衆議院

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第1号 平成16年4月12日(月曜日)

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平成十六年四月十二日(月曜日)

    午後二時二分開議

 出席委員

   委員長 柳本 卓治君

   理事 塩崎 恭久君 理事 下村 博文君

   理事 森岡 正宏君 理事 与謝野 馨君

   理事 佐々木秀典君 理事 永田 寿康君

   理事 漆原 良夫君

      小野寺五典君    左藤  章君

      佐藤  勉君    桜井 郁三君

      中野  清君    早川 忠孝君

      平沢 勝栄君    松島みどり君

      水野 賢一君    森山 眞弓君

      山際大志郎君    井上 和雄君

      泉  房穂君    鎌田さゆり君

      河村たかし君    小林千代美君

      小宮山洋子君    今野  東君

      松野 信夫君    上田  勇君

      富田 茂之君

    …………………………………

   公述人

   (住商リース株式会社顧問)

   (京都大学法学研究科教授)            中川 英彦君

   公述人

   (弁護士)        高井 康行君

   公述人

   (企画プロデューサー)  近藤  晋君

   公述人

   (市民の裁判員制度つくろう会運営委員)      敷田 みほ君

   法務大臣政務官      中野  清君

   法務委員会専門員     横田 猛雄君

    ―――――――――――――

委員の異動

四月十二日

 辞任         補欠選任

  柳澤 伯夫君     小野寺五典君

  加藤 公一君     今野  東君

  中井  洽君     井上 和雄君

同日

 辞任         補欠選任

  小野寺五典君     柳澤 伯夫君

  井上 和雄君     中井  洽君

  今野  東君     加藤 公一君

    ―――――――――――――

本日の公聴会で意見を聞いた案件

 裁判員の参加する刑事裁判に関する法律案(内閣提出第六七号)

 刑事訴訟法等の一部を改正する法律案(内閣提出第六八号)


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     ――――◇―――――

柳本委員長 これより会議を開きます。

 内閣提出、裁判員の参加する刑事裁判に関する法律案及び刑事訴訟法等の一部を改正する法律案の両案について公聴会を行います。

 この際、御出席の公述人の皆様に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、御多用のところ御出席をいただきまして、まことにありがとうございました。公述人各位におかれましては、それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、審査の参考にいたしたいと存じますので、よろしくお願いを申し上げます。

 次に、議事の順序について申し上げます。

 まず、中川公述人、高井公述人、近藤公述人、敷田公述人の順に、お一人二十分程度御意見をお述べいただき、その後、委員の質疑に対してお答えをいただきたいと存じます。

 なお、御発言の際はその都度委員長の許可を得て発言していただくようお願いいたします。また、公述人から委員に対して質疑をすることはできないことになっておりますので、御了承願います。

 それでは、まず中川公述人にお願いいたします。

中川公述人 中川でございます。

 私、今、学者のまねごとみたいなことをやっておりますけれども、つい最近まで会社勤めをやっておりまして、そういう意味で、司法を利用する一人の市民といいますか国民といいますか、そういう利用者の立場から裁判員制度につきましてお話をさせていただきたいと思っております。よろしくお願いをいたします。

 まず、裁判員制度に対する評価の問題でございます。

 いろいろなアンケートとか世論調査とか、そういうものを見ておりますと、一部の知識層の方を除きまして、一般国民は、裁判員制度に対して極めて消極的である、あるいは総論は賛成だけれども各論は反対だ、こういう立場の方が大変多いように思います。裁判員制度そのものに対して反対をされている方もおられますし、それから、制度の趣旨は理解できるけれども自分が裁判員になるのは嫌だ、こういう方も結構多数を占めておるように思います。

 そういう意味で、一般的に言いまして、この制度が広く国民の支持を受けているかどうかということからいいますと、必ずしもそうではないというような感じがするわけでございます。そういうことで、裁判員制度の制度設計あるいは運用は、こういう現実を十分に踏まえて行うべきだというふうに私は思っております。

 しかし、そうはいいましても、この制度を実現することにつきましては、それなりの意義があるとも思うわけでございます。

 その一つは、裁判員制度がうまく機能すれば、時折、市民感覚から乖離した裁判、判決が見られることに対して、健全な市民感覚を反映させて、より納得性のある判決を得ることができる。これは裁判に対する国民の信頼とか理解を深めるために大変役に立つのではないかというのが一点でございます。

 それからもう一点は、国民のいわゆる公共精神を訓練する場といいますか学校として極めて有効ではないか。特に、国民の間に浸透しておりますお上意識、これを払拭するのには大変よいチャンスだろうというふうに思います。一般的には、裁判というのはお上にお任せしておけばいいんだというふうに思っておる国民が多いと思いますが、みずから参加をしてみる、そういうことによって大きく意識を変えることができるんじゃないか。そういう意味で、国民一人一人が法の秩序といいますか、そういうものを考えるチャンスを与えるという意味では大きな役割になるのではないか。

 そういう意味で、いろいろ困難があろうかと思うんですけれども、何とかしてこの裁判員制度というものが国民の間に根づくように、いろいろ工夫をしながら、努力をして実現させるべきだというふうに思っております。

 これから後は、ちょっと私が感じております問題点を幾つか申し上げたいと思うんです。

 まず、今申し上げましたように、裁判員制度というのは、国民にとりまして全く無知の、無知じゃない、無知でもあるんですが未知ですね、無知であり未知の制度でございます。これは、いわば天から降ってわいたような、そんなふうな話に近いように感じております。

 日常生活とは全く縁がなくて、自分にとって直接必要性を感じたりあるいは利害を感じたりしない、そういう制度でございまして、極論すれば、要すれば、これは他人事だ、他人のために何かをするんだ、そういうことでございます。まだ政治の方が身近にあるわけでございますけれども、それでも無関心な人が結構多くて、先生方も大変それで苦労されているんじゃないかという現実を考えれば、推して知るべしじゃないかということであろうかと思います。

 それから、国民にとって、精神的にも物理的にも大変負担が重い制度でございます。そういうことが世論調査、アンケートにも消極的な回答という形であらわれてくるんじゃないかと思います。

 したがいまして、この制度は、よほどうまくやりませんと、国民の支持を得られなくなって失敗するおそれがある、そういうふうに私は思っております。

 かねてより、裁判員制度というものは、小さく産んで大きく育てるべきだということを私は言ってまいりました。そういう意味で、やはり十分な周知期間を設ける、あるいはPR、広報活動、それから幼年時代からのいわゆる司法教育、そういうものもどうしても必要ではないか。五年間の周知期間というものが法案には盛られておりますけれども、やはり最低五年程度の周知期間はとるべきであるというふうに思っております。

 それから、ちょっと余談になりますが、一部の方は、アメリカの陪審制度を参考にして裁判員の権限とか対象をもっとどんどん広げるべきだというふうにおっしゃっている方がおられますが、私は、アメリカに八年ぐらい駐在しておりまして、幾つかの陪審裁判にも関与いたしましたけれども、法文化の異なる国でそういう外国の制度をそのまま持ち込んでもやはりなかなかうまくいかないのではないか、そういうふうに思っております。やはり、日本は日本に適応した、日本らしいといいますか、文化、伝統、法環境、そういうものに適応した制度に育てていくべきではないかということをちょっと申し上げておきたいと思います。

 それで、あとちょっと二、三具体的な問題について、感じていることを申し上げたいと思います。

 一つは、裁判員の選任に関連いたしまして、辞退の問題というのがあります。これは大変悩ましいことではないかと思います。

 法案では、裁判員に指定された人が一定の条件を満たせば辞退することが認められております。病気とか介護、これは当然なんですが、問題は、重要な仕事があって、これを自分で処理しなければ著しい損害が生じるおそれがある場合とか、父母の葬式その他、社会生活上の重要な仕事で他の日ではできないものがある場合というようなことが例示されております。

 病気とか介護はやむを得ないといたしましても、どんな人でも、自分自身あるいは周りの人のためにしなければならない大切な仕事を抱えているものでございますし、また大切な予定とか、いろいろな事情がございます。会社の経営者、サラリーマンもそうですし、自営業の人も簡単には店を閉めるわけにはいきません。結婚式あるいは何十年ぶりかの同窓会、お見合い、新築の家の上棟式、子供の入学式などなど、のっぴきならない仕事を挙げればもう切りがないわけでございます。そういうような事情をどこまでしんしゃくして辞退を認めるか、これはもう大変難しいです。

 法案によりますと、裁判員に指定された人は原則として罰則を伴う出頭義務があるということになっておりますけれども、この義務とのバランスをどの辺にとるか。余り辞退に寛容ですと、裁判員の構成メンバーに偏りが出たり不平等が生じたりいたします。これはアメリカの陪審員なんかも多少そういう傾向になっております。今度、義務を非常に厳しくすると、国民の負担が重くなって横を向いてしまう、そういうふうなことになろうかと思います。

 私は、やはりこの問題につきましてはいろいろ工夫をせないかぬのですけれども、裁判員候補の選任の過程で、例えば、召喚状の送付以前はできるだけ個人の事情をそんたくして辞退も比較的容易に認めるようにするけれども、一たん召喚されればその後は比較的厳しくするというように、辞退のできる時期を明確にして、国民によく考えてもらうと同時に、裁判手続がスムーズに行われるような運用をしていただきたいなと思うわけでございます。

 アメリカの陪審裁判などを見ておりますと、裁判所でその辺のことをやるものですから、裁判所での陪審員選任手続に膨大な時間とエネルギーとがかかっておりまして、これは国民にとりましても大変負担ですし、それから裁判手続上も時間がかかるというような問題がうかがえるわけで、やはりその辺は、日本の場合は一工夫要るのではないかというふうに思っております。

 それから二番目は、守秘義務の問題でございますが、マスコミなどで大変大きくこの問題は取り上げております。

 確かに、公正な裁判を確保するという観点から見ますと、この問題は大変重要だし、また必要だというふうに思っております。評議の内容とかどの裁判官がどう言ったなどという情報が口コミとかインターネットなんかでどんどん外へ出ていく、そういうようなことになりますと、裁判そのものの信頼性が揺るぐわけでございまして、この守秘義務というのは、やはりそういう意味ではどうしても必要なものだ。

 しかし、余り極端に重いというのも、国民の精神的な面から見ましても、大変だなというふうに思うわけでございます。といいますのは、この裁判員制度というのは口コミで浸透していくという側面がございまして、裁判員となった人がある程度その経験を他人に語って、とりわけ、やってみたら大したことなかったよとか、いい勉強になったよとか、参加することで充実感を持たれる、このことが大変重要だと思うんですね。そういう意味では、やはりある程度経験を語ってもらわなきゃいけない、そういうふうに思うわけです。これもまたバランスの問題なんですね。

 法案では、裁判での評議の内容及び個々の裁判官や裁判員の意見というものが守秘義務の対象になっておりまして、そのほかのことは他人に漏らしてもいいんだというふうに読み取れるわけでございます。もしそうだとするならば、守秘義務の範囲というものはかなり限定されておりますし、むしろその範囲は当然だという気がするんですが、それにしても、では具体的にどういうものがそれに当たるのか、どの辺までは言ってもいいのか、どういうことは言っちゃいかぬのか、この点はもっと詰めて、本当に裁判の信頼性が壊されるようなひどい守秘義務違反、これは刑罰の対象になるんだけれども、そうでないものもいっぱいあるんだということを具体的にわかりやすく説明していただく必要があるのではないかというふうに思っております。

 その次に、国民負担の問題でございます。

 辞退という制度を含めてさまざま負担軽減の方法がとられておりますけれども、それでも、最初に申し上げましたように、この負担感はそう簡単には取り除けるものではないと思います。特に、職業を持っている人、生計に責任を持っている人、これは負担は大変でございます。経済的な負担だけではなくて、精神的、あるいはプライバシーの侵害、不当な攻撃を受けるというリスク、そういうものもあるわけでございます。

 こういうものを全部取り除くというのは無理でありますけれども、基本的には、裁判をできるだけ速くし、簡明にする。それからまた、日当なんかも高額化、例えば、今具体案はないわけですけれども、非常に長期にわたるものなどは累進的に日当を引き上げてもいいんじゃないかというふうに思いますし、それから企業の休業制度あるいは有給休暇制度、こういうものも促進する必要がある。そういうさまざまの工夫をこれに対しましてはやっていく必要があるのではないか。

 裁判員制度を実施しますと、多分この辺について非常にたくさんの具体的な問題が出てくることが予想されます。そういうことに対して弾力的に対応ができるように、国として、裁判員制度について何かモニターをする仕組みをお考えいただきたいということを私は提案したいと思います。それによって出てきた問題を法律上あるいは運用上弾力的に対処していくということで、国民の負担というものがさしたるものじゃないということを印象づけ、あるいは実際にそういうふうにしていくのがいいのではないかというふうに思っておる次第です。

 今申し上げました三つの問題、辞退の問題、守秘義務の問題、国民負担の問題、これはいずれも最終的には裁判員制度に対する国民の気持ちの持ち方にかかっていると思います。裁判員制度を社会的に大切なものだと認識して、そのためには何とか工夫して、自分の日常生活は多少犠牲にしてでもやってみようというふうに国民が思うか、いや、これはもうやはり嫌だというふうに思うか、そこに成否のすべてがかかっているように思います。

