衆議院

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第11号 平成18年6月7日(水曜日)

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平成十八年六月七日(水曜日)

    午前九時開議

 出席委員

   委員長 森山 眞弓君

   理事 岩永 峯一君 理事 小渕 優子君

   理事 河村 建夫君 理事 田中 和徳君

   理事 町村 信孝君 理事 大畠 章宏君

   理事 牧  義夫君 理事 池坊 保子君

      安次富 修君    阿部 俊子君

      稲田 朋美君    岩屋  毅君

      遠藤 利明君    小此木八郎君

      大塚  拓君    大前 繁雄君

      奥野 信亮君    海部 俊樹君

      北村 誠吾君    小島 敏男君

      小杉  隆君    島村 宜伸君

      下村 博文君   戸井田とおる君

      中山 成彬君    西本 勝子君

      鳩山 邦夫君    松浪健四郎君

      松野 博一君    三原 朝彦君

      森  喜朗君    若宮 健嗣君

      小川 淳也君    奥村 展三君

      中井  洽君    西村智奈美君

      羽田  孜君    藤村  修君

      松本 大輔君    山口  壯君

      横光 克彦君    笠  浩史君

      太田 昭宏君    斉藤 鉄夫君

      石井 郁子君    保坂 展人君

      糸川 正晃君    保利 耕輔君

    …………………………………

   議員           高井 美穂君

   議員           藤村  修君

   議員           笠  浩史君

   参考人

   (青森大学教授)

   (エッセイスト)

   (ジャーナリスト)    見城美枝子君

   参考人

   (社団法人日本青年会議所会頭)          池田 佳隆君

   参考人

   (公立大学法人国際教養大学理事長・学長)     中嶋 嶺雄君

   参考人

   (東京大学名誉教授)   堀尾 輝久君

   衆議院調査局教育基本法に関する特別調査室長    清野 裕三君

    ―――――――――――――

委員の異動

六月七日

 辞任         補欠選任

  臼井日出男君     三原 朝彦君

  島村 宜伸君     奥野 信亮君

  西銘恒三郎君     阿部 俊子君

  やまぎわ大志郎君   安次富 修君

  笠  浩史君     小川 淳也君

同日

 辞任         補欠選任

  安次富 修君     やまぎわ大志郎君

  阿部 俊子君     大塚  拓君

  奥野 信亮君     島村 宜伸君

  三原 朝彦君     臼井日出男君

  小川 淳也君     笠  浩史君

同日

 辞任         補欠選任

  大塚  拓君     西本 勝子君

同日

 辞任         補欠選任

  西本 勝子君     西銘恒三郎君

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 教育基本法案(内閣提出第八九号)

 日本国教育基本法案(鳩山由紀夫君外六名提出、衆法第二八号)


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     ――――◇―――――

森山委員長 これより会議を開きます。

 内閣提出、教育基本法案及び鳩山由紀夫君外六名提出、日本国教育基本法案を一括して議題といたします。

 本日は、両案審査のため、参考人として、青森大学教授・エッセイスト・ジャーナリスト見城美枝子君、社団法人日本青年会議所会頭池田佳隆君、公立大学法人国際教養大学理事長・学長中嶋嶺雄君、東京大学名誉教授堀尾輝久君、以上四名の方々に御出席をいただいております。

 この際、参考人各位に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、御多用のところ本委員会に御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人各位におかれましては、それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただきたいと存じます。

 次に、議事の順序について申し上げます。

 まず、参考人各位からお一人十五分以内で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑に対してお答え願いたいと存じます。

 なお、御発言の際はその都度委員長の許可を得て御発言くださいますようお願いいたします。また、参考人から委員に対して質疑をすることはできないことになっておりますので、あらかじめ御了承願います。

 それでは、まず見城参考人にお願いいたします。

見城参考人 おはようございます。見城でございます。本日はよろしくお願いいたします。

 私は、中央教育審議会の義務教育特別部会、それから家庭部会、こちらをやらせていただいております。そういった審議会での経過、それから、私自身が四人の子供を育ててまいりまして、母親としての立場、そういった立場からきょうはお話をさせていただきます。

 まず、短いものですけれども、お手元に資料としてペーパーをお配りしております。そこに一、二、三とございまして、短い時間ですが、この三点についてお話をさせていただきます。

 一つは、教育が基本であるという考え方、それから二番目として、学校を中心に教育力の再生をという部分、それから三番目は、大変今話題になっております、議論が出ておりますが、国を愛するということについて、この三点についてお話をさせていただきます。

 まず、教育というのは基本であると思います。教育は国をつくる上での原点である、この考えは、私も仕事柄世界を回っておりまして、本当に、アフリカ等独立をした国等に参りますと、まず最初に学校をつくる、そういうところから未来へ希望をつないでいくという姿を見ております。日本のように、もう生まれたら学校があるという当然の中では忘れそうになってしまうんですが、人というのは、教育、教えられて育てられていくということで、やはり、教育が国をつくる上での原点であると思います。

 特に義務教育は、すべての国民に、全国どこにいても平等に格差のない教育が受けられるということが重要である、そう考えまして、中央教育審議会の義務教育特別部会では、一般財源化ということが話題になりました。

 前回でもそのことはお話し申し上げましたが、一般財源が縮小していく中で、それでは、各地方での格差が出てくる中で、平均してどのような均等な教育が受けられるのかということから、やはり義務教育に関しては、どの子供たちも、どこに生まれても、平等に、より品質のよい、本当に質のよい教育が受けられるようにということで、国庫負担の必要性、これを私は訴えてまいりまして、本来ならば全額国庫負担であるべきだと現在も考えております。

 三分の一という形にはなりましたが、地方の方々が心配していらした地方の独立、そしてそういった地方性という特色を出していきたいということは、教育の質としては地方に任されるということで、これからは独自性を十分出していかれると思います。とにかく国庫は保障すべきであるというのは、私の信念でございます。

 それから、学校を中心に教育力の再生をという問題ですが、私は、子育てというのは子供を社会へ送り出すプロセスと考えております。現実、子育てをしてくる中で非常に迷うこと、どうしたらいいのか、どちらを選んだらいいのか、子供にどう教えたらいいのかと迷うときでも、この子が社会へ出たときにどうか、そういうふうに、社会へ送り出すプロセスとして子育てのときの迷いのときには答えを求めてまいりました。

 本来ならば、家庭と地域とそして学校というこの三本の柱で子供たちは、家庭で社会へ送り出すプロセスを学び、そして御近所でいろいろな社会の目というものに見てもらい、それから、学校という場で専門の教師によって教育を受ける、そして社会へ送り出されるというこれが理想なんですが、昨今は、家庭がさまざまな形をとっております。理想的な親子の関係というのが全家庭には望めないものでして、そういった家庭内の問題、家庭内暴力も含め、さまざまな事件も現在起きております。そういうことから、家庭というものが変わってきてしまっている。

 それから、地域、地域と言うけれども、果たして地域というのは本当に何なのだろうか。私が育ってくる中では、御近所というふうに申し上げていました。御近所という言葉があるうちは地域というものはあったのではないかと思いますが、御近所というものが大変希薄な関係になりまして、それから、地域とかコミュニティーということを力を入れて何とかつくり上げようという動き、まちづくりも含めてできてきているんですが、やはり、昨今の事件等を見ましても、首都圏ばかりでなく、日本全国、いかに地域性の希薄化というものがおわかりいただけるかと思います。

 こういったことで、地域でも、では、子供を手放して地域にゆだねることはどうかというところに疑問がございまして、そこで、やはり揺らがずにそこに確固たるものがあるというところでは、学校です。ですから、この学校の教育力というものが非常に今重要になってきていると私は思います。

 資料として後ほど見ていただきますけれども、世帯数がどう変わってきたのか、それから、子供と一緒に過ごす時間はどうなのか、また、携帯電話等の保有数によって子供のコミュニケーションはどうなっているのかというのも資料としてつけさせていただきました。

 このような現状の中、学校は、体系的、組織的に教育が行われる点で重要な役割を果たすものです。それで、全国平等に教育を行い得る場であると。教育基本法に教育の目的や目標が明記されて、学校で教えるべきことが明確に示されたということは、大変意義のあることだと私は考えております。評価すべき点であると思います。

 三番目の、国を愛するということについてです。国を愛するということは、当然であり、基本的なことです。

 日本の中にいますと、一々国を愛すると言わなくても、ここに国がありまして、それで私たちは日常何を望むかと申し上げますと、安心、安全、安定ということです。農業と食料等でも、よくBSEの問題等でも出されますが、安全、安心、安定、この三つの安がなければいけないということを申し上げますように、国に関しましても言わずもがなで、安全で安心で安定ということを望んでおります。しかし、あえてそれを明記するのか、口に出すのかとなりますと、愛国心という言葉が出てまいります。

 これは私は残念だと思うのですが、戦争という悲劇がございまして、この戦争による心の傷というものが、愛国心というものをある部分ゆがめてしまいました。また、汚してしまいました。また、解釈をする方々によって微妙な違いが出ております。それで、だれもが自分の国を愛しているんですが、その言葉を使うということをちゅうちょするような状況であるというのは非常に残念である、私はそう考えます。

 海外へ出てみますと、私も取材経験が長かったものですから、一年の半分以上は海外ということを七年ほど続けておりました。そのときに、パスポートを出して、日本である、それから日本人である、そのことでどの国にも入っていき、またビザもとれ、信用していただける。それから、何か事があれば、日本という自分の母国に対して問い合わせていただく、それで自分のアイデンティティーというものは常に認めていただける。こういうことを経験しまして、何度も海外で、ああ、ありがたいな、自分の国がこうしてあることはありがたいと思いました。

 それで、国によっては、例えばアフリカ等に参りまして、部族間の闘争もありながらも独立した国、独立したばかりのところの国にも参りましたが、本当に無残だと思いましたのは、植民地である間に、宗主国によって自分の国の文化や伝統、そういったものが否定され閉じ込められていって、その期間が長ければ長いほど途絶えてしまう。そして、やっと独立したのに、独立した自分たちのアイデンティティーというものをどうつくっていいかわからない。そういう国の戸惑いというのも見ました。それで、やはり伝統が大事であるということが最近日本でも言われておりますが、それは国あってのことである、常に国に原点があると私は考えます。

 一人の人間として考えていただくとわかりやすいんですが、自分を愛することというのがまず第一歩で、自分を愛する、つまり自己受容ですが、自分を受け入れることができて人は初めて、他人を信頼したり愛したり、他人の存在を認めるということができます。他者信頼です。このプロセスを考えましても、自分の国を愛するということができて初めて、他国を信頼し、他国を好きになり、友好関係を結んでいくことができる。独立した国があり、その独立した国を国民が愛する、そして、また独立した関係同士で他国を愛し信頼し、友好関係、国際関係を結んでいくということが大変重要である。

 そのためにも、私たち日本の国民が、ああ、私たちの国は日本です、日本を私は愛しています、こういうことが素直に考え、また素直に表現できる国であるべきである、こう考えます。

 ここに二番目の丸として、「自己受容なしには、他者を信頼することができないように、自らの国を愛してはじめて、他国を尊重できるのであり、近隣諸国とも良好な関係を築くことができる。」それで、国家によって一人一人の個人が押しつぶされるのではなくて、ここが大事なんですが、これは政治をつかさどる皆さんへのお願いですが、かつて軍国主義というのがありまして、強い国、また他国に対して侵略もしていく、そういう国を愛することを強要されたということがあると思いますが、今回大事なのは、国民を愛する国を国民が愛するというこの関係を明確にしていただきたい、また明確にするべきであると思います。国家によって一人一人の個人が押しつぶされ、国家が個人に優先されることを危惧する声が上がっておりますが、軍が主導した国を愛するのではなく、憲法に基づく、国民が主導している国を愛するのである。これは明確に出して、また、皆さん、国民がこれを理解するべきであると思います。

 今度は子供たちの居場所の問題なんですけれども、子供たちの居場所がないということで、私は、放課後先生というのが必要で、学校が終わった後、有償、無償、そういった方たちによる、放課後にどう子供たちが居場所を確保し、そこに放課後先生のような形で、大人の目やお兄さん、お姉さんに当たる人の目が必要かということを今提案しているんですけれども、子供にとっての居場所が必要であると同じように、国は国民の居場所です。ですから、この国に生まれてよかったと思えるような国にしていくことが重要であると思います。

 また、子供たちがこの国に生まれてよかったと思えるような国にしていくことが必要で、このことを学校でも家庭でも教えられること、それが重要である、こう考えております。

 皆様のお手元に、次のページを開いていただきますと、資料一として、核家族の世帯とか単独世帯がふえているということが出ていますが、世帯数が四千六百三十二万世帯と広がりまして、本当に、独居型になっているそれから母子世帯になっているということで、家庭力が弱まっているということのこれは一つ見方ができるのではないでしょうか。

 また、二番目に、三枚目をめくっていただきますと、「共働き等世帯数の推移」というのがございますが、これは、私も働く女性として共働きはもちろん推進していくべきと思いますが、現状として、昼間母親がいない、父親ももちろん会社、企業である。そういう状況というのはこれで、その部分をどう子供の居場所づくりが必要かという形でこれはデータを見ていただきたいと思います。

 次のページに「子どもと一緒に過ごす時間」というのがございますが、日本ではそれほどパーセンテージや時間として変わりはないんではないかということが言われるとは思うんです。親子の会話も、小さいときは八割弱あるではないか、反抗期で半分はあるではないか、そういう見方もあるかもしれませんが、この内容と、それから、やはり会話が少なくなっている。

 それから、次の第七回世界青少年意識調査で図六―二というのを出させていただきましたが、自国人であることに誇りを持っているかというところで、七割方誇りを持っているというのが出ていますが、そうでない子供たちもいるという現状はゆゆしきことではないかと思います。そういうことでは、家族の中で果たして、国が大事だ、国に愛してもらおう、国を愛そうという会話があるかどうか、そういった国という意識も会話に出てくるかということも問題だと思います。

 それから最後のところでは、「今後、国民の間に「国を愛する」という気持ちをもっと育てる必要があると思うか」というこのデータなんですが、最後のページなんですけれども、このデータで少し注目していただきたいのは、平成三年の十二月に質問の仕方をこれは変えたんです。愛国心を持つこと、「「愛国心」をもっと育てる」から、平成三年になって「「国を愛する」という気持ちをもっと育てる」となったら、八割に、国を愛するということにふえました。このようなことで、日本人の、愛国心という言葉には残念ながらアレルギーがあるんではないか。

 こういったことを含めて、私は、教育が基本であり、学校という場がまた基本であり、そして、国というものがその第一の基本であるということを考えて、子供たちが日本に誇りを持って育つような国になるようにと願ってやみません。

 どうもありがとうございました。(拍手)

森山委員長 ありがとうございました。

 次に、池田参考人にお願いいたします。

池田参考人 皆さん、おはようございます。日本青年会議所会頭を務めております池田佳隆でございます。きょうは本当に貴重なお時間をいただきまして、まことにありがとうございました。

 皆様方は御承知のとおり、日本青年会議所は、地域に密着した全国七百以上の青年会議所、そして全国四万人以上のメンバーとともに、明るい豊かな、平和で温かな社会をつくり上げようと勇猛果敢に頑張っている四十歳までの青年の団体であります。この国を何とかせねばならない、そんなやむにやまれぬ気持ちで、当然給料ももらわず、すべて手弁当で立ち上がった、そして、そういった気持ちで教育事業に長年携わってきた日本青年会議所の会頭として、また、小学校に通う子供を持つ三人の子の父親として、そんな親を代表する気持ちできょうは若干意見を述べさせていただきたいと思います。どうぞよろしくお願い申し上げます。

 我々JCは、今述べさせていただきましたように、理想とする社会をつくり上げようとして運動してきているわけでございますけれども、そこに生きる人によって社会のすべてが左右されているという現実を、国民は改めて知らなければならないと思っています。当たり前のことでございますが、社会はすべて人がつくるといった原点に立ったとき、その人をつくる唯一の手段が教育である、その教育の重要性というものを再度浮き彫りにせねばならないと考えております。

 教育というものの重要性をかんがみれば、教育こそ、国がリーダーシップを発揮し、戦略的に行っていくべき国家的大事業である、そう思いますし、実際にそうでなければならないと確信をしているところであります。

 そのような観点から、戦後六十年もの間全く放置され続けた教育基本法というものが、市民からもわかりやすい内容で画期的な改正がなされようとしていることを、JCとしても、また一人の親としても心から喜びたいと思っているところであります。

