衆議院

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第7号 平成25年5月8日(水曜日)

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平成二十五年五月八日(水曜日)

    午前九時開議

 出席委員

   委員長 後藤田正純君

   理事 あかま二郎君 理事 伊藤信太郎君

   理事 小里 泰弘君 理事 土井  亨君

   理事 西村 明宏君 理事 黄川田 徹君

   理事 椎木  保君 理事 高木美智代君

      石川 昭政君    小田原 潔君

      大久保三代君    勝沼 栄明君

      門  博文君    菅家 一郎君

      菅野さちこ君    黄川田仁志君

      熊田 裕通君    小林 鷹之君

      今野 智博君    佐々木 紀君

      桜井  宏君    島田 佳和君

      白須賀貴樹君    新谷 正義君

      鈴木 憲和君    瀬戸 隆一君

      田野瀬太道君    田畑 裕明君

      高橋ひなこ君    津島  淳君

      冨樫 博之君    中川 俊直君

      橋本 英教君    藤原  崇君

      牧島かれん君    村井 英樹君

      安住  淳君    郡  和子君

      階   猛君    吉田  泉君

      足立 康史君    小熊 慎司君

      三木 圭恵君    村岡 敏英君

      石田 祝稔君    中野 洋昌君

      柿沢 未途君    林  宙紀君

      高橋千鶴子君    畑  浩治君

    …………………………………

   参考人

   (大熊町商工会会長)   蜂須賀礼子君

   参考人

   (双葉地方農業共済組合組合長理事)        山田 四郎君

   参考人

   (福島県川内村長)    遠藤 雄幸君

   参考人

   (南相馬市立総合病院副院長)

   (広島大学客員教授)   及川 友好君

   参考人

   (塩釜商工会議所会頭)  桑原  茂君

   参考人

   (名取岩沼農業協同組合青年部委員長)       今野 裕章君

   参考人

   (石巻魚市場株式会社代表取締役社長)

   (石巻市水産復興会議副代表)           須能 邦雄君

   参考人

   (宮城県女川町長)    須田 善明君

   参考人

   (東日本大震災復旧・復興支援みやぎ県民センター代表世話人)        綱島不二雄君

   参考人

   (有限会社かくりき商店専務取締役)        小堀内将文君

   衆議院調査局東日本大震災復興特別調査室長     宮部  光君

    ―――――――――――――

委員の異動

五月八日

 辞任         補欠選任

  石川 昭政君     新谷 正義君

  小泉進次郎君     村井 英樹君

  桜井  宏君     熊田 裕通君

同日

 辞任         補欠選任

  熊田 裕通君     桜井  宏君

  新谷 正義君     石川 昭政君

  村井 英樹君     牧島かれん君

同日

 辞任         補欠選任

  牧島かれん君     白須賀貴樹君

同日

 辞任         補欠選任

  白須賀貴樹君     田野瀬太道君

同日

 辞任         補欠選任

  田野瀬太道君     田畑 裕明君

同日

 辞任         補欠選任

  田畑 裕明君     小泉進次郎君

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 東日本大震災復興の総合的対策に関する件


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     ――――◇―――――

後藤田委員長 これより会議を開きます。

 東日本大震災復興の総合的対策に関する件について調査を進めます。

 本日は、午前の参考人として、大熊町商工会会長蜂須賀礼子さん、双葉地方農業共済組合組合長理事山田四郎さん、福島県川内村長遠藤雄幸さん、南相馬市立総合病院副院長・広島大学客員教授及川友好さん、以上四名の方々に御出席をいただいております。

 この際、参考人各位に一言御挨拶を申し上げます。

 本日は、御多用のところ本委員会に御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人各位におかれましては、それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただきたいと存じます。よろしくお願いいたします。

 次に、議事の順序について申し上げます。

 まず、参考人各位からお一人十五分以内で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑に対してお答え願いたいと存じます。

 なお、御発言の際はその都度委員長の許可を得て御発言くださいますようお願いを申し上げます。また、参考人から委員に対して質疑をすることはできないことになっておりますので、あらかじめ御了承願います。

 それでは、まず蜂須賀参考人にお願いをいたします。

蜂須賀参考人 おはようございます。

 私は、福島第一原子力発電所から四・二キロほど離れております大熊町で小さな花屋を営んでおりました。震災前に商工会長という役をいただきまして、この大変な時期に、女性として、商工会長という役を務めさせていただきました。

 五月五日の新聞に、福島県内の子供人口比が載っておりました。第一位が大熊町です。第二位が西郷村。

 原発事故前は、大熊町がキャッチフレーズとしております人に優しい町づくりというキャッチフレーズのもと、子育てをするなら大熊町に行けと言われるぐらい、大熊町は子供たちの声であふれておりました。

 そこに震災です。震災のところには、各町に高校がございます。富岡には富岡高校、大熊町には双葉翔陽高校、双葉町には双葉高校、また小高、全て高校がございました。その子供たちが、今、サテライトという場で勉強しております。

 私も、今回、別の役をいただきまして、その子供たちとかかわることになりました。サテライト校に、商工会長、ちょっと来て見てくれと言われまして、行きましたところ、二校、双葉翔陽高校、富岡高校、富岡高校におかれましては、スポーツが大変盛んなところでございます、一つの高校が四つに分かれております。

 また、双葉、富岡、翔陽は、一つの大学を借りまして、一つの教室を分けまして、別の高校が勉強しております。隣が試験のときは、隣が終わってお掃除、そんな環境の中で子供たちが勉強していることを先生方は御存じでしょうか。

 あの子供たちが、これから私たち福島県、日本を背負っていく、本当の復興に力をかしてくれるのがあの子たちではないかと思っております。できるならば、あの子たちに一つ一つの独立した高校で勉強させていただきたいと思います。

 親元を離れ、寮生活しております。その寮も、あいている宿、民宿などを借りてやっております。その食事といったら、うちでは食べられないような食事でございます。でも、そんな中でも子供たちは頑張っております。どうぞ、あのサテライトに、先生方、皆さん行って、一度見てください。お願いしたいと思います。

 私は、町の商工会長をしております。大熊町、会員二百七十五名です。その中で、事業再建が、二百八十八事業所の中で三五%に満たない事業所で始まりましたが、本当に自分の事務所を持って事業をやっている方は五十にも満たないと思います。今は便利なもので、一時的な、ちょっとした商人はカタログで販売できます。でも、自分の屋号というか看板を背負って商売はできていない状況です。

 商売をやるにしても、今、商工会が一番悩んでいるのが、基盤となる土地建物の確保が難しいことです。いろいろな補助金、制度がありまして、仮事務所はできております。その中で、工業の方たちは、除染という仕事がありますので、仕事を再開しておりますが、私みたいなちっちゃな商業者、サービス業者はどうやって仕事をしていいかわかりません。

 今、会津の方に避難をさせていただきまして、その中で商売をしろと言われましても、やはり、この不景気な世の中、私のちっちゃな花屋があそこに出すことによって、商売がたきとなります。お世話になっているのに商売がたきになることは到底考えられません。私の花屋は「はなさく」という屋号でやっておりました。蜂須賀自身に花を買いに来てくれるのではなく、「はなさく」という屋号の花屋にお客様は買いに来てくれました。お葬式のときも、結婚式のときも、何かにつけて「はなさく」という花屋に買いに来てくれたんです。その看板で今商人として仕事ができないのがすごくつらいです。

 この中で、営業補償というのをいただいております。しかし、その営業補償を使って私たちは商売を再建することができないんです。皆様御存じのとおり、そこに税金を、取ろうという言葉はおかしいかもしれませんが、かける。極端な話、法人の方は、いただいたお金が、税金でお支払いすると、私たちは三年の補償です、それが五年で全てなくなってしまいます。いただいたお金は使えないんです。補助金があるだろう、補助制度があるだろうと皆さんおっしゃいますけれども、それを借りられればいいです。借りられない私たち、小さな小さな商業者は商売は無理です。三年は補償されました。しかし、四年目がありません。四年目も補償するよと言われるならば商売をしようかなと思います。

 私には跡取りがおりました。これで「はなさく」はあと三十年、四十年、「はなさく」という名で商売ができるなと思っておりましたけれども、その娘も一緒に避難をしております。大熊町は住みやすいところですので、多くの後継者が戻ってきておりました。その子たちの仕事さえも奪ってしまったんです。新しい土地で再開しようとしても、いろいろな決まりがあり、薬局屋さん、化粧品屋さん、いろいろな法があります。その法を、大熊町ならできるけれども、よその町ではできない、そういうふうな局面に立たされております。私たち商工会は、町の方向性が決まらない限り、商工会も決まらなく、行き先が全く見えない状況です。

 私個人の考えなんですけれども、復興とは何なんだろう。私たち一人一人の被災者が、あすへの、日々の生活の、安定できる、安心した日が来ることが私たちにとっての復興ではないかと思います。その一人一人の復興が大きな復興となるのではないかと考えております。

 取りとめのないお話をさせていただきました。ありがとうございました。(拍手)

後藤田委員長 ありがとうございました。

 次に、山田参考人にお願いいたします。

山田参考人 言いたいことはいっぱいあるんですが、限られた時間でございますので、お配りした原稿を朗読して意見にかえさせていただきたいと思います。

 私は、双葉郡浪江町の山田四郎です。

 このたびは、衆議院東日本大震災復興特別委員会参考人としてこのような機会を与えていただき、ありがとうございます。心より感謝申し上げます。

 私は、昭和三十二年、福島県立相馬農業高校を卒業し、葉たばこ、養蚕、果樹園、水稲、大豆など、農業一筋に生計を立ててまいりました。そして、農協代表幹事、農業委員会会長、農業共済組合長理事の職務を遂行し、現在に至っております。

 浪江町は、面積二百二十三・一平方キロメートル、双葉郡の海岸沿いに位置し、山地、川、谷、水系に恵まれた自然豊かな土地であります。その恵まれた自然を利用し、晩年には、農地、水、環境事業に力を入れ、ふるさとを豊かな地域にするため、精力的に取り組んでまいりました。小川にニシキゴイを放流して、試行錯誤の末、生息することに至りました。

 ことしの連休中、五月二日ですが、久しぶりに浪江町へ一時帰宅し、ニシキゴイに餌を与えようと小川に立ち寄りました。五百匹以上いたコイですが、一割ぐらいの五十匹程度きりおりませんでした。避難生活で、二年以上もの間、小川の管理に携わることができなくなったことに、腹立たしく、せつない思いをして帰宅しました。

 三・一一東日本大震災から既に二年が過ぎました。浪江町は、区域の見直しが行われ、立ち入り制限が解除された地域は多くなりましたが、インフラの復旧など、住環境の整備に向けた効果的な除染の方法などはまだ不透明であり、除染が終わったとしても、町の復興、再建には長期の時間を要するものと考えます。

 本日は、参考人という機会をいただきましたので、私個人の考えだけでなく、浪江サポート事業で行われている、福島シニアライオンズクラブが企画した、借り上げ住宅生活者の方々の近況、御意見などを抜粋し、ここで紹介させていただきます。

 お名前につきましては、アルファベットで失礼いたしますことを御理解いただきたいと思います。

 Aさん。

 お金や物や立派な家より、一番大切なものは人とのつながりです。

 震災前は、瞬間湯沸かし器のように、短気で怒りっぽかった。避難中は、しいんと、なぜか怒らなくなり、口数も少なく、家族を心配させたこともあった。

 浪江町の仲間から、早く福島市に来いと連絡があって、避難先の日光を出たが、長い避難生活の疲れとストレスで、頑固な皮膚病に悩まされた。

 避難生活で転々とするうちに、うつ病になる人、アルコール依存症になる人も少なくない。

 精神的被害の賠償について、みんなもっと声を出さないとという声も多いが、一番大切なものは、お金や物や立派な家じゃない、人のつながりです。人のつながりがなくなると、心がだめになってしまう。男の人は特にそれが厳しいです。長い流浪の暮らしの中で、現実を見据えた人の言葉と感じる。

 電力会社の現役時代、各地の水力発電所を回ってきた。昭和四十六年、福島原発の初めての運転時、YS11機が原発一号機の上空を旋回し、放射能の数値を計測するのを見ていたが、計測の結果は、絶対安全、六号機までふえても絶対安全は不変とされた。それが、この結果です。

 Bさん。

 原発の恩恵もある。大きな被害もある。このことを子孫のために世界じゅうが認識しないと。

 ことしの一月三十一日になってわかったことがあるんです。

 たまたま集会所で一緒になり、双葉町の人と震災当時の話になったとき、双葉町の人たちは、震災当日の三月十一日の夕方五時には、もう原発事故が知らされていて、何台もバスが迎えに来て、逃げられるだけ遠くに逃げろと指示されていたそうです。そのころ、次の日にようやく事故を知らされたたくさんの人が、一万人を超えていたでしょうね、本当のことを知らない、知らされないというのは恐ろしいことです、戦争のときと同じじゃないですかという話になりました。

 避難生活をしている現在、今浪江町へ帰っても大丈夫と言われても、二十年、三十年も先のことはわかりません。荒れ果てた町の形はもとのように復興できても、空から恐ろしいものが降り続けている。津島の山から流れてくる水にも入っている。農業をやっても、安全な米をつくれません。皆、浪江町が大好きなのに帰れません。寂しいことです。

 Cさん。

 誰だってふるさとの町で往生したい。でも、帰れない。俺たちは捨てられた民だよ。

 避難中に病気になったり亡くなったりする人も多い。そういう人たちを身近に見てきた。自分もいつ同じことになるのかわからない。しかし、それは原発事故とは関係ないと東京電力も国も言い切る。法治国家であるはずの日本で、加害者優先の考え方は納得できない。

 また、高齢者のほとんどは、ふるさとで往生したいと願っているはずである。でも、帰れない。除染は進まないし、進んだところで、若い人の働くところがない。年寄りばっかり帰っても仕方がない。子供の声がして、近所の寄り合いがあって、訪ね合ってお茶飲みして、それが町である。そんな町がないんだから、俺たちは捨てられた民だよ。

 Dさん。

 避難生活は一応落ちついたが、心の漂流は終わらないよ。

 農業も立ち行かなくなった。そうなれば、農業とともに生きてきた企業はみんなだめになる。会社も先行きは見えない。

 それでも、浪江町に帰りたい。しかし、帰っても、若い人がいない町に年寄りだけ張り切って帰ったところで、順番に死んでいくだけである。帰れる気もする。帰れないとも思う。何かもう御破算だ。避難して歩くのは一応区切りがついたが、心は漂流したままである。

 Eさん。

 未来に向かって流れていた俺たちの時がとまってしまった。

 浪江町で、いずれ町に帰りたい人の希望調査をしたところ、町民の三四%きり帰還を望んでいないことがわかった。しかも、帰りたい人は六十五歳以上の高齢者ばかりだという。もうもとの浪江町にはならない。うば捨て山である。

 こんな人生なんて、夢にも思わなかった。こんな事故がなければ、時は未来に向かってちゃんと流れていた。あすは野菜の種をまく、一週間後には肥料をやる、来月にはこうする、秋には何をする、来年は、五年後は、将来はと、皆先のことを楽しみに考えて、苦労して生きてきた。今は俺たちの時代がとまってしまった。何をしたらいいのか、何を目標にしたらいいのか、全く見えない。

 Fさん。

 病気の夫につらい避難生活をさせなかっただけでも、せめてもの救いです。

 震災から一月ほどして、家の様子を見に浪江町に帰ったら、荒れ果てた家の庭は牛のたまり場になっていた。野生化した五、六頭の牛が人間を見て襲いかかってくる。恐ろしくて家に近づけなかった。

 驚いたことに、猫が生きていた。家族の一員だったので、本当にうれしかった。十五歳の年寄りなので諦めていたが、福島市へ一緒に連れて帰った。その後、一時帰宅が許されて病院から家に帰ってきたお父さんも、猫との再会を喜び、長男、長女と家族そろって穏やかな一週間を過ごした。短い時間だったが、浪江町にいたときと同じ時間を家族で過ごせて、幸せに感じました。

 お父さんが病院へ帰った次の日に猫が死んだ。自分をかわいがってくれた飼い主に会えるまで頑張って、命が尽きたのだと感じました。

 二カ月間泊まり込みで看病したお父さんは、震災から四カ月でこの世を去った。

 Gさん。

 福島じゅう、日本じゅう、世界じゅうから支援をいただいて、感謝と恩返しを忘れません。

 原発事故が起きたから、今度は津島に逃げろと指示が出たので、また移動した。津島の公民館でようやくほっとして、みんなが集まり、外でひなたぼっこをした。久しぶりに落ちついて浴びる太陽の光がうれしかった。

 薬を持ってこなかったという人が大勢いて、診療所まで皆でそろって歩いていった。このとき、津島の放射線量は一番高かったことを後で知った。保安院なんて信じられない。みんな怒りはおさまらなかった。

 大震災から二年がたとうとしているが、避難生活は先行きが見えない。避難者なんだから世話になって当然という人もいて、原発こじきと言われるのが情けなく感じます。

 Hさん。

 温かい心が通い合ったふるさとの暮らし、お金では戻ってこない。

 温かい心が通い合うふるさとの町はもうない。町に人影がなく、子供たちの元気な声もない。建物は荒れ果て、食べ物を探して牛や豚が町の真ん中をさまよっている。でも、きちんとインフラが整ったところで、若者が帰らなければどうしようもない。自分たちが帰ったところで、若者がいない町で年寄りが生きて何をやれというんだろう。

 Iさん。

 ああ、避難民だというような心ない言葉がつらい。でも、新しい生きがいができた。

 放射線量の問題だ。子供たちへの健康被害を恐れて県外に移住した若い世代の家族も多く、家族の高齢層は取り残される。母子のみ移住して父親だけが残り、二重生活に苦しむ人たちも少なくない。放射線の健康への影響を恐れながら子供を育てざるを得ない家族は圧倒的に多い。その上、除染は遅々として進まない。

 このような状況の中で、住民の不安や焦り、自分たちだって大変なのに、国と東電の思いやりはない。あなたたちはいいという不満がたまって、その矛先が避難している人たちに向けられてしまうのだろう。

 結びになりますが、ここで紹介さしあげた方々は、七十歳を過ぎた高齢者の叫びです。ふるさとを思い、郷愁の念に駆られる毎日です。家族や孫の将来を案じ避難を余儀なくされた双葉地方の人々の心情をお酌み取りいただきたいと切に願います。

 二度と原発事故は起こしてはなりません。また、遭遇したくもありません。早急に安全対策と効果的な除染の方法を打ち出し、住民の不安を解消していただきたいと思います。

 広野町、川内村では、ことしより本格的な水稲作付が再開され、農業の復興の兆しは見え始めましたが、他の町村では、再開のめどすら全く立っておりません。産業復興なくして町の復興はありません。政府は、前面に立ち、総力を挙げて復興を加速させる決意を新たに持っていただきたいと思います。

 地域が抱える課題に格差があることは歴然としています。限界集落などにならないよう、速やかな対応を希望します。また、町村の住民の実情をしっかりと把握し、取り組むべき問題を考えていただきたく願っております。

 最後になりますが、浪江町の町民は、除染の実施より、長期間の避難生活の予測への不安を案じ、日々生活しています。適切かつ円滑な賠償手続を希望し、当然の権利として要求していくことを申し添え、私の参考人としての意見陳述を終わります。

 ありがとうございました。(拍手)

後藤田委員長 ありがとうございました。

 次に、遠藤参考人にお願いいたします。

遠藤参考人 福島県川内村村長の遠藤雄幸といいます。

 このような機会を与えていただきまして、心より感謝を申し上げます。

 私どもの川内村は、第一原発から二十キロ、そして二十キロから三十キロの、二つの地域に分断をされております。面積は約二万ヘクタール。そのうちの八七%が豊かな緑に囲まれた地域でありまして、その山合いに約三千人の村民が生活をしております。

 旧警戒区域とそれから旧緊急時避難準備区域で約三千人ですが、そのうち三百五十人が旧警戒区域。現在、解除準備区域と居住制限区域にそれぞれ区域見直しが行われている地域であります。

 震災当時、三月の十一日、そして翌日、三月の十二日には、隣町の富岡の町民約八千人を受け入れをいたしました。

 私どもも、原発と共存しておりましたけれども、このような事故が起こるというようなことはまさに想定をしておりませんでした。十四日に三号機があのような形で爆発を起こしたシーンを、庁内のモニターで、富岡町長、町民、町会議員と一緒に見ておりました。本当に、しびれるような時間を過ごしてまいりました。

 なかなか情報が伝わらない中で、孤立無援の状況の中で、恐怖感と不安感の中で富岡町民を受け入れて、十六日にはともに、福島県の中央部にあります郡山市、ビッグパレットの方に避難を余儀なくされました。

 一昨年の九月の末に旧緊急時避難準備区域が解除されました。理由は二つです。一つは、比較的線量が低かったということです。もう一つは、原発があのような、もう水素爆発が起きないだろうというようなことであります。それからもう一つは、復興計画、除染計画をつくっているということでありました。

 何とか自分たちの置かれている地域が戻れる可能性があるなら、自分たちでその可能性を広げたいというふうに考えておりました。

 昨年の一月の末には、戻れる人から戻りましょうと帰村宣言をいたしました。本旨は、何とか現場の最前線に役場機能をまず戻して、状況がどうなっているのか、あるいは、戻るための課題は何なのか、どのようなことをすれば戻れるのか、こういったことを、役場機能、行政機能をまずもとのところに戻そうということが帰村宣言の本旨でありました。

 宣言の前に、もう既に二百五十人の村民の人たちが戻っておりました。彼らからすれば、一日も早く行政機能を戻して行政サービスを展開してほしいという思いがありました。さらには、行政が戻るならば一緒に戻るという住民もおりました。

 去年の四月に役場機能を再開いたしまして、そのとき、約五百二十人の村民の人たちがもう既に戻っておりました。それから半年、十一月には約四割、千二百人の村民がもう既に自分の家で生活をしておりました。

 この一年間、ただ単に自分の家、自分のふるさと、生まれ育ったところに戻るのに、どうしてこんなに難しいのかということを実感してまいりました。

 戻った村民においても、もとの生活に戻るまでにはなかなか時間がかかります。買い物ができない、病院が遠い、あるいは子供たちの学校、高校進学のことを考えるとなかなか戻れないというような、新たな課題も浮き彫りにされております。

 まず戻って最初にスタートしたのが、除染であります。私のところは千二百世帯くらいございますが、現在、一〇〇%、家屋と家屋の周りの二十メーター範囲の除染は全て終わりました。効果は、約四割から六割、線量が下がっております。ですから、除染の効果はあるというふうに考えております。さらには、今、道路、そして農地の周囲を除染しております。

 除染においても、新たな課題も発生しております。

 一つは、なかなか目標値まで下がっていないところが約四割あります。その目標値というのは、年間積算線量でいうと一ミリシーベルトでありまして、空間線量では〇・二三マイクロシーベルト。一度の除染ではなかなか高い壁だなということも感じております。

 それから、森林除染をどうしていくのかということです。なかなか環境省の中で方向性が示されておりません。効率的な方法はどうなのか、その方法よりも、まず森林除染をやるのかやらないのかという判断がいまだ示されておりません。

 汚された立場からいえば、森林除染をやらないという選択肢はないというふうに考えております。なぜならば、広大な面積です。そして、家屋も、裏山があって里山があって、そういうところで生活をしておりますので、やはり、線量が一次の除染で下がらないところは、森林除染をもう少し奥山までやってほしいというような希望もあるのも現実であります。

 今後、長期戦だと覚悟しております。しっかりと除染を進めるということが復興の一歩だというふうに思っております。

 若い人たちは働く場所がない、だから戻れないというような声もありました。そのために、民間企業を三社ほど企業誘致、本当に手を挙げていただきました。三社で約百十人の雇用が生まれます。そのうち二社がもう既に村内でスタートをしておりますが、ここでもやはり課題もあります。

 一つは、職種、適性によるミスマッチが今起きているということ。ですから、募集してもなかなか労働者といいますか従業員が集まらない、こういう現実も今起きております。それから、給料体系が、現在、周りには除染や復興事業など単価の高い事業、仕事があります。だから、どうしてもそういう仕事の方についてしまうというようなことが行われております。

 それからもう一つ、企業立地補助金ですが、実際、十億円以上は四分の三ですが、企業によっては自己資金に大変苦労しております。やはり今後、企業進出を進める上で、つなぎ資金といいますか、こういう制度もしっかりと活用していく必要があるのかな、案内も必要だなというふうに感じております。

 それから三つ目は、子供の教育です。

 私のところは、三年前まで富岡高校の分校がございました。三年前に廃校になりましたけれども、廃校になった後も、バスで富岡や双葉や大熊に通学をしておりました。今、なかなかそういうことはできません。先ほど蜂須賀さんが言われたように、今、いわきの方にサテライトがつくられておりますが、通学するには余りにも時間がかかって、通学できません。

 やはり、中学生を持つ家庭は、高校の進学のことを考えると戻れないというようなことをおっしゃっております。確かに、高校それから今後の大学ということを考えると、高校が存在しない川内村に戻ることはかなりリスクもあるのかなというふうに思われます。

 それからもう一つは、医療環境です。

 私のところの診療所は、内科と歯科の二つの診療科でした。おかげさまで、去年の四月に戻ってから、眼科それから心療内科、整形外科、そして消化器の検査というふうなことで、震災前よりはかなり充実した体制になっております。

 しかし、やはり新たな課題も生まれております。それは、今まで二次医療のために大熊町や双葉町の病院に通院していたのが、もう不可能になってしまいました。重篤や救急搬送を受け入れてくれるところはやはり中通りの方になってしまいます。郡山や田村市あるいは平田というところになってしまいます。

 今後、双葉郡が復興していく上で、学校、教育の問題と医療環境の充実は中心になるんだというふうに思います。卵か鶏の議論がよくされておりますが、やはりここは国の指導のもとに医療それから教育環境を充実していくということが、今後、双葉郡の復興には欠かせないなということを感じてまいりました。

 五つ目は、やはり農林業の再開です。

 私のところで、新たな農業の方法として、野菜工場、水耕栽培を立ち上げました。一つは、何とか露地栽培の風評被害を払拭する、その前段として水耕栽培はどうかということで提案をしてきて、先月の末にスタートをいたしました。それから、雇用の確保です。マックスで二十五人ほどを予定しております。最大で一日八千株生産しようということで今進めておりますが、やはり新たな課題も生まれております。露地栽培に本当につながるのか、それから川内村全体の農業や畜産の振興にどうなのかということです。

 土地をつくって、土を大切にしながら、水を守って、里山を育んできた農家の人たちです。今回、放射性物質が飛散して降り注いだことは、ただ単に仕事を奪われただけではありません。自分が受け継いできた土地や農家、農業という仕事を未来につなぐことができなくなってしまった、こういう現実をまざまざと今農家の人たちは感じております。ですから、過去も否定され、そして未来も悲観的になっています。

 ただ単に福島県川内村をビジネスモデルとしか見ていない人たちにとっては、こういう価値観や意義はなかなかイメージできないかもしれませんが、農家の人たちはどれだけ土を守って水を育んできたかということです。それはもう生活の一部なんだというふうに思っております。

 おかげさまで、ことしから水稲の作付がスタートをいたします。二百八十ヘクタールのうち百二十ヘクタールくらい、ことし作付を実施いたします。どれだけ農家の人たちがお米をつくることに飢えていたか。今少しずつ戻ってきている要因に、作付の準備がスタートして、間もなく田植えが始まります。多分、田んぼの田植えをした風景がことしは見られると、大いに期待をしているところであります。

