衆議院

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第5号 平成18年5月30日(火曜日)

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平成十八年五月三十日(火曜日)

    午後一時開議

 出席委員

   委員長 森山 眞弓君

   理事 岩永 峯一君 理事 小渕 優子君

   理事 河村 建夫君 理事 田中 和徳君

   理事 町村 信孝君 理事 大畠 章宏君

   理事 牧  義夫君 理事 池坊 保子君

      稲田 朋美君    臼井日出男君

      遠藤 利明君    小此木八郎君

      大前 繁雄君    海部 俊樹君

      木原 誠二君    北村 誠吾君

      小島 敏男君    小杉  隆君

      塩谷  立君    島村 宜伸君

      下村 博文君    薗浦健太郎君

      戸井田とおる君    中山 成彬君

      中山 泰秀君    西銘恒三郎君

      鳩山 邦夫君    松浪健四郎君

      松野 博一君    御法川信英君

      森  喜朗君  やまぎわ大志郎君

      山本ともひろ君    若宮 健嗣君

      奥村 展三君    中井  洽君

      西村智奈美君    羽田  孜君

      藤村  修君    松本 大輔君

      山口  壯君    横光 克彦君

      笠  浩史君    太田 昭宏君

      斉藤 鉄夫君    石井 郁子君

      保坂 展人君    糸川 正晃君

      保利 耕輔君

    …………………………………

   議員           高井 美穂君

   議員           藤村  修君

   議員           笠  浩史君

   文部科学大臣政務官    吉野 正芳君

   参考人

   (中央教育審議会会長)  鳥居 泰彦君

   参考人

   (京都市教育委員会教育長)            門川 大作君

   参考人

   (ジャーナリスト)    櫻井よしこ君

   参考人

   (国立大学財務・経営センター名誉教授)      市川 昭午君

   衆議院調査局教育基本法に関する特別調査室長    清野 裕三君

    ―――――――――――――

委員の異動

五月三十日

 辞任         補欠選任

  岩屋  毅君     薗浦健太郎君

  遠藤 利明君     中山 泰秀君

  西銘恒三郎君     山本ともひろ君

  森  喜朗君     塩谷  立君

  若宮 健嗣君     木原 誠二君

同日

 辞任         補欠選任

  木原 誠二君     若宮 健嗣君

  塩谷  立君     森  喜朗君

  薗浦健太郎君     岩屋  毅君

  中山 泰秀君     御法川信英君

  山本ともひろ君    西銘恒三郎君

同日

 辞任         補欠選任

  御法川信英君     遠藤 利明君

    ―――――――――――――

五月二十九日

 教育基本法の改悪に反対し、人間が大切にされる社会と教育を求めることに関する請願(笠井亮君紹介)(第二四〇二号)

 教育基本法の改正案反対に関する請願(高橋千鶴子君紹介)(第二四〇三号)

は本委員会に付託された。

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 教育基本法案(内閣提出第八九号)

 日本国教育基本法案(鳩山由紀夫君外六名提出、衆法第二八号)


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     ――――◇―――――

森山委員長 これより会議を開きます。

 内閣提出、教育基本法案及び鳩山由紀夫君外六名提出、日本国教育基本法案を一括して議題といたします。

 本日は、両案審査のため、参考人として、中央教育審議会会長鳥居泰彦君、京都市教育委員会教育長門川大作君、ジャーナリスト櫻井よしこ君、国立大学財務・経営センター名誉教授市川昭午君、以上四名の方々に御出席をいただいております。

 この際、参考人各位に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、御多用のところ本委員会に御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人各位におかれましては、それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただきたいと存じます。

 次に、議事の順序について申し上げます。

 まず、参考人各位からお一人十五分以内で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑に対してお答え願いたいと存じます。

 なお、御発言の際はその都度委員長の許可を得て御発言くださいますようお願いいたします。また、参考人から委員に対して質疑をすることはできないことになっておりますので、あらかじめ御了承願います。

 それでは、まず鳥居参考人にお願いいたします。

鳥居参考人 本日は、参考人として意見を述べる機会を賜りまして、ありがとうございました。

 それでは、教育基本法の改正案につきまして、私の中央教育審議会としての考え方を御説明したいと思います。

 教育基本法は、制定から半世紀以上がたちました。教育を取り巻く環境は大きく変わっております。また、子供たちのモラルや学ぶ意欲、これも大きく変わっておりまして、低下しておりまして、家庭や地域の教育力の低下などが指摘されておるところでございます。若者の雇用問題等も深刻化しております。教育の根本にさかのぼった改革が求められておりまして、将来に向かって新しい時代の教育の基本理念を明確に示して、国民全体で教育改革を進め、我が国の未来を切り開く教育を実現していくために教育基本法を改正する必要があると考えている次第でございます。

 若干詳しくその点について言及させていただきますが、この法律がつくられましたときの経緯を振り返ってみますと、当時の国務大臣、文部大臣でありますが、高橋誠一郎氏が国会で次のようなお話をしておられます。

 真に民主的で文化的な国家の建設を完成したい。これは今回の基本法の改正案においても同じ考え方でございます。世界の平和に寄与したい。これも同じでございます。国民の今後の不断の努力にまたなければならない、それは一にかかって教育の力にあると申しても過言ではないと言っておられますが、まさにそのとおりでございまして、教育の力にかかっております。この際教育の根本的な刷新を断行してその普及徹底を期することが何よりも肝要でございます。このような教育刷新の第一前提といたしまして、教育の基本理念を確立、明示する必要がある。それが教育基本法というものを制定する必要のある一番大きな理由でございます。新しい時代に即応する教育の目的、方針を明示して、教育者並びに国民一般の指針にたらしめよというお話を高橋当時の文部大臣がしておられますが、この点についても全く同じでございます。これを、教育基本法を定めるに当たりましては、国民の代表者をもって構成される国会におきまして、討議確定するために、法律をもって定めることが新憲法の精神にもかなうと当時申しておられましたが、その点についても、今日においても変わりないことだというふうに考えております。

 教育の根本理念は、単に学校教育のみならず、広く家庭を含めました社会教育にも通ずるべきものでございます。これらについても教育基本法の中で定めようというのが私どもの考えでございます。

 大体そういうことで、教育基本法の改正を中央教育審議会において審議してまいりました。

 もともと、これは、平成十二年の十二月の教育改革国民会議の取りまとめ、これは森内閣総理大臣に提出されたものでございますが、その中で、新しい時代に生きる日本人の育成、伝統、文化など次の世代に継承すべきものの尊重と発展、それから三番目に、教育振興基本計画の策定という三つの大事なポイントを教育改革国民会議が提言しておるわけでございます。それを受けまして、平成十三年の十一月に、遠山文部科学大臣から中央教育審議会に対しまして、教育振興基本計画の策定と、新しい時代にふさわしい教育基本法の在り方について諮問をされました。

 中央教育審議会は、審議を重ねた後に、平成十四年十一月に、新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方についての中間報告を取りまとめまして、遠山文部科学大臣に提出をいたしました。

 その後、中教審は、国民各層の意見を幅広く聴取するために、一日中央教育審議会を開くとか、有識者の意見を伺うとか、教育関係団体からの意見聴取を行うとかいったことを重ねまして、平成十五年三月に、最終答申「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について」を取りまとめまして、遠山文部科学大臣に提出をいたしました。

 この答申では、信頼される学校教育の確立、知の世紀をリードする大学改革の推進、家庭の教育力の回復、学校、家庭、地域社会の連携協力の推進、公共に主体的に参加する意識や態度の涵養、日本の伝統、文化の尊重、国土や国を愛する心と国際社会の一員としての意識の涵養といった理念や原則を明確にすべきであるとの提言をしております。

 今回の改正案につきましては、皆様のお手元にございます、厚い冊子がございますが、表紙に衆議院調査局と書いてございますものでございまして、第百六十四回国会、教育基本法案に関する資料となっておりますが、それの四ページ以降をごらんいただきたいと思いますが、四ページ以降に、前文から一条、二条というふうに、第十八条まで説明が載っております。後ほど、御質問にお答えする形でそれらの各条項に触れるつもりでおります。

 なお、この衆議院調査局が取りまとめました冊子の書き方でございますが、各条項とも、まず、改正案が四角い太い枠で囲んだ中に書いてあります。その下にその概要が書いてありまして、その後、(2)といたしまして、例えば五ページをごらんいただくとわかりますが、(2)といたしまして、現行法について、現行法の全条文が次の四角の中に書いてありまして、その現行法を制定する際のさまざまの趣旨等がその下の四角の中に書いてある。最後に、ちょっと六ページをごらんいただくとわかりますが、各条項ともに、中教審答申はこの点についてどう触れていたか、どう言及していたかということが書いてございます。例えば六ページを見ますと、四角の中に中教審答申の要旨が書いてありまして、その下に丸が二つございますが、中教審答申のほぼ原文がそのまま載っているという形になっておりますので、お読み取りをいただきたいと思います。

 あとは、後ほど皆様からいろいろ御質問が出ると思いますので、その御質問にお答えする形で私から御説明をしたいと思います。

 以上で最初の意見陳述を終わります。ありがとうございました。(拍手)

森山委員長 ありがとうございました。

 次に、門川参考人にお願いいたします。

門川参考人 皆さん、こんにちは。京都市の教育長の門川でございます。いつもお世話になっております。

 私は学者でも教師でもございません。ひたすら京都において教育行政に携わってまいりました。そして、今、桝本頼兼京都市長のもとで、一人一人の子供を徹底的に大切にする、そんな信念のもとに市民ぐるみの教育改革を進めております。そうした京都での実践、具体的な取り組みを通じまして、今回の教育基本法改正案につきまして感じておりますところを率直に申し述べたい、そのように思います。

 まず、かまど金の精神。学校、地域、家庭、三者の連携協力であります。

 京都は悠久の歴史を誇っております。日本人の心のふるさと、日本の精神文化の拠点都市であります。日本に京都があってよかった、そんなことを皆さんに実感していただけるように、今、国家戦略としての京都創生、そんなこともお願いして、京都も努力しております。

 その京都にとりまして、明治維新は最大の危機でございました。町が半分焼けておりました。都の地位を失った町衆は本当に嘆き悲しみました。しかし、先人たちは決して嘆いてばかりではおられませんでした。町づくりは人づくりからである、子供さえしっかりと育てれば京都の未来は明るい、そういうことで、明治元年から、学校づくりに番組という、応仁の乱から続く自治の精神を生かした、新たにつくられた自治組織でもって、長老、リーダーたちが集まって学校づくりを始められます。

 明治二年に六十四の地域制の小学校ができました。日本で最初の小学校であります。そのときにかまど金の精神というのが伝わっております。子供のおられるところもおられないところも、かまどのある家はみんなお金を出そう、あるいはかまどの数ごとに出し合った、そんなことも伝えられております。自分の子供だけいい学校に入れよう、そんなんじゃないんですね。地域の子供は地域で育てる、そのためにお金も出し、汗もかき、知恵も出し合おう、そして学校をつくろう、そんな精神であります。

 今、教育改革が進められて、この精神を最も大事にしていきたい、そのように思っております。新しい教育基本法改正案に、学校と家庭、地域の連携協力ということがきっちりと明確にされました。本当に心強く思っております。

 明治五年に明治政府が学制発布しております。そして、その年に全国津々浦々に小学校ができております。これは私はお上の力だけでできたのではないと思います。京都と同じように、それぞれ全国の方々が、あの明治維新という改革期に、子供の教育にと、お金も出し、汗もかき、ともどもに地域の子供は地域で育てよう、そんな高い志と御努力があって今の日本がある、これが最も大事にしなければならない精神じゃないかな。

 私どもは、その精神をより生かそうと、すべての学校で学校評議員制度を発足させ、平成十五年度にはすべての学校で外部評価を含めた学校評価システムを導入し、その結果を公開しております。さらに、地域が、保護者が学校運営に参画する学校運営協議会を設置し、コミュニティ・スクールにする学校が昨年度までに十七校、今年度中に五十校にも迫る勢いで広がっております。

 学校が家庭、地域の教育力を高めていく、家庭、地域が学校の教育力を高める。双方が足りないところを批判し合うんじゃなしに、子供を真ん中に、足りないところを足し合おう、高め合おう、そんな取り組みが、率直に申しましていろいろな困難な課題もあります、しかし、着実に進んでおります。そうした取り組みを進めているときに、今回の教育基本法の改正案にそうしたことが取り入れられていること、力強く思っております。

 次に、教師がその職責を自覚し、研修と修養に努め、一人一人が指導力、専門性を高めていく、これがまず大事であります。同時に、学校が組織としての教育力を高めていく、大事であります。それと同時に、今教育困難なときに、多くの喫緊の教育課題がございます。二十を超える市民参加のプロジェクトをつくって取り組んでまいりました。例えば、道徳、公共心を培うボランティア、親子でトイレ清掃なども行っております。読書、理科、情報化教育、幼児教育、障害のある子供の教育、伝統、文化、職業教育、キャリア教育、高校教育の改革、不登校問題、アントレプレナー等々、教育関係者だけじゃなしに経済界、学者、PTAの代表、公募の市民の代表等々も含めた取り組みを力強く進めてまいりました。

 こうした取り組みにつきまして、その根底となる理念、それらが今回の改正案に、個人の尊厳、人格の形成、平和的な国家社会の形成者の育成など、憲法の精神にのっとった、現行の教育基本法の崇高な理念を生かしつつ、教育の目的、目標や、具体的に新たに設けられた条文にその多くが盛り込まれており、力強く感じております。

 次に、九年前に、大人として子供たちのために今何をなすべきか、ともに考え、できることから行動しよう、こういうことを合い言葉に、人づくり二十一世紀委員会が、これも多くの市民団体の参画のもとに結成されました。九十六団体が参画し、活動しております。今、子供の命にかかわる緊急の課題、家庭、地域の教育力を行政とのパートナーシップのもとに高めていこう、その取り組みが進められております。今年度、子供をはぐくむための市民憲章を制定していこう、議会も含めて御理解賜り、運動が進んでおります。

 次に、道徳教育の取り組みであります。これも人づくり二十一世紀委員会の心の教育部会の議論の中から生まれました。五年前であります。道徳教育について市民ぐるみで取り組んでいこう。河合隼雄先生に座長になっていただきました。幅広い市民の方々と三年間にわたる論議を踏まえました。

 価値観が多様化しているということが言われます。しかし、共有できる価値観があるんではないか、市民に率直に聞いてみよう、そういうことで、やっていいこと、悪いこと、みんなで考えてみませんか、そんなポスターを京都市内隅々に張りまして、一万人アンケートをしよう。何と二万二千三百人の方がお答えいただきました。

