っている天皇がなぜ戦争を抑えられなかったという言い方は、やはり実際に政治に携わっている方の考えとしては、私の方が意外に感じる。正しいと思ってもできないことの方が圧倒的に多いんですから。
森岡小委員 ありがとうございます。
 時間が参りましたので、終わらせていただきます。
保岡小委員長 次に、中野寛成君。
中野(寛)小委員 民主党の中野寛成でございます。きょうはありがとうございました。
 余り各論についてのお尋ねではないのですが、明治憲法ができたとき、例えば江戸時代から明治維新によって新しい時代が始まった。そして、封建社会から天皇親政へと変わっていく。そのときに、いわゆる幕府ではなくて天皇親政にするということの意識が強くて、天皇中心という法律にしようとしたか。そこにも論戦がもちろんあったわけでありますが。むしろ、そのことよりも、新しい時代を迎えた、そして欧米の、言うならば国際水準に明治憲法をしようという意識の方が強かったのか。または、封建社会からの脱皮、そして天皇親政へまずという意識の方が強かったのか。その段階における、憲法に携わった人たちの心理をどう考えたらいいのだろうか。
 というのは、その後、言うならば昭和二十年に至る過程の中で、時代も変わり、そして軍国主義が生まれ、明治憲法や天皇制度を悪用して戦争に入ってしまった。憲法に違反してそれをやったのか、憲法を悪用してやったのか。そのことに、歴史の変化として、流れとして意識が変化していって、当初、明治憲法ができたときの政府や時の国をリードした人たちの意識の歴史的変化というものを読むときに、どう明治憲法との関係で読み解いたらいいのかしらと迷っているのですが、いかがお考えでしょうか。
坂野参考人 幕末維新、明治維新をつくるときにどうだったかという話と、それが明治憲法にどうかかわって、それがあの戦争にどうかかわったかと。先生のおっしゃっている、七十年、八十年の話を一つの論理で見つけようとなさっている。
 私どもはそういう発想をしないで、まず、幕末維新から憲法ができるまでどんな構想があったか、そのうちのどれとどれの合体で明治憲法になったかというふうに考えて、その明治憲法の運用の中で出てくる変化は、その後の歴史を勉強しながら行っていく。四段階、五段階の段階を踏んでやっていくので、一足飛びに何かするというのは、物すごく原因を恣意的に決めちゃう。ここですべて始まったんだというふうになるから、そういう考え方は歴史家はとらないのです。
 御質問に答えれば、明治の元勲の三と言われる三人、西郷隆盛と木戸孝允と大久保利通を考えますと、三人三様の夢を持って明治維新を、革命をやっちゃったんですね。
 西郷隆盛は、東洋の盟主、アジアの盟主になりたい、だからできれば中国と戦争をしたい、日本の、そしてアジアのリーダーになりたいと。木戸孝允は、割と最初から、新しくできた天皇制が専制にならないために、国民的な基盤をつくりたい、それには五カ条の御誓文だけでは足りない、欧米へ行ってくると憲法というのがあるじゃないか、憲法をつくって、議会をつくって、新しくやっちゃって、突然権力の地位についた天皇を国民の基盤に乗せようと。大久保利通は、戦争をやっている、対外侵略をやっている暇はない、憲法なんかつくっている暇はない、殖産興業だと。だから、大久保利通の言い方によれば、国家の実力というのは軍事力でもなければ法整備でもない、輸出入の統計だと。だから、入超になれば国家の力はない、大久保はそう思った。
 この三タイプが明治の十年、十一年まですごいひしめき合うわけです。みんな幕末の尊王攘夷、明治維新、三人で肩を組んでつくったんですよ。つくった瞬間に、三人考えていたことが違っていたわけですね。その結果、西郷隆盛は最終的に明治十年に反乱する。そして十年に木戸孝允は病死して、西郷が西南戦争、そして十一年に大久保利通は殺されちゃう。だから、何か断絶がある。同志でやって、三つの夢で分裂して対立した三人が、明治十年から十一年にすべて姿を消しちゃうわけですね。その後何があったかというのは、きょうお話しした話。
 だから、幕末維新のときに、明治維新の最初に何か悪いことがあったんじゃないか、そこに太平洋戦争の責任があるのじゃないかと言われると、西郷も大久保も木戸も、ちょっとたまらない、やっていられないという感じになって、やはり維新の最初の十一年間のものと、その次の話、福沢諭吉が出てきて、井上毅が出てきて、また違う国づくりが行われたんだと。
 お答えになったかどうか、よくわかりませんが。
中野(寛)小委員 ありがとうございました。
 お聞きしたかったこと、まさに先生のお答えどおりでございます。
 よって、結局は、先ほど申し上げましたが、憲法論争よりも政治がやはり世の中を動かしていくんだというふうに感じたのです。
 ちょっと似たような質問ですが、先ほど森岡さんも言われましたが、元首という言葉。これは今でも、やはり天皇は元首であると規定すべきだと森岡さんはそういうお考えのようですが、今後どうあるべきかの話ではなくて、この明治憲法に天皇が元首であると書かれております。元首という言葉は、日本ではいつ生まれたんだろうか。そして、ここに元首という言葉を使わないで、明治憲法のほかの条文をそのままにして、そして元首という言葉を使っていないということで不都合が生じるだろうかということです。
坂野参考人 申しわけないけれども、ちょっとそれについてはっきりした知識を今持っておりません。
 ただ、おっしゃっているように、「万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」という第一条がありながら、第四条で元首をつくった。それは、何となく僕の感じでは、一種の天皇機関説的なもの、天皇親政ではないのだ、国の元首なんだという感じを第四条から受けます。そして、それだけじゃなくて、さらにこの憲法の条規に従って統治権を行う、もう一遍の縛りをかけています。
 だから、よっぽど保守的と思われている憲法制定者の意図も、天皇の権限というのを拘束しようという意思が非常に強かった。それが、先ほどの報告で、第一条と第四条、矛盾するじゃないか、なぜ「万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」で、四条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ」ともう一遍同じことを言うのかというと、四条はやはり何らかの天皇の独走を拘束する条文ではないかというふうに考えております。
中野(寛)小委員 そういう意味では、元首という言葉が、天皇を一つの機関として見る、一つの権限を拘束するという意味に使われているとおっしゃられた。私は、むしろその方が正しい、先生のおっしゃること、よく理解できます。
 しかし、あえて今これからの憲法に、そうすると、元首という言葉を、必ずしも日本国憲法にはない言葉を、あえて元首という言葉をまた引っ張り出してきて使うという意味はないなと実は私は思っておりますが、そのことは先生にお尋ねしません。もし、お答えできれば。
坂野参考人 答えたいですけれども、よろしいですか。
 私がここで言いたかったのは、元首という言葉を明治、大正、昭和の人たちが使ったときは、基本的にいわば天皇の独走とか軍部の独走を抑えるためなんです。その言葉を今持ってきて、何らか天皇の権限を今よりも強くするというのは、少なくとも、よしあしは皆様の議論ですけれども、戦前の人々が元首という言葉に込めたものと方向は反対ではないか。
 例えば、美濃部さんが昭和五年に一生懸命苦労したのは、天皇には三つがある、国家の元首と大元帥と皇室の長だと。美濃部さんが言ったのは、その中で一番偉いのは元首だと。同じ天皇ですよ、天皇を三つに分けまして、元首と大元帥と皇室の長と分けて、一番偉いのは元首だ、だから軍部は元首に従え、こういう文脈で使われている言葉でして、だから、元首だから軍隊を率いて戦争をしていいという文脈と正反対に使っている。だから、使い方としては、少なくとも戦前、元首という言葉はなるべく天皇や軍隊の権限を抑える方向に使っていたということだけは、戦後の話をする場合も記憶しておいていただきたい。
中野(寛)小委員 ありがとうございました。
 多分に元首ということの持つ意味を最近逆に解釈している部分があるのではないかと実は思ったものですから、先生のお答えにむしろ私は納得いたしました。ありがとうございました。
保岡小委員長 次に、遠藤和良君。
