衆議院

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第3号 平成16年3月2日(火曜日)

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平成十六年三月二日(火曜日)

    午後一時一分開議

 出席小委員

   小委員長 遠藤 武彦君

      岩永 峯一君    木村  勉君

      中谷  元君    西銘恒三郎君

      宮下 一郎君    渡辺 博道君

      加藤 尚彦君    武正 公一君

      中川 正春君    増子 輝彦君

      松原  仁君    漆原 良夫君

      赤嶺 政賢君

    …………………………………

   外務委員長        米澤  隆君

   参考人          金  柄淘君

   参考人          李  在根君

   参考人          陣  正八君

   通訳           長友 英子君

   通訳           李  希京君

   外務委員会専門員     原   聰君

    ―――――――――――――

三月二日

 小委員中野譲君同日委員辞任につき、その補欠として中川正春君が委員長の指名で小委員に選任された。

同日

 小委員中川正春君同日委員辞任につき、その補欠として中野譲君が委員長の指名で小委員に選任された。

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 北朝鮮による拉致及び核開発問題等に関する件


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     ――――◇―――――

遠藤小委員長 これより北朝鮮による拉致及び核開発問題等に関する小委員会を開会いたします。

 北朝鮮による拉致及び核開発問題等に関する件について調査を進めます。

 本件調査のため、本日、参考人として金柄淘君、李在根君及び陣正八君に御出席をいただいております。

 なお、本日は、通訳を長友英子さん及び李希京さんにお願いいたしております。よろしくお願いいたします。

 この際、参考人の皆さん方に一言ごあいさつ申し上げます。

 本日は、御多用中のところ、わざわざこの委員会に御出席くださいまして、まことにありがとうございました。皆さん方は、長きにわたりまして筆舌に尽くせぬ御苦労を重ねた上、帰国された方だと聞いております。本委員会で初めて皆さん方をお招きしてお話を伺うわけでございますが、どうか忌憚のない御意見をお述べいただきたく、よろしくお願い申し上げる次第でございます。

 次に、議事の順序について申し上げます。

 まず、金参考人、李参考人及び陣参考人の順序で、お一人二十分程度、通訳が入ります、御意見をお述べいただき、その後、小委員の質疑に対しお答えをいただきたいと存じます。

 なお、御発言の際は小委員長の許可を得ることとなっております。御発言は着席のままで結構です。

 それでは、金参考人にお願いいたします。

金参考人(通訳) 私は、一九七三年十一月二十四日に、北朝鮮の警備艇によって北に拉致された金柄淘と申します。

 当時、私どもは漁業をやっておりまして、何もわからずに漁業に専念しておりました。ところが、私どもの船の船長が北朝鮮のスパイに籠絡されまして、したがいまして、その関係で西海の延坪島というところまで連れていかれてしまいました。

 その北朝鮮のスパイになってしまった船長に、なぜこんなところまで私たちは来なくてはいけないのか、もう北朝鮮との国境である三十八度線に近いじゃないかと言ったんですけれども、有無を言わせずにそこまで連れていかれてしまったということです。しかしながら、私たちは、北の海の方に行けば行くほど魚の漁獲量が多くなるというふうに信じまして、そして船長に言われるままに北の方に進んでいったわけです。

 当時、私たちは自分たちがどこの位置にいるかということはわかっておりませんでした。ですから、三十八度線の近くに来たということもよくはわかりませんでしたけれども、かなり北の方に来てしまったのではないかというふうな思いがありまして、たまたま私どもの横を韓国の艦隊が通り過ぎた、船が通り過ぎたわけですけれども、そのときに私どもは服を脱いで、そして助けてくれというふうに叫んだわけです。そして、北に近くなったと思いましたので、船首を南に向けて南に行こうではないか、帰ろうではないかというふうに私たちは言い合いました。

 しかしながら、その韓国の艦隊が通り過ぎた後に、北朝鮮の警備艇三隻があらわれまして、私どもを捕まえて、北に連れていかれてしまったわけです。そこから私どもの北での生活が始まりました。

 私どもは北朝鮮に行きまして、行った後に思想教育を一年半ほど受けました。そして、北朝鮮の、北の社会に配置されたわけですけれども、私は、咸鏡南道に咸興市というのがありますが、そこの工場に配置されました。

 私は、工場で仕事をしながら、とにかく生き長らえよう、生命の維持をしようということで、仕事を一生懸命いたしました。そして、その結果、勲章もたくさんもらいました。そして、北朝鮮の労働党の信任というものも厚くなりました。

 しかしながら、その工場での生活は次第に苦しくなっていきました。それで、私は農村の方に出ていきまして、咸興市の方でやっておりますヤギ牧場で仕事をすることになりました。私がそのヤギ牧場で仕事をしている間、北では苦難の行軍という非常に厳しい行軍がございました。

 その行軍で三百五十万の人が飢え死にをしたというふうに言われております。この三百五十万の人数というのは、当局が公式に発表した数字が三百五十万ということであります。

 この苦難の行軍ということを考えますに、私が北でどうやって生きてこれたのか、どうやって生き長らえてこられたのか、生きていること自体が奇跡だというふうに考えます。

 この苦難の行軍の時期を経まして、いわゆる世界赤十字社、あるいは韓国、そして日本政府、またアメリカからも食糧支援というのを私どもは受けております。その数字を見ますと、その当時の北朝鮮の住民が十分食べていける量であったにもかかわらず、北朝鮮ではこの多くの食糧というものが人民に行き渡りませんでした。私は、この不可思議というものを考えますに、なぜこういうことになったのかというふうに思ってしまいます。

 食糧援助を受けたこの数字だけを見ても、北朝鮮の住民が一年間十分食べていけるだけの量でありました。しかしながら、北の住民は、本来必要とする量の半分も食べることができず、三百五十万の人が飢え死にをしたわけです。

 つまり、金正日がそれをどこに隠したのか、どこに売り払ってしまったのか、そういうことだと思います。それはわかりませんけれども、世界から支援を受けた食糧があったにもかかわらず三百五十万の人が死んだというこの事実だけでも、北の政府は十分世界から抗議を受けるに値するというふうに考えます。

 咸鏡南道の咸興市というのは、化学工業の基地として知られたところであります。つまり、化学工業の工場が非常に多いところであります。この咸興の化学工場に関しましては、イ・スンギという博士が研究した二・八ビナロン企業連合所というものがございます。

 私は、この食糧支援の状況を見ますと、北は戦争の準備しかしていなかったのではないかと思わざるを得ません。

 私どもが北に拉致された当時スパイだったイ・ミヌという人物がいるんですけれども、そのイ・ミヌというスパイは、私どもが北で、当然、いわゆる処断された、いわゆる生きていないというふうに考えていたわけですけれども、平壌市で生きているということに後になって気がつきました。

 言ってみれば、彼によって私の二十代の青春というものは奪われ、五十代になって帰国をしたわけですけれども、考えてみますに、私の青春というのは一体どうしてこういうことになったのか、そう考えるだけでも胸が張り裂けそうな思いがいたします。

 私の青春を捧げたそういう事件でありましたけれども、にもかかわらず、私は何の補償も受けておりませんし、現在、非常に生活していく上で困難な状況にございます。

 最後に、韓国政府そして日本の政府、それからすべての世界のマスコミの皆さん、多くの人々が今からでも私どもを御支援していただきまして、そして私どもの補償問題について何らかの動きをしていただければというふうに考えております。私ども、北からの補償というものも受ける、当然そういう立場にあるというふうに考えております。

 ありがとうございました。

遠藤小委員長 御苦労さまでした。

 次に、李参考人にお願いいたします。

李参考人(通訳) 私は、一九七〇年四月二十九日の未明二時ごろ、北朝鮮の警備艇二隻によって北朝鮮の方に拉致されました。その拉致される当時の状況なんですけれども、警備艇が突然あらわれました。そして、兵士たちがとにかく銃を乱射しまして、もう顔を上げることもできない、そういった状況で、全く抵抗すらできないまま、そのまま連れていかれ、仕方なく中央党政治学校というところに入学させられました。

 その党中央の政治学校というところはどういったところかと申し上げますと、北朝鮮がいわゆる韓国を赤化統一するためのスパイまたは工作員を養成する、そういった基地となっていました。そこには、結局北朝鮮の金正日政権は、南の韓国人だけではなく日本人も多数連れてきては、そこでいわゆる韓国に対する赤化統一のためにその人々を利用した、そこに問題があると思います。