 また、この改正法案が一日も早く日本の教育の目指すべき目標を正しく国民に示せ、そして、わかりやすい形で教育基本法改正法案が国会の審議を通過する、そういったことを待ち望んでいるところでございます。

 また、今回のこの改正議論を皮切りにしていただき、国は、家庭、地域社会、地方公共団体等と、覇権や利権争いというものを全くなくした新しい教育行政についての新しい協力体制、そういったものを確立すべく、教育改革に邁進していただきたいと心から願うところでございます。

 さて、現在の日本の教育にはさまざまな課題、問題が散在しているわけでございますが、ここでは、道徳教育そして歴史教育、また教員の質という問題に触れてみたいと思います。

 利他をおもんぱかる、思いやりあふれる日本の伝統的な道徳心、そしてまた、高潔にして勇敢なる大和魂、指導者の規範であり、自己犠牲をもいとわない武士道精神といった日本の心、そうした伝統的な日本の精神性、日本人が長年伝統的に培ってきた価値観、そういったものが現代の日本社会から消え失われていることを、我々日本JCは非常に危惧をしているところでございます。今年度、精神ルネッサンスを掲げ、美しき日本への回帰を唱えているのも、まさにそれが原因であります。

 ちまたでは、毎日毎日子供たちが猟奇的な犯罪に巻き込まれ、悲惨な死を遂げている。そんな悲しいニュースが特別なニュースではなくなってしまったことを心から悲しく思っています。自分さえよければそれでいいとするせつな主義が横行し、どんな手段であろうと金を稼いだ者が賞賛される、勝ち組と称される、そんな拝金主義の価値観が、市場原理主義、経済至上主義を推し進めるもとで肯定されてきているように思われてなりません。

 そればかりか、かつての教員組合のイデオロギーのもとで贖罪国家意識を植えつけられてきたせいか、いわゆる敗戦のトラウマによって祖国日本への愛情を抱くことさえできず、こんな国に生まれなければよかった、そう言って嘆く子供たちが毎年毎年どんどん増殖している現実に、悲しみを通り越して恐怖さえ感じています。

 何とかして子供たちに、ふるさとを大切にしていこう、愛していこう、生まれた国日本を大切にしよう、愛そう、日本という国に貢献できるようなそんなすばらしい人になっていこう、愛する祖国日本を世界平和に貢献できるそんなすばらしい国にしていこう、そういった純粋な、また純真無垢な愛国心の醸成を図り、この国に生まれて本当によかった、そう言える子供たちがどんどんふえるような、道徳心あふれた市民あふれるそんな日本国を一日も早くつくらねばならない、そんな思いを今強く我々JCは抱いているところであります。

 経済が衰退したところで国は滅びないと思いますが、国民から、国家に対する帰属意識、また伝統的な価値観や伝統的な精神性、そういったものがうせてなくなったとき、この国は、日本という名はあるものの、消えてなくなっていくんだと思います。

 そこで、我々JCは、自分たちの祖国を救うんだ、そんな気持ちで、国がやれないのであれば我々JCがやるとの思いで、今、教育現場に、道徳教育事業を全国各地で、ある意味実力行使で実践しているところでございます。

 昨年の愛・地球博、この日本国際博覧会において、日本青年会議所が主催した事業で使用したアニメーション、ここにサンプルを持ってきましたけれども、このDVDを教材として使いまして、それを子供たちにお見せし、自分の命がとうとい先祖から引き継いで成り立っていることに感謝し、そしてまた、人間が、森羅万象をつかさどる自然、こういったやおよろずの神様によって生かされているんだ、そんなことを楽しく学んでもらおう、そういった教材をつくって教育事業を今進めているところでございます。

 今の日本人は、自分の人生のことだけを考えて、先祖のことも、親のことも、地域社会のことも、国家のことも自分たちには関係ない、また、そういった考えがあたかも正しいことであるかのような風潮が社会でまかり通っています。いわゆる、間違った個人主義や自由主義の蔓延です。

 このようなことが間違ったことであるということは、今の社会がまさに証明しているわけでございます。国家と個人の関係を、もともと日本人が持っていたバランスのとれた関係に戻す、そのためにも、国家として本気で取り組む道徳教育、そして愛国心醸成教育が日本再生の大きな柱になると信じてやみません。

 自国の領土とも言えるEEZ、排他的経済水域の問題にしても、世論は一向に盛り上がってまいりません。海洋国家としての自覚も、自国の領土、領民、領海を守る、そういった主権が脅かされているという現実にもかかわらず、何の騒ぎも起こさない。これはまさに、愛国心のなさ、そしてまた国民としての知識のなさを象徴しているように思えてならないわけであります。

 また、戦後植えつけられた贖罪国家意識を払拭するために、現在、日本青年会議所は、近現代史教育プログラムを作成しております。東京裁判とは一体何だったのか、日清、日露戦争とは一体何だったのか、アメリカの掲げたオレンジ計画とは何だったのか、日中戦争がなぜ起こったか、国家戦略のなさが引き起こした大東亜戦争とは何だったのか、そんな戦争の総括も含め、近現代史を検証できるようなそんなプログラムをつくっているところです。

 もちろん、決して戦争を肯定したり美化したりしてはいけないのは当たり前です。ただ、子供たちには客観的な歴史認識を教える必要があると我々は考えています。今の教科書では、そのほとんどが自虐的過ぎる。そこで、そこのところを教育現場が放棄するのであれば、我々JCが買って出よう、そういうことでそういうプログラムを今つくっているわけであります。

 悪いことは悪いと言えばいい。この新しいプログラムは、来年からぜひとも教育現場に持ち込みたい、ぜひとも先生方のバックアップをいただきたい、この場をおかりしてお願い申し上げる次第でございます。

 さて、教育の原点として、まずは、我々日本人が日本のすばらしき精神性の美しさというものを再認識することから始めるべきだと私は思っています。日本の伝統的な精神性は、世界じゅうから殺りくや貧困をなくすことができる、そう確信して運動しています。

 一九九三年、かつて我々JCは、日本の心である、もったいないと万物に感謝する精神を世界に広める運動を展開しました。昨年度、ケニアのマータイさんから逆輸入されたのはある意味複雑な気持ちではありましたが、今新たに、OMOIYARI運動を世界じゅうで展開しております。自分のことよりも他人のことを思いやる利他の精神、価値観の伝播です。もう既にアジア太平洋地域では伝播しておりますが、これが意外と反応がよく、我々JCとしてもモチベーションが今非常に上がってきているところであります。

 こういった活動や成果をぜひとも子供たちに伝え、日本という国や生まれた地域社会、自分の家庭に自信と誇りを取り戻せるような真の教育が今本当に求められていると思います。

 もちろん、教育行政は、教科書や指導要領をつくれば終わりというものではありません。今まさに求められているのは、教員の質であると思います。

 はっきり申し上げまして、現在、教員の質には非常にばらつきがあると思います。クラスがえのたびに当たり外れがあるという現実を、ここにおいでの先生方はどのように感じられておいででしょうか。教員の資格試験を厳しく、そして評価制度をしっかり構築していく必要が私はあると思います。

 人事の担当が地方だから、そういう責任論の転換ではなく、この国の将来や世界の平和を担っていく子供たちを国家を挙げて育てていくという覚悟が今のこの日本という国に感じられない現実には、親として閉口せざるを得ないわけであります。国家として、日本をつくり上げ、世界を平和に導く子供たちを育てる教育というものを戦略的に考え、先行投資としてしっかりとお金を使っていただきたい、そう心から願ってやみません。財源がないからといって教育にお金をかけないというのは、国民から見れば全くナンセンスと言わざるを得ないわけであります。

 教育にとって学力の向上は、当然のことながら絶対的使命であります。特に最近は、ゆとり教育ならぬ緩み教育の弊害で、その学力低下が顕著にあらわれてきていることは皆さん御承知のこととは思いますが、今後、しっかりと知識について子供たちに学ばせなくてはいけないと思います。それは、生きる力や英知というものは知識なくしては生まれてこないという現実を直視せねばならないということです。

 また、知識教育だけではなく、公共性に寄与することが美しく生きることだ、美徳であるということもあわせて教えていかなくてはなりません。この道徳教育というものがすべての教育の基盤であるということを、今改めて、JCとしても、また一人の親としても、一人の国民としても申し上げたいと思います。

 自立した国民、市民が多様性を発揮できる、そのようなユートピアの社会、こういう社会は今後必ず必要となってきます。がしかし、個人の利益や権利のみを主張する利己主義というものは、公教育において完全に否定すべきです。そしてまた、自由には責任が、権利には義務が伴うといった、生きる上での基本をしっかりと教えていかねばならないと思っています。常に公の利益を尊重できる人に子供たちを育てていかなければならない、私は考えます。

 こういうことがしっかりはぐくまれないことには、世界平和を牽引するすばらしい日本をつくる、尊敬される日本をつくるどころか、これからの日本に必要とされる、経済的な国際競争そして財政再建といった困難に立ち向かう力を養うことは到底無理だと考えます。

 最後に、最近ちまたでは格差問題なるものがよく取りざたされておりますが、地方分権そして財政再建の観点から、義務教育の地方間格差が間違っても生じないよう、教育は国家戦略であるとの観点から、政治家の先生方には今後ますます御尽力をお願い申し上げまして、雑駁ではありますが、日本青年会議所としての意見陳述とさせていただきます。

 最後まで御清聴ありがとうございました。(拍手)

森山委員長 ありがとうございました。

 次に、中嶋参考人にお願いいたします。

中嶋参考人 おはようございます。

 先ほど町村さんから、私はきょうは民主党の推薦かと伺ったんですけれども、前回、前々回、大学法案とか大学関係のときには自民党の推薦として伺いましたが、このこと自体が、やはり教育基本法というような非常に大事な問題に関しては、ぜひ党派を超えていいものをつくっていただきたいと思う次第でございます。そういう観点から、きょうは、主として政府案に対する私の注文というものも申し上げてみたいと思うんです。

 というのは、私自身も中教審の委員をしておりまして、中教審の教育基本法特別委員会にも加わり、現在もそうなんですけれども、きょうは政府関係の委員の方も来ていらっしゃって、大変立派なものをつくっていただいたとはいえ、そこにはいろいろ問題があるのではないかと思います。

 主としてまず、一番重要な愛国心という問題についてお話ししてみたいと思うんです。

 中教審の答申は、最近のグローバル化によって国際社会が物すごく変動しつつあるという、そうした中で日本人としてのアイデンティティーが非常に重要になる、そういうところを強調したつもりでありますし、私自身も、今の教育基本法に一番欠けているのは、まさに国際社会的な観点というものが全くないわけですね。御案内のように、あのときは、日本の武装解除とともに日本人の精神をも解除しようとしたのが、憲法に先駆けて教育基本法が公布と同時に施行されたという経緯がございました。そういう観点から見ますと、愛国心というものに関しては、当時と現在とあるいは戦時中、全く状況が違うわけでございます。

 そもそも、国という言葉についても、例えば英語で言った方がわかりやすいと思いますけれども、ステーツという場合、あるいはカントリーという場合、それからランドという場合、あるいはネーションというような、言い方はいろいろあるわけです。それぞれニュアンスが違うと思うんですね。

 しかしながら、現在のように民主社会、民主主義が完全に定着して、ある意味では過度とも言われるような個人主義が貫徹されているような社会では、私は、愛国心という言葉を使っても何ら問題ないと思うんですね。しかし、それに対して若干戸惑いがあるようであれば、その心をやはり体現していただかなければいけないと思います。

 そういう観点から申し上げますと、若干大学の講義のようになって恐縮ですけれども、そもそも、愛国心という言葉について、コロンビア大学の教授であったカールトン・ヘイズという大変立派な歴史学者あるいは社会学者が定義をしております。その定義は、健全な愛国心というのは、郷土を愛する気持ち、ザ・ラブ・オブ・ワンズ・テラパトリアというんですけれども、これは祖国の土地という意味ですね、オア・ネータル・ランド、そういう言い方をしているんですね。この定義は、まさにパトリオティズム、つまり愛国心というものに対する定義でありまして、一九二六年に、「エッセーズ・オン・ナショナリズム」という大変立派な、重要な本で定義をしております。

 私は、実は学生のころ、若げの至りで「階級の論理とナショナリズム」なんという卒業論文を書きまして、当時の階級の論理、中国がそのころ、愛国主義とか国際主義、まさにマルクス・レーニン主義、それであればナショナリズムを乗り切れるんだというような議論があったときの卒論を書いたものですから、ヘイズのその著作は、そのころからいつも座右にしておりました。

 この本が書かれたのは一九二六年ですから、ファシズムとも軍国主義とも全く関係のない、両大戦間なんですね。そのときに、まさにきょう皆さんがここで議論しているような言葉がもう既に定義されているんです。ちょうど八十年前です。亡きヘイズは、日本の国会で、パトリオティズム、愛国心を定義するのに、郷土に対する愛情だとか祖国に対する愛情だということが議論されていることをどういうふうに感じているでしょうか。

 そういう形で考えますと、現在の日本においては、やはり、国を愛する心というものをそのまま用いても一切問題がないというふうに私は思うんです。

 そういう前提で今回の政府案を見て一番気にかかるところは、御案内のように、あの政府案の中に、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」とありますよね。皆さんも、一番ここが重要な箇所としていろいろ御意見をお持ちだろうと思うんですけれども、少なくとも、私の観点から見ると、この伝統と文化というのはまさに日本の伝統と文化でありまして、まさにそれをはぐくんできた国と郷土を愛する、今ヘイズが言ったようなことはいいんですけれども、「愛するとともに、」ですよね、そしてその後は、「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を」となるわけです。そこが非常に問題だと思いますね。自分たちの伝統や文化を愛するとともに、今度は他国を尊重するということは、まさに自分たちの伝統や文化を本当に愛することになるのかというと、やはり主客が同列になっているんですよね。これを英語に訳すと、アット・ザ・セイム・タイムというようなことになっちゃって、これをどうやって外国に説明するのか。

 しかも、「他国を尊重し、」というのが私は大変気にかかるわけで、他国の文化を尊重じゃなくて「理解し、」でしょうね、少なくとも。日本のところは「尊重し、」となっていて、今度は「他国を尊重し、」というのは、他国の文化、つまり異文化、ジ・アザー・カルチャーというものを理解するんですよね。尊重するのは我々の文化であって、他国を理解することの中に初めて国際理解が進むわけですから、そういうふうにでもしていただかないといけないし、新聞なんかでも一部出ておりますし、自民党の先生方の中にも私と同じ意見の方がいると思いますけれども、他国を尊重するというのは、他国の文化を理解するならわかるんですよね。

 お隣の中国なんか、まさにむき出しの愛国主義、これは愛国心じゃなくて愛国主義ですよね。物すごく軍事力を強化して、そして、もう本当に中国というと、皆さんすぐ国家というものを感じるでしょう。あれほど国家を感じさせる国はないですよね。「他国を尊重」だと、それを尊重しなきゃいけないし、北朝鮮も言うに及ばずですよね。

 こういう国際的な文脈の中で考えた場合に、現在のまさにグローバル化、これは物すごい勢いで進んでいます。私がそのことに驚いたのは、まさにベルリンの壁が崩壊する前後、ちょうど東ドイツと西ドイツに行っていまして、天安門事件の後でしたよね。そして、東ドイツのあのホーネッカー独裁体制が崩れるかもしれないというので、フンボルト大学の学者の方々が私を招いて、天安門事件の教訓を話してくれと。その直後にベルリンの壁が崩れていきました。それ以来、国際社会はボーダーレスになりましたよね。このボーダーレス化の著しい中でこそ、日本の伝統や文化が本当に尊重されなきゃいけない。

 それから、同じころたまたま私はアメリカに滞在する経験がありまして、インターネットで私の論文にアメリカの学者がアクセスしてくれたんですね。そうしたら、英語の論文ですけれども、ぱあっとそれが出てきた。それで私はもうびっくりして、私ごとき一日本人の学者の論文が、アメリカの学者の家でインターネットでぱあっとリストになって出てくる。そのころまだ日本はそこまでいっていませんでしたから。これがまさにIT化ですよね。ですから、たかだか十数年前のことなんです、このグローバル化というのは。

