衆議院

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第1号 平成16年5月12日(水曜日)

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平成十六年五月十二日(水曜日)

    午前九時二分開議

 出席委員

   会長 中山 太郎君

   幹事 小野 晋也君 幹事 近藤 基彦君

   幹事 船田  元君 幹事 古屋 圭司君

   幹事 保岡 興治君 幹事 鈴木 克昌君

   幹事 仙谷 由人君 幹事 山花 郁夫君

   幹事 赤松 正雄君

      伊藤 公介君    岩永 峯一君

      衛藤征士郎君    大村 秀章君

      倉田 雅年君    河野 太郎君

      下村 博文君    棚橋 泰文君

      渡海紀三朗君    永岡 洋治君

      野田  毅君    平井 卓也君

      二田 孝治君    松野 博一君

      森岡 正宏君    森山 眞弓君

      綿貫 民輔君    伊藤 忠治君

      大出  彰君    鹿野 道彦君

      楠田 大蔵君    玄葉光一郎君

      園田 康博君    武正 公一君

      辻   惠君    計屋 圭宏君

      古川 元久君    馬淵 澄夫君

      増子 輝彦君    村越 祐民君

      笠  浩史君    太田 昭宏君

      斉藤 鉄夫君    石井 郁子君

      塩川 鉄也君    照屋 寛徳君

      土井たか子君

    …………………………………

   公述人

   (上智大学法学部教授)  猪口 邦子君

   公述人

   (早稲田大学大学院教授) 川本 裕子君

   公述人

   (元群馬県林業改良普及協会事務局長)  井ノ川金三君

   公述人

   (慶應義塾大学総合政策学部助教授)  小熊 英二君

   公述人

   (東京大学大学院教授・文化人類学者)  船曳 建夫君

   公述人

   (東亜大学学長)     山崎 正和君

   衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君

    ―――――――――――――

委員の異動

四月二十二日

 辞任         補欠選任

  武正 公一君     篠原  孝君

  山口 富男君     塩川 鉄也君

同日

 辞任         補欠選任

  篠原  孝君     武正 公一君

  塩川 鉄也君     山口 富男君 

五月七日

 辞任         補欠選任

  杉浦 正健君     野田  毅君

同月十二日

 辞任         補欠選任

  山口 富男君     塩川 鉄也君

  土井たか子君     照屋 寛徳君

同日

 辞任         補欠選任

  塩川 鉄也君     石井 郁子君 

  照屋 寛徳君     土井たか子君

同日

 辞任         補欠選任

  石井 郁子君     山口 富男君

    ―――――――――――――

本日の公聴会で意見を聞いた案件

 日本国憲法に関する件


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     ――――◇―――――

中山会長 これより会議を開きます。

 日本国憲法に関する件について公聴会を行います。

 この際、公述人各位に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたいと存じます。

 議事の順序について申し上げます。

 まず、猪口公述人、川本公述人、井ノ川公述人の順に、お一人二十分以内で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。

 なお、発言する際はその都度会長の許可を得ることとなっております。また、公述人は委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと思います。

 それでは、まず猪口公述人、お願い申し上げます。

猪口公述人 会長、本日、衆議院憲法調査会第一回中央公聴会にて公述するという重要な役割を賜り、感謝と厳粛な思いを抱いて参りました。

 私の専門は国際政治学でありまして、長年大学で研究と教育に従事してまいりましたけれども、二〇〇二年四月から二年間にわたりまして軍縮会議日本政府代表部特命全権大使としてジュネーブに赴任し、外交実務に携わる機会に恵まれました。そして、今帰朝したばかりのところでございます。ジュネーブでは軍縮会議の議長も務め、またニューヨーク国連本部にては、国連総会の軍縮と国際安全保障に関する分野の担当大使としても活動いたしました。

 このような外交実務の経験も踏まえ、本日は、日本国憲法のもとにおいて、戦後日本が主権を回復してから半世紀余りにわたる政府と国民社会の誠実な努力の積み重ねの結果、日本は今、国際社会においてどのような地位と評価を獲得し得たのか、また世界が日本に寄せる期待と希望とはどのようなものなのかをまず報告申し上げ、さらに日本国憲法と我が国の国際貢献に関する最近の世論の動向を踏まえ、若干の議論をいたしたく存じます。

 本日、私はまず、国際安全保障分野の多国間外交の場におきまして、日本は、頼りになる大国として認識され、また各種の問題の解決において高い能力を発揮する国家として評価されていることを、そして日本の大使は、大国の大使としてそれにふさわしい重きを置いた扱いを広く各国から受ける時代となっていることを、日本の議会に何としても報告しなければならないと感じて参りました。そのような日本の国際的地位は当然のことであり、とりたてて言及する必要もないとのお考えもあるかもしれませんが、半世紀余り前、国際的地位も経済力も完全に失った我が国が、今日このような確固たる高い地位を国際社会で享受するようになったことを外交最前線で日々実感してまいりました私としては、深い感動をもってそのことを認識せざるを得ません。

 日本国憲法を考えるという機会に、私は、戦後、この憲法のもとで、大きな希望を抱き、多様な可能性に挑戦し、また憲法によって課されたある種の制約の範囲で工夫しながら、日本にそのような高い国際的地位と評価をもたらすことに成功した世代に、私の世代から、心からの感謝の意を伝えなければならないと思っております。

 日本国憲法を再検討するどのような試みも、その点、すなわち、戦後日本の国家と社会の努力の評価と、それが現にもたらした世界における貴重な存在感についての深い認識を出発点とする必要があるように感じます。そうすることにより、仮に国民世論が今後、憲法の修正を求めることとなった場合にも、軸足が浮遊して過度な修正へと漂流することなく、必要最小限の簡潔な修正によって連続性を保ち、既に日本国として国際社会において築いた地位や評価を混乱させることなく発展させ、将来の国民に引き継いでいくことが可能になると考えます。

 したがって、憲法を再検討するということは、文言調整や表現の含意についての討議、あるいは直近の出来事に触発された論議に終始することであっては決してなりません。憲法を再検討するということは、この国が戦後歩んだ険しい道のりを国民おのおのが振り返り、その努力を慈しみ、その志がもたらした現代日本の国際的な地位を再認識して正当に評価し、それにふさわしい責任感と未来への対応力を深める国民的経験となる必要があります。その意味において、憲法を調査し、検討するプロセスは、日本国憲法について既に存在する国民のオーナーシップ、すなわち、憲法についての深い所有感やみずからのものとして慈しむ気持ちをさらに強化する有意義な政治プロセスであると認識しております。

 憲法改正論の一部に、日本国憲法は占領下において公布されたことから真に日本のものとは言えず、独自の憲法に書きかえるべきとの議論があることは承知しております。しかし、日本国民は、議会と政府と各人の日常の努力を通じて、半世紀を超えてこの憲法を守り抜き、その理想の示す到達点を目指して努力してきたのであり、その歴史的時間の重さを思えば、この憲法は紛れもなく日本国民のものであり、また、それを否定することは、日本の戦後の歴史的時間を誠実に生きた無数の国民の努力を軽んじることにもなりかねません。したがって、そのような観点からのみの改正論は適切ではないと考えますが、他方で、最近においては、国際貢献の観点から憲法の再検討が必要である旨の意見が国民世論において増加していると承知しております。

 会長、ここで、日本の国際貢献を世界はどのように認識し、評価しているかにつき、一人の研究者及び元外交官としての限られた経験に基づく意見であることをお許しいただきつつ、公述いたしたく存じます。

 我が国が憲法第九条一項において、国際平和を誠実に希求する志のあかしとして、国権の発動たる戦争等の放棄を掲げていること、また二項において陸海空軍その他の戦力は保持しないという考え方を示していることは、今日では広く国際社会において知られており、その志と理念は、戦禍に苦悩した歴史を真剣に受けとめるという国民の真摯な生き方及び国家の賢明な選択を伝えるものとして、世界で特別の評価を獲得するに至っていると感じております。その評価は、戦後日本が経済成長に成功し、世界経済の発展や低所得国の救済に寄与した実績等にも補完されて高まったと感じております。

 世界は、日本が軍事面での国際貢献においては制約を有していることを了解しており、またその制約の範囲内で近年に見る国際貢献についての著しい工夫を行ってきたことを正当に評価し、またその日本の努力を温かく支援する友情を示してきました。現代国際社会が建設的に発展するには、多様性への寛容をはぐくむことが最も基本的な課題であることは言うまでもありませんが、世界は唯一の被爆国である日本の特別の国民的思いを礼儀正しく受けとめていく過程を通じて、現代国際社会における多様性への寛容の精神を体得する契機をつかんできた側面があるとも言えます。

 どの国も、みずからの履歴から生まれる特殊性、いわば個性のような、グローバリゼーションの時代の中でも標準化され得ない部分を内包しています。平等な主権国家間におけるそのような部分をどのように相互に受けとめ合っていくかは今後の国際社会の大きな課題ですが、日本は、みずからの特質についての謙虚にして毅然とした国家の姿勢を示すことによって、世界に多様性と向き合う教育的機会を与えた面があり、欧米諸国はまた、軍事的制約を負いながらも誠実に貢献努力を模索する日本を肯定し、評価することにより、多様性への政治的感性を高めたとも言えます。日本は、そのようなみずからの国家としてのあり方を過小評価するのではなく、むしろ国際社会への長期的な啓発力を信じて積極的に発信し、また日本の姿勢を肯定的に受けとめる各国の多様性の受容をより積極的に外交を通じて評価していくべきであると感じます。

 どのような戦争も必ず終わり、その後において、戦後復興の長く不安定なプロセスが続くことになります。戦後復興の失敗は内戦や紛争の再発につながりやすいため、戦後復興プロセスにおいて軍縮、不拡散、人道支援を中心とする具体的な協力に成功し、その実績に基づく和解へのプロセスを誘導することは戦争を最も直接的に予防する貢献となります。言うまでもなく、戦争は、未然に予防することこそがそれに対する正しい対応であり、その意味で、戦後復興に貢献することは過小評価してはならない重要な予防的かつ修復的な国際貢献であり、自負を持ってその観点からの具体的支援に現地において取り組みつつ、あわせて各勢力の和解を仕掛ける外交力を発揮すべきです。

 戦後復興期において戦争の再発を防ぐためには、治安回復のための武装解除や治安セクターの改革、そして小型武器軍縮なども含む広範な軍縮・軍備管理政策の実施が必要であり、同時に、人心を安定させて諸勢力の和解への意思を引き出すための人道支援が必要です。

 ここで一言、私が特別に思い入れて国連で推進してきました小型武器軍縮について謹んで言及することをお許しいただきますが、小型武器とは人が一人で操作できる戦争用殺傷兵器を意味し、この武器範疇は、戦争終結後の移行期を含め毎年五十万人もの死をもたらし、アナン国連事務総長もこれを事実上の大量破壊兵器と称しました。

 日本は、昨年七月、最初の小型武器軍縮実施のための国連会合の議長国に選任されましたが、これは日本が国連で獲得したこの種の会議の初めての議長職であり、私は、軍縮会議日本政府代表部の館員たちと必死で小型武器軍縮実施のための優先措置とその方法についての議長総括をまとめ、無理かと思いながらも猛烈な外交協議を連日繰り返して、ついに、大国も小国も、世界が全会一致でこの議長総括を添付した報告書を採択することを実現いたしました。現在、この国連会合を受けて、世界各地で具体的な小型武器軍縮への措置が講じられ始めています。

 さらに、近年においては、大量破壊兵器と関連装置の不拡散を徹底することも、テロの破壊力を抑え込み、広く国際社会の信義を守るために必要であり、日本は、このような軍縮、不拡散、人道支援の分野における工夫ある貢献を、外交活動と、また具体的実施の活動の双方において着実に行っていくべきであります。

 戦禍に病む紛争直後の不安定な移行期における支援の具体的実施活動については、防護力のある実力組織に依存しなければならないことも少なくありません。その場合、憲法第九条に見る日本の平和への哲学を基本的には保持しつつ実行できることも多いのではないか、よく研究し、工夫ある努力を誠実に示しながら、国際貢献についての哲学的立場を信念を持って前向きに世界に説明し、積極的に発信し、評価を得ていくべきであると考えます。

 会長、軍縮、不拡散、人道支援を日本の国際貢献の特質とすることについて、それは軍事的リスクや危険を回避する臆病なやり方であるとの批判があるとすれば、断固として反論し、論破すべきです。紛争直後の社会は、予断し得ない不確定性や不安定性を帯びている場合が多く、どのような分野でどのような機能を担う実力組織も、おのおののリスクを覚悟して赴いているのであり、職域に殉ずる潜在的な危険性は、その地で活動するすべての部隊とその成員にあるという中で日本の自衛隊もとうとい協力をしてきたのです。そのように世界に認識してもらうことが必要であり、その視座を欠くと、平和のための国際貢献を担う任務で日本から派遣される組織の一人一人に対して、国家として正義ある立場にはなりません。

 言うまでもなく、日本の国際貢献は、自衛隊のみが行うものではなく、問題解決を導く政治・外交力を初め、経済・社会開発支援も含め、日本の政府と社会の各方面の総合力をもって効果的に展開していくべきものであります。しかし、紛争直後の社会の不安定性を考えれば、実力組織によってしか効果的な貢献が望めない状況もあり、日本は、法律に基づき、憲法の定める範囲内において、自衛隊による国際貢献を行ってきました。また、日本は、自衛のための必要最小限度の能力を有する必要から、自衛隊の機能を維持してきました。

 その事実を踏まえ、生命のリスクを負いながら日本の安全保障と国際貢献に尽くす組織の憲法上の位置づけをより明確にすべきとの見解については、今後、国民世論が憲法の修正を求めることとなった場合には、第九条の基本を維持しつつ、簡潔に、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求する国家として保持する、自衛のための実力組織につき言及する可能性は研究するに値する面があります。他方で、その場合においても、個別の法律で扱うべき範囲の事柄を憲法に織り込むことや、今後の国際情勢や国連の活動の方向性を予断して複雑な修正を試みることには慎重であるべきと考えます。

 以上、国際政治学の一学徒としての研究と元軍縮大使としての経験に基づき、国際社会における日本のあり方との関連において、日本国憲法についての基本的な考え方を公述いたしました。

 既に述べましたとおり、憲法について開かれた議論を行い、憲法への思いを改めて深めていくことは民主主義社会として大変に有意義なことであり、国権の最高機関において、会長のすぐれた指導力に基づき憲法に関する調査がこのように熱心にとり行われていますことに敬意を表します。

 グローバリゼーションのさまざまな試練に社会が直面する時代の中で、国民が一致して誇りに思い、安心した帰属感を抱ける国民国家を維持発展させていくことは政治の根本的使命であり、憲法を再考していく政治過程が、日本国民を分断することなく、深い共同体感を培う経験となるように運営されますことを願っております。

 会長を通じて、全委員の先生方の御努力に謝意を表明し、その英明なる御判断を信じ、私の公述を終わります。御清聴ありがとうございました。(拍手)

中山会長 どうもありがとうございました。

 次に、川本公述人、お願いいたします。

川本公述人 早稲田大学の川本でございます。

 本日は、憲法問題調査会公述人としてお招きをいただきまして、大変光栄でございます。私は、日ごろ触れることの多い経済や経済政策との関係で、憲法議論に期待したい点を幾つか申し上げたいと存じます。憲法の法律論に関しては知識が乏しい者でございますが、その点御容赦の上お聞き願えればと存じます。

 経済にとって憲法は、財産権、営業の自由、職業選択の自由を保障することで、政府の機能、介入を限定し、個人や企業の自由な経済活動を促進しているところに大きな意味があります。日本国憲法は、市場経済を原則とする我が国経済のあり方を保障していると考えられます。ここまでは、まず異論のないところだと思います。

 問題は、これらの憲法の条項がどのように解釈されてきたかです。日本国憲法の伝統的な解釈は、憲法二十五条第一項の生存権を根拠とした政府の経済介入には肯定的であり、また、いわゆる二重の基準により、経済的自由に関する制限の判断基準は、精神的自由への制限の許容基準よりも緩く、合理性の原則で判断するという考え方であるようです。

 しかし、現実への適用という観点から見れば、薬事法違憲判決のように、最高裁が、競争を制限した政府の規制を合理的根拠がないとして違憲と判決したケースもあるように、経済的自由だからといっても、政府が恣意的に介入することはできないことが判例理論として確立しています。あるAという人の経済的な活動を制限しようとするには、何のために制限をするのかという理由が法律などを通じてきちんと説明されなければいけません。仮に法律が国会で議決されたものであっても、合理性がなければ、裁判所は憲法に基づきAさんの主張を認め、政府の規制は退けられます。

 また、最高裁は、憲法第二十五条第一項を根拠とした国民の権利は、具体的なものではなく、法律により具体的内容を定めるべきとしてきており、その限りで政府の経済への積極的な介入には歯どめをかけています。

 このように、結果としては今の憲法は大過なく運用されてきていると言えますが、経済を専門領域とする立場から一言申し上げれば、憲法解釈として二重の基準の考え方は、もしそれが政府の経済への介入を大幅に許す方向で依然維持されているとするならば、時代に合わなくなっているのではないかと思います。

 確かに、表現の自由などの精神的自由について、それに制限を課すことは、民主主義の根幹にかかわるために極めて慎重に例外的にすべきという考えには私も同感です。しかし、だからといって、その返す刀という形で、経済的自由については制限できるというように議論することはおかしく思えます。経済的自由の尊重も、国のあり方として、精神的自由に劣らず大事であると思います。

 経済政策の考え方も大きく変貌を遂げています。日本国憲法が制定された戦争直後には、大恐慌やニューディール政策などの経験を経て、アメリカを含めて、国家の大幅な経済介入による福祉国家の実現が世界的に基本的な経済思想となっていました。現在、憲法の解釈として述べられている二重の基準も、こうした経済思想を踏まえての考え方であると思われます。

 しかし、一九八〇年代以降、福祉国家路線の行き詰まり、社会主義の崩壊といった歴史的展開を受け、政府の過剰な介入を避け、市場経済の力を十分に発揮させなければ日本も成長していけないということは、動かしがたい流れになっているのではないでしょうか。中国経済でさえ自由化、市場化によって大きく躍進している時代です。日本の憲法の検討も、こうした経済の実態を十分に取り込んで進めていただきたいと希望します。

 特に、日本では、依然として政府による過剰な規制の問題が解決したとは言えません。例えば、官民の関係で、依然官が優越的地位を持っている印象も強いですし、あいまいな根拠により、広範な規制を行政が行う傾向がいつまでも是正されない状況にあるのではないでしょうか。政府介入に関する憲法解釈の緩やかさが、これらの官優位の思想につながっているとすれば根幹的な問題です。私は、法律一般、また憲法の専門家ではないので確かなことは申し上げられませんが、経済的自由に関する現在の大過ない憲法の運用を念押しする意味で、憲法を見直すことに検討の価値があるかもしれないと思います。

 ただし、私は、経済政策のあり方について、憲法でもっと事細かに規定せよと主張をするつもりはありません。専門的知識を要求される個々の経済的事例に関して、一々裁判所に憲法判断を求めるということは現実的ではないからです。金融システム一つをとってみても、完全なレッセフェールではうまく機能しないのは明らかです。

 現実には、個々の問題は、政府が政策決定として時宜に応じ判断し、国会や国民に説明責任を果たしていくという形で運営していかざるを得ないことが多いと思われます。経済は生き物であり、裁判所による憲法判断によって経済運営を行うことには無理があります。憲法はあくまで基本法であり、政府が極端に不合理なことをしてきた場合にそれを抑える、ラストリゾートとして機能するという姿が望ましいでしょう。

 この観点から一点付言すれば、私は憲法に財政均衡義務を規定するといった考え方には反対です。確かに、日本のみならず、民主主義国の政府は財政赤字を必要以上に膨張させる危険や傾向があります。我が国における巨額の国債累積残高の実態は典型的な事例です。しかし、我々はその問題を憲法で解決できるでしょうか。政府が不況時に財政スタンスを緩くとるということは、一般論としてはマクロ経済の安定という視点から望ましいことで、その手をむやみやたらと縛ることは、経済の安定的成長という観点からはかえって有害になります。

 アメリカの州の憲法には財政均衡条項を置いているものもあるそうですが、実際には、背に腹はかえられず、あの手この手の抜け道が講ぜられているとのことです。そうなると、違憲状態が恒常化することを黙認せざるを得なくなり、憲法への信頼を揺るがすことになる危険があります。

 私の意見としては、憲法に規定すべき政府の義務は、財政赤字を出さないではなく、財政赤字を隠さないということにすべきだと考えています。これについてはまた後で御説明したいと思います。

 以上述べてきたように、憲法に経済問題を何から何まで解決してほしいと要求するのはないものねだりであり、結果的にかえって失望を招く考え方だと思います。そして、今の日本国憲法は経済的自由の保障という機能ではおおむねうまくいっているという印象を持っています。

 しかし、経済の観点からいうと、民間の経済的自由を保障し、政府が不合理、不要に介入することを防ぐという視点だけが憲法論ではないと思います。そうした視点を超えて、政府活動が経済にゆがみや過大な負担をもたらさないよう担保する、そのために国民が監視し、是正し得る仕組みをつくるという視点からの憲法論も求められます。その意味で憲法には重要な役割があるのではないか、見直しを図っていいのではないかという問題提起をしたいと思います。

 以下、二点を申し述べます。

 第一に、政府活動全般に関する情報公開の徹底です。この問題提起をする私の基本認識をまず述べます。

 経済財政諮問会議を初めとしてさまざまな場で議論されている問題ですが、現在の我が国全体のお金の流れを見ると、政府がコントロールしている資金循環部門が巨大な規模に上っています。二〇〇四年度末でGDPの一四四%に当たる水準に達した一般政府負債については、予算の歳入部分で明示されており、巨額であることは大きな懸念ですが、情報開示という点では問題はないと思われます。問題は財政投融資の部分です。郵貯や年金として国民が預託した資金のうち、相当部分がさまざまな特殊法人に融資されており、住宅、高速道路、中小企業、地方自治体などさまざまな資金が流れています。財政投融資残高は四百兆円で、民間金融機関の融資総額に匹敵します。

 道路公団の民営化問題でも大きな問題となりましたが、こうした資金は政府を媒介にして循環しており、最終的に返ってくる見込みがあるかどうかは必ずしもはっきりしません。特殊法人は政府機関なので、その不良債権の存在はそもそも問題ではないという前提のもとで情報が開示されています。政府機関であるがゆえに破綻という事態は想定されておらず、退出の規定もありません。

 特殊法人などが企業会計原則を適用しないということは、単に民間企業と事業手法が違うなどといった会計手法の違いではありません。そうしたテクニカルな次元の問題ではなく、最終的には政府保証で支えられる事業形態であるために市場の監視を受けないという問題が根源にあります。そうした前提で事業経営が行われている特殊法人に対しては、基本的に経営ガバナンスが働かないのは自明の理です。企業でいえば、赤字が出続けているのに、その経営責任を問う体制も規律も、またその手法も存在していないからです。独立行政法人という新たな法人形態も出てきていますが、この問題を根本的に変えるものではありません。

 こうした公的な資金循環は、最終的に大きな国民負担をもたらす危険性が強くあります。道路公団の民営化でも最も懸念したのはこの点、すなわち、民間から金を借りながら収益性のない道路に投資がどんどん進んで、ますます借金が膨らんでいる事態をどうとめられるかという問題でした。

 高度成長期には、伸びる社会ニーズに民間だけでは資金供給は大きく不足しており、さまざまな社会インフラ整備を進めるために財政投融資が民間資金を補完する意義を有していたかもしれません。しかし、今日の日本経済では、将来への巨額の国民負担の先送りとなっているおそれが強くあります。本来の方向としては、経済に不透明な負担となるこのような資金循環は縮小し、究極的には廃止ないし完全民営化すべきです。今の郵政民営化もそうした観点から検討されているものと理解しています。

 前にも述べましたように、郵政を民営化すべし、財政投融資を廃止すべしというのは政策論であり、憲法との関係でいえば、いわゆる立法政策の問題、すなわち国民の代表たる国会が決めるべき事柄でありまして、憲法に直接規定すべき問題ではありません。しかし、そもそもなぜ問題がここまで巨大化、深刻化したかを考えてみれば、それは財政投融資、特殊法人に関する国民に対する情報開示が極めて不十分であったからだと考えられます。今でこそこの問題には大きな焦点が当たっていますが、つい数年前までは一握りの専門家と財政当局の間でしかこの問題を議論していませんでした。健全な政策づくりが進むように十分な情報開示を確保するのは、憲法の役割と言っていいのではないでしょうか。

 最終的には国民負担となるような政府活動については、前広、積極的に政府に情報公開させるべきです。今の憲法では、第七章の「財政」の箇所の規定があり、例えば、内閣は、財政状況についての国民への報告義務を毎年負うとされています。第九十一条ですが、これも予算という狭い範囲に解釈されて運用されていると考えられます。いきなり国民負担となったときの予算措置を報告されても国民としては遅過ぎるのであり、潜在的に国民負担を生む政府活動はすべて国民に報告させたり、情報開示させるような規定整備が必要ではないでしょうか。また、こうした義務は、将来、財政投融資制度が何らかの衣がえをするようなケースでも依然適用されるよう、十分一般性を持たせるべきでしょう。

 今でも政府は情報開示に努力しているという意見もありますし、最近改善が見られるのも確かです。しかし、最大の問題は、特殊法人を初め多岐にわたる政府活動、その結果として最終的には納税者負担が生じ得る政府活動を総覧する連結財務諸表が存在しないことです。特殊法人などは、基本的には全債務を政府が保証していると市場は考えています。ということは、これらは政府の子会社であり、政府債務に対して最終的に責任を負う納税者としては、そのすべての財務内容を一覧的に理解できる形で知る権利が当然にあると思われます。これは、郵政公社や年金資金など、自主運用が認められている部門についても当然当てはまります。

 今は一覧的開示がなされていない財投機関債については、政府保証債と違い、政府は保証していない債務だという意見もあるかもしれませんが、明示的に法律でそれを否定していない限り、市場はそう受け取っているという実態を踏まえる必要があります。特殊法人や財政投融資の問題の本質は、国民の究極的な負担が隠されやすいという点です。それを隠せないというルールが基本的枠組みとして確立すれば、おのずから改革の議論も変わってくると思われます。

 もちろん、情報開示義務を文字づらで書いただけでは担保としては弱く、国会承認の対象にすべきという議論もあり得ます。また、中立的な監視機能を強化するために、会計検査院を国会に直属させるという考え方もあり得るでしょう。具体的な憲法の規定については素人の私には決定的な意見があるわけではありませんが、要は、納税者の立場から、国民はもっと情報を詳しく理解できる形で政府に提出してもらう権利があるのではないかという論点です。

 第二に、情報公開と並んでもう一つ重要な見直しのお願いは、議員定数不均衡の問題、一票の重みの問題です。いわゆる公共経済学の観点から、公共財をどの水準で供給するのかを決めるかなど、集団的な意思決定については、市場における決定に比べていろいろ難しい問題があるとされています。しかし、それにしても、集団意思決定において、一票の重みが平等であることについては議論の当然の前提となっています。

 ところが、今の日本には大きな一票の格差が存在し、なかなか是正されないという現実があります。そもそも国会が公共政策決定の責任主体となる前提条件を満たしていないのでは、日本にとって大きな問題です。国民の意思がきちんと反映されていない国会、その意思決定に基づいて責任者が指名される内閣に、国民が全幅の信頼を寄せられないのは当然の理であると思います。

 この件についての最高裁判所の憲法判断については極めて大きな疑問があります。少なくとも衆議院について、一票の価値の平等の厳格な実現は憲法上の要請であるというのが憲法学界の主流的見解であるとも伺っています。最高裁は、衆議院では三倍、参議院では六倍までの格差を国会の裁量範囲としているようですが、そうしたことを最高裁が判断できるのか疑問に思います。国会など日本の最高機関の信頼にかかわることなので、国会に早急に毅然たる是正措置をとっていただくのがベストです。しかし、現状がどうしても変わらないのであれば、今の憲法の規定がそうした解釈の余地を与えているのが問題と考えられるのですから、規定の見直しを図るべきではないでしょうか。

 また、こうした憲法判断では、最高裁が、定数配分規定は違憲であり、それに基づいて行われた選挙は違法だと判断しても、選挙の結果は有効だという判決が出されるのが通例となっていますが、これも納得できないところです。国民の遵法観念に無形の悪影響を及ぼしているのではないかと思います。何より、自分の子供に説明できません。学級委員の選挙で一人一票だと思ったら、あるグループの子たちは三票ずつ入れていたことがわかった、ルールどおりやれていなかったというのと同じようなことです。間違いがあったことがわかればすぐにやり直すのが当然だと我々は教えるのではないでしょうか。今回は混乱が生じるので来学期に正しい方法でやりましょうなどと言えば、子供はどう思うでしょうか。次の世代に責任を持つ者として、子供にきちんと説明できるかというのは大切な基準です。

 違憲であると判断する選挙については、一定期間を限って国会が不均衡を是正する立法措置を判決で義務づけ、その上で選挙をやり直させるべきだと思います。

 経済政策では所得配分効果というものが常にあります。どのような所得配分が最も社会にとって望ましいかは常に難しい問題になりますが、避けて通れません。社会保障の問題もそうであるし、郵便や金融のユニバーサルサービスの問題、そして道路問題も同様です。これからは、高度成長期につくられ、右肩上がりの経済に合わせてつくってきたさまざまな国の制度を手直ししていくことがいや応なく迫られます。そこでも必ず所得分配への影響は出てきます。その難しい問題を議論し、決定する国会に主権者たる国民の意思がきちんと反映されていなければ、政策決定への納得感は格段に低下します。その意味で、国会と最高裁の一層の努力と決意を期待しますし、憲法議論の中での御検討をぜひお願いできたらと思います。

 御清聴どうもありがとうございました。(拍手)

中山会長 次に、井ノ川公述人、お願いいたします。

井ノ川公述人 憲法改正に関して所信の一端を述べさせていただきます。

 二院制の見直しについてですが、見直すといいましても、二院制を短絡的に一院制にしようというのではありません。国会の機能を効率的かつ的確に発揮させるにはどうすればよいか、そこを議論の出発点とします。

 国会運営が効率的でない例といたしましては、通常国会冒頭に行われる総理大臣、外務大臣、財務大臣、経済担当大臣の四大臣の演説がありますが、衆議院で行う内容と参議院で行う内容とはほとんど同じで、時間のむだではないでしょうか。両院議員が一堂に会した席でできないものでしょうか。参議院は独立しているのだと言ってしまえばそれまでのことですが、でも、国会運営が効率的でない理由の一つになっております。