 私は日本人に直接会った経験があります。その当時一九七二年でした。私は、学校から病院に行く途中、車で移動していたんですけれども、その途中の招待所に、北朝鮮の住民とは明らかに違った服装、身なりをしていた人々がいたわけです。

 というのは、北朝鮮の人たちはサイズの大きい服を着ているわけですけれども、体に合ったサイズの服を着ていて、それで、ちょっと小じゃれた、そういった身なりをしていて、何でこんなところに日本人がいるのかと指導員に尋ねたところ、彼も弁明することはできず、偉大なる首領金日成同志を慕って日本からやってきたのだ、そういうふうに答えました。

 それから、私は、一九七一年の正月それから七二年の正月、七三年の正月、つまり三年連続、正月のときに日本人が来て、その正月の党務を務めていたことを目撃しております。

 失礼しました。先ほど党務をしたと言ったんですけれども、そうではなくて、三年連続で、正月にビリヤードをしている日本人を目撃したということです。

 二十人ぐらいおりました。というのは、北朝鮮では、その学校では、いわゆる正月に休暇を出すわけですけれども、ホテルですとか旅館ですとか、一週間から十日の休暇を出して、それからまた戻ってきてスパイの養成教育ということをするわけですけれども、とにかく三年連続で、私は、正月にビリヤードを、それも朝鮮語ではなくて日本語をしゃべりながらビリヤードをする、そういった人々の姿を目撃することができました。

 現在、韓国政府の発表によりますと、北朝鮮に拉致された韓国人は四百五十人だというふうに数字が出ております。しかし、私が知る限りでは、韓国から拉致されてきた韓国人は六百人以上になると思っております。同じように、日本人も、北朝鮮では今十五人だというふうに発表しておりますが、それも真っ赤なうそで、私が見ただけでも十五人以上になっておりますので、少なくとも百人にはなるのではないか。直接多くの人々を見ましたし、ですから百人以上にはなっているのではないか。十五人だというのは本当に彼らの捏造だと言わざるを得ません。

 金正日政権は、自国民三百五十万から四百万を結局は飢え死にさせた張本人です。そして、今またまさに核を開発し、韓国だけではなく世界を火の海の中に入れよう、そういうふうに騒いでいる。こういったことを我々は一体どう受けとめたらいいのでしょうか。

 日本との交渉または貿易取引などにおきましても、これは私の意見にすぎないかもしれませんけれども、北朝鮮に資金を提供する、そういったチャンネルというのは全部断ち切らなくてはいけないと思います。北朝鮮に金が流れないよう、または、総連を通じてでも、そういったルートを全部遮断しなくてはいけません。そうでなかったら、それが爆弾となって、韓国の国土に、日本の国土にその爆弾が浴びせられることになります。

 委員の皆様にぜひお願いしたいことがあります。

 金正日との関係というものを断ち切って、そして、核については絶対的に反対をしていただきたいと思います。また、資金面での提供というのもあり得ないと思います。韓国政府と日本政府がお互いに協力をし合って、金正日を国際戦犯裁判所に渡すまで、御努力、御尽力いただければと思います。

 金正日が生きている限り、世界の平和というのはもう遠い未来のことだと思います。なぜかといいますと、金正日があのように生きている限り、彼は核をつくり、そして世界を脅かすからであります。

 ですから、どうか、委員の皆様、そして日本の国会の皆様は、北朝鮮に流れる資金のルートを遮断し、そして、それが私たちに振りかからないように、いろいろ御努力、御協力願いたいと思います。

 以上です。

遠藤小委員長 御苦労さまでした。

 次に、陣参考人にお願いいたします。

陣参考人(通訳) 私は、一九六七年四月十九日に仁川の沖合の小青島付近で拉致され、二〇〇〇年一月に三十五年ぶりに帰国した陣正八と申します。

 私が拉致された当時の状況ですけれども、私どもが漁をしていたときに、十トン級の船があらわれたわけです。私ども、最初にその船を見たときには、当然それは漁船だと思いました。北朝鮮の工作船とは全く思わなかったわけです。しかし、三百メートルぐらい近づいたところから非常に激しい銃撃を加えられまして、結局、私どもは、どうすることもなく捕まって拉致されてしまったわけです。

 その銃撃戦によりまして、チャン・ヨンシク甲板長が死亡してしまいました。その後、彼らは私どもの船に上がってきまして、私たちの胸に銃を突きつけ、そして船の検査をした後、私たちは彼らの船に連れていかれたわけです。捕まりました私たちは、全く身動きもできない状態で、結局、北のその船に乗せられ、二十四時間後に北に到着したという形になります。

 私ども、北に連れていかれた後、いつ殺されるんだろうかという、死を目前にしたそういう状況で、いつ殺されるのかと時間を数えるばかりでありました。

 黄海南道の海州市というところにしばらくいた後、平壌の大同江ホテルに移されました。その大同江国際ホテルで、私たちを韓国に戻すか、いや戻さないか、そういうやりとりが続いた結果、結局、私たちは韓国に永遠に戻れないということがわかったわけです。

 結局、私どもは、平壌で一年間社会主義の思想教育を受けて、社会に配置されました。私どもが北朝鮮社会に配置されたのは、咸鏡北道の清津市というところの機械工場でした。この工場は、炭坑関係の附属部品をつくるところでありました。この炭坑関連の機械をつくる工場ですけれども、当時、金日成から、高射砲をつくってこの地域を守れ、そういう指示がおりました。

 この工場は、第一工場、第二工場とあるんですけれども、最初の工場では四十ミリ砲、そしてもう一つの工場では弾薬をつくりました。この工場の従業員は四千人ほどおりました。

 八五年、八六年というのは非常に生活の厳しいときでありまして、例えば、山で山菜をとったり木の根をとったりして何とか食べていたんですけれども、八〇年代は、日本や韓国からの食糧支援によりまして、かなり配給もよかった地域であります。この工場で仕事をしながら勉強もして、共産大学を出まして、そして、金日成による幹部任命状というものも私は取ることができました。

 私がおりましたこの咸鏡北道の清津市には、九十七ミリの高射砲をつくる工場がありました。私がこの事実をどうして知ったかといいますと、北朝鮮当局がノドン一号、二号というものを打ち上げたときに、関連の技術者がヨンウというところに、言ってみれば調査に行ったんですが、北の核開発ということと絡んで考えますと、九十七ミリの高射砲をつくっていたこのあたり、つまり、清津市のこの付近の工場で、電子関係のそういう部品などをつくっていたのではないかというふうに私は考えます。

 私が北で三十五年間暮らしてどういうふうなことを思ったかということなんですけれども、金日成が死亡して、現在、金正日が国家建設に携わっているわけですけれども、北の人民の状況というのは非常にひどいものがあります。各地方の産業というものはほとんど壊滅状態でありまして、唯一、軍需産業だけが細々と今続いているという状況です。

 こういった状況で、一体、北の政権というのはどれぐらいあと生き長らえることができるかということになってまいりますが、こういう状況がございますけれども、私がここで訴えたいことは、韓国から拉致された拉致者の帰国、送還というものを、国際的な世論の後押しを受けて、ぜひ実現できればというふうに思うのであります。

 ですので、日本の国会の皆様のお力添えで、北に連れていかれた拉致者が、ぜひ韓国に送還される日が来ることを祈りたいというふうに思います。また、日本から拉致された人たちとの再会というものもできればというふうに考えております。それからもう一つ、日本に帰国された、日本から拉致された五人とぜひお会いしたいというふうに考えております。

 以上でございます。ありがとうございました。

遠藤小委員長 ありがとうございました。

 これにて参考人の意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

遠藤小委員長 これより参考人に対する質疑に入ります。

 なお、質疑応答は逐次通訳で行いますので、御発言は、通訳が入りやすいように区切りながら簡潔にお願いいたします。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。中谷元君。

中谷小委員 アンニョンハシムニカ。自由民主党の中谷元でございます。

 金柄淘さん、李在根さん、陣正八さん、お三名の方におかれましては、小委員会にお越しいただきまして、ありがとうございます。また、北朝鮮で長い間御苦労をされまして、さぞ大変だったと思います。

