衆議院

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第1号 平成16年2月5日(木曜日)

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本小委員会は平成十六年一月二十二日(木曜日)憲法調査会において、設置することに決した。

一月二十二日

 本小委員は会長の指名で、次のとおり選任された。

      小野 晋也君    下村 博文君

      平沼 赳夫君    船田  元君

      森岡 正宏君    保岡 興治君

      綿貫 民輔君    大出  彰君

      小林 憲司君    計屋 圭宏君

      古川 元久君    増子 輝彦君

      赤松 正雄君    山口 富男君

      土井たか子君

一月二十二日

 保岡興治君が会長の指名で、小委員長に選任された。

平成十六年二月五日(木曜日)

    午前九時二分開議

 出席小委員

   小委員長 保岡 興治君

      小野 晋也君    下村 博文君

      平沼 赳夫君    船田  元君

      森岡 正宏君    綿貫 民輔君

      大出  彰君    小林 憲司君

      計屋 圭宏君    古川 元久君

      増子 輝彦君    赤松 正雄君

      山口 富男君    土井たか子君

    …………………………………

   憲法調査会会長      中山 太郎君

   憲法調査会会長代理    仙谷 由人君

   参考人

   (流通経済大学法学部教授)

   (九州大学名誉教授)   横田 耕一君

   衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君

    ―――――――――――――

二月五日

 小委員大出彰君同日委員辞任につき、その補欠として大出彰君が会長の指名で小委員に選任された。

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 最高法規としての憲法のあり方に関する件(天皇制)


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     ――――◇―――――

保岡小委員長 これより会議を開きます。

 この際、一言ごあいさつを申し上げます。

 選挙前に引き続き、小委員長に選任されました保岡興治でございます。

 小委員の皆様の御協力をいただきまして、公正円満な運営に努めてまいりたいと存じますので、何とぞよろしくお願い申し上げます。

 最高法規としての憲法のあり方に関する件、特に天皇制について調査を進めます。

 本日は、参考人として流通経済大学法学部教授・九州大学名誉教授横田耕一君に御出席をいただいております。

 この際、参考人に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたいと存じます。

 本日の議事の順序について申し上げます。

 まず、横田参考人から天皇制について、皇室典範その他の皇族関連法についても含め、御意見を四十分以内でお述べいただき、その後、小委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。

 なお、発言する際はその都度小委員長の許可を得ることとなっております。また、参考人は小委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。

 御発言は着席のままでお願いいたします。

 それでは、横田参考人、お願いいたします。

横田参考人 ただいま御紹介いただきました横田でございます。

 本日は、小委員会にお招きいただきまして話す機会を得まして、感謝しております。

 きょうは、天皇制について話すということでございますけれども、時間的な制約もございますので、特に憲法改正論議との関連で問題になるような部分及び女性の天皇の問題について述べることにいたします。

 憲法学界におきましては、天皇に関する規定の規範的な意味内容、憲法解釈上の議論は基本的に一九五〇年代に出そろっております。しかし、この天皇にかかわる問題というのは、裁判所で問題になることがまずありませんので、憲法上の論議はそのまま同じレベルで継続しているというように言えます。その上、一般的にも、天皇に関する論議というのは、各自があるべき天皇像というものをお持ちでございますので、戦前型の天皇制をいいと考える人たちから天皇制の廃止を考える人まで、それぞれのイメージが底流にございますために、冷静な議論というよりも感情的な議論が先行しますために、極めて議論がしにくい問題となっております。

 そして、現実的には、憲法上の天皇の問題というものは、規範の問題よりも、むしろ伝統ということにかこつけまして規範から遊離する、そういう運用がなされている実態がございます。そういう意味で、きょうは、その運用実態にもできるだけ目配りいたしまして話すように努めたいと思います。

 まず第一に、議論の前提について簡単に確認したいことが二点ございます。

 第一は、天皇条項というものが憲法において持っている意味づけでございます。

 大日本帝国憲法の天皇条項の位置づけと日本国憲法における天皇の位置づけというものは根本的に違います。大日本帝国憲法におきましては、憲法自体がその「告文」に言いますように、「皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニ」するということで成り立っております。すなわち、憲法以前に歴史的な天皇存在がございまして、したがって、その憲法の天皇条項の解釈におきましても、歴史とか伝統というものが非常に重要な意味を持っております。

 これに対しまして、近代立憲主義憲法の伝統の正統的な継承者とも言える日本国憲法は、いわゆる社会契約論を下敷きにしていると言えますために、天皇を含む国家機関は憲法によって明示的、限定的に与えられた権限、権能を国民から委託されているということになります。したがって、天皇条項というものは何よりも憲法規範に則して理解されなければならないということになります。

 第二に、大日本帝国憲法の天皇と日本国憲法の天皇は、その地位、権能、地位の根拠、いずれにおきましても根本的に異なっております。したがって、両者の天皇というのは、言葉は同じ天皇という言葉を使っておりましても全く別物であるという理解が生じます。これは横田喜三郎教授が唱えるところでございまして、私はこれを断絶説というように命名しております。ここでは、天皇制度の歴史的な伝統なるものは、無視されるか、あるいは否定されることになります。

 これに対しまして、日本国憲法の天皇制度は大日本帝国憲法の天皇制度を大幅に衣がえしたものであるとする連続説がございます。宮沢俊義教授などの理解でございます。この説では、伝統なるものは尊重される余地がございますが、しかしこの場合でも、天皇制度は根本的に変わっているとされますので、伝統というものも憲法条項に違反しない限りで認められる余地があるというにすぎない、そういうものにとどまります。

 それからまた、いずれの説にございましても、天皇に私なしとされた大日本帝国憲法時代の天皇とは異なりまして、天皇の公と私は厳格に区別されなければなりません。この公私の区別というものは、近代立憲主義の当然の前提であるということが言えます。

 そこで次に、日本国憲法の基本原則といわゆる象徴天皇制とがどういう関係にあるかということが問題になります。

 日本国憲法の三大原則というものは、御承知のとおり、通常、国民主権主義、基本的人権尊重主義、永久平和主義が挙げられております。これらの原則と象徴天皇制というものがどういう関係に立つかというのが基本的な問題でございます。

 まず第一に、国民主権原則との関係でございますけれども、天皇が国政に関する権能を持たず象徴として存在するということと国民主権原則は、直ちに矛盾するとは言えないかもしれません。しかしながら、少なくとも、世襲による天皇制度の存在は国民の主権者意識を希薄化する、そういう機能を有することは否定できません。そのことから、天皇を国民がいただいているといったような、あたかも主権者国民よりも上位に天皇があるかのごとき意識が生まれることになるわけでございます。

 第二番目は、基本的人権尊重主義との関係です。

 これについて、私は、岩波新書の「憲法と天皇制」ということで、両者がいろいろな点でぶつかる、そういう局面が多いことを指摘いたしましたけれども、少なくとも、世襲による天皇制度というものは、生まれによる差別、これを一切認めない人権思想とは相入れません。

 永久平和主義はさておいても、このように象徴天皇制度というのは憲法の基本原則と矛盾する側面を持っております。したがって、憲法を解釈する場合、基本原則が原則でございますので、基本原則に則して象徴天皇制度も解釈しなければいけないということになります。

 そこで、次に、憲法規範から見た象徴天皇制というものがどういうものであるかということでございますが、これはあらゆる憲法教科書が触れていることでありますし、諸先生方ももう周知のことであると思いますので、きょうは参考資料として芦部信喜教授の教科書の天皇に関する部分の抜粋をお手元にお配りしていると思いますけれども、これを適宜ごらんになりながらお聞きいただきたいと思いますが、私は留意点のみ指摘することにいたします。

 第一に、天皇の地位でございます。

 大日本帝国憲法では、天皇は統治権の総攬者、元首であり、これは憲法上明記されておりませんけれども、主権者であったというように言えます。しかしながら、現在の日本国憲法におきまして、主権者は日本国民であります。そして、天皇は日本国、日本国民統合の象徴ということになっております。

 そこで、象徴ということの意味でありますが、これはよく引かれますように、ハトと平和の関係をお考えになればよろしいわけで、具体的なものであるハトが抽象的な平和というものをあらわす、そういう象徴であるように、天皇は、日本国であるとか日本国民統合といった極めて抽象的な概念をあらわす具体物であります。憲法学におきましては、象徴ということは特別に法的な意味は持っていない、象徴だから敬わなければいけないとか、そういったような内容は持っていないものと解釈されております。

 次に、日本国民統合の象徴という点について、留意しておかなければいけない点を申し上げます。

 天皇は日本民族の統合の象徴ではございません。あくまでも天皇は日本国民統合の象徴でございます。日本は御承知のように多民族国家でございます。したがって、天皇は諸民族の統合の象徴というように考えられなければいけません。憲法問題を考えるに当たりまして、私たちは、日本国民ということと日本民族ということを同一視しないことが必要でございましょう。したがいまして、例えば文化という言葉を使う場合でも、日本の文化ということではなくて、諸文化の尊重という形で考えなければいけない、そういう問題だろうと思います。

 次に、日本国民統合という問題の、統合という問題でございますけれども、この統合ということは、日本国民を能動的、積極的に統合するというものではなくて、国民の統合というものを受動的に、受け身的にあらわすというように憲法学界では考えられております。佐藤功教授の言葉をかりますれば、鏡ということになります。例えば、国民がまとまっておればまとまった国民を映す、国民がばらばらであればばらばらな国民を映す、そういったものであるというように理解されております。

 次に、天皇の権能でございます。

 大日本帝国憲法におきましては、天皇は統治権の総攬者でございまして、立法、司法、行政、それらの権限を束ねていたわけでございます。しかしながら、現在の憲法では、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみ」を行うことになっております。いわゆる四条第一項、第六条、第七条に規定しておりますところの十三の国事行為、これを行うことができるだけでございます。

 そして、この国事行為の性質でございますけれども、これは、なぜそうなるかということについては議論が分かれておりますけれども、結論的に、その行為は形式的、儀礼的な行為であるということになっております。そして、この形式的、儀礼的な天皇の国事行為につきましても、内閣の助言と承認が必要であるとされております。ここで今、天皇の意思、天皇のイニシアチブ、こういったものが入る余地はございません。

 次に、天皇の地位の根拠でございます。

 大日本帝国憲法におきましては、天孫降臨の神勅、これが基盤になっておりました。しかしながら、日本国憲法におきましては、主権者である国民の総意ということになっております。したがいまして、例えば、より天皇に権能を持たせる、あるいは天皇制を政治的には廃止するということも国民の総意によって可能でございます。具体的には憲法改正ということによって行われることになりましょう。しかし、現在、国民の八割以上は現在の天皇制度に満足しておりまして、より権能を持たすべきであるという者やあるいは天皇廃止論は一割以下でございます。そういう意味で、現在の象徴天皇制は、最も安定している日本国憲法の天皇制度の一つであるというように言うことができるかもしれません。

 そこで次に、規範解釈上、これまでどういう論点が問題になったかということについて若干申し上げます。

 まず第一に、天皇は元首であるかという問題がございます。

 これは、従来の改憲をめぐる議論の中でも大変大きな問題であったように思われます。しかし、現在では、かつてと異なり、各国で元首とされているという人たちを見た場合に、その元首であるということから具体的にある権能が出てくるわけではありません。少なくとも、規範的には、だれが元首であるかということは大した問題ではございません。

 現在の憲法学における元首、これは芦部先生の定義も参照していただきたいのですが、第一に、内においては行政権の長である、外に対しては国を代表する、具体的には条約締結権を持つもの、これを元首と把握するわけでございますが、特に後者の、国を代表する、条約締結権を持つということが元首の定義の中核になって憲法学的には使われております。

 この定義によりますと、日本国の元首は内閣ないし内閣総理大臣ということになります。しかしながら、天皇も外国大公使を接受するという点で、代表の側面がわずかながらでありましてもありますから、これを一種の元首だと論じる者もございますけれども、あえてそうしたアクロバット的な解釈を行う必要はないように思います。憲法学界には、元首の概念がそもそも要らない、不要であるという見解までございます。しかし、天皇が元首だということにこだわる論者は、そうした法的な概念とは関係なく、元首という言葉が持っている過去の権威にこだわっておられるのでありましょう。

 繰り返しますが、仮に天皇を元首というようにしたところで、過去の元首概念の残像から天皇の権威強化には役立つかもしれませんけれども、法的には特に変わることはございません。

 第二に、日本国は君主国か共和国かという問題が同様に問題になります。

 この場合も定義が問題になりますが、君主の通常の定義は、第一に、世襲であること、第二に、名目的であれ統治権を持つこと、第三に、対外的に国を代表するということでございます。

 天皇は、一の世襲であるという要件は満たしておりますけれども、第二の統治権を持つとか、国を代表するという点では条件を満たしておりません。したがって、ここで言う君主ではございません。したがって、日本国を純粋の君主国と言うのは到底無理でございますが、逆に、世襲の天皇制度を持っておりますので、純粋の共和国と言うわけにもまいりません。無理にどっちであるかという分類をする必要は全くないのですけれども、あえて言うならば、世襲の象徴天皇を持つ共和国と言うのが妥当でありましょうか。

 次に、これが憲法学的には最大の問題でございますが、天皇の公的行為、いわゆる第三の行為が存在するかどうかという問題でございます。

 憲法は、天皇の行為を「この憲法の定める国事に関する行為のみ」に限っております。しかし、現実の天皇は、国事行為以外に、国事行為としては説明できない多くの公的な行為を行っております。例えば、国会開会式へ出席しおことばを読むとか、国内巡幸とか、国民体育大会、植樹祭、全国戦没者追悼式などへの出席、外国元首との親電交換、外国公式訪問、園遊会などでございます。

