衆議院

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第2号 平成16年11月18日(木曜日)

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平成十六年十一月十八日(木曜日)

    午前九時三分開議

 出席委員

   会長 中山 太郎君

   幹事 近藤 基彦君 幹事 福田 康夫君

   幹事 船田  元君 幹事 古屋 圭司君

   幹事 保岡 興治君 幹事 枝野 幸男君

   幹事 中川 正春君 幹事 山花 郁夫君

   幹事 赤松 正雄君

      伊藤 公介君    加藤 勝信君

      木村  勉君    城内  実君

      坂本 剛二君    柴山 昌彦君

      谷川 弥一君    渡海紀三朗君

      中山 泰秀君    永岡 洋治君

      野田  毅君    葉梨 康弘君

      早川 忠孝君    平井 卓也君

      平沼 赳夫君    二田 孝治君

      松野 博一君    松宮  勲君

      三原 朝彦君    森山 眞弓君

      渡辺 博道君    青木  愛君

      稲見 哲男君    大出  彰君

      鹿野 道彦君    鈴木 克昌君

      園田 康博君    辻   惠君

      中根 康浩君    長島 昭久君

      計屋 圭宏君    古川 元久君

      馬淵 澄夫君    笠  浩史君

      和田 隆志君    渡部 恒三君

      太田 昭宏君    佐藤 茂樹君

      福島  豊君    山口 富男君

      照屋 寛徳君    土井たか子君

    …………………………………

   公述人

   (社団法人日本青年会議所二〇〇四年度専務理事・二〇〇五年度会頭)     高竹 和明君

   公述人

   (社団法人アムネスティ・インターナショナル日本事務局長)         寺中  誠君

   公述人

   (聖路加国際病院理事長・名誉院長)        日野原重明君

   公述人

   (法政大学法学部教授)  江橋  崇君

   公述人

   (桐蔭横浜大学法学部教授)

   (岐阜女子大学名誉教授)

   (チベット文化研究所名誉所長)          ペマ・ギャルポ君

   公述人

   (関西大学法科大学院教授)            村田 尚紀君

   衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君

    ―――――――――――――

委員の異動

十一月十八日

 辞任         補欠選任

  大村 秀章君     木村  勉君

  坂本 剛二君     城内  実君

  松野 博一君     早川 忠孝君

  土井たか子君     照屋 寛徳君

同日

 辞任         補欠選任

  木村  勉君     大村 秀章君

  城内  実君     谷川 弥一君

  早川 忠孝君     松野 博一君

  照屋 寛徳君     土井たか子君

同日

 辞任         補欠選任

  谷川 弥一君     中山 泰秀君

同日

 辞任         補欠選任

  中山 泰秀君     坂本 剛二君

    ―――――――――――――

本日の公聴会で意見を聞いた案件

 日本国憲法に関する件


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     ――――◇―――――

中山会長 これより会議を開きます。

 日本国憲法に関する件について公聴会を行います。

 この際、公述人各位に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にさせていただきたいと思います。

 議事の順序について申し上げます。

 まず、高竹公述人、寺中公述人、日野原公述人の順に、お一人二十分以内で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと思います。

 なお、発言をされる際はその都度会長の許可を得ることとなっております。また、公述人は委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願います。

 御発言は着席のままでお願いいたします。

 それでは、まず高竹公述人、お願いいたします。

高竹公述人 おはようございます。

 社団法人日本青年会議所二〇〇四年度専務理事、そして二〇〇五年度会頭を務めます高竹和明と申します。どうぞよろしくお願いを申し上げます。

 日本青年会議所は、全国四万六千名の青年経済人を有する団体でございます。この憲法の問題も含めて、三年前から、まず教育基本法の改正の運動に取り組み、そして、ことし、来年と、この憲法について議論をしていっている状況でございます。したがって、青年経済人の団体ですので、決して憲法に対するプロではございません。しかしながら、我々、二十から四十歳までの青年の団体として、この日本国憲法について積極的に議論をしていこうという構えで今議論をしているところでございます。

 それでは、日本国憲法についての意見を述べさせていただきたいと思います。

 日本国憲法における問題点といえば、記述されている日本語の理解に苦しむ前文を初め、主権を有する独立国家として国際社会で認められている自衛戦力の保持や自衛のための交戦権までも放棄しているように読める第九条の問題などがすぐに頭に浮かびます。もちろん、憲法改正条項や首相公選制の問題、二院制の問題や非常事態に関する規定の不備、そして現代社会に必要とされる環境権や知る権利といった新しい権利の概念が盛り込まれていないことなど、問題点は多岐にわたって存在していると思います。

 しかしながら、一番の問題点は、我々日本国民が自分たちの憲法として精神的に認めていないことではないかと思います。その理由の一つとして、現行憲法は明確性に欠けた翻訳調であるがゆえに、余りにもわかりにくいということが挙げられます。少なくとも、国家の姿をあらわす最高法規としての憲法であるならば、正しい日本語を使用した明瞭な文章で構成されるべきであり、国民のだれが読んでもその解釈において共通の認識が得られる内容であることが大前提だと考えます。

 このように、現行憲法には、前文を含む百三条の条文すべてに至るまでさまざまな問題点が多数存在していると認識をしていますが、日本青年会議所は、あくまでも国民の視点で、現行憲法制定と混迷度を増す現代日本との相関を含め、我々が考える憲法そのものに対する総論的所感を中心に意見を述べたいと思います。

 一九四五年八月十五日正午の玉音放送で、日本国民は連合国に対する日本軍の無条件降伏を知りました。直ちに本格的な戦後処理がアメリカ主導で開始され、それまでの日本の文化、伝統、歴史観が完全に否定されたことは周知の事実です。そして、もはや戦争が地球上には存在しないというユートピア構想をその前文に掲げ、主権が国民に存在すること、基本的人権を国家が尊重すること、そして永続する担保のない世界の善意と理想に自国の安全保障を完全に依存することをうたった日本国憲法を制定した上で、新生日本の建設を始めました。

 明治維新と状況は似ていますが、明治維新が黒船来航を契機に日本人が自発的に沸き起こした変革だったのに対し、戦後処理は、敗戦を契機に連合国、とりわけアメリカ主導の占領統治政策によって強制的にもたらされた変革でした。戦後の日本は、敗戦国であるがゆえにすべてをアメリカにゆだね、伝統的な精神性や自尊心をも捨ててアメリカからの恩恵にあやかってきたのです。

 その傍らで、アメリカからもたらされた自由主義、個人主義は日本人にとって都合のいいように解釈をされ、一九五一年に締結した日米安全保障条約によってアメリカの核の傘下に入ると、自国を自力で守る決意もないままに、日本人は国防をアメリカに完全依存することを当たり前と考えるようになっていきました。そして、敗戦後のアメリカによる占領統治、占領統治下にアメリカ主導でつくられた日本国憲法、そして安全保障面で日本を支えた日米安全保障条約がセットになって、日本人から、自国のことを自分のこととして考える精神性を失わせました。

 我々は、この国の自己責任の欠如や公共心、道徳心の荒廃が、アメリカ主導による日本国憲法制定から日米安全保障条約締結の一連の流れに始まっていると感じています。真の自立国家としての精神をはぐくむことなく、ただひたすら工業化社会を突き進み、絶対の価値観を経済力に求めた結果、人心の荒廃した国民による今日の混迷した日本社会が形成されてしまったと考えます。

 日本国憲法は、言うまでもなく、日本という国の姿とあり方を決める根幹です。ゆえに、我々日本国民は、現行の憲法がいかなる内容で、いかなる過程を経て作成されたものなのか、そしてどこに問題があり、それが戦後の我が国にいかなる影響をもたらしたのかを学び、知る必要があります。

 今や、歴史考証によって、日本国憲法が連合国総司令部、GHQによって押しつけられた憲法であることは明白です。翻って、我々はその歴史的事実だけをもって現行憲法を否定すべきではないと考えます。戦前にはなかった民主主義の概念がこのときにつくられたのも事実ですし、国民主権や基本的人権の尊重、戦争の放棄による平和主義、国際協調主義といった現行憲法の基本原理が、戦後日本における民主主義、平和主義の定着、そして物質的に非常に恵まれた超経済大国の形成に大きな役割を果たしたことは否定できないからです。

 しかし、前述したように、我が国の現行憲法は、アメリカの占領統治戦略に基づき、日本の習慣や伝統、文化が何一つ考慮されることなく、アメリカにとって都合のいいように作成されました。アメリカの政治的思惑による日本の非軍事化条項である第九条が盛り込まれていたり、前文や第十三条の条文に代表されるような、果たしてどこの国の憲法かわからないといった性格を有していたりするのはそのためであり、我々の国の我々の憲法として適しているとは到底思えません。

 我々国民と憲法との感覚的距離はこれまで著しく乖離してきました。義務教育課程においても、国民は、日本が法治国家であるにもかかわらず、最高法規である日本国憲法についてさほど熱心には教えられていません。現在とて、教科書にはページこそ割いてあるものの、習うとしても受験のためだけの日本国憲法です。決して、国の形を考える、国の姿を考える憲法学習にはなっていません。また、全世界に存在する成文憲法の中で平和条項を持つ憲法が百四十九カ国に及ぶにもかかわらず、日本国憲法のみが世界の中で唯一無比の平和憲法だと教えられ、それがあたかも平和を愛する日本国民の理念の象徴のごとく扱われ、いつの間にか、平和が確固たる現実のような錯覚に国民は陥っています。

 また、マスメディアを通して聞く憲法問題は第九条にほとんど特化し、国民世論のレベルでは、いまだ護憲か改憲かという画一的な議論のみに終始しているように思います。かつては改憲論者がタカ派とか国粋主義、右翼のレッテルを張られたことをかんがみれば、多少は憲法について議論できる、独立国家として当たり前の風潮が形成されつつあると言えますが、やはり北朝鮮問題やイラク戦争への自衛隊派遣に絡んだ第九条の問題にのみ国民の意識が集中している感は否めません。

 冒頭に述べたように、環境権や知る権利といった新しい権利の概念も含め、二十一世紀にふさわしい日本国のあり方を大局的にとらえる積極的な憲法議論が必要であると考えます。この衆議院憲法調査会のように、憲法が堂々と議論され始めたこと自体は純粋に評価できますが、憲法を論じているだけの見せかけの論憲であれば意味はないと思います。イニシアチブをアメリカにとられることなく、今こそ、敗戦統治の呪縛から完全に解き放たれた自立した日本国を象徴する新しい憲法が真摯に論じられる必要があると考えます。

 憲法を考えるということは、自国の正しい歴史認識や日本独自の価値観や文化、伝統を踏まえ、世界じゅうの人々の多様性を尊重し、世界の平和に積極的に貢献するという普遍的な使命にこたえ得る建国の理念を認識した上で、時代に合った国家のあり方を考えることだと思います。戦後日本がつくり上げた数々の社会システムが機能不全に陥り、国際社会の中で果たす日本の役割やこの国が存在する意味さえも失いつつある現代だからこそ、我々日本国民はその一人一人が自律し、自立国家日本の新しい憲法、つまり二十一世紀に適合する日本という国家のあり方を考えなければならないのです。

 そして、その際に最も重要なことは、国民自身が自分の国の憲法として、みずからの頭で考え、責任を持って行使できる最高法規としてつくり上げていかなければ意味がないということです。国民総意の結論を求めるのも物理的にナンセンスだからと一部の人たちで強引に進めるのではなく、少なくとも過半数を優に超える国民の大多数が国民総意の憲法であるという意識を持ち得る憲法にしていく必要があります。

 一部の国会議員や官僚、憲法学者といった特別な有識者だけによってつくられたのでは、五十九年前と過程は異なれど、押しつけという意味ではもとのもくあみになってしまいます。そうならないためにも、例えば、憲法調査会などで論じられている議論の内容が、マスメディアによって恣意的にゆがめられることなく、正確に、そして広く公開されることによって、国民的憲法議論が全国展開されていくことが必要であると考えます。

 我々日本青年会議所は、真の平和を願い、世界の平和と安定に率先して寄与し得る誇りある自立国家日本の創造を目指して人と社会の開発を行っている全国四万六千人の青年経済人の集まりです。我々の国づくりの理念から申せば、現行憲法には現代社会にそぐわない点が数多く散見され、今こそ、改めて我々日本国民の手でつくり直されるべきものであると考えます。

 もちろん、創憲、改憲、加憲、修憲などと、新しい憲法をつくる手段は多様に存在し、議論の対象にもなっていますが、肝心なことは、どのような国を目指すのか、そのために国民はどのような人でなければならないのか、継承すべき日本国の、そして日本人の価値とは何か、社会の変化に適応し得る新しい権利とは何か、国家と個人の関係をどのようにとらえるのか、そして国際社会と日本国との関係をどのようにとらえるのかといった国家の基本的枠組みと指針が、新しい憲法によって国内外に示すことができるか否かという点にあると考えます。

 このように、憲法とは国家の根幹、いわゆる土台でありますから、土台が揺らいだままで国際協調や世界平和を論じることは到底できません。だからこそ、我々日本青年会議所は、世界平和の実現という青年会議所運動の理念を達成するためにも、国民に現行憲法制定過程の歴史的事実を伝え、国家のあり方を中心に国民的視点による憲法議論を巻き起こそうとしています。そして、そういった国民への直接アプローチ方法を駆使して、考えることをやめてしまった国民の目を覚まさなけばならないミッションを担っていると自負しています。

 歴史をひもとけば、ロシアのスターリンも、イタリアのムッソリーニも、国民の無知、すなわち考えることをしなくなった国民が生み出した独裁者でした。弱者保護の理念や基本的人権の尊重、そして民主主義の概念をも含んだドイツ・ワイマール憲法のもとで行われた正当な選挙で、国民の無知が殺人鬼ヒトラーの独裁体制を生み出してしまいました。

 我が国の憲法がどのように変わったとしても、それだけでは荒廃した日本国民の人心は一新しませんし、憲法自体も正しく機能しないと思います。現代日本の火急の課題は、憲法、すなわち国のあり方の変革の必要性にも増して、霧散している日本人の伝統的な精神性や自尊心、道徳心を復活させ、理想とする国を創造し得る国民をはぐくむことです。そして、国民的憲法議論はまさに日本人の伝統的精神性復活の起爆剤としても有効に機能すると考えます。憲法を議論することにより、二十一世紀に我々日本がどのような国であらなければならないのか、その国家を支える我々国民はどのような人であらなければならないのかといった、国民にとっての新しい価値観が浮き彫りになっていくものと確信をしています。

 現行憲法制定以来五十九年が経過し、我が国を取り巻く国内外の情勢は非常に大きな変化を遂げ、制定当時には想定し得なかった諸問題が数多く生じています。にもかかわらず、半世紀以上ただの一度も手を加えられなかったため、現行憲法は、現実の社会とは乖離をますます深めています。

 今こそ我々ニュージェネレーションは、アメリカ製の憲法に手を加えるという生半可な感覚ではなく、日本の伝統的な価値観や世界の平和と国益とのバランスをしっかり盛り込んだ、二十一世紀の地球社会を代表し、戦争のない平和な世界を先導し得る、誇りある自立国家、美しき日本にふさわしい新しい憲法を創造していかなければならないと考えています。

 以上でございます。(拍手)

中山会長 ありがとうございました。

 次に、寺中公述人、お願いいたします。

寺中公述人 ありがとうございます。このような機会を与えていただきまして、委員の皆様方に感謝いたします。

 私どもアムネスティ・インターナショナルは、国際的な人権擁護組織ということで知られております。世界百五十カ国、百八十万人ぐらいを会員に持っているというふうに我々としては考えておりまして、活動は、不偏不党であり、いかなる国家、宗教にも縛られることなく、非暴力で活動するということをその活動の信条としております。この非暴力という点におきましては、表現の自由を行使しただけで、非暴力であるにもかかわらずとらわれの身になってしまった良心の囚人の釈放運動というところから最初は始まっております。

 一九六一年、英国の弁護士ピーター・ベネンソンが、ある朝、新聞記事で、ポルトガルで二人の学生が、自由のために乾杯という形でパブで乾杯をしただけで捕まってしまったという、その記事を目にして、これではいけない、こういうことが世界で起きてはいけないということで活動を開始いたしました。

 そのような事件が余りにも数多く起きているということに着目した人々が、アムネスティ・インターナショナルという国際組織としてこれを打ち立てまして、日本でも一九七〇年に日本支部が設立されておりまして、それ以来、日本の国内の中で社会に根づいた活動という形でこの国際的な運動を続けております。一九七七年にはノーベル平和賞をその活動に対して受賞しております。

 現在、日本では、会員、支援者が約七千人いるというふうに考えておりまして、この会員、支援者による寄附、会費及び販売等の事業費等で一応賄っている、そういう財政状態になっておりまして、どこの国からも一切の援助は受けておりません。そのような形をとれば不偏不党性が害されるというふうに考えている、そういう極めて中立的な組織であります。

 その立場から、私どもの方で、現在のこの日本国憲法に関係するさまざまな問題というものを少しお話しさせていただきたいというふうに思っております。

 まず、私ども、日本国憲法のうちの特にやはり人権の問題に関して一番関心を持っておりまして、国際的な人権という流れと、日本の国の憲法の中にある人権というこの規定、この間のきちんとしたつながり、連携というものを重視しております。

 現在、日本は、国際人権主要条約と呼ばれる条約七つのうち六つの締約国になっております。唯一締約国になっていないものが、移住労働者権利保護条約と呼ばれているものでありますけれども、これは現段階では署名も加入もされておりません。

 このように、今、主要条約のうち六つという形で、市民的、政治的権利に関する国際規約、社会的、経済的、文化的権利に関する国際規約、それから、拷問等禁止条約、人種差別撤廃条約、女性差別撤廃条約、子どもの権利条約といった各六つの条約に対しては締約国になっておりますが、この本条約には締約国になっているものの、その選択議定書になりますと、締約国になっている部分が非常に少のうございます。

 選択議定書は、主に国際人権手続に関する規定を持っておりまして、個人通報制度であるとか、あるいは調査制度であるとか、査察制度であるとか、そういうものを規定しております。これが本条約の方にも書かれている場合には、日本政府は、それを留保しているという形で、基本的にはそのような個人通報やそれから査察制度というものをむしろ国際的には拒否しているような、そういう態度を見せております。

 このような調査制度、査察制度、それから個人通報制度というのは、人権侵害が起きるのを防止するための非常に重要な事項でありますけれども、そこの部分をできるだけ落としていくという形で締約国になっている点に関しまして、私どもは重大な懸念を抱いております。

 日本国憲法は、第九十八条第二項におきまして、条約が国内法的効力を持つことを認めております。したがいまして、条約を締結している以上、国内法としての効力を持っているはずなんですけれども、しかしながら、日本の場合には、基本的には国内法先行ということになりますので、国内法の整備が済むまではなかなか批准も加入もしない、そういう態度になっております。同じような形で、国際刑事裁判所規程というものが現在存在しておりますけれども、この規程に関しましてもまだ未加入でございます。

 国際人権手続というのは、国際人権法に規定されたさまざまな組織関係の手続が稼働する、そのための重要なシステムでございます。これは、このシステムに対して日本政府が十分に参加していないということになってしまいます。確かにその条約機関に対しては日本政府は参加しているわけですけれども、その手続を使うことに対して極めて制限的であるという点が非常に大きな問題になります。

 そしてまた、国際人権法に掲げられているさまざまな規定というものを十分に反映した形で日本の憲法の規定が準用されているというか、使われているという形にはなっていないという点で、条約と憲法、それから実際の法律の執行、実務部分というものが、それぞれが乖離しているという点が非常に懸念されます。

 私どもの観点からすれば、国際的な基準に沿ってきちんと実務までそれが貫徹されなければならないというふうに考えるのですが、日本の現状は、国際的な基準と日本の現状との間を憲法なりあるいは国内法なりで切っているというふうに考えております。

 このような問題は、例えば刑事捜査の段階で取り調べの規定が極めて制限的であるということ、取り調べの内容がほとんど開示されていないということ、あるいは、取り調べの際に弁護士が立ち会うというようなことは認められていないといったようなことなどが非常に大きく問題になってきます。

 それからまた、残虐な刑罰の禁止という規定が三十六条にあるんですが、この残虐な刑罰の禁止に関しましては、拷問等禁止条約では、そのほかに、残虐な、非人道的な、あるいは品位を傷つける取り扱いといったようなものも全部含めた形で規定しているんですが、この部分が非常に制限的に解釈されているという嫌いがございます。きちんと、この拷問等禁止条約の中で蓄積されてきたさまざまな解釈、国際機関などで行われている解釈なども踏まえる形で国内法の実施というものが担保されなければならないというふうに考えております。

 それからまた、国際刑事裁判所でございますけれども、これは最近できた国際機関ではございますが、極めて考えられた、考え抜かれたと申し上げてよろしいでしょうか、日本政府も当初は極めて積極的にこれに関与していたんですが、考え抜かれた刑事司法の一般的な国際規範、そういう側面も持っております。この刑事司法の国際規範である国際刑事裁判所の規程を一刻も早く認めること、そしてそれに加入することというのは、これは、国際人権を日本の中で実現していくための非常に重要な要素であるというふうに考えております。

 ぜひとも、日本の政府におかれましては、このような国際基準を憲法的な側面からきちんと押さえていく、そしてそれを憲法的な規範としてきちんと取り入れていく、そういう方向で考えていただきたいというふうに考えております。

 これは、具体的にどのような部分を、変更ということよりは、むしろ解釈などで動かしていく部分だと存じますけれども、解釈は決して裁判所のみに任せられるものではございません。国際人権の分野では各条約機関が解釈権を持っておりますし、それからまた、立法府もその解釈に関して一定の指針を与えることができるというふうに考えております。したがいまして、このような国際人権の解釈を通じて、きちんと憲法の理念というものを明らかにしていっていただきたいというふうに考えている次第です。

 この関係で非常に重要になりますのが、表現の自由の保護でございます。表現の自由というのは、御存じのとおり、日本国憲法にも規定されておりますし、それから自由権規約にもきちんと規定されております。世界人権宣言でも高らかにうたわれた権利です。

 したがいまして、全世界で守られなければならない、そういう権利なのでございますけれども、最近、日本で初めて、私どもアムネスティ・インターナショナルが良心の囚人を認定いたしました。この日本国内で初めて認定された良心の囚人というのは、結果的には、表現の自由を行使しただけであるにもかかわらず、非暴力であるにもかかわらず、逮捕されてしまい、そして起訴されて、現在裁判中でございます。この三人は、立川の自衛隊官舎にイラク戦争反対の意見を表明する、そういうビラを入れたということなのでございますけれども、ビラを入れただけで住居侵入という罪に問われた、そういう事件でございます。

 現在、裁判所で係属されているということはもちろん承知しておりますけれども、私どもの方としては、このような形で、表現の自由を行使しただけで、つまり自分たちの戦争に対する意見を表明しただけで、逮捕、起訴に至ってしまうというこの状況、これに対して強い危機感を覚えます。この危機感に関しましては、これは明らかに国際人権法の規定に違反しているというふうに考えておりまして、この部分に関して早急に、このようなことが二度と起こらないような予防措置、防止措置をとるべきではないだろうかというふうに考えております。これは、憲法を守るという観点から、どうしても必要なことではないかというふうに考えておりますので、その旨ここでお伝えしたいというふうに存じております。

 言論の内容、この場合にはビラ入れという、このビラの内容によって逮捕、起訴というものが決まってしまったということは、これは表現の自由の侵害そのものになります。すなわち、ここでは公権力の判断に対抗する言論というものがあるわけですが、あなたの言うことには反対である、しかしあなたがそれを言う権利は最後まで保障するという、これが憲法を守る、あるいは権利を守る、そういう態度だろうというふうに考えます。私どもアムネスティは、そのようにしてずっと活動してきております。ここの部分が非常に弱いのではないかという危惧を覚えるわけでございます。

 それから、もう一つ重要なことは、日本国憲法には、もともとの英文にはピープルというふうに書かれてありました文言が国民と訳されている箇所が多々あります。このピープルと国民の概念は違います。ピープルはもちろんすべての民衆を含むわけでして、国民のみにとどまるものではございません。

 しかしながら、解釈が行われ、そして翻訳が行われる過程で排除された、そういう人々がございます。それは、とりもなおさず外国人の問題でございます。外国人の権利に関しましては、きちんと明文化された日本語訳の憲法の中には存在していないというのが現状でございまして、ここの部分をきちんと押さえて、そして外国人もまた日本社会の中で生きていく我々の仲間であるということを明言する、そういう部分が必要であろうというふうに考えます。こういうものは国際人権規約の方には幾つか存在しております。ですから、国際人権規約が九十八条二項によって国内法としての効力を持っているということであれば、そこで一応保護はされているという形になるのですが、ここの部分がいかんせん非常に弱いというのが私どもの非常な現在の懸念でございます。

 最近、治安が悪化しているというようなことがよく言われますけれども、その一つの理由が外国人の犯罪の急増であるというようなことが言われています。しかしながら、統計上は、外国人の犯罪というのは、日本人の犯罪と比較しますとほぼ全犯罪の二・三%から二・四%あたりを占めるにすぎませんで、ことしもそのパーセンテージはむしろ減っております。すなわち、圧倒的多数が、九七%から八%にかけてが日本人の犯罪であり、外国人が殊さら危険であるというふうに言うのは、これは非常に大きな問題であるというふうに考えています。

 また、治安が悪化しているというこの認識に関しましても、統計的には治安が悪化しているという状況には実はないということは、これは専門家の指摘などでほぼ明らかになっています。にもかかわらず、治安悪化が政治的にはアジェンダにのり、さまざまな方々の口を通して語られ続けているというのが現状であるというふうに考えています。

 その中で、外国人がターゲットになるというのは、最近の入国管理局が行っておりますメール通報制度なども含めて考えているわけですが、これは人種差別撤廃条約の第四条(c)という項があるんですが、これは人種差別を助長する罪、この場合の人種差別には、国民でない者、市民でない者の権利というものも含めているわけですが、これが侵害されているというふうに考えております。これを助長している、そういう行為は、この人種差別撤廃条約の四条(c)に違反するであろうというふうに考えるわけです。このようなことが起きないよう、一刻も早く人種差別、外国人及び移住労働者の権利を保護するための権利法を制定し、そして制度を整備することが必要なのではないだろうかというふうに考えておりますし、それからまた、いたずらに治安悪化をあおるような言説というものを、どこかの段階で抑えなければいけない、それが政治の責任ではないかというふうに考えております。

 最後に、大きな問題を少し扱わせていただきたいのですけれども、人権はだれのためのものかということをまず考えていただきたいというふうに考えております。

 人権は、ともすれば、最近、権利を主張するなら義務を果たせというような形で、人権ばかり主張する、あるいは権利ばかり主張するというような批判をされる方々がいらっしゃいます。しかしながら、この権利を主張するなら義務を果たせというのは、考え方として誤っております。なぜならば、権利というものと義務というものとは相互に表と裏の関係にあるものでございまして、権利を主張するということは、それを守らなければいけない義務がどこかに発生するということ、それをあらわすものでございます。

 したがいまして、権利を主張しなければ救われないような状態にある社会的な弱者というような人々は権利を主張するわけでありまして、今度はその社会的な弱者、これを守ることが社会的な強者、パワーを持つ者の責任、義務になるというのが、この権利と義務との関係でございます。義務を果たさないのに権利ばかり主張するというふうにそこで論難するのは、むしろ話をすりかえているというふうに、権利の観点からすれば考えられます。

 このような形で、社会的弱者の持っている権利というものをどうやって実現していくかということを考える、これが人権というものの考え方でございます。日本国憲法もいみじくもそのような人権観を十分に中に内包しているというふうに私どもは考えています。

 このような権利ですが、日本国憲法の権利の記述の仕方というものは、カタログ的に、例えば表現の自由であるとか、人身の自由であるとか、そういうカタログ的にそれを記述する形で列挙しております。

 残念ながら、このようなカタログ的な権利観というものは、現在では十分に妥当性を持っていないのではないかというふうに指摘されています。なぜならば、実際に権利を必要としているのは、そのようにカタログ的に権利を記述されて、そしてその中で守られるというべき、そういう人たちではなく、むしろどの権利も何もすべての権利が失われている、そういう社会的弱者というものがそこに存在していて、その弱者たちをどのような形で保護するのかということが、あらゆる権利を横断して考えられなければならない。その点では、自由権とか社会権とかいったような区別、あるいはその他の第三世代の権利といったような、そういう区別、それを超えたところに権利を保護する、そういう責任が発生するのだというふうに考えられているからです。

 こういう考え方を人権享有主体別の権利観というふうに申し上げておりまして、ここの部分に関しましては、例えば、国際人権規約、子どもの権利条約であるとか、あるいは人種差別撤廃条約であるとか、あるいは女性差別撤廃条約であるとか、そういう形で権利保護が叫ばれております。そして、最近では、移住労働者の権利保護条約というものが生まれるという形で、この人権享有主体というものがはっきりと意識されている。次には多分障害者の権利というものが問題になってくるのだろうと思いますが、このように、だれが権利を必要としているのかということを明確に見据えた形で人権論というものは展開していただきたいというふうに考えております。

 そのためには、受刑者であるとか、あるいは被疑者であるとか、あるいは被害者であるとか、そしてまた性的少数者、民族的少数者、それから社会的なマイノリティー、その人々に対する権利の主体としての全体的なその権利を保護する、そういう態度が必要なのではないかというふうに私どもアムネスティ・インターナショナルとしては考えております。

 以上でございます。(拍手)

中山会長 ありがとうございました。

 次に、日野原公述人、お願いいたします。

日野原公述人 日野原でございます。

 私は、昭和十二年に京都大学の医学部を卒業して、六十七年間医者をやっております。医者は、地球上の人間というのはみんな同じ血液からできているということを一番よく知っております。ヒポクラテスが、医師は何をするかということを、最初に誓いを医師にさせたその言葉は何かというと、人の命を助けるということではなくして、医師の第一にすべきことは毒を与えるなということ。ところが今は、科学が非常に進歩している医学の中に、やはり毒を与えることのためにいろいろな医療事故さえも起こっている、科学の進歩のためにそういう犠牲もあるというふうな変なことが起こっているわけであります。

 私は、そういう意味で、命の大切さをシュバイツァーに学んで、アリ一匹殺すことを非常に心を痛めたというその精神をやはり他の動物と一緒に住んでいる私たちは考えながら、他の動物と共生するということを考えなくてはならない。したがって、私たちは、他の国と、他の民族と共生しなくちゃならないということになったわけであります。

 終戦直後にできましたこの憲法は、もしも日本が広島、長崎に原爆を受けなければ、私は、ベトナムが、十六年もあの小さな国が強いアメリカに対して手を上げなかったように、日本も、そこまででなくても、もっともっと頑張って、もっともっと多くの人が死んだと思います。しかし、そういうふうなときにはきっとどこかが助ける手が起こる、あるいは、アメリカの国内に、今のアメリカに既に起こっているような声が起こるのは当然でありますから、日本が滅ぶことはなかったと思います。日本は余りに原爆に恐れて手を上げたために、この日本は非常に依存的になってしまった。

 そして、日本が戦後、非常に早く復活したのは日本の勤勉のせいだとかそういうふうなことを言っているんですが、そうではなくて、聖路加病院が接収された、病院にはすぐに始まったあの朝鮮事変の傷兵が入院して、そしてケアをされていた。その後、ベトナム戦争が起こった。そのための兵器はどこでつくられたか。その兵器をつくることに日本の産業が参与したために日本の復興は非常に早かったということを私たちは考えなくてはならないわけであります。

 この憲法を読んでみますと、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、」というんですよ。ですから、世界の国の諸国民が平和を愛する諸国民という仮定が入っております。そうして、その仮定のもとに、「われらの安全と生存を保持しよう」とした。その次に、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会」。今の国際社会がこのような国際社会でしょうか。全く反対である。

 しかし、これには、そういう国際社会というふうなものをつくろうとしていることに、日本は「名誉ある地位」というのは、主導性をとらなくてはならないということ。日本はそのような、あるいは幻のような世界かもわからないけれども、その主導性をとってきたかどうかということ。そうして、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から」、六十四億のうちの五分の一が食物がないんです、そういう「欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」。このために、日本はあれだけの多くの経済力を持ちながら、お金はある程度行ったかもわかりませんが、人間がそこに出て行ったかどうか。

