衆議院

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第11号 平成18年11月14日(火曜日)

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平成十八年十一月十四日(火曜日)

    午前九時一分開議

 出席委員

   委員長 森山 眞弓君

   理事 稲葉 大和君 理事 河村 建夫君

   理事 斉藤斗志二君 理事 鈴木 恒夫君

   理事 町村 信孝君 理事 中井  洽君

   理事 牧  義夫君 理事 西  博義君

      阿部 俊子君    新井 悦二君

      井脇ノブ子君    稲田 朋美君

      猪口 邦子君    岩永 峯一君

      上野賢一郎君    臼井日出男君

      小野 次郎君    大島 理森君

      大塚  拓君    海部 俊樹君

      亀岡 偉民君    北村 誠吾君

      小坂 憲次君    木挽  司君

      佐藤 剛男君    島村 宜伸君

      戸井田とおる君    中山 成彬君

      並木 正芳君    西川 京子君

      西本 勝子君    馳   浩君

      鳩山 邦夫君    原田 憲治君

      やまぎわ大志郎君    矢野 隆司君

      渡部  篤君    太田 和美君

      北神 圭朗君    古賀 一成君

      土肥 隆一君    西村智奈美君

      野田 佳彦君    藤村  修君

      古本伸一郎君    前原 誠司君

      松原  仁君    松本 大輔君

      三日月大造君    横山 北斗君

      鷲尾英一郎君    赤羽 一嘉君

      坂口  力君    石井 郁子君

      保坂 展人君    糸川 正晃君

      保利 耕輔君

    …………………………………

   議員           藤村  修君

   議員           高井 美穂君

   議員           大串 博志君

   議員           笠  浩史君

   文部科学大臣       伊吹 文明君

   国務大臣

   (内閣官房長官)     塩崎 恭久君

   国務大臣

   (少子化・男女共同参画担当)           高市 早苗君

   内閣官房副長官      下村 博文君

   文部科学副大臣      池坊 保子君

   政府参考人

   (内閣官房内閣審議官)  山中 伸一君

   政府参考人

   (内閣府大臣官房長)   山本信一郎君

   政府参考人

   (内閣府大臣官房タウンミーティング担当室長)   谷口 隆司君

   政府参考人

   (文部科学省生涯学習政策局長)          田中壮一郎君

   政府参考人

   (文部科学省初等中等教育局長)          銭谷 眞美君

   政府参考人

   (文部科学省高等教育局長)            清水  潔君

   衆議院調査局教育基本法に関する特別調査室長    清野 裕三君

    ―――――――――――――

委員の異動

十一月十四日

 辞任         補欠選任

  臼井日出男君     新井 悦二君

  西川 京子君     原田 憲治君

  松浪健四郎君     矢野 隆司君

  森  喜朗君     小野 次郎君

  北神 圭朗君     前原 誠司君

  西村智奈美君     鷲尾英一郎君

  野田 佳彦君     太田 和美君

  羽田  孜君     松原  仁君

  古本伸一郎君     三日月大造君

  斉藤 鉄夫君     赤羽 一嘉君

同日

 辞任         補欠選任

  新井 悦二君     西本 勝子君

  小野 次郎君     大塚  拓君

  原田 憲治君     西川 京子君

  矢野 隆司君     阿部 俊子君

  太田 和美君     野田 佳彦君

  前原 誠司君     北神 圭朗君

  松原  仁君     藤村  修君

  三日月大造君     古本伸一郎君

  鷲尾英一郎君     西村智奈美君

  赤羽 一嘉君     斉藤 鉄夫君

同日

 辞任         補欠選任

  阿部 俊子君     並木 正芳君

  大塚  拓君     森  喜朗君

  西本 勝子君     臼井日出男君

  藤村  修君     古賀 一成君

同日

 辞任         補欠選任

  並木 正芳君     亀岡 偉民君

  古賀 一成君     羽田  孜君

同日

 辞任         補欠選任

  亀岡 偉民君     木挽  司君

同日

 辞任         補欠選任

  木挽  司君     松浪健四郎君

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 政府参考人出頭要求に関する件

 教育基本法案(内閣提出、第百六十四回国会閣法第八九号)

 日本国教育基本法案(鳩山由紀夫君外六名提出、第百六十四回国会衆法第二八号)

 派遣委員からの報告聴取


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     ――――◇―――――

森山委員長 これより会議を開きます。

 第百六十四回国会、内閣提出、教育基本法案及び第百六十四回国会、鳩山由紀夫君外六名提出、日本国教育基本法案の両案を一括して議題といたします。

 この際、お諮りいたします。

 両案審査のため、本日、政府参考人として内閣官房内閣審議官山中伸一君、内閣府大臣官房タウンミーティング担当室長谷口隆司君、文部科学省生涯学習政策局長田中壮一郎君、初等中等教育局長銭谷眞美君、高等教育局長清水潔君、内閣府大臣官房長山本信一郎君の出席を求め、説明を聴取いたしたいと存じますが、御異議ありませんか。

    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕

森山委員長 御異議なしと認めます。よって、そのように決しました。

    ―――――――――――――

森山委員長 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。松原仁君。

松原委員 民主党の松原仁であります。

 まず第一番目にお伺いしたいことは、五十年以上経過して教育基本法の改正案が出されたわけでありますが、大臣がお考えの従来のものとの最も大きな違い、また、なぜ今この段階でこの改正をするのか、その思いをお聞かせいただきたい。

伊吹国務大臣 現行の教育基本法が改正になりましてから、これはもうだれが見てもわかることですが、大きく状況が変わってきております。まず、冷戦構造は崩壊をいたしましたし、日本社会は、抽象的な言葉になりますが、経済成長を達成した中で、豊穣の中の精神の貧困という状態であろうと思います。それを反映して社会的にもいろいろな残念な事柄が起こっておりますし、学校現場でも、現在、未履修あるいはいじめというような残念な現象が起こっております。

 これらを総括して、日本がこれだけ大きな国際社会の中の存在にもなってきているわけですから、まず、現行教育基本法は、これは私は大変立派な法律だと思います。これは、世界どこへ持っていっても立派な法律として通ると思います。しかし、日本にはやはり日本の祖先が営々として築き上げた法に書かれざる暗黙の申し合わせというか伝統というか社会規範というか、こういうものがございますから、まず、これをはっきりと再認識する教育を取り戻さないと、現在の豊穣の中の精神の貧困という状態からなかなか抜けられない。同時にまた、大学教育の必要性、今後の経済成長その他のことを考えると、これもまた大切だ、あるいはまた私学の役割が非常に大きくなってきている、同時にまた家庭での教育というもの、あるいはしつけと言った方がいいかもわかりませんが、これもやはり教育の大きな要素である。

 こういうことが現行の教育基本法に抜けておりますので、教育の包括法としての理念法をこの時点で変えさせていただいて、むしろもっと早く私はやるべきであったのではないかと思いますが、この時点で変えさせていただいて、そしてその理念のもとで教育に関する三十数本の法律を総点検して、新しい日本人像をつくり上げて未来に備えていきたい、これが私の思いでございます。

松原委員 今回の教育基本法改正で我が民主党もきちっとしたものを出しているわけでありますが、教育基本法改正を必要とする時代背景というのは、もちろん今大臣おっしゃったように、冷戦構造の崩壊、これは大きな要素になっているだろう、国内的にもさまざまな問題、社会変化が、教育基本法ができたときよりはるかに変化をしてきている。

 しかし、私は、その中でやはり例えば日本国民の意識も随分変わってきている、憲法に対しても。例えば拉致問題というのが発生をして、憲法の前文には、近隣諸国の善良なる意識に期待して平和憲法でいく、こういうふうな話でありましたが、実はこの近隣諸国に北朝鮮のようなとんでもない国があって、平和な日本の一般の国民を誘拐し、国家的犯罪として拉致をした、こういうことが明らかになって、やはり日本人の意識が、憲法に関してもそうでありますが、教育についても大きく変わってきた、これが背景にあると思っております。

 そういった意味では時宜を得ているというふうに思うわけでありますが、今回この中で大きな議論となったのは、愛国心の取り扱いであります。官房長官にもまずお伺いしたいんですが、官房長官は愛国心が日本において必要であるというふうにお思いかどうか、一人一人の国民において。お伺いいたします。

塩崎国務大臣 これは無理強いする話ではないとは思いますが、好ましいことだと思っております。

松原委員 私は必要だと思っているんですよ。必要であると断言をしてほしいと思うわけでありますが、伊吹大臣、いかがでしょうか。

伊吹国務大臣 これは愛国心というものの定義によると思いますが、私は日本を愛する心を強く持っております。

松原委員 愛国心は必要であるというふうな話であります。我々は民主党案でこの愛国心という思いが出ているわけでありますが、この愛国心を今、塩崎さんは無理強いをするものではないとおっしゃったけれども、必要である、必要であるけれども無理強いをするものではない、そうなったときに、ここで哲学問答をするつもりはありませんが、愛国心が必要であるならば、愛国心教育は必要でないのか、このことを伊吹大臣にお伺いします。

伊吹国務大臣 私が先ほど御質問にお答えして愛国心というものの定義によりますということを申し上げましたが、哲学論争をしてもいけませんが、愛国の国というものは何から成り立っているかということです。私は、国というのは、やはりその国の主権の及ぶ領土、そしてそこに住んでいる国民、そしてその国民が祖先から営々としてその国土の中で営んできたもろもろの人間的な営み、そして現在もその営みは続いている、そういう営みの中からつくり出されたいろいろな文化、伝統、歴史的集積、こういうものが国という言葉であらわされると思います。

 その人間の営みの中の一つに例えば政党というものが我々はあるわけですから、民主党さん、自民党、民主党さんが政権をおとりになる場合もあるし、共産党さんが政権をおとりになる場合も、これは選挙の結果によってはあり得るわけですね。

 そういう政府、営みの中の大部分は文化、伝統その他のものですが、一部は統治にかかわる部分がある。そこを愛しろと言われても、私はやはり、私のイズムからいうと、民主党政権の醸し出すもろもろの政策を愛するというわけにはいかないなと。松原先生も、共産党政権ができたときにそれを愛しろと言われたら、ううんそれはとおっしゃるでしょうから、強制はできないと官房長官が言ったのは、そこの部分を指して言っておられるんだと思います。

松原委員 愛国心に関しては、これは大事であると。議論していても、愛国心を否定する人間というのは私はいないと思うんですよ。

 この国という部分の概念に関して、愛国心の国というのは、塩崎大臣はこれはどんなふうなイメージでとらえておられますか。愛国心の場合の国、今伊吹さんがお答えいただきましたが。

塩崎国務大臣 もとに戻って愛国心の御質問でありますけれども、今伊吹大臣がお答えになられたように、その定義によるという話でありますが、国を愛する心を愛国心とこう呼ぶわけですから、国が何かというのを定義、先ほど伊吹大臣がおっしゃったとおりだと思います。それともう一つは、愛するというのは何なのかと、これもあると思うんですね。もう一つは、その心はでは何だということであろうかと思います。

 国というのは何かというのは、いろいろ人によってその解釈と定義が違うということだと私は思っておりますが、おおむね、この国の定義については、今伊吹大臣がおっしゃったように、統治機構まで含めるかどうか、それは私もどうかなと思いますけれども、今おっしゃったような、これまでの日本というものを、それぞれの頭の中にある、共同で持つ、昔は共同幻想論という言葉がありましたけれども、そういうものでつくり上げられたものが国というものだろうと思いますし、しかしながら、それは一人一人によって定義は違っているのではないかなというふうに思います。

 したがって、一言で愛国心を持てと言っても、なかなかそれは難しいことかなというふうに思います。

松原委員 伊吹大臣がおっしゃったわけでありますが、愛国心という場合の国、そこにはもちろん、国土もあれば伝統もあれば文化もあれば営みもある、非常にそれは多義にわたるものでありますが、愛する対象として、私は、そのときの政体がどういうものであれ、その政体の中身ではなくて、政体という、非常に抽象的でありますが、国家を運営するそのものに対しての基本的な愛情も当然含まれるというふうに思っております。

 今であれば民主主義に対する愛情というものもあるし、かつて、モンテスキューという思想家が三権分立論を立てたわけでありますが、言ったせりふで、それぞれの政体において最も大事なものは、それが君主制であろうと民主制であろうと何であろうと、そこの国民というんですか、これがその政体に対して持つ愛情が強いかどうか、思い入れがあるかどうかによってその政治が意味のある、非常に効率的というか、うまく運営されるかどうかのけじめというか差異になる、つまり、その政体に対しての国民の思い入れがなければそれはいけないと。

 だから私は、愛国心というのは、そのときの政治の状況に対するそういう思い入れというのが当然あってしかるべきだと思いますが、御答弁いただきます。

伊吹国務大臣 先生のおっしゃったモンテスキューの言っておることは、私もそのことを読んでおりますが、これは、政体の、国を統治していく仕組みに対する理解を持っていなければならないのであって、仕組みを動かしているイズムに対して愛情を強制しているものではなかったと思います。

松原委員 私はその仕組みを言っているわけで、民主主義とかですね、ただ、その仕組みを愛する中には、私は非常に微妙だと思うんですよ。イズムが入るかどうかというと、イズムは仕組みの上に成り立っているわけですよ。仕組みを否定したイズムというのは、これは革命になるわけでありますが、革命も含めてその仕組みと言えるかもしれない。このイズムというのも仕組みの中に成り立っているという中で、それはイズムを支持しろということではないですが、そこは極めて内包される部分かと思います。

 この議論をこれ以上展開してもしようがないので、それが国なんですよ。そういった国を愛するという思いは、これは世界のいかなるところでも極めて尊重されている。

 であるならば、そういう国であるならば、愛国心教育は必要であるというふうに私は思うんですが、大臣、いかがですか。

伊吹国務大臣 先生と私はそう意見が違わないと思いますが、今松原先生がおっしゃったことをどんどん突き詰めていくと、政党は一つにならなければいけないことになってしまうんじゃないんですか。つまり、民主主義とか間接選挙だとか、現在の日本の統治の仕組み、形、これはもうみんなが当然前提として我々は共通の価値観を持って、憲法のもとでこれを動かしている。

 しかし、民主党という政党があり、自民党という政党があり、共産党という政党がありますから、松原先生はそんなにイズムを含めて御理解をいただくのなら、ぜひ我が自由民主党に御参加をいただければありがたいことだと思います。

松原委員 最後の部分は、全くそういう無意味な発言をされてもお断りというか、困るわけでありますが。

 私は、ひっきょう一つの政党がということを言っていないんですよ。それぞれの政党はその仕組みの上に成り立っているから、その中にある意味で内包される部分があると言っているので、それをそういうふうに言われては、水かけ論をあえてしようとするような大臣では困るので、そういうことではいかぬと。

 私が申し上げたいことは、では、愛国心教育をなぜ書かないのか。本当の理由があると思うんですよ。本当の理由を言ってほしい。

伊吹国務大臣 私が今申し上げたことに尽きていると思います。

松原委員 本当の理由はこういうところでは言えないということでしょうが、伊吹さんも本当は愛国心を入れたいと思っているんですよ。思っているけれども、この委員会室では言えないと。私は、本当に苦渋の胸のうちを感じますよ。

 では塩崎さん、なぜ愛国心教育というのを入れられないのか、お答えください。

塩崎国務大臣 日本というのは、比較的、国という概念がみんな何となく同じような感じで持っているわけですけれども、ほかの国というのは全然そうじゃないところがいっぱいあります。例えば、今、産みの苦しみをしているイラクもそうであります。クルドに私行きましたけれども、クルド人は国家なき最大の民族と言われているぐらいでありますし、スーダンに行っても、これまたもう全然ばらばらであって、我々が思っているような国というのとは、なかなかそういうようなものにはまらない。旧ユーゴもそうですね。

 そういうことを考えてみると、やはり一言で愛国心と言われても、なかなかそれは難しい。

 そうするとやはり、その文化なり伝統なりをずっとはぐくんできたそういうものを大事にするという心、態度を養っていくということを我々はやはり考えていかなきゃいけないので、なかなか一言で愛国心というので定義がし切れるかというと、それはやはりちょっと違うのかなという感じもいたします。

松原委員 大変に私は残念なんですよ。世界のほかの国々でこういう議論があって、少なくとも責任政党の幹部が、愛国心はどうですか、愛国心教育は必要ですかと聞かれて必要だと言い切れない国というのは、私は極めてまれだと思うんですよ。

 少なくとも教育基本法の中にそれを明記する、当然のことだろうというふうに思っておりますが、このことについて極めて歯切れのいい発言を従来からしてきた下村官房副長官、はっきりした答弁を聞きたい。

下村内閣官房副長官 お答えいたします。

 今の趣旨におきましては、教育の目的の第二条第五項のところで、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、」という文言の中で、松原先生の御指摘については私は入っているというふうに思っております。

松原委員 それでは、この第五の項目にある「我が国と郷土を愛する」ということは、これは事実上、愛国心ということですか、伊吹大臣。

伊吹国務大臣 ですから、先ほど申し上げた、我が国の祖先と今に生きている私たちが営々として築き上げてきた伝統と文化を尊重するわけですから、それを醸し出してきた郷土と日本の国土というんですか、これを愛する態度を養うわけですから、それにすべてが尽きているということです。

松原委員 愛国心という表現を使ってもこれは構わないんだ、こういう認識なんですね。もう一回確認します。

伊吹国務大臣 それを受けて現在でも、学習指導要領の中に、国を愛する心として具体的にどういうことを教えていくのかということを記述しているわけですから、それは先生と同じような気持ちをこれで表現しているということです。

松原委員 私は、これを愛国心と呼んで構わないんですねと聞いているんですが、これはイエス、ノーで答えてください。(発言する者あり)

伊吹国務大臣 いや、それは私がお答えするんです。

 それは、このことを先生のようなお気持ちでお読みになるなら、先生のようにお読みいただいて結構です。

松原委員 どうしても愛国心というこの言葉を使えない。どうしても使えないというのは大変に残念でありますが、これが使えるようにならないとこの国はいかぬのじゃないかな。大きく大臣もうなずいていますから、これは、書記の人に本当は、「大臣、大きくうなずく」と書いてほしいわけでありますが、愛国心。

 そして次に、国を愛する態度、これを教育基本法に明記することによって、今後、学習指導要領の各教科はどんなふうにイメージが変わるのか。国を愛する心というものはどういうふうに反映されるだろうか、そのイメージをお知らせいただきたい。

伊吹国務大臣 これは、まず、法律を国権の最高機関である国会でお認めいただかないと軽々に発言はできないわけですが、私のイメージとしては、ここに書いてあることを具体化するには、祖先の営みの中でどのようなことが起こったのか。

 例えば、蒙古というんですか、当時の元が日本に押し寄せてきたときに日本人はどういう対応をしたのか、黒船が来たときにはどういう対応をしたのか、そのリーダーとした人の持っていた心根はどういうものであったのか。あるいは、私たちが今住んでいる、外国人の表現で言えば、木と紙と土の家に住んでいるということを宣教師は書き送っておりますが、そういう建築というものは、どういう気候、どういう住まいの中からそういうものが出てきたのか。そして、その流れの中である現在というものを今に生きている子供たちに理解させていく、そういう学習要領をつくっていくということになると思います。

松原委員 時間がないので、次の項目に入ります。

 宗教的情操教育ということに関してお伺いしたいわけでありますが、この宗教的情操教育をきちっと行うということがなかなか明快に語られていない。私は残念でありますが、なぜこれが明快に語られないのか、お伺いいたします。

伊吹国務大臣 諸外国に比べまして、例えばドイツなどは宗教の名前を冠した政党があって、その政党が現に政権を担っておるわけですね。

 ですから、諸外国における宗教と日本における宗教というのは極めて、やはり日本人の宗教観というのはある意味では複雑だと私は思います。それは多分、結婚式はキリスト教の教会でおやりになるけれども、子供が生まれると七五三のお宮参りに行かれて、そしてお葬式はお寺でやるという日本人が非常に多いわけですね。

 ですから、宗教の持つ意味合い、特に国際社会においては宗教というものがどういう意味合いを持っているのかということを理解しなければ、イスラムの国の行動はわかりませんし、また、イスラムの国の中でもイラクがなぜああいう状態になっているかということ自体もわかりませんから、宗教の持つ意味、宗教の持つ情熱というか心のあり方というものははっきりと教えないといけないと思いますが、情操ということ、今先生のおっしゃった意味合いになると、おのおのの宗教の持っている教義の中へ入っていかなければいけませんから、これは日本ではやはりなかなか難しいという配慮があってこのような表現にしているわけです。

松原委員 今いじめの問題等が多発しておりますが、ここに欠けているのは何か。それはやはり、もちろんさまざまな暴力風刺漫画とか、またそういった映像という影響もあるでしょうが、やはり学校教育においてこういった宗教的情操というものが涵養されていないというところに大きな問題があるのではないかというふうに私は思っております。

 翻って、いろいろと今までの経過を見ると、これは昭和二十年九月十五日の文部省の新日本建設の教育方針というものの章でありますが、九番目の宗教というところで、国民の宗教的情操を涵養し、敬けんなる信仰心を啓培し、そして神仏をあがめ、ひとりを慎むの精神を体得せしめ、道義新日本の建設に資する云々という文章もある。

 この辺は大臣御存じのはずでありますが、二十一年の八月十五日には、宗教的情操の涵養に関する決議というものが上げられていて、途中にこういう文章がある。そのためには宗教的自覚による四海同胞、隣人愛、社会奉仕の思想を普及徹底させるとともに、宗教的情操の陶冶を尊重せしめ、もって道義の昂揚と文化の向上を期さなければいけない、こうあります。

 また、昭和四十一年、中教審の答申別記には、畏敬の念を持つことということで、すべての宗教的情操は、生命の根源に対する畏敬の念に由来する。我々はみずから自己の生命を生んだのではない。我々の生命の根源には父母の生命があり、民族の生命があり、人類の生命がある。ここに言う生命とは、もとより単に肉体的な生命だけを指すのではない。我々には精神的な生命がある。このような生命の根源すなわち聖なるものに対する畏敬の念が真の宗教的情操であり、人間の尊厳と愛もそれに基づき、深い感謝の念もそこからわき、真の幸福もそこに基づく、こういうふうなものが出されている。

 さらに、政府見解もずっとありまして、こちらにおられる町村文部大臣が平成十三年の二月にこういう答弁をしておられます。宗教的情操を養ったり、あるいは、自分よりもはるかに超越したものが世界にあるんだ、世の中にあるんだということを身をもって感ずるということはとても大事であります、宗教的情操でありますね。

 前の中曽根文部大臣も、宗教的な情操を深める教育につきまして、教育基本法や学校教育法に基づいて、学習指導要領において児童生徒の発達段階に応じて指導する。

 小杉隆文部大臣も、平成九年であります。我が国の国公立の学校では、憲法とか教育基本法、こういった特定の宗教のための宗教教育は禁止されています。この辺が特に戦後に強調され過ぎた嫌いがなきにしもあらず、しかし、宗教的な情操を深める教育というのは大切であります、こう答えている。

 こういうふうな政府答弁や、それから今申し上げました文部科学省、当時は文部省ですね、中教審の答申とか読むと、まあ、憲法の縛り等もあるけれども、宗教的情操は何としても必要なんだとみんなが語ってきていたわけであります。こういう中で、宗教的情操をなぜ今回は入れなかったのか、なぜ入れなかったのか、その明快なる答弁をもう一回お伺いしたい。

伊吹国務大臣 今先生がおっしゃった、人間は極めてちっぽけなものであって、自分たちの力の及ばない歴史の大きな時代の流れや、あるいは自然がつくり上げてきたものに対する畏敬の念、これは、一般論としては当然そういうことはあってよろしいと私は思います。それは、町村大臣の答弁もそういう趣旨で御答弁をなすっているんだと思います。

 情操という、これはまた言葉の定義になるわけですが、一般論としてそういう話をしている中で、特定の宗教の教義を引くことによって、これは教える人の心の中が見えませんからね、民主党からこの前御質問があったときにも私はそれをお答えしたんですが、教える人が特定の宗教の教義をもって情操を教えるということは憲法上禁止されているわけです。ですから、今先生がおっしゃったような、一般論を教えるということは何ら問題ではないと私は思いますし、情操という言葉をここへ書き入れた場合に、特定宗教を信仰している教師がこのことを盾にとって特定宗教の教義をもって情操を教育することを排除するということのためにあえて入れなかったということだと思います。

松原委員 これは非常に難しい部分で、後でまたさらに質問を続けていきたいと思いますが、宗教的情操が多義的であるということで入っていないというふうなことの御答弁もあったようでありますが、宗教的情操が多義的であるという、このことはどういう意味でしょうか。

伊吹国務大臣 私の答弁を情操が多義的であるとおとりになったのならその答弁が不適当だったのかもわかりませんが、先生がおっしゃったような一般論として、宗教が人間に対して持っている意味合いを教えるということは何ら問題じゃないと私は思います。

 例えば、イスラムが持っている考え、それからキリスト教でもキャソリックが持っている考えとプロテスタントが持っている考え、プロテスタントの中にもいろいろな宗派があります。その特定の宗派の持っている教えというものを情操という言葉に置きかえて教師が生徒に教えるということはやはり憲法上の制約があるので、あえてそこに書かなかったということです。

松原委員 そうすると、宗教的教育、宗教的な情操教育というものに関しては、これは今回の教育基本法では否定をしている、こういうふうに考えた方がいいんですか。

伊吹国務大臣 これは、先生のおっしゃっている情操という言葉の定義、意味合いだと思います。私が申し上げているのは、この情操という言葉の中に教義的な意味合いが含まれるおそれがあるので、あえてそこの危険を憲法上の制約から外したということです。

松原委員 では、この宗教的情操について、藤村さん、お答えできますか。

藤村議員 我々も、かつてずっといろいろ答えさせていただいておりますので、それらの答弁の中から今ちょっとピックアップしたいと思います。

 宗教的な、一般的教養のみで果たして、まさに子供が、今の生死の問題とか抱えている問題が本当に解決できるのか。つまり、人間の力を超えたものに目を向けていくことで、生きとし生けるものの命の大切さ、あるいは自分自身に謙虚になることなど、そのことが他者に対して思いやりを持つことということで、宗教的情操という言葉で、うちは感性という言葉を使っておりますが、ここまで踏み込んでやはり教育の分野で教えるべきであるというのが我々の主張でございます。

 情操と感性とどう違うかと言われると、言葉の違いで、ほぼ似ているんですが、感性の方がもうちょっと大きい概念ということで我々は使いました。もう一つ、情操というのが古めかしいということもありましたので、新しい感性という言葉を使いました。

松原委員 やはりこの部分、踏み込むというのが私は大事だと思うんですね。特に今の殺伐とした事件が多発している状況の中では、私はこの部分というのは物すごい大事だろうと。

 宗教教育と書いてあるけれども、そうなると、具体的に、宗教のどういう教育が行われるのか。それは例えば、今言った精神的な部分で、情操面において、子供たちの考え方、そこにやはり生命への慈しみとかを教える、そういった宗教教育なのか、単なる知識教育なのか、どういうふうな宗教教育をここでは規定しているのか、お伺いしたい。

伊吹国務大臣 宗教的な気持ちの中で、先生がおっしゃった、やはり人間というのは非常にちっぽけなものだ、悠久の歴史の中で、現在に生きている命というのは、自分の判断というのは極めて短く、かつ経験の少ないものである、そして、大自然から教えられるものというのはもっともっと大きなものであるから、自分は常に謙虚でなければいけないという気持ちをしっかりと持つ。そのためには、事実として、例えば、日本の伝統的な宗教と言っていいかわかりませんが、信仰の対象であった神道というものは、例えば大きな木であるとか山であるとか滝であるとか、こういうものにおいてその気持ちを代弁させているんだよということを教えることは、宗教教育であるわけですよ。

 しかし、であるから、神道をぜひ信じた方がいいというところへ踏み込んでくると、これは教師の心の中が見えませんから、教えるのか事実関係を述べているのかということの境界が非常にあいまいになってくるから、そこのところに遮断をしているという意味なんです。

松原委員 先ほど、私がさまざまな文部省の見解や、それから文部大臣の見解も申し上げて、宗教的情操は必要であると。宗教的情操は必要であるという点は、これは大臣も一緒ですよね。

伊吹国務大臣 一般論としての宗教の持つ情操というものは必要です。

松原委員 宗教の持つ情操、必要であると大臣がお答えになったそれは、この宗教教育で、この箇条において実現されますか。

伊吹国務大臣 一般論として私が申し上げた情操は、これを受けて、そして学校教育法を受けて、その指導要領によって、それは教師の能力があれば当然達成できるものです。

松原委員 これで達成できるかと。私は、教師の能力というところで最後の条件をつけて、それだけ条件をつければ、できませんと言っているのと同じなんですよ。それだけ条件、これがこれで、これがこれで、これがこれで、全部よくって、最後に教師の能力まであればできますと。できますか、それ。これだけ問題意識がずっと営々として語り継がれてきて、今回それをやらなかったらどうなるんだ。

 下村さん、これはできますか。今宗教的情操は必要だと言った、一般論として。必要なんですよ。しかし、この箇条で、しかもここに書いてあるように、「特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。」これはそうかもしれないけれども、従来と同じように縛りを入れて、従来と同じような状況で従来と違ったものが生まれますか、下村さんにお伺いしたい。

下村内閣官房副長官 お答えいたします。

 松原委員とは議連等で活動している中で、共通の認識、理解を持っているというふうに思います。その上に立って、現行法の教育基本法におきましても、宗教に関する寛容の態度、宗教の社会生活における地位、これは教育上尊重するということで、現行法でも宗教の大切さを明示しているわけでございます。

 その上に立って、これも入れながら、一方で、先ほど伊吹大臣からお話がありましたが、国際関係が非常に緊密化、複雑化している中にあって、他の民族の文化等を学ぶ中で、その背景にある宗教に関する知識、理解を深めるということの中での、今回、宗教に関する一般的な教養、これを教育上尊重をさらにするということを新たに規定しているわけでございます。

 そして今回、宗教的情操でございますけれども、これは政府として、かなりきっちりとした定義の中で考えれば、その内容が非常にやはり多義的である、また、特定の宗教、それから宗派を離れて教えるということは難しいのではないか、こういう意見がございまして、政府案の中には規定しておりません。しかし、先ほど松原委員が御指摘した宗教的な情操、あるいは宗教的な感性、そういう意味でいえば、学校教育の中で道徳を中心に、宇宙や生命の神秘等人間の力を超えたものに対する畏敬の念、こういうものをはぐくむ指導を行う、こういう取り組みは今後とも大切であり、いわゆる広義の意味での宗教的な情操、感性、これは道徳等の中できちっと教えられるというふうに理解をしております。

松原委員 これは非常に難しいところでありますが、まず今多義的と言った部分に関しては、これは他のこの基本法の中で語られている概念にも多義的なものというのは随分あるわけであって、多義的であるということを理由にして宗教的情操を入れないというのは、これは承服しかねる部分であります。

 それはそういうことにしておいて、私は現実に、今言った畏敬の念を持つ、そして、この祈るという行為、これはいかなる宗派であろうと、祈るという行為の中に込められた一つの姿勢というのはそこにある、そこまでは一般的に踏み込めるのではないかというふうに思っております。

 私は、サッチャーの教育改革を三年ぐらい前に見に行きました。そのときに、ある小学校において、その学校の先生が、非常に印象的だったのは、部屋を若干暗目にしてろうそくに火をともし、そのときに彼女は、それぞれのお宅で宗教を持っている方はその自分の信ずる神様を祈りながら思いなさい、何もそういったものがない人は本当に心の中から瞑想しなさいというふうなことで、一つのテーマを与え、わずかな時間でしたが、三分四分のそういったことをした。私は、そういうときに、一般論的な祈りのようなものがあって、そこに彼らの自省する、みずからを省みるという瞬間もあったのだろうというふうに思います。

 問題は、どこまでやったらばここで批判されている特定の宗教のための宗教教育になるのか。今、ヤーバリー校、イギリスのその学校でやったようなものはオーケーであるというふうな一つのガイドラインのようなものがなければ、現場の教師がこんなことを判断できるほど、今度胸ないですよ。だから、今言ったようなものに関して、それはいいんだよ、それはいけないんだよと、どこまでだったらいいのか悪いのか、そういうガイドラインをつくるべきだと思うんですが、まず下村さん、答えてください。

下村内閣官房副長官 今の松原委員の御指摘の小学校、私も一緒に行きまして、その授業を見学させていただいたわけでございます。その中で、ある方にとってはただの瞑想の時間というふうに思われる時間、空間でもあったと思います。

 先ほどの御指摘のように、校長先生が特定の宗教、宗派のもとにその空間、時間を生徒に提供したわけではなくて、その時間、空間の中で、それぞれの宗教、宗派の思いをいたす子供もいれば、あるいは全く一つの瞑想として、その時間そこに座っていた子供たちもいたかもしれません。

 そういう中で心を落ちつかせて、それぞれ子供たちが各自考えることについて、学校側は何ら規定も教化もしないということでございまして、それが広い意味での宗教ということであればそういうふうにも言えますし、一方で、我が国的な言い方をすれば、それは瞑想の時間ということでいえば、そういうふうに定義もできる授業ではなかったのかなというふうに私自身はそのとき感じさせていただきました。

松原委員 重ねて副長官にお伺いしますが、今ヤーバリー校では、それぞれの宗教を持っている人はその宗教で祈っていただいていいですよ、相手は小学校の三年生とかそういう、ちょっと学年も幾つかあったと思いますが、そして、そういったもののない人は瞑想ですよと。つまり、それは、宗教でもあり瞑想でもあるけれども特定のものではない。こういうレベルのものは、今回の、従来からの見解の中でも結構です、この宗教教育として当然許容されると下村さんは考えておられるわけですよね。確認します。

下村内閣官房副長官 お答えいたします。

 先ほど答弁いたしましたように、ある子供たちにとってはそれは宗教的な授業としてとらえる子供もいたかもしれませんし、それを瞑想の時間としてとらえた子供もいたというふうに思います。ですから、それをいわゆる宗教教育として我が国で定義づけるという意味では、授業としてはなじまないのではないかと私自身は感じました。

松原委員 今の答弁は、宗教教育という名称ではないけれども、それはいい、こういう答弁だったと思いますが、宗教教育という項目があるんだから、これを宗教教育というふうに言わなかったら、どこにも宗教教育なんかなくなってしまうわけであります。

 それで、大臣、このガイドラインを、やはりいろいろな実例で、こういうレベルまではいいよと。今言ったイギリスのそれも、ある種一つのぎりぎりの線なのか、どこでもやっていることなのか、その校長先生の発案なのかというのはありますが、そういうガイドラインをつくらないと、これだけほっぽってあったんじゃ現場は判断できないし、それは学習指導要領の中でといったって、そこだけ範例集でこういう事例はこうだとかこれはどうだとか、そこまでは書けないわけですから、私は宗教教育のガイドラインというのはやはり考えるべきだと思うんですよ、必要だとおっしゃる本当の情操を目指すならば。

 それに関して、僕はガイドラインが必要だと思うんですが、御答弁をいただきたいと思います。

伊吹国務大臣 宗教教育のこの第十五条は、現行法と同じように、宗教の社会生活における地位は尊重されねばならないということを書いておりますね。これは、やはり人間というのは非常にちっぽけなものであって、謙虚であるべきであるという、まさに宗教を考える一番の出発点のようなもの、そういうことを教えていくについて、今先生がおっしゃった、ろうそくをともして個別の教義といったら、英国はアングリカンチャーチがほとんど主流を占めておって、もちろんキャソリックの人もいれば、イスラムから移民をしている人もいますが、日本だと仏教だけでも物すごい宗派があるわけでしょう。ですから、それを一つ一つ挙げて、実例というか、今の先生のお言葉をかりればガイドラインをつくるというのは非常に難しいと思いますが、一般論としてこういうことで宗教教育を実施しなさいということは、学習指導要領の中にある程度のことを書き込んでもいいと私は思っております。

 しかし、それが、それじゃできないよ、すべてガイドラインで、範例集でということになると、この十五条の二項に違反しないようなことを万とある宗教についてみんな書かないといけないということは、これはやはり現実的には不可能であって、だから私は教師の能力によってと申し上げたわけです。

松原委員 教師の能力でそれができるならば、それはもうそれでいいわけですよ。できないからこうやってお伺いしているわけでありまして、最終的に、ガイドライン的なものを指導要領につくりましょう、そこからスタートするしかないかと思いますが、私は、やはり他の国においてのそういう事例も研究しながら、ぜひともガイドライン的なものをきちっとつくってもらわないと、これは単なる、まさにお題目だけの宗教教育で終わってしまう、これでは意味がないということを申し上げたいと思います。

 次に、いわゆる不当な支配というせりふがあります。この中で「教育は、」と書いてありますが、これは「教育行政は、」というふうにした方がいいのではないか。「教育は、」というと、例えば家庭教育とか、極めて普遍的になってきますので、具体的にこれは、教育基本法で国が定める中においては、やはり教育行政というふうに明示的にした方が私はいいのではないかと思うんですが、これについて、なぜそうしないのか、お伺いをいたします。

伊吹国務大臣 今お尋ねの件は十六条に関してだと思いますが、これは、今先生がおっしゃったような御意見も確かにございます。しかし、中立性、あるいは、そのときに政権を担っている政党あるいは地方議会を指導している知事の推薦党派、そういうものから中立であるべきものは、行政だけではなくて、やはり教育そのものである、だからそのような記述をしております。

松原委員 これは、教育というふうに言うよりも、私は、ここで議論をしているのは、教育の学校現場を含めて行政がやっていることでありますから、今の御答弁ではちょっときちっと御答弁いただいているようには思いませんが、その中で、「不当な支配」というふうな言葉が書かれてあります。この不当な支配というのは具体的にどういうものが想起されて書かれているのか、お伺いしたい。

田中政府参考人 お答えを申し上げます。

 文部科学省として、この事件が不当な支配というようなことを認定したことはないわけでございますけれども、私どもといたしましては、国民全体を代表しないような団体あるいは個人というところから、こういうことを教育でやりなさいというようなことで、学習指導要領にのっとらないようなことを学校現場に強要してくる、こういうことが不当な支配に当たるのではないかと考えております。

松原委員 過去に、こういった不当な支配、具体的にどういうものがあったのか、教えていただきたい。

田中政府参考人 従来、裁判等では不当な支配というのはあったことがございますけれども、文部科学省として、私どもといたしましては、法令にのっとって毅然とした教育がなされることが必要だ、そういうことで、特定の団体から教育に不当な干渉あるいはそういう支配がなされないようにということで、これまでも指導してきておるところでございます。

松原委員 今言った、法令に基づかない、そういった不当な支配というのは具体的にどういうものがあったんですか。

田中政府参考人 お答えを申し上げます。

 今までも、教育の中で学習指導要領にのっとって教育を行わなければならないわけでございますけれども、特定の課題だけ教えるとか、あるいは特定の課題を教えないとか、そういうものは法令に逸脱した行為であろうと考えております。

松原委員 ずばっと言っていただいても構わないと思って質問していたわけでありますが……。

伊吹国務大臣 なかなか歯切れの悪い答弁だと思いますが、政府参考人としてはそこまでが限界だと思いますので、私からお答えをいたしたいと思います。

 やはり、教育というのは、国権の最高機関である国会が議決した法律によって国民のために行われるというのが筋であって、例えば特定のイズムを持っている団体あるいは勢力が教育の現場に介入をして、それが許されている教育権の行使であるということをやった事例は、司法にゆだねられているのでは、東京都の国旗・国歌の問題、あるいは旭川の、学力調査を不当な支配だと称してむしろ不当な介入をした事案、こういうものがございます。

    〔委員長退席、斉藤(斗)委員長代理着席〕

松原委員 そうした中で、学習指導要領というのがあるわけでありますが、これは法的拘束力が判例によりあるというふうに言われているわけであります。この学習指導要領の法的な規範性を高めるために、私は、これは大臣に答弁していただくのが適切かどうかわかりませんが、この学習指導要領については、国会で承認をするようなことも実は必要なのではないかと思いますが、御所見をお伺いしたい。

伊吹国務大臣 これは、法理論からいえば、国会が議決をされた学校教育法に基づく政令、その政令による告示でありますから、従来の法理論の構成の中でいえば、当然法を構成する一部であるということですから、これは、権威を高めるんじゃなくて、現行の日本国憲法のもとでは当然そういう位置づけになっていると私は思います。

 これを、さらに、国会の承認にゆだねるのがいいかどうか、あるいは政令的な扱いをするのがいいのかどうなのか、これは立法政策上の問題だと思いますので、国会の御判断にゆだねなければならないことだと思います。

松原委員 私自身の見解としては、事教育に関するものでありまして、権威というのが最も尊重されなければいけないのは教育の現場であります。したがって、私は、この学習指導要領を国会の承認事項にするべきだというふうに個人的に思っておることをここで付言しておきます。

 次に、いわゆる国と地方との関係のことが問題になってくるわけであります。

 この国と地方との関係、教育は最終責任をどこが持つのかという議論もありますが、どうも今回のこの基本法において国と地方の相互の関係がいま一つよくわからないとも言われている。例えば学力調査について不参加を表明する自治体があらわれた場合、国はどうするのか、こういったことも含め、国と地方との関係についてお伺いしたい。

伊吹国務大臣 今回の改正法では、国と地方が分担をして教育の実施を行うということを書いておりますが、これは、あくまで憲法に基づいて、そして国会の議決を経て、教育の権限というか教育のあり方を地方にもゆだねるということを国会がお決めいただくことを想定しているわけですね。その後、その役割の分担を担保していく、そしてそれをどこが権限を持って実施していくかということについては、これは教育基本法を受けた各法、下位法という表現は同じ法律ですから不適当かもわかりませんが、教育基本法を受けて、教育委員会の法律だとかいろいろな法律がございますから、その中でまた国会がお決めになる権限に従って運用をしていくということになると思います。

 私は、今回の未履修の問題あるいはいじめの問題を思うときに、もう少し国の学習指導要領等を担保していく権限を下位法によって国に付与していただいた方が適当じゃないかという感触は持っております。

松原委員 今の御答弁は、最終的には国が責任を持つという思いだろうというふうに理解をいたします。

 あと、最後に、時間もないので、教員の部分でありますが、先ほど、教員の資質による、教員の資質によるということを大臣は何回もおっしゃっていますが、もちろん私は、第一番目に、学校の教員になる場合、単に就職するのではなくて、聖職につくというように言われますが、教員がやはり日本のこの教育制度の中できちっとすばらしい国民を育てるために頑張りますというふうな宣誓をするべきだと思うんですよ。そういうぐらいの緊張感を与えるべきだと思うので、これを一つお伺いしたい。

 もう一つは、いわゆる能力が、そうはいっても違う。能力が違う部分だけではなくて、努力も違う。こういったものについて、この教育基本法の中では、教員について、その使命と職責の重要性にかんがみ、その身分は尊重され、待遇の適正が期せられなければいけないと。待遇の適正というのは、能力のある人間にはそれだけの待遇をする、能力のない人間はそれだけの待遇をする。どうでも同じだというのは適正な待遇ではないと思うので、これは、そういう趣旨でこの案文は理解されて運用されるということをおっしゃっていただければ、大変恐縮なんですが、その二点をお伺いしたい。

伊吹国務大臣 人活法のこれからの運用によって、この法律が通れば、先生がおっしゃっているような方向に当然国会の御承認を得て流れていくと思います。今おっしゃった最初のことも含めて、私は全く先生と同意見でございます。民主党の中にはいろいろなお立場のいろいろな方がおられると思いますので、ぜひ先生の御意見を民主党の御意見として御提案いただければ、我々は大変ありがたいことだと思います。

松原委員 民主党はきちっとした法案を出していますから、それは、伊吹大臣、御心配をいただかなくても結構でありまして、今みたいなことをきっちりやってほしいと思います。

 以上で終わります。ありがとうございました。

    〔斉藤(斗)委員長代理退席、委員長着席〕

森山委員長 次に、前原誠司君。

前原委員 おはようございます。民主党の前原です。

 きょうは、伊吹文部科学大臣そして民主党の提案者に対して、通告をしております問題につきまして質問をさせていただきたいというふうに思います。

 教育基本法の問題、内容が議論されているわけでありますが、まずあらかじめ、私の所感を伊吹文部大臣また民主党の法案提出者にお話をしたいと思います。

 もちろん、この教育基本法自体の改正については私は大事な案件だと思っておりますし、この委員会でも議論されてきましたように、民主党も対案をしっかり出して、そしてどちらがすぐれているものかということについて議論をするということになっているわけであります。ただ、そういう教育基本法自体を見直すことに私は異存はありませんけれども、私の感覚からすれば、この今の教育が抱えている問題というのは現場で起きているんですね。したがって、法律とか制度を変えて一朝一夕で今の教育の問題が解決するなんということは全くあり得ないというふうに思っております。

 ということは、これらの問題というのは、いじめの問題、未履修の問題もそうであります、学力の低下の問題、さまざまな問題があるわけでありますけれども、教育基本法を改めなければ解決しない問題ではない、また、教育基本法を改めれば解決できる問題でもない、こういうことで、私はぜひ運動論で教育の問題というものを、この教育基本法とともに、運動論の重要性、現場の重要性という観点からきょうは質問をさせていただきたいと思います。

 つまりは、学校を変える、現場を変える、そして先生の意識を変える、そして保護者の意識を変える、地域の人々の意識を変える、こういった運動論というものを中心に私はこれから議論をさせていただきたいと思います。

 まず、その運動論として、教師の評価の問題についてお話をさせていただきたいと思います。

 教師の教える力についてでございますけれども、文部科学省は、教員の不祥事の多発を受けまして、二〇〇〇年から指導力不足教員の認定と研修を始めております。二〇〇五年度は、全国の公立小中高等学校の教員、約九十万人いますね、九十万人のうち指導力不足の教員の認定を五百六名して、そして百十六名が研修を受けて現場に復帰している。百三名については依願退職をして、六名は分限免職であるということであります。約九十万人ということを分母にいたしますと、指導力不足の教員は約千八百名の先生のうちに一人しか生まれていない、こういうことになるわけです。

 後で教育委員会等の問題についても議論をさせていただきたいと思うわけでありますが、まず文部科学大臣にお尋ねをしたいのは、文科省が実施をしている、このいわゆる指導力不足の教員の認定の数、これは実態と合っているのかどうなのかということについて、伊吹大臣は先般の安倍内閣発足のときになられた新しい大臣でありますので、その前のことについては責任を、もちろん継続しておられる立場にあるかもしれませんが、しかし私は、そこは率直なお立場で、これは実態に即した数なのかどうなのかということを御答弁いただきたいと思います。

銭谷政府参考人 指導力不足教員の問題でございますけれども、現在、各都道府県、政令市で行っておりますシステムは、指導力不足が疑われる教員につきまして、任命権者である教育委員会に校長が申請をいたしまして、各教育委員会で設置をしている判定委員会において当該教員を審査する、その上で、この判定委員会の意見を受けて教育委員会が指導力不足の認定をするというシステムでございます。

 もちろん、この指導力不足認定までの間に校長先生が教員についていろいろな指導、支援等を行って、改善が見られて申請に至らないというケースもあるわけでございます。

 いずれにいたしましても、指導力不足と認定をされた教員につきましては、認定とあわせまして、必要な研修または分限免職処分等の措置が決定されるわけでございます。

 数につきましては、ただいま先生からお話がございましたように、平成十七年度は五百六名という数でございます。

 こういうシステムがまだ始まって間もないということもございますけれども、各都道府県あるいは政令市の教育委員会におきましては、こういうシステムをきちんと運用することによって先生方の指導力の向上ということをむしろ期待もし、また、本当に指導力不足の教員については、適切な研修そして措置ということを今心がけているところでございます。

伊吹国務大臣 事実関係は今政府参考人が申し上げたとおりだと思いますが、一番最初に先生がおっしゃったように、制度を変えたから物はうまくいくわけでもございません。それはおっしゃるとおりです。特に、保守主義の根幹というものは、制度よりもその制度を動かす人間の力というものに一番大きくウエートを置きながら物事を考えていくというイズムですから、おっしゃっていることは私は全く同意見でございます。

 それで、今の御質問について申せば、二つ問題があると思います。

 一つは、小学校、中学校の公立の教職員については、都道府県が定める要領によって市町村の教育委員会が勤務評定の実施者となって実態を把握している、要するに、不適格な教師というものの考え方、これが一つあると思います。物を教えるのは非常に上手だけれども、全く児童の心情を理解しない先生もいるでしょうし、逆の場合もあるというその考え方の基準、これがどうか。この考え方の基準を都道府県教育委員会が今示しているわけですが、率直に言うと、今の法令の仕組みでは、そこへなかなか文部科学省としては全面的に入っていきにくいということですね。

 この全体の教育行政の流れ、これは後で先生から御質問があるかもわかりませんが、その両方を考えてみて、私の印象からしますと、テレビを見たり新聞を読んだりしている一般の社会人としての印象は、ちょっと少ないんじゃないかなという気がします。

前原委員 都道府県の教育委員会そして市町村の教育委員会の問題については後ほど議論させていただきたいと思うわけでありますが、今伊吹大臣からお話がありましたのは、不適格という考え方の基準については都道府県の教育委員会でその基準をつくっているけれども、それについて文部科学省は入っていけていないということでありまして、そこは、文部科学大臣が目指しておられるあるべき姿と我々のあるべき姿は恐らく逆方向だと思います。我々も、後でお話ししますけれども、かなり分権的な要素を入れていくべきだと思っておりますのでそこは違うわけでありますが、ただ、ポイントとして申し上げたいのは、基準をつくることは私は大事だと思うんです。それで、これは基準をどのように的確に運用するかということで、だれがそれをチェックするのかというところの問題が非常に大きいと思います。

 それを議論する上で、私の事務所に来たある教師からのメールを文部科学大臣に少し御披露して、実態感覚というものを共有してもらいたい、こういうふうに思うわけであります。

 うちの学年は二年生で、担任は四人いるのですが、今は女性二人で学年を支えています。主任の男性の先生と講師の男性の先生が子供をまとめられず、学級崩壊寸前まで来ています。校長やいろんな機関から、教育委員会だと思いますが、アドバイスとか相談を受けているみたいですが、担任本人や教育機関などとの連携、お互いが協力をして温かいクラスにしていこうという意気込みや的を得た教育活動に欠けるため、改善の方向には全く向いていません。疲れているのはよくわかるのですが、会議中にこの二人はしょっちゅう居眠りをします。やる気があるのかなと疑わざるを得ませんし、こちらが何回注意をしても全然よくならない。厳しく注意をすると逆切れをされてしまうようなありさまです。主任の方などは、あと一年で定年なのだからと、いいかげんにやってもいいだろうという内容の言動が見られます。

 このメールは実名で来ておりますけれども、そういった報告というか、そういう訴えが来ているわけです。恐らく、伊吹大臣の地元の事務所や、あるいは多くの同僚議員のところにも同じような学校現場の生の声というのが届いているかというふうに思うのであります。

 現場感覚ということになれば、千八百人に一人しか指導力不足の先生がいない、先ほど基準というものをどういうものに置くかというお話がありましたけれども、やはり徹底的に学校のレベルで指導力不足の教員を洗い出して、そしてそれを更生させないと、割を食う、損をする、そして不利益をこうむるのは子供でございますので、そういったところの仕組みというものをしっかり考えていかなくてはいけないというふうに思っております。

 そこで、幾つかの質問をし、こちら側の提案も含めて、これについては民主党の提案者にもお尋ねをしたいというふうに思いますけれども、まずは文部科学大臣に、こういった不適格、先ほど実態よりは少ないんじゃないかという気がするということを御答弁されたわけでありますが、中教審においてはことしの七月に、免許の有効期限を十年として、そして、期限満了前の二年間に最低三十時間の講習を受けないと免許を失効させるという内容の答申を文部科学大臣に出されております。私学含めると百万人で、十万人ずつ十年で交代交代に、こういうことだというふうに伺っております。

 先ほど大臣は、いわゆる指導力不足の先生については、実態よりもこの数は少ないと思うと。では、この中教審が答申をした内容で果たしてそういった問題は解決されるのかどうなのか。先ほど、それは文部科学大臣のお考えとして方向性は違うと申し上げましたけれども、これでもし不十分であるならば、どういったものをさらに付加してその指導力不足の教員の是正というものに取り組まないといけないと考えておられるか。その二点について御質問します。