 そういうことでありますので、やはりそういう気持ちになるようにいろいろな雰囲気をつくっていく必要があるし、広報活動、教育、そういう総合的な施策をとっていかざるを得ないし、そうでなければ、先ほど申し上げましたように失敗するリスクは高いというふうに思います。

 最後に、裁判の信頼性という問題をちょっと触れさせていただきたいと思います。

 裁判員制度は、市民の感覚を裁判に反映させて納得性と信頼性の高い裁判を実現しよう、これが基本的な目的でありまして、国民の司法参加による公共精神の養成という面はあるんですが、これはどちらかというと副次的なものだというふうにとらえております。

 どんな人も法律と公正な裁判手続によって裁かれる、そういう裁判制度があるわけですが、その裁判のあり方そのものを大きく変える話であってはならないと思います。裁判員の負担の問題など、裁判員制度が十分機能する方法を考えねばならないわけですけれども、裁判員制度を導入した結果、裁判そのものの信頼性とか公正性が崩れないように気をつけなければならないと思うわけです。裁判を受ける人のことも考えなければならないと思います。

 そういう意味で、裁判員制度に過度に期待をかけるのはいかがなものか。裁判員制度を機能させるためには、裁判の迅速化、例えば刑事訴訟手続の改正、あるいはそれに伴う人的、物的設備充実、やらなきゃいけないことはいっぱいあるわけでございます。したがいまして、拙速は禁物でありますし、時間をかけて成熟させて、それから裁判員の関与する事件の対象とかあるいは権限、そういうものを拡大していく、そういう方向でゆっくりとこの制度を育てていくのがいいのではないかというふうに考えておる次第でございます。

 大変雑駁ですが、これでお話を終わらせていただきます。(拍手)

柳本委員長 中川公述人、ありがとうございました。

 次に、高井公述人にお願いいたします。

高井公述人 高井でございます。

 私は、約一年半、検討会の委員として裁判員制度に関する議論に参加してきました。その過程で私がどのようなことを考えていたのか、また何を期待していたのかということを申し上げて、今後の御審査の参考にしていただきたいと思います。

 まず、私が裁判員制度に期待していたものは何かと申し上げますと、まず、量刑に国民一般の常識あるいは感覚が反映されることによって、被害者がより納得しやすい判決になるのではないか、その結果、被害者の裁判に対する信頼が今よりも向上するのではないかということであります。

 第二点目は、国民が裁判に主体的に参加することによって、自分たちの社会の安全は自分たちで守らなければいけないという主権者としての自覚を持つに至るのではないかということであります。

 第三点は、審理方法が調書の読み込み中心から公判における供述中心ということに移行して、その結果、証拠構造に占める調書の比重が軽くなり、過度な精密司法がある程度改善されるのではないかということであります。

 第四点は、一般国民である裁判員にわかりやすい審理が心がけられることによって、裁判がより争点中心主義となって、裁判に要する時間が短縮されるのではないかということであります。

 一方、私がこの裁判員制度を考えるに当たって常に強く留意していたことが二つあります。

 一つは、裁判員制度は、裁判員となる国民に重い責務を負担させることにならざるを得ないということであります。

 刑事裁判というものは、人を裁くことであります。人の人生を直接的に左右するものであります。参加してよかったと思える裁判員制度こそいい制度だという考え方があります。私は検察官の経験もありますが、人を訴追したり人を裁いたりするということはどんな場合でもつらいことであって、重い責任を伴うものであります。

 今回の制度改革は、そのような人を裁くという重い行為に一般国民にも参加していただいて、その重い責任を分担していただこうというものであります。したがって、国民の方々に参加してよかったなと思っていただくというのはなかなか難しいことではないかというふうに思います。人を裁くことの重さを考えれば、国民の方々の中に裁判員になることをいとう気持ちがあることはむしろ当然であって、その方が健全な国民感情ではないかとも思うのであります。

 しかし、今度の制度改正は、そのような気持ちが国民の中にあることを前提にしてなお、我が国の刑事司法をより盤石なものにするためには主権者である国民にも人を裁くという重い責任を分担していただくことが必要であるという、極めて高度あるいは極めて重い決断がなされた結果というふうに理解しております。そうであれば、国民の方々が参加してよかったと思うのではなく、重い責任を十分に果たすことができたと思える裁判員制度こそいい制度だというふうに私は考えております。

 もう一点は、裁判に対する国民の信頼を維持しなければいけないということであります。

 裁判員制度は民主主義を一層深化させるものだという考え方があります。そのような考え方もある意味では可能かというふうに考えておりますが、一方では、民主主義は多数者支配が大原則であります。しかし、それに対し、刑事司法というものは、多数者から少数者の人権を守るという役割も課せられております。また、そもそも刑事司法の主たる役割は、真実を見きわめ、その事件にふさわしい量刑をするということに尽きるものであります。裁判員制度によって真相発見が困難になったり刑の量刑が不適切になったり、あるいはそのことによって裁判に対する国民一般の信頼が揺らいだりするのであれば、今回の制度改正は失敗だったというふうに言わざるを得ないということになろうかと思います。

 そこで、裁判員制度においても、被告人の人権を守りつつ真相を明らかにし、適正な科刑を実現するという制度本来の目的が実現されるためには、まず裁判官は当然でありますが、裁判員も公正中立な立場に立って、予断、偏見にとらわれることなく、また後顧の憂いなく、真相は何か、適正な科刑はどれくらいなのかという判断あるいは評議に責任を持って集中して参加できるという環境をつくり上げることが必要であるというふうに考えます。

 一方、刑事裁判は、犯罪と闘うという側面を持っております。したがって、国民が裁判員として裁判に主体的に参加するということは、裁判官とともに裁判員も犯罪あるいは犯罪者と闘うということにならざるを得ないのであります。自分あるいは自分の家族に対する被告人あるいはその関係者からの嫌がらせあるいは報復を心配しなければならないような環境であれば、裁判員は安心して裁判に参加することはできません。また、評議の場での自分の発言や意見が将来自分の意思と関係なく世間に広く知れ渡るような環境では、物言えば唇寒しというようなことにもなりかねず、裁判員は自由に自分の意見や考え方を述べることができなくなるのではないかということを恐れております。

 真相発見のためには、裁判員の方々が安心して自由に意見を闘わせることができるということが不可欠であります。そのためには、互いにその場での発言や意見については公表しないというルールが必要であり、そのルールに実効性を持たせるためには、法的処罰の対象とするという選択肢もやむを得ないと考えるものであります。

 その処罰内容については、いろいろな考え方があり、重い軽いという評価がありますが、例えば、経済的対価を得るために評議の内容を漏らしたり公表したりする、あるいはインターネットで広く公表したりするというような行為は、その動機の反社会性あるいはその結果の重大性を考えて、体刑選択もやむを得ないのではないかと考えております。

 また、守秘義務違反に体刑を含む刑罰をもって臨むということについては、国民を信用していないのではないか、あるいは国民に過度の負担を課するものだとする考え方もあります。しかし、前者については、これは社会的ルールあるいは社会的規範をどのように定立するかという問題であって、国民を信頼するとかしないとかという問題とは次元が異なると考えております。また、後者の議論については、国民の多くには、守秘義務が国民を罰することを目的とするものではなく、今お話ししたように、各裁判員が自由な意見を交換することができるようにするための制度的保障であるということを説明して、理解をいただくことは十分可能であると考えております。

 裁判員の義務を多くすると、国民が消極的になり、裁判員のなり手がいなくなるのではないかという議論がありますが、しかし、このような考え方は国民に対する信頼を欠いているのではないかというふうに思います。我々の社会は既に十分に成熟していて、国民の方々にそのような義務の必要性を言葉を尽くして説明すれば、十分に引き受けていただけるのではないかと思っております。また、そのような成熟した主権者であるからこそ、裁判に参加していただくという必要性もあるのだと理解しております。

 一方、裁判員にそのような守秘義務を課す以上は、それを破ろうとする者に対して、それを法的にガードするということも当然必要になるわけであって、その観点からは、一定範囲の接触禁止というものもやむを得ない合理性を持っているというふうに考えております。

 次に、今申し上げたような外的な環境を整備することによって、真相発見あるいは適正な科刑の実現を図ろうというわけでありますが、それだけではなくて、豊かな経験あるいは的確な判断力を持った多くの裁判員に参加していただく、国民に参加していただくということがこの裁判員制度を有効に機能させるためには不可欠であります。

 その観点からは、先ほどの公述人からも指摘されましたように、辞退事由の決め方あるいは運用の仕方をどうするかということが極めて重要になろうかと思います。辞退事由を広く認め過ぎたり、あるいはその運用が寛大に過ぎたりすると、裁判員としての適格を持っている方々がなかなか集まらないということにもなりかねず、その結果、裁判に対する信頼が損なわれるということにもなりかねないのではないかと思っております。

 したがって、辞退事由もあるいはその運用も、必要な範囲である程度厳しく制定あるいは運用する。その一方、それによって生ずる負担は、裁判員になられる個人に帰するのではなく、社会や、さらに広く全体でその負担を共有するというような制度を考案するようお願いしたいと思っております。

 次に、裁判員にわかりやすい審理をするという観点から、捜査の可視化ということが論じられる場合があります。捜査の可視化というのは、取り調べを録音、録画しろという趣旨でありますが、現在の精密司法と言われる法体系においては、取り調べというものの持つ意味が非常に重くなっております。

 取り調べの可視化ということを論ずる場合は、裁判員制度との関係で論ずるのではなくて、もっと広く、刑事司法全体を見渡して、刑法のあり方はあれでいいのか、手続法はあれでいいのか、共謀関係を立証する方法は今のとおりでいいのかというようなことを広く考えて、その中の一環として取り調べの可視化というものが論じられるべきだろうというふうに考えます。したがって、裁判員にわかりやすいかどうかという観点から論じられるべき問題ではないと思うのであります。

 また、仮に録音、録画をしたとしても、裁判員の前で、例えば房の中で殴られました、取り調べ室に入る前におどされましたという主張は当然出てくるわけで、そうなれば今と全く同じ状況が繰り返されることになります。そういう意味で、裁判員裁判をわかりやすくするために録音、録画は必要であるということには必ずしもならないんだということに御留意を願いたいと思います。

 時間もありませんので、急がせていただきます。

 次に、裁判員制度の施行までに三年でいいのではないか、なるべく早く施行して、動かしながら考えていけばいいではないかという考え方があります。

 しかし、裁判というものは人を裁くという行為であります。統計的に言えば、何千件、何万件という事件があり、その事件数に着目すれば、動かしながら成熟させていくという考え方も妥当かもしれませんが、裁かれる被告人個人にとっては、一回しかない自分の人生をその裁判で裁かれるわけでありますから、試行錯誤だ、だから我慢しなさいというわけにはなかなかいかないのであります。したがって、この裁判員裁判の施行までには十分な広報活動、あるいは積極的、継続的、大々的な広報宣伝、周知活動、あるいは法曹三者における十分な立証の仕方の研究、習熟というものが必要であろうかと考えます。

 そのような観点からすると、施行まで五年以内としている現在の考え方は十分妥当なものであるというふうに思います。

 最後に、議員の方々にお願いしたいのは、日本の刑事司法はこの裁判員制度の導入によって大きく変わることになります。しかし、現在の犯罪情勢その他を考えますと、刑事司法の改革は今始まったばかりであって、今後ともさらに、例えば刑法の客観化、細分化、あるいは共犯関係の新しい捜査手法、立証手法というものを検討していただかなければ、新しい時代に即した刑事司法制度になるということはなかなか難しいと思います。

 今後とも国会の場でそのような問題が取り上げられて論じられるということを強くお願いして、私の公述とさせていただきます。ありがとうございました。(拍手)

柳本委員長 高井公述人、ありがとうございました。

 次に、近藤公述人にお願いいたします。

近藤公述人 近藤でございます。

 私は、学術的なことも政治のこともあるいは法曹界のこともほとんどわかりませんので、今のお二人の公述人の御意見を伺っていますと、これから私が述べることは本当に恥ずかしいというふうな気持ちになっているんですけれども、一プロデューサーの体験話ということで述べさせていただきます。

 今回の法案については、基本的には大賛成です。

 企画プロデューサーとして、テレビ、映画、演劇の企画制作に携わってきました。法廷物にも興味がありまして、「十二人の怒れる男」という作品は、電気いすに送られようとした少年を救った十二人の陪審員たちが、裁判所の長い階段をおりて雨上がりの街路をそれぞれの家路につく、その足音が四十年以上たったいまだに耳に残っているぐらい深い感銘を受けました。

 日本にはああいう制度がないから裁判劇はつくれないなとあきらめていたんですが、実は、昭和三年から十八年まで日本にも陪審法が存在いたしまして、十月一日の法の日というのもその実施記念日だった。そのことをみんなが知らなかっただけで、幸い京都には当時の法廷がそのまま残っている、そこを借りれば安上がりでしかもちゃんとした裁判劇がつくれるんじゃないかというふうに思いまして、十年ほど前にその企画をしたことがあります。当時の記録や読み物も調べまして、とても個性的な豆腐屋のおじさんを見つけまして、ストーリーも考えたんですけれども、結局実現しませんでした。

