衆議院

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第1号 平成19年12月11日(火曜日)

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本小委員会は平成十九年十月十九日(金曜日)委員会において、設置することに決した。

十月十九日

 本小委員は委員長の指名で、次のとおり選任された。

      井上 信治君    大村 秀章君

      川条 志嘉君    後藤 茂之君

      清水鴻一郎君    田村 憲久君

      林   潤君    福岡 資麿君

      宮澤 洋一君    吉野 正芳君

      郡  和子君    園田 康博君

      山田 正彦君    山井 和則君

      古屋 範子君    高橋千鶴子君

      阿部 知子君    糸川 正晃君

十月十九日

 吉野正芳君が委員長の指名で、小委員長に選任された。

平成十九年十二月十一日(火曜日)

    午前九時開議

 出席小委員

   小委員長 吉野 正芳君

      井上 信治君    大村 秀章君

      川条 志嘉君    清水鴻一郎君

      田村 憲久君    林   潤君

      福岡 資麿君    宮澤 洋一君

      郡  和子君    園田 康博君

      山田 正彦君    山井 和則君

      古屋 範子君    高橋千鶴子君

      阿部 知子君    糸川 正晃君

    …………………………………

   厚生労働委員長      茂木 敏充君

   議員           河野 太郎君

   議員           山内 康一君

   議員           冨岡  勉君

   議員           阿部 俊子君

   参考人

   (青山学院大学及び青山学院女子短期大学兼任講師) 野村 祐之君

   参考人

   (腎臓病総合医療センター外科教授)        寺岡  慧君

   参考人

   (大阪厚生年金病院院長)

   (岡山大学名誉教授)   清野 佳紀君

   参考人

   (日本弁護士連合会人権擁護委員会特別委嘱委員)  加藤 高志君

   参考人

   (上智大学法学研究科教授)            町野  朔君

   参考人

   (東京大学大学院人文社会系研究科教授)      島薗  進君

   参考人

   (全国交通事故遺族の会理事)           井手 政子君

   厚生労働委員会専門員   榊原 志俊君

    ―――――――――――――

十二月十一日

 小委員井上信治君十月二十四日委員辞任につき、その補欠として井上信治君が委員長の指名で小委員に選任された。

同日

 小委員古屋範子君十月三十一日委員辞任につき、その補欠として古屋範子君が委員長の指名で小委員に選任された。

同日

 小委員林潤君十一月七日委員辞任につき、その補欠として林潤君が委員長の指名で小委員に選任された。

同日

 小委員川条志嘉君及び清水鴻一郎君十一月十四日委員辞任につき、その補欠として川条志嘉君及び清水鴻一郎君が委員長の指名で小委員に選任された。

同日

 小委員阿部知子君十一月二十一日委員辞任につき、その補欠として阿部知子君が委員長の指名で小委員に選任された。

同日

 小委員園田康博君十一月二十八日委員辞任につき、その補欠として園田康博君が委員長の指名で小委員に選任された。

同日

 小委員郡和子君同月四日委員辞任につき、その補欠として郡和子君が委員長の指名で小委員に選任された。

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案(中山太郎君外五名提出、第百六十四回国会衆法第一四号)

 臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案(斉藤鉄夫君外三名提出、第百六十四回国会衆法第一五号)


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     ――――◇―――――

吉野小委員長 これより厚生労働委員会臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案審査小委員会を開会いたします。

 この際、一言ごあいさつ申し上げます。

 小委員長に就任いたしました吉野正芳でございます。

 本年は、臓器の移植に関する法律が施行されて十年となります。脳死による臓器移植は、個人個人の死生観、倫理観を問うものであり、広く国民の理解と支援があって成り立つ医療制度であります。

 現在の臓器移植医療の厳しい現状をかんがみますと、本小委員会に課せられた責務は極めて重要であり、小委員長就任に当たり、改めて責任の重さを痛感いたしております。

 ここに小委員各位の御指導と御協力をいただき、小委員会運営に努めてまいりたいと存じますので、何とぞよろしくお願い申し上げます。(拍手)

     ――――◇―――――

吉野小委員長 第百六十四回国会、中山太郎君外五名提出、臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案及び第百六十四回国会、斉藤鉄夫君外三名提出、臓器の移植に関する法律の一部を改正する法律案の両案を一括して議題といたします。

 本日は、両案審査のため、参考人として、青山学院大学及び青山学院女子短期大学兼任講師野村祐之君、腎臓病総合医療センター外科教授寺岡慧君、大阪厚生年金病院院長・岡山大学名誉教授清野佳紀君、日本弁護士連合会人権擁護委員会特別委嘱委員加藤高志君、上智大学法学研究科教授町野朔君、東京大学大学院人文社会系研究科教授島薗進君、全国交通事故遺族の会理事井手政子君、以上七名の方々に御出席をいただいております。

 この際、参考人各位に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、御多用中にもかかわらず本小委員会に御出席いただきまして、まことにありがとうございます。それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、審査の参考にいたしたいと存じますので、よろしくお願いを申し上げます。

 次に、議事の順序について申し上げます。

 最初に、参考人の方々から御意見をそれぞれ十分以内でお述べいただき、その後、小委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。

 なお、発言する際は小委員長の許可を受けることになっております。また、参考人は小委員に対して質疑することができないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。

 それでは、野村参考人にお願いいたします。

野村参考人 おはようございます。ただいま御紹介いただきました野村でございます。

 実は、大学で教えておりますが、ちょうど今週、四人の学生が卒業論文を出さなきゃいけないので、毎日徹夜のようなところにこちらにお招きの話、実はごく最近いただきまして、本当にきょうはまともな準備をする時間なく伺いましたが、率直に忌憚のないところを申し上げようかと思っております。

 そして、準備ができなかったんですが、ちょっと前、学生に配ったプリントを一枚だけ皆様のお手元にお届けしました。大きいあれですけれども、半分に折っていただくといいかと思いますが、そこのところに、私の病歴といいますか、ございます。二度の肝臓移植を受けております。一度はB型の肝炎で、それからおかげさまで十五年ぐらい生き延びまして、今度は肝がんの治療で、アメリカでは肝がんの治療の第一が肝臓移植ですので、結果的に同じ肝臓移植を二度受けるということになりました。

 アメリカでは、そういったぐあいで毎年五千例以上の方が肝臓、もちろん臓器不足ということがあるんですが、それはドナーの数が少ないからではなくて、余りに広い範囲の肝臓病に対して移植が効果的であるために、結果的にドナーの数が足りていないというような現状だと思います。

 おかげさまで、そんなわけで命拾いしておりまして、こうやって元気に学校でも、もう徹夜に次ぐ徹夜で、授業もさせていただいております。

 特にきょうお話し申し上げたいということに関しましては、こっちは個人的なことですけれども、こっち側の方がいささか重なってくる部分があるかと思います。しかし、これはきょうのために準備したのではありませんで、ちょっとずれているかと思って、申しわけございません。

 おかげさまで、今こうして元気にしておりますもので、ボランティアではありますけれども、トリオ・ジャパンという団体でお手伝いをさせていただいております。これは、もともとは、トリオというと三人組で何かやりそうなんですが、現に移植というのは、臓器提供者と臓器を受ける者とそれから医療関係者との三者がそろわないと成り立たないのも事実なんですが、実はトリオというのはそういう意味じゃありませんで、トランスプラント・レシピエンツ・インターナショナル・オーガニゼーションの略です。移植を受けた、レシピエントと日本語でも言いますね、その国際的な機関でありまして、アメリカのピッツバーグで始まったものであります。

 ヨーロッパにもあるんですが、日本のトリオ・ジャパン、日本の活動が欧米と違うところが一つございます。それは、欧米の場合は、移植を受けるレシピエントになることというのは、ほとんど医学的な、自動的なことであるわけです。しかし、日本の場合は、病気の診断がついても、それからレシピエントになれるかなれないかということが、それで現実には、それが移植に結びつくかというのがほとんど宝くじに当たるより難しいような状況にありますから、そういう中で、日本で待って命の最期を迎えるのか、それとも、外国でもし受け入れてくださるところがあるならば、そこでレシピエントの候補になる、そのお手伝いができないかということで、自分の経験も踏まえてあれしております。

 それは、ただ病院を探してつなげるというようなことではありませんで、確かにその面もあります。ところが、お医者さんをまずは支えていかなきゃいけないということ。それから、現実にそれになりますと、数千万から時には億の単位の費用が必要です。ところが、病気になるのはお金持ちではありません。ごく普通の我々。

 ですから、これは大変な募金と借金をして、どうにかそれを工面しなければいけないというような、そういったことの現実的なお手伝いもしているような、きょうの命を救うということをモットーにしておりますけれども、欧米に生まれていれば、あるいは韓国に、台湾に、中国に、フィリピンに、シンガポールに生まれていれば移植のチャンスがあったのに、日本に生まれ、日本に育っているために、医学的なレベルがありながら命をあきらめていかなければいけないという、そういった現実の中で、命の可能性を求めてこうせざるを得ない現実というのがあります。

 特に、脳死ドナーを必要とする心臓移植の場合ですと、幼児、小中学生は、一〇〇%日本では死を待つしかありません。大人の心臓移植にしても、つまり、ドナーが十五歳以上ですから可能性があるわけですけれども、日本での可能性はスペインの二百五十分の一です、アメリカの二百分の一です、ベルギーの百八十分の一です。ということで、とても手が届かない。

 実は、私の妻、おかげさまで子供に恵まれました。ちょっと親ばかで子供の自慢をしますと、日本で肝臓移植を受けた親から生まれた初めての子供がうちの娘でありまして、といっても、親が男親ですから大したことではないんですが、うちの子には、あなたには親が三人いるからねと言っているんです。母親と父親と、この父親を中から支えてくれている臓器提供者の命、三つの命が合わさらなければ生まれてこなかったのがうちのかわいい娘でありますけれども、妻は、子供が生まれて以来、日本に住むことをあきらめて、どうにかして、もしかしたらアメリカに住みたいということを言うわけです。なぜかというと、うちの子供が十五歳になるまで、もし何かの事故で、交通事故かもしれません、地震かもしれません、脳死になった場合に、うちの子の臓器を提供する可能性が日本には全然ないわけです。

 しかし、現実に仕事のことや何かもありますし、そう簡単にアメリカへ行ってすっと住めるわけでもないですから、うちのは、米軍基地の病院だったらば臓器提供をさせてもらえるんじゃないかというので、連絡をとりました。そうしましたら、もうかなり、これは十年ぐらい前になりますけれども、沖縄の米軍基地の中で、若い夫婦のお子さんが事故で脳死になった。アメリカにはとてもその臓器は送れないわけですけれども、日本の方でもぜひこれを受け取ってほしいというので、臓器提供の準備をして、沖縄の病院はそれがそろっているそうです。ところが、日本の病院がどこもそれを受け取ってくれないもので、結局、その両親は失意のうちに日本を去っていったということを伺いました。そういうこともありまして、米軍基地でも臓器摘出はできるかもしれないけれども、提供にそれが結びつかない。

 妻がそんな思いをいたしました一つの理由というのは、実は、僕の義理の弟になりますけれども、彼女の弟が、脳にダメージを受けて生まれて、二年間の人生をいわば植物状態で過ごしておりました。彼女は、その植物状態というのはとんでもないと言います。むしろ、本来人間が生きているということの根源的な姿というのが私の弟の姿であって、名前を呼んでも答えないし、いつでも天井しか見ていなかった。だけれども、人が生きている、命というのはそれ自体、それで、頭がいいとか体が格好いいとかどうのこうの、地位があるとかというようなことは全部、その上に二の次三の次で積み重なったことなんだ、本来的には人が生きている、だから絶対私の弟は植物じゃなかったと。

 それは身内ですからそういう気持ちもあるとしても、本来生きているという。その子が亡くなったときに、実は当時は、もう五十年近く前ですから、角膜の提供だけが可能でした。後で知り合って私は結婚したわけですけれども、今でも家庭の中で懐かしくその弟を思い出している。たった二歳で、もう何十年も前に亡くなった。

 その一つは、弟が亡くなったことは、そこでピリオドが打たれて過去の話です。しかし、その角膜が提供されたことによって、もしかすると、今でもあの子の角膜を通して、家族の笑顔を、あるいは家族のほおを伝う涙を見ている人がどこかにいるかもしれない。そういう意味で、弟の昔の存在というのが、ある種現在進行形として、慰めと優しさの中で思い出されている。

 ですから、臓器提供ができるということは、脳死になって、特に提供というのはとんでもない状況で起こるわけです。にもかかわらず、愛と優しさを、そしてそれをしっかり受けとめていくのが移植の社会的なシステムであると思います。

 ですから、そういう意味でいうと、臓器提供のシステムというのは、本当に無条件の愛、だれさんに差し上げるではない、本当に、今でなければ、命を失う人のためにといって差し上げるという、その愛をどれだけ社会的なシステムとして現実化していくか、その問題が問われているんだと思います。

 そこにいきますと、今のテクノロジーというのは、脳が死んでしまっても、人工呼吸や何かすることで、心臓がひとりで頑張っている限り、血液の循環を可能にして、肝臓も、その他の臓器も生かしておくことができるわけです。ですから、ちょっと誤解を恐れず申しますと、脳死というのは、脳が死んでその人の人格としてのアイデンティティーは失われているけれども、循環している血液のおかげで酸素が送られれば、肝臓も心臓も生きて頑張っているんです。妊娠している方だと、おなかの赤ちゃんを、産むことは既にできませんけれども、外科的な切開をして取り出すことができる。そしてそれは、保育器というんでしょうか、その中で見事に育て上げることができるわけです。そうです。今の外科の技術をもっては、生きて頑張っている、赤ちゃんだけではなくて、心臓なり肝臓を取り出すことができる。

 しかし、心臓、肝臓は保育器の中で育てることはできません。だれかほかの人の体の中でなきゃいけない。しかし、元気な方の心臓や肝臓を取り出してしまって、そこに入れるわけにはいかない。もしそのときに、心臓がだめなために死に瀕している、もう肝臓がぎりぎりで死に瀕している、いわば肝死寸前の人がいるのであれば、その人の臓器を取り出して、その元気な肝臓がそこで生かされるということは倫理的に許される。

 そういう意味でいいますと、私の実感というのは、脳死した人の肝臓と、肝死直前の、脳は元気だったけれども私と、その二つの死が出会って、新しい命として今元気にさせていただいている。おしゃべりしているのは脳の側の私ですけれども、それを今ここで支えているのはその肝臓であります。という意味で、僕のアイデンティティー、一人の命だけれども一緒に支えている、これを僕はウイデンティティーと呼んでいるんですけれども、そのウイデンティティーの命、実は、この社会の命というのは、お互いに支え合い、助け合ってこそ、共生してこそのものであると思います。

吉野小委員長 野村先生、ちょっとお時間、申しわけありません。

野村参考人 恐れ入ります。では、あと二、三十秒で終わります。

 そのウイデンティティーを支えているのは、実はドナーの無条件の、無償の愛である。そういう意味で「愛デンティティー」、これはアメリカ人にはわかっていただけないんですけれども、そうした命の大切さ、優しさを現実に受けとめる、そんなシステム、移植を超えて、この社会の優しさ、命の大切さを受けとめるシステムが移植法であるんだと思います。

 そういうわけですから、子供たちやすべての命を支えるために、この移植法が改正されることを望んでおります。

 どうも、時間を超過しまして失礼いたしました。御清聴ありがとうございました。(拍手)

吉野小委員長 ありがとうございました。

 次に、寺岡参考人にお願いいたします。

寺岡参考人 ただいま御紹介にあずかりました日本移植学会の寺岡慧と申します。

 本日は、このような機会を与えていただき、深く感謝いたしております。

 一九九七年十月、臓器の移植に関する法律が施行されて以来、十年間余りの期間に六十二件の脳死ドナーからの臓器提供があり、四十九件の心臓移植、三十八件の肺移植、四十五件の肝臓移植、四十二件の膵臓移植、百七件の腎臓移植、そして三件の小腸移植が実施されました。これらの移植の成績は大変すぐれたものでありまして、欧米の成績と比較してまさるとも劣らないものです。六十二件の臓器提供につきましては、脳死下での臓器提供事例に係る検証会議による各事例ごとの厳正な検証の結果、適正に実施されたとされています。

 しかし、この十年間に実施された移植数は余りにも少なく、移植を待ち望んでおられた多くの患者さんが亡くなられております。お手元の資料六にお示ししますように、心臓では移植を受けられた方の二倍強、肺では三倍強、肝臓では五倍強の方々が移植を待ち望みながら亡くなられております。

 私ども日本移植学会としましては、他の医学会、日本医師会、患者団体の方々とともに、臓器の移植に関する法律の改正、すなわちA案への改正を強く要望してまいりました。お手元に配付させていただきました要望書は、A4の二枚刷りの紙でございます、二十四医学会と日本医師会で構成される臓器移植関連学会協議会からの法改正についての要望書で、さきに議員の皆様方に郵送させていただいたものでありますが、本日改めてお手元にお届けさせていただく次第です。

 法改正が必要である根拠としましては、まず第一に、多くの方々が移植を待ち望みながら亡くなられていることです。現状ですと、少数の方のみが移植の恩恵を受けて健康を取り戻される一方、他方で多くの方々が移植を待ち望みながら亡くなられているのが実情です。潜在的には、心臓移植を必要とされる患者さんは少なく見積もっても年間四、五百人、肝臓移植を必要とされる患者さんは年間二千二百人とされ、このままではさらに多くの患者さんが亡くなってしまうものと危惧されます。

 第二に、重症心疾患の小さな子供さんは、現状では国内で心臓移植を受けることができません。重症心疾患の小さな子供さんたちにとって、生きる唯一の方法は海外での心臓移植であり、このため、海外での移植を求めて渡航される患者さんが後を絶ちません。

 お手元の資料十にありますように、海外での移植は、患者さんとその御家族にとって、精神的、経済的また身体的にも大変な負担を強いることになり、ごく限られた方のみしか移植の恩恵を受けることができません。また、海外での移植は、その国の患者さんとの間に一種のあつれきを生じ、多くの批判がなされています。世界保健機関、WHOからも、我が国に対して厳しい批判がなされております。

 このような事情を背景に、今後は海外の移植がさらに困難になってくるものと予想されます。このままでは、重症の心疾患に罹患した小さな子供さんたちにとって唯一の助かる望みである心臓移植の道は完全に閉ざされてしまいます。