 今後、国家百年の計としての教育基本法を考えると、国際社会の変動というのは物すごいと思うんですよ。この変動という言葉も、こちらの方には使っていないです、国際社会の平和に貢献するというようなことはあるんですけれども。その点から考えると、きょうは、民主党のことを別に肩を持つわけではないんですけれども、政府案は、せっかく中教審で我々議論したのが何となく砂をかむような感じになったのに対して、少なくとも今回に関しては、民主党の方がはるかに心があるんですよね。だから、自民党の先生方もそこはかなり共感しているんじゃないか。

 ということは、私なんかから申し上げると、こういうことを言っていいか、教育とか国家とか、あるいは靖国問題とか、あるいは中国問題、台湾問題、こういう一番大事なところを考えると、やはり政界の再編成がぜひ日本のためにも必要じゃないかと思うぐらいでありまして、そういう点でも、ぜひ皆さん方の知恵を合わせていただいて、教育基本法という大事な法案のために御尽力いただきたいと思う次第でございます。

 さて、そのほかのところで若干気がついたところを申し上げますと、教育の順序のところですね、政府案。この順序は、やはり家庭教育が先じゃないでしょうか。それからその次が、幼児教育があるべきだと思います。

 私自身、実は、鈴木鎮一さんのバイオリンのあの松本音楽院の第一期生でした。今、幼児教育は、鈴木さんの鈴木メソッドというのは世界に広まっていますよね。日本ではほとんど冷たく、特に文部科学省からは冷たくて、一民間人だったものですから、何らの御支援も賞もいただけなかったのは残念ですけれども、今、世界で鈴木メソッドというと、カーターさんのお嬢さんも含めて、それはやはり幼児教育の大切さです。そうするとやはり、家庭教育があって、幼児教育があって、次に学校教育だと思うんですね。その辺の順序についてはぜひ御検討いただきたいと思います。

 それから、もう一つ非常に気にかかるところです。最後に、不当な圧力に屈するという、これも恐らく皆さん議論になったかと思うんですが、この言葉は、この場合まず要らないですよね。日本は民主社会ですから、まさに法律に基づいて運営される国家であって、この場合の不当な圧力というのは、まさに占領軍が当時の日本の軍部の復活を恐れたりしたから、学問の自由が国家権力によって侵されてはいけないということから入れたわけでありまして、現在、この場合の不当な圧力というのは、いわば一種のポピュリズムとか、あるいは私からすると、戦後教育を悪くした一番の原因の一つは、ある種の平等主義です。教育というのは、すぐれたものを伸ばす、憲法にも書いてあります、能力に応じた教育を授ける、ある種のエリーティズムが非常に大事なんですけれども、そういうことも全部一緒にしちゃって、よく言われるように、運動会でもみんな一等賞を上げるような、そういうところに教育の荒廃の原点があったわけですけれども、それを集団的に推し進めるような圧力団体があってはいけないわけでありまして、そういうことからすると、この部分はぜひ取っていただきたいと私は思うわけでございます。

 最後に、この赤坂の近くで、昔、外国人、日本に来て京都や奈良を回って最後に東京へ泊まる、オーストラリア人でした、国旗が欲しいと言うんですよね。ガソリンスタンドで何か言っているんですが、私たまたま聞いてみたら、日本は本当にいい国だ、だからお土産に国旗を買っていきたい。私はその心に感激して、あちこちここら辺を探し回ったんですけれども、国旗を売っているところはどこもないですよ、デパートも回ってみまして。これが日本人の国旗感覚ですよね。私は国立大学の学長を務めましたけれども、国旗を掲げられない、これが日本の国立大学の現実です。

 私は、きょうこの後、授業がありますので少し早目に帰りますけれども、秋田の国際教養大学は、秋田杉をバックに国旗が掲げられ、公立大学ですから県旗と、そして大学旗が青空に翻っています。非常にすがすがしい気持ちでありまして、どうか皆さん、そういう国になるように、この際は、超党派で教育基本法をいいものをつくり上げていただきたいとお願いいたします。

 どうもありがとうございました。(拍手)

森山委員長 ありがとうございました。

 次に、堀尾参考人にお願いいたします。

堀尾参考人 堀尾です。

 こういう機会を与えられましたことを大変光栄にも思いますし、緊張しております。

 その緊張している一つの理由は、私は、法学部を卒業して法律と政治学をやりまして、その後、教育に変わって、そして専門としては、教育哲学、教育学、あるいは子供、青年の発達の問題、そして教育法の問題、国際比較教育学というような領域の研究を長年続けてきた者であります。同時に、日本教育学会の会長を二期務め、日本教育法学会の会長も二期務めてまいりました。

 それだけに、私はここに立っているのですけれども、もちろん、きょう私の個人の意見を申し上げるわけではありますけれども、同時に、長年研究してきたその研究の同僚や、あるいは教育に関して言えば、現場の先生たちとの交流を通して深めてきた私の知見を披瀝しなければならないわけですし、しかも、この場では大変少数意見であるようであります。この議論の中でも、一部の教育関係者が云々というふうな議論がなされています。私はそういう意味では一部の教育関係者かもしれない。しかし、私が研究してきたことはそんなに偏っていることとは決して思ってはいません。それだけに、短い時間ですので、私は皆さんに、やや僣越ですけれども、「いま、教育基本法を読む」という本を岩波から出しておりますので、これはぜひ、恐らく継続審議になるであろうその期間、ゆっくりと読んでいただきたいというふうに思います。

 それから、もう一つ資料として、日本教育法学会の会長の伊藤先生の見解を皆さんにお示ししました。私自身、日本教育法学会の会長を二期務め、その間に、この教育基本法改正問題が、本当に改正論議ではなくて法案作成という方向で動く中で、危機意識を持って、教育基本法研究特別委員会というのが学会にも設置されました。その研究成果は、これはこれでまとまっております。もしまだ先生方のお手元にないとすれば、これは、特に政府案の批判を中心に、各条細かな批判をしています。ぜひごらんいただきたいと思います。お示ししました会長談話は、そういう研究特別委員会の成果を踏まえ、さらにこの会長の見解を表現したということであります。

 そういうわけで、私が緊張しているという意味は、研究者仲間のこの考え方がどこまで正確に伝えられるか、あるいは現場の先生方の願いがどこまで伝えられるかということで緊張しているということでございます。

 この国会を通して、皆様方、本当に教育とは何かという議論を深くされました。非常に通俗的なあるいは常識的な議論から、非常に深い教育の本質論を含めての御議論がありました。私は、丁寧に、この国会の議事録も手に入る限り読ませていただいています。それだけに、この国会で皆様方が教育の問題についてこれだけ多面的に議論をされているということには本当に敬意を表しています。同時に、その意見が多様であるということも、それこそが大事なんではないかと思っています。

 それに重ねて、なぜこういう教育に関する議論がもっと日常的にみんなのものに広がっていかないのかということを残念にも思いました。たまたま、教育基本法の改正というそのことをめぐってこういう議論がなされている。そのことは、逆に言うと不幸なことだというふうに思っています。

 国会で議論されている教育法の本質をめぐる問題は、それは、そのまま教育基本法改正問題というふうな形で連動する問題ではないわけです。それこそ各党派を超えて、教育の本質、そしてそこには、国がやるべきことなんだという言い方から、あるいは教育には押しつけが必要なんだというような言い方から、そうではなくて、教育の基本は一人一人の人間を育てることだ、人間を人間として育てることこそが基軸にならなければならない、個人の尊厳を重んじ、お互いに大事にし合うというそういう人間が実は国をつくっていく、平和的な、民主的な国家と社会の形成者になっていくんだ、その国民は同時に、現在、私は地球時代というふうに現代をとらえているんですけれども、その地球時代においても、それを担っていく、新しい、言うなれば世界市民的な感覚を持った国際人を育てていく、そういう議論を私はしているわけです。それに近い議論もこの国会の中でもありました。

 考え方の筋としてどこを軸にするのか。きょう、見城さんのお話もありましたけれども、教育は基本である、その冒頭に教育は国の仕事だというふうに書かれています。しかし、後の方で、愛国心のところで議論されたことは、私は全く同感だなと思いながら伺っていました。それぞれの御意見の中にも、矛盾を含みながらいろいろ大事なことを言っている。だれの意見が正しいということではないんですね。その際、特に私は、戦後の教育のとらえ方、そして、なぜ教育基本法の改正が必要なのかというその根拠についてはほとんど理解ができません。

 例えばきょうも、青年会議所の方が敗戦トラウマという言葉を使われました。これは、この国会で先般、町村さんが戦後後遺症という言葉を使われました。果たしてそうなんでしょうか。振り返って、あの戦後、まさに敗戦そして占領下の中で私たちの先人がどういう思いで新しい人間を育て、新しい国をつくろうとしたか、その思いが教育刷新委員会の議論、そしてそれを通して教育基本法をつくっていったということであります。その中心になった、例えば田中耕太郎、あるいは南原繁、あるいは安倍能成、務台理作、そういった人たちは、本当に人間を思い、国を思った人たちです。

 南原さんについて一言申しますと、南原さんは「祖国を興すもの」という本を書かれています。それから、新しい日本の文化をつくるんだというそういう講演を、東大の総長になったときに講演しています。同時に、その講演を、一九四六年の二月十一日、その当時は紀元節です、その紀元節にあえて、新しい国を興す、そして、東大にはそのときに日の丸を立てたのです。私は、戦後改革を担った人たちというのは、そういう意味で本当に愛国者だというふうに思っています。敗戦後遺症というふうな形で我々の先輩をとらえていいんだろうか。占領軍の押しつけによってつくられた、そんなことはないんです。もちろん占領下です。ステアリングコミッティーを通していろいろなアドバイスもあったかもしれません。少なくとも、お互いに情報を伝え合っていたことは事実です。

 しかし、教育基本法の作成は、本当に私たちの先人たちが過去の反省を踏まえて、新しい人間をつくる、その人間を軸にして新しい国をつくるんだ、その際中心になるのは、一人一人の人間の尊厳、そして、真理と平和を希求する人間、これをつくるんだ、これがですから教育基本法の精神です。そして、それが新しい世界を開いていく。決して平和は一国の平和主義ではないんです。日本の新しい理念を国際的に広げよう、そういう責任の自覚、使命の自覚を通して憲法をつくり、教育基本法をつくったんです。

 私は勝手なことを言っているのではありません。私は研究者ですから、特に、戦後改革がどういうものであったか、それについては、実はこういう本があるんです。これは東京大学の出版で、戦後教育改革のシリーズ全十巻です。スタンフォード大学との共同で始まった仕事です。そして私は、この巻、このシリーズで、教育の理念の成立過程、つまり、憲法の成立過程と教育基本法の成立過程を丹念に調べた本を書いています。それから、十条に関しては、この教育行政の巻で、残念ながら昨年亡くなりましたけれども、鈴木英一さんが非常に丁寧な仕事をしています。そういう仕事を通して私たちは、戦後、敗戦後遺症などとは決して違うんです。それは、新しい思いを、新しい理想をうちに秘めながら、次の世代をどう育てるかということで教育基本法をつくったわけであります。ですから、その歴史というものは非常に大事なわけで、この本も、歴史、争点、そして再発見という言葉を使っています。

 私たちは、この基本法、憲法の精神を本当に現実に生かす、それは条文を守るということではないのであって、その精神をどういうふうに具体的に自分たちのものにしていくのか、そしてさらにそれを発展させることができるのか、教育現場の中で、そして一人一人の未来を担う子供たちにこの精神をどういうふうに生かしていけばいいか、そういう方向で教育を考えてきた一人であります。

 しかし、御存じのように、教育基本法も憲法も、自民党は結党以来、これを改正するというのが党是であるということを言い続けてきたわけですね。そして、ようやくこの二十一世紀、新しい時代に入ったんだからということで、今度はそれを強調しながら教育基本法の改正を急いでいるわけでありますけれども、私に言わせれば、この改正の根拠というものが全然わからない。これは国会の議論を通してもそうです。そして、例えばきょうの参考人の議論は、そのままなぜ教育基本法の改正につながるのか。私は、教育というものはいろいろな人がいろいろな議論をするのが大事なのであって、それを法律で縛り、一つの方向づけを国がやるということは、これは非常な越権である。実は、そのことを戦後改革のときには実に丁寧に議論されているわけです。

 もう時間がすぐ来ちゃうんですけれども、皆さんにも配られているこの第九十二帝国議会の議論の中で、何でも法律にしたらいいということではないだろうということを本当に繰り返し強調されていますよね。佐々木惣一さん、そして沢田牛麿さん。沢田牛麿の意見など、「此の法案は法案ぢやなくて、説法ではないか」、つまり教育基本法のことですよ。そもそも法律に書いていいことと悪いことがあるんだということを非常に強調している。教育の目的なんということを法律で決めることは私は無理だと思う。金森国務大臣は、「法律で決めて然るべき範囲と、さうでないものの範囲とは自ら分野があるもの」と存じますというふうに言われている。

 しかし、なぜ教育基本法をつくったのか。それは、戦前の教育、そのとき支配的であった教育のあり方というものが、余りに戦前の教育勅語を軸にしたいわゆる教育、あるいは国家主義と軍国主義に支配された教育であった、それをどう克服するか、そういう現実の課題の中で教育目的についても規定せざるを得なかったんだという対応をしています。

 そのことは、さらに、当時の文部大臣であった田中耕太郎さんが、その後は最高裁長官になるわけですけれども、一九五二年の一月に出されましたジュリストの創刊号、その中に、教育基本法第一条について、つまり、教育の目的を規定することがいいことか悪いことかという議論をなさっています。この文献などは私は非常に大事だというふうに思います。何も規定しなければアナーキーが来るだろう、しかし、反対にもし法が教育の隅々まで規定するようになれば、教育はそのはつらつたる生命を失い、死物化してしまう、死んでしまう、そういうことを免れない、つまり、教育の固有の領域というものは法になじまない領域というものがあるんだ。

 それで、皆さんが議論するのは当然なんです。みんなが議論して、国民の教育についての合意の水準を高める、これが教育のあり方。そして、その教育を担うのは現場の教師であり、そしてもちろん父母であり、地域の住民であり、教育行政もそれにかかわるということになるわけですけれども、それぞれがどういう仕事をするのかということを丁寧に腑分けしながら、教育の自律性、自由というものを軸にした教育のシステムをつくらなきゃいけない。

 自由民主党というならば、実は、その教育の自由の領域をこそ守るというこれが、自由民主党のあるべき主張であるはずだというふうに思います。しかし、その点に関しては、今度の教育基本法の改正は、まさに国が教育を、口出しをする、口出しじゃなくて統制する、そういう方向で書かれている。その最たるものが、基本法の今度の二条を新設したことです。教育の目標。

 さらに、十条を大きく変えて、教育は不当な支配に服することなく国民全体に対して直接に責任を負うというこの規定を大きく変え、そして、教育は法律に従え、おきてを行うものだという書き方をしている。現行法の十条の構造、これは非常に大事なのであって、十条は教育行政の条項ですけれども、その第一項は、まず「教育は、」という主語で始まっています。第二項に、教育行政はその教育の目的を実現するために必要な条件を整備するんだという書き方になっているわけです。その構造、つまり、教育と教育行政の区別、そういう観点が全くなくなっちゃったのが今度の法改正案だというふうに思います。ここのところは、政府案も民主党の案も非常に問題を持っているというふうに私は思っています。

 丁寧に、十条の立法の精神そして十条の構造、不当な支配とは何なのか。この不当な支配に関しても、国会でも随分議論になりました。それで、小坂文部大臣は学テ最高裁判決を引きました。しかし、これは重大な解釈上の間違いがあるというふうに私は思っています。文科省、文部省は、これまでも繰り返し、国が教育内容に関与する、これはこの学テ最高裁判決によって確定しているという言い方をされました。しかし、この読み方が実にいいかげんで、都合のいいところを読んでいる。私は、もう時間がないので丁寧に紹介するわけにはなりませんけれども、そういう問題を含んでいるわけですね。

 そして、法というものがどこまで関与していいかというのは、それこそ基本法が成立するときに、教育目的まで本当に書くのという議論を含み、そして、御紹介した田中耕太郎さんの論文では、あれは日本の、変態的という言葉を使っています、つまり、非常に変則的なんだ。言うなれば、近代国家は、そういう人間の内面的な領域には国が関与しないというのが近代原則なんです。

森山委員長 堀尾参考人に申し上げます。

 時間でございますので、おまとめください。

堀尾参考人 はい、わかりました。

 というわけで、また後で時間があれば補足をしたいと思いますけれども、法と教育の関係というものが非常に大事だということ、何でも法で決めればいいというんじゃなくて、何でも法で決めれば現場がどうなるかということを本当に考えていただきたいというふうに思います。(拍手)