 日本では、日本から拉致をされた人たちの何らかの手がかりを探しております。本日は、そのために参考になる御意見をお伺いします。

 まず、三人の方にお伺いしますけれども、北朝鮮にいた期間に日本人を目撃したり、話をしたり、親しくなった人はいますか。また、その情報をだれかから聞いたことがありますか。何らかのお話を伺いたいと思います。

 金柄淘さんからお願いします。

金参考人(通訳) 私は、北朝鮮で三十年暮らしたわけですけれども、日本人に会ったことはありませんし、そういった話を聞いたこともありません。

 ただ、日本で暮らして北朝鮮に帰国した人は知っております。それは、だんなさんの方が朝鮮人で奥さんの方が多分日本の方だったと思います。その二人を知っているだけで、その方々もお年を大分召されて、もう既に故人となっております。

 そのほかには、日本人に会ったり、そして話を聞いたことはありません。

中谷小委員 その人の話を聞いたのはいつごろでしょうか。

金参考人(通訳) それは、多分、一九七七年、七八年だったのではないかと思います。

中谷小委員 その人はどういうお仕事をされていたのか、わかっていたらお伺いしたいと思います。

金参考人(通訳) もう既にお年を召されていたので、職業はなく、ただ家にいらしただけだと思います。

中谷小委員 それでは、陣正八さん、同じ質問ですけれども、お願いいたします。

陣参考人(通訳) 私も日本人に直接会ったことはありませんが、八〇年当時、清津港で日本の船を拿捕してきた、そして船は返還せず人間だけ帰すといった話を聞いたことがあります。

中谷小委員 そのときに、その人の話は、何人ぐらい、そしてどのような状況であったのか、もう少しわかっていたらお伺いしたいと思いますけれども。

陣参考人(通訳) 近海で漁業をしていたところ、境界線を越えたので拿捕してきた、多分そういう話だったと思います。

中谷小委員 船の名前は御存じないでしょうか。

陣参考人(通訳) それは覚えていません。

中谷小委員 そして、日本からこういった拉致をされている人がいるぞという話は聞いたことはありませんでしょうか。

陣参考人(通訳) そういった話は聞いたことはありません。

中谷小委員 それでは、李在根さん、先ほども一部お話を伺いましたけれども、もう一度お伺いしますが、日本人を連れてきて利用していたということの話を聞かれましたが、だれからその話を聞かれましたでしょうか。

李参考人(通訳) 私が社会に出てからは、そういった話に接することができなかったので、そういった話を聞く機会はありませんでしたが、先ほど申し上げましたように、党中央の政治学校にいる時代の七二年に、招待所に行く途中、招待所で五、六人の日本人を、女性一人が多分入っていたと思いますけれども、含めた五、六人を直接この目で目撃しましたし、それから正月の休暇の際にホテルで日本の人に三年連続して会ったということです。

中谷小委員 今お話があった招待所という場所はどういったところなんでしょうか。

李参考人(通訳) その招待所というのは、まさにその政治学校の中にありまして、政治学校に入る人々はすべてまずそこに一たん入れられるわけですね。大体二カ月ぐらいいるんです。二カ月後に私が招待所の方を見ましたら、もうそこは空き家というか空っぽになっておりましたので、その人たちが政治学校を出たのか、またはほかのところに行ったのか、それはよくわかりません。

中谷小委員 それは一九七二年ということでよろしいんでしょうか。大体何月ごろか覚えておられますでしょうか。

李参考人(通訳) 夏のことでした。

中谷小委員 男性でしょうか、女性でしょうか。

李参考人(通訳) 多分六人ぐらいだったと思います。女性一人と、あとは男性五人ぐらいだったと思います。

中谷小委員 それから、先ほど病院で見たと言われましたけれども、これは招待所と違う話でしょうか。

李参考人(通訳) 病院でではなくて、その政治学校に私がいた当時、病院に行く途中の招待所で見かけたということであります。

 政治学校というのは山の中にありまして、木もうっそうと茂っていて空中から飛行機で見ても見えないわけですね。そういったところに、一棟に四人ぐらいが入っているわけです。その招待所というのが百棟ぐらいありまして、ですから、多分四百人はそこでスパイ工作員として養成されていたんではないかと今思っているわけです。ただ、スパイ工作員の養成訓練課程というのが余りにもきついために、体調が悪ければ、歯が痛いとか胃が痛いとかいって病院に行くわけですね。

 その日も余りきつかったので病院に行きたいということで、病院に行く途中の招待所で日本人を見かけたわけです。指導員に、何で日本人がここにいるのかと尋ねたところ、指導員の方も急なことで慌ててしまって、弁明もできずに、偉大なる首領同志を慕って世界各国から北朝鮮にこういうふうに人民が押し寄せているんだ、そういうふうな答えが返ってきたわけです。

中谷小委員 もう一点、お正月にビリヤードをしているということで、三年連続ごらんになったということですが、これはホテルということでよろしいでしょうか。もしよかったら、どこのホテルか教えていただきたいのですが。

李参考人(通訳) 場所はホテルであります。七一年は大同江ホテル、そして七二年は国際ホテルであります。

 そのホテルにはビリヤードができるところは一カ所しかありませんで、例えば、私たちが行くとそこに彼らがいて、そして彼らが談笑している言葉が日本語だった。それで、ああ日本人だというのがわかったわけです。彼らは二十七、八、九、三十代前半ぐらい、非常に小ぎれいで、非常に顔もきれいな人たちでした。私たちがそこのホテルを出ると彼らもそのホテルに残っていなかった、そういうことがありました。ということで、恐らく彼らも同じ中央党の政治学校で訓練を受けているのではないかというふうに私は思っております。

 といいますのも、私たちは、例えば金日成からお酒をもらったり、お菓子をもらったり、果物をもらったり、そういうようなことがあるわけですけれども、あるとき、そこの引き出しの中にお酒を二本忘れてきたんですね。それで、一たんホテルを後にはしていたんですけれども、また戻って、お酒をとりに行ったところ、もうそこには彼らも既にいなかったということですので、休暇の時期が同じ、つまり同じところで訓練を受けているのではないかというふうに私は思っております。

中谷小委員 どうもありがとうございました。カムサハムニダ。

遠藤小委員長 次に、漆原良夫君。

漆原小委員 公明党の漆原良夫でございます。

 きょうは、金さん、李さん、陣さん、三人の参考人の皆様、本当にありがとうございました。また、三十年以上も長い間北朝鮮に拉致されておられて、本当に、口に言いあらわせない御苦労をされたと思います。心から御同情申し上げます。

 きょうは、有意義なお話をたくさんお伺いできて、大変うれしく思っております。日本でも、たくさんの方が北朝鮮に拉致をされたんじゃないかということで、多くの人が行方不明になっておりまして、一生懸命その消息を探っているところでありますが、私の方から、まず李さんにお伺いをしたいと思います。

 まず、先ほどのお話の中で、招待所で六人の日本人に会った、日本人を見たというふうにお話をされましたが、これは、李さんが政治大学校に行かれている年限は、何年間行かれたんでしょうか。

李参考人(通訳) 私は、満三年間おりました。言ってみれば大学課程であります。

 そこでの訓練というのはスパイとしての訓練でありまして、無線それから射撃でありますとか、銃それから刀といいますかナイフ、それから運転、それから言ってみればトンネル、洞窟などを掘ること、それから南に行って人を拉致してまた北に連れていくということもやはり任務でありますので、そういったすべての訓練をする課程で、私は勉強していたわけです。

漆原小委員 李さんは、招待所で日本人を六人、女性が一人、男性が五人、見かけたとおっしゃいますが、北朝鮮の招待所で日本人を見かけたのは、それが最初でしょうか。

李参考人(通訳) 最初で最後です。

漆原小委員 そのときの印象ですが、女性でも男性でもだれでも構いませんが、特にあなたの印象として残った人がいらっしゃれば、その特徴をおっしゃっていただければありがたいと思いますが、残っておりますか。

李参考人(通訳) 印象と言われましたけれども、私は車で通りすがりに見たということですので、特にこれといった印象があったわけではありません。そのときに同乗していた指導員、北で中央党の指導員といいますと、これはある程度クラスの高い人だと言えると思いますけれども、その人が日本人だと言ったわけではなくて、私が、どうしてあんなところに日本人がいるのかと言ったら、それに答えられずに、金日成、偉大なる首領を慕って世界から集まっているというふうな言い方で日本人であるということを認めた、そういう過程ですので、印象というのはこれといってないと。