伊吹国務大臣 これは、後ほど民主党の提案者にも御質問になると思いますが、この法案が通った後、どういう教育行政の流れをこの理念法のもとにある法律でつくり上げながら、国会にお尋ねをして実施していくかということに私は大きく依存する面があると思います。

 しかし、制度を変えても、先生が冒頭におっしゃったように、最後はその制度の中にいる人間の力にかかってくるんですね。ですから、松原先生がさっき御質問していただいて、教師になるときは宣誓をするんだということをおっしゃいましたが、民主党の提案者に後ほど聞いていただきたいのは、民主党もその松原提案を全面的に受け入れられるかどうかということをぜひ聞いていただきたいと思うんですが……(前原委員「質問に答えてください」と呼ぶ)いやいや、だから民主党もそういう提案を受け入れていただくのであれば、国会として、そういう先生をまずつくるんだ、そういうことで教師のスタートが始まるんだというところからやっていけば、私は随分よくなると思うんですよ。

 ですから、例えば、今の十年というこの中教審の提案がいいのかどうなのか。これは再生会議でもいろいろ議論をしておりますし、今いろいろな事案が起こっております。そして、先生からも今いろいろなお尋ねがある。こういう国会でのやりとりも参考にしながら、最後は私がその判断をしていかねばならないと思いますし、今のままでだめだと言われた教師を十年に一度ずつ研修をしていくということだけですべてが直るかというと、必ずしもそれですべては直らないでしょう。だから、先ほど松原先生がおっしゃったようなことも直すための一つの立派な提案だなと私は思って、最初に申し上げたわけです。

前原委員 民主党の法案については私が民主党の提案者と議論しますので、大臣はそこまで御心配いただかなくて結構ですから、私の質問だけにお答えをいただきたいと思います。

 つまりは、今お認めになったように、この中教審の答申だけでは指導力不足の教員というのは直らないのではないか、やはりプラスアルファの部分が必要じゃないかということをお認めになったわけです。その一つの事例として宣誓ということをおっしゃって、まあ、一つの例とおっしゃったんでしょうから、それは一つの考え方かもしれませんが、私が議論したいのはそこなんですよ。

 つまりは、十年に一度の免許の更新、しかも、二年間で三十時間だけで今の指導力不足というものを解消できるとはとてもじゃないけれども思えない。だから、そこをどのように具体的に変えていくのかというところを、やはりこの教育基本法という基本法を議論すると同時に、先ほど私が申し上げたことについて大臣が呼応していただいて、人間の力にかかっているんだ、つまり、基本法を幾ら仮にいいものをつくったとしても、最終的にはそれを運用する人の力にかかっているんだということであれば、先生も含めて、その人をどのように教育をしていくかということが大事なポイントになってくるわけであります。

 大臣として、この委員会での質疑を見ながらということでありますが、この中教審の答申以外にどういうものを付加していけば、この指導力不足の先生というものの数を減らせるのか、あるいは逆に言えば、千八百人に一人という過小評価、潜在的な指導力不足の先生を浮かび上がらせて、そして指導できると思われますか。

伊吹国務大臣 これはいろいろなやり方があると思いますが、各教育委員会で、結構やる気を出させている教育委員会もあるんですね。これはやはり人によると申し上げましたけれども、教育長の指導力とか、あるいは地域の学校協議会の対応だとかによって随分違います、率直に言って。ですからこれは、文部科学省が持っております現行の法律上の立場からいえば、そういう成功事例をできるだけ多くの教育委員会に学んでもらうとか、あるいは、担当の主事や何かに上京していただいて、御一緒に学んで、それをまた学校へ持って帰ってもらってやっていただくとか、そういうことがございます。

 しかし、これは後ほど議論になると思いますが、私も行政官をやっておりましたけれども、やはり最終的には、予算権と人事権、それから法令の執行権、これを持っているところが、まさに先生がおっしゃっている、やる気を出して、いい教師をつくっていくという意欲がないとできないんですね。

 ですから私は、この法律がお認めをいただいた後、少し、その辺の教育行政のあり方についてまた国会で議論していただきたいなと思っております。

前原委員 民主党の提案者に伺いますけれども、教員の質の向上のためにはどういった仕組みが必要だと考えておられるのか、教育基本法の中身を含めて提案者の方に簡潔にお答えいただきたいと思います。

藤村議員 前原委員にお答えいたします。

 まず私は、教員養成課程という、大学における教員養成の課程、これは相当重要な案件であると思います。

 次に、今は、都道府県教育委員会が採用する教員採用試験、これは数倍から十数倍の倍率がある。すなわち、優秀な人が採れるにもかかわらず、教育委員会というややお役所的なところで採用するときにはどうしても点数で採ってしまって、いわば面接が非常におろそかになっていたりする。私は、もう十年来このことを主張し、今、民間の人事担当者がその採用試験に入ってくれるというふうな都道府県も出てきたようでありますが、そういうことも一つの改善要素であろうと思います。

 そして次に、そこで本当はしっかりとした人材を確保しておれば余りその後の問題はないと思いますが、しかし、教員を研修するという意味では、今、初任者研修、五年研修、十年研修ですか、ずっとあるわけですけれども、この研修は非常に重要だと思います。

 ですから、養成課程、採用、そしてその後の研修と、ここでしっかりとした先生になっていただくというのが一応の考え方であります。

 先ほどの松原委員のお話でありましたように、教員が非常に崇高な理念を持って、全体の奉仕者という意味では、ちょっとほかの仕事とは違うという意味で、宣誓というのは一つの手かとは思います。何か、本当にそういう自覚を持ってもらうということも採用のときには必要かなと思っております。

前原委員 教育行政のあり方をということで大臣はおっしゃいましたので、少しそこに踏み込んで議論させていただきたいと思います。

 二点を大きなテーマとして意見交換、議論させてもらいたいと思います。一つは教育委員会のあり方です。もう一つは、先ほど大臣が言及をされました学校運営協議会、コミュニティ・スクール、これにつきまして議論させていただきたいというふうに思います。

 教育委員会のあり方というのはこの委員会でもかなり議論をされてまいりましたけれども、最終的には、このあり方を見直さなきゃいけないというところでは一致している。しかしながら、そこの権限を、国に強化するのか、あるいは教育委員会そのものの権限を強化するのか、あるいは現場、学校に移していくのか、学校長に移していくのか、いろいろな考え方があるというふうに私は思うわけでありますが、教育委員会がうまく機能してこなかったということは、さまざまな事例で明らかであります。

 この委員会でも再三再四取り上げられていました北海道の滝川市の教育委員会の問題、女の子が残念ながらいじめを苦に自殺をされるということでありましたけれども、この七通もの遺書については長期間無視をしていた。そしてまた、あげくの果てには辞任に追い込まれましたけれども、この教育長は、遺書じゃなくて手紙だということを抗弁した。そしてまた、そのコピーをしていた北海道の教育委員会がコピーを紛失していた。こういったことが明らかになっているわけであります。

 こういう教育委員会の、その滝川市が特別かどうかということについては議論があるところだと思いますけれども、そういう市町村の教育委員会、都道府県の教育委員会のもとで、例えばあきれた統計としては、過去七年間いじめによる自殺はゼロであった、こういう発表を文部科学省はしているわけですね。ですから、やはりこの教育委員会というものにメスを入れなければ現状の教育というのは直らないということは、これはだれもがお感じになっていることだというふうに思います。

 さてそこで、この教育委員会というものについて私のまず認識を申し上げたいと思います。

 一つは、政令都市は、これは権限が移譲されていて人事権もありますけれども、普通の市町村の教育委員会というのは人事権がありませんですね、上部の都道府県の教育委員会が持っておりますので。余り機能していないところが多いんではないかというのが私の率直な印象であります。特に、小さな自治体になればなるほど、これは、人材が、パイが少ないということもありまして、うまく機能していない。そしてまたよく言われるように、地元の名士とか教員のOBで占められているということによって、この教育委員会が果たして機能しているのかどうなのかということについては、私は大きな疑問を感じているわけであります。

 私も地方議員をさせていただきまして、教育委員長というのがおられますよね、なっている方に対して失礼なんですが、お飾り的な面があって、実質的に力を握っているのは、やはり教育委員の一人である教育長、これが実質的な力を持っていて、五名ないし六名で成り立っている教育委員会あるいは教育委員長というものはかなりお飾り的なものになっているんじゃないかというふうに思いますが、実情の認識について文部科学大臣は私と意見を同じにされるのか異にされるのか、いかがでしょうか。

伊吹国務大臣 教育委員会といった場合に、今先生が御指摘になりましたように、地方の名士の方々を中心に五名で構成されている委員会というふうにとらえがちですが、実は、その中の一人が教育長になり、その後ろに膨大な事務局という組織があるんですね。ですから、教育委員で一体何ができるのかというのは、私はちょっと違うと思うんです。膨大な事務局を実は持っておるわけです。

 問題は、その事務局を使いこなせているかどうかということが一つと、それから、事務局の方々がほとんど学校現場と交流を持っておられた先生方で成り立っているということですね。そして、どの組織でもそういうことはあるわけですが、自分の身がかわいい、自分の組織を守りたいという気持ちが強い。ですから、先ほど来、北海道の例を先生がお出しになりましたが、ああいうことが起こる。

 だけれども、教育委員あるいは教育委員長がそれに対して指導力を発揮できているかといえば、私は全く先生と同じ認識でおります。

前原委員 では、例えば人事の問題にしても、どのように考えていくかということが私は大事なことだと思います。そこで、あわせて、学校運営協議会制度も含めてちょっとこの教育委員会のあり方を議論させていただきたいと思います。

 大臣と私は同じ京都でございまして、京都市の教育委員会の取り組みとして誇るべき仕組みの一つが、この学校運営協議会というものを広めていっているということについては、これは大変いいことだというふうに私は思っております。

 これは文部科学省からいただいた資料でございますけれども、十月十一日現在で、百三のコミュニティ・スクール、学校運営協議会制度を持った学校がある。本年度中には百三十四にふえるだろう、来年度については二百七十八にふえるだろうということで、京都市の門川教育長と話をしていれば、京都だけでも五十を超してやりますよ、こういう話をされているわけであります。その百三校のうち、東京も若干ありますね、多いのは島根県の出雲市、それから京都市、これが圧倒的に多いわけであります。

 それで、このメリットをどういうふうに考えていくのか。先ほど大臣は、さまざまないいモデルを勘案して、それを広めるようなこともやっていかなきゃいけないという話をされました。私はその考え方は非常に賛成でして、先ほど一番初めに申し上げたように、仕組み、制度、法律を変えても、基本的に現場は変わらない。つまり、現場を変える上で、成功しているモデルケースをどのように広めていくのか、そしてまた、そのモデルケースの中で仕組みとして採用できるものについてしっかりとそれを拾い上げていくということが私は大事だというふうに思います。

 さてそこで、この学校運営協議会のメリットについて私の意見を申し上げます。そして、そのことについて大臣のお答えをいただき、そして、それを教育委員会の議論につなげていきたいと思います。

 学校運営協議会は、御所南小学校とそれから西総合養護学校、この二つを私は視察させていただきました。ここで思いましたのは、学校運営協議会というのは、学校とそして地域のボランティアの方々から成る学校運営協議会のメンバー、それからPTA、保護者ですね、そういった三者から学校運営が成り立っている。週一回とか二週間に一回とか、夕方から夜に集まって、先生も含めて、学校の運営、総合学習はどうあるべきかということをそういった方々が議論されているわけです。

 そこで私は、この学校運営協議会というのはすばらしいなと思ったのは、主に三つあります。

 一つは、地域の方々が学校に入り、そして保護者の方々は、もちろん今までも時々は学校に入っておられたんですけれども、先生と議論することによって先生の評価ができるんですね。これは非常に私は大きなことだと思います。先ほど、先生の評価システムということで教育委員会に任せるという話がありましたけれども、私はむしろ、学校運営協議会というものを全国に広げていって、地域の方、保護者の方に、先生と交わる中で先生の評価を厳しくチェックしてもらう。現に、この学校運営協議会の制度については、人事に関する意見というものを教育委員会に上げることができるということが言われていますよね。これは、逆の目からすれば、先生たちは戦々恐々であります、コミュニティ・スクールに指定をされれば。したがって、先生がいわば地域の方々や保護者の目にさらされるということになる。これは一つ大きなポイントだと思います。

 二つ目のポイントは、保護者の方々が、もちろん、そういったコミュニティ・スクール、学校運営協議会に参加をしようというPTAの方々は、時間もあって、そして意識も高い方であることは間違いありませんけれども、そういった親御さんでさえ、話をしていますと、自分の子供の家庭での教育に自信が持てない、皆さんどうされているんだろうか、あるいは、地域の方々は今までどうやって子供を育ててこられたんだろうかということを学校運営協議会で議論して、いい勉強になるんだと。つまりは、親の教育にこの学校運営協議会というものはなっているという意味で非常に評価をされておりました。

 このごろ、子供を虐待して死に至らしめるという残酷な親も出てきているわけでありまして、そういう親はなかなか学校運営協議会に来るなんということはあり得ないとは思いますけれども、しかし、そういった受け皿をつくって、そして親の意識を変えていくということも一つの大きな私はポイントだと思うんですね。

 もう一つ、三点目については、二〇〇七年問題というのがあります。団塊の世代がいよいよ来年から定年退職を迎える中で、再就職をされる方とか趣味を頑張ってやられる方以外は何をするかという話になるんですね、これから第二の人生を。そういったときに、一番大事な国の基本である子供の教育について、学校運営協議会というものをつくって、地域の方々にボランティアとして参加をしてもらう、そのことによって第二の人生の生きがいを見つけていただく。そういう意味では、この学校運営協議会というのは私は非常にプラスの面があるというふうに思っております。

 そこで、大臣と民主党の法案提出者に質問いたしますが、私が今三点申し上げたことについての評価と、そして、先生の評価の仕組みをこの学校運営協議会というものに私はかなり移譲してもいいんじゃないかと。ひいては、人事権も含めて、学校長そして学校運営協議会の具申にかけるようなところまでおろしていく方が、きょうの一つのテーマでありますけれども、仕組みを変えるんじゃなくて、現場で本当の血の通った人をチェックし、見、また、緊張感を持って先生が仕事をされるような仕組みになるんじゃないかという私は思いを持っているんですが、それに対して文部科学大臣と法案提出者の答弁をいただきたいと思います。

伊吹国務大臣 まず第一の御質問ですが、学校運営協議会が持っている意味というのは、私は大体先生の御評価と同じ評価をしております。

 教育は、もう申すまでもなく、基本は、やはり家庭教育、家庭におけるしつけ、そして、地域社会における子供の集団の中での育ち方、そして、学校で基礎学力を教える、これが本来のあるべき姿なんですね。ところが、これはもう当然のことですが、社会がこういうふうに発展していく中で、核家族が進み、そして共働きという現実があると、この三つの三角のバランスが崩れてきているわけですね。

 それで、先生と私で京都のことを褒め合っちゃいけないんですが、京都というのは、戦災を受けなくて、比較的定着しておられる方がやはり多いものですから、京都ではあの制度は非常にうまく私は動いていると思っております。

 ただ、これは、どんどん人口が変わってくるような地域でこのことを画一的にやれと言っても、京都ほど恵まれた地域はありませんので、これはできるかなということは考えておりますが、大変いい試みであると私は評価しております。

 それから二番目は、これは、御質問のお答えによっては民主党案の方へだんだん私がのめり込んでいくといけませんので、率直に私の考えを申し上げておきますと、これは、今のような学校協議会のあり方であるから私はうまくいっていると思うんです。これが徐々に人事権を持つとか、あるいは学校運営の理事会的役割を果たしてくるということになりますと、だれがここへ入ってくるか、そして、地域でどういう人たちが主導権を持っているか、こういうことによってかなり難しい問題がやはり私は起こってくると思いますので、今のような、学校の評価も、実はコミュニティ・スクールみたいなところでやっていただいているのと同時に、自己評価というのを当然やっておるわけですね。それから、所によっては、コミュニティ・スクール的評価じゃないけれども、第三者に評価をゆだねているところもありますから、やはり、大所高所からの監査的役割と、それから、地域と学校の連帯の中心にあるという意味でのこの協議会の役割として私は評価させていただきたいと思います。

高井議員 まさに前原委員が先ほどおっしゃったとおりの、我が党案も、京都の事例もさまざまに参考にしながら、コミュニティ・スクール、地域立の学校ということをかねてから主張してまいりました。

 そして、伊吹大臣が先ほどおっしゃったこと、私どもの意見に大変近いんですが、我々は、よりもっと進んだ形で丁寧にやっていこうということで、今回の法案にその面も盛り込みました。そして、真のコミュニティ・スクール、地域立の学校を、行く行くは、いいモデルとして、京都が進めたようなことが全県的に、全国的に広まっていくようにというつもりで、この法案の中にも、最終的には全国に学校理事会を導入していくということを明記しております。

 このために、この第十一条で、地域における教育の基本理念としまして、「地域住民の自発的取組が尊重され、多くの人々が、学校及び家庭との連携のもとに、その担い手になることが期待され、そのことを奨励されるものとする。」ことというふうに、先ほど前原委員がおっしゃったような趣旨でここに強く書き込みました。

 第十八条の四項におきましては、公立学校においては、「保護者、地域住民、学校関係者、教育専門家等が参画する学校理事会を設置し、」としておりまして、それらの方々が、単なる今までの協力者、傍観者ではなく、みんなが責任を持って、責任のある担い手として学校を育てる、子供を育てるということを主体的に、自律的にやってもらうという趣旨で、制度上もこうして明確に取り込みました。

 先ほど来出ております不適格教員と申しますか指導力不足の教員に対しても、教育委員会だけが評価をするということであれば、当然、教育委員会の方だけを向いて仕事をすることになってしまいます。ただ、この学校理事会の中で、みんなの力をかりて、排除するとまではいかなくても、地域の人が鍛えていく、また、校長先生からの目もあるし、地域の保護者、同僚先生、それから教育専門家の目もあるということで、本当に地域全体で、教師自体もみずから鍛えていくということには大変意義があるというふうに考えております。

 今、全国的に、特に小さい市町村は地域力が落ちているというふうに言われますけれども、むしろ、地域力を取り戻すために、学校が拠点となってみんなに協力をしていただいて、そこで子供を育てる、次の世代を育てるということで、みんなが地域を活性化させる大きな担い手となると思います。

 いじめの問題に関しても、現場で起きたことは、現場で地域の人みんなで協力しながら解決する方策は、まさにこの学校理事会制度ということが大変有効に機能するというふうに考えております。

 どうぞよろしくお願いします。

前原委員 今、高井委員からお話がありましたように、大臣、私も、これをてこに地域力を取り戻すという発想は大事な点なんだろうというふうに思うんです。

 大臣がおっしゃったことも私はうなずいて聞かせていただきました。人事権をそこに全部与えていいのかという問題については、ボスがだれが入ってくるかによって大きく異なってくるような部分も確かにあると私は思います。それはしかし、どういうスクリーニングの仕組みをつくっていくのか。

 これは、私もいろいろな教育現場を視察に回らせていただいているんですけれども、例えばこのコミュニティ・スクールまでいかなくても、ボランティアを受け入れている学校というのは結構あるわけです。しかし、例えば子供に読書してあげるというようなボランティアをかなりお年を召した方々がやっておられる。そして大事なのは、コーディネーター役なんですね。そういった、時間があって、子供たちにと思う方においては、かなり個性の強い方も多くて、ダイレクトに子供と接すると逆に大きなもめごとになるようなケースという話も私は聞いたことがあります。これは東京のある小学校でありますけれども。そういう意味では、御心配のところというのもわかります。

 ただ、先ほど、人口が大きく変わっていくようなところでは果たして成り立つのかということなんですが、今、文部科学省からいただいたこの資料を見ていますと、島根県の出雲市は多いと申し上げましたけれども、それ以外は結構大都市近辺で逆に成り立っている。地域だと、逆に大臣のおっしゃるような心配があるんじゃないかと思うんですね。地域的なボスの人が入ってきたら、まさにその人を向いて、先ほど高井委員の御答弁じゃありませんけれども、教育委員会を見て今は仕事をしているのが、今度は地域のボスを見て仕事をしてしまう。そこら辺をどういうふうに排除していくかということは、この学校運営協議会制度には非常に大事なことだと思います。

 ただ、そういったスクリーニングをしながらも、先ほどおっしゃったように、いい事例は、これは汎用化していく、広めていくということが私は必要だと思うんですが、今は百三、今年度中が百三十四、来年が二百七十八、これは大臣、今この学校運営協議会というものをどういうふうな目標で広めていこうと、そして、今おっしゃったようなスクリーニングですね、無条件につくれつくれということじゃなくて、今までの先進事例の中でのメリット、デメリットというものをしっかりと経験則を持ってやはりそのシステムにインプットしていかなくてはいけないというふうに思いますが、どういうふうに広めていこうと考えておられるのか、また、そういったものをどういうふうにインプットされようとしているのか、その点について御答弁ください。

伊吹国務大臣 いいことはやはりどんどんやっていけばいいわけでして、先生は大変言葉を慎重に選んでいただいて、学校協議会とおっしゃっていただいていますから、民主党の提案者は理事会という言葉を使っておられるので、私はすぐにはそれには乗れませんけれども、今の学校協議会的なものは、全国の教育長会議その他で成功事例をやはりしっかりとお見せして、そしてこれを、こんなふうにうまくいっている、しかし中には、こういうボス的な人が入ってきたら大変困る事案が起こってきているとか、そういうことをお知らせしながら、全国にできるだけ広めていくという努力をさせていただきたいと思います。

前原委員 二〇〇〇年施行の地方分権一括法で、国による都道府県教育長の任命承認権とか教育委員会の是正要求権を撤廃された経緯がありますね。つまりは分権していこうということであります。どこまで分権していくのかということについては議論のあるところだと思います。先ほど、理事会という言葉は使わない、協議会だと。私は、民主党の人間ですので理事会にすべきという視点に立っているわけですが、今は、文部科学省の制度に基づいて議論しているので協議会という言い方をさせていただいております。

 例えば、先ほど、これは教育再生会議でも議論になっているというふうに伺っておりますが、やはり人事権ですよね、これを学校長にかなりの権限を移譲するということ、そしてまた、学校運営協議会に具申をするということはありますけれども、全面的にゆだねるわけじゃありません。大臣こだわられているように、理事会ということじゃありませんので。

 ただ、今までの流れからすると、現場の力を強めていくということ、また、現場からそういった地域力を高めていくということを考えれば、先ほど、大事なのは、大蔵省で役人としてキャリアとして仕事をされて、予算権、人事権、法案の執行権ということをおっしゃいましたけれども、やはり、力を持つためにはお金をおろすことも必要かもしれませんが、それはきょうは横に置いておいて、人事権を現場におろしていくということをさらに進めていくべきだと私は思うんですが、その点についてのお考えをお聞かせください。

伊吹国務大臣 学校長が学校の教員をどういうふうに把握していくかという意味では、先生がおっしゃった、ある程度のことを校長にゆだねてやらなければ、校長は全く単なるお飾りになってしまうということはそのとおりだと思いますが、そこで、人事権と先生がおっしゃっているものの中身なんですよね。

 つまり、学校外へ出る、学校間の人事の異動というのは、これは学校長ではできませんね。学校内の担任だとかどうだという人事権は学校長にございます。これは今でもあるわけです。だから、今具体的におっしゃっている人事権の中身というものを、学校間の異動ということになりますと、どこの学校へ行ってどうするかというのは、これは自分の学校を超えた学校への異動の仕組みを扱うということになりますので、やはり、どこかでそれをやる場所がなければ難しいと思います。

前原委員 大きな会社をイメージしていただきたいんですが、例えば、昇進して部長あるいは支店長、あるいはもうちょっといった取締役になっていくとしますね。そのときに、過去に一緒に汗をかいて働いた人間、そういった者をやはりある程度引き上げて、自分の仕事を一緒にやれる、この人なら一緒に汗をかいて同じ苦労をともにできるんだ、こういう感覚というのは身につくと思うんですが、今の仕組みですと、今大臣がおっしゃったように、学校間を超えることについてはなかなか学校長も人事権は持ち得ないということであります。そこを、教育委員会から割り振られた人間で仕方がないというように今まで来たわけですけれども、つまりは、学校長に、どういう人が欲しい、あるいはだれが欲しいというようなこともしっかり具申をして、例えばそれを調整する仕組みというものがそれを聞けるような、私の今申し上げた人事権というのはそういう文脈で使っております。

 別に、与えられた者で担任をだれにするとか、そんなものは今までもやっているわけですから、そうではなくて、もう少し超えた、学校間のものであっても、どういう人が、例えば京都市の教育委員会の中に先生はだれがいるかというのはわかるわけですから、そういうところを超えたものも学校長に人事権をおろしていくということ、これは教育再生会議でも議論されていると私は聞いておりますが、そのことを申し上げているんです。簡単に御答弁ください。

伊吹国務大臣 今でも、実質的には表に出ないけれども、言葉はいかがかと思いますが、根回しとか、人をいただきたいというお願いの行為はあるんですね。ですから、それをもう少し顕在的に権限をゆだねてあげるということは、それはあってもいいと思いますが、最後は、今の先生のイメージでいうと、一緒に仕事をしていた人が欲しいと。これは弊害もあるわけですよね。やはり一種の派閥的流れが出てくる。みんなで仲間になった者がなれ合って、結果的に会社だって大失敗しちゃう、プロジェクトの大失敗をしちゃったとか。あるいは、欲しい人間というのは、会社の例で言えば、向こうの事業部も欲しいというのがやはりあるわけですから、どこかでそれは調整しないといけないわけですよ。

 ですから、会社にもやはり人事部というものがあるわけですから、この権限は今のところ教育委員会にあるわけでして、教育委員会ともう少し闊達な話し合いを校長ができるようにして、そして先生がおっしゃっているような、できるだけ自分のチームの中で不足している人を欲しいとか、こういうことができるような運営をしていくべしということは、教育関係者の会議で文部科学省からも申し上げさせることにいたします。

前原委員 つまり、人間関係で、水面下であの人が欲しい、この人が欲しい、それはあるでしょう。でも、それはいかぬという話をしているわけです。いかぬというか、それを表に出して、校長にある程度の人事権をゆだねる。もちろん調整は必要です。そこでまた私は教師の評価というのが出てくると思うんですね。奪い合いになる先生も出てくれば、だれからも欲しいと言ってもらえない先生が出てくるということがあって、それはまた人事評価の一つの判断基準にすればいいと私は思っているわけです。

 そういう意味でも、先ほど前向きな答弁をされましたけれども、学校長にある程度発議をして、人事についての意見具申がちゃんとできるという仕組みに変えていく、それがいい意味での分権の流れだというふうに私は思います。

 残りの時間で、学力、ゆとり、そして学校週五日の問題について議論をさせていただきたいというふうに思います。

 大臣は、カリスマ予備校講師の細野真宏さんという方を御存じですか。自分自身は受験のときには偏差値が三十台であった方ですが、今やカリスマ予備校講師と言われていて、「数学が本当によくわかる本」というこの細野先生が書かれた本は、二百万部以上売れている、ミリオンセラーになっているという話でありました。この方のインタビューの抜粋を少し読ませていただきたいというふうに思います。

 毎年痛感するのは、教えている子どものレベルが確実に下がっていることだ。ゆとり教育の根本的な間違いは安易に学習内容を減らしたことだ。「学ぶものを減らせば理解度が上がる」というのは一見正しそうだが、実践では必ずしも正しくない。減らしたせいで、逆にわからなくなった子さえもいる。学ぶ内容が減れば「使える道具」も減るので、むしろ問題が考えにくくなったりするためだ。

こういうことをおっしゃっています。それと、カリスマ予備校講師であるにもかかわらず、

 授業時間の削減のせいで、教育産業のさらなる発展ももたらした。公教育がしっかりしていればここまで塾に頼る必要もなかったはずだ。

こういうことをおっしゃっているわけであります。

 そのインタビューの中では、塾が衰退していっても構わない、その方がむしろ健全である、それが公教育の充実につながるのであれば、それは大変結構なことだ、こういうことをおっしゃっておりまして、私は、このインタビュー記事を読んで、非常に我が意を得たりという感じがしたわけです。

 きょうは格差の問題をするつもりはありませんが、格差の最たるものは、やはり教育の機会均等だと私は思うんですね。そのためには公教育を充実させないと、公教育が充実しないことになれば、お金のある家が塾に行かせたり家庭教師を雇ったりするということで、子供の機会の平等が担保されなくなる。公教育がどのように充実されるかということが、格差の根本の問題を解決する上でも私は大変重要なテーマだというふうに思っております。

 そこで、未履修の問題の議論が多く行われたと思うんですけれども、週五日のせいで授業時間が足りない、あるいは大学入試の多様化で受験科目数が少なくなっている、あるいは社会科の必修科目が多くて縛りが不自然になっている、こういった原因がいろいろ挙げられるわけであります。

 私学はほとんど週六日ですね。それで、私も、先ほど申し上げたところ以外に、例えば地元の府立高校の視察に土曜日に行ったんです。土曜日に行ったら、みんな授業をやっているんですね、補習授業と称して。府立高校ですよ。そういったことが全般的に行われているわけです。それは別に、受験間近になった二月か三月じゃありませんよ。あれは、行ったのは五月か六月ぐらいだというふうに思います。つまりは、そういった補習授業が行われているのが当たり前になっている。

 大臣と私で京都の話ばかりして恐縮なんですが、京都では、今の市長さんを私どもが推薦するに当たって、土曜日をどう活用するかということをマニフェストに入れてほしいという要望をいたしまして、みやこ土曜塾というのをやってもらっているわけです。そこでは、言ってみれば実質学校週六日制のようなものをやって、総合学習とかいろいろな自然体験とかも含めて、あるいは、先ほど申し上げた、授業が足りないというそういうところでは、補習授業をやったりしているわけであります。

 私は従来から学校週六日制に戻すべきだという論者であって、これは、民主党の中では、学校週五日制で土曜日は自由に使えるようにしようということで、学校週六日制という言い方はしていないんですけれども、しかし、実質土曜日も使うべきだということでは考え方がまとまっているわけであります。

 今は実際に土曜日がかなり多くの公立の中高で活用されているということを考えたときに、この学校週五日制をどう思われますか、未履修や授業不足、理解度不足ということも含めて。大臣の御答弁をいただきたいと思います。

伊吹国務大臣 週五日制を含めてゆとり教育というのは、やはり、発足したときの考えからすると、現実は、非常に不完全に、そして不幸に使われていると私は思いますね。知識を応用していくためにはどういう勉強をするのかという目的のために実はゆとり教育という発想が出てきたと思うんですが、その間、実際のゆとり教育の現場で何が行われているかということを考えますと、どうも最初のアイデアと少し違うんじゃないかという気が私はしております。ですから、ゆとり教育が悪いというんじゃなくて、ゆとり教育という言葉のもとで現場で行われている運用について私たちは少し考えて、そして文部科学省としての考え方を教育委員会にお伝えしなくちゃいけないなと、これは一つそういうことです。

 それから週五日制は、これで学力が落ちたということになるかどうか。例えばOECDなんかの調査で世界の学力調査をさせますと、このごろは一番高いところにはフィンランドが出てくるわけですね。フィンランドは週五日制なんですよ。ですから、必ずしも週五日制が学力の低下の原因であるというわけでもないと思いますし、先生のときはいかがだったでしょうか、私が高校生、中学生であるときは、朝早くあるいは放課後、教師の先生方が来られて、希望者を集めてみんな補習をしてくれたりいたしましたですよね。

 だから、使命感を持ってということを申し上げると、労働過重みたいなことを強いるようになりますが、先ほど松原先生がおっしゃったような先生の問題を含めまして、特に夏休み、冬休み、春休みがあるわけですから、教師の先生方ももう少し頑張ってくだされば、世界の大きな流れの中へ慎重に慎重に、段階的に段階的に入れてきた五日制ですから、これを制度として今すぐ変えるというのは、ちょっと文科大臣の立場としては、なかなかそのままお答えはしにくいテーマだと思います。

前原委員 私の高校時代の一つの思い出を申し上げれば、日本史の先生で宅間先生という方がおられて、大体、日本史というのは最後まで終わらないんですよね。受験前に江戸時代まで行ったらいい方で、明治以降はなかなか行かないということで、大臣が先ほどおっしゃったように、その宅間先生は補習をみずから自発的にしていただいて、これはクラスも横断的にだれが来てもいいということで補習授業を自発的にやっていただいて、明治以降の授業をしていただいたというケースはございました。ですから、先生ということはあると思います。

 もう時間が終わりましたので私の質問は終わりにいたしますが、では、学校週五日制をとっているフィンランドが最高の水準だと。しかし、学校週五日制に移行して、さまざまな要因の中で、それだけじゃないかもしれないけれども、日本のゆとり教育というのはひずみを生じている。先ほど大臣みずからがおっしゃったように、当初の目的とは違う形に来ている。実態は、土曜日を使って必死になって補習をしている公立校もいっぱいある、私立に負けないために、受験に合うためにと。

 時間がなくてきょうは突っ込むことはできませんが、学習指導要領では、例えば社会科は、世界史が必修で、そして日本史と地理から選びなさい、それと公民も含めて三科目、しかし理科については、理科基礎か理科総合を含む二科目、数学については、数学総合と数学1のいずれか一方ということで、例えば工学部生が数3をやらないとか、あるいは医学部生が生物をやっていないとか、非常におかしな仕組みになっている。それの根本が学習指導要領にもやはりあるのではないかと私は思うんですね。

 ですから、週五日でいくということであれば、なぜそういう学力の低下も含めて起きているのか、未履修の問題も含めてですね、そこは学習指導要領の変更も含めてぜひお考えをいただきたいと思いますし、またこれについては機会があれば議論をさせていただきたいと思います。

 終わります。

森山委員長 次に、藤村修君。

藤村委員 民主党の藤村修でございます。

 答弁席にずっと座っておりますと、やはり質問したくなる、こういうこともございまして、大臣も、委員の口をかりて民主党案に質問せよという御指示も幾つかございましたようでありますが、きょうは、私は政府案に対して質問をさせていただきます。

 最初に、ちょっと話の蒸し返しになるんですが、土肥委員の質問で、憲法と教育基本法との関係をどう考えるかということで、大臣が、現行の教育基本法の制定の経緯は御存じだと思いますがと言って、このときの言い方が、字にすれば穏当なんですが、何か、知っているだろうがという、私、横にいてそういうイメージを持ちまして、続いて、これは日本国憲法ができる前にできておる法律でございますよと書いてあるんですね。

 つまり、そんなことまで知らないのかと言わんばかりの言い方であったものですから、私、ちょっと今もう一回蒸し返して、いや、土肥委員も当然施行については知っているわけですし、ただ、ここで今審議しているこの改正案なり新法について、すなわちこれが制定過程であります。

 やはり、重要な法律、どの法律でもそうですが、制定過程での議論というのは非常に重要だと思います。それらが、将来、議事録に残り、歴史に残り、六十年後には、それを見直しながら、なるほどなと言いながら、またひょっとしたら改定かどうかとなるわけですね。

 ですから、今の現状の日本国憲法とそして現行の教育基本法、これは確かに施行日が前後していますが、あくまで日本国憲法に基づいてというか、あるいはその精神や理念をまさに教育の分野に体現してこの現行教育基本法ができているのだ。制定過程を見れば明らかなわけですが、どうも伊吹大臣は施行のみにこだわられるので、これは何か裁判が起こったときに、どっちが早く施行されているからどうだということはあり得ても、ここで議論しているこの改正なり新法の話は、現行教育基本法がどのようにできたか、どういうふうな経緯であったかということを考えるときに、これは言葉を選びますけれども、日本国憲法が確定し、まさにその中身から現行教育基本法がいろいろ議論をされ、そして、公布、施行されたのは昭和二十二年三月三十一日であり、現行憲法は昭和二十二年五月三日ですか、ですから、施行日は若干前後しましたが、そういう過程であったということは、大臣にもう一度ここで確認をさせていただきたいと思います。

伊吹国務大臣 正確には議事録に基づいてお答えしなければいけませんが、土肥先生が御質問になったのは、憲法が先に生まれたというお言葉を多分お使いになったと思います。

 私が非常にこだわりましたのは、そういう意味で今御質問になっているわけじゃないと思いますが、各御質問者の中に、憲法と非常に密接な関連のある法案だから、憲法ができない前に教育基本法を提出するというのは本末転倒じゃないかという御質問を多々いただくものですから、その御質問にうっかり乗っちゃいけないと思って、私は、その生まれるという言葉は正確じゃございませんと。

 そして、野田先生との間に多くのやりとりをしまして、野田先生から、ここは法理論を研究する伊吹ゼミじゃないというおしかりを受けたわけですが、結果的に、法の制定過程について正確に法律的な表現をしていただきましたので、私は、野田先生のお考えのようであれば、何らその順序にこだわるものではありませんということを申し上げたわけです。

藤村委員 その後に、松本剛明委員それから野田佳彦委員がこの件を蒸し返して、その都度問い合わせをしたわけですが、それで、今お答えのとおり、野田委員からの質問で、私が今言ったような趣旨で、確定した後ということで申し上げて、それならば私はそれを否定いたしておりませんと答弁されております。これは議事録の言葉であります。

 そこで、私、もう一歩進みまして、否定もしないが肯定もしないという言い方もありますので、いや、これはむしろ積極的に肯定すべき話ではないか。つまり、今の現行教育基本法というのは、まさに戦後のあの憲法の精神を体してつくっているのであって、決して大日本帝国憲法や教育勅語の精神を体してつくっているものではないということははっきりさせておくべきだと思うんですが、いかがでしょうか。

伊吹国務大臣 これは、野田先生が大変法律の成立過程については言葉を選んで、私は、七、八度やりとりいたしましたので鮮明に覚えておりますが、成立過程を法理論的にきっちりと整理していただきましたので、私はそれを否定するものじゃございませんと申し上げたわけですから、私の気持ちはそれですべてだと思っております。

藤村委員 気持ち、おはかりいたします。

 私も、ですから、さっき御懸念があった、何か憲法と一緒でなければならないという趣旨の質問ではありません。我々民主党も、憲法改定を考えながらも、しかし、それを待たずに新法を提出しているわけでありまして、それは累次説明のとおりでございます。ただ、我々は先に出そうと考える。昨年出しました憲法提言、この中の教育関係のところを参照しての立法でございます。

 そこで、自民党におかれましても、昨年、憲法草案ですよね、自由民主党新憲法草案というものをおまとめになりました。この中で、教育のところについては現行憲法とそれほど大きな差異がないと思いますが、しかし、そこに一つ、これは二十三条だと思いますが、学問の自由において、「何人に対しても」という文言を、現行憲法に入っていないのですが、これを挿入され、そして「保障する。」とされています。評価いたします。民主党においても、基本法で学ぶ権利などを掲げ、その主語については「何人も、」という言葉を書きました。

 そこで、伊吹大臣、自民党の憲法草案で「何人も、」と書かれた、このことは直接タッチされたかどうかはわかりませんので、そのことと、現行基本法を今改定案を出されておりますが、何か精神がそこへ来ているのか来ていないのか、来させたかったのか、その辺、お答え願いたいと思います。

伊吹国務大臣 自民党案には、おっしゃるとおり「何人も、」と書いておりますから、必ずしも日本国民に限定してはいないだろうというのが先生の御質問の趣旨だろうと思います。

 ただいま御審議を願っている教育基本法の改正法案は、これは日本国の教育基本法でございますから、日本国民に対する教育のことを書いているわけで、この憲法草案に従って憲法が最終的に国民の承認を受けた場合は、それは当然、在日の外国人の方々にも、教育基本法ではなくても諸法においてその権利を担保していく措置は講じなければならないということになると思います。

藤村委員 すなわち、現時点よりは、「何人も、」ということにおいては在日の外国人の方々に対する配慮がよりなされる、こういう受けとめ方でよろしいんですね。

 私は、もっと先読みされて教育基本法に本当は書いた方がよかったかと思うのですが、学問の自由というのは、学問、研究の自由と、それから教授の自由ということがありますね。今の時代は、結構外国人の教師が学校の現場に入り込んでやっている。しかし、その方は現行の中ではなかなか保障されていない可能性があるものですから、だから、「何人も、」とされたときに、そういうことが想定されたのかなと思いましたが、まあ、これは自民党の中のお話であろうと思います。

 二番目の質問でございます。

 この場面でぜひとも、我々も法案を出しておりますが、現行基本法下においての家庭、学校、そして市の教育委員会、地元教育委員会、それから都道府県教育委員会、文科省ということでさまざま議論がなされておりますが、どうも現行の中では、何か責任のたらい回しなどがさまざまな問題においても起こっているようだということはほぼ共通理解だと思いますので、それを一体どのように改めて整理していくかということをお尋ねしたいわけです。

 そこで、今回政府案によって、今の家庭、学校、地元教育委員会、都道府県教育委員会、文科省のそれぞれの果たす役割というのが、現行からいうとどのように変わるのか、あるいは変わらないのか。これは多分、きょうまでの御答弁の中では、地教行法その他関連の法案の審議でだんだんにはっきりしてくるとは承知の上で、現行、現時点においてどういう方向で変わっていくんだろうかということの文科大臣の所見をお伺いしたいと思います。

伊吹国務大臣 先ほど松原先生の御質問にもありましたけれども、政府案においては、教育は、国と地方団体が適切な役割分担及び相互の協力のもと、公正かつ適切に実施するということを規定しているわけです。

 ですから、教育行政を具体化していくについては、おっしゃるとおり、教育委員会に関する法律を御審議いただいて、そこで政府側の考えを示さなければならないわけですが、この基本法を国会でお認めいただくということになると、国権の最高機関である立法府が国と地方自治体との間で分担して教育行政を担うことをまず認めるということですから、これに対して、予算、人事権それから法律の執行権をどう肉づけていくか。

 今のままでは、民主党さんも同じお考えだと思いますが、責任の所在がなかなか不明確であると先生先ほどおっしゃったのと同じ考えを我々も持っております。それを具体的に実現していく方途は、効果と副作用と両方考えながら判断していかねばなりませんので、私は、民主党案に書かれているような方向はやはり副作用がかなりあるのではないかなという気持ちを持っているということです。

藤村委員 そこで、民主党案でもう一つの点は、普通教育における最終の責任については国がということで割にはっきりとさせました。その内容というのは、きょうまで質問があり、何度かお答えをしていると思いますが、今は全国的な標準スタンダードについて、これは学習指導要領であったり、教科書検定もそうかもしれません、それが一つ。それから、教育財政の問題でしっかりと国が最終的な財政負担の担保、責任を持つということ。それから、これら全体の教育法体制とともに教育行政のあり方などを決めるという意味では国が責任を持つ。非常に大ざっぱに言うとこの三つぐらいかと思うんです。

 その中のいずれもが、法律を決めることも国会、財政の問題もこれは国の予算の問題、ところが、スタンダードのところだけが、実は現時点でいわゆる一般国民の関与がされていないと思うんですね。

 先ほど松原委員が、学習指導要領も国会承認事項にしたらどうかという話がありました。私もそれに少し賛同する立場なんですが、国の責任というときには、国の責任を果たすために、まさに国の代表たる人々がそこに関与する。現在の学習指導要領の決め方というのが、非常に高度な専門家グループによって厳選され、あるいは場合によっては科目の熾烈なとり合いをしながら決めているということで、閉鎖的とは言いませんが、非常に専門家集団の中での原案ができて、それを大臣が告示されるという仕組みですので、私は、このスタンダードを決めるという部分を、それなりの、まさに民意の関与といいますか、国民の関与が必要だという考え方を持っております。

 一方で、だから私どもは、そうして国に相当の責任部分をはっきりさせたということでありますが、伊吹大臣のきょうまでの答弁の中では、例えば、今の未履修の問題、いじめの問題にしても、国は都道府県教育委員会を通してどうするとか、実際に市町村の学校に踏み込むこともできない、靴の上からかいているようだという表現をされました。

 ということは、伊吹大臣は、むしろそれをはっきりさせろと。その中でおっしゃったのは、これは言葉がちょっと違うかもしれませんが、文科省が持っていた改善措置命令という権限を地方分権のときに外してしまったと残念そうにお答えでありました。

 ですから、そういうことを取り戻して、国がもっとちゃんとした権限を持てというお考えなのか、いや、権限のバランスというのは今から考えるけれども、そんなに今と変える必要はないとお考えなのか。いかがでしょうか。

伊吹国務大臣 これは最終的には国会の御判断をいただかねばなりませんので、まだ基本法自体が通らない中で私が軽々な答弁をして、またおしかりを受けるといけませんが。

 まず、先生にむしろ私がお伺いしたいのは、予算の権限というか、これは実際の予算計上権はありますが、配分をするわけですね。執行権は多分ないということを前提にしておられると思います。それから、基準を決める。これは、国会に指導要領をかけるかどうかは国会がお決めいただかなければいけないことですが、今でも、中央教育審議会といういろいろな分野からお集まりになった方々のところで審議していただいて、法律に基づいて大臣告示をしている。そして、その基準を決めて、予算の執行権を持っているというのが民主党さんの案だということですね。

 そうすると、もし立場が変わって先生が文科大臣に御就任になった、そして、今回の未履修のような問題が、今おっしゃっている権限を民主党案で国がお持ちのときに、地方で相変わらず、予算は渡した、基準は決めたが、知事に権限はある、知事に設置権やその他教育委員会の持っている教育権限は移る、そして学校は理事者に運営をさせるということだと、先生が文科大臣として、言うことを聞いてくれない場合はどういう担保があるんでしょうか。私は、そこに大きな問題があると思います。

 ですから、ある程度の、国として、お願いしたことを実行されない場合にはそれをやはり担保できる権限だけは文部科学省にゆだねていただきたいなというのが私の率直な気持ちでございます。

 民主党案では、そのあたりは法律のつくり方の内容によると思いますので一概には言えませんが、御質問の中で教えていただければありがたいと思います。

藤村委員 今のお考えで、学習指導要領は法規範性がある、そしてそれに反しているというわけですから、日常的な正常な事態ではないわけですね。ですから、私どもも、これはきちんと国ができると思うんです。その際、我々の考え方でいきますと、都道府県教育委員会、市町村教育委員会という考え方ではなくて、それぞれの首長になりますが、に対して自治事務である。前の団体事務から自治事務に変わっていますね、教育の関連は。

 そこで、今回も、新制度としては、助言、勧告、それから是正の勧告、資料の提出の要求、是正の要求など残っていますね。抜けたのは多分是正措置要求というのだと思いますが、これは命令では多分なかったと思うんです。

 ですから、そういう意味で、そういうイレギュラーな、あるいは法律に違反している可能性の高いことについては、それは国がきちっと関与できるということではないかと思っています。

 つまり、一般的な教育の実務、教育行政について、これは昨年の中教審の答申もありましたが、国は、学習指導要領にしても大綱的なものを出し、できるだけ家庭や学校や地域に近いところで判断をしてくださいよ、あるいは多くの権限もそこにあるんですよということを我々は提案しているわけでございます。

 そこで、文科省については、今の御答弁では、ちょっとイレギュラーな場合にはちゃんと措置できるような、伊吹大臣流に言うと改善措置命令というんですかね、このぐらいまで国がとった方がいい、そういうお考えですか。

伊吹国務大臣 先生の今の御答弁の中にあらわれているように、旧地教行法では文部大臣に措置要求の発動権限があったわけです。それは、教育の本来の目的達成の阻害を認めるときという条項になっておったわけですよ。それが、平成十一年の地方分権一括法によってこの措置要求権は廃止されて、御承知のように一般規定の中にあって、しかも、今行われているのは、これは地方自治事務なんです。

 そうすると、先生が現在の法律のもとでそれができるとおっしゃって、要求権はあっても、要求にこたえない場合の担保権がないんですよ。ですから、そこだけははっきりしていただきたいなというのが私の希望です。

藤村委員 法律に違反していることを、要求して実施しなければ、これは裁判所が判断する話になってきそうですよね。国が地方を訴えるような、そういう不幸な事態は当然考える必要もないとは思います。

 そこで、次に、都道府県教育委員会、市町村教育委員会。我々は、ここを発展的改組して、それぞれの委員会でなしに監査委員会にするということにしておりますが、政府提出の法案においては、それら仕組みについては変わらないようだと受けとめます。

 都道府県教育委員会そして市町村教育委員会の現在の役割あるいは責任というものが今後変わらない、こう考えるべきでしょうか。

伊吹国務大臣 都道府県と政令市として一括して、その他市町村というふうに分けさせていただきたいと思いますが、この関係は、例えば人事権をどちらが持つかとかいうことについては、やはり、先ほど来起こっている未履修の問題、あるいはその他、いじめを隠した隠さないという問題などを考えると、参議院を含めての国会審議の様子も拝見しながら、政府としては、ある程度の変更をせざるを得ない場合にはそれを国会にお諮りするということを否定するものではありません。

 こだわるようですが、先生が、法律に違反したことを是正の要求をして、なおかつそれにこたえないということはあり得ないとおっしゃっているわけですが、実は、今回の未履修の不幸な事件の前に、御承知のように、幾つかの県でこのことがあったわけですね。あったから、それを各県単位で是正させて、そして全国の教育委員会の責任者を東京へ呼び寄せて、今後こういうことのないようにということを要求したわけですよ。しかし、今回のようなことが起こっているわけです。

 ですから、そのときにはこれをとめる権限というのは、民主党さん案、自民党・公明党案というようなことではなくて、日本の国の法律が守られて公正な行政が行われるという観点から、お互いの法律にこだわらず、先生は御専門家ですから、ぜひ私は少し考えていただきたいなと思っております。

藤村委員 都道府県と市町村教育委員会の関係を今お尋ねしたんです。

 十月二十日の文科委員会の方で、私、これは教育特の話ですがという前提でお話ししたときにまず答えていただいたんですが、つまり、法律によりますと、やはり文科省というのは、基本方針を決めて都道府県及び政令市の教育委員会に助言、指導を行う。そして都道府県の教育委員会は、それを受けて政令市を除く市町村の教育委員会に同じような指導、助言、援助等を行う。そして市町村の教育委員会は、小中学校の設置と管理を行う。それでもって、設置された学校において、校長が管理権を持ちながら、教諭は児童の教育をつかさどる。これは法律的なそっけない説明ではありますがと。

 このとおりで、これは今後も変わらないという理解でよろしいんですか。

伊吹国務大臣 大きな流れは変わらないという御理解をしていただいてもいいと思いますが、都道府県、特に政令市の場合はもうそれから下はありませんから、都道府県と市町村の教育委員会との間の権限の配分です。これは予算がその裏側に結局伴ってくると思いますが、御承知のように、市町村の教員の人事権は、今、都道府県教育委員会が持っているわけですね。学校の設置は市町村がやっておりますね。

 ですから、そのあたりで、市町村の教員の立場からすると、どちらを向いて仕事をするのか。前原委員がいみじくも御指摘になったように、これからのいろいろな人事のことその他というのは、これは行政を執行していく上では非常に大切なことですから、このあたりのことは少し、もちろん、法案が通れば、民主党さんとも広い立場で御相談をしなければいけない部分があるんじゃないかという気はしております。

藤村委員 その上で、今度は学校現場ということであります。

 特に義務教育に関しては、中教審も、できるだけ学校現場に任せられることは任せろというふうな方向を出されたと聞いておりますが、今回の法改正において学校現場は変わるのか、いや、基本的には今までと同じだとおっしゃるのか。どちらでしょうか。

伊吹国務大臣 先ほど、これも前原委員が御質問になったように、学校長の人事権というのはどのようなもので、どこまで及ぶのかとか、いろいろ運用面でやはり変えていかないと、学校における校長先生のお立場、学校の活力の出方、これは私はある程度変わってこざるを得ないと思っております。

 同時に、しかし、学校自身をどういう形で今度は学校を監査、監視、監督していくかということは、これは公教育である限りは必要なんですね。履修漏れだとかということは起こってはならないわけですから、その役割は、先ほどのような学校協議会も、それを担えば外部評価、内部評価というやり方もありましょうし、あるいは、教育委員会がどの程度関与するかということも起こってくると思います。