森山委員長 ありがとうございました。

 以上で参考人の方々からの意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

森山委員長 これより参考人に対する質疑を行います。

 なお、中嶋参考人は、都合により午前十一時五十分に退席される予定でございますので、御了承願います。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。田中和徳君。

田中(和)委員 自由民主党の田中和徳でございます。

 参考人の皆様には、ただいま大変貴重なお話をいただきまして、まことにありがとうございました。

 この特別委員会では、毎日、この教育基本法について精力的に議案審議を行っております。総論の分野については、私は、相当十分に議論が尽くされてきつつあるな、このように思っております。

 私は、きょうは、少し分野を絞って、特に、戦後の昭和二十三年から今日まで、高等学校の教育の一翼を担い、多き実績を上げてきました定時制と通信制、またニートやフリーターのことについて参考人の皆様よりお話を伺うことができれば、このように思っております。

 私は、昭和三十九年に設立され、これまで四十二年間の活動を続けております、高等学校の定時制及び通信制の教育制度を民間の立場から支援する財団法人全国高等学校定時制通信制教育振興会の副会長、東京を除く関東七県で構成しております関東支部の支部長、さらに神奈川県の会長に今般就任をいたしました。全国の会長は、この特別委員会のメンバーとしてここにおいででございます元文部大臣の島村宜伸先生でいらっしゃいます。また、私は長年、刑事事件に触れ、一度つまずいた青少年を扱う保護司も務めておりまして、自由民主党の議連の会長も務めております。

 今、全国で、高校の生徒数は毎年減少を続けておりますけれども、定時制の生徒数は約十一万人、通信制の生徒数は十八万人でございまして、ほぼ横ばいで推移をしております。とりわけ、全日制の高校中退の九〇%が定時制や通信制の高校に再入学しておりまして、定時制、通信制の役割は極めて大きく、各方面からも寄せられる期待はさらに高まっている方向にございます。

 しかし、残念なことに、全生徒の三分の一近くが中途退学をしている現況にございます。それは、高等学校全体の中退率が二・一%あるのに比べて、本当に比べようがないほど高いものになっております。

 時代の変遷とともに、貧しいために働きながら学んだ時代から、ほとんどの生徒が、全日制に入学ができないために定時制や通信制を選択するようになっておりまして、生徒のうち、実際に安定した定職についている子供たちはごく少数派でございます。

 確かに、高い学力を習得することも教育の基本でありますし、もちろん大切なことでございますが、勉強が嫌いで落ちこぼれそうな人々をどう教育するかということも極めて重大なことであります。学歴がなく勉強が苦手でも、自分の得意な分野の能力を磨いて、懸命に努力して成功した人は数多くいますし、社会で重きをなし、尊敬される人も数多くおります。教育で一番大切なことは、あらゆる困難を乗り越える不撓不屈の心を養い、実りある人生を切り開いて意欲を持たせることでもあります。単なる知識を学ぶことのみが教育の基本ではないことは、言うまでもないことであります。

 私も、今後、定通制のサポーター役を務めるわけでございますけれども、高等学校の定時制や通信制の役割について、我が自由民主党でも、与党の中でも議論をされたと伺っておりますし、また、今回の政府提出の法律案の中でも、明示こそされておりませんけれども、第六条の教育の目標を達成するための体系的、組織的な学校教育、第四条の教育の機会均等、第三条の生涯学習の理念等の条文に書き込められているというふうに私は理解をいたしております。

 そこで、四人の参考人の先生方にお伺いをいたしてまいりたいと思いますが、高等学校の定時制、通信制の充実は多様化する社会の教育のニーズから見ても欠かせない制度と考えますが、御見解をお伺いしたいと思います。

 また、今は、高等学校への進学率は九七・六%でありまして、ほとんどの子弟が入学したければ入学でき、政府提出の今回の法律案の五条から義務教育の期間九年が削除されていることからもうかがえるように、事実上、高等学校での教育は義務教育化している、このようにも思われるところでございます。やや矛盾した意見になりますけれども、全日制を希望する生徒には全員を全日制に入学させるべきではないか、こういう意見も一方にはありますけれども、その点についてもお伺いをいたしたいと思います。よろしくお願いいたします。

見城参考人 大変貴重なお話を伺いました。どの子供たちも自分たちが学ぶ場があるということはまず重要だと思います。

 現実には、中学の段階で実は振り分けられます。それで、私もそういった現場を少し実体験いたしまして、高校受験の段階でもう既に大きく振り分けられまして、君はこういうところしか受けられないというふうな形で、次の段階へ夢や希望を持って入学していくというのではなく、仕方なく振り分けられていくという現実が既にあるということも、これはどうするべきかということで考える重要な点だと思います。それは学力の問題です。

 ですから、高校受験を前にして既に受験できる学力がない、こういった子供たちを、では、幼児教育から始まりまして高校に入るまでにどう学力をつけるかという、ここを一つ、もう一度考えるべき点だと思います。

 それから、学歴学歴と言われますが、いまだに学歴はなく、例えば、企業等が学校名を伏せて就職の際受験をさせる、受験を受ける、そういうことで、もう学歴社会は崩れていると言われておりますが、学校歴というのももう一つございまして、結局、学校名はどこなのだというようなこと、こういった社会の中に現実残っている部分を、どう価値観を変えていったらいいかというこの辺を一緒にやりませんと、システムを変え、何を変えても、私たちの中に価値観が、学歴が高い方がいい、学校歴が高い方がいいというような、偏差値の高いところで、有名校、ブランド校がいいという、これが消えない限りは、いつまでも陰でその価値観は続いております。

 これを変えるために、私は、今後、例えばITを使いましてサイバー大学というものも構想がもうございますように、あらゆる、通信制も定時制もそれからサイバーの大学も含め、学ぶ場が多様化するということが一つは道だと思います。しかし、そこへ到達するための基礎学力を、本当に、こぼれずに、落ちずにどうつけていくのか、こういったことはやはり基礎の教育の段階から常に考えて、ここの部分に解決策の一つはあると思います。

 それから、やはり何といっても、企業で、では、学校歴、学歴が本当に重要なのかということはずっと問われ続けていますけれども、何度やってもなかなかうまくいかないのが手に職をつけるというところです、できればこの辺をもう一度、もう少し子供たちが入りやすい形で、本当にその子の能力が伸ばせる教育を考えるべきだと思っております。

 ありがとうございます。

池田参考人 定時制の話というのはきょう非常に詳しくお聞かせいただきまして、いろいろ勉強になったわけですけれども、我々青年会議所のメンバーというのは中小零細が多いんですが、全国各地で地場産業を担う中で、働きながら勉強しているという社員を持っている会社は非常に多うございます。そんな中で、我々からすると、定時制に通いながら仕事をするというのは、決して偏見や違和感はなく自然に受け入れられるわけでありまして、高等教育を受ける、そういう機会均等を保障するこういった教育機関の拡充というのは、今後ますますふやしていくべきだと考えていますし、先ほどもお話しさせていただいたとおり、教育はすべてにおいての基盤であるということからかんがみれば、やはりそういうような機会の拡充というのはますます今後求められるんだと思います。

 ただやはり、定時制高校を出た、通信制高校を出たということがある意味偏見の対象にされるような現実というのも世の中には間々ありまして、一つ事例を挙げますれば、青年会議所、四万人のメンバーがいますけれども、定時制、通信制の高校を出て、今、国会勤務はいなかったかな、市会議員や県会議員で頑張っているOBも多数みえますし、本当に立派な企業を経営している経営者も多数みえます。また、JCメンバーとして社会貢献活動に本当にいそしんでいる方も多数みえます。

 そういった意味からして、一つの機関の拡充のみならず、こういったところで勉強した方々へのある意味偏見というのを世間から取っていく、そんなことも進めていくべきではないかなという意見を持っています。

 以上です。

中嶋参考人 定時制、通信制、あるいは高校全入という問題、私も大変重要だと思います。私自身も、周辺にはそういう定時制卒業生がたくさんおりますし、先ほどかなり中退者が多いということなんですけれども、それらの方は、大検、大学入学資格検定試験によってまた次の出口を探し当てるということもできると思います。現に、私どもの大学などは、大検で、日本の高校を経ずに直接アメリカの大学に留学して教職についているという人は何人もおります。それらの人たちは、国際社会で非常にもまれてくるだけに、頑張っております。そういう状況もあると思います。

 それからもう一つは、私は主として高等教育に対する危機意識をかなり持っておりまして、日本の大学、このままでは本当に国際社会に、知的基盤社会に太刀打ちできるかどうかということを常に憂慮しつつ、新しい改革に力を尽くそうと思っているんですけれども、せっかく学生たちを、では今度は教育中心で一生懸命学ばせても、社会が、特に企業が、できるだけ安く人材派遣会社から人を受け入れたり、あるいは契約社員にしたり、さらには最近ですと嘱託とか非常勤とか、そういう人事の採用の仕方をしております。ですから、その辺は皆さん方にも大いに頑張っていただいて、日本の社会全体が知的代価に対して、きちんと報酬を払えるような、特に女性なんかは、非常に優秀でせっかく高等教育を受けてもしかるべき職場がない、職場があっても嘱託とかパートに使われてしまって、できるだけ安上がりのという、それが一種のニートや何かがいろいろ問題になっている原因でもありますので、社会全体が大きく変わることが必要だと思っております。

 以上でございます。

堀尾参考人 田中さんと言わせてください。

 田中さんが定時制問題、通信制の問題に非常に深く貢献されているということに私は敬意を表しています。

 今、格差社会ということが言われます。ますます格差が広がるであろう。それは、教育の格差ということでいえば、例えば高校に関してもいわゆる中退者がふえている。その中退者の中には、もう学校についていけない、不適応だという青年もいますけれども、しかし、経済的な理由から中退せざるを得ない、こういう青年たちもふえているわけですね。そういう人たちの救いの場というのは定時制の場。

 私は特に定時制のことを中心にお答えしたいと思うんですけれども、不登校の青年たちも、改めて定時制に行くことで、そこで救われる、そういう人たちもいます。それは、定時制には教育があるからなんですね。つまり、テストで、競争で、そして人を評価する、そういう教育ではない。本当に傷ついた青年たちを大事にしよう、あるいは、経済的に貧しい、そういう負担を負っている青年が頑張っている、それを支えようという、その空間が定時制なんですね。

 ですから、山田洋次さんが「学校」という映画のシリーズの中で、定時制を特に取り上げた映画もつくっています。非常に感動的なものです。そういう視点でいうと、夜間中学校の問題も同じような、初めてそこで救われたという、そこに教育があるからなんですね。そこに教育があるからだといったことと、今、つまり、現実に競争競争、評価評価ということで縛られているところに本当に教育はあるのかという問題と実は対比させて考える必要がある。

 私は、今の教育政策の進行の中で、実は、学校から自由が逃げていく、教育から人間が消えていく、そういう状況が広がっているというふうに思っているんです。これは教育基本法の精神が生かされていないからだというふうに思っています。そういう視点でいうと、定時制というのは、まさに基本法の精神が生きているところだというふうに私は思っています。

 同時に、例えば東京都の政策ではこの定時制を減らすという方向で動いています。こういう問題に対して、ジュネーブの子どもの権利委員会は、御存じだと思いますけれども、政府の報告に対して、それからNGOの報告書も精査しながら勧告を出しています。その中で、昨年出された国連子どもの権利委員会は、東京都の定時制問題について実は非常に厳しい指摘もしているんですね、もっと大事にすべきだという。この点もぜひ田中さんは見ていただいて、子どもの権利委員会が何を言っているか。これは、日本の競争的な教育システムが人間形成をだめにしているという視点を含んでの指摘なんですね。

 私は、教育基本法の解釈の場合にも、いわば国際的な条理の展開、それと合わせながら教育基本法の精神をより豊かにする。そのときには、子どもの権利条約だけではありません、その他の条約、あるいは学習権宣言、これは民主党の方には大変興味深いところだと思いますけれども、そういうものも参考にしながら、教育基本法の精神を豊かにするという方向で考える場合に、田中さんがやっているお仕事というのには非常に敬意を表しています。

田中(和)委員 時間の関係で、少しお話をして終わりにさせていただきたいと思います。

 我が国で今、ニート、フリーターの問題が大変な問題になっておりますことは、言うまでもないことであります。我が自由民主党も、再チャレンジということを重大なテーマにして新しい政治を進めていく、政策を進めるということで今取り組みをいたしておるところでございます。自由民主党、与党、そして政府一体でやっていかなきゃいけない、このようにも思っております。

 実際に今、十五歳から三十四歳のフリーターが二百一万人、ニートが六十四万人、合わせて二百六十五万人なんですね。我が国の同年代の労働力人口が二千百三十八万人ですから、ニートを労働力人口に数えるかどうかは別にしましても、パーセントでは一二・四という数字になってまいります。また、新規に高校や大学を卒業して就職した人が一年以内に退職する率が、高卒では二四・九%、大卒では一五・一%。そして、何と、就職三年以内では、高校生で四八・六%、大卒では三四・七%、こういう状況でございます。

 いずれにしましても、この問題を私たちは十分考えて今回の教育基本法の議論もしていかなければならない、このように私自身認識をいたしておるところでございます。

 貴重な御意見、ありがとうございました。

森山委員長 次に、池坊保子君。

池坊委員 公明党の池坊保子でございます。

 本日は、四人の参考人の方には、お忙しい中当委員会にお出ましいただき、また大変貴重な御意見を伺うことができました。心よりお礼申し上げます。

 見城参考人にお伺いしたいと思います。

 先ほどおっしゃいました、子育ては社会に送り出すプロセス、私も全く同感でございます。二人の娘を、立派な社会人になっていくためには何が必要か、社会的ルールとかしつけとか、いつも大人になるときのことを考えながら育ててまいりましたし、今もまたその娘たちの子供を育てております。

 中教審の中で、数少ない女性委員として子育ての経験も生かされながら議論され、家庭教育、幼児期の教育、学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力、こういう明文化されたものが出てきたのだというふうに私は考えております。この三点が入りましたことに対して、見城参考人は前から、家庭教育は地域の中でみんなが力を合わすと言っていらっしゃいますので、この評価を簡潔にお聞かせいただきたいと思います。

見城参考人 ありがとうございます。

 私は、教育というのは、本当に、多くの人が入れば入るほどよいものができる、子育ても、親ばかりではなくて他人も含めまして、それから教育専門家も含めまして、多くの人の手が入れば入るほどよろしい、そう考えております。

 そういった観点から、現実に、家庭だけに押しつけられましても、私、データを調べまして、若年の共働きという率は大変上がってきております。そういうことでは、当然、学校を出れば仕事につくという形で、家庭に人がいなくなるということはますます今後もパーセンテージが上がってまいります。

 そういう点では、ぜひ、家庭そして地域、本来は近所と申し上げたいんですけれども、近所が広がって希薄になってしまいましたので地域、そして学校というこの三点がしっかりと子供たちを見守って育てていく、これが明文化されましたことは非常に評価できると思っております。

 ありがとうございます。

池坊委員 子育てを終えた同世代として、これからも子育てにかかわってまいりましょう。

 池田参考人にお伺いしたいと思います。

 教育がすべて、だから国がかかわるべきとおっしゃったこと、私も同感です。日本社会の核になって子育て、経営にかかわっていらっしゃるニューリーダーとしての力強くたくましい前向きのお考えに、日本も明るいのだと私は希望を持ちました。

 先ほどニートの話が出ましたけれども、今若者は二極されているのではないか。つまり、お金持ちになりたい、偉くなりたいと思って新しい発想のもとでエネルギッシュに活躍していく人もいれば、ニートのすべての人が無気力というわけではない、さまざまな条件があるのでしょうけれども、どこか、社会に対して、仕事に対して前向きでない、そういう若者たちも多いと思います。

 それらの、同じ世代でいらっしゃると思います、そういう若者たちを見詰めながら、今何が欠けているとお思いでしょうか。そしてまた、そのために何が必要とお考えになっていらっしゃるでしょうか。

池田参考人 御指摘の質問に的確に答えられるかどうか定かではございませんけれども、ニートという問題が今出ました。ニートというのは、いわゆる就職活動もしない、また就職してから生かせる勉強もしないという無気力、無関心状態に陥ってしまった若者のことの総称だと思います。まず、僕らと同じ世代という話がありましたけれども、JCというのは二十から四十歳までという幅がありまして、私はことしで四十になるわけなんですが、我々、昭和四十一年の生まれからすると、ニートという存在は非常に意味不明、不可解な存在なんです。