 なぜかといいますと、当時の人たちは、お上に召し出されているという緊張感に支配されておりまして、被告を自分の手で罪人にするなど申しわけない、何か因果応報が自分にもめぐってくるんじゃないか、そういうふうな考えを持っていたわけですから、とても各人が自分の主張をしたり、あるいはお互いに白熱の論議を交わすというふうなドラマにはならないだろう。これは「十二人の怒れる男」どころか「十二人の怒れぬ男」しかつくれないんじゃないかと判断して、やめたわけです。

 でも、今は日本人もさま変わりしました。小学生でも自分の主張を堂々と発表できますし、大人も社会のさまざまな現象にそれぞれの関心と価値観で対応することができるようになっています。今ならば裁判員制度を導入しても十分成功するでしょうし、そのことを通じて日本がさらに民主的に成熟することも期待できます。裁判のあり方についても、人が人を裁く法というものへの見方、接し方も好転するに違いありません。その待望が私の賛成の理由であります。ただ、そのために、我々は今、新しい門をくぐる心構えを確立することが先決だというふうに思っています。

 私は、陪審制度のサンプルとして、O・J・シンプソンの裁判を思い出します。一九九五年だったと思いますけれども、別れた妻とその友人の惨殺容疑で訴追されたシンプソンを、二百六十五日に及ぶ法定手続の末に無罪の評決を下した勇気ある陪審員たちのことを思い出すわけです。

 この評決は、アメリカのみならず、日本人にとっても驚きでした。マスコミでこの裁判をフォローした人たちは、証拠以外のさまざまな情報から、このアメリカンフットボールの世界的英雄が、多分あいつがやったに違いないというふうに思っていたからです。

 無罪だということになると、人々は今度はこの評決を人種問題と結びつけました。黒人九、白人二、ヒスパニック一という陪審員の構成から、シンプソンが黒人であっただけに無罪にしたんだろうということです。

 しかし、この陪審員たちは違いました。十カ月に及ぶ法定手続を経て、皆さんの評決は提出された証拠から、その証拠だけから事実が何であるかを決定しなければならないという判事の説示どおりに、犯行の疑問点を検証し、真摯な議論を重ねた結果、一つの言葉を生み出しました。

 全員の信頼を得て選ばれた陪審長クーリーさん、これは黒人の女性だったんですけれども、彼女が少数意見を非常に大切にして、だれのどんな小さな疑問にも答えを見つけ、一人一人に満足できる選択を見出したのです。つまり、シンプソンはノットギルティー。陪審員たちにとって、容疑者が有名人であったこともあるいは大がかりな裁判であることも人種問題が絡むことも、全く関係なかったわけです。証拠に余りに疑問が多かったからそこまで考えが及ばなかった、もし検察がこの男は有罪と立証できていれば彼は今刑務所の中にいるだろう、そういうことだったわけです。

 クーリーは十一人の陪審員に確認しました。あなたはきょう眠れますか、結果を出すためにまだ心の中に残っていることはありませんかと。彼女は最後に自分にも同じ質問をしました。答えは皆と同じでした。何の問題もありませんと。

 私は、この一言がこれから実施される日本の裁判員制度の心の声になるべきだ、そしてそこに携わるすべての裁判員の合い言葉になるべきだと思います。あなたはきょう眠れますか、そういう問いかけです。

 昨年初め、日本弁護士連合会からお誘いを受けまして、裁判員ドラマをつくることになりました。裁判員制度や裁判員について一般市民にもわかりやすく説明できるようなもの、もちろんドラマとしてもおもしろいもの、しかも脚本から完成まで一カ月でというほとんどむちゃと言ってもいい注文でしたが、この心の声を基本テーマにすれば何とかなるだろうと思ってお引き受けをしました。

 裁判員の参加する刑事裁判に関する法律案は検討作成中、つまり基本論点が定かでない時点でつくるわけですから、ドラマのテーマだけは明確にしないとどうにもならなかったんです。

 まず、裁判員と裁判官の構成比率が問題でした。少しでも市民参加を多くという趣旨からでしょう、裁判官一に裁判員九か十一という御要望もありましたが、これはスタッフの方から一対七ということでお願いをしました。別に何ら法的根拠があったわけではないんです。この規模のドラマとして個々に性格表現の可能な登場人物は七名が限度。ですから「七人の侍」になったわけです。特に人間性を描き分ける必要のある裁判員は、それ以上の人物を幾ら登場させても、ただそこにいるだけの余計者になってしまう、そういう作劇上の必要からでした。会社員、フリーター、町工場経営者、定年退職銀行員の男性四人、看護師長、専業主婦、大学生の女性三人、選挙人名簿から無作為に抽出されるだろうサンプル的設定を考え、裁判長は、二十八年勤めて今回初めて裁判員制度を仕切る地方裁判所の裁判官としました。

 後は、二日にわたる裁判記録をドキュメント風に組み立てていく。ポイントは、従来の裁判との違いを浮き彫りにしながら、裁判員制度というものをわかりやすく、親しみやすく伝える作業です。裁かれる事件はできるだけシンプルにしました。散歩中のしゅうとめが石段から墜落死したのは、付き添いの嫁が突き落としたのかあるいは本人が誤って落ちたのか。つまり、殺人か事故かの一点に絞ったわけです。嫁は一たん自白しながら否認している。背中を突いた、いや、足を踏み外したという正反対の証言がある。

 シンプソン裁判のとき陪審員が貫き通した最も根本的な原則をしんに据えまして、自白は有力な有罪証拠となること、その取り調べ経過の追認、つまり供述調書の信憑性の判断、証言の正当性、被告の真実はどこにあるのか、そうした法定手続をめぐる裁判員同士の確執や裁判長との関係がどう修復されていったのか。ここではクーリーさんはいませんので、その役割はただ一人のプロである裁判長が兼ねていますけれども、一日目は分裂状態だった法廷が二日目に劇的な展開を見せるように工夫しました。ある裁判員が人に知られたくなかった体験を告白したところから皆の心が通じ合うようになって、評決に至るわけです。被告は無罪。

 この後、裁判長は述懐します。十八年、感情を排除することになれてしまって、私は一番大切なものさえ心の中にしまい続けていたのかもしれない、それをあなた方が少しずつ思い出させてくれました、それは良心です、あなたたち市民の良心に触れたおかげで、見失いかけていた真実が何であるかを見きわめることができたような気がします、裁判長はそう言って、裁判員一人一人と顔を見合わせ、しっかりとうなずき合うんです。それは、この裁判員の参加する刑事裁判が日本に必ず根づくに違いない、そして、よい方向に展開していくに違いない、そのことへの確信でした。良心と言いましたのは、悪心に対する意味合いではなくて、他人に細やかな気を配る真心という意味で良心という言葉を使ったんです。

 七人の裁判員たちも、決めるのは自分たちだ、自分たちが決めたんだと実感しながら、裁判所の長い階段をおり、互いに実名を名乗り、握手して、それぞれの家路につくんです。ここらは実は「十二人の怒れる男」のパクリなんですけれども、つまり、その感銘からシンプソン裁判につながって、消失した裁判劇の夢をこうした形で実現したといった格好になってしまったわけです。

 私は、このドラマをつくった実体験の中でこれからの裁判員制度について多少感じた点がありますので、御参考までに申し述べたいと思います。

 まず、裁判官と裁判員の構成についてです。

 法律案提案理由説明の第一に、「当該合議体の構成は、原則として、裁判官の員数を三人、裁判員の員数を六人とすること、」というふうに記してありますので、もう手おくれといえば手おくれなんでしょうけれども、私は、あえてこの「原則として、」というところにすがりつくような思いで、裁判官の数が多過ぎるというふうに申し上げたいと思います。

 理由は、プロの持っている強さです。法律にも法廷にも素人の裁判員が相手の場合、このドラマでも示したように、練達の裁判官がオピニオンリーダーとなることは必然です。ましてやそれが三人ということになりますと、裁判員は何人いようと員数に入らないのも同然でしょう。

 一般市民生活で培った知恵と体験と価値観などが、本職としての裁判官に思いも寄らぬ啓示や判断をもたらすことがある。その必要で大切なことの導入が今回の裁判員制度の眼目とするならば、裁判官は一人あるいは二人。二人の場合は、その二人がお互いに対立していて、そういう対立が裁判員を触発して論議が活性化する、むしろそういうふうなあり方が望ましいんですけれども、三人というのはあくまで原則であって、被告が罪を認め、周りにも異論がないケースにはこの員数を変えるというようなことがあるようですけれども、そういうケースだけではなくて、できるだけ一人対例えば四人というふうな形がとられるように願っております。ドラマで描いた裁判官の良心というものを一層拡充するためにも、その方が望ましいというふうに思います。

 余談ですけれども、現在の裁判の遅滞が裁判官の不足にも一因があるとするならば、その意味でも、一つの裁判にかかわる裁判官の数を少なくして、そこから本物のプロの活用による裁判の促進を図る方法もあっていいのではないでしょうか。どうしても三人が必要なら、裁判長は最後まで意見を言わないとか、あるいは裁判員とプロの発言の機会を均等化するとか、素人が意見を述べやすいような何らかのルールをつくっていく必要があるんじゃないかというふうに思います。

 次は、取り調べ状況の開示についてです。

 これは他の公述人からも御発言が既にありましたけれども、自白が有力な有罪証拠になるならば、その供述調書がどんなふうにして成立したのか、その信憑性の判断基準を裁判員に与えるために、警察なり検察なりがその状況をビデオに収録するなりして、評議の場で例えば開示する、そういうことを考えてもいいのではないでしょうか。取り調べの前に何かそういうことがあった場合にはこれは全く意味がないことになってしまうというのはほかの公述人と同じなんですけれども、とにかく、何か開示するということをもっと積極的に考えた方がいいというふうに思います。

 それから、守秘義務についてです。

 「評議の秘密」の項で、評議の経過、裁判員、裁判官の意見並びにその多少の数については、これを漏らしてはならないとありまして、さらに第七十九条で、その場合、「一年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する。」というふうに定められております。

 このドラマでも、もし後日談をつくるとするならば、当然、裁判員たちが、会社で、家庭で、病院で、学校でそれぞれの体験を、つまり、裁判員同士あるいは裁判官との評議の体験を語ることによって、人々が関心を抱き共感する、そういう輪が広がっていくことで逆にこの制度が定着、発展する、そういう状況を続編として描くことになると思います。でも、余り守秘義務ということが厳しくなりますとそんなこともできなくなってしまう、商売に大いに差し支えるということになりかねないと思います。

 ですから、例えばどんな場合に、保秘、秘密を守ることが破られたと判断するのか。罰則だけ示しても、その運用にはよほどの留意をしないと、せっかく発展していく、進展していくこのいい制度をかえって制御することにつながっていくのではないかという懸念を抱きます。

 このドラマは、放送や上映のめどを立てずに制作された本当に珍しい例です。普通、ドラマの場合はどこの放送局でやるとか、映画はどこの系列で上映するとか、そういうことをまず決めてから制作にかかるわけですけれども、この場合は何にもそういうことがありませんでした。とにかくつくりましょうということで始まったわけです。したがって、スタッフやキャストも、裁判員法って何だ、裁判員制度っていうのは何だ、裁判員って何するのといった感覚でこの無目的のドラマづくりに参加してくれました。ほとんど奉仕の作業と言ってもいいと思うんです。しかし、一カ月たちましてドラマが完成したときに、みんなが、やってよかった、放送のことなんか考えなくてもこんないい作品ができるんですねというふうに非常に喜んでくれました。そして、もし裁判員を任命されたら私たちは喜んでやりますよと言って散っていったんです。

 あることが発展するということは、こうしたプロセスを経ないとなかなかうまくいかないものだということを痛感しました。そしてまた、こういうプロセスで人々がこのことに感動さえすれば輪がどんどん広まっていくものだというふうに思いました。

 今夜眠れますか、この心の声に答えられるかどうかは、その場にいる一人一人のそれぞれの覚悟と意欲によって、なる、ならないが分かれるのだと思います。つまるところ、決めるのはあなたということだと思います。

 お粗末でしたけれども、以上で公述を終わります。(拍手)

柳本委員長 近藤公述人、ありがとうございました。

 次に、敷田公述人にお願いいたします。

敷田公述人 敷田と申します。よろしくお願いいたします。

 私は、市民の裁判員制度つくろう会という市民団体に結成時から運営委員として参加しています。この二年間、市民が司法に参加するとはどういうことなのかを考えて、さまざまな経験をしてまいりました。その運動を通じて、男性、女性、高齢者から中学生に至るまで、いろいろな年齢の方からお話をお聞きしました。また、現職の裁判官や元検察官、弁護士や被害者など、立場は違うけれども、今よりももっと司法制度がよくなることを願っているんだという方々から貴重な御意見を伺いました。

 今の司法制度がよいか悪いかは、何らかの形で裁判にかかわってきた人でなければきちんと判断することはできないかもしれません。しかし、少なくとも市民参加がきっかけとなって、今まで司法に関心のなかった市民が制度自体を見詰め直すことにつながります。これまで司法をつくってきた専門家に市民感覚という新しい知恵が加わって斬新な改革が行われ、その結果、全く新しい制度がつくられていくのだと考えています。

 市民が有罪無罪を判断して量刑を決めるということは、精神的にも非常に大きなことです。ですが、だからこそ、考えて、悩み、苦しむことによって、司法制度だけではなく、身の回りの小さな出来事にも関心を持つことにつながっていくと思っています。

