衆議院

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第3号 平成17年10月13日(木曜日)

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平成十七年十月十三日(木曜日)

    午前九時開議

 出席委員

   委員長 中山 太郎君

   理事 愛知 和男君 理事 近藤 基彦君

   理事 福田 康夫君 理事 三原 朝彦君

   理事 保岡 興治君 理事 枝野 幸男君

   理事 古川 元久君 理事 赤松 正雄君

      赤池 誠章君    井上 喜一君

      伊藤 公介君    遠藤 武彦君

      越智 隆雄君    大村 秀章君

      加藤 勝信君    木挽  司君

      佐藤  錬君    篠田 陽介君

      柴山 昌彦君    関  芳弘君

      薗浦健太郎君    高市 早苗君

      渡海紀三朗君    中谷  元君

      野田  毅君    葉梨 康弘君

      早川 忠孝君    林   潤君

      平井たくや君    二田 孝治君

      船田  元君    松野 博一君

      松本 洋平君    森山 眞弓君

      山崎  拓君   吉田六左エ門君

      渡辺 博道君    石関 貴史君

      岩國 哲人君    小川 淳也君

      大串 博志君    逢坂 誠二君

      北神 圭朗君    郡  和子君

      鈴木 克昌君    園田 康博君

      田中眞紀子君    筒井 信隆君

      平岡 秀夫君    柚木 道義君

      横山 北斗君    伊藤  渉君

      太田 昭宏君    高木美智代君

      福島  豊君    笠井  亮君

      辻元 清美君    滝   実君

    …………………………………

   参考人

   (上智大学大学院法学研究科教授)         高見 勝利君

   参考人

   (香川大学大学院香川大学・愛媛大学連合法務研究科教授)          高橋 正俊君

   衆議院憲法調査特別委員会及び憲法調査会事務局長  内田 正文君

    ―――――――――――――

委員の異動

十月十三日

 辞任         補欠選任

  河野 太郎君     薗浦健太郎君

  坂本 剛二君     木挽  司君

  渡海紀三朗君     関  芳弘君

  渡辺 博道君     松本 洋平君

  北神 圭朗君     横山 北斗君

  仙谷 由人君     柚木 道義君

  園田 康博君     郡  和子君

  高木 陽介君     高木美智代君

  亀井 久興君     滝   実君

同日

 辞任         補欠選任

  木挽  司君     赤池 誠章君

  関  芳弘君     渡海紀三朗君

  薗浦健太郎君     河野 太郎君

  松本 洋平君     渡辺 博道君

  郡  和子君     大串 博志君

  柚木 道義君     石関 貴史君

  横山 北斗君     北神 圭朗君

  高木美智代君     伊藤  渉君

同日

 辞任         補欠選任

  赤池 誠章君     篠田 陽介君

  石関 貴史君     仙谷 由人君

  大串 博志君     園田 康博君

  伊藤  渉君     高木 陽介君

同日

 辞任         補欠選任

  篠田 陽介君     越智 隆雄君

同日

 辞任         補欠選任

  越智 隆雄君     坂本 剛二君

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 日本国憲法改正国民投票制度及び日本国憲法に関する件


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     ――――◇―――――

中山委員長 これより会議を開きます。

 日本国憲法改正国民投票制度及び日本国憲法に関する件について調査を進めます。

 本日は、本件調査のため、参考人として上智大学大学院法学研究科教授高見勝利君及び香川大学大学院香川大学・愛媛大学連合法務研究科教授高橋正俊君に御出席をいただいております。

 この際、両参考人に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、御多用中にもかかわらず御出席を賜りまして、まことにありがとうございます。参考人それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたいと存じます。

 本日の議事の順序について申し上げます。

 まず、高見参考人、高橋参考人の順に、それぞれ三十分以内で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑に対しお答え願いたいと存じます。

 なお、発言する際はその都度委員長の許可を得ることとなっております。また、参考人は委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。

 御発言は着席のままでお願いいたします。

 それでは、まず高見参考人、お願いいたします。

高見参考人 本日は、貴委員会において意見陳述の機会を賜り、まことに光栄であります。早速、本題に入らせていただきます。

 ちょうど一月前の九月十四日、最高裁大法廷は、在外国民の選挙権を剥奪または制限する公選法の規定を違憲とする判決を下したのでありますが、この判決につきまして、ここでは特に、憲法が国民固有の権利として保障している選挙権の制限立法を違憲とする判断を示したという点に注目したいのであります。

 それは、選挙権と同様、否、むしろ選挙権以上に、憲法上、主権者たる国民にとって重要な意味を持つ憲法改正国民投票権、以下、国民投票権と略しますが、この国民投票権の行使にかかわる手続法の立案に当たって、今回の判決で示された憲法判断は十分に尊重し踏まえられなければならないと考えるからであります。

 また、その際、今回の判決を導いた判断の枠組みが、昨年一月十四日の参議院選挙区の定数不均衡訴訟に関する大法廷判決多数意見にくみした四人の裁判官の考え方、すなわち、立法に際して、憲法に直接保障されていると考えられる事項の評価、判断に誤りがないかどうかを綿密に審査するという新たな思考枠組みのもとでなされたものであるということに留意したいと思うのであります。

 なお、時間の関係もございますので、今回の判決との関係で、憲法改正国民投票制の法的整備に当たって考慮ないし留意すべき四つの点を中心にお話しすることにし、判決の射程外にある国民投票制の立案に当たって検討を要する種々の問題点については、後ほど、質疑にお答えする中で、必要に応じて意見を述べさせていただくことにいたします。

 そこで、まず、九月十四日判決の第一に留意すべき点でありますが、それは判決文の中で、以下、引用でございますけれども、「憲法は、国民主権の原理に基づき、両議院の議員の選挙において投票することによって国の政治に参加することができる権利を国民に対して固有の権利として保障して」いると述べている箇所にかかわるものであります。

 判決のこの箇所は、憲法上、選挙権がどのような位置づけにあるかを示したものであります。すなわち、憲法上、選挙権は国民主権の原理に基づく国民固有の権利として保障されているとするものであります。ここで私どもが問題としなければならないのは、選挙権との関連で国民投票権はどのような憲法上の位置づけになるのかという点であります。

 最初に、言葉の定義から申しますと、憲法の改正とは、憲法典の正文を憲法典自体にあらかじめ定められた方法によって意識的に変更する行為であります。憲法は、この憲法改正の権能ないし権力について、前文冒頭の「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」とした国民が、その憲法について、第九十六条を根拠に国民みずからがこれを行使するものとしているのであります。この点で、憲法上の、つまり憲法で組織された立法機関である国会を構成する議員を選出する選挙権、それは憲法十五条や四十四条等にその根拠を有するのでありますが、その選挙権とはその本質的な性格を異にするのであります。

 最高裁判決は、選挙権は「国民主権の原理に基づき、」「国民に対して固有の権利として保障」されたものであるとし、それが国民主権原理に基づく権利であることを明示しております。これとの対比で申しますと、国民投票権は国民主権にまさに直結する権利であります。

 すなわち、ここで、主権とは国の政治のあり方を最終的に決める力または権威の意味、言葉をかえて申しますと、いわゆるこの国の形について、その大枠を定める憲法という名の法典ないし法規を定立する力または権威ということになりますが、そのオリジナルな憲法制定権力を有する国民が、憲法の制定と同時に憲法の中に入り込み、みずからが定めた憲法の手続に従って、憲法の基本原理の枠内でその規定の改廃等を行う権利、権能をみずから留保する、これが憲法九十六条に定めのある憲法改正権の本質であります。

 したがって、憲法改正権は、その行使に当たって、憲法上、一定の制約のもとに服するとはいえ、最も強い意味で主権者たる国民に固有の権利ないし権力であり、憲法九十六条はその発動要件を規定したものであります。

 これが第一に留意すべき点であります。

 次に、第二に留意すべき点は、憲法上の国家機関である国会を構成する議員を選挙する国民、この国民と、その国会のよって立つ憲法そのものの変更に参加する国民とが、その人的範囲において全く同じものであるべきだと考える必要があるのかどうかという点であります。

 憲法は、第十五条三項で、選挙について「成年者による普通選挙を保障する。」としておりますが、しかし、第九十六条の国民投票に関する国民の参加資格については特段明示しておりません。

 そこで、選挙と国民投票とでは、たとえその作用についてさきに述べたような本質的な違いがあるとしても、最も広い意味での国政への参加資格の問題であるという点では共通しておりますので、ここは、いわゆるもちろん解釈によって、憲法そのものの変更の可否を決める国民もまた、もちろん、憲法上、成年者でなくてはならぬということになるでありましょう。問題は、法律のレベル、すなわち、公選法九条一項で定められている年齢満二十年に達した者だけが憲法九十六条の国民投票に参加する資格を有すると解する必要があるのかという点にあるのであります。

 この点について考える際に、まず、最高裁裁判官の国民審査と国民投票との違いに注意しておきたいと思うのであります。

 ここでも、選挙の場合と同様、憲法上組織された機関たる最高裁の構成に関する国民審査と、主権もしくは憲法制定権力と直結する憲法改正権との間に本質的な違いがあることに留意すべきであります。すなわち、最高裁判所もまた国会と同様憲法上の機関であり、したがって、その構成員たる裁判官の国民審査は議員の選挙と同じ性質の作用であり、しかも、この国民審査は憲法上常に衆議院総選挙の際に実施されることになっておりますので、この国民審査に公選法で規定する選挙人名簿で衆議院議員総選挙について用いられるものを用いることは、特に問題はないのであります。

 ところが、国民投票については、直ちにこのような選挙人名簿を用いてよいということにはならないのであります。確かに、憲法九十六条一項二文には、国民による承認手続として、「特別の国民投票」のほかに「国会の定める選挙の際行はれる投票」が挙げられておりますので、選挙人名簿を用いることが憲法上も当然予定しているとの解釈も成り立ち得ないわけではありません。

 しかし、選挙と国民投票の本質的な差異を考えますと、憲法上、国民投票は時宜によって選挙と同時に行われるものであっても、原則は、あくまで特別の国民投票にあるものと解すべきでありますので、選挙人名簿とは別の国民投票人名簿を調製し使用するという選択肢も、憲法九十六条の理解としてはあり得るのであります。すなわち、憲法九十六条は、いわゆる選挙人団と国民投票人団とが同一であるべしとの命題を含むものではないのであります。

 そもそも、選挙のような憲法上の国家機関の選任行為ではなくて、憲法それ自体に何らかの改変を加えるような行為については、それが未来を展望したこの国の形ないしそのあり方を決めるものである以上、そして、そこで決められたことが憲法規範として将来の国民を長きにわたって拘束するものである以上、可能な限り多くの国民が主権者としてその決定に参加する資格を有するものと解すべきでありましょう。主権者たるすべての国民と国民投票に参加し得る国民が可能な限り一致することが、改正憲法の正当性を強め、その安定に資することになるからであります。それゆえ、国民投票への主権者たる国民の参加資格については、少なくとも年齢満十八年まで下げる工夫がなされてしかるべきものと考えるのであります。

 もし、満十八年まで年齢を下げることが、国民投票の実施に当たって既存の選挙人名簿を活用できないがゆえに実務上不都合だというのであれば、この際、選挙年齢を満十八年に引き下げればよいのであります。さらに、なお、満二十年をもって成年とする民法と整合性を欠くというのであれば、この際、民法の規定も一緒に改正すればよいのであります。

 お隣の韓国では、本年三月、民法の全面改正を機に成人年齢が満二十年から満十九年に引き下げられたのを受けて、六月には選挙権年齢も満十九年に下方修正され、現在、国民投票権年齢の満十九年への引き下げ案が国会で審議中だと聞いております。これと同じことを、我が国の場合には逆に、国民投票権年齢満十八年と法定することから着手すればよいだけのことであります。

 以上が第二点であります。

 第三に留意すべき点は、九月十四日判決で示された、選挙権制限に関する次のような判断枠組みであります。

 すなわち、それは、判決文中の以下の箇所、読み上げてみますと、「憲法の以上の趣旨にかんがみれば、自ら選挙の公正を害する行為をした者等の選挙権について一定の制限をすることは別として、国民の選挙権又はその行使を制限することは原則として許されず、国民の選挙権又はその行使を制限するためには、そのような制限をすることがやむを得ないと認められる事由がなければならないというべきである。そして、そのような制限をすることなしには選挙の公正を確保しつつ選挙権の行使を認めることが事実上不能ないし著しく困難であると認められる場合でない限り、上記のやむを得ない事由があるとはいえず、このような事由なしに国民の選挙権の行使を制限することは、憲法十五条」等に「違反するといわざるを得ない。」と論じている箇所であります。

 最高裁はこの箇所で、まず「国民の選挙権又はその行使を制限することは原則として許され」ないということを確認した上で、立法府が選挙権またはその行使に制限を加えようとする場合には、「そのような制限をすることがやむを得ないと認められる事由」を示されなければならないとするのであります。この「やむを得ないと認められる事由」という表現は、かつて労働基本権の制限は、「必要やむを得ない場合」に限られるとして、公務員の労働基本権を制限する国家公務員法について合憲限定解釈を加えて、これを合憲とした全逓東京中郵事件判決をほうふつさせるものがあります。

 しかし、今回の判決では、選挙権の制限に係る事案であることから、その制限が認められるための要件は労働基本権に比してはるかに厳しく、「そのような制限をすることなしには選挙の公正を確保しつつ選挙権の行使を認めることが事実上不能ないし著しく困難であると認められる場合でない限り」、当該制限は許されないとするのであります。

 この最高裁の思考枠組み、特に選挙権を制限するにつきやむを得ない事由が存するか否かに関する判断枠組みは、憲法九十六条に定められた主権者たる国民の投票権を実際に発動し得る状態にするために、法律的な手続、制度の整備を行うに際しても最大限留意しなくてはならないものと考えます。

 それでは、国民投票に関する手続の整備に当たって、その投票権行使を制限するにつき、やむを得ないと認められる事由とは一体何か。思うに、それは、国民投票の公正の確保という利益であり、差し当たりそれ以外にはあり得ないと思うのであります。したがって、最高裁判決の判断枠組みからすると、「そのような制限をすることなしには国民投票の公正を確保しつつ国民投票権の行使を認めることが事実上不能ないし著しく困難であると認められる場合でない限り」、やむを得ない事由があるとは言えず、このような事由なしに主権者の国民投票権を制限することは憲法九十六条に違反するということになるのであります。

 このような判断枠組みの設定が可能だといたしますと、今回の最高裁判決で問題となった在外国民について国民投票権を剥奪または制限することは、その根拠を欠き、憲法上許されないことはもとより言うまでもないことであります。

 さらに、公選法十一条一項二号及び三号に規定されているような、一般犯罪を犯し、禁錮以上の刑に処せられ、その刑の執行中の国民についても、主権者に固有の権利として国民投票権が保障されていることに変わりはなく、国には、その行使を現実的に可能にするために所要の措置をとるべき責務があり、したがって、国民投票の公正を確保しつつ監獄所内等に投票場所等を設置することが事実上不能ないし著しく困難であると認められない限り、国民投票権の行使を制限することは、主権者の地位から彼らを追放するものであって、憲法上許されないということになるでありましょう。そこでは、一般に、いわゆる在監関係にある者の権利制限の根拠とされる監獄内の秩序維持や逃亡のおそれといったことは、おおよそ主権者としての固有の権利を剥奪または制限する理由とはなり得ないのであります。

 では、みずから国民投票の公正を害する行為をした国民についてはどうでありましょうか。このような国民については、九月十四日判決に示されているように、その投票権行使に一定の制限を加えることにはやむを得ない事由があるようにも思われます。すなわち、判決は、「自ら選挙の公正を害する行為をした者等の選挙権について一定の制限をすることは別」だとし、その制限にはそれ自身合理的な根拠があるとしているからであります。

 ここで、選挙権行使の制限についてやむを得ない理由とは、一九五五年二月九日の最高裁判決に示された次の事由、以下引用でありますが、「国民主権を宣言する憲法の下において、公職の選挙権が国民の最も重要な基本的権利の一であることは所論のとおりであるが、それだけに選挙の公正はあくまでも厳粛に保持されなければならないのであつて、一旦この公正を阻害し、選挙に関与せしめることが不適当とみとめられる者は、しばらく、」「選挙権の行使から遠ざけて選挙の公正を確保すると共に、本人の反省を促すことは相当であるからこれを以て不当に国民の選挙権を奪うものというべきではない。」とするものであります。

 この制限事由は、一見したところ、そのまま国民投票の公正を害した者についても妥当するもののようにも思われます。しかし、選挙と国民投票との違いをここでも見過ごすわけにはいかないのであります。なぜなら、国民投票については、その性質上、衆参の国政選挙のように定時に繰り返し、投票の機会がめぐってくるわけではないからであります。したがって、公選法で規定されているような形で、一定の期間投票権の行使を停止する措置はほとんど意味をなさないのであります。

 そこで、次回の国民投票の機会を制限するといった措置も考えられないわけではないのでありますが、しかし、この措置は、比較的短期間に憲法の改正が繰り返し実施されるならばともかく、そうでなければ、果たしてどこまで実効的かは疑問であります。また、権利回復の期間の定めがない停止措置ということになれば、一般の時効との関係でも問題が生ずるでありましょう。

 このように、いわゆる公民権停止に類した制度の導入が困難であるとして、そこでさらに、国民投票の公正を害する行為をした者については、一定期間、例えば五年間、国政選挙等の選挙への参加資格を奪うといった措置も考えられますが、しかし、さきに述べましたように、国民投票と選挙とは作用のレベルが違うということからして、この二つを連動させることにはそもそも問題があるということになるでありましょう。

 とはいえ、これら二つの作用とも、その重要な公務的性格からして最大限、公正であることが要請される点では同じであるとして、両者を連動させることには合理性があるという主張も成り立ち得ないわけではありません。しかし、その場合、国民投票の公正を害する行為をした者は、高度の蓋然性をもって、選挙の公正を害するおそれがあるということを客観的に論証する必要があるでありましょう。その論証が十分に説得的でない限り、そうした措置をとることは、立法事実を欠くものとして到底許されないということになるでありましょう。この立法事実の顕出は、いわゆる公民権停止中の者について国民投票権を制限する措置を採用するような場合にも当然要請されるでありましょう。

 以上が第三点であります。

 今回の九月十四日判決との関連で第四に留意すべき点は、憲法改正案の賛否をめぐる言論に対する法的規制の可否の問題であります。

 そもそも、国民投票とは、国会の発議した改正案について、主権者たる国民が賛否の意思表示を行い、その承認の有無を決する行為であります。国民がこの国民投票を行うためには、当該改正案の趣旨及びその具体的内容のみならず、それに対する賛否の理由が国民投票に参加するすべての者にとって明確なものとなっていなくてはならないのであります。

 そのためには、とりわけ、国民の間で憲法改正案をめぐる論議が活発に展開され、各人が賛成もしくは反対の意見を形成し、その態度を決するまでにみずからの主権的意思を固めておくことが要請されるのであります。すなわち、この憲法改正の態度決定に必要な国民の主権的意思は、討議ないし熟議を通じて初めて具体的な形をとることになるのであります。したがって、この国民投票に至るまでの過程において、国民が討議、討論に参加し得る自由な公共空間が確保されていなければならないのであります。そして、憲法二十一条の言論、出版等一切の表現の自由がこの公共空間の保障に資するのであります。

 ここで特に留意しておきたいのは、昨年一月十四日及び本年九月十四日の判決が示す新たな思考枠組みからすると、主権的な意思表明にかかわる国民の政治的表現活動については、選挙権もしくは国民投票権の行使と表裏一体をなすものとして本来自由であるべきであり、その制限は、選挙ないし国民投票の公正というやむを得ざる利益を害する重大な危険性が明白に現存するなど、極めて厳格な要件のもとでしか憲法上許されないといった判断準則を導くことも可能であるということであります。

 これは、私の判例理解からする単なる推論にすぎませんけれども、しかし、この推論が的外れでないとすれば、国民投票制度の設計に当たっても、公共空間を形成する国民やマスコミ等の表現活動は本来自由であって、規制は原則として許されないとの基本態度で臨むべきであります。

 もっとも、日本ではこれまで国民投票の経験が全くありませんので、改正案をめぐって、いわゆる虚偽報道のたぐいが頻発し、国民投票の公正が危険にさらされるおそれがあり、したがって、最小限度の規制措置は必要だといった主張も当然あり得るでありましょう。

 国民投票の賛否報道をめぐる法的規制の当否については、論理的に次のような二つの見解が成り立ち得るものと思われます。

 すなわち、一方で、虚偽報道等に対しては取り締まり当局の乱用にわたらぬよう厳格な要件を付した法律を整備し、違反行為に対して厳罰をもって臨むべきだとする見解であります。それは、国民投票の公正が最も頻繁に危険にさらされるのは、人を欺く虚偽の主張、インチキな統計資料等が国民に伝えられる場合であるからで、したがって、そうした行為を違法として明確に法定し、刑罰をもって取り締まることは、適切な情報に基づく討議を促す上で大いに役立つからだというものであります。

 これに対して、他方で、何がインチキで人を欺く主張かは、言論市場、公共空間において自由な討議が闘わされる中で国民各人がみずから識別すべきものであって、法律に基づいて国がその真偽を判別することで実現すべきものではないとする見解であります。すなわち、虚言もしくは一部だけしか真実でない言葉や非難など、そういったものと闘う最善の方策は、反論ないし反対意見の自由な表明にあるのであって、とりわけ憲法上、言論、出版等一切の表現の自由が保障され、自由な言論活動が最高の価値を有する社会にあって、そこで闘わされる主張の真偽を見きわめることは、国民各人が当然みずから果たすべき責務だというものであります。

 憲法改正という主権的国民意思の表明に必要な国民みずからの自由な意思形成の場、いわゆる公共空間に国家が言論の内容にかかわって規制をかけることは、憲法九十六条の国民投票権の趣旨及びそれと表裏一体をなす憲法二十一条の政治的言論の自由の保障に照らして許されないものと考えるべきであります。

 とは申しましても、法的規制として、例えば、金銭等の供与でもって新聞、雑誌の紙面の主張が左右されることを防ぐために、公職選挙法百四十八条の二、これは新聞紙、雑誌の不当利用等の制限規定でありますが、このような規定に類似した規制を導入するといったことが考えられます。しかし、この種のマネートークス、すなわち金が物を言うことに対する必要な最小限度の規制についても、一九六二年三月二十七日の最高裁判決が示すように、当該規制が、その報道の真偽、論評の当否、その動機などを問わない趣旨であると解される限りにおいて憲法上許容され得るものと考えるべきでありましょう。

 さらに、公務員及び外国人について、その言論を規制の対象となし得るかといった問題があります。これらの問題についても、言論内容ではなく、内容中立的な、すなわち、時、所、方法に関する最小限度の規制が必要か否か、必要だとして、どのような規制措置が具体的にあり得るのかといった観点から考えるべきでありましょう。

 大変難しい問題でありますが、考え方の筋道としては、まず公務員について申しますと、公務員も主権者たる国民であり、一国民として憲法改正に対し賛成または反対の意見を自由に表明する権利が憲法上保障されていることは言うまでもないわけでありますから、その規制は、国民投票の公正を確保するという目的を達成する上で必要最小限度のものでなくてはならぬということになるでありましょう。その場合、公務員の職務上の地位を利用した賛否の表明等の行為について国民投票の公正を害するものとして規制することは、表現の時、所、方法に関する規制としてやむを得ない最小限度のものだとして許容され得るでありましょう。

 しかし、その場合でも、職務上の地位を利用せず、職務時間外に一国民として行う意見表明は、もとより憲法二十一条の保障のもとで完全に保障せられるものであることは言うまでもないのであります。

 次に、外国人については、一九七八年十月四日の最高裁判決において、以下、判決文からの引用でありますけれども、「憲法第三章の諸規定による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、わが国に在留する外国人に対しても等しく及ぶものと解すべきであり、政治活動の自由についても、わが国の政治的意思決定又はその実施に影響を及ぼす活動等外国人の地位にかんがみこれを認めることが相当でないと解されるものを除き、その保障が及ぶもの」とされております。

 したがって、この判断枠組みのもとでは、外国人が国民投票に関し憲法改正に対して国民に賛成または反対の投票をするよう働きかける活動は、我が国の政治的意思決定に影響を及ぼす活動として、憲法二十一条の保障の対象外にあるものとされる可能性があります。

 ただ、国民の公共空間として形成される自由な討議の場においては、可能な限り、多様な見解、多角的な観点、特に日本国民では気づかないような視点、視角が外国人によって提示される可能性があり得るのであって、そして、そのことは改正案をめぐる論議の深化に寄与するであろうことなどを考えると、改正案に対する外国人の意見について何らかの制限を加えるような立法措置は決して賢明なものとは言えないでありましょう。また、それが言論内容に対する規制であることを考えれば、そのような立法にはよほど慎重でなくてはならないでありましょうし、立法技術的にも多くの困難が伴うものと思われます。

 さらに申しますと、そもそも一九七八年判決のルールは、在留期間更新不許可処分に関する事案で示されたものであり、その事案の性格からして、憲法改正案に関する論議の深化が求められる公共空間において、外国人の立場からする論議への参入にそのままの形で妥当するものか否かは検討を要するものと思われるのであります。

 積極的に禁止ないし制限せらるべきは、むしろ政府の言論であります。

 公金を用いて行う政府の広報活動は、改正案の賛否に関し、例えば、両論併記のパンフレットの発行といった中立的な特定の活動に限定せらるべきであります。もとより、この両論併記のパンフレットにつきましても、客観性、公正性を保ちながら当事者の納得がいくようなものを実際に作成するとなると、決して容易なわざではないのであります。

 国民投票が盛んに行われている国でも、この点については試行錯誤を重ねているようであります。例えば、一九九八年、新たに制定されたアイルランドの国民投票法では、国民投票ごとに国民投票委員会を設置するものとし、現職の高裁判事、会計検査院長それからオンブズマン等五人のメンバーによって、憲法改正案が下院に提出された後にこれを組織するものとしております。

 この委員会の任務は、国民投票に付される改正案に関する情報を、マスコミを通じて、またパンフレットを配布するなどして国民に伝えることにあるのでありますけれども、その際、改正案に対する賛否両論を平等に掲げなければならないものとされております。このことが、一九九八年法で明記された背景には、憲法改正に対する政府の一方的な言論活動、広報活動でありますけれども、この活動が最高裁によって違憲と判断されたという事情があるのであります。

 すなわち、一九九五年、離婚を求める憲法改正案が国民投票に付された際に、政府のキャンペーンに対し訴訟が提起され、最高裁によって、投票日の一週間前に、公金を用い国民に賛成票を投ずるよう促す政府の広報活動は、憲法の民主的改正手続及び憲法的手続に対する妨害であり、民主国の基礎をなす平等の観念を侵害するとして違憲と判断されたことによるものであります。