 これらの行為をどのように見るべきかについて、憲法学界では合憲説と違憲説がございます。

 まず、これらを合憲として容認する学説は、現在のところ、学界の多数説であると言えますが、その根拠は大きく言って次の三説に分かれております。

 第一説は、これらの行為の幾つかを国事行為に密接に関連する行為と位置づけ、国事行為に準じる準国事行為として容認するものでございます。

 この説では、例えば国会開会式でのおことばは国事行為である国会召集と密接に関連する行為として認められるということになりますけれども、他方、国民体育大会への出席などの行為が認められないことになります。この説については、国事に密接に関連する行為の概念がはっきりしないとの批判が出されております。

 第二は、象徴としての行為説でございます。

 この説は、象徴としての天皇が行為すれば、国事行為に属さないある種の行為も公的色彩を帯びることになるとして、これらを国事行為と区別される象徴としての行為とするものであります。

 かつては、憲法学界においてこの説が有力でありましたし、政府見解はこの立場に立っているように思われます。しかし、国事行為も象徴としての行為であるということや、この説では、象徴ではあり得ないとされる摂政の公的な行為を説明できないことになります。あるいは、天皇が象徴であるのは天皇が国事行為を行っているときだけだという立場からの批判もございます。また、この説でも、象徴としての行為の範囲に限定がなく、無限に広がっていく危惧がございます。

 そこで、近年有力になっているのは、公人としての行為説でございます。

 この説は、鉄道開通式へ知事さんや市長さんが出席することに見られるように、公人には、法的権能とは別に儀礼的、事実的、社交的行為が公的に認められるというものでございます。

 しかし、そもそも天皇の国事行為そのものが儀礼的、事実的行為のみでありまして、しかも、憲法はそれら儀礼的行為を第四条で、憲法の定める国事行為のみに限っていることから、ほかの公人の場合とは異なるとの批判が提起されております。また、この説にありましても、公人としての行為には限定がありませんので、無限に広がっていく危険性がございます。

 あと二者のいずれの説も、国事行為以外の天皇の行為を私的行為として野放しにすることの危険性から、これらを公的行為と位置づけることによって、内閣の統制のもとに置こうとする意図から出ている説でございます。しかし、現在の天皇制度において、天皇が独走するという危険性よりも、内閣が天皇を政治的に利用するという危険性の方が高いと言えますので、内閣の統制をこうした論理構成をとることによって意義づける意味は余りないのではないかというように私は考えております。

 こうした説に対して、否認説は、天皇の公的行為は国事行為に限られるとして、これら行為を端的に憲法違反であるとするものであります。私もこの違憲説に立ちます。したがって、天皇は現在行っているような国事行為以外の公的行為を中止すべきである、やめるべきであると考えます。もちろん、この説に対しては、それは非常識だという批判が投げかけられております。しかし、その場合、そこで言う常識というのは一体何なのかということを疑ってみる必要があると私は考えております。

 しかし、仮に容認説ということに立つといたしましても、それでは公的行為が無限定的になる危険性があるということは先ほど申しました。他方、これらの説の意図する内閣の統制というのも、現在のような形でありますと、国事行為の内閣の助言と承認による統制よりも随分と緩和される形になっております。したがって、もしある種の公的行為を容認するという立場をとるならば、端的に憲法を改正いたしまして、これら行為を明確に容認し、同時に内閣の助言と承認の縛りも明確化することが望ましいと言えます。

 この点に関連いたしまして、鵜飼信成教授が英文日本国憲法に着目し、そこでは、憲法第七条十号が、現在は「儀式を行ふこと。」となっておりますけれども、英語では「Performance of ceremonial functions.」すなわち儀礼的役割を果たす、そういうことになっていることを指摘されておりますが、この点も、もし憲法を改正するということを考えた場合には、何らかの参考になろうかと思います。

 次に、現在の天皇制度において公私の区別が必要であることを冒頭に申しましたけれども、現実の天皇制度の運用においては、幾つかの点で公私の区別が極めてあいまいになっております。二つの例を挙げます。

 まず第一は、皇族のいわゆる公的行為なるものでございます。

 そもそも皇族は憲法上の概念ではありませんで、皇室典範が皇位継承権者とその家族について用いた用語にすぎないはずであります。なぜこのような皇族が、天皇についても極めて疑問の余地がある、あるいは議論の余地のある公的行為を公務という名目で行い得るか、憲法からは到底説明ができません。象徴は天皇に一身専属的なものとされておりますから、象徴行為説をとるわけにはいきません。また皇族は、法的には国家機関としての公人ではございませんから、公人としての行為説もとり得ません。

 次に、政教分離原則に違反する疑いが濃い皇室祭祀へ公あるいは公務員が関与している問題がございます。

 皇室祭祀を助けるものとして、私的使用人として掌典職がれっきとして存在しております。また、皇室祭祀にも充てられるものとして、私事に用いられる内廷費が国庫より支出されております。

 他方、憲法は政教分離原則をとっておりまして、国が宗教的活動を行うことを禁止しております。本日は触れませんが、私の理解では、これは大日本帝国憲法時代の反省から、とりわけ、天皇が公的立場で神道にかかわることや国が皇室祭祀にかかわることを禁止しているものと理解されます。

 ところが、現実には、皇室祭祀に国や公務員が過度にかかわっております。例を挙げれば、国家公務員たる侍従による宮中三殿への毎朝御代拝、毎朝お参りするわけですね。あるいは掌典職の部屋が宮内庁の建物内にある、あるいは大嘗祭への公金の支出、こういったものでございます。これらが違憲であるかどうか、これを仮に置いておくとしましても、公私の区別があいまいになっているということは言わざるを得ません。

 次に、公的な天皇存在が持つ国民統合作用でございます。

 さきに話したように、憲法規範的には、天皇には国民を統合する作用は期待されていませんけれども、現実の天皇は、社会的に国民を統合する機能を果たしており、また天皇制度を維持すべきだとする者の多くも、天皇が国民を統合する機能を果たすことを期待しております。また、それが歴史的な事実であるかどうかは別として、歴史的な天皇は、基本的には権威として存在し、権力者ではなかったと論じる論者の多くも、天皇の存在意義を人々を統合する点に認めていると言えます。

 これから述べる点は、時間的制約もございますので、要点のみ簡単に申し上げます。詳しくは、お配りいたしました私の論考の「天皇の存在意義」を御参照いただきたいと思います。

 そもそも大日本帝国憲法、少なくとも、形式的には天皇に強大な権力を認めた大日本帝国憲法時代にありましても、憲法制定者の期待する天皇は、権力を振るう天皇ではなくて、国民を統合する天皇であったと言えます。

 これは、憲法制定時に枢密院で伊藤博文が述べた言葉によく示されております。彼はそこで、ヨーロッパにおいては宗教というものがあって国を、国民をまとめているけれども、日本では宗教は国をまとめることはできない。日本において人心を帰一させるものは、すなわち国民をまとめるものは皇室だけであるということを述べておりますけれども、伊藤博文が近代国家日本を天皇を軸として、統合軸として形成しようとしたものであり、またその点では見事に成功したというように言えると思います。

 その際、天照大神の子孫として位置づけられた天皇を統合軸として権威化するために、神道が特別なものとして取り扱われ、皇室祭祀が国家祭祀として重視されたことは言うまでもございません。

 また、臣民の義務とされた学校教育におきましても、その指導理念たる教育勅語は、なんじ「臣民克ク忠ニ克ク孝ニ」と天皇に対する忠義を強調するとともに、「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ」云々という徳行、そういうものを通じて「以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」として、天皇に役立つ人間になることを教え込んだと言えます。また、天皇をたたえる歌である君が代を通して、天皇による国民の統合を図ったのでございます。

 さて、そこで、日本国憲法における天皇の国民統合作用はいかなるものであるかということになります。

 日本国憲法では、天皇はもはや主権者ではなくなり、国民が最高の存在となり、また政教分離原則によって、公的な天皇と神道との関係は断ち切られました。そして、天皇は統治権の総攬者たることをやめたばかりか、憲法は天皇に国政に関する権能を認めず、その結果、一見、天皇は政治とは関係のない存在のように見えます。しかし、天皇は、その存在すること、行動によって国民を統合するという社会的機能を実質的には果たしており、その意味では高度に政治的な機能を果たしてきたというように言えます。

 国民意識におきましても、国民の多くは天皇に対して従来どおりの意識を持ち続けてきた、このことが天皇の国民統合作用にあずかっております。

 あるいは、政府におきましても、天皇をあたかも大日本帝国憲法時代の天皇と異ならないかのように装ってまいりました。すなわち、天皇を権威あるものとして、あるいは元首であるかのごとく処遇してまいりました。

 幾つかの例を挙げますと、例えば、内閣総理大臣の任命の助言と承認、この文書におきまして「右謹しんで裁可を仰ぎます。」といったような文章を使ったり、あるいは天皇の署名捺印、これを天皇の名前、印とせずに、公式の文書では御名御璽という形を使うとか、あるいは元首として見せかける。これは全権委任状であるとか大使、公使の信任状、こういったものが、あたかも天皇が出したかのような体裁になっている。これは資料をごらんになればおわかりになるところでございましょう。

 それからまた、外国大使の信任状の名あて人、これは本来、条約締結権を持っている内閣にあてるべきものでございますが、その名あて人が天皇になっている。しかも、天皇に対してそれを提出するという慣行を政府はそのまま行っております。

 それから次に、象徴として天皇が存在するということ自体も国民統合にあずかっております。多くの人は、この象徴にいろいろな意味を入れます。例えば、文化の中心であるとか道徳の中心であるとか、そういうことも天皇の神聖化あるいは統合作用にあずかっております。

 また、天皇が世襲であるということ、ここでは当然に伝統というものが強調されることになり、そして大嘗祭に見られるように、神道儀式というものも半ば公式化されることになります。

 また、象徴の場としての国事行為、これも、形式的、儀礼的行為も、天皇が、例えば内閣総理大臣を任命するとか栄典を授与するとかいうことを行うわけですから、これは天皇の権威、そういう要素を持っております。

 それから、象徴の場を補充するものとして、先ほど申しました公的行為、これもございます。

 それからまた、天皇の私的行為でございましても、従来の天皇が持っているイメージがございますので、国民にとりましては、国民を統合する役割を果たしております。

 このように、日本国憲法下の天皇は、これまで国民を統合するというすぐれて政治的機能を果たしてきたものの、ここに来て天皇の統合力の希薄化が一部に問題にされております。

 天皇、皇族は、現在のところ、国民の大方に支持され敬愛されておりますけれども、昭和天皇に対する国民の意識が、恐れ多いとかありがたいというものであったのに対して、現天皇や皇族に対する国民の意識は、スターに対する意識のようなものになっているのではないかというように、特に天皇制度を護持すべきだとする論者の一部は危惧しております。

 スター的人気は移ろいやすいもので、軽薄なものであります。しかし、国民を統合することが期待されている天皇に求められているのは権威であります。ましてや、天皇に無関心である若者たちがふえていることは、天皇の国民統合力に疑問を投げかけております。いわゆる左翼からではなくて、若手の保守的論者から天皇抜きのナショナリズムということが語られる今日の状況でございます。

 天皇の権威の底流にある伝統を、天皇制護持論者たちも崩しているように思われるのは、極めて皮肉な現象でございます。

 神武天皇が即位したとされる紀元節を表面では否定した建国記念の日の制定、天皇が時をはかり、時を決めるとされた元号を、元号法によって内閣が決めるという形で、天皇の伝統的な権限、権能を奪ってしまった元号法の制定、それから、天皇を神格化する重大な神道儀式であると私は考えます大嘗祭を、新嘗祭と同様の国家国民の安寧と五穀豊穣の感謝祭にすりかえた大嘗祭の定義、あるいは天皇の長寿をたたえ、皇室の御栄えを祈る歌であるはずの、教科書においても大日本帝国憲法時代、国歌ではなくてあくまでも君が代とされてきた君が代を、天皇を象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念した歌として国歌とした国旗・国歌法、あるいは天皇のために死んだ英霊を合祀する靖国神社から神道を払拭しようとした靖国神社法案、こういう天皇の権威の足元を崩す行為が続いております。

 ともあれ、これまでよかれあしかれ機能してきた天皇の国民統合作用は、徐々に消失しつつあるように思われます。それは、女性天皇の問題と関連するために、るる私は申し上げたわけでございます。

 時間がございませんから、このあたり大幅にはしょります。大事なところだけ重点的に申します。

 次に、女性天皇の問題に入ります。

 現在、皇室典範は法律です。したがって、憲法よりも下位にあります。したがって、憲法に矛盾する内容、これを皇室典範は持つことはできません。

 そこで、憲法はその第二条で、皇位は世襲であるということを定めて、その詳細は皇室典範に委任しております。

 周知のごとく、大日本帝国憲法はその第二条で「皇男子孫之ヲ継承ス」と定めて、皇女子孫の皇位継承を否定しておりましたけれども、現在の憲法は世襲とのみ定めるにとどまっております。

 これについて、ここで言う世襲というのは伝統を踏まえているのであるから、当然に皇男子孫による世襲を意味しており、もし皇室典範で女性の天皇や女系の天皇を認めるとするならば、それは違憲になるとの説があるようでございます。この説では、女性天皇を認めるためには憲法改正が必要であるということになります。

 しかし、新旧天皇制度の断絶説によらずとも、仮にここで連続説をとったとしましても、世襲をそのように限定的に解釈する必要はないばかりか、限定することは妥当でございません。仮に伝統なるものを重視するとしても、過去に女性の天皇は存在したのであって、世襲をそのように限定することは誤りと言えます。

 したがって、憲法は、皇位は選挙等によって継承されるのではなく、日本国憲法の最初の天皇との血のつながりによって継承されるとのみ述べているのであって、それより詳細は皇室典範に任せたものと解しなければいけません。

 そこで、憲法十四条が男女の平等を定めたということと現在の男系男子による継承との関係が問題になります。これは時間がありませんので、本筋にはきょうは当たりませんので、省略しますが、私は例外は、原則に関する例外は最小限度でなければならないという冒頭申しましたこととの関連で、女性の天皇を認めていない現在の皇室典範は憲法に違反するというように考えております。