 復興と一言で言うならば、どれだけ自分たちが住んでいる村に生きがいを持って、生きる目的を持って住み続けるか、あるいは誇りをどう取り戻していくかということに尽きるのかなというふうに思っております。

 今まで過疎、中山間地域の抱えている少子高齢化が、今回の震災で時計の針が大きく早く回りました。震災前三五%の高齢化率ですが、今もう七割近いです。千二百人のうち七割の方が高齢者です。恐らく、これから双葉郡が区域見直しで復興していくと、同じような現象が起きてくるんだと思いますね。こういったことが本当に自分たちの自治体だけで解決できるかというと、そうではない、不可能に近いというふうに思っております。

 ですから、まず、短期的にそして集中的に投資をしていくということです。もう時間がたてばたつほど戻る人は少なくなってきます。戻ってもやはり高齢者だと思いますね。ですから、インフラの整備でまず重要なのは、やはり学校です。それから、病院です。こういったところを核にして、やはり若い人たち、子供たちにも戻ってこられるような環境をいち早くつくっていくということが重要ではないのかなというふうに思っております。

 それから、もう一つです。確かに補償や損害賠償は重要ですけれども、それ以上に、やはり生きがいや誇りをきちんと見失わないような施策を実施していくということなのかなというふうに思っております。

 今、戻ってきたときの制度設計がありません。ですから、戻るための、戻った人のための新たなスキームが必要になってくるのかなというふうに思います。なかなか、仮設あるいは借り上げの制度が残っている中で、やはり都会の利便性も十分感じております、こういう中で、戻ろうというのを、避難者だけの、そのモラルだけでは解決できないというふうに思います。こういうスキームが残っている以上、新たな制度設計をして、戻ったらば生活支援があるよとか社会支援があるよというような制度設計を考えていかないと、時間がかかるなということを感じてまいりました。

 もう軸足は間違いなく自立だというふうに思っております。そういう中で、戻る、戻らない、こういう選択をやはりきちんと尊重していくということが今後必要でありますし、そして、さまざまなリスクにおいても個々の判断が重要になってくるのかなというふうに考えております。補償、それから損害賠償をしっかり求めながらも、それに依存しない生活支援をしていくということが、これから復興していく上では重要だというふうに思います。

 時間がたてばたつほど、労働意欲、就農意欲も減退していきます。子供たちも、新しい学校の中で新しい子供たちや先生方となれ親しんで、そこでもう生活がスタートしております。若い人たちも、避難先で仕事を見つけて、もうそこで職についております。こういう現状が今ある中で、戻ってこい、戻れるよと言っても説得力には欠けてくるというふうに思います。もう時間との勝負です。よろしくお願いいたします。

 終わります。(拍手)

後藤田委員長 ありがとうございました。

 次に、及川参考人にお願いいたします。

及川参考人 南相馬市立病院の及川でございます。

 まず、このような機会を与えていただきました後藤田議員、それから私をこの場に立たせてくれました多くの国会議員の皆様に心から感謝申し上げます。

 なお、この場をかりまして、我々南相馬市立病院、それから南相馬市の御支援にかかわった多くのボランティアの方々、御支援の皆様方に心から御礼申し上げます。深謝いたします。

 私のきょうのお話は、三つに分けてお話をさせていただきます。

 一つ目は、震災後行われました屋内退避指示、それから緊急時避難準備区域、これが我々の地域にどのような影響をもたらしたか、このことについてひとつお話しさせていただきます。

 二つ目、現在の南相馬市の人口をもとにしながら、町がどういうふうな状況になっているんだ、震災後二年たった今もどういうふうになっているんだということをお話しさせていただきます。

 三つ目は、私は医療者なので、医療の立場から復興とはどういうふうに考えるべきなのか、これは医療者だけではなく個人の意見も含まれますが、医療者として復興をどういうふうに考えるかということ、この三点についてお話をさせていただきます。

 まず、私の立場をお話しさせてください。実は、私は内部被曝者です。今回の福島第一原発の事故によりまして、私も内部被曝をしております。

 一番最初に内部被曝をはかったのは、震災の年、二十三年の六月。当時、内部被曝をはかるホール・ボディー・カウンターがございませんでしたので、女川原発に出向きまして自分の体を測定しました。約四千ベクレルの内部被曝をしたということがわかりました。これを契機に、我々の病院の進む方針が決まりました。

 それに先立ちまして、これが私の立場で、内部被曝者としてまず今の状況をどういうふうに見ているかということをお話しさせていただきます。

 最初のテーマです。

 当時の政権が出しました屋内退避指示区域、これは皆さん当然御存じだと思います。屋内にとどまりなさいという指示なんですね。二十三年の三月十五日に出されました。

 我々の南相馬市というところは、実は、地方行政区では、原発から二十キロから三十キロの行政区では最も大きい地方行政区で、当時約七万一千五百人の人口がそこに居住しておりました。この人口に対してどのようなことが起こったか。屋内に退避しなさいと。実はこの指示が非常に曖昧で、僕らもどうしていいかわからなかったんですが、額面どおりに受け取れば、家の中にいて外には出るなという指示です。これが四月の二十二日まで続いたんですね。

 僕も講演をしながら、さまざまなところで主婦の方に、あなたはどのくらい自宅に食料品を備蓄していますかと聞くと、若い人、二十歳代の人はほとんど一日ですね。高齢者の方でも五日と言います。もし政府の指示をそのまま額面どおりにとったら、皆、餓死していたわけですね。

 何を言いたいかというと、皆さんは我々市民に対してさまざまな裁量権を持って指示を出すことができますけれども、それをきちんと検証していただきたいということです。

 実際に、もう一つの検証はぜひしていただきたいのは、屋内退避指示区域は原発から二十キロから三十キロ圏内に出されました。それが民間にどのような影響を及ぼしたか。皆さん、これを考えてみてください。

 資料のスライドにちょっと出したんですが、資料のスライドの三枚目の一番左上ですね、実は支援が全く入らなくなりました。国が三十キロ圏内というふうな指示を出しますと、民間の業者は五十キロ圏内です、五十キロ圏内に入るなと。

 ここに書きましたけれども、実は、ドクターヘリはさまざまな議論を呼びましたが、ドクターヘリも三十キロ圏内に入っていないんですね、入れない。隣に、三月十五日発表、これは国交省の資料を提示しましたけれども、三十キロ圏内にドクターヘリが入れなくなったんですね、入らなくなったんです。

 救急車両、救急車両というのは消防署の救急車です。これも全く三十キロ圏内に入らなくなりました。DMATも入ってこない。DMAT、皆さん御存じのように、震災時に活躍する医療チームです。それも入らなくなった。そのほか、さまざまなボランティア、公的ボランティアの医師団や看護師、マスコミも入らなくなっています。

 経済の流通、物流が全くストップしたんですね。どんなことが起こったか。市内に食料品もなくなりまして、ガソリンも入らなくなった。

 後でこの辺の検証を私たちなりにしたんですが、救急車両に関しては、消防庁ですか、当時、宮城県、岩手県、福島の他の地域に消防署が送るときに全国から救急車両を集めたそうなんですが、そのとき、我々の地域には入らないことを条件に集めた。これは私、確証しているわけではありませんが、いろいろなところから聞いてくる話です。

 これはどういうことなんだ。いわゆる我々の地域は見捨てられた地域なんですね。これを国会の方々がどういうふうに考えるか。ぜひ検証していただきたい。

 四月二十二日から、一カ月以上にわたる屋内退避指示がなくなりまして、そのかわりに緊急時避難準備区域が制定されました。これは九月三十日まで約六カ月間続いております。

 これは当時の内閣から出された指示なんですが、これに関しても、緊急時避難準備区域ですから、いつでも避難できる、これはいいんですが、地域に子供、妊婦、入院を要する者、要介護者は入らないようにというふうな指示が国から出されています。

 地域に、自治体に子供や妊婦がいなかったら、皆さん、どうなりますか。その自治体はもう、その後、行く末がないと言っているのと同じです。しかも、それがいつまで続くかも我々には知らされませんでした。

 その結果、どのようなことが起こったかといいますと、医療崩壊です。我々のところには、南相馬市の旧緊急時避難準備区域、二十キロから三十キロ圏内に五つの病院がありましたが、残念ながら、当時、入院を置けませんから、我々の南相馬市立病院以外は全て休院となっています。

 そのときに人口はどのぐらいいたかといいますと、大体三万人ぐらいいたんですね。三万人というと、市の行政が保てる、何々市と持てる行政になるべき人口です。その市、三万人の中に、入院患者さんが全く入れなくなったんですね。これも国から出された行政指示で、その状態がずっと続きました。

 国会議員の方々も五十人以上我々の病院に来てくださったんですが、我々の病院に来ると、あそこが非常に孤立された地域だということがわかります。他の医療機関に行くまで、時間として救急車で一時間ぐらいかかるんですね。そういうところに入院が置けないというなれば、当然、国の指示によって医療的な被害を受けた方がたくさんいらっしゃいます。そのことについても、ぜひ皆さん検証していただきたい。

 つまり、国の出した指示はさまざまな影響を及ぼします。避難しろと一つ言っただけで、さまざまな影響を社会全体に及ぼしますので、ぜひそれを皆さんに知っていただきたい。

 次に、我々の南相馬市の人口から、現在の南相馬市の地域の状況をお話しさせていただきます。

 先ほど申し上げましたように、我々の南相馬市には七万一千五百人程度の人口がおりましたが、今、大体七割程度、四万八千人程度まで戻ってきております。

 先ほど遠藤村長さんがおっしゃいましたように、人口は七割弱戻ってきたんですが、やはり同じように大きな少子高齢化社会を迎えています。資料にも出しましたが、人口の分布が、かなり減ったんですね。

 南相馬というところは、実を言うと、老年人口は震災前は二五%程度で確かに老齢化社会だったんですが、幼年人口、子供の人口は全国平均より多かったんですね。つまり、子供は結構いた地域なんです。それが、子供が減って、高齢者も三五%近くになる。子供の人口は八%ですね。震災前は一五%であったのが八%まで減りました。

 しかも、こういう少子高齢化社会が一晩のうちに出てしまう、これが問題です。多くの自治体は時間をかけて、多分、十年単位のスケールでどんどん少子高齢化社会、これは日本全体の傾向ですから仕方がないんですが、それが一晩のうちに出てしまう、これが問題です。全く対応ができない状態になってしまうんですね。

 医療はどうなるか。

 少子高齢化が起こりますとどうなるか。よく、その世帯に、介護保険をとる人数が震災前と比べて倍増しているというようなデータがございます。なぜか。それはそうですね、高齢者がふえたから。これは当たり前なんです。

 それならば、もう一つ、在宅はどうなったんだと。実を言うと、医療の中で、患者さんを御自宅で診るという在宅、これは国も進めていると思うんですが、在宅はどうなったんだと。

 実は、少子高齢化が進みますと、家庭の中で高齢者ばかりが残りますね。そうすると、在宅もできにくくなる、いや、できなくなってしまっているんですね。つまり、患者さん一人一人を見る家族力量が減ってしまって、本来ならば自宅である程度幸せな生活を送れる人が、家族の構成崩壊によって、つまり、若い世代が避難して高齢者ばかりが地域に残るということで、残念ながら在宅に帰れなくなってしまう。そうするとどういうことが起こるかというと、老人健康保健施設が満杯になってしまう。

 そういう医療の崩壊に結びつくようなことが現在起こっています。

 我々のところで、最終的に医療の崩壊を何で示すかということは、ちょっと戻りますけれども、一旦休院した病院は現在どうなっているか。

 資料七をごらんください。我々の南相馬市の二十キロから三十キロ圏内に五つの病院がございまして、許可病床数が千四十六ございました。実際に今入院可能な数、さまざまな理由で病床数を全てあけられないんですが、それが四百四十三です。つまり四二%。

 人は約七割戻ってきているのに、入院できる数は震災前の四二%にまで減っています。つまり、これこそ医療が崩壊している。本来ならば入院させなくてはならない患者さんも入院できないんだということを示しています。

 最後に、医療復興についてちょっとお話をさせてください。

 この数字を見てもわかるんですけれども、入院数が少し少ないんですね。満杯ではありません。これは医療に携わった方ならばすぐわかると思いますが、病院は満床では動かないんです。ある程度人数を減らしていないと、入院もできませんし、上手にベッド回転もできません。いい医療はできないんです。ですが、こういう数字を見ながら、本当に医療の需要はあるのかと言う方々がいます。

 復興に関して、これは実は私自身が国の皆さんに、国会の皆さん、政府の皆さんにお聞きしたい。何かというと、本当に二十キロ圏内、三十キロ圏内の市町村を復興させるのかということなんですね。これの明言が我々市民には、医療者には届いていません。

 どういうことかといいますと、医療の計画を立てますにも、中長期的な計画というのがございます。

 皆さん、医療圏という言葉をちょっと聞きなれないかもしれないんですが、医療圏、つまり、例えば我々南相馬市立病院、私は脳神経外科が専門なんですが、脳神経外科がどの地域までカバーしているかというと、北は宮城県の、隣の新地町、そこから我々の病院に患者さんが来ます。南の方は、実は一番遠かったのは、いわき市に四倉というところがあるんですね、いわき市の患者さんも我々のところに来ていたんです。ということは、病院は南相馬市というところにありますが、医療圏は福島県の太平洋岸、北三分の二をカバーしていたということになります。

 とすれば、私が今後医療を復興させる上に考えなくてはならないのは、そこの人口がどうなってくるんだ、将来的に町がどうなってくるんだ、ここがわからなければ、実を言うと、きちんとした復興のビジョンが描けないわけですね。

 ぜひ、国会の皆さん、ここにいる議員の皆さんは国を動かせます。地域の再生を、特に原発二十キロ圏内の地域の再生をどうするんだということを、きちんと我々一般市民に知らせていただきたい。

 ちなみに、今回、被災後、百人以上の国会議員の方々とお話をさせていただきましたが、お一人だけ、国会議員の中で、二十キロ圏内は、もうあそこはだめだと言った方がいらっしゃいます。私は、地元に住む人間として、全くそれに対して憤りは覚えていません。この人、自分の考えている本当のことを言ったのかなというふうに感じました。

 我々医療者は、さまざまな方向、医療を通して、医療復興を通して町の再生に寄与したいと考えています。その中で、明確な復興ビジョンがなければ、我々医療者としても医療復興の考えをきちんと持つことができません。まず国の方から、きちんと医療復興のビジョンを立てていただきたい。

 さまざまな御支援、それから人的支援、お願いすることはたくさんございますが、まず基本となる、原発二十キロ圏内をどういうふうにするんだと。我々現場では、医療者一人としても、行政の人間ではありませんが、一市民として、町を復興させたいと思って日夜頑張っております。ぜひ国会の方々にも御理解をいただき、そして、大きな方向づけをきちんと示していただきたいというふうに考える次第でございます。

 以上であります。御清聴ありがとうございました。(拍手)

後藤田委員長 ありがとうございました。

 以上で参考人の方々からの御意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

後藤田委員長 これより参考人に対する質疑を行います。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。津島淳君。

津島委員 青森一区選出の一年生議員、自民党の津島淳でございます。

 初質問の機会を重要なこの質疑の場でいただきましたことに心より感謝申し上げます。また、皆様、よろしくお願いいたします。

 ちなみに、私ごとですが、妻は宮城県石巻市の出身でございます。

 さて、ただいまは、福島県の参考人の皆様より、それぞれのお立場から実情を踏まえた切実な御意見を賜り、まことにありがとうございました。参考人の皆様の日ごろの御尽力に深甚なる敬意を表します。

 先日、私は、菅家一郎委員の御協力で、福島県会津若松市に赴きました。そこで大熊町の方々と意見交換をさせていただいたわけでございます。大熊町の住民のお一人が、今、我々は生殺し状態だ、そうおっしゃった言葉が私の心をえぐりました。

 委員の皆様はもう御認識されていらっしゃると思いますが、原発事故は収束していない、福島の復興は始まっていないのでございます。スタートラインにさえついていない、ゴールまでどれほどの道のりか全くわからない状況に置かれているのです。我々国会議員は、きょうの質疑内容を踏まえ、福島の皆様に先行きの見通しを示していかなければならない、決断と実行が求められていると思います。

 では、これより、限られた時間ではございますが、皆様に幾つかお尋ねをいたしたいと存じます。

 まず、蜂須賀会長にお尋ね申し上げます。

 先日の大熊町民との意見交換会にて複数の方がおっしゃったのが、もとの町に戻りたいが、当面戻れそうにない、新たな町をつくり、住民の自立につなげなければならないという御意見でした。また、商店、病院など生活機能を集積させること、自立のために雇用を確保しなければならない、そのためにも商工業者さんの早期事業再開をお願いしたいとの声もございました。蜂須賀会長は、町の商工会代表として、その点、大変悩ましい思いをされていることと存じます。

 仮の町においては、それまでのコミュニティーをしっかり維持していかなければならないということが肝要だと思いますし、また、先ほど御意見の陳述の中にございました、教育環境を整えるということも大変重要であるかと思います。つまり、親御さんがあっての町である、また、その上に商工業が成り立ってきたという事情もございます。そういった点も踏まえまして、今、仮の町ということが検討されておりますが、そこでの事業再開について、皆様に詳しく御意見の方を伺いとう存じます。よろしくお願いします。

蜂須賀参考人 今、仮の町という言葉がありましたけれども、町外コミュニティー、その言葉が今、私たちの耳には届かなくなっております。

 私たちは、戻って、大熊町で商売をしたいと思っております。しかしながら、先ほど申し上げたとおり、大熊町以外の土地さえも求めることが今できません。今、大熊町は、大川原というところが、除染をすれば戻れるというふうなことになっておりますけれども、あそこに、できるならば町営住宅兼店舗みたいなものを備えつけた住宅を建ててもらえれば、私たち商店はその大熊町で商売をすることを皆誓っております。ただ、その夢さえも持つことができないでいること、それは、政府、国が私たちにきちっとした時間軸の目標というのを定めてくれないのが一番の原因ではないかと思っております。

津島委員 蜂須賀会長、ありがとうございました。

 今伺っておりますと、まず、町外コミュニティーということは、商工業者さんのお立場からは考えにくいということでございました。やはり、戻って、もとのところで商売をなさりたいということ、しっかり我々も受けとめましたし、また、今、先行きの見通しが示されないことで事業再開の見通しもつけられないということがございました。

 いろいろ補償はなされておりますけれども、その点についても、先日意見を賜ったところでは、商工業に関しては不十分であるという御意見がございました。その点について会長はどのようにお考えになっておられるでしょうか。

蜂須賀参考人 事業を再開するに当たっては、グループ補助金とかいろいろな、本当に使い勝手のいい補助金制度がございます。しかし、それは一度しか使えないんですね。

 例えばグループ補助金、いわきで使いました。しかし、戻って大熊町で使おうとすると、その補助金が使えないんです。それにかわるとなると、そのグループ補助金がなくなってしまうんですね。同じような制度の補助金、二度も三度も使える、補助金は一度きりだということは十分に存じていますけれども、やはり、事業再開に当たってはそういうふうな、援護射撃じゃないんですけれども、使い勝手のいい補助金制度をもっともっといただきたいと思います。

 先ほど述べさせていただいたとおり、私たちには、営業補償、それを皆様の力で、補償ではなく賠償に切りかえていただくことを切に願いたいと思います。

津島委員 蜂須賀会長、ありがとうございました。

 事業再開、そして軌道に乗せるまでの支援の必要性というものを十分受けとめさせていただきました。ただいまは、ありがとうございました。

 次に、山田組合長にお尋ね申し上げます。

 農業従事者の皆様への賠償には、いわゆる収入の補償と農機具類の補償とがあると思います。先日の大熊町民との意見交換会では、これらの補償が必ずしも実態に見合ったものではないという御意見がございました。特に農機具類の補償については、購入あるいは賃借したときの契約書や領収書等の書類の提示を求められている、そのことで非常に困っておられるそうでございます。三月十一日以降の状況下で、書類を手元に保存できているという方の方がまれなのではないかと私は思います。

 このことについて、農業者の皆様のセーフティーネットとして重責を担っておられる共済組合の長として、山田組合長はどのようにお考えになっているか、お考えを伺いとう存じます。お願いいたします。

山田参考人 大変困った事実があります。ということは、共済のその種類そのものに、地震保険に入っていない、つまり、総合的な共済に入っていないと、全く、建物も農機具についても出ないわけです。お見舞金程度きり。当組合としても、三万とか五万のお見舞金を支払った、そういう状況であります。

 一つには、組織的ですか、部長さんがおりまして、そういう共済推進については部長さんにお願いして、組合ではお勧めコースを提示しているんですが、なかなか、農協とのかけ合いもありまして、農協の方の積み立てで入っておりますと、農済の方はちょっとお留守になるといいますか、ああ、去年と同じでいいよと。こっちは本気になって地震の総合共済に入っていただきたいわけですが、そういうことが起きているわけです。

 ですから、今回は、存分な補償ができずに残念だな、こう私は思っております。

津島委員 今の御意見を伺いまして、共済でカバーできない部分があるということ、つまり、その部分は公の部分で責任を持たなければならない、そのように私は受けとめさせていただきました。

 ありがとうございました。大変短い時間で、大変恐縮でございます。

 次に、遠藤村長にお尋ね申し上げます。

 戻りたい人から戻ろう、心配な人は様子を見てから戻ろうとの帰村宣言から一年余り、遠藤村長におかれましては、多くの苦悩と困難があったものと拝察申し上げます。

 大熊町民の皆様もそうでしたが、被災住民の皆様は、いつかは故郷に戻りたいというのが本音だと思います。しかし、さまざまな不安から、戻れない、あるいは戻らないと判断されるのも現実だと思います。このような戻れない村民の皆様も、これはひとしく村民でございますが、現実に、行政サービスや参政権など、いわゆる二重行政の状態にあること、そのことについての対応が今後課題となると私は思います。

 またさらに、教育についても、より充実をさせていかなければいけない。特に、復興に資する、そしてふるさとに誇りを持つ人材を育成するために、例えば、双葉郡内に一貫教育校を設けるなどの対応も考えなければいけないと思いますが、その点、地方自治のいわばプロフェッショナルでいらっしゃる村長のお考えを伺いとう存じます。

遠藤参考人 ありがとうございます。

 戻らないという選択肢も当然あります。その戻らない人も、やはり村民なんですね。

 今後、どう心をつないでいくかということですけれども、戻らない人にとっても、自分の家、自分のふるさとはやはり重要なんですね。存在し続けてあるべきだというふうに思っていますので、当然、二重行政の中ではそのコストも平常時よりは必要になってくると思いますが、やはり、きちんと情報提供していったりですね。

 それから、今、県外に避難をしている人たちが四百人くらいいます。この家庭は、大部分が子供がいる家庭なんですね。ですから、まさに、川内村の未来を担っていく子供たちが、戻らないその家庭の中に含まれているということは、川内村にとっても大きな損失でありますので、やはり、今戻ってきている子供たちが、笑顔で自分の今の学校で学んでいる、こういった情報もきちんと発信していくということで、今、さまざまなツールを利用しております。

 一つは、広報誌もありますし、あるいは、携帯アドレスを登録してもらえると定期的に情報発信をしておりますし、それから、間もなくですけれども、タブレットを使って双方向性の中で情報発信をやっていきたいというふうに思いますので、まさに、長い時間の中で川内村民であるという誇りをどうつなぎとめていくかということは重要だなというふうに思っております。

 お金がかかっても、これはもう仕方がないというふうに思います。

津島委員 村長、ありがとうございました。

 情報提供を確実に行っていくためのコスト負担の問題ということをしっかり受けとめた上で、またこれからもしっかり議論をさせていただきたいと思います。

 残り時間が少なくなってまいりまして、最後に、及川副院長にお尋ね申し上げます。

 被災地の住民の皆様は、まず、健康に対する不安というのを抱えていらっしゃいます。大熊町民の皆様も同様でございました。一方で、ホール・ボディー・カウンターによる内部被曝健診であるとか、それから長期化する避難生活による体調不良、精神疾患もございます。それからアルコール依存症という話もございました。そういったことに対応する人材の不足ということも深刻でございます。

 そこで、住民の健康保持のため、これから求められる政策について、特に、管理手帳といったものを作成しようという議論がございますが、その点、現場を熟知しておられる副院長さんにお話しいただきたいと思います。よろしくお願いします。

及川参考人 今、健康管理の面で、管理手帳という言葉が出てきました。

 実は、現場でいいますと、システムも非常に大切なんですが、その運用をどうするかということが非常に大切だと、この二年間、改めて思い知らされてございます。さまざまなシステムが出てきましたが、それをうまく運用できていないシステムがたくさんあるんですね。福島県で例えば被曝健康調査をやっていますけれども、それが二割程度しかデータが集まってこない。運用が非常に難しいと思います。ぜひ、皆様方には運用を考えていただきたい。

 それから、アルコール依存症や健康被害、これは恐らく仮設住宅の方々のお話だと思うんですが、そのことに対してきちんとしたデータがまだ手元にないんですね。

 私自身は脳神経外科医でありますので、脳卒中の発症率を、東京大学の国際保健政策学教室と一緒になって今データを集めているところなんですが、これはまだ暫定的なデータで、確定的なものではないんですが、ただし、恐ろしいデータが出ています。我々の地域で脳卒中発症率が、六十五歳以上で約一・四倍、それどころか、三十五歳から六十四歳の壮年層で三・四倍まで上がっています。こういう非常に恐ろしいデータが今出てきていますね。これらのデータをきちんと解析しながら発表していくのも我々の仕事だと思っているんです。

 話を戻しますと、健康管理手帳、これは非常に大切です。

 震災が起こったときに、我々医療者が何が困ったかというと、来る患者さんの病名も飲んでいる薬もわからなかったんですね。今、ジェネリックが非常に多くなりましたので、我々医療者が薬を見ても、これは何の薬だとなかなか言えないんですよ。そういう中で、健康管理手帳などを運用しながら、震災時にもたえられるようなデータが入っていけば、これは非常にありがたいと思います。

 以上です。

津島委員 時間が参りましたので、これで終わらせていただきますが、まず、実情を把握するための自治体の人材というものもしっかり確保しつつ、そのことがまず必要、実態をしっかり正確に把握することの重要性というものをしっかり受けとめて、私の質疑を終わらせていただきます。

 ありがとうございました。

後藤田委員長 次に、吉田泉君。

吉田委員 民主党の吉田泉といいます。

 きょうは、参考人の皆様、本当にありがとうございました。大変重い問題提起をいただいたと思います。

 私の方からも幾つか御質問させていただきますが、まず、及川参考人にお願いいたします。

 御自分で内部被曝をはかられて、四千という数値が出たということですが、お医者さんとして、その原因、食べ物とか呼吸とか、いろいろあると思うんですが、原因をどう考えておられるか。

 それから、四千という数値ですけれども、国は、いろいろな基準がございますけれども、八千ベクレルとか一ミリシーベルトとか、そういうところを基準にしていろいろなことに対処してきたと思うんですけれども、この四千という数値が将来の健康にどういう影響を持つ可能性があるのか。その二点をお願いします。

及川参考人 南相馬市立病院の及川でございます。

 まず最初に、内部被曝の原因です。これは、まず一番最初に、福島第一原発の爆発により放射能が散布されたというのがまず第一の原因で、いかにして私の体に入ったかということなんですが、実は、御存じのように、内部被曝は、九五%が食品、四%が水、一%が空気と言われています。

 私の場合は、明確な原因、恐らくこのときだと思うんですが、実は、先ほど申し上げましたように、屋内退避指示の期間に食品がなくなりました。なくなったんですね。後でもし我々の病院に来ていただくといろいろなスライドがあるんですが、私自身もほとんど食べていない時期がありました。国にお願いしましても、来たのが全て炭水化物なんですね。乾パン、おにぎり類です。野菜物は一切送ってもらえませんでした。三月の二十日まで野菜物、生鮮食品を送ってもらえなかったんですね。