藤村委員 では、伊吹大臣のお考えについては、学校現場が、先ほど来のコミュニティ・スクールですか、学校評議会による少し自律した運営というものは、これは今後むしろ広がっていくべきいい方向である、そういうふうにお考えなわけですね。今うなずいていらっしゃいますので、そのように受けとめます。

 ですから、我々はそこを非常にはっきりさせている。学校理事会ということであります。ここでやることは、先ほどの人事のことで言いますと、前原委員にお答えすればよかったんですが、学校理事会が、首長に対して、設置者、管理者に対して人事のことも具申するということで、それは単なる、校長が今まで市町村教育委員会に具申していることとは大分意味が違ってくると思います。

 どうしても今までは、先ほど来もお話あるように、校長経験者が教育委員会の幹部であったり教育長であったりして、そこでの人間関係がやや強調され過ぎて、学校の人事についても、いわば地域の方あるいは保護者の方などの目や意見が入ってこない。

 そういう意味で、我々は、学校理事会というものにおいて、学校の大半の運営責任は、主体的に、まさに自律してやっていただくという考え方でございます。学校評議会をさらにより強力にしたようなイメージでありますので、だから、方向としてそんなに違っていないなとは思います。もちろん、首長のところは多分いろいろ御意見があるんだと思います。御意見ありますか。

伊吹国務大臣 先生が今触れていただいたように、首長に今教育委員会が持っている権限を移すかどうかというところは全く私は意見が違いますが、学校協議会であるから前原先生のおっしゃったことに賛同するということを私は答弁で申し上げたわけでして、これを、学校を運営する理事会、そして、特に公教育の場合は、それにいろいろな人事権を持たせるということになりますと、特定政党の人がPTAの中へ入り込んできたり、いろいろなことが現場で起こっているわけですよ。

 それから、そこまでの権限を持たすのなら、地域の有力者、ボスと言われる人、特定団体の代表の人がそこへ入ってきた場合の公教育の現場はどうなるかということを考えると、やはり、学校協議会であるから前原先生の御意見に賛成するわけであって、理事会という運営主体になるということについては私はいささか疑問を持っております。

藤村委員 ですから、これはどういう仕組みにしていくかという今後の課題でありますが、今考えているのは、実は、現状の、学校運営はやはり校長さんが大半のまさに権限と責任を持ってやってくださいよというところと似ています。

 例えば、校長は、学校運営の基本方針、教育課程の編成、教職員の任用に関する意見の申し出、その他地方公共団体の規則で定める事項について決定する。ただし、その場合に理事会の承認を得なければならないという諮問機関というふうな形で、いわゆる私学の理事会ということとは大分イメージが違って我々は書き込もうとしているので、そこはちょっと、また出てきてから御批判をいただければと思います。

 次に、大臣がたびたびこの委員会でも答弁されているのが、既に法律が成って施行され、どんどん実行されている国立大学の法人化ということについては、伊吹大臣は個人的に余り賛成でないという旨を二、三回表明されているんです。このことをまず確認したいと思います。

伊吹国務大臣 私は、国立大学法人そのものに反対しているわけじゃありません。国立大学法人にすることによって、結果的にプラスとマイナスがございます。下手な運用をするとマイナス面が出てくる。

 だから、私は前原委員の考えというか政治信条に非常に近いんですが、余りにも国民の税金を使いながら無駄をしていると、すぐに、制度を変えたい、法律を変えたいというのが起こってくるわけですよ。しかし、本当は、法律、制度を変える前に、そこを運営している主役である人間が、まずいことをしちゃいけないという自覚を持ってやってもらうのが一番いいんですよ。

 ところが、どうも悪平等がまかり通って、国民の税金が正しく使われていないということであると、独立行政法人にして生ずるマイナスよりも国民の税金を規範意識なく使う不公平さから受けるマイナスの方がより大きいとなると、独立行政法人にせざるを得ないということになったのが私は現実だと思います。

 ですから、独立行政法人のマイナス面を出さないように慎重かつ謙虚に運営していくということが、大学交付金を交付する立場である文部科学大臣の責任であるという自戒を込めて御答弁しているということです。

藤村委員 このことを議題にこれ以上はいたしません、幾つか意見はありますが。

 そこで、義務教育費国庫負担制度、これを今からまだ検討されるかどうかなんですが、先般は、義務教育費国庫負担制度の制度の枠組みは維持したものの、国の負担が二分の一から三分の一になったということであります。

 伊吹大臣は、今後どのようにあるべきとお考えでしょうか。

伊吹国務大臣 地方分権というのは一つの流れでありますが、民主党さんの案でも公教育の責任は国が持つと。私が西岡先生が自民党におられたころに御指導いただいたのは、義務教育の教員はフランスのようにすべて国家公務員にするのが一番いいんだという御指導もいただいたことを思い出しておりますが、私は、今回のようないろいろな事案が出てきたときに、地方教育委員会に対する発言権を考えると、義務教育国庫負担金を三分の一にしたのがよかったのかなという感じを率直に言って持っております。

藤村委員 それはすなわち、ひょっとして、方向性としては、もう一回二分の一に戻した方がよかったのかな、あるいはよいのかなという御判断なんですか。

伊吹国務大臣 これは義務教育国庫負担金ということだけで考えるべきものじゃなくて、公教育を国と地方との関係でうまく動かしていけるのであれば、地方が規範意識を持ってしっかりとやっていただくのであれば、私は、すべてが地方へ行ったって、別にそれでおかしくはないと思いますよ。

 しかし、そんな神様のような人間はだれもいないわけですから、何度も申し上げているように、行政を執行していく上には予算と人事と法律の執行権が伴わなければ最終的な責任は持てないということから考えると、将来、現実を見きわめながらいろいろな御議論が出てくることは当然あると思います。

藤村委員 つまり、将来見直しというときには二分の一に戻すという方向もあり得るというふうに受けとめたわけであります。

 そこで、先ほどちょっと伊吹大臣もおっしゃったんですが、我々の案で、選挙で選ばれる首長に教育権をストレートに渡すということについて極めて懐疑的ということを何度かおっしゃってこられました。このことは、一つ私たちの考えを言っておかないといけないのは、今、普通教育あるいは義務教育、地方の教育について考えるときに、いわゆる民意は一切反映されない仕組みであると言えると思います。すなわち、教育委員がかつて公選制であったときはまさに民意の反映であった。それがなくなった。ということは、教育委員会は、首長の任命で、議会の同意で決まる。それから、教育内容について学習指導要領、これは先ほど申しましたように審議会で決まる。つまり、学校の中の運営みたいなものも、予算についても、人事についても、まさに保護者や家庭の声というのは反映される場面がなかった。

 ですから、我々は、やはり普通教育、義務教育においても、民意をどのように反映するかという一つの方法が、選挙で選ばれる首長である。しかし、当然その首長が非常におかしな方向を目指すことも全くないとは言えないわけで、それはまさに地方自治の問題として、議会というチェック機関が厳然とあるわけですね。

 加えて、我々は、現行教育委員会を発展的改組しという言い方をしておりますが、教育に関しては特別にまた監査の機関、教育監査委員会、仮称を設けまして、ここには、保護者の代表であったり、地域の代表であったり、地域の教育の専門家であったり、学校の関係者の代表であったりが参加をして、そしてこれが非常に厳密にといいますか、今までは執行権まで教育委員会にあったわけですが、執行権は首長部局に移りますので、そういう意味では、まさに監査、外部監査をする、オンブズマン的という言い方をしております、こういう仕組みを考えているんですが、これはこれでちょっと説明とさせていただきます。

 私が今問題にしたい点は、首長に教育権をストレートに渡すというときに、教育権という言葉を使われました。これは、長年、実は教育権論争はすごくあったわけですね。ですから、前の小坂大臣は、この委員会においても文科委員会においても、教育権という言葉を多分非常に慎重に取り扱ったというか、使わなかった。伊吹大臣は、割に教育権という言葉を何度も使われていると思います、この審議において。

 そこで、まず、この教育権というのをどういうふうにお考えなのか、お伺いしたいと思います。

伊吹国務大臣 先生がおっしゃっているのは、例の旭川の学力訴訟があったときのいわゆる教育権論争のことを念頭に置いておっしゃっているんだと思います。

 私が教育権ということを申し上げたのは、まさに民主党さんが考えておられる、都道府県教育委員会の持っている権限を首長に移すということを言っておられるわけですから、都道府県教育委員会の持っている権限を私は教育権という言葉で申し上げたということです。

 それから、一つつけ加えますと、教育についてはほとんど民意の反映が行われていないということをおっしゃいましたが、これはやはり国会議員として、私たち、もう少し自信を持ちたいと思います。それは、あらゆる法律が国会で審議を受けるわけです。そして、この国会の審議を受けて議決された学校教育法に基づいて、その法体系の一部として学習指導要領をつくっているわけです。

 そこで、今度の政府案では振興計画というのがございます。この振興計画は、当然、国会に御報告をしなければならないことになっております。この振興計画の中身は、御報告したときにどういう御審議をされるかは国会の方の御判断にゆだねなければならないんですが、私は、民意が一切反映されていないということはないんじゃないかという印象を持っております。

藤村委員 私は、地元の教育の現場に近いところでこそその地域の民意が反映されるべきという考え方であります。国の法律に関して我々がもちろん関与しているわけでありますが、今の、学校の現場に近い、家庭、地域、学校とよく言われる、ここでの民意がうまくストレートに、これこそストレートに教育委員会の事務に反映できる仕組みということを考えたわけであります。

伊吹国務大臣 これは先生、やはり議会制民主主義で我が国は成り立っているわけで、地方は確かに首長というものは大統領的に選ばれますが、今先生がおっしゃったような、まさに民意をやらなければならないのは地方議会じゃないんでしょうか。

藤村委員 もちろん、地方議会が教育の問題についても民意を反映して、まさに首長、市長さんにいろいろ勧告していく、そういうことであろうと思います。その仕組みがあるけれども、あるいは教育委員会制度も、これは公選でなくなったわけですけれども、政治的中立的な第三者的機関があるわけです。しかし、長年やってこられたことによっていろいろ問題がある、こういうことだと思います。

 そこで、もう残り時間が短いんですが、教育権という言葉をそういうふうに使ったというふうにさらっと言われたので余り深追いするつもりはありませんが、しかし、教育をする権限といいますか、これは多分、教育を受ける権利とは違うと思うんですね。教育をする側の権利のことで、教育をする権利、教育権という言い方をして、それが多分議論になろうと思いますが。

 私は、かつての議論を蒸し返す必要はないと思うんですが、やはり教育というのは、非常に人間対人間の大きな要素がありますよね。つまり、学校の教室において、生徒は一人一人先生の方を見て、その先生の影響力というのは非常に大きいし、その先生からまさに教授されている。先生の側は、三十人であれ四十人であれ、まさに一人一人と対峙している。そういう意味では、教育の非常に大きな部分、これを権限と言ってもいいです、これはやはり先生が担うということだと思います。だからこそ、先ほど来の議論でも、教員の質の向上等々、さまざま言われているわけであります。

 次に、しかし、先生がそんな勝手なことを教えてもらっても困る。やはり、そこに教育課程というものを編成する、それが校長の権限であり、またそれを指導、監督、助言するのが教育委員会の権限であると思うんですね。権限がいろいろ順にありますが、大臣は、教育で最も大切な権限を持つというのはどこであるべきか、あるいは、どのように分担すべきかについてお考えをお示しください。

伊吹国務大臣 これは教育の権限というのは、ありていに言えば国権の最高機関である国会にあるというのが当然のことであって、国会で決めてくだすった法律によって権限が分与されているわけです。そして、その分与されている権限の行き着く先、結局、学校の教師も教えるための権限があるということを先生はおっしゃいましたね。これは自然発生的に学校の教師にその権限があるのではなくて、権限の分与をされた範囲においてその権限を持っているというのが法理上の権限の規定じゃないんでしょうか。

藤村委員 法理上のというのが伊吹大臣はお好きなんですが、教育というのは、法律でできる部分がもちろんありますけれども、でも、法律でできない、我々は広義の教育力というふうな言葉の使い方をしております。何より、生まれて、育って、一番の最初の先生が親であるわけですし、そして、幼稚園、学校に行けば先生がやはり自分の教師であるし、私は、ですから、国会で決める、国が決める部分というのは、教育に関しては全部ではなしに、それも一部だろうと思うんです。

 国が行う、あるいは国及び地方公共団体が行うまさに教育の行政、あるいは教育課程の編成あるいは教育の予算の問題などであって、そこからはみ出る部分が実は教育というのは非常に大きい。しかし、それを現場で担うのは教員であるということは認めていかないと、いい先生をつくるために何の目的でやるか、やはり先生が大事なんですよということは、これは多分御異議ないと思うんですね。

 ですから、まさに国や地方公共団体は、いい先生を、いかに元気で、そしてまじめに働いてもらうかを環境整備していく、これが責任だと思うんですけれども、違いますか。

伊吹国務大臣 おっしゃっていること、私はよく理解できます。しかし、そのような、法理的に言えばということを繰り返すとまた野田先生のようなおしかりを受けますが、自然に人間が持っている権限も、やはり憲法という最高法規にみんな規定されているわけですね。

 ですから、今先生がおっしゃったようなことをすべて教育関係の法律に包含できているかと言われれば、先生のおっしゃっていることが正しいと思いますが、憲法という大きな法律のもとで、人間の持っているすべての権利というのは認められているというふうに考えるのが近代国家の法体系のあり方の基本だというふうに我々は大学では教えられました。

藤村委員 余り難しい問題を引き出すつもりはないんですが、国民教育権か国家教育権かという論争が確かにあった。私は非生産的な論争だと思っています。子供たちが生き生きと元気でたくましく、かつ、ちゃんと普通の立派な人になってくれることが目的であって、国民教育権とか国家教育権なんというのは雲の上の話です。ただ、この件は、旭川学テにおいて最高裁判例で一つの基準が示されとか、両極の国民か国家かという話ではなくて、それなりのバランスをとったところにあるということで、私はそれを認めるし、そのことはいいことだとは思うんです。

 ただ、バランスがうまくあるところで、今度の教育基本法では、バランスを崩すんでしょうか、どっちかへ寄せるということはありますか、ありませんか。

伊吹国務大臣 バランスを崩すことがあるかないかとおっしゃるのは、国の方にとか地方の方にという意味ですか。

 それはもう、今の状況の判断をすると、大きく揺れることは私はないと思います。民主党さん案では、むしろかなり揺れるという方向だと思いますが。

藤村委員 民主党案では割に両方に整理される、こういうふうに受けとめていただければいいと思います。

 学校選択制が、今結構出てきていますよね、それから、先ほどの学校協議会によるコミュニティ・スクール。このことと教育権というのは何か関係ありましょうか。例えば学校を選ぶという意味では、これは親の教育権というふうな言い方もできる、子供の教育権でもあるわけですけれども、それを選ぶことができることが教育権をより充実させているというふうに言えるんでしょうか。

伊吹国務大臣 これは、おのおのの立場によってやはり違ってくると思います。学校を選ぶのも親の教育権ということかもわかりませんし、平等に同じ教育を受ける権限という意味の教育権も、先生のお言葉をかりればあるのかもわかりません。

 だから、それは、現実の中でどこまでが憲法や教育基本法に書かれた趣旨において許容されるかという、最終的にはそこの判断にゆだねられることじゃないでしょうか。

藤村委員 地方分権推進とこの教育権というのは、我々は、大きな流れで言えば、やはりできるだけ地方でできることは地方で、これは多分、今の政府もそういうお考えです。そういう意味で、さっき教育権の両極の中のバランスと言いましたが、やはり地方分権の流れの中ではより地方にということになってきませんでしょうか。

伊吹国務大臣 安倍総理は、所信表明の中で、自分の内閣の最大の政策課題は教育の再生であって、基礎学力と規範意識をすべての児童に保障するために努力したいということを述べておられます。すべてということになりますと、すべての児童生徒を見ているというのは、やはり私は国じゃないかと思うんです。

 ですから、民主党案でも、国が基本的なことを決めるとおっしゃって、教育権の最終的な権限は国にあるということをむしろ明記しておられますね。このあたりは、教育の責任は国にあるとおっしゃっているその意味をどういうふうに各法律によって具体化していくかによって、あるいは私の考えていることと極めて近いことをお考えになっているのかもわからないんですよ。

 ですから、これは基本法の議論だけではなくて、その下につくいろいろな法律によって、あるいは、民主党さんとここでいろいろ議論していたけれども、結局考えていることは一緒だったなということが起こる可能性はあると思います。

藤村委員 伊吹大臣もおっしゃったかどうかあれですが、やはり国の教育の権利や責任というのははっきりさせた方がいい。きょうまで非常にあいまいで来たという反省は多分あると思うんですね。そのことは都道府県教育委員会、市町村教育委員会にも共通であって、それが、いわゆる教育委員の公選制度が外れてもう約五十年ぐらいですか、ずっと来たわけですね。

 ですから、今回の例えば未履修問題にしても、教育課程の編成という意味では、高校の校長先生と都道府県の教育委員会、この責任は両方にある。では、どっちに重いのかということは、よくわからない、判断できないですね。我々は、ある意味ではそこは地方に寄せているわけですから、もう校長にあるんです。ただし、校長はその学校理事会の承認のもとで動いているという、本当に校長一人に責任をとらせるわけではないんです。やはり学校理事会の責任となるわけですね、そういうことで言えば。

 ですから、今の都道府県教育委員会、そしてさらに市町村教育委員会、学校とあるこの中間を我々は、すっ飛ばしたと言うと言葉は悪いんですが、より両方に、国か学校現場かにまさに権限を両寄せしているというのが我々の考え方です。だから大分違うとは思いますけれども、いかがですか。

伊吹国務大臣 いや、先生、その間に都道府県知事が入ってくるわけでございましょう。ですから、都道府県知事にどういう権限がおありになるのかをはっきりしないといけませんし、それから、今だって、未履修の問題についていえば、国が基準は決めておりますね、民主党さんが法律で新しく想定されておられるのと同じように国が決めております。GNPの何%という予算じゃありませんが、三分の一の義務教育国庫負担金を国が負担しております。

 そういう中で、国が決めていた基準どおり、カリキュラムの編成権を持っている学校長が編成しなかったといった場合に、これは理事会の承認ですから、もちろん理事会も同じ責任があるでしょうが、そこに対して、それを是正させる責任は都道府県知事にあるんですか、それとも国にあるのか。

 国は、しかし基準を決めております。今の地方自治法の、先生が先ほど引かれたところの措置要求権はありますけれども、これは地方自治事務になっているわけですね。そのときに、では、今だって同じ仕組みなんだけれども、こういうことがまかり通っているということに対して、国はどういう権限をもってこれを国の言うとおりさせるのかということがよくわからないのと、知事がどういう役割を果たされるのかがよくわからない。両方に寄っているということはよく理解しておるんですが。

藤村委員 時間ですので。

 今の話は、むしろ我々もこういう議論をしながら、私どもは、地方教育行政の適正な運営の確保に関する法律案という形で、通称地教行法と言うんですが、これが今最終検討段階に入っております。今の御意見なども非常に参考になりますので、これを入れた上で、またぜひ議論をさせていただきたいと思っております。

 本日は、ありがとうございました。

    ―――――――――――――

森山委員長 この際、両案審査のため、昨十三日、第一班大分県及び第二班北海道に委員を派遣いたしましたので、派遣委員からそれぞれ報告を聴取いたします。第一班稲葉大和君。

稲葉委員 大分県に派遣された委員を代表し、団長にかわりまして私からその概要を御報告申し上げます。

 派遣委員は、森山眞弓委員長を団長とし、理事中井洽君、委員井脇ノブ子君、松本大輔君、斉藤鉄夫君、保坂展人君、糸川正晃君及び私、理事稲葉大和の八名であります。

 大分県における会議は、昨十三日、大分市の大分東洋ホテルにおいて開催し、まず、団長から、派遣委員及び意見陳述者の紹介並びにあいさつ等を行った後、大分県高等学校PTA連合会会長高橋正夫君、元大分市立中島小学校校長清原今朝勝君、大分市議会議員井手口良一君の三名から意見を聴取いたしました。

 その内容について簡単に申し上げます。

 まず、高橋君からは、家庭教育に関して、子供と同時に親の規範意識を養う必要があること、大分発協育ネットワークづくりなど、地域の教育を充実させる必要があること、

 次に、清原君からは、教育基本法については、前文、教育の目的のような不易の部分と、時代に合わせて変えなければならない家庭教育、学校、家庭、地域との連携のような部分とを区別して考えるべきこと、学校の自主性、自律性を尊重することと、国が責任を持って財政支援を行う必要があること、

 最後に、井手口君からは、教育基本法の改正は長期的観点で行い、拙速に改正するべきではないこと、教育行政における責任と権限の分担を明記するべきこと

などについて意見が述べられました。

 次いで、各委員から、陳述者に対し、学校、家庭、地域の三者が連携した教育の重要性、公の精神を育てるための道徳心、自律心、公共心の重要性、人格の完成について、民主党案においては、「人格の向上発展」と規定したことの評価、障害を有する子供の教育について「共に学ぶ機会の確保に配慮されつつ」と規定したことへの評価、義務教育年限九年を削除したことについての考え方、公立と私立の教育格差を是正するため公立学校を立て直す方法、教育委員会のあり方、「教育の目標」の規定がこれまでの自発的な社会活動を制限する懸念、国と地方の教育のあるべき関係などについて質疑が行われ、滞りなくすべての議事が終了した次第であります。

 以上が会議の概要でありますが、議事の内容は速記により記録いたしましたので、詳細はそれによって御承知願いたいと存じます。議事録は、本委員会議録に参考として掲載されますようお取り計らいをお願いいたします。

 今回の会議の開催につきましては、多数の関係者の御協力により極めて円滑に行うことができ、深く感謝の意を表する次第であります。

 以上、御報告申し上げます。

森山委員長 次に、第二班鈴木恒夫君。

鈴木(恒)委員 北海道に派遣された委員を代表いたしまして、その概要を御報告申し上げます。

 派遣委員は、私、鈴木恒夫を団長として、理事牧義夫君、西博義君、委員やまぎわ大志郎君、横山北斗君、石井郁子君の六名であります。

 北海道における会議は、昨十三日、札幌市の札幌全日空ホテルにおいて開催し、まず、私から、派遣委員及び意見陳述者の紹介並びにあいさつ等を行った後、札幌国際大学人文学部教授西田豊君、元高校教諭加藤義勝君、北星学園大学経済学部教授岩本一郎君の三名から意見を聴取いたしました。

 その内容について簡単に申し上げますと、

 まず、西田君からは、教育の根幹や社会のあり方にかんがみ、家庭教育、愛国心及び教員の待遇改善について、教育基本法に明記し、実践されることが重要であること、

 次に、加藤君からは、教育改革を推進するために、現行法第一条の「人格の完成」の堅持、望ましい勤労観の育成、教育振興基本計画の策定等が規定されたことを評価すること、

 最後に、岩本君からは、教育基本法の改正は、現在の教育問題の解決に資するものではなく、憲法に定める個人尊重の理念及び生存権の理念と相入れないことから反対であること

などについて意見が述べられました。

 次いで、各委員から、陳述者に対し、政府案における人格の完成の理念の有無、愛国心に関する記述の評価、教育の無償化及び私学助成の充実のために教育基本法を改正する必要性、民主党案における教育行政のあり方についての規定の評価、政府案に「教育の目標」の規定を置いたことが教育に与える影響などについて質疑が行われ、滞りなくすべての議事が終了した次第であります。

 以上が会議の概要でありますが、議事の内容は速記により記録いたしましたので、詳細はそれによって御承知願いたいと存じます。議事録は、本委員会議録に参考として掲載されますようお取り計らいをお願いいたします。

 今回の会議の開催につきましては、多数の関係者の御協力により極めて円滑に行うことができ、深く感謝の意を表する次第であります。

 以上、御報告申し上げます。

森山委員長 以上で派遣委員からの報告は終わりました。

 お諮りいたします。

 ただいま報告のありました第一班及び第二班の現地における会議の記録は、本日の会議録に参照掲載することに御異議ありませんか。

    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕

森山委員長 御異議なしと認めます。よって、そのように決しました。

    ―――――――――――――

    〔会議の記録は本号(その二)に掲載〕

    ―――――――――――――

森山委員長 午後二時三十分から委員会を再開することとし、この際、休憩いたします。

    午後零時九分休憩

     ――――◇―――――

    午後二時三十分開議

森山委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。

 質疑を続行いたします。鳩山邦夫君。

鳩山(邦)委員 私は、二十八年ぐらいかそれ以上か議員をさせていただいておりますけれども、この委員会の審議を聞いておりますと、非常に充実しているという感じ、単なるやり合いというのではなくて、大臣の答弁も見事ですし、民主党の方々の質問も、けさの質問など、藤村さんの質問も非常に教育行政について核心に触れた問題であったと思います。

 あるいは、松原仁さん、昔から私も長いつき合いですけれども、非常にすぐれた質問内容であって、民主党の幅広さを示したのかもしれませんが。ここに牧理事がおられますけれども、彼も私の事務所に長くいた、かつての私の事務所のエースでありまして、私が議運の委員長のときに、解任決議案を出されたときに造反してくれるという殊勲甲ものでもありますが、彼や松原さんは、私たちとほとんど考え方は変わらないと思います。特に……(発言する者あり)前原さんもね。ちょっとそのとき聞いていなかったものですから。牧理事は、選挙区の近くに小牧基地があって、イラク問題で自衛隊が出発するときに、日の丸の旗は振らなかったようでありますが、見送りに行って、万歳と見送ってくれた。しかし民主党はイラク派遣には反対と、非常に幅の広い政党なんだろうと思います。

 しかし、その幅の広さがこの委員会の質疑では非常に私はプラスに働いていると思いまして、大臣の答弁も、あるいは民主党の質疑も答弁も、非常によくこなして、こなれてきている。けさ、前原質問だけは私いませんでしたけれども、前後の二人の質問と答弁のありさまを聞いていますと、もう本当にこなれてきたなという思いがするんですね。

 私も教育行政にタッチをしたことはあります。教育問題について全く暗いわけではありませんが、前回も質問いたしましたが、教育基本法で今回質問の時間を与えていただいて、山のように聞くことがあるなと最初は思った。思ったんですが、この委員会に出ていますと、私が聞きたいようなことはほとんど全部質疑のやりとりで出てきてしまって、あともう聞くことはほとんどないなというような状況にもなっていると思うんですね。

 現に、前国会で四十九時間、あすで百時間を超えるということですし、参考人質疑四回、地方公聴会六カ所ということで、非常によくこなれてきているわけでございますから、委員長を初め、与野党理事の皆さん方も、そろそろこの委員会で結論を出されてもいいのではないかな、そんなふうに思っておりますが、民主党さん、いかがですか。

藤村議員 私どもは、議員立法という民主党案の提案者でございますので、これは徹底して審議をいただくという立場でありますので、ころ合いがどうとか、そういうことについて我々が答えるべきではないかと存じます。

鳩山(邦)委員 高井さんが最初にこの国会で、すごくきれいな声で提案理由の説明をされましたけれども、最初に「人なくして国なし」とおっしゃいましたが、あれはどういう意味でしょうか。

高井議員 その言葉どおり受け取っていただけたらと思います。

鳩山(邦)委員 人が一人もいなかったら国はないので。

 これは実は、私が大変お教えをいただいた金丸信先生、インフラだとか公共事業については大変熱心で、またパワーをお持ちであった。その金丸信先生が、失礼ながら晩年というべきでしょうか、つくづくとおっしゃるのは、どんなにインフラが整備されて、空港も港湾も高速道路も新幹線もどんどん引かれていっても、その国土の上に住む人間が幸せでなかったら、心寂しいものだったらだめだな、こうおっしゃった。そして、その直後に私は文部大臣になった。それで、最初に聞かれて、思いつくままに、人づくりなくして国づくりなしと申し上げた。そのことを民主党結党のときに持っていって、置き土産にしたのが、こういう言葉で再び出てきたのかなと思うわけでございます。ですから、私は、その言葉を使っていただいて非常にありがたいと思います。

 それで、共生の精神ということも民主党案には出てくる。これも非常にいいので、少なくとも小沢代表より私の方が、自然との共生あるいは共生ということははるかに先に申し上げていると思うわけでありますけれども、これも十分評価できる。

 私は、この民主党の法案の提出者である鳩山由紀夫さんという人とは教育論議をしたことは一度もないんですけれども、西岡武夫先生とはもう本当に教育論議をし、教えをちょうだいし、西岡イズムを身にまとって私は文部行政をやらせていただいた。

 今回の民主党案を最初読んだときにやはりびっくりする部分があって、ああ、これはいいなと。それは、絶対今のままこれを教育基本法に書かれては無理だなという学校理事会とかはありますよ。あるいは、教育行政は首長がという部分も私は賛成はできませんけれども、前文から含めて随所に、ああ、これはいいなと思う部分があるのは、全部ではないでしょうが、ただ、優秀な皆さんがおそろいでしょうけれども、やはり西岡イズムというのがちりばめられているのではないかな、そういうふうに思うんです。

 私はまず大臣にお伺いしたいと思うんですが、私は、基礎教育、普通教育、義務教育、まあ小中ということだと思うんですが、本当の基礎、基本を押さえる部分については、学習指導要領あり、教科書検定あり、もちろん高校もありますけれども、その本当に基礎的な部分を無償で提供する義務教育、この部分は完璧に国が押さえるべきだと思うんですね。

 フランスでは、そういう教職員は国家公務員ですね。西岡武夫先生はいつも義務教育教職員は国家公務員でなければならないというので、私は意見がぴったり一致しているわけですね。今直ちに、そう簡単に変えられるとは思っていません。でも、どんなに教育を地方分権化しても、基本のところだけは国家というものが責任も負うし、国家公務員によって行う。そういう構想については、伊吹大臣はどうお考えでしょうか。

伊吹国務大臣 一つの考えとして、当然そういうことはあり得ると思います。安倍首相が所信表明で、すべての児童に基礎学力と規範意識を身につける機会を保障したいということをおっしゃいました。すべての児童ということになりますと、日本の領土の中にいるすべての日本国民、あるいは日本におられる在日の方も含めてという民主党的考えもあると思いますが、そのすべてということに目配りができるのはやはり国家しかないわけですね。ですから、先生がおっしゃっていることは一つの御提言だし、西岡先生が自民党におられたときもずっとそういうことをおっしゃっていましたので、それからすると、知事にああいう権限が行って、学校ごとに理事会があって教育が実施されるという民主党案は、私はやや理解が難しいなという気はしながら伺っておるんです。

 ただ、やはり行政を預かっている立場からしますと、現実を混乱させることなく理想の方向へ行かねばなりませんから、今まで積み重ねてきたものを大きくカーブを切るということは、予算その他の問題からしてなかなか難しい現実がありますが、一つの形であるということは否定いたしません。

鳩山(邦)委員 よく、教科書無償などという制度は金額的に大したことでないんだからもうやめちまえという意見を随分言われたことがありますが、私は、教科書を無償にする、これは国の責任で無償にする。当時四百億、今幾らぐらいかわかりませんが、それくらいの金額のものですね。でも、子供たちが国から教科書をただでもらっているということに私は意義があるんじゃないかと。やはり愛国心の問題は、そういう国というもの、誇らしく祖国を思う、そういう意味では、私は、教育の基本を国が押さえるということが重要ではないかな、こう思うわけです。

 民主党案で、「国は、普通教育の機会を保障し、その最終的な責任を有する。」と七条三項に書いてあるんですが、最終的な責任というのは教育の機会の保障だけなんですか。

高井議員 お答え申し上げます。

 この条文は、機会均等の保障と水準の確保を国が責任を持って行うということで、具体的には、機会を保障するということは財政的支援を行うということでございまして、水準というのは学習指導要領などで基準を示すということで、責任の所在を明らかにいたしました。また、お金と組織と標準は国が最終的に責任を持つけれども、実施する主体としては学校設置者である市町村長が最も責任を持っていただくという地方分権の考え方でございます。

 我が党案では、第十九条でこの財政的支援について明記しておりますけれども、より細かくは、この第十九条に基づいて学校教育環境の整備のための基本方針を定めて、そして、この計画を策定して財政上の措置をとるということを別途法案で規定して、策定しているところでございます。

鳩山(邦)委員 七条の三は「機会を保障し、」ということだから、いかにも財政の問題とかそういうような形になっていくような気がしますが、ただ、高井さん、あなたがこの国会へ提案したときの文章は、「国は普通教育の最終的責任を有する」と読まれたんですよね。機会均等でない、義務教育の最終的な責任を有すると。

 という場合、国といっても、それは行政機関だけではなくて国会もあるかもしれない。そういう観点で考えた場合に、国民から見れば、とにかく教育の最高権力者といえば、それは伊吹文明文部科学大臣ですよ、権力者という言い方は嫌だけれども。責任と権限というのは一体だとおっしゃるけれども、少なくとも、教育の第一人者はだれかといえば、第一人者というのは、まさに権限その他含めて、すべての意味でそれは文部科学大臣だと国民は思っている。ところが、実際には、指導、助言、援助みたいな形で非常に複雑な仕組みになっている。いじめとか未履修問題等がありますけれども、民主党さんのお考えでは、その最終的な責任というのは文部科学省や文部科学大臣ではないということですか。

高井議員 お答え申し上げます。

 もちろん、いろいろな意味で国に責任はありますけれども、やはり現場の責任は、最終的に学校現場で解決していただこうという意味で、より学校現場での責任を明確にするという形で盛り込みまして、国がやるべきことは、事細かく、逐一現場のやり方に指導したりやるよりも、むしろ、機会均等保障によってお金の支援と水準の確保とをきっちりやるという大きな方向をつくるということで考えております。

鳩山(邦)委員 そういう意味で、皆さんももう少し西岡先生と話を頻繁にし合って、中身の肉づけを少し変えていかれた方がいいのではないか、こういうふうに思います。

 実は、松原仁さんの質問、下村副長官が随分お答えになった。私も同じような形で一緒に行動をすることがある。

 そこで、「日本を愛する心を涵養」と民主党案には書いてある。国を愛する心を持つというのは、学習指導要領の、あれは何でしょうか、一つの目標みたいなもので書かれている。我が国と郷土を愛する態度を養うということでも、私は文章として十分成り立つと思う。態度というのは、外見だとか、いろいろな議論、こなれた議論を私は随分聞いたけれども、これは、文部科学大臣、この教育基本法の文案は、民主党さんの言う「日本を愛する心を涵養」というのももう当然に含んでおるよ、そういう名答弁をしてくださいませんか。

    〔委員長退席、斉藤(斗)委員長代理着席〕

伊吹国務大臣 民主党案に書いてある「日本」というのが日本国なのか、ちょっと私はよく、率直に言うと理解できないんですね。「日本」という言葉で国をあらわしておられるのか、日本人をあらわしておられるのか、そこで日本人が祖先を含めて、営みの中でつくり上げてきた伝統文化をあらわしておられるのか、それはにわかに、「日本」という言葉だけでは、私は少し理解が行き届きませんので、「日本を愛する心」というのが、にわかに、我々と同じだというメイ答弁をしてしまうと、そのメイは、やや迷うという心になると困りますので、民主党さんの言っておられる「日本」というものがどういうものかを委員からひとつ確かめていただいた上で御答弁したいと思います。

鳩山(邦)委員 確かめる時間がありませんので次へ進みます。

 実は、民主党案の方が明らかにすぐれているという部分が、決定的にすぐれている部分があるんですよ。それは、私は、特に、環境革命を起こさなければいけないということを言い続けている。世界の環境学者のほとんどは、今のペースで自然環境が破壊されていった場合に、それは単に二酸化炭素、気温の上昇だけではない、砂漠化もあるでしょう、環境ホルモンもあるでしょう、水もあるでしょう、大気もあるでしょう、資源の枯渇もあるでしょう、ありとあらゆる意味で、三十年以内に先進国は先進国らしい生活ができなくなるということを明言していますね。もうそこまで危機が迫ってきているのに、国会は一体、国政は何をやっているのか、あるいは、行政は何をやっているのかという問題だと思うんです。これは時代を超えた問題というか、世代間の公平というか、我々はうんと豊かに暮らしたけれども後の世代はもう知らないよという考え方は絶対とるべきでないし、そういう子供を育ててはならない。

 民主党案には、私もいつも未来世代への責任と言っているんですが、民主党前文に「子孫に想いをいたし、」とある。「新たな文明の創造」というのは、多分、自然と共生する永続性のある社会をつくろうという、新しい文明ということだろうと思っております。「日本の明日を託す」という文章もあるのかな。

 これは私は非常にすぐれていると思うし、この部分が、この法案では教育目標の四番に「自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度」、これではちょっと寂し過ぎるんですね。これで未来世代大丈夫かと。これで未来世代が大丈夫なような教育をする、未来世代への責任を果たすような子供たちをつくるんだということを、法案、条文に直接には書いていなくても、これは大臣が議事録に残していただくと私は大変ありがたいと思うんですが、いかがでしょうか。

伊吹国務大臣 環境問題については我が党の政策をリードしていらっしゃる鳩山先生の御発言ですから、重く受けとめ、教育基本法の二条に、今先生がおっしゃっていただいたような「環境の保全に寄与する態度を養う」云々というのがございますが、これは、環境問題というのは財政再建と同じでして、国債を発行して債務を後に残して、そして自分たちが今楽をしているということはやはりやっちゃいけない、環境を悪化させることによって自分たちが今いい生活をするということはやはりやっちゃいけない。

 前文というのは非常に大切なもので、精神を書いていますが、各条に入れるということは、学校教育の具体的なところを、前文の精神ではなく各条を引いて指導要領その他をつくっていくわけですから、先生のおっしゃった御意見は当然拳々服膺して、法律が通りましたら、ぜひおっしゃっているような方向で私は努力したいと思います。

鳩山(邦)委員 それでは、午前中もありましたが、不当な支配の部分ですが、不当な支配ということは、ここにおられる文部大臣経験者はみんな国会で経験しているんですよね。というのは、憲法、教育基本法にいわくという質問が野党からどんどん出ますね。これは不当な支配ではなかったか、学力調査は不当な支配ではないか、指導主事が学校へ行くのは不当な支配ではないか、国旗・国歌は不当な支配ではないかとか、いろいろ言われてきたと思うんですが、事務方で結構ですが、どういうときに不当な支配ではないかと文部行政の担当者たちは言われてきたんでしょうか。

銭谷政府参考人 教育行政をめぐりましては、かつては文部省と教職員組合との間でさまざまな項目について対立が生じておりました。

 例えば、昭和三十年代に実施をされました全国学力調査に関しましては、これは教育内容の国家統制、教育課程の押しつけ手段であるとして、不当な支配に当たるということで反対運動などがございました。これについては、昭和五十一年の最高裁の判決におきまして、学習指導要領の法的拘束力を認めるとともに、この調査は法律に基づいて実施をされたものであって、教育に対する不当な支配には当たらないとされたところでございます。

 このほかにも、例えば職員会議は決議機関として職場の民主化を図るので、職員会議を議決機関としないような指導というのは不当な支配に当たるとか、あるいは国旗・国歌について指導する学習指導要領の定め、それを指導する教育委員会の行為というのは不当な支配に当たるといったようなことが言われたことがございます。

鳩山(邦)委員 要するに、不当な支配という言葉が、一部の団体等から幅広く解釈されたり曲解されたりして随分使われてきたと思うんですね。それを防ぐために、「教育は、」というのを「教育行政は、」と書きかえたらいいではないかということは、松原さんが午前中指摘したところなんですね。私も、今度の書き方より「教育行政は、」と書いた方がいいのかな、こう思うんですが、「教育行政は、」と書いたのと同じ意味を理解できる、解釈できるという大臣答弁をお願いします。

伊吹国務大臣 教育行政を含んでいるという理解で結構だと思います。

鳩山(邦)委員 ちょっと気になるのは、改正前の旧十条ですね。「教育は、」「国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。」と書いてあったのかな、多分そうですね。それが、この十六条はいかにも国と地方の役割分担と。かえって冒頭申し上げた西岡イズムというのか、教育の基本は国が押さえるべきだ、国の最終的な責任というのは指導、助言、援助ということかもしれないが、その仕組みを変えて、もっと責任が明確になるような形にしたい、私はそう願う立場からいうと旧十条の書き方の方がよかったような気がしてならないんですが、心配は要らぬということを大臣が答弁されたらよろしいかと思うんですが。

伊吹国務大臣 先輩文部大臣経験者として大変ありがたい助言をいただいております。

 鳩山先生が御在任中にもそういうことがあったのではないかと思いますが、国民全体に対して直接に責任を負って行われるべきということを盾に、教育の現場でいろいろ混乱が起こりましたので、国民全体という、その全体は何だという、いろいろなことが過去にありましたので、もう率直にはっきりと、国会でお認めいただいたこの法律に基づいて行われるというものはもう不当な支配ではないんだということだけを明確に記述している、私は、御提案の案の方がかえって心配がないんじゃないかと理解しております。

鳩山(邦)委員 それはそれでいいんですが、午前中の質疑を聞いておって、藤村提案者からの質問かと思いますが、それは文部大臣も見事に答弁されていましたね。

 つまり、私も文部大臣のころに、何か全国の都道府県の教育委員会の人たちを集めて、そこで、あれは指導か助言だか訓示だかわからない、そういう何かを言う。ところが、そのとおりやってくれない。その場合に、では、改善しろということが言えるかどうか、その担保がないという話をされましたが、そういう担保ができるようにさまざまな法律を準備していこうというお考えはないでしょうか。

伊吹国務大臣 午前中、松原先生、そして、ずっと一連の、前原先生、藤村先生、お三方が御質問いただいたことは、まさに教育行政をこれから直していかなければいけない核心のところをやりとりができて、本当にいいやりとりであったと私自身は質問者に感謝をいたしております。ですから、今先生のおっしゃったことは、私は全く異議なく伺っております。

鳩山(邦)委員 実は、前国会でも質問したことを最後にお尋ねしたいんですが、民主党の案の十三条には「障がいを有する子どもは、その尊厳が確保され、共に学ぶ機会の確保に配慮されつつ」と、これは実にいい内容なんですよ。(発言する者あり)私は、要するに、ノーマライゼーションなんというのでなくて、もうインテグレーション、統合された教育と。つまり、子供たちは、障害があっても基本はみんなと一緒に学ぶ。ただ、どうしても一緒に学べない部分のみ、昔でいう特殊なもの、今でいう特別支援教育的なもので勉強すればいい。

 それがいいと思っているんですが、ところが、政府案の四条二項というのは、何か余り大した書き方でなくて、「障害の状態に応じ、十分な教育」となっているんですね。その障害の状態に応じてというのが、完全に教育行政側が判断するということになると、親や子供の意見をそっちのけにして、あんたはこうだからこういう学校、あんたはこういう学校というふうになってしまうので、それは困るんですね。原則一緒だと、原則一緒だという中身に解釈していいということを大臣から答弁していただけるとありがたいです。

伊吹国務大臣 そのように御理解いただいてもいいと思いますし、今、民主党の中井理事も大変いい案だという不規則発言をしておられました。それほどいい案であるならば、ぜひ、私は、現場でお話をいただいて、双方の案の中でいいものをつくっていただければ、一番我々としてはありがたいと思っております。

鳩山(邦)委員 最後に、お願い。来年四月に学力調査を行うというんですが、学力調査という名前はやめていただきたい。

 私は、学力というのは生きる力を含んでいると思う。英語や数学や国語や理科やなんかの点数で学力、私は偏差値を追放した人間ですから、それは、戦後の教育を悪くした三悪人の一人と産経新聞に書かれたことがありますけれども、私は、学力というのは、生き抜く力とか幸せをつかみ取る力とか、あるいは、それこそ宗教的情操ではないか、そういうすべてだと思うので、学力調査という名前は、せめて到達度調査ぐらいにしていただきたい。

 それから、最後にもう一つ。

 宗教教育の問題が午前中に出ておりましたが、宗教裁判とか宗教戦争とかという言い方がありまして、やはり宗教の教義に深くかかわって裁判や戦争が行われる。「宗教教育」という、法律上意味があるかどうかわかりませんが、括弧つきの題ですよ、ここにあるでしょう、括弧つきの。「宗教教育」というのは、民主党案はちゃんと「宗教に関する教育」というふうになっているので、これは、法律案ではないのだったら、表題は宗教に関する教育に改めていただければありがたいと思います。

 かように、民主党案も大体、かなり大臣の心の中に入ってきて、こなされてきておりますので、そろそろ時期かななんて思います。

 ありがとうございました。

斉藤(斗)委員長代理 次に、赤羽一嘉君。

    〔斉藤(斗)委員長代理退席、委員長着席〕

赤羽委員 公明党の赤羽一嘉でございます。

 ひょっとすると最後の一般質疑の時間になるかもしれませんので、限られた時間でございますけれども、答弁者の皆さんというか、今は大臣御不在ですが、三十分でございますので、簡潔で適切な御答弁のほどをよろしくお願いしたいと思います。きょうは、公務御多忙の中、池坊副大臣にもおいでをいただいておりますので、どうかまずよろしくお願いしたいと思います。

 私はまず、今回の法改正で教育の目標を書かれた第二条のうちの第五号についてお伺いをしたいというふうに思っております。

 この第二条第五号は、日本の「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」とした。これは本当によく練られた文案だなというふうに私は率直に思うわけでございます。

 この点について、「養うこと。」とした理由について、前国会で小坂前文部科学大臣の答弁には、こうしたことについては、いわゆるグローバル化と言われる社会の中にあって、日本人が海外に出て活躍をする、そのときに、日本人のアイデンティティーとして、しっかりとした歴史観、そして伝統に対する認識、日本の伝統、文化というものをしっかりその知識を身につけていただくことが、日本を理解され、日本人が尊敬されるものだと思うわけでございます、このような御答弁がございましたが、私も、私自身の体験からこれは全く同感をするものでございます。

 私の体験といいますのは、私は、政治家になる前、三井物産の社員で、海外留学と海外赴任をいたしました。そのときに、生まれて初めて異国の地で外国人社会の中で生活をいたしました。そのときに、みずから、私自身が日本人としてのアイデンティティーとは何ぞやとか、日本の持つ伝統、文化またはその歴史についてどうなっているのかという認識を新たにしたという経験をいたしました。

 たまさか私は、実は小学校時代に、ちょっと大臣にお話をしたかったわけですけれども、小学校のときにみずから琴を勉強して、音楽の先生で、小学生に琴を教えていただいたという大変すばらしい恩師に恵まれました。茅原芳男先生という、ここに「教育流 邦楽狂師 一代記」、これは第二十八回の博報賞伝統文化教育部門を受賞された本なんですが、こういった教育を受けまして、琴とか尺八というのは見たことはあるけれども、ある意味では本物を見たことがないような世代だったんですが、それを初めて手にさわり、そして、「さくらさくら」ですとか幾つかの曲を弾けるように一生懸命指導していただいたわけでございます。私がいた海外赴任の地でも、そういったことを聞かされながら、邦楽に関する、また日本の歴史に関することを、自分自身の意見として言うことができましたし、そういった日本の伝統、文化に対して誇りを持つこともできたし、まさに今、尊重する態度も身につけることができたというふうに思うわけでございます。

 私は、本当にこういったことで、義務教育の小学校、中学校のときに和楽器の教育というものをもっとしっかりするべきだ、こういったことを導入部分として、日本の伝統、文化についての認識を深める大変重要な教育機会であるはずだという認識がございまして、こういった点についてまず池坊副大臣に、日本の伝統、文化を尊重する態度を身につけるという上で、義務教育における、今私は琴と申し上げましたが、琴などの和楽器の演奏を指導することを私自身は大変重要なものというふうに認識をしておりますが、池坊副大臣も日本の伝統、文化を担うお一人としてどのような御所見があるのか、まずお伺いしたいと思います。

池坊副大臣 今、いじめなどが社会問題になっておりますが、いじめをなくすためにも、心豊かに子供たちが生きることが必要だと思います。

 心豊かに生きること、たくさんございますけれども、その一つには、やはり我が国の伝統、文化をしっかりと受けとめ、そしてそれを、和楽器でしたら、みずから弾ける喜びということを習得することが必要かと思います。

 きょう新聞に出ておりました「和と出合う」という中で、中村吉右衛門さんが歌舞伎を子供たちに教えている。子供たちは、日本の文化を知るだけでなくて、すべて日本の伝統、文化というのは道でございますから、一つの道をきわめる。だから、感謝の心とか礼儀作法とか、それを知らない間に学ぶことができる。また、三味線を教えると、茶髪の女の子が、ギターと同じように生き生きと、自分でも弾けるんだ、そして、うるさがっている男の子たちに、静かになさい、こんなにいい音楽があるのよと言っていると。私、ちょっとそれに感動したんですね。

 ですからやはり、しっかりと伝統、文化を受けとめるとともに、お互いを認め合いながら共同して学習する場というのが必要だと思います。ですから、和楽器をともに合奏するということは大変必要だと思っております。

 今、全国の公立小中学校では必ずしも三味線だとかお琴だとかが十分ではございませんけれども、それを使うことができる人材はおりますし、また、いなければ民間の活用というのをしたらいいと思いますので、ぜひこれは、教育基本法の今審議されている中の改正にも出ておりますし、皆様がこれには賛成してくださっていると思いますので、公教育の中でしっかりとやっていきたいと思っております。

赤羽委員 今、大臣がいらっしゃらなかったときに、私みずから小学校のときに琴の演奏を教えていただいた恩師、実はきょうも来ていただいているんですが、に恵まれたということと、そういったベースがあったがゆえに、商社マンとして海外に留学また駐在をしたときに、外国人社会において私自身が日本人としてのアイデンティティーを確立することに大いに役に立った。そういった意味で、そういった重要性についての御認識をまず副大臣にお伺いをしたところでございます。

 前通常国会だと思いますが、銭谷局長の答弁で、今後は、この第二条に示された教育の目標を踏まえ、学習指導要領全体の見直しの検討の中で、各教科等にその具体的な伝統、文化の尊重について、各教科等の具体的な教育内容の中にどういうふうに生かしていくのか検討してまいりたい、このような御答弁がありました。これは大変すばらしいというふうに思っております。

 実は、今の学習指導要領、多分五年前だったと思いますが、変わりまして、初めて和楽器の教育について書き込まれたんですが、これは実は、中学校三学年を通じて一種類以上の和楽器を用いる、この一行だけなんですね。洋楽器については、小学校において、ハーモニカ、リコーダー、こういった具体的な楽器を習得することという表現になっているんですが、和楽器は、中学校で三学年を通じて一種類以上の和楽器を用いると、非常にあいまいな状況になっているわけです。

 まさに今回、法改正で伝統と文化を尊重することの意義が確認され、そういった具体的な指導方法または評価方法をどのように変えていくのかというのは大変重要な私は論点だというふうに思っておりますので、まず、現在の教育現場において、和楽器教育の現状、三学年を通じて一種類以上の和楽器を用いるというこの学習指導要領は、実際どのような現場の状況になっているのか、目標の達成度はどう評価するのかということを、局長で結構でございますので、御答弁いただきたいと思います。

銭谷政府参考人 現行の指導要領から、中学校で三学年を通じて一種類以上の和楽器を用いるということにしたわけでございますが、現状を申し上げますと、各都道府県の指導主事等からの聴取でございますけれども、一年生では、大体約半分近い学校が一時間から五時間ぐらい、これは年間でございますけれども、時間を配当している。二年生では、七割ぐらいの学校でやはり一時間から五時間ぐらいの時間を配当している。三年生になりますとちょっと減りまして、四割ぐらいの学校が一時間から五時間程度。それで、六時間以上という学校も各学年とも五、六%あるという状況でございます。

 ですから、おおむね三年間で和楽器には触れているという状況はあるわけでございますけれども、まだ時間数等はそれほど十分ではないんじゃないかというふうに思っております。

 それから、使用する楽器ですけれども、これは一番多いのが琴でございまして、大体各学年五割から六割は琴を使用している。続いて多いのが打楽器、つまり和太鼓が多い割合になっております。このほかに、尺八、三味線、笛などを使っている学校が見受けられるという状況でございます。

