衆議院

メインへスキップ



第1号 平成16年11月11日(木曜日)

会議録本文へ
平成十六年十一月十一日(木曜日)

    午前九時二分開議

 出席委員

   会長 中山 太郎君

   幹事 近藤 基彦君 幹事 福田 康夫君

   幹事 船田  元君 幹事 古屋 圭司君

   幹事 保岡 興治君 幹事 枝野 幸男君

   幹事 中川 正春君 幹事 山花 郁夫君

   幹事 赤松 正雄君

      伊藤 公介君    大前 繁雄君

      大村 秀章君    加藤 勝信君

      河野 太郎君    坂本 剛二君

      柴山 昌彦君    渡海紀三朗君

      永岡 洋治君    野田  毅君

      葉梨 康弘君    馳   浩君

      平井 卓也君    平沼 赳夫君

      二田 孝治君    松野 博一君

      松宮  勲君    三原 朝彦君

      森山 眞弓君    柳本 卓治君

      渡辺 博道君    青木  愛君

      稲見 哲男君    大出  彰君

      鹿野 道彦君    鈴木 克昌君

      園田 康博君    田中眞紀子君

      辻   惠君    中根 康浩君

      長島 昭久君    計屋 圭宏君

      古川 元久君    馬淵 澄夫君

      笠  浩史君    和田 隆志君

      渡部 恒三君    河合 正智君

      佐藤 茂樹君    福島  豊君

      佐々木憲昭君    山口 富男君

      土井たか子君    山本喜代宏君

    …………………………………

   公述人

   (弁護士)

   (気候ネットワーク代表) 浅岡 美恵君

   公述人

   (社団法人日本医師会会長)            植松 治雄君

   公述人

   (埼玉大学名誉教授)   暉峻 淑子君

   公述人

   (元内閣総理大臣)    中曽根康弘君

   公述人

   (元内閣総理大臣)    宮澤 喜一君

   公述人

   (元滋賀県知事)

   (元大蔵大臣)      武村 正義君

   衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君

    ―――――――――――――

委員の異動

十一月十一日

 辞任         補欠選任

  坂本 剛二君     馳   浩君

  永岡 洋治君     大前 繁雄君

  平沼 赳夫君     柳本 卓治君

  太田 昭宏君     河合 正智君

  山口 富男君     佐々木憲昭君

  土井たか子君     山本喜代宏君

同日

 辞任         補欠選任

  大前 繁雄君     永岡 洋治君

  馳   浩君     坂本 剛二君

  柳本 卓治君     平沼 赳夫君

  河合 正智君     太田 昭宏君

  佐々木憲昭君     山口 富男君

  山本喜代宏君     土井たか子君

    ―――――――――――――

本日の公聴会で意見を聞いた案件

 日本国憲法に関する件


このページのトップに戻る

     ――――◇―――――

中山会長 これより会議を開きます。

 日本国憲法に関する件について公聴会を行います。

 この際、公述人各位に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にさせていただきたいと存じます。

 議事の順序について申し上げます。

 まず、浅岡公述人、植松公述人、暉峻公述人の順に、お一人二十分以内で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。

 なお、発言する際はその都度会長の許可を得ることとなっております。また、公述人は委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。

 御発言は着席のままでお願いいたします。

 それでは、まず浅岡公述人、お願いいたします。

浅岡公述人 本日は、憲法問題につきまして意見を述べる機会をお与えいただきまして、ありがとうございます。

 私は、弁護士といたしまして、環境や消費者に係る被害者救済にかかわり、また、近年、地球温暖化の抑止に取り組むNGOの活動に関与してまいりました。その限られた経験からではございますが、特に基本的人権に関する部分を中心といたしまして、その実現と発展を願いまして、意見を申し上げたいと思います。

 申し上げるまでもなく、憲法制定以降六十年の経過の中におきまして、我が国及び世界の社会経済状況は大きく変化してまいりました。その過程で、かつては社会的に十分認識されてこなかった幾多の人権問題が浮上いたしまして、権利として確定されてまいりました。

 例えば、消費者の権利について見ますと、被害が多発しております中で、今年、十六年に通常国会で、安全が確保され、自主的かつ合理的な選択の機会が確保され、情報及び教育の機会が提供され、意見が消費者政策に反映され、被害が適切かつ迅速に救済されることということが、消費者の権利といたしまして基本法に明記されました。

 こうした消費者の権利と申しますものは、米国のケネディ教書によります権利宣言を受けまして、我が国におきましても六〇年代後半から提唱されてまいったものでございますが、今回の基本法改正におきまして一部導入され、消費者団体を権利主体として位置づけていないことなど、なお若干の不十分な点を残しております。立法府におかれましては、これらの権利の具体化をさらにお願いしたいと思っております。

 女性問題につきましても、九五年に北京で開かれました世界女性会議のテーマは、女性問題は人権問題であるということでございました。女性であることを理由とする不合理な差別問題は、今も我が国の重要な問題でありますけれども、特に九〇年来、人としての尊厳あるいは自己決定という観点から女性の人権が議論されまして、セクシュアルハラスメントが違法として定着するなど、立法措置がなされてきております。

 また、知る権利の具体化としての意思決定に不可欠であります情報への自由なアクセス権が国民の権利として情報公開法に盛り込まれました。今年、その見直し中であります。

 他方で、プライバシー権が判例上も認められ、また、このプライバシー権は、私生活をみだりに公開されない権利というものから、自己に関する情報をコントロールする権利ととらえられてきております。今日、高度情報化社会における個人情報保護の効果的な仕組みが懸案となっておるところでございます。

 私が弁護士として仕事をしてまいりました三十年余のこの歳月は、社会経済の変化を受けまして、こうした新しい権利が法的に裁判所で整理され、あわせて立法及び行政上の対応がなされてきた時期でございまして、社会や経済のありようと法との関係というものを法律実務を通しまして感銘深く見てまいったところでございます。

 時代の変化は加速的でありまして、国際化の影響もより大きくなってまいります。今後とも新たな人権問題が認識されてくることと思います。こうして見ますと、消費者の権利とか環境権やプライバシー、知る権利等々は、憲法に明文がないという意味では新しい人権と言えますけれども、日本の社会においては既に定着した人権、あるいはその途上にあると言えるのではないかと思います。このような立法ないし行政措置が憲法違反であるというような主張は聞いたことがございません。

 これら新しい人権とも申すべき権利の憲法上の根拠と申しますと、主として憲法十三条に見出されております。すべて国民は、個人として尊重される、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利は、公共の福祉に反しない限り、立法その他国政の上で、最大の尊重を必要とするという十三条は、新しい時代に対応した人権を具体化、深化させていくことができる包括的規定でございまして、国民にとっても希望の星であり、頼もしい規定と言えます。

 また、憲法二十五条も、今後の国民生活の向上を憲法の上で担保する規定となっております。情報を自由に取得する権利としての知る権利も、明文規定のございます表現の自由の反対形相として根拠づけられております。こうした新しい人権規定を憲法に加える改正をいたしますとしても、これらの条項をなくしたり弱めたりするということは考えられないところでございます。

 基本的人権が人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であり、侵すことのできない永久の権利として信託されたものであることを明記いたしました九十七条は、近代憲法の人権規定に共通する性質を言い当てておりますけれども、どの国の人権規定も、憲法が制定されました当時の社会状況を反映していることはやむを得ないところであります。

 しかしながら、我が国の憲法規定と今日の憲法改正議論を踏まえて考えましても、これまで申しましたように、現在の憲法は大変先見性があり、時代先行性を有しておりまして、例えば、今環境権を実現するために憲法改正を行う必要があるというようなことではございませんで、むしろ具体的に法律の中でその権利の具体化をしていただきたい。憲法に加えるといたしましても、具体的権利を欠いておりますと、憲法への規定ぶりによりましては、かえって立法府や行政府の裁量を拡大することになりかねないことにも留意していただきたいと思います。

 特に御留意いただきたいことは、国民投票への付議に関してでございます。

 独占禁止法は、いわゆる抱き合わせ販売を不公正な取引方法の一つに掲げてこれを禁止しておりますところは御案内のとおりでございます。抱き合わせ販売によって、買い手は抱き合わせられた商品の購入を強制され、選択の自由が妨げられることになるからでございます。憲法に関しましても、このようなことに留意する必要があるのではないかと思っております。

 憲法に定めます平和主義は、我が国にとりましても国際社会にとりましても大変意義深い規定であると思っております。世論調査におきましても、九条の改正をすることに反対の意見が多いと承知しております。

 仮に幾つもの改正項目について国会で三分の二の多数が得られるということがあるといたしまして、そこに何らかの政治的妥協を伴うことがあることが想定されるところです。国会におかれましては、そうした妥協が必要な場面もあるかもしれません。しかしながら、国の基本法である憲法は、そのような政治的妥協によってゆがめられてはならないものだと思います。

 憲法改正には国民投票が必要であるというところでありますけれども、そうした観点から、例えばこれから環境権を追加するということと、これに真っ向から矛盾すると思います九条改正問題とを抱き合わせた形で、一括して国民投票に付すというようなことは避けていただきたいと思っております。これは国民の選択の自由が妨げられることになると考えるからであります。

 次に、例えば環境権についてどのような権利規定の措置が必要と考えているかについて申し上げたいと思います。

 七二年六月、ストックホルムで国連人間環境会議が開かれまして、環境は人間の福祉と基本的人権の享受のために必要不可欠なものであると宣言されました。日本弁護士連合会は、その前の七〇年に、公害問題を環境問題としてとらえまして、公害の未然防止を目的に、人間環境を保全するための環境権を提唱しました。こうした環境に関する従来の法制度や考え方に対して、新しい問題提起をいたしました。その後三十年を経て、私たちが良好な環境を享有する権利を有しているとの認識は広く国民に既に共有されており、争いのないところではないかと思います。

 人の生命、健康を保持し、あわせて人間らしい生活を営むことを求めるのは人として基本的な要求でありますけれども、憲法十三条は個の尊重、人格権、幸福追求権をもってこれを認め、社会的な総則的規定でございます二十五条が環境権の社会権的側面を保障するものであるということも、例えば大阪空港訴訟判決等に示されているところであります。

 このように、環境権の憲法上の根拠というものは既にございます。むしろ、環境権として包摂される内容は大変広範かつ多様であり、その実現のための方策は、客体や課題によって特徴があること、抽象的権利規定としての憲法の性格を考えますと、良好な環境の保全をいたしますには、法律において権利の具体化、権利の行使方法、権利侵害の判定方法などの緻密化などの立法をお願いしたいところでございます。

 例えば環境基本法は、持続可能性を基本理念といたしまして、環境に関する具体的立法の基本的枠組みを示しておりますが、以下に述べる問題点を残していると考えております。

 第一に、環境基本法に個人の環境権が明記されていないわけでございます。そうした追加が必要であります。

 少し時間が足りませんのではしょらせていただきます。

 また、環境基本計画には、環境を、自然環境のみならず、歴史的、社会的、文化的なものととらえまして、景観の継承などを含めて、生産と生活を一体的にとらえていくという視点が盛り込まれておりますけれども、例えば、そのためには、今年制定されました景観法に、地域的、歴史的、文化的景観を享受する権利ということを明記していただくことが必要かと思います。

 第二に、環境保全におきます私人の役割、個人の役割を明らかにする具体的な権利といたしまして、差しどめの権利を明記していただきたいと思います。

 我が国は、産業優先の負の遺産ともいうべき激甚な公害を経験してまいりました。先般、水俣病に関する最高裁判決がございましたが、公式発見から五十年近く経過しても過去の被害の清算がなされていないということにも驚くべきでございますが、因果関係や過失等の立証責任が被害者に課されているというこの現在の法律制度のもとでは、これらの立証が事実上非常に困難であることから、被害の拡大を容認してきたということを反省しなければなりません。

 こうしたことに対しまして、現在の基本法は、国民の責務として、環境への負荷低減への努力や公共自治体、国の施策への協力義務を述べておりますけれども、保全のための権利は書かれておりません。人の生命、健康に被害をもたらす場合だけでなく、生態系や環境の保全等につきましても、これらは社会的共有財産というべきでありますし、一たん破壊されますと取り返しがつかないものでありまして、まさに差しどめの権利を確立することがその保全のかぎであります。

 第三に、情報開示請求権を盛り込んでいただきたいと思います。

 今日、環境問題ほど透明性の確保と市民参加の必要性が指摘されている領域はないと思います。国民の情報へのアクセスを権利として保障することは、環境保全の政策決定、その実施における市民参加の基盤をなすものでございますが、現在の環境基本法では、国にその努力義務を課しているにすぎません。

 情報公開法による情報の開示請求権のみならず、環境基本法や個別法におきまして、国民や環境団体の情報開示請求の権利を盛り込んでいただきたいと思います。例えば、今、京都議定書の目標達成のための政策強化といたしまして、排出量の把握、報告、公表の制度化が焦点となっておるところでございますけれども、このように、知る権利につきましても、具体的権利規定を法律上拡充していくことが立法府の役割と思うところでございます。

 第四に、こうした差しどめや情報開示請求権につきましては、環境団体にその権利を付与する立法措置が急務と思います。

 消費者政策におきましては、不当な契約条項や不公正な広告につきまして、一定の要件の消費者団体に差しどめを求める訴訟上の権利を付与するための立法措置が、消費者契約法の制定以来懸案となっておりましたけれども、ようやく次の通常国会にも提出されるのではないかと期待しているところでございます。

 環境保全につきましても、その利益も破壊の影響も、広範な地域、人々に及び、個人的な対応や行政監視にも限界があります。そうした直接利害関係を持ちます住民や消費者の個別的な授権なくして、違法行為の差しどめや行政に対する積極的作為を求める訴訟を提起する権利、あるいは環境保全政策に対して意見を申し述べ、異議を申し立てる等の権利を法律上保障していくということは、これからの環境保全における実効性を確保していく上で不可欠と思います。

 このような権利は、欧米等諸外国では既に定着いたしまして、十全に機能し、大いなる成果を上げているところでございます。

 地球環境問題は、近時、新たな地球規模での安全保障問題として位置づけられております。ブッシュ政権が京都議定書から離脱を宣言いたしました直後に、我が国の衆参両院で批准に向けた決議をいただきました。これはその後の日本の批准、議定書の発効に大変重要な役割を果たしたと感謝申し上げております。

 温暖化の要因や対策につきましては、公害問題に共通する問題、国民生活、両面がございますけれども、きょうはその詳細は割愛させていただきます。

 何よりも、今日の憲法改正の最大の論点は憲法九条についてであると承知しております。現行憲法の解釈上も自衛のための武力行使は否定されておりませんので、侵略行為を意図しない限り改憲を必要としないのではないかと思います。国際協力のための憲法九条改正といいますところは、裏を返せば、自衛以上の武力を行使する、あるいは、侵略と隣り合わせあるいは区別がつかない武力行使をするための憲法改正ではないのかと考えるのが理論的かつ自然ではないかと思うのです。このような改正は慎重にお願いしたいと思います。

 環境権は、九条の改正により非常に大きな影響を受けます。戦争は最悪の環境破壊をもたらし、また、私たちの生活環境が、自然環境、人工的環境を問わず、戦争によって乱されるおそれは多大であるからであります。他の人権も同様でございまして、いずれにしましても、問題は九条にとどまらないわけでございます。

 このような九条問題と人権規定につきましての問題等を抱き合わせいたしまして、一括して改正案を策定し、国民投票に付すことはすべきでないと考えますということを重ねて申し上げまして、本日の私の意見陳述にかえたいと思います。(拍手)

中山会長 次に、植松公述人、お願いいたします。

植松公述人 このような機会を与えていただきましたこと、厚く御礼を申し上げたいと思います。

 私は、生命尊重の思想というものを中心に置きながらお話を申し上げたいと思います。

 終戦から今日に至るまで、我が国がたどった道のりは決して平たんとは言えず、明暗さまざまな出来事が起こったわけでございますけれども、人々は衣食に不足することなく、一見、至って平和な日常を暮らせております。これは、大局的に見れば、我が国の政府及び国民がこれまでおおむね進むべき道の選択を誤らなかったことの証左であろうというふうに考えております。第二次大戦以来、一度も戦争の惨禍に巻き込まれなかったということ、すなわち、かたくなに平和憲法を守り通してきたことによるということは、大方の皆様方の認めるところでございましょう。

 また一方では、戦争、武力行使に限らず、社会には人の生存を脅かすさまざまな要因が存在いたします。例えば、近年の自殺者数の著しい増加も、そのような深刻な社会問題の一つでございます。平成十年に突如として三万二千人台を記録し、その後も毎年三万人以上の方がみずから命を絶たれているという状況でありまして、極めて憂慮すべきでございます。

 交通事故に関しましても、死亡者数こそは減少し続けておりますけれども、事故発生の件数、負傷者数に関しましては、毎年増加しつつございます。

 また、医療の現場に目を転じましても、昨今、医療事故が深刻な社会問題となっておることは御承知のとおりでございます。医療事故に関しては、現在のところ、発生件数や死者数に関する正確な統計はございませんけれども、依然として医療事故がなくならない状況からは、まさに国民の生命が深刻な危機に直面していると認めざるを得ない側面もあるわけでございます。

 民主主義の鉄則でございますが、個人が自己の信念に基づいて何かを主張し、権利を行使する際には、当然そこには義務が付随し、また、それらの主張は、社会全体の秩序を乱さない限りという条件つきで最大限尊重されるべきであるということでございます。憲法十三条を引き合いに出すまでもない原則でございます。

 一方、昨今、気になりますのは、個人の自由とか自己決定の名のもとに、みずからの身体を傷つけたり生命を極端に短くすること、あるいは生命の誕生に際して、優生的な発想による選別などの人工的な操作を次々と認めてしまう風潮があるということでございます。生命尊重、人命尊重の思想こそが、日本の、いや世界のすべての分野における基本的な価値基準であるべきだとかたく信じております。

 人の命と健康を預かる医師という立場からは、生命が何物にもかえがたく大切なものであるという当然の事柄を、すべての部面における価値基準、すなわち憲法の根底に流れる普遍的な思想として、いま一度強く訴えたいと思っております。

 医療と憲法との関係を論ずる際に必ず触れられるのが、二十五条の生存権との関係でございます。

 今や、我が国の医学、医療のレベルは、世界的にもトップクラスに位置することは間違いございません。そのような質の高い医療を、必要とあれば国民のだれもがひとしく受けることができるのは、言うまでもなく、我が国には世界に誇る国民皆保険制度が備わっているからでございます。そして、世界一の長寿国になった我が国の国民にとって、そのような良質な医療はもはや必要不可欠なものとなっております。したがいまして、国民皆保険の堅持は、国民の生存権を担保するためにも、決して後退することが許されない国の基本施策であると確信いたします。

 この点に関連して、昨今、非常に気がかりな問題が起こっております。すなわち、外国人住民、とりわけ在留資格を持たない外国籍の方々の医療受診につき、特に診療報酬の支払いをめぐる問題でございます。

 医師として地域医療を担当しておりますと、いろいろな事情を抱える患者さんが診察に来られます。そうした方の中には、いわゆる不法滞在と呼ばれる外国人の方もおられ、これらの方は医療保険に加入できませんので、高い診察料金を支払うこともできず、必要な医療を受けられないこともしばしばであります。また、けがや急病など、救急で担ぎ込まれた場合には、結局、医療機関が医療費を肩がわりするという実情もございます。生身の人間であれば、病気、けがは場所を選ばず発生いたします。不法滞在の問題は根本的な解決が必要かと思いますけれども、それはそれとして、現に我が国に居住している人々については、必要なときには安心して日本国民と同様の医療を受けられる環境を整えるべきではないでしょうか。

 本年一月十五日、最高裁が、在留資格がないことを理由に一律に国民健康保険への加入を拒否することは違法であるとの判断を示したことは、御承知のとおりでございます。しかし、この判決が出された以後も、依然として国保加入を拒否された事例が報じられておりました。本年六月には、厚生労働省は、国民健康保険法施行規則の改正を行いまして、いわゆるオーバーステイの外国人の方々の国保加入を認めないことを明文化してしまいました。在留資格がないままに我が国に滞在していることは、それ自体早急に是正すべき問題ではありますが、現実に、そういう外国人の方々に憲法上の人権をどこまで保障するかという問題も、また実に解決困難な問題であります。しかし、そうであるからこそ、憲法調査会のような場において検討していただくことが適切であるように思っております。

 医療サービスへのアクセスは、国民の生存権の一部として重要な位置を占めることを前提といたしますと、その医療提供がもとで逆に国民の生命が危険にさらされるということは、絶対にあってはならないことでございます。もちろん、医療というものは、個々に条件や体質の異なる個人個人の疾病を対象とするわけで、治療の効果に不確実さが伴うことは当然でございますけれども、ここで言いますのは、それ以前の、医療従事者のミス、組織の欠陥に起因するいわゆる医療事故被害についてでございます。

 御承知のとおり、現在、医療界では、この医療事故被害を少しでもなくするように、一丸となって、あるいはそれぞれが競うように対策を打っているところでございます。残念ながら、現時点において、まだ医療提供の場面での危険が完全に取り払われたとは言えない状況が続いており、これは挙げて医療界の努力不足であると認めざるを得ません。

 その上で、あえてこの憲法調査会の場で申し上げておきたいことは、現実に医療従事者は、勤務時間などの労働環境が極めて過酷な状態であるということでございます。これはすなわち、医療現場の労働者の過酷な労働による過労のために国民の安全が犠牲になる可能性があることを意味しており、特に医療現場での人材の不足には早急な手だてを打つべき必要がございます。また、個々の医療機関も、医療の安全、患者の安全のための十分な投資ができるよう政策誘導していただきたいと考えております。また、それこそが国民の生存権を裏から支える結果になると考えております。

 いわゆるインフォームド・コンセントとか患者の自己決定といった問題がクローズアップされ、そしてそれが医療の現場で実践されるに従い、医療現場では、以前に比べて患者の人権が手厚く尊重されるようになってきたと実感しております。

 しかし一方で、ごく一部ではございましょうが、精神科患者の不当な身体拘束や過剰な投薬、あるいは入院をめぐるずさんな手続などの実態が問題として取り上げられることも現実でございます。特に精神科医療では、患者さん御自身の判断能力が欠如している場合などもございまして、問題が起きてもそのことが表面化しにくい性質がございますので、特に透明性を確保することによって、患者さんの人権が侵害されることのない制度をつくり上げていくことが必要であろうと考えております。

 また、新薬の治験や臨床研究の一部でも、被験者や患者の承諾、参加の意思を十分に確認しないまま実施されていた例が問題とされており、医療関係者、研究者の人権に対するモラルの向上が求められるところでございます。

 これに関連して、昨今、医療以外のさまざまな業種で現実に発生しております個人情報の流出事故も、医療界として、その予防に十分意を払わなくてはならない問題でございます。特に、医療に関する個人情報、すなわち、カルテに書かれている情報や、近時目覚ましい進歩を遂げております遺伝子解析技術を用いて得られた人の遺伝子情報などは、極めてプライバシー性の高い情報と言われております。そういたしますと、これらの情報を本人の了解なく他人の手に渡すということは、それだけで重大な人権侵害となっていると言ってよいかと思います。これらの情報の保護については、人権尊重という視点からも、国を挙げて対策を講ずる必要がございます。

 さらにつけ加えるならば、これらの個人情報を初め、人体から取り出された組織や臓器も、これは単なる情報や物ではなく、人体の一部として、特別の感情、すなわち礼意を持って取り扱われるべきものでなければなりません。これはモラルの問題とも言えましょうが、臓器売買やそれに類した行為は厳しく法律で罰すると同時に、人の身体に対する畏敬の念といった基本的な姿勢は、憲法であるか、あるいは生命基本理念構想、いろいろな法律、どのようなものがいいのかは別といたしまして、はっきりした宣言的な規定を設けるべきであると考えております。

 ところで、今申し上げましたような自己決定の尊重といった問題の延長線上には、冒頭に触れましたような生命の終末期の問題、すなわち、積極的な安楽死や医師による自殺幇助を適法なものとして認めるか否かという問題も浮かんでまいります。個人の自己決定を極端に推し進めていけば、そのような生命の終末のあり方を個人の自由として認める考え方もあるかもしれませんが、私どもといたしましては、これを無制限に認めてしまうことは反対でございます。

 すなわち、生命がまだ生きておられるうちは、これを生かそうとするべきであり、それが公の秩序、社会の秩序というものであろうと考えます。ただし、人間が生きるということは、人間らしく、よく生きるということを意味しますから、その限りにおいて、例えば延命のみを目的とした治療を差し控える、いわゆる尊厳死については、極めて厳格な条件を付した上で、そのような選択をする立場も容認すべきであろうと考えております。すなわち、国民生活にとって極めて重要な問題、その中でもさらに重要な人の命の問題については、すべてを個人の自由にゆだねるべきではなく、個々人の価値観、倫理観といったものをどの程度まで許容するか、すなわち、社会全体の意思としてはどの程度までなら合意し得るかという問題としてとらえるべきでございます。

 結論としては、現時点では、積極的な安楽死や医師による自殺幇助について、国民一般の納得はいまだ得られていないと考えております。

 ここで述べましたように、人命あるいは人体の尊厳に最高の価値を置くという考え方は、従来の常識的な憲法の枠組みの中ではあらわしにくい内容であるかもしれませんが、科学技術が高度に発達し、また人々の考え方もますます多様化している新しい時代の憲法のありようとしては、そのような事柄を明文規定としておくことも、また十分に意味のあることではないかと思っております。