遠藤(和)小委員 ちょっと話が急に変わるんですけれども、私、四国の人間なんですけれども、坂本竜馬という人がいます。時代を先取りする人で、剣の達人だったんだけれども、ある日訪ねていったら、もうそんなものは古いよ、鉄砲さ、今度行ったら、鉄砲じゃもう古い、法典だというふうな逸話が残っているんです。いわゆる明治憲法の骨格というんですかね、アイデアというんですかね、そういうものは船中八策にあるんじゃないかという説があるんですけれども、このことについて先生はどのようにお考えでしょうか。
坂野参考人 おっしゃるとおりだと思います。ですから、幕末の土佐藩のグループ、坂本竜馬もそうですし、それから、それとは少しずれた格好で、後藤象二郎が大政奉還を将軍にさせる、その背後にも、要するに立憲制で合議制で行こうやという感じをはっきり持っております。だから、坂本竜馬の流れから板垣退助に流れていく。同時に、そのときのことがありますから、木戸孝允たちは明治政府の藩閥政府の長州のあれでありながら、明治七年、八年のときに、土佐の民権派と非常に仲よくするんですね。
 ですから、その伝統というのはやはり幕末にある。だから、坂本竜馬がもし死なないで生きていたとしたら、これはこちらから質問してはいけないことになっているらしいんですが、自問しますけれども、もし生きていたら、木戸孝允についていたろうか、板垣退助についていたろうか、自由民権派になっていたんだろうか、明治政府内のリベラルの伊藤博文についたろうか、そこは答えのない、興味がある疑問だと思います。
遠藤(和)小委員 議会との関係についてお伺いしたいんですけれども、大日本帝国憲法が公布されましたのは明治二十二年二月十一日ですよね。それから、第一回帝国議会の開院式がありましたのが翌年の明治二十三年の十一月二十九日ですかね、この日に大日本帝国憲法が施行されているんですね。ですから、新しい帝国議会では、憲法制定に対する議論は何もなくて施行されたというふうになっているんですけれども、憲法をつくるのが先なのか、議会をつくるのが先なのかという話なんですけれども、明治政府が憲法を先につくった。それは、いろいろな、つくったつくり手はいるんですけれども、最終的には、民がつくったというよりも官がつくった、官製憲法ではないのかと。
 要するに、議会がないときですから、民の代表は議会ですから、議会でいろいろな議論があって、普通は制憲議会とかで議論をして、そこでどんな議論があったかというのが会議録に残るのが普通だと思うんですけれども、そういうタイムテーブルになっていないですよね。これについてどういうふうな感想をお持ちでしょうか。
坂野参考人 先ほどの報告で言いましたように、明治十四年段階では国会開設期成同盟会だとか自由民権運動というのは国民的な支持を得ていて、その段階でつくったならば、あるいは議会が先になったかもしれない。でも、さっき話すのは落としたんですけれども、明治十四年十月に、明治十四年の政変と言われるものが起こりまして、憲法制定を十年延ばす。といいますか、具体的に明治天皇が約束したのは、一八九〇年、明治二十三年に国会を開くという約束をしたんです。一八八一年ですから、あと九年間。この九年間の間に民権運動の方が待てないで、事件の名前だけあるいは聞かれたこともあると思いますが、加波山事件だとか何とか事件という激化事件があって、基本的に民権派がこの段階に敗北してしまうわけです。明治十五年から二十年ぐらいの間に、完全に敗北。
 その明治二十年の七月あたりから、もう一度、大同団結運動という運動が大きく起こるんですけれども、そのころにはもう伊藤博文が帰ってきて、憲法草案もできていて、枢密院を開くばかりになっている。ですから、九年間の落差に、片っ方は激突、玉砕して負けちゃって、もう片っ方は準備整っていた。だから、憲法というのが先にできた。
 そうしたら、中江兆民という土佐派の、さっきの坂本竜馬の末裔みたいな人ですけれども、その人は、第一議会で最初に問うことは、憲法を点検させろということだと言うんですけれども、それは、筋論として合っていても、もう憲法ができて、七月に選挙をやって、議会に出てきているわけですから、まず減税をやりたいという、そっちが先になってしまって、憲法論はやはり避けて通った。基本的に言いますと、そのころの議論でも、憲法というのは神棚に上げときゃいいんだから、実際の政治で解決すればいいんだから、神学論争はやめようという気持ちが非常に強かった感じです。
遠藤(和)小委員 明治憲法ができて以来、憲法とともに、日本の国の行く手が、だんだんと軍部が独走するような体制になってしまったわけですね。そして太平洋戦争にまで至るわけですけれども、これは憲法に責めを求めるべきなのか、そうではないのかという議論があると思うんですね。それは、憲法は全く責任はない。要するに、憲法の解釈の方にあるいは責任があるのではないか、憲法そのものにやはりそういった国の行く手を目指すものがあったのではないか。こういうふうな二つの意見があると思うんですけれども、先生はどういうふうにお考えになりますか。
坂野参考人 七分三分で政治の責任だ。政治の力関係が変わってきて、国際情勢が変わってきて、どうしても、関東軍が満州事変を起こすようなことに対して国民的な支持がいくというものがなければ、統帥権は独立していますよ、関東軍にありますよと幾ら言ったところで、それはつぶされたはずです。ただ、三分というのは、関東軍が行動するときに、憲法十一条は彼らにとって非常に役に立っているわけですね。だから、やはり憲法の規制力というものはかなりな程度ある。
 これは、だから六、四か七、三かはわかりませんけれども、でも、同じ明治憲法のもとでも、例えば大正の末、十四年、一九二五年に関東軍が行動を起こしたら、時の内閣は抑えちゃっただろう、同じ憲法の中で。ですから、私はどちらかというと、政治が六分、憲法は四分。政治で勝ったからといって、憲法違反なことだと、やはり関東軍は抑えられたかもしれない。幾ら有利でも、憲法の味方がないとできない。だから、七、三か六、四かはちょっとわからないけれども、私は政治史をやっているもので、政治の方がかなり大きいんじゃないかとは思っています。
遠藤(和)小委員 きょうの御説明の中で、憲法の制定過程の時点から憲法の条文の解釈について差異がある、大きな差がある。これがやはり、そうした憲法制定された後からも大きな災いになったということは言えるんではないんでしょうか。
坂野参考人 おっしゃるとおりで、それが言いたかった。憲法というのは、つくるときも、つくられてからも、一つのものではない。だから、明治憲法はこういうものであって、だからあの戦争に突入したなどという単純な議論はしてほしくない。
遠藤(和)小委員 ありがとうございました。
保岡小委員長 次に、藤島正之君。
藤島小委員 自由党の藤島正之でございます。
 先ほど来お話が出ているんですけれども、旧憲法のもとになったときに、坂本竜馬の考え方もかなりあったんじゃないかという気がするんですけれども、おっしゃるように、坂本竜馬がもうしばらく生きておったらどうなっていたのかなというのは、大変私も興味あるところなんです。
 いずれにしても、旧憲法のもとで大戦になったわけですけれども、その前に一回、日露戦争で、ちょうどあと二年で百年になるんです。日本がああいう戦果をおさめて勝ったのが、ある意味で自信になり過ぎちゃっていた面があって、それがその後の軍部の行き方にも影響があったのかなという感じはするんです。その後かなり政党政治もいい線までいったんですけれども、結局抑えられて、軍部になっていった。
 しかし、今お話があったように、統帥権の独立と、それでは昭和の戦争が本当に直接悪い方に結びついていたのかというと、必ずしもそうじゃないんじゃないか。先ほどちょっとおっしゃったように、関東軍の一部の暴発に対しても、統帥権云々で抑える抑えないんじゃなくて、やはりその背景には、国民の支持といいますか、そのときの全体の、政治といいますか、国の方向みたいなのがある程度後押しをしているからああいうふうになっていったんで、旧憲法があろうがなかろうが、あれは国の方向として、どうしても行く方向だったんじゃないかなという感じがするんですけれども、その点はどのようにお考えになっておられるのか。
坂野参考人 先ほど遠藤委員にお答えしたことと反対なことをお答えします。
