衆議院

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第9号 平成18年4月20日(木曜日)

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平成十八年四月二十日(木曜日)

    午前九時三分開議

 出席委員

   委員長 中山 太郎君

   理事 愛知 和男君 理事 近藤 基彦君

   理事 福田 康夫君 理事 船田  元君

   理事 保岡 興治君 理事 枝野 幸男君

   理事 古川 元久君 理事 斉藤 鉄夫君

      井上 喜一君    伊藤 公介君

      小野寺五典君    越智 隆雄君

      大村 秀章君    加藤 勝信君

      河村 建夫君    笹川  堯君

      柴山 昌彦君    杉田 元司君

      高市 早苗君    棚橋 泰文君

      渡海紀三朗君    中野 正志君

      野田  毅君    葉梨 康弘君

      早川 忠孝君    林   潤君

      平田 耕一君    二田 孝治君

      松野 博一君    森山 眞弓君

      安井潤一郎君    山崎  拓君

      吉田六左エ門君    市村浩一郎君

      小川 淳也君    逢坂 誠二君

      北神 圭朗君    鈴木 克昌君

      仙谷 由人君    園田 康博君

      田中眞紀子君    筒井 信隆君

      平岡 秀夫君    森本 哲生君

      石井 啓一君    太田 昭宏君

      桝屋 敬悟君    笠井  亮君

      辻元 清美君    滝   実君

    …………………………………

   参考人

   (社団法人日本雑誌協会編集倫理委員会委員長)   山  了吉君

   参考人

   (社団法人日本雑誌協会個人情報・人権問題特別委員会委員長)        鈴木  哲君

   参考人

   (社団法人日本雑誌協会専務理事)         勝見 亮助君

   衆議院憲法調査特別委員会及び憲法調査会事務局長  内田 正文君

    ―――――――――――――

委員の異動

四月二十日

 辞任         補欠選任

  石破  茂君     笹川  堯君

  林   潤君     杉田 元司君

  岩國 哲人君     森本 哲生君

  鈴木 克昌君     市村浩一郎君

同日

 辞任         補欠選任

  笹川  堯君     石破  茂君

  杉田 元司君     林   潤君

  市村浩一郎君     鈴木 克昌君

  森本 哲生君     岩國 哲人君

    ―――――――――――――

四月十八日

 憲法改正国民投票法案反対に関する請願(保坂展人君紹介)(第一五二〇号)

 国民投票法の制定に反対することに関する請願(笠井亮君紹介)(第一六二七号)

 憲法九条改悪のための国民投票法案反対に関する請願(阿部知子君紹介)(第一六二八号)

 同(郡和子君紹介)(第一六二九号)

 同(郡和子君紹介)(第一六八〇号)

は本委員会に付託された。

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 参考人出頭要求に関する件

 日本国憲法改正国民投票制度及び日本国憲法に関する件(日本国憲法改正国民投票制度とメディアとの関係)


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     ――――◇―――――

中山委員長 これより会議を開きます。

 日本国憲法改正国民投票制度及び日本国憲法に関する件、特に日本国憲法改正国民投票制度とメディアとの関係について調査を進めます。

 この際、参考人出頭要求に関する件についてお諮りいたします。

 本件調査のため、来る二十七日木曜日午前九時、参考人の出席を求め、意見を聴取することとし、その人選等につきましては、委員長に御一任願いたいと存じますが、御異議ございませんか。

    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕

中山委員長 御異議なしと認めます。よって、そのように決しました。

 引き続き、お諮りいたします。

 本件調査のため、本日、参考人として社団法人日本雑誌協会編集倫理委員会委員長山了吉君、社団法人日本雑誌協会個人情報・人権問題特別委員会委員長鈴木哲君及び社団法人日本雑誌協会専務理事勝見亮助君の出席を求め、意見を聴取したいと存じますが、御異議ございませんか。

    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕

中山委員長 御異議なしと認めます。よって、そのように決しました。

    ―――――――――――――

中山委員長 この際、参考人各位に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にさせていただきたいと思います。よろしくお願いをいたします。

 本日の議事の順序について申し上げます。

 まず、山参考人から代表して十五分以内で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑に対し参考人各位にお答え願いたいと存じます。

 なお、発言する際はその都度委員長の許可を得ることとなっております。また、参考人は委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。

 御発言は着席のままでお願いをいたします。

 それでは、山参考人、お願いいたします。

山参考人 おはようございます。日本雑誌協会から参りました山と申します。

 三人という異例の意見陳述をお認めいただきましたことをまず感謝いたします。ありがとうございました。

 簡単に紹介しておきます。

 私が日本雑誌協会編集倫理委員長をやっております山了吉と申します。私の隣が、個人情報・人権問題特別委員会の委員長をやっております鈴木哲と申します。その隣が、日本雑誌協会専務理事の勝見亮助でございます。

 きょうは、それぞれ役割分担といいますか、雑誌協会のことは専務理事の勝見が、雑誌一般に関しては鈴木が答えさせていただくということで、私は、この意見陳述とともに、憲法及び憲法改正国民投票法案に関しましてのお答えをしたいと思っております。一応の区分けはしておりましたけれども、それぞれが質問に応じて答えるようにいたしますので、よろしくお願いいたしたいと思います。

 まず、今回、こういう形での要請があったのが約十日前でしたので、ちょっと慌てまして、日本雑誌協会というのは、各出版雑誌の上部団体ではございません。緩い縛りはあるんですけれども、理事会及び編集委員会、それぞれの機構はしっかりしておるんですけれども、主として、委員会ごとに出版社の代表者が、専任委員がいまして、その委員が集まって議決するようになっております。それで、それが理事会に上がって最終的には決まるという方向になっております。いろいろな利害関係の問題がありますから、販売委員会があったり、編集倫理委員会があったり、取材委員会があったりいたします。そういう機構上の問題がありまして、きょう、三人がそれぞれ分担するような形になっております。

 それから、緊急だというのは、十日前に言われたので、一回集まって会議をやったんですけれども、意見がまとまった部分と、まだ非常にまとまっていない部分もございますので、私がこうやってしゃべることは日本雑誌協会の一員としてしゃべります。それで、日本雑誌協会として今度の問題をどのように受けとめるかという立場から話したいと思いますので、よろしくお願いしたいと思います。

 まず、国民投票法案というのが、もう何度もこれは、議事録を読みますと、約六十年ぶりにこうやって具体的に制定されるという段階に来まして、これに対して、今なぜやるのかということの批判も一部の憲法学者から上がっていますし、与党が大勢を占めた中で、衆議院では圧勝した中でやられるということに関する疑問もありますので、我々も、この場に出てくることに関しての意見についてはそれぞれ交わしましたけれども、批判は批判として受けとめようということをお断りしておきます。

 それで、実は、昨年、中山委員長の隣にいらっしゃいます保岡先生に、私どもが属しておりますマスコミ倫理懇談会全国協議会というのがございます。このマスコミ倫理懇談会全国協議会というのは、新聞社、放送局、出版社、広告代理店あるいは映倫、このようなマスメディアがほとんど属している全国組織があります。

 そこの東京地区の月例会で、保岡先生に出ていただきまして、自民党案で最初に出ました国民投票法案について、マスメディアの規制がございましたので、規制といいますか、やはりマスメディアに対しては、予想をしてはいけないとか、あるいは虚偽な報道は問題だとか、公正を欠いちゃいけないとかいうことがございましたので、あのときは、主として公職選挙法に準ずる形で憲法を扱うということがありましたので、それはちょっといかがなものかということで質疑応答をしたことを保岡先生は覚えていらっしゃいますよね。私どもはそこで問題提起をいたしまして、メディアはこう考えているということで、雑誌もそこの場で発言いたしました。

 その後、同じくマスコミ倫理懇談会全国協議会のシンポジウムを開きまして、その場では船田元先生、その隣の枝野先生に出ていただきまして、憲法改正と国民投票法案について四時間にわたるシンポジウムを開催いたしました。

 そういう経緯を経て、最近おまとめになった案を見ますと、メディアに関しては自主規制ということで進んでおるというふうに、私、ちょっとさっき太田先生と話していて、完全なものじゃないよということで、メモ程度のものしか持っていないのでちょっと恐縮なんですけれども、報道機関の自主的取り組みというところは変わっていないということなので、それを参考にして、きょう検討してまいった次第です。

 まず、私どもが問題にしたいのは、ここに書いてあります中の、虚偽の事項を報道し、または事実を歪曲して記載する等表現の自由を濫用して国民投票の公正を害することのないよう、報道機関に関する基準の策定、報道に関する学識経験を有する者を構成員とする機関の設置ということを自主的に行えということが書いてあります。

 雑誌というものは、基本的には新聞やテレビと違いまして、一次報道ではございません。一次報道をやっていたら、雑誌は一部も買ってもらえませんから。雑誌の性格からして、これは週刊誌だけじゃなくて、月刊誌とかオピニオン誌もありますけれども、こういうものは、大体論評あるいは記事の裏面や側面、断面を、いろんな識者に取材したり現場で取材したりしながら、一次報道の裏側あるいは側面を記事にするケースが多いわけです。

 往々にして、それが人権侵害とかプライバシーの問題とかになることはあるんですけれども、事憲法に関しまして、今度の憲法改正の是非をめぐっては、これがなぜ虚偽なものを、虚偽なものとは一体何なのか、虚偽というのはどういうことを虚偽というのかとか、あるいはここに書いてありますように、事実を歪曲するとは何をもって歪曲というのか、あるいは国民投票の公正を害することがないようにと、公正を害するとはどういうことなのかということで、こういうことに関しまして余り浮かんでこないんですね。全部そういう、立場が変わったら、いや、これは虚偽だろうとか、これは事実を歪曲していると言われるかもしれないとか、よって立つ立場が違っていれば、報道する中身あるいは記事の内容についてはいかようにも言えるのではないかということが考えられます。

 ですので、むしろ、現行憲法の二十一条にございますように、言論、出版及び一切の表現の自由はこれを保障するという項目があります。出版社とか雑誌は、この憲法二十一条がある意味では金科玉条でありまして、これがあるからいろんなことが、民主主義社会が成り立つと自負しておるぐらいで、我々も自由に活動ができるわけです。ですから、この二十一条というのをやはり基本に据えて、もちろん自主的取り組みに関しては真摯に受けとめたいと思いますけれども、濫用とかあるいは公正を害するとかというものを具体的に想定するのはちょっと難しいので、この辺に関しましては、極端なケースにどういうことが考えられるのかということでちょっと思い浮かばないので、この辺に関しては恐らく取っ払ってもいいんじゃないかというような気もいたしております。

 自主的取り組みに関していいますと、今私どもの日本雑誌協会では、第三者機関としてゾーニング委員会というのを設けております。お手元に資料がございますので、ちょっとごらんになっていただければわかると思うんですけれども、これは、青少年に対して、性と暴力に関して余りに過激な表現とか行き過ぎた表現がある場合は、第三者がチェックして、当該出版社にその旨を通達して改正を促すというふうになっております。ですから、このゾーニング委員会は、設立して五年間、十分機能しております。書いてありますように、ゾーニング委員会のマークの表示の要請とか、これは今弁護士の内田剛弘先生が委員長でやっておられますけれども、各出版社に対してこのような通達が行きます。学識経験者も加わっております。

 それともう一つ、名誉や人権やプライバシーに関する異議申し立て。

 これは、出版社はそれぞれ編集方針が違いますので、編集方針に干渉することは今できませんし、してはならないと思っております。しかし、やはり雑誌というのは、往々にして人権侵害すれすれの記事もあります。やはり、世の中というのは、善悪の基準というのも含めて、なかなか難しい判断をしなきゃいけないケースがあります。雑誌も、そういう意味では、取材の過程で名誉毀損あるいはプライバシー侵害がないとは言えませんし、現実には起こしておって、民事訴訟もかなりな件数があります。しかし、人権侵害、人権侵害といっても、裁判にまでなっていくものは、これは我々も主張をきちっとその場ですればいいんですけれども、異議、抗議の段階では、何らかの形の統一した受け付け機関は必要になるんじゃないかということで、これも、今から四年前に雑誌人権ボックスというのをつくりました。

 この雑誌人権ボックスのパンフレットもお手元にあると思いますけれども、これに関しても、雑誌協会が責任を持って各出版社に抗議の通達を渡して、各出版社はその抗議の通達が来ましたら二週間以内に回答して、回答した中身を雑誌協会に必ず通告するというふうになっております。雑誌人権ボックスの設置に関しましては、私ども加盟社は全員一致して、これをつくろうということで決めました。

 このことも、お手元にありますように、各週刊誌なり月刊誌で告知をしております。今まで五年間で約六十件余りの申請がありました。もちろん、的外れのものもございますけれども、それでもって解決したケースもございます。ただし、国会議員の先生方とか、あるいは芸能人、スポーツ選手などの対抗措置が可能な方のものに関しては、訴訟になった場合はもう訴訟ということで取り上げておりますけれども、一般の方々に対してはこのような形での対応をいたしております。

 これを発展させて第三者機関としてやろうかという話は出たことはありますけれども、なかなかその辺のところは一致をしておりません、正直なところ。ですから、自主的取り組みに関しても、話し合う場はたくさん持っておりますけれども、話し合う場から何らかの形で言論にかかわる部分を管理したり、あるいは縛ったりすることは、今のところはちょっと考えておらない次第です。

 取り組みに関しては、現状はそのようになっておりますので、あと細かなところは、もし御質問があれば、私なり、雑誌協会の同席しております勝見なりが答えさせていただきます。

 私どもの主張ということで、約十五分、ちょっとオーバーしたような感じになりますけれども、一応私の意見陳述はこれで終わりたいと思います。あとは、質疑応答では真摯に答えたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

 どうもありがとうございました。(拍手)

中山委員長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

中山委員長 これより参考人に対する質疑を行います。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。加藤勝信君。

加藤(勝)委員 自由民主党の加藤勝信でございます。

 きょうは、参考人のお三方、大変お忙しい中御臨席をいただきまして、ありがとうございます。

 今いろいろお話がありましたけれども、まず、私どもが皆さんの扱っておられる雑誌というものを少し理解するために、少し雑誌そのものについて、二、三御質問をさせていただきたいと思うのであります。