 日本の今日の医療のほとんどは、外国のミッションの人が来て、そして日本の医療を始めたり、私学を始めている。外国の人は、人間がそこに行って、そこで人間が死ぬまでいる。シュバイツァーも半世紀アフリカにいた。そういう、お金だけでなしに、人間をそこに投資するというふうなことを日本はやってこなかったわけです。

 ですから、これはただアメリカのマッカーサーのままにつくった憲法というだけではなしに、日本人が認めたからにはこれを実践する義務があるけれども、日本はそれを実践してこなかった。そういうことを国民が本当に意識して、それでは憲法をどうすればよいのか。この幻の文章をそのまま続けて、今までは幻だけであったか、その実現ゆえに何をするかという具体的な政策を出すかどうかをやはり国民に問うべきだと私は思います。

 そういう意味で、私は医師の立場からいろいろな意見を言うんですが、今は、テロが起こって、あの九・一一が起こった。それは、アメリカには恨みがあるから起こっているんです。そうして、アメリカは九・一一でさらに恨みましたから、恨みは恨みを追って、これはずうっと連鎖反応。どこかが許しをやらない限りは、この連鎖反応はとまらない。

 私は、これは、強い方が許すということをすればすべてが解決する。愛というものは犠牲を伴う。ですから、死ぬようなこと、友のために命を捨てるということが愛であって、そうして、アメリカが戦争をしたときに、目には目を耳には耳をという反撃の正当性を言いましたが、これはユダヤ教の旧約聖書の中にある古い教えで、クリスト教の教えはそうではなくて、敵を愛しろ、敵の罪を許せよと言っているのです。こういうものがない限りは平和は来ない。許しがなければ平和は来ない。

 だれが許すか、だれがイニシアチブをとるかというと、やはり、私たちはここに日本がイニシアチブをとるというふうに明言しているのに何にもそれをやらなかったということで、私は、日本全体が非常に反省しなくてはならない。そういう意味で、外国に対して謝るというだけではなしに、我々自身が反省をして、それでは償いに何をするかということを考えなくてはならない。

 そういう意味で、私は、今度の憲法というふうなものを安易にただ変えて、そうして今のアメリカ中心主義にするのでなくて、今まで受けた恩恵は、我々は何らかの意味で十分に返さなくちゃならないですね。返しながらも、私たちは、どこかで戦争の連鎖反応を切らなくちゃならない。その連鎖反応を切るのに、私たちの憲法を誤って変えた場合には連鎖反応を切る反対に行くという意味において、私は、ここが大切な、どっちへ行くかという決意を要する。その場合、少なくとも戦争に直接関与しないということを言ったからには、危ないところに自衛隊の人を起こすということはどうしてもやめていただきたいというところで、とにかくストップをかけながら、日本の行き方をもっと基本的に考えなくてはならない。

 そういう意味において、すぐ、急いでどうこうするというふうなことをするのには、余りに国民がそれを自覚していないですね。政治から国民は離れてしまっていますね。そうでなくて、自分たちがこの日本をつくるんだ、そして政治家がそれを代表して言っているんだなというふうなことで考え直さなくちゃならない。

 今、私は、小学校で最近も子供にいろいろ話をするんですが、どういうことかというと、戦争をどう思うかと言うと、戦争は続くだろうと子供が言っているんです。だから、大人の時代には戦争はいつまでも続くでしょう、僕たちが殴られたら、今度から殴り返さないように僕たちはしましょう、そして、国同士がそうしましょうという子供の作文が私に来たんですよ。

 私は、本当の平和は、今の子供、私からいえばひ孫のようなその人に実現するために、子供に平和を教えるようなところが私たちで、今の大人にはそれはできない。今の子供に、議会で争って暴力を出したり、そして牛歩とかといって時間を食ったりするようなことを子供が見てどう思いますか。

 私は、そういうふうな政治家の態度を、ここであれを見ながら、もっと平和に、暴力を使わないでするということを政治家が小学生に見せなければ、もう政治家になろうという人はいないわけですね。今の子供は何になりたいかというと、それはイチローのようになりたいとかあるいはお菓子屋さんになりたいとか、そういうふうなことがあって、昔のように、いい看護婦さんになりたいとかいいお医者さんになりたいということを言う子供はいないんですよ、今は。

 そういうふうな物質的なものに子供はなっている一方、子供にはやはり純粋なものがあります。そして、平和は孫の時代に、そして私たちはそのステップをつくるんだということで、急ぐ必要は全然ないと思います。

 そして、今ある憲法の中で、とにかく、私たちがどのようにすれば平和が守られるかということです。とにかく、意思決定は、アメリカに対して言うことは、こうした方が平和が守られるだろうから私たちはそうしたということのはっきりした宣明をすることが、日米の関係もよくすることに参与するんじゃないかと私は思います。

 それから、自衛隊をつくった、それを今度は自衛軍というふうな、セルフディフェンスフォースですから、これは軍隊のことですね。それで、ドイツはどうなったでしょう。日本と同じように、あるいは、ドイツ人はユダヤ人を数百万人殺したんですよ。そのドイツに軍隊はあります。徴兵制度はあります。イタリーにもあります。韓国にもあります。中立国のスイスにもスウェーデンにもあります。それは、国を守るためにあるということで、攻めるためでない。日本も同じことです、そういう意味においては。

 しかし、ドイツその他は、強制的に兵役があって、そして、宗教上の関係、信念の関係で軍隊に行かないというふうな人はそれ以上の、半年か二年の間、老人の養護をするということに決められて、ドイツの老人の介護は、この徴兵を忌避して、そしてそういうことの方がよいと思う人によってもっているわけですから、徴兵制度がなかったらドイツの養護運動は非常に危機になる。

 私は、今、日本で、志願して自衛隊というんですが、もう少し、大学を卒業した人は、就職の試験を受けた後に半年でもいいから、南アフリカに行ったりいろいろなところに行って、難民の世話をする、土地をつくるのに川の洪水をとめるようなことをするとか、農業を教えるとか、医療をするとかというふうに、半年か一年実際に行ってみて、それから自分の専門に入れば、私は本当の人間ができると思いますが、今はそれがないわけです。

 アメリカでは、ハーバード大学の医学部に行っている半分は東南アジア、半分は白人です。東南アジアでは台湾と中国とベトナム、それからシンガポールが医学生の半分で、日本人は非常に少ないです。試験に落ちるんですから。あとは白人ですが、白人の大部分は、カレッジを四年で出てどこかで働いている。先生になったりあるいは何かの仕事をやったり、そうしてから医学部に入る人が多いので、日本よりも平均年齢は三、四歳高いです、入学する人が。そして、世間を知っている人がやはり医療をやりたいからやる。日本のように偏差値がいいから行くんじゃないんですね。そういうふうに医学校が今なっているわけですが、日本は、医者になるのは、ただ社会的に安定して格好がいいからなるというだけで、本当に、国立大学のいいところに入っている人の大部分は医者に向かない人です。もっと社会の中に入って、医者になりたいという人に学費を出してやるというふうなことをしなくちゃならない。

 私が言いたいことは、徴兵制度が日本にないというかわりに、何かもっと、商社でも役所でもが、就職が約束されて半年、一年は完全に国家の責任で出て、帰ったらその仕事をするというふうなことをすれば私はいいと思います。

 そういうようなことをすると学問の研究が遅くなるというふうに言うのですが、今、日本は、ノーベル医学賞ができて百三年になります、エリートの医学部を出た人が百三年の間に一人もノーベル医学、化学賞を持っていないのですよ。どこが悪いかというと、遺伝子や才能ではなしに、畑が悪い。若い人を本当に研究させる畑がないからみんな外国に行ってしまう。一人だけ利根川さんがいましたが、彼は医者じゃないです。傍系の人です。そして、日本にいるとだめだからアメリカに行ったら、医者でなくてもノーベル医学賞をとったということですね。

 私は、いろいろ教育の中でも非常に大きな変革がされないといけないと思っておりますけれども、そういうふうなことで、若い人の教育にも触れながら、そして、この憲法に書いてあるのは日本が指導性をやるというのに、では、もう指導性の言葉を取ってしまうかということですね。では、日本は何で貢献するかということです。資源もない国が何で貢献するかということです。

 そうすると、日本は、人間で私たちは世界に貢献をする。そのためには、もっともっと、あの食物もないような不幸なアフリカその他に、外国人の多くが日本に来てそうやったように、私たち日本人はもっともっと発展途上国の間に行くことをしないと、私がWHOのマーラー事務局長に会ったときに、なるほど日本はかなりお金を日本財団を通してくれているけれども、しかし、日本はテーク・アンド・ギブだ、ギブ・アンド・テークじゃない、マーケットを得たらお金を出すんだ、まずギブをしないのが日本だということをはっきり言われました。

 私の話は少しずれてきましたが、私が言いたい精神は、きょう、おわかりになっておると思いますので、ほぼ時間になりましたから、これで私の意見は終わりたいと思います。ありがとうございました。(拍手)

中山会長 以上で公述人からの御意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

中山会長 これより公述人に対する質疑に入ります。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。松野博一君。

松野(博)委員 自由民主党の松野博一でございます。公述人の皆様、御苦労さまでございます。

 まず、御意見をいただきました順番どおりに、高竹公述人からお話をお伺いさせていただきたいというふうに思いますが、JCのOBは国会にも大勢おりまして、私も二年前まで地元の方で活動をしておりました。御苦労さまでございます。

 まず、高竹公述人の御指摘の中にあった、憲法の前文も含めて、書かれている言語表現が非常に日本語として違和感を感じるというのは、私も同意見でありますし、重要な指摘であろうというふうに思います。

 これはもう言うまでもなく、英文で書かれたものを日本語にその当時の訳し方で訳したことから発生をしておりますけれども、公述人も指摘をされていました伝統、文化、歴史観、こういったものは、母体としてその国の母国語によってなされるものでございまして、まず、この憲法を読んだときに日本国民が日本語として、母国語として違和感を感じるというのは、やはりそこに大きな文化的な、また伝統的な日本の考え方というものに関して、ベースとして、やはりその成立の過程において問題があったんであろうというふうに私も考えております。

 高竹公述人の方から、きょうお伺いした憲法観というのは、非常に概括的なお話をいただきました。私もおおむね同意見でありまして、現状の憲法が抱えている問題点、また、次に向かってどういうふうな新しい憲法をつくっていくかということに関しての手法論に関しては、ほぼ近い考え方を持っております。

 ただ、きょうは、特に若い世代の代表ということで高竹さんのお話を聞いた上で、さらに、若い世代の視点から、またJC活動というのは地域ごとにLOMの活動をベースとしてなされている活動でありますから、この地域の視点から、それぞれの視点から、現憲法が抱えている問題点といいますか、現憲法のこういった概念、コンセプトが若い世代の、わくわく感であるのか、それが期待感であるのか、活動であるのか、そういったものに制約を加えられている、もしくは、地域から見た場合に、例えば国と地域との関係でもいいですし、皆さんがやられているそれぞれの町づくりの視点からでも結構でありますけれども、現憲法の問題点というのをその二つの視点からお話しいただければと思います。

高竹公述人 まず、私は昭和四十年生まれですけれども、まさにもう日本の国が豊かになって生まれた世代です。戦後の民主主義教育をまさに受けて今日に至っているわけですけれども、青年会議所のメンバーも、来年になると昭和四十年生まれ以降のメンバーで構成されます。私と同じなわけです。

 まず、憲法の問題というのが地域間の中ではほとんど論じられてはいません。というのは、結局、我々も戦後の民主主義教育を受けているものですから、憲法に対しての着目点が多分ないんだろうというふうに思っています。日本青年会議所の中でこういった憲法の勉強会等をやっていくに従って、ちょっと待てよという話になって、今まさに、今私は全国各地を回っているんですけれども、大体の理事長さんの意見というのは、今の憲法はやはり現実的にそぐわないので改正すべきだというのは、もう八割、手を挙げますね。

 ただ、ではその具体的な中身についてというと、そこまでの議論は進んではいないという部分で、我々は、普通に考えると、どうしても戦後の教育を受けているものですから、基本的にやはり第二次世界大戦の敗戦ということを教育的に受けていますけれども、もっともっと、日本の歴史、伝統、文化、それから文明ということを考えると、単刀直入に言うと、日本人というのはやはり悪いことをしたんだという教育を僕らは受けているんですよね。ところが、やはり長い歴史を見ると全然そんなことはなくて、もっともっと我々は誇りを持っていい民族だというふうに思っていますし、そういったことを全国に伝えていきたいと思っています。

 よろしいですか。

松野(博)委員 先ほどのお話の中でも、今の高竹さんのお話の中でも、日本のいいところ、伝統、文化というお話がありました。前文、十三条を指摘されながら、まさにこれは日本国のアイデンティティーというものが感じられないというお話が先ほど公述の中にありましたけれども、日本国憲法というのは、当然日本国の歴史を土台にしながらも、そのときの世界的な平和思想、人権思想をベースとして、母体として持っているものでありますから、日本国憲法の中に、人類の普遍的な、人権を中心とした権利のものと日本国の固有のものがそれぞれあっていいんだろうというふうに思います。

 そこで、たびたび公述人のお話の中に出てくる日本の伝統、歴史のよいところが書かれていない、うまく表現されていないというのは、具体的に言うとどういうところなんでしょうか。

高竹公述人 まず、先ほども申し上げたように、戦後の教育を受けていますから、我々は結構考え方がアメリカナイズされているんですね。要するに、いろいろな話をするときには、言った言わないになるので文書を取り交わしなさいというふうに言われて、そういったところも無意識のうちに、要するに、アメリカ的な契約社会というかそういう発想の中で、今、日本社会全体がそうであるように、実は、日本というのは結構言い方によるとあいまいなところがよかった部分もあると僕は考えています。

 例えば、今アメリカとイラクの問題にしても、いわゆる宗教それからイデオロギーにしても、日本では、いわゆる宗教戦争というのは、基本的には千四百年前以上、千四百年ないわけですね。それは、例えば東洋と西洋の文化とか文明を融合でき得る力を日本人は持っていると思っています。

 明治の時代になりますと、和魂洋才という概念で、外国のものは取り入れるけれども、結局、日本人は日本独自のものにしてしまって、それを世界で誇れるものにできてきた歴史がありますので、そういったところは僕は日本人のすばらしいところだというふうに思っていますし、逆に、極端に言うと、神仏混交以来千四百年たっているわけですから、要するに、今世界に発信すべきは、そういった日本の、日本人の多様性がある考え方というのは僕は世界に発信するべきだというふうに思っています。

松野(博)委員 もう一点、各地域を回って、各地域のJCのLOMの理事長さんに憲法の問題について聞いたところ、八割が改正をするべきだという意見だったというお話でした。その理由が、現実と現状の憲法というのが乖離をしているからだというお話がありましたが、これは具体的に言いますと、どの点がどの程度乖離をしているとそれぞれ皆さんがお考えになっているのかについてお話しをいただきたいと思います。

高竹公述人 一番多く出る意見は、やはり第九条ですね。自衛隊を自衛隊と言っているのは日本人だけだと思うんですね。外国から見ると、これはもう完全な軍隊だというふうに思っていますので、そのあたりの実際の、要するに憲法解釈だけで進めている現状に対して、それが、青年会議所の場合は、自衛隊を海外へ派遣する、要するに、後方支援で協力するということが悪いというわけじゃなくて、憲法そのものの解釈だけでそれが動いているというのが理事長、全国のメンバーの意見としてはやはり一番大きいです。

 そういったところ、実際に平和というのは一体何なのか。我々は、生まれたときから平和でありました。これはひょっとしたら、ボクシングでいうと休憩の状態かもしれない。本当のボクシングの戦いというのは実は多分もう起こっていると思うんですけれども、僕ら自身が平和とは一体何かということをほとんど今まで考えてきていなくて、そういったところが日本国憲法についての一番の乖離をしているところだと考えます。

松野(博)委員 今のお話ですと、一つの例として、イラクにおける自衛隊の活動を挙げられましたけれども、そういった、今日本が必要とされている国際貢献を実行するに当たって現状の憲法が障害になっているんじゃないかということではなしに、そのことは置いておいて、現状の憲法解釈論において、今の実態とかけ離れているというか、わかりにくいところがあるんじゃないかというようなお話ですか。

高竹公述人 そうですね。要するに、解釈の議論だけしていてはいつまでたっても正しい形にはならないわけで、自衛隊に対する憲法というのもありますけれども、今の現状は、要するに全く憲法に対して解釈論だけで物事が進んでしまっている。だったら、それも含めて、憲法というものはどういうものか、どうあるべきかということを僕は議論するべきだというふうに思っています。

松野(博)委員 次に、首相公選制についてお聞きをしたいんですが、今回、高竹さんのお話の中では、首相公選制以外の部分を中心として触れられていました。しかし、JCの皆さんから上がってくるさまざまな意見の中で、首相公選制に関しては積極的な意見が多いように私は感じております。

 この首相公選制に関してどうお考えになっていらっしゃるか。個人的でも、JC全体としての方向性でも結構でございますけれども、お話をいただければと思います。

高竹公述人 正直申し上げて、議論としてはそんなにまだこの首相公選制については出てはいません。

 ただ、私見を申し上げると、一つはやはり議会制民主主義の形はちゃんとするべきだというふうに思っていて、これと首相公選制の考え方をしっかりと議論していかなければいけないというふうに思いますし、おっしゃるとおり、全国の青年会議所の意見の中には、かなりこの首相公選制に対しての賛成意見というのも多くあると聞いてはおります。

松野(博)委員 それでは、憲法個々の問題というよりも、今、若い世代の考え方、意識というのをお聞きしたいというふうに思います。

 先ほど日野原先生のお話の中にも、これから日本国民として、日本国民が掲げた理想に関して、どの程度それを実現化していくか、その決意が問われるときだ、それを問うていかなければいけないというお話がありました。私はそのとおりであろうというふうに思いますが、現在の若い世代が、世界の平和であったり福祉であったり、そういった問題に関して、日本の若者が立ち向かう決意といいますか意識がどの程度あるんだろうかというふうなことに関して、お聞かせをいただければと思います。

高竹公述人 若者というか、青年会議所は大体三十代が多いですから、三十代の中で申し上げると、まず一番我々が自分のこととして気になっているのは、やはり年金の問題ですね。我々が実際に今払っている年金が、我々がリタイアするときにこの制度は本当に続けられているのかなという部分は、我々にとってやはり一番身近な問題だというふうに思います。

 それも含めて、日本青年会議所の中では、これからの新しい日本の国を、本当に自立した国をつくるために我々が行動していかなければいけないし、そして、JCには国際青年会議所という国際組織、八十カ国で構成されている国際青年会議所がありますけれども、彼らともこの国際平和それから国際協力等についても、実は来週から福岡でこの国際青年会議所世界会議が一週間行われるわけですけれども、この中でもいろんな議論をしていっています。

 青年会議所として、本当に我々の世代がこれからの日本を背負っていかなければいけない、その責任と自覚をしっかり持っているということをお伝えしたいと思います。

松野(博)委員 もう一点、若い世代の多くの声を聞く立場にある高竹さんに価値観としてお聞きをしたいというふうに思います。

 現在の政治において、これは与野党を通してと言っていいかどうかわかりませんが、政策判断の基準が、自由競争、自己責任、小さい政府、これが正義になっている傾向が強いと思います。私個人としては、本当にこの自由競争、自己責任、小さな政府を政策判断基準として意気込んでやっていくことに関しては、しかし別の方面からの検討も必要ではないかというふうな意見を持っておりますが、こういった社会の価値観、今の政治の流れの政策判断の基準に対して、どういったお考えをお持ちですか。

高竹公述人 先ほどおっしゃられた部分の価値観については、それこそが僕はアメリカナイズされた価値観だと実は思っています。

 経済の分野で考えると、アメリカの経済学と日本の経済学を僕は一緒にしてはいけないというふうに思っています。例えば、自動販売機を道端に置いていて、ちゃんと中の商品が売れて、お金もそこにたまっている国なんというのは日本しかないわけです。田舎に行くと無人でとれた野菜を売っていて、そこに買いに来る人がいて、ちゃんとお金を払って帰る。私は、日本人同士というのは、ある種長い文化、文明の中で培われた信頼関係がちゃんとあるというふうに思っています。そこにアメリカの経済学というのは僕は基本的には当てはまらないと思います。

 こういう話をすると、では、極論を言うと、要するに鎖国をするのかというふうに言われる方がいますけれども、今日、今の状況において、日本を除いての国際社会というのは僕は考えられないというふうに思いますので、アメリカの契約社会的な発想をそのまま日本の価値観として受けとめるのではなくて、我々のもともと持っていた価値観をもう一回やはり見直して、我々独自の経済というのも考えていかなきゃならないというふうに考えます。

松野(博)委員 高竹公述人に最後の質問であります。

 総括としてまとめられているのが、新しい価値観、また、日本の伝統的な価値観にのっとった新しい憲法を創造していかなければならないということで結ばれていますけれども、新しい憲法をつくっていくということが、日本の元気といいますか、皆さん方の世代が未来に持っている理想としての国家像、社会像に関して、憲法改正というのが推進する大きな要素になるというふうにお考えですか。

高竹公述人 日本国民は、この憲法、我々の国の形、我々の国はやはりどうあるべきかということを国民全体が議論することに対する、まずは新しい憲法をつくっていく意義が私はあるというふうに思っています。

 その国民の憲法に対する議論を、日本青年会議所としては本当に全国的なムーブメントを起こしていきたいというふうに思っていますし、また、その中でつくられた新しい我々の国の我々がつくった憲法が、これからの日本の社会に対してより発展を約束できるものだというふうに考えます。

松野(博)委員 次に、寺中公述人にお話をお伺いしたいというふうに思います。

 先ほどの公述人のお話の中で、人権はだれのものかという部分のお話で、パワーを持つものは権利を保護する義務があるというお話がございました。ここで公述人がお話をされているところのパワーを持つものというのは、当然国家はそこに含まれると思いますが、国家以外にこのパワーを持つものに含まれる団体はございますか。

寺中公述人 ここで申し上げておりますパワーを持つものといいますのは、要するに、弱者、強者の相対関係における強者という形になります。

 委員御指摘のとおり、国家、いわゆる公権力というものはそれに該当するものですけれども、それ以外にも、企業あるいはその他の団体でこういう形で強者になる可能性のあるところもありますし、それから、個人でも弱者、強者という関係は当然発生するものではないかというふうに考えております。

 こういったような、公権力を基本とする、あるいはほかにもさまざまな企業、それから場合によってはメディア組織等も含めたそういう強者の立場に立つところが、それよりも弱い立場のところに対して何かをするという場合にこのような義務が発生するんだというふうに考えております。

松野(博)委員 憲法調査会の人権分野に関する議論の中でも、今、現代社会における人権の保護というのは、国家と国民という形だけでなく、公述人がおっしゃられたところの、例えば企業でありますとか団体でありますとか個人間同士でありますとか、そういったところまで広げて論じていかなければいけないという議論がありましたが、こういった考え方に関して、憲法において、具体的に言うと、どういった取り上げられ方が必要であるというふうに公述人はお考えでしょうか。

寺中公述人 まず一つ目は、何といっても、一番この義務が強いのは公権力、すなわち国家であろうというふうに考えております。その関係で、公権力のそのような義務をきちんと監視する機関として人権擁護機関というものが必要であろうというふうに考えておりまして、この人権擁護機関は、したがって公権力の一部として設置されてはならない。

 現在、人権擁護法案というものがいろいろなところで議論になっておりますけれども、この人権擁護法案の中で、聞くところによると、依然としてまだ法務省の外局としてそれを設置するというような考え方が多数を占めるというふうに聞いております。このような考え方では十分に公権力のチェックはできないというふうに考えてはおります。

 しかしながら、委員御指摘のとおり、その他の企業とか、それから団体とか、そういったようなところの問題というものもございまして、これに関しましては、特に企業に関しましては、現在、国際的な人権基準としてガイドラインが制定されようとしております。ノームスというふうに呼ばれておりますけれども、多国籍企業及びその他の企業の行動に関する道徳規範と呼ばれるものでございますが、この道徳規範などのきちんとした敷衍化といったようなものから大体その次の一歩が始まっていくだろう。

 それからまた、憲法の私人間適用というようなものに関して、きちんとした法制度の部分での整備というものが必要であろう、そういうふうに考えております。

松野(博)委員 次に、寺中公述人のお話の中での表現の自由に関してお話をお聞きしたいというふうに思います。

 表現の自由が民主主義を構成する重要な要素であるというのはだれしもが認めるところであるというふうに思いますが、公述人がここでおっしゃっているところの表現の自由というのは、政治的、文化的、芸術的、すべての分野に関するものを含めての表現の自由という言い方なのかどうか、それに関してちょっと確認をさせていただきたいというふうに思います。

寺中公述人 さようでございます。すべての分野における表現の自由ということになります。

松野(博)委員 私も、当然あらゆる分野、芸術分野、創造的な分野においても表現の自由というのはしっかりと守られていかなければいけないということはもちろん同意見でございますけれども、一方で、マスコミの発達による絶大な影響力の問題、また個人としても、インターネット等の発達によって、個人が情報発信者として非常に大きな力を持つような形も出てきております。

 そこで、表現の自由という基本はしっかりと守りながら、しかし、この表現の自由の乱用というものに関しては気をつけて慎重にしていかなければいけないんじゃないかなというふうに思っている分野であります。

 私が今からお聞きをすることは、公述人が公述の中で御指摘があった政治性のある問題とは若干離れますので、そのことを踏まえてお聞きをいただきたいというふうに思います。

 例えば、創造性、芸術性と言えるかどうかわかりませんが、マスメディアの中で今、子供たちが見ているような時間帯に、セックスシーン、暴力シーン等を初め、そういった問題がある映像が垂れ流しになっていると言ってもいいような状況だと思います。私は、子供たちの健全な発達を考えたときに、これはある程度しっかりと規制をしていくべきじゃないかというふうな考えを持っておりますけれども、寺中公述人は、表現の自由の問題と公共性の問題、こういったことに関してどのようなお考えをお持ちか、お話をいただきたいというふうに思います。

寺中公述人 表現の自由に関しましては、その制限事由として、日本国憲法の中では公共の福祉の制限を受けるという形になっておりますが、この公共の福祉の概念は、みんなの利益、そういう概念として理解されるべきだろうというふうに思いますし、また国際的にも、表現の自由が完全に、つまりいかなる制限も受けない、そういう権利であるというふうにしては考えられてはおりません。

 すなわち、どういう場合にはそれが例外になるかといいますと、嫌悪発言とか嫌悪犯罪といったようなものに関しましては、いわゆるヘイトクライムあるいはヘイトスピーチと呼ばれるものですが、他の階層に対する差別的な発言であるとか、そういったようなものを表現の自由のもとに擁護することはできないというのはほぼ一致した見解になっているのではないかというふうに考えます。委員御指摘のような部分とは、今の話は若干位相が異なりますけれども、表現の自由に対する制限という意味では共通性があるのではないかというふうに考えます。

 それから、委員御指摘の部分に関しましては、基本的には、例えば子供の見ているような時間帯にいわゆるさまざまな過激な描写というものを流すことが適法かどうかということに関しましては、それはどういう形で規制するかという規制手段によって多分判断が異なってくるのではないかというふうに考えます。これを非常に強い形で規制するというのは、基本的には、子供の選択権まで含めた形でそれを否定することにもなりますので、また新たな権利侵害を発生する可能性すらあります。したがいまして、そこでは極めて慎重な判断が下されなければならないのではないかというふうに考えます。

 私の方の言い方としては、規制が適法か違法かというのはその手段によって変わってくるであろうという形で言わせていただく形になると思います。

松野(博)委員 表現の自由の問題と、先ほど寺中さんが人権はだれのものかという中でお話をいただいた、例えば受刑者、被害者、こういった方々の権利の問題もあわせて、個人的に興味がある分野なのでお聞きをしたいというふうに思います。

 日本の場合、犯罪が発生したときに、警察が逮捕をした時点で実名報道が始まります。逮捕時点から実名報道でありますから、いわばマスコミによって、何ら司法判断がなされない前に社会的制裁が始まっていると言っていい状況でありますし、これは人権上非常に問題があるんじゃないかというふうに考えております。

 諸外国においては、最終的に犯罪が確定、罪が確定するまで実名報道しないところもありますし、確定をしても実名報道しないところもあったかと思いますけれども、現状の犯罪容疑者に関しての日本の報道のあり方に対してどういう御意見をお持ちか、お話をお聞かせください。

寺中公述人 御指摘のとおり、本来は、刑事裁判の手続は、まず無罪推定の原則というのが最初にございまして、どのような被疑者であろうとも、裁判で確定するまでは無罪であるということが推定されているということになっております。しかしながら、現実の世界では、この無罪推定原則が数々、いろいろな場で破られているというのが現状でございます。

 しかし、この無罪推定原則というのは、ひとり憲法に規定されているのみならず、国際人権上もきちんとしたガイドラインとして既に確立しているものでございまして、特に国際人権上、この無罪推定原則をどの程度まで敷衍して考えるかということに関しましては、いろいろ議論があるところではありますけれども、私どもとしては、捜査段階まで含めて無罪推定原則は貫徹されなければならないというふうに考えております。

 そういう意味では、委員御指摘のような形で、捜査段階で実名報道をされ、そしてその人々の人権が侵害されるような状況というものは決して好ましいものではないということを私どもの方としてはやはり指摘したいというふうに思います。

松野(博)委員 ありがとうございました。

 次に、日野原先生に御質問させていただきたいというふうに思います。

 私は、先生のお書きになられたものを何冊か読ませていただきまして、先生の医療現場を通した患者さんに対する、また個々の人生に対する非常に深い思いに感動いたしまして、きょう、先生から直接お話をいただき、質問させていただくことは大変光栄でございます。ありがとうございます。

 先生の先ほどのお話の中で、日本国憲法の前文において、日本はいわば幻と言っていいような理想郷を提示して、この実現に向けて日本の国家全体として邁進をしていくんだ、そういう誓いを立てたんだから、それをあえて、もう一度さらに、現実に今後もこれに立ち向かう気があるかどうか国民に問う必要があるというお話をなされました。まさしく、その問いかけというのは、現状、日本国民に対して行うべきものだというふうに思いますが、現在の日本国民に、先生がおっしゃられた、憲法の前文にある世界の理想を実現していこうということに関する思いを日本がしょっていくんだという覚悟がおありだというふうにお考えでしょうか。

日野原公述人 一般の人は憲法をみんな読んでいないんですよ、本当に読んでいない。このごろは、出版社からこういう子供向きに憲法なんか出て、わかりやすく出してはおりますが、しかし、一般にはほとんど何も知らないですね。それを読む必要がないからというんでしょうね。つまり、ある意味で安全性があるからというふうな甘い考え方でそこまで議論にはなっていないんですが、今度の事件で、本当に私は、みんなが考えなくてはならないということ、ただ、政治家だけでは意味がないから、もっと、どういうふうなことかということ。

 それから、このときには原爆が出たから、もう世の中にはこんなものが出たら戦争できないというふうにみんな決定的に思ったんですよ。ところが、もっともっと強力なものが出て、強い武力があればもう平和が来ると思っていたんです。ところが、強い武力はもっと強い武力があるから、だからもうそれがなければ平和になるんだけれども、だんだんだんだんとそういうものを考え出したんだから、私は、やはり武力では抑えてもだめだと言うんです。そこでじっと子供は、抑えている側はわからないけれども、どこかで反抗しているわけですから。だから、武力で武力を制することでは平和は来ない、戦争が起こらないという時代は来ないと思う。だから、別のアプローチで平和を私たちは願わないとというふうな物の考え方がもう少し普及すればいいと私は思います。

 それで、ベトナムがあれだけ、十六年も戦争をあの小さな国でやったんだけれども、日本も、信州にヘッドクオーターが行って地下ごうで頑張るつもりだったんですが、余りショッキングでしたから、もうだれもだめだというふうに考えざるを得なかったわけであります。

 私は、簡単にあそこで、原爆のためにもうだめだということと、もうあるがままにやればいいということと、やはりアメリカ式の、アメリカというのは非常に自由な国だと日本人は思っていましたから、そのような自由な国が来て日本のために助けてくれるんだったら非常にいいなという。そして、日本の学校でも、いろいろな教育機関でも、日本の福祉でも、外国人が来てやったんですよ、全部。日本人じゃないんですね。そういうことで、外国に対するある意味の信頼があったんでしょうね、そういうふうな人から。だから国民は、ではそのとおりやればよいというふうに極めて簡単に受けたんじゃないかと思うんですよね。