 一方では、科学技術の進歩に合わせて、国民の側における人権教育も、憲法と深くかかわる問題として御検討いただきたいと思います。

 先ほど申し上げましたが、ヒトゲノムの解析計画の成功などを受けて、遺伝子解析等に関する技術は目覚ましい進歩を遂げ、現在では、さまざまな遺伝性疾患と特定の遺伝子欠損との関係、あるいは特定の遺伝子型を持つ人に有効な医薬品の開発などが取り組まれておるところでございます。このような研究開発また治療には遺伝子解析に基づく個々の患者に関する個人情報を利用する場合が多く、当然、それらの情報の管理には細心の注意を払わなくてはなりません。

 また、社会全体に目を向けてみると、そのような遺伝子解析に基づいて個人の体質や遺伝性疾患の有無に関して得られた情報は、結婚、雇用等に際しての差別、人の優劣の判断に用いられることのないよう、国民各層に対する人権教育が必要かと思います。人類に幸福をもたらすはずの高度な科学技術が新たな差別を生み出すことになっては本末転倒でございます。結局、差別とは、得られた情報を用いる人間のモラルの問題であり、これを正すには、法規制もある程度有効ではありましょうが、究極的には教育によって解決するしかございません。

 この人権教育の根底には、人は生まれながらにしてそれぞれ異なった部分、多様性を持っており、その違いをお互いに認め合って生きていかなければならないという考えを徹底することが肝要でございます。今後ますます高度な科学技術が進歩、普及していくことを考えれば、このような人権教育は初等教育から段階的に継続していくことが重要だと考えております。

 最後に、人の生命と健康を守る医師の立場から、武力行使に対しては断固反対の立場をとることを一言申し上げておきたいと思います。

 武力によってみずからと異なる立場の者を抑え込むことが卑劣な行為であることは言うまでもございませんが、これに対してさらなる武力で応じることも、憎しみを増すばかりで何の解決にもなりません。今回のイラク戦争に関して、日本医師会では、昨年の開戦直後の三月三十日に、日本医師会代議員会の名において、イラク戦争の即時終結を求める決議を、また、その五日前の三月二十五日には、日本歯科医師会、日本薬剤師会、日本看護協会との連名で、イラク戦争の即時終結を求める声明を発表いたしております。戦争反対の考え方は、本日申し上げてまいりました人命尊重の立場とも整合いたしますし、また、他者との違いを認め合って差別のない社会を目指す考え方は、究極的には世界平和の根本原理であると確信いたしております。

 医療機関は、いわゆる周辺事態が発生した場合に医療協力を要請されるものと理解いたしますが、これが今後拡大解釈され、医療従事者として、武力行使に加担することだけは断固反対の姿勢を表明させていただきます。

 ここまで、医療者の立場から、憲法にまつわる幾つかの問題について発言させていただきました。

 私は憲法解釈の専門家ではございませんので、今まで申しましたことをどのように憲法の体系に組み込んでいくかという点に関しては、憲法調査会の先生方を初め、法律学者の方々にお任せいたします。

 ただ、あえて私見を申し述べるとすれば、まずは、現行の憲法の枠内で可能な限りの公正な解釈を目指すべきであり、その上で、現行憲法の解釈だけでは社会の実態に適合しない事態が明らかになったり、そのような事態が予測される場合には、憲法の部分的な修正も積極的に考えるというのが筋であろうと考えております。

 先ほども触れましたように、高度な科学技術が発達し、人々の価値観も多様化している今日の社会では、あるいは、新しい考え方や新しい物事に対応できる表現を取り入れた新しい憲法をつくることも検討するべきときにあるのかもしれません。

 例えば、本日の意見陳述の中で終始申し上げてまいりました、生命、人体の尊厳という概念は、これからの科学技術が高度に進歩した時代において、極めて重要な言葉になるだろうと考えております。フランスでは、人体の尊厳が人権の一つとして宣言され、これに基づいて民法典に新たな条文が加わったと聞いております。またドイツでは、基本法の中に、人間の尊厳、身体を害されない権利といった規定が存在するとのことでございます。国の基本原理として、人の肉体そのものの尊厳というものを我が国の憲法の中に書き込むことも検討されてはいかがかと思っております。

 以上、簡単でございますけれども、意見を述べさせていただきました。(拍手)

中山会長 次に、暉峻公述人、お願いいたします。

暉峻公述人 暉峻でございます。

 きょうは、お招きいただきまして、ありがとうございました。

 実は、ここにお招きいただいたときに、私の研究仲間の人たちにもそのことを言ったんですけれども、その人たちは、やめなさいと。世間の評判によると、甚だふまじめで、議員の人たちが私語をしょっちゅうしたり、出たり入ったり、欠席も多くて、どうもまじめに聞いてくださらないという評判だ、そんなところに行っても仕方がないから、自分は頼まれたんだけれども断った、何でそんなところへ行くんですかと言われたんですけれども、私は、たとえそうであっても、私の意見を聞いてくださる方があるということで、きょうは喜んで伺いました。でも、きょうは、その評判に比べると、皆様とてもまじめに、欠席はありますけれども、聞いてくださっているので、とてもありがたいことだと思っています。

 私は、次の二点に絞って意見を述べたいと思っております。

 私の専門分野は国民生活に関する調査研究ですので、まず第一には、憲法九条が国民生活とどのようなかかわりを持っているか、九条がなし崩しになることによって国民生活にどのような変化が起こりつつあるかということについてお話しします。

 第二点は、私が十三年間かかわっている、紛争下での難民、孤児、病人、貧困者を救援しているNGOの活動の中で、国際貢献について私がどのように考え続けているかということについてお話ししたいと思っています。

 まず第一点について言えば、現在私たちが十分とは言えないにしても享受している人権も環境も福祉も民主主義も言論の自由も、平和憲法がなければあり得なかったということです。

 憲法十条から四十条までの三十一カ条にわたる人権規定。憲法十一条の基本的人権、十九条の思想、良心の自由、二十四条の家庭生活における個人の尊厳と両性の平等、二十五条の国民の生存権など、私たちの日々の暮らしを支えている人権規定は、すべて九条の規範と表裏一体となっているものだと思います。

 こう言うと、すぐに、それは一国平和主義だという声が聞こえてきそうですが、そのような御心配は要りません。国民の人権と福祉のレベルが高い国ほど、例えば北欧の国々の国際援助の国内総生産に占める割合は、日本よりもはるかに高く、公的な資料で、日本はGDP比〇・二三、デンマーク一・〇三、スウェーデン、ノルウェーともに〇・八一という状況で、NGOの活動も、私は国際的な舞台でNGOの人たちとよく会いますけれども、本当に質が高いです。北欧の政治家の国際紛争調停能力、これは政治家でも官僚でもそうですけれども、外交力の能力は国際的に高く評価されて、また信頼もされております。ブルントラントさんとかパルメさんとか、皆さん方もよく御存じだと思います。そういう能力は日本の比ではないでしょう。

 私はむしろ、自分の国で平和と人権を尊重している国こそが、外国への本当の意味の人道援助ができる国であると思っています。

 現在の日本社会のように、社会格差と差別思想がだんだん広がってきて、いわゆる勝ち組、負け組の世界に分裂し、国の政策も、税制や補助金やその他でそれを推し進める傾向にあります。労働の世界では、低賃金で不安定な労働。社会保険もつかないし社内研修による能力向上の機会も与えられないフリーターと正規社員との格差が広がっています。このフリーターが現在もう五百万人を超えているということは御存じですよね。政府の審議会や協議会の座長を務める財界のある方は、それを鉛筆のしんと周りの木に例えて、しんはエリート社員で大切にされるが、木はパートや使い捨てのフリーターだというふうに公に言っておられます。

 政府の役割は、新自由主義の市場が生んだそれらの格差に自立援助をして、非人間的な格差や差別を是正していくことにあると思うのですけれども、失業者、不安定労働者、ホームレス、それから、もう三万四千に達するという自殺者の数、こういう傾向が固定化していっていることに対しても大変冷淡であると私は考えております。

 生活の土台がこういうふうに破壊されていくことが実は経済の不況からの脱出を阻んでいるのですけれども、持続できない目先の利益を求めて、大きな損という対応しかとれていないのが日本の現状であると考えております。経済の長期的な発展も国際貢献も、すべての基礎は人権の尊重に由来しているのに、国内の人権意識が衰えていくのは、人権に逆行する軍事化路線が強くなっていっているからではないでしょうか。

 こういうことを言いますと、よく若い方が、もう戦前の人の話は結構というふうに言われるのですけれども、例えばマラリアにしても何にしても、一遍病気になった人は、その病気が再発するときには、あっ、また始まったとすごく敏感にわかるものです。私は戦前の経験も持っていますので、パターンこそ違いますけれども、やはり、あっ、また始まりつつあるなという感じを持っています。

 以上述べたことだけでなくて、子供の人間としての自然で豊かな人格全体の発達を助ける教育の世界にまで短期的な市場の競争原理が持ち込まれ、子供の生活をゆとりのない苦しいものにしているだけでなく、バランスのとれた人格の円満な発達を妨げています。

 今、子供たちも若者たちも人間関係をつくることがすごく苦手ですね。処理能力はあるんです。特にエリートと言われる人たちは、ばりばりと処理はします。しかし、考える力や創造性に欠ける子供が多いことは国際的にも知られているところです。これは、PISAという、十五歳の子供の国際比較のテストがありました。このときに、日本の子供は計算力もあるし法則も覚えているんだけれども、考える力、創造性というものがないということを、きちんと分析の結果、言われています。

 それなのに、今は、学校間競争をあおったり、一斉テストをしてその結果を公表したりしようということが本当の子供の能力を開花させることではないのに、これも、もう目先の何か結果を求めるわけですね。この競争の息苦しさへの批判を封じ込めるように、管理主義的な道徳とか愛国心が上から押しつけられています。

 私はもう四十年も教師をしておりますので、大学に入ってくる前の学校教育も常に見学をしたり教師の意見を聞いたり、親との集まりに出席しているわけですけれども、序列づけ、競争によって人間という一つの人格を順番づけにすると、子供は攻撃性を非常に強く持つようになります。

 それから、おまえは成績が悪いと言われた子、例えば習熟度別学級の一番下のクラスに入れられた子、こういう子は早くから挫折感を持って、ああ、どうせ自分は頭が悪いんだ、もう何をしてもどうせだめなんだと、それでいよいよだめになっていくんですね。世界の教育者の会議で、子供のときにおまえはだめだと思わされた子供はもう一生取り返せないというのは、世界の教育者の認識です。まれに何かの体験で自信を取り戻すということはないとは言えないんですけれども、一般的には、だめ人間をつくっていってしまうんですね。

 それなのに、今は、学校間競争があったり、あからさまに、例えばこれも文部省の教育課程審議会の会長もされたと思うんですけれども、ある文学者の有名な方が、できぬ者はできぬままで結構、戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることばかりに注いできた努力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける、百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます、限りなくできない非才、無才にはせめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんですというようなことを公言されておりますね。私は、教育者として、こういう社会になったらこれはもうおしまいだなというふうに思っています。

 それと歩調を合わせるように、批判を逆に封じ込めて、愛国心の強制や、東京都の教育に見られるような上からの強権的な統制、これは民主主義や人権に反するだけでなく、何か軍国主義的な歩調を感じさせて、九条を邪魔者扱いにしている流れと改憲を声高に言われる方の思想と、どこかでつながっているんじゃないのかしらと私は思って見ております。

 このようなことを述べるのは、実は、自民党の憲法改正プロジェクトチームの論点整理に見られますように、お上が決めて国民を従わせるという、何かそういう底流が非常に強く流れている、つまり、反国民主権の考えが流れているように思えるからです。もっとも、これは論点整理でありまして、自民党が結果的にそうするとおっしゃっているわけではないのですけれども、私は、率直に言わせていただければ、この論点整理を読んだとき、ええ、こういう考えの人たちが憲法改正、九条見直しを唱えているのという、本当に大きな驚きを感じました。これは私だけではない、広範囲な人たちが言っていることです。

 私は、文学も音楽も、あるいは家計簿を研究する生活研究も教育者の集まりにも、非常に幅広くその中に参加している人間ですけれども、例えば一例を挙げますと、「見直すべき規定」として、「婚姻・家族における両性平等の規定」、憲法二十四条ですが、これは「家族や共同体の価値を重視する観点から見直すべきである。」とはっきり書かれております。両性の平等を見直すべきであるなんというのは、ちょっと、本気かなと思うくらいです。

 日本は、既に国連の女子差別撤廃条約を一九八五年に批准して、国内法もこれに適合するように改めていますし、一九九九年、男女共同参画社会基本法によって、今、性差というものが歴史的、社会的にどんなふうにつくり上げられてきたのかわからない、これをきちんと研究しましょうという見直しですね、これも合意されています。

 日本で憲法を改正して両性の平等をこれから見直しましょうなんということは、性差別のない社会、性差別だけでなくて、人種差別でもあらゆる差別がない方がいいということを願っている私たちにとっても、それから、国際人権法の最も重要な柱として、国際人権法の中でも根本的な地位を占めている女性差別撤廃、今度のような両性の平等を見直すなんということを言われると、国際人権法と根本的な衝突をすることになります。今や人権規定はグローバルなものとして国際的に認められていますので、このような両性の平等を見直すという提案そのものがもう時代錯誤的なのです。この提案は、最初、読売新聞が行ったものであったと私は記憶しております。

 皆様方、日常の御生活の中でも、それぞれが愛情と信頼を持って家族をつくるからこそ、家族でしょう。ただ共同体という、家族は共同体だというその形だけを保存しておくために、例えば、今ドメスティック・バイオレンスという家庭内暴力の話なども出ていますけれども、そういうことは何か隠しておくというか、あるいは昔の家制度みたいに、ともかく女は、まあ女はとここには書いてありませんけれども、一方が一方に文句なく従う。

 でも、時代を見てください。昔、妻は所得もなかったから、そうするより仕方がなかったかもしれません。あるいは、天皇制を頂点とする家制度というのがあったので、それにがんじがらめに縛られていた。今度、お札に樋口一葉さんが出ていますけれども、皆さん、昔のことを知りたかったら、樋口一葉の小説の一つや二つは読んでください。その当時のことが生々しく書かれています。

 私は、やはり家族が大事、家族がいいというのは、そこにそれぞれの自立した人間、人権を保障された人間がいて、男も女も、その人たちが自分たちで本当に愛情と信頼を持っていい家族をつくっていきたいと思うからこそ家族なんですね。何かこの論点整理を見ていると、こんなことまで言わなきゃいけないのかという感じです。

 この両性の平等の見直しと並んで提案されているのが、「公共の福祉」を「公共の利益」と言いかえるものです。これもたしか読売に出ていたような気がしますけれども。

 公共の福祉というのは実は個人の福祉を増進させるものであって、両者は対立関係にあるものではありません。これは福祉の歴史をどうぞ、もう時間がありませんのでここでは言えませんけれども、ちょっと見てくださればわかるものです。何が公共の福祉であるかは、一般の市民が参加して、討議、話し合いによって決めていくものです。主導権は市民にあります。福祉は人権のもう一つの表現であり、たとえ利益がなくても、損になっても、例えば環境問題のように、守られるべきものなのです。公共の利益と言われると、短期的な視点から判断されるだけでなく、まあ利益というのは常に短期的になりがちなんですけれども、だれにとっての利益か、だれが何を公共の利益と決めるのか。権力に都合のいい判断で公共になって、強制立ち退きが命じられたり、軍事基地がつくられたり、幾らでも拡大解釈されることは、沖縄や成田の例が既に示していると思います。

 これまでに挙げた例からもわかるように、自民党の論点整理が示しているのは、権力が決め、国民が従うという、国民主権の否定であるような気がします。

 戦後、平和とともに国民が営々と築き上げてきた人権と民主主義は一体どうなっているの。二十四条の見直しなど絶対に許せないというのが、つい先週、私の地域で集まった、ある詩人をしのぶ会での男女を問わない発言でした。

 自民党の中には、かつて婦人少年局長を務められて、女子差別撤廃の批准に努力された方もいらっしゃいますし、世界女性会議で女子差別撤廃を推進する発言をされた方もあります。世界女性会議のナイロビ会議に日本政府代表としてその女性の方は出席され、その後、法務大臣にもなられています。こういう方たちがこの論点整理に対してどんなお考えをお持ちなのか。これも私は、どうも不思議な気がしてなりません。

 このような人権意識の後退は、改憲、つまり九条見直しの思想と深くつながっています。今、日本が世界有数の軍事力を持ち、しかもアメリカの軍事力と一体化されつつあるために、それを押しとどめるだけの規範力を日本の九条は発揮できていません。しかし、国民は、軍事的な価値が社会の最高の価値だとは認めておらず、平和、人権、民主主義の持つ基本的な価値を軍事的な価値よりも高度な価値として認めています。それは、九条が持つ価値観が国民の中にまだ根を張って残り続けているからでしょう。

 九条が空洞化しているといっても、もし日本が九条を持っていなかったら、日本は好戦的なアイデンティティーを持つ強大な軍事国家とみなされて、反省のない国として、韓国を初めとする近隣諸国の日本に対する憎しみは解消できず、日米の産軍複合企業は武器の売買で利益を上げ、マスメディアは相変わらず不十分にしか批判的な意見を持ち得ず、独立性も持てないままになっただろうというのは、日本の憲法を研究しているアメリカの憲法学者の本に書いてあることです。

 九条は空洞化したと言うけれども、本当に空洞化していたら、改憲論者はこんなに躍起になって憲法改正を叫んだでしょうか。九条は、アメリカと一緒にどこでも戦争できるということを阻止しているからこそ邪魔者扱いにされているのだと思います。

 国民の生活の福祉を支える人権文化は、武力による軍事文化とは相入れません。

 軍事文化は情報を秘匿しますが、民主主義は、公の持つ情報を公開させて、国民自身が判断し、自己決定権を持つことを国民主権だと考えています。軍事文化は、上からの命令を批判することを許さず、すべての決定権を上が握って、下に命令します。しかし、民主主義の人権文化は、個人の尊厳が認められ、相互に自由な討議や話し合いによって公共の場や共通規則をつくっていくという過程を大事にしています。個人が政治にも社会にも参加することを促進しています。軍事文化は、武力で勝つことによって、あるいは人を殺すことによって物事を解決しますが、人権文化は暴力を否定し、人の命を大切にする福祉社会をつくろうとしています。九条はその結実なのです。

 民主主義は、平等に向けて絶えず努力して、差別を除く人間社会をつくろうとしています。力によって勝ち負けを決め、力によって物事を解決しようとする軍事文化と、競争の勝者が優位に立って支配権を握る弱肉強食の社会には、どこか共通性があるのじゃないでしょうか。

 自分の子供が殺されるのは嫌、だけれども、イラクの子が殺されるのはやむを得ない。十万人の殺されたイラク人の七割が女性と子供です。いまだにイラク武力攻撃を支持する人が改憲を唱えているのを見ると、何か心配です。

 自分が地雷で足を失うのは嫌、だけれども、地雷も武器の輸出もいい。国民には厳しく銃の取引を規制しているのに、何で大企業なら武器の商売をしてもいいのでしょうか。私の経験でも、地雷や銃が発見されるたびに、救援の現場では、国際的なNGOの人たちが、一体この武器はどこの国で生産されたのかといつも問題にし、記録していました。

 アメリカが空爆を始めたときに、アメリカのジャーナリストたちはその説明をアメリカの当局者から聞いたわけですが、そのときに、ただ一人、初老の女性のヘレン・トーマスさんという女性記者が次のように質問しました。説明は伺いました、でも、なぜ罪もない子供が殺されなければならないのですかと。政府はだれもそれに答えられなかったと聞いています。この問いこそ、本当に根本的な人間としての問いであると私は思っています。

 自衛隊にも、御苦労さまという言葉で言っていますけれども、自衛隊は死んでもいいんだ、私は死にたくない、だけれども、自衛隊の人は死傷者が出てもやむを得ない。これも差別意識ではないでしょうか。

 私は、もうこれで時間がないので、あとは御質問のときにお答えしたいと思いますが、このような差別というものは、戦争、武力というものと必ずついて回るものです。それゆえに、私は、九条の改定にも反対ですし、こういう差別意識を持たれる武力というものがいずれシビリアンコントロールを抜け出して大きくなっていくのではないかという心配も非常に大きく持っております。

 以上で私の話を終わります。(拍手)

中山会長 以上で公述人からの御意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

中山会長 これより公述人に対する質疑に入ります。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。加藤勝信君。

加藤(勝)委員 自由民主党の加藤勝信でございます。

 きょうは、公述人のお三人の方々には、大変お忙しい中にもかかわりませず御出席をいただきまして、また、それぞれのかかわってこられた分野から憲法についてのそれぞれの御意見をいただいて、本当にありがたく思っております。

 それぞれの皆さんが活動されている分野が違うので、個々に、順番にお聞かせいただきたいと思います。

 まず、植松公述人からお話をお聞かせいただきたいと思うのでありますけれども、公述人のお話の中で、やはり常に命のとうとさということがテーマにあったように思います。ある意味では行き過ぎた個人主義というんでしょうか、自分の命は自分のものなんだ、だから勝手にしようがいいじゃないかというような意見、特に若い方を中心にそんな意見も私どもも聞くわけであります。

 私は、もちろん自分の命は自分のものであることは間違いないわけでありますけれども、同時に、私どもがこの社会に生まれて今日に至る間において、いろんな方から、ある意味では生かされているんだ、したがって、自分の命は自分のものであるとともに、どういう言い方をすればいいかわかりませんが、ある意味ではみんなのものである、そういう部分が大事じゃないのかなという気がするわけであります。

 そういう中で、今、直接医療の現場におられて、長い御経験を持っておられると思うんですけれども、これまでの御経験の中で、例えば三十年、四十年ぐらい前と今日と、患者さんが来られて、また患者さんの生や死に対する思いというんでしょうか感覚というんでしょうか、そういうものにどういうようにこれまでの間に変化があったのか、現場におられた医師としてかかわってこられた、そういうお立場で少しお話をいただければと思います。

植松公述人 私が医師になりましたのは、昭和三十年に卒業しておりますから、もう来年で五十年になるわけでございますが、そのころといいますのは、やはり戦争というものの中で、現実に身近に命を失った人がたくさんあった、また、家庭におきましても、いわゆる病気で亡くなる場合もほとんどが家庭で亡くなっておったという中で、人間の死というものは、皆さんが目にし感じてきた中での命という考え方が、身をもって体験したというか、あったように思います。そういう中では、やはり死というものを見ながら、命の大切さというもの、生きていることの幸せということを感じておったと思います。

 現在、特に若い人を含めまして、この人間の終末、死というものを目に見ることが少なくなった。多く見ておりますのは、テレビゲームその他、テレビもそうでございますけれども、バーチャルの世界で死というものがある。このバーチャルの死というものは必ず生き返るんですね。だから、そういう中で、死というものを現実に直面して考え体験することがない。もう一方でございます個人主義的な考え方という中で、命は自分のもの、ただ単にそこにある、だから私は私の命だというふうなことがあるわけでございますので、その辺のところは毎日の中で十分に感じておるわけでございます。

 そういうことを考えますと、やはりそういうことも含めて、いわゆる命の尊厳、あるいは人間として存在することの意味というものをこれから教えるということは非常に大切なことでございますし、これこそが教育改革にもつながるのでございましょうけれども、大事な問題だというふうに思っております。

 そして、自殺する人自体につきましても、本当に死というものを考えておるかというと、これが自分の中で、もう頭の中で既に自分の命、死というものをバーチャル化されているのではないかというふうに思っております。

 だから、終末期医療も含めまして、今改めて、生、老、病、死、このものについてどう考えるかということをきっちりとやはりやっていかなければならぬというふうに思っております。

加藤(勝)委員 今のお話の中で、特に死というものをどうとらえていくのか。特に、家族の中でもちろんおじいさん、おばあさんが亡くなるということもあるわけでありますけれども、どちらかというと今離れている、核家族という中、場合によっては施設に入っておられる、そういう中で、死というものが非常に遠いもの、ある意味でなかなか実感されなくなってきた。

 そういうことを含めて、今ちょっとお話がありましたけれども、やはり死というものをしっかりと教育していく、そして、そこから生まれてくる生というものをどうとらえ直すか、そのことは大変重要だというふうに私は思っておりますし、ある意味では宗教的な宗教心というものに私はつながっていくのではないかと思うんですけれども、そういう、医療という立場と宗教心というものと、その辺をどのようにとらえておるのかお話しいただきたいと思います。

植松公述人 これはもう中山会長が十分に御経験があると思うんですが、脳死臓器移植が問題になりましたときに、やはりこれで一番難しかったのは、臓器を移植するというよりも、脳死の状態をどのように判定するかということが大事であった。そのときに、いろいろな面での考え方がございました。

 その中で、日本の宗教といいますものを、私どもは、自分のところは仏教だと思っておるわけでございますけれども、お盆が来たときにどうこうという、いろいろなことを見ますと、流れておりますのは、仏教といいますよりも、いわゆる儒教の精神というところがある。これがおのおのの生活の中のリズムの中で、信じているとか信じていないということとは別に、お盆になったら御先祖様の魂が帰ってくるというところ、このあたりは、宗教というよりも何となく生命観の中で息づいているのかなと。

 だから、日本の中では、やはり今までから、脳死の問題も含めました中で、宗教というものが日本で、人間の生死の問題にかかわって深く主導性を持ったということもないですし、心の中に深く刻み込まれておったものでもない。日本の中では、いわゆるやおよろずの神というような感じで、どこにも神さんがおるというふうな感覚、こういうふうなもので、いわゆる宗教とは別のものであるのではなかろうか。

 日本の中では、宗教というものは生死に関しましてもそう深く関与してこなかったのではないか、そこのところに今の難しさも少々あるのかなというふうに思っております。

加藤(勝)委員 今お話しいただきました、宗教という問題と、ある意味では倫理という問題、この辺をこれからどう日本の中でもう一度見つけ直していくのか、築き直していくのか、私は一つのポイントだと思うんです。