 そもそも雑誌というのはどういうものを指すのか。広辞苑を引きますと、「雑多なことを記載した書物。」こういう書き方をされているわけであります。一般的に、週刊誌、月刊誌、あるいは季刊ですね、三カ月ごととか定期的な、こういう区分けもあると思うんですけれども、それ以外に、ジャンル的な区分というものにどういうものがあるのか。何か分類といったものがあれば、少しお教えいただきたいと思うんです。

山参考人 お答えいたします。

 週刊誌、月刊誌のほかに、コミック誌、あるいは児童誌、幼児誌、女性誌、それからオピニオン誌。オピニオン誌の場合は隔週誌がございますので、隔週というのは二週に一回出る、御存じかと思いますが、サピオみたいな雑誌をいいます。あと、趣味の方ではもう無数にあるんですね。釣りの雑誌から始まりまして、サライのような旅行雑誌や、モーターバイクの雑誌とか、ジャンル分けしますと、勝見さん、どのぐらいあるんでしょうかね。

勝見参考人 雑誌協会の勝見でございます。

 日本には雑誌の数というのは四千五百と言われております。先ほど山の方から説明いたしましたように、ジャンルに分けますと大体四十ぐらいに分かれておりまして、これは週刊誌とか月刊誌とは別に、やはり、オピニオン誌、総合誌、そういったところから、モノマガジン、コミック、そういったところでジャンルを分けてございます。雑誌協会は、四千以上ある雑誌のうち九十四社で構成しておりまして、そこで出している雑誌の点数が千二百を超えております。

山参考人 以上のようなことでいかがでしょうか。

加藤(勝)委員 ありがとうございます。

 今、お話がありました、広い意味で、ジャンルでいえば四十ジャンル、四千五百と、本当に多種多様ということになるわけでありますが、例えば一つの種類で、発行部数で多い部数というのは大体どのくらいなのか、あるいは平均でいうと大体どのくらいなのか、そのボリュームですね、その辺はどんな感じなんでございましょうか。

勝見参考人 きょうはお手元にはお持ちできませんでしたが、私どもで「マガジンデータ」という、雑誌といいますか、データ集を年に一回まとめてございます。それは六百誌を上回るデータ集でございまして、部数をすべて掲載してございます。

 その中では、やはり、一般週刊誌になりますと、四十万から大体六十万というふうな、平均しますと若干下回るかもわかりませんけれども。月刊誌でも七十万を超えている月刊誌もあります。また、女性誌、男性誌の創刊ブーム、この一年ぐらい創刊ブームが来ておりますが、最近の創刊誌は、大量部数を発行するというより、やはり、ターゲットメディアとしての少部数、例えば十万前後を発行して、できるだけそういう関心の高い読者をターゲットにした雑誌が比較的人気があるというふうな傾向もございます。

 雑誌によって、十万前後の部数の雑誌もあれば、百万近い雑誌もあるというところでございます。

加藤(勝)委員 ありがとうございます。

 では、最近、特に活字離れというようなことも主張されているのでありますけれども、そういう中で、随分雑誌の、今言ったジャンル的な意味での、例えばでありますけれども、かつての総合誌中心が、より趣味やそういうものがふえるとか、いろいろな動きがあろうかと思うんですけれども、最近の十年間あるいは二十年間を見たときに雑誌の世界でどういう流れがあらわれているのか、少し御解説いただけたらありがたいんですが。

山参考人 全体に出版はかなり細っております、正直言いまして。数字がちょっと具体的には出てこないんですけれども、一般週刊誌でいいますと、一般週刊誌が百万部ほど売れていた時代というのが、何度か山がありますけれども、もう過去のものになっております。今、やはり、正直言いまして、部数でいいますと六十万ぐらいがトップの雑誌になっております。

 雑誌というのは、御存じのように、これは生き物と私どもは言いますけれども、きのうまで出ていた雑誌が途端に休刊したり廃刊したりします。フォーカスなんかいい例ですよね。週刊宝石なんかもうありませんし。あしたも出し続けられるかどうかというとなかなか難しいところがありまして、簡単に、買ってもらわないともうそれで部数は激減します。ですから、雑誌というのは、新聞や放送と違いまして、割と真剣勝負なんですね、毎週毎週が。売れないと、編集長もすぐ更迭されますし、経営も判断を下さざるを得ないというふうになります。

 そういう意味では、出版界全体からいいますと、週刊誌、月刊誌、あるいは各ジャンルの雑誌は、総じてやはり細っておるのが現状だと思います。唯一、女性誌のジャンルで、若い女性向けの雑誌の一部が隆盛を、きわめているとまでは言えませんけれども、まずまず売れているという状況にもありますけれども、全体には、やはりインターネットの発達とか、二十代、三十代、四十代の雑誌離れといいますか、活字離れといいますか、そういう意味では、雑誌だけしかなかった時代に比べますと、はるかに媒体がふえておりますので、決して隆盛だとは言えません。

 以上です。

加藤(勝)委員 ありがとうございます。

 それで、今ちょっとお話が出ました、インターネットの絡みでありますけれども、これは今いろいろな形でインターネットを使った情報発信ということが出てくるんですが、雑誌というメディアから見たときに、インターネットというのはどういうふうにとらえられているんですか、何かその活用みたいなものを考えておられるんですか。

山参考人 今、インターネットと携帯ネットというふうに、コミックの配信だとか記事の配信とかというのを、携帯を通じてやったりしております。やはり、新しいメディアの出現によって、雑誌でつくったコンテンツを配信するというふうな新しいビジネスも起こってきております。ですから、コンテンツをつくる力はあるんですけれども、紙媒体だけではなくて、そういういわゆる電波媒体といいますか、インターネット、携帯に対して配信していくような方向性はこれからますます広がっていくだろうと思います。今まだ端緒についたばかりだというふうなところでしょうか。

加藤(勝)委員 ありがとうございます。

 何となく雑誌の状況あるいは感覚をつかめたような気がしながら先に進めさせていただきたいと思いますが、かなり広範なものであるということが一つわかったような思いがします。

 そういう中で、いわゆるマスメディアと言ったときに、通常、放送系と活字系というのが分類されるわけでありますし、活字系の中にも、今お話がありますように、いわゆる我々が平素読む新聞と皆さんの担当される雑誌と、大きく三つぐらいに整理できるのではないかと思うんですが、そうした放送系と新聞系とそしてさらに言葉でいえば雑誌系。先ほど一次報道云々というお話もございましたけれども、それぞれの役割、機能というものをもう少し、他のメディアに比べて雑誌というのはこの部分を特に強調しているんだ、この部分が特徴なんだ、あるいはこの部分が役割だと思っているんだ、その辺をどういうふうに認識されているのか、御説明願いたいと思います。

鈴木参考人 雑誌というのは、さっき山からもありましたけれども、放送や新聞との一番の違いは、定期購読というのは少しありますけれども、基本的には読者が決めるものであって、一冊一冊、毎号毎号、書店の店頭とか売店とか、あるいはコンビニの店頭とか、そういうところで手にとって、内容を吟味して、納得をして買ってもらう、そういうメディアですね。外見からいえば一番違うのはそこだと思います。要するに、買っていただいた時点で既に読者の評価があるわけで、雑誌の中身に読者の意向あるいは賛成、反対も含めて考え方というのが反映されて、それが購読につながり、淘汰される場合には淘汰されるわけだし、隆盛を呼ぶときもあるということで、外見としてはそれだと思います。

 もう一つは、さっきこれも山からありましたけれども、多様な切り口あるいは多様な光の当て方、多様な論点、そういうものを読者に提示するということがあります。雑誌自体の考え方というのを併記する場合ももちろんあるわけですけれども、世の中にはこれだけの多様な考え方がある、あるいは、同じ、一定の事実だと思われているものも、光の当て方、切り口を変えることによって違って見えることがありますね。そういう多様な切り口をいかに開発して読者に提供することができるのかということが雑誌の役割じゃないかと思います。

 以上です。

加藤(勝)委員 そうすると、今、速報性ということではなくて、すなわちあるテーマについてさまざまな角度から、またその角度が一つの特徴、切り口が一つの雑誌の特徴あるいは売り物、こういうことになってくるんだろうということであります。

 そういう意味で、ある意味では政治報道とか、それからまさに今回ポイントになる憲法改正というテーマあり、憲法改正もどういう事項が改正の対象になるかによってもちろん当然変わってくるんだと思いますけれども、こういうテーマについて、今言われた雑誌という立場から、ただいろいろジャンルがあるのでジャンルによって関心があるないはあろうかと思いますけれども、どのような取り上げ方が考えられていくのか。

山参考人 私、ここに来るに当たって、どういう取り上げ方をしているのかなということで、少し調べてはみました。

 雑誌で憲法を正面から取り上げて論ずるということは、月刊誌のオピニオン誌は取り上げております。具体的に名前を挙げますと、例えば「世界」が取り上げる見方と「正論」が取り上げるテーマがあります。これはもうある意味では反対なんですね。私どもの会社にありますサピオという雑誌が取り上げるテーマあるいは週刊金曜日が取り上げる憲法、これも違います。雑誌というのは、編集方針とか取り上げる論者によって全く視点が変わってきます。

 先ほどの話にちょっと戻りますと、一次情報が使命ではないというのは、雑誌は記者クラブがないんですね。警察にも、もちろん国会記者クラブにも入っておりませんし、全くそういう意味では、記者クラブ、官庁から直接もらう情報というのはないんですね。新聞、テレビで話題になっているけれどもこれは本当だろうかというところからまず疑いがあったり、当事者とか周辺から実はこんな話があるということを、やはり雑誌というジャンルは、大衆の中に、雑誌はこれは取り上げるだろうとか、こういう見方は雑誌はやるだろう、テレビや新聞は一次情報でこう流しているけれども実はというところを大衆はよくわかっているところがありまして、それで持ち込まれるネタとか、あるいは新しい切り口、新しい情報がもたらされることが多々あるんですね。

 そういうことに関しますと、憲法に関してはどうなのかと言われますと、憲法改正をテーマにした場合にはやはり論議の対象になりますので、これはオピニオン誌が今、さっき言いましたそういうオピニオン誌とか月刊誌がテーマにはしておりますけれども、主として、大学教授なり、例えば九条の会とか、それぞれ反対する意見の方とか賛成する意見の方々が、論者が論評しているのが多く見られる段階でして、週刊誌の特集記事などでの憲法の問題というのは今のところ余りございません。

加藤(勝)委員 ありがとうございます。

 次に、いわゆる編集方針ということをちょっとお伺いしたいと思うんです。

 放送の場合には、御承知のように放送法第三条の二の中に大きく四つございますけれども、ちょっと読み上げますと「公安及び善良な風俗を害しないこと。」「政治的に公平であること。」「報道は事実をまげないですること。」「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。」この四つが掲げられているわけであります。

 先ほどお示しをいただきました雑誌編集倫理綱領の中にも大きく言うと五つ書かれているわけでありますが、ざっと読む中で一つ違うのは、政治的に公平という文言が、放送法の方には明記されているわけでありますけれども、この雑誌編集倫理綱領の中にはそういう言葉では入っていない。「人権と名誉の尊重」という中で、(1)で真実を正確に伝え云々という表現はあるわけであります。そういう意味で、まさに政治的公平性というんでしょうか、あるいはこの放送法の第三条の二の四番目の「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から」、こういう論点というのは雑誌の編集においてどのようにとらえられているのか。

 あるいは、先ほどのお話では、各社ごとにかなり視点が違った形で同じものを取り上げておられる、こういうことで、かなり雑誌ごとに色合いというんでしょうか考え方というんでしょうか、明示的にか暗示的にかはともかくとして一つの流れがあるような感じもするわけでありますけれども、そういうことも含めて、そうした政治的な意味での公平性とかバランスとか、その辺を雑誌の編集の段階においてどのように配慮されているのか、御説明いただければと思うんです。

山参考人 はっきり言って、一次的な報道といいますか、そういうものをやるときに、事実を曲げたり、こういう現実があるにもかかわらずそれを曲げて書くなんということは、してはいけないし、それをすると全く虚偽の報道になるんですけれども、我々はそれでもって記事をつくるということはまずないんですね。

 ですから、政治的に対立した意見があれば、対立したものは対立したもの、政治的な見解が違っていれば違っているまま、それでどちらかの立場に立つ方もいらっしゃるし立たない方もいらっしゃるという意味では、公平性ということに関する部分では政治的にはないんじゃないでしょうか、はっきり言って。

加藤(勝)委員 ありがとうございます。

 そうすると、そういう意味で、編集する段階で、むしろ公平とかいうことよりは、それが、そうするとどういう視点に立って編集をされていくわけですか、ちょっと抽象的で申しわけないんですけれども。

 もちろん、事実は事実として的確にとらえる、今度それに対する論評、考え方、視点、これはいろいろな視点がありますけれども、その辺にどういう視点からいくかというのは、まさにそれが放送とか何かの場合は公平にバランスをとってということになるんでしょうけれども、例えばある考え方だけを中心に述べるということもあり得る、それも一つの使命だ、そういうふうにお考えになっておられるのか。

山参考人 そのとおりだと思います。

 むしろ、中間をとった雑誌記事は購買意欲に何にもつながらないんじゃないかという気がするんですね。要するにどちらつかずで、これは何を言っているんだと。Aさんはこう言い、Bさんはこう言い、読者はどう考えるだろうかというので終わったら、何だこの記事はということになるんじゃないかと思います。

 だから、非常にインパクトの強い情報なり、あるいはテレビ、新聞はこういうふうに伝えているけれども、現実にそういうふうな、果たしてこの裏にはどういうものがあるんだろうか、表向きこういうふうに皆さん理解しているかもしれないけれども実はこうなんだみたいなところですね。その辺で、やはり非常に切り込んでいく側面が、ある意味ひんしゅくを買ったり、スキャンダリズムになったり、センセーショナリズムと言われたりすることもあり得ますね、間々。はっきり言って偏っていますよね、見方にすれば。偏っていないと売れないし、偏っていないと報道する価値があるかどうかわからない、誤解を恐れずに言えばそういうことになるんじゃないかと思います。