 それはともあれ、女性天皇、女系天皇を否定する理由を整理してみますと、次の四つの理由があると思います。

 私は、これについては、ちょっと一つ落としまして、第四として、技術的問題というのをつけ加えたいと思いますけれども、私はこれらの理由は合理的な理由がないということから憲法違反であると言っているわけです。

 第一は、言うまでもなく、伝統ということから女性の天皇、女系の天皇に批判的な立場がございます。第二は、女性天皇に違和感を感じる国民感情からの反対論がございます。第三に、女性は政治に向いていないとか、男性に引きずられがちであるとか、女性の能力や機能を問題にする反対論がございます。第四は、女性天皇の配偶者の選定や処遇で複雑な問題が生じるとか、女系を認めなければ一代限りになるとかいった、いわば先ほど言いました技術的な問題からの反対論でございます。

 私は、これらはすべて理由はないと考えます。例えば、女性の能力や権能からの反対論、これは男女差別の最大なものでございますし、国民感情、これは現在国民の多くが女性天皇を支持しているという点、それから、例えば技術的問題、この問題も簡単にクリアできると思います。

 だが、問題は、伝統的な点からの反対、これだろうと思います。

 そこで、仮に男系男子に皇位継承権を限ったことが憲法違反でないとしても、女性天皇を認めた方がいいという見解は当然あり得ますが、これについてどう考えればいいかということです。

 先ほど言いましたように、女性天皇や女系天皇を認めるに当たっては、憲法二条に手をつける必要はございません。単純に皇室典範一条を改正すれば足りるのであります。そして、女性天皇や女系天皇を認めた場合、その他の皇室典範の条文の変更も必要でありますけれども、この場合も、男女の平等原則に立脚すれば、規範的にはさほど困難な問題はありません。困難性が生まれるのは、男性優位とか男系優位とかいった原則をとった場合、この問題は議論が極めて複雑になってまいります。

 そこで、男女平等原則に立った場合の皇位継承に関する内容を簡単に述べてみます。

 女性天皇や皇族女子と結婚する男性の選定や取り扱いをどうするかについては、天皇や皇族男子と結婚する女性と同様に扱えばいいわけで、それ以上何もございません。男女の役割分担や男女の優劣や男性の氏に入るといった家制度を重視するから、問題が複雑になってくるのです。ただ、女性天皇の配偶者の敬称を何とするか、そういった問題が出てきますけれども、これは本質的にどうでもいいことでございましょう。

 次に、皇族女子が皇族身分を離脱する規定、典範十二条でございますが、これは当然削除することになります。

 それから、皇族が増大するではないかという問題は、皇室典範十一条第二項の皇族身分の離脱、この条項を使って処理できます。すなわち、「やむを得ない特別の事由」、これによりまして、一九四七年の、皇族身分が離脱されておりますけれども、このときのように「皇室会議の議により、皇族の身分を離れる。」という形で、皇族が増大し過ぎるということはチェックできるわけでございます。

 それから、皇族女子の継承順位でございますが、これも難しいことを言わずに、男女平等原則にのっとって第一子にすればよろしいわけでございます。もし男性優位ということになりますと、極めて複雑になってまいりまして、後から男の子が生まれた場合に順位が変わるというように、不安定になってまいります。

 問題は、しかし、伝統との関係です。法的観点からはこのように女性天皇がすっきりと割り切れたといたしましても、歴史的な天皇の伝統、すなわち、特に女系天皇が存在しなかったということを重視する者からは強固な反対が残るでありましょう。

 そこで、伝統なるものを重視して、女性天皇を認めるとしても例外的で、しかも男系女子の天皇しか認めなかった場合はどうなるか。

 この場合、男系女子の天皇はつなぎにすぎませんから、この天皇について、まず結婚を認めないか、結婚するとしても皇族男子と結婚するか、その場合は男系にも属する子供には皇位継承権を認めることになります。第三に、子供には皇位継承権を認めないか、いずれかであります。

 しかし、結婚を認めないのは、いかに天皇に人権を認めない解釈上の立場からしても不当でありますし、皇族男子との結婚は近親結婚になるおそれがある上に、そもそも適当な皇族男子がいない場合には問題になりません。子供に皇位継承権を認めないのは、男女平等原則違反はおくとしても、皇族男子不在の場合には、ここでは皇位継承が絶えることになります。

 したがって、伝統重視は、極端な場合、天皇制度の消滅にも耐えなければならない議論であります。

 そこで、男系にこだわり、しかも天皇制度断絶のリスクを回避するためにはどうすればいいか。

 第一は、一九四七年に皇族身分を離れた旧皇族の皇族への復帰でございます。しかし、それ以来五十年以上経過した今日、それは到底無理です。それこそ国民感情からいって同意は得られません。

 第二は、過去の天皇制度や旧皇室典範時代と同様に、嫡出でない男系男子にも皇位継承権を認める方法でございます。しかし、非嫡出子差別を批判する者を含めて、こういうものを認める状況は今日もはや失われておりましょう。

 そうであるならば、天皇制度の断絶のリスクを回避するためには、将来的には、伝統を捨てて、男系女子のみならず、女系男子、女系女子を認めるしか方策はございません。それは伝統的な天皇制度ではないと言っても、どうしようもございません。

 そこで、最後の問題になりますが、しかし女系天皇を認めるということは、社会的に天皇の持つ国民統合力を弱めるように働く可能性が高いということは、やはり問題として指摘しておかなければいけません。

 天皇の権威の基礎は、基本的に男系による万世一系の血統にあると考えられます。こうしたいわゆる神聖家族にあっては、婚姻によって神聖でない血統が入ることによる神聖性の希薄化は避けなければならない問題であります。

 参考資料として配付いたしました資料にありますように、福沢諭吉は「尊王論」なる論文の中で、皇族男子が皇族、貴族でないいわゆる一般女性と婚姻することの問題性を指摘しております。ましてや、男女差別意識が残存する日本において、一般男子との婚姻による血のとうとさの希薄化というものは、よかれあしかれ、より一層進展するに違いありません。それは同時に、天皇の国民統合力を弱めることが予想されます。

 以上、甚だ不十分でございまして、大変急ぎましたけれども、私の問題提起というお話として終わらせていただきます。終わります。(拍手)

保岡小委員長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

保岡小委員長 これより参考人に対する質疑を行います。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。森岡正宏君。

森岡小委員 私は自由民主党の森岡正宏と申します。

 参考人におかれましては、いろいろな御意見をお聞かせいただきまして、私も参考になりましたし、本当にありがとうございました。

 しかしながら、横田参考人と私とでは、天皇制についての基本的な考え方に随分開きがあるなという思いを持たせていただいた次第でございます。余り時間がございませんので、私は女性天皇、女帝をめぐる問題を中心に質問させていただきたいと思います。

 私は女帝否定論者ではございませんけれども、慎重にその道を開くべきだという立場でございます。それだけに、先ほどお話ございましたように、憲法の下位法である皇室典範で皇位継承は男系主義をとっていることが直ちに憲法第十四条違反だとする横田参考人の御主張には、異を唱えざるを得ないところであります。日本国憲法第一条、第二条と第十四条とは何ら矛盾しないと私は思います。天皇は世襲だとする天皇制自体が平等原則の大きな例外になっているからでございます。憲法が認めている例外的な制度に対し、一般的な平等原則を持ち出して裁断することは適当ではないのではないでしょうか。世襲制に合理的に伴う差別以外の差別は認められるべきではないとする参考人の主張には無理があるのではないか、そんなふうに思います。

 天皇は、私たち国民から見れば、敬愛する存在、仰ぎ見る存在。親しみを持つことはいいことでございますけれども、天皇は友達だというわけにはいかない、特別な存在でございます。一般的な平等原則を持ち出すと、天皇制そのものが、先ほど神格性の希薄化という言葉をお使いになりましたけれども、そういったものが崩れてしまうのではないでしょうか。その点、もう一度御意見をお聞かせいただきたいと思います。

横田参考人 確かに、おっしゃったような見解が憲法学界でもむしろ通説でございます。だから、私が申しました皇室典範第一条の男系男子の継承が憲法第十四条に違反するというのは、極めて少数説であると言ってよろしいかと思います。

 ただ、なぜ私のような見解が出るかということの方法論は、冒頭に申しましたように、伝統というものをどのように考えるか、原則というものをどれだけ重視するかということから出てくる問題でございます。しかし、御指摘のとおり、私の議論が先生の議論あるいは学者の通説と異なる、この点は認めます。

森岡小委員 先ほど参考人は、平等主義の立場から女系主義を容認してもいいんじゃないか、そういう立場をお述べになりました。御案内のように、過去において女帝は十代八人おられましたけれども、いずれも寡婦または独身であったこと、適当な皇男子が存在しなかった場合の緊急避難措置であって、皇統が男系から女系に移ったことはなかったと承知しております。

 今、仮に女帝を認めるとしても、日本国民の意識が女系を認めるところまでいっているんだろうか、国民の意識はそこまでいっていないんじゃないか、私はそんなふうに思うわけでございまして、今日まで連綿と男系男子の伝統、歴史が続いてきた日本で、女帝は認めても、女系主義を認める議論が熟しているとは言えないのではないでしょうか。その点、御感想をお伺いしたいと思います。

横田参考人 私は女性天皇を認めればいいということを申し上げたわけではございません。女性天皇を認めることは憲法上何ら問題ないし、むしろ憲法の趣旨に即しているであろうということを、そういう客観的な解釈として申し上げたわけでございます。

 それから、後の方の見解でございますが、まさに私は、伝統的にいうと、そういうものであればこそ、女系の天皇を認めた場合には従来の天皇観が崩れるであろうということを最後に指摘したわけです。ただし伝統論者は、ではどうするんだという問題が投げかけられても、その緊張関係を、伝統論者はきちっと向かい合う、そういうことが必要であろうと私は思っております。

森岡小委員 もう一点、私は指摘したいんですけれども、皇室典範第十条で、天皇の婚姻には皇室会議の議を経ることが必要だ、こう書いてございますけれども、参考人のお書きになったものを読ませていただきましたら、これに異を唱えておられるということでございます。

 外国の王位継承者が結婚される場合は、ほとんど国王の承認とか国会の同意が必要となっているようでございます。私は、日本でも女帝を認めるとなれば、その配偶者にどんな人がなるのか、これも大変重要な問題だと考えております。一般国民と同じように、両性の合意のみで婚姻できるということになりますと、その配偶者に外国の人も可という結論になるんじゃないか、それでいいんだろうか、国民の意識としてそれでいいんだろうかと。

 また、私は憲法第一条の「天皇は、日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」という言葉をかみしめるときに、差別主義だなどという次元ではない、日本という国のアイデンティティーにかかわる重要な問題だということを指摘したいと思うわけでございます。その点について、参考人の御意見をお聞かせいただきたいと思います。

横田参考人 私の議論は、あくまでも、先ほど、同じ方法論に立ちまして、憲法の基本原則からの逸脱については最小限度合理的な理由がなければいけないということを申し上げまして、なぜ婚姻制限をしなければいけないかという議論については、これはちょっと合理性がないのではないかという点でそれを書いたわけでございます。例えば、どこの生まれの者であるからけしからぬとか、そういうことはおよそ反対の理由として日本国憲法のもとでは成り立つべきではないと考えるからであります。

 それから、当初、天皇が日本国民統合の象徴であるということは、あくまでも国民統合の象徴であるということを私は強調いたしました。日本民族の象徴としての伝統的天皇でございますならば、日本民族であり、そして日本民族の文化であるとか、そういうものを受け継いだ人でなければいけないという要請が生まれてくる、そういう可能性はあります。

 しかしながら、日本国民には現実にさまざまな民族がいます。さまざまな民族から成っている日本国民統合の象徴が、例えば色が真っ黒い、色が真っ白い、そういう天皇であっても、日本国民統合の象徴としては、むしろそれが今後の日本としてはふさわしいとまで言える問題でございます。

 それは、確かに伝統的な天皇像とはかけ離れます。だから、伝統的天皇論者からすると、これは絶対に認められないことでございましょう。ただ、日本国憲法の規範的な、日本国民を統合するというレベルからいいますと、そういう問題は表には出てこない、憲法論としては出てこない問題だと私は考えております。

森岡小委員 先ほど来のお話を聞いておりますと、私はこの天皇制の維持ということに大変危惧を覚えるわけでございまして、私は、もし女帝を認めるということになっても、女系主義をどう考えるのか、そして女帝の配偶者の取り扱いをどうするのか、この二点についてやはり心配があるな、慎重な議論が必要だなという思いを、参考人のお話を聞きまして、深くさせていただきました。

 改めて参考人の御感想を伺って、質問を終わらせていただきたいと思います。

横田参考人 私は、森岡先生がおっしゃることは非常によくわかります。であるけれども、そういう伝統論を、もし象徴天皇制度を維持しようとする場合、護持できますか、護持する状況にありますかということも踏まえて護持論者はやはり考えなければいけないということをきょう申し上げたつもりでございます。

森岡小委員 どうもありがとうございました。終わります。

保岡小委員長 次に、大出彰君。

大出小委員 民主党の大出彰でございます。よろしくお願いいたします。

 最初に、君主に主権があるのか、あるいは国民に主権があるのかという意味で、主権の概念というのは大変重要だと私は思っておりまして、特に日本国憲法の場合には主権がどこにあるのか。

 定義はいろいろございます、概念もございまして、いわゆる統治権であるという解釈、あるいは最高独立性、あるいは国家意思の最終決定権という意味合いがあると思いますが、憲法改正あるいは今の状況の中で、主権概念は要らないのだとおっしゃる方々がおられるんですね。その理由が、ジャン・ボーダンみたいな形の絶対主義を正当化するために主権論争が行われてきたのであって、今の時代では要らないんだという方はかなりおられるんですね、最近になって。私は主権が重要だと思うのですが、その辺についてどのようにお考えか、お聞かせください。

横田参考人 私はやはり、特に今の日本におきましては、もともと主権概念は、君主主権というものが大前提になっていたときに、それに対抗する形で、国民主権であるとか、そういう形で提起されてきたわけでございますね。