 やはり四分はあるんです。ですから、もし一九三一年、昭和六年以前に、統帥権の独立に対して、憲法学者がみんな頭を寄せて、これを何とか抑える方向をということで、そういう一種の解釈改憲が行われていたら、力関係で七、三で関東軍有利でも、それは憲法、こちらに味方があれば五分五分には持っていける、あるいは抑えられたかもしれない。だから、六、四だったときに、憲法が我に味方する、戦争反対というか侵略反対の方に憲法が味方してくれれば、六、四の世論というのは五分五分か、逆に四分六分まで持っていけるかもしれない。だから、憲法というのはおっしゃるほど自由ではない。
 だから、平和のときには憲法というのは神棚に上げときゃいいんですけれども、危機になったときにどういう憲法を持っているかというのは、かなり決定的な意味を持つんじゃないだろうか。それが僕は、美濃部さんの憲法、昭和二年の憲法がだらしないと言っているゆえんで、あそこで何も、関東軍司令官は天皇に直隷して、完全に自由だなんて憲法論を書く必要はないんじゃないか。それは大きかったかな。だけれども、美濃部さんがそういういい憲法論を書いたって、関東軍を抑えられたかどうかはまた別問題ですけれども、力関係は、憲法が味方するかしないか、時の内閣にとっては大きな違いだということだ。
藤島小委員 明治の元勲が一生懸命つくったわけですけれども、その後も不磨の大典としてもう祭り上げられちゃって、結局大戦になったということなんですけれども、当時、つくった人たちはやはりそういうふうに、全然手が加えられないで憲法がそのままずっといく、そういうふうに考えてつくっておったんでしょうか。それとも、まあこれはある程度、暫定とは言わないまでも大ざっぱなものだから、いずれ後世に手が加えられるだろうというふうに考えておったんでしょうか。
坂野参考人 きょうの私の報告のポイントは、いかに解釈改憲がなされていたのかということであって、不磨の大典というのがきょうの報告の意図ではないんです。憲法というものは、一生懸命学者も苦労し、政治家も苦労すればいい方に解釈できるんだ、それで美濃部さんがどこまでやったか、しかし最後にどこまでやれなかったかという話をしたんであって、ですから、制定過程から左右の議論があって、それは当然、できた成文憲法の解釈の幅を持たせている。
 だから、憲法というのはかなり融通無碍なものであって、戦前の人たちも、ああいうふうにならないために随分解釈改憲はやった。しかし、憲法改正はだれも考えていなかった。なぜならば、やはり何といっても明治十四年七月から二十二年二月までかけて、相当な苦労をして、福沢系のリベラルの意見もある程度組み入れながら、八年間かけてつくった憲法というのを、これはちょっと変えようという気にはまずならない。できることは、だから、保守派の方は制定時にあった保守的なエレメント、リベラルな方は制定時にあったリベラルなエレメントに基づいて解釈改憲していくんだという話なのではないだろうか。
藤島小委員 おっしゃるように、やはり解釈改憲というのは一つの方法だと思うんですが、それに対して、今の憲法ももう五十年もたつんですが、九条の問題に関しては、政府はかたくなに解釈を変えようとしない。本当は、もうその点は変えていった方がいいんじゃないかなという気がするんですが、それは今の憲法の問題ですからあれですけれども。
 この憲法、つくったときの考え方ですね、天皇の位置づけについて、英国の当時の考え方とは大体合わせていたということになるんでしょうか。
坂野参考人 半分非学問的に、半分学問的に答えますと、イギリスの憲法は慣習法で、書いていない。それを書いた場合にどうなるのかというと、割と明治憲法に近くなるんじゃないか。一番近いのは交詢社。交詢社のさっきの私擬憲法。だから、学界の中で、一部ですけれども、明治憲法は、言われているほどのプロイセン型というよりは、幾分、もうちょっとイギリス型に近いのではないだろうかという解釈もあります。
 それを言うために、きょうは、井上毅の十四年七月のごりごりの案と、それから美濃部達吉のほとんどイギリス型の解釈と、中をとった伊藤博文の玉虫色というか灰色の解釈と、三つ話したのはそのためなんです。だから、明治憲法はイギリス憲法だと言ったらイギリス人は怒りますけれども、全くその要素がないかというと、御指摘のとおり、ある程度はあるということです。
藤島小委員 最後に、先ほど遠藤委員からもちょっと質問があったんですが、国会との関係、議会との関係。これは、もう少し重視していく方向があってもよかったんじゃないかなという感じはするんです。天皇中心の方にウエートが非常にあって、民意を反映する議会のウエートがちょっと小さかったのかなという感じはするんですけれども、その点、いかがお考えですか。
坂野参考人 おっしゃるとおりですけれども、明治憲法が、明治二十二年二月十一日に、欽定憲法として天皇から国民に与えられたんですね。その憲法に基づいて翌年七月に総選挙が行われて、翌年、先ほど御指摘のように、十一月に第一議会ができた。だから、最初からその意味ではもう負けているというのか、受け入れているわけです。憲法に基づいて総選挙をやっちゃったわけでしょう。それで勝った勝ったと出てきて、衆議院の議席にいるわけですね。これでもってこの憲法を認めないといったら、自分たちの存在もない。
 だから、三分の一ぐらいいた当時の左派、中江兆民以下の人たちが言ったのは、だから、憲法改正をしようとするんじゃない、まず最初の議会で憲法を点閲させろ、質疑とかなんとか、それをさせろということを彼は議論では書いているんですけれども、議会が始まると、もうそれは無理。やはり、当時にもしいたとしたら、日本で初めて憲法ができて、日本で初めて総選挙ができて、日本で初めて議場にいるわけですよ。それで、この制度がいいかどうかここで考え直しましょうとはまあ言わないという。
藤島小委員 終わります。ありがとうございました。
保岡小委員長 次に、山口富男君。
山口(富)小委員 日本共産党の山口富男です。
 憲法というのは、その時々の歴史の所産ですから、きょう参考人がおっしゃいましたように、明治憲法の問題点と憲法制定史が分離しているというところが問題だという指摘はそのとおりだと思うんです。同時に、実際には、私自身も、家永さんの本にしても稲田さんの本にしても、両方を読みながら、いわば明治憲法の成立史を考えているわけですから、実際にその分離が起きているかどうかというのはまた別の問題だとは思うんです。
 それで、きょう御指摘なさいました合作論は大変おもしろくお聞きしたんですけれども、私は、なぜその合作に至ったのかという政治的な背景の方をちょっと教えていただきたいんですね。
 それで、多少私の解釈も含まれますけれども、やはり、これ自身が、明治維新後約二十年を経てつくられた。それから、明治十四年の政変とも絡んでいるというお話があったんですけれども、一つは、社会的な対抗関係の問題でいいますと、自由民権運動が一方にあって、これが実は敗北していくわけですね。植木枝盛の言葉を使ったら、民権派と国権派との相克という姿が一つあったと思うんです。
 それから、もう一つは、諸外国との関係で、やはり近代国家の仲間入りするために形をとらなきゃいけませんので、この点に、私は伊藤博文の法という問題の一つの背景があるように思うんですが、先ほど参考人が、結局、箔をつけたんだというお話をされました。
 ですから、神権主義というものを中核に据えながらも形としては立憲主義をとるという、そういう矛盾が生まれてくると思うんですけれども、こういう合作に至った背景、これについてはどういうお考えをお持ちなのか、まずお聞きしたいと思います。
坂野参考人 時間がなくて全部話せなかったんですが、合作の第三の役者が植木枝盛たち自由民権運動の左派ですね、ここに一番人民主権に近い、政権をとるというんじゃないけれども、議会をとって抗し続けるというグループが運動の主体としてかなり大きく持っている。
 だから、福沢諭吉や交詢社のグループみたいな中道リベラルが発言力を持つのは、極左がいるというのはいいことなんです。それに対して、これをおさめるためには、我々のようなイギリス・モデルの穏健な議会制度にいきましょうというのが明治十四年の初めあたりから出ていて、伊藤博文も井上馨もその路線に乗ったんです。
 ですから、有名な、十三年末から十四年の初めにかけて、井上馨と福沢諭吉が対談して約束するわけですね。だから、伊藤や大隈重信や井上馨は、福沢の線でいいから、それで考えてくれという、約束をしている。