 このお話ばかりしてもあれなんで、別途、憲法二十五条いわゆる生存権と医療のお話をしていただいたわけであります。

 通常、この二十五条を受けて、医療保険制度を含めてさまざまな社会保障の制度、こういったものも創設をされているということになるわけであります。また、そういう中で、医療分野について言えば、ここにお書きになっている国民皆保険制度のお話、問題、あるいは先ほど少し触れていただきました終末医療というものをどうとらえるか等々出てきているわけであります。

 植松公述人といたしまして、憲法二十五条が求めている医療における対応というんでしょうか、貢献といったものはどういうものなのか、そこを少し具体的にお話をいただきたいと思います。

植松公述人 日本の医療といいますものは、今の位置づけでは国民皆保険制度ということでございますが、これがそもそもこういうふうな形になりましたのは、私は、戦後におきましての日本での社会保障というもののあり方、これの中で、いわゆる救貧措置ということで始まりました社会保障というものが今や全く普遍的なものになってきた。このように、社会保障という概念が変わりながらも大きくなってきたという中で、一番にこれを支える柱が医療であるというふうなことが十分あったというふうに思っております。

 そして、医療というものが、皆保険制度は今のようになったわけでございますが、この間、昭和三十六年でございますから今から四十年余り前なんです。まだそれほどもたっていない。それにもかかわらず、この国民皆保険制度、医療制度というものが今や全く形を変えようとしている、危機的な状態になっておるということでございますので、私は、この医療保険というものはやはり、社会保障の中で最も重視すべき、これは命の問題でございます。

 その中で、先ほども出ておりましたけれども、今の政策の中で、思想的には新自由主義的な考え方、そして市場経済原理こそが最高であるという流れの中で、医療の改革というのが進められつつあるわけでございますが、そもそも命というもの、健康というものは、市場経済に合わないということは十分に御理解がいただけると思います。

 市場におきましての売り手、買い手ということでございますれば、売り手でございます医療機関と買い手である患者さん、この中で、売り手の失敗が起こらないように医療機関の資質の向上、サービスの向上は大事でございますが、買い手でございます患者さんがお金がないということで買えない、いわゆる市場の失敗を来したときには、命を失うか健康に大きな被害があるということになりますと、これは買い手に負けをつくってはならぬということでありますので、その一点からでも市場経済を導入する、考えを入れるということは間違いでございますし、そういう失敗が起こらないためにということで恐らく組み立てられていったのが国民皆保険制度でございます。

 これは、お互いが個々の人のリスクをヘッジすると同時に、みんなで助け合ってみんなのリスクをヘッジしていこうというためにできたものでございますので、この互助の精神でできてきた、そして、今それが危機に瀕しております国民皆保険制度というものは、どうしても守らなければならないと思いますし、現在の日本が置かれております、WHOの報告でもございますように、健康度あるいは平均寿命、平均健康寿命ともに世界一でございますし、乳幼児死亡は一番低いというこの今の状況を守るというためには、国民皆保険制度というものがこれをなし遂げたということを考えれば、これをやはり守るということは基本に置くべきだというふうに思っております。

加藤(勝)委員 ありがとうございます。

 一方で、今アメリカ等では、さらにもっと市場主義を医療分野でも進めていこう、そんな動きも見られるというふうにも聞いているわけでありますし、いろいろ議論が出ている混合診療等の議論は、今おっしゃった懸念の対象になっているんではないかというふうに思うわけであります。

 ただ、これまでの五十年間という中を見られても、多分昔はどうにか傷が治ればいい、病気が治ればいいというような状況から、次に、さらにもっと暮らしのクオリティーというんですか、そういうものも非常に追求される時代になってきて、医療に求められているニーズというものが非常に多様化してきている。昔だったら科学的にといいましょうかこの水準をクリアすればそれでいいんだというものから、かなり個々においても求めてきている水準にばらつきが出てきているというのが今の状況になってきている。

 それは、ある意味では豊かさの反映ではないかと私は思うわけでありますけれども、そういう中において、まさに権利としての、あるいは国家からいえば義務としての、社会権としての医療と、そして今申し上げたいろいろな多様性に対応した部分、これはいろいろ分かれてくる部分もあるんではないかなという意見あるいは思いもするわけでありますけれども、その点はいかがでございましょうか。

植松公述人 医療ということ全般で考えますれば、高度先進医療を初めといたしまして、いわゆる高度医療というものが非常に脚光を浴びておるわけでございますけれども、これの対象になります人と、いわゆるコモンディジーズというふうなもの、あるいは生活習慣に基づいたもの、このようなものとを比べますと、数からいいますと、一般的な疾患がはるかに多いわけでございます。その中には、治るものも治らないものもある、また加齢に伴うもの、いろいろあるわけでございます。

 そういう意味からいいますと、今、我々医療を担当しております者に求められております最大のものは、病を持った人トータルをどういうふうにケアしていくかということで、病気を治すということは当然でございますけれども、病気を持った人、その人をどのようにクオリティーを高めていって幸せにするかということが一番なわけでございます。そういう意味では、私どもは全人的医療ということを進めておりますし、そういうものに対しまして、いわゆるかかりつけ医というものが対応できるように、プライマリーケアの重視ということで進めておるわけでございます。

 ただ、今の選択権その他の問題もございますけれども、今、混合診療の話その他で出ておりますもののどの部分が本当に混合診療でなければならないかということが示されておりませんし、極めて希薄なものであります。

 医療と福祉というものを考えましたときに、いわゆる生活保障としての例えば年金というものにつきましては、社会生活一般のときでもそうでございますけれども、それぞれのレベルの中で生活をしております。ただ、病になったときの疾病に対しましての医療保険、これに対応するものは、ミニマムではなくオプティマムのものを当然求めるべきだということがございます。

 そういうことを考えますれば、医療、医学というものが進歩いたしますとともに、医療保険の守備範囲というものは当然に広がるべきであって、その当時の医学のレベルに応じたものを国民に当然に提供すべきでございますし、そのことが、混合診療というふうな形のように、もし混合診療でなければならないというならば、そういう部分にある者が、お金がないがためにその医療を受けられないというふうなこと、医療は私は平等に与えられるべきであるというふうに思っております。

 ただ、現在の国家財政その他の問題を抱えて、医療費の問題も議論になるわけでございますけれども、今、日本の医療費、GDP比にいたしましてアメリカの半分でございます。世界の先進国の中でも低いところにございまして、十七番目というところでございます。日本の国力から考えて、これに〇・何%か上積みすることができるのかどうかということを考えますと、決してそんな状況ではないというふうに思っておりますし、国民もそういうふうに望んでおると思います。

 ただ、日本の皆保険制度というものは、今までに十分に機能してまいりました。そういうことで、国民の皆さん方は、この皆保険制度というものを空気か水のように当然にあるものというふうに信じておられるわけでございまして、今私どもが皆保険制度の危機とかと言いましても、そんなものは決して来ないよというふうな感覚で受けとめられておると思います。

 そのこと自体は決して悪いことではないと思いますし、国がそこまでやられたということについては私は敬意を払うわけでございますけれども、そういう国民をこれからさらに不幸にすることのないように、先ほど申し上げましたオプティマムな医療は提供できるようにすべきで、しかも平等でなければならない。あくまでも、税であれ保険料であれ、あるいは一部負担金であれ、すべて出ていくのは国民の懐から出るお金でございます。

 それをどのように配分するかということは、政治の決定でございますけれども、温かさを持った施策の中で、しかも将来に向けてどのような国家像を示し、そしてそのためにはどうあるべきかということで、現在のように、医療というものを成長産業というふうに位置づけて、それによって国の経済を活性化し、そして雇用を促進するというこの今の政府の目標というものは、まだ一歩先がある。経済が安定をしたときに、果たしてそれから先はどうかというと、国民が健康で幸せになれるということであります。

 そういうことを思うと、政府といたしましては、その先の、健康で幸せな安全な国をつくるんだということを目標に挙げて、そのために経済の発展が大事だというふうなことであり、その間に国民の健康を阻害するようなものをつくっていきながら経済を発展させたときには、最後の到着点のところでは必ず失敗になるだろうということでありますので、新しい国のあり方を示していただいて、それがこれからの医療の改革にどうあるべきかということをお考えいただきたいというふうに思います。

加藤(勝)委員 最後に、遺伝子操作等の話をおっしゃっておられて、これはこれからの大変大きな問題だろうというふうに思います。

 私も子供が今四人おりますけれども、生まれてくる瞬間に、元気な子であれば、またそれぞれ頭がちょっとよければな、運動神経がということで、どんどん要望というのは高くなっていってしまう。あるいは、自分で見ても、一歳でも長生きしていきたいなという、ある意味では欲望というものは際限のない部分があって、それがだんだん何かかなうかのような、ある意味では幻想の部分もあるのかもしれませんけれども、そんなような形で技術が進んでいく、その辺をどこで調整していくのか。そして一方で、科学技術という意味ではどんどん進化させていかなければいけない、しかし、その応用というものをどこかで抑えていかなければいけない部分もある。

 そこをどう調整していけばいいのかなという流れの中の一つのお考えが、最後に出てこられた生命と人体の尊厳という文言ではないかと思うのでありますけれども、今の遺伝子の部分、操作等も含めて、その辺をちょっとかいつまんで御意見を開陳していただければと思います。

植松公述人 医学と申しますのは、これは科学でございますので、科学はそれ自身どんどんと発展させようということで進むのは当然の話でございます。だから、今言う遺伝子の解析から、いろいろな問題に広がっていくということは当然でございます。

 これは、昔の日本医師会会長であります武見太郎さんが言った言葉でございますが、医療は医学の社会的な適用であるというふうに言われております。医学は、今申し上げましたように、どんどんと進むわけでございます。これは科学として当然なことでございますが、これを医療という形に持っていきますためには、社会との関連ということになるわけでございます。その社会との関連ということになりますと、社会がどういう社会で、そこがどういうふうに倫理面を含めて認められるかという話になってくるだろうと思います。

 そのためには、先ほど脳死の問題で申し上げましたように、社会になかなか御理解をいただけなくて進まなかったというこの現実も踏まえながら、医学の進歩をどこまで医療に適用できるかということについては、やはり今の時代でございますから、十分に情報を開示しながら、国民の皆様方、社会がどこまで受け入れられるかということを十分に御説明しながら進まなければならない。

 ただ、やはりその中に基本といたしまして、人間としてどうあるべきか、どこまでできるか、いわゆる生命の倫理はどこにあるかということが大事でございます。その生命倫理につきましては、各国で考えましたときに、これはやはり歴史、文化、宗教というものが大きなかかわりがございます。だから、同じようなものであっても、許される国と許されない国がある。その中で、日本という国、社会の中でどこまでこれが認められていくかということについては、非常に大きな問題でございます。

 科学の進歩と宗教、哲学あるいは倫理学の進歩というものが相伴っていくということが望ましいわけでございますけれども、この倫理観その他につきましては、科学の進歩と必ずしも並行しておらない、そちらの方がややおくれてついてきているという中で混乱が起こっておる。特に生殖医療におきまして出ている問題、これはやはり倫理面で大きな問題がある。しかも、社会の皆さん方の御理解がまだ十分でないということでありますので、科学をいたします学者と、医療を行います私どもの立場とを考えますと、我々が国民にお話を申し上げながら、どこまでやれるかということを慎重にやらなければならぬという問題で、これからますます深刻な問題が出てくるだろうと思っております。

加藤(勝)委員 ありがとうございます。

 続いて、浅岡公述人にお話を聞かせていただきたいと思います。

 環境についていろいろ御活動されている中で、環境権のお話がございました。憲法の中に環境権を新しい権利として盛り込むかどうかということにつながるのでありますが、ある意味で、環境権というのは、自由な経済活動の結果として生まれてきている部分というのも多分にあるのではないか。逆に言うと、自由な経済活動と、ある意味では公共の福祉といいましょうか公の部分、その辺を調整していくという部分も環境権ということに入ってきている。一般的に、ほかの権利はどちらかというと個人に非常に帰着をする部分が多いのに対して、この環境権というのは、どちらかというと公共的な利益、自分だけではなくて周辺にも全体に及ぶ、その辺がちょっと違う部分もある意味ではあるのかな、私はそんな思いがするわけであります。

 そういう視点も含めて、他の新しい権利と一緒という部分ももちろんありますけれども、今申し上げたような違いということも含めて考えたときに、憲法の中に盛り込んでいくということも考えてもいいんじゃないのかなという気も私は持っているのでありますけれども、公述人は、そこまでしなくても、あえてそれを奇貨として憲法改正をしなくてもというお話だったように思います。逆に言うと、憲法改正をいろいろ議論していく中で、もし盛り込んでいくとするならば、どういう形で環境権というものを盛り込んでいけばいいのか、その辺についてのお考えをお示しいただきたいというふうに思います。

浅岡公述人 ただいま御指摘いただきましたように、環境についての社会的認識が広がりましたのは、日本におきましてはとりわけ公害問題を端緒としておりまして、水俣病の問題の発生、そして今日に至るまでの経緯が大変そのことを物語っているわけであります。

 今私が特にかかわっております地球環境問題につきましても、きょうお示しの資料の中に若干つけてございますけれども、二酸化炭素の排出増加が温暖化をもたらしている主たる大きな要因になっておりますが、日本の排出量の実態を見ますと、総排出量の八割までが企業の活動に由来するものでありまして、国民の家庭生活におけるものといいますのは、マイカーを含めましても二割程度である、こういう状況を見ますと、自由な企業の経済活動あるいは公共的な活動が環境への負荷を大きく拡大してきた要因であるところは、御案内のとおりであります。

 あわせて、国民一人一人が豊かさを求めるという中で、それも大きく言いますれば経済の発展というものを反映する形で起こってきておりますし、さまざまな面で御指摘のところが出てまいります。

 確かに、他の権利と比べまして、一人で自分の生活の中で完結するものという側面は非常に限られてまいりまして、地球環境まで含めまして、そうした環境の中に私たちが生かされている、また、そうした環境が遠い遠い先の将来世代にも影響を及ぼし、そうした将来世代からの預かり物としてのこの環境を我々が享受するとともに、またよいものとしてつくり上げていかなければいけない、そうした認識も非常に高まっておりますし、そうした議論もなされてきております。

 おっしゃるとおり、確かに、そうした新しい問題というものを包括的に見ますと含んでまいりますし、それは、発想といたしまして、地球規模でも、国といたしましても、企業といたしましても、また人の命というところからとりましても、その持続可能性というところから問題提起をするということがなされているわけであります。

 ただ、私が申し上げたいのは、こうした問題を具体的に解決していきますために、多くの立法的措置が七〇年代の公害国会以降なされてまいりましたけれども、私も、日弁連の委員等で、あるいは環境団体といたしまして、国会の先生方にいろいろな立法の要請をしてまいりました。今、消費者につきましてもあるいは司法改革につきましても要請しているところでございますけれども、先生御指摘のような形でよい環境を法的に担保していく、そして、それを法的にしっかりした仕組みで担保していくための制度づくりに御熱心な先生方がこの憲法改正議論を御主張しているといいますよりも、むしろ、そうしたことには余り御熱心でないといいますか、それよりも自由な経済活動を優先することの方が重要だ、そうした御指摘を強くされる方の方に見受けるわけであります。

 そこが一つ現実でありまして、そのために、一つ一つの立法におきましてなかなかそこが進まない。この国会でと思いましたものが次に、また次にと延長されましたり、今日におきましてもまだ進んでいない。まだまだ国民がそんなことを要求するのは早いよというようなことを言われる先生方の方に多いということが、今日の議論を複雑にいたしているかと思います。

 今、環境にせよ、個人の権利にせよ、立法府にお仕事をお願いしたいと求めている部分は、むしろ、一つ一つの立法をもっと国民の権利の観点からあるいは環境保全の観点からしっかりしたものにしていただきたいというところができないまま環境権というものが憲法上入るということは、一体何を意味するのだろうか、そういう疑念をもたらしているのではないかと思うところでございます。

加藤(勝)委員 中途半端な形で盛り込むということがここにもたしか書いてありましたように、逆に言うと、ある種の乱用みたいなことのおそれがあるという指摘も確かにあります。しかし、同じく書かれておりますように、住民の参加という形の中で、またその環境の基準というのも、地域、文化や歴史等によっても随分求められているものも違うと。本当に、そういう意味では、新しい権利というものを、ここにお書きになっている行政手続的なという意味での権利ということを含めて盛り込んでいくというのも一つの考え方ではないかなというふうに私は思っております。

 それとは別に、国民投票のお話をしていただきましたので、ちょっとそれに触れさせていただきたいと思うんです。

 確かに、この調査会等での議論あるいは外国へ行かれた話を聞いても、仮に国民投票をするときに、この条文を全文出して、果たしてそれで、しかも多岐にわたる改正があった場合に国民が判断できるんだろうか、そういうような議論もありました。そういう中で、きょうのお話は、一括してという話でございます。

 ただ、これとこれとが結びつくから、あるいはこれとこれと理念が反するというのも、そこに一つの価値観があっての話になると思いますので、逆に言うと、おっしゃる趣旨は、逐条的に国民投票に付した方がいいというようなお話というふうに承ればいいのか、たまたま九条と環境権はお考えの中では相反するものだから、それを出すからだということなのか、その辺をちょっと教えていただきたいと思います。

浅岡公述人 先ほどの話に少し付言をいたしますと、先生御指摘のように、行政手続的なことも含めて環境権という形にすればよろしいのではないかという御意見でございますが、それもあり得ることですけれども、憲法の規定というもの自身が、そのように余り細かく踏み込んだ規定をつくることが難しいものでありますので、どうしても抽象的なものにならざるを得ない、そこが一番の問題であります。

 それが、さらに幾つかの論点が重なり合ってまいりますと、より幅のあるものがよりまた重なってくるということでありまして、解釈を明確にするために法律改正をしたつもりのものが、かえって幅をさらに大きくいたしてしまいまして、本来の趣旨と反することになるということも考えられるところであります。

 特に、憲法を改正していくことがありましたときに、国民がそれを判断していくということから見ますと、非常に十分な情報が提供されること、そして判断するために十分な議論がまず提供されること、そして自分たち自身の頭でも考えていけることということは、地域の住民投票におきましてももちろん重要なことでありますけれども、憲法というような全くの根本的な基本法の改正におきましてはとりわけ重要なことになろうかと思うんです。複雑な項目が重なり合うということ、それ自身はやはり本来的に無理があると思いますので、議論するとすれば、本当に逐条的なことというのは原則的なことではないかと思います。

 とりわけ、今回の憲法改正の議論で私どもが報道に接して見ておりますところでは、九条問題というのがどちらかといえば改正の主たる動機として浮上いたしまして、環境とか人権に係る運動や関心を持っているものから特に出ているとは言いがたいようなところがつけ加わっている、こういう状況もございますので、とりわけそうした要因が、問題点が大きくなってまいるということではないかと思います。

加藤(勝)委員 国民投票のお話をもう少し後で足していただければと思うのでありますけれども、今たしかそこまでお答えいただいていなかったように思います。

 それからもう一点、レジュメの方にお書きいただいているのでありますけれども、憲法改正要件自体のお話であります。

 今、逆に言うと、憲法というものが、私なんかのとらえ方としては、改正する、議論することすらもというところがこれまでやや強くあり過ぎて、逆にそれが憲法と国民の距離を離してしまったのではないかな。そういう気がする立場から申し上げると、この憲法というものを、逆に言えば、国民の声が反映するという意味で、改正をもう少ししやすくしていくということも、一つ憲法そのものの価値を高めていくということで必要ではないかな。

 ただ、議会だけで決めるとかいうのはいささか過ぎていることかもしれませんけれども、もう少しこの改正を容易にしていき、逆に言えば、頻繁にとは言いませんけれども、適切に憲法の中身を吟味していく、またそれが国民的な議論に付されていくということが、私は、大変重要なことではないかなというふうに思うのであります。

 その辺を含めて、憲法の改正というものを国民の方々にどう受けとめていただくかというか、あるいは先ほどの投票と絡みもするわけでありますけれども、どう変更しやすく、変更しやすくという言い方は変ですが、国民にとって身近なものにしていくという観点から考えて、改正の要件あるいは投票の仕組み、その辺について御意見をいただきたいと思います。

浅岡公述人 憲法を身近なものにしていくという観点は、それを改正しようということよりも、この憲法をどのように我々の生活の中に位置づけていくか、生かしていくかという観点の方が、まだ我が国においては重要ではないかと思います。

 私も、法律家といいますか弁護士として日々の訴訟活動等をしているわけでありますけれども、まだまだそうした現実のあるべき法の支配といいますか、執行がなされているとは言いがたいわけでありまして、それが、今あなたのこうした不合理に思う問題は、憲法の中にこのように本来は目指している問題であって、それを実現していくようにいたしましょうということを、もっともっと認識を広げていくべき段階、そういう社会状況にある。そういう意味で、私どもが今有しております憲法は、完全ではないかもしれませんけれども、なかなかによくできていると思うわけであります。

 ということで、改正をするということは、改正をすること自身が価値があるわけではございませんで、改正をする必要性がどこにどのように立法事実としてあって、そうしたことを国民が理解するかというところからまず出発するものと思いますので、改正しやすくするということを今しなければいけないという気持ちは持っておりません。

 むしろ、憲法を国会におかれましても行政におかれましても尊重していこうと定めましたところ、我々もそこをよく理解し、充実させていくというためには、そう軽々に改正されるのではなく、これをしっかり実現していこうという方向で国民の気持ちはあるのではないかというふうに私は今思っております。

加藤(勝)委員 最後になって申しわけございません。暉峻公述人にお話をお聞かせいただきたいと思います。

 その前に、私どもの自民党で、憲法改正プロジェクトチーム論点整理についてお話がありました。ただ、これは私よりも、きょうおいでになっておられます保岡委員の方がもちろん会長として御精通されていると思いますが、必ずしも今の中でいろいろな御意見、こういう面を変えていったらいいんじゃないか。そして前提としては今、いろいろな意味での問題意識が、公述人からも教育の問題を含めてお話がありました。そういった中で、どこが問題なんだろうか、どこを変えていけばいいんだろうかという中での議論ということであります。

 確かに、議論をしていく中で言葉の問題というのは非常にありまして、ただ、両性の部分というのもありましたけれども、言葉ではなくて中身を我々は一生懸命議論していかなければいけない。そして、その中でお互い、党の中にもいろいろな立場がある、意見がある、それを自由濶達にぶつけ合いながら、今の現状、そしてあるべき日本の姿を築いていこう、そういう作業の途中であるということは御認識をいただきたいというふうに思うわけであります。

 そして、そういう中で、きょうは憲法九条のお話もありました。少なくとも私とは随分立場が違うということを前提にお話をさせていただきたいと思うのでありますけれども、同時に、国家としての役割だけで現在の例えば安全保障あるいは多国間との関係というものを維持できるものではなくて、御活躍いただいているNGOあるいはODA等、さまざまな手段によって初めて各国間内でもうまくやっていける、私はそのように思っておりますし、北欧においても、必ずしも軍事的なものがなくてNGOだけでやっているかということでもないのではないかなと。

 その辺のバランスをどうとっていくかということが大事なことであり、そして、お話があるように、憲法九条も、そういう意味での国家のありよう、あるいはこれからどういう国家になっていくんだということにおいて、はっきりさせるべきところは、私は、きちんと書き込んでいかなければいけないのではないかなという立場でございます。

 そういう中でもう一つ、きょうはせっかくおいでいただいて、いただいた資料も読ませていただいて、NGOで、特にコソボですか、あちらの方での活躍、活動のお話がありまして、そういう中で一つありますのは、報道によってつくられたイメージというのは今非常に大きい。特に、国際世論、国民世論というのは非常に大きく政治を動かしていくと思うのでありますけれども、そういうものと、実際にその場に行かれて受けられたものとの違いが書いてあったと思いますけれども、その辺を少しお話しいただきたいと思うんです。

暉峻公述人 その点だけに絞って言えば、例えば、ユーゴは民族紛争だということになっていますけれども、実はユーゴというのは、南スラブという同じ民族なんですね、クロアチアもスロベニアもセルビアも。ですから、言葉は皆同じです、同じ言葉を使っています。それが歴史の中である国に支配されてこうなった。ボスニアなどはイスラムの影響が強いですし、クロアチアはドイツの影響が強い、セルビアはトルコに非常に影響を受けている。いろいろな歴史的な経過の中で違いは出てきていますけれども、チトーの時代にあれは全部ユーゴスラビアとして統一されたのを見てもわかるように、これは民族紛争とは言えないんです。

 ただ、私は大変いい記事が出たと思いますけれども、例の戦犯法廷に日本から判事として出られた女性の方がいらっしゃいますね、多谷千香子さんという。この方はユーゴ国際戦犯法廷に判事として出られているわけですけれども、彼女もそう言っていて、結局どこが悪かった。つまり、報道では、今ヨーロッパの報道はかなり変わっていますけれども、セルビアが悪人でいろいろな虐殺をしたというふうに報道されているのだけれども、彼女は、そうではない、どこの国でも政治家が自分の利益、利権と権力欲のために国民、住民をあおったと。あおったがために、さっきおっしゃったそういう宣伝に、世論操作などに乗せられてそういういさかいというか紛争があったということを彼女ははっきりと述べていて、戦犯法廷のいいところは、そういうことをもう一遍洗い直して見られるというところがこの法廷の大変いいところだということを言っています。

 それで、私は、ユーゴの救援にかかわって、例えば病院とかいろいろなところの職場で、あなたは何人なんですかとしょっちゅう聞きました。大体ユーゴ人と答える人が非常に多くて、私はクロアチア人です、セルビア人です、何人ですというような答え方をする人はそんなに多くないんですね。そして、職場でも同じように仕事をして、学校でも机を横に並べてその人たちは皆勉強しているわけだから、一般市民の間では、今聞いても、何でそんな紛争をしなきゃいけなかったのか全然わからないと言う人が大多数です。それはトップの政治家の人はまた違うことを言うかもしれませんが、そういう人たちは亡くなられたりもう政権の座にはいないわけで、ですから、民族紛争とあれをわいわい言ったということは、私は、間違っていたと思うんですね。