 それで、実を言うと、三月の十五日、ちょうど爆発の後なんですが、地産地消をしました。どういうことかというと、職員のところで畑をやっているところに行きまして、畑から、当時、大根だったと思うんですが、それから野菜を幾つか持ってきまして、それを食べたんですね。多分そのときだと思います。

 ですから、実際に、先ほど言いましたように、屋内退避指示が出した影響の一つが、私の内部被曝につながっているというふうに考えております。

 第二点目、四千ベクレルという体重はどうかというと、実を言うと、チェルノブイリのデータと比較することが我々は多いんですが、チェルノブイリでは、パー・キロ五十ベクレルですね。私は八十キロですから、四万ベクレル以上じゃないと何も出ていないんですね。ですから、私の体重にしてみると四千ベクレルというのは微々たるもので、今後も健康には影響はないと考えております。

 以上です。

吉田委員 ありがとうございました。

 続いて、及川参考人にまたお願いします。

 今出ましたけれども、屋内退避それから避難準備、二十キロ―三十キロという距離で政府は避難指示を出したわけですが、これが大変なマイナス影響も実はあったというお話だったと思います。ただ、当時はもちろん、震災直後、事故の直後で、冷温停止というわけにいきませんので、政府としては、サイトからの距離も避難指示の基準にしようということでやったわけですよね。

 そうすると、参考人の御意見を突き詰めると、避難指示というのは、距離というよりかは線量オンリーでいくべきだった、突き詰めるとそういうふうなお考えなのかどうか、ちょっと確認させていただけますか。

及川参考人 南相馬市立病院の及川でございます。

 言葉が足りませんでした。距離によって線引きをするというのは、私自身、間違いではないと思っております。

 私が言いたいことは、影響をぜひ見てほしかったということなんですね。当時、混乱していました。非常に混乱していたので、現場に来て見ろということはかなり難しかったのかもしれませんが、政府の方で出した指示ですから、必ずそこに影響を見に来る、しかるべきモニタリングが必要だったと思います。それは、人的派遣もそうでしょうし、現場からの意見の吸い上げも必要だったと思います。

 以上です。

吉田委員 ありがとうございました。

 もう一つお願いします。

 二十キロ圏内を本当に復興させるのかという大変な問題があります。そして、一部の方は、それは無理だというふうにおっしゃる方も確かにおられますよね。先生もそれなりに同感されたというような御発言だったと思いますが、もしそれをやる、つまり二十キロ圏内の復興はしないということになると、つまり、そこに今まで住んでおられた、もしくは今住んでおられる方を強制避難ということになりますよね。

 政府は、日本国憲法のもとで、極力、居住の自由というのを認める、もちろん線量が高いところは医学的な見地からできませんけれども、そういうことでやってきたわけですけれども、イメージとして、復興させないということが結局どういうことになるのか、ちょっと先生からもう一言いただければと思います。

及川参考人 南相馬の及川でございます。

 この後は、私のプライベートな意見でございます。医療者でもございません。

 実際に、二十キロ圏内をどうするかという問題の前に、一つ大きな問題があります。震災後に、復興という言葉の意味が、一人一人の市民の方々の意味が違ってきているんですね。

 例えば、南相馬ですと、除染ができれば復興するんじゃないかと思われた時期がありました。福島県もそういうふうにして、除染、除染と叫んでいた時期がありました。

 ところが、我々が、避難していた方、例えば山形県のところに行って、南相馬市の空間線量と内部被曝のデータを出して、南相馬市は空間線量、内部被曝はもう大丈夫なんだというふうな話をします。そうすると、彼らは納得するんですね。納得するんですが、さらにそれが行動変容に結びつかないんですね。つまり、納得しても帰村、帰還しないんです。

 これは、遠藤村長もおっしゃいましたが、震災後、復興という言葉に対するさまざまな思いが、皆さん、ばらばらになってきているんだ、思いのベクトルが、方向性がばらばらになってきているということを話しているんですが、その中で、二十キロ圏内をどうするかというのを一言でちょっと申し上げることはできません。

 ただし、医学的な立場で見ると、最終的に非常に高線量のところがあるのもわかっています。その人たちに対して、何十年も、できるんだ、将来的には戻るんだという話をするよりも、個人的には、きちんと補償と新しい土地と新しいコミュニティー、つまり、きずなが大切なんですね、そのきずなをきちんとできるような代案を出せれば可能ではないかと思っていますが、非常に難しいと思います。

 以上です。

吉田委員 ありがとうございました。

 続いて、遠藤村長、お願いいたします。

 川内は双葉郡の中でもいち早く役場を戻して、今お話にあったように、いろいろな工場も新しく進出する、除染も一巡する、大変な御活躍の一年間だったと思います。

 私は、川内の難しさというのは、要するに、双葉郡八町が組んで、広域でいろいろな行政サービスをやってきましたよね、消防とか廃棄物とか、広く言えば病院とか学校もそういうことだと思います。広域でいろいろなことをやってきた地域にぽつんと川内だけ戻って、さあ頑張ろうというところが、非常に難しい状況だなというふうに思っております。

 それで質問は、いろいろありますが、私は、そろそろ双葉郡全体の将来のあり方、町づくりといいますか、ネットワークでもいいんですが、そういうあり方、もしくは南双葉という四カ町村だけの範囲で考えてもいいかなとも思うんですが、そういうあり方をいろいろ議論すべきときに来たというふうに思うんです。

 双葉郡のリーダーのお一人として、遠藤村長、将来の双葉郡のあり方についてどんなふうにお考えをお持ちか、お願いいたします。

遠藤参考人 先生がおっしゃる一つの方向性として、双葉郡の町村合併あるいは南四町の広域連合、合併ということの意図なのかなというふうに思いますが、何ら否定するつもりはありません。

 ただ、今、復興に向けて何が大切かなというふうに思いますと、やはり住民がふるさとへ戻るという、その思いだというふうに思います。このことが町村合併によってなえてしまわないかというような危惧もしております。ですから、やはりタイミングが必要かなというふうに思いますね。

 今、川内村へ戻るためにいろいろなことをやってきましたけれども、現実に生活、暮らしの部分では、やはりかなり難しい問題もあります。おっしゃるとおり、広域圏でやられていたごみの処理の問題、し尿とか火葬場、それから准看護学校なんかもありました。こういう問題が広域圏でやられておりましたので、なかなか川内村だけで再開するというわけにはいきません。

 広野町、そして楢葉、今後戻ってくる地域においても、このごみの問題、し尿の問題、かなりハードルは高いというふうに思っていますので、ここを何とかしないと難しいというふうに思います。

吉田委員 ありがとうございました。

 続いて、山田参考人にお願いいたします。

 先ほど、七十代の方の避難先でのいろいろな思いを御披露いただきました。大変無念な気持ちを持っておられる、当然だと思いますが、そういう意見が多かったと思います。

 ただ一方で、山田参考人は農業界のリーダー、地域のリーダーという役割を長く担ってこられて、今の質問ともちょっとかぶりますけれども、いずれ、遠い先、双葉郡をこうしたいというような何かお考えも、一方ではお持ちなんじゃなかろうか。特にこれからの若い世代、将来の双葉郡を担う世代の方々へ、何か期待されるような一言をお願いしたいと思います。

山田参考人 山田です。

 先生のおっしゃっていることは、私は共済の組合長としては十分理解できるんですが、でも、例えば富岡町、浪江町は五年帰還しないように宣言しているわけであります。そういうふうに五年も宣言しているんですから、二十年先、三十年先のことは私も言えますが、現実をやはり直視していかねばならないと思います。ですから、今の夢については、私は正直、答えられません。

 大柿ダム一つとっても、あれは農業用水ダムであります。そのダムの補修すら、今一五%の水が張ってありますが、地震で壊れたかどうかの調査も行っておりません。そういう状況の中で、ただパイプラインで双葉、南相馬、浪江、そういう土地改良区に水を供給しているわけです。それを一つ考えても、何十年先になるかわからないのでありますから、本当に。私は、現実を直視した、そういう進め方で、私は夢は語りません。

吉田委員 ありがとうございました。

 時間となりましたので、蜂須賀参考人、済みませんが、ここで終わらせていただきます。

 ありがとうございました。

後藤田委員長 次に、小熊慎司君。

小熊委員 日本維新の会の小熊慎司です。

 参考人の皆様には、お忙しい中おいでいただきまして、ありがとうございます。また、それぞれのお立場で復興に向けて御尽力されていることに深く感謝と敬意を申し上げる次第であります。

 まず初めに、遠藤参考人にお伺いをいたします。

 県内ではいち早く帰村宣言をされて、これまで、リーダーシップを発揮してさまざまな取り組みをされてきました。陳述の中にもその辺を言及されておりましたけれども。

 過日、これは東北だけの放映ではありましたが、「クローズアップ東北」というNHKの番組において特集がありまして、村長と村民の、とりわけ若い方々との座談会の経過を放映されておりました。

 その中で、放射線を恐れて、またその規制があって、まずは避難をされていたわけでありますけれども、今、放射線的には低くなっている状況でありますけれども、特に若い方々が帰村をされていない。その座談会の出席者の中にも、郡山に避難をされていて、実際、川内村より避難先の郡山の方が放射線が高いんだけれども、帰らない。そういう意味においては、放射線以外の帰らない理由、やはり一旦文化的な生活、便利な生活になれてしまうと、それが手放せなくなってしまう。

 先ほど言及された教育の問題、医療の問題もありますけれども、もともと川内村も、それは都市部とは違っていたわけで、大変な努力をされてその辺の整備もされているところでありますけれども、これはなかなか難しいなと思います。

 これは、原発災害ではなくて、山古志村とか奥尻とか、自然災害のあったところは人口が激減、過疎化が加速してしまったというところでありますので、こうした人口流出、帰村がされないという状況に関して、この点について、我々国政の立場でどのようなまた対策をとらなきゃいけないのか、御所見があればお伺いしたいと思います。

遠藤参考人 二点ほどあるのかなと思いますね。

 一つは、やはり、今の制度の中で、借り上げや仮設の制度が継続しているということも一つの要因だと思いますね。やはり、都会で生活する住居費というのはかなりのウエートを占めていくんだと思います。こういったものが保障されている、こういう現実からすれば、やはり、利用する側からすれば、利用したいなというふうに思うんじゃないでしょうかね。

 それから二つ目は、やはり、今回の震災でなくても、過疎地域、中山間地域が抱えている課題の一つだと思います。少子高齢化が進んでいくということだと思いますね。今、郡山とかいわきの方に住民の人たちが避難しておりますが、やはり、戻りたいけれども、しばらく都会の生活の利便性も感じていたいというふうに思ってはいるんじゃないでしょうかね。

 それから、あわせて、今まで田舎の生活の中でオブラートに包まれていたさまざまな課題があります。そういう利便性の問題とか、それから三世代同居している、こういう問題ですかね。避難することによって、公然と、高齢者と若い人たちが分かれて生活をしているわけです。若い人たちにしてみれば、自分たちの空間が新たにできて、ひょっとしたらば三世代よりも快適な生活と感じている人たちもいるかもしれません。

 これは一つの例ですけれども、こういう、今まで何となくぼやっとしていた中山間地域、過疎化地域の問題が鮮明になってきたというところもあるのかもしれませんね。

小熊委員 借り上げ、仮設の言及がありました。

 民主党政権から自民党政権にかわって、先ほど言われた自立する復興というのは非常に大きな視点で、これは政府も取り組んでいるところだとは思うんですけれども、一方で、自主避難者に対して、民主党政権でもやらなかったのを、自民党政権ではやるようになったんですね。これは、誤解を恐れずに言うんであれば、ある意味、福島県内に残って、自分のふるさとに残って復興を果たしていくんだという方向性とは逆行する支援なんだというふうにも捉えられるというふうに思います。

 こうした自主避難者への支援は、私、個人的にはやはりちょっと、もう少し議論が必要だったなと思いますし、健康調査というのは、当時福島県にいて今県外に行っている人は、これは永続的にやっていかなきゃいけない責任はあると思いますけれども、生活支援に関しては、福島を復興させよう、ふるさとに帰ろうという方向性を重要視するんであれば、こうした自主避難者の支援というものはちょっとこれはどうかなというふうに、私、個人的に思うんですけれども、そういった点に関しても、遠藤参考人はどう思われますか。

遠藤参考人 僕の立場からはなかなか難しいと思いますね。

 やはり、当初六万人の、今五万人ですけれども、六万人の方が県外に避難をされていた。逆に言えば、九七%の人が、まだまだ福島県に残っていたわけですよね。いろいろな制度の中で、避難者の、先ほども申し上げましたけれども、その制度をどう利用するか。これはもう、多分モラルだけでは解決できないというふうに思います。

 自主避難をしている、そこにも生活があるわけですから、きちんとサポートしていくという制度がある以上は、これを利用するということは、まあ当然なのかなというふうには思います。

小熊委員 私は会津ですから、会津でも蜂須賀さん初め避難者はいらっしゃいますけれども、逆に家族の方も、働き場がいわきにあって、お父さん一人がいわきに行って、週末は避難先に戻ってきているという、家族が分断されているような状況ですから、これは、ふるさとが分断されるだけではなくて家族を分断するような政策は、ちょっとまた、御意見をいただきながら、今後、御指導いただきながら、改めるべきところは改めるように議論をしていきたいなというふうに思っています。

 また、復興に関して大事なのは、やはり時間だというふうに私は思っています。二十キロ圏内の話がありましたけれども、これは百年、二百年たてばきれいになるのかもしれませんけれども、人間の一生も限られていますし、まして、働き世代が二年も三年も待たされる、人生選択ができないということは、これは人間の復興につながっていかないということであります。

 時間が大事だという話がありました。さきの予算委員会の公聴会でいわきに行きまして、いわきの市長としゃべったときには、一つの参考例として市長さんが言われていたのは、三宅島の避難生活が五年だった、やはり五年ぐらいが最大限なのかなと。五年で解決できなければ、ある意味、帰れる帰れない、帰す帰さないといういろいろな決断がありますけれども、それは二十年、三十年かければ帰れるとしても、五年で結果が出なければ、これはそこで決断をしなければいけないというのが、私は本当の決められる政治だというふうに思っています。

 時間軸ということであれば、おおむね方向性、そうした土地の扱いをどうするかという決断に関しては、何年ぐらいだというふうに遠藤参考人は思いますか。また、実際、大熊町の蜂須賀さんは、避難生活というのは何年が限度だというふうに思われるか。お二人にお伺いします。

遠藤参考人 まず、一点目のリスクの選択はとても重要だと思います。放射性物質を避けるために避難をしていく、避難をすることによって家族がばらばらになって、親子が離れ離れ、あるいは夫婦が離れ離れになってしまう、こういうリスクが生じるわけですよね。そういう中でどう選択していくかということです。

 極めて個人の判断に任せざるを得ないというのがありますけれども、そういうリスクもあるということをやはり避難者には伝えていかなくちゃいけないというふうに思います。

 時間との競争だということは、ここ二年、本当に、一年間復興のためにしてきましたけれども、もう痛切に感じています。長くなれば長くなるほど、多分戻れないだろうというふうに思いますし、新たなところでもう生活をしてしまっている。僕は、その五年というタイミングですけれども、それはそんなに外れてはいないというふうに思いますね。やはり今、財物補償が示された、ここは一つのターニングポイントだというふうに思います。

蜂須賀参考人 私自身はもういっぱいいっぱいです。二年、仮設住宅にいますと、どうしていいかわからない、夜中は目が覚めるというのがいっぱいでございます。

 三宅島、もちろんあそこもガスというものがありますけれども、私たちは放射能というものとの闘いなんですね。ですから、その放射能がある限り私たちはそこに戻れないというふうに思っていますし、先ほど、大熊町に入っていただいて、もう蛇の生殺しだというふうな声が上がっているというのは正直な答えだと思っております。

 いち早く、前回、テレビの放送で、十二市町村の十年復興計画が国会から出されました。その中で、大熊町、双葉町を除くという言葉が入ったんですね。私たち、これから復興しようというときに、何で大熊と双葉が除かれるんだ、では、別なことで私たちを復興させてくれるのか、大熊町に戻してくれるのか。それはあり得ないだろうと私は思っておりますので、早く政府の決断をしていただきたい。私たちは国家の命令で避難をさせられました。命令を受けることはもうなれたのかなと思いますので、よろしくお願いいたします。

小熊委員 震災の年に、参議院でありましたけれども、幾つかの野党で二十キロ圏内の国有化の法案を検討しまして、各町村にもお持ちして、そのときはもうぼろかすに言われました。とんでもない、帰るんだということを言われたんです。

 そのときもやはり、森林の除染もありましたけれども、森林の除染は方向性が示されておりません。森林は除染しなくても生活圏は大丈夫だという科学的データも出てくるかもしれませんけれども、心理的なことを考えれば、目に見える山が除染されていないというのは、これは帰る選択肢にならない。かといって、では森林を全部除染するのに何年かかるんだ、それをどこに持っていくんだ。また、廃炉になっていない、事故の起きた原発、二十年、三十年かかる。住んでいる家の周辺が除染されたとしても、こんなまだくすぶっている原発のあるところには帰れない。すると、やはり二十年、三十年かかるということであります。

 何キロで線引きするかは、これはまた議論はありますけれども、皆さんの御意見をお聞きしていると、これはやはり、ある意味ふるさとを手放さなきゃいけない。しかしながら、人の人生というのは限られたものですから、それを尊重してやることが、私は逆に誠実な対応だというふうに思います。

 ちょっと時間がないんですけれども、及川さんから言及がありましたので、土地の買い上げについてどのように、個人的な見解でも結構です、どのようにお持ちであるか。

及川参考人 南相馬の及川でございます。

 二十キロ圏内の話でございますね。二十キロ圏内を国有化するという話は、実は、不勉強で今初めて聞かせていただきました。

 国が責任を持つということで、個人的には非常にいいことだと思います。ただし、先ほどお話ししましたように、個人個人と、集団といいますか自治体としての意見というのはやはり違いますから、そこを皆さんにはきちんと理解していただいて、個人の意見を、少数意見を無にするというようなディスカッションはしていただきたくないというふうに考えます。

 以上です。

小熊委員 きょうは本当にいい御意見をいただきました。本当に、それぞれの避難者の方、また地域のみんなも、いろいろ意見が多様で一つにはまとめられないというのが現実でありますけれども、たとえ反対があっても決断をするということが、これは逆に、それぞれの人の人生選択ができる状況をつくるということですから、これがまさに政治の責任として、幻想は抱かせないように、しっかり現実を踏まえた対応を我々はしていきたいということを申し述べ、また、今後とも御指導いただくことをお願い申し上げまして、私の質疑を終わります。

 ありがとうございました。

後藤田委員長 次に、石田祝稔君。

石田(祝)委員 公明党の石田祝稔です。

 きょうは、四名の参考人の方、貴重な御意見をまことにありがとうございました。時間が限られておりますが、順次、皆様にお伺いをさせていただきたいと思います。

 まず、蜂須賀参考人にお伺いをいたしたいと思いますが、陳述の中ではお触れになりませんでしたが、国会の事故調査委員会の委員になられて報告書のまとめにも携わってこられた、こういうことでございます。そしてその中で、事故調査委員会から政府と国会に、たしか七項目ですか、要望というんでしょうか今後の課題ということで、これについても、政府も、六月ぐらいをめどに対応について報告をまずする、こういう予定にしておりますけれども、この事故調査委員会の委員になられて報告書をおまとめになった、そしてその後についてどういうふうに率直に感じていらっしゃるのか、まず、その点をお伺いしたいと思います。

蜂須賀参考人 国会事故調に選ばれまして、被災者としては大変歯がゆい思いをしました。なぜならば、きょう私は参考人になっておりますけれども、私たちが参考人としていろいろな質問をさせてもらったときに、被災者の一人として知らなかった事実が出てくるんですね。その中で、国会は何をしているんだ、政府は何をしているんだというふうな思いが、本当にじくじたる思いが気持ちの中に湧いてきたことを覚えております。

 また、七つの提言をさせていただきましたけれども、一番自分として悔しい思いをしたのは、この七つの提言を出すことによって、国会は私たち被災者を助けてくれるんだ、そのために、夜寝なくても、東京に通ってきていろいろなことを調べたんだというふうな思いがあったんですけれども、それが何一つ今もって検証されていないということが、国会事故調査委員でなく、被災者の一人としてすごく悲しい思いをいたしました。

 ただ、私たちの報告書の中で人災という言葉を出させていただきましたけれども、あの人災という報告書を持って福島に帰ったときに、よく人災という言葉を出してくれたというふうにお褒めの言葉はいただきました。自分たちは、あれは災害、津波じゃない、地震じゃない、日ごろの電力会社の、そして政府の、いろいろな思いはあったんだけれども声に出せなかった、しかし、人災という言葉を出してもらったために私たちは声を上げることができるんだというふうな称賛の声もいただきました。

 ですので、私は、普通の被害者の方々よりも、今回の原発事故に関してのいろいろな原因というものを知ったと思います。それを、きょうもそうなんですけれども、こういう場所に出させていただきまして私の意見を述べさせていただくことが、被災者のみんなの代弁者としての務めだなと思います。

 大熊町でたくさんの方が亡くなっております。前回の参考人のことがやはり地方の新聞報道になりまして、お通夜に行ったときに、おじちゃん、おばちゃんが、お通夜にもかかわらず、私の手をとって、礼子ちゃん、もっと国会に行って俺たちの苦しい思いを述べてきてな、俺たちの代弁者として頑張ってなと。それは、国会事故調査委員をやらせていただいたおかげかなと思っております。

石田(祝)委員 これにつきましては、政府も、事故調査委員会の報告書に基づいてどういう政策をとったか、これは報告をいただくことになっておりますので、政府また国会も当然務めを果たさなければなりませんから、それにつきましては、御提言が最大限生かされるように、我々もしっかり取り組んでいきたいと思います。

 それと、もう一点お伺いしたいんですが、蜂須賀参考人は、御自身のお仕事もそうでありますけれども、商工会の活動もなさって、それについても、会費も取らずに熱心に、特に賠償問題についてお手伝いをなさっている、こういうことも参考でいただきました情報の中には載っておったんですが、御自身のお仕事と、それから商工会の活動、これについて、商工会としていただいたものでそういう会員さんのお世話をなさっているということも書いてありましたけれども、御自身のお仕事とそれから商工会の活動、この両面で、今率直に言って、こういうことをぜひやってもらいたい、こういうことがありましたら、教えていただきたいと思います。

蜂須賀参考人 先ほども述べさせていただいたとおり、営業補償に関しての課税、非課税は、非課税にしていただきたい。これは全会員が願っていることです。これは、商工業者にかかわらず、医師団の方、そして農業の方も同じことだと思っております。

 商人が働いて税金を納めることは、これは当たり前のことです。しかし、私たちは仕事が今できないんですね。先ほども言わせていただきましたけれども、四年目の補償が私たちにはありません。四年目もあなたたちを補償するよとなれば、私たちは、一年分一年分のいただいた賠償の中から、補償の中からお支払いをしていく、国民の義務を果たしたいと思いますけれども、四年目の補償がない限り、私たちは、商売もできませんので、とても生活が不安です。

 よく私のひとり言で、今の時代は士農工商だと言います。サラリーマンは給料が補償され、農業の方は全て補償され、商業に関しては、あなたたちは接待費を使っていないだろう、何を使っていないだろうと諸経費を引かれて、そして実質の売上高に関しての補償だったんですね。そのことについて、なぜ商人だけがそういうふうなことがあるのか。

 私は、市場、問屋さんですけれども、そこの支払いを滞りますと花は売っていただけないです。そのために、ないお金を、仕事が終わってから市場に支払いました。早く支払った洋服屋さんたちは、領収書で補償金というか賠償金をもらいました。私はお金がなかったので、十月になってお支払いしました。それを東京電力に請求しましたところ、領収書だけではだめだ、請求書、納品書、全ての書類を出せというふうな答えが返ってきました。

 先ほどある先生がおっしゃいましたけれども、私たちが、どこにそんな領収書とか納品書とかあるんですか、うちに帰って地震の中からどうやって捜すんですか、もう行ってください、大熊町に行ってくださいと私は電力会社に申し上げました。うちはぐちゃぐちゃです。二年間、人が住んでいないと、この前の雨風でかなりうちもやられています。書類ももうなくなっております。雨ざらしになっております。

 私たち、事業を再開するのには、一番は課税をされることですね。先生方が、申しわけございませんけれども、この会合で、会議を開いて、長い間非課税にしてくれとは言いません、ちょっとの間だけでも、私たちが心休まって、さあ、事業を再開しよう、そういうふうな思いができるような施策をしていただきたいと思います。

石田(祝)委員 遠藤参考人にお伺いをいたしたいと思います。

 遠藤参考人は帰村ということで御決断をなさったわけでありますが、そのときに、いただいた資料を見ますと、長崎大学の教授に放射線量を解析してもらって、そのデータをもとに帰村宣言をした、こういうことが書かれております。

 このときは、具体的に、これで帰村宣言ができるというふうに思ったのは、数字上で御判断なさったのか、数字プラス、例えば村民の皆さんの気持ちみたいなもの、そういうものも合わさってそういう、なかなかこれは、村長さん、最後、決断をしなきゃいけない責任者になると思うんですけれども、そこのところのお気持ちを、具体的にどういう、ある意味ではこういうことで帰村宣言できると思ったことをちょっと教えていただきたいと思います。

遠藤参考人 土壌調査は、その判断する材料の一つでした。正直、客観的、科学的な数値というのは説得力があるというふうに思っていましたので、そういう立場の人たちに、きちんと土壌検査や空間線量、モニタリングをしてもらうということは考えておりました。それが長崎大学だったということです。示された数値で、それから所見も受けまして、戻れる可能性は十分あるなというふうには感じました。

 でも、それは一部分でありまして、やはりそれ以上に、高齢者が、仮設、借り上げ、なれない環境の中で、喪失感にさいなまれて、体調を崩していくんですね。特に、高齢者で介護が必要な人、それから入院した人たちが亡くなっていく、こういう現状を目の当たりにして、確かに避難して放射性物質を避けるということは重要なんでしょうけれども、そのことによって本来の生活ができなくなって体調を崩したり亡くなっていく、こういう状況を見たときに、先ほど言いましたけれども、そのリスクをどう判断していくか。

 僕は、やはり、高齢者の人たちができるならば自分の家で最期を迎えたいという声もありましたし、何よりも自分の家で生活するということで精神的にもかなりストレスは払拭できるんだというふうに思っていました。そういう思いも含めて判断したところであります。

石田(祝)委員 引き続いて、遠藤参考人、もう一点お伺いしたいんですが、二〇一三年度から五年間でもとの人口に戻す、こういう御計画でことしの議会にも計画を出された、こういうことをお聞きいたしましたが、その中で、具体的に一、二、五年間でやるという計画をちょっと教えていただければと思います。

遠藤参考人 とても悲しいですけれども、三・一一以前には戻らないというふうに思っております。村民の人が約三千人おりますが、多分三千人は難しいというふうに思っております。しかし、やはりそういう暗闇の中で光を見せていくということも、我々リーダーの仕事の一つだというふうに思いますね。