 ところが、今の外国と、明治、大正時代の外国とは違って、あのときにはミッションを持っている人が来たんです。ところが、今は商売のために来るんですから、全然違うんですね、やり方が。だから、そういうふうに、今は外国へ行っても商売がファーストなんですから。それでも、たまにありますね。アメリカの商社の人が聖路加に来て、何か仕事をしたいので、もしも成功すれば一%は寄附しますなんというようなところもまれにはあるんだけれども、一般に商魂たくましい人々が進出するんだから、前のようなミッション的なものは全然ないわけですよね。だから、外国に対する日本人の考えも大分変わってきたんです。もとは、あるいは戦前は尊敬をするという気持ちがあったんですね。今は必ずしもそうじゃない、ライバルだというふうな気持ちですから。

松野(博)委員 それで、先生がお話しいただいた以外のところの質問になってしまいますけれども、先生は、言うまでもなく、長年にわたって医学界に御貢献をいただいて、その中で大きな技術的な進歩というのがこの六十年間にあったかというふうに思います。現在、革命的と言っていいような生命に対する技術進歩がございまして、バイオテクノロジーの発展によりまして、DNA、遺伝子操作の問題もございますし、また一方で、尊厳死、人間の生と死というものに関してどう考えるかといった倫理的な問題も今いろいろと協議をされている状況でありますけれども、新しい技術の発展に伴って生じてきた生命観、生命倫理観に関して先生がどのようなお考えをお持ちなのか、お話をお聞きしたいというふうに思います。

日野原公述人 尊厳死というのは、良識のあるお医者さんは尊厳死協会に入らなくても、私は病名を知りたいです、いよいよ病気が末期で特別に手が打たれないような状態になったときには私を無理やりに延命させることによって苦しめないでくださいというふうな人というのは非常に多くなりました。アメリカでも四十年前はなかったのが、四十年間には一〇〇%そうなったんですが、日本は今、まだ家族が、当人に言ってくれるなという、家族制度が強いために、家族が邪魔するために、当人に病名告知をすることが非常にとめられて、大体半分ぐらいでしょうね、家族が理解するというのは。

 しかし、私たちはゆっくり、家族にすれば、最初は反対しても、上手に、当人にそういう病気の状態であるということを納得させましょうと言って、私の例などは三カ月かかりましたね、家族だけで。それで、後は簡潔になったんですね。そういうふうに、今日本はそういう家族制度がもっと、平生見舞いに来ない長男がいよいよ来たときには、もっともっと生かしてくれと言いますよ。そして、ケアをしている二男、三男、娘さんは、もっと楽にしてくれと言うんですね。ですから、その長男を説得するのが大変ですから、長男が来るまでに家族を固めないとというふうに私は作戦をするんです。

 そういうような状態で、人間の尊厳死というのは、日本では家族が障害になっているけれども、だんだんと。

 そして、今の病名告知の間違っていることは、どれぐらいもちますかと言ったら、まあ二週間でしょうねというふうに簡単に言う若いお医者さんが非常に多い。聖路加に来る人は、ホスピスに来る人は、いろんながんの専門のセンターでそう言われて来るわけですが、そういうことは経験のあるお医者さんであれ言えないことはわかっているわけです。非常にバリアンスが多いんですね。ですから、様子を見ないとわからない、いつでも悪いときには言いますから、でもまだ言えないんですよ、悪い症状がもっと出れば、これは一週間ぐらいかということが言えますということで、あいまいなことを私たちは言わない。あいまいな情報はよくないんですね。その患者さんから希望を奪い取ることになります。本当のことで、間違いないことであれば、それを上手に言うというふうなことで私たちは言うわけですから。

 人間の尊厳死の問題は、今言ったような問題で、良心的に扱うお医者さんがあれば全然それは問題でないと思いますが、問題は、どこまで人体を使って、そして研究をするかということが要るわけですね。そのときに私はいつも、私たち判断しなくちゃならないときには、そして医学というのは危険性を伴うものですよ、新しい医療は。技術がそんなに進まない人が手術をすると死の危険がありますし、自分の場合には、技術がどうも心配ないけれども、それで練習するわけですから。だから練習に欲しいわけですから。でも、そのお医者さんが子供をやるかといったら、子供は自分はやらない。自分の先生はというと、それはやらない。

 だから、私たち医者は、科学的には研究をしたい、もっともっと、危険があってもこういうふうなことをやりたいという、そういう科学的な要求に乗って悩むわけです。しかし、その医者は他面、その対象の人が自分の子供や自分の尊敬する人の奥さんであったらどうするかという、私とあなたとの関係の患者と、私と臓器との関係の、それとの関係でジレンマに遭うわけですね。

 これはブーバーが言っています。人間というのは二つの世界がある。一つは、私とあなたの世界、もう一つは、私とそれの世界、そういうことを言っているんですね。

 科学的な研究になると、医者とそれとになってしまうときに、その医者の良心はそれをあえてやるかどうかというんですから、どうしても、医者になる人はそういう教養的な訓練を十分に入らないと、今は偏差値がよければ、高校から医学校に入れますし、アメリカのように、リベラルアーツを四年間やって、そしてどこかの仕事を少しやってからお医者さんに行くという、成熟した社会人になった場合には、研究に対してもやはり、シュバイツァーが言っているような命の尊厳ということを考えて、研究には限度があるということがだんだんわかってきますね。

 ですから、医学の講座に、ハーバードなんかは、神学の教授が講義をするということで、コンファレンスも一緒にやるというんですが、日本は非常にそういう点は、専門家だけが物を言うということになっておりますのは、やはり日本の一般の専門家は専門ばかで、どうしてもリベラルアーツ的な、幅の広い生命論というものがないためにそうなると思いますので、これは今の医学部の教育制度を革新しないと、塾で試験勉強をやって、そして医学校に入って、患者の側に立ってなんて、まだ子供で、会話の言葉も知らない人がそういうことは言うことはできないんで。

 むしろ、アメリカや戦前の日本の制度に、国立系の新しい法人がやってくれればいいと私は思っているんですが、今そこが一番難しいことです。ですから、科学者というのはいつも生命倫理をやはり大切にしないと。それで、研究には限界があるということですね。

 以上です。

中山会長 日野原公述人に申し上げます。

 申し合わせの時間を経過しておりますので、結論をちょうだいしたいと思います。

 以上で御発言は終わりでございますか。ありがとうございました。

 それでは次に、辻惠君。

辻委員 民主党・無所属クラブの辻惠でございます。

 憲法というのは国の基本法であり、人類の知恵の集積したものである。普遍的原理、普遍的公理を未来に向かって宣言していくもの、これがやはり憲法であるべきであろうというふうに私は思います。そういう観点で、日本国憲法がさらに未来に開かれた憲法として、どのように発展させていくべきなのか、これが重要な観点だというふうに思うわけであります。

 今の日本、国民国家と言われる段階でありますが、五十年、百年先を展望したときには、東アジアにおける地域の共同体の中で、中国や朝鮮、韓国の人々と共同、連帯する、そういう仕組みをつくっていくことが、EUの例をかんがみても考えられるべき方向ではないか、私はこのように思うわけであります。

 そういう観点に立ったときに、きょう、日野原先生が人生の大先輩としておっしゃっていただいたいろんなお言葉が非常に有益であるというふうに思います。シュバイツァーの命の尊厳ということから出発されて、他の動物、そしてそれは他の国、他の民族との共生ということを考えていかなければならない。憲法の問題を考えていくときに、他の民族、他の国との共生、それが国民国家を超える未来を展望することになっていくわけでありましょうし、そのためには平和を実現するということが必要不可欠なプロセスなんだろうというふうに思います。日野原先生、そういうお立場で、日本のリーダーシップを発揮すべきだということをおっしゃっていただいたように思います。

 ところで、今、憲法の改正論議ということが議論になりつつあって、きのうの新聞等にも報道されているように、それぞれの政党でいろんな論議がされているわけでありますが、自民党の側でもいろんな提言をされようとしている。私はそのときに非常に気になることは、日本の歴史、伝統、文化ということを強調する、その考え方が憲法論議の中に連関して提出されているということであります。

 確かに日本の歴史、伝統、文化、いいところがいっぱいありますし、私もその中で日本人として生まれ育ってきたということについて、それは自分のやはりレーゾンデートルであるというふうに思うわけでありますけれども、憲法をどのように未来に向かって発展させていくのかという問題と、日本の歴史、伝統、文化を、今それが衰退しつつあるから、いいところを伸ばしていくべきではないかという問題とは違う、別の次元の問題であろうというふうに私は思うわけであります。

 憲法論の中に日本の歴史、伝統、文化ということを持ち込んだときには、国という狭い枠組みの中で憲法を考えることになる。それは必然的に外国人の方々の存在に対して排他的になるわけでありますし、日本の歴史、伝統、文化、先ほど契約社会というのはアメリカナイズされたものなんだというような御発言もありましたけれども、これはどうも権利を主張することに傾き過ぎて、義務や責務が問題なんだということを憲法の中に持ち込もうとするような流れになっている。これは、近代の立憲主義の発足の経過を考えたときに、明らかに誤った議論なのではないか、私はこう思っているわけであります。

 こういう観点に立ったときに、私は、日本の歴史、伝統、文化が衰退しつつあるというのは、これは別の要因がある。社会的な多様化の状況や、また、社会的な共同体が非常に衰退して崩壊していっているという日本の現状の中で、歴史、伝統、文化がどう取り扱われるのかということが議論されなければいけない。このことを憲法論の中に持ち込むのは、非常に混乱を生じさせることになって、位相の違う問題を論ずることになって、妥当でない、このように考えます。

 日野原公述人にお伺いいたしますが、世界の共生、平和の実現、そしてその中の日本のリーダーシップということを考えるべきだという観点に立ったときに、日本の歴史、伝統、文化ということをどう論ずるべきなのか、どういう関連でとらえるべきなのか、この点についてはどのようにお考えでしょうか。

    〔会長退席、枝野会長代理着席〕

日野原公述人 私は、国と国との間の文化のエクスチェンジのことを考えますと、本当にこの文化はよそに輸出してもいいと思うようなことは十分に輸出する。本当に、商品でも、文化でなくても、プロダクツでも、安くてよいものであればうんとするんだけれども、日本の文化の中に、他に輸出することをはばかる、そういうような癖のようなものがあった場合には、それは内だけで済ませておく。よいものは外に出そう、郷里のよい習慣は外に出そう、外国に出そう、そのかわり、よくないものがあるんだったらそれは外には出さない。例えば、少しあいまいにするとか、明白にしないというふうなことが日本にありますね。そういうことを外国の人にどうこうというふうなことはちょっと私は無理だと思います。

 私は、殊に、今皆さん、お聞きになっている方に申し上げたいことは、あれだけたばこが悪いということは、アメリカからスタートして、そうしてがんを起こし、動脈硬化を起こすということを言っていますね。あれは健康に毒なんですよね。ここでたばこを吸っておられる人があるとちょっとつらいかもわかりませんが。そういうものをアメリカ人はやめて、みんな東南アジアに流れて、今の日本の高校生のたばこを調べると、日本のたばこじゃない、外国のたばこを吸っている。これは、ちょうど中国、英国のアヘン戦争がありましたね、アヘンを輸出して、そして考える能力を失わせて占領するという、それと同じようなことですから。

 私は、文化も、本当に保ってよい文化はその国に保っていいんですが、よそには出さない、逆に、よそにいい文化があればそれを輸入しようということを考えて、ビジネスもそう考えますと、人を殺すことに関係のあるようなビジネス、これは国民の教育によって、そういうところに飛び込んで就職したり研究をしたりなんかするということをやめてほしいし、科学者でも、その研究が人を殺すことに関係のあるようなことは、やはりそこに入らないようにコントロールをするということが必要です。

 今のような答えでいいでしょうか。

辻委員 ありがとうございました。また最後にお伺いさせていただきたいと思います。

 そこで、高竹公述人に伺いますが、御存じないかもしれませんが、ことしの五月十二日の憲法調査会の公聴会で、小熊英二公述人が第九条の歴史的経緯ということで公述していただいたことがあります。

 この中で、小熊公述人がおっしゃったのは、憲法が、押しつけという要素があると同時に、歓迎をしたという要素もあるんだということをおっしゃっていて、特に、冷戦の激化の中で、アメリカ側の要請による再軍備の中で、日本は積極的にこれを受容していったんだと。吉田茂さんの言葉を引いて、それは石橋湛山さんの言葉も引いて、そのような公述をされたわけであります。

 やはり、私が考えるに、吉田茂さんの選択の延長で、戦後の五五年体制が日本の繁栄をある意味でもたらした。少なくとも七〇年代の中盤まではそのようなことであったと思うわけであります。したがって、押しつけか歓迎かということは、憲法の発足の経緯の中での要素の違いというか、いろいろな要素があったということで指摘することはできるけれども、今憲法を未来に向かってどうすべきかというときに、押しつけだったのか歓迎だったのかということを論議することはさしたる意味がないのではないか、このように私は思いますが、その点、お考えをお聞かせください。

高竹公述人 委員おっしゃられたとおりに、私も、ここから先の議論をすることに関しては、その議論はする必要はないというふうに思います。

 ただ、そのことを一体国民のどのぐらいがちゃんと知っているのか。要するに、例えば、小学校、中学校、高校の教育でこういった話をちゃんとどこまで教えているのかというのは僕は疑問に思っています。だから、この歴史的事実をしっかりとやはり知ってから議論することが僕は大事だと思っています。

辻委員 憲法と現実との乖離というのはどの点なのかという先ほどの御質問で、公述人、九条の問題を中心に挙げられたというふうに思います。

 現実の自衛隊の武装力と九条の表現が言葉上フィットしていないということは確かにあるかもしれない、このように思いますが、一方で、例えば、先日もこの憲法調査会で議論になりましたけれども、国連の安全保障常任理事国入りを日本が目指そうということにおいて、九条の改正がやはり必要なんだという議論があって、他方で、中国、韓国が日本の常任理事国入りに賛成の立場をとっていない。九条を改正すれば、では常任理事国入りになるのかといえばそうではなくて、逆に、九条を改正しようとする動きを示すことが常任理事国入りの阻害になっているのではないかというふうに私は思ったりするわけなんですが、この点についての公述人のお考えはいかがですか。

高竹公述人 今の国連の常任理事国入りの部分については、日本としては、敗戦国条項が残っている現状のまま、常任理事国入りがそのままできたとしても、では常任理事国としてのちゃんとした役割を果たせるとは思っていません。

 だから、僕は、九条と常任理事国入りは全く別の話だというふうに考えていますし、九条の話を出したのは、やはり今の自衛隊、それから、端的に申し上げると、自分の国は果たしてだれが守っているのかということをしっかりと我々はこれからのために考えていかなきゃいけないというふうに思っています。

辻委員 引き続き、高竹公述人にあと一、二点伺っていきたいというふうに思いますけれども、今の点に関して、つい先日、韓国の方々とちょっと話す機会があって、憲法九条というのはアジアの人々に対する約束事であるというようなことを言っておられたということがあります。この点をつけ加えさせておいていただきたいというふうに思います。

 そこで、次に御質問を継続したいのでありますが、先ほどもちょっと日野原公述人に伺ったんですが、日本の伝統、歴史、文化ということを憲法の中に盛り込むんだと。例えば、自民党の論点整理なんかでもかなりそのことが強調されているんですけれども。日本の伝統、歴史、文化がかなり、衰退しているというか、しっかり保存されていないというか、鍛え直されていない、生み直されていないというふうに、そこの現状認識は多くの方々が共有化できているのかなというふうに思うんです。なぜそうなっているのかということは、社会共同体の力がやはり弱まっている、経済的な、また社会の多様化といういろいろな原因があって。

 ですから、伝統、歴史、文化というのを新たにどうつくっていくのかということを、単に憲法を変えれば伝統、歴史、文化が生み出されるということではなくて、歴史、伝統、文化を、過去のいいものを継承して今から新たにどうつくっていくのかということが問題なのであって、憲法に盛り込んでつくる歴史、伝統、文化というのは、これからみんなが努力してつくるものではなくて、過去にあった供え物の歴史、伝統、文化を移しかえるにすぎないように私は思うんですけれども、その辺についてのお考えはいかがでしょう。

高竹公述人 私は、今の日本の歴史、文化、伝統が薄らいでいっている一番の原因は、僕は教育だというふうに思っています。そういう教育をしていないから、されていないから、歴史、伝統、文化を継承できていないと思っています。

 その根幹をなすのは、僕はやはり憲法だというふうに思っていますし、今の日本国憲法では、それ以前のもっともっと古い歴史、文化、文明を教えていないわけですから、それを継承できるはずがないんです。

 憲法についての基本的な考え方はやはり、我々の日本の国というのはどういう国であるかというのを今までの長い歴史の中でしっかりとかんがみた形のものが僕は憲法になるべきだと考えていますので、やはりそこに、歴史や文化もしくは文明といったものもその憲法の中に私は入っていないといけないというふうに思っています。

辻委員 私は、繰り返しになりますが、憲法を考えるときに、国民という限定をつけて主要に論ずるべきではないんではないか。今、在日外国人の参政権の問題も議論になっております。日本国憲法がピープルを国民と訳したこと自体の問題点の御指摘もありましたように、国民という枠を前提にして論ずるのではなくて、もっと開かれた、世界の人々との共生という観点で論じていくべきものではなかろうかというふうに思うことを申し上げておきたいと思います。

 そこで、次に寺中公述人に、ちょっと時間の関係で二つばかりに限らせていただくことにならざるを得ないと思うんですが。

 そういう、世界に開かれた日本の憲法をつくっていく。その中で、日本の人権状況をしっかりさせていかなきゃいけない。その観点で、刑事司法の国際規範に日本はついていっていないんじゃないかという御指摘があったように思いますが、その点に関連して、死刑廃止の問題とか刑事被疑者、被告人の人権という問題について、簡単に、世界と日本の状況のずれについてお考えを伺いたいと思いますが、いかがでしょう。

寺中公述人 刑事被告人あるいは被疑者段階でのさまざまな違いというものが、日本の制度と各国ではございます。

 特に一番大きな問題は、長い期間、捜査、取り調べにさらされるという状態でございまして、特に、警察の管理下に置かれる、いわゆる現在の代用監獄制度ですね、これが非常に世界的には特殊な制度であるというふうに考えられております。通常は、このような形での身柄拘束というのはよほどの必要のない限りはやられないわけでありまして、これは、実は憲法でもそのようなことを予定しているんですが、法制度上そういうふうになっていないという点で、非常に大きな問題です。

 公正な裁判の原則の中には、先ほど申しました無罪推定の原則であるとかあるいは黙秘権の告知の問題であるとか、そういったようなところがどうしても必要なんですが、これらの保障に関しましても、日本の中ではなかなかそれが十分には貫徹されていないという点が散見されます。

 それから、御指摘の死刑廃止に関しましては、既に八十一カ国が完全に死刑を廃止しております。既に、死刑を存置している国の方が少数に転落しておりますので、これは完全に、もう死刑廃止は世界的な潮流であるということは言えると思います。

 問題は、死刑廃止の世界的な潮流に乗るか乗らないかという問題ではなくて、世界的に死刑廃止という方向を目指しているときに、日本として、どういう制度を望ましいとして考えて世界に対して提案していくかということだと思うんですね。その段階で死刑廃止という選択肢をきちんとまじめに議論して、そして検討していくことが必要であろうというふうに考えますが、現段階では死刑の廃止に関しては十分な議論が起きていないという状況だと思いますので、この点に関しては、憲法論議としても十分に検討していただきたいというふうに思っております。

 特に刑事被告人及び被疑者に関しては、弁護権の保障の問題であるとか、そういうさまざまな細かい点において大きく異なっていますけれども、そこに、全部貫徹されている一つの原則、一つの大きな違いがございます。

 それは、被告人や被疑者に権利があるというふうに実は考えていないのではないかと思われる、そういう点です。被疑者や被告人というのは、あるいはまた被拘禁者もそうですが、すべての権利を奪われた状態の中にあります。だからこそ権利を保障しなければいけません。すべての権利を奪われた、そういう被疑者、被告人、被拘禁者に対して、権利の主体としての意義づけをちゃんと与えること、これがまず出発点になければならないのではないかというふうに思っております。

辻委員 あと一点、立川テント村の自衛隊駐屯地へのビラ入れの問題なんですが、これは表現の自由に対する侵害で、唖然とするような、非常に私も危機感を持つ事態だろうというふうに思っておるんです。憲法論的にも、プライバシーの権利と表現の自由の対立とかいろいろ議論があるところではありますが、民主主義の国において最も尊重されるべき精神的自由権としての表現の自由という、より尊重されるべきだということが私は普遍的な公理であろうというふうに思うんです。

 ちょっと時間の関係で簡潔にお答えいただきたいと思いますが、なぜ現時点で日本においてこのような事態が急に起こるようになったというふうにお考えでしょうか。

寺中公述人 このような事態は、実際に、この数年間のうちに本当に立て続けに起こっております。

 今回の立川の事件はその中では本当にぬきんでているものではありますけれども、その他にも似たような事例というものが多々散見されますし、それからまた、さまざまな形で、例えば日本の伝統とか文化とかいうものを強調する余り、他に対する攻撃を正当化するような、そういう傾向というものも見られます。

 こういう状況が生まれることに関しましては、一部では、いわゆるパニック状況にあるのではないかというようなことが言われたりもしております。すなわち、外敵を必要とする、自分たちとは違う何かに対して自分たちの不安感をぶつける、そういうことが一つの精神構造の中に生まれてしまったのだとすると、次は非常に恐ろしいことになる。その中では、次はファシズムが生まれてくるのではないかというようなことが指摘されたりもしております。

 私の方としては、現状、なぜこれが突然起きてきたのかということに関してはきちんとしたお答えをすることができませんけれども、しかし、この間、このようなパニック状況がだんだんと強化されてきているということは非常に危機感を持って考えております。できる限り、このようなパニック状況に対して、それを押しとどめる、そういう努力を政治家の皆さんには期待したいというふうに思っております。

辻委員 日野原公述人に伺いたいと思います。

 日本国憲法の前文のパラグラフを幾つかきょうお読みいただいて、そしてお話をいただいたと思いますが、一方では、前文が日本語として読みにくいとかいうような意見が出されたりしている。しかし、私は別に読みにくいとは思わないのでありますけれども。この前文に書かれている、これは人類普遍の原理をやはり表現したものであるというふうに私は考え、日野原公述人も恐らくそのようなお考えに立って、これをどう日本が能動的に生かしていくべきなのか、そのことを考えるべきだというふうにおっしゃられたように思いますが、そういう理解でよろしいんでしょうか。

日野原公述人 全くそうです。

 これは、私の理解では、読んで特に理解しにくいような文章はないと思いますが、しかし、このごろは非常にやわらかく表現することがはやっていますから、もう少しここを、今、小学生にでも憲法を読ませようという時代ですから、やわらかい文章に変えることはいいかもわかりませんが。

 これは、どこの国でも共通なフィロソフィーを書いているんですね。それをどういうふうに具体化するかは、で、具体化するときに憲法が具体化を守っているかということが、後と前とが矛盾しないようにやはり文章が書かれなくてはならない、そういうふうに思います。

辻委員 日本がこの人類普遍の原理としての日本国憲法前文を今後どう具体化していくのかということが問われているんだという御指摘をいただいたと思いますが、その中で、きょう日野原公述人の方からは、幾つか貴重な御示唆をいただいたように思います。

 若者に対する教育ということに関連して、徴兵制にかわるボランティア制度みたいなものを導入すべきなのではないかという御提案もありましたし、何よりも、人類の共生ということは平和の実現であって、憎しみの連鎖を断ち切る、戦争の連鎖を断ち切るということが重要だという御指摘をいただいたと思いますが、そのようなお考えからは、今、十二月十四日にイラクへの自衛隊派遣を延長するのかどうかということが問題になりますが、これは撤退すべきだというお話につながっていくのでしょうか。その点はいかがでしょう。

日野原公述人 今は法律の中で拡大解釈をしているんですね、ぎりぎりのところを。それが無理であるからといって変えようというふうな説があると思いますが、平和に戻ると、この文章をできるだけ厳しく読んで行動する方向にやはり向くべきだと思います。これがそのままであれば、その拡大解釈したのをもっと精神に近いところに持ってきて、ずるずるとしないようにするためにはどこかで、で、戦地には行かないと言うんだったら、戦地であるかどうかをやはりもっときちっとして、これだから退却するということを勇気を持って私は言うべきじゃないかと思っております。

辻委員 最後に、今の点に関連もいたしますが、日本の世界への貢献、世界の平和への貢献に当たってのリーダーシップをどのように発揮していくのかということが非常に問われていると思いますが、この点について、日野原公述人のお考えを最後にお伺いさせていただければありがたいと思います。

日野原公述人 日本の今までの政治、外交は、常に横を見て、そしてずれて行動していました。若い人と踊るときに、シニアの人はちょっとモーションがおくれますね。そのように、左右を見てやったというのは、やはり本人的なものがないからですよ、みんなと余り外れないようにしようという。やはりもっとユニークなものを出してもいいじゃないかと思う。勇気を持つ。勇気というのは、プラトン以来、人間の徳の四つの一つだそうです。勇気が欠けている。勇気のある政治家も欲しいと思います。

辻委員 ありがとうございました。終わります。

枝野会長代理 次に、佐藤茂樹君。

佐藤(茂)委員 三人の公述人の皆様、本日は、貴重な御意見を述べていただきまして、ありがとうございました。私、公明党の衆議院議員の佐藤茂樹と申します。

 先週でしたか、同じように公述人による意見聴取のときに、中曽根公述人と土井委員の間で、世代間の憲法観の違いというか、改正も含めての論議がされた一週間前のことを思い出すんですけれども、きょうはいみじくも、日野原公述人と横にいらっしゃる二人の公述人、大変な世代の差がありまして、お二人の公述人を足した分以上に日野原公述人は長く生きておられるわけでございまして、ぜひ、長く生きてこられた生きる知恵からの明快な意見を述べていただければありがたいなと思うんです。

 それでは、最初に日野原公述人にお聞きをしたいんですけれども、先ほど松野委員のときにも質問されたんですが、日野原公述人が六十七年前に医学の道に進まれてから、この六十七年間で、やはりもう時代が大きく変わるとともに、特に生命科学の分野で非常に急速な発達をしてきたと思うんですね。

 ただ、発達しただけならいいんですけれども、今まで一線を踏み越えなかったような部分へ医学や科学も手を伸ばすようになった。例えば、世界的にはクローンの問題なんかが非常に問題になりましたし、また日本では、産婦人科医の中で、今までの日本ではこの一線を越えてはいけない、そういう生命倫理の部分の一線を越えるような医者も出てくるという社会問題が出てきたり、そういう問題がございます。

 これから、我々のこの憲法の論議というもの、二十一世紀のこの日本の社会はどうあるべきか、未来にわたって通用するような、そういう憲法にしていこうといったときに、やはり生命倫理の問題をどうとらえるのかということが非常に大事になってくるのではないかな。

 先ほど、尊厳死という観点からのお話がありましたけれども、そういう生命科学の発展に伴っての生命倫理の問題をどう考えておられるのか。さらに、こういう問題は、新しい、例えば憲法にきちっと記述することがなじむ問題なのか、それとも、憲法までいかないけれども、別の法律できちっと規定をしておけばいいというようにお考えなのか。その辺についての御意見をいただきたいと思います。

    〔枝野会長代理退席、会長着席〕

日野原公述人 憲法はやはり、方針とプリンシプルを示すものが憲法で、各論としていろいろなものが政策、法律としてつくられるべきだと思っております。

 それで、生命倫理ですが、科学の進歩というのは、どんどんどんどん進歩しますね。それが下手に使われるから原爆になってくる。それで科学者も、つくった人が最後にざんげしなくちゃならないように、つくったものが悪用されるということになるんですから。ところが、悪用されるかどうかはわからないので、どんどん興味があってそれを進歩させるんです。

 私は、憲法の中に盛るべき言葉としては、方向性が人類の幸福につながる研究であるか。それが不確かである場合には、別の法律で少し待つ、ストップをかけるとか、あるいは中止をするとかということです。科学は、科学のためではなくて、人間の科学ですから、人間の幸福に寄与するものであればいいが、寄与するということに疑義が出そうであればそれはしないということですから、憲法の言葉でいえば、幸福に沿ってのものであるようなものは科学としては非常に大切にされるというような文句があることはいいと思います。

佐藤(茂)委員 ありがとうございました。

 それでは、続いて寺中公述人にお聞きをしたいんです。

 私は、二十一世紀の日本の社会を考えたときに、今後、やはり日本も多民族国家になる可能性が非常に出てきているのではないのかな、そういう視点を持っておりまして、多様な民族が共生していくような、そういう日本というものを現実的な問題として、例えば少子化、高齢化の時代になりますと、労働力の確保なんかはもう具体的な問題として出てきているわけですね。

 そうしたときに、先ほど冒頭で総論的にお述べになりましたけれども、外国人の人権をどう考えるのかということは、やはりこの憲法論議の中で明確に視点として持っていかなければいけないそういう重要な点である、そのように私は認識をしております。

 ただ、総論で外国人の人権を認めるべきである、また尊重すべきであるといっても、具体的には、例えば定住外国人の地方参政権の問題一つとりましても、これは我々の党は推進をしていく方向で進めておるんですが、なかなか実際、この国会の場においても、社会の中では、いや、そういうものは認めるべきでない、そういう反対論も非常に多いわけでございます。

 寺中公述人にぜひお聞きしたいのは、外国人の人権といっても、どの部分をきちっと尊重して憲法に明記すべきであるというようにお考えなのか、そのあたりについて意見を賜れればありがたいと思います。

寺中公述人 憲法に記載する、つまり記述するべきかどうかということに関しては、憲法本文に記載するべきなのか、あるいは他の法律をつくってそこの立法の中で準憲法的にそれを認めるのか、それはいろいろな手段があると思いますが、絶対的に必要なことは、まず総論的に、外国人に権利があるということについての確認ということが一つ。それから、外国人であることを理由に差別されないということがまたもう一つございます。

 これも総論に近いんですけれども、例えば先ほど委員御指摘の地方参政権、あるいは国政参政権に関しましても、どこでその線を引く理由があるのかということをちゃんと明確にしないと、この部分に関して一概にいいとか悪いとかということを判断するというのは、それはできないのではないかというふうに考えています。個人的には、外国人が通常日本にずっと住んでいて、社会の一員としてちゃんと生活の基盤がある以上は、参政権を認めないというのは非常に不都合だし、不自由な話だろうというふうに考えております。

 ですので、そういったようなところに関しても、各論的にもどんどんと認めていくということは必要だろうというふうに感じますし、基本的には、まず、国籍を持っている日本国民に認められている権利はほとんどすべてが外国人に対して認められているというのがあるべき姿であろうというふうに考えております。

佐藤(茂)委員 この問題を考えますときに、今から二十年ぐらい前ですかね、神戸大学の先生だったと思うんですが、初瀬龍平先生という教授がいらっしゃいまして、内なる国際化ということをその当時日本で初めて強調されました。

 日本は外国へ行って国際化、国際化というようなことを言っているけれども、日本の国内にも既にいろいろ外国人の方が定住されているし、そういう国際化。さらに、そのためには、国民一人一人の内なる、心の中にやはり国際化というものをどういうように意識し、啓発していくのかということが大事であるということを言われましたけれども、そういう憲法の論議とともに、国民がそういう形で変わっていけるのかどうかということが非常に大事ではないかなというように私は考えております。これについては別に意見を聞きません。

 それで、高竹公述人にお聞きしたいんです。

 日本青年会議所の考え方として、きょうの資料の四ページ等にも書いてあるんですけれども、「地球市民の真の平和を願い、世界の平和と安定に率先して寄与しうる誇りある自立国家日本の創造を目指して」とか「世界平和の実現という青年会議所運動の理念を達成するため」、そういうことを言われているわけですね。