 そのアンケートをするに当たって、予備調査として四百人を超える方に、生きていく上で、あなたは何が一番大事と考えられますか、十項目まで書いてください、そんな事前調査もしました。大人は八十八項目、子供は六十六項目、タイトなアンケートであります。三十分から小一時間かかる、こんなアンケートでございましたけれども、その中に、自分の国を愛する、このことについて問いかけもありました。これについては七割の方が肯定されました。あるいは先祖のお墓参りに行く、こんな項目もありました。九割の方が肯定されました。ただし、歩きながら物を食べてはいけない、この項目について、そう思うと答えた子供は三割でした。確かに意識が多様化している、こんなこともありました。しかし、命の大切さ、環境、伝統、国を愛する、そうした項目では意識が共有されているということを実感いたしました。

 今そうした市民の声をもとに、皆さんのお手元に配らせていただいておりますけれども、「しなやかな道徳教育」、河合隼雄先生の命名であります。かたくはないが決して折れない、そういう道徳教育を市民ぐるみで進めているところであります。

 また、家庭の教育であります。子供には夏休みに宿題が出るけれども、親に、家庭に宿題を出そうやないかと、PTAの発想であります。それで、家庭でできることはしっかりしよう。家族の宿題。いや、家庭でしなければならないこと、PTAもおやじの会も含めて、しっかりと取り組もうと、そんな取り組みがなされました。それをさらに発展させまして、PTAやおやじの会も参画して、家庭を学びの環境に、進んで学ぶ子を家庭でつくっていこう、そんな取り組みが進んでおります。「早寝早起き朝ごはん」、これもしっかりと位置づけられております。

 次に、生涯学習でございます。京都の文化力、地域力、人間力を最大限生かした生涯学習を進めていこう。そして、その成果を、子供の学びを支えるものに、子供の学びにつなげていこう、そんな取り組みをしております。

 学校五日制がよい悪いの論議がありますが、土曜日、日曜日に、大人が子供たちのためにいろいろな取り組みをしよう。町全体を子供の学びと育ちの場に、大人はみんな先生に、そんな取り組みをしまして、一年半で四千の企画、十万人の親子がこうした取り組みに参画しております。

 それをさらに発展させまして、「歴史都市・京都から学ぶジュニア日本文化検定」、ジュニア京都検定と言っています。京都の子供たちにしっかりと日本の文化、伝統を知識として学ばせたい。同時に、体験もさせたい。お茶、お花、伝統芸能、それらを、今京都検定が非常に好評でございますけれども、子供版の日本文化検定、そうしたものを進めていきたい。こうした取り組みが、郷土を愛し、日本を愛する子供たちの育成につながっていく、そのように確信しておるところであります。

 環境教育、京都は京都議定書発祥の地であります。すべての学校で環境宣言をし、環境に取り組もう。あるいは、障害のある子供の教育では、全国に先駆けて、障害の枠を超えた地域制、総合制の養護学校を一昨年新設、再編し、今その養護学校もコミュニティ・スクールにしております。

 さらに、各種の取り組みをしておりますが、割愛させていただきます。

 これら道徳、家庭教育、伝統、文化の尊重、郷土や国を愛する態度の育成、生涯学習の振興、障害を持つ子供たちの教育など、改正案に盛り込まれておりますこれらのことが、国権の最高機関であります国会において幅広く論議され、国民の教育に対する目標、理念を共有するものとして改正されることは、私ども京都で取り組んでいる者にとりましても大きな励みになる、心強いことだというふうに考えております。

 日本は、子供たちの教育を非常に大事にしてきた国であります。しかし、戦後の日本の教育の最大の不幸は、イデオロギー対立が学校に持ち込まれたことではなかったか。京都も非常に厳しい時代を過ごしてきました。学力テスト、勤務評定、あるいは国旗・国歌の問題。しかし、良識ある先人たちの命がけとも言える懸命の取り組みで、今の京都の教育があります。先人たちに感謝の気持ちでいっぱいであります。

 二十年前、京都では、国歌斉唱が全国最低でございました。徹底した論議をし、信念を持って取り組んだ結果、今すべての学校で国歌君が代が立派に斉唱され、不起立の教職員は一人もいません。そうした取り組みを通じまして、確かにイデオロギーの対立は厳しかった、しかし、保護者、市民、教師が、一人一人の子供の学び、育ちに焦点を当てて、本音で話し合い、行動したときに、必ずそうした皮相的なイデオロギーの対立は超えていける、そのように確信いたしております。

 戦後六十年、今日の教育の大きな変革期であります。社会が激動しています。教育は、多くの困難な問題に直面しております。そうした中で、国民が教育の理念、目標を共有でき、そして教育関係者も含めて、共同の行動につながっていくようなことを望んでおります。

 今述べましたように、京都の教育改革の取り組みは、今回提案されております改正案の内容と軌を一にするものであります。しかし、現場では、不登校の問題あるいは学力の二極化など、多くの深刻な課題に悩んでおります。課題が山積しております。その克服のために、教師が努力すること、当然であります。学校が全力投球すること、当然であります。同時に、教育環境の整備充実、教職員の定数改善、教育予算の改善、これが大事であります。

 京都では、独自予算で、小学校一、二年生に三十五人学級、あるいは特区制度を活用して不登校の子供の中学校創設など努力しておりますが、国家政策として、教育に心をかけると同時に予算もかけていく、お金もかけていくということが非常に大事であります。このたびの教育基本法改正案に盛り込まれている教育振興基本計画に多くの期待をしております。

 教育者がたっとばれるような世の中にしていかなければ、教育の未来はございません。そのためには、教師の定数を改善する、頑張っている教師の処遇を改善していく、そのことは非常に大事だと思います。児童生徒数の自然減以上に教師を減らすということは、私は大変なことだと思っています。教師の給料を下げるということも大変なことであります。

 どうぞ、この教育の困難なときに、教育基本法改正の論議とともに、教育条件の整備充実につきましても、国においても、また地方においても頑張らなければならぬと思いますし、先生方の御理解を切にお願い申し上げまして、私の意見陳述にさせていただきます。

 ありがとうございました。(拍手)

森山委員長 ありがとうございました。

 次に、櫻井参考人にお願いいたします。

櫻井参考人 きょうこのような機会をいただきまして、ありがとうございます。

 私は、取材をして物を書く人間でございますので、このごろの子供たちの問題、日本人の問題、それが教育とどのような関係にあるのかということをまず述べさせていただきたいというふうに思います。

 日本は大変にすばらしい国であります。経済も、いろいろと、バブルがはじけたとはいえ、非常にすばらしいレベルを保っているとは思います。そして、人々は、一般論ではありますけれども、穏やかであります。教育のレベルも、各国と比べると非常に高い。にもかかわらず、この国の子供たちはなぜ自分自身に対してもっと自信を持つことができないのか。この国の大人たちはなぜ、例えば経済力に見合っただけの政治的な自信というものを国際社会に対して示すことができないのか。

 私は、そこには非常に深い文明的な原因があるんだろうというふうに考えております。それは、ただ単に一つ二つの原因なのではなくて、戦後六十年間の間に少しずつ積み重ねられてきたことがこうしたことを生み出したのであろうかというふうに思います。

 私たちは今ここで教育基本法の改正問題について論ずるために集まっているわけですけれども、教育基本法と日本国憲法は密接なつながりがございます。中でも、日本国憲法第三章、国民の権利及び義務とこの教育基本法の間には、質的に非常に大きなつながりがあります。

 第三章の国民の権利及び義務のところを読みますと、だれしも違和感を感じることだと思います。私も最初はこの違和感が何なのかよくわからなかったんですけれども、何度も読むうちに、はたと気がつきました。

 この国民の権利及び義務、つまり大人も含めた日本人全体への国民教育の根本であると言える章だと思うんですけれども、そこを読んでみると、権利という言葉が十六回出てまいります。自由という言葉が九回出てまいります。そして、責任と義務という言葉は、おのおの三回ずつ出てまいります。

 言葉がどれだけ頻繁に出てくるかということは、その言葉の持つ意味がどれだけ重要視されているかということと正比例すると考えれば、日本国憲法第三章は、国民の権利及び義務とうたい上げながらも、権利と自由をこそとうとび、責任と義務というものを甚だしく軽視してきたと思います。

 さて、次に教育基本法を読んでみますと、私は、この日本国憲法第三章に通ずる欠陥というものを強く感じます。

 その第一は、個人というものが際立っていることですね。私たちは、何も一人で生まれてくるのではない、何も一人で育っていくのではない、一人で生きていくのでも一人で老いていくのでも一人で死んでいくのでもないわけでございまして、日本文明というものは、今生きている人、これまで生きてきた人、これから生まれてくる人々、連綿と続くこの人間のつながりの中で育てられていくものが日本文明だと思いますけれども、日本国憲法も教育基本法も、そこには、人間のつながり、過去、現在、未来を含めて、現時点での横でのつながり、家族のつながりもないんですね。

 例えば、教育基本法には、家族という言葉がどれくらい出てくるか、家庭という言葉がどれくらい出てくるか、探してみても探してみてもほとんど出てきません。家庭という言葉は、第七条の「社会教育」の中に辛うじて家庭教育という形で出てくるのみであります。そして、この教育の目的でありますけれども、平和的な国家の形成者として真理と正義を愛し個人の価値をたっとびというふうにうたわれています。個人というものは、教育基本法に幾度も幾度も繰り返し出てまいります。

 そして、まず、教育基本法の前文に当たるんでしょうか、一番最初のところを見ますと、これが日本国憲法の前文と非常に似ています。美しい言葉の連なりではありますけれども、実に空疎であります。例えば、教育基本法の前文は、「われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。」と書かれています。けれども、教育基本法のどこにも、日本というものが出てこない、日本の歴史も文明も出てこない。日本の歴史や文明、伝統に全く触れずして、普遍的にしてしかも個性豊かな文化というのは、一体どのようなものであり得るのでしょうか。私は、極めて疑問だと思います。

 ですからこそ、私は、教育基本法に、日本を愛する心、祖国を愛する心、歴史をとうとぶ心というのを意識して入れなければならないと思います。人によっては、国家を愛するなんということは当たり前なんだから、もしくは国家というのは統治機構としての政府のことを意味するかもしれないので、入れなくてもいいじゃないかとおっしゃる方もいる。それも一理はありましょう。けれども、戦後六十年、余りにも個人に傾いてきたこの国の教育、余りにも家庭や家族やふるさとや国を無視してきたこの教育の歴史の積み重ねというものがありますから、日本こそが、世界の中でどの国よりも、今、祖国愛とか国を愛する心とか日本を愛する心というものを決意して書き込まなければならないんだというふうに思います。

 その観点から、与党案と民主党案を、後ほど質問の中ででも、比べて意見を述べていく機会があろうかというふうに思います。

 最後に一つだけ申し上げておきたいのは、このように、家族を大事にすることとか、ふるさとを大事にすることとか、国を大事にすることを書き込まなければならないというふうに言いますと、いや、それは日本にはもともとなかった個人というものを大事にすることの方が先なのであって、日本では、かつては国がすべてだった、個人というものは、滅私奉公という言葉にあらわされているように、常に否定されてきたのであるからいけないんだということを言う人もいます。

 しかし、幕末から明治にかけて日本を訪れた多くの外国の人々は、我が国の姿をどのように見たでありましょうか。アメリカの人、ヨーロッパの人、列強の代表は、それぞれの国の国益を担ってアジアに来て、日本を開国させて、そして自分の国の利益のためにこの国を利用しようと考えました。彼らは欧米列強の文化の方が日本の文化よりもはるかにすぐれているのであり、欧米列強の国民の方が黄色い肌をした日本人よりもはるかにすぐれていると考えてこの国にやってきました。

 しかし、彼らがこの国に足を踏み入れた途端に、ほとんどの人々が自分たちの認識が間違いであったということに気がついたはずです。なぜならば、彼らは手紙、日記、政府への報告、家族への手紙、さまざまな形で書き残しているからです。この国の人々がいかにすばらしい文明を築いてきたかということを、例外なく外国の人々が書き残した。

 一人だけ御紹介したいと思います。この人はイギリス人でオリファントという人でありますけれども、彼も母親への手紙に書き記しました。すべてがおくれていると思って日本にやってきた、そこで私は驚くべき事実に遭遇した、この日本は個人が共同体のために犠牲になる国だと思っていた、ところが各人が全く幸福で満足しているように見えることは私にとっては幸せな驚くべき事実である、彼はこのように書き残しました。

 国家がすべてとみなされていた日本国で、そのように思ってやってきた先進文明国の一員が、そうではなかった、国家がすべてだと思っていたら、その国で人々が個人として本当に充足して幸せなほほ笑みを顔に浮かべていることがわかった、何とすぐれた日本文明であろうかと書き残しております。

 私は、日本国憲法にも教育基本法にも、このような日本文明に対する誇りと愛着と、それを次の世代に伝えていく責任というものをぜひ書き入れていただきたいと思います。

 以上を私の意見とさせていただきます。(拍手)

森山委員長 ありがとうございました。

 次に、市川参考人にお願いいたします。

市川参考人 御紹介いただきました市川でございます。

 本日は、教育基本法の改正法案につきまして、私見を述べさせていただく機会を与えられましたことを大変光栄に存じております。

 早速でございますが、教育基本法改正問題に関する私の考え方を率直に申し上げ、先生方の御批判を仰ぎたいと存じます。

 教育基本法の改正に関する私の基本的な考え方を一言で申し上げますと、改正するには及ばないというものでございます。その理由は極めて簡単でして、改正をする必要がないからでございます。

 私とても、教育基本法が神聖不可侵な不磨の大典であり、絶対に改正してはならないと思っているわけではございません。改正しなければならない理由があれば、できるだけ早く改正すべきであることは言うまでもございません。しかし、これまでのところ、各方面の御意見を聞き、いろいろな方のお書きになったものを拝見いたしましたが、改正しなければならない理由は見出せませんでした。

 と申しますのも、我が国教育の根本を定めております法律である以上、それを改正するにはそれなりのしかるべき理由がなければなりません。ところが、これまでのところ、どこからもそれが示されていないわけでございます。例えば、これからの国民を育成する上で現行法の教育理念では不十分だという証拠、今後の教育施策を進めていく上で現行法の規定が邪魔になる、障害になる、そういった根拠などが具体的に示されてはおりません。