 世界には司法におけるさまざまな市民参加の方法があります。裁判官と市民が対等に議論して有罪無罪を決めて量刑も出すという裁判員制度はこれまでに例がありません。今、それを、法案審議に至って改めて強く感じています。市民を現行の司法制度に招き入れるという形ではなくて、法律専門家とそれ以外の人たちが一緒になって新しい司法制度をつくっていくのだということを裁判員制度に期待しています。

 私は、これまでに、四年制の大学を卒業した後、一部上場企業の従業員、パートタイマー、中小企業の従業員を経て、その後、昨年、会社を起こしました。裁判員候補者となって、さまざまな立場の方が裁判所からの呼び出しに応じなければなりません。働く女性の立場から意見を述べさせていただきます。

 それでは、法案に対する意見と、ぜひ法案に入れていただきたいという二点についてお話しさせていただきます。

 まず初めに、法案に対する意見です。

 この中では、出頭義務違反の罰則について、守秘義務違反の範囲と罰則について、裁判がわかりやすいものになるということ、次に評議、この四点についてお話しさせていただきます。

 まず初めに、出頭義務違反の罰則についてです。

 法案には、裁判員候補者及び裁判員が正当な理由がなく裁判所へ出頭しない場合には「十万円以下の過料に処する。」とあります。市民にとって過料の十万円は大変な経済的負担です。罰則がなくても進んで出かけたいと思えることがこの制度の目的ですので、罰則で強制的に市民を裁判所に呼ぼうということはこの制度の趣旨に反することです。

 私たちが行ったアンケート調査の結果では、裁判員になりたくないと回答した方が三二・一%おられました。しかし、制度や環境面が整えば参加したいと回答した方が四一・一%おられます。

 この後、法案にぜひ入れていただきたい項目として、参加しやすい制度の中でお話ししますが、延期制度の導入や育児・介護サービスを充実させるなど、主体的な市民参加とは何かを考えて、参加したいけれども今の状況を考えるとちょっと無理なので裁判所に行くのはやめようと思わないような工夫が必要です。罰則を設けるのではなく、市民が参加しやすくなる基盤整備がなされることが大切です。

 次に、守秘義務違反の罰則とその範囲についてです。

 法案には、裁判員が評議の秘密その他の職務上知り得た秘密を漏らしたときについての罰則が設けられています。五十万円以下の罰金も大変な負担ですが、さらに懲役刑が科せられるということは、精神的にとても大きな負担です。

 また、守秘義務はいつまで課せられるのかが法案には書かれていません。この罰則は評議中に限るものとして、判決が確定して裁判員がその職務を離れた時点で罰則はすべて外してください。一生涯家族にもしゃべれないということになればとても重いことです。

 また、守秘義務の範囲についてですが、評議の秘密として処罰対象になる範囲が何であるのか判断がつきにくいと感じました。話してはいけないこととして法案に書かれている評議の秘密の中には、評議のときに裁判官の説明がわかりにくかったとか、裁判官が市民の意見を取り入れてくれなかったとか、制度の改善や運用の見直しには必要な意見も含まれています。話してもいいことは何かを挙げるよりも、処罰対象になることは何かを挙げていただく方がわかりやすいと思います。どのようなことが裁判官や裁判員のプライバシーにかかわることで配慮しなければいけないのか、これは市民の良識としてわかっていることです。

 また、裁判員制度は、法律専門家とそれ以外の市民が一緒になって新しい司法制度をつくっていくことなのだと期待していますので、制度の改善や運用の見直しのために裁判員経験者が経験を語ることについて、広い範囲で認めてください。次に裁判員になるかもしれない市民にとって、経験者の話を聞くということは、さまざまなオリエンテーションを受けるよりも非常に有意義なことです。

 三つ目に、裁判がわかりやすいものになることについてです。

 私はこれまでに何度か裁判の傍聴をしましたが、現在の裁判は、期間をあけて開廷される上に、見て、聞いて、それだけでは理解できるものではありませんでした。たくさんの資料を読みこなして判断するのでは、時間的な負担もとても大きいです。法廷でのやりとりを集中して聞くだけで判断ができる仕組みが理想です。供述調書などの証拠提出はやめて、直接法廷で証言を聞けるようにしてください。

 よく捜査段階の供述をめぐっては、自白した、いや強制的に自白させられたんだなどと争っておられることがあります。密室で何があったか証明することはとても難しいことです。でも、客観的な記録があればそれを防ぐことができるのです。取り調べや事情聴取の全過程をビデオに録画して、供述をめぐって争いが起こった場合に証拠として使うことを提案します。

 また、どのような証拠があるのかを裁判員にもわかるようにしてください。法案では、検察官が持っている証拠のリストは裁判官にしか開示されないことになっています。裁判員が被告人が無罪になるかもしれないという重要な証拠があることを知らないままに判断をするなど、とても納得できることではありません。判断を下した後になって出てきた証拠によって市民の出した判決が覆されることがあっては、自分がやってきたことが正しいことなんだと自信を持つことができません。証拠リストは裁判員にも公開して、評議のときでも見る必要があるんだと思ったときに裁判員が請求できるようにする、そういった公正な判断ができるように改善してください。そして、裁判過程をビデオなどの映像や音声、速記録を使って記録に残し、評議室で再度検証が必要になったときにいつでも見られるようにしてください。

 説示についてですが、アメリカなどでは公開の法廷で説示が行われています。裁判官によって説明の仕方が違うなどということがあれば裁判員は戸惑います。裁判官がどのような説示をしたかが傍聴に訪れた市民にもわかるように、公開の場で説示を行ってください。

 あわせて、法律専門家に求めることです。

 市民は、裁判員になるためにさまざまなことを学ばなければなりません。これまで以上に市民にとってわかりやすい裁判になるように、裁判官、検察官、弁護士が互いに連携して、改善点を見つけ、解決されることを希望します。また、本当にわかりやすい裁判になっているかどうかを、模擬裁判を行うなどして市民にもチェックする機会を与え、裁判員制度が施行されるまでの間にそのタイムスケジュールを公開することを求めます。

 四つ目に、評議についてです。

 幾ら裁判がわかりやすいものに変わったとしても、その後の評議で自由に意見が述べられないのでは、本当の市民参加とは言えません。主体的に参加できたという実感が持てるように、評議における具体的なルールづくりをしてください。議長はまとめ役なので最後まで意見を言わないとか、初めに裁判員全員の意見を聞いてから裁判官が意見を言うとか、少数の意見をきっちりと酌み取るとか、緊張感がなく、裁判官と裁判員が対等に意見を言える雰囲気づくりが大切です。評決の仕方についても、単純な多数決ではなくて、極力全員一致を目指して、少数意見の人も十分に議論したから納得したんだと思えるまで議論させてください。

 評決のとり方ですが、法案では、特別多数決ではなく、裁判官と裁判員の双方の意見を含む過半数の意見によるとなっています。裁判官三名と裁判員六名とした場合、一票差で有罪と無罪が分かれることになります。私が裁判員となったことを考えれば、たった一票の差で被告人が有罪になったり死刑になったりすることは到底納得できるものではありません。

 また、裁判員六名が同じ意見でも、裁判官三名全員が裁判員と全く違う意見であれば、過半数の意見であるにもかかわらず、評決に至ることができません。この評決のとり方では、主体的な市民参加という趣旨から離れたものになります。裁判官三名、裁判員六名という人数構成にも納得できません。

 さらに、これは社会生活に照らして思うことですが、裁判官三人が日ごろより職場を同じくしている者同士だったり上司や部下という上下関係にあっては、裁判官同士も気を使ったり、昇進のことを考えて、率直に裁判員の前でほかの裁判官と違う意見を言うのは大変ではないかと思います。

 模擬裁判を行った結果から、裁判官は二名以下として、裁判員は、多様な市民の意見を聞くという考えから、十名は必要だと考えます。

 法案に対する意見は以上ですが、それでは次に、ぜひ法案に入れていただきたいこととしてお話しさせていただきます。

 まず初めに、延期制度の導入についてです。

 延期制度というのは、裁判員候補者として裁判所に行く期日を延期する制度のことです。海外出張や長期にわたるプロジェクトなどにかかわる従業員や、施設の受け入れ状況によって育児、介護の負担が軽くなる主婦など、一定期間が経過すれば参加できるようになる人に対して柔軟な対応をしてください。

 法案では、裁判員候補者名簿をつくったときに、その名簿に記載された市民にお知らせすることになっています。私たちの行ったアンケート調査では、四一・一%の方が、三カ月以上前に裁判員候補者になったことを知らせてほしいと回答しています。裁判員候補者には、半年前にはその年の裁判員候補者に選ばれたということを通知して、やむを得ない理由によって参加できないという市民に対しては、一定期間が経過後に裁判員候補者となれるように柔軟に対応してください。また、裁判所を夜間や休日に開くなど、柔軟な対応をお願いします。

 次に、裁判員休業制度の導入についてです。

 裁判員に選ばれても、法案には事業主に対して、不利益取扱いの禁止とあるだけで、本当に休んでも大丈夫なのかという不安があります。育児・介護休業制度のように、休暇をとることを奨励する立法をつくってください。その対象には、正社員だけではなくて、パートタイマーなどの有期雇用労働者も含むようにしてください。

 企業で働く市民が裁判員になるために休業した場合は、それが公休扱いになるのかまたは有給休暇になるのかは大変大きな問題です。既に有給休暇を取得してしまった場合には欠勤扱いになるのかなども重要です。裁判員として休暇をとる場合は公休扱いになるように明記してください。

 大企業では、休暇制度も充実して、国の指導によって、従業員に対する不利益取り扱いも少なくなるとは考えられます。しかし、中小企業では、社長の意思が会社の風潮となっているところも多く、給与や賞与の査定に影響が出たり、休暇を取得することに無言の圧力がかかったりします。パートタイマーであればなおさら切実な問題です。事業主に対しては、従業員の不利益取り扱いをなくすために、必要な措置と十分な啓発活動をしてください。

 三つ目に、日当の保障についてです。

 裁判員休業の取得によって収入の減少が起こらないように保障する制度を創設してください。裁判員の果たす役割は裁判官と同等ですから、裁判官の年収を日給換算した額を考慮して、少なくとも日ごろの社会生活を犠牲にして参加する市民の方が裁判官の日給よりも多く支給されるように保障してください。検察審査員の日当は八千五十円以内、その他民事調停委員の報酬など、裁判員の任務は、被告人の一生を左右するという、それらの任務とは比較にならないほどとても重大な任務なのです。

 次に、育児・介護サービスの充実についてです。

 私には子供はおらず、介護が必要な親族もおりませんが、働きながら育児、介護に従事している方が私の周りには男女を問わず多くおられます。

 一時保育やデイサービスを受ける場合には、それが辞退理由とならないように、裁判所の中や裁判所近辺に託児所、託老所を設置して、安心して預けられる保育士や看護師を常駐させ、裁判員の任務につけるようにしてください。評議は夜間まで続くことも考えられますので、施設の利用時間も柔軟に対応してください。

 また、託児所、託老所は、裁判員だけではなくて、傍聴に訪れた市民や近隣の施設に勤める職員たち、その他一般市民にも利用できるようにして、裁判所に行くということがもっと市民にとって身近なものになるように心がけてください。

 一時保育、デイサービスを受ける場合は、そのかかる費用を公費で保障することも必要です。保育園の一時保育を利用した場合は一日当たり千五百円から三千円、デイサービスの利用金額は一日当たり六百円から千二百円となっており、同じ裁判員の任務を果たしながらも、その日当から育児や介護費用を捻出しなければなりません。そのために、裁判員の中で不公平感が出ます。ましてや一時保育やデイサービスは夜間の利用ができるところがほとんどありません。また、裁判員となる期間の一時保育やデイサービスを個人の持っているネットワークで探すには限界があります。どの地域のどの施設が何人の受け入れを可能としているのか簡単にわかるような情報サービスも充実させてください。

 五つ目に、裁判員制度の推進体制についてです。

 裁判員制度の運用状況については、法案において、最高裁判所が毎年公表することになっています。推進体制についてはまだ明らかにはされていません。施行前の準備段階で、どのような整備がされているか年月を区切って公表して、市民がそれに対して意見を出すことができる、そういう体制にしてください。

 裁判員制度施行後は、裁判員経験者が裁判員の任務終了後に生じた不安をいつでも相談したり、今後裁判員になる市民に必要と思われる改善点などを提起できるように、推進体制を継承する第三者機関も必要です。そこには裁判員経験者を入れることが重要です。

 裁判員裁判を経験して、法律への関心や犯罪に対する考え方、人は皆同じだけれどもそれぞれに個性を持って生きているんだということ、これから裁判員になる人たちに向けて社会のさまざまなことを考えてもらうきっかけになるような活動を支援することも重要です。私たちが行ったアンケート調査結果では、六六・一%の方がマスコミに対しても自分のプライバシーが保護されれば経験談などを語ってもよいと回答しています。

 この制度は、常に見直しながら、よりよい、市民が参加しやすい制度として発展、定着していくことが何よりも大切です。導入後は、年月を区切って見直しを行うことを提案します。期間としては、施行十年後では長過ぎますので、五年以内の見直しを提案します。