漆原小委員 それでは、ホテルで、七一年、七二年、七三年、この三年間、ホテルでビリヤードをしている日本人を三年間見た、こうおっしゃいましたですね。日本語をしゃべっていたということですから日本人だということで御認識があったんでしょうが、この二十人くらいの日本人の中で、特に印象に残った方がいらっしゃいますでしょうかどうか。

李参考人(通訳) もう当時から数えますと三十年以上、四十年近くなりますので、はっきりとした印象はないんですが、一人、二人背の高い人がいたという記憶はあります。

漆原小委員 それでは、金さんと陣さんにお尋ねしたいと思うんですが、韓国にお戻りになってから、皆さんよりお先に北朝鮮から韓国に戻ってこられた方がいらっしゃると思うんですね。そういう方とお会いになった際に、拉致された日本人のことが話題になったことがありますかどうか。

陣参考人(通訳) そういった話は聞いたことがありません。

金参考人(通訳) やはり私も聞いておりません。

李参考人(通訳) それにつきましては、私がお話ししたいと思います。

 例えば、拉致された日本人の場合は、よっぽどやってはいけないようなことをやらない限り、いわゆる北では配慮をされております。そして、例えば韓国の人間が拉致された場合にはいろいろひどい待遇を受けたりするわけですけれども、日本人の場合には、ある程度技術があればその技術を生かし、何かを教えるような力があればそれを教える、そういうような形で常に平壌では配慮されております。

 よっぽど何かやってはいけないようなことをやりますと、中央の方で協議をしまして、そして例えば山奥の方に追放するとかいうことになるだけで、一般の北の社会には出ていかないわけですね。つまり、私たちとは接触する機会がほとんどない、そういう状況です。

漆原小委員 日本の拉致された方も思想教育を受けさせられたと思うんですが、皆さんも拉致された当時は一年間とか数年間思想教育を受けたそうでございますけれども、その思想教育はどんな内容の教育を受けたのか、概略的に、これは金さんに教えていただきたいと思います。

李参考人(通訳) 一年とか数年ではありませんで、毎月のようにそういう教育を受けておりまして、言ってみればこれは洗脳教育ですね。洗脳教育を受けない限り、そこで生活はできない。

金参考人(通訳) 韓国から北朝鮮に拉致された人々だけではなくて、北朝鮮に住んでいる住民たちにもそういった思想教育というのは行っております。私たちのように韓国から連れていかれた人々は、当初、集中的な思想教育というのを一年から一年半にかけて受けることになります。

 そういったところで集中的な、専門的な思想教育を一年から一年半にかけて受けた後は、一般の社会生活ができるように社会に配置されるわけですけれども、例えば企業所とかそういったところに配属されるわけですね。そこでは、定期学習または生活総和または講演会といったものが続きまして、ほとんど毎日のようにそういった教育が行われております。

 ですから、北朝鮮の住民すらも、生涯その思想教育なしには生活できないように、そういうふうに組まれておりまして、毎週五回以上はこういった教育が実施されています。

 毎週五回以上、先ほど申し上げました定期学習の生活総和、講演会といったものが行われております。それにつけ加えて、いわゆるお言葉を浸透させるとか、教条を浸透させるとか、そういったことも行われておりますし、そういったいわゆる勉強会みたいなものを一回抜けても、組織から批判されて、いわゆる自己批判をしなくてはいけないということになっているわけですね。それで、批判を受けると思想検討というものも受けなくてはいけない。そういうふうにして住民たちは日々闘争をやっているわけです。

漆原小委員 以上で終わります。ありがとうございました。

遠藤小委員長 次に、中川正春君。

    〔小委員長退席、中谷小委員長代理着席〕

中川(正)小委員 民主党の中川正春でございます。

 金さん、李さん、陣さんには、きょうは本当にありがとうございます。

 民主党の拉致対策本部は、皆さんが日本で拉致問題について連携をしていく、日本の拉致家族の皆さんそして被害者の皆さんと連携をしていくことによって、そしてまた韓国政府がこれに乗り出してくることによって、さらに力強い北朝鮮に対する交渉力がつくということ、その思いを秘めながら日本にやってきていただきました。私たちが招待したことを、改めてよかったな、この連携がさらに大事だなということを思っております。

 まず、私も、最初に日本人の消息についてさらにお聞きをしていきたいと思います。

 かつてソウルで打ち合わせをさせていただいたときに、皆さんの中から、金正日の保養所で日本人がいたというお話がたしか出たというふうに聞いておりますが、そのことについて、もう少し詳しくお話をいただくことができればと思います。――ああ、そうですか。

 直接発言をしていただくことができないのは残念ですが、また後ほど聞かせていただきたいというふうに思っています。

 さらにもう一つ、帰還事業で帰った日本人ではない若い人が金剛山などにもいたという話も出たと聞いておりますが、これについてはいかがでしょうか。――そうすると、これも、お話の中で出た、皆さんの打ち合わせといいますか、家族会の皆さんやその他の皆さんの中から出たということですか。――ああ、そうですか。

 それでは、またこの後記者会見がありますので、その席で、NGOの皆さん、関係者の皆さんにお話をいただきたいというふうに思っております。

 一つお伺いしたいんですが、日本から特定失踪者のポスターというのが配布をされていまして、恐らく、皆さんもこのポスターを見られたことがあるんじゃないかと思うんですが、どうでしょうか。

李参考人(通訳) 日本から家族会の方々がいらっしゃった際に、小さな顔写真は拝見したんですけれども、余りにも小さ過ぎてよくわかりませんで、それ以外に見たことはありません。見たものはありません。

中川(正)小委員 北では、都合の悪い情報、あるいは都合の悪い人ということになると、死亡したというふうに発表をする、こういうことがあるんですが、その点については皆さんどう考えられますでしょうか。

    〔中谷小委員長代理退席、小委員長着席〕

李参考人(通訳) 北朝鮮はうそで塗り固められたような国でありますので、彼らが死んだと言っても、一〇〇%信じない方がいいと思います。もちろん、中には一人か二人、本当に死亡したかもしれませんけれども、若い年代の方々が死ぬというのはとても理解できません。私ですら理解できないのでありますから。

 私は今六十七歳ですけれども、何とかして今日まで生きてくることができました。なのに、なぜ若い人がそんなに簡単に死んでしまうんでしょうか。しかも、帰還事業で帰った人々よりはるかにいい暮らし、北朝鮮の住民よりはるかにいい暮らしをしているのでありますから、そんなに簡単に死ぬということはあり得ないと思います。

 もし本当に死んだのならば、遺骨を返してもらってDNA検査をしてみれば、それは白黒をはっきりつけることができるんではないでしょうか。政府間交渉でしっかりそういった遺骨を返還してもらって検査をすれば、それは明白になると思います。

 ですから、彼らの言うことは全く信じる必要はない。今までうそによって政府を維持してきた、そういった国でありますから、信じる必要はないと思います。

中川(正)小委員 先ほどから李さんの発言の中に、自分が見ただけでも百人以上の日本人の拉致の人たちがいる、自分の経験からそれぐらいの人たちがいるんではないかというお話が出ました。恐らく、三人の皆さんがこうして発言されただけでもこれだけの情報が出たんですから、韓国には、脱北をして年間千人以上の人たちが北朝鮮から帰ってきている。それの中にどれほどの情報があるんだろうかと私たちは思うわけでありますが、この韓国からの情報というのをとるために、どのようにすればいいか、どのような連携をしていったらいいかというふうにお考えでしょうか。そこのところをいま少し聞かせてください。

李参考人(通訳) 実は、私は現在、警察庁の崇義同志会というところの副会長をしております。この崇義同志会というのは、いわゆる脱北者を管理する団体でありまして、会員四千三百人ぐらいになっているんです。このほかにも脱北者を管理する団体または脱北者同士の団体というのがさまざまありますけれども、大体その規模は、数十人から何百人というものもありますが、私どもの団体が最も大きくて、四千三百人をカバーしているわけです。

 その会員の中には、いわゆる帰還事業で北朝鮮に帰国をし、そして脱北をした、そういった人々もいるわけです。だから、日本から北朝鮮に帰国をして、そして脱北をした、そういった人もいるんですけれども、そうした人々を通じれば、より何らかの情報に接することができるんではないでしょうか。

中川(正)小委員 最後にもう一つお伺いをしたいんですが、私たちは、ぜひとも、韓国政府もこの拉致問題について積極的に発言をして、人権を回復するという私たちとの共通の理念でもって北朝鮮に対峙してほしいというふうに思っております。