 時代の進展や社会の変化に対応してしかるべき教育の進展が必要だということは、そのとおりでございます。しかしそれは、教育基本法以外の法令の改正や教育関係の政策や施策、そういったものによって行うことが可能であります。急速に変化してやまないその時々の政策課題を恒常的な理念法であります教育基本法に規定することは、適当ではありません。それに、そうした理念や政策の多くは既に現在の基本法にも見出せますし、ほかの分野にも三十ぐらいの基本法があり、その中に教育に関する規定も多々ございます。それから、無論、教育基本法を根本とした教育関係のさまざまな法律にも書かれております。そうしたことから、改正する必要は認めないと考えるわけでございますが、これは決して私の独断ではございません。

 ここに中央教育審議会の鳥居会長がおられますが、中央教育審議会で三年前に教育基本法改正について審議しましたときに、私は、文字どおり、その末席を汚しておりました。私は、そのとき、文部科学大臣から改正について諮問される以上、改正しなければならない事情があるんだと思いました。そこで、審議会の席上、教育基本法を改正しなければならない理由、例えば、教育政策の展開あるいは教育事業の実施、あるいは現場の教育活動などに何か困ることがあるのでしょうかとお尋ねしました。ところが、教育審議会におられた並みいる委員の方々からも、また事務局を務められました文部科学省の方からも、特に支障があるという御返事はありませんでした。このことは、当時の審議会の記録をごらんいただければおわかりと思います。

 ただ、その折、ある委員から、別に教育基本法が現在のままで困ることはないけれども、しかし改正してもいいんじゃないかという御意見はございました。

 確かにそのとおりであります。しかしそれは、教育関係の仕事、教育行政の仕事、教育者の仕事は非常に暇で、文部科学省の方々が何もすることがないというようなお暇がおありであれば、これは現在のものよりもよいものにするために改正を検討されても結構でございますが、私が存じ上げる限り、文部科学省の方は大変お忙しくていらっしゃいます。また、国会の先生方も日々国事に奔走されているわけでございまして、早急に支障がないような法律の審議をされるという必要は余りないのではないか、こんなふうに考えるわけでございます。

 先生方におかれましては、現在の教育基本法が余りにも抽象的過ぎるとかいった御不満もおありでしょうし、これも規定したい、これも盛り込みたいというようないろいろな御希望もお持ちであろうかとは存じます。そういった御不満や御希望はもっともとは思いますが、そうした具体的なことは教育基本法以外の法令に規定すべきものだと考えます。

 と申しますのも、具体的な内容を基本法に規定しようとしますと、どうしてもさまざまな不都合が生じます。それは、なぜAということを規定しながらBについては規定しないのかといった反論を招くことになりますし、また、類似の規定が既に関係法令にあるではないかといった疑問も生じることは避けられません。

 一例だけ挙げますと、例えば、障害者に対する教育上の支援というのは、政府案にも民主党案にも書いてございます。これは大変結構なことでございますけれども、障害者基本法に既に同じような規定がございます。一例だけ挙げましたけれども、ほかにもこういったことはたくさんございます。

 その点、現在の教育基本法は、日本国憲法に関連する事項に限って規定するという原則がございました。これは、当時文部省の参与をしておられまして教育基本法草案の作成を指導されました田中二郎先生、この方が教育刷新委員会で説明されていることでございまして、この原則に基づきまして、現在の教育基本法に盛られております条項はすべて日本国憲法に関連する事項に限って規定するという基本原則がございます。

 ですから、例えば、科学教育、芸術教育、徳育、体育などということは規定しておりません。一方で、政治教育、宗教教育は規定してございます。これは、科学教育が政治教育よりも重要でないということではございませんで、憲法に関連する条項があるかどうかということでございます。

 この日本国憲法と教育基本法の条項との関連につきましては、当時の第九十二帝国議会に法案が提出される前に、当時は明治憲法下でございますから枢密院の審議を経ておりますが、この枢密院の記録に、日本国憲法と教育基本法の対照表が残っております。

 こうした法案構成の基本的原理がありませんと、あれも必要だ、これも大事だ、これが足りない、あれが欠けているといったことが限りなくふえてくるわけでございまして、議論が尽きることがございません。ですから、あえて改正しようとするものでありましたならば、現行法をより長い文章にするのではなく、より簡潔にすべきだと思います。

 私ども子供のころに教わりました教育勅語は、小学生のときには大変長いと思っていたのでございますが、戦後になって数えてみましたら、四百字ない、原稿用紙一枚ない短いものでございます。極めて簡潔に要を得た書き方をしております。現在の基本法はそれよりも長いわけでございますが、それをさらに長くする。中教審で審議しましたころに日本PTAが調査した結果が発表されましたけれども、国民のほとんどの方は現在の教育基本法など読んでおられない。現在の教育基本法でも読んでおられない方が、さらに長い改正法案をお読みになるであろうか、こう考えますと、もし改正されるのであれば、現在よりも短くしていただきたい、こう思います。

 その点で、与党協議会の報告が、教育基本法は教育の基本理念を示すものであって、具体的な内容についてはほかの法令にゆだねるという御方針を示しておられますが、私は全く賛成でございます。特に教育目標などは、法律で定めるにしましても、学校教育法で規定するのが適当であります。それも義務教育あるいはそれに準ずる教育に限られます。

 現在の学校教育法で教育目標を定めているのは幼稚園、小学校、中学校、高等学校などに限られ、大学、大学院、高等専門学校、専修学校などについては定めておりません。教育目標の中でも徳目のようなものは、学習指導要領で定めるべき事柄であります。現に、今回提案されておりますさまざまな徳目は、そのほとんどが現在の学習指導要領に書かれております。学習指導要領に明記されていることを教育基本法に重複して規定しなければならない理由は明らかではありません。

 無論、文部科学大臣による教育基本法の提案理由説明あるいは民主党の日本国教育基本法案の趣旨説明にもございますように、時代の進展、諸情勢の変化とともに、今日充実を図るべき教育政策は数多くあります。しかし、新しい時代にふさわしい教育を実現するための政策や施策には、教育関係の法律に必要な条項や文言を追加することで対応できるものですし、その方がはるかに容易であります。

 と申しますのも、同じく大学の役割なり私学の振興なりを法律に規定するにしましても、原理的な教育基本法に盛り込むということになりますと、大学あるいは私学の本質的な概念規定が不可欠になります。したがって、そもそも大学とは何か、一体私学とは何ぞやから始まって、掘り下げた議論が必要になります。その点で、実務的な行政施策法に規定する方がはるかに適切です。

 例えば、生涯学習の理念は生涯学習振興法に、学校教育や大学の役割は学校教育法に、私学の振興は私立学校振興法に、学校、家庭、地域住民等の連携協力は社会教育法に、幼児期の教育は少子化社会対策基本法に、教育振興基本計画の策定は文部科学省設置法あるいは内閣府設置法などにというぐあいであります。一例を申しますと、生涯学習の理念を、生涯学習振興法じゃなくて教育基本法に規定する理由もまた明らかではありません。

 そういう施策の実現を期するためには、何よりも文教予算の充実が不可欠であります。ところが、最近の我が国における公教育費の貧困は極めて嘆かわしい状況にあります。それは、我が国の国内総生産に対する教育費の割合が、近年、諸外国と比べまして問題にならないくらい小さくなっていることです。これでは、文部科学大臣がおっしゃったような我が国の未来を切り開く教育の拡充などは到底望むべくもありません。

 私は若いころ、教育財政の歴史を少し勉強したことがありますが、昔の我が国は全く逆でして、政府も国民も、貧しい中にありながら教育には熱心であり、他国には類を見ないほどの割合で教育投資をしておりました。それが、経済の高度成長が続いた一九六〇年代に入ったころから格別目立たなくなりましたし、七〇年代以降になりますと下位グループに位置するようになり、最近ではついに大きくおくれをとるようになりました。皮肉にも、我が国が豊かになるにつれて米百俵の精神が失われてしまったのであります。

 その点で、民主党案が、国民の教育を受ける権利や生涯学習の権利を具体化するための公的支援の強化や学校教育全般に対する漸進的無償化、それを実現するための教育費の確保をうたっておられるのはまことに時宜を得たものと存じます。しかし、前に述べましたような理由から、それは具体案でございますから、これは教育基本法とは別のところに規定するべきだと考えます。

 そうした考え方から、私は、教育基本法の改正を審議しました中教審において、教育振興基本計画策定法とでも呼ぶべき法律の策定を提案しました。環境基本法や循環型社会形成推進基本法のように、同じ行政分野で基本法が二本制定されるという前例もございます。ですから、これは教育についても可能だと思いますが、残念ながら、提案は賛成を得られませんでしたけれども、私は、国会議員の先生方には、ぜひこういったことについて御検討をいただければと存じます。

 以上で私の意見陳述を終わらせていただきます。御清聴ありがとうございました。(拍手)

森山委員長 ありがとうございました。

 以上で参考人の方々からの意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

森山委員長 これより参考人に対する質疑を行います。

 なお、鳥居参考人は、都合により午後三時三十分に退席される予定でございますので、御了承願います。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。小島敏男君。

小島委員 自由民主党の小島敏男です。

 本日は、参考人の方々には、大変お忙しいところを当特別委員会に御出席、御対応いただきまして、まことにありがとうございます。

 今お話を聞きながら、大変参考になったわけでありますけれども、特別委員会の関係の前に、本会議で提案理由の説明があって質疑をし、その後二回、この特別委員会で二日間にわたって質疑をした。総理も出席をしたこともありますし、皆さんが大変熱心に取り組んでいること、このことをまずお知らせしたいと思っています。

 今お話を聞いていて、いろいろな考えの方がいるんだなということを感じたんですけれども、いずれにしても一貫していることは、教育基本法ができたのが昭和二十二年、今から五十九年、六十年という年月を通り過ぎてきたということであって、そのことで現状に合っているかどうかということが私は非常に大きなポイントだと思うんです。

 そうなりますと、二十二年当時はどんな世の中だったのかなということなんですが、国会議事堂の周りが戦災で廃墟になって、しかも、私たちがいる国会の前の駐車場が全部畑だったんですね。食糧難で、ほとんど全部畑であった。

 私は、それが事実であったかどうかということで、実は「目で見る議会政治百年史」というのを見たんですけれども、まさに「畑の緑が青々とする議事堂前庭」と書いてあるんですね。しかも、そこのところで、いろいろと畑仕事をしている奥さん方の写真も載っているんです。

 私も昭和二十一年は小学校の一年生で、だから全く食べるものがなくて、私は埼玉県の熊谷というところで生まれたんですけれども、前夜の八月十四日の十一時半の空襲で家が焼かれて、私は小学校一年、二年は家がありません。そういうことで、食べるものもなく、家もなくというところで小学校時代をスタートした人間でありますので、その当時いかに大変だったかということは、私自身が経験していますからわかります。

 しかし、そのときに、そういう状態であるにもかかわらず日本国の憲法ができ、しかも、二十二年、まだ国会の周りが畑ですよ、その畑の国会議事堂で、先ほど鳥居会長からお話がありましたけれども、当時の高橋文部大臣が言った言葉を引用されていましたけれども、私たちの先輩が、そういう国難の中であっても、日本の将来を思ったときに、教育基本法をつくらねばならないという熱意があったということに対して、私は本当にうれしく思っています。

 しかしながら、六十年たってくると、いろいろ変わってまいります。

 ちなみに、昭和二十二年と平成十七年の対比のことをちょっと見たんですけれども、人口が七千八百十万人、そして今は一億二千七百六十万人ということですから、五千万人ふえているんですね。しかも一世帯当たりの人数が、昭和二十二年は四・九二人ですね、ところが今は二・七二人という形に激減をしているということであります。これは三十五年の、今から四十六年前の統計でありますけれども、千百七十八万世帯から、今は二千八百万世帯ということで、核家族が相当進んでいるということであります。

 そこで、鳥居会長にお話を伺いたいんですけれども、今会長の方からお話があったのは、学校教育のみならず家庭、社会に及ぶようにやはり教育基本法は考えていかなきゃならないというんですけれども、この核家族の現状を見ると、家庭に親がいないんですね、今の時代は。しかも、これだけ分散をしてきたときに、やはり学校教育というものが非常に大きな役割を果たすというふうに実は感じていますので、確かに、学校、社会、家庭という形の言葉の羅列は非常に格好よく見えるんですけれども、核家族の現状から見て、今まさに学校教育というのが一番大切なウエートを占めているのではないかな、そんな感じが実はいたします。

 それから、次は門川参考人にお聞きしたいんですけれども、すばらしいことを実践されているということで、私の隣にいた小杉元文部大臣、島村元文部大臣、二人して言っている言葉をここで聞いたんですけれども、大したものだなという言葉を言っていましたね。だから、そういうすばらしいことを実践しながらやっているんですけれども、ただこのことを京都だけで終わりにするのではなくて、やはり全国にあまねく波及させる、そういうときに、まさにどういう手法があるのかなと。ただ門川教育長がいるからできるんだという形で済ませるのか、さもなければ地域のリーダーというものを育成していかなきゃいけないんですけれども、そういう地域に対して、ほかの地域に対してどんなことを望むのかなということをちょっとお聞きしたいと思っています。

 それから、櫻井参考人には、高校時代を私は思い出したんですよ。それは、いわゆる個人が際立っているということで、教育基本法でも何でもそういうことであるということと、一人では何もできないということなんです。私が高校一年のときの英語の教科書がノー・マン・キャン・リブ・アローンというんですよ。そういう教科書で、人間は一人で生きていくことはできないんだということを習ったんですけれども、その言葉を実は思い出しました。

 そこで、お聞きしたいんですけれども、昔の日本の姿というものが紹介をされたわけでありますけれども、現状を見て、現状の、今の子供たちだとか学校現場だとかいろいろ見て、まさに日本人としてのそういう心が昔と比べてどういうふうに変遷しているのかなと。この辺は非常に難しいと思うんですね。ですから、お聞きしたいと思っています。

 それから、市川参考人については、私は基本法改正賛成でありますので、お話をお聞きして、ちょっと意見が違うなということでありますので、御理解いただきたいと思います。

 よろしくお願いします。

鳥居参考人 お答えいたします。

 今の御質問は、主として、学校というものの考え方について御質問があったものと考えます。

 学校教育に関しましては、新しい法案では第六条に、また現行法でも第六条に、「学校教育」というところがございます。そこに、現行法では、「法律に定める学校は、公の性質をもつものであつて、国又は地方公共団体の外、法律に定める法人のみが、これを設置することができる。」ということだけが淡々と書いてあります。それに対して、今、小島先生から御質問のありましたことに言及いたしますが、改正案では「法律に定める学校は、公の性質を有するものであって、」云々と書いた後、第二項に「前項の学校においては、教育の目標が達成されるよう、教育を受ける者の心身の発達に応じて、体系的な教育が組織的に行われなければならない。」と書いてございます。大事な点は、教育の目標を達成するということ、そして、教育を受ける者の心身の発達ということだというふうに思います。