 第三に、法施行以来、少数とはいえ、脳死ドナーからの臓器提供並びに臓器移植が適正に実施され、移植を受けられた方の多くが健康を取り戻されたことによって、臓器移植に対する理解が徐々に社会に浸透しつつあります。

 お手元の資料十四から十六にありますように、昨年十一月の内閣府の意識調査によりますと、臓器を提供したいが四一・六%に増加し、提供したくないが二七・五%に減少しております。また、本人に生前の意思表示がない場合の臓器提供について、家族の判断にゆだねる、提供を認めてもよいが合わせて五七・五%、提供を認めるべきでないが三五・七%となっており、また十五歳未満の臓器提供については、できるようにすべきが六八%、できないのはやむを得ないが一九・五%となっています。さらに、本人の意思表示がある場合の取り扱いにつきましては、脳死での臓器提供を認めるべきが五二・九%、意思表示がない場合でも何らかの手段により提供意思を確認できる場合認めるべきが一九・五%、拒否の意思があっても家族の承諾があれば認めるべきが一七・〇%で、実に八九・四%が脳死下での臓器提供について肯定的な意見を示しています。これらの調査結果は、脳死臓器移植への理解が徐々に社会に定着しつつあることを示しています。

 第四に、WHOのガイディングプリンシプルでは、本人の意思がある場合はそれを尊重し、本人の意思が不明の場合は家族の書面による承諾により臓器の提供は可能とされており、今やこれはグローバルスタンダードとなっています。A案はほぼこれに沿っており、さらに脳死判定に対する家族の拒否権を付与することにより、脳死を認めない人並びに臓器を提供したくない方々の権利にも十分に配慮されたものと理解しております。

 第五に、我が国における臓器の提供が極めて限られていることから、海外での違法な移植、非倫理的な移植が増加しつつあります。これらについては国際的にも大きな批判を呼んでおり、WHOからも強い批判を受けております。国内でも、先般、病腎移植が大きな問題となったことは、皆様御記憶のことと存じます。

 さらに、臓器の移植に関する法律附則第二条一項に「この法律による臓器の移植については、この法律の施行後三年を目途として、この法律の施行の状況を勘案し、その全般について検討が加えられ、その結果に基づいて必要な措置が講ぜられるべきものとする。」とされています。法施行以来既に十年が経過しており、臓器移植以外に救命の方法がなく、またそのために移植を待ち望んでおられる多くの患者さんのために、少しでも早く法律の改正をお願い申し上げる次第でございます。

 我が国で脳死で死亡される患者さんの数は年間約七千人と推定されていますが、このうち、脳死下で臓器の提供が可能な十五歳以上の患者さんの数は、少なく見積もっても年間約五千人とされています。先ほど御紹介した内閣府の意識調査によりますと、臓器提供をしたいが四一・六%、あるいは本人の意思表示がある場合は臓器提供を認めるべきが五二・九%であり、このパーセンテージを乗じますと、潜在的には年間二千八十から二千六百四十五人の方々が脳死下で臓器の提供を希望しつつ亡くなられていると推定されます。

 お手元の資料三にお示ししましたように、法施行から二〇〇六年末までに、意思表示カードあるいはシールによる日本臓器移植ネットワークへの連絡が千二百四件ありましたが、そのうち、脳死下での臓器提供の意思を表示された事例が七百三十七件でした。これは年平均で約八十二件になります。この数と、脳死下で臓器の提供を希望しつつ亡くなられている二千八十から二千六百四十五人という数の間には余りにも大きな乖離があり、現在の法律ないしその運用では、これらの方々のとうとい提供の意思をくみ上げることは難しいことを示しています。

 さらに、脳死下での臓器提供の意思を表示した七百三十七件のドナー情報のうち、脳死下での臓器の提供に至った事例は昨年末の時点でわずかに四十七件、六・四%であり、現行法とその運用のもとでは本人のとうとい意思が生かされていないことが示されています。臓器の移植に関する法律第二条一項には「死亡した者が生存中に有していた自己の臓器の移植術に使用されるための提供に関する意思は、尊重されなければならない。」と明記されていますが、この法の精神は残念ながら生かされているとは申せないのが現状です。

 現行法の成立の時点では、社会の御理解を得るために配慮された点もあったかと存じますが、施行以来十年を経過し、現行法と運用規則等を遵守しつつ適正に臓器提供並びに臓器移植が実施され、移植を受けた患者さんの多くが健康を取り戻され、社会の御理解が得られつつある現時点におきましては、意識調査に示された多くの脳死下での臓器提供の意思を尊重すべく、法の改正をお願い申し上げる次第です。移植によってしか救命できない、そして移植に唯一の生きる望みを託し、移植を待ち望んでおられる多くの患者さんのために、A案への法の改正を重ねてお願い申し上げます。

 御清聴いただき、ありがとうございました。(拍手)

吉野小委員長 ありがとうございました。

 意見陳述は十分以内でございますので、御協力をお願いしたいと思います。

 次に、清野参考人にお願いいたします。

清野参考人 日本小児科学会の清野でございます。

 お手元にA4版の小児科学会の考え方が配付してありますので、参考になさってください。

 臓器移植関連法案改正についての日本小児科学会の考え方を述べたいと思います。

 臓器移植関連法案改正については、日本小児科学会として、その考え方をたびたび表明してきたところですが、改正案が国会へ再提出されておりますので、改めてその問題点を指摘し、当会の考え方を表明いたします。

 我々は、二〇〇三年に表明した提言「小児脳死臓器移植はどうあるべきか」において述べたとおり、小児脳死臓器移植を積極的に評価し、我が国においても小児脳死臓器移植が適切に進められることを望むものであります。

 現行臓器移植法は、脳死を死であると考えて、脳死状態に至ったなら臓器を他人に提供したいと思う者の意思、すなわち自己決定は尊重されるべきだという理念に基づいて制定されています。したがって、小児脳死臓器移植の際には、小児の意見表明権の尊重が重要であると考え、適正な小児の臓器移植のあり方について検討を続けてまいりました。

 日本小児科学会の臓器移植の考え方は、現時点ではB案に近いものです。もしいきなりA案に沿って、年齢制限も設けず小児脳死臓器移植が行われる場合は、ほとんどの病院で基盤整備が行われていない現状においては、現場で混乱が起こるのは必至であります。したがって、数年間の期限つきでB案を施行する中で、その間に基盤整備をすることが望ましいと考えます。そして、基盤整備ができた後に、より低年齢の小児にも臓器移植が行われるような法案整備を進めるべきであると考えます。

 なお、この基盤整備については後で説明いたします。

 なお、今回の法案に盛り込まれている親族への優先項目については、公正性から疑問があります。むしろ、小児科学会員に対するアンケート調査によれば、小児ドナーの臓器は小児レシピエントに公平に優先的に移植されるべきであると答えた医師が七三%います。

 先ほど申しました、整備されていない基盤整備について説明いたします。

 一、被虐待児からの臓器摘出防止に関する基盤整備。

 被虐待児からの臓器摘出防止に関する基盤整備は全く行われておりません。近年、児童虐待が増加しているのは周知の事実であり、小児科医にとっても当該傷害が虐待によるものか事故によるものかの判別が容易につかないケースが多くなっています。子供の死因の第一位は事故死でありますが、虐待死が事故死の中のかなりの割合を占めていると言われています。例えば、田中らのアンケート調査によれば、事故死の一ないし三割が虐待死と言われています。

 小児科学会員に対する調査によれば、小児ドナー候補者が被虐待児であるかどうかの診断が臨床の場で適正に行えると思う医師は一二・五%しかいません。三四・二%が行えないとしています。また、虐待の診断までに数日から数カ月の時間を要しています。

 虐待死の場合、虐待を行った親自身が、当該小児がドナーとなることを希望していたと説明したり、当該小児の臓器摘出に同意あるいは承諾するという事態が生ずることも予想されます。したがって、第三者組織によるドナーの適切性の判断システムを構築することが不可欠であります。

 この第三者組織による適切性の判断については、少なくとも小児科の専門医が立ち会い、小児ドナー候補者の身体的チェックを行うことなどが求められます。このために、病院内に虐待検討委員会のようなものが必要でありますが、小児科学会員に対する調査によれば、これに類する委員会が設置されている病院は、回答者の一二%が所属する病院にすぎませんでした。

 二、小児の脳死の判定基準の検証並びに再検討。

 二〇〇四年には、小児科学会では全国小児脳死症例について調査を行ったところ、十五歳未満の小児脳死症例数は年間少なくとも四十あるいは五十例あると推測されましたが、その中で判定基準に沿った臨床的脳死診断はわずか十三例にすぎませんでした。

 このように、現行脳死判定基準による小児脳死診断例は極めて少なく、今後の検証には診断基準に沿った症例の蓄積が大切であります。小児脳死診断をした十三例のうち四例が長期脳死例でありました。いわゆる超重症心身障害児の中には長期脳死例がかなり含まれており、今後問題になると思われます。

 さらに、小児科学会員に対するアンケート調査で、新生児を含む小児の脳死診断は医学的に可能だと思いますかと問うたところ、はいと答えた人は三二・二%、いいえと答えた人は一五・九%、わからないと答えた人は四八・八%でありました。この結果からも、現場の小児科医が現在の脳死診断の基準をそのまま小児に当てはめることへの不安が感じ取られます。

 三、小児の意見表明権の確保に関する基盤整備。

 仮にA案の場合、子供の意見表明権は十分に確保されなければなりません。我々は、小児医療現場の経験から、十五歳未満はもとより、十二歳未満の未成年者であっても、適切な情報提供を行うことにより、みずからの状況を正確に理解し、意見を表明することが可能であると考えます。小児科学会員に対する調査でも、十五歳以上が八五%、十二歳以上十五歳未満が七〇%、十歳以上十二歳未満では四六・六%が、子供の意思表示のみ、もしくは本人の意思と親の了解があれば臓器提供はできると回答しています。

 また、我が国が一九九四年に批准した子どもの権利条約第十二条に示されている意見表明権にかんがみれば、十二歳未満の未成年者についても意見を表明する権利が認められているのであって、その意見をどのように尊重するかについては、今後も検討を続けていくべきと考えます。

 現行法の取り扱いが、脳死段階での臓器提供の自己決定をなし得る者を十五歳以上であると画一的に判断している点については、再検討するべきであると考えます。疾病を有したり、友人の死に接するなどして生命について考える機会を得た小児は、十五歳未満であっても死については正確な理解があり、また、臓器を他者に提供することの意義や脳死についても真摯に考えている場合が多いです。他方、十五歳以上の者であれば、未成年者であっても常に当該問題について十分自己決定をなし得るという考え方はフィクションであり、脳死、臓器移植に対する理解の程度は人によってさまざまであります。

 それゆえ、我々は、脳死や臓器移植についての理解を図るため、学校内外での教育を行い、ドナーカードへの署名の前の講習や当該小児の自由意思を確認する必要があると考えます。それらが満たされるのであれば、臓器提供を決定できる年齢を十五歳以上とする必要はなく、少なくとも、中学校に入学した後の児童、十二歳以上が意見を表明した場合には、その意思を尊重しなければならないと考えます。

 万が一、生前に子供が脳死移植を拒否した場合には、親が承諾したとしても、その意思を尊重しなければ明らかな子どもの権利条約違反になるでしょう。このようなことから、現時点では、日本小児科学会の見解はほぼB案に近いものと考えます。

 以上です。どうも御清聴ありがとうございました。(拍手)

吉野小委員長 ありがとうございました。

 次に、加藤参考人にお願いいたします。

加藤参考人 御紹介いただきました加藤でございます。

 本日は、貴重なお時間をちょうだいし、ありがとうございます。私からは、日本弁護士連合会の臓器移植法改正についての意見を御説明したいと思います。

 法律が制定されてから十年が経過しました。ちょうどそのころ、私も日弁連の人権擁護委員に就任し、この問題にかかわり始めました。当時、脳死を死とすべきなのかについて激しい議論が闘わされ、各政党もいわゆる党議拘束を外して、先生方各自の人生観、死生観をもとに検討をなされ、その結果、今回の法律が制定されたものと理解しております。

 法律が制定された当時、脳死は、全脳の機能が失われ、もうもとには戻らない、不可逆的に心臓死に至る、そして心臓死に至るまでの時間は数日単位であるというふうに理解されておりました。

 そのような脳死についての理解を前提に、脳死は人の死であるのか、そうではないのかが議論されました。その上で、最終的には、脳死を死と考える人もいるだろうが、死と考えない人、わからない人も同じ程度存する、したがって、社会全体が脳死を死ととらえているとは判断できないとの結論に達したと理解しております。

 しかし、他方、脳死患者さんから心臓等を摘出した上、それらの臓器の移植を受けることで助かる可能性のある患者さんがいることも紛れもない事実であります。それゆえ、脳死を死と考え、あるいは、そうは考えなくても、自分が脳死になったら臓器を提供したいと考える人の気持ち、自己決定を尊重すべきであるとも考えられたわけです。現行法は、この自己決定が法律の根幹となっております。

 その後十年が経過し、今、改正案が国会に提出されております。しかし、日弁連は、移植例がふえないからふやそうというその理由だけで法律を改正してはならないと考えております。脳死を死とする社会的合意ができたのか、臓器移植がこれまでのケースにおいて適正に進められたのかを十分に情報を公開した上、検証していく必要があると考えております。

 この法律は、人の死にかかわる重要な法律であります。臓器の提供を待っている患者さんのことももちろん大事なことですが、脳死段階の患者さんのことも、それにまさるとも劣らないほど大事なことです。しかも、脳死というものについての知識、知見もこの十年間に集積されました。先ほど申し上げた状態とは違うということもわかってきたと思います。

 現在、脳死と判定されてから三十日以上心停止にならない例は少なくなく、二十年以上生存した、そういう例も報告されるようになっています。脳死になってから出産した例、第二次性徴を迎えた例なども報告されています。アメリカのカリフォルニア州立大学ロサンゼルス校小児神経内科のアラン・シューモン教授は何度か日本にお越しになられ、医学関係者の前で同趣旨の講演をされておりますが、その報告、講演は高く評価されていると理解しております。

 日弁連は、このような脳死についての新しい知見が社会において十分には理解されていないのではないかと考えております。今でも脳死については、やがて心臓死になる、その多くは数日内に心臓がとまるという説明だけがなされているように思われます。平成十八年十一月に内閣府が行った臓器移植に関する世論調査においても、調査の前提として脳死を説明していますが、そこでは、脳死は、人工呼吸などの助けによって、しばらくは心臓を動かし続けることもできるが、やがては心臓も停止する状態と説明されています。

 このように、知識、情報が正確に周知されているとは言えない状況でさえ、脳死を死と考える人の割合がほとんど変化しておりません。また、今述べた内閣府の調査に対してさえ、過半数の方が、本人の書面による意思表示がある場合に限り、脳死での臓器提供を認めるべきであると答えている事実は重要と考えます。

 また、今回改正案が提出されるに至った理由として、脳死になったお子さんから臓器を摘出し、他のお子さんへの臓器移植を認めるべきではないかという点が挙げられております。苦しんでいるお子様を見ると、もちろん胸が痛みます。ただ一方で、なかなか報道されないけれども、長期間脳死の状態で生き続けているお子さんがいることも極めて重要な事実です。

 臓器移植は、臓器の提供を受ける患者さんの利益を考える医療です。それゆえ、臓器の提供を受ける患者さんのことのみを考え、臓器の提供を受ける方だけでなく、臓器を摘出される患者さんのことがその陰に隠れてしまいがちです。しかし、特に小児救急医療体制が不十分なため脳死に至っているケースがあるのではないかという視点から、脳死となる、またその危険性のあるお子さんの権利保障をまずきちんと考える必要があると思います。

 臨床的に脳死と診断されたお子さんがその後自発呼吸を始めたという例や、一カ月以上心停止に至らない長期脳死の子供が全国に六十人以上いることが報道されるなど、お子さんの脳死診断の難しさや、子供の脳死がすぐさま心臓死には至らないことも指摘されています。

 先ほど清野先生からもお話がありましたが、お子さんの脳死診断ができると答えられた医師の方が回答の三分の一にも満たなかったという報告もあります。医療従事者に対するアンケート結果からは、十五歳未満の子供が脳死での臓器提供ができない現状を仕方ないと判断する方が四〇%を超え、提供できるようにすべきだという回答を上回ったという報道もなされております。

 親にとって、子供はただ生きているだけでよい存在です。私は、資料としてお手元に幾つかの記事をお配りしておりますが、その最後の方にある毎日新聞の記事や読売新聞の記事を読んで、その思いを強くしました。それなのに、あたかも脳死がすぐさま心臓死につながるかのような説明を前提とし、しかも脳死の判断が難しいお子さんのケースにおいて、臓器移植など考えたことのない親御さんに対し、今、法律を改正して、突然脳死になった段階で臓器を提供されますかと聞くようにすべきなのだろうかと思ってしまいます。

 国内で移植を受けられない、そのため海外に行くお子さんのことをどう考えるのか、こういった問題を解消するため法律を改正しなければならないのではないかという意見もお聞きすることがあります。しかし、仮に法律を改正したとしても、恐らく、ドナーとなる方は圧倒的に少なく、やはり移植を待つ方々は海外に行くことになるのではないでしょうか。世界的なドナー不足の中、必然的にお金のある国の患者さんが他国に行くという構図は、法律の改正だけでは変わらないと思います。

 先ほど来述べている、脳死というものがいかなる状態なのか、特にお子さんの脳死判定ができるのか、小児救急医療体制は適正に構築されているのかなどを先行して検証する必要があると思います。

 今回、二つの改正案を資料としてちょうだいしました。

 まず、脳死を一律に人間の死とし、本人が拒否の意思表示をしていない限り、家族の承諾のみで摘出を可能とする改正A案がございます。

 この案については、人間の死という概念が単に医学的に決められるものでなく、社会的な合意を得る必要があるという点から、現時点では受け入れられないと思います。

 いまだ脳死を人の死とすることについて社会的合意がないという認識があったからこそ、現行法が成立したわけです。ですから、その点が変わったのかどうかをきちんと確認する必要があると思います。もちろん、その前提として、先ほど来述べている、脳死についての新しい知見もきちんと説明する必要があると思います。

 脳死は人間の死ではないと思う人は拒絶の意思表示をすればよいではないかとの意見もあります。しかし、それでは、意思決定や意思表示ができない乳幼児や小児、さまざまな疾患のために意思表示ができない人、どうすべきか悩んでいる人、それらの人もすべて臓器摘出を容認したものとみなされることになってしまいます。