加藤(勝)委員 そうすると、あるテーマで、こういう見方がおもしろいとか斬新だということだけでなくて、むしろ、こういう方向でいこう、例えばこのテーマだったら反対でいこう、そしてそれに必要な切り口でいこう、こういうような編集の仕方というのは当然あると思うんですね、意見は。その辺と、こういう雑誌社なりあるいは編集者の意見というものと、それから今言ったいろいろな切り口があるよということの切り口の多様性というか、それを読者に知ってもらう、理解してもらう、両方の点があると思うんですが、前者みたいな形で、編集者の意見というものはどの程度色濃く出しておられるのか。あるいは、これはもちろん雑誌社によっていろいろあると思うんですけれども、その辺についての、何か綱領とか基準というようなものをお持ちなのかどうか。

山参考人 雑誌というのは、端的に言って編集長が決めるものです。社の幹部がこうしろ、ああしろと言っても、編集長が首を縦に振らなかったら、雑誌は、今度は編集長の首を経営者がすげかえるしかないんですね。編集長の編集方針というのが、ある意味ではどの雑誌も恐らくかなりなパーセンテージを占めるんじゃないかと思います。編集長が方向性を決めて雑誌の性格が決まると言っても過言じゃないと思いますし、それが経営方針につながっているケースもあれば、恐らく、編集長のブレーンなり何らかの物の見方、考え方、あるいは自分の雑誌についている読者の吸い上げ方、こういうもので決まるんじゃないかと思います。

 読者というのは、やはり一度ついてしまうと、変えるということになるとかなり思い切った方針転換をしなければいけません。ついた読者には、その読者を裏切らないように、やはり編集方針も読者に沿った形にもなるし、読者に与えるという形にもなると思うんです。ですから、ある月刊誌が全く逆の論客をそろえて入れかえるなんということになったら、全く別の雑誌になります。週刊誌にしても同じようなことが言えると思います。

加藤(勝)委員 それから、ちょっと視点が違うんでありますけれども、先ほどもちょっとお話が出ました、よく雑誌に係る名誉毀損だとかプライバシー侵害というか訴訟が出されたり、あるいはその前の抗議の段階では人権ボックスを用意されるという話がありましたが、そうした最近の名誉毀損訴訟なんかを見ておりますと、いわゆる裁判官の方が、ちょっと取材が甘いんじゃないかとか、ちょっと人権侵害が行き過ぎてるんじゃないかということをストレートに指摘されたり、あるいはその賠償額も年々高くなっているというような学術的な話も少し読んだことがあるんです。

 そういう状況の中で、雑誌において、先ほどは、記事内容の真実性ということ、事実をゆがめることはないということのお話もあったんですけれども、ただ、実際に、今言った訴訟案件等を見ていると、こういった中身についていかがなものかという指摘もぽつぽつとある、あるいは最近ふえている。こういう状況の中で、雑誌を編集する中で、その記事内容の真実性というのをやはりきちんと担保していかなきゃいけない。出た後ではなくて、出る前に担保していかなきゃいけない。その辺について、今各社どのように取り組んでおられるのか。

山参考人 確かに、五、六年前に、名誉毀損の訴訟において金額が一遍に五百万、一千万にはね上がったことがございまして、それに対して各雑誌は、今のお話は週刊誌のことをおっしゃっていると思いますので、週刊誌の場合は、それぞれがやはり裁判で訴えられるケースに対して一定程度の萎縮はあったと思います。

 しかし、我々の主張そのものと裁判官の判断の間には、やはりある政治的な、法務委員会の動きがありまして、それで、低過ぎるんじゃないか、百万円訴訟と言われるようなものがあってはいけないんじゃないか、もっと名誉毀損、信用毀損、プライバシー侵害に対しては厳しくすべきだというやりとりがありました。その命を受けて、裁判所の方で検討委員会を開きまして、三方向あったんですけれども、それぞれ検討して、賠償金の額をつり上げるということが決定されたという背景はあります。そういうことがあって、我々も、訴訟に対しては真実性、あるいは取材源というものに対してはより厳密にやるようにはなってきていると思います。

 ただし、この間ちょっと問題になりましたけれども、取材源の秘匿に関しても、雑誌の取材源の秘匿に関しては認められなかったケースがあります。取材源の秘匿といいますのは、取材源を明らかにすることによってその方に非常に大きな迷惑がかかったり、要するに、取材源を明らかにするということが取材先の萎縮効果につながる。これはやはり物すごくあってはならないことじゃないかと思って、メディアがメディアとして社会的に使命を果たすためにはどうしても欠かせない要素であったんですけれども、それが裁判所によって厳しく判断されるというケースもあります。

 今のところ、確かに訴訟は各社抱えてはいるんですけれども、一般人からの訴訟というよりは、むしろ利害関係の対立する、芸能人やスポーツ選手、政治家の先生方の周辺、その辺のものがやはり割と多いんです。それで、一般の方からの訴訟というのはそんなには多くないんです。だから、我々としても、そういう問題に関しては、今は少し高額賠償の流れから落ちついてきているんじゃないかと思っております。我々も、それに対する対処はしておりますけれども、取材源の秘匿に関しては非常に大きな問題だと思っております。

加藤(勝)委員 ここまでは雑誌社としての御自身の責任でやる記事のことをちょっとお伺いしたんですが、同様に、雑誌の中には意見広告の部分がございますね。最近ではいろいろな団体、個人も、もちろん商業的な広告もありますし、意見広告ですね、こういったものもいろいろ出ているように思うんです。

 こういったものについて、それぞれこういう広告を出したいと言って持ってこられた、それについて、それを載せるか載せないかということに対して、何か一つの基準みたいなものをお持ちなのか。その辺ちょっと教えていただきたいんですが。

山参考人 お配りしております中に雑誌広告倫理綱領というのがございまして、ちょっと古いんですけれども、昭和三十三年五月に制定されております。これでやはり一定程度の基準には、非常に抽象的ですけれども、なっておるんじゃないかと思っておるんです。

 意見広告は難しいんですけれども、余りにも連発されたり丸ごと買い占めるみたいな動きがあった場合にそれに応じるかといいますと、雑誌の信用にもかかわりますので、これもやはり、雑誌及びこういう意見広告の乱発、例えば十ページ丸ごと買い切りでこんな意見広告が出たと、例えば憲法なんかの場合、買い取って一遍にやられるということになりますと、これはいかがなものかということで、審査の対象にはなると思います。

 それで、私、そういうケースに当たったことはちょっとないんですけれども、やはり、この広告倫理綱領に書いてありますように、雑誌の信用問題もなりますので、広告といえども、倫理あるいは真実性、こういうものを踏み外すことはやはり問題だと思っております。これは自主規制をすべきだというところで、お金でもって丸ごと買い取ってやられるということがもし憲法改正の是非をめぐって起こってきたりすると、これは十分審議する対象になるだろうし、恐らくそういうことはないんじゃないかと思いますけれども、ちょっと心配ではありますね、確かに。

加藤(勝)委員 それと、先ほど編集者の方がどういう雑誌をつくるかということについてかなりリーダーシップを持っているというお話でありましたけれども、この広告部分を含めて、例えば、編集する方の意見と全然違う意見広告を載せてくれというような話があっても、それは、何といいますか、意見が違うから載せるとか載せないというようなことは余りないというふうに考えていいんですか。

山参考人 それは、恐らく雑誌読者を裏切ることになるんじゃないかと思うんですね。論調と全く違った意見広告が載っている場合に、この意見広告をなぜ載せたのだということになってしまうんじゃないかと思いますし、やはり、それも編集長が、この広告はおかしいだろうということを判断になるんじゃないかと思います。ですから、広告といえども雑誌の一部ですので、これも、やはりその雑誌の特性、あるいは読者へのイメージ、あるいは読者の信頼、そういうものと不可分じゃないと思います。

加藤(勝)委員 ありがとうございます。

 それから、先ほどお話がありましたけれども、まさに憲法改正に関する国民投票運動におけるマスメディアに対する規制といいましょうか対応ということで、もちろん、原則としては自由な報道をしていただく、そして、そのことで国民の方が多様な意見をある意味では見たり聞いたりして、憲法を改正するテーマについてさらに理解を深め、そして最終的に判断をしていく。これが民主主義にとって大変重要な部分でありますし、当然だろうと思うわけです。

 そういう中で、やはり虚偽報道、イメージがわかないとおっしゃったわけでありますけれども、しかし、極端なことを考えればいろいろなケースも出てくるんじゃないかなと。あるいは、先ほど申し上げた広告等において、非常にリピーティングを何回も何回もかけるとか、やはりそういうような不法利用、こういった問題も当然ある。それに対する対応として、当初の議論では罰則までという話もあった。

 しかし、それではということで今自主規制という話が出てきているわけでありますけれども、先ほど自主規制の問題については真摯に受けとめられる、こういうようなお話も少し出てきたわけでありますが、ただ、マスメディアに対する規制と言ったときに、先ほどからずっと御説明いただいているように、放送あるいは新聞という一次報道と、そして雑誌のような多面的な意味から切り込んだいわゆる論評みたいな部分と、それぞれやはり質が違ってくる。そうすると、それに応じた規制も違う仕方があるのではないか。

 例えば、スイスを例にとれば、テレビやラジオには規制があるけれども新聞、雑誌には規制がない、こういうような状況もあるのでありますけれども、そういう意味で、雑誌の立場から見れば雑誌は一番規制がない状態だという御主張なのかもしれませんが、メディアごとの特性に応じた規制ということについてはどのようにお考えですか。

山参考人 正直言いまして、放送法の先ほどの範囲内で判断されるということで、放送でここで意見陳述された堀さんもおっしゃっていますけれども、私どもは、新聞にしろ雑誌にしろ、規制の法律がもしつくられて、こういうふうな基準に準じてやれということになりますと、それはやはり猛然と反対せざるを得ないと思うんです。

 それはなぜかといいますと、やはり雑誌の特性というものは、多様な言論、多様な論評があって、それを読者なり大衆なりいわゆる国民が、ああ、こんな見方もあるのか、こういう考え方もあるのかみたいな形で取り上げて初めて存在する意味があるというようなところがどうしてもありますので、先ほど言いました規制の仕方という質問に対しては、規制ということに対して、えっというような形で私は反論せざるを得ないんですね。

 雑誌に対する規制というのは、憲法の二十一条にあるような形で、民主主義を支えるのは一切の表現の自由を保障するという、戦争直後にできたとしても、戦争中の大政翼賛体制で言論が封殺されたという歴史がこの第二次世界大戦の悲劇を生んだんだということで生まれたものがやはり到達した、人類としては非常に大きな、到達点としてはかなり高いかもしれませんけれども、そこは重要な高みだと思うんです。

 ですから、規制となじまないと思うのは、集会、結社の自由とか、信教の自由、学問の自由と同じように、言論、出版及び一切の表現活動はこれを保障するという、保障という重みがあると思いますので、私は、この規制というのは、もし何らかの形が決まった場合には、それはちょっと違うだろうということで言わざるを得ないと思うんです。

 ですから、新聞の規制も反対ですし、雑誌の規制も反対です。総論ではそうです。

加藤(勝)委員 ありがとうございます。

 それでは、時間もなくなってきました。最後に一問お願いしたいと思うんです。

 あるテーマについてさまざまな論評をする。当然、そうするとこの憲法問題でも、大学の先生とか公務員の方とかという立場もある。あるいは外国からのさまざまな意見、こういうものをどんどん一つの視点として取り上げていくということになる。今この議論の中で、公務員等については地位利用による国民投票運動を禁止すべきではないか、あるいは外国人に関しては組織的な国民投票運動、あるいは国民の投票行動に重大な影響を及ぼすおそれのあるような運動についてはやはり抑制すべきではないか、こういう考え方があるわけでありますけれども、その辺について、今申し上げた多面的な観点から取り上げる、そういう雑誌という立場から見て、そういう規制について何かお考えがあればお示しをいただきたいと思います。

山参考人 本当はこういうことに関して議論をしてくるべきだったんですけれども、正直言って、今雑誌協会ではそういう法案の中身の議論はしておりません。

 それで、今お話しになったことに関しても、かなり批判的な雑誌もありますし、公務員の地位利用に関しては、全くこの問題はおかしいと言う雑誌もあります。ですから、雑誌によってそれぞれの立場で意見を出す、表明するというレベルでしかお答えできないと思います。私どもの日本雑誌協会としては、それに対して統一見解は持っておりません。

加藤(勝)委員 どうもありがとうございました。

中山委員長 次に、北神圭朗君。

北神委員 民主党の北神圭朗でございます。

 本日は、雑誌協会の皆様方に貴重なお話をいただきまして、まずは感謝申し上げたいと思います。

 本日は、私、先ほども雑誌といわゆる放送の話が出まして、先週も当委員会で放送協会の皆さんの御意見も聞いたり議論をしたりしたわけでございますが、雑誌と放送の最も大きな違いの一つは、放送の方は放送法という法律によってある程度公正中立性とか政治的な中立性とか、そういったものが担保されているというか、縛りがかかっている。一方、雑誌の方はそういった法律がない。いろいろ内部的な、第三者機関とかそういったものはあるというふうに思いますが、そういったことを踏まえていろいろお話を伺いたいというふうに思います。

 それで、雑誌はいろいろなジャンルがあるというふうにおっしゃっておられますが、特にこの憲法改正、あるいは私たち民主党は国民投票法案は憲法だけじゃなくていろいろな喫緊の政策課題、そういったものも対象にすべきだというふうに主張しておりますが、その中で、特に私は個人的に、問題となり得るのは週刊誌かなというふうに思っております。本日は、協会の立場であられるというふうに思いますが、特に週刊誌について、皆さんの経験とかそういったものを踏まえていろいろお聞かせ願えればというふうに思っております。

 まず、週刊誌というものは、グラビアから芸能ネタから、いろいろなものが雑多に入っているわけでございますが、きょう問題にしたいのは、政策的な記事とか憲法改正に関する記事、そういった性質の記事の部分なんですが、そういったことについて週刊誌というのは非常に微妙な位置づけだと思うんですよ。

 というのは、外国にも、広範に読まれて、かつ、いわゆるオピニオン雑誌でもないし専門性の高い雑誌でもない、新聞でもない、一方でスポーツ新聞みたいな、そういった位置づけでもない。アメリカに、例えばナショナル・インクワイアラー、ああいう雑誌がありますよね。宇宙人の死体が車のトランクで見つかったとか、エルビス・プレスリーはまだ生きているとか。