 最終的には、私は、新しい村をつくっていこうというふうに考えております。その上での三千人であったり、あるいは五千人構想を打ち出してきたんですね。

 具体的には、今私は、ひょっとしたら六割から七割くらいしか村民の人たちが戻らない可能性があるなというふうに思っておりますが、やはり沿岸部の町村が、私、川内村に実家があって、行く行くは川内村で生活したいという人たちもいます。そういう面では、復興住宅をつくったり、さらには住宅地を提供することによって村外からの人たちも受け入れをしていこうというふうに考えております。それができるのは、ひょっとしたら川内なのかなというふうに思っての構想です。

石田(祝)委員 及川参考人にお伺いします。

 先ほど、御自身の内部被曝は四千ベクレルである、ホール・ボディー・カウンターで調べたということでありますが、これは個人のお話でちょっと恐縮ですけれども、お答えいただければと思うんですが、そのときは四千で、その後、では今はどのぐらいなのかなというのが率直な疑問。

 それから、先ほどは、ちょっと私、聞き漏らしたかもしれませんが、チェルノブイリのときのことで、四万まで大丈夫なんだと。大丈夫とおっしゃったか、済みません、ちょっと言葉を聞き漏らしたかもしれませんが、そこはやはり、チェルノブイリでの数字というものがある意味では普遍的な数字というふうにお考えになっておっしゃったのか、ちょっとその点をお伺いしたいと思います。

及川参考人 及川でございます。

 皆さん御存じのように、内部被曝というのは、セシウムが体の中の筋肉の側に入って、その筋肉の中のセシウムをはかるんですが、セシウムは体内から排出されます。私自身は、被曝後三回、ホール・ボディー・カウンターで自分の体をはかったんですが、三カ月後に約半量になりまして、六カ月後には検出限界以下。検出限界というのは、体当たり二百五十ベクレルです。約半年後に二百五十ベクレル以下になっていまして、今は、その後はかっていますが、検出はされません。それが第一点でございます。

 二点目、チェルノブイリデータを普遍的なものと考えるかどうか。これは全くそうではありません。我々の内部被曝のデータというのは、たかだか五十年なんですね。五十年ぐらいしかない。

 内部被曝の考え方に関しては、さまざまな考え方があるというのも御存じだと思います。例えば、国際的には内部被曝と外部被曝が一対一でしょうし、ヨーロッパのある学者は、いや、内部被曝は一対三千倍と考えると。さまざまな考え方がありますから、これは普遍的ではないと思っています。

 以上です。

石田(祝)委員 どうもありがとうございました。

 山田参考人には、ちょっと時間がありませんでしたので、失礼いたしました。

後藤田委員長 次に、柿沢未途君。

柿沢委員 みんなの党の柿沢未途でございます。

 きょうは、四人の参考人の皆さん、本当にありがとうございました。特に及川副院長は、私の方で御推薦を申し上げてお見えをいただくことができまして、本当によかったなというふうに思っております。

 共通してお話しになられたことは、やはり人が戻ったとしても、若い世代、子供たち、そして男性、女性、全ての皆さんがそろって、その声が聞こえて、その動きが見えて、それで初めてふるさとが戻ってくる、こういうことになるんだということではなかったかというふうに思います。その意味で、ぜひ、そうした若い皆さんや子供たちが戻ってくるにはどうしたらいいか、こういうことを少し考えていきたい、こういうふうに思っています。

 私の地元は東京の江東区というところでございまして、そこに東雲住宅という三十六階建ての公務員住宅があります。そこに実は、皆さんのお地元から、一千二、三百人の方々が今も避難生活を送られています。私も地元ですからちょくちょく伺ってお話を聞いたりするんですけれども、今顕在化していることは、この東雲住宅、地元の社会福祉協議会の人が回ってもなかなか応答がない。こもってしまっているのか、コミュニケーションがとれない、こういう問題です。

 もう一つは、私もいろいろコミュニケーションをとってみると、若い皆さんはもう東京の生活にすっかりなれてしまって、地元から離れてこんな高い、高層マンションみたいなところに住まわされて不便で大変でしょうと言うと、いや、東京は楽しいです、もう本当に不便はありません、こんなあっけらかんとした答えも返ってくる。こういうことが長く続いていくと、やはりだんだんだんだん戻るということが困難になってしまうんだろうな、こういうことを感じました。

 こうした中で、私がお話をしていて驚いたのは、東京の東雲住宅から今も福島第一原発のサイトの中に通って働いている方々がそれなりの数いらっしゃるということです。やはり、この地域の産業基盤、就労の基盤というのは、東京電力並びに福島第一原発、第二原発、こうしたところに相当大きく依存をしてきた。そこがいわば破綻をして、しかも、破綻をしてもなお、そこで働き続けることしかある意味では選択の余地がない、こういう方々がいらっしゃる。責任感もあるんだと思いますけれども、東京から通ってこうしたサイトの中で働き続ける方々がいらっしゃるという事実でありました。

 そういう意味で、東京電力という企業のこの地域における存在感というのがいかに大きかったかということを私も改めて感じさせられるものがあるんですけれども、ぜひ、民間の立場で、蜂須賀さんと山田さんに、東京電力が今後どのような役割を果たすべきであるか、そこをどのように考えておられるか、ぜひお伺いをしたいというふうに思っています。

 この間の東京電力の対応が十分だったとは私は思っていません。原子力損害賠償紛争審査会と紛争解決センターの対応について国会でも取り上げさせていただいたことがありましたけれども、大変遅くて、また、先ほど、書類を出せという話がありましたが、そうしたいわばやや冷たい対応をされてきた、そのことを皆さんもとてもつらく感じておられるというふうにも思っています。そうしたことも踏まえながら、これからこの地域の復興再生に東京電力がどういう役割を果たしていくべきか、このことをお二人にお伺いしたいというふうに思います。

    〔委員長退席、伊藤(信)委員長代理着席〕

蜂須賀参考人 東京電力の果たすべき役割、ないと思います。

 東京電力は、四十数年、私たち大熊町とともに歩んできました。その中で、全町民と言っていいほど、そこの関連会社で働いてきました。それは、働く場所がなく、そのために原子力発電所を昔の方は持ってきたのかなと思っております。そこの場所しか働くところがなかったがゆえに、原子力発電所の中で働いていた、関連会社で働いていた。

 東京電力が責任を果たすべきは何かというならば、もっと早い時期に東京電力自身が気がついて、私たちに責任を果たすべきだと思っております。それさえも今はないです。

 その当時からトラブルがいろいろありましたけれども、トラブルであって事故ではないとあの方たちは主張してきました。私たちは、四十数年、安全、安心、その言葉で生きてきました。よもやあれほどの事故が起きるとは思っておりませんでした。東京電力自体も、ましてや、国策として推進してきた原子力発電所であのような事故が起きるとは、誰もが想像しなかったと思います。

 その想像しなかった事故が起きたときに、あの東京電力は、誰一人として、僕が責任をとると答えた人はいませんでした。私たちは、謝ってほしいとは思いませんけれども、僕たちが悪かったという言葉を聞きたかったと思います。今もって、その言葉もなければ、責任もありません。ネズミにかこつけている現状です。

 ですから、私個人としては、東京電力にはこれ以上求めることはないと思います。東京電力が、こういうことをさせてください、ああいうことをさせてくださいとおっしゃるならば、私たちは受け入れます。しかし、幾度となく私たちがお願いしても、それに彼たちは応えてくれませんでした。私たちがいろいろな説明を求めますと、答えに困ると、御理解願いたいという言葉で返事が返ってきます。私は、そっくりその言葉を東京電力に返してやると言いました。御理解願いたいのは、被災者である私たちでございます。

 あの原子力発電所があったからこそ豊かな大熊町になったと皆さんは思っているかもしれません。実際、そうだったかもしれません。それならば、あの豊かさをもたらしたのが自分たちだと思うならば、もっともっと東京電力は責任をとるべきだと思います。私たちは被害者です。被害者がなぜ加害者の顔色をうかがいながら請求書を出さなければならないんでしょうか。そのことを先生方に御理解願いたいと思います。

山田参考人 実は、私の浪江町は原発城下町ではないんです。東北電力で誘致活動をしましたが、東京電力には何の恩恵も受けていません。ただ、柿沢委員が言うように、確かに原発の労働者として潤った人もいるかと思います。私は過日、国際的な、何社かで、「波のむこう」というテレビに出ましたから、ここでうそは言いません、全国的に、世界的に放映されておりますから。

 ですから、私は、全部違った状況にあると思うんですよ、地域が。だから、復興予算の使い方でも、それなりに使っていただければ、復興する町とできない町が歴然とするんじゃないんですか。学校教育の問題もそうです。復興には、子供が集まらない、学校もない。集合的な、幼稚園から高校までまとまった、そういう学校をつくれば、人が集まってきて復興できる町も私はあると思うんです。

 なお、原発に触れますが、東京電力の責任は何もないんですよ。これから東京電力が地域に貢献するなんということは何もないです。賠償だけなんですよ。責任ある賠償ですよ。私が死ぬまで、皆さんが生活ができるまで、安定するまで、賠償きりないと思うんですよ。だって、そうじゃないですか。福島県は原発なしの宣言をしているんですよ。廃炉を求めているんですよ、六号機まで。一から四号機はすぐ、メルトスルーになったあの変な物体を早く除去していただきたいですよ。その作業をすればいいんじゃないんですか。

 地域の貢献なんという問題ではないです、今後。いち早く、要らないものを速やかに処理していただきたい。これは、東京電力の責任だけでできなかったら、やはりこの電気の、エネルギーの対策をとってきた国も一緒になって、速やかに福島県からその基地をなくしていただきたい、それが東京電力の責任であると私は思います。

柿沢委員 堰を切ったように、お二人に、非常にお話をいただきました。私も大変重いものを感じております。

 遠藤村長と及川副院長に、残りの時間で一つずつお聞きしたいと思います。

 私、実は連休中にドイツとデンマークへ行ってきました。ドイツもデンマークも、廃材、廃木材、間伐材、あるいは農業で出てきたわらや稲もみ、あるいは家畜の排せつ物、こうしたものを使ったバイオマスの発電及びコージェネレーション、熱電併給が非常に盛んです。日本が非常に立ちおくれている分野だと思います。ドイツのユーンデ村というところで、まさに地域ぐるみでこうしたバイオマスへの転換をやった、大きな成功をおさめた事例を見てまいりました。

 たしか、川内村さんもこの木質バイオマスのプラントを計画しておられるということだったと思いますので、こうした形で地域におけるエネルギーの地産地消、農業をやる傍らエネルギーの生産者にもなる、こういうコミュニティーの姿をぜひ目指していただきたいと思いますが、御見解をお伺いしたい。

 もう一つは、及川副院長に。先ほど、脳卒中が五十代、六十代は一・四倍、三十代で三・四倍、これはやはりちょっと衝撃的な数字だと思うんです。ストレスがあったり、さまざまなこれまでの生活の困難が影響しているのかもしれませんし、また、場合によっては放射線がもたらす何らかの影響があるのかもしれません。

 そういう意味で、この状況を、もちろん学問的に分析はまだ十分できているのかどうかわかりませんけれども、どういうふうに背景を見ておられるか。このことについて御見解を伺って、一つずつお答えいただいて終わりにしたいと思います。

 よろしくお願いします。

遠藤参考人 事故前と事故後でエネルギー政策に何ら変わりがなかったというならば、それは、何のためにこの事故が教えてくれたかわかりません。

 今先生が言われるように、やはり新たなエネルギー政策を考える上で、再生エネルギーは賛否両論あります、コストの面も含めてありますけれども、僕は間違った方向ではないなというふうに思っております。

 今、川内村では、ドイツのNRW州の企業と契約しまして、六ギガの太陽光発電を、もう間もなく工事がスタートします。今計画されている木質バイオについても、今調査をしているというところです。

 何のための調査かといいますと、僕のところはかなり森林面積があるんですけれども、プラントを立ち上げる、その能力に供給する木材が、ひょっとしたらそれがために裸山になっちゃうんじゃないか、非常に本末転倒な状況が想定されないか、こういったところを今調査していただいて、間もなく結果が出るんだというふうに思っていますが、再生エネルギーの政策については、まさにドイツは今先進的なところでありますので、十分学習したいというふうに思っております。

    〔伊藤(信)委員長代理退席、委員長着席〕

及川参考人 及川でございます。

 まず最初に、正確なところを、先ほどの柿沢先生のお話はちょっと違いますので。

 六十五歳以上の高齢者において脳卒中発症率が一・六二倍、三十五歳から六十四歳までの壮年者で三・四三倍、震災前と比べて発症率が上がっております。

 これは、レセプトデータといいまして、病院を訪れた人たちのレセプトデータから拾い上げた数字です。補正をかけなければいけませんから、これが最終的なデータではありませんが、実際に臨床、医療をしておりますと、確かに、脳卒中の患者さんが多くなったというような印象を受けております。後日、きちんとしたデータを出したいと思います。

 二つ目の御質問ですが、これらに対する原因は何だということなんですが、脳卒中の発症率の基本的な考え方は、基礎疾患がございます。高血圧、糖尿病、高脂血症、肥満、喫煙、アルコール、こういうものが脳卒中を有意に発症させる原因となっております。とすれば、我々の地域においてこれらのことが有意に悪化しているということが予測されます。

 これはまだデータは持っておりません、今後検討の課題でございますが、例えば、薬、服薬がきちんとできなくなって高血圧が悪化する。食生活の変化によって糖尿病や高脂血症の症状が悪化する。避難所または仮設住宅に入っていることによって、アルコール、つまりアルコール中毒ですね、依存症の患者さんがふえる。そういう方たちが、むしろ若年層ですね、壮年層、三十五歳から六十四歳の働き盛りの年齢層に起こっているのではないかということが十分に示唆されるデータだと思います。

 以上です。

柿沢委員 教育の話も聞きたかったんですが、時間がなくなりました。

 ありがとうございました。

後藤田委員長 次に、高橋千鶴子君。

高橋(千)委員 日本共産党の高橋千鶴子です。

 きょうは、四人の参考人の皆さん、本当に貴重な御意見をありがとうございました。

 国会は何をしているのかという思いが非常に込められていたと思います。これからの私自身の発言や行動の中でしっかりと返していきたい、そういう決意を最初に述べさせていただきたいと思います。

 まず蜂須賀参考人にですけれども、先ほどちょっと質問の中でありましたけれども、やはり、国会事故調に避難生活を続けながら参加をされ、被災者の一人として発言をされてきたことの意味というのは本当に大きかったのではないかと思います。東電の勝俣前会長に対して、どこの会長さんですかという発言、大変厳しい追及をされたということも拝見をしております。

 それで、事故調が住民に対するアンケート調査とかタウンミーティングを御精力的に開いたということは、私は非常に大事なことだと思っていて、その中で、例えば大熊町でいいますと、渡辺町長さんも、原発は多重防護がされているので大事には至らないと考えていたということを告白されていたりとか、蜂須賀さん自身が双葉の町民の方に、事故のこと、原発のことを想定されましたかと質問されて、自身も、まさか地震と原発事故がすぐには結びつかなかったということをおっしゃっているかなと思うんですね。

 そういうことの認識と、同時に、その中で大熊町の消防団の方が、地震の直後と爆発の二度、死を意識したということを松本さんがおっしゃいまして、その上で、あのビキニ被曝の久保山愛吉さんの言葉を紹介されて、「私どものようなこういう悲惨な経験をした者は最後にしていただきたい」とおっしゃいました。私はやはりここに尽きるのではないかと思うんですね。

 やはり一日も早い原発事故の収束と、同時に、こういう思いを誰もが繰り返さないために、やはり原発の再稼働はしないという決断が求められていると思うんですけれども、御意見を伺いたいと思います。

蜂須賀参考人 再稼働につきましては、私、ここでは述べさせていただけないかなと思います。

 正直申しますと、先ほどちょっと怒りに任せてお話しさせていただきましたけれども、あの原子力発電所で生活が成り立っていたことは間違いございません。

 私も、商人として、よくいろいろなところで再稼働はどうすると聞かれますけれども、正直、私には二つの気持ちがあるとお答えさせていただいています。一つは、あそこで商売をしていた者、あの原子力発電所があるがゆえに生活が成り立っていた、もう一つは、もう二度と私たちみたいな原子力発電所の被災者は出しちゃいけないという強い思い、この二つが入りまじっております。

 ほかの地域での原発事故があって福島第一発電所がとまったならば、私たちがこういうふうな悲惨な生活を経験することがなかったならば、もしかしたら私たちも再稼働を叫ぶかもしれません。先生方もいろいろなところの立地町に行っていると思うんですけれども、本当に火の消えたような悲惨な状況でございます。あれが大熊町にももしかしたらあったかもしれません。

 ただ、ああいうふうな事故を起こさないためにも、もっともっと原因を追及して、そして、再稼働を考えると言ってはおかしいんですけれども、私は、再稼働もあってもいいし、ただ、古い原子力発電所は動かすべきではないと。私個人の意見です。個人の意見です。これは経験した者の苦しい思いと思っていただければありがたいと思いますけれども。

 もう本当に、なぜ原子力発電所でこんなに苦しい生活をしなければならないのかな、なぜ全国の人たちがあの当時は助けてくれたのに今は私たちが非難を浴びなければならないのかなと、今痛烈に感じております。その被災者の、変な意味での世間からの冷たい言葉というものを、先生方、どうぞ感じていただきたいと思います。補償をもらっているからいいだろう、だから遊んでいるんだろう。誰が好きで遊んでいるんですか。誰が好きであんな二間、一間のところで生活。

 さっきありましたけれども、東京の方からなぜ福島第一発電所まで行って作業しなければならない。そこには、先ほどおっしゃったとおり、責任があると思います。あそこの原子炉の中を十分に知っているのは、あそこで何十年と働いてくれていた作業員の皆さんじゃなかろうかと思っております。その作業員の方が、家族とばらばらになりながらも、あそこを収束させなければならないという思い、これも先生方には感じていただきたいと思います。とても悲しいことです。

 うちの場合も、娘の旦那はやはり、反対に千葉に来て働いております。あそこに残されたお母さんたちが、一週間に一遍、二週間に一遍帰ってくる父親のかわり。自分のうちでやっているのとまた別です。知らない土地で子供を育て、知らない人たちとのおつき合い、これは大変に苦しいことです。

 若い人たちは新しい地を求めていけますけれども、私たちの年になりますと、新しい土地を求めて何かをしようという気持ちには今はなれません。あの仮設住宅に残っている方たちはお年寄りが多くなってきております。

 済みません、まとまりません。よろしくお願いします。

高橋(千)委員 率直な御意見、ありがとうございました。

 私も青森県の出身でございますので、原発の問題は避けては通れない課題であって、立地町の首長さんに対しても、私たちは、原発がなくても、だからといって、そこで働いていた人たちや、そこで地域経済が成り立たなくなるというふうなことではない対案を持って訪ねて歩いておりますので、ぜひそういう立場で御理解いただければなと思っております。ありがとうございました。

 山田参考人に伺いたいと思うんですが、住民の声を紹介していただきました。本当によく伝わりました。ありがとうございました。特に津島の問題は、馬場町長も本当に泣いて悔しがって訴えていらっしゃったことを本当に忘れることができません。

 ただ、浪江町はやはり、五年は帰らないと決意をしつつ、リトル浪江の取り組みですとか、そこに診療所を張りつけて、地域のコミュニティーを維持しながら頑張っていくということを取り組んでおられたと思いますので、そこに支援をしていきたいなと思っています。

 そこで、伺いたいのは賠償の考え方ですよね。やはり地価ではとてもじゃないがやっていけない、再建が可能なものをきちんと賠償するべきだということと、それがまだ途中である、一回払ってそれで終わりよということではない、まだ再建の途中であるというふうなことから考えても、そこに課税をするというふうな考え方もやはりおかしいのではないかなと私は思っているんですが、一言お願いします。

山田参考人 私も言いたかったことなんです。

 例えば、私はひとり暮らしです。精神的な慰謝料については、月十万で、包括的に三年ぐらい今度支払われたんですね。私の場合は、一人で三百九十何万か。そうすると、五人家族は、単純に言うと一千二百万ぐらい入ったんじゃないかと思います。

 だから、これは、そういう考え方、精神的な慰謝料についての賠償の考え方に、例えば私個人になって申しわけないんですが、ひとり暮らしでも経費はほぼ変わらないんですよ。今は、家賃が国に負担していただいておりますから、何とか生活はできます。でも、これがいつ打ち切られるか。平成二十六年ですか、そのぐらいで打ち切られたら、その後は、月十万の慰謝料ではとても生活ができないと思う。

 さっき、蜂須賀さんも、商業をやっている方は、農業者は全て賠償してもらえるから、公務員は働きながら賠償してもらえるからというようなお話がありましたが、これは本当にそれが崩れればだめだと思います。

 ただ、財物的な賠償について、これもまた変なんですよ。高橋先生にお願いしたいことは、やはり今まで生きて培ってきた財産というものがあるんですね。例えば、家財を補償しますといっても、それも一人当たりなんです、一人五十万とか。こんな理不尽な話はないではありませんか。

 私は七十三年間生きてきたから、ちょっとは親に買ってもらったものもあるし高級なものもあるでしょう、娘に買ってやった訪問着もあるでしょう。そうしたら、一人五十万の補償では当然、納得いかない家庭があると思います。

 これは、十人の家族があれば五百万になるからね。そうしたら、一人も二人も同じですかという、そういう賠償の基準を誰がつくるんだか、東京電力でつくるんだか何だか、まず公平でないと私は思っております。もっと被災者の身を考えてやるべきじゃないか。もちろん、東電ではだめだったら、国の御指導を仰ぎたいと思っております。

 以上です。

高橋(千)委員 ありがとうございました。全くそのとおりだと思います。引き続いて頑張りたいと思います。

 残された時間が非常に厳しくなってまいりましたので、予定した質問がかなり残ったんですが、遠藤村長と及川副院長にそれぞれ、人に関する問題で質問させていただきたいと思います。一遍に言いますので、時間の中で何とかおさめたいと思います。

 帰村宣言をされてから四割の村民が戻ったということに対して、まだ四割とか、高齢者が多いじゃないかとか、そういう指摘がいろいろあります。でも、村長は、多分そういうことは全部織り込み済みで、全部整ってから帰村するというのではとてもいつになるかわからない、そういうことを覚悟の上で、やはりまず役場が出ていくんだ、そういうふうな思いだったと思うんですね。

 ですから、ただ帰ることがいかに困難かという村長のお言葉というのは、非常にいろいろな課題を本当は含まれているのではないかなと思うんですが、ちょっとお話の中になかった、役場が前面に出ていくことで、職員の皆さんも、それぞれに区域が分断されたり、家族がある中で大変な御苦労をされているし、当然、体制的にも非常に不十分ではないかということがございます。そういう点に思いをしてぜひ御発言をいただきたいと思います。

 及川参考人に対しては、南相馬市が分断をされて、かつてない長期間の屋内退避をされる、その中で、入院も受け入れられないし、職員も避難をさせなければならない、だけれども医療体制を維持してきた大変な御苦労をされました。

 その中のスタッフの御苦労ですとか、先生御自身が医事新報に書かれておりまして、逃げたくなるときはなかったのかというインタビューがあって、いや、もちろんそれはあったけれども、今とてもそれはできないということで決意をされて踏みとどまって、市立病院として、臨床研修医を育成するなどして医師をふやす取り組みをされてきましたよね。

 だけれども、それが全体としては、やはり市立病院だけが足りても間に合わないということですとか、さまざまな意味でまだ不足している課題があると思うんですね。ですから、その取り組んできた成果と課題ということでお話をいただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

遠藤参考人 行政運営において、やはり職員の役割は重要だと思います。まして、こういう緊急時です。ある面では臨戦態勢のこういうときに、職員の果たす仕事は一人二役、三役ということで、本当にありがたいことだなと感謝しています。

 職員みずから被災を受けています。家族がばらばらな職員もいますし、単身で村に戻られたという職員もいます。そういう中で彼らを支えているのは、やはり大義だと思います。その大義は何かというと、やはり、復興させてやろう、新しい川内村をつくろう、そういう大義、使命感だというふうに思います。

 ただ、時間の経過とともに、いつまでもその緊張感は続きません。こういうストレスをどう我々がとってやるかということが、二年目、三年目の一つの課題だというふうに認識しております。

及川参考人 及川でございます。

 南相馬市全体の医療のことを考えた場合の課題をまず最初に挙げます。

 一つは、スタッフ不足だったんですね。それも、スタッフ不足の中にこういうことが起こりました。南相馬市に、旧緊急時避難準備区域に五つの病院があったんですが、我々の病院にスタッフが集まったんですね。つまり、ほかの病院をやめて我々の病院に、具体的には看護師さんが何人か集まってきました。これ自体には行政の方からもかなりクレームがあったんですね。五つの病院があって、その中で我々の病院だけがよくなっていいのかというクレームがあったんですが、我々が答えたのはこうです。

 医療効果を考えてみてくれと。五つの水道があって、全部泥水が出ていても誰も助からない、一つの水道だけでもきれいな水を出さなければ市民は誰も助からないんだと。ですから、平時だったらそのような考えはいいんだろうけれども、緊急時には飲める水を出さなくちゃいけない、一つの病院だけでもきれいにしなくちゃいけないということで、これは御理解いただきました。

 現在の問題です。先ほども挙げましたが、病院が開いていません。一番大きなボトルネックになっているのはスタッフ、特に看護師さん、看護師不足です。これを今後どういうふうに克服していくかが大きな問題で、今後の議論にまたれるところと思います。

 以上です。

高橋(千)委員 終わります。ありがとうございました。

後藤田委員長 次に、畑浩治君。

畑委員 生活の党の畑浩治でございます。

 本日は、被災され、大変苦しい中で、それぞれの分野で復旧復興に頑張っておられる皆様に遠路はるばるおいでいただいて、本当に心からの思いを訴えていただきまして、ありがとうございました。

 私も被災地の岩手の沿岸部出身の議員でありまして、きょうは、その思いが大変共有できるところだと思って伺っておりました。皆様の御意見をしっかり受けとめて、精いっぱい復興に全力を尽くしていくことを私もこの場でお誓い申し上げたいと思います。

 その中で、まず総論からお伺いしたいんですが、これは四人の方それぞれにお伺いしたいと思います。それぞれの専門分野というよりも、原発の地域で被害に遭ったり、復興に携わっておられるという立場でお伺いしたいんですが、原発の問題です。

 先ほど来、話がいろいろありましたけれども、原発をどうするか。福島の方は確かに原発で生活が成り立った部分もある、そういう話もありました。一方、大変に悲惨な目にも遭っておられる。恐らく複雑な気持ちなんだろうと思います。ただ、私は、岩手でも実は、原発、福島ほどではないんですが、風評被害で当然苦しんでおりまして、こういうものを考えますときに、原発というのは、ないならばない方がいいね、これはもう当たり前の考えなんだろうと思います。

 もちろん、今までの過去の経緯、代替エネルギー、あるいは原子炉停止のスピード感とか、すぐにとめられるのか、プロセスによっていろいろ考えが違うんだと思うんですが、理想的には、いずれは原発はゼロにすべきだという考え方に異論を唱える人は、私は、この東日本大震災を踏まえた、福島第一原発事故を踏まえた現状で、いるとは思っておりません。

 問題は、やり方だと思います。だから、そこに向けて一生懸命努力をする。これは、すぐ廃炉にするかどうかというのはまたいろいろ議論があるんですが、いずれにしても、原発をゼロにすべきだという考え方は恐らく皆さんお持ちだと思うんですが、その辺の、原発に対する考え方、これは、そういうことも含めて、あるいは原発に対する複雑な思いも含めてでも結構ですが、四人の方からぜひとも率直なお考えを伺いたいと思います。