 そういう点からいって、今回こうして来ていただいて、私たち日本の民間それから政府も通じて、どのようなことを韓国政府に働きかけていくべきか、あるいはどういう形でさらに連携を結んでいけるというふうにお考えか、このところを最後に聞かせていただきたいというふうに思います。

李参考人(通訳) 私がこういった話をするのもなんなんですが、金大中政権それから現在の盧武鉉政権というのは、我々保守勢力とは全く理念も考え方も異なる持ち主でありまして、ですから、この政権が四、五年続けば韓国は一体どこに行くんだろうかという危惧を、私だけではなくて韓国の知識人またはマスコミ、メディアでも心配しているわけです。そういった人たちを相手に何を働きかけ、何を話せばいいんだろうかという思いを強く持っております。

遠藤小委員長 次に、赤嶺政賢君。

赤嶺小委員 日本共産党の赤嶺政賢でございます。

 本日は、当委員会の質疑のために遠く韓国からおいでいただいたことに心から感謝を申し上げるとともに、先ほどの皆さんの御報告、筆舌に尽くしがたい体験、こういう気持ちが痛いほど伝わってまいりました。

 私たち日本共産党は、かなり以前から、北朝鮮労働党との関係、交流を絶ち、そして自主的な立場で、北朝鮮の国際的な無法行為の事件が起きたときには厳しく批判してまいりました。

 拉致問題も、国際的な犯罪行為として絶対に許すことのできない問題だと考えています。真相の全面的な解明と拉致の責任者の厳重な処罰、被害者への謝罪と補償を強く要求しています。

 拉致問題は、日朝間の問題であると同時に、その解決に当たっては、北朝鮮が起こしてきた数々の国際的な無法行為、ビルマ・ラングーンの爆破事件やあるいは大韓航空機事件などのこういう無法行為全体の清算を国際社会が求めていくことが大事であり、国際的な課題の一つとして位置づけて、国際社会全体の取り組みにしていくことが重要だと考えています。

 そういう点で、御三名にお伺いしたいんですが、北朝鮮と韓国、そして中国、アメリカ、ロシア、日本の六者による六カ国協議の枠組みがつくられ、せんだっても北京で二回目の協議が行われました。核問題はもちろん、拉致問題の解決を図っていく上でも、私たちはこういう国際的な取り組み、六カ国協議の枠組みを強めていくことが大事だと考えますが、まず最初に金さん、そして次に李さん、陣さんという順序で御意見を伺いたいと思います。

金参考人(通訳) これまで二回にわたり六カ国協議が開催されましたけれども、これまでいわゆる実を結んだものが一つもないというのもまた事実であろうかと思います。この六カ国協議は、核問題を解決するための協議であるというのが基本的な意味であろうかと思いますけれども、二回にわたる会議でも何ら成果が出ていないということを考えますに、これは幾ら今後引き続き行ってもいい成果というものは出にくいのではないかというふうに考えます。

 その成果を得るために、では、北朝鮮を孤立させれば何らかの成果が出るのかということに関しては何とも言えませんけれども、いい成果が出るというのはなかなか難しいのではないかというふうに考えます。

李参考人(通訳) 北朝鮮というのは実に小さな国であります。にもかかわらず、アメリカ、ソ連、中国といった大国が、そういった強国がやきもきしている、振り回されている、そういう状況を見ますに、非常に私としては見ていられない、そういう思いがいたします。

 現在、北朝鮮は、言ってみれば世襲の王国であります。いわゆる普通の王国よりも、これはそういう側面が非常に強いと思います。王が息子そしてまたその子供に代を譲っていく。共産国家としては、こういう世襲の王朝というのは一体幾つあるとお思いでしょうか。

 私は、日本も、またアメリカも、北朝鮮には強く出る必要があると思います。交渉して、それが受け入れられなければ援助を断ち切る、そういった強い姿勢、強硬な姿勢が重要かと思います。北朝鮮ほどこうかつな国はありません。そういうところをやはり念頭に入れて交渉に臨むべきだというふうに考えます。

陣参考人(通訳) 現在、北朝鮮では、金正日が軍事大国をつくるというふうに言っておりますけれども、これは幻に終わるのではないかというふうに思います。

 現在、北朝鮮の経済はもう破綻しております。人民はほとんど食べるに事欠く状況であります。ですから、口では人々は、人民は、偉大なる首領というふうに言ってはおります。そうやってあがめております。これは事実でありますけれども、実は、心の中ではそうは思っていないというのが事実であろうかと思います。

 大きな会議があるたびに、何かあるたびに、人民の生活を向上させるというふうにうたってはおりますけれども、実際は、言ってみれば、そういうスローガンとはかけ離れております。夜になると、ほとんど食べ物と言えないような食べ物を口にし、そしてわずかな明かりの中で住民は休む、そういう生活を繰り返しているからです。

 私は、難しい政策はわかりません。けれども、韓国も、そしてアメリカも日本も、北を支援してはいけない、援助してはいけないというふうに思います。幾ら金正日が軍事強国を、軍事大国を建設すると言っても、人民が飢えて、そして飢え死にしつつある、そういう状況の中で、どうすればそういった軍事強国というのができるんでしょうか。当然、できないというふうに思います。

遠藤小委員長 これより自由質疑を行います。

 この際、小委員各位に申し上げます。

 質疑につきましては、幹事会の協議に基づき、原則として、一回の発言につき質問は一問のみとし、簡潔に御発言いただくよう御協力をお願いいたします。また、御発言は、小委員長の指名に基づいて、自席から着席のまま、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いします。

 御発言を希望される方は、お手元にあるネームプレートをお立ていただき、発言が終わりましたら、戻していただくようお願いいたします。

 それでは、発言を希望される方は、ネームプレートをお立てください。

岩永小委員 三人の皆さん方、本当に大変な御苦労があって、拉北されてお帰りになられ、そしてまた日本のためにお越しをいただきましたことに感謝を申し上げます。

 やはり、李さんが、生活の実態の問題で、国際大会で、北朝鮮の国民は飢餓で人肉を食べるところまで至っている、こういう発言をしておられるわけですし、先ほど金さんは、苦難の行軍で、ヤギ牧場で生きていったことが奇跡であった、このように発言しておられるし、また陣さんは、山の草や葛の根を食べる生活を強いられてきた、こういうお話をしておられる。

 この皆さん方の御発言をとっても、向こうでの生活というのは大変厳しいものであったと推察できるわけでございますが、ひとつここで、北での生活体験の中で、厳しかった、そしてこれほどつらかったことはなかったという思いがございましたら、ひとつお話しをいただきたいと思います。

遠藤小委員長 全員にですか。

岩永小委員 できたらですが、だめですか。

遠藤小委員長 いや。

岩永小委員 では、そうしたら、一人ずつ、一言で結構でございます。

 時間がありませんので、どなたか代表して、一人で結構です。

遠藤小委員長 いやいや、生命に関することだから。一人は一人だから。

金参考人(通訳) その北朝鮮のいわゆる苦難の行軍の時期というのは、北朝鮮の住民を死へと追いやるような、そういった時期でした。それは、私だけではなく、北朝鮮の住民にとってもそういうような厳しい時代でした。

 九六年、九七年、この二年間が最も私にとってはつらく厳しい年でありましたし、それこそ本当に苦難の行軍の時期でありました。当時は本当に、夜寝ると、あしたの朝は何を食べればいいんだろうか、午前に働きに出て、そうすると昼はまた何を食べればいいんだろうか。そういうふうに、毎回毎回、何を食べたらいいんだろうかという思いでいっぱいでしたし、そういった時期を、厳しい時期を、つらい時期を二年間過ごしたわけですけれども、ほかの人も多分そういうような苦労を味わっていただろうと思います。

 本当に食べるものがなかったので、当時農場で、米を精米して出る殻、もみというか、そういったものを拾って食べるわけですけれども、結局はそれもかたいし苦いしで、何とか火にくべて、それでやわらかくして食べようと思っても、結局は何さじにもならない。そういった、食事に事欠く時代でした。

 それもなくなってしまいますと何も食べられないわけですけれども、畑のキャベツを収穫した後に、その葉っぱが下に残っているわけですね。それをゆがいて食べる。そういったときもありました。