 ところが、幸か不幸か、今度は福沢系が、そうなりますと、明治十四年の四月に交詢社の私擬憲法でスターになるんです。ここに、自由民権派もみんな各地へ戻って、福沢の交詢社の私擬憲法を直しながら、自分たちの草案をつくって全国から戻ってきますね。そうなりますと、リベラルが中心になってくる、中道よりも。それに対して左派は、もうやっていられないよ、そんな憲法は嫌だ、我々は自由党という政党をつくって藩閥政府に抵抗する核をつくる、それを地方に固めるんだと、板垣退助は福沢グループに対してそっぽを向くんです。ちょうどそのときに、保守派の井上毅が、伊藤博文や井上馨に対して、そんな福沢の路線でいったらとんでもないことになるよ、モデルとしてはドイツのもあるじゃないかというので、それが急速に井上馨が……。
 だから、明治十四年の七月から十月までは、井上毅と福沢諭吉の間で、伊藤博文という憲法の制定者をめぐっての綱引きになってくる。一たん伊藤たちが福沢に行ったのは、さっき紹介したような極端な自由民権派がありますから、これとおさめるなら真ん中で。ところが、真ん中が強くなっていっているのを、左が勢力をなくしていきます。本当はなくさないんですけれども、政党づくりに、もう地盤づくりに入っていっちゃいますもので。
 そうなりますと、今度はリベラルは弱くなって保守派に負けるという、そういう話になるんじゃないか。
山口(富)小委員 政治史的な背景だと思うんですが、もう一つ、きょうは「憲法義解」を使われまして、伊藤博文の解釈について説明があったんですけれども、先ほどのお話ですと、彼がこの明治憲法の矛盾について気づきながらこういう説明をあえてしたんだというお話がありました。
 私は、彼の「憲法義解」の四条の説明にわざわざ付記がつきまして、ヨーロッパ的な立憲主義、君主の解釈はこれはするものじゃないんだという付記までついているんですね。なぜ彼はそういう矛盾に気づきながら、一方では神権主義的な解釈というのを中核に置いてやったのか。同時に、きょう何回か出されましたけれども、美濃部さんもいわばその矛盾に気づきながら、それを実際上棚上げにしながら立憲主義で解釈をやるわけですけれども、そのあたりの無理筋はなぜ起きてくるんでしょうか。
坂野参考人 どう言ったらいいのかな。伊藤における矛盾の話だと思うんですけれども、どういうふうに説明したらいいかな。要するに、こう言えばいいんです。論証はできないんですけれども、伊藤博文の「大日本帝国憲法義解」とほとんど同じ解釈は枢密院の審議で井上毅がしゃべっているんです。枢密院に出された原案と解釈は、井上毅の手でできている。それで、微妙に違うんです。だから、正式に明治憲法の公的解釈を出すときになって、若干伊藤が手直しをした。大もとは井上毅だと。そうすると、「憲法義解」自体が、ちょっとリベラルな面とごりごりの面との合作であるというのは、伊藤博文編、監修の、井上毅著だから、そこにあるんじゃないか。
 ただ、学者としてはっきり言えないのは、ではどこまでが井上毅で、どこに伊藤が手を入れたかということは、断言まではできない。あるところまでは推測がついているんですけれども、断言まではできない。
山口(富)小委員 きょうのお話は、主に天皇大権と立法権のかかわりでお話があったんですが、もう一つ、明治憲法の、当時は臣民という言葉ですけれども、今でいう国民の権利についての規定、これについてはどういう特徴があるというふうに見ているんですか。
坂野参考人 それをやらなかったのは、答えが最初からわかっているからなんです。基本的人権という考え方は当時にありませんし、政府側としても考えていない。要するに、法律で認められた範囲では言論の自由も、信教の自由も全部あります。ですから、言葉だけでいえば、基本的人権に近いものは明治憲法は認めています。ただし、それは法律の許す範囲内ですから、要するに法律がなきゃだめだ。そうなると、基本的人権の考え方があるかないかという話は、きょう話した立法権の問題に限定されていってしまいます。
 ですから、仮にこの明治憲法のもとで、基本的人権を拡大しようというような法案が衆議院を通過する、政府はノーと言いません。政府は、貴族院審議と。貴族院がノーと言えば、政府は、申しわけない、私はもうちょっと考えてもいいと思ったんだけれどもと言うこともできるわけですね。だから、立法権の中の一種の対立にゆだねる格好で基本的人権的な発想をつぶしているわけなんです、この制度は。
山口(富)小委員 時間が参りました。
 私は、きょうもう一点実はお聞きしたかったのは、先ほど明治憲法の条文の責任の問題で、四分六分、六分四分の話がありましたけれども、そのことを政治上本当に考えようとすると、国民の間の運動がどういうふうに認められるのかということともかかわってきますので、これはやはり解釈論だけではとても話が進まないなという、これは最後、感想です。
 ありがとうございました。
保岡小委員長 次に、北川れん子君。
北川小委員 社民党・市民連合の北川れん子と申します。きょうは、どうもお話ありがとうございました。
 ちょうど明治憲法と日本国憲法、制定から大体六十年ぐらいとんとんでたってきたというところに来たと思うんですけれども、先生のきょうの制定のときのお話というのは、割と国家の少数の方々の本当に長きにわたる論争の中から生まれてきた、結実したものであるというお話であったと思うんです。
 昭和に至るまで、明治憲法というのが発布されていくわけですけれども、どうなんでしょうか。国民というのか、当時は臣民と言われる人たちにとっての明治憲法というものに対する理解とか、明治憲法の中で私たちの日本の国民という意識というのが、国というものができて国民意識というのが高まっていくと思うんですが、どこが誇りといいますか、そういう感じに五十年、六十年経る中でなっていったかというところにおいては、坂野先生はどういうふうに解釈していらっしゃるのか、教えていただきたい。
坂野参考人 大変おもしろいポイントだなと思うんですけれども、こうお答えすれば一番いいんじゃないかな。有権者の数、第一回の議会が開かれたときに、アバウトに言います、細かく言うとあれですけれども、五十万。それで、一九〇〇年で百万、日露戦争後で百五十万、平民宰相原敬のとき三百万、一九二五年、大正十四年で一千二百万。
 要するに、憲法なり政治なりにかかわれる、そしてついでに委員が女性ですから言いますけれども、女性は政治にかかわれない、立候補もできなきゃ政談演説にも出られない。だから、男子だけでいって、例えば五十万でやっている問題にどの程度関心を持てるか。
 不幸なことに、千二百万になったのが一九二五年で、それから選挙を三回立て続けにやるんですけれども、一向に社会主義的な政党は勝てない。全部合わせて八人が最高かな。ところが、日中戦争が始まり日本が太平洋戦争に近づいていく一九三六年、昭和十一年と昭和十二年に、やっとこの千二百万、男子だけですけれども普通選挙が生きてきて、社会主義政党が十八議席になって、三十六議席になって、もう一回あれば八十人になる前に戦争になっちゃうわけですけれども。
 だから、日本が立憲主義国家で、立憲政治があって結構リベラルにやっていたと、私、外国に対しては言いたいんですけれども、実際に中を見ていて、その度合いを見たら、有権者の数が千二百万、だから二十五歳以上の男子の八分の一になったのが一九二五年で、選挙権をもらった労働者や農民がそのことを自覚して投票し出すのが一九三六年だ。
 これは、なぜそんなになるかというあれがあるんですけれども、選挙が普通選挙になった瞬間に労働者、農民の政党が勝つはずだと言う単純な歴史家もいるんですけれども、「特高月報」という特高がつくっているあれによりますと、選挙には地盤が要るんだ、だから三回や四回やらなきゃ社会主義政党、労働政党は出てこない、一九三六年のときは、これは地盤ができたんだから、これから先はもうこの人たちは減らないよという、特高がそういう評価をしているんですね。
 だから、地盤ができたときにもう日中戦争になっていたということが大きな話じゃないか。だから、その意味では、やはり時間がなかったという感じをひどく持っております。
北川小委員 これからだというときにそうなっていくというのが、とても日本にとって成熟したものになり得なかった部分としてあったと思うんですけれども、憲法の中でようやくといった時点ぐらいに来る昭和の初期、中期というふうにお話があったんですけれども、明治憲法と法律との乖離というか、明治憲法と法律との関係においてはどういう感じで運用というのはされていたんでしょうか。