 まず、ニートという存在が近年取りざたされて久しいわけなんですが、まず、彼らが生きていくことができていることが非常に不思議なんです。仕事もしない、勉強もしない、生きる気力もないのに御飯が毎日出てくる、それを支える親がいる、また社会がある。そういうことを社会問題にして認め出している風潮自体が、僕は逆にニートを増長させているような気がしてならないんですね。

 やはり、彼らの自立心やまた生きる力、先ほども申しましたように、生きる力を醸成する教育というのが全くなされてこなかったわけでありまして、知識を、まあ、詰め込み型の受験もやってきましたが、やはりあの知識から何か得るものがあったと思うんです、私たち受験世代というのは。ただ、受験がいけない、いけないということで知識も減らされてしまった。今じゃ授業時間も三〇%以上減らされているという現実がありまして、そこから何が生まれるのかといえば、僕はまさに、ああいう方々が生まれる元凶というのはそんなところにあるのではないかとさえ思っているところなんです。

 ですから、今は、現実に起きているニートの方々をどうしようかという問題と、これからニートをつくらないようにしようという問題を分けて考えるべきだと思っておりますし、ニート対策と一言で言ってしまっては非常に、教育行政とのくくりの違いというのは国民からして明確にならないのではないかなという気を持っています。(発言する者あり)その辺はやはり先生方には注意深く、対策の違いというのを明確にしながら進めていただきたい、そう思っているところです。

池坊委員 大変にいい御意見を私は伺ったというふうに思っております。

 少子化の中にあって子供をやはり多少甘やかし過ぎている、何でもしてくれて当たり前というような風潮になっているのではないかと思います。

 私は、娘の子は国立大学附属中学に行っているんですけれども、みんなが働いているお金であなたは勉強ができるのよということを口やかましく言っておりますけれども、青年会議所のエネルギッシュな方々が、どうぞこれからこのニートの問題にもいろいろな意見を言っていただきたいというふうに思っております。

 次に、中嶋参考人にお伺いしたいと思います。

 今、全委員に配付されております新聞を私、六月一日に読みまして、正直言ってびっくりいたしました。靖国神社の問題に関しましては、私はちょっと先生とは意見を異にいたしておりますけれども、この国を愛するということは余り隔たりはないのではないかと思いますが、その前に、公明党のイデオロギーに振り回され、妥協し、自民党は屈服しちゃったとお書きになっていらっしゃいますが、新聞の影響力は大きいので、私はもちろん自民党員ではございませんが、自民党の名誉のために、自民党はそんな、公明党に振り回されるほどやわな政党ではないのではないかと私、思いました。

 そのとき、公明党の……(発言する者あり)ちょっとさっきから参考人の方にもやじを飛ばしたりなさっている方がいらっしゃいますが、これは失礼だと思いますので。私は参考人じゃありませんからお飛ばしになってもいいですが、ちょっと静かにしていただけたらと思います。

 公明党のイデオロギーというのをどんなふうにお考えなのでしょうか。私は、一人一人を大切にする人間主義、そして右や左にも左右されない、大局に立って物事を考えている中道主義というふうに理解しておりますけれども、どんなふうな印象を持っていらっしゃるかを伺いたいのが一点。

 それから二点目には、中教審の「グローバル化が進展する中で、自らの国や地域の伝統・文化について理解を深め、尊重し、郷土や国を愛する心をはぐくむことは、日本人としてこれからの国際社会を生きていく上で、極めて大切である。」とおっしゃっているこの答申と、今回の政府案の「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」私、そんなに違わないと思うのですね。

 他国と自国を一緒にするのがいけないとおっしゃいましたが、私は、熱狂的な愛国心というのはやはり危険だと思うのですね。やはり、みずからを愛し、国を愛するときにも、冷静な、澄んだ心で愛していきたいというふうに考えますから、この国際社会の中で、国際社会も大切、愛する、そしてその中の日本も愛する、その中の郷土を愛する、自分を愛する、この方がバランスがとれているのではないでしょうか。

 それと、他国を尊重するでなくて理解だとおっしゃいましたけれども、尊重するからすべて言いなりになるということではないと思います。日本人のDNAの中には聖徳太子の和をもってたっとしとなす、和して同ぜずという精神が流れているのですから、尊重することは理解とともに必要だというふうに私は考えておりますが、御見解を伺いたいと思います。

中嶋参考人 大変鋭い御質問、どうもありがとうございました。

 こういう場ですから、公明党のイデオロギーという言葉を使ったことについて特に釈明はいたしませんけれども、私ども外部から見ておりますと、特に私なんかは、どちらかというとリベラルコンサーバティズムというのでしょうか、開かれた保守主義的な立場からすると、今回の自民党と公明党の七十回にわたる大変御苦労があったと思うのですが、にもかかわらず、やはり何となく、小泉政権はあれほど国民の負託を受けたわけですよね、にもかかわらず、政治的な妥協ならわかるんだけれども、そうではなくて、政局的な要素というか、政局的な妥協とどうしても映るんですね。もうちょっと自民党の方々、主体性を発揮していただければ、従来から公明党がおっしゃっていることを、もうちょっと調和できたのではないかというふうに思うわけでございます。

 ですから、公明党のイデオロギーというのは本当は、私自身も、例えば日中関係、日中国交回復前後のことが今いろいろ公明党の雑誌なんかで新たに脚光を浴びているようなんですけれども、それなんかを見ると、やはり明らかに一つのイデオロギーがあるのですね。そのために犠牲になった公明党の政治家もかなりいるわけでありまして、しかし、そのことは、私の専門的な領域ですのでまた別の機会にお話しするとして、もし私が指摘したようなことがなければ本当に結構だと思います。

 それから、後段の、先ほど具体的に指摘させていただいた愛国心のことなんですが、どうもそこの点はやはり、他国を愛する、他国を尊重するというところですね。

 これは、さっきも言いました。他国の文化を理解するということならわかるんですけれども、他国、ほかの国をそのまま尊重するということになると、今、国際社会の中には、非常に道義に欠けるような国も日本の周辺にたくさんあるわけですね。そういう道義に欠ける国が、軍事力を強化して、日本の内政にまで干渉しようとする状況が現にあります。この辺は、それこそ皆さん方にぜひきちんとしていただかなければいけないと私は思うのですけれども、そういう他国の意思を尊重することになったら大変でありまして、他国の文化を理解するというようなところにすべきだというのが私の率直な感想でございます。

 どうもありがとうございます。

池坊委員 他国の意思を尊重するということは、私はあり得ないのではないかと思います。

中嶋参考人 他国の意思は尊重しちゃいけないんです、私の立論からは。

池坊委員 いや、私が今申し上げたのは、他国の意思を尊重するということはないんじゃないか。他国と言う場合も、そこに生きている人々への、国というのは、統治機構ではございませんので、そこに生きている人々の気持ちとか文化とか伝統とか、そういうものを尊重するということであって、統治機構の意思を尊重するというのはここには含まれていないというふうに私は考えております。

 それから、不当な支配に服しない、それは多分、中嶋先生の頭の中には、国家権力が介入しない、それは当然だよと思っていらっしゃると思いますが、それと同時に、私は京都に住んでおりますので、イデオロギーの介入というのも私は不当な支配に属するのではないかと思います。それをちょっと、私はそう思っておりますことをつけ加えさせていただきたいと思います。

 堀尾参考人に伺いたいと思います。

 きのうこんな資料を読みまして、何かきょうは寝不足になりましたけれども、その中でこう書いていらっしゃいますね。

 教育が深いところで病んでいることは確かです。この深いところで病んでいる教育は、根本から変えなければいけない。その根本を規定しているのが教育基本法であるから、変えなきゃいけないと言っている人たちがいるけれども、その考えは間違っているよというふうにこれは書いていらっしゃるのだと思いますけれども、この全面改正を望んでおります私たちは、教育基本法がいけない、教育基本法がいけないから教育現場が荒廃したと言っている人はだれもいないんですね。

 人格の完成も個人の尊厳もいいのだ、でも、二十一世紀にふさわしい、つけ加えるべきことがたくさんあるのではないか。それをつけ加えて、より積極的に前向きに、いい方向に教育を持っていこうというのが私たちの考えでございますが、そういうお考えでも反対ですか。それから、そういうお考えはお持ちではないのかを、ちょっと御見解を伺いたいと思います。

堀尾参考人 現在の教育が病んでいるということは、ある意味ではだれも認めていることですよね。子供を持つ親であれば当然そうですし、現場の教師も、これでいいのかという、そして子供自身が悲鳴を上げている。私は、先ほどそれを、学校から自由が逃げていき、教育から人間が消えていくという一言で表現しました。そういう状況がある。多分、そういう表現が同意していただけるかどうかというのが今度は問題になると思うんですけれども。

 とにかく教育が病んでいる、だから教育基本法を変えなきゃいけないと言った人はだれもいないと今おっしゃいました。本当にそうだったら、私は大変いいと思います。だけれども、何人もの方がそうおっしゃっているんじゃないでしょうか。それは、中教審の、あるいはその前の教育改革国民会議、そして中教審、そしてその周辺の議論を含めて、私はそうだと思います。にもかかわらず、確かにこの議会で、教育基本法を変える理由として、今の教育が病んでいる、だから基本法を変えなきゃいけないというふうに直截に言った責任者はいないように思います。

 だから、そこのところをどう考えるのか。一般の人たちに伝わっているところは、とにかく教育基本法を変えれば教育のこの病理がおさまるんだというふうに受けとめている。そして、教育基本法を変えなきゃいけないんじゃないかという世論もつくられているというふうに私は思います。それは問題なんじゃないか。病んでいるのはどこなのかということを本気に問わなければならないというふうに私は思っています。

 そして、私は、むしろ憲法や教育基本法の精神が現場に本当に生きていない。そして、その精神を豊かに発展させよう、そういう実践の自由というものがむしろ制約されている。場合によっては、それは不適格教師だという形で学校から排除される。そういう問題を含んで、むしろ教育が病んできているのではないかというふうに私は思います。

 教師の重要性ということも先ほども語られましたけれども、教師が本当に自分の責任を深く自覚するならば、子供の人間的成長、発達を助ける大事な仕事だ、そのためには不断の研究が必要だし、教育の内容についても、子供の発達についても、それから父母の要求についても誠実に耳を傾けながら、最終的にどういう授業をやるかという、その実践の責任というものは教師が持っている。だからこそ、それは崇高な使命とも言える。

 しかし、今度の改正案の中では、教師は崇高な使命を持っているという言葉、これは今の教育基本法にはありません。しかし、そういう言葉が入った。しかし、その教育とは何なのか。法律に従わなければいけないんだ、そういう書き方になっている。つまり、教師が、法律に従わなければいけないという意識だけで教育実践をやる、それが何で崇高な使命なんでしょうか。私にはとても考えられない。

 そして、その法律の限界というものをどこまで自覚するか、これは先ほど、私は冒頭で十分には言っていません。本当にこの機会に、法律が関与していいところとそうではない領域というものがあるということを、しっかりと、それこそ共有の認識にする必要があるというふうに強く思っています。

池坊委員 時間が参りました。

 教師の果たすべきことは、子供を健やかに、おおらかに、伸び伸びと育てることだというふうに思っております。そういうような教育がされることが大切だということを申し上げたいと思います。

 ありがとうございました。

森山委員長 次に、糸川正晃君。

糸川委員 国民新党の糸川正晃でございます。おはようございます。

 参考人の皆様におかれましては、大変御多忙の中、当委員会にお越しいただきまして、また大変貴重な御意見を賜りましたことを感謝申し上げます。

 現在我が国では、教育改革というものが目覚ましく、目まぐるしいと言った方がいいんでしょうか、目まぐるしい勢いで進められているというふうに思うわけでございます。改革というのは、はやりというんでしょうか、この勢いだけを見ていますと、だれのために、何のために改革をするのか、また教育はどこへ向かっていこうとしているのか、時折見失いそうになるわけでございます。

 しかし、本委員会では、審議をしている教育基本法の改正に関しましては、今後の教育の基本政策、これを定めるものでございますので、私も含めて委員というものは後の世代につながる重要な使命を受けておりますので、改めて審議を引き締めていかなければならないというふうに感じるところでございます。本日はぜひ、参考人の皆様から、現在の我が国における教育基本法に求められているのは何なのか、そういう観点から貴重な御意見を、御見識も含めてお聞かせいただければなというふうに思うわけでございます。

 そこで、全参考人にお伺いしたいんですけれども、教育基本法の改正では、国家の意義をどのようにとらえるか、これが重要なポイントになってくるのではないかなというふうに思うわけでございまして、参考人の皆様方が考えられる国家とはどのようなものか、御意見を賜りたいというふうに思います。

見城参考人 ありがとうございます。

 私は、国家というのは、そこに国民がありまして、その国民が、まさに自分たちの権利と義務、そういったものが保障される段階で、安全で安心で安定して平和に暮らせる、そういうものが国家であって、その中に公と私という部分、国家というものはあるんですけれども、公と、私という個人、この関係も含めて国家の上に成り立っている、私はそのようにとらえております。

池田参考人 非常に難しい質問ではあると思うんですけれども、私にとって、日本というのは生まれた国であって、故郷、ふるさとであります。

 そして、私は人間として一人では当然生きられないわけで、そういった領民の一人であり、私の家はこの領土の上にあって、そして領海に守られている。こういった領土、領民、領海を守る排他的統治権を行使する共同体の代表者、代表格といいますか、そういうものの形が国家であると思います。

 国家なくして、よく個人と国家論というのは聞かれるんですけれども、個人が先か国家が先かというふうに聞かれるんですけれども、その議論自体が非常にナンセンスだなと思うことが多くて、人間と国家という話もあれば、いわゆる国家がないところで無人島で一人で生きる人間というのは存在すると思うんですけれども、憲法にも示されたとおり、「すべて国民は、個人として尊重される。」と表現されているように、やはり個人というのは、国家があってこそ存在しているいわゆる名称であると思いますので、個人として私が生きている以上、国家なくしては存在できないというのが現実ではなかろうかな。

 そういうことをちゃんと教育として教えていかなくてはならないということがこの改正法案の中に盛り込まれていることが非常に重要であると思いますし、そういった意識が今まで余りに希薄だったことが、先ほどのニートという問題もありますし、また、国に貢献する気持ちとか、ボランティアをしていると社会から嘲笑されてしまうというようなおかしな社会に成り下がっている現実は、そんなところにあるのではないかなと思っております。

中嶋参考人 ちょっと先ほど申し上げたことの繰り返しになると思うんですけれども、国家というものを一般的に言いますと、いろいろの解釈があると思うんですね。

 ステートといった場合に、まさにネーションステートであります。歴史的に形成された主権を持った国家という場合には、やはり国家ですね。この場合は、当然統治機構も含むんですね。統治機構があって、納税をする国民がいて初めて国家ですから、この場合に、国家は当然統治機構を含んだ国家の主体であります。そこに国民は戸籍もあり、すべてが帰属する。だから国家なんですね。

 これに対して、まだ世界にはそうした国家がないところもあります。新しく国家が生まれようというところもあるんですね。それをいわばネーションビルディングといいますけれども、アジアにもネーションビルディングの途上にあるところもありますし、例えば台湾の人たちは、新しい台湾人としての意識が一方非常に強くなってきていますね。そうすると、それは今後ひょっとすると新しい国家ができるかもしれない、そういうところもあるわけですね。

 それに対して、一般にカントリーという場合には、もうちょっと歴史的な要素を含んだ国家でありまして、非常に牧歌的な意味合いの国家だと思います。しかし、教育基本法が、いわば義務教育から高等教育まで含むような場合の国家は、まさにそういうカントリーではないんですね。ロマンチックの対象としてはカントリーでいいと思いますし、さらには、ランド、さっき言った国とか祖国、マザーランドとかファーザーランドというような言葉もありますように、そういう自分の地域、郷土という場合の国家もあります。

 それから、さっき言ったようなネーション、そこに住む人々、ピープル、住民を基盤とした国家というものもあると思うんですね。

 ですから、そういう国家というものを、いろいろ日本でも、国というのを邦人の邦を書く場合もありますし、平仮名で書く場合もありますし、普通の国というふうに書く場合とあると思うんですけれども、しかし、私が現在対象にする国家はまさに日本国でありまして、それはまさにステートだというふうに考えざるを得ないと思います。