 もう一つの例といたしまして、衆議院が予算案を審議、議決し、予算案は参議院に送られます。参議院で審議し、議決、予算が成立しますけれども、予算案が年度内に成立しなくても、衆議院で年度内に議決してあれば、その時点で予算は成立します。こういったことは先生方にとって釈迦に説法ですが、私の言いたいのは、与野党対立で国会は紛糾し、予算委員会が開かれない例はしばしば見られるところです。政治のことでやむを得ない面もありますが、でも、その間、予算案を審議しませんから、国会は機能を停止しております。

 比較的まれと言ってよいでしょう、衆参ともに審議が順調で、年度内に予算が成立することがあります。こうした例は、一見して正常に見えるのですが、果たしてそうでしょうか。実は、審議は駆け足審議で、急いで議決した節が見られるからです。これでよいのでしょうか。

 前の例も正常とは言えないし、後の例も正常とは申せません。審議が順調過ぎて、間違いがあるのではないかと疑念を抱くわけです。

 国会運営に一番苦労されている方は、国会運営委員の先生方です。テレビを見ていてよくわかります。でも、それは表立ったことで、裏ではどんなに御苦労されているか、想像されます。

 お配りした資料の二枚目の左をごらんいただきたいと思います。見直し案についてですが、国会運営を効率的かつ的確にするため、衆議院は予算審議、参議院は決算審査と、権能を分けます。権能を分けることによりまして一つのことに集中でき、的確さが図られるのではないでしょうか。予算審議を衆議院の専権とし、決算審査を参議院の専権とします。

 決算審査は軽く扱われた向きがありますが、予算審議以上に重要だと思います。決算審査は、国の収入、支出が適正に処理されているかどうか総合的に審査され、それによって、予算執行の責任者である内閣の政治責任を明らかにするという目標があります。会計検査院の検査とは別の意味で重要です。

 決算審査に関しまして、憲法は九十条一項後段で、内閣は、次の年度に、会計検査院の検査報告とともに、決算を国会に提出しなければならないとあります。これを受けての決算審査ですが、内閣は、決算を衆参別々に提出しているのです。これが実際です。

 なぜそうしているのか。決算は、予算と違って、議決を求めているものではない、報告案件の一つです。審査を求めているにすぎないからです。でも、これでは決算審査がおろそかになります。衆参別々に審査することで、審査に整合性が保てない、そごを生ずるおそれがありますなど、欠点があります。

 参議院専権にすれば、そうしたことはなくなります。審査の結果、決算が理に合っているのか合っていないのか、その当否を内閣に知らせる。これは当然のことです。そして、国民に向かって公表する。決算審査を専権とする参議院の役割でしょう。

 次に、憲法六条二項には、天皇は、内閣の指名に基づいて、最高裁判所長官を任命するとありますが、内閣に権限が集中しているのはよくないことなので、内閣の指名となっているのを参議院の指名と変えます。すなわち、天皇は、参議院の指名に基づいて、最高裁判所長官を任命するとします。同条一項は、「天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。」となっていますが、これとの兼ね合いから、最高裁判所長官の任命を参議院の指名とします。

 天皇の国事行為に係る権限についてですが、国事行為は、すべて内閣の助言と承認によって行うことになっておりますが、そのうち、司法に係る国事行為、つまり、七条六に、大赦、特赦、減刑……を認証することを、参議院の助言と承認により、とします。すなわち、天皇は、参議院の助言と承認により、大赦、特赦……の認証について国事行為を行うとします。

 以上、決算審査、最高裁判所の長官の任命、それから大赦、特赦等の認証を参議院に移すことによりまして、参議院に独自性を与えることができると思います。そうしたことができなければ国会を一院制にした方がましだと、失礼な表現を用いたことをお許しください。

 先生方御存じのマッカーサー草案ですけれども、マッカーサー草案では、国会は一院制でした。草案四十一条に、「国会ハ……議員ヨリ成ル単一ノ院ヲ以テ構成ス」でした。草案を受け取った政府関係者はびっくりしたことでしょう。政府関係者はもともと二院制に固執しておりましたので、日本国憲法案では、「国会は、衆議院及び参議院の両議院でこれを構成する。」として、GHQに示し、GHQの了承を得たものと思われます。

 お隣の大韓民国の国会は一院制です。だからといって我が国も一院制でよいと言っているのではありません。先進諸国は二院制です。二院制なのはそれなりの理由があってのことです。特に、第二院についてですが、イギリスの貴族院型、アメリカの連邦型、フランスの元老院型、ドイツの連邦型など、それぞれの存在理由があってのことです。我が国の参議院は、それらの国に比べまして、はっきりとした存在理由が見出せないのです。

 第二院につきまして学者間で言われていることは、第一院が常に正しい結果を生むとは限らない。第二院に、審議を慎重に、事を合理的ならしむる抑制的機能を期待すること、そして、第二院に第一院の補充的地位を与えることです。

 我が国の参議院の緊急集会は、過去、衆議院が解散中、補充的働きを果たしたことがあります。ただ、残念ながら、参議院は抑制的働きを果たしたとは言えないのです。抑制どころか、参議院が政党化したために参議院議員が政党勢力となって、衆議院議員と変わらなくなってしまったことです。これでは参議院無用論が言われるのも無理からぬことです。

 私個人としましては、国会は二院制でよいと思っているのですが、参議院が第二院としての役割を果たせないならば、国会は一院制でもやむを得ないと考えております。

 それとも、ここで全く新しい参議院をつくる。

 先生方御存じのドイツ連邦参議院のことに若干触れます。

 ドイツ全土は十六のラントに分かれております。ブランデンブルク、ザクセンなど十六のラントに分かれていますが、ラントでもって構成されているのがドイツ連邦共和国です。ラントの代表が集まるのが連邦参議院です。ラントと我が国の都道府県とは性格が大分違います。都道府県には地方自治が与えられていますが、権限は形だけのもので、機関委任事務が多く、財源が乏しく、国の出先と言ってもよいでしょう。

 政治と経済は密接不可分の関係にあります。歴史的に見てもそういうことが言えます。都道府県の数は現在四十七ですが、経済規模が拡大し、経済構造が変化している、それなのに都道府県の規模は昔と変わらないわけで、余りにも小さく、時代に合わないものになっております。早晩、道州制に移行するものと思われますが、そうなったとき、道州の代表を国政に参画させる必要があります。また、道州の人口に応じて表決権に差を設けるのです。

 中央とか地方とかといったような言い方はこの際やめにしまして、国と道州で仕事を分担し、新しい日本を築いていくことが大切です。道州の代表を参議院議員とする、非常に手前みそな言い方で恐縮ですが、ドラスチックな国会改革案と言えるのではないでしょうか。

 もとに戻りまして、資料の一枚目の左をごらんください。「議員は二院制見直しには消極的と考えられる。」これに対して、いや、そんなことはない、見直しには積極的なんだと反発なさる議員もおありでしょう。参議院のあり方が問題になっている折、衆議院議員は参議院のことに口を出すのをはばかるでしょう。選挙で互いに応援した仲ならなおさらでしょう。参議院議員も、参議院を廃止してよいとは言わないでしょう。中には、先駆的に、廃止してもよいとおっしゃる方もいるかもしれません。でも、それはまれでしょう。そう考えますと、二院制見直しには消極的と受け取ってよいのではないでしょうか。できれば二院制見直しは避けて通りたいと思うのが本音ではないでしょうか。

 しかしながら、それでは通らないと思います。なぜなら、国民にとりまして、国会のあり方は、直接政治にかかわるだけに、これほど重要なことはないわけで、国民から信託された国会の現状を見ると、このままでよいとは思っていないはずです。国会運営を効率的かつ的確にしてもらいたいと願っていることでしょう。

 御清聴を感謝します。(拍手)

中山会長 以上で公述人からの御意見の開陳は終わりました。

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中山会長 これより公述人に対する質疑に入ります。

 質疑の申し出がございますので、順次これを許します。保岡興治君。

保岡委員 きょうは、御三人の公述人には、我が憲法調査会においでいただきまして、貴重な、すばらしい意見の開陳、本当にありがとうございました。心からお礼を申し上げたいと思います。

 まず、最初に公述された猪口公述人にお伺いを申し上げますけれども、猪口公述人がこの二年間、国際軍縮日本政府特命全権大使あるいは国連総会の軍縮と国際安全保障に関する分野の担当大使として大変な活躍をされたことは、テレビやいろいろなプロジェクト番組などを通じて我々も拝見しまして、本当に小走りに各国の代表の間を飛び回って頑張っておられたお姿が、今も御本人を前に目に浮かぶところでございます。

 また、その経験を通じて、きょうお示しいただいたすばらしい認識を、我々一同感動を持って受けとめたと思います。最後に委員の中からすばらしいという声が出ました。この日本が平和憲法を持って、二度と戦争は嫌だ、もうこんな戦争は世界からすべてなくなるようにしなきゃいけないし、その中で日本の安全も平和もつくれるよう、日本はそういう国際平和の構築に努力するという強い決意を憲法に示した、そのことが各国から非常に評価されて、またそういう憲法を持ちながらも国際貢献に大変な努力をしている日本あるいは日本国民、あるいは民間の関係者に対する評価が非常に高い、それが大国としての大使の扱いという重さになって実感された、こういうお話でした。

 この点については非常によく述べられておりますので、これ以上お聞きすることはないぐらい丁寧にいろいろな角度から、実績に対する、戦後の日本の平和活動の評価をしていただいておりますので、それはおいて、実は早速、憲法的な観点からお伺いしたいと思うんでございます。

 一つは、きょうは余りその点触れられませんでしたが、日本が努力してきた実績の大きな柱であります、最近とみに注目を集めております人間の安全保障。この点について、実は我が国も、日本の外交の基本に据えてまいっておりますし、またODAの重要な理念にもなってきております。

 この点について、先ほど実績を将来に受け継いでいかなきゃならないというお話がございましたが、我が国の憲法は、その点に関しては、前文にすべての国民に平和的生存権を認めるようなくだりがあるんですが、実は、これは日本が侵略戦争をした反省として、二度とこういう状況をつくらない、こういうものを日本は大切にするんだという、侵してはならないというような消極的な平和主義だ、正直に読めばそういうふうに受けとめられる。

 もちろん、時代の変化の中でこれを積極的な平和貢献と受けとめる道もあると思いますが、公述人は、こういった人間の安全保障、積極的な平和生存権、こういったものについて、憲法の見直しにおいて、どういうふうに考えていけばいいとお考えか、まず伺いたいと思います。

猪口公述人 保岡先生、御質問どうもありがとうございました。

 大変重要な御指摘を賜りまして、この機会に人間の安全保障の考え方の重要性についてお伝えいたしたいと思います。

 理論的には、安全保障といいますときに、今までは国家安全保障を当然のごとく指していました。しかし、国家安全保障が回復した後も、あるいはそれが維持されている場合においても、実際に紛争後の多くの地域で多くの人々が戦争関連のことから亡くなり続けている場合等においては、実際には国家安全保障の回復が人間の安全保障を意味しないというような事態がよく見られ、そのようなことを背景に、安全保障というときに、英語ですとナショナルセキュリティーと言いますが、それだけでは不十分ではないか、ヒューマンセキュリティー、人間の安全保障をあわせて概念化しなければいけないのではないか。こういう考え方が理論的に今から十年以上前から出ていまして、そのようなことを背景に、政策的にもその観点を取り入れ、我が国も積極的に人間の安全保障の考え方を取り入れてくださってきているんですけれども。

 この考え方は、人道主義の考え方と非常につながるものがありまして、私の公述した範囲の中でも、人道支援はまさに人間の安全保障を回復するための支援というふうに考えることができます。

 人間の安全保障という言葉そのものを、今後、仮に国民世論が憲法改正を求めるようになった場合に憲法の中に含めるかどうかということについては、さまざまな研究をよく検討する必要があると思います。また、各国がこの人間の安全保障という考えについてどこまで深めた見方をとっておられるか、そういうことも研究する必要があると思います。まだ概念として比較的新しく、人道主義という考え方は、もう古く、卓立した普遍的な考え方と考えられますが、それとの関係におきますと、やはりまだ深めるべき概念的整理があろうかと思います。ですから、一国の憲法の中にそれを明記するという場合に、十分な研究が必要であると感じております。

 他方で、人道主義の考え方は、私の公述の中でも強く述べましたとおり、日本として評価されている活動でありますので、そのような観点をさらに強化するという形で人間の安全保障の概念も包含するということが可能かもしれないと感じております。

 いずれにしても、先生御指摘の人間の安全保障の考え方は、個々の人間がどういう国家の中であっても安全が保障されなければならない。その国が紛争直後であっても、あるいは紛争のさなかであっても、あるいは国家安全保障としては既に完成していると思われている中であっても、本当に個々の人間の安全が確保されているか。特に戦争との関連での、例えば貧困であるとか環境破壊であるとか、あるいは軍縮の不徹底からくる殺りくの続きであるとか、そういうことから守られていなければならないという観点から、非常に重要な概念であると思います。

保岡委員 そこで、今公述人言われました、人間の尊厳とか一人一人の国民の生命とかあるいは生活、それを支える大切な能力、こういったものを守っていくという意味での人間の安全保障、これを極端に脅かすのが、おっしゃるように戦争だと思うんですね。

 戦争が起こった、そのことについて、それが拡大したり、あるいはそれが広い範囲の平和と安定を揺るがすようなところに広がっていったり、そういうようなことがないように芽のうちに摘まなきゃいけない、それを限定しているうちに処理しなきゃならないというようなことについて、実力行使が国際的なリスク管理。あるいは、究極はそういった人間の尊厳を守るという意味での、とうとい、普遍的な価値を守る意味で必要とされるけれども、そういうことについて、日本が実力行使を国際貢献ですることの可能性については公述人はどのようなお考えか伺いたいと思います。

猪口公述人 先生のお尋ねは、予防的な目的で、特に人道的な観点を含めて実力行使が適切かどうかという御質問かと思いますが、もし勘違いしておりましたら申しわけございません。

 人間の安全保障を回復するために実力行使が必要であるかどうか、さまざまな場合に分けて考えなければなりませんけれども、一般的に、人間の安全保障は、対立する勢力との関係においては、まずは和解がどう成立し得るかという努力をもって対応するのが根本であると感じております。

 予防的に実力部隊を展開するという方法については、国連においても非常に慎重な議論があったと記憶しております。予防的に、例えば実力部隊、他国の場合は軍隊を展開したような場合において、それが過度に緊張を地域にもたらし、むしろ相手方の先制攻撃を誘発するのではないかということも慎重に議論された経緯があると理解しております、これは国連においてでございますが。

 ですから、現にまだ武力衝突の事態になっていない段階において、人間の安全保障の確保を理由に実力部隊の展開を行うということについては、その必要がどこまで絶対的にあるか、その他の手段は尽くしているか、そういうことをかなり慎重にケース・バイ・ケースで見なければならないと思います。

 日本の役割としては、そのような場合において、私の公述の中でも申し上げましたとおり、既に世界が認識していて日本はそういう役割を果たしてくれるであろうと期待されている分野がありますので、そのようなことをまずは徹底的に行って、その中から地域の人々の和解への意思を引き出していく、そういう工夫をきわめることがまずは課題ではないかと思っております。

保岡委員 私の質問の仕方も、非常に大まかな質問をしたんで申しわけなかったと思いますが、いろんなケースもあり、それがまた予防的な対応で足りる場合もあるし、もう現に紛争が起こって、武力の衝突が起こっているようなところに、それが拡大しないように早く鎮圧して平穏な状態を回復するということもあれば、回復する過程で、さらに治安とかいろいろな、今のイラクのような状況ですね、こういうことに対応して、実力部隊としての組織と実力行使の余地を持って対応する、要するに、実力組織、あるいは実力を行使するための武器使用、こういったことについて、やはり今の日本の憲法では確かに足りないところが多いんじゃないだろうか。

 これは例えばイラクの、今自衛隊が行っておりますけれども、非常に高く評価されていると思うんです。これは、またちょっと所見を述べていただいてもいいと思いますが、先生が先ほど言われたような高い評価の最たる一部だと思うんですね。

 それが実は、例えば、ここに一緒にいるオランダ軍と、お互いに助け合うという関係で一緒に防衛する。これに対する攻撃に対応する。あるいは邦人の、ほかの地域にいる人たちを実力で解放しなきゃならないときに、他国に頼まなきゃならなくて、我が国の自衛隊は行動できない。そういうふうに、いろいろ任務を共同にするオペレーションが非常に困難になる、あるいは我が国の同胞の実力による救出さえできない、こういうような制約がある。

 これではやはり、リスク管理というのは、常にいろいろな脅威からの遮断であったり、その回復であったりするわけで、必ずそこには危険やリスクが伴うので、そういうことに対して自衛隊が貢献できるように憲法の制約を見直すべきじゃないかというような観点から伺ったわけですが、いかがでしょう。

猪口公述人 イラクにおきます自衛隊の活動につきましては、まさに国際社会からも高い評価を受けていると理解しておりますし、そのように世界に認識してもらうような発信をしっかりと日本政府として行っていくことが重要であると思います。

 日本が展開しているところにおきましては、オランダ政府が多大な協力を提供してくれております。過去において、日本とオランダには困難な歴史がございました。にもかかわらず、オランダ政府が、今回このような決定をして、私の公述内容でも申し上げましたけれども、日本を全面的に支援し、日本に対する友情を示して、その地域でともにイラクの人々の人道復興を支援していこうという決定をしたわけです。

 私は、オランダ政府のその決定は非常に立派であり、日本として最大の謝意を表明するべきだと思いますが、そのような決定を日本は引き出すことができたということもまた、私の公述内容で申し上げたような、日本がみずからの制約について正直であり、また毅然とした立場を保ち、かつその中で最大限の努力をして対応したいという気持ちを示し、そのようなさまざまな努力を国際社会に向けて示してきたからではないかと感じております。

 ですから、具体的な個々の例を考えますと、やはり今回の場合はこの形が一番適切ではなかったかと評価できると思いますので、それ以上踏み込んで考え抜くことが、私、今現在としては難しいと感じておりますけれども、邦人の救出の問題につきましては、さまざまな御議論があることは存じております。

 ただ、ここにおきまして最も根本的に重要なことは、無事にその人が救出されるという結果重視の考え方でありまして、そのために日本が国際社会の中でどういうポジショニングをしていくか、そしてどういう友情関係を各国の政府との間で取りつけていくか、その総合力をもって、ある人を本当にその場面で救出できる最も適切な能力の組み合わせを投入することができるかが決まってくると思います。ですから、国家がこの場合どうあるべきかという観点を超えて、まさに人間の安全保障の考え方から、その人を無事に救出するためのすべての総合力と国際関係を動員するためにどうするべきかという観点から考えるべきとも感じますので、邦人救出については、やや特殊な場合と感じております。

保岡委員 きょうの公述人の意見で、いろいろな国際貢献のやり方があって、日本はそれで現憲法下でも相当評価の高い国際貢献をしてきているという、したがって、日本の得意とする分野、日本の特殊性というか個性というものをもっと生かして、今後も自信を持って日本は対応していくべきだという意味で、私も、その点は大変きょうは貴重な御意見を伺ったと思ったんです。

 ただ、まれなる場合にしても、リスクというものは常にまれなる場合のリスクテークなので、その辺の憲法の備えを、これは恐らく民主党も自民党も同じですが、国連の枠組みがあればという前提で、民主党も、国際貢献の実力行使の担保だけはきちっと持った上で、むしろ行使原理というか、行使がどういう場合に、他の国際貢献のいろいろ多様な、あるいは日本の得意とする分野との組み合わせで、世界から信頼できる対応が可能かということなどをやはり模索していかなきゃいけないんじゃないか。また日本の、アジアの周辺の安全保障についてどういう枠組みが、あるいは、それを担保する実力行使の可能性が、基礎的な安定のリスク管理の根幹的なところでの保障をするものであるかということは、やはり我々、今後、努力をしていかなかきゃならないところだとは思っておりますが、きょうは、本当にすばらしいお話を承って、ありがとうございました。

 それから、川本公述人に伺います。

 川本公述人は、要するに、経済的自由というものに対して政府が介入し過ぎていることは非常に日本の将来にとって大きな障害になるんじゃないか、特に経済的自由については、精神的自由と比較して、自由の制限が緩やかに甘くなっているのではないかというような御指摘をいただいたわけです。

 それは我々も、決して、経済的自由の保障を甘くするというよりかは、むしろ精神的自由の方を厳格に考えていかなきゃいけない。要するに、精神的自由というのは、すべての人間活動の基本になるので、営業活動の自由、経済の自由の基礎にもなるし、民主主義の根幹にもなるので、その保障は非常に厳格にやるべきである。だからといって、経済の自由の制約を軽くするのではなくて、合理性をきちっと担保し、それを時代のニーズに合わせて最もいい形でその基準を見出していくということだろうと思うんです。

 そういった意味で、川本公述人もおっしゃっているように、憲法のもとにおける経済的自由というのはおおむね保障されているということでございますが、私は、先生のお話を承っていて、実は、多くの試案にもありますが、営業の自由ないし経済的活動の自由というものを職業選択の自由や財産権の保障と並べて憲法事項にすべきだと思っておるんですが、いかがでございましょう。

川本公述人 保岡先生、ありがとうございます。

 私は、公述でも申させていただきましたとおり、経済的自由に関する現在の憲法は大過なく運用されていると思いますし、それを念押しするということが大事だということでございます。

 そして、具体的なことを公述では申し上げなかったわけですけれども、もし経済的自由の保障をさらにどういう形で規定できるのかというようなことを、専門家ではございませんけれども、考えてまいりますと、現行第二十二条は「何人も、公共の福祉に反しない限り、」「職業選択の自由を有する。」というふうに規定されていて、保岡先生おっしゃったように、ここで営業の自由、事業活動の自由を読み込んでいるというふうに思いますが、例えば、事業活動を営む自由を明示して追加するということなどが考えられるのではないかなというふうに思っております。

保岡委員 経済的自由の活動というものと福祉国家との関係を少し述べられました。大きい政府というか、余りにも福祉政策を進めることは経済活動の自由の大きな制約になるんじゃないかというようなお話でしたが、例えば、読売の今度の提言で、あるべき国家の姿として、日本国民は、個人の自律と相互の協力の精神のもとに、基本的人権を尊重し、国民の福祉を増進することにより、自由で活力があり、かつ公正な社会を目指す、こういう前文の新しい提言があるんですね。この中にある、自由で活力があり、公正な社会を目指すという点は、まさに川本公述人が言われたことを書いておりますけれども、その前にあります、国民の福祉を増進することによりというまくら言葉がついているわけですね。その前には個人の自律と相互の協力というのもあります。こういう自由で活力、公正な社会、福祉の増進、この関係について、この前文をお聞きになってどういうふうに印象を持たれるか、ちょっと聞きたいと思います。

川本公述人 印象論でございますけれども、福祉のところが若干過大解釈されていかないかなというのが懸念されるところであります。

 今の御質問は、多分、私の公述に対しまして、経済的自由主義が行き過ぎると経済が不安定化するのではないかという御質問に通じているというふうに思いますのですけれども、よく市場の失敗というふうに言われますけれども、最近むしろ関心が高まっているのは政府の失敗だというふうに思います。現実には、現代社会では完全なレッセフェールというのはあり得ませんので、社会保障制度も国民生活のために必要だというのが私の立場でございますけれども、これまでの日本や世界の経験に照らせば、安易に経済への政府介入を容認するのは非常に危険だということを私は申し上げたいというふうに思います。

保岡委員 私も、国民の福祉を増進することによって自由と活力、公正な社会を目指すというか、むしろ自由で活力のある公正な社会を目指して、その結果として福祉の増進を図る、逆にした方がまだいいのかなと公述人のお話を聞いて思ったりしたものですから、伺ったわけでございます。

 それともう一つは、憲法で財政規律について余り明快な規制をしない方がいいだろう、こういう御趣旨のお話をされました。中には、余りにも多い、巨額な政府の債務、これを何とかしなきゃならないという思いもあると思うんですが、健全財政、あるいはその維持運営、こういった面について努力規定を憲法に置いたらどうかという意見もあるんですが、もちろん先生が言われるように財政均衡という、短期間の財政均衡みたいなものを憲法に書くところは、おっしゃったアメリカの州の議会の憲法以外余り見当たらない。かなりスパンのある中での財政均衡というものを求めるイタリア憲法の例などはあるんですが。そういった健全財政条項というものについて憲法に設けるという考え方は、公述人はどのようにお考えでしょうか。

川本公述人 私は、財政均衡義務を規定するということには反対だというふうに申し上げまして、ただ、今のように、健全化を目指すために憲法を規定するということについては、そういうような方向性が考えられてもいいのかなというふうに思いますけれども、やはり、経済運営というのは憲法に対して期待するものではなくて、個々の立法で担保していく話だというふうに思っております。ですので、公述でも申し上げましたように、財政赤字を出さないという観点ではなくて、財政赤字を隠さないで国民に開示するという方を強化していくことで担保すべきなのではないかなというふうに思っております。

保岡委員 そこで、憲法に知る権利、国の行政情報の開示請求権というものを規定したらどうかという意見があって、そういう試案もたくさん出ているんです。

 この点について、私は、民主政治を行う上で、あるいは、行政を国民が自分のものにしていくためにも、情報開示というのは決定的に重要で、こういう条項は必要だと思うんですが、川本公述人は、財政について、特に開示の制度を憲法上設けるとかいうことについて御関心や何か御意見はあるでしょうか。

川本公述人 やはり、政府活動に関する情報公開の中でも、特に財政のところは、第九十一条で「財政状況の報告」というのが決められているというふうに思います。ここのところを抜本的に強化するというのは一つの方向性としてあると思いまして、方向としては、報告の対象を明示するということなのかなというふうに思いまして、例えば、将来財政負担が生じる可能性のある政府活動については、政府が有する情報をわかりやすい形で国民に毎年公表を義務づけるというようなことが考えられると思いますし、また、そうした情報内容を国会承認の対象としたり、会計検査院がそこまで監査することを定めるということも考えられるのではないかなというふうに思います。

保岡委員 まことに正鵠を得た御意見だと思います。ぜひこの点は我々十分検討して、答えを求めていきたいと思います。

 もう一つ、ちょっとお伺いしたいんですが、日本の競争力、日本の将来の活力を求めていくためには、知的財産ですね、人間の思考の集積あるいは結果を権利として保護し、管理し、これを活用していく、こういう見えないものは権利できちっと保障して、これが管理でき、活用できるようなシステム、制度をつくっていかなきゃいけない。知的財産のあらゆる整備というのは今非常に日本の国家戦略として必要だと思うんです。

 もし、川本参考人、この点について、前からちょっと御関心もあるように聞いていたんですが、御意見を承れれば、これについての憲法的な条項の必要性などについて言及していただければありがたいと思います。

川本公述人 私の立場といたしましては、根本的には、経済政策のあり方については憲法でもっと事細かに規定せよという主張をするつもりはないんですけれども、ただ、保岡先生おっしゃったように、知的財産権制度を適切に運用するということは技術立国にとっては大変大事なことだというふうに思いますので、憲法できちんと位置づけることには意義があるというふうに思っております。米国憲法にも、連邦政府の仕事として明示されている規定があるというふうに存じ上げておりますし、ただ、財産権の具体的な内容を決めるのは個別の法律による立法政策の問題であるというふうに思っております。

保岡委員 この点については、先日のことですのでよく覚えているわけですが、読売の今度の新しい提言に「国は、知的創造力を高め、活力ある社会を実現するため、知的財産及びその保護に関する制度の整備に努めなければならない。」という項目を提言しています。こういった関係の試案もこれから出てくると思いますので、我々もそれを受けとめて、憲法にあらわすべきものか、あらわすとすればどういうふうにすべきかをよく検討してまいりたいと思います。

 それから、もう時間がないので、先ほど川本公述人がお述べいただいた財政の情報の開示の問題ですが、確かに我々も、将来負担を生ずるもの、これについては、特別に、政府はやはり項目別に開示すべきだと思うんですね。そのことによって、現在負担、将来負担ということをきちっと、連結財務諸表みたいなことをおっしゃいましたが、そういう仕組みがあれば、政策決定者も、極端に言えば総理も、一体今の国民にどれだけ負担をかけ、将来の国民にどれだけの負担をかけるか、そういった基準がはっきりしてくるということなど、そして、どういうことからそういう負担が生じているかということがはっきりしているということは、非常に政策決定をする側からも、それに対して意見を述べて、その論議を深めて、国民のためにいい健全財政をつくっていくためにもぜひ必要だなと思っておりますので、そういうことも御提案の趣旨に沿って考えていきたい。

 また、検査院の制度のあり方についても、国民の側から何か請求して、いろいろこういうことを検査してほしいというような仕組みが必要なのかとか、そういった財政法の改正で、そういう国民側から要求する権利みたいなものが必要なのかということも総合的に考えた上で、憲法事項を整理してまいりたいと思います。

 それから、一票の重みについていろいろお話がございましたが、この点についても、いろいろ最高裁も、衆議院は三倍以内、参議院が六倍以内というようなことを言っておるのでございますが、これはなかなか大変な政治問題でもあります。

 これは、私は、確かに川本公述人が言われるように、やっぱり政策決定の平等という意味で、その正確さを得るためには基本的な、根幹的なことだと思います。ですから、これが憲法事項としてどういう形であらわす可能性があるのか、どういう制約を頭に置かなきゃいけないのかなどをよく検討して、やっぱりこれも憲法の基本的なテーマとして取り組んでいきたいということを申し上げておきたいと思います。

 それから、井ノ川公述人にお伺いいたします。

 参議院のあり方について、いろいろと御意見がありました。参議院の見直しが、やはり衆議院と参議院とは役割をすみ分けた方がいいよというお話がございまして、一番国政上重要な予算と決算、これはもういずれも重要であることに変わりありませんが、それをお互いに権限を分掌したらどうかということや、それから司法のこととか地方の意思の反映ということ、こういったものを、政府からちょっと距離を置いた方がいい、司法のチェックや司法の国民的な関与のあり方を参議院を通じて制度設計していくというようなことは非常に貴重な御意見だと思いまして伺いました。

 これは、私も、今のような、法律の成立が同じような権限になっていて、確かに、参議院が否決した場合に、衆議院で三分の二の多数で、特別多数で衆議院だけで法律も成立させられないことはないんですけれども、でも、これは、参議院で否決されるような状況で衆議院で三分の二の多数を持っているという、先ほど御指摘のあった、参議院も政党化している現状ではそういうことは考えられないので、重要法案を否決するというやり方で参議院も政権に対して決定的な権限を持っているという意味でも、全く両院は同じような機能を二度にわたって繰り返しているという印象を国民から強く持たれている。今のこういう時代に、スピードと的確な政治決定をどんどんやっていかなきゃならぬ、激動期である、変化が早い、こういうときには、やっぱり院のあり方についても、国会のあり方についても、公述人の御指摘のような観点を踏まえて見直していかなければならない。