 したがって、そういう意味におきましては、今、象徴天皇という形であれ、主権者であった天皇が、天皇という名前の者が現在も存在している、こういう日本の状況におきましては、天皇ではなくて国民が主人公なんだ、国民が偉いのであって、国民のもとにつくられた内閣総理大臣や国会の議長さんや天皇が偉いのではないんだということを強調することは極めて重要であると考えております。

大出小委員 私も、戦争が終わって僕らは生まれたという世代でございますので、そのように考えておるんです。

 先ほどからいろいろな、自民党さんの方の議論からありますように、歴史的な伝統あるいは宗教という連続性というものを強調する、例えばエドモンド・バークなんかがそんなような、過去との連続性みたいなことを言いますけれども、そのことを最近とみにいろいろなところで主張なさっている方がおられまして、私からすると明治時代の、ちょっと時代錯誤ではないかと思うんですが、かなりそういう意見が強いんですね。

 そんな中で、今の主権論争と同じように、当時、明治時代には、学者の中では穂積八束さんだとかあるいは上杉慎吉さんだとか、そんな方々がかなり絶対主義的な、明治憲法の中においても天皇の絶対性みたいなものを強調した、そんなことがありましたね。

 今申し上げたような連続論という最近の口調を聞いていますと、ついつい、井上毅さんのような考え方をちょっと思いつくんですね。今おっしゃっていることは、ひょっとすると、ノモス論といいますか、ノモス説みたいなことなのかなと実は思うんですね。

 というのは、井上毅さんが強調したのは、いわゆる治す(しらす)議論というのがございますね。治す(しらす)とそれから領く(うしはく)議論というんですか、とうとい方が、天皇の方々が領地を治めるのは治す(しらす)であって、そうでない、大国主命が占領するのはいわゆる領く(うしはく)である、こういう議論でございますね。

 私は、先ほどの主権概念などは要らないんだというような意見だとか、あるいは領く(うしはく)議論といいますか、伝統を重視するという考え方というのは、基本的にはどうもノモス説といいますか、主権に対するノモス説ではないかと思うんですね。ノモス説というのは、簡単に言えば、私の理解で言えば、あらゆる権力が越えてはならない正しい筋道があるみたいな、こういう意見だと思うんですが、それが要するに天皇であるということにつなげたいんだと思いますが、その部分はちょっと違うのではないかと思っております。

 それと同時に、明治憲法下におきましても、伊藤博文さんなんかが、例えば、ウォルター・バジョットさんの「イギリス憲政論」というのがございますが、あるいは福沢諭吉さんの「帝室論」というのがございますが、そういった、まさに立憲主義、君主であっても憲法に従わなければならないのだという、このことが重要なのではないかと思いまして、今の流れの中でどのようにお考えか、お聞きしたいのです。

横田参考人 ちょっと御質問の趣旨というのがとりにくいところがございますけれども、私は、先ほどから申しておりますように、憲法規範的には全く大日本帝国憲法の天皇と今の天皇とは違うわけでありますから、仮に連続であるということを考えましても、ずぶずぶの伝統的な天皇像がそのまま続いているというように考えるべきではないというのが規範的に言えるわけでございますね。

 ただ、もちろん、冒頭にこれも申しましたように、この問題には、みずからが持っております天皇像、望ましい天皇像というのがどうしても入ってくるわけです。それで、先ほど、これは森岡先生の場合はそうお考えになっていないかもしれませんが、それを許す余地が、例えば憲法第二条の「世襲」という言葉、この言葉にはあるわけですね。だから、森岡先生の言うように、連続しているものがその中に含まれる、そういう解釈をとること、これは解釈論上全く不可能ではないわけです。

 そういう形で、現実的には、皆さん方もそうですが、大方の国民は、憲法規範と関係なく、昔の天皇がちょっと形を変えて戦後続いてきた、そういうように考えておりますし、政府のさまざまな慣行も戦前の天皇がやっていたことをそのまま、余り目立たない形で、問題になるのはおくとして、目立たない形で続けていこう、あるいは、さっき申しました外交文書におきましても旧来の文書をそのまま使っていこう、こういうことをやっておりますから、だから、意識の中で、これは戦前のものと続いているという意識が残っていくのは、これは私は当然だと思います。

 ただ、私は、それが間違っているという立場において違っているだけでございます。

大出小委員 私もそのように考えておりまして、象徴天皇制を残していく必要があるだろうと思うときに、先ほど森岡さんたちの逆の意味の御心配があるかもしれませんが、今天皇制というのは百二十五代続いておりますよね。その中で、八人の女性が十代やっておられるんですね。

 ただ、御心配なのは、男系でなければならないとおっしゃる方がおられるんですが、確かに、十四条の例外であるということで、憲法に書いてあるわけですから、基本的には、護憲主義者でございますから、立憲主義者でございますので守ろうと思っていますが、根本的には、君が代を国歌化したときから思うんですが、それを余りやり過ぎると逆になくなるのではないかという懸念がございまして、そこの意味で、今の一般の方々は、女性が天皇になって何で悪いんだというのが普通だと思うんです。そういう意味で、私は、やはり女系天皇でも構わないんではないかという思いを強く持っているところでございます。

 そして、あくまでもやはり主権論争にこだわりたいんですが、主権は私たち国民にあるというふうに思っておりまして、その中で、新たないろいろな改憲議論がありますので、九条だけではなくて主権の部分でも、どうも変えたがっておられる方がおられるわけでして、その意味で、最後の質問になってしまいますが、先ほど言ったエドモンド・バークみたいに、長く連続的に続いているんだということからいけば、今の憲法はもともと、改正の限界がないか、あるいはあるかは考え方があるかもしれませんけれども、欽定憲法ではないのかという議論についてはどのようにお考えかお聞きをして、質問を終わります。

横田参考人 私は基本的に、宮沢俊義先生と同じで、法的な断絶があると考えておりまして、ああいう初めについている文章等々は全く不要である、また、憲法制定手続自体も問題であった、しかし、憲法自体は成立している、憲法の正文について考えればいいというように考えておりますので、欽定憲法という考え方はとりません。

大出小委員 ありがとうございました。

保岡小委員長 次に、赤松正雄君。

赤松(正)小委員 公明党の赤松正雄でございます。

 本日は、大変に刺激に満ちた参考意見、ありがとうございました。参考人のさまざまなお書きになったものを事前に読ませていただいて、私は、このたぐいの一連のものの中でこんなおもしろいものをかつて読んだことがないというふうな印象を受けました。そういう感想を述べさせていただいた上で、幾つか聞かせていただきたいと思います。

 今の憲法の規定からすると、要するに、まず国民があって、国会があって、内閣があって、天皇が来ると。憲法の論理に最も適合的な序列からいくと、今言いましたように、国民そして国会、内閣があって天皇だ、こういう規定づけをされておりますけれども、現実、私たちの身の回りに展開していることは逆というふうに印象として受けますけれども。

 先ほどの冒頭のお話の中で参考人は、今、そういう憲法の論理に最も適合的な序列により一層忠実でない一つの原因として、天皇の公的行為なる第三の行為というものを否認されている。要するに、天皇の公的行為は憲法に定められた国事行為のみということに限定をより一層忠実にすべきであって、言ってみれば、天皇の行為について、スリム化というか、憲法に規定されたもののみにより一層沿っていくことが大事である、こんなふうに考えておられると思えばよろしいのでしょうか。

横田参考人 そのとおりでございます。

赤松(正)小委員 ちょっと事の本質、きょうのお話と少し角度が違うかもしれませんけれども、今、戦後六十年たって、要するに、先ほど来お話にあります国民統合、天皇の国民統合作用ということと大きなかかわりを持ってくる問題だろうと思うんですけれども、いわゆる教育基本法の論議の中で、国を愛する心の欠如ということが盛んに指摘をされているわけです。

 今最もビビッドな状況がどこにあるのかというのは、私は直接参画しておりませんので存じ上げませんけれども、大きく大別して、国を愛する心というものを、仮に欠如していると、私もそういう傾向があるなというふうに認めているんですけれども、そのことを教育基本法に書く、あるいはまた、教育基本法ではなくて憲法の上において明確にすべきだ、こういう意見があるんですが、本来、そういう日本の歴史、文化、伝統を慈しむ思想というか、物の考え方というものをより一層日本の状況の中で確定的なものにするためには、参考人はどのようにするのがいいと考えておられますか。今、教育基本法とかあるいは憲法ということを申し上げましたけれども、その点について。

横田参考人 ちょっと生臭い問題でございますけれども、私は、近代憲法、近代立憲主義の憲法は人の心の中に入るべきではないというように考えております。

 先ほど、公私の峻別と申しましたが、公という面においてはさまざまなことを決めることがありましょうけれども、人の心、こう持つべきであるとか、こうしなければならないということに踏み込むのは、憲法あるいは近代の法がやってはいけないことであると考えております。したがって、仮に、一切軍隊を持たないことがいいんだというような文章があったとしても、それを強制的に国民に教え込む、学校教育等々を通じて教え込むことは、私は、よくない、いけない、あるいは憲法違反であるというように考えております。

 ましてや、国を愛するという概念は、言葉としてはよくわかりますが、極めて内容があいまいです。例えば、今、イラク戦争、イラクに自衛隊が行くのに賛成するのが国を愛するのか、反対するのが国を愛するのか。あるいは、この前の日本が行った戦争に反対して、あるいはそのために日本軍と戦いさえした、そういう人が国を愛していないのかという問題、極めてこれは立場によって違う問題でございます。

 だから、おのずから人々が、この日本という国がすばらしい国であり、こうした概念を守っていかなきゃいけないということで結果的にまとまるのが、もしかしたら非常にいいことかもしれません。しかしながら、同時に、こうしなければいけないんだ、こう考えなければいけないんだということまで踏み込むことは、これはやってはいけないことだし、また、本当は客観的にはできないことだろうというように私は考えております。

赤松(正)小委員 今の点について、私も全くの同感であります。

 先ほど来のお話の中で、少し私、さらに突っ込んでちょっと聞いてみたいなと思うことが一つあります。

 横田先生のお話の中には、いわゆる護持論者という言葉が出てきたり、あるいはまた伝統論者、一方でまた天皇抜きのナショナリズムというものがあるとおっしゃった。二つお聞きしたいんですが、天皇抜きのナショナリズムについて概括的に、コンパクトに、その状況というか、今お聞かせいただきたいということと、参考人御自身は自分は何論者だと規定しておられるんでしょうか、御自身は何論者というか、どういう位置づけをされているのか、以上二点につきまして。

横田参考人 最初の問題でございますが、天皇抜きのナショナリズムというのは、私が申し上げましたように、現在、特に若者を中心として天皇というものの統合力が落ちているということの認識が前提にあるわけですね。そこで、天皇でもう国民をまとめることは不可能ではないかということになりまして、さっき言った、国民を一つにまとめていかなければいけないという見地から、天皇にかわるもの、そういうものを見つけようではないかという立場からのものだと思います。これは、いわゆる保守系の雑誌、そういう中で展開されていた議論でございます。ただし、もちろんこの論者も、最終的には、いや、やはり天皇は大事だというところに落ちついておりますけれども、議論自体としてはそういうものでございますね。

 それから、後の問題は非常に難しい問題でございまして、何とかのナショナリズム、そもそもナショナリズムという形で私たちがまとまらなければいけないのかどうか、それは何とも言えませんね。例えば、憲法ということをみんなで守っていこうということも一種の憲法ナショナリズムという形のナショナリズムでございますから。私は、特にこうしなければいけない、みんながこうしなければいけないという考え方は非常に嫌いでございまして、おのずからそうなっていけばいいという考え方でございますから、余り何とかナショナリズムということを標榜したくはございません。

赤松(正)小委員 最後に、いわゆる皇位継承の問題、女性の天皇云々の問題でございます。

 過去にこの小委員会で高橋参考人とのお話の中でも私は申し上げたんですが、私は、この問題についてはもう参考人と全く同じ意見なんですが、最近、皇位継承についての原理原則の変革につながる女性天皇を容認する前にまだとるべき措置があるということとして、男系皇統の維持のために皇室典範九条の規定を改めて皇族に養子をというふうな、そういう選択も求めて、そして、要するにぎりぎりの段階まであとう限りの選択の道を求めていくべきじゃないのか、こういう意見がございますけれども、聞かなくても先生のお答えはわかるような気もするんですが、改めてお願いしたい。

横田参考人 これは象徴天皇制護持論者からはしかられるかもしれませんが、私は、それほどまでにして象徴天皇制を守る必要はないのではないかと考えております。

 もう一つの問題は、養子といいましても、皇族男子がいないから養子をするわけで、今の問題ですよね、男系男子がいないということで。したがいまして、これはどうしてもいわゆる一般の男性を養子にすることになりますから、伝統論者が考えているような血というもののつながり、そういう点を、まあ養子をするとしても親類とかなんとかから養子するということであれば血の神聖さというのは維持できますけれども、一般男性、一般の人たちから選ぶということになりますと、これは女性の天皇の場合と何ら変わりがない効果を持つだろう、伝統的な立場に立ちましても。そのように思いますので、これは伝統的な立場からでも解決策ではないと私は考えております。

赤松(正)小委員 ありがとうございました。終わります。

保岡小委員長 次に、山口富男君。

山口(富)小委員 日本共産党の山口富男です。

 現在の象徴の地位というのは、国民主権原理に基づく憲法が決めた、戦前の絶対主義と言われた天皇制とは全く異なるもので、これは参考人が強調された点です。それだけに、二十一世紀の憲法論についていいますと、やはりその違いを明確に認識して実態を吟味し、規範を運用するという立場が非常に大事になると思うんですね。

 最初に確認しておきたいんですけれども、今の憲法が国民主権原理のもとに天皇を置いたということについてはどういう意味があるのか、意義があるのか、お考えですか、憲法規範上。