 そのキャベツ、畑に捨てられた、その残った葉っぱをゆがいて食べるわけですけれども、一口目は何とか入ります、のどを通ります。でも、二口目はもうのどを通らないので、何回も天井を仰ぎながらかんで、それでやっと食べるわけですけれども、三口目はもう到底食べられない。そういうふうにして苦難の行軍の時代を過ごしました。

 仕事に働きに行ってもおなかがひもじくて力も入りませんし、本当に今にも気絶しそうな、倒れそうな、そういった状況でした。しかしながら、仕事が遅いとなじられ、そして非難され、そういった日々でした。

 ある日、余りにもひもじくて仕事にも出られなくなったわけですけれども、仕事場の分所長という人が家にやってきたわけですね。ちょうど昼どきだったので、その畑の腐った、捨てられたようなキャベツの葉っぱをゆがいて食べていたわけです。それを見て初めて、ああ、苦労しているんだね、そういうような認識を彼もしたようでした。

 余りにもつらく、そしてきつく、苦労し、そしてひもじかったので、今もそのときのことを思い出すと涙しか出ません。

松原小委員 お三方、本当に大変貴重なお話をありがとうございます。

 今、お三方の話で北朝鮮に対しては強硬に出るべきだというふうな議論がありました。我々は、北朝鮮に対していわゆる貿易等において、送金や貿易を停止することのできる新しい外交上の制裁法案を先般通したばかりであります。

 そこで、お伺いしたいことは、李さんにお伺いしようと思いますが、北朝鮮に我々が経済制裁をした場合に、そのことによって影響を受け、被害をこうむるのは、北朝鮮の一般人民ではなく金正日を含む北朝鮮の特権階級だと思っているわけであります。

 つまり、経済制裁を行ったときに、我々は、金正日を含む北朝鮮の公民を抑圧するグループに対してのねらい撃ちがそれでできると思っておりますし、そのことが重要だと思っておりますが、その効果を含め、その是非を含め、お伺いいたしたいと思います。

李参考人(通訳) 現在、北では三百七十万から四百万人の人がこれまでに死んだというような話をしましたけれども、例えばそうやって多くの人が亡くなったときに、もう木はない状態でしたので、木のひつぎに入れる、そういう余裕はありませんでした。そして、そのためにいわゆる鉄でできたこういう棺ですね、そういうのに入れて埋葬して、そしてあるときはそれをまた使ったりとか、それも足りないために結局は車に乗せて一緒に葬ったりとか、そういうようなこともありました。

 特に、金日成の死亡後そういうことが非常にひどくなったわけですけれども、しかし、それだけ多くの人が死んでも、金正日政権というのはびくともしないわけですね。現在、韓国に四千人ほどの脱北者がおりますけれども、なぜ彼らが北への支援に反対するのか。もちろん、彼らにも兄弟、家族は北にいるわけですから、北を支援してくれれば喜ぶべきはずなんですけれども、なぜ彼らが反対しているのか。

 もし北に支援をしますと、北はまず軍隊にそれを渡し、そして今度は政権の幹部に渡し、結局一般の住民には全くそういった支援物資というのは渡らないわけですね。私は一九九八年に北を脱出いたしましたけれども、そのときまでに私は北にいて、韓国から支援された米を一口も口にすることができませんでした。ですから、そういった支援金あるいは支援物資というのは、市民を支援することにはならないわけです。

 ですから、それを断たなくてはいけない。そういう支援物資を断って初めて北の政権あるいは金正日は手を上げて降伏をしてくる。そうやって北の政府が、政権が倒れて初めて市民は生き長らえることができるというふうに考えるわけです。

 ですから、今の議員のお言葉、北への制裁、送金の中断というお言葉、非常にありがたいというふうに思います。物資で金正日を抑制しなければ北の政権は倒れませんし、住民も助かりません。北はただを好むというふうに、無料の物資を好むというふうに言われておりますけれども、海外からそういう無料の支援を受けても何もそれに値する対価というものを提供できない、そういう国であります。そういう国には支援をする必要はないというふうに考えます。

木村(勉)小委員 お三人は家族と郵便が、連絡がとれたのか。李さんも、何か家族の写真なんかを送ってもらったというお話をちょっと聞いたんですけれども、実際に韓国の家族と皆さんは連絡がとれたんですか、郵便。金さん。

金参考人(通訳) 韓国から北に手紙を送るという、郵便によるやりとりというんでしょうか、それはできません。私が三十年ぶりに韓国に帰ることにした動機とも関連するんですが、ちょっとお話ししたいと思います。

 私がそのヤギ牧場にいたとき、午前中の放牧というものをやっていたときがありました。そのときに、ある人が私を訪ねてきまして、故郷から手紙が来たというんですね。私はその話を信じることができませんでした。

 私は信じられなかったんですけれども、その人が、故郷から来た弟の手紙と、それから弟と母の写った写真を見せてくれたんですね。私は、母はまだ生きているのかとその人に聞きましたら、生きて元気に暮らしているというふうな話でした。

 その手紙を読みまして、そして中国まで私が行くことができれば、中国で母と弟が待っている、母と弟に会えるということだったので、私は何とかして中国に脱出をしたわけです。

 中国のある地方都市に行きまして、そこで話を聞いたわけですけれども、いわゆる拉致者の代表、チェ・スンヨンさんという人が、いわゆる脱北の事業というんでしょうか、脱北のこういう運動を始められて、そしてその人が弟の手紙を持ってきてくれていたわけです。

 中国で母と弟に会って、そしてまた北に戻るということを決心して中国に行ったわけです。中国まで行って母と弟に会うと、言ってみれば、母、弟は、いわゆる何も持ってきていないはずはないということで、そこで幾ばくかのお金を持って北に戻ろうというふうに私は考えたわけです。

 そして、去年の四月二十七日に母と弟に中国で奇跡的な再会を果たしたわけです。数十年ぶりの再会を母と弟と果たし、そして二日間、いろいろな話をしましたけれども、私は、北にまた戻らなくてはいけないというふうに二人に話しました。北にも私の妻と子供がいます。ですから、私は北に戻らなくてはいけないと言ったんですけれども、そのときに、弟が二通の手紙を差し出しました。

 一通の手紙は私の二番目の姉が書いた手紙でありまして、もう一通は私の娘の手紙でありました。姉の手紙というよりも、韓国に残した娘の手紙を読みまして、私は韓国に行かなければいけないというふうに決心を固めたわけです。

    〔小委員長退席、岩永小委員長代理着席〕

渡辺(博)小委員 自由民主党の渡辺博道でございます。

 三人の参考人の皆様方には、遠い韓国からわざわざ日本の衆議院の本院においでいただきまして、まことにありがとうございます。

 皆様方の大変貴重なお話を聞かせていただきました。北朝鮮の実態についてもわかってまいりましたけれども、まだまだ必要な部分があると思いますけれども、私の方で、質問が限られておりますので、一点だけ質問させていただきたいと思います。

 まず、拉致された後に中央政治学校でまずは思想教育を受けたということでございますけれども、その後、社会に配置されて、どのような形で思想教育をさらに具体的にされたのか、この点についてもう一度お伺いしたいと思います。三人にお願いします。

岩永小委員長代理 できたら一人に絞って質問してください。

渡辺(博)小委員 それでは、陣さんにお願いします。

陣参考人(通訳) まず、私が北朝鮮に拉致されて、すぐ思想教育を受けたわけですけれども、そのときは、原始共同社会から社会主義に移る、その過程についての教育でした。

 それから、その後、今後祖国統一が実現された暁には革命事業ということが必要になります。ということで、党の建設事業、土地の建設事業、基幹産業の建設事業などの教育を受けました。

 その後、チュチェ思想、主体思想についての学習、それから金日成の革命、歴史に関する教育、それから金日成の労作、書物に関するそういう学習というものを勉強いたしました。

 このように多くの資金を投入して私たちを教育したその目的なんですけれども、これは、統一された暁には、韓国社会に行って私たちが革命事業をするのだということでした。北の人間が韓国に行っても韓国の人たちは言うことを聞かない、だから韓国出身の君たちが韓国社会に行って革命事業をなすんだということでした。

 こういうふうに何年か教育を受けて、そして例えば任命状までもらった、そういう人間が、私がいた清津市だけでも七百人ほどいました。そういう人たち、現在は非常に高齢になっております。六十五歳、七十歳といった人たちが大半でありますし、また栄養失調などで飢えて亡くなった人たちも数多くいます。こういう人たちが、例えばその地域別に三カ月ごとに党の講演会などに出るんですけれども、見ますと、その人たちの数が半分に減っているということがわかります。