 我々の党の調査会での意見も、今のままでいいという人は一人もいないんです。二院制を認めるとすれば、参議院のあり方を、構成も含めて、役割も含めて、抜本的に見直すということでございます。

 そこで、私は思うんですが、参議院の役割を変えていくという意味で、公述人の御意見を踏まえて考えれば、参議院の構成は、将来の道州制からの代表、あるいは、それが今の都道府県を基礎に選ぶものなのか、道州議会で代表を選んでくるものなのか、どういう形で選ぶのかということもあろうと思いますが、いずれにしても、道州の代表。

 それから、中長期のやはり基本的な問題、こういった観点から、一院をいろいろやっていることについて審議したり将来に提言したりする。そういうためには、やっぱり行政、司法、国会のベテランの中から何らかの形で代表を参議院に送り込むというようなことも工夫される、あるいは衆議院をおやめになったような方の中から選んで、あるいはその他有識者の中から選んで参議院に推薦で入っていただくというようなやり方もあると思うんですね。

 そういった意味で、今後、公述人の御意見を参考に、新しい参議院のあり方、二院制のあり方を求めてまいりたい。場合によっては、おっしゃるように一院制もこれも検討の値打ちが十分あるかもしれない。その辺は検討を排除するわけではありませんし、一院制の可能性についてもまた検討していきたいと思いますが、加えて、何か私の今申し上げたことについて御意見があったらお聞かせください。

井ノ川公述人 貴重な意見をありがとうございます。

 参議院をつくるとき、創案者は、日本の場合は何か参議院型というふうな、イギリスは先ほど言いましたように貴族院型で、各国によって特色がありまして、あれを持っているんですけれども、日本の場合は、何かはっきりしたこと、先ほど申しましたように参議院型というのを想定していたように思うんですけれども、それがいろいろ変わりまして、補助的地位は果たしたと思うんですよ。緊急集会は何か二回ぐらいやったと思うんですけれども。それはいいんですけれども、抑制的機能を果たさない。これでは何の意味もないというふうな形で、参議院が政党勢力となり、ちっとも衆議院と変わらなくなったというふうな経緯があると思うんですよ。

 道州制の問題、道州型は、これは私としては、そういうドラスチックなものをある程度考えた方がよいのではないか。県はドイツの連邦参議院とは大分違いますけれども、違いますけれども、都道府県は明治以来、中央集権国家の出先みたいなものですよ。それはそれなりで戦後の役割は果たしたと思うんですよ。ですが、ここは詰まっているわけですよ。今度は、もう今の形じゃ余りにも小さい、経済のあれにもちっとも見合っていない。ここでは、やはり地方の行為というものを直接政治に反映させるということは必要なので、先生おっしゃっているように、道州型などができれば、私の希望としては、ありがたいんじゃないか、こういうふうに、これは答弁として十分ではないかもしれませんけれども、よろしくお願いします。

保岡委員 いずれにしても、新しい時代の統治システムとして、内閣のあり方、議院内閣制、それとの関係で、言論の府のあり方、先ほど、司法に関係する部分については参議院との関係においていろいろ制度設計すべきものがあるんじゃないか、そういう意味では憲法裁判所がもし設置されるとすればそれとの関係も出てくるというようなことで、きょうの公述人にお述べいただいた一院制の検討あるいは二院制の見直し、その中でいろいろ貴重な御意見を伺いましたが、それを参考に、我々、新しい憲法での統治のあり方についてできるだけ合意を得るようにみんなで努力してまいりたいと思います。きょうは、本当に貴重な御意見、井ノ川公述人、ありがとうございました。

 もう時間でございますので、私の質疑はこれで終えたいと思いますが、御三人、それぞれ本当に貴重な御意見、ありがとうございました。心からお礼申し上げまして、質疑を終わります。

中山会長 次に、大出彰君。

大出委員 民主党の大出彰でございます。

 きょうは、公述人の皆さん、大変ありがとうございます。

 最初に井ノ川参考人の方から質問させていただきたいと思いますが、二院制の大変悩ましい問題のところを意見としてあらわしていただきまして、私も興味があるものですから、まず最初に、時間がなくならないうちにと思いまして、質問をさせていただきます。

 それと同時に、年の功と申しますか、私たちよりも大先輩である井ノ川さんが、衆議院の方はなかなか参議院の問題、二院制の問題を言いにくいんだ、こう書かれておりますが、そういうところは確かにございまして、しかし、逆に参議院の場合には、この問題を扱うと一院論にされちゃうんじゃないかとか、そういう思いがありまして、なかなか議論にならないというのも現実だったんですね。ですが、私個人は、そう言いながらも本当のところはどうかなと思ったときに、二院制というのはやはりこれは必要かなというふうに思っているんですね。

 よく言われるのは、二院制をやゆした形で、もしほかの院が前の院と同じ結論を出すならばむだである、もしほかの院が前の院と違った結論が出るのならこれは有害である、だから二院制をやめろ、こういう話がよくあるわけなんですが、格言としてございますが、やはり、その国々で、制度が、運用の仕方によって、あるいはその国の土壌によって本来考えたものと変わってくるんだとすれば、直していくということが必要なんではないかと思っているわけなんです。

 そこで、二院制の話をする前に、憲法の四十一条に、「国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。」こうなっているんですね。その後に二院制の話が出てくるわけですが。私たちの党もこの問題の検討、つまりは、民主党の憲法調査会報告というのが実はありまして、二〇〇二年の七月二十九日に一応出して、余り知られていないかもしれませんし、外に出していないかもしれませんが、その中で、実は、最高機関性というところについて、私が担当いたしまして書いたもので、一番最初に、まず最高機関性の定義の検討ということをやったんですね。それから参議院の制度をどうかということに入っていく、こういうことだったんですね。

 そこで、何を言わんとするかというと、「国権の最高機関」、こうなっているんですが、実際、その解釈の中では、いや、これは本当の意味の最高機関ではないということで、政治的美称説だとかいろいろあるわけですが、これを実態に合わせて解釈していくとどういうふうなことになるのかというところで、ちょっと読んでみます。

 「従来、国会が国政の基本方針を決定し、内閣がそれを執行するという、国会こそが政治の中心であるべきとの考えが、「議会制民主主義」の正しいあり方と解されてきた。」今まではですね。「しかし、このような理解では、現代社会において、内閣、特にその首長である総理大臣が、政治の推進役となって政策を提案し、議会の同意を得て、それを実行に移していくという政治プロセスを的確に捉えることができない。 したがって、現代社会における政治の中心は、批判・同意機関であり、迅速に行動する能力を持たない国会ではなく、様々な情報に接し、また、その情報の下に国政が必要とする政策を集約しうる立場にあり、さらに、現代社会において必要とされる統一的で一貫した指針の下に迅速に行動する能力を持つ内閣と捉えるべきである。」と現実に即したとらえ方をして、それに対して、国会の役割については二つの重要な役割があると考えるわけですね。

 その一つは何かというと、内閣を重視しましたから、そうなってきますと、それに対するコントロールする機関であるというのが一つ。一つの機能としては、政策決定を強力に国会がコントロールするんだということと、もう一つは、ちょっと読んでみますが、「現代社会では、国民が国会を通じて国政をコントロールする前提として、国民に対して様々な政策についての争点が提示されていることが必要になる。」そこで、審議を通じて国民に論点を提示していくという国会の争点の提供機能、これはアリーナ機能とか言っておりますが、争点の提供機能という、コントロールと争点の提供機能というこの二つが、現代の国会はそういう機能が現実になっていて、そうすべきなんだという、そういう解釈で国会を考えたわけですね。

 その後、それを前提にしまして二院制を考えたときに、公述人もおっしゃっているように、まさに、予算は衆議院が、決算は参議院がと、そういう提案も我が党もしているわけなんです。そういう機能のやり方をしておりまして、例えば、現行の参議院の役割を大胆に見直し、例えば、参議院議員の大臣指名制を廃止したりとか、あるいは、ここも同じなんですが、衆議院における予算審議と参議院の決算審議などの役割分担、これがまさに公述人がおっしゃるところなんですが、私どももそれを考えておりまして、さらに、いろいろな問題がある、衆議院と類似している選挙制度の問題もありますが、最終的には、地域代表を中心とするような考え方を盛り込んだり、専門性を加味したような選任方法というようなことを提案として出しているわけなんです。

 そこで、参考人の場合に、予算審議と決算審査を分けるところはわかるんですが、裁判機能の権限についての、参議院に指名権をゆだねるという点について御説明をいただけますか。

    〔会長退席、仙谷会長代理着席〕

井ノ川公述人 先生、最後のところをちょっともう一度。

大出委員 済みません。予算審議と決算審議を衆参で分けるというところはよくわかるんですが、井ノ川参考人の場合には、司法機関、司法の権限については指名権を参議院に移していますよね。そこのところをお教えください。

井ノ川公述人 司法にかかわる国事行為については、国事行為はほとんど、先生御存じのように、内閣が助言と承認によってやっているんですけれども、せめて、そこにあります司法にかかわる国事行為ぐらいは、国事行為ぐらいといった言い方はちょっとおかしいですけれども、やはり参議院にやらせて、それで、参議院に独自性を持たせるための一つの方便とする。

 ただ、私は、ちょっと説明不足で申しわけなかったんですけれども、国事行為に関する助言と承認というのは、実質的なあれはないんですよね。大赦、特赦というのは、要するに恩赦法の関係ですけれども、そういうものを実質的な権限まで参議院に与えるかどうかは先生方の御判断なんですけれども、その辺は答弁を差し控えさせていただきます。

大出委員 いわゆる大赦、特赦、減刑、刑の執行免除、これらを参議院の権限にするというのは、要するに、参議院の個別性といいますか、特殊性といいますか、そういう役割を際立たせるためにこっちにつけた方がいいんではないか、そういう趣旨でございますか。

井ノ川公述人 そのとおりでございます。

大出委員 そうすると、現在のままだと、公述人は参議院にはちょっと存在理由が見出せないとおっしゃっていましたね。こういうふうに提案されたようなことによって参議院の意義を見出していこう、こういう趣旨だということですね。

 それで、これも先ほど、ドイツの連邦のラントの例などを出されましたけれども、私たちも二院制を考えたときに、もともとうちの党は連邦型の分権国家と言っているわけですね。そうしますと、連邦型をとると二院制になってくるんですね。というのは、連邦、州の代表と、それからそうでない代表と、どうしても二つあるわけで、ですから、最終的には、そういうことで二院制なんではないかなと思うんですが、そこの辺は参考人、どのように。

井ノ川公述人 ドイツの連邦は、ラントというのは、これは先生御存じだと思いますけれども、昔の領邦国家の名残なんですね。今、領邦国家の名残が州という形になっていますけれども、ドイツ基本法ではラントと言っているんですね。そういうことで、我が国の場合、道州制をする場合とラントの考え方は相当違いますから、その辺は強調しておきます。

大出委員 私も、連邦制と考えたときに、道州制というと、今の憲法のままで延長でやるという考えの方もおられるし、変えてしまうという考え方もあるわけですね、憲法を改正してという考え方もあって。道州制、道をつけると、どうしても今のやり方の延長のように聞こえるんですが、考えてみると、別に道をつけなくてもいいわけですよね。みんな州にしたっていいわけですからね。

 そういう意味で、州の独立性を強調してくると憲法改正も必要になってくるかもしれませんが、そういう意味では、連邦と、そういう二つの考え方があるんではないかと思うんです。どうぞ。

井ノ川公述人 ただ、連邦型というのはちょっと疑問です。というのは、沿革的に見なければいけないんですよ。第二院については、沿革的理由がないとちょっとおかしいと思うんですよ。もう御存じのように、イギリスは貴族の社会ですから貴族の特権がはびこっていましたし、それから、フランスは元老院ですから。国々によって沿革的理由というのが現在の姿で第二院として残っているんですよ。

 しかし、先生今おっしゃいました、連邦型というのを日本国に導入することについてはちょっと疑問があります。道州型であれば、都道府県という基盤があったわけですから、それが沿革的理由になると思うんですよ。百年この方、百二十年もここまで続いてきたわけです、虐げられた都道府県かもしれませんけれども。そういうものがあれば、第二院として存在させるのはいいんじゃないか。

 終わります。

大出委員 今おっしゃられたように、確かに私もそう思っていまして、連邦というのは確かに歴史的な問題で決まってきているのは事実でございます。そういう意味で、なぜわざわざそう言っているかというと、今までの、ただ道州制を、例えば都道府県と二段階の自治制度を一つにする、そういうレベルの話ではないと強調する意味で、中身は道州制なのかもしれませんが、連邦型とか連邦的とかいうことを使っているつもりでございます。

 それで、この問題だけというわけにもいきませんので、二院制についての見直しについて大先輩がお話をしていただきましたので、一番最初にまず質問させていただきました。

 続きまして、軍縮の方でございます。

 猪口参考人になんですが、この軍縮の問題ですが、意外と日本の中で軍縮について国民の方が余り評価をしていないんですが、この軍縮というのは実は日本にとっては特技であって、特技といいますか、軍縮というのは結構やっているんだぞ、日本はこの軍縮問題に取り組んでいることがかなり有名なんだぞ、そういうふうに私は思っているんですね。

 それで、日本の軍縮のテーマに対して、取り組み方というのはどういう特徴があるのかということをお教えいただきたい。

猪口公述人 日本の軍縮政策につきましては、やはり唯一の被爆国としての観点から、さまざまな特徴的な主張を世界に対して発信してきていると思います。

 最も重要なこととして、国連総会の第一委員会に提出しておりまして、国連総会全体で採択されております核廃絶決議案というのがございます。これは、究極的に核兵器を廃絶していくということを掲げている決議案でありまして、圧倒的多数の支持票をもって毎年採択されてきましたけれども、昨年におきましては過去最大の支持票を得ることができまして、そういう一歩一歩進める努力をもって、世界に核廃絶の必要を発信してきていると思います。

 そのほか、兵器の範疇といたしましては、大量破壊兵器と通常兵器がございますけれども、大量破壊兵器といたしましては、核兵器のほかに生物化学兵器がございます。そういう分野につきましては完全禁止の条約がございますので、それの普遍化を推進する一つの国として協力をしてきているということだと思います。

 通常兵器につきましては、先ほど御説明申し上げました小型武器のほかに、対人地雷禁止条約の普遍化を目指す有力な国として活動しておりますし、小型武器については、先ほど申し上げたように、世界的なリーダーシップをとっている分野であります。

 その他の通常兵器につきましても積極的に推進していると考えられますので、一般的に世界は、軍縮の分野で日本が発言するときには特別の敬意を持って聞こう、そういう対応をしてきてくれていると考えられます。また、その分野で日本に特別の役割を果たしてもらいたいという主張がある、世界の側において期待があると考えております。

 軍縮といいましても、武装解除も含む広い範囲でございます。これは不拡散政策も含み、また紛争後の地域におきましては、先方の武装解除、これはディスアーマメントと英語で述べますと、武装解除と軍縮と同じ意味となりますので、その意味では、紛争後の社会の安定の観点から、政策的に非常に重要な部分を担っているという部分も国内においてより広く理解されればよろしいのではないかと感じております。

大出委員 軍縮の中で、軍備の登録制度があると思うんですが、日本はそれにはどのようにかかわっているんでしょうか。

猪口公述人 御質問ありがとうございます。

 軍備の登録制度におきましては、日本はやはり主導的な立場をとっております。これは、そもそも日本の提案によって国連においてようやく推進されるようになった分野の一つでございますので、小型武器と並んで軍備の登録制度は伝統的に熱心に推進してきた方でございます。

 軍備の登録制度といいますのは、合法的に所持してよいものを登録するということになります。これは、透明性を高めるという意味で非常に有意義であります。先ほど申し上げました小型武器の軍縮につきましては、非合法の小型武器が世界で流通している小型武器の八割近くに上りますので、合法のものを登録するという努力とあわせて、非合法のものを完全禁止するという、まさに軍縮、ディスアーマメントの部分をなしていると思います。ですから、ディスアーマメント、軍縮ということを考えますと、既に流通している及び配備されている兵器の廃棄を意味します。

 他方で、軍備登録制度は、今後も配備し続けてもよろしい部分についてお互いの信頼醸成を高めるために、先ほど申し上げました透明性を持ってそれを推進していくという観点があろうかと思います。

 いずれの分野も重要ですので、日本はいずれにおいてもリーダーシップを発揮している、そこはまた、日本の国際的な協力の特徴となっていると申し上げられると思います。

大出委員 イラクの問題とも絡んではくるんですが。イラクの方を聞きましょうか。

 いわゆる軍縮的なといいますか、国連協力的なところで考えたときに、イラクの場合、今、自衛隊が行ったりしているんですが、民主党は基本的には反対をしているんですが、あそこの国民というのは、かなりインフラは壊れたりしていますけれども、技術を持っていたりして、あの国民を後ろから後押ししてあげれば、かなり復興ができるところの国民ではないかと思うんです。今のイラクにとって、どういうことが有益だと考えられるのか、どのような援助を支援すれば有益だと考えられるのかについて、お伺いをしたいんです。

猪口公述人 イラクの事例は、戦後復興の事態というものがいかに難しいかということをまさに示していると思います。そして、非常に状況が厳しい中において、今日、特に重要であると思いますことは、やはり、日本に対する好意的なイメージが広くイラクの市民に共有されるよう、目に見える人道支援の実を上げるということではないかと思います。

 人道支援とは、日々だれかが本当にそれで命を救われていくというようなことが実際に起こっていかなければならないと思います。長期的な支援も重要ですけれども、このように事態がかなり難しい局面に入っております段階におきましては、事態がといいますのは、イラクの方々の気持ちの面で、非常に納得できないと感じてしまう部分がイラク全体の状況としてもしあるとするならば、そのような気持ちを和らげて、日本の場合、徹底的な人道支援でイラクの復興とイラクの人々の民生の回復に力を尽くすのであるということをわかってもらうような、そのことがはっきりと日々の活動の中で実感されるような、そのようなことを優先的に展開するべきではないかと思います。

 今、現に行っております給水を中心とする、あるいは医療支援を中心とする人道支援は非常にとうといもので、先生御存じのとおり、紛争地帯の衛生が悪化した多くの場合において、最も典型的に小さな子供が亡くなっていくのは、悪い水から下痢、脱水によってであります。ですから、給水事業というのは、乳児死亡率を下げ、子供たちの衛生を確保して、就学年齢まで生き延びるようなことを確保するために不可欠な活動であります。

 そのようなことがはっきりとイラク、サマワの人々にわかるような形でその活動を説明し、また、現に命が救われているということの実績を上げていくことが重要であり、優先課題ではないかと考えております。

大出委員 国連とかかわりになっておられて、結論的に言えば、今後とも国連が重要だと言うんだと思うんですが、EUが大きく出てきましたよね、それと国連との関係もあるんですが、今後のヨーロッパと国連のかかわり等も含めて、どのような国連像というのをお持ちなのか、将来の国連像といいますか、お聞きをしたいんです。

猪口公述人 なかなか難しい御質問なんですけれども、国連にはたくさんの期待がある一方で、冷戦期においては、戦争と平和、安全保障の面でなかなか役割が果たし切れなかった面があると思います。冷戦が終わりまして、今日、国連も安全保障の面でどういう役割を果たせるかを模索しているところですので、日本として積極的にさまざまなことを要求していくべきだと思います。国連を通じて人道支援を強化していく、及び、紛争地帯の安定化を追求していく、及び、和解への外交プロセスを仕掛けていく、いろいろなことが考えられます。国連はツールであって、それを通じて、日本が優先的に取り組んでもらいたいと思う政策を世界的に推進してもらうという、積極的な国連の活用方法を考えるということが必要だと思います。

 国連は、総会を通じて、世界のすべての国が含まれる多国間主義を実現しているわけです。多国間主義は今なかなか難しいという時代ではありますけれども、例えばテロの問題一つ考えても、すべての国が合意してもらえる対策を考えなければ、取り残した地域にそのような勢力が宿ってしまうということになりかねませんので、最終的には、すべての国を包含するような国際政策決定のあり方ということを追求しなければならないと思います。そのときに、振り返ってみれば国連しかないということと、もし国連が一たん壊れてしまった場合には、二度とそのような組織をつくることはできないということも事実ですので、今後、国連の多国間主義をどう強化していくかということについて、日本も貢献していくべきだと思います。

 先ほど申し上げた小型武器の軍縮の分野は、小さな分野かもしれません。しかし、世界では、小さな成功を一つ一つ積み上げていくことによって、自信を回復して、多国間できちっと国際政策決定ができるようにしていくことが今重要であると感じますので、今、世界が大きく自信を失っている段階ですので、余り大きな難し過ぎる課題を掲げず、一つ一つの成功を積み重ねていく、れんがを積むような努力ということが重要ではないかと思います。

 EUは、拡大して、国際的にも大きな政策決定機関になっていきます。日本は、世界がそのような動きを示す中で、やはり国連を通じてみずからの主張を強化していく必要があろうかと思います。そのような方向性を追求しない場合には、多くのことがEU及びNATOで事実上決定され、その決定のデシジョンメーカーではなく、デシジョンテーカーの方になってしまうという危険性がありますので、地域の国々とも連帯し、そして国連での主導的な役割を果たすということが重要であり、安全保障理事会におきます常任理事国を目指す等、非常に重要なことであると考えております。

大出委員 憲法から外れながら質問しているのは覚悟しているんですが、ついついそちらの方が気になって聞いてしまうんですが。

 国連の決議の中で、一五一一の中で、見ていると、昔よりも、国連の指揮のもとでということをあえて強く主張しているんではないかなという気がするんですね、国連の指揮のもとで多国籍軍をつくりなさいみたいな。その辺は、今の国連の中に、アメリカの単独主義等のこの間のことがありますから、非常にその辺を焦ったりなんかしながら、正常の方に戻そうという、あえてそういう努力があるんでしょうか。

猪口公述人 国連憲章の第七章において国連軍の規定がございますけれども、そこにおきましては、国連の指揮のもとに部隊が展開されることが明示されております。ただし、その場合においては、四十三条におきまして、特別協定を結ぶということであります。ただ、それを受けますと、軍事参謀委員会等を設置して、その指揮のもとで国連軍を想定していたわけです。

 今まで、この四十三条のような特別協定が締結され国連軍が出動した事例というのは必ずしも明白にはなく、このような形の軍隊が今後成立するのかどうか、それは、私の公述の中でも少し申し上げましたけれども、やはり予断をして見るべきではないとも感じております。

 今後どのような形で国連がこの七章型の国連軍を設立していくのかどうか、それは非常に難しいことではあるので、楽観的に見通すことはできないであろうと思います。ですから、そのような中で、先生おっしゃるとおり、決議は国連の指揮ということを非常に強く主張しております。それは、過去においてそれが実現できなかったということからそのような決議案になっていると思いますけれども、実際の七章型の国連軍が成立するかどうか等についての予断はこの段階ではなかなかできないと感じております。

 ただ、国際の武力侵略のあるような場合において国連としてどのように対応するかということは、もちろんそのようなことを未然に防ぐことが課題ではありますけれども、実際に起こったときに、日本として、国連での考え方が明白に打ち出された場合にどう対応するかということについて考えをいたしておかなければならない、そういう時代背景はあると思います。

 私は、公述の中で、いわゆる芦田修正の部分ですけれども、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求する国家として保持する、自衛のための実力組織につき言及する可能性について述べましたけれども、国際平和を誠実に希求する国家として保持するわけですから、そのためにどういう活動ができるかということを考える余地はあるかと思います。

大出委員 川本公述人にも本当はお話を聞こうと思ったんですが、時間がなくなってしまいましたので、これで質問を終わります。ありがとうございました。

仙谷会長代理 次に、太田昭宏君。

太田委員 きょうは大変ありがとうございます。十五分しかございませんものですから、質問が、端的な聞き方をしてちょっと失礼になるかもしれませんが、御容赦いただきたいというふうに思います。

 猪口先生のお話は、私は基本的に全面的に賛成で、しかも、一つ一つにつきまして、日本が戦後たどってきた国際的な役割というものの評価の上に次の段階に進むということについても非常に的確にお話をいただきまして、自分の頭が少し整理をされたなというふうに思っております。

 端的と申しますのは、一つは、国連のいわゆる集団安全保障という概念は、いわゆる侵略戦争としての武力行使とは違うわけだから、これについては憲法上何らかの形で明示をするとか、違いをある程度表現する、あるいはまた、明示といかなくても、質が違うんだという認識のもとで今後の国際貢献をやるというところが必要だというお話があります。国際貢献には、そうした国連の集団安全保障というものをどう見るかということと、それから同時に、その他のさまざまな角度で、幅広い国際貢献という角度があろうと思いますが、まず、その辺の、国連の集団安全保障と憲法について、かなり明記した方がいいのかなとか、あるいは、質を明確に分けるという論議をさらに強めていくということが大事なのかなということについて、猪口先生にお聞きしたいと思います。

猪口公述人 国連憲章が予定していました集団安全保障、コレクティブセキュリティーという考え方というのは、世界が全会一致で、ある侵略に対して共同で対応するというようなイメージであったかと思います。それは、そもそも連盟において考えられ、思想的には国連憲章もそれを引き継いだと考えております。

 他方で、日本の個別的自衛権及び集団的自衛権の考え方で考える場合においては、もう少し地域的に限定であったり、国連をベースに全世界がというような集団安全保障というものとは若干区別して考えなければならないと思います。

 そこで、日本は国連の加盟国ですので、当然ながら、国連が想定している事態において、日本国憲法が可能と考える範囲においてあらゆる協力を行うということは、加盟国としてそのときの政府が決定した場合になされることだと思います。そして、国連は、それぞれの国がそれぞれの憲法プロセスを通じて可能な範囲で協力するということを認めているわけですし、あと、七章につきましては、先ほど申し上げたような特別協定をそれぞれ結んだ上で協力してもらうということですので、それぞれの国の事情及び貢献の仕方についてその国の主権性が十分に認められ、それについてはそれ以上の議論を国連の側から求められることはないと感じております。

 憲法においてどのように明記するかということについては、まだ十分な研究が必要であると感じておりますけれども、私は、きょうの公述において、自衛のための実力組織につききちんと言及するということについては十分に検討する余地がありますということを述べております。さらに、先ほど申し上げましたように、国際平和を誠実に希求する国家としてそれを保持するという考え方の中で、対応していく範囲というものも出てくるというふうに感じております。

太田委員 国連の集団安全保障という範疇ではなくて、いわゆる軍事力あるいは軍隊、そうした武力というものを使わないでさまざまな国際貢献ができるということで、これは自衛隊とのセットになりますけれども、PKOプラスODAとか、あるいは日本でいうと、海上自衛隊、警察というようなことも含めて、私は、ポリシングという警察的な未然の防止措置というものが国際的には十分まだ整備をされていないという認識をしております。

 したがって、どうしても軍事力だけの貢献みたいな話に、日本の論議は極端になりがちですが、そうしたことの幅広い、ポリシングも含めて、警察あるいは海保、こういうことも日本の場合ありますけれども、世界のそうしたシステムづくりというものが極めて重要で、憲法論的にはそうした角度の表現というものがあった方がいいという意見もあるわけですが、先生はどういうふうにお考えでしょうか。

猪口公述人 先生のおっしゃるとおり、その部分の貢献は大変重要であると思いますし、日本が比較的効率よくやることを世界に示してきた分野でもあるかと思いますので、積極的に行うべきであると思います。

 憲法の中に改めてそれを明記する必要があるかどうかということにつきましては、憲法では前文においてきちっとした立場を日本として表明しておりますし、日本国憲法のもとで、先生の今御指摘されました重要な活動については既に着実に実行してきている経緯もございますので、もし憲法を修正するということになりましたときにどういうふうに整理するか、私もよく考えてみなければならないと思いますけれども、先ほど申し上げましたように、その場合は、個別の法律で扱うべき範囲のことをどこまで憲法の中に織り込む必要があるかどうか、むしろ個別の法律できちんと扱えるというような普遍的な表現をそこに含める方が適切ではないかと今現在は感じております。

太田委員 よくわかりました。

 自衛隊の存在の問題について論及があったと思います。現在は、必要最小限の範囲での実力ということと戦力ということを区別しているわけですが、これは区別するのはおかしいんではないかという論議があるわけです。私は、憲法の精神ということからいきますと、実質上の問題として、専守防衛というもの、武力行使というものについて抑制的に考えるということの物の考え方の趣旨がそういう形で貫徹されるならば、現在の自衛隊というものについては戦力ではないんだということもまた日本の政策決定としてはいいのではないかというふうに思うわけですが、いかがでしょうか。

猪口公述人 公述の中で申し上げましたとおり、修正する場合においては、簡潔で必要最小限の範囲にとどめるべきであると感じております。

 申し上げましたような理由から、すなわち、生命のリスクを負いながらさまざまな任務に当たっている自衛隊ということを考えましたとき、その存在の有意性というものが疑いもないということを考え、憲法の中に明記するという考え方はあり得ると思います。

 その場合に、二項につきまして、それを保持したまま明記するという考え方も可能かと思います。その場合には、自衛のための実力組織という表現になると思いますけれども、それは、そもそも国際法的に戦力とは何かということは明確な定義があるわけではなく、軍事力とは何かということについても法的な一致した定義があるわけではありませんので、日本として理解している、侵略、攻撃のための部隊ではあり得ないというような意味を国民として了解するということであれば、二項を維持したまま、さらに、しかし何をしない、何を持てないという否定形のことではなく、肯定文を、つまり、国際平和を誠実に希求する国家として自衛のための実力組織を保持する、あるいはそれに類似するような肯定文として、芦田修正を受けるような文言でむしろ対応する方が、私の公述の中で述べました、世界に対して今後日本が説明していくときも、大きな不連続がそこで生じるということではなく、引き続き平和の哲学に基づいて、そして今までの日本の歩みを否定することなく、むしろそれを発展させていくことであり、かつ明確化させていくことであるという説明で、また活動の範囲も若干広げることが可能になるのではないかと感じております。

太田委員 ありがとうございました。

 川本先生にお聞きします。

 考えてみたら、憲法というのはなかなか経済とかそういうことについて書いていないなということで、お聞きする質問がなかなか見当たらないような感じがするわけです。こういうことで、経済活動という非常に重要なことの中で論及がないということ自体についていいのかどうかという、ちょっと雑駁な質問ですが、いわゆる「財政」ということと二十五条と二十九条あたりしかないということで、この活発なグローバリゼーションの世界の中での憲法というものはいいのか、そういう話です。それが一つ。