 結局、経済の格差もあったし、それから、あの紛争を起こしたのは、結局周りの、かつて自分たちが支配した国に自分の国の利権とか権益を及ぼしたいと思っていた、そういう国々があおったんですね。

 あのとき、東ヨーロッパでは皆、社会主義政権は崩れていきましたけれども、ユーゴは一応中立、非同盟中立に入っていたので、社会主義政権が最後まで崩れずに残っていました。これを崩してしまうには民族紛争という形をとった方がいい、そういう思惑もあって、その資料は今いっぱいあるんですけれども、あれを一概に民族紛争と言うのは、私は、ちょっと間違いであると思っています。

 それから……

中山会長 暉峻公述人に申し上げます。

 質疑時間が経過いたしましたので、おまとめくださるようお願いを申し上げます。

暉峻公述人 はい、わかりました。

 コソボについては、おっしゃるように、メディアが全部あおりました。イバル川という川でアルバニア人の子供が水死したんですけれども、これはセルビア人が水死させたんだということをテレビとメディアが一斉に報じたんですね。それで三月の大事件が起こった。ところが、UNMIK、国連関係の調査では、そういうことは一切なかったという。今も理由はわからない。

 だから、私は、そういうとき、メディアが、証拠もきちんとしないのに、特に人間の命にかかわるような紛争をあおるということは本当に自粛しなきゃいけない。今でも、日本も尖閣諸島の問題とかガスの問題とかいろいろありますけれども、常に冷静に、メディアは事実に基づいて報道してほしいというのは私の願いでもあります。

加藤(勝)委員 ありがとうございました。

中山会長 以上で加藤勝信君の質疑は終わります。

 次に、馬淵澄夫君。

馬淵委員 民主党の馬淵でございます。

 きょうは、公述人のお三方、お忙しい中、皆様方の御見解をお聞かせいただきまして、本当にありがとうございます。きょうは私、お三方に、それぞれの御経験の中から、憲法の問題に関して、本日は人権という観点でお話をお聞かせいただけたらというふうに思います。

 人権というものは公共の福祉により一定の制約を受けるということは、憲法の中でも内在的に認めているものであります。しかしながら、昨今、新たな公共ということが大きく取り上げられるようになりました。愛国心などに代表されるような新たな公共という観点から、個人の権利というものがある一定の限界があるのではないかという主張がされる場面がふえているような気がいたします。

 日本国憲法では、基本的人権というものを憲法制定以前より成立している権利である、このように認めております。社会を構成する人々がセルフコントロールする自律的な個人として生存する自由を確保する、また、尊厳を維持するために必要な一定の権利として、当然に固有のものであるということを認めています。そして、憲法とは、こうしたことを実体的に法的な権利として定めたものであると一般的に考えられていると思います。

 私は、みずからの政治的なメッセージとして、自立する勇気、見守る愛、このことを受容する社会をつくり出すことが必要だと訴えてきました。そして、その底流には、個人の自由に対する希求というものが最大限に尊重されなければならないという思いを込めてまいりました。

 自立と共生、これが一つの社会のキーワードである、このように考えてきたわけでありますが、歴史的に見ますと、この個人の尊厳、権限というものが公権力によってしばしば侵害される。それに対して、国家からの自由ということ、これを求めて先人たちがかち取った、この人権というものが、安易な制限という形で行われるということは慎重であるべきだというふうに考えております。

 こうした人権のことについて、私はまず、その人権の主体となる部分からお三方の皆様方にお尋ねをしていきたいというふうに思います。

 まず、先ほど植松公述人のレジュメの中で、お話の中で、外国人への医療提供という問題を掲げられました。外国人、一義的には、憲法におきましては、その国によって保障されるべき権利、この社会権というものは、当然ながら日本国民であるということが定められております。しかし一方で、財政上の支障がない限りは、法律で外国人にその社会権を保障することができるという学説上の考え方もございます。こうした外国人に対する社会権ということについては、先ほど植松公述人が最高裁判例また国民健康保険の付与の問題などで言及をされておられました。

 私は、この外国人の社会権というところで、ひとつお三方にお尋ねをしたいと思います。外国人が市民としてこの国に暮らす、つまり共生する社会というものを考えたときに、日本国籍の人たちだけを念頭につくられた現行の仕組みというものが制度疲労を来している、そういった見方も十分に成立するのではないか。

 そこで、外国人の市民権というものに対してお尋ねをしたいと思うんです。外国人が市民として暮らしていく上で欠かせない権利や義務、教育あるいは雇用、福祉などの領域で、根本から見直す出発点として、この外国人の社会権ということについて、お三方の皆様方から、どのようにお考えかということをお聞かせいただきたいと思います。

    〔会長退席、枝野会長代理着席〕

浅岡公述人 先生御指摘のとおり、今日、国際社会に、日本人も外国に参りますし、外国人も日本に参ります。相互に関連することでもございますし、外国人に対する国民としての権利が日本で暮らしておりますときに十分に尊重されなければいけないということは、さまざまな紛争、問題の現場で、今例えば裁判所でも議論されておりまして、認められてきているところであります。

 憲法の中、この憲法といいますものは、基本的には、日本国政府と国民との権利義務関係を明確にし、国が国民を支配する限界を示そうというところに基本があるわけでありますのでこのような規定ぶりになっておりますけれども、そこで示されております人としての尊厳に係る問題、あるいは人としての生存に由来する問題というものは、極めて自然に、当然に外国人の皆様にも適用されていくというものになってきているだろうと思います。

 これを特に憲法の中に、外国人のこのようなものをこうして認めるべきであるという項目を加えていくべきか、どのような形があり得るのかについて、私は今具体的な意見を持っておりませんけれども、御指摘の趣旨は、今日粛々と議論し、さらにそれを発展させていくことについて、私は、適切であろうと思っております。

植松公述人 私は法律のことに詳しいわけではございませんので、個々の事例ということでは申し上げられないわけでございますが、先ほど申し上げましたのは、少なくとも生存権というものについてのお話をさせていただいたわけでございます。

 日本におられます外国の方にどのような範囲での市民権を与えるかというふうな考えになりますときに、前に考えるべきは、外国におられる日本人にどれぐらいのことを外国にいてもしてほしいかなという観点に立ちませんと、こちらが与える立場という考えでは成り立たないのではないか。ただ、やはり憲法といいますものが、日本の国と国民という中での問題ということでありますれば、外国人の問題をそこに詳細に記述するということの可否については私は判断をしかねるわけでございますけれども、少なくとも生存権その他基本的なものについては、日本人に限らず、人類としてというふうな考え方があらわれるような形にしていただきたいという気持ちは私はあるわけでございます。

暉峻公述人 私も植松さんと大体同じ考え方ですね。

 ですけれども、この外国人問題というのは、ヨーロッパでも、深く社会に入っていけばいくほど非常に難しい問題を発生させるということは事実なんですね。だから、外国人問題を論じるときに、非常に抽象的な権利というところだけでなくて、本当に具体的に、どういう問題が起こったときにどういうふうに対処していくか、これを具体的にやはり詰めていかないと危ないなという感じは持っています。

 でも、基本的な立場としては、やはりどんな国の人も基本的人権があり、それから、進んだ国というのかお金がもっとある国、そういう国はまたその国なりの外国人に対する一つの義務というのも負っているというふうに思っています。

馬淵委員 今、お三方からお話を聞きましたが、一点、突っ込んで、植松公述人にお話を聞きたいんです。

 生存権という今お話をいただきました。現実に滞在する外国人、特に不法滞在という場合に、提供される医療、どういった場合には医療の提供ができて、そして、これは不法滞在の場合ですけれども、どういったところではこれはできないという、その限界のようなものというのは植松公述人の頭の中でお持ちでしょうか。

植松公述人 私は、医療を行う者として、原則といたしまして、いかなる人でいかなる立場にあっても同じ医療は提供すべき、これは私どもの任務であるというふうに思っております。

 ここで問題になっておりますのは、それの後の医療費というところでの問題でございます。これを国が見るか地方が見るか、いろいろございますけれども、今のところは、その相当な部分が医療機関の負担になっておるということでございまして、医療機関がいわゆる医療費をいただかないで治療しているということであります。しかしながら、我々は、職業倫理といたしまして、プロフェッションといたしまして、求められた医療はすべて提供しておるというのが現状でありますし、これは仕方がないと申しましょうか、今後ともそうであろうと思います。

馬淵委員 ありがとうございます。

 今、外国人についてのお話をちょっとお聞きしたわけですが、同じ権利の主体者として、今度は観点をちょっと変えてみまして、子供という権利の主体者、これをお尋ねしていきたいと思います。

 私自身は六人の子供の父親でありまして、児童虐待あるいは不登校、いじめ、青少年犯罪といったさまざまな子供をめぐる社会の問題というのを、憲法において子供の権利というのをどう考えるべきかというのを非常に重視しております。

 基本的人権の普遍性からいいますと、当然ながら、人種、年齢、性別に関係なく享受すべきものであります。しかし、憲法を見ますと、子供というところ、これについては記述がございません。表現の仕方という部分におきましても、教育の部分で、二十六条に「その保護する子女」、これは、教育を受ける、受けさせる義務を負うというところで「保護する子女」と出てまいります。また二十七条では、これは労働の部分でございますが、「児童は、これを酷使してはならない。」こうあるだけでございます。

 この子供の権利ということについては、国連の総会で、一九八九年、児童の権利に関する条約というものが総会で採択をされました。そして我が国も、十年前ですが、九四年に日本はこの条約の批准をして、百五十八番目の締約国となっております。この子供の権利というもの、当然ながらにして守られるべきものであるということであり、子供というのは社会の重要な構成員である、無視されるべき存在ではない、子供の権利及び福祉の国際的規範というものをしっかりとつくっていかねばならないというこの条約を日本は批准してきたわけであります。

 一方、こうした、同条約が子供の権利というものに対して積極的に取り上げているわけでありますが、もう一つの論としまして、子供が権利主体だと位置づけているということの画期性ばかりが過度に強調される部分がある、こういった論もございます。権利主体となり得るにはまだまだ十分な責任能力を持っていない子供、言いかえれば、十分な責任主体としての能力を有することが必要不可欠なんだ、しかし子供は逆に保護客体としての側面がある、その部分も軽視してはならないといった論もございます。

 この子供の人権、子供の権利ということにつきまして、お三方それぞれのお立場で今までお話をいただきましたが、それぞれのお考えというものをお聞かせいただきたいと思います。お三方にお願いいたします。

浅岡公述人 憲法の中には、先ほどの外国人で申しますと、「何人も、」という表現をとっておりますものと、「日本国民は、」という表現をとっておりますものとあります。いずれにおきましても、子供がそこに当たらないということはあり得ないわけでありますので、当然ながら、含めて考えられるのは言うまでもないことであろうと思います。

 こうしたことが認識されてくる、しかしながら、子どもの権利条約というものが結ばれ、また日本の中でも批准を受けまして国内法整備をするという議論が起こりますというのは、やはりそうした権利主体として認識されるということがまず第一歩としてある、それが社会の変化なのではないかと思います。

 私は昔、フランスの人権宣言に「人は、」と書いてあります中に女性は入っていなかったのだということを学んだことがありまして、ああそうかと思ったものでありました。そういうことでありまして、この間、権利条約の議論のころから、子供は一体どういうかかわりがあるのかということを社会的に議論されてきた途上にあるのではないかと思います。

 これも先ほどの外国人のことと同じでありますけれども、子供の権利はと概括して議論するということではありませんで、やはり具体的に、子供のこういう場面のこういうときに子供には何が保護され、子供は何をすることが期待されているのか、そうした少し詰めた議論を社会的にしてまいることによりまして、権利が具体化し、それを保護するための法制度も具体化し、皆様のコンセンサスにもなってまいるということではないかと思っております。

植松公述人 基本的に、子供の権利、これが大人と変わらないというのはもう当然の話であって、大人と同様に認めるべきである。ただ、発展途上といいましょうか、これが発育の途上の中で子供に大人と違うまだ未熟な部分があるということについて、これによって権利をどうこうと考えるよりは、むしろ子供を育てております親の義務というふうな形でそれを補完するということで、子供というものを一つの人格という中で十分に考え得るということで、大人と何ら変わらない観点で権利というものはあるべきだというふうに思っております。

暉峻公述人 私も大体同じ考えなんですけれども、発展途上国で子供の権利ということを言われる場合は非常にわかりやすいと思うんですね。ところが、御承知のように、子どもの権利条約を扱う国際的な委員会で、貧困な国の子供と同じように日本の子供を救済すべきだ、そういう意見が出ているということは、私は本当に、私たちは真剣に考えなきゃいけないと思います。つまり、何か受験競争みたいなものに追いまくられたり、子供の意見に大人が耳をちゃんと傾けない、子供の権利が、実質上人間としての権利が認められていない、そういうところが例のパルメ委員とかいろいろな人によって大きく取り上げられましたね。この議事録は全部あります。

 だから、子供の権利と言う場合に、ただ何か食べさせて学校へやっていればいいというものじゃなくて、子供自身が持っている意見、それから、子供が生きている時代と私たちの時代は違うんですから、その新しい時代を担う子供たちの意見、主体性、こういうものを十分大人は認めなければいけない、そういうことですね。今大人がつくっている機構の中に子供をただ強制的に当てはめていく、こういうことであってはいけないということが強く言われていますね。

馬淵委員 暉峻公述人に再度お尋ねをします。

 保護客体としての子供の権利が、今のお話ですと、途上国と同様に論じられるというのはいささかの問題があるのではないか、こういった御意見でありますが、保護客体としての子供が、今逆に、非常に主体としての権利を侵害されている、阻害されているという事件が往々に我々の耳に入ってくるわけですね。

 こうした世情、状況にかんがみて、そこを守るというところに対してはどのような観点で取り組むべきか、子供の虐待も含め、どのような観点で取り組むべきかということの御意見をお聞かせください。

暉峻公述人 これはいろいろな例があって、一般論として何かお答えするということが適当かどうかわからないんですけれども、子供の権利が否定されているときというのは、大体、親の権利そのものに一つの大きな障害があるときなんですね。だから、親がどういうところで社会的に受け入れられていないというか、つまずいているというか、そういうところをまずちゃんと見なければいけない。

 私は、一つの大きな傾向として言えるのは、日本の社会における、特に新自由主義と言われている非常な競争主義ですよね。それで、子供のときから選別してしまう。今の学級の分け方もだんだんそういうことになってきていますね。親もまた、そういうところから自分は落ちこぼれているというふうに思う親もあって、これは人権という問題と同じ範囲、同じ考え方の中にあると思うんですね。

 だから、子供の人権が保障されているときというのは、やっぱり大人の人権がちゃんと保障されている社会だというふうに言うのが一番わかりやすいと思います。

馬淵委員 大変示唆に富んだ御意見をいただきました。

 次に、植松公述人の方に、同じ主体者としてお尋ねをしたいことがございます。

 人の一生の中で、生まれる前、生まれる前となりますと、これはまだ生まれていないではないか、人権という問題ではないではないかという御指摘になるかもしれませんが、生まれる前、そして死ぬ直前という、このときにかかわる人権の問題について、少しお尋ねをしたいと思うんです。

 先日、横浜市の産婦人科で、中絶胎児を一般ごみにまぜて捨てているという形で、病院の元院長が廃棄物処理法の違反で逮捕されました。これは、感染性の廃棄物を一般ごみにまぜて、施行令が定めた事前通知をせずにごみ処理工場への運搬を業者に委託したということで逮捕されたということであります。

 十二週未満という中絶胎児が感染性廃棄物となるということ、これ自体は一般感情としては非常に違和感があるものでございますが、こうした十二週未満の中絶胎児の扱いというのは規定がなく、県警自体も当局に照会をしていたということが報道されています。

 こうした中で、環境省適正処理・不法投棄対策室では、法的には感染性廃棄物として扱わざるを得ないが、基本的には十二週以上の胎児と同等に丁重に埋葬すべきだ、このように見解を述べられています。十二週以上の胎児は、墓地埋葬法で死体として扱われております。

 このように、生まれる前の胎児というもの、十二週という胎児というものに対して、生命倫理という感覚でいえば、一般感情としては非常に違和感のあるものと言わざるを得ないこのような事件に対してどのようなお考え、御見解をお持ちかということ。

 そして、死ぬ前ということを考えれば、痴呆の状況ということについてお尋ねをしたいと思います。

 私自身も、実の母が痴呆症で、十五年間介護してまいりましたが、当然ながら、痴呆症になっても基本的人権というものは享受すべきであり、また、自己決定権ということを考えたときには、その能力が失われた場合に、それをどのような形で補完していくかということが重要になります。当然ながら成年後見制度といったことで対応するということもあるわけですが、医師として、痴呆症の高齢者の人権保障に対してはどのようなお考えをお持ちかということ。

 この二点についてお聞かせいただきたいと思います。

植松公述人 胎児の問題につきましては、先ほど最初の話でも申し上げましたように、取り出した臓器自体にも人としての尊厳を感じなさいという話でございますので、今は法の整備というふうな問題で片づけられておりますけれども、基本的にございますのは、胎児であれ大人であれ、また手術して取り出した臓器であれ、すべてのものが人間としての尊厳の中から出てきておるということを考えますれば、この扱いについては、私は、そういう立場から慎重に対処すべきでありますと同時に、我々医師としては、そのあたりの観念を間違うことのないようにしたいと思っております。

 ただ、法ができましたのが非常に昔の問題でございますので、この不備というものについては、それはこれから正していくべきであると思いますし、その中においては、今の成人と同じように、生命が宿ってからというものは尊厳というものを当然持つべきであるというふうに考えております。

 痴呆の問題につきましては、現在、まだ不明なところがたくさんございます。痴呆と思っておられる状況の中にも、その中で、どのように実際の脳の活動あるいは価値観をお持ちかということが不明なところもまだ十分あるというふうに言われてもおるわけでございます。そういう状況を考えますれば、痴呆という一つの状態に陥ったということで人権が失われたり、損なってもいいんだというふうなことは決してございません。

 そういう意味では、私は、人権というものと命の尊厳というのは、常にそういう基本的な態度を持ちながら接すべきでございますし、それに伴いまして、いろいろ要ります介助であるとか援助の問題というのも、基本的に、命を持っておられる方の尊厳というものを損なわない形で行うという基本的な認識での法的なもの、あるいはすべてのものがそこにあるということでございますので、こういうふうな観念をきっちり持つということが、我々医師、また世の中一般には求められるのではないかというふうに思います。

馬淵委員 もう時間も短くなってまいりましたので、最後に一点。

 これは本当に直近の時事の問題でございますが、退避勧告ということについて、海外渡航の自由ということについてお尋ねをしたいと思います。

 これは、先日、イラクでの人質事件、大変不幸な事件として私たちに大変大きなショックを与えました香田さんの事件でございます。退避勧告が出されていたが法定な拘束力を持たないということで、今回の事件でも大きく取り上げられておりました。また、四月には、同様に人質となられた方々に対して、海外渡航の自由といえども何らかの法的規制が必要ではないかといった意見も出されておりました。危機管理専門の大学の先生などは、無防備で危険地域に行く場合には国としての何らかの指導が必要である、罰則を科すことも考えなければならないといった御意見も出ております。憲法上でいえば、一九五八年の最高裁の判例で、海外渡航の自由といえども、公共の福祉のために合理的な制限に服するとして、旅券発給を制限したという事実がございます。

 当然ながら憲法二十二条に定められている渡航の自由というものに対して、どのような形で、我々、今後法的な規制というものを考えるべきなのか、あるいは考えてはいけないのか。かつての歴史の中で見れば、海外渡航の法的規制というものは、一部の共産主義国で見られただけでありまして、先進国ではほとんど見られておりません。

 こうした観点から、この海外渡航の自由ということに対して、あるいは国益を守るための退避、法的制限ということに対しまして、海外での活動を積極的に行われてこられました暉峻公述人に御意見を伺いたいというふうに思います。

枝野会長代理 恐れ入ります。馬淵君の持ち時間が残り二分ほどですので、ポイントを絞ってお答えいただければと思います。

暉峻公述人 私も、コソボの救援に行ったときは、携帯電話に一時間おきに現地の大使館から、危ないから帰ってこいとか、危ないから、危ないからというのはありました。

 でも、私たちNGOにしてみれば、こう言うのは失礼ですけれども、現地の外務省よりははるかにたくさんの情報を持っているし、人間的な信頼関係もあるんですね。もう実際に難民がいっぱい出てきて、子供も老人もいる。ここにこういうふうに救援に行くというノウハウは持っていますし、それから、こう言っては大変おこがましいんですけれども、私たちの救援活動はもう現地では知れ渡っていて、本当に皆さんよくしてくださいます。

 だから、おっしゃったように渡航禁止とか、特に人命を何とか助けたいと思っているNGOに対してそういう制限を課すということは、私は反対です。また、課してみたところで、そういうのは効果がないと思います。

 現地が危ないからこそ私たちは助けに行くので、助けに行くからには、こちらも自分の命は大事ですから、いろいろな手段を尽くして現地の状況はよく把握もしています。また、行けば、ああ、あの人たちが来てくれたといって住民の人たちが皆連携して私たちの援助活動を支援してくださるので、済みません、公式的に、現地のことを知らない人たちが勝手に規制をかけていくという、規制をかければそれは助けにも行かなくていいかもしれないけれども、それでは何もできません。官僚的と言っては悪いですけれども、そういう発想は、私は、これから援助大国として日本がやっていく場合、禁止などということは絶対に反対です。

馬淵委員 ありがとうございました。

枝野会長代理 次に、福島豊君。

福島委員 持ち時間が限られておりますので、医療の問題、また社会保障の問題について、植松公述人にお尋ねをいたしたいと思います。

 憲法二十五条の生存権に基づいて、医療へのアクセスの自由というものが保障されなければならない、大変大切なことだというふうに思っております。

 昨今、混合診療ということが議論されているわけでありますが、混合診療を進めるべきだというふうに言う人はこんな説明をするわけです。例えば、がんの治療薬で日本にはないものが外国で使われていると。かつて日本の制度では、そうした日本で承認されていない治療薬を国内で使った場合には保険外ということで、それ以外の治療についても本人の負担になってしまう。今それは改善されましたけれども。こういった新しい薬であるとか新しい技術というものを早く使えるようにするためには、こういった保険外のものを認めるべきだ、それは自由度を増すんだ、こういう指摘があるわけであります。

 こういう指摘は一見すると正しいように見えますけれども、しかし、将来的には大変大きな禍根を残すことになろう。

 一つは、そうした新しい治療薬、そしてまた技術、最近は医療技術に関しても特許を認める、こういう時代になってまいりましたから、どのような値段でこれを手に入れることができるのか、ここのところに一つは問題があるわけであります。新しい薬であれば当然のこと、大変高い価格になるであろう。混合診療ということでこれを認めた場合に、そうした薬にアクセスできるのは一体だれか。それはお金のある人だけであります。そしてまた技術にアクセスできる人はだれか。お金のある人だけであります。

 これを一たんこういう形で認めてしまったときに、次は何が起こるか。現在の医療保険の財政というものが大変危機的な状況にあるということは、つとに知られております。そうした新しい高価な医療技術というものを医療保険の中に取り込んでいくということが起こるだろうか。むしろ逆に、それは起こらない。自分の費用でやっていただきたいということが定着するに違いないと私は思います。

 ですから、一見するといいようでありましても、日本の医療保険がこうした新しい技術や医薬品というものを着実に公的な保険の中に取り入れてきた、そのことによってアクセスを保障してきた、それを揺るがしかねない提案ではないかというふうに私は思っておりますし、本日の公述人のお話は大変共感するところが多いわけでありますが、再度この点について公述人の御意見をお聞きしたいと思います。

植松公述人 ただいま福島先生おっしゃったとおりでございますが、例えば抗がん剤の例で、アメリカで使われていて日本で使われておらない薬というふうなものを使いたいということで、これは混合診療でというふうな話もございますけれども、今、医療保険で薬が使われるという中では、安全性を担保しておるということがあるわけでございます。新薬といいながらも、これの安全性を保証するということも国の大きな責任でございます。承認された抗がん剤といたしましても、イレッサのような例もあるわけでございます。

 そういう意味では、新薬の安全性の担保というものと、もう一点、間違ってはならないのは、新しい薬を薬事承認し、保険に導入するというこのプロセスに時間がかかるということの話でございます。保険に入れられないということではございませんので、今対処すべきは、このプロセスを短期に終わるようにする、また、必要ならば治験というふうな形でこれを適用していく。そうすれば、特定療養費ということでございますので、これは混合診療でなくてもいいわけでございます。

 そういう意味では、先ほども加藤先生の質問に答えたわけでございますけれども、混合診療といいながら、何を混合診療か、具体的に求められておるものがわからないということでございますし、将来を見まして、混合診療に置くということは、今の特定療養費と違いまして医療保険に導入されるときが保証されないということでございます。特に遅くなるということでございます。

 また、高度の医療、いろいろ言われますけれども、例えば遺伝子治療というものにつきましても、これは高度でありながら、非常に高価であるかどうかということにつきましては、当初は高価かもわかりません、しかしながら、今やもうDNAのチップが非常に安く売られているということでございますので、使われ出すと非常に安くなってくるのは当然でございます。