 私ども公明党も、一国平和主義を脱却して、やはり行動する平和主義でこれから日本は世界の、国際の平和と安定のためにきちっと貢献していかなければならないんだ、そういう考え方に基づいて我々は政策提言もしているわけでございますが、日本青年会議所の言われる世界平和の実現あるいは地球市民の真の平和というのは、どういう平和なのかということですね。その平和を築くために、国際貢献であるとか国際協力というものを憲法上どのように扱うべきであるというように考えておられるのか。御意見をいただければありがたいと思います。

高竹公述人 国際協力を憲法の中にという話でしたが、一つだけ申し上げますと、私は、日本という国は、やはり世界の中で平和を実現するためにリーダーシップをとっていかなければいけないというふうに思っています。したがって、やはり憲法の中にもそういった意味合いのものは必ずないといけないというふうに思います。

 私の考え方は二つあって、一つは、やはり自国民、これは、要するに戸籍のある日本人だけではなくて、日本の中に住む人という定義をつけ加えたいと思いますけれども、その中の日本人として、やはりどういう憲法であるべきか。それから、国際社会に対して日本が果たす役割を今後どう担っていくか、もしくは担わなければならないと決意するかというものが僕は憲法の中にあるべきだというふうに思います。

佐藤(茂)委員 それではもう一度、日野原公述人に最後にお聞きしたいんです。

 私は、日野原公述人が冒頭意見を述べられた中で、日本がこれから何で貢献するのか、日本は人間で世界に貢献するんだということに大変共鳴を受けたわけでございます。その中で、やはりこれから、文化的にもまだ未発達の外国であるとか、戦火や天災で国力を失った国であるとか、そういうところに若い人がどんどん出ていくべきである、そういうお考えをことし発行された別の書の中でも言われているんですけれども、これは、日野原公述人の意見では、国民の義務として大学を出たら出ていくようにすべきであるというようにお考えなのかどうかということが一点。

 もう一つは、そのためにはそれなりの、技術も何もない人間が行っても、これは逆に、困っておられる国々に迷惑がかかるわけでございます。私は日野原公述人が「生きかた上手」の中でも言われたと思うんですけれども、ボランティアというのは提供する技術においてプロでなければならない、そういうことを言われております。これは、たしか病院の中でもそういう教育をされているというように聞きましたけれども。だから、そこへ行かれる前までに、日本の若者も外国へ行って貢献できるだけの教育システムというか、何らかのやはりプロとしての腕を持って行かせなければこれは意味がないと思うんですけれども、日野原公述人の御見解を伺いたいと思います。

日野原公述人 スペインの有名な教育学者、社会学者オルテガは、大学を卒業するということは何かということで、三つを言いました。それは、プロフェッションをマスターする、専門性。それから、研究をずっと続けていくということ。第三は、文化を継承する。日本の文化、その文化を継承するということは言ったんです。

 だから、少なくとも大学を出てリーダーシップをとる人は、在学中に外国の、アメリカの大学のように、四年のうちに一年は自由に外国に行って、いろんな科目をとってもいいし、何か学校の先生になってもいい、自由な一年を持っているところが大部分です。それから、出てから就職するまでに何かを経験する人も非常に多いので、私はどこかで、行きたい人でなくて、徴兵制度のかわりにやはりそれぐらい、そのかわり、大学や何かの教育に国家はお金を出して、それを使ってもらうんだからというふうに、それを日本が世界でやる最初の国になってほしいと思う。人間は、そうすれば本当に成長します。

佐藤(茂)委員 ありがとうございました。

 以上で終わります。

中山会長 次に、山口富男君。

山口(富)委員 日本共産党の山口富男です。

 私の席からいきますと横から物を言うようで申しわけないんですが、きょうは、三人の公述人の皆さん、どうも御意見ありがとうございました。

 それで、皆さんからいただいた意見に即してお尋ねしたいんですけれども、まず高竹公述人からお尋ねします。

 きょうのお話の中で、日本国民の問題で、考えることをやめてしまったとか、日本の国民の人心は荒廃したというフレーズが何回か出てきたんですけれども、これは青年会議所の共通の認識なんですか。まず、その点をお願いいたします。

高竹公述人 基本的には、ほぼ共通認識だというふうに思っています。というのは、要するに、我々の世代というのはすべて与えられたものの感覚がありますので、そういった意味でこの意見を申し上げました。

山口(富)委員 続けてお尋ねしますが、そうしますと、先ほど辻委員の方からもお話がありましたけれども、憲法の基本的考え方というのは、主権者である国民の人権と自由民主主義をきちんと守るために政治権力に対して権限を与えるけれども、同時に、その運用に対しては厳格な制限を加える、そういう仕組みになっていて、これが立憲主義と言われますね。そうしますと、きょう御提案のあった、先ほど、憲法論議は日本人の伝統的、精神的復活の起爆剤だという話があったんですけれども、これは一体、立憲主義との関係でどういう整理をされているんですか。

高竹公述人 立憲主義の整理というのではなくて、ここで申し上げた意見というのは、日本人の心の部分を申し上げました。敗戦以来、我々、僕なんかもそうですけれども、戦後の教育を受けていますから、本当にやはり、自分が日本人としてのあかし、誇りというものをもっと僕はしっかり持つべきだというふうに思っていて、この部分も、要するに、私たちの心のよりどころを意見として申し上げました。

山口(富)委員 先ほど辻委員の方からも位相が違うんじゃないかという話がありましたけれども、私も、日本国憲法の内容についての評価は公述人とは全く立場を異にいたしますが、やはり憲法論議をやる上では近代立憲主義を踏まえた議論が必要だというふうに思います。

 次に、寺中公述人にお尋ねしたいんです。

 一点は、きょう、一連の国際人権条約について紹介があったんですけれども、国連憲章を読みますと、一方で戦争を違法化する平和のルールと言われるものがありますけれども、もう一方で、その平和を確固としたものにするためには、基本的人権の保障と生活の向上がどうしても欠かせないということが定められています。その結果、二十世紀後半の世界は一連の人権条約というものをつくってきたわけですけれども、公述人のこれまでの経験からしまして、国際的な人権状態の改善、前進を図るということと世界の平和を確固としたものにするということは、一体どういう関係にあるのか。そのあたり、経験も踏まえて幾つか示していただきたいんです。

寺中公述人 まず、国連憲章の件に関しましては、委員御指摘のとおり、これは、戦争違法を宣言した、そういう規範であります。この戦争違法化という動きはかなり歴史的な流れの中で生み出されたものでありまして、第二次世界大戦以前も、戦争を基本的には認めない方向性というものは古くからありました。

 ただし、正当化根拠があればいいんだという時代が一番昔にあり、そこから今度は、いや、いずれにせよ紛争は始まってしまうのだから、何は守らなければいけないのかを決めようという国際人道法の原則がその次に生まれ、そして、最終的に戦争の違法ということがうたわれたというのが経緯だろうというふうに私は考えております。

 国際法上、戦争は違法なわけでありまして、したがいまして、現状では、いわゆる宣戦布告があってどうのこうのというような、そういうことを想定すること自体が非常にナンセンスだということになるわけですが、しかし、では現実に武力紛争が起きていないかというと、現実には起きているわけですね。

 武力紛争が起きれば、必ずそこでは大規模な人権侵害が起きるということがほぼ日常化しています。その日常化している人権侵害を押しとどめるためには、まず一番最初にやらなければいけないのは、その中でも、これまで長い時間を使って培われてきた国際人道法を必ず守らなければいけないということ、これが一つ絶対に必要なことだと思います。

 これは参考までに申し上げますけれども、国際人道法の違反の場合には英語でブリーチと言います。国際人権法の場合にはバイオレーションというふうに言います。日本語にすると同じ違反ですが、この二つは違います。ブリーチというのは一線を越えたという意味があります。つまり、最近非常に、米英軍が時々これを踏み越えているわけですが、この国際人道法違反というのは、人間として越えてはならない最後の一線を越えているというふうに法的には解釈できる、そういう文言を使っています。それだけ特殊なんですね。それだけ重い規範がそこにはかぶせられている。

 それを踏まえた上で、さらに国際人権法におけるユス・コーゲンス、強行法規ですね、これを守っていく、そういう形でのさらなるふたがかぶせられ、そして国際人権法を国内の中で緻密に実施していく、そういう手続がつくられ、そういう中で紛争予防あるいは暴力予防、犯罪予防という人間の安全保障というものが培われていくんだろうというふうに考えているんですね。

 ですので、全体的に紛争というものはやはり最大規模の人権侵害であるというふうに考えることができるわけですが、それを実際的にどのようにしてなくしていくのか、どのようにしてその中で人権を守っていくのかという形でたゆまぬ努力が積み重ねられている、それの集積が国際人権法であるというふうに考えております。

山口(富)委員 今、一線を越えるという非常に興味深い話があったんですけれども、そうしますと、今度のイラク戦争や、あるいは自衛隊は送っているわけですけれども、これについて、アムネスティにはアムネスティとしての何らかの見解などは表明されているんですか。

寺中公述人 アムネスティとしては、米英軍が軍事力を行使しているこの武力紛争の状況の中においては、国際人道法を守れというのがまず最初に来るべき規範であるというふうに考えております。ですから、国際人道法の違反というものは絶対認めるべきではないということが一つあります。

 それからまた、人権をちゃんと保障するということが何といっても一番重要ですから、そのためにどのような措置をとっているかということを公にするということも必要です。その部分に関して、きちんと説明責任を果たしているのかどうかということが問われなければならないというふうに考えています。

山口(富)委員 先ほどのお話の中で、日本は国際人権の各種条約に参加していて、それを履行しなければいけないわけですけれども、しかし、極めて制限的であるという指摘がありました。

 それで、今の国際人権条約は、大体四年から五年の間に政府の報告を求めて、それに対して委員会が勧告するという形になっておりますが、日本は随分勧告を受けている国ですね。お子さんの問題でいいますと、競争教育でストレスを抱えているとか、両性の平等でも、憲法にきちんと定められているのにそれが実現していないとか、随分意見を言われているところなんですけれども、公述人がおっしゃる、なぜ極めて制限的になってしまうのか、それからまた、せっかく人権の条約を結んでいるのに、それに見合う国内の改善措置がなかなか進まないのか。このあたりはどういうお考えですか。

寺中公述人 人権監視機関、いわゆる条約機関から勧告を受けるというのは、これはいろいろな国々が受けております。ですから、日本が特に格段に多いというわけではないというふうには思っておりますけれども、しかし、非常に重大な問題というものが幾つも指摘され、それに対する改善措置が何らとられないというところが非常に大きな問題だというふうに考えています。

 しかし、現状は、それよりもさらに大きな問題が実は発生しております。それは何かといいますと、日本政府が提出すべきそういう条約機関に対する政府報告書というものがあるわけですが、委員御指摘のとおり、四年か五年の間にきちんと出さなきゃいけないんですが、これが二〇〇〇年以来出ていないんですね。つまり、拷問等禁止条約、市民的、政治的権利に関する国際規約、それから人種差別撤廃条約に関する政府報告書が期限を過ぎてもなお提出されていないという状況にございます。さらにまた、勧告された実施措置をとっていないというようなことがありますから、日本は現在、人権条約の締約国になっているにもかかわらず、それの義務を何ら履行していない。そういうブラックリストに載る、そういう候補の国になっているということが言えるのではないかというふうに思っています。非常に危険な状況です。

山口(富)委員 寺中公述人には最後になるかもしれませんが、先ほど良心の囚人の問題が出まして、最近起こりました東京での立川のビラ入れ裁判の問題が指摘されました。

 一体、どうしてこういうことが起こってしまうのか。現実に、あのビラの内容からいきますと、イラク戦争はけしからぬという話ですとか、自衛隊を送るのはよくないという主張ですけれども、このあたりの背景といいますか、突発的に起きたのか、あるいは日本の今の、公述人が指摘されたような一連の人権状況の反映といいますか、そういう流れの中で起きたのか、そのあたりはどういうふうに見ていますか。

寺中公述人 流れの中で起きたというふうに考えております。

 全般的に、それ以前からかなり厳しい取り締まりとか、それから言論に対する規制に近いようなものが散見されましたし、現在でも続いております。この辺は、与党からの説明があったにもかかわらず、その趣旨とは違うような形で日の丸・君が代の問題が実質的に強制されていると言われているような問題にも共通しているというふうに考えております。ですから、一連の流れがございます。

 それからまた、今回の立川の事件に関しましても、警視庁の公安二課の方々による立件が先行していたというようなことも明らかになっておりますし、非常にそういう意味では仕組まれた、そういう流れというものがあることはほぼ間違いないというふうに考えております。

 ですので、一連の流れが、非常に危険な一種のパニック状況、落ちついていない状況というのが日本社会の中で生まれていて、その中で生まれたものだというふうに考えています。

山口(富)委員 最後になると申し上げたんですが、済みません、今のお話を聞きまして、もう一点だけ示していただきたいんです。

 となりますと、日本の憲法で定めている平和主義や人権の問題、この人権条項についてはいろいろ意見があるようですけれども、しかし、少なくとも、これをきちんと守りなさいというのが今のような事態を起こさないかぎになるというお考えなんですね。

寺中公述人 さようでございます。

 人権を守ることは、すべての権利、それからすべての統治機構、これを成り立たせるための最低限の行為であろうというふうに考えております。

山口(富)委員 では次に、日野原公述人にお尋ねいたします。

 きょうはお話を本当にありがとうございました。お話の中で、日本は戦争に直接関与しない、そこにストップをかけながら、日本の行方を真剣に考えることが大事だという指摘がありました。そして、今の日本国憲法を、いわばそのもとでどうやって平和をつくるかを一緒に考えようじゃないかという提議だったんですけれども、今の日本の主権者国民にはその力があるんだということからの提議なんでしょうか。

日野原公述人 ポテンシャルを持っていますけれども、教育が悪いんですよ、持っているものを引き出していない。もう少し、小学生のうちから他を配慮するという教育。長い間、四十年間ハーバードの総長をしていた人が総長を退官するときに、ハーバードの学生諸君、他を配慮することが習慣的になる青年になってほしい、そして正しいと思ったら勇気を持ってやってくれというのがメッセージですよ。

 それで、今一人っ子ですから、他を配慮する環境にないんですね、一つは。やはりそういうときに、だれかを子供にもらうとか、そのためには教育の支出とか保障の費用はありますが、もっと少子化になってくると、ますます悪くなると思いますよ、他を配慮するという。

 ですから、やはり隣人を大切にする、それは同じ国でなくても。そういう社会をつくるということで、もっと国際的になる。これは小学生からやるべきです。これは、生活を一緒にさせるのが一番いい、お説教はだめだと。

山口(富)委員 時間が参りました。ポテンシャルを現実に変えたいと思います。ありがとうございます。

中山会長 次に、土井たか子君。

土井委員 きょうは、お三人の公述人の方々に御意見をちょうだいして、私ども大変参考になることをまず感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

 私は社会民主党に属していますけれども、私の与えられている十五分がきょうの午前中の最後の質問ということに相なりますので、長い時間、本当にありがとうございましたが、あと十五分、どうぞ御辛抱をお願いいたします。横から聞くのは失礼だと先ほどもおっしゃっていましたが、私はもっと横でございまして、まことに申しわけない次第ですが、お許しをお願いいたします。

 最初に、日野原先生にお願いしたいと思います。

 私は、日ごろから日野原先生を尊敬申し上げてまいりましたけれども、きょうのお話を聞いておりまして、いよいよ尊敬の念を強めました、本当に。やはり人間としての生き方について大変崇高な世界観というのをきっちり持っていらっしゃる方がお医者さんの中にいらっしゃる。しかも、多年医療に対して身命を賭してこられたというのが切々と伝わってくるんですね。しかも、憲法観という点からいっても、私は、非常に何か崇高な思いが先ほどからするんです、承っておりまして。

 二つ教えていただきたいんですが、一つは、二十一世紀というのはもう既に始まりましたけれども、やるべきことを考えてみますと、これは各国のそれぞれの立場で、政治課題でやるべきことは違いもございますけれども、やはり私は、共通の問題というのは、世界が共生できるような平和な国際社会であってほしい、そのための建設をどのようにしていくかというのが個々の国に問われていると思うんですね。日本の場合は、それはしっかり日本国憲法にも決められているわけですから、全人類の平和的生存権というのを確立するということが課題になると思うんです。

 その問題を前提に置いて考えまして、私は、最近自民党から出ております改憲のプロジェクトの論点整理、正確に言ったら憲法調査会のプロジェクトの論点整理を見ておりましたら、憲法の二十四条というのが具体的に名指しで出ておりまして、この憲法二十四条に対して見直しが必要だとなっているんですね。私は、これはかなりショッキングな問題だったんです。しかも、今の改憲に対して考えておられる体質というのが非常に如実に出ていると思うんですね。

 それはどういうことかというと、大体、時代が大きく変わってきたんだから憲法も変えなければならない、あるいは、現実と憲法との間の乖離がどんどん広がっていっているので憲法を変えなければならない。改憲論の中には、そういうことを主張されている方々というのがあることはよく知られているんです。しかし、大きく時代が変わったというのではなくて、逆に憲法を変えることによって社会を根底から無理やりに変えていこうというふうな気配が、私は、二十四条に対して再検討するとか見直すとかおっしゃることを聞いておりますと、切々と思うんです。

 それはどういうことかといったら、個人の尊厳よりも国家という立場に重点を置くとか、それから、やはり家族という一つの単位が社会の構成単位として認識されていなければならないとか、そういうことが非常に国家主義ということの中で問題になった経緯が今まで日本は歴史的にあるものですから、その点に対して、またですかということを、警戒心ももちろんですけれども、非常に強く感ずるんですね。

 今の家庭のあり方とか、それから家族のあり方というのが非常にここで問題になってくると思うんですけれども、私は、日本国憲法の中では、十二条、十三条というのは基本的な条文だというふうに見ております。十二条の場合は、自由及び権利の保持義務というのを、個々の国民の不断の努力によってこれを保持しなければならないと決めている条文ですね。十三条は、立法その他の国政の上で、国民は個人として尊重されるというのが基本ですよということを決めているわけですね。

 だから、こういう点からすると、今の二十四条の家族関係というのをどのように考えていったらいいのかということで、現在の日本の家族についてのありよう、これはドメスティック・バイオレンスという問題も最近は非常に取り上げられるようになってきて、やっとこれについて、弱者が泣き寝入りをしたり痛めつけられても、それに対して物を言えないというふうな状況であってはなりませんよとか、一家について言うと、いわば旧家族制度のようなやり方を、日本におけるやはり純風美俗なんということを何かいまだに追い求めておられるような片りんが見え隠れするというふうなことであってはならないという、これはいろいろな問題点があると思うんですけれども、日野原先生、家族関係の個人の尊厳という問題はどのように考えたらいいんでしょうか。

日野原公述人 家族関係における個人の尊厳というのは、今、バイオレンスが、子供への親のバイオレンス、それから老人への子供のバイオレンス、それがあって、家族が非常に崩壊をしているようなところが報道されることがしばしばあるわけであります。

 これはやはり、家族でも立派な個人であるということで、個人の尊厳を本当に尊重すれば、それは非常によくないということですから、個人の尊厳ということが家族になければ家族は成り立たないというので、この二十四条というのはそのプリンシプルをそのまま書いているわけですから、このプリンシプルを生かせばいいんですね。その生かし方がよくないので、その生かし方については各論の法律的なもので具体的にいろいろ変えることがあるかもわかりませんが、憲法としては、特にこれは、基本的には立派なものが書いてありますから、問題ないと思います。

土井委員 ありがとうございました。

 だから、憲法に問題があるんじゃないのであって、憲法を行っていないところに問題がある、努力していないところに問題がある、そういうことですね。

日野原公述人 そうです。

土井委員 はい、ありがとうございました。

 先ほど日野原先生は、憲法の前文の中で「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」というふうにあることの中からすると、名誉ある地位というのを国際社会において占めたいと思うということをここで宣言していることからすると、現在までの間に外交政策というのは余りにも名誉ある地位から隔たっているというふうにもおっしゃっているわけなんですが、私も同感です。全くそのように思いますね。だから、平和外交こそ日本の国のありようからするととても大事だ。国際貢献と口で言いますけれども、具体的には、それは平和外交のあり方そのものがずばり問われているんだということにもこれはなる問題だというふうに思うんです。

 先ほども辻委員が少し取り上げて言われていましたけれども、この一週間ほどの間、イラクでは、ファルージャにアメリカ軍が総攻撃を開始しましたけれども、その行動というのは、少なくとも国際人道法に違反する行動だということもはっきり言えるという意見がやはり多数意見としてあるわけですね。当初、イラクに対して自衛隊が派兵されることに対して賛成していた人の中にも、これはちょっと余りにも私たちが思っていることとは違いますねという意見を言われる方があります。

 そういう点からすると、日本は、国連においては常任理事国になることを非常に強く望んでいるけれども、しかし、最近は、安保理事国、常任理事国でない安保理事国になったわけですから、したがって、そういう立場からすると、国際人道法に反するというふうな行為を目の当たりにし、そして、しかも日本国憲法の趣旨からしたら、日本は「名誉ある地位を占めたいと思ふ。」と言っている国なんですから、したがって、国連において緊急総会を開くなんというふうな提案を少なくともしたっていいんじゃないかという意見があるわけですが、先生はどういうふうにお思いになりますか。

日野原公述人 名誉ある地位ということは、格好いいことでなくて、犠牲を伴うんですよ。愛には犠牲が伴う、愛には許しという犠牲が伴うように。ですから、私たちが名誉ある地位をするというのは、非常に内的にもつらいことがある。それを我慢しながらも勇気を持ってしなくてはならないということで、そういう意味において、方向性のリーダーシップ、結果をどういうふうに始末することの相談でなくて、方向性に参与するという、そういうイニシアチブな外交なり政治をしなくてはならないと思うわけです。

 それで、私はここでついでに申しますが、「われらの安全と生存を保持しようと決意した。」というんですが、これにはやはり犠牲があるんですよ。ただ安全、安全じゃないですよ。だれかが犠牲になっている。その犠牲のために全体を安全にするというんだから。

 そういうふうなことで、そういうリーダーシップをやるような行動をとる人がやはり日本にもっともっと出て、それがリーダーシップをとるというんですが、リーダーシップがいろいろなところでないということが一番ですね。

 それで、リーダーシップをとるための学習の仕方ということも考える。でもこれは、やはり人間はリーダーシップの信念がないと。ですから、宗教的な人は、信仰があるから、死んでもそれでいいというふうになるんですが、それと同じような信念を持って行動する、勇気ある行動をするということが必要ではないか、私はそういうように思います。

土井委員 ありがとうございました。

 あと、もう時間がありませんから申しわけありませんが、寺中公述人と高竹公述人、お二人に。

 寺中公述人はインターナショナルの立場をずっと認識して今までやってこられているわけですから、アムネスティの立場からぜひ聞かせていただきたいし、私は、残念ながら、高竹公述人とは憲法に対しての認識が違っています、基本から。違うんですね。しかし、二十一世紀ということに向けて、日本の国家像のあるべき姿というのを言われているわけですから、それは具体的にどういうことを考えていらっしゃるかというのを、お二方からお聞かせいただければと思います。

寺中公述人 では、私の方から非常に簡潔に言わせていただきますと、先ほどのプレゼンテーションのときにも申し上げましたけれども、基本的には、国際的に認められている基準というものを、日本の政府として、日本として、日本の社会として、どのように受け入れていくのかということをしっかり踏まえつつ、その人権基準というものを実際に履行していくことだというふうに考えています。

 ですので、その履行のためにどういうことが必要なのかという観点から、憲法問題も再考慮されなければいけないだろうというふうに考えております。

高竹公述人 意見でも申し上げたとおり、私は、やはり国際社会に対して、戦争のない平和な世界を、リーダーシップがとれる日本であるべきだというふうに思っていて、例えば日米同盟がありますけれども、幾ら同盟を結んでいるからといって、言われるばかりでは僕はこれはちょっと違うと思うので、やはり日米同盟に関してもお互いに啓発ができる、いいものはいい、悪いものは悪いとはっきり物が言える、そんな国づくりでありたいというふうに考えております。

土井委員 ありがとうございました。

中山会長 これにて公述人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、一言ごあいさつを申し上げます。

 公述人各位におかれましては、長時間にわたり貴重な御意見をお述べいただき、まことにありがとうございました。憲法調査会を代表して、心から御礼を申し上げます。(拍手)

 午後二時から公聴会を再開することとし、この際、休憩いたします。

    午後零時一分休憩

     ――――◇―――――

    午後二時四分開議

中山会長 休憩前に引き続き会議を開きます。

 日本国憲法に関する件についての公聴会を続行いたします。

 この際、公述人各位に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたく存じます。

 議事の順序について申し上げます。

 まず、江橋公述人、ペマ公述人、村田公述人の順に、お一人二十分以内で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。

 なお、発言する際はその都度会長の許可を得ることとなっております。また、公述人は委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。

 御発言は着席のままでお願いいたします。

 それでは、まず江橋公述人、お願いいたします。

江橋公述人 江橋でございます。

 私は、本憲法調査会の活動をかねてより敬意を持って見させていただいております。本日、このように意見を述べる機会を与えていただき、感謝しております。

 さて、昨年秋の衆議院選挙とことしの参議院選挙を通じて、憲法改正の問題にとって非常に重要な事態が生じたと思っております。それは、改憲であれ、護憲であれ、憲法問題を語っても票にならなかったということであります。市民は、日本国憲法という法典の文章を変更することには第二次的な関心しか示さなかったのであります。

 私は、先般の選挙を、改憲派と護憲派がともに敗北した選挙と見ております。憲法改正問題を訴えても票にならない。いや、それどころか、有権者の中には、候補者が憲法改正問題に触れると、そんな問題はやめて、もっと日常、焦眉の急の問題を触れろ、緊急の課題について政策を述べよと反論する者もいたと聞いております。憲法改正は選挙の争点にならない。実際、参議院選挙の際に、有権者に向けて、どのような争点で投票するのかを聞いた新聞社のアンケートでは、不況、倒産、失業、年金、郵政改革、自衛隊のイラク派遣問題などなどが並んでいても、憲法改正問題は項目に挙げられてもいなかったのであります。

 しかし、日本の市民は、憲法典の文章の改正にはさほどの関心がないとはいえ、平和の問題であれ、人権の問題であれ、あるいは国家のあり方の問題であれ、日本という国の基本的なあり方、つまり、実質的な憲法問題には深い関心があります。私は、本調査会が、こうした市民の意向を踏まえて、日本国憲法の文章の変更をあれこれ議論するよりも前に、二十一世紀の国家のあり方、実質的な憲法のあり方について、さらに御議論を深めることを期待しております。

 私も、本日、ここでは、研究室で学んできた憲法学の知識というよりも、日本の社会で市民の運動を見てきた者として、主権者市民の気持ちをお話ししたいと思っております。ここで述べる私の意見が御参考になれば幸いです。

 まず、平和主義の問題であります。

 私は、一九七〇年代の初めに、当時既に出版されていた日本国憲法の解説書や解釈書を数百冊つぶさに検討する機会がありました。その結果わかったのは、憲法の学界では、憲法九条の平和主義は西欧の文明国に反抗したことの反省という文脈で語られていたということであります。当時、九条を、アジアにおける日本の戦争、その加害者性の反省と謝罪の表現として受けとめていた憲法学説はありませんでした。今日からすると極めて奇異であります。

 こういう憲法学説が転換し始めたのは、実は日中の国交回復がきっかけでした。一九七二年、田中角栄首相、大平正芳外相が北京を訪れ、不十分ながら、日本が国家として過去の侵略を謝罪し、それに対して周恩来首相が、一部の日本の軍国主義者が侵略戦争と多くの戦争犯罪を引き起こし、中国の人民も日本の人民も、ともにその被害者であること、犠牲者であることを指摘なさり、それに基づいて、日中両国の政府、日中両国の市民の間で、被害者同士が手を携えて東アジアの友好と協力を進めることが確認されたのであります。

 この基本的な考え方は、当時、両国の市民に広く支持されたと思います。そして、憲法学説は、政府が責任を認めて反省の意をあらわした後になってやっと、初めはおずおずとでしたけれども、アジアにおける日本の戦争責任の問題に触れ、強制連行や従軍慰安婦の問題に触れるようになったのであります。

 私は、憲法九条の平和主義というものは、一九七〇年以前のもの、つまり、太平洋の島々での日本軍の玉砕、住民の集団自決、特攻隊、空襲、原爆などに代表される、巨大で近代的な軍隊と戦ったこと、その背後にある近代的な国家と戦ったことを反省する平和主義、いわば「きけわだつみのこえ」的な平和主義から、一九七〇年代以降、アジアの大陸における侵略と犯罪を反省する要素も加わった平和主義、いわばアジアにおける反戦の誓い、不戦の誓いに向きを変えたと思っております。日韓基本条約の締結と日中国交回復をきっかけに、反省や謝罪が十分であるかどうかは別として、日本という国家は、確かに戦争を反省し、謝罪したのであります。

 この変化の背景には、政府・与党の努力だけでなく、日中国交回復に至る民間団体の交流、経済界の結びつきの強化と野党外交、自治体外交など、日本社会の各方面の努力がありました。それは、日中関係の改善に貢献しただけでなく、ピンポン外交と言われますように、歴史的な米中和解にも大きく貢献しました。言うならばそれは、一九四〇年代の後半に占領軍から与えられた平和主義の憲法に、日本の社会、日本の市民がみずから新しい命を吹き込んだことであります。実質的には憲法改正に匹敵する大きな事業であったと思います。私は、自分もまた一市民としてその動きの中にあって、東アジアにおける和解と友好に努力し得たことを誇りに思っております。

 私としては、二十一世紀の日本における平和主義を憲法典に書きあらわすのであれば、日本がアジアで起こした戦争に対する反省と東アジアでの和解と友好、協力を今後の国家原則としてきちんと盛り込んでいただきたいと思います。それは何も特に新しいことではありません。既に一九七〇年代に、政府、与党、そして野党と市民が協力して行ってきたことの再確認であります。

 残念なことに、その後の日本国内にはこれをよしとしない考え方があり、教科書問題、従軍慰安婦問題、靖国公式参拝問題などが起こされています。これらは、結局のところ、与野党を通じて確認した過去の戦争への反省、戦争指導者への批判という基本線からの逸脱だと私は思っております。

 私は、こういう事態が繰り返されないように、憲法九条に、市民が吹き込んだアジアの不戦という新しい命を明示する文章をつけ加えるのであれば、賛成できると思います。もちろん、このほかに、平和主義については、自衛隊が合憲であることの確認であるとか、非核三原則、武器輸出禁止三原則などの国是の扱いであるとか、軍縮努力、軍需産業の平和化の努力であるとか、国連の平和維持活動への協力、人間の安全保障など、多くの問題点がございます。これを、憲法九条を改正して憲法典に盛り込むのか、憲法九条につけ加えていくのか、それとも平和基本法のような形で文章化するのかはさまざまに意見が分かれています。私は、憲法典に余り細かいことまで書き込むのは得策ではないと思っております。

 いずれにせよ、ここで私が申し上げたいのは、この六十年間に日本国憲法のもとで積み重ねてきた主権者である市民の平和への実践の成果をきちんと確認していただきたいということであります。

 次に、基本的人権の問題です。

 基本的人権もまた、占領軍から与えられた新しい価値でありました。基本的人権は、一九四五年十月四日の自由の指令に始まり、憲法草案で体系的に示され、日本国憲法第三章に「国民の権利及び義務」として盛り込まれました。

 ところで、当時の日本国内でこの憲法規定を実現する力があったのは官僚たちでした。官僚は、民法や刑法の改正などを通じ、基本的人権に抵触しそうな国の法律を改め、クリーンになった立場から、市民に向けて人権擁護を啓発したのであります。

 かつて明治時代に、自由民権派の中江兆民は、その著作「三酔人経綸問答」の中で、上から恵み与えられる恩賜の民権と下から進んでとる回復の民権について触れました。そして、最初は恩賜の民権であっても、市民がこれを大事に守り育てればいつか回復の民権に等しくなると述べています。中江兆民は、このときには民権ですから、政治的な権利が主として考えられていたと思いますけれども、私は、この考えは人権一般にも拡張できるものと思っています。