 また、技術的な問題ですが、本人が拒否の意思表示をしていないという事実を速やかに確認することは極めて難しいと思います。拒否の意思表示をしていないと判断して臓器を摘出した後に、拒否の意思表示カードが見つかるという事態が生じることは否定できません。

 次に、意思表示できる年齢を十五歳から十二歳に引き下げる改正B案がございます。

 この案については、脳死の定義が先ほど来申し上げているとおり非常に理解が難しく、脳死が人間の死かなどの問題については、現時点で十二歳の子供が正しく理解できる状態にはなっていないのではないかと考えております。

 民法は遺言可能年齢を十五歳以上と定め、刑法は十三歳未満の者が性的交渉に同意したとしても強制わいせつ罪などの罪を認めています。みずからの生命自体、その存在を決定する最も重大な決断のできる年齢を安易に引き下げることは許されないと思います。

 また、子供が判断できないときには、親が子供の意思を代行して同意することが許されるのではないかという意見もあるようです。しかし、子供本人の生命や身体には何ら利益がない、そのことについておよそ代行することはできないと思います。

 なお、両案とも親族への優先提供を認めていますが、臓器移植法は、移植術を受ける機会は公平に与えられるように配慮されなければならないと定めております。移植医療における公平性は重大な柱です。仮に、親族への優先提供が認められると、偽装結婚などにより形式的に親族にさせるなど、事実上臓器売買が行われる危険性も否定できません。それゆえ、日弁連はこの点も反対しております。

 いただいた十分間でできる限りわかりやすくと考え、申し述べたところですが、なかなかうまく説明できませんでした。日弁連は詳しい意見書も出しております。ぜひお読みくださいますよう、お願いいたします。また、さらにわかりやすくという趣旨でQアンドAも作成いたしました。どうぞ、これもお読みくださいますよう、お願いいたします。

 御清聴ありがとうございました。(拍手)

吉野小委員長 ありがとうございました。

 次に、町野参考人にお願いいたします。

町野参考人 本日は、このような機会をお与えいただきまして、大変ありがとうございます。

 私は、現行法を改正して、脳死臓器移植を進めるべきだと思います。A案もB案もこの点については変わりはありませんが、私はそのうちでもA案が妥当だと思います。

 第一は、脳死の問題についてです。

 A案は、移植のために臓器を摘出し得る死体を「脳死した者の身体を含む。」として、これを全脳死であると定義しています。これは、現行法より直截に、脳死が人の死であることを認めたものだと思われます。

 もっとも、本人あるいは家族が拒絶したときには脳死判定を行うことはできないとされていますが、これは、脳死臓器移植を認めない人に脳死判定をあえて行わないという趣旨であって、これらの人々に、脳死を選ぶか、心臓死を選ぶかの選択権を与えたという趣旨に解釈されてはならないと思います。

 なぜならば、人がいつ死んだのかは、当事者が選択できることではないからです。人の死とは、多くの人たちが関心を持つべき重要な社会的事実だからです。人々は、人が死んだときには、その死を悼み、別れを告げる儀式を行います。その人がこの世に残した多くのものは、その人の死を境として、遺族など、この世に残された多くの人々に引き継がれていきます。人々の心の中では彼あるいは彼女は生き続けます。人間の死はそれだけの重みを持っているものです。それが人間の尊厳、死者の尊厳の意味です。

 人は死に方を選択することはできるでしょう。しかし、死そのものは、個人の選択が許されるとするのには、余りにも大きな事実です。このことは大人の死も子供の死も変わりはありません。

 B案は、現行法のこの部分については変更しないことにしています。それは、脳死を人の死と断定せず、脳死の人は生きているとしても脳死臓器移植は許されるという、いわゆる違法阻却論による理解を可能にする趣旨なのだと思われます。しかし、これは妥当とは思われません。

 生きている人の心臓を摘出するのは殺人です。脳死が人の死でないのなら、心臓移植手術などは到底行うことはできないはずです。脳死臓器移植は殺人だけれども、慎重にやれば許されるというようなことはありません。

 良心的な医師なら、生きている人を殺してまで臓器を摘出することはしないでしょう。臓器移植コーディネーターは、遺族の方の死の受容を待つことはできます。しかし、御本人はまだ生きていらっしゃいますが、いずれ死ぬのですから臓器の提供をお願いします、それにより本当に死んでしまいますがよろしいでしょうかというようなコーディネーションをすることは到底できません。何よりも、移植医療を待っておられる患者の方々も、生きている人を死に至らせてまで生き長らえようとは思わないはずです。

 私は、B案を提案される方が死の重みに思いをいたして脳死説にちゅうちょされることは、十分理解しているつもりです。しかし、生の重みも十分考慮しなければならない事実なのでございます。

 第二は、臓器提供意思の問題です。

 A案は、本人が生前に臓器提供の意思がないことを表示していないときには、遺族の承諾によって臓器の提供を受けることができるとしています。この改正案は、諸外国の臓器移植法とほぼ同じものです。私は、これも妥当なものだと思います。

 このような立法は、死んだ後には自分の臓器を生きている人のために使ってもらってもよいと考えるのが人間ではないか、本人が生前に反対の意思を表示していない以上、死後の臓器提供は本人の意思に合致しているのではないか、そういう考え方に基づいているものと思われます。このような人間観を臓器移植法の基礎に置くべきではないというのなら、現行法のように、本人が生前に承諾意思を表示している例外的場合でない以上、死後の臓器提供は本人の意思に反するから認めるべきではないということになるでしょう。

 私には、本人の意思表示がないときには、遺族の意思によって臓器の提供を認める諸外国の臓器移植法、そしてA案が、非現実的な人間像を前提にし、死者の自己決定権を侵害しているとは思いません。

 この場合に与えられる遺族の承諾とは、臓器提供が本人の意思にも合致していることを確認する意味を持ちます。

 B案は、本人の提供意思の表示がなければ臓器提供を認めないという現行法の態度を維持しながら、臓器提供意思表示の可能な年齢を十二歳以上にすることを提案しています。これは、言うまでもなく、小児臓器移植を可能にするための提案です。

 この提案が十二歳未満の小児からの臓器の提供を不可能にし、移植を待っている多くのお子さんたちの期待にこたえられないものであることは、しばらくおくといたします。

 しかしながら、臓器提供への自己決定の存在を譲ることのできない重要な前提と考えるB案からは、承諾意思能力を十二歳まで引き下げることは困難だと思われます。特に、脳死者は生きている可能性があるというB案の前提では、臓器提供はそれによって死ぬことを承諾する意思でもあります。小学校を終えるくらいの年齢の子供がこのような意思決定を行い得るとは到底言えないと思います。

 私は、小児臓器移植の問題はA案の形で解決されるべきだと思います。

 A案は、B案と同様、提供者は親族に対して臓器を優先的に提供できるとしています。さらに、A案は、虐待死した子供からの臓器の提供が行われることのないように何らかの方策をとるべきだともしています。私は、この二点は大きな問題を含むものであり、この趣旨の条文はA案からは削除されるべきだと思います。

 時間の関係で、簡単に申し上げます。

 親族への優先提供を認めることは、臓器の配分はそれを医学的に必要としている人から公平に行われるべきであるという臓器移植法の基本理念に反するものだと思います。親族を思う心情は美しいのは確かです。しかし、死後の臓器提供について、より普遍的な博愛を基本としたのが臓器移植法であり、その基本理念を私は変える必要はないと思います。また、変えるべきではないと思います。

 次に、悲惨な児童虐待、虐待死は、いかなるときでも看過されてはならないものです。この問題をあえて小児臓器移植に結びつけることは、臓器移植全体に負のイメージを与えるばかりでなく、深刻な児童虐待問題の本質から人々の目をそらさせることにもなります。児童虐待の早期の発見、防止は、小児臓器移植の可否、臓器移植法の改正とはかかわりなく、市民、行政、司法、医療が総力を挙げて取り組まなければならない緊急の国家的課題であります。小児臓器移植についての議論が問題の矮小化にならないことを私は切に望みます。

 以上です。御清聴ありがとうございました。(拍手)

吉野小委員長 ありがとうございました。

 次に、島薗参考人にお願いいたします。

島薗参考人 宗教や思想、あるいは広く文化を研究している一研究者の立場から意見を申し述べたいと思います。

 日本の宗教界とさまざまな機会にこういう問題を討議してまいりますと、脳死臓器移植の改正A案に対する反対の声が非常に高いことに気づきます。そこに資料を出しておりますが、仏教系の団体では大多数と言ってもいいのではないだろうか、恐らく、キリスト教系の団体ですと、これは逆転するかもしれない。しかし、日本ではキリスト教系の方々の中にも慎重な意見が強いと思うわけです。

 なぜ宗教界の方がそういうふうに考えるかといいますと、このような臓器移植の推進を行いますと、人間らしい死のあり方というものが損なわれるのではないか、また、生きているかもしれない人間を資源として利用する、そういう医療のあり方がさらに進んでいくのではないか、そういうふうな懸念があるからだというふうに理解しております。

 これは宗教団体の意見、考え方なのですが、よく勉強した上でこういう意見を出されているということで、特殊な立場とは言えますが、国民の幅広い死生観を反映しているというふうにも考えられるわけです。

 とにかく、日本では脳死は人の死であると考える人が少ない、諸外国に比べて明らかに少ない、これがこの問題を考えるときの非常に大きなかぎになるかと思います。そして、それにはかなりの根拠があるということが重要な点であります。

 まず、これについては、さまざまにこれまでも議論がなされてまいりましたが、現在の世界的な臓器移植推進の背後にある脳死は人の死であるという考え方は、文化的なある偏りを持ったものではなかろうか。脳に生命の座がある、脳が死ねば人間は死んだことになる、こういう考え方は、霊と肉、身体と精神、主体と客体というのを分離する西洋の伝統的な考え方、また極めてそれが強調された形の近代の西洋の考え方というものに影響されているのではないかという理解が一つございます。

 もう一つ重要なことは、死というものはそもそも人と人との交わりの中で起こることであって、脳死を人の死とすることによって大切な死のプロセスというものが損なわれてしまう、そういうことが考えられます。

 これについてはたくさんの本が書かれておりまして、例えば、柳田邦男さんの「サクリファイス」というふうに非常に広い影響を持った書物なども挙げることができます。二人称の死ということを言われましたが、大切な人との別れのときというものをたっとぶ、そういう思いから、脳死判定を通じて臓器移植ということを前提とした場合、そのプロセスに大きなダメージが生じてしまう、こういうことが国民にかなり周知されているということがあると思います。

 科学的に申しましても、先ほど日弁連の参考人の方からの御意見がありましたように、脳死体といっても体が動く、脳死体から子供が生まれる、脳死体から臓器をとるときに麻酔をかける等の、脳死が人の死であるということとは直観的に相反する事柄が多々ある。そういうことも、国民が脳死は人の死でないと考える大きな理由になっているかと思います。

 さらに、そのような臓器移植を無理に進めることによって、まだ回復するかもしれない人たちへの生命回復の努力ということが弱められる可能性があるのではないかということが重要なポイントかと思います。

 先ほど加藤参考人が多くの資料を挙げられましたが、その中で欠けているのは、脳死を人の死とする人が日本人の中にどのぐらいいるか、しかも、正しい情報に基づいてそのような調査をしたらどうなるかということでありまして、恐らくまだ五〇%に達するかどうかというところではないかと思います。

 このように、脳死は人の死でないということが浸透している、これが前提にならなければならない。これは、一九九二年の脳死臨調の報告以来、国民に浸透し、そして、世界的にもそういうふうな考え方が一定の理解を得るようになっていると私は考えております。

 そして、その中で一つ重要なポイントとしては、例えばピーター・シンガーなどという、非常にこういう医療を進めることを主張している人物、哲学者でありますが、そもそも、脳死を人の死とするということは臓器移植を推進するために便宜的に決められた死の定義である、したがって、これは将来動かすこともできるものであり、もっと広げていくこともできる、こういうふうな考え方もあるわけであります。

 さて、そのように、脳死が人の死でないと考える人が多いにもかかわらず、臓器移植のために臓器を提供したいという人がおられる場合、その善意を尊重しようというのが現行法であります。これは、一種独特の、日本人の知恵として生み出されているものでありまして、非常に微妙な、際どいバランスの上に成り立っているわけであります。

 ここで、そのような、脳死が人の死でないかもしれないのに、なお臓器移植を進めていいと言うためにはやはり条件がありまして、本人の意思確認というのは絶対にこれを譲ることができない、そういうものであろうかと思います。

 四のところへ今進んでおりますが、本人の意思表明がないのに死を早める決定ができるとすることは、世界的な医療倫理、生命倫理の根幹を揺るがすような非常におかしな決定になると思います。

 日本はとりわけ脳死は人の死でないと考える国において、非常に緩い脳死判定が行われる、臓器移植の推進が行われる、無理な推進が行われるということは、そもそもこの国は医療倫理の基本を守る意思があるのかどうかということを疑問に付すようなものではなかろうかと考えております。

 そもそも、この法案改正の動機というものが、諸外国が推進しているのに日本はおくれている、そういう考えでありますが、国民の意識、考え方、価値観、死生観、そういうものにのっとって判断をすれば、決してこれはおくれているとか進んでいるという問題ではありませんで、みずからの信念に基づいてどのような判断をするか、それを国民的な合意を得ていくか、こういうことの問題であろうかと思います。

 それから、この法案に限らず、生命倫理問題にかかわりまして、このようにアドホックにその問題だけを取り上げて議論するのでよいのかということを申したいと思います。

 生体移植と死体からの移植というのは非常に深くかかわっているわけでありまして、親族への優先というようなことも生体移植においてどうかということと結びつけて考えなければなりません。日本では、生体移植が非常に進んでいること自体が大きな問題を持っているとも考えられます。そういうようなこともあわせて検討すべきであろう、より大きな、広い立場からの生命倫理問題の考察、その中でこそ脳死からの臓器移植ということも正当な位置を持って考えられるはずである、そういうふうに考えます。

 最後のところですが、まとめになりますが、日本人が脳死とされる人からの臓器移植に慎重である理由でありますが、これは、人間らしい死を死にたいという気持ち、あるいはそのように人を送りたいという気持ち、それから、そのように攻撃的な医療にもし進んでしまうということになりますと、医療本来の目標からずれてしまうのではないか、そしてそれは医療そのものへの信頼を損なうことになるのではないか、こういう懸念があるからであろうと考えているわけであります。

 以上をもちまして私の意見表明とさせていただきます。御清聴ありがとうございました。(拍手)

吉野小委員長 ありがとうございました。

 次に、井手参考人にお願いいたします。

井手参考人 全国交通事故遺族の会の理事をしております井手と申します。会長である夫が体調不良で、本日は、会長代行ということで、私が臓器移植法改正について会の意見を述べさせていただきます。

 初めに、若干、会について説明させていただきます。

 全国交通事故遺族の会は、交通事故で娘を失った私たち夫婦が、被害者の心のケア、被害者の支援活動、事故防止活動、被害者の人権の回復を求めて平成三年につくりました自助グループでございます。被害者の自助グループとしては全国で初めての団体で、多くの遺族が会員となり、被害者の生命と人権を守るためにさまざまな活動を行うようになって、ことしで十六年になります。

 そうした活動の中から、私たちの会では、脳死を人の死とすること、脳死臓器移植を国策として進めることに対し強い反対の意見を持っており、現在の臓器移植法改定についても断固反対の姿勢でおります。そのドナーというのは、ほとんど交通事故の被害者の人たちのことだと言っても構わないほど、移植用臓器の供給源として期待されているからです。

 突然の交通事故とは、つい先ほどまで一緒に食事をし、話をして、笑い合っていた家族が、一瞬にしてもうこの世にはいないということです。大切な子供、夫、妻、親、兄弟を突然の交通事故で失った私たちは、皆パニック状態です。何も頭に入りません。テレビドラマか映画の中に入ってしまったようで、現実感がありません。内閣府の作成した犯罪被害者対策の基本計画にもこのことははっきりと述べられています。正常な判断が下せないと書かれているのは本当にそのとおりなのです。余りのショックで、記憶さえもなくしてしまう方もいます。

 このような状態にある家族に、治療をやめ、脳死判定を促し、脳死を宣告し、臓器の摘出の承諾書を書かせる。脳死と言われても、私たち家族にとっては、何とか助けてほしい、先生どうにか助けてほしいと言ってすがりつくばかりの思いでいます。心臓はまだまだ動いているではないですか、体も温かいし、お小水も出ているし、汗もかいて、涙も流れています。手を握れば握り返してきます。とても死体とは思えません。生きているのです。

 車に激突されて激しく傷ついた大切な家族から、全身麻酔をかけてまで臓器の摘出をしなければならないのでしょうか。事故で傷ついた上に、さらに傷つけることは私たちにはできません。混乱のきわみにある私たちに、さらに混乱することをさせるのはやめてください。本人の意思が不明な場合、家族の同意でオーケーの改正案、意思表示のできない小さな子供のかわりに、はっきりとノーと言っていない配偶者のかわりに、うっかりのんきにノーということを書き忘れた兄弟のかわりに、家族に臓器の摘出の承諾書を書かせないでください。被害者の家族に判断をゆだねることはしないでいただきたいんです。

 脳死を死とする医学的な根拠というのは実は何もなく、脳死臓器移植を盛んに行っているアメリカ、イギリスでも、お手元の資料に添付しましたが、改めて脳死を人の死としてよいのか、社会的な合意を得ることが必要だと主張する学術者がふえていると聞いています。日本でも、最近、新聞報道にあるように、脳死と言われても長期間生存している人も少なくないのです。

 脳死を死だというのは、移植を待っている患者さんがいるから、法律で脳死の人を死体扱いとしようというだけのことです。突然の犯罪被害に遭った者に、救済や支援ではなく、法律が死体であると引導を渡すなど、犯罪被害者基本法で保障した被害者の権利との整合性はどう図るつもりなんでしょうか。

 まして、日本の救命医療は充実した状況ではありません。私の娘の場合も、事故後十分で基幹病院の船橋医療センターに搬送されました。意識はないものの、酸素マスクを外して起き上がってしまうほどでしたが、三時間ほどたって、頭痛を訴える娘に、医師は鎮痛剤を一本打ちました。そこが生死の分かれ目だったのに気がついたのは十二時間後、脳死状態になってからでした。脳死状態になってから、脳圧を下げる薬を点滴し、医師による回診が始まりました。こんなお粗末な医療が救命救急センター、脳死臓器移植の施設として認定を受けている病院でなされているのです。こうした経験をしている会員さんもたくさんいらっしゃいます。