 政府が発行する広報の誌面の作成方法に関する外国の制度を参考までにもう一例挙げておきますと、それは、オーストラリアの一九八四年国民投票法に規定されているものであります。そこでは、国民に配布するパンフレットには憲法改正案に対する賛否両論をおのおの二千字以内で掲載すべきものとし、その賛成論は、改正案に賛成した議員の過半数が承認したものでなければならず、また反対論は、それに反対した議員の過半数が承認したものでなければならないとされております。この賛否両論に同じ字数を割り当てるオーストラリア方式は、政府による国民への情報提供の仕組みを考えるに当たっても検討に値するものと思われるのであります。それは、国会内における賛成意見も反対意見も、国民的討議の場、いわゆる公共空間においては対等の価値を有するべきものと考えるからであります。

 以上、冒頭の意見陳述を終わり、他の論点につきましては、後の質疑等でお話しすることにいたします。

 御清聴ありがとうございました。(拍手)

中山委員長 次に、高橋参考人、お願いいたします。

高橋参考人 きょうは、憲法改正国民投票法につきまして若干の問題点を、今お話しになった高見先生の観点とは若干違う形でお話をしたいというふうに思っております。

 まず、憲法改正国民投票法は、いわゆる憲法附属法百条二項の「憲法を施行するために必要な法律」ということでございますので、本来定められているべきものでございますが、実は二度挫折しております。

 最初のものは、昭和二十一年の、憲法がいわば国会で審議されていたときでございます。臨時法制調査会というものが置かれまして、そこで用意しようとしたらしいのでございますが、当時、さまざまな法律が用意されなければならなかったものですから、不急のものとしてどうも立ち消えになったということでございます。さらに、昭和二十八年には、御案内のように、日本国憲法改正国民投票法案というものが国会提出を図られましたけれども、最終的には断念された、こういう経緯がございます。ですから、今回は三回目の正直として、ぜひ、公正を旨とする現代的なあり方にふさわしい国民投票法案をつくっていただきたいものと思っております。

 まず、もちろんのことでございますけれども、日本国憲法改正国民投票法案というものを考えるに際しては、考慮事項は恐らく三つございます。

 一つは、憲法の九十六条を中心とするさまざまな制約や要請、こういったものにきっちり対応していかなければならない。特に、これまで示されたような判例に対する対応というものが重要でございますが。ただ、これまでの選挙に関するものは、国政選挙に関するものでございますので、どれだけいわば憲法改正に妥当するものかについて十分な考慮を要するものというふうに考えております。

 例えば、我々が憲法九十六条を見るときに、国民の承認を得るために、「特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票」という形で、独立的に国民投票をする場合と、それから国政投票に相乗りするという形で行われる場合が存在するのだということになりますと、もし、この二種類の投票方式がそれぞれ違った形で書かれるとすれば、そこにはどうしても、最終的にはどちらの投票で、国民投票で行われたかによって結論が違うという、あってはならないことがございます。したがって、この国民投票法につきましては、「国会の定める選挙の際行はれる投票」にも使えるものという一本の法律を想定しなければならない、こういうハードルが基本的には考えられるだろうと思います。

 これにつきましては、関連しましては、一つには、有権者の年齢を中心とするような、だれに投票権者を定めるかといった問題、さらには、特に運動制約とその罰則関係について、これは、なるべくこれを一緒にしませんと、国政選挙をやった際に、片一方の法律では違反しているのに片一方の法律では違反しない、どちらだというふうな混乱が起こるでございましょうから、その調整が結構大変なのではないかというふうに考えておる次第です。

 そのような憲法上の問題が一つありまして、次に、国民投票を適切に遂行するための技術的要件というのがもちろんございます。それは、例えば、確かに判例の態度は非常に一部強く合理性を求めているということが考えられますけれども、私の考えとしては、基本的には国民投票法は憲法に厳格に制定されるという、それであればいいんですけれども、さっきちょっとお話しした憲法上の必要性からもわかりますとおりに、やはり法律によって柔軟に対応しなきゃならない、そういう技術的要件もあるのではないか。

 確かに、時間とお金を使いますれば、選挙人名簿についても二種のものもつくれる。しかし、これが例えば在外投票といったようなことを考えたときに、それがスムーズにいくものかどうか。さらには、これを考えることは余り言われてないようですけれども、財政的な側面もまたあるでしょう。そして、そういうふうなものを厳格にしたことによって得られるメリットというものをどう評価するかという問題もあるのではないかということを考えれば、私としては、憲法に違反しない限り、かなり柔軟に技術的要件を考えて、自主的に国民投票の制度設計をなし得るものというふうに考えております。

 さらに、その延長線ではありますけれども、三番目に、日本社会の現代社会という形で、社会的、技術的発展への対応ということがやはり重要なものでございます。

 先ほど申しました在外投票といったようなもの、それから、運動につきましてはインターネットへの対応などという非常に重要な問題がこれから出てくるのではないか。これについて十分に配慮をしなければ、国民の意思をできるだけ公正に反映させる、そういうようなものに支障を来すのではないかというふうに考えております。このような諸条件をクリアしながら制度設計をしなければいけないものと当方は考えております。

 以下、このようなことを若干考えながら、これだけではとてもイメージがわきませんので、具体的イメージを考えるために、これまで出てきた幾つかの国民投票法案の草案といいますか要綱といいますか、そういったものをある程度比較したものを皆様に御配付しております。これはイメージのためでございまして、私の意見がこれに賛成だとか反対だとか、そういうふうな含意があるものでは決してございません。どうぞ、これに合点していただけますでしょうか。

 ところで、まず第一番目として有権者という問題を取り上げておるわけですけれども、この有権者というふうな問題は、少なくとも現行の国政選挙にかかわる場合は満二十年になっておりますので、それと一緒に国政選挙をやるというふうなことを想定されていますれば、混乱を避けるためにも同年齢がふさわしかろうというふうなことでございます。もちろん、同年齢でよろしいというのでございますから、全体として、国政選挙も十八歳にするということならば別に構わないということでございます。ただしこれは、当然のことながら憲法上の要請ではございませんので、そうした方がよかろうというだけの問題でございます。

 次に、発問単位のあり方ということでございます。結局、アメリカの州の例などを見ましても、発問単位というのは、つまり、どの範囲に対して賛成、反対を聞くかということに関してはさまざまでございます。いわゆるリビジョンといいまして、全体について改正をする場合、一括して聞く、これはそうせざるを得ないわけですが、というふうな方法もあれば、個別的な、アメンドメントというふうに通常は言われますけれども、そういうふうな場合には個別的にこれを聞いていくという、もちろん、その中間型として、個別的に聞く部分はそこで聞き、ユニットとして考えなければいけない部分についてはそれを一括して聞く、こういうふうなさまざまな制度がございます。

 日本の場合、これはどうなるかわかりませんので、前文から附則までかなり直す場合には、できるだけ私としては、個別でできるものは個別に聞いて、ユニットで聞かなきゃいけないものはユニット、それから、これは今回はあるのかどうか知りませんけれども、もし全面改正といったような場合には一括、こういうふうな形で具体的対応をせざるを得ないのではないか。これを一般的な国民投票の中に書き込むというのは難しいだろうというふうに考えております。

 次に、投票方式ということでございますが、投票方式の一番問題点は、賛成についてはマル、反対についてはバツというタイプのものと、それから賛成者だけマルをつける、こういうふうなタイプのものがございます。しかし、このどちらかにするかという問題でございますが、それは、憲法九十六条にどちらがより沿うのかもしくは承認されるのか、こういう問題でございます。

 憲法九十六条を見ますと、「承認には、」中略して、「投票において、その過半数の賛成を必要とする。」こういうふうに書かれております。表現上は、つまり、投票において過半数の賛成とだけ書いてあるわけですから、一見、マルのみをつけさせればよい、そしてその場合、分母は投票総数と考えることもできるというふうな、表面上はそのように考えることができて、それをやっても問題はないし、より沿っていると言えれば言えると思うのですが、昔の臨時法制調査会の段階のある段階では、もしくは二十八年の草案の段階のある段階でございますが、そのときには、マル、バツ両方をつけさせる、どちらかをつけさせるという方式でいったらどうか、そういうふうなことが提案されたことがございました。

 そして、与党の方々の案、議連案と通常言われるものにおきましては、これは、マル、バツいずれも書かないときには無効とするというふうな形の処理をいたして、結局、過半数の分母を有効な投票数ということにして、有効投票数のマルをつけたものの数という形で処理される、こういうふうな有力な案があるわけです。

 それに対して、一体これが憲法上認められるだろうかということをちらっと考えておきますと、何人かの方々は、これはちょっと危ないのではないかと。やはり、最高裁判所裁判官のいわばリコールの場合と同じように、バツをつけたもの、これが分子になって、分母は、書かないものもすべて含んで投票者数という形でする方がいいんだという意見もございます。確かに、今言いましたように、表現上、そういうふうなものに沿うようなものでもありますけれども、しかし、与党案が一体許されないかというふうに言うと、私はこれも許容範囲の中だろうと考えております。

 それは、反対者の恐らく一番中核的なことは、マルかバツかをつけるのはその案に対していわば賛否を問うのだというふうに言っておるけれども、実は、現在、憲法があるのだから、存在するのだから、存在自体というものを変えよう、そういう積極的なものにのみマルはつくのだ、現状維持を前提とした形で考えるのが正しい、こういうことなんだろうと思います。

 しかし、現状維持というものがもうだめなんだということは、発議段階で衆参両院の三分の二の議員さんが、もう変えなければだめなんだ、こういうことをもしおっしゃっているのだというふうなことを考えますと、そうする場合には、そこに出てきた改正案というのは、もう賛否の対決というふうな形でそれをとらえ直すことも可能なのではないかというふうに考えております。つまりそこには、現代社会という現代のいわば決断が求められる社会、自己責任が求められる世界という形で、自分の決意を示さなければ従来どおりであるというふうな立場は、ちょっと私としては現代的ではないかなというふうに思っておる次第であります。

 次に、国民の承認時期と訴訟の関係であります。これにつきましては、いわば国民が承認したということと訴訟というのはどんな関係があるかということでございますが、一部の方は、訴訟が終わったという段階でなければ、国民の承認をすると非常な混乱が起こる、権威の失墜も起こり得るだろうというふうなことをおっしゃっておる方もおられるわけであります。

 一応、私としては、確かにそのような危険性はある、しかし、国民の承認が確定したという時期、それによっていわば公布というものがそこで起こされるわけですが、公布というのは、御存じのとおり、それをしたからといってすぐ実施されるわけではございません。したがって、本当の意味で混乱と権威の失墜が起こるのは、実施した後に実はその承認に問題があったということがわかる時期でございますので、この実施時期を後にずらすことによって、調整することによって、ある意味で早期の改正の抽象的な決定と、それから、実質的にこれが実施される時期というものを調整することによって、ある程度この混乱その他を除くことができるのではないかというふうに考えております。

 次に、訴訟でございますが、この訴訟につきましては、理論的には、二つの、骨子案にあるところの国民投票無効の訴訟と国民投票の結果の無効の訴訟というのが行い得るということはまことにそのとおりなんですが、ただ、そこに書かれておる三十日以内の訴訟提起、それから東京高等裁判所だけに訴訟を提起することができる、この二つがどれほど実際的な公正、適切な訴訟の意義を持つかについては、やはりもう少し議論する必要があるかなというふうに思っています。

 もちろん、三十日というのは訴状を書くのに十分かどうか、特に細かい技術的なものをクリアできるかどうか、それから、東京高等裁判所に集中させるわけですけれども、これは本当に可能なのだろうかどうかといったような問題、それから、最高裁に最終的に行くわけですが、上告制限なしでやれるかどうか、今の訴訟法でいけるかどうかといったような問題があるわけですが、もちろん、これについては法務省とか最高裁等の御意見陳述及びその他があると思いますので、ぜひそのあたりを詰めて、現実的な訴訟と、訴訟の拒絶にならないような、かつ適切な考慮の時間を持てるような訴訟制度を、しかも早くしなければいけないという状況をクリアできるような制度を設計していただきたいものというふうに思っております。

 次に、七番目の国民投票運動に関する規制でございます。これは二点常に問題になることでございますが、一点は外国人の国民投票運動をどうするかという問題でございまして、これにつきましては、私自身はそれは認められないだろうというふうに考えております。

 先ほども引用のありましたマクリーン判決におきましては、「わが国の政治的意思決定又はその実施に影響を及ぼす」、「これを認めることが相当でない」といったようなことが書かれております。とすれば、「政治的意思決定又はその実施に影響」というふうなことは、基本的にこれは、最大の意思決定であるところの国民投票にはそのまま適用されることになろうかと思います。ということになりますと、これはやはり判例上認められないのだろうと考えております。

 もちろん、外国人に運動を認めるメリットもないわけではないということは先ほど言われたとおりでございまして、しかし、新しい視点を得るために認めようとかいうのはなかなかこれは難しいし、どこまで認めるかとなると、さらに非常に難しい。全面的に認めるのはそれはいいかもしれませんが、とてもじゃないけれども、どの程度認めるかということを決め、かつ、それを法文に落とすというのは非常な困難を来す、むしろ、それこそが訴訟の種になるのじゃないかというふうに私自身は考えております。

 次に、いわゆる規制のあり方でございますが、これは、与党案の方も他の政党の案の方も意見は、基本的には必要最小限度の規定にしようという点については一致しているようでございまして、私はこれにまことに賛成させていただきたい。ただこれを、必要最小限と確かに言っておりますけれども、先ほど言いましたように、国政選挙と一緒にやる場合、片一方では許されて片一方では拒否されるというふうなそごがどれほど許されるのかどうか。取り締まる側も取り締まられる側もそれを十分理解できる形で明示できるかどうかということは、なかなか難しいかなというふうに思っております。

 それからもう一点、我々、特に学者系統の人は、理論的に非常に抽象的な人間を考えておりますので、そういうふうな人間の国民投票運動、選挙運動ですね、そういったようなものを想定しておいて、これは自由にした方がいいのじゃないかというふうに私も実は言うのですけれども、実際には、御存じのとおり、どういうふうな運動が行われるかというのはなかなか理論ではわかりにくいということでございますので、ぜひ、これらの点について、外国でやった場合、どのような問題が起こって、どのような制約をしておるか、それから、国政選挙における実績なんといったようなことも比較考量の上、そういうふうなものを考えた上での最小限ということをお願いしたいというふうに考えております。

 残された問題などという、つまらない、最終の表題を掲げていますが、簡単に言えば、発議、提案の段階から国民投票法への接続関係を非常にスムーズにしておく必要がやはりあるだろう。それから、公布、施行への接続関係もスムーズにしておく必要があるだろう。例えば、発議、提案の段階で既に発問形式ということを想定した形で考えていく必要もあるだろうし、それから、公布に関しては、公布の法律はございませんが、これをどうするのか。あるいは、具体的にはアメンドメント方式での憲法を想定しているようですが、従来型でよいと思いますけれども、これについてもどういうふうな考慮を加えるかといったようなことも問題になるかと思います。

 時間が参りましたので、これぐらいにさせていただきます。

 どうもありがとうございました。(拍手)

中山委員長 以上で両参考人の御意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

中山委員長 これより参考人に対する質疑を行います。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。葉梨康弘君。

葉梨委員 高見先生、高橋先生、お忙しい中、大変貴重な意見をお聞かせいただきまして、大変感謝を申し上げます。

 三十分の時間でございますので、いろいろとお聞きをしたいことはたくさんあるのでございますけれども、ポイントを絞って、国民投票ということに絞ってお話を聞かせていただきたいと思います。

 まず、高見参考人にお話をお伺いしたいんですが、先般、百五十六国会で、立法不作為論につきまして、高見参考人とそれから近藤現理事でございますけれども、議論があったかと思います。当時の議事録でございます。「私、国会図書館の職員でございまして、立法の督促をしてはいけないという館法上の縛りがございます」云々、そして、「立法の不作為という言葉で使われている議論というのは、法律の世界では、もちろんこれは国家賠償訴訟に関連して、ある法律ができていなかったがために法的な利益ないし権利が侵害されている、そういう状態を指して不作為状態というふうに言っております」というふうに述べられております。今現在、国会図書館の館法の規制がなくなっておりますので、より自由にお答えいただければというふうに思うんです。

 実は、先般のこの委員会で私からも意見表明をさせていただきました。確かに、法律論としては、個別的な違憲審査権あるいは訴えの利益がないというような立場に立って、もし、今この国民投票法が制定されていないということを理由として裁判所に訴えを提起した場合に、門前払いを食ってしまう可能性も相当あるのかなというような感じを持っております。

 しかしながら、ここはあくまで国会の場でございます。やはり我々の判断として、先ほどもお話がありましたとおり、改正権は主権者たる国民の固有の権利であるということですから、より抽象的な違憲審査権的な立場に立って、やはり、我々国会の責任としてこのような国民投票法の議論をしていかなければならないというふうに考えておるところでございますけれども、高見参考人から、今度は国会図書館の専門調査員の立場を離れまして、御所見を伺いたいと思います。

高見参考人 ありがとうございます。

 以前、憲法調査会のときに参考人としてお話しした中で、立法の不作為状態にあるから、したがって国民投票法というものを整備しなければいけない、そういうふうなロジックが出たものですから、いや、それに対しては、深く法律的な厳密な意味では不作為ということで法整備ということが少なくとも裁判所等の目から考えると出てくるわけではない、そういう趣旨のことをお話ししたわけです。

 したがって、括弧つきでありますけれども、法律のロジックではなくて、世間一般というか、不作為という言葉はかなり世間でも使われておりますので、そういう意味で、つまり、国会が本来やるべきであることをこれまでなされてこなかった、したがって、現段階で法律的な整備というものを九十六条というものを生かすためにはしなければいけない、そういう趣旨で立法の不作為ということを使っている。つまり政治的意味ですね、政治的な意味でこの不作為ということを使われているということであれば、それは、そういうことを了解した上で、そういうふうに使っているということを自覚した上で使われているのでしたら何も問題はないということで、以前の国会での憲法調査会のやりとりの中でも基本的にそういう考え方を持っていたわけなんですけれども、今そのことの御確認かと思いますが。

 ただ、今、葉梨委員の方から質問に出ました抽象的違憲審査ということで考えていけばどうかということになりますと、これもしかし、不作為状態という話には基本的にならないのかなというふうに私は今のところ考えております。

葉梨委員 法律的な話では、必ずしも私も、法律的にぎりぎり言って完全な不作為状態であるかどうかということについては私自身も疑問は持っておりますけれども、政治的には、今お話がありましたとおり、やはり不作為状態的なものというのはあるのかなというような感じを持っておりますが、ちょっと実務的に、次に高橋参考人にお聞きしたいと思います。

 憲法の発議と同時に国民投票法を整備すればいいというような意見も一部に全くないではございません。しかしながら、実務的な問題として、さきにもお話がありましたとおり、まず一つは、名簿の調製の実務との関係、それからもう一つは、やはり投票運動の規制のあり方、これは必要最小限といいながら、どのような規制を周知徹底していくのか、あるいは、ちょっと後でも議論を申し上げたいと思うんですが、投票運動の規制については、私は罰則以外の救済措置というのも検討していいんじゃないかというふうに考えております。

 そのような規制の周知徹底ということを考えますと、やはり、憲法の発議の相当以前にこの国民投票法というのが、しかも、その憲法の発議の内容とはニュートラルな形であるということが一つは私は実務的にも必要なのではないかというふうに理解をしておりますけれども、高橋参考人から御意見を承りたいと思います。

高橋参考人 おっしゃるとおりでして、この国民投票法がある程度定まっておらないと実際の作業に入れない、用意もできない、名簿、その第一例でございますが、おっしゃるとおりでございます。それから政治的にも、近接して国民投票法をやりますと、どうしても社会もしくは政治状況をにらみながら法律をつくっていく、そういうことを皆さんは決してされないとは思いますけれども、そういうふうな方向に流れる場合がないではないです。

 やはり、特に、国家の根本法をつくるという側面からすれば、事前に十分に練って、それなりの時間的余裕を見て、その直近の政治状況に惑わされないでつくるというのが一番理想的なことではないかというふうに私は考えております。

 以上です。

葉梨委員 私自身もその点は同意見でございます。

 そして、各論の質問に入ります前に、一点、今度は高橋参考人からお聞きしたいんですが、ちょっと視点を変えまして、国民投票と現行憲法の正統性ということでございます。

 百四十七回の国会で高橋参考人の方から、この現行憲法の制定経緯について詳細な意見陳述があったわけでございます。そして、それとの絡みで、私、耳にこびりついておりますのは、昨年の十一月、宮澤喜一元総理がここで同じように意見陳述をされましたときに、今の憲法も、独立を回復したときにもう一回国民投票をやっておけばよかったんだというような発言をされたことを覚えております。

 現在の憲法については、国民投票の手続というのも行われておらず、そして、明治憲法にのっとって改正をされたわけですけれども、当時の百四十七回国会の高橋参考人の意見陳述によっても、明治憲法との連続性については疑義を挟むのが定説であるというような意見だったかと思います。

 現行憲法の正統性ということにつきまして、長く意見陳述ということになれば幾らでも長くできるんでしょうけれども、簡単に、今どのような形で正統性があると考えていらっしゃるのか、高橋参考人からお伺いをしたいと思います。

高橋参考人 正当性というのは、簡単に言いますと、国民主権から流れ出しているという意識、これが現在の日本国憲法を改正する際の正当性ではなかろうか。もちろん、現在の憲法自体が制定されるときには、その点について若干の問題があったということは私申し上げたとおりでございますが、しかし、現在、いわば国民主権の正当性についてはもう疑いのないところであり、それの実現として、少なくとも根本的部分において日本国憲法が従っていることも疑いないところでございます。

 そして、その正当性確保の一つのあり方として、国会の衆参両院三分の二プラス国民投票法、そういう国民投票という形でやっておるわけですから、以後の事柄については、正当性の、前回若干問題があったから今回問題もいわば維持されるということは、もう全くないというふうに私、信じておる次第です。

 以上です。

葉梨委員 私自身も正統性について疑義を挟むつもりで申し上げたわけではありません。ただし、国民主権について今も高橋参考人からもお話がございましたけれども、国民主権についての正統性については疑義がない、そして、その発露の一つの仕方として国民投票の手続もあるというようなお話だったわけですけれども、実は、これ自身こだわっているわけではないんですけれども、これはもう全く個人的な考え方でございまして、何でこういう質問をしたかといいますと、発問形式との絡みになってまいります。

 今回の憲法改正の発議というのは、全く、今回というかいつになるかわかりませんけれども、多分、もうそれとは全く私はニュートラルに今お話を申し上げたいと思いますし、また、憲法改正の発議をしないという選択肢も当然あり得るということを前提にお話を申し上げたいと思いますが、もし仮に憲法改正の発議がなされる、それが全面改憲という形ではなくて、例えば公明党さんがおっしゃられているような加憲という形であったときに、先ほど、個別的な発問形式をとるというようなお話もありました、また、個別的な発問形式を原則とするというようなお話もございました。しかしながら、何か、私個人的に考えておりますのは、今の憲法が、正統性はあると言いながら、押しつけであるというその桎梏から逃れる方法はないんだろうかということでございます。

 といいますのは、今の憲法について正統性がある、その正統性についてそれを具体化するために国民投票の手続もある、しかしながら、現行憲法は一回の国民投票すらかかったことがないということであることは間違いがございません。ですから、もしも、例えば九条だとかコントロバーシャルな部分ではなくて、本当に小さな部分であってもそれを改正する、そのときに、いわゆるこれは、役人用語で言うと溶け込み条文と言うんですけれども、改正後のすべての憲法の条文、これを一括して、改正部分というのは極めて少ない、加憲という形であるかもわからないけれども、現行憲法すべてについて丸ごと溶け込んだ形で国民投票で賛否を問うということが法律的に可能なものかどうかということを、高見参考人と高橋参考人、両方から法律論としてお聞きをしたいと思います。

高見参考人 法律論から申しますと、個別具体的な条項、ここでは一つというふうに限って考えますけれども、一つの改正条項について国会が発議したということでありますと、これは国民投票でそれについてその賛否を問うわけであります。

 したがって、それが賛成ということになれば、その部分が憲法と一体となって機能を始める、効力を持つ、こういう仕組みになっておりますので、その一条項の改正が賛成を受けたがゆえに、すべての、憲法の本体自体が同時に国民の同意を得た、賛成を得た、承認を得た、そういう仕組みには、少なくとも、九十六条の発動として個別具体的な一個の条文改正案が出てきた場合には言えないであろうというふうに思います。

高橋参考人 なかなか難しい問題で、いわば過去の不明確さを洗い流そう、そういう方法であるかと思いますけれども、通常の学界の考え方によりますと、今のような方法はやはり難しいのではないか。

 といいますのは、高見参考人の方の参考の図にも出ていますように、まず国民主権があって、そのもとに憲法があって、その憲法のもとに憲法改正というのがあるというふうになりますと、その憲法全体を、もう一度、内容を変えないにしろその正当性を付与するというのは、ちょっとこれは難しいというふうに一般的に考えられていると思います。

 やはり我々は、そのような正当性の不足というものに耐えていかざるを得ないのではないか、そして、そういうものの中でよりよいものをつくっていく、こういう実践の中で現行憲法の価値というものを確認して、それに改正を加えて、さらによい方向へいわば導くことによってその正当性を増す、こういうふうな方法をとるのが、私としてはもうほぼ唯一の方法ではないかというふうに考えております。

葉梨委員 ありがとうございました。

 今は急な発問だったものですから、またさらに御検討をしていただきたい部分もあろうかと思うのですが、今いみじくも高橋参考人からもお話がありましたとおり、一つは、憲法改正案についての国民投票という視点もございますけれども、何らかの形で今の現行憲法についての正統性の不足というのを補う方法がないかどうかということについては、今後さらに我々としても政治の場で検討すべき課題ではないかというように考えております。もちろん、その中で法律論というのはすべてクリアをしていく必要はあるだろうというふうに思っております。

 以下、各論についてお聞きをしたいと思います。

 まず、投票権についてでございます。

 先ほど、高見参考人の方から十八歳というような御意見があったかと思います。憲法については、国の根幹、これは高橋参考人も大体ほぼ同様でございますが、国の根幹を定めるものであるということですから、通常の憲法で定められている成年の普通選挙というよりも年齢を下げてもいいんじゃないかという議論だろうかと思いますけれども、ただ、国政選挙においても若年者の意見を聞かなければならない機会というのは非常にふえてきているんじゃないかと私は思います。

 これはどういうことかといいますと、人口が増加する社会においては、高齢者の年代層とそれから若年者の年代層の利益というのは必ずしも相反するものではありません。これは殊に年金の問題なんかでも多くの問題が指摘されているところですが。今のような人口減社会あるいはステーブルな社会になってまいりますと、若年者の年代層それから高齢者の年代層、これが利害が一致する、場合によっては相反する場合も出てまいります。したがって、国政選挙の部面においても、成年となっているわけですから、一定の判断能力を有する者については、できる限り広く選挙権を認めるべきじゃないかという議論は当然あり得るだろうと思います。