 日本では、敗戦後の官僚主導の国家再編成、法制度再編成を通じて、皮肉なことに、アメリカ的な回復の人権を占領軍が日本の官僚に与え、次に官僚がそれを市民に向けて上から下に与えるという、いわば二重の恩賜の人権が実現されました。憲法制定に伴い、国会内に憲法普及会という官製のNPOが形成されて、懸命の普及活動を行いました。後の時代には、法務省人権擁護局が人権週間を中心に人権啓発を行い、あるいは自由人権協会のような人権擁護の民間団体を立ち上げさせました。全国に配置された人権擁護委員は、人権に理解が浅いために起きた市民相互の人権トラブルを扱いました。

 ここに特徴的なのは、人権実現に向けての国家の責任の軽視であります。憲法典に人権が書き込まれる第一の理由は、通常は、国家に向けて、人権被害者、被差別者の権利を回復し、さらに積極的に人権の促進に努力するように求めることであります。名あて人は国家であるはずです。それが回復の人権です。

 アメリカやイギリスでは、裁判所という制度を使って、市民は人権実現に向けての政府の責任を追及してまいりました。しかし、日本の場合は、国家は既に正しく誤りのない立場におり、その高みから市民社会を見おろして、人権の理解の浅い市民を啓発したのであります。

 このような人権概念の性格を変化させ、中江兆民の予言のように、日本国憲法の人権を回復の人権たらしめた最大の功労者は、私は、朝日訴訟を起こした朝日茂さんであったと思います。

 彼は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利、つまり生存権を実現する政府の責任を裁判の場で初めて追及したのであります。この朝日訴訟は、上告審の途中で彼が死んでしまうということで終了し、最高裁判所は、傍論として、憲法二十五条はプログラム規定にすぎないので、今後裁判所での救済はしないと宣言しました。朝日訴訟は敗訴に終わったのであります。

 しかし、この裁判は、市民が憲法の人権規定を使って国の人権実現の責任を追及することができるということを明らかにしました。そのことの衝撃は劇的であり、この裁判の後には、福祉であれ医療であれ教育であれ、いわゆる人権裁判、憲法裁判は全国にあふれました。一九七〇年代以降には、報道の自由や知る権利が問題となったマスコミ裁判、環境権、人格権が問題となった公害裁判、平和的生存権が問題になった九条裁判なども加わりました。憲法の人権規定に本来の回復の人権としての性格を与えたのは市民であり、市民の運動であったのです。

 このように、市民が裁判の場で国家を相手に人権実現の責任を追及するという新しい事態を法技術的に受けとめるために、憲法学は、アメリカの憲法裁判に学びつつ、東京大学の芦部信喜教授を先頭に、憲法訴訟論というものを開拓しました。

 さらに、市民は政府に対して、政策的にも人権の実現を求めました。日本国憲法十三条には、基本的人権が「公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と書かれています。こうした市民の要求は、折から勃興した国際人権保障とも連携して、部落差別、病者、障害者、女性、外国人などさまざまな領域での条約加盟、立法、行政における前進を獲得することになりました。ここでも、人権の運動、市民運動が大きな働きをしました。私は、自分が多くの市民、運動家とともにこれを積極的に推し進めてきた一人であったことを誇りに思っております。

 以上の事情からすれば、今、憲法改正の中で人権規定を扱うときには、どのような新しい人権を加えるのかという議論よりも前に、主権者市民が推し進めてきた人権実現に向けての政府の責任の明確化、国政の場と裁判の場でそれを保障する責任を一層明確にすべきであることがわかります。皆様の御賢察をお待ちしております。

 三点目は、地方分権であります。

 一九六〇年代には、高度成長一本やりだった官僚主導の国家運営が、都市問題、福祉の貧困、そして公害の多発によって破綻しました。そこで、日本の市民は、市民に一番近い政府である自治体に大きな期待を寄せ、地方分権によって事態の打開を図りました。当初、それは革新自治体の増加として実現しましたが、政府・与党も事態の深刻さに気づき、一九七〇年代後半以降には、与野党ともに地方自治の重要性を説く地方の時代になりました。また、こうした事態を受けて、法政大学の松下教授らによって、市民自治の憲法理論が展開されるようにもなりました。

 こうした市民の運動によって、それまでのヒマワリ知事という言葉に示されたような、国の方をいつも向いていて、中央からの財政支援で公共事業に邁進する首長のもとでの自治体ではなく、地域の持続的発展と市民の参画を柱にする首長のもとでの地方自治があちこちに展開されるようになりました。日本国憲法に盛り込まれた地方自治の規定は、これもまた市民の運動によって新しい命を吹き込まれたのであります。公害対策、福祉、保育・教育支援、外国人処遇など多くの面で、それまでの上命下服ではなく、対等協力の自治が展開されました。

 憲法学は、こういう変化に対しては甚だ鈍感でして、地方自治については従来からの古い解説を繰り返すだけでした。一九七〇年代以降には、自治体職員の政策提言、政策実現の力も強まり、市民、自治体職員、研究者の三者構成で自治体学が形づくられ、高水準の研究会、学会も多く形成されましたが、憲法学者の参加はほとんど見られませんでした。また、最近になって、全国知事会などで二十一世紀の地方自治のグランドデザインが提言されるようにもなってきましたが、その憲法学的な検討もまだ十分ではありません。そのために、本調査会における自治の問題の検討に際して、憲法学からの助言が少ないのは残念であります。

 私は、本調査会においても、自治の重要性について、市民がつくってきた自治体学の成果を取り入れてさらに深い議論を行い、二十一世紀の日本において、市民の生活と生涯について、市民に一番近い政府である市町村レベルの自治体が負う配慮の責任、それでうまくいかないときに国家の担う配慮の責任、それでもうまくいかないときに国際社会に期待する協力の関係を確立されることを期待しております。

 さて、本日私に与えられている時間はあと数分であります。時間が尽きようとしております。お話ししたいことは、このほか幾つもございます。日本の憲法と国際社会の関係、司法制度による救済、内閣制度の強化、天皇制、さまざまございますが、議論を集約しなければいけません。

 これまでの説明を通じて私が申し上げたかったことは何かといえば、それは、日本の市民は、主権者である市民は、日本という国家のあり方について意見がなかったり、傍観していただけであったのではないということであります。憲法問題という表現は余り好かれていませんでしたからそういう表現はありませんが、市民は、日常における人権保障から国家全体の安全保障のあり方まで多くのことを主張し、運動を展開し、選挙で票を投じてきました。市民は、言うならば公共の討議を行ってきたのであります。

 二十世紀末には、こうして展開されてきた市民の議論が公共性を担っているというふうに認識され、この公共性を担った市民の運動は高く評価され、NPOの時代と言われました。さらに、従来、国家だけが担っていたとされる公共性について、二十一世紀の日本は、政府と市場と市民社会がともに公共性を分有する時代だとも言われました。なお、ここで言う政府は、上命下服ではなくして、対等に協力し合う中央政府と地方政府でありますから、セイフズと複数形で言われるべきなのでありましょう。こういう公共性の分有の時代が二十一世紀であるとするならば、憲法もまた、政府と市場と市民社会が共有できる基本価値を定めた基本原則であることが必要だと私は思っております。

 私は、本調査会がもう一度、虚心坦懐に、これまでの戦後の日本の政治の経緯、特に一九七〇年代以降、平和の運動、人権の運動、地方自治の市民運動が行ってきたことを振り返り、そこで主権者市民が示してきた決意あるいは夢を十分にくみ取り、二十一世紀の憲法の構想をそこから出発させることを強く希望し、期待するものであります。

 御清聴を感謝します。以上です。(拍手)

中山会長 次に、ペマ公述人、お願いいたします。

ペマ公述人 ペマ・ギャルポと申します。

 きょう、このような機会を与えてくださったことに対し、まず心から感謝を申し上げたいと思います。

 これから約二十分間に私の未熟な意見を聞いていただいて、その過程において、言葉の障害、あるいは私が今まで生きてきた環境、生い立ちなどによって、皆さんと必ずしも一致しないような意見等もあるかもしれません。それらはすべて私個人の主観に基づくものであって、私の責任であって、私をどなたが推薦してくださったかわかりませんけれども、その方には一切責任がないことを申し上げたいと思います。

 日本においては、大学の先生、または新聞記事、あるいはテレビに映像化されたものなどなどは客観性のあるものとして考えておりますけれども、私は、文字は一つずつだれかが考えて言葉を選んでいるし、私自身、きょうたくさんの資料を持ってきましたけれども、これらはすべてあくまでも私の意見を立証するための資料であって、すべてが計算、あるいは打算、あるいはある程度の意図があって話すことであると思います。したがって、これから私が話すことも、私が今までこの国で約四十年間ぐらい生きてきて、その中で私が感じたこと、そして私が今この国に対して将来こうあってほしくないというような気持ちが入っているということで、極めて客観性が薄いということも申し上げたいと思います。

 私は、この国に生きてきてまず何よりも感じることは、例えば、日本において内閣総理大臣が不名誉なことで逮捕されることがありました。あるいは、政権の中枢におられた方が権力を乱用したために法の裁きを受けるようなこともありました。私がお世話になったもう一つの国、インドという国も、独立して以来約五十年間、あくまでも選挙によって政権がかわり、そして権力の中枢にいた方が汚職などで逮捕されました。それぞれの国の人からすれば、極めて不名誉なことで悲しいことだろうと思いますけれども、私は、ある意味では非常に、法治国家としての健全な法の形が生きているということの証拠として、極めて民主的な国家であるということについて逆に評価した次第であります。

 また、この四十年間近く、私はこの日本の豊かさ、便利さ、そしてこの日本においてさまざまな自由を堪能してきました。私は、このような日本において、きょうもですけれども、一人の人間として自分の意思、自分の思想について、何の恐れもなく表現できることは極めて幸せだと思っております。私がこのような生活を過ごしている間においても、私の親族、あるいは私の同胞たちが、同じような自分の思想を述べること、あるいは自分の信条をかたく信ずる、守ることを罪として、無法に投獄され、あるいは命さえ奪われていることを考えてみますと、この国の自由度、あるいはその民主主義の定着していることについて、大変幸せだ、これはすべてこの憲法のおかげだと、私はそれなりにこの憲法を評価したいと思っております。

 ただし、この憲法について、日本においては与えられた憲法というようなことをよく言われますけれども、確かに歴史的背景からすればそのようなことはないこともないと思いますけれども、しかし、それまでの土台として、やはり明治、大正、昭和にかけて、多くの日本の方々が民主主義のために、そして人権のために命をかけて、そして運動をやってこられた。例えば、私が日本に来たときまだ生きておられた、女性の選挙権のために働いた方々がおられました。そういう方々を考えてみますと、必ずしも、その与えられた憲法だけで、そしてその憲法が、今その恩恵だけだと思っておりません。それは、日本人が今まで一生懸命頑張ってきた成果だと思っております。

 きょう、このような形で皆さんの前で意見を述べることができることについて私が深く感銘するのは何かというと、私のような人間が、この日本において、時と場合によっては内閣総理大臣まで名指しで批判しても平気で、突然特高隊とかあるいは憲兵隊が来て連れていかれるようなことがない、そして国家の指導者の侮辱罪とかそういうものに問われることがないということは評価できると思います。

 しかし、同時に、この日本という国が国際社会の一員として今後生きていくこと、あるいは今生きていることの様子を見てみますと、残念ながら、やはりこの憲法も無傷ではない、特に第九条というのが、私は、言葉は非常にぶっきらぼうかもしれませんけれども、極めて非現実的な要素があるように思います。

 その日本の憲法の第九条について、特に私がそういうことを思うのは、一つは日本国憲法のつくられた過程と国連憲章のつくられた過程、その時代的背景などを考えてみますと、この辺はかなり関連性があると思っております。そして、残念ながら、国連憲章も当初思ったとおりにはいっておりませんし、したがって、今の日本国憲法の第九条の戦争放棄ということは単なる宣言で終わっていると思います。そして、このような一方的な戦争放棄ということに対して、何らかの国際社会においての保障もなければ、それを尊重するような環境も残念ながら現在ない。

 そのような一方的な宣言を持つことだけ考えてみますと、特に、私が生まれた祖国においては、仏教を七世紀以来信仰し、そして仏教をあらゆる価値観の基準にして、すべての法のもとを仏教の思想、そしてその仏教の思想、すなわち生命の尊重を願って、そして他に危害を加えない平和を一方的に信じてきたんですけれども、やはり、残念ながら、その平和な生活は一方的に侵略され、そして固有の価値観を否定され、約六百万人のうちの五分の一の人たちがそのとうとい命を奪われました。

 これに対して、国連の一つの機関である国際司法裁判所は、これを大量虐殺である、ジェノサイドであるということを判定し、そして他方に対して批判をしました。また、国連の総会においても、三回にわたって決議をされましたけれども、これらの決議も、そして国際司法裁判所の判決も、何らかの救済にならなかったということを考えてみますと、残念ながら、今の国際社会ということは、あくまでも力、あるいは、残念ながらその武力、あるいは既成事実をつくることによって行われているということが現実だろうと思います。それを考えてみますと、今日本の周辺に起きていること、あるいは今現在、日本の憲法を細かく見ていると、やはりその憲法は十分に守られていないと私は思います。

 しかし、その守られていない現状は、憲法そのものの欠点であるということよりも、今の国際社会に照らし合わせたときに、実際生きていく上において極めて限界があるということを示しているのではないかというふうに考えております。ですから、もっとはっきり言えば、例えば私のような人間が、もしかしたら理解が足りないかもしれませんけれども、何度読んでも、今の例えば自衛隊の存在というものは憲法違反だと私は思っております。しかし、その憲法違反であるということが異常なのか、あるいは国際社会の今の現状から見るとそうならざるを得ないような客観情勢があるということが異常なのか、それは私にもよくわかりません。それは皆さんがよく考えていただくことだと思います。

 私は、理想としては、もちろん私自身が、今申し上げましたように、難民生活をし、そして家族と離散し、多くの人たちを失った者として平和のとうとさも、そして、戦争あるいは戦争に伴う飢餓あるいはその他のさまざまな悲惨な生活を身にしみて経験してきた者として、十分に平和のとうとさは知っているつもりであります。ですから、憲法九条の理想とするものに関しては、私も、もしできれば、もちろんそのような世の中がこの世界に一日も早く到達してほしいと思うと同時に、しかし残念ながら現実の世界はそうなっていないということを改めて皆さんに申し上げると同時に、私がチベットで生を受けて、そしてインドでその生を拾ってもらって、そして日本でそれをはぐくんでいただいて、教育を与えていただいて、きょう、このような形で生活できるような環境を与えてくださったこの日本の、今私が毎日恩恵を受けているさまざまの豊かさとか平和とかそういうものが、永遠に子孫に対しても同じようにその恩恵を受けてもらうためには、やはりそれを守っていくということも大事だと思います。

 そして、それを守っていくためにはやはり憲法というものが根本だと思うし、そういう意味で私は、やはり憲法第九条は憲法の中においてもちゃんと改正はできることになっているし、現に今の憲法も形の上では、論理的には明治憲法の改正であるわけですので、したがって、立法府の委員の先生方によって、当然、日本じゅうの一億二千万人の人たちの知恵をかして、そして日本の未来のために、そして日本ならではのものということを、ぜひ、日本の国民、日本の文化、日本の伝統、あるいは世界の現状、そしてさらには地球及び私たち人類の将来を十分に考慮した上で、憲法をきちんと直す必要があるのではないかというふうに思います。

 このほか、この憲法について、先ほど申し上げましたように、日ごろ恩恵を受けている者として感謝すると同時に、しかし一方においては、例えば今の若者たちの道徳的な欠如とかあるいは社会をむしばんでいるさまざまなものなどを考えてみると、自由に伴うある種の節度とかあるいは社会の中における人々のモラル、そういうことなども考えてみると、やはり、むしろ憲法の中においては、私が日ごろ日本人から、伝統的に日本人が持っているものが今の憲法の中には十分に取り入れられていないのではないかというふうに考えております。日本には、おかげさまでとかあるいは人に迷惑はかけないとか、さまざまな日本ならではのものが、聖徳太子の十七条の憲法、あるいは日本の、これこそまた人によって見解が違うかもしれませんけれども、例えば教育勅語から受けられるような温かさというか人間味とか、そういうものが残念ながら私は今の憲法には十分に感じ取ることができません。

 また、私たち外国人にとっては、憲法第一条の天皇の象徴としての存在についても、もうちょっと明確にしてほしいというところがあります。そういうことについては、もう時間がありませんので、また何かの機会があれば、質問等でお答えしたいと思っております。

 さらには、私は、今まで日本が平和でこられたことは、必ずしも今の憲法だけではないと。それは、やはり一つは冷戦構造も、ある意味では私は今まで憲法が何とかして憲法のもとで生活できた者に貢献してきていると思うし、しかし、冷戦構造が崩壊して新しい国際秩序をつくっていく上において、新しい国際社会に適したような国際社会を考えた場合に、それは、もし日本が今後も今の憲法を堅持していくということであれば、またそれに合わせて、国際環境をつくることに対しても貢献しなければならない。それは多分、国連憲章そのものの見直しから始まるんじゃないかと思います。そういうことについては、また機会があったら話をしたい。

 ただ、何よりも私は、きょうも一人の外国人として、ある意味では日本の根幹にかかわる、主権を持っている日本の皆さんに対して大変大それたことを申し上げましたのですけれども、それはあくまでも一人の、観客席にいてこの国を四十年間見てきた者としての老婆心からいろいろ申し上げたというふうに解釈していただきたいというふうに思っています。あくまでも憲法は主権者である日本国民が考えることであり、そしてその代表である先生方が、できれば、次の選挙で当選するかしないかということと関係なく、永遠に自分たちの子孫がその恩恵を受けるということ、あるいは法によって束縛を受けるということを前提に考えて、ぜひとも、日本の未来、アジアの未来、そして人類の未来のために貢献できるような憲法を考えていただきたいということを申し上げて、私の一方的な話を終わりにしたいと思います。

 御清聴ありがとうございました。(拍手)

中山会長 次に、村田公述人、お願いいたします。

村田公述人 いささか準備に手間取りまして、前のお二人のような詳しい要旨を準備することができませんでした。お手元の簡単なレジュメをごらんいただきたいと思います。そこにございますように、「憲法・国民主権・立憲主義」、このようなタイトルをつけさせていただきましたが、本日のところは、この三つ目の立憲主義という言葉が私の話のキーワードになります。

 九〇年代に入りましてから、立憲主義が憲法研究者の大きな関心事項となりました。直接の契機は、東欧諸国にそれまでの西側モデルの憲法体制が導入されたことにあります。立憲主義的憲法が世界の大部分を覆うことになったわけであります。この事態は、当時フランシス・フクヤマ氏が述べましたような、歴史の終わりの到来を意味することではありませんでした。そのことは、今日も日々のさまざまな事象によって示されているとおりだろうと思います。しかし、立憲主義、より正確には民主的な立憲主義あるいは立憲民主主義と言ってもよろしいかと思いますが、これがいわば人類が発見した最高の統治形態であるという認識あるいは評価は、国際的に見れば、今日も揺るぎがないところだと思われます。

 ところが今日、日本では、この立憲主義の危機を憂える声が頻繁に聞かれます。そのような声は、憲法学界内部からだけではなく、外からも聞こえてくるわけでございます。そこで、私は、近年の憲法の運用の仕方を観察しながら気がかりに思うことを述べたいと思います。

 まず、立憲主義とは何かということが問題であります。学界ではこれをめぐってさまざまな議論があるところでありますが、憲法による権力の拘束、憲法に基づく政治の原則、このようなミニマムの一致点はあります。この最小限の意味については特に議論のないところであります。したがいまして、立憲主義という言葉は、きょうのところはそのような意味で用いたいと思います。

 そうしますと、問題は、憲法とは何かということと、憲法に基づくとはどういうことか、これが問題となってくるわけであります。

 そもそも憲法とは何か、あるいはその特質は何か。これは、大学の憲法学の教科書では必ず初めに出てくることであります。授権規範、制限規範、最高規範、こういう三つの規範的特質が必ず指摘されるわけであります。

 まず、授権規範とは、文字どおり権限を授ける規範、つまり公権力に権限を与える規範という意味であります。つまり、公権力は、憲法上の根拠がなければ活動できないということを意味します。この際注意したいことは、授権の権というのは、あくまでも公権力の権限のことでありまして、国民の権利のことではないということです。戦前の憲法上の臣民の権利と違いまして、日本国憲法が保障する人権とは、憲法や国家によって創設されるような権利ではなく、国家以前の権利なのであるということです。この点は、新しい人権という問題を考える際にも銘記しておくべき問題だと思います。

 次に、制限規範という意味ですけれども、これまた読んで字のごとく、制限する規範、つまり公権力を制限する規範のことであります。憲法が授権した権限が何でもできる権限であったとしたら、これは憲法がないのと同じことを意味します。憲法は、単に公権力の活動の根拠を提供するだけではなくて、さらに公権力の限界を組織や手続、実体の面から明らかにする法規範であります。これが制限規範ということの意味です。そうしますと、戦前の憲法は、曲がりなりにも授権規範であったということは言えるかもしれませんが、制限規範という性格は極めて薄かったというふうに言えるわけです。

 第三に、最高法規という意味です。これは、一国内における最高の法規範、一国の法秩序の最高位に位置し、それに反する下位規範は無効になる法規範という意味です。それでは、なぜ憲法は最高法規なのか。これが問題となります。いわゆる実質的意味の問題です。それは、言うまでもなく、憲法が国家や社会にとって最も重要な価値を保障することにあります。

 いわゆる近代憲法と言われる憲法は、自由権を中核とした人権を保障しました。国民主権を保障しました。権力分立、こういった基本原理を最も重要な価値としていたわけです。いわゆる現代憲法と言われる今日の憲法は、こういった近代憲法の掲げた価値をより一層発展させたものとなっています。詳細は述べられませんけれども、例えば、人権問題でいえば、先ほど江橋先生の報告にもありましたような生存権を中核とする社会権、これが新たに保障されるようになったこと。国民主権の問題で申しますと、単なる代表民主制にとどまらない直接民主制が保障されているということ。権力分立制の問題でいいますと、違憲立法審査制が取り入れられたといったこと。そして、平和主義であります。

 現代憲法に属する日本国憲法は、さらに独特の内容としまして、平和的生存権の保障、一切の戦争放棄を内容とする平和主義を持っております。憲法が最高法規でありますのは、こうした社会や国家にとって最も重要な価値を内包するからであります。通常の多数決で安易に変更してはならない価値を内包するから、最高法規なのであります。時々の多数派が簡単に乗り越えられるようなものでありましたら、憲法が憲法である意味はないと言えるわけです。

 人権尊重主義、国民主権、平和主義を三大基本原則とする日本国憲法は、そのような基本原則を保障するための最高法規であり、授権規範であり、制限規範である、このように言うことができます。

 こうした憲法を解釈、運用する場合、どのようにすべきかということが今問われています。すなわち、憲法に基づくということの意味であります。結論を一言で申しますと、民主的かつ立憲主義的な解釈、運用を行うべきであるというふうに言えると思います。そうしますと、そのような観点から、現に行われている日本国憲法の解釈や運用は、どのように見えるのでしょうか。

 幾つかの問題を考えてみたいと思いますが、まず、民主的な憲法の運用、解釈の大前提は、言うまでもなく、国会が主権者である国民の意思を忠実に反映することにあります。国民主権の原則がどのように扱われているのか、国会と国民の関係は今どうなっているのか、これが問われるわけであります。

 選挙制度につきまして、憲法は、四十三条、四十四条、四十七条におきまして、これを法律で定める旨定めています。しかし、これは決して法律で定めれば何でもよいという意味ではありません。いわゆる広範な立法裁量が認められているわけではありません。例えば、両議院の議員及びその選挙人の資格に関する四十四条は、ただし書きで、人種や信条などなどによる差別を禁止しています。選挙区や投票方法等の選挙に関する事項に関する四十七条は、とりたててそのようなただし書きは置いておりません。しかし、憲法十五条が選挙権を国民固有の権利とし、そのほかに普通選挙の原則などを定め、さらには憲法十四条が平等原則を保障している以上、これらの定めを無視して法律で自由に選挙制度を設計することは憲法上許されないということになります。

 選挙権の意味につきましては、最高裁が一九七六年四月十四日判決におきまして明確に述べているところであります。これは、レジュメの中にも紹介してあるとおりですので、あえて読みませんけれども。最高裁が言うようにまさに、議会制民主主義の根幹をなす選挙権が立法府によってどのように扱われているかは、立法府自身の議会制民主主義に対する姿勢を示すものと言えます。

 現在の選挙制度は、小選挙区制を主体とする選挙区制によりまして、多様な民意が議席数に反映しない仕組みになっております。各投票が選挙の結果に及ぼす影響力においても平等であること。これは最高裁判決の中に出てくる文言でありますが、こういった平等の実現にはほど遠い状況にあるということが言えます。また、さまざまな問題がありますが、例えば、在宅投票が極めて限られた人にしか認められていないという問題、これは高齢化社会において大きな問題となるところであろうかと思います。そのような方々が投票する意思を持ちながら投票できない、こういった事態が発生する。これは、国民の国政への参加の機会を保障する基本的権利として選挙権が十分に保障されているとは言えないということを意味します。

 選挙と選挙の間、つまり、在任中議員は公約を守る義務がある、このように考えることができるわけですけれども、現行制度上、特にそのような責任を問うような仕組みはありません。つまり、今のところ、この公約を守るべしという義務は道義的な義務にとどまっているということが言えるわけです。

 としますと、議員の国民代表としてのモラルが問われるということになるわけです。しかし、残念ながら、大小さまざまな公約違反、また、それと無関係とは言えない政治腐敗が有権者の政治不信の大きな一因となっているように思われます。NHK放送文化研究所が編集しました「現代日本人の意識構造」という本があります。第五版、二〇〇〇年に出たものですから、データはやや古くなっているかと思われます。しかし、この本を見ますと、選挙の有効性に対する国民の信頼が長期的に低落の一途をたどっていることが明らかになります。各種選挙における低投票率は、有権者のまさに疎外感を反映しているのではないでしょうか。

 ルソーは、イギリス人民は自由だと自分では考えているがそれはとんでもない誤解である、彼らが自由なのも議会の構成員を選挙する期間中だけのことで、選挙が終わってしまえばたちまち奴隷の身となり、なきに等しい存在となるのである、このように社会契約論の中で喝破しました。これはまさに、今日の日本の有権者の実感をあらわす言葉ではないかと思われます。

 こうしてみますと、今日、民主的な憲法の解釈、運用の前提が果たして十分に整っているのであろうか、このようなことが問題として浮かび上がってくるわけです。

 次に、立憲主義的な憲法解釈、運用ということの意味について述べてみたいと思います。

 憲法を民主的に解釈、運用すべきといいましても、その時々の民意に忠実な解釈であればそれでよいというわけではありません。それでは、どうにでも解釈してよいということになりかねないからであります。民主的な手続によって制定された法律は民意の表明とみなされますが、そのような法律も、裁判所の違憲立法審査に服することになっています。とにかく民意に忠実であればよいという考え方は、このような違憲審査を否定する考え方と言うこともでき、憲法の最高法規性を否定するものであります。

 そもそも、民意というものが常に明確な実体を持つわけでもありません。仮に明白な民意がある場合でも、それが間違っていることもあり得ると考えなければなりません。これは、まさにナチズム体験の教訓であり、戦後制定された立憲主義的憲法、各国の憲法が共有しているものでもあります。

 中には、憲法擁護が、憲法典擁護、条文そのものの擁護であってはならない、条文そのものよりも大事なものがあるという考え方もあろうかと思われます。なるほど、テキストだけを読むのではなく、コンテキストにも目配りする必要がある、これは確かにそのとおりでございます。しかしながら、テキストとコンテキストとをあれかこれかと択一的にとらえ、さらにはテキストを軽視するというのは妥当ではありません。民意が必ずしも常に明確な実体を持つわけではない以上、何よりも公権力は、憲法を解釈、運用する際、テキストを尊重しなければならないはずであります。

 それでは、憲法のテキストを尊重するとはどういうことでしょうか。それは、憲法の文言を尊重するということであり、さらには、憲法の規範的特質を尊重するということであります。憲法は、授権規範であり、制限規範であります。したがいまして、主権者である国民の信託を受け公権力を行使する公務員は、憲法上明確に授権された権限を憲法に従って行使しなければなりません。より正確に言いますと、憲法そして憲法に従って制定された法律の定めに従って行動しなければならないということです。公務員は、憲法や憲法に従った法律に書かれていないことはできません。また、それらに書かれていることは、誠実に実行しなければなりません。これが憲法の解釈、運用上の立憲主義の具体的意味と言えます。

 そこで、憲法の解釈、運用の実際のありようを見てみますと、特に平和主義条項の解釈、運用に重大な問題があると言わなければなりません。

 従来、政府は、九条につきまして、自衛のための実力行使を禁じるものではなく、そのための実力の保持も禁止されていないと解釈しました。ここでは、この解釈の具体的な問題点すべてに触れることはできません。ここで問題としますのは、仮に自衛目的の実力の保持と行使が禁止されていないとしても、だからといって直ちに憲法上できることにはならないということであります。これが立憲主義的な憲法解釈のあり方と言えます。禁止されていないことはできると解釈することは、憲法が授権規範にして制限規範であることを無視した解釈であります。言いかえれば、憲法を憲法とは考えない解釈ということになります。

 そこで、従来、政府は、以上のように九条を解釈した上で、自衛のための実力の保持と行使を積極的に根拠づけるものを示してきました。それが、いわゆる個別的自衛権です。個別的自衛権は、例えば、個人の正当防衛権になぞらえたり、あるいは国際法上の当然の権利として正当化されたりしますが、何よりも憲法上明文がないことが、立憲的な解釈上、重大な問題であります。

 ともあれ、従来の政府解釈は、曲がりなりにも、禁止されていないから可能であるといった乱暴な考え方はとりませんでした。その限りでは、立憲主義の一線を守る姿勢があったというふうに見ることもできます。ところが、近年の論議では、集団的自衛権を前提にしなければ成り立たないような自衛隊の活動について、およそまともな説明が聞かれません。憲法問題を聞かれると、時には神学論争はやめましょうというような声も聞こえてきます。これでは、戦争放棄ならぬ、説明責任の完全放棄と言わざるを得ないわけであります。

 もう一つ、政教分離原則についても触れておきたいと思います。

 これほど明白な禁則の例外は、よほどのことでなければ認められないはずであります。政教分離が憲法上の原則である以上、よほどの例外は、これまた憲法上示されている必要があります。いわゆる津地鎮祭訴訟最高裁判決は、極めて緩やかな目的効果基準をとりまして、学説上種々批判を浴びているところであります。この最高裁判決は政府のよりどころにもなっているようであります。

 さまざまな問題が指摘できますが、立憲主義という観点から申しますと、仮に緩やかな目的効果基準によって政教分離の原則に反しないと言えたとしても、これまた禁止されていないからといって許されることにはならないはずであります。すなわち、当該行為を積極的に根拠づける憲法規範が不可欠になるはずであります。地鎮祭が世俗化した慣行であるとしても、国家や自治体は、そのような慣行を担う市民ではありません。習慣ではなく、憲法に従って活動すべき公権力は、まず何よりも憲法上の授権規範を必要とします。閣僚の靖国参拝にしても同断ということが言えます。これは決して個人の自然の感情で説明してはならない問題と言えるわけです。

 以上に述べましたような立憲主義的憲法解釈を貫けば、新しい人権も問題になるのではないかと考えられるかもしれません。しかしながら、これは、立憲的意味の憲法や人権というものの考え方を取り違えた考え方と言わなければなりません。すなわち、既に述べましたように、人権とは、国家以前、憲法以前の権利であります。人権をそのようなものとして尊重することが人権尊重主義の本旨ということが言えます。

 繰り返しますが、憲法が授権規範であるということの意味は、公権力に権限を授けるということでありまして、人権を国民に授けるという意味ではありません。したがいまして、公権力の活動に関しましては、憲法上あるいは法律上、禁止されていないことでも、明確に授権されていないことはできないと解すべきなのに対して、人の営みについては、禁止されていないことは許されると解さなければならないわけです。例えば、表現の自由について、法律でやっていいと積極的に書かれていないことは何もできないなどとする学説は存在しません。

 新しい人権に関しても同様でありまして、明文がないからそんなものは認められないという見解は存在しないし、成り立たないわけであります。プライバシー権や知る権利などは、現行憲法の解釈上、問題なく認められるところでありまして、これについて、改正までして認める必要は考えられないわけであります。