 もう一点は、国の情報公開の義務ということをおっしゃったんですが、私はかねてから、権利と義務ということだけで構成される憲法というのではなくて、二十一世紀の憲法というものは、責任という新しい第三のファクターというものを入れた方がはるかにわかりやすいし、また積極的になるというふうに思っておりまして、情報公開というのは、経済活動の中での企業あるいは個々の人の責任、そして国の責任というような角度で憲法というものは見た方がいいのではないかというふうに思うわけですが、いかがでございましょうか。

川本公述人 先生、質問をありがとうございます。

 私は、公述でも申し上げたように、憲法の規定がなかなかないではないかという御指摘もありますけれども、経済政策のあり方について憲法でもっと事細かに規定せよという主張をするつもりはありません。なぜならば、やはり専門的知識を要求される個々の経済的事例に関して、一々裁判所に憲法判断を求めるということは現実的ではない、経済は生き物の中でも非常に流動的な部分が多いので、そういう意味では規定すべきではないというふうに思っております。

 ですけれども、先ほど申し上げたように、経済的な自由というものが決して侵されることがないような形で、念押しのような形での方向性というのは考えられるのではないかというふうに申し上げたわけであります。

 それから、二点目の情報公開の点でございますけれども、私は、義務という言葉を使ったかもしれませんけれども、権利と義務という二元論の中で義務という言葉を使ったわけではなくて、あくまでも説明責任、先生おっしゃったように、説明責任という意味で政府には説明をする責任がある、そういう意味から情報開示について申し上げたとおりでございますので、きちんとした規律を持った説明をしていただきたいというのが申し上げたいことであります。

太田委員 時間がたってしまいまして、以上で終わりますが、井ノ川先生につきましては、遠路来ていただいたことについて心から感謝を申し上げまして、質問を終わります。

仙谷会長代理 次に、塩川鉄也君。

塩川委員 日本共産党の塩川鉄也でございます。

 きょうは三人の公述人の方から貴重な御意見をいただき、本当にありがとうございます。

 最初に、猪口公述人に何問か御質問させていただきます。

 猪口公述人は、先ほどの公述の中でも、我が国が憲法第九条一項において、国際平和を誠実に希求する志のあかしとして、国権の発動たる戦争等の放棄を掲げていること、また二項において陸海空軍その他の戦力は保持しないという考え方を示していることは、今日では広く国際社会で知られており、その志と理念は、戦禍に苦悩した歴史を真剣に受けとめるという国民の真摯な生き方及び国家の賢明な選択を伝えるものとして、世界で特別の評価を獲得するに至っていると感じていると述べておられます。国連の小型武器軍縮会議の議長としても大変な御苦労もされ、各国の関係者の方と対話をしてこられた経験を持つ公述人であります。

 そこで、お話しになられました、憲法九条が世界で特別の評価を獲得するに至っているという、具体的にどういう形でそういうことを感じてこられたのか、そういう具体例でお示しいただければと思います。

    〔仙谷会長代理退席、会長着席〕

猪口公述人 その評価はどういうふうな形で実現しているのだろうかということでございますが、大変重要な御質問をいただきましてありがとうございました。

 一言で申し上げますと、軍縮、不拡散という分野におきまして、日本が言えば聞いてくれる、通るというような形で評価を得ているのではないかという感じがあります。ほかの国が同じことを主張してもそれが否定されるかもしれないけれども、日本が言えば聞いてくれるということです。それは、やはり存在の重みがそこにあるし、日本の主張はやはり特別なので、国際社会として誠意を持って聞かなければならないのであるというような、やはり特別の思いが各国の側にもあるのではないかと思います。

 その理由は、一つには、やはり被爆の経験があるかもしれません。しかし、それだけではなくて、戦後、この憲法を日本が誠実に生かしてきた、かつその中でさまざまな工夫と苦労をしながら国際貢献の道も模索してきた。ですから、普通の国ではない苦労を特別にした国に対する敬意のようなものがあって、日本の主張は世界で通るという感じがあります。

 具体的にと聞いてくださいましたので、それでは二つ申し上げたいと思います。

 私が先ほど言及しました日本の核廃絶決議案でございますけれども、NPT条約上の核兵器国、核兵器を保有している国の支持を取りつけることができるかどうか、ここが大きな一つのポイントになりましたが、ある核兵器国は、昨年の総会第一委員会におけます投票を終わった後、その投票においてはついに支持票を入れてくれましたが、以下のように述べました。日本提出の本決議の内容のある部分については我が国の国防方針に抵触する可能性が十分にある、しかし、本決議は日本提出のものなので賛成票を入れると。非常に重い言葉ではなかったかと思いました。

 ほかの国が提出したならば賛成票にはならなかった可能性があるということをその政府代表は国連の議場で堂々と述べ、日本提出であるから賛成票であるという立場を表明した。日本の、軍縮外交におけますやはり特別に重要な役割が世界の側で認識されていたと感じました。

 あと、もう一つは、先ほどの小型武器軍縮のことでございますけれども、国連の多国間主義はさまざまな分野で行き詰まっております中、私は、やはりこの兵器範疇が今日最大の戦争関連死の原因となっているということから、つまり、年間五十万人ということは毎日千四百人ぐらいでありまして、一分一人ぐらいですので、こうして私たちがここで議論している間も、もう何十人も亡くなるということでございます。いや、百人以上ですね。

 そういう兵器範疇ですので、何としても軍縮が必要という観点から、国連での、一国も取り逃さないといいますか、一国も置いていかない全会一致での多国間主義というものを推進しようという語りかけをして、そして先ほど申し上げたような結果を得たんですけれども、その過程においても、やはり日本議長の言うことであるから一応協議には応じなければならないと。

 何度も決裂する非公式協議を経て、しかし、日本議長がここまでの合意を世界でつくりつつあるので、自分の一票で全会一致を崩すということはやはりやり得ないのであるというところまで各国を持っていきました。国連議場ですので多くの国、最近国際政治でいろいろと指摘される多くの国、例えば北朝鮮、リビア、イラン、イラク、いずれも私の議場で全会一致に参加してくれました。

 このようなことは、ほかの国もできたかもしれず、あるいはできなかったかもしれません。それを検証することはなかなか難しいですが、私は、自分の印象論からのみ述べることができますけれども、やはり日本が積極的に軍縮、不拡散、人道支援のような分野で強い主張をし、かつ強く世界を率いていこうとしたときに、ほかの国にはできない力を発揮できることがあろうと思います。

 私の公述の内容としましては、そのような外交力とあわせて、国連の議場というのはニューヨークの、この部屋のようにエアコンディションのきいたそういうところでこういう議論をするわけでありますが、しかし、具体的な実施についての取り組みの協力を現場でしていただくその努力がやはりあわせて必要であろうということでもあります。

塩川委員 ありがとうございます。

 いろんな他国の関係者の方とお話をされる中で、この日本国憲法の九条について、他国の政府の方から具体的な評価についてのお話をお聞きした、そういう経験というのはおありでしょうか。おありであれば、そういうお話をお聞かせいただきたいと思うんです。

猪口公述人 研究者としてはいろいろございますが、軍縮大使としては、軍縮大使の権能の範囲が軍縮政策そのものに限定されていますので、憲法議論をすることは自分のマンデートを超えることになりますので、それは差し控えなければならなかったということであると思います。

 しかし、一般的な日常会話といいますか、非公式の会話の中で、例えば先ほどのオランダとの協力関係について、オランダ大使と何時間も話したことがございますけれども、オランダは、やはり日本と協力関係をきちっと維持していくことに非常に大きな意義を感じているということは述べておられまして、オランダ側におけますある種の負担につきましては、しかし日本も同じリスクを負っていることには変わりはないという考え方を表明してくれています。それは、私の公述の中でも、日本が負っているリスクも非常に大きいものがある、そのことは世界に評価されなければならないという内容にもつながります。

 憲法九条そのものをその会話で持ち出したということではありませんけれども、しかし、日本が、戦後長い期間、その平和の哲学を持って行動し、かつ、それの上に、イラクにおいて自衛隊を展開するということについて積極的な姿勢を見せたということを高く評価する、そのようなコメントを何度か各国の交渉官からもらったことがあります。

塩川委員 この軍縮会議での御苦労の中で、私が読みました幾つかの文章の中でも、公述人のお話として、軍縮条約も、二国間の軍縮の条約はあっても、多国間での条約ということで成功している事例はなかなか見当たらないということを述べておられました。

 特に、多国間主義、こういう立場というのが、例えばEUにおいても、昨年十二月に欧州安全保障戦略を確立しまして、その中にも国連中心の多国間主義を鮮明にするですとか、ASEANの国々も、昨年の外相会議のコミュニケで多国間主義と題する一項目をつけ加えるですとか、そういう意味でもこの多国間主義の重要性というのが一つの流れとしてあると思うんです。

 一方で、今、アメリカなどにおいての単独行動主義についての危惧の声もいろいろ上がっているところで、こういう多国間主義の重要性の問題と、もう一つ、今のアメリカの単独行動主義の問題についてどのように受けとめておられるのか、この点をお聞きしたいと思います。

猪口公述人 アメリカは、多国間主義について賛成する立場を表明してきていると理解しております。

 小型武器の会議におきましては、アメリカは当初、どの国もそうなのですけれども、やはり小型武器は政治権力とも直接に結びつく場面も多くの国でありますので、後ろ向きの国が多かったのですが、しかし、説得していく中で、例えば、すべてのテロは小型武器で起こるのであるから、対テロ戦略の最も根本的なものとして小型武器軍縮を世界で進めなければならないので、中心的な役割をアメリカも果たしてほしいというような説得によって、最後にはアメリカは、大きな力でこの会議を支えてくれる決断をしたと理解しております。そこにおいては、アメリカの側に一種の政策変更があったとも感じております。

 ですから、アプローチの仕方によって、アメリカに多国間主義の中心的な役割を果たしてもらうということは十分に可能ではないかと考えております。

 アメリカが単独主義であるかどうかということにつきまして、私が理解しておりますことについて一言述べさせていただきます。

 アメリカは、九・一一以降、大きな被害を受けたという意識の中にあるのだと思います。私たちから見れば、唯一の強者というふうに見るのかもしれませんが、アメリカから見れば、スーパー弱者の立場にあると。そして二度とその悲劇を経験したくない。しかし、世界はわかってくれないし、協力もしてくれないと。だから、自分で何とかするしかないというような、一種の自己理解をしているのではないかと感じます。

 ですから、一般的によく言う、強者であり好き勝手なことをする単独主義という考え方と違って、実際には、非常に困り果てていて、必ずしも世界がテロの本当の恐怖について認識を共有してくれていないのではないかというところが、そのように見える行動を誘発しているのかもしれず、したがって、やはりアメリカがテロを恐れるその部分に、さまざまな観点から、外交努力も含めてどう寄り添うことができるかということが、恐らく今後、国連を中心とする多国間主義の場でアメリカが大きな建設的な役割を果たしてくれることにつながる外交努力となるのではないかということを、私の限られた小型武器軍縮の国連会議の経験から感じております。

塩川委員 川本公述人にお伺いいたします。

 情報開示の問題で、財政投融資や特殊法人に関する国民に対する情報開示が極めて不十分だという指摘がありました。道路公団の審議を通じても、この点が大変国民的にも問われていることだということを私自身も改めて実感いたしました。

 その点で、憲法におきましては、二十一条に、いわば国民がみずから政治に参加するための不可欠の前提である知る権利というのが示されていると考えます。そこでは、主要な学説でも、知る権利は積極的に政府情報等の公開を要求することのできる権利だと定めているとのことですので、それが具体的な請求権となるには、情報公開法などが実際には必要なんだと思うんです。

 そういう意味でも、公述人がおっしゃられておるように、こういう情報公開法などの法の充実といいますか拡充という形で、本来そういう政府の情報開示が徹底されなくちゃいけないんじゃないか。その点で、公述人として、こういう形での情報開示が本来求められているんではないかという、その辺の御見識がございましたら、少し御紹介いただければと思っております。

中山会長 川本公述人に申し上げます。質疑の時間が過ぎておりますので、簡潔にお願いをいたします。

川本公述人 御質問ありがとうございます。

 今先生おっしゃられましたように、知る権利という方向からの事態の改善というのも一つ考えられるかというふうに思いますけれども、公述でも申し上げましたように、ここでの問題は、特殊法人等の活動は政府の活動であり、財政の活動でありますので、財政をきちんと報告するということがまず一義的な問題だというふうに思いますので、そちらの方からの強化というのも私は強く希望するところでございます。

塩川委員 失礼いたしました。

中山会長 次に、照屋寛徳君。

照屋委員 社会民主党の照屋寛徳でございます。

 去る五月三日、五十七回目の憲法記念日を迎えました。ところが、沖縄にとっては三十二回目の憲法記念日でございました。

 沖縄は、二十万余のとうとい命が犠牲になった沖縄戦が終結して、すぐにアメリカの軍事支配下に置かれました。以来、昭和四十七年、一九七二年五月十五日に祖国復帰が実現するまでの間、沖縄には憲法が全く適用されませんでした。すなわち、無憲法下の状況に置かれておったのであります。この無憲法下の二十七年間、沖縄では、基本的な人権が保障されず、政治的な自由や自治が制限をされ、憲法二十二条が保障する本土との往来の自由すら認められなかったのであります。

 沖縄は、祖国復帰が実現して、来る五月十五日に三十二年目を迎えることになりますが、復帰によって、当然のことですが、日本国憲法が沖縄にも適用されることになりました。一方、日米安保条約を頂点とする安保法体系も沖縄に適用されるようになったのであります。

 私は、沖縄で五十八年間生きてきて、復帰前、復帰後の憲法状況をじかに体験してまいりましたが、復帰後、今日に至る沖縄の憲法状況というのは、まさに反憲法的な状況に置かれていると言っても過言ではないと思います。それは、膨大な米軍基地があるがゆえに憲法に反する状況が日常化をしている、こういうふうに言えるのではないかというふうに思っております。したがって、私を含めて多くの県民、百三十五万県民は、憲法の精神というか憲法の理念、これこそを強く求めておるのであります。

 さて、猪口公述人は、沖縄とも多くのかかわりを持っておられると聞いておりますが、復帰前、復帰後の沖縄の憲法状況について、政治学者の立場としてどのようにお考えか、まず意見を聞かせてください。

猪口公述人 沖縄の皆様方の大変大きな、そしてとうとい苦労につきまして、今先生のお話を伺いながら、改めて深い思いをいたしております。

 以前の議論にもありましたが、沖縄におけます人間の安全保障が日本の国家安全保障と両立することが根本的に重要な課題であると理解しております。そのように、平和なる日本の国家の中で、つまり国家安全保障が成立している国家の中で、万が一、人間の安全保障が脅かされているというようなことがあるとすれば、その事態は徹底的に改善してもらわなければなりません。それが憲法の精神を守るということのまず第一歩であると思います。

 そのように、さまざまなことの運営が改善されますように対応する必要があると思います。地位協定の運営等を含めて徹底的に改善することによって、人間の安全保障が一切脅かされないような沖縄を実現するという考え方を、日本の国家安全保障の面で重要な役割を果たしてくださっている沖縄との関係においては、とりわけ重要視して考えていかなければならないと感じております。

照屋委員 猪口公述人が、軍縮会議日本政府特命全権大使として活躍をされ、多くの実績を残しておられたことに敬意を表したいと思います。

 きょうの意見陳述の中で、軍縮、不拡散、人道支援を日本の国際貢献の特質とすることについて、それは軍事的リスクや危険を回避する憶病なやり方であるとの批判があるとすれば、断固として反論し、論破すべきですと。あるいはまた、日本の国際貢献は、自衛隊のみが行うものではなく、問題解決を導く政治・外交力を初め、経済・社会開発支援も含め日本政府と社会の各方面の総合力をもって効果的に展開していくべきものでありますと。私は、その意見に全面的に賛成でございます。

 私ども社会民主党は護憲派だ護憲派だというふうに言われております。私は護憲派と呼ばれることを大変名誉だと思っている立場でありますが、社会民主党は、護憲の立場にあるから我が国の国際貢献を全く考えていないということじゃないんですね。私たちは、大規模災害への緊急援助あるいは発展途上国の社会開発への協力、さらには、紛争予防の外交努力あるいは紛争後の選挙監視や社会開発への援助、その他、医療、教育などの人道支援を通して国際貢献をすべきだ、こういう立場であります。

 ところが、近ごろ、私は、国際貢献の必要性を理由とする憲法改正論議が強まった感を受けております。しかも、この場合の国際貢献は、自衛隊、すなわち武力による国際貢献を強調する論調が目立っておるのではないかというふうに考えておりまして、公述人が指摘をした、軸足が浮遊して過度な修正へと漂流する憲法改正論議になるのではと危惧をいたしているものであります。

 そこで、猪口公述人の御経験に照らして、現下の日本は、国際社会の中で、軍縮、不拡散、人道支援による和解への国際貢献を十分に果たしているとお考えでしょうか。また、今日の状況下で、日本が果たすべき具体的な課題は何があるとお考えなのか、御意見を賜りたいと思います。

猪口公述人 ありがとうございます。

 外交及びさまざまな社会開発、経済協力等の対応については、もう先生方御了解されていますので、それが重要なことは言うまでもないということであります。

 ただ、私の公述の中でも申し上げましたけれども、紛争直後の社会というものは、私は小型武器軍縮の議長として根回しをする際にさまざまな地域を訪れたわけですが、それは著しく不安定であり、著しく危険であり、私も自分の身の危険を感じることもたくさんありました。私が赴いたところで首相が暗殺されるような事件もありましたし、大変な地域というものがあって、その現実にはやはり圧倒的なものがあると思います。

 そこは、しかし、ポストコンフリクト、紛争が終わった回復期のところであり、市民は普通の生活に戻ろうと必死の努力をしているところであり、しかし、子供はまだ学校に復帰することができず、十分な栄養も調達できない、医薬品も届かない。そして、著しく危険であるので一般的な協力が展開されにくい、あるいはその展開されている協力を守ることも必要である、そういうさまざまな、場合によっては混乱した状況もあります。

 ですから、私が申し上げましたように、紛争直後の社会の不安定性を考えれば、実力組織によってしか効果的な貢献が望めない状況もありということでありますので、そこにおいて、やはり自衛隊に、活動して、民間の力で貢献が引き続きできるようになるまでの間だけでも、大きな役割を果たしてもらわなければならないことは十分にあろうかと思います。

 本来、そのような事態が世界で起こらないように外交を成功させていくことが日本の任務とは思いますけれども、現に戦争が起き、ようやく終結に向かい、そこでの支援が必要であるという場合の対応は、例えば今日のアフガニスタンもまだ回復期のままでありますし、イラクは引き続き回復が成功するように導くことが課題となっている地域でありますので、そのようなところにおける、人心を安定させて、先ほど申し上げたように、やはり和解への意欲を引き出すことができるような、つまり人々を啓発することができるような人道支援、もちろん軍縮、不拡散の場合、もう少し難しくなりますね、小型武器を今回収して破壊していくということが治安上なかなか難しい状況がありますけれども、もう少し安定したときには、軍縮、不拡散の実際的な支援も現地において行う余地も希望したいと思います。

 ですから、先生のおっしゃるとおり、最も本質的に重要でかつ長期的に行われなきゃならない努力というものは、経済支援であり、ODAであり、市民の協力であり、企業による復興支援であり、さまざまな総合力を日本社会として発揮していく支援であると思います。しかし、今申し上げたような状況を考えれば、そして日本は長い間そのような状況をなかなか見る機会も市民として広くはなかったかもしれませんが、そのような状況を考えれば、やはり自衛隊による役割は不可欠な部分をなすことも将来においてもあり得るかと思います。そのような役割を果たす場合の危険性については、先生今読んでくださいましたように、非常にリスクを負って赴かれますので、高い評価を日本で付与することが必要であるというふうに考えております。

 ですから、今日本はやはり移行期でありまして、難しい議論をあわせてしなければなりませんけれども、現にそのリスクを負って役割を果たしている自国民についての思いを共有していただければと思っております。

照屋委員 最後にもう一点、猪口公述人にお伺いいたします。

 私ども社会民主党は、平和的生存権というのを憲法における根源的な権利として、強く、国民にわかりやすく訴えていこう、こういうことを決めたところでありますが、平和的生存権、憲法前文二段の「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」あるいは憲法十三条、憲法二十五条、さらにはこの論拠になっている大西洋憲章、一九四一年でありますが、あらゆる人間が恐怖と欠乏からの自由のうちにその生命を全うするための保障となる平和を確立することを誓うなどなどを根拠にして、私どもは平和的生存権を強く主張していくつもりでございますが、猪口公述人の平和的生存権についてのお考えを聞いて、質問を終わりたいと思います。

猪口公述人 先生のおっしゃいますとおり、平和的生存権は最も根本的で重要な人権でもあると思います。日本国民はもとより、すべての世界の市民、そして紛争地域から回復しようとする人々に対しても、平和的生存権はひとしくあるわけでありますから、その部分において、先ほどからの人間の安全保障の考え方ともあわせて、一人一人が平和的に生存する権利をもう日本国憲法の中に既に述べておりますので、それを追求していくことは恐らく日本国民の一致した希望ではないかと思います。

 沖縄の先生からの御指摘、特別に貴重なものと感じました。どうもありがとうございました。

照屋委員 終わります。

中山会長 これにて公述人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、一言ごあいさつを申し上げます。

 公述人各位におかれましては、長時間にわたり貴重な御意見をお述べいただき、まことにありがとうございました。憲法調査会を代表して、心から御礼を申し上げます。(拍手)

 午後一時から公聴会を再開することとし、この際、休憩いたします。

    午前十一時五十九分休憩

     ――――◇―――――

    午後一時七分開議

中山会長 休憩前に引き続き会議を開きます。

 日本国憲法に関する件についての公聴会を続行いたします。

 この際、公述人各位に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にさせていただきたいと存じます。

 議事の順序について申し上げます。

 まず、小熊公述人、船曳公述人、山崎公述人の順に、お一人二十分以内で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。

 なお、発言する際はその都度会長の許可を得ることとなっております。また、公述人は委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと思います。

 それでは、まず小熊公述人、お願いいたします。

小熊公述人 小熊と申します。近現代史を研究している者でございます。

 これまでも、いろいろな公述人の方がおいでになっていろいろ憲法について述べられておりますので、私がつけ加えることは少ないと思いますが、一番争点になりやすい九条の歴史的経緯につきまして、簡単に私の知るところを述べさせていただきたいと思います。

 お手元に「第九条の歴史的経緯について」というレジュメがあると思いますけれども、そちらをごらんいただけますでしょうか。それでは、そのレジュメの一番から参ります。

 まず、憲法九条が押しつけであったのかどうかというようなことについてなんですけれども、私の見解から言えば、押しつけであったという側面もありますけれども、歓迎もしているといいますか、特に、ここでは保守政界が歓迎をしているということについて述べていきたいと思います。

 そこに書いてありますように、占領軍のイニシアチブが確かに強い形で憲法草案がつくられたわけですけれども、当時の保守陣営はおおむね歓迎を表明しております。それはどうしてかということになりますと、憲法草案の原案がアメリカ側から日本側の要人に提示されましたときに、非武装化と天皇制を残すということのバーター関係といいますか、非武装化すれば天皇が安泰になるということを述べております。

 これは、資料の一番を見ていただけますでしょうか、右側の方に資料がついておりますので。資料の1の方ですけれども、一番上のところで、ホイットニーGHQの民政局長が、一九四六年二月に憲法草案について日本側の要人にこう言って提示したわけです。「この新しい憲法の諸規定が受け容れられるならば、実際問題としては、天皇は安泰になると思います。」と。

 つまり、当時は、国際的に天皇の戦争責任ということが問われかねない雰囲気がありましたので、特にオーストラリアその他などから、天皇を訴追しろという意見が連合国側の中でかなり強かったものですから、日本を非武装化するということ抜きには天皇の地位を守るということはできませんと。アメリカ側は天皇を残すという形で日本の占領統治を続けようというふうに考えていたわけですけれども、天皇を国際的な追及から守るということが非武装化抜きにはできないということですね。

 あともう一つ、ホイットニーがつけ加えたことは、その二行目、「マッカーサー将軍は、これが、数多くの人によって反動的と考えられている保守派が権力に留まる最後の手段であると考えています。」つまり、この憲法草案でかなり戦前体制と決別した改革案を思い切って提示しないことには現在の保守陣営の政治家は生き残れないであろう、このようにホイットニーは日本側の要人たちに主張したわけであります。

 もとに戻っていただけますでしょうか、一枚目の方へ。アメリカ側の方は、このような形で非武装化と天皇制を残すということの交換関係として第九条を提示したわけであります。

 当時のマスメディア及び議会での論調はほとんど歓迎一色であります。マスメディア上ではもちろん、すばらしい憲法だということでほとんど一枚岩でありますし、あと、議会での審議を私が見た限りにおきましても、特に与党、保守政党の側は歓迎一色であります。これは、与党がこの憲法草案、改正案を出している立場だったわけですから、与党が賛成するのはもちろん当然だということもあったわけですね。

 では、保守的な人々がなぜ歓迎したのかというのは、やはりホイットニーも示唆したように、ここで思い切った改革案を提示しないことには保守政界の側で生き残りができないということがあったこと、あともう一つは、三行目になりますけれども、この憲法草案が天皇制と資本主義を残しているということでありました。つまり、負けてしまって占領されてしまった以上、どのような体制になるのか全く見当がつかない、しかも共産党の勢力が伸びつつあるという状態の中でとりあえず天皇制と資本主義は残ったということで、財界とそれから保守政界の側は歓迎を表明したということがかなりはっきり見える部分があります。特に、四行目に書いてありますように、当時は公職追放などで保守政界側の議員が相当数追放されてしまいまして危機に瀕しておりましたから、保守政党の側も生き残り策として歓迎したという側面があったようです。

 資料を、また一番を見ていただけますでしょうか。資料の一番の二つ目の発言ですね。これは当時のマスメディア上及び政治家の発言の例として持ってきたわけですが、資料一番、二番目、これは石橋湛山であります。後に自民党から首相になる方ですが、四六年三月に憲法草案が発表されたときの彼が述べたコメントであります。

 「記者は」、石橋湛山ですね、「この一条を」、第九条のことです、「この一条を読んで、痛快極まりなく感じた。近来外国の一部の思想家の間には世界国家の建設を唱道する者があるが、我が国は憲法を以て取りも直さずその世界国家の建設を主張し、自らその範を垂れんとするものに外ならないからである。……真に我が国民が〔憲法草案前文にあるように〕「国家の名誉を賭し、全力を挙げて此等の高遠なる目的を達せんことを誓う」ならば、その瞬間に於て最早日本は敗戦国でも」なければ、四等国、五等国などと当時言われていたわけですけれども、「四等、五等でもなく、栄誉に輝く世界平和の一等国、予ねて日本に於て唱えられた真実の神国に転ずるものである。之れに勝った痛快事があろうか。」当時の新聞及び保守政界の議員の議会での発言なども、大体このような調子のものがほとんどでした。

 ただ、これは完全に本音でそう言っているのかということになりますと、そこは一〇〇%はかりかねるところがあるわけですが、その下、朝日新聞、一九四六年三月十日の記事ではこのように述べております。これは、財界及び保守政界の側の憲法草案に対する反応を述べているんですが、このように述べております。「この儘では激流の真只中に」、敗戦と共産党の台頭という激流の真っただ中に、「どこまで押し流されるか判らない今日、天皇制護持資本主義存続といふ点で大きな枠がはめられ、将来に対する一応の見透しがついたと同時に、共産党を先頭とする急進勢力からの圧迫がこれによってある程度緩和されるのではないかと観測し、安堵とともに賛意を表明している。」恐らくこのあたりが当時の保守政界及び財界の割合素直な反応であったのではないかなと私は思います。

 戻っていただけますでしょうか。ということでありますので、憲法あるいは九条が押しつけであったのかどうかということに関して言いますと、占領軍のイニシアチブが強かったということについては事実だと思いますが、保守政界及び財界も歓迎していたということも事実なので、押しつけという側面ばかり強調するのはいかがなものかというのが私のこの件についての意見であります。

 まず一つ目、これで終わりです。

 それから、二番目、一九五〇年代ぐらいの展開に入ってまいりますが、冷戦がだんだん強まってまいります。それから、アメリカ側から再軍備と改憲の要求が出てくるというのが一九五〇年代の様相であります。

 冷戦が大体強まってくるのは一九四七、八年ぐらいから、ヨーロッパでマーシャル・プランが出たり、ベルリンの壁がつくられていったりというような時期であったわけですし、一九五〇年の朝鮮戦争の開戦によって冷戦が一番ピークに達するわけです。その中で、既に一九四八年の時点で、米軍指導下の日本人部隊を育成して、憲法を改正しようというプランをアメリカの陸軍省が練っておりました。

 これは、資料の二番を見ていただけますでしょうか。資料の二番、これは、一九四八年五月、アメリカ陸軍省が作成したロイヤル陸軍長官への報告書の一部であります。このように述べております。「軽武装で、米陸軍によって組織され、」アメリカ軍によって「初歩訓練され、その厳しい監督下にある小規模の日本人軍部隊の創設によって日本を再軍備すること」を考えるべきであると。それは何のためかといえば、やはり冷戦の反共同盟国として育成する、日本側を西側陣営の一員として軍隊をつくってアメリカに役立てるという方針であります。

 その次の部分、「日本の新憲法に対する修正の可能性について、自衛のための軍備確立という方向で検討する必要がある。」このように、一九四八年五月の時点で既にアメリカ陸軍省の側がこのような憲法改正を日本に要請すべきではないかということを意見として述べているわけです。

 また戻っていただけますか。このような意味で、なぜアメリカがこのような方針に転換したかというのは、やはり冷戦の激化、それから朝鮮戦争であります。一九四六年には、そこに書いてありますように、日本を非武装化する、つまり太平洋戦争を起こし、日中戦争を起こし、アメリカに対しても奇襲攻撃をかけてきたあの日本というものを非武装化するということ、これがやはり一九四六年におけるアメリカの基本方針だったわけですけれども、一九四八、九年ぐらいから、むしろ反共同盟国として再軍備させる、それでアメリカの軍事力の一翼として利用できる方向に対日方針を変更していこうということがあったと思われます。そのために憲法改正もした方が有利であるということですね。

 一九四六年のアメリカの方針だった第九条が、一九五〇年のアメリカの方針である再軍備要請にとってむしろ桎梏になってきた。つまり、アメリカが一九四六年にやったことが一九五〇年のアメリカにとって邪魔になってきてしまったということであります。