赤羽委員 今の答弁を聞いていますと、そこそこ充実しているんじゃないかなという勘違いをさせる答弁だったというふうに思います。まさに靴の上から足をかくような答弁だなと思いました。これは、正直にやはり言った方がいいんですよ。

 これは一時間から五時間配当している、私、最初に資料を見たときに毎週のことなのかなと。これは実は年間なんですよ。今言われたように、一学年で一から五が何%、二学年でと言うと毎年やっているようでしょう。これは違うんですよ。三年間で二年のときしかやらない学校が大半なんですよ。やはり正直に言わなければいけない。それで、一時間もやっていない、まさに未履修のところが、今は答弁しなかったけれども、一学年で一時間もさわらないところが四四%、二年のときには二九%、三学年で五四%。私の認識しているのは、三学年で全くさわらない、この指導要領を無視している、履修をしていない学校は二四%あるんですよ。

 ですから、こういった現状についてまずやはり局長は逃げるような答弁をするべきじゃないと僕は思いますし、不誠実ですよ。まじめに議論をして、これだけ教育基本法の改正という大きなことをテーマとして、現実がどうなっているかということをまずブラインドをかけてしまっては、法改正に伴うまともな教育現場の変更というのはできないというふうに厳しくまず指摘しておきたい。

 それで、評価というのはどうなんですか。これで今学習指導要領が達成されている、文部科学省として、今の数字、申し上げました、大体二学年で七割弱、年間一時間から五時間、全くさわっていないのが、僕はよくわからないけれども、三割弱、こういったところで現状の学習指導要領で求めている目標はクリアされているという認識なんでしょうか。どうなんですか、何か人ごとのように聞かれているんですけれども。

銭谷政府参考人 私も率直にお話をさせていただきますが、現行の学習指導要領は平成十四年度から実施をされたわけでございます。平成十年度にこの指導要領を告示したときには、中学校の音楽教育関係者は非常に、これは大変なことになったなという感じを持ったと思います。国としても、教員の研修会等いろいろ準備を進めてまいりましたが、当初よりは和楽器の指導というのは各学校においていろいろと工夫はされてきていると思いますけれども、やはり全体としては、先ほど申し上げましたように、まだ、指導時間とかそういう点において課題は残しているというふうに思っております。

赤羽委員 ですから、まず求めたいのは、学習指導要領自体が、現状、中学校で三年間を通じて一種類以上の和楽器を用いるということ自体が、目標設定というのがちょっとあいまいだと私は思うんですね。

 私は、ざっくり言うと、簡単な曲目を弾けることを目標とするとか、そういったようなことをしないとなかなか本腰で取り組むことはできないし、もちろん、楽器の問題とか教員の配置の問題とかということの問題点はあるにせよ、せっかくのこの法改正の中で大きなテーマでありますし、それはタイムラグはあると思います。五年間で進捗状況があったと言うけれども、もう少し前に進めたかもしれないというふうなことも考えれば、私は、せめて簡単な曲目を弾けるようになる程度を目標とするというような目標を設定して、その目標に向かって、もちろん予算獲得も頑張らなければいけないだろうし、指導要領の徹底についても取り組まなければいけないと考えるんですが、副大臣、先ほどの御答弁についていかがお考えでしょうか。

池坊副大臣 議員がおっしゃいますように、ある曲目、例えば、お琴でしたら「さくらさくら」が弾けるようにというのは、高知や福島の中学校でもやっております。現実に、ちょっとお琴をさわっただけではその和楽器に対する関心は浮かんでこないと思います。一つの曲目を目標にして、それに向かってみんなが心を合わせてこそ、初めて和楽器そのものの大切さやすばらしさに触れることができると思いますから、それは大変にいい御提案だと思います。

 それで、この教科の目標設定のあり方については、現在、中央教育審議会においても専門的検討を行っております。議員がおっしゃいますように、和楽器の指導においては、簡単な曲目を弾ける程度を目標として位置づけることとしておりまして、私どもも、それに向けて、具体的に弾けるということが喜びであり、その一曲を通じなければそのものが持っているすばらしさに触れることはできないと思いますので、ぜひこれはしていきたいと思っております。

赤羽委員 前向きな御答弁を本当にありがとうございます。

 ただ、私も琴を習った経験から、「さくらさくら」というのは実はそんなに難しくないんですね。すぐ弾けるようになる。ピアノで弾くよりすごく簡単なので、子供が音楽全般に対する興味を持つという意味では、すばらしい楽器が実は日本にあるんだということをぜひ御認識をいただきたい。

 その中で、そういった目標をクリアしていく環境を整えていくために現状問題点がある。先ほどお話しございました、楽器がどれだけあるか。私の知る限りというか、余り経験も少ないわけですが、小学校、中学校に行くと、オルガンがないとかピアノがない学校というのはないですよね。必ずあるんですよ。ピアノのない学校というのはないはずです。だけれども、琴がない学校というのは大変な数ですね。音楽の先生で琴が弾ける先生というのは多分少ないと思うんですね。音楽の教員の指導要領というんですか、養成課程で、多分ピアノは必修になっていても、琴は必修になっていないはずなんです。この辺も少しは考えるべきではないかなと。教える先生がいない、楽器もない、しかし学習指導要領には一定以上の和楽器の指導をするというのは、現実の予算的な問題はあるにせよ、それは、もう少し文部科学省として踏み込んで前に進めるということが必要なのではないかというふうに思うわけでございます。

 こういった予算編成について最後に大臣にお伺いしますが、その前に私は、ぜひ和楽器の教育の振興策というか、例えば文部科学省の中で子供たちの和楽器の演奏会を開催するとか、この法改正に伴って、これからの日本の教育のあり方が大きく変わったいろいろな点の一つのシンボリックなものとして、ぜひそういったことを企画されたらどうかなと。

 先ほどの私の恩師は、実は、私に教えていただいた後この何十年間の間に、小学生、中学生のお子さんたちを五回海外の演奏旅行に引率されている。全部自費でやったというお話を聞きました。そういった経験をしたお子さんたちというのは大変すばらしい財産になったというふうに想像にかたくないわけでございますけれども、今、金がないからなかなかできないのはわかりますから、せめて今できることをやられたらどうかなと。池坊副大臣がやればマスコミも注目を集めるでしょうし、こういう企画についてはどのようにお考えか。

池坊副大臣 突然の御提案ではございましたが、私は大変賛同いたします。

 考えてみますと、ピアノのコンクールとかあるいは合唱団のコンクールというのは新聞社などもやっておりますから、行政もさることながら、新聞社などにも働きかけて、このような和楽器の演奏会をしたら子供たちの気持ちも喚起できると思いますので、これはぜひ私が、大臣の御指示をいただきながら企画をしていきたいと思っております。

赤羽委員 ぜひ文部科学省の中でお願いしたいなと思います。

 ぜひ、そういった学習指導要領を法改正に伴って変えるときに現場の皆さんの声を聞いていただきたいと思いますし、いろいろなことを、せっかくの機会ですから、ただ単に法律改正をして教育現場は全く変わらなかったのでは全く意味がないわけでありますので、まずこの邦楽教育について、このやりとりを聞かれて、伊吹大臣の御所見をお伺いしたいと思います。

伊吹国務大臣 今の一連の御質問、答弁を伺っておりまして、現在提案しております教育基本法には、日本の伝統、文化を尊重するということをわざわざ新しく記述しておりますから、この法案をお認めいただければ、先生がおっしゃっているような方向に行きやすい理念法ができるということだと思います。

 その上で、やはり教える人がいなければだめなんで、これは教育課程の中に和楽器を履修されるということを位置づけておりますから、ただ、邦楽というと、邦楽界は皆さん一斉に御賛同になるんですよ。その中でどの楽器というと、なかなかこれは、私どものやっているのが一番いいという方が次々出てきますので、どうバランスをとるかということはあると思いますが、この法案がお認めいただければ、先生がおっしゃったような、単に言葉だけではなくて、現実的にそれができる予算あるいは指導の先生方の段取りもつけながら、ぜひ中教審の御意見を伺っていきたいと思います。

赤羽委員 どうもありがとうございます。ぜひよろしくお願いいたします。

 次に、教育の機会均等について、第四条の第三号について、「経済的理由によって修学が困難な者に対して、奨学の措置を講じなければならない。」こうあります。これはまさに我が公明党の考え方と一緒でございまして、連立与党に参画をしてから、やはり、優秀な子だけに奨学金が出るのではなくて、まじめに学校に行きたい、お父さんがリストラになっても学校をやめなくてもいいような現場をつくりたいということで、奨学金の拡充を求めてまいりました。

 七年前は四十万人程度の学生に奨学金が支給されておりましたが、今年度の予算では百十万人の支給になった。大変すばらしい成果であると思いますが、私は、大学なんかはすべてもう奨学金で賄うことができる、勉強だけ一生懸命やれる環境をつくるということが一つの理想の姿であるというふうに考えておりますが、この点について、我が党の教育政策を主導してきた池坊副大臣に、現状の認識とこれからのお考えをまずお伺いしたいと思います。

池坊副大臣 議員がおっしゃいますように、公明党の力によって、平成十一年度六十四万人だった貸与者が平成十八年度には百九万人になりました。今まで成績優秀な人しか与えられなかった、貸してもらえなかった奨学金は、今や、本当に学びたいというまじめで誠実な子供たちは借りられるようになりました。この有利子をおつくりになった公明党、私も入っておりますのですが、感謝しております。子供たちに大きな希望を与えたというふうに私は感じております。

 本来、議員がおっしゃいますように、私も、自立の観点から、親の経済事情にかかわりなく、子供たちが望むならば、すべての子供たちが自分の力で学べるようなシステムにすべきというふうに考えております。それが本来の姿ではないかというふうに思っておりますので、これからも奨学金は一生懸命頑張ってまいりたいと思っております。

 そして、日本学生支援機構の奨学金だけでなくて、地方公共団体、公益法人、大学など約二千八百実施主体で年間二十七万人の方に対して奨学金が、給与制、貸与制それぞれがございます。そういうことのPRももっともっとしていかなければならないと思いますが、教育の格差を引き起こさないために、私は、この奨学金制度というのは絶対に必要で、これからも拡充する必要があるというふうに考えております。

赤羽委員 ただ、これも財政的な限りがあるというのは私もよくよく承知をしております。私、日本育英会の奨学金も自分自身もらっておりましたが、同時に、当時は旭硝子の奨学金もいただいておりました。これは、毎月一回、会社の人事部に行かなければいけなくて、行くと、会社の仕組みというか、高校時代もそうですが、大学時代もなかなか学ぶことのできなかった現場社会の、実業界の一端に触れる一つの機会も与えられたと思いますし、自分で勉強していく上で大いに役立った。

 私は、日本の企業というのはもっと社会に利益を還元するべきであるし、社会における公共的な役割というのをやはりもっと果たすべきだというふうに個人的には思っておりまして、もっと民間発のスカラーシップをつくるように、やはり金がないんですから、働きかけるということは幾らでもできると思いますし、ぜひ大臣が音頭をとって、経団連を初め経済団体にそういったことを促す、そして、それをしたことについてはもっと顕彰するとか、旭硝子の奨学金も、その奨学金をもらっている学生を自分の企業では就職させない、青田刈りじゃないという、何か非常にある意味では健全なことで行っていました。

 私は青田刈りにつながってもいいと思うんです。やはり、産官学と言われている中で実業界と大学がもっと近くなる、そのために金をどんどん惜しまずに優秀な学生を育てていくということが企業の側にあってもいいと思いますし、そういった意味で、日本の限られた財政状況の中ということも考えれば、もう少し民間の力を活用すべきというふうに思いますが、大臣の御決意を伺わせていただきたいと思います。

伊吹国務大臣 まことに先生のおっしゃる御提言は時宜を得たものだと思います。

 事実、幾つかの大学では、講座そのものを寄附しておられる企業もあるんです。学生の支援については、企業には、一般の法人税の損金に算入できる寄附枠に加えて、特定公益増進法人に寄附をなすった場合は、これは別枠として法人税計算上の損金に計上できる仕組みがありますので、ぜひ企業も、企業の商品を買ってくれる人があってこそ成り立つわけですから、社会還元ということを今以上にやっていただくということは、そういう企業こそまさにブライトな企業であるという社会的な評価も、ぜひ国会議員全員が定着させるように努力をしていただきたいと思いますし、私も全く異存はございません。

赤羽委員 ぜひ、経団連や日商等々にも働きかけをお願いしたいと思います。

 最後、限られた時間でございますが、第二条第二項のキャリア教育、職業教育について、今回文科省は、中学校の体験学習、これは兵庫県でもトライやる・ウイークといったことを始めておりまして、大変そういった意味では効果のあるというのは、私、我が子が二人おりますので実感としておりますが、しかし、中学生時代に職業観というのは、学ぶのは少し時期尚早かなと。社会の成り立ちですとか職業とはですとか、そういったことを勉強するのは、やはり高校ぐらいじゃないかと。

 今の高校生は、私の息子は高校二年生なんですが、そんなこともほとんどわからずに、一方で物すごい難しい三角関数を初め、あんなものは僕は卒業してから一回も使わなかったなと思うようなことを詳しく勉強させられていて、一方では何か社会のことをわからずに、数学が得意な子は理科系に行き、数学が苦手な子は文科系に行き、理科系の中で優秀な子は医学部に進む、そしてお医者さんが、適格性なんか何も問われないで実は自分の進路が決まってしまっている。こういったことというのは、非常に今の社会のひずみを生む原因になっているのではないかということを、私自身もそうですが、自分の子供の今の現状を見て、率直に言って感じるわけです。ですから、このキャリア教育について、高校時代の年についてどうかと。

 これは、高専というとすぐ出てくるんですけれども、高専はそれでいいと思うんですが、普通高の学生たちに、もう少し職業とはというか社会の仕組みについて学ばせなければいけないというふうに思うんですが、このことについて最後に御所見を賜り、終わりたいと思います。

伊吹国務大臣 大変大切な御指摘だと思います。

 そして、高等学校で企業を訪問するとか、あるいは職業を体験するとか、まさにゆとり教育と言われるのはそういうことをやっていただくための時間をとっているわけでございますので、午前中、民主党さんの御質問にもいろいろありましたけれども、ゆとり教育のあり方というものは少し見直さないといけない。まさに先生がおっしゃったような意味での、目的に合致したゆとり教育をやはり考えていくということだろうと思います。

赤羽委員 御見識の高い伊吹大臣みずからまず高校に乗り込んでいって授業をやるとか、外交官が外交の話をするとか、お金のかからないことから始めるということをぜひ強く要望、お願いして、私の質問とさせていただきます。

 ありがとうございました。

森山委員長 次に、古賀一成君。

古賀(一)委員 民主党・無所属クラブを代表しまして、きょうは、特別委員会の委員として御指名いただきまして質問をさせていただきたいと思います。

 盛りだくさんの質問を用意しておりますけれども、まず自己紹介を兼ねまして申し上げたいんですが、私は、大臣よりも少し後輩、後ろに控えておられます若い世代の議員とは相当違う環境の中で育ってきたと思っています。昭和二十二年生まれでございまして、教育基本法の施行、新憲法の施行、その年に生まれたわけでございます。

 私が小学校のころ、いわゆる二部授業、戦後、我々は団塊の世代ですから、子供が多過ぎて教室が足りないという中で、半分は午前中、半分は午後出てくるという授業もありました。校庭でやったという経験はないんですけれども、それほど貧乏な時代というか、あの時代に、私は実は小学校を三校経験、二回転校しておりまして、学校でも学年でも一番ちびであったわけですけれども、本当にいじめとかそういうものが全くない。あの貧乏な時代にそういうものが一切なかった。

 その教育基本法のもとで、今日、後ほど申し上げますけれども、いじめ、自殺、子供のみならず校長までが命を絶つ。恐らくこんな国は全世界にないと私は思います。

 では、なぜこうなのかというところの具体的な論議がほとんど詰められないままに、教育基本法の改正、これをやれば教育の改革がなし得るというような雰囲気の中でこの委員会が行われておりますけれども、私は、これはとんでもない間違いということを指摘したく、きょうここに立たせていただきました。

 つまり、一般論として言うならば、今度のこの教育基本法の改正案というのは、権力拘束型の、主役は子供である、国家を縛る、権力を縛るという基本的な思想から、この改正法十六条に見られるように、いわゆる国民を拘束するような仕掛けが幾つも打ってあるんです。

 では、そうすれば本当によくなるのかと深く考えたときに、私はそうならないと思うんです。問題は、教育基本法のもとで戦後六十年間来ました。来ましたけれども、その間、教育がこうなったのは、教育基本法ではなくて、きょうお見えでございますけれども、むしろ文部行政そのものに、時代に対応する文部行政が行われなかった、あるいは文部行政そのものが深く変質をしてきた、そこに私は今の教育の荒廃というべきものがあるんだと思うんですね。

 私は、かねてから、別にこの法律が出たからこういうことを言うんではないんです、今の国会議員の立場、あるいはその前に役人をやっているときから、やはり教育がおかしい、文部行政がもっとしっかりしなきゃならぬと常々思ってきました。いわゆる現場主義ではなく、教育行政でなく、むしろ教育管理行政。現場の声を聞かない、現場から離れてきた、管理責任ばかりを心配する。そして本省においては、子供たちや教師の現場のところに教育の原点を置かずに、むしろ審議会行政ばかり、こう批判されておりますけれども、審議会行政の事務局的に引き下がって文部省が行動してきたところに、責任性、主体性あるいは次なる時代への教育改革の志というものが、文部省そのものが弱くなってきたところにこの教育の荒廃があるんじゃないか、かように私は思っています。これが私の基本的なスタンスでございます。

 それで質問に移りたいわけでありますが、きのう、おととい、新聞にも載りました。十一月十二日、二つの府県で中学生の自殺者が出ました。同じ日に北九州の校長の自殺が報道に載りましたけれども、この自殺の連鎖と言ってもいい状況について、私は、これまでもいじめの問題は議論されてきたわけですから、文部科学省において、当然、いじめの真相というか根本原因というか、そういうものは分析をしてあるんだと思うんですけれども、今の段階で、この自殺の根本原因、構造的な要因として何があり得るのか、それについてどう把握しておられるのか、お答えをいただきたいと思います。

伊吹国務大臣 先生、実は午前中、民主党の三人の先生方から、我が党の自民党の鳩山委員が午後御質問になったときも、松原先生、前原先生、そしてこちらにいらっしゃる藤村先生、このお三方が質問されたのを大変高く評価されて、私も、それに受け答えしながら民主党のお考えもよく理解したわけです。それを先生がすべて聞いていていただいたと思うんですが、そうしますと、文部行政云々という今の御認識は、民主党にもやはり、今おっしゃったような認識ではないんですね。

 というのは、国と地方の教育委員会と学校現場との間の、先生も公務員をなすっていたと思いますが、予算権、人事権、それから法令の執行権の配分が非常にアンバランスになっておるわけです。ですから、私たちは、教育委員会から伺っている、調査をしていただくという権限しか実は今のところございません、率直に申しまして。

 今御指摘になりました二つの事案についても、教育委員会から伺っているところを政府参考人から詳細には御説明させますが、いじめによる自殺であったかどうかについては、いじめが大きな一つの要因であるということは疑いがないと思いますが、自殺に至る動機というのは、もうこれは私が先生に申し上げるまでもなく、非常に多様な要因が重なり合ってできておりますので、このことをここで、いじめによる自殺だという断定は少し私の立場からはできにくいということでございます。

古賀(一)委員 ちょっと私の質問の仕方がわかりにくかったのかもしれませんが、今回の二件の案件がいじめだったのかどうだったか、そういう結論づけではなくて、これまでいじめの問題はもう長く問題になってきたわけですね。恐らく、いじめで自殺するというのは、一回のいじめでぽっとみずからの命を絶つことはないと思うんですよ。やはり、日ごろの家庭における絶望感とか成績が伸び悩みとか将来への夢がないとかいう、その状況に一滴の水でどっと水があふれるようなことだろう。それがずっと続いてきたわけですね。

 したがって、この二件ではなくて、そもそもいじめというもののトータルの実態と、それがどういうパターンで来たのか、そういうものは当然文部科学省として現場の先生にアンケートをとる。この二件じゃないですよ、これまでいろいろな分析をしっかり現場の声を聞いてしておるはずだ、こう思うわけですよ。だから、今までいじめの問題山積する中、文部科学省はどう分析され、調査されてきたのか、その教訓として今何を持っておられるのかを、私は当然あるんだと思って、聞きたいわけであります。

伊吹国務大臣 文部科学省も、いろいろ事案が起こりました場合は、当然、その事案の背景、先生がおっしゃったようないろいろな、その児童がそこに至るまでの苦しみ、こういうことは、教育委員会を通じて学校現場から聴取しています。そして、うまく、自殺に至らずにいじめを把握してとめた、これは成功例ですね、こういう成功例については全国に発信をする。同時に、残念な結果に終わった失敗例についても、教育委員会の指導主事会議だとか担当課長会議をやっておりますので、それは全国にその事例を発信しているわけです。

 ただ、教育現場の学校へ直接、教育の国家管理を恐れるということがあったんだと思いますが、今の法制上では文部科学省は入れないんですよ。学校から情報をとり、学校を管理しておられ、また、学校に対して指導力を発揮する裏づけになっている人事権を持っておられる、あるいは予算権を持っておられるのは、都道府県教育委員会であり、各市町村の教育委員会なんですね。

 ですから、文部省が持っている権限は、そこに対して調査をお願いするという調査権はあるんです。しかし、その調査が間違っていたかどうかということの確認権が、確認をするための最終的な権限というものが、残念ながら、法律上今のところ担保されておりません。ですから、残念だけれども、やや靴の上から足をかくようなことになります。

 しかし、成功例、失敗例をできるだけとって、それを全国の教育委員会に、こういうことがありますから注意してやってくださいという発信はし続けているということです。

古賀(一)委員 そうなりますと、今の文部行政の本当に矛盾というか、もどかしい本質が今の大臣の答弁であらわれたと思うんですよ、教育委員会の独立性、人事権、その中で呻吟している。一方で、学習指導要領を初めとするゆとり教育にしても、やはり基本的な設計図というものは、国が、揺れ動きながらもやってきたわけですよ。

 そうしますと、今の大臣がおっしゃった、いわゆる文部行政として、新しいデザインというか仕組みを提示して、もっと指導していくということが今度の教育基本法で可能になるのでしょうか。それが問題の本質の一つでもあると思うのですけれども。

伊吹国務大臣 まさに先生の御指摘どおりでございます。ですから、けさ、三人の民主党の皆さんがここで提起してくだすった問題についてやりとりしたことを聞いていただいたと思いますがと私が申し上げたのは、まさにそういうことでございます。

 ですから、先ほど改正案の十六条にお触れになりましたね、国民を縛ると。これは国民を縛ることは十六条にはないのです。縛るという言葉は不適当だと思いますが、国民の負託を受けて、教育を行う人に国会が決めていただいた法令によって義務を課すというのが十六条の規定なんですよ。これは国民を縛るんじゃなくて、教育現場を担当している教師その他の方々に、国民の負託を受けた国会が決めたことを遵守してもらうというのが十六条なんです。

 ですから、今先生がおっしゃったように、まさに現在そこが非常にもどかしいわけです。そこにはある程度の法律的な権限が実は文科省にはあったのです。ところが、地方分権がいいことだ、いいことだということで、平成十一年だったと思いますが、地方分権一括法の中で、政令市と都道府県教育委員会の教育長の任命の承認権、文部科学省にありました、それから地方の教育行政に係る法律の中に文部大臣の権限として書かれていた是正命令権、これが、一般法に移ったり、なくなってしまったわけです。ですから、私が今申し上げているような非常にもどかしい状況になっております。

 これをどうするかは、この法律を通していただいた後、十六条などを参考にしながら、教育行政の筋というと、国と都道府県教育委員会と市町村教育委員会と現場、この四つの流れをどういうふうにくくっていくのか。民主党さんには民主党さんの御提言があるんですよね。我々は、この法律が通れば、新しいやり方はどういうものかということを国会にお尋ねしたいと思っているわけです。

 民主党さんのお考えを藤村先生が詳細にお話しになって、私の方の考えを私が申し上げて、大変、なるほど、そうするとそんなに違わないなとか、ここはお互いにこれから御意見を伺ってやっていけるなとか、今先生がもどかしいとおっしゃったところを埋めていく議論を、実は午前中ここでやったということでございます。

古賀(一)委員 私も、午前中は、中国から教育の関係者が一時間も調査に来られるとか、答弁の準備で十分には聞いておりませんでした。

 しかしながら、私は、大臣の答弁も立場からしてわからぬではありませんが、戦後これだけの時間の推移の中に、学力低下、いじめ、それから学費の高騰、不登校、本当に教育というものが、かつて想像できないような状況に来たのは事実なんですね。

 そこで一定の権限は持っていたわけですよ。やはり教育行政のトップですよ。そこに今回は教育再生会議。この基本法とともに再生会議でデザインをし直すということですけれども、文部行政のそこの五十年、六十年続いてきた体質、その体質をやはりレビューする、必要ならば改革するという厳しいスタンスがなければ、再生会議のペーパーをもらって、また中教審にかけられるのか何か知りませんけれども、その延長にあったら、権限だけが強くなって、まして今よりも私は現場の混乱と戸惑いというのはふえるような気がしております。

 だから、問われているのは、子供あるいは教師そのものというよりも、文部行政のトップの、何といったってやはり一番上ですよ、そこの発想の原点というか、あるいは新しい時代を読む目というか、そういうものが問われるべきが今度の教育改革の真っ先のテーマだろうと思っております。きのうも、質問をとりに来られた企画官クラスですかね、皆さんにも、私は人あっての日本だと心底信じております。土地はない、資源はほとんどない。人そのものも、子供たちも減っていく。量が減るのに質まで落ちていくということでは、日本は立ち行かなくなることはもう目に見えておりまして、この点、文部科学省からも来ておられますけれども、きつく指摘をしておきたいと思います。

 それでは、大臣に。

 この教育改革の原点ともいうべき、私は教育の荒廃だ、こう思っておるんです。現場の先生とか文部省あるいは教育委員会から見れば荒廃とまで言われるのは嫌だという思いもなくはありませんけれども、私は、現実を冷徹に見れば、これは荒廃と言わずして何であろうかという思いがあります。

 大臣は、文部科学大臣になられて日も浅うございますけれども、政治家としてやはりこの日本の教育というものを年々歳々憂えてこられたのではないか、こう思うんですけれども、教育の荒廃の流れについてどういうお考えをこれまでお持ちであったでしょうか。

伊吹国務大臣 私は、教育の現場は、現場というか、教育が行われている大学から小学校あるいは幼稚園、保育園に至るまで、これは、大きな日本の歴史の流れの中の一つの場面なんですね。

 ですから、日本全体から見ても、やはり豊穣の中の精神の貧困みたいな現象が起こっております。何も教育現場に残念ながら限ったことではなくて、家庭でもいろいろ残念な事件がこのごろいっぱい起こっておりますね。企業においても倫理観の喪失というのがあって、結果を求める余りプロセスを無視するということがたくさんあります。ライブドアや村上ファンドというのは、法律に違反したと言われる現象ですから、これは当然、法に基づいて裁かれているわけです。あるいは大きな銀行は、一般の方々からお金を預かって人様にそれをお貸しするだけの本来役割にもかかわらず、お金を貸すことによって、自分に力があるという優越的地位を濫用して金融商品を買わせるとか、これは法に違反するから公取に摘発されているわけですよ。

 ところが、法に違反しないけれども、恥ずかしいことというのはいっぱいあるわけですね。もっともっとありますよ、残念ながら。まさにそういう日本全体の大きな流れの中の一つの場面が教育にあらわれている。だから、昔と比べて荒廃しているということは、私は先生の御意見に全く同じです。

 であるからこそ規範意識。日本であるからこそ、日本人が恥としてきたこと、そういうことをしっかりと教えられるように、安倍総理の所信表明でいえば、基礎学力と規範意識をすべての児童に機会を保障したいと言っておられるのはまさにそういうことで、教育から少しずつその規範意識を取り戻さないと、先生も先ほど昭和二十二年とおっしゃったけれども、私は小学校一年生だったんですよ、終戦のとき。新しい教育でずっと育ってまいりましたからね。新しい義務教育を受けた者は、今もう七十近くになっているわけですよ。この人たちが教えた人が教師になり、教えてもらった人がまた教師になっているわけです。育てた人の子供がまた子供を産んで、また子供を産んでやっているわけですから、全体の日本の大きな歴史的な流れの中で教育をとらえて、どう直していこうかというのが今回の教育基本法。民主党さんも同じようなお考えで対案をお出しになっていると私は思うんです。

 ですから、私は何度も申し上げますように、午前中の議論は大変実りのあった議論じゃないかな。あれはぜひテレビで本来中継していただいて民主党のお考えも広く国民の皆さんに聞いていただいたら、なぜ現場で話がまとまらないんだろうということがおわかりいただけるんじゃないかと思いながら聞いておったということです。

古賀(一)委員 先ほど、教育のみならず経済界も、社会においてもいろいろな荒廃まがいがあるというお話でしたけれども、そのベースはやはり全部私は教育だと思うのですよ。そういう面で、教育の力というか、それは本当に日本の土台であるということで、この荒廃の状況について、私は私なりに地元でも発信しております。

 さっきの問題に戻りますけれども、大臣、ちょっと恐縮ですけれども、これだけいじめによる自殺というか、校長の場合は責任感かもしれません。自殺というのは連鎖をするものでありまして、やはりこの際、大臣として、全国の子供たちあるいは教師の人たちに、そうあってはならない、元気を出してくれ、人生は長い、こういう困難は幾つもこれからあるし、それは自分の糧となるとか、そういうメッセージは今まで発せられたんでしょうか。発せられていないとすれば、私は発してほしいし、発すべきだと思いますけれども、お考えはいかがでしょうか。

伊吹国務大臣 私のところに、実は自殺を予告する手紙が参りました。これはいろいろな可能性がございますので、総理に間違った可能性の場合の恥をかかせるわけにいきませんから、私がすべて対応するということを安倍総理に申し上げて、そして、行政的なチェックをしていただくように各教育委員会にお願いしたんです。同時に報道にもいろいろ御協力をお願いしまして、新聞それからテレビのメディアも大変協力していただきました。

 そこで、突然のことだったんですが、今先生がおっしゃったのと同じことを、手紙を出した人に対してのメッセージをぜひ発してくれと言われて、私のメッセージはお読みいただいたんじゃないかと思いますが、実は、新聞等にも載っておりましたし、テレビ等でも全国に放映されております。

 ただし、それを見落としたり読み落としたりしている人もいるわけで、まさに先生がおっしゃったように、いじめをしている子供たち、これはいじめをしているという意識がない場合が多いんですよね。これは、意地悪をしているとか、けんかをしているという意識はあっても、いじめをしているという意識が実はない方が結構いる。いじめを受けている子供たち、それから、それを見守っておられる、一番大切なのはやはり御両親なんですよ、それから、地域社会とかスポーツの指導をしておられる方とか学校の先生とか、こういう方々に今先生がおっしゃったのと同じことを実は私は考えております。もう一度、この前来た手紙に対してはテレビの前で呼びかけたけれども、メッセージを出そうとしているんですが、何分、毎日朝の九時から夜の、きょうも六時まででございますので、出す限りはやはり心を打つ文章をつくりたいと思って考えているところでございます。

古賀(一)委員 それは、別に委員会を徹夜でやっているわけではございませんから、大変重要なメッセージになると思います。委員会の採決云々にかかわらず、ひとつ真剣に考えていただきたいと思います。

 それで、今ここまで、通常国会とこの臨時国会と二国会にわたりまして審議が行われております。ところが、私も、現場に、あるいは地元に帰りましていろいろな方とお話をします。主婦もいれば、場合によっては若い学生もいる、学校の先生もいる。そういう中で、新聞ももちろん見る中で、これだけの戦後初の改正、しかも、これだけ教育に関心を持ち、父兄、教師、悩み多きときに、この教育基本法を審議しながら、ほうふつと、期待感、新しい教育が始まるとか、そういう熱気が実は感じられないんですね。

 それは、やはり新聞を読みましても、いわゆる愛国心、あるいは心か態度かとか、そういうのは躍っていますけれども、子供から見て、自分の教育はこれからどうなるんだろう、どこに夢が生まれるんだろうというのを私は期待していると思うんですよ。ところが、自分には全然届かない言葉が国会で議論されている。では、我々のことは全然考えていないのか、子供たちはそう思っているんじゃないかと私は思うんですよ。

 そこで、現場の本当の教育の問題。子供たちがどういうことで傷つき、どういうことで、先ほど大臣もおっしゃいましたけれども、傷つけた、いじめたわけじゃないけれども、いじめととられる、そういういろいろな教育現場の生の実態の姿と、子供の心理、あるいは教師の行き詰まった部分。こうしたら、私はもう二人担任制をしいたらいいと思う。今の若い先生から見ればかなり困難は大きい。やはり二人担任制というのも一つの知恵だ。

 そういういろいろな現場の生の声、そういうものを踏まえて、それを演繹ではなく帰納的に、だからこういう教育の方向に持っていこうということであれば、もっと国民の期待は生まれるし、賛同も得られると私は思うんです。そこがなくて、国民の声は聞きました、タウンミーティングだ、これが何とやらせだったじゃないか。こんな話になるから、ますます子供たちは、大人の偽善あるいは政治の偽善というものを感じているのではないかと私は心配をいたします。

 では、この教育基本法という大改正を機に、私は、現場の声を、子供も含めてアンケート。子供にインタビューはできないだろうからアンケート。教師に対する、実態に関するいろいろな問題、ありとあらゆる教育についての現場の声、現場の実態調査等々はどういうふうにやってこられたか、御説明をいただきたいと思います。

伊吹国務大臣 先生もかなり御準備をなすって質問に立っていただいていると思いますが、今回の教育基本法の改正については、まず小渕内閣のときから始まっているんですね。このときに、岡本道雄先生を会長として教育改革の会議が行われ、そして森内閣と続き、その間、随分多様な民間の意見、民意を聞きながら、そして何よりも、先生、民意を代表するのは、我々が自信を持たなくちゃいけない。先生なんですよ、私なんですよ。我々が国会議員として民意を代表してここにいるわけですから、国会議員が活性を持って議論しなければならないんです。

 ですから、それだけの意見を聞いて、タウンミーティングというのも、ああいうやり方を金科玉条のように振り回したというのは私は余り感心したことじゃないと思いますが、これはあくまで、間接民主主義を補完する一つのメソッドなんですね。それ以外に、例えば文部科学省として意見を聞いている場面もありますし、いろいろな広報も随分しております。

 もちろん、さらに聞けばいいということですが、余りいろいろ世論を聞くことが大切だ大切だと言ってしまえば、何のために我々がここにいるのかがわからなくなるということだけは、国会議員はやはり自信を持ってやらないといけないと思います。

古賀(一)委員 おっしゃるとおりでございます。しかし、この教育基本法案、いわゆる小渕内閣から内部で議論され、今民間という話もありましたけれども、その民間というのも、確かに、どこまで広く、先ほど現場という言葉を使いましたけれども、本当の生の声をどこまで広くということを私は心配しているわけです。

 それで、我々野党がこの審議の場で国民を代表して話すという機会を得たのは、さきの通常国会。それを長いと言うかどうかは別問題として、五十時間。それで、今国会も二十時間でいいじゃないか、トータル八十時間でいいじゃないかという議論も聞こえますけれども、ほかの行政法、経済関係の立法、あるいは、細かい微調整をする行政立法とは違って、まさに戦後六十年を経て、国民注視の中の、しかも荒廃と言われる言葉がつくような教育についての論議であります。

 そうなりますと、法律を早く通すものだというのは与党の論理でありましょうけれども、私は、もっともっと、子の問題でありますから、今国会と言わず、次の通常国会にも引き延ばしてでも徹底した論議をする。国会の議論をもう一回フィードバックして、来年通常国会で議論するということがあってもしかるべき法案の重要性であり、文部行政のこれまでの荒廃だったと私は思うんです。私はそう反論をしたいんですが、大臣、いかがでございましょうか。

伊吹国務大臣 失礼でございますが、前の国会で五十時間というのは、私はすべてを見ていたわけではありませんので、見ていたような顔をして議論することは差し控えたいと思いますが、少なくともこの国会については、私はここへずっと座りづめでおります。文部科学大臣にも拝命いたしましたので、前の国会の議事録も大体すべて読んでみました。

 先生がおっしゃるように広範な御議論が必要であれば、同じ質問が何度も何度も繰り返されるということはなく、新しい視点からの御質問が次々出てきて、なおかつ時間が足らないというんであれば、私は先生のおっしゃるとおりだと思います。しかし、国民の負託を受けて、しかも国民の税金で我々の歳費が賄われている限りは、やはり審議の内容は効率的にやらないと、納税者に対する申しわけも立たないと思います。

古賀(一)委員 確かに、これまでの国会のやり方でやればこうなるんですよ。なりがちなんです。それぞれ国会議員はほかの委員会にも所属し、あるいは、委員会の様子を、ずっと座ったり、テレビで見るだけの時間はないという中で、えてして横のつながりがなく、こうなりがちであることはそうなんです。それは国会運営の非常に悪いところだと私は思います。

 だから、始まる前からいえば、私はほかの委員会で何度も言ったことがあるんですけれども、例えば教育基本法であれば、外国の教育改革と外国の諸法制の分科会とか、きちんとテーマを決めてやっていけば、本当はもっと立体的になるんだと思うんだけれども、もうそんなことは恐らく与党の皆さんは頑として認めない。だから……(発言する者あり)いや、今まで私がほかの委員会で提案したときも、そんなことをやったら審議が長くなる云々で、どんぶりの中でやってくれというのが、どんぶりでやるときに、最初にトータル何時間と決めて進められることが多い。

 だから、本当を言うと、この法案の重要性からいうなら、諸外国はどうだったのか、諸外国法制はどう変遷したのか、学ぶところはないのか、あるいは、教育の現場についてカテゴリーを分けてしっかり聞くような余裕が与えられて、そして本当のいい法律が国民に伝わるような、私はそうあってほしいと思っております。

 時間もどんどん過ぎていきます。後ほど塩崎官房長官が戻られるんでしょうけれども、その前に、あと二点ほど大臣に具体の話をします。

 私は、こういう幾つかの現実の論議をして、現場では何が問題か、法制的に何か問題はないのか、こういう議論をしていきたい。その一つのテーマで、私は英語教育の話をしてみたいと思うんです。

 ここにおられる全員は、中学校、高校、大学と十年間英語を勉強してきた。ところが、私も英語は下手なんです。すこぶる下手なんです。しかし、若いころ、英語が一番同期で苦手だった私、外務省に出向を命ぜられまして、国連局に行けと。何でおれがと思ったんですが、国連の会議によく行きました。

 そのときに、強烈に覚えています。各役所からも代表団が来られます。まあ日本の外交官はさすがに、そこそこと言ったら失礼ですけれども、しゃべりますよね、当然。各省庁から来られる、民間から来られる。大体そういう人で英語が一番下手なのが、日本、韓国、台湾、タイですよ。ほかの国は、もちろんインドとかは英語圏ですからしゃべるんですけれども、本当に下手なんです。ところが、時たちまして、それから二十数年というか、私もこの前もIPUに行った。国際関係でよくあります。日本以外、台湾、タイ、韓国、もう全部、ビジネスマンも官僚も政治家も、英語を本当に自由に駆使するようになったんです。

 そうしたときに、これだけ国際化というのが進み、各国がそれだけ上達してきた中で、英語教育というある面ではプラクティカルな話について、何で文部省は、それを見直し、現場の声を聞き、いい教育のあり方というのを模索し、なぜそういう知恵をもっと大胆にやっていかないのかが不思議でならないんです。

 こういう英語教育一つ見たときに、いわゆる教育の小さな改革かもしれませんけれども、こういうものがおろそかにされてきたとしか私は思えません。この点について、大臣、どうお考えでございましょうか。

伊吹国務大臣 一般的な英語教育という意味での御質問ですね、小学校とかどうだとかということじゃなくて。

 それは、日本の英語教育が、どちらかというと、ABCから始まって、文法、そして、現在、過去、未来、現在完了、教えられましたよね。こういうことに非常にウエートが置かれているということが一つ問題だろうと思いますが、このごろは、かなり現場は、先生の意味ではプラクティカルな、ヒアリングとかスピーキングとか、こういうのはかなり取り入れているんですよ。

 私が海外に駐在していた経験から言いますと、英語がうまくなる順は、間違ったことをしゃべっても失うものが少ない順にうまくなります。だから、例えば、他省庁から出向しますと、公使と参事官と書記官というんですか、公使と書記官と官補というんですか、官補から必ずうまくなりますよ。それから、おしゃべりな人は必ず英語はうまくなりますね。これは非常に不思議な現象。それからもう一つ、外国で尊敬を受けてコミュニケーションがよくできるのは、英語がしゃべれる人よりも、日本の文化、歴史についてある程度語れる人、そして、その国の文化、歴史についてある程度理解を持っている人、こういう人は非常に外国ではコミュニケーションの場合に尊敬を受けます。

 ですから、国際教育、英語教育というのも、プラクティカルなことだけ教えるというのは私は感心しないと思いますね。いろいろそういうものがまざり合った立派な国際人をつくっていくということで英語教育はやっていくべきだと思います。

古賀(一)委員 最近は確かに、若い人で、町を歩いていても外人とぺらぺらしゃべっている人を見かけますよ。ああ、昔にはなかったなと思います。でも、さっき言った韓国とかタイとか台湾、もう我々の世代になって、今ぺらぺらしゃべれるようになっている方が物すごい比率でいるわけですから、やはりこの間、物すごくタイムラグがあったということは、私は否定できないと思うんです。

 これはついでと言ってはなんですが、英語教育に関してちょっと関連して言いますと、伊吹大臣の地元、京都の白川静先生、この前お亡くなりになりました。実は、私は十何年前お知り合いになりまして、日中国交二十五周年のときに、白川先生、日中の漢字文化の重要性について中国でシンポジウムをやりましょうと言って、私も大変苦労しながら白川先生に最初の訪中をしていただき、北京大学の文字学の先生たちと大シンポジウムをやりました。結果からいえば、中国側の学者が、これほど漢字教育をやっている日本の先生に脱帽と。中国は例の略字化をしていまして、彼は、その漢字文化の原点、一つの漢字が生まれた生い立ちから人生学までしゃべられるわけですよ。その方が亡くなられておりました。

 その話す中で、私も一回、文部科学委員会で質問をしたんです。何かというと漢字教育のあり方。これもやはり、しっかりと文部省が考えなきゃならぬテーマを提示していると思うんです。どう書いてあるかといいますと、漢字教育、小学校一年生、漢字割り当て表と書いてあるんです。学習指導要領の附属文書で八十一字だけ教えろと。小学校二年生、たしか百六十字だったと思うんですね。

 ところが、白川静先生風に言えば、例えば死という言葉は、なぜ死ができたかというのを、甲骨文字から金文、文字の生成過程を言いながら、死体を昔は草原に葬る、捨てる、それが葬式であり、だからくさかんむりがつくから始まりまして、要するに人生学を言われるわけですよ。そういうことを教えると、子供さん方は目を輝かせながら、別に割り当て表がどうであろうが、いとへんと合体したときにこれは何だろうと、もう目をらんらんとして覚えていくんですね。それだけの可能性、好奇心、向学心を子供たちは持っているんです。

 それを、文部行政の先ほどの管理主義なのか、実態、現場との乖離なのかわかりませんけれども、そういうところに我が思いをいたさずに、要領で縛ったり緩めたりときたところに、現在の教育に対する不信が子供の方にも我々にも広がっている。この反省なくして、幾ら法律を変えようが、この原点に立たない限り、いい教育改革というのは開けないと私は確信をいたしております。

 そういう意味において、今大臣は、この法律が突破口になって、これさえ通していただければと、ずっとこれまでの答弁でも総理も大臣もおっしゃってまいりましたけれども、その後これをきちんとつなぐには、そういういろいろな教育の現場なり、いろいろな多様な試みなり失敗なりがあるということをしっかりと調査を、本当に真剣にすべきだと思うんです。審議会で済む話ではないと私は思います。その点、新しい試みというか、そういう新しい基軸をぜひ考えていただきたい、こう思いますけれども、いかがでございましょうか。

伊吹国務大臣 先生、ちょっと失礼でございますが、これさえ通していただいたらという答弁は、私はこの委員会で一度もしたことはございません。少し議事録もお目通しいただいてぜひ御質問いただきたいんですが、私が申し上げたのは、これはまさにスタートであると。

 であるからこそ、この理念法、教育の最高法である基本法をスタートとして、それに連なる三十数本の法律によって日本の教育は動いているんですよ。この教育に連なる三十数本の法律を見直し、そしてその法律のおのおのにぶら下がっている、お役人をやられたから御承知だと思いますが、政令そして告示、今はやりの学習指導要領なんというのは告示なんですね。これをつくるときに、今先生がおっしゃったような御注意も、当然頭に入れてやらねばなりません。

 ただ、白川先生のことをお引きになりましたが、どこまで自由に学校現場でやっていただくかというのは、これは義務教育である限りは全国一律の規範と基礎学力を与えねばならないという使命が、納税者の負託を受けている我々にはあるわけですから、立派なことであっても、特別なことをやるのは、やはり義務教育段階ではなかなか難しいと私は思います。

 しかし、今のような御提言も、例えばゆとり教育の中で、国語を教えると同時に、さらに、使った漢字の実は一番最初の出発点というのはこういうものなんだよということを教えれば、子供はそれで漢字に対する興味が出てくるわけですよ。興味が出てくることによって、今度は中国という国に対する興味が出てくる。これがやはり教育というものだと思うんですね。

 だから、今の御指摘は一つの参考として、学習指導要領などをつくるときにはぜひリファーさせていただきたいと思います。

古賀(一)委員 義務教育ですから確かに縛りというのは必要ですけれども、漢字割り当て表と、何か配給するみたいな、そのかたさの中にこの本質が私はあらわれているように思う。幅があってもいいと思うんですよ。こういう、伸びやかに幾らでも勉強することを推奨するような現場の自由度も私はあっていい、かように思っておりまして、この法律の後、三十数本の改正に当たっても、今までの文科省の体質の延長では、私は新しいものは絶対開けないと思う。

 それは、今度伊吹大臣がこの大改正の折に大臣になられたわけですから、私は、次の五十年つくっていく意味において、しっかりと、文部科学行政の権力を持ち、当事者であり、トップに立つ文部省が、その使命の大きさと事の重要性にかんがみ、心を入れかえて新しい文部行政を切り開いてほしい。それも大臣の指導力を心から期待いたしておりますし、恐らく、物言わぬ子供たちもそういうのを期待しているんだと思うんですよ。この先の延長に自分たちの未来はないと思ったそのあきらめ、閉塞感の中に、私は今のいろいろな問題が起こっているように思います。

 それで、実は、英語教育に引き続きまして、私、かねてより思いを込めた一つの提言、むしろ政策提言がございまして、これについてぜひやっていただきたいという提案を一つ申し上げたいと思うんです。

 私、実はモンゴル議員連盟の幹事長をやっておりまして、この四年、毎年行っております。なぜそんなにこだわるかというと、極端に言えば、一言で言えば、夜、人工衛星が飛んでいるのが幾つも見えるんです。天の川を双眼鏡で見ると無数の星。百個、二百個じゃないです、この中に、数えればウン万個という星が見えるんです、澄んでいるときは。そして馬に乗る。ああいう場面といいますか、ああいうものは、日本で幾ら金をかけてもできない。

 今の子供たちの現状を見たときに、集団生活がない、したがってあいさつがない。友と助け合って、まきを、重いものを運ぶことがない。そして、全くテレビもゲームも何もないから何か自分で考えるしかないという自律的思索といいますか、そういうことをやる時間と空間、時空もないんです。そういう中に、ちょっとしたことで、小さな世界で、うっせきした子供が弱そうな子供をいじめる。その子供も、大きいものを見たことがない、大宇宙を見たことがない。友と助け合ったことがない、だから助けられたこともない。日本の子供たちは、その世界を大人が与えていないんだと思うんですよ。本当に与えていないと思う。

 子供に一回経験させれば、機会を与えれば、私は、子供たちというのは賢いんだと思う。これを一つの体験に、友と助け合う、馬は僕の言うことを三日間聞いてくれた、川も渡った、星も見た、願わくば世界の子供たちとキャンプをする。私は、そういう面で、あのモンゴルの大草原というか、あの自然というものは、日本の今の子供たちが抱えるいろいろな問題、これを解決する空間になるだろうと実は思っております。

 中国もしょっちゅう行きます。今や中国の上海とか北京に日本の修学旅行を連れていったって、何だこの発展ぶりはと、逆にコンプレックスを持つんじゃないかと思うぐらい発展しております。

 文部省に調べてもらったところ、高校についての修学旅行は海外もあるんですね、もちろん。オーストラリアが一番多い。ニュージーランド、中国もある、アメリカ西海岸もある。こういうことなんですけれども、修学旅行あるいは体験学習というものについて、現下の学習指導要領でもいいんですが、文部科学省はどういう位置づけでやっておられるのか、そして、どういう教育効果を期待しながら推進しておられるのか、ちょっと御報告いただきたいと思います。

銭谷政府参考人 修学旅行、体験活動についてのお尋ねでございますけれども、まず、海外に修学旅行に行っているのは、日本の場合、高校生が中心でございまして、今お話ございましたように、高校生のうち、八百七十校、約十六万人の子供たちが海外へ修学旅行に行っているところでございます。中学校ではちょっと少のうございまして、公立では四十一校、私立で百三十八校、参加生徒数は約一万四千人ということで、中学校ではまだ非常に少ない割合だという状況でございます。

 一方、体験活動とか修学旅行全般についてでございますけれども、これは、学習指導要領におきましては、特別活動の学校行事という中の旅行的行事という位置づけになっております。大体、日本では、小学校それから中学校の場合、宿泊を伴う旅行をほとんどの学校で実施しているわけでございますけれども、小学校は一泊か二泊、中学校が二泊か三泊といったようなところが多いかと思います。

 一方、自然体験活動といいましょうか、長期宿泊活動ということを最近取り入れる学校がふえてきておりまして、学校によりましては七泊とか八泊とか、非常に長期にわたって自然の中で体験活動をするといったような学校もふえております。

 私どもは、こういう宿泊を伴う、そして、ふだんの場所とは違う体験活動というのは教育的に見て非常に意義深いものだと思っておりまして、こういう活動については大いに推進をしていきたいと思っているところでございます。

古賀(一)委員 現状はわかりました。

 それでは、文部科学省として、もちろん、ある高校にこういう体験学習をしろと言う権限はあるはずもありません。しかし、そういうメニューを示す、こういう事例がある、教育的な効果はこれだけあったとか、そういう提示というか情報の提供、推奨、こういうものはやれるんですか、また、やっているんですか。

銭谷政府参考人 私ども、体験活動それから集団宿泊活動というのは教育活動の中で意義深いものだというふうに先ほど申し上げましたが、それを推奨するために、集団宿泊活動の研究協議会とか、そういういろいろな活動事例の紹介、事例集の発行とか、あるいは、文部省でも少し研究費を出しまして、いわばモデル事業的な指定校あるいは指定地域といった形でこれを推進する事業、こういったものを実施いたしております。

 基本的に、ささやかな予算でございますけれども、文部科学省のいわば指導、助言、援助の一環としてこういうことを推進しているところでございます。

古賀(一)委員 私が先ほど申し上げましたモンゴルの大草原云々というのは物すごく効果があると思うんですよ。こういうものは文部科学省として何か関与できるんですか。私はぜひ推奨してもらいたい。それは必ず日本の子供たちに大きなインパクトを与える、光明を与えると思っています。ひとつそこら辺。

銭谷政府参考人 先ほど、モンゴルで無数の星を見て、また、天の川の美しさに感動したというお話、私も大変感じ入りました。

 ただ、修学旅行の行き先は、これはそれぞれの学校で決めることでございますけれども、私どもとして、海外の修学旅行については、いわば保護者の経済的負担や安全確保にも十分留意して、教育的な成果が上がるように実施をしてもらうのがいいと思いますので、まだ余りモンゴルに修学旅行に行っているというのは少ないようでございますけれども、そういう海外修学旅行のいい成果はまた御紹介をしたり、そういうことはできると思っております。