 以上、簡単に見てきましたが、このような概観からも、日本国憲法は、民主的かつ立憲主義的な解釈、運用を受けているとは言えない状況にあろうかと思われます。今日のところ、必要なのは改正ではなくて、そのような解釈、運用であると考えます。日本国憲法は、決して寿命が尽きたわけではなく、むしろまだまだ使いこなされていないと言えます。現実に合わないから憲法を変更するというのは、極めて安易で倒錯した考え方ではないかと思われます。憲法の解釈、運用を正すことが先決事項であると考えます。

 著名な比較憲法学者のミルキヌ・ゲツェビッチという人は、第二次大戦後間もない一九四八年に、平和と民主主義との間には極めて近い関連がある、このように述べたことがありました。ゆがめられた国民主権、人権尊重主義を立憲主義的な運用によって正すということは、まさに平和の礎を築くことになります。

 日本国憲法は、武力によらない方法で世界平和に貢献することを国家に授権しています。アメリカ政府の危険な予防攻撃戦略に加担することは、国際緊張を高めることにしかなりません。そのような道を歩むのではなく、紛争の原因となる貧困を解消し、国家間の対立に際しては軍事力を頼みにすることなく外交的解決に粘り強く取り組むこと、そのような意味での積極平和主義を実践することこそ、国際社会の緊張を緩和、除去し、国際社会における日本の信頼を高め、友好関係の形成と発展をもたらすことになると考えます。

 憲法の立憲主義的解釈あるいは運用といったものは、決して何もしない不作為を意味するのではなく、むしろ、創造的な努力を必要とする能動的な活動であると考えます。そのような活動はまだやり尽くされていない、そこに最大の問題があるというのが、きょうの私の結論でございます。

 御清聴、ありがとうございました。(拍手)

中山会長 以上で公述人からの御意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

中山会長 これより公述人に対する質疑に入ります。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。松宮勲君。

松宮委員 自由民主党の松宮勲でございます。

 まずもって、お三方の公述人に、非常に示唆に富むお話を賜りましたことを心より厚く御礼を申し上げさせていただきたいと存じます。

 公述されましたお三方、順番に従いまして幾つか御質問をさせていただきたいと思います。

 まず、江橋公述人でございます。

 江橋先生におかれましては、長年にわたりまして、市民あるいは市民社会、市民運動の立場から、基本的人権を初め、憲法について数多くの著作を物にしていらっしゃるということで、私も十年ほど前に先生の論文に接した記憶が、今お話をお伺いしながら、思い出したところでございます。

 三点お話しになりましたが、まず、憲法九条の平和主義についてお尋ねさせていただきたいと存じます。

 押しつけられた、事実上の占領軍の策定にかかわる日本国憲法、その象徴としての憲法九条が、一九七〇年代、日中、日韓の国交回復等によって随分変わってきた。そして、その変わってきた大事な新しい意味での平和主義、憲法九条の平和主義というのを、一言で申しますと、恐らく、大事にしていくべきだ、こういう御指摘だったろうと存じます。

 大きな流れとしては私も首肯できるところでございますが、ただ、公述人が御指摘のように、憲法の基本原則として、東アジアに対する戦争の反省等というのを明確にすべきであるということが、仮に憲法をこれから改正するという段階になった場合に、具体的にどういう形でこれを法文化、憲法に条文化すべきかどうかという点についてお伺いしたいのでございますけれども、個人的には、私は、憲法条項としてそこまで触れることについてはいかがかなという感じがいたします。

 よく、中国の方と議論をいたしますと、中国の皆さんは、日中戦争のみが日本との戦争で問題提起されるんですが、実際、我々はアメリカなり例の連合国側とも戦ったんですよと言うと、ほとんどその事実は彼らは知らないというような現実もございます。

 さらに、最近の九・一一以降の新しい国際平和環境の変化、あるいは国際安全保障環境の変化の中で、どういう形でポジティブに平和と安全を確保していくのか。それに対して日本国が、あるいは日本民族がどうポジティブに対応していくのかということこそが、まさに公述人御指摘のような、生きた、本当の意味での憲法九条の平和主義を今日的な文脈で私たちは活用していかなければいけないんだろうという気がいたします。

 そういうことも踏まえた上で、もし憲法を改正するとするならば、今日的な課題としての憲法九条の平和主義を、公述人はどういう形でパラフレーズして条文化すれば適当とお考えになっていらっしゃるのか、もしお考えがあったらお聞かせいただきたいと思います。

江橋公述人 私の述べたことを高く評価していただきまして、どうもありがとうございます。

 私は、先ほど意見の中でも申しましたように、憲法九条の中に、あるいは憲法九条を改正して細かく日本の安全保障の問題について書くことは得策ではない、やはり国際の状況は大きく変わりますから、それはむしろ平和基本法のような形でお考えになって、国会でその時々に合わせて直しつつ、変えつつということでいいんじゃないかなと思っております。むしろ、憲法九条は日本が戦争とか安全保障の問題に臨む基本的な姿勢を示せばいいという意味においては、今の九条は確かになかなかいいものだと思っています。

 ただ、今の九条は、何しろ戦後七十年ぐらいの間に、数百冊の本の中で一冊もアジアの戦争を反省していなかったというのは私にとって当時は衝撃的でして、どこかにやはり、アメリカやヨーロッパと戦ったことも悪かったけれども、アジアと戦ったこともこれは悪かったんだというようなことを入れた方がいい。例えば、政府の行為としての戦争、アジアにおける戦争を深く反省しとか、一言入るだけで随分違うのかな、アジアのことを何しろ入れなければまずいだろうという。ただ、それは理念であって、具体的に、では日中の関係をどうするのか、日朝の関係をどうするのかという部分は、それは政策マターかなと思っています。

 ただ、周恩来首相が七二年に言った、そして日本政府もそれを認めた、日本の軍国主義者による侵略戦争と戦争犯罪は反省する。ただ、日中両国というか、アジアの人民はすべてそういった意味では被害者なのであって、お互いに被害者として、これからは東アジアにおける友好をつくっていこうじゃないかというその精神というのはなるべく明らかにした方がいいかな、既に日本国政府も認めていることでありますから。どこかで九条をもし変えれば、私は変えなくてもいいと思っているんですが、もし変えるのだったら、まずはそれを入れるところから始めていただきたいなというふうに思っているということなんです。

松宮委員 憲法九条の平和主義に関連することでございますが、江橋公述人の御配付されましたペーパーの中では、自衛隊が合憲であることの確認、あるいは国連の平和維持活動への協力というような表現もございます。

 改めて確認させていただきますけれども、現行平和憲法九条下で現在の自衛隊は合憲と公述人はお考えになっていらっしゃると受けとめさせていただいてよろしゅうございますか。

江橋公述人 私の個人的な心情はさておくとして、国会で現在扱われている自衛隊は明らかに合憲なものとして扱われているというふうに思っております。そのことを否定することはいかがなものかと思っております。

 それと、国連の平和維持活動に関しても既に立法ができているわけでありまして、ただ、かつて言われていたような、憲法九条の次に憲法十条のようなものを設けて国連の国際平和維持活動に対する協力というのを憲法原則としてうたうのか、それとも、そこまではうたわないで、それも平和基本法の中の重要な原則部分でうたうのかという扱いはあって、それは国会でどちらをお決めになるかはどちらでもというふうに思っています。ただ、憲法十条の問題というのは、かつて小沢一郎氏なんかがしきりと言っていた憲法十条の問題ということだと思いますけれども。

松宮委員 憲法九条の平和主義から多少広がりまして、人間の安全保障についても文書では触れられておられます。

 確かに、非常に私個人も大事な概念だと思っておりますし、紛争やあるいは戦争の大きな背景には貧困、ポバティーがあり、また人間の無知があるという意味では、広い意味で人間に対して人間らしい生活を保障するための、あるいはそういう力を持たせるためのエンパワーメントに対して国際社会が、特に日本なんかも積極的な貢献をすべきだろう。そういう新しい意味での能動的な日本の役割、あるいは国際社会の期待に日本がどうポジティブにこたえていくかということこそが、まさに今日的な、二十一世紀初頭の国際社会における日本の国際貢献あるいは国際平和と安定と繁栄に対する大きな課題だろうと思います。

 この国際平和主義あるいは日本の国際社会に対する貢献というのを現行憲法に照らして、もし条文上どこか付加すべきこと、あるいは改めてうたうべき点があるのかどうか、あるいは、もう現行憲法でこれまた十分であって、これらも政策なり国の意思として具体的に政策レベルでパラフレーズして実行していけばよしとするのか、いかがでございましょうか。

江橋公述人 今の問題ですけれども、例えば人間の安全保障の問題を日本国民はやはりまだ理解できていないところもありますけれども、理解している方は広く支持していただけているのかなとも思いますが、ただ、それを憲法を変えて憲法の中に入れろというふうにはまだなっていないと思います。そういった意味において、まさに主権者国民の選択はそこまでいっているのかしらというのが気になります。

 先般の中越地震のときにも例えば自衛隊が非常に活躍なされたと敬意をもって見ておりましたけれども、ただ、一般的に言えば、軍事的危機に際しての国民管理というものを突出させても、それは余り災害のときに使えない。むしろ、災害時におけるいろいろな、自衛隊なんかも含めた簡単に言えば防災基本計画をきちっとつくった方が有事における国民保護計画に転用可能だけれども、国民保護計画をつくっても災害のときに使えるかなという意味で、やはり人間の安全保障ということを言う際は軍事的安全保障以外の安全保障との総合的な施策の展開が必要だと思いますので、それを憲法の中に触れるというと大変なややこしいことになってしまうので、やはり災害対策基本法とか国際協力基本法とか、そういう基本法レベルのところでお考えになった方が賢明かなと思っております。

 ちょっと長くなって申しわけございません。

松宮委員 失礼しました。若干私のお伺いの仕方がまずかったんだろうと思います。

 人間の安全保障という概念に代表される日本の新しい国際貢献、国際の平和なりあるいは安定なり繁栄に対する貢献の分野として人間の安全保障という大きな分野が出てきておりますよということを例として申し上げたわけでございまして、むしろ、これからの二十一世紀における国際社会の中で日本がどう国際社会とかかわり合いを持つべきか、そういう文脈の中で、日本のいわゆる俗っぽい言い方での国際貢献、軍事以外での国際貢献、いろいろな分野がありますけれども、その中の一つとして、代表的な柱として人間の安全保障があるということを申し上げたかっただけでございまして、それも含めて、日本が今後どう国際貢献をポジティブにしていくべきかという観点から現行の憲法をチェックした場合、何か新たに付加すべき、前文も含めてうたうべきことがあるかどうかというのが私の質問の趣旨でございます。

江橋公述人 全く個人的な意見を述べさせていただきます、日本の市民運動がどうであった、こうであったということではなくて。

 私は、憲法の第二章の「戦争の放棄」というのは非常にネガティブな表現であって、国際の平和と日本の貢献とか、タイトルはそういうふうにした方がいいだろうと。そうした場合は、九条をまずきちんと残した上で、今おっしゃった非軍事的な国際貢献に関して書くとか、あるいは国連の活動について、協力について書くとか、やはり総合的に東アジアの安定と発展の中で日本が果たすべき役割というふうにすれば、書くべきことは、軍縮努力も、余り産業を軍事化しないということも、いろいろなことを含めてあると思います。それは全く個人的な考えです。

 ですから、そういったことからいえば、二十一世紀の初頭における日本の国際貢献のあり方について、非軍事的なことを中心に書き込まれるということは大いにあり得ることであるし、別に私はそれに反対ではありません。

松宮委員 続いて、二点目の基本的人権の問題について御質問させていただきたいと思います。

 最後のくだりで公述人は、いわゆる憲法で規定されている、あるいは憲法で保障されている基本的人権、かつては上からの啓発的な人権であるというような言葉を先生はお使いになっていらっしゃいますけれども、いずれにしましても、この人権の実現に向けて、政府の責任の明確化、あるいは国政の場と裁判の場でこれを保障する責任を明確化する必要があるということを強調されていらっしゃいますけれども、これをもう少し具体的に御説明いただきたいと思います。

江橋公述人 最近は、一つには、日本が加盟する国際的な人権条約の類には、非常にしばしばというかほぼ全部に、人権実現に向けての、あるいは差別撤廃に向けての政府の責務という部分があって、例えば女性差別とか人種差別でも全部それがついている。つまり、国際社会は、人権というものについて、政府が被害者、犠牲者を救援する、救うだけじゃなくてもっとポジティブに、施策全体を通じて人権を増進させていく、人権を促進させていくということを価値として認めているように思います。

 したがって、最近では、日本国内でつくられる各種の人権にかかわる基本法にもしばしば、政府の責務あるいは市民の役割とか市民の責務というのがつくときもありますけれども、そういうものがつくようになったと思っています。そしてその際には、私は、やはり一つは、人権の、全体の中で特に落ち込んでしまった人、個別の人を救うというのは、これはもう裁判を使ってでもきちんとしていかなきゃいけないことだと思っています。

 昔、憲法二十五条の生存権に関して、大阪高等裁判所の判決を機会に、救貧、防貧ということが言われまして、何かの事情で特に貧困になってしまった人を憲法二十五条に基づいて、健康で文化的な最低限度の生活を回復してもらうという、それは救貧であって、その部分は裁判所を使ってでも頑張らなきゃいけない。ただ、日本が福祉国家として全体によくなっていく、文化水準、生活水準が上がっていくというのは施策であって、それは、裁判所よりはむしろ政府の責任だ、だから立法政策の問題として考えてよいということが言われた大阪高等裁判所の判決がありまして、私は、大変いいことを言っていたなと当時は思っていました。

 だから、政府の責任、裁判所と政府と二つ申し上げましたけれども、個別に落ち込んだ人に対しては、やはり今国もお考えになっている人権救済制度を整備することと、もう一つは、財政措置も伴った、全体にかさ上げして、豊かで幸せな社会をつくっていくという両面かなというのが申し上げたかったことです。

 以上です。

松宮委員 午前中の公述人の陳述の中にも、日本は、主要な七つの国際人権条約のうちまだ一つは批准していないというようなお話もございました。そして、批准している条約を誠実に履行するにもまだ幾多の問題が残っているという御指摘もあったところであります。

 ちょっと個人的な経験に触れさせていただいて恐縮でございますが、ことしの三月に、ジュネーブにおける国連の世界人権会議に私は日本代表として出席させていただきまして、北朝鮮の拉致問題を初め、国際社会が直面しているいろいろな種類の人権問題について議論をする機会に恵まれました。その後、アメリカの国務省との間で、トラフィッキングについて議論をいたしたところでございます。

 残念なことに、アメリカの国務省が、世界各国の人権の裁判所のごとき、最近は国務省レポートを出すということで、アメリカから見た人権、アメリカ流の人権が絶対的物差しになって、それぞれの国をABCというランクづけをするというような、非常にいかがかなという感じがする会議ではあったのでございますけれども、そこで問題になった一つが、やはりトラフィッキングの問題でございます。これは幸い、今ようやく日本の各関係省とも真摯に取り組んで、やるべきことは法制化も含めてやらなければいけないということで、今オン・ザ・ウエーにある、その意味では、一歩一歩、私は、着実にいい方向に物事は動きつつあるんだろうと思います。

 同時に、私たちにとって大事なことは、若干憲法には外れますけれども、基本的人権はやはり、その時代その時代の地域なり社会で置かれた状況によって相対的にとらえるというような多少の余裕と申しましょうか、多少の間合いというのも必要かなという感じもいたしております。

 今申しました、アメリカから見たら、A国の人権状況というのは問題ありと。しかし逆に、批判された国から見ると、アメリカについてはまだ四分の一に上る方が、いわゆる日本の場合にはおかげさまで国民皆保険制度でそのメリットをエンジョイしておりますけれども、アメリカは全くそれが保障されていないじゃないか、これも大変な人権じゅうりんである、こういうような議論もできるわけでございますから、リラティブに、私は、基本的人権のありようというのを議論していくことが、国際社会における日本の大人としての行動なり大人としての主張、レジティマシー、正統性を担保するためにはそういう視点も必要かなという感じがいたすのでございます。

 若干憲法には外れますけれども、そういう見方、私の個人的な感じに対して、先生のコメントをいただければ幸いであります。

江橋公述人 一般論としては、先生のお考えに私はむしろ賛成であります。ただし、それが一つには、例えば人権条約を批准するのをサボる口実に使われたりする国もありますので、やはり特殊性を余り強調し過ぎるのはよくない。ただ、アメリカや西欧諸国が、特にアジアの問題に関して非常に性急に、即刻実施を迫って摩擦を起こしたケースはこれまで何回もありまして、それはちょっとなというところはありますので、そういった意味で、私は先生のお考えに賛成であります。

松宮委員 実は、私も若干これまでの経験上、多くの発展途上国なりいわゆる開発独裁と称されている国を訪問させていただいておりまして、まさに人権問題も、その国のつかさの方とも議論をいたしております。やはり、多く聞かされるのは、欧米流のスタンダードで人権状況を判断してもらっては困るということでありまして、そういう状況を、彼らはやはり、第三者的なレベルとして日本にバックアップ、支援、モラルサポートも含めてですけれども、もう少しフィジカルなサポートで人権が守られるような環境を醸成する、そのための日本のバックアップをお願いしたいという声が一様に聞かれるところでございまして、余り知られておりませんが、日本はODAなんかでもそういう草の根ルーツも含めてのきめ細かな援助も実施しているところであります。

 いささかPRになって恐縮でございましたが、そういうことも、これからの日本の国際社会に対する貢献という視点から見ますと非常に大事な分野かなと思っているところで、若干所感を述べさせていただきました。

 三点目の、先生が御指摘になっております地方分権についてお伺いをさせていただきたいと思います。

 今御案内のように、国政の非常に大きな課題として、いわゆる三位一体問題というのが大変、年末の来年度予算編成を意識しながら、それぞれの場でそれぞれの立場の方が今かんかんがくがく議論しているところでございますけれども、これも、御指摘のような地方分権あるいは地方主権という立場に立つならば、大きな流れとしては私は、ベクトルは正しいんだろうと思います。

 とりわけ、公述人が御指摘のように、地域に密着した、住民に近いところの自治と、それから、そこの自治体でカバーできないものについては国がそれなりに何ができるかということで議論を整理すべきであるという御指摘があったかと存じます。これは、たまたま公述人が述べられなかった、あるいは文字にしておられなかったのか、県という、地方政府の中でも住民密着型の自治体、大体市町村を私はすぐ連想したのでございますが、と国というのが対等の政府として位置づけられるというような御説明だったと思うんですけれども、現在の都道府県制について公述人はどうとらえていらっしゃるのか。

 個人的に私は、百二十年前にできた、もう日本の都道府県制の原型は十九世紀末期にできたわけでございますけれども、それから百二十年余、月に人間が動くあるいは新幹線、リニアモーターが開発されようとしているといった、こういう時代の中での都道府県制のあり方というのも実は、本来だったら地方主権なり地方分権、あるいはこの国の形としての中央と地方自治体とのありようを考える際に非常に大事な視点だろうと思います。

 現に、自民党の中でも、憲法改正作業の一環として道州制の議論というのが今なされているところでございますけれども、道州制の導入も含めて、現在の地方自治の形、四十七都道府県制、そのもとで今、平成の大合併で自治体はまた三千二百が統合されようとしておりますけれども、まずは道州制とそれから都道府県制のあり方について、公述人はどういうお考えでございましょうか。

江橋公述人 多分に政策マターでありまして、どこまでお答えすればいいのかと思いますけれども、いずれにせよ、東京の世田谷区のような特別区で人口が八十万を超えていて、片や、鳥取県は県で六十三万一千人でして、では、鳥取の場合は都道府県になっていますから、保健所の数が幾つあるのか、世田谷区には幾つあるのか、こう考えていくと、やはり変なところは随分変だな、その意味で整理が必要だということは、そのとおりだと思います。

 その際には、基本的にはやはり住民自治を考えなければいけませんから、生活圏として適切な規模というのが幾つかあり得ると思いますが、ただ、今のこの複雑な社会では、福祉に関して適切な規模と、教育に関して適切な規模と、産業振興において適切な規模というのがずれているわけですので、どこを単位にしていったらいいのかというと大変難しい。

 したがって、むしろ今の市町村、基礎自治体をいわば基本的な単位として、事柄によっては広域であるとか一部組合であるとかも含めて、さまざま工夫していく形が町村合併と別にもあり得るだろうと思います。

 そういう中で、都道府県につきましては、御指摘のとおり、道州制にしなければというふうにもなっていくのではないかな。青森、岩手、秋田のあたりとか、あるいは島根、鳥取のような。やはり都道府県としても、もう少し合併して道州制に近いものにしていった方がいいという自主的な判断はあり得ると思います。一つは、都道府県がどういうふうに自主的に道州制に近いところまで自分たちがまとまっていくのかというのを待つべきか、それとも、上からばっさり道州制にしちゃった方がいいのかということで、ちょっとその辺になりますと、政策マターですので、私が意見を言っても余り意味がないかなというか、そういう資格があるかなという疑いはありますけれども、ただ、私の気持ちとしては、もう少し都道府県同士の自主的な都道府県合併を見守ってもいいんではないかなと思っております。

松宮委員 ありがとうございました。

 続きまして、ペマ・ギャルポ公述人にお伺いさせていただきたいと存じます。

 本当に長い間御苦労されながらも大変な著作をいろんな方面で論陣を張って発表していらっしゃることに、これまた敬意を表させていただきたいと存じます。

 ペマ公述人がお越しいただくということで、事務局の方が配慮していただいたんだと思いますけれども、最近お出しになった御本もさらっと目を通させていただきました。そして、私も不勉強でございましたが、西暦五九三年には既に、日本の推古天皇の時代ですけれども、古代チベット王国が存在したということも学習させていただきました。

 それから、九月に私は中国の雲南省を訪れましたが、雲南省には中国の五十余りの少数民族のうち二十六の少数民族がある。その一つの非常に大きな少数民族がチベット仏教を信じるチベット族であるということもこれは勉強させていただいて、なるほどやはりまだまだ世の中知らないことがある、我々は謙虚でなくちゃいけないという思いを私個人はさせていただいた次第でございます。

 さて、先ほどのペマ公述人の御指摘で、日本国憲法については、日本国民が日本国の幸せのために、そして世界への貢献のためにみずからしっかりと見直す必要があるだろうと。その一つとして、何よりも憲法九条を御指摘いただいたところでございます。

 ただし、ペマ公述人は非常に慎重に、憲法九条が本当に国際社会の現実に照らして問題があるかどうかは最終的には日本国民が判断されるところであると。恐らく公述人自体は問題ありとみなしていらっしゃいますけれども、しかし、それは最終的には日本国民が判断し、どうすべきかということもこれは我々の決断にかかっていると。その文脈で、自衛隊の存在についても、これが憲法九条の規定に違反しているかどうかについても、これは必ずしも私自身はイエスかノーか断定はできないという非常に正直な御判断があったわけでございますけれども、こういう観点からちょっとお伺いさせていただきます。

 午前中の公述人との質疑応答でも随分出たんでございますけれども、日本国憲法の前文に、正確には今覚えておりませんが、要するに、日本国民は諸国民の公正と信義に信頼して我々は日本の安定と世界平和のために貢献するんだ、こういう規定がございますが、その前文と九条は実は一体としてとらえるべきでございます。

 そういう現実と、そして公述人が御指摘になった、かつての御出身の地域の運命に照らして、現実の国際社会をどう評価され、そして、私自身も国際社会、基本的にはなるべく平和で安定的であってほしい気持ちはありますが、一方では、リヴァイアサンのジャングルのおきてが横行するのもこれまた紛れのない現実である。

 そこをしっかり踏まえながら一国の安全保障というのを考えていかなければいけない、そういう立場に立つ者でございますけれども、そういう立場に立つならば、今申しました憲法の前文なりあるいは憲法九条について、もう少し率直に公述人の考え方を聞かせていただければ幸いでございます。

ペマ公述人 はい、どうもありがとうございました。

 まず、チベットについても新たに関心を持っていただいたことを感謝申し上げます。ただ、きょうはあくまでも憲法の話ですので。

 今おっしゃったように、私は、憲法は、憲法のみならず法律は守れるものであってほしいと思うし、そして守ることが大事だと思っています。そういうふうに考えてみますと、日本国民あるいは日本が守りたいと思っても、国際環境の中に照らし合わせると、守れない状況が今あるのではないか。特に憲法第九条等に関しては、確かに文章的にも、あるいは私自身高校生ぐらいのときは、本当に暗記したいぐらいにこれはすばらしいと思いました。

 しかし、実際、今国際社会の中で日本が生きていく上において、例えば今日本の自衛隊の方々がイラクに行っているわけですけれども、この方々が手に持っているものは決してほうきではなくて、やはり鉄砲を持っていらっしゃるんですね。そしてこの方々はやはり鉄砲を撃つ。場合によっては人を殺すことも訓練されている。

 そういうふうに考えてみますと、私は、別に日本国憲法は悪法だということではありませんけれども、悪法も法なりという前提で、やはり法律を守るべきだと思っています。もし守れないんだったら、守れる法律をつくるべきだと思います。

 そういう意味で、先ほど先生おっしゃったように、前文に照らし合わせても、あるいは憲法第九条も、第一次大戦、第二次大戦を背景にして、当時国連憲章をつくったりあるいは日本国憲法をつくったときに、多くの人たちがその時代的反省をもとにしてつくっていることは事実であるし、そういう意味では、私は評価できるだろうと思います。

 また、日本人のそういう気持ち、平和を望む気持ちは、確かに第九条においてもあるいは前文においてもあるけれども、しかし、残念ながら憲法は題目ではありません。ただ平和を唱えるだけでは平和にならないんですね。それは今、第二次大戦、第二次大戦と言うか大東亜戦争と言うか、これもまた歴史的主観の持ち方によって違うと思いますけれども、残念ながら、国連憲章を制定して以来今日まで百以上の戦争が起こっている。そして五万以上の条約を結んでいるけれども、それは必ずしも守られていないというのが現実だと思います。

 それを考えてみますと、やはり私は、今の日本国憲法、特に第九条は、守ることに対して限界があると思っております。そして、しかも今現在守られていないのではないかというのが私の、これは実は英語でも読んだり、日本語でも読んだり、辞書を引いたりして一生懸命読んでも、やはり今守られていないというふうに私は思っているんです。ただし、守られていないことをそのまま放置することは、それこそ法治国家ではない。やはり法律は守るべきであって、そして特にプロセスということが大事だと思います。手続というものが大事だと思います。

 今まで私が日本に来て感じることは、政府の見解として、憲法第九条についてさまざまな見解を述べたりあるいは解釈を加えてきたけれども、しかし、法的に、例えば修正したり、あるいは解釈についてきちんとした法手続をしてやっているというふうには、私たち、少なくても外国から見たときにはそう思わないんですね。

 それを考えた場合に、先ほど先生おっしゃった前文も含めて、やはり今の時代には私は合わないのではないかということは率直な、それこそ私、一番最初に客観的な考えはないということを申し上げましたけれども、しかし、私あえて、客観的に今の世界情勢を考えても、十分に現在の世の中に適用しないものであるというふうに申し上げたいと思います。

松宮委員 ペマ公述人に引き続き、天皇の地位について若干お尋ねをさせていただきたいと存じます。

 多少お触れになりましたし、また配付されたペーパーの中でも、日本国の統合の象徴のみならず、もう少し具体的に、日本民族の伝統、文化、精神の中心であるということを国内外に明確にすべきである、こういう御指摘でございますけれども、その前に、現在の日本国において天皇制は、象徴というのは憲法上も明文化されていることではっきりしているわけですけれども、いわゆる元首であるのかどうかについてどうお考えかなんです。

 憲法論争も、これはずっと長年ございまして、大学時代の講義まで今思い出しているんですけれども、日本にとっての元首は事実上は内閣総理大臣であるというようなことを主張されている有名な碩学憲法学者もいらっしゃいましたし、一方では、専門用語で装飾的な元首であるということを主張された憲法学者もおられました。

 ちなみに、たしか、これも記憶は定かじゃありませんが、今から三十年ほど前の内閣法制局長官吉国さん、当時、吉国さんが国会で答弁になったときには、日本国のヘッドであるという意味では、シンボリックな意味で元首であると考えても差し支えないだろう、こういうお答えもなされているところでございますけれども、日本国における天皇の姿なんかをごらんになられて、御自身としては元首と考えておられるのかどうか、ちょっとお伺いさせていただきたいと思います。

    〔会長退席、枝野会長代理着席〕

ペマ公述人 実際日本で生活をしている人間の一人としては、もちろん天皇陛下は元首の役割を果たしているということは十分認識をしております。

 しかし、今の憲法第一条を読んでいる限りでは、明確にこれが元首だということは解釈しにくいというふうに思いますので、そういう意味で、私は、あえて憲法の中においても、天皇は統治はしないけれども君臨するということについてきちんと明記し、そしてさらに、日本は世界に誇るべき皇室の長い伝統と歴史を持っている、そして、それは日本の固有の文化、伝統と関係があるわけですので、その辺ももうちょっと明記した方が、これは国内外にとっていいのではないかというふうに思っております。

松宮委員 ありがとうございました。

 続いて、村田公述人にお伺いさせていただきたいと存じます。

 本当に久方ぶりに大学時代の講義を拝聴するような感じで、なかなか頭がかたくなっておりまして、先生の御説明を必ずしも十分には受けとめることができなかったのでございますが、二点御質問させていただきたいと存じます。

 一つは、選挙権の意義に関してでございます。

 とりわけ小選挙区制に照らして、多様な民意が反映されていないこの現実を放置して、恐らく先生の御主張というのは、本当の意味での日本における立憲民主主義の危機の一つのシンボリックな現象というのがここにあらわれている、こういう御指摘だったと思います。

 であるならば、先生がお考えになる、多様な民意を反映するような選挙制度というものとしてどういうものを想定していらっしゃるのか、お聞かせいただきたいと思います。

村田公述人 ありがとうございました。

 要するに、死票の少ない選挙制度ということになりますから、いわゆる比例代表制、あるいは、かつて現にあった制度としては中選挙区制が現行の小選挙区制よりは望ましいということになろうかと思います。

松宮委員 もう一つ、常日ごろ私が選挙制度について非常に、私の無知なるがゆえの素朴な疑問かもわかりませんが、その素朴な疑問を公述人にぶつけさせていただくという御無礼を許していただきたいんですけれども。

 例えば、日本の場合には、衆議院の場合には、一票の票の重さ、あるいは選挙人の、投票者の価値というのは、格差二倍以内でなくちゃいけないというのが大体相場になっておりますし、参議院の場合には五倍。それから、アメリカにおける上院、下院の議席数というのは御承知のようなとおりでございまして、上院については、大きなカリフォルニアやニューヨーク州であろうと小さなアリゾナやあるいはアラスカであろうと、全部、各州原則二人である。

 そうすると、これは、一票の投票価値というのをどう受けとめたらいいのかというのが以前よりの私の素朴な疑問なのでございますけれども、そこはどう理解したらよろしいのでございましょうか。

村田公述人 一票の重みということでいいますと、アメリカのことについてでしょうか。

 要は、なるべく投票がむだにならずに、選挙結果に投票が反映されるということが問題でございますので、極めて理念的なことを申し上げれば、要するに格差が一対一が理想であるということになるわけでありまして、その格差是正の方法として、比例代表制が最も望ましいということになるわけです。

松宮委員 改めてお伺いさせていただきますが、そういうことだろうと思いますけれども、しかし現実には、衆議院と参議院では、もちろん憲法によってその定数は別の法律で定めているということになって、今、四百八十人とか二百三十五人でしたか、ということになっているわけですね。

 それで、それぞれの選挙制度、選挙区の画定によって、もう一回繰り返しですけれども、衆議院の場合には二倍の格差以下におさめなくちゃいけない、参議院の場合には五倍以内というのが一つの目安になっている。もう衆議院と参議院でそれだけの差があるじゃないかというのが私の質問の第一点でございます。

 それから二点目は、アメリカの場合には、上院は、政策的というか、アメリカの民意を集約した議会における決定によって、三千数百万の大きいカリフォルニア州であろうと百万以下の小さな州であろうと、上院議員は原則二人であると。