 当時、朝鮮戦争の最中には、アメリカ政界の中から、アメリカの政治家、議員などから、日本を再軍備させろという要請、それから憲法を改正しろという要請、それから朝鮮戦争に日本人部隊を投入しろという要請、そういったものがしょっちゅう、結構出ております。実際に、朝鮮戦争のときに日本の掃海艇が機雷探査のために朝鮮戦争に派遣されたということがあって、これは日本の政界が当時隠していたということはよく知られておりますけれども、アメリカ側からは、やはり日本の軍事力を国際戦略に利用したいという気持ちがこのころから非常に強くなっていたということが言えます。

 これに対して日本側はどのように反応したかといいますと、歓迎と反発の両方がありました。

 まず、歓迎した人たちは、一部は旧軍人であります。これは、再就職先ができる、もう一度我々を雇ってもらえるという意味において旧軍人の一部が歓迎しております。それから保守政界の一部が、やはり何といっても日本に軍隊がもう一度できるのはよいことであるという意味で賛成をしております。それから革新側が反対を表明いたしまして、それから保守政界の一部が反発をしております。保守政界はある意味で割れております。

 保守政界の一部がなぜ反発したかといいますと、このままではアメリカの傭兵になってしまう。つまり、朝鮮戦争に突入したところで警察予備隊をつくり、それを保安隊、自衛隊と拡張していくわけですが、このままではアメリカの傭兵になってしまうではないかという危惧が保守政界の側に存在したわけです。

 資料三番を見ていただけますでしょうか。

 資料三番、この山下義信というのは当時の右派社会党の議員でありますけれども、保守とは言いがたいですけれども、保守寄りの人のちょっと感情を示す議論として、これは議会での発言であります。参議院予算委員会での質問、一九五二年十二月、朝鮮戦争中ですが、このように述べております。

 今日のような状態になりましても、国民の祖国を愛するという精神には、決して私は変わりはないと考えておるのであります。しかし、今世論が再軍備に反対いたしておるという世論が多い。この国民の心持ちは、アメリカの番犬になることは嫌だ、それから第二は、そもそも一体アメリカは日本の軍備を一たん奪うておいて、そうしてまた今度はアメリカの都合のよいときには再軍備しろということは、日本人をばかにしておるというような割り切れない感じ、それから第三は、朝鮮へ派遣されるということは嫌だという感じであります。アメリカの戦争に利用されるのは嫌だと。アメリカの政界で当時出ていた、朝鮮に日本人をやれといった、派兵しろといった議論に対しては、国民が憤激いたしましたと。

 要するに、アメリカの都合で我々を朝鮮戦争に派遣されるなどというのは、これはやはり傭兵になってしまうということになるわけですね。

 またもとに戻っていただけますでしょうか。

 当時の首相は吉田茂がやっていたわけですが、ここでいわゆる吉田茂の軽武装路線というものが結果として定着していくことになるわけであります。

 吉田の基本方針というものは、吉田は何といっても戦争中に投獄された経験もありますので、軍に対しては警戒感情、特に旧軍の、旧日本軍の復活ということに対しては警戒感情があったようであります。

 第九条と国内の反対世論を理由にしてアメリカの再軍備要求を値切るというのが吉田のとった基本路線であったと言ってよろしいかと思います。全く再軍備しないというのは、これはアメリカとの関係上できない。幾らかは再軍備しなければならない。しかし、できるだけその要求を値切りたい。値切る場合に利用したのが第九条とそれから国内の反対世論ということであったわけであります。つまり、一九四六年のアメリカの方針だった第九条で一九五〇年のアメリカの圧力に対して対抗をする。一九四六年にはアメリカの基本方針は第九条だったわけですけれども、それを使って一九五〇年のアメリカの圧力に対抗をするということであります。

 資料の四番を見ていただけますでしょうか。

 資料の四番、これは吉田茂の発言であります。一九五〇年代のどこかということなので日時がはっきりしておらないのですが、五〇年代前半の発言であります。このように述べております。

 「再軍備などということは当面とうていできもせず、また現在国民はやる気もない。……ずるいようだが、当分アメリカに(日本の防衛を)やらせておけ。憲法で軍備を禁じているのは天与の幸で、アメリカから文句が出れば憲法がちゃんとした理由になる。」おまえたちがつくった憲法なのだからと。「その憲法を改正しようと考える政治家は馬鹿野郎だ。」そういう言い方を吉田茂は当時発言として残しております。

 つまり、第九条は使い道がある、アメリカとの対抗上使い道があるということですね。

 またもとに戻っていただけますでしょうか。

 吉田茂は、やはりその辺は何といっても策士でありまして、当時左派社会党に再軍備反対運動をやってくれという要請までしております。これは、密使を送りまして、当時の左派社会党の鈴木茂三郎などに、再軍備反対運動を起こしてくれ、起こしてくれればそれを口実にして、国内の反対が強いということを理由にしてアメリカとの交渉に臨むという手段をとっております。

 そのような形でアメリカの再軍備と改憲の要求を値切りながら経済成長に専心したというのがその後の基本路線になっていったということで言えるかと思います。

 では、三番に入ります。

 現在どのように考えるかということですが、第九条を改正することで自主憲法になるかという問題であります。

 この点について、大変おもしろいことに三島由紀夫が、第九条を改正してもアメリカの思うつぼであるというふうに発言を残しております。これは資料の五番を見ていただけますでしょうか。

 資料の五番、これは三島由紀夫が死ぬ少し前に問題提起という憲法問題に関する文章を書いておりまして、そこでこう述べております。

 「たとひ第九条を改正して、折角「憲法改正」を推進しても、却ってアメリカの思ふ壷におちいり、日本の本然の姿を開顕する結果にならぬ、と再三力説した。」つまり、第九条を改正してもアメリカの要請に従って再軍備するという方向にしかならないと。結果は、「韓国その他アジア反共国家と同列に並んだだけの結果に終わることは明らかであり」、このように述べております。

 三島が一番改正したかったのは第一条、つまり、天皇を現人神にもう一回戻すということの方が憲法改正の彼の一番の趣旨でありまして、第九条を改正してもアメリカの思うつぼになるだけであるというのが彼の基本的な意見でした。

 またもとに戻っていただけますでしょうか。

 現在、第九条を改正するということで考えられることとしては、アメリカの対日軍事要求をエスカレートさせる可能性があるのではないかということです。第九条の存在とそれから日本の国内世論が、派兵その他に対して反対であるということが、アメリカの対日要求のエスカレートのブレーキ役を果たしているということがあるわけです。

 これは、イラクの問題等に関しましても、国内の世論が適当に反対が多いからこそ、この程度の要求でとどまっている。あるいは、非常にひねくれた言い方をいたしますれば、国内の反対が、世論が強いのを押し切って自衛隊を派遣してこそ、アメリカに対してこれほどのことをやったのだという姿勢を示すことができる。つまり、高く売りつけるということができるわけでありますから、日本の世論の反対が弱過ぎると、かえってアメリカの要求がエスカレートしてしまうことになりかねないことになってしまう。

 第九条を改正して正式の軍隊ということにし、自由に動かせるという形にした場合、例えばベトナム戦争における韓国軍のような存在、位置に自衛隊がなるのが果たして望ましいのかどうかということになりますと、これはなかなか考えなければならない問題であります。

 また、おまけに考えられることとしては、アメリカ世論及び周辺諸国の反発を買う可能性が第九条を改正するとございます。

 まず、アジア諸国を刺激する可能性については、これは言うまでもありません。韓国、中国その他を刺激いたします。それからもう一つ、アメリカの世論を刺激してしまう可能性があります。

 一九九九年のアメリカの世論調査で、日米安保条約は何のために存在するかという世論調査をアメリカでやりましたら、日本の軍事大国化を防止するためだというのが四九%、日本を防衛するためだというのはたった一二%であります。つまり、日本にアメリカの軍隊を置いておくために、日本の軍事大国化を阻止するのが日米安保条約の一番の目的だというふうにアメリカの世論側はかなり思っている。

 ということだとすると、第九条を改憲してしまうと、日本は軍事大国化する気なのかという危惧を、アメリカ政府とは別個に、アメリカ世論やアメリカの議会を刺激してしまう可能性があるのではないかということ。これは、アメリカやヨーロッパのメディアや評論家の間では指摘をされております。アメリカの政府の閣僚や何かは、日本の再軍備あるいは九条改憲ということは歓迎する可能性は高いですけれども、アメリカの世論は刺激してしまうという可能性があるわけですね。

 ですから、私の結果として言いたいことといたしましては、押しつけの憲法だったから自主憲法をつくるのだという議論はいささか感情的に過ぎないか、そうストレートなものではない、やはりもう少し国際関係その他を考えて慎重に考えるべきではないかというふうなことが私の意見であります。

 以上をもって終わります。(拍手)

中山会長 次に、船曳公述人、お願いいたします。

船曳公述人 書いてきたものを読み上げます。ちょっと単調になりかねないところがありまして。私の授業は、何かおもしろいんだけれども、聞き終わったとき何を言っていたかよく覚えていないというので有名でありまして、ノートもとりにくいというところがあります。それでレジュメのようなものをお配りしまして、少し幾つかどぎつい言葉も並んでいますが、申し上げます。

 私は、東京大学で文化人類学を研究し、教育しております船曳建夫と申します。

 きょうは、日本国憲法の第九条に絞って私の考えを申し述べます。

 まず、第九条については改正すべきかすべきではないかという議論があります。そのときに、憲法は改正してはならないと、改正自体をすべきではないといった物言いが聞かれますが、それは憲法に反しています。憲法には改正のための第九十六条があり、初めから改正することは可能になっています。ただ、その言い方に潜む問題は、そうした理屈の問題にとどまらないのです。

 憲法は改正してはならないという言い方が第九条に限定してその改正を反対するという意味であるとしても、それは第九条を改正しようとする意見を、憲法全体をひっくり返すものだという意味を含ませて、議論を封殺することになります。そうした言い方、それがどんなにやわらかに言われたとしても、たとえ平和主義者の発言であっても、それはある種の脅迫、言葉による暴力なのです。

 さて、改正は可能であるということを前提に憲法九条を読みますと、これがまことに厳しいものがあります。この条文で日本と日本国民はどうしていけばよいのだろうかと途方に暮れる思いです。親が判こをついてしまった借用書を前に腕組みをする遺族のような感じであります。

 では、この借用書、契約書、憲法九条はどのようにしてできたのかというと、それは今小熊さんのお話にありましたようなことですが、アメリカの利益と人類的理想主義との交わったところに一九四六年時点ではでき上がったのだと思います。アメリカの対外政策が常にアメリカの利益と人類の理想の二本立てであるということは、その後の歴史と最近のアメリカの行動を見れば明らかでありますが、では、この一九四六年の日本国憲法の起草時におけるアメリカの利益とは何であったか。それは、日本の武力の完全なる解除です。アメリカは、日本と戦っている間じゅう、よくわからない相手と戦っているという不安感がありました。それが日本と二度と戦わなくても済むようにしたいという考えになり、同時に巨大な戦争の後の平和についての理想主義とが交差してこの条文ができたのだと思います。しかし、「国の交戦権は、これを認めない。」とありますが、そもそも交戦権のない国があるのかというのが我々の途方に暮れてしまうところです。

 この異常さは、当時日本を占領し、憲法の草案をつくった当のアメリカという国が、GHQ草案の方ですね、その独立に当たっての宣言である独立宣言の最語尾に、「アメリカの各州は、自由にして独立な国家として、戦争を行い、講和を締結し、同盟を結び、通商を確立し、その他独立国家が当然の権利として行い得るあらゆる行為をなす完全な権限を持つものである」と、戦争を始め、終わらせる権利、フルパワー・ツー・レビー・ウオー・コンクルード・ピースを独立国家の当然の権利として宣言しているのですから、この異常さはますます深まります。

 日本の独立のための憲法を交戦権なしで起草したのは、明らかに、日本の反逆を恐れたと同時に、日本を守るのはアメリカがやればいいと考えたからにほかなりません。日本の政治家も、ここまで書いておけば世界から平和国家として信用されるだろうと計算したのでしょう。この間のGHQ草案といわゆる芦田修正については皆様は御存じでしょうから、省きます。いずれにせよ、アメリカの基準にとっても異常な独立国家の憲法が起草されたのです。

 その後、自衛隊がつくられ、戦力は保持されるようになったのですが、日本の自衛もアメリカの戦力があってこそでした。よく、日本がともかくも戦後、戦争しないで済んだのは平和憲法があったからだという言い方がされますが、当たっている部分もありますが、半分以上は当たっていません。冷戦下の構造のもと、アメリカの武力があったためでありまして、憲法九条は最初からアメリカの軍事力とセットになって意味をなすようにつくられていたのです。日本国憲法だけで戦争の抑止力があると思うのは、余りにのんきな誤解です。

 しかし、戦後の日本が戦争しない期間がかくも長く続いたのは、いわゆる平和憲法の建前とアメリカの軍事力の本音があったからだというのでは足りません。ここまで私が申し上げてきた、憲法改正と戦後のいわゆる平和憲法の役割についての考えは、これまで護憲派と呼ばれる方々の意見に、意識的にせよ、無意識的にせよ、しばしば潜んでいた事実認識の誤りをつくことでした。しかし、それはきょう申し上げること、それは戦略的平和論とでも呼ぶべきものですが、の前提にすぎません。

 憲法九条の議論が実質を帯びるようになったのは、冷戦終結以降であると考えます。それまでは、戦力を放棄しながら自衛隊を持っていたことは、米軍の存在と日米安保条約によって外側を守られた上でのその内部における論理的整合性の問題であり、その論理的整合性をついたりつかれたりすることを国内政治の問題にいかに利用するかという、専ら軍事的鎖国状態の内側での九条に関する議論であり、実質は持っていなかったのです。

 それは既に、憲法制定時のGHQと国会内外で行われた当時の老練な政治家や学者たちのさまざまな議論の中に出尽くされていて、それを繰り返すにすぎなかったように見えます。先ほど小熊さんの吉田茂の発言などがその典型であります。要するに、戦後の四十五年間に、最初の四十五年間に問題となっていたのは、自衛隊が存在するという状態が九条に合わないということであり、それは、困った、困ったといっても、そこから危険が飛び出てくるような焦眉の急を要する事柄ではなかったのです。ただ、小熊さんの先ほどのお話で、朝鮮戦争のときにはある程度要求されたということがあったということでありましたので、多少ここはつけ加えなければいけないわけですが、しかし、全体として、危険が飛び出てくるような焦眉の急を要する事柄はなかったと私は考えます。

 危険があるとしたら、それは他国の戦争に巻き込まれるか否かの話であって、それを米軍が守ることは恐らく目をつぶる、自分が守られるのに目をつぶるも変な話ですが、恐らく目をつぶることとなったのであり、実際、私も、朝鮮戦争のときに戦線が九州まで南下したらどうなったのかということを考えますが、少なくとも日本自体が国際紛争を武力で解決するか否か、交戦権を行使するか否かといった九条の問題と国家の存立、国民の生命の問題が解きがたいジレンマとして突きつけられるということはなかったのです。

 さて、今や冷戦はなくなりました。その意味するところは、アメリカが日本を守ることが疑うべくもなく前提であった状況はなくなったということです。比喩的に言えば、例えば、例えばです、こういったことは中国からの留学生の教え子と話すことがあるのですが、日本と中国が争うようになったとき、常にアメリカが日本に全面的に味方するとは限らないのです。

 将来のある時点のアメリカの世界戦略と、アメリカの国内政治、世論がどのようになっているかは、今から予想はできません。アメリカは中立の立場をとるかもしれませんし、中国に有利に働くかもしれません。また、アメリカと中国の深刻な対立に、日本が中国寄りの軍事的立場を明確にする必要が出てくるかもしれません。もちろんこれは仮定の話です。しかし、可能性の十分にある仮定の話です。ここに至って、今や日本は、憲法を改正して戦力と交戦権の保持を認めるようにするかどうかという問題が出てきているわけです。

 さて、次の段落は、戦争はなくなりつつある、少なくとも先進国の間ではというところです。

 さて、この問題は冷戦の終結が大きな転機だと申し上げましたが、同じく歴史を振り返って現在を見てみると、日本国憲法が制定されてから現在に至るまでの世界の変化は、日本が独立国家として戦力と交戦権を持たないことがどうにも不都合になったという変化だけではありません。世界に戦争は次第になくなりつつあるのです。

 日本のある論者たちは、日本は戦後平和で幸せだったと、あたかも平和憲法を持っていた日本だけがそうであったかのように言いますが、同じ敗戦国のドイツもイタリアも、同じく戦争をしなかったという意味では平和だったのです。ほかの多くの先進国でも、戦争がないか、もしくは二十世紀の最初の五十年間と比べると、戦争は数の上でも規模の上でも少なくなってきているのです。

 イギリスとフランスが戦後行った戦争は、大半が植民地におけるものです、フォークランド戦争は違いますが。大半は植民地におけるものです。日本、イタリア、ドイツは、そうしたみずからつくった不良債権ともいうべき植民地、そういう言い方は語弊がありますが、私は政治家ではありませんので、理解を助ける比喩は誤解と無礼を生まない程度に使っていきますが、そうした不良債権を第二次大戦によって失ってしまったので、その処理に苦しむことがなかったのです。私は、太平洋戦争の敗戦がなければ、日本は、フランスにとってのインドシナとアルジェリアと、イギリスにとってのインド亜大陸や北アイルランドを足したよりも大きな内乱とテロとを朝鮮半島で経験し、両国民は非常なる不幸を味わったことだろうと思っています。

 さて、戦争がなくなりつつあるというのはどう説明するか。

 現在、例えば十九世紀以来、数十年に一度は戦争を繰り返してきたフランスとドイツが戦争するのは、もはやよほど難しかろうと思います。大急ぎでつけ加えますが、私は、クラウゼビッツの戦争は外交の延長であるということは、戦争の本質の一つだと思っています。

 しかし、相手を力で強制するということは、戦争の技術が飛躍的に発達した今、同じように高い兵器の水準を持っている国同士の場合はそれができなくなっていると思えます。ヨーロッパ大陸の隣国同士が戦争をするというのは、海の上の小さないかだで相撲をとるようなもので、相手を押し倒したときには、自分も水の中におぼれてしまうのです。それは冷戦時の米ソの間の力の均衡ということと同じですが、違いは、現在の先進国同士の不信の度合いというのは、現在の米ロを含めて、当時と比べて格段にそうした不信は低いということがあります。隣同士でミサイルを撃ち合ってもどうにもならない、どっちも損するからやめようとフランスとドイツは言い合えるわけです。

 EUの成立には、経済の側面も、ヨーロッパの外、アメリカに対する戦略的な側面もありますが、第二次大戦の反省からくる平和への望みが強い底流としてあります。第一次大戦後も同じように平和を望んではいたのですが、第一次大戦後と第二次大戦後では、兵器と、それから、後ほど述べますが、戦争という活動への価値観が変わったのです。兵器はもはや古典的な戦争をするには余りに人を殺しやすくなってしまった。だからといって、ある国の世論が一方に流れ、また、ある突発事件が引き金となって戦争が起こらないとは言えません。だからこそ、EUが望まれたわけです。

 私が申し上げているのは、戦争がなくなったということではなく、次第にしづらくなっていることであります。その結果、先進国の定義にもよりますし、先進国の手先同士の戦争はあったわけですが、第二次大戦後、直接先進国同士の戦争は皆無だったということです。

 また、戦争が少なくなったということに関しては、戦争が経済的に割に合わなくなっているということもあります。日本は、日露戦争では土地と賠償金を得て、国として利益を得ました。第一次大戦では、フランスはドイツからやはり土地と賠償金を得て、大いに潤いました。しかし、そうした、戦争によってある国から土地を得、金を得、その国の人々を労働力とするといったことは、二つの点で難しいこととなっています。

 第一に、理念的に、思想的にそれは許しがたいというのが常識となっています。そんな甘いことを言うのか、どこに侵略主義の悪いやつがいるかわからないとおっしゃる方がいるかもしれませんが、侵略主義は経済的利得を考えてのことであります。しかし、もしそうしたやり方が人間の考え方と価値に反すれば、長い目で見ればその国家は多くの国民を引きつけられないことになり、国を弱体化させ、結局は経済的には利得は低いということになります。それは、国民国家が生まれて二百年の間、私たち、少なくとも国家間の戦争に関して、先進的に愚かなことをしてきた先進国は、悲惨な経験から学んできたわけです。

 第二に、こちらの方がわかりやすい議論かもしれませんが、そうした状態、いわば領土を奪って支配下に置くという植民地的状態を維持するのは経済的コストがかかり過ぎるということも常識です。第二次大戦後、植民地が独立を果たしたのは、植民地主義が人類として許されない行為であるという理念と、経済的に合わないという利得の計算の二つがあってのことです。

 戦争が外交の手段としても経済的な活動としても国益をもたらさないとしたら、戦争は少なくなるはずです、少なくとも同じような高度な兵器を持っている国同士では。そして現在、実際そうなっていると私は考えます。単に今までそうであったというだけではなく、今後そうした傾向は増すと考えます。EUの成立は、今後も紆余曲折はありましょうが、先進国に戦争がなくなりつつある一つの証拠です。

 戦争ができなくなりつつあるアメリカの場合はどうでしょう。

 では、ヨーロッパから離れているアメリカはどうか。アメリカは戦争をしている国の代表のようですが、そのアメリカも戦争ができなくなっていると私は考えています。これは現実に反するようで、皆さんを納得させるのは難しそうですが、お話ししてみます。

 幾つかの理由が挙げられます。それを、新世界への移民国家としての、外の世界に背を向ける国家的性格や、外交上のモンロー主義といったことから説き起こすこともできるでしょう。それはアメリカに昔からある一つの傾向です。しかし、ここでは近年の、そして将来ますますそうなるであろう傾向についてお話しします。

 それを端的に言えば、アメリカ人といいますか、すべての先進国の人々はそうなのですが、アメリカ人にとって、命の値段が高くなっているということです。この命の値段とは、例えば交通事故で死んだときの補償金の額や一人当たりの年収で考えられます。あるいは、ある一人の人間が誕生したときに、一生に得られる人生のさまざまなオポチュニティー、機会の総計で考えてもいいでしょう。それは、その社会がどれぐらい豊かになったかにかかってきています。そうしたものを基準に、アメリカの兵士一人と、便宜的に経済的に貧しい国と呼びますが、貧しい国の兵士一人と比べると、価格は圧倒的に違うはずです。

 議論を簡単にするために、命の値段が仮にアメリカと貧しい国とでは百倍違うとします。それを戦争時の損失に還元すれば、貧しい国の兵士を百人殺しても、アメリカの兵士が一人死ねば、アメリカにとって経済的損失は同じになってしまいます。アメリカという国家は、ベトナム戦争以来、そのように兵士を簡単に消耗することはできず、びくびくしながら高価な兵隊を投入しているのです。

 この見方を、政府ではなく、今度は兵士一人の方から考えてみます。また人間の方から考えてみます。

 アメリカと貧しい国を比べると、そもそも二十歳の若者の平均余命は、一方が六十年、他方が三十年といった倍近い違いがあります。そしてそれ以上に、その双方の若者がこれからの人生で消費することができるエネルギーや社会的財、そうしたことから受ける恩恵の差はより多く、先ほどの社会的な機会、可能性という点でも違いは大きいのです。

 ですから、そこからごく単純に、人が戦争に赴くとき、戦争で死ぬということを想定して、ある人が戦死によって失われる自分の利益と、自分が死ぬことによって守られる国家の利益とをてんびんにかけるとします。現在、アメリカと限らず、先進国の人間は、技術とグローバルな制度の発達によって、国家の内側だけで生きているのではありません、国家の内側だけで生きなくとも構わないのです。アメリカ国民は、自分が戦争に加わることによる自分の損失と国家の利益とをシビアに計算するでしょう。また、これまでは、戦争におけるアメリカの大義に関する疑いや反省は、世代ごとにそれを忘れてしまい、新たな若者が新たな戦争に向かう、そうしたことがあったかもしれませんが、メディアと記録の発達はその健忘症を防ぐことと思います。

 その結果、少なくとも、アメリカの中枢を占める豊かな白人の子弟で、自分が犠牲になって戦争に行こうとする者は少なくなっているのです。クリントンもドラフトを迂回しましたし、現在のブッシュ大統領も、どうも戦争に行くことは余り好まなかったようであります。アメリカの兵隊たちはますます、アメリカ社会の周辺部から、または底辺部からリクルートせざるを得なくなっています。兵器が発達しても兵士の水準は落ちているというのがこのたびのイラクでの問題にかかわっているのではないかとも思います。

 それでもアメリカはまだ戦争をせざるを得ない。しかし、もはやそれは、すべきものではなくて、せざるを得ないものであり、独立戦争以来、アメリカの戦争の内容は、国家的な正当性からいって次第次第に劣化しています。この劣化はそう簡単に覆すことはできないし、この劣化による戦争を行えなくなっているという条件は、私は強まっていると思っています。

 このように、戦争がしづらくなっている、そして、事実的に減っているという事態があります。しかし、もちろん完全にはなくなっていないし、戦争ではないが、今はまだテロと呼んでいるところの、しかしかつてのテロとは既に異なっている、多分新たな武力の行使の形態なんだと思いますが、それがあるというのも事実です。

 ここで、憲法九条をどうするのかという問題に立ち返ります。この問いに完璧な正解はないと思います。すなわち、変化に対して対応するとき、その変化が完全に読めないときには、行動はよりよい方をとるという、比較的よりよい回答を選択するということでしかないと思います。

 私は、今、戦争に関しては、戦争の破壊による悲惨を人間の不幸と考える人ならば、というのは圧倒的な人間はそう考えるはずですが、そうした不幸を避けるためには、正しい戦争しかしないと言うか、防衛的な戦争しかしないと言うか、戦争はしないと言うかの三つしかないと考えています。いずれも、正しい戦争があるのか、また、すべての戦争は防衛的と言えるではないか、また、戦争をしないというのでは攻められたらどうするのかといった反論に答えることはできません。戦争に関するいかなる条文も、ある意味で虚偽を含み、問題を抱えることになっています。

 では、日本はどのようなことを言うべきかというときに、私が考える最も大きな要素の一つは、日本はこれまで、武力を行使しない、戦力は保持しない、交戦権は認めないと言いながら、自衛隊を持ち、自衛権はあるだろうという苦しい議論を行ってきました。この六十年の積み重ねが財産だと思っています。この議論をする過程で、戦争というものの現在の問題を議論してきていると思います。それは重視した方がよいと私は考えます。

 また、第二に、今述べたように、世界は次第に戦争をしなくなっているというのが現状だと思います。この傾向は増すと思われます、少なくとも先進国の間では。このとき、日本は憲法九条を、論理的に苦しいまま、しかし明らかに未来を指し示すものとして保持し続ける方が私は得策だと思っています。国家的な理念としても、その継続性としても、また外交上も十分使い得る資産だと思っています。

 もちろん私は、自衛隊は認めています。私個人の意見ですが、自衛権も認めています。また、武力の行使が、例えば国連軍という形で国際平和をもたらすということがあり得ると考えています。それならばなぜそのようなことに合った文言に憲法を変えないのかといいますと、自問自答しますが、それは、現状と論理整合性があるだけで、将来的な展望とは合わないからです。

 世界は次第に、戦争ができなくなっているということを理念的にも、現実的にも認め始めています。つまり、世界の方が日本の考えに近づいてきているのです。そして、現在、この憲法九条の戦争の放棄という縛りが国益を損なうことになっているとは思いません。むしろ、その逆ではありませんか。そのときに、日本が、世界の先進国が動いている方向の逆に進むのは危険なかけです。かつて、二十世紀の初めに植民地主義が国家の利益にならなくなっているときに日本が植民地主義に進んだ、つまり、植民地主義が利益にならなくなっているときに逆に進んだように。憲法九条を改正するのは、現在の判断としては、逆に進むことになって、国家百年の計ではありません。

 私は、娘に、憲法十四条では、人は性別により差別されないとあり、二十四条に、両性の本質的平等とあるのに、男女の差別はいつだってあるじゃないか、どうしてそれなのに憲法はそのままなのかと聞かれたとき、おおよそこう答えました。

 いまだかつて、農業文明以降、人間の社会で男女が不平等でなかった社会はない。憲法は、そうした意味で、男女の平等ということを考えれば現実と論理的に不整合である。しかし、日本は、明治以来、戦後も次第に男女の不平等はなくなってきているし、この産業社会では今後もその傾向は進む。だから、実際に男女差別がなくなることは、残念ながら、おまえが、というのは娘ですが、おまえが生きている間にはあり得ないけれども、憲法は百年後またはそれよりももっと先のことを目指しているんだと。

 戦争はなくならないし、戦争をせざるを得ないということが出てくることを私たちは考えていなければならないのですけれども、そのときにでも、いかなる戦争をするかを決める際に、これまで積み重ねてきた議論は大いに役立ちます。私たちは、世界が日本の議論に追いついてくるまで、この憲法九条のある面でのやりづらさを議論のおもしとして、日本と日本国民の利益を図り、憲法がうたっているように、全世界の国民が平和に生存する権利を有するように努力するのが戦略的に正しいと思います。

 なお、きょうの私の話では、先進国間の戦争の問題を語って、いわゆる開発途上国における戦争の問題、テロの問題、そして文明の衝突と言われるような戦争の問題は直接語りませんでしたが、文明論的な話の枠組みの中でそれは語り得ます。御質問があれば、できる限りお答えいたします。

 どうもありがとうございました。(拍手)

中山会長 次に、山崎公述人、お願いいたします。

山崎公述人 立派な先生の整然たる講義を二つもお聞きになってお疲れかと思います。私の話はもう少しのんびりした話であります。

 きょう申し上げたいのは、憲法論議の進め方について絞りたいと思っております。

 憲法を変えるということ自体、私は原理的に正しいと考えております。

 我が国が民主主義国家であるということは、実は憲法以前の原理でありまして、その原理に従えば、国民の意思というのは一定の期間を置いて変わるということが前提になっております。さればこそ議員の皆さんは、衆議院なら最大四年、参議院なら六年間、国民の意思を負託されますが、そこで必ず選挙がある。どんなに立派な議員が選ばれていても、改めて選挙で信を問われる。ただし、間接民主主義においては、その負託した期間は国民が横から口を出さない、先生方の御議論によって国が運営されることを認める、これがルールであります。

 その一定期間というのは、例えば六法の各法が固定されますともう少し長もちいたします。朝令暮改というのは昔から政治にはなじみませんので、数年あるいは議員の任期以上の長さにわたってある法律が固定されます。そして、さらに、それを上回る長期間の約束事として、憲法というのは維持されるわけです。したがいまして、憲法を軽々に変えるということは混乱を招きますが、憲法であるから絶対に変えられないというのは、これは実は民主主義の根本原理に反するわけで、私どもは、国際情勢を眺め、あるいは国内の国民の意図、動向あるいは気分というものを見定めて、その時々に理性的な議論を行って変えていく、これが憲法の正常なあり方であると私は思っております。