 ですから、その意味でいうと、私は個人的には、国政選挙の選挙権者とそれから憲法改正の投票権者を、必ずしも憲法改正だけを下げるということは必要なくて、むしろ両方をその場合であれば下げるということを検討すべきじゃないかというふうに考えているわけですけれども、高見参考人から御所見を伺いたいと思います。

高見参考人 それにつきましては、私も葉梨委員と基本的には同意見ということになろうかと思います。

 つまり、今の満年齢二十年というのは、これはもう既に統計が出ておりますけれども、極めて世界的に見ましても数が少ないシステムというか、国であります。そういうことを考えますと、ましてや、今のような逆ピラミッドのそういう社会構成、若年層が非常に少なくなってきているという時代に、国政の場にできるだけ満遍なく国民の意思、特に世代的な差のある意見というものを取り込んでくるというふうなことを考えても、年齢を下げるということは考えるべきであろう。

 ただ、今回、意見陳述の中で九十六条に関連してそういうことを申しましたのは、仮に九十六条で国民投票法というものを整備していくということになれば、憲法九十六条の憲法改正権というものの趣旨を踏まえて、そこからむしろ主権者たる国民ということをもう一度考え直す。そういうことで、もちろん十八歳がいいのかどうかということについてはいろいろ考慮すべきことがあるかもしれませんけれども、差し当たり、十八歳というふうなところで国民の範囲を考えてみてはどうかということで申し上げたわけです。ということは、当然それは連動しますので、国政の選挙法、その点限りでは連動すると思いますので、選挙法についても政策的に十八歳に下げていくということに当然結果としてなるであろう、そういうことでございます。

葉梨委員 ありがとうございました。

 それでは次に、投票運動方法の規制について幾つか伺いたいと思います。

 実は多分、高見参考人、高橋参考人よりも私の方が、公職選挙法違反の取り締まり経験が四年ほどございますので、多少ちょっと実務の話になるかとも思いますが。

 そこで、意見は実は一緒なんです。まず、投票運動方法の規制ですけれども、罰則で担保する部分というのはある程度必要最小限にしていかなければならない。これにはそれぞれ理由があるわけなんですが、今現在の公職選挙法の実務で選挙違反の取り締まりが、ほぼ一〇〇%、選挙の投票日の後に行われているという事実は、高橋参考人、御存じでございましょうか。

高橋参考人 存じております。

葉梨委員 現実にこれはどこの法律に書いてある話でもないんですけれども、選挙違反の取り締まりについては、基本的に事後検挙、これは投票日の後の検挙ということが原則になっております。そして、事前に検挙される形態というのは、おおむね選挙の自由妨害、それから買収なんかでも、その場で現行犯的な買収事件といったものに限定されてまいります。

 ただし、今申し上げましたとおり、これはどこの法律に書いている話でもないということなんですけれども、そのような形というのは、これは選挙の公正のために、現在の取り締まり実務で、しかも政治と離れた形で、かつて大正時代に選挙干渉というのがございましたので、そういった実務が行われているというのが実際のところです。

 一つは、やはり罰則で担保するとしても、余り事前の、投票結果に影響を取り締まり自身が与えてしまうような取り締まりの仕方というのは、やはり国民投票についても決して好ましいことではないだろうというふうに私自身は考えております。

 そういうことを前提とした場合なんですけれども、公職選挙法の場合は、さはさりながら、事後検挙であっても、公民権の停止あるいは当選無効という形で相当な部分の抑止効果がございます。ところが、憲法改正国民投票の場合は、公選法と同様に、例えばブローカー的なもの、あるいは自然犯、粗暴犯的なもの、これについてはある程度の罰則による抑止効果はあるにしても、公民権停止、当選無効ということがそんなにある部類の投票ではございませんので、確信犯的なものには役立たないということになってまいります。

 このような意味で、罰則によって投票運動方法を規制することについての効果と限界という点について高見参考人はどのようにお考えか、御意見を承りたいと思います。

高見参考人 この問題を考える場合に、私それほど詳しくございませんし、むしろ全く素朴な感想でしかないんですけれども、人を選ぶ選挙と、こういうあることについてそれを賛否で決めるということ、その本質的な違いというのをやはり考えた上で規制ということを考えなければいけないだろうと思うわけです。

 その場合に、運動規制という、これは人を選ぶ場合の運動規制、これは選挙運動ですよね、というのは、これはある意味で非常にわかりやすいし実例もあるわけなんですけれども、国民投票にかかわってさまざまな人たちがさまざまな声を上げて、あるいはさまざまな訴えをしていく、これを一つの運動とみなして法律の網をかけていくということが、一体どこまで現実的であって、どこまで可能であり、あるいはどこまでそういうのが必要なのか、そういう非常に素朴なところでひっかかるのでありますが、素朴なところで私にとってはわかりにくいわけです。

 つまり、選挙運動と同じアナロジーで国民投票運動なる概念を立てて、それで法の網をかぶせていくということ、つまり選挙運動と同じようなレベルで、あるいは同じような発想でかけていくということが果たして本当にできるのかどうか、そういう素朴な疑問を持っているものですから、根本的にそこのところは、その違いということから考える必要があるであろうということでございます。

葉梨委員 さらに、この国民投票運動というのが何たるかについては私自身も意見があるわけですけれども、具体的に詰めていかなければならないところはありますが、罰則については、先ほども言いましたけれども、一定の効果というのは全くないわけではなくて、それは、例えば粗暴犯的なものあるいはブローカー的なものといったものはございますけれども、先ほど申し上げましたとおり、確信犯的なものにあるわけではございません。

 そこで、一つは、その罰則の担保ということもある意味で必要最小限必要な部分があろうかと思いますが、特に虚偽報道などに関しては、例えば、取り締まりが投票後に行われたとしても全く意味がないわけでございます。ですから、その場合であれば、必要な反論権の確保あるいは反論方法の確保、あるいは別の形での救済措置、そういったものについてもある意味で検討していく必要が罰則以外にあるのではないかというような感じを私自身は持っておりますけれども、高橋参考人から御所見を伺いたいと思います。

高橋参考人 具体的な話になりますと、私も余りその点について確信はないわけですけれども、恐らく、憲法案の賛否にかかわって一番重要なものは、やはり真実というものもしくは事実というものを知っていく、そしてその上で当人が評価する、それで賛成か反対かするということでございましょうから、何をおいても、その事実というものについてある意味で確保しておく必要があるというふうに思っております。

 したがって、この点は、虚偽事実に対する何らかの処置というものは必要なわけでありますが、今御指摘のように、まさしく事後的にはどうにもならないというふうなことがございます。したがって、これに対して単なる事後的なものではなく、やはりその中で議論を、つまり、問題となる事実関係がありましたら、議論を確保していく、情報を提供していくという。ただ、高見参考人も申しましたように、事実を提供するというのが政府・与党ということになりますと、これはまたなかなか難しい問題がございますので、やはり、一定の条件を備えた例えば団体に反論権ないしはそれなりの意見表明の場を提供するというふうなこと、これは可能ではないか、あってよろしいのではないか。これを完全にいわば社会の場の中に、個人に任せるというのでは、確かに私としては問題があるなというふうに感じております。

葉梨委員 本日は、公職選挙法の規制態様とはまた別の観点からこの国民投票法案について一定の規制態様を考えていくべきじゃないかということで、本当にさわりの質問でございましたけれども、質問させていただきました。

 貴重な御意見をありがとうございました。

中山委員長 次に、筒井信隆君。

筒井委員 民主党の筒井信隆でございます。

 高見先生、高橋先生、きょうは貴重な意見を大変ありがとうございました。

 順不同でございますが、最初に、投票者の範囲、これについてお聞きをしたいと思います。

 選挙人名簿と国民投票名簿は全然別なんですから私は別でいいというふうに考えておりますし、先ほどの高見参考人の意見は別でいいという結果だったろうというふうに思います。そして、十八歳というのが高見参考人の意見だと思います。

 それで、私も十八歳でいいと思うんですけれども、ただ、先ほど高見参考人からも言われました韓国民法の改正で十九歳ということもある。この十八歳がいい根拠、あるいは十七歳、十九歳も考えられる根拠がもしありましたら、ちょっと教えていただきたいと思います。

高見参考人 十八歳ということで特に根拠があるわけではないんです。こういうことです。要するに、現在、二十歳ということで選挙資格を持っているわけですね。その前提で考えて、九十六条の国民投票権についてはそれより下げた方がいいだろうという基本的な発想があって、差し当たり、十八という数字を出してみたわけです。

 ですから、仮にもし設定を変えまして、現在、世界のほとんどの国と同じように日本の選挙資格年齢が十八歳であるということで、それでは九十六条で国民投票制度を初めて設ける、その場合に、では国民の範囲をどう考えるかということにそういう設問を立てるといたしますと、その場合には、やはり国民の範囲はできるだけ広い方がいいだろうという、その場合でも出てくると思うんですね。その場合には多分別の主張をすることになると思います。多分、義務教育が終わった、そういった年齢というふうなことで、それを憲法上成年者というふうに扱うということも選択肢としてはあり得るということでございます。

筒井委員 選挙人名簿と国民投票の名簿と別でもいい、そして十八歳が考えられるというふうには一般的にも言われているし、また私も、今の意見でもそうなんですが、別でもいいんですが、しかし、ほかの選挙人名簿やあるいは民法の規制、成人年齢、これらと一体の方がいいとお考えですか、それとも、それらは別に一切気にすることはないというふうにお考えですか。

高見参考人 もちろん多分、法律全体として運用していくというふうなことを考えますと、それは、成人年齢というのが客観的にというか、民法まで含めて統一している方がいいのかもしれません。

 ただ、要するに広い意味での参政権の問題ですよね。つまり、選挙あるいは国民投票を含めて政治にかかわっていく、それはそれなりにというか、政治にかかわるということの特質を考えて、特に民法と一緒にする必要性というのは多分基本的にはないであろう。ですから、選挙法とそれから国民投票法の間で一致させるということは、これは考えられ得るにしても、すべてが一緒でなくてはいけないということにはならないのであって、基本的には国政の参加の形ですよね。つまり憲法改正権を行使するその国民なのか、それとも国会の議員を選ぶその選挙のための国民なのか、そういう特質から見ていけばいいということであります。

筒井委員 ただ、今わかりましたが、民法でも成人は二十歳、ただし職業についた場合には成人とみなすというふうな規定もあろうかと思いますが、社会的活動に入った段階、その段階で成人だというふうな思想的な背景といいますか考え方といいますか、それがあると思うんですね。社会的活動にみずから入ったとすれば、これは、通常の選挙に関しても、憲法に関してはもっとですが、やはり一体として投票権を認めるべきだ。だから一体とすべきではないかというふうに思うんですが、もう一度ちょっと御意見をお聞かせいただきたいと思います。

高見参考人 一体であるべきだという御主張かと思うんですけれども、そこのところは、私はきょうのお話の中で冒頭申しましたけれども、憲法制定にかかわって権力を持っている国民、あるいはその憲法の改正まで含めてですけれども、その国民と、それから、国家機関たる国会議員を選ぶその国民というのは必ずしも同一であっていいというふうには考えておりません。選挙あるいは国民投票の実務上その両者を一致させた方がいいということはわかります。私もその限りで賛成なんですけれども、一体であるべきだという議論というのは、私の考え方からは出てまいりません。

筒井委員 私も一体の方がよりいいのではないかと、ただ、別であってだめだと言っているわけではないので、その点では同じ意見だと思うんです。

 高橋先生にお聞きしたいんですが、高橋先生の場合は、先ほど、混乱を避けるために選挙人名簿と同じ年齢の方がいいというふうに、ある意味で技術的なというか、そういう形を言われましたし、その前に、財政的事情とか技術的なことを非常に重視された意見を先ほど述べられたと思います。

 ただ、憲法に関する国民投票という問題、この投票権者の範囲を決める際の最大の基準は、そういう技術的あるいは財政的な問題ではなくて、やはりもっと本質的な問題ではないかと思うんですが、これはちょっと失礼な質問かもしれませんが、それについて御意見をちょっとお聞かせいただきたいと思います。

高橋参考人 私はちょっとそういうふうなものにこだわる癖がございまして、これまで大所高所の議論になりますと、財政的側面やそれから実務的側面についてやはり配慮を学者は余りにしなかったものですから、むしろそれで反省をしているということでございまして、基本線は私、別に違っても構わない、ただ同じ方がよいだろうというだけの話でございます。

 ただ、一点だけつけ加えさせていただきますと、十八歳にするのがいいかどうかというのは、恐らくこれは、我々が議論の中で決められる問題、もしくは外国がそうだからというだけではだめで、やはり何らかの形で調査して、十分なそれにたえ得る基礎的知識があるか、そういうふうなものが十分備わっている状態になっているか、成熟しているかどうか、あるいは、それに対する関心が十分あるかどうかといったようなそういうふうな視点も必要なのではなかろうかというふうに思っております。

 それから、十八歳ということに選挙年齢を引き下げますと、その点に関して、罰則が恐らく、少年法その他の問題ではなくて、そのままもろにかぶってくるという点は、これは連動する可能性が高うございますので、権利には常に義務がありますので、その点も考慮した上で決定していかなきゃいかぬのかなというふうに思っております。

 以上でございます。

筒井委員 趣旨はわかりました。

 ただ、先ほどと同じ質問になるかもしれませんが、十八歳ということが一般的に言われているんですが、これについても、えいやと最後は決めなきゃいかぬのかもしれませんが、十八、十七、十九歳、もし下げるとしても、それぞれについての根拠、今ちょっと簡単に言われましたが、それをもう一度教えていただきたいと思います。

高橋参考人 簡単に言ったのはどこかちょっとわかりませんけれども、少なくとも、恐らく比較法的にとか広い方がいいという形で、だから十八とか十九というのは非常に難しいのではないか。議論で、いわば討論の中で決められる話というのはやはりないのではなかろうか。やはりそこには、国民投票に参加するにふさわしい資質、意欲といったようなものを何らかの形で調査される、具体的なことをやられた上での結果として、それを前提にして議論をされるということが絶対必要だろうというふうに思っております。

 もちろん、そういう結果十八歳になった、そういう決断、最終的にはえいやかもしれませんけれども、なったというのなら、私も当然賛成させていただきます。

 以上です。

筒井委員 国民投票運動について高見先生にまずお聞きをしたいと思うんです。

 先ほど言われましたが、国民の運動についての規制は、これは原則ゼロにするという立場からの、本当に必要最小限度の規制にすべきだというふうに思いますが、先ほど先生が言われました政府の行為といいますか政府の運動といいますか、これは、やはり日本国政府自体を規制対象にするというか、適用対象にするというのが憲法の大きな趣旨でございますから、政府自身が、この運動に直接かかわってやるというのが、これは極めて不都合だと思いますので、先ほど言いましたような、必ず両論併記、あるいは中立の立場という例を挙げられましたが、もし聞き逃したら済みません、先生自身も、やはりそういうふうな政府が広報をしたりする場合には、必ず両論併記で、どちらかの立場に立ったそういう運動はすべきでないというふうにお考えですか。

高見参考人 はい、そのとおりでございます。

 先ほど、アイルランドの例を挙げましたけれども、アイルランドを見ておりますと、例えば、EU絡みで国民投票が盛んに行われております。やはり政府の方はEUに対して積極的な態度をとるわけでございますので、国民投票について政府の側から盛んに広報活動を行う。その積み重ねというそのバックグラウンドがあって、先ほど御紹介したような裁判所による違憲判決というのが出てきたということですね。

 そういうことを考えますと、公金を使って行う、国民に対して賛否を問う、そういう国民投票ということでございますので、これは賛成、反対、しかもそれは議論の価値は同じでございますので、賛成の根拠、反対の根拠、それはやはりイーブンな形でその広報活動を行う、そういうことに限られるであろうということでございます。

筒井委員 私も強くそう思います。

 そうしますと、通常の法案とはその点が全然大きな違いを示さなければいけないということになりまして、最近の何とか法案に関してもそうですが、広報で物すごい大宣伝を税金を使ってやること自体がいろいろ議論になっているわけで、それ自体が私は問題だと思うんですけれども、この同じ問題について高橋先生はどう考えられるか、お聞かせをいただきたいと思います。

高橋参考人 私は、どうもその点について態度を決めかねているところがございます。

 一つは、憲法改正の発案、これは、今のところ内閣にもあるというふうな考え方が多いようなんですが、それであるならば、自分が出しておきながらイーブンの態度しかとれない、こういうふうなことはやはりちょっと難しいかなというふうに思っております。

 それから、EUなんかでも、アイルランドの例を僕は知りませんでしたけれども、あれは、EU憲法に賛成する態度で政府は大宣伝をやったような気が、覚えておるんですが。それにしても、そこには確かに節度が求められておりまして、アメリカの州の幾つかには確かに、客観的なものしか書かないようにとか、政府が直接手を出さないようなことも、昔の記憶ですので余りはっきりしておりませんが、たしかありました。

 そういうふうな意味で難しい点があると思いますけれども、それを完全にイーブンな形にまでするというのはちょっとやはりいかがかな。むしろ、政府に対して、もちろん、これは賛成だということで持ち出す場合には、それ自体あってよろしいわけですけれども、必ずそれに対する反対意見の部分を挿入して、いわば公正な投票者の判断を得るような資料を盛り込む、こういうふうな形で処理するのが実際的なのではないかというふうに今考えたところでございます。

筒井委員 極めて大きな問題だと思いますが、さらにお聞きしたいんですが、時間がないので、一点だけ確かめて御意見をお聞かせいただきたい点がございます。

 投票方式の問題ですが、先ほど高橋先生は、個別にできるものは個別にして、ユニットでできるものはできる限りそうした方がいいけれども、全面改正の場合は一括投票だというふうな御意見を述べられましたが、これはちょっと趣旨が理解できないんです。個別投票でできるものならば、全面改正自体に私は賛成とは言いませんが、たとえ全面改正の場合でも、個別投票ができる、あるいはユニットで投票ができる場合はそうすべきなんじゃないんですか、先生の当初言われていた意見からいっても。

高橋参考人 全面改正の程度にももちろんよるわけですけれども、アメリカでリビジョンと言われる、いわゆるこれまでのものをほとんど新しく書きかえるような場合、これを想定しておるわけでして、現在の形が本質的に残るような場合、それがたとえ全面改正の形をとっても、それは一括でというのはちょっと無理であろうというふうに思っております。

 ですから、まさしく新しいとしか見えないようなそういうふうな程度に至った場合を想定しておりまして、ちょっと私の言葉足らずだったと思いますので、趣旨は決して違ったものではないと考えております。

筒井委員 そうすると、一括の場合、先ほど法的な問題も出されましたが、私は法的にも極めて問題があるんじゃないかと思うんです。

 例えば、突然具体的な例になりますが、改正第一条には賛成だけれども第二条には反対であるという投票者がいた場合に、棄権するのか、どういう投票行動をとるのかわかりませんが、第一条への賛成が極めて強いから全体として賛成投票を入れたという場合に、しかし表へ出てくるのは、第二条についても賛成だ、本来反対なのについても賛成だという結果が出てくるしかないわけでございまして、こういう形でやった場合に、真に国民の意思を聞いたと法的に言えるのかどうかという問題も起こってくるかと思うんですが、その点について高橋先生どうでしょうか。

高橋参考人 問題は、例えば一条と二条をいわば抱き合わせにすること自体が問題であろうと。私が想定していますのは、ユニットにするというのは、ユニットにしなければ都合の悪いような、例えば信教の自由と宗教団体への財政的援助というようなものは、ワンセットにしなければならないときにはやはりユニットにすべきであろうと。

 これは、アメリカの州の場合には、どうも幾つかの州では原則個別的な賛否を聞くという方式のようですけれども、そういうふうな方式を憲法上に規定している州もあるようです。ただしその場合でも、今言ったように、つまり片一方がだめになると片一方の趣旨も生きないというふうな緊密な関係にある場合にユニットにする。それは、たとえ個別方式だというふうに書いてあったとしても、そのように解釈されるようでございます。

 ですから、それは任意にやれるということになりますと、まさしく抱き合わせという問題が生じてまいりまして、だからこそ私は、発議の段階からそういうふうなことを考えて、発議の方法も考えて案というのは出すべきではないかというふうにちらっと申しましたのは、そこを意識してのことでございます。

 以上でございます。

筒井委員 時間が参りました。大変ありがとうございました。

中山委員長 次に、太田昭宏君。

太田(昭)委員 公明党の太田です。

 きょうは、先生、ありがとうございます。

 国政選挙と一緒にこの国民投票、憲法改正ということについてやるということについて、影響がいろいろありますからなかなか難しかろうという判断を我々はしているわけです。現実には単独でこの国民投票が行われるということが望ましいというふうに思いますが、その辺は、憲法を改正するということではなくて、それをそのときの判断でやるというふうに我々は考えているわけですが、それについて、国政選挙と一緒にやるのは難しかろうというようなことについてお二人の意見を聞きたいというふうに思いますし、もう一点、関連することですが、選挙の際にそれ自体が、憲法の改正自体が政治的な最大の争点というふうになった場合において、分けた方がいいのか、それとも一緒にそういう場合はやった方がいいのか、そういう想定なんですが、その二つについてお二人、お答えいただきたいと思います。

高見参考人 九十六条では、選挙の際に国民投票を行うという形をとるか、あるいは特別の国民投票かという二つのやり方があるわけでありますけれども、ただ、考え方の基本としては、やはり特別の国民投票でやるというのが原則であろうというふうに思います。

 ただ、学説の通説的な考え方から申しますと、時宜に応じて選挙の際に一緒に国民投票を行うと。つまり、原則はやはり特別の国民投票でありまして、両者が重なってきたような場合、この場合にわざわざ二つに分けるということが果たして、コスト・アンド・ベネフィットというふうなこともあると思うんですけれども、分けなくていいんだろうというのが、多分、憲法九十六条でその選挙の際にというふうに置かれていることの趣旨であろうというふうに思うわけですね。

 ただ、政治的な判断としては、おっしゃるように、一方は政権をとるために選挙を行うわけであります、他方は国民投票で憲法改正案の賛否を問うという、両者一緒にやってしまうと混乱が生ずるおそれがある、そういった多分配慮と思うんですけれども、憲法九十六条の趣旨は、今私の御説明したような考え方であろうかということでございます。

 それから、二番目の御質問でございますけれども、これは、選挙の争点として憲法改正ということが浮上してきたような場合、これをどう考えるかということでございましょうか。

 これは、多分まだ九十六条で、国民投票で憲法改正是か非かということを問う以前の国政選挙で憲法改正ということが争点になって、それについて国民が、選挙で政党に対して、あるいは議員に対して一票を託す、こういうことでございますので、これは当然あり得るであろうということでございます。

高橋参考人 まず、特別の国民投票と国政選挙において行う国民投票の関係ですが、これは高見参考人のおっしゃるとおりと考えております。あくまでもメーンは特別の国民投票であって、ちょうどよい時期にあるからというふうな、いわば便乗という形で考えたのではないか。もちろん、膨大な費用その他を考えるときには、便乗できるものならしてよろしいんでしょうが、重みが違う、目的が違うという観点からすれば、今の日本の状況から考えれば、やはり特別の国民投票をやるのがふさわしいのではないかというふうに考えております。

 二番目の点については、全く高見参考人と同じ意見でございます。

太田(昭)委員 発問の方式では、これまでの憲法調査会の参考人のお話では、これまでずっと五年間の中での発言集を見ますと、いずれも個別方式であるということを発言されているというふうに思っているわけですが、先ほど、ユニットというのがちょっと気にかかったものですから私、聞こうと思っていましたら、筒井先生、よくわかりました。

 今度は別々にした場合、なかなか現実問題としては、三つ個別に問いかけた、しかし全く関係はない、ユニットでもない、しかしここだけは絶対に三つのうち一つはだめですよという声が非常に高いという場合に、三つとも今回の改正を否定するという行動に出るのではないのかなという私は気がするわけですが、その辺の、個別方式の中でも特に重要課題というようなものはむしろ単独で提起すべきである、私はそういう気がするわけですが、いかがでしょうか。

高見参考人 この発問形式でございますけれども、やはり基本として考えておかなきゃいけないことというのは、国民にとってその選択というか、賛成か反対かの意思表示が戸惑うことがあってはいけないし、クリアな形で賛成、反対の意思表示が示されなければいけない、そういう形での発問というか発議でなくてはいけないと思うんですね。

 ですから、個別方式というのは、そういう意味で非常に、個々の改正点についてその賛否を問うわけですから、これは国民が基本的に戸惑うことはないわけですね。ですから、これは多分原則というか、基本は個別方式であろうというふうに私も思います。

 ただ、相互に密接に関連しているような場合、この場合には、やはり、これは抱き合わせという言葉は余りよろしくはないかと思うんですけれども、ユニットということで、むしろその方が国民にとってわかりやすい、選択肢として非常に明快であるということであれば、やはりそのユニット方式ということになろうかと思います。

 ただ、今の御質問ですけれども、極めて政策的に、その中に、非常に問題のあるというかコントロバーシャルなもの、そういうものを紛れ込ますということになりますと、これは国民にとっては非常に選択が難しくなるわけですから、そういう形での国民に対する問いかけというのはやってはいけないだろうということでございます。

高橋参考人 私の意見もこの点についても全く同じでございまして、やはり御指摘のような場合には、個々的に問いかけるという形をとるのがよろしかろうと思っております。

太田(昭)委員 与党が考えた原案について、メディア規制みたいなことが時折危惧されているという報道がなされておりますが、我々は全くそういう気はありませんで、基本的に自由ということの中でよく協議をしてまとめていこうというのが基本的な考えです。

 その中で、きょうお話を聞いた、公共空間をつくっていくということは非常に大事なことで、今のそのままの形というよりは、いろいろな討論の場をつくったりとか、あるいはそこでのいろいろな主張をする紙面というものを平等に提供したりという工夫が必要なんですが、現在のメディアを活用するということ自体が非常に大事なんですが、まさにそこのところの自由度ということが問われているというふうに私は思います。

 公共空間の設定ということでの、現存するメディアというものを大々的に利用して公共空間という先生の言葉の中に組み込むという作業について、先生のお考えがございましたら教えていただきたいと思います。

高見参考人 公共空間というふうな概念を使ってみたわけなんですけれども、その場合に、もちろんそこでの主役というのは国民ということになるわけですが、メディアというのは、やはり基本的には、憲法的な観点から申しますと、国民の知る権利に仕える、そういう公共的な機能、役割を担っている、そういう判断でございます。したがいまして、メディアというのは、この公共空間の中において極めて重要な役割を果たさなければいけない。特にそれは、国民に対して正確な情報を提供する、あるいは非常に多角的な議論というものを投げかけていく、そういう意味であります。