横田参考人 私は、これは基本的には、やはり憲法制定時の日本の状況、これが大きいと思います。

 これは、周知のように、占領軍が日本統治のために天皇裕仁さんを戦犯として裁判にかけないとかいう問題と同じでございまして、当時の日本国民、これはやはり私たち含めてきちっと認識しなきゃいけませんが、国民の大多数は天皇を崇拝しておりました。そして、もし天皇の身が危なくなればゲリラ戦をやるとまで考えた、そういう人たちもいらっしゃったわけですね。そういう状況の中で天皇というものを置いておこうということ、そして民主主義の立場からするとぎりぎりの選択、こういうものが象徴天皇制という形であったろうと私は考えております。

山口(富)小委員 そうしますと、憲法一条で「主権の存する日本国民の総意に基く。」という位置づけを与えたわけですけれども、ここには廃止の展望が含み込まれているわけですね、象徴規定の。これについてはどういう意味があるというふうにお考えですか。

横田参考人 だから、私は、そういう意味では、あくまでも民主主義のもとでの天皇ということでございますから、国民の総意、主権の存する国民の総意ということによりまして、憲法改正ということで、その枠の中で、国民主権に反しない限り、天皇というものをどういう形にするかということは国民に任されている。

 先ほど申しましたように、今の国民の大多数は今でいいと言っているから、これをやめろというようなことを言うのは現実的ではない、それだけの話でございます。

山口(富)小委員 そうしますと、これは国民主権の一つの日本的な具体化のあり方なんだというようなとらえ方でいいんですね。

横田参考人 はい。私はやはり、象徴天皇制の唯一の正当化は、国民の意思だということです。

保岡小委員長 参考人、恐縮ですが、発言の許可を求めてからにしてください。

横田参考人 はい。わかりました。

山口(富)小委員 私が続けて聞きましたものですから、そういうことになったのだと思います。

 さて、きょうも強調されたんですけれども、「国政に関する権能を有しない。」という四条で規定があって、その後、国事行為の内容についても十三具体的に列挙されて、非常に限定的に行われているわけですけれども、きょう参考人から、この点について幾つか、現実がここから外れているじゃないかという指摘がありました。

 実際に、この憲法上の規定というのが十分に運用されているのか、そこから外れているとすると、具体的にどういう点なのか。きょうは幾つか、文書の問題ですとか外国接受の問題とか挙がりましたけれども、もう少し具体的に、参考人がお考えになっている、国政に関する権能を有しない、また国事行為については十三に限定する、そういう憲法の規範から見たときに、現実はどうなのかという点をもう少しお話しいただきたいと思います。

横田参考人 ちょっと、これを細かく申しますと非常に長くなるのでございますけれども。

 先ほど私は項目だけ申し上げましたけれども、大ざっぱに申しましたが、天皇の統合力を発揮している場面ということで申し上げた、その中の幾つかがそれに該当するだろうと思います。例えば、政府による、先ほど御指摘もありましたような文書の文言であるとか、あるいは大嘗祭等々へのお金の支出であるとか、あるいは先ほどからも言っております公的行為の問題であるとか、そういった問題ですね。こういうもの、私がここで大体、国事行為以外で指摘していた問題は、そのはみ出しているおそれが強いものを指摘しております。

 同時に、国事行為につきましても、認証式というようなものに天皇が出て何かやっていますね。こういうものは必ずしも必要ないわけでありますけれども、そういうような部分、国事行為に絡む部分についても、国民主権の原則からいうと紛らわしい部分というようなものがないわけではないというように私は認識しております。

山口(富)小委員 そうしますと、「国政に関する権能を有しない。」という憲法の規範を実際に守らせていくということについての意味合いを参考人はどのようにとらえていますか。

横田参考人 私は、これはやはり基本的には、国民の意識が天皇の問題は非常に大きいと思います。

 憲法規範に反する反するという、先ほど言いましたように、裁判所でこれはほとんどは決着する問題ではございません。したがって、国民の意識が変わっていけば、おのずからそういう問題は整理されてくる問題だと思います。

山口(富)小委員 もう一点、女性の天皇にかかわる問題なんですけれども、一九八五年以降、これをめぐって水田珠枝さんと奥平康弘さんの有名な論争がありました。これについて、一般には水田・奥平論争と言われるわけですけれども、これについての憲法学上の意味合いはどこにあったのか、少し説明願いたいと思います。

横田参考人 憲法学的に言いますと、基本的には、先ほど森岡先生の御指摘にありましたように、世襲ということがどこまでの例外を包含するか、それだけの問題でございます。

 ただ、私の理解では、奥平さんの反論は、例えば、私は女性の天皇は認めないのは憲法違反だと申しましたけれども、なぜそう言っているかということの理解が十分ではないように思いました。

 私は、単純に男女平等に反するから憲法違反だというように言っているわけではございません。そういう中で、なぜ女性の天皇がだめであるか。伝統というのは一つの論拠でございます、正当であるかどうかは別として。それ以外に出てきている、女の人は、例えば道鏡の例に見られるように、男に引きずられるとか、女は判断能力がないとか、そういう議論がいろいろなところで展開されているわけですね。

 だから、そういう議論は、まさに女性差別、こういうものの意識を、女性天皇を認めるか認めないかにかかわらず、それを増大化させている。そういう議論に対しては、やはりそれはおかしいじゃないかという観点から、女性天皇を認めるべきだという議論、憲法に違反するという議論が展開されているわけでございまして、単純に男女平等、それと世襲と違反するじゃないかという、そのレベルの議論ではございませんので、ちょっとかみ合っていないというか、女性、いわゆるフェミニストの人たちとの議論がかみ合っていない部分があるように思います。

山口(富)小委員 この論争というのは、その後憲法学界の中でフォローされているんですか、そこで一たんとまっているんですか。

横田参考人 天皇の問題につきましては、憲法学界では、何事であれ、議論はほとんどございません。

山口(富)小委員 きょうのお話で、近代立憲主義の強調と憲法規範という問題が随分強調されましたけれども、憲法で定めた規範上の問題が現実にそういうふうにきちんと運用されていないという指摘がたくさんいろいろな角度からされましたけれども、だったら、そこの溝を埋める努力といいますか、解消する方向、これについてはどういう見解をお持ちですか。

横田参考人 これは、まことに失礼でございますけれども、基本的に、天皇の問題だけに限らず、憲法というものの位置づけ、これを、国会議員の皆さん方を含めて、もう一回きちっと定義づける必要があると思います。

 憲法というのは、国民が守る文書ではございません。主権者国民が権限を国家に預け、国家を縛る文書、これが憲法なんですね。ですから、国会議員であれ何であれ、権限を委託されているものは、憲法に書いてある権限以上のものは持っていない。そして、それが必要な場合には、国民に言って憲法を改正してもらって、その権限をもらう。それが近代立憲主義の筋なんですね。そのあたりがあいまいになっている。

 これは、もう本当に失礼ですが、例えば今の天皇が即位するときに、国民の皆さんとともに憲法を守りますという言い方をしました。剣璽等承継の儀のときには皆さんとともにと言ったので、たまたまそこにいらっしゃる、公務員ですから、これは結構なんですが、その後の記者会見のときに、夏でしたか、国民の皆さんとともに憲法を守るとおっしゃったわけですけれども、これは現在の憲法からいうともってのほかでありまして、国民は憲法を守らせる側でありまして、天皇を含め公務員は、これは憲法を守る立場でありまして、それを一緒くたにするというのは、近代立憲主義の基本を、あいまいです。

 これはしかし、逆に護憲派にも言えます。護憲派が金科玉条のように文部省が戦後つくりました「あたらしい憲法のはなし」というものを担ぎ回っておりますけれども、あの中にも、みんなで守っていきましょうという形を書いてあるわけですね。

 したがいまして、戦後の出発点のところから、これはもう御承知のとおり、日本国憲法を私たち国民がみずからつくったわけではないですね。血を流して、汗を流してつくったわけではございません。残念ながら、その意味で、何となく言葉は入ってきているんですが、その基本的な理念が、学校の教育におきましても、いろいろなところにも落ちているわけです。

 憲法とは何かという基本の問題ですね。国民が守るものではないんだ、権限を預かったものを規制する文書であるという基本的な観点、この観点が落ちたまま議論している。これがあらゆるところに影響している。天皇の問題では、それが最も端的に出てきている、そういう問題だと思います。

山口(富)小委員 議員として、近代立憲主義の憲法をきちんと守っていきたいと思います。

 ありがとうございました。

保岡小委員長 次に、土井たか子君。

土井小委員 きょうは先生、ありがとうございました。御意見を承っておりまして、私は、大体同感でございます。

 先ほどから象徴天皇制という問題に対して、学界では余り活発な論議が今まで展開されていませんとおっしゃっておるのは、きっとこれは、国民の間に象徴天皇制そのものが随分浸透している、そして、それに対して異論というのがそう強くないということがやっぱりバックとしてあるのじゃないかというふうにも私は勝手に考えまして、承っていたんですが、これは、先ほど来随分ここで問題になりました女性の天皇の問題は、憲法論の上で考えてみると、非常にはっきりしているんじゃないかと私は思ってまいりました。

 それは、少なくとも、旧帝国憲法、大日本帝国憲法の第二条の条文と異なりまして、皇位継承の資格を男系の男子に限定しておりません、ただいまの日本国憲法では。したがって、女性の天皇あるいは女系の男子の継承資格というのを否定していないという認識を私自身は持ってまいりましたから、皇室典範でこれがゆだねられておりますので、国会でこの認識さえはっきり持てば、女性の天皇というのを皇室典範の中で明記できる。

 ただ、先ほど来、なかなかこれには障害があるようだなというふうに思って議員の皆さんの御発言も承っておりました。

 私自身が経験したことからいたしますと、このたぐいの伝統の問題というのは、なかなかこれは厄介だと思うんですよ。経験はどういうことをやったかというと、一九八五年に日本も女性に対する差別撤廃条約、これを締結したのでございますが、そのときにひっかかった国籍法というのがございます。国籍法の第二条では、父親が日本人であるときその子は日本国籍が取得できるんですが、お母さんが日本人であって外国籍の男性と結婚して、その間に生まれた子供に日本国籍をといったら、これは国籍法では認めていなかったんですね。だから、これはおかしいじゃありませんかというのを私は取り上げて、七年間頑張ったんです。

 法務省はそのときに、私は憲法十四条を引き合いに出しまして、この国籍法の第二条は憲法違反ではありませんかということを問いただしましたら、いいえ、憲法違反にはなりませんと。それは何かというと、この国籍法自身がやはり血統主義ですから、父系血統主義をとっているのは、やはり父親が家族の中心的存在であるという純風美俗に照らして考えて合理的理由がございますというのが、憲法違反でないと言われる論理なんですね。

 私は法務省のお役人のその答弁を聞きまして、随分、いかにして説得するかということにそれから苦労いたしました。泣く子と地頭には勝てないという言葉がございますが、もう一つは石頭にも勝てないというのが、非常にそれからのつらい経験としてあったわけですね。

 やっと八五年に今の国籍法の二条は「父又は母」という「母」という一字が入りましたけれども、このときに、やはり伝統ということに対しての意識というのが非常に根強いために、これは法文で幾ら保障しておりましても、それを現実のものにしていくということはなかなか難しい問題が多いという中の一つだと、これはきょうは思いながら聞いておりました。

 同じく皇室典範の問題を取り上げて、八五年の女性の差別撤廃条約に向けて、締結する条件を国内法として整備するという上から、当時参議院議員であった久保田真苗さんが随分この皇室典範一条を取り上げて質問を果敢になすっております。その中身を見ると、やはり答弁としては、古来の伝統でございますということがひっかかっているんですね。だから、これは、今の皇室典範の一条というのは変えるわけにはいかないという認識なんですね。しかも、これは憲法違反ではないという認識なんですね。

 世襲的な地位からの排除だから、女性であることによって排除されるということは、排除であるということにおいてははっきりしている。それでは、世襲的な地位に対して、そもそもなぜこれを男系の男子だけに限らなければならないのか、その理由をお聞かせいただきたいという質問の中身なんですよ。だけれども、これに対して繰り返し言われているのは、古来の伝統以外にないんです。本当に古来の伝統という答え以外にないんです。これでは説得力というのがただいまはもう既にないと私自身は思っておりますから、皇室典範を変えることによって、これができる。

 先ほど先生がおっしゃったことを私は聞き違えていたのかもしれませんけれども、女性天皇というのは憲法違反になるという説がございますのですか。

横田参考人 はい。

土井小委員 その立場を先生はおとりにはならないんですよね、もちろん。

横田参考人 私は、早い段階から、女性天皇を認めないのは憲法十四条に違反するという立場をとっております。だから女性天皇をつくれとは言っておりませんけれども。

 それは、先ほどから申し上げておりましたように、世襲というものは血のつながりで継いでいくということでしか言っていない。その後どうするかということは、もちろん伝統を考えても何を考えても結構なわけです。しかし、憲法が男女平等とうたっている以上、それの例外となるためには極めて重要な合理性とか必要性がなければいけません。だから、それに対しては、伝統であるとか、さっき言いました差別意識であるとか、そういうのは合理的で必要な理由とは言えませんので、したがって、私は、やはり女性の天皇を認めないのは憲法違反ではないかという論理を出しているわけでございます。

土井小委員 だから、むしろ逆で、女性天皇を認めるということが憲法違反になるという説がございますのですか。

横田参考人 ああ、そういう説ですか。

 女性天皇、それは先ほど申しましたように、世襲ということの中に、これは既に憲法上女性天皇を排除しているという解釈をとれば、そういうことになるという可能性はどなたかが述べておられましたね。

土井小委員 しかし、総じてこれはもう非常にはっきりした問題だと私は思っていますので、あとは皇室典範が変えられることによってこれは具体化するという問題だろうと思いますね。憲法自身が全くその点に対しては排除もしていないし、具体的に指示もしておりませんから。したがって、そこは大日本帝国憲法と全然違うんですよね。

