衆議院

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第9号 平成18年11月9日(木曜日)

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平成十八年十一月九日(木曜日)

    午前九時一分開議

 出席委員

   委員長 森山 眞弓君

   理事 稲葉 大和君 理事 河村 建夫君

   理事 斉藤斗志二君 理事 鈴木 恒夫君

   理事 町村 信孝君 理事 中井  洽君

   理事 牧  義夫君 理事 西  博義君

      井脇ノブ子君    稲田 朋美君

      猪口 邦子君    岩永 峯一君

      上野賢一郎君    臼井日出男君

      大島 理森君    島村 宜伸君

      田野瀬良太郎君   戸井田とおる君

      冨岡  勉君    中山 成彬君

      西川 京子君    馳   浩君

      鳩山 邦夫君    松浪健四郎君

      森  喜朗君  やまぎわ大志郎君

      若宮 健嗣君    北神 圭朗君

      田中眞紀子君    高井 美穂君

      土肥 隆一君    西村智奈美君

      野田 佳彦君    古本伸一郎君

      松本 大輔君    三日月大造君

      坂口  力君    石井 郁子君

      塩川 鉄也君    阿部 知子君

      保坂 展人君    糸川 正晃君

      保利 耕輔君

    …………………………………

   議員           高井 美穂君

   議員           藤村  修君

   参考人

   (教育再生会議座長代理)

   (株式会社資生堂相談役) 池田 守男君

   参考人

   (品川区教育委員会教育長)            若月 秀夫君

   参考人

   (教育評論家)

   (法政大学キャリアデザイン学部教授)       尾木 直樹君

   参考人

   (国際基督教大学教授)  藤田 英典君

   衆議院調査局教育基本法に関する特別調査室長    清野 裕三君

    ―――――――――――――

委員の異動

十一月九日

 辞任         補欠選任

  佐藤 剛男君     田野瀬良太郎君

  若宮 健嗣君     小坂 憲次君

  土肥 隆一君     三日月大造君

  横山 北斗君     高井 美穂君

  石井 郁子君     塩川 鉄也君

  保坂 展人君     阿部 知子君

同日

 辞任         補欠選任

  田野瀬良太郎君    冨岡  勉君

  高井 美穂君     横山 北斗君

  三日月大造君     土肥 隆一君

  塩川 鉄也君     石井 郁子君

  阿部 知子君     保坂 展人君

同日

 辞任         補欠選任

  冨岡  勉君     佐藤 剛男君

    ―――――――――――――

十一月九日

 教育基本法の改悪に反対し、教育基本法を生かすことに関する請願(石井郁子君紹介)(第三七二号)

 同(吉井英勝君紹介)(第三七三号)

 教育基本法改正法案を廃案にし憲法九条を守り、教育基本法を生かすことに関する請願(赤嶺政賢君紹介)(第四〇四号)

 同(石井郁子君紹介)(第四〇五号)

 同(笠井亮君紹介)(第四〇六号)

 同(穀田恵二君紹介)(第四〇七号)

 同(佐々木憲昭君紹介)(第四〇八号)

 同(志位和夫君紹介)(第四〇九号)

 同(塩川鉄也君紹介)(第四一〇号)

 同(高橋千鶴子君紹介)(第四一一号)

 同(吉井英勝君紹介)(第四一二号)

 同(佐々木憲昭君紹介)(第四五二号)

 同(志位和夫君紹介)(第四五三号)

は本委員会に付託された。

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 教育基本法案(内閣提出、第百六十四回国会閣法第八九号)

 日本国教育基本法案(鳩山由紀夫君外六名提出、第百六十四回国会衆法第二八号)

 派遣委員からの報告聴取


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     ――――◇―――――

森山委員長 これより会議を開きます。

 第百六十四回国会、内閣提出、教育基本法案及び第百六十四回国会、鳩山由紀夫君外六名提出、日本国教育基本法案の両案を一括して議題といたします。

 本日は、両案審査のため、参考人として、教育再生会議座長代理・株式会社資生堂相談役池田守男君、品川区教育委員会教育長若月秀夫君、教育評論家・法政大学キャリアデザイン学部教授尾木直樹君、国際基督教大学教授藤田英典君、以上四名の方々に御出席をいただいております。

 この際、参考人各位に一言ごあいさつ申し上げます。

 本日は、御多用のところ本委員会に御出席をいただき、まことにありがとうございます。参考人各位におかれましては、それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただきたいと存じます。

 次に、議事の順序について申し上げます。

 まず、参考人各位からお一人十五分以内で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑に対してお答えいただきたいと存じます。

 なお、御発言の際はその都度委員長の許可を得て御発言くださいますようお願いいたします。また、参考人から委員に対して質疑をすることはできないことになっておりますので、あらかじめ御了承願います。

 それでは、まず池田参考人にお願いいたします。

池田参考人 御指名をいただきました池田でございます。

 衆議院教育基本法に関する特別委員会の参考人としてこのような機会をちょうだいいたしましたことを感謝いたしているわけでございます。委員の皆様方には、教育基本法という教育の根本を定める重要な法案につきまして日々精力的に御審議をいただいておりますこと、深く敬意を表しているところでございます。

 本日は、企業人としまして、また教育再生会議の座長代理といたしまして、そのような立場で教育基本法の改正につきまして所見を述べさせていただきたいというふうに思います。

 現在の教育基本法は、これまでの時代にありまして、基本的に大変すぐれた内容を有していたというふうに考えております。我が国が戦後復興を遂げ、豊かな社会を築き、国際的にも一定の地位を確立するに至るプロセスにおいて教育が果たした役割は非常に大きいものがあります。その根本理念として、教育基本法の意義は十分に評価しなければならないというふうに思うものであります。

 しかしながら一方で、教育基本法が制定されて以来今日までの間に社会は大きく変化をいたしております。技術革新に伴い、教育基本法の制定時には想像もできなかったような社会状況が次々と現実のものになってきております。また、国際化もさらに進んでいるわけでございます。

 その中にありまして、私どもの人間関係も大きく変化をいたしてきております。個々人の問題、家族の問題、地域、企業等におきます人間関係も大きく変わってきているわけでございます。また、物質的な豊かさの達成の一方で、私ども日本人の美徳といったものが残念ながら失われてきているのではないかというふうに思わざるを得ないのでございます。日本人の精神性といったものが失われてきているのではないかというふうに感じさせられるわけでございます。

 このような社会の変化については、だれもがひとしく感じていることではないかというふうに思います。そして、これからの社会を心豊かに、よりよく生きるためには大きな改革が必要ではないかということも、ひとしく感じていることではないかというふうに思うわけでございます。

 社会は、当然のことながら人によって成り立っております。人づくりこそが国づくりであり、社会づくりの基本であります。その中核を担っておりますのが教育であります。教育の改革、再生こそが今日の喫緊の課題ではないかというふうに思うわけでございます。

 その意味で、教育の根本理念を定めておりますところの教育基本法の改正は、今日の社会にありまして、まことに当然なことであり必要なことではないかというふうに考えております。

 それでは、この教育基本法改正につきまして、お許しをいただき、私見を述べさせていただきたいというふうに思います。

 まず、現在の社会状況に照らしまして特に今後重視しなければならないものは、公の精神、公共の精神ではないかというふうに思うのでございます。

 私ども人間は、決して一人では生きることはできないわけでございます。だれもが、周りの多くの人々から、あるいは社会全体からの恩恵の中で生きているわけでございます。そのことは、言葉をかえれば、人も、多くの人々によって、または自然の恩恵の中で私どもは生かされているということではないかというふうにも思うのでございます。

 こうした事実を認識するということが、先ほど申しました公共の精神につながるものではないかというふうに思うのでございます。また、このことが他者に対する優しさとか協調の精神の根本になり、人に優しい、温かみのある社会をつくり上げる基本になるのではないかというふうにも思うのでございます。

 さらに申し上げますと、このことは、教育のみならず、企業の経済活動にも当てはまるのではないかというふうに思うのでございます。企業も社会の中で生かされている存在であるというふうに思います。そうであるならば、市場経済のもとで売上利益を追求するのみではなくて、公共のために尽くすと申しますか、社会貢献活動がますます重要になってきているのではないかというふうに思います。

 公共の精神は、社会に生きる人間としての出発点と言えるのではないかというふうにも思います。政府の教育基本法では、こうした精神を教育の根本理念の一つとして位置づけられており、この公共の精神そのものを高く称揚していただいているということは、非常に意義あることではないかというふうにも思っております。

 また、政府案にありまして伝統と文化の尊重が織り込まれておりますことは、大変心強い限りでございます。自国の伝統、文化を理解し尊重するということは、これからの国際社会におきましてますます重要なことではないかというふうに思うのであります。

 また、郷里を愛し祖国を愛するということは、人間としまして当然のことではないかというふうに思います。自分の郷里や国を愛するということは、そういう精神は、必ずや他国の存在をも理解するということに私はつながるものではないかというふうに思うものでございます。他者を同じ人間といたしまして、他国を同じ国としまして理解するということは、それぞれ同じ次元の問題として大切なことではないかというふうにも感じるものでございます。

 さらにつけ加えさせていただきますれば、今後の教育において特に重要と考えます一つに、家庭教育や、学校、家庭、地域社会の連携があるのではないかというふうに思います。今日、残念ながら、家族や地域社会を初めとするコミュニティーにおける関係がますます希薄化しているということを感じざるを得ないわけでございます。

 特に、そのことは若年層に強くあらわれている傾向ではないかというふうに思います。そうしたことが今日のさまざまな社会問題にもつながっているのではないかというふうに憂慮をするものでございます。

 それらのことを考えますと、今回、政府案におきまして、家庭教育について明記され、また、学校、家庭及び地域住民の相互の連携強化が新たに盛り込まれておりますことは非常に評価できることではないかというふうに思っております。

 学校と家庭、地域の強い連携の中でこそ子供たちは、社会に息づくところの知恵や見識を得、また、一般常識やマナー、教養などを身につけることができるのではないかというふうに思うものでございます。また、そのことによりまして、日本人固有の他者への思いやり、優しさ、そういったものが深まってくるのではないかというふうに思いますし、他者をおもんぱかる想像力といったものもそういったコミュニティーの中で養われるものではないかというふうに思うものでございます。

 このように、今回の改正案を貫く理念は、私の教育への思いと多くのところで重なっているわけでございます。大変意を強くさせていただいているわけでございます。

 それでは最後になりますが、お許しをいただきまして、若干、企業社会のことについて触れさせていただきたいというふうに思います。

 社会にありまして働くということは、人間存在の根幹にかかわる重要なことではないかというふうに思います。これまでこの働くということが、余りにも企業中心であり、企業サイドに偏り過ぎていたのではないかというふうに、私も企業経営者の一人として強く反省をいたしているところでございます。

 企業人として働きながら、同時に家庭を大切にし、父親としまして、また母親としまして、地域の一員として生きる点において十分であったかどうかというふうに自問自答いたしますと、必ずしも、個々人においても企業組織においてもそうではなかったというふうに言わざるを得ないのでございます。

 現在、我が国が直面いたしておりますところの今日の少子化問題も、私は、このようなことに対しましての警鐘ではないかというふうに思うものでございます。そのことにつきましては、私自身も経営者の一人といたしまして深く考えさせられているわけでございます。

 この少子化問題は、将来の労働力不足というよりも、人間本来のあるべき姿として、働き方の問題として考えるべきではないかというふうに思うものでございます。それはワーク・ライフ・バランスに取り組むことではないかというふうにも思うものでございます。働くことも、家庭も、地域も大切にする生き方へと働き方を見直すことが、子供たちへの教育にも積極的にかかわっていく、そういう社会、そういう大人をつくることにつながるのではないかというふうに思うわけでございます。

 あわせて、企業そのものも、もっと積極的に教育にかかわっていくような仕組みにもそういう意識によって落とし込めるのではないかというふうに思っております。企業の社会貢献活動、私は、これからの時代、教育というものが社会貢献活動の中心にあってもいいのではないかというふうに感じさせられております。

 以上、教育基本法の改正に関しましての所見を申し上げさせていただきました。

 教育再生会議におきましても、現在、教育のさまざまな課題について検討を始めさせていただいているところでございます。こうした私どもの議論のベースになりますものは、教育基本法案にも掲げられた理念であるというふうに思うものでございます。

 日本の将来を担う若者の夢と希望、それに基づく志をはぐくむ教育を実現するための第一歩といたしまして、この教育基本法の早期成立を切にお願いするものでございます。

 私からは以上でございます。御清聴ありがとうございました。(拍手)

森山委員長 ありがとうございました。

 次に、若月参考人にお願いいたします。

若月参考人 ただいま御紹介いただきました、東京品川区の教育長の若月でございます。

 きょうは、この教育基本法特別委員会、お話をさせていただく機会をお与えいただきましたことをまずもって御礼を申し上げたいと思います。

 大変限られた時間でございます。若干早口になってお聞き取りにくいところがあろうかと思いますが、ひとつ御容赦をいただければと、かように思う次第でもございます。

 私は、もともと小学校の教員をやっておりました。現場の人間でありました。その後、地方教育委員会で今は教育行政に携わり、常に現場との関係を密接に保ちながら仕事をしている者でございます。したがいまして、私がこれから申し上げますことは、若干話の中身は細かいことになるのかもしれません。その辺をひとつ御容赦いただきましてお聞き取りをいただきたいと思います。

 そして、基本的には、今回提案されておりますこの政府案を支持する立場で私は御意見を申し述べさせていただきたい、かように思っている次第でもございます。

 まず、もう申し上げるまでもございませんけれども、この教育基本法前文そして第一条、今までの教育基本法で培われてきましたすばらしい理念といったようなものをきちんと今回も継続をしております。その上で、今具体的に子供たちの上に発生をしているさまざまな問題や課題、そして新たな課題、そうしたようなものを視野におさめた新しいこの案、これは大変今の時代に合っている、そういう考えを持っているところでもございます。

 特に、第一条に続きまして第二条に、教育の方針から教育の目標という項を設けてございます。実は、現場のサイドから言わせていただきますと、非常にこれは大事なことを指摘していただいた、かように思うわけであります。

 実は、戦後我が国の、特に学校教育をめぐって克服すべき問題は多々ありますが、いろいろありますが、その中の一つに、わかりやすく具体的に申し上げますと、素朴な児童生徒中心主義の克服というのが私はあると思います。ほかにも課題はいっぱいありますよ。いっぱいありますが、これも一つの大きな課題だと思います。

 この児童生徒中心主義というものが、現場の教員をどれぐらいある意味では自信を失わせるといいますか、教育や指導に腰を引かせてしまうかというような現実が多々ありました。いっとき、指導よりも支援なんだ、子供の主体性を重視するんだといったことから、強い指導をしたり、時には強制をしたり管理をしたりすることがあたかも悪いことのような、間違った教育観が戦後はびこったことは事実であろう、私はこう思います。

 そういった意味からも、この教育基本法の案の目標といったものの中で、個人の成長とともに、公、いわゆる社会の形成者としての資質といったようなものをやはり一つの理念として挙げてくださっています。

 それで、こういったようなものを実現していく場合には、教育基本法そのもので指導するわけではございませんけれども、これから派生してきます教育振興基本計画であるとか、それに基づく学習指導要領であるとか、あるいは学校教育法、地方教育行政法、さまざまなものに影響をしていくわけでありまして、その中で、教師がもう一度しっかりとした教育をしていく上での教師としての信念、今まで足りなかった部分をきちんと補っていこうとするそうした一つの根拠、こういったようなものを第二条の中の目標に明記されているということは非常に意義のあることである。まさに、戦後日本教育の足らざる部分をきちんと明記されたという点で私は高く評価をさせていただきたい、かように思っているところでございます。

 さて、すべてを申し上げるわけにはいきませんので、大まかに、学校教育に関する部分、家庭教育に関する部分、教育行政に関する部分、そして最後に、十七条の基本計画に関する部分だけについての私の私見を申し上げたいと思いますが、まず、学校教育における案でございます。

 第六条第二項でありますけれども、ここに「教育を受ける者の心身の発達に応じて、体系的な教育が組織的に行われなければならない。」ということがはっきりと明示をされております。

 実は、学校というところは、ほかのいろいろな社会的組織は皆、法、理、情というのが一般的な物の考え方だろうと思います。しかし、とかく学校というところは、とかくです、すべてとは言いませんが、それが逆転しまして、情、理、法といったようなもので動く傾向の強い組織体でもありました。そうした組織体が、例えば今問題になっているいじめであるとか不登校であるとかといったようなさまざまな問題に対する対応、こういった点において、適切で、国民の信頼を得られるような対応が十分にしてこられたかというと、必ずしもそうではないだろうという部分は認めざるを得ません。

 ここで一番大事なことは、学校といえども、やはり一つの体系的な意思決定機関である、そしてそれは、組織を通したそういった性格のものなんだといったようなことを、学校の、そして多くの国民の方々に新たにお知らせをする、国としてはっきりとそこを明示するということは、これまた非常に大事なことであろう。特に、学校経営の責任を持ちます管理職である校長、教頭、そういった職責にある者にとって、体系的、組織的な意思決定をしていくんだよ、運営をしていくんだよ、この指摘といったものは、ある意味で大変に心強いものであろうと思います。

 もちろん、物事は、民主的に、話し合いを基本として進めていくことは当然であります。そうしたものを基調に置いて、なおかつ、体系的、組織的に、最終的には組織としての意思決定を校長がきちんとできる、そういった環境整備をこの第六条二項において明示されているということ、これは、現場に近い人間、現場の人間にとってこれほど心強いものはないだろうと。ここもまた、従来、一生懸命学校もやってきましたけれども、ややここら辺が必ずしも十分ではなかった部分をきちんと補っていただいている、かように思うところでもございます。

 また、続いて、「学校生活を営む上で必要な規律」といったような文言も新たに案の中に御提案をしていただいております。これも、規律というと、すぐに、管理であるとか、強制であるとか、子供の自発性を抑えつけるものといった一方的な考え方が比較的学校にははびこっておりました。もちろん、学校は子供のためにあります。そして、子供中心であること、子供のためであることは言うまでもないことでありますが、しかし、余りにも子供の自主性とか自発性とか自立性とかといったようなものを尊重し過ぎる余り、本来学校が、教師がやるべき適切な指導といったようなものがどれぐらい行われてきただろうかということは、私たちは謙虚に反省すべきだろうと、かように思うわけであります。

 何も子供たちの自主性や主体性を否定するわけではありません。しかし、やはり指導するべきものはきちんとしましょう、それがこの「学校生活を営む上で必要な規律」といったような表現で明記をされている。これはやはり、どこまでやっていいのかなと迷っている教師、学校現場あるいは教育委員会に対して一つの大きな指針をここで示してくださっているものと考えております。

 次に、新設されました家庭教育でございます。

 この家庭教育の件につきましても、こういった根本法で家庭教育のことまで規定するのはどうだろうというようないろいろな御意見もあるようでございます。しかし、地方教育委員会が今直面している問題は、もちろん、目の前にある私たちの管轄下の学校をどうするかと同時に、学校だけではどうにもできない問題がある。学校にはやはりできることとできないことがあります。それが今、学校、学校というようなことで学校にすべてが押し寄せてきている。しかし、教育というものを今回のこの法案の案のように広くとらえていただき、それぞれ子供の教育を考えるときには、学校、家庭、地域、そして、何よりもまず家庭といったようなものが第一義的なその使命を持つんだよということを改めて社会に対してメッセージとして送るということは、非常に意味のあることだろうと考えているものでもございます。

 さらに、政府案では、その役割と責任といったようなことをきちんとお伝えいただいている。それぞれのパートで責任を果たしていく、これがまさに、戦後の日本の広く教育界を振り返ってみたときに、やはり私たちはここで考え直さなければいけない点であろう、かようにも思っているところでございます。

 続きまして、教育行政についてでございます。

 教育行政の初めの項でありますけれども、ここに「不当な支配に服することなく、」という文言をきちんと残されていることは大変高く評価をするものでございます。これはもう今さら申し上げることもないわけでありますけれども、この「不当な支配に服することなく、」という現行の第十条の解釈といったようなものがかなり誤解をされている部分が、かつて、戦後の学校教育の中でも間違いなくありました。

 したがいまして、今回の案におきましては、「不当な支配に服することなく、」ということを受けて、この法律や他の法律に定めるところによって行われるもの、すなわち、国会において制定される法律に基づく教育であるとか、あるいは法律の定めによって行われる教育委員会の命令や指導といったようなもの、これは不当な支配ではないんだよということをきちんとここで明記されています。これはやはり、地方教育委員会がこれから公正中立な教育行政を進めていく上でなくてはならない重要な部分である、このようにも考えるものでございます。

 また、同じく十六条の第三項において、地方公共団体、私どもの点についてもきちんと触れられております。地方公共団体は、その地域における教育の振興を図るために、その実情に応じた教育に関する施策を策定しなきゃだめだ、そして実施をすることが大事なんだと。これはまさに、今の地方分権といったようなものの流れ、そして、それぞれの地域地域に合った生き生きとした教育をこれから進めていく必要があるんだといったようなメッセージとして大変意味のあるものである、かように考えているところでもございます。

 こうした国からの一つのメッセージといったようなものがそれぞれの地方教育委員会の活性化につながってくる大事な部分であろう、かようにも考えるところでございます。

 最後でございますけれども、十七条の振興基本計画でございます。これは新設をされたものでございます。

 教育行政のみならず、ほかの行政もそうでありますけれども、個々の行政を進めていく場合、やはり、安定的かつ継続的な財源確保といったようなものは当然必要不可欠であります。特に教育におきましては、安定的そして継続的な財源確保は、これは必要不可欠でございます。

 そうした意味からも、この新たな教育基本法案、これを一刻も早く成立をさせていただき、基本計画といったようなものに移っていただかない限り、地方教育委員会といたしましても、この次に打つ教育施策といったようなものがなかなか打ち出せないでいるのが実は現状でございます。

 先ほど申し上げましたように、この根本法から振興基本計画が出、その基本計画から具体論になっていく学習指導要領であるとか、学校教育法であるとか、地教行法であるとかといったようなものに影響を与えていくものでございます。それによって我々地教委の人間は、この新たな教育基本法が示す理念を実現していこうと考えているわけであります。

 そうした意味からも、平成十二年の教育改革国民会議から提言をされて六年経過をしております。やはり、この教育基本法を早くお通しいただければ私たち地方教育委員会の人間としても大変ありがたい、かように思うところでございます。

 私見を申し述べさせていただきました。失礼をいたしました。(拍手)

森山委員長 ありがとうございました。

 次に、尾木参考人にお願いいたします。

尾木参考人 ただいま御紹介にあずかりました、教育評論家で法政大学教員の尾木直樹です。よろしくお願いします。

 最初に簡単に自己紹介させていただきますと、私は、現在は法政で教授職についていますけれども、その前二十二年間は中学校、高校の教師をやっていまして、現場のことはある意味で熟知しているつもりです。その後、いろいろな評論家にもなりまして、全国二千カ所以上にわたって駆けずり回って歩いております。北海道から沖縄まで、すべての県に伺っているんですけれども、きょうはそういう立場から、ぜひ、現場の子供たちや親御さんあるいは先生方の声をお伝えするのが僕の仕事かな、そして、これまでの先生方の御議論に何か役に立てばというようなスタンスで参りました。

 僕の専門は、臨床教育学といいまして、いじめ問題、学級崩壊、校内暴力とかあるいは引きこもり、ニート問題、こういうところが専門です。大学ではキャリア教育の方も携わっていますけれども、そういうところからきょうはぜひお話をしていきたいと思います。

 この間、けさもニュースになっていましたけれども、高校の履修漏れの問題、これが大きく報道されています。僕はこれは重大な問題だというふうに思っています。既に二人の校長先生が責任を感じて命をなくされるという事態にも陥っています。

 けさの報道によりますと、履修漏れ自体、今回初めてわかったことではなくて、既に四年前に文科省の調査で報告が行っている。医学部や歯学部の学生においては二〇%―三〇%にもわたって世界史を履修していなかったとか、文学部でも一〇%もあるとかいうことが言われていますし、それから、東京都はこの間の調査で電話で私学に対して確認をしていたとか、本当にずさんな行政の問題というのが僕は非常にクローズアップされているんじゃないかというふうに思います。

 そのことが実はどういう問題に発展しているのかということなんですが、子供たちだとかあるいは学生に物すごく痛手になっているんですね。私の大学生を通して調査しました。そうしたら、まだまだ新聞では報道されていない学校が潜っています。だから、正確にデータをとったら、驚くような事態になりかねないというふうに思っています。

 その中で、学生たちは、自分の学校が正直に言っていないという苦しみを持っているわけです。それから、先生、私は法政大学の許可を取り消されるんでしょうかと、二年生、三年生も涙ぐんで言います。つまり、ああ、ラッキー、得したねというふうに言うかなと思ったら、違うんですね。やはり非常に学生や子供たちというのは誠実で、自分は何かずるをしたんじゃないかと、それは子供たちの責任では全くないわけですけれども、非常に後ろめたい気持ちになっている。

 これでいいんだろうかと思いました。僕は、もっと、ああ、得したと思ってくれた方がありがたいと思ったんですけれども、みんな傷ついているわけですね。そして、受験を控える今回発覚した学校はこれから補習に入るという、大変また衝撃的な出来事になったわけです。

 この問題というのは一体だれの責任かといったら、子供たちに責任ないんですね。そういう点で、教育基本法の問題も、もう本当にしっかり現場に根差して考えていただければというふうに思います。

 そういう中で、例えば現場の校長先生なんかはどういうふうにお考えかということなんですが、ことしの七月、八月に、東京大学の基礎学力研究開発センターというところが全国一万の小中の先生方にアンケート調査をしました。その結果が新聞発表、九月三日付に載っていますけれども、それによりますと、例えば、この教育基本法の改正案の問題に対してですけれども、「教育基本法改正案に賛成」かという設問に対して、「そう思わない」と答えた校長が五二・二%もおられます。もっと強く、「全くそう思わない」という方が一三・九%。トータルすると六六・一%にも及ぶ。現場の校長たちがこうだということは、僕は深刻な問題だろうと思うんですね。一方、政府の改正案に対して強く賛成だという方はわずか一・三%です。それから、もうちょっと緩やかに、「そう思う」という方は三二・六%しかおられません。これは、理解が行き渡っていないとか、いろいろな考えはあると思いますけれども、この事実はきっちり受けとめなきゃならないだろう。

 僕は、評論家の立場で全国を駆けめぐって、メディアの方ともおつき合いとかいろいろあるわけですけれども、この委員会で議論をしてくださってから、どんどんこの改正案やいろいろな案が読まれています。それで驚くことは何かといいますと、本当に失礼になったら困っちゃうんですけれども、反対という声が、急速に風が吹いてきているんですね。これは一体何だろう。今まで知らなかったけれども、改正案を読んでみたら、あら、これは心配だ。反対というより心配という声が圧倒的に多いですね。そこら辺はぜひよく考えていただいて、丁寧な議論をしていただきたいというのが僕の今の立場なんです。

 例えば、そのときに同時に聞かれていることで、教育改革が早過ぎて現場がついていけないという方が八五%もおられます。これは、僕も現場で長かったからわかりますけれども、本当に矢継ぎ早の改革です。それから、教育問題が政治化され過ぎているんじゃないかという方も六六%もおられて、現場の校長さんたちとかなり乖離が出てきているという問題はしっかり訴えたいというふうに思います。

 では、具体的に、僕は臨床家ですので、いじめ問題を例にとってちょっと考えてみたいと思うんです。

 きょうのレジュメは、いじめ問題に特化してつくってあります。レジュメ二枚と資料、B4判の大きなものがあると思いますけれども、これは時間がなくて全部御説明できませんので、時間があればお読みくださればありがたいと思います。

 いじめ問題なんですけれども、例えば、この間、十一月六日に、文科省の大臣あてに、いじめ自殺予告というのがありました。この問題に関してどんなことが言えるんだろうかということで、レジュメの一番のところ、「行為の意味するもの」というので、僕が深刻だなと思ったのは、学校と教師、行政、大人への不信の表明と、今、教育行政が機能不全の状況に陥ってきた、大人全体も信頼されなくなってきたということの証明であって、これはある意味では国家的な危機だろうというふうに思います。

 大臣のところにしか訴えることができない。これまでの私の現場感覚ですと、市長さんだとか町長だとか、せいぜい行っても知事さんどまりだったんですけれども、飛び越して大臣に直訴しなければならないような感覚に陥っているとしたら、これはどうしたことだろうというふうに思います。

 そういう中で文科省のとられた機敏な対応、深夜の十二時十五分からの記者会見、局長がされましたけれども、あれは、僕はめったに文科省を褒めることはないんですけれども、本当に二百点を上げてもいいぐらいの動きだったというふうに僕は思います。非常に助けられました。

 それはなぜかといいますと、いじめられっ子全体への励ましになったんだ。あれはだれかということが特定できなくても、そんなことは僕はどうでもいい問題だと思います。あの子供と同じような心境になっている子供が千、二千人といるわけですね。そういう子たちが、ああ、文科省が動いてくれた、大人が動いてくれた、通じるんだ、そういうメッセージを、本気を示したというのは、僕は極めてすぐれていたというふうに思います。大人への信頼を回復できる契機になればというふうに思います。

 それから、もう一つ僕が願っていることは、地方の教育行政がこの間さまざま問題だというのは皆さん意見が一致しているところのように思いますけれども、そこに対する、目覚まし効果というふうにネーミングしたらいいんでしょうか、目を覚ませ、教育行政の役割は何か、文部科学省ですらああいう動きをとったでしょう、もっとしっかり子供の声を受けとめて動いてくれという目覚まし効果、あるいはモデリング効果といいますか、一つの模範になったんじゃないかなということで、すごく意味は大きい。子供の声は真っ正面から受けとめろということだろうと僕は思うんですね。

 それから、七通の遺書が示しているもの。七通それぞれ読んでいきますと、悲しい事態、極めてリアルに今のいじめの深刻さというのがわかります。その中で大臣に書いているのは、いじめ自殺証明書と書かれているわけですね。いじめと因果関係があって僕は自殺するんだよというのを証明書を書いてしなければならないような事態というのは、子供の本当にぎりぎりの叫びも受けとめることができない事態に今教育界が陥っているということだろうと思います。深刻だと思っています。

 今ここで緊急に求められるものは何かということをいじめ問題についてちょっとそこに整理しましたけれども、一つは、身近に助っ人がいるんだよというメッセージをまずきっちりと流すことだろう。それから、実は、いじめ問題に対する私たち国民全体の力量が非常に落ちてきたなと思うのは、今は、いじめで死ぬなというメッセージなんですね。僕もテレビに出ていて、先生どう思いますかと言われるんですが、違いますよ、いじめの加害者にいじめをやめろと言います。すぐにやめなさいというメッセージを出さなきゃいけないんです。いじめで死んじゃいかぬよ、お父さんが心配しますよというメッセージじゃないんです。いじめをやっている子にやめろと。

 かつて、六年か七年前には、サッカーの選手が、「いじめ、恥ずかしいぜ」というポスターがあったと思うんです、「いじめ、やめようぜ」とか。こうなんですよ。加害者側、人権を侵害している側がやめなければならないのに、死んだらお母さんが悲しむよというメッセージを出したって、それは、自分は死ぬことすら罪なんだということをしょいながら死なせていくことになってしまうので、全然違う。やめたら被害者は救済されます、即日。ですから、加害者を許さないという毅然たる姿勢が私たちにまず必要だろうというふうに思います。

 それから、加害者指導のところの力量ががたがたに今現場は落ちています。いじめで命をなくした子が出ているところで同じメンバーがまたいじめをしているという報道も一部にありますけれども、もし事実だとすれば憂うべきことです。これはどうしたんだろうと思います。

 そういうことになってきている背景は何があるかといいますと、幾つかあるんですが、一番大きなものは、文科省のいじめの定義が間違っているからなんですね。文科省のいじめの定義というのはどうなっているかといいますと、こういうふうになっています。「自分より弱い者に対して一方的に、」二番目「身体的心理的攻撃を継続的に加え、」三番目「相手が深刻な苦痛を感じているもの」こうなるわけです。一九八五年のときは、それを学校が認定したというかしら認定するよという条件があったのが、九四年のところで外されたのは、僕は大きな前進だと思います。

 ただ、見ていただいてわかるように、弱い者いじめでは全くないんですね。学級委員で、いじめをやめろと言っていたような子、あるいは、だれが見たってふざけだと思っているような明るい子が亡くなっているわけです。むしろ、弱い子は不登校してくれて、命は救えているんですよ。だから、そういう……(発言する者あり)いや、本当にそうなんです。だから、やはりそういう事実をしっかりと見詰めなきゃいけないと思います。強い子、よい子ほど学校に学校に突き進んでしまって、命をなくしています。こういういじめの定義そのものが間違っています、正直言いますと。なかなか修正されませんけれども。

 それで、教育基本法に入ります。

 教育基本法は、そういう点からいくとどういうことが言えるかといいますと、現実的な問題が教育基本法にどういうふうにしてつながってほしいかということで僕は申し上げたいんですけれども、一つは、子供への信頼感に現行の教育基本法は非常に満ちているというふうに思うんですね。前文に書かれていますけれども、「この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。」こういうことが言える大人というのは僕はすごいと思います。次の世代に対する絶対的な信頼感、もちろん、それは私たちの教育の力というのがあるわけですけれども、これは極めてすぐれている。

 それに対して僕が非常に気になっているのは、今は、国民の教育権というか、国民の側を向いた教育権、教育に体系立っているわけですね、法律全体が。それに対して、今回の与党さんの改正案というのを見ますと、これは先ほども委員からありましたけれども、国が物すごくリードをするというので、よい意味でとればそれはそれで成り立つのかわかりませんけれども、今いじめのことも言いましたように、いろいろな問題点、不十分さというのは国だっていっぱい持っているわけです。そこが法律をつくり、そしてそれを今度地方が通達、通達と現場へ流していくわけですね。そのときには極めて硬直した事態になって、これは国家の教育権に質が変わってしまう、今の国民の教育権から国家の教育権になってしまうんじゃないかという危惧を抱きます。もちろん、委員の先生方の善意というのはすごくわかっているつもりですけれども。

 法律に定めるところというのも、解釈によると法に従ってというのでおかしくはないんですけれども、ただ、法律をつくるのはやはり議会でつくっていくわけですから、そこのミスリードなんてないとは限らないわけですね、これまでも歴史的に見たときに。だから、直接国民に責任を負って行われるべきものという現行のこの考えというのは、僕は極めて質が高いと思っています。

 教育条理概念というのがありますけれども、教育というのは、子供の人格の形成、それから子供の発達に責任を負うというところが基本ですけれども、それに責任を負えるのは現場の教師、あくまでも現場サイドなんですね。そこを支援していく教育行政のあり方というのを第十条で明確に書かれていますけれども、これは僕はうんと大事にすべきだろうというふうに思います。

 それから、現場教師の感覚でいいますと、あと一つ気になるところ、幾つも申し上げたいことはあるんですけれども、第六条のところで、学校生活を営む上で必要な規律を、教育を受ける者、つまり生徒は守らなきゃいけないというのを、こんなレベルの高い理念法で書くものだろうかということを思いますね。それは学校の教育目標であっていいわけで、何か、非常に僕は権威を落としてしまうものだろうというふうに思います。

 それから、第二条の教育の目標なんですけれども、この目標が目標になっているんだろうかということです。

 よく見てください。五つ目標を掲げておられます。二十の徳目がありますけれども、「真理を求める態度」です。それから、「勤労を重んずる態度」なんですね。三番目は、「社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度」です。どれも態度、態度というのが非常に僕は現場感覚で気になるんです。

 態度というと、現場の教師は評価項目をすぐつくるんですね、目標を決めたら評価しなきゃいけませんから。そうするとどういうことが行われるかというと、形式的な形を求めていくわけです。規律を守る態度だったらば、遅刻をしないで、いるかということで、心というかしら、人格の形成だとか感性の形成とは離れていくんですよ。何か、現場の悲しいさがかもわかりませんけれども、離れていきます。愛国心の問題もそうです。態度でいいんだろうといったら、本当に国を愛する祖国愛の気持ちなんて、僕は大事だと思いますけれども、それは育っていかない、態度さえとっていればいいのかとなったら。いや、皆さんは変だと思われると思うんですが、現場感覚ではそうなんです。

 そういう点で非常に慎重な審議をしていただきたいというのが私の願いです。

 以上、終わらせていただきます。ありがとうございました。(拍手)

森山委員長 ありがとうございました。

 次に、藤田参考人にお願いいたします。

藤田参考人 御紹介いただきました藤田です。

 本日は、ここで私の意見を申し上げる機会を与えられましたこと、非常に光栄に思いますと同時に、感謝申し上げます。

 時間が限られておりますので、基本的にはお手元にありますレジュメに即してお話し申し上げたいと思いますが、構成は大きく二つに分かれております。前半は、今なぜ教育基本法を変えるのか、また、変える必要があるのか。そして後半では、主として与党・政府の教育基本法案の問題点について私見を申し上げたいと思います。

 まず初めに、私は、教育基本法の見直しあるいは改定をしてはいけないと主張するものではありません。また、公共の精神や道徳心、あるいはまた集団、もちろんこれは国や郷土を含みますが、そういったものへの帰属心、愛着、あるいは誇りといったものが極めて重要だと考えております。

 私の専門は教育社会学でありますけれども、こういった問題については、十九世紀、近代社会が発展するプロセスの中で、絶えずその重要性が指摘されてきたことであります。その点で、私は、この重要性を否定するものではないということを最初に申し上げておきたいと思います。

 では、次に現行教育基本法ですが、これを今変える必要があるのか、どうしても変えなければいけない理由があるのかという点でありますが、私は、その必要性は全くない、何ら現行法で不都合はないと考えております。

 まず、戦後六十年、日本の教育の発展を支えてきた教育の根本法であります。そして、その点で準憲法というふうにも言われております。

 それから、この間、さまざまな形で、場で言われております教育にかかわる諸問題、いじめ自殺、未履修問題、校内暴力、学級崩壊、不登校、少年犯罪、あるいは規範意識の低下、ニート問題、少子化問題、どれを取り上げても、現行の教育基本法のせいで起こっている問題ではありません。根拠は、私の文献を含めて、いろいろなところでいろいろな方が論じているところであります。さらには、教育基本法を変えても、そして与党・政府案が仮に成立したとしても、これらの問題が解決されるわけではない、そう言ってまず間違いないと私は考えております。

 さらに、そういったさまざまな問題に対する対応、また、変わる時代や社会への対応、そしてそのための改革というものも、現行教育基本法がそれを妨げているわけではありません。それは、そこにも書いておきましたように、この五年間あるいはこの十五年間ほど、実にさまざまな、ラジカルな重要な改革が進められてきております。そのすべてが現行基本法のもとで進められているわけでありますから、基本法を変えなくても、必要であるならば、さまざまな法律の改正やあるいは改革というものができるということでありますから、そこのところをまず考えるべきだというふうに思います。

 三点目に、現行基本法の基本的な性格と卓越性でありますが、現行法は、教育の基本理念と学校教育の基本的枠組み、そして教育行政の責務、義務を規定したものであります。

 これは今さら言うまでもないことでありますが、教育は極めて重要であり、国民的な大事業でありますけれども、しかし、公の権力がかかわって、教育行政あるいは政治がかかわってその内容を定め、人格の形成を行うものでありますから、そこに特定の、さまざまな政治的な意向や社会的な偏った意見が反映し、それを公の権力の名のもとに強制するということがあってはいけない。だからこそ、それに対する歯どめ規定をかけているのが現行教育基本法であります。その点が極めて重要でありますが、その点について、改正の法案というのはさまざまな問題を含んでおります。後で申し上げます。

 この点は、現行教育基本法、そこにも書きました、そういう意味で立憲主義的な性格を持っているものであり、憲法第九十九条の憲法尊重擁護義務に則した内容あるいは規定の仕方になっております。

 四点目に、教育基本法は多くの国民にとって空気のような存在であったと言っていいだろうと思いますが、それは、現行教育基本法が十分な酸素を含んでおり、そしてまた特に汚染されてはいなかったから、だからこそこの六十年間、日本の教育と社会の発展を支える根本法になってきたのだというふうに私は考えております。

 しかし、もし、これに汚染源が注入され、汚染されるようなことになるならば、あるいはまた酸素不足になるようなことがあるならば、日本の教育の現場は、豊かさとおおらかさと自由を失い、さまざまな問題をさらに加速させることにもなりかねないと思います。そしてまた、酸素不足や汚染というのは、それが起こって初めて気づくものであります。そして、それに気づいたときに、教育基本法はそうそう簡単に変えられるものではありませんから、それだけに、この問題は極めて重要だというふうに思います。

 そのようなわけで、私は、拙速に無責任な決定をしないようにしていただきたいと切にお願い申し上げます。国民の優に過半数は拙速な決定をすべきではないというふうに、各種の世論調査でも示されております。

 そしてまた、改定をめぐる争点あるいは問題点というものが国民に必ずしも十分に理解されているようには私には思えません。さらには、この基本法案がはらんでいる問題、そして、特にそれが成立し施行された場合にどういう問題が具体的に起こってくるかの検討を含めてきちっと検討がされているようには今のところ私には見えないんですが、これからぜひ、そういったことも含めて検討していただければと思います。

 次に、政府・与党の教育基本法案の問題点を検討したいと思います。

 なお、民主党も新法要綱を出しておりますが、以下に挙げます問題点の多くは、民主党の新法要綱の方は徳目等については政府案以上に書いてはおりますが、以下の諸点の特に一番目、二番目、三番目それぞれについて、法的にはかなり配慮がなされているというふうに私は考えております。

 一応そういったことを申し上げて、政府・与党案を中心に考えてみたいと思います。

 まず第一の問題点として、教育目標としての徳目、態度が列挙されており、それは国民に対する命令規範という性格のものになっている、そのことの危険性であります。公共の精神、前文あるいは第二条。伝統の強調。そして、特に法案第二条、教育の目標のところでありますが、第五項、我が国と郷土を愛する態度。第四項、生命をたっとび、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度。第三項、社会の発展に寄与する態度。第二項、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度。第一項、真理を求める態度というふうになっております。

 先ほども言及されましたけれども、もしかしたら、心を律するよりも態度を律することの方が、教育現場においては一律の統制になりかねない危険性があると言ってもいいかもしれません。そういう指摘もなされているところであります。

 それから、法文として「職業及び生活との関連を重視し、」という部分がありますが、これは、子供がこれを重視するのか、それとも、教師、学校あるいは教育関係者がこれを重視するのか。

 これは、その他の項目はすべて子供がはぐくむべき態度について書いてありますから、こういう関連を例えば小中学校の子供たちが重視してというふうにするとするならば、この文言自体が本当に妥当なものかということになりますし、逆に教師等がこれを重視すべきだということでありますならば、この法文自体が、だれを主語にし、だれを名あて人にしているかという点でも混乱を来しているようにも見受けられます。

 それから、法案の第六条、必要な規律を重んじるということが学校教育に盛り込まれています。

 こういったことを総合して、現行法は権力を制限する拘束規範になっているわけでありますけれども、それに対して法案の方は、国民にこのような人間になれという命令をする、そういう性質のものになっていると言っていいと思います。そのことは、そこに書いてあるとおりです。

 次に、二点目といたしまして、政治、行政による不当な支配の危険性であります。

 このことは、つとに指摘されておりますけれども、現行法の第十条「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。」ということで、主権在民等の基本的なルールがここに貫徹しているわけでありますけれども、法案の方は、「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」であるというふうになっております。

 つまり、法案やさまざまな法令あるいは政令、条例、通達、そういったものを制定する政治、行政は、この不当な支配の行使主体から外されているということになります。これは大きな転換でありますから、この条文をめぐってこれまで起こってきたさまざまな問題についての解釈が変わってくることにもなる可能性があります。

 そして、これまで、この条文の解釈をめぐって各種の裁判が起こったことも事実でありますが、それは、民主主義社会がそういったことを通じてより望ましいものを実現していくその手続であり、そのプロセスであり、その枠組みだということでありますから、むしろそのことを尊重すべきであって、それを理由に、この内容を明確にして行使したいから政治や行政を外すというのは、私は民主主義のルールから著しく外れるものであるというふうに考えております。

 三点目に、能力主義、市場的競争原理による教育の格差化、差別化とその正当化の危険であります。

 この点につきましては、既に時間がほとんどなくなっておりますので、そこに書いてあるとおりでありますが、能力ということが法案では強調されております。現行法では第三条の教育の機会に二回使われているだけでありますが、法案では、その教育の機会の条項に加えて、教育の目標を規定した第二条と義務教育を規定した第五条にも、能力、能力に応じてという表現が使われております。

 そういった点で、現在進められているさまざまな能力主義的あるいは市場原理主義的な競争、それに基づくそういった方向での改革と照らし合わせて考えるならば、能力が現行法以上に強調されることの中に、そしてもう一方で家庭の責任が強調されることの中に、格差化、差別化を推し進め、その結果については、特に不利な状況、冷遇される状況に追い込まれる子供たちにとっては、その責任は自己責任であり、家庭の責任だということにもなりかねない、そういう構造になっているとも読むことができます。

 最後に、教育は未完のプロジェクトです。

 さまざまな人たちが、教職員を含めてですけれども、支え続けてこそ成功する可能性が開けていくものであります。教育基本法を変えたからといって、あるいは改革を進めたからといって、それで成功するというものではありません。そのためには、必要かつ適切な改革を進めることはもちろん重要でありますが、同時に、条件整備と支援の充実が重要であります。

 最後に、この教育基本法の問題は、日本の知性と英知が試されているんだと思います。政治の良識と責任が今問われているんだと思います。責任ある十分な審議と賢明な判断を期待して、私の発言とさせていただきます。

 どうもありがとうございました。(拍手)

森山委員長 ありがとうございました。

 以上で参考人の方々からの意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

森山委員長 これより参考人に対する質疑を行います。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。町村信孝君。

町村委員 自由民主党の町村でございます。

 きょうは、まず、四人の参考人の皆さん方、御多忙の中御出席をいただいたこと、私ども委員の方からも御礼を申し上げます。四人の先生方には、私も文部大臣当時からいろいろな面で御指導をいただいてまいりましたことも、あわせて御礼を申し上げます。

 時間に限りがございますので、きょうは、主として池田参考人、若月参考人にお伺いをしたい、こう思っております。

 お手元に、大変僣越でございますけれども、資料として教育新生プランというものを配らせてもらいました。これは、教育改革国民会議が小渕内閣のもとででき、それを受けて、ちょうど私が文部大臣のとき、平成十三年一月、やや六年前のことになりますけれども、この教育新生プランというものをつくりました。

 ここで、今いろいろ問題になっておりますこと、未履修の問題があったかどうか、あるいはバウチャーという言葉があったかどうかは別にしまして、ほとんどのテーマといいましょうか、課題がこの中に触れられておりますし、基本的な問題意識については、この基本的な考え方という一ページ目のところに、私、これは自分で書いたのでよく覚えておりますけれども、日本の教育は危機に瀕しているということに始まりまして、公を軽視すること、あるいは行き過ぎた平等主義による教育の画一化等々の問題意識が書いてあり、最後のところに、教育基本法をやはり改正すべきであるということ。これは国民会議の御意見であると同時に、政府としてもこれに取り組もうという決意をこういう形で示してありますので、ひとつ、これは委員の皆様方にも、あらかたの問題がここに触れられているのだ、これをしっかりやっていくと同時に、新しく今度再生会議ができたということであるということを御認識いただければと思います。

 まず、池田参考人にお伺いいたしますが、再生会議というものが、安倍内閣のもとで大きな期待を集めながら出発をしたわけでございます。

 まだ立ち上がったばかりでございますし、これから議論が深められていく段階でございましょうから、再生会議としての意見はどうですかというお伺いをしても、まだそれには時期尚早なんだろうと思いますが、大体どういうスケジュールでこの再生会議が今後活動していこうとしておられるのか。まだこれもコンセンサスがないならないで結構でございますが、あるいは、座長代理としてのお立場でどんなことをアウトラインとして考えておられるのか、お考えがあれば教えていただきたいと思います。

池田参考人 ただいまの御指摘の点でございますけれども、町村先生のお話のとおり、私も、再生会議の委員の一人になりました段階におきまして、これまでの教育改革につきましてのいろいろなものを勉強させていただきました。中でも、今お話しの国民会議で提出されております点につきまして、特に十七項目につきましてよく精査をさせていただいているところでございます。

 それを勉強させていただきますと、今日の問題はほとんどすべてその中に盛り込まれているのではないか。そのことを考えますと、それから六年ほどたっておりますが、やはりなかなか実行に移せないものもあっての今日ではなかろうか。私は、そういうことを考えまして、特にそういった土台に立ちまして再生会議があるのではないかというふうに思っております。

 そして、再生会議も、お話のとおり、立ち上がったところでございまして、全体会議は既に二回開催しておりますが、いよいよ三つの分科会が御承知のように出発をいたしております。その第一、第二分科会、第一分科会は学校の再生でございます。第二分科会は、私が主査をさせていただいておりますけれども、規範意識、あるいは家庭、地域というものとの連携が中心課題でございます。第三分科会は、これは大きい意味での教育再生ということを取り扱うわけでございますので、ちょっと一歩おくれてという形になっておりますが、既に昨日、第一、第二分科会が合同で開催されて、直近の問題等を含めまして、今後のことにつきましても検討させていただいているところでございます。

 そういったことで、大きい問題はそれなりに対応させていただくと同時に、特に直近の問題、いじめの問題あるいは未履修の問題等も再生会議の大きな課題の一つでございまして、その問題につきましても、既にいじめの問題につきましては再生会議としましてメッセージも発信させていただいておりますが、そういう時間軸の中で問題意識もとらえさせていただきまして、取り組ませていただいているところでございます。

 そういったことで、直近の問題につきましては、これは全体の流れの中で来年の一月ぐらいに結論を出して提言させていただくことができないであろうか。それから、次のグループは大体三月ぐらいを一つの目安にさせていただいて、全体としまして大きい問題もいろいろございます、そういった問題につきましてはやはり一年がかりでというようなスケジュールを、これは内々でございますけれども、それぞれの委員が頭に持ちまして取り組ませていただいているというのが現状でございます。

 以上でございます。

町村委員 もう一点、先ほど教育基本法についてのお考えも伺ったところでございますけれども、教育基本法そのものをどうするという議論をこの再生会議でやるお考えがあるのかどうか。

 あるいは、今大変話題になっておりますけれども、教育委員会のあり方については既に、昨日ですか、議論になったやにも聞いておりますが、教育委員会制度そのものを今この法案で、与党案は残す、野党案は廃止するということがうたわれているわけでございますけれども、この点について、再生会議が教育委員会廃止というような姿まで取り上げるお考えがあるのかどうか。これからの議論だと言われれば、それはそういうことかもしれませんが、お考えがあれば教えていただきたいと思います。

池田参考人 再生会議で論議をさせていただいております根本の理念と申しますのは、これはやはり教育基本法でございます。現教育基本法の理念にのっとって議論をさせていただいているわけでございます。それからまた、政府案としまして今日提案されております。そういったことも十分にのっとらせていただきまして、議論を進めさせていただいているわけでございます。

 ですから、あくまでも教育基本法を中心に、再生会議は、それぞれの分野におきまして、それぞれの事象に対しまして対応させていただいているというのが現状でございます。

 それと、もう一点の教育委員会等の問題につきましては、昨日の分科会におきましても問題提起がいろいろな委員から出たわけでございます。

 これにつきましては、いじめの問題から、今日の教育委員会の制度そのものが必ずしも有効に運用されていないのではないかということ、そういうことを考えますと、教育そのものの、教育界全体のガバナンスというものが、企業でもよく企業のガバナンスということを最近申しておりまして、今日の社会状況の中で新しいガバナンスを求めていっているわけでございます。当然、価値観も変わってきておりますので、そういう観点で、私どもも企業活動の中でそういったことを中心に据えて見直しを図っている。教育制度におきましても、やはりガバナンスというものが、教育委員会の機能一つとりましても、必ずしも有効活用されていない、有効運用されていない、そういうことからいろいろ問題が指摘されているのが事実でございます。しかしながら、少なくとも昨日の各委員の発言の中では、廃止というよりも見直しという意見が強かったというふうに私は理解をいたしております。

 それから、先ほど答弁をさせていただきました一点を訂正させていただきますが、第二段階、私は三月と申しましたけれども、五月でございます。訂正をさせていただければというふうに思います。

町村委員 教育委員会については運用の問題である、活性化を図っていくんだ。これは新生プランの中にも実は同じ問題意識が述べられているところでありますので、大いに御議論をいただきたいと思いますが、ガバナンスの問題ということで、制度そのものの廃止という議論は今なかったという御発言がありましたので、そのように理解をいたします。再生会議の今後の十二分の活動というものに、私どもも大変大きな期待を持っているということだけ申し上げさせていただきます。

 次に、若月参考人にお伺いをいたします。

 政府案を大筋評価するんだという御指摘もいただきました。若月さんのおっしゃっていることと藤田さんのおっしゃっていることが大分違いがあるんだなということも、よくわかったわけでございます。

 私は、若月参考人が、教育委員会のいわばモデルとして、大変熱心に、教育をよりよいものにしていきたいということでリーダーシップを発揮しておられる、全国の教育委員会が品川区のようであれば、多分もろもろの問題はほとんど起きなかったのではないかとさえ思っておりまして、若月教育長の御活躍、あるいは品川区教育委員会というものが大変によく頑張っておられることに、私は高い評価を持っているものでございます。

 その中で、特に今、新しい政府案の中で、児童生徒中心主義を克服するんだという冒頭のお話がありました。これはちょっと、わかる人はわかるんですけれども、なかなかわかりづらいところがあります。

 なぜかというと、子供が大切だから子供の言うとおりやればいいじゃないかという単純な、素朴な教育観を述べる人が結構いるんですね。子供と同じ目線で教育をする、だから教壇も取っ払うと。一見、何かもっともらしく聞こえるんですけれども、そこには教師としての誇りも自覚も指導力も感じられないということで、やはり戦後の教育の一つの大きな欠陥が、今、先ほど教育長が言われた児童生徒中心主義の、いい意味の中心主義ならいいんですけれども、まことに誤った中心主義というものがはびこっているというふうに私も思っておりますが、この児童生徒中心主義の克服あるいはその持つ弊害というのは具体的にどういうものなのか、もう少しわかりやすくお話をしていただくと理解が進むのではないかと思います。

若月参考人 児童生徒中心主義の克服ということでございます。

 せんだって、これはある地方都市でございますけれども、ある授業を見ました。そこでは、いじめをどうするかというのが子供たちの議題でありました。本来であれば、教師が指導をする、教師が適切に指導するべきなんですが、そこでは、子供に話し合わせて、子供たちでその解決をさせるんだという授業をやっておりました。