 そういった記事を載せている雑誌は非常に限られた人たちが読むし、みんな一定の距離感を持ってその記事を読むんだと思うんですが、日本の週刊誌というのは、官僚の人たちも読んでいるし、国会でも週刊誌のネタをベースに質疑をしたりする。一方で、「中央公論」とか「世界」とか、そういったまじめな、まじめななんて言ったら失礼ですけれども、やはりちょっと距離を置いて読むわけですよね、週刊誌の方は。

 それは、もちろん週刊誌の一つの、ニッチを求めて、そういった戦略的にやっている部分もあると思うんですが、問題は、どういうふうに位置づけを考えているのかという具体的な意味合いで、公正中立というのは、例えば新聞とか総合雑誌とか、そういったところは多分比較的厳格に考えておられる。週刊誌の方は、まあこのぐらいだったら許されるんじゃないかとか、ほかの新聞とか総合雑誌に比べて差別化を図っていると思うんですが、その辺、どういうふうに週刊誌の方々は考えているのかなということをお聞きしたいと思います。

鈴木参考人 今おっしゃったことが当たっているところは多くて、週刊誌というのは世界に冠たるといいますか、ほかに類を見ない。週刊誌といっても総合週刊誌ですね、週刊誌というジャンルは、実際には一週間に一回出るものはすべて週刊誌ですから。ただ、日本で言う週刊誌というのは、今おっしゃったような、想像されているような数誌だと思うんですが。

 週刊誌が提供しているものの一つには、さっきちょっと申し上げたこととも関連するんですけれども、物の見方というのがありますね。週刊誌的な、週刊誌に載っているということで皆さんが共通の理解を持つ。プラスの部分もマイナスの部分もあると思うんですが、皆さんもよくそういう発言をされる。それだけ週刊誌が今までこの社会で果たしてきた役割が大きいんじゃないかなと私は思っています。

 週刊誌の中にさまざまな意見が載る、それは月刊誌も含めて、さっきちょっと申し上げたように、右から左まで、あるいは前から後ろから、いろいろな形で意見が載りますけれども、一つは、今のようなこういう憲法問題について語るときは、だれがどういう意見を持っているのかということを明確にする必要があると思います。だれが言っているんだ、あるいはだれがこういう主張を持っているんだ、あるいはどういう集団がどういう考えを持ってこういうことをしているのか。そういう部分に関してはきちんと、だれがということが必要だと思います。

 それから、週刊誌の持っているもう一つの側面としては、週刊誌にはそれぞれの主張がありますね。週刊誌あるいは出版社というのは報道機関であり言論機関なわけですから、自分たちが言明すべきことはきちんと言明をしていこう、それについては我々の意見である、こういうふうにしていただきたい、あるいはこういうことを期待するということはきちんと各誌述べていると思います。

 それで、そういうものが明確でないと、記事というのはどっちつかずになるのか、あるいは論点が明確でなかったり、もっと言えばおもしろくなかったりということで、読者の鉄槌が下るというのか、買ってくれなくなるわけですね。そこが、さっき申し上げたように、週刊誌が毎週毎週の試験を受けているというのか、あるいは毎週毎週点数をつけられているゆえんだと思います。

北神委員 ありがとうございます。

 多様な論点あるいは事実関係をはっきりさせる、さらには週刊誌それぞれの、雑誌の主張というものをしっかりとするというようなお話でしたが、私が特にお聞きしたいのは、言論の責任という部分があると思うんです。そして、新聞とかほかの総合雑誌みたいなところはかなりそういう緊張感みたいなものが見られるんですけれども、週刊誌について、別に私、週刊誌に取り上げられたとか、ここで復讐を図ろうとか、そういうつもりは全然、全くそういう経験もないんですが、そういうことではなくて客観的に。

 というのは、これは日本の言論の一つの特性だというふうに思っておりまして、週刊誌だけじゃなくてテレビとかでも、お笑い芸人とかあるいはスポーツ選手までも政治に関していろいろコメントするというのは、余りほかの国では見られないんですよ。

 これは私はビートたけし現象というふうに言っているんですけれども、お笑い芸人が政治的なコメントを例えば何か発言をして、政策的な意見を述べたときに、それがある期間を経て、結局それは間違っていた、間違った判断だった、そういうことが判明したときに、その言論の責任というものを追及しようとすると、いやいや、おれはお笑い芸人だ、君は何でそんなまじめにおれに責任を追及しようとしているんだ、こういう非常に言い逃れられる、無責任な部分が出てくると思うんですね。

 週刊誌はそこまでとは思わないんですが、どちらかというと雑誌の中でそういった部分が強い。これはもちろん、皆さんおっしゃるように表現の自由というものは極めて大事なことだし、それを保障するというのは大事だというふうに思うんですが、そういった微妙な部分について週刊誌にはやや緊張感がない部分が見られるんではないかというふうに思うんですが、そういったところについてどういうふうにお考えかというのを教えていただければと思います。

鈴木参考人 テレビのことは私は答える立場にありませんので。ただ、今の感想として言わせていただくと、スポーツ選手の国会議員の方は発言権がないのかなというんで、皆さん大変だろうなというのは感想として持ちます。彼らは発言には責任を持っていないというふうにも受け取れますので、それはちょっと今の感想なんですけれども、雑誌というのはそういうふうにいろいろな考え方を持つということの証左かもしれません。

 今の責任感とか緊張感ということでいえば、週刊誌というのは、多くの人に読んでいただくために、言ってみれば平仮名で書いているようなところがあります。つまり、漢字で書いてあれば難しくて正しいことであって、平仮名や片仮名で書いてあることは真実を伝えていないのかということにもつながると思うんです。

 これは随分昔に教科書で読みましたけれども、野口英世の母の手紙なんというのは、片仮名と、漢字も入っていましたかね、そういうもので、読まれて実に大きな感動を与えるというふうに教わった覚えがあります。それと同じで、週刊誌というのは、たくさんの人に伝えるためにさまざまな工夫をして、それは写真を使っていたり、あるいは、時に漫画を使っていたり、風刺をしたり、相手に自分の真意を伝えるためにさまざまな工夫を凝らします。それをもってまじめであるかないかという御判断は、読者にゆだねるしかないわけです。

 それから、責任ということに関していえば、新聞あるいはテレビと決定的に違うところがありまして、すべての週刊誌は、ごらんになっていただけばわかりますけれども、毎号後ろに編集人と発行人の名前を載せております。要するに、その人が責任を持つということですね。その号についてのすべての責任はその二人が持つわけですから、これをもって無責任だと言われるのは非常に、なかなかそれが伝わっていないのかなということは考えてまいりたいと思います。

北神委員 わかりました。その発行人、編集人のいわゆる個人的な責任が明確になっているという部分は私も勉強になったというふうに思います。

 別にきょうは週刊誌批判をするつもりは全くなくて、こういった憲法の問題で、あるいは重要な政策課題で、先ほど山参考人の方から、なかなか言論の自由を濫用する想定ができない、そういう具体的な想定ができないというお話がありましたが、極端な話をすれば、例えば憲法改正をするという記事があって、そこに何か戦争の場面の写真を載せたり、そういったことも一つの誘導的な意図としてあり得るわけですし、逆に言えば、憲法を改正しない方がいいという立場だったら、すごく田園的な写真がそこに載っていたり、これは写真だけの話ですが。そういった意味で、ある意味では非常に短絡的な結論というものを載せるということは、一つ読者の意見形成をゆがめる可能性も出てくるというふうに思うんです。

 そこは別に厳密にどうするか、法的にやるかどうかという話はいろいろあると思うんですが、具体的に、週刊誌の中でそういったことに対して、特に憲法の問題というのは、今まで日本の戦後の歴史の中あるいは日本の歴史の中で国民投票にかけるという事例はなかったわけですから、ある意味では国の形を決める話であり、国家権力をいかに制約するかという極めて大事な話の中で、今の時点で憲法の話が議論の俎上にのっているところで、雑誌の編集者の中とかあるいは会社の中で、これについてどういう考え方で取り組んでいくかということは議論されているのかどうか、お聞きしたいと思います。

山参考人 私が知っている限りはほとんど聞いたことがございません。週刊誌というのがこういうテーマを取り上げるときには、先ほどちょっと、憲法を改正されるとあなたも戦場に行かなければいけなくなるという考え方は事実をゆがめるのか否か。これは私ども、そういう記事があったとしても事実をゆがめているとは思いません。例えばそういう編集方針があったとしても、それも一つの見方です。憲法改正、自衛軍というのを、例えば自民党の五十周年の改正草案の中で九条二項を削除して自衛軍ということ、これは別に、自衛軍というのがすぐ戦争ということで結びつくかどうかというと議論の分かれるところですし、それは自衛軍を創設するということは戦争につながるじゃないかという考え方だってあるわけですね。

 それで、戦争というので、今度は、今イラクに派兵されている自衛隊の問題なんかでも、これに関しても、私どもからすれば、もっとちゃんと報道しろよということを言いたいですね。物すごい報道規制があるような気がしてしようがないし、それに関して週刊誌はおかしいじゃないかと何度も何度も書いていますよね。実際に、イラクの自衛隊は何をしているんだと。

 それから、犠牲になられた外務省の方々についても、あの報道はアメリカと日本のできレースじゃないのかという記事があった場合に、それはそういう見方があっても構わないわけですね。犠牲になられたのは、何で殺されたのかということに関しての情報が、例えば米軍の誤射ではないのかというようなのが何度も記事になりましたけれども、そういうものも一つの情報としてもたらされた場合には何らかの形での取材を始めますよね。それで取材を始めた結果、そういう疑いもあるという記事をつくるのは構わないと思います。

 それと同じように、憲法改正に関しても、これは、例えば私の手元にありますけれども、週刊文春だ、週刊新潮だ、現代だ、ポストだと、それぞれが憲法改正に対しての、どんな論者を選ぶのか、この改正されることによって何がどうなるのかということに対するさまざまな見方の記事をさまざまな方法で報ずることは何らゆがめることにならないと思いますけれども、そこのところは私は先生とは全然違います。

北神委員 私もいろいろな意見があっていいというふうに思うんですよ。

 それで、さっきの話だったら、我が党も実はメディア規制というのは設けない、基本的に自由にするという立場なんですね。その一つの理由として、今おっしゃったように、例えば憲法九条を改正して即戦争状態になるというようなことが虚偽かどうか、あるいは公正かどうかということは、ある程度の期間を置かないと、なかなか一義的には判断できない、それはおっしゃるとおりだと思うんですよ。ただ、その結論に至るまでのある程度の論理とか、そういったものはやはり非常に大事だと。

 そして、申し上げたいのは、そういった結論とか意見とか、そういったものはいろいろあっていいというふうに思うんですが、センセーショナリズムにならないかどうか。この部分が、先ほど申し上げているように、特に私が感じる感じでは、週刊誌の場合、非常に微妙な部分がある。

 だから、そこをぜひまたお聞きしたいんですけれども、どこからどこまでセンセーショナリズムになるのかというのは非常に難しい抽象的な話だというふうに思いますが、恐らく、週刊誌の記者や編集長の中でそこの区分というものに対する考え方とか、そういったものがあるのではないかというふうに思うんですが、そこはいかがでしょうか。

山参考人 ありません。

 センセーショナリズムだと思って、もし、オオカミ少年じゃありませんけれども、そういう報道を繰り返すと、やがて読者は離れていきますよね。おまえ、何をやっているんだということで批判が来ると思います。それぞれの編集長なり編集者なりが同じことを繰り返して、読者がそれを信じるというふうな意味でいいますと、やはりこういう記事のつくり方に対しておかしいと思ったらどんどん離れていくわけですね。

 先生おっしゃるような意味でいいますと、割と週刊誌は残酷なんですよ。正直言って、売れるということが読者の支持があるというふうに考えるとすれば、この読者の支持は簡単に離れますし、ある記事で支持がついた場合は、その連載の記事とか追及の記事が非常に歓迎される場合は、社会はぜひこれはもっと追及してほしいと願っているというふうに見るわけですね。

 ですから、編集長の判断によって、この記事のインパクトといいますか影響力といいますか、そういうものがどのようにあるかということは各編集長の判断なんですね。それで、その編集長の判断がずれている場合、荒唐無稽だとか、あるいは、こんなことはまさかないだろうとか、こんな記事のつくり方はおかしいということになりますと、それは読者の反応にすごく端的にあらわれるものなんです。ですから、さっき生き物と言いましたけれども、簡単に休刊、廃刊ということもあり得ます。

 ですから、我々としても、さっき緊張感が非常に足りないんじゃないかということをおっしゃっていましたけれども、緊張感はかなり大きいものがございます。編集も、正直言って、週刊誌の編集部に何年かいますと、どこか体を壊します。それぐらい忙しいですね。ですから、その辺から考えますと、割と少人数で、限られた期間に集中的な取材をしますから、やはりなかなか緊張感のある職場だと、私も二十年いましたけれども、そう思っております。隣の鈴木は編集長も経験していますので、かなりそれを経験していますので言えると思うんですけれども。

 答えになっているかどうかわかりませんけれども、そのような感想を持ちます。

北神委員 皆さんのお話を伺っていると、責任の問題というのは基本的には市場原理だということですよね。そこの記事で信頼を失ったりしたら読者が離れて廃刊に追い込まれるとか、そういったことだというふうに思います。

 それで、緊張感がないというのは、決して皆さんが一生懸命やっていないとかそういう意味合いでは全然なくて、営業的には非常な緊張感があるというふうに思いますが、言ってみれば、私が申し上げたいのは言論の責任という部分について緊張感があるかどうかということでありまして、それも断言するつもりはないんですよ、私も。皆さんが持っていないということを申し上げるつもりはないんです。

 一つ、言論の責任の部分でぜひ皆さんにむしろ教えていただきたいのは、よく報道の中立性とか公正性とかいうふうに言われておりまして、特に新聞なんかは割と中立な立場を意識的にとろうとする。これは一見すごくいいようにも見えるんですが、実は、その中立の名のもとで体制擁護をしたり、あるいは中立の名のもとで反体制的な誘導をしたり、いろいろ微妙な操作というものができるというふうに思っているんですね。