 さて、もうあと一点だけ。

 これは、象徴天皇というのは主権者国民の総意に基づいて存在しているわけですから、主権者国民の総意ということを具体的にいろいろな場面であらわしていくときには、一つは選挙というのがございます、選挙。選挙の中でも国政選挙、これに対しては、参議院は別でございますけれども、衆議院の場合には解散ということがございますね。国政に対する権能がない天皇でございますけれども、国事行為の中に「衆議院を解散すること。」というのがございますね。それに対しては、国政に対する権能がないわけですから、したがって、内閣の助言と承認というのは、今申し上げているとおり、主権者国民のやはり総意ということをバックにしている天皇の国事行為としては意味が大変あると思うんですよね。

 この助言と承認という場合、助言だけでもいいのですか、あるいは助言と承認、両者とも必ず必要というふうに考えなければならないんですか。これはどのように理解したらようございますか。

横田参考人 今、土井先生のお話は、恐らく田畑忍先生の天皇解釈論というものがある程度あると思うんですが、御存じのとおり、衆議院解散説につきましては幾つかの説がございますね。それで、形の上ではすべて憲法七条による解散というふうになっておりますけれども、その根拠づけということは必ずしもその文言とは関係ないわけで、最終的には天皇が七条によって解散するということで結構なんですが、なぜそうなるかということについては、例えば国会自律解散説、あるいは六十九条の場合に限定されるとか、あるいは、議院内閣制というものを日本がとっているから、だから内閣に解散権があるんだとか、こういう議論がございますよね。

 そういう中で、おっしゃった助言と承認ということを重視する考え方は、そのうちの一つの、ある意味では私は少数説だと思いますけれども、要するに、助言と承認というか、天皇の国事行為は概念的にはもともと実質的な決定権も含んでいるんだ、ただし、内閣の助言と承認ということで実質的なものが引き算される結果、形式、儀礼的になる。私は引き算説と言っておりますけれども、そういう引き算的な説がございます。

 しかし、これは立憲君主制の大臣助言制と同じように考えるものでございまして、私はそうではなくて、初めから憲法上、「国政に関する権能を有しない。」と書いてありますから、天皇の行われる国事行為はそもそも形式的、儀礼的な行為である。そもそもですね。そういう形式的、儀礼的な行為についてさえ内閣の助言と承認が必要であるというように考えております。ですから、内閣の助言と承認は、私の考え方からすれば一つでいい。内閣の助言と承認を一つの行為と考えて結構なんです。そこには実質的な決定権等々一切含ませませんから。

 では、そこで、衆議院の解散権がどこにあるかということでありますが、これは繰り返し申し上げますように、憲法学説上は完全に分かれているわけです。ただ、大方の結論として、内閣が衆議院の解散権を持つのはまあいいだろうというのがほとんどの説でございますから、その理由づけはいろいろであるとしても、現在の慣行を認めているという現状だろうと思います。

土井小委員 ありがとうございました。

保岡小委員長 次に、下村博文君。

下村小委員 きょうは、貴重なお話をありがとうございました。

 天皇制というのは、大日本帝国憲法あるいは日本国憲法、これは成文法としてできる以前から、我が国の体制の中に数千年という歴史の中で位置づけられてきた部分があるのではないかというふうに思っております。そういう中で、現代における、これも今の先生のお話をお聞きして、逆に、かなり正確に法律的に限定的に法律を守る、憲法を守るということであれば、憲法を改正することによって天皇制のあり方についてより柔軟な今のことができるような憲法改正をすべきではないかというふうに私自身は思って、今お聞きしたわけであります。

 今の日本国憲法における日本あるいは日本国民の統合の象徴という位置づけというのは、歴史的にも適切な位置づけであるというふうに思っておりますし、また、大日本帝国憲法、伊藤博文、私、下村博文で漢字は同じなんですけれども、当時の伊藤博文が考えた天皇の位置づけ、これは先ほど先生も、権力を持つということではない中での国民統合作用ということをおっしゃっていましたが、当時の大日本帝国憲法における天皇の位置づけというのも、あの時代の認識の中では適切ではなかったかというふうに私自身は思っております。

 そういう中で、先生のレジュメの三の「地位」のところの、天皇というのは日本国民の統合であって日本民族の統合ではない、それから、多民族国家日本の諸民族の統合であるということを、わざわざバツとマルでつけておられるわけですね。

 先ほど申し上げましたように、天皇制というのは、長い日本の歴史の中で一つはそういう政治的なシステムとしてあったときもあったでしょうけれども、それだけの位置づけではなくて、日本の文化とか、それからあとは日本の文明といいますか、あらゆる部分に天皇制ということが影響をし位置づけられてきて、今の日本が形づけられた部分があると思うんですね。ですから、今後憲法の改正というのを考えた場合も、この国の形ということの中で天皇制ということも考える必要があると。

 それからあと、私の個人的な意見でまず最初に申し上げたいと思うんですが、女性天皇の問題は、先生の資料の中に、福沢諭吉が「尊王論」という中で国民統合力の希薄化ということの中での問題として挙げられていますが、そういう希薄化ならないという意味で例外的に、天皇制を存続するための位置づけとしての女性天皇というのは、存続させるために、あってもしかるべきではないかというふうに私自身は思っております。それは、国民統合の象徴というのは希薄化されないという前提の中での位置づけで、ですから、当然この天皇制の位置づけの問題と男女差別の問題とは、これは全然違う次元の問題であろう、憲法違反になることではないと、まず私自身は思っております。

 それから、先ほどの話に戻りますが、わざわざ日本民族の統合というところにバツをつけるという意味があるのかどうかということでお聞きしたいわけです。それは、マクロ的な見方とミクロ的な見方で、アイヌ民族もいるじゃないかとかいうような見方であればそうかもしれませんが。

 これはサミュエル・ハンチントンが「文明の衝突」という本の中で世界の文明を七つに分けているわけですね。その中の一つとして日本文明というのを分けているんですよ。日本文明というのは珍しく、ほかの文明というのは国をまたがっているわけですね、キリスト教文明とかヒンズー教とか、宗教的なエリアで文明というのを位置づけておりますけれども、そういう中で、日本は日本という一つの国が一つの文明である、こういう位置づけをハンチントンがしているわけですね。それはそれで、私は一つの学問的なかなり的確な見方であるというふうに思うんですね。

 そういう意味でいえば、日本民族というのが日本国民という、そういう世界の中での位置づけということであれば、あえてバツとかマルをつけるような、そういうことではないんじゃないかというふうに思うんですが、それでもあえてここに出されたわけでしょうから、先生のその位置づけといいますか趣旨についてお聞きしたいと思うんです。

横田参考人 先ほどからもお話がございましたように、天皇が結婚して、例えばどういう人と結婚するかというようなときのイメージですね。例えば皇室会議の議を経るという場合に、先ほど外国人と結婚することをチェックするとおっしゃったわけですが、恐らくそういう方々は、他民族の方と結婚するということになった場合に、にわかには賛成なさらないだろうと思います。だけれども、日本国民、漢族であれ朝鮮族であれ、日本国民であることには変わりないわけで、その人たちをまとめている、それをあらわしているというのが憲法上の天皇であると私は理解しているわけです。

 ですから、ここでまた混同が起こりますのは、歴史的な天皇というものを私は何ら否定しているわけではございません。そういうものがそういうものとしてあったということを否定しているわけではございません。しかしながら、それをそのまま憲法が取り入れたわけではございません。そこでは、その中で、現在の日本に合うような形で、連続説に立った場合ですよ、断絶説に立った場合は全く別のものをつくったというようになりますが、仮に連続説に立ったといたしましても、それにふさわしい形で衣がえをしているわけですね。そういう中で、現在の時代に合わないような衣はかえていくということになっているわけでございます。

 先ほど日本の文化とかなんとかおっしゃいましたけれども、それは確かに、抽象的に見た場合にこれは多くの日本の文化の特色だということが言えるかもしれませんが、具体的に個々の人間を見た場合、持っているアイデンティティー、これはさまざまです。私は日本国民である、日本民族であるからといって、お茶とか柔道とか、これとは全く関係ございません。だから、お茶とか柔道が日本の文化だからおまえもそれをやれと言われたら困ります。みんなそれぞれ、例えばイスラム教徒の日本国民もいます、キリスト教徒の日本国民もいます、さまざまな国民がいるわけでございまして、国民はこうだ、国家はこうだというような議論というのは、私は極めて乱暴な議論だというように考えております。

 だから、私は先ほど、おのずからということを非常に強調いたしました。さまざまな考え方を持っている人たちが、おのずからあるところで一致して仲よくやっていくということ、これが望ましい姿でありましょうけれども、これはこう考えるべきだ、日本はこうなんだ、だからこうしなければいけないんだという考え方は、非常に乱暴だし僣越な議論だというように私は考えております。

下村小委員 今の先生のお話をお聞きしていますと、日本国民統合の象徴というのも余り要らないんじゃないかというふうに私自身は聞こえたんですね。

 それは、今回の日本国憲法の制定の中で、先生からお話もありましたように、当時のGHQの考え方として、天皇制、日本国民の統合の象徴というのを憲法の中に入れないとこれは大変なことになるという認識があったというふうに思います。また、大日本帝国憲法についても歴史的な経緯の中であるし、また過去、成文法がないときにおいても、こういう天皇という存在が、国民統合の象徴として位置づけることによって、ある意味では国難を乗り切ったという歴史的な経緯があったというふうに私は認識しているわけですね。

 そういう中で、今後の憲法改正論議の中でも、こういう日本国民統合の象徴としての位置づけということは、やはりこれは日本という国としての総体として必要なことであるというふうに、天皇そのものというんじゃなくて、日本国として必要なことであるというふうに思っているわけですが、これについてもうちょっと御意見があればお聞かせ願いたいと思います。

横田参考人 どこの国にも、国家というのがある場合、その国民を統合するものというものが現実的に生まれてきたり、あるいは存在するわけですね。だから、その点は否定しません。そして、それが事実として現在まで天皇であったということ、これは私は否定いたしません。ただ、将来的にどうかというと、さっき言ったように、保守派の中からも、統合はしなければいけないけれども天皇抜きでそれはできるという考え方が、保守派の若手の間からも出てきているわけですね。いいとか悪いとかじゃございませんよ。

 だから、ほかの国は、例えば憲法というものが統合の象徴になります。アメリカですと自由という概念、あるいはそれをあらわす星条旗、こういうものが統合の象徴になっております。日本の場合はまた、日の丸ということで二重にしてしまいましたけれども、とにかく象徴というものが、何かをまとめる場合にそういうものがあった方が便利であるということは、社会的な事実として否定できるものではありません。それが天皇であるかどうか、これが問題なんですね。そしてまた、憲法がそういうことまで期待しているかどうか、これがまた別の問題だと思います。

 ちょっとずれるかもしれませんが、もう一言言わせていただきますと、私は、日本の天皇の伝統は極めて重視してもよろしいし、尊重したい方がいらっしゃるならばそれは大いに尊重されれば結構だと思います。それを政治制度、公の制度の中へ組み込んできたときには、民主主義であるとか国民主権とか、そういったような原則のもとでは、伝統的天皇像とはどうしてもそごが出てきます。無理やりそれを憲法の枠の中へ入れようとしますと、私が先ほど申しましたように、とんでもないことになってしまうわけです。

 大嘗祭、私なんかは大事な儀式だと言っているのに、保守派の人たちは大したことないよという話をする。伝統派として、これでいいのか。私はその点においてはそういう方たちよりもはるかに保守的でありまして、国体ということを考えた場合に、そういうごまかしでいいのか。例えば政教分離の場合もそうですよ。だからそれを、ごまかしがだめならば、粉砕されるかもしれないけれども、やはり理念で突撃すべきではないか。だから、男系の男子でなければいけないと考える方は、それで滅びてもよろしい、そういう美的なセンスでいっていかれればよろしいと思うんです。それを何か、憲法の枠の中へ入れようとすると、どうしたって伝統的な、そういう方々が考えている天皇制度とはずれてくるわけですね。

 それからもう一点申しますと、皆さん方がお考えになっている伝統というものが本当に伝統であるかどうか、これ自体も問題なんです。

 例えば大嘗祭につきましても、あんな立派な建物をつくるというのは大正のときから始まっているわけですね。柳田国男さんがその中で、大嘗祭というのは、本当に一週間前ぐらいにちょこちょことつくってそこでやって、終わったらすぐ壊すものだ、そういうものであったのを、それが何かああいう大げさなものになっていった。これは明治以降の問題ですね。あるいは、賢所での皇族の、皇太子なんかの結婚式ですね。これもやはり大事だということで、国事行為として、これは結婚に伴うものだとやっておりますが、御存じのとおり、あれは大正天皇が皇太子のときに始めたことですよね。だから、伝統と申しましても百年もない。

 だから、神社関係者は、百年もないものが伝統であるならば、大嘗祭なんというのはもっと大きな伝統ではないかということを、大嘗祭を公的なものにしろという論拠の一つにされていたわけです。ですから、私たちは、伝統という言葉は、軽々しく伝統と言うのではなくて、一体本当の意味での伝統というのは何であるか。

 だから、元号の場合もそうですよ。一世一元制なんというのは明治から始まった制度です。元号制度における伝統なるものを仮に言うとしたら、天皇がお決めになる、これが伝統なんです。今の元号法は、内閣が政令で定める。これは伝統ではございませんよね。だから、そういうことを申し上げているわけです。

下村小委員 伝統についてはちょっと議論がありますけれども、時間がありませんので。

 ありがとうございました。

保岡小委員長 次に、計屋圭宏君。

計屋小委員 民主党の計屋圭宏でございます。

 今参考人の話をいろいろと承りまして、若干考え方が違うかなというふうなことを思わさせていただきました。そういう中で、私は、日本の国の形あるいは国の目標という観点から、天皇制というものについてちょっと考えてみたいと思います。

 先ほどのお話もございましたけれども、日本の伝統あるいは文化というものがいろいろと、部分的には見直ししていかなきゃいけないところがあると思うんです。ただしかし、私は、今伝統ということを、歴史、伝統、国の文化、礼節や信義、社会奉仕の精神といった日本のアイデンティティーを守り、後世に伝えるというテーマに今直面しているわけでございます。