 したがって、そういう意味では、メディアというのは基本的に自由であって、そこでは基本的には自主規制でしかないであろうということです。

太田(昭)委員 インターネット社会ということになってきますから、そこで、国民があくまで主役で承認をするという作業が九十六条で定められてきたことからいいますと、一人一人が意見を述べ合うという場を何らかの形で提供するということ自体が国民投票法案ということの上で大事かというふうに思います。そういう意味でのインターネット社会と公共空間というふうに、この問題は選挙法的にはまだここは十分定められていなかったりということがあるわけですが、その辺は、積極的に国民が決めるということからいって私は必要だというふうに思うわけですが、その辺のイメージは先生どういうお考えでしょうか。

高見参考人 インターネットの社会になってきておりますし、ネットを通じてさまざまな情報の交換、言ってみればフォーラムができているわけです。したがって、そういうものも当然、私がイメージしております公共空間の中の極めて重要な一角をなすであろうというふうに考えております。

太田(昭)委員 虚偽報道規制ということについて、高橋先生のお考えを教えてください。

高橋参考人 虚偽ということ自体が、ある意味で、客観的な形で証明できる場合もあれば、確定が非常に難しくて、虚偽であろうけれども、しかしそれを客観的な形で証明しがたいというふうな場合もあろうかと思います。

 したがって、虚偽ならばこうするというふうな形でやる、それは客観的な場合にはそれでよろしいんでしょうけれども、そうでない場合には、事実はこうだという形で何らかの、政府がやるのはちょっと問題があるのかもしれませんが、それなりの独立的なところがそれに対して反論という形でそれを正していくような、情報提供をするような、そういうふうな仕掛けが必要なのかとも思いますので、非常に難しいんでございますので、よろしくお願いいたします。

太田(昭)委員 ありがとうございました。終わります。

中山委員長 次に、笠井亮君。

笠井委員 本日は、貴重な御意見ありがとうございました。

 先ほど来の質疑で、ともかく手続法をと、そして、どんな国民投票法案にするかという議論もかなり多いわけですけれども、私は、それを伺っていても、具体的な憲法改正の中身抜きにはなかなか議論が煮詰まらないんだろう、できないんだろうということを改めて強く感じているところです。

 総選挙後の世論調査を見ましても、例えば毎日新聞で、九条改正反対が六二%、そして、九条が日本の平和に役立ってきたというのが八〇%という数字もございました。今、九条の会が草の根で全国でもう三千を超えているという動きもあります。今、憲法九条改憲を中心としたこの改定というのが国民の多数意見になっているかというと、そういうわけでもないし、それから、そのための国民投票法案をつくれという国民の側からの世論と運動が沸き起こっているということでもないというふうに思うんです。

 そこで、議論の大前提として改めて確認させていただいておきたいんですけれども、憲法とはそもそも何か、そして、その改正とはどういうことかということについて、両参考人に伺いたいと思うんです。

 私が理解しているところでは、憲法というのは国家権力が国民の義務を定めて自分の思うような政治をするためのものじゃなくて、逆に、国家権力が勝手なことをできないように縛って、国民の権利と自由というのを守り、保障するためのものだと。日本国憲法も、まさに侵略戦争の痛苦の教訓、それから、国民の権利制限のもとにそれが行われたという経験から、国家権力を制限して、そして国民の人権を保障するという立憲主義に基づいてつくられたというふうに理解しているんです。したがって、憲法を論じるに当たってもそういう立場が貫かれなきゃいけないと思うんですけれども、憲法とは何か、改正という問題について、両参考人にちょっと、そもそも論で申しわけないんですが、伺いたいと思うんです。

高見参考人 難しい問題、憲法とは何かという、そもそも論ということでございますが、簡単に申しますと、今御質問の中でお話のあったようなことと基本的には違わないと思います。

 ただ、国民が憲法をつくって国家権力の手足を縛るという話は非常にわかりやすいんですけれども、そこで言う憲法、これは、基本的に考えなければいけないことは、そこで憲法と言われているものは、基本的には国家の権力の組織のあり方を決めているということでございます。つまり、国民主権のもとでは国民が最高のいわば立法者であるわけであります。これは、憲法制定権力というふうなことで呼ばれていますけれども、その国民が憲法において国家の諸機関を組織する、そういうことであります。しかも、そこに、例えば立法権でありますとか司法権であるとか行政権といったものをその機関に付与する、これが憲法というものの持っている意味であります。

 つまり、どういうことかと申しますと、手足を縛るということの意味は、実は手足を縛る前に自分たちの手で組織しているわけであります。まず、憲法は組織規範であるということですね。組織規範、むしろ授権規範であるわけですね。それによっていわば国家の権力の行使の仕方というものが拘束されている、そういう意味で手足を縛るということであります。

 憲法改正というのは、そういう形で憲法で定められているもろもろの権限ないし権力のあり方というものを一部修正する、あるいはつけ加えていくというのが基本であろうかと思います。

 ただ、その場合に、人権の規定というのが一つ問題になろうかと思います。人権規定というのは、もちろんこれは国民の側にすべて留保しているわけでありまして、国民の側から見てこういった自由というのは保障されなければいけない。ですから、国家機関がさまざまな活動を行う場合に、そういう人権のカタログで書かれているようなことについて最大限配慮しなければいけない。もちろん、法律をつくる場合もそうであります。そういう意味で、人権規定というのが大変重要であるということでございます。

高橋参考人 私も非常に難しいのですが。

 まず、憲法ということなのでございますが、恐らく憲法典のことをおっしゃっておられると思うんですけれども、これは、基本的には、統治の主体がいずれであり、その統治の仕方がどうであるか、そういうふうなものが中心となりまして、これのみを書いてある憲法もないわけではないわけですけれども、我々が通常憲法と言うものは、そのような統治主体の権力行使に対して、立憲主義という形で、いわば権力分立とか人権という形で、それを制約していく装置を組み込んでいく、こういう中で適切な国家運営を行おうという、それを書いたものが憲法典というふうに理解いたしております。

 ところで、それを改正することはどういうことかということでございますが、これらの二つの要素を、恐らく時代的、状況的に適合するように主体のあり方や仕方を変えたり、それを抑制する場合はその抑制装置を強化したり、そういうふうな中で、現在の社会に合うように構成していく、こういうふうなものと理解をいたしております。したがって、我々は、恐らく国家の大目標は、国家構成員たる国民の生命といわば財産その他、基本的には全体として人権と呼べると思いますが、そういうふうなものを擁護していこうということですから、最終的には委員おっしゃるとおりというふうには考えております。

笠井委員 ありがとうございました。

 高見参考人に伺いたいんですが、先ほど、現憲法の正当性を確保するために国民投票を実施すべきではないかという質問を出されて質疑があったと思うんですけれども、既に憲法の前文の中でこうあります。「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、」「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」とあるわけですけれども、ここにあるように、その正当性は確保されているというふうに私は思うんですけれども、現憲法の正当性についてどういうふうにお考えでしょうか、伺いたいと思います。

高見参考人 これも大変難しい問題でございます。

 現憲法の正当性ということになってまいりますと、これは憲法制定の経過ということをやはり一つ問題にせざるを得ないということになろうと思うんですね。それをどういうふうに整理するかということになりますと、これは歴史的な経過の事実と、それから一つは論理との、先ほど申しました国民主権の憲法でございますので、そもそも国民が憲法制定権力を行使してこの憲法をつくったということを前文の冒頭の一文でも述べているわけでありますね。そのところの整合性をどう考えるかということになろうかと思います。

 ただ、私は、基本的には、学界で通説化しております宮沢俊義先生の八月革命説といったものを持ち出さなければ、やはり日本国憲法の正当性というのは法論理的には説明できないだろうというふうに考えております。

笠井委員 さらに高見参考人に伺いたいんです。

 九十六条に関連してなんですけれども、参考人が二年前に衆議院の憲法調査会の最高法規小委員会で述べられたことを会議録でも私、興味深く拝見したんですけれども、その中で、改正規定の沿革のところで、当時の法制局が作成した想定問答集という話がありました。

 それで、紹介されて、憲法改正手続はリジッドに過ぎないかという問いに対して、「この程度に慎重にせぬと改正が行き過ぎになるおそれがある。国会議員の質をよくし、国民の政治的教養を高めれば必要な改正を行うには支障あるまいから、これを先決問題として実現すべきである。」という部分を紹介されたことに注目したんですけれども、「この程度に慎重にせぬと改正が行き過ぎになるおそれがある。」ということで、当時その前提問題として考えられていたことというのが今日どういう意味合いを持つかというふうにお考えかと。なかなか難しい話かもしれないんですが、御意見を伺えればと思うんです。

高見参考人 法制局見解というか、法制局の想定問答、あれはまさに想定問答でありまして、多分帝国議会の議事録には出ていない部分だと思うんですね。そういう意味では、法制局内部での一つの試案にしかすぎないと思います。その点はやはり考慮をしなければいけないと思うんですけれども、やはり憲法の制定の過程との関連で申しますと、最初一院制であったということが非常に大きいと思います。

 つまり、九十六条で衆参両院の三分の二ということになって、これで非常に厳しくなってしまったということですね。つまり、国会一院で三分の二の多数ということならば、それほど難しい要件ではなかっただろう。それから、当時そこに至るまでの案を見ていきますと、必ずしもというか、最初のGHQの草案にあったものは、むしろ国民投票は例外的というふうな、そういう規定の仕方でございまして、最終的に三分の二でいくと。三分の二でいくということでGHQ側から日本政府に渡されたわけでありますけれども、しかしながら、日本側の方で両院制をとったがために、極めて難しいことになったのだろうということであります。

 そういう雰囲気の中で、その法制局の想定問答ができたと思うんですね。法制局の当時の法制官僚たちは、憲法改正ということになれば、やはり三分の二ぐらいの賛成がなければ発議すべきではないだろうという、多分そういう含みで書かれていると思うんですね。その重みというのは確かにあるわけでありまして、国民に対して、特に日本国憲法の場合には、その三分の二をとったがために硬性度の高い憲法になっております。それであるがゆえに、憲法改正については、憲法自体が極めて慎重な態度をとっている、それが私の感想でございます。

笠井委員 もう一つだけ伺っておきたいんですが、外国の立法例ということで、憲法改正国民投票の過半数の算定基準ということで、全有権者としているものがあるということで高見参考人がお書きになったものがあるというふうに私も拝見したんですけれども、それを見ますと、韓国やロシアなど比較的新しく憲法のできたところの中で算定基準を全有権者としているものが見受けられると思うんですけれども、それはどういう考えに基づいてやられたのか、国民主権を強化するというか、そういう考えが根底にあるのかどうか、もしおわかりになればお答えいただきたいと思うんです。

高見参考人 申しわけございません。その辺のところは、私も条文を当たって全有権者と書いてあるということに注目して紹介はしたんですけれども、今のところ、その背景になっている思想なり考え方まではちょっとつかんでおりません。申しわけございません。

笠井委員 ありがとうございました。

 時間になりましたので、高橋参考人、さらに伺いたいことがあったんですが、また別の機会があればと思います。ありがとうございます。

中山委員長 次に、辻元清美君。

辻元委員 社民党の辻元清美です。

 きょうは、お二人の参考人の方々、ありがとうございました。

 まず、高見参考人にお伺いしたんですが、本年の九月十四日の大法廷判決について、これを重視しての御発言だったと思います。私もこの判決には非常に注目しておりまして、といいますのは、国民の固有の権利とは何か、民主主義の発する根本とは何かという非常に深い意味をはらんでいると思うから注目しておりました。七月十三日に、大法廷での口頭弁論に傍聴に参りました。

 まず、そういうことも含めまして、この九・一四の判決と国民投票との関係について二問お伺いしたいと思うんですね。

 この判決では、「国民の選挙権又はその行使を制限することは原則として許されず、国民の選挙権又はその行使を制限するためには、そのような制限をすることがやむを得ないと認められる事由がなければならないというべきである。」ということから、ずっとさまざまなことが述べられておりまして、「既に昭和五十九年の時点で、選挙の執行について責任を負う内閣がその解決が可能であることを前提に」法律案を国会に提出しております。このことにも触れられておりまして、そのことを「考慮すると、同法律案が廃案となった後、国会が、十年以上の長きにわたって在外選挙制度を何ら創設しないまま放置し、本件選挙において在外国民が投票をすることを認めなかったことについては、やむを得ない事由があったとは到底いうことができない。そうすると、本件改正前の公職選挙法が、本件選挙当時、在外国民であった上告人らの投票を全く認めていなかったことは、憲法十五条一項及び三項、四十三条一項並びに四十四条ただし書に違反するものであったというべきである。」というふうに判決には出ております。

 私は、前回の当委員会の発言でこの問題を取り上げて、これこそ立法不作為に当たるのではないかという指摘をいたしました。

 私は、国民投票の議論を始めていくと、国民投票のあり方を論じようとするのであれば、立法府の責務として、この違憲ということを示された状況を、この九・一四判決に出た状況を解消するということをまずすべきであるというように考えるんですが、いかがでしょうか。

    〔委員長退席、保岡委員長代理着席〕

高見参考人 ちょっと質問の御趣旨がわかりにくいところがあるんですけれども、質問というか、確認してよろしいですか。

保岡委員長代理 わからなかった点を指摘していただければ、また御質問があるでしょう。

高見参考人 立法の不作為状態にあって、今違憲状態にある、そこを解消するのが先決であるということですね。

 これは、こういうことですか。つまり、今回の九・一四判決の中で確認されたことは、次の国政選挙までに、もちろん比例部分は選挙できるわけですが、選挙区選挙及び小選挙区については在外国民が投票権を行使できないので、その制限を解除する措置をとらなければ、その違憲状態は解消しないということでありますので、したがって、もちろん国賠という話は別に出てまいりますけれども、国会としては当然、これは公職選挙法の附則の八項になるんでしょうか、これを削除してそういう状態をなくす、そういう立法措置をとることが求められているのは当然のことであります。

辻元委員 今なぜその質問をしたかと申しますと、先ほど参考人が、やはりこの判決というのは国民投票をどういう形でどの範囲で行うかということと関連して論じられた点が非常に重要であるというふうに考えたからなんですね。

 この判決によって、例えばこの判決には、「侵害を受けた後に争うことによっては権利行使の実質を回復することができない」として、選挙権を行使することができることの確認を求める訴訟は適法であるというようなことも示されました。

 これは、例えば国民投票を考えた際に、これは公職選挙法におけることが問題となっていますが、国民投票の権利ということを考えた際にも、その国民投票の権利が何らかの形で侵害される場合には、事前にそのような国民投票法の無効の確認を求める訴訟というものが許されるというように考えられるかどうかという点については、高見参考人、いかがお考えでしょうか。

高見参考人 論理的にはあり得るということであろうかと思います。もちろん、国民投票法ができて、それが運用されるということになっての話ということでございます。

辻元委員 この九・一四の判決については、以上二点、お聞きしたかった点です。

 それと、きょうの議論の中で、どのような場合に一括方式というものが果たしてとれるのかどうかというところも一つの焦点だったのではないかと思うんですね。

 高橋参考人にお伺いしたいんですけれども、先ほどから何人かの方々の質問にお答えになっている点なんですけれども、例えば全く新しいものが提示されたとしても、この部分は今の方がよかったという判断もあるわけですね。今のものがあって、これは全く新しいからこれがいいですかと問う場合も、こっちは今の方がよかったじゃないか、しかしこっちは新しい方がいいなという判断は必ず出てくると思うんですね。これは国民が判断する際に非常に重要なポイントになるかと思いますので、やはり一括方式というのは非常に政治的な意味を帯びている場合以外とりにくいのではないかと考えるんですが、いかがでしょうか。

高橋参考人 おっしゃるとおりでございまして、政治的な場合でなく、論理的に考えた場合には、全体一括、ユニットというのをちょっと分けましたけれども、全体一括というのは非常にまれな、もしくは場合というふうに考えられているようでございます。

 ただ、アメリカのケースなんかの場合には、ほとんど丸々、同じような基本原則みたいなものを残しながら、それをほとんど書きかえてしまうようなものがございまして、そういう場合には一括だ、そういうふうな形で使われるわけでありまして、日本国の場合にはほとんど考えない方がよろしいかと。ユニットまでというふうに考えております。

辻元委員 といいますのも、きょうは二回目なんですけれども、この一括方式か個別方式かということについてたくさんの委員が前回も意見を述べられました。

 高見参考人にお伺いしたいんですけれども、こういう意見があったんですね。国会が三分の二の賛成がなければ発議ができないということなので、非常に重い選択である。であるからして、大きな改正がある場合は一括方式でいいのではないかというような意見を述べられた委員がいらっしゃるんですね。私は、国会が三分の二で発議するということと、どういう方法をとるかというのは全く別次元の問題であるということを一点目思ったことと、それから、大きな問題をはらむから一括でいいという議論は、やはり成り立たないのではないかというように思うわけです。しかし、この手の主張は結構出ているというようにお見受けするんですけれども、この手の主張について高見参考人はどのようにお考えでしょうか。

高見参考人 おっしゃるとおり、国会の発議要件が三分の二になっているということと、一括方式で国民投票にかけるべきか、これは論理的に内容が結びついていないというふうに思います。ですから、全く別の話であろうということでございます。

 そういう議論が出てくるのは、多分、ある意味でというか、これは法的な論理ではなくて、むしろ、三分の二という極めてその発議要件が高いハードルがあるがために、憲法の改正について、この際というか、一括して極めて大幅な形での改正案というものをむしろ準備していくべきである、多分そういうことで結びついている議論ではないかというふうに思います。

辻元委員 時間が参りましたので、これで終わります。ありがとうございました。

保岡委員長代理 次に、滝実君。

滝委員 国民新党・日本・無所属の会の滝実でございます。

 きょうは、お二方の参考人の先生には大変ありがとうございます。私も、憲法論議につきまして、改めて興味深くきょうはお聞かせいただきました。

 最初に、きょうこの場で意見の御開陳があった点について、二人の先生から一問ずつまず御質問をさせていただきたいと思いますので、よろしくお願い申し上げたいと思います。

 まず、高見参考人にお願いを申し上げます。

 この九月十四日の最高裁判例に関連いたしまして、一つ強調されたのは、投票者の範囲、今の国政選挙よりも幅広くすべきではないか、こういうふうな御趣旨だったかと思います。

 私は、この判決をたびたび読ませていただいたんでございますけれども、確かに固有の権利ということに着目をしますと、もともと日本人は、だれしも政治に参画する、あるいは国政に参画する基本的な権利を固有の権利として持っているわけでございますから、年齢に縛られないという意味では、強い固有の権利という考え方も成り立つと思うんですね。

 しかし、国政に携わる国会議員あるいは最高裁の判事、この人たちについて投票するあるいは信任をする、そういうような間接的なことについては、あるいは二十歳ということが現実にあるわけでございますけれども、しかし、それを一歩踏み込んで、国家の骨格そのものに意見を言うあるいは決定をする、そういうものについて間接民主主義を超えてやる場合に、年齢が低くてもいいという論理的な結論というのはなかなか出にくいように思うんです。むしろ逆ではないかというようなことも感じられるんです。

 もちろん、私は二十歳がいいとか悪いとか言っているんじゃないですよ。国政で二十歳であれば、何で国民投票の場合にそれよりも幅を広げて十八歳にしてもいいのかというのが、この最高裁の判決からはなかなか導くのが難しいように思うんでございますけれども、もう少しそこのところ、簡単に、しかも易しく解説していただくとありがたいです。

高見参考人 最高裁の今回の九月十四日判決を私冒頭から使いましたけれども、最初、冒頭で使った意味というのは、選挙権というのは国民主権原理に基づいているということが判決のポイントでございます。それに対して、では九十六条の国民投票権ということを考えた場合にどうかというと、これは国民主権の原理に基づくんではなくて、国民主権そのものと直結した権限、権利であるということを言いたかったわけです。

 そういたしますと、国民の範囲をどう考えるかということに憲法九十六条との関係でなってくるわけでございます。その場合に、そもそも国民主権でいう国民とは何ぞやという大議論がございますけれども、国民、一番広くとると、これはすべての国民ということになるわけでございます。つまり日本国民、日本国籍を持つ者ということになるかもしれません。つまりエブリボディーでありますね。

 ところが、実際に国民主権を持ちながら憲法の改正に行使できるということになってきますと、どうしても全員というわけにはまいりません。どこかで切らなければいけないんですね。ただ、法律の制定に携わる議員とか、あるいは国民審査という形で最高裁判所判事についてその罷免をかける、そういった制度というか、そういう憲法上の制度を動かす国民の範囲とはやはり違うだろうというふうに思ったんですね。

 それで、いわばこれから将来にわたって長い間我々を拘束する、そういう規範の定立あるいは改正ということでございますので、できるだけ全国民に近い範囲で広く参画すべきであろうということでございます。つまり、広く参画すべきであるということがメーンでありまして、年齢を下げるということでは必ずしもありません。

 そういう趣旨で、ただしかしながら、やはり年齢を下げなければ広くならないであろうし、ましてや、とりわけ将来にわたって国民を拘束していくわけでありますので、できるだけ今の成年者よりは広くとるべきである、そういう趣旨で十八という単位を出したわけです。

滝委員 ありがとうございました。

 外国の例を見ますと、国政選挙の選挙権を低年齢化した一つの理由として、高齢化社会になると、国の資源、税金が高齢者にどうしても偏っていく、それに対して若い人たちが手をこまねいて見ていなければならない、選挙権を持たない年齢の人たちが。したがって、例えばスウェーデンでも十八歳に引き下げましたとか、そういうような説明をされているんですけれども、そういう今のお話ですと、国政選挙でもむしろ同じように扱った方がいいんじゃないだろうかなということであって、論理的に今の最高裁の判例から導くというのはなかなか難しいように思うものですから、お尋ねをいたしました。

 それから、高橋参考人に次にお尋ねをいたしたいと思います。

 今の発問形式の問題で、個別であるというのはもちろん当たり前の話として受け取っているわけでございますけれども、それに対してユニット方式はどうだとか、あるいは、全部の条文を変える場合には、もう一括しなければ、百条からの条文を一々マル、ペケをつけるというのはなかなか現実問題としてやりにくいという問題がおありになる、そういう中でいろいろ議論があるわけでございますけれども、先ほど高橋先生の方からは、個別にするかユニットにするか一括にするか、それを法文の中で書きにくいというようなことを言われました。しかし、これを書いておきませんと、やはりこの国民投票というのは極めて政治的な案件でございますから、当然、訴訟に持ち込まれたときに、何も手がかりなしに訴訟になったときに、そもそも訴訟にたえられるのかどうか、それが一番大きな問題になり得るという意味では、未然に紛争を防いでおく、そういう配慮が必要じゃないかと思うんでございますけれども、いかがでございましょうか。

高橋参考人 私がちょっとその点について申し述べましたのは、この国民投票法にその部分について、発問形式について、種類その他は構わないと思いますが、どうするということまで書き込む、具体的なのはちょっと難しいのではないかと申したわけでして、ある案は、それは別の法律をつくって、そのときに出てきた改正案というものを念頭に置きながら具体的な処理をしていこう、こういうふうな案が出てきておりますが、私も、それがある意味でいいのかなと。その部分について、政治的な思惑で、本来ならば個別的なものをユニットにされるというおそれはちょっとあることはあるんですけれども、しかし、それはやはり国民の批判を招いて現実の国民投票に影響するでしょうから、それぐらいのことは法律で決めてよいのかなというふうに考えた次第でございます。

滝委員 ありがとうございました。

 次に、お二方の参考人の先生に同じことをお尋ねしたいと思います。

 それはどういうことかと申しますと、訴訟になった場合、条文の書き方としては、国民投票に異議のある者はということが主体になると思うんでございますけれども、そのときに、個人でもいいのか、あるいは何人か集まらないと訴訟を提起できないのか、そういう議論がどういうぐらいになっているのか、それをお示しいただきたいというのが第一点です。

 それから、二点目は、特に高見参考人は、訴訟になって最高裁の判断が確定するまでは改正憲法が動かないというような御趣旨のようにもこのペーパーでは拝見したんでございますけれども、そういうことになってまいりますと、なかなか訴訟が長引いてどうなのかな、こういう現実問題にまた戻るものですから、その辺のところを、この二点について、まず高見参考人から御意見を簡単にお聞かせいただきたいと思います。

    〔保岡委員長代理退席、委員長着席〕

高見参考人 まず第一点でございますけれども、これは、国民投票の執行過程に何らかの瑕疵があって、したがって、その瑕疵があるがゆえに国民投票自体が無効であるということの判断を求めるわけでございますので、これは個人、団体問わないというふうに思います。つまり、ある意味で、客観訴訟、客観的な違法性をただす、違法をただすということでございますので、個人を排除する理由というのはございませんというふうに私は考えます。

 二番目の御質問の点でございますけれども、これは、どういうふうに国民投票の無効確認の訴訟の手続ないしその要件が整うかわかりませんけれども、例えば、今の公職選挙法の選挙無効の訴訟と同じように、国民投票の結果に異動を及ぼすおそれがある場合には無効である、そういう要件が付されることにいたしますと、この訴訟が確定した上でないと極めて不安定な状態に改正憲法が置かれるんではないか、そういうふうに考えております。

 もちろん、現行の公職選挙法の選挙無効の訴訟についてもありますように、違法状態にある、したがってその選挙は違法である、違法であることを確認するけれども、しかしながら事情判決によって無効とはしないというそういった判断方法もあり得るかと思いますけれども、しかし、事は憲法でございます。憲法をそういう形で確定してよろしいのか。つまり、訴訟の確定を待たずに改正憲法自体が発効しその効力を持つということになりますと、結局のところは、裁判所によって投票過程が違法であったということの確認がついた形での改正憲法の施行ということになりますので、こうなってしまいますと、改正憲法の正当性自体が極めて問われることで不安定になるであろう。

 そういうことを考えますと、やはり裁判所によって確定した段階でしか国民投票の効力というのは認めないというふうに考えるべきである、そういうふうに思っております。

滝委員 高橋先生、お願いいたします。

高橋参考人 第一点の、いわば訴訟主体がだれに、個人も可かという話でございます。

 本来、憲法上の司法権の保障というのは主観訴訟という部分でありまして、今回は恐らく客観訴訟ということになって、法律上で決めればよろしいという法律上の保障ということになると思います。もちろん、これを保障しないで国民の信任を得るなんということはとてもできませんから、できるだけ広い、しかし、今申しましたように確定の問題がございますので、私の場合には、実施まで決めればそれほど被害はないだろうとは考えておるんですが、その間の期間の問題もございますので、それに対応できるような制度設計にすべきであると。

 ただ、一定の人数が集まらなければいけないような、一定の団体でなければいけないような場合にしますと、やはり個人の非常に重要な瑕疵をいわば裁判にのせるチャンスが失われますので、それはやはり避けるべきではないでしょうか。もし早期化を図るならば、絞りをかけるならば、ほかのところでおやりになるのがふさわしいのではないかというふうに私、思っております。