堀尾参考人 どういうコンテクストでお答えしたらいいのかわからないところがあるんです。

 と申しますのは、私は法学部の政治学科を卒業しているんですけれども、学生時代、国家とは何かというのが、ある意味では学生たちを含めての講義でも一つの中心的なテーマでした。それから、法哲学では、国法学というのを尾高先生に学びました。そういう視点からしますと、国家とは何かということを、短い時間でおまえどう考えるかと言われても困っちゃう。

 先ほど中嶋さんはヘイズの言葉を引かれました。それに加えて、国家論というのは膨大なものがあるわけですね、それこそ、一方では階級支配の国家論もあれば、多元的国家論もあれば。そして、今度の原案に即していいますと、教育目的のところで、愛国心云々のところで国家が問題になっているわけですね。そこでは統治機構ではないという了解が得られている。

 自分の生まれた郷土そして国を愛する、これはだれも否定する必要のないことです、だれも否定しないと思います。よっぽど型破りな人がいるかもしれない。しかし、その人はまたその人で、その自由は、つまり、それはけしからぬと言う必要はない。しかし多くの人は、自分の郷土を愛し国を愛する、当たり前じゃないかという思いを持っていると思います。

 他方で、今度の法案で、十条改正、つまり十六条には国という言葉が出てきます。では、十六条の国と前文や一条で言っていた国とはどう関係するのか。さらに、十七条には政府が出てきます。国と政府とそれから統治機構でない国、そういうものが今度の法案の中にはそれこそ含まれているわけですね。これ自体、それこそ平明な気持ちでこれを学ぼうとした場合に、これはどういうことなのということになると思います。そして、実際、この十六条、十七条に書かれている国というのは、これは明らかに統治機構であります。

 そして、例えば国は、あるコンテクストでいえば被告にもなるんです。家永三郎さんが国を相手に訴訟を起こしました、教科書。そのときの被告は国なんです。そして、その国を代表するのは文部大臣なんです。そういう構造で国というものが現実の関係の中であるわけです。

 ですから、国を愛するのかどうか、国をどう思うかというのは、本当に、下手すると、おまえはそういうことを言っているから愛国者じゃないみたいな議論の中でこれが議論されることは、非常に問題だし、危険だというふうに私は思っています。

糸川委員 大変難しい質問だったと思うんですが、しっかりとお答えいただきまして、ありがとうございます。

 次に、見城参考人にお尋ねをさせていただきたいんですけれども、大学ですとか環境ですとか福祉、建築等、非常に幅広い分野で活躍されていらっしゃる参考人にとって、現在の我が国の教育をどのように見られるか。こういうところと、それから、参考人が委員として属されている中央教育審議会におきまして、昨年、義務教育費の国庫負担金の議論がございまして、義務教育全般について幅広く、なおかつ深く議論が行われたということは記憶にあるところでございます。そのような義務教育全般の議論に参加して、見城参考人が教育の基本理念を定めている現行の教育基本法について何か感じたものはあったのかどうか、率直な御意見をお伺いしたいなというふうに思います。

見城参考人 中央教育審議会では、例えば学力の低下というのは本当にあるのかどうか、そういったことも、一般論として言われていることをすべてデータをとり、検証していくという形で進めました。

 そういった点では、中央教育審議会の審議の経過をもう一度読んでいただきますと、一般的に言われていることと、現実にそれはどういう現象が起きているのか、それは本当にあるのかどうか、そういった点がもう一度わかっていただけるのではないかと思います。解決つかないもの、データでは断言できないものは、やはりそのままになっているはずでございます。

 ですから、まず一つは、ゆとり教育一つとりましても、両方の意見があるわけですね。例えば、ゆとりを持ちたい、それは子供たちが自由闊達に学びたいという意欲がわくような教育であるべきだ。片や、英語教育がそれではできなくなる、国際社会にどうなのだ。同時に相反する両極の意見が出てきている。そういう中で、やはりもう一度、子供たちがゆとりを、ゆとりを持ってというのは大変重要なところでしたので、でも、学ぶという意欲、それから生きる力をつけるための教育というためにこれは改革していくべきではないか。

 そういった点から、例えば教師の資格をどのようにとらえたらいいのか、再教育をどうしたらいいのか、そういった点まで具体的に提案していったというのが中央教育審議会のプロセスであり、答申であったと思います。

 そして、それからかんがみますと、今回改正していこうという点では、やはり時代が変わった、教育の現場も変わってしまった、家庭が変わった、あらゆるところが随分と状況が変わりましたので、そういった子供がはぐくまれる場に対して、変わってしまったところをどう保障していき、どのような策を講じたらいいのかという点での改正ということでは、非常に必要な点を、ポイントをついているのではないかと私は思います。

糸川委員 ありがとうございます。

 次に、堀尾参考人にお尋ねをさせていただきたいんですけれども、現行法は約六十年経過をしておるわけでございまして、その間一度も改正されずに現在に至っているわけでございます。現行法が長年にわたって与えてきた教育及び社会に対する役割について、参考人はどのように評価をされていらっしゃるのか、お伺いできますでしょうか。

堀尾参考人 今の御質問もなかなか難しい問題です、つまり、現実に教育基本法がどういう役割を果たしたかということになるわけですから。

 私は現場の教師たちとのつき合いも多いんですけれども、本当に憲法や教育基本法の精神を大事にする、それは、法律にあるからではなくて、教育というものは本来こういうものだという、つまり、教育の条理と響き合う教育基本法というふうにとらえて、そしてその条理をさらに豊かに展開するという仕方で現場には生きている部分というのが相当にあります。そして、学校の校門、メーンなビルディングに入るところに教育基本法を大きく掲げているような学校もあります。そういうところでは、本当に生徒たちの意見を聞き、あるいは、最近では三者協議会という形で、父母、そして子供、生徒、そして教師たちが一緒に議論をする、そういう場もつくられています。それは私は教育基本法の精神だというふうに思っています。

 他方でしかし、教育基本法は改正すべきだという意見、これは、それこそ自民党結党以来といいますか五十年続いているわけですよね。それが現場に、つまり教育行政を通していろいろと浸透してきています。東京都などでは早々と、それまで教育委員会のやるべき仕事として憲法、教育基本法の精神に即してという文章を削除する。子どもの権利条約の精神を大事にという、そういうものを削除する仕方で、今行われているのはまさに統制的な教育行政なんです。そこでは教育基本法は生きていないんです。その生きていないところで教育は混乱しているというふうに私は見ています。

糸川委員 ありがとうございます。

 もうほとんど時間がございませんので、最後に池田参考人にお尋ねをさせていただきたいんですけれども、私もまだ三十一と非常に若いわけでございまして、参考人が会頭を務められる日本青年会議所、これも非常に若い方も多く入っていらっしゃるわけで、現在の参考人の活動を通じて、我が国の豊かな未来を信じる多くの方々と行動をともにされているんだろうというふうに思うわけですけれども、今回の教育基本法の改正によっていわゆる現代の若者が未来に夢を持てるようになるんだろうか、その点をお伺いしたいというふうに思います。

池田参考人 夢を持てるようになるかならないかというのはこれからの現場、いわゆる教育の現場の質にかかってくると思いますけれども、ただ、現行法の教育基本法からは、どのような人をつくり上げるのか、またその人がどのような国家をつくり上げるのかというビジョンが、はっきり申し上げまして見えないというのが現実なんです。

 ところが、今回の与党案の改正法案というのは、日本青年会議所役員会でも全部それなりに勉強しまして、非常に明確にどのような人間をつくり上げるのかというのがわかりやすく書かれてきました。それによって日本という国がどんな国を目指していくのかというのも、非常に見やすくなってきました。この及ぼす影響というのは、全国の教育機関並びに国民に対する影響というのははかり知れないものがあると思いますし、今までの、戦争が終わってから、いわゆる戦争に負けてから、何となく自分たちの自我を出し切れなかった日本という、自信と誇りを出しちゃいけないんじゃないかと思っていたようなところが変わるんだ、いわゆる六十年たって、還暦が来て変わるんだ、そのような感覚を非常に持てるような改正法案ではないのかなという感想を今持っております。

糸川委員 ありがとうございました。

 本日は、もう時間がございませんので、これで質問を終わりたいと思います。大変貴重な御意見をいただきました。今後の審議の参考にさせていただきたいというふうに思います。きょうはありがとうございました。

 終わります。

森山委員長 次に、大畠章宏君。

大畠委員 民主党の大畠章宏でございます。

 本日は、四人の参考人の皆さんにおかれましては、非常に急なお願いをした方々もおられますが、御出席いただきましてありがとうございました。

 昭和二十二年三月十四日金曜日午前十時四十八分、この時間がいわゆる帝国議会の教育基本法委員会の第一回目の会合でございます。ひょっとしたらこの第一委員会室でやったんじゃないか、これは推測でございますが、いずれにしても、先人たちがさまざまな思いをしながら、何とか戦後の荒廃の中での日本国を、あるいは郷土、ふるさとを再建するためにどういう教育基本法にしたらいいのか、かなりの論議をしながらやったことも事実であります。

 そこで、きょうは、私自身、この教育基本法について審議をしながら、どうしても腑に落ちないところがあるんです。ただいまから、過日も委員会で質疑をさせていただきましたが、歴史上の事実関係をちょっと簡単に申し上げますので、四人の参考人の皆さんに率直な感想をお述べいただきたいと思うところであります。

 教育基本法というものを起草するに当たって、江戸時代は武士道がありました、そして、明治二十三年にさきの教育勅語というものが出されまして、明治天皇の名のもとに、これから日本の国の国民はこうあるべきじゃないかという指針が示されました。この指針をずっとみんなが大事に、これは熊本の学者が起草したという話を聞いておりますが、その非常に内容が濃い、まさに日本の国民あるいは日本人というのはこういうことを考えてやらなきゃいかぬだろうなというのが書いてございます。もう既に皆様方は御存じでしょうから、きょうは改めて朗読することはやめますけれども。

 その後、軍国主義ということになりまして、この教育勅語を軍部が結局勝手に濫用しまして、そして、さまざまな形で軍国主義教育というのが行われたことも事実でありましょう。

 そういう中で、昭和二十年八月十五日、日本国は全面的な無条件降伏、ポツダム宣言を受諾いたしまして、その後どういう形で行われたか。もう先生方も御存じだと思いますが、GHQが日本の中に入ってさまざまな調査をいたしました。

 アメリカの教育調査団の目に触れた特徴的なものは何かというと、いわゆる家族というきずなが非常に強いということをどうやら目にしたようでございます。日本は結束力のかたい家族制度を基盤にした社会的関係というものを持っている、そういうところに非常に着目をしたのでありましょう。そして、二度と軍国主義教育が行われないようにどうしたらいいのか、さまざまな論議をしながら、アメリカの教育使節団の報告書の中にも、個人という言葉は、子供にも大人にも、男にも女にも同様に当てはまることも了解されなければならないという文言を報告書の中に入れているわけであります。

 その後、GHQの、監視下と言ってもいいでしょう、先ほど堀尾参考人も、先人たちはさまざまな苦労をしながらも自分たちの理想を描きながらやったんだというのはそのとおりだと思うんですが、すべてその論議は、GHQに報告して了解を得なければならなかった。そういう拘束された状態の中でこの教育基本法というものができたことは事実なんだと私は思います。

 その後六十年たって、この教育基本法をさてどうするか。最近の日本国の国内の乱れ、社会の乱れ、家庭の乱れ、家族関係の乱れ、地域社会のきずなの乱れ、そういうものを目の当たりにしながら、これはどうしたらいいのかということでさまざまな論議をして今日に来たわけであります。

 私がお伺いしたいのは、中教審が二年間にわたってかなりの論議をして、公聴会も、東京、福岡、福島、京都、秋田、五回もやり、そしてさまざまな論議をしながら、二年間すべての審議を公開しながらやってきたわけです。

 そして、平成十五年の五月十二日から、与党の教育基本法に関する協議会、そこに移りました。そして、十名の委員によって七十回にわたって論議をされた。そして、あと六人足して十六人のメンバーで、平成十八年四月十三日までに、協議会が行われて成案になったわけでありますけれども、その間の論議が、全く、自民党の議員にも、与党の議員にも知らされていないんです。この間、文部大臣にお伺いしたんですが、文部大臣が聞いたのは、四月十三日以降話を聞きましたということなんですね。

 私は、こういう、先人たちが、占領下において、本当に日本の未来を考えて一生懸命、GHQに相談しなきゃならない話だったけれども、どうやったらいいかということを考えて、それを全部記録に残してオープンにした形で持ってきたんですが、今回の与党の改正案というのはほとんど中身が公になっていないんです。私は、そのところに、非常に歴史上これは大きな問題、禍根を残すんじゃないか、そういう感じを持っているところでありますが、四人の参考人の皆さんにそれぞれお話をいただきたいと思うんです。

 見城さんには三点にわたってお話をいただきましたし、池田さんのお話を伺いますと、日本独自の価値観、日本の心を大切に継承したいというお話であります。まさに私ども民主党が主張した「日本を愛する心を涵養し、祖先を敬い、子孫に想いをいたし、伝統、文化、芸術を尊び、学術の振興に努め、他国や他文化を理解し、新たな文明の創造を希求する」その精神と全く同じだと思うんです。先ほどは与党案を評価されておられましたが、もっと素直な御意見を賜りたい。

 そして、あとのお二人の参考人にも、歴史的な経過、特に平成十三年以降の審議過程の状況で与党案ができたということに対してどういう感想をお持ちか、それもあわせてお伺いしたいと思うんです。

見城参考人 たくさんお話がございまして、まず……(大畠委員「こういう経過について」と呼ぶ)経過についてということでよろしいんですか。

 私が中央教育審議会で審議しておりましたときはすべて公開ですし、審議自体公開ですし、その都度、パソコンを開いていただけばすべて出る、そういう形で公開をしておりました。

 それから、私は法律の専門家ではございませんが、基本的に、法律の場合、大変いい内容がございましても、前文に、頭を重く持ってきて書くことというのは非常に残念で、きちんと条項として出すべきところは出された方がよろしいのではないか、こういう感想を持っております。

池田参考人 まずは建前論から言いますと、青年会議所というのはどこの政党にくみするという団体ではございませんので、先ほど与党案と言ったのは、たまたま一番最初に出ていた案を見て、皆さんで研究して勉強したということであります。

 まさに我々は、法律に求めるものは、日本の伝統、文化であるとか精神性であるとか、そういった希薄にされていたことを取り戻してほしい。それは、本来は、ルール、法律ですべきことではないのかもしれません。法律ですべてがんじがらめにして、私たちも政策提言という形で、こんなルールをつくったらどうかということは出しますが、裏を返せば、一国民としては、自分を縛る法律を政策提言として出すというのは非常に自己矛盾を感じるところではあります。

 ただ、この現状をかんがみれば、そこまでしなければこの国がめちゃくちゃになってしまうという危惧、恐怖というのを一国民として本当に抱いているわけでありまして、そういうことが是正できるような法律案というのがやはり求められている。民主党案の中でそういう形が入っているのであれば、それは非常にうれしいことであり、ありがたいことだと思います。

 ただ、今の本質問とはちょっとそれるのでありますけれども、先ほどのお話の中で、日本が一九四五年の八月十五日、敗戦をして、ポツダム宣言を受け入れて無条件降伏したというお話がありましたけれども、私は、今、全国をいろいろ回りながら、日本は無条件降伏などしていないという話をしています。

 ポツダム宣言は全十三条にわたってありますけれども、あそこにあるのは、日本軍を解体、無条件解体で、それぞれに散らばった日本の兵隊さんにおうちに帰りなさいと日本国政府が命令をしろというような宣言だったと理解しておりますし、日本国政府の主権さえもとられてしまうような、そのような本当の無条件の降伏をしたと教えてきた教科書がいけないんだということを今教えているわけでありますので、できれば、先生にはそういうところも、日本国民に自信と誇りを取り戻す上でも本当のことをお話ししていただければと思います。済みません。

中嶋参考人 私、中教審の委員を大分長く務めておりますので、この中教審の答申あるいはその前の中間報告にかかわりました。

 特に私は、愛国心という言葉は、当然、さっき言ったような民主主義と個人主義を保障されているところでは使っても構わない、問題がないという意見なんですね。そのことは中教審の答申では、必ずしも愛国心という言葉ではなかったんですけれども、しかし、グローバル化が進む中で、郷土や国を愛する心をはぐくむというような形でまとまっております。