古賀(一)委員 委員長もニュージーランド議連で、斉藤先生もそうですけれども、私がこれを言ったのは、単に一カ国の話じゃないんです。世界に目を向けて、そういういろいろな事例を文部省が情報として集めて、単に、こういう事件が起こったら報告しろ、教育委員会を通じてどうしろ、そんな管理型ではなくて、楽しいというか新種のというか、こういったところを文部省が提示していくということに、やはり、教育が変わるという期待感も、皆さん自身の情報量も発想も変わってくる原点があると私は思うんですよ。

 そういう面で、これまでのやり方にとらわれず、いろいろな柔軟な意見、おもしろい企画、教育改革、教育改善の企画が文部省にどんどん持ち込まれるような開かれた、そして、受ける側の文部省も、そういう柔軟な度量というか発想を持つような役所になることが、私は教育再生の、法律以前の基礎条件と思うことを申し述べます。

 それでは最後に、時間も、あと一問ぐらいになりました。今、塩崎官房長官がお見えになりました。

 教育再生会議、いよいよスタートしたようでありまして、これが基本的な方向を出すんでしょう。そしてまた、それが中教審におろされるんですか。そして関連の一連の法律が改正されていく、こういうシナリオだそうでございます。

 そうしたときに、例のタウンミーティング、ちょっとくどくなって恐縮でございますけれども、きょうの新聞にいろいろ各紙載っておりました。やらせ問題でありますけれども、この内閣参事官、これはもう名前はオープンになって、特定されたと考えてよろしいんですか。いわゆるやらせについて、五回の事例で三回関与したという報道がきょうもなされておりますが、この方はどなただということはこの場で発表していただきたい、こう思うんです。

塩崎国務大臣 参事官は、今内閣官房にいる参事官という意味でしょうか。

 これについては文科省にいた時代のかかわりの問題でございまして、これは文科省の方で調査をするというふうに理解しております。

古賀(一)委員 それでは、文科省に聞かせていただきたいと思います。大臣。

伊吹国務大臣 ここでこのことについて御質問がありましたときに、政府参考人が、それを窓口になったのはだれだということを聞かれて、当時の広報室長でございますということを答えております。

 私がその政府参考人に後で注意をいたしましたのは、事実関係をやはり正確につかまえないと、先生もお役所におられたので御承知だと思いますが、窓口で対応している者について、上に立つ者がその行為を許したのかどうなのか、あるいはまた、上に立つ者の了承を得て連絡調整に当たったのか。そういうことをしっかりと把握した上でやりませんと、これは現場の人間に責任を押しつけることになるわけですよ。

 ですから、文科省として、当時のシステムがどうなっていたのかということを、現在そのラインに乗っていない総括審議官という役割の者がおりますので、これをトップにしまして、今調査をさせております。

 そして、単に窓口であっただけの役割をこの参事官と言われる人間が果たしていれば、この人間にすべて罪のあるようなことをさせるのは私は余り賛成したことじゃない。最後は、結果責任はやはり大臣がとってやらなければならない。そうしませんと、役人は闊達には働けません。

 ですから、ここのところの事情を今調査させております。調査をしたら、タウンミーティングの関連のすべての調査は官房長官のところへその調査結果を御提出することになっております。

 単に教育再生だけではなくて、その他いろいろなタウンミーティングをやっておられますので、その上で、今おっしゃった広報室長が主導的な役割を果たしているのならば、私の責任において、文科省時代のことですから、しかるべき措置をとらねばなりませんし、そうであるかどうかは、まだちょっとはっきりしたことは軽々に申し上げられる段階ではございません。

古賀(一)委員 この問題が提起されて相当時間もたちます。調査中ということですけれども、いつごろ調査は出るんでしょうか。

伊吹国務大臣 率直に申しまして、当時の人間が少し人事異動したり、いろいろな事実がございますから、ちょっと時間をかしていただいて、官房長官の方へ御報告して、官房長官からまた調査結果はまとめて御報告になると思います。

古賀(一)委員 大臣は、窓口になったお役人さんの個人の問題ではないと。新聞ではシステムという言葉もありました。そうしますと、システムならもっと問題ではないかという意見もあり得ます。

 これは決裁文書として、タウンミーティングにおける某参考人というか国民からの質問、これでよろしいかという決裁文書の存否ぐらいは今わかっているんだろうと思いますけれども、それはいかがなんでしょうか。

伊吹国務大臣 これは決裁文書はございません。

 内閣府から、当時のことですから、実は私も在任しておりませんのでよくわかりませんが、当時、こういう質問内容だという通知があって、そして、それを見ると教育基本法関係の質問がないので、こういう質問をしてほしいということを内閣府へ送り返しておるわけです。その間の、要するに、これが内閣府から参りましたので供覧に供します、ついては、このような質問でお願いしてよろしゅうございますかという決裁文書ですね、おっしゃっているのは。それはございません。

古賀(一)委員 かがみをつけての決裁文書という形ではないけれども、でも、直属の上司に見せたというペーパーの有無ぐらいは、もう今でもわかっているんじゃないですか。

伊吹国務大臣 それはこの前から、先生、この委員会に出ていただいておればそこのやりとりは御理解いただいていると思うんですが、紙があるんですよ。それで、それに応じてこういう質問というようなことを言っておるわけです。

 ですから、その間に、決裁文書はないけれども、決裁に当たる了解を与えた上司がいるのか、だれが内閣府からそれを受け取って、どういうルートでそういう処理をして、そして窓口として参事官が対応したかということを、今きちっと正確に、これはやはり個人の名誉にもかかわることですから、本来、単に指示されてやった者が主犯のようなことを言われちゃいけませんから、そこは慎重に調べるように私は指示しております。

古賀(一)委員 最後になると思うんですけれども、要するに、冒頭言いましたように、文部行政は、いわゆる教育管理行政の管理が強過ぎたという中にいろいろな問題も起こっているんです。このタウンミーティング、新しい時代の新しい仕組みをと言っているときに、それまでいわゆる管理主義的に、本省からこう質問しろという管理をされていたというところに、ある面じゃ文部行政の一番の問題があらわれた。こんなことで本当に国民の信頼、安心というものがあるんだろうかという思いでこの問題を言ったんです。

 したがって、もう時間がありませんから理事の方にお任せするしかありませんけれども、これは、官房長官、どの程度の管理を、どういう思いで、どこまで突っ込んで政府が、その方がやろうとしたのかというのは、私は、この法案の審議について、非常に重要な体質の問題だろうと思うんですよ。だから、これは別に、個人の名誉ということもあるんだろうけれども、でも、文部行政がここまで管理を深めたかとか、どこまで管理主義であったのかというものを示すペーパーでもある。それは、私は、理事会でひとつ議論をしていただいてぜひ出してもらいたい、かように思いますが、いかがでございますか。官房長官。

塩崎国務大臣 何の紙を出せということですか。

古賀(一)委員 だから、タウンミーティングにおいて、何度も、結局この方が、こういう政府側の立場に立って質問してもらいたいということでその質問要旨等々というものを書かれているわけですよ。それは個人の問題もあるかもしれないけれども、文部行政のいわゆる管理主義ここまで至れりというふうなところまで書いているのかどうか知りませんけれども、重要な資料だと思うので、この法案の審議の過程において私は出すべきだと思います。

塩崎国務大臣 いや、やりとりのメールを含めてもう既に出してあるものですから、それ以外に何を出せと言っておられるのかなと思って今お聞きをしたんです。

古賀(一)委員 私も理事ではないから、済みません、それはいただいているものであれば、私も見せていただきまして、それをもとに、今後、問題を、何があったかを精査させていただきたいと思います。

 時間が来ましたので、終わります。

森山委員長 次に、石井郁子君。

石井(郁)委員 日本共産党の石井郁子でございます。

 初めに、私はいじめ問題で伺いたいと思います。

 十二日には大阪府富田林で中学一年の女子が命を絶ちました。その日、埼玉県の本庄市でも中三の男子が、いじめを苦にと言われておりますが、自殺でございます。そして、十三日には奈良でも中学三年生が命を絶つということでございます。その上に、北九州市では、いじめを金銭トラブルと教育委員会に報告したということで、みずからが責めを負ったのかどうか、校長が自殺をされました。

 私は、御遺族の方々の心中をお察し申し上げますと、本当にいたたまれない思いもいたしますし、心からお悔やみを申し上げたいというふうに思います。

 その上でですが、福岡県の筑前町でいじめ自殺があったばかりであります。また、自殺の予告が相次いでいる。そういう中で、文科省は全国担当者会議を開いておりましたけれども、いわばいじめ自殺がとまらない、連鎖が起きているという状況だと思うんですね。

 そこで伺いますけれども、文科省としては、この教育基本法案の審議を一たんやめても、このいじめ自殺という緊急の、しかし根本的な大きな問題にやはり総力を挙げて対応すべきではないのかというふうに私は思います。まず、文科省としてこの問題にどのように対応しているのか、していくのか、伺いたいと思います。

伊吹国務大臣 これは先生が御専門ですから、私が先生にこういうことを申し上げるのもなんですが、確かに残念な事案が次々起こっております。

 しかし、いじめと自殺の関連というのは、自殺というのは非常に多様な要件が重なっておりますので、例えば奈良の案件などは、御家族のお気持ちとして、またこういういじめという範疇の中で議論してほしくないという御意向もあるやに承っております。ですから、先ほど私お昼休みに政府委員控室に戻りましたら、国会の議員会館を取り巻いておられる労働組合の方々のおっしゃっていることが耳に入ってきまして、先生のおっしゃっているのと全く同じ御主張をしておられましたけれども、私はそれはやはり少し違うんじゃないかと思いますね。

 つまり、教育委員会のあり方、学校現場の教師の規範意識、しかしそのことだけが実はいじめの原因ではないわけですけれども、教育委員会のあり方あるいは学校現場の規範意識、教師の規範意識、いろいろなことが一体となって、例えばいじめが起こった場合の報告が不十分であるとかあるいは隠しているとかいうことが起こってくるわけですから、教育基本法は、まさにこれをお認めいただくことによって、これにつながっている諸法を改正することによって新しい教育体制を確立していきたいということですから、これをストップしていじめの問題に全力を費やせというのは、ちょっと私はそういう感じは持っておりません。

石井(郁)委員 いじめというのは、人間に対する軽蔑、侮蔑ということであり、また暴力行為でもあります。だから、人格を否定するという点で本当に子供たちが追い詰められるわけですね。それが学校にあるということが私は深刻だと思うんです。

 そして、子供が命を絶つというのは確かにいじめだけではないかもしれない。しかし、命を絶つ子供たちが後を絶たない、出てくるというのは、やはり今の教育が持っている深刻な問題を示しているんだと受けとめなきゃいけないと思うんですね。しかも、校長先生までが自殺をされる、こういうことが起こっている。私は今、学校、まさに教育というのが非常事態だというふうに思うんです。

 そういう意味で、私は、大臣の今の御答弁を伺いますと、この問題の重大性やまた緊迫性ということがちょっと感じられないというふうに言わなくちゃいけないと思うんですね。

 そこで、きょうは少し大きな問題にもなりますけれども、教育基本法の審議と私はこれは深くかかわっていると思いますので、逆に言うと、政府提案の法案はストップしても、きちんとやはり今の教育行政のあり方をただすべきだという立場で伺うわけです。

 現行教育基本法は、前文で「われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期する」とありますし、また、第一条、教育の目的では「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、」というふうにしている、有名でございますけれども、あるわけですね。これが教育基本法の核心部分だというふうに思います。個人の尊厳、個人の価値ということに重大な重きを置いておりますし、そういう教育が徹底されていけば、人間を大事にする、そういう教育ということが進んでいくのではないかというふうに思うんですね。

 そこで伺うわけですが、教育基本法が制定されて六十年だということですが、やはり、残念ながらというか、この教育基本法が現場に根づいていない、こういう状況があるんじゃないかということが一点。そして、そういう状況で考えると、今問われているのは、現行の教育基本法という問題じゃなくて、そのもとでの戦後六十年の教育行政のあり方、教育行政そのものではないのかというふうに思うわけですが、大臣の御答弁をお願いします。

伊吹国務大臣 それは、先生、いろいろな要因があると思います。根づいていないとは私は思いませんし、また今の教育基本法というのは非常に大切な、普遍的なことが書いてございます。

 しかし、個人がやはり個人として尊厳を持って生きていけるためには、個人が乗っている共通の船、つまり公ですね、公というものに対する義務を果たして初めて崇高な権利というものは主張される。大切な守るべき自由には、やはり規律というものが裏にある。このことをやはり正確に子供たちに教えてこそ、いじめだとかそういうものがなくなるのであって、個人が何をしても個人の権利だということだけであれば、個人の尊厳だということであれば、やはり団体の規律というのは私は守れないと思いますから、今の法律は今の法律として私は立派なものだと思いますけれども、足らざるところをこの今お願いしている基本法で補っていきたいというのが我々の提案した理由です。

 民主党さんも同じようにお考えになっていると思います。ですから、いろいろ具体的な、条項によっては違うところがありますが、対案として教育基本法改正案というものをお出しになっているんだと理解しております。

石井(郁)委員 やはり個人の尊厳ということは私は大変重い中身を持っていると思うんですが、それは、子供といえども一人の人間としてその人格を尊重するということだと思うんです。

 きのう、札幌の地方公聴会での公述人の方のお話を伺いまして、教育行政について伺ったところ、やはり子供の意見をきちんと吸い上げる教育行政になってほしい、そうなっていないところに問題があるのではないかということを言われたんですね、私も全くそのとおりだというふうに思ったんですが。

 きょうは、私は、いじめ問題は、本当に防止とまた解決のために徹底した審議が必要だ、やはり深くて大きな問題、日本の教育を正していく大きな問題を含んでいるんだということで申し上げたわけですけれども、当委員会としても徹底審議が必要だということを申し上げて、次の質問に移らせていただきたいと思います。

 次に、きょうは、文部科学省における教育改革に関する広報広聴活動についてということで伺いたいと思います。

 文部科学省としては、国民との直接対話ということを位置づけまして、これまでいろいろな活動を行ってきたというふうに思いますが、その活動を教えていただきたいと思います。

田中政府参考人 お答えを申し上げます。

 教育基本法に関しましては、中央教育審議会で平成十三年十一月に諮問を受けまして、教育基本法の審議に入るわけでございますけれども、その後、中央教育審議会におきまして、特に、中間報告を提出した後、一日中教審、公聴会でございますけれども、これを全国五会場で開いておりますし、また、有識者七名、それから教育関係団体三十一団体からヒアリングを行っております。また、手紙、ファクス等で意見募集等も行い、これらを審議に反映しながら、中央教育審議会から御答申をいただいたところでございます。

 この御答申を踏まえまして、文部科学省におきましては、さらに国民的な議論を高めるための取り組みといたしまして、教育改革フォーラムあるいはタウンミーティング等、それから答申パンフレット等の関係機関への配付、各種会議における説明等に取り組んできておるところでございます。

石井(郁)委員 先般問題になっておりますタウンミーティングは八回行われていたということでありますが、この教育改革フォーラム、それからスクールミーティングは、いつ、どこで、何カ所行われていますか。

田中政府参考人 お答えを申し上げます。

 教育改革フォーラムは平成十三年から行っておりますので、中央教育審議会答申後の教育改革フォーラムについて御報告申し上げますが、平成十五年の五月十七日に山口県、十八日に熊本県、二十五日に新潟県、そして六月の一日には北海道、六月八日に愛知県、そして十月四日には東京と石川と香川県を衛星通信で結びまして、三会場で同日開催をしておるところでございます。また、本年九月には、九月十日に宇都宮、九月十七日に岡山で開催しておるところでございまして、中央教育審議会の答申後、全部で八回、十会場において開催をしておるところでございます。

 また、スクールミーティングにつきましては、平成十七年一月から七月までに、四十七都道府県を網羅する形で、計三百八十校で実施したところでございます。

石井(郁)委員 スクールミーティングも相当数行われていることはわかりましたが、特に教育改革フォーラム、今各地で行われていることをお述べいただきましたけれども、このフォーラムでのやらせ質問というのは調査しましたか。

田中政府参考人 教育改革フォーラムにおきます御指摘は、発言候補者の確保等についてのお尋ねだと思いますけれども、教育改革フォーラムにつきましては、これまで当時の担当者等に確認したところでございまして、発言候補者の確保や発言のための資料の作成といったことはなかったというふうに承知しておるところでございます。

石井(郁)委員 一応調べていただいたということは伺いましたけれども、いわゆるやらせ的なものはなかったと。ちょっとこれは驚いているんです。内閣府主催のタウンミーティングでは非常に広範囲にあった、八回のうち五回まで行われていたということが明らかになったと調査報告されたわけですけれども、教育改革フォーラムでは本当になかったのかということですね。

 私は、到底そのようには考えられませんから、ちょっと調べてみました。これは文科省のホームページに出ているわけですけれども、発言要旨というのが大体各会場ごとに見ることができるんですね。

 きょうは、そのうちから、配付資料として準備もいたしましたので、皆さんのお手元にあるかと思うんですが、今お話しの、例えば山口の会場、熊本の会場、新潟の会場、そして北海道、愛知とあるわけですけれども、そこを見ますと、タウンミーティングのやらせ質問とほぼ一致する発言がございました。

 例えば山口会場では、「教育は時代に合わせて変わっていくべきものだと思う。」激しく時代が変化して、教育も変化する、変わらないのはおかしいということを言ったりする。それから熊本会場では、「教育基本法の改正とともに、教員の資質向上を特にお願いしたい。」等々あります。新潟では、「国民一人一人が家庭教育の重要性、しっかりとした家庭教育を行うことを自覚するためにも、その根本法である教育基本法に盛り込むことが大事」だ云々等々があるわけです。

 あとは資料にお示しをいたしましたけれども、実は、この資料に、青森1、和歌山2云々、こうありますのは、さきのタウンミーティングで、いわゆる質問項目、三項目がございました。八戸で三項目ありましたね。その質問項目と同じ発言をする方が、依頼されて、実際に発言されたということが問題になったわけですよ。これは政府のタウンミーティングの調査報告書から私は引用いたしましたけれども、後の方で質問項目というのがそれぞれありまして、その質問項目に対応する発言者がこのようにあるという問題なんです。

 これはもうはっきりと、タウンミーティングと同じようなやらせ質問のペーパーがやはりつくられていたのではないかという重大な疑惑を持たざるを得ないわけです。この点でも、本当になかったと言えるんでしょうか。

田中政府参考人 教育改革フォーラムにおきます参加者の御意見についてでございますけれども、平成十五年五月から六月に開催いたしました教育改革フォーラムにおきましては、基調講演やパネルディスカッションの後、会場からの意見を紹介し、登壇者の方にコメントを求めたというような議事次第になっておるわけでございますけれども、これらの御意見は、あくまでも、教育基本法の改正など教育改革に関する自由な御意見として会場の参加者からいただいたものであると認識しておるところでございます。

 委員、表現が似ているのではないかという御指摘でございますけれども、皆様方の意見の趣旨を簡潔にまとめたところでございまして、その段階で、ある程度、そういう項目ごとに似た表現になることはあり得るのではないかと考えております。

石井(郁)委員 さらに、それぞれの会場での発言を見てみますと、違う会場で同じ内容で発言が行われているということがわかるんですね。

 これは、私、資料の二ページ目にまとめましたけれども、例えば、権利のみを強調し過ぎているんじゃないか、これは先ほど大臣もおっしゃいましたけれども、そういう質問の趣旨が同じように出てくる。これは、山口でも新潟でも北海道でも出てきます。

 それから文化伝統の尊重、ここのところも、やはり同じように出てくる。「これまでの教育基本法で最も欠けていたのは、我が国の文化と伝統を尊重する精神の涵養であったと思う。」という形で出てくるというようなことですね。

 それから、公共とは何かというようなことで出てくるわけですね。

 こういう点でいいますと、私は、タウンミーティングの場合には質問項目のパターンがあったわけですから、それと同じようなことがやはり教育改革フォーラムにも出てくるという問題を指摘しているわけですよ。そして、しかも、今申し上げたこの文化伝統の尊重、公共とは何か云々というようなことでいいますと、これは、提出の教育基本法案のいわばポイントとなる、中心点となる問題でもあるわけですよ。

 だから私は、このやらせ質問というのは、一般的に世論誘導、世論操作という話ではなくて、まさにこの政府提出の教育基本法案に賛成していく、それを誘導していく、そのために使われているというところが非常に重大だというふうに思うんですね。

 それで、先ほど、一定調べてみたというお話ですが、本当にきちんと調査されたんでしょうか。改めて伺います。

田中政府参考人 お答えを申し上げます。

 調査に関しましては、当時の担当者からそのときの様子を聞きますと同時に、それ以外の関係者からも当時の状況についてお聞きをしたところでございます。

石井(郁)委員 一応それでお聞きをしておきますけれども、この件にも関係いたしまして、過日、我が党の笠井議員が質問をいたしました。この点でも、その調査結果がどうなっているかをまず伺いたいと思います。

 それは、八戸以外についても、内閣として速やかに文科省の具体的な関与の調査結果を調べていただきたいと。どの局、どの課のだれが内閣府に開催を依頼したのか、だれが連絡をとったのか、だれが質問項目を作成したのか、だれが指示し、だれが承認したのか。それから、文科省から内閣府への連絡文書を含めて、国会に資料を提出してほしい、報告してほしいということをお願いしたと思いますが、それはいかがですか。

田中政府参考人 タウンミーティングにおける詳細につきましては、大臣の御指示をいただいて、省内に調査体制を整えまして現在調査をいたしておるところでございます。

石井(郁)委員 その調査結果はいつ出していただけるんですか。

田中政府参考人 文部科学省としては、一生懸命調査いたしまして、内閣官房長官のところに置かれます調査チームのところとも連携をとりながら、調査をきちんとしてまいりたいと考えております。

石井(郁)委員 これは、いつまで調査され、いつ委員会に報告されるのかということをはっきりとお答えいただかなければ審議はできないと思いますが、それはいつですか。

田中政府参考人 速やかに調査はしたいと思っておりますが、いつまでにできるか、現時点でお答えすることはできないと思っております。

石井(郁)委員 それは本当に困りますよ。これでは審議続行できないじゃないですか、到底。この教育基本法にかかわってのやらせ質問なんですから、これは本当にこの法案の審議そのものに関係する重大問題です。それをきちっとこの審議中、この委員会の審議中にきちんと出していただきたい、そのことを重ねて、いつ出せますか。お出しになりますか。

伊吹国務大臣 先生、ずっと座って聞いていただいているから、私が申し上げていることも聞いていただいたと思いますが、いろいろな民意のとり方があるんですよ。そして、一番の原点は、やはり国民の信託を受けた我々が、国民の代表として民意を背負ってここへ来ているんです。そして、その間接民主主義を補完する仕組みとして、タウンミーティングも一つでしょう。それから、いろいろな世論調査あるいは新聞の論説、いろいろなものがございます。そういうものを合わせて、最後はやはり国会で御判断をいただかなければなりませんので、調査というものはもちろん今鋭意進めさせております。

 ただし、これは内閣の方針として、タウンミーティング全体の問題として文部科学省の分も官房長官に御提出をして、官房長官が整理をして立法府との対応を御協議になると思いますから、私どもの方は急がせてやらせたいと思います。

石井(郁)委員 現在、本当に国民からすると、一体この法案の審議は何なのか、教育基本法というこんな重要な法案について、文科省が、いわば政府がこういう世論誘導をしていた。そういう意味では、私は、本当に今文科省は信用が地に落ちていると思いますよ。

 だから、そういう状態のままでこの法案を例えば採決するだとか成立させるということは、到底できないじゃないですか。だから、やはりきちんと審議中に、この問題がなぜ起きたのか、その責任と反省はどうするのか。特に、責任の所在を明確にしてもらわないといけないと思うんですね。これは、政府として国民に対する本当に説明責任だと私は思いますよ。それがなくして調査中、調査中ということでは、この委員会もそれまでずっと開かなきゃいけないということになりますよ。

伊吹国務大臣 責任の所在や、あるいはどういう経路でこういうことになったのかということは、それは調査をして、責任者は、全く責任の所在に従っておのおのの責任を果たさねばならないと思います。しかし、そのことと、この委員会で法案をどうお取り扱いになるかということは、これは私がお答えすることじゃなくて、委員会の皆さんがお決めになることです。

石井(郁)委員 政府が教育基本法案をお出しになった、しかし、そのお出しになった経緯にこういうやらせ質問的なことがあって世論操作がされていた。重大じゃないですか。だから、本当にこれは、提出の資格そのものが問われる、そういう問題でもあるんですよ。そういう意味で私は申し上げているわけですね。

 それでは、もう一つの、文科省としてこの問題は、一体、どの課というか、どこが担当されて、どういう仕組みの中で行われたかということをぜひ明らかにしていただきたいと思うんですが、そのために一つ伺いたいと思います。

 ここに、私、文科省のホームページからとらせていただきました。それによりますと、「教育改革に関する広報・広聴活動の具体的な進め方」というのがございます。それで、そこでは三点あって、「スクールミーティングの実施」、それから「文部科学省等政府主催」、それでタウンミーティングがあり、教育改革フォーラムの開催というのがあるんですよ。だから、タウンミーティングと教育改革フォーラムは政府主催でやっているということであります。それで、三つ目に、「教育委員会、教育関係団体等主催の会議等への参加等」がある。この三つのことで行われてきたと。

 そして、このようにあります。上記を総合的、効果的に行うため、平成十六年に教育改革広報・広聴プロジェクトチームを生涯学習政策局政策課に設置し、十七年一月七日にも同じプロジェクトチームを発足させたというふうにしてあります。

 その総括責任者としては大臣官房審議官、チームリーダーとして生涯学習政策局政策課生涯学習企画官、チーム員として大臣官房、生涯学習政策局、初等中等教育局の職員九名、総勢十一名が当たっていると書かれております。ですから、この広報活動というのは、文科省を挙げての取り組みだということになるわけですね。

 こういうところがいわば中心となって、今、ずっとこの間問題になっているやらせ質問的なことが行われてきたんじゃありませんか。これはいかがでしょう。

田中政府参考人 御指摘のように、教育改革広報・広聴プロジェクトチームを生涯学習政策局の中に設置いたしまして、積極的な広報・広聴活動に取り組んでまいってきたところでございます。

石井(郁)委員 だから、ここが、いわば質問項目をつくったり、発言者を組織したり、運営をしたり、そういうやらせ質問をしてきたんじゃありませんかと。広報活動をしてきたということ、それは、広報活動をする機構としてつくったわけですから広報活動でしょうけれども、質問に答えていませんよ。

田中政府参考人 お答えを申し上げます。

 現在、教育改革タウンミーティングにおいての調査結果につきましては、十一月九日に御報告しておりますように、平成十五年十二月十三日の岐阜におきますタウンミーティングにおきまして、文部科学省が岐阜県教育委員会に発言候補者の推薦を依頼し、そして文部省が発言のための質問案を作成し、岐阜県教育委員会に送付し、また内閣府にも送付したということと、平成十六年五月十五日の愛媛県でのタウンミーティングにおきまして、文部科学省が愛媛県教育委員会に発言候補者の推薦を依頼し、文部科学省は、発言のための項目案を作成し、愛媛県教育委員会に送付したところでございます。

石井(郁)委員 どうも微妙にちょっと答弁をぼかしていると思うんですが、きょうは、全部文科省がしてきたと。それは、文科省がしてきたことは確かですよ。今、問題は、文科省内のどの担当で、どういう指示のもとで、だれが行ったんですか、そこをはっきりさせてくださいと。こんなのは何にも答えていないじゃないですか。全然答えになっていませんよ。

田中政府参考人 お答えを申し上げます。

 ただいま御指摘いただきました文部科学省の中で、だれが、どういう手順で、どういう了解を得てつくって御提出したかということにつきましては、現在、文部科学省の中に新たな調査体制をつくりまして調査に取り組んでおるところでございますので、その調査を踏まえまして御報告させていただきたいと考えております。

石井(郁)委員 先ほど来、タウンミーティングについても、八戸以外のところについても調査中だ、教育改革フォーラムについてはそういうことはなかったという話になっているんですよ。しかし、本当になかったのかどうかという問題も疑惑として出てきているわけですよ。

 だれが、どのようにして、どういう手順でという話は、今調査中と。そんなのは、省内で調べたらすぐわかることじゃないですか。何でそれがそんなに時間がかかるんですか。今、大事な審議をしているときですから、やはりすぐにも調べて報告をする、それが文科省の今とるべき立場ではありませんか。おかしいですよ、これは。

田中政府参考人 お答えを申し上げます。

 重ねての御質問でございますけれども、先ほど申し上げましたように、現在判明いたしておりますことにつきましては先般御報告をいたしたところでございまして、具体的な、だれがつくり、だれが決裁を得て、どういうふうに提出したか、その中身につきましては、現在調査をしておるところでございます。

石井(郁)委員 本当にもう文科省は、文科省がしたということだけにとどめて、内部については何ら説明をしようとしないというのがありありとしているわけです。

 もとに戻りまして、教育改革の広報・広聴プロジェクトチーム、これは文部科学大臣の了承のもとに設置されたんでしょうか。

伊吹国務大臣 当時は私が大臣ではございませんので事実関係はよくわかりませんが、当然、当時の大臣は御承知であったと考えるのが役所としての常識だと思います。

石井(郁)委員 それはまさにそのとおりでありまして、これは、私も見てみますと、当時、中山大臣だったと思いますが、大臣会見の概要がございまして、そこにははっきりと書いていますね。「教育改革につきまして、国民と直接対話をする機会を積極的に設け、」「現場の声をしっかり聞くということで、私自身もできるだけ現場に行って、生の声を聞きたいと思っています。このため、本日、教育改革広報・広聴プロジェクトチームを省内に発足させたところ」だというふうに述べております。

 私きょう問題にしていますのは、本当にこのやらせ質問は、一体どこで行われたのか、だれの責任のもとで行われたのか、どういう仕組みでされたのか、これが何にも明らかにされていないわけです。ただ、八戸の問題については、総務課の広報室長というところが指示を出した、その了承のもとで行われたというところまではわかったんですね、そこは。

 ですけれども、さらに、このやらせ質問がやはり文科大臣の了承のもとであったのかとか、あるいは、このプロジェクトチーム、教育改革の広報・広聴プロジェクトチームが、チームとして、これは相当な規模を持っていますから、総勢十一名ですよ、それで広報活動に当たった。タウンミーティングも、教育改革フォーラムも、スクールミーティングも、みんな進めてきたという大がかりな広報プロジェクトチームなんですよ。そこが全く知らないということは考えられません。一広報課の室長のところだけだったということは考えられない。

 文科省と内閣府が連絡をとりながら政府主催で行ってきたということですから、そこら辺、この質問の中心となったのは一体どこなのか、大臣はそれをどのように御承知されていたのかということは、はっきりしていただかなければならないと思います。

伊吹国務大臣 私は別に責任回避をするつもりはありませんが、当時の大臣は私ではございませんので、大臣としての私がどこまで知っていたかというと、そのときは、国会議員としての私は全く存じません。

 しかし、役所の常識からしますと、これもあくまで推測ですよ、先生、推測ですが、これだけの組織を立ち上げるについては、大臣が了承をしなければ普通は立ち上げられない。これは役所として、私の長年の経験から、そのとおりだと思います。

 ただ、おのおのの質問の内容について、こういう質問を、タウンミーティングについてですよ、内閣府に送りますとかどうだとかいうことは、多分大臣まで普通は上げないものですね。ですから、先日の当委員会における御質問に対して、政府参考人が広報室長という具体的な名前を挙げました、しかし、私はそれはちょっと軽率なんじゃないかと。

 つまり、システムとして、今先生がおっしゃったこのプロジェクトチームの中で、だれが最後にそれじゃそうしろと言ったのか、広報室長が独断でやったのか。そこのところはしっかり調べてから答弁をしてやらないと、もしも上でそのことを了承している人がいれば、それは広報室長としてはたまったものじゃありませんから。窓口になっている人間は広報室長だけれども、そのあたりの仕組みをきっちり私は調べるようにということで、先ほど参考人が答弁しましたように、広報室とか生涯学習局というラインはこの中に組み込まれているわけですから、そこのラインの外にいる人間を調査の本部長に指名をして、けさ調査を始めろということを言ったわけです。

石井(郁)委員 私がこの質問をしたのは十一月の一日でした。もうかなり日がたっています。重大問題だと、もう皆さんが認識をされていらっしゃいます。遅いんじゃないですか。しかも、この提出の教育基本法案の審議も、もう採決なんて声も聞こえるわけですけれども、本当にとんでもないと言わなきゃいけないと思うんですね。

 だから、今のお話を聞いても、どうも総務課の広報室長だけではないようだと。しかし、この教育改革のプロジェクトチームがどうかかわったのかは、まだはっきりしないというか、お述べにならない。一体、だれが、どこで、どんなふうにかかわっていたのか。そんなに調査に時間がかかると思えません。やる気になればできるんじゃないですか。なぜしないんですか。私は、そういう答弁のまま、とてもこの法案の審議を終えるわけにいかないと思うんですね。

 いつまでにきちんと調査、報告されるか、もう一度伺います。

伊吹国務大臣 それは、先生が御質問になってから、これはもう役人の性癖ですから、私も役人をやっておりましたからよくわかりますけれども、当然、当時の事情はどうであったろうかということは、内々に調査していると思います。

 しかし、少なくとも責任者である私のところへ持ってくる限りは、隠し立てをしたり、現場でやっている者に責任を押しつけたりするということは私は認めたくありませんから、その流れがどうなっているかということをはっきりしろと。しかも、その中へ入っていた、例えば広報室であれば、普通はこういうことは大臣官房長にやらせるのが普通なんですよ。しかし、広報室というのは大臣官房長のもとにある組織ですから、大臣官房長が調査の責任者になることは私は認めないということを言っておるわけです。

 だから、最終的にその取りまとめをしたものを私のところへ出せということをきょう指示したということで、何も手をこまねいていたわけじゃありません。

石井(郁)委員 私は本当に、ここで座り込んで、しっかりした答弁をお聞きしなきゃいけないということなんですが、しかし、きょうわかったことは、やはり、やらせ質問というのは文科省として省を挙げてやってきたということですよね。私は本当に恥ずかしい事態だと思います。安倍総理も、教育基本法を変えるのは規範意識を育てるためだとさんざん言っておられるわけですけれども、規範意識が最もないのが文科省じゃないですか。そのことを露呈したと思うんですね。

 ですから、いつまでも調査、報告を引き延ばしていたのでは、ますます国民の信頼を失うというふうに思います。各新聞も、本当に厳しい批判をこの問題で寄せています。この調査を審議中に必ずお出しいただくように強く求めて、きょうは質問を終わりたいと思います。

森山委員長 次に、保坂展人君。

保坂(展)委員 社民党の保坂展人です。

 私は、官房長官が今回のタウンミーティング問題について、これは徹底的に調査をするんだということで、全百七十四回についてきちっとこれを調べる、うみは出す、こうおっしゃっていることについて、しっかりこれはやってもらいたいと思います。

 さらに、その政府の調査は政府の調査で時間がかかるということでございますので、私なりにちょっと考えてみました。いろいろなところであいまいになることがありますけれども、タウンミーティングに関しては、多分これは、内閣府の大臣官房会計課で入札をかけていますから、つまり、これだけのタウンミーティングは業者が介在しないとできないですね。いわゆる公開競争入札、これの公示されたものを見て、業者との契約書がございます。契約書には、大体その内容を書いた仕様書あるいは単価表とかいろいろついているんです。そういうものを、昨日の夜遅くでしたけれども、内閣府の方から提出をしてもらいました。これに基づいて、まず、内閣府の官房長の方にちょっと細かい点をしっかり確認していきたいというふうに思います。

 平成十三年からこのタウンミーティングの実施に当たって、内閣府の大臣官房会計課と契約した企業と、一イベント当たりの単価、何か、何回開くかわからないから、一回について幾らだというような契約の仕方だそうですが、これについて、年度ごとというふうに聞いているので、お答えいただきたいと思います、官房長。

山本政府参考人 お答えいたします。

 平成十三年度からスタートをしております。平成十三年度は、随意契約で株式会社電通。それから、平成十四年度から一般競争入札になっております。平成十四年度は、前半、朝日広告社、後半、株式会社電通。それから、平成十五年度は電通。それから、平成十六年度、十七年度、十八年度は朝日広告社となっております。

保坂(展)委員 平成十三年度からの二社についてお答えいただきましたが、それぞれ幾らで契約しているのか、合算額は幾らなのか、お答えできますか。

山本政府参考人 執行済み額と実績額ということで御承知いただきたいと思います。

 平成十三年度九億三千九百万円余、平成十四年度一億九千三百万円余、平成十五年度二億九千七百万円余、平成十六年度二億四千二百万円余、平成十七年度二億九千五百万円余で、平成十七年度までの合計で十九億六千七百万円余となっております。

保坂(展)委員 国民との対話ということで約二十億円近いお金が出ていっているということなんですが、ここでこの契約書の中を細かく見ていきますと、例えば、平成十四年度八月からの分においては、この業者に払う一イベント当たりの金額が、内閣府との事前調整額が九十四万九百円、かなり高いんですね。これ掛けるイベント回数というのは相当高くなるんです。ところが、平成十五年度四月は四十二万になり、十六年度以降は二十万というふうに変動してきているんですが、この内閣府との事前調整というのは何をやるんでしょうか。そして、なぜこれだけ金額が変動するんでしょうか。

山本政府参考人 単価契約ということで、いろいろな項目を示しまして、それで入札をしていただくということになっております。

 今保坂委員御指摘の点は、その単価契約の中の一つでございまして、内閣府との調整に種々要する経費ということで一項目になっているというぐあいに承知しています。

保坂(展)委員 前回、このタウンミーティングに関係者ということで大量に公務員の方を中心に入っていたということが明らかになりましたが、この仕様書を見ると、事前参加申込者という部分があるんですね。これは事前に参加を申し込む。さらに見ていくと、タウンミーティング・サポーターという人たちがいて、タウンミーティング・サポーターとこの事前参加申込者は別枠で、百通、開催地が決定してすぐ送る、こうなっているんです。これは優先枠ということなんですか。タウンミーティング・サポーターとは何ですか、一体。

山本政府参考人 平成十五年度から始めたものでございまして、できるだけタウンミーティングを広く知っていただくということで、要するに、タウンミーティング・サポーターということで、地域で、タウンミーティングというのはこういうものですよとか、こういうぐあいにやられますよとか、そういうことをいろいろ友達だとかあるいはメール上で知っていただく、そういう地域での活性化活動をやっていただくということで五十五名登録をしていただいておりまして、この方々は、要するに広報活動をサポーターとしてやっていただくという趣旨でお願いしているものでございます。

保坂(展)委員 このタウンミーティング・サポーターという名前を初めて聞きまして、これは一体何なのかということをきのう聞きましたけれども、サポーターというのは、助けたいということで出てくるということではなくて、内閣府の方からお願いをしている存在ということですね。そういう人たちのリストがあったと。これはぜひ、個人名は構いませんから、どういう形でこの優先枠がつくられていたのか、出していただきたいと思います。

 さらに見ていきますと、有識者謝礼が三万円、依頼登壇者とあるんですね。これは、依頼登壇者というのはどうなのかと聞いたところ、そういう地元の何人かが発言する時代があったと聞きました。

 それを信じますと、今度は、その他の協力者、単価五千円とある。その他の協力者、これは何ですか、何をさせるんですか。例えば、今回のタウンミーティングの中で問題になっている、発言依頼をした人などと絡む概念じゃないですか。

山本政府参考人 委員御指摘のあれは単価設定の一項目になっておると思いますが、ちょっと私、現時点で、今委員おっしゃいました五千円というものですか、ちょっと確認できません。わかりません。

保坂(展)委員 これはこれから聞く八戸の問題と絡んでいます。それで質問通告も、午前中ですか、これについて聞きますよとしています。答えられないはずはないです。(発言する者あり)委員長、答弁探す間とめてくださいよ。

森山委員長 いかがですか、御答弁できますか。

山本政府参考人 申しわけございませんが、今委員御指摘の点は、ちょっと私、事前にお聞きしていなかったので、ちょっと今、資料を急いで繰っているんですが、出てまいりません。

森山委員長 ちょっととめてください。

    〔速記中止〕

森山委員長 では、筆記を起こしてください。

 山本官房長。

山本政府参考人 後日、精査してきっちりとお答えしたいと思いますが、当初は、平成十三年度からスタートいたしましたけれども、いわゆる代表演説と代表質問ということで明示的にお願いするということがございましたので、その契約書の単価設定のときにその分も入れていたのではないかと思います。

 よく精査して、後日お答えいたします。

保坂(展)委員 質問取りのときには、これはキックオフ的な役割で、話の流れをつくる、最近はやっていませんが、当初やっていたんですというふうに答えたんです。それでいいんですか。それを確認します。

山本政府参考人 お答えいたします。

 キックオフ的に、お名前を明示して、代表質問として最初の御発言をお願いしていたということが当初ございまして、そのことを想定したのではないかと思います。

保坂(展)委員 結局、国民の声を聞くというはずのタウンミーティングで、一番最初にはいと声を上げる人が、五千円は、それが高いか安いかは別にして、そういう依頼をされた方だったというのは、これは重大ですよ。

 官房長官、これはちゃんと調べてください。政府の調査の中に入れてください。委員長、官房長官にお願いします。政府の調査の中に入れてください。

山本政府参考人 お答えいたします。

 内閣府として、官房長官の指示も受けて、全数調査を早急に取りかかっていこうということで、きょう第三者委員会も設置をしたところでございます。今御指摘の点も含めて、しっかりと調査したいと思います。

保坂(展)委員 あの八戸のタウンミーティングで、いよいよ教育基本法を変えなければいけない、家庭教育が今回位置づいたのは大変すばらしいというような意見が相次いだわけですね、国民の声であるかのごとく。これは、もちろん、仕込まれなくても反対の声は出ているわけですから、賛成の声なんか仕込みがないとなかなか出づらかったということを証明しているんです。

 さて、この資料三、「教育改革 タウンミーティング イン 八戸」の中に……(発言する者あり)ちょっと黙ってください。「教育改革 タウンミーティング イン 八戸」の中に、これの参加証の発送というのがあるんですね。これは、では内閣府の官房長に伺いますが、この参加証というのは、個々人が、国民が申し込んで、そしてはがきをもらっていくという形だと思うんですが、八戸で出た資料を見ると、「個々の住所あるいは事業所へ一括して、参加証を発送します。」とあるんですね。「事業所へ一括して、」とはどういうことですか。

山本政府参考人 参加証をお送りする方が、例えば一つの事業所に多数おられる、あるいは複数おられるときに、まとめてお送りすることもあり得るということで記述していると思います。

保坂(展)委員 これは、八戸会場にはPTAの方が百十何人来られた。そして、その方たちを含めて二百七十人台の関係者が押し寄せた、かき集めたというか。それ以外に一般の人は百八十何人だった。随分関係者が多い中で、一般の方の中にも、もしかすると、事業所といえば、いわゆる会社ごとに、事業所ごとに来ている可能性もあるんじゃないか。ここも調べていただきたいと思います。

 さらに、この十一月九日に出た、これまた教育改革のタウンミーティングの和歌山の資料なんですが、事前の御意見として登録をされていますね。これは前回聞きました。これについて、同じ内容のものを項目別にこういうふうにまとめていらっしゃいますね。丸とか三角とか無印がついている。これはどうなんですか、文科省あるいは内閣府で、この意見はよし、この意見は三角、この意見はまあ無印か、こうやったんですか。これは調べますというふうに前回言ったんですよ。

山本政府参考人 前回、保坂委員から御指摘がございましたので、私、再度当時の担当者に確認をいたしましたけれども、当時の担当者の記憶では、例えば、その分類の中で代表的な意見といったようなものかなと思われるようなものを、主観的ではあるけれども、印をつけてみたことはある、こういうことでございました。

 それで、私も、その印のところとそれを集約したところとよく読み比べましたけれども、なかなかそこは私の感じでは判然としなかったというのが、私のイメージでございます。

 以上でございます。

保坂(展)委員 前回、あの八戸のタウンミーティングにおきまして、希望したけれども入れないという人がいたのではないかという質問をしましたけれども、これは抽せんで外れた人はいなかったということでしたが、全体、教育改革タウンミーティング、この教育基本法を改正すべきという意見も出た。したがって、これはこの委員会でもたびたび答弁が出ているんですね。小坂大臣からも、タウンミーティングで国民の皆さんの意見を幅広く聞かせていただいてという、こういう意見がずっと出ているんです。抽せんで外れたというこのケースはなかったんですか。

山本政府参考人 お答えいたします。

 これも前回委員からお話がございまして、再度確認をいたしました。ファクス、メールのものについては全数調査をしまして、これは漏れが見つかりませんでした。それから、はがきが十九通来ておりまして、そのうち一通については、三名の、恐らく御家族のお名前だと思いますが、お二人についてはちょっと名前がなかったので、何回か連絡をとろうとしたんですけれども、連絡がとれなくて、そのお二人には参加証を送っていないということはございました。

 それ以外の漏れというのは、ちょっと現時点では確認……(保坂(展)委員「いや、それ以外は抽せんはしていないんですか」と呼ぶ)抽せんは一切いたしておりません。今回は、百八十六名の方が一般応募ということで来ております。

保坂(展)委員 質問をよく聞いていただきたいんですが、今、八戸のことを聞いたんじゃなくて、教育改革タウンミーティングをやった中で抽せんということは行われなかったんですかと聞いたんですよ。

山本政府参考人 お答えいたします。

 八回のうち、大分会場で抽せんが一回行われておりまして、あと七回は抽せんがなかったということになります。

保坂(展)委員 これは伊吹大臣に、たびたび、国会は国権の最高機関であって、ここでの審議がすべてなんだ、間接民主主義の補完としてこのタウンミーティングというのはあると。そのとおりだと私も思います。タウンミーティングというのは、透明性があり、国民だれもが参加できて、そして自由に意見が出せる。もちろん時間的、人数的な制約はありますけれども、そういうこととして百七十六回も行われてきた。この委員会でも、小坂大臣からあるいは局長から、教育基本法の議論は今始まったわけではありません、タウンミーティングや教育改革フォーラムでたびたび国民の意見を聞いてきたという答弁、これは民主党の松本さんがまとめていただいた、この議事録をいろいろ精査したもので見ても、十カ所近くあるわけですね。

 例えば、これは国民新党の糸川さんに対する答弁では、「答申をいただきましてからは、教育改革フォーラム、教育改革タウンミーティングなど幅広く国民の議論を聞く機会を設けて、議論に参加していただいたわけでございます。」という答弁が残っている。

 しかし現実には、大分で発言した四人は公務員じゃないですか。県の教育委員会に推進の意見を出せと国が地方公務員に命令を下して、そして公務員が、自分の意見と同じかどうかわかりませんよ、意見を言う。これは、国民の意見を聞かせていただいてと言うにしては余りにも不純物が多過ぎる。

 これは答弁をしっかりし直して、全部、これまでのタウンミーティングに関する答弁が事実と合っているのかどうか、大臣が責任を持って、大臣が交代されたわけですから、この委員会の審議は前の国会の審議時間もカウントして皆さん言っていますので、ここはしっかりそろえていただきたい。

伊吹国務大臣 まず、文科省が地方公務員に命令してという、命令権は一切ございません。これは誤解のないようにしていただきたいと思います。

 その上で、率直に申し上げて、今言っておられるような、あるいは我々が調査をしたような、必ずしも透明な形ですべてが民意を反映したものでなかったということは、結果的にそれは認めねばならないと思いますし、それをもってすべて世論を把握していると言うことはやはり不適当だと思います。

保坂(展)委員 大臣、率直に答えていただいたと思いますが、これは野党筆頭からも、理事会におきまして、この間、五月以降、委員会の審議がある、今読み上げた部分はほんの一つの答弁でありまして、与野党質問者に対して、このように国民の意見を幅広く受けとめてきて今日あるという答弁が残っているわけです。

 一つ一つ精査して、これについて客観的な評価、その中には、今明らかになっているようなやらせと言われるような事例もあるわけですね。ここは、この委員会の審議をすっきりさせるためにも、今大臣がそういうふうにお答えになったということはわかりますが、過去の答弁はこれでいいのかということもしっかり点検していただきたい。

伊吹国務大臣 それは、過去の大臣の答弁について私が一つ一つ真偽の確認をしろと言われても、無理でございます。

 しかし、タウンミーティングのやり方がどうだということについては、官房長官のところで、先生の御指摘も踏まえて真摯に、本当に透明的な形で意見を求めたのかどうなのかということは調査をされると思いますし、それ以上にこれは、なるほど、そこで必ずしも完全なことは行われていなかったということも含めて、先ほど先生が私の言葉を引いていただいたように、まさに民意の代表というのは我々一人一人でございますから、その我々一人一人が判断をするときの参考にして決断をしていただかなければならないと存じます。

保坂(展)委員 これは、一会場一千万以上かかっているんですね、二十億というと。かなりの大きなお金をかけて行われているミーティングです。大臣がおっしゃるように、国権の最高機関であるこの国会で、日本国憲法のもとに我々は審議をしているわけです。

 率直に言って、私も、文科省の言うことを全部、あるいは文科大臣の、前大臣の言うことを疑って聞く部分もありますが、タウンミーティングでいろいろ出ましたということは素直にこれ信じましたよ。ああ、そうだったのかと。だから、どういうふうに具体的に出たのかよく見てみなきゃいけないなと思いました。それは、やはりこの国会の場で政府、閣僚が言った答弁というのは、前大臣のことですからではなくて、しっかり政府全体として訂正していただきたい。

伊吹国務大臣 それは、今私が申し上げていることについてすべて尽きていると思います。それは、必ずしも透明な形で民意が吸収されたかどうかについては的確でない部分があったということを私は申し上げているわけですから、それを先生の参考にされて、国民の代表として御判断いただければいいので、当時信じられたけれども、今信じておられないから質問しておられるわけでしょう。

保坂(展)委員 それは、野党の共産党がこの文書を出したからわかったわけであって、調査をするということになったわけですね。これはおかしい、教育基本法を改正するというのがまさに国民の声としてあまねくあるというふうにおっしゃっているわけですから。各会場でいろいろ出ています。しかし、出ていますということを一つ一つ見れば、この中に少なからず仕込みがあったということは歴然としているわけでしょう。

 時間がないので、もう一点聞きます。

 前回聞いたことではありますけれども、小坂前大臣は、家庭教育、第十条について、法律の制定、そういうものあるいは改正を想定するつもりはないというふうに前通常国会の審議でお答えになっていらっしゃいます。

 それで、共産党の石井議員と私が文科大臣に出した資料がございますよね。この資料を見たのは初めてですということでした。ただ、このときにも言いましたけれども、理事会室の中で、こういう資料がありますよということは、文科省を代表して理事会にいらっしゃる方がしっかり聞いているわけですし、その後、大臣に確認されましたか、この資料については。

伊吹国務大臣 どういう経路で入手されたのかということもぜひ教えていただきたいと思いますし、私が大臣に就任した後、文科省の事務局に私が指示をしたことは、これは午前中の民主党さんとのやりとりの中で藤村先生もいみじくも言っておられますけれども、この法案が成立をした暁には、例えば教育委員会に関する法律がどういうふうになるのか逐条で今当たっておりますということを言っておられますよ。だからこれは、法案を提出した者は、この基本法が通れば、あとどういう各法の改正があり、どういう順序で物が動いていくかというのは、法案を提出した者としては、それは当然のこととして調べねばならないのは当たり前のことだと私は思います。

 ですから、私が大臣に就任した後、このことについて、あとどういう法律の改正をやらなければならないか、あるいは政令の改正はどうなのかということをきちっと大臣に報告しろということは、私は指示しました。

 そのときに出てきた資料は、今先生のそこにお持ちの下の方に、極めて似通った色つきの資料が出てまいりましたが、先生がお示しいただいたのは九月二十日か何かの日にちがついて、これは私が大臣に就任する前でございますから、そのことについては、私のところに持ってきたペーパーはございません。