 先ほども、雑誌の編集長が非常に強い権限を持っていて、編集長の方針というものが、絶対的まではいかないかもしれないけれども非常に重要だというお話もありましたが、私が思うに、例えばイギリスのロンドン・エコノミストという雑誌とかあるいは新聞でもアメリカのニューヨーク・タイムズとか、こういったところは割と、例えば大統領選挙でも、我々は、ニューヨーク・タイムズは共和党を支持するとか、あるいは民主党の候補者を支持するとか、明確にするんです。

 これは中立性に違反するように見えるかもしれないけれども、実は、その方が読者も、ああ、この雑誌はこういう立場なんだ、この雑誌は憲法改正反対なんだということが明確にわかっていれば、その中に含まれている記事についても割と距離感というものを調整できるし、割と正当に判断する手だてにもなる。

 もう一つ、利点として申し上げれば、はっきりとスタンスを明確に打ち出していてそれが後になって結果的に間違っていたときには、そこに具体的な言論の責任というものが生じると思うんですよ。つまり、ニューヨーク・タイムズの例で言えば、我々はクリントンを推したけれどもクリントンは結局こういう失敗をして国民の支持を失ってしまった、我々は当初推していた理由はこうこうだったけれども、結局ここでこういう点について判断を間違えて、我々もある意味では判断の間違いをしてしまったという意味で、はっきりと社論を前面に出していた方が言論の責任というものが明確になるという部分があると思うんです。

 その点について、まず、週刊誌が実際に、例えば憲法の問題について統一した見解で、いろいろな雑多な、評論家を使って意見を載せるんじゃなくて、統一した、改正賛成、九条改正賛成だといった一貫した方針のもとで編集をするのか。そして、する場合にせよしない場合にせよ、その方が公正中立とか言論の責任の観点からいいのかどうかという皆さんのお考えをちょっと伺いたいというふうに思います。

山参考人 ニューヨーク・タイムズ、ロンドン・エコノミストという雑誌が持っている社会的なオピニオン誌としての受けとめ方、あるいはその言論機関としての役割、これは明らかだと思います。これはもう社会的に認知されておると思いますね、その雑誌はそういう立場の雑誌だと。

 日本の週刊誌は、言論機関としての認知は、されている要素もあると思うんですけれども、娯楽性とか、あるいは中の記事に関する信頼性あるいは信用性、あるいは中の記事をどういうふうにとらえるかといった場合に、言論機関として受けとめられている要素というのは、一部はあると思いますけれども、言論機関としてこの雑誌のこの方針は、ニューヨーク・タイムズと同じように、世の中に対して真っ当な形、真っ当と言うと語弊がありますけれども、世の中の方向性を決めるというふうな形での受けとめられ方はしておらないと思うんです。

 だからといって言論機関としての責任がないのかといいますと、そうじゃないんです。つくっている記事記事に関しては、その記事がもし人を傷つけたり、あるいは社会の方向性に対して、社会のやはりある常識とかあるいは世論に対して全くのでたらめなことをやったり、とんでもない侵害をしていた場合には、その責任問題には当然つながっていきます。

 ですから、言論機関として記事の特徴は、さっきもちょっと言いましたけれども、例えばテレビではこう放送されて新聞ではこういうふうな見方をされているけれども、いや、それは一面であって、本当に、これをやっているこの方は幼い日はこういうふうなことをやっていて、こういう問題点もあるよみたいなことを書いたり記事にしたりするわけですね。

 ですから、さっき、大衆ジャーナリズムと言ったらちょっとあいまいになりますけれども、興味本位な部分もあるんです。要するに娯楽的な要素もあります。あるいは、さっき私がちょっと言いましたけれども、スキャンダルを歓迎するような傾向にある大衆の要望、欲望にこたえるような要素もあります。

 ですから、正面から言論に対置するかどうかとなりますと、編集方針としてそういう編集長もいるし編集者もいると思いますけれども、日本の週刊誌の場合はそういう百貨店といいますかいわゆるデパートのような、いろいろなものがあることによってどの嗜好でもって買うか買わないかを判断されたりするわけであって、言論の方向性でもって買うということは、大きな枠ではあると思うんです。でも、それは私はちょっと、ニューヨーク・タイムズと比較して余りにもいいかげんではないのかと言われたら、そういう要素もあるだろうなとしか答えようがないです、率直なところ。

北神委員 率直な御意見、ありがとうございます。

 冒頭申し上げた週刊誌の微妙な位置づけというのはまさに今言われたことで、政策的な発信もしているんだけれども、一方では娯楽性とか読者が求めているようなスキャンダルな部分とかそういった部分も含めているという意味で、非常に日本独特の言論形態ですので、そこが一番私なんかはちょっと懸念しているところもあるんですけれども。ただ、別にきょうは何も結論を出すつもりもございませんし、率直にいろいろお話をしたかったので、いろいろ無礼な発言もあったと思いますが、他意はございませんので、きょうはいろいろと勉強になりまして、ありがとうございました。

 ちょっと時間、早目かもしれませんが、終わりにしたいと思います。ありがとうございました。

中山委員長 次に、斉藤鉄夫君。

斉藤(鉄)委員 公明党の斉藤鉄夫でございます。

 きょうは三人の参考人の方、本当に貴重な御意見をお聞かせいただきましてありがとうございます。早速質問に入らせていただきます。

 山参考人、最初に憲法二十一条を引かれて御意見をお述べになりました。ここは憲法調査特別委員会ですので、憲法から入られたというのに大変感銘を受けたわけですけれども、言論その他一切の表現の自由についてはこれを保障するという憲法二十一条は、その前の憲法二十条、信教の自由とともに最も大切なところだと思っております。

 自民党さんと民主党さんの質疑を聞かせていただきまして、その自由と、逆に責任ということのバランスの問題かなと思うんですが、読者の側からいいますと、最近、メディアリテラシーという言葉がございます、出版、報道も、それをお金と時間をかけて買う読者も、ある意味では一体としてそのレベルをつくっているわけで、読者の側のメディアリテラシーということも本当に重要になってくると思います。

 ですから、理想的には、読者がメディアリテラシーをきっちり持って、しかし、報道や表現、出版については一切の規制がない、自由であるということが最も理想的な社会だと思いますが、現実には成長過程の子供もいますし、大人でも、ある悪意を持っている人たちも存在しますので、読者のメディアリテラシーに一〇〇%信頼を置いていくというわけにはいかない。そのためには自主規制等の方策も考えていただかなくてはいけないというのが現実の姿だと思いますが、出版をされる側にいらっしゃって、いわゆる国民のメディアリテラシーが、今、徐々に日本国憲法六十年の中で一つずつ向上している、私自身はこのように思いますけれども、この点についてどのようにお感じになっているか。

 もう一度整理しますと、その責任と自由の線引きがどこら辺にあるのか、その線引きの一端を担っている我々読者の側のメディアリテラシーについて、どのようにお感じになっているかということについてお伺いをしたいと思います。

山参考人 大変難しい問題だと思います。

 メディアリテラシーというのは、私どもも、特に放送に関してのメディアリテラシーについての本は何冊か読んだことがありますけれども、雑誌のメディアリテラシーということになりますと、成熟した社会の成熟した大人がどのようにこれを判断するかということが問われた時期がありまして、私どもは経済的にある程度満たされた状態で欲望あるいは情報に対する感度みたいなものが磨かれてきて、それでそれに対する反応が起こってくるというふうに考えますと、日本というのはある程度のレベルまではもう達しているというところに来ていると思います。ですから、私は、雑誌も読者を決してばかにできませんし、はっきり言って、読者の方も雑誌を疑いつつ信じ、信じつつ疑いというふうな形でかなりなところリテラシー的な要素が生まれてくるというか、要するに醸成されてきているんではないかと思っておるんですね。

 ですけれども、さっきおっしゃいましたように、まだ未成年、青少年に関しての性の情報あるいは暴力の情報が一方的に発せられるときには、判断ができないまだ未熟な世代に対しては私どもでそういう第三者機関を設けてやらなきゃいけないんじゃないかというふうには考えておりますけれども、もう一つ、そういう大人の世界に関しては相当成熟してきておるんではないかというふうに思っております。

 それに対する我々の方がおくれているのではないかという気もしておりますけれども、雑誌協会でこのメディアリテラシーについて論議をして、ある種の判断をしたことはございません。

斉藤(鉄)委員 私の個人的な感想ですが、この日本の社会は、そういう意味ではメディアに対しての判断といいましょうか、結構国民はみんな賢くて、きちっと判断しているなというふうに私は個人的には感じているということを申し述べさせていただきたいと思います。

 次の質問に入らせていただきます。

 これは、先ほど加藤委員からも御質問が出ました、ダブるかもしれませんが、実は私は超党派の文字活字文化振興議員連盟に入っておりまして、昨年、文字・活字文化振興法を超党派でつくったところでございます。

 やはり活字というのは、メディアの中でもみずから考える力を養うという面で映像メディアと違うところがありますが、この映像メディアとの差をどのようにとらえていらっしゃるか、また、同じ活字の中でも、いわゆる新聞等との差をどのようにとらえていらっしゃるか、この点についてお聞きしたいと思います。

山参考人 今の日本で著作権法というのがございまして、これで映像、放送に関しては著作権がある程度認められておるんですけれども、出版、雑誌に関しては、出版権というのは一応項目はございますけれども、現実には、著作権者、作家、あるいは画家とか、そういう方々との契約がない限りは出版権というのは発生しないし、大した力になり得ない。そういう意味では、出版、文字・活字文化に関する法的な庇護といいますか、ある種の庇護は、ゼロとは言いませんけれども、今ほとんどないに等しいんですね。

 先生が文字・活字文化振興法の、一員だとおっしゃいましたので大変私どもも心強いんですけれども、ありがたいと思うんですけれども、雑誌とか出版の場合は、さっき鈴木が申し上げましたように、新聞の宅配制度みたいなものがございませんので、買ってもらって何ぼなんですね。ですから、景気に左右されると言いますけれども、お金を自分の懐から出して、読んでみようかと思って三百何十円出す、週刊誌の場合はそうですけれども、三百円以上出さないことには何も始まらない、読んでももらえないということになります。

 それで、これは映像もそうですけれども、放送も今ほとんどコマーシャルで成り立っていますし、NHKはもちろん違いますけれども、そういう意味では、金銭をみずからの意思でもって出すことによって初めて始まる。あるいは図書館というのもございますけれども、やはり産業として出版社が成り立つためには、買ってもらわないことには始まらないというところがあります。そういう意味では、商品価値と同時に、さっきの民主党の方の質問と同じようになりますけれども、営業的な責任ということばかり強調していたようなんですけれども。

 言論としての責任と同時に、営業としての責任も、これは極端に言うと、新聞記者はそんなに自分の記事が売れたかどうかということにならないかもしれませんけれども、雑誌の編集者なんかの場合、常にそういうものと背中合わせで問われているところがございまして、やはり買ってもらう、影響力を与えて支持を受ける、インパクトのある記事をつくらないことには、次の週も買ってもらえなくなるということがございまして、その辺の緊張感といいますか、営業と編集というものがある面では一体になっているような要素がございまして、そういう責任というのは、むしろ産業としての出版に従事している者にとっては割と大きいんですね。ですから、チャンネルをひねるというか、テレビのように帰ってぽっとつければ見られるというものでもございませんし、新聞のように宅配もないという、その辺の、出版産業に携わる者の責任と緊張感というんですか、そういうものは常に感じております。

 情報の差ということからいいますと、はっきり言って、放送と新聞のように記者クラブなり一次情報を得られるエリアを持っておりませんので、そこから先が勝負なんですね。ですから、一次情報で今こういう委員会があってこういうことがしゃべられた、こうだということを流しても、これはもう新聞と放送がやっておりますので、だからどうなんだと、次の、そこから初めて企画がスタートするという意味では、全く異なった媒体、違った媒体だというふうな要素もあるんですね。ですから、差ということの答えになっているかどうかわかりませんけれども、メディアとしての立場の違いと同時に、報道機関としての違いもその辺にあるんではないかと思っております。

 以上です。

斉藤(鉄)委員 先ほどのお答えとはまた別の角度からお答えいただきまして、大変参考になりました。ありがとうございました。

 この文字、活字ということについて、もう一点、きょうの論点からちょっと外れるかもしれませんが、最近、再販制度、これは新聞ですけれども、及び特殊指定、これは新聞、教科書ですが、この見直しについて今大きな議論になっておりますが、この点についてお聞かせ願えればと思います。

勝見参考人 先生の御質問ですけれども、私ども雑誌協会としましても、出版団体の間で再販研究委員会という組織もございますし、雑誌協会は雑誌協会で再販問題に対しましてはいろいろな弾力運用をしていくというふうなことを進めております。基本的には、再販を維持するというふうな考えは変わっておりません。

斉藤(鉄)委員 ありがとうございました。

 それから、山参考人、意見陳述の最初に、きょうこの委員会に出ること自体に批判があったけれども、批判は批判として受けとめてというふうな御発言がありましたが、どのような批判があったのか、もし差し支えなければお聞かせ願えればと思います。

山参考人 批判という言い方が当たるかどうかわかりませんけれども、親しい新聞記者、あるいは言論に携わる方々から話を二、三聞きましたら、六十年間つくられていなかったこの憲法改正国民投票法案というのが、急にという考え方をすればちょっと語弊があると思います、これは委員会の議事録をずっと拝見しますと、本当に精力的に、毎週のように積み重ねて先生方努力されているのは非常によくわかるんですけれども、やはり昨年の衆議院の与党の圧勝を受けた形で急速にこの機運が高まって、改正への一里塚といいますか、重要な要素ですよね、この重要な要素の国民投票法案が決められるようになったと。そういうことになりますと、この審議に加わることは、ある面では改正への足がかりをつくることになるんではないのかと。もう既に流れが決まっているものに、参考人として参加しても余り意味がないんじゃないかというような意見もありました。

 私は、個人情報保護法の成立のときに、参議院に最後に行ったときに、これはちょっと話がずれますけれども、正直言って、個人情報保護法に雑誌協会は一貫して反対してきました。それはなぜかといいますと、個人情報保護法という法律を、民間に、事業主といえども適用した場合には必ず取材に制限が加わるんではないかということの危惧がありました。それで最後まで反対をしておったんですけれども。