蜂須賀参考人 原発に対する問題、それとも、将来原発をどうするかですか。(畑委員「将来を中心に」と呼ぶ)そうですね、今の立場でしたら、原発は要らないと思います。

 もし国会の先生方が再稼働、また新しい原子力発電所をつくるという思いがあるならば、二度と私たちのような苦しい立場の人間をつくらないためにはどうしたらいいかということを真剣に考えていただきたいと思います。まだまだ原子力発電所に対して、規制委員会とかいろいろありますけれども、従来どおりの方法でやっているのではないかと私個人は感じております。

 それにかわるエネルギーといろいろおっしゃいますけれども、正直、大熊町はどうしたらいいんでしょう。本当に、この場で反対に質問しちゃいけないというふうなことは前もっていただいておりますけれども、復興できる町と復興できない町の差があると思います。私たち大熊町、双葉町は、正直言って、復興できるんでしょうか。昔のように、あの原子力発電所のもとで仕事をすることがあるんでしょうか。二度とないと思います。

 原子力政策を進めるならば、もっと安全な方法を真剣に考えていくべきだと思います。それさえも進まない国の施策は、被災者として、どうなんだろうというふうに思っております。

 それにかわるエネルギーは何なんだろう。川内さん、広野さんみたく、戻る希望がある町ならば真剣に考えるべきだと思いますけれども、今の大熊町は、そこまで考える力は私はないと思います。なぜなら、あすを生きる、きょうを生きる時間でいっぱいです。

 なぜ原子力発電所が大熊町に来たのか、それを考えると、産業がなかったからというふうにおっしゃいますけれども、もちろん電気もない、何もないところでした。しかしながら、電車もとまり、人口もふえ、原子力発電所があったからこそ大熊町というのができたのかなというふうな思いもあります。

 でも、もう一度先生方に、原子力発電所を真剣に、事故は起きるものだということの考えのもとで考えていただきたいと思います。むやみに再稼働とか、新しくつくるとか、私は、きちっとした私たちの身を守る安全対策ができて、そして、今避難している何十万人の者が普通の生活に戻ることをいち早く考えていただきたいと思います。これからのエネルギーをどうするんだ、原子力をどうするんだじゃなくて、今の私たちを助けていただいたその後でやっていただく問題ではないかなと私は思っております。

 以上です。

山田参考人 お答えします。

 私は、農業団体の組織の長でありますから、この安全神話が崩れたとき、こういう憂き目になっていくのを毎晩夢に見ているんですよ。

 ここには、菅家先生も小熊先生も会津の方から来ておりますから。米を全量検査して福島県は出しているんですよ、安全を確認して。それでも消費が伸びないというのが三日前の新聞にありました。これだけ風評被害なんというものが、この食品に、さっき及川先生も九五%は口から入るんだと言っておりましたが、でも安全だと言っておりましたが、安全だったら買っていただきたい。私はみずから福島のものばかり食べております。

 これを考えただけでも、私は、今後の原発という、だってエネルギーは、自然エネルギー、風力でも、火力でも、バイオでも、水力でも、太陽光でも、いっぱいある、こういうふうに国が考え始めているんじゃありませんか。私は、原発に依存することは心から反対であります。

 以上です。

遠藤参考人 事故が起きた、この事実だけで、再稼働を認めたくないなというふうに思います。

 ほかのところはわかりません。事故が起きた福島から再稼働を我々が認めたとなったら、やはり日本だけじゃないと思いますね、世界が今、日本がどう復興していくかというのを注目していますので、ひょっとしたらば、どうなんでしょうね、地元で再稼働を認めたとなれば、私は笑い物になるような気がしてなりません。

 それからもう一つ。代替エネルギーとかそれから再生エネルギー、こういったものをきちんと担保しなければ、再稼働反対と叫んじゃいけないんでしょうか。事故が起きたこの事実だけで、僕は説得力があると思います。

及川参考人 及川でございます。私は三つの観点からお話をします。

 一つ目。原発の議論をちょっと考えていただきたいんですね。大飯原発のときに非常に感じました。国の方策として、原発再稼働のときに、原発の安全性と原発の必要性を一緒に考えた議論だったんですね。私、医療者というのは科学的な側面を持っていますので、科学者からいえば、議論のすりかえにしか見えませんでした。なぜ原発の安全性をもっと純粋に考えなかったのか。なぜ国は、原発の安全性をもっと純粋に考えて、それを我々に周知してくれなかったのか。まずここから一つ疑問がございます。

 二つ目。実際に我々は避難しました。避難した立場から見ますと、次の避難計画が全く我々に周知されていません。もし原発を再稼働させるのであれば、そのときに我々はもう一度どうやって避難するんだ。特に私は医療者でございますので、医療弱者の避難がどれほど大変だったかを身にしみて感じております。これは社会的な弱者、いわゆる介護保険者も同様だと思います。

 三つ目。実は私の立ち位置はちょっと微妙でして、私の義理父は、富岡、第二原発ですね、富岡の毛萱というところで、福島第一原発の職員でございました。義理の母も関連会社に勤めておりました。その義理父が言った言葉を皆さんの参考資料にちょっと書いてあるんですが、家内は三人きょうだいで、言っていたのが、原発がなかったらば娘三人を大学に行かせることはできなかったと、しみじみと語ったことがあります。義理父の家庭は大きな農家でございましたが、当時、やはり出稼ぎに行っていたそうなんです。そういう中で原発が来まして、大きな社会基盤になったわけです。

 皆さんが原発再稼働をするときには、大きな社会基盤で、しかも四十年以上続いた社会基盤です。バイオマスや代替燃料がそういう社会基盤になり得るのか、地域社会という問題を含んだ問題でございますので、もう一度、原発を再稼働させる場合には、地域に対してそれなりの社会基盤、しかも持続可能な社会基盤を示す必要があります。

 最後に、原発の問題は、恐らく我々人類が科学とつき合うようになってから、科学と人類がこれからずっと考えなくちゃならない、どうやって共存していくんだという大きな問題でございますので、これはぜひ多くの議論を重ねていただきたいと思います。

 科学的にきちんと検証されて、本当の意味で純粋に科学的に安全性が確立される、仮に想定外の避難が起こったときに避難の方法が確立されている、その二つが確立されていれば、原発再稼働もやぶさかではありません。

 以上です。

畑委員 いろいろな立場から率直な御意見を本当にありがとうございました。

 原発は、人類がいざというときに制御可能なシステムなのかという問題意識が私にはありまして、おっしゃるとおり、そういう問題がある以上、これはいろいろな時間軸はありますが、原発というのはやはりゼロにすべきだと私は思っています。もちろん、いろいろな代替とか、そういう議論はあるんですが、いずれにしましても、これは政治の責任でしっかり考えていくべき問題だと思っております。

 ちょっと時間がなくなりましたので、個別論をお伺いしたいと思います。

 及川副院長と遠藤村長にお伺いしたいと思うんですが、原発周辺地域では、放射能の問題が今でも深刻であるのは言うまでもありません。販売される農作物とかあるいは水産物は放射性物質の検査をやっておりますので、とりあえず基準以下のものは安全であるということで、出荷、販売されているということになるわけです。

 ただ、ちょっとここで欠けているのは、実は、一般の方々御自身でとられている、そしてお召し上がりになるような山菜とか、あるいは川でとるような魚とか、趣味で野菜をつくっている人とか、そういう販売目的じゃないものを一般に口に入れたり流通するわけですけれども、そういうものに対する検査がどうなっているのかなというのが、私も問題意識があるし、また地元で聞いたことがございます。

 要は、そういうものに対して放射性物質がどれぐらい含まれているかはっきりわからないために、食べるに食べられない、あるいは、まさに食べたら内部被曝をしてしまうんじゃないか、そういう不安があるということもお伺いしました。

 そこで、私は、例えば、国や自治体が各地の公民館などに放射性物質の測定器を設置して、住民の方々が気になる食品を無料で手軽に計測できるようになればいいなという思いがあります。実際に、チェルノブイリの原発事故の影響を受けたベラルーシだったでしょうか、伺ったことがあるんですが、各小学校に放射性物質の測定器が置かれて、住民が無料で手軽に検査して、本当に不安な人がその都度検査して、安全な食品を食べられるということを聞いたことがあります。

 私はこれをすぐやるべきだと思うんですが、御見解を頂戴できれば幸いでございます。よろしくお願いいたします。

遠藤参考人 ベラルーシへ僕も視察に行きまして、学校での検査状況を見てきました。あれは非常に参考になりまして、震災が起こったあの年の十一月に、既に村内の十一カ所の集会所に測定器を設置しまして、食品のモニタリングをスタートしております。現在も継続的にやっております。

 ちなみに、今数値が百ベクレル以上あるのは、イノシシの肉とか、それからやはりキノコ類でしょうか。一部、川魚なんかにも検出されております。川魚については、百ベクレルを超えるというような数値ではありませんけれども、検出されております。

 そういった、日常、それもごく身近なところで検査していくということがとても重要だと思います。内部被曝を避ける上でも、食べ物への検査体制は今後とも長期的に継続していくというふうに考えております。

及川参考人 及川でございます。

 内部被曝の重要性については、これは今お話があったように、チェルノブイリのデータを見ますと、ちょうどソ連が崩壊した年に、当時、チェルノブイリ、ベラルーシの内部被曝のデータが非常に上がった経緯がございます。つまり、政治的に崩壊したときに、地産地消という言葉を使いますが、土地のものを食べる率が高くなって、内部被曝があって上がったというデータをもう既にロシアで持っておりますので、それを御参考にしていただきたい。

 つまり、今、我々も、内部被曝の検査をやめてしまったり、食品の被曝検査をやめてしまう、それから地産地消を大いに推奨してしまえば、内部被曝のデータが上がる可能性は十分にあり、今後も内部被曝または食品検査に関しては継続しなくてはいけないという示唆に富んだデータでございます。

 二つ目の、食品をはかる器械を随所に置いたらどうだというお考えですけれども、基本的に賛成です。ただし、二つだけコメントをさせていただきます。

 実は、食品の内部被曝をはかる精度を保つということは、これはかなり難しいんですね。我々の病院で内部被曝をはかっていますが、いつもキャリブレーションは東京大学の物理学の先生にお願いしています。ですから、きちんとしたデータを出すためには、器械の精度を保つというもう一つの方策、システムが必要になります。

 二つ目。実際に内部被曝は、食品だけではございません、空気もありますね。それから水もあるんですが、実際に内部被曝を食品だけはかっていて、その後、内部被曝をはからなければ、実際に我々の体にどのくらい入っているかというのはわからないんですね。ですから、食品のモニタリングを継続的にすること、かつ、内部被曝を長年にわたってきちんとフォローアップする必要がある、これをぜひ皆さんが御理解いただければ幸いです。

 以上です。

畑委員 本日は、本当に貴重な御意見をありがとうございました。しっかり取り組ませていただきます。

 ありがとうございました。

後藤田委員長 以上で午前の参考人の皆様に対する質疑は終了いたしました。

 この際、参考人各位に一言御礼を申し上げます。

 参考人の皆様におかれましては、大変遠いところから、また大変お忙しい中お越しをいただき、貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。委員会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。本当にありがとうございました。

 午後一時から委員会を再開することとし、この際、休憩いたします。

    午前十一時五十六分休憩

     ――――◇―――――

    午後一時開議

後藤田委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。

 午前に引き続き、参考人として、塩釜商工会議所会頭桑原茂さん、名取岩沼農業協同組合青年部委員長今野裕章さん、石巻魚市場株式会社代表取締役社長・石巻市水産復興会議副代表須能邦雄さん、宮城県女川町長須田善明さん、東日本大震災復旧・復興支援みやぎ県民センター代表世話人綱島不二雄さん、有限会社かくりき商店専務取締役小堀内将文さん、以上六名の方々に御出席をいただいております。

 この際、参考人各位に一言御挨拶を申し上げます。

 本日は、御多用のところ本委員会に御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人各位におかれましては、それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただきたいと存じます。よろしくお願いいたします。

 次に、議事の順序について申し上げます。

 まず、参考人各位からお一人十分以内で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑に対しお答えいただきたいと存じます。

 なお、御発言の際はその都度委員長の許可を得て御発言くださいますようよろしくお願いいたします。また、参考人から委員に対して質疑をすることはできないことになっておりますので、あらかじめ御了承願います。

 それでは、まず桑原参考人にお願いいたします。

桑原参考人 皆さん、こんにちは。塩釜商工会議所会頭の桑原でございます。

 このような席で発言の機会をいただき、心より感謝を申し上げます。

 まず、お手元に資料をお配りしておりますので、ごらんをいただきながら、お聞き取りいただきたいと思います。

 初めに、塩竈市の被害状況でありますけれども、被害総額は約千二百十六億円に上りました。また、私たちの調査では、会員千七百社のうち半壊以上が四六%で、その多くが津波浸水区域でありました。

 発災から二年二カ月、この間、国内外からの支援やグループ補助金を初めとするさまざまな制度により、事業再開など、希望の光が見え始めました。まず、この場をおかりいたしまして、お礼を申し上げます。

 そして今後は、新政権のもと、復興がさらに加速されることを御期待申し上げる次第でございます。

 そのような中、被災地域では、大震災前から直面しておりました人口減少、少子高齢化、後継者不足などの問題が一層深刻化するとともに、新たな課題も見えてまいりました。

 まずは、被災企業の早期再建を図るとともに、とまっている地域の経済循環を再び始動させる新たな仕組みづくりが不可欠であると考えております。

 このようなことを踏まえ、私からは、今地域が抱えております課題や復興に向けての要望につきまして、四点、述べさせていただきます。

 一点目は、当市の基幹産業であります水産業や水産加工業の再生に向けた対策であります。

 初めに、グループ補助金などの制度に感謝を申し上げます。水産業界からは、特に水産業共同利用施設復興整備事業補助金が高く評価をされており、今後もその継続と適用基準の緩和をお願いしたいと思います。

 一方、三陸地方沿岸部の復興がおくれており、同地区から原材料などを仕入れている企業からは、養殖水産物や加工品の供給回復が強く望まれております。被災地全体の復興が急務と捉えております。

 また、被災企業の販路の回復は大変厳しい状況にあります。特に、関西圏における取引の停止や消費者の買い控え、観光客の減少などが原因と考えられております。

 私たちといたしましても、商工会議所のネットワークを生かし、見本市や商談会を開催するなど、販路拡大事業を積極的に行っているところでありますが、風評被害への対策強化や地場産品の安全性の周知をお願いいたします。

 さらに、観光施設からは、高速道路の無料化、定額化の復活を望む声が寄せられております。

 同時に、今後は、この二年間で激変した経営環境を見据えて、新たなる創造や、次代に即した業種、業態の改革なども重要になってまいりますので、企業育成などのソフトの面の支援策が不可欠と感じております。

 二点目は、復興交付金制度であります。

 現在、当市沿岸部の港町地区に、復興交付金事業の津波復興拠点整備事業を活用し、津波避難デッキや防災拠点施設を整備する計画があります。

 復興交付金制度については、事業内容が限定される面があります。しかしながら、私たちといたしましては、この制度を、将来の町づくりや商業振興、観光振興をも視野に入れて、戦略的に活用すべきと捉えております。

 例えば、津波避難デッキをJRの駅と直結させることができれば、交流人口の増加にもつながり、今この地区で計画されている地元資本によります水族館建設計画の誘導、支援にもつながると考えております。

 また、中心部では、市街地再開発事業が計画されております。復興交付金による事業期間は二年間とされておりますが、極めて大きい制約と言わざるを得ません。つきましては、期間の延長と、中心市街地再生のモデルケースとなるよう、既存の制度を超えた支援をお願いしたいと考えております。

 被災地の要望や地域特性に配慮した制度の運用、対象事業の拡大などをお願い申し上げます。

 三点目は、土地のかさ上げ支援、インフラの早期復旧、整備促進であります。

 沿岸部では、地盤沈下により、大雨や高潮による浸水被害が現在も発生しております。

 市では、土地区画整理事業や下水道事業などによって内水排除事業に取り組むこととしておりますが、民間事業所の用地は助成対象にはなっておりません。経済再生なくして地域再生は考えられません。地区全体のかさ上げを支援する制度へと改善されるよう、強く要望いたします。

 次に、住民の暮らしや経済活動の基盤としてのみならず、災害発生時のバックアップ機能としての道路、港湾施設などの早期復旧を図っていただきたいと思います。

 特に、港湾整備については、単なる原状復帰という観点ではなく、統合港湾一体化に伴う仙台塩釜港の面的再生や、港湾計画に位置づけられている耐震強化岸壁の確保、海上防災基地機能強化など、港湾全体の早期復旧とあわせ、将来を見据えた再生を図ることが重要な視点であると考えておりますので、早急な整備促進をぜひともお願い申し上げます。

 四点目は、被災地区の商工会議所に対する支援の拡充であります。

 被災地域の中小企業が再建を図る上で、商工会議所が行う経営相談、経営指導などは、大きな役割を担っていると考えております。

 今回の震災では、多くの商工会議所が被災をし、塩釜商工会議所も完全に水没をし、甚大な被害を受けました。

 二年を過ぎ、現在地での建設、より安全な場所へ移転すべきかなど、ようやくその検討に入れる段階になりました。

 地域の経済復興の中核的な役割を果たす商工会議所に対しましては、県を通じ財政支援をいただいておりますけれども、復興に向けた取り組み支援の拡充と、施設整備を進める際の支援の充実をお願い申し上げます。

 以上、四点の要望を述べましたが、最後に改めて申し述べさせていただきます。

 私は、被災地域は、日本再生のモデル地区になると考えております。

 被災地では、人口減少、少子高齢化、後継者の不足、消費需要の減少、産業構造の空洞化など、近年明らかになってきております日本社会の課題が顕在化しております。

 そのような中、本市におきましては、地元資本によります水族館建設の動きや、NPOの組織によります歴史的建造物の保存、活用が市民権を得るまでに広がってきております。同様の取り組みは、被災地で多く見られるようになりました。

 こうした地域資源や地元資本を核にした地域の内発的な力による動きは、必ずや疲弊した地区の再生、にぎわいの復活につながるものであり、日本再生の先進事例になると考えております。既存の復興支援の枠組みを超え、このような新しい形態の取り組みを支援し、成功に導くことこそが、今、求められているのではないでしょうか。

 今後とも、何とぞお力添えを賜りますようお願いを申し上げまして、塩釜地域の状況の報告とさせていただきます。

 御清聴ありがとうございました。(拍手)

後藤田委員長 ありがとうございました。

 次に、今野参考人にお願いいたします。

今野参考人 皆様、こんにちは。ただいま御紹介を賜りました宮城県名取市にあるJA名取岩沼青年部委員長の今野裕章と申します。

 東日本大震災が発生してから、早いもので二年が経過して、復旧から復興へ少しずつ進んできている状況かと思いますが、国の震災復興対策が今まで以上にスピード感のある方針で進めていただければと願っております。

 また、このたび、東日本大震災の復興にかかわる特別委員会の参考人として本日出席させていただいておりますが、今後将来、農業の担い手である我々JA青年部盟友の代表として意見を述べさせていただきたいと思いますので、よろしくお願いします。

 初めに、名取市、岩沼市管内の農業概要について御紹介いたします。

 農地面積は約四千百五ヘクタールで、うち水田面積が約三千六百六十四ヘクタールと、米を中心として、転作に麦、大豆が約四百ヘクタール、特産であるセリなどの野菜の栽培が盛んな地域です。

 また、畑については約三百五十一ヘクタールと、パイプハウスや温室栽培を中心に、キュウリ、トマト、チンゲンサイ、コマツナなど、都市近郊を生かした多品目の園芸栽培が盛んな地域でございます。

 被害状況については、仙台空港の北側に位置する沿岸部の閖上、下増田地区、南側に位置する玉浦地区が、大津波により、町、集落全体に壊滅的な被害を受けました。

 また、農業関係では、管内の農地の約七割に相当する二千二百ヘクタールが瓦れきと塩害により被災し、住宅、作業場はもとより、農業機械、施設、パイプハウス団地など、全て流失した農家が多い地域であります。

 我々青年部では、震災後、平成二十三年七月に全体会議を開催して、震災の現状と復旧復興計画について行政との意見交換と要望、提案を取りまとめ、東日本大震災における地域農業の復興に関する要請書を地元国会議員へ提出いたしました。

 また、県内、県外の青年部と連携を図り、被災地への支援活動などを行いました。

 現在、被災地域では、県や国が主体となり、貞山運河や排水機場、排水路などの復旧工事、農地の瓦れき撤去や農道、用排水路の復旧と水田の除塩作業が行われておりますが、平成二十四年には、被災した水田の約三分の一が水稲作付を再開できるまでに復旧いたしました。

 また、園芸関係では、瓦れきの撤去業者と地元の農業復興組合等が中心となり、農地復旧とパイプハウスを新たに建設して一部作付した地域もございますが、いまだに細かい瓦れきが農地に残っている地域や、地盤沈下等により、大雨が降ると排水できない農地がたくさんある現状です。

 特に、地下水を農用水として利用していた園芸農家は、水の塩分濃度が依然高く、市の水道を利用したり、最悪の場合は、作付した作物が枯れてしまうのを覚悟の上でつくっている農家もおります。

 こうした中、昨年より、被災地の大区画圃場整備事業について、説明会やアンケートに基づき、事業に対する所有者の同意書の取りまとめが行われ、平成二十五年度より工事が着工される計画となり、農業機械や施設等については、行政が事業主体となる被災地域農業復興総合支援事業、リース事業ですけれども、水稲作付を再開する集落も出てきております。

 逆に、仮設住宅や仮住まいをしている農家については、ばらばらになってしまった集落の会合を開催するところも大変であり、農地の復旧よりも、集団住居移転が決まらなければ、営農再開どころか、圃場整備事業による担い手集積や組織の設立、機械リース事業の話まで行かない集落や農家の方々も多く見受けられます。

 また、沿岸部以外でも、地震により農作業場が全半壊したり農業機械等が壊れたりした担い手農家の方々もおりますが、各個人で修繕や改築をしている状況であります。

 今回、被災された地域では、我々と同様の課題や要望が出ていると思いますので、この機会に今後の農業震災復興のために意見を述べさせていただきます。

 一つ目は、大区画圃場整備事業についてでございます。

 平成二十五年から二十七年度までにメーン工事を完了して、名取市でいえば、担い手農家や組織へ農地を集積する目標が六〇%以上と計画されておりますが、お亡くなりになられた農家の所有する農地の相続が完了していない方、どうしたらよいか悩んでいる方、農地が担い手農家へ集積して所得が確保できるのかなど心配している集落もあります。

 特に沿岸部の集落では、震災で自宅も流失して、農業機械や施設に投資できないので、やむを得ず離農する方、全て農地を委託したい農家が多い現状です。

 このような集落こそ、仮設住宅や仮住まいをしているので、皆がばらばらであり、営農再開マスタープランの話し合いなどが十分にできていない現状であります。

 このような緊急事態だからこそ、もう少し話し合いができるように、離農や経営転換をする農家の方々が全て対象となるような農地集積支援金の手続を緩和していただき、長期的に交付申請できる内容にしていただきたいと思います。

 また、新たな排水機場の建設や河川の復旧工事、沿岸部に行けば行くほど大変となる細かな瓦れきの撤去作業と農地の除塩作業について、平成二十七年度までに完了する計画となっておりますが、除塩した農地は、基本的に、米を作付してから、秋に圃場整備の工事に入る計画であり、万が一施工期間がおくれた場合は米の作付ができません。できない農家は農業所得がないことになります。ですから、できれば、国で何らかの圃場整備工事区域の休耕補償的な対策を検討していただければとお願いします。

 二つ目は、被災地域農業復興総合支援事業についてでございます。

 東日本大震災農業生産対策交付金事業よりも、被災された農家が取り組みやすい要件となりましたが、対象要件は、各行政が事業主体のため、異なるところもあると聞いております。

 震災前に集落の担い手として受け皿となっていた集落の担い手農家の方々が被災して、営農再開する際に事業を活用するにも、個人では事業の要件にならない、または面積要件に満たないので申請できないように解釈されているのではないかと思われます。しかし、震災前に投資した農業機械や施設等が被災して大打撃を受けているのは、そのようなやる気のある農家の方々だと思います。

 また、津波被害は農地だけで済んだが、大地震により農作業場が倒壊したり大規模な修繕をしなければならない担い手農家や、施設園芸で頑張っていた若い農業後継者が被災し、農業を続けたいが再開する資金もなく、事業の申請をしたいが建てる農地がないなど、さまざまな問題を抱えている集落もある状況であります。

 人・農地プランを作成する中で、このようなやる気のある農家の方々に集積していくには、やる気のある農家を農業機械や施設のリース事業の交付対象にしていただかなければ、今後、将来の若い担い手の育成や生産基盤確保と農業所得の向上にならないと思います。

 被災して住居もない農家の方々は、営農再開へ向けて組織設立や法人化ができない集落もありますので、やる気のある農家が誰でも取り組める、継続的な被災地域農業復興総合支援事業が望ましいのではないかと思うところであります。

 震災直後から、私たち農家は、さまざまな思いで、自力で頑張り、国の補助をいただきながら、一歩一歩進もうと前を向いております。しかし、目指す道のりは、大変長く厳しいものであります。

 私たち農家は、日々の労働により培った体力、我慢強さには自信がありますが、先祖から必死でつないだバトンを大切に、大地を信じ、土を愛し、感謝して生きてきた純粋な心の私たちには、その全てを奪われた今の状況は、精神的にもつらく、皆、心が折れそうです。震災で命を奪われた仲間、震災後、精神的、肉体的苦痛により、早くに病に伏してしまった仲間も出ております。

 その中で、今生きている私たち若い担い手は、前を向いて歩もうとしております。未来を信じております。その未来が明るいものだと期待して信じております。その若い力は、今は微力ですが、必ずや強力な力となり、日本の美しい国土を守るだけでなく、私たち農家の力も、日本が世界で戦う国力になり得ることと自負しております。

 被災地では、復興へ向けて頑張っている農家もたくさんあります。このような問題や課題は一部の意見にしかすぎませんが、明るい未来の農業後継者である青年部代表として、参考人意見の言葉とさせていただきます。

 被災地には、頑張っている仲間が、よい知恵と勇気と希望を取りそろえて待っていますので、今後とも、被災地域の御支援、御協力をよろしくお願いします。私たちは、いつでも現地で、生の声をお伝えいたします。頑張っている姿を見てください。感じてください。現場で、圃場でお待ちしております。

 本日は、貴重な時間をいただき、まことにありがとうございました。

 終わります。(拍手)

後藤田委員長 ありがとうございました。

 次に、須能参考人にお願いいたします。

須能参考人 皆さん、こんにちは。石巻魚市場の須能です。

 発災以来、政府並びに各党の先生方には大変お世話いただきまして、まことにありがとうございます。また、本日は、委員会にお招きをいただきまして、実情をお伝えする機会を設けていただき、まことにありがとうございます。

 水産業復興の課題ということで、まず初めに、主要な言葉の明確化を図りたいと思います。まず共通認識を図っていただきたいという目的であります。

 このたびの東日本大震災の本質ですが、マグニチュード九・〇という大きな地震でありました。しかしながら、いつどこで何があったのかというような、歴史に埋没しないために、平成の時代の三陸の大津波、これは自然の災禍であり、自然への畏敬の念の喪失、埋立地に住居、工場が建ち、磯前とか根岸という地名が地名変更で忘れ去られてしまったこと。それから、福島の原発大惨事、これは文明の災禍ではないかと思います。経済至上主義の行き過ぎ、危機に対する過少な想定というようなことで、本来であれば防げたものではなかったのか、こういう教訓を得るべきではなかったかと思います。