 そこで、少し教育という言葉について思い出してみたいと思うんです。

 明治の初めに、エデュケーションという言葉を何という日本語にするかということをめぐって、何人かの重要な人物から意見がありました。その第一は大久保利通公でありまして、大久保公はエデュケーションを教化と訳すのがいいということをおっしゃいました。それに対して、文部卿森有礼は教育という言葉を使われました。さらに、福沢諭吉は、いや、それだけではない、人間の中に内在する力等々を啓発することもまた教育の大事な仕事であると。ちなみに、エデュケーションという言葉のラテン語の原語はエデュセール、引き出すという意味でございますので、福沢諭吉はそのように言葉を追加いたしました。

 私は、何も知らない人に知らないことを教えるという教化と、そして、教え育てるという教育と、そして、福沢の言う啓発という三つの言葉を全部行うのが教育であろうというふうに思っております。

 また、別の観点から整理をしてみますと、教育というのは、これから申し上げる四点ぐらいに整理されるのではないかと思います。

 一つは人間形成でありまして、体力、身体能力の涵養から始まりまして、表現力、習慣、規律、道徳、作法あるいは自己統御、自制心、自律心、忍耐、鍛錬、そういったものから、善悪の区別、各宗教においてそれらがどのような戒律となって述べられているか、また、刑法においては何がよいことであり何が悪いことであるかを定められておりますけれども、それらについて知ることも含めまして、全体の人間形成というものをずうっと、じわじわっとやっていく、これが教育の第一の重要な側面だと思います。

 また、第二の側面は知識の伝授でありまして、基礎的な知識あるいは専門的知識を伝授することであります。これには大きく三つの軸があります。一つは時間軸でありまして、いにしえから現代までを、古典から現代までを教えていくということが一つ。第二には空間軸でありまして、世界の広がり、つまり、この地球上には六千を超える民族がおり、そして二百を超える国家があり、さまざまな文化があることを子供たちに教えていく、そしてバランスのとれた知識を持たせていくということであります。第三の軸が概念軸で、考え方、概念、理論といったもの、要するに、具体的なものから抽象の世界にいざなってあげることが大事なんだと思っています。

 それから、教育の第三の側面は学習の方法を教えることだと思います。ちなみに、隣の韓国の教育基本法では、学習の仕方を教えるということを教育基本法の中に定めていますが、このような学習の仕方を教える。例えば、テキストの使い方、文献の読み方、あるいはライブラリーの使い方、そういったものを子供たちに教えていくこともまた大事なことではないかと思います。

 最後が、学校あるいは教育の大切な使命の四番目が、成長の支援、そして人生設計の支援をすること。人生は多様であることを知らしめ、そして職業に貴賤なきことを教え、そして、社会のため、他人のためになる人生、自分が満足できる人生、生涯を通じての自己実現といったことを教えていくことが非常に重要な教育の課題であろうと思います。

 戻りまして、先ほど申しました第六条の学校教育の条項は、そのようなことを前提として書かれているものだというふうに私は解釈をしておるのでございます。

 以上でございます。

門川参考人 京都の教育改革は、あくまでも教師の潜在力、親の力、地域の力、それを信頼する、そして、連携してその力を発揮できる仕組みをつくる、きっかけをつくる。まだ改革は緒についたばかりだと思っています。そして、まず、モデルをつくる、先頭を走る学校をつくる。そして、先頭を走る学校はつくるけれども、決して、勝ち組、負け組のような格差はつくらない、こんな取り組みで今進めてまいりました。おかげさんで、今申し上げたような成果が上がっております。

 同時に、京都市の教育委員会で、例えば、八月の八日、九日に、地域教育フォーラム、ことしは第八回目を行います。六千五百人の方に全国からお越しいただきます。京都市の総合教育センターの研究発表は、半分が他府県からお越しいただきます。京都でモデルをつくり全国に発信すると同時に、また京都も全国から学ばせていただきたい、そのように思っております。

 ありがとうございます。

櫻井参考人 日本人の心がどのように変わってきたかということを答えよという、大変に難しい課題でございます。先ほど来、どのようにまとめたらいいかなと思いながら考えておりましたけれども、あくまでも一般論としてお答えしてみたいと思います。

 これは日本の青少年研究所だったと思うんですけれども、後ほど出典を明らかに、もっとはっきりできると思うんですが、青少年の調査をいたしまして、これは日本とアメリカと中国と韓国の四カ国の比較だったと思うんですね、そこがあなたは何を大切と思うかという問いをするんですね。すると、日本の青少年たちは、いい学校に行ってお金をもうけることがとても人生において大事だという。高校生だったと思うんですが、高校での勉強の目的も高い収入を得ることであるというふうな答えをした子供たちが、子供たちというか、少年が非常に多かった。その同じ問いに対して、アメリカや中国の子供たちは、最も大事なことは、自分の夢を実現させることである、もしくは世の中の役に立つことであるというふうなことを答えていました。

 では、もしあなたが自分の人生において成功したら、それはだれのおかげか、失敗したらだれのせいか。アメリカと中国の子供たちは、成功も失敗も自分が原因である。韓国と日本の子供たちは、親が悪いとか社会が悪いという答えだったんですね。

 そしてもう一つは、もしあなたがいい会社に就職して大変高い収入を得るようになったら、それは責任も非常に大きくなるんだけれども、その責任を引き受けるかという問いに対しては、アメリカ、中国の子供たちは圧倒的に、引き受ける。日本の子供たちは断トツに、高いお給料が欲しいというところに丸をつけたんですけれども、日本の子供たちは、責任は引き受けたくないというのが物すごく目立ったんですね。

 今、私、極めて端的にわかりやすく話しているんですけれども、自分にとってすごく都合のいい人生が欲しい、けれども、それに伴うであろう責任は果たしたくないというふうにまとめられるのではないかなと思うんですね。それは人間として決して尊敬できる姿でもありませんし、親はそのようなつもりで子供たちを育てたはずではないと思うんですね。日本の家庭で、どの親もやはり自分の子供にはしっかりした責任を果たす子供になってほしいと思っていたはずですけれども、そうなっていない。

 なぜそうなのかと思うと、先ほど私は、憲法の第三章と教育基本法の事例を引いて、個人が余りにも優先されていて、その背後にある、個人を育ててくれた家庭とか社会、国家、歴史、それから他者の存在というものを軽視してきたのではないかと申し上げましたが、その辺が昔の日本人と今の日本人の心の大きな変化の一つかなというふうに思います。

小島委員 それぞれ、ありがとうございました。

 二十分という時間は非常に短くて、本当は質問をもっとしたいのがあるんですけれども、一言、最後だけ言って終わりにしたいと思います。

 この与党教育基本法に関する検討会というのは、保利座長と、その後を受け継いだ大島座長、七十回、ともかくこの検討会でやっているわけですね。それで、まとまったんですけれども、そのときに大島座長が、ここにいる町村元文部大臣、今筆頭理事をされているんですけれども、町村先生のところに行ったら、一読して、うん、これはゴルフじゃないけれども、フェアウエーのど真ん中じゃないけれども、フェアウエーに乗っているというような発言をして、名言を吐いたわけですね。

 だから、これはもしラフだとか池に入ったりバンカーに入ったりということだったらあれだけれども、いずれにしても、一日も早くこれはもう進めなきゃいけないということをお話しされたわけでありますけれども、私も、ベストを求めてベターでもやむを得ないという、ともかく一日も早くやらないと、今の教育現場に、これから基本の計画等も策定するわけでありますけれども、間に合わないと思います。

 だから、そういう点について最後に参考人の皆さんに聞こうと思ったんですけれども、時間がなくなりましたので、いずれにしても、これからも教育基本法の改正に対して、大所高所から、専門家の立場から御指導いただければありがたいと思います。

 きょうは本当にありがとうございました。

森山委員長 次に、池坊保子君。

池坊委員 公明党の池坊保子でございます。

 本日、四名の参考人の方には、大変お忙しい中この委員会にお出ましいただき、そして、大変有意義なお話を伺うことができましたことを心よりお礼申し上げます。

 鳥居参考人は、中教審の長い議論に御尽力いただきましたことに心より敬意を表します。最後に鳥居参考人には総まとめとしてお伺いしたいと思いますので、まず、門川参考人に伺いたいと思います。

 私も京都に住んでおりますので、京都を限りなく愛しております。東京から京都に参りました四十年前、教育現場は非常に荒れておりました。不当な支配というのは、国家権力の介入だけでなく、イデオロギーの不当な支配もあるのかと唖然としたことを鮮明に覚えておりますが、現在、そういうことを乗り越えて、国歌・国旗も自然にみんなの京都人の心に浸透している。これには血のにじむような皆様方の御努力があったと思います。

 今、学校現場で、子供たちがおおらかに、伸び伸びと、自由な発想のもと、一人一人が大切にされる、そのような教育がされてきた。これは、この現場をどうにかしなければならないと願った保護者や学校関係者や地域の方々の連携のたまものだと私は思います。そういう意味では、今回制定されました第十三条の、学校、家庭及び地域住民の相互の連携協力というものが、既に京都ではなされていたのではないかというふうに思います。

 第十六条の二項に、国の教育にかける責任が書かれております。第十六条の三項には、地方公共団体はその地域における教育の振興を図るためその実情に応じた教育に関する施策を策定、実施するとございます。京都で今日のような教育改革が行われましたのは、やはり教育委員会の力も私は見逃せないと思います。けれども、このごろ、教育委員会はともすれば風当たりが厳しいのではないかと思います。教育現場から乖離しているとか、あるいは子供中心に考えていないとか、あるいはまた教育委員会そのものを廃止しちゃえなんという乱暴な声もございます。

 私が伺いたいのは、教育委員会の存在の意義、そのことについて伺いたいと思いますことと、来年の四月に、小学校六年と中学三年で国語と算数の二教科の全国一斉テストをいたします。京都においても学力の差というのは確かにあると思います。でも、私は、その学力の差ですべてを決めるのではなくて、学力はできなくても、例えば運動神経が発達しているとか、子供たちが持っているいろいろな力というのがあると思うんですね。あわせて、そういうことにもスポットを当てないといけないというふうに思っておりますが、その点についてのお考えをお聞かせ願いたいと思います。

門川参考人 今日、御指摘のとおり、教育委員会に対する風当たりが非常に厳しゅうございます。その存在意義が問われている、そう言っても過言ではないと思います。

 ただし、私ども、今、できるだけ学校現場に、子供、親に近いところに権限を移譲していこう、地方の時代と言われていますが、同時に、組織内分権が大事だ、学校にできるだけ権限を移譲していく、そんな取り組みをしております。

 しかし、そうした取り組みをすればするほど、教育委員会の専門性を高めた指導が大切になってきます。何もかも学校に任せれば学校はよくなるというものではありません。画一的な指導をしているときは、教育委員会は比較的仕事はしやすかった。しかし、学校に、地域にどんどん権限は持っていただき、地域ごとにいろいろな取り組みをしていただく、そのときには、それを超える、専門性を高めて、双方向の信頼関係のもとに指導を強めなければ、教育委員会は責任を果たせない。

 また、教育委員会というときに、一般的に、首長との関係でありますけれども、選挙で選ばれる首長とは適切な距離を持って、一貫して現場主義に徹した教育行政というのが今一番大切じゃないかな、そのことを心して頑張ってまいりたいな、そのように思っています。

 学力テストの問題であります。

 昭和四十年代に、当時の文部省は、全国一斉学力テストを廃止されました。しかし、京都は、研究会テストと名前を変えて、一貫して、小学校一年から中学校三年まで主要教科、主要教科という言い方が適切かどうかわかりませんけれども、学力テスト、研究会テストという名前のテストをやってきました。二十年間の記録は今も残っております。しかし、学校ごとの点数は発表しない。全市の平均点を出して、それぞれの学校、それぞれのクラスで、それと比較しながら学力を分析し、課題をとらえて実践する、そんな取り組みをしてまいりましたが、今、それを堂々と学力テストという名前においてやっております。

 同時に、ペーパーテストでわかるだけの学力ではだめだと思います。しかし、その学力を無視してもだめだ、あくまでも学力をすべての子供に保障していく取り組み、同時に、一人一人の子供にきらりと光るよさを磨いていく、引き出していく、そんな狭い意味での学力、知育だけに偏重した教育に陥らない、そうした視点を十分踏まえて取り組んでまいらなければならない、そのように思っております。

 以上でございます。

池坊委員 ありがとうございました。

 次に、櫻井参考人にお伺いしたいと思います。

 先ほどおっしゃったように、憲法の第三章、権利は十六、自由は九、それに対して責任が三で義務が三だった、個人が際立っている、私もそのように考えます。権利の前に義務があり、自由というのは責任を伴うのだということを、ある意味では、戦後六十年、教えてこなかったのかなと思いますけれども。

 私の父は、自立、個の尊厳ということ、個の確立というのをやかましく申しました。個の尊厳を突き詰めて追求していけば、私は、公共の精神も利他の心も持てるのではないか、ある意味でそれは中途半端だったのではないかというふうに思っているんです。私は、時計の振り子が右や左に振れますように、今まで個人ではなくて国、国と言ってきた、その反動で今度は個人、個人と言うようになった、その反動で個人に傾いてきたこの日本を、また軌道修正しようとすることによって国、国と言うと、真ん中に行かないんではないか。やはり大切なことは、中立、リベラル、公平ということなんではないかなというふうに思うんですね。ですから、極端になっていくというのは、余りいい傾向ではないんじゃないかというふうに思っております。

 そのことについてどうお考えかということと、冒頭に、子供たちはもっと自信を持つべきである、それから、大人たちは政治的な自信を今示せないでいる。私もそう思います。先を歩む人間はもっと毅然と、自分が生きていく、あるべき姿、人間としての守るべき姿、そういうものをもっと毅然と示していくべきではないかと思いますけれども、どうしたらそういうものを伝えることができるかを伺いたいと存じます。

櫻井参考人 個人をもっと徹底していくことによって、すべてがもっと全き形になるのではないかという御示唆でございました。それは論理としては正しいと思います。

 けれども、日本国における個人の教育の実態というのはどういったものであったでしょうか。例えば、先ほど来繰り返し申し上げているように、国民の権利及び義務の中で、権利と自由を偏重して、責任と義務というものを過小評価している。そこは、その構図だけを見ても、戦後の日本における個人というものの定義づけが偏っていたのではないのかなというふうに私は思うんですね。

 私はもう、池坊さんのすばらしい御活躍を拝見して、やはり個人としてすばらしい活躍をしておられる。ただ単に美しい女性であるということではなくて、すばらしい個人として活躍しておられると思います。思いますけれども、個人を強調することが、なぜ家族であるとか家庭であるとか社会、公共というものの軽視につながっていかなければならないのか、そこのところを私たちは戦後間違ってきたのではないかと思うんですよね。