 もちろん、子供たち自身に考えさせる、子供たちにみんなで協力をさせる、これは基本であります。しかし、子供たちに解決をさせるべき問題なんだろうか。授業が終わった後、なぜ、先生、もう少し、この場合、いいものはいい、だめなものはだめなんだということを明確に言わないんだ、こういうことを申し上げました。ここに教師の、今、一つのちゅうちょがあります。

 要するに、子供の主体性とか、子供はもちろんすばらしい、エレン・ケイの二十世紀は児童生徒の世紀だと高らかにうたった本がありますが、あれをそのまま受けて、とにかく子供の言うとおりに、子供の言ったことを第一義にということで、指導とか教育というものがかなり後退した実例がございました。そういった意味で、この具体的な例だけではなく、ほかの学習の面でもそうであります。

 それから、規範意識の面でもそうであります。本来、私たち大人が、文化として、習慣として、日本の伝統として伝えていくべきものまでも、子供たちにすべて考えさせ、子供たちが納得しないんだったならば、それを無理に押しつけることは、これはいかがなものかといったような教育的な風潮というか風土が、戦後の日本の学校教育の中には間違いなくはびこってしまったので、それに対して、むしろ、いら立ちを感じていたり、歯がゆさを感じている教師も最近多々出てきているというのが現状である、こんな認識でございます。

町村委員 それが、まさに戦後六十年の現行教育基本法の中で行われてきた一つのわかりやすい弊害なわけですよね。だから教育基本法を変えなければいけないという議論があるということを、ぜひ藤田参考人にも御理解をいただければありがたいかな、こう思っております。

 それからもう一点、今のお話のとおりで、規律を重んずるというようなことも、要するに、学校規則をつくっちゃいけない、それは子供を縛るからいけないんだというようなことから、今言われたような児童生徒中心主義の弊害というのは、現実に私はあるんだろうと思います。

 それから、家庭教育重視ということについてこの改正法案が触れていることの評価をいただいたこと、これもありがたいことでございます。

 最後に一点だけ、教育行政について、私どもは、確かにいろいろな議論はありますけれども、この教育委員会制度というものに活性化したり改善する余地はありますが、やはり私は、基本的にこれは必要な制度なのではないか、こう思っておりますけれども、教育委員会の現場にあって、教育行政の第一線にあって、民主党案のように、教育委員会を廃止して区長さんあるいは都知事が全部仕切った方がいいのか、あるいは、まず教育委員会が責任を持ってやった方がいいのか。先ほどの委員のお話を聞いていると、教育委員会制度は必要だという御議論のように承りましたが、その点についてのお考えをもう一度教えていただきたいと思います。

若月参考人 結論から申し上げますと、今、町村委員がおっしゃっていただきました教育委員会制度。教育というのは、公正そして中立、そして不偏不党、そして継続性、一貫性といったようなものが求められるものでございます。

 教育委員会制度といったようなものが十分でないからいろいろな問題が起きているのか、あるいは、教育委員会といったようなものに与えられている権能といったらいいでしょうか、権限といったらいいでしょうか、そういったものを全部我々から取り去っていて、もっと活性化しろというのはやや酷な話でもあります。また、首長さんは、もっと権限を、自分たちでやりたいとおっしゃいますけれども、首長さんは十分にもう既に教育委員会に対して私は権限を持っていらっしゃると思います。私の任命すら、首長さんの権限でなければできないことであります。

 したがいまして、教育委員会に活性化しろと言うなら、私たちに活性化するもっと大きないろいろな権能を付与させていただき、その結果を見てから制度そのものの議論をしていただきたい、かように考えているところでございます。

町村委員 そういうことで、ぜひ、池田参考人も一度若月さんを呼んで、こういう権限を区の教育委員会に与えてもらうとこういうことができていいんですよというようなことになるのではないか、こう思いますから、ひとつお考えいただきたいと思います。

 若月さんは、私の大臣当時の呼びかけに応じて、真っ先に学校選択制というものを、品川区に先駆けてやっていただきました。そのための御苦労、あるいはそのために必要な準備等も相当やっておられたということでございますから、過疎の町村で全部できるかというと、それはできっこありません。しかし、できるところは大いにやったらいいと私も思っております。本当はその辺のことも伺いたかったのでありますけれども、時間の制約がありますので以上にいたします。

 いずれにしても、私どもは既に八十数時間の審議をやっておりまして、大分重複質問も最近は多くなってきております。私どもとしては、きょうこうして皆さん方の御意見を聞いた上で、そろそろ出口を考えないと、これは、慎重審議、慎重審議ということで、結局問題の先送りだということにしかならないんだということをこの際申し上げまして、私の質疑を終わります。

 どうもありがとうございました。

森山委員長 次に、西博義君。

西委員 公明党の西博義でございます。

 本日は、本当にそれぞれの立場で立派なお仕事を教育関係でなさっている四人の参考人の皆さん方からお話をお伺いしました。それぞれ御尊敬申し上げている皆さん方でございますが、ぜひともまた、今後、引き続き教育に御尽力いただけますようにお願いを申し上げたいと思います。

 早速ですが、質問をさせていただきたいと思います。

 初めに、池田参考人にお願いをいたします。

 このたび、教育再生会議の座長代理ということで御活躍をいただくわけですが、もう既に三つの分科会、それぞれのテーマが決まったというふうに報道され、会議もようやくスタートしたというふうに言われております。教育基本法の改正と、それからこの教育再生会議とのつながりといいますか関連といいますか、再生会議そのものは具体論に絞って議論をされるということでございますが、その一番重要な部分は何なのかということについてお答えをお願いしたいと思います。

池田参考人 私どもも、先ほどお話をさせていただきましたように、いよいよ本格的に議論を深めさせていただきたい、そういう状況になっております。その議論を詰めさせていただく上におきましての上位概念と申しますか、常に私どもが意識をさせていただいておりますのは、教育基本法でございます。教育基本法の理念に従いまして、その中で具体的な問題等を再生という形でもって提言させていただきたいという形で、今議論を進めさせていただいているわけでございます。

 そういったことで、現教育基本法を中心に考えさせていただくのは当然でございますし、また、政府の中での再生会議でございますので、政府から出されております教育基本法改正案の趣旨も十分に踏まえさせていただきながら、今現在、個々の問題について詰めさせていただいている、そういう状況でございます。

西委員 積極的な御議論をお願い申し上げたいと思います。

 続きまして、若月参考人にお願いをいたします。

 以前に現場も見せていただき、品川区の教育改革に取り組む情熱はある程度実感として存じ上げているつもりですが、今までの教育基本法の理念は評価をする、その上で、足らざる部分について今回改正をされるということは、もちろん全部改正、すべての部分、改正はなっているんですが、ぜひとも積極的におやりいただきたい、こんな趣旨のお話だったかと思うんです。

 品川区では、学校選択制、先ほど町村委員もお話しになりました。それから小中一貫、外部評価を取り入れる、管理職の資質の向上、次々と矢継ぎ早に改革路線を打ち出されておられます。

 このことの最も根幹、ちょっと言い方が抽象的かもしれませんが、生徒のため、また親のため、社会のため、いろいろな感覚はあるんだろうと思うんですが、このすべての改革を通して、教育長は、だれのため、こういうふうに聞かれたらどういうふうにお答えになるでしょうか。

若月参考人 すべて教育の営みというのは、終着点は子供、その一点でございます。

西委員 評価は、私は正直言って、その一つ一つは分かれると思うんですが、その一点をぜひ忘れないで精力を注いでいただきたい。その結果については、それぞれまた歴史が証明するものだろうというふうに思います。

 ただ、私ども、もうずっと教育の改革を議論しているんですが、子供というのは、その制度の中を通過して、そして結果が出るのはもう随分先なんですね。この結果の責任は、もちろん我々改革する側にも求められるし、改革しないという責任もまた求められるのかもしれません。そういう意味で、もちろん早くということと同時に、きちっと、やはり子供のためにどうあるべきかということを私たちはとことん追い求めていかなければ方向性を誤るのではないかというふうに私自身は思っております。

 先ほど、それぞれの地方の教育委員会、これは、教育委員会としてできることというのは限りがあるんだ、こういうふうにおっしゃいました。そういう立場からしますと、もちろん学校だけでできることも限界がある。教育委員会も限界がある。といいますと、私は、今回の法律の体系の中からも、地域として教育に何ができるかということがまた一つの大きなテーマなんだろう、また、教育委員会として、地域の皆さんを巻き込んでどういうことができるかということなんだろうと思うんですが、その辺について、教育長、現場での御経験から、地域として、教育委員会がどう働きかければいいのかということをお教え願いたいと思います。

若月参考人 地域に対する働きかけのお尋ねだろうと思います。

 教育委員会、今御指摘のように、品川区はいろんなことをやってまいりました。その中で、やはり地域といったようなものの御理解と、それから御支援、御協力というのは必須のものでございます。そうした上で、学校、教育委員会と地域とがどういったきずなで結ばれるか。

 基本は、品川区の場合ですが、情報公開をかなり徹底してやってまいりました。今まで比較的、学校現場は情報開示といったようなもの、ディスクローズに対しましては必ずしも積極的ではなかった。別の言い方をすれば、保身的であった、これは間違いのないことだと思います。したがいまして、こういった学校の体質を変えるためにも、そして地域の方に学校をよく理解していただき、子供の教育に御協力をいただくためにも、できる限りの情報公開といったようなものが必要だ。

 これは、ある意味では学校も私たちも大変つろうございました。情報開示をした以上、その後のまたリアクションは必ずあるわけであります。しかし、そのプロセスを経て、本当に学校と地域とが、ある意味での、本当の意味での信頼関係といったようなものが結ばれてくるんだろう。形式的な信頼関係ではなく、いいも悪いも含めた上での信頼関係をつくっていくんだという産みの苦しみは、現在もしている最中でございます。

西委員 今、未履修問題が大きな問題となっておりますが、その観点からも、学校それから教育委員会、地域、家庭を結ぶ一つのキーワードが情報公開ということかもしれないなと、今お聞きをして考えた次第でございます。

 もう一つお伺いしたいんですが、先ほど教育行政について、これはまさしく教育委員会のことですが、例の「不当な支配に服することなく、」というところの御説明でございますが、過去の経緯を若干お述べになった上で、公正中立な行政を進めていく上で重要な改正であろう、こういうふうな結論を述べておられました。

 私も実はそれは同じ気持ちでございまして、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものである。当たり前といえば当たり前ですが、藤田先生のように、もっと違う観点からの、今までの「国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべき」という言葉の大切さを強調される参考人の方もいらっしゃいます。その気持ちも私もよくわかっているつもりでございます。

 いずれにしても、法律に基づいてということについてはそのとおりなんですが、教育委員会の立場として、この言葉、法律に基づいているとはいえ、本当に法律そのものを適用するということはむしろ少なくて、法律の精神ということに、いろいろなケースが出てくるものですから、私は、そういう意味では、このことについては十分な配慮が必要であるし、また抑制的でなければならない、もしこの法律ということになったとしても抑制的でなければならない、こういう気持ちでいるんですが、教育長のお考えを教えていただきたいと思います。

若月参考人 ただいま委員御指摘の点でございますが、全く私どもも認識は同じでございます。

 この法律のとおり、あるいは法律を一つの根拠にして教育行政を進めていくわけでありますけれども、現実に、教育行政の最先端の現場あるいは学校現場、こういったところにおきましては、さまざまな議論があってもいいんですけれども、最終的には管理職が責任を伴ってデシジョンメーキングをしなければならないということがございます。そういったときの必要な根拠といったようなものがあるかないかによっては、校長たちの日ごろの学校経営に対する姿勢といったようなものが変わってくる。

 私は、現在の日本の学校教育の中で、例えばそういう法的な裏づけがあるからといって、途端に日本じゅうの学校の校長たちが権力主義者、権威主義者になって、有無も言わせず、これはこうだからと言って一方的にやれというような学校教育にはなっていないだろうと思うんです。十分に話し合った末の最終的な根拠づけといったようなものはやはり必要である。そこら辺があいまいだったものですから、なかなか今まで学校としての顔が見えなかった、学校としての意思決定が明確に地域の方々、国民の方々にわかりにくかったといったような点はあろうかと思います。

 そうした意味で、この法律的な裏づけの根拠というものは大変心強い、そういう意味で申し上げました。

西委員 続きまして、尾木参考人に御質問申し上げます。

 実は、先週の月曜日から具体的な質疑が始まったんですが、その折にも私、先生の「教育事件簿」というあの本を引いてちょっと質問をさせていただいたんですが、日ごろから、いじめの問題、またその一人一人の深層に至るまで随分徹底的に御研究なさっていることに敬意を表したいというふうに思います。

 私、そのときに実はもう一つの質問をしておりまして、今の学校教育法においてかなり強い規定があるものですから、要するに、公立、私立の学校という範囲の縛りを何とかできないか、つまり居場所の問題です。

 いじめに遭った、不登校、いろいろな事象が起こっておりますが、最終的には学校に戻すということしかない。一部、フリースクールとかそういう規制緩和はありますけれども、結局、戻らないと一人前に世の中が流れていかない、成長していかないということがあったものですから、もう少しそこの部分を再考すべきではないかという質問をさせていただきました。このことについて、尾木参考人の御意見をちょうだいしたいと思います。

尾木参考人 やはり我が国は、一九四七年から、学校といった場合は本当の学校の枠だけで、法人と都道府県立に限定されてしまいましたけれども、国際的な視点でいえば、ホームエデュケーションというんですか、ホームスクールだとか、そういう、学びの場所は学校じゃないけれども、責任を負ってきちっと修得されていくのであればそれは認められてもいいだろう、バイパスというかしら、そういうことは考えています。

 例えば、スウェーデンなんかはそうですけれども、就学前のチェックのときに、おたくは学校を選ばれますか、どうされますかということを聞くわけですね。学校を選びますと言ったときには、学校が責任を持って教科書を渡したりしていきますけれども、ホームエデュケーションを選びますと言ったときには、では、だれだれを担当につけますから、どういうふうにして教育していけばいいのかというのはそこに相談しながらやっていきなさいというようなシステムになっています。でも、圧倒的に学校を選ばれますけれども、現実問題としては。

 そういう基本的なスタンス、どこで学び、どこで伸びていくのかというのは、やはりもうちょっとゆとりがあっていいんだろうと。アメリカのワシントン州なんかでは相当ホームエデュケーションが今広がっていますけれども、そういうようなことも考えたときに、学校一本にしていると、むしろ国力としてパワフルではなくなるんじゃないか、いろいろなところで学んで伸びていけるという状況というのは必要だと思います。ただし、根幹は公教育だと思いますけれども。

西委員 全く同じ気持ち、私もそう申し上げながら、九割九分近いか九八%か知りませんが、ほとんどが公教育の中で学ぶということを根幹に申し上げているんですが、その上で、もう少しいろいろな、もちろん、アメリカのように広大な地域と日本のように比較的人口密度が高いところとは違う部分もあるかと思うんですが、そこはもう少し緩やかに考えていかないと、この制度の中で子供たちが窒息をするというケースもあるのではないかなという感じがしております。

 もう一つお伺いをいたしますが、先ほどのいじめ自殺の件で、早急な文部科学省の対応を評価されておられました。結局は、素早い反応ということをおっしゃったんだろうと思うんですが、同時に、やはり子供たちにとって、この人に駆け込めば、この人に相談すれば一生懸命に考えてくれる、抱き締めてくれる、こういう人が今いなくなっているんじゃないか。それは学校の先生かもしれません。しかし、家庭というものがやはり私は基礎だと思います。

 特に男性というのは、そういう意味での頼りがいというのがもともと必要だったのかもしれませんが、今の社会生活の上ではなかなか子供に接触する機会が少ない、接触しても、本当に自分の真情というのを吐露して、一対一で子供たちと向き合うということが少ない。私自身の反省も込めて言っているんですが、そういうふうに思うんです。

 その辺、子供たちに向かう大人社会のあり方ということについて、今までの御経験上からお話をいただければと思います。

尾木参考人 この間、やはり子供たちへの心配の余り、私たち大人社会と子供との関係性のところが非常にいびつというかしら、余りよくなくなってきているなということをちょっと心配しています。

 少年法の改正の問題とかいろいろなことも含めてですけれども、何か、子供に罰を与えれば言うことを聞くんじゃないかという発想がすごくあるんですけれども、果たしてそうか。僕は臨床現場ですから、実証的に考えると、そうではなくて、例えば凶悪事件を起こしちゃうような子は、もう自分を捨てちゃっているんですよね。物すごい厳罰で、ひょっとしたらもう死刑になるかもしれないよという状況をもし提示したとしても、むしろそれは喜んで受け取るべきことだというふうなとらえ方、自殺行為としての凶悪事件が起きていたりするわけですよね。だから、そこのところ、私たちは、何か追い詰めていくみたいなのはどうも違うんじゃないかという感じがします。

 あと、子供との関係のところでいいますと、子供の声を受けとめる、例えばいじめの件なんかでも、家庭がしっかり受けとめていればというようなこともありますけれども、一人一人の御家庭でいえば一生懸命のはずなんですよね、気持ちの上では。心理的には皆さんそうなんですが、やはり学校に行かないでいいよというようなことは、親御さんとしてなかなか言えないです。頭ではわかっていても、やはりつらいものがあるわけですよね。そうすると、やはりどうしても、学校に行きなさいというふうに後を押してしまうと、そこでまた苦しむということになるわけですね。

 だから、一つは、親御さんのところで受けとめるというのはもちろん大前提です。それと同時に、駆け込み寺的な第三者機関をつくってほしいなと。校長先生が未履修問題でしまったと思ったときもそこへ駆け込めばいい、そこは秘密を守ってくれて、こうした方がいいよ、死ぬことはないんだよということをちゃんとアドバイスしてくれるような、教育関係の駆け込み寺みたいなのを都道府県に一つはつくっていただければ、子供も、親御さんも、学校の先生も、あるいは教育長も含めて相談に行けるみたいな、強制的な、かなり権限を持った、そういう第三者機関をつくっていただきたいなというふうに思います。

 いじめ一一〇番というのも、各市町村が物すごく努力されて全国に行き渡っていたんですが、今、少し機能不全に陥って停止状況になっているんですよね。それをすぐに復活するということも緊急に必要だろうと思います。

西委員 時間が来ました。藤田先生には教育委員会の位置づけについて御質問させていただきたかったんですが、ちょっと時間が終了になりましたので、これで終わらせていただきます。

 ありがとうございました。

森山委員長 次に、高井美穂君。

高井委員 民主党の高井美穂と申します。

 私は、民主党案の日本国教育基本法案という法案の提出者の一人でもあります。本日は本当に、すべての参考人の皆様から大変貴重な御意見を伺いました。質疑にとても参考になる御意見ばかりでしたので、引き続き質疑をより深めてまいりたいというふうに思っております。

 そこで、本日は、尾木参考人と藤田参考人の方を中心に私はお伺いしようと思うのです。

 先ほど来、町村元文部大臣からも若月参考人との間でやりとりがありましたけれども、私たちが出している法案の根本理念とやはり違うなというふうに感じて聞いておりました。その点についてもお二人の参考人に後で御意見を伺いたいと思いますが、確認する前に一点、池田参考人に、我が党の日本国教育基本法案というのを御存じですか、お読みになったことございますか。

池田参考人 大変申しわけございません、それをまだ私は読んでおりません。

高井委員 結構でございます。というか、私たちもアピールが足りなかったのか、こういうのを出しておりますので、ぜひ参考人の皆様全員にお送りをしたいと思います。

 ただ、常に与党の皆さんからも、民主党は対案を出せ出せ、こういうふうに言われます。今回なんかも対案をちゃんと出したんですが、私たちの案に対する質疑時間が余りにも少なくて、多分、政府案に比べると十分の一ぐらいではないかと思います、答弁した時間数なども考えると。なので、ぜひとも与党の皆さんにももっともっと我が党案に対して質問をしていただきたいと思っていますし……(発言する者あり)私は提出者なので私の案には質問できませんし、やはり、野党の立場として政府案をただすのがとても中心になってしまいますので、これから我が党案についてもぜひわかっていただきたいなと思いまして、ぜひよろしくお願いします。

 というのも、池田参考人がおっしゃったお話の中に我々も大変理念を共有するところがあるんですね、すべてとは言いませんけれども。ぜひそれをわかっていただきたいと思いまして、まず申し上げました。

 まず、我々民主党の日本国教育基本法案は、理念の部分で政府案と方向性がまるっきり異なっているというふうなつもりです。憲法と同じで、まさに藤田参考人がおっしゃったように、立憲主義のことを中心に、つまり、あくまでも教育の主体は国民にあるというふうな考えで出しております。若月参考人のお話の中には児童生徒中心主義の克服というお話がございましたけれども、私は、子供の言うとおりにするのとは違うと思っておりまして、国民の側から見たもの、国民が教育の主体であるという考えを藤田参考人が話の中でおっしゃっていたのは、それは児童生徒中心主義の克服とはちょっと違うものであるのではないかというふうに思っております。

 その点で藤田参考人、いかがでございますでしょうか。

藤田参考人 おっしゃるとおりで、基本的に、児童中心主義と言われるものと、法律上定める、あるいはまたその前提にする主権でありますとか基本的な人権とか個人の尊厳というものとは違うと私は考えております。

 法律上の問題は、基本的には、法的に、そしてまたさまざまな社会的な圧力、権力、そういったものに対して個々人が擁護され、もう一方で、さまざまな国、社会のあり方を決めていくその主体であるというものであります。

 それに対して学校現場におきましては、当然、学ぶ側にある子供たちがさまざまな指導を受け、あるいはまた時には怒られ、そしてまた時には厳しい懲戒ということもあるかもしれませんが、いずれにしても、これらはすべて日常的な実践の中における問題であります。そこにおいては、個々人の一人一人の子供のことは配慮しながらも、大人として、教師として、あるいはまた親として、伝えるべきことはきちっと伝える必要があります。

 そういった意味で、この二つを混同することは、法律を制定する場合には極めて重大な問題だというふうに考えております。

高井委員 ありがとうございます。

 私は全く藤田参考人の意見に賛同するものでございまして、そういう立憲主義をもとに、憲法に準ずる法案として「日本国」というものをわざわざタイトルにつけました。その上でさらに、これから二十一世紀を生きていく子供に何が必要かということを一生懸命考えまして、新しい理念を少し加えたものとして提出をいたしました。それは、コミュニケーションの能力とか知恵であるとか文化である、そういう情報を自分で編集し、つくり直す力、そういうものがまさにこの情報の洪水の時代の中で求められているのではないかということで加えた理念としておつくりをしたつもりでございますので、ぜひまた読んでいただけたらというふうに思います。

 そこで、尾木参考人にもちょっと同じような感じの御質問を伺いたいんですけれども、特に、現場主義ということで私は今いろいろな形で現場のお話をお聞きする中でも、尾木参考人のいじめにかかわるお話等、切実に思うところがありました。本当におっしゃるとおりだと思います。

 児童中心主義という話もありましたけれども、それについて、教育基本法の理念についていかがお考えになりますでしょうか。

尾木参考人 先ほども申し上げましたけれども、現行の教育基本法というのは、国民中心主義というかしら、国民の教育権というのが基本的なスタンスですよね。それは、国か国民かという対立的なとらえ方というよりも、教育の条理からいったときにどうなんだろうということを素直に思うんですね。そのときに、やはり、国がいろいろなことを面倒を見てくださるというかしら、リーダーシップをとられるというのはこれはもう当然のことであって、当たり前なんです。

 だけれども、現実的な問題としては、いじめのこと一つとっても、例えばこの間も高校生に聞いたんですけれども、文部科学省のいじめの定義はどうですかと言ったら、もう即座にほとんど全員、おかしいですと言うんですよ。どこがおかしいのと聞いたら、だって弱い者いじめじゃない、我々は弱い者いじめをしているんじゃないと冒頭から言うわけですよ。

 だからやはり、現場の声をいかに吸い上げていくか、実証的に丁寧に検証していくかということが極めて重要で、そういう点でいうと、国民の教育権というちょっとレベルが違うような議論に今なっていますけれども、すごく重要で、そこから立ち上げて、それをどうサポートしていくのか。もちろん、違ったときには違いますよというのは、軌道修正とかそれは当然あるべきだろうと思いますけれども、基本はやはり国民の教育権でなければ、国がミスリードしたときにはもう取り返しがつかないというふうに思います。

高井委員 まさにその国民の教育権というところを私たちは、第二条に「学ぶ権利の保障」ということで、何人も教育を受けてもらう権利を有するということでちゃんと新たな条項として書き込んでおります。これは政府案にも現行法案にもございません。この点、特に我々は違う点として強く書き込みました。そういう、さっき尾木参考人がおっしゃった趣旨に通じるものでございます。

 まさに教育の現場というのは、国や上の方から上意下達ではなくて、むしろ下意上達というか、現場の方からの意見が上がって初めてうまく現場に対応できる話ができるんじゃないかというふうに思います。

 そういう中で、教育委員会制度の話が先ほどから御質問の中にも出てまいりました。機能強化ということを、恐らく再生会議でも、廃止は出なかったけれども、機能強化の話は出たということも、先ほど町村元大臣の御質疑の中で出たと思います。

 機能強化ということは多分大事なんだろうと思いますが、私が調べたところによりますと、一九八六年、二十年前から、「教育行財政改革の基本方向」という、第二次答申の中において教育委員会の現状がこのように書いてあるんですね。

 近年の校内暴力、陰湿ないじめ、いわゆる問題教師など、一連の教育荒廃への各教育委員会の対応を見ると、各地域の教育行政に責任を持つ合議制の執行機関としての自覚と責任感、使命感、教育の地方分権の精神についての理解、主体性に欠け、二十一世紀への展望と改革への意欲が不足していると言わざるを得ないような状態の教育委員会が少なくないと思われる。

 つまり、二十年前から全くこの議論は変わっていない。解決されていないんですね。多分、このことはずっと昔から言われ続けたことなんだろうというふうに思います。二十年前というとまさに私は中学生で、教育を受けておりました。このときからいじめの問題等も全く変わっておりません。恐らく統計上はそんなにないかもしれませんが、自殺もあるだろうというふうに、当時教育を受けていた現場の者からして、そのように推測するところであります。

 そこで、藤田参考人、では、教育委員会制度についていかがお思いになられるでしょうか。今ほど来の議論も踏まえた上で、ぜひ御意見をちょうだいしたいと思います。

藤田参考人 教育委員会制度につきましては、私は、基本的には、いわゆるこれは事務局と区別される教育委員会でありますけれども、その地域における教育の基本的なプランニングという点で適切な助言をしていく、あるいは、場合によっては立案するということもあり得ると思います。

 二点目といたしましては、教育行政が適切に実施されているかどうかを事務局において監督指導するという点であります。

 三点目は、私はオンブズマン機能というふうに呼んでおりますが、地域住民や保護者、子供たち、さまざまな層からの要望や、あるいは改善、改革等についての声というものを吸い上げ、それを適切に扱い、あるいはまた行政に反映させていく。

 そういう三つの機能をどのように充実するかを適切に考える必要があると思います。

 それから、先ほど御指摘ありましたように、この問題は、一九八〇年代から、あるいはもっとさかのぼれば、公選制の教育委員会制度が任命制に変わったときからずっと問題になってきていたことだと思います。そして、改革の議論は特に一九八〇年代以降盛んになって、この教育委員会制度をどうするかということを繰り返し提案がなされており、そしてまた、現にさまざまな改革がなされてきておりますけれども、いまだに事態は改善していないと言われているわけです。同様のことは、いじめ、校内暴力、不登校、学級崩壊、少年犯罪も、一九八〇年代から一貫して改革の理由として言われ続けてきました。

 先ほど、町村委員の方から、私の考えについて異論を発言されましたけれども、その点について、二十五年間これが問題だと言って改革をし続けて、いまだにそれが最大の問題だ、だから改革しなければいけないとするならば、これまでの二十五年間の改革、政策は何をしてきたのか、成功したのかどうか、そのことをいま一度考える必要があると思います。

 改革のための改革の方が、批判のための批判、反対のための批判よりはるかに危険です。もちろん、対立的に、暴力的に反対するなんということは論外でありますし、そういうことは許されるべきではありませんが、反対しても実害はありません。しかし、改革は結果が伴いますから、改悪であれば必ず実害が伴います。その点を十分に考えて教育基本法の問題についても検討していただければと思います。

高井委員 本当に繰り返しさまざまな議論がずっとされてきた中で、そこで我々は、では、制度か仕組みに少し工夫を加えなきゃいけないんじゃないか、そういう思いで、一つ提案のような形で、教育委員会を廃止するということまで踏み込んで書き込みました。

 若月参考人は教育長でいらっしゃるわけでございますから、現行の教育委員会制度は維持というようなお話だったと思うんですけれども、私は、やはり選挙で選ばれた首長という民主的な立場にある人が最後の責任はとる。首長が教育長さんを選ぶわけでございますから、それで政治的中立ということをずっと掲げてこられたわけだと思いますけれども、ただ、それは一歩踏み込んだ形で最終的責任は、担当部局は、やはり市とか現場、自治団体の中に現在でも教育委員会の事務局というのはあるわけでございますから、だから、少し工夫を加えることが必要でないかということで提案をさせていただきました。

 先ほど藤田参考人がおっしゃったオンブズマン的な機能というのを、新たに別に、例えば教育監査委員会という形で、命令とか指導、助言とか監査に特化してつくる。より現場に近いところには学校運営理事会のようなものを設けて、保護者や先生や地域の有識者の方、例えば教育の専門家とか入っていただいて、運営とかやり方、まさにカリキュラムの件に関してもさまざまな議論をそこでしていただく、校長先生と話していく。そんなことも一つ解決策にはなるのではないかと思っておりまして、これはまたさまざまな過去の教育委員会の議論と重ねながら、より深めていかなくてはならないというふうに思っております。

 その点において若月参考人、こういう我々の案に対してはいかがでございますか。

若月参考人 それはいろいろなお考えはあると思います。ただ、私は現実に教育委員会に身を置いておりまして、自分たちが今与えられた権限の中で精いっぱい努力をしてきているつもりでもございます。そういったところから考えて、基本的には、教育行政は、不偏不党、公正中立、こういったようなものは原則としてやはり崩せないところであろう、これは強く思うところであります。

 いろいろな方からいろいろな意見を聞く、それは大事なことです。それを決して否定するわけではありませんけれども、しかし、時には、その公正中立性といったようなものをきちっとした制度として担保する仕組みができていないと、やはり、教育行政が右へ行ったり左へ行ったり宙に浮いたりといったような混乱があることは十分に考えられることだろう、こんなふうに私は思うわけです。

 先ほども申し上げましたけれども、教育委員会、いろいろ機能していないじゃないか、同じ改革を何年繰り返されるんだ、だから教育委員会制度そのものがと言うんですが、私が先ほど申し上げたとおりであります。

 言葉は穏当じゃないかもしれませんけれども、私たちにも、主体性やあるいは活性化をするような具体的な武器といったらいいでしょうか、そういったようなものをもう少し与えていただけないだろうか。例えば、私たちには人事権もありません、予算編成権もありません、議案提出権もありません。全部それは、首長を通して立案請求をして行わなければできません。そういった意味で、やはり私たちには、もう少し教育委員会としての主体性といったものも担保するそうしたものも必要だろう、こんなふうに思うところではございます。

高井委員 まさに、さっき言われた予算権限とかいうことは首長にあるわけですから、首長部局に一元化しちゃった方がいいのではないかと私は逆に思いました。

 というのは、実際に教育長のお立場ではなかなか教育委員会の否定はできないとは思いますが、ただ一つ、その提案といたしまして、やはり権限をきちんと一元化して責任を持つ。政治的な独立性といいながらも、やはり選挙で選ばれた首長さんが自分に近い考え方の人を恐らく教育長としても任命されるんだろうというふうに思います。そういうと完全に独立ではないと思いますし、それによって、やはり首長さんがかわれば教育長さんもかわるというケースも今までにはあるのではないかというふうに思います。

 これはまたお考えが違うということであればそれでも結構でございますが、まさに今までの重ねる工夫の中で、より踏み込んだ工夫が必要だということで私たちはあくまでも提案したわけでございまして、責任を持つという点では、直接どなたからも信任を受けないというか、首長さんに選ばれる形で任命された教育長さんよりも、すべての行政に責任がある首長さんが最終的に責任を持つというのは、ある一つの案としては可能なのではないかというふうに考えています。

 尾木参考人の話の中に、たしか、中央で教育改革の話が動くにつけ現場はついていけないというような話がございました。むしろ、若月参考人の御意見の中では、もっと現場でさせてほしい、予算権、人事権さまざまなものが欲しいという話がございまして、でも、それというのは一つある意味で相反するのではないか。国の方の中ではさまざまな行ったり来たりの議論がされていて現場はついていけないという声と、いや、現場の方でもっと変えたいから、変えられないから権限が欲しいというのはある意味でちょっと反するように思うんですが、尾木参考人、いかがでございますか。

尾木参考人 僕は思うんですけれども、形の問題ということももちろん重要ですけれども、むしろ、例えば僕も現場にいたとき教育委員会との関係というのはどうであったかということを言いますと、例えば教育委員会から指導主事を二人呼ぶ、それで授業参観して視察してもらうというときは、僕が教務主任をやっていたとき大変だったんですね。A先生とB先生、指導主事、どちらが向かって右側に座ってもらえばいいのか、左側にだれに座ってもらうのか、こんなことが真剣に議論されるんですね。どちらの方が要するに偉いのかと言うんですよ。それで右側、左側座ってもらう。こういうポジションが変わってくるわけですよ。それぐらい教育委員会の事務局と学校現場とはもうがんじがらめの、本当に神様みたいな存在です。

 ですから、この間の、いじめを認める、認めない、校長が二転三転するみっともない姿を本当に見せてしまいましたけれども、あれはやはり、言葉とか、直接、間接の教育委員会とのいろいろな関係とかが機能不全の状況に陥っているわけですね。

 だから、そういう点でいうと、学校の現場の校長も教頭もそれから教員も、最終的には教育委員会から評価されます。それが出世とかいろいろなところにも影響していくわけですね。ところが、教育委員会はだれからも評価されていないんですよ。僕は、ここに一番大きな問題があって、やはり総合評価をしながらボトムアップしていく、みんなが教育界よくなっていくよという評価でなければいけないと思う。

 僕は、校長、教頭も教員も評価されるのは当たり前だと思います。だけれども、評価する人がだれからも評価されないというのは、これはおかしい。ここにメスが入る方法だったら、僕はどんな方法でもいいと思っています。

高井委員 問題提起されたことはまさに我々と問題を共有しておりまして、そのための改革ということで、我々の案として我々は検討しているところであります。

 この話は大変長くなる話でございますので、教育委員会制度についてはひとまずここで終わらせていただきたいと思うんです。

 未履修の問題、いじめの問題についても、現場のお話が尾木参考人からございました。この問題は大変奥が深い問題だと思います。つまり、大学入試のあり方、高等教育のあり方、なぜこういうことが起こったのか、さまざまな分析を加える上で、すべての高等教育そのものにかかわる大変大きな問題だと思っています。高校の予備校化というふうにメディア等でも言われていますけれども、大学入試制度についても本当に考え直すべきときが来ているのではないかというふうに思っています。

 またそれと同様に、私も大学は出ましたけれども、大学そのものが、本当に高等教育機関として、専門的知識を養う機関として専門的な学生を世の中に社会人として送り出しているかどうか、必要な知識がそこで培われているか、そこをまさに考えていかなくてはならないというふうに思っています。

 尾木参考人にもう一度お伺いしたいんですが、この未履修問題の根本原因というのはどのようにお考えになりますか。現場からぜひ。

尾木参考人 この未履修問題の根本的な原因というのは、やはり事実経過を見ていくと非常にはっきりしていますけれども、この間、未履修問題で問題化された学校の圧倒的多数は、二〇〇三年度から不正といいますか、やっておられて、もちろん私学の場合は、もっと早くから、九〇年代半ばからたくさんありました。

 それで、なぜそこの新しいカリキュラムになったところからかというと、二〇〇三年というのは、高校は新しい学習指導要領になったわけですね。前年度は、二〇〇二年に学校五日制で授業の枠組みが小さくなっています。そして、ゆとり教育で入ってきた子供たちを高校で全部回復するようなカリキュラムに実はなっているわけですね。だから、現場の先生方が困ってしまうだろうということは目に見えています。

 そして、今回、多くの高校をごらんになっておわかりのように、ほとんどが受験校です。進学校ですね。そして地方が数的にも多いというのは、これはやはり、進学実績をどう上げるかということが問われているわけです。二〇〇二年から学校評価制度というのが取り入れられるようになって、そこでは数値目標を四月の当初に出して、そして三月の末には、どこまで達成したのかという具体的なパーセンテージを全部数値で発表するとなっています。

 ですから、今回の不正があった学校のホームページを開きますと、目標が出されていて、三月にはどうだったか、五六%、七二%、全部細かく出ていますよね。あれを求められたら、これはやはり何とかして受からせてあげたい。そして、地方においては予備校も少ないというような事情があって、高校の先生方は、ゼロ時間目から七時間目、八時間目と教えて、一日九時間というのが普通なんですよ。本当に大変な思いをされています。そういうような中で、高校の数値を上げなきゃいけない、進学校が予備校化していったというところが僕は一番大きいだろうと思いますね。

 だから、二十一世紀を担っていく高校生をどういうふうにして大学や社会に送り出していくのかという最も重要な観点がやはり後回しになった。先生方はみんなわかっていると思いますよ、校長も。だけれども、そんなことは言っていられないという状況に追い詰められているところが僕は問題だと思っています。

高井委員 教育の世界にすべての数値目標というか、例えばいじめをゼロにするとか、そういうことも数値目標として設けるのはとてもおかしいことだと思っていまして、確かに競争というのはとても大事ですし、競争がない教育の現場というものは私はないと思っています。さらに過度に競争を促すように進めていけば、今回の件なんかも象徴するように、本当に子供たちのためを思ってやったというふうな校長からの話もありましたが、数値目標を余りにも強いることによる弊害というのはやはりさまざまなところで出てくるのではないかというふうに考えていまして、私は、全国学力テストも、導入することは少し懸念を抱いているところであります。

 きのうの文部科学委員会の中でも、実は伊吹文部科学大臣も、東京都足立区の教育長が学力テストの成績に応じて予算の枠に差をつけるというようなことをおっしゃったことに対して、七日の区議会の文教委員会の中でそれは撤回したということを述べられていまして、それはよかったというふうに伊吹大臣もおっしゃっていました。

 私は本当にその観点は共有するところでございますが、より競争を進めるために学力テストを導入するというのであれば間違っていると私は思いますけれども、その点、尾木参考人、いかがでございますでしょうか。

尾木参考人 競争も二種類あると思います。すべての競争がいけないわけではなくて、みんなが上がっていくための競争というのは、大いに現場を活気づけますし、子供たちを生き生きさせると思うんですが、残念ながら、格差をつけて、そして、今回のようなそれぞれ予算配分にまで影響してくるという、これはやはり論外だろうというふうに思いますね。

 この競争の中で、例えば、学力テストの来年の四月二十四日の件も僕は本当に憂慮している一人なんですけれども、既に例えば東京都なんかではどういう事態になっているかといいますと、とにかく順位が全部ホームページで明らかになるわけですよ、得点も。そして、今、東京の多くの区は学校選択が自由になっています。そうすると、親御さんたちはそれを見て選んでいくわけですね。低いところになったところは、何とか脱出しないと生徒が来てくれないという状況になるわけですよ。そういう中で、学力を上げる競争ならまだしも、得点をとるための競争になっているんですよ。微妙に違うんです。つまり、得点を上げて、ほかよりも上に行くということなんですね。では、得点を上げるために何をすればよいかというと、言葉を悪く言えば、不正をすればいいわけですね。ですから、直前には、不正ではありませんけれども、プレテスト、プレテストの集中です。ずっとやります。

 ある区のある学校で実際起きたことですけれども、先生が、余りにも子供たちの態度に頭にきちゃって、白紙で答案を出すようなやつはもう来るなとか言っちゃったそうなんですね。そうしたら、ある中学校ですけれども、二十数%男子学生が来なかった学校まで出ています。そうすると、そこは得点が上がるわけですよ。そして一位や二位。わかりますか、零点をとるような子が受けてくれなかったら上がるんです。そしてもっと重要なことは、不登校の子たちに対しては、いつありますよという通知が行かないんです、不登校の子が来て得点が下がると困るから。

 そういうこそくな競争、狭い競争に陥ってしまって、そして一つや二つ順位が上がったと誇らしげにおっしゃっている自治体もありますけれども、僕は全然違うと思います。学力を落としていると思いますよ。だから、学力が上がるためにはどうするかというのを僕は慎重に考えるべきだというふうに思います。

高井委員 おっしゃるとおりだと思います。

 最後になりましたけれども、藤田参考人に最後に一つだけお伺いしたいんですけれども、さっき申し上げたように、例えば数字的な目標というのは私は教育の世界にそぐわないというふうに思っております。

 そういう中で、教育基本法にも、我が党案には教育の目標というのは入れておりません。あくまでも目的でございます。理念や方針や必要なものは盛り込んでいるつもりでございます。前文の中にさまざまな目的のことも含めて少し入れてはありますけれども、目標としては項目の羅列というのはしておりません。その点についてどうお思いになりますでしょうか。

藤田参考人 先ほども申し上げましたように、その点は私は賢明であったというふうに考えております。

 これはずっと国民会議のときから議論が出ていたことですが、現行法の教育の目的と教育の方針、この関係がどういうものなのかということが、国民会議の委員の間ですら十分に理解されていなかったと思います。教育の方針は、目標に相当するものを書いているのではなくて、教育を実施し、それを提供する側が従うべきその方針あるいは大切にすべき方針を示しているものでありますから、そこの違いがきちっと踏まえられる必要があるという意味で、目標を掲げなかったことは賢明だと思います。

 それから、先ほどから出ている数値目標を掲げること、こういったことで今さまざまな弊害が起こっているということで、十年前からもう既にフィンランドはそこからの撤退をして、逆方向の改革をしております。

 未履修問題もすべてそうですが、私は確実にモラルハザードが起こっていると思います。モラルがゆがみ、そしてそれが低下し、その結果、努力の仕方がゆがみ、その結果、教育の水準やクオリティーがゆがみ、低下していく。こういったことを続けていくならば、日本の社会あるいは教育、そして子供たちの未来はますます暗いものになると私は思います。

高井委員 ありがとうございました。感謝申し上げます。

森山委員長 次に、塩川鉄也君。

塩川委員 日本共産党の塩川鉄也でございます。

 きょうは、皆さん、それぞれのお立場から貴重な御意見をいただき、ありがとうございます。

 私の方は、今多くの方が深刻な問題として受けとめておられます、いじめ自殺を初めとした、いじめ問題に関連いたしまして、これまでの教育行政のあり方の問題や政府案についての評価などをお聞きしたいと思っております。

 最初に藤田参考人にお伺いしたいと思うんですが、冒頭の意見陳述の中でも、いじめ自殺など、教育にかかわる諸問題は教育基本法のせいで起こっているわけではないということを述べておられました。いじめ自体は社会全体で解決すべき問題でありますけれども、政府や文部科学省の対応がどうだったかということが、やはりいじめ問題でも問われております。

 その点で、いじめ問題への対応についてのこれまでの政府や文部科学省の取り組みをどのように評価されておられるのか、その点をお伺いしたいと思います。

藤田参考人 この問題につきましては、いじめに限らずそうですが、いじめにつきましても、実は文部科学省は、もう五年ほど前になりますけれども、ノルウェー、イギリス、オランダ、日本の四カ国について、共同の質問肢を用いて、そして、いじめについての定義も四カ国それぞれの定義に即した質問文をつくって調査しました。その結果、日本は、全体的に、総体的に軽微だとは言えても、劣悪だと言える根拠は出ていません。しかし、とはいえ、日本のいじめの特徴は、仲よしグループを含む集団の中で、例えばクラスの中であるとか部活の中であるとか、あるいはまた日常的につき合っている子供たちの間で起こる傾向が強い。それに対して、諸外国、欧米諸国では個人化されたいじめが多いという傾向は出ております。

 そういったことを踏まえますならば、どういう対応をすべきかということは、ある部分について明確な示唆とそして方向が出てくると思います。それは教育基本法を変えるようなものではありませんし、いじめに限らず、それらの先進諸国が共通に抱えている問題でありますから、これについては適切な対応をしていくべき。その点で文部科学省が対応を怠っていたというふうに必ずしも言えるかどうかわかりませんが、マスコミを含めて、この問題を教育全体の問題に一般化し過ぎてきたというふうに考えております。

 イギリスを初めとして諸外国では、いじめに適切な対応をする、可能な限り早期にそれを感知し、とらえ、そして適切な対応をするということで、書店なんかへ行きましても、膨大ないじめ対策マニュアルや、あるいはそれをどのようにして見つけるのか、そしてどのような対応をするのかということのマニュアルが膨大に出ております。

 日本でもそういったものは出ておりますけれども、そういったものを含めて、いじめ問題に限らず、さまざまな問題は、実践的そしてまた施策面での充実を図っていくことが重要だというふうに思っております。

塩川委員 その点で尾木参考人にお伺いいたします。

 先ほどいただきました資料の中には、日本経済新聞における参考人の御意見を載せておられました。そこにも、いじめや未履修問題の背景として、いじめゼロですとか有名大学何人合格といった数値目標を掲げて、競争原理を働かせて結果を求める成果主義に原因があるのではないかということが指摘をされておられます。

 なぜ数値目標を掲げた成果主義というのが教育現場をゆがめることにつながるのか。その点について、現場でのいろいろな実感をお聞かせいただけないでしょうか。

尾木参考人 これまで教育界というのはかなりのんびりとして、みんな楽しく明るい学校をつくろうとか、スローガンを掲げているぐらいですね。そして、学級にも、規律を守ろうとかけじめをつけようとか、いろいろな目標があって、具体化するときには、それぞれのクラスや子供たちが、では遅刻を今週は五回以内ぐらいにしましょうとか、子供たちのレベルでやっていた分には非常に問題はなかったんです。なかなか創造的な取り組みがあったと思います。

 ところが、この成果主義みたいなものが教育界に入ってきたのは本当に二〇〇〇年に入ってから、二〇〇一年、二年というとこら辺で入ってきました。そして、そこに、学力低下論というかしら、学力が低下しているんじゃないかという不安が国民的に高まってきて、それにこたえなきゃと。それも、単に学力をつけるというスローガンではだめで、数値をきっちり出して説明責任を負っていこうというのが、私たち教育関係のところでは非常に浸透してきたんです。そのときに、基本的な規制というのは緩和して、そして競争的な原理を働かせて成果を上げていこうという成果主義に移っていったと思います。ですから、本当にこれに入ってまだ四、五年しかたっていない。教育界は、そういう意味では非常になれていない手法と発想で混乱している。

 数値が入ってくると非常にわかりやすいんですよ。だって、四年制大学八〇%を目指すというのが六五%だったら、ちょっと足りなかった、何が原因かというのがはっきりわかるわけです。あるいは、一〇〇%を超えたときにはすごい達成になるわけですね。はっきりわかりやすいんですが、わかりやすさのところに実は教育をだめにする一番大事なポイントがあるんです。それが全部ゆがみになってきています。

 例えば、早慶上智百人以上とかいうと、早稲田を受ける一人の学生がいたら、法学部を目指していても、商学部やほかの学部二つ三つ受けろなんて指導が入るわけです。それで数稼ぎになっていくわけです。現場の高校生は怒っています。

 そういう、数を追求しようと思うとゆがみになってきて、教育で一番大事な個性だとか多様化とかあるいはかけがえのない存在というのがふうっと後に回ってきてしまう。犠牲者がたくさん出ていると思っていただいてもいいと思います。

塩川委員 ありがとうございます。

 その点で、教育基本法の改定案の中身として、政府が教育振興基本計画を立てる。そういう中で、例えば中教審におきましても、過去、教育基本法と教育振興基本計画のあり方についての答申などがなされて、いじめなどについて五年間で半減を目指すということでの数値目標などが掲げられています。

 その点で参考人の皆さんに一言ずつお聞かせいただきたいんですが、こういった目標を立てることによる、いじめについても五年間で半減とかということも具体的な例示として挙げられているわけですから、この競争原理による成果主義というのが国の教育行政のいわば中心になろうとしているんではないか。そういった点でこの改定案をどう見るのかについて、池田参考人、若月参考人、尾木参考人、藤田参考人の順番で、一言ずつお願いできますでしょうか。

池田参考人 いじめについてでございますけれども、一つの方法論としまして、それは目標管理ということも末端においては必要であるかもわかりませんが、私の個人的な見解を述べさせていただきますと、これは現象的な話でございまして、やはりその奥にその生じた原因といったものがあるというふうに思います。当然、原因があってのそういう現象であろうというふうに思いますので。

 そういったことを考えますと、これは私の子供あるいは孫ということの中でも強く感じさせられるわけでありますけれども、これは個人の問題ということもありましょうし、また家庭の問題、それから地域の問題、あるいは企業そのものの問題。当然、父親、母親というのは何らかの形で企業につながっておりますので、そういった企業のあり方。企業のあり方というのは働き方であります。私も冒頭に申し上げさせていただきましたように、やはり社会全体の中で一つ一つの原因をつぶしていく必要があるんではなかろうか、そういうふうな思いが強いわけであります。

 ですから、私は、企業人といたしまして、企業サイドの中でやはり働き方ということを目指しまして、その働き方の中で、父親、母親が子供さんの育児から保育あるいは教育といったことについても参画をしていただくことによって、いじめの問題は時間がかかっても解消していく方向に向かうのではないか、むしろそういった努力が必要ではないかというふうに思っております。

若月参考人 主に数値目標についてでございますけれども、数値目標というものを考えるときに、私は二つあると思うんですね。

 一つは、数字そのものが目的化されちゃって、それに向かっていく。これは確かに好ましいことではないと思うんです。

 しかし一方、では、数値目標はすべて否定されるべきものか。私はそうは思わない。具体的な目的値を決める、そしてそのために、具体的に、だれが、どんな方法で、どのぐらいの時間をかけて、どの程度の結果を出すかというそのプロセス、言ってみればマニフェストになりますけれども、こういった文化が今の学校にはなかったんですね。そういう文化を学校の中につくっていく、これはやはり大事なことだろうと思う。

 したがって、数値そのものが目標ではなくて、それに向かって努力する具体的な方法論やプロセスといったようなものに努力をすることが大事なんだということでありまして、ただ単に頑張りましょうと言って済んできた学校、文化、こういったものに対してそういう意味で数値を使うということは、一定の効果がある、意味のあることだ、私はこんなふうに考えております。

尾木参考人 僕も、数値目標というのはだれが掲げるのかということが極めて重要で、文部科学省が五年間で半減とか言ってしまうと、今の教育行政の体質からいえば、県は当然それを受けますし、市町村も受けますし、学校も受けるわけですね。そして、学校評価システムがあり、教員の人事考課というシステム、全部が連動してきます。

 そうなると、途中で、例えば十月一日の段階で、教師は一人一人、四月に立てた目標に対してどうなのかと教頭と面接がありますけれども、その段階でいじめが三件あっても、これを解決に向かえというアドバイスをもちろんするわけです。そうしたら、解決していなくて、最後の数字がゼロでなかったら、君、どうしたんだということを言われるわけですね。

 一番下の末端まで数字が締めつけられていってしまって、これが結局、今回、一九九九年から七年間にわたって、いじめ自殺がゼロだと。実際は、新聞報道によると十六件あったとかいう報道もありますけれども、そういう事態になってしまう。それから、ゼロでなかったら受け付けない教育行政まで出てきています。それから、数字をごまかし始めている教育行政も現に僕もあちこち歩いていて存じ上げていますけれども、そういうことになって数値に合わせる。

 だけれども、大事なのは、子供たちが目標を掲げるのならそんな害はないんじゃないかと思います。例えばイギリスなんかは、ユース・ツー・ユースという団体がありますけれども、そこが、政府なんかにも、いじめをなくしていくにはこうしたらいいんじゃないかという提言を出していくわけですね。僕は、もっと子供たちに聞けばいいと思うんですよ。

 この数値目標だって、基本的に、子供たちは先生にわからないようにいじめをするんですよ。いじめの本質です。それから、いじめかと聞いたって、ふざけですと言うわけですよ。本人も、ふざけのつもりでいじめをやっちゃっているわけですから。そこで上がってくる数値が半減したって、もともとほとんど意味はないわけです。それは、子供たちに聞く数値が半減したのならわかります、評価はできます。

 ですから、北海道のどこかの自治体が子供たちに全部アンケート用紙を配って封書で集めるみたいな手法をとられたのを何か報道でちょっと見たんですが、まさにもっと実効性のある方法をとって、結果として半分になったよ、みんな頑張りましたねと言うのなら別にそれも悪くはないと思いますけれども、だれが使っていくのかというところが僕は重要だと思います。

 もっと子供たちに任せていいんじゃないかという感じがしますね。

藤田参考人 基本的に、学校というのは競争が至るところに埋め込まれていると思います。日常的にも、運動会はもちろんそうでありますし、文化祭でも、いろいろなところで子供たちは競い合っております。学校間でも、先生方あるいは教職員、地域の人たちは、例えば、どこそこの運動会はにぎやかだ、おもしろかったとか、文化祭はどうであったとか、その他のいろいろなクラスマッチ、いろいろなことについて評価をしております。ですから、競い合い評価がないわけではありません。

 学力を中心にした数値目標につきましても、これも、高校、大学は、既に進学実績という数値目標が明確にあります。ですから、殊さらに、これはマーケットベースで行われているものでありますが、最近のいわゆる競争原理に立脚した成果主義というのは、官製の数値目標を、あるいは行政的な数値目標を学校もその枠組みの中に組み込んで、それを競い合わせるという方向に向かっていると思います。

 イギリスのサッチャー政権がやったこともそれでありますけれども、基本的に、私は、適切な評価をすることも、各学校や地域においていろいろな数値目標を立てることもあっていいと思いますし、そしてまた、競い合いをすることも必要なことでありますが、その競い合いは、実は日本の社会にはこれまで非常に豊かにあった。ところが、この十年ぐらいの改革の中で、地域や教職員が、自分たちの学校、地域の学校をよくしようとして、隣の町、そのまた隣の町と競い合っていた自発的な競い合いにふたをして、あるいは押しつぶして、官製の競い合いを今やらせている。これでは教育はゆがんでいく一方だというふうに思います。

塩川委員 尾木参考人に伺います。

 拝見しているレジュメの中で、「提言」の部分についても、若干、先ほどの意見の中でも補足でお話があったと思うんですが、例えば教育行政の改革です。今後どうしていくのかという点で、私が拝見したものの中でも、尾木参考人の御意見として、例えば、教育条件の整備、少人数学級のお話ですとか、あるいは子どもの権利条約の普及のお話などもありました。