 以上でございます。

滝委員 ありがとうございました。

中山委員長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、一言ごあいさつを申し上げます。

 両参考人におかれましては、貴重な御意見をお述べいただき、まことにありがとうございました。委員会を代表して、心から御礼を申し上げます。(拍手)

 午後二時から委員会を再開することとし、この際、休憩いたします。

    午前十一時四十五分休憩

     ――――◇―――――

    午後二時開議

中山委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。

 日本国憲法改正国民投票制度及び日本国憲法に関する件について調査を続行いたします。

 本日の午後は、午前の参考人質疑を踏まえて自由討議を行います。

 議事の進め方でありますが、まず、各会派を代表して一名ずつ大会派順に十分以内で発言していただき、その後、順序を定めず自由討議を行いたいと存じます。

 発言時間の経過については、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせいたします。

 それでは、まず、近藤基彦君。

近藤(基)委員 自由民主党の近藤基彦でございます。

 本委員会での憲法改正国民投票法に関する本格的な議論は先週から始まったばかりではありますけれども、既に主要な論点が出そろいつつあるようにも思われます。

 そこで、今後の議論を深めるために、私なりに、私見を交えた議論の交通整理を行ってみたいと思います。

 まず最初に、二つの基本的な事項を確認しておきたいと思います。

 一つは、一般的なルールとしての憲法改正国民投票法の必要性であります。

 前回の御議論の中に、憲法改正の内容とその手続法は不可分なものであるから事前に手続法の内容だけを議論するのは困難ではないかとの御意見がございました。

 確かに、手続法の内容の一部にはそのような事項もあることは否定いたしません。しかし、国民投票の手続のすべてが憲法改正の内容と密接不可分であるわけではないと思います。また、改正内容に応じて個別に定めた方が適当な事項があるとすれば、それは発議の際に決めるという方法をとってもよいわけであります。

 したがって、少なくとも現時点で最良と考えられる一般的な国民投票の手続をあらかじめ整備し、国民の前に提示しておくことは、憲法改正に対する立場の違いを超えて、その議論を建設的なものにするためにも、また国民にとっても重要なことだと思います。まず、そのことを確認しておきたいと思います。

 もう一つは、憲法改正の国民投票と一般的な国民投票との関係です。

 両者は、確かに国民投票という点では同じかもしれませんが、その本質は全く異なるものです。一方は、三分の二以上の賛成で、ほとんどの政党が賛成をして国民に賛否を問うものであり、しかも、その国民投票の結果は法的拘束力を有することになるものであります。他方、一般的な国民投票は、政策的に与野党が激しく対立するような論点について民意を問うてみるというもので、しかも、現行憲法下においては、拘束力のない、諮問的な法律上の制度ということにならざるを得ないわけであります。

 この二つは、そのルール設定の仕方が根本的に違うものであり、仮に後者の法律が必要だと考える場合でも、それは別個に制定されるべきだと考えます。少なくとも、本特別委員会での議論からは、一般的な国民投票法というのは外しておいた方が効率的、生産的な議論ができるのではないでしょうか。

 では、次に、個別具体的な論点の整理をしてみたいと思います。

 前回の委員各位の御議論を伺っていて、明示的にあるいは黙示的にほぼ合意されているのではないかと思われる論点としては、まず、国民投票は国政選挙とは別個に実施するべきであることが挙げられると思います。

 また、細かい点ではありますが、投票用紙への改正案の記載の有無については、さまざまな改正があり得るので、一般には投票所への掲示等で十分とし、それ以外の方法が有用である場合は、発議の際に特別ルールとして決めればいいということになるんではないでしょうか。

 さらに、三つ目として、無効訴訟が提起された場合の国民投票の効果についても、本日午前の高見参考人の御意見などを勘案すると、理論的には大変難しい論点ではあっても、国民投票は訴訟提起のあるなしにかかわらずその効果を生じると考えるのが、立法政策的に素直な考え方だろうと思います。

 以上の各論点は、今後とも議論は必要でも、結論はほぼ出ていると言ってもいいように私には思えます。

 次に、意見の隔たりはあっても、基本的な考え方は同じであり、合意形成が可能であると思われる論点としては、個別投票か一括投票か、また、周知期間をどの程度とるべきかといった論点が挙げられると思います。

 前者の論点については、まず、民意を正確に問うという観点から、個別投票が原則であると考えます。そして、全部改正というような場合はもちろん、相互に関連する項目については一括投票という例外を否定しない。この原則、例外の存在については共通の認識があるものと思われます。私としては、原則は個別投票であることを前提としつつも、具体的な国民投票への付し方は、発議の際に決めるというところに落ちつくんではないだろうかと思っております。

 また、後者の周知期間についても、最短で三十日、最長で百八十日程度といった御意見があるようであります。これは改正案の内容次第でしょうから、発議の際の国会の議決によって投票日あるいは周知期間を定めるというようにするのが妥当だと考えます。

 次に、現時点では意見の隔たりがあり、今後精力的に詰めるべき論点としては、投票権者の範囲、国民投票運動の規制のあり方、過半数の意味と投票の際の記載方法という三つの論点があると思います。いずれも大変難しい論点ではありましょうが、今後、真摯な議論によって、決して合意ができないものではないと考えます。

 まず、投票権者の範囲ですが、これについては、高見参考人の意見陳述にもありましたように、憲法学説上もいろいろな議論があるようです。

 結論的には、国政選挙の選挙権者の範囲と一緒にするということを前提に考えるべきではないかと思います。しかし、主権者として、監獄に入っている受刑者も含めて、投票権をできるだけ拡大するべきではないかという議論まであります。与党で調査した際には、ほとんどの国において選挙権者と投票権者は同じでしたが、検討に値する論点だと思います。

 また、二十歳か十八歳かという年齢要件については、高見、高橋両参考人も御同意されたように、選挙権の年齢と一緒にするのが常識的だと思いますが、これも含めて、これから議論していく必要があると思います。

 次に、国民投票運動の規制のあり方については、選管の職員や投票事務関係者などの選挙運動禁止や、投票干渉罪あるいは詐偽投票罪などの規定を設けることについては異論はないだろうと思います。具体的な制定の是非が問題となるのは、予想投票の禁止の是非、外国人の投票運動規制の是非、マスコミの虚偽報道禁止、不法利用制限の是非、買収、利害誘導罪の是非の四点ぐらいだろうと思います。

 予想投票禁止の規定などはなくても構わないと存じますが、特に、買収、利害誘導罪については最小限度の規制として存置すべきであると思います。前回、居酒屋で会社の同僚や上司と憲法改正論議をしていて、おごるとかおごらないとかという場合は、選挙だと買収に当たり得るが、国民投票では一般の政治活動の延長上にあるから規制するべきではないとの御意見もございました。しかし、あくまでも、おごるという行為が賛成、反対の投票との間で明確な因果関係が認められる対価となっている場合には、それは金で投票を買ったということですから認められるべきではないと思います。それは、選挙だろうと国民投票だろうと、理論的には同じではないでしょうか。ただ、実際上には、国民投票の場合は、選挙の場合とは異なって、一般にそのような対価関係は認められづらく、通常の政治的意見の表明とされる場合が圧倒的だということになるのではないでしょうか。

 次に、国民投票での過半数の意味については、有権者総数という意見はないようですから、無効票も含めた投票者総数とするか、無効票を除いた有効投票総数とするかという意見の対立があります。

 実はこの論点は、投票の記載方法として、賛成者がマルをつけることとするのか、それとも賛成者はマル、反対者はバツをつけることとするのかという論点と同一であるように思われます。私は、有権者の意思表示として、選挙と殊さらに違える必要はないと思うのですが、いずれにしても、議論をすれば合意可能な論点であると思います。

 最後に、時間がなくなってまいりましたので、その他の論点について一つだけ指摘しておきたいと思います。

 一つは、意見が対立しているものではないけれども、相互に知恵を出して制度設計をしていかなければならない論点として、国会が発議した憲法改正案の国民への周知方法があります。

 私は、発議をした国会全体が衆参両院議長名によって国民に国民投票公報を出し、それには改正案の条文だけではなくて要約や解説も付すべきだと存じますが、高見参考人の御発言にもあったように、政府の運動規制なども含めて、その具体的な方法についてはこれから知恵を出し合っていかなければならないと思います。

 以上、私見を交えながら、これまでの議論の総花的な交通整理を試みてみましたが、今後の議論がなお活発で生産的となることを期待いたして、発言といたします。

 ありがとうございました。

中山委員長 次に、古川元久君。

古川(元)委員 民主党の古川元久でございます。

 私どもは、憲法改正国民投票法制のあり方を論ずるに当たりましては、間接民主制を補完する制度として、憲法改正以外にも、皇室制度、家族制度、生命倫理など、国民の重大な関心事、政策テーマについては、場合によっては国民投票で国民の意思を反映させるべきではないか、そういう基本的な考え方から、憲法改正に限らず、広い意味での国民投票制度のあり方を含めて考えるべきではないかというふうに考えています。

 この点、ただいま自民党の近藤理事の方から、憲法改正の国民投票と一般の国民投票とは全く異なる性格のものだという意見の表明がございましたが、この点では私どもは考え方を異にしております。もう少し、国民投票一般の中で憲法改正の国民投票というものも、それは国民投票の一種特殊な形として考えていくという考え方を持ってもいいんじゃないかというふうに私どもは考えております。

 こうした視点から国民投票法制のあり方を考えた場合に、私どもは、そもそも現行憲法九十六条の憲法改正規定が果たしてこのままでよいのかどうか、このこと自身も考えてみる必要があるのではないかなと。憲法九十六条の改正の是非を、国民投票法がどうあるべきかということと同時に考えることが必要ではないかと思います。

 と申しますのも、現行の憲法九十六条は、憲法のいかなる条項の改正につきましても、国会の各議院の総議員の三分の二以上の賛成による発議と国民投票を求めております。条文内容による改正手続の違いが全くないことになっております。しかし、あらゆる条文の改正につきまして果たしてこのような厳しい改正手続が必要なのかどうか、一度検討する必要があるのではないでしょうか。

 もちろん、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重といった憲法の基本原則に関係する部分の改正には、当然こうした厳しい手続が必要であるというふうに考えておりますけれども、例えば、統治機構のあり方を決める条文の一部などは、より簡便な改正手続によって、例えば国会の総議員の三分の二以上の賛成で改正できるなど、条項によって改正手続に違いがあるということも一つ考え得ることではないかと思っております。諸外国においても、憲法の改正内容により改正手続に違いを認めている例もあり、こうした例も参考にして、憲法九十六条の内容自身も、国民投票法のあり方を議論する際には同時に議論すべきではないかというふうに私は考えます。

 また、その際には、九十六条が、憲法改正の国民投票を「特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票」という形で、国政選挙と同時に国民投票を行うことも認めておりますけれども、政権選択を迫る国政選挙において、政権を争う政党同士が憲法改正においては同じような行動をとるのでは国民が混乱するおそれがあり、好ましくないと思われます。

 したがいまして、憲法調査会における議論や先週の議論でもありましたように、憲法改正の国民投票と国政選挙は分けて行うべしという考え方がほぼ大勢ではないかと思いますから、それならば、九十六条もそのような形に変えるべきではないかというふうに私は考えます。

 ここでは、私は、午前中の参考人質疑でも議論となった投票権者の範囲について、若干述べさせていただきたいと思います。

 私ども民主党は、選挙権の十八歳への引き下げを従来から主張しております。したがいまして、国民投票権者の範囲も、日本国籍を有する十八歳以上の日本国民とすべきだと考えます。これは、公職選挙法九条一項の国政選挙の選挙権の年齢要件を、二十歳以上から十八歳以上に改めることで対応すればよいのではないでしょうか。

 また、参考人の意見陳述にもございましたけれども、選挙犯罪を犯して公民権停止になっている人は選挙人名簿に登載されないこととなっておりますが、公職の選挙と国民投票は質的に異なるので、国民投票には参加することができるようにすべきだというふうに考えます。

 また、私どもは、例外的なケースではありますけれども、さらに、十八歳以下の人でも、義務教育終了者まで投票権者の範囲を広げるような場合があってもいいのではないかというふうに考えております。

 例えば、子どもの権利条約の国内法制化の一貫として子供の権利義務が憲法に規定されようとしているような場合におきまして、義務教育段階で憲法の理念、人権カタログの内容、統治機構などについては既に学習が済んでいるわけでありますから、憲法が長くこの国の基本的な枠組みを定める基本法であることを考えれば、将来の有権者としての政治的な意思を問い、それを尊重することは十分合理的な理由があるのではないかと考えます。

 もちろん、こうした義務教育終了者が憲法改正案について適切な判断をできるよう、義務教育段階における憲法教育を充実させる必要があることは言うまでもありません。

 また、午前中、高見参考人の意見陳述の中で、国民投票権制限の可否に関してのお話がございました。国民投票という性格上、制限は基本的に認められないとする考え方には全く同感であります。

 しかし、ここで我が国の場合には、特別な存在の方々がおられることを忘れてはならないと思います。それは、天皇陛下を初めとする皇族の皆様方です。天皇陛下だけでなく皇族の方々には選挙権はありませんけれども、それでは同じように憲法改正の国民投票の投票権も全くなくていいのかどうか。紀宮妃殿下のように、皇族の方々の中には、将来皇族の地位を離れる方もいらっしゃいます。こうした可能性のある方まで投票権がなくてもいいのかどうか。王室のある諸外国の中には、王族であっても国民投票権を与えている例もあると伺っております。投票権者の範囲を検討するに当たっては、こうした皇族の方々をどのように取り扱うかということも検討しなければならないのではないかということを、問題提起として挙げさせていただきたいと思っております。

 最後に、憲法改正の国民投票法制のあり方を検討していく中では、私が申し述べましたように、一般的な国民投票制度の導入の是非や公職選挙法における有権者の範囲、あるいは民法における成人年齢をどうするかという論点を初め、幅広い論点が浮かび上がってきます。また、憲法九十六条の改正も含めて考えれば、国民投票といっても、そのあり方自身に、憲法改正の国民投票の場合も含め、いろいろなバリエーションというものを考えていく、この機会をそういうバリエーションを考えるいい機会としてとらえればいいのではないでしょうか。こうした点も踏まえて、本委員会において十分な議論が尽くされた上で、できる限り広範な合意形成を得た国民投票法案ができることを切に希望して、私の意見とさせていただきます。

中山委員長 次に、赤松正雄君。

赤松(正)委員 公明党の赤松正雄でございます。

 午前中のお二人の参考意見の陳述並びに委員の皆さんとの質疑を聞かせていただきまして、先週、当委員会で冒頭の発言の機会にも申し上げましたけれども、改めて、それに加えて若干の点につきまして申し上げさせていただきたいと思います。

 前回も申し上げましたけれども、発問の方式、発議の方式という点にさらにこだわりたいと存じます。

 昨日、参議院で憲法調査会が行われたということで、一部報道では、一括方式を主張する委員と、それから個別方式を主張する委員、与党の中で違いがあった、そういうふうな報道がなされておりましたけれども、朝のこの委員会では、参考人も委員の方々のほとんどは、大きく言って、一括方式か個別方式かといえば、個別が望ましいということであったように思われます。

 ただ、個別なら個別なりにとてつもなく煩雑な投票にならざるを得ないという、前回指摘したような問題が起こってまいります。そこで、最初から部分的な修正にとどめるといった加憲でいくというならともかくとして、そうでなくて、より全面的な改正ということになる場合の具体的な個別方式の進め方については、今後詰めていく必要があると思います。ただ、投票技術的に、その問題に行く前に、理屈の上といいますか理論上といいますか、とり得る選択肢があるように思われます。

 今、古川理事の方から九十六条の問題に触れられましたけれども、私は、違った角度で、この投票技術的な問題の延長線上といいますかその手前といいますか、その周辺の選択肢として、国民投票の要否をめぐって九十六条そのものの改正という点に触れたいと思います。

 それは、大きく言って二つに分かれるように思われます。一つは、国会の議決の態様に応じて国民投票の要否を決定するという選択肢であり、いま一つは、憲法改正の内容によって国民投票の要否を、必要か否かというものを決定するというものに分かれる可能性があると思います。

 前者は、かねてよく指摘をされますように、各議院の三分の二以上の賛成ということでは余りにハードルが高いということで、過半数にするという一方、三分の二以上の賛成の場合は国民の承認を必要としないというふうに変えるという考え方が出てくる可能性があるという点であります。

 後者は、先ほどもありましたけれども、これは中身によって分けるという行き方です。国会とか内閣とか司法などといった統治機構に関するものなどの改正については、総議員の三分の二以上の賛成があれば国民投票にかけない、それ以外の、国民の権利や義務あるいは平和主義といったふうな、そういう問題については国民投票にかけるといったふうにあらかじめ分けるやり方。

 こういうふうなものがいいとか悪いとか、価値判断は私はここであえて述べませんけれども、そういうふうに、先ほど申し上げました国民投票の個別方式というものにこだわる流れの延長線といいますか、その周辺の中で、今申し上げたように、国民投票の要否というものを、必要とするか必要としないかということについて二つの対応に大きく言って分かれる、そういうふうなことが考えられるというふうに指摘をしておきたいと思います。

 技術的に個別方式を進める上での難しさということもあって、それでも全面改正をするということでありましたならば、今言ったような九十六条の改正という問題が起こってくるというか、その関連性は定かではありませんけれども、重要な課題として意識される必要があるように私には思われます。

 それから、今も若干違った角度から御指摘がありましたけれども、私は、憲法改正そのものの是非というものをあらかじめ国民に問うという、個別具体のことではなくて、憲法改正そのものについてその是非を国民に問うという国民投票の必要性ということについても考える必要があるのではないかというふうに思います。

 前回も申し上げましたけれども、いまだ憲法を改正するということについての国民的な合意が得られているとは思えません。多くの世論調査を見ましても、部分的に賛成が多数を占めたり、あるいはまた反対が多数を占めるということはあっても、全体を見据えた上での判断というのはなかなか難しいというところがあるように思われます。

 したがって、まず、すべての行動の前に、憲法の全面改正かあるいは部分改正か、あるいはまた私どもが言っているような加憲か、それとも全く変えない、今のままかといったふうな選択を国民投票的なるもので迫るということがあってもいいのではないか、そんなふうなことを考える次第でございます。

 前回申し上げましたことにつけ加えまして、以上のことを申し上げさせていただきまして、私の発言とさせていただきます。

中山委員長 次に、笠井亮君。

笠井委員 本日午前に行われた参考人質疑の感想も含めて、幾つか意見を述べたいと思います。

 まず、憲法九十六条が「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、」と。衆議院、参議院の両院での総議員の三分の二以上の賛成を求めていることの意味合いについてであります。

 一般の法律と違って、憲法改正には衆参両院での総議員の三分の二以上の賛成という特別多数を求めているのは、憲法の安定性の要請にこたえるためのものであると思います。これは、立憲主義との関係では、単に過半数をもってしても変えてはならない憲法価値を守るためのものであって、同時に、国会に対して熟議を要請するものでもある。国会においてそうした熟議が重ねられて、両院での三分の二以上の賛成をもって初めて国会が発議できるとしている、こういうものだと思います。

 この点で、自由民主党が八月に改憲の第一次案というのを発表しましたが、この中では、九十六条の憲法改正条項を「各議院の総議員の過半数の賛成で国会が議決し、」ということで、現行憲法よりも改正要件を緩和しております。これは、いわば政権与党によっていつでも改憲案の発議を可能とすることを目的としたものであって、立憲主義の立場からすると、後退を招かざるを得ないということを申し上げたいと思います。

 次に、憲法改正には、国会での特別多数による賛成だけじゃなくて、国民による過半数の承認を求めていることの意味合いについて述べたいと思います。

 憲法は、改正に当たっても、国民の基本的人権の保障や国民主権、そして平和主義の原則を継承して発展させることを前提にして、そのために、憲法制定権力を持つ主権者国民が、憲法によってつくられた国家機関である議会や内閣、裁判所等よりも上位にあって、憲法制定権力の補完的な発動として、国民投票での過半数の賛成による承認という要件を義務的に課しているわけであります。

 午前中の質疑で、高見参考人が九十六条の前提問題として紹介した想定問答集での指摘、すなわち、慎重にせぬと改正が行き過ぎになるおそれがある、当時、国会議員の質をよくし、国民の政治的教養を高めることが先決問題と指摘したことは、示唆的だと思います。

 国会、そして国民の間での憲法に関する熟議がないもとで、とりわけ国民から改憲の要求が強く出ているという状況じゃないもとで、国会の側が国民に改憲を迫っていくという今日の改憲論議についていいますと、私は、憲法の立場からは無縁のものだと思います。

 かつて、国民投票という問題をめぐっては、ナポレオン三世とかドゴールとか、国民投票をみずからの権威づけに利用した、あるいはヒトラーもそれを悪用したという歴史がありました。こうしたことから、再び憲法改正国民投票が、人気投票といいますか、プレビシット化するという懸念が出てくるのも当然だと思います。

 本日の参考人質疑でも、また前回の委員会でも、改憲案の周知、広報のあり方とか、マスコミ報道や国民の運動に対する規制について、いろいろと議論がありました。

 私、そういう規制については、その中には特に罰則をもって規制を厳しくすべきという御意見もありましたが、そういう規制というのは、結局、国民投票制度をつくることが国民主権の具体化だというふうに言われながら、主権の行使をできるだけ抑えようとするものにならざるを得ない、したがって、憲法問題を考える根本の姿勢が問われているというふうに言わなきゃいけない問題だと思って、規制の問題を聞きました。

 以上のことを見ますと、改憲のための国民投票制度を整備することが国民主権の具体化などと正当化されるような議論もありますけれども、国民投票の制度設計や、その国民投票によって実現しようとしている改憲が立憲主義や国民主権を後退させるものになっていることを見れば、九条改憲というみずからのねらい実現のために、国民主権という問題をいわば使っているというふうに言わざるを得ないというふうに思います。

 大きな三つ目になりますが、改憲するかどうかは別として、憲法九十六条に規定があるから国民投票法はつくっておくべきだという主張が出されました。国民投票法の整備は現実の改憲と一体不可分に結びついていると、私は三つのことからますます強く感じているところであります。

 まず一つは、前回の委員会の討議で、自民党委員からもいろいろな主張がありました。全面改定をやるんだから一括投票でという御意見から、一括か個別か発議内容に応じて議論すべきだ、さらには、発議内容の成案を得ていないときには難しい、出た段階で議論すべきという御意見まで、さまざまあったと思うんです。このこと自体がまさに表裏一体だということを示しているというふうに私、受けとめました。

 二つ目に、歴史的に見ても、午前中にも高橋参考人から紹介がありましたが、一九五三年、当時の自治庁が憲法改正国民投票法案を準備しながら閣議決定すらできなかったということが紹介されました。このことは、憲法と日本の政治をめぐる大きな変化のもとで、国民が憲法の平和主義をないがしろにする動きや改憲の動きを拒否するという世論と運動を当時背景にしたものであったというふうに思います。

 当時のことを調べてみますと、一九五〇年に朝鮮戦争が起こり、同時に自衛隊の前身である警察予備隊がアメリカの指導でつくられて、翌五一年には講和条約とともに日米安保条約が結ばれました。国会では、警察予備隊やその後の保安隊と憲法九条の関係、また日米安保条約と憲法九条との関係などについてたびたび質疑があって、一九五二年十一月には憲法九条の戦力に関する吉田内閣統一見解が出されております。国民の間でも、こうした日本の政治と憲法をめぐって大きな議論と運動が巻き起こっております。だからこそ当時の吉田内閣も、国民投票法案を、当時、今国会に提出することは政府が憲法を改正する意図を持っているように誤解されるおそれがある、こういう形で表明をして、国民投票法案の断念の理由を述べたわけであります。こうした歴史事実があった。

 三つ目には、直近の国会質疑でも、例えば一九九九年の四月六日、参議院の決算委員会でありますけれども、質疑がありました。当時私も参議院におりましたが、宮澤元首相、大蔵大臣が、憲法改正手続が整備されてこなかった理由として、こう述べております。憲法がつくられて五十年のいかなる段階においても、九十六条の法整備をしようと提案すれば、必ず憲法改正をするしないという議論につながらざるを得ない、改正を議論するということになると、必ず九条の問題が出てくる、だから国民投票法は整備されてこなかったという趣旨を答弁されております。

 まさに、今三つ申し上げましたけれども、国民投票法の整備は一般論ではなくて現実の改憲、特に今日でいえば九条の改憲を目的としたものであることは明らかだというふうに思います。

 今、戦後六十年近くもやらなかった国民投票法を急いでつくるということになりますと、いよいよ改憲、九条を変えて日本が再び海外で戦争をする国になろうとしているという、客観的にはそういうメッセージをアジアや世界に発信することになる。これがいかに世界の流れに逆らって、今、世界からの期待を裏切ることになるかということを痛感するわけであります。

 そんな国民投票法の整備は今すべきではない、このことを重ねて強調しまして、発言を終わります。

中山委員長 次に、辻元清美君。

辻元委員 社民党の辻元清美です。

 きょうは、午前中にも議論が幾つか集中した、発問方式をどのようにすべきかということを中心に、現在の国民投票法に関する議論の意味するところはどこにあるのかということを考えてみたいと思っています。

 前回の本委員会で、ある委員の発言に私は少し驚きました。それは、同じ発言の中で、こういう二つの発言を続けてされていたんですね。手続法は手続法として切り離して十分議論できるという内容だと思いますし、また、そういう意味からも早期な成立を図るよう努力しようと主張されて、この同じ発言の中で、次に、一括した全面的な改正のケース、あるいは幾つか考え方をパッケージにしたものとか、いろいろなケースが考えられるわけでありますから、この段階で一括にするか否かということを決めるのは無理があるのではないでしょうかと。同じ発言の中でこの二つのことをおっしゃいました。

 私は、この発言というのは、発言みずからが、どのような改憲をするのかという中身の議論とどのような国民投票法をつくるのかという議論は切り離すことは困難であるということを告白しているに等しいと思うんですね。ということから考えますと、この発問方法をどのようにするのかということは国民投票法の核になるわけですから、ここの部分を抜きにしてどんどん進めていくということは非常に困難じゃないかと思うんです。

 というのも、国民が持っている疑問であったり、それから心配事というのは、どういうやり方で投票ができるんだろうというところが一番大きいと思うんです。というのは、きょうの朝の議論でも出てきましたけれども、たとえ全面的な改正であったとしても、ここは賛成だけれどもここは反対だとか、ここは改正案に反対だけれどもここの部分については現行憲法の方がいいとか、さまざまな考え方が存在するわけですから、どういうような形で自分たちが投票を実行することができるかということは、まず最初に関心を示し、かつ、一番そこが重要と考える点ではないかと思うんですね。