 先ほど申し上げましたように、日本人というのは、すごくいい家庭を築き家族関係を築いた中で、個人個人が充足して生きてくることができたという極めて珍しい文明。ハンチントンも、日本文明は日本一国のみで構成していると言いましたけれども、そういったものを築いてきた私たちであればこそ、私たちは個人をも大事にしながら家族、国家を大事にすることができるはずだというふうに思っているんですね。ですから、そのことを申し上げたいと思いました。

 もう一つの御質問は何でしたか。(池坊委員「これからどうしたらいいか」と呼ぶ)これからどのように自信を持っていくことができるか、それはもう、私は、答えは明白に見えていると思いますね。

 日本人が日本人であるということ、日本文明を受け継ぐ人々であるということ、そして、その日本文明の中でどのようなことを私たちの先祖たちが達成してきたのか。それは、明治に振り返ってもいいでしょう、江戸時代に振り返ってもいいでしょうし、もう遠く遠く、平安時代、聖徳太子の時代にまでさかのぼってもいいと思いますが、どの時代でも結構ですから、ある時代を切り取って、それを例えば中国と比較してみる、アメリカと比較してみる、ヨーロッパと比較してみる。その時代時代において、私たちは、驚くほどすばらしい実績を私たちの先人が残してきたということに気がつかざるを得ないと思います。

 それは事実関係としてあるわけですね。日本が好きだからそのようにひいきをして言うというのではなく、事実関係としてあるわけですから、このようなことを振り返ることによって、ああ、私たちは、戦後日本というのは何か悪い国だった、つまらない国だったというふうに教えられてきたけれども、よくよく見れば、いいところをたくさん見落としてきたなと実感できると思います。

 そうした日本の歴史を振り返りよく学ぶことが、私たちに自信を与えてくれるのではないかというふうに思っております。

池坊委員 ありがとうございます。

 私も、すべての点において欠点ばかりをあげつらうのではなくて、もっといい面をしっかりと受けとめ、そしてそれを大切にする心を養っていくべきだというふうには考えております。

 市川参考人にお伺いしたいと思います。

 今の教育基本法で困ることは何もないとおっしゃいました。しかしながら、足らないところを補うところがあるとお考えにはなりませんか。それはお認めにならないのでしょうか。

 私は、伺って思いましたのは、不平や不満よりももっと、今不平や不満があるからということではなくて、もっと根源的な、教育のあり方、教育の理念を見直すべきときに来ているのではないか、時代の変遷の中にあって、二十一世紀にふさわしい教育理念、教育宣言、そういうものをするべきときに来ているのではないかというふうに思うんです。

 先ほど市川参考人は、PTAの人たちだってこの教育基本法を知らないよとおっしゃいました。それならば、こうやって教育基本法の全面改正のときを迎え、新聞にもマスコミも取り上げていただいておりますから、今それによって注目なさることがあると思うんですね。教育基本法のみならず指導要領も、お母様方、お父様方、御存じないと思います。それをちまちまと、ある部分だけの改正をしたのでは皆様に浸透していかないと思うんですね。それならば抜本的に全面改正をしたらいいと私は思いますけれども、それに対して何か支障があるのでしょうか。あるとしたら、そのあることをお聞かせ願えればと思います。

市川参考人 お答え申し上げます。

 今の教育基本法で困ることがないというのは私の判断ではございませんで、中央教育審議会の委員の皆様及び文部科学省の方に私がお伺いしたところ、そういうことであったわけでございます。

 先生からは、逆に、改正して困るところがあるかという御質問だと思いますが、それは改正のやり方、中身にもよりますので一概にはお答えできませんけれども、二十一世紀にふさわしい理念とおっしゃいますが、それは与党案なりあるいは民主党案なりに、前文あるいは教育目標でうたわれておることだと思いますが、同じようなことは既に、先ほど来申しますように、学習指導要領にも書かれているわけであります。したがって、新しい時代にふさわしい、つまり、学習指導要領が戦後何回も改訂されまして、おおむね十年に一遍ぐらいの頻度で改正されておりまして、その時々の時代にふさわしいように改めております。それが改められることが可能なように、学校教育法なり教育基本法が弾力的に解釈できるわけでございます。

 ですから、中曽根内閣のときの臨時教育審議会におきましては、教育基本法を改正しないけれども、その教育基本法を改正しないというのは当時公明党の要望で改正しないということになったと思いますけれども、改正しないけれども新しい時代にふさわしい解釈をされるということで、今回の改正案と同じような趣旨のことを臨時教育審議会の第一部会ではおまとめになっていると思います。

 ですから、なぜ困らないかということは、幾らでも弾力的な解釈が可能である、今までもしてきたということで困らないということでございます。

 それからまた、改正しましても現在の学習指導要領とそう大きく変わるものにはならないであろう、こう判断するわけでございまして、結局現実はほとんど変わらないというふうに考えております。

池坊委員 当然、市川参考人、八つの大切な項目が入りましたことは御理解いただいていると思います。これが入りますことによって、地域、家庭、学校、すべての人々が、ああそうなんだということで、その気持ちを喚起することが、それから教育、やはりこうあるんだな、こうしなければいけないんだなというふうに考えるのではないかというふうに思っております。

 それから、学習指導要領がというお話でございました。

 確かに、教えます場合には学習指導要領がもとになってまいりますけれども、これは何も先生方だけの教育基本法ではないと私は思います。むしろ、一億二千万の総意、教育はどうあるべきか、理念、目的、そういうものをきちんと書かれている、そしてまた、私たちがこうありたいなという精神の柱でしょうか、そういうものを書き上げているのではないかというふうに思いますので、指導要領を変えたらそれで済むんだよというのは、ちょっと私は、全体的に見たときに、そうじゃないのではございませんかと申し上げたいのですけれども、もう時間が参りましたので、審議をする時間がございません。

 でも、あくまでも、これは学校現場だけではない、先生だけではない、すべての国民の総意としての教育基本法だということを私たち一人一人がこの機会に認識できたらということを願い、私の質問を終わらせていただきます。

 ありがとうございました。

森山委員長 次に、牧義夫君。

牧委員 民主党の牧義夫でございます。

 参考人の先生方におかれましては、大変お忙しい中、また急なお呼びかけにもかかわりませず、この特別委員会の歴史的な意義を十分御認識いただいて、きょうはまげて御出席をいただいたものと思います。改めて敬意と感謝をまずは申し上げさせていただく次第でございます。

 この委員会においては、政府案と、我が党の対案というよりも、これは全く別の意味合いを持ったものでございますけれども、この二つの法律案について審議がようやく始まったところ、入り口のところであるという御認識をまずはいただきたいと思います。

 特に、まずその入り口のところから、根本から違うということを御認識いただきたいのは、私どもは、現行法の教育基本法というものは、憲法と同じく、戦後の占領下においてGHQから、ハーグ条約に反して一方的に押しつけられたものであるという認識を、民主党全員かどうかわかりませんが、私個人は少なくとも持つものでございます。

 そういう中で、ここは私たちの、主権国家、主権を回復して、初めて我が日本人の手に成る教育基本法を私たちの手でつくり上げなければならない、まずその意気込みを持って今回の法案を作成したということを御理解いただきたいと思いますし、また、言葉をかえると、そういった意味では、今回のこの政府案というもの、私ども、これまで国民会議の議論あるいは中教審のこれまでのお取り組み等について、いろいろお聞きをしているところによると、やはり私どもとやや似通った意識を持って皆さん審議をされてこられたと私なりに理解をいたしております。

 そういった観点からすると、今回の政府案というもの、その前文を見ても、私どもの法案と比べていただいて、ややその答申に至った議論の本当のエッセンスというところが抜けてしまったような感があると私は思います。先ほど、フェアウエーには何とか乗っているというお話もございましたけれども、私どもは、その本当のエッセンスのところが抜け落ちてしまったのでは、私どもの民主党案にあるような、そういったエッセンスが抜けてしまっているようでは、これは決してフェアウエーには乗っていないと私は理解をするものでございますけれども、その点のところを、鳥居会長、そして、門川参考人は我が党の案をお読みになっていただいていますか、そうしたら門川参考人、そして櫻井参考人。残念ながら、市川参考人におかれては、この改正そのものが意味がないという御意見でございますので、まずは三名の参考人の方にお聞かせをいただきたいと思います。

鳥居参考人 最初にまず申し上げたいことは、現行の教育基本法について、ハーグ条約に違反して押しつけられたものだという御発言がありましたけれども、そこまで言えるかどうか自信はありませんが、占領下のどさくさの中で、昭和二十年の八月十五日に戦争が終わり、それから約一カ月かかって占領軍が日本に次々と入国したという状況のもとで、もう既にその九月の段階で、教育改革に関する、教育刷新委員会の前身になるものですが、そういうものがスタートしていた。それは、明らかに占領軍の影響下にあったことは間違いないと私は思います。

 そして、その占領軍の影響下で教育刷新会議にだんだんにその姿が変わっていき、教育刷新会議も、今行われている幾つかの研究の結果によれば、占領軍の教育情報局の指導のもとで、お墨つきをもらいながら原案を書いていったという経過があることが次第に明らかになってきておりますので、先生おっしゃるとおり、占領軍の影響下にあったことはもう否めない事実だと思います。それであるがゆえに、旧法といいますか現行法は、できるだけ早く見直した方がいいということになるんだと思います。

 それの最たる証拠のもう一つの証拠が、この現行法には、もうこのごろは割愛していますけれども、通常は制定文がついています。制定文には、朕はという主語で、朕は、枢密顧問の議を経て、それから帝国議会の協賛を経て、つまり帝国議会は協賛にすぎない、そういうものを経てこの法律を制定し、公布するということが書かれています。

 しかも、憲法は、その時点、つまり昭和二十二年三月三十一日の時点では、まだ正式には発布されておりませんで、したがって、この制定文の文言の中では、憲法を確定しと、憲法を制定しとも書くことができなかった。そういう状況のもとで、この法律がつくられ公布されたんだということを、我々は改めて、国民みんなが思い起こす必要があるんだと思います。

 さて、先生御指摘のことに詳しくお答えすると大分長い時間がかかるのですが、まず二つ申し上げたいのですが、一つは、政府改正案の中にたくさんの新しい条項が盛り込まれておりまして、その条項の一つ一つが非常に重要な意味を持っていることを御理解いただきたいと思います。

 まず、第二条、教育の目的のところは全く新しく五つの項目を書き加えております。幅広い知識と教養、それから、豊かな情操、道徳心、健やかな体を養うこと。今までの現行法になかったことを書いております。第二番目には、自律の精神を養い、職業及び生活との関連を重視するということ、勤労を重んじる態度を養うということ。三番目には、正義と責任、男女の平等、公共の精神、主体的に社会の形成に参画すること、そしてその発展に寄与する態度を養うことが書き込まれております。四番目には、生命をたっとび、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。そして五番目が、よく問題にされますところの、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うことということでございます。

 そのほかに、第五条、義務教育のところでは、義務教育の目的、義務教育の実施についての国と地方公共団体の責務等について、新たに規定しております。これは画期的なことでございまして、ぜひ重視していただきたいところでございます。

 そのほか、第六条、学校教育についても新たな規定を設けておりますし、第七条、大学については全く新しい条項でございます。それから、第八条、私立学校についても新しい条項でございます。それから、第九条の教員のところも、教員は研究と修養に励み、養成と研修の充実が図られるべきであるということを規定しております。十条、家庭教育、十一条の幼児教育、それから十三条の、学校、家庭、地域の連携協力等がございます。そして、第十六条の教育行政、みんなこれは新しい条項であることをぜひ御認識いただきたいと思います。

 さて、民主党のお出しになりました日本国教育基本法のことでございますが、大変よくできた法律案だというふうに私は思います。ただ、幾つかの点で、まだ検討の余地が残っているのではないかと思われるのでございます。

 その問題の中で、幾つか大事なところだけを申し上げますが、教育の目的の実現のために達成すべき重要な事項は、前文ではなくて本則に規定する方がよろしいのではないかというふうに思っております。

 それから、統治機構、すなわちその時々の政府や内閣などを愛する趣旨ではないことは明らかなのですけれども、そのことを明らかにしておられますけれども、それでも、単にそれを日本というふうに呼ぶことが法律にふさわしいかどうかというのは、私は個人的には疑問に思っています。

 それから、宗教的感性の意味が、大変失礼な言い方ですけれども、不明確ではないかというふうに思っています。憲法に規定する信教の自由や政教分離の原則に照らしてみて、これがどうなのかということを疑問に思います。

 それから、学校教育の規定でございますが、不当な支配という文言をあえて削除しておられるようにお見受けいたします。学校の自主性、自律性の発揮という規定がそのかわりに追加されております。この部分、例えば国家、あるいは地方公共団体、あるいは政治、あるいは外国、特に私は外国の問題も強調しておきたいと思いますが、さまざまな圧力があり得る、そういう状況のもとで、不当な支配という文言を軽々に外すことはできないのではないかというふうに思います。教職員団体等の不当な支配という問題についても考えておく必要があると思います。

 そのほかにもいろいろ問題がありますけれども、時間の関係でこのぐらいにさせていただきます。

 もう一つだけ申し上げておきたいと思いますが、学校の最終的な運営の主体はどこにあるのかということに関連して、地方の長、地方公共団体の長が地方教育行政の責任を負うと。まだ正式に書かれてはいませんけれども、教育委員会という現行の制度について、どのようなお考えを持っておられるのかがはっきりしない、そういう文言になっていますけれども、そこのところを、私の個人的な意見でありますけれども、御検討いただければよろしいと思います。

 以上、まだございますけれども、このぐらいにして、もし追加の御質問がありましたらお答えいたします。ありがとうございました。

門川参考人 日本国教育基本法案、読ませていただきました。条文の立て方、文言等について、いろいろな違いはございますけれども、その根本に流れる理念というようなものについてはかなり共有できるものがあるんじゃないかな。率直に言いまして、僣越なことを申し上げますけれども、隔世の感を感じております。日本の教育、イデオロギー対立ということが非常に厳しい時代がありましたけれども、国を愛する、あるいは家庭の教育等々について、きちっと触れられていることについて、力強いものを感じたことがたくさんあります。

 同時に、教育委員会の存在を否定されているとか、いろいろ課題もあります。十分な論議をしていただければありがたい、そのように思います。

櫻井参考人 私は、現行憲法は根本からつくり直すべきだという考えの持ち主であります。同じく教育基本法もそのようにすべきだという考えの持ち主でありますから、民主党がこの一番最後の附則のところにおいて、現行の教育基本法は一たん破棄すると書いたことは非常に評価したいというふうに思います。