 その一例といたしまして内視鏡の手術のお話をしたいわけでございますが、内視鏡の手術は、最初、胆のうの手術に使われたときに、保険外ということで、行ったところはペナルティーがあったわけです。ところが、早期にこれが認められたために、各方面で使われるようになった。その結果どうなったかというと、内視鏡の手術の技術も非常に進歩したし、それからまた器具も発展したということで、各方面に広がったということがございます。これは何かといいますと、保険に適用されて安い値段で手術が受けられるということで、多くの人々がそれを受けたことによってこれが進歩したわけでございます。

 そういうことを考えれば、医学、医療の進歩と医療保険の関係では、医療保険はむしろ医療の進歩を支えるものだということで、すぐれたものは、医療保険の中に置くことによって、さらに広く使われると同時に、値段的にも安くなり、精度も上がってくるということでございます。

 そういうことでは、混合診療に置くということが果たしていいことか悪いことか。しかも、混合診療によってお金がある人だけ受けられるということは、それだけ不平等が生じると同時に、その技術、薬剤というものが高どまりになってくるということを考えれば、決していい方策ではないと思っております。

福島委員 ただいまの公述人のおっしゃるとおりだと私は思います。日本の医療がここまで進歩してきたその仕組みが何であったのかということをよく考えて、混合診療の問題については議論する必要がある、そのように思っております。

 続いて、現在の憲法の議論の中では、生命倫理について、これを規定すべきではないか、こういうような指摘もあります。

 例えば、フランスでは生命倫理法というような法律がございます。遺伝子の操作の問題でありますとか、そしてまた胎児の問題でありますとか、生殖医療の問題でありますとか、生命倫理にかかわる問題が次々とあらわれている。その中で一定の方向性を示す法律がつくられたわけであります。

 日本も、そうした生命倫理にかかわる問題について今後取り組んでいくためにも、憲法の中にそのような規定を盛り込むべきではないか、こういう指摘があるわけでありますけれども、公述人のお考えをお聞きいたしたいと思います。

植松公述人 ただいまの問題は大きな問題でございますけれども、医学、医術が進歩いたしますと、この倫理問題にかかわってくるものはだんだんと変わってくるだろうというふうに思います。今非常に大きな問題でありましても、何年かするとそれは大きな問題でないものとなるものもあるだろうということは考えられます。

 そういうことを考えますと、少なくとも憲法というふうな中でもし取り上げられるとするならば、理念的な大きな、縛りと言うとおかしゅうございますが、問題として取り上げながら、しかも、医学の進歩に伴いまして変化いたしていきます価値観というものについて、この倫理をどうするかというのは、もう少し下の法律でやっていくというふうなことでなければ、これは時代に即応したものにはなり得ない。そのたびに憲法改正という議論が出るのではおかしいということでございますので、基本法としての憲法の中でこれを取り上げるというときには、その範囲を余り細かくしない、広い範囲のものであるべきであろうと思います。

福島委員 御指摘のとおりであると私も思います。

 そしてまた、昨今は、この生殖補助医療に関して、産科学会、学会の中でのコンセンサスにあえて挑戦するような医師も出現をいたしておるわけであります。マスコミが大きくクローズアップいたします。そしてまた、そういうニーズがないというわけではないのも事実でありますので、治療を、そしてまた診断を受けようとする者があらわれてくる。こうしたことがなし崩しに行われているのが本当にいいんだろうかという思いが、私はいたします。それは、プロフェッションとしての専門家の集団の中で、きちっとした倫理というものがなければならないのではないか。

 日本医師会におきましてもこうした取り組みは鋭意行っていただいていると思いますが、この点についての植松公述人のお考えをお聞きいたしたいと思います。

植松公述人 この問題は、先ほども臓器移植に関しましての脳死の問題でも触れさせていただいたわけでございますけれども、やはり個々の医師がプロフェッションとしてどう考えておるかということ、また、これを望む人があるかないかという問題とは別に、こういうことのトータルといたしまして、社会、日本の国民がどのようにこれを認めるかというふうな、いわゆる世論というふうな形がいいのかどうかわかりませんが、社会がトータルとして受け入れられる状況にあるのかないのかというところが今欠けておると思います。

 そういう意味では、これからも国民に信頼していただいて医療を提供する立場といたしましては、単に、行っておりますプロフェッションとしての考え方、また、それを欲する人というだけではなく、社会全体として見たときに許されるべきものか、あるいは受け入れられるべきものかということをやらなければならぬ。

 そういうことで、先ほど申し上げましたような、医療は医学の社会的な適用という中で、社会がどう判断されるかという観点は、忘れてはならないというふうに思います。

福島委員 ありがとうございます。

 時間も残り少なくなりましたので、最後に一点お尋ねをしたいのは、憲法の第二十五条は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」そしてまた、「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」このように明確に規定をされているわけであります。

 国家財政が大変悪化する中にありまして、昨今の議論の中では、こうした社会保障に関して、一律に抑制するということが必要なのではないか、医療に関しましても、一〇%また二〇%、その給付について抑制をしていくことが必要ではないか、こういう指摘もあるわけであります。もちろん、国家財政というものが安定をし、そしてまた、破綻を回避するということは極めて大切であることは論をまちませんけれども、しかしながら、国民の生存権にかかわるこの社会保障の問題について、単に財政的な観点からのみこれを論じるということはまた許されないことではないか、そのような思いがするわけであります。

 こうした社会保障制度の改革の方向ということについて、植松公述人のお考えをお聞きいたしたいと思います。

植松公述人 社会保障という観点からいいますと、年金、医療、介護、いろいろあるわけでございますが、私どもといたしましては、これは十数年来申し上げておりますけれども、年金というものにつきましては、これは生活の保障の部分でございますけれども、例えば、これはできる人もできない人もあろうかと思いますけれども、月に一万円貯金をいたしましても、三十年貯金をいたしますと四百万を超える貯金ができるわけでございます。そのことは、いわゆる年金にプラスし得るものが用意できると思います。

 ただ、医療ということになりますと、重い病気になりましたときに、百万、二百万では到底済まないということで、将来の医療に対しての保障、支えということで自分で貯金をするということでは、決して安心感は得られないというふうに思います。

 そういうふうなことを考えますと、いわゆる現金の給付で生活を支える年金といいますものよりも、いわゆるサービス給付である医療、介護というもののシステムを、安心して受けられるものをつくるということによりまして、国民は、年金が少々少なくても、そちらのシステムの充実ということで安心な生活が送れる。少なくとも、年金はいただいたものを毎月使い切っても安心だというふうなものの方がよりいいのではないかということで、私は、シフトをそちらにすべきであると思いますし、医療というものにつきましては、先ほど申し上げましたようにオプティマムのを与えるということで、先ほど、憲法に書いておられます最低のというふうなところは、やはりこれは生活面とは違ったものがあろうかというふうに思っております。

    〔枝野会長代理退席、会長着席〕

福島委員 以上で質問を終わります。大変ありがとうございました。

中山会長 次に、佐々木憲昭君。

佐々木(憲)委員 日本共産党の佐々木憲昭でございます。公述人の皆さん、本当に御苦労さまでございます。

 まず、暉峻公述人にお聞きをしたいと思います。

 イラク戦争の問題ですけれども、大量破壊兵器が存在をしていなかったということが既に明らかになりまして、この戦争が大義がなかったということでありますが、アメリカは、しかし、それにもかかわらず、その点について反省するどころか、今、ファルージャに対して大規模な無差別攻撃を行っているわけであります。無法な行為だということで大変な国際的な批判も起こっているわけですけれども、ブッシュ大統領は、イラクに自由と民主主義をもたらした、こういうふうにおっしゃっているわけです。あるいは、小泉総理は、自衛隊派兵が人道支援のためだというふうに言っておられます。九〇年代のNATO軍による旧ユーゴへの空爆も、口実は人道的介入ということだったと思います。

 イラクの一般市民を殺りくしてもたらされるというこの自由とか民主主義、あるいは人道支援とは一体何なのかと思わざるを得ないわけで、外国軍の武力によって自由と民主主義というものは果たしてもたらされるものなのかどうか、公述人はこの点についてどのようにお考えか、まずお伺いをしたいと思います。

暉峻公述人 私は、武力によってはもたらされないと思います。最初のうちは、ピンポイントで、技術が発達しているから無辜の市民は殺さないなんということを言われていましたけれども、私たちは、イラク戦争から、もっと現実から学ぶべきなんですね。日本の憲法は現実から離れていると言うなら、イラクの戦争の現実から私たちは何を学ぶかということがとても大事だと思っています。

 それで、もともと、武器を持って出ていくということと、人道援助というのが、あるいは民主主義というものが、一緒になるということはあり得ないんですね。

 例えば、今日本から出ていっている自衛隊の人は、例の十月六日だったと思いますが、ニューヨーク・タイムズがすっぱ抜いているように、自分たちの陣営の中にじいっといて、全然人道支援なんというのをやっていないのではないかということをトップに書かれています。日本のジャーナリストがそこにいないのが残念で、私たちはニューヨーク・タイムズで知るということなんですけれども、それだったら、もうNGOと同じなんですね。危ないなら、基地の中にいるのなら、NGOも危ないときはいつもさっと引きますし、どこに一体違いがあるか。

 つまり、武力なんか持っていって、それでもし、そこを無理して何かやるというんだったら、結局日本の自衛隊もだれかを殺さなければならないということがあると思うんですね。それは、もし嫌なら結局陣地にじっとしている、だったらもうNGOと全く同じことですね。だから、私は、武力による人道援助というのはできない、これはもう十三年の私の経験ではっきり言えます。

 国境なき医師団も同じことを、国境なき医師団は八十カ国に派遣している、ノーベル賞もとった団体ですけれども、武力、つまり軍隊と一緒に人道支援というのは絶対にできない、自分たちは絶対に一緒にやらないということを言っています。それはもう目的が違います。もし、自衛隊なら安全だから自衛隊が人道支援に行くというんだったら、自衛隊もある場合には人を殺さなければなりません。つまり襲われた場合ですね。襲われた場合も殺さないというのならNGOと全く同じことです。だから、私はどこに違いがあるのか。つまり、軍隊を出すときには、表向きは人道支援と言っていても、その背後には何かどろどろしたほかの理由というのがくっついているんじゃないか。これは国境なき医師団もはっきりとそのことを言っています。

 ですから、お尋ねのことに対しては、イラクの場合、十万人もあれだけの死傷者を出して、それでどこに大義があるのか。それから、民主主義というものは外から武力で強制できるようなものじゃないんですね。コソボだって、国連のUNMIKも全く何も成果を上げていません。暫定政権も何の力も持っていません。失業率も三〇%が五十何%に上がって、人身売買だの売春宿だの、本当に失業者があふれていて、一体何の武力攻撃の意味があったのかということは、あらゆる国のNGOがそれは知っているし、報告もしています。

 だから、私は、人道的な問題と軍隊というのは合わないというふうに思っています。

佐々木(憲)委員 ありがとうございました。

 先ほどの暉峻公述人の後半部分、二点あったと思うのですが、九条と国際貢献についてどう考えるかという、その論点についてお触れにならなかったので、時間がちょっと全体に短いものですから、言いたかったことを簡潔におっしゃってください。

暉峻公述人 私は、九条のねらいというのはやはり集団的自衛権にあると思うんですけれども、それが人道支援とか国際的な人権を高めるということには決してならないと思っているんですね。これは私のNGOの活動の中からはっきり言えることで、だから、九条はもう絶対に堅持すべきだと思います。

 九条によってどれだけ日本が国際的に、私たちが救援に行っても、あなたたちの国には野心がないと。軍隊が出てくるとその背後にはどろどろした野心が、表向きはいつもきれいなことを言うけれども、あるんだけれども、日本の救援は本当の人道的な救援だから、私たちは安心してあなたたちの救援を受け入れて感謝していますというふうに言われますね。

 だから、軍隊と人道支援というのは、私はもう全然合わない、これは別だと思います。

佐々木(憲)委員 植松公述人にお伺いします。

 今政府が進めようとしている改革と憲法の関係なんですが、三位一体の改革ということで、自治体に義務教育や社会保障関係費など国庫補助金とか負担金を削減する、こういう案をまとめさせたわけでありますが、混合診療の解禁問題も先ほどお話がありました。

 公述人は、九月十四日付で三位一体改革に関する抗議文というものを出されているということをお伺いしましたが、この中で、「憲法二十五条に基づいて国民の健康・生命を守るという国の責任を放棄する重大な問題である」というふうにおっしゃっておられますけれども、この点について、考え方を簡潔にお願いしたいと思います。

植松公述人 生存権の問題とも関係いたしますけれども、日本におきましての公衆衛生、地域医療、いろいろな面の問題が今厚生労働省関係でやられておりまして、その多くのものが今度の三位一体というところで地方への移譲ということになっておるわけでございます。

 このこと自体、その事業がこれからも完全に行われるということの保障があるならばこれはさほどの問題はないわけでございますけれども、かつて、がん検診事業が地方への一般財源ということで移譲されましたときに、各府県を見ましたときに、がん検診事業が抑えられたというところも少なからずあったということを見ますと、現在におきましての地方自治体というものの力といいましょうか、考え方の中では、国民の健康を守るという中で、まだ少し私どもは不安がある、これはまだ当分国の責任でおやりいただいた方が安心ではないかということでございます。

 将来にわたってだめという話ではございませんで、現在はそういうことで、いましばらくこれは続けていくべきだ、放棄するということは国としてはいかがなものかということでの抗議文を差し上げたということでございます。

佐々木(憲)委員 ありがとうございます。

 もう一点お伺いしますけれども、この間、日歯連事件など、公益法人と政治団体の活動のあり方というのが問題になってまいりまして、国会でも議論が行われました。実は、厚生労働省もそれは峻別をすべきだということで、通達を出しまして調査をしまして、けさ方、私のところにその一部の中間的な集計を持ってきていただいたんですが、例えば、パンフレットで、公益法人が徴収する費用の中に政治団体の会費を記載していた事例が四十一件あって、是正はまだ十六件にすぎなかったり、あるいは公益法人と政治団体の会費の振り込み先を公益法人名義の同一の銀行口座としていたとか、これは九十六件ありまして、是正が二十五件ですとか、これは医師会、歯科医師会、看護協会に関連する政治団体と公益法人との峻別にかかわる調査なんですけれども。

 そこで、私は、構成員の思想、信条の自由という問題があると思うので、どの団体に所属するかはやはり本人の選択の自由というものが保障されなければならないし、どこに献金をするか、それがどのように使われるかということもやはりその構成員の判断ということが大切だと思いますので、この点について、過去いろいろ問題が指摘されてまいりましたので、その点についての現在の認識、それからあるべき改善の方向、これについてお話をいただきたいと思います。

植松公述人 おっしゃるとおりでございまして、今度の厚生省の調査がいつの時点かということははっきりいたしませんが、そういう調査がなされたということは私も認識しております。

 現在、日本医師会並びに日本医師連盟の関係で申しますと、日本医師連盟の入会は、その入会の届けをもってしております。本人の御意思で入っていただいておるということでございますので、現在、組織率は大体七〇%ぐらいでございます。そういうことでは、決して強制という形はございません。

 そして、昔も強制はなかったわけでございますけれども、今まで、かつて会費の納入その他につきましておっしゃるような不備な点があったということは否定はいたしません。けれども、私どももそれは十分指導をいたしながら、現在はそういうことは私は行われていないのではないか、これは手続上の問題で、入れ込むということじゃなしに、便利さでやっておったのかなと思いますが、現在は自由加入ということでございますので、組織率も申し上げたようなことでございますので、少なくとも、日本医師会といたしましては、十分にそのあたりには対応しておるというふうに私は申し上げたいと思います。

佐々木(憲)委員 ありがとうございます。

 浅岡公述人にお伺いしますけれども、先ほど配付をされましたレジュメの中で、多分時間がなくて触れられなかったのでしょうが、憲法上に国民の義務・責任規定を追加すべきではないというふうな指摘をされていたと思うんですが、憲法というのは人権を保障し、一方で国家権力の行使を制限するという授権規範である、これは近代立憲主義の基本だというふうに思います。この点、国民の義務・責任規定を盛り込むということはこの近代立憲思想を後退させるものではないかと思うのですが、浅岡公述人はどのようにお考えか、この点についてお話をいただきたいと思います。

浅岡公述人 私も、ただいま御指摘いただきましたように考えております。

 国民の権利を侵害しない範囲で、人権相互の調整や福祉の増進というものがあるわけでありますし、それも、憲法の本来の姿といたしまして、国家、国との関係で定められるというものであります。憲法九十九条は、国民を名あて人にはしておりません。これがこの憲法の基本を示しているというふうに思います。

 そこに加えまして、憲法上、国民の義務あるいは責任についての言葉を、現在の納税、教育、勤労の三つの項目を超えまして加えるというふうにいたしましたときに、これは極めて慎重な対応が必要ではないか。国民に倫理的指針を与える、こういうことを望まれるということだろうと思うのですけれども、それには大変慎重な姿勢が必要であろうかと思います。

 このことは、さきのイラクの問題で自己責任という言葉が非常に強く出てまいりましたり、あるいは、消費者保護の関係等ではまさに自己責任というような言葉が使われましたり、この責任というような言葉が何か緩和されたような形で、あいまいな形で非常に言葉が広がってきつつあるというようなことも含めまして、ここは極めて慎重な対応をお願いしたいと思っております。

佐々木(憲)委員 ありがとうございました。終わります。

中山会長 次に、山本喜代宏君。

山本(喜)委員 社民党の山本でございます。公述人の皆さん、大変御苦労さまでございます。

 最初に、浅岡公述人にお伺いしますけれども、環境権の問題でございます。

 今の改憲論議の中で、環境権でございますとかあるいはプライバシー権とか、時代の流れの中で新しい権利の規定の問題ということが出てきておりますけれども、私は、そういった問題は、憲法九条を変えるための呼び水に使われるのではないかというふうな危惧を持っているわけでございます。憲法改正ということについて国民の抵抗感を薄めるというふうな役割も果たすんじゃないかというふうに思っているわけでございますけれども、先生が述べておられる環境権は現憲法でも認められるというふうな内容もございますが、その点、もう少し詳しくお話をいただきたいと思います。

浅岡公述人 環境についての憲法上の根拠規定につきまして先ほど申しましたところでありますが、私は、国会におかれまして先生方が国民の良好な環境を享受する権利をより推進していくための立法措置をお考えくださるということは、心から歓迎をするものでございます。

 そのために今必要なことは、私たちが求めておりますことは、個々の問題におきまして必要な、今まさに必要な具体的な国民の権利を制定していただくということでありまして、抽象的に環境権ということを書いていただくということではないということを重ねて申し上げたところであります。

 憲法に環境という言葉が入っている国ももちろんございますけれども、そういう国々で、では具体的にどうなっているのかというのは、これはもう千差万別であります。我が国において、今日、例えばこういう立法をお願いしたいということを何度も申し上げている中で、それが動いていないというのが現状であるということに、まず先生方の方に思いをいたしていただきたいと思うわけです。

 そういう中で、憲法九条の改正問題がもう一方で強く指摘をされているということが、今先生御指摘のような、国民の改正への抵抗感を薄めるために利用されているのではないか、こう考えている人々が少なからずいる、それは決して少ない人たちではないと私は感じるわけでございまして、それはそうした御認識をいただきたいと思うところであります。

 そのことが、先ほど、こうした改正につきまして国民投票に付されるときに抱き合わせ的に改正されるということにならないように、また、そうした新しい権利というようなものが、かえって国民の権利性を薄めたり、行政の裁量権を拡大するようなことで使われることがないようにということにつきまして、重ねてお願いをいたしたいと思います。

山本(喜)委員 今の件について、暉峻公述人にもお伺いしたいと思います。どうでしょうか。

暉峻公述人 それでは、お答えします。

 これは憲法学者たちの間の定説に近いことだと思うのですけれども、環境権とかプライバシー権とかは、民主党なども非常に言っておられますけれども、十三条と二十五条ですね。これは、一般にドラえもんのポケットという言葉で言われているのです。十三条と二十五条は、人権は刻々と発達していく、広範囲にわたっていくということを予定して、十三条と二十五条をつくった。十三条は幸福権の追求ですし、二十五条は最低文化的で健康なということですね。この中に包含できるようにもともとつくられているというのが憲法学者たちの考えなんですね。

 だから、私はこのことも大事と思いますけれども、これを通さんがためにもっと大きな損をどこかでしなきゃいけない。つまり、人権を拡大する意味で環境権とかなんとかというのを憲法に入れようと思ったんだけれども、逆に、今度は軍事的なものがすごく強く出てきて人権を抑圧する、そういうふうになるのではないかということをお考えいただきたい。

 だから、憲法は今、硬性憲法と言われていますけれども、硬性憲法であるだけに、人権については、今の憲法は結局非常によく工夫しているんですね。だから、環境権も大きなリスクを冒して今入れて、ほかのところでまた大きな人権の抑圧が起こるよりも、十三、二十五というものが用意されているから、これで、憲法を改正する必要は現在の時点ではないと私は思っています。

山本(喜)委員 ありがとうございました。

 次に、植松公述人にお伺いします。

 国民皆保険制度、この維持について述べられておりましたし、医療に市場経済はなじまないということもお話があったわけでございます。しかし、現在、自己負担、本人負担が三割という中で病院に行くことをためらってしまう人もふえているというふうなこと、あるいは、過疎地においては医師が非常に不足しているという問題。ですから、実質的に国民皆保険制度は機能しているのかどうかということで、非常に危機的な状況にあるんじゃないかというふうに思うわけでございます。

 ですから、憲法二十五条の理念を医療の分野においてどのように実質的に高めていくのかということについて、先生、その政策の課題について、何かありましたらお願いします。

植松公述人 今言われました、いわゆる三割負担の問題でございますけれども、これが出ましたときに私たちは反対運動をやったわけでございます。

 現在の医療費の内訳を見てみますと、大体、国の出しておりますのが二十数%、医療保険その他で持っておりますのが五十数%、一部負担で持っておりますのが大体二〇%ぐらいというふうな状況でございます。

 この状況で見ましたときに、社会保障という考えの中での国民皆保険制度ということを考えますれば、やはり今が自己負担の最高であろうというふうに思っております。一説には四割、五割までというふうなお考えもあるやに聞こえてくるわけでございますけれども、今以上に一部負担金がふえるということになりますれば、公的な医療保険の性質というものは失われるのではないかというふうに考えておりますので、このあたりは十分にお考えをいただきたいと思っております。

 医師不足の問題は、これは医療提供体制の問題でございますけれども、現実に医師が不足しておるのか、医師が偏在しておるのかという問題につきましては、これから調査の必要があると思います。大きなところは医師の偏在であろうというふうに思っておりますが、政策としてこの偏在をどういうふうにできるかということについては、非常に難しい。これは医師個人の人権の問題にもかかわるわけでございますけれども、やはり我々としては、何とかそれを解消したいということでございます。

 医師会といたしましても、できる範囲でということで、ドクターズバンクのような形で医師を御紹介申し上げるというふうなことも働きはしておりますけれども、一定の期間に限って、そういうふうな僻地も含めまして、医師が研修という形でも出ていくというふうなことの必要性もあろうかと思いますけれども、そのあたりもこれからの大きな問題だということがございます。

 私どもといたしましては、全国どこでも同じように医療を提供したいという気持ちでございますので、これは厚生労働省ともいろいろお話をしておりますけれども、政治の場でも御議論をいただいて、偏在を防ぐということを一番に考えるべきで、今、医師が不足であるということで医科大学の定員をふやすというふうな対応をすると、これがまた将来には医師過剰というふうなことも考え得るわけでございますので、十分にデータを精査した上での対応ということと現時点でやらなければならない問題、二つの問題を混同しないように対応してまいりたいというふうに思っております。

山本(喜)委員 次に、暉峻先生にお伺いします。

 憲法九条は自国のことだけしか考えていない、一国平和主義だというふうに指摘される方々が多いわけでございますけれども、憲法九条は「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」するということで、積極的な平和政策、平和外交を日本に義務づけているというふうに考えるわけでございますが、憲法前文あるいは九条というのは、世界の平和に大きく貢献できる内容だというふうに考えます。

 自衛隊によらない貢献ということも十分あり得るわけで、その点についての先生のお考えをお伺いします。

暉峻公述人 自衛隊のことですけれども、私の経験からいいますと、ちょっとこれはさっき遠慮して言わなかったんですけれども、コソボの場合、アルバニア人が武器や何かを持って押しかけてきたわけですけれども、このときに各国の軍隊は皆逃げたんですね。これは事実そうなんです。修道院や何かを守っていたドイツ兵なども皆逃げた。

 私は、兵士たちに、何で逃げたのかというのも全部取材してきました。それで、どこの国がどういうふうに逃げたかはちょっと儀礼にかかわるからあれですけれども、軍隊は、もし発砲してそこの市民を殺すまいと思ったら、今の自衛隊が基地にじっとしているように、決して守れない、住民を守れないんです。

 アルバニア人が押しかけてくるときは、銃も持っているし、手りゅう弾も持っているし、いろいろなものを持っているわけですよね。これと戦って住民を守ろうと思ったら、今度はアルバニア人を殺さなきゃならない。そうすると、多国籍軍としてまたいろいろなことが起こるから、結局みんな逃げちゃったんですよね。それで、もう修道院もめちゃくちゃに破壊されていて、文化遺産と言われているようなフレスコの壁画ももう全くなくなりました。もちろん住民の、私はきょうここに写真を持ってきているんですけれども、もうひどい破壊ですね。

 その中で、せめて、多国籍軍がトラックを出して、住民の命だけは助けようというので助けて、住民たちは基地に逃げたり学校の体育館に逃げたりということをしたところでは、確かに人の命に対してある程度の功績はあったと思いますけれども、私は、地域の住民を殺さないようにしようと思ったら、NGOと同じように、結局軍隊は逃げるしかないんだから、軍隊が出ていって一体何の効果があったのかと思いますね。