 交通事故の被害者が脳低体温療法の設備を備えた病院に運ばれ、障害を残したものの一命は取りとめたという話を聞きますと、移植法案がなかなか成立しなかったために、だからこそ生まれた技術。すべての医療施設で脳低体温療法が行われる日が来ることを願ってやみません。

 助かる命とは、まず救命医療を必要とする側のことなのは明らかです。助かるはずの命を死なせて、その死んでいく生命から、命から臓器の提供を受ける。臓器不足、ドナー不足の解消を言う前に、救命医療の充実を図るべきです。

 私の娘の話に戻りますが、四日後、私たちの必死な願いにもかかわらず心臓停止で亡くなりました。ある日突然事故で家族を失った私たちにとって、このみとりの四日間は、今後生きていく上で大きな支えとなりました。医療の現場で、助かる命と助ける命を比べてはならないと思います。

 また、交通事故で亡くなった人には検視があります。遺族にとってはつらいことですが、検視というのは犯罪事実の証拠として非常に重要です。そのため、現行法でも、臓器の摘出よりも検視を優先すると明記されていますが、脳死状態で検視を行うのは事実上不可能だと脳死の家族をみとってきた私たちは痛感しています。人工呼吸器を初め多くの医療機器につながれた状態で、事故態様、衝突の具体的な様子、けがの状況、状態を調べることが本当にできるのでしょうか。

 ここに「脳死のベッドサイド」という本があります。現行法が制定されたとき、脳死状態での検視についての注意事項を書いたものです。体の表面のどんな小さな傷も見逃してはならない、つめの中まで調べると書いてあります。しかし、脳死の人の体の向きを変えたりすると、血圧の変動、時には心臓がとまりそうになるなど、いろいろな変化が起こる場合があり、そのときには直ちに中止しろと書いてあります。中止した後は、その後どうしろとは書かれていません。

 これまで、ドナーが犯罪被害者でいた場合、検視がどのように行われたか、検証委員会がありながら何の報告もされていません。お手元の厚生労働省作成の資料にも何の記述もありません。これでは、現行の臓器移植法の検視に関する規定が本当に守られているのか大変疑問に思っています。

 もう一つ考えなくてはならないことは、臓器移植法案が施行されて十年間で臓器提供されたのが六十二例だったということ。ドナーカードが一億一千二百万枚、意思表示シールが三千百三十四万枚配布されているのに、記入されているのは六・一%、常時携帯されているのは二・六%にすぎません。

 毎日、テレビ、ラジオで宣伝し、命の贈り物としてマスコミに取り上げられているのにふえないのはなぜか考えてみたことがあるでしょうか。私たちは、私たちの身の上に起きた交通事故が絶対ほかの方に起きないように若い人に街頭で日々訴えていますが、自分たちが事故で死ぬと考えている人は皆無でした。それと同じように、自分たちが臓器提供をする側になると考える若い人は少ないはずです。

 他人事であれば、移植を望む患者さんが募金を集めて海外で移植をしなければならないのはおかしい、外国で助かっている命が日本で助からないのはおかしい、小さい子供たちも日本で臓器移植ができるようにすべきだと考えます。ほかの人に勧めても、自分のこととなると違うのです。こういう状態を社会的コンセンサスができているとは言わないのではないでしょうか。

 刈り場を広げても、決して脳死からの臓器提供者がふえるとは思えません。刈り場を広げれば国民に著しい混乱の場を与えるだけです。特に医療現場の方に混乱を与えます。こんなに国民の建前と本音の違う法案はありません。

 小児科学会も、小児の脳死判定、虐待児の問題、現場で解決しなければならない問題があって、全面解禁は困ると言っているではないですか。この十年間、移植推進側のしてきたことは、足りないから下さい、足りないから下さいと言ってきたことだけです。

 国民の信頼をかち得るために、正確な情報の公開と疑問に対する説明、問題点の解決、相入れない部分の議論の積み重ねなど、建前と本音のギャップの部分をどう誠実に地道に埋めていこうという努力をしてきたか、その努力を怠ってきたことが、ふえない理由だと考えます。

 私は、議員さんの役割は、国民の生と死にかかわる問題を、歴史に禍根を残さないように、脳死臨調等を設置し、本当の社会的コンセンサスができるまでさまざまな機会をとらえて誠実に議論を重ねていくべきだと考えます。大きく大きく国民全体に対する影響も考えて、慎重の上にも慎重であっていただきたいと思います。

 ありがとうございました。(拍手)

吉野小委員長 ありがとうございました。

 以上で参考人の方々の御意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

吉野小委員長 これより参考人に対する質疑に入ります。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。福岡資麿君。

福岡小委員 自由民主党の福岡資麿と申します。

 本日は、各参考人の方々、大変御参考になる御意見をちょうだいしまして、まことにありがとうございました。

 冒頭意見陳述、十分ということでございまして、各参考人の方々、なかなか意を尽くせなかった部分が多かったというふうに思いますが、その中でも、さまざまな考え方、立場があるということを十分理解させていただきました。

 脳死を人の死とするかということなど極めて重要な問題をはらむだけに、慎重に議論を尽くすべきであることは言うまでもありませんけれども、実際に、移植を希望し、そして夢もかなわないまま亡くなられている方が現在たくさんいらっしゃることにかんがみましても、やはり国会でもさまざまな機会で議論をしていくことが必要ではないだろうかというふうに思っていますし、本日小委員会でこのような機会が設けられたこと、大変意義のあることだというふうに思っております。

 私に与えられた時間は二十分でございますので、それぞれの参考人の方々全員にお聞きすることはできないかもしれませんが、限られた時間の中で順次質問をさせていただきたいというふうに思います。

 まず、野村参考人にお伺いをしたいと思います。

 御自身もおっしゃっておりましたが、御自身も肝臓の臓器移植を受けられた経験をお持ちでいらっしゃいます。今まさに国でもC型肝炎の訴訟の問題等いろいろあっておりますけれども、今、賛成の立場、反対の立場、両方の立場の方々のを聞いているときに、やはり社会的な認知、社会的コンセンサスがあるかどうかというようなことが一つのポイントとして挙がっているやに思われます。

 参考人はアメリカでもそういったいろいろな活動をされているわけですけれども、御自身から見て、アメリカ社会における例えば臓器移植に対する考え方、そういった社会的なコンセンサス、日本と比べて本当にどんな差があるのか、それとも差がないのか、その辺の御自身のお考えをまずお聞かせいただきたいと思います。

野村参考人 社会的コンセンサスの問題なんですけれども、日常的に繰り返していることですと、伝統的に、大体常識ということであると思うんです。しかし、特にこの死の問題というのは、今でも日本に行くと、ホテルや何かでも四号室、九号室、つっつっとないわけですよね。それぐらい実は今までタブーであった。それが突然、この脳死という現実が起こったここ二十年間突きつけられたので、そもそもコンセンサスの土台がないんだと思うんです。

 ところが、大ざっぱな言い方になりますが、それこそ欧米ではキリスト教の伝統があります。キリスト教で思い出されるのは、まず十字架です。あれは死刑の道具です。そこで殺されているキリストのイメージです。そして、これは信仰の問題ですが、それは復活、永遠の命へとつながるという信仰があります。

 ですから、ある意味では、メメント・モリという言葉はこのごろ日本でも聞かれるようになりましたけれども、結局人間というのは死する存在であるということを忘れるなと。ですから、そういうところの前提がある中でのコンセンサスと、むしろ日本ではこれを機会にコンセンサスをつくっていかなければいけないんだと思います。

 残念ながら、今までのところでは、日本は世界でもまれな、少なくとも先進国で我々が経験している中では、死を前提とする文化、死を美化する文化。ですから、例えば武士道とは死ぬことと見つけたり、サラリーマンの間では平気で首切りだ、切腹物だと。それから、子供のいじめでよくある言葉が死ねという言葉だそうです。これは英語にできないのを御存じですか。英語では言えないんです。というのは、そういう発想自体があり得ないんです、殺すぞとは言えるけれども。というあたりですから、死を美化している。

 それから、先進国ではほとんど今死刑ということが、アメリカでも一部の州では反対です。ところが日本では、この前も三人ありましたし、その名前がさらされるというような、そして、悪いことをしたやつは死ねというような、何か死を前提とした文化自体がもう一回考え直されるときに来ているんじゃないか。

 これで最後にしますが、アメリカの人に言われて、どうしてアメリカまで移植に来なきゃいけなかったんだと。いや、日本では脳死のことが大変問題になっていると言ったら、そのお医者さんが、それはちょっと信じられないと言うんですね。こっちもむっとしました、日本人として真剣に考えていましたから。そして、どういうことですかと言ったら、いや、日本のことはよく知らないけれども、医療界では、日本が妊娠中絶が一年間に何十万あるということで有名で、よくもあの国はそんなふうに胎児を、子供を平気で殺すんだね、医者がよくそんなことをやるねと。ところが、片や、それから自殺の数も物すごく多いそうじゃないか、大体、毎週毎週五百人乗りのジャンボジェットが一機落ちている数の自殺者が出ている、なのに、自殺者に対して大胆な行動もとらず、それから三十何万という妊娠中絶に対しても積極的にあれせず、僕の学生の中にも悩んでいるのがおります、脳死の問題となると顕微鏡のようなミリ単位のあれする、日本は不思議な国だということを言われたんです。

 今、我々がこれを通してコンセンサス、それから幼児虐待の事実、そういったことを、これを通して真剣にこの社会がどうすべきか、そういう意味で、経済効率ではなくて生命効率、どれだけ命を支えるか。そのためには、経済、これはお金も必要でしょう。そうしたときに、世界から見直される、日本もやるじゃないか、学ぶところがあるじゃないかというような日本の品格の回復ができると思っております。

福岡小委員 参考になる御意見、ありがとうございました。

 時間もございますので、次に寺岡参考人の方に御意見をお聞かせいただきたいと思います。

 今おっしゃいました、何とか社会的コンセンサスができた上において、やはり多くの人が納得するルールの中で臓器移植の道がより拡大されて多くの命が助かっていくということは、私は望ましいことだろうというふうに思っております。また、先ほど問題提起もありましたように、多くの国内で受けられない方が海外に出ていって移植を受けられているという現状も、決して望ましいことではないだろうというふうに思っています。

 そこで、一つ聞きたいんですが、先ほど加藤参考人、井手参考人の方からもありましたけれども、慢性脳死というようなお話がありました。従前、数日で亡くなるというのが一般的だったのが、中にはやはり長期間、脳死の方でも生存し続けられる方がいらっしゃる。それがなかなかやはり国民に普及していないんじゃないか、そこがなかなか、わかっていればもっと違う判断というのも出てくるんではないかというような御意見もあるわけなんですが、その点も踏まえて、寺岡参考人の御意見をお聞かせいただきたいと思います。

寺岡参考人 お答えします。

 慢性脳死の問題に関しましては、つい先般も新聞紙上をにぎわしまして、私もそれは読んでおります。

 この問題には幾つかの問題があるかと存じます。これはさきの参考人質疑の場におきましても問題になりましたが、そのような方々が正確で厳正な脳死判定を受けておられるかどうか、この点に関しましては大いに疑問があります。これはさきの参考人質疑で阿部議員もお答えになっておりますように、ほとんどの方がきちんとした脳死判定を受けておられない。また、今回の新聞報道によりましても、無呼吸テストをやっていないということでありまして、無呼吸テストをやっていなければ、現在の日本の法的脳死診断からは外れるわけでございます。

 それからまた、どのような条件下で脳波を検査されたか。現在の脳波の検査は感度を上げてとることが規定されておりますが、そのようなことが一切記載されておりません。また、きちんとした脳幹反射の検査がどの程度行われて、どれが陰性で、どれがどうだったのかということも判明しておりません。

 こういったことから、きちんとした法的脳死判定基準に従って判定されたものは、昨今の新聞報道に見られる事例におきましてはなかったというふうに判断せざるを得ません。

 もう一つは、そういったことをあらわす一つの根拠としまして、先ほど加藤先生の方から提出された資料でございます。例えば、二〇〇七年十一月十八日の読売関西版、「“脳死”とされた子供」、脳死に点々と振ってあります。それから、その次のページの「長期脳死児」、これは毎日新聞の記事でございますが、長期脳死児にかぎ括弧がついております。これをお聞きしましたところ、これは本当の意味での脳死ではないから、こういうふうな点々を打ったんだ、かぎ括弧をつけたんだということでございまして、これはある意味では非常に、何といいますか、無責任な書き方ではないか、一般の読者に誤解を与える書き方ではないかと思います。

 さて、もう一つの本質的な問題としまして、きちんと脳死判定をされた方々がどれぐらい生存できるだろうかということに関しましては、これは確かに御指摘のように変わってきています。しかし、それには、例えばADHといいまして、抗利尿ホルモンというホルモン、これは脳下垂体から出るホルモンでございます。それから、甲状腺ホルモンとか、そういったいろいろな生体環境を脳のコントロールにかわって外からコントロールして、やっと心臓の拍動を維持できるという意味でございます。そういった形で、本来は脳あるいは身体の中での恒常性の維持、ホメオスタシスの維持といいまして、自動的に調整されている機能がバランスを失っているために、外から人為的にそういった環境を維持しますと、心拍動を人工的に維持する期間は、例えば二カ月、三カ月、あるいは、ひょっとしたら一年に及ぶかもしれないということが言われております。

 先ほどから何度も例に出ますアラン・シューモンさんの症例に関しましても、これは厳密に脳死判定を行われたものは非常に少なく、そして、福嶌先生の御意見では、大阪大学でそのようなホルモンを投与して心機能を維持された事例があるということでありますが、それも引用されています。その大阪大学の症例に関しましては、きちんとした脳死診断がされているということでございますが、そのほかの事例に関しましては、アラン・シューモンさんが引用された事例ですら、きちんとした脳死診断はしていないというのが実情でございます。

 以上でございます。

福岡小委員 ありがとうございました。

 続きまして、ちょっと順番を飛ばさせていただきまして、町野参考人の方に御意見を伺いたいと思います。

 先ほどの御意見の中で、基本的にはA案という方が望ましいということをおっしゃっていただきましたけれども、その中で、親族への優先提供という部分については必ずしもそうではないというような御意見をさらっと述べられたというふうに思いますが、そのあたりを若干掘り下げてお聞かせをいただければと思います。

町野参考人 ちょっと、さらっとというのはなかなか難しい話でございます。

 基本的に、脳死臨調は三本の柱がありました。一つは、脳死は人の死であるということ。もちろん、少数意見はありました。もう一つは、提供者の任意の提供で、つまり本人の意思に基づいて提供されること。三つ目が、臓器の公平な分配というものであったわけです。この三本の柱のもとに立って臓器移植法はつくられていると私は理解しております。そして、第一の問題、第二の問題、いずれもかなり非常に不明確になってきたのが臓器移植法だと思いますけれども、この第三のところ、これも今掘り崩されようとしていることは、私は妥当ではないというぐあいに思います。

 しばしば言われることは、生きている人については親族への提供というのは大丈夫なのに、どうして死んだ人についてはそれができないのかというぐあいに言われます。しかし、これは話の順序が逆でございまして、生きている人については、実は臓器提供というのはなるべくやらない方がいい。禁忌といいますか、原則はだめだということです。そして、やむを得ない場合についてだけこれを提供を認めようと。どういうことかというと、臓器の提供がないというような場合がそうでございます。そのようなことで認めるわけですから、これが売買だとかそういうことになってはならない、他の経済的なインセンティブによって提供されるようなことがあってはならない、だから親族に限るのだというぐあいにされているわけでございます。ですから、最初から親族に提供する権利が生きている人にもあるわけではないのです。

 したがって、これを死者の方に直ちに持ってくるということは議論として非常におかしなものがあると同時に、やはり生と死との境というのはこれぐらい大きなものだということを認識していただきたいというぐあいに私は思います。

 ちなみに申し上げますと、幾つかの国、例えば韓国では、今のような脳死臓器移植の範囲に限ってですけれども、親族への提供ということを優先させるような趣旨のものがございます。しかし、これは必ずしも成功していないというぐあいに聞いております。

福岡小委員 ありがとうございました。

 続きまして、加藤参考人の方にお聞かせをいただきたいと思います。

 冒頭、野村参考人の方にもお聞きさせていただきましたけれども、臓器移植等に関する、もしくは脳死に関する国民的な合意という部分で、日弁連さんもまだ疑問があるというふうにおっしゃっているわけなんです。ただ、内閣府の調査等では、やはり理解を示してくださる方の数というのが、少しずつですけれども、調査ごとに上がってきているというような数値もあるわけでして、何をもって、一〇〇%ということはあり得ないわけですから、どこまでをもって国民的な理解が進んだということを判定するというのは非常に難しいと思いますけれども、その辺で、今はまだ国民的な合意形成、理解が進んでいないと言われる根拠なりお考えなりというのを改めてお聞かせいただければというふうに思います。

加藤参考人 確かに、どの時点で国民的なコンセンサスが得られたかというのは非常に難しいことだと思います。ただ、私が思いますのは、それを死ととらえる前提のいろいろな諸条件というのがまずあると思うんです。

 それは、先ほど井手参考人がおっしゃられたように、小児の救急医療の問題ですとか、あるいはみとりの問題、それからドナーの遺族の方のその後の精神的なケアの問題、そのようなことが全部含まれて臓器移植が定着するというのが一方であって、その一方で、脳死について、臓器移植が進んでいく中で脳死というものもどんどん理解が深まっていくと思うんです。単純に脳死は死かということだけを、今定義を、その定義についても先ほど申し上げたように正確ではないと思いますが、脳死は死ですかという質問だけで答えが例えば八〇%になったから、これは死なんだというふうなことではないと思うんです。

 それともう一つ、やはり宗教団体でありますとか、それから交通事故の遺族の団体の方でありますとか、そういった方々の声というのは非常に重く受けとめています。アンケートで数字が例えば六〇%、七〇%というふうになったから、そこでコンセンサスが得られたというふうなものではないというふうに考えております。

 以上です。

福岡小委員 ありがとうございます。

 もう時間も押し迫っていますので、最後に、清野参考人の方に御意見をお聞きしたいと思います。

 先ほど児童虐待にかかわる部分のお話をいただきました。これもいろいろな調査を見ると、虐待が原因かどうかというのがわかるのに非常に日数がかかるケースがあるということです。