 そういう点で、いじめ問題の解決を初めとした、今の教育現場のゆがみを正す上で教育行政が果たすべき役割についてお考えをお聞かせください。

尾木参考人 教育行政はそれぞれの地方によっては温度差が随分あると思いますけれども、現場感覚でいうと、一番ありがたいのは、管理監督だけではなくて、それももちろん重要な役割だと思いますけれども、それだけじゃなくて、現場の声をいかに受けとめて、そして、条件整備から働きやすい環境整備、それをどこまでやってもらえるかというのが僕は一番重要だというふうに思います。最近はそこのところが機能不全に陥ってきたなということをつくづく思うんですね。

 それで、国家的な規模で見ましても、日本の教育予算というのは、GDP比でもう最下位に近いようなところを低迷しています、かつてはもっと高かったんですが。だから、もっと教育にはお金を、国ぐるみ、含めてですけれども、大量にかけていかなかったら立ち上がっていけないというふうに思います。

 教育行政のところで、もうちょっと身近に引き寄せて言いますと、やはり重要なのは、さっきも言いましたけれども、相互に両方、教育行政もそれから学校現場も力量アップしていくような風通しのよさ、これが一番大事だろうと思います。

 ヨーロッパ諸国を視察しますと、行政だとか現場の校長の目が物すごく生き生き輝いているんですね。それは、例えば校長さんたちも、学校の先生方の代表だという自覚や、そういう選ばれ方をしています。

 日本の教師が、教育行政、何かもっと権限を与えてくれという意見もあるようですけれども、それはだれから与えられたのかというのが重要です。僕は、権限はいろいろあっていいだろうと思うんです。住民とか子供たちや現場の教師が、教育長、もっとやってくれ、そういう下からの圧倒的な支持で権限をいっぱい振るえるということであればいいですけれども、県の教育委員会から言われているので、文科省から言われているのでという感じの上意下達の権限であってはだめだろう。下からのをいっぱい受けとめて、やりますよと。もちろん逸脱はいけませんけれども。

 そういうとこら辺の風通しのよさと相互関係をどういうふうにシステムとしてもつくり上げていくのか、これが重要だと思っています。

塩川委員 最後に藤田参考人に伺います。

 先ほど、レジュメの最後のところに教育は未完のプロジェクトだということで、そのために必要かつ適切な改革を進めることと、条件整備及び支援の充実が重要だと。

 ここに込められている、一番訴えたいと思っておられることについてお聞かせください。

藤田参考人 つい最近、英語のジャーナルに改革について意見を寄せろと言われまして、それにつけた私のタイトルが「リフォーム・オア・チェンジ」です。

 我々は社会の変化に対応していく必要がありますし、そしてそのために適切な改革をする必要がありますが、改革が先行し、改革のための改革と言っていいような改革がこの十年間ほど行われ、強まっていると私は思います。そのために現場はますます忙しくなり、そして矛盾をはらんでいますから、その矛盾に対してどのように対応するかをめぐっても混乱を強いられ、さらには、先ほどのような未履修問題にしましても、短い時間の中で私立や予備校とどのように競争していくのかということを強いられ、そういう中で、先ほどから言っているモラルの低下が起こったというふうに言っていいと思いますから、基本的には、改革は必要ですけれども、あくまでも合理的で適切なものをやってもらいたい。

 そしてその一方で、先ほど尾木参考人も言われましたように、十分な財政的な支援も含めて、モラルサポートを含めてサポートしてもらいたい。

 教職員が誇りを持って仕事に取り組めない社会の教育は失敗すると私は思います。そのことを重視して改革を進めていただきたいと思います。

塩川委員 終わります。ありがとうございました。

森山委員長 次に、阿部知子君。

阿部(知)委員 社会民主党・市民連合の阿部知子です。

 私は、今回が本委員会で質疑をさせていただく初めてに当たります。そして、残念ながら、ちょうだいしたお時間が十五分でございますので、せっかくいろいろな参考人から本当に内容ある御意見を賜りましたが、時間の制約の関係で皆さんに質疑が行き渡らなかったら、どうか失礼をお許しくださいませ。

 冒頭、やはり喫緊の問題から伺わせていただきたいと思います。尾木参考人にお願いいたします。

 冒頭、きょうのお話の中で、いじめ問題について、伊吹文部科学大臣が、早急に、とにかく生きてほしい、死なないでというメッセージを出されたということを高く評価されておられました。私も本当にそのとおりだと思います。そして、願わくば、もっと彼の身近な、それこそ家庭とか先生とか、教育委員会でもよろしゅうございましょう、彼の生活圏の中でそういうSOSの場所があったらなと思うものであります。

 かく申しますのも、実は私は小児科の医師であります。そして、特に、私が現在議員活動をしております関係で一般の小児科ができませんこともあり、私に残された時間の中でやっておりますのが思春期外来という分野でございます。いじめや不登校、あるいは摂食障害、どんどん食べることをやめていく子供たち、緩やかな自殺だと私は思っておりますが、そういう子供たちに外来で出会う都度、私としては、とにかく生きてほしい、とにかくあなたは大事な存在だということを伝えるために日々努力しております。

 そういう中で私に見えてくる子供たちは、逆に、例えば、学校で友達と仲よくする態度あるいは先生の言うことを聞く態度、態度は取り繕うことができても、心の中が非常に空疎になっていて、特にその骨格にあるものは、自分が自分を好きになれない。英語ではセルフコンフィデンスといいますが、自己確信。自分が本当に自分を大事というふうに思えていない子供たちが多いように思います。

 それは、犯罪の加害者になる少年たちも同じでございます。きょういただきましたレジュメの中で、いじめられている側と同時に、いじめている子供たちにも、子供たち自身の大切さに気づかせる、気づいてもらうという作業が大事なんだということを書いておられますが、この点を重ねてお願いいたします。

尾木参考人 本当に僕がいじめ問題に取り組み始めたのは、今から二十年も前なんです。それで、この間一貫してずっと、特に八〇年代、いじめ問題は、日本人特有の、日本文化特有の陰湿な島国根性に原因があるんだみたいなことが随分言われたんですけれども、僕は、そんなばかなというので、実は、スウェーデンだとかノルウェーとかデンマークとか、あちらの方に視察に入りました。といいますのは、もともといじめという言葉を最初におっしゃったのは、スウェーデンのハイネマンという精神科のドクターなんです。

 そのときに非常に思ったのは、なぜ、人権と福祉が最も進んでいる北欧諸国で、いじめ問題が一番最初に問題になったんだろうと。それで、はっと気がついてみたら、それは、いじめの加害者の人権侵害という問題なわけです。人権侵害しても平気な子供たちをつくったら、国は大変な問題なわけです。

 ですから、例えば北欧諸国を視察しますと、いじめ相談のところ、加害者側の親からの相談が二割ぐらいあるんです、アメリカでも十数%ありますけれども。日本は、僕は二十年間いじめ問題にずっとかかわってきて、たったお二人の方だけです、加害者から相談があったのは。うちの子がいじめをするような子になった、人権とか人の心の痛みがわからない子になった、どうしたらいいんでしょうと言われたのは、たったお二人なんですよ。

 これはA君、B君とか子供の問題というより、私たち大人自身も、人権感覚のところ、いじめをする、そういう人権侵害はやはり許されないんだ、それは恥ずかしいことなんだよというのをもっと受けとめなきゃいけないというふうに思っています。そこがまだまだ我が国は未成熟じゃないかなという気がしています。

阿部(知)委員 私は、その観点から、実は教育基本法の根幹も、人権ということ、それも将来の主権者たる子供たちが、みずからの人権ということも含めて、他者の人権も含めて、どうやってはぐくみ育てていくかということに真髄があり、教育基本法、現行のそれは、まさしくそのことをうたったものであるんだと思うのです。

 主権在民という言葉の中にある深い意味は、結局、憲法二十六条に規定されている、あらゆる国民がひとしく教育を受ける権利ということと同時に、主権者としてみずからをはぐくみ育てていく。近年、ここに子どもの権利条約ということが加わってきて、もっとさらに子供たちが人権の主体であるということをメッセージすべき役割を私たちは負っておる。それは、決してわがままとかいう問題とは違って、やはり、みずからに人権があり、同様に他者に人権がある。人としての当たり前の規範なんだと思います。

 先ほど参考人の中でも述べられましたが、今教育基本法を変えることが、果たして、こうした子供たちにとっての人権という問題を大きく後退させまいかと懸念するものでありますが、その点について参考人の御意見を賜りたいと思います。

尾木参考人 子どもの権利条約、御承知のとおり、我が国は一九九四年に批准して、五月から発効しています。教育と子供の現場にいる私たちから見ると、条文の中にも、大人が周知徹底しなければいけないという条文がある珍しい法律ですけれども、ところが、それがどれだけされたんだろうか。この点での政府の力の入れなさというのは、やはり際立っているんじゃないか。もちろんお考えはあると思いますけれども、子供たちに知らせない限り伝わっていかない私たち大人の責任ということを考えなきゃいけない。

 そして、あれは一九九八年の六月でしたか、国連の子どもの権利委員会から勧告を受けていますね。我が国の教育制度そのものが極めて競争主義的で、子供たちにストレスを引き起こし、そして何と定義しているかというと、人格障害を引き起こしかねない、こういう表現になっていて、僕なんかどきっとして、そこまではと思ったら、結構それに近いような今状況にあります。勉強のできるおとなしい子供たちが凶悪犯罪に次々と手を染めていくというのは、今まで我が国ではなかったことです。

 そして、この間の〇四年の勧告で、まだきちっとやっていませんねという勧告をまた受けましたけれども、こういう国はないですよ。だから、国際法で、国内法よりも上位で、上回っているわけですから、これはやはり謙虚に受けとめて、それぞれの地方自治体も、それから国も徹底させていくということ、これが極めて重要だと思います。

阿部(知)委員 私も、今の尾木参考人の御意見に本当に賛同するものであります。そして、この特別委員会はそうしたことの本当の審議をしていただきたい。

 なぜ我が国は、これだけ子供が親を殺し、親が子供を殺し、そして、おっしゃったように、表面はよい子を態度でとっているはずの子供たちがそうした主体になっております。これ以上、態度、態度、態度で評価されていった果てに、心がどこに埋め込まれていくのか、私は深く懸念するものでありますので、今いただきました御意見もまた委員会の中でも取り上げさせていただきながら、もっと深めていきたいと存じます。

 なお、尾木参考人が「提言」の中に述べてくださった、各学校現場や第三者機関の設置や教育行政がもっと開放的であることなどについては、改めて、本当にこのように取り組んでいただけたらな、また、取り組まねばならないと思う次第であります。

 引き続いて、藤田参考人にお願いいたします。

 藤田参考人からいただきました資料の裏側に、さまざまなこの間の教育格差のデータが載せられております。恐らくお時間の関係で長くお触れになれなかった分野かと思います。

 私は、ここに載せられたデータのように、これからもし教育の責任が、第一義的に子供の教育の責任は家庭というふうに置かれた場合、私は小児科医ですから、御家庭のあり方、やはり第一、子供を受けとめ、抱き締め、本当に愛護するのは家庭であると思いますが、しかし、家庭の経済力の差や、あるいは、今御家族が御病気であるというような子供をたくさん経験いたします。

 そうなると、家庭の第一義的責任と言われながら、そこに経済格差が生じ、特に足立区の場合などは、教育にかかわるいわゆる費用のための支援を受けねばならない家庭が四十数%あるというところにそのまま子供をすぽんと預けて、子供たちの教育を受ける権利はどうなるんだろうと懸念されます。この点について参考人の御意見を賜りたいと思います。

藤田参考人 お手元の資料の裏面に図表を幾つか載せております。本来ならこれも説明したかったんですが、図表を今一々説明しませんが、「「リッチ・フライト」と義務教育解体の危機」というふうに右側のグラフの真ん中に書いてあります。このリッチ・フライトという言葉自体は私の造語でありますが、もともとアメリカで最初に使われ、現在では世界的にこういうことが起こっているということで言われるホワイトフライトをもじったものであります。

 アメリカにおきましては、いわゆる人種差別やあるいは所得格差等がある中で、大都市中心部に人種的なマイノリティーの低所得層が集中するようになる。そういう中で白人の上中流層が郊外に脱出していくということが大規模に起こった結果、都市中心部を中心にした公立学校の本当にひどい疲弊が起こった。それに類することが、現象としては日本でも今起こり始めている。これはアメリカだけではなくて、実は世界的にこういったことがこの十年ほど目立つようになっているということで、世界的にホワイトフライトと言われております。

 御指摘のように、食育の問題でありますとか、いろいろな面で家庭が極めて重要であることは言うまでもありませんけれども、そしてまた家庭が支えることが重要ですが、それでもいろいろな事情で、経済的にももちろん、その他の面でも十分な配慮とケアを受けられない子供たちが、学校においてはひとしくだれも差別されることなくケアされるというのがこれまでの日本の教育基本法の基本でありましたし、同時に、日本の教育がそれを極めて重視して、すべての子供たちを、例えば、みんな一緒に高校を卒業しようという言葉に出ているように、それが今までの基本でした。その基本を崩す方向に向かっていると私は思いますし、そして教育基本法案も、そういう解釈、方向を推し進める可能性のある文言と考え方が組み込まれているというふうに見ております。

阿部(知)委員 私もそのような危機感を本当に共有いたします。

 実は、赤ちゃんが病院で誕生されて、おうちに帰るために御両親にお返しするときに、御両親がしっかりこの子を支えてほしい、そしてこの子が幸せであってほしいと思って私どもはお一人お一人に赤ちゃんをお手渡しするわけです。でも、またその中で虐待が起きたり、家庭の経済力の差が明らかに子供に影響を及ぼしている。私が見ても、特にこの五年、さかのぼれば十年ほどだと思いますので、逆に、政治がなさねばならないことは、そうした状況をどう援助するか。就学援助もそのためのものでありましたが、これは国が前年度からやめにしてしまったというような経緯もございます。

 何をなすべきで何をなすべきでないということをこの委員会でももっとしっかりと御論議いただければ子供たちの未来も開けてまいるものと思います。

 以上で私の質疑を終わらせていただきます。ありがとうございました。

森山委員長 次に、糸川正晃君。

糸川委員 国民新党の糸川正晃でございます。

 参考人の皆様におかれましては、お忙しい中御参加いただきまして、また大変貴重な御意見を賜りましたこと、本当に感謝申し上げます。

 私も、数点でございますが、質問をさせていただきたいというふうに存じます。

 まず、尾木参考人にお尋ねさせていただきたいんですけれども、本日、いじめの問題につきましていろいろと参考になる御意見を賜ったわけでございますが、現行の教育基本法、または改正されるであろう教育基本法、民主党案、与党案問わず、いじめの問題がどの部分に当てはまって、どういうふうに解決につながる、教育の中に落とし込まれているというふうにお考えでしょうか。

尾木参考人 なかなか難しい御質問だと思うんですけれども、いじめの問題と絡めながら申し上げますと、一つ懸念されるのは、第十七条の振興基本計画のところですね。

 そこで、既に議論されていますけれども、つまり、例えばいじめは五年間で半減させるとか、その意気込みはすごくわかるんですね。ありがたいと思いますけれども、ただ、そういうことを振興計画で国が決めてしまったら、先ほどから何回も申し上げていますけれども、今の日本の教育行政の上意下達の中では、機械的にずっとおりていくわけですね、末端まで締め上げられていくという表現はきついですけれども。そして、それに連動した学校評価システム、人事考課のシステムが導入されています。これは五、六年の変化なんですね、この間、教育改革の中で行われて。

 今、先生方の子供時代とは別世界のような教育界になっています。そのときに、僕は、また今繰り返しているこのいじめが見えなくなっていくような事態というのがさらに進んでいくんじゃないか。そして、教育委員会が出てこられると、遺書のことを手紙とあくまでも言い張られるようなことになってしまうんじゃないかという、本当に人間性あふれる教育行政というのが行われない。最も人間的に感じたのは、この間の文科省の深夜の記者会見ですよ。これはもう本当にぎりぎりの線まで来ちゃっていて、もっと下のところがああいう姿で動いてくださらなければ本当は困るわけですね。そこが危険だというのが一つですね。

 それから、今回の第二条にありますように、目標のところ、目標を掲げることがすべていけないとは僕は思いませんけれども、目標が態度でいいのかという問題です。これはまた、我々、現場感覚でいいますと、態度というのは、本当に態度なんですよ。心とか中身ではないわけですよね。そうしたときに教育が空洞化していくし、態度を要求していくと、そこには管理が生まれてきて、それこそ、徹底したチェックとまた数値化ですよ。そういうようなので、現場の感覚と改正案がうまくかみ合っていないような気がしますね。

 以上です。

糸川委員 それでは、若月参考人にお尋ねしたいと思うんですが、先ほどの陳述の中では、今まさに変更することが教育の環境の中での整備につながるんだ、そういうお話だったわけでございます。今、こういういじめの問題ですが、そういうものがだんだん露呈してくる中で、今の尾木参考人に対する質問とほぼ同一のものなんですが、どの部分で教育行政にこれが役に立つという部分がございましたら、お話しいただけますでしょうか。

若月参考人 教育基本法の条文でこうなったからすぐに時代がこうなるといったような、本来この法案はそういった性格のものではないと思います。

 ただし、先ほども申し上げましたけれども、例えばいじめを例にとった場合には、いじめといったようなものに対する対応の仕方といったようなものが必ずしも今まで学校で組織的に行われてきただろうか、一部の先生だけが苦労する、一部の人だけに仕事が集中する、そういったことはなかっただろうか、現実にはあったわけですね。それをもう少し組織的にやってくださいよと。

 これは、いじめということで限定はしていませんけれども、今回の政府案には、体系的な、組織的な対応、これが必要なんだというようなことが書いてございますし、また、学校生活を営む上で必要な規律といったようなものも一つの理念としてここに述べられているわけです。

 こうしたことがブレークダウンされて、それぞれの学校現場でこれを背景にブレークダウンされて、例えば、いじめならいじめの指導といったようなものが今まで以上に充実していくということは十分に期待ができるものだろう、こういうふうに思っております。

糸川委員 ありがとうございます。

 ただ、教育現場のあり方と教育委員会のずれというのがどうもあるように感じるわけでございまして、これは池田参考人、若月参考人、尾木参考人、藤田参考人の四名の方にお聞きしたいんですが、家庭の教育のあり方と教育現場の教育のあり方と教育委員会の考える教育のあり方、そして国の考えている教育のあり方のずれというものがそれぞれあるんだろうと思うんですが、これは感覚で構いませんので、どういうずれがあるのか、お聞かせいただけますでしょうか。

池田参考人 ちょっと個別のことは私も十分に理解し得ていないところがありますが、ずれがあると申しますのは、現象的な面からいきまして、いじめの問題が起こる、そのいじめ対策につきまして、やはりそれぞれが、学校当局はもちろんのこと、両親、家庭でございますね、それから行政という立場、これは教育委員会もありましょうし、文科省ということもありましょう、そういう対応が現状の中では的確になされているかといえば、必ずしもそうではない。どこかに問題があるというふうに私は思うわけであります、どこが悪いということじゃございませんが。

 そういうこと、これは企業経営におきましても、何か現象が起きたときに、それをつぶしにかかりますが、幅広く複合的にいろいろな問題があって一つの現象が起きているということにつながりますので、私は、こういう一つの現象あるいは未履修の問題にしましても、起こってきた事実から何か原因を追求していく流れの中で、やはりそごを来しているものが幾つか出てくると思います。それをやはり制度面あるいはいろいろな面でつぶしていくことが私は必要ではなかろうか。そういったことを今再生会議におきましても論議をさせていただいて、むしろ現象面からくる、あらゆる制度面から、あるいは個別の問題もございます、特に家庭の問題も大変大きい一因であろうかというふうにも私は思っております。

 ただ、家庭が悪いということではなくて、やはりその背景には企業というものもあるわけですから、私は、そういうところまで、今回、あらゆる社会の仕組みを、教育ということからあらゆる仕組みに落とし込んでいく、そういういいきっかけになるのではないかというふうに思って、そういうふうにまた努力をさせていただきたいというふうに私は思っております。

若月参考人 御質問の趣旨をもしかすると正しくとらえておりませんで、とんちんかんな答弁になるかもしれませんが、お許しをいただきたいと思うんですけれども、例えば、学校教育におけるいろいろな物の考え方と家庭教育におけるさまざまな物の考え方の違い、私は、これはあるのは当たり前だろうと思うし、それを何もむしろそろえない方が普通だろう、こう思うわけです。

 ただ、例えば、今回の政府案の提案を拝見いたしますと、個別具体的な内容について合わせるというのではなくて、今おっしゃったように、さまざまなずれがある、そうであるならば、家庭は自分の社会的なポジションといったらいいでしょうか、役割といったらいいでしょうか、責任といったようなものをそれぞれがやはりもう一回考え、整理することが大事なんじゃないですかといったような条文がここに盛られているわけですね。

 私は、そういう意味では、委員が御指摘になっているようなそういったさまざまなずれがあるから、誤解のないように申し上げますが、そういったようなものの内容をそろえるんじゃなくて、もう一度、それぞれの立場でもって物事をきちんと整理し、考え直しましょうよという提言が含まれている、そういう意味で大変意味があるだろうな、こんなふうに思います。

尾木参考人 ずれは実に大きなものがあると思います。特に、家庭、親御さんたちと学校、それから地方教育行政、国との間には大きなギャップがあります。

 教育現場で私たちはその親御さんとのずれを何と言っているかといいますと、困った親というキーワードで語られているんですね。

 例えば、携帯電話は学校への持ち込み禁止だよというのが、授業中鳴っちゃって、三日間あるいは一週間預かるとしますよね。そうすると、割り算して三日間分の基本料金を返せというようなことを言われたりして。これは、どこの地方へ行っても、中高校問わず皆さんおっしゃる現場の悩みです。かつてそんなことはあり得なかったわけですよね。それが起きてきていますよね、そういうエピソードを語れば二時間ぐらいかかっちゃうぐらいあるんですけれども。

 ところが、困った親と私たちは言うんですが、実はその親御さんは本気で、親も困っているんだろう、どうしていいかわからないから、そういう無理難題だとか、試験の成績が悪いと先生の教え方が悪かったんだとねじ込んできてもう一回試験をやり直せとか平気でおっしゃるわけですけれども、それは、やはり本当に親も困っちゃっていて、昔だったら、そういうときに、隣近所の先輩のお母さんなんかに、尾木先生はあんなふうに言うんだけれどもと愚痴をこぼして、そうしたら、いや、学校の考えはこうだよとかいって緩衝帯があったんですけれども、今はダイレクトに、しかもお父さんまで巻き込んで、子育て参加というのは聞こえはいいかわかりませんが、お父さんまでがちょっとヒステリックになって、わあっとがなり立てられる、こういう状況になっています。

 ところが、そういう親御さんたちの願いは何か、僕は調査をしたことがあります。学力をつけてほしいだとか、ルールを守ってほしいだとか、あるいは自立心をつけてほしいとか、人の心の痛みのわかる優しい子になってほしいとか、七、八項目を設けました。そして、何が一番多かったかというと、これは驚きなんですね、実は、人の心の痛みがわかる優しい子になってほしいというのが六割、七割です。一番少なかったのが、これまた驚かれるかわかりませんけれども、学力をつけてくれです。これは、全国平均でいうと七・八%しかありませんでした、私の研究所の調査では。

 これは、実際、挙手調査をやってみても本当にそうなんですよ。七百人ぐらいおられても、学力をしっかりつけてほしいというところで手が挙がるのは七、八人なんですね。つまり、やはり親御さんたちが求めているのは、心優しい子、いじめなんかをしない子なんです、本当の本当のところでいえば。

 ところが、学校の先生方に調査をすると、六割、七割が、学力を要求しているというところで手がどっと挙がるんです。ただ、これも地域差があって、教育委員会が上手に現場の声を聞いておられる行政はそうではなくて、親は心を求めているというところで的確に判断されますけれども。

 そういうとこら辺で、親の願いと、行政、学校の今取り組んでいる、学力向上というところに一偏化していますよね、ここは大きなずれがあると思います。

藤田参考人 私も、基本的にずれがあるのは当然だと思います。特に、家庭と学校以上との間にはずれがあります。家庭は、尾木参考人も言われましたように、膨大な数の、各学校単位でも、複数の、多くの親御さん、家庭から成り立っておりますから、その関心や願いというものが違っていても、多様であっても当然でありますから、それを集合的に、学校として、教育委員会として、地域として、あるいは国全体としてどうするかというときにはいろいろな調整が必要になりますから、その調整をどういうふうにやっていくかが一つは重要だと思います。

 しかし、そうはいいましても、基本的にはそういう願いを具体的に実現していくのが学校であり地域でありますから、そこにおろすべき権限や裁量権というものは可能な限りそこにおろし、そしてその人たちが創意工夫をしながら、そしてまた協力し、あるいは時には対立するような議論をしながら学校をつくっていく、教育を充実していくことが重要で、それを支援する仕組みを工夫していくことも重要だというふうに考えております。

糸川委員 大変貴重な御意見をありがとうございました。今後の審議の役に立てたいというふうに思います。

 ありがとうございました。終わります。

森山委員長 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、参考人各位に一言御礼を申し上げます。

 参考人の皆様には、貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。委員会を代表いたしまして、厚く御礼を申し上げます。(拍手)

 参考人各位におかれましては、御退席いただいて結構でございます。

    ―――――――――――――

森山委員長 この際、両案審査のため、去る七日から昨八日までの二日間、第一班宮城県、栃木県及び第二班三重県、愛知県に委員を派遣いたしましたので、派遣委員からそれぞれ報告を聴取いたします。町村信孝君。

町村委員 三重県及び愛知県に派遣された委員を代表いたしまして、その概要を御報告申し上げます。

 派遣委員は、私、町村信孝を団長として、理事鈴木恒夫君、牧義夫君、委員猪口邦子君、若宮健嗣君、北神圭朗君、坂口力君、保坂展人君の八名であります。

 三重県における会議は、昨八日午前中、津市の都ホテルにおいて開催し、まず、私から、派遣委員及び意見陳述者の紹介並びにあいさつ等を行った後、教育サプライ学院長福士英実君、四日市大学学長宗村南男君、元三重県教育委員会教育長宮本長和君の三名から意見を聴取いたしました。

 その内容について簡単に申し上げますと、

 まず、福士君からは、政府案では教育の目標がより具体的になり、生命をたっとび我が国と郷土を愛するなどの部分がいじめ対策や愛国心を諸外国並みに持つことができることにつながること、現在の公教育への危惧感及び株式会社立の学校や塾が生徒の心のケア、学力の向上及び社会に役立つ人間の育成に重要な役割を果たすものとなること、

 次に、宗村君からは、大学及び私学について規定が新設されたことを評価するとともに、大学は教育と経営のバランスをとって社会に貢献することが大切なこと、私学助成を充実する必要があること、

 最後に、宮本君からは、拙速な教育基本法の改正が教育現場の混乱に拍車をかける懸念があること、憲法改正に先立っての教育基本法の改正は疑問に思うこと

などについて意見が述べられました。

 次いで、各委員から、陳述者に対し、教育についての責任体制、教育行政の家庭教育への関与のあり方、教育委員会の存在意義及びその組織改革についての見解、教育基本法の改正が教育現場に及ぼす影響、愛国心に関する規定に対する見解、学校教育における宗教教育のあり方などについて質疑が行われました。

 次に、愛知県における会議は、昨八日午後、名古屋市の名古屋国際ホテルにおいて開催し、まず、私から、派遣委員及び意見陳述者の紹介並びにあいさつ等を行った後、岐阜大学教授北俊夫君、静岡大学教授馬居政幸君、三好町青少年健全育成推進協議会委員伊豆原充君、東京大学教授高橋哲哉君の四名から意見を聴取いたしました。

 その内容について簡単に申し上げますと、

 まず、北君からは、我が国や郷土のすぐれた伝統や文化を体験し、理解を促すことが国際社会、外国の人たちとの交流に重要なこと、伝統や文化を大切にする教育と国際理解を深め国際感覚を磨く教育などのバランスをとって新しい愛国心を育てる教育の構築が求められていること、

 次に、馬居君からは、急激に進行するグローバル化に対応した国と民との関係を再構築する必要があること、少子化や家庭の教育力を問題とする前に家庭をつくる関心、意欲、態度等を教え育てることから始めなければならないこと、

 次に、伊豆原君からは、教育問題が起きる原因の多くは、教えることに重点が置かれ、育てることが軽視されてきた結果であること、子供は自分の力で学び育つ力を持っており、そのみずから学び育つ力を待つことが日本の教育に抜け落ちてきたこと、

 最後に、高橋君からは、今なぜ教育基本法を改正しなくてはならないのか理由が不明であること、現行教育基本法の立案に関与した政治哲学者南原繁教授の「日本における教育改革」という文章を政府案に賛成するすべての人に見てもらいたいこと

などについて意見が述べられました。

 次いで、各委員から、陳述者に対し、教育基本法改正をめぐる議論の経過に対する見解、自己及び自身の所属する社会に対する自信につながる愛国心教育のあり方、公教育における宗教教育の取り扱い、教育現場の抱える諸問題についての解決策、少子化と戦後の教育のあり方との関係、教育基本法の改正論議と教育再生の論議を一体的に行う必要性などについて質疑が行われ、滞りなくすべての議事が終了した次第であります。

 以上が会議の概要でありますが、議事の内容は速記により記録いたしましたので、詳細はそれによって御承知願いたいと存じます。議事録は、本委員会議録に参考として掲載されますようお取り計らいをお願いいたします。

 今回の会議の開催につきましては、多数の関係者の御協力により極めて円滑に行うことができ、深く感謝の意をあらわす次第であります。

 以上、御報告申し上げます。

森山委員長 次に、斉藤斗志二君。

斉藤(斗)委員 宮城県及び栃木県に派遣された委員を代表いたしまして、団長にかわり私からその概要を御報告申し上げます。

 派遣委員は、森山眞弓委員長を団長として、理事稲葉大和君、中井洽君、西博義君、委員西村智奈美君、石井郁子君、糸川正晃君及び私、理事の斉藤斗志二の八名であります。

 宮城県における会議は、昨八日午前中、仙台市の仙台ホテルにおいて開催し、まず、団長から、派遣委員及び意見陳述者の紹介並びにあいさつ等を行った後、宮城県PTA連合会会長櫻中辰則君、郡山地区連合町内会長・郡山地区社会福祉協議会長千葉胞義君、仙台市議会議員木村勝好君、宮城教育大学名誉教授中森孜郎君の四名から意見を聴取いたしました。

 その内容について簡単に申し上げますと、

 まず、櫻中君からは、早寝早起き朝御飯運動のような学校、家庭、地域の連携協力が重要であること、

 次に、千葉君からは、家庭教育の重要性、幼児教育の充実、社会教育の振興を教育基本法に盛り込むべきであること、

 次に、木村君からは、家庭、地域での教育、職業教育、適正な宗教教育、日本を愛する心の涵養を教育基本法に規定するべきであること、

 最後に、中森君からは、教育の荒廃は憲法にのっとった現行法を遵守しないからであり、現行の教育基本法を守り生かしていくべきであること

などについて意見が述べられました。

 次いで、各委員から、陳述者に対し、教育基本法早期改正の必要性、教育委員会の中立性など教育行政のあり方、義務教育年限の見直し、宗教教育のあり方、家庭教育の現状と改善点、道徳、愛国心などが国民に強制される懸念、教育基本法を改正することについての国民の受けとめ方などについて質疑が行われました。

 次に、栃木県における会議は、昨八日午後、宇都宮市の宇都宮グランドホテルにおいて開催し、まず、団長から、派遣委員及び意見陳述者の紹介並びにあいさつ等を行った後、宇都宮市議会議員杵渕広君、宇都宮大学教育学部教授渡邊弘君、芳賀保護区保護司渋井休耕君の三名から意見を聴取いたしました。

 その内容について簡単に申し上げますと、

 まず、杵渕君からは、子供にとって家庭が守ってくれるとの安心感が重要であること、各地方の特色ある教育を行うために、県から市へ、市から学校への権限移譲が必要であること、

 次に、渡邊君からは、政府案について、学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力、教員の資質向上は学部の早期から行うことが特に重要であること、

 最後に、渋井君からは、国と郷土を愛する心を養うとの表現とすべきであること、政府案、民主党案ともに評価できる点があり、慎重に議論して、よりよい改正を行うことが必要であること

などについて意見が述べられました。

 次いで、各委員から、陳述者に対し、現行法、政府案、民主党案それぞれに対する評価、望ましい教育行政のあり方、これからの教員に求められる資質、タウンミーティング等において自由な発言を行うことの重要性、家庭教育に関する保護者を対象とした教育の必要性、教育に関する施策について数値目標を導入することの是非などについて質疑が行われ、滞りなくすべての議事が終了した次第であります。

 以上が会議の概要でありますが、議事の内容は速記により記録いたしましたので、詳細はそれによって御承知願いたいと存じます。議事録は、本委員会議録に参考として掲載されますようお取り計らいをお願いいたします。

 今回の会議の開催につきましては、多数の関係者の御協力により極めて円滑に行うことができ、深く感謝の意を表する次第であります。

 以上、御報告申し上げます。

森山委員長 以上で派遣委員からの報告は終わりました。

 お諮りいたします。

 ただいま報告のありました第一班及び第二班の現地における会議の記録は、本日の会議録に参照掲載することに御異議ありませんか。

    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕

森山委員長 御異議なしと認めます。よって、そのように決しました。

    ―――――――――――――

    〔会議の記録は本号(その二)に掲載〕

    ―――――――――――――

森山委員長 次回は、明十日金曜日午前八時三十分理事会、午前九時委員会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。

    午後零時十四分散会

     ――――◇―――――

  〔本号(その一)参照〕

    ―――――――――――――

   派遣委員の宮城県における意見聴取に関する記録

一、期日

   平成十八年十一月八日(水)

二、場所

   仙台ホテル

三、意見を聴取した問題

   教育基本法案(第百六十四回国会、内閣提出)及び日本国教育基本法案(第百六十四回国会、鳩山由紀夫君外六名提出)について

四、出席者

 (1) 派遣委員

    座長 森山 眞弓君

       稲葉 大和君   斉藤斗志二君

       中井  洽君   西村智奈美君

       西  博義君   石井 郁子君

       糸川 正晃君

 (2) 意見陳述者

    宮城県PTA連合会会長 櫻中 辰則君

    郡山地区連合町内会長

    郡山地区社会福祉協議会長           千葉 胞義君

    仙台市議会議員     木村 勝好君

    宮城教育大学名誉教授  中森 孜郎君

 (3) その他の出席者

    衆議院調査局教育基本法に関する特別調査室長  清野 裕三君

    文部科学省大臣官房審議官           尾山眞之助君

     ――――◇―――――

    午前九時開議

森山座長 これより会議を開きます。

 私は、衆議院教育基本法に関する特別委員長の森山眞弓でございます。

 私がこの会議の座長を務めさせていただきますので、よろしくお願いいたします。

 この際、派遣委員団を代表いたしまして一言ごあいさつ申し上げます。

 皆様御承知のとおり、当委員会では、第百六十四回国会、内閣提出、教育基本法案及び第百六十四回国会、鳩山由紀夫君外六名提出、日本国教育基本法案の審査を行っているところでございます。

 本日は、両案の審査に当たり、国民各界各層の皆様方から御意見を承るため、当仙台市におきましてこのような会議を催しているわけでございます。

 御意見をお述べいただく皆様方におかれましては、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございました。どうか忌憚のない御意見をお述べいただきますようによろしくお願い申し上げます。

 それでは、まず、この会議の運営につきまして御説明申し上げます。

 会議の議事は、すべて衆議院における委員会議事規則及び手続に準拠して行い、議事の整理、秩序の保持等は、座長であります私が行うことといたします。発言される方は、その都度座長の許可を得て発言していただきますようお願いいたします。

 なお、御意見をお述べいただく皆様方から委員に対しての御質疑はできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願います。

 次に、議事の順序について申し上げます。

 最初に、意見陳述者の皆様方からお一人十分程度で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑に対してお答え願いたいと存じます。

 なお、御発言は着席のままで結構でございます。

 次に、本日御出席の方々を御紹介いたします。

 まず、派遣委員は、自由民主党の斉藤斗志二君、稲葉大和君、民主党・無所属クラブの中井洽君、西村智奈美君、公明党の西博義君、日本共産党の石井郁子君、国民新党・無所属の会の糸川正晃君、以上でございます。

 次に、本日御意見をお述べいただく方々を御紹介いたします。

 宮城県PTA連合会会長櫻中辰則君、郡山地区連合町内会長・郡山地区社会福祉協議会長千葉胞義君、仙台市議会議員木村勝好君、宮城教育大学名誉教授中森孜郎君、以上四名の方々でございます。

 それでは、まず櫻中辰則君に御意見をお述べいただきたいと存じます。

櫻中辰則君 おはようございます。宮城県PTA連合会の会長を務めております櫻中と申します。どうぞ本日はよろしくお願いいたします。

 教育基本法、教育については、現子供を持つ親としては本当に今重要なことだと思っております。私たちの組織でも、やはり話に出るのは子供たちを取り巻く社会環境のことです。IT社会の進展や少子高齢化、また核家族化の進行など、変化に伴い、家庭や地域社会の教育力の低下などが必ず話に出てきております。現行の教育基本法は昭和二十二年に制定されたということから、当時の教育環境を考えても、やはり時代の変化は明らかだと思っております。

 私たちPTAとしては、今宮城県が特に推進しております家庭における早寝早起き朝御飯、基本的な生活習慣の定着ということで、文部科学省さんの方でもこのことを全国的に展開しております。

 私たちの世代からしてみても実に当たり前のことだと感じておりましたが、やはり今の世の中、早寝早起き朝御飯、まず早寝のことに関しては、子供を寝かしつけるという、子供とは寝るものだということが本当にわからない世代がどんどん出てきていることも確かであります。また、朝御飯についても、学力の低下等もよく言われていますけれども、朝御飯を食べない子供ではなくて、やはりこれは親なんですね。親の方が、朝御飯を食べるものだということの認識がない世代もどんどん出てきていることも確かでございます。

 このことからも、やはり家庭の教育、生活をする上での家庭の教育というのは非常に大切なことだと私は思っているところであります。

 また、同じように、宮城県でも進めております、家庭、学校、地域、この連携で進める協働教育というのがあるんですが、これもやはり、学校の先生だけではなく、地域力を生かしまして子供に対して教育をしていく、本当の先生ができないことを地域が教えていくということもやっております。このことについても、私たちPTAの連合会としては、そちらの方と一緒に進めていこうという話になっております。

 このことについても、先ほどから申し上げていますように、家庭、学校、地域の連携、これがやはり今必ず必要なときになっているかなと思っております。

 教育基本法についての改正案ということで、こちらの方を見させていただきましたけれども、普遍的な理念を継承しながらも、今ずっと申し上げましたように、家庭が教育の原点、家庭教育の役割、また幼児教育の重要さ、そして家庭、学校、地域の連携の重要性などが言われており、教育の柱として、今の社会環境を考えるととても大切なことだなと私は思っております。

 現在、報道等でもいじめ等のことが出ております。ただ、教育再生と言われる今、やっと教育に対する関心が高まっていることだと私は感じております。本当にこれはよいことだと私は思っております。この改正案のことは、まさに教師だけではなく、子供たちを取り巻く環境を社会全体で考えていくとてもよいきっかけではないかなと私は思っております。

 どうしても若年層の社会性なんかも、その課題が非常に山積しております。今の大人をどうのこうのというのはあるとは思いますけれども、次の世代、私たちの立場としてみれば次の親をつくるためにも、現子供たちの教育というのはやはり非常に大切なことだなと思っております。地域力を生かしながら次の世代をつくっていくという、この案に対しても本当に非常に関心が高いところで、教育に対する目が向いてきているということを非常に喜ばしく感じております。

 以上でございます。(拍手)

森山座長 ありがとうございました。

 次に、千葉胞義君にお願いいたします。

千葉胞義君 先ほどのごあいさつで、忌憚のない御意見というようなお話でございましたので、忌憚のない意見を申し述べさせていただきたい、こう思っております。

 本日、いろいろ資料として法案をいただきましたけれども、常日ごろこういうことについての中に埋まっているわけでございませんので、この法案などについては精通しているというわけではございません。したがいまして、私、今申し上げたいのは、今までの立場あるいは今の立場から考察したことなどについて申し述べてみたいなというふうに思います。

 昭和二十二年制定の教育基本法、五十九年を経ておるということでございますが、その間、教育をめぐる環境は非常に変化し、深刻化しているというのは、もうだれしもが認めているところでございます。経済的な要因による教育格差であるとか、学力とか体力の低下であるとか、それから児童の虐待であるとか、今盛んに言われるいじめとか、犯罪の増加とか、少子高齢化とかなどなど、ほかにもございますが、こういうことが発生し、深刻化しておる。

 したがいまして、そういったようなことを思いますと、五十九年も経ているこの教育基本法を、やはり状況の変化に伴って、法の補完といいましょうか、あるいは補強といいますか、そういうことが当然必要になってくるというふうに私は思います。特に、社会全体の教育力の低下ということが青少年の問題発生に非常に大きくかかわっている現状であるということであります。生涯教育とか、学校、家庭、地域一体となった活動展開が必要になるのではないかというふうに思っております。

 そこで、今申し上げましたように、今までのあるいは今の私の置かれている立場から考察してみて、特にこの教育基本法にお願いしたいのは、一つは家庭教育。何といっても社会生活の一番最小の単位は家庭教育だろう、こういうふうに思っております。したがいまして、家庭において子供の教育をしっかりとしてもらう。習慣を身につけさせるといったようなこと、それから自立心を育成してもらう。子供ばかり責めないで、家庭教育、しっかりと親が認識して、そして子供をしっかりと育てる、そういう力を親に持ってもらいたいというような、そういう考えでございます。こういうことをぜひ入れていただき、つけ加えていただきたいというふうに思います。

 第二点目は、幼児期の教育ということでございます。これは、三つ子の魂百までも、こういうふうに言われておりますが、やはり人格形成というのはこの幼児期におけるということが非常に大事であると思っておりますので、ぜひこういう点もひとつお願いをしたいというふうに思うわけでございます。

 第三番目は、学校、家庭それから地域住民の相互の連携協力ということをぜひ盛ってもらいたいなというふうに思っております。特に、現在、学校だけでもどうにもならない、家庭だけでもどうにもならない、やはり地域の人たちとお互いに連携をしながらやっていけば、いろいろな問題の解決、あるいは子供を守るとかということに非常に効果的でないかというふうに思っておるところでございます。このことについては、今もある部分については行われております。これが、ある時期だけでなくて、一つの法に盛り込んでいただいて、そしてそれをずっと堅持していくといったような、そういう心が大事でないかなというふうに思っております。

 それから、社会教育でございます。社会教育の振興ということについて、ぜひこれも入れていただければというふうに思っております。社会教育については、学習の機会を提供するとか情報を提供するとかというようなことを整備してやっていく、そういうことをぜひこの法案に盛っていただければありがたいというふうに思っているわけでございます。

 常日ごろ考えているようなことを今申し述べましたが、何とぞよろしくお願いを申し上げたいというふうに思っております。

 以上です。(拍手)

森山座長 ありがとうございました。

 次に、木村勝好君にお願いいたします。

木村勝好君 おはようございます。仙台市議会議員の木村勝好です。本日は、意見陳述の場を与えていただきまして、まことにありがとうございます。

 私は、地方議会に身を置く者として、また、自分の子供が小中学生だった時期に、十三年間にわたりましてPTAの役員を続けてきたといったような経験を踏まえて、教育基本法の審査に関し意見を申し述べたいと存じます。

 いじめや不登校、校内暴力、学級崩壊、また幼児虐待や家庭内暴力、あるいは子殺し、親殺しなどなど、我が国の教育と子供たちをめぐる状況は極めて深刻な状態にあります。我が国の教育を取り巻く現状をこのまま放置しておいてよいと考える人はまずいないと思います。今こそ、我が国の教育全般にわたる抜本的な改革が求められております。これは、教育基本法についてもその例外とすべきではないというふうに考えます。

 教育基本法が制定された昭和二十二年当時と比べ、国際情勢も、日本の社会も、そして教育を取り巻く環境も大きく変化をいたしました。例えば、いじめや不登校や校内暴力や学級崩壊、また引きこもりやニートなどという現象は、昭和二十二年当時には全く想定できないことだったというふうに思います。そうした点から見ても、やはり新たな基本法は必要だろうというふうに考えます。

 その際、新たな基本法に明確に位置づける必要があるのではないかなというふうに私が考える項目を数点申し上げたいと思います。

 まずその第一は、家庭における教育の重要性です。家庭における教育は、やはり教育の原点であり、子供の人格形成に極めて重大な影響を与えます。保護者が、多くの場合は親ということになるのでしょうが、親が子育てに対するみずからの責任を自覚し、子供に常に関心を払いながら、例えば忍耐力の大切さとか、人間としての基本的なあり方を教えていくということが必要と考えます。

 第二は、地域における教育、いわゆる地域の教育力の大切さです。地域コミュニティーの希薄化ということが指摘をされておりますけれども、子育てや教育にとって地域社会の力はまだまだ大切です。特に、子供の登校、下校時を初め、その安全を確保するためには、地域の目と地域の協力は欠くことができないと思います。

 第三は、いわゆる職業教育の必要性です。かつての子供たちは、親が働く姿を間近で見て育ち、また自然に家業の手伝いなどをしながら育つことができました。しかし、現在は、親が働く姿を間近で見ることはなかなかできません。働くことの大切さ、働くことのおもしろさ、そして自立した社会人となるために仕事をすることの必要性を子供のときからさまざまな形で教えていくことは、ニートなどの現象を防ぎ、子供の自立を促す上で極めて大切であると考えます。

 第四は、適正な宗教教育の必要性です。今日の国際社会を理解する上で、世界の宗教に対する適正な知識を持つことは極めて大切です。今の子供たちが大人になるころ、我が国の国際化はさらに進展をし、これまで以上に国際感覚が求められてくることになると思います。そのためにも、適正な宗教教育が必要です。そして、信仰を持たない場合であっても、信仰を持つ人々の心を大切にする、そういう気持ちを育てることが重要だと思います。

 第五は、いわゆる愛国心についてであります。みずからが生まれ育った国を愛することは極めて自然であり、当然でもあります。しかし、それは、教育の目標という形でその達成度を競うというような性格のものではないというふうに思います。それは、まさに自然に水がしみ込むようにはぐくんでいくべきものではないでしょうか。

 以上のような観点から、私は、民主党が提出している日本国教育基本法案は、新しい基本法にふさわしい内容を持つものと考えます。

 なお、一言つけ加えさせていただきます。

 現在の子供や教育をめぐるさまざまな深刻な問題の多くが、子供が十三歳から十五、六歳、いわゆる中学校の時期に相当数が発生をしているのではないかというふうに思います。私は、これにはそれなりの理由があるだろうというふうに考えております。小学校の時代の学校運営や学校の持つ雰囲気と、中学校になってからの学校運営や学校の持つ雰囲気とは相当大きな隔たりがあって、その大きな隔たりの中で、子供たちがそれに戸惑いを感じ、適応できなくなってしまう。そのことが、例えばいじめや引きこもりや不登校、そうしたものにつながっていくというケースが多々見受けられます。これは、先ほど申し上げましたけれども、私がPTAの役員をやってきて経験をしたことでもございます。

 そういう意味で、小学校から中学校に上がるときに、もっとスムーズに上がれるような、子供たちに精神的な負担やストレスがかからずに済むような、そうした施策をぜひ講じていく必要があるのではないかな、そんなふうに考えている次第でございます。

 いずれにいたしましても、教育基本法という、教育に関する憲法ともいうべき法律の改正問題でございます。決して急ぎ過ぎることがなく、十分に時間をかけ、そしてまた広く国民的な議論を踏まえながら、慎重に審査をしていただきますようにお願いを申し上げまして、私の意見陳述といたします。

 御清聴まことにありがとうございました。(拍手)

森山座長 ありがとうございました。

 次に、中森孜郎君にお願いいたします。

中森孜郎君 お手元に差し上げております意見陳述の骨子に沿って意見を申し上げたいと思います。

 私は、一九二六年生まれの戦中派ですから、言うまでもなく、教育勅語と国定教科書に基づく国家主義教育、軍国主義教育を受けて育ちました。その教育の特徴は、皇国史観で貫かれた国史や忠君愛国を最高の道徳とする修身などを通して、子供を忠良なる臣民へと教化していくところにありました。

 そのような教育によって典型的な愛国少年に育て上げられた私は、戦争が激しくなる中、やむにやまれぬ思いから、一九四三年、十七歳になったばかりで、中学在学中、みずから海軍少年飛行兵を志願し、内地や台湾で厳しく訓練を受けました。生きて終戦を迎えられたのは幸運としか言えません。

 天皇と国家のために死ぬことをひたむきに考えてきた私は、生きる目標を失いましたが、やがて、生き残った者として何かをしなければならないのではとの思いから、一九四七年四月、再び母校松山中学に復学し、新たな人生を出発しました。

 まさにこの年に教育基本法が制定されたのです。以来五十九年間、私は、生徒として、学生として、教師として、教育学研究者としてこの教育基本法を心のよりどころとして、基本法とともに生きてきたと言えます。それだけに、簡潔にして格調高い教育基本法に格別の思いがあります。

 さて、提案理由説明を読みましたが、教育憲法とも呼ばれる教育基本法をなぜ今改正しようとするのか、納得いく理由を見出すことはできませんでした。

 現行法が、制定以来半世紀以上が経過して、時代状況の変化に適さなくなったということが大きな理由のようですが、OECDの国際学力比較調査の結果、未来志向型の学力において連続世界一、しかも国際経済競争力でも連続世界一で、今世界じゅうから注目されているフィンランドの教育の成功は、実は、日本の教育基本法や教育制度をも参考にして八〇年代半ばから大胆に実施した教育改革の結果であるとのことです。

 それとは対照的に、我が国において、八〇年代以降、さまざまな教育荒廃現象が進行し、学力の低下や格差拡大や学習意欲の低下が深刻化しているのは、皮肉にも、教育基本法をなし崩しにし、教育条件の整備充実を怠ってきた結果であると私には思われます。

 また、安倍首相は改正の一つの理由として占領下で制定されたことを挙げておられますが、私はむしろ、現行法作成に当たった我が国を代表する学識者たち、南原繁、安倍能成、田中耕太郎などで構成する教育刷新委員会が、占領下にもかかわらず、毅然として、GHQの口出しを一切許さず、刷新委員会の独立性を維持し、自主自立的審議を貫いた結実であることに誇りさえ感じております。そのことは、栗原祐幸元防衛庁長官も朝日新聞への寄稿で述べておられます。資料にあります。

 法案前文では、現行法の前文にあった「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。」という文章がすっかり変えられています。

 戦前においては、大日本帝国憲法と教育勅語が一体のものでした。そして、日本国民、アジア諸国民にはかり知れない不幸をもたらしたあの侵略戦争に教育が大きな役割を果たしたことへの痛切な反省と新たな決意の上に立って、前文冒頭の文が書かれたのでした。戦後は日本国憲法と教育基本法が新たな意味で一体のものとされましたが、それは単に教育基本法が憲法の精神にのっとってつくられたというにとどまらず、憲法の掲げる理想は根本において教育の力によって初めて実現されるのだという、極めて積極的な意味が込められていたわけです。

 この冒頭部分が削除されることによって、憲法との関係は弱められ、あるいは切断されます。しかも、現行法前文中の「真理と平和を希求する人間の育成を期す」という文言が、改正法案では「真理と正義を希求」すると変えられています。これは、冒頭部分の変更ともかかわっているように思われます。

 そう考えますと、前文の改正は、安倍首相が任期中の実現を目指している、九条改定を中心とする自民党憲法草案と対応することのように私には考えられてきます。私の思い過ごしというものでしょうか。

 改正法案が現行法と最も異なる点の一つは、現行法の「教育の方針」にかわって「教育の目標」が新たに設けられたことです。そこには、五項目にわたって二十に及ぶ徳目が示されています。その中で主眼とされているのが国を愛する態度であることは、これまでの経緯からも明白です。

 人間の生き方や価値観にかかわる徳目を教育目標として法制化することは、国家が道徳の教師になることを意味し、その達成を教師に課すことは、国が公認する特定の価値観を教育の営みを通して子供に内面化していくことにつながり、明らかに、憲法第十三条、個人の尊重、第十九条、思想及び良心の自由、第二十六条、教育を受ける権利に抵触することになります。その点は、日本弁護士会声明も厳しく指摘しているところです。

 ましてや、国という概念は多義的であり、国を愛するという意味の解釈も多様であります。それが一たび法制化されてしまえば、その時々の政府の恣意的解釈による国を愛する心や態度の育成が教師に求められることになります。それは、徳目主義と呼ばれる教育勅語により子供を教化していった戦前の教育と本質的に変わりがなくなります。

 さらに、将来、もし改憲によって外国に出て戦争ができる普通の国となれば、再び、一たん有事になれば進んで戦争に参加する人づくりへとつながりかねません。その可能性は、自民党新憲法草案の前文に目を通せば否定できません。

 現行法第十条は、戦前の教育が、国家のための国家による国家の教育であり、中央集権的な教育であったことへの反省に立ち、また、日本国憲法二十六条によって、教育を受けることがすべての個人の基本的人権であると確定されたことを受けて定められたものです。そして、国家や行政が教育の中身に不当に介入することを厳しく抑制し、教育行政の責任と権限を教育の諸条件の整備に限定しています。これは、国は金は出せども口出しせずという世界の近代民主主義教育の原則を反映したものでもあります。

 ところが、提案では、第一項の「国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。」を削除し、「この法律及び他の法律の定めるところにより」に入れかえています。このことによって、「不当な支配に服することなく、」の意味が逆転し、まさに換骨奪胎されることになり、民主教育の原則が失われ、国や行政が思いのままに教育の中身に介入できる道を開くことになり、再び教育が国家のためのものになるおそれが大です。

 「この法律及び他の法律の定めるところにより」と書かれていますが、これまでも、家永教科書訴訟判決や先ごろの都教委の国旗・国歌の取り扱いに関する通達についての東京地裁判決を見ても、恣意的解釈による法の運用が違憲となる例が少なくありません。

 教育の営みは極めて専門的かつ創造的であり、そこでは、国民全体に責任を負った、自由で創造的な教育活動が保障されることが何よりも重要です。

 法案は新たに教育振興基本計画を条文化していますが、そうなれば、政府は重要な教育施策を一々国会に諮ることなく、閣議決定のみによってこれを実施に移せることになります。そのことで、政府は容易に、かつ思いのままに教育改革を進められることになります。それは、一見効率的に見えて、主権者である国民不在の非民主的な教育になる危険性を多分にはらんでいます。

 既に、それを見越して安倍首相は教育再生会議を発足させていますが、首相は著書「美しい国へ」の中で、イギリスにおけるサッチャー元首相が主導し、ブレア政権に受け継がれた市場原理、競争原理に基づく教育改革を高く評価し、それをモデルに教育改革を推し進める意向を述べています。