 それで、従軍慰安婦ではありませんけれども、本当に、売春宿はあるし人身売買はあるし、失業率は五十何%にも上がっていて、それだけのお金をもっとNGOや民生の方に注いでくださった方がどれだけ国際貢献ができるかわからないんです。私たちはもう現地の人たちと本当に親しくしていますから、あらゆる情報も入ってきますし、どういうときにどういう態勢でいかなきゃいけないかということもわかっていますので、軍隊よりもはるかに大きな国際貢献ができていると思います。

 今や、武器を持って出ていって何かができるという時代ではない。武器を持っていけば、相手を殺さなきゃならない。殺すということには、いろいろな偶然のことが重なって、本当に、恨みを買うということもたくさんあるわけですね。だから、コソボでも、もう二分置きぐらいにKFORの軽装甲車とかなんとかが来て、もう私、お金がもったいない、こんなことしなきゃいけないんだったら、何で事前に、私たちは人事交流もして、紛争が起こらないことにお金を使えば紛争はちゃんと予防できるのに、これはOSCEもそう言っていますけれども。

 起こってから、ではどうするんだ、血を流さなきゃ、日本も軍隊を出さなきゃというのは、全くもう論理の詭弁ですね。起こらないように、紛争を予防するというところにお金を使うべき、これが、一国のことのみ思わない、本当の貢献である。これはもう、十三年間、私は空爆の下にもいました。私のその経験、スタッフも皆そう言っています。それをどうぞ、体験者の話としてお聞きください。

 机上の空論は、どんなことでも言えるんですよ。だけれども、一体、国会議員の中で何人、そういう紛争地の中に自分たちが入っていって、しかも、紛争が起こる経過から、その後のことから、空爆をやって、何か民主化したなんという、後のその社会がどうなっているかということから、一貫してそういうことを調査された方は、どなたがいらっしゃるんでしょうか。私は、言われていることはみんな何か机上の空論だというふうに、ごめんなさい、机上で考えられたことだというふうに思って、とても残念。

 それこそ、今の、一国のことのみ考えてはいけないという立派なそういう前文があるなら、どうして日本はもっと、各国との人事交流とか、中に入っていって社会保障を助けるとか、そういういろいろなやり方はいっぱいあるのに、そういうことにお金を使われないんでしょうかというのは、とても残念な思いで考えております。

中山会長 これにて公述人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、一言ごあいさつを申し上げます。

 公述人各位におかれましては、長時間にわたり貴重な御意見をお述べいただき、ありがとうございました。憲法調査会を代表して、心から御礼を申し上げます。

 午後二時から公聴会を再開することとし、この際、休憩いたします。

    午後零時八分休憩

     ――――◇―――――

    午後二時開議

中山会長 休憩前に引き続き会議を開きます。

 日本国憲法に関する件についての公聴会を続行いたします。

 この際、公述人の先生方に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にさせていただきたいと存じます。よろしくお願いいたします。

 議事の順序について申し上げます。

 まず、中曽根公述人、宮澤公述人、武村公述人の順に、お一人十五分以内で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。

 なお、発言する際はその都度会長の許可を得ることとなっております。また、公述人は委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。

 御発言は着席のままでお願いいたします。

 それでは、まず中曽根公述人、お願いいたします。

中曽根公述人 まず、憲法調査会にお呼びをいただきまして、まことにありがとうございます。厚く御礼申し上げます。

 私も、この調査会発足以来ずっと皆さんのお世話になって出勤させていただきましたが、最終的に発言しようと思っていましたが、その機会を得なくなりましたので、きょうは、そういう意味を込めて、総括的な考えを申し述べたいと思います。

 私の考えは、やはり現憲法の全面的な点検と、そして必要な改革を行う、そういう趣旨であります。

 時間が少なくなりましたので、メモを書いてまいりましたので、それを読みながらお話を申し上げたいと思います。

 現在の憲法の前文は、法技術的な見解が主で、日本国家全体の姿や理想や精神を表明することに欠けている。前文は、過去の歴史を受け、未来を含む国全体の姿を表明するものでなければならない。我々は、北東アジアの島々に歴代相受け、天皇制のもとに、独自の文化と固有の民族生活を形成してきた。我々は、主権在民の上に、自由、民主、人権、平和の尊重を基本に、国の体制を堅持し、教育や文化の重要性を強調し、国際平和と世界文化の創成に積極的に寄与する。そして、大日本帝国憲法及び日本国憲法の果たした歴史的意義を想起しつつ、新時代の日本のためにこの憲法を制定する趣旨を盛るべきである。歴史的に息づいている日本国家全体の像を示す前文でなければならないと思います。

 第二に、第一条。第一条で、天皇の地位を国民主権下の象徴的元首と規定し、第二条以下に、国民主権の態様や政党の結成、及び国民に対し国務にかかわる情報の開示を行い、国民に対する説明責任を果たすべきものとする。

 天皇は、現在においても外交使節の接受を行い、外国においては元首として扱われておることも考え、天皇は伝統的、歴史的権威を保持し、内閣総理大臣は事務的、機能的な統合力を保持する職分と考えております。

 第三に、第九条の問題です。現九条の第一項の戦争放棄の条項は現状のままとし、第二項に、平和の理念を尊重するとともに、自衛のための防衛軍を創設する。第三項で、また、国連や人道や人権や平和のための国際的協力活動への参加を可能とし、その際の武力行使も、国会承認のもとに、新たに制定される安全保障基本法に従って認める。つまり、国際協力の活動の場合にも防衛軍は参加できる、その場合には一定条件のもとに武力行使も認める、そういうことです。第四項で、防衛軍に対する内閣総理大臣及び国会による文民統制を実施することとする。

 国民の権利義務の章で、家庭の条項と新しく人格、環境、知的活動の自由等の人権項目を追加し、さらに、国民に国の平和と独立を守る責任を認める。芸術、学術、科学技術及びその他の創造活動の自由を保障し、知的財産権は法律の認めるところにより保護されることとする。

 次に、国会については、参議院に対する衆議院の優位を認め、参議院については、大公使を含む特定の行政、司法等の人事権を専有することとする。国会は内閣総理大臣、副総理大臣の弾劾権を持つ。弾劾は両院の協力において行うといたします。

 次に、内閣総理大臣、副総理大臣については、直接の国民投票による選任を行い、天皇に任命されることとする。内閣総理大臣、副総理大臣は組んで国民投票を受けるが、その乱立防止のため、総選挙で一定得票を獲得した政党または一定数の国会議員あるいは相当多数の国民が連署で候補者を推薦する等をも検討する。

 行政権は内閣総理大臣に属する。いわゆる首相公選制である。内閣に属するでなくて、内閣総理大臣に属する。任期は四年、三選を禁止し、国会通過の法律、予算につき全部、一部の拒否権を持つこととする。また、補佐役として国務大臣を任命するが、国務大臣は国会議員を兼ねることができない。首相公選の推進は、一つは世界政治、内政のスピード化、次に行政指導力の強化の必要、最後に政権の長期的安定化と、そして国民の政治参加意欲の増大への対応として考えておる。

 これに対する批判として、天皇制との対立の問題が言われますが、天皇は歴史的、伝統的権威の保持者であり、内閣総理大臣は事務的、機能的統合力の保持者である、そういうふうに考えておるものであります。それから、虚名人の当選等を防ぐために、先ほどのように推薦を制限する。立法府との硬直的対立という問題が言われますが、これらは両方の妥協で解決すると思います。

 イスラエルの失敗の先例等が言われておりますが、イスラエルの場合は、研究いたしましたところ、民族的、宗教的対立が非常に深刻で広範である。その上に立って比例代表制を全国的に認めてやった。そして、選挙について、二票制で総理大臣と議員と一票ずつ使えるようにしたために、総理大臣がある意味においては票が前よりは減りましたけれども、議員の場合には、民族的、宗教的対立が激化して、そのために三十の政党が議員を持つことになって、非常に複雑な選挙結果だ。これは民族的、宗教的対立の社会情勢がしからしめたものであります。そういうもので、こういうやり方が否定されておりますが、このような状況は日本に適用するものではないと申し上げるのであります。

 内閣総理大臣は、国の独立と安全、または多数の国民の生命、身体もしくは財産が侵害され、また侵害されるおそれがある事態が発生し、その事態が重大で緊急に対処する必要があると認める場合には、法律の定むるところにより、全国または一部地域について緊急事態の宣言を発することができる。その場合には、法律に基づき、防衛軍のほか、警察、消防、海上保安庁その他の行政機関を統制、運用するとともに、地方公共団体の長を直接指示することができる。

 緊急事態の宣言等については、いろいろ手続問題がありますが、省略しております。しかし、その場合には、国民の生命、身体、財産を守るために最小限必要と法律が認める範囲内で、この憲法が国民に保障する自由及び権利を制限する緊急措置をとることもできるとしています。

 内閣総理大臣は、内閣提出の法律案、条約案について国民投票に付託することができる。この場合には、先に両議院においておのおのの総議員の三分の一以上の同意がなければならないとする。

 次に、憲法裁判所を創設し、その機能、裁判官の任命方法等により、最高裁判所より上位の性格を持たせるものとする。

 例えば、憲法裁判所の長たる裁判官以外の裁判官は、半数ずつ国会及び内閣が任命する。これに対して、最高裁判所の長たる裁判官以外の裁判官は、内閣がこれを任命することとする。これは、憲法裁判所と最高裁判所を併置した場合に、両者の間の均衡を維持することは非常に難しい。両方がお互いに牽制し合ったり、あるいは上下関係が不明で摩擦を起こしたりする可能性が非常に国家機関の場合にはあるわけです。そういう意味で、憲法裁判所を上位の位置に持たせる。そして、司法の統制を考えたということであります。

 財政については、健全財政を規定し、また継続費を認める。

 地方自治については、現在の地方自治の本旨というようなあいまいな表現をやめ、地方公共団体及びその住民が、その地域の事項につきみずからの意思及び責任において処理を行うことを原則とする。地方公共団体の組織、権能及び運営に関する事項は、現行の原則を尊重し、法律で定める。

 憲法改正については、国会の二分の一以上によって発議することとし、国民投票を義務づける。

 最高法規として、憲法は条約より上位にあることを明定する。

 憲法改正には、両院がそれぞれ三分の二の多数を確保しなければできませんが、第一回の憲法改正というものは、内容とともに、第一回という意味が極めて重大であります。三分の二を獲得しなければできないということも考えてみて、やはり大局的見地に立って、その場合には、三分の二を獲得するために、小異を捨てて三分の二の協力を得る改正案をつくる必要があり、そのためには妥協力を持った柔軟な発想で対処する必要があると考えております。

 それで、現在の情勢を見ますというと、憲法改正の情勢が極めて進展してきたと思うのであります。これは、一九九一年のソ連圏の崩壊、これによってアメリカ体系、ソ連体系、第三勢力体系というものが崩壊して、各国、各民族がアイデンティティーや自主独立を真剣に考える、そういう段階に入ってきたわけであります。日本も、約九〇年代は漂流いたしました、連立内閣その他で。しかし、ようやくその終わりになって、アイデンティティーや独立体制という意識が国民の間に非常に強くなってきた。これは、アメリカ体系の温室におったものを脱却するという意識が国民に生まれてきたからだろうと思います。

 国民意識については、世論調査を見ますと、一番消極的な朝日新聞で、改憲賛成五三%、反対三五%、これはことしの五月一日であります。そこで特に注意を要するのは、男は二十歳から二十九歳までが六七%、女が三十歳から三十九歳までが六五%。つまり、若い人ほど改憲を主張する勢力が非常に強いということでありまして、これは非常に日本の前途のために頼もしきことであると考えています。そのほか、最近、各団体、政党、個人の改憲案の提示が非常に多くなりまして、経団連、同友会あるいは前議員の方々、そのほか約十五近くの憲法改正案を私見ております。こういうふうに機運が醸成してきた。

 これはやはり、一つは、成立のいきさつ、占領下、アメリカの強力な指導のもとに憲法がつくられたという異常性、それから、時代が今や大きく転換して、さっき申し上げた九・一一、あるいはその前の冷戦の崩壊以後の国民意識の変化、それから現行憲法の持っている欠陥の露呈。これは、今までの経験によりまして、例えば八十九条で、公金や公の財産使用、私学補助に使えないことになっているのを、脱法行為で今やっておる。あるいは七十九条の最高裁判所裁判官の国民審査、これは意味ない。そういういろいろな点が指摘される。そういう意味において、改憲をすべき段階に到達した。

 それで、各政党も努力をして、国会調査会は来年五月に発表しますし、二大政党は来年の十一月、十二月までに大体草案を発表するようです。こういうふうにして国民の動向が著しく前進してまいりました。この国民の動向に合うように政治も進行させなければならぬと思っております。

 明治憲法、それから昭和憲法、いずれ来る平成憲法と、この平成憲法というものが成立した場合には、大きく日本も転換して、新しい時代が出てくるだろうと思いますし、二十一世紀の日本的体系というものがつくられなければならぬし、できるであろうと思っております。

 したがって、現在の国会議員の責任は極めて重大であります。昔は伊藤さんが憲法案作成を担任しましたが、戦後はマッカーサーがやって、吉田さんが調子を合わせた。今日においては国会と政治家がこれを行わなければならぬ段階に来ておるのでありまして、そういう意味におきまして、皆様方の御検討をぜひお願いいたしたいと思うのであります。

 憲法改正というものは国家的な大課題で、超党派の問題であり、その使命感に燃えて、情勢によっては連合勢力をつくり、三分の二の多数を獲得するという政治的努力もお考えいただかなければならぬと思っております。そういう点をぜひよろしくお願いいたしたいと思います。

 以上であります。ありがとうございました。(拍手)

中山会長 次に、宮澤公述人、お願い申し上げます。

宮澤公述人 憲法の問題につきまして、憲法調査会の皆様が長年にわたって御熱心な検討を続けておられますことに、まず心から敬意を表したいと思います。

 私は、この問題について何か特別の、格別の所見を持っておるというものではございませんのですけれども、お招きいただきましたので参上いたしました。自分の経験いたしましたことを申し上げたいと存じます。

 昭和二十年に敗戦になりまして、東久邇宮内閣が成立をいたしました。十月には幣原内閣にかわっておりますが、この間、私は、大蔵大臣の秘書官の事務取扱をいたしましたので、総理官邸に出入りをする際に、敗戦後の諸問題について内閣の取り組みを観察する機会がございました。

 その中で、憲法の問題につきましては、近衛公爵がこれに取り組まれるといいますか事実上関係をされて、宮内省に御用掛が設けられたりいたしております。それから、閣内では松本烝治国務大臣が担当の閣僚としてこの問題を担当しておられました。民間からも憲法改正についていろいろな案が出てまいりまして、占領軍司令部ではガバメントセクションというのがありまして、このガバメントセクションがこの問題を担当する部局であったようであります。

 そうした中で、年が明けまして、昭和二十一年二月に、二月の一日だったと思いますが、毎日新聞が憲法改正についての日本政府の改正試案と称するものをスクープいたしました。占領軍司令部としては、そういうこともあったからかもしれませんし、また、民間でもいろいろな案が出ている、あるいは国際的な、米ソの関係等々もきっといろいろ考慮にあったんだろうと思いますが、いろいろな理由から、占領軍自体の改正案を日本政府に示すことが必要だと考えたように思われます。

 実際問題として、昭和二十一年の二月十三日のことでありますけれども、先ほど申しましたガバメントセクションのホイットニーとかケーディスとかいう人たちが麻布にございました外務大臣公邸に吉田外相を訪問いたしました。そして、憲法改正の占領軍草案というものを吉田外務大臣と松本国務大臣に手交したのであります。これはまったく日本側の予期しなかった事態であったわけでありますけれども、その占領軍の案というのは、これまで日本政府部内でいろいろ議論されておりました案とは大変に違っておりましたので、根本的に異なるものでございましたから、日本政府に非常に大きな衝撃を与えました。

 この日以来、憲法問題につきましての政府の検討あるいは占領軍とのやりとり、いろいろございますが、その基本になりましたのはこの占領軍の案であったわけであります。これが土台として、この問題についての討議が進められてまいりました。そして政府案ができまして、やがて国会になりまして、国会の審議があって、その年の十一月三日に日本国憲法が公布されたわけであります。

 こういう事情からしまして、成立しました日本国憲法は、占領軍の指導によりつくられたものであることは明らかでありまして、そのことは、その内容を一読いたしますと、それが翻訳調で大変に不思議なと言うしか言いようのない日本語であったことを私はよく記憶いたしております。

 もちろん、草案そのものは、旧憲法に定められた改正手続に従って制定をされ、また国会両院の正常な審議を経たものであることに問題は何もございませんが、もし我が国が独立回復後に改めて何かの機会にこの憲法をもう一遍民意に問うことをしておりましたら、それが占領下に定められたという批判は免れることができたかもしれないと思います。結果は恐らく、違ったものが採用されるということはなかった、国民大多数の賛同を得たに違いありませんから、それに問題はございませんが、一遍そういう機会があったらば、占領下であるという批判は免れたかもしれないということは今考えて思っております。

 ただ、ここで私が申し上げたいのは、実はそのことではございません。そのことではございませんで、私が大変に不思議な日本語だ、まあ当時の言葉で言えば、バタくさいというのが一番適当な言葉なんですが、バタくさい日本語だと思ったその憲法の言葉が、今やもう普通の日本語になって、今日国民のだれもこれを怪しまないということであります。

 憲法公布以来五十年余りの間に、何億という日本人がこの憲法のもとに生まれました。そして、憲法の言葉を自分の言葉として育ってきたわけであります。ですから、変わったのは実は言葉だけではありませんで、五十年余りの間に日本自身が変わったということであります。

 新しい憲法になって五十年余りの間に、我が国の国づくりがこの憲法のもとに行われました。同時に、時として、憲法そのものの読み方や解釈も国家運営の必要に応じて柔軟に行われてきました。国と憲法とが相互に影響しながら今日の我が国があり、また今日の憲法があると申し上げていいのであろうと思います。

 このような国と憲法との相関関係には、立法、行政、司法の各部門が関係しておりますが、なかんずく司法の果たした役割は大きいものがあったと存じます。委員各位が御記憶のように、かつて青法協というものがございました。この青法協がいわばしょうけつをきわめた時代には、この憲法のもとに我が国はどのようになるんだろうかということを恐らく多くの皆様が心配された御経験がおありだろうと思います。過去五十数年を通じて、最高裁判所が憲法の解釈と運営について果たした役割を私は高く評価しなければならないと思います。

 このような見方からすれば、日本国憲法は、公布以来五十八年の間、激変する国際環境と変転する国内情勢の中で、よくその務めを全うしたと言うことができるでございましょう。また、我が国は、そのような憲法のもとによくきょうの発展を遂げることができたと言うことができると存じます。

 今日、国内外の変化に憲法の諸規定が十分に順応できていないという意見がございます。私は、日本国憲法は十分柔軟に書かれており、その運用によってそのような変化に対応することができるという意見でございますが、それにも限度があります。事態のいかんによっては憲法を変えざるを得ないという場合もあり得るだろうと考えます。そういう場合に、憲法改正に反対だという立場をとろうとしているものではございません。しょせんは国民の最終的な判断にまたねばならないというふうに考えております。

 以上でございます。(拍手)

中山会長 ありがとうございました。

 次に、武村公述人、お願いいたします。

武村公述人 お招きいただいたことを光栄に思いながら参上いたしました。専門家ではありませんので、言葉遣いの不十分さはどうぞお許しを賜りたいと存じます。

 まず冒頭、二つのことを申し上げます。

 第一は、この憲法が公布されて五十八年、今宮澤先生がおっしゃったのとほぼ同じ考えでありますが、何はともあれ、この憲法は、日本の政治、経済、社会にすっかり定着しているという認識であります。この憲法があってまさにこの六十年の日本があったというふうに思いますし、その意味では、この憲法をまずは素直に納得し、評価いたしたいと存じます。

 特に、憲法が示している三つの基本原則については、今もなお疑問を投げる人はほとんどいないのではないか。国民主権に立った民主主義の制度を維持していくこと、国民の幅広い基本的人権を尊重していくこと、さらには二度と海外で武力行使をしないと決意した戦争放棄の平和理念、いずれもこれを真っ向から否定する論拠は見当たらないのではないかと私は思っております。

 この調査会で最近表明された、三党の代表の方の中間報告を拝見しました。現憲法の三原則については、それぞれ、自民党は評価をし、さらに発展させるとおっしゃっていた。民主党は尊重し、深化を図ると述べられた。公明党は堅持すると主張されたように拝見をいたしました。

 そのことから、私は、この調査会で、僣越なことですが、憲法調査のまさに論点整理として、現憲法の三原則堅持をまず合意、それを国民に向かって表明されることはできないのだろうか、そんなふうに感じました。まさに三原則は憲法全体を覆っているプリンシプルでありますし、それだけに、国民全体の今後の憲法議論に、三原則合意ということは、一定の明るさと道筋を示すことになると思うからであります。

 第二に申し上げたいのは安全保障であります。私は、時流に流されないで、どうぞ腰を据えてこの問題は論議をしていただきたいと思います。特に、昨今の日本を取り巻く国際情勢、まことに目まぐるしいさなかにあります。テロ、イラク、自衛隊派遣、北朝鮮等々、国民から見ても緊迫が目下は続いているさなかであります。こういう中で、この情勢に大きな影響を受けて、平たく言えば振り回されるような形で安全保障の基本を決めていいのだろうか。あるいは、対症療法的な政府の政策の積み重ねで国の大道を決めていっていいのだろうか。憲法が空洞化し、国民の政治不信やいわゆるモラルハザードを一層広げるようなことだけは、何としても避けていただきたいと思うのであります。

 私個人は、憲法九条については、国連憲章の精神を我が国が世界に先駆けて立法化したものでありますし、これこそが日本の顔であり、世界に示した旗であっただけに、軽々しく変えてほしくないという考えです。不肖私は小学六年で憲法公布を教室で教えられた一人であります。

 なお、自衛力を明文化するかどうかについては、今後の国民的議論の帰趨にまちたいと思いますが、明文化するにしましても、専守防衛やシビリアンコントロールや非核の考え方を明確にして、最小限の自衛の力の保持に限定をされるべきだと私は考えます。

 国際的な集団安全保障への参加につきましては、個別自衛権の行使とは違って、憲法前文の国際協調の理念を具体化するものでもありますし、妥当な結論が示されることが望ましいと思いますが、私はこの場合でも武力行使は避けるべきではないかと思っております。

 いずれにしましても、安全保障の論議は、論議の応酬だけで単純な結論を出さないでいただきたい。歴史の数多い失敗や人間のそもそもの愚かさということをかみしめ、慎重に賢明な結論を見出していただきたいと思います。

 次に、きょうまで不肖私の経験をしてきた中で感じていることを三点申し上げます。環境と財政と地方自治の点であります。

 第一は、環境についてであります。

 この半世紀、人類が知らされた最大の事柄は何か。我々の地球という星が有限だということであります。ローマ・クラブの声明やストックホルムの人間環境宣言等によって、もう早くから、地球は資源の面でも経済活動の面でも、さらには環境容量の面におきましても限りがあることが明らかにされてまいりました。この限りある小さな星に無数の命が宿っているわけでありますが、その中でも、まだ我々は命の存在する星は一つも発見できていないわけでありますが、その地球の中で、人間は絶妙の生態系のバランスの上にいわば生存を許されている存在であります。

 私があえてこんなことを申し上げたいのは、昨今の我々人類の生きざまは、まず、この星で異常に繁殖しているということであります。要らぬことを申し上げますが、キリストの生まれたころは二億だったそうですが、一九〇〇年初頭は十六億、今その四倍、百年余りで六十数億にまで人口はぐんぐんとふえております。遠くから宇宙を見た場合には、あの星は一体何だ、人間という動物がうじゃうじゃと繁殖しているじゃないか、まずそういう印象だろうと思いますし、数がふえているだけでなしに、その人間が欲望にかまけてあらん限りを尽くしている。そこに経済があり、科学技術の発展がある。戦後の六十年はそんなど真ん中で我が日本は生きてきた。確かに発展をしてきたわけでありますが、二百年前からのいわゆる西洋の近代主義という考え方、人間中心の合理主義精神が日本の政治経済を覆ってしまった。その結果、成功はしたけれども、大事なものをたくさん失ったという、そのことに私は目を向ける必要があるのではないかと。

 申し上げたいことは、我々日本人は過去どう生きてきたのか。自然をたっとび自然と調和する中で生きてきたのではないか。例えば、木を植えて緑をはぐくむ、そして水を涵養するという考え方、これは世界にも余り例がないすぐれた日本の伝統だと思います。山川草木に畏敬の念を持つことや、生きとし生けるものに対する慈しみの気持ちも同様だと思います。私は、こうした人間の自然に対する姿勢をあえて環境主義と呼び、その前提で二つのことを提案したいと思います。

 一つは、憲法前文にぜひ、自然をたっとび自然と協調して生きてきた日本人のいわばこの環境主義の理念を堂々とうたっていただきたい。歴史、伝統、文化の継承とおっしゃるならば、私は率直に言って新しい憲法に期待するのは、一つは象徴天皇制の維持だと思いますし、一つはこの環境主義の国日本を鮮明にすることではないかと思います。まさにこの二つが、私のとらえたナショナルアイデンティティーであります。

 その上で申し上げたいんですが、憲法の本文におきましても、ぜひ環境への責任という章を起こしていただけないか。これは、国の国民に対する健全な環境を保障する責務をうたうと同時に、国民一人一人の自然に対する謙虚な姿勢や、地球環境への責任を明らかにするためであります。

 そしてもう一点は、日本の非軍事的な国際貢献として、地球環境への積極的な関与を明らかにし、人口、エネルギー、食糧と並んで、いわば環境安全保障への日本国の責任を世界に先駆けて明示をしていただけないか。平和主義の日本と並んで、もう一つ、環境主義の日本、この二つを日本の顔として明らかにしていただきたいと思います。