 しかしながら、今、憲法の論議が行われている姿を見ていますと、若干の心配事もあります。それは、とかく、憲法改正か改悪かというふうな二項対立で論じられることでありますが、その背景には、ある種の漠然としたイデオロギーというものがあるからであります。このイデオロギーという言葉も実は厳密に議論すると難しいわけですけれども、私は、幾つかの価値観、あるいは価値をめぐる感情がある程度体系的に整理されて統一されていればこれはイデオロギーだと思うので、明快な学問的体系というようなものはなくとも、ワンセットになった価値観というものはイデオロギーに近いと思います。

 しかし、とかく今の憲法の改正をめぐって、国民の間でも、あるいは政界でも議論されているのは、そうしたワンセットの議論になりがちであります。早い話が、よく対立されるのが、戦後民主主義か、それとも戦前の愛国心に支えられた国家観かというような対立が行われがちですし、もっと端的に言えば、占領軍によって与えられた憲法か、それとも日本人による自主憲法かというような議論でありますが、こういう対立は甚だむなしいのであります。

 私たち国家の運営に多少とも関心を持つ者は、政治について理性的でなければならないと思っております。気分的なある傾きというのはなるべく排除すべきである。

 具体的な例を一つ申しますと、例えば、教育基本法というものがあります。教育基本法は今、改正が図られておりますが、その中に愛国心の涵養という言葉があります。これは大変多義的な言葉でありまして、国を愛する心というものを否定する人間というのはかなり変わった思想の持ち主であります。その前にどういう国であるかということが議論されるべきでありますが、とかく愛国心かあるいはその反対かという議論がなされる。

 さらにもう少し申しますと、教育基本法の中で問題になっているのは、伝統文化に対する尊敬の心というのがあります。これが一セットになっている、先ほど申し上げたワンセットで。こうなると、ややイデオロギー的になるのであります。

 伝統文化といって、一体それは何であるか。日本の伝統文化について議論すれば切りがありませんが、およそ皆さんが考えていらっしゃるのは、平安朝から鎌倉にかけて生まれてきたある種の生活習慣、あるいはそこから生まれた芸術文化というようなものであろうかと思います。早い話が、私たちの日常生活におろして言えば、お稲荷さんにお参りする、決まった日にお地蔵様にお祭りをするというようなのが伝統文化でありますが、そのことと、それを尊敬することと国を愛することとは実は全く別のことなんですね。

 日本には全く違う伝統文化を持ったアイヌの人たちもいますし、れっきとした日本人ですが、中国文化の影響を非常に長く受けてきた沖縄の人もいます。あるいは、今後日本人になる外国人もたくさんいるわけです。そういう人たちは、場合によっては、日本国憲法を含めたあらゆる法体系、制度的な秩序というものをきっちり守ってはいるが、しかし、自分の伝統文化はイスラム教だと言うかもしれないんです。日本という国はそういう国でなければならないわけですから、というよりは、近代国家というのはそういうものでありますから、私は、これを二つ結びつけるということは大変危ない話であると考えております。

 日本の伝統文化、何の知識もなく愛情もなくても、きちっと税金を納め、法律を守り、国民としての義務を尽くせば、これは愛国心の発露であります。私は、憲法問題をめぐっても、前向きであるとか後ろ向きであるとか、革新的であるとか保守的であるとかというような気分的二分対立をぜひ避けていただきたいし、我々自身、避けるべく戒めなければならないと思っております。

 現在、具体的に我々が緊急に問われていることは、これは先ほど来二人の講師がお話しになったように九条問題であります。具体的に言えば、日本が自衛権を持っているということを明記するかどうか、及び世界の平和維持に実力を持って貢献するかどうかということであります。

 私の見解では、現在政府がとっているさまざまな政策はただいまの憲法に合致していると思っております。日本国憲法が禁止しているのは、国際間の紛争を武力で解決することであります。しかし、イラクであれ、あるいはアフガニスタンであれ、向こう側に国はないのでありますから、これは国際紛争とは言いかねます。例えば、現実に起こっている拉致問題や不審船問題がさらにエスカレートすることは十分に予知できますが、そのときに我が国の自衛隊ないしは海上保安庁がしかるべき強制措置をとるのは、これは常識にかなった話であり、今の憲法に抵触しないと考えております。

 ただし、若干気分の問題がありまして、どうも、十万人の武装勢力を持ちながら、これは戦力ではないという言い方には常識に触れるところがありまして、少し気持ちが悪い。ほとんど気持ちの問題だと私は思っておりますが、気持ち悪ければすっきりするように直せばいいのであります。ただし、私は、そのことだけに当面限定していただきたい。

 もちろん、もっと末梢的なのがありまして、私立大学に対して国庫補助を行うことは憲法違反。しかし、現在堂々と違反が行われているんですから、これも直した方がいいでしょう。

 しかし、それと同時に、例えば私たちの日常生活にかかわるような民法につながるような、その基盤となるような憲法の条項、あるいは人権を保護し、個人というものを権力に対して守っている刑法上の諸規定、その基盤となるような部分、これは一切手を触れていただきたくはないのであります。

 私が先ほど申し上げたのは、とかく憲法改正論が起こると、そういった九条にまつわる具体的な政策の問題と、それから、何やら国民道徳にかかわるような法的規定というものが、包括的にというか、私の言葉によればイデオロギー的に議論されがちであります。これを避けるべしというのが私の考えであります。

 さらに、技術的にいいましても、現在の憲法の改正には、たしか私の記憶では国会議員の三分の二の支持、賛成と、さらに国民投票が必要である。すると、問われる方の国民、国民投票にかける場合に、国民の側からいうと包括的な憲法改正というのは甚だ迷惑であります。一例を挙げれば、九条問題がある、あるいは議院内閣制をやめて大統領制にしようという意見がある、あるいは現在両院制でありますが、これを一院制にしようという議論がある。仮にこの三つの問題がワンセットになって国民投票にかけられたら、国民は、少なくとも私はこれに投票いたしかねます。

 ですから、私は、先ほど申し上げたような、憲法に対する日本人の余りにも固定的な考え方は避けるべきだな、同時に、その議論を最も合理的に進めるためには、憲法を包括的に改正するということはむしろ避けた方がいいのではないかと思っております。それよりも、憲法の改正条項を使って、現在の憲法をより改正しやすいものに改正する。その内容は政治家の先生方が具体的にお考えいただければいいと思います。国会の過半数と国民投票にするか、あるいは三分の二で可決されれば国民投票を必要としないとするか。いずれにせよ、憲法改正をもっと簡単なものに変えるような憲法改正をなさって、あとは一つずつ国民に信を問うていただきたい。それで思い出すのは、アメリカの憲法改正条項のあり方であります。いわゆるアメンドメント、これは一項目ごとに憲法を改正するやり方をとっていますから、仮に国民投票にかけても国民は選択がしやすくなります。

 とりあえず、私としては、憲法論議の進め方から、一種の気分的な、あるいは政治先導的な、言いかえればイデオロギー的なアプローチそのものをやめるべきだということを申し上げたいと思っております。(拍手)

中山会長 以上で公述人からの御意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

中山会長 これより公述人に対する質疑に入ります。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。森山眞弓君。

森山(眞)委員 自由民主党の森山眞弓でございます。

 三人の先生方、お忙しいところ、大変貴重なお時間をいただきまして、また貴重な御意見をお聞かせいただきまして、まことにありがとうございました。

 憲法調査会のメンバーの一人といたしましては、いつもいろいろと考えている問題ではあるんですけれども、特に、特定の問題について理路整然と御提示をいただきまして、いろいろと勉強し、目の開かれる思いがしたわけでございます。まことにありがとうございました。

 いろいろとお聞きしたいことはたくさんあるような気がいたしますけれども、まず、一番最初に発表いただきました小熊先生が、お見受けしたところ大変お若そうに見えますのに、憲法制定当時の問題について、非常に深く御研究くださいまして、冷静に客観的な問題点を提示していただき、ああ、なるほど、そういうこともあるなということを改めて感心いたしました。

 先生は九条の問題に限定して一応お話しくださったわけでございますが、九条の問題はもちろんおっしゃるとおりでございますけれども、憲法が制定されたときのことをある程度覚えております世代の人間としては、確かに、おっしゃるように、憲法が新しく制定されたということが大変大きな歓迎を持って迎えられたということは確かであるというふうに、私も実感として覚えております。

 いろいろおっしゃった問題点もそのとおりでございますけれども、特に、女性の多くの人々から歓迎されたということを私は実感として覚えているわけでございます。それまでは、長い間、忍従のあるいは非常な労働の生活の連続でありました日本の女性の皆さんが、それでも、なおかつ法律的には一人前の地位を認められないままずっと過ぎてまいりました日本の女性たちは、この憲法によって、男性と少なくとも法律的には地位が同じということが認められ、そのときすぐに変わったわけではありませんが、それから後、新しい法律が次々に各分野においてできまして、そして現実の生活も少しずつよくなってきたのが事実でございます。

 憲法を制定されたことによってはっきり変わったのは、参政権が得られたということでありまして、そのことを非常に喜んで、私は当時はまだ参政権はない年齢だったんですけれども、母親とか周りの女性の先輩方が非常に喜んでいらっしゃるということを実感して感じました。

 男女共学ということもそのときから認められまして、その結果入れるようになった大学へ私も初めて入ったというような経験がございまして、確かにあのときは歓迎一点張りだったなということをいろいろ思い出したわけでございます。

 もちろん、マスメディアも、マスメディアというのは大体そのときの権力に対して迎合する傾向がございますので、占領軍のイニシアチブでつくられた憲法に対してはほとんど全面的に賛成であり、歓迎したというふうに思います。

 そういうことにあおられまして、国民全体も心から歓迎したというふうに思うわけでございまして、それからいろいろな局面を経て今日に至るまで、おっしゃるようなさまざまな問題がありまして、時に議論があり、また問題があり、疑問もあり、大変なことがあったわけではございますが、国会において、衆議院と参議院、両方に憲法調査会が設けられるというところまで参りまして、大変時代が変わってきたなというふうにつくづく感じている次第でございます。

 ほかの先生方も第九条を中心としていろいろとお話しくださいました。

 しかし、憲法改正という話になりますと、どなたもみんな九条のことをおっしゃるものですから、いや、憲法改正といっても九条だけではないのでございます。いろいろなことがございますので、私は、あえてそれ以外のことを三人の先生方に御質問したいと思います。

 それぞれ御研究なさっているテーマとは違いますでしょうし、また御専門でないという方もいらっしゃると思いますけれども、先生方の御見識によりまして、御感想でもいいですから、ちょっとおっしゃっていただければと思います。

 私が一番関心を持っております一つは、国会の改革についてなんでございます。特にこのことに関心がございます。

 実は、私は昭和五十五年から平成八年まで参議院におりまして、参議院議員をやっておりました。参議院内の問題意識も少しは承知しているつもりでございます。

 けさの公述人の中で、井ノ川さんという方が、一院制にするべしということを強く主張されました。世界には一院制の国もありますし二院制の国もたくさんございます。しかし、日本の場合は、占領軍から一院制を提示されたにもかかわらず、あえて二院制をということで主張しまして、今も二院制になっているわけでございますが、これが実は、一時非常に問題、問題といいますか、参議院の存在意義というものを改めて考えなければならないというふうに思われたときがございました。

 それは、今から思い出してみますと、いわゆる政治改革ということで、衆議院の選挙制度が大いに改められましたとき、それまで中選挙区ということで、中規模の選挙区から複数の候補者を選ぶということが衆議院で行われておりましたのに対しまして、参議院は、さらに広い都道府県の全体を選挙区としてそこから何人、さらに全国区の比例代表制、全国区というのがあって、それがまた全国区の比例代表制というふうになったわけでございますが、衆議院が先ほど申し上げたような中選挙区制から小選挙区と比例代表制を合併したものに変わりましたときに、それでは、規模が多少の違いはあっても、衆議院と参議院の基盤がほとんど同じではないか、これでは余り似通ってしまって存在意義がはっきりしないなという疑問が起こったわけでございます。

 二院制の国は、例えばイギリスには、貴族院という上院がございまして、衆議院は小選挙区。アメリカは、上院が州の代表という立場で、大小にかかわらず一人というふうに決まっています。下院は小選挙区ですね。それから、カナダなどは、上院は推薦で任命され、下院は小選挙区で選挙によるというようなやり方で、みんなそれぞれ、やり方、選び方やそれから基盤が違うわけでございますので、それなりに違った角度から世論を吸収して、それを反映していくということができるわけでございますが、日本の場合は、確かに創設当時は違ったと思うんですけれども、その後、衆議院の選挙の変化によりまして特徴がなくなってしまった。これは困るから、参議院議員同士でみんなで知恵を集めて、新しい参議院のあり方を考えようじゃないかということを言ったことが平成の初めごろにございました。

 そのとき、参議院議員が各自自由に考えて何でもどんどん提案してみなさいという話になりまして、結局数十種類も案が集まったわけでございます。私もその一人で、自由に何でも言えとおっしゃるならというので、私も考えた案がありまして、それは、今うろ覚えですけれども、地方区だけにするという案を考えたのでございました。

 しかし、数十種類もあったものですから、みんなでまたそれを集めた上で整理をして、少し取捨選択をして、幾つか、三つか四つに絞ったわけでございますが、その中に、非常に有力な案といたしまして、参議院は良識の府と言われているわけなのだから、それらしい姿にするのには、全国的な規模の職能代表とか学識経験者を選出するということはできないかという案がございまして、それが非常に重要な候補の一つになったわけでございます。

 非常に真剣に検討いたしました。多くの議員がそれができれば賛成できるということをみんな言ったわけでございましたけれども、例えば、政党や団体が推薦をして、それを何らかの方法で選んで議員にするという方法がないかということだったのでございますが、そこで、専門家の方に研究していただきましたところ、憲法第四十三条の一項がネックになりました。

 これは、「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。」というふうに書かれております。これが、特に「選挙された議員で」という言葉があるものですから、推薦したというのじゃだめだ、推薦した人を並べて、そしてその全体のリストを選挙するという方法はどうかというようなことも考えて、いろいろ工夫をしようとしたのですけれども、結局はそれができなくて、動きがとれなくなってしまいました。そのために、せっかくの名案だと思ったことがポシャってしまったという経験がございまして、大変残念だなと思っております。

 先ほどお話しした午前中の井ノ川公述人は一院制ということを主張されましたし、同じく午前中の川本公述人は一票の重みという問題も言及されました。これらもみんなそれぞれ重要なことだと思いますけれども、今私が申し上げたようなことも含めて、国会のあり方、あるいは議員の選び方、必要に応じてもっと柔軟に運用しやすいようにするべきではないかというのがその当時以来の私の思いなのでございますが、三人の先生方、それぞれに御感想をお聞かせいただければありがたいと思います。

小熊公述人 今の御意見につきまして、私が持っている知識の範囲で多少のことをお話しさせていただきたいと思います。

 職能代表あるいは学識者という人々を推薦するという形で選べば参議院が独自性を持った良識の府になるのではないかとお考えになられた、その場合に憲法四十三条第一項がネックになったという、その件についてどう思われるかという趣旨として受けとめました。

 実は、この件については、一九五〇年代ぐらいに、自由党それから自由民主党の憲法調査会が設定されていましたときに、いろいろと議論になった憲法条項の中にこの問題が少しありまして、当時の調査会の議論では、御質問になられた御趣旨とはちょっと違いますけれども、参議院は戦前の場合には政府推薦議員によって編成されていた、選挙ではなかった、ですので、政府推薦議員制度を復活させてはどうかという考え方がその当時の自由党及び自由民主党の憲法調査会の中で行われたわけであります。そのほか、もちろん、二十四条を改正するとか六十六条を改正するとか、いろいろ随分議論が行われたその中の問題の一つとして論じられたわけですね。

 ただ、やはりその案は、結局のところ、日の目を見なかったというか、通らなかったわけであります。それは、やはりかなり包括的な憲法改正の案という形の中の一つとしてそれが論じられたということがあって、全体としてはやはり九条に対する改正は反対というような問題の中で論じられて、その問題は余り国民の知るところとならなかったということも一つありますけれども、やはり推薦議員制度の復活ということになりますと、結局これは、具体的には政府が推薦するということになる、戦前の政府が推薦する推薦議員ということになりますと、大概政府に対する貢献の認められた元官僚でありますとか元軍人でありますとか、そういった人々が推薦議員という形になっていた、その制度に戻すのかということになりますと、これは余り民主的な方法ではないという反発があったということとして記憶しております。

 おっしゃられるように、上院と下院という形にアメリカではなっている、あるいはイギリスでもなっている。しかし、あれはそもそも選挙される基盤が全然違う。それに対して、日本の場合には、その辺、衆議院と参議院の基盤がはっきりしないというのは御指摘のとおりだと思いますけれども、しかし、学識あるいは職能経験者を選ぶという形になりますと、これはだれが推薦してという形のことが大きな問題になってまいります。今の森山先生の御意見ですと、政党が推薦してという形のことをおっしゃられたように記憶しておりますけれども、そうしますと、これは比例代表制で選出するということに近くなりますので、憲法を改正するという問題ではなく、参議院を比例代表制に全面的にして、できるだけ学識あるいは職能経験者を推薦するという方向にしたらどうかという問題の、選挙法の改正の問題になってまいります。それは憲法の改正とはまた別個の問題になってくると思います。

 憲法を改正して推薦議員ということになりますと、これは政府推薦ということになるのかということになりますと、かなりこれは民主主義の骨幹の問題にかかわってまいりますので、問題が難しくなるかと思います。これは私の思った点であります。

船曳公述人 二つのことを思いました。

 一つは、イギリスで貴族院というのがありまして、あれは、多分、日本の参議院よりさらに本当の権限みたいなものはないのかと思います。見ていますと、いすの色が、普通の方が緑で、貴族院の方が何か色が違うだけで、何てことないなという感じなんですけれども、テレビで中継を聞いていると、やっている議論はすばらしいんですね。そして、その貴族院での発言がニュースで取り上げられたり、また、もう一つの下院というんでしたか、そちらの代議士の方に反映されたりして、要するに、ある種の高い見地から、ユニークな、そして、今までの政治的な経験などから高い議論をするんですね。

 そうしたことが日本でうまくいくかというような懸念を持たれるかもしれませんが、しかし、それはもしうまくいったら、とてもいいことだろうなと思うのですね。

 例えば、新聞でしか知りませんが、塩川さんという代議士の方がいらして、もうおやめになって、しかし、元気でいろいろ活動なさっているわけですが、例えばああいう方が貴族院の方に入って、貴族院、貴族という名前はあれですが、何とか院の方に、元老院でも何でもいいですが、それで議論するというような、もしくは職能集団であるとかそういうところから選ばれた方がするというような、そういう場が国会の中に一方においてあるということを確保しておけば、しかし、本当は権限ないからみんな無視してしまうよというんだったらどうしようもないのですが、しかし、正しい意見というのは何らかの形で反映されていくであろうという、私は比較的オプティミスティックな人間ですからそう考えますので、そういう形に参議院を特色のある特化された院にするということは可能であるし、有益であろうと思います。その意味で、一院制ではないことを私は考えます。

 もう一つ思ったのは、文化人類学者として割と地方に行ったりすることがあるのですが、最近の地方の町の荒廃、いわゆるシャッター通りというのはもう大変なものがあります。あれは、もう言葉よりも本当に現実的に大変なことで、日本の構造が変わりつつあるなというふうに思います。

 そうしたときに、例えば、米国の上院のようにどんな小さな州でも二人の上院議員がいるというような形で、どんな人口の少ない県でも二人の参議院議員がいるというような、そういう形態は僕はあり得るんじゃないかなというふうに思っています。それは、今、選挙区の問題がよく、定数ですか、その問題が、違いますね、何か一票の重さということが衆議院の方で問題になっていますけれども、逆に参議院の方は、別な形で傾斜配分をつけられるような院として参議院をとらえるということがあり得るのではないか。

 そんな二つのことを思いました。

山崎公述人 私も、職能代表あるいは学識経験者による参議院といいますか国政への参与ということには若干疑問がございます。

 職能代表といっても、職能をどう分類して、それぞれその代表の数を決めるか、比例を決めるかというのは大変難しいでしょうし、学識経験者に至っては、甚だその定義があいまいですので難しいだろう。

 現在、二院制が行われていて、一人の市民として見ていて、全く同じ議論を同じ立場で二度御議論になるというのは、いかにもエネルギーのむだのような気もします。

 ですから、差し当たって憲法にも何も抵触しないのは、参議院という議会は、もちろん政党制を基盤にして選挙されるが、一たん選ばれたら任期いっぱいは党議拘束を受けないというふうなことにしておかれたら、それぞれの政党の中の微妙なニュアンスが非常によくあらわれて、それはやがて衆議院の方にも、しっぺ返しといいますか、戻ってくるのではなかろうか。

 ですから、参議院というのは、地盤的には同じ選挙区から選出されているけれども、より政治家個人の個性が発揮できる場であるというふうなことは、割と簡単に、憲法ではなくて議会の法ですか、そういうものの改正で済むんじゃないかという気がします。

森山(眞)委員 ありがとうございました。

 確かに、おっしゃるとおり、例えば職能代表といっても、職能というのは何かとか、学識経験者もいろいろ定義をしなきゃならないので、とても難しいことはよくわかっておりまして、しかし、その前に憲法違反だということを言われちゃったものですから、それ以上前に進めなくなってしまったということがあったものですから、非常にそれが無念に思いましたので、お話し申し上げてみました。

 先生方はそれぞれ違う分野で御活躍の方ですけれども、非常によいアドバイスをいただきまして、よくわかりました。ありがとうございます。

 それから、私は、前に文部大臣をしたことがございますし、その後、党の文教制度調査会長を長いことやっておりまして、教育に大きな関心がございます。

 教育に関して申しますと、先ほど山崎先生もお触れになりましたけれども、八十九条の問題、つまり私学助成の問題がよく取り上げられるのでございますけれども、きょうはそのことを申し上げたいわけではございませんで、もう少し違う話にしたいと思うのです。

 最近は、法務大臣をしておりましたものですから、その見地から青少年犯罪の問題などもかなり詳しくフォローしておりまして、その原因とかどうすればいいかということを大変考える機会が多かったのでございますが、結局、つまるところは教育の重要性ということに行き当たりまして、改めてその教育というものの重要性を強く感じたわけでございます。

 先般、昨年の選挙はもちろんですが、その後もたびたび選挙区に帰りまして有権者の方々とお話しいたしますと、いろいろなことをおっしゃいまして、今の政治について、例えば年金の問題とか、あるいは経済対策の問題とか、いろいろなことが議論の対象になるわけでございますけれども、少し時間があってゆっくり話をするようになると必ず教育の問題に行き当たるわけでして、教育を何とかしてもらいたい、学校の予算が足りないとか、先生方の教え方がどうだとか、教科書がどうだとかということもおっしゃる方もございますし、学校の施設もよくしてもらいたい、予算もふやしてもらいたいという話がございます。しかし、それらのさらに基本にあります教育基本法の問題について何とかしなくてはいけないんではないかという御指摘が、たびたび、いろいろなところでございます。

 先ほど山崎先生もちょっとそのことにお触れになりましたけれども、お三人ともそれぞれ大学の先生でいらっしゃいますので、これも非常に御専門ではないことをお伺いして大変失礼でございますけれども、お三人から御感想をいただきたいと思うわけでございます。

 教育基本法の改正につきましては文部科学省も大変真剣に取り組んでおりまして、たしか一昨年あたりから役所としても真剣な検討を重ねてまいりまして、自民党としても、昨年来、鋭意取り組んでいるところでございます。今は与党協議が精力的に行われておりまして、大変、週に一遍ですか、それ以上ですか、たびたび回を重ねているようでございます。

 その中に、いろいろな話題がございますけれども、やはりこれも山崎先生が一言おっしゃいましたが、愛国心という問題があるのでございます。

 教育基本法と私聞きますと、これがいつも憲法と一対といいましょうか、憲法ができてすぐに教育基本法ができた、逆でしたかしら、何か非常に接近した時期に両方ともできたのでございまして、教育基本法がその後、憲法と同様に、一度も改正されておりませんで、憲法の精神にのっとりとか、憲法の言っているとおりこれをやるとかいうようなことが書いてある。いかにも憲法の別働隊みたいな感じになっておりますね。ですから、これは憲法の改正と大いに関係もあると私は思うのでございます。

 与党の協議あるいは自民党の中の議論の中でいろいろ話題になります愛国心の問題について、愛国心というのは非常に漠然とした言い方でございまして、先生から説明をしていただいたんですけれども、私は、ごく素朴に言って、家族や郷土を愛する心の延長なのではないかというふうに思いますし、伝統文化というと先生がおっしゃったように難しいことになるかもしれませんが、伝統文化を尊重して郷土を愛する心というようなことにもなるかと思います。さらに言えば、平和で豊かな文化の薫り高い、国際貢献もする民主国家である、このような日本の国を愛し、誇り、大事にするというようなことではないかなと思うわけでございます。

 教育基本法にもちろんそういうことは何も今のところないわけですけれども、これに入れようとか入れるまいとかという話がございますけれども、これを考えていくと、私は、憲法の例えば前文にそのような趣旨のことを入れた方がふさわしいのではないかというふうに思うわけでございます。その点について三先生の御感想をお聞きしたいと思います。

小熊公述人 この点につきましては、なかなか軽々に語りにくい問題なのでありますけれども、まず、お話が、青少年犯罪、それから教育の方面から教育基本法、それから憲法前文へ愛国心を記入するべきかどうかという、そのような流れであったと受けとめております。

 私、思いますけれども、青少年犯罪の増加と愛国心を教えるかどうかということについて直結関係があるのかどうかということについては、これは慎重に考えなくてはいけない問題だと思います。

 例えばの話、愛国心を教える、あるいは国旗に対する敬愛を教える、あるいは自主憲法を持つ、あるいは正式に軍隊をうたうという形にすればもし青少年犯罪が減少するのであれば、アメリカは青少年犯罪が非常に少ない国でなければならないはずだ。あれだけ国旗に敬愛を誓って、軍隊ももちろん自主憲法として持っている国が、ほかにも、徴兵制を持っているドイツなどでも青少年犯罪は多うございます。ですから、その問題と直結させて論じるのはいささかいかがなものかと私は思います。

 私は教育関係の学者さんや何かともお話しする機会はありますけれども、私は教育は専門外ですが、やはり、青少年犯罪の増加、それから学級崩壊と呼ばれるような、児童がなかなか先生のコントロールのもとに入ってこないという問題というのは、これは日本だけの問題ではなく、先進諸国でいろいろ起きてきている問題であります。そこで、日本だけではなく、いろいろな諸国の教育学者たちが議論をしておりますけれども、即効性のある対策というものについては、なかなかこれといった決め手は出ておりません。ただ、一つ言えるのは、教師一人当たりの人数を少なくする、例えば四十人学級を二十人学級にするとか、そういったものは直接的な効果は明らかにある。それは先進諸国でもしばしば実験され、また実際にそのような形になっている先進諸国が多うございます。

 これは、アメリカでもそれからフランスでもその他の諸国でも、憲法に愛国心を書き込んだり、あるいは自主憲法を制定するという形によって青少年犯罪が解決するのではないかというような議論というのは、私は寡聞にして余り聞いたことがございません。それらの国々では恐らくそういう議論の形態にはならないんだと思います。

 日本では、たまたま憲法の問題、つまり、憲法が制定された経緯の問題があり、それから青少年犯罪の問題があり、教育の問題がありという形のことがいささかごっちゃにされて議論される傾向があるのではないかと思いますけれども、私はこれは別個の問題であると思います。

 以上です。

森山(眞)委員 今先生がおっしゃったとおりでございまして、私は、少年犯罪が多いのは愛国心を書いていないからだと言うつもりはございませんで、少年犯罪が多いことについて議論をしていきますと教育全体の問題があるということになって、その結果、いろいろな、学校の問題、教科書の問題、先生の問題ありますけれども、最後は、教育基本法がちゃんときちっとしていないからではないか、今の世の中に合わないからではないかという話に結局なりまして、そのときに、愛国心も教育基本法に入れるべきじゃないかという話になっているということを申し上げたつもりでございます。済みません。

船曳公述人 御質問に関連して考えたことというのを申し上げます。

 本当はこれは長い話なんですが、教育の問題で、私も大学で教えておりますと、教え込むということは確かにあるわけです、算数の九九を教えるとか。しかし、教育というのは、基本的に、ある人間が自分で学ぶということに尽きるんですよね。そういう学ぶ場を与えられるかどうかということだけが問題で、そのときにいかに教師がどう見張ってあげるかということが教育なんですね。あたかも、教育というと、こちらが何かをしゃべると向こうの脳みその中へ入っていく、そういうモデルで考えますが、それは本当に間違いなんですね。

 実は、私ごとのような変な話をしますが、ここに座っていらっしゃる小熊さんは、かつて私のゼミの学生だったのであります。最初の授業のときに小熊さんがあらわれて話をなさって、そのときに、僕はすぐ、僕よりもよく勉強ができる人だと思ったので、第二回目の授業から、ではきょうからは小熊君を師範代にしてやろうというふうに申し上げました。では、私は何も教育者として小熊さんに何も与えられなかったのかというと、そうではありませんで、その場を私はつくったということで、今日の小熊さんの一端ができたという意味では私はもう大変な誇りを持っております。

 青少年の問題も、単に学ぶ場だけじゃなくて、問題は、多分、生きていく場というか機会、オポチュニティーというのがあるかないかだと思います。日本は豊かな社会で、それがずっと与えられてきて、右肩上がりで上っているときには、それが自分にとって場があるのだという意識が強かったのだと思いますが、今は、閉塞感があり、実際、上の方に年をとっていきますと、大きくなっていきますと、収拾ができないとかいう意味で、場が閉ざされてきているということが、犯罪というよりは、ある種のドロップアウトといいますか、そのことになっていると思います。だから、学ぶ場、生きる場というのをどのようにつくっていくかというのが最大の問題ではないかと思っています。

 それから最後に、愛国心についてですが、ちょっと変なことを申し上げますが、失礼かもしれませんが、お聞きください。

 私は、かねがね、国会議員の方々とかそうした方が愛国心についてどうしてこれほどまでに語るのかということが不思議に思われてきましたが、あるとき、ああ、そうなのかと思いました。つまり、国会議員は仕事として国をやっているんですね。だから、それが愛されないと困る。例えば、野球をやっている人は、野球はどうしてこのごろファンが減っているんだろうといって非常に気にしているわけですね。サッカーの人たちはサッカーのことばかり考えている。やはり、自分の御専門のことなので、国についてみんなが注目していないというのが非常に不安なのかもしれません。