 それを踏まえて、さっき、中教審の公聴会とおっしゃいました。全国各地でやりまして、私も公聴会に参りました。しかし、皆さん方御存じでしょうか、例えば福岡ではどういうことが起こったのか。公聴会に出席した中教審の委員が表から入れなかったんですよ、会場に。御存じですか。というのは、組合あるいは過激派が動員して、大変なけんまくでした。それが日本の教育を、しかも、中教審でやったものを、市民に説明する会がそういう状況の中で開かれています。そのこともよくわきまえておいてください。(発言する者あり)そうなんです。本当にひどかったですよ。その動員された人たちは、もう初めから教育基本法の制定に反対という形で動員されていましたから、その中に過激派が加わっていました。ですから、我々は会場に入れなくて、裏口から警備に守られて入った。それが今の日本の教育の現場です。

 それから、森さんに聞いてほしいんですが、自民党に森さんがいらっしゃるのに、文章がやはりよくない。やはり教育基本法というのは格調の高い文章にしていただかなきゃいけないので、これは虚心坦懐に読むと、民主党の案の方がはるかに文章はいいですね。ですから、今後法案化するときはぜひいい文章にしていただいて、それから、法案化するときには内閣法制局あたりがいわば官僚的な文字の修正をしますから、それによって心が消えることのないようにぜひお願いいたします。

 以上です。

堀尾参考人 御質問の中で、教育勅語の成立の問題、そして教育基本法の成立の過程、歴史の問題が質問にあったと思います。これに答えていると大変になるんですけれども、私は、近代日本教育思想史の大きな本を一冊書いています。それで教育勅語の成立についても丁寧に書いていますし、それから、教育基本法の成立に関してはこういう本を書いています。

 そういう立場からいいますと、教育勅語に関しては、御指摘のように、あれは天皇の言葉ということになっているけれども、基本は、つくられたわけです。だれがつくったか。元田永孚、中村正直、井上毅、そして山県も最後には関係しています。つまり、そういう人がこの文章をつくって、それを天皇の勅語にしたということです。

 もう一つ、その際言っておきたいことは、井上毅の考え方というのは非常におもしろいと私は思ったのですけれども、これを法律にするかどうかという議論をやっているんです。しかし、そういう人間の道徳にかかわるような問題を議会で決めるべきものではない、ここまでは私が冒頭で説明したことと同じなんですね、法の限界ということがある。そこで、日本には天皇がいる、天皇は政党からも中立である、それで天皇の言葉として勅語を出した、こういうことでもあるんですね。だから、勅語に求めたその思いは私は非常に評価できる。

 しかし、実は間違った求め方をしたというふうに思うんですね。つまり、法が入るべきでない領域というものは、人間一人一人が、国民一人一人が自分たちで豊かに考えていこうという、これが、教育の領域の問題あるいは文化の問題、学問の問題です。そういうところに国が口出しをしてはいけない。だから、戦前は勅語になったわけです。

 戦後は、それこそ国民主権、一人一人の人間を大事にする、そして教育は人権であるという考え方で、そういう自由な領域というものを法は保障しなくちゃならないという形で実は教育基本法がつくられた。

 ですから、つくられるときに、冒頭でもちょっと紹介しましたけれども、非常に抑制の原理を持っていたわけです。そして、そこまで書くのかという思いを持ちながら、しかし、日本の歴史を考えてみるとここまでは書かざるを得ない。しかし、これ以上書くような方向で改正をしちゃならないぞというのが田中耕太郎の意見でもあったわけですね。

 同時に、その成立過程で、GHQのことを言われました。確かに占領下。その中でいかに私たちの先輩たちが、独立の精神で自分たちの思いをつくったか、これは非常にはっきりしているんです。

 ですから、最近この国会でも、何かGHQの強制があったような、強制という言葉じゃありません、その枠の中で非常に偏ったものだという言い方がありますけれども、例えば一つ御紹介しますと、アメリカ使節団がやってきたとき、安倍能成が日本の文部大臣でもあったんですけれども、彼はこういうあいさつをしているんですね。日本はこれまで植民地国で日本の教育を押しつけてきた、これは間違いである、アメリカは、今教育の専門家が来たんだけれども、そういうことをやらないでほしい、そういうあいさつをしているんです。これは私は非常に立派なあいさつだったと思います。

 そして、さっき南原さんのことでちょっと紹介しましたけれども、南原さんが家永裁判の第一回の証言をやっているんですけれども、そのときの証言の最後に、教育基本法の成立について、これは外から占領軍が押しつけたんだろうという質問、反対尋問をされています。それに対して南原さんは、教育刷新委員会の委員長として、毅然としてこういうふうに言われました。我々の委員会はそういうけちな委員会ではない、このメンバーを見たまえ。これで証言を終わっているんです。これは私はすごいものだと思っています。

 そして、実際にその関係がどうだったのか。アメリカの使節団それ自体が、私たちは日本の教育をこれまで抑圧していたものを取り除くためにやってきたんだ、トゥー・ヒンダー・ザ・ヒンドランス・オブ・マン、そういう表現を使っているんですね。ですから、抑圧するため、枠をはめるために来たのではない。これはもう非常にはっきりしている。それはアメリカの教育使節団の良識だったというふうに私は思っています。

大畠委員 時間が来ましたのでこれで質問を終わりますが、私は、基本的に、このような国家百年の計に当たるものについては、与党だけで論議をして法律案を出すという性格では全くない。これは、まさに中嶋先生からもお話がありましたが、やはり国会の中で全党に所属する国民の代表者が集まって論議して、共通する認識を示して国会に提出するのが筋であるということを申し上げまして、質問を終わります。

 ありがとうございました。

森山委員長 次に、石井郁子君。

石井(郁)委員 私、日本共産党の石井郁子です。

 本日は、四人の参考人の皆様に御出席いただきまして、貴重な御意見を伺いました。本当にありがとうございます。

 最初に見城参考人に伺いたいと思います。

 少し前ですけれども、文部科学委員会の方にも参考人としておいでいただいたと思いますが、そのときも大変貴重なお話を伺うことができました。私は大変印象に残っているんですけれども、見城さんが、教育と医療は国の原点であるというふうにおっしゃっていたと思うんですね。あのときは三位一体改革の問題だったわけでございますけれども、今の政府は健康、福祉の分野では冷たい、自己努力をしなさいというふうに言っているようだ。義務教育についても地方の自治に任せましょうということになっている。本当に日本も来るところまで来たのかなという言葉も伺ったかと思うんですけれども、こういう日本、またこの先もこの方向を進めていいのかという御意見として私はお聞きをいたしました。

 そこで伺いたいのは、今回の教育基本法の改正というか全面改定の案でございますけれども、この法案で、見城さんが今感じていらっしゃるような問題点、これは解決されていくんでしょうか。この見城さんの問題意識がどのようになっていくというふうにお考えでいらっしゃいますでしょうか。お聞かせください。

見城参考人 御質問いただきましてありがとうございます。

 国家の財政に関しまして、私たち国民は、経済的な数字が出るたびに、それを信じていけば日本はどうなるんだろうか、こういう懸念をいたします。

 それから、地方の時代と言われて久しいわけですが、しかし、実際に地方に行ってみますと、地方は疲弊しております。過疎化は本当に進んでおります。そして、昨今のさまざまな子供をめぐる事件に関しましても、例えば、かつてでしたらば、首都圏、東京なら東京のような、地域、近所というものが希薄な、人間関係が希薄なところで起こるであろうと言われていたことが地方に起きております。

 そういった観点から、地方の状況というものは、地方の自立とかそういう言葉だけで済ませるのではなくて、もう一度現状をしっかり認識した上で、どうしたら本当に各地でいい教育ができるのか、先ほどの医療の問題でいいましたら、いい医療ができるのか、いい人材が育つのかということを考えるべきだと思っております。

 そういった点では、私は、基本法にのっとって、伝統という言葉が出ていますが、伝統こそ実は各地方にございます。東京も地方ということで考えれば、東京ローカルの、東京の、江戸の文化、伝統があるわけですので、そういった点も含めて、例えば日本の伝統という言葉に託されている、各地が生きるような教育行政ということにつなげていっていただきたい。むしろこういったものが、書かれただけではなくて、それを具体的に、現状を調査して、なおかつ、その上での生かすべきところを生かしていくきっかけになるのがこの基本法であり改革であったのではないか、こうとらえております。

石井(郁)委員 どうもありがとうございます。

 中嶋参考人に一点伺わせていただきます。

 今も出てまいりましたけれども、与党案では伝統、文化の尊重ということが強調されているというか強く打ち出されているかと思います。中嶋参考人もこの伝統、文化の尊重ということを評価されているように伺っているんですけれども、一方で、文部科学省は、小学校で英語教育の必修化ということを早く進めたい、導入したいという方向もございますね。そういう小学校の英語必修の促進も唱えていらっしゃると思うんです。

 他方、この問題で、やはり母国語をしっかり学ぶことの方が先決だという、母国語か英語かという議論もあるかと思いますので、ひとつ中嶋参考人の御見解を伺いたいと思います。

中嶋参考人 小学校への英語の導入に関しましては、今いろいろメディアでも議論されているのは、私自身が中教審の外国語部会の主査としてこの問題に取り組んでいるからでございます。

 これは、町村大臣の時代から、あるいはその前の中曽根弘文大臣の時代から、あるいは河村さんも含めて、日本の英語教育のあり方を根本的に改善すべきだということで議論が進みました。その前に、教育改革検討会議ですか、からの流れもあったわけです。

 私は、先ほど申し上げましたように、伝統、文化を本当に尊重したいという立場なんですが、そのことと、グローバル化に備えて日本国民が、これは国際社会で活躍するような人材もそうですし、一般の日本国民も、国際的なコミュニケーションのツールとしての外国語、特に英語に習熟するということは非常に重要だと私は考えております。

 したがって、英語教育をすれば国語がおろそかになるということではなくて、確かにそれは俗耳に入りやすい議論なんですが、実は、言語感覚とか言葉そのものが、今の教育の中で非常に荒廃し低下していると思うんですね。ですから、国語の時間をふやせば国語がよくなるということよりも、もっと全体的な教育の荒廃の一環だと思っております。

 特に中学においては、実際には、週三時間の英語も行われずに、二・五時間ぐらいになっているんですね。しかも、単語量も、我々が英語を習った義務教育での英語の半分ぐらいになってしまっています。それでは、インターネットで子供が何かやるにしても、国際社会が物すごく今グローバル化していく中で、日本の子供を置いてきぼりにしていいのか。その意味では、むしろ、小学校五、六年ぐらいからきちんと教科として英語を導入した方がいいというのが私の考え方です。

 そして、もうちょっと幼児教育の中にもそういう問題を取り入れていった方がいいと言うんですが、それは今審議中でして、まだ六割ぐらいのところなんですけれども、新聞はすぐそれを大きく書くものですから、若干誤解もあると思います。

 したがって、日本の伝統、文化をきちんと尊重することと国際社会での共通のコミュニケーション手段としての英語力を学ぶということは矛盾しない。このままいくと、アジア諸国を見ても、日本の英語力は物すごく落ちてしまいます。

 それから、そもそも、これまで日本の英語教育そのものに問題があったんですね。それは、能力に応じた英語教育をやらずに、先生が一つのテキストをみんなに同じように読ませてやるような、そういう戦後平等主義の教育が、英語というのは能力に応じていろいろ段階がありますから、そういうことも含めて英語教育そのものを根本的に改善しないと、多くの方々は、十年間英語を学んできてもほとんどその英語が使えない。英語は、まずコミュニケーションの手段ですから。そういうふうに考えております。

石井(郁)委員 いろいろ思いもおありだと思いますけれども、この問題も、本当に議論をしっかりとしなければいけないたくさんの問題をはらんでいるというふうに私も考えていますが、しかし、子供は、一日二十四時間生きて、そして限られた年限で成長、発達をしていくということで言えば、大人の側から言えば、あれも足りない、これも足りない、あれやれ、これやれというふうに子供には映っているように思うんですね。学校もまたしかりだというふうに思うんですね。そういう点では、私は、今の御見解をそのまま受けとめるわけにはいかないわけですけれども、いずれにしても、大変真剣に議論しなきゃいけないというふうには思っております。

 さて、堀尾参考人に伺います。

 今議論になっておりますように、政府案の十六条の問題でございますが、ここは、教育はこの法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであるというふうにしていることがどういう内容なのかということでございまして、先ほどもいろいろと参考人の御意見を伺いました。

 私も、ここで教育と教育行政が区別されていないということは本当に重大な問題だというふうに思っておりまして、そもそも教育というのは、法律の定めるところでやるのか、あるいは法律で縛るのかという問題が大きくあるというふうに思っております。

 学校教育でいえば教師と生徒、家庭でも親と子という関係というのは、やはり子供の成長、発達に働きかける極めて人間的で文化的な営みだというふうに思うんですね。だから、そういう人間の内面の形成にかかわる部分ということになると、それを法律で定めて一体できるのかとそもそも思いますし、普通の親もびっくりするんじゃないかというふうに思います。

 だから、人間の自由な活動の分野に国が関与する、いわば法律で縛るということは、やはりこれは憲法の言う精神的な自由ということに本当に反するのではないかというふうに思いますが、その辺、改めてもう少しお聞かせください。

堀尾参考人 教育を法律で縛るということがどういうことかという御質問でもございます。これは、改正基本法案の十六条にかかわる問題であります。

 私は、この証言で一つのポイントは、そもそも、教育基本法にしても、どこまで教育の目的や理念が書けるのかということを非常に慎重に抑制しながらつくったんだ、近代法というものは、本来そういうことをしてはならないんだという原則が実は確立もしている。

 この点に関して言えば、例えばフランスのコンドルセの思想。コンドルセは、政府は、どこに真理が存し、どこに誤謬があるかを決定する権利を持たない、政府によって与えられる偏見は真の暴政である、こういうことを言っている。このコンドルセの意見というのは、実は、近代教育の思想の中でも、非常に大事な民主主義的な教育の思想家としてみんな評価しているものなんです、フランス革命期の、実はジャコバンに殺される人ですけれども。

 あるいはドイツのフンボルト。彼は、「国家活動の限界規制に関する考察」の中で、公権力からの教育の自立性を主張しています。

 あるいはフランスの法哲学者デュギ。彼は、国家は学説は持たないと。

 あるいはイェリネック。皆さん法律を勉強された方は多いと思います。私が挙げた人たちはみんな巨大な法学者です。そのイェリネックは、市民国家というものは、人間の内面性に属するものは何物もみずからは生産しない、こういうことを言っているんですね。

 つまり、これが近代の法であり、そして、法が介入してはならない人間の内面的な領域、これが確立しているわけです。

 戦後の改革期、法学者たちは、当然こういう流れについても承知している。だから、教育基本法でどこまで書けるのかという議論を真剣にし、そして、あの歴史的な状況の中で、例外的、変則的ではあるけれども、抑制的に教育の目的も書いたということになるわけです。

 ところが、今度の改正案では、二条という新しい条項をつくって、つまり、「教育の目標」という項目をつくった。だから、これ自体が大問題なんですね。愛国心がどうだという以前に、法と教育の問題ということで、そんなものをつくる必要があるのか。

 しかも、それは、学習指導要領に今規定されているものをそのまま持ち込む、そういうことでもあるわけで、現に行われてもいる。それを基本法に持ち込むことによって一層統制力を強める。学習指導要領の場合には、まだ、その法的拘束力をめぐっても、これは最高裁判決の解釈として、実は解釈が分かれているわけです。

 この点は私はぜひ言っておきたいのですけれども、小坂文科大臣、残念ながらここにいないようですけれども、私は直接質問もしたいんですけれども、この法案の提出とかかわって、昭和五十一年の最高裁判決におきまして、「法律の命ずるところをそのまま執行する教育行政機関の行為」は「「不当な支配」となりえない」、こういうふうに引いているわけです。でも、これは非常に重大な問題を含んでいるわけです。

 実は、この最高裁判決、丁寧に読んでいない。小坂さん自身、そこをつかれて、これは志位さんが質問しましたけれども、私はそこはまだ読んでいません、そういう回答もしましたよね。

 そういうことを含んでどこが問題かというと、文部省が引いているところは、実は、判決によりますと、「憲法に適合する有効な他の法律の命ずるところをそのまま執行する教育行政機関の行為がここにいう「不当な支配」となりえないことは明らかである」、つまり、「憲法に適合する有効な他の法律」という言葉が書いてあるわけです。それを、引用のときには「法律」以下が引用される。そして、文部省は、これまで繰り返しそれをやってきたんですね。