 しかし、イギリス在住のジャーナリスト、阿部菜穂子さんが月刊「世界」九月号、十一月号に寄せたレポートや、法政大学、佐貫浩教授の研究によれば、今やサッチャーの教育改革の矛盾が深刻化し、行き詰まり、改革の問い直しを求める世論が高まっているとのことです。サッチャーの教育改革を後追いすることが、今以上に教育格差を拡大し、教育荒廃を深化させ、子供を苦しめることになることは目に見えています。

 終わりに、以上法案についての私見を述べてきましたが、結論的には、現行教育基本法を変えるのではなく、守り生かすことが賢明な道であると考えます。実は、創価学会の池田名誉会長も、朝日新聞のオピニオンで「見直すより大いに生かせ」と述べておられます。教育は百年の計と言われます。性急に事を運んで将来に禍根を残すことのないよう、十分時間をかけて、慎重の上にも慎重に審議を進められることを切に希望します。

 最後に、八月二十六日、私が長らく所属してきた日本教育学会の歴代会長四氏が連名で「教育基本法改正継続審議に向けての見解と要望」を発表し、関連二十八学会の会長が賛同を呼びかけ、現在既に千名を超える教育研究者がこれに賛同を申し込んでいることを申し添えて、私の意見陳述を終わります。

 ありがとうございました。(拍手)

森山座長 ありがとうございました。

 以上で意見陳述者からの御意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

森山座長 これより委員からの質疑を行います。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。斉藤斗志二君。

斉藤(斗)委員 おはようございます。私、自由民主党の斉藤でございます。このような機会をいただきまして、厚く御礼申し上げます。

 きょうは、きのう入りましてまず牛タンを食べまして、朝は、萩の月というんですか、ここの名物を食べて力を入れてここへ来たので、しっかりとお答えをいただきたいというふうに思います。

 最初に、櫻中さんにお聞きしたいと思います。

 あなたは今お子さんをお持ちなんですよね。ですからPTAの役もやられている。非常に教育危機の、その危機感の中で毎日過ごされていらっしゃる。しかしながら、新しい言葉を使って、早寝早起き朝御飯、こういうことを子供たちにしっかり認識させて、家庭の中にもそれを持ち込まれているということなんですけれども、私はぜひこれを励行していただきたいと思う。

 ただ、お父さん、お母さんに、親は先起き先支度ということも入れてもらうともっとスムーズにいくのかなと。子供さんが起きたそのときに、まないたの上で包丁を立てているトントントンという音が聞こえる、そして、起きたときにはすぐ朝御飯が食べられて、それで学校へ行くという、そういうよき家庭環境をもっと確立してあげたいというのが私たちの願いでございます。

 特に今回、私ども与党、政府案を支持しているわけでありますけれども、公共の精神、伝統や文化を尊重する、そういうこと、それから家庭教育、幼児教育、さらに私立学校、こういったものをしっかりと位置づけているんです。今の教育基本法には私立学校なんという項目はないんですよね。そういう点では、現代に合わせた、そして全体として力が出るような、そういう教育基本法の改正、そして教育改革全体に仕上げていこうというのが私どもの考え方で、現状維持でいいとは決してだれもおっしゃらないんですよね。ですから、私どもも、こういった基本的な理念を盛り込んだ基本法を早く成立すべきだということで考えているんです。

 特に、現場におられて毎日、お子さんの環境が不安だ、そして不満だ、櫻中さんはお持ちなんだと思いますけれども、これを早く立て直してほしいという気持ちが強くおありだと思いますが、その時期の問題、何年も何年もかけてもいいんだというんじゃなくて早くやれという気持ちがおありになると思いますが、いかがでございますか。

櫻中辰則君 私が常に言っていることは、どうしても大人の社会というか、私たち親にしてもそうなんですが、思ったことをなかなかできない。でも、子供たちは一年一年を刻んでおります。例えば各単位PTAでも、その活動をしましょうというときに、ちょっと待ってよというときには必ず六年生なり中学校三年生が卒業してしまう。やはり、いいと思ったことはきっちりと、議論を交わしながらも早目早目で進めていかないと、子供たちのそういった環境というのはどんどんどんどん、私たちにとっては、大人の社会にとっては一年というのはそんなに大きな時間でない方もいらっしゃるかと思いますが、子供たちにとっては一年というのは、時を刻むということに関しては、とても大切な一年だと思っております。

 ですから、せっかくこういった教育に向けた話が出ている以上、本当にいろいろと考えていただいて、早急に進めていただきたいなと感じております。

 以上でございます。

斉藤(斗)委員 ありがとうございます。

 そうなんですね。子供さんにとってもワンチャンスなんですね。ですから、よりよい環境で教育をしてあげるというのは私どもの政治の責任でもあるので、しっかりと時期を定めてこれを成立させていきたいというふうに思っています。

 次に、千葉さんにお伺いしたいと思います。

 これを議論しておりまして、教育委員会のあり方で与党、野党が対立しておりまして、民主党さんの案は、教育行政の責任を首長に任せるべきだ、例えばここでいうと仙台の市長さん、県でいえば宮城県の知事さんに、こういうことが民主党案には入っているんですが、私どもはそれは反対だという立場なんですね。

 なぜかというと、教育の政治的中立性、それから教育の安定性、継続性、こういったものをしっかり担保しなければ教育はなされていかないというふうに思っているからなんですね。御案内のように、隣の県なんですか、福島県では今知事さんがおやめになる、また和歌山県でもおやめになる。こういったことが頻繁に起こるということになりますと、教育行政の責任者を首長さん、市長さんとか知事さんに預けちゃっていいのか。しょっちゅう方向転換している。いろいろな政党がございますからね。

 ですから、教育の中立性を守っていく、政治的中立性を守っていくということについて、私は民主党のこの案はいかがなものかなというふうに思っているんですが、その点、千葉さん、御意見があったらお伺いしたいというふうに思います。

千葉胞義君 私も、今お話あったように、やはり教育は中立性を保っていきたいんだというふうに思っております。非常に深い議論については、常に私もそういう中にある者でございませんので、ただ、今お話あったようなそういう考えは、ぜひ中立性というものを持っていただければというふうに思っております。

 以上です。

斉藤(斗)委員 ありがとうございます。

 木村さんにお伺いします。

 御発言の中で、中学校が問題発生が一番多いんじゃないかという御指摘をされましたよね。私も実は同意見でございまして、現行の六・三制というのはもう制度的に疲労した、限界に来ているというふうに考えている一人なんですよ。なぜ中学校が問題が起きるかというと、中学校は三年間しかありませんから、小学校が子供、高校生が大人に近くなってくる、中学校というのはコトナの状況の中で、発達も中途半端な中で、コトナの人に三年間では短過ぎるという考え方を持っているんですよ。

 起承転結という一つの考え方がございますよね。これは四年かかるんですよ、起承転結。三年間というのは起承転で終わっちゃうから子供さんは転落しちゃうんだ。ですから、こういう制度改革も取り組んでいかなきゃならない。私は、個人的な立場では、六・三じゃなくて五・四の方がいいという考え方を持っているんですけれども。

 そんな中で、与党、私どもの考え方の中では、義務教育の年度を実は外しているんです。今までは九年ということだったんですけれども、外しているんです。というのは、いろいろな時代がこれから予測される中で、多少弾力性を持って考えた方がいい、そういうようなこと。それから、今の現行の学校制度はもう限界だということもある中で、そういう子供さんの立場に立って、また発達状況に合った制度をつくっていきたいというふうに思っているわけであります。

 もう一つ、御案内のように、小学校はクラス担任制で先生と親しく話し合いができる。しかし、中学へ行くと学科担任制ですから、勉強中心になっちゃって人間関係がなかなかできない。そういう問題もあって、私どもはそこら辺をしっかり把握しているところなんですけれども、そういうことも含めて、もっともっとしっかりとこの教育基本法改正の中で取り組んでいきたいというふうに思っているところなんです。

 今千葉さんにもお聞きしたように、教育委員会それから教育行政の問題で同じ質問をさせていただきたいと思うんですが、民主党の案では教育行政の責任を首長さんということでうたっていらっしゃるんですが、さっき申し上げましたように市長さんがしょっちゅうかわる、それから知事さんがかわる、これはよくないと私どもは思っているんですが、その点いかがお考えでございますか。

木村勝好君 まず前段の方の、六・三・三制について今後ともどうかということなんですが、私も、これについては弾力的に考えてよろしいのではないかなというふうに思います。

 どういうふうにするかということについては、これからいろいろな御議論、御検討をされればいいと思うんですけれども、先ほど申し上げましたように、私自身の経験からすると、やはり小学校時代のアットホームな雰囲気と中学校に入ってからの雰囲気が、学校の運営なり学校の雰囲気そのものが相当違うんですね。自分の子供の経験からしても、最初、適応するまで随分大変でした。二人いる子供のうちの上の子は率直に申し上げて適応できないで、いろいろな問題を今も引きずってございます。

 ですので、やはり中学校時代をどうやって乗り切るかということは非常に大事なテーマになるのではないかなというふうに思います。思春期を迎えて子供が心身ともに大きく変化する時期に、ある意味で小学校のアットホーム的な雰囲気と違うものとぶつかるという、二重にやはり子供にとっては精神的にも負担が大きいのかなという気がしております。

 具体的にどういうふうにしたらいいかということについては、私なりにちょっと考えておりますのは、例えば、小学校のうちから中学校的な学校運営に少しずつなれさせていくとか、あるいは逆に、中学校の方も最初のうちは小学校的な学校運営を取り入れながら子供たちの精神的な負担をできるだけ軽くしてあげるとか、そういう工夫が両方で必要なのかなという気がします。

 それから、教育委員会の問題についてでありますけれども、確かに教育の中立性というのは重要だというふうに思います。ただ、では今の教育委員会という制度そのものが有効に機能しているんでしょうかということになると、残念ながら、地方議会に身を置く立場からしても、必ずしもそうではない。ですので、民主党が言っている首長に責任をというのは、すべて首長が仕切ってということとは違うんだろうというふうに思います。最終的責任を負うにしても、それに対するさまざまなチェック機能が本当の意味で有効に働くようなものを考えていくというようなことが必要なんじゃないのかなというふうに思っています。

斉藤(斗)委員 時間がなくなってきたんですけれども、最後に、実は、国を愛する心、その態度を涵養する、こういったことも一つの議論になったんですが、その件につきまして、前文にそれを置くのか、それとも本則に置くのかというのが国会で議論がございました。

 そして、私ども、本則の方が法的拘束力があるという解釈でございまして、ですから前文では総論的、理念的、こういうような位置づけの中で、私ども与党、自由民主党、公明党の出した案では、本則でしっかりとうたう。しかし、民主党さんが出しているのは、前文でしかうたっていないということについては弱いというふうに私ども考えておりまして、そういうような議論を皆さんお聞きになったかと思いますが、私どもはしっかりと本則でそれをうたうべきだというふうに考えておりますが、櫻中さん、いかがお考えですか。

櫻中辰則君 実際、そういった基本法案の中のことに関しては、大変申しわけないんですが詳しいことはお答えできないんですが、ただ、私がPTAというか子供たちを見ていても、先ほどから地域のことということで申し上げていますけれども、やはり一つは、郷土愛というか、地域を愛する心を非常に大切にして活動しているということが現状でございます。今、私たちが大人になる過程にしても、そういったことがあれば、実際にその世代が上がってきたときに地域力というのはつくのではないかなということで考えております。

斉藤(斗)委員 あと一、二分あるので。

 重ねて、今学校現場で、国旗・国歌を歌い掲揚するということで方針が出されているというふうに思いますが、あなたの学校でもしっかりとそれは守られておりますか。

櫻中辰則君 守られております。

斉藤(斗)委員 以上で終わります。

森山座長 次に、中井洽君。

中井委員 民主党の中井洽でございます。

 四人の公述人の方々には、急遽な開催、お忙しい中にもかかわらず、貴重な御意見をお述べいただきまして、ありがとうございました。

 私に与えられました時間は二十分でございますので、この間でそれぞれの皆さんにお尋ねを申し上げたいと思います。

 櫻中さん、千葉さんからは、現行基本法を変えるのは賛成だ、こういうお立場でのお話を賜りました。

 お二人にお尋ねをいたしますが、私ども民主党も賛成でございまして、日本国教育基本法という新しい法律を、自民党の法案は現行法の改正、私どもは新しい法律をつくりまして、前の国会、今国会と審議をいただいております。私が言うのもおかしゅうございますが、非常にできのいい法律なんですね。中身をお読みいただいたでしょうか。お二人にお尋ねをいたします。正直に言っていただいたらいいですから。

櫻中辰則君 はい、読みました。

千葉胞義君 読みましたけれども、熟読玩味というところまではいきません。まあ、すっと見たと。ただ、一番最後の障害者のことが強く印象を受けました。

中井委員 千葉さんのおっしゃったような障害者に対するところ、あるいは木村さんがおっしゃっていただいた職業訓練、あるいは櫻中さんがお述べになりましたIT社会の中での小さな子供の、情報社会から何を取捨選択するのか、そういうときに一番大事なのは国語教育じゃないかとか、そういったことを含めて書いてございます。自民党さんの改正案の中で、幼児教育、こういったものも取り上げられておりますし、私どもも幼児教育というものを取り上げている、こういう仕組みになっております。

 その中で、今お話のありました教育委員会の改廃。これは、現行の学校、教育委員会、それから文科省、こういう仕組みの中で、いじめ問題でもあるいは未履修でも、教育委員会というのがうまく機能していないと私どもは考えています。

 アメリカの制度をまねしてこういう教育委員会がつくられ、初めは選挙であったことは御承知のとおりであります。これが途中から選挙じゃなくなって任命制になる。こういうことで、市長さん、首長さんがお選びになって議会が承認なさる、これをもって中立性が保たれている。私どものような選挙で選ばれた首長が責任を持つ、これは首長だけが責任を持つということではありません。チェック機能もつけますし、学校には学校での理事会というものをつくらせていく、そして義務教育においては国が最終的な責任を持つ、こういうシステム変更を考えておりますが、選挙で選ばれた首長さんが責任を持つということが政治的中立を侵すと言われると、非常に民主主義の根幹が揺らぐような気がするんであります。

 そういったことを含めまして、私どもの法案に対してどのように櫻中さんはお思いでありましょうか。お聞かせをいただきたいと思います。

櫻中辰則君 あれを拝見いたしまして、先ほどITということで、インターネットのこともやはり載っておったと思います。確かに、子供たちの中ではそういった情報の選択ということに関して、また国語力ということも出てきているかと思います。

 ただ、先ほども私言いましたように、日本の国の教育というのは、本当にいい教育をずっとしてきたなということは感じております。やはり、現行の教育基本法の普遍的理念を継承しながら、現代に合わせた教育基本法の改正ということに関しては、私は、現場といいますか、現子供を持つ、教育を考えているところであれば、教育基本法の改正ということでは非常にいいのではないかなということを感じておりました。

中井委員 木村さんにお尋ねします。

 私どもはかなり質疑時間を積み重ねておりますが、なかなか私どもの案と政府の案との違いというのが国民各界各層に御理解をいただいているとは思えないんですね。マスコミ等は、愛国心のところの書き方とか、あるいは愛国心と書かずに国を愛する態度をと書いたのはどうだとか、こういったことについて論議をいたしておりますが、今自民党からお話がありましたように、私どものは教育委員会の改廃という思い切った制度改革、そして教育の責任体制というものを明確にしていく、こういったことを打ち立てた法律になっております。

 基本法にそこまで書くべきじゃない、基本法だから制度改革というものはなじまないんだ、こういう声もあります。しかし、私どもはあえてこの項目と、それから予算的に、数値をきちっと挙げて教育に関しては予算を確保する、この二つのことを大きな改革の柱としてこの基本法に盛り込んでいます。

 基本法という問題でこういったことを盛り込んだことに対して、木村さんはどのようにお考えになるんでしょうか。

木村勝好君 やはり教育基本法というのは、先ほども申し上げましたけれども、教育に関する憲法に当たるような極めて重要な法律だというふうに思います。そして、一度制定をしたら、そう頻繁に変えるということは現実的にはなかなか難しいんだろうというふうに思います。

 そういう意味からいえば、十分に時間をとって十分に議論を尽くして、その上で、できるだけ国民的な議論を巻き起こす中で、国民の合意をとりながら新しいものを制定していくというのがやはり本筋だろうと思います。

 そのとき同時に大事なのは、やはり今日の時代を十分に踏まえた、今日の時代を反映したものである必要があるというふうに考えておりまして、そういう意味からいえば、今委員の方から御指摘のあったような点についても、盛り込むべきものはきちんと盛り込んでいく必要があるのかな、そんなふうに思っております。

中井委員 もう一つ木村さんにお尋ねをいたします。

 先ほどの御意見の中で、四番目に、国際化の中で生きていくこれからの子供たちにとって適正な宗教教育というものが必要だ、こういうお話がございました。宗教教育に関しては現行法においても書かれ、また政府の今回の改正案についても書かれている。私どものにも、「生命及び宗教に関する教育」、こういうふうに述べられているところでございます。

 この両方の書きぶりが極めて違いがあります。私どもは「生の意義と死の意味を考察し、」というところから起こし、「宗教的な伝統や文化に関する基本的知識の修得及び宗教の意義の理解」、それから「宗教的感性の涵養及び宗教に関する寛容の態度を養うことは、」という述べ方をいたしております。

 この書きぶりについて率直にどのようにお考えになるか、お聞かせください。

木村勝好君 日本という国柄からすると、どうしても、宗教とか信仰とかに対して公の教育の場で取り上げる、触れることが非常に少ない国なのではないかなというふうに思います。そして、ともすると、何か宗教とか信仰というものを軽んずるような傾向がこれまでなかったかといえば、私は、そうではない、つまり軽んずる傾向があったのではないかなという気がします。

 しかし、先ほど申しましたように、今日の国際社会を見たときに、宗教の持つ意味、その重要性というものを無視することはできないし、そういう中でこれから育つ子供たちは生きていかなければいけない。そういう意味では、確かに民主党の法案の表現は踏み込み過ぎだというような御意見もあるやに伺っておりますけれども、しかし、これは正面からそうしたものをとらえて、そして正しい教え方をして正しく理解をしてもらうように努めるということは大事なのではないかなというふうに思います。

中井委員 櫻中さんにもう一度お尋ねいたします。

 小さな子供さんあるいは未成年の方の殺害、殺人といいますか、また近親者に対する殺害が驚くほど多く報じられる、まことにつらい時代であります。私どもはいろいろ原因はあるんだろうと思っていますが、どうも小さなお子さんやお若い方は、インターネットやゲーム機、あるいは携帯電話のいろいろな機能を使って生活をされていますから、リセットボタンを押せば人間は生き返るんだと思い込み、信じ込んでいる面があるんだ、幾つかのアンケートにもそういった形があらわれているわけであります。

 そこで、私どもはこの宗教教育の項に、生の意義と死の意味を教えるべきだ、そして宗教についても、宗教の教義あるいは教祖の名前とか、そういったことを教えるだけじゃなしに、日本古来から伝統的に続いてきたいろいろな行事、文化、それと宗教のつながり、どういう宗教的な気持ちからそういったものが起こったか、そして今日続いているか、こういったことも教えてしかるべきだ、こう考えて条項を起こしました。政府案にはそこのところがさらっと書かれておりまして、余り踏み込んじゃならない、こういう形になっているわけでございます。

 この点について、お子さんをお持ちの、また教育をされている子供さんをお持ちの櫻中さんとして、どうお思いになるか、お聞かせください。

櫻中辰則君 それについては、例えば私たちのやっている地域というのは宮城県全県にわたりますけれども、例えば地域のお祭りだとかそういったものの参加、先ほど地域力とか言いましたけれども、やはり私たちが保護者としてそこのところに参加するということできちんと、宗教だとかなんとかではなくて、地域のものとして自然に備わるものではないかなというところで感じておるところでございます。

中井委員 ありがとうございました。

 千葉さんに今と同じようなことをお尋ねしたいんですが、お答えをいただけますでしょうか。

千葉胞義君 宗教教育については、確かに私もあってしかるべきだと思いますが、一つの宗教ということだけでなしに、取り上げるのであれば取り上げて、そして中立といいましょうか、そういったような考えを持ちながら教育していただければいいのでないかというふうに思っております。

中井委員 宗教教育ということに関しては、現行法も改正法案も書かれているわけでありますが、私どもの党の今回の日本国教育基本法におきましては、伝統文化の基本的知識の修得、こういったことも含めて書き込み、宗教心の涵養、これを育てるべきだ、こういう形でうたっているわけでございます。

 もちろん、特定の宗派、宗教の教育をするということは、教育の目的から外れておりますから、当然あってはならないことであります。しかし、先ほどのお話をお聞きいたす限り、家庭教育あるいは幼児期の教育、学校、地域一体となってというとき、あるいは社会教育を大事にすべきだというお考えからすれば、宗教心の涵養、こういったことが基本法の中に盛り込まれて当然だと私は思いますが、千葉さん御自身のお考えはいかがでしょうか。もう一度お尋ねいたします。

千葉胞義君 ただいまお話がございましたように、宗教教育については、ひとり学校だけということでなしに、やはり地域の方でもそういうことについて子供たちにお話をするとかといったような、そういう配慮といいましょうか、家庭教育といいましょうか、あってしかるべきだというふうに私も思います。

中井委員 ありがとうございます。

 木村さんにもう一度お尋ねをいたします。

 先ほどの質疑でもありましたが、今回、政府案と私どもの案との中に幾つかの共通項がありますが、それは御議論のありました教育の年限、年数をどうするかということに関して、どちらもこの基本法には盛り込まずに、これからの法改正の中でやっていこうといたしております。私どもの党には、義務教育の開始年数をもう少し早めるべきだ、そして小中義務教育を一貫すべきだ、あるいは中高を一貫にして義務教育とすべきだ、大ざっぱに言ってこういう幾つかの議論があるわけでございます。党としてそこまで踏み込んだ論議をいたしております。

 木村さん自身は、この点、小さいときからの義務教育化というのに賛成かどうか、あるいは中高一貫ということについてどうお考えか、お尋ねをいたします。

木村勝好君 私自身、義務教育の年限を引き下げるということについてどうかと言われれば、正直言って自分の考えはまだまとまっておりません。下げたら下げたなりの問題も出てくるのかなという気も正直言ってしております。

 一方で、今の六・三・三というくくりに固執する必要はもちろんないと思いますし、これは今後の議論次第ですけれども、幾つかの区切りの学校が併設されていても場合によってはいいのかなという気もします。つまり、全部一律にこのくくりでなければならないというふうに決めつける必要もないのではないかなと。それぞれの地域的な特色なり、あるいはいろいろな状況によって、うちはこういう形でやっています、うちはこういう形でやっていますというのが併存しているということもあっていいのではないかなというような気がします。

 ただ、先ほども申しましたように、子供が思春期を迎えて体も心も変わっていくときに、ちょうど区切りが小学校から中学校というのがぶつかってしまっているということが、やはりいろいろな問題に相当な影響を及ぼしているということは、私は経験的に見てそういうふうに感じておりますので、そこについては、区切りの仕方をその点について十分配慮しながらやっていく必要があるのではないかなというふうに思います。

中井委員 ありがとうございます。

 最後に、中森さんにお尋ねをいたします。

 改正すべきではないという御意見を賜りました。また、私どもの党内にも、憲法改正があって後こういったことは論議されるべきだ、こういう議論もございます。しかし、憲法改正ということであるならば、手続、議論、まだまだ時間のかかることだ、現行教育の荒廃の現状を見て、手先の改革だけではなしに根幹から議論をしていく、こういう形で私どもは新しい法律を提言いたしました。

 その中で、例えば幼児教育あるいは高等教育、自民党さんの場合には大学教育と書いてあります。私どもは高等教育と書いて、これでもって高専だとか各種学校だとかいろいろなものが含まれる、こう考えておりますが、条項を起こしました。また、職業教育あるいは障害者の教育、こういったことについても項を起こしているわけでございます。

 これらの点について、現行法のままでやれるじゃないかとお思いなんでしょうか。それとも、改正はだめだけれども、こういったところだけ直すのはいい、つけ足していくのはいいとお思いなんでしょうか。いかがでしょうか。

中森孜郎君 先ほども申し上げましたように、憲法と教育基本法は一体のものとしてずっと来たわけですよね。ですから、ここで先んじて教育基本法を変えてしまえば、当然、現行憲法との矛盾が生じてくることは間違いない。例えば教育の目標の問題でも当然起こってくるだろう。

 今起こっているいじめの問題とか、自殺の問題とか、あるいは子供たちの学力低下の問題とかというのは、これは、では教育基本法を変えれば解決するかというと、そういうものでもないし、教育基本法が原因でそれが起こっているわけではないんですね。

 今、いじめが言われるといじめ対策が出てくる、学力が低下だというと学力対策がすぐ出てくる。そういう非常に近視眼的というか、そういう対策では根本的な解決は私はできないと思うんですね。やはりそれはもっともっと根本的に、なぜそれが起こっているかということの原因を学問的に追求して、その上でその根本的なところから変えていかないとだめだろうと思うんですね。

 例えば学力低下やいじめなんという問題も、いつ起こってきたかというと、大体、落ちこぼれの問題が七〇年代の後半から大きな社会問題になってきて、八〇年代の初めになりますと、校内暴力が起きてきて、それを抑えるために非常に管理的な体制が学校にできて、そこで抑えつけられた子供たちが今度は弱い者に向かっていじめを起こしてくる。そこでまた自殺がふえてくる。

 そういう中で学校が閉塞状況になり、子供たちが抑圧されていって、そこで子供の学習、さらに九〇年代以降は、非常に競争を激化する、規制緩和のもとで競争競争に変えてきたということが非常な大きな原因になって、いろいろな問題が噴き出してくる。これは、国連の子どもの権利委員会も、日本の教育は過度に競争的であることによって子供の心身の発達に障害が起きているので改善するようにという、二度にわたって勧告をしているわけですよ。だから、やはりそこのところを考えていく。

 例えば、先ほども申し上げたフィンランドの場合なんかは、一学級が多くて二十四人、大体二十人前後です。それから、小中高、大学まで授業料はないんですよ。落ちこぼれが出るというとすぐに教師が特別に配置されて入る、そういうことで絶対落ちこぼれを出さない。そういう条件をきちっと整備することによって、あれだけの成果を上げているわけなんですね。

 それで、今学校は上から、九〇年代以降次々と、学校多様化とかいろいろなことで、いわゆる制度いじりが始まっちゃった。学校の先生方や校長さん方の大部分が、余りにも次から次へと目まぐるしく制度が変えられてくるということの中で、落ちついて教育ができないとおっしゃっているんですよ。ですから、そうではなくて、今の制度の中でもっともっといい条件を整えていけば、本当に子供たちはみんな学びたがっているわけですから。

 一番大事なのは、義務教育というのは、実は戦前は国家に対する国民の義務でしたけれども、戦後は義務ではなくて個人の権利になったわけですね。それは、二十五条の生存権、その生存権を受けて二十六条の教育を受ける権利になる。そのもとはやはり子供の生存権、そして、子供はただ生きているんじゃなくて、育ちながら生きていると発達権、発達するために学ぶということを求めていると学習権、その学習権を保障するためにどういう教育を行っていくかということが問われているわけなんです。

 そのための条件に、例えば日本は経済大国、アメリカに次ぐ二位と言われているわけですけれども、本当にその豊かな日本が教育にもっともっと予算をついで教育の条件をよくしていけば、先生たちも行き届いた教育ができるし、子供たちも学校は楽しいという学校になるはずなんですよ。そういう実例は外国を見ればいっぱいあるわけですから、そういうことにもっと、私は、今まず現行制度のもとで最大限努力をした上で、それでやはりここが不十分だから変えなくてはいけないということになったときに変えるべきだと思うんです。

中井委員 ありがとうございました。

 幾つかの点では共感できますが、申し上げたいことは、政府の案も私ども民主党の案も現行憲法の精神から外れていない、外れては法律としてこれは成立し得ないことであります。このことだけ申し上げて、終わらせていただきます。

森山座長 次に、西博義君。

西委員 公明党の西博義でございます。

 きょうは、四人の陳述人の皆さん方に貴重な御意見をちょうだいいたしました。私も十五分の時間の範囲でお伺いをさせていただきたいと思いますので、簡潔にお願いをいたします。

 初めに、櫻中さんにお伺いをしたいと思います。

 実は、お三方、学校それから家庭、地域の重要性、中森先生もその中でおっしゃったように思うんですが、そういう意味では皆さんかもしれませんが、おっしゃっておられました。

 私は、ずっとお聞きして、これからの時代、大変重要なことだなと。昔は、比較的自然のままに、社会というものの中で子供は育っていったように思います。私らもそういう経験があります。しかし、それがだんだんと核家族化になり、家庭そのものもそれぞれ価値観も違ってきている。そんな中で育っていく子供を今後どうしていくかという重要な課題が出てきた。

 それに対応してこういう議論が起こってきたというふうに思うんですが、その中で、社会の対応のあり方と、もう少し身近な、自分のお子さんを学校に通わせているPTAの皆さんのあり方というのは若干僕は違うというか、また、そういう意識の違いもあってもいいんじゃないかと思うんですが、先ほど、社会の中で皆さん方が子供たちの教育にかかわって、いろいろな事例がおありだというふうにお伺いしたんですが、PTAと一般社会の皆さん方の学校教育を支えるあり方みたいなもので、少し違いがありましたら教えていただきたいと思います。

櫻中辰則君 社会というか、最近このようなことで言われていまして、やはり、子供の教育の中では総合学習というものが出てきまして、その中で改めて地域の方々が学校の中に入っていくという、総合学習の中から出てきたことがきっかけだと思います。

 ですから、家庭と学校と地域という三つが連携するということは、最近は安全、安心のこともつながると思うんですが、そういったことで、まだまだこれからなのではないかなと思っております。

西委員 もう一つお伺いしたいんですが、現実に今お子さんがいらっしゃると思うんですが、特に男性と子供、つまり父親ですね、父親と子供とのかかわり方がやはり薄いのではないかと一般的に言われているんですが、御自身の体験からして、何か子供さんに対して心がけているようなことがありましたら教えていただきたいと思います、教育に関して。

櫻中辰則君 私自身のことでよろしいんでしょうか。

 やはり大人というか親は、子供のときを踏まえて親になったと思います。ですから、受験に対することとか部活のこと等、いろいろその子供が岐路に立ったときにアドバイスできるのもやはり親であり大人であると思っております。

 その中で、自分の子供を見ても、なかなか父親の参加というのも今までのPTAの中では少なかったわけですが、こういった時代で、安全、安心と言われる時代には、やはり、父親のパトロールだとか、そういったことのかかわりが非常に今多くなってきておりますので、そういったことであれば、子供に対する自分の経験を踏まえた助言等、また、なるべく早く帰るなりなんなりの努力をしている方も多いですし、私もそのつもりでおります。

西委員 千葉さんにお願いをいたします。

 千葉さんも、家庭教育をイの一番に重要な事項としてお挙げになりました。子供ばかりを責めるのではないというお話もありました。子供が見習えるような社会をつくっていくということは、これは基本的な考え方だろう、私も全く同感でございます。

 そうなりますと、今具体的に家庭教育のどこが欠けているというふうにお思いになるか、ちょっとお教えをいただきたいと思います。

千葉胞義君 現代の家庭教育を見ますと、御存じのように核家族、しかも、核家族の中で、お父さん、お母さんがいろいろ勤めておるというようなこともございます。そうすると、子供と親の接触あるいはお話し合いというのは非常に希薄になっておるという現状だと思います。

 そういう点で、そういうことを埋める、そういうことが非常に濃厚になる、そういったような時間、あるいはそういったような策といいましょうか工夫が家庭の中にあってもいいし、家庭でもそういうことを努めてやるべきでないかというふうに思っております。なかなかこれは難しいことですが、お母さんなりお父さんなりととにかく一日のうちにやはり一回食卓を囲むとか、これは普通の並大抵のことでない家庭もあるかもしれませんが、ぜひそういうふうに努めていただければいいのでないかというふうに思っておるところです。

 そういったようなことです。

西委員 もう一つ、社会教育の振興という内容を挙げられました。お仕事柄、町内会の会長さんをなさったり、社会福祉協議会の会長さんという経歴がございますが、現実の地域地域の中で、いろいろな社会教育の中にも御参加なさったり、多分リーダー的な役割を果たしておられるのではないかと思うんですが、特に今の現状に比べてもっと力を入れなければいけない分野が、お気づきの点がありましたら教えていただきたいと思います。

千葉胞義君 社会教育については現在もやられてはおりますけれども、この社会教育に参加するいわゆる家庭のお父さん、お母さん、こういう方々が数多くあるいは回数が多く参加できるような、そういうことを考えていくべきでないか。そのことによって、お父さん、お母さん方も他の方々との触れ合いもでき、また、いわゆる高齢者の方々とも接触ができ、高齢者によっていろいろ教えられるところもあるというふうに思われますので、高齢者が非常に多くなった、そのために、そういう今のお父さん、お母さん方と接触ができるというのも大変に多く持たれるようになればいいのでないかというふうに思っております。

西委員 それでは、木村さん、中森さんとお願いをしたいと思いますが、先ほどからちょっと議論になっておりました宗教に関する教育のことなんですが、中森さんは若干、ちょっと行き過ぎじゃないか、民主党案はそういう部分もあるかもしれないという、一言おっしゃられていましたけれども、実は私も若干この与党の中の議論に加わっておりまして、随分長時間にわたって議論をいたしました。

 先日のこの特別委員会の席上でも、宗教教育に関しては、信教の自由という原則の中でいかに教えていくかと。宗教というものは、宗教という名の中立の宗教はない、こういうことから、どうしてもそういう宗派というものに踏み込んでいかなければ感性を涵養するという部分までいかないであろう、こういうふうに私は実は思っておりまして、結局、政府案は今までの教育基本法を踏襲する形で決着をしたという経緯がございます。

 そのために、「宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位」という形で尊重していくというふうにしたんですが、決してそれは宗教に対する感性を涵養するということを否定するつもりはないんですが、学校現場、特に公教育における学校現場においては、大変難しい課題を背負うというか、事実上難しいだろう、不可能だろうという思いが私自身はございまして、その点について、木村さんにまずお伺いをしたいと思います。

木村勝好君 確かに難しい側面はたくさんあるかと思うんです。ただ、いわゆる知識として教えるということだけで済むのかなと。つまり、本質的には宗教というのは、これは私の考えですけれども、単なる知識の問題ではないというふうに思います。そういうことについて、ある意味、非常に激しい部分があるんだよということも理解していただくという必要があるんではないかな、こんなふうに考えています。

西委員 では、中森先生、お願いいたします。

中森孜郎君 宗教というのは極めて内面的価値にかかわることで、これはヨーロッパなどでも、やはり宗教教育というのは公教育の中では禁欲的にしなければ、当然同じキリスト教の中でもさまざまな考え方があるわけですから、学校の中に混乱が生じるということで、それをできるだけ禁欲していくという形で。それを、必要な場合は私立学校ということでやってきているわけですね、現在日本でも。

 そういう意味で、例えば、公明党の関係の深い創価学会なんかの場合は、戦争中に、創価学会の前身である創価教育学会の初代の創立の牧口常三郎先生が、東京の小学校の校長をやられていたり、すぐれた地理学者だったわけですけれども、内村鑑三先生とも深いかかわりがあって、その方が、その当時、治安維持法とか宗教による不敬罪で捕らえられて獄死するという宗教弾圧を受けておられるんですね。二代目の戸田城聖先生もやはり拘置されるという、そういう苦い経験を創価学会は持っておられるわけです。

 やはり、そういう意味では、国が法律で定めると、そのときそのときの国家、政府の解釈によって特定の価値観が押しつけられるということにもなりかねないわけなので、宗教そのものはもちろん尊重しなくちゃいけないんですけれども、公教育の中で教えるということが、今度は、育てるという信仰心、宗教はつまり信仰にかかわるわけですから、その信仰心を育てることに教えることがすぐなっていくような形で教えるということは、非常に内面的価値に公権力がかかわってくるということになるわけです。

 当然これは、例えば歴史教育をする場合に、イスラム教とかキリスト教とか、いろいろな宗教のことは教えますよね。知識としては教えます。それは非常に私は必要なことで、やはり今、世界的にいろいろな問題が起きてきて私たちは初めて、イスラムというのはどういう宗教なのかということを改めて勉強するような時代なわけです。

 そういうことなので、それは歴史の中でとかそういうことで、また人の宗教、信仰というものをお互いに尊重すべきだということは当然教えなくちゃいけないですけれども、特定の宗教を教えることで特定の価値観を育てる、信仰心を育てるということを公教育でやるということは、やはり禁欲でなくてはならないというふうに私は考えているわけです。

西委員 ありがとうございました。

森山座長 次に、石井郁子君。

石井(郁)委員 日本共産党の石井郁子でございます。

 今、教育基本法についての国会の審議中でありますが、六十年目にして現行教育基本法を大きく変えるというか、新しく教育基本法にするということになりますと、日本の教育の大転換だというふうに私は考えています。ですから、国会でも慎重審議、徹底審議を尽くさなきゃいけないというふうに思っているところでございまして、きょう、忌憚のない率直な御意見を伺えればというふうに思います。

 一つの今回の改定のポイントになるのが、教育の目標を政府案では定めたということなんですね。国が教育の目標を決めるし、そのもとで教育振興の基本計画もつくっていく、これは国会に報告するだけで済むということになりますので、非常に国が教育の条件も内容もやはり決めていくという法律になっているというふうに私は考えております。

 それで、最初に櫻中参考人に伺いますが、この五つの目標の中には、国会で愛国心として問題になりましたけれども、さまざまな道徳的な部分が非常に入っているんですね。それだから、規範とか道徳とか、こういうものを法律で書くということになりますと、やはり道徳というのは心の問題ですから、それを国民に強制しかねない、国が決めるわけですから。国民への強制ということになりかねないのではないかという問題について、まずどのようにお考えでしょうか。

櫻中辰則君 道徳ということは、確かに今、学校とか、今の若者というか子供たちにとってもとても大切なことだと思っています。ただ、その強制というか、そういったことではなくて、解釈の仕方だとは思いますけれども、今こういった世の中で、先ほど若年層の山積しているという課題等もありますし、やはり道徳というのは非常に私は大切なことだなと思っております。

石井(郁)委員 同様の質問を木村参考人に伺いたいと思いますが、民主党の案では、教育の目標という形では書かれていないんですね。前文にいろいろなことはございますけれども。教育の目標にこういう価値とか道徳、心にかかわる問題がずっと書かれるという、それをやはり法律に書くという問題についてはどのようにお考えでしょうか。

木村勝好君 目標という以上は、当然、それをどの程度達成したか、少なくともそれを達成しようとするということになってくるんだろうと思うんですね。

 先ほどもいわゆる愛国心のところでちょっと申し上げましたけれども、愛国心を持たせて、どの程度強まったかということを目標としてどこまで達成できたかという問題では私はないだろうというふうに思いますので、先ほど申し上げたような意味で、やはりその達成度を問うことにふさわしいものとそうでないものとがあると思うんですけれども、いわゆる政府案を見ていると、必ずしもそうは思えないものがそこに入っているなというふうに率直に言って思います。

石井(郁)委員 ありがとうございます。

 政府案のもう一つの問題点が、教育のあり方、教育行政のあり方にかかわって現行法が大きく変わるということになると思うんですね。

 現行法は、言うまでもなく、十条で、教育というのは国民全体に対して直接に責任を負って行われるという有名な文言がございますけれども、これが完全に消えまして、削除されまして、「教育は、不当な支配」という部分は残るんですが、「この法律及び他の法律の定めるところにより行われる」と。法律によって行われる、しかも他の法律、この他の法律というのがどういうものなのかというのがちょっとあるんですけれども、そういうふうに変わりました。

 私どもは、やはり教育という営みというのは、先ほど出ているように、人間の内面の価値や内面の形成にかかわる営みですよね。教師と子供との間の信頼関係、あるいは親と子の信頼関係がなければそもそも成り立たないというところだと思うんですね。そして、自主的に、創意性を持って行われるという部分があると思うんですけれども、法律によって行われるということになると、やはり国がそういうところにまで、非常に無制限にというか、入ってくることになるのではないか。だから、そもそも抑制的でなければならない部分に、非常に制約が外される状況になるのではないかということを危惧しているところなんです。そういう問題を感じているんです。

 この問題で、実はさきの国会で、審議の中での政府の答弁でこういうことがあったんですね。「この法律の定めるところにより行われる教育委員会等の命令や指導などが不当な支配ではないということが明確になった」と。だから、教育委員会の命令、指導も不当な支配にはならないということになりますと、今問題になっている教育委員会の隠ぺいとか、今盛んにいろいろありますよね、これがすべて正しいということがまかり通るということにもなりかねないというふうに思っております。

 この質問は中森参考人に伺いたいと思うんですが、そもそも国の教育への関与というのは抑制的であるべきだというふうに思いますが、その見解と、そして今、教育委員会まで法律及び他の法律、だから、さまざまな命令あるいは通達、通知等々もこの法律の中に含まれるというのが大体政府見解なんですが、今後そういうことによって行われる日本の教育の懸念というか、そういう問題について少し簡潔にお話しいただければと思います。

中森孜郎君 戦争中、日本少国民文庫で、吉野源三郎さんという人が「君たちはどう生きるか」という本を書きました。あの中で、コペル少年が、自分の貧しい友達のうちに行ったときに、油揚げを一生懸命揚げていて、病気で休んでいると思ったら一人前にやっていた、それに大変ショックを受けまして、彼は一人前に仕事をして物をつくっている、僕は何もつくっていないじゃないかということで悩むんですよね。そして、そのときにおじさんから、だって、大事なものを毎日つくっているんじゃないか、それを考えてごらん、今は答えは言わないけれどもという宿題を預けられるんですね。その終わりの方のところになってやっと、実は毎日毎日学ぶことによって自分をつくっているんだというところにいくわけですよね。

 つまり、憲法二十六条の教育を受ける権利のもとにある、子どもの権利条約では、教育への権利となっているんですね。ザ・ライト・ツー・エデュケーションとなっているんですね。受ける権利ではなくて教育への権利と。それはやはり子供自身が実はみずから育とうとして、そして学ばずにいられない、その学びにどうこたえていくか、その学習の要求にどうこたえていくかという。つまり、人格形成というのが教育の目的にありますけれども、その主体はやはり子供がみずから自分の人格を形成していく、それを助けるのが教育であって、何か鋳型にはめていくものではない。あくまでもみずから選び取りながら、一人一人が自分の個性を生かして育っていく、これが民主主義教育だと思うんですね。

 そういう意味では、できるだけ公教育というのは子供の自律的な学習を、だって、子供はみんな、あれは何、これは何、どうしてと親に聞くじゃないですか。そこから始まっているわけです。それが学問を生んできたわけですから。それを助けるということが教育なんだから、そういう意味では、何か価値観を一方的に押しつけるとか教え込むというのではなくて、やはり育つことと育てること、学ぶことと教えることとの関係をどうつないでいくか。そこのところが、教える方、育てる方が優先してしまうと、育つこと、学ぶことがどこかに行ってしまう、殺されちゃうわけですよね。だから、そこを大事にしていってもらいたいというのが私の気持ちです。

石井(郁)委員 どうもありがとうございます。

 本当に、この教育の問題というのは、そういう意味での教育観、子供観等々がベースにあって、それで成り立っていくというふうに思うんですけれども、そういう問題もまだまだ私たちも審議をしっかりしなきゃいけないかなというふうに思っているところです。

 それで、最後なんですけれども、この法案の審議中に、まさに子供たちが命を絶つとか、あるいは高校で未履修問題が起こって、今子供たち、親も、ある面では本当にパニック状態ですよね、受験期を前にして。これほど、今教育をめぐって子供たちが声を上げている、いわば命をかけて声を上げているという状況だと私は思っているんです。

 そういうときにこの政府の法案を、与党の方は来週早々にももう採決かというようなことも言われておりますので、ちょっと生々しい話にもなりますけれども、今出ている問題の解決に政府法案が本当に役立つのかという問題と、それから、こういう状況でのこうした法案の成立というのは、この法案をどう見るかというのはあるんですけれども、その法案を国会が成立させるということを一体国民の皆さんがどのように受けとめるんだろうかということを私は大変考えておりますので、その点で一言ずつお伺いできればというふうに思います。

 櫻中参考人、それから千葉参考人と木村参考人、中森参考人、もう時間ですのでほんの一分ぐらいずつお願いできればと思いますが、今の状況で、この国会で教育基本法の成立ということを率直にどのようにお考えになりますか。

櫻中辰則君 それについては、現在のいじめ等、今出ておりますように未履修問題等、やはりこれは基本的に教育というか今までの世の中のひずみだと私は思っております。その中で、今やらなければいけないことというのが必ずあると思います。ですから、なるべく、先ほども私申し上げましたように、子供たちはどんどん卒業してしまうし、一年を刻んでおりますので、やはり私は早い方が、きっかけとして、またそれでよく世の中が考えていくということに関しては、いいと思っております。

千葉胞義君 簡潔に申し上げますと、よく議論をして、そして国民の方々の声も聞いて、それでよしとなれば、やはりこの法案をひとつつくっていただくということがいいのではないか。なお議論、今している最中だと思いますけれども、お互いにそれでよろしいとなれば、それは早くてもいいのではないか。しかし、非常に問題がありまして、これはやはりいろいろ国民の方からも聞いた方がいいということであれば、そういうことの過程を踏まえながらやっていった方がいいのではないかというふうに思います。

木村勝好君 教育基本法を改正すれば日本の教育問題はすべて解決するなどということでは全くないと思います。しかし、教育に関する憲法的な性格を持つ法律でございますので、それの改正、その審議につきましては、十分に時間をかけて、そして広範な国民的な議論を踏まえてやっていくべきで、拙速は避けるべきだというふうに思います。

中森孜郎君 私は、どんな改革も、一番原点はやはり子供だと思うんですね。子供の声にまず耳を傾ける。そして、その子供の教育に直接責任を負って、毎日苦労している先生方の声に耳を傾ける。そういうことなしには、本当に子供のための教育改革にはならないんじゃないか。

 子供はみんな学びたがっているし、きょうよりはあしたと高みに上りたがっているわけで、私はもう二十数年、仙台にある、ある女子少年院の教育にかかわってきています。その中で、学校教育から締め出された、非行に走った子供たちが、本当に授業の中で生き生きとした目をして、どんどん変わっていくんですね。感動的な場面がいっぱいあります。本当に子供たちは、そういう自分の学びたいという要求を持って生きている。それが今の競争教育の中で、管理的な教育の中でつぶされていっている被害者だと思うんです。だから、やはり子供の声に耳を傾ける、教師の声や親の願いに耳を傾ける、そこがやはり改革の原点でなくてはならないと思います。急いではならないと思います。

石井(郁)委員 きょう、それぞれのお立場から貴重な御意見、本当にありがとうございました。

 以上で終わります。

森山座長 次に、糸川正晃君。

糸川委員 おはようございます。国民新党の糸川正晃でございます。

 陳述人の皆様方におかれましては、大変お忙しい中御出席いただきまして、また大変貴重な御意見を賜りまして、本当にありがとうございました。勉強になりました。私も、数点ではございますけれども、皆様方に質問をさせていただきたいというふうに思います。

 まず、今、さきの国会から継続審議になっております教育基本法というこの法案でございますが、何回かテレビ中継もされておるわけでございます。そして、今、新聞等でも、現在の審議の状況というものが報道されておるわけでございます。また、その前には、教育改革国民会議であったりですとか中教審においても、この改正について審議をされて議論をされてきたわけでございますが、これまでのこの基本法の改正の議論について、櫻中陳述人と木村陳述人、どのような印象を持っていらっしゃるか、それぞれ率直な感想をお聞かせいただけますでしょうか。

櫻中辰則君 今までの流れということでは、確かに前回継続審議ということになりまして、ただ、私は個人的にもこの立場上でも、やはり教育の問題が出てきたという時点で、前回のことに関しては非常に、先ほども申し上げましたように、やっと教育に目が向いてきたかなと。

 確かに、義務教育に関して、九年間の義務教育期、非常に国でも、ほかの国の例にないようなぐらいに予算といいますか教育費にはかけているとは思います。ただ、そのほかに、今の学校等の教育のことに関しては、やはりもっともっと予算なりなんなりを使っていただければなと個人的には思っておった中で、教育に向けるそういった教育基本法案ということが出てきた時点では、私は非常に教育に目が向いてきたなということで喜んでおりました。

木村勝好君 議論を拝見していて、率直に申し上げて、私が、自分の子供たちを育てたり、先ほど申しましたようにPTAの役員をやったりして、その中で見てきた学校の現場といいますか、私の目から見た学校の現に行われている教育、あるいは学校や子供たちを取り巻いている状況、そういうものと比べると、何かどうもそこまで手が届いていないような議論が多いんじゃないかなというふうに率直に思いました。つまり、もっと問題にされなきゃならないことがあるのになという気が正直に言ってしております。

 例えば、学校の中のことについて申し上げれば、どこの学校ということではありませんけれども、往々にして学校の中で起きていることを外に知らせたがらないという傾向があることは否定できないだろうというふうに思います。つまり、学校の現場で起きていることを市町村の教育委員会がすべてわかっているかというと、必ずしもそうでもない。まして、私のように地方議員という立場からすれば、では今度は私たちにどこまで伝わっているのかなというと、これが必ずしも正確には伝わっていないという、幾つかのフィルターを経て、その上でいろいろな議論がなされている、そういう部分が正直言ってございます。

 ただ、たまたまPTA等をやりながらその中で直接そのやりとりを見ていると、ああ、随分いろいろな問題があるんだな、要するに、会長もやりましたけれども、会長さんだけの胸にとどめてくださいということが結構ございました。そういったところまで届いている議論が国会の中で本当になされているのかなという気が正直言ってします。

糸川委員 ありがとうございます。

 本当に私もやっと教育に目が向いてきたのかなという気がするわけでございます。そういう中で、今この教育基本法というのがようやく議論の場に立ったんではないかな、昭和二十二年の制定以来の初めての改正なわけですから、これからやはりまだまだ議論をしていかなきゃいけないんじゃないかなという気がするわけですね。今、恐らく国民の皆さんが皆さん、こういう教育のあり方についてようやく考え始めた時期なのかな、だから、いじめの問題であったり未履修の問題であったりというものが浮き彫りになってきているのかな、先ほどひずみというふうにおっしゃられましたけれども、実際そういうところが出てきたんではないかなというふうに考えるわけでございます。

 そこで、もう一回櫻中陳述人と木村陳述人にお伺いしたいんですけれども、今、このいじめの問題、未履修の問題につきまして、教育委員会の対応であったり国の対応であったりというところにいろいろな議論があるわけですけれども、これも率直な感想で結構なんですが、対応についてどういう御感想をお持ちなのか、お聞かせいただけますでしょうか。

櫻中辰則君 報道等でもいろいろ出てきまして、教育委員会等のことのいろいろな御意見等も聞いております。ただ、こういったケースというのは、今まで浮き彫りにされる、浮き彫りにされるというとちょっとおかしいですけれども、やはりそういったことが今まであったのかなかったのか、そのこと自体も私たちもわからないところもありますけれども、今やっとそういったことで教育委員会ということを問われている。なおかつ、私たちとしては、やはりこの組織にある以上、子供たちの自己実現に向けての支援をするつもりでPTA活動というのをやっているつもりです。

 だから、そういった教育委員会等のことを、だれが悪いとかいいとかではなくて、やはり今この時代だからこそ、ともにいろいろなことを議論しながら子供たちの教育環境を整えていくということに私は感じております。

木村勝好君 まず、いじめのことに関して申し上げれば、やはり、親も学校の担任の先生も、それから学校にかかわるさまざまな方々も、子供のサインを見落とさないということが非常に大事だろうというふうに思います。せんだって来の問題についても、やはりいろいろな形で子供はサインを出しているわけですから、そのことを注意深くよく見ていて、大したことないというふうに思わないことが大事だろうというふうに思うんですね。大したことないと思ってしまって大変なことになるよりも、大騒ぎして結果として大したことない方がいいわけですから、そういうところはやはり十分注意をしなきゃいけないというふうに思います。

 それから、これは学校の中でどういうふうに処理されているかわかりませんけれども、自分のクラス担任のところの子供に何かあったときに、担任がそれを見落としていたら、担任じゃない先生がその問題を取り上げても一向に構わないのだというふうな、そういう状況をつくっていくべきじゃないんでしょうか。そういう気がします。

糸川委員 ありがとうございます。

 本当に私も、実際、今回のこういう未履修の問題なんかが過去に起きていたなんということも想像だにしていなかった。今回、この教育基本法の改正の中でこういう問題が浮き彫りになってきて、正直、戸惑いも感じたわけでございます。

 そういう中で、今度は千葉陳述人と木村陳述人に、木村陳述人にはもう一回なんですが、今現在の教育委員会のあり方について議論になっておるわけでございますが、教育委員会を含めて国と地方の教育行政の関係について、先ほども若干述べられたわけでございますが、再度、どのようにお考えになられているのか、また、政府案と民主党案で規定の仕方につきまして若干違うわけですが、それぞれどのようにお考えなのか、お聞かせいただけますでしょうか。

千葉胞義君 民主党案と自民党案というふうな、そういう案ができましたお話ですが、このことについては、私は精通しているわけでもございませんのでなかなか答えにくいということもありますが、そういう点はひとつ御了承いただきたいな、こう思います。

 それから、いじめの問題で教育委員会等のことのお話でございましたけれども、いじめがあったということについては、やはり教育委員会でも認めるべきは認め、そして学校としっかり連携をとって、しかるべき最良の方法をとるべきでないかというふうに思っております。決して隠すなんということのないように、お互いに学校でも報告をし、教育委員会でもそのことについてすぐに腰を上げて、お話を聞いたり、早い対応と、それからそういうことが出た場合には、やはり正直なお話を当事者に申し上げるとかといったような、そういうことが大事でないかというふうに思っております。

 なお、やはり一番のいじめについての根底は、私の考えでは、どうしても家庭に最後は戻ってくるのではないかというふうに思っております。いわゆる親たちの考えをしっかりと聞くとか、それから親たちがどういうふうに子供を指導しているとかといったような、こういうことが起こったからといってすぐに学校を批判するとかということでなしに、家庭でしっかりしてもらえばいいのでないかというふうにも思っております。

 以上です。

木村勝好君 国と地方の教育行政にかかわる問題ということでありますけれども、私どもの目から見ていると、これまで教育予算の中で国が負担をしてくれていた、国の負担でやっていたものについてどんどん地方に負担を求めてくるという傾向にございます。

 一方で、先ほどお話ございましたけれども、いろいろな制度の改正なり、あるいは制度の運用についてのさまざまな文部科学省からの通達、そうしたものが目まぐるしく変わるような形で来ている。結局、それを受けとめるのは地方であり現場の学校なわけですから、いろいろの注文を出したり口は出すんだけれども、出てくる金の方は削っているよというのでは、やはりなかなか地方としては大変なんじゃないのかなというふうに思います。