 明治憲法の解釈の話というのが、きょう、多少出たと思うんです。解釈においても、非常事態になりつつあるときの憲法学者なり政治学者なりの物すごく真摯な態度というのがあったんだというお話はあったと思うんですけれども、明治憲法と法律との間の、よく小泉首相なんかは、憲法とこの法律との間にはすき間はないんだとか、前文との間にすき間はないんだとかという言い方をするんですけれども、明治憲法と法律体系の中、例えば民法とか刑法とかにおいてのありようというのはどういうものだったんでしょうか。
坂野参考人 大変ごもっともな質問なんですけれども、ちょっとパスさせてもらえませんでしょうか。
 具体的な民法史の流れと、そこと憲法との関係というのを私、政治史専門なもので、そこまでちょっとはっきりした格好でお答えできないもので。だから、最初、委員が出されたとき、法律とは何を考えていらっしゃるのかなと思ったら、それが民法の話となってくると、確かに、憲法と社会のあれになりまして、一般の法律問題と違いますから、ちょっとそれは申しわけないけれども、真っ当な民法学者を参考人としてお呼びいただいて聞いていただきたい。
 ただ、先ほどの、前の御質問に続けて言いますと、私がもう一つ言いたいのは、時間が足りなかったけれども、そこがあったから、戦後すぐに日本は民主主義にいけたんだという、未成熟だったけれども、ぎりぎりのところまでは戦争前に来ていたんだということもやはり大事かなというのは、前の方の質問であれしておきたいと思います。
北川小委員 ありがとうございます。
 そうですね。そういう流れの中で日本国憲法の方へ続いていくんだというのは、本当に確かな御指摘だろうと思うんです。
 それで、日本国憲法の中に、九十九条で遵守義務というのができていくんですけれども、明治憲法の中には遵守義務というのは実質的にはないんだというふうにお伺いしたんです。この遵守をするという形のことにおいては、当時の、有権者が後半には多くなっていくというお話には兼ね合っていくんですが、議員となった人の覚悟といいますか、明治憲法における議員の人たちの遵守する姿というものに関しては、先生は、何かお感じになるところはおありになりますでしょうか。
坂野参考人 今の議員さん、先生たちを前に置いて失礼かもしれないんですが、憲法を遵守するというだけじゃなくて、自分が信じている明治立憲制を遵守することに関しては、戦争の直前あたりまで相当に立派だったというふうに考えていいと思います。
 ですから、例えば、今言いました時期、有権者千二百万を超えて、やっと社会主義政党も出てくるころになりますと、民政党の斉藤隆夫が物すごく議会で頑張る。誤解があるんですけれども、内務省の検閲で、いろいろな雑誌はかなりバツ、議事録だけは、官報号外に載るんですから、これは、国民、読もうと思えば読めて、それが相当にしっかり、立憲主義です。
 時には、国家総動員法に反対するときに、明治憲法を持ってきて反対するとか、さまざまな格好でのその忠誠度、ただ、明治憲法をどう解釈するかというのは三人三様なものですから、そこは難しいですけれども、戦前の議員というのは、世に言われているほど腐敗、堕落した人たちではなくて、それぞれ、非常に真剣な人たちだったし、勇気もある人だったと思います。
北川小委員 ちょうど時間が来まして、先生、ほかのところでも、一九三〇年代と今と、もう少し本当に研究して、勉強するのがいいんじゃないかという御提言をされているのも読ませていただきましたので、私もこれからも頑張りたいと思います。ありがとうございました。
保岡小委員長 次に、井上喜一君。
井上(喜)小委員 保守新党の井上喜一でございます。
 きょうは、参考人、本当に御苦労さんでございます。
 これまで、明治憲法と、それから昭和になりまして現行憲法、二つの憲法を我々は経験したんですね。いずれの憲法も、権力の移行という、それを経験しまして、それを背景につくられた憲法だと思うんですね。明治憲法の場合は、本当に熾烈な権力闘争の過程でこういうものが出てきたと思いますし、現行憲法も、その権力というのは占領軍でありましたから、どちらかといえば、占領軍の意向が強く反映した憲法になっていると思うんですね。
 そこで、ただ、憲法、これは法律もそうでありますが、成文法でありますから、やはり一たん文書になってしまうと、制定時点はともかくとしまして、時の経過とともに、現実とのぶれが出てくるわけですね。これをどうするかということでありますが、私は、憲法につきましては、結局、そこを補うのはやはり解釈だと思うんで、普通の法律以上に、つまり、憲法の改正につきましてかなり厳格な制約がありますから、相当大幅な解釈権限が認められる。つまり、解釈で憲法を変えていくというんですか、運用していくようなところが多いんじゃないかと思うのでありますが、この点につきまして、まず、参考人の御意見をお伺いしたいんです。
    〔小委員長退席、葉梨小委員長代理着席〕
坂野参考人 私のきょうの報告自体は、戦前の明治憲法というのは、制定時にも多様な解釈があったけれども、実際の運用の中で物すごく解釈改憲されているんだ。
 例えば、美濃部達吉さんの明治憲法を読むと、井上毅だったら、どうなっちゃっているの、これはおれがつくった憲法かというふうに思ったに違いないほど変わってきておりますね。そして、その美濃部さんの憲法解釈を習って官吏になった人々から見れば、一九三〇年代に出てくる天皇機関説攻撃なんて、これは一体どうなっているの、僕らの習った憲法と全く関係ない話になってきています。
 だから、憲法というものが、時代と状況によって大きく解釈改憲されていく。そして、戦前のリベラルは、その点では相当、解釈改憲で、僕に言わせればいいことをした。頑張って頑張って、自由主義的に、天皇からもらって、欽定憲法で、ドイツのモデルでできたのを、実質的にイギリス・モデルに持っていくほど、美濃部さんたちの解釈改憲というのは物すごくやったんだというふうに私は思っています。
 だから、明治憲法の場合に解釈改憲に反対したら、天皇は神聖にして侵すべからずになっていって、あと、何にもできない話になりますから、相当抜け道をつくって、僕の考えるいい方に美濃部さんたちは持っていったんだというふうに思います。
 ですから、解釈改憲が是か非かという話でいえば、是です。ただ、その解釈の内容が何であるのかは、それは全く別の問題で、恐らく、委員が考えられている解釈の中身に対して、学者としてじゃなくて一個人とすれば、多分、中身には反対だろうと思いますけれども、そこは、枠の話では一致できます。解釈の余地があるものなんだ。
    〔葉梨小委員長代理退席、小委員長着席〕
井上(喜)小委員 これまで、憲法はつくったんだけれども、憲法の改正という経験はないわけですね。ですから、私は、どうも憲法の改正というのは非常に難しいんじゃないか、非常に大きな国際情勢の変化とか、あるいは権力の様相の何か変更とか、そういうことがなければなかなか難しいんじゃないかと思うので、結局、そこを埋めるのはやはり解釈ではないかと私は思うんですよ。
 明治憲法だって、これはたしか、衆議院と貴族院、それぞれ三分の二以上の賛成がなければあれはできなかったと思うんですね。現行憲法は、それぞれ三分の二の同意が必要であると同時に、国民投票にもかけないといけない、こういうことになっているんですが、政治の現実というのは、やはりこれは多数決なんですよね、多数決なんですよ。多数が希望しているところに沿って政治をやっていくということなんですよね。
 そういうような場合に、明治憲法の時代も、現行憲法もそうなんでありますが、三分の二はいかないんだけれども、例えば六〇%ぐらいは賛成だというようなときに、これはどうするのかという問題が現実の政治の問題として出てくると思うんですね。
 そこで私は、そこを埋めるのは、そこの調整弁がやはり憲法の解釈じゃないかと思うので、それまで私は許されるんじゃないかと。これはもっとも事項によって違いますよ。違うけれども、私は大ざっぱに言ってそういうような感じを持つのでありますが、こういう考えに対して、先生の御意見をお伺いしたいのです。
坂野参考人 少し専門の立場と離れますが、一言だけ答えさせていただきます。
 私はかなりリベラルな立場をとっていまして、その立場からいいますと、明治憲法というのは非常にひどい憲法。それを必死になって、美濃部達吉さんや吉野作造さんたちがいい方に解釈改憲しようとしてすごい努力をするわけです。出発点の悪い憲法だと憲法学者が勉強するんだという感じを持っているんですけれどもね。日本の場合は、勉強していないなんて言いませんけれども、リベラルなり平和主義の人にとっては、最初に与えられた憲法が非常にいいものです。そうすると、これをありとあらゆる知識を使って何とかいい方向に持っていかなきゃならなかった戦前の憲法学者とちょっと違ってくるんじゃないかという、そこを僕はすごく感じるんですね。