 次に、財政でありますが、私は、率直に申し上げて、財政における民主主義が壊れてきているのではないかと申し上げたい。国、地方を通じて、今後数十年、国債は六十年償還でございますから、数十年にわたって償還を迫られるこの巨大な債務を我々は積み上げてしまいました。私みずからもその責めの一端を負わなければならないわけでありますが、それにしましても、すさまじい、きょうあってあすのない政治の結果がこの七百十九兆という債務の大きさであります。無責任と言われても、返す言葉はありません。特に、今の世代が借金をしてどんどんサービスを享受する、あとは、子供や孫の将来世代がその負担を強いられる。こんな非民主的というか、というよりも、アンフェアで理不尽なことがあるでしょうか。

 中曽根先生もおっしゃったように、ぜひ財政の中に健全性ということをしっかり書き込んでいただきたい。限度を超えた債務に歯どめをかけ、収支を継続的に均衡させる健全財政運営への責任と財政民主主義の原則を明文化いただくことをぜひ提案いたします。

 地方自治のことは、時間が来ましたので、省略します。(拍手)

中山会長 以上で公述人からの御意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

中山会長 これより公述人に対する質疑に入ります。

 なお、公述人のお時間の都合もございますので、質疑者各位におかれましては、申し合わせの質疑時間を厳守いただきますようお願い申し上げます。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。枝野幸男君。

枝野委員 民主党・無所属クラブの枝野でございます。

 三先生には、お忙しい中、大変貴重な御意見、ありがとうございました。

 私からは、まず武村先生に、今、時間の御都合もあって最後の一点残されました、知事や市長の御経験もおありでございますので、地方自治について憲法にかかわる御見解があればお伺いしたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

武村公述人 戦後半世紀、これは私のきざっぽい言い方ですが、日本を徘回した怪物がいる。何だ。経済主義という言葉はありません、そんな言葉はないんですが、あえて私はそれを経済主義と申し上げたい。

 あの敗戦のどん底から我々は立ち上がって今日まで頑張ってきたわけですから、意識するしないにかかわらず、一生懸命、経済がよくなること、所得が上がること、豊かになること、便利になること、一目散にそれを思ってきょうまで頑張ってきた。そして、すばらしい成果を得ることもできました。

 しかし、ふっと気がつくと、先ほど申し上げたように、環境のこともそうです、教育のこともこの中にあるわけですが、今申し上げたいのは、日本全体が、確かに便利ではあるけれども、すさまじく単調な国になったのではないか、特色をどんどん失って、画一的な日本国を我々は意識しないにもかかわらずつくってしまったのではないか、その反省であります。

 もう一度、江戸時代がそうであったとは言いませんが、かつてもっと各地方には地方のカラーがあった、特色があったし、個性があったということを考えますと、この狭い国ではありますけれども、地域それぞれに個性や多様性を競い合うような、そういう国にもう一度戻すべきではないか、そのことを考えると、そこに地方自治という大きなテーマがあるのではないかと思うのであります。

 ちょっと、憲法の条文があったにもかかわらず、中央集権的というよりも、財政でやはり東京政府が縛りをかけ過ぎてしまった。自治という言葉はあっても、本当の自治のスピリッツは日本に育ったんだろうかと、いささか、経験もしながら疑問に感じておりました。

 ですから、その意味で、改めて、先ほどもございましたが、地方自治の本旨という言葉もありますが、その中身は一体何なのか。私は、国と対等の形で地方自治をきちっと憲法に表現していただきたいし、やはり広域行政の時代でもございますから、道州政府を、完全自治体としての道州政府をこの国につくるということを示していただきたい。その中に、財政の自治権も立法の自治権も当然保障されなければならないと思っております。

枝野委員 武村先生にもう一問だけ。

 先ほど、財政のところで、非民主的だというような御趣旨のお話があったと思います。私自身は理解をさせていただいているんですが、もう少し、今の財政状況が非民主的であるという点について、御説明をいただければと思います。

武村公述人 財政の民主主義という言葉は私も正確に認識をできておりませんが、いずれにしても、選挙で選ぶ有権者の意思というのは現世代であります、今の二十以上の日本国民の意思であります。それに沿って政治は動いているわけでありますが、六十年償還の借金というのは、遠い遠い将来の有権者の意思が反映されておりませんし、その遠い遠い将来の有権者に対して債務の償還を強制することになります。これはもう民主主義とは言えない。世代を超えたロングレンジの民主主義というとらえ方をすれば、これはもう極めて反民主的だというふうに私は思います。

枝野委員 ありがとうございます。

 宮澤先生にもお尋ねをしたいと思いますが、宮澤先生も財務大臣、大蔵大臣などの御経験がございます。財政の観点から、憲法そのものの条文とダイレクトではなくても結構でございます、今のこの国の財政のあり方、これが、これからのこの国の形というものを見通したときに、御所見があれば教えていただきたいと思います。

宮澤公述人 直接憲法との関係でなく申し上げるとすれば、今の財政の状態というのは、我々の子孫に非常に長い間にわたっての苦労をかけることになると思います。

 具体的には、今、目の前がそうでございますが、毎年の歳出というもののかなりの部分を国債費に充てなければならないという現実がございますが、このことはもっともっと悪くなるであろうと思われます。いかにも、それさえなければ国民からの歳入をもっと有意義な歳出に向けられるであろうといったような、そういう状況をまだこれからかなり長い間にわたって忍耐をしていかなければならないということはかなり深刻な問題だと思います。

 私は、国全体として債務を負っていることが国を危うくするとかなんとか、そういうふうには考えたことはありませんが、現実に、この部分がもっと有意義な歳出に充てられたならばいろいろなことができたであろうという思いは、これはもう隠すことができません。

枝野委員 宮澤先生、先ほどのお話の中では、具体的に、今の日本の状況の中で現行憲法を変える必要性、必然性があるのか、それとも、そういう必然性は今のところ見当たらないのか、必ずしも御意見を具体的にはお伺いできなかったかなというふうに思っています。

 従来の、ここまでの憲法を評価される方向の御発言だったと思いますが、この約六十年を迎えた状況の中で、現行憲法では対応し切れないような状況というふうな部分があるとお考えなのか、もしあるとお考えならばどういう点なのか。それとも、憲法よりも、もっと法律や行政のあり方というところで今政治は対応すべきとお考えなのか。その辺のところをお聞かせください。

宮澤公述人 枝野委員がおっしゃいましたように、私が今の点をはっきり申し上げなかったのは、これは私が十分に勉強をしていないからであります。それがただ一つの理由でありまして、それ以外にはっきりした理由があるわけではありません。

 ただ、それを前提にして申しますと、私は、今の憲法の書かれた書かれ方、また、今の最高裁以下の日本の司法がこれを運用してきた、解釈してきた、そういうことから見て、大抵のことはこのまま読めるというふうにどっちかといえば考えたいという気持ちがございまして、これは実証的に申し上げられないので気持ちだけを申し上げるんですが、私は、どっちかといえば、今の憲法をいじらなくても十分やっていけるんじゃないかな、そういうふうに考えていきたいなと。どっちかといえば、気持ちとしてはそんな感じでございます。

枝野委員 もしお許しをいただければ、今先生がおっしゃられたような気持ちというところの背景といいますか、多分、先生の長い政治の御経験の中からでき上がってきている御印象だと思うんですけれども、できればこのまま読みたいというお気持ち、その背景の部分のところを、もしお許しいただければ、お話しいただける範囲でお話しをいただければと思います。

宮澤公述人 それは、先ほども申し上げましたように、十分自分が勉強をしていないものですから、申し上げる自信が乏しいのでありますけれども、どちらかといえば、私は、昔の憲法もそういうところがございましたが、やはり、我々日本人にとっては、かたい憲法、やわらかい憲法といって、つまり、判例的に考えられる部分というのが我々の物の考え方の中に随分あるのではないかと思っておりますものですから、大陸法的にばかり書かれる、大陸法的ばかりに解釈するということは入り用のないことで、経験的に解釈していい部分が相当あるのではないか。

 ただ、日本全体がそういうふうになっていっているとは申し上げかねるんですが、そういう部分が相当これからの我々の憲法解釈にあっていいのではないか、そういう気持ちがございましてそういうようなことを申し上げました。

枝野委員 中曽根先生にお尋ねをさせていただきたいと思います。

 先生は、長年にわたって憲法改正を御主張されてこられたことは、私もよく存じ上げております。先生のお立場からは残念ながらということだと思いますけれども、長年にわたって、六十年近くにわたって実際に憲法の改正は行われなかった。今、いろいろな動き、この調査会を初めとして、具体的な動きになってきているわけでありますが、逆に、なぜこれまでの間、憲法改正が具体的な話として実現の道のりに乗らなかったのかということについて、御見解があればお教えいただければと思います。

中曽根公述人 昭和二十七年に日本が独立をしました前後から憲法改正や教育基本法の改正ということを私は言ってまいりましたが、それは、やはり日本が完全に、何と申しますか、国民が自分でつくった憲法を持たなければ、正常な国家とは言えない。デュベルジェの憲法制定権力という言葉がございましたけれども、日本国民は憲法制定権力を持っておるのであって、占領の異常事態のもとにつくられたものは、占領を離脱したら、やはり憲法制定権力によってつくるべきである。

 そういう国家正常化という考えに立って実は主張したのでありますが、当時は、戦争が終わった後で、国民は食べるのが忙しくて、毎日の生活に追われている状態で、憲法なんか考える余裕がなかった、そういうときでありましたので、世論としては成らなかった。しかし、鳩山首相がやはり同じような考えに立って憲法改正と日ソ交渉を主張して解散をやり、大勝しました。政治家がやればある程度国民の皆さんはわかってくれるんだ、そういう感じを持ったのでありますが、その後、やはり、岸さんの安保の大騒動等もあり、憲法問題は、池田内閣から、政治の表面から消されてしまった。

 そういう経過を経て、そして最近の情勢を見て、さっき申し上げましたように、今度は、国民の方は憲法改正すべしという議論が強くなって、ただいま申し上げた朝日新聞の世論、ほかの新聞の世論というのは、大体六〇%あるいはそれ以上が改正支持という状況で、しかも、みんな三十代、四十代の若い人たちが強力にこれを主張してきて、むしろ六十、七十の老人が消極的な情勢になっておるんだ。それを見ますと、日本の国も、未来を考えて、若い人たちが本当に国家の正常化を考えているというのを見て、非常にうれしく思ったわけであります。そういう面から見ましても、いよいよそういう段階が近づいたし、各政党も、自民党は来年の十一月に草案を発表するし、民主党の皆さんも、初めはその翌年と言っていましたが、野党が与党よりおくれるとは何だという世論があって、早目に繰り上げようという御意見もある由であります。

 二大政党がそういう草案も発表するということは日本の政治に大きな影響を与えますし、この憲法調査会も来年の五月には報告を出して終了する。いよいよもう再来年ぐらいからは、憲法問題をどうするか、国会でどうするかというのが政治日程に上ってくると思うんです。これには、各党がいろいろ折衝もし、いろいろの手続を経て、国民の意見も聞きながら次の対応を考えなきゃならぬと思いますが、この国会の憲法調査会が結論、まあ、結論といっても改正云々という問題ではないでしょう、あるいは多少あるかもしれませんが。

 そういう面から見まして、さっき申し上げたように、昔は伊藤博文さんが真剣にやったけれども、今やれるのは国会と国会議員です。そういう意味において、国会及び国会議員の皆さんの責任は非常に重くなったし、国民も期待するであろう、そう思いまして、むしろ国会の積極的な関与と前進をお願いいたしたいと思っておる次第であります。

枝野委員 終わります。ありがとうございました。

中山会長 次に、赤松正雄君。

赤松(正)委員 公明党の赤松正雄でございます。

 きょうは、中曽根先生、宮澤先生、武村先生、お三方、いずれもかつて、今もお話ありましたが、憲法改正を一貫して主張してこられた中曽根先生、また、こういう言い方をしてあれですが、自民党単独政権最後の総理大臣であった宮澤先生、また、初めて非自民党政権の内閣の官房長官をされた武村先生、それぞれ日本の戦後史の中で宝物のような三人の方にお話を聞かせていただく機会が得られたことは、大変に光栄に存ずる次第でございます。

 まず中曽根先生にお聞きしたいんですが、先ほどのお話の中で、平成憲法、いわゆる二十一世紀の日本的体系ともいうべきものを示す平成憲法が必ずできるであろう、こういうお話をされました。

 私は、今日までの明治以降の日本の歴史というものを見たときに、概括して、これはある著名な方がおっしゃっているんですが、四十年周期説。明治憲法から四十年後にあの日露戦争を迎え、軍国主義のいわゆる富国強兵の一つのピークとしての日露戦争、そして、それから四十年後のいわば軍国主義の破綻の結果としてのさきの大戦の敗戦、その後四十年たって、先ほど武村先生の話にありましたけれども、経済至上主義ともいうべき結果としてのバブル、そしてそのバブルの崩壊の過程に今ある。こういうふうな、いわゆる日本の歴史を四十年サイクルでとらえるという見方で見たときに、第二次大戦、いわゆるさきの大東亜戦争の終結の時点までの史観、歴史観、これは、一言で言えば皇国史観であったと思います。それから、その後の経済至上主義の流れの中で、思い切って言えば、東京裁判史観という史観が最も大きな位置を占めたんだろう、もちろんそれだけではありませんが。

 そういう観点でいきますと、中曽根先生先ほど来強調しておられる、これからできるであろう平成憲法を形成する骨格としての歴史観、日本の国家のありよう、国家観、こういったものを、端的にどういうふうなものであるべきだと考えておられるかということを最初にお伺いいたしたいと思います。

中曽根公述人 これは前文のところで申し上げましたが、やはり、日本の長い歴史と文化と伝統、それを堅持し、かつ、その上に民主的な自由とかあるいは民主的な諸制度、人権、文化、そういうようなものを考え、そして、先ほど武村さんが申されました環境、自然との調和あるいは国際平和、そういうようなものを基本的に考えながら進めるということでありますけれども、一番基本的なものは、日本の国家や日本のあり方の基本線をまず確立する、国民的統一を図る。要するに、強制的にやるべきものじゃありませんが、国民的にある意味において基本線を合意させる、そういうことです。

 それで、政治については、先ほど申し上げましたように、主権在民の国家、そして象徴的天皇、元首としてもまた存在する天皇、そのもとに、議院内閣制を維持するか、あるいは首相公選制を維持するか、これはみんなでこれから決めることでありますけれども、民主主義体制を堅持する。それから、特に対外的関係においては、やはり国際平和に対する世界の一員としての大きな責任を持ってみずから平和を維持する、同時に、各国との協力にも参加する。そういうような普通の国家としての、責任国家としてのあり方に前進していくべきであると思っております。

 特に、私、考えておりますのは、二十世紀は、人間がこの世紀ぐらい悲惨な死んだ世紀はない。二度の世界大戦あるいは原爆あるいは中国やロシアにおける殺りく問題、そういうようないろいろな不幸なことがありまして、二十世紀はそういう不幸な悲劇の世紀であった。したがって、平和という言葉が非常に強く世界的にも叫ばれたものであります。

 もとより、それは今日においても重要であるけれども、しかし、二十一世紀を考えてみると、二十世紀とは違って大国間の戦争はもうないだろう。中小国の国境紛争のようなものはあり得るけれども、大国間の戦争はない。いずれ中国もG7に入りG8に入る、そういう段階が、中国の発展度合いによってはできてくる。

 大国間の戦争が多分もうなくなるということを前提にしますと、平和というのは事を起こさないということでありますが、二十一世紀においては人類的価値をみんなで創造するという積極的な姿勢が欲しい。平和とともに、やはり文化というものを日本の一つの国是あるいは世界に対する日本の主張の根拠として、文化を強く主張すべきである。現在の日本というのは、僕に言わせればこれは経済国家でありますけれども、次はもう教育文化国家に日本はなっていくべきである、そういう考えもあり、憲法の改正につきましてもそういう文化という概念を相当強く入れるということが日本らしい憲法になるであろう、そういう気がしているのでございます。

 以上であります。

赤松(正)委員 ありがとうございます。

 次に、宮澤先生にお聞きしたいんですけれども、先ほど来憲法に対するお考え方、よくわかりました。

 さきに、中曽根、宮澤お二人の、朝日新聞が発刊したいわゆる憲法に関する対談「憲法五十年」も読ませていただきましたが、その中に、先ほどちょっと言葉としては出てきませんでしたが、宮澤先生は、変えるための国民的エネルギーを考えると余り有益じゃない。要するに、エネルギーがたくさん要るからなかなか難しいよという意味合いのことをおっしゃっております。先ほど中曽根先生が今の状況をとらえて、かなりそういう気分が盛り上がっている、こういうお話がありましたが、やはりエネルギーが非常にかかる、有益じゃないというお考えに変わりはないかという点が一つ。

 それから、私どもは、同じようにそういう部分は感じているんですが、先ほど中曽根先生がおっしゃったような、私も、皇国史観、東京裁判史観にかわり得る史観というのは、体系立った考え方があるわけじゃありませんが、人間主義史観というようなもので、文化とか芸術とかそういう人間力というものを高める、そういう史観というものの形成が必要だなと考えておるのですが、そういう観点からいって、エネルギーが多少かかっても合意ができやすい、後で登場される社民党や共産党の皆さんとも合意が得られるようなものをしっかりと形成する努力をしてやっていく、なかなかそうは、賛成していただけないと思うんですけれども、加憲という考え方を提起しているんです。つまり、今ある一九四七年憲法に足らざるを補っていく。こういう考え方についてどのように考えられますでしょうか。

宮澤公述人 中曽根先生と今の憲法についてお話をしたのは大分前のことでありまして、かなりの時間がたっておりますが、私がそのときと今とでどこか幾らか違った感じを持っておる点があるといたしますと、あの時代、憲法改正がずっといろいろに言われてきた経緯の中で、九条を中心にしての議論が大部分であった。これをめぐって、したがって、改正をするかどうかということは賛成、反対というかなりコンフロンテーショナルな様相を持っていまして、そういうことで国のエネルギーをこれ以上費やするのかという感じが私には強かったわけです。

 その後、しかし日月がたちまして、日本も変わってきたんだと思いますが、当調査会なんかの恐らく御努力が関係をしたかと思いますが、だんだんそういうこと、九条ということよりは、むしろ今の憲法が取り上げていない幾つかのいろいろたくさんの問題があって、新しい国民の意識に上っている問題がこの憲法には取り入れられていない、そういう問題について総合的に検討したらどうだろう、六十年もたてばそういうことは当然あるだろうといったような物の考え方の方がだんだん強くなってきているように私は観察をしているものですから、もしそれが国民のそういうお気持ちであれば、それならば、それ全体を素直に取り上げて考えてみるのもいいのかもしれないな。ただし、それは余りにも九条的な視野というかつてのことと、かなり国民の重点の置き方が違ってきつつあるということの期待においてであります。

 それは、赤松先生の言われました第二の問題も含めまして、私は今そんな気持ちでおるわけであります。

赤松(正)委員 ありがとうございました。

 最後に、武村先生にお伺いしたいんですが、実は、中曽根、宮澤お二人のこの「憲法五十年」の中で私が非常におもしろいというか感銘を受けたのは、いわゆる集団的自衛権のテーマでもって中曽根、宮澤御両人は一致しているという感じを受けたわけであります。

 要するに、お二人に共通しているのは、他国の領域では戦闘しないという部分、特に宮澤先生の御発言がいろいろなところで援用されている。例えば、自衛隊が、カリフォルニアの沖と横須賀の沖で、公海でもって日米両方襲われた場合に日本がどう対応するのか、それはおのずと明らかだ、こういう表現があり、そして中曽根先生も、先ほどのお話にもありましたが、最終的には、最終的というよりも、憲法第九条一項はそのまま、二項、三項、そういうところを変えていくとおっしゃっています。実際の運用は、国家安全保障基本法をつくって、例えば集団的自衛権の問題なんというのはそこで処理していけばいいんだ、こういうふうな御指摘だろうと思うんです。

 この問題についてお二人のそういう指摘、意外とこの集団的自衛権の概念をしっかり区分けして考えるというのは、日本の政治の世界の中で今の時点でそう主流を占めていないと思うんですが、武村先生のこの問題についてのお考え方を聞かせていただきたいと思います。

武村公述人 私の頭、この問題に対して整理ができかねております。

 でも、そもそも、日米安保条約が結ばれて日本の国内に米軍の基地が置かれていること、そのことも広い意味では集団的安全保障の一端だという見方もあるのかもしれませんし、そんな意味で、私は、個別自衛権を是認するにしましても、同時に集団的自衛権も無条件で肯定するという考え方はなかなかうなずきにくいものがあります。

 ですから、現実の状況が、今、日米安保の例も引きましたが、さまざま生々しく展開をしていることは率直に認めておりますが、それにしましても、どこかでそれなりの線を引いておかないと際限なく行ってしまう可能性があるという意味では、基本的にはやはり、個別自衛権は認めても、集団的自衛権に対しては極めて慎重であるべきというふうに私自身は認識をいたします。

赤松(正)委員 ありがとうございます。終わります。

中山会長 次に、山口富男君。

山口(富)委員 日本共産党の山口富男です。

 きょうは、三人の公述人の皆さん、どうも御意見ありがとうございました。

 憲法調査会は、憲法について広範かつ総合的に調査するということですので、お述べいただいた意見に基づきまして何点かお尋ねしたいと思います。

 まず初めに、中曽根公述人に二点お尋ねいたします。

 きょうのお話ですと、日本国憲法の全体にわたって改定の方向の内容を述べられたんですけれども、特に九条につきまして、一項はそのままで、二項に自衛のための防衛軍、三項に国際協力という名前で一定の条件のもとに海外での武力行使も可能になる、そして四項で文民統制というお話がありました。

 それで、従来から政府は、自衛隊をつくり、一連の自衛隊を海外に送る立法措置もとったわけですけれども、いずれもこれらは憲法の枠内としてきました。そして、このこともあって、日本と世界の平和の秩序をめぐって、随分、憲法の平和原則との関係が問題になってきたわけですけれども、中曽根公述人御自身も、集団的自衛権の行使は現憲法で可能だと主張されてきたと思います。

 きょうお話がありました九条にかかわる改定点というのは、いわば、これまで憲法の枠内である、合憲であるとお述べになった中での提議であったというふうに思うんですけれども、となりますと、なぜ改めてこれで憲法を改定しなければならないのかという点を一点、私は理解しかねますので、お尋ねしたいと思います。

 それから、もう一点お尋ねしたいのは、公述人がお述べになった方向で憲法改定ということになった場合に、例えば、今現実にイラクで行われている戦争と攻撃、例えばこの間はファルージャ攻撃が大問題になっているわけですけれども、ああいう戦争に対して、イギリスと同じように米軍とともに武力行使をするということが可能になるのかどうなのか。このことも、二つ目ですが、あわせてお尋ねいたします。

中曽根公述人 まず、集団的自衛権の問題ですが、私は、もう六、七年前から、現憲法においても集団的自衛権を行使できる、それは解釈の問題であるから、総理大臣が公式にそれを言明すれば、一時はいろいろ騒ぎもあるかもしれぬが、そのままそれは通用していくはずである、そういうことも言ってきたもので、集団的自衛権の行使は現憲法でもできると。

 自衛権という概念の中に個別と集団とありますけれども、個別的自衛権が行使できて集団的自衛権が行使できないというのは理屈が立たない。第九条によって武力行使ができない、そういう規定はありますけれども、集団的自衛権の行使という場合には、武力行使も含むし、含まないいろいろな行動もあり得るわけであります。

 そういう意味から見ても、集団的自衛権の行使というものは現憲法でもできる。しかし、いろいろ世の議論もあるから、自分はそういうふうに解釈しておるけれども、九条を新しく制定するという場合には、自衛軍を認める、自衛措置を認める、その中には、もちろん文章には書かないけれども個別的自衛権も集団的自衛権も行使できる、それが含まれていて、そのような防衛ということを考えておるということであります。

 それから、イラクにおける今の行動については、これは現政府の考え方によって行われていることでありますが、今までの憲法解釈によって、武力行使ができない、そういうような制限がございますから、今の国際環境のもとで、日本が国際貢献をやろう、そういう意思を決めまして、小泉総理がイラクの民生復興のための仕事に限って自衛隊の任務を認めてイラクにまで進出させる、そういうふうに決定したのは、非常に苦しい決定のように思いますけれども、今までの憲法解釈上からやむを得ずぎりぎりの線の決定をしたと思います。

 しかし、こういうところまで来るというと、もはや憲法九条の解釈も瀬戸際のところまで来ておる、そういう状況をいつまでも続けるべきではない。そういう意味においても、憲法九条は正常化する、我々の考えのように正式に改定していく、そして国民的支持を求めるべきであるというのが私の考えでございます。

山口(富)委員 続けて中曽根公述人にもう一点お尋ねしますが、今の点は、私は、憲法九条のもとでは集団的自衛権は持てませんし、政府の苦しい、ぎりぎりの解釈という話がありましたけれども、憲法九条からいってやるべきではないという考え方ですが、これは意見の違いです。

 私がお尋ねしたいのは、憲法の前文の点で、日本の国家像を示す前文にというお話がありましたけれども、憲法について、近代立憲主義の考え方でいきますと、主権者国民の権利や自由を守るために政治権力に対して縛りをかけていくわけですが、こういう近代立憲主義という憲法を思い描いているということでよろしいんでしょうか。

中曽根公述人 これは人によって意見が違うのでございますが、民主主義国家の限界についてあなたのようなお考えもあるし、民主主義の国家の行動範囲内において我々のような解釈もまた成り立っておるし、むしろ、我々のような解釈が世界的にもっと普遍性を持った解釈になっておるのではないか。