 小中学校の教員について今国から県に補助を出して県費で負担をしている部分を、いずれ政令指定都市に関しては政令市が負担するように変えようといったような動きもございます。これをされると、もう政令市としては大変な負担になって、ほかのことができなくなってしまいますので、いろいろな注文を国の方から出されるのであれば、やはりそれに見合うだけのきちんとした予算措置もしてほしいなというふうに思います。

糸川委員 ありがとうございます。

 もう時間もなくなってまいりましたので、最後に一言ずつ皆様方にお伺いしたいんですけれども、教育の最終責任者、これは私は国が持つべきではないかなというふうに思うわけですけれども、皆様お一言ずつ、どこが持つべきだというふうにお考えか、お聞かせいただけますでしょうか。

櫻中辰則君 最終的にはやはり私は国だと思っております。国全体として教育格差のないように、国が最高の責任だと思っております。

千葉胞義君 私も最終的には国であるというふうに思います。

木村勝好君 学校教育という意味では確かに国かもしれませんが、子供の教育という意味では私は親だと思います。

中森孜郎君 私も、子供の養育権はやはり親にあるので、第一義的には親、それを自治体や国が支えて助けていく、そういう関係だと思います。

糸川委員 ありがとうございました。大変参考になりました。

 きょうこういう地方公聴会という場を設けさせていただきまして、陳述人の皆様方の御意見をまた持ち帰りまして、今後の議論に活用させていきたいというふうに思います。ありがとうございました。

森山座長 以上で委員からの質疑は終了いたしました。

 この際、一言ごあいさつを申し上げます。

 意見陳述者の皆様方におかれましては、御多忙の中、長時間にわたりまして貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。

 本日拝聴させていただきました御意見は、当委員会の審査に資するところ極めて大なるものがあると存じます。ここに厚く御礼を申し上げます。

 また、この会議開催のため格段の御協力をいただきました関係各位に対しまして、心から感謝申し上げます。ありがとうございました。

 これにて散会いたします。

    午前十時五十五分散会

    ―――――――――――――

   派遣委員の栃木県における意見聴取に関する記録

一、期日

   平成十八年十一月八日(水)

二、場所

   宇都宮グランドホテル

三、意見を聴取した問題

   教育基本法案(第百六十四回国会、内閣提出)及び日本国教育基本法案(第百六十四回国会、鳩山由紀夫君外六名提出)について

四、出席者

 (1) 派遣委員

    座長 森山 眞弓君

       稲葉 大和君   斉藤斗志二君

       中井  洽君   西村智奈美君

       西  博義君   石井 郁子君

       糸川 正晃君

 (2) 意見陳述者

    宇都宮市議会議員    杵渕  広君

    宇都宮大学教育学部教授 渡邊  弘君

    芳賀保護区保護司    渋井 休耕君

 (3) その他の出席者

    衆議院調査局教育基本法に関する特別調査室長  清野 裕三君

    文部科学省大臣官房審議官           尾山眞之助君

     ――――◇―――――

    午後二時一分開議

森山座長 これより会議を開きます。

 私は、衆議院教育基本法に関する特別委員長の森山眞弓でございます。

 私がこの会議の座長を務めさせていただきますので、よろしくお願い申し上げます。

 この際、派遣委員団を代表いたしまして一言ごあいさつを申し上げます。

 皆様御承知のとおり、当委員会では、第百六十四回国会、内閣提出、教育基本法案及び第百六十四回国会、鳩山由紀夫君外六名提出、日本国教育基本法案の審査を行っているところでございます。

 本日は、両案の審査に当たり、国民各界各層の皆様方から御意見を承るため、当宇都宮市におきましてこのような会議を催しているわけでございます。

 御意見をお述べいただく皆様方におかれましては、御多用中にもかかわらず御出席いただきまして、まことにありがとうございました。どうか忌憚のない御意見をお述べいただきますようによろしくお願い申し上げます。

 それでは、まず、この会議の運営につきまして御説明申し上げます。

 会議の議事は、すべて衆議院における委員会議事規則及び手続に準拠して行い、議事の整理、秩序の保持等は、座長であります私が行うことといたしております。発言される方は、その都度座長の許可を得て発言していただきますようお願いいたします。

 なお、御意見をお述べいただく皆様方から委員に対しての質疑はできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願います。

 次に、議事の順序について申し上げます。

 最初に、意見陳述者の皆様方からお一人十分程度で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑に対してお答え願いたいと存じます。

 なお、御発言は着席のままで結構でございます。

 次に、本日御出席の方々を御紹介いたします。

 まず、派遣委員は、自由民主党の斉藤斗志二君、稲葉大和君、民主党・無所属クラブの中井洽君、西村智奈美君、公明党の西博義君、日本共産党の石井郁子君、国民新党・無所属の会の糸川正晃君、以上でございます。

 次に、本日御意見をお述べいただく方々を御紹介いたします。

 宇都宮市議会議員杵渕広君、宇都宮大学教育学部教授渡邊弘君、芳賀保護区保護司渋井休耕君、以上三名の方々でございます。

 それでは、まず杵渕広君に御意見をお述べいただきたいと存じます。

杵渕広君 ただいま御紹介をいただきました宇都宮市議会議員の杵渕広であります。

 本日、衆議院教育基本法に関する特別委員会地方公聴会において、意見陳述の機会を与えていただきましてまことにありがとうございます。地方議員として、また、宝木小学校のPTA副会長、同校留守家庭児童会運営委員会会長の立場と、三人の児童生徒を持つ親の立場もあわせて、意見を述べさせていただきたいと思います。

 教育基本法が制定され約六十年、前半の約三十年、国民は物の豊かさを求め、高度経済成長期を境に心の豊かさを求めるようになりました。その結果、社会にさまざまな価値観が生まれ、経済社会や国民の生活状況が大きく変わりました。それと同時に、教育を取り巻く環境も急激に変化をいたしました。教育水準が向上し、生活が豊かになる一方で、都市化や急速な少子高齢化の進展などにより、教育を取り巻く環境と教育に対する価値観が大きく変わったのであります。

 社会生活や教育現場においては、個人の自由や個人を尊重することが強調され、規律、責任、他との協調、社会への貢献など基本的な道徳観や、昔から受け継がれてきた常識という社会共通の価値観が軽んじられるようになってしまいました。これだけが原因とは申せませんが、子供も大人も、規範意識、学習意欲の低下が顕著となり、いじめ、自殺、不登校などの問題が深刻化し、人間力の低下、家庭や地域の教育力の低下など、教育全般にさまざまな問題が混在するようになってしまいました。

 厳しい言い方になりますが、私は、教育行政に限らず一般的に行政は、その施策について、極力市民に批判されないように努める余り、本当に必要とする施策の推進が必ずしも十分ではなかったのではないかと考えています。反省すべき点は反省し、見直しをすべきであります。

 私は、このような現状認識に立ち、次代を担う子供にとって何が必要なのか、今、次代にわたる教育の基本理念を明確に示し、国民全体での共通理解を図りながら、時代にふさわしい教育改革を行うことが重要だと考えます。

 さて、限られた時間でありますので、地域づくりは人づくりという観点から意見の開陳をさせていただきます。

 宇都宮市は、本年度をうつのみや教育改革元年と位置づけ、宇都宮の人づくりの指針となる宮っこ未来ビジョンを踏まえ、各分野別の基本計画を着実に推進し、家庭や地域の教育力の向上、市民一人一人の人間力の向上を目指した取り組みを始めています。

 子供一人一人が人間力を養うには、家庭における教育が何よりも肝心なのであり、家庭の教育力は、愛する心をはぐくむことにあると考えています。子供に愛するということを言葉や事象で説明することではありません。自分の子供を愛することができているか、愛にも優しいもの、厳しいものがあることを含め、子供の成長に合わせて与えることができたかであります。このことは、改めて確認せずとも、多くの家庭では何げない日常のことなのであろうと考えています。

 しかし、そうでない、愛されたことがない、愛され方を知らない子供が存在していることも事実であります。しつけと虐待の分別もなく、子供を愛せない保護者がふえているのは、これもまた悲しい事実であります。このような教育力低下傾向にある家庭に何を求めたらよいのでしょうか。それは、無償の愛情を基盤として、子供たちの心に、困ったらだれかが必ず守ってくれるという安心感をはぐくむことであると考えています。

 多くの子供は、家庭生活の中で愛する心がはぐくまれ、困ったら家族が必ず守ってくれるという安心感が培われてきます。この安心感があるからこそ、子供たちは家庭から地域へ出て、多種多彩な地域活動に参加する意欲を持つことができるのであり、そして、この地域活動により、参加者が目標を共有しながら協力してその実現に取り組み、活動の中で、親と違う価値観を持つ大人や友達と触れ合い、社会性を身につけていきます。

 学校生活におけるさまざまな学習活動の成果とこれらの経験が重なり、家族を愛する心、地域を愛する心が郷土を愛する心となり、そして、我が国がこれまで築き上げてきた伝統文化を理解、尊重する姿勢を身につけ、日本人としての自覚と国を愛する心をはぐくむことになるはずであります。このことは同時に、他国を理解し、かけがえのない存在として尊重し、ともに発展していこうという意識を醸成し、国際社会の平和と発展に寄与していくという姿勢にもつながっていくものと考えております。

 しかしながら、家庭や地域の教育力は低下傾向にあるわけでして、地域活動等の衰退により、子供たちは十分に社会性を身につけられないまま社会に巣立っているのが現状ではないかと危惧いたしております。この家庭と地域の教育力を向上させるためには、地域にある小中学校がその支援に当たることが効果的であり、現実的であると考えます。

 小中学校は、義務教育の実践の場であり、保護者や地域の教育の場でもあります。学校には、教育専門職の教員がいて、地域の人材と連携することで、家庭や地域の教育支援の中核的機能を果たすことができます。にもかかわらず、私たちは学校における義務教育を軽視してきてしまったのではないでしょうか。学校教育が形骸化し、単に出席していればよいといった風潮にあるのではないでしょうか。いつの間にか補助的な存在であった塾などがますますその存在感を増し、今や主客転倒の状況にあり、このことが家計費を圧迫し、少子化に拍車をかけていることなども反省しなければならない点だと思います。

 これからは、学校教育を再評価しつつ、家庭の教育力向上や地域づくりに学校がその一翼を担うという発想の転換が必要であり、これらを具体化するには、設置者である市町村の関係部局が、地域づくり、人づくりの価値観を共有して施策を推進しなければならないと考えます。

 しかし、本宇都宮市を例えとすれば、来年三月の合併後は、小学校六十八校、児童数約二万八千人、中学校二十五校、生徒数約一万三千人となります。現行制度では、中核市として主体性を発揮しながら、創意工夫を生かした特色ある学校教育を実現していくことに制約があります。

 地方分権が進展する中、義務教育の直接の実施主体である市や学校が、地域の実情に応じた特色ある教育、地域づくり、人づくりを行えるようにするには、その権限と責任を拡大する改革を進めることが肝要であり、県から市への分権、教育委員会から学校への権限移譲をすることが必要であります。当然に、給与負担の権限が移譲される場合は、税源移譲等による確実な財政措置が必要と考えております。

 次代を担う子供たちのために、知育、体育、徳育、食育を実際に行う学校教育の現場が、子供たちの学力の向上を図ることはもちろん、豊かな人間力をはぐくんでいける環境を整えなければなりません。人間力を培うのは家庭であり、一にも二にも保護者がその責任を負うことは当然であります。しかし、教育は国策であり、教育を受ける機会均等の保障と全国的な学力水準の維持向上は国の重大な責務であります。普通の子供が安全で安心して学校生活を普通に送り、日本人としての自覚と誇りを持ち、国際社会の平和と繁栄に寄与できる人となりを育成するためにも、教育改革を進めるべきだと考えております。

 与えられた時間が参りました。

 最後に、私が、議会、学校行事などで引用しております言葉を申し上げ、私の意見陳述を終わりにさせていただきます。

 あなた方に希望するところは、学問を飽くまで、静かな平らかな心を持って勉強し、将来発展の基礎をつくっていただきたいと熱望する次第であります。どこまでも気を広く持ち、高遠なるところに目標を置いて、日本のために進んでください。

 ありがとうございました。(拍手)

森山座長 ありがとうございました。

 次に、渡邊弘君にお願いいたします。

渡邊弘君 本日は、意見陳述者として述べることを光栄に存じております。私は、教育基本法改正に賛成の立場で、また基本的には政府案を支持するという立場で意見を述べさせていただきたいと思います。

 特に、政府案の内容では、全体的に、いわゆる人格の完成を目指す個人の尊厳というものを尊重する教育を基本原理とした現行法を踏まえながら、さらにまた現代のさまざまな教育課題を幅広く視野に入れて案を作成されていると私は考えております。また、改正の最大の意図というのは、これは、子供たち、広くは人間を個人としても、また社会人、国民としてもよくしたいという願い、それに基づいていることはもう言うまでもありません。

 そうした願いにもかかわらず、社会の変化に伴い、次々と新たな教育問題というものが発生してきているということは周知の事実でございます。こうした諸問題を私たち大人はもはや見過ごすことはできないわけでございまして、意識改革とシステム改革の両面から根本的に改革していかなければならない時期にもはや来ているのではないかと私は判断しております。その意味でも、現実の教育課題を直視し、現状に即して、今、理念や目的などの教育における根本原理の再構築というようなことが必要であると考えております。

 以上の点を踏まえながら、政府案の中で特に意義があり重要であると思われる点を具体的に幾つか述べてみたいと思います。

 まず、教育の目的あるいは目標でございますけれども、この人格の完成に必要な資質として、第二条、教育の目標が掲げられております。

 その中でも「公共の精神」、これは民主党案の前文にも記載されてございます。私は、去年の三月まで附属小学校の校長を三年間務めておりました。そのときにも痛感しましたのは、非常に、大人あるいは親のエゴ、あるいはそれが反映した子供たちのエゴイズム、人に迷惑をかけなければよい、給食費を払わなくてもとめられないんだ、そういうようなことがかなり蔓延しているのではないかと感じます。現在、これは日本だけではなくて世界じゅうで、民主主義社会に生きる国民にふさわしい価値の共有化というようなものが、伝統のそういう価値とあわせて今模索されている時期ではないかと思います。

 二番目には、職業の重視あるいは職業教育の重視ということになりますけれども、これは、いわゆる増加するフリーターあるいはニートの問題、キャリア教育の重要性、キャリア教育を推進する指導者をどうするかというような問題が、これはもう早急の問題として今出てきております。

 さらに、伝統と文化を尊重する、我が国と郷土を愛する、他国を尊重する、こういうようなものが、実際に、今日本のすぐれた点を見直しながら、郷土愛、そして国家愛、そしてさらには人類愛と、開かれたそういうふうなものが今非常に重要になってきているのではないか。

 その意味で、先ほどのエゴイズムというようなこと、あるいはミーイズムということに関連して、寛容の態度の育成というようなものも重要になってきていると考えられます。現実に、グローバル化した国際社会の中で、偏狭な愛国心の段階でとどまっていては孤立化していくだけであり、もはや非現実的思考ではないかと私は考えております。

 また、生涯学習についてですけれども、これは、これまでのワントラックとしての学校教育中心主義の解消と生涯にわたって一人一人の学ぶ権利を保障していくという点では、これは極めて評価できる点だと思います。

 また、第四条の教育の機会均等の中で、実際に、この特別支援教育というものが平成十九年四月一日から施行される、その転換を図るという意味でも、やはり上位規定として重要な意味があるのではないかと思います。

 さらに、家庭教育ですけれども、これも実際に、「子の教育について第一義的責任を有する」ということですが、これは御存じのように、保護者の養育放棄、さまざまな虐待、過干渉、そういう問題解決にとって意義があるわけでございまして、また、そういう問題も含めて、国及び地方公共団体が、保護者に対して学習の機会、情報の提供というようなことが盛り込まれておりますけれども、これは、孤立化などによる育児不安の現実問題に対応するためにも、また極めて重要な規定ではないかと考えております。

 さらに、幼児期の教育についても「良好な環境の整備」というのがありますけれども、これも、今問題になっております子育て支援の問題にとって、いわゆる認定こども園その他の保育機関の整備等を考えていくということは重要な課題であると考えます。

 私個人として、やはり最も関心の深いのが、学校、家庭、それと地域住民等の連携協力でございます。これは昨年までの附属小学校の校長を兼任しているときにも非常に感じたことですけれども、やはり私の子供という、非常にそういうふうな考え方が強い。そういう中で、目的を持ってお互いに理解するということは形式的にはあるわけですが、実際にはやはりそれは形式どまりで、実際の実質的な連携というのはなされていない。

 子供たちの教育課題を解決するためには、今学校だけでは解決できない問題が数多く発生しております。例えば、安全教育、食育、情報教育、職業教育、道徳教育、そして今盛んに問題になっておりますいじめ問題ですね。こういうものも、民主党案の職業教育あるいは情報文化社会に関する教育の両規定というものは非常にまた興味深いものもございますが、こういうような内容のものをやはり学校だけでは今できない。

 つまり、教職員と保護者、そして地域の人々が実質的なつながりを形成して、自分たちが子供たちをみずから守るんだという強い気持ちを持ちながら活動していくことが何よりも今重要なのではないかと思います。すなわち、今大切なことは、何よりも日ごろからの緊密なコミュニケーションを持てる場づくり、そして目的の共有化と実践化を図っていくということでございます。

 さらにまた、不登校、虐待、病弱教育といった教育問題を解決していく上でも、教育機関と医療機関、そして福祉機関、こういうところがやはり緊密な連携体制をつくり上げていくということが現在緊急の課題になっていると思います。

 さらに、宗教教育についてですけれども、これも、宗教的な関心からの世界の社会情勢の理解、あるいは宗教に含まれる生き方の原理を教養として理解しておくということは、これは宗教知識教育という意味でやはり非常に重要であると考えます。

 さらに、教育行政についても、実際に、地方分権の観点から相互協力を指摘されておりますけれども、こういうふうな点もやはり今後重要な課題になってきていると思います。

 そのほか、私は、今、宇都宮大学の教育学部、教員養成の学部におりますけれども、やはり今後、教員のいろいろな問題がございます。教員の資質の向上、特に、私は、発想力、考える力、そして工夫して子供たちに還元していく、そういうようなものを、やはり実践的指導力を踏まえながら学部時代に行っていくというようなことが今課せられた課題かなというふうに考えております。

 短い時間ですので限定されておりますけれども、私の陳述は以上でございます。

 ありがとうございました。(拍手)

森山座長 ありがとうございました。

 次に、渋井休耕君にお願いいたします。

渋井休耕君 ただいま御紹介いただきました渋井と申します。

 私は、慎重に審議をして、そしていい法案ができますことを念じて、そういうことが可能ならば改正案に賛成であるという立場で意見を述べたいと思います。

 先ほど来、今の基本法ができて約六十年になりますけれども、さまざまな面で時代の変化に対応し切れない面が多々あるのではないかな、こんなふうに思っております。

 さて、政府案と民主党案で読み比べてみますと、政府案がすぐれている面、あるいは民主党案がすぐれている面、多々あるんではないかなと思っております。特に、ここのところはどうかなという点で、政府案の第二条の目標の五の条文について、ちょっとこうした方がいいんじゃないかなということをつけ加えさせて読ませていただきたいと思います。「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」こうなっておりますけれども、我が国と郷土を愛する心を培うとともにというふうに入れた方がよろしいのかな、こう考えております。

 それはなぜかと申しますと、理由の一番目は、臨教審やそれから中央教育審議会の答申にもありますように、郷土を愛する心、我が国を愛する心をはぐくみ、こうなっております。臨教審やそれから中央教育審議会で、郷土を愛する心と我が国を愛する心というふうに、そういうふうに教育基本法改正の必要性と改正の視点で指摘しております。ところが、「郷土を愛するとともに、」というふうに原案はなってしまいました。この辺は、民主党案によりますと、「日本を愛する心を涵養し、祖先を敬い、」こんなふうになって、「日本を愛する心」、こういうふうになっています。これが一点でございます。

 理由の二として、また学習指導要領では、道徳の時間が昭和三十三年に特設されましてから、四十三年、五十三年、それから平成元年、平成十一年、こういうふうに学習指導要領が十年に一度改訂されております。既に昭和五十三年の改訂のときには、「日本人としての自覚をもって国を愛し、国家の発展に尽くすとともに、人類の福祉に寄与する人間になる。」こうなっています。そこで愛国心、人類愛について既に昭和五十三年において学習指導要領で示されております。それが第二点でございます。

 平成元年の文言にも、「日本人としての自覚をもって国を愛し、国家の発展に尽くすとともに、」ちょっとそこが違うんですけれども、「優れた伝統の継承と新しい文化の創造に役立つように努める。」こうなっています。当時、小学校の徳目は二十八、中学校は十六徳目になっておりましたけれども、今度の平成十一年の改正でも、中学校の場合ですと二十三項目に変わった、こう伝え聞いております。それが二点目の理由でございます。

 三点目の理由として、学習あるいはということで申しますれば、態度というのは心の内面的な資質の育成が図れないと態度化されない、これはアメリカの著名な心理学者、ブルーナーという学者が一九六二年に発表しております。内発的な動機づけが非常に大事なんだというようなことで、やはり心を鍛え上げないと態度化はされないんだというようなことで、特に我々、私は教職をやっておりましたので、道徳の指導過程の中で、生徒の道徳的心情を豊かにし、道徳的な判断力を高め、道徳的実践意欲と態度の向上を通してというふうに、人間としての生き方、こういうふうな情を豊かにしないと、心を豊かにしないと、道徳的な判断力あるいは道徳的な実践意欲、態度が向上しないんだ、身につかないんだ、こんなふうに言われております。

 したがって、最近、道路や公園や、あるいは河川敷などを見ますと、ごみが散れております。幾らごみを散らすなと言っても、ごみを散らしてはいけないんだという心の資質の育成を図らなければ、いつまでたっても解決できないんじゃないかな。そういう意味で、ぜひ心を入れてもらえればありがたいなと思っています。

 次に、今、時代が変わりまして、刻々と時代は変化しております。変化への対応ということで、これは自民党案も民主党案も生涯学習について述べられております。「国及び地方公共団体は、国民が生涯を通じて、あらゆる機会に、あらゆる場所において、多様な学習機会を享受できるよう、」これは民主党案ですけれども、「社会教育の充実に努めなければならない。」こういうふうに述べられております。

 自民党案は、その点、多少民主党案よりも、ここに、皆さんのお手元に、私の配付資料の、生涯学習に対するとらえ方という資料が行っていると思いますけれども、民主党案はちょっと社会教育に傾いた嫌いがあるのではないかな、こんなふうに感じました。先ほど渡邊先生の方にもありましたように、やはり学校教育で身につけた学力だけでは変化に対応できないんではないかということで、リカレント教育とか、そういったものは社会教育ではなかなか身につけることはできないのかな、社会教育法における社会教育との関連で、もう少し工夫があってもいいのかな、こんなふうに感じます。

 そして、例えば生涯学習の文言が基本法の改定の案に、民主党も、それから自民党も載せられておりますけれども、私は本当にいい条文だと考えております。例えば、今、教員の免許の更新の問題、あるいは医師の資格の更新の問題、いろいろあると思いますけれども、やはり、いわゆる生きがいとしての生涯学習と、それから時代の変化に対応してスキルアップあるいはキャリアアップを図るという意味での生涯学習のあり方は、多少質が違うのかな、こんなふうに思っています。

 次に、民主党案で注目したい法案として、十六条、十七条ですね。特に十六条においては、生命及び宗教に関する教育についてということがあります。特に今、いじめ、自殺、それからいろいろな問題がありますけれども、やはり生に対する、命のたっとさといいますか、そういったものを十分に鍛え上げないといけないんじゃないか、それから、死に対する荘厳さといった、生命あるすべてのものをたっとぶ態度を養うということは、教育上、尊重されなければならないんではないか、こんなふうに思っています。

 特に、私、保護司をやっている立場で申せば、私のところに来る子供は途中で退学しているんですね。退学が多いということは、やはり教育の配慮といいますか、どこかの過程でやる気を起こさなくなったり、いろいろな問題が含まれているのではないか。そういうことで、この民主党案の十六条は、私は非常に高く評価していいのではないかと。

 それから、十七条は情報社会に関するものですね。これも私は非常に大事なんじゃないかなと。それはどういうことかと申しますと、情報の危機管理ですね。非常に情報が流出しております。この間、子供の成績がよそに流れた、漏れた、こういうようなものもありますし、それから、テレビなどを見ていますと、非常に子供たちに見せてはいけないような映像がストレートに入ってくるというようなことで、この条文が入ったことも高く評価したいと思っています。

 それから、第十四条で職業教育が取り上げられています。この職業教育は、今、高等学校の必修教科の履修がされないで、共通テストのために履修をしている、共通一次に勝つために履修をしている。非常に近視眼的な形で高等学校の教育課程が実施されているのではないかなと思います。それは、やはり小中高と職業観をきちっと身につけさせないために、まず、国立の大学に入れればいい、いい学校に入るために三教科に絞って勉強するんだと。いわゆる人格の完成を目指すはずの教育がゆがめられているのではないかな、こんなふうに思っています。

 それから、教育行政について、政府案は第十六条で非常に大事なことを言っていると思うんですね。「教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。」それから、その二項めに、「国は、全国的な教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るため、」と。私は、役割分担をしていいのではないか、それから、やはり教育の機会均等という面から、あるいは教育の水準の維持という点では、この文言は大切ではないかと。

 民主党の場合、ちょっと心配だったのは、「地方公共団体が行う教育行政は、その施策に民意を反映させるものとし、その長が行わなければならない。」となっています。そういうことで、多少、偏向教育、あるいは今の地方公共団体の力によってはちょっと心配な面があるということを指摘しておきたいと思います。

 結びとして、政府案、民主党案ともに、それぞれよい条文がありますので、それぞれよい案を慎重に審議されて、現行の教育基本法の改定を慎重に進めてもらいたいということをお願いして、私の意見の発表を終わりたいと思います。

 ありがとうございました。(拍手)

森山座長 ありがとうございました。

 以上で意見陳述者からの御意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

森山座長 これより委員からの質疑を行います。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。稲葉大和君。

稲葉委員 本日、宇都宮市におきまして、皆様方からの御意見の陳述をいただいて、我々がこれから成立させようとしている教育基本法の改正案について大変貴重なる御意見をいただきました。また、お忙しいにもかかわらずお越しいただいたことを、まずもって厚く御礼を申し上げる次第であります。

 ただ、惜しむらくは、午前中の公聴会と違いまして、共産党さんからの御推薦の方がいらっしゃらないというのは、何か皆さんそれぞれ賛成の方に御意見をいただいたので、私どもの突っ込みがちょっと逆に足りなくなってしまうんじゃないか、こんな心配も持ちながら質問をさせていただこうかと思います。

 それぞれ御三名の方から大変中身の濃いお話をいただいたので、改めて私の方から、皆さんの御意見を私の考えと比べてどうなのかな、そんなふうなことをするまでもないような、そんな気がしてなりませんけれども、しかし、一つの法律をつくり上げていくというそのお互いの共通の作業の中で、どこが不足しているのか、ここをこういうふうに改正することによって、それでではよくなるのか、こういう疑問、不安も、私自身、政府・与党の中にいる身ではありますけれども、自分自身の中で比べて若干疑問になるところもありますので、あえてお尋ねしていきたいと思っております。

 一つ一つのことについて御質問する時間がありませんので、自分の思いついたところで、また、お話を聞いたところでの御質問になることをお許しいただきたいと思います。

 まず、杵渕先生の陳述につきましてお尋ねします。

 今、大変貴重な御意見をいただきました。また、現場の子育ての、父親としてのお話も承りました。

 さすがに委員長のもとにおられて、また国井先生のもとにおられた方と感服するわけでありますが、今こうやって、六十年にわたって教育基本法が改正の議論になっていなかった、あるいは、その都度その都度は大きな議論としての波はあったでしょうが、今日ほど現実化されていなかったというところは、どんなところに問題があったのか、どんなところにネックがあったのか。杵渕さん、渡邊先生、そして渋井さんにそれぞれ、ほんの短い時間で結構ですから、御自分の御感想を聞かせていただければと思います。

杵渕広君 私の考えでありますと、六十年間の前半の三十年間というものは当然私も知りません。歴史で知っているだけでございます。そのときは、国の政策というものが国民にストレートに伝わっていた時代ではないのかなと。要するに、おのれらの考えはなくて、国から来るものについてはよしとしようという国民的な受け入れの感情があった。教育の論議については、その都度、中教審の答申が出るとか、そういう話のときは大きくなってきますけれども、それまでの教育の、今までのプロセスというか過程が、各小学校、中学校、高校、大学というこの六・三・三・四制の中で、何も弊害がなかったんだろうと思います。

 ただ、今ここへ来て、先ほど申し上げたように、価値観が変わってきたということに対して、教育を受けさせてもらうというよりも教育を受けに行ってやっているんだよという親が、先ほど渡邊先生の方から話がありましたけれども、そういう観念の親が多くなってきている。これではだめだ、日本人が育たぬからもっといいものをつくっていこうじゃないかということで、今の議論があるのではないかと思います。

渡邊弘君 私は、一番根本には人間の意識の問題があると思うんです。それは、一九六〇年代以降、やはり価値相対主義的な、人間が快さ、あるいはお金も含めまして、そういうような、要するに、人間の価値というものが、何か物あるいは快い、快楽主義と言うとちょっと大げさかもしれませんが、やはりそういうようなものが蔓延してしまったのではないかなというふうなところがあります。

 ですから、昭和二十二年の段階で教育基本法ができまして、その段階の個人の尊重、もちろん今も重要ですけれども、先ほども申し上げましたように、公共の精神、つまりパブリックマインドということが、今むしろ、そういう価値相対主義になったから、そういうふうな意識の改革というのが今こそ必要なんじゃないか。つまり、人間というのは個人的存在だけではなくて社会的存在ですから、その社会的存在の部分というものが、やはりこれからは大人も子供も特に教育を通して考えていかなきゃいけないんだろう。そこに問題があるかと。

 もちろん、システムとかいろいろなものは申し上げる時間は今ないようですので、その部分だけお話し申し上げます。

渋井休耕君 私は、直接教育現場におりましたので、昭和三十三年から今次の平成十一年の改訂までずっと文部科学省の言うことを忠実に守ってきたわけでございますけれども、引退して十年たってみまして、非常に、一つは少子高齢化、子供が少ないということもありますし、それから、ゆとり教育というのができたのは、学校週五日制、週休二日という大きな変化の中で無理して、本来はゆとりというのは、時間的なゆとりがあって、学習内容を減らさないで、時間をかけて児童生徒が身につくまで教えるというのがゆとりの教育じゃないかな、こんなふうに私は思うんですけれども、学習内容を減らして、そして学習時間が少ない中でやりますから、応用力をつけるといっても身につかないまま過ぎてしまう、そういうことがあったと思います。

 それで、前半、昭和二十二年に教育基本法ができて、そして保護者も社会も地域も一生懸命頑張ってきた姿が、ちょうどバブルがはじけたあたりから時代の変化が非常に激しくなって、その辺で教育が混乱してきたのかな、こんなふうに思っています。

 したがって、ここでやはり、私はそういう、お互いに話し合いをしていいものをつくっていただきたいというのが私の率直な願いでございます。

稲葉委員 ありがとうございます。

 今度は渋井さんにお尋ねしたいんですが、仕事柄いろいろな、どちらかというと社会からはみ出したというような方々との接触も多くありなさると思うんですね。そういった意味では、大変な、社会全体、国全体にまたがった教育者でおられると私は思うんですが、そういった、犯罪を犯した人に対して社会復帰を容易にしてあげよう、言ってみれば、安倍さんが言う再チャレンジ、広い意味ではそういうところにおられる方々に対してのアプローチとか、そういうところで現場の御苦労がいっぱいありなさると思います。

 その現場の御苦労を踏まえて、では、教育基本法、あるいは教育基本法の改正だけではだめだ、もっとこういうことをしなければならない、そういう突っ込んだお話を聞かせていただければと思うんですが。

渋井休耕君 特に私が感じていることは、問題を起こしている子供が非常に日本全国的な規模で動いているということですね。この間私が面倒を見ていたのは、静岡県出身です。静岡県出身ですけれども、今保護観察をやっているのは二宮町です。

 したがって、結局、人材派遣業を通して職場に行くわけですよね。そうしますと、人材派遣業といっても大手から小規模のもありますけれども、その子供たちからピンはねをしてやっている。そうすると、働いて食べて、それで終わりなんですね。そうしますと、これから社会復帰していくといっても、なかなかいつまでたっても社会復帰できないのではないかなと。

 そういうことで、パートとかあるいは臨時の、正社員じゃなくて非正社員の、そういう働き手に対して、もう少し国は面倒を見るべきではないかな、こんなふうに思っております。

稲葉委員 ありがとうございました。

 それでは、渡邊先生にお尋ねしたいんですが、先生は特に宗教教育について触れられました。私も、宗教教育、情操教育というのは大事なのかな、こんなところにありますが、先ほど渋井先生からは、ゆとり教育も大事、しかし文科省が言うように週二日お休みの中で果たして充実した教育というものが施せるのかどうか、こんな趣旨の疑問を提示されたと思うんですね。

 我々は、今大事なことは、そういった人間としての教育、さらには我が国の言語である国語の教育、こういうことも大切であろうし、また、さらには果たして行き過ぎた教育というような気がしてならないのは性教育、こういう問題について先生はどんなふうにお考えでしょうか。

渡邊弘君 私は、今脳科学などが盛んですけれども、実際に、要するに心の問題ですが、やはり知性と、要するにその場合は学校で与えられた知識ですね、それと感性と意思決定というこのバランスが物すごく崩れていると思うんですね。

 私が、例えばこんな例でいいかと思うんですが、満員電車の中で非常に有名な進学校の高校生が、これは私の経験ですが、おもむろに、参考書でも出すのかと思いましたら、そこからゲームを出して、そして満員電車の中でわあわあ騒いでいるわけです。

 これは、やはり実際にそのバランスが崩れているということで、一方では、学校というのは、知識の問題というのはありますけれども、今、週五日制との関係でいえば、どうしても学力低下、学力向上ということはもちろん重要なんですが、学校というのは、その基盤としてやはり道徳的な文化形成というのがあって、あるいは、もっと具体的に言えば、学級経営とか学校経営というのがしっかりして初めてそういうものができてくるんじゃないかと思うんです。

 ですから、そういう意味でいえば、今、学校の週五日制の、それはやはりもう少しその辺の部分を検討していくということは重要なのかなと。もう少しその辺を改善していくということ、検討をしていくということは重要かなというふうに私は考えております。

稲葉委員 ありがとうございました。

 時間が迫ってきていますので、最後の質問として杵渕さんに。

 この基本法を改正した後に、あるいは教育振興基本計画をつくったり、学校教育法を改正したり、学習指導要領を改訂したり、そういう作業をしなければならなくなっていると思いますが、今、現場のPTAのお一人として杵渕さんから、学校の先生、子供たちを預けている、預かってもらっている学校の先生に何を望まれるか、時間の中でお答えください。

杵渕広君 一つは、先ほどの、一つ前の稲葉先生の質問になってしまいますけれども、今、五日制の問題がありました。私の主張としては、土曜日の午前中を弾力的運用ができないのかということを宇都宮市には申し上げております。これは、今、学校の運用でできるようになっております。

 ただ、ここが問題でして、先生おっしゃったように、今これから細かい作業に入っていくわけです、この法律が通ったら。そのときに、その弾力的運用ができるようにしていただかないと、今言った道徳教育もおろそかになりますし、学力の向上に対するものもおろそかになります。

 ですから、総体的に学習時間が減っているわけですから、我々が教わった詰め込みの教育がいいとか悪いとかの議論は別にしても、減っているんですから、覚える方は一〇〇%覚えませんからまた減りますわということになりますから、私は、学校の先生には、そういう意味も含めて学力、先生の資質の問題を取り上げると長くなりますので、きちっとした、すべての教育についてある程度の知識を持って自分の担任の子たちをきちんと教えていく、それと、足らないところは、学校経営の中で、運用として土曜日の午前中も学校を、授業として、単位としてできるというような制度にしていただければというふうに思います。

稲葉委員 ありがとうございます。

 今のお話につきましては、大臣経験者でもあります、また委員長でもあられます森山先生から文科省の方にも強く申し入れをしたいと思っております。よろしくどうぞお願いします。

 ありがとうございました。

森山座長 ありがとうございました。

 次に、西村智奈美君。

西村(智)委員 民主党の西村智奈美と申します。

 きょうは、三人の陳述人の皆さん、大変貴重な御意見をいただきまして、ありがとうございました。急な開催だったことと思いますけれども、お出ましをいただいたことに、そしてまた御意見をいただいたことに心から感謝を申し上げます。

 そこで、私に与えられている時間も限られておりますので、早速質問に入っていきたいと思います。

 まず、杵渕陳述人、教育論については、本当に大変すばらしいものを聞かせていただきました。

 子供たちがいかに地域で育っていくべきか、御自身が地域の中で活動されているPTAの役員でいらっしゃったり、また地方議会の中で発言をされておられたり、また御自身が父親であられるという立場からの御発言だったと思いますけれども、政府案と民主党案、そして今の教育基本法の現行法、これらについてのそれぞれの評価をまずお聞かせいただきたいと思います。私たちも民主党案を提出しておりまして、今回の委員会の中では政府案と一緒に審議をしているんですけれども、いかがでしょうか。

杵渕広君 資料としては、前々から三案の比較表はもらっておりまして、時々勉強しておりまして、慌ててこれを送られて見たというのが現状です、正直な話を申しますと。

 ただ、現行法と今度出ている二案につきましての相違というのが正直具体的にどこにあるんだろうというふうに、これをぱっと読んだ限りではそう思うわけです。文言の違い、表現の違いというものは確かにあります。しかし、求めているものがそんなに違いがあるのかなというふうに、これを読んだだけではそのようにしか感じられない、私は。

 済みません、細かく最後まで読んで御答弁させていただければありがたいんですが、そこまで勉強している時間がございませんでしたので、このような感覚でございます。

西村(智)委員 今、教育基本法の改正、国会で八十時間ぐらい実は議論されておるんですけれども、まだ実は国民の皆さんの中で基本法を積極的に改正せよという意見というのは正直言って大きくないですね。読売新聞の世論調査の中でも、いろいろな各種マスコミなどでの世論調査で明らかになっておりますけれども、どちらかといえばやはり、教育は大事だ、しかし慎重審議を尽くしてほしい、そういう意見が大勢なわけでございます。

 今回基本法の陳述をしてくださった杵渕陳述人の御意見も、まさにそういった国民世論を反映したものであったかというふうに、大変、私は改めて気づかされた思いがいたしました。

 さて、次に渡邊陳述人に伺いたいと思います。

 同じく、政府案についてはいろいろ評価いただきましたけれども、民主党案、これについては部分的にお話しくださったところもありますけれども、民主党案全体について、そしてまた現行法についてどのような評価をしていらっしゃいますか。

渡邊弘君 現行法については、先ほど少し政府案と比較して申し上げたと思うんですが、民主党案の、私は非常に共感する部分というのがございます。それは、例えば共生の精神とか、先ほども申しましたように情報、非常に政府案と違う、異なる部分というのはやはり状況認識の問題かなと思うんですね。かなり具体的なところまで踏み込んで書かれているというところが感じられました。

 特に非常に、この辺はむしろ検討していただきたいというところは、やはり職業教育の問題あるいは情報文化社会に関する教育、先ほども申しましたように、私も附属学校にかかわっていて、情報モラル教育の問題ですね、有害情報あるいは個人情報の保護とか、こういうようなもののあり方というのは、まさに今日的な問題かなという気がしております。ですから、その辺の部分はやはり非常に重要な御指摘かなと。

 また同時に、これは政府案も同じですが、家庭教育、これはやはり、むしろ親の問題というのは非常に大きいので、第一義的な責任というふうに明記したというのは非常に重要な指摘かなと。これもつけ加えておきたいと思います。

 以上です。

西村(智)委員 ありがとうございます。

 続いて、渋井陳述人に伺いたいと思います。

 長く教育現場におられたということで、先ほど、文部省の指導に従ってきたというような本音のようなお話もぽろっと出てまいりましたけれども、恐らく渋井陳述人が現場におられたときというのは、現行の基本法の時代でしたでしょう。現行の教育基本法についてはどんなふうに評価をしておられますか。

渋井休耕君 教育基本法の改正についての国民世論の比率は少ないと今先生がおっしゃいましたけれども、我々現場におっても、よっぽどでない限り、教育基本法にまでさかのぼって子供の、生徒児童の教育に携わるということは、まず現実問題としてないと思うんですね。

 我々は、学習指導要領によって、そしてその学習指導要領に基づいて、その次の段階として、例えば、こういうふうな教育課程一般という、これを読んで、そして各都道府県ごとに県の教育委員会としての考えを持って、その後自校化に入る。そういう手順を踏んで、学校における全体計画なんかを立てられるわけです。

 したがって、教育基本法にまでさかのぼるということまではいかないで、やはり学習指導要領はどのように改訂されているのか、十年に一度改訂になりますので今回で五回目だったと思いますけれども、そういうものをやってみて、そして自校化することで精いっぱいで、教育基本法までさかのぼることは、まず現実の問題としてはないと思うんです。

 ただ、昭和二十二年にスタートしたときには、例えば道徳の時間はなかったわけです。全教科、全領域で道徳をやる、人格の完成を目指すということで、特に徳目についてはなかったわけです、具体的なものは。それでは徹底しないということで、特設の時間が設けられたのが昭和三十三年です。

 そういうことで、私は、今の日本の教育の現状と教育基本法を見た場合に、例えば、先ほども道徳心という、あるいは愛国心というのがありましたけれども、既に指導要領では、愛国心という言葉が昭和五十三年の指導要領で既に示されているんですよね。そういう言葉は、愛国心あるいは隣人愛とか、そういった言葉がもうぼんぼん出てきているわけです。だけれども、教育基本法と比べてみると、非常に乖離があるといいますか、離れ過ぎているような感じを持ったわけです。

 そういう点で、やはり私は、いいところをとって、そしてやるべきだということが一つ。

 それから、教育基本法は、今回でも、新聞報道あるいは特別委員会の放映はされておりますけれども、実際に、自民党案、政府案、あるいは民主党案は新聞紙上で紹介されていないんですよね。具体的に報道されていません。だから、やはり改正に対する世論は低いんではないかなと思います。我々教育で飯を食ってきた者でも、いわゆる教育基本法にさかのぼって教育を考えるということは、指導要領までということだと思うんですけれども。

西村(智)委員 ありがとうございます。

 それでは、戻りまして、杵渕陳述人に伺いたいと思います。

 小中学校は地域の教育活動の拠点であるというようなお話をいただきました。私もそうあるべきだと思います。地域に開かれた学校で、子供だけではなくて、いろいろな世代、そしてまたいろいろな言語、宗教、いろいろな人たちが、障害を持っている人も集まってこれる、そういう拠点であるべきだというお話、本当に感銘を受けたんですけれども、その話の流れで、杵渕陳述人は、ただ、その学校が今少し機能が弱まっていて、実際に多くの子供たちが塾に行ったりしている、それが結局家計を圧迫することにもなっているというようなお話をしてくださいました。

 実際、日本の家計における教育費の占める割合というのは、これは他の諸国と比べても極めて高いものがあります。OECD諸国の中でも、日本の中で、例えば高等教育の家計負担割合になりますけれども、大体韓国と並んで六割ぐらいが家計の負担であるというようなこと。こういう、日本では、教育にかける費用というものが公的な負担ではなくて、多くはいわば家計の負担になっている。

 ここはやはり、私は、これから教育の機会均等ということを考えていく上でも大変大きな問題になっていくのではないかというふうに考えておりますけれども、杵渕陳述人は、この教育の機会均等を確保するという点から、日本のこういうふうに教育費が非常に家計を圧迫しているという現状をどんなふうに見ておられますか。民主党は、これは条文の中で解決しようと努力をいたしまして、GNP比に占める教育費の割合を示すべきだというふうに盛り込んでおりますけれども、いかがでしょうか。

杵渕広君 先ほど開陳させていただいた中身は例えの例でありまして、教育費が、これを公教育と言ってはいけないんだと思うんですけれども、要するに公費負担で学校に行けるという、今の制度もそうで、その中において、その上にステップしていくについて、要するに、学校の授業だけでは足らぬという現実が実際あるわけです。ですから、それを補うがために塾に行くというのは、これは機会均等から外してもそれはいいと思うんです。

 だから、学校の中で教えるものですべて受験もクリアしていくんであれば、そういう発想にはなってこないんだと思うんですよ、お金がかかるという発想。ただ、クリアをするために、私の場合は、自分がクリアできなかったから、子供にクリアさせてやりたいから、ちょっと足りないところを塾に行かせています、実際。これは大変です。私は小遣いありませんから、私のもらった分だけは全部ということになるんですけれども、そういうところでやっています。

 それと、一番先にあったのは、学校の開放の問題とか地域の問題なんですけれども、地域の問題、地域に今学校が何をしているかというのは、多分どこも同じと思うんです。施設の開放をしているだけでありまして、学校が持っている能力を地域に開放しているわけではありません。そこを一緒にやったらどうかというのが私の発想でございます、ちょっとそれましたけれども。

 家計費が高くなれば子供を産む量は自然と減ると思います。それは例です。だから、全部教育が公費でできるのであれば、これは一番いいでしょうと思いますけれども、果たしてそれだけの財政が今ありますか。地方は特にありません。国の方で全部くれるのなら、我々宇都宮は宇都宮で独自の政策をとっていきたいと考えております。

 以上です。

西村(智)委員 続いて、渡邊陳述人に伺いたいと思います。

 ここのところ、教育基本法特別委員会の中で新たな話題となっておりますことの一つに、タウンミーティングでのいわゆるやらせ発言というものでございまして、青森県で開催されたタウンミーティングで、内閣府が出席者にこういう発言をしてくださいという、そういう依頼をしていたということが明らかになりまして、それは内閣府の方もお認めになったわけであります。

 渡邊陳述人がことしの九月、この宇都宮で開催された教育改革フォーラムに出席されて御意見を述べられておられますけれども、タウンミーティング的なものでありますね。御出席になられたということで伺うんですけれども、こういう政府が主催するタウンミーティングで、そのように政府側の方からこういう意見を出してくださいと求められるということについては、どんなふうにお感じになりますか。

渡邊弘君 問題になっているのはよく承知しております。

 ただ、九月十日だったと思うんですけれども、そのときに、中教審の方、見城委員さんもいましたけれども、かなり私は批判的に、学校で朝御飯を食べさせる、つくるなんというのは、そんなのおかしいじゃないかとか、全然そういう今のようなことはなく、比較的自由にそういうふうな私個人の意見を述べさせていただきました。今回もそういうことで、私自身の意見ということでございます。

西村(智)委員 出席者からの自由な発言の時間というものもあった、会場の皆様との意見交換の時間もあったようですけれども、やはり意見は自由にフロアから述べられる、その権利、それが確保されてこそのタウンミーティングであろうと私も思っております。

 最後に、渋井陳述人に伺いたいと思います。

 渋井陳述人は、先ほど、民主党の案ですと、例えば首長の政治思想、政治性が強く入ってくるおそれがあるというふうにおっしゃいました。ただ、私たちもいろいろ検討いたしましたけれども、実際には、今の教育長、そして教育委員会のメンバーは首長が選ぶことができるということになっておりまして、要は、間接的にではありますけれども、既にそこに政治家の意図というものは入るわけでありますね。

 渋井陳述人は、いわゆる教育行政のあり方、教育委員会をメーンにお答えいただきたいと思うんですけれども、望ましい教育行政のあり方というものはどういう形であるとお考えになっておられるでしょうか。

渋井休耕君 先生おっしゃるとおり、投票によって首長が決めるとなりますと、左に寄った人がなるか右に寄った人がなるかそれはわかりませんけれども、地方公共団体を県と考えるのか、市町村まで含めて考えるのかによると思います。

 一つは、財政力の小さい地方公共団体になりますと、非常に、国からの援助が直接なくなってしまうとか、そういう財政力の心配によって影響を及ぼすんじゃないかなということ。

 それから、教育委員の任命のあり方が、現行では一応議会の承認を得るとなっておりますけれども、どうも偏るのではないか。選ばれても、教育委員会が形骸化しているといいますか、教育長だけでやって、それから、ただ賛成と言うだけで批判的な意見は述べないというようなことで、要は、教育委員の選び方によって違うんではないかなということと、小さな教育委員会ではすべての指導助言ができなくなるんではないか、そういう心配もございます。

 それから、県の教育委員会になりますと、やはり多少教育の経験者でないと、教育長とかそういうものは務まらないような感じもするわけですね。教育について非常に詳しい人でないとうまくいかないんじゃないかな。

 したがって、教育委員会が形骸化してしまうというようなことで、両方にも一長一短はあると思うんですけれども、現行のような形でも一短あるし、私は、一応、そういう財政力の小さいところでは理想的な教育ができないおそれがあるんではないか、そういう心配を申し上げたわけでございます。

西村(智)委員 子供たちの育ちにとって大事なものは、私は、やはり豊かな経験といいますか、豊かな出会いと、そしてまた豊かな挫折だと思います。ぜひ、渋井陳述人には、大変なお立場だろうと思いますけれども、今後とも頑張っていただきたいと思います。

 時間になりましたので、終わります。ありがとうございました。

森山座長 ありがとうございました。

 次に、西博義君。

西委員 公明党の西博義でございます。

 三人の先生方、貴重な陳述を行っていただきまして大変にありがとうございます。若干の時間、私の方から御質問をさせていただきたいと思います。

 初めに、杵渕参考人にお伺いをしたいと思います。

 人づくり、人間力ということで、やはり子供にとって一番頼るべきは親である、家庭である。何かあったら駆け込めば必ず守ってくれる、この信頼感が大事だ。そして、家庭から地域、また遠く国、世界、そういうところに飛び立っていくのも、結局、親というか家庭がその一つのよりどころとしてあるからだというふうな趣旨のお話だったと思います。大変感銘をいたしました。今回の教育基本法の一つの方向性というのは、子供にとっての家庭の責任といいますか、当然のこととしてそこを打ち出したということは大きなことだったというふうに私も思っておりますし、父親としてそういう気持ちでおっていただく一人のお父さんという感じで、私は大変感銘を受けさせていただきました。

 もう一つは、先ほども若干議論がありましたけれども、学校は先生がいらっしゃる、家庭の教育支援のある意味では中核にもなり得る、また地域の生涯教育の中核にもなり得る、こういうことの御提言だった思います。

 私も、これも全く同感でして、先生方のそれぞれの分野における長年の経験と知識の蓄積は何とか社会に活用できないのかと。もちろん、そういう意味で御活躍の先生方もいらっしゃることも私は存じ上げております。例えば、体育の先生で、地域のスポーツクラブで大変活躍して育てていただいている、そういう先生方もたくさんいらっしゃいますけれども、概して、なかなか十分にうまく機能していない側面があります。

 先生方にとって、たまたま赴任しているその先が中心なのか、家庭を中心として、自分も子育てで、子供たちも参加させながら地元で活躍するというのが本来なのかということを、私自身はもう少し整理がついていないんですが、杵渕参考人のお考えをちょっとお聞きしたいと思います。

杵渕広君 これは、一つは、やっていきますと水かけ論的なものになります。

 私が市議会議員に当選させていただいて、一番最初に市長部局に言ったのは、宇都宮は市民協働ということを進めております。市民協働のまちづくりをして地域活動に参加しろという、市がそういうPRをするにもかかわらず、市の職員は一体何人出ているんだという議論をするわけであります。出てくる人は出てくる、出てこない人は出てこない、これは当然のことであります。

 では、学校の先生はどうなのかというと、今、西先生がおっしゃるように、自分の子供のところの地域なのか学校なのかということになると、どっちでもいいやということに、今の段階は言わざるを得ません。

 ただ、学校を、そういうことで施設を開放して、地域の教育の拠点としていこうということは、何も、土日だけでもいいということになってくるわけでございまして、放課後、児童が、児童会という制度ではなくて別の制度として一日学校にいられるよということになれば、そこに夕方、お父さん、お母さんが来てやるという方法もあろうかというふうに思っております。

西委員 それでは次に、渋井参考人にお願いをいたします。

 先ほどるるお話をいただきました、心の内面の育成が大切だというお話、これも大変重要な御指摘だったように思います。また、生涯学習についての貴重な御意見もございました。

 最後にお話しになった教育行政につきまして、私どもの与党の案は、やはり教育委員会を存続し、それを充実することによって教育を、もちろん中立という立場もありますが、そういう流れの中で充実していこう、こういうふうに考えております。それに対して民主党案では、長、いわゆる首長を中心とした教育行政に全面的に変えていこう、こういうお話なんですね。

 若干、簡単にお触れになったと思うんですが、このことについての参考人の御意見を、もう少し詳しくお願いしたいと思います。

渋井休耕君 私は、政府案で二点で高く評価したいことは、国と地方公共団体の適切な役割分担ということですね。それともう一つは、全国的な教育の機会均等と教育の水準の維持向上。これはどうしても予算が伴うわけですので、その辺はやはり国と地方公共団体が協力し合うということは大変大事なことだと思います。

 民主党案では、「地方公共団体が行う教育行政は、その施策に民意を反映させるものとし、その長が行わなければならない。」と。この施策に民意を反映させるということは、多少そのときの首長の意向が、ちょっと力が及ぶのかなということで、教育のところで民意を反映させるということは、ちょっとどうなのかなという、私自身の今までの体験からしまして。

 要は、やはり、こういう案が出てきたのは、今までの教育委員会が正常に機能していたのかというか、先ほど申し上げましたように、形骸化していたのではないか。そのときの首長やいろいろの力が左右して、好きな人というか、気に入った人というか、あるいは選挙で応援した人とか、そういった人とか、あるいは物を言わない人とか、そういった、教育の本当のいい姿として意見を述べるのではなくて、ああ、結構ですというふうに形の上でなっていたわけで、要は、やはりこれからはもっともっと教育委員会が活発に活性化して、そしていろいろの児童、子供のために、あるいは日本の将来を背負う子供のために頑張れるような教育委員会にしてもらえればなということだと思うんですね。

 以上です。

西委員 ありがとうございます。

 次に、渡邊参考人にお願いをいたします。

 たくさん聞きたいことがあるんですが、先ほどのお話の中で、公共の精神というお話をされました。これも今回の法律の改正で大変大きな内容だというふうに思っているんですが、それは一つは、やはり大人または親のそういうゆがみといいますか、エゴというふうに先生おっしゃったと思うんですが、そういうものの反映が、色濃く現代の若者の気持ちの中に巣くっているといいますか存在するという意味で、民主主義社会としてのあり方の最低ラインはきちっと教え込む必要があるという御趣旨じゃなかったかというふうに思うんです。