 今、特に、優秀な学者だとか技術者あるいはビジネスマンも海外に移っていったり、あるいはまた逆に、少子高齢化を迎えまして、この日本に外国労働者が入ってきている、そういうことを考えてまいりますと、日本もいずれ多民族国家への変貌をするのは不可欠だと思うんです。

 そこで、国家という共同体の一つのまとまりとして保つきずなは国としてさまざまで、民族、宗教、伝統、文化、イデオロギーなど、その国家の歴史と切り離せない密接な関係にあるわけでございます。日本の場合、これまで天皇制、天皇の存在が大きな役割を果たしてきたわけですが、現在の象徴天皇は歴史に見るとむしろ本質的で本来の姿、象徴天皇の存在は引き続き他国に例を見ない国民総合力として貴重だと思うんですけれども、これについて、参考人の考え方というものをお聞かせいただければと思うんです。

    〔小委員長退席、下村小委員長代理着席〕

横田参考人 象徴天皇制というものが持っている、さっき申しました国民主権とか基本的人権尊重ということとのぶつかり合いを抜きにして、国民の統合ということだけ申し上げますと、現在まで象徴天皇は、これはちょっと失礼な言い方になるかもしれませんが、極めて安上がりな、国民を統合するものだったと私は考えております。

 国民はやはり天皇というところで、いいとか悪いとかではなくて、これまでまとまってきた。それが私は、憲法の規範を離れて、社会的に統合力を持っていたということで指摘した、あるいはそれを倍加するような、そういうものを再生産するようなことが行われているということで指摘したわけでございます。

 問題は、それを踏まえて、これは憲法の基本的人権に反するかどうかという話を除きまして、今象徴天皇制を維持する側に立って言った場合に、そういう意味での、私はそれは規範的にはどうでもいいと思いますが、護持論者からしたときに、その統合力というものが現在希薄化しているのではないかと。だから、その問題にどう対処されるかということは、立場によって全く違ってくると思います。天皇抜きのナショナリズムでもいいではないかという議論もありましょうし、いや、やはりだめだ、天皇でなければだめだと。そこでいろいろな形で皆さん方が御努力なさると思います。

 ただ、憲法規範的に言うと、しかしそういうところまで天皇には憲法自体は期待していないよというのが私の憲法解釈の理解でございます。統合しているものをあらわすものであるということです。ただ、それは社会的機能として統合力を持つことは否定できない、そういうことでございます。

計屋小委員 そういったことに絡んで、私は国歌・国旗という問題があると思うんですよね。国歌・国旗というものも、やはりこれは多民族になってまいりますと、やはりこれを一つの日本の方向性あるいは目標という形で総合力として統一していくということにとっては、大切なことになってくると思うんですよ。

 この内容的な問題については、これはまだいろいろと議論があると思うんですけれども、こういったふうな国歌・国旗というものについても、やはり一考する必要があるんじゃないかと思うんですけれども、いかがでしょうか。

横田参考人 私は、その点で二つの問題を感じます。例えば国旗の場合、日の丸を国旗として一種の国の象徴にした。そういう意味では、首相公選制ができたら、あるいは大統領制になったら天皇がどうなるかという議論をなさっておりますが、象徴を二つつくっちゃって、それじゃその二つで統合しようということになると、統合の分裂が起こってくる可能性はあります。そこから天皇抜きのナショナリズムという議論も登場してくる余地があるわけでございます。

 それからまた、君が代がなぜ戦前君が代であって国歌ではなかったかということを、もっとまじめに考えるべきだと思います。私は考える必要ないんですけれども、天皇制度を維持しようとする人たちは考えるべきだと思います。

 君が代というのは、国歌として教科書の中で、戦前の教科書で日の丸が国旗であるというのはずっとあります、しかし、君が代が国歌であるというのは、ある時期、ほんのある時期にあるだけで、常に君が代です。君が代斉唱なんです。国歌斉唱ではないんです。このことが持っている天皇とのかかわり、これは私は、天皇護持論者であればもっとまじめに考えるべきだと思っております。

計屋小委員 国歌・国旗の問題については、現状の国歌・国旗をそのままということじゃなくて、これからいろいろと検討していく必要があるという意味で、多民族になってまいりますとそういったふうなシンボルという形で皆さんの意思統一しながら、日本国民として誇りを持てるような、そういう国家というものを形成していかなきゃならないかなというふうに思うわけですね。

 今度は元首の問題でございますけれども、日本の元首は天皇あるいは総理大臣かというようなことで、一応そういうのがオーバーラップしているというようなこともございまして、完全にそれが明確に説明できないところに問題があるわけですね。

 ですから、そういう点で、一つの考え方なんですけれども、国際的な常識に照らして厳密に言えば、元首は統治機能を有している、その意味で天皇は統治権を持つ象徴とは言えないわけであります。しかし、その歴史的経緯から見て、いわば名誉職的な元首と理解していいんじゃないか、こういうふうに私は理解するんですけれども。つまり、天皇は、内閣の助言と承認によって国を代表して国事行為を行うことによって名誉職的な元首としての機能を果たすと考えているんですけれども、この点についてどうでしょうか。

横田参考人 ちょっと言葉が足りなかったようですが、私は、定義上、明確に内閣総理大臣が元首であると考えております。定義上ですね。ただそれが、無理に天皇を元首だと考えたい人がそこで天皇に、接受をするというようなことで、国をあらわす部分があるからということで元首だと呼んでおられる。だから、それは呼びたければそれで呼んでも結構だということを申し上げたわけで、私は、元首は内閣総理大臣ということで問題ない。それだけの話ですから、だからどうなるということではございませんから、私はそれで結構だと考えております。

 それから、国を代表するという言葉は、必ずしも憲法からは出てまいりません。国民にかわって国事行為をやりますけれども、国民の利益のためにやりますけれども、国を代表するという言葉はどこにも使われておりません。むしろ、憲法学界では、象徴という概念が代表とどう違うかということをるる、これは法哲学では恒藤先生なんかが初めて議論なさっておりまして、象徴というのは異質物の間の関係をあらわすものであって、同質物の関係をあらわす代表とは異なると。だから、象徴であるということは代表ということとは違うんだということがいわば通説になっております。

 では、そうすると、ほかに権能として国を代表するという形の権能があるかというと、代表というのは余りないので、せいぜい接待するというぐらいのものですから、あえてそこを引っ張り出して、代表するというようなことを強調する必要がどうしてありましょうかという問題なんですね。

計屋小委員 それでは、もう時間もございませんけれども、特に引っ張り出して元首ということを位置づけていこう、こういうことじゃなくて、そういったふうな、外国人の要人の接見だとかいろいろな行為を行っているわけですから、そういう観点から考えてまいりますと、やはり、そういう名誉的な元首ということも言われるわけでございまして、それを表面に、壇上に構えて言おうということじゃないわけですけれども、そういったふうな感じかなというふうに理解しているわけですけれども。

 時間がございませんので、以上で終わります。

下村小委員長代理 次に、小野晋也君。

小野小委員 きょうは、横田参考人には随分いろいろな新しい視点をいただいた気がいたします。憲法論議の幅を広げていただいた御提案等に、心からまず感謝したいと思います。

 その上で、私の場合は、もうこの質疑の最後のところということになるようですから、後の討議のためにも、ちょっとあいまいだった部分をたださせていただきたい、こう思っております。

 まず、第一点目は、近代立憲主義に基づけば、国民には義務や責任を規定すべきではなくて、あくまでこれは、国民がその権限を預託する政府の義務、責任を描くのがこの憲法であるというふうな御発言が質疑の中でございましたけれども、そうなりますと、もう御存じのとおりの、日本国憲法の中には幾つもの国民の義務を規定したものがございますね。納税の義務、教育を受けさせる義務、勤労の義務、また、一般的に言うならば、憲法の十二条の部分でございましょうか、自由や権利とは国民が不断の努力によって保持しなければならない、これも一種の義務規定になろうと思いますね。

 こういうふうに国民の義務規定を書き込まれた日本国憲法というのは、基本的に近代立憲主義の観点からすると望ましくない憲法である、こういうふうな見解をお持ちになっておられると理解してよろしいでしょうか。

横田参考人 いや、違います。

 基本的には、近代立憲主義憲法は国家を縛る文書でございます。ただし、その国家をつくったわけでございますから、国家を維持するのはどうするかとか、例えば国を守るためにはどうするかとか、そういうことについての義務規定というのは、その限りで義務規定が入ってくるのは、どこの近代国家の憲法においても同じでございます。

 ただ、基本的な視点あるいはまた時代の移り変わりによって、ここまではおれたちも守ろうではないかという部分が憲法の中に一部入ってくる。例えば日本国憲法で言いますと、十八条でしたか、その意に反する苦役、こういった部分については、よく言われるように、私人間効力、個人と個人の間においても効力があるという議論がなされますね。これについては、一種の国民の義務をその限りにおいて定めているわけです。

 しかしながら、基本的な近代立憲主義の考え方からいうと、基本的には国家を縛るものである。そして、その国民が何か義務があるといった場合でも、その権力を預かっている者をがんじがらめに縛った憲法のレベルと、国民が一緒に国家をつくっている者同士として守っていきましょうという部分とは、レベルが違う話である、それを一緒くたにしてやるのはおかしいという、それだけでございます。

小野小委員 先ほど来いろいろな方々の御議論にもありましたけれども、日本には日本の伝統、歴史、文化があり、その中において、支配者階級と言われる層と一般国民の間のかかわり方も、これは他国と同一ではあり得ない。そういう観点に立った場合に、西洋的な価値観でいきますならば、それは契約主義でありましょうし、暴君の圧政に対して、その圧政を規制するためにこういう憲法の考え方が生まれたというあたりは十分に理解できるところでありますが、日本の国の場合に、この考え方がそのまま当てはまるんだろうか。むしろ、国家というものは為政者と国民とがともに築くものであって、両方が相和しながら、合意に基づいて国は動かしていくべきである、こういう精神というのは私は色濃くあったような気がするんですね、一部の時期を除けば。

 そうすると、むしろそれは、一方的な契約主義というとらえ方をするよりも、双方の合意に基づきともに国家を建設しようという考え方を持つということは決しておかしなことではないし、むしろ日本的にはその方を尊重する方がよき国家が生まれるのではなかろうか、こういう見解を持つところでございますが、先生、御意見はいかがでございましょう。

横田参考人 私は、別の文書でまさにそういうことを繰り返し申し上げているわけです。

 日本の場合には、国家というものが自分との関係で対抗関係としてとらえられることが非常に少なかったわけです。そういう意味で、これも先生から言わせるといいじゃないかということになりますが、いわゆる人権意識ですね、人権というものの意識がよかれあしかれ日本の中には定着していかない。それは、やはり人権というものの考え方が違うわけですね、従来の考え方と。

 だから、それでいいではないかという議論と、私はそうではなくて、やはりそれは、今まではそうであったけれども、そんな仲よしクラブでやっていける時代ではなくなった。そしてまた、それは一見仲よくやっているように見えるけれども、少数者というものがやはり圧迫される社会であった。だから、私は当初、日本国憲法が正統派の立憲主義憲法に属すると申し上げましたけれども、やはりそこでは一人一人の人間を大事にする、国家以前に一人一人が大事なんだ、こういう点から出発した国家づくり、こういうことをすることが私は望ましいと考えております。その点は結論としての違いでございますでしょう。

小野小委員 次に、先ほどの赤松委員の御質疑の中で先生からのお話でございますが、物の見方、考え方にかかわる個人の部分については、これは国家がこうすべきだということはこういうものの中に織り込むべきではないと。ほかの方からの御意見の中にもそういうお答えをされた場面がございましたが。

 そういたしますと、日本国憲法制定時に、先生が三つの規範ということで言われた、人権の問題ですとか国民主権の問題、平和主義、これらは、昭和の戦後のときに国民皆さん方について必ずしも合意の得られている、おのずからそういう権利とかそういう方向というのが決まっていたものではない憲法だと思いますね。この憲法を定めることにおいて、長い年月を経るうちにだんだんとそういう意識が形成されてきたという部分がある。とするならば、こういう日本国憲法そのものがやはりその制定時には適切な憲法ではなかった、こういうふうに結論づけてよろしいわけでございましょうか。

横田参考人 憲法自体が適切でなかったかどうかということは、直ちに今の御議論からは出てこないように思います。ただ、認識としておっしゃったことは、私は基本的に、ずっときょうの議論をお聞きになったらわかると思いますが、認識のレベルでは、私は皆さん方とそんな変わったことを認識しているわけではございません。ただ、その評価の問題とか、どうするかという問題でございまして。

 私は、例えば日本国憲法についても、あれは私たちがつくったものではない、そのことからさまざまなひずみが出てきている、だからある人は日本にはなじまないんだという意見もあり得る、そういうことを私は否定しようと思いません。ただ私は、なじまないとは思っていないし、時間をかければこれは日本人の血となり肉となるものだと考えております。だから、その意味から、私は、日本国憲法の立場、これでいいではないかということを申し上げているわけです。

小野小委員 私自身は、やはり憲法というのは、現在を生きる人たちにとっての権利義務等々、その調整の機能を政府と国民がともに担っていくためにつくられているものだという認識で今までとらえてきているわけでありますが、それと同時に、やはり未来の人たちに対してのその方向を示すものでもあるべきだという思いがございます。

 そうすると、未来のものというのは、現状の国民の皆さんにとってはなかなかうまく認知できない。ということは、ある意味で先行的に、国民の意思と多少のずれがあっても、それを制定すべきものは制定し、そちらへリードしていく機能というものを持たせるべきだという気持ちを持っているわけですね。そうすると、そこで何とかすべきであるということも、その意と反しても織り込まざるを得ない部分が出てくるな、こういう気持ちがしているわけでございますが、改めて、御意見はいかがでございましょうか。

横田参考人 私は、そのあたりを極めて抽象的に出す限りにおいてはいいと思いますが、中身がこうだという、例えば男女の平等とはこういうものだとか、こういう形になってまいりますと、これはやはり一つの考え方になる、愛国心とはこういうものだということになりますと、一つの考え方になりますね。