 先ほども、これはGHQの影響のもとでということがございましたけれども、教育基本法がつくられた昭和二十二年段階で、我が国で教育に関するそのほかの重要なものとして、教育勅語がございました。これは翌年の昭和二十三年に廃止されるわけでありますけれども、教育基本法ができたときに、心の問題であるとか、先ほど来申し上げました家族の問題などについてほとんど触れていなくても、教育勅語というものがあったために一種のバランスがとれていたと当時の人は考えたかもしれませんが、それが二十三年になって、国会課長のJ・ウィリアムスという人が衆参両院の文教委員長を呼びつけて、日本人の方から自主的に教育勅語を廃棄するような形でやめさせたわけでありますから、私は、この教育基本法だけで行われてきた戦後教育というのは、すごく大きく傾いていたんだろうなというふうに思います。

 そこで、与党案と民主党案の比較でございますけれども、今、与党案のよさについてはるる御説明がございましたので省きたいと思いますが、よく報道されました国を愛するということについての表現などを見ますと、何といじいじした表現かな、さぞ御苦労なさったんであろうけれども、本当にお気の毒な立場であるなということを感じました。ただ、皆さん一生懸命に変えようとなさっているお気持ちだけは高く評価したいというふうに思います。

 対して、民主党案については、私は非常に感銘を受けました。

 まず第一に、日本という言葉が法律になじむかどうかという御指摘もありましたけれども、この日本という言葉にどのような意味を込めたのかと聞いてみましたら、それは、大化の改新から聖徳太子の時代から古事記、日本書紀に書かれた日本のすべて、日本人の生き方といいますか、例えば天皇を中心とする皇室制度というものがあって、それを核として日本文明が築かれて、その中で日本人がどのように生き、暮らし、死んでいったかという、その文明そのもの、日本そのもの、全体を含むものだという御説明がありまして、なるほど、それならばこれはすばらしい表現だなというふうに思いました。

 それから、家庭の役割についても非常にしっかりと書き込んでいます。前文でも教育の原点である家庭ということを書き、第十条でも教育の原点である家庭ということを再度書いて、そこには具体的に子供の基本的な生活習慣、倫理観、自制心、自尊心等の資質の形成に積極的な役割を果たすというふうに書き込みました。まさにこれこそが戦後の日本に足りなかったことなんだろうというふうに私は思います。

 それにまた、宗教観のことでありますけれども、与党案は宗教観ということについて現行の教育基本法とほとんど変わらない文言を出しているわけでありますが、民主党の中で非常によいと思ったのは、生の意義と死の意味を考察しというところを入れました。

 子供たちが、人を殺してみたいと思ったとか、人が死ぬのはどういうことかわからないというふうなことがよく言われる現代にありまして、人間が生まれてきた、命が誕生したということの意義と、そして命あるものが死んでいくという、この死の意味を洞察することをきちんと教育の中で教えていきましょうというのは、私はすばらしいことだというふうに思います。

 そのように思いますと、民主党の案に沿って、自民党の皆さん方、公明党の皆さん方、心ある方々が、できるだけよい、新たな教育基本法をつくるために、ぜひ民主党案に歩み寄っていかれたらいかがかなというふうに感じております。

牧委員 心強い、力強い御声援をいただいて、大変ありがたく思います。

 どちらに歩み寄るというよりも、私どもは、教育改革国民会議そして中教審の答申を経て、それからの三年間というものが全くのブラックボックスで、与党の皆さんでさえ、つい四月十三日まではほとんどその中身の議論については何も知らされていなかったということを問題にしているわけで、その間の議論をしっかりつまびらかにしていただいた上で、やはり国民的な議論を広げていきたいというのが私どもの考え方でありますから、この国会においても憲法のようにきちっと調査会なりなんなりを置いて、そこで各党の案を出すなり、あるいはまた超党派の議連もございます。三百八十名という、もう衆参両院のそれぞれ過半数を超える議員でつくった教育基本法案もありますので、そういったものを土台に、これから本当の開かれた議論をすべきだと思います。

 先ほど、一日も早くという自民党の委員の方からの発言もございましたけれども、私どもは、ここへ来て拙速な結論を出すべきでないと考えておりますけれども、最後に、鳥居会長、その辺の、今後の望むべき審議のあり方というものについて、お考えをお聞かせいただきたいと思います。

鳥居参考人 お答えしにくい御質問をいただきました。

 私の考えでは、これは国会においてお決めになることでありまして、一中教審のメンバーたる私がどういうスケジュールでお決めいただくかについて発言すべきではないというふうに思っております。

牧委員 それはよくわかるんです。お考えをお聞かせいただきたかったわけで、せっかく五十年に一度、百年に一度の、これから先の国家百年の計でありますから、やはり中教審の会長としてのいろいろな思いもあろうかと思います。個人的な立場で本当に思うところをお述べいただければ幸いだと思うんですけれども、いかがでしょうか。

鳥居参考人 では、お答えいたしますが、先ほどちょっと長くなるので割愛いたしましたが、この改正案にはたくさんの、本当にたくさんなんですけれども、たくさんの新設項目がございまして、それらをぜひ実現していただくことによって教育改革の新しい一歩を踏み出していただきたいという思いが切なるものがあります。できるだけ早くこの法案をお通しくださって、教育改革を推し進めていただくようにお願いをしたいと思います。

牧委員 ありがとうございました。

 質問を終わらせていただきます。

森山委員長 次に、石井郁子君。

石井(郁)委員 日本共産党の石井郁子でございます。

 本日は、参考人として御出席いただきました先生方、御多忙の折、本当にありがとうございます。また、貴重な御意見を承ることができまして、本当に感謝しているところでございます。

 教育基本法につきまして、提出された政府の法案と特に中教審の答申との関係でやはりいろいろと問題が出てきておりますので、きょう私は、その辺に限りまして質問をさせていただきます。

 そこで、鳥居会長にお聞きをするわけでございますけれども、中教審答申では、教育の目的を達成する上での心構え、配慮事項を教育の方針として規定していたと思うんですね。これは現行法に定められた教育の基本理念、それは教育の目的及び教育の方針ということでありますけれども、憲法の精神にのっとった普遍的なものであり、引き続き規定することが適当であるということからそのようになっていたと思いますけれども、今回の政府の法案にはその教育の方針というのが削除されています。それにつきましては、いかがお考えでしょうか。

鳥居参考人 中教審の答申では、前文及び教育の基本理念という項がありまして、その中で現行法の前文と教育理念について議論をしておりまして、方針ということに余り言葉に意を用いてはおりません。

石井(郁)委員 では、次の問題なんですけれども、やはり中教審では義務教育の九年間の規定は引き続き規定することが適当だとしていたと思いますけれども、別の法律で定めるところによりとして義務教育年限の変更も今度は可能になっております。それから、幼児教育についても、中教審では審議をした様子がうかがえません。そして、答申でも触れられておりません。

 ですから、義務教育の年限、幼児教育につきまして、中教審とは違った法案になっている、変わっているということについては、鳥居会長はどのようにお考えでしょうか。

鳥居参考人 大ざっぱに申しますと、現行法と中教審答申それから改正案、この三つを比べたとき、先生がおっしゃる意味のそごが一番大きくあるのは、この九年ということが載っているか載っていないかでございます。

 中教審答申では、義務教育年限を九年とするという現行法の精神を受け継いで答申をしておりますが、改正法案では、九年というのを他の法律にゆだねる形になっています。中教審の答申とは明らかに違いますので、そこが問題といえば問題かもしれませんけれども、実は、その後のこの三年間の経過を見ますと、この三年間の間に、一貫教育という形でもってもう既にその九年の意味が大分変わってきております。

 例えば、都立九段高校が区立の中学校と一体化して一貫教育になるというような形で、随所に、全国いろいろなところで九年の枠を超えた、九年プラス高校三年ですね、そこのところを一貫化していく形があらわれ始めておりますので、これを他の法律にゆだねる方が柔軟性があると私は今では判断をしております。

石井(郁)委員 私、なぜこのように質問をしたかと申しますと、私どもの理解では、やはり文科省はこれまで、諮問をされたわけですから、その答申を受けて法案化されるというのが常であったというふうに思うんですね。それが、今回はその答申から大きく変わった部分がある。その変わった事情は、会長からは三年間の変化だと言われますと、だとしたら、今のお言葉ですけれども、では、中教審にもう一度戻して審議をし直すということになるんじゃないでしょうか。その辺が一つひっかかりを持つわけでございます。

 きょう、ここでその議論をするわけにいきませんけれども、このようにして、答申になかったことが、これは鳥居会長は三年間の変化というふうに言われましたけれども、実際は、自民、公明党の密室協議が続けられて、そして加えられたり、また削除されたりというところが実態なんじゃないでしょうか。

 それで、そのことについて、この三年間、実は今回の法案になった自民と公明との間の協議につきまして、率直なところ、会長としてはどのような御感想をお持ちか。そしてまた、どういう議論と経過を経て答申と違った法律になったのかということにつきまして、何か説明をお受けになったんでしょうか。

鳥居参考人 説明は全く受けておりません。

 それで、今御質問の中にありましたように、どのように考えるかということでありますけれども、本当に与党のその協議会におかれて、大変な御苦労をされていたんだなということを今になって思うわけでございます。

石井(郁)委員 どうもありがとうございました。

 やはり法案と中教審との関係につきまして、市川参考人にお聞きをしたいと思います。

 先ほどの陳述にもありましたように、中教審にずっとかかわってこられましたし、いろいろ発言もされていらっしゃいますので、率直なところをお聞きしたいというふうに思うんですが、市川参考人は、かつて中教審の審議について、夏までは委員が意見を言い合う放談会、諮問されたときからもう見直しは決まっていた、つまり結論ありきだったというふうに述べたということを聞いておりますけれども、中教審の審議というのは一体どういうものだったのかということをお聞かせください。

市川参考人 三年以上前のことで、正確に記憶しているかどうか必ずしも自信ございませんけれども、普通、中央教育審議会は審議会令という政令がございまして、そこでどういう手続で審議を進めるかということが書いてございます。そこで出席者の過半数で決めるとか、いろいろなことを書いてございますが、そういった政令に沿って審議がされていなかったことは確かでございます。そしてまた、その政令がすべての委員に徹底していたとは思えないのでございます。そこで、よく言えば自由、悪く言えば放談、それで自由放談と申し上げたわけでございますが、さまざまな意見が自由闊達に述べられたということです。

 ただ、それをどういう方向に持っていくかというようなことは前半部分でなくて、それで夏ごろから、事務局の方から原案のまた原案と申しますか、たたき台のようなものが出てきまして、今度はそれについて意見を言うというようなことが繰り返されて決まっていくということでございます。

 それで、意見を申し上げて、それに対する反論があって議論をするということではございませんで、意見は意見で言いっ放しでだんだん進んでいくというような傾向でございましたのが私としては大変残念で、私は別に自分の意見が通らなくても構わないわけでございますけれども、議論をしてから決めていただきたかった、こう思うわけでございます。

石井(郁)委員 今回の法案には、教育の目標ということが掲げられましたね。これは現行教育法と全く違う部分でありまして、そこには五項目があって、そして数えますと、国を愛する態度、いろいろ問題になっておりますけれども、二十に及ぶ徳目というのが書かれている。

 先ほど市川参考人から、教育の目標というのは、学校教育、特に小中高校段階では、使われる学習指導要領などではもう既に書かれているということでしたが、今回の教育基本法は、家庭教育も社会教育も大学にも及ぶものとしてこの教育の目標というのが書かれているということなんですよね。

 そこで、私どもは、徳目ですから、徳目ということを法律に書き込むということがそもそもなじむのかというか、あり得るのかということが大きな問題だというふうに考えておりますが、その点での市川参考人の御見解をお聞かせいただきたいと思います。

市川参考人 お答え申し上げます。

 今回の法案、先ほど池坊先生も、それから鳥居中教審会長も、社会教育、家庭教育すべてに係るように御発言になりましたけれども、また、石井先生からもそういう御質問ございましたが、私はそういうふうに解していないんです。私は、今回の政府案を読みまして、この教育目標というのは、学校教育、なかんずく義務教育について係っているんじゃないか、こういうふうに解釈しているわけでございます。

 と申しますのも、普通教育及び義務教育の項及び学校教育の項に、国家社会の形成者たる資質を養うということが重ねて書いてございますので、そこに限られるんじゃなかろうか。また、現実的に申しましても、社会教育や家庭教育につきまして教育の目的や目標が係るということを言いましても、これを担保する手段がございません。ですから、これは学校教育、なかんずく義務教育について係ってくるのではなかろうか、こういうふうに解釈するわけでございます。これは、最終的には最高裁判所の判断を待たないとわからないことでございますが、私はそういうふうに解しているわけでございます。

 この点で、教育目標というようなことは、家庭教育とか社会教育とか、学校教育以外の教育につきましては、法文を読みましても係らないと読めますし、また、たとえ係るとしましても、これは有名無実な規定になるのではなかろうかというふうに考えております。

石井(郁)委員 もう一点お尋ねしたかったんですけれども、学校に係るとしましても、これは全体として徳目が並べられているんですよね、態度を養うという。その徳目ということを基本法にこういうふうに細かに書くということについて、これはどうなんでしょうか。

 徳目については、戦前来、細かく規定するのはいかがかという論争もあったやに聞いておりますし、先生もいろいろ御研究かと思いますので、徳目と法律の関係、あるいは広く教育と法律の関係と言ってもいいと思います、教育で教えるべき事項というのを内容に関係して法律でどういうふうに、どこまで規定できるのかという問題についてお聞かせいただければ、少し詳しくお話しいただければと思います。

市川参考人 これは大変難しい問題でございまして、結局、自由民主的な国家におきましては、個々人の思想信条の自由というのは保障されなければならない。同時に、近代の国民国家におきましては、国民の統合ということも考えなきゃならない。そこで、そういった個人の人権と国家の主権をどうやって折り合わせるか、これは極めて難しい問題であろうと思います。

 ただ、学校教育以外の家庭あるいは一般の社会人につきまして特定の徳目を強要することは、これは先ほど申しましたように不可能でもありますし、それからまた、なすべきことではございません。

 それから、学校教育につきましても、例えば私立学校などというものは建学の精神、特定の主義の教育ということも許されているわけでございますから、これに及ぶことは極めて困難であろうかと思います。

 それからまた、国公立学校でございましても、大学のように学問の自由、教育の自由が保障されているところにおきましては困難であります。

 そこで、一番可能性がありますのは義務教育でございまして、義務教育についてすべてこれを否定することはなかなか難しかろうと思いますけれども、法律でうたいますよりは、現場の先生方のガイドラインとなります学習指導要領などにおいて規定する方がましではなかろうかというふうに考えるわけでございます。