 だから、美濃部さんの本なんて読むと、こんなこと本当に憲法学者として成立するのというほどイカサマですよね。三段論法を使って、とてもこれは憲法学として成立するのかというぐらいの、憲法学者としては保守的な穂積さんの方が筋が通っていることが多いんですけれども、それはやはり意図があってやっているわけですね。それを持ってくるために、いろいろなことを勉強してつくってくるわけです。
 ところが、やはり戦後の場合には、最初に平和主義で民主主義な憲法があるから、やはりそこから先の憲法学というものについて、これは僕は同僚には公然と言っているんですけれども、最終講義でも言ったんですけれども、いい憲法ができちゃったから憲法学者は勉強しなくなったんじゃないかなんて冗談で言っているんです。そういう面もやはりあるんじゃないかな。
井上(喜)小委員 どうもありがとうございました。終わります。
保岡小委員長 次に、平林鴻三君。
平林小委員 きょうはありがとうございました。
 私も余り詳しくない方でして、とんちんかんな質問を申し上げるかもしれませんが、お許しを願いたいと存じます。
 政治史的に見て、帝国憲法というのは、内政上の問題もあったけれども、国際関係、例の条約改正ですね、そういうものとの関係というものはどういう反映がなされておるものか。現行の新憲法は、これはいわば平和主義をとったという国際的な問題でありますけれども、これはもう時代背景が完全に違っていて、国連も既にでき上がっていた。日米安保は後ですけれども、国際関係が全然違うわけなんですが、明治憲法、大日本帝国憲法というのは、国際的に見てどういう見地からつくられたものかというような御研究はどうなっておりますでしょうか。
坂野参考人 御存じのように、幕末の安政条約という不平等条約を課せられていて、明治五年からそれの改正交渉に入る。それで岩倉使節団が、大使節団が欧米を回ってくるわけですけれども、そこでやはり条約改正なんてとんでもないという話に向こうから、アメリカ以外みんな非協力的だったんです。要するに、そのときに一番問題になるのは憲法と六法です。近代的な法がない国に対等な条約関係を渡さないという話です。
 段階があるんですけれども、それは幾ら何でも、日本の国権の観点から、独立の観点から許さないという議論はかなり後から出てくるんですが、最初困ったのは関税自主権なんです。さっきも言いました大久保利通みたいな格好で殖産興業をやっていこうとすれば、国際収支が一番最初に問題になりますから、輸出をふやして輸入関税をかけられなきゃ、とてもやっていけないわけですね。でも、そこが、関税自主権がないならば、機械を買ってくるたびに巨額の金銀が流れていっちゃいますから。そういう条約改正をやりたいと思うと、近代的法制度をつくらないかぬ。だから、欧米社会から近代的な立憲国家だと認められないと貿易も自由にできないという話が頭にあります。
 ですから、何といっても一番大もとの、例えば明治十四年の話は自由民権にどう対処するかと、特定の時点ではそういう話ですけれども、長いあれで見れば、欧米社会と対等な関係になるためには、立憲的な、欧米的な憲法と欧米的な六法が必要だと。
 最初のころは、欧米的というと英米的、イギリス的と思っていた。井上毅の貢献は、ヨーロッパといってもドイツがあるよ、これでも欧米的と言えるんですよというのが井上毅の貢献だろうと思います。
 いずれにしろ、欧米流の憲法、プロイセンでもいいから、欧米流の憲法をつくらないと一丁前の国として扱ってもらえないというのは長い背景にあったというのは委員の御指摘のとおりです。
平林小委員 それにも関連するんですが、帝国憲法ができた当座は、まだ条約改正もできていないし、非常に、外向きに見てこの憲法をどう使うかというようなことが政府なりに相当関心なり努力をしたいという気持ちがあったんじゃないかと思うんです。それが、具体的には全然わかりませんが、例えば日清戦争ですね。これは三国干渉で臥薪嘗胆になってしまったけれども、日清戦争の前後に条約改正が陸奥宗光の努力で具体化して、陸奥宗光が亡くなった後で条約改正が完成したはずですけれども、そういうところから見た一種の憲法史といいますか、政治史というのはもっと研究しておかなければいかぬことではないかという気がちょっとしたんです。
 というのは、新憲法の成立過程にもそういう国際関係が非常に作用しておりますから、何か、新憲法の成立過程なり、あるいは現在の国際関係なりということから見て、詳しい研究が必要なのではないかと思うんですが、何かそこら辺の御示唆がいただければと思ったんです。
坂野参考人 戦後の方については専門家として答える資格はないんですが、戦前、明治の話ですと、委員の御指摘はもろ刃のやいばみたいなものがありまして、欧米的な近代国家となるために憲法が必要であると。だから、時の、特にイギリス、最終的に日英同盟になるような、あれを目指していくというのは立憲制の一つにあるんですけれども、その動きが強くなればなるとき、必ず国論というのは二つに割れまして、何で欧米の言うこと、英米の言うことだけ聞かないかぬのだ、日本には日本の道があるじゃないかという。
 ですから、同じときに外務大臣の井上馨が条約改正交渉の努力をすれば、谷干城という農商務大臣は、日本の憲法、日本の六法、これは日本人が決める、これが国権というものだと。だから、欧米に迫られてなぜつくらないかぬのだと言って辞表をたたきつけて反対、こっちもわあっといくんですよ。
 ですから、あるときに、国際情勢や国論から憲法というものを見直さなきゃいけないというときに必ず二つになる。少なくとも明治の場合には、陸奥の方向に対して、それは絶対許せないという国民運動的な動きがある。ナショナリズムというものは軽視してはいけないのではないかなというふうに思います。
平林小委員 質問時間が余りありませんけれども、もう一つ私が若干の関心がありますのは、明治憲法というのは、枢密院、いわゆる元老が支配する分野があり、あるいは貴族院がいわば政党内閣としては非常に言うことを聞かない分野であったり、あるいは外交権というのがまた別にあったり、軍部がまた別にあったりで、権力あるいは権限、責任というのは非常に分散して、多元化していたように思うんです。
 それで、本格的な政党内閣ができた原内閣のときに、私は「原敬日記」というのは余り詳しくは読んでおりませんけれども、非常に苦労しておられますね、軍部とはけんかしないような。シベリア出兵を長く続けざるを得ない状態になってみたりしていますし、あるいは山県有朋との、別に原さんが山県さんが好きだとは思わないけれども、本当に綿密な協議を遂げているなんというのは、原さんという人は苦労したんだなという気がするんです。
 ああいう権力の分散が元首たる天皇の絶対権力の下にあったという、そういうことは明治憲法は初めから予想していたものなんでしょうか。それとも人次第で、憲法あるいは国政を解釈、運用する人次第でこのやり方が非常に変わってきたのかどうか、そこら辺は政治史的に見てどうお考えになりますでしょうか。
坂野参考人 政治史的な話ですけれども、明治憲法をつくったころには、明治維新の、いわば英語で言われるところのファウンディングファーザーズみたいな、建国の父たちが、伊藤博文、山県有朋、松方正義、井上馨といますから、彼らは統帥権の独立なんということも余り心配していない。山県が軍は抑えてくれる、大蔵省は松方が抑えてくれる、だから、彼らの合議体で、内閣にさえ力を置いておけばいいと思っていたわけです。
 ところが、その中でだんだん衆議院に基礎を置く政党が大きくなってきて、内閣の一部に入ってくる。原敬のときにはやっと総理大臣をとった。こうなってくると、その分権制が実は見えてくるわけですね。だから、伊藤とか山県にとっては何でもなかった参謀本部との話のつけ方が、原敬にとってみたら大ごとになるわけですね。ですから、私のずっと長い間の研究で、政党にとってまず邪魔になったのは、貴族院で減税案がつぶされる。その次に軍でして、これは山県と話をつけないといけない。最後は浜口内閣の昭和五年で、軍縮をやろうと思ったら枢密院に……。