 それで、参議院へ行ったときにも、私が話している最中でもほとんど聞いていらっしゃらない先生方が多くて、何か非常にむなしい思いをしました。城山三郎先生はもうお帰りになりましたし、参考人として数時間いろいろ質問に答えたんですけれども、そのときも、結局はメディアは適用除外だということで、メディアの適用除外の項目に出版社という名前を入れてくれということを言ってきたんですけれども、最後は附帯決議の中に加えられるだけで、やはり条文は変わりませんでしたので、なかなかこういう審議というのも反映されないものだなということをそのときにもちょっと思ったんです。

 まあ、新聞記者と話しますと、国会のことは詳しいので、今度のような流れの中で国民投票法案を今審議して決めるということに対する批判があるということに関して、これは今ごらんになるとわかるように、世の中の憲法学者とかいろいろな方も今決めることに反対の方もたくさんいらっしゃいますし、はっきり言えば九条の会とかいろいろな会が反対しておりますし、そういうことに関しても、私どもがここに出てくるからどうだということはないですけれども、これに加わったことに関する批判があっても、それは甘んじて受けようということを言っているのであって、これに無意味だと言っているわけじゃないので、私どもの意見は意見としてちゃんと反映させていただければありがたいということを申し添えておきます。

斉藤(鉄)委員 今五党で論点整理をして、よりよいものをつくっていこうと。まあ、つくること自体に反対していらっしゃる政党もいらっしゃるという立場のもとで、しかし、五党で一生懸命よりよいものをということで意見を出し合っておりますので、ぜひきょうの御意見も参考にさせていただきたい、このように思います。

 それから、国民投票運動にかかわる報道の規制について、基本的には規制なし、自主規制にお任せするという方向でございますが、先日、放送系の方の御意見の中に、いや、この自主規制という――入れるとしたら訓示規定のような形で入るわけですが、その訓示規定さえも必要ないのではないかという御意見がございました。このことについてどのようにお考えでしょうか。

山参考人 私どもも、どちらかといえば必要ないんじゃないかという立場をとっております。

 何もやっていないんだったら問題ですけれども、私どももこれだけ長い期間出版社で雑誌を出してきている以上は、社会的責任、あるいは果たすべき役割、憲法に対する物の考え方、そういうものに対しては、私ども自体がこういう雑誌協会に属している以上はみずからを律していかなければいけない部分があるということは十分認識しておりますので、もし訓示規定として入れられるということになりますと、それは形式的にはいいかもしれませんけれども、そういうことに関してはできれば外していただければと思ってはおります。

斉藤(鉄)委員 それから、虚偽報道、不法利用等は、現実には考えられない、具体的なイメージもわかないということでしたけれども、私どもは、何が起こるかわかりませんので、そういう事態もあり得るのかなと。

 しかし、そういう報道に対してきちっと反論できる場、その反論もきちんと報道される、国民に知らすことができるということが確保されておれば、虚偽報道をしたこと自体がそちらの側にとってはマイナスになるということですので、反論の場をきちっと用意するということが大事だと思っておりまして、だから、そういう環境さえあればこういうことを書く必要はない、このように思っておりますが、そういう反論の場というのはどうしてもメディアになるわけでして、そういうことについては用意をするというふうに言っていただけますでしょうか。

山参考人 今、日本雑誌協会の性格といいますか、この組織ということからいいますと、お約束はできません。

 反論権というのは、これも重要な決定事項でありますので、簡単に私がお約束しますよと言っても、皆さん、各雑誌の編集長が反論権を行使されるとはとても思えませんし、反論権というのは大変難しい要素、問題を含んでおりますので、お約束はできないということしか言えません。

斉藤(鉄)委員 ありがとうございました。

    〔委員長退席、保岡委員長代理着席〕

保岡委員長代理 次に、笠井亮君。

笠井委員 日本共産党の笠井亮です。

 きょうは、山参考人、鈴木参考人、そして勝見参考人、お忙しいところ、ありがとうございました。貴重な御意見をいただきました。

 先ほども山参考人からありましたが、国民投票法案をめぐっては、一方で今なぜやるのかということで意見や議論もあるということも触れられましたが、御案内のとおり、我が党もそういう点では、九条の改憲の条件づくりになるということで国民投票法案はつくるべきでないという立場であります。いずれにしても、そういう点を踏まえながらも、きょうのお話の中でメディア規制ということに関する御意見をいただきまして、大変参考になりました。

 また、メディアといいますと、一把一からげにといいますか、十把一からげにというか、放送も新聞も雑誌もというふうにとかく言われがちですが、先ほど来のお話の中で、やはり雑誌は雑誌なりの特徴があるということについても、私もいろいろな意味で理解を深めることができたと思います。

 特に、憲法二十一条で、言論、出版を含めて一切の表現の自由を保障するということを、ある意味、金科玉条ということも言われましたが、これを基本に据えて、規制するということについては、あれば猛然と反対されるし、自主的取り組みについても真摯に受けとめるけれども、言論を管理、縛ったりすることは、今のところ協会としても考えていないというお話でありました。

 そこで、まず、雑誌を編集、出版する際の基本的な立場に関連して伺っておきたいと思うんです。

 冒頭のお話にもありましたが、日本国憲法の第二十一条で言われている中には当然報道の自由も含まれるわけでありますが、戦前の大政翼賛会の体験を踏まえてというお話もありました。戦前は、報道に対して国家からの介入があって、そして大きな雑誌なども国民を侵略戦争に思想的に動員する役割を果たすという残念な事態があった、遺憾な事態があったというふうに思うんです。

 御指摘のとおり、その反省からということで二十一条というのが生まれているわけでありますけれども、そういう点で、日本国憲法で二十一条が規定された意義を改めてどういうふうにとらえていらっしゃるかということ。また、雑誌の戦争責任ということを指摘される論調もありますけれども、今日、戦前のことも踏まえて、大きく言えば、全体としてどういう立場で雑誌の編集や出版に当たっていらっしゃるかということについて伺いたいと思うんですが、どうでしょうか。

山参考人 その辺は日本雑誌協会でもって統一見解を持っているとはちょっと言えないんですけれども、私どもの雑誌倫理綱領の三の頭に「憲法」ということが入っております。「憲法及び正当に制定された法は尊重されなければならない。」と。憲法の尊重というのは、さっき言いましたように、信教、学問の自由、集会、結社の自由と同じように、言論、出版という、出版という言葉が入っていると同時に、さらに言えば表現の自由ということを、保障という言葉というのはなかなか出てこないぐらい、保障という強い言葉で言われているというのが……。

 はっきり言いまして、雑誌も新聞と同じように戦前には翼賛体制の中に組み込まれておりました。実際にかなりな役割を果たしておりましたし、発行部数も多かったし、かなり庶民のレベルでの戦争動員の役目を果たしております。それについても、ここから雑誌協会からちょっと離れるかもしれませんけれども、マスコミ倫理懇談会の全国協議会なんかでも何度もここの話はしたんですけれども、用紙を制限される、つまり紙を配給制にして制限される。戦争に協力しなければ紙は渡さないぞと。つまり、紙がないと雑誌も本もつくれないという状況がやはりあったんですね。それで、紙を絞られるということによって、翼賛体制に賛同して戦争を鼓舞していかないといけなくなるような状況をつくられたという背景もございます。それで、私ども、もちろん論調として進んで賛成したところもあると思うんですけれども。

 つい先日、ちょっととんでもない判決が出ました。横浜事件というのがございまして、この横浜事件というのは、当時、さまざまないわゆる捏造、でっち上げでもって、出版社の編集者が、もう今はありませんけれども「改造」の編集者、中央公論、あるいは日本評論社の編集者五人が拷問で殺されて、それで戦争の、八月十五日の後、八月の二十何日に判決が出て有罪になっていたんですね。それで、その証拠は、その書類はといえば、裁判所みずからが焼き捨てたのではないかと疑われております。

 そういう事件が、この前は、有罪判決を受けていたうちの三十名近くの起訴者が全員亡くなった後、約六十年ぶりに再審請求があったにもかかわらず、それが免訴という形で、もう治安維持法がないからこれは裁くに値しないということで免訴という処分になりまして、無罪の判決を得ることができなかったんですけれども。

 こういう歴史的な教訓からして、出版、雑誌というものが翼賛体制の中でいかに過酷な運命をたどったか、編集者もそうやって拷問で殺されるような目に遭ったかということは、我々の中には深く刻み込んでおかなきゃいけないことだと認識しております。

 それで、話はちょっとずれますけれども、そういう中で、我々はこの憲法二十一条というものを特に意識的に権利として守っていくと同時に、これを盾にしながら二度と同じ過ちを繰り返さないような意味で出版活動に携わっていきたいというふうには思っております。

 以上です。

笠井委員 ありがとうございました。

 雑誌に限らず、メディアの取材、報道のあり方をめぐっては、国民の中にもさまざまな意見や批判がある、問題も指摘されてきているわけですが、他方でメディアに対する規制の動きというのも強まっているということで、この間、個人情報保護法だとか人権擁護法案などメディアに対する規制を強化する動きがあるというふうに思うんです、先ほどもちょっと触れられましたけれども。今日のこうした動きや大きな流れをどういうふうにごらんになっているか。これは協会全体としてというのもあるでしょうし、そうでなければ個人的にでも結構ですが、どんなふうに見ていらっしゃるかということはどうでしょう。

山参考人 これは先生に御指摘されるまでもなく、本当にメディア規制三法と言われるものが提起されて、我々はそれに対する反対運動あるいは反対表明を、緊急表明も含めてさまざまな表明をしてきております。

 それで、なぜこういう形でメディアが規制の対象になるのかということに関して言いますと、やはり政治的な動きがありまして、私、あるところに書いたことがあるんですけれども、一九九八年の参議院選挙の敗北というのが自由民主党の中にありまして、そのときに雑誌協会も呼ばれて、あることないこと書いて、おまえらのせいで負けたんじゃないかというようなことを言われた経験がございます。

 それで、私どものような雑誌がそれほどの影響力を持つのかどうかというのは別問題ですけれども、要するに、九八年からの動き、もうお亡くなりになりましたけれども、小渕政権からいろいろな法律ができ始めまして、そのときに、個人情報保護法、人権擁護法案、青少年有害社会環境対策基本法というのが三法として出てきました。その後にも裁判員法、あるいはさまざまな、今度の国会でも共謀罪とか探偵業法とか出てきていますけれども、社会的にメディアがかかわるものに対しては、かせをはめていくというふうな動きは、やはりその影響力の大きさに対する権力のある種の本能的反応なんじゃないかという気がしております。

 それで、その影響力というのはどこかといいますと、新聞も放送もそうでしょうけれども、雑誌も特にそうなんでしょうけれども、伝える記事が権力批判、政権批判ということがベースにあるんじゃないかということで、非常に神経質になられている部分もあると思うんですね。ですから、一連のこの動きは非常に政治的な意図があるんじゃないかというふうな形で、反論の部分にも私ども書いております、権力の腐敗とかあるいはある種の意図的な政策に対して我々が切り込んだ記事を、スキャンダラスな記事を再三連発しておりましたので、それに対する反応じゃないかというふうには思っております。

 ただし、こういうことで雑誌はやっているばかりではございませんので、雑誌全体からいいますと、むしろ、今御質問の野党の方への批判もかなりな雑誌が展開しておりますし、それに関しても我々は自由に論陣を張っておりますので、必ずしも権力には、与党への批判だけではございませんので、その辺はちょっとお含みおきくださればありがたいと思います。

笠井委員 政党に対する批判という点では、例えば事実に基づかないような批判もされているようなこともありますので、そういうのはまた大いに問題になっていくとは思うんですけれども。

 関連して、個人情報保護法ですけれども、これは既に全面施行されているわけですけれども、この法律によって雑誌報道の現場でどういうことが起こっているかということについてなんですけれども。

 既に、この間、雑誌協会は法案の段階からアピールも出されたり、また、山参考人も参議院の委員会に参考人として御出席なさったというお話もありましたが、施行されてから、日本新聞協会も先日、四月ですか、意見書を出したりしていて、従来は公表されていた幹部公務員の天下り先が伏せられるなどの情報提供の萎縮や情報の隠ぺいが進んでいるというようなことも書いてあったりしているわけですが、問題だというふうに言われていた危惧が現実のものとなっているのかどうか、雑誌の分野では具体的にそういうことがあるかどうか。どんなふうなことで感じていらっしゃるか、いかがでしょうか。

山参考人 ございます。取材現場では、個人情報保護法で、これは私の個人情報でしょうということで拒否されるケースは多々あります。私はそのことを集めたことがございまして、事件現場とか周辺取材をしておりますと、その事件に関係ある方も含めて、私のことは私の権利だから絶対に書いちゃだめとか教えたくないと。例えば、昔は、関係者を卒業名簿で当たったりすると、何でそれがわかったのかということをしつこく追及されたりします。

 個人情報保護法が行政機関を守るようになったんじゃないかというのは、今、ここに出てくる前にニュースにもなっておりましたけれども、ある検事の方が自分の年齢を個人情報だから明かしたくないとおっしゃっていたというようなこととか、汚職の行政官の名前は個人情報だからということで防御されて出されないとか。

 これは、もともとは行政法なんですよね。要するに、住民基本台帳法の改正で、カードをつくるために行政機関が個人情報をつくるに当たって民間にもこれを適用するということで、OECD八原則がありまして、国際社会の一員として生きるためにも個人情報保護法が必要だという側面はありますけれども、もともとはこれは個別法をつくるということで包括法としてつくられたんですけれども、これがひとり歩きしてプライバシー法に今なっているんじゃないかと思うんですね。

 それで、プライバシーを殊さら自分の利益として主張するための手ごろな法案というんですかね、個人情報保護法が制定されているから自分の個人情報は守られてしかるべきだということで、取材の現場では、本当に、その方の名前を出す出さないは取材してから御相談に乗ると言っているにもかかわらず教えていただけなかったり、官庁の取材が非常に難しかったりします。

 それで、この個人情報保護法に関しますと、我々の現場だけではなくて、正直なところ、病院の入院患者の名前とか入院患者の状態とかということも本当に親族で身分がわからないと絶対に教えてもらえないし、クラス会とかの名簿でも、これを出すことは漏れるから出したくないというようなことでふさがっていますし、新聞も放送も私どももこれほどまでに大きな弊害になるとは、匿名化社会、顔のない社会と言われていますけれども、このようになるとは思っていませんでしたので、影響は非常に大きくなっております。