 しかし、愛国心というのは、僕はその国の中における国民相互の共通理解というのが愛国心だというふうに考えています。その点でいえば、我が国は例えばアメリカなんかと比べましてはるかに長い、もう五倍も十倍も長い歴史を持っていまして、共通理解を千数百年の間につくり上げてきているのです。ですから、愛国心などという言葉を一々使わなくても、旗をどうだといって見せなくても、お互いの共通理解というのは非常に高く、厚くあるのです。このことは余りにもそうなので意識されないかもしれないけれども、言葉においても文化においても、共通の感情、感覚、さまざまな点においても、山崎先生の御専門ですが、文化の点でも、我々が共通に持っている理解というのが高くて、もともとある意味では愛国心は十分にあるのですね。それが愛国心という言葉で表現されないことが、国会議員の方々は自分が国についてやっているので御心配なのではないかと思われますが、そんな御心配をなさる必要はないと私は思っております。

山崎公述人 私は、今の制度的な教育というものが両刃の剣であったと思うんですね。

 実は小渕内閣で、ある種の、いわゆる学識経験者を集めた懇談会がありまして、日本の将来を考える中で私は教育の部門を担当させられたんですけれども、振り返ってみますと、日本の初中等教育、簡単に言えば義務教育というのは本当に今至れり尽くせりだし、ある意味で言えば大成功をおさめた、予算も十分につぎ込まれてきた。その結果何をやったかというと、教育が全部学校、それも政府の学校に吸収されてしまいまして、社会全体がもともと持っていた教育機能というのが著しく衰えた。

 昔ですと、農民の子は、親と一緒に田畑へ出ましてそこで教育を受けます。職人の子は、親と一緒に職場で勉強しました。商人も同様ですね。そのほかにも、例えばお寺が一種の教育機能を持っていたり、社会全体の中にそういう教育機能が分割してあったわけです。ところが、これを全部学校に吸収した結果、先生たちの重荷が大変重くなった。

 大体、学校という方法で教えられるようなことの中に、しつけというのはもともと入りにくいわけです。ああいうものはほとんどマンツーマンで、しかも体から体へ覚えさせていくという性質のものだ。そうしますと、本来ならこれは親がやるのが一番よろしい。その次は職人の親方がやればよろしい。そういうことまで学校へ持っていってしまいました。次第次第に学校の教育権限も高まりました。

 これはもう簡単な話ですが、私どもは、大学教師には無資格でなれますが、小学校の先生になるためには、別途勉強して試験を受けなければなれないわけです。ですから、親が子供を教える、自分の子供はよろしいが、その辺の子供を集めて勝手に学校などをつくるとこれは法律違反なんですね。

 その点はいいんですが、その結果、私は、社会全体が教育に無関心になり、かつ無能力になった。そこで、そのときに申し上げたのは、一種の警鐘を鳴らすつもりで大変過激なことを申し上げる。学校、義務教育週三日制、読み書きそろばんだけを教える、あとは遵法精神。

 私は、愛国心というのは、先ほど申しました、具体的には日本の法と制度をきちっと守る、これが愛国心であろうと思うんです。ですから、それは教えなければならない。法律に違反したらどういう目に遭うかということは、子供にもしっかり痛い目に遭わせて教えればいいと思うんです。あとは読み書きそろばんで、余計なことをいろいろと学校で教えてサービス過剰になって、そのうちにサービスを受けることが義務になるという非常に悲しい喜劇が起こっているのが現代だと思うんです。

 ですから、私は、今大学などを見ておりましても、大体、日本の大学教育がもう職業教育訓練についていっていないんです。一部の非常に伝統ある古い大学、そして上質の大学の場合は、先生はおれの背中を見てついてこいで済むわけです。つまり、職業教育なんかする必要はないので、研究者養成の教育をしている。あとの人間は、少し薄められた余り物をちょっと身につけて企業へ行く。企業が教育してくれるわけです。オン・ザ・ジョブ・トレーニングですね。

 ところが、これからはそうはいかないだろう。企業が教育機能を失っていく、これからますますそうなると思います。その理由を申し上げると長いんですけれども、少なくとも企業は即戦力を採るようになりますし、それから、大体、従業員が企業間を渡り歩くようになりますから企業教育というのも難しくなる。すると、本当は大学で職業教育もしなきゃいけないんですけれども、それだけの能力のある教師というものがめったにいない。

 笑い話みたいな話ですが、経営学の先生をつかまえまして、あなた何を教えていますか、簿記原論を教えていますと。私は職掌柄、今小さな大学の学長をしておりますので、簿記原論は結構ですけれども、同時に簿記も教えてくださいと。その人は顔色を変えて、とんでもない、そんなものは大原簿記学校へ行って習えばよろしいと。その結果、実際に今の大学生たちは、ダブルスクールと称して職業教育を別に受けに行っているんです。

 これは大学だけの問題ではなくて、私は、高校段階、義務教育の終わりぐらいから職業教育を始めたらいい。それも、学校でやる必要はないんです。どんどん徒弟教育に出せばよろしい。今、シェフだとかそれから菓子づくりの職人なんというのは大変なあこがれの的なんですね。野球選手でも結構です。いろいろな職業というものの魅力さえわかれば、そこで彼らは技術を学ぶと同時に道徳も学びます。

 ですから、こういうことになっていきますと、今の省庁の縦割りが果たして十分機能しているか。つまり、文部科学省と厚生労働省、旧労働省ですね、そのあたりとの連携というのは非常に大事になるんだろうと思うんですが、私は、いわゆる基本法の問題ではなくて、もっと具体的かつ技術的なことが日本の教育の問題だという感じがしております。

 どうも長講で済みませんでした。

森山(眞)委員 ありがとうございました。大変いいお話を承りまして、いろいろと勉強させていただきました。

 憲法そのものからちょっと外れた話が多くなりまして、まことに失礼いたしました。ありがとうございました。

 終わります。

中山会長 次に、辻惠君。

辻委員 民主党・無所属クラブの辻惠でございます。

 本日のお三方のテーマは、中心的には九条と憲法ということだろうと思います。そこで、その問題に即して質問をさせていただきたい、このように思います。

 憲法を考えるときに、やはり百年の大計である、百年、二百年のタームで物事を考えなければいけない、このように思います。そうしたときに、今の憲法は、一七八九年のフランス革命や一七七六年のアメリカの独立宣言に系譜を発している近代の始まりの、その流れの中で成立した国民国家としての日本の、ある意味で歴史的な現在としての今の日本の憲法だというとらえ方がまず重要なのではないかと思います。

 したがいまして、私は、九条と憲法という問題を考えるときに、そういう歴史的現在の現時点に立って百年、二百年の大計として考えたときに、人類史的な、世界史的な観点の中で物事を考えるべきだろう、このように思います。そういう意味におきまして、国民国家ということを前提として国権主義を語るということは、それは世界史的な、人類史的な流れからいって極めて狭い観点でしかないのではないか。

 きょうも公述人が御指摘になっておられるように、EUなり、そういう国民国家を超えた、地域の経済共同体にとどまらない政治的な共同体、その中で安全保障や防衛の問題も考えられようとしている。そういう歴史の歩みの中に立って、日本もまた、例えば東アジアにおける地域の連合体を目指していく、そのような観点が現実的に考えられなきゃいけないのではないか、このような考えを私自身は持っているわけであります。その上で、きょう述べていただきました各公述人の皆様方に順次御質問をさせていただきたいというふうに思います。

 まず、小熊公述人にお伺いしたいと思います。

 私は、弁護士をやっております関係上、若い世代の弁護士と接触する機会も少なからずあります。司法試験の内容はどうなっているのかというふうな話をするときに、憲法はどういう教科書を使っているのかというふうに聞いたときに、私どもの時代は、宮沢、清宮とか、芦部さんとか小林直樹さんとかいうような教科書を使っていて、ある種の傾向がやはりあった。今の若い弁護士や受験生に聞きますと、どうもトーンががらっと違っている、時代を感じることが非常多いわけであります。

 そういう中で、若い世代に所属されている小熊公述人のきょうのお話は、非常に私としては心強い思いをして聞かせていただきました。九条を含んだ日本国憲法の制定の経過について、非常に丹念に事実を精査されている。今、押しつけ憲法、だから自主憲法だというふうな声も一部にある。そういう状況の中で、感情的な改憲論に走ることの戒めとして、きょうのお話は非常に説得力のあるものであったように思います。

 そこで、小熊公述人にお尋ねしたいのは、国際関係を考えてこの九条問題は慎重に考えるべきだというふうに結論的に述べておられますが、先ほど私が申し上げた歴史的な現在としての日本においてのこの問題を取り扱うという観点で、もう少しこの九条論議についての小熊公述人のお考えを伺わせていただければと思います。よろしくお願いします。

    〔会長退席、船田会長代理着席〕

小熊公述人 非常に長期的なタームに基づいた人類史的、世界史的な流れ、つまり、おっしゃられましたことは、現在の憲法はフランス革命とかアメリカ独立革命以来の近代憲法の流れのものであって、しかし、時代は、国民国家の時代を超えて、地域共同体もできつつあるような時代に入りつつある、その中において、近代国民国家の憲法としてできた日本国憲法をどのように考えていったらよいのかというようなことの御趣旨であったろうと思われます。

 私は、そのようなかなり大きな問題についてここで簡単にお答えをすることはなかなか難しいのですけれども、いきなり話を非常に現実的な目先の問題に戻してしまうとするならば、やはり東アジアの中で日本はやっていかざるを得ないだろうということが一つのつながりになるかと思います。

 日本の戦後、戦後と言ってもかなり長い時間があったわけですけれども、この場合には戦後と言ってもよいぐらいの一貫した流れとして、やはりアメリカとの外交を一番に置いてきた。

 よく言われますことは、ヨーロッパではEUができたのに、東アジアではなぜ東アジア共同体のようなものができないのかというようなことが言われることがございます。

 これについては、ヨーロッパ研究者や何かとお話をしたことがありますけれども、やはりヨーロッパの場合には、第二次世界大戦後の戦後処理におきまして、やはりフランスとドイツでありますとか、あるいはフランスとイタリアでありますとか、あるいはベネルクス三国とドイツ、フランスでありますとか、そういった国々同士の直接的な話し合い、それからもう一つはやはり戦後補償問題に対する取り組みというようなものがいろいろ存在したということがあるわけです。

 ところが、東アジアの場合には、韓国と日本、あるいは中国と日本というような外交関係よりは、韓国とアメリカ、日本とアメリカというようなアメリカとの個別交渉の中で、ある意味でいいますと扇状に東アジアの国々が広がってしまっているという形で、つまり、日本と韓国に直接の連絡があるというよりは、日本とアメリカが連絡して、アメリカと韓国が連絡をして、そして、アメリカと両方が話がついた上で日韓関係をつくるというような形になってしまうということが多かったということがあるわけです。一九六五年の日韓会談などはやはりそのような形として進んできたという経緯もあるわけですね。あるいはまた日中の国交回復も、明らかに、米中の国交回復の方が先行するという形で初めて日本と中国の間で話がついたということであったわけです。

 つまり、私がここで何が言いたいかといいますと、東アジアにおいてEUのようなことができなかったのはなぜか。それはやはり、東アジアにおいてはアメリカの力が強過ぎた、アメリカとの個別関係の中においてやってくるということが余りにも強過ぎたということは一つ言えるのではないかと思います。

 その関係の中において憲法がどのような関係を持つかということになってくるわけなんですけれども、私のきょうの話の流れでいいますと、日本が現状の対米関係の中で九条を改正して軍隊を自由に動かせるという形にするのは、やはり対米従属をより深める形の方向になっていくという可能性が強くなってしまうのではないかと思います。先ほども申し上げましたとおり、韓国、中国などアジア諸国に対しては危惧の念を抱かせかねないわけですし、また、アメリカの、例えばイラク、アフガニスタン等々への派遣というものの要請はやりやすくなってくるという形になってきますと、むしろアメリカへの関係が強まり、そして、対アジア関係の中ではより難しくなっていくという方向になってしまう可能性が強いのではないかと思います。

 その意味におきまして、アジアでの地域共同体をつくるというような形を将来を展望して憲法を考えるということの中でも、やはり九条の安易な改憲というようなことを、自主憲法制定、押しつけだから改正というような形で進めていくということに関しては慎重であるべきかなというふうに思いますというのが、私の一応お答えできる範囲のことです。

辻委員 きょうの公述は九条の歴史的経緯ということでありましたので、限られた論述をされておられます。ですから、もう少し広く、いわば船曳公述人がおっしゃっておられるような戦略的平和論というべきか、今後の憲法論としてどのようにお考えなのかなということを伺いたい、そういう問題意識で質問させていただいております。

 私は、東アジアの地域共同体というのが一つの手がかりになるのではないかというふうに考えて御質問させていただいていますけれども、それを是とされるのか否なのかということがまずあります。是とされる場合に、では、九条論議をどのような諸要素を配慮しながら考えていかなければならないのか。今のお話では、韓国、中国の世論なりそういう動向、日本をどう評価するのかということが重要であるという御指摘があったと思いますが、それ以外にいろいろ考慮しなければいけない、今後論議をいろいろ幅広く深めていく上に当たって論議をしなければいけない諸要素ということについてどのようにお考えなのか、伺わせていただければと思います。

小熊公述人 かなり仮定を含んだ話になってしまいますけれども、もし万が一東アジア共同体というようなものがEUのような形ででき、そして、EU共通法のような形で東アジア共同体共通憲法みたいなものがもしできるとするならば、日本国憲法及び第九条が役割を終えるというようなことはあり得ることかもしれないと思います。ですが、九条を先に改正して、特に、現状の中での国際関係、日米関係の中で先に九条を改正してそれから東アジア共同体をつくるという議論に入っていくというような形のことは、現状から考えますと、韓国、中国、その他の国々の外交関係を難しくする方向になってしまうのではないかと思います。

 それでお答えになりますでしょうか。

辻委員 はい。

 与えられた時間が三十分ですので、次に、船曳公述人に伺わせていただきたいと思います。

 船曳公述人がおっしゃられたように、まさにクラウゼビッツが「戦争論」で、戦争は外交の延長である、別の手段をもってする政治なんだというようなことを言っているというふうに思います。

 そういう意味におきまして、安全保障や戦争の問題を考えるということは、その国にとって、今後の国の方向性、政治選択、政治姿勢をどのような方向に向かっていくのかということが問われてくるということであります。

 その意味におきまして、船曳公述人がおっしゃられたように、従来は、平和憲法論か否かということが論議をされていた。しかし、それは、現実的な戦争の危険性がない、そういうある意味ではコップの中の論議にすぎなかったじゃないかと。冷戦構造が解体をして、今まさに日本は大人の国として、現実に戦争の危険性なり可能性も含めてしょい込んで、そして、どのような方向に向かって歩みを進めていくのかということが今問われているんだ、このような御趣旨に私は受けとめさせていただきました。

 それで、そのような観点に立ちましたとき、日本の対外政策として、それは国のあり方にも反映してくるわけでありますが、どのような方向性を目指すのがより適切だというふうに公述人はお考えでしょうか。

船曳公述人 日本は難しい位置にいつもいると思います。それは、中国とロシアと米国という三つの超大国の谷間におりまして、これ以上難しい地位はない。できれば、日本の島をずずうっと持っていってイギリスの横あたりに行くと、今まで百五十年努力してきた欧化政策とぴったりしまして、我々として生きやすいのですが、そういうことはできないとすると、アメリカとロシアと中国の間で中くらいの国としてやっていくという、その場合のかじ取りは非常に難しかろうと思います。

 先ほど東アジア共同体みたいなお話が出ましたが、それもとても難しいのですね。つまり、東アジアはヨーロッパとどう違うかというと、ローマ帝国がそのままその外枠をずうっと現在まで持ってきているのが東アジアです。

 つまり、中国というのが、実は、中国の歴史の三分の一ぐらいは割れているんです、三国時代であるとか南宋、北宋であるとか五胡十六国とか。しかし、三分の二ぐらいは統一されていまして、特に、最近の数百年、元、明、清と統一されています、その間にちょっと割れますけれども。

 そうした形と比べると、ヨーロッパは、ローマ帝国は分解するのです。しかしながら、分解しながらも、キリスト教という、クリステンダムという緩やかなカテゴリーで覆われていて、緩やかに覆われていながら、中が、相互、言葉も違い、対立している、そういうことを千五百年ぐらいやってきているのですね。ですから、彼らはけんかをしたり仲よくしたりすることになれているわけです。

 人類学で言うのですが、戦争というのは敵にもなり味方にもなる人とするのだというふうになっています。これはあるいは、敵と結婚するという言葉がいろいろな社会にあります。それ以外の、敵でも味方でもないところに行くと大虐殺をするのですが、敵であり味方である人たちとはルールを持って戦争をしてきたというのが、農業文明の形ですね。

 そういう形で、ヨーロッパは、敵にもなり味方にもなりながらずうっと来て、しかしながら、キリスト教という覆いがあったので、現在、EUの中核というのはほぼそういうことになっているわけです。ですから、EUが今度イスラム教の国々を入れるとなると、それはまた一つ段階が飛躍していくわけですね。

 それで、東アジアはそのようにはなりませんでした。中国が余りにも大きい。中国の留学生によく、中国に帰ったら中国を幾つかに分割してくれと頼むんですね、東北と北京のところと上海地域と。言葉も違いますし。そして、こんなことを国会で言っていいのかどうかよくわからない、私は単なる学者ですので。あと、チベットなりなんなり、いろいろな自治区というのがもっと力を持ってきてある種の連邦になって割れてくると、朝鮮半島も我が国も台湾もベトナムも、そうしたところが意味を持ってくるんですね、適度な大きさの、相互に対立もし合いながら仲よくもするという。

 しかし、余りにもバランスが狂っているといいますか、巨大な中国とロシアとアメリカのはざまに朝鮮半島と我々はいるわけで、その方向は恐らく、EUのようなああした方向は、まだ数百年の間はないだろうというのが私の予想です。

 ですから、どういうふうにやっていくかというのならば、この非常に困難な谷間で中くらいの国としてやっていく、ある意味で非常に独自な国としてやっていくということ以外はないだろうと思っています。

辻委員 今おっしゃられたように、米中ロ、さらに韓国を含めて、そう簡単に地域共同体的なことが展望できない、文化的な意味からしても力関係からしても難しいというお考えを伺って、そういう意味では、日本はやはり、しっかりとした外交政策の基本姿勢、他に追随することのない柔軟な戦略的な観点を持った外交姿勢を持たなければいけないという意をますます強くいたしました。

 そういう観点に立ったときに、船曳公述人が御指摘になっておられる、戦争の性格が変わってきているじゃないかと。それは、形態も変われば目的、価値観も変わってきている。そういう中で、アメリカは、戦争ができなくなりつつあるんだ、しかし、現実にはそれを継続せざるを得ないような状態にみずからを追い込んでいる。

 それで、先ほどおっしゃられたように、アメリカの戦争の大義というのはますます失われて、劣化していっている、このように御指摘になっておられます。私もまさにそのとおりだと思いますが、アメリカが、そのような戦争ができなくなりつつあるにもかかわらず、引きずらざるを得ない、そしてますます劣化していっている、一方で、軍事企業がやはり戦争を突き動かす、そういう経済的な構造に根深くからめ捕られている。そういう中で、アメリカが戦争をしなくていいような選択肢、方向性に歩むことが可能なのか、可能だとすればどういう選択肢があるのか、その点について、何かお考えがあれば、お聞かせいただきたいと思います。

船曳公述人 余りにも大きな質問ですけれども、あり得ると思います。

 それは、一方において、経済というのが、例えば、アメリカ一国の利益ということだけでは終わらないということがわかっていますし、だれもが言うことですが、アメリカ一国の外交戦略というのは早晩行き詰まるだろうということがあるわけですね。そういう意味では、アメリカは学びながら態度を変えていくだろう、その学びながらというのは、要するにマルチラテラリズムになっていかざるを得ないだろうと思っています。

 一言申し上げますと、戦争の価値観が変わっているというのは、これはとても大きいことなんですね。つまり、犠牲とか勇気とか、農業文明の間に我々が培った、戦争の中に人の生が輝くというようなそうしたことは、第一次大戦以降、特に第二次大戦以降、もうないんですね。

 しかしながら、戦争に兵隊を送り出すときには、そうしたことを言わざるを得ないし、まだそうした言葉、価値観でもって戦争を行おうとしていますが、もうそれは本当は無理になっています。ですから、例えば市民権ということをある種の代償にしたり、金を代償にしたりして兵隊を集める以外はない。まともに考えて、未来のある青年だったら、兵隊なんかにはならないんですね。

辻委員 今まさにおっしゃられたように、イラクでのアメリカ軍が民間企業にそれをアウトソーシングしているというような、そういう事実も報道されているところから、非常に納得のいくお話のように私は思います。

 では、日本はどうすべきなのか。アメリカが戦争を本当は引きたいと思っているかもしれない。だから、この十一月の大統領選挙はある意味では非常に注目されると思いますけれども、そういうアメリカの逡巡なりいろいろな悩ましい状態の中で、ブッシュ・ドクトリンにただただ追随しているように私には見受けられる今の日本の外交政策は、戦略的な外交政策の選択肢をすべて投げ捨てて一つに絞って、ある意味では、もうやみくもに走ってしまっているというようにしか映らないわけであります。

 日本が、では、先ほどの、アメリカ、中国、ロシア、そして韓国や諸外国の中で、戦略的に対外政策を大人の政治姿勢としてどのように形成していくべきなのかという、同じ質問にちょっと返ってしまったかもしれませんけれども、日本としては、アメリカ追随のこのような現状をどういうふうに脱却していく方向性、選択肢があるとお考えでしょうか、お教えいただければと思います。船曳公述人。

船曳公述人 非常に古い、しかしながら今後も利用できるであろう国連中心の外交ということに尽きるのではないかと思います。国連というものの内容も変えていくという意味も含めて、国連を我が国の外交のどこかの基盤に据えるということだと思います。

 多分、国連に対する態度は、アメリカも変わっていますし、EUもまた国連に対しての態度を変えていると思います。我が国も、多分、これまでのある種の国連外交主義というのとは違ったタイプの国連の利用の仕方があると思いますが、それぞれの国が変えているように、我々も、しかしながら、国連がまだ残っている、しかし、消えることはないであろう我々の選択肢であろうと思っています。

辻委員 文明論的な視点も含んだ戦略的平和論ということについて、またお話を伺わせていただく機会が持てればというふうに考えております。

 次に、山崎公述人に伺わせていただきたいと思いますが、改正については、憲法改正というふうに考える場合に、包括的に一括してということは余り考えるべきではないというふうにおっしゃられたように思います。

 一方で、確固不動のものというか、未来永劫変わらない、そういう固定的な硬直化した憲法であってはいけない、これは私も同感のところではありますけれども、そのときに、国民道徳をうたうとか、また、人権保障規定の刑事法の手続なりは余り変えるべきではない、また、ちょっと正確にはメモができなかったわけでありますが、民法につながる憲法の条項については変えるべきではないというふうにおっしゃられたと思うわけでありますが、そうすると、具体的には、変えるとしたらどういうことをお考えになっておっしゃられているんでしょうか。

山崎公述人 私の話の重点は、憲法論議をイデオロギー論争にするなということであります。

 ですから、今の民法関係の問題、あるいは基本的人権を守る刑法関係につながるようなものは私が変えるなと言っているのではなくて、そういうものを一括して、例えば九条論争と絡めて議論するような進め方を私は御注意申し上げているわけです。

 それで、個人的な意見を内容にわたって言うならば、私が変えるべきだと思っているのは九条だけであります。

 ただ、今後も、もちろん、大統領制であるとか、あるいは二院制であるとかいったような議論は出てくるでしょう。ですから、それは個別に一つずつ議論できるようにまず憲法を改正して、いわゆるアメリカ風のアメンドメントが可能になるような改正をまずおやりになるべきだろう、そう申し上げたわけです。

辻委員 申しわけありません、時間が余りなくなってしまいましたので、恐らく、きょう冒頭で山崎公述人がおっしゃられたように、本来の国家として、あるべき自己生存権というか自己防衛権とか、そういう意味では、自衛権とか戦力の保持とか、そういうようなところに今憲法が条項的に矛盾を来している、そこを問題にされているのかなというふうに私は思うわけであります。

 最後に、「憲法改正を容易にする法改正を行い、」というふうに御主張になっておられて、これは国民投票法案とか政治的な課題になりつつありますが、憲法改正問題をイデオロギー的な論争の争点にするなという観点から考えれば、国民投票法案につきましても、そのような憲法改正の論議がもっともっと深まった中で検討されなければむしろイデオロギー対立をあおることになってしまうというふうに私などは考えるわけでありますが、その点はどのようにお考えになられますでしょうか。

山崎公述人 必ずしも質問の趣旨を正確に受け取ったかどうかわからないんですが、私は、基本的に国民投票というものはなるべく避けるべきものだと別途考えております。それは我々が間接民主主義というものを、これは恐らく憲法以前の国家の理念として暗黙のうちに共有しているからだと思うんですね。

 私は、別途、本にも書いておりますけれども、直接民主主義というのは非常にある意味では危険な制度でありまして、ファナティズムに走ったり、あるいはいわゆるポピュリズムに傾く動機になりかねない。我々は、選良の皆さんに四年間の知恵を出していただくように国政をお預けしているわけですから、なるべくそうしていただきたい。

 しかし、憲法のようなかなり長期にわたる約束事を変えるのに、これはやはり国民投票が必要だというのであれば、もう少しちょこちょこやれるようにしていただいたらいい。つまり、重みが軽くなる。私は、そもそも憲法問題は国家百年の計とは何の関係もないと思っております。せいぜい国家二十年ぐらいの計であろうと。そうすると、既に五十年もたって、これはちょうど政治家の皆さんが選挙で選ばれるように、そろそろ改選の時期だなというような考え方で見ております。

辻委員 時間が参りました。三人の公述人の先生方、貴重なお話を伺わせていただき、どうもありがとうございました。

 終わります。

船田会長代理 次に、赤松正雄君。

赤松(正)委員 公明党の赤松正雄でございます。

 小熊、船曳、山崎、三人の先生方、きょうは貴重な御意見ありがとうございました。

 先ほど来お話を聞いておりまして、私は、さっきの船曳公述人のお話を聞くまで、小熊、船曳の関係を知りませんでした。師弟、おっしゃることは九条をめぐって極めて似ているなという印象を受けました。公明党におきましては、九条をめぐっての議論は、まさに船曳、小熊両公述人の意見に同調する動きが極めて多いわけで、私個人としては山崎先生の意見に極めて近いという二対一の状況でございますが、それを踏まえまして若干お話を聞かせていただきたいと思います。

 まず、山崎公述人にお伺いいたします。

 山崎先生はさまざまな場面で、今のイラクの問題というよりも、その前の九・一一のあのアメリカ同時多発テロ、国際テロの問題について極めて含蓄のある御意見をいろいろな場面で公表されております。私はほとんどすべてを拝見させていただいていると思っております。

 一つ目のお伺いしたいことは、山崎公述人は、今、二十世紀後半から二十一世紀にかけて起こっているこの国際テロのありようというものについて、これは経済とか貧困とかが原因ではなくて、二十世紀型の病理現象というものでとらえるべきだ、こういうフレームワークというか、見方を提示されておりますが、現在、イラク戦争が、私はイラク戦争という言い方をしないで、第二次湾岸戦争、十三年戦争論ということを言っているんですが、その状況も、去年の三月二十日、そして五月、そして今日と、さまざまなことが、すべて申し上げませんが、いろいろなことが起こっておりますが、山崎先生の、まずこのテロに対するとらえ方、微動だにしておられませんでしょうかというのが一つ。

 それと、あわせて、一体、先生がおっしゃる二十世紀型病理現象というのは、二十一世紀に今入ったわけですが、どこまでこの動きといいますか、今地上に生存する自由と民主主義を愛する人間たちを大変に悩ませるこのテーマというのはどれぐらい続くと思っておられるのか、これが二つ目。とりあえずそこまでにいたします。

山崎公述人 それは大変難しい御質問で、とてもいつまで続くというふうにはお答えできませんけれども、しかし、私は、限度があると思っております。それは、るる申し上げると時間がないので、私は、現在のテロというものは、ある種の人たちが言うような、経済問題あるいは文明の衝突といった根深いものではないと考えているからです。

 テロは、多分に同時代的なグループの中の一つの感情の病理現象ですから、この一代がなくなればかなり変わってくるだろう。しかも、テロといっても、これは性質がいろいろ違いまして、例えば、アルカイーダというような完全にインターナショナルな、そして都市型のテロと、パレスチナのように自分の郷土を守るというような性質のテロ、これは同時にチェチェンもそうですけれども、そういうものとはかなり性質が違うだろうと思いますね。

 恐らく、私は、チェチェン型あるいはパレスチナ型は政治的な解決が可能だし、必ずそれは行われるだろうと思います。アルカイーダ型のテロは、見ていますと、既にかなり質が劣化しています。つまり、一番最初にあの人たちは超高級なことをやったわけですね。飛行機を乗っ取って高層ビルに突っ込む、あるいはモーターボートを乗っ取って駆逐艦に突っ込む、こういう能力がだんだん減ってきまして、今やっているのは、せいぜいトラックに爆弾を載せて突っ込む。ですから、テロの集団からももちろん人材の枯渇ということが起こってきます。

 御存じのように、アルカイーダのグループというのは、決して最も虐げられた人たちではなくて、ある種のエリートですから、このエリートたちの人材補給というのには限度があると私は見ております。ですから、その世代が全部自爆をしてしまえば終わるだろう。

 もちろん私は、政治経済的な社会改革について全くシニカルでいるわけではありません。そういう努力は当然しなきゃいけませんし、特にパレスチナ型は早く解決しなければ問題で、現在のイスラエル政府の態度というのには大いに疑念を抱いております。そんなところです。

赤松(正)委員 ありがとうございました。

 そこで、九条をめぐっての問題ですけれども、山崎公述人は、かつて、かつてというか、そんなに遠い昔ではありませんが、この問題に関連をして、いわゆる対テロ国際防衛同盟ですか、国際社会においてテロに対して共同戦線を組めばいいんだ、これを組むことによって九条問題を乗り越えることができるという、これに関連して九条をどうこうする必要はないんだという意味の発言をされたと記憶いたしております。

 その場合、対テロ国際防衛、正確な言葉は先生みずからおっしゃっていただけると思いますが、対テロ防衛同盟というものを今の世界における支配的な国々が結んだとして、そこにおける日本のいわゆる役割、これをもう少し具体的に考えておられるところをおっしゃっていただければありがたいと思います。