 次に、漁業と水産業の違いです。

 漁業というのは、海から海産生物を漁獲あるいは採捕する一次産業であります。水産業は、魚をとる漁業に加えて、その原料を加工する二次産業、及び、その製品を流通、販売する三次産業を含む六次産業であります。

 かつての大手水産会社であります大洋漁業、マルハ、日本水産、日魯、極洋は、世界の海で自社船で漁獲し、また、現地で魚を購入し、日本に搬入しました。一部は原魚で販売し、不良品や過剰なものは自社で缶詰、ソーセージ等に加工し販売を行う、六次化の大規模な総合産業を行っておりました。現在は二百海里問題で漁獲ができないということで、もうなくなりました。

 現在、酒造メーカーやレストランチェーンなどが、米、野菜の生産、一次産業を行い、製造し販売する六次産業化としておりますが、これは本流にはなり得ないものだと思っております。本来、産業が深化をすれば、専門性が高まり、それぞれのベストミックスを求めるのが経済ではないかと私は思っております。

 次に、水産都市と漁港漁村集落の違いであります。

 水産都市は、八戸、石巻、銚子などの都市に、広域圏で操業する漁船が漁獲したものを水揚げ、販売を行う産地魚市場を核とし、その原料を加工する工場群、二次産業があり、そして、その製品を流通、販売する三次産業が集積する地域であります。

 一方、漁港漁村集落というのは、湾内で海面養殖事業を行う人々や沿岸漁業を営む小型漁船の家族の多くが住む漁村集落地域、通常、浜とか部落というものであります。

 各地の浜は、湾内の海面区画を管理する目的で単協を結成し、コミュニティーを維持しております。その集合体が地区漁協であり、その総合体が県漁協であります。また、全国組織が全漁連であります。

 この組織に属さないものとしては大規模なものが多く、漁業種類別のもので、底びき網漁業組合あるいはまき網漁業組合など、地域別の加工組合でもあります。

 次に、水産業及び被災地の課題であります。

 一つ目が、放射能問題であります。

 まず、リスクコミュニケーションの実施、規制値の見直し、風評被害の補償問題があります。

 日本は唯一の被爆国といいながら、原子力及び放射能に対し、国民への教育を怠ってきたと思います。このたびの安易な安全宣言や東電の無責任な対応から、国民に不信感を募らせました。政府は誠意を持って国民に対しリスクコミュニケーションを実施してください。世界的基準のコーデックスは、セシウムが千ベクレル・パー・キログラムであります。日本は現在、百ベクレルと、過剰な規制を強いております。国民の安全性の訴求と産業育成のための緩和の調整について、積極的な対応をぜひお願いいたします。

 続きまして、自然産業の重要性であります。

 私は、一次産業というような、言葉に意味のない定義の仕方じゃなくて、自然のものを使う産業ということで、あえて自然産業と言います。

 TPP並びに宮城県の水産特区であります。

 国土の狭い日本で自然の生物を利用する自然産業、一次産業ですね、農業、水産業、畜産業、林業です。これは経済効率が悪いです。日本は国土が狭いからです。しかし、環境浄化、国土保全や、国民の心身の健全性を確保するためには、失ってはならない産業であります。

 規模の拡大や多層的利用などの工夫、努力は必要でありますが、各国それぞれの事情を考慮しないTPPは、地球市民として生存権にも影響するものである重要な問題だと思います。

 漁民の自立的組織である漁協の根本理念は、貧しきを憂えず、あるいは足らざるを憂えず、等しからざるを憂えるというものであります。海面利用は漁業者の権利である、その管理、調整を行うのが漁協で、独占という言葉をマスコミ初め使っておりますが、これは言葉の暴力であると思います。

 漁協、農協の運動の本質は生産者の自立であり、戦後復興において一定の成果を上げたものであります。しかし、制度疲労を起こしており、改善の必要に迫られております。

 今回、宮城県で提案されている特区は、漁協が反対するように、一部のみが優遇されるもので、汎用性がなく、等しからざるものをつくるものとして、そういう面からも反対しております。対立のまま実行すれば、現場で衝突などの悲劇を生み、本来の目的と違った結果を招くと思います。

 騒ぐ浜に漁はないとの先人の協調団結への戒めのことわざがあります。特区として承認されているので、ことしの九月の免許更新にこだわらず、第三者を交えて円満解決を図るなど、大人の解決を示すよう、皆さんからもぜひ勧めてほしいと思います。

 次に、その他の課題です。

 復興庁の機能強化をしてほしいと思います。

 五省庁四十事業には、経済産業省、特に被災地は中小企業が主でしたので、中小企業庁を含めました事業をぜひこれに加えてほしいと思います。

 それから、省庁間の積極的な調整、今いろいろな面でやられておりますけれども、先ほどの放射能の件、農林省を含め、文科省、あるいは厚生労働省、消費者庁、いろいろな立場の人が参加しておりますが、最終的に規制は厚生労働省の決定事項になっておりまして、産業的な面が考慮されておりません。ぜひお願いしたいと思います。

 それから、土地問題につきましては、区画調整事業が非常に難しくなっております。それから、堤防、高盛り土道路に伴う移転につきましても非常に複雑であります。産業ゾーン内の土地の買い上げ、これにつきましても、個人の家は認められていますけれども、産業ゾーン内の工場の買い上げ等は含まれておりません。この辺、弾力的な運用を含めましてお願いしたいと思います。

 それから、雇用問題です。

 これは、熟練職員の不足であります。皆さんは、職場がないのかと勘違いしておられる方が多いんですが、実態は、今までの水産加工の人たちは沿岸部におりましたので、仮設に住む、あるいは転居してしまったために、人がいなくなっております。また、昔は一人に一台であった車が、今は一家に一台ですから、働き手以外の車がないということで、集めるのが非常に大変であります。そのために、回帰促進策、お祭りを含め、人情に訴えるしかないと思っておりますけれども、そういう問題があります。

 それから、賃金格差対策。これは、復興景気で賃金が上がっていますけれども、以前から水産の加工は非常に苦しいということで、賃金を上げられません。何とか経営陣の方に、パスを手配するとかを含めまして、費用負担のお願いをしたいと思います。

 人材教育。これは、地元の水産高校、農業高校等の産業系の学校に対して積極的にインターンシップを行う、あるいは地元の産業界の人間が出前授業をするようなことで、雇用の促進を図るように働きかけてほしいと思います。

 それから、金融問題です。

 二重ローン対策、それから追加的支援。これは、特需によりまして価格が高騰、運転資金、在庫資金等につきまして、四分の三の補助を受けましたけれども、実質四分の一負担では済まなくなってきておりまして、非常に資金不足に陥っております。この辺についても、現状に即した金融対策をお願いいたしたいと思います。

 それから、失われた既成市場の回復問題であります。

 まず、施設のハード面につきましては、中小企業庁を初め、グループ化でかなり手厚い支援をしていただきましたけれども、これからは、いよいよできた工場での販売が大変なことになっております。工場が建てば済むんじゃなくて、これから新たな課題が発生しております。そういうことで、我々地元では、新規参入者というような、チャレンジャーとしての意気込みで進めますけれども、これについて、販路開拓につきましても手厚い御支援をいただきたいと思います。

 以上です。どうもありがとうございました。(拍手)

後藤田委員長 ありがとうございました。

 次に、須田参考人にお願いいたします。

須田参考人 宮城県女川町長の須田でございます。

 本日は、このような陳述の機会を設けていただきまして、大変ありがとうございました。また、これまで、あの震災から二年余が過ぎたわけでございますけれども、党派、垣根を越えて、発災直後から、皆様から物心にわたる本当に温かい、また力強いお励ましと応援をいただいてまいりました。改めて、この場をおかりしまして御礼を申し上げる次第でございます。

 私からは、A3二枚で資料を配付させていただいておりますが、十分という限られた時間でございますので、これに基づきましてお話をしてまいりたく存じます。

 まず、一番最初、基本事項ということで被災の概況を載せておりますけれども、実質二十メートルクラスの津波で、町域のあらゆる部分が壊滅をいたしました。犠牲者数は八百二十七名、もちろん、まだ見つかっていない方も三百名弱おられます。また、建物被害につきましても、六千五百ほどの建物があったんですけれども、これは倉庫とかを含めてでございますが、三分の二が全壊、流失、一部損壊まで含めると九割に近い形ということでございまして、人命被害また建造物被害ともに、全自治体の中で被災率は最大ということでございます。もちろん、最大の被災自治体は石巻市、お隣でございますけれども、我が町はその石巻市に囲まれるような形であるわけでございますが、率でいうと、全自治体の中で最大となってしまったということでございます。

 私自身は、平成二十三年、あの大震災から八カ月後に町長職に就任をさせていただきまして、それ以前は安住宣孝前町長があの困難な中を指揮をとっていただいておりました。その発災の半年後の九月に、宮城県内の自治体では二番目というスピードだったと記憶しておりますが、復興計画を立案し、またその議決をいただいて、正式な形でスタートいたしたわけでございます。私、十一月に就任をさせていただき、それを具体化、もちろん一部の変更等もございますけれども、それをどういうふうな形でやっていくかということをずっと詰めてやってきたところでございました。

 二枚目の方に、これは町の中心部の方になりますけれども、全体図を載せております。

 こういった図、当初の案からは若干変わっておるんですが、これを、翌二十四年の一月から二月にかけまして、延べ四十回、説明会をやらせていただき、また事業制度、区画整理等の説明会、大体百回ぐらいやらせていただいておるんですけれども、大きなことが決まる、あるいは考え方をお伝えする、そんな機会をなるべく住民の皆さんに提供できるようにということでやってまいりましたが、この間、昨年の夏には、二千三百世帯ほど関係世帯がおられるわけでございますが、全世帯面談ということで、意向確認等をずっと重ねてきたところでございます。

 一枚目の方にちょっと戻っていただきまして、復興の事業の概要について申し述べさせていただきます。

 事業制度につきましては大体共通の理解があるという前提でお話をさせていただきたいというふうに存じますが、防災集団移転、当然我が町でも活用いたします。防集ですね。次に、区画整理でございますけれども、今回、震災を受けて、被災自治体の区画整理をやりやすいようにということで、従前よりは制度の運用をよくしていただいて、また、ここに、土地の買い上げ制度でございます緊急防災空地整備事業等も導入をしていただきまして、これをフル活用する形でやってまいったところでございます。

 離半島地区、漁業集落につきましては、住宅地の防集、並びに原因地、被災した下の土地、こちらについては漁集事業を使って整備をしていくということです。

 中心区画につきましては、防集、区画整理、一部漁集もやりますが、ここに津波復興拠点事業ということで、あらゆる事業を一つのエリアの中に全部組み込んで行わせていただきます。

 先ほど来、用地のかさ上げ等のお話がございましたが、かさ上げ整備のメニューというのは実はまだないんですね。当時からお話があり、ずっと要請もしておったわけでございますけれども、いまだそれについては事業化、メニュー化されておりません。

 そういう状況が当時からあったものですから、全ての浸水エリアをどういう形かで、もちろん手をつけなくてはならないわけです。そこに瓦れきあるいは基礎、決壊した道路ですとかそういったものがそのまま存置されているという状況は許されませんから、どういう形かで全てのエリアで事業に着手しなければならない。

 そういうふうな状況と、もう一つは、住民の皆さんの負担をなるべく減らす。例えば、基礎撤去が必要になる場合も、実はいまだに多分あるはずなんです、地区によっては。それを個人あるいは世帯、事業者の方みずからがやらなければいけない。

 もちろん、それが本当の部分なのかもしれません、本来の姿なのかもしれませんが、ほぼ全ての町民あるいは事業所がすべからく被災をする中で、何とかその負担をしないために、また自治体の負担も最低限に、最小限に抑えていくためにということで、町の中心部におきましては、浸水域のほぼ全てを区画整理、二百二十六・四ヘクタールでございます、被災自治体の中では最大の区画整理の規模になろうというふうに思いますが、ここに防集、また津波復興拠点事業を全部加えてやっていくということにいたしました。

 行政的な手続は、折衝も含め、やはり非常に複雑です。ただ、そこで再建いただく世帯あるいは事業主の方々がスムーズにかつ負担なく進んでいくためには、これは行政の方が一生懸命、関係の皆さんとお話ししながら、汗をかきつつ、新しいステージをしっかり提示していくということをやっていかなければならないということで、我が町の復興事業はこのような制度の構成をさせていただいております。

 断面図を下に載せさせていただいていますが、海側から山側に切ったときに、我が町の一つの特徴としては、中心部に防潮堤はつくりません。

 まず、湾口防波堤が四・四メーターの高さがございますけれども、防災集団移転事業で山を切って整備するわけですが、その残土を活用しまして、土地の地盤全体を、そのものを上げてまいります。それによりまして、レベル1クラスの津波に対しては、水産加工団地につきましては、やはり仕事上の都合がありますので、原状の地盤高に復旧だけにとどめますけれども、商業地その他につきましては、最低、レベル1に対しては万全の安全性を確保する。居住地については、レベル2クラスの津波に対して、つまり今次津波、これに対しては、直撃を避けるという形で構成をしております。

 宅地は上に上げさせていただくわけでございますが、人命ということもそうですけれども、何よりも生活、財産を万が一の際でも守っていく。それが、もし仮に同じようなことがあった場合に、生活をそれぞれリスタートしていただくに当たっても一番根本となる部分でございますので、このような形にさせていただいたところです。

 済みません、もう一度二枚目をごらんいただきたいわけでございますが、津波復興拠点事業、コの字になっているところ、ピンク色で、商業地区とページの真ん中ぐらいに書いてありますが、この地区でまずは設定をさせていただきまして、この中心区画に、役所あるいは商業機能、さまざまなものをへそに全部集約していく。高台の居住地はその中心部を取り囲むような形で造成をさせていただきまして、高台移転はするんですけれども、コンパクトシティーというのを同時に実現していこうというのが基本的な考え方でございます。

 既に事業着手は一部地区で始まっておりまして、真ん中ら辺に陸上競技場跡地地区と書いておりますが、陸上競技場、三種公認だったんですけれども、解体をいたしまして、ここに今、二百世帯の災害公営住宅の建築事業がスタートをいたしました。来年の今ごろには二百世帯の皆さんが入居が完了できる見込みとなっております。

 下の方に荒立地区というふうに書いておりますが、ここも切り土造成を開始しておりまして、来年には、まあ六十五区画程度にしかならないんですけれども、まず第一弾の住宅用地が提供される見込みということになっております。

 我が町の地形上の特徴としては、平地が極めて少ないんですね。少ない中でどういうふうに事業用地並びに宅地を確保していくかということを考えたときに、山を切るような形で進んでいかざるを得ない。ここの、物理的に時間がかかってしまうというのが一番のネックでございます。

 そういう状況の中で、今の居住状況でございますが、七千九百六十二人、これは二月末現在でございますが、先月末現在では七千八百十九名まで減少いたしております。八百二十七名の方がお亡くなりになりまして、千四百名以上の方が既に町を離れられたというような状況でございます。仮設住宅につきましては、ほぼ皆さん、入居を全てされているような状況で、まだ、新しいステージに入っていらっしゃる方はかなり限られている状況です。

 就労につきましては、事業所数が六百少々あったわけでございますけれども、再開については今半分程度、雇用の方は八割近くまで回復はしてきておりますけれども、いかに事業再建できる土壌をつくっていくかというのが極めて大きな問題、課題というふうになっております。

 漁業関係につきましては、組合員数自体は減ってはおりませんけれども、やはり着業にまだ至れない。共同船舶ですとかの取得ということでエントリーはしておるんですけれども、まだ船が来ない方も大勢おられるんですね。そういうような状況がございまして、着業は三割程度になっております。魚市場の水揚げにつきましては、半分程度まで何とか、護岸あるいは水揚げ設備が回復いたしまして、この程度まで持ってくることができました。漁協生産額、まだこれは年度途中でまとまっていないということで御了承いただきたいと存じます。

 課題についてでございますが、これも先ほど来ありますが、全体の復興計画期間と各事業制度の、設定された時間のスケジュールがやはり違うんですね。グループ補助ですと、今だと明許繰り越し、ワンペーパーに近い形でやっていただきまして、大変ありがたかったんですが、では、これがいつまでやっていけるかというところに、やはり担保が欲しいわけです。これは政治的な担保で構わないんだろうというふうに思いますけれども、そうでないと、我々も、あるいは住民の皆さんがそれぞれ考えていく中で、やはりすごく不安があるんですね。

 では、何でエントリーしたんだ、時間がわからないのにと言われたら、だって、エントリーしなければいただけないわけですね。当然、制度はいつかなくなるわけでございまして、事業者さんとしては、当然エントリーもされる中で、今、土地がまだそろわないという状況がございます。こういったことを代表的に、全体のスケジュールがきちっと合うような形で制度運用をお願いしたいということです。

 二番目、区画整理。先ほどお話ししましたが、離半島地区は、漁業集落においては区画整理事業導入ができません。防災集団移転事業で宅地の買い取りをいっぱいやらせていただくわけですが、そうしますと、民地と公有地がまだら模様で点在する形になりまして、その後の浜の再生、土地利用を図っていく上で、非常に大きな制約というか障害になってまいります。新たな制度をできればつくっていただきたいというふうに思いますが、五省四十一事業目をぜひ、立法あるいは制度の創設ということで御対応いただければ一番ありがたいと思っておりますが、こういう状況があるということを、これは女川町だけではありません、全ての浜だと思います、よろしくお願いいたします。

 三番目、やはりマンパワーでございます。かなりいろいろな応援はいただいておりますけれども、まだまだ足りないというような現況がございます。これも女川町だけではなく、全ての自治体に共通する部分だとは思いますが、代表的な課題についてお話をさせていただいたところです。

 これ以外にもいっぱいあるんですけれども、今回、時間も限られておりますので、三点のみに絞らせていただいたところでございます。あとは、何かございましたら、後ほどお尋ねいただければというふうに存じます。

 御清聴ありがとうございました。(拍手)

後藤田委員長 ありがとうございました。

 次に、綱島参考人にお願いいたします。

綱島参考人 皆さん、こんにちは。御紹介いただきました綱島です。復旧・復興みやぎ県民センターというところの代表世話人をやっております。

 私たちは、被災者の一日も早い立ち直り、そして希望のある復興の実現に向けて活動をやって、被災者とともに活動してきた団体であります。その中で、この二年間で感じましたことを四点ほど述べさせていただきたいというふうに思います。

 最初の問題は、被災者の診療窓口負担を軽減していた制度についてでございます。表現が、十分間ということなものですから、これはいかぬというので、かなりきつい表現になっておりますので、その点は御容赦いただきたいというふうに思います。

 きょうお配りしました資料の三ページ目の資料二というのを見ていただくと、これは一開業医の方でありますが、ことしの三月から、岩手と福島は医療費の診療窓口の減免ということの措置が継続されておりますが、宮城だけは残念ながら継続が打ち切られました。そのことによってどういう結果が出ているのかということを示したものですけれども、三月に、やはり物すごい勢いで、駆け込み治療といいましょうか、出ました。そして、お医者さんも、嫌だけれども、例えばお薬を六カ月分出すというようなことで、四月は減っております。

 これは、お医者さんの方で、三月まで免除対象者だった方が四月にどうなったかということまで含めて調べていただいたものですので、やはり、かなりの方が駆け込みをして、医療費の負担を少しでも減らすということでやっている。

 そういう意味では、この免除措置というのは極めて被災者にとっては大きな問題ですので、これを一日も早く、国、県、市町村ともに協議をしていただいて、しかるべく制度の発足をぜひともしていただきたい。

 特に、被災者の多い宮城県においては、自治体の負担、とにかく、八割が国、二割が自治体の負担ということになると、これがかなり大きいということが今回の廃止の理由になっておりますので、そういうことも含めて十分検討いただければありがたいというふうに思っております。被災者にとっては、この復活を大いに待っているというところでございます。

 次に、二番目ですけれども、先ほど女川町長さんが言われましたけれども、広域合併に関する問題が今回被災地と大きくかかわっているということで、資料三をごらんいただきたいというふうに思います。

 この資料三は石巻でございます。石巻市地区の地図が後ろから三枚目のところに入っておりますが、石巻は、海岸部それから内陸部を含めまして、一市六町村で合併が行われているところであります。

 資料の三を見ていただきますと、石巻は、結局、石巻市、河北町、雄勝町、河南町、桃生町、北上町そして牡鹿町で構成されていますが、合併後、旧町役場は支所に変わりましたけれども、人員が、ほとんど五〇%以下に落ち込んでおります。そして、石巻市自体も減っております。

 そういう中で、市の職員は、大体、通年の三倍、多い職場では五、六倍の予算を消化しなければならないということでやっておりますので、物すごい負担がかかります。郡議員は復興庁でやっていらしておわかりいただけると思いますけれども、本当に、見ていて涙が出るぐらい大変な苦労をされているところであります。

 それからもう一つは、復興に当たって、やはりどうしても、被災者にとってみると、旧町村ごとに、ある面では、そこを向いて復興しようという気持ちが出てくるわけです。ところが、肝心のその中心になるところが消えてしまって、権限もなくなっているというようなことがあって、非常に復興に戸惑いが出ているということも事実でございます。そういう点をどうしても御配慮していただければと。

 それから、先ほどちょっと出ましたけれども、では拠点的にそういうところをやろうかということになると、一市二カ所というような形でもって津波の事業が限定されております。津波復興拠点整備事業というものを使おうかということになりますと、これは一市二カ所ということで、なかなかうまくいかないというようなこともございます。

 そういうことを含めまして、どうしても人員の増大というようなことについて御尽力いただきたい。

 町づくりにつきましても、結果的には、専門的な職業なものですから、どうしても外部のコンサルタントに依存しなければならない。そうしますと、やはり土地の事情がわからない方の設計図ですので、なかなかそれがフィットしないということで、お互い頑張っているんだけれども復興の実が上がらないというのが大きい問題ですので、この点について、ぜひともしかるべき善処をお願いできればというふうに思っております。

 それから三番目は、水産業の復興特区についてでございます。

 これは、先ほど須能委員の方が、丁寧に、水産特区とは何か、漁業とは何か、おっしゃいましたし、最後には、もう申請が通ったんだから、九月以降、慌てずに、大人の解決策を図れ、こういうふうにおっしゃっております。それについては同感であります。

 ただ、少しここでは青二才的な、ちょっと青臭い議論をさせていただきたいと思いますけれども、それはどういうことかといいますと、地元の河北新報で、この申請が出たときに、合意なき発車は残念という社説を掲げております。それから、川柳で、津波以降特区再び浜揺らすというようなことも出ておりまして、県民にとっても、一体どういうことになっているんだろうかという、関心の強いところであります。

 そういう点では、従来までもやもやっとしていたものが、ことしの四月に急遽、四月四日に地域協議会というものが開かれて、四月十日に申請される、十九日に水産庁が認める、そして四月の二十三日に正式に認可というスピード決着がされたものでありますけれども、私ども、ずっといろいろな会議に出ておりまして若干気になるところがありますので、その点について、これはいわゆる手続上の瑕疵なんという言葉を使っていますけれども、具体的には、申請プロセスの中で若干気になるところがありますので、その点をお話ししたいというふうに思います。

 一番の問題は、いわゆる水産特区申請の三条件というものは資料四に示したとおりでございます。資料四といいますのは、地元の地区における経済の活動が停滞し、地元の漁業者のみでは養殖業の再開が困難である。これは、桃浦はまさにそれに該当するところであります。二番目、地元漁民の生業の維持等、地元地区の活性化に資する経済的、社会的効果が確実に存在することということです。生業の維持に支障があるかないかということを書きなさいということであります。三番目は、水面の総合的な利用について支障があるかないかということを示しなさいということであります。

 それに対して、申請で県の方が出しましたものが、資料の五でございます。

 この資料五を見ていただきますと、今特に述べました申請条件の中で、地元漁民の生業に対する意見というところについては、なし、それから、水面の総合的利用の支障に関する意見については、特になしという形で申請がされております。

 実際、県が三月に実施しましたアンケート調査の結果によりますと、例えば、養殖いかだがはみ出したときに一体どうするんだというような問題、特区があるとそこのところの調整をしなければ大変なことになるよというようなことでの御意見とか、または、新規参入者が出たときにどうするんだというような御意見が出てきている。要するに、生業に対して支障があるという意見が七名の方から出ております。

 それからもう一つは、総合的な水面利用ということにつきましては、特に、特区ということで、いわゆる養殖いかだ、養殖をやる場合には区画をつくります。その区画ごとにずっと整備をしていくわけですけれども、水路として二百メートルの水路をとってあります。そして、実は、復興特区の場合には、そこを百五十メートルに縮めて特区を設定しているという問題点がございます。

 これについては、資料の六に出ておりますが、具体的に、桃浦を含みます石巻地区の漁業関係者の方が、県の漁場計画は、当支所との打ち合わせが不十分であるため、当支所が提出している計画と異なっております、再度調整、整理の上、海区漁業委員会で再度審議をお願いしますということを出されております。

 それから、一番下のところに、現行二百メートル幅で直線の桃浦への航路が、県計画では百五十メートルと縮小され、また、曲がっている航路となっております、変更すべき理由はなく、安全面及び潮通しの面からも現行どおりとすべきです、そういう答えになっております。

 ところが、それに対して県の方は、航路というのは二百メートルも要らない、百五十メートルにした理由としては、二百メートルも必要とするような大型漁船が入港した形跡はない、したがって百五十メートルでもよろしいということなんですけれども、そうではなくて、なぜ二百メートルかというと、漁民の方たちは夜間も操業します、そのとき、天候が急変したときに、どうしても水路を通って港に避難をしなければいけない、そういう事態なわけです。ですから、そのためにはどうしても二百メートルの直線のものが必要なんだ。これは単に、いわゆる潮通しだとかそのためだけじゃなくて、避難路としてもどうしても大事なんだと。

 これが百五十メートルになりますと、海面ですから、ぎりぎりまでやってしまうと非常に狭くなる可能性も、潮の流れでもって狭くなることもあります。特にそういう非常時には非常に航路が狭くなることがあるので、二百メートルはどうしても必要なんだということで、この点についてはどうしても県と協議をしたいということになっておりますが、これがまだできていないというのが状況です。

 そういう意味では、いわゆる三条件の中の二条件について意見があるにもかかわらず、なしというふうな回答をされたという点で大きな問題があるのではないかということが第一点。

 それからもう一つは、本来、漁師が経験にのっとって、漁の安全ということで二百メートルの幅を確保していたというその水路計画が、特区のために百五十メートルに縮まったということについては、これはどうしても漁協との話し合いをしなければならない問題だということで、ぜひとも大人の解決策を含めて御議論いただければありがたいというふうに思っております。

 最後に、防潮堤の問題ですけれども、巨大防潮堤をつくるということで、先ほど女川の町長さんは、当面この部分についてはつくりませんよとおっしゃっていましたが、そういうところは随分出ております。

 例えば、岩手県の大槌町赤浜という地区では、百五十二の世帯が全員高台に移転をいたしました。ところが、六メートル以上の巨大防潮堤ができるということなんですけれども、もう誰もいないところで防潮堤は要らないんじゃないか。それで、住民の方は、我々は全部逃げた、要らないんだ、だとすれば、防潮堤を高くする予算をもっと別のところに使っていただいた方がはるかに有効であるという御意見を言っていらっしゃいます。

 それから、宮城県の鮎川港というところは、これは、地図を示すと牡鹿半島の先端部分にあって、金華山というところに行く観光名所でもあります。半島を渡って、最後にぱっと海が開けて太平洋が見えて、そして金華山が見えて、ああ、鮎川に来たな、よし、フェリーに乗ろう、そういうところなんです。