 ですから、もし見直しがあれば、審議会あたりで見直しがあれば、これはぜひ見直しを早急にお願いしたい法律の一つだと思います。

笠井委員 次に、もう時間が迫ってきましたので、今議論になっている憲法改正国民投票法案、国民投票制度におけるマスコミ、メディア規制の問題について若干の意見を伺っておきたいと思うんです。

 先ほどもマスコミの報道に虚偽があった場合とか事実を歪曲して記載したりした場合に規制するかどうかという議論もありましたけれども、参考人の御意見にあったように、大体何をもって虚偽、歪曲とするか、濫用ということも含めて浮かんでこないと、立場変わればということで、よって立つものによっていかようにもなるということでありましたが、私もそこのところは大きな問題点だと思っております。何が言いたいかわからないということだと売れないし、読者にすれば本質を知りたいということで、明確な主張を、なるほどと思うようなことを求めると思うんです。

 さっきもちょっとありましたけれども、例えば、憲法九条を改定する憲法改正案が戦争をする国づくりだということで、雑誌が根拠に基づいて、裏づけを持ってそういう主張や論を掲載した場合、そのこと自体が虚偽とか歪曲などと規制されたら、まともな議論が成り立たなくなると私は思います。

 さっきも伺っていて、四千五百ぐらい雑誌があって、いろいろなジャンルがあると。それぞれがそれぞれの判断でカラーを出しながら書きたいことを、根拠に基づいて、もちろん倫理も踏まえながらやるということで、全体として雑誌の中でいろいろな見方、主張がある。国民、読者に対してそういうことが提供されて、それが売れるかどうかというのは、結局は冷厳に国民が判断して、なるほどと思えば買うし、ああ、これはおもしろくないと思えば買わないしということで、憲法に賛成、反対という人が、それぞれ雑誌を手にしながら、あるいは見出しを見ながらということで読んだり買ったりするんじゃないかというふうに思うんです。

 それを、個々に、この雑誌のこういう報道や記事は虚偽だとかあるいは歪曲だということを言い出してしまったら、これはもう雑誌の存在価値そのものが全体として成り立たなくなるんじゃないかというふうに、きょういろいろ伺いながら思ったんですけれども、その点についてはどういうふうに見たらいいんでしょうか、そんなふうでよろしいんでしょうか。お考えを。

山参考人 全くそのとおりだと思います。

 売れる、売れないとかいいますと、私は直截に言いましたけれども、結局、この資本主義社会の中においては、お金を払って買う価値があると思うからお金を出すのであって、買う価値がないと思ったらお金は出しません。要するに、ある種の欲望に沿って行動しているということだと思います。それは、読みたい、知りたい、見たい、考えたい、こういうことがもし雑誌にあれば、それをお金を出して買う、あるいは図書館に行って読む、そういう行為だと思いますので。

 売れる、売れないばかりを言いますと、売れないものは何もやらないのかと思われるとちょっと語弊がありますけれども、そういう意味では、私は大きな意味では反響があるとかインパクトがあるとか訴求効果があるとかという言い方にした方がよかったのかもしれませんけれども、我々は、割合大衆の反応というのは物すごく冷厳だと思いますし、厳しいものだと思っております。

 ですから、簡単に、虚偽だ、歪曲だ、濫用だというふうなことをもしやっている雑誌があれば、それはもう完全に見放されていくような部分が、もしそういうふうな見方をされるとすればなると思いますので、こういう要素というのはなくて、むしろ、あらゆる言論は、多様でさまざまな価値観に沿った形の言論があっていいというふうに見ております。

笠井委員 ありがとうございました。終わります。

保岡委員長代理 次に、辻元清美君。

辻元委員 社会民主党・市民連合の辻元清美です。

 きょうは、本当にお忙しい中、お越しいただきまして、それも十日前にお願いして来ていただいたということで、本当にありがとうございます。

 まず最初にお伺いしたいんですけれども、国民投票制度の議論というものについて、雑誌協会に属している雑誌だけではなく、雑誌業界の中で、こういう議論が始まっているとか、認知度ですね、どの程度あるんでしょうか。余り知られていないとか知っているとか。どんなものなんでしょうか。中で議論されているのかどうかも含めてお願いします。

山参考人 これは先ほど何度も言っているので繰り返しになりますけれども、マスコミ倫理懇談会という、新聞、放送、出版、広告、すべてが入っている、ほとんどの大手が入っている全国組織がありまして、これの月例会というのを毎月開いておりまして、全国大会も開いておりますけれども、その中で、去年三月でした、今、委員長をおやりになっています保岡先生をゲストに迎えまして……。

 保岡先生、お連れになったのは法制局の方でしたか、その方と一緒に、当時の議連案になるんでしょうか。

保岡委員長代理 与党案ですね。

山参考人 与党案になりますか。それを審議したときに、既に我々の日本雑誌協会の加盟社の中では二十社ほどがそれに対して質疑応答に参加しておりましたので、そのときには、メディア規制が明確にありましたし、予想行為もだめだということだったので、かなり議論しておりましたので、そのときからはもう認知されておるというふうに考えております。

辻元委員 その中で、最初の冒頭の御発言で、今、なぜ急にこの議論が国会の中を中心に始まったのかということについての批判もあったということを、先ほども質問で詳しく答えていただきました。憲法改正の一里塚として国民投票制度が位置づけられるという意見もあり、それからその一つの流れができているんじゃないか、そういう中に参加することについての批判もあったという御意見でした。

 流れはできていませんので。私どもの社民党と共産党は反対しています。それは、六十年間なぜつくらずに来たのかということについては、戦後の日本の大きな社会構造や歴史、歩みと随分密着しているものであって、それを急速に、とんとんとんとつくってしまうということは非常に安易じゃないかというような思いで、私たちは、つくるにしてもかなり慎重な審議が必要なんじゃないかということを申しております。ですから、雑誌協会で今後この問題を取り上げられるときには、反対している政党もぜひ呼んでいただいて、そういう意見というのは、日本の空気の中、空気というか、公共空間の中にはそういう批判や懸念というのは、やはり日本の歴史の特殊性から見ても、一つの大きな意見としてあると思うんですね。ですから、ぜひそれはこの場をおかりして要望を申し上げておきたいというように思います。

 それに関連しまして、先ほどからお話を伺っていまして、報道の規制が何となく強まっているんじゃないかなという印象を受けました。雑誌というのは、時代のさまざまな問題を取り上げられますので、時代の空気を非常に敏感にとらえていらっしゃると思うんですね。そういう中で、今の時代の空気というか、報道の規制の問題も含めて、それから、権力のあり方とか、どのようにお考えになっているか、率直な御意見を伺いたいと思うんです。これは憲法そのものをどうするか、報道の、表現の自由なども含む憲法をどうするかということにも関係してくると思いますので、率直な御意見を伺いたいと思います。

山参考人 日本雑誌協会が今までどういう声明を出してきたかということでお答えにかえたいと思います。

 個人情報保護法が制定されるときに、個人情報保護法というのは、先ほど言いましたように、メディア規制という観点から見れば、特に出版社、雑誌にとっては取材の弊害になるということで三度ほど声明文を出すと同時に、緊急冊子を出したり、あるいは意見広告を出したりして、一丸となって日本雑誌協会は反対してまいりました。

 また、人権擁護法案も、差別、虐待、公権力からの差別、こういうものと同列に報道による人権侵害というのが提起されておりまして、差別や虐待と報道による取材における人権侵害というのを同列に並べて、当時、文言の中に、ストーカー規制法というのがございまして、このストーカー規制法と同じ文言が雑誌によってなされているということで、実はストーカー規制法を読んでいたらほとんど同じ文言が出てきまして、待ち伏せとか、たび重なるファクスとか電話とか、取材の当たり前の行動なんですけれどもね、張り込みを待ち伏せとか書かれまして。何か、要するに取材活動そのものもストーカーと同じ行為だというようなことで規制されるということになっておりまして、これはとんでもない話だなということで、反対の意見表明書を二回ほど出しております。

 それから、青少年有害社会環境対策基本法も、有害という概念、あるいは不健全という概念が不明確なまま歩き出しているんじゃないかということで、これも意見書を出しております。

 その他は、裁判員法に対しても出しておりますし、先般来、犯罪被害者救済法に関しても、一部の部分でおかしいじゃないかということで意見書を出したりしております。

 だから、今つくられているメディア規制法と言われるものに関しては、雑誌協会としては、我々は問題点をこう考えるという意見書を何回か出しております。

 そういう流れからいいますと、ますます、こういう活動は今までそんなに活発ではなかったのに、二〇〇二年ぐらいからはたびたび緊急招集して、今、個人情報・人権問題特別委員会というのを雑誌協会の中につくりまして、その特別委員会が活発に機能するような事態になっております。それが現実の空気の証左じゃないかと思っております。

 以上です。

辻元委員 それと関連すると思うんですけれども、一つきょうお話しいただいた中に、戦前の翼賛体制という中での表現の自由の制限、封殺という言葉も出てきたように思うんですけれども、という御発言がありました。私は、今の時代、先ほどイラク戦争に対する報道の規制のような事例も挙げられたと思うんですけれども、戦前に全部戻るとは思わないんですけれども、何か国家がいろいろなところに介入するとか、それから、やはりこれは憲法の改正議論と関係してくると思うんです。

 一つは、この改正議論の中で、どうしても九条が焦点になりますけれども、武力というものとどうつき合うかというところで、それに影響されて言論の自由や基本的人権の制限ということが出てきますので、ですから、そういう方向に私たちは反対をしているわけなんですけれども、今のメディアの状況からいって、何かナショナリズムをあおったり、そういう風潮を高めていくような懸念を指摘する人たちもいるんですけれども、そういうことは一切お感じになっていないでしょうか。いかがでしょうか。

山参考人 これは、日本雑誌協会の一員としての答えはちょっと……。そういう話を具体的に、取材活動及び表現活動における問題点というのはたびたび話はするんですけれども、ナショナリズムの問題あるいは九条に関する具体的な討論というのは、これは各誌それぞれ違いがございますので、これに対して統一的な話とかそういうことはしておりません、はっきり言って。それぞれの雑誌、個人としての見解は持っておりますけれども、日本雑誌協会の特別委員会では、今のお尋ねのことに関しては、具体的には、統一見解を持っていたり、話し合いで合意に達したりしたことはございません。

辻元委員 それは先ほどからのお話で、いろいろな主張をする雑誌があって、これは健全なことだと思うんですね。ただ、先ほどから戦前の話が出ていましたけれども、やはり二度と同じような過ちを繰り返さないという点で、現場で働いていらっしゃるのでそういう空気みたいなものを、私なんかはちょっと感じるわけなんですね、最近何か世の中ちょっと変な方向行っているのと違うというような発言もよくちまたでも聞くわけで、雑誌をつくる現場というのは敏感に感じていらっしゃると思いましたので、今のことを質問したんです。

 ちょっとそれとも関連してなんですけれども、もしも自主規制ということが入った場合にどういう影響が出るのか。これはない方がいいというふうに私たちは考えております。ただ、一部入れた方がいいんじゃないかという意見もありますので、かなり萎縮してしまう可能性が出るのかどうか、率直な御意見を伺いたいと思います。

山参考人 この自主規制に関しますと、もし実施されるということになりますと、萎縮というよりは、我々としては雑誌が成り立たない。この憲法に関して言うと、記事がつくれないんじゃないかと思います。というのは、規制をかけられてまで編集をするかどうかとなりますと、これは各編集長の判断になるでしょうけれども、かなり制約を受けると思います。

 ですから、もし言論の自由に関するこの規制があった場合には、逆に言うと、これは憲法違反、今の憲法に対する違反なんじゃないかということで、むしろ、私はちょっと今わかりませんけれども、もし実施されたとなると、とんでもない形での反論か何かの行動に出る可能性もなきにしもあらずだと思いますし、各誌はそれを全然無視してやる雑誌もあるかもしれませんね。処罰の対象にもしなっていれば、では、処罰の対象になって、訴訟の場でやろうじゃないかみたいなことになるかもしれませんし、何か非常にとんでもない形で反応が起こってくるかもしれません。

 今のところ仮説ですので何とも言えませんけれども、やはり、この自主規制というのは言論に対してはとんでもない措置だと思っております。

辻元委員 今の御発言は現場の声として大変重い声ではないかなというように思いました。

 そういう中で、もう一点、きょうの御発言の中で、選挙の折に、先ほど自民党に呼ばれてという話がありましたけれども、そういうように政党を、例えば、その案件の場合ですと、偏った報道じゃないかというような趣旨で参議院選挙の後に自民党に呼ばれたというふうな話がありましたが、どういうことを言われるんですか。ぜひ聞いてみたいなと思いまして。それはやはり自主規制とか規制とか、表現の自由の問題と非常にかかわっていますし、すべての政党にかかわることですから、御参考のためにお聞きしたいんですけれども。

勝見参考人 私、連絡があって、私が直接行ったわけではないので、どういうふうな内容を言われたのかというのは、ちょっとその辺はよくわかりません。

山参考人 連絡がありまして、話し合いをしたいということで。当時、自由民主党の報道機関に関する意見交換会という形であったんですけれども。これは私も直接は参加しておらないんですけれども、その当時参加しているスタッフはもうリタイアしたりして。まあ、少しは残っておりますけれども。

 ただし、その話は、私どもと同じように、その場にいたときから、その当時から聞いておりますけれども、査問に近いような……。雑誌記事で、あることないこと書かれてこんな目に遭ったとか、あんな目に遭ったということが、議員の方々が入れかわり立ちかわり雑誌記事に対して厳しい反論をされたということなんですね。それは意見交換会なので我々も反論の機会はあったんですけれども、正直なところ、当時のOBの話によりますと、反論しようとすると遮られるし、とにかく一方的にまくし立てられる場面であったということを聞いております。そういうふうなことは確かにありました。

辻元委員 今伺って驚いたんですけれども、やはり、自主規制とか国民投票制度を考える折にも、表現の自由を守るという立場は非常に大事であるし、各政党も大事なことだなというように今のお話を聞いて思いました。私自身も、どちらかというと週刊誌に登場回数が多い議員なんです。言いたいことはいっぱいあるんですけれどもね。