 そういうことで、なるべく、虐待かどうかという原因を探る機関、組織をきちんと整備していくべきだというようなお話でしたけれども、そうはいっても、なかなかやはり、実際に二カ月、六十日とかそれ以上かかっているケースもあるわけで、そう簡単にわからない部分も、特に親が否認している部分については多々あると思います。その辺、ちょっと私もなかなかイメージがつきづらいんですけれども、どういった、虐待であるかどうかをわかる仕組みづくりというのが必要かという部分について、御意見をお聞かせいただきたいと思います。

吉野小委員長 清野参考人、簡潔にお願いします。

清野参考人 はい。やはり、そういうことに関する専門家の小児科医はいますので、そういう人が入った第三者監視委員会のようなものが病院にあって、そういう小児の救急の現場で直ちにその委員会が発動してチェックして、まあ虐待はないだろうということを検証する必要があると思います。そういうふうな委員会があるのが我々の調査した機関の中で一二%ぐらいですから、少なくとも、もしそういうことをやるとしても、そういう委員会が設けられた機関に限るべきではないかと思います。

福岡小委員 時間が参りましたので、これで終了させていただきます。ありがとうございました。

吉野小委員長 次に、古屋範子さん。

古屋(範)小委員 公明党の古屋範子でございます。

 本日は、参考人の皆様、朝早くから国会においでいただきまして貴重な御意見を賜りましたこと、心から感謝を申し上げる次第でございます。

 非常に重い臓器移植というテーマで小委員会が設置をされまして、きょう最初の参考人質疑でございます。それぞれの参考人の皆様にお伺いをしてまいりたいというふうに思っております。

 まず、野村参考人、御自身も海外で移植手術を二度受けられたということでございますし、また多くの方々のさまざまな移植に関することとかかわっていらっしゃるというふうに思いますが、海外での移植をするのに、先ほどは募金をして借金をしてということをお触れになりましたけれども、それ以外に御苦労している点がございましたら教えていただけますでしょうか。

野村参考人 海外か日本かにかかわらず、命の瀕する、しかも緊急度の高い状況の中で、家族が静かに落ちついているはずがありません。

 しかも、外国に行った場合には二つのことがあります。明らかに、親戚ですとか友達とかと近くコミュニケーションをとって、あるいはお見舞いに来てくれて、サポートしてくれるということから全部切れて、自分たちで、多くの場合、家族はアパートを探さなきゃいけない。全く見知らぬ土地で、言葉も通じないところでアパートを探して、病院に本人がいてそこに通うというのは、もう御想像のおつきのとおりです。

 しかも、そこで言葉が違います。そして、ある意味では、これは僕は非常にいいことだと思っているんですが、日本の現実からいった場合、残念ながら、特にアメリカの場合でいいますと、すべてを言葉であれして、インフォームド・コンセントということがありますが、本人が理解をして了解しないと、お医者さんは一寸先にも進めないわけです。ということは、言葉で徹底的に議論をしてお互いの了解のもとで行っていくというのが大原則ですから。しかし、日本の場合は、英語であるということでとてつもなく困りますし、それから、ちょっと文化面になっちゃまずいんですが、小さいときからそういう議論を積み重ねて合理的に、論理的に結論に持っていくということになれていません。

 そこで、まして感情的になると、大変な誤解ですとか、それから今度は疑心暗鬼になりますと、ナースの方、お医者さんのちょっとした動きが、外国人なんだからじゃないか、こっちのことが、日本人が臓器を奪いに来たんじゃないだろうかと、ネガティブに、ネガティブに考え、しかもそれに対して今度はディフェンシブになっていくというのは大変つらい。

 それから、その結果、本当に努力してくれても、みんなが回復して、元気になって戻ってくるのはあれ、そして、よくたたえられるのは、元気になって戻ってきたら脚光を浴びるわけです。自分のお子さんの場合違うじゃないか、これはどういうことなんだと。

 そういう意味で、本当に命の問題というのはそう簡単に説明のつかない問題である。それが、そういういろいろな条件が、文化的にも言語的にも習慣的にも違う外国ではもっと大変だと思います。

 ですから、ある国では、その国では移植ができないのでアメリカにというのに会いました。東欧の国で、今名前は申しませんけれども。その場合は、国がカウンセラーと費用を全部つけて送る、そして、こっちから見たらある種うらやましいぐらい保護された中でアメリカで移植を受けるという国もあるようです。

古屋(範)小委員 ありがとうございました。

 この資料によりますと、今まで海外渡航をして移植を受けられた方は五百二十二名と伺っておりますけれども、やはり私などが想像する以上に大変な御苦労を抱えていらっしゃるのだということが今わかりました。

 それから次に、寺岡参考人にお伺いをいたします。

 先ほど小児科学会の方から幾つかの基盤整備に関する意見陳述がございました。基盤整備がまだ整っていないという御意向であったかと思います。三点、先ほどお述べになったと思いますけれども、その中で二つ、特に被虐待児への対応を今後どうするかという点、それから脳死の診断基準についての御意見がございました。小児に対するこの二点の対応についてどのようにお考えになるか、お教えいただきたいと思います。

寺岡参考人 お答えします。

 まず最初に、基盤整備の問題でございます。

 私は、移植学会に所属しておりますが、移植学会だけでできることではございません。これは医学会だけでもできることではありません。やはり法の整備それから行政的な基盤整備、いろいろな方面、各、あらゆる方面からの基盤整備が必要でございますが、そのような一般論を申し上げても仕方ありません。

 恐らく、この問題で一番重要なのは、先ほどから何度も御指摘なさっておりますように、どういうふうな名称になるかは別としまして、各施設ごとにそういったものをチェックする委員会が何らかの形でできる必要があるだろうということ、それからもう一つは、現在、各都道府県におきまして、第三者機関ということを先ほど清野先生がおっしゃいましたが、そういったものができつつある。また、市町村にも、行政の方から、かなり、そういった虐待に対する取り組みをどうしたらいいかということの整備が行っているようであります。

 私は、この虐待の問題は、町野先生がおっしゃいましたように、臓器移植の問題だけではなくて、それ以前に、臓器移植、臓器提供がなくても、まず虐待をなくすことを始めるべきであろう。虐待を監視する方法、見つける方法もこれは抑止力としてありますが、まず虐待をなくすにはどうしたらいいかということから総合的に始めてしかるべきだろうというふうに考えております。もちろん、虐待児からの臓器提供は決して認められません。それは、今回のA案の法案にもきちんと示されていると思います。

 それから、脳死の判定基準に関してでありますが、これは御承知のように、平成十一年に「小児における脳死判定基準に関する研究」という、研究班の報告書が出ております。これには、当時国立国際医療センター総長であられた鴨下先生、国立小児病院麻酔・集中治療科の阪井先生、静岡県立こども病院脳神経外科医長佐藤先生、それから国立小児病院神経科医長二瓶先生、このように小児の脳神経の専門家を多数含む形で構成される研究班の方々が出された診断基準がございます。

 これは、成人の判定基準に比べまして、体温が深部温で三十五度未満、成人では三十二度でございますが、それより厳しくして三十五度未満とすること。それから、観察時間が成人では六時間でありますが、小児では二十四時間以上観察しなければいけないということでございます。そのほか、年齢による除外で修正齢十二週未満を除外するといったことでありまして、かなり厳しい内容になっておりまして、これであれば六歳未満の小児におきましても脳死判定が可能であるという報告書でございます。

 私は、脳死判定の専門家ではございませんので、このような日本を代表する小児の神経の御専門の先生たちがおつくりになった判定基準で十分であろう。また、実質的に、千二百二十の医療施設におきまして百三十九例を解析されておりまして、外国の文献の考察も行い、この妥当性を主張されておりますので、これが現在のところでは我が国における一つの基準になっているだろうというふうに考えます。

古屋(範)小委員 私も、児童虐待に関しましては、本年さらに強化をする法改正も行いまして、また、市町村での体制もさらに強化をしていこうというふうに考えております。これは社会全体で、特に政治の側の責任として対応していかなければいけない問題なんだろうというふうに考えております。

 次に、清野参考人にお伺いをいたします。

 私も、内閣府の世論調査、手元にございまして、十五歳未満からの臓器提供ができないことについてどう思うか。できないのはやむを得ない、一九・五%。できるようにすべきだ、あるいはどちらかといえば臓器移植が受けられるようにすべきという意見が六八%ございます。

 また、十五歳未満の者の臓器提供の意思を尊重すべきかどうか。十五歳未満の者の判断であっても、本人の意思を尊重すべき、二六・九%。十五歳未満の者は適正な判断ができないので、他の者、家族がかわって判断すればよい、三八・七%となっております。

 この世論調査に関しましてはどのような印象をお持ちか、お伺いいたします。

清野参考人 我々は小児科学会の立場ですから、小児科学会会員に対する調査では、十五歳以上ないしは十二歳以上は七〇%以上がオーケーしていますが、十二歳以下になりますともう既に四四%となっていますので、その辺が小児科学会会員の分岐点ではないかと考えております。

古屋(範)小委員 調査をする側のものによって結果が違うという御意見であったかと思います。

 次に、加藤参考人にお伺いをいたします。

 引き続き内閣府の調査なんですが、脳死での臓器提供について本人の意思表示がない場合の取り扱いにつきまして、本人の臓器提供の意思が確認できないのだから脳死での臓器提供を認めるべきではない、これが三五・七%ある一方、脳死での臓器提供を拒否していないのだから提供を認めてもよい、九・四%。また、提供を認めるか否かは家族の判断にゆだねるべき、四八・一%というふうになっております。

 この調査結果につきましてはどのような御感想をお持ちか、お伺いいたします。

加藤参考人 先ほど申し上げましたように、まず、脳死の定義といいますか、脳死の状態を正確に皆さんに理解していただくことが大事ではないか。このアンケートの前提としての脳死の定義といいますか状態が、やや私は不正確ではないかということが一点です。

 それともう一点は、私もこのアンケートについてはちょっと分析しかねるというか、難しいなと思うところがあるのですが、一方で、前の質問では、本人の書面による意思表示がある場合に限り、脳死での臓器提供を認めるべきかどうかというアンケート、これが五二・九%ばかりありまして、次の質問、今先生がおっしゃられたような問いかけになりますと、提供を拒否していないのだから提供を認めてよいというものと、それから家族の判断にゆだねるべき、両方で五七%になるわけですね。

 そうしますと、質問の仕方によって数字がどうも矛盾するような形になっている。そのあたりについて、まだ十分、お答えになっていらっしゃる方が、考えずにという言い方はよくないのですが、そのときそのときでちょっとお答えになっていらっしゃる。基本的には半数ぐらいのところで揺れているのではないかというのが私の印象です。

古屋(範)小委員 私も、医療の専門家ではございません。こういう質問を受けた場合に、自分としてもどう答えるかというのは、その時々により一定していないのではないかという今の御意見は、確かにうなずけるところがございます。

 今回、この小委員会を発足させた意義というのも、そうした、いわば医療の専門家ではない多くの国民にとって、臓器移植というものが一体どういうものであるか、そして今、論点になっていることがどういうことなのか、そこを明らかにしつつ正しい御理解を深めていただきたい、その趣旨でこの小委員会設置をされたものと思っております。私どもも、さらに、この件につきましては、国民の皆様への正しい御理解というものを広めていく、そういう役割があるというふうに考えているところでございます。

 それから、町野参考人にお伺いをいたします。

 脳死は人の死であるということ、そして、A案は諸外国の法制度と同じという意見陳述をいただきました。この日本の現行法の世界の中での位置づけ、そして一方で、臓器移植に関して、国際基準、先進国に近づけるという考えは妥当ではないという御意見もございました。

 その辺に関しまして、日本の現行法の位置づけと、それから日本という特殊性があるのか、あるとすればどこの点について勘案すべきなのか、御意見ございましたらいただきたいと思います。適切な質問でないかもしれませんが、よろしくお願いいたします。

町野参考人 非常に難しい質問でございますけれども、一番答えやすい方から申しますと、最初に日本の特色は何かということですが、恐らく親族の意思を重視しているところだろうと思います。

 それは、先ほど私が言いました、親族が承諾すれば臓器の提供を認めることができるということにあらわれているわけではなくて、本人がイエスと仮に言っていても、親族がノーと言ったらとることができない。一番最初の臓器移植の、この法律のもとでの脳死臓器移植が行われた、そのときのマスコミの態度から見まして、みんな、親族は承諾するだろうかということを、ずっと新聞が追跡したことがあります。私は、これを見ておりまして、やはり日本というのはこういう国だなというぐあいに思いました。

 そして、もう一つの問題、諸外国とどういう点が似るべきであるか、あるいは独自の道を歩むべきかということですが、よく、日本の臓器移植法というのは本人の自己決定を重視しているから、これは世界にむしろ発信すべきものであって、世界の中で先進国であると言われる方もいます。

 私は、しかし、それはそうは思いません。それは、どうして本人が何も言っていない、つまりノーと言っていないときには提供を認めることができるか、それはほとんどの国がそうですから。日本以外全部そうですから。どうしてそうなのかというと、その国では死者の自己決定権を軽視しているということではない。私は、そのような失礼なことは考えられないということです。

 それは、死者の自己決定というのはどういうものであるかということについて一つのイメージがあって、ある意味で、私が先ほど申しましたとおり、死後の提供ということを、だれでも恐らく、何も言わない以上は承諾していると見て差し支えないという人間観に立っているんだろうと思います。そして私は、このような人間観は日本人もやはり共有すべきものだというぐあいに思います。この点で、世界に近づくべきだというぐあいに私は思っております。

古屋(範)小委員 大変重要なお答えをいただき、ありがとうございました。

 次に、島薗参考人にお伺いをいたします。

 海外においてさまざまな宗教的背景を持つ国々、臓器移植を認めている国々が多く、また、そこに渡航して日本人が移植を受けているという現実がございます。こうした中で、そうした諸外国での宗教的あるいは精神的、歴史的なバックグラウンド、そして、そこから発する日本における臓器移植制度、その日本の宗教的背景もございますでしょう。この関係性について、簡単にお願いできますでしょうか。

島薗参考人 キリスト教的な西洋の世界観が、脳死が人の死であるということに影響しているのではないかということを申しました。

 キリスト教でない国もたくさんございますので、そこはどうなっているかということですが、非常に医療が進んでおりまして、こういった先端的な医療が盛んに行われる、そして国民の関心も非常に高い、そういう国はさほど多くないということですね。日本は、近代化を早く行いまして、こういう問題に対しての、それから文化の違いについての学問的な議論というものが長く積み重ねられてきた、したがって、個々の問題に対しても、文化の差を自覚した上で問題を考察する、そういう伝統ができている、そういう背景があろうかと思います。

古屋(範)小委員 では、次に井手参考人にお伺いいたします。

 私も子供がおりますので、交通事故に遭ったことがないわけなんですが、そのような場合に親としてどれほどか混乱に陥るだろうというのは想像にかたくないことでございます。

 そうした経過の中で、非常に大混乱に陥っている、そのときに、家族として、脳死判定をするか否か、そうした判断力というものがその経過の中で持ち得るものかどうか、この点についてお伺いいたします。

吉野小委員長 井手参考人、時間の関係で、簡潔にお願いします。

井手参考人 私は持ち得ませんでした。無理です。やはり助けてもらいたいという意思の方が強いですし、それから、例えば点滴を受けているのでも、それは助けるためにしていただいているのか、臓器を保存のためにしているのか、私たちにはわかりません。

古屋(範)小委員 ありがとうございました。

 以上で質問を終わらせていただきます。

吉野小委員長 次に、郡和子さん。

郡小委員 民主党の郡和子と申します。

 きょうは、参考人の皆様方、本当に朝早くから、それぞれのお立場で御意見をおっしゃっていただきました。大変重いテーマであるということは承知しながら、参考人の皆様方に幾つか質問させていただきたいと思います。時間の都合上、全員の皆様方に伺えるかどうかわからないんですけれども、もし伺えなかった場合にはお許しをいただきたいと思います。

 まず初めに、寺岡参考人にお尋ねいたしたいと思います。

 先ほど来、内閣府の意識調査が議論になっておりますけれども、この中では、臓器移植、十五歳未満からも提供できるようにすべきであるという方々が六八%に上っております。ところが、医療従事者の方々に対するアンケートでは、これと逆の意見が多かったというふうに承知しております。

 医療従事者の方々、提供できるようにすべきだという方が三二・五%で、提供できない現状を仕方がないというふうにお答えになった方、四〇・四%いらっしゃいました。この背景についてどういうようにお考えになっておられるか、ぜひお尋ねしたいと思います。お答えください。

寺岡参考人 お答えします。

 先ほどから何度も御議論がありましたように、アンケート調査というのは、設問の仕方によって大きくそのデータが異なってくるということが一つあります。それから、対象をどこに設定するかということによっても異なると思います。

 さっき内閣府調査のことを私引用させていただきましたが、先ほど郡委員の方で、医療従事者では賛成が三〇%余りで、仕方がないというのが四〇%を超えるとおっしゃいました。それは、具体的にどのような調査、どこを対象にされた調査か私存じ上げませんので、お答えしようがありませんが、先ほど来申し上げますように、対象の設定の仕方、そして年齢層、それからもう一つは設問の仕方によって大きく異なるのが実情でございます。

 私も、この内閣府調査だけを根拠にして申し上げているのではございませんで、いろいろな調査にできるだけ目を通して、現在の臓器移植に対する、あるいは臓器提供に関する社会の理解がどのような形で推移しているかということを注目しております。また、その点に関しまして、この委員会が終わった後で資料を御参照させていただければ幸いでございます。

郡小委員 先日、十一月の末に開かれました移植学会での発表データということでありますけれども、医療現場の方々が小児の脳死判定については大変お迷いになっているという現状があるのだろうと思います。

 そこで、清野参考人にも同様の質問をさせていただきたいと思います。

 あわせて、今回はB案に近い形でという、お話を伺っていても、まだまだ小児学会の方でも悩みが大変大きいのだなというふうに受けとめさせていただきましたけれども、まずはこの小児の脳死判定基準の見直し、ここの状況整備が必要であるということもお話しになっておられました。今回のこの法案審議に入る前に、これを整備すべきではないか、その方がまず初めなのではないかというふうに私は受けとめたのですけれども、この点はいかがでございましょうか。