 最後に述べさせていただきます。

 この法案を読んで、法律専門家と非専門家との協働、市民の主体的な参加を感じることができませんでした。まだまだこの制度ができることを知らない市民が大変多くいます。施行までの間に模擬裁判やオリエンテーションを十分に行って、市民にとって司法参加がどれほど重要で身近な問題なんだということを広めるために、政府は今から十分な広報を行ってください。この制度がきちんと市民に理解されて、一人一人が当事者意識を持って行動して、市民が参加しやすい制度とは何かを考えることが何よりも大切だと思っています。

 以上です。(拍手)

柳本委員長 敷田公述人、ありがとうございました。

 以上で公述人の御意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

柳本委員長 これより公述人に対する質疑に入ります。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。下村博文君。

下村委員 自民党の下村博文です。

 きょうは、四人の公述人の方々、ありがとうございます。質疑を入れまして十五分でございます。限られた時間でございますので、的確にお答えをいただければと思います。

 一番最初に、中川公述人から、この裁判員制度の導入において、裁判員制度の導入を国民は必ずしも支持していないのではないか、消極的ではないかということで、この意識改革、国民の意識改革を同時に行わないと裁判員制度導入が失敗するおそれもあるのではないかということで、これから五年間の周知期間の中で成功するように十分な対策を行う必要があるということを最初に述べられたというふうに思いますが、ほかの方々も同様な危惧もお持ちであるというふうに思います。

 実際に幾つかの調査の中で、この裁判員制度導入について、六割近くの方は賛成なんですけれども、いざ自分が裁判員になりたいという方は一般的な調査では三〇%程度でございまして、ぜひなりたいという人はほんの数%というのが一般的な調査で出ているわけでございまして、これからいかに裁判員制度を導入された後五年間の中で周知徹底、広報活動をすることによって、多くの方々にぜひ裁判員になってみたいと思ってもらえるような、そのような制度設計をしていかなければならないし、またそのような活動をしていくということが非常に重要だというふうに思います。

 そういう中で、まず中川公述人にお聞きしたいというふうに思うんですけれども、先ほどお話しされましたが、三分の一程度の裁判員希望者を、少なくとも半分以上の方々がぜひ裁判員になりたいと思うようにするために、これからの五年間の広報活動の中で、特に具体的に、こういうようなことを世論に、国民の皆さんに理解してもらう、訴えるということで、何か具体的な提案があれば、さらにお話をしていただければと思いますが、いかがでしょうか。

中川公述人 特別のアイデアを持っているわけではございませんが、これは、何かすればぱっと効果が上がるというものではないと思います。

 ただ、先ほど、日弁連がおつくりになった映画の話が出ましたね。あれは私も拝見しましたけれども、あれの当否は別でございますが、ああいう、目で見える、ビジュアルなものにするというのが大変大切だなという感じがいたしました。したがいまして、例えばテレビなんかで、具体的なイメージはこういうふうになるんですよというようなものがあれば、これは国民の皆さんも、ああ、そうか、この程度のことかというようなことはわかるんじゃないかなと思います。

 それから、やはりもう少し教育、これも幼年時というか、小学校、中学校ぐらいあたりから、もう少し司法というものに対する関心を高めるような教育をやる。これは、私はアメリカにおりまして、自分の子供を見ていたら、最高裁判所の判事の名前なんかをもう小学生が言うわけですよね。それぐらい教育をやっておる。それから、ああいう国ですから、法律というものが本当に生きているといいますか、よしあしは別にしまして、生きていますから、そういう意味では非常に関心が高い。

 やはりそういうベーシックなインフラを整えるということも大切だし、それからビジュアルなものにするという広報活動、これも大切じゃないかなというふうに感じております。

下村委員 同様のことを高井公述人にもお聞きしたいと思うんですが、今、弁護士をされておられて、またその前は検事も経験がおありだということで、今の学校教育の中で、司法、立法、行政の中で、今の中川公述人がおっしゃるように、裁判所等におけることについての学校における教育というのは余りされていないのではないかというふうに私も思うところがありまして、それが一方で、裁判官による裁判所のあり方について、大方の国民は信頼をしていたというふうには思うんですね。

 ただ、先ほど、この制度導入の中の長所の最初の一つとして、裁判員制度が導入されることによって被害者がより納得するような結果が出るのではないかということもおっしゃっていました。それだけ今の裁判所あるいは関係者は世間とずれているところがあるのかどうかを含めまして、学校教育の中で、この裁判員制度だけではありませんけれども、司法、これについて、高校、大学等の社会科、公民とか、そういう社会科関係の中でもうちょっと具体的に教える必要があると思うんですが、そのようなことを今まで経験の中でお感じになったことがあるかどうか。また、具体的に、この裁判員制度導入については、どのレベルからどんなふうなことを学校の授業の中で教えることが必要かについて、御意見があればお聞かせ願いたいと思います。

高井公述人 まず、裁判官の常識が一般の常識とずれているというふうに感じられることがあるかということであります。

 まず、被害者サイドに立ちますと、どうしても裁判官の量刑は軽過ぎるというのが一般的であります。ただ、裁判官の立場に立って考えれば、裁判官は常に前の、それ以前の裁判例で、同じような事案でどの程度の量刑がなされたのかということを常に念頭に置きながら、あるいは資料で確認をしながら量刑を決めるわけです。検察官として求刑を決める場合も同じような作業をいたします。したがって、どうしても過去、例えば何十年間かのデータがあって、その並びで求刑あるいは量刑を決めることになります。

 これは、刑の公平という点では非常にいいことだと思うんですが、ただし、社会感覚も、例えば被害者運動が盛んだった時代とまた被害者が忘れられた時代とを比べますと、当然これは社会の感覚、量刑感覚、求刑感覚は変わっていって当然なんですね。そういう意味では、裁判官が常識がないからというよりは、裁判官が量刑を決める手法が、現時点における国民の量刑感覚を的確に反映することになじまない、そういう部分を本質的に持っているという部分があろうかと思うんですね。

 それをこの裁判員裁判制度で埋めていくということができるのではないか。裁判官は過去何十年間かの量刑感覚を持っている。そこに現時点での量刑感覚を持った裁判員が入っていって、お互い意見を闘わせて、妥当だと思う量刑を決めるということによって、被害者も現時点での国民感情が反映されたというふうに考えることができて、より納得しやすくなるのではないかということだと考えております。

 次に、学校教育その他で何をすべきかということだったと思います。

 まず、国民の方々が裁判員になりたくないと言われる中に、いろいろな理由があると思うんですね。まず、何をしていいかわからない、あるいは私は法律を知らないんだからなぜ裁判ができるんだというふうに思われる方、あるいは守秘義務とやらがあって、何か下手をするととんでもないことになりそうだというふうないわれのない心配をされている方、いろいろ理由があろうかと思うんです。したがって、それらの理由を排除する、除くような広報活動をしていけば、おのずから参加を希望する方々はふえてくるというふうに考えております。

 学校教育の中で何を期待するかというと、ディベートをする能力。日本人は議論をすることが下手であります。しかし、裁判の評議というのは、これは議論そのものであります。したがって、ディベートをする能力がないと、いい評議、いい議論というのはできないと思います。したがって、学校教育、あるいは小学校は早過ぎるかもしれませんが、少なくとも中学校以降ではディベートをする能力を養うという観点からの教育をすることが即日本の裁判をよくすることになると考えております。

 また、従来、法曹三者は法廷の中に閉じこもっている、あるいは弁護士は事務所の中に閉じこもっていると言ってはなんですが、広くそういう教育の現場にみずから出ていって、法曹のあり方であるとか司法のあり方を広報する、あるいはそこで一般の人たちと議論をする、あるいは高校生や大学生と議論をするという機会が余りにも少なかったのではないかと思います。

 したがって、今後カリキュラムをどういうふうに組むかという問題になりますが、法曹三者が教育現場に出ていって、今の裁判制度あるいは捜査、公判を通じ、刑事司法あるいは民事司法の実態を学生あるいは生徒に話をして、そこで議論をするというようなカリキュラムを組んでいくということも、将来的には必須なのではないかと考えております。

 以上です。

下村委員 残りあと五分でございますので、近藤公述人とそれから敷田公述人にちょっと同じことをお聞きしたいと思いますが、お二人が裁判員と裁判官の数について御発言をされておられましたので、これについてお聞きしたいと思うんです。

 近藤公述人のつくられた映画を私も見させていただきまして、大変すばらしい映画だというふうに思いました。ただ、数については、政府案は御指摘のとおり三対六ということでございますが、これは今の裁判員制度そのものについての認識の違いもあるかと思いますが、基本的には、大方の国民は今の裁判制度について信頼をしているということの中で、刑事事件に絞って、なおかつ一審だけでこの裁判員制度を導入しようということでございますので、ほかの民事とか、あるいはほかの控訴審等々、全体的な整合性の中で三対六ということを決めているわけでございます。

 近藤公述人としては、そういう全体的なバランスの中での人数ということについて、映画とはまた違う視点、映画では確かに一対七の方が見るイメージとしてもわかりやすくて、ドラマとしては、企画としてはおもしろいなと思いましたが、今の制度の中でどう考えるかということでございます。

 それから、同じようなことについて、全般的な今の裁判制度との整合性の中で、敷田公述人もどうお考えなのかということについて、それぞれ簡単に御発言をしていただければと思います。

近藤公述人 今、御指摘のとおりでして、私が特にそれを強調しましたのは、ああいうドラマに仕組んだ場合に、非常にある部分が明確にあぶり出されてくるというところがあるわけですね。そのあぶり出された結果として、一対七というのは非常によかったんではないか。それが今後、プロの裁判官が三人集まってしまうということになると、本当に、逆に裁判員たちのいい意味での素人性というものが生かされるんだろうかというところにちょっと疑問を持ったものですから、先ほどああいうふうに申し上げたんですけれども、別に三人対六人ではいけないということを申し上げたのではなくて、今回でも、ある特殊な場合には一対四ということも認められるということですので、そういう運用の方法さえ間違わなければ、そんなに異論はございません。

敷田公述人 現行三人ということですが、ここに市民が加わるという意味を考えていただきましたら、裁判官は三人必要なくなるのではないかと考えています。今まで三人で御負担されていましたことを、市民が加わることによって、その役割が少し軽減されるのではないかと思います。

下村委員 ありがとうございました。

柳本委員長 山際大志郎君。

山際委員 自由民主党の山際大志郎でございます。

 四人の公述人の方、本当にさまざまな、有意義な意見をいただきまして、ありがとうございました。

 実は、私も、高井公述人や中川公述人のようなプロではございませんで、獣医をやっていたという、法に関しては、特に刑事に関しては全くの素人の立場としてこの法務委員会に参加しております。

 そこで、まず、この裁判員制度というものを私なりに理解しますのに、今般、司法制度改革というものがかなり世間でも話題を呼んでいるというか、国民の皆さんの関心も上がりつつあるところで、やはり市民が参加して司法を変えていくんだというところ、この裁判員制度というのはこれを一番あらわしている制度だと私は思っておりまして、その観点からも、いい意味での素人の考えというものが反映されないと本当に意味のないものになってしまうんじゃないかというところで、敷田公述人と近藤公述人の立場というものがすごく私は共感が持てるところがございます。

 その中で、私はまず敷田公述人にお伺いしたいんですけれども、これからの制度に具体的に入れていっていただきたいというものの中で、例えば延期制度の導入であるとか、あるいは夜間、裁判ができるようになった方がいい、休業制度、日当の保障、育児・介護サービスの充実等々、あるいは見直しを五年ぐらいでやった方がいいんじゃないかというような具体的なお話がございましたけれども、一つ一つお話を伺っておりますと、やはり現実問題として、今の日本の予算が余りない状況では、すべてをいっときに実現させるというのは難しい部分もあるんじゃないかなと私は正直に思います。

 そう考えましたときに、これらの中で、絶対に譲れない、これだけは保障していただけないとやはり市民の参加という観点からすると参加しにくいんじゃないかというような点がありましたら、それを御指摘いただければと思います。

敷田公述人 いろいろ入れていただきたいことがありまして、どれか一つをというのは非常に難しいことなんですが、今の状況を考えますと、アメリカやイギリスなどでもそうなんですが、陪審に参加される女性の数が非常に少ないということを聞いております。日本におきましても、育児や介護に当たられる女性、年齢としましては大体二十代から三十代にかかって、この女性がなかなか参加しにくいのではないかという観点から、育児・介護サービスの充実、ここの部分に焦点を当てて考えていただきたいと思います。

山際委員 どうもありがとうございます。

 続きまして、プロと国民の協働、ともに働くということでしょうが、この協働という感じがやはりこの法律案ではまだまだ足りないのではないかという最後の御指摘がございました。

 実は、私もそのように思う部分が多少ありまして、ただ、今までの経緯等々もずっと勉強してまいりますと、いきなり制度を新しいものにがらっと変えるということも難しいんじゃないかというのが、またある意味、法律をつくる立場としてはあるわけでございまして、では、これを協働ということが実感できるような制度にしていくためには、具体的な案として、指針というか、何かありましたら、敷田公述人にお伺いしたいんですけれども。

敷田公述人 具体的にこれがあると主体的に市民参加ができたとか協働が実現されていたということではないのですが、今あるものに市民の方はどうぞ来てくださいねというのではなくて、市民の方が来られました、市民が参加することによって、ここを変えていった方がいいのではないかという意見が出た場合にそれを反映していただく、そういったことがあれば、市民は主体的に参加できたという実感を持つことができると思いますので、市民の声をたくさん聞く機会を設けていただきたいと思います。