 これは、カリフォルニアの州民にとってみると、小さなアラスカとかアリゾナ州民の何十分の一の投票価値しかないということになるわけですが、これでも、しかし現実には、それが民主主義のあかしとして現にワークしている、しかも権能がよりエンパワーされている上院でそうなっているという現実をどう受けとめたらよろしいんでしょうかという御質問でございます。

村田公述人 わかりました。

 アメリカの場合は、連邦制でございますので、日本の制度と単純に比較できない側面があります。私はアメリカ憲法に余り詳しくありませんので、アメリカはどう見るかということについては、ここでは留保させていただきたいと思います。

 日本の場合、要するに、参議院と衆議院、参議院の役割をどう考えるかという問題が絡んでくる問題でございますけれども、私自身は、衆議院、参議院であれ、格差が参議院の場合は広くてもよいというふうには考えておりません。より国会審議を慎重にするという意味で衆議院プラス参議院というものがあり、その参議院でも正当に民意が反映されるシステムが望ましい、このように考えております。

松宮委員 最後に、もう一点だけ御質問させていただきたいと存じます。

 結びで村田公述人は、現行の日本国憲法の実現というお言葉をお使いになっていますけれども、要は、憲法の解釈やあるいは運用を正すことが大事である、これが本日の公述人の結論だろうと思います。その結論に照らして、憲法九条につきまして、個別的自衛権について明文化されていないことに問題があるというお話をされました。まして恐らく集団的自衛権については、きつい言葉ですけれども、論外といいますか、まともにこれは、政府側の説明もないし、恐らく議論に値しないんだろうというふうなお考えだったんだろうと思います。

 そういたしますと、既に多くの憲法学者も含めての解釈、これももちろん見方が非常にバラエティーに富んでいるということは承知の上ですけれども、個別的自衛権についてまで明文規定がないとするならば、これは憲法解釈が間違っているということに日本の立憲民主主義の危機があると先生はお考えになっていらっしゃるんですか。ならば、はっきりと解釈を示すべきなのか。それとも、公権力の一環としての自衛隊という公の組織であるならば、それ自体は制限的に解釈されるべきである。明文規定がなければ、これは事実上、存在すること自体が、たとえ個別的自衛権であろうとも、専守防衛の、国土、国民の生命と財産を守る自衛隊であろうとも、これは存在すること自体が問題であるという御指摘でございましょうか。

 ちょっとそこが判然としなかったものでございますから、できればもう一度お教えいただきたいと思います。

村田公述人 わかりました。

 先ほど、政府の九条解釈に即しながら、ちょっと問題点を指摘しましたけれども、いわゆる個別的自衛権の根拠につきましても、これは、政府解釈だけではなくて、学説の中にもいろいろありますけれども、大別して二通りの解釈があったかと思います。

 一つは、いわゆる個人の正当防衛権があるように国家にもそういう権利がある、こういう解釈でしたけれども、これは例えとして非常に問題があるわけでありまして、きょうのお話の中でもありましたように、要するに、人権の主体は個人、自然人でありまして、国家ではないわけでありますから、個人個人になぞらえてそのような例えを持ってくるのはいかがなものかと。つまり、これは法の解釈論としてはまずい、このようなことを申し上げました。

 それから、もう一つの議論は、国際法上、独立国家として当然の権利である、こういう考え方があるわけですけれども、この問題に関しては、先ほど述べましたように、やはり憲法上それを行使するだけの明文規定がない以上、それはないと解釈せざるを得ない、このようになるわけであります。ですから、私は、明文化すべきであるという文脈で申し上げたわけではございません。

松宮委員 ありがとうございました。これで終わらせていただきます。

枝野会長代理 次に、長島昭久君。

長島委員 民主党の長島昭久です。どうぞよろしくお願いいたします。

 きょうは、私も学生時代、憲法をかじっておりまして、江橋公述人からお話を伺えると大変楽しみに実はしておりまして、整然と江橋公述人から順番にやっていこうかと実は思っておったんですが、今、村田公述人の方から立憲主義に関する非常に興味深いお話を伺ったものですから、少し順番を逆にさせていただきまして、まず村田公述人からお話を伺いたいと思うんです。

 立憲主義のお話、大変興味深く伺わせていただいたんですが、憲法の文言、コンテクストではなくて、まずテクストが十分考察されるべきだというお話、それから、規範的特質というのを十分考慮しなければいけない、そういうお話だったかと思います。今、ちょうど最後、松宮委員から御質問のあったテーマでありますけれども、憲法の実現ということと現実の世界ということのまさにはざまに、政府を初めとする政治部門の日常の政策というものが存在するというふうに思うんですね。

 先生の解釈、憲法論でいきますと、今の御議論にもあったように、日本国は個別的自衛権すらない、つまり、国家の自然権ともいうべき自己保存の手段も持ち得ない、こういうまさに驚くべき結論に到達をするわけですけれども、これが本当に立憲主義としての解釈の仕方なのであろうか、本当に、立法裁量というか、国家あるいは政府に裁量の幅が全くないのかどうか、もう少し詳しく伺えればありがたいと思っています。

村田公述人 私が個別的自衛権という概念の中核にあると考えておりますのは、これは武力行使であります。何もしない、個別的自衛権がないことによって何もできないということを申し上げたわけではございませんでして、これは先ほど報告の中でも申し上げたとおり、さまざまな外交手段であるとか、それから外交手段というよりもっと広く、紛争の根源にある貧困の解決のための努力、これが要するに手段としては当然政府にはあると。何もできない、そういう趣旨で申し上げているわけではございません。

長島委員 ありがとうございました。

 先ほどペマ公述人の方から、国際社会の非常に厳しい現実のお話がありました。私どもも、今おっしゃったように、本来、まず平和的手段で紛争を解決していかなきゃいけないし、できることなら武力の行使は避けたいとみんなが思っているわけですね。しかし、仮に急迫不正の侵害を国家が何らかの形で受けた場合に、そのような場合においても、自己を守る権利、あるいはそれを行う手段も今の日本国憲法下ではとり得ないのか。この点はいかがでしょうか。

村田公述人 少し根本的な問題からお話しさせていただいた方がよろしいかと思うんですけれども、まず、憲法が現実に合わないじゃないか、この問題でありますけれども、二つのことを申し上げたいと思います。

 一つは、憲法に限らず、およそ法が正義の実現を目指している以上、法規範の内容と現実の間に何らかの乖離とかあるいは緊張関係があっても、これは別段不思議ではないわけです。現実に問題があるからこそ法があるとも言えるわけでありまして、もし正義が一〇〇%実現していたとしたら、これは法が要らなくなるということになるわけです。例えとしては余りよろしくないかもしれませんけれども、例えば、殺人がなくならないから殺人罪を廃止するべきだということは、これはだれしも考えないところであろうかと思います。

 第二に、憲法と現実の乖離という問題に関しましては、これはやはり、なぜ乖離したのかという責任を考えなければならない。憲法から乖離した現実は決して自然現象ではありませんで、現実はつくられたわけであります。発生したわけではないわけです。そうしますと、憲法と現実の乖離に関しましては、まさに、憲法尊重擁護義務を負う公務員が何をしたのか、あるいはしなかったのかということがまず問題になろうかと。現実に合わないから直ちに変更をするというのは、これはやはり一つの飛躍ではないか。私が何度も言いましたように、まず、憲法の理念を実践する際にどこまで努力したかということがやはり問われるわけです。

 そもそも、憲法改正というのは一体どういう場合にするのかということですけれども、これは外国人の同業の友人などと話していると時々言われることなんです。これはフランス人の友人から聞いたことなんですけれども、日本では現状に合わないから憲法を変えるという議論が盛んのようだけれども、それは理解できない、つまり、憲法を守ってできた現実を変えるために改正する、これが本来の改正のあり方じゃないかと。

 例えば、フランスの例で言えば、九九年に憲法改正が行われました。この改正は女性議員の比率を高めるための改正でありましたけれども、これは、フランス的な平等観念ではいわゆるクオータの導入ができない、不可能とされていまして、これが憲法院の判決でもあった。つまり、それまでの憲法では女性議員の比率の低いことがどうにもならないからこそ、その現実を変えるため憲法を改正しなければならなかった。憲法上可能なことをするために憲法を変える必要はないということになるわけです。それから、そして必要なことは、憲法上可能なことを実現する努力である、このようなことが言えるわけですね。

 特に、平和主義をめぐる現状の問題を考えてみますと、これはやはり九条、決して無力であったというふうには考えられません。それは、例えば冷戦期にありましても、今と比較してよかったということは到底言えないわけでありまして、冷戦期にもこれは熱い戦争がありました。日米安保体制のもとで、日本はアメリカのベトナム戦力に基地を提供するという形で協力したわけであります。それでも、九条があったから、自衛隊は海外に行くことがなかった。つまり、自衛隊が海外に行って無辜の民を殺すこともなければ、自衛隊員が不幸にして犠牲になるということもなかったわけであります。もし九条がなければ、ベトナム戦争当時、日本もまた、例えば韓国のようにベトナムに派兵したということが考えられます。

 今日のコンテクストでいいますと、これは話せば長くなりますから簡単に申し上げますけれども、例えば、九条を変更して集団的自衛権の行使が可能になった場合、一体どうなるのかというと、これは、まさに今の危険は、非常に非対称的な力関係があって、アメリカが圧倒的な武力を持っていて、そしてそのアメリカがいわゆる先制攻撃戦略というものをとっている、そういう中で日本がアメリカに協力する、それがますます緊張を高める、こういう悪循環に陥っているというところをまず見るべきではないか、そこにメスを入れるということが必要であろう。

 そして、世界という広い視野ももちろんそうですけれども、世界に目を向ける前に、先ほども江橋先生の話にもありましたけれども、やはりアジアですね、アジアの中で日本を見た場合に、この九条があって、日本はもう戦争をしない、あるいはもう殴る側には立たない、こういった宣言をしているということが辛うじてアジアの中での信頼維持に役立っているのではないか、このように考えるわけでありまして、決して、何もしないということが直ちに危険を招くというよりは、むしろ何かをしようとすることによって今危なくなっているんじゃないか、このようなことを申し上げたいわけです。

長島委員 ありがとうございました。

 私は限界事例の部分だけお答えいただきたいと思っていたんです。つまりは、急迫不正の侵害を受けた場合にも無抵抗であり得るのかというお話をちょっとさせていただいたんですけれども、思いはよくわかりましたので、次の質問に移りたいというふうに思います。

 江橋公述人に伺いたいのです。

 大変興味深いお話で、恩賜の人権、回復の人権というお話、示唆に富む御指摘だったというふうに思うんです。やはり人権実現に向けた国家の責任の軽視というところを非常に強調されておられたように思うんですが、先生の基本的なスタンスなんですけれども、人権にしても、地方自治にしても、あるいは平和の問題にしても、現行憲法を維持しながら、今まで先生もかかわってこられた市民運動などの努力の結果のようなものを一つ一つ吸収して、そしてそれが国政の場あるいは裁判の場でまさに人権が回復されていく、こういうことでとりあえずはいいとお考えなのか。それとも、これまでのそういう市民運動の成果を盛り込んだ新しい条文のイメージをお持ちであるのか。例えば、人権について公述人がどんなイメージをお持ちであるか伺わせていただきたいと思いますが、いかがでしょうか。

江橋公述人 例えば、環境の問題、環境権の問題をお考えいただきたいと思うんです。時代が変わったので憲法に新しい人権を入れようという議論がよくされていますけれども、私は、それは一つ飛んでいる話だなと思います。

 時代が変わったから新しい人権が出るんじゃなくて、時代が変わったことによって、主権者市民が、例えば公害問題に苦しみ、それゆえに被害者として環境の回復だということで、裁判を起こしたりいろいろな運動をして、その行為が広く国民に支持されたから今日環境権というカテゴリーが出てきたわけで、人権というのはそういうものだと思っている。

 あるいは、戦後ずっと一貫して存在していたんだけれども忘れられていた、例えば在日韓国・朝鮮人の処遇の問題などというのが出てきたときもそうですし、あるいは、プライバシーとか環境権のように、まさに社会が変わって新しく出てきた問題のときもそうですけれども、社会が変われば自動的に新しい権利が出てくるんじゃなくて、やはり、そこではその問題に苦しんだ被害者の声がもとだと思います。

 例えば、被害者で言えばそうですけれども、被害者の人権というのを入れろという考えもありますよね。昔から、日本の刑事裁判では、被害者というのは本当に疎外された位置にあったと思う。ただ、最近になって、それではだめだという、例えば岡村弁護士の話だとかいろいろな話があって、被害者が声を上げて、被害当事者としてこれではたまらぬという声を上げたとき、被害者の人権というのが国民に見えてきた。

 私は、日本社会では、一般的に言って非常に人の心を打つ言葉というのは、三カ月か六カ月で日本じゅうに広まるなと思っていまして、私自身が直接見聞きしたものだと、例えば嫌煙権なんかもそうでして、あれはやはり、たばこの煙が嫌だなとか、不安だなと思っている人がいっぱいいたところに、余り美しい言葉じゃないと思うんですけれども、嫌煙権というのは。でも、あの言葉が出たことによって、日本じゅうでこれは嫌煙権ですと言えたし、セクハラもそうで、それまでさんざん被害に遭っていた女性たちが、セクハラという言葉が出たことによって、課長、これはセクハラですと言えるようになったり、ストーカーもそうです。

 やはり、人権に関する幾つかの言葉は、既に社会が変わっていて、一点に火が放たれるような言葉ができるとたちまち燎原のように広まって、半年で大体日本人みんなが共有する言葉になるなと思っております。

 ですから、今何よりも大事なのは、決して日本市民は憲法の問題がわからないとか、ほっておいたというんじゃなくて、憲法という言葉は使いたくないから使っていないんですけれども、しかし、行ったことは、日々の立憲だったと思うんです。日々、日本国憲法の人権規定を結局は、特に七〇年代以降、市民が運動を通じて新しい命、自分たちが国家を相手に戦える権利としての命を与えてきたと思う。私は、これを憲法を改正して新しく入れるのもいいし、今のままでもどちらでもそれはいいことだと思っております。

 ただ、もう一つ、責任ということに関して言うと、私が非常に気になったのは憲法六十五条でして、「行政権は、内閣に属する。」という規定ですけれども、私は、その前に、国民は行政をさせるために内閣をつくった、あるいは、内閣は行政の執行について国民に対して責任がある、だれに対して責任があるかはっきりしてから書いていただきたい。

 そういった意味で、六十五マイナス一条というのを、六十四条はもう既にあるわけですから、六十五マイナス一条というのは変ですけれども、六十五条一項として、主権者たる日本国民は行政を行うためにこうしたんだぞ、だから、政府に権限を集めたんだぞというふうに書くべきだ。

 つまり、日本国憲法のどこを見ても、政府が政策を遂行しなきゃいけないという、積極的に責務を実行すべきだという、その責務規定が全体的に非常にないんですよね。皆様のおつくりになった地方自治法なんか見ると、地方自治体は住民の福祉の増進をするんだというふうに自治体の責務が頭のところに書いてありますけれども、では、日本国は何をするのかというと、どうもはっきりしない。

 そして、突然出てくるのが内閣の国会に対する権限。議院証言法で証言を求めるとき、いや、出しませんという、裁判所に対してもそんなことをやったら、義務づけ訴訟は行政権の侵害だ、自治体に対しては中央の言うことを聞け。ありとあらゆることに対して自分の権限を主張する規定として六十五条があって、その前に、やはり行政府の持つ責任という規定があっていいんじゃないか。それもないことの一つの人権のところにおけるあらわれが、私の言っている、政府の人権実現の責任を軽視しているということかなと思っております。長くなって申しわけございません。

長島委員 ありがとうございます。この六十五条マイナス一というのは、大変示唆に富む御指摘だったと思います。

 先生もおっしゃっておられましたけれども、やはり最初は恩賜の人権のような形で、まさに占領軍から官僚、官僚から市民という、こういう形だったわけですけれども、まさに中江兆民が言ったように、それが裁判の過程を通じて、あるいは立法過程を通じて、まさに回復の人権になってきた、その歴史が七〇年代以降だった、こういうように思うんです。

 私、ひとつ、先生が特に取り組んでこられたマイノリティーの人権の中でも、きょう、ペマ公述人もおられますので、外国人の人権について少しお伺いをしたいと思うんです。

 まず、そもそも論ですが、人権というのは、先ほど村田公述人もおっしゃっておられましたが、国家以前のものである、人間が人間であるがゆえに享受できる権利、これが人権だ、こういう考え方であろうかと思いますが、日本国憲法の条文を見ると、人権の享有主体が「国民」と書かれていたり、「何人も、」と書かれていたり、二種類あるということはよく言われるわけですね。

 特に外国人の人権については、最高裁判例も学説も、大体、外国人にも日本人と同じような人権を享有させる必要があるというふうに前段で言いながら、結局は、在留資格制度のもとでの人権である、そういう判決であると思います。この辺について、もっと普遍的に、日本に暮らしている人々にはあまねく人権の享有主体として人権を享受させるべきではないか、こういう議論が当然あり得ると思うんですけれども、先生のお立場でいかがでしょうか。

江橋公述人 人権規定に関しては二つ問題があると思います。

 一つは、今おっしゃったとおり、すべての者に実現されるべき人権がそうなっていないという戦後日本社会の特殊性の問題があったと思います。しかし、それについては最近は随分改善されてきたように思うんです。

 もう一つは、やはり、日本に来ている人すべてに保障されるわけでもないけれども、国民という範囲で一応くくろうじゃないかという、人権というか憲法上の権利もあると思います。その場合には、何をもって国民とするのかという部分が非常に大事で、憲法で言えば憲法十条だと思うんです。

 日本国憲法の場合は、憲法十条で日本国民たる要件を法律に委任しているわけでありまして、それに基づいて、戦後日本社会は国籍法をつくって、この国籍法、すなわち憲法十条で言う法律だというふうにしてきまして、その国籍法で在日の人を排除したわけだと思うんです。

 私は、私の憲法の授業のときには、これは違うんだ、憲法十条で法律と言うのは、国籍法もあるけれども、今の日本は非常に変な制度になっているから、出入国管理法とか外国人登録法とか、そういうものとか、あるいは平和条約特定者の、要するに、在日の人たちの特定の管理法であるとか、そういう法律も含まれて複数の法律があるんだ。

 つまり、憲法が国民たる要件は法律で定めると言った場合、国会は自由裁量権を持っていて、在日を排除して国籍法をつくったというのは、あれは間違いで、ポツダム宣言やカイロ宣言で、日本列島上にいる人みんなで新しい日本国をつくれというふうに言われて、それをのんで敗戦したわけですから、やはり、終戦当時に日本国にいた人、戦前、植民地の人であったかどうかは別としても、それが全員、日本国民になれるような可能性を持った国籍法にしなければいけない。

 もちろん、在日の人たちが、本国に帰還する、あるいは、憎むべき日本の国籍なんか持ちたくないという方はいますから、旧植民地出身者には国籍選択権を認めるべきだ。それを日本国は、独立したときに一方的に全部ひっくるめて外国人扱いにして、しかも、国籍法の壁を非常に厚くして、外国人は煮て食おうと焼いて食おうと勝手というふうに、かつて国会で言われたことがありましたけれども、そんなことをしたところがおかしいんだという意味で、まずは、おおよそ人間であればすべての者に認められる権利と、それと、一応、国籍というよりは、多分、社会保険等々も含めて制度の中に入っている人に認められる制度と両方ある。その制度が狭過ぎたことと、二つ問題があると思っております。

長島委員 まさに今の先生の御指摘、私も大賛成でありまして、国籍取得の要件が厳しかったりということもあるし、それから、特別永住外国人の問題というのは当然のことあるんですけれども、最近になって、いわゆる地方参政権を永住外国人に広げるべきではないか、こういう議論がありますが、それに対しては、いや、やはり国民になっていただくのが先決じゃないか。つまり、今、少し国籍取得の要件が高過ぎるのであれば、それをまず低くしていくことが先決で、そして、同じ国民として人権を享有してもらうのがまず筋ではないかという、こんな二つの議論が今闘わされておりますけれども、先生の観点から少し整理をしていただければありがたいと思います。

江橋公述人 御案内のように、日本にいる外国人のうち、例えば華僑の人とか、最近でいえばベトナム難民の人も、本国に残された家族捜しに行きたいけれども、難民が本国に一度行っちゃうと、日本の入管法上は、本国帰還の可能性があれば難民資格は取り消しですから、本国に行ったら戻れないというので、じゃ、日本国籍を取って、ベトナム系日本国民になって本国に親類捜しに行こうかとかというので、簡単に国籍取ります。それに対して在日の人たちは、何だ君たちはというふうに批判的だと思うんです。

 そこに集約的に出ていますように、私はやはり、日本国籍取得の要件を、昔のように、家族の中に一人でも日本国籍嫌だと言っている人がいたら認めないとか、それで在日の人の場合は、わざわざ親と別居して、自分だけになって国籍取ったという人もいますよね。親が相当強く日本国籍嫌いだと言っている人がいると、そういう親と一緒に住んでいる者には国籍渡さないとか、何か名前の読み方でまだ日本人化していないからだめとか、いろいろなことを言っていたので、そういうのはなしにして、国籍取得の要件を下げるというのは全く賛成であります。

 ただし、もう一つは、やはり、戦後六十年間、こういうふうにしてやってきた在日に対する処遇の後始末の問題として、国籍を取らなければ権利を認めないというのではなくて、国籍を取らなくても認められる権利があるだろう。特に、地方参政権の問題に関して言えば、ヨーロッパで言われたとおり、ある国からある国に国境を越えて移住する、EUになっていますから簡単な話ですけれども、国境を越えて移住した瞬間に選挙権がなくなっちゃうって変じゃないのと。

 国政の参政権は、本国に戻るとか、郵便投票とか、大使館で投票するとか、日本も大使館で投票ですから、いろいろなやり方はあると思うんですが、地方参政権については、やはり住んでいる場での生活の現実をどうよくするかというレベルの投票ですから、だから、やはり住んでいる場で投票できるようにした方がいいじゃないかという意味で、国境を越えたら地方参政権がなくなっちゃう、どこでも投票できなくなるというのはおかしいじゃないかということで、ヨーロッパは八〇年代から地方参政権を非常に広く認めてきたと思うんです。私もそう思っています。

 ですから、地方参政権は居住地で、そして、中央というか、中央政府の選挙権は、国会とか大統領とか国によって違いますけれども、その選挙は、大使館なり、郵便投票なり、要するに、国籍国でというふうな仕切りが私はいいんじゃないかなと思っております。

長島委員 あと一点だけ。

 今の先生のお話ですと、九十三条ですね、地方公共団体の住民が選挙するという、ここだけ、憲法上、住民になっていますね、国民ではなくて。その辺も解釈の余地があるという、憲法上、今先生がおっしゃったような、外国人に地方参政権を認めるという先生の論拠の一つになり得ると思っておられますか。

江橋公述人 私もそう思います。そして、ただ、憲法及び地方自治法が、住民という言葉と日本国籍のある住民という、二つ言葉を使い分けていることの個別的な一つ一つを検討していくと、ちょっと首をひねるようなところもあるわけですけれども、基本的な考え方としては、やはり、地方自治体の住民が、その住んでいる地域の公共管理事項をきちんとするために、議員を選ぼう、税金を納めよう、首長を選ぼうという話ですから、やはり、その住んでいる地域の住民には広く参政権が認められるべきだというふうに思います。

長島委員 ありがとうございます。

 私自身は少し違う考え方を持っておりまして、国政と地方というのは同じ政治でもなかなか分けられない部分がありますので、国政と地方と実体的に区別をして、地方参政権だけ認めることが本当にいいかどうかということ。それから、そういう場合は、国籍を持たない人が参政権だけ持つというような、ちょっといびつな形になりはしないかというちょっと心配があるものですから、そこは私は留保させていただきたいと思います。

 ペマ公述人は、たしか、日本国籍は取得されておられないお立場だというふうに理解をさせていただいておりますが、そういう点において、今、日本に生活をされて、先ほど、日本国憲法の人権に関する非常にいい部分のお話をしていただきました。しかし、国籍を取得していない立場で生活をされる中で、憲法上何か不利益をこうむったりという、そんな御経験は、もしございましたら。

    〔枝野会長代理退席、会長着席〕

ペマ公述人 私は、過去、三十数年間、日本で生活して、外国人であることによって不利益を得たとか、そういうことはないと思っております。

 多分、比較の問題だと思うんですね。私は、私自身がもし日本の国政に対して関心があれば、当然、日本の法律に従って帰化の手続をし、そして、その手続に照らし合わせて、判断する側が判断して帰化できるわけですから。今まで私は、特に日本の政治をどうこうしたいという気持ちもなかったし、ですから、自分自身が日常生活することには何の不自由もなかったということがむしろ言えるんじゃないかと思います。ただ、すべての外国人が私と同じかどうかということは断定できません。

 それから、もう一つは、私の兄弟とかそういうのは今世界じゅうに散らばっておりますので、私は、やはり、これも比較の問題で、決して日本が外国人に対して冷たいとも思っていないし、そして、帰化の条件が日本の方が難しいとは思っていないんです。それは、多少、やはり誤解があるのじゃないかと。ただ、日本に生活している例えば在日韓国の方だとか、あるいは、その他、過去、歴史的ないろいろいきさつ上、もっと、当然、自分たちは別の扱いを受けるべきだという考え方の人たちは別でしょうけれども、そうでない場合にはそんなに不自由がないというふうに私は思っております。

長島委員 ありがとうございます。

 それと、もう一つは、先ほどは、自衛隊というか九条の話を少ししていただきましたけれども、もう少しお時間があれば、国連憲章と九条の関係についてもお話をしていただけるというふうにさっきおっしゃっておられましたので、もしお考えがあれば、ぜひお伺いしたいと思います。

ペマ公述人 私は、多分、国連憲章ができたころは、集団防衛というか、国連が中心になって国際秩序を維持し、そして、国際平和を脅かすようなものに対しては懲罰というか制裁を加えるというようなことで、国連軍が何かやろうというようなことが当初あったんじゃないかというふうに解釈しております。しかし、今の状況ではそのようなことができていないし、また、できるような様子もない。ただ、アメリカ合衆国は、御存じのように、何度か国連軍と名乗って一方的なアメリカ的価値観を、アメリカ的正義を押しつけているにすぎない。

 したがって、私は、そのような国際社会において、そういう秩序を守るための制度がない限りにおいては、やはり、個人が個人の生命、財産あるいは名誉を守ることがあるのと同じように、国家も国家の自衛権というか防衛権が当然あるべきだと思うし、そして、憲法第九条があったからベトナムに行かなかったのではなくて、それは、過去の歴史的関係とか、あるいは、そのときの国際状況などによって行かなかったのであって、今も憲法九条はあるんだけれども、イラクに行っているんですね。

 したがって、やはり、そういうことを考えてみると、国連憲章も含めて、国際社会でそういうような環境をつくらない限りにおいては、私は、自分の家内が目の前で犯されていたら、これは黙って見ていないと思うんです。したがって、日本国民が、あるいは日本の領土、領空、あるいは人民の生命にかかわるようなことがあったときに、それを守るのは、やはり皆さん、あるいは日本国、国家としての任務であるでしょうし、それを放棄することは私はちょっと異常ではないかというふうに思っております。

長島委員 ありがとうございます。

 最後に、村田公述人にもう一度戻って伺いたいんですが、今のお話がありましたように、憲法は百三カ条しかないわけですから、もともと憲法制定時には想定しなかったような現実というのと遭遇する可能性はあると思うんですね。そういった場合に、さっき先生がおっしゃっていた、今の現憲法の文言や規範的要請といったものに余り固執し過ぎてしまうと、結局、憲法改正しか、想定し得なかった現実への対応策というのはなくなってくるんじゃないかと思うんですね、憲法的には。

 その辺については、どんなお考えを持っておられますか。

村田公述人 非常に一般的な御質問ですので、これは一般的にお答えするしかないわけですけれども。

 想定しなかった新しい状況の発生と申しましても、例えば人権問題で言えば、これはいわゆる新しい人権の問題に関連することですけれども、日本国憲法で言えば十三条がございますので、相当柔軟に対応することが可能であるというふうに考えられます。

 それから、統治機構の運用に関連して言えば、これはリジッドに解釈せざるを得ませんので、文字どおり、これはあくまでも九条との問題ではなくて、一般的、抽象的に、新しい事態が発生して憲法上の対応ができないということになれば、それは改正という問題もあり得るということが考えられます。

長島委員 ありがとうございました。

中山会長 次に、太田昭宏君。

太田委員 公明党の太田昭宏です。

 きょうは、三人の先生、大変ありがとうございます。

 十五分しかありませんので、端的にお聞きしますが、江橋先生にはいろいろ御示唆をいただいて、御指導いただいております。ありがとうございます。

 我が党は、加憲という立場に立って今やっております。

 それで、現行憲法はすぐれているという認識をし、そしてまた、憲法ということからいくと、現在の日本ということを想定した中での改正ということを考えますと、継続性ということは当然必要である。その上に、現在の憲法九十六条第二項、先生から御指摘いただいたように、アメンドメントというニュアンスというものは当然そこには入っている。そしてまた、アメリカにおいてもあるいはフランスにおいても、そうしたことについて、加えていくといいますか、過去のものをそのまま温存しながら新しい時代に対応するということで、加憲、増憲、プラス改憲、あるいはアメンドメントということが私は大事だというふうに思っております。

 消極的ではないか、受動的ではないかという質問を私自身が時々いただきます。私は、消極とか受動ではなくて、現在の憲法というものを積極的に評価するということや、そして、むしろ現実的であり、具体的であるということを言っているわけですが、その辺について、先生の憲法改正というもののあるイメージ、そして私たちの加憲ということについての御見解をお伺いしたいと思います。

江橋公述人 二つのことを申し上げさせていただきたいと思います。

 一つは、憲法といった場合、その憲法って何だろうということですが、私は、日本人一人一人が心の内に、日本国憲法のテキストを読んで、ああ、いいこと書いてあるなと。しばしばそれは、日本国憲法というのは非常に抽象的ですから、その人が読みたいように読んじゃって、いいこと書いてあるなって。それは、いいこと書いてあるのは、その人は自分の考えがいいものだと言っているだけの話だと思うんです。そういうものではなくて、客観的に存在している憲法というのは、やはり、お役人がかつて解釈し、法律制度の中に埋め込んでいって、でも、七〇年代以降は市民の声も随分入っている、そういうものとして存在しているのが日本国憲法だと思っているんです。

 したがって、これは決して一方的に押しつけられた憲法でもないし時代おくれのものでもなくて、やはり、何だかんだ言いながら、国民、市民は日本国憲法に新しい命をつけ加えてきたと思っていますので、その意味で、先生おっしゃるとおり、これまで行われてきたことをきちんと継続して憲法議論をするというのが大事なんだと思います。

 それともう一つは、こういうお話をしているとき、私の頭の中にはやはり一番基本的にはイギリスがありまして、イギリスの場合には、御承知のとおり憲法典がございません。イギリスは世界に先駆けて産業革命を起こし、世界に先駆けて議院内閣制をつくり、世界に先駆けて福祉を行い、すべて、つまり、世界最強国だというのを背景に世界最初のことを随分したわけで、その際には、モデルがないからきちんとしたものがつくれない、とりあえず、トライアルズ・アンド・エラーズでやっていこうということでやっていって、そこでうまくいったことがだんだん憲法として固まってくるというのがイギリスだ。ですから、イギリスは、過去において行ってきたことのうちのいいものを固めていったものが憲法になっているということ。

 それで、私がプラス改憲と申し上げるのは、アメリカの場合も、過去において行ったものを、行っていて足りないからここを足していこうということはあっても、そんな一足飛びに全部ひっくり返すということはできない。立憲主義の先進国は、一から全部出直し――昔、ある政治家の方が、憲法って洋服のようなものよ、時期が来て合わなくなったら、脱いでかえなきゃいけないのよと。私は、違うだろう、憲法は家じゃないかと。例えば、おじいさんが年とって介護を必要とするようになったから、そのためにバリアフリーで少し直す、子供が大きくなったから勉強部屋をつけ足す。増築し、改築し、修理し、どうしようもなければかえることはあっても、やはり基本は、増築、改築していくので、洋服のようにぱっぱかぱっぱか脱いでかえるようなものじゃないだろうと思っています。