 ですから、ここを後回しにして決めようということであるならば、なかなかこの国民投票法の議論を進めていくことは難しいんじゃないかなというふうに私は思います。

 では、後で決めようという議論の中身は何かといえば、きょう参考人の意見などで、一括方式というのは全体的改正でも難しいのではないかという意見だったと私は受けとめております。そうすると、後で決めようという意見の中には、一括的な発問の仕方を残しておこう、あくまでもその可能性を残したいという意図があるから、改正案が出されたときに決めたらええやんかという議論が出てくると思うんです。

 そうすると、一括にしたいということの意図は何か。主権者たる国民の側から見たら、自分の意見がはっきり言える、やはりこれは賛成だけれどもこれは違うと言った方がいいというのはだれも合意するところですけれども、きょう午前中の発言の中で、政治的な意図が働いた場合に一括ということを進めようとする傾向があるのではないかと私は指摘しました。

 そこで、先日の世論調査を幾つか紹介したいんですけれども、改正に反対と言っている人の一番の理由は、これは、この憲法の改正議論の一つの大きな焦点の、やはり九条にかかわることです。九条改正につながるおそれがあるから反対というのが一番多くて、四四%。そして、改正するほどの積極的な理由が見つからないというのが二六%で、ここが圧倒的でした。

 そして、この焦点の一つである九条問題で言えば、変えるのを賛成という人が三〇%、そして反対という意見が五八%です。そして、戦後の平和維持に九条が役立った、かなり役立ったという意見は八〇%、余り役立っていないが一一%、全く役立っていないは三%という傾向の中で改正議論が行われている。さて、そういう中でこの九条問題だけを問うということになると、今の傾向であると、これは反対であるという意見の方が多くなる可能性が高いわけです。

 そこで、もう一つ出てきている新しい人権問題というのがこれに絡んでくると思うんです。きょうの各紙新聞に、これは自民党が今考えている新憲法草案の中身の一部が報道されております。これは確定したものではないと考えられますが、このような傾向があるものを検討されているのだと思われます。その中に、新しい人権ということを五つ出したいと。個人情報を守る権利、知る権利、環境権、障害者と犯罪被害者の権利、知的財産権など報道されているわけです。

 この件に関しては、前回私も、環境権と言うのならば今すぐ環境税をつくろうじゃないか、知る権利と言うのであるならば情報公開法に今すぐ知る権利という項目を入れようじゃないか。そして、障害者の権利と言うのであれば、きょうも障害者の皆さん外で座り込みをされています、今障害者の自立支援法というのが出ていますが、これについては多々切り捨てになるのではないかというような点も指摘されているわけです。そういう中で、現行の政策できちっと進めていかなければいけないところを進めずして憲法に新しい人権という概念だけ入れていくというよりも、まずやれることをどんどんやっていこうじゃないかということを提起しました。

 ということになると、核心は九条の改正にあるのではないか。しかし、これだけを問うと反対が多いし、これだけを問われるんちゃうかと心配している世論調査も出ているし、だから新しい人権というものもいっぱいつけて九条だけの改正というような部分を、薄める言うたらちょっと言葉が悪いですけれども、他のこともいっぱいつける中の一つの選択肢にして、そして一括で問うことによって賛成多数をとりたいというような政治的な意図が働いているのではないかという懸念が国民の中にあるということは、これは憲法改正について賛成と言っていらっしゃる方も自覚をされた方がいい意見ではないかというふうに私は思っております。

 今なぜこの中でこの意見を申し上げるかといえば、先ほどから、全面的な改正であったとしても一括方式というのは主権者である国民の立場から見たら成り立たないのではないかという意見が多々出ておりました。しかし、あえて一括の可能性も残すために、改正案ができたときとか一括でもいいのではないかという意見の中には、技術的な問題だけではなくて、今申し上げたような国民の不安につながるような、そういう傾向があるのではないかということを私は非常に懸念しております。

 本委員会でこの国民投票法の議論をされるに当たりまして、このような幾つかの国民の疑問であったり不安、一つ目は、何か一括で一遍にどんとやられてしまうんちゃうかというのがあるわけですね。それから、今の傾向を見ていますと、例えば環境権とか言われたらいいようやけど九条は嫌やなとか、いろいろあるわけですよ、意見が。そういう意見がきっちり反映されるのか。かつ、それらをまとめて一つのことで一括されることによって、先ほど改正に反対の意見の中で一番多かった九条の改正につながることが懸念であるという、これははっきりとした傾向と出ていますから、その部分に対しての疑念にこたえられないのではないかと思います。

 この点をしっかり指摘しておいて、国民の疑念があるということを念頭に置いて、慎重の上にも慎重な本委員会での議論をしなければならないということを皆さんに申し上げたいと思います。

 以上です。

中山委員長 次に、滝実君。

滝委員 国民新党・日本・無所属の会の滝実でございます。

 けさの参考人質疑を踏まえて、三点ほど申し上げたいと思います。

 第一点は、投票権者の範囲の拡大、年齢の引き下げの問題でございます。

 参考人の中からも、現在の国政選挙の選挙権資格を拡大して年齢を十八歳まで引き下げるのが望ましい、こういうような御意見もございました。私は、こういうことについては議論をし出すと大変時間のかかる問題ではないだろうかな、今改正の国民投票の手続法案をこれから議論しようというときにいわば中身の議論に匹敵するぐらいの大きな問題を最初に抱えるようではなかなか手続法といえども前を向いていかない、そういう意味では現在の国政選挙の年齢に合わせた考え方の方が問題が単純でよろしいんじゃないだろうかな、こういうような意見を持たざるを得ないと思います。

 国民投票だけ十八歳に引き下げるということになれば、当然、それでいいのか、国政選挙も同じじゃないか、こういう議論が必ずあるはずでございますから、私は、現在の国政選挙の年齢資格に合わせた年齢ということを前提にしてこの問題は整理した方がいいんじゃないだろうかな、こういう考え方を持っております。特に、九月十四日の最高裁の判決から、論理的に十八歳まで引き下げることがむしろ望ましいんだというようなことになってまいりますと、何が何だかさっぱりわからない議論が展開されるおそれがある、こういうことを指摘させていただきたいと思います。

 それから、二番目の問題は、発問方式の問題についてでございます。

 今、辻元委員の御意見を承りまして、なるほど、そういう心配をもとにすると、この発問方式の問題を処理するのは、これは中身の問題と一緒になってなかなか大変な問題だな、こういうことを感じざるを得ません。しかし、そういう問題があればあるほど、発問方式の問題については国民投票の手続法である程度の整理をしておいた方がいいんじゃないだろうかなと。

 憲法九条の問題と環境権が一括でマル・バツの対象になると考えている人は恐らく少ないだろうと思いますので、そういう意味では、抽象的にあるいは形式的にこの発問形式については手続法の中で概略の基準を設けておく、具体的には憲法改正の発議について国会で定めるときにこの方式についてもあわせて当然決定をすべきだ。こういうような観点からいきますと、私は、この発問形式についてはあらかじめ国民投票法の中で、具体的にとまではいかないかもしれませんけれども、少なくても、個別にするのか、あるいは関係ある条文のユニット方式にするのか、あるいは一括方式にするのか、それを考えた方がいい、こういうふうに思います。

 例えば、全文改正でございますと、百条から成る憲法をマル・バツつけようと思ったら、あの狭い投票所の記載箱の中で三十分ぐらいかからないとマル・バツがつけられないという問題が出てくるわけですね、具体的に言えば。一人三十分もあの投票所でもって頑張っていられたら、一日のうちに終わらないおそれが多分にあるわけでございますから、そういうことを考えても、やはり全文改正の場合にはもう一括でやらざるを得ないというふうに思います。

 その辺の分け方は、やはり現実問題としての常識とにらみ合わせながらある程度の基準をつくっておかないと、憲法改正の中身に合わせてこの発議方式についてもその場で決めるんだということになると、これは国民投票の異議の争訟の対象になりやすい、こういうことを懸念いたしますので、あらかじめそれは手続法の中に整理しておくべきだ、こういうふうに思います。

 それから、三点目でございますけれども、争訟の場合の訴え出る裁判所を東京高裁に、大体、従来から草案としては名前がちらちらしているわけでございます。私は、東京高裁に限る必要はないんだろうと思います。

 異議の申し立てがどの程度の件数になるのかは、それは必ずしも予想される問題ではございませんから何とも言えませんけれども、東京高裁は、中でも事件の件数の多い高裁でございます。そこに全国の高裁の地域から東京高裁に集中いたしますと、これはなかなか機能不全に陥るおそれもあるのではなかろうかな、こういうことも懸念されますので、高裁であれば、地元の、異議ありという人の所在地域の高裁でやるべきだ、こういうふうに考えております。

 したがって、そういう角度からの最高裁事務からの意見聴取をそういう意味でもしていただいた方がよろしいんじゃないだろうかな、こう思いますので、よろしくお願いを申し上げたいと思います。

 以上、けさの参考人質疑を踏まえて三点だけを申し上げまして、意見とさせていただきます。ありがとうございました。

中山委員長 これにて各会派一名ずつの発言は終わりました。

    ―――――――――――――

中山委員長 次に、委員各位からの発言に入ります。

 一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、委員長の指名に基づいて、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いいたします。

 御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。御発言が終わりましたら、戻していただくようお願いいたします。

 それでは、ただいまから御発言をお願いしたいと存じます。御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。

岩國委員 午前中、お二人の先生のお話も伺い、また、各委員の皆さんの御質問も伺いました。その中でも、最近私が特に感じるのは、この日本国にとって一番大切な憲法そのものの正当性が十分とは言えないという認識がまだまだ残っている、この点は非常に残念だと思います。

 私も、いろいろな国の憲法の中で、日本の憲法の制定された環境あるいはいきさつ、そういったものを見て、これは私たちの時代にしっかりと自分たちが思いを込めてつくったんだという世代が今のどこの世代にいるのか、どの世代にもほとんどその意識が少ない、これは非常に残念なことじゃないかと思うんです。

 国民主権ということは言われますけれども、この憲法前文によってどのようにそれが書かれているか。それは、「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」と。つまり、それまで主権は存在していなかった。国民主権というものがお留守の間にこの憲法が策定され、このたった一行によって追認されたということじゃないんでしょうか。

 私は、葉梨委員が午前中質問をされましたけれども、確かに、これは、自分たちの国によって制定されたのか、それが追認されたのか、あるいは単に承認されただけなのか、だれがつくったというその主語のない前文ではないかと思うんですね。国民主権は憲法によって定義されていますけれども、その主権不在、お留守の間に策定され、それを前文の中で追認させているだけではないかと私は思います。

 その追認憲法を六十年間も放置していた日本は、とても法によって治められた法治国家とは言えません。法によって治められた法治国家どころか、ほうりっ放しにした方の、放置自転車の放置国家ではないかとさえ思います。不作為の作為、あるいは怠惰、無気力、無責任な結果としてこの憲法は六十年間存続してきたという見方もできるんじゃないでしょうか。平和憲法だ、立派なものだ、立派なものだから変える必要はなかったんだ、変える必要がないから国民投票のこういう手続も必要なかったんだという議論もありますけれども、私はそれには賛成できません。

 放置しているような国家だからこそ、大切なものが次々とよその国によって拉致もされています。石油資源は中国との国境で拉致され、人は北朝鮮によって拉致され、お金はゼロ金利政策でアメリカに拉致され、そして郵政民営化でそのお金の拉致パイプラインが太く整備され、資源も人も金も次々と拉致されていくような、そういう国家になっているのは、私は、この憲法そのものの制定や承認があいまいなままで六十年間も来たからだと思います。

 自衛隊の問題もそうです。イラクへの自衛隊派遣も、日米同盟という日本の主権を制約するような枠組みで行われている。何よりも、憲法のどこにも認知されていない武力組織を海外へ送ったりすることも、この結果として行われています。

 日本を家庭に例えれば、たんすも人に預け、奥さんも人に預け、財布も人に預け、かぎも人に預け、向かい側の家に何もかも預けている、それが日本じゃないでしょうか。

 このような、拉致された放置国家、憲法を放置しているような国家は、一日も早く変えるべきだ。今からでも遅くはありません。せめて、戦前、戦中、戦後と言われる激動の時期、まさに国家と国民が戦争の時期を挟んでともに生死の間を生き抜いてきた、そういう貴重な体験者がまだ存在していらっしゃる今のうちに、私は、国民を正当に代表するものとして、国会が早急に動くべきだと思います。

 溶け込みというお言葉で質問がありました。駆け込みと私には聞こえましたけれども、溶け込みというのは、確かに法律の用語で使われる。しかし、駆け込みといってもいいぐらいにこれは急を要すると私は思います。国民の重い思いを込めて、制定なのか、信認なのか、再度認証するのか、追認なのか、あるいは追認的制定なのか、少なくとも第一回の国民投票にはこういう要素を取り入れたような発問の仕方が必要ではないかと私は強く思います。

 私たちの時代の、憲法生誕の疑惑、あるいは密室談合の中から生まれたのではないという再確認の精神的、立法的なリセットが望ましいということを私は訴えたいと思います。

 ありがとうございました。

船田委員 自由民主党の船田元でございます。

 午前中の参考人、高見参考人、高橋参考人からの大変示唆に富んだお話を聞かせていただきまして、勉強になりました。特に、高見参考人から、国政選挙における選挙権の行使、それと、憲法改正における国民投票権の行使というのには本質的な違いがあるという御指摘は大変参考になったわけであります。

 国政選挙の場合には、憲法上で規定をされた国民主権、これをまさに行使するということですが、国民投票権の行使というのは、まさにその主権のあり方そのものを問わなければいけない、そういうことで、より本質的な権利の行使ということになるものと思います。本質的な違いがあればこそ、私は、やはり、国民投票と、それから国政選挙というものは別個に行われるべきだという考えをさらに強く持ったわけであります。

 前回のこの議論において私は、別個に行うべき理由として、憲法改正国民投票は衆参両院の三分の二以上の発議によって国会が行いということですから、与野党の多くの者が一致してこの発議を行うということが当然ながら予定をされます。それに対して国政選挙というのはまさに政権を争うそういう選挙でございますので、これを一緒にやるということは大変な混乱を起こす、これが一つの理由でございました。しかし、きょうのお話を聞き、今申し上げた、二つの選挙の間には本質的な違いがある、こういうことから、これも大変重要な別個に行うべき理由の一つというふうに考えられるわけであります。

 また、この二つの選挙の本質的な違いというものから導き出される結論として、投票人の範囲も当然のことながら違ってよいのではないかということでございます。

 国民投票の場合には、公選法の規定以上に、できるだけ幅広く、できるだけ多くの国民の皆さんに投票していただくということがやはりその本質などからいって重要であると思っております。十八歳以上ということも一つのアイデアでございますし、それから、軽微な選挙違反による公民権停止者にもその権限を与えるということも、むしろ当然のことかもしれません。

 ただ、午前中の高見参考人がおっしゃった、収監されている犯罪者あるいは当該国民投票そのものの公正を害する行為を行った者、そういう者に対してまで選挙権を与えるかどうかということについてはなお議論の残るところである、私はこのように思っております。

 それから、次の指摘としては、この国民投票運動の規制ということについても、前回、私の話、申し上げた中では、公平公正を期すためには必要最小限のことは必要である、このように申し上げたわけであります。ただ、やはり、国民投票権の行使がまさに主権そのもののあり方を問うものであるという考え方からすれば、公選法よりもさらに緩やかにこの規制を考えるべきだと思っております。

 公務員それから教育者の地位利用ということについても、公選法での規定がございますけれども、公務員、教育者が一国民として意見表明を行う場というものは当然設定されてもしかるべきだと思います。

 外国人につきましても、やはり、個人として意見表明をする、こういう場が与えられても私は構わないというふうに思っております。

 なお、公選法百三十八条の三にございます公選法の人気投票の公表の禁止ということに関連をいたしまして、国民投票法では予想投票の公表の禁止ということも考えられるかと思っておりますけれども、公選法は人を選ぶ選挙であります、国民投票はまさに政策の根幹を選ぶ、こういうことでございますので、これもおのずから違いがあると思っております。そういう本質的な違いを前提として、この規制という問題ももう一度真剣に考え、公選法による規定よりはかなり緩やかなものにすべきである、このように感じております。

 以上でございます。

早川委員 自由民主党の早川忠孝でございます。

 まず、私どもは、現在の日本国憲法が世界で最もすぐれたものだというふうな、言ってみれば錯覚に陥っていた部分があったのではないかと思っております。私は、憲法の九十六条で憲法改正手続に関する法律についての言及がなかったということ自体が欠陥の一つであるというふうに考えております。少なくとも、憲法改正のための国民投票の投票権者の範囲をあらかじめ明示しておくべきであったというふうに考えております。

 その意味で、明文の規定が現在ないわけでありますけれども、私は、この第九十六条の一項の規定ぶりから考えて、これは国政選挙の投票権者と同じ範囲にすることが立法者の意思であるというふうに推測をするのが合理的ではないかというふうに思っております。

 すなわち、憲法では、いわゆる国民主権に関する条項というのは、言ってみれば前文の規定、さらには、十五条による「公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。」というこの規定、それから最高裁の国民審査、こういった国民の国政参加の権利が明定されております。そのいずれについても、法律によってその具体的な範囲を決める。最も大事なところは、日本国民の要件自体についても、法律によってこれを定めるということを決めているわけであります。投票権者についていろいろ議論が出てくるということが非常に問題があると思います。

 ただ、将来的に、現在の二十歳の投票、公職選挙法上の有権者の範囲を十八歳にするということもあってもいい。ただし、一体その線引きはどうするんだろう、どこにどういう根拠があるのかということについては、十分国民的な議論を尽くす必要があると思います。そういう意味では、今回の国民投票法あるいは憲法改正手続法の整備の審議の過程においては、なるべく簡便な方法を選ぶべきであるというふうに考えております。

 きょうの議論の中で私は非常に興味がありましたのは、現行憲法の正統性についての議論があったところであります。私自身は、現行憲法の制定過程にきずがあったということは否定できないことである、しかしながら、戦後六十年の歩みの中で定着をしてきたというふうには考えておりますので、これは一定の定着性があり、国民になじんだものであるというふうに考えておりますけれども、しかしながら、いわゆる正統性というところを獲得するまでには至っていないのではないかというふうに思っております。

 そういう意味で、さまざまな国民投票のやり方があるわけであります。その国民投票にかける憲法改正案の中身によって決まることでありますけれども、少なくとも今後予定をされているであろう憲法改正の国民投票に当たっては、言ってみれば、戦後、議会制民主主義、国民主権のもとで、初めて私たちがみずから憲法をつくり上げるんだ、こういう大事な意義を持つものであるという趣旨から、全面改正的な、あるいは一括投票的なそういう国民投票手続を志向する方が妥当ではないだろうかと思います。その上で、その次に出てくる憲法改正は個別のささやかな改正等を順次行っていく、こういったことになっていくのではないだろうかというふうに思っております。

 いずれにしても、投票権者の範囲については、現行の国政選挙と同じ範囲にしなければならない。

 問題になるのは、在外投票の場合の有権者の登録主義を国民投票の場合にも踏襲するかどうか、こういったささいな、しかし当事者にとっては非常に重大な権利行使の機会を奪うことになるかならないかという議論が残ってくるであろうと思います。国民投票のたびに投票権者を変えていくということになりますと、与えられた権利を剥奪するということもあるかもしれません。そういう意味では、慎重に検討をする必要があると思います。

 以上であります。

葉梨委員 午前中の参考人質疑の内容を踏まえて、意見を申し上げたいと思います。

 さっき岩國委員からも指摘がありましたけれども、午前中、私は、一部の論者の中に現行憲法が正統性不足であるという論があること、そして何よりも、これからの国際社会を日本が生き抜いていくためには、我々国民自身が、今の憲法を自分たちが自分たちの意思でつくった憲法であるというふうにしっかりと認識することが必要ではないか、そういう観点から、参考人に対して、法律論の観点から一括投票というのが可能かというような質問をしたわけですけれども、結論としては、法律論的にはなかなか難しいなというような結論でございました。

 ただし、政治論的にいいますと、やはり今現在、国民が改正手続に具体的に加わる方法というのが何ら法律に定められていないという状況は極めて問題でございます。そして、国民の改正手続への具体的な関与のあり方がこの国民投票法の議論の中で定められて、改正というのは現実に可能なものである、そういうことを前提として、憲法の各条項を国民的議論によって洗い直していく、その結果として改正にならないということがあったとしても、それはそれで国民が国民の意思でつくった憲法である。その意味でも、今回、国民投票手続の議論をするということは極めて重要なことであるというふうに考えております。

 以下、その点で三点申し上げます。

 その意味で、先ほど、九十六条の改正との関係で国民投票の手続を考えるべきだというような意見がございました。しかしながら、今回は、あくまで現行憲法九十六条に基づいて、技術的、手続的なものとしてやはり国民投票の手続というのを検討していくべきではないか、これが第一点でございます。

 第二点は、先ほどの質疑の中でも、公職選挙法の罰則による担保とは効果あるいは限界というのが全然違いますよということを申し上げました。これについては、重複いたしますので私からは申し上げません。それ以外のやはり救済措置というのについても、この国民投票手続を検討するに当たっては、また検討が必要であろうと思います。

 またさらに、国民投票運動の規制というだけではなくて、国民投票運動の自由の確保のあり方、これについてもどのような仕組みが可能かということをまたこの場で議論をしていくことが必要ではないかというふうに思います。

 第三点でございます。外国人の国民投票運動について、これは参考人の意見が分かれました。高見参考人は、外国人の国民投票をオーケーとすべきである。そして、高橋参考人は否定的な意見でございました。

 外国人が国民投票運動の主体となることで、どういう問題を惹起するかという問題があります。例えば、外国政府が新聞に対して声明を載せる、あるいは外国政府の声明を報道機関が報道するということは、事実上の効果としては、外国政府が国民投票運動を行っているに等しい形になります。これまでを規制できるのかどうかという問題があります。また、同じような意見広告を発議の前に出すことが可能であったのに、発議を行った途端にそのような意見広告が禁止されてしまう、こういうことが果たしてまた妥当かという問題があります。そしてさらに、先ほど船田委員からもお話がありましたが、外国人の意見であっても、意見の表明自体を禁止してしまってよいのかという問題もあろうかと思います。

 ただ、確かに、その外国人が金力に物を言わせて日本の政治団体に対して影響を及ぼす、あるいは外国人が外国人であることを秘匿して、いかにも日本人であるかのように装って、日本人、日本国民の意思としてこのような意見表明を行う、そういうことも果たして許しておいていいのかという議論もあろうかというふうに思います。

 したがいまして、この外国人の投票運動の規制につきましては、そのような、寄附であるとかあるいは支援、そういったところについては一定の規制を置きながら、単純な意見表明、あるいは外国人が外国人であるということを明らかにしながら意見を表明すること自体までを果たして規制してしまっていいのかどうか。その点については、今後さらに議論を深めるべきではないかというふうに思っております。

 以上でございます。

小川(淳)委員 民主党の小川淳也でございます。

 午前中の参考人意見に関連して三つ発言をさせていただきます。

 一つ目に、高橋先生の参考資料、論文の中で大変矛盾する記述がございます点に関して。

 「おわりに」の部分なんですが、憲法改正のために必要な手続法令は、平穏時に冷静、周到に用意しておく必要があるという記述がございます。これに対して、昭和二十六年から八年にかけて、この手続法案、国民投票法案が審議され、閣議決定に至らなかった経緯の中で、憲法改正を意図しているとの観測、また閣内の反対意見、これはいろいろな世論があった結果だと思いますが、結果として閣議決定に至らなかった。

 私は、この二つの矛盾する点をつなぐのは、やはり、投票法案、手続法案を議論するに当たっては、中身の議論を並行して進めて、その上で安心感を持って提案をする必要がある、それしかこの矛盾をつなぐ方法はないんだという気が改めていたしました。それが一点でございます。

 二つ目は、高見先生の参考資料に関係してなんですが、やはり、投票権の範囲で、主権のあり方を決める国民投票権とその主権を代理行使する被選挙人を選ぶ選挙権との間に本質的な差異があるという議論がございました。しかし、私にはどうしても、そこに本質的な差異があるということがどうも論理的にも理念的にも理解できません。

 結果的には私は十八歳に引き下げるべきだと思っているんですが、もしそこに本質的な差があるのであれば、まさに高見先生おっしゃったように、民法の成人規定とか公職選挙法の成人規定を気にもとめる必要がないはずなんですが、やはりそこを気にしておられた。ということは、私は、この十八歳までの引き下げ議論については、むしろ選挙権全般を十八歳に引き下げる、民法の成人規定も十八歳に引き下げる。そのきっかけ、突破口の議論として、今回この国民投票権を十八歳まで引き下げることを一つの入り口にしていく。非常に言葉は悪いんですが、便宜的、実利的にこの議論を進めていくのがむしろ適当ではないかという気がいたしております。

 最後に、三点目は、憲法の正当性に関する議論。

 既に自由討議の中でも何件か起きていただいているわけですが、私は、今の現行憲法が確かに敗戦という異常な状況の中で当時の天皇主権から国民主権へと全くその矢印の向きが変わってしまったわけでありまして、そこに大きな革命的な断絶があること、これは否定しようのないことだと思います。

 しかし、だからといって、正当性が欠けていた、正当性がなかったということになりますと、その後五十八年間の私たちの歴史は何だったんだ、後に振り返って、この五十八年、あるいは憲法改正されるまでの間、日本という国は非正当な、不当な憲法のもとで歴史を積み重ねてきたのか、そんな議論にならざるを得ないわけでありまして、私は、事の経過はどうであれ、この革命的断絶を受け入れていく覚悟の方がむしろ日本人として求められるんではないかと思います。その意味で、五十八年間の歴史は非常に重く、この憲法に対しては、五十八年間の歴史分の正当性を積み重ねてきたと思うべきではないかと思います。

 その意味で、溶け込み改正等々の議論も法律的にはあるにせよ、それほど憲法の改正とは簡単なことではなく、五十八年間の日本の歴史というのは非常に重みがある、そう考えるべきではないかと思っております。

 ありがとうございます。

柴山委員 まず冒頭、今回改正しない条文についてもこの際国民投票が必要ではないかという問題について、私は不必要であると感じております。

 むしろ、緊急性の高い条項につき今回については最終的に国民投票の対象となるだろうということを考えた場合、あくまでも個別投票によってそうした条項の改正をしていくことになるだろうというように考えております。

 二番目に、投票権者の範囲についてでございます。

 前回申し上げたとおり、私は、国民投票に参加する権利は選挙に参加する権利よりも強い保障を与えるべきであるという見地から、例えば国民投票の公正を、あるいは選挙の公正を害するような行為をした者についても投票権を認めるべきだという立場に立ちましたけれども、選挙年齢と区別した国民投票年齢というものについても、私は考えてもよいと思っております。ただし、立法政策上、例えば十八歳というように選挙年齢を国民投票の年齢と引き下げるということは、もとより妨げられるものではないと考えております。