山際委員 どうもありがとうございます。

 次に、近藤公述人にお伺いしたいんですが、実は私も、幼少のころになるんでしょうか、「十二人の怒れる男」というあのテレビ映画、あれを見まして、本当に感動したことを覚えております。また、近藤さんがつくってくださったドラマも、これは結果としては被告が無罪になるというドラマでございまして、しかし、現実問題としては、裁判が行われるに当たって、有罪の判決が出ることというのもかなりあると思うんですね。

 その中で、今夜眠れますかというような話になったときに、やはり有罪の判決だと、やり残したことはないと思っても、すがすがしい気持ちで寝るということは私は非常に難しいんじゃないかなと実は考えておりまして、ここのところで、御意見の中にございました、良心に基づいて自分自身が決める、自分自身が決めたというような実感が持てれば、責任を果たしたというような感じになるのかなと私自身も思うんですけれども、その自分自身が決める際のよりどころになるものは、やはり証拠になると思うんですね。

 では、この証拠に基づいてといったときに、先ほどのお話の中でもあったとおりに、取り調べ等々における可視化というものが重要じゃないかというお話がございましたけれども、私は全く同感でございまして、ここの部分について、具体的な、市民感覚としてこうするべきじゃないかというような御意見がもしありましたらお聞かせいただきたいんですけれども。

近藤公述人 この可視化ということは非常に難しい問題ではあると思うんです。先ほどこちらの公述人がおっしゃいましたように、取り調べ室に入る前に何かあれば、ビデオにおさめるもヘチマもないじゃないかということだってあり得ると思うんですね。ですけれども、やはり一応、取り調べ室というものの中で行われたことが証拠として出てくるということを考えますと、少なくとも取り調べ室の中でどういうことがあったのか、どういうやりとりがあって、どういう結論が導き出されたのかということはきちんとビデオなりなんなりで収録をしまして、それを開示するということがやはり大事だというふうに、それは思います。

山際委員 私も全く同意見でございまして、やはり取り調べの部分からのものがすべて証拠として出される以上は、それの信憑性というものが確保されない限りは、公正な判断をと言われても難しいんじゃないかなと私自身も思っております。そこはまたしっかりとやっていかなきゃいけないなと改めて思いました。

 それに関連する部分もございますが、高井公述人にお伺いしたいんですけれども、この裁判員の制度というものを導入することによって刑事の司法が変わるというふうに最後におっしゃいました。私もそのとおりだと思います。

 変わるわけですけれども、客観化あるいは細分化、共犯への対応をどうするかといったような問題点があるというようなお話、これを皮切りにして議論すべきだというようなことだと思うんですが、具体的に、こうやって司法制度を改革していこうということ、変えるわけですからいろいろ恐らく問題も出てくると思うんですけれども、それに対して次に打つべき手は一体何なのか。

 要は、これで裁判員が裁判制度に参加するというようなことが法律として決められた後に、刑事そのものを見ていったときに、次に何の手を打っていけばいいのかな。しっかりと改革をしていく上で、その次の手というのは一体何なんだろうかということを、もし御意見がありましたらお伺いしたいと思います。

高井公述人 端的に申し上げますと、刑法の改正が必要であるというふうに私は思っております。刑法をより客観化し細分化する。

 一例を申し上げますと、強盗殺人というものがあります。これは死刑と無期しかありません。一方で、殺人と同じく人を殺して物をとっても、殺人と窃盗という罪名になることがあります。この場合は、原則として実際の裁判では死刑になりません。

 この強盗殺人と殺人、窃盗は、理論的にどこで分かれてくるかといいますと、人を殺す前に物をとろうという犯意が生じていたかどうかということによって決まってくるわけですね。物をとろうという意思を持って人を殺せば強盗殺人で、死刑と無期しかない。人を殺してから物をとろうとする意思を発して物をとれば殺人と窃盗ということになって、基本的には死刑にならないということになります。要するに、物をとるという意思があったかどうかだけではなくて、その物をとろうとする意思がいつ発生したかによって、これだけ大きな量刑の差があるわけです。

 これは、ある意味では、捜査官あるいは立証する側にとっては非常に難しいということです。ですから、このような、物をとるという意思がいつ発生したかなどというのは、基本的には自白を待たなければわからないというふうに言えます。したがって、このような刑法を持っている限り、なかなか裁判員の負担は軽くならないのではないかと思います。

 したがって、今のような主観的要素をなるべく排除した、そして量刑の幅も、法定刑の幅もなるべく細分化した刑法にする。どの条文に当たるかが決まれば大体そこで量刑の幅も決まってくるというようにすることによって、裁判員の負担が軽くなるであろう、審理も速く進むであろうというふうに思います。

 それからさらに、仙台の筋弛緩剤だったと思いますが、動機がよくわからないということになっております。否認した事件においては、動機はわかりません。しかし、日本人は、日本の国民は、裁判で動機まで解明されることを強く希望しております。しかし、本来、裁判にそこまで求めることが妥当なのかどうかということも、社会全体として考えていかなければいけない時期に来ていると思います。

 したがって、刑法を細分化し、客観化して、主観的要素をなるべく排除するということと同時に、裁判に我々の社会は何を期待するのかということをもう一度考え直していくということが必要であろうというふうに思います。

山際委員 明快なお答えをありがとうございます。

 最後に、中川公述人にお伺いしたいと思います。

 辞退の問題というようなお話をいただきました。病気や介護の場合はわかりやすいから、これは認めるのも容易だろうということですが、仕事に絡む話、あるいは個人的な理由として、同窓会や結婚式というような具体的な例も挙げていただきましたけれども、こういった個人的にのっぴきならない事情を抱えた中で裁判員の辞退というものを行っていくというような話になった場合に、どこでそのバランスをとって、認めるか認めないかということを判断するのかが非常にこれから問題になるであろうというような御指摘でした。

 これを考えたときに、やはりこれは、ある程度の何か指針がないと決められない。この法案では、ある程度の指針としては一応出そうということなんだと思うんですが、不文律として出すというよりは、明文化した方がわかりやすいんじゃないかという部分もありまして、その指針となるものとして、こういう指針をした方がいいんじゃないのというようなものがありましたら、例を挙げていただければと思うんですけれども。

中川公述人 私がこれを申し上げましたのは、実はアメリカの経験でございまして、多少古いんですが、民事ですね。十二人の陪審員を選ぶんですが、ほとんどの陪審員が、いわゆる暇な方と言うとおかしいですけれども、学生さん、それから仕事を持っておられない主婦の方とか、そういう方に偏りまして、会社で仕事をされておる方、あるいは第一線でばりばりやっておられる方は何のかんの言って逃げちゃうのが現実なんですね。これはやはりまずいなと。同じやるんならやはりそういう方にも大勢していただかなきゃいけない。

 そうはいっても、さっき申し上げましたように、それなりの事情をみんな抱えておるわけですから、もうこれは本当に難しいなというふうに私も思っておるんですが、基本的な考え方は、やはり制度をつくる以上は、市民、国民の義務という面を私は出さざるを得ないんではないかというふうに思います。

 したがいまして、さっきちょっと俗に言いました、のっぴきならない行事とかのっぴきならない事情、これはやはり辞退の対象とすべきだけれども、多少の日常の市民生活の犠牲というものは、やはり辛抱していただかなきゃいけないんじゃないかというふうに思っております。それを具体的にあらわすとなると、これはやはり運用の問題ですから、一つ一つ事例を積み重ねていって、この程度のことは認めましょう、これはちょっと困りますということを裁判所の方でやっていくしかないんじゃないかなというふうに思います。

 それから、ちょっとさっき申し上げましたように、選任の過程で、くじ引きでいわゆる選任された後、辞退のチャンスがあるわけですね。だから、辞退を申し立てていただいて、今度は候補者として確定すれば、そこから後はそう簡単には辞退できませんよというような、二段構えみたいな方法も一つあるんではないかなと。その間によく考えて、チャンスを十分差し上げるけれども、それを逃したら、その次からはちょっともう御遠慮いただきたいというような、そういうふうなシステムもつくった方がいいんではないかなというふうに思っております。

山際委員 どうもありがとうございました。

 私も、高井公述人がおっしゃっているように、参加してよかったと思う制度というよりは、むしろ重い責任を果たすことができたと思えるような制度にしていくべきだ、このように思っております。私の意見も述べさせていただいて、質問を終わります。

 ありがとうございました。

柳本委員長 上田勇君。

上田委員 公明党の上田勇でございます。

 きょうは、四名の公述人の先生方には、大変貴重な御意見を承りまして、大変にありがとうございました。

 この裁判員制度の導入というのは、司法制度の中に市民が参加をしていく、そうした非常に大きな意義のあるものであるというふうには感じているところでございます。

 ただ、裁判というのは、一方でやはり公正でなければいけない、正しいものでなければいけないわけでございますので、そういった点、果たして本当にどうやったら実現できるのかといったことがやはりこの制度を導入するに当たっての最大の争点になってくるんではないかというふうに思っております。

 きょうの公述人の皆様の御意見にも、裁判員として参加してよかった、そうした制度にすると同時に、やはりもう一つ重要なことというのは、被告人の立場に立っても、また被害者の立場に立っても、この裁判の結果が本当に公正で納得のいくものであったというものになる必要があるんではないかというふうに思っているところでございます。

 きょう大変貴重な御意見をいただいた中で、最初に守秘義務の問題についてお伺いをしたいんですが、四名の方々から御意見を伺いまして、この法案に出されている内容について意見が分かれたんじゃないのかなという感じを受けました。裁判員として知り得た秘密を保持していく必要性を強調された皆さんもおりますし、また一方、体験談などを語っていくことが啓蒙普及に当たるんだというようなことから、この守秘義務についてはもうちょっと緩やかにするべきなんではないかという御意見、両方あったんじゃないかというふうに思います。

 そこで、まず高井先生にお伺いをいたしますけれども、きょう公述人の御意見の中で、この守秘義務、そういう啓蒙普及などを行っていく場合には、できるだけ公表できる範囲は柔軟にすべきなのではないかというような御意見も他の公述人の皆さんの御意見の中にはあったわけであります。ただ、他方、やはりこれはどうしても、裁判員となった場合には、裁判の中で被告人や場合によっては被害者のプライバシーに及ぶようなことも出てくるわけでありますし、また裁判員は一人ではないわけでありますので、他の裁判員がどのような発言をしたかというようなことというのは、これはやはり知られたくないと思う気持ちも当然あるんじゃないかというふうに思います。これは二つ、非常にどっちの御意見もごもっともな点もあるんですけれども。

 そうしますと、体験談などを語りながら、やはりこの裁判員制度の必要性、そうしたよさ、そういったことを訴えていかなければいけない、そういう御意見に対して、高井先生としてどのようにお考えか、お伺いしたいというふうに思います。

    〔委員長退席、塩崎委員長代理着席〕

高井公述人 私も、裁判員を経験された方が体験談をお話しになる、それは非常に結構なことだというふうに思います。

 今の法案では、その体験談を話すところまで禁止の網がかかっているとは思っていません。例えば、裁判官が非常に物わかりが悪かったとか、なかなかこちらの意見を聞いてくれなかったとか言うことは別に構わないわけですね。

 ただ、具体的に中身に触れて、例えば、証拠関係はこうだったとか、私は証拠関係はこう思ってこういうふうに言ったんだけれどもA裁判員はこういうふうに言ったんだとか、裁判官はこういうふうに言ったんだとかいうふうに証拠の中身に触れて言えば、これは守秘義務に違反するだろう。しかし、なかなか楽しかったよとか、いや大変だとか、いや議論は活発だったとか、それは一向に構わないわけです。そんなものはこの守秘義務の対象にはなっていない。そこまで守秘義務の対象になっているかのような議論が行われるのは、社会、国民に広くこの裁判員の趣旨を広報する上で非常に問題であろうかというふうに思っております。

 ただ、この五年間の間に、守秘義務の対象になる行為と、そうでない今のような体験談、話していい体験談がきっちりわかるように周知徹底していくということがぜひとも必要であろうと思います。

 もう一点、裁判員については体験談を語ることが必要である、これは私も認めております。しかし、体験談はともかくとして、裁判官が守秘義務を負担していること、これについてはだれも文句を言いません。裁判官が裁判員と同じようにべらべらしゃべると、多分世論は怒るでしょう。しかし、裁判官に許されないことはやはり裁判員にも許されないんだというふうに考えなければいけないと思います。それがまず第一次的な裁判の当事者となる被告人、そして被害者の信頼を得るまず不可欠の前提条件であるというふうに思います。

 私は、繰り返して言いますが、感想とか体験談を述べることは一向に構わないわけで、どんどん述べていただきたい、それは守秘義務の対象ではないというふうに考えているということです。

上田委員 ありがとうございました。

 次に、中川先生にお伺いしたいというふうに思いますが、中川先生はアメリカでの御経験も長く、事情にも詳しいということでございますけれども、アメリカで陪審制度で裁判が行われております。ただ、この陪審制度の裁判で、その公正さについては疑問視する声もアメリカの中でもある、これもまた事実でございます。