清野参考人 小児脳死判定基準がつくられているのはよくわかっていますが、アンケート調査によりますと、それを実際に実践したところが余りにも少ない。年間四、五十例の脳死が出ているのに数年間で十三例ぐらいしかやっていないので、それが一番不安の根拠だと思います。だから、それでやはりみんな、実際その判定がいいとか悪いんじゃなくて、検証が少な過ぎるということだと思います。

 それから、実際に小児科医が割とちゅうちょしているのは、やはり小児の現場を知っているからだと思います。御存じのように、小児の救急の現場でこれは起こることで、なかなかそこの検証を行うとか、虐待の監視チーム、例えばカナダでは虐待監視チームが必ずそこに入ってチェックしますが、とてもそういうことが今行える状況にあるとは思えないということを知っているから、やはり否定的にならざるを得ないと思います。

郡小委員 ありがとうございます。

 続いて、加藤参考人にお尋ねいたします。

 先ほどの御意見の中で、脳死の知識と知見が集積されて、脳死の定義、判定基準への疑義があるというお話だったかと思いますけれども、これは、脳死が人の死であるのかどうか、大変重いテーマであって、この臓器移植法が制定されるときには、本当に脳死臨調で大変な激論が交わされたと思います。

 今回は、脳死は人の死であるのかどうかというところの疑義がさまざまなところで出されているにもかかわらず、その点については大きな議論にはなっておりませんで、臓器移植を拡大していく方向に走っているのだろうというふうに私自身は受けとめているんですけれども、この点について、脳死とは人の死であるのかどうかの議論というのをさらに深める必要があるのかないのか、その辺の御所見をお尋ねしたいと思います。

加藤参考人 まさに先生の御指摘のとおりではないかというふうに思います。

 基本的に、十年前、かなり激しい議論があって、そのときには、脳死は死ではないというふうに、それが社会的通念、コンセンサスになっていないというところから出発した。もし仮に、今抜本的に法律を改正するなら、そこを十分検証する必要がある。

 ましてや、その十年間の間に脳死についての知見が集積されたわけですから、慢性脳死等について診断が十分できていないということであれば、それも含めて、現場がそういうふうに診断が十分できていないのであれば、そのあたりの検証ももちろん必要ですし、法的脳死判定の仕方自身についても、今までどおりでいいのかということも議論しなければいけないと思います。その意味では、十分な議論、その前提としての十分な情報の提供が国民になされるべきではないかというふうに考えております。

郡小委員 ありがとうございます。

 次に、みずからも臓器を受け取ったという野村参考人にお話を伺いたいと思うんですけれども、実際、アメリカで臓器の移植を受けられて、二度にわたる移植であったということですけれども、大変恐縮でございますけれども、自己負担というのはどれぐらいに上ったのか、ちょっとお教えいただけますでしょうか。

野村参考人 率直にお話しした方がいいと思いますので。

 初めも二度目も、ほぼ十五年の違いがありましたけれども、金額的ということでいうと、大体一緒でした。初めの方がちょっと、それは拒絶反応や何かがありましたから、そういうことで多少はぶれてきますけれども、申しわけありません、どんぶり勘定のような言い方になりますが、僕の特定の例ですから一般論になさらないでいただきたいんですが、それでいいますと三千万です。ところが、それに付随して渡航費や何かがあれしますから、一応準備をいたしましたのは四千万でした。しかし、現実にはやはり三千万ちょいというようなところでおさまっております。

 実は、個人的な事情がありまして、私の連れ合いは大学時代に出会ったアメリカ人でありますので、たまたま、向こうの両親のうちから一番近い病院が世界でも二番目に大きな肝臓移植のセンターだったんです。そういうことがありましたので、向こうでの滞在生活には基本的に困らなかったということがあると思います。

 ですが、現実には、ではそのお金がどこから出たのかということでして、今も返済中です。大体月に三十万返さなければいけませんから、給料はほぼそれに。それから、あと月々の免疫抑制剤や何かのというのが十万ほどかかっています。ですから、親子三人の家族ですけれども、毎月の食費が三万円、一日千円で三人が食べております。ですから、二つの卵を三人で、一枚のハムを細かく刻んで二つの卵とまぜてスクランブルで食べるというような生活で、お米が食べられるのが週に二回です。というのは、お米は高いですから、日本は。では、何が一番安いか。御存じかと思いますが、お米は一キロ三百円ぐらいになりますね、五キロで千五百円ですから。ところが、パスタが一キロ二百円ぐらいです。ですから、うちの食事は三分の二。ですから、うちの子供は、きょうは御飯だよというとそれだけでごちそうで、ふりかけをかけて生卵で何杯でも食べています。

 そういった状況で、しかし、生きていくことに、家族の喜びをともに分かち合うことには何の不足もありませんし、むしろ、そう言っては身勝手ですが、お互いに支え合い、愛情豊かな中でうちの子は育っていると自慢をしております。

 そういった現実の中で、それから、中には、アメリカの病院で、これはまた申し上げるべきじゃないかもしれないんですが、実は、移植をしたらとんでもない複雑な状況になってしまって、何千万かをアメリカの病院に出していただいて、月々お返しするというようなことで、ところが、そんなに返せるはずはないわけです。ですから、本当に二百年かけて、月々、本当に形ばかりの、一万円、五千円といってお返しになっている方もいらっしゃいます。

 ですから、アメリカの病院や何かでも、一度かかわった以上は途中で投げ出すことはできませんから、大変な御迷惑とかお世話になりながらというのが現実で、それは向こうでは全然保険がききませんから、もしこれが日本で行われていると、いろいろな意味で、経済的にもずっと希望があるんじゃないかというふうに思っております。

郡小委員 立ち入ったことを伺いまして本当に申しわけありません。ありがとうございました。

 私がなぜお話をお聞きしたかと申しますと、十一月九日の読売新聞だったでしょうか、腎臓移植が透析療法よりも低コストであるですとか、心臓移植が補助人工心臓装置よりも低コストであるというような趣旨が書かれておりまして、医療費や患者の就労の面でも移植の利点は大きい、そういう中身だったろうかというふうに思っております。

 経済的な議論をするのは今回のお話の中では私は本筋ではないというふうには思っているわけですけれども、これは倫理上どういうふうな問題が解決されているのかということがまず前提にあるわけなんだろうというふうに思っているわけなんです。

 そこで、移植手術を受けた後の患者さん、あるいは移植を受けていない患者さんとの対比というのでしょうか、こういうようなものについて、実は私どもいろいろ探しましたけれども、正確な資料というのが出ていない。つまり、同じような条件で、同じような症状になった方が、一方では移植を受けている、一方では移植を受けていない、この両方の対比というのが出ていないものですから、この点につきましてちょっと疑問に思ったのでお尋ねをしたいと思うのですが、寺岡参考人にお話を伺います。

 移植学会では、腎移植を受けられた方々で、正確な生存率、死亡率というのを発表されておられますでしょうか。

寺岡参考人 お答えします。

 発表しております。移植学会の中に広報委員会というのがございまして、その広報委員会が毎年ファクトブックという小冊子を出しております。それに全移植の生存率、生着率が示してございます。それから、同じ条件の待機中の患者さんと移植を受けた患者さんの生存率に関しましても、そういった資料をほかの形で皆様にお示ししております。これは国会議員の先生方には、かなりの先生方のお手元にお届けしておると思います。

 例えば、心臓移植に関しましては、一年生存率は九〇%、待機者の方の一年生存率は五〇%前後でございまして、ただし、これは人工心臓によって初めてその生存が支えられていることでありまして、死亡・人工心臓回避率、つまり人工心臓がない場合にはどれぐらいの生存率であろうかという点に関しましては、一年で三〇%を切っております。

 以上です。

郡小委員 今お示しいただいたデータが必ずしも私は十分であろうというふうには考えていないのであります。

 というのは、それは消息がわかっている方々に対してでありまして、この中には移植患者の三分の一以上が生死が不明であるというようなことも出ております。この辺の詳細についてもやはり説明が必要なのではないかというふうに感じております。

 それについてのコメントは、それでは短くお答えいただきたいと思います。

寺岡参考人 私が承知しております統計上では、回収率は非常に高いものでございまして、消息不明が三分の一という事実はございません。

 以上です。

郡小委員 私のデータと多少違っているのかもしれませんが、なお私も精査させていただきたいと考えております。

 次に、井手参考人にお話を伺わせていただきたいと思います。

 時間が余りなくなってしまったので大変申しわけないんですけれども、私は、先ほどのお話の中で、助かる命と助ける命を比べてはならないというふうにおっしゃったこの言葉というのが大変重いものと受けとめております。

 今議論になっているこの移植法の改正案について反対の立場ということでお話しいただいたのだと思いますけれども、率直に申し上げて、命のリレーということで、臓器を提供する方々の美談というようなことがよく報じられるわけですけれども、実際にレシピエントにドナーとして提供した後でも、ドナー家族の方々が心に大変深い傷をお持ちになるという例も聞かせていただいたことがございますけれども、その辺も含めてお話をいただければと思います。

井手参考人 心の傷が長い間あります。例えば、死んでから角膜とか腎臓の摘出をされた家族の方で、宗教上のことはよくわかりませんが、あの世へ行ってから、角膜を差し上げた後、うちの子供は目が見えないのではないだろうか、そういう思いで大変長いこと苦しんでいらっしゃる方もいらっしゃいます。

 私たち、もらった方のお話も聞いておりまして、もらった方も、やはり、人の犠牲の上に、人が亡くなった上に、人の不幸の上に自分の幸せを築くという点で、非常に申しわけないという思いで暮らしていらっしゃるという方もあるというふうに伺っております。

郡小委員 先ほどは救急医療での不備な点も御指摘になりました。ただ、私は、救急医療が発展することによって、長期脳死の方であるとか遷延性の方々がふえていくのだと思います。そのことは、さらに救急医療が発展していけば、その方々の意識回復にも結びつく、ひいては我が国の医療全体の質の向上にもつながっていくのではないか、そんなふうにも思うところですけれども、それについては井手参考人はどのようにお考えでしょうか。

井手参考人 大変希望を持っております。

 臓器を待っていらっしゃる方も、同じ親として本当に大変な思いで臓器を待っていらっしゃると思います。そういう方たちにも、ぜひ、人工臓器とか再生医療とか、そういうものがしっかり国の施策としてなされていくべきだと思っております。

 それから、救命医療に対しても、本当にお粗末な状況を私たちは体験しましたが、決して悲観をしているのではなくて、一つ一つそういうことの積み重ねで、いい医療が行われていくということを大変期待しております。

郡小委員 やはり、今いろいろとお話を伺わせていただきましたけれども、本当に難しい問題であるというのは改めて感じたところです。ともすれば感情に流されがちな議論もあるわけですけれども、やはり科学的にしっかりと証明をされるといいましょうか、そういう実態に基づいたような議論がさらに深まって、この改正案についても議論がされることを私自身も期待し、質問を終了とさせていただきます。

 きょうはどうもありがとうございました。

吉野小委員長 次に、高橋千鶴子さん。

高橋小委員 日本共産党の高橋千鶴子です。

 きょうは、七人の参考人の皆さんに本当に貴重な御意見をいただきました。ありがとうございました。時間の関係で全員の方には質問できないかと思いますけれども、御容赦いただきたいと思います。

 初めに、井手参考人に伺いたいと思うんですが、十八歳の娘さんを突然交通事故で失うというつらい体験を交えて、重要な発言を伺いました。井手さんが「脳死論議ふたたび」という雑誌に寄せた手記も拝見をいたしました。

 先ほどのお話の中にもあったように、頭が痛い、痛いと訴えた娘さん、酸素マスクを外して起き上がってしまったあの瞬間が生死の分かれ目であったのではないか、四日間確かに生きていたというお話と同時に、有数な、脳外科のスタッフも備えている救急基幹病院であったにもかかわらず、積極的な検査や治療がされなかったという指摘をされております。その中で、積極的に徹底した救命医療をせず死なせてしまった人を、助かるかもしれない人の資源にしてしまうことが、本当に国民の合意を得ることができるのかという指摘をされております。

 私は、救急医療の深刻な実態も今現実にある、そして、お話があったように、家族が正常な判断ができないその瞬間だということもある、ですから、やはり救命医療がまず最優先であるということを本当に改めて確認したいと思うし、同時に、救命の努力がこれによって後退するようなことがあってはならないとも思っているわけです。

 この点について、もう少し率直に御意見をいただきたいと思います。

井手参考人 今現在の法律では、医療の現場では、ドナーカードを持っている人がいるということでばたばたすると思うんですね。ですけれども、今回の法案が、二案が通りますと、本人の意思確認がされませんので、ノーということを言わない限りは全部対象者になる、そういう事実を国民が知っているのか、それを私は一番心配しております。

 実際に、私たちのように交通事故の被害者が基幹病院に運ばれたときに、この次は、保険証にノーという記載がされているのかどうかが注目される点ですので、私たち遺族が保険証を持ってここに記載されているということを訴えていかない限りはその対象者になる、そういう怖さを感じております。でも、運ばれたときには、保険証は病院側に提出しているんですね。そこに万が一ノーとなければ、私たち、遺族たちは対象者になるわけです。ですので、そういう恐ろしさを国民が知っているのかどうかをやはりきちっと正確に伝えていただきたいと思います。

 美談として本当に毎日のようにテレビ、ラジオ等では訴えられていますが、反対に、私たちの家族の心臓が動いている最中に、それを開いてそこから心臓を取り出すような、そういう映像がきちっと伝わっているのでしょうか。そういうことは絶対ないと思っております。正確な情報をお互いに伝えてこそ、正しい判断が国民ができるのではないでしょうか。そういうふうに感じております。

高橋小委員 どうもありがとうございました。

 今の井手参考人の発言を受けて、加藤参考人に関連して伺いたいと思います。

 本人の意思か、家族の同意かなどということが言われておりますけれども、子供でも大人でも自己決定権がございます。だからといって自殺は自己決定とはならないというように、それほど命は重いものであって、拒否がないからを、イコール本人の同意と考えるべきではない、このように私も思っております。

 脳死移植の先進国と言われるアメリカでも、臓器不足が深刻だと言われ、例えば、ある論文によると、臓器不足から、生体移植や、ABO血液型不適合で従来移植忌避とされた場合でも腎臓移植が行われたり、肝炎感染などの臓器のハイリスク移植も行われていると聞いております。

 問題は、提供臓器をふやすために、心停止後の臓器提供という方法で、日本で想定されている心停止後の臓器摘出ではなくて、生命維持装置の停止を前提として心臓死を促された臓器提供が進んでいるという指摘もございます。従来の心臓死や脳死の定義では対象とならなかった臓器の提供がふえているということにも危惧を感じています。延命治療の中止が移植臓器を得るためというふうなことになれば、本末転倒だとも思います。

 そういう立場から御意見を伺いたいと思いますが、いかがでしょうか。

加藤参考人 どこからお答えすればいいのか、ちょっと難しいところなんですが、おっしゃられるように、ドナー不足だから拡大するということでこの法律は改正されてはならないということがまず第一であります。人の死をどうするかという問題でございます。

 さらに、今の自己決定ということを、今現在、社会的に脳死が死、そういうふうに認知、認められていない以上、そこを崩すことはできないし、A案の中に、拒否すればいいではないかと、それが何か自己決定のように言われておりますけれども、あるということを証明するのは、確認することは、ある意味、比較的容易ですが、ないということを確認、立証するということは非常に難しいことです。拒否の意思表示をしている、それがないんだということを立証するということは、確認することは非常に難しい。その意味でも、A案はもう自己決定を放棄しているというふうに私ども思います。

 その前提として、やはり、社会的なコンセンサス、脳死が死であるということについてもっともっと十分議論すべきではないか、アンケートがいろいろなところで矛盾を生じているのもそれが原因ではないか、ドナー不足のためだけで法律は改正されてはならないというふうに思います。

高橋小委員 どうもありがとうございました。

 そこで、野村参考人に伺いたいと思うんですが、御自身が移植を受けて新しい命を授かったという、これもまた本当に貴重な体験をお話しされたと思います。ウイデンティティーという表現ですね、これも貴重な提言かと思っております。

 先生のペーパーで、牧師さんから率直に相談をされたときに、だれかに命のプレゼントを残せるなんてと言われた、あるいは、息子さんの望みによって臓器提供をして、それが唯一の慰めとなったという老夫婦との出会いがあったということ、それも本当に救いになったとおっしゃっているのも非常に共感できるところであります。

 ただ一方では、必ずしもそうではない現状もたくさんあるというのは、もう先生十分御存じでお話しされていると思います。十一月十六日の毎日新聞の「記者の目」の欄に、やはり米国の中でも提供が正しいことだったのか悩む人が多いんだという指摘をされて、全米五十八カ所にある臓器調達機関、OPOの中に専門のスタッフがいてドナー家族をフォローしている、しかし、日本にはそういう体制がないということも指摘をされております。

 この点について、どのようにお考えか。

野村参考人 おっしゃるとおりだと思います。

 後のことでおっしゃられたのは、僕はその情報をちょっと把握していませんので、ぴったり合うかどうか、僕自身の経験と記憶から申しますと、日本では、移植コーディネーターと会ったときに、何かオールラウンドで何でもやるのでびっくりしちゃったんです、寺岡先生にちゃんと伺わないと現在はわからないですけれども、ちょっと前まで。

 アメリカの場合ですと、ドナーの方につくコーディネーターとレシピエントにつくコーディネーターは全く別で、出会う場所は手術室の中です。ドナーの方のコーディネーターは、ドナー家族の約束をきっちり守るために、それがちゃんと移植されたかどうか確認のために手術室まで行って、それを報告します。それから、今度、レシピエント、受ける側のコーディネーターは、同じ理由で患者のために一緒にいる。それぐらいにそれぞれの立場をしっかり守っているというのが、それはアメリカの文化であるのかもしれませんけれども、確かにそういった面とつながってきているんじゃないか。

 これは、僕なんかの考えでは、絶対に両方を一人の人がやってはいけないんだと思います。お医者さんにしても、摘出するのと移植する人が一緒というのは大変誤解を受けるし、何かのときには勘違いということがないとも限りません。

 それから、提供過程の問題ですが、私自身はハーレムの教会に住み込んで三年間ほど生活をしました。簡単に申します。誤解をしないでください。人種差別ではありません。僕の友達を思い出しながら言っております。黒人の間では臓器提供の数がずっと少ないんです。白人の間で。そして、黒人で、ナースで、臓器提供を受けた人が一生懸命、黒人のために、自分たちのためにといって、彼女とさんざん話した結果、ポイントが三つあるということがわかりました。