 その後、いわゆる韓国出身で幹部任命状をもらった人たち以外でも、北の人で非常に思想的に中央に忠実な人たちの中に、例えば統一された暁には釜山市の仕事をしろということで幹部任命状をもらった人たちにもたくさん会いました。

 ですので、現在、北の人たちは、統一されれば非常に幸せな暮らしができると。もちろん、口では戦争をしてはいけないというふうに言ってはおりますけれども、そしてまた、あからさまに口に出して話はしていませんけれども、心の中では、いわゆる南北統一が実現すれば自分たちには平和ないい暮らしが待っているというふうに思っているというふうに考えます。

 現在、金正日が何を一番恐れているかといいますと、いわゆる韓国のニュースです。メディアです。例えば、北の幹部は韓国の映像、写真などを時々見ているんですけれども、それが摘発されますと、調査を受け、追放、放逐といったようなことになるのが現状です。そういうことですので、北の人民というのは韓国の暮らしというものがわかっておりますので、続々と中国の方に脱出をしているわけです。

 こういう状況ですので、韓国政府、それから日本の政府も、韓国のいわゆる別れ別れになった離散家族の問題、それから北に拉致された人たちの送還の問題というものを国際世論に訴えていただきまして、そして南北関係の改善が一日も早く実現できることをお願いしたいと思います。そういう意味での日本の政府の御協力というものをお願いしたいと思います。

    〔岩永小委員長代理退席、小委員長着席〕

加藤(尚)小委員 民主党の加藤尚彦でございます。

 質問は一点ですから、一点に絞って質問いたします。

 皆さんを初め関係者の皆さん、まだ未解決の方々の一日も早い解決、そのためには、私は、きょう出席させてもらって、何が何でも解決したい、解決しなくちゃならないという思いに駆られています。

 質問に入りますけれども、そのためには、私は世論だと思います。それは韓国も日本も同じだと思います。国際世論も同じだと思います。日本でも、世論の高まり、家族の皆さんが本当に真剣に命がけの闘いを挑んで世論を高めました。そのことが日本の政治を、国会を、メディアを動かしました。

 そして、きのうからですか、こうして七日間にわたってすばらしい国際大会が発足したわけであります。この発足は歴史的な発足だというふうに思います。ここに骨を折った方々に心から敬意を申し上げたいと思いながら、この世論づくりに日本はもちろん、これから何が何でもあらゆる手段を費やすという約束をしておりますけれども、韓国も同じだと思います。

 その意味で、この国際大会がこれで終わるんではなくて、これから、今度は韓国でとかそういうお考えを持てるかどうか。特に、本当は陣さんにもお答えをいただきたいんですけれども、また別な機会があると思います。どうか李さん、恐縮ですが、真ん中に座っていらっしゃるから、代表でお答えください。

李参考人(通訳) 日本では、本当に世論が高まって、かなり皆様からの賛同というのも得ていらっしゃるようですけれども、韓国政府にそういったことを期待するのは大変難しいのではないかと思っています。

 しかしながら、我々は、NGOですとか家族会ですとか脱北人の同志とともに、今後も引き続きこの運動を続けて、金正日政権、または金正日本人をスイスの国際裁判所に戦犯として告発、告訴するために全力を挙げたい、全力を傾けたいというふうに思っております。

西銘小委員 自由民主党の西銘恒三郎と申します。

 私は、この拉致問題は、国家間の大変重大な問題だと認識をしております。我が国政府も、何としてもこの拉致問題を解決したいと考えております。これから政府が、日本からの資金の北朝鮮への流れをストップさせたり、あるいは北朝鮮の船が日本の港に入ることを禁止したり、厳しい措置をとることも想定されております。

 そこでお伺いいたしますが、三十五年あるいは三十年、北朝鮮で大変厳しい体験をされた皆さんの率直な感情として、我が国政府が厳しい制裁措置をとった場合に、家族を残しておる、あるいは同じ民族としてこういう厳しい制裁措置をとってほしくないというような気持ちが心のどこかに少しでもあるのか、どうか率直なお気持ちを聞かせてください。

金参考人(通訳) 北朝鮮に対するそういった措置は、強力に、強硬にすべきだと思っております。現在、韓国、日本、アメリカ、世界各国、オーストラリアも含めまして、北朝鮮に対して食糧支援をしているわけですけれども、これまで、米一粒たりとも、一グラムも私は受け取ったことがありません。

 ただ、一部の人たちが、死なない程度に細々とそういった配給を受けているだけですけれども、そういった世界からの食糧支援の半分は、果たしてどこに行ってしまったのだろうか。それは、すべて戦争準備のための、戦争物資の種目として入って、含まれているわけですね。

 ですから、北朝鮮に対する制裁というのは、強力に、強硬に行うべきであって、食糧支援もしてはいけませんし、または、送金といったことも全くあってはならないことだと思います。これまで北朝鮮にどれだけの金がどのように流れたかということについては国民も全くわからないわけでありますけれども、とにかく、強硬にすべきだというふうに思っております。

武正小委員 民主党の武正公一です。

 ファン・ジャンヨプ元書記が、日本に来て証言をしてもいいと言っております。ファン・ジャンヨプ元書記は、北朝鮮でどのような役割を果たしていたのか、皆さんがいらっしゃったときに名前を聞いたことがあったり、どういう影響力を持っていたか、おわかりになる方、お答えいただけますか。お一人でお願いいたします。

陣参考人(通訳) 何年のことだったかちょっと覚えていないのですけれども、金日成が死去する前のことだったと思います。日本の韓徳銖、朝総連の韓徳銖議長が北朝鮮を訪問したことがありました。そのときに、朝総連の韓徳銖議長が、北朝鮮の人民の生活は苦しいようですねと一言金日成に言ったそうなんですけれども、金日成はそれに対して何もコメントせずに、ただそのとき、ファン・ジャンヨプ氏が軍需工場へ連れて視察して回ったということでした。

 その韓議長が、そういった軍需工場を視察して、結局は金日成にひざまずいたといいますか、したらしいんですね。というのは、余りにも、軍需工場で生産されているそういった兵器といったものが、とてつもないものだったからです。

 現在、北朝鮮の大規模な軍需工場というのはほとんど坑道の中、つまり土の中で行われております、地中の中で。

 よくはわからないんですけれども、軍需産業に投資されるアイテムとしては、食料、塩、油、それから砂糖、これらすべてのものの二〇%、二割は軍需産業に投入されているということでした。

 食糧事情があんなにも悪化しているにもかかわらず、例えば第三国家から食糧支援をした際には、それを断ると北朝鮮の威信ですとかメンツが損なわれるということで、ないにもかかわらず数百万トンの食糧支援を北朝鮮がしているということです。ですから、幾ら人道的な見地から北朝鮮に対して支援をするとしても、北朝鮮はそういったものをすべて受け入れないということです。

遠藤小委員長 背後からの話は訳さないでくださいよ。我々は参考人から聞いているんですから、背後から出た発言語は翻訳しちゃだめです。わかりましたね。そういうルールですから。特に発言を求めているんですか。どなたが。

 では、李参考人。

李参考人(通訳) 金日成が死去する前は、それこそ金日成の次のナンバーツーだったというふうに思います。金日成のいわゆる労作、彼の著作は、すべてファン・ジャンヨプの手によって書かれ、そしてその論理も発展しました。ですから、金日成の信頼というのも大変厚いものがありましたし、彼が今韓国で証言していること、または証言しようとしていることはすべて正確な事実だと思います。

 我々もファン・ジャンヨプ元書記に対して大変な支持をしておりますし、彼が自分の家族四十人を犠牲にして、政治収容所に送ってまで韓国に来て、何かをしようとしているわけですけれども、韓国政府はそういったことを全く考慮しておりません。そこに問題があると思うんです、韓国政府の問題ですね。それは金大中政権もそうでしたし、現在の盧武鉉政権も、私がこういうことを言いますとちょっとおかしいかなと思いますけれども、カラーが違うといいますか、考え方が違うといいますか。

 ですから、私どもは、政府に対しても働きかけをして闘っていかなくてはいけない。それから、ファン・ジャンヨプ元書記のように北朝鮮から脱出した人々、四千人、これらの人々が政府にも働きかけ、そして国会にも出向いて働きかけ、主張して訴えて、我々の正当性というものを立証したいというふうに思っています。