 先ほどは、O・J・シンプソンの裁判の件についての御意見も他の公述人の方から出て、そういうような無罪判決が出た、非常に大きないいあれであるということも出ましたけれども、ただ、陪審員の構成であるとか裁判を開く場所によって随分と結果が変わるというような分析も一方ではございます。

 日本においてはそれほど極端な傾向はないのかもしれませんが、ただ、刑事裁判の場合、被告人によっては、あらかじめ、やはりどうしても裁判員の裁判になると不利益になるんじゃないかというような予想をされるようなケースもあるんじゃないかというふうに思います。例えば被告人が外国人である場合とか、あるいは犯罪を行うような集団の構成員であった場合など、今裁判で争われている犯罪のいかんにかかわらず、やはりどうしても心証としては非常に、特に一般の裁判員がそれの判断を下すとすると、そういうような判断が行われるんじゃないかというふうに思うんです。

 そうなりますと、被告の側に、これはやはり、そういう裁判員制度で裁判をしてもらうかどうか、それを選択する自由も認めていいのではないか、そういう意見もあるんじゃないかというふうに思いますが、そういったことについて、もし御見解があればお伺いしたいというふうに思います。

中川公述人 それは全く考えたことはございません。

 ただ、アメリカは、刑事は別ですけれども、民事の場合は、どちらか一方が陪審を望めば陪審裁判になるという制度になっておりまして、おっしゃるように、選択制といえば選択制でございます。

 したがいまして、将来、裁判員制度の範囲が広がるというようなことがあれば、例えば少年事件であるとか家事事件であるとか、そういうものにつきましては場合によっては選択制ということも考えてもいいかと思いますけれども、今、これは刑事の重罪ということでありますから、それについて被告人が、私は、これは裁判員を入れてください、あるいはこれは結構だと言うのは、ちょっといささかどうかなというふうに感じております。

 それから、アメリカの場合の陪審制、これは基本的に日本と違うんですが、さっきちょっと法文化が違うと申し上げたんですが、アメリカの場合は、いわゆるおとり捜査とかそれから盗聴とか、そういう刑事システム全体が日本と異なっております。その中での陪審制度でありますので、単純にアメリカの陪審制度と日本の裁判員制度とを比較しますと、何かベースが違うところで同じ議論をするということになりますから、これは余り望ましいことではないわけでございまして、やはり日本の刑事訴訟制度の中での裁判員制度というものをあくまで考えていくべきではないかなというふうに存じております。

上田委員 ありがとうございます。

 近藤先生にお伺いをしたいというふうに思いますが、あの「裁判員」のビデオは、私も我が党の法務部会で大変おもしろく拝見させていただきました。

 ただ、先ほどもちょっとお話に出たんですけれども、刑事裁判の場合には、割合からいうと、やはりほとんど有罪に終わる裁判の方が多いわけでございます。そうすると、リアリズムという面からいえば、やはり有罪になるドラマをぜひつくっていただきたかったなというふうに思います。

 というのは、裁判員がやはり本当に思い悩む、負担のかかる、本当にぎりぎりの判断をしなければいけないのは、有罪の判決を下すときなんだろうと思うんですね。無罪の判決を下した結果というのは、何かほぞをかむのは検察官だけなわけでございまして、これは非常に特殊な事例なんだろうなというふうに思います。そういう意味では、本当に裁判員制度に対する国民の理解を深めていただくためには、やはり結果が有罪になるドラマでなければ本当の意味での分析というのはできないのではないのかなという感じがいたします。

 それで、近藤さん、そのことは別なんですけれども、ずっと今まで大変すばらしいいろいろな映画やドラマも作成をされていて、人間の心理や行動についての観察も大変造詣が深いのではないかというふうに思います。先ほど近藤さんの方からO・J・シンプソンの裁判のことが出ました。非常に長期にわたった裁判でございまして、その結論は、大方の予想を覆しての結論が出たという意味においては、裁判は非常に公正さが保てたという結果だったんではないかというふうに思います。

 ただ、やはり人間というのは、長期化をしていくと、その中で集中力を保ち、また冷静な判断をしていくというのはなかなか困難になってくるわけでございます。ましてやそういうトレーニングを受けた裁判官でない一般の方であれば、そういう長期化した中で、随分とプレッシャーのかかる中で、長期間にわたっての中で、果たして本当にそういう冷静な判断ができるのかどうか。いろいろな人間観察をされている近藤さんの立場から、その辺、もしお考えがあれば、お伺いしたいと思います。

近藤公述人 まず、最初に先生がおっしゃいました、無罪ではなくて有罪の方がとおっしゃったのは、全く私も同じ意見でございます。ただ、有罪にしてしまいますとあの場合は余りにも暗い印象を与えるということがあったものですから、とにかく、論議の末に何とかして無罪にしたというふうな構成をとらざるを得なかった。この次につくりますときは必ず有罪にいたします。

 それで、その後の方のことですけれども、今おっしゃいました最後の趣旨だけをもう一遍ちょっと。

上田委員 多分、近藤先生は非常にいろいろな場面での人間の行動や心理というのを御観察されているんでしょうけれども、私は、本当に長期間にわたって集中力、公正な判断力というのが維持できるかどうかというのはなかなか難しいんではないかと思うんです。その辺、あえて近藤先生が今回の裁判員制度を支持されているというところ、その辺のお考えを伺えればというふうに思います。

近藤公述人 それはやはり大変難しいことだと思います。プロの裁判官の方というのは、プロですから、そういうことによく習熟していらっしゃるわけですね。したがって、それに対して素人が太刀打ちするということは非常に難しいだろうと思います。ですからこそ、やはりその素人の人数がふえて、補完し合いながらやるということにならないとプロの裁判官にはかなわないだろうということが先ほど申し上げたかったことなんです。

 普通の場合の裁判員というのは、どんどんかわるわけですから、それに習熟するということはなかなか難しいと思うんですね。ですから、そういう意味では、習熟した裁判官に対して、習熟しなくても、自分たちの常識の範囲で、いろいろなことで裁判官にある意味の啓示を与えるような、そういう発言ができる。先ほどは訓練だというふうにおっしゃいましたけれども、議論の訓練をする必要もやはりあるんじゃないか。今おっしゃった、長い間ではやはりだんだん人間のいろいろな能力が衰えてくるということに関しては、そのとおりだと思います。

上田委員 終わります。どうもありがとうございました。

塩崎委員長代理 佐々木秀典君。

佐々木(秀)委員 民主党の佐々木です。

 公述人の皆様、きょうはありがとうございました。限られた時間ですので、端的に少し質問をさせていただきたいと思います。

 まず、中川公述人は、この制度について、いろいろ問題はあるけれどもいい制度だ、あるいは、いい制度になることを期待されているというような発言と受け取らせていただきましたけれども、幾つかの懸念事項をお話しになられたと思います。

 その中で、一つは辞退の理由ですね。法文の中では、裁判員が辞退できる事由として、十六条の七号で、次に掲げる事項というのが四つありまして、事例が挙がっているんですね。お話がありましたけれども、病気、傷害、それから介護、養育、それから従事する事業における重要な用務、それから四番目が父母の葬式への出席その他の社会生活上の重要な用務などと具体的な事例で挙げているんです。七号の条文では、「次に掲げる事由」というのは今の四つの事由なんですが、これ以外の「その他政令で定めるやむを得ない事由」というのも書かれているんですね。

 どうも、まだはっきりはしていないんですけれども、提案者の方では、実は与党の中にいろいろな意見があった結果として、政令で定める予定の事項として、思想、信条ということを政令の中で書いて、思想、信条を理由にしたやむを得ない事由による辞退を認めるのではないか、そういうような書き方をするのではないかという情報が流れているんですけれども、これについては妥当なものとお考えになりますか、どうですか。まず中川公述人。

中川公述人 それは妥当なものだと思います。

 例に挙がっておりますのは、例えば裁判員制度そのものに大反対だという人というふうになっておりますけれども、そのほかに、やはり宗教的なものとかあるいは政治的な信条とか、いろいろあります。

 それから、私のつたない経験、これはアメリカの経験なんですが、忌避してもらうために、わざとそういうことを言うんですね。例えば、私の勤めておりました会社の従業員が呼ばれまして、すぐ帰ってきたんですが、うまいこといったと。それは、自分は日本の会社に勤めていて、日本人が大好きだということを盛んに言ったというんですね。そうすると、やはり裁判所としては、バイアスといいますか、人種的な偏見を持っておるんじゃないかというふうに考えてその人を忌避するというようなことで、うまいこと逃げてしまうということ。

 そういう弊害があることはあるんですけれども、非常に強い思想、信条上の信念をお持ちの方が裁判員になりますと、やはり被告人にとりましても不利益が及ぶ、あるいは裁判の公正が保てない、こういうことは十分考えられますから、それをどういうふうに具体化するかというのは問題ですが、そのこと自体につきましては、これはぜひ取り入れるべきだというふうに私は思っております。

佐々木(秀)委員 高井公述人にも同様のお尋ねをしたいと思うんです。

 ただ、今申し上げました思想、信条というのは、これももう少し何か具体化しなければ、あるいは明確にしなければ、余りにも概念としては広過ぎるのではないだろうか。だから、結局それは、私はやりたくないからやりませんということと同じことになってしまって、裁判員を得られないんじゃないかという心配もあるようにも思われるんですが、高井公述人は、この辺についてはいかがお考えでしょうか。

高井公述人 私は、先ほど指摘されたように、余りそれを広く認めますと、かなり自由に辞退を認めるということになりかねない。確かにそういう強固な思想、信条を持っておられる方の辞退を許すということは必要かもしれないと思うんですが、その反面、副作用といいますかデメリットの方が大きいというふうに思います。したがって、結論的には、原則として、そのような考え方には賛成できないと思っております。

佐々木(秀)委員 お二人の意見が若干違っているようですけれども、この辺も含めて、やはり私どもとしても考えなければいけないかなとは思っております。

 それから、法曹経験で、検察官としてもお勤めだった高井先生にお聞きしたいんですけれども、この裁判員制度のためには、法案にも書かれておりますけれども、どうしても準備の手続が必要ですね。そうすると、今までの起訴状一本主義、つまり、公判が開かれるときまではその担当する裁判官は証拠などは事前にもちろん見てはいないし、起訴状だけで法廷に、第一回公判に臨むということになっている今の刑事訴訟のあり方と大分違ってきやせぬかという心配もないではないんですね。心配というか、今までの構造を変えるということがやむを得ないということになるのかどうか、その辺はどんなお考えをお持ちでしょうか。

高井公述人 裁判員を入れて開く公判を短期間に終えるということは、裁判員裁判においては必須のことであると考えます。その観点からは、充実した準備手続が行われて争点が明確になるということは、これもぜひとも必要な制度であると考えます。

 ただ、今御指摘があったように、それが起訴状一本主義と矛盾するのかどうか、あるいは裁判官が予断、偏見を抱くことになるのかどうかというところが問題になるわけですが、準備手続で行うことは争点の整理であります。

 例えば、わかりやすく言いますと、検察、弁護側がどういう箱を、何色の箱を持っているのか、その箱の中に何が入っているかは見せないんですが、この箱の中にはこういうものが入っています、これを法廷に出して裁判員の方に見てもらってくださいということをお互いが言い合うわけですね。裁判官は、弁護人・被告人の主張を聞きながら、ではこの箱は裁判員にあけて見てもらいましょう、いや、この箱は裁判員の目の前に出す必要はありませんねというような作業をやっていって、裁判員の目の前に出す箱を決めていくということになります。しかし、その箱の中は見ないというのが大前提であります。その箱は裁判員がいる法廷で初めてあける、証拠はその箱の中に入っているということですから。

 これはなかなかわかっていただくのが難しいかもしれませんが、準備手続を充実したものにするということと予断、偏見を抱くということとは次元の違う問題、証拠を見るということと争点を整理するということとは次元の違う問題であるというふうに御理解いただきたいと思います。

佐々木(秀)委員 それでは次に、敷田公述人にお伺いをいたしますけれども、これを国民の皆さんが裁判員として参加しやすくなるような制度にするためには環境の整備などが必要だというお話がありましたね。特に、お子さんを持っていらっしゃる母親、それからまた介護を必要とする方々を抱えていらっしゃるような、あるいは介護を要するような方でも裁判員としてその職務ができるというための条件整備といいますか、育児所だとか託老所というようなお話もございましたけれども、例えばアメリカの陪審員などについては、その点での配慮というのは裁判所側あるいは国側としてなされているのかなどということについてはお調べになっているかどうか。もしもおわかりの点があったら、お教えいただきたいと思います。

敷田公述人 今回、育児・介護サービスの充実、ここの部分を入れていただくことに当たりまして、少し調べたところがあります。アメリカの陪審制度の部分なんですけれども、アメリカでは、裁判所そのものに育児サービス所を設けているところがたくさんあります。あと、ミネソタ州などでは育児手当を出しているところもあります。あとは、ベビーシッターの費用を負担するなど、そのようなサービスを充実させているところが数多くあるということが明らかになっています。

 以上です。

佐々木(秀)委員 それから、近藤公述人にお尋ねをしたいと思いますけれども、私も、「裁判員」の映画を見せていただいて、大変感銘を深くいたしました。いろいろと御苦労もあったことだろうと思いますけれども、非常によくできていると思うんです。先ほどのお話で、この出演者の皆さんが、自分たちも裁判員になる機会があったら参加するにやぶさかでないというお話があったと聞いて、大変意を強くしたんです。