 だから、みんな明治維新をつくった元老、当時の元勲たちがコントロールしてつくった体制にニューカマーが来るたびに、何でもなかった機構というのが全部意味を持ってくるというような感じがあるんじゃないでしょうか。だから、山県有朋にとっては、貴族院が言うことを聞かないと、じゃ、おれが手紙を書いてやるという話、枢密院が言うことを聞かないと、議長をおれのところへ呼び寄せる、これで済んだ話が、制度としての分権制が出てきたのはむしろ民主化してからだという感じを持っているんですけれども。
平林小委員 ありがとうございました。また折に触れて御指導をよろしくお願いします。
保岡小委員長 次に、仙谷由人君。
仙谷小委員 きょうは、貴重なお話をありがとうございました。
 きょう先生のお話を聞いて、改めて大日本帝国憲法を読みましてびっくりしておるんでありますが、何にびっくりしておるかといいますと、内閣という概念が憲法上一切出てこないですね。これはどういうことなんでしょうか。
坂野参考人 憲法にはないんです。それで、さっき引用しました内閣官制というのは、明治二十二年十二月にできているんです。明治憲法では「国務各大臣」ですけれども、先ほどの史料のどこかに書いておきました、内閣官制というのは明治憲法ができた十カ月後にはできているんですね。だから、ここが二重構造になっている。官制上は内閣というのがあって、内閣の権限は、史料の十一ですけれども、ここにあるわけです。明治憲法では、「国務各大臣」というのが五十五条で規定されているだけなんです。
 これをどうとるかというのが大問題でして、穂積八束にとってみれば、明治四十三年に書いたときに、明治憲法には、おっしゃるとおり、内閣のナの字もない。あるのは「国務各大臣」だけだと。内閣に権限があるというのは、内閣官制というのは下位の勅令でしょうと。だから、それがあるから憲法を解釈していいのかという話があります。だから、内閣に権限があるのかないのかが明治憲法にとっての解釈の分かれ目で、おっしゃるとおりなんです。
仙谷小委員 そうしますと、政治権力というのはあくまでも天皇にあると。そのレジティマシーというか正統性の根拠というのはやはりお上さんにある、こういうふうな解釈をするしかないということになりますか。
 つまり、今の日本国憲法であると、一応曲がりなりにも政治権力のレジティマシーは国民にある。国民の投票で選ばれた国会が、そこで決議をして、そこに根拠を置く内閣総理大臣というのが内閣を組織して、それが政治権力である、こういうふうに私なんかは解釈しておるんですが、そういう政治権力のよって来る正統性の根拠というのはどこになるということになりますか。
坂野参考人 おっしゃるとおりで、議会の権限は、さっき言いましたように、法律、予算で認められているんですけれども、議会が権力の源泉ではないんです。
 天皇大権の中の立法権と予算審議権は議会が持っています。これは本当にあるんです。予算を減らしていいし、法律をつぶしてもいい。しかし、天皇大権で、行政大権、統帥大権と四大大権、これは、せいぜいあり得る議論は、天皇が持つのか、枢密院だとか軍だとか各国家機関がそれぞれ個別に持つのか、そうじゃなくて、内閣がそれを全部握るのかという議論だけなんです。
 国家権力の諸権力の中でだれが一番偉いのかという、美濃部さんの解釈でいえば内閣が一番偉い。なぜならば、天皇が国家の元首であって、それを輔弼する責任は内閣だから。そして、あとはベターかどうかの話で、内閣のもとに民意があった方が、政党内閣の方がスムーズに、よりいいですよという話になるんですから。美濃部憲法学というのは、幾ら読んでも立法権、国民主権から話はいかないんです、内閣がどうであった方が国政がうまくいくかという話になっていますから。
 やはり権力というのが天皇の後ろにあったとは言いませんけれども、宙に浮いて権力というのはあって、その宙に浮いた権力の中のコアが何かということをみんなが議論し、対立してきたんじゃないかというふうに思います。
仙谷小委員 そこで、御指摘をいただきました大日本帝国憲法の五十五条「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」という規定なんですが、ここにも、今度は内閣総理大臣がまた一切出てまいりませんよね。つまり、天皇から扇状にというか、全部一本釣りを各大臣がされておるような規定の仕方になっておりまして、こういう形では、政治権力としても、あるいは実質的にも、内閣の一元性とか一体性とか、あるいは国務大臣として行政各部の代表である前に国務大臣であるというふうな解釈といいましょうか、あるいは運用というか意識というのは生まれてこないんじゃないんでしょうか。
坂野参考人 もう一度最後のところを言っていただいてよろしいでしょうか。
仙谷小委員 つまり、今の日本国憲法も、実際は、総理大臣、政治権力ができ上がったときに、そこで国務大臣としてまず任命する、それぞれの主任がなくてもいいし、あるんだ、こういう規定の仕方に今はなっているんですけれども、明治以降の伝統によって、霞が関の連中が、いや、何とか大臣はうちの代理人だ、代表だ、つまり、国務大臣である前にうちの代表だから、うちの利害を代表して閣議に行ってもしゃべってもらわなきゃいかぬし、交渉してもらわなきゃいかぬみたいな、そんな雰囲気というか、彼らの常識が残っているわけですね。だから、今の時代になってももう上げも下げもならない、もう絶えず大臣同士が角突き合わせて、進めなければいけない改革が進まないという事態に今立ち至っているんじゃないかと私は見ているんですけれども、それはどうもこの明治憲法の五十五条あたりに、意識の問題としては一つその原因があるんではないかという気がしてこういう聞き方をしておるんですが、いかがでございますか。
坂野参考人 私が五十五条の問題とかこういう問題をやっていく背後の関心としては、何で官僚、こんな権力を持っているんだろうという現代的な関心はあります。
 そのことに乗せて言いますと、明治二十三年の、二十四年に入りますか、第一議会で尾崎行雄が動議を出しまして、政府委員をやめて、藩閥政府の伊藤博文だとか松方だとか、直接予算でも法律でも説明しろと、政府委員廃止法案というのを出すわけですね。なぜ尾崎がそういう嫌みをやるかというと、官僚が政府委員として出てこないと、伊藤博文だとか松方だとか山県だとか、こういう人たちはアバウトな知識しかないから衆議院に勝てない。ところが、衆議院の方は、政府委員として出てくる官僚、局長あたりにかなわない。この関係があって、そこが最初からの問題、背後に官僚制があってという問題があります。
 だから、その点で意外と、僕は、実はそうじゃなくて、内閣全体として責任を持つという解釈改憲が随分行われたんだということを一生懸命言っているんですけれども、大もとに、この「国務各」の「各」というのは日本の伝統をつくっているんだということは背後にあります。
 私の立場は、それを言い続けて、今も同じだと言う格好の方がプロダクティブなのか、そうじゃなくて、そういうものを克服しようとした人たちがこんなにいたんだよということを言う方が好きかというと、私はやはり、明治からずっと日本はこういうふうに悪いんだよと言うよりは、こんなに変えようとした人たちがいたんだよと言う方が私は好きだというだけで、大もとはこの「各」の一字です。
仙谷小委員 その「各」との関係で申し上げまして、統帥権の独立性というのが最悪の事態を生んだ何がしかの責任があるんじゃないかと私も思っておるんですが、そういう天皇の名のもとにおける独立性というのは、司法権も独立をしている、これは当然のことながらしてもらわなければ困りますけれども、独立性を持っている。それから、検察官も職務遂行上の独立性がある、こういう言い方もあります。その伝でいくと、予算編成権の独立性みたいなものは、例えば今の財務省、大蔵省は物すごく強く意識に持っていまして、そのことがやはりある種の内閣の一体性なり、総理大臣のリーダーシップというか、政治権力の責任性を弱めているんじゃないかという気がしてならないんですが、その辺はいかがでございますか。
坂野参考人 最初の議会が開かれて十年ぐらいは、衆議院は政府原案つぶして、予算審議権を使って戦うんですけれども、だんだん政府に影響力を持ってくる。特にはっきりするのは、一九〇〇年の立憲政友会の成立ぐらいから官僚に対しても影響力を持ってくる。そうなりますと、政党というのは具体的に予算を動かせるようになる。すると何をやるかというと、同じことで、大蔵官僚と各省官僚とに全部つくってもらうということですから。