 私どもも、実は、子供というのは国というか社会のために教育をする、例えば一人前の職業人としてこういうふうになってほしいとかこういうことではなくて、やはり、どちらかというと自由な立場で子供たちが育成されるべきだ、むしろ大人の方が子供たちの手本になっていくべきという考え方を持っております。

 そんな意味で、道徳教育、宗教教育などもその教育のベースとして大変大事なことだというふうに思っているんですが、この辺について先生のお考えをお教えいただきたいと思います。

渡邊弘君 おっしゃるとおり、重要な時代に入ってきていると思います。

 これは、例えばアメリカあたりでも少し前までは、ある程度、個人の自由、価値、先ほども言いましたように相対的にそういうものが強かったんですけれども、今はやはり多文化社会になって、民族を超えても共通した民主主義的な価値というものがあるだろうと。例えばそれは尊重であったり、あるいは責任であったりとか、そういうようなものをベースにして、やはり基本的に学校という場で、教え込むというよりも理解させていかなきゃいけないんじゃないかということですね。

 それとあわせて、自国の文化という、伝統的な文化、そういうようなものを見直しながら、その中にある伝統的な価値というようなものも、やはりよいものはある。そういうようなものを、これはかなり世界的な流れの中で、今どこの国も再構築しようという動きがあると思います。

 ですから、日本の場合でも、そういうようなことでいえば、やはり今、戦前の要するに教え込み、そういうインドクトリネーションのようなものではなくて、重要なものはきちっと伝達していかなければいけない。やはり、どこかでそういうものが崩されてきてしまったという、それは今我々がどうというよりも、もっと前かもしれない。そういうものを我々はもう一度見直していこうという私は認識でございます。

西委員 時間も残り少なくなってきましたが、最後に渡邊先生に、若い先生方を育成している現場の一人として、今、私は、教育というのは、結局人間が人間を教える、やはり学ぶという根幹は、人間性の向上というのが一番肝心だというふうに思っているんですが、それを教える、または教えるというか提示をして子供が共感するということなんでしょうけれども、その主体はあくまでも先生だというふうに思っておりまして、ここが一番大事なところだと思います。

 先ほど教員の資質の向上というお話の中で、発想力が低下したというふうにちょっと先生がお述べになったように思うんですが、これからの教師にとって、新しい時代の教師、先生方にとって一番大事なこと、これは何でしょうか。お教えください。

渡邊弘君 私は、やはりこれから二つのソウゾウ力、いわゆるイマジネーションとクリエーティビティーだというふうに考えます。

 つまり、いろいろ子供たちも多様になってきております。そういう中で、ただ与えられたものを子供たちに伝達するのではなく、いろいろな工夫、やはり積極的な工夫をして子供たちに援助していく場合に、どういうふうな形でやればいいのかということを考えるのに、考えるベースとして、そのソウゾウ力というものがやはり非常に重要だと。

 それと、やはり今、知識としてはわかっていても、実際に、今教育学部におりますけれども、学生たち、どうも体験とか、あるいはそういうことも少なくなっております。

 そういう中で、早いうちから本当に教員になることを目指す学生は、子供たちと触れ合って、そういうような中での要するに子供を見る子供観、広く言えば人間観、そういうようなものをやはり十分に養っていくということが一方では重要かなと。もちろん、指導力、そういうものも重要でございますけれども、そういう点が私は今非常に重要な課題になってきているかなという認識でございます。

西委員 大変にありがとうございました。

森山座長 ありがとうございました。

 次に、石井郁子君。

石井(郁)委員 日本共産党の石井郁子でございます。

 この教育基本法の審議は、春の通常国会に始まりまして、今、臨時国会と引き継がれているところでございますけれども、こうした公聴会は、今全国できょう四カ所行われているということで、初めてのことでございます。ぜひ、本当にやはり国民の皆さんの意見を広く、そしてまたいろいろな分野からお聞きをするということは私は大変大事だというふうに思っておりますので、よろしくお願いしたいと思います。

 それで、冒頭というか、意見陳述者の皆様方が、やはりそれぞれ現状の教育、本当に大変心配なことがたくさんあると。家庭の教育力もそうだし、社会もそうだし、学校もそうだと。それから、子供たちの様子を見ても、これで本当に道徳がついているのかというようなことがいっぱいあるのは、もう言われたとおりだというふうに思うんですね。

 しかし、私は、この道徳とか価値という問題は、やはり、法律に書き込んで、そして国民に強要したり強制するものではないだろうというふうに思いますし、また、こういうことを語るときに、現行の教育基本法が何か欠けているからとか、それに足りないものがあるからこういうふうになっているんだというふうにも私は考えないわけですね。

 私自身が教育基本法とともに育ったというか、戦後の一期生なんですけれども、それで、この教育基本法には、まさに道徳にある面で関係する部分が教育の目的とか方針の中にも書かれておりまして、真理と正義を愛するだとか、勤労と責任を重んじるだとか、自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民でありたいとかいうようなこと、また、自他の敬愛と協力というようなこともありますし、文化の創造、発展に貢献しようということもあります。

 私は、やはりこういうことが社会的に、いわば国民的に本当に議論をし合って、そして身についていくものだろうというふうに思うんですね。だから、やはりそういうことを事細かに法律で規定するというのは非常に慎重でなければいけないというふうに思っていますし、結論的には、現行の教育基本法を生かすような教育行政をしていけば、大方の教育問題、かなり前向きに解決するのではないかというふうに考えているわけでございまして、現行教育基本法を私どもは守れという立場で、反対の立場で考えているということで、きょうは本当にそういうことで率直な皆さんの御意見を伺えればと思うんです。

 第一点は、三人それぞれに伺いたいと思いますけれども、相当審議をしてきましたけれども、現行の教育基本法のどこどこが悪いので、だから変えなければいけないというような政府側からのしかとした答弁というのはないんですね。そういう点で皆様方に、やはり現行法を変えるという、変えた方がいいというお立場ですから、条文的にいいますと、どこがぐあいが悪いのか、だから変えたいんだというようなことをどのようにお考えになっていらっしゃるのかということを、まずお聞かせいただければと思います。

杵渕広君 先ほども西村先生の方にお答えしたとおり、済みません、どこが悪いというのをここで今ちょっとお話しするだけ知識は持っておりません。

 ただ、一言だけ。現行の教育基本法でずっとやってきました。その結果、今の親ができているという悲しい現実もあるのではないかと思います。ですから、そこを直すためにはもとからきちっと一つ一つ見直していく必要がある、そのためにはやはり直すべきではないのかと、済みません、総花的な御回答で申しわけないんですが、私はそう思います。

 ですから、それがきちっとできているのならば悪いところだけ直せばいいというふうになりますけれども、今の世の中を見るとそういうふうに思わざるを得ない。だから直すべきではないかというふうに考えております。

渡邊弘君 私は、いわゆる昭和二十二年にできました教育基本法ですね、諸問題の原因を基本的に求めているということではなくて、諸問題の解決のための共有の原理というものを基本法に求めていく時代なのではないか。

 つまり、基本法を全く悪いと言っているわけではなくて、つまり、現状が大分変わってきている、そういうものに照らし合わせて、本来ならば資質等まで余り細かくそれは掲げなくてもいいのかもしれません。

 しかし、実際、具体的に申しますと、教育の目的の、ただいまお話がありました、真理と正義を愛する、あるいは個人の価値をたっとぶ云々という現行の教育の目的がございます。これは政府案では今、必要な資質ということで、今度は教育の目標の中に具体化されて五項目になっているのは御存じのとおりです。

 では、なぜこういうものが必要かといえば、もうこれは繰り返しになりますけれども、今の現状で、そういう公共の精神とか、あるいはやはり命が、これだけ自殺等も多い、そういう中で、あるいは環境もこれは世界的な問題でございます。

 そういうようなものを意識して、そういうものを積極的に自覚していくということは私は必要なのではないかなというふうに考えて、やはり現行法のどこか足りない部分、もちろんこれはよいものは、そういうものはそのまま継続しているわけですから、そういう部分を現状に照らし合わせてつけ加えていくということが重要である、そういうふうに判断しています。

渋井休耕君 私も、戦後、あるいは教育基本法ができて正確に言えば五十九年になりまして、いわゆる現状の教育の姿と教育基本法の姿が、すべて悪いわけじゃなくて不足している面があるということ、それが一つです。

 それから、ALTというんですか、私、真岡にいるときはグレンドーラというロサンゼルスの在にある都市と姉妹都市を結んでおりまして、そこから外国の、英語教育を高めるために補助教員を呼んでいたわけですけれども、そのときに、彼は男の若い先生でしたけれども、毎月一回は自分の机の上に星条旗を掲げて非常にお祈りしているんですね。私は、そういう姿に接して、はるばるアメリカから日本に来て、そして自分の国を忘れないということでやっている姿などを見まして、ああ、アメリカという国はそういう国なんだと。

 我々がオリンピックとかスポーツの大会などで日本のチームが勝ったときに、やはり声援を送ると思うんですね。そういうことで、私は、何らそういう教育に変えていっても、文言に入れていっても悪くはないんじゃないかな、こんなふうに思っています。

 したがって、自分の国だけがよければいいんだというのではなくて、やはり外国、世界の平和に貢献するということがうたわれておりますので、私はそんなふうに考えて、かなり立派な現行の教育基本法であったけれども、時代の変化に対応して多少は変えていってもいいのではないか、こんなふうに考えております。

石井(郁)委員 どうもありがとうございます。

 それでは、もう一点伺わせていただきます。

 政府案では今度、十六条の教育行政というところで、教育振興の施策を国と地方公共団体が策定する、これは、しなければならない、実施義務という強いものになっています。

 実は、この施策というものに何が入るのか。私ども、本来、皆さんもそうですけれども、やはり教育の予算がきちんとふやされるとか、教育条件がよくなるとか、そういうことを期待されると思うんですが、どうも必ずしもそうではなくて、これは中教審が出された例示ではありますけれども、いろいろ数値目標を出して、もっと学校はこういう努力をせよと、例えば、挙がるのが全国一斉の学力テスト、結果も公表するというような数値目標。それから、いじめや不登校についても半減をするとかいうような、学校教育に数値目標を掲げていわば成果を競わせる、そして学校間競争をさせるということが出ておりますので、こういう振興計画については皆さんのお考えはいかがでしょうか。

 もう時間があれですので、一言ずつでも結構でございます。三人それぞれ伺えればと思います。

杵渕広君 宇都宮のことだけ申し上げますと、宇都宮は、平成十一年に基本的なビジョンをつくっておりまして、それをもとに今振興計画をつくっております。

 ですから、正直言いますと、宇都宮の教育委員会は国よりちょっと先を行っていますというのがうちのあれでして、ただ、その数値目標がいいかどうかという部分については、私は、教育に数値目標を入れるのは成績だけでいいのではないかと個人的には思っております。

 以上です。

渡邊弘君 私は、やはり数値がひとり歩きするというのは非常に危険だというふうな認識を持っております。

 教員評価、これもやはり現実に、かなり校長等の負担になっているという事実があるのは認識しております。また、学校評価にしても、客観的に評価する統一基準をどうするかというようなところで数値が偏重されてくるというのは、やはりこれは慎重にやっていかなければいけないんじゃないかという認識です。

 そしてまた、数値がいわゆるランキングのようなことになってきますと、これは逆に、その子供たちに直接かかわる先生方を締めつけることになります。ですから、やはりその辺は慎重にして、議論していただきたいなということでございます。

渋井休耕君 私も、数値目標で教育現場をやるということにはやはり慎重であるべきだ、こんなふうに思っています。

 ただ、やはり学校の様子などを見て、もっと頑張った方がいいのではないかというような面、そういう意味での意見は申し述べることができるのではないか、非常に慎重であるべきだということだと私は思っております。

石井(郁)委員 それぞれ、どうもありがとうございました。

 以上で終わります。

森山座長 ありがとうございました。

 次に、糸川正晃君。

糸川委員 国民新党の糸川正晃でございます。

 本日は、陳述人の皆様におかれましては、大変お忙しい中御出席いただきまして、また貴重な御意見を賜りましたことをまずは御礼申し上げます。

 私も、数点でございますが質問をさせていただきたいというふうに存じます。

 まずは、三人の皆様方にそれぞれお伺いしたいんですけれども、現在、皆様それぞれの立場から、教育現場に近い立場にいらっしゃるんじゃないかなというふうに思いますが、最近、いじめですとか自殺問題、未履修問題ですとか、いろいろな、さまざまな教育に関する問題が露呈されてきておるわけでございまして、この現在の教育の問題点、これはどこにあるというふうにお考えでしょうか。

杵渕広君 教育の問題点がどこにあるのかというと、一つは、先ほどから申し上げているように、家庭教育の問題。それと学校の先生の資質の問題というのがここに加わってくる。これを補うためにどうするかということで、私は地域だというふうに申し上げたわけであって、この二つではないかなというふうに思います。

渡邊弘君 これを一言で申し上げるのは難しい問題だと思いますが、一つだけ申し上げれば、やはり以前は、小学校にしろ中学校にしろ、地域の学習センター的な機能というのを果たしていたと思うんです。しかし、意識が変わり、そしてまた、保護者と教員とそれとまた地域、そういうものがどうも分離してしまっている傾向が非常に重大な問題ではないかなと思います。

 ですから、民主党さんの前文にも最初に書いてありますし、また、政府案の方にも条項として盛られている学校と家庭と地域社会、これを連携させていかなければ、実質的に目標を共有化して、私はしきりに言っているんですが、目的を共有化して、対話を通して実践化していく、そういうところがそれぞれの学校で重要な課題ではないかなということでございます。

渋井休耕君 よく、開かれた学校、こう言うと思うんですね。しかし、開かれた学校といってもなかなか開かれていないんですね。何か事があったときには隠したがるんですね。

 そういうことで、全然開かれていないんですけれども、それと同時に、児童生徒が、今子供たちは、子供が少ないですよね。したがって、昔は兄弟げんかをやったり地域の友達とけんかをやったりしてたくましかったわけですけれども、現在はそういう面で欠けているということですね。

 したがって、学校と地域と、そういう人たちが手を携えて、そしてそういう、昔に比べると今の子供たちはひ弱になっているというようなことを十分認識して、それを地域の協力を得て鍛えていく、これが一つですね。地域の教育ですね。

 それと、先生方の資質というか、頭脳的には進んでいると思うんですけれども、非常に人間性として、子供と遊ぶとか、それからいろいろ学校から地域に溶け込んでいくとか、そういった面での先生の資質が変わってきているということと、子供、児童生徒が変わってきている。それをやはり埋めていくということが大事なんではないかな、こんなふうに思っています。

糸川委員 今、渡邊陳述人と渋井陳述人から、地域住民との連携ですとかそういう話があったわけでして、政府案におきまして、学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力、これについての規定が設けられておるわけでございます。民主党案においては、地方公共団体が設置する学校は、保護者、地域住民、学校関係者等が参画する学校理事会を設置する、こういうような規定が設けられております。

 このそれぞれの規定をお二人はどのように評価されるのか、お聞かせいただけますでしょうか。

渡邊弘君 学校理事会につきましては、やはり今、根本的には国が学習内容を決め、そして都道府県が人事権を持ち、そしてまた市町村がその設置、そういうふうな関係の問題というのも根本にはあると思いますけれども、やはり今御質問の趣旨がもうひとつあれだったんですが。

糸川委員 今政府案の、学校ですとか家庭及び地域住民の相互の連携協力、このことについて規定が政府案には設けられておるわけでございます。また一方では、民主党案においては、地方公共団体が設置する学校においては、保護者ですとか地域住民、学校関係者等が参画する学校理事会、こちらを設置する、こういう規定が設けられているということで、どちらの方がいいのかというような、そういう聞き方でございます。

渡邊弘君 これは非常に難しい問題で、学校理事会の場合には人事権とか予算権をそこに、要するに学校の長ですね、そして学校の中で協議会をつくって、それがやはり中心になってくるということだと思います。

 そういう考え方もあるとは思いますが、私が地域と学校と保護者と言うのは、やはり子供たちを真ん中に置いて、先ほどのいじめ問題ではないですけれども、私はモラルミーティングと呼んでいるんですが、実際に附属でもやりまして、その対話の場というものを、子供も含めて、そして親、それと親の代表、それと教員と地域の人、地域は今学校評議員会があります、そういう人たちのメンバーでもいいと思うんですけれども、やはりそういうものが今やられているわけですから、そういうようなものをもう一度、もしそういうものが問題であるということでしたら、学校理事会のような方向も考えられるだろうと私は思います。

 ただ、一遍にそこまで行けるかどうか、やはり慎重な議論が必要かなというふうに判断します。

渋井休耕君 学校理事会まではちょっと私認識不足なんですけれども、学校評議員会の例をとりますと、私ども保護司は今、学校と保護司会の連携ということで、学校評議員会に保護司を積極的に人選してもらうように行政に働きかけたらどうかというふうなことでやっているわけです。

 私は今二宮町なんですけれども、二宮分区と言っているんですが、保護司が十人いるんですけれども、その中で学校評議員になっている人は二人なんです。この間まで三人いたんですが、一人、PTAの代表ということで学校評議員に出ていたんですね。保護司というよりはむしろPTAの会長とか副会長とかいう形で出ていたんですが、それはあくまでも充て職なんですね。充て職で選ぶのと、それからいわゆる専任というか、行政の方も面倒くさいからなるべく充て職にしておくといいだろうというようなことで、次から次へとかえてしまうんですね。

 そうすると、学校をよく見ないし、この間は、あんた、学校評議員をやっているというんだけれども、教育委員会に尋ねたところ、あんたはPTAの役員終わったからもう既に役員ではないよ、そういうことがあったものですから、私の知り合いの教育委員に、その辺はしっかり、本人が知らないというのはおかしいんじゃないかと。それは充て職なんですね。

 そういうことで、もっと、ただ文部科学省で学校評議員制度があったから評議員会をつくるんじゃなくて、やはり児童生徒のためになるような評議員会にすべきであるというふうなことを申し上げたんですが、そういうのが現状だと思います。

 以上です。

糸川委員 ありがとうございます。

 私も、こういう学校ですとか家庭の連携協力については、やはり生徒がどういうふうに考えているのかというところを中心に考えていかなきゃいけないのかな、非常にこれは難しい問題ではないのかなと思ったものですから質問させていただいたわけでございます。ありがとうございます。

 杵渕陳述人にお聞きしたいんですけれども、先ほど陳述の中で、郷土を愛する心ですとか、心という言葉を使われていたんですが、愛国心について一点お伺いしたいんですが、この愛国心について、教育基本法に規定することについてはどのようにお考えになられているのか、また、政府案と民主党案の規定の仕方について何か御意見があれば賜りたいと思います。

杵渕広君 愛国心という言葉は非常に響きがいいんですけれども、私は、これ自体を法文の中に規定することについてはどうなのかなという気はしております。そんなことを規定しないでも、先ほどから申し上げているように、ともかく、おのれを愛して家族を愛してというふうになっていけば、国をわざわざ愛しなさいよと最初からうたう必要があるのかどうか、うたわなければならないほど日本人というのは愛国心がなくなっちゃったのかなということを思っておりますから。

 ただ、その全体的な流れの中で、国を愛する心、これは私が先ほど申し上げたように表現が違うということで、うたうならうたう、うたわないならうたわないとこれはきちっと決めておやりになるべきだ、こう思います。

 愛国心というものをわざわざ掲げてやるということはどうなのか。それよりも、心の教育ということで一つ一つ積み上げていった上で、そうやれば歴史的認識も含めて日本人であるものということになっていくのかなというふうに私は思っていますから、どうなのかなと思います。

糸川委員 ありがとうございます。

 もう時間がございませんので、最後にそれぞれの立場から一言ずつ言っていただきたいんですけれども、今新聞等で、もう間もなくこの教育基本法、衆議院は通過するんではないかというようなことも報道ではされておるわけでございます。

 それは、私たち今現場にいるわけですけれども、先生方が見ていらっしゃって、もうこの基本法の議論は機が熟しているんじゃないかなというふうにごらんになられているのか、もし熟していないのであれば、まだどのあたりの議論が足りていないんじゃないかというような御指摘がありましたら、一言ずついただければというふうに思いますが。

杵渕広君 議論を尽くされたか尽くされないか、五十時間やったとかやらないとかという話は報道で聞いております。

 同じじゃないんですけれども、市議会議員の立場でいえば、五十時間という時間は、市議会に比べると相当長い時間を議論に費やしたのではないかなというふうに私は思います。

 ただ、中身が煮詰まらないうちにガラガラポンというのはいかがなものか、こういうふうには思いますけれども、やはり、やたら時間を使って論議を重ねていって、それは、最後にまとまるという議論はいいと思うんです。いつまでも平行線の議論なら、ある程度のところで、やはりだれが主体なんだ、子供たち、国民ですから、そこら辺を考えて、いたずらに引っ張るというのはいかがなものかと考えております。

渡邊弘君 私は、そろそろ終着していただきたいと。それはやはり、かなり改正の、先ほど申し上げているようなことでの改正。

 ただ、民主党案と今の政府案の中での文言が大分あります。例えば、「美しいものを美しいと感ずる心」かあるいは「豊かな情操」か、あるいは「人格の向上発展」か「人格の完成」か、こういうような文言のいろいろ違いがあります。あるいは、先ほど言いました、家庭と地域とあるいは学校との連携、これもやはり両方盛り込まれております。そういうもののやはり調整はあるかもしれません。でも、内容的には、やはり、私は、個人的には、その辺の微調整をしてできるだけ速やかにしていただきたいというふうに考えております。

渋井休耕君 もう少し時間をとって、今渡邊先生がおっしゃったような、共通の認識の面とそれから多少違う面をやはり調整をして、憲法とか教育基本法というのは慎重にも慎重であってほしい、こんなふうに思っています。したがって、もう少し忌憚のない意見の交換をして、通すなら通すということで、ぜひそうしてほしいな、こんなふうに思っています。

糸川委員 ありがとうございました。

 終わります。

森山座長 以上で委員からの質疑は終了いたしました。

 この際、一言ごあいさつ申し上げます。

 意見陳述者の皆様方におかれましては、御多忙の中、大変急なお話であったにもかかわらず、貴重な御意見をお述べいただきまして、長時間まことにありがとうございました。

 本日拝聴させていただいた御意見は、当委員会の審査に資するところ極めて大なるものがあると存じます。ここに厚く御礼を申し上げます。(拍手)

 また、この会議開催のため格段の御協力をいただきました関係各位に対しまして、心から感謝申し上げます。まことにありがとうございました。

 これにて散会いたします。

    午後四時散会

    ―――――――――――――

   派遣委員の三重県における意見聴取に関する記録

一、期日

   平成十八年十一月八日(水)

二、場所

   津 都ホテル

三、意見を聴取した問題

   教育基本法案(第百六十四回国会、内閣提出)及び日本国教育基本法案(第百六十四回国会、鳩山由紀夫君外六名提出)について

四、出席者

 (1) 派遣委員

    座長 町村 信孝君

       猪口 邦子君   鈴木 恒夫君

       若宮 健嗣君   北神 圭朗君

       牧  義夫君   坂口  力君

       保坂 展人君

 (2) 意見陳述者

    教育サプライ学院長   福士 英実君

    四日市大学学長     宗村 南男君

    元三重県教育委員会教育長           宮本 長和君

 (3) その他の出席者

    文部科学省生涯学習政策局生涯学習総括官    清木 孝悦君

     ――――◇―――――

    午前九時一分開議

町村座長 これより会議を開きます。

 私は、衆議院教育基本法に関する特別委員会派遣委員団団長の町村信孝でございます。

 私がこの会議の座長を務めさせていただきますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。

 この際、派遣委員団を代表しまして一言ごあいさつを申し上げます。

 皆様御承知のとおり、当委員会では、第百六十四回国会、内閣提出、教育基本法案及び第百六十四回国会、鳩山由紀夫君外六名提出、日本国教育基本法案の審査を行っているところでございます。

 本日は、両案の審査に当たりまして、国民各界各層の皆様から御意見を承るため、当津市におきましてこの会議を催しているところでございます。

 御意見をお述べいただきますお三方の方々には、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにどうもありがとうございました。どうぞ忌憚のない御意見をお述べいただきますようにお願い申し上げます。

 それでは、まず、この会議の運営につきまして御説明申し上げます。

 会議の議事は、すべて衆議院における委員会議事規則及び手続に準拠して行い、議事の整理、秩序の保持等は、座長であります私が行うことにいたしております。発言される方は、その都度座長の許可を得て発言をしていただきますようにお願いいたします。

 なお、御意見をお述べいただく皆様方から委員に対しての質疑はできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願います。

 次に、議事の順序について申し上げます。

 最初に、意見陳述者の三名の方々からお一人十分程度で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑に対してお答え願いたいと存じます。

 なお、御発言は着席のままで結構でございます。

 次に、きょう御出席の方々を御紹介いたします。

 まず、派遣委員は、自由民主党の鈴木恒夫君、猪口邦子君、若宮健嗣君、民主党・無所属クラブの牧義夫君、北神圭朗君、公明党の坂口力君、社会民主党・市民連合の保坂展人君、以上でございます。

 次に、本日御意見をお述べいただく方々を御紹介いたします。

 教育サプライ学院長福士英実君、四日市大学学長宗村南男君、元三重県教育委員会教育長宮本長和君、以上の三名の方々でございます。

 それでは、まず福士英実君に御意見をお述べいただきたいと存じます。福士君、どうぞよろしくお願いします。

福士英実君 福士と申します。本日は、お招きいただきましてありがとうございます。

 私は現在、幼児から高校生までの学習塾と学童教育保育所、理科実験教室やロボットクラブなどを経営しております。今月からは、株式会社立の通信制高校と提携し、そのサテライト校をスタートするところでございます。

 さて、私は、教育基本法案に賛同いたします。理由として、教育の目標が具体的になり、「生命を尊び」とか「我が国と郷土を愛する」などの部分が、いじめ対策や愛国心を諸外国並みに持つことができることにつながるからであります。ただ、生徒を教育した結果に対する教員の責任につきましては、つけ加えて明記した方がよいのではないかと考えております。

 教育とは、知育、徳育、体育の総合だと考えます。現状の教育現場を知ることが大事ですので、まず、知育、学力から見てみましょう。

 お配りした一枚目の、「警告!日本の教育が危ない!」というものでございます。これは、小学校六年生の算数上巻の教科書を比較いたしました。日本の昭和二十七年版、そして日本の平成十八年版、韓国の二〇〇六年版でございます。日本のことしの教科書は、練習問題が昭和二十七年版に比べて半分程度である。昭和二十七年というのは、現在の六十歳代の人が使った教科書です。韓国二〇〇六年版に比較すると、五分の一から四分の一ほどしかありません。改善の方向に向かっているとの声もある教科書ですが、質、量ともに教科書のレベルが底辺にあることが明らかになりました。

 二枚目をお開きください。これは、中学理科の教科書に載っている化学反応式の減少の推移でございます。昭和四十二年、団塊の世代でございます。このときは五十三習いました。それが平成八年度にわずか十二に減っております。そして、本年度版はたった七つ、昭和の時代の一三%になっております。

 以上を見ましても、学力の低下というのはおわかりいただけると思います。これを、今塾が必死に補っているのが実情でございます。

 次に、徳育に関する社会科と家庭科を見たいと思います。次をお開きください。現行の教科書と昭和の教科書を比較いたしました。

 まず、勉強に関して、今の教科書は、「子どもは塾通いなどで勉強をし過ぎる、」「まるでおとな社会のように、時間に追われる生活に子どものころから身をおくからこそ、長時間労働をものともしない「会社人間」が量産されるのだと、危惧する声もある。」というぐあいに、勉強することを否定的に教えております。それに対し、昭和の教科書は、「自分は将来どのような職業につきたいか、どんな職業に適するかなどのことを、いつも考えながら勉強にはげみ、正しい進路を決めるようにつとめなければならない。」というぐあいに、勉強を奨励しております。

 結婚につきましては、今の教科書、「かつて結婚しない人にむかって「なぜしないの?」と問いかけたが、これからは結婚する人に「なぜするの?」とたずねるべきかもしれない。」ということで、結婚に対して疑問を挟んでおります。それに対し、昭和の教科書は、結婚の意義を述べまして、結婚を奨励しているということになっております。

 少子化につきまして、今の教科書は、「生まないことを選ぶ夫婦もいる。」とか、「人工妊娠中絶という方法を選択することもあるだろう。」「このような考え方は、女性の基本的人権としてとらえられてきている」というぐあいに、少子化を肯定するような書き方でございます。それに対し、昭和の教科書、「こどもの出生によって親子関係が生じ、さらに複数のこどもが加わることによって、こども間にはきょうだい関係が生じる。」というぐあいに、複数の子供ができるのを当然のごとく書いております。

 家族につきまして、これはショッキングでございます。「ぼくのところは、つい最近おじいちゃんが同居しはじめたんだ。今、うちは家族プラス一名という感じ。」そして、「親密さという点からペットを家族と感じる人もいる。」というぐあいに、私は、老人とペットを同格に扱っているような印象を受けました。それに対し、昭和の教科書は、「祖父母と別居している家族であっても、老人との心のつながりはたいせつにしたい。」「老人に対しては、いたわりばかりでなく、助言者的な存在として尊重し、老人が生きがいを感じて余生を過ごすことができるように、積極的な配慮をしていきたい。」というぐあいになっております。

 職業について、今の教科書は、フリーターで生きている人を大変楽しそうに書いております。そして、「アリとキリギリスの物語でいえば僕はキリギリスかもしれない」と言わしめております。それに対し、昭和の教科書は、「世の中の人々は、それぞれ職業を持ち、いろいろな仕事にたずさわって働いている。それらの人々は、その仕事をすることによって収入を得て、くらしを立てているのであるが、同時に、社会のため、国のために、だれかがしなければならないたいせつな役割りを果している。」というぐあいに書いております。

 この昭和の教科書を学んできた人たちが日本を世界トップレベルにしました。今の教科書、これは何か国策に反しているのではないかと私は見ております。

 愛国心につきまして、次のページをお開きください。世界の国歌、これを比較するのが一番いいと思いまして挙げておきました。時間の関係上、アメリカと中国だけを読み上げます。アメリカ、「見よや 朝の薄明かりに 黄昏ゆくみ空に浮かぶ われらが旗 星条旗を 弾丸降る いくさの庭に 頭上高くひるがえる 堂々たる星条旗よ おお われらが旗あるところ 自由と勇気 ともにあり」。中国、「起て!奴隷となることを望まぬ人々よ! われらが血肉で築こう新たな長城を! 中華民族に最大の危機せまる 一人びとりが最後の雄叫びをあげる時だ 起て!起て!起て! 敵の砲火をついて進め!敵の砲火をついて進め! 進め!進め!進め!」と軍歌のように愛国心をあおっております。

 これをちょっと私なりにまとめてみました。次をお開きください。

 上の段は、今の状況でございます。「学校・教科書による下降志向への誘導」、特に学校というのは公立学校のことでございます。このままでいきますと、婚姻率は低下し、少子化、出生率の低下につながります。フリーターもふえます。学力、道徳力がダウンします。科学技術力が低下し、開発力、国際競争力も低下するように思われます。そして、少子高齢化、年金破綻、国力低下、生きる力の低下になって国が破滅することを私は危惧しております。

 それで、教育改革がなされなければなりません。下の段にありますように、こういうやり方でやりますと、少子化に歯どめがかかり、年金問題も解決、国力はアップし、生きる力が向上し、国、個人がともに繁栄するようになると私は考えます。

 平成十六年度で高校中退者の数は、全国で十四万五千人余りと発表されております。この若者たちの多くがフリーター、ニートになって悶々と一生を送ることは十分懸念されることでございます。これは、本人のみならず国全体の損失だと考えます。また、いじめ問題も一向におさまりません。

 つまり、今までの公立学校では無理だということであります。百人生徒がおれば百通りの教育法があります。教育というものは、人格を備えた大人が本気で時間をかけて取り組まねばなりません。教師が、勤務は五時までとか、土日、祝日は休みですと言っていてはお話になりません。

 しかし、株式会社立の学校や塾であれば全く違います。塾の教師は、夜中でも休日でも労をいとわないからです。生徒の心のケアをし、目標を持たせ、志望校に合格させ、正社員として就職させて、税金、社会保険を支払わせ、社会に役立つ人として確実に育て上げております。これからは、民間教育機関も含めたバウチャー制の導入もすべきだと考えます。

 では、株式会社立学校の利点をシミュレーションしてみました。次のページをお開きください。時間の関係上、下の五番だけを説明いたします。

 株式会社立の学校ならば、例えば中学生、これは一人当たりの教育費はこう変わります。現在、学校の教育費八万五千七百三十四円、これに塾とかの二万二千円を加えまして、十一万ぐらいになります。それが半額になります。その上、塾の効果がプラスされる。家庭から見ましたら、塾の費用がゼロになるということ、そして国や地方公共団体から見れば、浮いた税収をほかに回せます、あるいは減税できるということになります。

 時間が参りました。以上で終わります。ありがとうございました。(拍手)

町村座長 ありがとうございました。

 次に、宗村南男君にお願いします。

宗村南男君 宗村でございます。

 私は、今回の教育基本法の法案に対して賛成を表明するものでございます。

 私は、私学の人間といたしまして、今回、大学あるいは私立学校というものが法案に新設をされて、明記されておるということを特に高く評価いたしておるものでございます。

 私学にとりまして、公に、正式に教育機関として認められるということは、これからの私立学校あるいは大学の経営、教育、運営、そういうものにとって大きな基礎になるのではないかというふうに大きな期待を寄せておるものでございます。

 私立学校は、公教育の一端を担うものとして、建学の精神に基づいた特色ある教育研究活動を実践してきておるわけでございます。特に、人材を育てていくということにつきましては、日本が豊かで、特に未来に向かって成長し、地域社会を発展させていくということにつきましては、やはり非常に重要な役割を担っておるのではないかというふうに思っておるわけでございます。

 一方、これから少子化あるいは高齢化というものも進展をしていくわけでございます。我々、特に私学にとりましては、いわゆる大学全入時代ということを既に迎えておるわけでございまして、私立学校の経営状態は決して楽なものではございません。

 私は、常に、経営をしていく者として、あるいは運営をしていく場合に、経営と教育というものの両立、私立学校としてバランスをとっていかざるを得ないような運営を強いられてきておるわけでございまして、教育を重視すればやはりどうしても経費が若干かかります。そうかといって、やはり経営を無視して私立学校が成り立つわけではございません。そういうことで、このバランスを重視し、そして、少しでも社会のお役に立っていくことが私立学校にとって非常に重要だというふうに思っておるわけでございます。

 教育というのは、なかなか時間がかかります。また、その教育の効果というものが、下手をしますと何十年後かに、いい方に出るのか悪い方に出るのかという結果が、非常に時間がかかるわけでございます。

 しかし、そうかといって、特に地方の私立学校、大学にとって、短期的な効果といいますか、世間から高く評価をされるということも同時にやっていきませんと、存立をしていきたいと思ってもその前に経営危機を迎えてしまうというようなことになりかねませんので、私ども、そういう意味では非常に苦労をしておるというような状況でございます。

 しかし、一極集中といいますか、都会へ子供たちがどんどんと流れていくという情勢の中で、キャンパスを大都市に移転するとか、そういうわけにもなかなかいきません。地方の教育というものも、地方は地方の高等教育機関というものもやはり必要でございます。そういう中で、苦しいながらも頑張って、やはり地方、地域の特色も出していかないといけないというふうに思っておるわけでございます。

 そういう厳しい財政事情の中で、私学の助成というものについても一定の見直しをしていく必要があるのではないかというふうに思っております。他の分野同様に一律に削減するのでなく、ぜひ、私立学校の役割を再認識していただいて、さらなる私学助成の充実をお願い申し上げたいというふうに思う次第でございます。

 それからもう一つは、やはり、寄附文化といいますか、寄附を特に私立の学校あるいは大学にしやすいといいますか、そういう雰囲気を一般の人にもやはり植えつけていくような努力、税制上の問題等いろいろあろうかというふうに思いますけれども、そういうこともぜひお願いを申し上げておきたいというふうに思います。教育研究の充実に寄附をしていただくということも、大きな貢献に、役割になるのではないかというふうに思います。

 そういう意味で、例になるかならないかは別としまして、特に米国なんかは非常に大きな寄附が行われておるわけでございます。そういうことで、できる限り、アメリカなんかに倣って、日本国民が少しでも教育研究に寄附をしていくというような志を醸成していっていただければ非常にありがたいというふうに思っております。税制も含め、優遇措置をぜひ運用上講じていただきたいというふうに思います。

 先ほどお述べになられましたように、私学の教育というものは、あらゆる分野にわたって関係をいたします。学校というのは、保護者の皆様にとりましては、もう二十四時間学校に子供を預かってもらっておるものだというふうに、理屈では、家庭に帰ってきておれば家庭の責任だとよくわかってはおみえになると思うんですけれども、しかし、何か子供さんに変なことがあればすぐに学校に電話を入れてこられます。特に低学年の場合には、夜中であってもいただく。そういうことにやはり迅速に対応していくということで、まさに二十四時間お預かりをしておるというような実情もございます。そういう感覚で、我々も対応しておるというふうに思います。

 これは大学においても同じでございまして、最近の大学生というのも、ある意味で非常に一人一人をやはりよく見ていないと、大学生だから、もう大人なんだからというわけにはなかなかいかない時代に入ってきておるようにも思います。

 そういう意味で、特に今回、私立あるいは大学というものが、従来の基本法に比べて、新設をされて、公に認められたことを私ども高く評価いたしておるわけでございます。

 そういう意味で、これからも我々頑張ってまいりますけれども、政府におかれましても、これが成立をした暁には、運用の方も、弾力的に、柔軟性を持ってひとつよろしくお願い申し上げたいというふうに思います。

 以上で終わらせていただきます。ありがとうございました。(拍手)

町村座長 ありがとうございました。

 次に、宮本長和君にお願いいたします。

宮本長和君 御紹介いただきました宮本でございます。

 それでは、今回の教育基本法の改正につきまして、私の意見を述べさせていただきますが、その前に、私の肩書、元三重県教育委員会教育長、こうなっておりますが、教育長といいますと、いかにも教育の専門家のように思われるかもわかりませんけれども、私、教育長になる前は全く教育の世界に携わっておりませんでして、素人でございます、専門外でございました。

 平成二年に、時の三重県教育委員会の教育委員長、それから知事に呼ばれまして、おい、宮本君、君ちょっと教育長をやってくれ、こう言われたわけでございますが、私は、教育というのは非常に責任の重い仕事だと思っております。私のおじいさんも、父親も、姉さんも教師でございまして、それを見ておりまして、とてもとても、教育というのは非常に責任の重い仕事だということで、敬遠しておったんですが、その教育長ということで、とても荷が重いということでお断りをさせていただいたんですけれども、知事等は、いやいや、素人ということがいいんだ、県民の目線に立って、君の思うとおりの教育行政をやってくれ、こう言われて教育長を引き受けさせていただいた。

 平成八年に退任しまして、それから約十年たっておりますが、教育の世界から離れておりまして、全く今の教育界からは私は浦島太郎のような感じでございまして、今から私は述べさせていただきますが、それは教育の専門家というよりは普通の一般の国民の率直な意見ということでお聞きをいただきたいと思います。

 さて、現行の教育基本法でございますが、御承知のように、これは昭和二十二年に、戦前の教育が国家の奉仕者という形になってしまったという苦い経験、反省の上に立って、個人の尊厳とか、真理と平和、人格の完成、そういうことを基本理念に我が国の教育の基本を確立するために制定されたもので、この法律のもとで、教育の機会均等であるとか、さまざまな教育行政の整備がなされまして、我が国教育の向上に大きな役割を果たしたということは事実だと思います。

 しかしながら、この法制定後、約半世紀が経過しました。社会も大きく変わりまして、国民の皆さんのニーズだとか、あるいは価値観も多様化してまいりました。そしてまた、教育の世界でも、これまた御承知のように、大変悲惨な事件が続発しておりまして、危機的な状況に直面しているところでございます。特に、私が心を痛めておりますのは、今の子供たちは、命というものの大切さ、生きるということの大事さ、重さ、そういうものに対する意識が非常に低いのではないか、こういうことで心を痛めておるところでございます。

 そういう悲惨な状況の一方で、これはちょっと違う話ですけれども、現在、高等学校におきまして必修科目の未履修というような問題も出てきております。いずれにいたしましても、教育の現場にはこのようにいろいろな課題や矛盾が噴出してきております。

 したがいまして、法制定後、約半世紀たったこの教育基本法が今のままでよいのかということにつきましては十分わかりますし、これらの教育現場の諸課題に的確に対応できる教育基本法の制定、これが待たれることは事実だと思っております。しかしながら、これらの教育現場で起こっております諸課題につきまして、教育基本法の改正がなされたらこういうことがすべて解決するという単純な問題ではないと私は思っております。

 教育現場は、今大変混乱をしております。対応の悪さもあると思うんですけれども、私は、テレビ等を見ておりまして、校長先生方が頭を下げておる、ああいう状況を見まして、果たしてこういう形で正常な教育ができるのかどうかということで暗たんたる気持ちになっております。教育現場は、混乱と萎縮、そういうような形になっておるのではないかと思います。

 そういう現状に現場が追い込まれておる中で、教育の根本を定める大変重要な法律を改正するということは、現時点においては現場の混乱に拍車をかけるのではないか、このように思って私は心配をしております。かえってマイナスに作用するのではないか。これは、本当に正直な気持ちでございます。そういう意味で、教育基本法の改正を拙速に行うべきではないというのが私の意見でございます。

 それからもう一つ、現行の教育基本法の前文を、これは御承知だと思いますが、傍聴人の方もおみえになりますのでちょっと読ませていただきますと、現行の教育基本法の前段に、「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。」それから、ずっと飛ばせていただいて、最後の方で、「ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。」憲法の精神にのっとって、教育の目的を明示して日本の教育の基本を確立する、そのためにこの法律がつくられた、こういうことが現行の教育基本法に書かれております。

 また、現在の基本法改正の政府案におきましても、そして民主党の案におきましても、憲法の精神にのっとりとか、あるいは憲法の精神に基づく教育ということが書かれております。このような基本法のもととなる憲法について、現在改憲の議論が起こってきております。

 もちろん、すべての法律は憲法の精神にのっとって制定をされておりますが、基本法は、他の法律以上に憲法と密接な関係があるのではないかと私は思っております。そういうところから、この教育基本法の改正を憲法の改正に先駆けて行うということはいかがなものかと私は思います。

 先ほど申し上げましたように、私は、教育基本法が現行のままでよいと言っているのではございません。改正しなくてよいと言っているのでもございません。新聞報道等によりますと、今国会でこの法律が成立するのではないかということが言われておりますが、私は以上のような理由から、拙速にこの教育基本法を改正すべきではない、このように思っております。

 まずは、悲惨な状況に追い込まれている教育現場の現状に真剣に向き合って、これらの課題に的確に対応できる処方せん、対策を皆で考え、実施することが先決ではないか、非常に難しいことではありますが、まずはそれが先決だというふうに私は思っております。基本法の改正につきましても、憲法の改正議論と相まって、並行して、国民とともにもっともっと議論を深めていく必要があるのではないかと思います。

 そして、最後につけ加えさせていただきますと、この法律の性格上、対決をしてという変な形での改正ということは避けていただきたい。合意の上で、教育という大事なことですから。日本は資源のない国です。私は前々から言っておるんですけれども、日本にとりまして唯一の資源は人材です。教育というのは一番大事なことですから、より慎重に、大事に扱っていただきたいというのが私の今回の教育基本法改正に対する意見でございます。

 以上でございます。(拍手)

町村座長 ありがとうございました。

 以上で意見陳述者からの御意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

町村座長 これより委員からの質疑を行います。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。鈴木恒夫君。

鈴木(恒)委員 自由民主党の鈴木恒夫でございます。

 お三方には、急な公聴会の開催にもかかわらずお出ましをいただき、また貴重な意見を伺いまして、自由民主党の理事の一人といたしまして、心から感謝を申し上げます。

 御存じのように、教育基本法は理念法と言われるものでございまして、そうした視点からすれば、三人の陳述者の方々は、私学のこと、学力のこと、あるいは総論としての基本法の改正の問題などに留意点を置かれましたけれども、私は総論としてお三方にお伺いをさせていただきたいと思っております。

 私は、七十回にわたります与党の検討会の最初からのメンバーでございました。その中で、きょうは質問を二点に絞らせていただきます。まず福士さんにお伺いいたしますが、学習塾をおやりになり、あるいは保育所もおやりになり、現場の一般社会での教育に当たっていらっしゃるという視点から御意見を伺いたいのであります。

 もう御存じのとおり、ソニーをつくりました井深大さんは「幼稚園では遅すぎる」という本を書かれましたし、母親はこの世に生まれて初めて出会う教師であるという言葉もございまして、結局、我々が教育問題を語りますときに、最後に行き着くのは家庭の問題だろう。子供の親殺し、親の子殺しを初めとして、一種のまさに危機的社会状況、すばらしい面もありますけれども、劣化社会のすさまじさを感じます。家庭教育をどうするかという問題は、大きなテーマでございました。

 町村さんは、文部大臣当時、例えば、心のノートというのをつくられまして、家庭教育に大きく一歩踏み込まれた方でございますが、家庭にどこまで行政あるいは権力が介入できるのか。

 言いづらいことでございますけれども、二十数万組はある離婚家庭の子弟というものが学校現場で問題を起こす、子供たちに非常に大きな影響を与えているということもあります。人間性の涵養という側面からすれば、家庭教育というのは看過してはならない重大なテーマにいよいよなってきていると思います。

 我々与党案は、十条で、「家庭教育」と起こしまして「家庭教育の自主性を尊重しつつ、」と書きました。民主党さんの案は、同じく十条でありますが、「保護者に対して、適切な支援を講じなければ」と書かれてありまして、家庭教育の自主性については書かれておりません。

 どこまで家庭教育に行政あるいは権力というものがかかわっていいものか、またいくべきか、この点を福士さんにお答えいただきたいと思います。個人的な意見で結構でございます。

 もう一点は、基本法改正をめぐります議論の中で、個人と公共というものをどう位置づけるかという議論も我々は真剣にやってまいりました。戦後の教育が、余りにも個人主義に重きを置き過ぎて、公共ということをおろそかにしてきてはいないか。これは、いまだに大きな議論があるところでございます。これと並んで、もう一つ、特に私が強調した点は、国を愛する、御存じのように与党案は、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」と書いてあります。民主党さんの案は、前文で「日本を愛する心を涵養し、」途中省きますが、「他国や他文化を理解し、」としか書かれておりません。どちらがいいかは御判断にお任せいたします。

 私が主張いたしましたのは、国を愛することと、ここまで世界で重要な国になった日本が、例えば憲法の精神にのっとる平和主義をこれからも貫くために、これは、亡くなられましたけれども、橋本龍太郎元総理がしきりに生前に言われていたことでありますが、例えば、ここは三重県でございますので、公害問題、環境問題に日本が積極的に役割を果たしていく。つまり、国を愛すると同時に、環境問題を初めとする、世界人といいますか、国際社会への貢献というものを必ず並立していこうじゃないか。一国主義ではだめだ、これから日本が世界をリードする、これを考えて第二条目標の中に、「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」と書いたわけであります。

 宗村さんと宮本さんにお伺いしたいのでございますが、ちょっと御陳述とはかけ離れた議論かもわかりませんけれども、愛国心というものと国際人というものをどういうふうに位置づけられるか、教育現場にいらっしゃった者、あるいはいらっしゃる方として御意見を拝聴したいと思います。

 もうお一方、私の後に若宮さんが御質問される予定でございますので、恐れ入りますが、簡明に御示唆をいただければと思います。

 以上です。

福士英実君 家庭教育につきましては、やはり政府が模範的なことを指導する必要があると思います。

 今、実際、夜十時過ぎぐらいに父親が作業服のままで、子供の進路についてとか、いろいろな家庭の状況を相談に来ることがございます。我々は、もう十二時でも一時でもつき合うわけですけれども。こういうぐあいに、本当に今家庭は困っておりまして、学校でなかなか道徳教育もなされておりませんので、しつけで苦労しております。これは、模範的な家庭というのをある程度示す必要があると思います。

 それと、心のノートでございますけれども、あれを見ましたら、九七%使われているということで、インターネットで出ておりますけれども、実際は半分いくでしょうか、どうでしょうか。私もきのうちょっと授業に出まして、心のノートを配られているか配られていないか、やっているかやっていないか、きのうの生徒はやっているのはおりませんでした。配られていない中学校、それから、配られたけれども使っていない、そういうことでございます。九七%が使っているということになっていますけれども、これこそまたうそじゃないでしょうか。

 それともう一つ、国を愛するということでありますけれども、十数年前になりますけれども、長野オリンピックで、日本の選手が優勝しまして表彰台に上がりました。女子の選手ですけれども、両わきに外国人の白人の女性がおりまして、日の丸が上がって国歌が流れる、そのときに、両端の外国人の選手はぴしっと気をつけしまして、帽子をとって、日の丸に向かって最敬礼していますね。それに対して、真ん中の、肝心の日本の選手だけが帽子をかぶったままでふらふらふらふら、こうしてやっていました。これを見て、これが日本の国旗でよかったな、もし外国の国旗だったら国際問題になるだろうなと思いました。

 そういうことで、やはり国を愛するという心を学校で教えないといけません。学校で逆のことを教えていたら国際的なルールまでおかしくなってしまいますので、ぜひ指導してほしいと思います。

 以上です。

宗村南男君 国を愛するということにつきましては、基本的に私も賛成でございます。これはやはり、これから日本が愛国心が持てるような国家に仕上げていく、不備なところはこれから政府挙げて取り組んでもらいたいなというふうに思います。

 例えば、先ほど環境の問題が出ましたけれども、一つの例として、環境で世界に貢献をしていく、そういうことによって、国民が日本という国はすばらしいというような価値観を持てる国家にしていくことが非常に大事だというふうに思っております。

 基本的に、やはり国家として、日本民族あるいは日本人として、国を愛するということについては非常に大事なことだ。ただ、押しつけとか、無理やり愛国心をあおるとかいうようなことはだめだと思いますけれども、やはり心の底から愛国心が持てるような国家にこれからも大いにしていってもらいたいというふうに率直に思います。

 以上です。

宮本長和君 国を愛するということは、日本に生まれたすべての人が、先ほどちょっとオリンピックの話が出ましたけれども、オリンピックにしてもワールドカップにしても、ああいうところで日本の選手が活躍すると本当に、場合によっては涙を流して喜ぶ。だれでも、生まれた国を愛せない人はいないと思うんです。これはもう、自然の発露として国を愛するということだと思うんです。

 ただ、今、宗村先生も言われましたように、そういう心のあり方を教育の場で強制するということについてはやはり問題があるけれども、民主党の書かれておりますように、涵養という意味は、強制するということではなしに、もう本当に自然にそういう形になっていくようにということでございますので、私は、国を愛すること、これを入れる入れないというような議論はほとんど、とりようですけれども、余りあれではないか。政府案の心と態度とかいうことがいろいろ議論をされておりますけれども、やはり、自然の発露として国を愛するということは何らかの形で、どういう言い方がいいのかは別として、強制しないような形で基本法の中へ取り入れていくということについては私は賛成なんですね。

町村座長 次に、若宮健嗣君。

 あと二、三分しかございません。ひとつ手短にお願いします。

若宮委員 では、手短に申し上げさせていただきます。

 お三方とも、大変貴重な御意見をありがとうございました。特に宮本先生の方からは、拙速じゃなくゆっくりというようなお話の向きもございましたが、今回私どもの方で出しておりますところで、やはり公共の精神、それから豊かな情操、伝統や文化の尊重、あるいは家庭教育、今お話にもございましたが、幼児教育、それから宗村先生もおっしゃっておられました私立学校につきまして、特にきちっとこの基本法で明記させていただいている形になっているかと思うのでございます。

 宮本先生のお話の中で、やはりそんなに簡単には現場の問題は解決しないんじゃないかというようなお話の向きもございましたが、今のままでも解決するわけではないんじゃないかなというふうにも思っておりまして、まずは基本法である程度理念的なところをきちっと固めた上で、その後の振興計画ですとか学習指導要領なんかで徐々に落とし込んでいく形で、現場の先生方にも御理解をいただくというような形を進めていく時期にもう来ているのではないかなと私自身は考えておるところでございまして、そのあたりの御意見をお話しいただければなというふうに思っております。

 それからまた、もしお時間がございましたら、福士先生それから宗村先生には、お立場はちょっと違うかもしれないんですが、教育行政につきまして。

 今、民主党の提案の中では教育委員会を置かないというふうに規定がなされております。この点につきましては、やはり首長さんがかなり判断をゆだねられるところになるんですが、そうしますと、どうしてもやはり政治的影響をその首長さんの御判断によって受ける可能性があるのではないかなというふうに私自身は危惧するところがございます。このあたりも、御意見をお伺いできればと思っております。

宮本長和君 私は、教育基本法よりももっと、今教育の現場は非常に混乱をしているので、それに対する対策が先ではないか、こういうことを申し上げたんですが、言われるように、今回、教育現場で起こっている問題についてはそんなに簡単な、単純な問題ではないと私も思っております。

 ただ、私、教育長になりましたときに、まず最初に先生方に申し上げたことは、隠すな、逃げるな、真正面から取り組め、こういうことを申し上げました。

 隠すなというのは、私は教師ではございませんのであれですけれども、例えば、自分のクラスでいじめが起こると、そういうことを外へ出すのが恥ずかしい。今はちょっと私も離れていますので浦島太郎と言ったんですが、その当時、やはり、自分のクラスからいじめも含めて何か問題が起こったときに、そういう問題が起こるということは自分の指導力が不足しておるんだ、恥ずかしい、そういうこともあって隠す。もっと学校現場の中で、同僚なり、あるいは教頭なり校長なりに相談してそれの対処を考えればいいんですけれども、自分で何かやってしまいたい、自分のところでおさめてしまいたい、そういうこともあったと思うんです。それから、教頭にしても校長にしても、自分の学校で問題を起こしたくない、何か起こると自分の出世に影響する、まあこれはわかりませんけれども、そういうこともあって教育委員会への報告がスムーズにいかない、そういうことが多々あったのではないかと思うんです。

 隠すな、逃げるな、真正面からぶつかれ、こういうことで、例えば、現在のそれぞれの学校でもっとそういう相談システムというか、何か問題が起こったときの危機管理、そういうことをもっとシステム化して、担任の先生が相談できるような、それぞれの学校でいろいろな協議ができるようなシステム化ができないか。もちろん、それには外部の方、保護者の方も入ってもらって何かできるように、自分一人で抱え込んで悩まないで、例えば先生で自殺した人がおりましたね、ああいうことが起こらないように、学校全体で取り組めるようなシステムをやったらどうか。