 ところが、そこに六メートル強の防潮堤をつくるということになっております。そうしますと、せっかく観光客で行ったところが、海が見えない。ですから、岸壁に海の絵でも描かなきゃいけない、こういうことになったのではとんでもないことになるわけでしょうし、また、六メートルの防潮堤の外側にフェリーの発着場ができます。魚市場機能もそちらにできます。鯨を揚げるのに、六メートルの防潮堤を越えて鯨を揚げなきゃいけないということになりますので、大変なことになってくるだろう。

 そういう意味では、もっともっと地元の方の意見とすり合わせをして議論をしていただくということが非常に大事ではないのかなという気がいたします。

 そういう意味では、今、女川町長のように、議論されて防潮堤を抑えているところがかなり出てきているわけですけども、ほとんどいないところで、役に立たないようなところに防潮堤をつくっているというような例もありますので、この点について、県と国との間で、防潮堤の予算問題をめぐって、もう少し効率的に、そして地元の方たちがしっかりとその防潮堤について安心して次のプランが立てられるような、そういう仕組みをぜひともつくっていただきたい、そのように思っております。

 以上、四点申し上げまして、よろしく御配慮をお願いして、終わりにします。

 どうもありがとうございました。(拍手)

後藤田委員長 ありがとうございました。

 次に、小堀内参考人にお願いいたします。

小堀内参考人 皆さん、こんにちは。ただいま御紹介をいただきました有限会社かくりき商店専務取締役小堀内将文でございます。よろしくお願いいたします。

 先生方におかれましては、被災地の水産業の復旧復興に関する迅速な対応、そして御理解、御支援をいただきまして、この場をおかりして御礼申し上げます。また、このような場を与えていただきましたことに感謝申し上げます。

 弊社は、東日本大震災の津波により大きな被害を受けた岩手県宮古市の赤前地区で、地元水揚げの水産物を原材料に、塩イクラ、しょうゆ漬けイクラ、焼きウニ、塩ウニ、イカの一夜干しなどを製造しております。

 それでは、ただいまから、被害状況、これまでの道のり、要望、展望、四つの点についてお話しさせていただきたいと思います。

 弊社の被害状況は、敷地内にあった生産工場、倉庫、事務所は全て流失し、冷凍工場の建物の半分だけが残りました。原材料や生産資材も流失し、まさに一瞬で全てを失ってしまいました。その中でも幸いだったのは、人的被害だけはなかったことです。被災した直後から、役職員の家族も含め、一丸となって会社の再建に取り組みました。

 弊社の復興の道のりは、震災発生から約四カ月後の七月二十一日に冷凍工場を再稼働いたしましたが、例年、この時期はウニを扱うため、生産がなく、売り上げは大幅に減少いたしました。また、十月には生産工場と事務所を再建し、翌年二月には倉庫の建設、十二月には冷凍保管庫の建設をすることができました。

 震災後の新工場建設では、従来より衛生面及び品質の安定に力を入れ、高品質な商品を提供できるように努めました。

 再建に当たっては、中小企業等グループによる設備復旧整備補助事業を活用させていただきました。私が代表を務めた宮古地産ネットワークグループは、宮古市内十一者で構成されておりますが、三十代の若手経営者が中心となり、生産の分業化や販路の共有化を目標に復興計画を策定し、平成二十三年十二月に採択を受けることができました。

 震災被害を受けた弊社を含め、グループ補助金には多くの中小企業者が大変感謝しております。また、グループ補助金の採択を受けた事業者は事業復興型雇用創出助成金を受けることができることから、弊社では、新規に雇用した四名分の助成をいただいております。

 現在の被災地の水産加工業にはさまざまな課題がありますが、本日は、四点について要望をさせていただきます。

 一点目は、事業復興型雇用創出助成金の延長についてです。

 この制度は、正社員として雇用した場合に、雇用実績に応じて三年間の補助が受けられるものですが、弊社では四名が該当し、助成を受けております。この制度の申請期限がことしの八月三十一日までとなっており、九月以降に採用した場合は適用されません。被災地ではまだ全面復旧していないほかの事業所も多く、雇用情勢を考えた際にも、引き続き必要とされる制度です。今後も事業復興型雇用創出助成金を延長していただきますようお願いいたします。

 二点目は、アキサケ資源確保のための研究を進めていただきたいことです。

 岩手県の水産資源の中心はアキサケですが、アキサケは、震災以降急激に漁獲尾数が減少しているとともに、魚体の小型化が問題となっております。施設が復旧しても、アキサケ資源の減少に伴い、原材料の高騰などが経営を圧迫しております。

 このような状況を打開するためには、従来のふ化事業を見直し、さらに研究を進めていく必要があります。例えば、海中飼育である程度の大きさまで育てた稚魚を放流するなど、回帰率も上がってくるものと考えております。放流してから母川回帰するまで三年から五年かかることから考えれば、いち早く取り組んでいただきたい問題です。早急にアキサケ資源確保のための研究を進めていただきますようお願いいたします。

 三点目は、放射性物質の検査費用に対する助成制度をつくっていただきたいことです。

 福島第一原子力発電所の事故により、当地域でも、水産業にも風評被害の影響があります。

 宮古港に水揚げされる水産物は、各品目ごとに放射性物質の検査を行っております。また、取引先から要望されるため、各事業所でも放射性物質の検査を行い、データを管理しております。水産物の安全性に対する消費者への正しい情報提供は欠かすことができません。放射性物質の検査費用に対する助成制度をつくっていただきますようお願いいたします。

 四点目は、被災事業者に対する電気料金の取り扱いについてです。

 現在、被災地では、資材や人件費の高騰により、工場建設の経費が急激に上昇しています。また、急速に進む円安で、既にガソリンや小麦製品、油脂製品の値上げも始まっており、水産加工業者には、こん包資材や調味液等の値上がりが復興の大きな妨げとなっております。

 平成二十六年四月一日から消費税は現在の五%から八%になるようですが、被災地に大きな影響を及ぼすものと考えております。

 さらに、水産加工業の電力は高圧電力ですが、ことしの七月から、従来の電気料金が平均一七・七四%の値上げとなります。電気料金は最大使用時の電気使用量をベースに基本料金が設定されておりますが、水産業では、盛漁期の電気使用量と盛漁期でない時期の電気使用量は大きく異なります。被災事業者の事業継続を支援するために、電気料金の取り扱いについて特段の配慮をしてくださるようお願いいたします。

 私は、先達たちがこれまで築き上げてきた技術、物づくりの精神を受け継ぎ、そして、次の代に伝えていく義務があると考えております。また、以前から水産業の課題でもありました高齢化や後継者不足、水揚げ、生産量の低迷に関して、今回の震災で表面化したさまざまな問題や課題の解決に取り組みながら、新たな可能性を見出していきたいと思っております。

 絶えず変化する時代の中で、顧客のニーズに対応し、これまでのやり方を変えることも必要です。そして、震災以降、改めて連携の力が見直されてきており、まず地域内のパートナーが必要と考えます。

 今こそ、若手経営者が有する行動力や柔軟な発想力から生み出されるアイデアで新しい水産業のあり方と道筋を切り開いてこそ、復興からの発展につながると思います。

 具体的には、水産庁が中心となった「魚の国のしあわせ」プロジェクトの一環でもあるファストフィッシュ商品の開発を目標にし、消費者により身近な商品を開発、提供していくことです。消費量を拡大させるため、手軽においしく食べられる水産加工品を試作中です。

 水産業の復興なくして被災地域の復興はなし得ません。今後も、会社、地域が一丸となり、全力で取り組んでまいります。支援していただいた感謝の気持ちを商品として皆様にお返しできるように努めてまいります。

 以上で終わります。大変ありがとうございました。(拍手)

    〔委員長退席、土井委員長代理着席〕

土井委員長代理 ありがとうございました。

 以上で参考人の方々からの御意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

土井委員長代理 これより参考人に対する質疑を行います。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。門博文君。

門委員 自由民主党の門博文でございます。

 本日は、参考人の皆様、遠路お運びいただきまして、どうも大変ありがとうございます。本来であれば、こちらからお伺いをして皆さんの現況や現実をお伺いしなきゃいけませんけれども、いろいろお取り組みのところ、きょうはお運びいただきまして、本当にありがとうございました。

 先ほどから、いろいろと、現場のいろいろな現況、それからお困りになっております課題を聞かせていただいております。あの大震災でおうちを失ったり、家族を失ったり、仕事を失ったり、ふるさとを失った方々がたくさんいらっしゃる中で、私は、それを主語を自分に置きかえたときに、本当に自分がその苦難とか苦痛に耐えられるのかなというふうに思いながら、今皆様のお話を聞かせていただいておりました。

 私は、選挙区は和歌山県であります。皆さんのところからは随分離れたところであります。二年近くが震災後たとうとしておりますけれども、現地は復旧復興の足並みもまだまだ初動のところにあると思いますけれども、残念ながら、例えば私の和歌山のふるさとでいいますと、日々の暮らしの中で、どれほど和歌山の県民の皆さんがこの震災のことを記憶し、思い出されているのかということに対しても、大きな疑問というか、もう一度考えなきゃいけないなというふうに思っております。

 午前中、福島の皆さんのお話もお伺いをいたしまして、私、実は家に和歌山県の地図がかけてあるんですけれども、震災後間もなく、直径四十キロの円をつくって、自分の住んでいる町にトレース、落としてみました。そうすると、本当に想像を絶するような広範な地に、人が住めない、避難を強いられている、そういう地域があって、それまでは現実感がなかったんですけれども、自分の地域の距離感の中にそういうものをトレースすると、毎日、その円を見て、こういう地域にまだ現実が残っているんだなというふうなことを考えております。

 したがって、私たち被災地以外に暮らしている者が、もう一度、この復興について、特に復旧については現場でしかできないことがあると思いますけれども、復興については、先ほどお話の中にもありましたけれども、魚が関西の市場で売れなかったりとかというお話を聞きました。やはり、全国各地、ひょっとしたら国外まで含めて、いろいろな産業の振興について力を合わせていってこそ、被災地の復興があるんだというふうに強く思います。

 私は、今ここの場に立たせていただくまではずっと民間会社で仕事をしておりまして、松下幸之助さんがつくられた会社でずっとお世話になっておりました。会社の社是でいいますと、何かそういう困ったトラブルがあるときには、現場、現実、現物、三現主義といって、そこのところに何が問題があるかということを全部つぶさに確認して対策を打てということを教えられてきたんですけれども、今申し上げたように、今回は、現場、現実、現物で対応できることと、この東京でしか対応ができないこと、そしてまた、四十七都道府県全体で対応してこそこれからの復興のスピードが上がることが私はあると思います。

 その点で、皆さんに共通した質問ですけれども、今回、今お話しいただいたのは、被災地をどうするかということにスポットライトを当ててお話をいただきましたけれども、あえて被災地以外のところで、例えば関西で、例えば私のふるさと和歌山で、もしこういう試みをやってくれるんだったら、自分たちの復興の中でこういうことが助かるんだけれどもというようなことがあれば、皆さん、共通した質問であれですけれども、お答えいただけたらと思います。よろしくお願いいたします。

桑原参考人 ありがとうございます。

 私が考えるのは、復旧いたしまして、各商品がようやくできましたけれども、長い間その商品が市場に行っていなかったものですから、お客様が、もう既にその棚には別なところの商品が入っているというような状態でございます。ですから、アンテナショップ的なことをやっていただいて、我々の商品、それから被災したところの商品を皆さんにPRできるような、そういった場を設けてもらえればと私は考えております。

 以上でございます。

今野参考人 私は、今のお話に関しては、やはり、私は農業の方で来ておりますけれども、いかに一生懸命つくっているものを食べていただく機会、知っていただく機会を設けていただくかだと思うんですね。

 その部分については、私どもも、正直、こういうふうにお話しさせていただくのもなれていないのでうまく伝えられないですけれども、そういうふうに広く伝える立場のところにも出ていく。若い人も出ていって、伝えるチャンスに足を向ける。どうしても狭い、私だったら名取岩沼のところでああだこうだとやってしまうんですけれども、宮城県内いろいろなところを歩く、県外いろいろなところを歩く。今お話しいただいた和歌山にも出向いて、自分のところの食べ物を本気になってPRしていただいたり、一生懸命つくっていることを伝えることの努力がまだまだ足りないのかなと、今、水産加工の方や皆さんのお話を聞いていて、すごく勉強になるところもありました。

 やはり、日本全国の皆さんに宮城、名取岩沼のおいしいものも知っていただく努力をするように、そのつながりを皆さんにもつけていただくチャンスを与えていただければ、チャンスがあったときには一生懸命出向いて努力したいと思いましたので、よろしくお願いします。

須能参考人 私は、幾つかある中で一つだけお話しさせていただきます。

 BCP、ビジネス・コンティニュイティー・プランといいまして、被災を受けた場合、即座に仕事ができるような関係性をつくりなさいというのが民間企業にあります。そうじゃなくて、自治体におけるBCPをぜひ先生方の協力でやっていただきたいと思います。

 それは、例えば我が石巻市であれば、石巻市に非常に近寄った町の、西日本の何カ所か、全国何カ所かの町同士の連携をつくりまして、そこから若手の職員を派遣していただく。そして、その欠員にはその地区の公務員のOBに当たってもらって、できれば若い人が被災地に来ていただく。実際には、被災地に年配の人が来てやってもらっても、短期間でいた場合に仕事が頼みづらい。そうすると、結局、たばこを吸って帰ってしまうような不満が残ってしまう。やはりコピーをとってもらうことから始まるんですね。それが交流になり、その結果、地元に帰った場合の、被災地の事情を覚える。

 そういう意味で、ビジネス・コンティニュー・プランというものを、自治体間の調整を、衆議院、参議院の国会の先生方のネットワークで、ぜひそういうことを推進していただきたいと思います。

 以上です。

    〔土井委員長代理退席、委員長着席〕

須田参考人 行政的なマンパワーということで先ほどもちょっとお話ししましたが、実際、多く今いただいております、他自治体よりはちょっと少ないですね、三十名弱ほど。これは復興庁もあれば、あるいは他府県の外郭団体の場合もあります。もちろん、自治体から派遣いただいている場合もございます。

 極めて激務ではありますが、同時に、来ていただければ間違いなく何かを得て帰っていただけるような、今の被災自治体それぞれ、これは女川だけじゃないんですけれども、そのような場に必ずできるとも思っておりますし、これまで派遣で来ていただいた方も、また何かの力になりたいといつも言っていただいていまして、本当にありがたくもあり、また頭の下がる思いなんです。

 今後どこの自治体でも起こり得ることでありますし、今が、ある意味極限の、新しく物をつくっていく上で一番ピークの大変なときでございますので、いい経験にもなるはずですから、ぜひひとつお声がけもいただきたいと思います。

 これは自治体だけじゃなくて、実は民間事業者さんですとか団体の方も一緒なんですね。新しい取り組みをやっていく、先ほど来いろいろな議論はありますけれども、ではそれをどうコーディネートしてやっていくのか。販路をつくるにしても何にしても、新しい知恵をどう入れていくか、非常に大切な部分でもございます。ぜひ、そういった投資あるいは連携という部分でも、来ていただきたいというふうに思います。

 あとは、何よりもまず一回来ていただく、これに尽きるんじゃないかなというふうに思います。

綱島参考人 御意見ありがとうございました。

 私としては、とにかく被災者が一日も早く復旧すること、これが、ある面では日本の国の安心につながっていくのではないか。あれだけの大きな、経験したことのないような地震、津波の中で地元被災者が立ち上がったという事実が、何よりも日本国全体の励みになっていくのではないか。私たちはそういう気持ちで国にお願いしたり、我々独自でも運動したりしております。そういう点が非常に大事じゃないかというふうに思っています。

 それからもう一つ、被災の中で社会的弱者の方の被害が比較的多かったということがあります。

 NHKで行動調査をやったときに、だあっと逃げていく方もいるけれども、戻る方がある。あれは、ほとんどの方が、自宅にいるおじいちゃん、おばあちゃん、または寝たきりの人とか、そういうところに気になって戻っている。それでもろとも被災を受けているということで、やはり社会的弱者の方が災害に対してどう安全に対応できるかということを、一つの国の防災のバロメーターとしてぜひともつくっていただいて、そこを合わせれば、足の元気な人は逃げていけるわけですから、そういうことを早急に議論していただくことが必要ではないかというふうに思っています。

 それから、今、特に商店街の方たちは被災地でもって仮設の商店街をつくりますけれども、やはり、土日については頑張りますけれども、ふだんは人が住んでいないところですから非常に難しい。でも、それにもめげず頑張っています。

 そのことは、先ほど女川町長さんも言われましたけれども、いろいろな方が被災地を訪ねてきていただいて、そして一緒になって励ましていただく、物を買い物していただくというようなことが非常に復興の励みになってくる。これは見せ物じゃないんだという意見の方もいらっしゃいますし、いや、そうじゃないんだ、交流を深めることによって我々自身が復興の力になろうということで頑張っている方も多いので、ぜひともそれもやっていただければと。

 以上、三点です。

小堀内参考人 私からは、被災した企業が復興からの発展へつながる場合、やはりつくったものが売れなければだめだと思うんです。そして、食文化の違いもあるでしょうけれども、例えば呼んでいただいて商談会だったり展示会だったりするようなものをして、新たなマーケットを見出していって、もっともっと今まで知らなかった部分を知ってもらうということが必要かと思います。

門委員 ありがとうございました。

 今お聞きさせていただいたこと、小さな取り組みかもわかりませんけれども、参考にさせていただいて、私もぜひ、自分の選挙区だったり自分のふるさとで何かできないかなということで取り組みをさせていただきたいと思います。

 それから、今、須能さんからお話をいただきましたBCP。これは、私も、自治体の防災協定とかということだけでなくて、平時のときからいろいろな交流をしておいて、地理もわかっているし地名もわかっている、ここにはどんな産業があるということを自然体でお互い交流をして、いざとなったらそういう役立てるようなものを全国、東西で一つずつなのか、三つぐらいやるのもいいかもわかりませんけれども、そういうことも大切なことだと思っておりますので、ぜひその意見も参考にさせていただきたいと思います。

 時間が余りありませんけれども、最後に女川町長にお伺いしたいんです。

 復興もまだまだこれからというときにこういう質問をさせていただくのもあれなんですが、今度日本は南海トラフでまた巨大な地震が起こるとか、首都直下型の巨大な地震が起こるとかということを今我々は目の前にしております。いつ起こるかわかりませんけれども、酷な質問かもわかりませんが、三・一一の一年前ぐらいまでもしカレンダーを戻せていたとしたら、何をやっておいたらもう少しましに、スピードアップして復興できたか、その点、もしあればお伺いしたいと思います。

須田参考人 二つ三つございまして、震災後の経験を通じて思ったことでいうならば、まず一つ目は、仮設住宅。これから何かあったときに、今、六、九、十二坪です、これをせめて三坪ずつでいいから広げていただきたいというふうに思います。

 厳密な人数割りでいうと、自治体によって実は違うんですが、うちはルールどおりにせざるを得ませんでした。宅地というか、建設する場所も限られていれば、場所が限られているゆえに数も限られた。九坪の中に大人四名が今いらっしゃるところもあるんですね、年配の御夫婦と息子さん夫婦とか。相当つらい状況です。

 仮設とはいいながらも、被害状況が甚大なだけに、やはり複数年かかってしまう。三坪ずつでいいので、ぜひ大きくしていただければ、これから起きたときに、もうちょっと頑張っていただけるのではないかというふうに思います。

 今、いろいろこれからのことで心配されているところがございます。特に黒潮町なんかも相当高いシミュレーションが出たということで、まず命の部分でいうと、例えば避難タワーだとかあるいは避難道の整備ということがあろうかと思いますが、何か来たときにリスタートするためにどうするか。

 今、我々が苦労しているのは、移転場所の用地です。それは用地を見つけることもそうですが、権利者の調整。相続をしていない、地区が共有、百世帯が共有で持っている、明治時代から一切相続されていない。この手続だけでもとんでもないことなんですね。

 何かあった際に早く走り出せるように、津波被害と高台移転ということだけに関して言いますと、今、高台移転しろと言ったって無理だと思うんです、被災されていない状況で。個人の財産もあれば、さまざまな問題があります。ですから、もし万が一あった際の移転先になるようなところについて、用地だけでもとりあえず押さえておくということができるのであれば、すぐに伐採、造成とスタートしていけますので、一年後には宅地の供給とかも可能になってくるのではないかなというふうに思うんですね。

 これだけではないんですけれども、いろいろな、事前にこういうのがあればというのがございましたので、今、代表的に二つだけ申し上げさせていただきましたが、今後、折に触れて、我々もメッセージとしてそういうものを出していければというふうに存じます。

 以上です。

門委員 貴重な御意見をありがとうございました。

 私の時間がもう参りましたので、これで質問を終わらせていただきます。今後ともまたよろしくお願いいたします。

 ありがとうございました。

後藤田委員長 次に、郡和子君。

郡委員 民主党の郡和子でございます。

 きょうは、それぞれの皆様方から、この間、発災から二年二カ月になりますけれども、言葉で尽くせない御苦労を重ねて、そして一つ一つ乗り越えられている、そしてまた新たに見えてきた課題などについて大変貴重なお話をいただいたと思っております。改めて私からも感謝を申し上げたいと思います。

 まずは、津波で甚大な被害を受けた被災地の企業の立場できょうは参考人何人かに御発言をいただいたわけですけれども、それぞれ、これまで投資したさまざまな資産が全部流失してしまって、再投資が必要になって、そのための資金ニーズが高まったわけであります。そのことがまた債務超過に陥ることになったり、また、事業再建の計画策定が進まずに、新たな資金調達に苦慮されているというような状況もあるんだろうと思います。

 東日本大震災事業者再生支援機構の活用促進を図るとともに、新たな企業者に対する資金調達、また遊休資産の活用に向けた取り組みが重要だというふうに私自身も認識をしております。

 言うまでもなく、被災地の再生というのは、企業が再生をするということが重要な柱の一つでありまして、これまでは、企業の皆さんたちに事業を継続していただくために何ができるか、また再開を支援するために何ができるかということで、グループ化補助金の創設ですとか、それからまた金融対策などを実施してきたわけであります。

 しかし、今後は、今お話にありましたように、企業の事業展開ですとか、それからまた産業インフラの整備、具体的には、企業立地を促進するための支援ですとか工業用地の確保、また販路拡大、販路開拓などが重要な支援の柱になってくるんだと思います。そのための支援というのが政府としても重要な、そういうフェーズに移ってきたという認識です。

 まずは、桑原参考人に、先ほども商工会議所レベルでいろいろな取り組みをなさっているということも伺わせていただきましたけれども、政府、国として、復興庁が中心になってさまざまなマッチングですとか、あるいは経産省が中心になって販路拡大のさまざまなスキームをつくっているわけですけれども、これがどこまで周知されているのかどうかということについて伺わせていただきたいと思いますが、いかがでしょう。

桑原参考人 おかげさまで、国からのいろいろな補助に関しましては感謝を申し上げます。

 実際的に、今企業を見ていますと、それが果たしてうまく使われているかどうかという件に関しましては、なかなかうまく使われていないのではないかなと私の方では思っております。

 それはなぜかといいますと、要は、この二年数カ月の間に、やはりお客様の考え方や生活レベルがいろいろ変わってきたということで、今までの産業をそのまま復興させても、なかなか買っていただけない。プラスアルファで企業を持っていかなくてはいけないということであります。ですから、今まで持っていた復旧復興だけではなく、プラスアルファで何かを取り入れなければ、お客様にも買っていただけない。そういったためには、それを考えていくための費用が非常にかかってくるということでございます。

 ですから、それに向けて、政府の方もそういったプラスアルファの部分を考えてもらえればな、このように考えております。

 以上でございます。ありがとうございました。

郡委員 ありがとうございます。

 新事業の展開のための研究開発みたいなものもやはり応援する必要があるんだろうというふうに思います。

 次に、須能参考人にお尋ねをしたいと思います。

 雇用の問題を含めて、熟練職員の不足と回帰促進策、それからまた人材教育ということについても言及されました。

 今、日本国内には、水産、海洋関係の高等学校が四十六ですか、あるということで、しかし、文科省のカリキュラム上の人材育成と、それから実際に現場で欲しい人材の状況がうまくかみ合っていないんじゃないかというようなこともお考えだというふうに伺わせていただいております。

 これをどんな形でうまく人材を育成できるのかどうかということも、もしお考えがあればお聞かせいただきたいと思うんですが、いかがでしょう。

須能参考人 ありがとうございます。

 私は、宮城県の水産高校と石巻北高校という農業高校、二つの高校の評議員をもう十年以上やっております。そういう中で、出前授業も行っておりますけれども、やはり先生方は、教育のカリキュラム、文科省の指揮下のもとでは、実業高校の実態を全く知らないわけじゃありませんけれども、しゃくし定規の話になります。

 たまたま、宮城県の小林教育長が石巻の振興事務所の所長をやっていた関係で、私は個人的に親しくしていたものですから、直接教育委員会に出向いてお話をしましたけれども、やはり弾力的な運用がとれないと。

 そういう意味で、今、文科省にも宮城水産高校の先生が専門官として一人来ていますけれども、まだまだ門戸開放されていないわけですね。もっと実業高校というのは、本来のあるべき姿、もともとこの一次産業、自然産業に学ぶためには、汗をかくことに喜びを感じ、そして学問的な興味が起きて初めて座学が必要になる。その辺が、最初から嫌いな座学中心の授業をやるからだめなんですね。そういうような実態を見ていない。そういうことを言って、私は、文科省と農林省なり水産庁、そういうところがもうちょっと相互の意見交換をする、そのためには地元の産業界の人間がもっと参加すべきだと思います。

 そういうことで、常日ごろから、出前授業なり、それから小中学校も含めまして、やはり現場の人間の話を入れるようにして、先生が架空の話をするよりも、地元の実業者を使うということが地元の産業の意味合いが本当にわかるのではないかな、このように思いますので、特に被災三県の沿岸部における、そういうような子供たちを新しくつくることを進めていただきたいと思います。

郡委員 新しい東北をつくっていく上でも、復興の担い手になる子供たちの教育、人材養成というんでしょうか、そういうことも重要な視点だということも改めて認識をさせていただきました。ありがとうございます。

 それから、小堀内参考人には、先ほど、復興型雇用創出助成金の延長ということについての要請がありましたけれども、この助成金の成り立ちというのは、被災をされて失業した方を雇った企業に対してその人件費の分を助成していくという、つまり、被災をして仕事をなくした方を雇っていただいた企業にということだったと思います。

 そろそろ、被災して失業した方々も、失業保険ももう切れてしまっていますから、ぼちぼちいなくなるのではないかということもあって、そういう期間の限定になったのやもしれませんが、これは、これから先もやはり必要だという御認識でいらっしゃいましょうか。

小堀内参考人 やはり、これから先も必要とされる制度だと思っております。

 条件変更もあると思いますが、被災された方以外の方の対応もぜひよろしくお願いします。

郡委員 ありがとうございます。

 これは、多分、被災をされた人たちの雇用対策だけでなくて、産業の再生にも資するということでつくられた制度であるはずですので、今いただいたお話についても参考にさせていただきたいというふうに思います。

 それから、さらにアキサケの稚魚のふ化事業についても言及をされました。

 水産ということで考えますと海の方にばかり目が行きがちですけれども、実は、稚魚は山でつくられるということもあって、私も視察に伺ったことがあるんですけれども、山でサケのふ化事業をされている方々も大変苦慮されておられました。また、風評被害にも遭って大変だという状況も聞かせていただいたところです。