 それで、やはり法律をもって国民一般に特定の徳目を強いることは、これは極めて思想信条の自由から問題でもございますし、同時にこれは不可能なことではなかろうかと。よっぽどの全体主義的な国家にならない限り不可能なことで、不可能なことを法律に定めるのは余り賢明じゃないんじゃないか、こういうふうに考えております。

石井(郁)委員 教育基本法制定に大きく貢献された田中耕太郎文相がいらっしゃいますけれども、これはジュリストの創刊号だったと思いますが、もう五〇年代に入ったんじゃないでしょうか、このようなことをおっしゃっているんですね。

 国家は本来学問や宗教や文化の内容自体には積極的に干渉し得ないのであり、このことは教育についても同様ではないかという疑念が起こるのであるとおっしゃっていまして、教育基本法が教育の目的に立ち入って規定するという異例を早急に取り除くことはできないにしても、これを拡張または強化してはならないと。

 だから、教育の目的ということをうたったとしても、それを拡張したり強化したりしてはならないという言葉かと思うんです。これはやはり、あくまでも教育については、国家、国というのは抑制的でなければいけないということを示していると思うんですけれども、もう少し時間がありますので、この点についての市川参考人の御意見を伺いたいと思います。

市川参考人 田中耕太郎先生の御本、私も拝読しておりまして、田中先生は、今、石井先生がおっしゃったようなことのほかに、法律で教育の目的を定めることは不可能だ、こういうふうにおっしゃっているわけであります。

 おっしゃっていることと文部大臣としてなさったことと少し矛盾しているところもございますが、これは後で反省をなさったのか、あるいは文部大臣のときには職務上やむを得なかったのか、その点は定かではございませんけれども、望ましくないだけでなくて、およそ法律でそういった目的を定めることは不可能であると。

 これは教育だけではございませんで、ほかの、例えば正義とは何ぞや、幸福とは何ぞやというようなこと、法文に正義とか幸福という言葉はございますけれども、その定義はございません。これは定義することが不可能だからで、これは学者の数だけさまざまな意見がございます。

 教育につきましても、先ほど鳥居先生から、教育についてのさまざまな御解釈がございましたけれども、全く同じでございまして、論者により説がさまざまあるということで、それを法律で規定するということは、その定義をするということは、言葉は使ってもいいでしょうけれども、定義するということは、これは好ましくないし、また不可能なことであろうかと考えております。

石井(郁)委員 時間が参りましたけれども、教育基本法の全面改定という、これは戦後初めてで、そういう国会審議が始まったばかりでございます。

 私は、きょうの参考人の皆さんからの御意見もそうですけれども、この点では、広く国民各界各層からの意見をお聞きしながら、やはり国会としての責務を果たさなければいけないというふうに考えているところでございます。

 きょうは、どうもありがとうございました。

森山委員長 次に、保坂展人君。

保坂(展)委員 社民党の保坂展人です。

 まず、鳥居参考人に伺いたいんですが、もう既に先ほどもお述べになっていることですけれども、改めてお聞きをいたしますけれども、今日、今、教育基本法を変えなければならない理由について、もう一度端的にお話し願えないでしょうか。

鳥居参考人 先ほどもお話をしたことですが、また少し角度を変えてお話をしたいと思います。

 まず第一に、現行法が制定されたときの経緯等を踏まえて現行法を考えていただきますと、現行法をつくられたときの経緯から、時代の要請というものを考えると、できるだけ早く改正をしていただきたいということがございます。

 それから第二には、この改正案を見ていただければわかりますように、時代の要請にこたえられるように、個々の条文が改正案として出ていることを御理解いただきたいと思います。

 例えば、幾つかの例を申し上げますが、義務教育につきましては、義務教育の実施についての国と地方公共団体の責務等について新たに規定をしております。これは、義務教育費国庫負担法をどう見るかについて、例の三位一体の改革をめぐっていろいろな意見が出ました。この意見はまだ着地点には到達しておりません。やはりその判断のもとになる基本的な法律というものがあって、それをリファーしながら国の行方を定めていくという意味で、この条項は極めて重要だというふうに思います。

 また、大学の規定がございますが、この規定等も今までなかった条項でございまして、改めて、これからの時代を担う、新しい時代の文明の継承と知的生産というふうに私は呼んでいますが、そういう役割を担っていくべき大学の規定を設けたという点を重く受けとめております。

 それから、大分話は違う世界になりますけれども、改正案の第十一条では、今までなかった幼児期の教育について書いてあります。幼児期の教育に関する国や地方公共団体の振興のための義務というものを規定しております。こういうものについて、新しい時代はもう待ったなしで要請をしているというふうに御理解をいただきたいと思います。

 そのほかにも多々ありますけれども、この改正案では、まさに改正案そのものが、各条項が、なぜ改正を必要とするのかを語っていると思います。

 それからもう一つ、これも違う観点からお話をしたいのですが、世界を見回しますと、世界全体では、それぞれどこの国でも教育改革が進んでいます。その教育改革の基本になる考え方がどこでも設定されています。

 例えば、イギリスの場合にはサッチャー改革、一九八八年に完成したサッチャー改革ですが、それを受け継いだ、サッチャーとしては保守党でしたけれども、労働党のブレア内閣が、ことしになって一月十日にレスペクト政策というものを打ち出しています。そして、そのレスペクトの精神でやっていくことを国民に訴えています。

 これは一例でございまして、どこの国にも、そのような形で教育の基本となる法律があったり、あるいは首相みずからの呼びかけがあったりして、そうして教育改革が進んでいるということを御理解いただきたいと思います。

保坂(展)委員 続けてお聞きいたしますけれども、今回の政府の法案に、我が国と郷土を愛する態度を養う、こういう言葉が入っております。

 ここで、内心の自由との関係で、中教審答申にも涵養という言葉も入っているようですけれども、法律にこういったことが書かれた場合に、愛国心を生徒がどのぐらい持っているかどうかの評価の問題が出てくるのではないか。この評価ということについて、例えば、極めて過剰な形で愛国心をめぐる、あるいは愛国心教育の競争ということが起きてくることはないだろうか、ブレーキや歯どめはどこにあるだろうかと。もちろん、全体主義的なあるいは国家至上的なということになってはいけないわけで、そのあたりのことはどのように中教審で議論され、どうお考えになっているのか、お願いします。

鳥居参考人 中央教育審議会のその点に関する審議については、お手元の資料をごらんいただきますと、この条項についてどういう審議が行われたかの概略が九ページ以降に書いてあります。また、詳しくは百三十ページ以降にその審議の経過が書いてあります。

 簡単にそれを御説明申し上げますが、答申では、国を愛する心、公共の精神、道徳心が重要だというふうに考えて、教育基本法に規定して国家の名で強制するというようなことについて全く考えていないということを何度も議論しております。

 それから、せっかくの御質問でございますので、お答えのついでに幾つか例を引いて御参考に供したいと思いますが、一番極端な例は中華人民共和国の教育法でございます。この教育法では、第六条に「国家は教育を受ける者に対し愛国主義、集団主義、社会主義の教育を実施し、理想、道徳、規律、法律、国防及び民族団結の教育を実施しなければならない。」と規定しております。これが私の知る限りでは一番極端な法律であります。

 それから、アメリカの場合には、小学校段階の学校教育におきまして、憲法の前文を朗読したりあるいは暗唱するということが行われております。

 その部分というのはわずか三行の英文でございますが、日本語に直しますと、我ら合衆国の人民は、より完全な連邦を結成し、これは、より完全なナショナルユニティーというのが正しい言葉なんですが、ナショナルユニティーを形成し、ジャスティス、正義を樹立し、国内のトランキュリティー、平安と訳しましょうか、平安を保障し、コモンディフェンス、共同の防衛に備えて、ゼネラルウエルフェア、一般的な福祉を増進し、最後に、我らの子孫に自由、リバティーがもたらす恩恵を確保する目的をもって、ここにアメリカ合衆国憲法を制定するということを子供たちが暗唱するという習慣があります。

 また、先ほど申しましたイギリスのレスペクト政策においてもそうであります。

 何を申し上げたいかといいますと、愛国心とかあるいは国を愛する心とかいったたぐいのことも含めて、今回の改正案の第二条で、教育の目標として五つの項目が掲げられておりますが、これを思想あるいはイデオロギーの強制につながるというふうに理解することはできないと私は思います。

 また、ここに掲げられているものは、極めて一般的に普通の人間がだれでも持っていなければならない素養でありまして、これを特定の思想、信条、そしてそれを学校教育において押しつけるための道具であるというふうに理解するのは間違いであるというふうに思っております。

保坂(展)委員 ありがとうございました。

 では、鳥居参考人、私の質問はこれで終わりますので、どうぞ。

 続けて、櫻井参考人に今の点について伺っていきたいんです。

 櫻井参考人は、官僚主義あるいは官僚の暴走について鋭い警告をされていることと思います。また、法律がひとり歩きするという怖い部分も御承知と思いますけれども、愛国心の今の評価についてなんですけれども、涵養という言葉は、地中に水がしみ入るように、次第に時間をかけてじっくりしみ通っていく、こういう言葉だというふうに聞いていますけれども、私ども、評価ということが気になるわけなんですね。

 学校というのは評価がつきまといます。というときに、他者との比較や競争、つまり、どちらが愛国心を持っているかというようなことの比較や競争ということが始まっていかないだろうかという点。そして、恐らく、愛というのは多分みずから育てるものではないかというふうに思うんですけれども、あるべき愛国心みたいなものが鋳型にあって、そしてそこに向けて子供たちが育成というか、そういうことになっていかないだろうか、そういうことについて御意見を伺いたいと思います。

森山委員長 ちょっと失礼いたします。

 質疑の途中ではございますが、鳥居参考人には、貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。御退席いただいて結構でございます。

 ありがとうございました。(拍手)

 では、櫻井参考人、どうぞ。

櫻井参考人 お答えいたします。

 私は、国を愛する心を涵養するということは当たり前のことだと思っているんですね。先ほど、鳥居さんの方から中国の事例とアメリカの事例が御紹介ありましたけれども、いずれの国家においても、どの国家においても、国民が国を愛するというのは、これは本当に当たり前のことで、私は、日本でなぜこのことがこれほど反対されて問題にされるのかということ自体が、戦後六十年の教育基本法及びアメリカから与えられた現行憲法の影響であろうかというふうに思っております。

 これが他者との相対的比較の中でどんどん現場で展開していって、何か深みにはまっていって、これがあるべき愛国心で、それをあなたが持っていないからということでネガティブな評価をされるような事態になるのではないかということでありますけれども、私はむしろ、日本には国を愛するということ、国を思うということが余りにも欠落してきたために、そこまで本当にいくのかなという感じがしておりまして、教育現場でこのことが相対評価となって子供たちに強制される事態というのは、今は私は考えられないというふうに思っております。

 また、愛国、国を愛する、国と郷土を愛するというのは、国とは一体何だろうかということを初めて日本人に考えさせてくれるのではないかと思うんですね。国というと、よく統治機構としての政府ということを言う方がいらっしゃるんですけれども、決して国というのは政府だけではない。もちろん政府も一部ではありますけれども、それは先ほど来私が申し上げてきた日本の歴史であり、歴史というのは、私たちの先人たちがどのように生まれて、生きて、死んでいったかというその価値観なんですね。どのように自分の一生の中で家族とかかわり、他者とかかわり、ふるさととかかわり、国とかかわってきたか。

 それは、日本人の生き方そのものを総合的にとらえて日本文明であり、それを包含するものが国という表現になっているのかなというふうに思いますので、私は、他の、例えば個人情報保護法とかについて思わぬ形でのいろいろな広がりがあることは確かで、そのことについては警告をしてまいりましたけれども、この愛国心については、むしろ日本には足りな過ぎるのではないかというふうに感じております。

保坂(展)委員 次に、門川参考人に教育行政というところにおられる立場から、今話題にしている、つまり愛国心評価、先日、小泉総理は通知表にこれはちょっと小学生には難しいのではないか、こういうふうにおっしゃったやりとりもありましたけれども、ただ、この点は実際に、みずから内側からはぐくむような愛国心なり愛あるいは郷土に対する愛着や愛ということと、A、B、Cあるいは一、二、三、四、五で評価されるような評価の対象としての愛国心教育は、大分違いがあると私は思うんですが、この点について、どういう扱いに恐らくなっていくのか、お考えを述べていただきたいと思います。

門川参考人 教育のそれぞれの目標に応じて評価の仕方も当然変わってくると思います。漢字を覚える、数学を解いていく、そういう問題と、美術なんかの授業で何を美しいと感じ、それをどう表現していくか。

 愛国心につきましても、単純に愛国心を三段階で評価するというふうなことについては適切でない。また、現に京都でそういうことは行っておりません。この国のことについて知りたいと思う、みずから調べる、あるいはこの国のためにいろいろな貢献をされた先人たちの生きざまを調べる、そうした方々について思いをはせて、そうした人に近づいていきたいと思う、そういうふうな一つ一つの行為、行動を評価する、それが、適切な評価が学校現場でなされているというように考えております。

保坂(展)委員 次に、市川参考人に伺いたいと思うんですが、中教審の議論の中で、今話題になっている、民主党の案では日本を愛する心でしょうか、政府案では我が国と郷土を愛する態度を養うですね、ということについてどんな議論が交わされたのか、どこまで突っ込んだやりとりがあったのか、ちょっとお話しいただけないでしょうか。

市川参考人 先ほど申しましたように、もう数年前のことで正確に記憶しているとは保証できないわけでございますが、私の記憶している限りでは、本格的な議論はそうなされなかったように記憶しております。

 議論されたことは、要するに表現ですね、国を愛するとか愛国心とかあるいは大事にするとか。それで、愛国心という言葉をはっきり出した方がいいという方と、それから余り刺激をしないようにぼかした言い方で書いた方がいいという、二つの御意見があったように記憶しております。要するに、言い回しと申しますか表現の仕方の議論でありまして、本質的な議論はなかったように記憶しております。

保坂(展)委員 もう一点、市川参考人に伺いたいんですが、この委員会でも、六十年ぶりの大改正というのであれば、私たちは教育基本法を変えなくてもいいのではないかという立場なのですが、しかし、それを六十年ぶりに改めるのであれば、十二年前に批准した子どもの権利条約ですね、子供を権利主体として位置づけて、子供がみずから学ぶ権利を、各方面、打ち出した条約なんですが、この権利条約との絡みではどういう議論があったんでしょうか。