 それで、一つだけ伺いたいと思うのが雑誌の影響力なんです。

 雑誌とかテレビのメディアとか新聞など、それからインターネットも含めて、別々に考えられない時代に入ってきていると思うんです。よくあるのは、雑誌記事で取り上げたものをスポーツ紙が取り上げて、そしてそれをワイドショーで取り上げるというような形で、結局、雑誌ではこの程度の影響かなと思っていることが、すべてのテレビ局などでだあっと取り上げられたりして。メディアスクラムと言われますよね、そういう時代に入ってきていると思うんですね。

 ですから、やはり人権との関係とか、先ほどの御発言の中に人権侵害すれすれの場合があるという御発言もあって、私もちょっと納得するところもあったんですけれども。そういう影響力の大きさというものが、それからインターネットでさらにそれを取り上げる、それについての意見をお互いぶつけ合うみたいなこともあって、今までと違う時代に入っているなと。

 雑誌の影響力というのは世の中にどういうふうに及ぼしていると、現場でつくっていらっしゃる方は思われているんでしょうか。山参考人と鈴木参考人と、両方雑誌をつくってはるみたいですので、お伺いしたいと思います。

 本当に、一斉にやり出すわけですね、だあっと。ですから、非常に私は影響力が大きくなってきていると思うんです。

    〔保岡委員長代理退席、委員長着席〕

鈴木参考人 影響力に関しては、今おっしゃるところは確かにあると思いますね。週刊誌発あるいは雑誌発で世の中を動かしていくためには、雑誌が単体でその影響力をすべて行使できるとは思いません。

 そういう意味でいいますと、雑誌をつくっている側からの正直な言い方を言いますと、雑誌が独自に見つけてきた話、あるいは独自に発見した切り口、物の考え方、こういったものには実は著作権とかあるいは権利を留保できるわけじゃないんですね。ですから、それをもとにしてまた別の議論が起きるとか新しい考え方を付与していくとか、そういうことで伝播していく、まあ、第一次的にはそうではないでしょうが、その後ですね、ということであればいいと思うんですが、言ってみれば、もう少しほかのメディアの人も頭を使ってもらいたいなという部分はありますね。そうでないと、同じ情報を増幅して使っていくだけでは議論にならないと思うんですね。

 我々が発している議論というのは、ただ単に読者に迎合しているだけでは受け入れられないわけですね。新しい見方を示したことで、それが時には強烈な反論を得ることもあるし、あるいは賛否両論巻き起こることもあるわけで、それが私たちの使命だと思っています。ですから、影響力ということでいえば、さまざまなメディアが我々の発した情報をさまざまな形で使っていっていただきたい、そのことで社会に貢献をしていきたいと思っています。

 以上です。

山参考人 ちょっと別の観点からいいますと、雑誌にネタを売り込む、あるいはネタを提供するというふうなことからいいますと、今の日本の社会の中では、雑誌だからやれる、雑誌だから恐らくこれは報道するだろう、取材を始めてくれるだろうというふうなニュアンスがかなりあると思います。ですから、雑誌発というのは、雑誌が震源になることは、今、鈴木氏が言ったような意味でいえば、全く社会的な影響力は大きいと思っております。

 ただし、御質問のように、インターネット発というのもございますし、匿名のインターネットのサイトがかなりありますし、ブログもこれだけふえていきますと、今度日本で始まる、韓国のメディアが日本に上陸してきますけれども、こういうインターネットジャーナリズム的なものもぼつぼつと出てきておりますし、あるいはテレビはテレビとしての役割も、もちろんかなり影響力は、もう雑誌どころではございませんから、ありまして、雑誌が必ずしも、昔メディアが非常に少ない時代よりもより影響力が大きくなったかどうかとなりますと、目立ちはしますけれども、それほど大きくはなっておらないんじゃないかというような気もしておるんですね。ある程度の影響力はもちろん持っておりますけれども、多メディア時代に入って、雑誌もその一ジャンルにすぎなくなってきつつあるんじゃないかという危惧がちょっとあります。

辻元委員 ありがとうございました。

 ちょうど時間になりましたので、終わります。

中山委員長 次に、滝実君。

滝委員 国民新党・日本・無所属の会の滝実でございます。

 きょうは、いわば骨まで切り込むような御発言もございまして、本当に雑誌というものの状況について改めて認識をさせていただいたようなことがございます。そういう意味で、私も二、三お聞きをしたいと思うのでございます。

 私はもともと、国民投票制度は、国民に直接今の段階では実感がわかない、したがって、ある程度法案の制度の概要が固まってくれば、恐らくマスコミで取り上げられることになるし、その段階で初めて国民はわかってくる、こういう代物でございますから、なかなかこれに対する国民の認識というか、そういうものは期待できないというふうに思っていたのでございますけれども、先ほど来の参考人のお話を聞いていて、ある程度は悲観的な気持ちになったのかなという感じがいたします。

 といいますのは、先ほどからおっしゃっていましたように、雑誌の場合には裏面、断面、側面、そういうような切り口でお取り上げになる、こういうようなことでございましたから、国民投票の場合はどういう格好でテーマになるんだろうかというと、これはなかなか難しいなという感じがするんですよね。

 先ほど、山参考人が最初におっしゃっていましたように、国民投票制度も淡々としていくようだ、こういうことになってくると雑誌の出番が全くない。よっぽど辻元委員にも頑張ってもらって接戦までいかないと、これはどうも週刊誌のテーマにはなりにくいんだろう。しかも、その切り口はやはり人ですね、人物を通して扱うということが週刊誌の場合の主流になるんだろうということを考えますと、実際にこの国民投票制度の賛成、反対に登場する人物というのはいかなる人物が考えられるかというと、これも抽象的な制度の枠組みの話ですから、なかなか難しいのかなという感じがするのでございます。

 そこで、そういう観点から、参考人にまず最初に一つお伺いしたいのは、国民投票制度を本当に週刊誌で取り上げるという場面を想定した場合に、何かそういうようなことというのは仮定の問題としてあり得るのかなと。私はあり得ないと思うんですけれども、その辺の感想をまずお聞きしておきたいと思います。

山参考人 最初にお断りしましたように、雑誌ジャーナリズムというのは、ニュースとして必要なものを、今度立法府ではこういうものが決まって、こういうものが今度発布されるから皆さんに伝えますという、そういう一次情報ですね、こういう事件が起こって、今高速道路が閉鎖になってどうのこうのというふうな、要するに現実に現象をそのまま情報として伝えるという役割を雑誌は担っていないということなんですね。

 ですから、今おっしゃったような意味でいいますと、国民投票法案をめぐって実は水面下でこんな動きがある、例えば、正当な論争ではなくて買収行為とか、あるいは何らかの形の不明朗な動きがあるとか、あるいは国民投票制度というのを担っている非常に重要な人物が私生活上の非常に大きな問題を起こしているとか、要するに制度そのものに関しての何かというものからいいますと、これは一般論ですけれども、雑誌ジャーナリズムの扱う対象としては非常に地味なものではないかと思っております。

 憲法改正に関しては、扱っていない週刊誌以外は、月刊誌のオピニオン誌あるいは月刊誌はたびたびこの国民投票法案あるいは憲法改正是か非か、自民党の新憲法草案に対しての記事はかなりたくさん展開しております。それは、論者がちゃんとそれに対して論評を加えたり、諸外国との比較をしたり、いろいろな形でやっておりますけれども、雑誌の中でもそういう月刊誌、オピニオン誌以外がこの問題を取り上げるという機会は今のところ余り目にしたことがないし、これからもどうでしょうか、私も先生と同じように、ちょっと今のところ簡単にこの場でお答えできるようなものは持っておりません。

滝委員 ありがとうございました。

 次に、マスコミ規制の問題についてお尋ねをしたいと思うんです。

 お聞きしてまいりますと、テレビの場合もそうでございますけれども、活字報道の場合でも基本的に自主規制というのはあり得ないし、まず不可能だろう。こういうように判断をするのが自然だろうと思っているのでございますけれども、その際に、スイスやフランスでは少なくとも活字報道の場合には賛成、反対の立場を明らかにして、後は自由でいいよ、こういうようなことをとっている国もあるように聞いているわけでございます。

 しかし、事週刊誌、あるいはその他のオピニオン誌じゃない雑誌の場合に、きょうのお話のように、初めからそういう色分けをして、自分のところは賛成であるとか、自分のところは反対であるとかというのは、しょせん雑誌の性格からして、あるいはメディアの性格からして無理だろうという感じもするものですから、それはなかなか、それもまたそういうような観点からいろいろなことを注文をつけるのは難しい話だなということを言わざるを得ませんので、そういう意味では自主規制もあり得ないし、あるいは法的に賛成、反対をできるだけ明らかにして報道をしてもらいたい、取り扱ってもらいたいというようなことを期待するのは無理かなというふうに考えているわけでございます。

 そこで、次に、そういうふうな前提に立って考えてまいりますと、雑誌は雑誌でもって実際の憲法改正の際にいろいろな人を少なくても取り上げていってもらう、そういうことは期待をしないといけない、こういうふうに思うんですよね。

 その際に、ネックになるのは公務員に対する規制、あるいは教育者に対する規制、せめてこのぐらいのことは公職選挙法に倣って国民投票制度でも入れたらどうかという議論があるんでございますけれども。私は、前回テレビの際にも申し上げたんでございますけれども、憲法という大変かたい話ですから、多少はかたい専門家も呼ばないかぬ、呼んでもらいたいと。そういうときに、憲法学者とかなんかになると、これは国立大学の先生であったり、あるいは私大の先生であったり、要するに教育者という肩書を持つ人も出てくる。そうすると、そういう人たちに国民投票について何らかの規制を残すということになると、これは雑誌としても扱いにくい。こういう人たちのスキャンダルを掘り下げて扱うということはまず考えられませんけれども、一般的に、こういう人たちが週刊誌に出てきて専門家としてのコメントを載せるというのも、場合によってはいかがなものだろうかというふうになってくると、なかなか取り上げ方が難しくなるんじゃないだろうかなという感じがしているんですけれども、こういうようなことについてどういうような受け取り方をされておられるでしょうか、お聞きしておきたいと思います。

山参考人 今の御質問に対しても、前にもお答えしたように、私どもで、公務員、教師に対する制限とか、あるいは、当然二十にするか十八歳にするかとか、過半数を有効投票にするか、それとも有権者数にするかとか、いろいろな法律の細かいところがあるのはわかっておりますけれども、法律の具体的なことに関しての会議なり統一見解を持っておりませんので、先生の質問に対して、今、私は答えるべきものを持ち合わせていないとしか言いようがないんですね。ですから、申しわけございませんけれども、ちょっと日本雑誌協会としての見解はできないということで御了解いただければと思います。

滝委員 恐らくは、実際の今の段階では、まだそこまで、法案自体も外に出ているわけじゃありませんから、なかなか議論をされるような状況ではないと思いますけれども、そんなことも私は一つのテーマとして考えていく必要があるだろうという感じがいたしますので、改めてここで申し上げた次第でございます。

 次にお尋ねしたいのは、先ほどの北神委員でございましたか、意見が出されておりました。そのときのやりとりをお聞きしておりまして、週刊誌は、なかなか週刊誌として難しいなというようなことを認識させていただいたんでございますけれども。

 そういう中で、これは憲法論議とは関係ない話なんですけれども、私どもも、時々、週刊誌を駅の売店で買う。そのときの買い方は、やはり新聞広告なんですよね、新聞広告を見て買う。しかし、その新聞広告を見て買うかというと、全部買うわけじゃないんです。新聞広告を大体見て、これが週刊誌として今話題になっているからという、話題のテーマを発見するために新聞広告を見るんですよね。それでもって納得して、ああ、今こういうことを週刊誌は注目しているんだなという意味で納得して、おしまいになる。こういうことになるわけでございますから、新聞広告といっても、見ようによりましては、これはかなり効果が薄いんじゃないだろうかな。あれを見て納得する人がたくさんいるわけでございますから。それでもなおかつ、新聞広告は必ず毎週毎週きちんとお出しになる。そういうようなことは営業的な観点からいってどうだろうかな。

 そういうときに、例えば憲法改正なんかの問題が週刊誌の目次に出てくる、それが新聞の広告欄に出てくる。そういうようなことが出てくると、これは多少関心が、今話題のテーマという格好で国民に知られていくのかなという感じもするんですけれども、その辺のところは、実際の雑誌の営業と編集と一体だというような観点からいって、どういうような週刊誌の取り上げ方が可能になってくるのかなということを関心を持っているんでございますけれども、それについて、極めて雑然とした話でございますけれども、感想があったらお聞かせをいただきたいと思います。

鈴木参考人 新聞広告は、おっしゃるように効果が計量できるものではありません。大きく扱ったから売れたとか、小さかったから売れないということではなくて、やはり、どういう雑誌をつくるのか、その中で何をどういうふうに取り扱うかということを広告するわけですから、新聞広告がそのまま誌面を反映していないということであれば、これは信用を失ってしまうわけですので、新聞広告だけで物を考えるということはありません。

 ということでいえば、今おっしゃっている、今度の問題について週刊誌で取り上げることが可能なのかどうかということであれば、私は可能だとは思うんです。要するに、それは、今こういう議論を皆さんがなさっているのと同じように、この議論がもう少し広がっていって、さっき週刊誌は週刊誌の話法があるんだということをちょっと申し上げましたけれども、週刊誌の話法で読者の一人一人がこの問題について語るようになること、そういうときが来れば、これはごく真っ当に是か非かという議論が週刊誌のページをにぎわすことがあると思いますし、こういう問題についてはぜひそういう広範な意見の交換があった方がいいんではないかと思います。

滝委員 ありがとうございました。

 所定の時間も過ぎているようでございますので、私の質問はこれで終わらせていただきたいと思います。参考人の皆さん方、大変ありがとうございました。

中山委員長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、一言ごあいさつを申し上げます。

 参考人各位におかれましては、貴重な御意見をお述べいただき、まことにありがとうございました。委員会を代表して、心から御礼を申し上げます。

 次回は、来る二十七日木曜日午前八時五十分理事会、午前九時委員会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。

    午前十一時四十七分散会


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