 ですから、北朝鮮に食糧支援というのは全くもってとんでもないお話でありますし、日本は現在法律を国会で通過させているにもかかわらず、韓国ではなぜそういったことができないのか。食糧状況が悪くて北朝鮮政権が倒れそうになるとまた支援をして息を吹き返させる、倒れそうになるとまた息を吹き返させる。なぜそういったことをするのかと、我々は常にそういうふうに言っております。

宮下小委員 自由民主党の宮下一郎と申します。本日は、さまざまな貴重なお話をお聞かせいただき、本当にありがとうございます。

 李参考人にお伺いしたいと思います。

 先ほど来より、さまざまな方々のお話の中で、食糧支援をしても一般の市民の方々には渡らずに軍部に渡るだけだというお話がたびたびございました。今回、六カ国協議等々で北朝鮮側は、核の凍結、廃棄等の条件が折り合えばエネルギー支援をしてほしいというような要求をしてきております。仮にエネルギー支援が実現したとして、やはりこれも食糧と同じように、一般市民の方々の生活を改善するためではなく軍部のために使われるだけになってしまうのではないかという懸念も持つわけでございますけれども、御意見をお聞かせいただきたいと思います。

李参考人(通訳) 現在、北朝鮮のエネルギーというのは、もともとは生産量が四千三百万キロワットだと思うんですけれども、エネルギーがないために石炭も現在生産できないでおりますし、ですから、実際は二百万から百九十万キロワットぐらいのエネルギーしかつくられていないわけですね。そのうちの大半が軍需工場または一般工場に行ってしまう、それから金日成の銅像のライトアップに使われる。個人に行き渡るエネルギーというのは一日に一時間足らずということなんです。ですから、昔の生活のようにろうそくに火をともしたそういった生活を現在強いられているわけです。動力がないために、水もうまくくむことができない、川に行ってくんでくるしかない、そういったことです。

 ですから、エネルギーを供給、支援をしても、人民には行き渡らず、やはりそれは軍需工場ですとか戦争準備に使われてしまうだろうと思います。エネルギーですとかそういったものもいわゆる劇薬となってしまうんではないかというふうに思ってしまいます。エネルギーも、油一滴たりとも提供する必要はないと思います。

増子小委員 ありがとうございます。民主党の増子輝彦です。

 きょうは、三人の参考人の皆さん、長い間ありがとうございました。心から感謝を申し上げたいと思います。

 李在根さんにお尋ねをいたしたいと思います。

 閉ざされた国の北朝鮮、そして限られた情報源の中で、李さんは、数多くの精度の高い情報をお持ちになっている。そして、北朝鮮の政治体制や国内情勢にも大変お詳しいと認識をいたしました。

 日本人を見たのは、お三人の中で李さんだけであります。それも、ビリヤードを楽しむ日本人の多くの方も見られた。そして、日本からの送金ルートも完全に絶つべきだという話もされました。そして、拉致された人数についても、公式発表の、韓国が四百五十人、日本人が十五人という数についても、はるかに多い、韓国人は六百人を超える、日本人は少なくとも百人を超えるというきょうのお話もありました。これらの情報あるいは話は、金正日氏に近い人物との接触がなければ得られないのではないかと認識をいたしております。

 私たちは、今、日本人が拉致をされている。皆さんと同じ状況の拉致者がたくさんおられます。ただ、日本人のほとんどはこの国から連れ去られた拉致であり、日本の国家主権あるいは日本人の基本的人権が侵されたというケースがほとんどであります。

 二〇〇二年九月十七日、平壌で我が国の小泉純一郎総理大臣と金正日氏が会談をいたしました。そのときに、五名の方は消息がはっきりし、今、日本に帰ってきました。しかし、依然として十名の方の安否が確認されません。さらに、先ほど李さんから話があったとおり、もっともっと多くの、百人を超える、いや、むしろもっとそれ以上の日本人が北朝鮮にいるということを私たちは大変憂慮いたしております。

 私たちは、皆さんと同じように、行方のわからない、安否のわからない日本人が今どうしているんだろう、生きているのだろうか、そういう思いを持っております。先ほど李さんが、北朝鮮の情報は全く一〇〇%信用してはいけないという話がありましたけれども、ぜひこの日本人が全員生きていることを、生存していることを私は願っております。李さんが、まだ依然として消息のわからない日本人の生存がわかっているんではないかと私は期待をいたしているわけであります。

 加えて、日本が今、北朝鮮と拉致問題についての外交交渉をいたしておりますけれども、進展いたしません。小泉総理が平壌に行って、それで終わりということでは決してあり得ません。この日本の外交手法が、李さんから見れば正しかったのか。先ほど来話がありますとおり、送金の問題、船舶の問題、あるいは多くのカードを持って徹底的に北朝鮮と交渉しなければこの問題は解決をしないというふうに話もされておりましたけれども、日本人の消息がおわかりになれば、あるいはこの外交のやり方の最も李さんが感じられる方法がどういうものか、お話しいただければありがたいと思います。

遠藤小委員長 李参考人。簡明に。

李参考人(通訳) 私が、韓国政府公式発表四百八十人ということに対して、国家に登録されていない三十人をさらに証言しました。隣にいらっしゃる金さんも証言しましたし、陣さんも証言している。それを合わせると、七、八十人は三人で証言できるわけですね、四百八十人以外にも。

 そういったことから考えて、北朝鮮が十五人と言っているけれども、それは多分つくられた数字であろう、百人以上はいるんではないかというふうに推察しているだけです。

 ですから、特別な情報、または接触したということではなくて、北朝鮮から来た人々からもそういった情報を得ておりますし、電力の話も、公式の電力生産高というのは発表されておりますが、その新義州六十万キロワットというのは、全量を中国に売って、そのかわりに油を提供してもらっているわけですね。ですから、それは使えない。そのほかにも発電所が幾つかありますけれども、そういったところで、稼働していないところも多くありますし、炭鉱から、コークスというか、そういったものも生産されていないことで、その電気の生産量というのは幾らにもならない。そういったことは全部、北朝鮮から来る人々たちによって情報を得ているわけですね。ですから、百九十万から二百万の電力生産量だということを知ることができるわけです。

 私が日本人を見たのは、党中央の連絡所、つまり政治学校ですが、連絡所にいたときだけです。社会に出てからは会ったことがありません。

 それから、先ほど申し上げましたけれども、私どもの団体で今現在やっているのは、脱北者ですとか、または北朝鮮から来た人々たちに、日本人を見たことがあるか、日本人の話を聞いたことがあるか、そういった日本人に関する情報を知っていればぜひ教えてくれ、何らかの補償はするとまで言って今情報収集しているわけです。それから、北朝鮮には現在、朝鮮人と結婚して帰国した日本人妻という人たちも多数いるわけですが、何とかその人たちに接触しようとしているわけですけれども、そこのところのルートが遮断されていて余りできません。

 北朝鮮も我が民族であり、韓国も我が民族であります。ですから、決して北朝鮮に対して、同じ民族でありますから、そういった感情がないわけではないんですけれども、なぜ私が北朝鮮政権に対してこういうふうにもろ手を挙げて反対しているかというと、三十年の私の人生をめちゃくちゃにしてしまったわけですね。ですから、金正日の名前を聞いただけでも本当に怒りがわき上がってきます。

 北朝鮮に何かをしても、それは絶対市民には届かない、住民には届かない。とにかくそういったことを全部遮断して、断って、金正日が、もう改革・開放しかないんだ、その道しか残っていないんだということを認識させるようにしたい、そのことだけをお話ししたいと思います。

遠藤小委員長 以上をもって参考人に対する質疑は終了いたしました。

 参考人のお三方には、三十年、三十五年という長きにわたって苦労なされて、つらい立場にあられて、その実体験を生々しくお話しいただきました。また、貴重な御意見も承りました。我々としても非常に参考になりました。

 どうぞ、お三方には、今後とも御健勝にてお過ごしあらんことを心から御祈念申し上げますとともに、北朝鮮に残してこられた御家族のことを思うと全く胸が痛みます。どうか気を強く持たれて頑張ってくださいますよう、私からも御祈念申し上げまして、御礼の言葉とさせていただきます。

 ありがとうございました。

 次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。

    午後四時七分散会


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