 だから、私は、日本の憲法は決して未来を考えていないとは言えませんよね。例えば、全世界の国民が恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生存する権利がある、これはもう二十一世紀を先取りしたすばらしい目標でございます、それを日本が守っていないだけの話でございます。我々は、そういう書いてある原則を名誉にかけて守っていくということを前文で誓いました。しかし、残念ながら、私たちを含めて、私たちはそれを全力を挙げて守ろうとはしてこなかった、それだけの話だと私は理解しております。

小野小委員 憲法一条の天皇のところを一言だけお伺いしたいんですが、「日本国民の総意に基く。」という部分でございますが、これはよく国会でも議論になりますけれども、総意においてこうだという言い方というのは、果たしてどういう手段をもってそれを得ることができるんだろうと。先ほど土井委員の方からは選挙ということの御指摘もありましたけれども、選挙において得られるものが果たして本当に総意になり得るのか。世論調査というものが総意を示し得るものなのか。こういうところに問題があるからこそいろいろな議論が分かれてきてしまうわけですね。ここに何か、横田参考人、御提案のようなものをお持ちでございましたら、お聞かせいただけたらと思います。

横田参考人 ちょっと、私申し上げましたけれども、お聞き落としになったと思いますが。

 私は、憲法改正、これが総意を示す場所です。だから、憲法改正という手段によって総意がより違ったものを求めるならば、これは憲法限界論を前提とした議論ですけれども、国民主権の限定の中で、天皇の制度をもっと大きな力を持たせるものにするか、あるいはやめてしまうか。これまた、だから単なる世論調査であるとか多数決とかいうことではなくて、まさに憲法改正、これによってあらわされるものだというように理解しております。

小野小委員 どうもありがとうございました。

下村小委員長代理 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、一言ごあいさつを申し上げます。

 横田参考人におかれましては、貴重な御意見をお述べいただき、ありがとうございました。小委員会を代表して、心から御礼を申し上げます。(拍手)

    ―――――――――――――

下村小委員長代理 これより、本日の参考人質疑を踏まえて、小委員間の自由討議を行いたいと思います。

 一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、小委員長の指名に基づいて、自席から着席のまま、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いいたします。

 御発言を希望される方は、お手元にあるネームプレートをこのようにお立てください。御発言が終わりましたら、戻していただくようにお願いいたします。

 発言時間の経過については、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせいたします。

 それでは、ただいまから御発言を願いたいと思います。御発言を希望される方は、ネームプレートをお立てください。

船田小委員 自民党の船田元でございます。

 横田参考人から各般にわたる、天皇制問題あるいは天皇と憲法とのかかわり、そのようなさまざまな議論をいただきまして、刺激をされるところがいっぱいございましたが、また、考え方としてなかなか難しい点もあるなということも実感として感じました。

 三点ほどちょっと申し上げたいと思いますが、まず、象徴天皇という現在の憲法の規定と基本的人権の尊重主義、これが相入れないという考えは、私はやはり状況としては正しくないのではないかということを申し上げたいと思います。

 確かに、基本的人権の問題で、世襲による天皇制になっていると、国民がその主権、自分自身が持っている主権を、その意識を希薄にしてしまうんじゃないか、このような横田参考人の御議論でございましたが、世襲による天皇制、これは明らかに日本の伝統であり、また歴史的な事実であります。この問題と、それから基本的人権、つまり人間の価値の平等、こういったものを全く同じ次元で議論するということが、そもそも私には相入れない考え方であります。やはり天皇制の伝統は伝統としてきちんと尊重していく。と同時に、近代国家における基本原則である基本的人権の尊重、これも尊重する。この両方の間には矛盾する点は何もない、このように考えます。

 それから、二番目の点でございますが、国事行為、それからその他の公的行為、この点について横田参考人は、国事行為に限定すべきではないか、公的行為については拡大していくと切りがなくなる、あるいは内閣がそれを政治的に利用する可能性がある、こういうことでございますが、私は、国事行為はもちろん、公的行為の中にもやはり準国事行為的なものがあるし、また公的行為はまさに憲法が定める象徴、この地位を、あるいはその役割を補完するという意味が十分にある、こう思っておりますので、国事行為以外の準国事行為あるいは公的な行為というのはやはり認めるべきであるというふうに考えます。

 ただ、その公的行為の中で、先ほども指摘をされたような、政治的なことに利用されるというようなものがもし仮にあるとすれば、それは国民の目できちんとチェックをすればいい、このように思っております。

 最後の、三点目であります女性天皇のこと。

 これは非常に、これからも大いに議論になるところでありまして、慎重な検討が必要であると思っております。伝統からいえば男系男子でございますので、しかもそれは歴史的な事実でございましたから、それを尊重するということは、これは当然のことかと思います。しかしながら、国民の感情においても、また天皇が持つ機能の点におきましても、男性でなければいけないということもだんだん薄れてきたことは事実と思います。女性天皇でもいいではないか、この意見、そういう国民感情、そういったものにもやはり相当配慮する必要がある。

 ただ、その場合、一時的に女性天皇を認めるか、あるいは根本的に女系女子を認めるかどうかということにはやはりまだまだ大きな差があると思っております。このあたり、なかなか現時点で女系女子まで認めるかどうかということについてはまだ時期尚早である、このように考えております。

 いずれにしても、この問題は慎重な議論が必要であると思っております。

 以上です。

山口(富)小委員 日本共産党の山口富男です。

 私はごく簡潔に感想を述べたいんですが、一つは、天皇条項につきましては、憲法規範としての理解の問題でも、それから政治の実態の問題でも、委員の間を含めまして、参考人との間も含めまして、かなりの意見の相違が明瞭にあるということがきょうはっきりしたように思います。

 その中で、私は、やはり憲法が定めますように、国政に関する権能を有しないという点を厳格に守り切ることが、国民主権原理を具体化していく上でやはり欠かせない問題だと。それは参考人が近代立憲主義という言葉で説明されたことにかかわってくるわけですけれども、これはやはり引き続き大事なことである。その点でいきますと、今指摘がありました行為論にかかわりましては、私は、国事行為と、それ以外はやはり私的行為というふうに考えて、厳格に見ていく必要があるというふうに思っております。

 それから二点目に、伝統にかかわる問題なんですけれども、やはり明治以降の伝統にかかわる問題と、それ以前の天皇という長期的な存在にかかわる問題と、きちんと区分けした議論がこれは必要である。きょうは参考人から大嘗祭を初めとして各種儀式についての問題点が指摘されましたけれども、そういう議論をやっていく上でも、やはり絶対主義的天皇制と言われた時期のものと、主権在民下の国民主権のもとでの象徴という地位という、この違いをきちんとつかむということが大事だというふうに思います。

 最後になりますが、女性の天皇の問題なんですけれども、これは皇室典範という法律の事項にかかわる問題です。同時に、象徴規定という特権的な事項に対していわば人権論の枠をはめ込んでいくという議論を持ち得てきますから、この点でも議論が必要であるなということを感じました。

小野小委員 先ほどの船田委員からの発言に対して、私も賛成の立場から一言申し上げたいと思うわけでありますが、法律というものが果たしてどこまで物事を律する力を持ち得るんだろう、縛る力を持ち得るんだろうということについて、憲法が基本的な法であるだけに、一度きちんとした議論が必要だという気持ちがいたします。

 私たちの社会の中で長く続いてきている伝統だとか文化だとか、このあり方がどうかという問題については、横田参考人の御意見にありましたとおり、精査をする必要がある点でありましょうが、こういうものを外してしまって、そして憲法だけによって国家というものが維持することができる、律することができるということはやはりあり得ない話なんだろうと思いますね。

 ですから、法の優先ということについては、それは基本的に法治国家であります以上、重視しなくてはならない問題でありますが、そのときに、同時に、法がすべてを決めてしまうのではない、その余地を十分に残す国家をつくっていくということも、これからの議論の中で大事にしていただきたいものだというような気持ちがいたします。

 国の中における常識だとか良識だとか、これは法に規定されていないからもう何をやってもいいんだ、こういう乱暴な考え方がいかに今の国をおかしなものにしてしまっているのか、そういう点は、原点に立ち返って私たちの議論を進めていくべきだろうというような気持ちがいたします。

 ですから、伝統だとか文化だとか、それと天皇制の規定というところにおいて、必ずしもそれがすべて法のもとに規定できるものではないということを船田委員から指摘がありましたが、このあたりをどう尊重した議論が展開できるか、こういうところはまた委員の皆さんの御意見をぜひお聞かせいただきたい点でございます。

大出小委員 民主党の大出彰でございます。

 十分の先ほどの質問で、はしょって質問しなければなりませんので、よく通じないところもあると思いますが。

 最初に提起したのは、今、伝統あるいは歴史とか宗教ということを、最近そのことを主張なされるんですね。見ていると、明治に戻そうとしているのかなというような思いがありまして、なぜそれを強調するのかというときに思うことは、今の我々の感覚では、日本国憲法と明治憲法を比べると、何となく明治憲法の方が悪者になっていますね。ところが、読んでみると必ずしも悪いものではないんですが、それを持ち出すために伝統、そしてその伝統が結局天皇制を強化するということの方につながっている意見なんですね、ですから先ほども時代錯誤と申し上げたんですが。

 ノモス主権論というのを先ほど申し上げましたけれども、これもいわゆるノモスというところに主権があるんだというと、主権者が君主なのか国民なのかというのを抜きにできるんですね。両立できるというような考え方ができるんですね。その議論をどうもしているのではないかと思ったものですから、先ほど治す(しらす)議論と領く(うしはく)議論をしたんですが、井上毅さんが当時やった。何であの方がこういう議論をしたかというと、古事記に目をやって、日本の中で統治機構を考えたときに日本独自のものはないだろうかと一生懸命探したんですね。そうしたら、あるではないかということで始まった治す(しらす)、領く(うしはく)議論なんですね。

 要するに、天皇家の、天照大神の息子さんの占領する土地は治す(しらす)という言葉を使うわけですね。治す(しらす)という言葉は私的な占有ではない、オキュパイではないというわけですよ。ところが、大国主命の方は私的な占領じゃないか、こういうわけですね。つまり皆さんの、公共のために使うのが治す(しらす)である、こういう言い方で井上毅さんが言ったんです。

 ところが、それを突き詰めていくとどうなるかというと、天皇絶対制の方に話が行くんですね。それを伊藤博文さんは抑え込んだんですね。君主制だけれども立憲主義だから、憲法に基づいて、明治憲法にちゃんと書いてありまして、明治憲法の四条にありまして、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」、この「此ノ憲法ノ条規ニ依リ」というところが重要なんですよ。この部分を抑え込みたいためにという言い方は失礼かもしれませんが、伊藤博文さんたちは井上毅さんなんかと違う考えをとったということなんですね。だから、立憲主義なんですね。

 ところが、今の流れを見ていると、それでもう一つは、新しい日本国憲法になる前に、美濃部達吉さんは国家法人説をとっておられましたが、明治憲法を変える必要はないとおっしゃったんです。明治憲法がおかしくなったのは解釈と運用を間違えたからだ、こうおっしゃるんですね。今まさに、私は今の日本国憲法の解釈と運用は間違っているんじゃないかと言いたいところがありまして、余り、封建的に、もとへ戻さないでいただきたいという考えが強いので主張いたしました。

 以上です。

下村小委員長代理 他にはよろしいでしょうか。

 他に発言はございませんので、それでは……。

 それでは、大出彰君。

大出小委員 午後の部分が、私ちょっと出していただけないものですから。

 女帝の問題も一つ申し上げておきたいんです。

 伝統と言うならば生物学的にもちゃんと考えるべきだと思いまして、私は当然女帝で構わないではないかと思っておりまして、何でこんな、この憲法調査会の中ではいつも異端的な話をしていますが、人間のルーツを探るのを御存じだと思いますが、十七万年ぐらい前ですか、場所はアフリカ、アフリカで人類が誕生し、そのルーツをとうたところ、イブという一人の女性にぶち当たる。イブという女性がすべての人類のミトコンドリアDNAを持っているということなんですね。

 男女がいなければ子供は生まれませんから、何で女性一人なのかと不思議に思ったんです。そうしたら、それは、ミトコンドリアDNAというのは女性しか後世に残せないんだそうです、男は残せないんだそうです。となると、もうこれでわかるでしょう。男はろくでもないと思っていましたが、女性の方が生物的に偉いということが証明されたんですよ、はっきり言いますと。

 ですから、女帝で悪い理由はないではないか、こう申し上げたいということを言っておきます。

 以上です。

森岡小委員 一言だけ申し上げておきたいと思います。

 先ほど参考人がそれほどまでにして象徴天皇制を守らなきゃならぬとは考えていないんだというようなことをおっしゃいました。私は大変危険な考え方じゃないかなというふうに思っております。

 と申しますのは、日本という国、人には人柄がありますように、また家には家柄がある、国には国柄というものがあります。日本の国というのは、先ほど来伝統とか文化とかよく口に出されておりますけれども、やはり権威ある存在が天皇、そして権力を持っている人はその下にいる。そういう知恵を出しながら、天皇、権威ある存在と権力を持っている存在とを別に切り離して、私たちの先達が知恵を絞りながら国家を統治してきた、そういう形があったと思うんです。その形を私たちはやはり大事にしていかなければならない。そんなふうに思うわけでございまして、その中心になっているのが、今、国民主権ではありますけれども、敬愛すべき象徴天皇がいる。この国柄というものを私は大事にしていかなければならない。そんな立場から、先ほど来女帝についても私の考え方を述べさせていただいたわけでございます。

 どこの国とも同じような国になっていいんだということじゃなしに、私たちの先達が考えてつくってくれたこの知恵というものを私たちは大事にしながらこの国の運営を考えていかなければならない、そんなふうに思うものですから、一言申し上げておきたいと思います。

 どうもありがとうございました。

下村小委員長代理 他に発言はございませんか。

 それでは、討議も尽きたようでございますので、これにて自由討議を終了いたします。

 次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。

    午前十一時三十五分散会


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