 つまり、判決によって確定した、そのことは教育研究者としては非常に問題にしていた、どうしてそういう判決の読み方ができるのかと思っていたら、今度の国会で非常に明快に、実はそういう読み方をしているということがわかったわけです。これは明らかに判決の読み違いであるというふうに、私は教育法学研究者として文部省の方にはぜひ言っておきたい。

 そして、その問題は、実は十条改正問題になっているわけですね。それが十六条になる。十六条は、先ほどもちょっと申し上げましたけれども、教育と教育行政というものをカテゴリーとして区別しながら、教育はこういうものでなければいけない、自律性が保障されていなければならない。だから、法によれば何でもいいということとは違うのです。そして、行政はそれを本当にサポートする重大な責任を持っているということで十条ができるわけですから、今度の政府改正案の十六条、十七条というのは非常におかしな改正になって、私はそこは非常に重大な問題を含んでいるというふうに思います。

 さらに、十七条の教育の基本計画のところでは、政府は、計画をつくり実行し、それを国会に報告すればいいというふうになっている。そうすると、政府にフリーハンドを与えることにならないか。しかも、それを基本法が許している。基本法を根拠法にしながら政府のフリーハンドを許す。そうすると、政府がかわったら教育自体が大きく動くではないか。

 教育の安定性というものは非常に大事なわけです。だから、教育の自律的な領域というものが保障されなければならない。そしてそこには、衆知を集めて議論をし、本当に子供たちを育てていくというその仕事ができやすくするために、法律というものがあり、政治というものがあるんだというふうに私は基本的に考えています。

 十七条に関してもっと言えば、この計画の中では、競争と選別をますます強めるようなことになるだろうというふうに思っています。

石井(郁)委員 ほぼ持ち時間が参りまして、先生、どうもありがとうございました。

 やはり、教育基本法の研究者として、あるいは教育行政、教育と法律の関係についての長年の御研究がおありでございまして、その思いは大変深いものがあるというふうに感じたところでございます。

 もう時間でございます。私も、教育の理念を法律に書き込むというのは、世界的に見ても、世界の法律の中にほとんどないんじゃないかというふうに思いますし、最後に述べられましたように、基本法を与党案のように変えていくならば、日本の教育が本当にどうなるのかと、むしろ大変危惧されることの方が多いというふうに思っておりますので、その点は質問できませんでしたけれども、きょうは、参考人の皆様に本当にいろいろと御意見、ありがとうございました。

森山委員長 質疑の途中でございますが、中嶋参考人には御退席いただいて結構でございます。

 大変貴重な御意見をいただきまして、まことにありがとうございました。(拍手)

 次に、保坂展人君。

保坂(展)委員 社民党の保坂展人です。

 見城参考人に伺いたいのですが、お配りいただいた資料の六のところで、これは世界青少年意識調査、結果概要、平成十六年内閣府の資料ですが、「自国と自分との関係(肯定する者の割合)」の各国比較を見せていただきました。

 これを見て、日本、「自国人であることに誇りをもっている」七二・六%、「自国のために役立つと思うようなことをしたい」五〇%。この数字は、確かに韓国、アメリカ、スウェーデンよりは低いのですが、ドイツと比べるとかなり高いのかな。このように、バランスとしてどういうふうにこのグラフを受けとめるのかということをもうちょっと伺っておきたいと思います。

 つまり、なるべくこれが一〇〇%に近づけばいいというふうにお考えなのか、そのあたりをお願いします。

見城参考人 御質問ありがとうございます。

 私は、海外をいろいろ取材しておりまして、最終的なところになれば、あなたはと問われたときに、私は日本人です、例えばそういうふうに、自分をあらわすときに、パスポート一つ持って、日本人であるということで、世界どこでも行くことができました。そういうときに、自分の国があるということをまずありがたいと思ったこと。

 それから、今度は、さまざまな国の方々と話を始めますと、その行く国々のことを少しでも勉強してまいりまして、そちらの国の話を一生懸命いたしますと、最終的に返ってくる質問が、ところであなたの国はというふうに返ってまいります。

 私は戦後の生まれですけれども、自分の国のことを勉強することも大事だったんですが、どうしても、アメリカ文化のシャワーを浴びて育ってくる世代でして、知識としてはそちらが多くなったりしてまいりました。また、価値観としても、どうしてもそういう部分があったと思います。

 そういう中で、自分の国に誇りを持てるかというふうに自分に問いかけますと、やはり、自分の国についていろいろ学び、わかっている、教えられている、そういうことから自分の国に誇りを持てるんだ。これは、百人いたら百人、自分の国を誇りに思います、こう思うのがやはり自然かと。それは教育の現場でも、国家的戦略だと言われますが、国際社会においてどう日本の子供たちが活躍していくのかといったときの原点は、やはり日本という自国です。そういう意味でも、自分の国に誇りを持つということは重要だと思います。

 それから、ドイツなんですが、西ドイツと東ドイツが長年分かれていて、それぞれのアイデンティティーを持っていた国が一つに統一しました。それからさらにEUに組み込まれていきます。こういう中での自分の国に対する思いというのが、もしかしたらドイツの、自分と自分の国との関係が五〇%と大変低いですね、このあたりの数字に出たのではないか、そのように解釈しております。

保坂(展)委員 ありがとうございました。

 続いて堀尾参考人に伺いたいんですが、かつて子供の学習権をテーマにした裁判において、私自身いろいろ教えていただいたという経験がございまして、教育基本法をめぐってお話をお聞きできることを大変いい機会というふうにうれしく思います。

 制定当時のお話で、先ほども意見陳述の中にもありましたけれども、田中耕太郎文部大臣が、国会において、憲法の中に教育を入れたらどうかというのに対して、いや、根本法であるというふうに言われて、戦前の教育を我々はどういうふうに見るのかということの中で、御本の中にも、幣原喜重郎国務大臣が吉田総理の代理として、今回の敗戦を招いた原因は、せんじ詰めれば、要するに教育の誤りによるものと申し上げなければなりません。従来の形式的な教育、帝国主義、極端な愛国主義の形式というものは、将来の日本を負担する若い人、これを養成するゆえんではありません。こういうふうに議会で述べられている。

 こういうあたりの、当時この基本法をつくった人の精神について、もう何言か付言していただければと思います。

堀尾参考人 簡単に申しますと、つくった人たちの精神は何であったか。南原さんは教育刷新委員会の委員長でもありましたけれども、東大の戦後初代の総長であります。南原さんの書いた「祖国を興すもの」という本がございます。それから、新日本文化の創造というものがあります、これは敗戦の翌年です。東大の総長として、そして教育刷新委員会の代表として果たされたその人たちの思いというものを私たちは酌まなければならないだろうというふうに思っています。

 本当に国を興す、新しい国をつくろうではないか。そして、彼は日の丸も掲げたわけです。彼は天皇制に関しても天皇制を守るという意識を持っていたわけですけれども、それを新しい天皇制でやる。国民主権という憲法のもとで、我々が天皇制という新しいものを選んでつくっていくんだ、そういう思いで天皇制にも思いをかけたわけです。

 それぞれ思いの違いはありましょうけれども、おおむねそういう、非常に、戦後新しい国をつくるんだ、もう戦争をしてはいけない、そして、新しい、本当に一人一人を大事にする教育、文化をつくろうではないか、世界に誇るべき国をつくろうではないか、これが私は戦後の改革者たちの基本的な思いだったというふうに思っています。

保坂(展)委員 続けて堀尾参考人に伺いますが、教育勅語と教育基本法との関係について、この委員会でも何回か議論になっておりますが、御本の中では、教育勅語は効力持続をしているんだという意見もかなり強かった。その中に、田中耕太郎文部大臣もそうだったと。他方で、後に参議院議員になられた羽仁五郎氏は、内容的に一点の瑕疵、誤りはなくても、専制君主の命令で国民に強制をしたというところで間違いがあったと。

 こういった意見の違い、対立があって、一九四八年の六月十九日に、衆議院においては教育勅語の排除に関する決議、参議院においては教育勅語の失効確認決議、この決議の参議院側の提案者は文教委員長であった田中耕太郎議員だったということが紹介されていますが、この数年間、どういう関係で基本法と教育勅語が論じられてこの決議に至ったのかという点についてお願いしたいと思います。

堀尾参考人 四八年の国会での決議、これがあたかもGHQからの指示があったかのごとき発言がこの中でもあります。

 しかし、それは私は間違いだと思っています。なぜなら、皆さんお持ちの資料を見れば、まさに基本法を成立させるその国会で、教育勅語と教育基本法の関係はどうなのかというふうに質問されて、高橋文部大臣が、憲法と抵触する部分は効力を失う、教育基本法と抵触する部分は効力を失う、したがって、政治的なあるいは法律的な効力を持つ部分というものは否定されたんだ。しかし、そこの中に盛られている道徳訓といいますか、それは、モーゼの十戒と同じように今も生きているんだという言い方をしているんです。これは高橋文部大臣、つまり、基本法の成立するその国会でです。

 四八年の国会での衆議院と参議院での決議、六月十九日、このときに、確かにGHQからの何かの申し入れがあったかもしれません。しかし、基本的に、この基本法が成立するときに、この高橋文相の説明、これは同じことを田中耕太郎文部大臣も言っていたわけですけれども、そういう形でけりがついているんです。

 ですから、生きているということを田中耕太郎が言ったことも確かですけれども、それは法的なものとして生きているわけではない。つまり、法的というのは、教育勅語は法的な効力も戦前持ったわけです。いろいろな学校関係の規則等々に、教育勅語の精神に基づいてという形で法規の中に書かれることで法律的な効力も持ったわけですね。ですから、そういう効力は持たない。道徳訓としてという言い方をしたわけです。ですから、これをけしからぬと言うのかというような問題と全然違うわけです。そういう仕方で既に決着がついていたわけです。

 国会での決議に関しては、実は、皆さんに差し上げました本の中でも、二百二十ページに、私はあえて参議院の決議を引用しました。同じ日に衆議院でも決議がなされるわけですけれども、これは教育勅語の排除の決議。しかし、私は、戦後の改革のこのプロセスを見ると、参議院の方が冷静に法的にきちんとした扱いをしている。つまり、憲法、教育基本法が成立したところでこれは効力を失っているんだということを書いている。そして、それを提起したのが田中耕太郎である。参議院の文教委員長として。

 これは非常に大事なわけで、GHQが指示したからこれをやったというふうな解釈は非常に間違いであるというふうに私は思っています。

保坂(展)委員 続けて、今の点に関連して堀尾参考人に伺いたいんですが、追加でお配りいただいた日本教育法学会の声明において、二点目に、教育目標のところに、愛国心、公共心を初めとする徳目を掲げることで、態度を養う、こういうことを、道徳規範を内面化させる仕組みであるということで、これを批判されております。

 道徳規範、あるいは昔の言葉で言えば徳目をこうやって法律に掲げることにどういう問題点があるのか、お願いします。

堀尾参考人 それは先ほど石井さんの質問にかなり答えたことですけれども、国家あるいは政府が人間の内面に関与する、介入するということは抑制すべきであるというのが原理なんですね。ですから、道徳律を法律に書くということは非常に問題がある。

 これは、私の差し上げました小さな文章の中で小林直樹先生の文章も引いておきました。つまり、田中耕太郎の書いたのは五二年の一月、ジュリストの創刊のとき、そしてこれは日本の問題としても、法律のあり方として書き過ぎているんだという自戒の念。そして、法律と教育との関係というものをとらえる学問もまだ成立していない。そこをやる学問が必要だということも最後のところで言われているんです。それが教育法学なんですね。

 教育法学会というのは、憲法学、行政学、そして教育法学、それに重ねて教育学の人たちが参加して学会がつくられているわけです。まさに、法律と教育のはざまになっているものをどういうふうに考えたらいいのか、法の限界というものをどう意識するかというようなことを含めて、逆に言うと、今度の改正案では十六条に法律法律と書いていますけれども、法の中には、実は慣習法もあれば条理法もあるわけですね。法源として条理というものが非常に大事なので、特に教育法に関しては条理が大事だ。

 条理というのは、別に法律に書いているものじゃないんです。それこそ人間の英知、子供を人間として育てるその実践の積み上げの中で、そして、国家と教育の関係、あるいは政治と教育の緊張の中で、言うなればつくり上げられてきた条理というものがある。条理というのは事柄の本質、条理法というのは事柄の本質に即した法という意味なんですね。ナツーア・デア・ザッヘあるいはナチュル・デ・ショーズ、つまり、ショーズやザッヘ、教育という事柄に即してはどうなのかという、それが条理法なんです。

 今度の十六条は、そういう条理法的な領域があることを全く無視した、法律に書けばいい、さらに政令だっていい。例えば東京都の一〇・二三の通達、これも法律でしょう。そういう仕方で、法律に従う教育が本当に豊かな教育をつくり出すことになるかどうか。

 ですから、私は、この十六条、十七条問題というのは非常に問題だ、二条をつくったことと重ねて問題だというふうに思っています。

保坂(展)委員 続いて池田参考人に伺います。

 先ほどの御意見の中で、歴史的な贖罪意識が強過ぎて、こんな国に生まれなければよかったというような意識が広がっていると。私などは、もっと以前に学校教育を受けて、必ずしもそういうふうには思わなかったわけですけれども、御自身の受けられた学校体験の中ではどうだったんでしょうか。

池田参考人 これは、今でもほとんどの学童児童が体験していることだと思うんですけれども、歴史の勉強をする際に、一学期から始まって二学期、三学期、ちょうど学年が終わるころ、まるではかったかのように、日本は非常に悪いことをしました、アメリカが原爆を落としてくれたおかげで戦争が終わりました、それで鐘が鳴るんです。これはだれに聞いてもみんな同じなんですね。どうして戦争が起きたかも勉強させられない。そして、日本が悪いことをした、悪いことをした、悪いことをした、そこで終わる。それから六十年、日本がODA等を使って、経済力を使って、近隣諸国また世界じゅうにどのような貢献をしたかも何も教えない。こんな状態がずっと続いているわけですね。これで自国に誇りや自信を持てと言っても、これははっきり言って無理です。

 私の原体験でいえば、先ほどの贖罪意識というのもあったんですけれども、やはり教員組合の影響力というのはかなりあったと思うんですね。

 といいますのは、私は、小学校の一年生のときは、六十歳、定年間際の非常におばあちゃんの先生でございました。最初に教えてくれたのが、君が代の中身といいますか歌詞の内容でした。すごくいい歌なんだというのを、実は小学校の一年生ながら思った覚えがあります。二年生になりましたら、新任の、いわゆる教育大学を出たての非常に若い女性の先生が参りました。そこで、先生におはようございますと。当然、前任の先生には、敬語を使いなさいと習っていましたので、おはようございますと敬語を使いました。そうしたら、いきなりびんたを張られました。なぜあなたは友達と先生と言葉遣いを変えるんですか、平等でしょうと教えられたんです。

 実はこんな原体験が今の私を揺り動かしている部分もありますし、実際に、今の教育の現場というのは、ぜひ先生に見ていただきたいんです、本当にむちゃくちゃなんです。この子たちが、紛れもなく、二十年後、三十年後、この国を担います。そして世界を担うことになります。本当に恐ろしいんです。

 ですから、今参考人の先生方が非常に専門的な、法律的な御議論をかなりなされています、それは法律的には大変重要なこととは思いますけれども、現場はそれどころじゃないです。先生たちに余りに裁量を与え過ぎたために、先生たちは、何を言っていいかわからない、何をやっていいかわからないんです。ですから、総合学習も、実際には空欄の時間になっています。私たちJCは、そこに一生懸命、専門家ではないですが、入り込んで、何とかして子供たちに明るい未来と夢を与えようと頑張っています。

 どうか先生方の応援を今後とも御期待申し上げて、答弁にかえさせていただきます。ありがとうございました。

保坂(展)委員 近現代史をきちんと教えないということは大変よくないことだと思いますけれども。

 三人の参考人の先生方には、大変貴重な御意見をいただきまして、ありがとうございました。

 そろそろ時間なので、終わります。

森山委員長 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、参考人各位に一言御礼を申し上げます。

 参考人の皆様には、貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。委員会を代表いたしまして、厚く御礼を申し上げます。(拍手)

 次回は、明八日木曜日午前八時四十分理事会、午前九時委員会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。

    午後零時二分散会


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