 一つは、アメリカの場合、臓器提供の数と教育程度の高さが見事に並行しているんです。やはり臓器提供、献血にしてもそうですが、人間、本能的に献血しようとは思わないわけです。そのことに意味を感じ、理解をしということがありますから、ちゃんと教育程度が高くないとということが一つあります。

 それから、もう一つには、医療に対する不信感が黒人の間の方がずっと多いんです。私の生活からいいますと、もちろん、子供のワクチンですとかいろいろな検査は無料でやってくれるんですね。ところが、そのためには、はがきが来ます、それが読めないといけないんです。そうすると、来ているじゃないの、これだよ、これを持って行きなよと言って、何回僕がクリニックに御一緒したことか。

 そんなことで、だけれども、白人の子たちはみんな元気なのにどうして黒人の子たちはこうなんだと、医療不信が起こります。ですから、本当に医療に対する信頼と感謝がないと、やはり臓器提供というものに結びついていないというふうに思います。

 それからもう一つは、宗教的なことであえて言えば、クリスチャンだからみんな提供するわけではない。むしろ黒人の友達の多くは、クリスチャンだから提供しない。先ほどもどなたかがおっしゃったのと同じことで、キリスト教の方では、仏教徒は違いますが、あの世で目が見えるか見えないかじゃないですが、彼らは復活ということを素朴に素直に信じております。そうしたときに、復活したときに臓器が足りないとまずいんじゃないか。向こうでは今でも火葬よりも土葬を好むあれがありますから、ある意味では日本以上に強くそのことを持っております。

 ですから、キーになるのは、本当に彼らの教育程度が高くならないとその問題は解決しない。その点では、日本でも、医療不信の問題、それから宗教的な感情、それから教育の問題というので、ある意味で皮肉にもアメリカの少数民族の場合とパラレルな面が現状ではあるかと思っております。

高橋小委員 ありがとうございました。

 先ほど来、子供の虐待との関連も指摘をされているところですけれども、清野参考人に伺いたいと思います。

 小児科学会が、脳死小児から被虐待児を排除する方策に関する提言を二〇〇四年に先生も一緒でまとめられておりますけれども、その中で、小児脳死症例に対しては常に被虐待を想像することが重要であるという指摘をされております。過去五年間で、受傷後六十日以上経過して虐待を認定できた症例が九例もある、こういう指摘もされて、やはり院内虐待委員会の機能している病院で始めるべきである、要するに、条件整備がまず先であるということをおっしゃっているかと思いますが、この点でぜひ補足をお願いしたいと思います。

清野参考人 これは、虐待、被虐待児を脳死から除外している先進国の各国でも常にこういう監視チームは既にありまして、必ず脳死診断の場に来てそれをチェックするようになっています。ただ、残念ながら、日本の場合はそこまでに至っていない。

 それから、そういう施設は我々の調査した中で一二%ぐらいしかないということで、そのチームがあることは必須のものと考えます。

高橋小委員 ありがとうございます。

 それで、先ほどのお話にちょっと戻りたいと思うんですけれども、ドナー家族をフォローするという点での日本の体制がないということを先ほど指摘させていただきましたけれども、そうした問題も含めて、やはり現行の制度の中でも、一〇〇%意思を生かしますということにはならない、つまり、環境整備がまだまだ足りないことが現実にあると思うんですね。そして、今、法律をA案にしろB案にしろ改正しただけでも、多分一〇〇%意思を尊重しますというふうにはならないのではないかと思っています。

 現行法の中でも解決しなければならない課題がいろいろあると思いますが、その点について寺岡参考人にお話を伺いたいと思います。

寺岡参考人 お答えします。

 私は、現在の臓器移植法の中で十分に重視されていない項目が二つあると思います。それは、第二条の一項、本人の生前の意思が尊重されていないということ、それから、附則第二条の一項、三年をめどにして見直しをする、この二つが非常に残念なことながら立ちおくれているということだろうと思います。

 それから、先ほど、ドナー御遺族のケアが十分に行き届いていないという点を何度も述べられましたが、そういうシステムは確かにまだ日本では十分に機能しておりません。しかしながら、必ずや、現在のコーディネーターに関しましても、先ほど野村先生がおっしゃいましたけれども、現在では、レシピエントコーディネーターも各施設で整い、ドナーコーディネーター、いわゆるネットワークのコーディネーター、それから各都道府県に一名ずつおります都道府県コーディネーターは、主にドナーの方のコーディネーターに専念しております。

 私が知る限りにおきまして、提供されました御遺族には、ドナーが提供された臓器がどういうふうに今患者さんに移植されて機能しているかという御報告は必ず行っております。これは毎年行っております。そしてまた、ある移植者の方々、これはかなりの方々がサンクスレターという手紙を書きまして、これは無記名でございます、そのお手紙を御遺族のところにお届けするようにしております。私も何度か同行して、御遺族のお宅をお訪ねしたことがございます。

 したがって、システムとしてはまだ日本では不備かもしれませんが、そういったコーディネーターを中心としたドナー御遺族へのケアというものは、それが十分かどうかという問題に関しましては異論があるかもしれませんが、かなり行われていることは事実です。

 それから、もう一点だけ簡単に述べさせていただきます。

 確かに、そういったドナーの提供するかどうかというふうな意思決定をされる状況というのは、悲嘆のどん底でありまして、これは大変なストレスであるでしょうし、非常にこれは葛藤があるかと思います。

 しかしながら、一つデータを示します。これまでの脳死下での臓器提供の事例のうち、ほとんどは御家族の申し出なんです。これは事実でございます。四件だけが、主治医の先生側が、脳死になられました、あとはこういった方法とこういった選択肢とこういった選択肢がございますがどうでしょうかというふうにお尋ねしたことに関して御家族が答えられている、それ以外はほとんどが御家族の方から提供を申し出ておられます。これは一つ非常に大きな重い事実です。ですから、もちろん、そういった葛藤、悲しみ、苦しみを乗り越えて、御家族がそういう意思決定に到達して申し出ておられるということが事実でございます。

 こういった意思決定に関して、余り軽はずみにそれを、冒涜と言うと言い過ぎかもしれませんが、軽んじるような御発言はなさるべきではなかろうと私は存じます。

高橋小委員 ありがとうございました。

 さまざまな取り組みをされているということもわかりました。

 ただ、最初にお話しされたように、まだまだ条件整備が整っていないということも事実かと思います。

 あと一分でお答えをお願いしたいと思うんですけれども、清野参考人に、先ほど、常に監視チームがあるところは一二%というお話で、虐待委員会といいますか、そういう体制にはまだまだなっていないということがあったわけでございます。それがまず、現状はまさにそうであって、その背景にさらに小児医療体制そのものが非常に今深刻な実態にあるということもございます。

 ことしの三月に、厚生科学研究で、小児集中治療部設置のための指針というのが出されております。先進諸国に比較しても施設数、病床数ともに著しく少ない、スタッフも足りない、重症小児専用のICUの充実が求められるという指摘もされておりますけれども、この点で、一言だけお願いいたします。

吉野小委員長 清野参考人、簡潔にお願いします。

清野参考人 先生のおっしゃるとおり、我が国でそういうふうな小児の集中治療室というのは極めて少ないので、早急な整備が急がれます。

 特に、A案に関して、整備ができないからちょっと困ると言っているのは、やはりこれはやっても小児の救急の現場で結局のところ移植はふえないと思うんですよ。それが一番非常な混乱を起こす原因だと思っています。

高橋小委員 終わります。ありがとうございました。

吉野小委員長 次に、阿部知子さん。

阿部(知)小委員 社会民主党・市民連合の阿部知子です。

 本日は、七人の参考人の皆さんにお話を伺うことができました。

 私は、寺岡先生、先輩ですが、もともと小児科医の医師であります。そして、願わくば、二つの命を比べて、先ほどの井手さんのお話、助かる命あるいは助ける命のような明暗が起こらざるを得ないこの移植医療ということ以外に、医療が発展してほしいなと願い続けて、実は小児科医の時代から寺岡先生とも激しく対立をしてまいりました。

 きょう、こういう場でお話をできることは、大変に私としては感無量であります。何が感無量なのかというと、そもそもこの脳死臓器移植論議、和田移植から日本では始まり、きょう日弁連の加藤さんも大変によくまとめていただきましたが、世界の中で、本人の同意ということを極めて重んじて、限定的に、その場合には臓器移植に道を開こうとした十年前の英知も含めて、国会もかかわり、脳死臨調という大変に大がかりな国民の合意点を探る作業もした結果の今日でございます。

 そう考えると、私は、もともと、A案と申しますものは十年前の論議を吹っ飛ばしているのではないかと、これは個人的に思うものであります。また、この十年、翻ってみて、実はさまざまな私どもが得た知識がございます。私どもというのは、医師もそうですし、国民もそうなんだと思います。

 まず、清野先生にお伺いいたします。

 長期の脳死の生存例。脳死生存、こういう言葉が、十年前は、脳死になったら二、三日で死んじゃう、いや、一週間たったら心臓がとまっちゃう、とにかく脳死は死なんだ、こういう三段論法が実は十年前の論議は当たり前でありました。私は、当時から、長期の脳死生存例、子供として、見ておりましたので、いや、そうではないということも言ってまいりました。

 今回、先生方の小児科学会の調査で六十例、寺岡先生は診断基準が云々とおっしゃいますでしょうが、それは後ほど触れさせていただくにして、現実に六十人の子供たちが生きて親御さんたちと暮らしておられます。この長期の脳死生存例の調査結果について、もう少しお詳しくお話をいただきたい。

 また、六十例というのは決して少ない数値ではございません、どうして日本でこうした現実があるのか、そのことについて、小児科医師としてのお考えを伺います。

清野参考人 これは長期脳死例としてまとめたわけではないんですが、超重症心身障害児の医療ケアの現状と問題点というのを既に小児科学会のホームページにも出しております。その中には当然、脳死症例もございます。大体二十歳未満の地域人口千人当たり発生率が〇・三%にこういう超重症心身障害児が発生しています。

 この人たちを推定すると、長期脳死例は、全国での推定では恐らく百人ぐらいはいるではないかとこの論文に述べていますし、最高はもう二十年を超えて生きていらっしゃいます。

 臨床脳死診断の是非は問題ですが、一応、アンケート調査をした機関の医師がそういうふうにした症例であり、親御さんはすべて死んだとは思っていらっしゃいません。

 以上です。

阿部(知)小委員 小児の専門医がいる認定施設で行われた調査ですから、例えば小児の脳死の判定基準のときに、確かに、無呼吸テストというのは子供を死に追いやるテストですので、つけている子供の呼吸器を外す、そして、ああ、死んでいるか生きているかなどということは、常識のある、良識のある小児科医はやれません、これは。非常に、何のための検査かというふうになってまいります。しかしながら、ずっとこの間の論争は、例えば脳死と診断され、長期に生存したというと、検査は正しかったのか、厳密だったのか、どうだ、必ずこういう論議が起こります。

 そこで、あえてです、そうした脳死診断において、無呼吸テストも行い、三百日以上生存した症例の報告が二〇〇〇年の救急医学会雑誌に投稿がございます。久保山先生という方が投稿されて、三百日以上脳死状態が持続した十一カ月の男児例、この子は、八日目に成人の脳死判定を受け、二百十八日病日に今度は小児の脳死の判定基準を受け、このとき無呼吸テストを実施してございます。

 私は、こういう論議の都度、ではそれはどこまで、本当に死んだかどうか確認したのかというふうな論議は、実は本来的に、非人間的、人権的に行うべきでないと思いますが、しかし、こういう症例の報告があり、文献がございます。

 先ほどお話に出たアラン・シューモンさんも、かつては脳死で人の死説をとっておられましたが、いろいろ長期の生存例が報告されるのをまとめた結果、やはりこれは、脳死というのは、人の死であるか否かの概念ではなくて、社会的合意がそれを、例えばそうなった場合に移植という、ドナーとしてよいかどうかという論議として仕切り直すべきだと。私はその方が科学的なんだと思います。

 寺岡参考人に伺います。

 例えば、麻酔科学会で十年前では脳死論議に大変に大きな影響を与えた武下先生も、当時の脳死論議の中で、一体、そのとき脳死と考えていた、例えば有機的な統合体の有機性を問うもの、いろいろございました、そのときの根拠が今は成り立たないのではないかという御指摘であります。武下先生は、先生もよく御存じであろうと思います。

 そういうことを同じ医療界としてどう受けとめておられるか。やはり国民は混乱すると思うんです。例えば、九例目の臓器提供者は、移植のドナーとなったときに、麻酔を、筋弛緩剤と全身麻酔と血圧を下げる薬、三つを打ちました。普通、国民にとっては、脳死になって麻酔をされる、血圧が動く、どういうことだろうと思います。こういうことにきちんと答えていかなければ、やはりみんな、もう死んでいるんだからということは無理があるし、それを移植学会の先生が言われたら、申しわけないが、逆に移植をしたいがためのというふうに思われる。

 私は、先生の移植医としての腕を信じ、評価しています。ですから、移植学会の皆さんも、もう少し現在あるところの知見、知識を真剣に受けとめて、一緒に論議していっていただきたいですが、いかがでしょうか。

寺岡参考人 お答えします。

 それはおっしゃるとおりだと思います。ですから、いろいろな事実が出てきて、それによって一人一人の考え方が変わるということは、それはあり得るかもしれません。ただ、その時期その時期にオピニオンリーダー的にその時代を引っ張ってこられた方々の意見が変わられたときには、やはりきちんとそれは御説明すべきだと思います。

 幾つか問題を出されましたので、ごく簡単にお答えいたします。

 ただ、私は、脳死の専門家ではありませんし、そういった立場ではありません。私は、移植医、移植もやっておりますが、外科医でございます。その前は先生と同じ小児科医でございましたので、小児の外科的な疾患も診ております。ですから、例えば、交通事故で頭蓋内血腫を起こし、もうこれは回復不可能だろうと。それで四カ月間ぐらい昏睡が続いた結果、回復されたお子さんもいらっしゃいます。何の後遺症もありません。つい最近、結婚式に出てくれないかという、その当時は三歳ぐらいでしたが、参りました。

 そのような形で、回復する事例は幾らでもございます。しかし、それは厳密な脳死判定を経たものではございません。先ほど、清野先生が重症の障害児というふうに申されましたが、私は、この新聞もすべてそういうふうに書きかえるべきだろうというふうに思います。

 それからもう一点。私は、移植医でありますが、外科医でありまして、すべての疾患を、実は外科医でありながら、外科的な手術によらないで治せるのが理想の医療だろうというふうに思っております。したがいまして、先ほど御指摘がありました再生医療、あるいはいろいろな方法によって臓器が不全に陥らないような治療の研究も現在精力的に進めております。恐らく将来、現在移植でしか救命できないような疾患のある者は、将来的にそういうふうな治療で治せる時代が来るものと期待しております。

 しかし、それは十年、二十年の先かもしれません。現在移植でしか助からない人はやはり厳然として存在することも事実です。ですから、そういった方を救命するためには移植が必要ではないかと私は考えております。

 それから、そういったオープンな議論は私は絶対必要だと思います。先ほど、例えば無呼吸テストが非常に危険であって、これは人を死に追いやるものだというふうにおっしゃいましたが、これはちょっと誤解がございまして、無呼吸テストの最中には酸素を投与していますので、PO2、つまり血液中の、動脈血中の酸素分圧はそんなに下がらないんです。しかし、炭酸ガスの分圧は上がります。炭酸ガスの分圧がある程度まで上がっても呼吸が出ないということを確認するのが無呼吸テストでございまして、通常は五、六分でそういった状態が得られます。その過程中ではほとんど酸素の分圧は下がらないです。これは過去の実例を見てもそうであります。しかし、そういった事態で、もし不整脈とか血圧の低下等が来た場合にはすぐ中止するという項目もつけられておりまして、無呼吸テストに関しましてはそういった規定がございます。

 それから、オープンな議論に関しましては、私は、今後はやっていくべきだろうと思います。それはもうおっしゃるとおりで、昔はよくやっていましたね、最近は余り行われません。私は、実は今回、移植学会の理事長になりましたので、移植学会の中だけではなくて、また、救急の先生方とだけではなくて、反対派の先生、小児科の先生、医師だけではなくて、弁護士の先生方、法学の先生方、患者さんの団体の方々、あらゆる部門とのオープンなディスカッション、そしてこれをきちんと、正確な事実、正確な認識を共有し、その上に立った議論を進めていこうというふうに考えておりますので、そのときはぜひ御協力いただきたいと思います。

阿部(知)小委員 再生医療の話も言ってくださいました。日本は、せんだって、京都大学で新たな、受精卵を用いないで再生細胞がつくれると、やはり今世界に先駆けているわけです。寺岡先生も頑張って、十年、二十年とかおっしゃらないで、本当に先駆けの再生医療で、私は移植医療を切り開いていただきたい。

 そうしましたら、先ほどの無呼吸テスト、負担はないと言いましたが、血圧が下がる、不整脈が起こる、私どもが一番恐れる事態です。もちろん、酸素はある濃度、与えます。しかし、それでも起こるんです。だから、やりたくない。清野先生の調査の中でも、一体、今の診断基準で本当に診断できるだろうか、できるとする医師は三分の一だと。そういう状態でゴーされていったら、本当に私は、逆に、今回の六十例という症例が日本にあることは、それだけ厳密に、本当に大切に支えてきた小児科医師の誇りでございますから、やはり子供にとって負担、子供だけではないですが、そういうことが一場面でも少ないということを願います。

 町野先生にお伺いいたします。

 町野先生は、A案の支持であるというお話でありました。今の町野先生のお話を伺うと、A案というものは、理解でお伺いいたしますが、現行法の移植法は、臓器提供ということが前提になって脳死判定がございます。町野先生はさっき、脳死か否かは、個人がそこで死か否か決めるものじゃない、厳然としてあると。そうおっしゃいますと、実は、移植とかを前提にしなくても、医師の側から、これからは脳死判定ができるというお考えでしょうか。

町野参考人 そのように思います。

阿部(知)小委員 私は、そう言い切るには、先ほど来、いろいろな内閣府の調査、あるいは現場の小児科医師だって、これで判定できるかどうか、本当にためらって、立ちどまっています。やはり乱暴ですし、医療はそこまで、逆に相手側の患者さんの思いを乗り越えていってはいけないんじゃないかと思います。