 日本の憲法九条というものを考えて、そしてその独特の解釈を皆さんしたがる向きもありますけれども、その独特の解釈にも合理性のある場合もありますが、しかし、日本が世界にこれから貢献し、あるいは活動していくという意味においては、今のような憲法九条というものは当然ここで新しく出直して、そして日本は国際社会へ出ていくべきであり、また国民の気持ちもそこに持っていくべきである、そう思っております。

山口(富)委員 私は、近代立憲主義という点では、日本国憲法の方が世界の流れに沿う王道であって、前文に日本国家像を示すというのは、やはり世界史的に見れば逆行する考えだというふうに考えております。

 次に、宮澤公述人にお尋ねしたいんですけれども、まとめて二点お尋ねいたします。

 日本国憲法が柔軟に書かれており、変化に対応できるという意見をいただきました。そうしますと、こういう憲法の力というのは一体どうして生まれてきたのか、どうして、変化に対応できる、柔軟に書かれており、そういう力を持っているとお考えなのか、ひとつ教えていただきたい。

 もう一点は、となりますと、この憲法は二十一世紀に、今後も生きる力を持っている憲法だというふうにお考えなのか。先ほど、気持ちとしては現状でいけばいいのでないかというお話もありましたから。その二点、お尋ねいたします。

宮澤公述人 二番目の方からお答え申し上げますが、私は、この憲法が二十一世紀に生きていける憲法であってほしいし、また、そのように運用されることができるだろうというかなり強い希望を持っているものであります。

 それから、前の方のお尋ね、どうしてそのような柔軟な、いわばやわらかい憲法として考えることができるかということについては、私は、日本国民の国民性というものがやはり基本にあるであろうと。つまり、大陸法的な物の考え方をする部分もありますが、かなりプラグマティックな国民でもございますから、そういうものが基本にあるだろうということと、それからもう一つ、やはりこれが書かれたときに、草案そのものが生まれた経緯を先ほど申し上げましたが、この中に英米法的なものがかなりあるというようなことをつけ加えて申し上げてよろしいんだろうと思います。

山口(富)委員 きょう、GHQですとかGSですとか、憲法制定の過程にかかわるお話をいただきましたけれども、実は私も、国会図書館の憲政資料室に参りまして、当時の、憲法制定時の内閣に提出された各種の閣議の資料が今あそこにおさめられていますから見たんです。ページを繰りますと、昔のわら半紙、ざら紙の粉が飛び出るような状態になっておりまして、青鉛筆や赤鉛筆で随分書き込みがあるんですが、それを見ながら、日本国憲法の制定時の息吹というものを強く感じた次第なんです。

 もう一点お尋ねいたしますけれども、特に九条なんです。いろいろな意見があるとしましても、少なくとも、自衛隊が海外に行ったり、海外での武力行使はやらないという一つの線というものがあったと思うんですが、これについては、先ほど日本国憲法は激変する国際環境や国内の状況の中で務めを全うしたと思うという話があったんですけれども、九条についてもやはり務めを全うしてきたというお考えなんでしょうか。

宮澤公述人 九条が過去五十年余りの間その務めを果たしたかどうかということですが、私は結構果たしているというふうに思います。それから、前の方のお尋ねは、私は、どういうことがあっても我が国は国外において武力行使をすべきではない、そのことは憲法がどうなろうと私は基本でなきゃならないと考えております。

山口(富)委員 武村公述人に引き続きお尋ねいたします。

 きょうのお話ですと、憲法九条が、国連憲章の精神を日本で具体化したものである、そして日本の顔であって、旗であり、軽々に変えるべきでないという御意見だったんですが、先ほどの宮澤公述人への質問と重なっていくわけですけれども、現状からいきますと、日本の顔であり旗である九条、これが守られているとお考えになっているんでしょうか。

武村公述人 かなり守られてきたとは思いますが、昨今の私の認識では、アフガニスタン、PKOまではともかくアフガニスタン、そして今度のイラク、この辺はかなりボーダーラインを越えつつあるんではないか、そういう、私にとっては危機的な見方をいたしております。

山口(富)委員 そうしますと、軽々に変えてほしくないという御意見なんですが、私もそれはそのとおりだと思うんですけれども、そういう願いが、一方での危機的な状況があるという認識をお持ちだということなんですが、武村公述人の、九条が日本の顔であり旗であるという願いが先々まで力を持とうとすると、一体、政治家や日本国民はどういう努力をしたらいいのか、幾つかお考えがあれば示していただきたいと思います。

武村公述人 一番大事なことは、この危機的な、第九条にとって危機的な状況、現実がそうだとも言えますし、政府の運用が危機的とも言えますが、こういう状況のど真ん中で、憲法論議がこうしてなされている。その結果として、やはり第九条を中心にした今の憲法の平和主義というものを国会でも再確認をして、国民全体でも再確認できることが一番大事なことではないかと思いますね。

山口(富)委員 私も、この憲法の平和主義を中心といたしまして、その意義を、現実に生きる力を二十一世紀に持っておりますから、再確認しながら頑張ってまいりたいと思います。ありがとうございました。

中山会長 次に、土井たか子君。

土井委員 きょうは、公述人としてお三人の先生方から御意見を承りまして、ありがとうございました。

 それで、まず、中曽根先生が、改憲に対して御自身がお考えになるところをきょうは披瀝されまして、承りまして、やはり時間のたつのは早いという実感と同時に、こういうふうにお考えになったときもあったのだというのを議事録によって確かめてまいりました。議事録によって二つお聞かせをいただきたいんです。

 一つは、戦後間もなしのころでございます。このとき中曽根先生は、吉田内閣総理大臣に対して御叱正をされながらの御質問なんですね。それはどういうふうな中身かと申しますと、永世中立に関して吉田総理大臣が何だかこれに対してはっきりそぐわないような言明をされたということに対して、「最も重大な問題は、永世中立に関する総理大臣の言明であります。」という御発言から始まりまして、ここのところを間違って言ったらいけませんから、少しおっしゃったとおりの議事録に即して申し上げたいと存じます。

 永世中立に疑義ありと吉田首相は参議院において言明をいたしました。

 その後衆議院予算委員会においても、重ねてこのことを確言したのであります。しかるに、その疑義の内容並びにみずからの所信については一向誠意ある解明をいたさないのであります。

  われわれは新憲法を制定して、われらの安全と生存を諸國民の公正と信義に託し、戦争放棄を嚴粛に宣言したのであります。かくて、絶対平和主義と中立堅持は八千万民族の決意であつて、象徴たる天皇も、この民族の意思を明らかに表明されておられるのであります。日本國民は、最近のマツカーサー声明中に、日本をスイスのごとき中立國にいたしたいとの文字を共感をもつて読んでおるのであります。しかるに、一國の総理大臣たるものが、軽々にこの國民の総意に対して疑義を表明し、しかも國民代表の質問に対して何らの説明をなさないということは、無責任もはなはだしいといわなければなりません。

以後続きますが、大体そういう中身なんでございますが、中曽根先生は、当時は中立国を日本が目指すことに対して、そういうお立場、そういうお考えというのをお持ちだったんですか。

中曽根公述人 私は、マッカーサーの占領下におきまして、日本は永世中立をとるべきだし、その方が賢明だと。つまり、マッカーサーの占領下においてどう使われるかわからぬと。その当時はまだたしか警察予備隊がなかった時代だったと思いますけれども、そういう意味において、占領下における日本の不作為ということをたしか強調して中立的立場をとるということを言ったと思います。しかし、二十七年の独立回復後は、その態度を捨てて、今まで申し上げたようなことを言ってきたと思います。

土井委員 では、もう一つのこれは議事録について申し上げさせていただきますと、恐縮でございますけれども、一九八六年でございます。九月十六日、本会議場に立ちまして質問いたしましたのは私でございます。当時は、日本社会党の委員長に就任をいたしまして初めての本会議場での質問でございました。中曽根先生が内閣総理大臣でいらしたわけで、このときの御答弁を承っておりまして、私は御見識だと思いましたよ、本当に。

 それはどういうことかといいますと、これは御答弁だけ申し上げさせていただいてわかっていただけると思うんです。

 国際関係におきましては、我が国だけの考えが通用すると思ったら間違いでありまして、一方的通行というものは危険であります。特にアジア諸国等々の国民感情も考えまして、国際的に通用する常識あるいは通念によって政策というものは行うのが正しい。それが終局的には国益を守る方途にも通ずることになると思います。アジアから日本が孤立した場合に、果たしてアジアのために第一線で戦死したと考えているまじめなあの将兵たちが、英霊が喜ぶであろうか。英霊も理解していただけるのではないかとも考えております。日本がアジアから孤立して喜ぶ国はどこの国であるか、そういう点も外交戦略としてもまた考える必要があり、いわゆる国益全般を考え、また日本の国際的名誉を確保するという面からも、日本には民主主義に応ずる正しい反省力もある、そういうことも国際的に示す必要もあると思っております。

  やはり民主主義の一番強いところは反省力であり、抑制力であると私は思っております。

こうお答えになったんですね。今でもこういうお考え方には違いがございませんか。

中曽根公述人 その重要な部分をお読みいただきましてまことにありがとうございます。私の考えは変わっておりません。やはり、アジアというものを重視し、国際関係を重要視しながら総理大臣の仕事というものは行われるべきである、そう思っております。

土井委員 それを承って、いささかそう思わなければならないという気になってしまったら、これは違うなということが、大変迫られる問題としてあるのでございます。

 それはどういうことかといいますと、先ほどから、改憲という問題に対して国民の意見がやはり強くなってきているということをおっしゃいましたけれども、果たしてそれはそうなんでしょうか。私は、実はそうは思っておりません一人です。

 きょうは、朝日新聞の世論調査をお出しになって、ここで男女ともに若いと考えられる世代がこのような数字だという数字もお挙げになったんですが、それについては、改憲を是とする意見だけをお取り上げになったんです。

 実は、第九条に対して、改憲を是とするんですか、是としないんですかという質問に対して、同じ朝日だったと思いますけれども、約六割の方が改憲を是としないという意見なんでございます。これはやはり、世論調査を見るときには満遍なく見ないといけないと思うので、改憲に対して是としているところだけを見たんじゃそれは正確ではないというふうに思うのですね。だから、第九条について変えることに対してまだ賛成できないという国民が多数であるということも一つは知らなければならない。特に国会に籍を置いておりますと、そのことに対しては責任があるというふうに私は思います。

 それと同時に、きょうは午前中にお三方の民間の方々の公述がここでございましたが、このお三方は、それぞれ専門の分野を異にしながらも、結論とすれば大体、今の改憲に対しては消極的なんですね。今の日本国憲法に対しては、これをしっかり生かしていくということに対して非常に示唆に富んだ御意見だったように私は受けとめております。

 そういうことを考えていきますと、今この現在、日本の中で明治維新や敗戦に匹敵するような社会の大転換というのを迎えていると言えるかどうかなんです。これは日本国憲法もそうですけれども、各国の憲法は最高法規であって、変えるか変えないかというのは一大大問題、国の基本における一大重大事ですよ。そういうことからすると、国を挙げてこういうことに対しては、まず一つの大きな歴史の節目であるという問題になるのではないんでしょうか。

 そこを考えると、私は、今、社会の大転換というのを日本では迎えているのかどうか。いや、迎えていると言えますよとおっしゃることであるならば、その点に対してぜひともお聞かせいただきたいというふうに思うのです。むしろ私はその点に疑問を感じざるを得ません。

 時代が大きく変わったんじゃありませんかとおっしゃる方があります。現実と憲法に乖離があり過ぎるんじゃありませんかとおっしゃる方があります。でも、時代が大きく変わったということではなくて、逆に憲法を変えることによって日本社会を根底から無理やり変えてしまうということの指向が動いているのではないか。それが改憲論者には非常に強いのではないかと思うのです。そしてその方向も、個人の尊厳性や、そして基本的人権についての保障よりも、国家に重点を置く、国家、社会に重きを置く。かつてのような国家主義の姿というのがだんだん見え隠れしていると言わざるを得ないと思うんですね。

 これは何を指して私は言っているかといったら、自由民主党のプロジェクトチームがお出しになった論点整理を見まして、特に基本的人権のところについてどうお考えになっていらっしゃるか。十一条を見てもそうです。二十五条を見てもそうです。二十四条を見てもそうです。十四条を見てもそうです。そういうことを痛切に感ずるんですが、その点は戦前に回帰しつつあると、今のプロジェクトチームの論点整理を見まして、私はそういう実感を非常に強く持つんです。

 これは、今は自由民主党ではない武村先生の方から、これについて何か御意見があったら聞かせていただければと思います。

武村公述人 そうですね。ちょっと私の小さな経験を一言申し上げますが、もう二十数年前ですが、琵琶湖が赤潮に襲われたときに、県民の、特に奥さん方が、当時日本じゅうに普及しておりました燐の入っている合成洗剤をやめようという運動が始まりました。有燐合成洗剤を追放して粉石けんに切りかえよう、燐という有機物が入っているからですね。そういう運動が自然発生的に始まり、どんどん広がって、最終的には県民の七割までが自発的に切りかえられるレベルにまで達したことがあります。その後、私ども、県の条例でこれを禁止するという行政措置をとらせていただいたわけでありますが、その前段のいわば運動をポーランドの学者とか若い学生が視察に来まして、県庁の知事室に座ってずっとその話を聞いて、思わず漏らした言葉が、武村知事さん、これこそすばらしい愛国運動ですよと。

 地方自治の住民運動で愛国主義という言葉は余り日本では使わないし聞かない。ですが、外国の人にそういう言い方をされたので、先ほど地方自治の問題をいささか申し上げましたが、自分たちのことは自分たちの責任で治めるべしというこの自治、これは民主主義の学校でもあるわけですが、そこを考えますと、愛国主義なんという言葉をわざわざ使う必要もないと思うんですが、そのことが本当の愛郷心でもあるし愛国主義、自分の住んでいる土地を、社会をしっかり守っていこうという精神だと思いました。

 土井さんの質問に答えていませんが、私個人としては、小学校のときに新憲法を習って今日まできました人間でございますし、そういう意味では、余り時計の針、逆に回さないでほしいという気持ちを持っております。

土井委員 それでは最後に、中曽根先生と宮澤先生に御意見をお聞かせいただきたいんです。

 憲法第九条を中心にして改憲の必要性をしきりに言われた、改憲論を展開された方々の中には、初期の場合には、現行憲法がアメリカの強要によってつくられたから直す必要があるとおっしゃった方がかなり多かったんですね。つまり、太平洋戦争が敗戦で終わりまして、その後ポツダム宣言を受諾したことに従って日本は占領軍からの強要があったけれども、わけても、これはアメリカからの強要で今の日本国憲法はつくられた、そのいきさつというのは、先ほど非常にお詳しい宮澤先生がおっしゃっておりましたが。

 だから、日本が、主権国家としての立場からすると、みずからが憲法について制定をするということをはっきりさせる必要があるという意味での初期の改憲論というのはかなり強かったんですが、最近の改憲論は、アメリカの対外政策ということに直ちに対応することができるようにするためにも第九条を変えなければならない。要約して言ったらこういう改憲論というのが改憲論の中でもやはり強いんですね。

 かつてはアメリカに強要されたから直す必要があると言われ、今度はアメリカから対外政策が出されたことに対して対応できるようにこれはやはり変える必要があるというふうなことになると、やはりその主張自身がつじつまがちょっと合わない。

 言ってみれば、アメリカからの対外政策ということに対応するためにも憲法について改憲が必要だという姿勢は、むしろ、主権国家として、憲法に対してみずからが憲法を制定するという気迫とそれだけの自負心というのを持たなきゃならぬという点からしたら、まるで逆でございまして、やはり従属的な立場とか追随的な立場ということを是認せんがために憲法を変えざるを得ないという問題にもこれはなりかねないので、この辺は一体どういうふうに改憲論の経緯ということに対して考えたらいいのかという、これは改憲に対して非常に心配して危惧している人たちからの声でございます。

中山会長 土井先生の質問時間がもう終わっておりますので。

 中曽根公述人。

中曽根公述人 今の憲法制定されたのに強要があるかないかというところ、まず第一でありますが、やはり制定の経過、あのころのことも私、現に生きておって見ておったわけでありますが、日本側で自分でつくろうとして一生懸命努力しておりましたが、しかし、向こうでは極東委員会その他が出てくるという事情もあって、二十一年の二月十三日、外務大臣官邸に吉田さんやそのほかの人が呼ばれて、そして、アメリカの、あのときはケーディス以下出てきて、アメリカ文、アメリカの憲法草案を渡されたのが二月のたしか十三日であります。

 それを見て、吉田さんもびっくりし、ほかの皆さんも非常に困って、それで政府へ持って帰ってから政府でいろいろ議論をして、しかし、ある意味においてはのまざるを得ぬという空気になって、閣議において反対をした閣僚も相当おりましたけれども、最終的にはのまざるを得ぬという形で、のむという形になって、自分のものは捨てた。そして、たしか三月の初めからGHQへ行ってアメリカ文を日本文に翻訳する作業をやった。そうして、たしか二、三日のうちに翻訳文をまとめて持ってきた。

 そういういきさつでこれができている状況であって、やはり成立については、今のような、占領下、極めて異常な事態でつくられている。だから、ほかの国、ドイツのような場合には、占領下、憲法はつくられるべきでないというので基本法という名前にしておりましたが、日本の場合は、いろいろな内外関係を見て憲法という形でやったわけだと思います。

 しかし、最近の改憲の空気というものは、五十年の憲法のもとの経験、日本の発展、それから、特にさっき申し上げた、冷戦終了後の、言いかえればアメリカ体系、ソ連体系、第三勢力体系というものが崩壊して、特にソ連体系の崩壊からそれが出てきて、日本は、今まではアメリカ体系の温室の中にいて経済成長を楽しんだようなものでしたけれども、そういう大きな変化が起きて、そして各自がみんなアイデンティティーと独立意識で国を立ち上げていかなきゃいかぬと。ECが一番いい例で、アメリカに対抗するためにEUを結成するというような情勢になり、各国ともみんなそうであります。

 それを日本は、この約十年近く、経済のバブルは崩壊し、あるいは、政治が腐敗のために分裂して連立内閣になって、政治が漂流をする、教育が崩壊して犯罪が激増する、そういう中で、非常に短い時間の内閣の交代がずっと続いて、国民が、現状を破壊せよ、そういう強い勢いが出てきて、小泉君が自民党を破壊すると言って八〇%の支持を得て天下をとったような、そういう大きな激変のもとに今我々は生きておる。

 しかし、そういういろいろな経験をしてみて、そして、今改憲をやろうという空気は、それのいろいろな経験をしてみた上での日本の自然的成長というか、そういう、国家として存在していく上の自然発生的な成長力がそこへ出てきて、自覚が出てきたんだ、それが世論調査における国民側の大きな数字として出てきている、そう私は思っておるのであります。

宮澤公述人 後段の点は、私はアメリカ云々ということはないと思うんです。

中山会長 次に、野田毅君。

野田(毅)委員 三先生には、大変お忙しい中、貴重なお話をちょうだいしまして、ありがとうございました。

 あとの時間が大分迫っておるということで、今、土井委員が私の部分を半分ぐらい食ってしまったような気がしますので、お伺いしたいことはいろいろあったんですが、大分はしょって聞きたいと思うんです。

 ただ、今のやりとりを聞いていまして、武村公述人が、時計の針を後戻りさせないでくださいという話があったんだけれども、何か五十五年前のときに逆戻りしたようなお話が今ありまして、随分残念なことだなという思いをいたしております。

 表現が悪いんですけれども、やはり当時は、中曽根先生がおっしゃいましたように、無条件降伏をして武装解除をされた中の占領下における環境でありますから、ある意味では自分で自分の国の治安維持さえどうかというぐらいの環境下にあって、とてもとてもまともな憲法論議ができる状況ではない。そういう点で、宮澤先生がおっしゃいましたとおり、独立を回復した時点で本来ならば何らかの新しい憲法を制定するか、あるいは現行憲法でもいいから国民投票に付するか、何らかのけじめをつけておくということは大変有効なことであっただろうと、今から思えばそう思いますが、既にそれからも歴史はさらに五十年を経過いたしておりまして、今既にお話がありましたとおり、建設的な憲法改正についての議論がかなり国民の中でも広く進んできたと思っております。

 そこで、一つお伺いをしたいんですが、改正の具体的な中身をどうするかということと、これはこれで大変大事なテーマでありますが、同時に、実際に改正をやろうとすれば、どうしても国会において、衆参それぞれ三分の二の多数のもとで発議しなければいけない。この憲法という非常に大きなテーマを、三分の二を衆参それぞれやろう、しかも参議院は半数改選でもあるわけですから、これはかなりの大難事でありますから、よほど知恵を出してやらないと、与党対野党という対決政治が続く限り、現実問題、憲法の中身が大きな争点になったら、なかなか動きにくいんじゃないか。

 そういう点からすれば、より大きな知恵を出して、憲法休戦をやるなり、あるいは憲法改正という一点に絞った大連立をやるなり、何らかの大きなアクションがなければ、現実問題、これは具体的な姿になって動きが出ていかないんじゃないか、そういう思いもしまして、今、中曽根先生から多少それに関連するお話もあったものですから、もう少し詳しく聞かせていただくとありがたいと思います。

中曽根公述人 野田さんがおっしゃるように、三分の二の獲得ということが最終的な最も大事な仕事であって、我々は、これからいろいろ政治過程を踏んでいく上についても、最終的には三分の二をどうしてとるかということを念頭に置きながら、内容も考え、手続も考え、時期も考えていかなきゃならぬ、そう実は考えておるわけでございます。

 ある場合には、同じ党の中におっても、賛成、反対はみんな持っておるわけでありますから、おっしゃるように賛成グループが連合をするとか、あるいは、おっしゃるように場合によっては大連立という形で三分の二を獲得する、そういうことも将来はあり得ると思うんです。

 しかし、それは当面から見ればまだかなり未来のことであって、各党の草案ができ、そして、それを今度は国民の目の前にさらして、各党の討論がテレビやラジオや新聞を通じて行われ、相当国民の間に関心とそれに対する理解が生まれてからでないと、それはできない。それにはある程度の時間が必要であるし、また、そういう三分の二を形成するという政治行為をやるについても、これは各党の総裁や幹事長がよほど苦労していく、そして党員を納得させてやらなければできない大作業があるだろうと思います。それを議員や党員が非常に理解して、そして幹事長や総裁の行動を守ってやるようにしていかないと、なかなかとれるものではない。

 そういう非常に難しい大作業をこれから国会の皆さんは何年か後から始めるということでありますので、ぜひとも御健闘をお願いいたしますと申し上げた次第であります。

野田(毅)委員 ありがとうございます。

 宮澤先生、大変慎重にお話をいただいて、ある意味では現行憲法は大変柔軟に書かれているので、上手に対応、今までもしてきたし、これからもできると思うけれども、事によっては限界があるんだ、そういう意味で、国民の最終判断にゆだねたいというような趣旨のお話であったと思うんですが、現実問題、今まで大変柔軟に対応をしてきたことも事実で、厳格に言うならば、かなり憲法上疑義があるようなことも我々は目をつぶってやってきた。

 このままどんどんどんどん事態が推移していくと、もっともっと遊離していくようなことになってしまって、結果において憲法自身の覊絆性が大変薄れてしまう、そういうことになっていくのではないか。特に国際環境、特に安全保障の側面において、ソ連崩壊後さまざまな環境が激変しておるわけですから、特に海外における武力行使の是非などを含め、逆に言うと、何らかの歯どめをかける意味もあって、きちんと憲法上ある種の限界点を明確にしておくということも必要になってきているのではないかということも考えられるのでございます。

 先ほど、中曽根先生から四つほど九条に関連しての御指摘がございましたが、こういう場でお伺いするのは大変恐縮なんですが、その中曽根先生のお話をされました四つの点について、若干恐縮ですが、宮澤先生、コメントがありますならば、ぜひ御指摘をいただきたいと思います。

宮澤公述人 それは一々申し上げますと長くなってしまいますが、私が申し上げようとしておりましたことは、一つの事態に直面してそれに向かってどう対応するかというときに、いろいろな対応の仕方がある、やわらかい対応の仕方もあるし、かたい対応の仕方もあるわけでありますから、そういう意味で、国民性を考えていくと、その都度一つ一つ物事を、憲法を直さなきゃならないといったような出方をする我々国民ではないんだろう、そこは結構臨機応変に対応できる国民性があるんじゃないかということを私は考えているものですから、そういう意味で、まだまだ十分に憲法というものは読めるし、また、最高裁初めそういうふうに読んできたということを、きょうはその旨も申し上げてみたいと思って申し上げたんです。

 ただ、それにも限度があるよとおっしゃれば、それにも恐らく限度がございます。それはそれにも限度がございますから、そういうところはこれはもうやむを得ないな、そういうことが国民全体の声であったら、それはもう仕方がないのだろうなというようなことを私は申し上げようとしたわけであります。

野田(毅)委員 ありがとうございます。

 時間がもうある程度、先がおありだとお伺いしておりますので、私の御質問はこれで終えたいと思います。ありがとうございました。

中山会長 これにて公述人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、一言ごあいさつを申し上げます。

 公述人の先生方におかれましては、長時間にわたり貴重な御意見をお述べいただき、まことにありがとうございました。憲法調査会を代表して、心から御礼を申し上げます。(拍手)

 次回は、来る十一月十八日木曜日午前八時五十分幹事会、午前九時公聴会を開会することとし、本日の公聴会は、これにて散会いたします。

    午後三時五十七分散会


このページのトップに戻る
衆議院
〒100-0014 東京都千代田区永田町1-7-1
電話(代表)03-3581-5111
案内図

Copyright © Shugiin All Rights Reserved.