 ですから、私はそういったことを考えると、やはりプラス改憲とかあるいは公明党のおっしゃっている加憲という考え方が一番いいんじゃないかな。そして、政治的にも結局は、与党と野党、連立ですから、幾つかの与党と幾つかの野党の間で合意に達するには、そういう道しかないんじゃないかな。アメリカなりイギリスなり、そういう立憲主義の先進国は結局そういう道を選んだのであって、与野党対決、一党頑張って、ほかをけ散らして憲法改正なんというのは、そんなことできっこない話ですから。そういった意味からすると、やはり今の憲法をもとに修理し、改善していこうじゃないかということでいいので、決してそれは消極的とかそういうことじゃなくて、むしろ立憲先進国はおおむねそういう方向に行く。

 フランスは比較的派手に革命とか政権交代する国で、そのフランスでも、やはり人権宣言は昔の人権宣言を今でも使っているわけでして、イギリスなんというのは、マグナカルタが実定法としての効力を失ったのはついこの前ですよね。だから、二十世紀に入って初めて判例で一六八八年の権利章典が使われなくなったとかというぐらい、昔の日本でいえば元禄時代の法律を使っているような国ですから。

 だから、そういうふうに古いものをだましだまし使える限り使っていくということの方が結局は広い国民の合意を得られるし、その国で本当に市民が毎日毎日頑張ってつくっている、そういう憲法的事実を大事にすることという意味で、私は決して消極的とかおくれていることだとは思っていません。

太田委員 ありがとうございます。

 憲法の基本構成が国家対国民ということを変えていった方がいいのではないかという議論がございます。何もこれは対立概念ではないんだと。

 しかし、この基本構造というものはそのままにした上で、その上に、先ほど、名あて人は国家であるという表現が公述の中にございましたけれども、私は、このままにした上で、そこに別の角度でいけば、権利と義務の、国民の権利が書いてあって義務が少ないというようなことも同様のお話ではないかというふうに思っております。

 先生のきょうの公述の中にも、国家の責任とか、責任という表現をされた箇所がさまざまございます。権利、義務、その間にやはり責任という概念を挿入するというような新しい手だてというのは当然必要であるというふうに思っているわけですが、国の責任、あるいは責任概念というものを挿入するということについて、先生のお考えをお聞きしたいと思います。

江橋公述人 いささか穏当さを欠く表現になるかと思いますが、戦前の大日本帝国憲法においては、主権者たる天皇に対する責任というのは非常に明確に存在していたと思うんです。現在の日本国憲法では、一つには、主権者たる国民に対する責任、主権者たる国民というところでわっと広まった上に、主権者たる国民に対する責任というところが非常に不明確になっている。

 結局、政府なりが、例えばこの前のバブルがはじけた後なんかもそうですが、幾つかの事柄において、失礼ですけれども、無策のうちにいたずらに時間を費やして、空白の何年とか言っていればそれで済む、そういう話じゃないだろう。やはり政府なり、それは野党もなんですけれども、政治の責任のある方々は、まさに責任を持って一生懸命積極的に公益を実現していただきたいと思うんです。

 憲法の、先ほど国家が名あて人だというのは、権利義務、国民に権利を認め、国家がそれを実現する義務を負うというのと、もう一つは公益、公の利益を国家が実行していく責務がある。

 デューティーという言葉は、デューというのは正しいことでして、まさに正しいことを積極的に行っていく。そのために私たちは選挙をして国会議員を選んでいるわけだし、お給料を出して公務員を雇っているわけですから、積極的にしてもらわないと困る。それを何もしないでおいて、失われた十年でございます、済みませんと言われたのでは、それこそこっちが困っちゃうという話でして、やはり具体的に、そこをどうなさるかは皆様のお知恵だと思うんですけれども、私は、できるだけ明確に憲法の中に、今言ったような権利を実現する義務と公益を実現する責務をはっきりと書いていただきたいと思っています。

太田委員 もう一つ。災害のときの話が先ほど出たわけですが、私もこの十年ぐらい、阪神大震災以来もそうですが、この間、新潟に行っても非常に痛感したんですが、ボランティアとかNPOとか、世界的にはNGOという存在が、公助、自助、そして共助という概念、真ん中のところの共生とか共助、こういう概念というものがこれからの二十一世紀では極めて大事だというふうに思っているわけですが、この辺と責任との関係性とか、そうした項目というか物の考え方を憲法の中に挿入するということについてはどういうふうに考えていいのか、お聞きをしたいと思います。

江橋公述人 私は、一つはコモンというものについてお考えいただけたらいいかと思っています。

 日本の場合は、個人があって自治体があって国がありますけれども、実はその間に、自治体と例えば市町村、特に今度市町村合併したりして大きくなるわけで、その市町村と個人の間に、英語で言うところのコモン、生活を共同しているコモンという単位があるように思う。それは、自治区とかいう形できのうの新聞にも出ていましたけれども、やはり日本の憲法制度を考えるときには、個人と自治体なり、そこの場ですと、まさに共助の体系なんだと思うんです。災害のときも災害でない普通のときもお互いに協力し合って、地域で共通管理事項をきちんと管理していくということが大事なんじゃないかなと思っております。

太田委員 最後になりますが、ペマ先生にお聞きをしたいと思います。

 ちょっと憲法と離れますが、日本の中でも、日本の文化あるいは伝統みたいなものが希薄化しているという社会状況もありますし、この憲法の中にそうしたものがない。日本のアイデンティティーあるいは日本人のアイデンティティーということにかかわる分があるわけですが、チベット、同じ仏教というものを根底にした国であって、その辺の、チベットの中で、また日本を見て、国のそうした文化とか伝統とか、あるいはそうしたことについて、どういう形でそれを保持するというか育てるというか、そういうことが大事だというふうにお考えでしょうか。

ペマ公述人 私が最初に日本に来たときに、埼玉の田舎にいたんですけれども、学校に通っているときの駅のベンチはいつまでも本当にきれいだったんです。落書き一つもなかったんです。そして、町を歩くと、たばこ屋の隣の赤い公衆電話はいつまでもぴかぴかと光っていた。

 そういうことを考えてみますと、やはり私が日本に来たとき、日本において極めて高い道徳心あるいは公共心、そして仕事が終わってもだれ一人すぐ帰ろうとする人がいなかった。帰る人は、上司が、おまえ、きょうは帰っていいよと言うと、申しわけないような話をして、先に失礼しますと言って帰っていました。

 そういうふうに考えてみますと、やはり法律もそうですし、社会を支えるのは、私は自発的な行為だと思うんですね。それは多分、なんじ殺すなかれ、盗むなかれ、そしてうそを言ってはならない、こういうことはすべての教えにおいて、二千五百年前から今まで同じだと思うんです。

 ただし、そういうものは、ある国においては、多分GNPやGDPが高くなくてもお互いに幸せ度が高いと思うんです。そして、そのような幸せ度の高いところが、私は、私の子供の時代に、私の国にあったというふうに思っているんです。また、同じようなものが、私は、日本に来たときに、日本の社会においてもあったというふうに思っているんです。

 それが逆に、今日私の聞いている話では、世界人権宣言の条文をマハトマ・ガンジーに書いてくださいとお願いしたときに、マハトマ・ガンジーは、ここには権利のことしか、義務のことが書いてない、権利と義務というのは車の両車輪のようなものだ、したがって、申しわけないけれども、世界人権宣言の条文を書けないということで断ったということを聞いております。

 今、日本で生活していると、先ほど申し上げましたように、さまざまな自由を私は本当に堪能して、そしてその恩恵を受けているわけです。ただ、ややもすれば最近は、他の人の自由を尊重しないような、社会に迷惑をかけるとか、そういうことが非常に頻繁になってきているような気がするんですね。そういうことが、私は、憲法の中において、どこかそういう道徳的な基準というか精神性というものがもうちょっとあってもいいんじゃないかというふうに思って、それを先ほど書かせていただきました。これは別に、仏教とかそういうことじゃなくて、あらゆる精神世界において、多分、愛とか慈悲ということは自発的にやはり出てくるものだ。それをもうちょっと養うようなことが必要ではないかということを思った次第です。

太田委員 ありがとうございました。

中山会長 次に、山口富男君。

山口(富)委員 日本共産党の山口富男です。

 きょうは三人の公述人の皆さん、どうもありがとうございました。それぞれ、憲法のあり方ですとか、運用の現状についての御意見、提議として聞かせていただきました。

 江橋公述人からは、実質的な憲法のあり方について議論を深めようという話がありました。それから、ペマ公述人からは、あるのだから守ったらどうかという話もありました。村田公述人の最後の結論のところでは、今必要なのは憲法の改正ではなく、ゆがめられた憲法の解釈、運用を立憲主義的なものに正すことだという指摘があったと思います。

 そこで、まず村田公述人に二点お尋ねしますけれども、一つは、日本の憲法状況がなぜ立憲主義の危機と指摘されるような事態に陥ったのかというのを、一点お尋ねしたいのです。それからもう一点は、そのこととも関連するんですけれども、そのような事態、村田公述人の言葉ではゆがみということですけれども、それを正す展望についてはどう考えているのか。この二点、まずお尋ねしたいと思います。

村田公述人 なかなか簡単にお答えするのは難しいんですけれども、まず立憲主義の危機というのも、何か現実が勝手にひとり歩きしてそうなったわけではないわけでありまして、これは先ほど江橋先生の方からも責任ということが特に強調されましたが、やはり憲法の運用に直接かかわっている立法、行政、司法の三権、それから地方自治体、こういった機関がそれぞれこの危機的状況をもたらした責任がそれなりにあるであろうというふうに一般的には申し上げられるかと思います。

 政府・与党については、平和の問題でいえば、やはり日米安保体制に固執してきたという問題、それからアメリカ政府追随の姿勢という問題、それから、いわゆる財界寄りの姿勢、これはしばしばいろいろな方が言われていることですけれども、こういった姿勢が問題となったところであろうと思います。

 司法権に関して言いますと、きょうは特に申し上げませんでしたけれども、これまたしばしば言われている立法寄りないし行政寄りの姿勢、それはすなわち司法の独立の危機的状況というふうに一言で言えば言えるかと思いますけれども、こういった問題がこの状況の根底にはあろうかと思われます。

 それをどうするかという展望となりますと、これは、こうして問題の所在を示すことが展望を示すことになっているというふうに答えてもいいのかもしれませんけれども、要は、三権や、それと地方自治体がそれぞれ、もう一度憲法をしっかり守るという原点に立ってもらいたいということであります。

 同時に、きょうは民主主義の問題を申し上げましたが、やはり国民、それから地方自治体レベルでは住民ということになりますけれども、国民や住民が国家や自治体の活動をしっかり監視するということ、それからその国家、自治体に対して要求を出していくということ、これが重要なことになろうかと思いますけれども、これは同時に、その制度の改正、改革というものが伴ってくる問題でありまして、きょうは選挙制度のことだけ申し上げましたけれども、やはり選挙制度を見直して国民の意見が通りやすい国会をもう一回つくっていただきたい、こういうことになろうかと思います。

山口(富)委員 では、続いて江橋公述人にお尋ねしますけれども、きょうの話では、特に七〇年代以降の市民の運動と経験の中で、憲法に新しい命が吹き込まれたという指摘がありました。

 これについては、もともと憲法が持っている規範的な力が、主権者の運動や、判例なども含めまして、そういうものによって現実化し豊かになった、そういうものとして憲法をとらえていく、そういうこととして理解してよろしいんでしょうか。

江橋公述人 ある人が、憲法というのはドラえもんのポケットだ、何でも出てくると言ったことがありますけれども、私もノストラダムスの大予言的憲法解釈と言うときがあるんですけれども、何か社会が変わって新しいことが出てきて、自分が何かを考えついて、こういうふうにしたいなというときに、一つの方法として、確かに、憲法を見て、憲法に実はこれが含まれていたんだと言ってしまうというのは一つのやり方ですけれども、日本はそれを繰り返した結果、憲法が一体何を言っているのかというのは、言っている人が、結局は自分が心の中で思っているいいことをそのまま憲法に書いてあったよと言い直しているだけというふうになってしまうところがあります。

 ですから、憲法に本来書かれていた内容が七〇年代の市民運動の中であらわれてきたんだという言い方もいいんです。それとまた、実際そういうふうにいっているときもあるし、環境権なんかでも、憲法二十五条とか憲法十三条の規定があるからだといったことがどれほど運動を前進させたかということからするといいんですけれども、概して言うと、七〇年代以降の市民運動は、自分たちの行っている運動とか価値観とか自分たちの目標を憲法という言葉に翻訳しないで、ストレートにやるぞといったのが多かったかなという印象はあります。

 ただ、幾つかの、特に、例えば平和の関係では、憲法前文とか九条とか十三条から平和的生存権というのを導いて、それをてこに運動を進めていこうというふうに、憲法に内在している価値を掘り起こそうとする考えも強かったことも事実ですけれども、逆に言うと、余りそれをやっていると、何か起きたら、ほれ、これはノストラダムスの予言書に書いてあったとおりだと。あれは抽象的に書いてありますから何とでも読み込めちゃうのと同じように、憲法も一つ間違えると何でも読み込める抽象度の高いものですから、そこはちょっと気をつけた方がいいかなとは思っておりますけれども。

山口(富)委員 そうしますと、やはり主権者国民の、きょうは政府側の解釈、運用というのが問題になりましたけれども、主権者国民がみずからいわば憲法を政治権力に対して守らせなきゃいけないわけですから、その立場に立つということが、憲法のいろいろ内在的な価値についても、それを現実化する非常に大きな力になるというふうに考えてよろしいんでしょうか。江橋公述人に。

江橋公述人 そうお考えになっても結構ですけれども、私が申し上げている際には、やはり市民運動が提起した問題については、いつまでも政府対市民運動という敵対的関係にあるのではなくて、やはり政府や与党も折々に、市民運動が提起している問題でこれは当たっているなというような問題についてはみずから立法化に御努力なさって、しかるべく制度化されたと思います。

 八〇年代ごろには、よくお役人の人に言われまして、あなたたちの言っていることは過激だからとてもそのままじゃ聞けないけれども、でも、私たちは運動のやっていることはじっと見ています、それが広く国民に支持されているかどうかということを見ていまして、要するに、先生たちは素人でどうしようもないんだけれども、それをじっと見ながら、私たちは私たちなりに役所としては考えて、それできちんと制度化できるようにして、そして提言していますので、まあ三年か四年のタイムラグはありますけれども、おっしゃっていることは実現しているんじゃないですかと言われたこともあります。

 ですから、市民運動と政府の関係というのは、敵対的関係ばかりじゃなくて、いつの間にか協調しているという側面も、最近はそれが強過ぎるかなとむしろ思っているぐらいですけれども。

山口(富)委員 では、続きまして、ペマ公述人にお尋ねしますけれども、先ほど、日本の憲法の問題で、やはり国際的な環境が随分問題になるんだというお話がありました。

 今アジアで考えますと、二十一世紀に起きた世界の戦争というのは、アフガニスタンでありイラクであり、アジアを舞台にしてしまったわけですが、その中で、アメリカの一国主義とも先制攻撃とか単独行動主義と言われますが、これが非常に大きな影響を与えているわけですね。アメリカの今のそういう世界戦略と日本との関係というのは、どういうお考えをお持ちですか。

ペマ公述人 アメリカは、日本はあくまでも将棋のこまとしか考えていないと思います。ですから、アメリカは、世界戦略の中において、日本はアメリカの世界構想の中における一つの道具というような形で考えているのではないか、私はそういうふうに思っております。

 そういうふうに考えるものですから、私は、先ほども申し上げましたように、かつてはというか、二十世紀までは、憲法はその国の最高の法令として、基本法として十分だったけれども、これからの二十一世紀においては、憲法は国際社会のことを十分に考えなければならなくなってきているということ。

 それから、今先生がおっしゃった、例えばアメリカと日本は同盟国、この同盟というのは、私は、軍事ということがそこに入っていると思うんですね。それがある限りにおいては、その同盟ということがあった、一方においてそのまま今の憲法を維持しようとするとなると、やはり法律は守るべきであって、そして、その法律を守るということは、場合によっては、法律に沿って変えることも法律を守ることであろう。むしろその法律を無理な解釈とかそういう形で守っていかないことが、私は、法律を無視することだろうと。

 したがって、アメリカの国際戦略は、例えば――時間、制限ありますか。

中山会長 いや、大丈夫。どうぞ、まだありますから。

ペマ公述人 例えば、私が一九九七年にウズベキスタンとか、今スタンのつく国々を訪問しました。その時点で、もう既にアメリカは、まず一つは、アメリカが軍隊を維持するためには、それまではソ連とかあるいは社会主義における革命とか、そういういろいろな口実があったと思うんです、それこそ共産主義を防止するということも一つの目的だったと思うんです。しかし、冷戦後あるいはソ連の崩壊後のアメリカの軍事を維持するための一つは、やはり食料安保とかあるいは資源を守るということが、アメリカの大きな防衛上あるいは軍事を持つための目的になった。

 したがって、今アメリカは、例えば世界じゅうからいろいろな理由があって軍隊を引き揚げている中において、日本においてはむしろこれから軍人をふやす、あるいは日本を、もっと大きな役割を果たさせようとしている段階にあるということを考えてみますと、そこに日本は追随していくか、あるいは日本はみずから対等な立場で同盟国としてやっていくかということが今後の課題だろうというふうに思います。

山口(富)委員 私も、指摘ありましたように、同盟というのは軍事ですから、憲法九条からいってそれは反するわけですね。ですから、私は、現実の方を憲法に近づけるべきだという立場です。

 さて、村田公述人に一点お尋ねしたいんです。

 一つは、憲法九条を中心としました憲法の平和主義が一九四六年に、ああいう時点で生まれた歴史的な背景をどういうふうに見ているのかということ。それから、少し時間が迫ってきましたのであわせてお尋ねしたいのは、二十一世紀を迎えた世界とアジアの中で、この憲法九条や平和主義が一体どういう役割を持ち、力を発揮するのか。そのあたりについて、お考えを聞かせてください。

村田公述人 時間が迫っている中で、何か一冊本を書かなきゃいけないような御質問かと思いますけれども、簡単にお答えします。

 まず、やはり日本国憲法が生まれた背景というときに、さまざまな角度から見ることができまして、これはやはりアメリカの思惑がそこに込められていたということも、確かにそういう側面はあったろうと思うんですけれども、しかし、もう少し長いタイムスパンの中でこれを見たときには、やはり違った側面が見えるかと思うんですね。

 平和主義の問題で言いますと、やはり国際法上の戦争違法化の長い歴史というものがありまして、その中でこの一九四六年の憲法というものを見ることが必要ではなかろうかと思います。

 要するに、うんと昔に戻れば、国家が戦争するということは何の疑問も持たれていなかった時代があったわけですけれども、それにルールというものが持ち込まれるようになる。次第に、十九世紀から二十世紀にかけてそういう動きが始まり、まずはその手続の枠がはめられ、そして、戦争そのものについても、いわゆる正しい戦争、間違った戦争という区別が生まれてくる。そういった中でこの九条という条文が生まれたという、この背景はやはりきちんと押さえておく必要があろうかと思います。

 そして、いわゆる非武装という、それは国際的に見れば確かに特殊だと言ってよい規定ができたわけですけれども、なぜそうなったのか。これはやはり、総力戦の時代になって、戦争をやればどっちも大きく傷つくという、非常にそういう深い経験を第二次大戦を通じて行った、そういう経験があって、そして、この九条は、残念ながら政府というよりは国民によってその後担われていった、こういうふうな位置づけができようかと思います。

 それから、九条の世界あるいはアジアの中での位置という問題でございますけれども、これは要するに、九条を守って平和主義を実践するということ、それがアジアや世界にとってどういう意味を持つのかという問題かと思います。今の世界あるいはアジアにとって何が一番危険な要素なのかということは、先ほどのペマさんとのやりとりの中でも出てきましたけれども、そして私自身も先ほど申し上げましたが、やはりアメリカの非常に危険な戦略、これが何よりもその火種になっているということをリアルに見る必要があろうかと思います。

 そうしますと、そうした現実の中で、九条を守る、例えば具体的な非核三原則であるとか武器輸出禁止三原則、こういったこれまでに生まれた成果、これをきちっと守るということと同時に、日米軍事同盟解消、これも九条を実践するということからいえば当然あるべき施策ということになろうかと思いますけれども、現状の中で、仮にそこまでいかなくても、今のアメリカの危ない戦略に加担しない。せめて、EU諸国の中でイラク侵略に反対した国があったように、あのような何がしかの自主的なとも言える態度をとれば、これが世界の状況を大きく変える可能性は十分あるだろうというふうに思います。

 アジアの問題につきましても、これは先ほどちょっと申し上げましたが、かつて日本が侵略した国々は、やはりそういう目で、侵略されたという過去の歴史を引きずって日本を見ている。そして、今は日本は非常に経済的に大きな国になったということ、それがそういった国々の中でまたかつての悪夢がよみがえるんではないか、そういう気持ちも生まれてくる。

 そういう中で、やはり九条というものを示しているということは、非常に、いわば空洞化された側面はありつつも大きな意味を持っているであろう。これにさらに実質を加えていく。と同時に、いわゆるアジア共同体というのが最近は大変話題になっておりますけれども、対等、平等な経済圏をこのアジアに確立していくということが日本の本当の意味でのリーダーシップを確立することになるであろう、このように考えております。

山口(富)委員 ありがとうございました。

中山会長 次に、照屋寛徳君。

照屋委員 社会民主党の照屋寛徳でございます。

 きょうは、御三方の公述人、貴重な御意見を拝聴することができました。感謝を申し上げます。

 最初に、江橋参考人にお伺いをいたします。

 憲法に向き合う姿勢というか論拠で、改憲とかあるいは護憲、論憲、創憲、加憲というくくりでよく言われるわけでありますが、私自身は、この中では護憲の立場であるということを明らかにしておきたいと思います。

 そこで、江橋公述人は、平和フォーラムの代表もしておられまして、沖縄にも何度かおいでになっておりますけれども、基地の島沖縄で日々憲法を考えていきますと、この国の最高法規としての憲法規範と、それから安保法体系というか、日米安保条約を頂点とするさまざまな特別法あるいは日米地位協定、この法体系との衝突というのが、これはもう生活の中に出てまいるわけですね。

 例えば、去る八月十三日に海兵隊のCH53D大型ヘリが沖縄国際大学の本館ビルに追突をして、墜落、爆発、炎上をいたしました。その直後に起こったことは、私は墜落事故の直後に現場へ行きましたけれども、これはもう民間人の死傷者が出なかったのはまさに奇跡中の奇跡で、直後に、例えば海兵隊が現場を封鎖して外務省や防衛庁の政務官の立ち入りを拒否するとか、あるいは海兵隊が大学のキャンパスを占拠して大学の自治を踏みにじるとか、大学関係者も市当局者も現場へ入れない。そして、それは、日米地位協定や、あるいは日米合同委員会合意を根拠にして正当化するわけです。

 私はむしろ、この事態を見たときに、この国の主権が侵害されておるというふうに思いました。そういう点では、憲法法体系、憲法の理念が全然違う安保法体系の理念によって侵食されておるというのが私が沖縄で感ずることでありますが、江橋公述人は、この憲法理念と安保法体系の理念の衝突ということを平和主義との関係でどのようにお考えになっておられるか、お聞かせをいただきたいと思います。

江橋公述人 今照屋先生の方からいろいろ言われまして、おっしゃるとおり、私も沖縄にお伺いして、嘉手納基地をみんな人間の鎖で取り囲む運動とか、あるいは普天間を取り囲む運動にも参加させていただきました。基地の問題は大変深刻な問題だと思っております。

 ただ、それと同時に、言わなければいけないのは、今平均的に言って、日本国民のうちアメリカ軍の基地をそもそも見たことのある人が何人いるんだろうか。沖縄とか私の住んでいる神奈川県のような基地集約県であれば比較的見る機会はあるんですけれども、ほとんどの国民は米軍基地を見たこともないというのも現実かと思います。

 そして、九条の関係で言うと、日米安保条約と日本国憲法の間が矛盾していて衝突しているんだ、だから日米安保条約は憲法違反だという主張の方が、自衛隊が違憲だという主張よりも前に消えたと言ったら変ですが、弱くなってしまったように思っています。つまり、全く残念なことですけれども、それが日々基地に接している神奈川県民としても残念なことなんですけれども、日米安保条約と憲法九条は矛盾するというのではなくて、むしろ日米安保条約に便乗して、それはあるんだけれど、それは言わないで、それで九条のことを考えるというような思考になっているように私には思えます。論理的に攻めれば、おっしゃるとおり、日米安保条約と憲法九条はさまざまな矛盾点を含んでいることはそのとおりでもあろうかと思います。

 事故のことをおっしゃいましたけれども、やはり私も沖縄の事故のことを見て、改めて、かつて横浜北部に落ちたファントムの事故のときのことを思い出しました。あのときは、母親と子供二人が全身大やけどで、子供が死んでしまったことを全身大やけどで入院している母親に伝えられないというので、随分悲しい思いをしていたと思いますけれども、あのときもやはりアメリカ軍のヘリコプターが飛んできて勝手なことをやって帰ったというのは同じようなことであったと思います。したがって、事故などが起きた場合に日本の主権がなくて、日米安保条約に基づくアメリカ軍の管轄権の方が優先するんだというようなことになってしまうというのも事実だと思っております。

 ただ、ではどうするんだというときに、日米安保条約は憲法九条に違反すると言うのもいいんですけれども、私はむしろ、今、日米安保条約を含めて、アメリカ軍のいわゆるトランスフォーメーションの中で非常にアジアが全体的に危機に陥っている。だから、逆に言うと、東アジアにおける日中とか日韓とか日ロとか日台とか、そういう国々の安定と安全と発展のために協力し合っていくという関係をつくることが、実は今この段階で憲法九条の平和主義というものを生き延びさせる道なのかなと私は思っているんです。

 ですから、きょうも最初から、皆さんのこういう場では余りふさわしくないかもしれませんが、七二年の日中国交回復のことを述べさせていただいたのもそういうニュアンスがありまして、今必要なことはそれじゃないか、そこをやらないでいると、結局は日本の九条というか平和主義はアメリカ軍の下請機関化していってしまうというか、どこかに行っちゃうんじゃないかというのが私の危惧しているところであります。

照屋委員 村田公述人にお伺いをいたします。

 私は、国民の平和のうちに生存する権利、いわゆる平和的生存権を大変大事にしたいなというふうに思っておりますけれども、そういう点では、日本国憲法は、世界の憲法で初めて平和を人権の一つとして保障する立場をとった憲法ではないかと私は思っております。

 この平和的生存権が生まれてきた背景としては、戦争の違法化、戦争を違法と見ることが進んで、政策遂行の手段として戦争に訴えることはもはや主権国家の正当な権利ではない、あるいは、平和を維持することが他の人権を享受するための前提であるというふうな考え方に基づいておるんだろうというふうに思っております。

 もちろん、平和的生存権というのは、まだ人権としては確立をしていないんだとか、裁判規範性はないんだとかと主張する学者もおりますけれども、長沼訴訟の一審判決では認められましたね、私はそういう点では平和的生存権というのを大事にしたいという立場ですが、村田公述人は、この平和的生存権についてどういうふうに考えておられるんでしょうか。

村田公述人 照屋委員と基本的には全く同じ考えでございます。

 世界に類のない権利でありまして、要するに、平和的生存権、権利ということの意味が、やはり非常に重い意味を持つわけであります。つまり、単に平和の問題を政策的な管理の対象としてとらえるのではなくて、国民自身の主観的な権利の問題としてとらえるというところに、この権利の重みというのが非常にあるわけです。

 御案内のとおり、この権利の法的性格をどのようにとらえるべきかという問題につきましては、訴訟技術的な問題などもあって、いろいろ学説上議論もあるところではありますが、例えば、今御紹介にありました長沼ナイキ訴訟の札幌地裁判決などで、いわゆる訴えの利益の要素としてこれを認めたということなどは、非常に重要な意味を持っていたというふうに考えます。

照屋委員 これは、江橋公述人と村田公述人、御両人にお伺いしたいんです。

 衆参憲法調査会で、現在の日本国憲法は国民の権利規定だけ多くて義務規定が少ない、たった三つしか義務規定がないじゃないかという意見を述べておられる委員がおります。私は、そういう考え方はおかしいんじゃないか、立憲主義の憲法として、国民の義務規定をふやすべきだという立場には立ちません。

 昨日、自民党の憲法調査会が憲法改正草案大綱の素案を発表いたしまして、その中で、国民の義務として国家の独立と安全を守る責務というのを掲げております。ただし、徴兵制は容認するものではないということも明定しているわけでありますが、私は、徴兵制というのは国民の国防義務規定から生ずるのではないかというふうに思っておりまして、国家の独立と安全を守る責務を、国民に、憲法を改正して明定をした上で課すということは、徴兵制につながっていくのではないか、こういうふうに考えておりますけれども、両公述人の御意見はいかがでしょうか。まず、江橋公述人から。

江橋公述人 徴兵制の問題ですけれども、徴兵制が復活するのではないかというのは、戦後日本の憲法を論じる際に常に論点になっていた点だと思います。ただ、私は、イラク以降の、二十一世紀の戦争では、いささか様相が違うのかと思っております。

 私が大変ショックを受けたのは、イラクのアブグレイブ刑務所でイラク人に対して拷問を加えていた人の中に雇われのガードマンがいたということでありまして、私は、拷問というのはとても許されない、特に戦時捕虜に対する拷問はさまざまな国際条約に違反すると思いますが、アメリカよ、やるならせめて自国の兵士にやらせよと思ったのでありまして、ああいうことをガードマンにやらせるというのは国家として基本的に堕落していると思っております。

 でも、ラムズフェルド国防長官が言っている、アメリカ軍今後の四原則の四番目に、民でできることは民でと、何かどこかの国の首相みたいなことが書いてありまして、結局、アメリカの場合は、戦略的な攻撃を加えたりするときにはあの重装備の海兵隊を投入するわけですけれども、イラクには十三万五千ですか八千ですかいるわけです。とてもあれでは占領地が管理できないからほかの国の軍隊を呼んでくるけれども、中には、ネパール人を呼んできて、グルカ兵の末裔で能力が高いと。まさにネパール人がイラクで人質になって殺されていましたけれども。要するに、アメリカから見たら、自衛隊もそれから海兵隊上がりの民間の人も、何かアブグレイブなら一日千ドルだとかいうのが新聞に出ていました、給料が。

 つまり、何かばたばた言っていますけれども、何かというと、徴兵制という形で市民を強制的に連れてくるより、もしかすると、外資系企業が日本人を雇用して、語学のできる人優先、それで、出張地イラクというような形で、実はどこかの副大統領の持っている会社とか言われているところの現場を守るガードマンとして、どんどんどんどん海外に連れていかれる時代というのが来たのではないか。

 そういった意味で、私は、民活戦争というアメリカのラムズフェルドが言っていることは、日本の若者に対して非常に新しい危険をもたらしてきている。徴兵によって連れていかれるということも問題かもしれないけれども、徴兵じゃなくて個別的契約で、外資系ということになって、東京外国語大学のアラビア語科を卒業したからあんたはいいよとか言って、気がついてみたらアブグレイブ刑務所に配置されていたというのでは、幾ら何でもひどいだろうという意味で、今後の世界における戦略の展開を見た場合、私は、徴兵制に対する危険性を考えると同時に、そういうふうに軍需系の会社に雇われちゃって戦場に配置される若者に対して、どうやってそれを防止するかということも考えなきゃいけないと思っております。

 したがって、国防、国を守る義務を憲法に明定することで徴兵制が出てくる、だから国防の義務は憲法に書かないといって、書かなかったら問題が解決するかというと、そうじゃなくて、横道から、あるいは裏口から、するするすると日本の若者が戦場に派遣されてしまうという危険性はなおあると思っております。

中山会長 これにて公述人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、一言ごあいさつを申し上げます。

 公述人各位におかれましては、長時間にわたり貴重な御意見をいただき、ありがとうございました。憲法調査会を代表して、御礼を申し上げます。(拍手)

 次回は、来る十一月二十五日木曜日午前八時五十分幹事会、午前九時公聴会を開会することとし、本日の公聴会は、これにて散会いたします。

    午後四時五十九分散会


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