 井手参考人に伺います。

 私は、きょう井手さんが、震えながらこの場で、本当に精いっぱいお話をしてくださったと思います。実は、この脳死論議の中で、脳死になって死んでいく人の声を代弁する人はだれもいません。本当に私はずっともう何十年論議してきましたが、その場でだれも言えない。だから、きょうは恐らく、井手さんたち交通事故遺族の会がその代弁をなさったのだと思います。

 今、町野先生は、死は、医療現場で、患者さんサイドではなくて、医療サイドで決めてよいというふうにおっしゃいました。そう言われる患者側、家族側に立つわけですが、どのように感じられますか。

井手参考人 教育の程度の低い人は医療に対して不信感を持つと言われましたので、ちょっとびっくりしております。

 私の夫は医療従事者です。私も、詳しい医療のことはわかりませんが、本当に、親として、実際は、ここで助からないだろうというのは、実感として子供に対して持っております。ですけれども、必死でそれを打ち消しながら、何とかして子供を助けたい、そういうふうに思って四日間を過ごしました。実際は、何となく感じてはいるんです。だめなんではないだろうかというのは感じていますが、必死になって、どうにか助けたい、そういうふうに思って四日間過ごしましたが、何としても助けることはできませんでした。それは私たち遺族にとっては一生涯傷に残っております。その後、私たちがこういう遺族の人の救済というか支援をし始めたのは、どうにも助けられなかった子供たちの命をどうにかして生かしていきたい、それを社会につなげていきたい、社会で大変困っている人たちに対して自分の経験したことを生かしていきたいということで、こういう活動をしました。

 済みません、何か質問していることに対してのお答えではないようなんですが、私の今言っているのは、国民の、普通の庶民の意見なんです。今まで皆さんが議論していることは、本当に知識のある方の議論だと思います。私たちは、本当に普通の主婦としての感覚でお話をさせていただいて、それを代弁させていただいているのが私なんではないかと思います。

 国民は、植物状態とか脳死状態とか脳死とか、そういうものを知りません。死んだらどうにでもしてくれと言っているだけなんですね。死ぬということをどういうことかということさえも知らないんです。ここにいらっしゃる議員の方も、脳死状態と植物状態と脳死との区別ができる方がどれほどいらっしゃるんでしょうか。そういう国民を相手にしっかり討議して、法案をつくっていただきたいんです。私が基準です。本当に庶民はこの程度なんです。

阿部(知)小委員 ありがとうございます。

 脳死臨調の、もう一回やるべきだというお話も何人かの委員から出ておりました。今の井手さんの必死の訴えも含めて、本当に国民的論議に開いていただけますよう、また委員長にも格段の御配慮をお願いいたします。

 ありがとうございます。

吉野小委員長 次に、糸川正晃君。

糸川小委員 国民新党の糸川正晃でございます。

 本日は、参考人の皆様方、大変貴重な御意見を本当にありがとうございました。私は最後の質問者でございますので、どうぞまた忌憚のない御意見をいただきたいなと思っております。

 まず冒頭は、三人の方にお聞きをしたいと思います。野村参考人、そして島薗参考人、寺岡参考人からお聞きをしたいと思います。

 きょうの陳述の中にもございました、そしてまた質問の中にもございましたけれども、今、諸外国と比べて、我が国の脳死に関して、臓器提供にかかわる要件、これは非常に厳しいわけでございます。臓器移植を受ける十分な機会がまず得られないという環境から、多くの患者さんが海外で移植を受けられる、先ほどの陳述の中でも、海外で生まれていればというような話もあったわけでございます。

 このような状況に対して、我が国では、移植医療を推進するための法改正案、これが今まさに議論をされている最中でございます。例えばA案による改正が行われましても、我が国で臓器移植の数、これが本当に飛躍的に伸びるのか、また伸ばすためだけにやっていいのかという御意見もありました。

 内閣府の調査で、脳死という状態であったり、それからドナーカードに対する国民の意識、これは高いわけでございます。脳死となった場合に臓器を提供したいんだというふうに考えていらっしゃる国民も四割近い、これはどういう調査の仕方にあったかということもありますけれども、今のところではこれは四割近いということが数字としてはあるわけです。

 ただ、その中でも、年間五例程度の臓器提供にとどまっているという現状について、臓器を提供したいというこの善意を生かすために必要な取り組みについて、まず野村参考人からお伺いしたいと思います。次に、宗教学という観点から、国民の意識、それから行動の観点から、島薗参考人からお聞きしたいと思います。寺岡参考人には移植医療の現場という観点から、それぞれお聞きをしたいというふうに思います。

野村参考人 御指名ありがとうございます。

 糸川先生には大変申しわけないんですけれども、ちょっと時間をいただきたいのは、さっき高橋先生のときに、僕は完全に事実誤認を、うっかり頭が働かなかったんですけれども、臓器の摘出をするのは移植医です。さっき僕が言おうとしたことは、ドナーになったその患者さんの主治医の人がその摘出移植にかかわってはいけないということでしたので、ごめんなさい、糸川先生、そのことだけはちょっと訂正させていただきたいと思いました。

 果たして、例えばA案になったときに、提供がふえるかどうか、僕は批判的ではないですが、全くオープンに考えています。ふやすためにそれをやる必要はないと思っています。もし日本が命ということを、死ぬということを、お互いの命をどういう仕方で支え合い、助け合うのかということが、移植に関してこうであるならば、それをこの日本の現実の社会の中で受けとめざるを得ないんだと思います。そして、それでもという方はやはり海外に行く。多いか少ないか、今必ずしも、本当に移植ならば助かる人の数から数えましたらば、ほんの一握りまでいかない数の人が、幸いみんなに助けられて、自分のお金で行ける人なんというのはまず日本の場合はいないと思います。でいるわけですから、現実にはとてもそこに及ばないと思います。

 ただし、にもかかわらず、臓器提供をしたいという人のチャンスが与えられなくてはいけないというふうには思っております。

 例えば、封建時代のどこかのお城の話じゃあるまいし、その城のあるじが死んだらば、妻、子はよその藩に行って生き延びちゃいけない、みんな死ななきゃいけないなんというのは、封建時代には通じたのかもしれません。ところが現実には、その家主が亡くなったとしても、奥さん、子供は別の仕方で人生を全うする手があるんじゃないか。

 脳が死んだらばその人の臓器は全部殺さなきゃいけないんだなんということがあっていいんでしょうか。まだ今生きて頑張っている臓器をほかの人の体の中でも生かす、それによってほかの人も命を支えられるというような、そういうともに支え合う命の社会というのをどうにか築いていかないと、個人個人と言いますが、個単位では人間は生きていないと思うんですね。

 命自体というのが支え、支えられ、それを僕はその移植を通じて、さっき申しましたように、ウイデンティティー、僕がここにいるのだって、ある男性と女性が出会ってのウイデンティティーから生まれてくるわけです。

 ですから、そういう意味で、一緒に支え合う命ということの、たまたま僕は移植でそれに気がついて、とんでもない経験して気がつきましたが、実は素直に、それが生命の本質なんじゃないか。それを社会的にどうしっかりと間違いなく位置づけるか。

 そして、そのことによって、簡単に、呼吸テストもしているかしていないかわからない、死んでいるか生きているかわからない、だから脳死だといって、死だというふうに決めてしまうその日本社会のあり方、あるいは幼児虐待をあれしているあり方、むしろこのことによってそういうことが、今もこの数時間の中でももう一ダースぐらい、この社会が持っている問題というのがふつふつと出てきましたね。これを本当に移植法がさらに進むことによって徹底的に、表に出た問題として議論があれするし、それはより命を大切にする社会へと日本が変わっていく大変重要なきっかけになるんじゃないかと思っております。

島薗参考人 海外のこういう問題を研究している文系の研究者と話し合いますと、脳死問題についてこれほど議論した国はほかにない。日本は実に広い範囲の国民が参加して、脳死をめぐるさまざまな問題、臓器移植をめぐるさまざまな問題を議論してきました。本屋さんに行って調べるだけで実にたくさんの本がありまして、それはさまざまな意見が入っております。ですから、日本はある程度その点については誇ってもいいのではないだろうか。

 しかし、また、その九二年の段階からさらに変化がございましたから、このような新たな状況を踏まえての議論が起こるとすれば、またかつてやったような国民を巻き込む大きな議論を行うべきではないだろうか。

 それから、それについて国民は議論しているのに、必ずしも日本の医療教育の中ではこういう問題が十分に教育されていない、そういう問題もあろうかと思います。これは医療教育だけではありませんが、科学者の教育、文系でもそうですが、文科と理科の間のギャップ、こういうものを縮めていく、そういうことが、いい医療を底から、底辺から支えていく文化をつくっていく、そういうふうに考えております。

寺岡参考人 お答えします。

 医療現場から臓器提供に、現在の臓器提供が法改正によってどのような影響を受けるかということに関してということでしたが、先ほどお手元にお配りしましたこの資料の三を見ていただきたいと思います。

 九年間の間に、意思表示カードあるいはシールに関連した臓器提供情報は七百三十七件ですね。これは、一番に丸をして、脳死下で臓器の提供を承諾した方の数でございます。これが九年間の数であります。

 恐らく、法律を改正しますと、この数がかなりふえるということは言えるだろうと思います。しかし、そこから今度は脳死下での臓器提供に至るまでには、まず施設の問題、それから連絡時期の問題、それから、心停止前に連絡がされた二百二十二件の中で実際に脳死判定が行われましたのは四十八件でございます。これは去年の末の段階です。つまり、二割しか脳死判定が行われないということでございます。法的脳死判定を実施しなかったのはここに百六十二件とありますが、これはどういった要因があるんだろうかということも考えてみなければいけないだろうと思います。

 救急医学会が中心となりまして、厚生労働省の班研究で、全国の四類型を中心とした施設のアンケート調査を行いました。先ほど郡委員がおっしゃいましたように、これは非常に消極的であります。その消極的な救急施設あるいは四類型施設などで、脳神経外科の施設もございます、救命救急センターもございます。消極的な一番大きな理由は、やはり負担が多過ぎる、リスクが多過ぎると。

 何が負担かと申しますと、やはり時間をとられてしまうということ、脳死判定でも、日本は一番厳密であって、脳死判定をやるというのはとても荷が重いということ、それから、何か問題があった場合にはマスコミを中心として批判される、そういうリスクもある、また訴訟のリスクもないとは言えないということでございます。こういったことから、現場の、提供の可能性のある施設の方々のアンケート調査では、やはり非常に消極的であります。

 これは、昨年の四月から、脳死下での臓器提供に関しましては保険で認可されまして、経済的にはかなりの額が入るようになりまして、経済的な負担は軽減されたとは言えますが、何も経済的な負担だけではなくて、時間的、人的な負担、そしてリスク、精神的な負担、そういったものがあることは事実であります。いろいろ考えましたけれども、そのような負担をいかに軽減していくか、あるいはリスクを分散していくかということも今後考えていかなければいけないと思います。

 それから、先ほど虐待の問題での基盤整備というのがございましたが、虐待の問題も含めて、それ以外の、日本の救命救急の医療というのは個々のレベルは非常に高いと思います。ただ、そういったシステムが十分に整っているかといいますと、システム面ではまだまだ基盤整備をしなければいけないところがございますので、そういった点も含めて、いろいろな助成をし、また補助をし整えていく必要があるだろう。そういった中で、救急の先生方、そして脳神経外科の先生方の負担がある程度、どこまで軽減されるかという問題はありますが、そういった中で初めて少しずつふえてくるんだろうと。

 ですから、法案がもしA案となったとすると、この最初の七百三十七件のところがふえる。しかし、それが先細りしていくことに関しましては、そのほかの運用の、施行規則、指針、それから救命救急のシステムの基盤整備、そういったものが必要かと存じます。

 以上でございます。

糸川小委員 ありがとうございました。

 次に、加藤参考人にお尋ねをさせていただきたいんですが、今、現行法では、十五歳の年齢制限、十五歳未満については臓器の提供ができない。海外で移植を受けているという現状があるわけでございます。海外ではこれが正当な医療として移植が受けられているわけですが、我が国で禁止されなければならない理由というのがあるのか。そういう部分を十分に納得されていない方もいると思いますが、現行法の存在意義、これも含めて、御意見が伺えればなというふうに思っております。

加藤参考人 最初のときにも少し説明させていただきましたけれども、まず基本的に、やはり十年前の、法律を制定した時点に戻ってお考えいただきたい。

 それは、脳死が人の死かどうか、その時点で日本ではまだ社会的な合意がないというところから出発したわけでございます。だけれども、脳死になった段階で、助かる人がいる、ぜひ提供したいというその意思、自己決定は十分尊重しなければならない、そうも考えられたわけです。そうなりますと、その自己決定を柱としている現行法で、どれぐらいの年齢の方からそれができるのかということがやはり議論されました。そして、我々も現在の運用を支持しておりますけれども、それはやはり十五歳程度が妥当ではないかというふうに考えられたわけです。

 今後、脳死が死であるということや、あるいは臓器移植の進展の中で、いやいや、これをもっと進めなければいけないということはあるかもしれませんが、一方で、先ほど来出ていますように、脳死についての知見というのもどんどんと深まってきております。十年前よりも、本当に脳死がすぐに心臓死に至り、日本における死として受け入れられるのかどうかということも十分議論しなければいけないと思います。

 確かに、お子さんが、そういうふうに悩んでいらっしゃる、大変な思いというのはわかるんですけれども、仮にそれが改正されたからといって、ドナーになられる方がそんなにたくさん出てくると思いません。やはりそれは、海外に渡航していくという構図は一緒で、むしろ、そういうことを今拙速にすることによって、逆の立場、脳死になっているお子さん、それからその御家族が十分な保障を受けられる、人権の保障も、治療の保障も受けられるだろうかというふうなことをやはり私どもは懸念しております。

糸川小委員 ありがとうございます。

 では次に、臓器売買について質問させていただきたいと思います。これは加藤参考人と町野参考人にお伺いしたいと思います。

 今、海外で移植を受けられる場合に、一部の国でございますけれども、移植医療にかかる実費以外という部分で、例えば報酬が求められるというような事例があるというふうに承知しております。このような臓器売買禁止の規定の適用について、御見解をお二人からお伺いしたいと思います。

加藤参考人 実態についてはもちろん日弁連も詳しいところはわからないんですけれども、臓器売買ということが海外で行われている、そういった情報も聞くことはあります。もちろん、今の臓器移植法はそういったことについてはすべて禁止しております。到底それは認められることではないというふうに思っております。

 先ほど少し申しましたけれども、親族に優先的に指定するということは、その懸念が生じるのではないか、偽装結婚等もございますので、やはり認められない。やはり公平性、医学的適応というところから出発していただきたいと思います。

町野参考人 どのことをどれだけお答えすればいいかちょっとわかりませんが、まず一つ、臓器売買がどうして悪いかということからやはりスタートした方がいいだろうと思います。

 一番の問題は、これはやはり臓器の提供者を搾取するからです。私は、その点一点に絞って議論すべきであって、恐らくこれで、臓器とか人間の一部が売買されるのはけしからぬ、人間の尊厳に反するからというだけで処罰されているわけじゃない、それ以上に重大な問題だからこそ、御存じのとおり、海外の国外犯も処罰されております。つまり、フィリピンに行って臓器を買ったような人間は処罰されます。これはこのような趣旨でございます。私は、この限りで、臓器の売買というのは絶対に禁圧されるべきものだと思います。

 しかしながら、他方では、今、日本の臓器移植法は厳しいから臓器売買に至るんだ、だから日本の臓器移植法を緩めればいいんだという理屈はないだろう、それはおっしゃられるとおりだろうと私は思います。

糸川小委員 ありがとうございました。

 もう時間でございます。最後に、寺岡参考人に、今の臓器売買についてなんですけれども、こういう事例で、臓器売買の禁止の規定に抵触するおそれがあるということから、患者さんがそれでも臓器の移植を海外で受けられて、帰国後、医療を提供しないというような医療機関があると思いますが、その点について何か御意見があればと思います。

寺岡参考人 お答えします。

 これは、実際難しい問題でございます。

 移植学会では一九九四年に倫理指針を出しておりまして、臓器売買へは一切関与してはならない、協力もしてはいけない、患者を紹介することもいけないということになっております。そういった文面では書かれておりますが、では、現実に患者さんが外国でそういった移植を受けて帰られたときにはどうするのか、これを放置することはできないだろう、人道的な観点から診療せざるを得ないといったことが、文面ではありませんで、文言上でそれは仕方がないということになっておりました。

 また、御存じのように、我々は応招義務というのがございまして、患者さんが診療を求めてこられた場合には、これをお断りすることはできません。ですから、患者さんが病院にいらしてしまった場合には、その旨を述べて、私はこういった考えであってこういうスタンスだから反対である、しかし、そういったことでも、いらっしゃった以上は診療せざるを得ないので、それでもよろしければこちらで診療をさせていただくというふうなお話をして診療せざるを得ないということになっております。

 ところが、最近ではそのような診療が、つまり、違法行為による移植による診療に関しましては診療報酬を請求できないというふうな情報が流れまして、そのような観点から、そしてまた、倫理的にもやはりそれはすべきではないという観点から、拒否される施設が出ていることも事実でありまして、それでまた患者さんの側に大きな混乱が生じているということも事実でございます。非常に難しい問題でございます。

 実際に、診療しなければその患者さんたちは恐らくは臓器が拒絶反応でだめになってしまい、亡くなってしまう方もいらっしゃるだろう。かといって、それを前提にすれば、今後も海外でそういう移植を受けて帰ってこられる方は後を絶たないだろうということもある。これは恐らく、個人個人の意思、一つ一つの施設施設ごとでは、また一移植学会だけでは解決のつかない問題でございまして、この問題に関しましては、先ほど阿部議員からもありましたように、広く関係団体とも議論をして、対策をどうしていくか。それにはやはり厚生労働省が保険診療に関してどういう見解、対応をされるかといったことも含めて、検討していきたいと思っております。

糸川小委員 最後、井手参考人にも質問を用意していたんですが、また次回、機会があればお聞きしたいと思います。

 本当にきょうは貴重な御意見をありがとうございました。終わります。

吉野小委員長 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、参考人各位に一言ごあいさつ申し上げます。

 参考人各位には、長時間にわたり貴重な御意見をお述べいただき、まことにありがとうございました。小委員会を代表して厚く御礼を申し上げます。

 次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。

    午後零時十二分散会


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