 ただ、そのためには、やはり人の問題、金の問題、いろいろ出てくると思います。私は、教育というのはもう本当に金がかかると思うんです。小泉元総理が米百俵と言われましたけれども、私は、橋一本、一年おくれてもいいと言うんです、道路をつくるのが一年おくれてもいいと言うんです。やはり教育には金がかかる。ただし、私が教育長のときに、貴重な税金を使うんだから、県民の皆さんが教育にそれだけ金を使ってもいいというふうな理解を得られる教育をせないかぬ、金は出しても、何だ、学校はあんなことをしておるではないかというようなことでは予算はつけられぬ、こういうことを常々先生に言ったんですけれども、私はそういうことを何とかシステム化できないかと思うんです。

福士英実君 例えば、文科省からこうしなさいと指示がある、そして教育委員会、現場、そして生徒となるんですが、それがスムーズにいかないことが一番問題だと私は思うんですね。

 例えば、今こうして一生懸命案について論じていますけれども、ここで決まったところで、現場でそれがなされなければ何にも意味がないわけですね。例えば、先ほどの心のノートの問題もそうですけれども、これを使うようにと指示があった、しかし使っていない、使ったことにしておく、そこが問題でありまして、必ず上からすっといけるように。しかも、ゼロじゃなくて逆のことをする。例えば、心のノートを使っていることにして、しかし本当は使わない。

 主に人権教育になるわけですけれども、道徳の一つの中に人権教育というのがあると思うんですね。ところが、本来の肝心な道徳を教えずに人権教育ばかりずっと教えていますので、だんだんだんだん日本がおかしくなってくる、そう思うんですね。

 ですから、もっとスムーズに、教育委員会から指示されたことは現場で従う、そういうところを徹底した方がいいと私は思います。

若宮委員 ありがとうございました。

町村座長 次に、北神圭朗君。

北神委員 北神でございます。

 お三方には、きょうは大変貴重な御意見を伺いまして、ありがとうございました。

 まず、教育行政の責任の問題についてお聞きしたいと思います。

 今、若宮先生からもお話がありましたが、私たち民主党の案は、今回のいじめの問題や未履修の問題でもありますが、これは宮本先生がおっしゃるように、根本的ないろいろな現場の問題があると思います。ただ、こういう問題が生じたときには、やはりしっかりとその責任の所在というものを明らかにしないといけない。

 今度の未履修の問題も、一つの救済策として挙げられてはおりますが、根本的な問題の解決もまだ見られていないし、何よりも、だれが責任をとるのかよくわからない。福士さんの冒頭の陳述でも、教員の責任の話をおっしゃっておられましたが、こういう意味で、民主党の案では、国が最終的な責任をとらないといけない。要するに、ナショナルミニマムというか、このぐらいの勉強の内容を定めるとか、あるいは学校の秩序のあり方を考えるとか、その最終責任はやはり国にあるんじゃないか、そこを明確にしているところが、政府案と違う一つの大きな点であります。

 もう一つは、政府案は第五条に、「国及び地方公共団体は、」「適切な役割分担及び相互の協力の下、その実施に責任を負う。」という意味では、地方公共団体と国の間で一緒に協力してやろう、そういう連帯責任みたいな体制になっているんですね。

 もう一つ申し上げたいのは、地方の方で、先ほど話がありましたように、首長に責任を設けるべきだ。教育委員会というものは、廃止をするんじゃなくて、発展的に教育監査委員会みたいなものを設けて、おっしゃるように首長が責任を持ってしまうと余りにも政治的な配慮が入ってしまう危険性も一つある、そういう意味では、第三者的なオンブズパーソンみたいなものを設けてきちっとチェックを入れることを求めるという内容になっているわけですね。

 質問として、責任の明確化というものを皆さんも大事に思われるのかどうかということと、もう一つは、首長に教育権を渡したときに、先ほどの宮本先生の話で、知事に呼ばれて……(宮本長和君「いやいや」と呼ぶ)後で説明を伺いますが、知事に言われて任命をされたということではないんですね。

 いずれにせよ、今の教育委員会のシステムの中でも首長の影響というのは非常に大きい。もちろん、直接首長になるとより大きくなるかもしれませんが、そこはさっき申し上げた教育監査委員会というオンブズパーソンでチェックをするという仕組みを民主党は提案しているわけですね。だから、責任を明確化する。共同責任にしてしまうと、だれが責任を最後にとるのかよくわからない、うやむやになってしまうという問題意識からそういうことを考えた。

 ただ、首長が余り政治的なものを教育の現場に持ち込まないように、教育委員会というものを発展的に教育監査委員会というオンブズパーソンみたいなものにして、そこでチェックをする、そういう仕組みなんですけれども、これについて、宮本先生と福士先生のお考えを伺いたいと思います。

宮本長和君 まず、知事に呼ばれた、こう言われるんですけれども、ちょっと聞いてもらったらわかるんですけれども、当時の教育委員長と知事に呼ばれて、こう私は申し上げたんです。といいますのは、教育は当然教育委員長です。その当時、私は知事部局の職員だったものですから、私のその当時の上司は知事です。教育委員長と知事に呼ばれて、教育はどうだ、こう言われただけで、知事から、おまえ教育長はどうだ、こう言われたわけではございませんので、誤解のないようにお願いしたいと思います。

 それから、民主党のこの案、非常に抜本的な、制度的な、政府案はそこまで踏み込んでみえないんですけれども、三者が非常にばらばらで責任のありようがわかりにくい。今言われたように、責任のなすりつけ合いとは言いませんけれども、これは文科省だ、これは県だ、これは学校だ、こういうことで、その辺はきちっと整理をする必要性はあると思うんです。

 実は、民主党案は、教育行政はその長が行わなければならないということが書かれておるんですが、私は、えらい不勉強で申しわけなかったんですが、二、三日前に民主党の案を見せていただいて、初めてこれをあれしたものですから、これはいろいろ解説なんかを読ませていただきますと、なるほどと思うことがなきにしもあらずなんです。

 今の時点で私はまだ、長にこういう形でやらせた方がいいのかどうか、先ほど言われた政治的な問題もありますし、この長が行うというのがどこまでなのかきちっと聞いておりませんので、現時点においては賛否を申し上げかねるんですが、こういうことがあるからもうちょっと慎重に国民の皆さんの合意を得てやってくれ、こういうことを私は申し上げておるわけでございます。

福士英実君 法律の専門家ではありませんので、余り大したことは言えないかもしれませんが、基本的には、決められたことを守らない、世界史何単元、何時間やりなさいと言われてもやらない、しかもごまかすとか、そういうやらなかった人、決められたことを守らなかった人、これが処罰の対象になると思いますし、それは国が責任を持ってやったらいいと思いますね。本当に世界史が無駄だと思えば、しっかり申し立てて、世界史はやらないことにする、そういう認可を得ればいいことであります。

 ですから、決まったことを守らなくてもいいんだ、そういう風潮がはびこっているから、幾らいいことを決めても守られない、そこを直さぬといかぬと思いますね。

北神委員 ありがとうございます。

 愛国心の話に移りたいと思うんですが、これも、先ほどたしか鈴木先生からお話がありましたが、愛国心と国際人、国際感覚との関係の話もありまして、民主党の前文の一部分をとらえられたんですが、実はその前段に、民主党の前文は、「我々が直面する課題は、」「人と人、国と国、宗教と宗教、人類と自然との間に、共に生き、互いに生かされるという共生の精神を醸成することである。」というふうに書いて、そこに我々の国際社会に対する態度というものが一つ記してあるのであります。

 一つお聞きしたいのは、これは福士さんと宗村さんにお聞きしたいんですが、民主党の案は「日本を愛する心を涵養し、」この涵養するというのは、先ほど宮本先生から話がありましたように、水をやって自然とはぐくむような意味合いで涵養という言葉を使っております。政府案は、むしろ態度を養う、国や郷土を愛する態度を養う。

 この態度と心という、先ほどのお話を聞いていると、皆さんも国を愛する心という言葉を使われますが、これはやはり大きな違いがあるというふうに思います。この一点について、御見解を伺いたい。

 もう一つは、先ほど宗村先生、そして宮本先生から、強制はなかなかできない、強制すべきではないというお話がありました。これは我々も全く同感でありまして、そもそも、恐らく強制なんか現実にできないんですよ。そういう意味で、私たちは、政府案のように本文ではなくて、日本を愛する心を涵養するという文言を前文に置いているわけですね。

 ここについて、どっちがいいかというよりは、強制されるものなのかどうかということを、特に福士さんにお聞きしたいというふうに思います。この二点です。

福士英実君 心を持っていても行動が伴わない、やはりそれは私は評価いたしません。心も持ち、しかも行動で示す。これでこそ日本人だと思います。

宗村南男君 正直言って、民主党の案も与党の案も大勢に影響がないのではないか。言葉上の、あるいは文言の問題というのはいろいろおありだというふうに思います。

 しかし、今、福士先生が言われたように、やはり一番いいのは、愛国心、それも行動であらわす。日本人は、どちらかというと照れ屋でございますので、気持ちがあっても表に出てこない。ところが、外国人は表情いっぱいに、愛国心といいますか、そういうようなものを、例えばいろいろな競技会でもあらわす。やはり理想は、態度と気持ちが一致することが大事だというふうに思います。

 ただ、正直言って、なかなか強制できるものではないということでございますので、強制しなくても自然と愛国心を持てるような方向に日本国民全員が努力して国をつくっていかなきゃいかぬというふうに私は思う次第でございます。

 以上でございます。

北神委員 ありがとうございます。

 もう一つ、子供が親を殺したり、親が子を殺したり、いじめの問題とか、要は、学力というよりは、人を尊重する場、命を大事にするとか生命を大事にする道徳、こういったものが非常に求められている時代になっているというふうに思います。

 その点について、道徳というのはいろいろな教え方があると私は思いますが、最後は、特に日本人の規範の根本は恥じる気持ちにあるというふうに思うんですね。これをやったら恥ずかしい。それは、親に対して恥ずかしいのか、世間様に対して恥ずかしいのか、あるいは天に対して恥ずかしいのか、いろいろあると思うんですが、やはりどこかにその恥の前提として、敬う心、この敬というものがないといけない。この敬というのはどういう意味かというと、自分よりすぐれたもの、大きなもの、畏怖するもの。そういったものが、道徳の基本になければならない。

 そういう意味では、我々民主党案は、宗教的感性を涵養する、これもまた涵養するという言葉で、決して強制する話でもないし、特定の宗教を支持したり反対したり、そういうものではないんですが、人間よりも大きなものがあるんだよ、それに対する敬いの気持ち、そしてそこから生じる恥じるという日本人の道徳の根本、やはりこういうものも明記すべきだというふうに私は思うんですね。政府案の方は、宗教に関する一般的な教養を教える。これももちろん大事な話ですが、教養だけじゃなくて、それこそ信仰の真髄というものがやはり大事なんじゃないかというふうに思いますが、これをお三方に伺いたいと思います。

福士英実君 今おっしゃるとおり、私はそれに賛同いたします。ただ、内閣の案を私が支持したのは、これは簡潔に書かれてあるんですね。現行のと字数が非常に近いというか、民主党さんのものが結構長い。いいことを書こうと思えば幾らでも書けることです。あの書かれていることは、私は賛同いたします。すばらしいことですね。ただ、字数の関係でとりました。今に近いということで。

宗村南男君 福士先生の言われたとおりだというふうに思います。道徳関係というのは、非常に大事なことだというふうに私も思います。それをどういう条文にするかとか、あるいは表現にするかということですけれども、決して、教育基本法案につきましても、その辺を軽視しておるというふうには私は受け取っておりませんので、基本的にこれがいいのではないかというふうに思う次第でございます。

 以上です。

宮本長和君 宗教教育については、現在、学校の方では、政教分離というようなこともあって、非常に及び腰になっておることは事実だと思うんですね。何らかの形で、もっとそういう宗教についての教育というのは、学校教育の場でも取り上げる必要があるというふうに私は思っております。

 ただ、今、宗村先生が言われたように、それではこの民主党案と政府案とどう違うのかと言われると、なかなかこれはまた難しいので、専門家はいろいろそれはとりようがあって、愛国心と一緒であれなんですけれども、一般国民にとっては、宗教教育についてもうちょっと学校で触れてもらってもいいのではないかという気はすると思うんですが、その辺については、これは私も先ほどから申しましたように、非常に大事な話なので、十分皆さん方で議論をしていただいて、合意の上でその文言を決めていただきたい。

 民主党案がいいか政府案がいいかと言われると、それぞれで、私もちょっとまだわかりかねるところがあるんですけれども、何らかの形で宗教教育を今以上に学校で取り入れるということについては賛成であります。これは、十分議論していただきたいと思います。

北神委員 ありがとうございます。

 あと一分ぐらいしかないんですが、愛国心のことについては、確かになかなか差が見きわめられない部分はあると思うんですが、この宗教的感性を涵養するというのは、かなり違うと思うんですよ。政府案は一般教養を教えるということで、民主党案は、やはり宗教的な感性、もう少し内容に踏み込んだ、そういう意味なんですけれども。

 最後に御質問をさせていただきたいのは、もう一点だけでありますが、私立の話で宗村先生にお聞きしたいんです。

 これは両方、政府案も民主党案も規定しております。ただ、違いは、一つは私立の役割、要するに、建学の自由というものを非常に強く打ち出している。政府案は、必ずしもそれは否定はしていないと思います。ただ、非常に強く打ち出している。

 というのは、やはり私立の意義というのは、教育というのは、このやり方が正しいとかそういうのはなかなかない、千差万別で、それぞれの子供に合わせてやらなければならない部分がある、もちろん共通の部分もありますが、そういう意味で、建学の自由というものを非常に強く主張しているんですが、その点について伺いたいというふうに思います。最後でございます。

宗村南男君 私学の存立していく上で、建学の精神というものは、どの学校にとりましても全く最重要な根拠だというふうに思っております。

 ただ、その建学の精神に照らして教育を行うということになりますと、非常にいろいろな問題が当然出てくるわけでございます。ほとんどが、財政的な裏づけというものが非常に必要になってくる。それと、この社会の流れに沿って、当然保護者の皆さんとか社会のニーズも変わってくる。

 例えば、大学進学を目指していくということになりますと、私ども、幼稚園から小学校、中学校、高等学校、大学というふうに全校種を持っておる理事長もしておるわけでございますけれども、この建学の精神を守りながら、やはり一方ではそういうニーズにもこたえていかなきゃならぬということの板挟みに当然運営としてもなるわけでございます。

 ただ、私学というのは、法令に触れない前提で、非常に指示がしやすいような仕組みに各学校ともなっておるんではないかというふうに思います。そういう意味で、非常に柔軟に、適切に、経営する者、運営する者が判断をすれば、私は、むしろ私学の重要性というのはやはり認識されるのではないか、民主党案の方も、そういう意味では触れておられますので、非常にありがたいというふうに思っておる次第でございます。

 以上です。

町村座長 次に、坂口力君。

坂口委員 坂口でございます。きょうは、三人の先生方には、お忙しい中、本当にありがとうございました。お礼を申し上げたいと思います。

 できる限り、先生方の御意見を伺うようにしたいというふうに思います。この教育基本法の改正の議論の中で、私の党として一番問題になりましたのは何かといいますと、先ほどからも出ておりますが、愛国ということをどう考えるかということでございました。

 これは、国を愛するわけですから、国土を愛する、あるいは人を愛する。例えば、日本でしたら、日本の国土、日本人を愛する。これは、だれも言うところはない。しかし、愛国といいましたときに、もう一つ広い意味で、統治機構と申しますか、そのときの政府といいますか、そうしたものも含めて愛国というということになってきたときに、それは賛成する人もいるし、賛成しない人もいる。ですから、そこを強制することはなかなかできないのではないかということで、実はかなりここは議論になったところでございます。

 したがいまして、この法案をつくっていただきます過程におきましても、そうした点につきましていろいろと意見を申し上げ、お取り上げもいただいたというふうに思っているところでございます。

 それからもう一つ、私は教育の中で、これは私自身がこだわっていることでございますが、個性の尊重と申しますか、個性のある教育ということでございまして、宗村先生から、学校としての個性というお話、先ほどちょうだいをいたしました。これも大事だと思うんですけれども、個々の生徒に対する個性ある教育というのも大事だと思うんです。もう二十年前になりますが、臨時教育審議会、臨教審でもこの個性の尊重というのが取り上げられて、かなり議論をされております。

 しかし、そこが難しいのは、現場におろしましたときに、個性の尊重というのは必ずしもうまくいかない面がある。例えば、できる子、できない子とありますときに、できないのも個性というふうに考えられてしまう可能性もある。格差が生まれてくる。運動会でも、手をつないでゴールインするのもいかがなものかと思いますけれども、しかし、余り格差が生まれても困る。個性の尊重というのは、総論として非常に賛成しやすい言葉ですけれども、現場においてはさまざまな意見がある。ここをどうするのかなというのが、私の少しこだわりを持っているところでございます。

 それで、まず宗村先生にお聞きをさせていただきたいと思います。

 大学教育もおやりになっておりまして、それこそ個性豊かな大学をつくっていただいておりますことに、地元の一人として敬意を表する次第でございます。先生のところはもっと若い皆さん方からやっておみえになるわけですけれども、大学教育から見ましたときに、小中学校、あるいは高等学校も含めてでございますが、何が欠けているというふうにお考えになっているかということ、そこをお聞きしたいと思いますが、いかがでしょうか。

宗村南男君 正直言いまして、まず、私どもの大学へ入っておみえになる学生さんを、やはり最低の学力をもう一度、再教育しております。特に、国語なんかは、レポートを、いろいろな報告を書かせるわけでございますけれども、まず国語能力を身につけさせるということで、特別に時間を組んでやらせております。

 これは各大学ともやっておみえになるというふうに思いますけれども、今の高等学校、中学の教育というものは、こんな場所で言っていいかどうかは別として、非常に勉学の意欲がある子は、ある意味では先生も余り手間がかからないですよね、非常に意欲を持って勉強しますから、むしろ、意欲のない中高生を、どういうふうに意欲を持たせて、勉強が好きになるように、やはり学校へ来るのが楽しくなるように持っていくかということに非常に苦労いたしておるわけでございます。

 しかし、その子供たちが大学へ入学をしてくるわけでございますので、地方の小さな大学でございますので、余計に、やはりそういう意欲を持たせるということをどういうふうに引き出していくかということにつきましては、正直言いまして、きょうこういう法案の意見を陳述する方になっておりますけれども、むしろ私ども、教育あるいは学校運営上の日々のいろいろな問題で頭を悩ましておるわけでございまして、そういう意味では、例を挙げれば切りがないぐらい非常にいろいろな対策を立てて、各幼稚園から大学まで日々やっております。

 最近は、幼稚園でも親御さんの子育てについての相談というものが実に多いことも事実でございまして、二歳児の、まだ園児でない子の育て方についても相談に応じておるというような状況でございます。要するに、教員側もいろいろな勉強をして、いろいろな経験をして、そして対応していかないと、私学の幼稚園というのは信用を失うというような時代になってきておりますので、そういう意味では、日々、大学まで、いろいろなことで、家庭との連絡とか、昔の大学生では考えられなかったようなことまで相談に応じておるというような状況でございます。

 どうか御支援のほど、よろしくお願い申し上げたいと思います。

 以上です。

坂口委員 ありがとうございました。

 宮本元教育長さんに、一つお聞きをしたいと思います。

 私ごとでございますけれども、宮本さんとは同級生でございまして、同じ教室の中で学んだ間柄でございました。お互いに個性があったものでございますから、こういうふうにして両方が並んでいろいろお話し合いをするということになったわけでございます。

 教育には素人だということを言われましたけれども、決して素人というふうに言われるところはなくて、県の行政全般に長い間かかわっておみえになりまして、もっと広い意味で教育をごらんになってきたわけでありますから、おなりになりましたときにまことに適任者だと私も思った一人でございます。

 ただ、先ほども民主党さんから出ましたけれども、教育委員会の問題であります。民主党さんの案にもいいところがあると私も率直にそう思っているところでございますが、しかし、この教育委員会をなくするということは私はどうかなというふうに実は思っています。そうしますと、首長さんの意思というものが直接入ってくる。そのときそのときによって変わるということもぐあいが悪い。やはり、中立的立場の教育委員会というのは存在意義があるのではないか。あり方につきましてはいろいろと議論をしていかなきゃいけないと思うんですけれども、私はそう思っております。

 今までやっておみえになったんですから、やっておみえになった方にその存在意義がどうかというのを聞くのは少し厳しいとは思いますけれども、感想で結構でございますから、もう少しお聞かせをいただければと思います。

宮本長和君 坂口先生とは高等学校時代同級生でございまして、私は非常におとなしかったんですけれども、坂口先生はなかなか個性がある方で、私よりも勉強ははるかにできましたし、あれだった、まあ余談は別としまして。

 ですから、私、最初に申し上げたのですが、教育委員会、これが民主党の案に、長が行うということでぱっと出てびっくりしたんですけれども、読んでみますと、なるほどなということもいろいろ書いてはあるんですが、やはり、率直な私の意見を言いますと、某都道府県の知事さんのように、ある程度政治的なことがぱっと表へ出てくると、学校現場も非常に困るということも出てきますし、ああいうところを、もし非常に独裁者的な知事が生まれたときにどういうチェックをするのか。それは監査何とか委員会とかいうことが書かれておりましたけれども、それで十分対応できるのかどうか。

 その辺を私、まず最初に申し上げたんですけれども、もっともっとその辺は、これは一番大事な話、理念的な話は別としてこれは非常に具体的な話なものですから、学校現場にも非常に密接な関係を及ぼすところですので、こういうところは十分皆さんで議論をしてやっていただきたい。

 私も今ここで、教育委員会、要るか要らぬかとか、経験者だから言いにくいという意味ではなしに、私もそんなこと全然考えていませんので、要らぬなら要らぬと私は言うのですけれども、ちょっと私まだ、そこまで踏み込んで理解ができていないものですから、答弁は控えさせていただきたいと思うんです。

坂口委員 ほとんど時間がなくなってまいりましたが、福士さんに、最後に個性の尊重ということにつきまして。

 教育の中でそれは尊重していかなきゃいけないんですけれども、そこの難しさというのを私は実は悩んでいる一人でございます。時間が短いものですから、その辺のところのお考えがありましたら端的にひとつお答えをいただいて、終わりたいと思います。

福士英実君 個性といいましても、他人に迷惑をかける、人から疎外されてしまうような個性であれば、やはり直していく必要があると思います。最低限、世の中生きていかぬといけませんので、その個性を我々は、生徒のいいところを見て、これを伸ばす。余りにも不得意なところ、時間がかかるようであれば、多少それを見逃してもそれを埋めるのに十分な特徴を見出して、伸ばしていきます。やはりそれには長い時間がかかりますので、教師あるいは親が時間をかけてやるべきだと思います。

坂口委員 ありがとうございました。

町村座長 次に、保坂展人君。

保坂(展)委員 社民党の保坂展人です。

 私たちは、現行教育基本法は政府提案のように変えるべきではないという立場でこの間議論をしております。

 まず、宮本さんに伺いたいんですけれども、先ほどの意見陳述の中で、変えるということにおいてはやぶさかではないけれども、拙速は避けるべきではないかということをおっしゃっていただいたと思います。

 未履修の問題、そしていじめ自殺が九九年以降ゼロ、しかし、新聞報道されたものだけでも二十をはるかに超えるいじめ自殺と疑われる事例もある。そして今日、大変深刻になってきているのは、未履修問題で二人の校長先生が亡くなった。しかも、本来命の大切さということを子供に向かい合って、子供たちに伝えていくべき教師の、さらにバックアップをしていかなければいけない管理職が自責の念で亡くなるという、本当にあってはならないことが、どうもしかし、それが例外的なケースじゃなくて、それだけの気持ちになっている方も今多いんじゃないかというふうに思います。

 そこで、このままの形で拙速に法改正が行われた場合に、教育現場にどのような混乱が予想されるのかということについて、例えば、先ほど自治体の首長が独裁的な傾向があった場合にということをおっしゃいましたけれども、今までの教育基本法は、国の責任として、やはり教育条件の整備ということでかなり抑制的だったと思います。これが、場合によっては授業の内容、カリキュラムの中を文科省から県教委、市教委とチェックしなさいみたいなことを、特に県のレベルで強力に主張されるようなことになったらまた混乱が起きるのかなと私は思うんですが、その辺について御意見をお願いしたいと思います。

宮本長和君 現行の組織といいますか、やり方といいますか、教育行政の進め方といいますか、そういうものについては、私は、教育長在職当時からいろいろ問題があるということは理解をしておりました。文科省の方から、きょうお見えになっておるかわかりませんけれども、やりたいと思ってもやれないようなケースもございましたし、非常に難しい問題ではあります。

 例えば、教育基本法を改正したらどんな混乱が起こるか、具体的にそれを例示することはちょっと難しいんですけれども、今本当に教育現場は困っておるんですね。困っておるときにこういう制度的なことも含めたような改正が行われると、なおのこと先生方は御苦労なさると思って、どうしたらいいかわからぬと思うんですね。非常に萎縮もしております。

 ですから、私は、約半世紀もたっておりますし、いろいろな問題も出てきておりますので、改正をされることについては反対ではないんですけれども、やはりこういう問題について、例えば今、宗村先生が民主党の案について、建学のことで言われましたけれども、民主党の案にもいいところもあるし、政府・与党案にもいいところもある、事教育に関してのことですから、私が申し上げたいのは、十分議論をしていただいてみんなの合意の上でやっていただきたい。

 そして、例えば、先ほどありました未履修の問題も、学校教育基本法の改正とは関係なしに私はできると思うのです。ああいう問題が何で起こるのか。これはやはり、大学教育と高校教育との間で断絶をしておるからなんですね。高等学校の方は、学校評価制度云々という話もありますが、やはり何とか学校の評判を高めたい、父兄からも圧力がかかってくる。そうすると、どうしても何とか一人でも多くいい大学へ入れたい、こういうことで、受験予備校化ということが言われますが、やらざるを得ない。大学の方は大学の方で、指導要領とか必修科目云々ということと関係なしに受験のあれをやっておる。

 そういうことで、これは文科省の方でもうちょっと総合的に、大学教育、高校教育も含めて、日本の教育をどうしていくのだということを考えていただきたい、こういうことを私は申し上げたいと思うんです。

保坂(展)委員 次に、宗村さんに伺いたいんですが、先ほどの意見の中で、私学振興がいかに大切かということについてはほとんど同意見であります。

 ただ、現行教育基本法の中で私学も非常に大きな役割を持って、現にたくさんの子供たちを送り出して育てているという実績があるわけなんです。六十年たっての見直しということなんですが、私がもし仮に現行教育基本法を見直すとすれば、例えば、九四年に批准した子どもの権利条約であるとか、あるいは男女共同参画社会という新しいフレームであるとか、あるいは障害児教育をインクルージョンで、統合教育でやっていこうという理念だとか、あるいは世界的には高等教育の無償化をだんだん進めていきましょうよという条約、これが国連の社会権規約の中で、日本は残念ながらまだこれを留保しているというような点、もし変えるとすれば、六十年たってこういう部分がというのがあると思うんですけれども、現行教育基本法の中で私学振興について何かうまくいかない点というものが存在するのかどうかについて、あわせてお話しいただきたいと思います。

宗村南男君 まず、大学のあるいは私学の全国的な組織が幾つもあるわけでございますけれども、そういう中でも、まず基本法そのものにやはり大学教育あるいは私立学校というものを正式に認めてもらうということの運動もしてきたわけでございます。

 今回、そういうものが一つ新設をされて、当然大きな実績を上げてきておるわけなので、ようやく今ごろというのはあるわけですけれども、改正をしなければそういうものもずっと続いたというふうに思います。

 もちろん、先ほど来、愛国心とかいろいろな問題が、当然改正すれば人権の問題とかいろいろな問題が出てくるわけでございます。しかし、私の意見というものを求められた場合に、私学人として、まず基本的に、そういうものを認めてもらうということが六十年たってできたということは大きく評価をいたしております。そういう意味では、文言は違え、民主党案もそれに近いような表現になっておりまして、両案が認められておることは非常にありがたいというふうに思うわけでございます。

 ただ、いろいろな、その他の問題になってきますと非常に難しい。我々は、まことに申しわけございませんけれども、正直言って素人でございますので、非常に難しい。個々の条文の問題になりますと、どこまでそれを教育基本法に反映させていくかということになりますと、非常に法解釈上もいろいろ問題があろうかというふうにも思いますので、それに触れ出しますと、もう私どもではなかなか意見が言えないというようなことになろうかと思います。

 そういう意味で、私学人の一人として、私学にとっては、今回の教育基本法につきましては、非常にありがたいということを表明させていただいて、終わりにさせていただきたいというふうに思います。ひとつよろしくお願いします。

 以上です。

保坂(展)委員 私ども、財政措置をしっかりやるということについては大賛成なんですけれども、この教育基本法案の後にそれを策定するということになっていますから、これは順番が逆ではないかというふうに思います。

 最後に、福士さんに伺います。

 教科書をいろいろ照合されて、細かく対照表をつくっていらっしゃるんですが、少しだけ疑問に思った点を聞かせていただきます。

 「フリーターを肯定」という部分で、「アリとキリギリスの物語でいえば僕はキリギリスかもしれない。」というところを引用されているんですが、その前を読みますと、「サラリーマンになりたくないというのがあって、何か自分に向いたものはないかなと思って、探してはいたんです。 それが大学に入ってバス・フィッシングと出会って、ついにプロにまでなって、アメリカへ来てしまった。」「僕はバス釣りを愛しているし、今はそれだけをしていたいんです。体が動く時にしたいことを目一杯してみようと。」というふうにありまして、これは立派なチャレンジャーだなと私は思うんですね。

 これがどうして「フリーターを肯定」というふうに読み取られるのか、ここはちょっとおかしくはないかなと正直思ったので、伺います。

福士英実君 おっしゃるとおり、私も、こういう生き方はおもしろいと思います。この人の生き方について、否定はしません。一緒にいたら、楽しく友達になれるかもしれません。

 ただ、この教科書全体がこんな感じなんですよ。一生懸命正社員になって働いている、汗を出して、精を出して働いている人の姿、これがないんですよ、ここに教科書を持ってきていますけれども。こういう教科書が多いんです。だから申し上げています。これだけを取り上げているのではありません。同時に、そういう働いている人も取り上げてほしい。しかし、一般に働いている人を否定するような感じになっている、そこを申し上げております。

保坂(展)委員 やはり、日本が、とても長時間労働で低賃金の方がふえた。それで、お父さんも、子供と会う時間が、話をする時間が、統計をとると数分である。単身赴任もあります。そしてまた、経済的に非常に苦境に立って離婚されていく家庭もある。子供たちに責任はないわけで、これはやはり社会が、正社員になりたくてもなかなかなれない、フリーターでいいよといってフリーターでいた時代というのはちょっと過去にあったと思いますけれども、今、なかなか正社員、正規雇用ということを目指したくても目指せない現実があるということもちょっと私の方から申し添えて、時間になったようでございますから、終わりたいと思います。

 ありがとうございました。

町村座長 以上で委員からの質疑は終了いたしました。

 この際、一言ごあいさつを申し上げます。

 意見陳述者の皆様方、大変お忙しい中、長時間にわたりまして貴重な御意見をいただき、どうもありがとうございました。

 本日拝聴いたしました御意見、当委員会の審査に資するところは大変大きいものがあると思いますので、今後の審査に大いに役立てていきたい、こう考えます。本当にありがとうございました。

 また、この会議開催に当たりましては、三重大学初め、地元の関係各位には、御準備をいただき、御協力をいただきまして、心から感謝を申し上げます。どうもありがとうございました。

 これにて散会いたします。

    午前十時五十分散会

    ―――――――――――――

   派遣委員の愛知県における意見聴取に関する記録

一、期日

   平成十八年十一月八日(水)

二、場所

   名古屋国際ホテル

三、意見を聴取した問題

   教育基本法案(第百六十四回国会、内閣提出)及び日本国教育基本法案(第百六十四回国会、鳩山由紀夫君外六名提出)について

四、出席者

 (1) 派遣委員

    座長 町村 信孝君

       猪口 邦子君   鈴木 恒夫君

       若宮 健嗣君   北神 圭朗君

       牧  義夫君   坂口  力君

       保坂 展人君

 (2) 意見陳述者

    岐阜大学教授      北  俊夫君

    静岡大学教授      馬居 政幸君

    三好町青少年健全育成推進協議会委員      伊豆原 充君

    東京大学教授      高橋 哲哉君

 (3) その他の出席者

    文部科学省生涯学習政策局生涯学習総括官    清木 孝悦君

     ――――◇―――――

    午後一時開議

町村座長 これより会議を開きます。

 私は、衆議院教育基本法に関する特別委員会派遣委員団団長の町村信孝でございます。

 私がこの会議の座長を務めさせていただきますので、よろしくお願い申し上げます。

 この際、派遣委員団を代表いたしまして一言ごあいさつを申し上げます。

 皆様御承知のとおり、当委員会では、第百六十四回国会、内閣提出、教育基本法案及び第百六十四回国会、鳩山由紀夫君外六名提出、日本国教育基本法案の審査を行っているところでございます。

 本日は、両案の審査に当たり、国民各界各層の皆様方から御意見を承るため、当名古屋市におきまして会議を催しているところでございます。

 御意見をお述べいただく皆様方におかれましては、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。どうか忌憚のない御意見をお述べいただきますようよろしくお願いいたします。

 それでは、まず、この会議の運営につきまして御説明申し上げます。

 会議の議事は、すべて衆議院における委員会議事規則及び手続に準拠して行い、議事の整理、秩序の保持等は、座長であります私が行うことといたします。発言される方は、その都度座長の許可を得て発言していただきますようお願いいたします。

 なお、御意見をお述べいただく皆様方から委員に対しての質疑はできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願います。

 次に、議事の順序について申し上げます。

 最初に、意見陳述者の皆様方からお一人十分程度で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑に対してお答え願いたいと存じます。

 なお、御発言は着席のままで結構でございます。

 次に、本日御出席の方々を御紹介いたします。

 まず、派遣委員は、自由民主党の鈴木恒夫君、猪口邦子君、若宮健嗣君、民主党・無所属クラブの牧義夫君、北神圭朗君、公明党の坂口力君、社会民主党・市民連合の保坂展人君、以上でございます。

 次に、本日御意見をお述べいただく方々を御紹介いたします。

 岐阜大学教授北俊夫君、静岡大学教授馬居政幸君、三好町青少年健全育成推進協議会委員伊豆原充君、東京大学教授高橋哲哉君、以上四名の方々でございます。

 それでは、まず北俊夫君に御意見をお述べいただきたいと存じます。

北俊夫君 御指名をいただきました北俊夫でございます。

 このたびは、教育基本法に関する特別委員会地方公聴会の席で意見陳述の機会をいただきましたことをお礼申し上げたいと思います。

 私は、昭和二十二年の生まれで、いわゆる団塊の世代の一人でございます。現行の教育基本法が公布されましたのは昭和二十二年三月でしたから、私は教育基本法のもとで生まれ、小学校、中学校、高等学校、大学と、学校教育を受けてまいりました。

 社会人になってからのことです。外国に出かけて、外国の同年配の人たちと交流していてはっとしたことがあります。自分の生まれ育った郷土や日本という国のことについて、特に先達が築いてきた伝統や文化についての知識が十分身についていないことに気がついたからです。能や歌舞伎について初歩的なことを質問されたのですが、相手が満足するように答えることができませんでした。

 思い起こせば、私は、こうした伝統を継承し、新しい文化を創造していこうとする教育を、それまで体系的、継続的に受けた経験がなかったことに気づかされました。戦後教育の中で、この部分が抜け落ちてきたのではないかと思います。この年になって、ようやく我が国の伝統や文化に関心を持ち、触れる機会をつくるようになりました。

 こうした私のような体験をこれからの子供たちがしないように、また、させないように、子供のころから、学校教育の場で、また家庭や地域社会においても、我が国や郷土のすぐれた伝統や文化を体験し理解を促すことが、国際社会で外国の人たちと胸を張って交流できるようにするためにも重要なことであると考えます。

 さて、教育基本法案には、いわゆる愛国心を初め、豊かな情操と道徳心、生命の尊重など、五項目の目標が示されております。戦後約六十年間、教育の目標が具体的に示されないままに家庭や学校や地域社会で子供たちのしつけや教育が行われてきたことは、日本人としての国民教育の観点から極めて不十分な体制であったと言えます。

 ここでは、教育の目標のうち、愛国心の問題に絞って私見を述べることといたします。

 自分の生まれ育った国を好きになること、このことを否定する人はいないと思います。しかし、愛国心という言葉を使うと、どうしても戦前の偏狭なナショナリズム、国家至上主義の考えに立脚した愛国心と重ね合わせ、古いイメージで語られる傾向があります。

 そこで、法案にあります「我が国と郷土を愛する」とは具体的にどういうことを指すのかを考察し、新しい愛国心の考え方を築き上げることが必要ではないかと思います。

 「我が国と郷土を愛する」とは、例えば、我が国や郷土の豊かな自然環境を理解し、これからも国土を大切に保全しようとすること、我が国や郷土の歴史を理解し、国家や社会の発展に尽くしてきた先人の業績や努力に学ぶこと、我が国や郷土に根づいてきたすぐれた伝統文化や文化遺産、文化財などを継承し、発展させようとすることなどを指しているものと考えられます。

 さらには、自分が生まれ育ってきた家庭や学校、地域社会や国家、さらに国際社会など、自分が帰属しているさまざまな集団や組織の一員としての自覚を持ち、よりよくしようと進んで貢献すること、これも愛国心の具体的な内容であると考えます。

 さて、愛する対象としての国とは一体何を意味しているのでしょうか。

 愛国心という場合の国とは、日本という国家、国土を指しているように思われます。しかし、我が国において、国といいますと、どうしても統治機構をイメージします。日常的にもそうした意味合いで使われているからでしょう。例えば、国や地方公共団体という言い方があります。また、国の役割とは何かとか国を訴えるなどとも言います。法案で「我が国と郷土を」と示したことは、わかりやすく誤解の生まれない表記だと思います。

 国を公としてとらえ、私と対比してとらえる傾向も見られます。また、青少年の間に公を軽視する傾向が広がっているとの指摘もあります。人間は、だれもが一人で生きていくことはできません。個人が集まって社会や国を形づくっています。このことによって人間は生きていくことができます。

 一人一人の人間が国家を構成しているにもかかわらず、国家に対する自覚や誇りが十分に育っていないのは、国家を意識した教育が十分に行われてこなかったからだと考えます。これまで、学校などの教育では、個人としての人格形成に比重がかかり過ぎ、国家や国民意識、すなわち公に対する意識を育てることが不十分だったのではないでしょうか。この戦後教育のツケが、今、社会のあらゆる分野で噴き出し、社会問題化しているようにも思えます。

 家庭であれ、学校や会社であれ、地域社会であれ、さらには国家であれ、自分の帰属する集団に誇りや親愛の情を持っていない人は、ほかの集団の人から好かれることはないでしょう。自分の帰属している国を誇りに感じない人がほかの国の人から尊敬されることはないと思います。ここに、我が国と郷土を愛する心や態度を育てる教育の必要性があると考えます。

 愛国心という用語には、どうしても自分の国へのアイデンティティーを持たせるという性格が強く反映しています。偏狭なナショナリズムの形成では、国際社会で通用しないことは言うまでもありません。愛国心が話題になるとどうしてもこのことだけに関心が集中しがちですが、もう一つ重要な内容があると考えます。それは、同法の改正案で申し上げれば、先ほどから話題にしております項目の後半に位置づいている「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」こととの関連でとらえることが重要であります。すなわち、国際理解、国際協調の視点とセットで我が国と郷土を愛する態度を養うことが、新しい愛国心の考え方であると考えます。

 戦後の我が国の教育において、新教育の名で戦前の仕組みが全面否定されました。新しいことを推し進めるときには、AではなくBをというスローガンで、それまでのことを全面否定しがちです。その方がわかりやすいし、勢いも生まれるからです。

 戦後教育には、我が国の民主主義社会の建設に貢献したというすぐれた部分も当然認められます。しかし同時に、戦前のよさも寸断されました。日本人が長い間に築いてきたすぐれた伝統や文化を継承しようとする意欲や実践が断ち切られました。日本や日本人のすぐれたものを改めて見直し、新しい日本文化を再構築すること、これがこれからの教育で重視したい目標の一つであると考えます。

 戦後六十年が経過した現在、教育制度、教育内容のあらゆる面において疲労が生じてきています。現行の教育基本法と学校現場の実態との乖離した現象も見られ、新しい時代にマッチしなくなってきていると言われています。これからは、我が国の伝統や文化を大切にする教育と国際理解を深め国際感覚を磨く教育、個性を尊重する教育と公共の意識を育てる教育など、両者のバランスをとり、不易と流行の原則に立って、新しい愛国心を育てる教育を構築することが求められていると考えます。

 以上で、私の意見陳述とさせていただきます。ありがとうございました。(拍手)

町村座長 ありがとうございました。

 次に、馬居政幸君にお願いいたします。

馬居政幸君 静岡大学の馬居と申します。よろしくお願いいたします。

 初めに、私の立場として、現行の教育基本法が、今、北先生もお話しになりましたけれども、敗戦後の日本を平和国家として再建する上で、極めて大きな役割を果たしてきたことは強調しておきたいと思います。しかし、そうであればあるほど、同時に、制定時より六十年を経て、その前後に生まれた私がもう五十七歳ですので、ちょうど北先生と同じ年代ですけれども、全く異なる条件のもとで今子供たちは生まれ育っているわけですので、機能してくればくるほど、通常、社会制度というものは状況が変われば機能しなくなるわけです。したがって、問題は、変えるか変えないかではなくて、廃止するか、どう変えるかしかないと私は思っております。

 もともと、私は、こういう理念法は余り好きではなくて、ない方がよいという立場なんですけれども、あるとすればどうあるべきか。日本の土壌、アジアの土壌を考えれば、あることもやむを得ないと思いますけれども、それならば、どうあるべきかと考えるべきであって、現行を維持することがベストとは絶対に思いません。

 その理由を三点、述べさせていただきます。

 一つは、今も北先生からありましたけれども、急激に進行するグローバル化に対応した国と民の関係の再定義の必要性です。

 私は、九〇年代半ばから、韓国の子供たちを対象に、日本の漫画、アニメなどのポップカルチャーの受容のされ方について、継続調査を実施してきました。その作業と並行して、毎年、十人前後の学生とともに韓国の初等学校や中高等学校を訪問して交流授業を行ってきました。韓国の言葉でウリナラ、我が国という言葉とともに向けられる韓国の子供たちの質問に戸惑うことにより、グローバル化という、国の境を越える状況が日常化すればするほど、自分が所属する国という存在と自分との関係を意味づける言葉が必要になるということを、日本の社会科の教師になる学生に学び取ってほしかったからです。私は、北先生と同じように、教育学部で社会科の教員を教えております。それは私自身の経験でもありました。

 よく半島との関係で歴史を教えなかったと言われますが、実は、歴史の中身ではなくて、たまたまそこに生まれ育ったにすぎないと思っていた自国の過去への問いに、何で自分が答えなければならないんだというその理由、言いかえれば、国と自分との関係に対する言葉を私たちは見出すことができなかったことが原因だと思っております。それは、今の学生たちも同じであります。そこに立たせたかったからであります。

 今回の基本法改正で最も問題にされる教育の目標を示した第二条の五号、先ほど北先生も述べられましたが、「伝統と文化を尊重し、」以下の条文に関係することであります。

 この改正案について、私はまず、自民党と公明党という本来異なる理念のもとにある政党が、未来を生きる子供たちへの与党としての責任をきずなに、対立を超えて、粘り強く同意点を積み上げてきた努力に敬意を表したいと思います。言葉の定義の神学論争や、日本語としての不自然さを批判する方もいますが、その不自然さこそ、本改正の評価すべき点だと考えます。

 特に、教育の目標として示される国の概念に統治機構を含まないことを明確にして、ナショナリズムではなくパトリオティズムとする一方で、「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」を条文で結ぶことにより、国と郷土を愛する目的を明記したことを評価したいと思っています。

 このことは、以下は私の考えですけれども、国を愛することを民に強制するのではなくて、民が愛することができる国土、自然、文化、社会にすることへの責任を、この基本法を提示した統治機構が負うことを意味すると考えております。そして、このような統治機構を担う人と集団を選び、はぐくむ役割は民が担わなきゃならない。そのためには、統治機構、すなわち政府と政党は、民に対して、統治に従うだけではなく、統治に誤りがあれば批判し、その担い手を交代させる態度をも育てる義務を負うことという、民と国と統治機構の相互の関係の循環構造が、今回の改正によって明記されたと考えております。

 そこで、国民が愛することができる国づくりのために必要な教育課題として、基本法改正の論議を通じて確認いただきたいのは、人口減少という現実です。すなわち、人口減少社会に適合した教育システムへのソフトランディング、これが今回の教育基本法改正の最も重要な課題と私は考えております。それが、私の考える二つ目の条件です。

 教育基本法案第二章の第五条の二項、「義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする。」とあります。また、十条に「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、」云々と、初めて家庭の内容について触れる部分があります。いずれも新たに加えられました。

 私は、今後の日本という国と社会を担う人の教育という点で、さきの国家の問題、第二条の愛の問題にも増して重要だと考えております。実は、この二つの条文を重ねると、義務教育の目的が「国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養う」であるならば、「子の教育について第一義的責任を有する」ことが可能になる「父母その他の保護者」となる「基本的な資質を養う」ことが義務教育に課せられるからです。なぜ、このような解釈をあえて強調するのか。その理由を、お手元に配付していただいた資料をもとに説明します。

 図一は、本年度の厚生労働白書からとったものです。出生数と出生率のグラフに初めて死亡者のグラフが入りました。昨年、出生数より死亡者が多くなって、人口減少が始まったことを示しています。ちょっとショッキングな図ですが、現行教育基本法成立時と全く異なる時代と社会になったことを象徴するという図です。この一番左端の、子供が最も生まれているときに基本法はスタートしたわけです。そして、その子供が三分の一になったとき、そして生まれる子供よりも亡くなる方の方が多い時代に今来ているわけです。子供がたくさんいるときの法を、逆になったときにそのまま維持していくことの方がおかしいと私は思っております。

 日本の社会は変わりました。国豊かになって子供生まれずになってしまいました。このままでは、国を愛することを教えようとしても、肝心の教える相手がいなくなります。子供がふえることを願う時代の教育の基本法が必要になりました。そのための課題は何か。ヒントは、子供が減る理由です。

 図二から五を見てください。いずれも、昨年の国勢調査の集計結果から作成しました。まず、二と三から、未婚率が男女ともに、一九八〇年代半ばから上昇していることがわかります。最近、格差社会の証明として未婚率の上昇が挙げられますが、未婚化の根はそんなに浅いものではないことをこの図は示しています。さらに、図四は、その問題の根が男性であることを示しています。この問題をよりリアルに示すために、ここは名古屋市ですので、名古屋市の二十から五十九歳までの未婚率を図示してみました。図五です。三十代後半の男性の三人に一人、四十代前半の四人に一人は独身です。女性との差は約一〇%です。

 日本は、図一の合計特殊出生率が示すように、一九六〇年を前後して子供二人の社会に変わります。この二人になった男女の高校入学時に進学率は九〇%を超えた、このデータは入れておりませんがよく知られていることだと思います。大学進学時に専修、専門学校制度ができ、合わせれば七割近い男女が高校卒業後も学校にいる社会になり、その男女が実社会に出た八〇年代の日本経済は、女性の労働力を必要とするポスト工業化、すなわち情報化の段階に入りました。その八〇年代に、女性の大学進学率は男性を超え、性差ではなく個性と能力によって人を選別、配置することが求められる社会に変わりました。それにもかかわらず、子供を産み育てるのは母親の責任という意識と制度を変えられなかった結果が、未婚率の上昇です。実は、一九六〇年生まれは現在四十六歳です。ただし、それでも、女性は結婚もしてくれ、子供二人を産み育ててくれているわけです。

 問題は、仕事を理由に子育てから逃げる男性と、それを許容もしくは強制する働き方ですが、よりさかのぼれば、そのような男性もしくは働く人間像や会社像を学校教育は再生産してきたはずです。言いかえれば、女性が選ぶ側に、男性が選ばれる側に変わってしまったにもかかわらず、男性に対して、選ばれるために努力する関心、意欲、態度に支えられた知識、技能、表現を教育することを怠った結果が、男性未婚率上昇の背景にあると考えます。

 その結果、子供たちの世界がどうなったのか。図六を見てください。団塊の世代は、人口千人当たり三十四・三人、団塊ジュニアはその半分の十八・八人、昨年生まれた少子世代はそのまた半分以下の八・五人です。さらに、図七から、十八歳以下の子供のいる世帯が、団塊ジュニアの場合は全世帯の半分以上ありましたが、現在は二七%、四世帯に一つであります。

 この二つの変化と、合計特殊出生率の変化を重ねたモデル図、これは私がつくりましたけれども、図八です。どこの家にも四人から五人子供がいたのが団塊の世代の時代。そこで人々は鍛えられました。団塊の世代の課題は、一人になりたいでした。それが、団塊ジュニアは、同学年の友達だけになりました。家の中の子供が半分になったわけです。しかし、現在の子供たちはその同学年の友達をも失って、いるのは単身の男女と高齢者のみ、こういう状況ができているわけです。同じように育つと考える方がおかしいと思います。コミュニケーション能力が低いとよく言われますが、育たないことの方が自然であると考えた方が、文字どおり正しいんじゃないかと思います。

 家庭の教育力を問題にする前に、家庭をつくる関心、意欲、態度、思考、表現、知識、技能を教え育てることから始めなければ、まさに国栄えて人なしとなることを危惧します。

 では、女性に子供を産み育てることを勧奨する教育が必要なのでしょうか。違います。

 仕事は男女ともにできます。しかし、子供を産むことができるのは女性のみで、それも一定の年齢の範囲です。ならば、せめて、育てることの責任は、産むことができない男性と社会の仕組みの方でとらせていただく、すなわち子供を産んでくれさえすれば、あとは社会全体で支えますという制度と意識に転換しない限り、子供はもう戻ってこないと考えます。

 この変化を求め実現する、関心、意欲、態度の育成こそ、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質のための不可欠の要素です。国と郷土への愛の基盤は、人が生まれ続けることがなければ何もないわけです。家族の教育力の再構築は、家族をつくることができる人を教え育てることから始まります。さきの学校教育の目的の重みが理解できると思います。

 さらに、このこととかかわって、最後にもう一つ、基本法改正を必要とする私見を述べさせていただきます。

 それは、この基本法が国民の教育に対する基本法である以上、日本政府全体の基準にならなければならないということであります。この基本法が求める教育のあり方を実現するためには、省庁の壁を越えた取り組みが要求されます。これもまた、現基本法が成立したときとは異なる条件です。

 このことを象徴するのが、第十一条の「幼児期の教育」です。この十一条の対象が、幼稚園と保育園、そして、認可外の保育施設をも含むものでなければならないと考えます。保育に欠けるといういわゆる児童福祉法の言葉、それから、潜在的に言われている良家の子女の教育という、保育園と幼稚園を分ける基準は、まさに現行基本法が施行された時代には非常にリアルでした。しかし、今は大多数の子が保育園を望んでいます。そして、保育園もまた高度の教育を持ち、逆に幼稚園は長時間の保育によって子供と親を守ろうとしています。

 その意味で、教育基本法の改正が必要であるということは、現行の保育園と幼稚園を区分する法も、そして、評価基準もまた改正すべきであると考えております。

 あと、資料の中には、人口減少ともう一方の高齢化とのかかわりと、子供が今なおふえている沖縄の現実を紹介するものがあります。もし、質問していただければ、また紹介させていただきたいと思います。

 以上です。

町村座長 ありがとうございました。

 次に、伊豆原充君にお願いいたします。

伊豆原充君 御紹介いただきました伊豆原でございます。

 特別委員会の先生方には、地方の青少年健全育成推進協議会の委員という役割は一体何だ、こういうようなお思い、御疑問があろうかと思いますが、ごくありていに言えば、地方の子供たちの成長を応援する役割、こういうふうに私は理解しております。さらに、私、肩書がこういうふうですので、一体何者かというお問いが出そうですので、簡単に自己紹介をさせていただきます。

 私は、三十六年間、名古屋市の小中学校の教員を務めさせていただきました。その間には、国立大学附属学校あるいは市の社会教育現場、さらには市の教育委員会そのものに勤務するという機会を得ました。そういう経験のもとに、現在、三好町というところで、町から委嘱された仕事のほかに、幾つかのボランティア活動を地域の皆さんと行っております。特に、学校、子供たちにかかわるボランティアを中心に行っております。こういう経験と立場から、今回の教育基本法に関する特別委員会地方公聴会で、五つのことについて私の考えを述べさせていただきたいと思います。

 まず第一に、教育という考え方であります。

 教育という文字を読みかえますと、教え、育てる、こういうふうに解釈されるわけであります。

 私は、自分の現職の経験のころから、さまざまな子供をめぐる教育問題が起きてくる一番のもとはどこにあるか、常にそういう思いをしながら現場に立ちました。はっきり言えることは、この教育、つまり教え、育てるということの中に、学校現場で、教、教えることに力点が置かれ、重点が置かれ、育、育てるという点が軽く見られてきた、そういうことが一つの大きな原因ではないか、常にそういう思いをいたしながら現場での教育活動をしておりました。

 育てるには、子供が育っていくには時間がかかります。ところが、教育の政策の中で、この時間をかけることを軽くするために結果や成果を求める、そういうことから、できたこと、したことにして次に進んでいく現場が生まれてきた、それが子供たちを苦しめたり現場教師が苦しんだりした大きなもとであったと思っております。

 さらに重要なことは、子供は育つということです。子供は自分で育つ力を持っているわけです。この子供が自分で育つ力をどう育て、どう教えていくか、そういう視点の教育行政等、さまざまな問題点を感じるわけです。その視点が欠けている、子供の育っていくのを待つという姿勢がともすれば失われてきた、こういうふうに思います。子供たちは、自分が大きくなっていくときに、学校の力や親や先生のおかげだと思う前に、自分が頑張った、自分が努力したんだという思いが先にあってしかるべきではないでしょうか。

 委員の先生方の前で恐縮ですが、小中学校から高校、大学とお進みになって、もちろん、親御さんや学校の先生方の御尽力ですばらしい力をおつけになったと思います。でも、大学に合格したとか高校に受かったとかいうときに、最初に、自分が勉強して合格できたんだ、自分がという思いがきっとおありになったと思います。ですから、子供というものは、もっと言えば人間そのものは、みずから育つ力がある。その育つ力をどう支えて伸ばしていくかということが教育の根幹になくてはいけない、そう思い続けてきました。

 日本の教育の理想を掲げた現行の教育基本法は、戦後の悪条件の中で、さまざまな人たちの取り組みで立派な成果を上げてきたと思います。その中の一人であると自分も思っております。ただし、六十年間の教育の歴史の中で、社会の変化、多様化に応じ切れなくなっているという部分が幾つも出てきている、これもまた事実であります。