市川参考人 教育基本法を考えます場合には、子どもの権利条約を初め国際的な条約とか宣言と抵触しないかどうかということが大事なことであろうかと思います。学者にもよりますけれども、国際条約の方が国内法よりも優先するという説もあるわけでございまして、非常に大事だと思いますが、中央教育審議会におきましては、一切その点に関する議論はございませんでしたし、どなたからもそれについて言及されることはございませんでした。

保坂(展)委員 時間になったので、これで終わります。

 ありがとうございました。

森山委員長 次に、糸川正晃君。

糸川委員 国民新党の糸川正晃でございます。

 参考人の皆様におかれましては、本当に御多忙の中、当委員会にお越しいただきまして、また大変貴重な御意見を賜りまして、ありがとうございます。

 私も、数点でございますけれども、質問をさせていただきたいというふうに思います。

 現行の教育基本法というものは、戦後六十年間、大体約六十年間でございますが、一度も改正されずに現在まで至ったわけでございます。現行法の意義というものは大きいものであったというふうに思っておりますが、同時に、今回この政府提案の改正案というものが提出された、こういうことは我が国の教育の大きな節目になるんではないかなというふうに考えております。

 また、教育基本法は日本国憲法の精神にのっとって、日本国憲法の改正も気にかかるところでございますが、しかしながら、今現実に教育基本法の改正案の審議が行われておりまして、後世に残るような改正法にしたいなというふうに思っております。

 まず、市川参考人にお尋ねをさせていただきたいと思いますが、中教審答申におけます宗教的情操の涵養、こういうものが政府案には盛り込まれておりません。これについてはどのようにお考えなのか。また、中教審ではどのような議論がされてこのような文言というふうになったのか、お聞かせいただけますでしょうか。

市川参考人 宗教教育の問題につきましては、中教審では極めて慎重でございまして、有識者の先生方、御高名な学者の方々をお招きしたときにも、宗教学者の先生をお二人もお呼びして御意見を伺っております。非常に慎重なんですが、結局見送りというようなことになったわけでございまして、それはいかにこの問題が難しいかということの反映だと思います。

 それで、これは戦前からある議論でございまして、この宗教教育というか、宗派教育と宗教的情操教育というのは、これはかば焼きの身とにおい、かば焼きのにおいをかがずに身を食べられるか、また、におわないようなかば焼きを食べられるか、こういう問題でございまして、極めてデリケートで難しい問題なんです。

 それで、よく落語でにおいだけかいでかば焼きを食べたつもりになれというのがありますが、結局、特定の宗派教育の情熱がこもらないような宗教教育では宗教的情操の涵養にはならぬだろうという議論が一方にあるわけでございます。そうすると、効果的な情操教育をやるとどうしても特定の宗派に何らかの形で傾いてくる。

 それで、例えば生命に対する畏敬の念なんということはよく中教審でも昔から言ってきたわけでございますけれども、これもよく考えてみればちょっとアニミズム的な色彩もあるわけでございまして、いろいろ分析すれば、特定の宗教により傾いているということが言えるかもしれない。そういう点でこれは極めて難しい問題であり、そうしたことから、結局、慎重を期して見送ったということだろうと私は考えております。

糸川委員 ありがとうございます。確かに、慎重を期さなければいけない言葉ではあると思います。

 もう一問、市川参考人にお尋ねいたしますが、教育基本法についてはさまざまな議論がありながらも、今まで一度も改正されてこなかったわけでございます。現在に至ってしまった、こういうことなんですが、教育行政について長く研究されていらっしゃる市川参考人としまして、改正されなかった理由、これに対して御見解をお聞かせいただければというふうに思います。

市川参考人 改正されなかった理由につきましては、二つ考えられます。

 一つは、あえて改正しなくても困らなかった。教育基本法は十一条ございますが、これまで裁判などで大きく問題になりましたのは教育行政に関するところでございまして、国民全体に責任を負うということ、それから諸条件の整備をすることでございます。

 ただ、これも、御案内のように、学力テストの最高裁判所の判決におきまして、おおよその結論は出たわけでございます。これにつきましても、学者により、あるいは立場によりまして、国の教育内容に対する介入が全面的に認められたという説と、それから、いや、極めて大枠のところだけが認められたんだという説と分かれておりまして、そういう意味では、なお議論はされておりますけれども、文部科学省としても、一応解決を見たというふうに受け取っているんだと思うんです。したがって、先ほど私が申しましたような、中教審における私の質問に対しても、困ることはないという御返事があったんだと思います。

 それで、困ることがなければと、もう一つの理由は、要するに、さまざまな抵抗が国民の間にあると。新聞の社説を見ましても半々ぐらいに社説が分かれておるわけでございまして、そういうところであえて火中のクリを拾うのも賢明ではないんじゃないかという御判断もあったかと思います。

 そういう二つの理由から、これまで改正されてこなかったんだろうと思います。ですから、基本的には、やはり、別段変えなくても困ることはなかったと。

 それで、教育論としましては、第三条の教育の機会均等のところが、一番、教育論としては議論されてきた。ただ、法律論としましては、議論になったのは主に十条でございますので、その点が、一時期、教科書裁判で大分揺れ動いたことはありますけれども、結局、最高裁裁判で一応の結論は出て、支障がないということになった結果、あえて改正する必要はなかった、それでこれまで来たんだろうと考えております。

糸川委員 ありがとうございます。

 次に、門川参考人にお伺いをしたいと思いますが、門川参考人は京都市の教育委員会の教育長というお立場で、地方教育行政を直接実施されている立場、こういう責任者でいらっしゃいますので、その立場での御意見を伺えればなというふうに思います。

 まずは、地方教育行政に直接携わるというところからいたしまして、今回のこの政府案の評価はいかがか、この辺の御見解をお聞かせいただければと思います。

門川参考人 先ほどの意見陳述でも述べさせていただきましたけれども、京都において、市民参加のもとに、さまざまな教育課題に取り組む教育改革を進めておりました。その改革で大切にしてきた理念、目標、その多くがこのたびの教育基本法改正案の中に掲げられている、そのように思います。

 確かに、今、学習指導要領、これは法的な拘束力があるとされております。それにそのほとんどは掲げられていることではありますけれども、それを国会の場で論議され、法律という形で国民が目標、理念を共有していく。今、教育改革真っただ中ですが、そういうときに、そうした意味があるんではないか、そのように考えております。

糸川委員 今おっしゃられたように、京都市においては、教員のフリーエージェント制の導入ですとか、それからスーパーティーチャー、市町村費の負担教職員の大がかりな任用、こういうことの取り組みを数多く実施されているということでございます。

 これまで行ってきたこれらの新しい取り組みに対して、政府案というのが励みになるのか、逆に民主党案の方が励みになるのか、また、京都市ではこれからもさらに新しい取り組みを行っていくんであろうというふうに思いますが、その新たな施策を行う上で、政府案というのは現行法と比較してやりやすくなるのか、逆に民主党案だとやりやすくなるのか、その辺をちょっと比較しながらお教えいただければなというふうに思います。

門川参考人 教育行政に責任を持っておる立場から、党派の見解についてどちらがいいというのは申し上げにくい立場ではございますけれども、私は、このたびの改正案、それが、とりわけ教育振興基本計画をきっちりと定めていただいて、今この教育改革真っただ中のときに、国も地方も教育条件の整備充実のために努力していただく、その部分に多くを期待いたしておりますし、そういう趣旨のことにつきましては民主党の案にも出ているということについても期待しているところであります。

糸川委員 お答えにくい質問だったと思いますけれども、ありがとうございます。

 次に、櫻井参考人にお尋ねをさせていただきたいと思います。

 櫻井参考人はジャーナリストとして幅広いお立場で活躍をされておりまして、教育についても鋭い視点での御発言というものをよく耳にするところでございます。

 そこで、戦前の国家主義、軍国主義、こういうものを反省して、教育勅語というものを廃止して、戦後、この教育基本法のもとにおいて教育体系というものがつくられてきたわけでございます。戦後教育全般を今日のこの時点で総括して、どのような意見を持たれているのか。それからまた、教育基本法というものは日本国憲法と密接に関連しておるというふうに考えておりますが、日本国憲法を改正する意見についてもどのようにお考えかお聞かせいただければというふうに思います。

櫻井参考人 お答えします。

 今、教育勅語が軍国主義を生んだということを言われました。私もそのように教えられて育ちました。そして、何年か前に憲法の本を書きましたときに、教育勅語も、それから明治帝国憲法も、現行教育基本法及び現行憲法と並んで読み比べてみる必要があったために、私なりに読み込んだつもりです。

 そして、教育勅語について驚いたのは、確かに漢文調であり、「朕惟フニ」というところから始まるために、軍国主義的だとか旧体制的だという批判を招きやすいのであろうなと思いましたが、それを読んで非常にびっくりしたのは、全く軍国主義的ではなかったということですね。そこに書かれているのは、親、兄弟、友人、それから先生、いろいろな人々との関係をどのように築いていくかという、十二だったと思いますけれども、十二の徳目がまず書かれていて、その上で、日本国民としてこの社会にどのように貢献していくのか。その十二の徳目の中には、広く人々を愛しなさい、国境を超えて広く人々を愛しなさいということもちゃんとあの時代に書かれているわけですね。

 加えて、今申し上げたように、この社会にどのように個々人が貢献をしていくのか、そして、多分軍国主義という批判は、一たん有事になればみんなが力を合わせてこの国を守らなきゃいけないというふうなことが書いてあるために、多分その考えが出てきたんだろうと思うんですが、私は、教育勅語が軍国主義の源だと言う人々は、もう一回それをしっかりと読んでみることがとても必要だと思うんです。百年以上も前に書かれたものですから、古いものがたくさんあって、現代には合わないものが多々あるのは事実だと思います。

 さっきちょっと触れましたが、昭和二十二年、教育基本法ができました。そのときにはまだ教育勅語は生きていたわけですね。教育勅語はあしき軍国主義者たちによって悪用された面はあるけれども、よく読んでみると、それは家族のことも書いてあってなかなかよろしい考えだということをGHQの指導者たちも言っていたわけですね。

 戦後、文部大臣になった歴代のリベラリストと言われる人たちも、教育勅語の廃止には反対をいたしました。しかし、さっき申し上げたように、昭和二十三年六月に、ウィリアムズという国会、教育担当のGHQのメンバーが衆参両院の教育委員長を呼んで、日本人の側から発意して勅語を廃止せよという指示をしたわけですね。だから、なくなりました。

 私は、全部読んだわけではありませんけれども当時の教育論議を読んでみると、教育基本法ができた、というよりも、先ほど鳥居先生もおっしゃったように、GHQの非常に色濃い影響のもとで教育基本法ができたわけですね。その中で、多々欠けている徳目はあるけれども、教育勅語の中にまだ生きているんだからというような両方で、教育の両輪としてバランスをとるという考え方があったんだろうというふうに思います。

 ですから、私は、古い側面は変えていくにしても、教育勅語の中に書かれている人間としての信頼と博愛、他者に対する愛というものを中心にして、いかに自己を律していくか、自分は自分一人ではない、この社会のメンバーなんですよ、この国のメンバーなんですよということを強調していくことはとても大事だというふうに思っております。

 現行憲法の改正と教育基本法の改正は相通ずるものがあるといった意味はどうかという御質問でございましたけれども、現行憲法第三章を私は非常に重視しているんですね。

 現行憲法で問題点となるのは第九条だけではなくて、むしろ心の面で非常に重要なのは第三章の国民の権利及び義務の章だというふうに思っております。三十一条にわたるあの第三章の中に描かれている人間像はどういうものか。私は一人ですよ、私には権利があります、自由がありますということだけと言っても過言ではないくらいのものであります。

 教育基本法もまた、個人を過大に強調することによって第三章の特徴というものを強調しているというふうに思いますので、この両方を改定するに当たっては、私たちの先人たちが大事にしてきた日本人としての人間関係、親子関係、家族関係、個人と国家との関係、そして、個人としてみずからを信頼し、家族を愛するようにふるさとを愛し国を愛するということ、その精神を中心軸に置くことは非常に大事であるというふうに考えております。

糸川委員 ありがとうございます。

 もうほとんど時間がございませんので、最後にもう一問、櫻井参考人に質問させていただきたいと思います。

 学校での教育に重点が置かれた、こういうことで家庭における教育というものがおろそかになった、こういうふうに言われる声もあるわけでございます。

 参考人は親の意識に対して実際どのようなお考えをお持ちなのか、こういうことと、家庭教育については、親の意識にゆだねるだけではなくて、例えば学校ですとか地域ですとか、そういうところの積極的な関与というものを期待すればいいのか、また、もしそうであるならば、それはどのように行っていったらいいのか、お聞かせいただければというふうに思います。

櫻井参考人 日本の歴史の中では、江戸時代の本を読んでみると、子供たちの教育というのは男親が中心に行っていたんですね、その当時は家制度というものがありましたから。

 明治政府は、農村などで、小さいときから農業などをさせられて、ろくろく学校に行けない子供も多々いるために、義務教育制というものをつくりました。これはこれで、国家が責任を持って子供たちに教育を与えて立派な人間にしようと思った善意だったと思うんですが、そのときに教育の主体が家族から国家へと移ったわけですね。

 戦後になりまして、さらにこの傾向というものが強められていって、学校現場の、日教組の先生たちが中心になっていくというふうな事態になっていってしまいました。家族というものは学校から締め出されるような感じになったと思うんですが、私はこれはすごく不自然なことだと思うんですね。

 ですから、やはりもう一回、家族が、家庭が教育に果たす役割というものを大切なものとして重視するとともに、ただ、女性が多くの場合働く時代になりましたので、それをどのような形で支援していくかというところに知恵を働かせていただきたいなというふうに思うんですね。

 例えば、子供を立派に育てる、きちんと育てるには一体何が大事か。いろいろなことが大事なんです。すごく平凡なことですけれども、きちんとした食事をさせるとか、ちゃんと早寝させるとか、そういう物すごく、こんなこと当たり前でしょうというようなことが大事なんですね。

 ですから、そのようないわゆる生活規範というものを、家にいるお父さんやお母さんがどういうふうに子供たちに教えていくか、また両親がどのようにそれを実践していくかという意味において、今は親の世代に対しても、教育とはこういうふうにあってほしいですね、そういうふうにしましょうねという教育が必要なんだろうというふうに思います。そして、それを助けていくのが社会の役割なんだと思っております。

糸川委員 ありがとうございました。終わります。

森山委員長 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、参考人各位に一言御礼を申し上げます。

 参考人の皆様には、貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。委員会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。(拍手)

 次回は、明三十一日水曜日午前八時四十分理事会、午前九時委員会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。

    午後三時五十六分散会


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