山崎公述人 私の理解では、先ほども申し上げましたように、憲法の禁じているところの武力行使は、国際紛争解決の手段のための紛争である。例えば、日本が今、北朝鮮に対して仮に人質を帰せといって宣戦を布告したら、これは憲法違反だと私は思います。しかし、相手が国家でない場合どうなるか。これは、例えばマラッカ海峡の海賊、これを日本の自衛艦なりあるいは海上保安庁の船舶が攻撃に出かけてアメリカ海軍と共同しても、私は全く憲法に違反しないと思う。

 難しいボーダーラインがあります。いわゆるならず者国家が崩壊しかけている、その曲がり角というのをどう見るか。ここらあたりで、用心のために憲法を、条文を変えておいてもいいなと私は思いますが、現在の日本政府がとっている範囲の行動であれば、憲法改正の必要は全くないというふうに考えております。

 ただ、私は、何度も申し上げますように、憲法というものは不磨の大典とは思っておりませんので、現在の事態に合うように変える、やがて世界平和が見えてきたらまた平和憲法に戻せばよろしいというぐらいに考えておりますので、ちょっと申し上げていることの迫力に欠けるかもしれません。

赤松(正)委員 そのくだりは、いささか私は山崎先生と考え方を異にするというか、つまり、異にするというよりも、十年、二十年、先ほど二十年ぐらいとおっしゃいましたけれども、何かそういうお話を聞いて、なるほどなという気もするんですが、私は、例えば、今から小熊、船曳両師弟関係のお二人に質問させていただくんですが、そのことと関連するんですけれども、九条と前文の関係であります。

 先ほどお二人は、小熊公述人は、九条については慎重にすべきと。それから、船曳公述人は、極めてユニークというか、おもしろい発言をされましたけれども、おもしろいというよりも、私にとってなるほどと思いましたが、要するに、私の認識でいえば、今慌てて変えるよりも、それは世界の情勢が憲法の九条に近づいてきているんだというふうな意味合いのことをおっしゃったんだと認識しております。

 では、お二人に続けてお伺いいたします。

 九条はそれで、お二人の御意見を聞いた上でわかりますが、前文というものの位置づけ、これについても同じように、これは今のままでいいとおっしゃるんでしょうか。それとも、前文というものにはそれなりに時代状況を大きく、今の憲法には、あの大戦の終わった直後の気分というものは際立って横溢している、もちろん九条もそうですけれども、セットでとらえなきゃいけないものだろうと思うんですが、そういった点で、例えば、第一の開国、第二の開国、第三の開国、そういうとらえ方があって、明治維新、そして大戦、今度は第三の開国の場面だというふうに、私も時々余りしっかり考えないで言ったり、あるいはしっかり考えた上でおっしゃっている論者がいたりしますけれども。つまり、押しつけ憲法どうこうじゃなくて、一つのエポックだから新しいものをつくり出そう、こういうことと、前文、九条をセットにした考えとの位置づけといいますか、その辺を聞かせていただきたい。

 つまり、九条慎重、そして、全体状況が日本の憲法の位置づけに近寄ってきているんだから、あえて両方ともさわる必要はない、こういうお考えなのかどうか、お二人に聞かせていただきたいと思います。

    〔船田会長代理退席、会長着席〕

小熊公述人 師弟関係ということを強調されておりますけれども、ゼミに出席はしておりましたが、完全な弟子というよりは、全く不肖の弟子でございますので、意見は必ずしも同じではございません。

 前文との関係についてなんですけれども、まず、憲法制定期の歴史的経緯からいえば、あれは確かに一九四六年の時点の時代状況を反映したものだと思います。あの憲法前文では、国際的正義を信ずる諸国に対する信頼に我が国の安全をゆだねるというふうに述べているわけですが、これはもう、同時代においては連合諸国にゆだねるというような意味合いを持っておりということは、これは事実だと思います。

 その前提になっていたのは、米ソが協調体制にあったこと、つまり、アメリカ、ソ連、中国、フランス、それからイギリスといった核を持っている国々、常任理事国、それらの協調体制があるということが、要するに、それらの正義を追求する諸国に我が国の防衛をゆだねますというあの前文とセットになっていたということがこれはあったと思います。

 その意味において、憲法前文が冷戦期には非常に難しい状況に陥っていたということは、私はそれはそのとおりだと思います。あれはやはり、正義を追求する諸国が協調体制にあっているから成り立つという側面はあったわけですけれども、米ソが対立してしまいまして国連が機能しないという状況になりますと、これはかなり難しくなってしまうということはあったわけですね。

 ですが、幸か不幸かよくわかりませんけれども、冷戦が終わりまして、米ロの協調体制というものがある程度戻り、米中も国交を回復し、イラクをめぐっては安全保障理事会の対立ということが起きたわけですけれども、あれに関しまして言いますと、あれはどちらかといえばアメリカのやや独走ぎみというところが安全保障理事会全体の配置の中でもあったわけですから、あれを一つの例外として見ますれば、国際連合に集まっている国々、常任理事国を中心とした国々の協調体制ができているのであれば、憲法前文は、むしろ冷戦期よりも現在に適合するようになってきていると私は考えます。

船曳公述人 師弟関係なんて言いましたが、僕は時々いろいろなところで小熊君は僕のゼミに出ていたと自慢しているだけの話で、出藍の誉れといいまして、全然違うのであります。

 前文ですが、山崎先生と私の考えと、似ているような似てないような、難しいところがあります。私は、この前文を読むと、確かに当時の情勢が反映されていて、なるほどな、これはこういう意味だなというふうに読めます。ただ、そうしたものをそのままに置いておいてまずいのかというふうに問うわけですね。つまり、まずければ変えるけれども、変えなくていいのであるならば、今まで我が国家がいろいろ発してきた文書として置いておいてもいいのではないかというふうに考えるわけです。

 ちょっと性格は違いますが、先ほど引用しましたアメリカの独立宣言のようなものに、私はちょっと考えるところがあるんですね。独立宣言を今読みますと、当時の植民地としてのアメリカの立場からの発言でありまして、いろいろと不思議なことも書いているのです。例えば、たしか、インディアンに対して今でいえば当然人種差別としか思えないようなこともそこに含まれているのです。しかしながら、それを変えるというようなことは別にしないのです。もちろん、それはそうした歴史的なある文書だったということですね。

 憲法ですから、もちろん改正できますし、前文も変えることができるんだと思います。思いますが、変えないままで不都合でなければ変えなくていいだろうと思っていまして、私は、これが現在より整合的かどうかという議論の前に、この前文で書かれていることは不都合にならないと思っていますので、さわらなくともいいと思っています。別に不磨の大典だというふうに思っているのではないんですね。ある意味でつけ加えるということだってしていいかもしれないし、何をしても別にいいわけです、我々の憲法ですから。

 ただ、これが不都合かどうかというふうに私は考えますので、その意味では、これは別に不都合ではないというふうに考えます。もしどこかの箇所が、これがどうしても不都合だよというのであれば、それは議論をし続ければいいのだというのがいつも私の考えなんですね。議論し続けることでもって国益が損なわれるというのであるならば、それはまさに変えなきゃいけない瞬間だろうと思います。

赤松(正)委員 時間が来ましたので終わります。

 ありがとうございました。

中山会長 次に、石井郁子君。

石井(郁)委員 日本共産党の石井郁子でございます。

 本日は、それぞれ御専門の立場からの御意見をお述べいただきまして、ありがとうございます。憲法の論点について大変重要な御指摘をいただいたというふうに思っております。せっかくの機会でございますので、お聞かせいただいた御意見、さらにもう少しお尋ねしたいということに限って質問させていただこうと思います。

 小熊公述人にお願いをしたいと思いますけれども、お述べになられた中で、戦後の日本の再軍備と日本国憲法に対する改憲の要請がアメリカの方針としてアメリカ政府の側からなされたという事実が紹介されました。一九四八年五月のロイヤル陸軍長官への報告書は、その事実を示すものとして私も注目をしているところでございます。その後もアメリカは、いろいろ波はあるでしょうけれども、今日もなお一貫して改憲の要求というものを日本側に出してきているというふうに思いますけれども、どういう事実があるか、教えていただければと思います。

小熊公述人 これにつきましては、例えば、あれは一九五二年だったと思いますけれども、当時のキンボール海軍長官が、日本の憲法はもはや自由世界の防衛のために適さなくなったので改正すべきであるというふうに発言をしたり、それから、ちょっと正確な年号は忘れましたけれども、たしか一九五四、五年ごろでしたけれども、当時副大統領だったニクソンが来日しましたときに、パーティーの席上で、第九条を制定したのは、あれは誤りであった、アメリカの国策として得策ではなかったというようなことを公式の席上で述べたことがございます。

 そういったことは断続的に五〇年代に言われてきているわけだったんですけれども、アメリカはその後、どちらかというと慎重になった部分があるかと思います。私は、それは公文書から裏づけることはできませんが、一つには、六〇年の安保のときに、日米安保条約の批准をめぐって岸内閣が倒れるという事件が起きました。あれはアメリカ側にとってもかなり教訓を残したのではないかと思います。

 もちろん、日本政府側にとってもそうですが、余り強引なことをやると、これは親米政権が倒れてしまうという形になると元も子もない。余り露骨な圧力をかけ過ぎるという形になって、親米政権が倒れて社会主義政権が日本にできるという形になってしまえばこれは元も子もないということになってしまうということは、かなり教訓として残したと思います。

 経緯としてはっきりしているのは、六〇年安保の前後ぐらいから、在日米軍の基地が撤廃の方向に五〇年代の後半ぐらいから向かいまして、沖縄に集中していくという現象が起きていくことになりました。そして、朝鮮戦争のときには、掃海艇を結局アメリカ政府の要請で出さざるを得なくなって、それを日本政府は公にすることができなかったということがあったんですけれども、ベトナム戦争のときには、韓国に対しては韓国軍を派遣しろという要求は正式にもちろん行われ、実際に派遣されたわけですが、日本に対して自衛隊を派遣しろというような要求はとりあえず、あったかどうかはこれはわからない、公文書がわかりませんので、後方の補給を民間業者がやっていた程度にとどまっております。恐らく、私の推測するのには、やはり六〇年安保前後から、アメリカ側はこの点に関しては慎重になっていたと思います。

 現在においても、時々アメリカの政府高官が、やはり憲法改正の問題や何かについては、これは日本側が自主的に決めることだと言うにとどめるという路線をとり続けているようですね。もちろん改憲した方が望ましいのだろうということは、言葉の端々から何となくうかがえますが、余り内政干渉的なことを言うと反米感情をあおりかねないということを意識しているのではないかと思われます。

石井(郁)委員 どうもありがとうございます。

 一九四八年ごろというか、そのころのアメリカの対日軍事要求というのは、日本を反共同盟国として、米軍の一翼を担わせるということにその目的があったというお話もございました。六〇年代で若干変わってきているということもありましたけれども、今日でいえば、ソ連が崩壊してまた新しい世界情勢にもなっているわけですが、しかし、なおアメリカの対日軍事要求というのは続いているわけですよね、それは中身ややり方はいろいろあるとしても。

 だから、そのアメリカの対日軍事要求がなお続いているという点でいうと、その背景には何があるのか、どういうふうに考えたらいいのかということはいかがでしょうか。

小熊公述人 いろいろ理由はあると思いますけれども、一つにはやはり、アメリカという国は一国だけでは戦争をしたがらない国だというのが、これはこの二十世紀の歴史を見ているとはっきり言えることだと思います。第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、それから湾岸戦争、どれを見ましても、連合国の主役、多国籍軍の主役、世界の代表、あるいは世界の警察という形をどうしてもとりたがるという傾向はあります。

 もちろん、どんな国であっても、国際的な支持があるという形で戦争を遂行したいというのは、これは明らかにあるわけですが、戦前の日本のように国際連盟を脱退してまで我が道を行くというようなことはかなり例外的なことではあるわけですけれども、アメリカはやはり国是として、アメリカこそが世界の代表なのである、世界の警察なのであると。だから可能な限り多国籍軍という形態をとりたがる。だから、人数的にはアメリカ軍があくまでも主力であるとしても、たとえ数人でもいい、数十人でも数百人でもいいから、いろいろな国が参加したという形態をとりたがるということははっきり言えると思います。これは、ベトナム戦争であっても、国連軍という形態はとれなかったわけですけれども、韓国軍やオーストラリア軍やその他を呼んでおります。あくまでも連合軍という形をとりたがるという形ですね。

 もう一つはやはり、実質的にアメリカの軍事負担を減らしたい。これは、アメリカの戦死者が少なくなればなるほどよいということもあり、また日本はイージス艦というような高級な、お金のかかる装備を持っている数少ない国でありますから、とりあえずそういったものは利用したいということはあると思います。その二つの要因からきていると思います。

 その意味で、日本に対して軍事的に貢献をしてほしいという要求はずっと続いているということは、冷戦が終わっても続いていると思いますし、憲法が改正されたら望ましいということは続いていると思います。ただ、それを公の場ではっきりと述べるということは、日本に反米感情をあおりかねないのでさわらないでおこうというようなことではないかなと思います。

石井(郁)委員 ここで船曳公述人にお伺いをいたします。

 戦略的平和論というところや戦争ができなくなりつつあるというアメリカの場合をお聞かせいただいたわけですけれども、その中で、憲法十四条の法のもとの平等と、例えば男女差別などはなくなっていないけれどもなくなりつつあるということの御紹介をしながら、やはり世界が日本の憲法九条に近づいている、戦争はなくなっていないけれども、というふうに述べられたかと思うんです。これは、現実には世界では武力紛争はなくなっていないけれども、だからといって、憲法九条の戦争放棄、戦力不保持、交戦権の否認という規定の価値というのはいささかも失われるものではないというふうに理解をしてよろしいのでしょうか。お聞かせください。

船曳公述人 そのとおりです。そう私は思っています。

石井(郁)委員 少し世界の情勢論のことが出てきましたので、山崎公述人にも伺っておきたいと思います。

 きょうお述べになったことの中には直接はございませんでしたけれども、これは中央公論の昨年の五月号でございましたか、アメリカ一極体制は世界の平和にとって、少なくとも過去の多極体制や二極体制よりもましな体制だということを述べていらっしゃるかと思うんですね。その後の方では、アメリカ一極体制というのは当面のブッシュ政権の支配のことではないが、恐らくは長く、政権を超えて続くと思われる世界秩序のことであるというふうに書かれておりました。

 現実には、今世界で、例えば、EUが昨年十二月十二日、欧州安全保障戦略を採択して、欧州委員会が提出していた「欧州連合と国連―多国間主義の選択」という報告を承認しています。また、昨年六月のASEANの外相会議での共同コミュニケでも、マルチラテラリズムという一項目がつけ加えられたりしているということがございます。

 多国間主義という立場からの平和と安全保障の構築というのが、ヨーロッパ、アジア、それぞれいろいろなところで模索されていると私は認識をしておりますけれども、こういう動きをどのように見ていらっしゃるでしょうか。

山崎公述人 アメリカ一極体制というのは、私は、現実のアメリカの力を受け入れてそれに頭を垂れるという意味で申し上げておるのではないので、今のアメリカが体現している政治理念、人権であるとか民主主義であるとかいった理念は一つの文明の趨勢であって、それを少なくとも最も強力に体現しているのがアメリカである。

 その意味においていえば、例えば、ヨーロッパ連合が今度拡大しましたけれども、それが仮に軍事機構を持とうとも、アメリカの一極の理念と相反するものではない、つまり理念的に対立するものではないというふうに考えますし、ましてや、ASEANの体制がアメリカの理念に背馳するものでもないと私は思っております。

 したがいまして、具体的にマルチというのは一体何のことであるのか私にはよくわからない。どのみち議論をするのでありまして、議論をすることをマルチというのならば、それは永久にマルチでしょう。

 ただ、文明の歴史の流れの中で、いわゆる近代に私たちがつくり上げた国民国家が最終的な権力の表現だという文明は、もう終わりを告げている。人権の方が国権より上だということは私たちも信じているわけで、現に、これは何もコソボや何かの例を挙げるまでもなく、中国が国権至上主義であるのに対して、私たちは、やはり天安門事件を見れば人権の方が上だと理解している、そういう文明の流れのことを私は申し上げているわけです。

石井(郁)委員 再度、小熊公述人に伺いたいと思います。

 私も、日本国憲法が押しつけられたものだ、だから改憲を、自主憲法制定というような議論は、歴史の事実とも違いますし、また改憲の根拠とはなり得ないというふうに考えているところでございます。最後に小熊公述人が、自主憲法制定議論というのは感情的な面があるということで、慎重に九条の議論が必要だ、特に国際関係を考えてこの議論をしなければいけないというふうに言われたかと思いますけれども、感情的だと表現されるこの議論の特徴はどういうものだというふうに見たらいいんでしょうか。お聞かせください。

小熊公述人 感情的だというふうに考える特徴という御質問でありますけれども、これはいろいろな種類のものがございますので、一枚岩に語ることは簡単にはできにくいと思います。

 ただ、私が具体的に知っている例に関して言いますならば、やはりアメリカに押しつけられた憲法だから、変えればアメリカからの独立になるというような形で述べている方は幾人かいらっしゃることは御存じだと思います。それは実際の国際関係の歴史的経緯や現在の国際関係を見通した議論ではない。感情的に、押しつけられたから、それを変えれば自主独立になるのだという、それほど単純なものではないというふうに私は考えるわけです。

 むしろ改憲する方が、一九四六年のアメリカの方針には反対していることになるかもしれないけれども、一九五〇年以降のアメリカの方針に沿うことになってしまうのだから、自主憲法の制定という趣旨にも沿わないのではないですか、そういうことが国際関係の歴史的経緯あるいは現状を見ればもう少しわかるのではないかということを申し述べた次第で、そこを見逃して、押しつけられた、だから変えるんだというのは感情的だというふうに申し上げた次第です。

石井(郁)委員 時間が参りました。どうもありがとうございました。

中山会長 次に、土井たか子君。

土井委員 きょうはお忙しい中を三人の先生から貴重なお話を承ったと思います。お一人お一人に一問ずつになってしまって恐縮なんですけれども、短絡的なあるいは質問の仕方になるかもしれません。わずか十五分ということですから、お許しをいただきたいと思うんです。

 小熊先生にまず承りたいんですが、きょうは先生のお話の中で、アメリカの世論調査で日米安保条約についての調査がこうであったということをお示しになりました。ことしの五月三日、日本の憲法記念日は、世論調査の中身を見ておりますと、改憲を必要視する人たちの数がふえているというのが、大体各紙似たような見出しでございますけれども、よくその記事の中身を見てみますと、九条は変えてはならないという国民の皆さんの数というのが多いんですね。半数を超えているんですね。

 まず、憲法の前文の冒頭には、日本国民は、正当に選挙された代表者を通じて行動しということになっていますから、私どもは、大衆迎合ということでなくて、やはり国会に送ってもらっている、そして、それは国民の代表ということでこの立法機関である国会の中で行動しなければならない、努力していかなきゃならない。

 そうなると、きょうのお話は大体お三方とも九条のところが焦点でございまして、しかも改憲ということが前提になったようなお話になっていったわけでございますけれども、私ども、そのことしの五月三日の調査結果をどのように受けとめていくことが大事だというふうにお思いになっていらっしゃるかというところをひとつお聞かせいただきたいと思います。

小熊公述人 私も、ことし五月のあの世論調査、幾つかありましたけれども、大変興味深く思いました。憲法改正ということに対しては賛成が多いのに、九条を変えるということに関しては反対が多い。これは一体どういうことなんだろうかということを思いましたけれども、私は、これは改憲という言葉の人々に与える印象や響きがかつてと変わってきているのだと思います。恐らく私は、改憲は必要だと思いますかという言葉は、改革は必要ですかというのとほとんど同じに受け取られているのではないか。つまり、現状の日本は何となく行き詰まっている、いま一つ景気もぱっとしない、それで改革は必要だ。しかし、ではどう改革するのかという具体案になると、みんなばらばらであるというのがこの政治改革というものの大きな最近の特徴でありますね。

 恐らく憲法についても同じような感情に国民感情がなっているのではないかと思ったんです。つまり、何か変えなくてはいけない。では、変えるとすると、第九条を変えますかと言われると、いや第九条は変えてはいけない、では第二十四条を変えますか、いや第二十四条も変えてはいけない、では十五条を変えますか、いや十五条も変えてはいけないという。恐らく、改革は必要だ、だけれども、では具体的にどこを変えるのと言ったら、特に変えたいところはない、そんな感じではないかなと私は思います。

 私は、あの世論調査に対して感じたことは以上のようなもので、あの改憲賛成が多数を占めたというのは余り過大に受けとめてはいけないのではないか。あれは改革が必要だと言っている、日本はこのままではいけませんというふうに言っているというぐらいのものとして受けとめるのが適当ではないかと私は思っております。

船曳公述人 ほとんどお答えは一緒です。つまり、変えるということに関してある種のアレルギーがなくなったのだなと。だから、改憲はどうかと言われれば、憲法は改正するのだったら改正してもいいんじゃないのと答えて、憲法九条に関してはどうかと言われれば、私は変えたくないという人の方が多かった。私は変えたいという人もいたけれども、変えたくないという人の方が多かったという、非常にある意味で健康的な反応だったと思います。

 それは山崎先生がおっしゃったように、不磨の大典というふうに思っているのではなく、ある種の修正すべきところは修正していくという普通の反応であったのだというのが僕の受け取り方です。

山崎公述人 大体、先ほども申し上げましたけれども、憲法改正と言っても改悪と言っても、具体的な選択肢を政治家あるいは政府が提出して国民に迫っているわけではないんですね。例えば九条を改めると言っても、九条をどう改めるかという提案は出されていないのですから、国民が今世論調査などで混乱した答えをするのは当然だと私は思います。あるいは、非常に過剰な脅威を感じる。つまり、憲法九条を改正するということは、直ちに我が国が宣戦布告の権限を持って隣の国とやるんだ、そういうふうに受け取る人もいるでしょうし、非常に合理的かつ現実的に受けとめる人もいるでしょう。

 そうであればこそ、まさに今土井先生がおっしゃったように、皆さんは国民の負託を受けてここにいらっしゃるわけで、日々の世論などに影響されずに、皆さんできっちりとした御議論を合理的にやって、その上で国民に選択肢をお出しいただきたいというふうに思います。

土井委員 今の御意見にも関連いたしますけれども、この憲法調査会というのは、衆議院憲法調査会規程というのがございまして、その第一条には、「憲法調査会は、日本国憲法について広範かつ総合的に調査を行うものとする。」となっております。改憲を意図して具体的に案をつくる場所じゃないんでございます。ましてやその作業をする場所ではございません。

 したがって、ここの場所では日本国憲法について広範かつ総合的に調査を行うということでございますから、あと、この調査をした結果がどのように生かされていくかということの一つの問題として今山崎先生おっしゃったことがあるということだと思うんですね。

 そこで、私はきょう山崎先生のレジュメをいただきまして、この辺はどういうふうにお考えなのかということをひとつはっきりお示しいただきたい、御見解をぜひ承りたいと思ったのは、「憲法改正を容易にする法改正を行い、」となっております、この「法改正」というところなんですが、これは私の誤解であるかもしれませんけれども、ここにおっしゃっている法改正というのは、憲法によって憲法の中身を改正するということなのか、それとも法律によって憲法の改正条項、つまり九十六条を改正するというふうに御理解なすっていらっしゃるのか、ここのところがちょっとわからないんですね。どちらなんでございますか。

山崎公述人 私は法律の専門家ではありませんので、今、土井先生がおっしゃったような後段の解決があるとは知りませんでした。ですから、私が法改正によるということは、当然それは憲法改正を言っているわけで、憲法の手続の中に改正をする条項があるわけですから、それに従って憲法を改正しやすい憲法改正を行うべきだと申し上げた。別途法律をつくって、憲法改正を易しくするような、これは何法と言うのか知りませんが、国会議事にまつわる法律なんでしょうか、そういう手があるなどと私は全く思っておりませんでした。

土井委員 いや、実はこれは邪道中の邪道なんです。こんなことが許されるはずはないと私は実は思っております。したがって、法律によって憲法の中身を改正するということを認めるなら、これは法理上できないことをあえてやるということでもございますから、言ってみれば立憲主義に対する破壊なんじゃないかというふうに私は思うんですね。でも、昨今、ちらほらそういう趣旨のことをおっしゃる方もわずかながらございますから、したがって、レジュメにお書きになっていらした「容易にする法改正を行い、」というのが、これははっきりお聞かせいただく必要があるなと思って私、出てまいりました。

 したがって、ここで憲法の第九十六条というところを見ますと、この九十六条によって憲法を変えるということなんですけれども、九十六条の中身をまず九十六条によって変えるという変え方というのがもう一つあるんですね。この点はどのように山崎先生はお考えなんですか。

山崎公述人 法の素人の私としては、当然、九十六条によって九十六条を変えるという決議をするということを申し上げたつもりでおります。

土井委員 非常にこれは難しい問題なんですけれども、山崎先生、今の憲法改正権力に対しての限界論というのがあるのを御存じでいらっしゃるでしょう。いかがですか。

山崎公述人 その限界論というのは存じ上げません。

土井委員 これは、憲法の改正に当たって、改正をする手続を憲法自身が規定しているのが九十六条なんですね。九十六条では、さっきも先生ちょっとおっしゃいましたけれども、「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。」とございます。

 これが九十六条なんですが、この九十六条というのは、言ってみれば改正権力の生みの親の条文だ。つまり、憲法を改正するにはこの条文によらないとできませんよと言っているわけですから、したがって改正権力の生みの親とも言えるわけですね。その九十六条について、改正するということを変えるわけですから、これは言ってみれば憲法改正権力の自己否定になる。したがって、これはそういうことはできませんよ、限界がありますよと言っているこの憲法改正権力の限界論というのがあるんです。これはどのようにお考えになりますか。お認めになるんですか、どうですか。

山崎公述人 現憲法も、明治憲法の規定に従って改憲されたわけです。当然ながら、この憲法も、この憲法を改定する規定をうちに含んでいるわけです。それがおっしゃる九十六条です。したがいまして、その九十六条に従って九十六条を部分改憲することは、これは法律家の目から見るとどうかわかりませんが、常識人の目から見れば至極当然だと思います。

土井委員 これは非常に難しいところですけれども、やはり憲法を変えるというのは重大事だ。やすやすといつでも変えられるという問題じゃないと思うんですね。したがって、慎重には慎重を期すというところが非常にこれはやはりあるわけでして、硬式憲法というものの誕生というのはそのあたりをもちろん意識して、それを保障することのためにはどうかといったら、手続上非常に難しい手続というのを用意するということが一つのこれは眼目だったんですね。

 したがって、硬式憲法であるという認識というのは今の憲法に対して大事じゃないかなというふうに私はいつも考えておりますから、九十六条を変えて、改正しやすいような条文に改めて、そして憲法を変えるという変え方というのは、どうも私は、憲法の本来の趣旨からすると許されないやり方なのではないかと思っている一人なんです。

 したがって、きょうここでお尋ねしてよかったですよ。お考えがわかりました。そういうお考えの方というのがあるわけですから、したがって、もう一つ、そういうことになった場合にはどういうふうな状況が展開されるかということも、一つはこれは知っておかなきゃいけないなというふうに思っております。それから……

中山会長 土井君に申し上げますけれども、申し合わせの時間がもう過ぎましたので。

土井委員 時間、ああ、そうですか。それでは、申しわけありません、もう時間ですから、ここで私はもう質問を残念ながら打ち切りますけれども、実は、改正と改悪というのは、これはイデオロギーの問題ということに残念ながら重なるようなことがあっては思わしくないというふうな趣旨もきょうは山崎先生から承ったんですが、改正か改悪かという立場が主観によって決まるんじゃないと私は思っています。立場や主観の問題じゃない。本来は、憲法の存在そのものが歴史的所産なんですから、したがって、やはり、歴史はさらに発展していくという方向を考えた場合に、国民全体がただいまよりも幸福になる方向ということを目指して憲法が動くというときに本当に改正と言っていいと思うんですよ。それを、その問題に対して逆行する中身ですね。

 いわば、今の日本国憲法に対しては、九十九条、尊重擁護の義務が国会議員にもあるわけですけれども、どうも尊重擁護の義務を十分に果たしおおせてなくて、その上で憲法について変えるということになったら、今よりもよい憲法に変えられるはずはないと私は実は思っているんです。

 まずは、今の憲法を尊重してしっかり生かしていくという努力があってこそ、もっと人権を充実させようとか、もっとプライバシーの尊重というのが大事じゃないかとか、自治体の自治というのがもっと充実させられていいとか、あるいは環境問題というのはこれからますます大事になるだろう、それから、やはり安全保障というのも、これは人間の安全保障というのがますます私は大事になると思っていますけれども、そういう問題に対しての意識というのもやはり憲法の中に生きて動くというふうなことが考えられる場合は、ただいまの現行憲法に対して粗末に扱っていないという状況が現在の現実の政治の中になければ、さらによい憲法に変えるということにはならないだろうと思っているんです。

 ただ、最後に申し上げるのは、残念ながら、私が今申し上げているのは理屈で、しかも法理でございまして、改正か改悪かというのは。しかし、この峻別は大変大事だと私は思っています。だから、九十六条は「この憲法の改正は、」と書いてある。改正について憲法は決めている。だから、そういう意味では不磨の大典ではないんですね。指一本触れてはいけないなんというふうなことじゃないわけで、よい方向に向かって努力の中身が常に問われている。それは憲法の十二条、十三条というのがそういう意味では非常に大事だと思っております。

 しかし、これも力の強い方がやはりしょせん物を言うということになるわけですから、正しい者が必ず勝つとは言えないのが常でございます。したがって……

中山会長 時間が相当経過しておりますので、どうぞひとつ……。

土井委員 はい、ありがとうございます。

 三分の二以上というこの力によると、改正の名前で改悪ということも現実の問題としてないとは言えない。

 そういうことをしっかり認識をして、まず憲法の尊重擁護の義務を果たしていくという努力というのがなされなければならないというふうに思っております。

 時間超過をおわびして、本当にきょうはありがとうございました。お礼を申し上げて、終わりにします。ありがとうございました。

中山会長 これにて公述人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、一言ごあいさつを申し上げます。

 公述人各位におかれましては、長時間にわたり貴重な御意見をお述べいただき、まことにありがとうございました。憲法調査会を代表して、心から御礼を申し上げます。(拍手)

 明十三日の公聴会は、午前九時から開会することとし、本日の公聴会は、これにて散会いたします。

    午後四時二十二分散会


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