 例えば、盛んに言われます、子供の学ぶ意欲が低下している、こういう論理を展開される中で、子供が学ぶ意欲を低下させているわけじゃありません。子供は学ぶ意欲は十分あるんです。ただし、その意欲を低下させるさまざまな状況が子供たちに覆いかぶさっている、こういうことではないでしょうか。それは、そういう覆いかぶさりをつくっているのは我々大人社会だと思います。子供がみずから意欲的に学ぶ権利、こういうものは生涯にわたって保障されるべきである、こう考えます。

 二つ目には、教員について申し上げます。

 教員は私の仕事でありましたので、自分のささやかな思いを申し上げたいと思います。

 政府案、民主党案、両方をつぶさに読ませていただきました。そこに盛られている教員の使命とか身分の保障とか、これには異論もなく、むしろそのとおりだと思います。

 私が大学を卒業しまして教員になりましたときは、昭和三十五年であります。そのときから、現場の一人として一人前の教師になりたい、そう思って仕事を続けました。書物を読み、周りの人たちの御支援のおかげで、少しずつ教師として成長できたと思います。中でも、私を一人前の教師に育てていただけたと思うその一番のもとは、私とめぐり会ってくれた教え子たちです。子供たちです。子供たちが私に教え、学ばせてくれた、その部分が、教師を育てる大きな、もっと言えば一番のもとであると今も確信しております。

 義務教育にある子供は、教員を選ぶことができません。子供と教員、教師の出会いは、好むと好まざるとにかかわらず、四月に初めて会って、一年間担任すれば三月に別れるわけです。そういう仕組みの中で、私は、この偶然の子供たちとのめぐり会いを、子供たちが大きくなって自分の人生を考えることができるようになったときに、先生とのめぐり会いは必然であった、一緒にあのとき机に向かって勉強したことは人生にとってよかった、そう思ってもらえるように、少なくとも一日一日努力したつもりです。私と時期を同じくして教師を目指した人たち、仲間たちは同じ思いだったと思います。

 ところが、今の学校現場で子供たちと取り組んでみえる先生方、教員は、自分が教師になろうと思っても、状況は、教師になっていくための研修とか勉強とかいうようなことがなかなか思うようにいかない、それを、学校を訪問させていただいたときに悩みとか苦しみを聞くと実感いたします。

町村座長 伊豆原君、大体十分たったのですが、あと三点あるようでありますが、おまとめいただくか、あるいは後の質問で触れていただくようにしていただけませんか。

伊豆原充君 わかりました。

 基本的には、家庭教育においても、親が親になるためには、子供が育っていく、その育つ子供を育てる、それで親になれる。最初から親が存在するわけじゃありません。そういう点が一つ。

 さらには、先日も、あるテレビの番組で、携帯やパソコンによるいじめが深刻な状態になっているというニュースを見ました。これは、情報文化社会がこれから広がっていく、発展する中で当然起きる大きな課題です。ですから、教育基本法の中にその教育の重大さを訴えていきたいと思っております。

 さらに、最後ですが、教育における国と地方の役割分担、それから、学校、家庭、地域の連携ということについて一言触れさせていただきます。

 教育振興に関する計画をおつくりいただくときに、国が基本法、その具体化は地方公共団体、これはまさしく大事なことでありますが、それと同時に、現在の一番の弊害は、国の方針を県教育委員会が受けてそれを学校に伝える上意下達の線が強くて、現場がそれをこなすというんですか、それを受けとめるだけの余裕のない実情だと思います。これを何とかしなきゃいけません。学校が一番もとであるということを前提にこの仕組みを考えていただきたい。

 地域の協力も、学校の子供たちを中心に置いて、学校と地域と家庭とがきちっとリンクして子供のために教育を行っていくという、それも仕組みをつくっていただきたい、そう思っております。

 これから、教育基本法がより深い意味で審議を続けられて、内容のある、子供が夢を持ち将来に期待できる、そういう教育の法案をぜひおつくりいただきたい、そう思っております。

 どうも失礼しました。(拍手)

町村座長 ありがとうございました。

 次に、高橋哲哉君にお願いいたします。

高橋哲哉君 高橋哲哉でございます。よろしくお願いいたします。

 私は、政府提出の教育基本法案に反対する立場から、私見を申し述べさせていただきたいと思います。

 安倍晋三首相は、臨時国会の最大の課題として教育基本法改正を掲げておりますが、今なぜ現行法を改正しなければならないのか、その理由は今もって不明であり、私にとって説得力のある理由が示されているとは思われません。教育に関する基本法の改正であれば、本来、児童生徒、教職員、保護者など教育現場の当事者たちから求められ、その必要に応じて行われるのが筋だと思いますが、今回はそうはなっていないのではないかと思わざるを得ません。

 最近発表されました東京大学基礎学力研究センターの調査でも、全国の公立小中学校の校長先生の六六%が教育基本法改正に反対である、また、八五%が、現在の教育改革が早過ぎてついていけないという意見であるという結果が出ております。今回の教育基本法改正の動きは、教育的理由から出たものというよりは、政治的意図から出ているのではないかと思われる点に大きな問題を感じております。

 安倍首相は、戦後体制からの脱却という政権課題の柱の一つとして教育基本法改正を掲げて、次のように述べております。「占領時代の残滓を払拭することが必要です。占領時代につくられた教育基本法、憲法をつくり変えていくこと、それは精神的にも占領を終わらせることになる」、このように述べておられますが、しかし、教育基本法があたかも占領軍の押しつけによって生まれたかのようなこの種の認識は、根拠のない偏見にすぎません。

 私は、ここで、教育基本法の生みの親に当たる政治哲学者南原繁が一九五五年に書いた「日本における教育改革」という文章を、安倍首相のみならず、政府案に賛成するすべての皆さんにぜひお読みいただきたいと思っております。お手元に全二十三ページの南原の文章を六枚のB4のコピーとして配付させていただきましたので、ぜひお読みいただきたいと思います。

 南原繁は、東京帝国大学の最後の総長、また新制東京大学の初代の総長でありまして、貴族院議員を兼務し、教育刷新委員会の委員長として、教育基本法の法案作成の中心人物でありました。

 南原はこの文章で、教育基本法が「アメリカの強要によって、つくられたものであるという臆説」が流布されており、一部の人たちの間には、「日本が独立した今日、われわれの手によって自主的に再改革をなすべきであるという意見となって現われている。」が、これは「著しく真実を誤ったか、あるいは強いて偽った論議といわなければならない。」と断じております。

 南原によりますと、教育刷新委員会の六年間、総司令部から指令や強制を受けたことは一回もなかったのであり、教育基本法は、この委員会で当時の日本の指導的知識人たちが徹底した議論を行ってつくり上げたものなのであります。安倍首相の、教育基本法は占領時代の残滓だからつくりかえねばならないという主張は、既に五十年前、南原によって退けられたものであると言わざるを得ません。

 南原によりますと、教育基本法の根本理念は、「われわれが国民たる前に、ひとりびとりが人間としての自律」ということにあります。教育の目的が人格の完成に置かれているのは、「国家の権力といえどももはや侵すことのできない自由の主体としての人間人格の尊厳」が中心にあるからであります。これは、安倍首相が教育の目的を品格ある国家をつくることだと言っているのに対して対照的な立場であると思われます。

 ここから南原は、教育行政権力の役割を教育条件の整備に限定し、不当な支配を禁止した現行法第十条の意義を強調しております。南原の文章です。

 「戦前長い間、小学校から大学に至るまで、文部省の完全な統制の下にあり、中央集権主義と官僚的統制は、わが国教育行政の二大特色であった。」したがって、教育をそこから解放して自由清新の雰囲気をつくり出すためには、「まず文部省が、これまでのごとき教育方針や内容について指示する代りに、教育者の自主的精神を尊重し、むしろ教育者の自由を守り、さらに教育のため広汎な財政上あるいは技術上の援助奉仕に当るという性格転換を行ったことは、特記されなければならない。」

 ところが、これに対して政府法案では、現行法第十条の教育行政の役割限定の部分が削除され、さらに、教育が国民全体に対し直接責任を負って行われるべきものであるという部分も削除されまして、教育は、国と地方公共団体の教育行政がこの法律及び他の法律の定めるところにより行うべきものとなっております。第十六条であります。これは、第十七条の教育振興基本計画についての規定と相まって、教育の主体をこの国の主権者である国民から国家へと変えてしまうことになるのではないかと思われてなりません。政府の法案では、教育の主体と教育の目的がいずれも国家になってしまうのではないか、国家による国家のための教育、国家の道具としての教育をつくり出そうとしているのではないかと疑われてなりません。

 法案の第二条、教育の目標に愛国心が入ったのも、この枠組みの中で考えられます。安倍首相は一貫して教育基本法に愛国心を入れたいと言ってきましたけれども、その安倍氏が、国が危機に瀕したときに命をささげるという人がいなければこの国は成り立っていかないと述べていることは、何を意味するのでしょうか。

 戦後の日本政府が教育と愛国心を結びつけた最初の例として、一九五三年の池田勇人・ロバートソン会談というものが挙げられます。朝鮮戦争後の日本の再武装に当たって、日本国民の間に自衛のための自主的精神を育てるために、教育と広報によって愛国心を養う必要があるとされたのでした。

 今回も、安倍首相が、六年の任期中に憲法九条を変えて自衛軍を保持し集団的自衛権の行使を認めていこうという中で、教育基本法に愛国心が入れられようとしているのは偶然とは思えません。安倍首相の認識は、お国のために命を投げ出しても構わない日本人を生み出す、教育基本法改正の目的はこれに尽きると述べた西村真悟議員の認識と同じではないでしょうか。国家が愛国心を初め多数の道徳規範を教育の目標として定めた法案第二条は、二十一世紀の教育勅語とも見えるものであり、それによって、この法律は、国家道徳を国民の心に注入していく、そのための法律になってしまうのではないでしょうか。

 南原繁は、一九五五年に、こうした動きに明確に反対しておりました。南原の文章です。

 「近年、わが国の政治は不幸にして、一旦定めた民族の新しい進路から、いつの間にか離れて、反対の方向に動きつつある。その間、教育の分野においても、戦後に性格転換をとげた筈の文部省が、ふたたび往年の権威を取り戻そうとする傾向はないか。新しく設けられた地方教育委員会すら、これと結びついて、文部省の連絡機関となる惧れはないか。」「全国多数のまじめな教師の間に、自由や平和がおのずから禁句(タブー)となりつつある事実は、何を語るか。」このような状況のもとで、「ふたたび「国家道徳」や「愛国精神」を強調することが、いかなる意味と役割をもつものであるかは、およそ明らかであろう。」このように述べております。

 実は南原は、国家道徳や愛国精神によってではなく、現行の教育基本法の理念によってこそ、真理と正義、自由と平和を希求する真の愛国心が呼び起こされると述べていました。そして、次のようにまとめています。

 「新しく定められた教育理念に、いささかの誤りもない。今後、いかなる反動の嵐の時代が訪れようとも、何人も教育基本法の精神を根本的に書き換えることはできないであろう。なぜならば、それは真理であり、これを否定するのは歴史の流れをせき止めようとするに等しい。」からである。これは最後に近い部分にあります。

 政府提出の教育基本法案は、現行法の精神を根本から書きかえようとしているのではないでしょうか。主権者である国民による子供たちのための教育、これを国家による国家のための教育に変えようとしているのではないか。政府法案に賛成の方々は、どうか、この南原が、「いかなる反動の嵐の時代が訪れようとも、何人も教育基本法の精神を根本的に書き換えることはできないであろう。」と述べたことの意味を改めて考えてみようではありませんか。

 教育は国家の道具ではもちろんありません。子供たちも国家の道具になってはいけません。私は、教育と子供たちを国家の道具にしてしまいかねない政府法案に強く反対するものであります。

 以上です。(拍手)

町村座長 ありがとうございました。

 以上で意見陳述者からの御意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

町村座長 これより委員からの質疑を行います。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。猪口邦子君。

猪口委員 この教育基本法に関する特別委員会の委員、また衆議院議員であります猪口邦子でございます。会派は自民党でございます。

 まず、本日、非常に率直かつ明快な御意見をお述べいただきまして感謝申し上げますとともに、多くの点において参考になるところがあったと感じております。

 まず、北先生にお伺いしたいと思いますけれども、先生は愛国心について集中的に御議論されました。私は、北先生のお述べになったことに非常に共感するところを覚えました。私自身、国際政治学者として海外で研究教育に従事する日々が多く、また、その後も日本国大使としてジュネーブにいて、軍縮交渉に当たったものでございます。

 その中で、これは政府案に述べております我が国の伝統、文化あるいは考え方、そういうものを尊重する、そして我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うということを掲げて、今回、政府が法案を提出しているわけでありますけれども、そもそも、みずからの国についての深い思いを持つ人は、他国の国民がその国の文化について深く思いをいたすことについての理解の幅、また共感するところも養うことができると思います。また、先生がおっしゃいましたとおり、みずからの伝統、文化、歩みについて説明する、そういう能力、それもまた必要であろうと思います。

 最近、政治学の研究の中で、コンストラクティビズムという考え方の流れがあります。それは、国も個人もいろいろな要素によって構成されています。コンストラクトされています。自分を構成しているものについて、これを自信を持っていく、そしてそこから発展し、プロアクティブな、能動的な改善への動きというものが出てくる。そういう意味で、自分を構成しているものについてよりよく知るということが状況を改善していくための一歩であるというようなことが、グローバリゼーション、これは馬居先生が使っておられた言葉ですけれども、そういう中で、改めて理論としても重要だと思われています。

 ですから、先生は、愛国心の内容につきまして、これを二十一世紀の文脈において非常に明快に定義してくださいましたけれども、そのようなことが、これからの将来世代について、自分について、また自分の国についてのある種の自信につながっていき、そのような自信がまた謙虚な態度をはぐくむことにもなろうと思いますが、教育の場でそういうことが上手に受け入れられ、また先生がお述べになったような精神において実践されていくためにどのようなことが必要であるかというようなことをお伺いしてみたいと思います。

 それから次に、馬居先生についても重なったところがございますので、馬居先生にも、もし今の私の発言につきまして御意見がありましたら伺いたいと思います。

 政府案において、馬居先生がおっしゃった少子化の時代、また男女共同参画の視点であったと思いますけれども、政府案においては、二条におきまして、男女の平等ということを明記してございます。これは、初めてこういう積極表現で、かつ、第二条の三号におきまして、正義と責任、その次に来る表現として、非常に強く、高いところに位置づけて書いてございます。これから、教育、子育て、そのほか社会政策が発展するために、今回この政府提出の教育基本法案が成立することがとても重要だと考えますが、先生のお考えの中で、男女平等を明確に掲げたこと、これについて言及があればお願いいたしたいと思います。

 伊豆原先生には、最近の青少年を取り巻く現状について、まず認識をお伺いしたいと思っております。

 最近の青少年を取り巻く環境、いろいろな問題があると報道を通じても感じるわけでございますけれども、政府案に定めております道徳心あるいは自律の精神、そして公共の精神、こういうものについて、今後、教育においてどのように重視すべきとお考えか、お伺いいたしたいと思います。

 高橋先生の御意見につきましては、政府案の実質をもう少し読み込んでいただければと思います。決して国家道徳をというようなことではなく、この第二条に掲げております内容を見ていただければ、まず、幅広い知識と教養を身につけ、真理を求める態度、そして豊かな情操、あるいは個人の価値尊重、能力を伸ばし、創造性を培い、自律の精神を養う、そして今申し上げた正義と責任、男女の平等、公共の精神、あるいは生命をたっとび、自然を大切にし、環境保全、そして先ほどの文化と伝統を尊重し、他国をまた尊重し、国際社会の平和というようなくだりでございまして、これは、二十一世紀、我が国社会において極めて当然の教育の目標を掲げたものと思いますが、御理解いただければと、私の希望を述べておきます。

北俊夫君 新しい愛国心についての私なりの整理をさせていただきましたけれども、実は、既に学校においては、伝統文化教育とか、あるいは国際理解教育という課題で、既に積極的に取り入れている学校が随分多いわけですね。そういう学校での実践の成果などを学ばせていただきますと、先ほど整理したような内容がクローズアップされるのではないかな、こう思います。

 そういう意味では、既に取り組まれている学校のすぐれた実践を積極的に評価して全国に広げるということだとか、あるいは、どの学校も最低限の取り組みがなされるように、学校で教育課程という教育計画を作成する際の指導基準であります学習指導要領の文面の中に、例えば社会科とか、音楽とか、道徳とか、特別活動とか、あるいは総合的な学習の時間の中で取り組めるような仕組みを一方でつくっておくことも大事なことかな、そういうふうに思っております。

馬居政幸君 今のお話を引き継がせていただきますけれども、まず、国を愛するということなんですが、私が持っているイメージは、統治機構と離れた形で国というのを定義するということを前提にやって、それを愛するということになってくる。ただ、実際上、学生たちと話していくと、国が、言いかえれば、この場合これは統治機構ですね、国が自分たちにとってどういう意味があるのかということについてほとんど教わらないままに来ている、それが未納問題にかかってくると思うのです。

 ですから、先ほどちょっと言い回しがくどかったんですけれども、要するに、統治機構がいかなる意味を持っているかということをどう教えるかを通じて、その統治機構が守ろうとしているこの国が一体どういう価値があるのかということを押さえていくしかないだろう。

 言いかえますと、形而上学的に国のよさなり大切さなりを文化を通じて教えたとしても、文化は好き嫌いの世界が必ずかかわってくると思います。あるいは他の国に期待を寄せる子が出てきても、それ自体はおかしくないと思います。頭からこの国を、幾らそれが自然だ文化だ愛せよと言ったって、できないといえばそれでおしまいになります。

 むしろ、この国に生きることの価値がどれほどすぐれたものかということを、この国にはぐくまれた統治機構を担う人たちがどれほど自分たちのために準備しているか、同時に、ここが高橋先生と一番違うところなんですが、国と民の関係を、対置するものではなくて、国をつくるのは民なんだという部分をどれだけ子供たちに理解させ、またその具体的な手だてをどれだけリアリティーを持って伝えることができるか。

 言いかえれば、皆さん方は選挙によってでしかその立場になれないですよね。猪口先生は大学にいるときは、それは自分の努力によって、いわば自分の力によってかち取ってきた。しかし、今のお立場は、お一人では絶対できないお立場です。逆に、大学の教員になるためにも、他のさまざまな人たちから教えを請わなきゃならない、さまざまな援助が必要になってくる。

 であれば、現在の国家というのは、かつての国家と違っていて、いわば民の生活を維持するために何をするかということが求められる。そういう意味で、もう一つの男女共同参画の部分についても、結局、男と女がではなく、人がどうこの社会を自分たちでつくっていくことができるか、あるいは、そうしなきゃならないんだというふうに意識と行動が変わらない限り、多分日本のような先進化した国は崩壊していくしかないと思います。すなわち、それが少子化の問題だと思います。どこかで何かをしてくれるというふうに考えている限り、あるいは、だれかが治め、だれかがそれに従うというふうに思っている限り、ある段階を超えた国は多分崩壊していくしかないと思います。

 その意味で、男女平等のところは、一つだけあえて言っておきますが、文科省が出してくる書類には男女共同参画というのはなかなか入ってきません。実際に現場でいろいろ作業をやっていて、文科省はあくまで男女平等、それから猪口さんがやられている方の世界は男女共同参画。いつも、総理府の系列、厚労省の系列、あるいは経産省の系列、そして文科省の系列と、やっていることは同じなのにお互いに牽制し合っている、受ける方はいつも一緒。いろいろな仕事をやってきて、いつもそう思います。

 そういう意味では、先ほど言いましたけれども、男女共同参画というのが単に一つの分野ではなくて、先ほどの子供を育てていくということが家庭をつくっていくということ、この国を豊かにしていくということのベースであると同じように、男女がともにさまざまなことをやっていくというのは、これはどこかの部分でやることではなくて、すべての分野でそれが成らなければ、ある段階を超えた社会、すなわち男女がともに高度の教育を受け、自分の能力と個性によって、言いかえれば性差ではなく能力と個性によって生きていくんだというふうに大多数が思うようになり、そうしなければその国の機構が回らなくなっているにもかかわらず、その変化が余りにも速かったために旧来の世代がそのことにたえていけない、逆に若い世代はそのところにとって必要な責任を持ち得ないという状況が今あると思います。

 ということで、終わります。

伊豆原充君 私は、現在、電話相談員をやっております。ボランティアで防犯パトロールをやっております。仲間たちとやっていることも多いわけですが、そういう経験の中で、先ほど先生がおっしゃいました子供たちの道徳心とか自律心というのはどうかということですが、確かに失われてきている面が非常にありますが、子供たちは持っているんですね。ただ、それをどういう形で発揮できるか、どういうときにそれが必要なのか、そういう体験といいますか、そういう学習の場が乏しい。

 ですから、仲間で一緒にボランティアをやりながら子供たちと活動するときがしばしばありますが、きちっと子供たちは道徳心や自律心を見せてくれているんです。ただ、学校だけでやろうとすると、これはかなり条件が難しい場面が多いんですね。

 ですから、子供たちにないんじゃなくて、子供たちはちゃんと持っているのをどういう形で、先ほど申し上げましたけれども、地域や家庭や学校が組み立てていくか、そういうことに尽きると思っています。決して失ってはおりません。

町村座長 高橋君に対する猪口さんの意見は、意見ということであって、質問ということではなかったので、以上で終わります。

 次に、牧義夫君。

牧委員 民主党の牧義夫でございます。

 本日は、お忙しい中、意見陳述者の先生方には、わざわざおいでいただきまして、それぞれ、さまざまな観点から貴重な御意見を賜りましたこと、私からも改めて感謝を申し上げたいと思います。

 御承知のように、今衆議院においてこの教育基本法の議論が八十数時間を経過いたしたわけでございます。与党の皆さんは、もうそろそろ、議論は尽くしたということで、一日も早く採決をというお話でございますけれども、私どもは、きょうこうして先生方のお話を聞いて、まだまだいろいろな観点からこれを掘り下げるお話があるんだなと改めて認識をさせていただきました。

 そこで、そういった意味も含めて、この改正の必要性については先ほど来それぞれの御意見を賜りましたけれども、そのあるべき議論の手順というか、そこら辺のところも私どもは非常に重要なことだと思っております。

 そもそも、安倍総理も、さっき高橋先生のお話にも出ましたけれども、戦後レジームからの脱却ということで、教育基本法の改正ということを非常に大きな政策の柱にも掲げておりますけれども、まさに、戦後、GHQによる押しつけの教育基本法を改めなければならない。私どもは、押しつけだからどうとかということではなくて、内容についてしっかり吟味をしたいということでございますけれども、ある意味、その成立の過程ということも、これは後世になって議論される余地を残しては、私はこの法律そのものにとって非常に不幸なことであり、また、将来を担う子供たちにとっても不幸なことであると思いますから、そこら辺のところをやはりきちっとしなきゃいけないなと思うわけであります。

 この新しい教育基本法の議論が始まったのが、多分、小渕政権下の教育改革国民会議における議論を踏まえて、中教審で一定の答申を出して、それから三年数カ月が今経過しているわけですけれども、中教審の答申から、その後、与党内の協議会、約七十回会合が重ねられたと聞いておりますけれども、この会合の中で、どんな論点があって、どんな議論があってこういう法案の結論に至ったのかというところがいま一つ私どもに見えないわけで、やはりそこら辺のところをきちっとつまびらかにしていただくと同時に、こういった地方公聴会も含めて、国民的な議論をさらに盛り上げて、その上できちっと成立を見なければ、将来に大きな禍根を残すと私は思いますけれども、そこら辺のところのそれぞれのお考えを。

 極論を言えば、来年、せっかく参議院選もあることですし、来年の通常国会の一つの大きな争点になってもいいわけですし、また、必要があれば、衆議院を解散して教育基本法のあるべき姿を問うということも非常に意義のあることだ、少なくとも、郵政民営化よりもこの教育の方が国家の根幹にかかわると私は思いますけれども、それぞれ委員の方々の御意見をまずちょっと一言ずつお聞かせいただきたいと思います。

北俊夫君 教育基本法案に関する資料を先日送っていただきまして、実は、教育基本法案に関しての資料がこんなに分厚いものだとは正直言って知りませんでした。すなわち、この一つの法律、重要な法律でありますが、このことについて、こんなに時間をかけて資料を作成して、いろいろなところで協議されてきたんだなというのが実感であります。恐らく、この審議の過程では、今の教育のどこに問題があるのか、子供のこと、教育のこと、あるいは教師のことなどなど、さまざまな観点から、またここに出ておりますが、いろいろな立場から意見を聴取するなどして審議されてきたのではないかな、こういうふうに思います。

 そういうことから、これまでも私は十分審議されてきているんだなということを実感しているというところであります。

馬居政幸君 正直、同じように、こんなにあったのかというのが一つのあれです。ただし、手続上で申しわけないんですけれども、今回、出てほしいと言われたのが金曜日でございまして、要するに、準備する時間が全くない形でこういう形で進んでいくのはどうなのかなというのはあります。もし本当に公聴会をするのであれば、もう少し余裕のある時間で言ってほしかったなというのがありました。

 でも、端々ながら勉強してみまして、最初に言いましたように、私は教育基本法みたいな法律は正直好きではないんですけれども、今回の法律の中身を読ませてもらって、これならば何とかなるのではないか。先ほどの高橋先生とは、多分スタートは同じなんですけれども、出口が大分違っているというふうに思います。私は、早く処理して次に進んでくれというのが正直なところです。国会の審議、テレビで見る限りにおいては、必ずしも教育基本法のことについてだけ言っているわけでもないし、とにかく、この先にある問題に行ってほしいということが一点。

 それから、先ほど言われた政党間のやりとりではなくて、この法の条文が持っている意味というのは具体的に言うとどういうところまでですよという部分はもう少しわかりやすく知らせてほしいなということはあります。しかし、法そのものはもう早く次に行ってくれというのが正直なところであります。

伊豆原充君 私も、事務局から送っていただいた資料、全部目を通すのはかなりきつかったです。でも、ここへ出る限りは全部読もうと思って、全ページ見ました。それで、中にどんな会議が繰り返されてきたかおおよそわかりました。

 ただ、今思っておりますのは、先ほど申し上げたと思いますが、ここに書かれている中にない。子供たちの実態を見据えていない。それは、余りにもここにはありませんね。論じられておりません。野依先生がおっしゃっているぐらいの、ぐらいと言ったら失礼ですが、そこだけ指摘されている。

 そういう意味では、今まで現場教育が、やったことにして進んでいったために禍根を残すような事件、いろいろな場面が起きてきたという観点から申し上げると、まだ審議をする時間、もっと視点を変えて、みんなから聞いたからいいんだ、専門家から、ここにおそろいの先生方はみんな専門家でいらっしゃる、だから、専門家の意見を聞いたからいいんだ、そういう進め方はぜひ御一考いただきたい。

 私は、もっと本当に、先生方がその場へ、いろいろなところへ今事件が起きると出てみえますが、そういうものを、行ったから済んだんじゃなくて、行ってきて何がわかって何がわかっていないかということをはっきり究明していただいて事を進めていただく、そういう姿勢をぜひこの審議の過程でつくっていただきたい、そう思います。時間は十分かけられたと思いますが、まだ足りない、そう思っております。

高橋哲哉君 今の御質問に対する答えですが、今の伊豆原先生のお考えとも近いと思うんですけれども、これまでの審議時間とか、それについては国会議員の皆さんの御判断というのがあると思いますけれども、やはり、先ほど、最近の東京大学の調査の数字を最初に挙げさせていただきましたけれども、全国小中学校校長先生の六六%が改正に賛成できない、それから、教育改革自体について、八五%が早過ぎるということをおっしゃっている。

 それから、国民に対する世論調査でも、教育基本法改正に賛成であるという人が、多数の数字が出てくることがございますけれども、それでも、今国会で成立させるのは拙速ではないかという議論が多数であったり、あるいは、実は、教育基本法の条文自体あるいは理念というものをよく知らないという国民がまだ非常に多数に上っているという現実があると思います。ですので、いわゆる専門家ないし国会での審議ということは御判断があると思いますけれども、まだまだこれは国民的な議論になっていない。

 教育基本法の内容自体が余り知られていない中で、では、なぜ改正に賛成が多数の数字が出てくることがあるのかといいますと、やはり、これは現在の教育、学校教育が問題を抱えているということについてはほとんどの方が合意できる、恐らくここでも合意できると思うんですね。それは事実だろうと思います。ですけれども、その問題が教基法改正によって解決できるのか、私の考えではそこのところに実はギャップがあるんですけれども、しかし、多くの人は、学校教育が問題を抱えているというその現実を前にして、それなら、教基法というものを変えれば解決できるのではないかというふうに、実際には教基法の内容や理念を御存じないにもかかわらず、そういうふうに期待をするということがあるのではないかと思っております。

 ですから、もっと教基法の内容、理念を含めて国民的レベルで議論をするということが必要なのではないかと私は思っております。

牧委員 ありがとうございました。

 高橋先生と私は多分かなり考え方が違うと思いますけれども、いまだ教育基本法についての国民的議論が高まっていないという点だけはどうやら共通するようでございまして、全くそこら辺は同じ意見です。ただ、そのためにもこうして地方公聴会も開催させていただいているということを御理解いただいて、これ一回きりじゃなくて、数回にわたってやっていきたいなというのが私どもの考え方であることもあわせて御理解をいただきたいと思います。

 せっかくのこういう機会ですので、特に政府案及び民主党案について、ややマスコミ的ではございますけれども、特に論点としてよく取り上げられる部分についてちょっとお伺いをしたいと思います。

 まず一つは、先ほど来お話が出ております愛国心についてでございますけれども、政府案と民主党案の一番大きな違いというのは、私ども民主党案では、条文の中には書き込まれずに、これは全体的に理念法の性格が強いものでございますから、全体を支配する前文のところにその理念を盛り込ませていただいているということ、そしてまた、私どもは、国を愛する心を涵養するという表現を使わせていただいているということと、政府案においてはその態度を養うというところが一つ大きな違いだと思います。国会における議論の中でも、与党の方の質問の中に、私ども民主党の条文に愛国心というのが入っていないから法的な拘束力がないんじゃないか、こういう御指摘を質問の中でいただいたりもしております。

 ということは、やはり、国を愛する態度というのは法的な拘束力を持って、そして、その態度というのが教育の現場で一つの評価の対象になるのかというのが私たちが一つ大きな懸念として持つところでございますけれども、この辺のところを北先生、馬居先生、伊豆原先生からちょっと一言ずつお願いしたいと思います。

北俊夫君 愛国心に関する記述、これを前文に入れるか条文にするか、私は個人的にはそんなに大きな違いは読む限りにおいて感じません。また、それぞれの法案において言わんとされていることもそれほど大きな違いはないんじゃないかな、こう思います。

 ただ、法律学の立場から、前文に入った場合と条文化された場合、その運用がどうなるかということは、私、専門じゃありませんのでよくわかりませんけれども、条文を見る限り、二つの法案についての違い、そんなに明確にあるのかなと思うのが率直な感想であります。

馬居政幸君 私も、自分の専門は社会学ですので、法によってその条文とあれはどう違うのかというのは差し控えたいと思います。ただ、多分、政治の世界では、どっちにあろうとそのときに力を持っておる方が先に影響をもたらすんだろうという気はします。

 その意味で、心を書いてあるか書いていないかは大きな違いがあると思います。私は心は書くべきでないと思っております。態度は、教育の目標でたくさん使われております。同時に、多分猪口さんもやったことがあると思うんですけれども、ソーシャリゼーションの問題として、態度は常に実証研究の対象になっています。したがって、かなり社会科学の実証的な概念としても使われております。そういう意味では、操作可能な概念であります。

 しかし、心は絶対に入ってはならない領域があります。先ほど、評価されるのではないかと言いますけれども、態度の評価は大したことありません。拒否することも可能です。心は見えないものを評価します。極端に言えば、態度がゼロでも、あるいは態度がマイナスであったとしても、自分はそれを確信的にやることができると思いますが、心の場合、どうやって見えるのか。道徳の中に心の涵養というのがありますけれども、私は基本的に、教育の問題そして心は、はぐくむということはあったとしても、心をどうこうするということを国家が規定することに対しては、それこそ高橋先生と同じ立場に多分行っちゃうんじゃないかと思っております。

 したがって、態度はここにずっと、それからもう一つ、これは並立して出されていますので、逆に言うと、すべての基盤に国を愛する云々を持ってこられることに対して私は反対したいと思っております。

 以上です。

伊豆原充君 私の教育実践の場からいえば、態度という言葉に対応する何かが形として求められるというのは教育現場では当たり前のことでありましたね。態度がとれるとかいう形。今、先生方がおっしゃられたように心の問題ですので、これはやはり非常に難しいといえば難しいんですが、学校現場は、育てる方向で努力はしますが、結果を求めるということをされると、これは明らかに学校現場は混乱すると思います。

 ですから、国を愛するという心を持ち、それを真剣に考えるのは、人間として当たり前のことと私は受けとめておりまして、今先生がおっしゃられたように、記述をどうするかというのは今後審議を重ねていただく部分ではないかと思います。

牧委員 もう一つ、宗教教育について、これも一つの大きな論点であろうと思います。

 政府案を見てみると、現行法と一点違うところは、「宗教に関する一般的な教養」というところですね。そのぐらいの違いしかないわけでございます。一方、私ども民主党案では、「生の意義と死の意味を考察し、生命あるすべてのものを尊ぶ態度を養うことは、教育上尊重されなければならない。」「宗教的な伝統や文化に関する基本的知識の修得及び宗教の意義の理解は、教育上重視されなければならない。」「宗教的感性の涵養及び宗教に関する寛容の態度を養うことは、教育上尊重されなければならない。」そういうことがはっきり明記をされているわけでございます。

 その他、特定の宗教教育を禁止するというのは、現行法も政府案も民主党案も共通なわけでございますけれども、私どもは、やはり前文でも、「祖先を敬い、子孫に想いをいたし」ということも書かれておりますし、我が国の伝統、文化、それらを尊重すると同時に、連綿と続く私たちの生というものについてしっかり考察をするということ、そしてまた、宗教は教義が多義的だから教育ができないというのは、私はその問題から逃げているとしか思えないわけで、共通する部分、人間が求めなければならないより高い価値というものを追求していく上で、やはり私たちの力やあるいは知恵を超えるものに対する畏敬の念、畏怖の念、そういったことをもう少ししっかり踏み込んで教えなければならないという観点から、こういうことをあえて記述させていただいたわけでございますけれども、時間がございませんので、馬居先生にその御意見を賜りたいと思います。

馬居政幸君 これは私立学校にも多分影響するのでちょっと言いにくいんですけれども、基本的には、今言われたことは、宗教的理念のもとでつくられた私学の理念としては認められますが、公教育の範囲としては逸脱しているんだと正直思います。

 とりわけ、日本のように多神教的な世界が一般化している中においてそれを言いますと、今後、一神教的な人たちが日本に入ってくることは間違いないと思います。今言われたのは完全に多神教的な発想であって、一神教的な人たちの世界というのはそういう発想をしない場合があると思います。そうしない人たちが入ってきたときにどうやって調整をしていくのか、実際に公教育の場ではさまざまな宗教的なことについて学校への批判を受けている部分がないわけではないと思います。

 したがって、言われた理想は理解できますが、私が言うことじゃないんですけれども、現場の学校から考えていけば、その宗教的寛容というのは、かなり宗派による差が出てくる問題であって、多分、現場は宗教についてはできるだけ触れたくないという部分があるんじゃないかと思います。

牧委員 伊豆原先生、やはり現場は触れたくないですか。

伊豆原充君 いや、そんなことはありません。

 それはそれで、子供たちは家庭でさまざまな宗教的な行事を体験しております。ですから、宗教の問題はその機会を通じて子供子供一人一人を取り巻く状況の中で対応していく、それを広く受けとめることができる、つまり、クラスであったり、学校であったり、地域であったりという教育は不可欠だと思います。

 ですから、生きるとか死ぬとかいう問題は人間の根幹にかかわることです。こんなところで失礼な言葉かもしれませんが、年寄りが家族の前で息を引き取ろうよ、そういうようなことを老人会で雑談したことはしばしばあります。そのぐらい、今の子供たちを取り巻く環境の中では生きることと死ぬことについて希薄ですね。

 以上です。

牧委員 ありがとうございました。

町村座長 次に、坂口力君。

坂口委員 坂口でございます。

 先生方には、きょうは本当にお忙しい中を御出席賜りまして、心からお礼を申し上げたいと思います。

 また、先ほどから出ておりますように、急なお願いでございまして、十分に資料を見ていただく暇もなくこうして先生方にお願いをするというのは大変失礼なことだというふうに思っておりますが、どうぞひとつお許しをいただきたいと存じます。

 さて、私の時間はそんなに多くないものでございますから、早速お話をお伺いさせていただきたいというふうに思います。

 まず、北先生、愛国心につきましていろいろとお話をいただきました。実は私たちも、この教育基本法をつくるに当たりまして一番党内で議論になりましたのは、その愛国心のところでございました。

 先生が御指摘になりましたように、国を愛するといいますときに、国土あるいはそこに住む人、お互いにその国の中に住んでいる人々、そしてその土地、そうしたことを愛するというのは、それは当然のことだというふうに思っておりますが、御指摘いただきましたように、統治機構という問題も、その愛国心ということをいいますときには入ってくる可能性があると申しますか、含まれているというふうに理解をするのが当然だというふうに思います。

 そういたしますと、そのときそのときの政府に対して愛せよ、こういうふうに言いましてもなかなか難しいことになるのではないか、愛することのできる人と愛することのできない人とが存在するということになるのではないか、その辺のところをどう表現したらいいのかということが非常に議論になったわけでございますが、北先生から一定の御評価をいただいたというふうに思っております。

 北先生には、これから子供たちに、特に大学なら大学におきまして実際にこの愛国心というものを教えていくときに、どういうふうな方法をとったら一番適切というふうにお考えになっているか、そこを少しお聞かせいただきたいというふうに思います。

 それから、馬居先生のお話を聞かせていただきまして、少子化というものと教育改革というものとを結びつけてのお話というのは、私の知る限り、私は初めてお聞きをするというふうに思います。非常に新しい角度からのお話でありまして、新鮮な感覚で聞かせていただいたところでございます。

 ただ、先生、時間が余りなかったものですから、ちょっと急いで言っていただいたものですから、私が十分に理解し得なかったところもございますので、もう一度お聞きをさせていただきたいというふうに思います。

 先生が御指摘になりましたのは、戦後この六十年の間に社会経済が変化をしてきた、その変化をする中で少子化というものが進んできた、しかし、教育の方は変化をしなかったからそごを来したというふうに先生は言っておみえになるのか、それとも、社会が変化をすることによって教育に対する両親なり全体の考え方が変わってきた、その変わってきたことも少子化というものに影響を与えているというふうにおっしゃっているのかということが、ちょっと私は十分に理解できなかったものですから、その辺につきましてのお話を伺いたい。

 まず、お二人についてお聞きをしたいと思います。

北俊夫君 愛国心を子供たち、学生にどう指導するかという御質問かと思いましたが、私は、この日本という国、我が国だとか、あるいは郷土を愛するということの土台は、やはり我が国と郷土のことをよく知らせる、つまり、自分がどういうところに住んでいるのかということを十分かつ正しく理解することなく愛するという心情は芽生えてこない、こう私は思うんです。

 そういう意味では、成長発達の過程にある子供たち、その発達段階に応じまして、我が国や郷土の歴史とか、あるいは先ほどから申し上げていますように文化だとか、あるいは人々の働きとか、さらには社会の仕組み、そういった社会の成り立ちを子供にきちっとまずは理解させる、そこがこの我が国と郷土を愛するということの土台になるのではないかな、そのことがきちっと理解されないまま、愛するとか、どう行動するとかということは十分芽生えてこないんじゃないかな、こんなことをまず思います。

馬居政幸君 後半言われたことの方が、半分、私の言ったことの結論の部分になるなと思います。

 といいますのは、私は、少子化の原因をつくったのは、めぐりめぐって学校だと思っております。すなわち、学校の教育というのは、これは教育基本法も決して無縁ではないと思います。人格の完成ということを実際に担うのは学校であり、学校が目指したのは、この子の幸せを目指していたと思います。

 そのときに、この子の幸せは、具体的にはより高い学歴をつけることというふうに展開されたと思います。とすると、それは二重に、社会移動、横の移動、すなわち、私がそうであるように、地方から都会に出るという意味と、自分が生まれ育った階層からより高い階層へ移動するという意味と、二つの意味で自分の生まれ育った地から離れることを要求します。

 同時に、それは、学校の中においては、これはよい意味ですけれども、男は仕事をし、女は家事、育児だということは教えることはできませんでした。それはタブーでありました。同時に、男も女も同じ成績基準によって評価するということを一般化させていきました。ところが、現実の社会というのは、女が家事、育児をすることを当然視したまま来てしまいました。

 その結果、学校で教わった自己を表現していかなきゃならない、同時にそれが、地方から中央に出て会社の階段を上っていくという世界が人間にとってのまさに人格の完成とリアルに結びつくというふうに教えたのが多分学校だと思います、この子の幸せのために。

 結果的にはそれは、男性にとってみれば、自分の世話をするお母さんにかわる女性を求めることに対して、女性にしてみれば、自分のパートナーを求めることはあったとしても、何で人の世話をしなきゃならないのかという思いをはぐくんでいくことになると思います。

 したがって、キャリアになる女性から見れば、それは自分のキャリアを捨てることになる、要するに子供を産むということは。逆に、ノンキャリの人にとってみれば、子供を産むことによる負担をだれから得るのかということが課題になってくると思います。それが、現在の格差ということとリンクして、さらに出生率の低下をさせていますけれども、根本的なところでは、子供を産み育てるという価値が、仕事をする、自分が社会的上昇をしていく、自己をあらわすということとの間の関係において、何にも学校では教えられていないというところ、あるいは位置づけられていないというところが問題で、それが、この間というかきのうというか、やはり保育園よりも自分で育てた方がいいなんということを言う閣僚ですか、出てくるというあほな状況があるということです。

坂口委員 ありがとうございました。

 それでは、伊豆原先生と高橋先生に、あと一問ずつお聞きをさせていただきたいというふうに思います。

 伊豆原先生がおっしゃいました、教育、教えるということよりも育てるということが大事だという御主張、まことに私もそのとおりだというふうに思っております。その辺のところが、現在の教育の中に十分生かされていないところに大きな問題があるんだろうというふうに思っております。

 先生がお話しになった中で、文部科学省がいろいろの主張をする、それが教育委員会を通じて現場におろされる、しかし、そこが十分にそれに対応できない面がある、若干言葉は違ったと思いますけれども、そういう御主張だったと思います。それは、文部科学省から現場へおりる、人間の神経でいえば運動神経みたいなものでありまして、中央から末端に伝えられる。それに対して、今度は末端の方から中央へ伝える知覚神経に当たるところの作用ができていないからだめだというふうに御指摘になっているのかどうか。そこをひとつお聞きをしたい。

 それから、高橋先生の御主張は御主張として十分に拝聴させていただきました。意見を異にしますけれども、それは違う意見を聞くことに大きな意味があるというふうに思っておりますから、大変参考になる意見だというふうに思っております。

 先生は、現在のこの教育基本法は変えなくていい、現状のままでいいではないかという御意見なのか。しかし、いつの時点かはわかりませんけれども、将来これは変えていった方がいいという思いはお持ちになっているのか。それから、現在の現場に起こっております教育の混乱というものを直していく手だては、それでは一体どうしたらいいというふうに思っておみえになるのか。

 限られた時間でございますので、それぞれ一、二分の御答弁で恐縮でございますけれども、お答えいただければ幸いでございます。

伊豆原充君 おっしゃるとおり、御理解いただけたとおりだと思います。

 ただ、それは全く一方的という意味じゃありませんが、返っていく、そういう機能というのかエネルギーが弱い。しかも、中央では、それを吸い上げるためのいろいろな手法をとっていらっしゃって、聞く耳も持っているんだというのは十分わかるんですが、今の仕組みでいきますと、そういうのが機能していなくて、実際が見えていかない。そういう現状が多過ぎると思っております。

高橋哲哉君 馬居先生が言及してくださったんですけれども、私は、理想的には、国家が教育の理念を一定の仕方で定める法律というのは、なければそれにこしたことはないというふうに考えております。

 しかし、日本の歴史的な背景、明治以来の教育勅語、それが廃止されて以降の戦後の状況、こういう中で、今の教育基本法というのは、むしろまだ、南原が言っておりますような価値が十分生かされてこなかったのではないかというふうに考えておりますので、現状でこれをどうしても変えなければならないという理由は私には見出せないということであります。ただ、理想的には、もっといいものにしていくということは当然一般論としては考えられると思います。

 それから、現在の教育の混乱について具体的にどうするのかということですけれども、これは、私は、やはり国民的議論、教育基本法の基本理念すら余り知られていない状況ですので、やはり教育にかかわる当事者がもっともっと議論をしていくということがとにかく求められている、それが少ないというふうに感じております。

坂口委員 ありがとうございました。

町村座長 次に、保坂展人君。

保坂(展)委員 社民党の保坂展人です。

 私は、この教育基本法、現行を変えるべきではないという点で、まず高橋さんに何点か伺っていきたいんですが、第二条五号の「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、」いわゆる愛国心をめぐる議論の中で、これまでのこの特別委員会の審議で、この国というのは何かということがたびたび議題に上がりました。

 政府からは、統治機構を含むものではない、統治機構を愛せよということではないんだという説明が、またこれもたびたび繰り返されたんですが、統治機構でない国、伝統と文化やあるいは郷土ということとダブった形での国ということについて、先日、質問主意書を出して、英訳するとどうなるんだろうかというふうに聞いたら、成立したら発表するということで、ちょっとこれは不明確なんですが、この点について伺いたいと思います。

高橋哲哉君 今の、英訳がすぐにできないというところに問題が象徴されているように思います。

 報道その他で知る限りにおいては、この第二条第五号の文言は、与党、自民、公明両党の間でもいろいろな議論があって、公明党の方が愛国心を入れることに慎重であって、最終的にこういう形に落ちついたというふうに伺っております。その際に、国という言葉を統治機構を意味しないものとする、そうすることによって、この愛国心教育が危険な国家主義になったり偏狭なナショナリズムになったりすることに対する歯どめにするんだ、そういうことが言われていますけれども、私は、むしろ逆といいますか、もしそういうことであるとすれば、それは違うのではないかと思っております。

 一般には、法律の中で国という言葉を使う場合には、むしろ統治機構という意味で使うべきであろう。つまり、国及び地方公共団体はと言ったときにはそれは政府であるという先ほどからのお話がありますけれども、憲法は文字どおり統治機構についての法ですし、そういう意味では、一般的にはそうである。この法案でも、ほかの部分で国という言葉が出てくると、それは基本的に政府という意味ですね。

 では、どうしてここだけがこうなのか。私は、むしろ、こういう伝統、文化を含み、また郷土その他、これは、例えば家族とかいろいろなものを含んでいる祖国としての日本というようなイメージだろうと思うんですね。これは民主党案にも通じることだと思うんですけれども。私は、国という言葉はそういう意味だから、これが危険な国家主義にならないとか、偏狭なナショナリズムにならないというのは違うのではないかと。むしろ、統治機構の側が、国民の愛国心というものを動員していくといいますか、そういうねらいを持ったときには、これは統治機構を愛せというわけにはいかないわけで、当然、そういう家族、郷土、友人、そして伝統、文化、すべてを含んだ祖国日本を愛するべきだ、そう言って初めて、国民の中から愛国心を動員できる。

 これは、かつての日本の国家主義も、決して統治機構を愛せというふうに教えたわけではないと私は思います。戦争で、例えば特攻に行くというような人が、東条内閣を愛せと言われて命をささげる気にはなれなかっただろうと思うんですね。ですから、偏狭なナショナリズムや危険な国家主義という言葉がいいかどうかわかりませんが、少なくとも、統治機構が国民の愛国心を動員しようとねらいを持ったときには、むしろあいまいな、エモーショナルな、感情に訴える、こういう言葉を使わなければいけないのではないか、そういう意味では、これは統治機構を意味しないと言っても歯どめにはならないのではないかというのが私の考えなんです。

保坂(展)委員 これはブレーキになっているかどうかというところでもう一点なんですが、「我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」というところがきちっとあって相対化されているんだという答弁も繰り返しあったんですが、その点についてはどうお考えになりますか。

高橋哲哉君 こういう文言は、現代社会においては当然のことだろうと思うんですね。ここに自国のみを愛するような愛国心の理念を掲げるわけにはいかないと思うんですね。ですからこういう表現になるんだと思いますけれども、しかし、この文言が入ったからといって、これも私は、偏狭なナショナリズムに対する歯どめになるとかそういうふうには必ずしも言えないというふうに思います。

 歴史的に振り返ってみますと、例えば、かつての修身科教育で行われていた愛国心教育の中でも、国際精神ということは盛んに教えられていたわけです。これは当時の資料を見ればはっきりわかりますけれども、愛国心と国際心というのは両立するのであって、我が国の愛国心というのは国際協調の精神にのっとったものなんだ、したがって、自他、国家国民の権利を尊重、愛護することが必要なんだということが当時教えられていたわけですね。しかし、実際には、日本は御存じのような愛国心教育のもとに戦争を支える結果になっていたわけですね。

 ですから、私は、必ずしも歯どめにはならないと思いますし、下手をしますと、国際平和を維持するためという名目での、例えば自衛隊を自衛軍に変えての海外派兵とか、そういうところとつながっていく危険もあるのではないかというふうに考えております。

保坂(展)委員 この会場における最後の質問になります。

 四人の方に、ちょっと時間が制約されているので一言ということになりますけれども、現在、いじめ、自殺の問題、それから単位未履修の問題、学校全体が騒然としております。そして、安倍政権は教育を改革するということで教育再生会議を官邸に立ち上げて、安倍さん自身の著書の中にも、学校教育における市場競争原理の導入、例えば学校バウチャー制とか、あるいはイギリスにおける事例で、外部評価機関をつくって、だめな、レベルの低い学校はつぶしていってしまう、また、そういう学校に教師を送り出しているような教育学部さえイギリスではつぶされたというような例を挙げながらですが、この教育再生会議、これから議論を深めて、しかし一月には中間答申と言われています。

 これらの状況の中で、教育基本法という、本当に半世紀以上日本に根づいてきた、ここを組みかえていくのに、この教育基本法の基本問題と教育再生会議などで語られている現状の問題と、やはり非常に深く密接に絡んでいるんじゃないか、とすれば一緒に議論したらどうかと我々は考えているんですが、その点についてお願いしたいと思います。

北俊夫君 教育再生会議、立ち上がって数回会議を開いているということを伺いましたが、あそこでの議論を伺っていますと、当面する課題について審議されているようでありまして、この教育基本法案の審議とはまたちょっと次元が違うのかなと。しかし、国会の中での話題でありますので、お互いに連携といいましょうか、関連づけながらお話し合いがされている、そういうふうに私は伺っております。

馬居政幸君 基本的には同じです。早く先に行ってくれというのはそういう意味なんですけれども、基本法の持っている性格と、現実に問題に対処するという意味での性格、それはやはり違うと思うので、次の段階に行くために、ここはもう処理をしてというふうに正直思っています。逆に、現実はもっと早く変わっています。問題ももっと大きく見えてきています。それをもっと早く政治家の人たちが気づいてほしい、それを具体的に解消するための準備に入ってほしい、こんなところで戸惑うなというのが正直私の意見です。

伊豆原充君 私は、マスコミ情報で持っている知識ぐらいですので、詳しくは述べられませんが、現実に学校現場で起きております問題にどう対処するかという根本的な課題を教育再生会議が中心に据えてみえる、その施策といいますか対策がこの基本法を審議することと一体だとは思っておりません。

 ただし、この対策を講ずるために法的な措置が、改正が必要な部分があるとすれば、どこだということは明確にしていっていただくことが要るんじゃないか、そんな感じで拝見しておるというのが実情です。

高橋哲哉君 私、先ほども申しましたように、教基法を改正すべきかどうか、国民的議論がまだ十分でないということですので、当面する、今噴出してきたさまざまな問題、こういうものを含めて、今、議論を広く大きく展開していく時期なのではないかというふうに思っております。したがいまして、教基法のことを議論するのであれば、これはそういう問題を含めて議論すべきであろうというふうに思います。

保坂(展)委員 わずかな時間、あと一問だけ高橋さんにお聞きしたいんですが、政府提案の二条で、教育の目標、我々は学校の教育に係ってくるものと当初読んでいたんですが、審議をしていく中で、これは家庭教育や幼児教育や生涯学習、社会教育にも及ぶんだということがわかってきました。とすれば、狭い意味での学校関係、教育関係の方だけではなくて、すべての国民に係る法律という視点で考えなければいけないんじゃないかと思うんですが、その点、お考えをお願いします。

高橋哲哉君 私はおっしゃるとおりだと思います。

 先ほど、愛国心についての政府案と民主党案の違いで、前文にあるのか、それとも二条の一つの中にあるのかということがありましたけれども、民主党案が全体に係るというのに対して、政府案ではそうではないのかというと、十三条から考えますと、やはり地域や家庭やあるいは大学教育、社会教育、その他さまざまな新しい項目が入ってきておりますので、そういうものの連携ということになりますと、全体に絡んでくる、そういうことになっております。それも私の懸念材料の一つであります。

 ただ、最後に誤解のないように申し上げておきますけれども、先ほど馬居先生が自分とは違うのではないかとおっしゃいましたが、国と個人のかかわりの問題ですけれども、私は、愛国心を個人が持つことについてもちろん否定するものではありませんし、国家と個人のかかわりについても、むしろ、これまで実際に戦後教育においては足りない面があったというふうには思っております。ただ、それを愛国心というふうに言うのではなくて、私はむしろ主権者としての責任というふうにとらえております。

 ですから、政治教育とかそういうところにかかわってくると思うんですが、先ほど申しましたように、愛国心というようなあいまいな、情緒に訴える表現ではなくて、主権者としての責任という観点から、公共的なもの、国とのかかわりを教えていくということは私はむしろ必要だというふうに思っているわけであります。

保坂(展)委員 時間が来ましたので。ありがとうございました。

町村座長 以上で委員からの質疑は終了いたしました。

 この際、一言ごあいさつを申し上げますが、意見陳述人の皆さん方には、貴重な御意見をいただきまして、まことにありがとうございました。

 きょう伺いました御意見は、今後の当委員会の審査に資するところ大変大きなものがある、こう思っておりますので、ここに厚く御礼を申し上げる次第でございます。

 また、この会議開催のためにいろいろな御協力をいただきました地元の関係者の皆さん方にも、心から感謝を申し上げるところであります。

 以上をもちまして、本日の会を散会いたします。

    午後三時散会


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