 こういうような映画ですとかあるいは模擬裁判などによってこの制度のことを皆さんに知っていただくというようなことも、いろいろと政府の方では考えることになるんだろうと思いますけれども、そういうことで、国民の皆さんに理解を持ってもらうための方策、今の映画ですとか模擬裁判ですとか、もちろん講演だとかもあるでしょうけれども、その他、近藤公述人としてはどんな手だてがあるとお考えか、お聞かせいただきたいと思います。

近藤公述人 やはり、一番有効なのはビジュアルだと思います。

 それは、先ほども御意見がありましたけれども、別に我々だけではなくて、こういう業界に携わる者がもっとこの裁判員制度というものに対して、自分たちが理解を深めて、関心を持ってこういうふうなドラマをつくっていく、あるいはドキュメントをつくっていくということが必要ではないかと思うんです。特に、ドラマというよりはドキュメントで、ある一つのことを想定しまして、それに沿ってずっと描いていく。それは結果が有罪か無罪かはまた別の問題になりますけれども、そういうふうなことも、啓蒙するのには非常に役に立つのだろうというふうに思います。

 結局、先ほど、総論賛成、各論反対というふうなことで、自分が裁判員になるということに関しては非常に賛同者が少ないというお話もあったんですけれども、それはある意味では当然のことでして、やはり、経験した人、体験した人がいないから、自分がどういうふうに体験したんだということを語る人がいないから輪が広がっていかないんだというふうに思うんですね。

 ですから、プライバシーに関してしゃべったりなんかすることはもちろん守秘義務に入ると思いますので、そういうことはいけないんですけれども、つまり、自分が実際に裁判員制度を体験したことをもっといろいろな形で語るような状況を生むということも一つ必要なことではないか。それはやはり模擬裁判ということになると思いますけれども。いろいろな手だてを尽くして周知徹底ということを図らないと、なかなか行き渡らないという気はいたします。

    〔塩崎委員長代理退席、委員長着席〕

佐々木(秀)委員 中川公述人、今の点ですけれども、法案では、この法律ができてから五年間、周知期間あるいは準備の期間として置くということになっているんですが、私は、やりようによってはもっと短くてもいいんじゃないだろうか、むしろ短い間に集中的に今近藤公述人がおっしゃったようなことなどもやった方が周知徹底するんじゃないだろうか、それを長引かせると、かえって間が抜けて、意識も余り深まらないんじゃないかという心配を持って、三年ぐらいでいいんじゃないか、やりようによったら整備はそのぐらいでできるはずだと思ったりするんですが、いかがでしょうか。

中川公述人 五年間と申し上げましたのは、何も裁判員制度そのものだけを考えているわけじゃございませんで、これをうまく動かすためには、要すれば、裁判の迅速化ということが基本にあるわけでございます。それがなければこの機能がなかなかうまく動かない。そのためには、刑事訴訟法の改正も必要ですし、それからさまざまの刑事裁判制度のあり方、捜査の方法も含めまして、必要でございます。そのためにはやはり相当な時間が必要であるということも含めて五年ということを申し上げたわけでございます。

 これだけのPRのためには五年間は要らない、それはおっしゃるとおりですが、総合的に考えますとやはり五年ぐらいの準備期間が必要であろう、そういう意味で申し上げたわけでございます。

佐々木(秀)委員 ありがとうございました。

柳本委員長 小林千代美さん。

小林(千)委員 民主党の小林千代美です。

 公述人の皆様、きょうは御意見を賜りまして、本当にありがとうございました。

 実は私も、弁護士出身でも法曹界出身でも何でもなく、ついこの間までは普通の働く一女性でした。そういうところにおいては、先ほど敷田公述人のお話を伺いまして、大変似た環境だったのかなと思いまして、私も意を同じくするところがとてもあったところです。

 私も、いきなり法務委員会なんかに入ってきまして、わからない言葉はたくさん出てくるし、裁判なんか残念ながら一度も見たことがありませんし、勉強しなければいけないというふうに思っていたところなんです。でも、きっと今回のこの裁判員制度の導入というのは、こういった一般の方々がどのように積極的に裁判、司法の中に入っていけるかということが大変重要なテーマではないかなというふうに、自分自身の経験をもってしても思っているところでございます。

 そんな中で、私も、近藤公述人のつくられた「裁判員」の映画を見せていただきまして、大変勉強になりました。もちろん、これは映画ですので、人に見せなきゃいけない、アピールしなければいけないところもあるでしょうから、実際のところよりは誇張されているところもあったり、わかりやすくしているところもあったり、実際のこれから始まるであろう裁判員制度とイコールというところはなかなかないのかもしれませんけれども、私は、導入の取りかかりとしてとてもこの映画は参考になりまして、本当にありがとうございました。

 まず、合議体の構成の人数の件からお伺いをしたいと思います。

 公述人の皆さんの中で、高井公述人は弁護士さんでいらっしゃって、以前は検察官の御経験もあるというふうに伺いまして、四名の皆様の中では一番、裁判の法廷の中で近い立場にいらっしゃるのかなというふうに御推察いたすわけでございますけれども、実際に三対六という、裁判官三人、裁判員六人というものが今の法案で出てきているわけなんですけれども、合計九名の合議体の皆さんがある一つの事件について評議をする、その役割分担、もし三の六で進めた場合、どのような審理がされるのか。それぞれ、裁判官三名の方の役割、あるいはその中の裁判員六名の方の役割みたいなものを、これからの新しく始まる制度ですので想像ではあるでしょうけれども、ちょっと教えていただければと思います。

高井公述人 まず、裁判員と裁判官の役割分担というところから申し上げますと、法律的な判断、例えば、自白の証拠能力があるかないか、あるいはその証拠物が違法に収集された証拠であるかどうかという判断は、裁判官のみで行うということになっています。

 それから、事実認定、これは裁判官と裁判員が協働して行うということになっています。したがって、事実認定においては、裁判官と裁判員が役割分担をするということはありません。例えば、Aさんが、目撃者が証言をしました、痴漢事件で目撃者が証言しております。その証言が本当だろうか、うそだろうかという判断が、これは事実認定になってくるわけですが、その判断は裁判官と裁判員が一緒にやるわけであって、ここには役割分担はありません。裁判官の中でも意見が分かれる場合もあるでしょうし、裁判員の中でも意見が分かれることになろうかと思います。

 ただ、従来の精密司法を前提にすると、評議の議論というのは極めて緻密に行われます。したがって、裁判官と裁判員、これは法案では九名ですが、これが十名、十一名、十二名と余りに多くなると、緻密な議論ができません。そういう意味では、九名というのが限界かな、緻密な議論をするため、そして、そこにいる九名が全員議論に参加するためにはこの数が限界かなというふうに考えております。

小林(千)委員 ありがとうございます。

 実際に、先ほどの映画の場合ですと、私もこの映画しか見たことがないのでわからないんですけれども、裁判官が一人で、裁判員が七名でしたね。この中で、もし三名と六名とで例えばこの映画がつくられていたら、どういうふうになっているんだろうかなと想像するところも一つあるんです。

 例えば合議をやっている中で、裁判官役でした石坂浩二さんが黒い法服を着て、合議体の中で三名の皆さんが、そういった立場の方がいらして、そこに一般の方が参加していって、六名いらっしゃって、その中で、先ほど近藤公述人の方からは、三名もプロがいたら、あとに一般の人がどんなにいても、そのプロの持っている強さに押されてしまうのではないかというふうな御発言がありました。

 そういうところで、ぜひ近藤公述人に、この映画を三人対六人でつくったらあの評議はどういうふうになっているか、ちょっとここでプロデュースをしていただければと思います。

近藤公述人 非常に難しい御質問なんですけれども、恐らく、あの時点であれをやろうとしたら、三対六では成立しなかったんだろうと思うんです。

 やはり七人の方は全く素人ですよね。ですから、その場で初めて法廷というのに臨むわけですし、自分が何をしゃべったらいいかということもわからない。そうすると、やはりあの場合は、一人の裁判長がいろいろな意味でリーダーシップをとってやったわけです。

 先ほどちょっとお話ししましたアメリカなんかの場合ですと、陪審長といいますか、陪審員あるいは裁判員の中でも割と裁判長的な役割を果たす人もいるというふうに聞いているんですけれども、今回、日本の場合ですとそこまでなかなかいきませんので、三対六ということでは、実は人数に関していろいろな案があったんです。一対十一、それから三対三というのがありましたし、三対五もありました。現在の時点で裁判員制度というものを理解させるにはどれが一番適当かということから一対七ということが選ばれたので、三対六にしたら、何回も言いますけれども、プロの裁判官の意見どおりに、素人はやがては黙らざるを得ないというふうなことになったんではないかと推察しています。

小林(千)委員 どうもありがとうございます。

 今の法案のままだと、国会議員は、裁判員にはなれない就職禁止事由の中に入っているんです。私も、次も当選はしたいと思っておりますけれども、もし裁判員になるとしたら、やはりその中でけおされることなく自分の意見が言えるような環境を、合議体の中でそういった環境をつくりたいなというふうに思っております。今の御意見なども参考にさせていただきまして、この件は、これからの審議の中でしっかりと考えていかなければいけない重要なテーマなのではないかなというふうに感じました。

 続きまして、敷田公述人の方にお伺いをしたいと思います。

 私も同じような環境にいたというふうに申し上げましたけれども、実際に自分も働く女性として一般の企業で働いておりまして、なかなか休暇というものがとれるような環境ではないというのも実感として感じておりました。例えば有給休暇を一日とるのだって、周りの人との仕事の例えばローテーションだとか、そんなものを考えながら休みを調整しなければいけないという面もあると思いますし、有給休暇自体もなかなかとれない職場というのもあると思います。

 こんな中で、今、裁判員休暇というものがちゃんと確立されればいいんでしょうけれども、もしこれがないとすると、一般の働く勤労者の立場からすると、どういって休みを工面して、そのためには、例えば、何カ月前に次のこの日は休まなきゃいけないというものを申請する、職場のローテーションもあるでしょうから、そんなことも伺いたいと思いますし、裁判員となる通知を受けるまでどのぐらいの期間が職場の中で必要なのか、あるいは今そのような休暇というものがとりやすいような環境なのかどうなのか、ちょっと現実の話を聞かせていただければと思います。

敷田公述人 今のところは非常に小さいところですので、休みをとるという行為自体がなかなかつらいものがあるかと思います。以前に勤めていました一部上場企業では、数も多いですので、ローテーションを組んで、みんなで休みをとり合うということは可能です。でも、夏休みを一週間から十日間とるということにつきましても、みんなで、三カ月間、だれがどういう順番でいつの期間とるかということを互いに相談し合って、私はここ、いや、私もここがいいんだけれどもなどと言いながら調整したりします。

 ですので、不意に、裁判員に選ばれたから、ここのところは三日間、一週間といって休むということはなかなか難しいと思いますので、やはり三カ月から半年以上前にそのお知らせをいただくのが一番いいと思います。

 小さいところですと有給休暇というものが限られておりますし、有給休暇をもう既に使ってしまった方については、それ以降はもう欠勤扱いになってしまうと思います。ですので、公休扱いのものを何か取り入れていただければと思います。

小林(千)委員 ぜひそういった休みをとれる裁判員休暇というものがきちんとつくられれば、本当に、仕事も休みやすい環境になって、だれもが参加しやすい、辞退することもないような環境になるのではないかなというふうに私も思っております。

 最後に、お伺いをしたいと思います。

 近藤公述人の方にお伺いをしたいと思いますけれども、ぜひメディアのプロとして、これからの裁判員制度を成功させるかぎは、一般の市民の方々にこの制度をどう理解してもらうかというのが重要なポイントではないかなというふうに思います。その中で、映画なんかも一つの例になると思いますけれども、ぜひメディア人の経験として、これから国がどのようにPRに取り組んでいけばいいか、お知恵をおかりしたいと思います。

近藤公述人 ちょっと先ほども触れましたけれども、やはりこれはテレビで周知徹底するのが一番早いと思います。そのために一番頼りになるのはNHKだと思うんです。ですから、小宮山先生いらっしゃいますけれども、NHKがこういうことに積極的に取り組んで、さっき申し上げたような一種の、啓蒙ということでなくてもいいんですけれども、例えば、ドキュメンタリー形式でいろいろなケースを週に一回ずつ放送していくとか、そういうふうなことが一番早いという気がいたします。

 あとは、先ほど申し上げたように、いろいろな、模擬裁判とかそういうことをどんどんやって、そこで裁判員というものを実体験させて、そういう人たちが口コミでどんどん、裁判員というのはこういうものだったよということを伝えていく、そこからやはり一緒にやっていこうという輪が広がっていくという気がいたします。

小林(千)委員 ありがとうございました。

 きょうは四人の皆さんの御意見を聞かせていただきまして、皆さんの御意見を参考にしながら、よりよい制度をつくるために私たちもこれから審議を十分に尽くしてまいりたいと思います。ありがとうございました。

柳本委員長 これにて公述人に対する質疑は終了いたしました。

 公述人各位におかれましては、貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございます。厚く御礼を申し上げます。(拍手)

 これにて公聴会は終了いたしました。

 次回は、明十三日火曜日午前九時四十五分理事会、午前十時委員会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。

    午後四時三十三分散会


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