 次に、投票運動の規制についてでございます。

 先ほど高見参考人から、虚偽報道規制については慎重であるべきだ、そしてその根拠としては、むしろ公共空間で議論を闘わせるべきだということを根拠にされておりましたが、現在、そうした思想の一般市場、公正な市場というものはメディアの寡占体制の中で私は確保されていないのではないかというように思っております。やはり、明らかに虚偽であることを知りながら現実の悪意を持って報道するようなものについては、規制を及ぼすべきではないかというように考えております。ただ、それに対する規制というのは、前回申し上げたとおり、一定の機関による警告ということを前置させるべきだというように考えております。

 なお、一部の委員から反論権について指摘がありましたけれども、反論権というのは、メディアの報道の自由を侵害しながらこちらが、その反論者の意見を、主張を受け入れさせるという、いわばより大きなアクセス権という問題を含んでおりますので、これについては慎重に考えるべきではないかなというように考えております。

 なお、先ほど高見参考人から、政府が公金を用いてパンフレットを作成することは慎重であるべきだという指摘がありましたが、これもやはり、思想の市場の公正を害する行為として検討に値する論点ではないかと思っておりますが、やはりここでも、明らかに虚偽であることを知りながら政府が広報をするというような場合を規制すればよいのではないかなと考えております。

 外国人の表現の自由についてでありますけれども、これは私も高見参考人と同じように、国民の投票の権利の前提としてそうした多様な情報に接する機会を保障するという観点から、これを認めてもよいのではないかなと考えております。

 なお、次に過半数の算定基準の問題に移りたいと思いますが、前回申し上げたことに若干補足をさせていただきます。

 今回、条項別の投票制を原則とし、また、マル・バツ式をとることを前提として以下議論したいと思いますが、例えば独立なA条、B条、C条について、一枚の投票によってマル・バツをつける、白票を投じた場合には、これは全面的に無効であります。しかし、Aだけマルをつける、そしてB、Cについては何も記載をしなかった場合、やはりAに対してマルをつけた人の意思を尊重するべきであると考えます。そして個別に、やはりBとCについては無効と考えざるを得ないのではないか。とすれば、仮に有効投票の過半数をもって決すべきとした場合には、条項ごとに無効票を集計しなければいけないという膨大な作業が必要になってくるわけでございます。

 私は、この総投票者を分母にするか有効投票を分母にするかということは一定程度立法政策で決められる問題だと思っておりますので、ここは総投票者を分母とする方が実務上現実的ではないかなと思っておりますし、またそれが、大量の棄権者が出た場合の正当性の確保にも役立つのではないかなというように考えております。

 最後に、無効訴訟のあり方についてでありますけれども、滝委員から指摘されたように、高裁どこでも訴訟は提起されるべきであるというように考えております。そして、その効果についてでありますけれども、私は、将来効として効果を発するべきであると思っております。その間に積み重ねられた事実の覆滅ということが問題によくされるわけですけれども、これは、二回改正があったときも同じような覆滅ということは、混乱ということは避けられないわけですから、将来効できちんと投票の効果は無効であると宣することが必要であると私は考えております。

 以上です。

伊藤(公)委員 自由民主党の伊藤公介でございます。

 きょう、参考人の二人のお話を伺いまして、改めて日本の憲法というものに対して、この憲法が、これまでいろいろな機会に議論はされてきましたけれども、一体どういう形で誕生してきたのか、国の最も根幹になる憲法に対して、我々が自信を持ってこれが我が国の憲法だということを言い切れない憲法をずっとそのままにしてきたということに改めて我々は反省をし、今度こそ、二十一世紀への国の強い決意を込めたメッセージ、そして次の世代にまで、恐らくこれは一年、二年ということではありませんので、長い年月にたえられるような平成の憲法をつくらなければならないという決意を改めてした次第であります。

 そこで、一、二点だけ、参考人からもいろいろ指摘をされましたけれども、前回にも私、ちょっと発言をさせていただきましたが、国民投票に参加する資格の問題でありますが、いろいろ世界の国々の参加する年齢などを調べてみますと、一層、これは十八歳にまでは絶対にすべきではないかなということを改めて認識をいたしました。

 これは、もちろん、この憲法改正国民投票法と直接的なことではございませんけれども、世界のいろいろな潮流を見ますと、いわゆる少年の年齢、あるいは刑事責任の年齢というものは非常に今低くなっています。日本は、御案内のとおり、二十歳以上が成人でありますし、刑事責任の年齢は、国会でもいろいろ議論されて十四歳以上ということになったわけであります。これは、例えばアメリカの場合には、州によっていろいろ違うんですけれども、ニューヨークなどは十六歳、それから刑事責任の年齢は十三歳、あるいはワシントンでは十八歳以上という、非常に年齢が低くなっておりますし、例えばイギリスにおいても、少年の年齢は十八歳未満、そして刑事責任は十歳以上ということでありますから、世界の国々の最近の青少年のいろいろな問題を含めて、この国民投票制度を我々がどこまで、その世代の人たちが実際に直接参加をするかということは、世界のいろいろな動きもいろいろ考えながら、私たちの考えで決めていかなきゃいけないなということを思います。

 それからもう一点は、いろいろ御指摘をされております虚偽報道規制の当否についてであります。

 これは、公職選挙法には、今までのいろいろな歴史を含めて、例えば「新聞紙又は雑誌が、選挙に関し、報道及び評論を掲載するの自由を妨げるものではない。但し、虚偽の事項を記載し又は事実を歪曲して記載する等表現の自由を濫用して選挙の公正を害してはならない。」などなど、ずっとあるわけですけれども、少なくとも憲法改正国民投票法においても、公選法の内容についてはこれをしっかり守っていく必要があるのではないか。

 そして、公務員や教育者の地位利用についても当然のことだと思います。

 公正な議論の中で、国民的な参加の中でこの憲法改正というものが行われていく必要があるということを改めて申し上げておきたいと思います。

 以上です。

鈴木(克)委員 結論から申し上げて、私は、国民投票法案はできるだけ早く制定をすべきだ、こういう考え方にあります。

 我々は、十八歳からの投票権、そしてメディアといいますか、この運動については原則自由とする、それから、メディア規制は極力行うべきではないという基本的な考え方をいたしておるわけであります。

 一つずつ私の見解も添えて申し上げたいというふうに思うんです。

 まず、十八歳の問題でありますが、私は、この際、ぜひ十八歳に下げるべきではないかと、むしろ推進論でございます。俗っぽい言い方をしますと、未成年ということをよく言いますけれども、私は、果たして二十が成人である、ないを分けるのにふさわしいのかどうかということを考えたときに、むしろ、この際、十八歳に投票権を与えることによって権利も与える、そのかわり、義務というか責任も持ってもらうというような基本的な考え方をしていく、ある意味では一つのチャンスではないのかな、このように思っております。

 したがって、もし選挙人名簿が使えないとかいうような問題があれば、むしろ憲法の方も、投票権を十八歳からというふうに変えていくべきではないのかなというふうに思っております。

 それから、マスコミへの規制でありますけれども、高見参考人は、国民が判断するには自由に議論できる公共空間が必要だ、規制は原則的に許されないということでありました。確かに原則論はそうかもしれませんが、しかし現在、我々は公選法があります。メディアも公選法によってある意味では自制がかかっておる部分があるわけでありますから、やはりそれぐらいの規制というのはあってもいいのではないのかな、このように思っております。

 それから、どういう形で、賛否を一括でとるのかとらないのか、個別に、条文ごとに投票を求めるのかということです。これは、高橋参考人は、一般的に国民投票法案に書き込むことは非常に難しい、つまり改憲案の発議ごとに判断すべきだ、こういう見解を述べられました。私も確かに、どういう形で、一括になるのか個別になるのか、状況によって変わってくるかもしれませんけれども、やはりそれは発議ごとに判断をしていくということでいいのではないかな、このように思っております。

 それからもう一つ、このIT時代を迎えてインターネットの問題をどうするかということでありますが、まだやはり、全国民が押しなべてこういったITを駆使するという時代ではないというふうに思えます。したがって、この部分については、やはりある意味では規制をしていく必要があるのではないのかなというふうに思っています。

 それから、過半数の問題でありますが、これは言うまでもありませんけれども、国民投票において過半数の賛成が必要ということであります。この過半数の意味は、有権者の過半数なのか、総投票者の過半数なのか、有効投票の過半数なのかということで、いろいろ分かれるわけでありますけれども、私は、デンマークの例のように、有権者の四〇%の投票、そして投票者の過半数の賛成というのが現実的に最も可能性があるのではないのかな、こんなふうに思っているところでございます。

 以上でございます。

吉田(六)委員 きょうは、委員長のお手配で高見、高橋という、憲法、特に国民投票制度、これらについての専門家の意見を聞くことができまして、大変ありがとうございました。

 そして、その後に、自由討論の中で近藤理事から、自分がかかわることのできなかった憲法調査会時代の議論も整理されて、そしてお考えを交えてきれいにおまとめいただけたことも、この特別委員会からここに席を得た六左エ門としては、理解を深めるに大変いい機会だったな、そのように思っています。

 先ほど小川委員から、五十八年というこの歴史についての、若い、そして切れ味のいい立場での感想が述べられました。ああそうか、若い方はそんなふうな感想をお持ちになるんだなというような思いをしながら聞かせていただきました。

 そして、今ここで、国会の憲法調査特別委員会というレベルで憲法の話を議論することができる。そして、五年さかのぼりますと、衆参両院に憲法調査会というものを設置されて、五年と限っての憲法の調査の議論が始まったわけですが、ああした段階を経ての今だというところに思いをいたしますと、無為無策の憲法の歴史ではなくて、いろいろな、多くの方々がこの憲法に対する思い、考えを持ち、そして提言をし議論をし、そして今のような状況があたわったんだというような思いがいたします。

 機が熟したという言い方が悪ければ、機がめぐってきた、こんなふうに私は申し上げさせていただきたいがために、時代に即応しなくなったルールですから、全般にわたって協議をして、そして今度は、こうした大きな改革をまたすぐするというような必要のないような、根幹的な憲法改革の議論ができたらよいな、そのように思います。

 そして、伊藤委員から先ほど、それから前回もそうですが、各国の例なども挙げて御説明をいただき、私も、これは国民投票の選挙運動にもかかわりますけれども、十八歳、これらの人たちに本気で憲法に関心を持ってもらうためにも、十八歳という年代の方々に投票権を付与してあげたいなと思っています。

 例を挙げますと、過ぐる選挙の折に、改革という、あれをまさに国民投票のようなものだと例を挙げた、そのときに、それこそ平場のあちこちで若い人たちが盛んに郵政民営化について興味を持ち、話をしておられる、あの様子が目に浮かびます。あんなふうに憲法について興味を持っていただいて、日本全国ありとあらゆるところで、若い人たちからも、国民みんながこれに向けて車座の議論をして、そしてその結果が国民投票に反映されたらいいなという感想を一言申し上げさせていただきます。

 ありがとうございました。

枝野委員 きょうの話の中で、国民投票の結果に対して無効の訴訟が起こった場合どうしたらいいのかということも出てまいりましたが、ここは私も、結論的なことを申し上げるわけではないんですが、一つのアイデアとして、こういったことは考えられないだろうかと。

 つまり、国民投票の結果に対して無効であるという訴訟が起こされるケースもいろいろなものが想定されるだろう。まさに、実質的にその当否をきちっと判断しなければならないような重要な瑕疵と思われるケース、あるいは、当然内容的に、例えば改正に反対の立場からは、いろいろな手段でそれに反対、抵抗するでありましょうから、そのための一手段として訴訟が提起をされるというケースと、両極端、両方のケースがあり得るんだろうと思います。

 このうち、一種の乱訴的な形で訴訟がたくさん提起されるというケースにおいては、それは、とにかく投票が終わったんだからまずは発効させる、それで、裁判が確定、もし無効判決が出たらそのときに効力を失わせるということであってもいいのかもしれません。しかし、実質的に、手続その他において重大な瑕疵があって、実質的な無効であるのかどうかという司法判断が必要であるような訴訟が起こる可能性も否定はできない。このような場合に、これまた事後的でいいのかどうかというのは、きょうの参考人の資料などに、特に高見先生などからもありましたが、非常に疑問の持たれるところであると。

 こうした場合に、一つ考えられるのは、例えば、国民投票から何日間か短い期間を限定して、効力発生停止の仮処分的なものをセットする。そこで、非常にラフだけれども、発効を停止させるまでの訴訟であるのかどうかというのを一次スクリーニングをかける。それで、大部分の場合はそこでは効力発生停止の仮処分は認められないであろうと思いますが、まさに重大な手続的な瑕疵などが推定される、推測される、疎明できるようなケースという例外的な場合には、その上で本訴訟に入る、それ以外のケースについては効力を発生させた上で本訴訟に入るというような、丁寧なというか、二段階の手続を踏めば、いろいろな種類の訴訟が想定できるだろうなということに対して対応する余地があるのではないだろうか。現状の行政訴訟などを前提にした、あるいは選挙訴訟などを前提に必ずしもする必要はないんじゃないか。

 今、アイデアレベルでありますので、問題点もあろうかと思いますが、今後の検討の上でこういったことも考慮していただければということで提起をさせていただきます。

 もう一点。先ほど葉梨先生から、外国人の運動といいますか言論については非常に緻密な分析をしていただきました。それともつながってくるんですが、この間、国民投票運動に対する規制という話と、それから憲法に関する言動、言論に対する規制という話が必ずしも整理をされないで使われている、あるいはこの二つが整理できないところに問題があるという共通認識をもうちょっとちゃんと持たないといけないのではないだろうか。

 国民投票運動という形で、選挙運動に類した形で何か特定の主体があって、その主体が何かするということであるならば、規制のかけようはたくさんありますが、まさに憲法改正是か非かということは、ある意味で一億三千万すべての人が隣の人に対して、賛成しようよとか反対しようよとかという主体になり得る。一人でもなり得るわけでありますし、日本の憲法が変わった方がいいのか変わらない方がいいのかということは、余計なお世話とはいいながら、例えばアメリカの高官が、日本の憲法は変わった方がいいとかいろいろな発言をしているわけでありますから、これは言論という部分で、規制のしようがない世界でもあります。

 この、何か特定の部分だけを運動として本当に定義できるのかどうかということがまず前提として問われなければ、そもそも規制のかけようがないんじゃないか。あるいは、規制をかけるとしても、我々が従来申し上げているとおり、ほとんど例外的なケースに限定せざるを得ないのではないか。このあたりの整理を今後しっかりとしていかなければならないんじゃないかということをきょうの議論の中で感じました。

 以上でございます。

    〔委員長退席、保岡委員長代理着席〕

平岡委員 きょうの議論を聞いていて単純に疑問に思ったところを少しお話しさせていただきたいと思います。

 大きく分けて二点ほどあります。

 まず一つは、きょう、現憲法の改正の正当性という議論が大分出ていたようでありますけれども、これに関してちょっと申し上げると、現在の憲法九十六条の第二項に、「憲法改正の公布の形式」ということで配られている議論の中にも指摘されているんですけれども、「この憲法と一体を成すものとして、」天皇が国民の名において公布する、そういう表現がとってあるわけですね。

 これを素直に読むと、憲法の全文改正のようなことを仮に考えていたとすると、これは今の現憲法が予定している、考えている憲法の改正方式ではないというふうに言われかねない、そういう問題が発生してくるのではないか。つまり、今回の憲法改正について、その正当性が疑われるという事態も発生する可能性がある。

 そうだとするならば、憲法を全文改正するような形での改正というものが考えられるのであれば、まずこの憲法第九十六条第二項の部分を改正するということをしっかりやって、その上で、どういう、全文改正になるのかあるいは一部改正になるのかそれはわかりませんけれども、そうした改正の方式を考えていかなければいけない、こういう論理が成り立ってくるのではないかというふうに思いますので、その点をまず指摘させていただきたいというふうに思います。

 それからもう一つ、先ほど枝野委員の方からも、無効訴訟の話がございました。幾つかきょうの参考人の議論の中でも出てきましたけれども、その話を聞いていてよくわからなかったのは、国民投票の無効となる事由というものを一体どういうものとして考えているのかというところがどうもはっきりしないなというふうに思いました。そのことが、例えば、事前に配られている資料の中で、訴訟を提起できる人が投票人に限られているというような状況というのは、一体どういう無効事由を考えてこういう方式になっているのかというところがよくわからない。

 もっと端的に言うと、例えば国民運動規制違反といったようなものがあったときに、これが無効事由となるのかどうか。選挙運動であれば、当然、選挙運動をした人についていろいろな事由が生じたら当選無効というようなことにつながっていくわけでありますけれども、この国民投票について言うと、一体何が無効事由となり得るのか。単純に言えば、非常に明確な手続違反みたいなものがあれば、多分これは無効になるんだろうと思いますけれども、国民運動規制違反といったようなものが無効事由となるものがあるのかないのか、そういうこともはっきりしていないような、そんな気がします。

 そういう意味では、まず、無効訴訟を議論する前に、一体どういうことが無効事由となり得るのか、この点についてもしっかりと議論をしていかなければいけないのではないか、こんな疑問を持ったところであります。

 以上です。

岩國委員 前回、二十歳か十八歳かということについて、ほとんどの方は十八歳という御意見の方が多かったように思いましたけれども、私は、十八歳は日本においては少し時期尚早ではないかという意見を申し上げました。そして、詳しくはまた次回と申し上げ、この機会を待っておりました。

 ヨーロッパに十年、アメリカに十年、日本に十年、三十年、経済の世界でいろいろな国に住みながら、私が、そういう社会を見ながら、日本の十八歳はだめだという結論を出しているわけじゃありません、優秀な子供たちはたくさんおります。しかし、社会的成熟度、社会的体験においては、日本の十八歳は、はっきり言ってまだヨーロッパ、アメリカの十八歳に比べると、政治に対する関心度と理解度が低い。それは教育の差というものも私は大いにあると思うんです。ここで二つの例を申し上げて、皆さんにまたいろいろ御意見をちょうだいしたいと思いますけれども、一つはアメリカの例、一つは日本の長野県の例です。

 アメリカの青年会議所、JCと言いますけれども、私も日本のJCの財団の理事を十年以上務めて、この活動についてはよく知っております。日本のJCの場合には、仕事づくり、仲間づくり、最近はまちづくり、緑の環境づくり、ようやく人づくりのところまで活動が伸びてきています。まだ歴史は浅いと思います。

 アメリカのニューヨークのJCと日本のJCと、私は交流を向こうでいろいろとお手伝いしてきましたけれども、ニューヨークのJCの場合には、セントラルパークで大きなイベントをやって、チャリティーでお金を集めて、その集めたお金を全額何に使うか。アメリカの高校生を集めて夏休みに合宿させ、大統領と議会との関係について、こういうテーマ討論会をやっているんです。自分たちのまちづくりとかそういう話では全然なくて、アメリカの大統領と議会との関係はどうあるべきか、こういうことを議論させて、そして、アメリカという国の起源に思いをはせ、これからの自分たちは、君たちがアメリカの国をつくっていくんだという意識を植えつけている。それを、ごく普通のお医者さんや弁護士や、そういう人たちが青年会議所のメンバーになってやっている。私は、アメリカというのはこういう点では大人の国だなということを目の当たりに見て感じました。

 次に、今度は日本の長野県の、ある私立の高校です。もう一年ぐらい前になるんでしょうか、社会科の先生が高校三年生一人一人に、日本の憲法の前文を自分の文章で書きなさい、こういうことをやらせたんですね。高校生にとってはもちろん初めての体験。憲法というのは、物すごく偉い人、勉強した人しかああいう文章をつくっちゃならない、そう思っているだろう高校生に、あなたたちの文章で、どういう日本が欲しいのか、どういう国があった方がいいのか、それを自分の文章で憲法の前文を書いてみなさいと。その新聞報道では、この高校は長野県の伊那地方か諏訪地方の方にある伊藤先生よく御存じの高校なんです。そういうところでさえと言うとおかしいんです、実は、長野県というのは信州教育、山口県は長州教育といって、日本で何州教育と言われたところはこの二つしかないぐらいの教育の伝統を持っているんです。ですから、やはり、信州のそういう山の中で、すばらしい社会科の先生がいて、憲法の前文を君たち、あなたたち一人一人が自分の思いを込めて書いてみなさい、私は、これは大変いい勉強になったと思います。

 こういう教育、あるいはアメリカのJCのような活動、あるいはこの長野県の社会科の先生、こういう先生がどんどんどんどんふえていただきたい。そうすれば、日本の十八歳は立派にこの憲法改正に参加してくれる。どの世代も憲法づくりに参加意識を持たせるために、アメリカは、追憲、加憲、アメンドメントと言われるやり方、ドイツも何十回と改正しています。改正を時々するということは、改正しない部分については再確認して、いいものだということをその都度その都度確認するという作業ですから、その都度ある意味では憲法を新しく制定している疑似体験を持たせるという意味で、この改正を時々やるということは、憲法全部を書きかえないまでも、憲法の九九%はすばらしいんだということをその都度思わせる、そういう意味で、私は、改正ということは非常に有意義な憲法の制定の一つでもある、そのように思います。

松野(博)委員 自由民主党の松野博一でございます。

 私も、憲法改正国民投票法を一刻も早く制定するべきだという立場であります。

 憲法改正の国民投票法は、国民にとって、国家の最も根幹である憲法に対しての正当な主権の行使というふうにとらえますと、国民投票法が制定をされていないという現状に関しては、保岡理事の発言の中にもありましたけれども、立法の不作為と言われても仕方がないというふうに思います。この不作為に対して、国民の中に現実に憲法改正への期待、意思があるのかないのかという話がありましたが、国民の主権の行使を国家が担保するということが重要なことであり、期待があるかないかということはまた別の議論であろうかと思います。

 さらに重要なことは、国民の憲法に対する信頼の問題であります。各委員からも、憲法の制定過程から、自分たちの憲法であるという意識、正当性を感じる意識が低いとの指摘がありましたけれども、私は、憲法の制定過程もそうでありますが、それよりも、国民が自分たちの意思で自分たちの国家の基本である憲法を変えることができないという現状、その状況に立法府が対応しないという状況、このことが憲法に対する国民の信頼を損ね、正当性に疑問をもたらしている原因の一つではないかというふうに思います。国民の憲法に対する信頼を高めるためにも、憲法改正国民投票法の制定を急ぐべきであろうというふうに考えております。

 国民投票法の投票権者の範囲でありますけれども、憲法改正は、国政選挙よりも広範囲かつ長期、未来に向けての問題であり、より若い層まで投票権者に加えていくべきだという議論がありました。しかし、憲法改正を発議する国会の議員を選ぶ選挙は二十歳以上ということであります。

 国政選挙と憲法改正国民投票は、その行使をする主権に質的な差があると参考人の方からも発言がありましたが、直接、間接の差があったとしても、憲法に対する国民の働きかけ、制定改正プロセスへの参加という点を考えれば同様であります。十八歳であれ二十歳であれ、国政選挙と憲法改正の国民投票は同年齢でいいのではないかというふうに思います。

 その中で、岩國委員の方から今お話がありましたが、二十歳、二十がいいのか十八歳がいいのかという議論は、やはり国民が、国民として社会の中で成人として果たすべき義務との関係の中で論じていかなければいけないというふうに考えますので、今後、国政選挙と同様に、国民投票の投票権者の年齢制限に関しては議論をしていくべきであろうというふうに考えております。

 以上です。

    〔保岡委員長代理退席、委員長着席〕

笠井委員 日本共産党の笠井亮です。

 先ほど来、現憲法の正当性をめぐっての議論がありまして、私、小川委員が言われたことについて共感する部分がかなりあります。

 率直に申し上げまして、憲法九十九条で、この憲法を尊重して擁護する義務を負うという我々国会議員の中で、憲法の正当性について、根本から疑うという御議論とか自信が持てないという御意見を伺って、非常に驚きを持っているわけであります。

 三点端的に申し上げたいと思うんですが、一つは、現憲法の正当性については、前文そのものにあるということで、私、午前中も申し上げました、その中で確保されていると。

 それから二つ目は、それでは、主権者国民が、制定されてから五十八年、この憲法の中で生きてきて、国民の側から変えなきゃいけないというふうな要求が出ているわけじゃない。九条を初めとして、この憲法をみずからのものとして、そういう意味では選んできているということだと思うんです。

 最近の世論調査のことを先ほど申し上げて、毎日新聞で、九条は改正反対というのが六二%ということで紹介もいたしましたけれども、その中でも、二十代でいって、戦争の経験のない世代でも七〇%が改正反対、それから、高校生、十代の中でも、立派に意見をたくさん持ってそういうことを主張されております。

 国民投票法案について世論調査はたしか春にもあったと思うんですが、その中でも、それが必要だと思っているという方がたしか二九%程度ということでありますから、そういう点でいうと、国民自身が、主権者としてこの五十八年間この憲法とともに生きていて、やはりそういう中でこれを選んでいるというのが実際の実態の姿だと思います。

 それから三点目に、では、今戦後六十年たっていろいろな問題が起こっているというのは、この憲法があるからではなくて、そしてこの憲法の正当性が問題だからということじゃなくて、まさにこの憲法自体が政治の場面で生かされてこなかった。九条にしても、二十五条にしても、あるいは九十七条とか、九十四条ですか、いろいろなところで言えると思うんですが、その具体化と実施が妨げられてきた政治との関係での現実があったということだと思うんですよ。

 ですから、問題は、国民の側から見ると、憲法の改定ということを求めているというのではなくて、憲法の諸原則を日本の政治、経済、社会の各分野の中でやはり生かしていく、完全実施することこそ今求めているわけで、国会が何よりしなきゃいけないのは、そうしたことをきちっとやることだというふうに思うんです。そして、その責務を国会が果たすということが、憲法への信頼ということがありましたけれども、そのことを高めることになるということを、やはり今の時点で我々は大いに議論すべきじゃないかというふうに思います。

 以上です。

林(潤)委員 自由民主党の林潤であります。

 九十六条の改正手続法については、早急に整備をすべきであるという立場で発言をさせていただきます。

 改正をできるかできないかということと、手続そのものができるできないというのはまさに別問題でありまして、これは切り離して考えなければいけない。これは、前回ちょっと言えなかったことなので、前提として言わさせていただきます。

 国会議員は、もう言うまでもなく、国民の生命と財産を守るのが一番の責任なのでありまして、それを時代に即して国民の要請にこたえていくためには、国会議員が憲法改正案を発議するということはまさに責務中の責務である、そのために改正手続は不可欠であると私は思っているところであります。

 先ほど、本日の参考人の意見も踏まえて、投票権者の範囲ということについてですけれども、これは、憲法の九十八条にあります、憲法は、国の最高の法規であって、その条規に反する法律はその効力を有しないとありますとおり、その立法している国会議員が選ばれているのが国政選挙であります。

 その法律の中の法律とも言うべき憲法が、未成年あるいは十八歳以下という議論があって、憲法改正についてが、法律の中の法律であるにもかかわらず、それより範囲が広いというのはどうしてか。その整合性を保つためには、国政選挙と同等にすべきであると私は考えているところであります。この議論は、またもっと尽くすべきではなかろうかというところであります。