保坂(展)委員 では初中局長、お聞きをしますけれども、この九月二十日に教育基本法改正推進本部幹事会が行われていて、こちらのイメージ図ですね、十一月末には成立と書いてあって、私がその十条についてこだわっているのは、小坂大臣が法改正を考えないというふうにこの委員会で言っているにもかかわらず、十条の家庭教育については、社会教育法を平成二十年度通常国会提出に向けてこの作業をすると書いてあるわけですよ。第十三条にもそういう部分があるわけです。

 では、大臣の話はわかりますけれども、一応局長に。

伊吹国務大臣 それは小坂大臣の名誉のために私ははっきりさせておかないといけないと思いますが、小坂大臣が御答弁になったのは、これは議事録を調べてみないといけませんけれども、例えば、心の問題を社会教育法の中に持ち込むような改正はしないという趣旨のことをおっしゃったんじゃないんですか、先生の御質問に対して。しかし、一般論としては、それ以外の部分の社会教育の関係のところは法律を変えなければ、だから、心の問題を持ち込むような改正はしないということをおっしゃっていたかどうかをはっきり確認した上で御質問していただかないと、小坂大臣の名誉にもかかわることですから。

保坂(展)委員 それでは、初中局長と田中生涯学習政策局長、お二人に聞きますよ。九月二十日にこの資料は出たんですか、出ないんですか。はっきりしてください。

田中政府参考人 文部科学省におきましては、省内に教育基本法改正推進本部を設けまして、その中にプロジェクトチームをつくりまして、さまざまな検討を進めておるところでございます。

 それで、ただいま先生のお示しになられた資料は、多分、文部科学省がつくった資料かもわかりませんが、私どもとしては内部の資料としてつくったものでございまして、外には公表しておらないものでございます。

保坂(展)委員 これは文科大臣、国権の最高機関でこの基本法の審議をして、家庭教育の十条について法改正をするのかどうなのかという大事な点について、それは文科省の中だけの資料で、出す予定のものじゃありませんなんというこういう答弁、私は許せないと思いますよ。

 もう一度、では初中局長、どうですか、これはあったんですか。初中局長に確認してから大臣にお聞きします。

銭谷政府参考人 ちょっと、私はその資料は存じ上げておりません。

保坂(展)委員 では、文科省では初中局というのはこういった内部作業から除外されているんですかね。今、そうかもしれませんと言ったんですよ、田中局長は。そうかもしれませんというのは、これは可能性があるということですね。内部で流通するものだけれども、可能性はあるということですね。

田中政府参考人 お答え申し上げます。

 文部科学省におきましては、先ほどもお答え申し上げましたように、今後のあり方につきましてさまざまな資料等で検討を今進めておるところでございまして、したがいまして、この資料が私どものつくった資料に、何というか、こういうような資料もつくったかと思いますけれども、これが確かに文部科学省がつくったかどうかということは、私どもは外にこういうものを出しておりませんので……(発言する者あり)はい、私どももいろいろな資料をつくって検討しておることは事実でございます。

保坂(展)委員 国権の最高機関の国会、伊吹大臣、これは率直にどうですか。つくったかもしれない、つくったとはっきり言い切らない。言い切らないですけれども、大臣として……(発言する者あり)委員長、いいですか。ちょっと静粛にさせてください。

森山委員長 静粛に願います。

保坂(展)委員 もう一回ゆっくり言い直します。

 これは法案の審議の内容と絡んで私は聞いているので、大臣は一般論としてお答えになりましたけれども、私はこの問題を出しました、前回。ですから、その後、こういう資料はあったのかどうなのか、あったのなら大臣のところに持ってこなきゃだめじゃないかというふうにしっかり事務方に指示するのが伊吹大臣だと思うんですよ、本来は。これは確認されたんですか。

伊吹国務大臣 私はその資料は全く必要といたしておりません。私が指示したのは、この教育基本法が通った場合に、国会で何度も御答弁をしている三十何本の法律についてどのような改正作業が必要なのか、そして政令、告示、これは当然準備しておかなければならないから、私に説明をするようにという指示を私は出しております。そのときに持ってきたのは、今先生がお出しになったその下の方の、それが色刷りになったもの、そのものと完全に一致しているかどうかわかりませんが、それで私のところへ持ってきました。

 民主党さんも、藤村先生がおっしゃっているように、当然法案を提出しておられるんですから、教育基本法の一条一条をチェックしたと午前中も答弁しておられるわけです。だから、当然そういう準備作業はするべき、して当たり前のことなんですよ。

 問題は、先生が御質問になった家庭教育の部分について、当時の小坂大臣が、議事録を詳細にもう一度点検をしてからやりとりをしないといけませんが、多分、何度も小坂大臣が私に言っておるのは、心の問題にかかわる部分の法改正はいたしませんということを答弁しているんですよ。ところが、そこにもし社会教育法の改正ということが書いてあるとすれば、それは心の問題にかかわるところの改正だと先生は決めつけて、まことに不愉快だとおっしゃっているんだけれども、そうじゃないんですよ、それは。

保坂(展)委員 そうじゃなくて、基本法の審議だから、これは小坂大臣の答弁を今出しましたけれども、実は、私もこの臨時会になってから官房長官にも聞きました、大臣にも聞きました。だから、二条の教育の目標というのがどこまでかかっているのか、社会教育にも家庭教育にも一応かかっているじゃないか。しかしそこは、心に手を突っ込むようなそういうことはしませんという答弁だったし、あるいは法改正の話もそのときには出ていないんですよ。しかし、ここに計画として事務方の検討作業の痕跡があるというふうなことを見て、これは、そういうものも含めてこの基本法の審議では明らかにしてもらわなければ困ると言っているわけであります。

 一点だけ、初中局長、先ほど全く知らないということをちょっと機嫌悪く答えられましたけれども、教育基本法改正推進本部幹事会には、大臣官房審議官、初中の方が二人出ているじゃないですか。これは局長に上がらないんですか。配られた資料というのを見ていないの。はっきりしてください。(発言する者あり)

森山委員長 御静粛に願います。

銭谷政府参考人 私ども、この国会で教育基本法をお認めいただければ、今後、学校教育法などいろいろな法案につきまして、基本法の趣旨を体して改正の検討をしなきゃいけないということでいろいろ作業はしているわけでございますし、また検討しなきゃいけないと思っておりますけれども、先ほどの資料につきましては、ちょっと私は記憶がございません。

保坂(展)委員 文科大臣、これはもう大臣が一言田中局長に、これは文科省が内部でつくったのかと聞けば、局長はそれはイエス、ノーを言うでしょう。これはしっかり確かめてもらえないですか。

伊吹国務大臣 私が大臣をしている限り、内部資料がどのようなルートで流出したかわからないものについて、私は確認することはいたしません。

保坂(展)委員 これを隠ぺいと言うんですよ。だって、基本法の審議で、家庭教育や地域と家庭との連携について社会教育法を改正するということを事務方が検討しているかもしれないと言っているじゃないですか。田中局長は言っているじゃないですか、そういうものをつくったかもしれないと言っているじゃないですか。それを確認しないというのは、これは審議が成り立ちませんよ。(発言する者あり)

森山委員長 御静粛に願います。

伊吹国務大臣 私は答弁で、先生も私にお聞きになりましたね。ですから、社会教育法の改正があっても、それは小坂大臣もそういう趣旨で私は答弁したと思いますが、私は、大臣でいる限り、先生に御答弁をしたのと違うような改正はやらせません。

保坂(展)委員 基本法で、フラットな、余りでこぼこのない、当たりさわりのないことを言って、実は各分野においては全部お役人にお任せというのは絶対困るんですね。

 こういう検討作業があったかもしれないというふうに言っているので、ここは十分ただしていただきたいし、それが明確にならなければ、この審議を終わるわけにはいかないということを申し上げたいと思います。

伊吹国務大臣 それは先生、国会の中の発言はそれは責任は問われませんが、すべて役人任せということを言われたら、やはり私は大臣として、今の先生に対する御答弁は撤回させていただかなければいけませんよ。

 私が大臣でいる限りはそういうことはさせないと言っておりますし、先ほど来政府参考人が、心の問題に関する社会教育法の改正をするという答弁はしていないと私は思いますよ。そんなことは聞いておりませんよ。

保坂(展)委員 田中局長がこういうものをつくったかもしれないと言ったことは、これは議事録に残るので、ここはしっかり議論していきたいと思います。

伊吹国務大臣 これは大切なことだからしっかりと申し上げておかにゃいけませんが、先生は、小坂大臣の答弁で心の問題にかかわるところの修正をしないと言ったにもかかわらず、こういう改正作業をしているというのが私は不本意だということをおっしゃって、そして、政府参考人がこの資料は私の文科省でつくったのかもわかりませんと言った答弁をとらえて、心の問題に関する修正の準備をしているようなことをずっとおっしゃっているんだけれども、それは事実と違いますよ。

保坂(展)委員 時間が来ているので事実だけ言いますけれども、これは、改正後の関連法の改正の見通しについて小坂大臣が、これに基づいて、この十条について新たな法律を規定する、そういうつもりはないわけでございますと言っているので、ここはたださなきゃいけない。

 私の質問時間は終わりましたからきょうは終わりますけれども、これはしっかり明らかにしなきゃいけないということを申し上げて、終わります。

森山委員長 明十五日水曜日は、午前九時から公聴会を開会いたします。

 なお、次回の委員会は公報をもってお知らせいたします。

 本日は、これにて散会いたします。

    午後六時十二分散会

     ――――◇―――――

  〔本号(その一)参照〕

    ―――――――――――――

   派遣委員の大分県における意見聴取に関する記録

一、期日

   平成十八年十一月十三日(月)

二、場所

   大分東洋ホテル

三、意見を聴取した問題

   教育基本法案(第百六十四回国会、内閣提出)及び日本国教育基本法案(第百六十四回国会、鳩山由紀夫君外六名提出)について

四、出席者

 (1) 派遣委員

    座長 森山 眞弓君

       井脇ノブ子君   稲葉 大和君

       中井  洽君   松本 大輔君

       斉藤 鉄夫君   保坂 展人君

       糸川 正晃君

 (2) 意見陳述者

    大分県高等学校PTA連合会会長        高橋 正夫君

    元大分市立中島小学校校長           清原今朝勝君

    大分市議会議員     井手口良一君

 (3) その他の出席者

    衆議院調査局教育基本法に関する特別調査室長  清野 裕三君

    文部科学省生涯学習政策局生涯学習総括官    清木 孝悦君

     ――――◇―――――

    午後一時三十分開議

森山座長 これより会議を開きます。

 私は、衆議院教育基本法に関する特別委員長であり、今回の派遣委員団団長の森山眞弓でございます。

 私がこの会議の座長を務めさせていただきますので、よろしくお願い申し上げます。

 この際、派遣委員団を代表いたしまして一言ごあいさつを申し上げます。

 皆様御承知のとおり、当委員会では、第百六十四回国会、内閣提出、教育基本法案及び第百六十四回国会、鳩山由紀夫君外六名提出、日本国教育基本法案の審査を行っているところでございます。

 本日は、両案の審査に当たり、国民各界各層の皆様方から御意見を承るため、当大分市におきましてこのような会議を催しているわけでございます。

 御意見をお述べいただく皆様方におかれましては、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございました。どうか忌憚のない御意見をお述べいただきますようよろしくお願い申し上げます。

 それでは、まず、この会議の運営につきまして御説明申し上げます。

 会議の議事は、すべて衆議院における委員会議事規則及び手続に準拠して行い、議事の整理、秩序の保持等は、座長であります私が行うことといたします。発言される方は、その都度座長の許可を得て発言していただきますようお願いいたします。

 なお、御意見をお述べいただく皆様方から委員に対しての質疑はできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願います。

 次に、議事の順序について申し上げます。

 最初に、意見陳述者の皆様方からそれぞれ十分程度御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。

 なお、御発言は着席のままで結構でございます。

 次に、派遣委員を御紹介申し上げます。

 自由民主党の稲葉大和君、井脇ノブ子君、民主党・無所属クラブの中井洽君、松本大輔君、公明党の斉藤鉄夫君、社会民主党・市民連合の保坂展人君、国民新党・無所属の会の糸川正晃君、以上でございます。

 次に、本日御意見をお述べいただく方々を御紹介させていただきます。

 大分県高等学校PTA連合会会長高橋正夫君、元大分市立中島小学校校長清原今朝勝君、大分市議会議員井手口良一君、以上三名の方々でございます。

 それでは、まず高橋正夫君から御意見をお述べいただきたいと存じます。

高橋正夫君 ただいま御紹介いただきました、大分県高等学校PTA連合会会長の高橋と申します。今、高等学校の中で全国の高等学校PTA連合会の副会長もさせていただいております。今回の教育基本法につきまして、私どもの気持ちを少し述べさせていただきたいと思います。

 戦後六十年、いろいろな形で日本が戦後復興をしたわけですけれども、その当時の家庭教育と今現在の家庭教育、もう皆様御存じと思いますけれども、非常にさま変わりしてまいりました。こういった状況の中で、特に教育基本法が今回見直されるということに関しまして、私ども非常に興味を持ってまいりました。

 今まで、教育基本法といいますと、どうしても教育のことが主体になって扱っておりましたけれども、今回の提案内容を見ますと、家庭教育といったものまで踏み込んだ法案が出されているということに関しまして、私ども非常に興味を持って伺いました。基本的には、より現在の状況に合うような教育基本法に改正するということに関しましては、賛成という気持ちを持っております。

 今まで、とりわけ学校の授業主体の教育基本法から、学校、家庭、地域の相互の連携をということにまで踏み込んだ基本法であっていただきたい。特に、本当に今の時代に即した教育基本法の改正になるのではないかというふうに期待をしております。家庭教育につきましては、本来でしたら、余り行政が家庭の中まで踏み込んでほしくないというところはあるのですけれども、何せ今の状況としまして、家庭で子供が育てられなくなったという現状がございます。

 私ども今PTAをやっていまして、以前はPTAというのは、保護者が子供たちがお世話になっている学校のために何か資金的なものでバックアップしていこうというのがPTAというイメージでございましたけれども、今は逆に、保護者をしっかり再教育するPTAにならなければまずい。子供に関しましては、当然親が子供を育てるわけですけれども、子供の模範となるべき親が、倫理観もない、本当に身勝手な行動をついつい起こしてしまっている現状が今あるのではないか。

 それに対して、家庭の教育力が落ちている、同時に地域の教育力が落ちているということを盛んに言われます。

 以前は、地域の公民館、自治会、そういったものを通じまして、保護者の方、大人社会をしっかり一つの方向性へ持っていって、ルールを守っていた倫理観がありましたけれども、今はそれすら壊れているというところから、私どもPTAとしましても、しっかり、親がみずから学び、親が変わる、そういった場がPTAだというふうに自覚しておりまして、今活動を進めております。親が変われば子は変わるというふうに言われますけれども、子供たちに背中を見せられるような親にまずしっかり私たちが変わろうと。

 それと同時に、大分県教育の日というものが昨年制定されまして、今私、その推進会議の会長をやっておりますけれども、大分県の子供たちをしっかり育てよう、と同時に、大分県の地域みんなでそういった家庭教育を支援していこうという輪が生まれました。多分大分県の中で一番団体数として多いんじゃないかと思いますけれども、百以上の団体が教育のためにみんなで力をかしてあげようという動きが今ございます。

 また、親社会にしますと、公民館や婦人会、そういったものが中心になりまして、昔のやはり仲間意識をしっかり保護者たちに教えていっていただきたい。また、今子育てで苦労されているお母さん方に対しまして、公民館等におばあちゃんやそういった方々が集まることによって、そこにお母さんが出向いていって子育ての仕方を教えてもらう、そういった地域でしかできない活動をしっかりやっていこうというのが大分県教育の日の大きな目的でございます。

 一般的な学校での教育、これは子供たちにとっては当然必要とは思いますけれども、今、日本に一番欠けているのがそういった倫理観、あとは規範意識だろうと思っております。今ここで直していかないと、これから先もずっと同じような状況が続くだろう。以前は子供をしっかり再教育しましょうと言っていたが、今は子供と親を同時に各団体で力を合わせて一緒に直していくといった時代が来ているのかな、そういったことをにらみ合わせまして、そういった時期に教育基本法を今の時代に合うような方針に変えていく、皆さんで議論していただくということに関しては非常に感謝しております。

 実はきょう、私、大分県の社会教育委員会の副委員長も務めておりまして、県の教育長に対しましてある答申案を持ってまいりました。ちょっとこの場にその資料を持ってきていないのですけれども、もし必要があれば大分県の教育庁に聞いていただければいいのですが。

 どういったことをやっているかといいますと、現在地域にはいろいろな子供たちがいます。その子供たちをよくするためだったら、いろいろな力をかしましょうという方々が随分いらっしゃいます。元教員だった先生方も随分いらっしゃいます。公民館を中心にして声をかけてくれれば、私たちに出番をつくってくれれば幾らでも行くよといった教育関係者の方もいらっしゃいます。そういった方々のお力もおかりして、地域でしっかり子育てのできる、そういったことをやっていこう。今、もうまさに教育基本法で検討されていることなんですけれども。ただし、通常の教育関係者の方だけではなくて、それ以外にもいろいろな人たちをメンバーに加えることによってネットワークづくりをしていこう。

 今までは、それぞれが点で活動していたものを、お互い連携していきましょう。元先生方、一般の保護者、おじいちゃん、おばあちゃん、婦人会、その他公民館主事、いろいろな方が一本にまとまっていない関係で、多分、今地域の活動というのはなかなか思うように進んでいないのだろう、かけ声だけで終わっているのじゃないかという気がします。それを一本化するために、教育のネットワークということで、大分県は、大分発協育ネットワークというのを今盛んに考えてまいりました。そういった活動を通じまして、地道に、力のついた、地域での教育力の充実というものを実際やっております。

 こういったことも、今の時代の教育基本法に準ずる一つの状況かなと思っております。財政が厳しい中、いろいろな素案が示されていますけれども、まずできるところからこつこつと、できる人たちから少しずつ力を発揮していけば、日本の教育は幾らでも変えられていくのじゃないかなというふうに思っております。

 限られた時間の中で、なかなか意は表せませんけれども、今PTAをやっている関係で、私はこういった角度から教育基本法に対する意見を述べさせていただきたいということでございます。

 以上でございます。(拍手)

森山座長 ありがとうございました。

 次に、清原今朝勝君にお願いいたします。

清原今朝勝君 清原今朝勝と申します。

 私は、昭和三十八年に大分大学の学芸学部を卒業いたしまして、最初に県立盲学校に勤務をいたしました。それが、私の障害児教育に対する一つの入り口であったように思います。

 六年勤務した中で、盲学校に弱視の子供がたくさんいる、この弱視を普通学級で育てられないかということで、昭和四十三年に大分市立中島小学校に弱視学級を開設いたしました。これは、西日本で最初だったと思います。ここで、障害児と健常児の触れ合いの中で弱視の子供を育てていったという経験がございます。

 六年やりまして、今度は僻地の方に行くことになりました。大分県の佐伯市米水津村の間越分校という小さな海岸の分校でございます。女房も教員でしたので、一緒に、長男が小学校一年、うちの息子を入れて六人の小さな分校ですけれども、そこで五年間地域ぐるみの教育をやってまいりました。

 実は、僻地派遣教員は三年間でございますけれども、どうしてもということで請われて五年間おることになりまして、昭和五十五年、大分市の小学校に帰ってまいりました。以来、平成十一年の三月にやめるまで大分市の小学校の教員をさせてもらいました。

 私が常々思ってきたことは、教育の目的は子供の幸せにある、この一点を外さないでやってきたのが私の三十八年間の教員生活だったと思います。学校の主人公は子供である、子供が将来幸福な生活を送るために学校があるのであって、学校は、教育は社会のためにあるのではない、教育のために社会がなくてはいけない、こういう理論を持ってやってまいりました。

 市立八幡小学校の校長のときに、私は校長室を子供に開放しました、いつでも校長室に入っておいで。校長室の入り口には大きなポストを置きまして、あのね、校長先生、それでやりましたら、一年間に八百通ほどの手紙が入っておるのです。中には、家庭の問題、担任教師の問題、友達関係の問題、たくさんの情報を与えてくれました。それで、気になることは、即座に私は対応していきました。

 さらに、八幡小学校の校長室にこういう額が下がっております。子供は親の心を演ずる名優なり、師もまた親に等しからずや。また、インドのカルカッタでオオカミに育てられた少女が発見されました。その少女を発見し教育したキング牧師が、最後にこう書いています。人間は人間の中でしか人間になれない。だから、子供にとっての最大の教育環境は教師自身である、このように職員に呼びかけて、子供のために我々が人間モデルにならなければいけない、こういうことをずっと述べてまいりました。

 さらに、大分県に、偉大な教育者であり啓蒙家である広瀬淡窓という偉人がおります。その淡窓は、こう言っております。君は川流をくめ、我は薪を拾わん。日田は、冬は非常に寒い。朝、咸宜園の寮を出てみると、霜が雪のように真っ白に降っておる。私は川の水をくんできて御飯の用意をしよう、君たちは薪を拾ってきてくれ。そこに、私の教育の方法を見出しました。これを師弟同行の教育といいます。子供は、親や教師の言うことは余り聞きません。しかし、親や教師のすることはきっとまねるものでございます。

 三十八年間の教員生活の中で、今振り返ってみますと、大きく変わった部分があります。不登校の増加、子供の虐待の問題、いじめ、今盛んに大きな問題になっております。または、学級崩壊。学校暴力、校内暴力は中学だったのですけれども、今は小学校の低学年におりてきております。さらに、社会現象として少子高齢化の急激な進展。これらのことを考えてみますときに、現状の教育基本法、現状の教育法で対処できるのかどうか、いろいろ考えてみます。

 いろいろな問題があるから教育基本法を変えろということには、私は反対であります。しかし、教育には不易と流行の部分があるのだ、変えてはいけない部分と変えていかなければいけない部分、この二つをしっかり立て分けて考えないといけないのじゃないか、こう思っております。

 不易の部分とは、六十年前に制定されたあの教育基本法の前文または教育の目的、これはどんなに時代が変わっても不易の部分じゃないか、こうとらえてきました。流行の部分としては、時代は大きく変わりました。六十年前の教育の目標、方法で本当に事足りるのか。それは、私はできないと。

 今、高橋さんからも話がありましたけれども、この不登校、子供の虐待、いじめ、すべてが家庭にやはり大きな原因がある、全部学校に問題があるのじゃない。こうなったときに、やはり教育基本法の中で理念として家庭教育というのはきちんと位置づけてほしい。

 こういうことから見たときに、家庭の教育、人間を形成する一番大事な幼児期の教育、また、校長時代にあった虐待の問題、体験をいたしました。何度も児童相談所を訪ねました。しかし、法の壁がどうしても立ちはだかって、そこの家庭に乗り込むことができない。校長みずから、何度も家に入りました。そういう問題を考えたときに、学校と家庭と地域、その相互の密接な連携というのはきちんと整備されておらなければいけない、このように感じました。

 さらに、小学校の低学年における学級崩壊。これは、幼児期の段階で甘やかし、子供が少ないということで、自由奔放に子供の言いなりになる、そこに、耐性がつかない、社会性が育たない、忍耐力がない、こういう面からも、幼児期の教育をやはり基本法できちんと位置づけるということは非常に大事だな、こう思います。

 最後に、私が思ったのは、非常に高齢化の波が進んできております。人生五十年の時代から人生八十年の時代、どうしても人間は生涯かけて学び続けなければいけない、この面から生涯学習に取り組んでいるということも、非常に私の安堵するところでございます。

 最後に、評価の問題です。

 学校に何か問題が起こると、社会も政治もすぐ、教員の責任、学校の責任、責任がないとは言えませんけれども、教員、学校を責めるだけでは問題解決ができない、このように思います。

 私は、この教育基本法が、教師や学校を縛るものであってはならない、管理することが目的であってはならない、どこまでも教師や学校をサポートし、子供の幸せに寄与する、そういうものであってほしいと心から念願をしております。

 結論をまとめますと、この時代に、変動する社会に合う法律をつくるということは非常に大事な部分ですけれども、どこまでも教育は国や地方公共団体が押しつけるものじゃない。教育、子供が一番触れ合う中核は学校でございますので、どこまでも学校の自主自律にまつべきであり、そのための予算、財政、そういう援助を十分にやっていくことが望ましいことではないか、こう思います。

 言葉が足りませんでしたけれども、私の意見にかえさせてもらいます。

 以上です。(拍手)

森山座長 ありがとうございました。

 次に、井手口良一君にお願いいたします。

井手口良一君 大分市議会議員の井手口良一と申します。

 このたび、意見陳述者として御指名をいただき、光栄に存じております。しかし、私は、意見を申し上げる前に、まず一点指摘をさせていただきます。

 報道などによれば、国会では、本日の地方公聴会終了後、明後日、十五日に中央公聴会を開催し、その翌日には採決しようとする動きがあるとのことです。もしそれが事実であるとしたら、委員の皆様は、国会の開催する公聴会についての位置づけ、あるいは意義についてどうお考えなのか、大いに疑問を持たざるを得ません。

 公聴会は、確かに重要法案などの審議の際に、利害関係者や学識経験者の単に意見を聞くための制度とされています。では、委員の皆様は、その意見を一体何のためにお聞きになるのでしょうか。国民の代表である国会議員の皆さんがわざわざ我々の意見をお聞きになるのは、それをよりよい法制度の起案と実施に資するためではありませんか。

 今回の地方公聴会は、全国六会場で開催され、二十名を超す陳述人が意見を具申していると聞いています。それぞれの会場での意見が出そろった段階で、意見を整理し、中央公聴会での論議を総合して、議員の皆さんが改めて議案を検討し、必要があれば修正案を作成するなどの作業をするのではありませんか。

 単に世論調査のようなものとして公聴会をとらえ、その儀式にも似たプロセスが終了すればすぐに採決に入るというのであれば、国会という議論の場そのもので、単に数の論理のみが横行し、国会の思考停止、ひいては法治国家としての日本国の崩壊そのものに進むのではないかという危惧を持つのは、私一人のみならず、多くの国民の最も恐れるところであると指摘をしておきます。

 では、意見を申し上げます。

 限られた時間ですので、詳細にわたってつぶさに申し述べることはかないません。基本法そのものの存在意義についてと、教育行政の担い手の責任や権限の分担についての二点、総論的なことを申し上げ、その後で各論として、義務教育についてと法案の条文に使われている言葉についての二点、意見を申し上げます。

 まず、基本法の性格そのものにかかわる問題点を指摘したいと思います。

 法律は、すべて朝令暮改を厳に戒める必要のあることは論をまちませんが、中でも基本法は特にその継続性を求められるものです。基本法は、金科玉条ではありますが、制定されたら最後、改正することは許されないなどと申し上げるつもりはありません。しかし、基本法の性格上、少なくとも頻繁に改正をするべき法律ではないはずです。

 さらに、教育は、その制度の得失の影響が社会に反映するようになるまで、高等教育でさえ十年、二十年はかかりますし、初等教育に至っては、その社会的結果があらわれるまでさらに何十年もかかるものです。したがって、教育基本法の改正は数十年先の日本の運命を左右するものであると言っても過言ではなく、不必要に、また拙速にその改正を求められるものではないはずです。

 一方で、国民のコンセンサスの醸成が十分とは言えない段階であっても性急に基本法改正を図る必要があるというのなら、その必要性について論議する視点も必要でしょう。しかしながら、現行の基本法のどの部分が時代にそぐわなくなっているのか、その条文が存在していることが教育の今日的な改革にどのような支障あるいは障害となっているのかが、これまでの審議プロセスの中で十分明らかになっているとは思えません。

 現在、教育界、特に教育現場とその周辺環境に、多くの、そして深刻な問題が存在していることを否定する国民はいないでしょう。私自身も、地方議会のメンバーの一人として、特に学校現場を取り巻く環境に大いに不満を持つものであり、そのことを常に市議会の場で取り上げてきました。

 しかし、現行基本法の何が不備であるために現在の教育を取り巻く社会問題が惹起しているのか、逐条的に考査しても、次に詳細を申し上げます一点を除いて、その因果関係を立証することが難しいというのが私の所感です。

 私は、教育に対する国民の期待度と信頼感を堅持し、基本法の持つ継続性を担保するためにも、現在の拙速な改正論議に反対せざるを得ません。

 次に、一点のみ現行法に不満がある部分について申し上げます。ただし、特に政府提出の改正案では、私のその不満が解消されるとは思えないということも申し上げておきます。

 それは、教育行政上の権限と責任の分担が明確化されていないという点です。

 例えば、現行の義務教育制度において、教育現場の運営責任は、学校長の権限を通じて基礎自治体の教育委員会にゆだねられることになっています。しかし、その肝心の学校長初め教職員の人事権は都道府県の教育委員会にあります。さらに、教育水準の国内的統一を担保するため、義務教育の内容や到達点についての規定は、国がその権限を有しています。

 この制度の成立の過程における必然性については、論議する時間がありません。しかし、結果として、例えば現在人口約四十七万人のこの大分市において、教育委員会には、大分市教育委員会独自の人事による部長級職員が二名、次長職は四名中三名ですが、課長職は、十五名中県からの派遣もしくは割愛で来ている職員が八名います。さらに、同じ管理職であるにもかかわらず、大分市教育委員会に人事権のない市立小中学校長は八十八名いますので、教育委員会全体として、管理職総数は百九名で、そのうち県の教育委員会に人事権のある職員が九十七名、実に八九%が県の人事によるものとなっています。職位が明確ではないため管理職かどうかの判断の難しい教頭職八十八名を入れますと、その割合は九四%となり、これでは市の教育委員会の独立性はないに等しいと言わざるを得ません。

 さらに、県と国の関係においても同様のことがうかがえます。政府が開催したタウンミーティングで、いわゆるやらせ発言があったことが報道されました。その国のやらせづくりに、地方自治体の教育委員会が協力していたという事実も報道されました。そこからは、国がある意思を持って地方の教育委員会に当たれば、その教育委員会はその意思に従わざるを得ないという構図がうかがえます。

 何か問題が起きたときに教育界の責任の所在が見えないということに国民は不満を募らせていますが、その原因が実は、教育行政の担い手の間で責任と権限の分担が明確化されておらず、事実上、地方が国の意向に従わなくてはならないということがあると私は考えています。現行法を改正するのであれば、この点を明記するべきと私は考えています。

 次に、各論として二点、まず義務教育についての所信を申し上げます。

 私は、現行法第四条に関する政府案、民主党案、両改正案に対して危惧を持っています。中でも、義務教育年限について問題提起しておきたいと思います。

 現行法では、義務教育の年限を九年と明記しているのに対して、両改正案には義務教育の年限についての記載がありません。確かに現在、五歳児を対象とした幼児教育や、中等教育である高校を義務教育化することが論議されています。一方、飛び級を導入して、進級や進学から年齢制限を除こうという論議もあります。基本法としてそのいずれにも対応できるようにするために年限表記を取り除いたのではないかと思われますが、私はこの点に大きな危惧を持ちます。

 何度も申し上げていますように、教育基本法はその継続性こそ最も重視されるべきです。義務教育年限をふやす方向性は、今日、既に五歳児就学率も高校進学率も非常に高いレベルにあることから、別に基本法改正を行わなくても、幾らでも法制度を整備できます。

 一方、飛び級による義務教育年限を減らす方向性は、その理由を詳しく述べる時間はありませんが、私は絶対に反対であり、もし導入されれば日本の教育制度そのものを崩壊させかねないと確信しています。

 最後に、政府案の第二条に使われている用語について申し上げます。

 この政府案第二条の内容について、私は素朴な疑問を持っていますが、特に五つある項目のすべてに態度という単語が使われていることについて申し上げます。

 広辞苑を引きますと、態度という言葉は、第一義に「身ぶり。ようす。なりふり。」とあり、第二義に「事に応ずる体のそなえ。からだのかまえ。身がまえ。」、第三義に「心」とあります。さらに、わざわざ英語のアティテュードという単語をアルファベット表記のまま記載しています。アルファベット表記をしているほかの単語なども勘案しますと、要するに、日本語の単語だけではその意味を規定できないほどあいまいで広範で、かつ、いまだに定着していない意味合いを持つ単語であるということです。

 法律の文章というのは、だれが読んでもその言わんとするところを正確に理解できる文章である必要があり、したがって、使われる言葉、単語はその意味するところが詳細にわたって確定していることが必要ではないでしょうか。その点において、中でも特に重要な条文に、五回も態度という読む者によって意味を違って理解する可能性のある言葉を使用していることに強い不信感を覚えます。

 以上で、私の陳述を終わります。(拍手)

森山座長 ありがとうございました。

 以上で意見陳述者からの御意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

森山座長 これより委員からの質疑を行います。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。稲葉大和君。

稲葉委員 こんにちは。急なお願いにもかかわらず、三人の意見陳述者の方には御都合をつけていただき、本日のこの席にお出ましいただいたことにまずもって厚く御礼を申し上げます。ありがとうございます。

 さらに、三人からの御意見は、私自身のことに置きかえて言うならば、大変勉強させられることばかりでありまして、改めて私から、皆さんの御意見に対しまして、その中身についてさらに深く御意見を承るということは何かはばかられるような感じもしないではありません。

 きょうで五回目、六回目ということになりますが、各地でそれぞれ大変貴重な御意見を拝聴し、私たちはこの基本法改正の委員会の参考にさせていただく、こういう気持ちであります。

 まず、具体的にお話を伺う前に、井手口さんには大変申しわけない言い方になりますが、決して私たちは、先のスケジュールを決定して、それに向かって逆算したきょうの地方公聴会の開催に臨んでいるつもりは全くありません。ですから、これからの五分、十分の間ですが、さらに、私たちにとってどのように今後の委員会を進めていったらよろしいのか、そのことをぜひお聞かせいただきたいと思います。

 なお、十五分の持ち時間を自民党としては与えられていますが、私と井脇さんとで十五分間の持ち時間ということで、最初の方は私がお話を承り、その持ち時間の中で井脇委員がお話を承ることを御了解いただきたいと思います。

 まず、高橋さんからのお話だったと思います。今までの各地の公聴会の中でも、結局、子供を育てる最終的な責任といいますか、それは、法文上は国または地方公共団体あるいは教育委員会というような規定の仕方がされています。しかし、それはあくまでも法文上の責任ということであり、また、先ほどのお三人の話の中にもありました最初の幼児教育、子供が生まれて、そして母親の手の中に抱かれて育っていく最初の幼児教育というものが、三つ子の魂百までもじゃありませんが、その子供の将来性をかなり動機づけるものだ、こう私も思っています。

 ですからこそ、私たちは、父親も母親も、幼児に接触する時間がたくさんとれるように、いろいろな勤労の条件の改善、あるいは社会の受けとめ方を改善する、こういうところに必要性を見出しております。

 井手口さんの中にもございましたように、教育基本法がどういう性格のものか、私は理念的な法律だということを承ったときに、では、実際にこの法律を源として発してくる学校教育法なり、あるいは学習指導要領なり、そういうところに手を加えることによって、これからの教育、子供の育て方というものを改めることができないものだろうか、こういうふうに、井手口さんとも同じような疑問を持っている者の一人でもあります。

 しかし、六十年の間、こうやって手をつけられないというか、議論されてきたわけでありますけれども、私の感じ方としては、ここに来てなぜ急にこの基本法の改正が議論されなければならないのか、このあたりを自分も子供を育てた父親として振り返ってみますと、やはり私は親の背中を見てまいりましたし、私自身も、学校の、特に小学校の先生の子供に対する分け隔てない応対の仕方、これを見まして、本当に学校の先生の愛情というのはこういうものなのかな、こんなところから、今まさに清原先生の愛情に満ちあふれた教育というか子育ての姿勢を拝聴して、本当に胸が熱くなる思いがしますし、ぜひ学校の先生は清原先生のようにあってほしいな、こんなふうに思うわけであります。

 こんなところから、本当に、では子供の育て方というのはどうしたらいいのか、自分自身も自問自答しながらこの委員会に臨んでいるのですが、やはり、最終的には条文だけでなくて、学校、家庭、そして社会、こういう三者が一体となって本当に我々の大事な宝物である子供を育てるのが本来の、教育というよりも育てというふうに感じているんですが、大変抽象的な質問で、あるいはもう御意見の中に述べられていることの繰り返しになるかもしれませんが、本当に短い時間の中でありますが、高橋先生から、三人それぞれお話を承れないものでしょうか。

高橋正夫君 今の御質問に対してお答えします。

 私、先ほど意見陳述をさせていただきましたけれども、以前は、こういった教育基本法の中に織り込まれなくても、家庭教育に対してみんな真剣に取り組んでまいりました。今回、特に法律として、教育基本法の中に家庭教育だとか幼児教育、こういったものがしっかり位置づけられてくれば、これによりまして今まで以上の大きなバックボーンができます。そうしますと、地域の方にお願いするにしても、教育基本法でもこういうふうに言っているじゃないか、だから、ぜひこれから一歩先に、また新しい支援の仕方、協力の仕方、そういったことができるということで非常に心強く感じております。

清原今朝勝君 私も、学校をやめてから、今地域に、特にセミナーという形でお邪魔させてもらっております。そのお母さんたちに話すことは、家庭における子育てということについて、年間かなりの量県内を回っておるわけですけれども、どこまでも我が子を信じ抜く、その姿勢が一番大事なんだ。自分の子供は、自分の親が信じなければ、最終的にはだれも信じてくれない、こういう論理の中で、私は、この教育基本法に家庭教育というのが位置づけられたことに、一つは安堵の思いをしているわけでございます。

 以上です。

井手口良一君 教育という言葉に少し言葉遊びをさせていただくならば、教育と一くくりでくくってはおりますけれども、教えはぐくむという中には、社会制度とともに制度として行っていくものと、それぞれ個人が自分たちの生活の中で一つの覚悟として持たざるを得ないものと、その二つに分けることができようかと思います。

 そして、さらにそのことに着目すれば、教育の担い手がだれになるのか。もちろん、学校教育は当然あります。義務教育があればそれに対して行政がかかわっていくでしょうけれども、社会はどうなのか、親としての個人はどうなのか。そういったことを一つ一つ明確に、教育の担い手というものを分担していく必要があろうかと思います。

稲葉委員 ありがとうございます。

 まだ聞きたいことはあるんですけれども、井脇君が待っていますので、井脇君に譲ります。

森山座長 次に、井脇ノブ子君。

井脇委員 こんにちは。私は大分県の出身でございます。自由民主党の井脇ノブ子でございます。

 五分間ですから、素早くやらないと時間がありません。陳述人の先生方には、大変お忙しい中、教育基本法の改正に対しましてさまざまな側面から、本日は大変ありがとうございました。すごく感動いたしました。

 高橋陳述人に御質問させていただきます。

 私は、教育の荒廃が叫ばれる中にあって、教育のあるべき根本に立ち返り、一人一人を大切に、個性を重んじ、真心のある立派な人間を育成するために、三十六年間、五万人の子供の教育に、小中学生、高校生の教育に携わってきました。

 その中で、人間目標として、一つ、国の恩、一つ、親の恩、一つ、衆生の恩、一、誇りを持て、二、奉仕の心を持て、三、感謝の心を持て、四、協力の精神を持て、五、責任感を持て、六、勇気を持て、七、礼儀正しくあれ、八、思いやりの心を持て、九、根性を養え、十、積極的であれ、長いのですけれども、子供にそのことをずっと覚えさせて実践させるような教育に五万人を、三十六年間という時間頑張ってきたわけであります。

 その中で、今、非常に残念なことに、子供はますます自分のことしか考えなくなっていること、街角では、所構わず座り込んで食べ散らかしたり、携帯で大声出したりして、大人に注意されると、あなたに何の関係があるのかとか、迷惑をかけていないとか、どこが悪いとか、逆切れする子供たちもたくさんおります。こうした子供たちを見ると、自由や権利を履き違えているのではないかというような気がしてなりません。

 個人は、尊重されなければなりません。個人の自由や権利は、保障されなければなりません。しかし、お互いに自由や権利を主張し合うだけでは、自由や権利を実現することはできないのであります。権利には義務が伴うし、自由には責任が伴います。そういった人間の基本がどうも軽視されているような気がしてなりません。そういう視点で今の教育基本法を見ると、教育において個の確立を育てていくということで理念が十分に書かれているんですが、教育において公の精神、公の存在を育てていくという視点が明確でないのであります。

 そういう意味で、今度の政府提出の教育基本法案に盛り込まれている道徳心、自律の精神、そしてまた、公共の精神は、今後の教育において特に重視すべき重要な理念と私は考えております。

 高橋陳述人の御意見をお伺いしたいと思います。

高橋正夫君 今、先生御指摘の公共の精神、その辺にかかわることだと思いますけれども、私も、今、高校生の姿を見て、いろいろな街角に立っています。でも、今の高校生、みんながみんなすれているわけでもなくて、きちっと話をすればしっかり話を聞いてくれます。

 ただし、それに対して注意をする人がいなくなった。まず、家の中で親が、いろいろな家庭環境もあるんでしょうけれども、少子化の関係で、子供に対して直接話をしなければいけなくなった。以前は、相当数の子供がいたので、子供同士の社会がありました。今は、その子供同士の社会がなくなって、子供と親との社会になってしまって、親が非常に子供にはれものにさわるような世界になってきた。

 私どもPTAをやっていまして感じるのは、やはり倫理観、責任感、自分で権利を言うのであれば必ず義務を果たしなさい、そして、世の中にはルールがあります、当然学校の中にもルールがあります、だから、そういったルールを守って、その中ですばらしい高校生活を送りなさいという話をしております。

 その公共の精神という中で、個人の尊重とか、そういったものがやはり根底にあっての話になると思いますけれども、従来、何となくそこまで口を出さなくてよかった公共の場での態度、そういったモラルというものに関して、いま一度やはりすべきだろう。

 先ほど、冒頭に陳述させてもらいましたけれども、今はそのモラルを教える親社会がおかしくなっている。その親社会のモラルをまずきちっと、地域の方の力をかりてでも一緒に直していきましょう、そしてやはり親も直して、親も子供にしっかり指導ができるようなモラル観を持つ。今回のこの教育基本法の改正に伴いまして、子供だけでなく、やはり地域社会もすべて一緒になって世の中を変えていこうという趣旨を私は酌み取っております。

井脇委員 ありがとうございました。

 たくさん考えてきたんですけれども、一問だけで済みません。

森山座長 次に、中井洽君。

中井委員 民主党の中井洽でございます。

 お忙しいところ、三人の陳述者の皆さん、貴重な御意見をいただきましてありがとうございました。

 井手口さんのおしかりごもっともでありますが、もともとこの地方公聴会、余り与党側はやりたくない、早く採決しようということであったのでありますが、私どもは、教育というものは地方、地方が現場をお持ちだ、したがって、各地方で御意見を承った上での議論をすべきである、こういう激しいやりとりの中で、ようやくこれは六カ所、本当は十一ブロックやっていきたいと思っておるのでありますが、そういう中での急な決定ということで、御理解もいただけたらと思います。

 最初に、清原さんにお尋ねをいたします。

 幾つか端的にお尋ねをしたいと思います。

 基本法の改正ということ、私どもは、新しい法律をつくるということで、日本国教育基本法というものをつくって提案いたしておりますが、清原さんのお考えを承りました。一条に、現行基本法は、人格の完成ということをうたっております。私どもは、このことについてかなり党内で議論をいたしました。本当にその小中学校で人格の完成ということができるのか、余りにも高邁過ぎるんじゃないか、そういう意味で、民主党の案は、人格の向上発展という形を提言いたしております。このことについて、どのようにお考えになるかということが一つであります。

 それから、民主党案でいいますと十三条、自民党・政府案でいいますと四条の二項になると思いますが、障害者の教育ということについて、私どもは「特別な状況に応じた教育」ということで項を起こしてお訴えをいたしております。先生は、初めの教員生活を盲学校でスタートされて、弱視の方々を普通学級で教育するということをされた御経験の御披露がございました。私どものこの十三条では、いろいろな案が出たのでありますが、私自身が発言をいたしまして、「共に学ぶ機会の確保に配慮されつつ自立や社会参加が促進され、」こういう文言をうたっております。これについてどのようにお考えになるかということ。

 それから、先生は最後に、押しつけ教育反対、こういうことを言われました。特に国や地方公共団体が教育現場を管理するというのはだめだ、こういう形で教育基本法の改正に触れられました。

 私ども民主党の案でいきますと、十八条になります。この十八条が今回の民主党の改正案と政府案の最大の違う点でございまして、教育委員会の廃止をうたっております。学校現場では、学校理事会というものを設置して、地域住民や保護者や教育専門家や学校関係者で学校運営をやっていただく、そして地方自治体の長が教育委員会にかわって直接責任をとる、そしてこの背景の大きな責任としては国だ、こういうスタイルで教育委員会の廃止ということをうたっております。これについてどのようにお考えになるか。

 以上、三つの点でお答えをいただければと思います。

清原今朝勝君 大変難しい問題で、お答えになるかどうかわかりませんが、私は、人格の完成は子供も大人も同じだと思っております。子供は大人のまず前段階だととらえる考え方に、一つは大きな疑問に思います。どんなちっちゃな子供でもきちっとした人格があるわけで、大人がそれを本気に認めていけるかどうか、この一点だと思います。

 次に、障害児教育の件ですね。

 確かに、今、中井先生のおっしゃるとおり、障害児だけを隔離してやるということに対しては、私は若いときからずっと反対でした。だから普通学級にいたしました。しかし、やはり条件整備をしないと、理論だけではいけない苦しみも非常に味わいました。だれも理解してくれません。むしろ足手まといに思われる、三十数年前ですけれども、こういう思いをしたことを今思い出します。

 だから、いいことは、そういう条件整備が急務だ、こういう思いがいたします。障害児が来れば、そこには看護師とかそういう整備もしてあげないと、共通の中で見ることは、やはり担当者が非常に大きな努力が要るということです。

 それから、教育委員会の廃止については、私は別段答える知恵も知識もありませんので、お断り申し上げます。申しわけありません。

中井委員 もう一つ、お尋ねをいたします。

 生涯教育のことをおっしゃいました。政府案も私どもの案も、ほぼ似たような形で書かれております。しかし、社会教育のところで、先生は、公民館等いろいろなものを使って社会教育で子供を育てるべきだ、こういうことを言われました。私どもも政府案も、社会教育ということに関しては同じような案でございます。

 高橋先生のお話を聞いていると、私どもの案も政府案も、この公民館と細かく書いてあるところは生涯教育よりも社会教育のところへ書き込んで、もっと行政がバックアップするということを具体的にやった方がいいんじゃないか、こういうふうに思いますが、先生、案をごらんになっているかどうかわかりませんが、御感想をお願いいたします。

高橋正夫君 私も、ばたばた読ませていただいて、すべてのことを読んでいるわけではないんですけれども、生涯学習という本来学校教育も含めた大きなところで扱うものが社会教育と同じところにおさめられているというところが何か少し短縮されたのかなと。私どもは、やはり公民館との関係、私、一番初めにこう申したわけですけれども、社会教育の中でいろいろな幅広い活動は絶対に必要だと。

 これは、教育委員会の廃止にもちょっとひっかかってくるんですけれども、私はどちらかといったらまだ全面的に教育委員会廃止論には賛成はしていないんです。今までの教育委員会のあり方、やはり、県の中心にあって、社会教育にはすべて教育委員会が何らかの関係でずっとかかわってきていただいた、そういった意味では、今回の中身、ちょっと私も完全に掌握していませんけれども、生涯学習、社会教育、その辺のところが何かいまいちはっきりしないかなという感じがしております。

中井委員 ありがとうございます。

 井手口さんにお尋ねをいたします。

 御自分の市議会での御経験を通じて、具体的な数字を挙げて、教育委員会、市と県、学校、文部省の責任、こういったことについてお触れになりました。

 私どもも、現行教育諸制度の最大の欠陥は、どこに責任があるかわからない体制にある、こう考えております。そういう意味で、教育委員会を思い切って改廃する、そして選挙で選ばれた首長さんが義務教育のことについて責任を負う、首長さんの権限が余り強いのはだめですから、少し監査委員的なものもつくる、学校は学校で民主的な理事会運営をやっていただく、こういう大改廃を今回の法律でうたっております。このことについて、率直な御意見をお尋ねいたします。

井手口良一君 以前、京都に視察に行ったことがあります。この教育委員会をなくすという話の中にも京都が実例として出てくると思いますけれども、京都に行きまして思ったことは、京都が特別な町であるなということを思いました。

 いわゆる明治維新の学校教育令が出る以前に、京都では、番組小学校というものをつくりまして、自主的に学校を運営していく、そういう風土がありました。だからこそ、その地域の中で学校をはぐくんでいくという本当の意味での覚悟のようなものが町全体にみなぎっているような気がいたします。

 そういうレベルの地方都市と、それ以外の、今までずっと明治時代から中央集権的に教育を施行してきた、そういう町と同列に並べて一挙にやれるかどうかというのは、私はまだ少し疑問が残っております。

 京都とこの大分市とを比べて、いろいろな意味で恥ずかしい面もありますが、また一方で、京都にはない田舎のよさもやはり大分にはありますので、そういったところで、地域性を持たせて、哲学的に育っている地方自治体に関してはそういう単純化した教育制度、まだ田舎でそういうところまで育ち上がっていないところに関しては少しずつ少しずつそういう権限を地域におろしていくというような漸進性の方がむしろ正しいのではないかというような気がします。

中井委員 私どもは、選挙で選ばれた首長がそれぞれの地域独特の、また、選挙で選ばれた首長が選挙の公約で言ったような教育、こういったことを実行するやりやすい形を考えればいい、しかし、大きくレベルやら統一やらということに関しては国が責任を持つ、お金も国だ、こういうシステムであるということを御理解いただきたいと同時に、あなたが陳述でお述べいただきました、県と市の教育委員会の人数の点等、非常に参考になりました。また、お話にありました京都の教育委員会の委員長さんにも、実は参考人で国会でしゃべっていただきました。もちろん教育委員会廃止反対でございましたが、大変おもしろい、有意義な論議をさせていただきました。

 もう一つ、井手口さんにお尋ねをいたします。

 私どもの法案でいえば七条、それから政府の法案でいえば五条、御指摘のように、両案とも義務教育の年数を書き入れてありません。これについて、現行の九年でいくかどうするか、私どもの党も激しい論議がございました。義務教育を六歳から始めるべきだ、小中一貫だ、いや、高等学校まで義務教育にして中高一貫教育だ、いろいろありまして、この法律が通ったとして、その後、法令で定めていこうということになって、現行のような書き方にいたしました。

 あなた自身は、義務教育、年数的にどうあるべきか、現行の九年でいいとお考えでしょうか、お尋ねをいたします。

井手口良一君 これはあくまで私の個人的な考え方ですけれども、基本法に明記するところは九年でいいと思います。

 幼児教育に関しては、非常に重要な問題でもありますし、もう既に幼保の一元化ということが国会でも論議されておりまして、実現化の方向に向かっております。したがって、もういわゆる義務教育という言葉を使わなくても、実質的に一〇〇%に近い就学率が得られるのではないかと思います。

 一番私が心配しているのは、飛び級によって、極端な言い方をしますと、天才があらわれたら、その人間は六歳で大学に入れるのか、大学院に入れるのかというようなことをもし極端な例として考えたときに、一番最初の教育の目的であるところの人格の完成があり、あるいは発展があり、そういったところには決して結びつかないような気がいたします。

 したがって、この論議に関しては、私は、九年がいいか悪いかというより前に、九年よりも短くする方向、つまり、飛び級ということが導入されることに対して大きな危惧を持っております。

中井委員 私ども、党内でいろいろな議論がありまして、義務教育が九年より短くなるという議論はなかった、このことはこの場で申し上げておきたい、このように思います。

 もう一つ、井手口さんにお尋ねをいたします。

 ブラジルに長くいらっしゃったというお話でございます。私は三重県であります。私の住んでおります町は、人口十万足らずの小さな町でありますが、先ほど不易流行というお話がございましたが、実は松尾芭蕉の生誕の地でございます。そういう山国でありますが、六千人ぐらい外国人が来て働いておられまして、大半がブラジル人でございます。知事や首長には、学校をつくれ、あるいは子供さんをきちっと学校へ入れて日本語を覚えてもらえ、こう言っておるんですが、なかなかうまくいっておりません。