 私は調べたんですが、予算原案の採否の表をつくってみますと、一九〇〇年までは結構多いんですけれども、一九〇〇年で政党が中に入ってからは原案が否決されたことは一度もない。昭和になりますと、議会に予算審議権なんというのは要らないのだ、内閣にあるのだということを学者が本気で言い出すようになります。
 だって、与党がみんな内閣をつくっていますでしょう。それをオーケーして、実は与党の知らない原案が内閣のもとで出てきても、衆議院はそれに過半数を占めているのでオーケーするだけですから、政党内閣時代こそ予算に対する衆議院とか政党の影響力は、昭和に入るとがたっと減る。これは悲劇みたいなもので、参加しないと何もできないけれども、参加したら何もできないという。
仙谷小委員 ありがとうございました。
保岡小委員長 次に、平井卓也君。
平井小委員 どうも、きょうはお疲れさまでございます。もう私で最後ですので、あとちょっとおつき合いをいただければと思うんです。
 先ほどいろいろお話を聞いていて、仙谷委員の話、内閣官制の話なんかいろいろ見ていて、結局、明治の典憲体制というのは議院法、内閣官制、裁判所構成法のような憲法附属法規、それと皇室典範と帝国憲法ということになるんだと思うんですけれども、これはよく考えると、今も生きているようなもので、実は、現行の国会法とか内閣法とか公職選挙法というのは、かつての議院法、内閣官制、衆議院議員選挙法のまさに延長線上にあると見えるんですよ。そういう意味では、この古い帝国憲法というものはすごいかたさというか、将来に対するDNAの強さというか、今も生きているんではないかという見方は、先生、これはできないでしょうか。
坂野参考人 その話に行きますと、もうちょっと前に行くわけです。明治憲法をつくった人たちがそういう制度を導入したからそれ以後百年以上たっても日本の政治はそうなんだというのは、僕は無理だと思うんですよ。そうじゃなくて、むしろ、もっと、元禄ぐらいから、どこかからできたものを、日本人のその当時の慣習としてあったものを憲法体制でつくったんじゃないか。
 だから、例えば先ほどの仙谷委員の言われたような官僚制の割拠性の問題だって、多分、幾ら井上毅が天才だったって、あるときその制度をつくったらそこから先百二十年にわたって日本国民を支配しますというわけにはいかないと思うんです。だから、やはり、どちらかといえば、社会的、政治的慣習が先にあって、それの上に憲法が乗っかったと考える方がいいんじゃないか。もし委員の指摘のように、そのときに憲法をつくったからこうなったと言うんなら、今憲法を変えてこの制度を変えたら日本は根本的に変わるかというと、私は必ずしもそうは思わない。だから、制度が機能して定着するというときには、やはり国民性みたいなものも考えた方がいいんじゃないかなというふうに思います。
平井小委員 これも、私も考えていて、自分自身でもはっきりわかるわけではないんですけれども、何か、憲法を今後改正ということを考えていく中で、そういう明治の典憲体制の残滓みたいなものからの脱却というのもどこかに踏まえておく必要があるのかなと、これは個人的に思っているわけであります。
 それで、先ほどもちょっとお触れになりましたけれども、もう一つ、私自身が個人的に興味を持っている分野で、憲法でいえば七章、財政の問題なんです。帝国憲法と今の憲法の財政に関する考え方というのは大きく変わっているんですが、かえって今の憲法の方が硬直化しているんじゃないかという私は印象を持っているわけです。つまり、八十六条と財政法による単年度予算というのが、私自身は、この国がもっと柔軟に予算を運用できたらいいなというようなことで常々思っていたんですが、帝国憲法下における財政運営について、これはどんなような問題があったのかなと。
 議会は、減額修正はできるけれども、増額はそもそも許されないんじゃないですか。何かその当時の財政に関する問題点みたいなもの、これは、皇室経費とか既定費とか法律及び義務費、これはもう議会が関与できなかったわけですよね。緊急処分とか予算外支出が多用された。ある意味ではこれは好き勝手にできたというようなところもあるのかなと思ったりするんですが、帝国憲法下における財政的な問題点というのは、先生が御存じの範囲でいろいろちょっとお話を聞きたいんです。
坂野参考人 よくぞお聞きくださいました。
 私、憲法はそこから入ったものでして、二つ問題がありまして、一つは、前年度予算施行権というのがあります。だから、衆議院が否決してしまえば、議会は解散されるかされないかはともかく、前年度予算になる。前年度予算では政府というのはやっていけないですから、議会としてはそれは、前年度予算施行権というのは井上毅がすごい威張ってつくったものなんですけれども、全く役に立たない。
 もう一つは、六十七条というのがありまして、さっき説明しました天皇の四大大権、それに関係する費目は衆議院は勝手に否決してはいけない、政府の同意なくして否決してはいけないという、この条件もつくっているわけです。
 だから、割と政府としてはやりたい放題やるつもりでつくったんですけれども、財政の問題というのは、相手が参加意識を持ってくれないときには、憲法にどんな条文をつくろうと、全然役に立たないんです。だから、政党が政権を握るようになって統治に介入し出すと、予算問題というのは楽になるわけです。さっき仙谷委員の質問に。ところが、そうじゃないときは勝手にしろと。勝手にしろ、勝手に解散しろと。そうすると、全部前年度予算に戻ってしまいますから、政府としてはにっちもさっちもいかないんですね。
 その結果、非常に奇妙なことが、日清戦争が行われたときに、日本には二千万を超える歳入剰余金があった。だから、外債を使わないで日清戦争をやれたんです。なぜかというと、衆議院が毎年毎年予算を削減して、政府の方は減税を拒否していますから、だから、歳出の方は、衆議院が頑張ると、せいぜい前年度予算ですよ、全然ふえない。歳入の方は、貴族院が減税案を否決しますから歳入剰余があって、このときは日露戦争とは違って、日清戦争だけは外債なしで戦争できたというのは、そういう完全野党に対しての衆議院や政党に対して、政府の用意周到な財政法は役に立たない。
 全部体制派になってしまえば、今度は大蔵省が、昔のラジカルなころが懐かしいほど物を取り始めるわけですよね。だから、そこのところが、明治憲法の財政というのは実を言うとうまくいっていない。
平井小委員 この財政の問題はおもしろいですね、非常に。今回、この憲法調査会でも財政の問題を、これからの時代、大きく環境が変わっているので、また憲法の改正点の中にも、私自身はやはり何か考えなきゃいけないのかなと思うんです。
 私、もう最後です。先生、あと少しの時間がありますが、あと一言、きょう何か言い忘れたことはありませんでしょうか。何かありましたら、御自由につけ加えられて、きょうの私の質問の最後にさせていただきたいと思います。
 ありがとうございました。
坂野参考人 時間をいただいてありがたいんですけれども、さすがにちょっと疲れました。もうここらで勘弁させていただきたいと思います。
保岡小委員長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言ごあいさつを申し上げます。
 坂野参考人におかれましては、貴重な御意見をお述べいただき、ありがとうございました。小委員会を代表して、心から御礼を申し上げます。(拍手)
    ―――――――――――――
保岡小委員長 これより、本日の参考人質疑を踏まえて、小委員間の自由討議を行いたいと存じます。
 一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、小委員長の指名に基づいて、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いをいたしたいと存じます。
 御発言を希望される方は、お手元にあるネームプレートをお立てください。御発言が終わりましたら、戻していただくようにお願いいたします。
 発言時間の経過については、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせいたします。
 それでは、ただいまから御発言を願いたいと存じます。
 それでは、どなたも御発言がないようでございましたら、次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。
    午後四時二十七分散会


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