 こうした国民的な議論によってなされた投票の結果というのは非常に重大でありまして、過半数の意義についてということで、私は、有効投票総数の過半数ではないかというふうに考えておりますが、これは、やはり棄権の票をどのように考えるかというのが一番問題になるのではないかと思います。

 棄権は、一般の国政選挙の場合には、投票したい人がいないということで棄権を意思表示とする考え方があると思います。憲法改正の場合ですと、これが全体をくくってイエスかノーかという判断になるかどうかはわからないですけれども、棄権の意思表示をこの場合どう受け取ればいいかというのが非常に議論となってくると思いますので、この辺を慎重に踏まえながら、この棄権票の扱いというのを議論し、総投票数の過半数なのか、それとも有効投票総数の過半数なのか、こうしたことの議論をさらに進めるべきだと思っております。

 そしてまた、国民投票運動は、これは基本的に大きな制約を受けないことが望ましいわけであります。この重要性から十分過ぎるほどの周知が必要でありまして、これに関しては、投票率の高低を初めから懸念するのではなく、やはり私たち国会議員が、立法府がその喚起に努めなくてはいけない、これが責務であると思います。

 その中では、やはり、テレビや新聞のみならず、インターネットやケーブルテレビなど含めまして、規制を緩めまして、国民的な議論をさまざまな立場から形成し、国民の総意をつくっていかなければいけない、このように考えております。

 以上であります。

三原委員 自民党の三原でございます。

 高見先生、高橋先生、そしてまた同僚議員の皆さんにいろいろな意見を勉強させてもらって、大いにおもしろかったと思いますけれども、私が一つだけ申し上げたいのは、早く国民投票をやる上の手続を決めなきゃいけないということはもちろん当然ですけれども、そのときの、やはり、国民運動といいますか、憲法が私たち国民の基本的人権をちゃんと守るための根本的な法律であり、なおかつ国家を形成するための法律であるという基本的なものである以上は、国民こぞってこの議論に参加するような形をとらなければならない、そう思うのであります。

 百花斉放、百家争鳴といいますか、そういう雰囲気が起こるような、憲法を変えるときの広報活動、選挙運動じゃなきゃいけないと私は思っています。ですから、そのためにはできる限り自由な形があるべきであることは当然でしょう。

 我が国でも大きな新聞社がありますが、その中で、大体、憲法改正という議論をするときには、賛成の新聞社が考えると何社かあるでしょう、反対を強くしそうなところもあるでしょう。そういうところが大いに活動されることは、私は、それも一つの国民への教育宣伝、教宣の手段でもあろうと思うし、マスメディア、それ以外にテレビ、ラジオありますけれども、そっちの方向でも、中立とは何ぞや、こういうことになりますと、では、あらゆるものがもう憲法に関して議論ができなくなってしまうんですよね。それは、我々の最も基本的な約束を決めるそのときにおいて、余りにも消極的な考えでもあると思うんです。

 ですから、そういうときにはどうするのか。では、一番現代で影響力のあるテレビあたりで、賛成と反対と同じ時間だけやるのかとか、中立的意見はどうするのか、こう議論になっちゃうでしょうから、そういうときには、やはりそこまで突き詰めて物を考えますと、百花斉放、百家争鳴なんてできなくなりますから、そういう面では、これから先も、より、フェアというと何をもってフェアとするのか、これまた議論になるでしょう。難しい問題ですけれども、賛成もあり反対もある、それを認識しながら、より、議論の上での時間が、バラエティーに富んだものが言えるような、そういう形をつくっていくこと、そのことが私は大切だと思いますし、必ずやそういう我々に英知が出てくるんだと思います。

 それといま一つ、やはり国民投票を何だかやっていないから、我々は一種の、一歩引いたような、怖いような状況でいるんじゃないかと思うんですけれども、それは間違いだと思う。諸外国では結構国民投票をやっているところがありますから、我々もやはりそれに対してチャレンジしなきゃいけないという気持ちがあります。

 そのためには、憲法の改正をまず第一弾としてこういうことをやるのではなくても、国民投票の中でも、各党の中で議論の分かれる、例えば今我々が議論している脳死問題とかをちゃんと提示してみて、それについての、ちょうど委員長さんが我が党のそれの中心の方ですけれども、国民に対して、それも第一弾の国民投票の試金石にしてやってみる、やることを恐れずに我々は進むべきだ、そういうふうに私は思います。

船田委員 二回目の発言をお許しいただき、ありがとうございます。自民党の船田でございます。

 一つは、先ほど古川委員から最初に問題提起されました、一般的国民投票とそれから今回の憲法改正国民投票制度、これは区別するのではなくて、やはり一緒に考えるべき問題ではないか、こういう提起がございました。

 もちろん、そのような考え方もあるかと思いますけれども、ただ、一般的な案件に関する国民投票制度というものを構築する場合には、現在の議会制民主主義、つまり間接民主制というものを一部直接民主制というものに変えるという非常に大きな改正というか、これこそまさに憲法に関することになってくると思います。

 したがいまして、将来の課題ということではよろしいことかと思いますが、現時点におきましては、やはり憲法改正における国民投票制度というものに限定をした議論というのが必要である、こう思っております。

 それから、岩國委員から御指摘をいただいた、日本の場合、十八歳以上というのは時期尚早であるというお話でございました。

 確かにそういう面もあるかと思いますが、現在、刑事罰の関係におきましては、少年法の適用の年齢を下げる、そういう傾向にございますし、また、高校を卒業するということが一つのやはり社会に出るステップになっているという一般的な考え方がございます。

 また、今の十八歳以上の日本人がなかなか政治的な成熟をしていない、こういう御指摘でございましたけれども、逆に考えまして、この憲法改正の国民投票制度に十八歳以上の若い人々を参加させるということによって、これを機会として、高校においても政治教育といいますか公民教育というものをもっともっと徹底していく、あるいは、現実に即して、現状に即してそういった教育をやるんだ、こういう積極的なきっかけに使うということは、私はとても大事だなというふうに思っております。

 それから、最後になりますが、枝野委員の御指摘の中で、無効の訴訟の扱いをどうするか、こういうことでございますが、先ほど委員がお話しになったように、無効訴訟が出た場合には一定期間発効しない、そういうバッファーの時期を設けておきまして、その間に重大な手続上の瑕疵があるかないかということを調査し、そして重大ではないと判断された場合には発効する、そして個々の訴訟においては、その後において法廷において議論すべきである、こういう方法で私もよろしいのではないかというふうに考えております。

 それから、もう一つは、国民投票運動でございます。これも枝野委員御指摘のように、国民投票運動の規制というのがそもそもできるのかどうか。

 確かに非常にグレーゾーンがいっぱいございます、難しい点はあるかと思いますけれども、私はやはり個人として、この憲法の改正についてどうするか、どういう内容にすべきかということに対する意見の表明については、これは全く自由に、幅広く行ってよろしいのではないか、それは当然であるというふうに思っております。

 しかしながら、組織的にある意図を持って、ある団体が、あるグループが行動するということ、これはやはり一定の規制が必要であると思いますし、また、マスメディアを使いまして、マスメディアは非常に影響力が大きいわけでありますので、マスメディアを使って虚偽の報道をする、あるいは不法に利用する、こういうことについては、やはりここは選挙の公平さというのを維持するためにも、これは最低限きちんとした規制は必要である、このように仕分けて考えるべきだ、こう思っております。

 以上です。

岩國委員 もう三度目で、三杯目はそっと出して短くやりたいと思いますけれども。

 先ほど笠井委員の方から、この九条改正反対にいろいろな世論調査、やれ六八とか七二%、私ももちろん見ております。しかし、これは私は非常に誤解を招きやすい結果だと思うんですね。

 なぜかといいますと、設問の仕方が悪いんです。九条改正というと、すぐに自衛隊を海外に出して、どんどんどんどん自衛隊を、海外での武力行使をやらせるための九条改正、そういう悪いイメージがひとり歩きして、だから設問の仕方をもっと工夫しなきゃならないと思うんです、いろいろなメディアは。もうここまでいろいろな議論が煮詰まってきた。十年前ならこの程度でもよかったでしょう。しかし、もう今ではこんな設問の仕方では全く貧弱そのもの。

 例えば、平和憲法を守るための改正、そういう改正だってあるんだということを一般に説明してから、それであなたはそれでも反対ですかと聞くべきであって、みんな国民が一般に持っている貧弱なイメージ、あるいは短絡的に、九条改正というのは平和を壊すものだ、平和憲法の土台を壊すものだ、怖い、危ない、だから、あれにさわっちゃいけないよ、そう思わせておいて、そこで設問すれば七二でも八〇%でも。

 私は、そういう設問でも、よく二八%の人が改正してもいいと答えている、そっちの方にむしろ感心します。なぜ七二でとまっているかということです。もっともっとこれは私は低くなると思う。

 それは、今の九条では、十分に自衛隊の海外での武力行使を制約していない。第一、自衛隊そのものが書かれていない。自衛隊を憲法というおりの中に入れて、憲法という鎖をつけて、海外での武力行使が自由にできないようにする、それが平和憲法を守るためのことなんだ。それを今のままにしておくということは一番危ないことなんだ。今のうちに憲法にちゃんと自衛隊を書いて、追記することによって、アメンドメントすることによって、それで平和憲法に突っかい棒を設けるんだ。

 そういう、憲法改正にはもう一つの改正、選択肢があるということを十分に説明した上で、それでも七二%が反対なら私はあきらめますけれども、平和憲法を守るための改正、そういう選択肢が欠けている。選択肢を欠落させたままで大新聞がこういう設問を出すということは、私は非常にある意味では無責任なデータのとり方ではないかと思うんです。九条改正は平和を壊すものだというイメージをひとり歩きさせてはならないと私は思います。

 以上です。

北神委員 民主党の北神圭朗でございます。新参者でございますので、よろしくお願いいたします。

 けさも笠井委員から、憲法とは何ぞや、そういった質問が参考人の方々にございましたが、私は、大別して、一つは、確かに人権を守って国家権力を制限するというルールづくりという部分もあると思うんですが、一方で、やはりその国の国民の歴史とか伝統とかそういったものを踏まえて、どういった国づくりをしていくんだ、そういったいわば理念的な部分も当然あるんだというふうに思います。その後者の部分を踏まえて申し上げたいのは、やはり私は基本的にはこの憲法改正をすべきだと。そして、それは極論すれば、条文、内容に問題が一切なくても改正をすべきだと。

 簡単に言いますと、今の憲法の文章を見ますと、これは翻訳でありまして、非常に日本語としてでも極めて奇異な表現とか文言とか語彙とかが散見されるわけでございます。私は、はっきり言って、一切憲法の中身に問題がなくても、日本語で全面的に書き直すべきだというふうに思います。それは、国民の歴史、伝統というものを踏まえるという意味でもありますし、そこまでいかなくても、基本的になじみやすい、国民にわかりやすい、そういった憲法をつくるのが大事だというふうに思っております。

 もう一つは、前文の部分につきまして、そこで日本の歴史、伝統を踏まえた国のあるべき姿というものをぜひとも書くべきだというふうに私は思っておりますし、今、内容の話でありますが、これは手続の部分とも密接に関連することでありまして、全面改正にするのか、あるいは溶け込み方式にするのか、そういった論点にもかかわってきますし、さらに言えば、全面改定をする場合に、一括方式でやるのか個別方式でやるのか、そういった部分にもかかわってきますので、ひとまず、私の憲法に対する思いというものを述べさせていただきたいと思います。

 ありがとうございました。

笠井委員 岩國委員から、私、名指しでお話がありましたので、一言だけ私も申し上げますが、九条、先ほどの世論調査の件ですが、私は、紹介したものだけじゃなくて、いろいろな世論調査が九条をめぐってあると思うんです。しかも、九条改正に反対かどうかというのは、極めてシンプルかつ非常にやはり明確な問いだと思うんです。

 国民はそのことによって短絡で思い込まされるみたいなお話もありましたけれども、私は、国民自身は、そういう問いを聞いたときに、やはり戦争世代は、戦争の体験、そして悲惨な思い、私も被爆二世ですけれども、やはりあの戦争によって原爆投下ということになり、そしてああいう惨禍があったことを含めて、いろいろな思いで九条に対する問いに答えているわけです。それから、戦後世代にしたって、そういう体験を引き継ぎながら、自分なりの思いで、この九条を変えたらいいかといったら、それはやはりよくないなという思いを六二%があれでも示したというのは非常に重い事実だなというのは一つ思います。

 それから、では逆に、憲法九条を変えてこういうふうにしますよということを具体的に聞くとすると、例えば、これは自民党の側から出ている案として具体的に言えば、二項を変えて自衛軍を明記する、そして海外でも武力行使できるようになるということになると、これは私、海外でそういう戦争をやる国になるというふうに、そういう国になっていいですかと聞いたらもっと反対がふえる、これはこういうことになると思います。

 具体的にそういうことで今の改定の中身をさらに知らせれば、さらにもっと反対がふえる、こういう関係になると思うので、私は、端的な数字として紹介しましたけれども、あの結果というのは重く受けとめるべきだろうというふうに思っております。

 以上です。

枝野委員 二回目になって恐縮ですが、今の笠井先生のお話は、前の調査会のときにも私、申し上げたんですが、九条改正といった場合に、自衛隊がもっといろいろなことをしやすくするとか、自衛隊を憲法上明文でオーソライズするということだけが九条改正の意図である、あるいはそういう方向での九条改正を目指している人たちしかいないという前提がもう時代的に違っているんではないのか。

 私は、前の調査会のときにあえて多分名前を挙げて申し上げたと思うんですが、例えば今の自衛隊が憲法違反だ、あるいは今の自衛権、自衛隊すら認めないというお立場ならば、どうして今の九条を改正して自衛権もこれは行使しないという九条に書きかえるということを主張しないのか、僕は不思議で仕方がない。あるいは、自衛隊は認めるけれども、日本の領土、領海の外には出るべきではないという立場ならば、そのことを憲法九条三項に書き加えればこんな間違いのないことはないわけで、どうしてそういう方向の改正の主張というのが出てこないのか、私は不思議で仕方がないというか、論理的にはそれは両方あり得るわけで、したがって、私は九条改正是か非かと聞かれたときには答え得ません。

 つまり、どう改正するかによって、今よりよくなるか悪くなるかということは、全然、百八十度変わるのであって、どう変えるのか、どちらの方向に変えるのかということの提起があって実は初めて可か非かということが答えられるのであって、ただ変えるのか変えないのかという設問自体、やはり私も、時代おくれというか、少なくとも論理的に成り立たないというふうに思っております。

 それから、ここで詰めようと思いませんので問題提起として。先ほど船田先生からマスメディアは一定のというお話があったんですが、メディアの定義もまたなかなか難しいのではないか。例えば、これも固有名詞を挙げて失礼かもしれませんが、自由新報とか赤旗とか聖教新聞とか、これはマスメディアなのかどうなのか、こういうことを考えていったときに、非常に悩ましい問題、まさに政党の機関紙やそれに類する、あるいはかなり内部的な部分のところで公布、頒布される新聞関係というのは、これはかなり強く政治的意図を持って一定の方向性に向いた主張がなされてしかるべきだというふうに思うわけですが、発行部数で線を引くのかといってもなかなかそうもいかないだろう、なかなか悩ましい問題があるなということだけ指摘をしておきたいと思います。

平岡委員 今の枝野委員のお話に関連してですけれども、憲法九条の議論がありましたので、私は最初のこの特別委員会で九条の改正の問題についても触れさせていただいておりますけれども、憲法というものをどのようにとらえるかというものがまず大前提としてはあるとは思うんですけれども、現実がこうなっているから現実に憲法を合わせていくんだという考え方というのは、私はとるべきかどうかということについては大変疑問に思っています。

 やはり我々は、憲法というものが目指す日本のあり方、あるいは世界の中における日本のあり方というものについては、しっかりとした理想を持った上で、どのような国づくりをしていくのかという視点があるべきだというふうに思っています。そういう意味では、現実がこうなっているからその現実に合わせるために憲法九条をこういうふうに変えたらいいではないか、理想というものではなくて、もっと現実に即した憲法であるべきだといったような議論に仮になるとしたら、そこは私は一つ踏み込み過ぎているんではないか、そんな感じがいたします。

 そういう視点からいいますと、現在の憲法、私もこの前も言いましたけれども、憲法のもとで一体どこまでのことができるということが国民的合意なのかということをはっきりさせるための安全保障基本法といったようなものをまず考えていくべきではないか。その中で、今は例えば自衛隊がこれだけの戦力を持っているけれども、いずれは、外交関係をよりよくしていけば、これをより小さくしていく方向で我々は努力するのか、それともより大きくしていく方向で努力すべきなのか、この方向性というものをやはりしっかりと憲法というもののもとで考えていかなければいけない、こんなふうに思いますので、そこの点については、やはり、第一回目の会でも申し上げましたけれども、今の憲法のもとで一体我々が考えられる我が国の安全保障というものはどういうものか、このことをしっかりと議論していくことが最初にやるべきことだというふうに考えています。

笠井委員 具体的にまた名前が挙がって御意見もありましたので、一言だけ申し上げますが、時代に合わないというお話もあったんですが、やはり、今どういう状況の中でこの憲法の改定問題が議論されて出てきているかということはきちっと踏まえる必要があると思うんですよ。

 一つはもう……(枝野委員「自民党だけ見ているからだ」と呼ぶ)いや、調査会の中でやはり議論があったのを知っていますけれども、アメリカ側の要求があるという問題と、それから、今枝野さんも言われたけれども、自民党の中でそういう議論がされているという状況の中で、少なくとも九条について言うと、歴代の自民党の政府が、ともかくも戦力不保持あるいは交戦権否認という規定については、やはりそれが歯どめになって海外で武力行使できないということで、その建前までは崩せなかったわけでありますよね。

 そういう中で、じゃ、九条二項を改変して自衛軍を明記するということになると、やはり客観的には、それが歯どめを取り払って、そして海外で戦争できる国、する国になるということになってくる。やはりそうなると、それは戦争放棄を規定した九条の一項を含めた九条全体を放棄するというふうにつながってくるんだ。やはりそういう問題として私たちは見ていまして、そこは大いにまた議論していきたいと思いますけれども。そういう意味では、まさに今の時代的に見ても、今九条の意味が一層大きくなっているというふうに思っております。

 以上です。

辻元委員 今この九条をめぐる世論調査の例は、先ほど私の発言の中でも触れさせていただきましたので、一言申し上げたいと思うんです。

 私は、ここの選択肢の中で、変えるべきか変えないべきかという判断をするときに、それにお答えになった方はいろいろな思いがあると思うんですね。それは、一つは、変えてしまったら何か過去の戦争の歴史もありますので非常に危険だなと危険性を感じているということも、これは今までの歴史の中から私たちの日本が抱えている現状であると思います。そこはそこでちゃんと私たちは踏まえるべきだと思うんです。

 ただ、もう一方、日本は人道国家でありたいという強い意思もあると思うんですね。それは、この前の意見陳述で私も申し上げたんですけれども、特に今、暴力の連鎖がとまらないとか、イラク戦争などが混沌としている中で、例えば紛争の解決や予防や仲介という積極的な場面で、本当の意味での人道支援もそうだと思いますけれども、日本が今持っている憲法九条というものを大切にしながら国際的な場面で役割を果たせないかという、積極性を持って変えなくてもいいという意見もあると思うんです。

 ですから、一概に、今の国民といいますか、特に国際政治が非常に混沌としている中で、さまざまなことを考えながら日本の進路の選択としてこの数字が出ているというように、やはり、国民を信じると言ったら変な言い方なんですけれども、さまざまな観点からの判断の数字であるというように率直にとらえるべきではないかなというふうに私は考えております。

 特に、人道国家としての日本の役割をこれから大事にしていきたいなということ、それから日米関係、アジアの中での日本の方向性をどう出せばいいかということを真剣に考えている人たちは、やはり国会の中だけではなく外にもたくさんいるというように私は思います。それは、この間多くの若者が、この十年、二十年の間に人道支援を初めNGOなどでも活動する人は圧倒的にふえたという例から見ても、そういう積極性を持った九条の評価ということもこの数字の中に入っているのではないかということを指摘したいと思います。

 以上です。

早川委員 二度目の発言になります。

 自由討議ですので、さまざまな御意見があると思うんですが、基本的にはこの調査特別委員会は憲法調査会の審議をやはり踏まえて、その積み重ねの上で審議を行っているということを再確認をぜひしていただきたいというふうに思っております。

 今、憲法九条の議論がさまざまにありました。しかし、前憲法調査会の一つの取りまとめの中で、その改正の必要性について憲法調査会の委員の方々からいろいろな発言があった、その集約がなされております。それを受けて今なされているのが国民投票制度についてどのような問題点があるかということだと思います。きょうの参考人のお二人の発言、並びに、私は特に葉梨委員からさまざまな具体的な制度設計についての問題点の提起があったように思っております。

 我々が解決しなければならない課題としては、いわゆる国民投票運動と言われている、私は運動という言葉は適切ではないというふうに思っておりますけれども、しかし、国民投票運動にかかわるさまざまな意見の表明やさまざまな行為に対する規制のあり方をどう考えるべきかということが、一定の罰則の導入もやはり出てくるであろう、しかしながら、基本的には自由でなければならない。どちらかというと政治活動の自由の範囲の中で、国民投票に関するさまざまな意見の投票のあり方、あるいは団体活動のあり方というのを我々はとらえていかなければならない。そういう意味では、罰則を先行させるような考え方はなるべく避けるべきであるというふうに考えております。

 しかしながら、誤った報道等によって国民投票が左右されてしまうということは、やはり国民主権あるいは議会制民主主義のこの日本の国のあり方としては決して好ましいことではない。そういうことからすると、それに対してはどういうふうな形でもって是正する手段を確保できるか。そういう意味では、国民投票に関しての監視のあり方というものを検討していかなければならない。それは、罰則でもって臨むのではない何らかの是正措置というのを適宜導入するということではないだろうかなというふうに思っております。

 いずれにしても、国民投票法を制定するというこの議論の中では、最終的にはどのような憲法改正案が策定されるか。すなわち、両議院で三分の二以上の賛同が得られるような内容の改正案をつくっていく、それに並行して国民投票制度を構築していくということでありますので、不可分の関係であります。しかし、不可分でありますけれども、やはり手続法の整備をどうしても先行させていただかなければならない。そのために議論をなるべく集約していただきたいというふうに望むものであります。

 以上であります。

逢坂委員 民主党の逢坂誠二でございます。

 以前の憲法調査会、そしてこれにまた橋渡しがされまして、この場において随分レベルの高い、しかも広範な議論が行われているということに対して大いなる敬意を払いたいというふうに思います。

 この場においてやはり相当レベルの高い議論が行われている、こういうふうになっていくことというのは私も理解はできますし、かつまたどんどんどんどんと、機が熟していくという言葉がきょうも幾つか使われておりましたが、そのことも理解をいたします。

 しかし、こうしたこの場において、つまり国会の場においていろいろと議論をしてどんどんどんどん機が熟していく、レベルが高まっていくということと、主権者たる国民の意識のずれというものの広がりというのはないのだろうかということについて、私は若干の危惧を持っております。我々この国会の場だけの議論が高まることで、本当の意味で、もし次に憲法改正が行われるとしたならば、正当性というものの得られる憲法改正になるのだろうかというところですね。この点に我々はもう少し注意を払うべきではないかという印象を、ここ一、二回のこの議論を聞いて私は強く感じたところであります。

 したがいまして、私ども、この国会の議論をいかに上手に国民の皆様に橋渡しをしていくかという作業、これを忘れてはならない。これをしない限りにおいては、少し例えは悪いかもしれませんけれども、非常におとなしいウサギの群れの中にライオンを放つかのごとくの状況になりはしないかという危惧をするわけであります。

 我々この国会の議論も、そして国民の皆さんもクレバーなウサギになるというんでしょうか、そういう必要がある。そういうことを常に我々は頭に置きながら、常に主権者たる国民の目線を気にしながら議論するということを私としては心がけてまいりたい、そんなことを思っております。

 以上でございます。

保岡委員 先ほど笠井委員から御発言もありましたし、今までのお話を伺っておると、根本的に憲法改正国民投票法というのは今必要かどうかということの御判断が、憲法改正の必要もないのに手続が必要であろうかという前提に立っておられるように伺ってきたんですが、違えばまた別でございますけれども。

 私はいつもそういうお話を伺うときに思うのは、共産党の先輩がこの憲法を、昭和二十一年八月二十四日、衆議院で採決するとき、日本共産党を代表して野坂先輩が反対討論を行っている、その言葉をいつも思い出すんです。

 その言葉というのは、現在の憲法、これは明治憲法のことですね、現在の憲法よりも進歩的であることは認めるが、世襲による天皇制を認めているのは主権在民を羊頭狗肉化するものであり、また、参議院は民主化の妨害物である。さらに、自衛権の放棄は民族の独立を危うくする危険がある。将来、この憲法の修正について努力する権利を留保して反対するという趣旨の反対討論をされている。要するに、現憲法は修正すべき内容が、基本的に、述べられたとおり、非常に根幹においてあるという認識を表明して、反対しておられるんです。

 こういう歴史的な発言、同じ共産党としての、党としての連続性が私は今日まであると思うんですが、そういった意味で、私はあえて、発言を控えてもいいかなと思ったんですが、やはりこういう根本問題というものについて、これから先、論議の中で笠井委員の意見も聞きたいなと思いましたので、きょうお話は伺わなくても結構なんですが、改めてそういう根幹についてもちょっと意見を伺ってみたいなという感じを持ったので、いずれで結構です、よろしくお願いします。

笠井委員 私ども、九条改憲を中心として今やられているような改憲ということの中で、そのための国民投票法案は今必要ない、これは反対だということを明確にしてきたのはもうこれまでもるる述べてまいりました。

 それから、歴史の話を持ち出されて言われたわけですけれども、あのときに、私の理解している範囲で、私の生まれるはるか前ですけれども、戦後ああいう時代になって、どういう憲法にするかということで議論があり、それぞれがアイデアを出し合って、そしてその中での議論をする中で意見を述べていたということがあったわけで、それはその時代のことであって、それにとらわれるものじゃないのは当然であります。

 その結果この憲法ができて、そしてやはりこれは憲法が大事だ、それを大いに守って完全実施しようという立場で我々はやってきたわけですから、そこのところは何も誤解いただくようなこともないし、堂々と私たちはそのことを述べているところでありまして、そのことだけは述べて、さらに詳しくということであればまた幾らでもさせていただきます。

 ありがとうございました。

中山委員長 他に御発言はございませんか。

 それでは、発言も尽きたようでございますので、これにて自由討議を終了いたします。

 次回は、来る二十日木曜日午前八時五十分理事会、午前九時委員会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。

    午後四時三十四分散会


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