 国際化時代、日本にも今百六十万人ぐらい外国人がお住まいでいらっしゃいます。そういった意味で、私どもの法令の二条、三条に「何人も、」という言葉を使っています。この「何人も、」ということは、日本人だけではなしに、日本に住んでいる人すべてという意味でございます。そして、その下の条項においては、「すべての国民」という言葉も使っております。義務を課せるときには、これはその国民でありますから課せる、しかし、教育を受ける権利というのはすべての、「何人も、」ということで、外国から来られた人たちも教育を受けられる権利を持つんだ、こういうことをうたっているわけでございます。自民党の案では、「すべて国民は、」という形で書かれている。この点をどういうふうに御評価なさるか、お尋ねをいたします。

井手口良一君 私も、その件に関しましては、民主党の考え方に近いと思います。

 ただ、いわゆる権利を保障するために教育の機会を与えるというよりは、外国人がある国で暮らそうとするときに、その国の公用語、共通語をしゃべれないということは、社会に対する適応能力を著しく低下させます。それが、いずれは大きな社会問題をつくろうかと思います。

 三重県のお話をされましたけれども、ほかの県では既に、在住ブラジル人がどの学校にも通っていないまま、日本語もまともに覚えていない、ポルトガル語もまともにしゃべれないというような状況の子供たちがたくさん出てきていることがいずれ社会問題化しようかと思います。

 そういったことを考えても、一つの国の中で暮らす以上、その国の言葉を覚える、その国の習慣を覚えるという意味で、教育の機会を与えることは大切なことだと思います。

中井委員 ありがとうございました。

 清原先生に、もう一つ最後にお尋ねをいたします。

 いじめ、虐待、こういうお話がございました。いじめによる子供さんの自殺、あるいは学校長の自殺まで昨今は痛ましいことが引き起こされておりまして、私どもも胸の痛む思いで論議をいたしているわけでございます。

 いろいろな原因や解決の方法があろうかと思いますが、清原先生御自身の体験から、どういうことが一番の原因だ、またどうすれば解決していくんだ、こういったことについて何か御提言がございましたら、お聞かせください。

清原今朝勝君 いじめ問題は大変難しいんですね。私が現職のときもたくさんあったろうと思いますけれども、難しい。ただ、一つの哲学を教師が持たなければいけない。それは、どんな問題があろうとも、原因があろうとも、いじめる方が一〇〇%悪い、この一本でくくっていけば、私はやはり学校そのものがいじめを見逃すことはなくなる、このように思います。

中井委員 ありがとうございました。

森山座長 次に、斉藤鉄夫君。

斉藤(鉄)委員 公明党の斉藤鉄夫でございます。

 きょうは、三人の意見陳述の方、本当にありがとうございました。

 早速質問をさせていただきます。まず、清原先生に三つお聞きしたいと思います。

 御意見の中で、社会のための教育ではなく、教育のための社会、そういう社会をつくらなくてはいけない、大変含蓄のあるお言葉かと思いますけれども、その意味するところ、清原先生がお考えになっているところをいま少し深く具体的にお話しいただければと思います。これが第一点です。

 二点目は、日本の武道教育で世界を歩かれている、このようにお聞きしております。世界のいろいろな国の子供たち、また大人たちも含めてを見て、日本の教育、どこがすぐれていて、また何が欠けているか、そして、今回の教育基本法にこういうところが入っている、こういうところがまだ欠けている、こういうお話をお伺いできればというのが二点目でございます。

 もう一点、三点目は、僻地教育をしてこられたと。私も実は、島根県と広島県の県境のまさに僻地で生まれ育ちました。私、日本の戦後教育、そんなに捨てたものでもないなと思っておりますのは、私自身、僻地に育って、東京に出て勉強できて、すべて奨学金でしたけれども、そういう意味で戦後の日本の教育に対して非常に感謝をしていて、そんなに捨てたものではないという思いがあるんですけれども、しかし、今、今後の人口格差、人口減少社会ということが大変言われておりますけれども、今後の僻地教育のあり方についてお伺いできればと思います。

清原今朝勝君 社会のための教育から教育のための社会ということは、戦後日本が、本当にもう戦後じゃない、先進国に追いつけ追い越せという明治以来の富国強兵、さらに、日本が非常に産業が発展して国が豊かになった背景には、教育の目的がそういう社会をつくる人間にマッチする、そういう人間を要求してきたことが問題じゃないか。あくまでも、教育は手段じゃない、教育そのものが目的であるということから考えれば、その目的を達するために、教育のために社会が何をしなければいけないか、こういう論点に変えた方がいいんじゃないか、私はこういう思いで、学校は子供が主人公なんだ、あくまでも組織や先生方はその子供の主人公を守る立場にあるんだということになるわけでございます。

 第二点目は、今、退職しまして比較的時間がありますので、私は、大学時代から始めた空手道を通して、国際交流のためにいろいろな国に空手の指導に参っております。そのときに感じることは、外国の人たちは、日本の武道文化に対して非常に誇りを持っている、そして礼と節が物すごく徹底されているということに驚きました。

 そこで、日本で何が欠けているか。大それたことは言えませんけれども、やはり我が住んでいる郷土、自分が生まれた郷土、自分が住んでいる国、これを好きになれないようなことではいけない。あくまでもやはり、自分がよって立つ郷土であり国は大事にしていかなきゃいけないなということを外国に行ってみて感じました。

 三番目、僻地教育についてですけれども、井脇さんのふるさとである、ごく隣の分校に私は五年間行っていたわけですけれども、私が帰ってしばらくたってなくなりました。本当に私は、そこで教育の真髄を学べたような気がします。

 私は漁にも出ました。いろいろな人の漁のお手伝いをさせてもらいました。また、子供と一緒に、高学年を連れて漁の体験もいっぱいさせてもらいました。教え子が、漁師になっておる子もいるし、私と同じように教員になりたいと言ってあの分校から大分の高校に来て大学に行って、今、ある高校の教員になっている子供もおります。そこでは本当に人間教育ができた、こういうように自負していますが、悲しいかな、過疎化の波はその分校にも押し寄せて、子供がほとんどいなくなりまして、若い人たちが住みつかない、そういう現状で、寂しく思っております。

 以上です。

斉藤(鉄)委員 ありがとうございました。

 高橋先生にお伺いいたします。

 二点お伺いいたしたいと思いますが、一つは、学校、地域、家庭の連携、これが本当に大切だ、それを実践する一つの方法を考えられて、大分発地域協育ネットワークですか、これを提案されたということでございますが、そのエッセンスを端的に教えていただければと思います。どうすればこの三者が協力できるのかということが、第一点でございます。

 それから第二点目ですけれども、教育格差の問題です。

 今、格差社会ということが言われておりますが、その根本に教育の格差がある。私は今広島に住んでおりますけれども、その教育格差の一つの原因に公立と私立の差があろうかと思います。今や、広島の市内は、中高一貫の私立中学校にうちの子をどうやって入れさせるかという物すごい受験熱でございます。公立と私立中学校の間に差がある、そして高校にも差が出てくるということで、公立教育をどう立て直していくかということが、我々今後取り組んでいかなくてはいけない大きな課題だと思いますが、その点について御意見があればお伺いをさせていただきたいと思います。

高橋正夫君 大分県発のお話ですけれども、学校、家庭、地域がいかにして一体になっていくかということで、私どもも今まで長年試行錯誤してまいりまして、やはり、ただ口だけで言ってもだめだろう、実質的にいろいろな活動をしていこう、そのためには、地域には地域の力があって、家庭には家庭の力があるんですけれども、それをコーディネートしていく人が多分いなかったんだろうということで、できましたら社会教育の立場で、いろいろな公民館に公民館主事の先生がいらっしゃいますけれども、そういった先生方が地域でコーディネーターとして、家庭の方、地域の方、また教育行政の間に立ってうまくコミュニケーションをとれるようなシステムをつくっていったら、今まで点、点、点であったそういった機関が一本のひもでつながって、実際機能していくのではないかということで、実はきょう、これは教育長に答申を出したばかりでございますので、もし何でしたら、大分県の方に聞いていただけましたら、教育庁の方からこの資料を発送できると思います。

 それと、第二点でございますけれども、格差の問題、これは今回、いろいろな未履修の問題、多分その辺も含めてのお話だろうと思います。

 やはり、公立と私立が全く違う官庁で管轄されているというところに、大きな問題があるんだろうなというふうに感じております。

 今回、大きな事件になりましたけれども、出るべくして出た、こういった問題かなと。どうせ直すのであれば、もう一度基本的に、根本から、当然国会の方でも検討していただきたい。特に今回の問題に関しましては、私どもが文部科学大臣にお願いしたのは、真ん中にいる子供たちを真ん中に考えていただきたい。子供たちが、自分たちが故意で何かをしたわけじゃない、その中で、大人社会でどこかボタンのかけ違いがあってルールを間違えたのであれば、目の前に迫っているセンター試験、そういったものを控えた子供たちにできるだけ影響のないような、プレッシャーをかけないような対応を大人社会で対応していただきたいということをお願いしました。

 やはりそこには、今先生御指摘の大きな格差社会、私立での授業時間、学校週五日制といいながら、私立では学校週五日制、実際やっていないという学校が当然まかり通っている。同じ国の中で私学と公立がここまで実態が違っていいのだろうか。その辺に関しては私どもも憤りを感じておりますし、そういったものを、今後いろいろな場がありましたら提言させていただいて、せっかくこういった教育基本法がしっかりスタートするわけですから、そこの検討課題の中で、今後そういった格差をいかにしてなくしていくかということに、ぜひ私ども、保護者の意見とかそういったものも聞いていただける、そういった機会を持っていただけるとありがたいかなというふうに考えております。

斉藤(鉄)委員 ありがとうございました。

 では、井手口先生にお伺いさせていただきます。

 問題提起されました教育委員会の問題です。今回、政府案と民主党案で最も大きく異なるのがこの地方行政にかかわるところでございます。

 私ども政府案の立場に立つ者は、今の教育委員会がすべていいとは思っておりません、大きな問題点が現実にはある。しかし、これは、教育委員会制度を本来あるべき姿に戻すということが本来の姿であって、なくすというのは、一つは政治的な中立性、私は教育にとって大切なことだと思います、その政治的な中立性でありますとか、それから継続性、一貫性ということから考えれば、基本的な枠組みは、本来の姿は、教育委員会という、国からもまた地方自治体からも独立したものがあるべきだろう。それが、なかなかそういうあるべき姿になっていないからいけないのであって、あるべき姿に戻すべきなのではないかと私自身は考えておりますが、この点について御意見を賜れれば、このように思います。

 二点目の質問は、態度という言葉について御指摘がございました。

 政府案ですが、第二条「教育の目標」、第五号に、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を」愛し、「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する」。ここで言う「我が国」「郷土」、これは偏狭なナショナリズムではなくて、郷土愛、まさにナショナリズムではなくてパトリオティズム、カントリーというふうな意味合いを醸し出し、かつ他国を尊重し世界の平和と発展に寄与する、これを受けて、それを両方を受ける言葉としては、心ではなくやはり態度という言葉しかない。このような形で態度、態度は心と形があらわれたもの、このように私は考えているんですが、この点についてどのようにお考えか、お伺いいたします。

井手口良一君 二つ目の問題が非常に大きいので、最初の教育委員会のことにつきましては少しはしょらせていただきますけれども、基本的な考え方は、私は斉藤委員と変わりないと思います。一番大切なことは、教育の中立性だと思います。そのことが担保される制度であれば、現行制度であれ改正された制度であれ、やっていけることだと思います。

 先ほど申し上げましたように、京都という特別な風土の中である程度完成された住民自治の意識というものが前提にあれば、教育委員会がなくてもやれるかもしれない。だけれども、一方で、教育委員会自身が、当初の目的のように、委員さんたちが地域から選ばれ、その委員さんたちがきちっとした権限を担保できるのであれば、教育委員会そのものが有効な機関になろうかと思います。

 二つ目の問題ですが、態度という言葉に関しましては、態度というのはどうしても外にあらわれる姿のみをあらわします。それに心というものが必ず背景としてあることはもちろんですけれども、姿として見える部分が態度ということになります。

 その姿として見える部分のみが評価をされるということについての問題点があろうかと思いますが、それよりももっと前に、もっと大切な部分で私が申し上げたいのは、国を愛する、郷土を愛する、あるいは人を愛する、人をあやめてはいけない、こういったことを一々教育でやらなければいけないんでしょうか。教育でやらなければ、我々はこの国を愛せないんでしょうか。

 日本という国、私は二十一年海外におりました。そして、結果として子供たちを日本人として育てようと思って帰ってまいりました。そして、帰ってきたときに、余りにもふるさとの山や川が汚れ、壊されていることに仰天いたしまして、そして市会議員の道を選びました。それでも、なおかつ、私は、この大分、自分が生まれ育った土地が大好きですし、愛しております。それは、だれからも愛せよと教えられたものではありません。我々は、日本人であれば、日本に生まれ育ったのであれば、この国に根差しています。それは教育で裏づけるものでは決してないという思いが一番根底にあります。

斉藤(鉄)委員 どうもありがとうございました。

森山座長 次に、保坂展人君。

保坂(展)委員 社民党の保坂展人です。

 社民党は、教育基本法を政府提案のように変えることには強く反対をしています。まして、ここ数日、報道を聞くたびに胸が痛むんですが、いじめ自殺の予告がありました。そして、子供たちが現に亡くなっています。そして、子供たちを指導する教員をバックアップするはずの校長先生もがまた亡くなる。あるいは、未履修の問題でも責任を感じて亡くなる。まさに教育の異常事態ここにきわまっているという中で、拙速な採決など絶対するべきではない、公聴会をもっとしっかり各地で開いて、また国会の中での議論も徹底するべきだと思います。

 そもそも、この間問題になってきたものの中で、教育改革をテーマにした、場合によっては教育基本法改正をテーマにしたタウンミーティングがございました。ここで国民の声として出されるはずの意見が、実際には、政府のあるいは文科省の手でつくられて、依頼をされて、それを国民の声であるかのように、棒読みをしないで発言するようにといったやりとりが明かされて、唖然としているわけです。

 うそをつくなとか、隠し事をするなとか、正直にやれとか、あるいは人をだますなという教育基本法以前の問題について、まずは、これは文部科学省あるいは官邸、規範意識という言葉を語る資格が本当にあるんだろうかというふうに思います。

 三人の陳述人の方に、御当地、この大分・別府でも二年前にミーティングが開かれ、これは義務教育をテーマにしたミーティングでしたけれども、やはり教育基本法改正についての論点が、いわば事前の文書の中に、参加者が数行書く意見の中になかったということで、これが提示をされて、県の教育委員会の職員が手を挙げて依頼された発言をしてしまった、こういうことが教育委員会自身の手によって明らかにされましたが、これについてどうお感じになったのか、三人の方に端的にお答えいただきたいと思います。

高橋正夫君 その話を聞いたのは、ちょうど二、三日前、私は大分にいなくて、新聞報道も気がつかなかった状況なんですけれども、非常にふがいないな、情けないなという感じがしました。

 やはり議論は堂々と闘わせるべきですし、いろいろな意見があれば、意見は真摯に受けとめて、そこから先はどういうふうにやっていくかということを考えればいいので、それが大分県の別府であったということに関しては非常に残念に思っておりますし、今後二度とこういうことがあってはいけないというふうに考えております。

 以上です。

清原今朝勝君 私もその話を聞いて、非常におかしい、こういうことは感じました。高橋さんと同じように、こういう問題はやはり二度と起こしてはいけない。特に、国民から見れば指導的立場にある、そういう人がこういうことをやるということはやはり大きな不信感を買うということを思いました。

 以上です。

井手口良一君 ちょっと私は違うんですが、およそ会場からアトランダムに話を聞く会を開こうというとき、主催者は大抵の場合、会場に、サクラとは言いませんが、何人かに事前に、こういう発言をしてくれないか、あるいは、この場でこういうときにだれも手を挙げなかったら、あなた、手を挙げてくれぬか、そういった配慮をするのはそう珍しいことではないような気がいたします。

 ただ、これを今回やったのが、余りにもその方法が稚拙であり、教育の世界でいうと最高の責任があるはずの文部官僚が主導して、その稚拙なやり方で会場のオピニオンリーディングをしようとしたことが、やはり余りにもレベルが低過ぎやしないか、官僚のレベルがこんなにも下がってしまったのかという情けない思いでおります。

保坂(展)委員 それでは次に、高橋さんに伺いますが、PTA連合会の会長というお立場でいらっしゃるんですけれども、きょうはPTA連合会全体の立場としての御発言なのか、あるいは個人としてのお話なのかという点をまず触れていただいて、そして、家庭教育がとても大事だという話をされました。

 家庭が家庭として成り立っていないような場合が多くて、社会教育や地域の力でやっていくことがとても必要だ。一般論としてはよくわかるんですけれども、しかし、そのときに、ちょっと気になった御発言の中で、基本法に書いてあるからこれは大事ですよというような、言ってみれば法的な根拠を示すということが、これは、本来持っている地域での自発的、自治的な活動を逆立ちさせるようなことにならないだろうかというふうに私は危惧するわけなんですね。

 この委員会の審議の中でも、教育基本法の政府提案の二条の「教育の目標」の中に、先ほど斉藤委員が言われた我が国と郷土を愛する態度というような部分、これが目標になっているわけですが、家庭教育にも、地域との連携にも、いわば大目標がおりてきているわけなんですね。いわばそこを包摂して語っているわけで、とすると、本来自発的な活動であるべきの社会教育とか地域活動に、ある種の公権力といいますか、ここが全部目を光らせたり、あるいは、この内容はだめですというようなことを言いかねない、私はそういう危惧があると思っているんですが、いかがでしょうか。

高橋正夫君 まず初めの質問でございます。

 PTAの会長としての立場か個人的な立場かということで、これは、あくまでも今回は個人的な立場として発言をさせていただいております。

 私どもPTAは、御存じのように、右から左までいろいろな方がいらっしゃいますので、PTAの全体の動きをする場合には相当神経を使いながらいきますので、きょう、こういった席には多分出てこられなかったと思います。

 次に、家庭教育につきまして、実は、私が先ほどちょっと申したことは言葉足らずになったかもしれないんですけれども、条文に載ってくるということは、強権発動的な心配じゃなくて、今までこつこつと、本当に自分たちのできるところからやっていこうという形で、家庭、学校、地域でみんな連携してやっていきましょうという活動をやってきたんですけれども、それがなかなか、地域で勝手にやっているものだという解釈で、全面的なバックアップというのは、各市町村につきましても、何か、皆さんがやっているんでしょうという形になりますけれども、基本的に、教育基本法の中に、やはり家庭は家庭でしっかりやっていきましょうよ、地域は地域でしっかりやっていきましょう、幼児教育もしっかりさせましょうという項目が挙がってくることによって、みんながそれぞれ意識を持っていただける、それが一番強いんじゃないかな、私の方はそういったとらえ方をしております。

 一番初めに言いましたけれども、今、とにかく、親の自覚というのが非常にない親が若干います。人にお世話をしていただくことはありがたいんだけれども、自分で何かをすることは嫌だ、そういった人には、基本的な教育基本法が変わったので、やはりみんなでやるべきでしょうと説得する材料の一つには使えるかなというふうに考えております。

 以上です。

保坂(展)委員 次に、清原さんに伺います。

 校長先生として述べられたこと、多く、大変深く共感をしてお聞きしました。

 今回の基本法改正なんですけれども、東京大学の基礎学力研究センター、こちらの調べで、全国の公立の小中学校の校長先生の六六%がこの基本法改正には反対であるという数字も出ております。そして、清原さんは、教育基本法の中で変えてはならないところと変えるべきところと、二つおっしゃいました。恐らく、教育基本法の骨格になるといいますか、根本の部分については継承するべきというお考えかと思います。

 私、先ほども触れましたけれども、校長先生が何人も亡くなっていくというのは異常事態だと思うんですね。お一人ということであれば、その方の特質ということも言えるかもしれない。しかし、こうまで何人も続くと、やはりこれは構造問題ということが言えるんじゃないか。というのは、問題を起こしてはいけないというプレッシャーが余りにも強いんじゃないか。

 つまり、学校現場は問題は必ずあるわけですね。問題があれば、あることをしっかりそのまま認めて教育委員会に報告をして、うちはこういう問題がありますよということを、なかなか現場の校長先生がそういう態度がとれない、あるいは、市の教育委員会も県の教育委員会も、うちはこういう問題がありますよということを率直に認めずに、問題ないんですというふうにふたをしてしまう体質がこうした校長先生を追い詰めている原因になっているんじゃないかと思います。

 とすれば、教育基本法の現行法の十条にあった、教育は国民全体に対してその責任を負うんだという部分が削除されて、不当な支配に服することなくという部分は残ったんですが、この法律や他の法律に定められる、こういうふうに変わっているんですね。

 いわば、私どもから見れば、文部科学省と県教育委員会、市教育委員会という指揮命令系統が非常に強くなってしまう、現場尊重、現場を大切にという教育基本法の一番大切な部分が変えられているんじゃないか、こう思うんですが、その点についての御意見を伺いたいと思います。

清原今朝勝君 私が現職の校長時代、やはりいろいろな問題が起こっておりました。それで、教育長が校長研修会のときによく言っておりました。校長が一人で抱え込んだら校長の責任になるんだぞ、だから教育委員会に必ず報告してください、そうしたら一校長の責任じゃない、これはもう教育委員会の責任で対処するからということで、私もよく知っている教育長でしたけれども、そういう面では非常に助けられました。だから、どんな小さなことも委員会に相談をしてきました。そういうことが一点です。

 それから、今、保坂さんのおっしゃる、教基法の中で決まると縦の系列が強くなるんじゃないか。私も危惧いたします。やはり学校というのは、教育というのは、司法、立法、行政、教育というぐらいの思いで、時の権力がそう当たるものじゃない、当たってはいけないものだ、私はこう思っております。もっと学校裁量を大事にして、自由にして、そして教師同士の切磋琢磨をさせていく、これが正しいやり方じゃないか。上を見て教育をしたら子供が見えなくなっちゃう、これが一番怖いことであって、さっき最後の結びに言ったのが、押しつける教育ではいけない。

 評価にしても、外部評価を持ち込むということは非常に難しいと思います。校長が職員を最後に勤務評定いたしますけれども、一年間一緒に過ごした校長がその教師を評価することすら難しいんです。その中で、外部が何回か見て学校を評価するなんということは、まだまだ非常に難しいんじゃないか、こう思います。

 以上です。

保坂(展)委員 私も現場の学校の自律性を大事にするべきだという意見で、イギリスでナンバーワンになった学校が、皮肉なことに、国の言っていることをほとんど無視したということで、自由にやった結果、第一位になったということが報告をされています。

 次に、井手口さんに伺います。

 第四条で、九年間という部分、これが削られていることに対して非常に危惧を抱かれたという点は、私も委員会の中で聞いたところであります。これは、減らさないのであれば九年以上というふうに表記しても構わないわけであって、御指摘のとおりだと思います。

 加えて、現行法が「われらは、」と始まるのに対して、今回の政府提案は「我々日本国民は、」というふうに始まってくるわけです。日本には、今御指摘のように、さまざまな国から、ブラジルからも日系の方がたくさん来られているという中で、「我々日本国民は、」というふうに変えることの意味について、御意見があればお願いをしたいと思います。

井手口良一君 この問題は、単に国民かどうかというようなことではなく、日本の歴史性を考えると非常に難しい問題を含んでいようかと思います。

 例えば、ローマ帝国でいいますと、ローマは占領していった属国をすべて、その国を自分たちの国の国民として認めました。そして、税金を納めること、戦争に行くこと、自分たちの国の法律を守ることを義務として、それをちゃんとしてくれれば国民として認めましょうと。

 日本の今の国の中で、海外から無制限に外国人を入れてしまえば、どういう状況になるか。単に日本国内の労働人口が減少した分をカバーするということで、そこに言葉の問題、それから義務の問題、そういったものを全く置き去りにした状態で、単に労働人口やそういったものに置きかえるものとして考えたときに、将来どんなふうになるか。ヨーロッパが二、三十年前からその問題をもう既に引き起こしておりますけれども、私は、そのことに対しては非常に大きな危惧を持っております。

 ですから、この日本の国、長い間ずっと単一の民族できました。ですから、我々は、日本人といったときには日本の国民とイコールでした。これからはどうなるかというところは、まだ私自身も地方議員ですので、はっきりと見据えることはできませんけれども、大変重要な問題を含んでいると考えております。

保坂(展)委員 ありがとうございました。終わります。

森山座長 次に、糸川正晃君。

糸川委員 国民新党の糸川正晃でございます。

 本日は、参考人の皆様におかれましては、大変お忙しい中御参加いただきまして、また大変貴重な御意見を賜りまして、本当にありがとうございます。私は、最後の質問者でございますが、皆様にいろいろ御意見を賜れればなというふうに思っております。

 まず、三人の方にお尋ねしたいと思うんですけれども、この教育基本法の改正で特別委員会が開かれている最中に、いじめの問題ですとか、高校の未履修の問題、そして最近では、中学校の履修逃れというんでしょうか、そういう問題までいよいよ露呈されてきたわけでございます。そういう中で、教育委員会のあり方ですとか、さまざまな地方との関係ということも議論されております。

 そこで、三人の陳述人の皆様にお聞きしたいんですけれども、先ほどからお話を聞いていますと、地域性を持った方がいいとか、押しつけがあるような教育ではだめだとかという御意見があるわけですけれども、地方分権の行き過ぎによって文部科学省が教育界をコントロールできなくなったのではないか、そういうことで、今回の未履修の問題ですとか、履修逃れの問題ですとか、さまざまな問題が起きているんじゃないかとか、そういう声も一方ではあるわけでございます。

 そこで、国と地方のあるべき関係についてどのようにお考えなのか、お聞かせいただけますでしょうか。

高橋正夫君 そのあたりになりますと、私はちょっと話がしづらい立場になりますのであれなんですけれども、文部科学省と各都道府県の教育委員会、この力関係云々よりも、今の立場としては、国は指導はするけれども権限はないという形で、各都道府県がやっていますよと。ただし、そうはいうものの、やはり財政的な、基本的なバックアップに関しては国の方でしっかり補助等予算を立てていただかないと、分権、分権といって全部地方の、教育財政まですべて都道府県だけで処理できるかという問題になりますと、なかなかその辺もうまくいかない。

 だから、理想としましては、その垣根をもう少ししっかり、これは私たちの範疇だ、これは私たちの範疇じゃないではなくて、何が一番大きな目的なのか、日本の教育、子供たちの教育というものが一つの大きなテーマであれば、その辺の領域争いみたいなものはとってほしいし、もし何か事件が起きた場合には、相互に責任は感じていただきたい。最近、これはうちの責任ではない、あちらの責任だというような意見を聞きますと、見ていて非常に見苦しい気がします。

 やはり上に立ってみんなを指導していく、そういった省庁でありましたら、事が起きたときには、まず真っ先に、自分が責任を感じてどう対応するかということを一になって考えていただきたい。ちょっとうまくは言えないんですけれども、もうちょっと時間があったらいろいろ言いたいことがあるんですけれども、そういった形でよろしいでしょうか。

清原今朝勝君 余り私の専門分野じゃないんですけれども、非常に難しいんですけれども、あくまでも私は、教育は地方が優先する、地域が優先する、その中に育つ人間の子供を育てるわけですから、私はやはり大きな力は地方が持つべきだと思います。ただ、さっき高橋さんがおっしゃったように、そういう予算関係は国が十分に管理して送っていただきたい、こういう思いです。

 以上です。

井手口良一君 そもそも国とは何か、地方とは何かというときによく言われることですが、国が専権的にやらなければいけないのは、外交、防衛、通貨管理と言われています。その中に教育という言葉は出てきませんね。

 一方で、例えば、北海道の宗谷岬と沖縄の波照間島と全く同じ教育内容でいいのかどうかという問題があります。日本人として当然この水準までは達してほしいというものが、例えば、義務教育の中で読み書きそろばんのレベルでは当然あるかもしれない。だけれども、広範な価値観を持った人格の形成をしていく上で、自分たちが生まれ育つところの気候、風土や民俗や、そういったものを背景とした教育がカリキュラムの中にやはり反映されていくべきだと思います。

 ですから、国は必要最低限の平均的な部分を指し示す、それを財政的に保障する、後は地方に任せるという姿が一番正しいのではないかと考えています。

糸川委員 ありがとうございます。

 私も、最終的には国が責任を持って、基本的には地方に任せる、ただ、どうも今のシステムを見ていますと、どんな問題が起きても中央から何の声も出せないというのはどうなのかな、今回のような未履修の問題ですとか、そういうところではやはり大臣がリーダーシップを発揮するので、そういうことを考えると、最終的には責任は国が持つ、だけれども、そこまでは地方が責任を持って、その地域性を生かして教育をするのがいいのかなというふうには考えておるわけでございます。

 次に、幼児教育について高橋陳述人と清原陳述人にお尋ねをさせていただきたいんですが、今、政府案の十一条におきまして、新たに「幼児期の教育」としての条文を立てられて、地方公共団体に対して、「幼児の健やかな成長に資する良好な環境の整備」、それから、その他適当な方法によって、その振興に努めることということで課しておるわけでございます。この「幼児の健やかな成長に資する良好な環境の整備」という点で、今後とるべきとお考えになられるような何か策がございましたら、お伺いしたいというふうに思います。

高橋正夫君 幼児教育、今、男女共同参画という形で、働きながらでも女性が子供を産める、その中で育てていける環境をつくりたいということで、保育園、幼稚園、そういったものの整備がございますけれども、その前に、私、きょう陳述の中で言わせていただいたんですけれども、地域、家庭、社会がみんなで力を合わせて子育てをやっていきましょうという中で、公民館とかそういったところで、おばあちゃんたちが毎日、何曜日と何曜日と何曜日に来てお茶を飲んでいますよ。以前は、自分が子供を産んだときには、その親がいて、一緒に子育てに参加してくれたり教えてくれる環境があったと思うんですけれども、今は完全に核家族化しまして、各家庭で奥さんが一人で子育てをしている。育児ノイローゼにかかってしまって、子供を絞め殺したりとか上から投げ落としたりとか、そういった事件も起きているという話を聞きますと、やはり一人で一生懸命やっても、できないところはできない、それを地域で一緒にみんなで育ててあげる、そういったお茶の間的な活動の一翼を公民館が担っていただけると、それもまた一つの方法かなと思います。

 ですから、何でもかんでも整備ばかりでなくて、やはり人と人との温かみといいますか、そういったものをもう一回地域から再生し直して、一緒に子育てに協力していくということも一つの方法ではないかというふうに私は提案していこうと思っております。

清原今朝勝君 大変難しい問題で、特に、今、少子高齢化という中の少子化の中で、大分市はかなり公立の幼稚園が多かったんですけれども、子供が非常に少なくなって、非常に子供が多い時期に私立の幼稚園をつくってもらった関係もありますし、公立をふやしていくと私立に行く子供がいなくなるというような現象が生じております。その中で、公立幼稚園を絞り込んで廃園にしていって私立に回すというようなのが今の現実じゃないかと思います。

 その中で、もっと保育所、幼稚園に上がる前の段階で、今共働きの問題もありますので、そういう待機児童がゼロになるということで、それは今進めていただいているようで大変ありがたいんですけれども、幼保一元化という形で進められている、これが幼児教育の一つの姿かな、こう思っているわけです。

 しかし、今どうすることが本当に幼児教育の環境整備に通じるのかは私自身今持ち合わせている意見はないんですけれども、特に若いお母さんたちが集まった席上でお話しすると、高橋さんがおっしゃったように、一人で子育てするとどうしても行き詰まってくる、そういうお母さん同士のミーティングというか対話の場をどこかにやはり設置してあげなきゃいけないということで、私、幼稚園にも講演に行ったことがたくさんあるんですけれども、一人で悩まない、だれかにやはり相談をしていこうという話はしています。

 ここで、教育基本法の中に幼児教育という一文があるのならば、ここら辺は今後の問題になっていくんじゃないかな、私はこう思っております。

 以上です。

糸川委員 ありがとうございます。

 もうほとんど時間がございません。今度は高橋陳述人と井手口陳述人にお伺いしたいんですけれども、先ほど高橋陳述人は、PTAの会長としてではなくて個人としていらっしゃったというふうにお伺いしておるんですが、今、国会でも、教育基本法の特別委員会を開いておりますと、この改正に反対の声というのが非常に大きく届いてくるんですね。ところが、改正したいという方の声というのはなかなか来ないんです。朝来ますと、毎日たくさんの反対のファクスだけがわっとあるわけですね。それで、PTAの中でこの教育基本法の改正に対する議論というのはどの程度されているのか。

 そして、井手口陳述人におかれましては、我々は今こうやって教育基本法のあり方について議論しておるんですけれども、地方議会において、実際、こういう議論というか盛り上がりというんでしょうか、やはり教育を再生する中でこういう基本法の改正も間違いなく必要だというような声が大きいのかどうか、そして、キャリア教育ですとか職場体験の問題ということで、子供の学習意欲を増していこうじゃないかということで今取り組んでいるわけですけれども、これは井手口陳述人だけなんですが、この大分市においてどういうような状況なのか、お伺いをしたいというふうに思います。

高橋正夫君 今、教育基本法に対するそういった会合をどういうふうにしているかということで、実は、高等学校PTA連合会という立場でいきますと、私、今全国の副会長もしておりまして、年二回、全国の会長会等がございます、そういったときに、とりあえず中身をしっかり聞こうじゃないかということで、文部科学省の方にお願いしましていろいろな資料を出していただいて、そこで勉強会という形でやっております。ですから、話を聞いているから即イコール賛成という意味でもございません。

 それと、私言いましたように、PTAは右から左、全国いろいろな考え方の会長さんがいらっしゃいます。ただ、聞かずして物を判断するというのはまずいということで、いろいろな資料を文科省の方からいただいて、説明は一方的に、一応とりあえずお聞きするという形で勉強会をさせていただいております。

 また、九州とかそれぞれのブロックでもまたいろいろな大会がございまして、そういった大会に参加してくれた、研修会に来た席でも同じような説明会をして、資料を配付して、勉強しましょうという声をかけているという状況でございます。

井手口良一君 大変恥ずかしいお話をしなければならないんですが、地方議会は、どうしても自分たちの目の前にあるものに追われてしまいまして、法律を成立させるかどうかという問題については、なかなかそれを統一した論議に結びつけることが難しいです。

 私自身も無所属の議員として活動しておりますけれども、私が所属している会派は、私以外の議員は皆さん民主党の党員ですが、四人でこういうものをテーマと申しますか、先ほどの京都に行ったという話もそうですけれども、日本全国あっちこっちで、教育問題を会派の統一の勉強テーマとしてこれまでずっと活動してまいりました。

 では、よその会派とそれを論議しているかということになりますと、そういう場がありません。文教常任委員会で何を話しているかというと、当然、文教常任委員会では上からおりてくるいろいろな、議会がやらなければいけない条例案とか、あるいは制度とか、予算案とか、そういったものの論議に追われてしまって、なかなかこういう基本的な話をするというところにまで至っておりません。

 それから、大分市が今進めようとしている大分市独自の事業としては、決して大分市が最初に始めた事業ではありませんけれども、小中一貫の教育をやろうとしたり、あるいは、学区制というものに対して、学区制の谷間に落ち込んでいる子供たちがいやしないかということの確認のために、隣接する学校間における自由選択制を試行的に導入しようとしています。そういったところが今新しいトピック性のある事業かと思います。

糸川委員 ありがとうございました。大変参考になりました。

森山座長 以上で委員からの質疑は終了いたしました。

 この際、ごあいさつ申し上げます。

 意見陳述者の皆様方におかれましては、御多忙の中、長時間にわたりまして貴重な御意見をいただきまして、まことにありがとうございました。

 きょう拝聴させていただいた御意見は、当委員会の審査に資するところ極めて大なるものがあると存じます。ここに厚く御礼を申し上げます。

 また、この会議開催のため格段の御協力をいただきました関係各位に対しまして、心から感謝申し上げます。ありがとうございました。(拍手)

 これにて散会いたします。

    午後三時二十七分散会

    ―――――――――――――

   派遣委員の北海道における意見聴取に関する記録

一、期日

   平成十八年十一月十三日(月)

二、場所

   札幌全日空ホテル

三、意見を聴取した問題

   教育基本法案(第百六十四回国会、内閣提出)及び日本国教育基本法案(第百六十四回国会、鳩山由紀夫君外六名提出)について

四、出席者

 (1) 派遣委員

    座長 鈴木 恒夫君

       やまぎわ大志郎君   牧  義夫君

       横山 北斗君   西  博義君

       石井 郁子君

 (2) 意見陳述者

    札幌国際大学人文学部教授           西田  豊君

    元高校教諭       加藤 義勝君

    北星学園大学経済学部教授           岩本 一郎君

 (3) その他の出席者

    文部科学省大臣官房総括審議官         金森 越哉君

     ――――◇―――――

    午後一時開議

鈴木座長 これより会議を開きます。

 私は、衆議院教育基本法に関する特別委員会派遣委員団団長の鈴木恒夫でございます。

 私がこの会議の座長を務めさせていただきますので、よろしくお願い申し上げます。

 この際、派遣委員団を代表いたしまして一言ごあいさつを申し上げます。

 皆様御承知のとおり、当委員会では、第百六十四回国会、内閣提出、教育基本法案及び第百六十四回国会、鳩山由紀夫君外六名提出、日本国教育基本法案の審査を行っているところでございます。

 本日は、両案の審査に当たり、国民各界各層の皆様方から御意見を承りますため、当札幌市におきましてこの会議を催しているところでございます。

 御意見をお述べいただく皆様方におかれましては、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。どうか忌憚のない御意見をお述べいただきますようよろしくお願い申し上げます。

 それでは、まず、この会議の運営につきまして御説明申し上げます。

 会議の議事は、すべて衆議院における委員会議事規則及び手続に準拠して行い、議事の整理、秩序の保持等は、座長であります私が行うことといたします。発言される方は、その都度座長の許可を得て発言していただきますようお願いいたします。

 なお、御意見をお述べいただく皆様方から委員に対しての質疑はできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願います。

 次に、議事の順序につきまして申し上げます。

 最初に、意見陳述者の皆様方からお一人十分程度で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑に対してお答え願いたいと存じます。

 なお、御発言は着席のままで結構でございます。

 次に、本日御出席の方々を御紹介いたします。

 まず、派遣委員は、自由民主党のやまぎわ大志郎君、民主党・無所属クラブの牧義夫君、同じく横山北斗君、公明党の西博義君、日本共産党の石井郁子君、以上でございます。

 次に、本日御意見をお述べいただく方々を御紹介いたします。

 札幌国際大学人文学部教授西田豊君、元高校教諭加藤義勝君、北星学園大学経済学部教授岩本一郎君、以上三名の方々でございます。

 それでは、まず西田豊君に御意見をお述べいただきたいと存じます。

西田豊君 初雪が降りました札幌に、議員の皆様、ようこそいらっしゃいました。私は、ただいま御指名いただきました西田豊でございます。

 まず、簡単に自己紹介を申し上げます。私は、現在、札幌国際大学教授でございますが、ことし三月まで、札幌南高校の校長として、また北海道高等学校長協会会長として務めるなど、約三十八年間、高等学校教育の方に精励させていただきました。本日はどうぞよろしくお願いいたします。

鈴木座長 西田さん、どうぞお座りのままで結構でございます。

西田豊君 実は、教師というのは立っている方がしゃべりやすいのです。よろしいでしょうか。

鈴木座長 御随意でございますが、よろしければお座りください。どうぞ。

西田豊君 では、私の意見を三点に絞って陳述させていただきます。

 国の存亡は教育にありとは、よく耳にする一言であります。私は、この言葉を次のように考えております。まず、国をつくり、国を建てていくは人にあり、そして、その人をつくり、人をはぐくむのは教育にありと思うわけでございます。

 その意味で、我が国の将来を思うとき、現在頻発しております高等学校における必修科目の未履修問題や学校でのいじめ自殺の問題などの、教育の現状を憂えない者はいないのではないでしょうか。実に残念な問題であり、痛ましいことであります。嘆いているだけでなく、このようなことが起こらないような社会づくりのために何をするべきか、何ができるのか、今こそ国民みんなが考え、行動していくべきときではないかと思っております。これらの問題は、単なる間違いや失敗によるものではなく、教育の根幹や社会のあり方にかかわる問題であると思うのです。

 こういったことを踏まえて、まず第一点目でございます。

 以前、私は、福岡県での研究会において、当時、中央教育審議会で活躍されておられた元東大総長の有馬先生と教育について親しくお話しさせていただく機会がございました。その折に有馬先生がしみじみと、さまざまな課題を抱えるこの教育界の現状を見るときに、何が根本的な問題なのでしょうか、教育の基本は何でしょうか、こう問われたものでございました。教育の基本です。教育の現場を預かる私たちに、理論だけではない現実問題として聞かれたものでございました。私は即答いたしました。教育の基本は家庭教育にあるのではないでしょうかと。そこではいろいろなことを話し合いましたが、実は、それから数カ月後に家庭教育についての答申が中教審から出されたもので、大変驚いたものでございました。

 その後、この答申を受けてのさまざまな施策が出されましたが、家庭のありようが大きく変わった、この変化に対する抜本的な施策にはなりがたかったように思われるわけでございます。これほどの社会構造の変化に係るものを正面から受けとめて対処するためには、答申レベルだけではなく、基本的な法令に明記されることが必要なのだろう、こう思っていた次第でございます。

 昔は、お父さん、お母さんが子供をしつけておりました。お父さん、お母さんが忙しいときには、おじいちゃん、おばあちゃんの方が孫の面倒を見て、こうしたらいいよという話をしていたように思います。それが、核家族化してかぎっ子で育った子供たちが今お父さん、お母さんになってきております。このことを思うと、我々、教育現場でそういう子供たちを育ててきた責任を痛感するわけでございますが、今般の改正案ではこの家庭教育を条文に明記され、大変にありがたいこと、こう思っております。国をつくる、そういう人をつくっていくための教育の原点を明記されてこそ教育基本法であろう、こう思うわけでございます。

 ただ、文言を明記するだけが大事なのではなく、それを実現するための具体的な施策が実践されてこそ、そのことが肝要なのではないか。もちろん教育現場でも頑張っていかねばなりませんが、このことを代議士の先生方や行政関係者の方々にこの場をかりてお願い申し上げたい、こう思うわけでございます。この基本法が言葉だけではない実践目標たれと訴えたいのであります。

 時間もございますので、次、二つ目に参ります。

 我が国と郷土を愛すること、このことが明文化されておりますが、人として最も大切なことの一つであろうと私は思っております。人としての自分自身の帰属感を明確にすることは、他人の存在を認めることでございますし、自分自身をも大切にすることになるんだろうと思うわけです。世界じゅうのどの国におきましても、自分の国を愛し、誇り高く思っているのが当たり前だろうと思うのでございます。広い国土と長い歴史の中ではさまざまなことがあったろうと思うわけでございますが、だからといって、自国を大切にしなくていいということにはならない。

 教育現場を預かっていまして、このように、今回、教育基本法の中に「我が国と郷土を愛する」ということを高らかにうたわれましたことに、日本国民として大変うれしく、深く感謝申し上げたい。今後、このことを踏まえて、誇り高き日本人を育てていくように努力していくことがすべての国民の義務であろうと、決意を新たにするものでございます。

 このことについてはもう少しお話ししたいんですが、三つ目に移らせていただきます。

 三つ目でございますが、さきに述べましたように、人をはぐくむ教育というのは大変に重要であるわけですが、その一翼を担う教員につきまして、今般の改正で「崇高な使命を深く自覚し、」と明記されました。このことは、まことにもってむべなるかなと思うものであります。その崇高な使命を持って、国をつくるための人をつくり、そのことに専念すべきなのでありますが、崇高な使命を持って教育の遂行に当たるためには、適正なる待遇が必要であるとも明記されてございます。このことは大変に重要なことではないかと思っております。向後の憂いなく崇高な使命を果たしてもらうためには、その使命を完遂できる高い力量を有するとともに、高邁な教育理念と職務に対する高い誇りを持った人材の確保と、生活に追われることのない待遇を保障することが肝要なことであります。

 教育につきましては、特に教員につきましては、人材確保法が定められ、表向きは他の公務員よりも待遇面でよくなるようにされたのでありましたが、二十四時間子供のためにと考える教員には、時間外勤務手当などはないために、現実的には実質面で何も優遇されていない状況に陥っている現状でございます。教員の給与面での優遇を廃止しようとした方もおられますが、とんでもない話でありまして、この教育基本法の精神を十分にお酌み取りいただきまして、この法案が成立しました暁には、現状よりもはるかに厚遇な措置をお決めいただき、優秀な人材を教員としてお集めいただきたいものとお願い申し上げたい。

 以上をもちまして、私の意見陳述を終わりたいと思います。御清聴ありがとうございました。(拍手)

鈴木座長 ありがとうございました。

 次に、加藤義勝さんにお願いいたします。

加藤義勝君 加藤義勝でございます。

 このたびの教育基本法の改正につきまして意見を述べさせていただきます。

 現行の教育基本法は、施行されてからおよそ六十年が経過しております。その間、我が国の社会は大きく変化してきました。教育面でも、高校や大学などへの飛躍的な進学率の上昇、不登校や学級崩壊、また、現在大変な社会問題となっているいじめ、そしてニートと呼ばれる若年無業者やフリーターの増加など、子供たちを取り巻く社会問題にも大きな変化があらわれております。

 私は、こうした新たな時代に対応するために、現行の教育基本法を見直すことは極めて重要であり、避けてはならないことだと思います。しかしながら、一方では、現行の教育基本法は、日本国憲法の精神にのっとり戦後の日本の教育の理念を確定した法であり、これまで極めて重要な役割を担ってきた法であることから、その改正につきましては、国民の間にも慎重な議論を求める意見が強くあったことも事実であります。私も、慎重に議論を重ねていく必要があるものと考えておりました。

 このたびの改正に当たりましては、二〇〇〇年に首相の私的諮問機関、教育改革国民会議が基本法見直しを含む十七項目の提言を行ったり、二〇〇三年には文部科学大臣の諮問機関、中央教育審議会が改正すべきという答申をまとめたりなどしてきており、その上で国会を中心として多くの議論が積み重ねられてきたものと私は認識しております。

 また、法案の提出に当たりましては、与党内で約三年間、七十回に及ぶ議論が行われ、こうした着実な積み重ねの末に、与党の最終報告に沿って基本法案がまとめられたものと承知しております。また、既にさきの通常国会においても約五十時間の審議が重ねられたとのことであり、私は、基本法の改正に向けた拙速な判断となることを避けるための慎重な議論がこれまで十分重ねられてきたと言えるのではないかと考えております。

 次に、このたびの改正案の内容につきまして、何点か私の意見を述べさせていただきます。

 まず、現行の教育基本法の第一条の「教育の目的」についてですが、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として、心身ともに健康な国民の育成にあることは、将来においても変わることのない普遍的なものであると考えております。したがいまして、これらのことは、改正に当たりましてもぜひ堅持しなければならないものと考えております。

 次に、第二条の「教育の目標」第二項において新たに盛り込まれた「職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。」の部分であります。

 この背景は、ニートやフリーターの増加など、青少年を取り巻く社会環境と教育現場の大きな変化にあることは冒頭にも申し上げましたが、札幌市におきましても同様な状況があり、そのために、みずからの生き方についての自覚を深め、豊かな人間性をはぐくむことを目標とする進路指導の積極的な実践とともに、子供たちに対する望ましい職業観や勤労観の育成を目的として、現在、市内の学校において、総合的な学習の時間や進路探求学習の中でキャリア教育を初めとした職業体験学習を推進することは、極めて重要なことと私は考えております。

 このことからも、教育の基本を定める本法案の「教育の目標」の中に、先ほど申し上げた「勤労を重んずる態度を養う」という表現が盛り込まれることは、望ましい職業観や勤労観の育成を目的としたキャリア教育の推進にとって大きな意味を持つと同時に、その方向性が間違っていなかったことが確認されたようで、私は大変ありがたく感じているところであります。

 次に、愛国心をめぐる表現についてですが、特にこのことは国民から多くの意見があり、現行法の全面見直しをめぐる協議の大きな焦点ともなっていたものです。

 この愛国心につきまして、私は、ごく自然な気持ちとして、国を愛することは悪いことではないと思っております。しかしながら、過去の日本の歴史を振り返りますと、この言葉が戦争のプロパガンダに使われてきたこと、及び、国家を優先し過ぎ、国民が有する基本的人権などの諸種の権利が制約されたということについての教訓として、私は、これらを決して忘れてはならないものと考えております。

 ただ、本法案におきましては、ここで言う国の概念には統治機構は含まれないなどの認識が反映されておりまして、この愛国心をめぐる表現が、「我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度」という文面となっております。私は、このことにより、この部分における表現が国家というよりも郷土といった意味合いの強いものとなったととらえており、先ほども述べましたが、かつての教訓を忘れた、国家主義につながる懸念については払拭できたのではないかと考えているところであります。

 次に、第四条の「教育の機会均等」では、障害のある方への配慮が明記され、第五条の「義務教育」につきましては、将来の社会状況の変化に対応できるよう九年の年限規定が削除されております。さらに、教育の基本的な方針を示し、総合的に施策を進めるための教育振興基本計画も策定するよう規定されております。私は、これらはいずれも、今日的な教育の課題を明確に位置づけるとともに、その解決に向けた方向を示したものと言えるのではないかと思っております。

 最後になりますが、今、市民、国民から教育に対して強く求められているのは、学校現場が直面している厳しい状況からの再生であると思います。しかし、これは大変難しい問題であると思います。

 まず、教師にゆとりがないことが挙げられます。教師は悲鳴を上げています。自身を磨く場も時間もないと言った方がよろしいかと思います。生徒が言っておりました。僕たちには学校というところがあるけれども、先生たちはどこで自分を磨くのですかと。本来、教師は子供たちにとっては最大の教育環境であるはずであります。私自身、現職のときは先輩からよく言われました。子供たちの心音、つまり心の声、心の叫びが聞ける教師たれ、また子供を我が子以上に愛せる教師たれと。まず子供に信頼される教師でなければ教育は成り立たないからであります。

 現在、学校では、現場のみで考えていられない問題が山積しております。例えば、安全教育、心の教育、情報モラル教育、食教育、金銭教育などです。学校と家庭、すなわち教師と保護者との連携の重要性が求められるゆえんであります。

 ともあれ、教育は子供の幸福のためにあります。政治主導、経済主導の教育ではなく、真の人間主義の教育を実現していかなければならないと思います。社会のための教育ではなく、教育のための社会に変えていかなければならないと思う次第であります。そのためにも、時代の変化に対応した新たな教育基本法が制定され、行政と学校現場が連携し、保護者や地域の方々とともに課題解決に取り組み、そして教育改革を全力で進めていくことが必要ではないかと考えているところであります。

 昨日のある新聞に出ていた川柳に、次のようにありました。「子の受難虐待いじめ履修漏れ」。

 以上で終わります。ありがとうございました。(拍手)

鈴木座長 ありがとうございました。

 次に、岩本一郎さんにお願いいたします。

岩本一郎君 早速ではございますが、私は、現行の教育基本法を改正することに反対する立場で私見を述べさせていただきたいと思います。

 教育基本法を起草した教育刷新委員会の委員を務めた河井道さんは、私の所属する北星学園の前身でありますスミス女学校の第一期生でした。彼女たちが基本法に込めた教育の理念は、いまだに色あせておりません。むしろ、今の時代にこそ、その理念を生かす教育を実現しなければならないと私は考えております。

 最初に確認すべきは、日本国憲法と基本法とは、分かちがたく結びついているということであります。基本法が準憲法的法律と解される理由もそこにあります。

 第一に、基本法は、憲法の根本理念である個人の尊重と、また憲法を特徴づける生存権の理念、この二つの理念を教育において実現することを意図したものです。基本法が前文に書く憲法の精神は、個人尊重の理念と生存権の理念を中核とする憲法の精神を指します。

 第二に、真っ当な教育なくして憲法の理想の実現は不可能です。憲法が幾ら崇高な理想を掲げても、その実現に向けて努力するのは現実の生身の人間です。したがって、憲法が理想とする平和的で民主的な社会を形成するためには、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成が不可欠です。だからこそ、基本法は、「この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。」とするのです。

 第三に、基本法を制定した我らとは、日本国憲法を確定した主権者としての我らと同じです。したがって、基本法もまた、憲法と同様、国の権力を縛る権力制限的な規範です。

 以上三つの点から、基本法は準憲法的法律と位置づけられます。とすれば、基本法もまた、憲法と同様、軽々に変更されるべき法律ではありません。

 基本法は、教育の目的の第一に、人格の完成を掲げています。教育が目指すべき子供たちの人格の完成とは、憲法が理想とする個人の自律の力を育てることを意味します。自律とは、他者から強制されることなく、自分らしいよき生き方をみずから見つけ出し、その生き方をまじめに実践する力のことです。私は、この力を、みずからの人生に希望を持つ力と言いかえております。

 そして、失敗や挫折を繰り返しながらも、それぞれの人生の目標に向かって懸命に生きる生き方、そのような生き方には、固有の尊厳、もっと平たい言葉で言いますと、固有の輝きがあります。それぞれの個人が生きる人生の尊厳、輝きは平等であり、そこに優劣はありません。そのため、憲法は、国に対してすべての国民を個人として尊重するように求めているのです。

 このような憲法の個人尊重の理念は、国に三つのことを要請します。第一に、国は、個人が生きる人生を格付け、優劣をつけてはならないこと。第二に、仮に社会の多数者が望むことであったとしても、国は、特定の生き方を個人に押しつけたり、国の定める大義や国益のために個人の生き方を犠牲にしてはならないということです。第三に、国は、多様な生き方の実践を許す寛容な社会を実現するための条件を整備しなければならないということ。この三つの原則は、個人尊重の理念から導かれるものであり、基本法もこの理念と原則を忠実に反映しております。

 日本国憲法制定当時、我妻栄先生は、人権保障の内容が自由から生存へと重点を移したことをこの憲法の最大の特徴だと述べました。自由が保障されていても、個人は、自分が決めたよき生き方を実践できるとは限りません。医者になって多くの人の命を救いたい、そんなふうに思っても、身体的なハンディキャップや経済的な理由から大学の進学をあきらめざるを得ないとすれば、憲法が保障する職業選択の自由は絵にかいたもちです。自由の権利は、現実にその自由を享受してこそ価値があります。だからこそ、自由を実質化するために、憲法は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を保障するとともに、教育を受ける権利、労働基本権といった社会権の規定を置いているのです。

 社会権の中でも、とりわけ教育を受ける権利は大切です。私たちが現実の社会の中で理にかなった生き方をするためには、自然や社会や人間についての基本的な知識を身につける必要があります。また、私たちの生き方は、公正で民主的な社会制度の枠内で、多くの場合、他の人々と協働しつつ追求されるべきもので、一定の規範意識と責任の自覚が求められます。その上で、私たちは、多様な人々との交わりの中で自分らしい生き方を選び取り、実践していくのです。

 基本法は、憲法の生存権の理念を受けて、教育の機会均等を確保し、子供たちの人格の完成に欠かすことのできない教育の条件を整備することを国に求めています。

 前述のとおり、教育の目的は、自律の力、つまり自分の人生に希望を持つ力をはぐくむことにあります。この自分の人生に希望を持つ力の最も基礎にあるのが、自尊感情です。自尊感情とは、自分には生きる理由がある、生きるに値する人生があるという、自分自身と自分の人生に対する肯定的な感情です。

 私たちが今この時代に生きているのは偶然ではないか。今この瞬間に地球には六十五億の人々がいる。そこから自分一人が消えてしまっても、この世界には何の違いも生まれないのではないか。では、私がこの世界に生きる意味というのは本当にあるのだろうか。子供たちはそんな不安と毎日格闘しながら必死で生きております。子供たちには、あなたには生きる理由がある、生きるに値する人生があるということ、そういう自尊感情をはぐくむことが何よりも大切です。そして、この自尊感情の中心には、この世に生をうけたときから、何の見返りも求めることなく無条件に世話をし、愛情を注いでくれた親がいるという経験です。この父とこの母にとって私は特別なんだという素朴な感情が、自尊感情のしんにあります。

 教育は、子供たちの自尊感情を大切に育てていかなければなりません。そうでなければ、子供たちは、そもそも自分の人生に希望を持つことなどできません。学校という教育の場が、子供たちの自尊感情をすり減らし、奪い取る場であってはなりません。

 現在、さまざまな教育問題が提起されています。しかし、これらの教育問題は、現在の基本法が生み出した問題ではありません。むしろ、個人尊重の理念と生存権の理念を基礎とする基本法の理念が現実の学校制度の中で十分浸透していない、最近では、むしろこの理念に反するような国による政治介入が行われていることに起因します。そして、現在政府が提案する改正案は、個人尊重の理念と生存権の理念を掘り崩すものであり、ますます教育を荒廃させるものと言わざるを得ません。

 まず、改正案は、個人尊重の理念と相入れない規定を含んでおります。

 第一に、教育の目的は、子供たちの自律の力をはぐくみ、人格の完成を目指すことでありますが、改正案は、教育の基本を我が国の未来を切り開くことに置いております。これは、教育における主客を転倒させるものです。子供たちを国家の未来を切り開く道具にすることは、個人尊重の第二の要請、個人の道具化を禁止することに反します。

 第二に、改正案は、教育の目標として具体的な徳目を挙げ、この徳目の観点から子供たちの態度を評価しようとするものです。しかし、国が特定の道徳観や価値観を尺度にして子供たちを格付けることは、個人尊重の第一の要請、生き方の格付を禁止することに反します。

 第三に、改正案のように、国と郷土を愛する態度を養うとして愛国心を法定することは、国と個人との特定の関係のみを愛国的とする危険を常にはらんでおり、個人に特定の生き方を押しつけるものです。それは、私たちの内心の自由を侵害するだけでなく、個人尊重の第三の要請である、多様な生き方を認める寛容な社会の実現を困難にします。

 第四に、改正案は、基本法の義務教育の九年の年限を削除することによって、飛び級制を拡大し、エリート主義的な教育を推し進めようとしています。学力テストや習熟度別クラスの実施は、常に子供たちを評価と選別の対象にします。そのことによって、子供たちの自尊感情を著しく損なうことになります。

 第五に、改正案は、男女共学の規定を削除します。子供たちの自律の力を養うために、人種、信条、性別、ハンディキャップの有無など、多様な子供たちが学校という学びの場にいることが大切です。学校こそ、多様な生き方の実験室であるべきです。男女共学は、男女の平等と教育における多様性の理念を具体化する重要な規定であり、削除すべきではありません。

 また、改正案は、生存権の理念を正しく理解するものではありません。改正案は、「能力に応じた教育」と定めることによって、能力別の複線的な教育の道を開こうとしています。しかし、子供のある特定の時点の能力を前提にして教育の内容に違いを設けることは、生存権の理念と相入れません。

 社会権の一つである教育を受ける権利は、結果として到達すべき望ましい最低基準をあらかじめ定めて、子供たちの能力に応じて、そこに到達するための最善の機会を保障することを求めています。つまり、教育を受ける権利は、結果の平等の要請を含むものです。したがって、教育の機会均等は、子供たちの能力に応じて登る山に違いを設けることではなく、同じ山ではあるが、それぞれの子供の能力に応じた多様なルートを用意することを国に求めるものです。

 最後に、改正案は、現行の十条の規定を改変し、法律に基づく国の政治介入を不当な支配のらち外に置こうとしています。真理とは何か、その真理をどう子供たちに伝えるか、この教育の核心にある問題は決して多数決になじむものではありません。真理は、自由で開かれた議論と実践が保障された空間でしか息づくことはできません。国による政治介入を今以上に強化する改正案は、教育の本質を見誤っていると言わざるを得ません。

 以上、私の意見陳述を終わります。(拍手)

鈴木座長 ありがとうございました。

 以上で意見陳述者からの御意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

鈴木座長 これより委員からの質疑を行います。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。やまぎわ大志郎君。

やまぎわ委員 ありがとうございます。お三方ともにそれぞれの御意見を陳述していただきまして、本当にありがとうございました。

 今のお話を伺っていて、教育基本法を改正するということに対して、現行の教育基本法の理念そのものはどなたも否定はされていないんだなということを確認させていただきました。

 その上でお尋ねしたいんですけれども、「教育の目的」の中に、「人格の完成」という非常に重たい言葉が現行の教育基本法の中には入っております。内閣提出の教育基本法改正法案の中でも、議論をさせていただく中で、この理念というものはしっかりと受け継がれたものとして今回の改正案の中に入っている、このように私は強く思うんですね。それになおかつ加えて、具体的に、では、その人格を完成せしめるためにはどうすればいいかということが第二条の目標の中にきちんと書き込まれているのが今回の改正法案ではないか、こんなふうに私自身は思うわけであります。

 まず、お三方に、今回の教育基本法改正法案、内閣提出法案の中にこの理念というものが入っているとお考えなのか、あるいは入っていないということであるならばどこがおかしいのかというのを、岩本陳述人の方からは少しお話がございましたけれども、もう一度お話をいただければと思います。

岩本一郎君 確かに、政府提出法案の中には、第一条に「人格の完成」ということが書かれております。しかしながら、私が言っている人格の完成とは、日本国憲法十三条が言う、個人の尊重の理念を踏まえ、そしてすべての国民に幸福を追求する権利があるということを前提にした上での人格の完成であります。

 したがいまして、人格の完成という言葉が含まれているだけではなくて、法律というのは、国会議員の皆様に言うのはなんですが、すべての条文の中において、果たしてその理念を生かすような条文構成になっているだろうか、あるいは前文との関係で果たしてそうなっているだろうかということをきちんと見た上でなければ、言葉自体が人格の完成という言葉が使われていたとしても、それがこの法案の中に含まれているかどうかというのはまた別問題だというふうに考えております。

 人格の完成についての私の考え方については、先ほど意見陳述したとおりでございます。

加藤義勝君 先ほど述べましたとおりでございますけれども、私は考えるんですけれども、いかに文言がすばらしいものであっても、それを生かしていくのは人間であります。ですから、そういう人間をつくるというところに重点が置かれていけばよろしいかなと思います。

 以上です。

西田豊君 私は、この第一条にうたわれているのをそのとおり受け取るべきものであって、ほかの意味があるとは思えない。まさに今加藤先生おっしゃっていただいたんですが、教育が目指すものは何なのかといったときに、やはり人づくりでございます。そうやって読んでいくと、この「人格の完成を目指し、」というのはまさにそのとおりであろうと私は思っております。

やまぎわ委員 ありがとうございます。

 そこで、具体に少し質問させていただきたいんですが、まず西田さんにお伺いしたいのは、お話、三つポイントをいただきました。家庭教育の重要性であるとか、あるいは帰属感を持たせることが重要であるとか、教員についての、裏表になりますけれども、崇高な理念を持って働いてもらうかわりに、きちんと身分を保障するなり、ちゃんとした待遇をしろという話がございました。

 ごもっともなお話だと思って伺っていたんですが、一つ、私は、それを実現せしめるためにどうやったら評価をすることができるのかなと。教員の皆様方に崇高な使命感を持っていただく、きちんと崇高な使命感を持って働いているかどうかということは一体だれが確かめるのか。その評価のシステムが必要なのか、必要でないのかというところをずばりお聞きしたいと思うんです。

西田豊君 今聞かれました点は、私はこういうふうに思っております。

 まず、そういう崇高な使命感を持った教員を採ってください、集めてください、まずそこから始めていただきたい。そのためにはやはり条件を整えましょうと。先生方が一生懸命子供たちの教育に邁進できる環境条件を整えてやることが大事であろう、こういうふうに考えるわけでございます。

 しかし、今やまぎわ先生おっしゃられた、それだけでいいのかというと、やはりそれだけではまずいわけで、先生方がどれだけ頑張っておられるか、このことはきちっと見ていく必要がある、評価をしていく必要がある。場面的にはどうするのか。これはいわゆる教員の評価が昨年来話題になっておりましたが、そのことを、それぞれの地域や学校でいろいろな特色があると思いますので、やり方は若干違っても、ですから全国統一でなければならないとは私は思いませんで、できるだけ個々の先生の特質が見えるような形で評価をしてやることが大事かなと。教育というのはやはりそういう独自性とか特殊性があっていいものだろう。

 そんな意味で、それぞれやはり研究していき、実際にやっていけるような手だてを整えてやることが大事である、こういうふうに思っております。

やまぎわ委員 ありがとうございました。

 まさに今おっしゃっていただいたことが、恐らく教員の問題を考えていく上では肝なんだろうと思うんですね。そこについての明確な基準というのは、ケース・バイ・ケースで示すということは、マニュアル的に示すということは私は無理だろうと思うんです。だからこそ、これから議論を重ねる中でそこの部分も見ていかなくてはいけないのかな、こんなふうに思っているわけであります。

 それと、岩本陳述人に少しお伺いしたいんですけれども、お話をいただいた中で、自由の権利という言葉が出ております。あるいはまた家庭教育が大切だということが、言葉は違いますけれども中に入っております。これもそのとおりだと思うんですね。しかし、私たちは、議論を重ねる中で、個人尊重の理念というものは確かに重要だ、自由と権利というものは確かに重要だと。それを決して否定はしていないと思うんです。しかし、それだけでいいのかといったときに、それだけではないよね、やはり自由には責任が伴うし、権利には義務が伴うだろうと。個人を尊重すると同様に、公共のものに対する尊重の心というものを持つべきなのではないか。

 戦後六十一年たった中で、その教育がすべて間違っていたとは私は思いませんけれども、しかし、今世の中を見たときに、多くの方々が個人主義に傾き過ぎた国民の姿に危機感を持っているというのは事実だろうと私は思うんです。それを、今回の教育基本法の改正法案の中には、バランスをとるという意味でも、現行の教育基本法の中では足りなかったと思われる部分を、家庭教育のくだりというものを入れてみたり、あるいは公共というものに対する尊重の念を入れてみたりというふうに、補完するものとしてここに挙げているのではないかな、このように自分自身では思っておるんですが、その点についてはどうお考えか、お伝えいただければと思います。

岩本一郎君 私も、自由と権利という言葉を使いましたけれども、確かに自由には責任が伴います。しかし、権利と義務、これは違うわけであって、国民が権利を持つということは国家が義務を負うわけであって、人権に関してはそうであって、国民が権利を持つということと国民が義務を持つということ、それは全く表裏一体だというのは、私の憲法の理解では違うだろうというふうに考えております。

 今お話がありましたけれども、行き過ぎた個人主義ということがよく言われます。しかし、私の考える個人主義というのはそうではございません。先ほど言いましたように、憲法十三条は、国民は幸福を追求する権利があると。幸福を追求するというのは、個人の利益を追求するのが幸福追求であり、個人主義だというふうには考えておりません。

 これは当たり前のことですけれども、人間の幸福というのは人との交わりの中にあるわけです。ですから、自分自身が幸福を追求しよう、自分の幸福のために何かをしようと思ったときに、大抵の場合は失敗します。人間は幸福にはなれません。むしろ、自分のためではなく他人のために何かをしようとする、その先にこそまさに幸福があるわけであって、一生懸命頑張って、つらいなと思いながらも頑張りながら、そしてそのときにだれかにありがとうと言われて、それがその人の幸福につながる。幸福というのは、決して個人主義的あるいは利己主義的なものではなくて、むしろ利他的なところにまさに幸福があるのだろうというふうに私は理解しております。

 したがって、私が言うところの個人主義、私が言うところの幸福追求というのはまさに憲法の理念であり、そして、現行の教育基本法に既に書かれていることであって、わざわざ現行の基本法を変えてまでそのような文言を入れる必要はないというふうに私は考えております。

 そして、私は、家庭教育が重要だというのはおっしゃるとおりで、その点については全く異論はございません。しかしながら、家庭教育も、既に、また憲法十三条を出して申しわけありませんけれども、これは、家庭を形成するという個人の自己決定の一つとして親の教育の自由が認められて、その教育の自由の中において家庭教育はなされるべきことであって、基本法によって各家庭に対して何らかの義務づけを行うようなことがあってはならないというふうに私は考えております。

 あくまでもこれは憲法が保障する親の教育の自由の範囲内における家庭教育であり、それを支援すべき務めが国家にはあるわけであって、国家が家庭に対して何かを義務づけるようなことがあってはならない。むしろ、最近問題となっている児童虐待であるとか、そのほかの点で国はやるべきことが山ほどあるわけですから、そのような、家庭教育を基本法に盛り込む前に、すべきことをすべきだろうというふうに私は考えております。

 以上です。

やまぎわ委員 ありがとうございました。

 それでは最後に、加藤さんにお伺いしたいんですが、教師にゆとりがないという話をされておりました。私も、教師の友達もいますし、知り合いもいます。たくさん話をしますと、同じような問題意識を持っております。ほとんどの現場の教師の皆さんは、子供たちに真剣に向き合って、どうして子供たちに生き方を教えられるかということを必死になってやってくださっていると思うんですが、現実問題として、では教師にゆとりを持たせようとしたときに、現在はゆとりを持たせることはできないわけですね。

 今回、教育基本法を改正する。これはもちろん理念法ですから、具体的な案はそこには盛られていないかもしれないけれども、今回の政府改正案の中で、この政府の改正案を示すことによって、教師たちの置かれている現状を少しでもいい方向に進めることができるかどうか。非常に抽象的な質問でまことに申しわけないんですけれども、その点について、明るい見通しがあるかどうかということを含めて、最後にお答えいただければと思います。

加藤義勝君 昨年の文科省の調査によれば、病気で休職している教員の五六%は精神性の疾患である、たしか三千五百名くらいいたと思うんですけれども。それは、どうしてそういう精神的な疾患を負うのかというと、かなり父母との対応に苦慮している、そういうことがあると思うんですね。

 普通であれば、家庭で他人の悪口を親が言うと、子供は全然他人の言うことは聞かなくなりますから。もうそれは明らかであります。例えば、幼稚園ではこんな例があるというんです。記念撮影をして、私の子供はなぜ中央に写っていないんだと言う親がいる。こんな親が言ったらどういうふうに説得できますか。小学校でガラスを割った。ガラスを割ったのは、そこに石があったから石が悪いんだ、そう言う親がいる。本当に、そういう父兄に出会ったら教師はもう疲労こんぱいしますよ。ですから、家庭教育というより親の教育が今大事ではないかなというふうにしみじみと思っております。

 教員も悲鳴を上げていますけれども、子供も、こうやって会議を開いているときに自殺している子だっているかもしれないんですよ。本当に子供の悲鳴が聞こえてきてならないんですよ。何とかひとつよろしくお願いいたします。

やまぎわ委員 どうもありがとうございました。

 それでは終わらせていただきます。

鈴木座長 次に、牧義夫君。

牧委員 民主党の牧義夫と申します。

 先生方におかれましては、先週末に急なお呼びかけをさせていただいて、お忙しい中こうしてお出ましをいただき、そしてまた、それぞれのお立場で貴重な御意見をお聞かせいただいたことにまずは感謝を申し上げたいと思います。

 お話を伺って、西田先生、加藤先生はそれぞれ、政府案の基本法改正に向けてというお話、そしてまた岩本先生は、現行法を維持すべきというお立場からお話を伺ったと思います。実は、岩本先生は私ども民主党の推薦で公述をしていただいたわけでございます。私ども民主党も日本国教育基本法案という法案を提出しておりますから、その法案にも岩本先生は多分反対をされるんだろうなと思いますけれども、私どもは内閣府のタウンミーティングと違ってやらせは行いませんので、そういった観点から、反対意見も聞かなければということで岩本先生もお呼びした次第でございます。

 余計なことを申し上げましたけれども、まず西田先生、加藤先生、私どもの民主党案についてはお目を通していただいているかどうか、ちょっとお聞かせいただけますか。

西田豊君 お送りいただきましたものすべてとは申しません。物すごい分厚いものが送られましたので、これはちょっとおいておきまして、それぞれの、政府から出たもの、内閣府ですか、から出たものと、それから民主党さんの方から出たものは目を通させていただきました。実は、どちらもよくできているなというのが感想でございました。

加藤義勝君 突然こういう分厚いのが参りまして、私もこの厚い方を読むので精いっぱいでありまして、民主党さんの方は目を通しておりませんので、失礼いたしました。

牧委員 それではまず、西田先生、ざっと目を通していただいたということで、ありがとうございます。

 そこで、先ほどの西田先生のお話の中で、やはり学校の教師というのは、しかるべき崇高な使命を果たすためのしかるべき処遇を受けなければならないというお話がございました。私どもも全く同感でございます。

 私どもは、そういった観点から、この私どもの教育基本法案、まず前文のところに、「我々は、教育の使命を以上のように認識し、国政の中心に教育を据え、」ということをはっきりとうたっております。そして、十九条において、この日本国教育基本法案の十九条、「教育の振興に関する計画」の中にも、「我が国の国内総生産に対する教育に関する国の財政支出の比率を指標として、教育に関する国の予算の確保及び充実の目標が盛り込まれるものとする。」というように、この基本法の中で、しっかりその財政的な担保をしておこうということを明確にうたっているわけでございます。

 政府案ではちょっとそこら辺が心もとないなという気が私はいたしますし、現に、ここ数年来、義務教育国庫負担法も次々に改正される中で、いよいよ給与本体、これが二分の一から三分の一ということで、地方間の格差が広がる中で、そこへもってきて、また教育費、先生の給与という地方自治体にとっては義務的な経費の部分にまで立ち至って、結局は地方に押しつけるという状況が進んでいる。

 そういう状況の中で、私どもは、基本法でこういうものをしっかりうたって、なおかつ、別の法案を準備いたしております。義務教育の財源を確保する法案も別途準備をいたしておりますけれども、西田先生の感想をお聞かせいただきたいと思います。

西田豊君 今おっしゃられましたとおり、実は私もそこの、最後に言いました三点目のところは、やはり環境整備が大事だと。特に、教育環境全部もそうですし、先生方をめぐる環境整備も大変大事であると。

 ただ、教育基本法の中に、この理念、概念を規定する中にどこまで書くべきかということになりますと、これはそれぞれあっていいのかなとも思いますが、個人的には、これを目標としていろいろなものを書いてしまうと何かそれのみになってしまいかねない、そうではないようにもっと手厚くというのが、実は私、欲張りなものですから、教員だったときにも、できるだけそこら辺のところを向後の憂いなくやれるようにというのがあったわけでございます。

 ちなみに、私ごとでございますけれども、道教委にいました後、実は文科省の方にも、当時文部省でございましたが、若干派遣されまして行っておりました。大変安かった。ワイフに言わせますと、文科の、国の方に行きました段階でがばっと給料が減ったものですから、あんた悪いことしたの、こういう話までいったんでございますが、そうではなくて、やはりある程度きちっとしたものまで考えていけるようにした方がいいという意味でございまして、決して民主党案がどうこうというんじゃなくて、それらをそれぞれ相まって補完し合ってやっていただくのが一番いいな、こんなふうな感想でございます。

牧委員 ありがとうございました。

 それでは、時間がもうございませんので、もう一問だけ西田先生と加藤先生に御意見を伺いたいと思います。

 愛国心についての議論がさまざま交わされておりますけれども、我が党案は、これは、日本国を愛する心を涵養するという表現で、前文の中にうたってございます。政府案については先ほどお話があったとおりでございますけれども、私どもは、これは理念法でございますし、さらに、前文というのは全体を支配する理念のエッセンスのようなものでございますから、心を涵養する、すなわち、植物に水をやって水がしみ込むように、そういう中で養っていくというのが涵養という意味でございますから、我が国の伝統文化についてしっかりと認識をし、学習をして、歴史についてもしっかり学ぶ、我が先達がどんな苦労を重ねてこのすばらしいふるさとをつくってきたのかということをしっかり学ぶことによって、自然の発露としてそういった愛国心が涵養されるんだということを私どもは強調しているわけで、条文の中であえてこれを法的な拘束力を持って指導するとか、あるいはまた態度という表現を使うと、ではその態度が評価されるのかという懸念もあるわけでございます。

 そこら辺の、我が党案と政府案との比較の中において、この愛国心の扱いというものをどういうふうにお考えになるか、一言ずつちょっとお聞かせいただきたいと思います。

加藤義勝君 愛国心のことについては先ほど述べましたけれども、私自身としては、「我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、」という、そこのところがあれば国家主義とかそういうふうには絶対になり得ないな、そういうふうに思うんです。そしてこれは、何十年かしますと、日本、日本といっても、日本が地球だとしますと北海道はというような、国がそういう感じになってくるんではないか。地球人としての我々というような感じになってくるので、ここのところは国家主義につながらなければよろしいかなというふうに思います。

 民主党さんの場合は、ここにありますね、「日本を愛する心を涵養し、祖先を敬い、子孫に想いをいたし、」非常に細かく出ているわけですね。そういう気持ちというのはもう当然人間としてはあるべきでありまして、改めてここに書かなくてもよろしいかなというふうに私自身は思うわけでありまして、人間が生まれてくるに当たっては先にいる者がいるから自分が生まれてくるのであって、自分が亡き後はどうなるかといったら、やはり子孫がいるために自分が先に逝けるわけですから。

 そういうことで、的を射ているかどうかわかりませんけれども、感想であります。

西田豊君 私は、こういう言い方をしては、不遜な言い方になったとすれば先に謝っておきたいのでございますが、実は、政府案も民主党案も先ほど言いましたように大変よくできている、どちらもそれぞれの表現でありまして、私はどちらもいいなと思っていたのが正直な感想でございます。

 どっちでなければならないということではなくて、民主党案さんは「心を」という表現でした、それから政府案は「態度」というところでの、そこら辺のお話も新聞等でいろいろ読ませていただいておりまして、なるほどそういうふうにも考えられるか。でも、はっきり言うと現場ではこれは同じです。どこのところにどう書いてあっても、やはり帰属感というか帰属意識をきちっと育てていくことが大事だというところは、やはり家庭教育につながっていくそもそもなんだろうというふうに私はとらえました。

牧委員 ありがとうございました。

鈴木座長 次に、横山北斗君。

横山委員 きょうは、私に質問をさせていただく機会を与えてくださいまして、どうもありがとうございました。

 先ほど三人の先生の御意見を伺って、そしてまた、これまでのやまぎわ先生、牧先生からの質問に対するお答えを聞きまして、まず最初に西田先生にお伺いしたいことは、今、牧先生に答えたことともかなり重複されると思うんですけれども、改めてお聞きいたしますが、先生は最初に、今未履修やいじめのような今日的な教育の問題がある、この今日的な課題に対して、それをなくすために何かをなさねばならないという前提に立ってこの法律を変えていかなきゃいけないんだということを申されたと思います。その中で先生は、家庭教育、そして国を愛することの大切さ、そしてとりわけ教員養成の重要性、この三点から改正の必要性を述べられました。

 実は、前回の党首討論の際に、安倍総理大臣がこんなことを答えております。今日起こっている問題、これはまさに未履修やいじめだと思いますが、こういう問題に対応していくために必要な理念、原則はすべて書き込んである、速やかな成立をお願いしたいと、現行教育基本法に対して御発言されたんですね。

 ところが、今、西田先生の発言をお伺いしていても、政府案の中にすべて書き込んであるとしても、では、民主党案や現行法と比較したときに、政府案がだから優位性があるんだと言える部分が、例えばまだ民主党がこれからもう少し議論を深めたいと思っているときに、いや、これは政府案じゃなきゃだめなんだと言える部分というのはございますでしょうか。その点をお伺いしたいと思います。

西田豊君 実は、先ほどもお返事申し上げたように、私個人的には、その差というか違いという部分は現場を預かる者としてはそう見えない。だからどちらでもいいよという話ではないのでございますが。

 あとは好みなのかというと、いや、そんなわけでもない。いろいろ使っている言葉も違いますし、書かれている内容の違い、もちろんわかるのでございますが、精神面でいうと、どちらの精神もほとんど差異はないのではないかな。私、その意味で、家庭教育の面それから国を愛するところの面につきましてもほとんど同じように思えたものですから、意見陳述の中では差異をつけないでお話しさせていただいたわけでございます。

 一応、返事になるかどうかあれでございますが。

横山委員 どうもありがとうございました。

 西田先生がおっしゃったその三点というのは民主党案にもございますので、そういう意見なんだろうなと思っておりました。大変有意義な御意見をありがとうございます。

 それでは、加藤先生にお尋ねします。

 文部科学大臣が、今の教育基本法に対して、それを特段、全否定してやるわけじゃないんだ、むしろこれは今世界に通用する立派なものなんだという発言を教育特の中で申されました。世界に通用するというか、世界のどこに出しても恥ずかしくない法律なんだと。そうではない、日本独自のものをつくらなきゃいけない、そういう意味でこの教育基本法を変えたいんだという趣旨の発言を文科大臣がされたんです。

 先ほどの加藤先生のお話を聞いていた中で、ちょっとお答えは難しいかもしれませんが、いかがでしょうか、この政府案を見て、ここが日本独自のものなんだなと思う部分というのは特にございますでしょうか。

加藤義勝君 それはちょっと酷な質問ではないかと思うんですけれども。私もそこまで深く検討させていただいておりませんので、お答えしかねますね。

横山委員 失礼いたしました。文部科学大臣の御発言でしたので、そういうことを一体どういうふうに多くの方が御理解しているかなという意味でちょっとお尋ねしました。

 それでは、岩本先生にお尋ねいたします。

 先ほどの岩本先生の御発言を聞いておりまして、私は、教育基本法は教育の最高法規だ、最高法規を超える法律を別途関連法をつくって問題に対応する、整備するというのは、法律論的に無理があるんじゃないかというふうに考えております。

 それで、岩本先生の御発言の中で、例えば、私などが思いますのは、義務教育年限の見直し、これは、エリート教育のということではなくて、教育の無償化をより広げるという点で重要性があると思うんですが、現行教育基本法には教育費を徴収しない義務教育年限は九年だと定められているわけですね。こういうものを変えることなくして教育の無償化を推進できるものではないと法律論的に思います。

 それからいま一つ、今までの教育基本法の中にはない私学助成の充実、財政的な面を国が責任を持つという点で、今回の教育基本法は、政府案にしても民主党案にしても明文化しているのですけれども、そういう点について。

 私学助成そして義務教育年限の二点、教育の無償化という観点から、先生はいかにお考えでしょうか。

岩本一郎君 まず最初に教育費の無償の問題ですけれども、これは、御承知のとおり憲法二十六条にもう既に書かれているものであって、この無償の範囲をどうするかという問題であって、これにつきましては、憲法学の通説におきましては授業料は無償である、これは憲法自体が要請していることだ。そのほかにどういうふうにするかというのは、ある意味ではこれは政治にゆだねられたものであるというのが憲法の解釈でありまして、ですから、これは、基本法に書く、書かないの問題ではなくて、政治の問題としてどこまで無償化するかということを国会議員の皆様に考えていただきたいというふうに思います。

 これを教育基本法に、無償の範囲を広げるような形で仮に法文上書かれていたとしても、実際に国会議員の皆様がそうしていただかなければこれは何の意味もない。これは憲法二十六条が既に、その外側に政治的なプログラムとしてどんどん拡大すること自体は憲法自体に何も制限はないわけですから、憲法に沿ってきちんとやっていただきたいというのが私の考えでございます。

 それから、私学助成の問題ですけれども、これにつきましても、私学助成は現在厳しいわけです。私、北星学園大学に所属しております。つい最近も署名活動で街頭に立ちました。しかしながら、実際に国の方が私学助成をどれだけふやしているのか。これもまた同じように、教育基本法に幾ら私学の建学の精神、そして公教育として見合うだけの予算をつけるといっても、現実にはそうはなっていない。これは、法律を変えてもそうならないという可能性の方が高いわけです。むしろ、これは現実の態度として国会議員の皆様がきちんとやることが重要であって、それがないままに教育基本法が改正されて果たしてなるかというのは、私、疑問でございます。

 以上です。

横山委員 どうもありがとうございました。

 私の質問を終わります。

鈴木座長 次に、西博義君。

西委員 公明党の西博義でございます。

 本日は、お三方のそれぞれの専門的な立場から、教育基本法について、また教育全般についての有益な御意見をちょうだいいたしましたこと、心より御礼を申し上げます。

 早速でございますが、時間が限られておりますので、御質問申し上げます。

 初めに、西田参考人にお願いをいたします。

 先ほど、教育の現状をお話しいただいた上に、有馬東大総長、文部大臣でもいらっしゃって私もよく存じ上げている方ですが、そのお話を引かれて、教育の基本は家庭であると。

 今回、確かに教育基本法の十条に「家庭教育」という一項を設けさせていただきました。その趣旨は、子の教育については第一義的に責任は親にある、こういうことでございますが、同様に、ここの部分は大変難しいこともございまして、各家庭にどういう教育をということを強制するということはもちろんできませんし、そういう意味では各種の支援をするということにとどめているわけでございます。

 先ほど先生からもありました、これを実現するための具体的な施策についてどうぞ頑張ってお考えくださいと、私たちに宿題をいただいたような形だったんですが、このことについて、先生の方で、今の家庭教育の現状から見ましてこういうことを問題意識として持っている、こういうことをやったらいいんじゃないかということがございましたら、まず初めにお伺いしたいと思います。

西田豊君 家庭が、もっと言うと家庭教育が今崩壊しているではないかという指摘はあちこちであるとおりでございますが、では、親御さんに、各家庭に対して果たして何ができるのかというふうに考えますと、これは社会問題でございまして、一教育の観点ではなかなか無理だろう。すなわち、社会構造として、先ほど申しましたように、核家族化だけではなくて、それこそお父さん、お母さんとも働きに出られて子供は一体どうするんだというところが大きな問題だろうと思うわけです。

 そのときに何ができるか。確かに、以前から子育てネットワークですとかいろいろな施策が出ました。しかし、それが本当に根づいていっているかというと、なかなか難しい現状にございます。学校教育の場になりましても、先ほど加藤先生から話がありましたように、親御さんの意識の問題が、とてもじゃないけれども大変だね。ですから、子育ての前に親育てをしないとならない状況だろう。そのための施策は、実は随分考えられるんじゃないだろうか。いわゆる家庭に飛び込むんじゃなくて、親御さんになるべき人に対してやる、成年に対してどんな手だてがとれるかというのは、これはいろいろ考えられるだろうというところがまず一つあります。

 それから、二つ目。社会構造の中で、このままほっておいたのではいけないわけで、ある地区では、隣近所の親御さん同士、これは昔の、何というんでしょうね、ごく近い隣近所の方が一団になってという発想ではないんでしょうけれども、遠くの親戚よりも近くの他人というようなことで、お互いにお互いの子供を面倒見られるような、声をかけられるようなつき合い方、コミュニケーションを、そういう場を設けていくのも大事なのかななんていうことを、実は学校現場の先生方がお話ししているようなところもございました。

 ですから、これは今全部なんて言えませんが、考えていったら、世間の皆さんの知恵を出し合ったら幾らでもやれるのではないかしらと私は思っておりまして、ぜひそういったところを政治の力もかりてやっていければいいな、こんなことでございます。

西委員 どうもありがとうございました。大変参考になる御意見でございました。

 もう一点、西田先生にお伺いしたいんですが、先ほど、北海道の教育委員会にも所属され、昔の文部省にも出向されたというお話をお伺いしたものですから、ちょっとそれに関連してお伺いしたいんです。

 実は、民主党の基本法の改正案と私どもの改正案で一つ違う具体的なことは、教育委員会の位置づけの問題でございます。私どもは、今まで同様、やはり第三者的な機関として教育委員会を置くべき、こういうふうに考えているんですが、民主党さんの方は、知事さんとか市町村長さん、要するに長のもとに教育の組織を置くべきというふうに考えておりまして、この点について、先生のお考えをお教え願いたいと思います。

西田豊君 私、個人的には、実は、知事部局の方と一緒にするのは反対でございます。教育委員会はやはり教育委員会として独自性を持って運営されるべきだろうというふうに考えております。それはなぜなのかといいますと、実は政治的な力が加わっていくことになりますと、これはバックアップまではよろしいんでございますが、現実にいろいろな、首長がかわりますとその都度変わっていくという方針だけは教育にはなじまない。

 そんなところから、これは詳しく言いますと相当長くなるものですからこの程度でやめておきますが、私、個人的にはそういうふうに考えております。

西委員 ありがとうございます。はっきりお答えいただきまして、感謝申し上げます。

 次に、加藤先生からお答えいただきたいと思うんですが、一つは、二条の二の職業について言及なさいました。長年の先生としての御経験から、また現在の若者を取り巻く風潮から、職業の大切さ、働くことの大切さということを指摘されたのではないかというふうに思います。

 私も実は二十年間工業高専の教師をやっていましたものですから、非常に身近な問題としてとらえているんですが、このことについて、長年の先生の御経験から、例えば経済的に豊かになったからとか、いろいろな原因はあるんだろうと思うんですが、根本的な原因に関して、どういうお考えを持ち、なかなか勤労がうまく学校教育と結びつかないということの原因をお教え願いましたら幸いでございます。

加藤義勝君 昔は三年寝太郎なんていう話がございましたけれども、私の近所にも数名、いい若者が役所に自分で手続をして、全然仕事につかないでいるのが昼間歩いているわけですね。そういうのを見ますと、昔はそういうのは全然なかったんですね。もう生きるのが精いっぱいでしたから。今の親というのは、子供に何と言っているかというと、これだけ貯金をしているから、あなたは勉強だけ頑張りなさいよとか、そういう親が結構多いように思うわけです。

 私、カナダへ行って高校を視察させていただいたときに、校庭に余りにも多くの自動車があるので、どうしたのかと聞きましたら、カナダでは十六歳でもう免許が取れると。ですから、学校に乗ってくるわけですね。乗ってくるんですけれども、長い休みには自分が働かないとその車も維持していけない。親は何と言っているかというと、もう大学へ行くときには自分の力で行きなさいよと。では、自分が行けないときにはどうするかというと、証文を書いて親から金を借りて行く、そういう状況があるんですね。私はやはり、日本人の親はなかなか子離れができていない、そこが問題ではないかなというふうに思うんですけれども。

 もう一つ、現職のとき、四百五十人の十クラスの学年主任をやっていたとき、各部屋を回ってみると、ごみ箱が山になっている状況がありまして、どうして山になるのかなと思ったら、昼、弁当を売店から買って、それを食べている子が非常に多いということがわかりまして、親が集まったときには、皆さん方は子供とつながるのは弁当しかございませんよ、そういう話をしまして、徹底的に毎回弁当を真心を込めてつくってくださいと。

 食ということがやはり生活に直結しているなということから、親に会うたびに弁当、弁当と、それから子育てをいかにするかという話をしましたら、卒業していくときに親が、どうも、子育てに関するお話をたっぷり聞かせていただきましてありがとうございましたという話もございまして、やはり親の問題ではないかなというふうに思っております。

西委員 ありがとうございます。

 同時に、後半には、先生の経験として、本当に心のひだがわかるような、先生の当時の教師としての思いがわかるような具体的な例を通していろいろお教えをいただきました。

 今回の基本法案、私どもの考え方の中に、学校と地域と家庭の連携ということを一つはうたっております。先ほどのお話も若干それに関連したことにもなるのかなというふうに思うんですが、先生の最後の結論は、子供たちの模範になるような社会をつくらなきゃ究極的には子供はよくならないよ、こういうことではなかったかというふうに思うんですが、学校、地域、家庭の連携ということについて先生の御意見、先生のといいますか、参考人ということでございますが、先生の御意見をお願いいたしたいと思います。

加藤義勝君 私、今、町内の老人クラブに所属しているんですけれども、老人クラブでも小学校と非常につながりがありまして、小学校の行事のときには老人クラブの代表が呼ばれたりしているわけですけれども、親というのは今忙しくて、なかなか学校に来れないという状況が、やはり世相がこういうふうに厳しいと、共働きのところが多くて、なかなか学校としても、父母との連携が密にいかないということが挙げられると思うんですね。

 ですから、私としては、学校の教師の方が家庭の方に出向く、そういうような時間を見つけて。私が担任をしていたときには、生徒が言っておりました。もう悪いことはできないんだ、担任の先生は救急車より早くうちに来るから、私が悪いことをしたらとんでもないことになるんだとかということを言われたことがありましたけれども、そういうような、父母の方で出てこれないのであれば、こちらの方から積極的に出向く、そういうような形ができれば、今のところうまい対話ができていくのではないかなというふうに考えております。

 以上です。

西委員 先ほど、先生が大変忙しいという議論がありましたけれども、そういう余裕の持てる教育の環境をつくるということも、私どもとしては大事な仕事ではないかなというふうに思っております。

 時間が参りました。本来は岩本先生に自尊感情ということについて本当はお伺いしたいと思っておったんですが、時間が参りましたので、以上で終わらせていただきます。

 ありがとうございました。

鈴木座長 次に、石井郁子君。

石井(郁)委員 日本共産党の石井郁子でございます。

 札幌での公聴会ですけれども、きょうはそれぞれの立場から教育についてのお考えをお聞かせいただきまして、本当にありがとうございます。

 教育基本法に関する特別委員会の審議が、いじめ問題や高校の未履修問題が大問題となっている中で、かなりその問題に集中して審議が行われるという状況にもなっておりますけれども、私は、これ自身は、今現場が抱えている、また子供たちがぶつかっている、また親も教師もぶつかっている大問題だというふうに思いますので、しっかり議論をしなきゃいけないことだと考えているところです。

 それで、実はこの週明け、私も本当にかなり胸を痛めてというか、迎えたところなんですが、いじめの自殺予告の報道などがございまして、そういうことがなければいいなという思いで週末を迎えたんですが、きょうは新聞の休刊日ですけれども、スポーツ新聞を見ていますと、何と大阪と埼玉で子供が自殺をしている。また、このいじめ問題で、いじめ隠しということになって、校長先生が自殺されるというような記事なんですね。だから、さらに問題が深まり、深刻化しているという状況できょうを迎えているというふうに私は考えております。

 それで、最初に西田陳述人に伺いたいと思いますが、こういう現場が今抱えている深刻な問題、この問題にきちんと解決に向かうというのが一つは国の政治の責任ではないのか、文教行政の大きな課題ではないのかと思いますが、それについての御認識を伺いたいことと、そして、では、今教育基本法を変えるという審議をしているわけですけれども、政府提案の教育基本法案では、こういう問題に果たしてどういう有効性を持つのか、政府案はどの点が有効性たり得るのかということについてお聞かせいただければと思います。

西田豊君 まず最初の、いじめ等にかかわる件でございますが、これは、私、個人的にはこういうふうに思っております。

 いわゆる学校が社会性を育成するための教育機関だとすれば、これは知識だけの話ではないわけでございますから、そういう場所で子供たちを育成していくとなると、いわゆる多人数の社会性を身につけさせる、その中で、実は、人が二人以上いましたら、いじめがないということはないんだろうと思うんです。すなわち、これは受け取る側の心の問題でございまして、そのときに、いやいや、そんなことまで言わなくたってと思う、そのレベルのことは多々出てくるだろうと思います。

 だとすると、いじめというのはなくならないものだとすれば、どうするのか。それこそ心の強い子供を育てればいいというのは簡単でございますが、それだけで済むことではない。やはり弱い心のときに、自分の心を支えてくれたり温かく包んでくれる、そういう環境が各一人一人の子供の中に必要なんだろうと思う。では、学校教育の中でそれはできるのか。実は、家庭との連携を密にしていくことによって、お母さんたちにそこら辺のことを教えながら、そして、子供を家庭と学校で四六時中見詰めながらアンテナを張っていくことが大事なんじゃないか。

 そしてもう一つは、私、書きましたとおり、資質の高い先生を欲しいというのはそこなんでございます。人間性豊かな、困ったときに温かく包んでくれる先生をたくさん現場に派遣していただくことがこれの解決のまず第一なのかな、こんなふうに思うわけでございます。

 こればかりしゃべっていると時間がなくなりますので、その次でございますが、二つ目、どれでしたか。

石井(郁)委員 今回の改正案というか、それがこういういじめ問題にどのように有効ですかと。

西田豊君 それで、改正案のそこのところにつきましては、今言いましたように、この教員のところが明記されてきておりますので、その「崇高な使命を」というところあたりを具現化した形での教員の採用をしていただくことが大事なことなんじゃないかしら。これは、採用だけではなくて、たしか先ほどやまぎわさんの方から御質問がありましたように、ぜひ、そういう評価の面や何かも、やる気の出る評価というのをやっていく必要がある、こんなふうに考えております。

石井(郁)委員 どうもありがとうございます。

 私は、現実の問題にはもっと現実的な対応、そしてまた、その原因をしっかり見るような対応が必要かなというふうに思っていますが、それはおきまして、未履修の問題で加藤陳述人に伺いたいと思います。

 高校の先生をしていらしたということでございますので、高校の必修の未履修の問題、今、世界史を受けていなかったという問題、このことでございます。これが発覚をいたしまして、そして一応文科省、また与党の間でも対応策が考えられたようなんですが、これで解決するとは思われない。当面の鎮静化のようにも見えるんですけれども、子供たちの多くは納得していないだろう、または教師、親の側も国民の側も、これで一件落着とはいかないというふうに思うんですね。

 それで、今、国会でも審議をしておりまして、どうも政府の方から聞こえるのは、学校が虚偽の報告をしている、学校がうそをついているという話や、また、教育委員会がだまされていたのではないかという話や、文科省も結局だまされていたんだという話で終わっているわけですね。しかし、どう考えても、今私はここでどこが責任ということは申し上げませんけれども、こういう問題がなぜ起きるのか。これは明らかなルール違反ですから、学校で子供たちにうそをつくなと言いながらうそをついているということは、全く本当に許されないわけですから。

 こういう問題がなぜ起きるのか、どうしたらこういう問題を今後なくしていけるのかというのは、実は日本の教育、高校教育のあり方や入試制度や受験競争全体にかかわる問題だというのは多くの方々が御指摘をされるとおりだと思うんですけれども、端的に、学校の現場でなぜこういうことが起きてしまうのかということについてのお考えをお聞かせいただければと思います。

加藤義勝君 一昔前の学生は、高校生は大分勉強したと思うんですよね。かなり勉強にかける時間が多かったと思うんです。ところが、だんだんと少子化になりまして、余り努力しなくてもそれなりの大学に行ける。ということは、どういうことかといいますと、生徒の能力といいますか努力の量が足りないので、学校側で配慮して、余り負担にならないような方法で何とか自分の学校も名を上げたいというような気持ちもあるんではないかと思いますけれども。

 私、きのう、おとついと、今現職の高校の教員に数人当たってみたんですね。そうしたら、今発表されているような状態ではない、ほとんどの学校がやっているんではないかと。それが現実だということは、やはり学校側も、いや、私が校長だったら生徒になんか謝りたくないと思いますよ。なぜかといったら、君たちの将来を考えてこっちの方はやったんだから、私だったら謝らないと思いますよ。あれはおかしいと思うんですよ。生徒のためを考えてやっているのに校長がなぜ謝らなきゃならないか、そういうような考えですけれども。

石井(郁)委員 正直なというか率直な声をお聞かせいただきまして、これが公聴会の公聴会たるゆえんかなと思いまして、本当にありがとうございます。

 もう時間でございますけれども、最後に岩本陳述人に伺いたいと思います。

 国会でも、今のような形で、教育基本法の現行法と政府案と民主党案が出されてありますけれども、この法案の内容自身についての議論というのはなかなかできない、できにくいところがあるんですね。時間的にもまだまだ足りない、こういった御意見があるかもしれませんけれども。

 そういう状況でございますので、この機会に伺いたいんですけれども、やはり政府案は、現行の教育基本法に全くないもの、先ほど来、「人格の完成」等々の、いろいろ文言はちりばめられているというのは言われていますけれども、現行法と全く違うのが、第二条に新たに「教育の目標」と置いたところなんですよね。「教育行政」のところも、国民全体に直接責任を負うという文言がなくなったという大問題もありますが、一つ、この「教育の目標」というのが五項それぞれ、愛国心でも議論になりましたが、目標が態度を養うというところになっているんですよ。それで、やはり根本法、法律に態度を養うという、態度を国民にいわば義務づける、こういうことが果たして法律としてなじむのかどうかというのは一つ大問題だと思うんですね。

 岩本陳述人からは、現行の憲法と現行教育基本法との精神というか理念上の一致点をお聞かせいただきまして、私も全く同意見なんですけれども、今の、国民に結局態度を強要するという法律というのは一体どういうものになっていくのか、これは日本の教育に今後どんな影響をもたらして、もしこれが通ればですよ、どういう影響をもたらすものなのかということについてお聞かせいただければと思います。

岩本一郎君 今御質問いただいたのは、法律と道徳との関係だと思うんですけれども、私の基本的な考え方は、近代法の原理というのは、法律と道徳というのは分離すべきものであって、道徳的な態度を法律によって養う、あるいは強制するということは、これは近代法において、あるいは立憲主義においてあってはならないことだというふうに考えております。

 しかしながら、法と道徳というのは全く無関係なものではございません。例えば刑法のようなものというのは、例えば人を殺してはいけないとかそういった事柄というのは、確かに道徳との一致点はあるわけです。しかしながら、法律の中で、そこに組み込まれている道徳というのは最低限の道徳であって、これは、さまざまな人間が暮らしていて、さまざまな考え方を持っている人間たちが暮らすこの社会において最低限の守らなければならない道徳、すべての道徳観において共有されている、コンセンサスを得られる、理にかなった道徳でなければならないというふうに思うわけです。

 しかしながら、ここに書かれている、教育の目標に挙げられている徳目というのは、これは国民の間にかなりの理解の違い、あるいは議論があるわけであって、この道徳が決して国民にコンセンサスを得たような、そういう最低限の道徳だというふうには私は思えません。

 したがいまして、近代法の原則であります法と道徳を分離すべしというこの考え方に立ち戻れば、こういった教育の目標を教育基本法という理念法の中に盛り込むということは、憲法的にもあるいは法理論的にも間違っているというふうに私は思っております。

 以上です。

石井(郁)委員 どうもありがとうございます。

 そういう点でも、私も大変心強く思うんですけれども、もう一点、今最初に申し上げましたように、やはり現在のさまざまに生起しているこの教育問題、そして現場が本当に解決してほしいという問題、これに取り組んでいく上での、解決する上での教育行政の役割というものについてもどのようにお考えになっていらっしゃるか、岩本陳述人、もう残り時間わずかなんですけれども、最後にお聞かせいただければと思います。

岩本一郎君 教育行政につきましても、これも現行の教育基本法十条を踏まえた上できちんとやるべき事柄であって、これは学校あるいは教育行政も含めて、自由と参加ということがきちんと踏まえられていなければならない。そこで一番だれの声を聞くかというのは、やはり子供です。子供の意見を聞かなければならないわけであって、子供の意見をきちんと吸い上げるような行政であり、そして教育であってほしいというふうに思うわけです。

 先ほどの家庭の話の中でも、ジェンダーバイアスがかなりありまして、お弁当をつくるのはお母さん、そして学校に行くのもお母さん。そうではなくて、本当は父親が出ていくべき話であって、それがきちんとなされない限りにおいては、学校は自由にはならないし、この仕組みは変わっていかないだろうというふうに私は考えております。

 以上です。

石井(郁)委員 どうもありがとうございます。

 時間が参りました。ただいまのいただいた御意見を踏まえまして、国会での慎重審議をしてまいりたいというふうに思っております。どうも本当にありがとうございました。

鈴木座長 以上で委員からの質疑は終了いたしました。

 この際、一言ごあいさつを申し上げます。

 意見陳述者の皆様方におかれましては、御多忙の中、長時間にわたりまして貴重な御意見をお述べいただき、まことにありがとうございました。

 本日拝聴させていただきました御意見は、当委員会の審査に資するところ極めて大なるものがあると私は思います。ここに心から厚く御礼を申し上げます。ありがとうございました。

 また、この会議の開催のため格段の御協力をいただきました関係各位に対しまして、心から感謝を申し上げます。ありがとうございました。

 これにて散会いたします。

    午後二時四十二分散会


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