 先ほどは、新たなふ化場をつくるための何か応援をというお話だったかと思いますけれども、その点、ちょっと詳しく教えていただけますでしょうか。

小堀内参考人 私の地元の宮古の津軽石というところにサケのふ化事業をする場所がありまして、津軽石川といいます。本州では一番のふ化事業を行う施設であります。

 それで、ふ化した稚魚を放流する際に、本当に小さい状態で川から放流するんですけれども、外洋に出るまでに鳥に食べられたり生態系の中で食べられる。本当にどのぐらいの数が外洋に出ていって回帰してくるかという観点においては、やはりある程度体力をつけるまでの大きさにして、そして回帰率を高めていく必要もあるのではないかと自分なりには思っております。

郡委員 なるほど、わかりました。ありがとうございます。

 時間が余りないので、最後に、土地問題について、何人かの参考人の方々に質問させていただきたいというふうに思います。

 被災地では、震災前から人口減少、高齢化などの課題を抱えた地域が多くて、しかも、生活、生業の基盤を失って町を離れる人たちも多くて、ちょうど女川町では、須田町長がリーダーシップを発揮してくださって、町から出ていく人たちを少なくするように、またふるさとに戻ってきていただけるようにということで、住宅再建についても独自に大変すばらしい支援制度をおつくりになられたというふうに思っているところです。

 しかしながら、住宅を新しくつくっていく上でも、先ほどお話しになられたように、土地の権利調整というのは大変難しい課題が山積をしている、とりわけ商業地では買い上げる方策がまだシステムとしてないんだというお話、それから、虫食いになったところをどういうふうに整備していっていいのか、非常に難しい問題と直面をしているという率直な御意見だったと思います。

 これは女川町だけの問題じゃなくて、被災した自治体はどこも同じ課題を抱えるんだというふうに思います。どこかに残ってしまっている土地を移動したりして集積できる地域をつくれないかどうかということも含めて、大きな課題なんだと思っていますが、その辺、少し詳しく、余り時間がないので端的にお話しいただければと思います。

須田参考人 端的に。

 土地の関係で、土地を購入できる、買い上げできるのは三つなんですね。まずは、防集での宅地あるいは解体宅地。津波復興拠点、これは収用も使います。ただし、それなりにハードルは高いわけですね。あと、もう一方で面積が限られています。あとは、区画整理を導入した地域において緊防空事業で買えるということでございまして、区画整理事業を導入していないところは、うちは全体に網をかけましたから、いろいろやらせていただきましたが、かけられない、あるいはかけないというところでは実は防集関係でしか買えないということで、非常にここは大変だろうというふうに存じます。

 買えた場合にしても、やはり先ほどの抵当の問題ですとか、あるいは筆界未定、相続、その他いろいろあるんですね。どうしてもこれは土地所有者の方に解決していただかなくてはならない側面もあるわけでございますけれども、先般、法務省ですか、民法を活用してというような……(郡委員「財産管理人制度」と呼ぶ)管理人制度ですね、所有者不明の土地についてはそういう手法ということでございましたが。

 今三つほど言いました、抵当関係、筆界未定、あとは相続、こういったところまでぜひ対象を一定程度、可能な範囲というのは限られるかもしれませんが、広げて対応いただけるようになりますと、いろいろな部分がスムーズに進んでいくように各自治体なっていくのではないかなというふうに思いますので、何らかの手段、手だてということを御検討いただければというふうに存じます。

郡委員 須田町長、申しわけありません、もう一言だけお尋ねします。

 地権者が不明な土地がある、これは財産管理人制度、先ほどお話しになったように、新たに対応しようという、まあ、これまである制度を活用してくださいというお願いベースでしか実はないと思っておりますけれども、女川の場合、どれぐらいあるというふうに想定されていますでしょうか。

須田参考人 区画整理区域内で大体二千、地権者さんでいうともっと関係者はふえますが、二千ぐらいありました。各種事業を使わせていただいて、八百ぐらいまで地権者数は減りましたので、かなり大きい区画整理規模なので関係省庁からも心配をいただいておったんですが、かなり関係者の調整はできてきたかなと思っております。

 ただ、その中でもやはり三十ほど、電話にしても面談にしても郵送にしても、とにかくどうしても連絡がつかない方々というのはおられます。区画整理の中で、仮換地指定のときにしかるべき対応ということもあるのかもしれませんけれども、それだけで対応できないものも多分当然あるわけですね。あとは、どうしても買わせていただかなければならない土地というところも、中には区画整理以外の部分でも出てこようかというふうに思います。

 そういった現状を抱える中でこれから進めていかなければなりませんので、何らかのさらなる踏み込んだ施策というのを出していただければ大変ありがたいと存じます。

郡委員 ありがとうございます。

 まだまだお尋ねしたいことはありましたけれども、時間になってしまいました。お話を伺えなかった参考人の皆様には申しわけなく思います。

 きょうは本当にありがとうございました。

後藤田委員長 次に、小熊慎司君。

小熊委員 日本維新の会の小熊慎司です。

 まず、参考人の皆様には、本当にお忙しい中、ありがとうございます。また、それぞれのお立場で復興に向けて御尽力されていることに感謝を申し上げます。

 まず、須田参考人、同じ県議出身で、十年来のつながりであります。また、復興に今大変御努力をされて、県議時代に送っていただいたホヤも本当においしくて、私は山国会津ですから、ホヤってこんなにおいしかったのかと感動を覚えた次第であります。こう言ったからといって、後で送らなくても結構です、ちゃんと買いに行きますので。

 今、須田参考人がおっしゃられたとおり、率でいえば最大の被災地。ことしに入って三県の人口の増減の状況が発表されて、私の福島県はかなり人口が流出をしているというところで、宮城県は、市町村単位でいえば仙台に寄っちゃっていて、岩手においては盛岡周辺に行ってしまっている。宮城県の中でも減少率が一番高い女川町、さらには、移転をしなければならない方の町外移転を望んでいる率も女川が最大というふうになっています。

 これは、大規模災害、特に、都市部ではなくて人口の少ない地域で起きた場合は、過去の例を見れば、過疎が進行したりとか人口が流出するというのはこれまでもあった。山古志村とか奥尻もそうですけれども、ありました。この間、では政治がそれに決定的な対応がとれてきたかといえば、とれていないというのが現状でありますし、平時においても、過疎問題というのはなかなか決定打が打ち出せていないというのが日本の政治の現状でもあります。

 この災害を受けて、さらにこうした人口流出が加速される状況において、須田町長におかれては、どういったことがあればこれに対応できるんだ、そうした御意見、御所見をお持ちでしたら、お願いいたします。

須田参考人 まず、人口流出ということについて言いますと、先ほど、我が町の土地利用を含めた復興の事業のお話をさせていただきましたが、そのときも申し上げたんですが、時間がかかるんですね。用地がない。基本的に、山を切る、それで、その残土を使って盛っていくということをして土地を形成していかないと、今の現行制度を活用する中では宅地がどうしてもできないということがございます。

 これが他自治体ですと、例えば休耕田があったり、あるいは何かしらの広い用地があって、そこに集団移転ですとか、あるいは仮の何らかの設備ということができるんですが、我が町においては、少なくとも浸水区域ではそれもできませんでしたので、全て造成があって初めて成り立つ。ですから、時間がどうしてもかかってしまうわけです。

 我が町から転出をされた世帯の大体八割強が石巻市に移転されているんですね。ただ、石巻市自体が一万人以上減っているという現実があるわけでございます。

 では、これに対して何らかの対策をということもあるんですが、その前に、一つ前提として、やはり、とめることもできない部分もあるわけです。

 十二月に説明会をやった後だったと思いますが、そのときは災害危険区域と防集の説明をさせていただきまして、いつからやるんだと御夫婦に言われたんですね。二月からですと。奥様が、ごめんね町長さん、うちは引っ越すんだ、ばあさん、まだ帰ってこねえんだ、見つかってねえんだ、いるのがつらい、このお話を直接いただきました。それはしようがないじゃないですか、本当にこれまでお世話さんですというお話を申し上げましたけれども、雇用、就労、子供、親御さん、いろいろな、メンタルの部分も含めて、さまざまあるんですね。

 そういう皆さんを含めて、生活再建を一日も早く実現していただくことがまず、女川町だとか石巻市だとかという枠を取っ払った行政の本質だと思うので、それはしっかり、やはり送り出してあげなくてはならないんだろうと思います。

 一方で、先ほど郡委員の方からお話がございましたけれども、定住支援ということで、建てかえまで含めて、一律、定額の助成をさせていただくことにいたしております。これからここで頑張る人、将来ここで頑張ってくれる方、そういう方に対しての支援ということをやってまいりますけれども、これだけで、当然、金銭的なものだけで解決することではありません。いかに復興ということを通じて将来に残し得る魅力的な町をもう一度つくり上げられるか、そこが全てだろうというふうに思っています。

 町域のほとんどがやられておりますので、我が町におきましては、復興というのは新都市建設とほぼ同義なんですね。千年に一度の町づくりだとよく言わせていただいておるんですけれども、それぐらいの思いをみんなでかけて、また力を合わせてそれを実現していく、これしかないんだろう。ちょっと精神論的な部分ですけれども、やはり、そういうようなものを築いてこそ、大勢の方から支援いただいたことに報いることにもなりますし、将来につないでいける、我が町を再生できるのではないかというふうに思っています。

小熊委員 まさにこれは、災害復旧復興という側面と、ある意味、過疎対策ということを考えれば、須田町長の行政手腕、政治手腕、私も信頼、心服しておるところでもありますので、ある意味では全国の過疎問題の対策の先進地となれるように、これからも御努力をしていただきたいと思いますし、その段階で、国政の場でやらなければならない点があれば、いろいろ御指導を賜りたいというふうに思っております。

 次に、福島県の東電の原発事故によって風評被害が、これは県内にとどまっておりません。やっと原子力損害賠償紛争審査会が枠を広げました。宮城県の牛肉しかなかったものが、農林水産物にも拡大をされたところであります。

 そこで、今野参考人、須能参考人、小堀内参考人に、宮城、岩手での風評被害の状況と、これは損害賠償ですから補償なんですけれども、対策にはなっていないんですね。私の地元の福島県内、これは会津も含めて、風評被害、非常に大きな影響があって、へこんだ分を補償してもらうのはいいんですけれども、改善策にはなっていないわけなんですね。

 そうした観点から、風評被害に関して、これは賠償してもらうのはいいんですけれども、今後の対策も含めてどのようにお考えか、三人の参考人からお願いいたします。

今野参考人 私の方からなんですけれども、風評被害については、私のところの名取岩沼では、直接的な被害というのは、余り数字的にあらわされている被害はないんですね。

 ただ、私もたまたま、先ほど参考に聞かせていただいていたものですから、その中であったのは、聞いていて勉強になったのは、やはり放射能に対する正確なお知らせというか、消費者の人に対しての、勉強することに対して、病院の先生かなんかが発表されていたのは大変参考になったんですけれども、正確なところを伝えて、こつこつと、安全なんだということを消費者の人に伝えていただくことが生産者の立場としては物すごく大事なことだとは思われます。

 やはり、生産者の人が気をつければ改善されることですとか、こうすればいいんだということもどんどん積極的に、行政の立場から指導されていることも、こちらも素直に聞き入れる、その体制。

 あとは、ばんばん積極的に話し合うというか、勉強し合う立場というのがなかなか難しいと思うんですよね。私ら末端の生産者の立場の者からすると、先生方とか上司の方とか、いろいろ挟まって話をするようになるので、現場の声はどうしても届きにくいので、こうするといいんだという声を早く、タイムリーに聞き入れて、早く売れる方、いいものをつくったらよくなる方に早く特化してやりたいはずなんですよ。

 そこを、ちゃんとしたものを伝える機会をどんどん積極的に勉強して広めていっていただきたいのと、私たちにも、こうすれば助かるんだよという道をどんどん指し示していただいて、私たちは積極的にそれに向かって頑張っていくという姿で、早く消費者の人に誠意と熱意を伝える、つないでいただくというのをお願いしたいと思います。

須能参考人 このたび、宮城県が風評被害の対応の地になりましたけれども、以前、五百ベクレルのときには、我々、宮城県の産地魚市場協会、流通対策協議会で、五百ベクレルであれば安全なので風評地に指定してほしくないということを我々民間から伝えて、外してもらいました。ところが、東電側はそれを逆手にとりまして、風評被害がないんだということで国の方に説明し、このたびなったんですけれども、この五百ベクレルを百ベクレルにしたのが一番の大きな問題です。

 それから、五百ベクレルから百に変えたために、我々石巻では、今五百万円の機械を五台用意しまして、朝の四時から、大体販売は六時半から行いますので、十五種類の魚種の測定結果を公表しております。

 さらに、現在、東北大学と共同開発しまして、魚をミンチにしないで、そのまま、ホールサンプルで測定でき、できれば一時間に千匹ぐらいのスピードでコンベヤーで測定する機械をこの連休明けからテストする段階にあります。そういうことで、我々は、少なくてもできる限りのことを行政と一緒になってやっております。

 そういうことで、やりますけれども、もっとこの百ベクレルという問題について真摯に考えていただきたいと思います。

 以上です。

小堀内参考人 宮古の関西圏に対する売り上げに関しても、皆さん落ちていますし、弊社の場合ですと、震災前と震災後ですと、約二割ダウンぐらいの数字になっていまして、本当に数字でわかるぐらいの風評被害になっています。

 でも、安全な数値だからこそ、情報の共有化だったり周知徹底を図ってもらい、そして、消費者の方々に適正な情報力、そして理解力を持ってもらう中で消費力を増していくほかはないと考えております。

小熊委員 なかなかこれは難しくて、特に福島県はひどいものですから、情報は出ている方で、検査もちゃんとしているんですけれども、理解を得られない。やはり東北、東日本、また西日本との状況が違うというのもありますし、きょうは宮城県の皆さんが多いのであれですけれども、例えば、私の会津のところには、観光客は戻ってきていますけれども、宮城県の修学旅行生はほとんど戻ってきていないというのも現状でありますので、これは風評どころか風化という課題にも、応援が少なくなってきているということもありますから、これはしっかり三県連携をして、風化にも立ち向かっていく。

 明治戊辰以来、白河以北百文の扱いの東北を、今ここで、この原発災害によってまた起こしてはならないという意味では、これからもぜひ御指導賜りながら、しっかりと取り組んでいきますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

 きょうは、どうもありがとうございました。

後藤田委員長 次に、中野洋昌君。

中野委員 公明党の中野洋昌でございます。

 昨年十二月に初当選をした新人でございます。兵庫八区、尼崎市の選出でございます。どうかよろしくお願いいたします。

 参考人の皆様には、本日は、大変遠いところからお越しをいただきまして、それぞれの地域の現状、また思いを伺わせていただきました。心より感謝を申し上げます。

 私は、選挙区は関西、兵庫県ではございますけれども、もともと仕事は、国土交通省で職員をしておりました。発災の当初から震災の復興の仕事に携わらせていただきましたし、また当選前からも被災地に足を運ばせていただきました。宮城にも岩手にも足を運ばせていただきました。

 そんな中で、さまざまな方のお話を伺いまして、本当に今回の震災で、多くのとうとい命、また、本当に多くの財産、また、ふるさと、かけがえのないものが多く失われた中で、それでも被災地の方は前を向いて、復興に向けて頑張っていこうというふうに取り組まれている、そのお姿に本当に頭の下がる思いでございます。心から敬意を表するものでございます。

 さて、幾つか質問をさせていただきたいんですけれども、まず、今回の災害で特に大きな打撃を受けた産業として、やはり漁業、あるいは水産加工業、こういったものが大きな打撃を受けました。今回、その関係の方が来られておりますので、桑原会頭、そして須能社長、また小堀内取締役にお伺いをしたいと思うんです。

 先ほどお話を聞いている中でも、やはりもともといろいろな地域の抱える課題、少子高齢化であったり、あるいは担い手の不足であったり、あるいは売り上げの減少であったり、さまざまな課題を抱えていた中で、今回の復興、それに取り組む中で、そういった課題がまた顕在化をするという状況になっているというふうなお話も伺いました。やはり、漁業あるいは水産加工業に関しましては、そういった売り上げの低迷であるとか、あるいはなかなか後継者の方がいないとか、そういった問題もあるというふうに思います。

 そんな中で、今回の、単に復旧をするだけではなくて、復興、より高い次元で乗り越えていこう、例えば、単に捕獲をするだけではなくて、水産加工や販売まで入れて六次産業化するであるとか、あるいは収益性を上げるような取り組みをもっとやっていこうであるとか、さまざまなそういった支援、あるいは国のそういう考えというものも出させていただいているわけではございますけれども、実際に現場で復興に携わられる中で、実態としては現状どうなっているのか、あるいは、もしもっとそういう取り組みに向けて国の支援が必要だということであれば、どういった支援が必要なのか、お三方に伺いたいというふうに思います。

桑原参考人 まず、さっきもちょっと同じような話をいたしましたけれども、例えば水産業の共同利用施設復興整備事業補助金というのが出ておりますが、これは枠を超えたような形でやっていただいております。このように、枠を超えた形でいろいろ考えていただかないと、なかなか復興につながっていかないという問題があります。二次産業から三次産業、そしてまた四次産業というものもございます。そういったところも全部踏まえて、一つに考えていただきたいということが一つ。

 それと、こういった交付金の問題なんですけれども、非常に期間が短過ぎるという欠点がございます。いろいろなことをするに当たっては、いいものをつくり上げたいということで皆さんでいろいろ考えておりますので、どうしても、その期間が短過ぎるとなかなかそれに見合ったものができ上がらないということがございます。ですから、こういった交付金にしても時間を頂戴したいということをお願いしたいと思います。

 以上でございます。

須能参考人 今回の震災において漁船がかなり被災を受けましたけれども、あの当時、三月十一日は金曜日でして、十トン以上の船はほとんど操業しておりました。そういうことで、十トン以上の船の被災というのは非常に少ないんです。ほとんど沿岸の、先ほど言いました、漁村にいる船、養殖業や沿岸漁業をやる小型船が九九%被災を受けたんです。ただ、シンボリックに、三百トンぐらいのマグロ船とか運搬船が春のドックにいたり、そういうものが映像としては非常に大きく映るものですから、大型船を含めてみんな被災をしたのかと勘違いしております。実際は、漁業現場は、漁村の小さな船であります。

 それから、水揚げする漁港が全部壊滅的な打撃を受け、それを加工する加工業界がだめになりました。そういうことでミスマッチが起きたということが大きな状況です。

 例えば、石巻の例をとりますと、石巻魚市場は六百五十四メーターの水揚げ場があったんですが、これが影形なくなってしまいました。その裏にありました背後地の加工団地、二百社がありましたけれども、その建物は全部壊滅です。

 津波が、十メーターが岸壁寄りして、一キロの山奥で大体三メーター。時速四十キロの波が押し寄せることで、津波というものは波なんです。皆さんは、どんぶらこどんぶらこというような、下から上がってくる波のようなイメージで何メーターの高さが来たと言うんですけれども、実際はそうじゃなくて、波の筒が突っ込んでくるんです。

 ですから、新しい建物は、形は残るけれども、中は、洗濯機の中の渦のように中のものを全部壊していきます。一階建ての建物は全部壊れます。民家も、二階建ての新しい建物は、二階にいて助かりましたけれども、一階家の家は全部押し潰されて、それで死んでしまった、あるいは道路にいた車も、それで亡くなってしまった、そういうような被災の状況なんですね。

 先ほども言いましたけれども、六次産業化は、実際は無理なんです。要するに、今言うように、六次産業化で浮かばれる人は、生産する一次業界が浮かばれなければ、最終の量販店や販売者が使うようなことではだめなんです。末端の価格が最初に決まってしまって、納入価格が決まってしまって、そのしわ寄せが魚価に行っているんです。

 そうじゃなくて、魚価において、未利用資源なり付加価値の出ないものを、地元の年寄りが田舎料理でも何でもつくって、それを量販店の片隅なり道の駅で販売することによって、ぼけ防止になるわけです。ですから、経済的な効率じゃなくて、皆さん、それぞれの人が働けるようにするのが六次産業の本来の目的と置かなきゃいけないと思います。

 石巻の場合は、今回、新しい市場をつくりますけれども、今、日本のマーケットは少子化でどんどん縮小化していますね。そういうことで、国際水産都市石巻を目指すということで、海外向けに輸出を狙って今やっております。そのために、海外向けに売り込みに行くようなミッションを今考えております。

 そういうときに、先ほど言いましたように、五省庁四十事業の中には、経済産業省、要するに、ビジネス、商売のセンスが入っていないんです。そういうものをもっと弾力的にやれるように、事業についての、事業の中身を書いていますけれども、それを、つくった言葉にこだわらずに、それぞれが無駄に使わないように、最大限可能な限り使えるようなことにしてもらって、やはり知恵を出す。石巻の場合は、大いに団結を図りながら、皆さんの知恵でこの難局を突破していきたい、このように考えております。

 以上です。

小堀内参考人 今、地元の宮古では、異業種も含めて、若手経営者の会というものを、金融機関が中心になって行っているものもありまして、その中で、ビジネスマッチングだったり、今までにない販路を模索中です。さまざまな流れのあることから考えて、そして、水産物は、盛漁期に莫大に仕入れ資金、つなぎ資金と言われるものが必要になりまして、支払い利息だけでも本当にすごい金額になるわけですが、この支払い利息等の、利子補給制度等で補充してもらいながら生産につなげていくということで考えております。

中野委員 済みません、貴重な現場の御意見をいただきまして、ありがとうございました。

 またそういういろいろな御意見を踏まえて、これからの支援というものをしっかり加速化させていきたいと考えております。

 さて、漁業のお話をいたしましたけれども、やはり農業についても同じことが言えるのではないかなと。やはり、単に復旧をするだけではなくて、より前向きに、前に進んでいく取り組みを後押ししていきたいという思いでございます。

 今野委員長にお伺いをしたいんですけれども、先ほどのお話の中でも、被災地域農業復興総合支援事業、機械や施設のリースの事業について触れられました。やはり法人化であるとか面積であるとか、要件が非常に厳しいというか、なかなかできないような部分もあるというふうなお話だったかというふうに伺いましたけれども、これはどこに問題があるのか。やはりなかなか時間がなくて、今これをやれと言われるとなかなかできないという時間軸の問題であるのか、また、そもそも要件としてなかなか難しいものがあるのか、実態としてはどういうところなのか、ぜひ今野委員長に聞かせていただければというふうに思います。

今野参考人 それについてなんですけれども、いろいろ問題点は、挙げるとあると思うんです。

 震災前から、大型化して、担い手を育成して、コスト削減してつくろうという狙いはあったかと思うんですけれども、それを今度、区画整理するのにも、その条件として、担い手育成だけでなく、法人化した、そのハードルというのは、細かいハードルは各行政で決めているようなところもあるかと思うんですけれども、指導されたときに、やはり今おっしゃられたような、すぐに決めてやらないとだめだったこともあるかと思うんです。

 その中で、今度、要望を出したときに聞き入れていただける部分があるのであれば、実際、何でかんで法人化してやれるところというと、私らの方だと限られるんですね。その中で、法人化していなくても、個人で請け負って、担い手として頑張っていた人も、大部分はそういう方が多いんです。その方が、では実際やろうとしても、今、やろうとしているその田んぼがまだでき上がっていないんですよね。でき上がっていないときに、リース事業で段取りだけでも早くできればいいのが、今度、乾燥機小屋を建てる、トラクターを買うのが間に合わなくて、つくれとなったときに、じゃ、どうしてやるべというところがあるので、それをもう少し現場の状況も、もし加味していただけるところがあるのであれば、どういう場合だといいとか、そういう資料を出した方がいいのか、そういう協力はさせていただきたいと思いますので、もし検討していただければありがたいと思います。いろいろあります。

 それで、大きい人ばかりでないんです、困っている人は。やはり小さい人も、トラクター一台持ってやっていた人も、やはり何ぼかでも救ってあげられるところに目を向けてあげてほしいんです。金額でないと思うんですよね。おらほは関係ねえのかと思っている農家の人はいっぱいいると思うんですよ。

 やはり、流されて大変な人が一番かわいそうなんです。実際、田んぼから何から、つくりたくてもつくられないんだから。だけれども、そのほかにもうんと、細かい人なので諦めろでは、余りかわいそうなんですよね。やろうとしている芽を摘むと、絶対、大型化ばかりでは守られないですから。皆まとめて圃場整備していい地区と、やはり棚田になっていて、そういうところだって農家は続けてもらわないと、皆ただの荒れ地になりますからね。こういう人もやはり頑張っているのは同じですから。

 おらほのうんと食らった人も、あと、内陸だからといって、津波が来なくたって、ぶっ潰れて大変なことになっている人もいますから。両方を、一生懸命やろうとしている人を救ってあげられるような資金制度に何ぼか緩和していただけると大変助かると思いますので、ひとつよろしくお願いします。

中野委員 ありがとうございます。

 済みません、時間がなくなってきましたので、ちょっと最後に一問だけ、女川の須田町長にお伺いをしたいんですけれども、マンパワーが非常に足りないというお話を伺いました。町をもう一度つくるに等しい事業だというふうに思います。日本全体で見ても、町をつくるノウハウを持っている人というのはもうほとんど、実際は残っていないんじゃないか。URとか一部の住宅公社とかは持っているかもしれませんけれども。そのぐらい大変な事業を自治体の限られたマンパワーでやるというのは非常に大変なことでありますし、やはり私は、復興を支える人というのを何とか支えていかないといけないなという思いがございます。

 町長の方から、今、役場の方のマンパワーの実態、どのような形でやられているのか、どういう人材が足りていないのか、どういう支援が必要なのか、こういうことをお伺いできればというふうに思います。

須田参考人 現状ということもそうなんですけれども、そもそも、町長に就任させていただきまして、やはり技術職だって、もう限られているわけですね。二、三人ぐらいしかもともとのスタッフはおりません。百五十人の正規職員、町職員のうち、保育士さんもいれば栄養士さんだってもちろんいるわけです。その中で復興業務をいろいろやっていかなくてはならない。これはもう物理的に無理なんですね。

 ということで、我が町は、URに対して、防集、区画整理その他、復興事業の全てのパートナーとして一緒にやってくださいというお願いをさせていただきまして、個別の、この地区の事業ということではなくて、全てのものをパートナーシップ協定を結ばせていただいて、今、一緒になって取り組んでもらっております。

 あとは、先ほど申し上げましたけれども、三十名弱ですか、今、他自治体を中心に応援の人員をいただいておるところです。

 我が町の事業推進の手法として、これはもう全国で初めてということでございますが、コンストラクションマネジメント方式ということで導入いただきまして、基本設計等から現場まで一直線でスムーズに進めるような体制ということでやってまいりました。実際にこれで工事の現場も動いていくわけでございますけれども、今までは、計画の立案ですとか、基本的には絵を描くわけです、ちょっと詰まれば、消しゴムで、もう一回線を引き直せばいいんです。これから実際に物理的に物事が始まっていくんですね。

 あとは用地の、先ほど何回も申し上げていますけれども、これはフェース・ツー・フェースで全部やっていかなくてはならない。そういうところにかける人材というのがまだまだ不足をしているという状況です。

 これは、復興担当部門だけではなくて、例えば設計の関係なんかはほかの部署にも当然必要なわけでございまして、七月から二人ほどいろいろ派遣等をいただきまして、三人ぐらい派遣の技術者を確保しているんですが、それでもまだ足りない。具体的には、やはり用地の担当と、そういう技術系の職員というのが必要でございます。

 あとは、それ以外でも、一般の行政事務の方でも、もし派遣いただければ、今度はところてん方式で、人海戦術の用地の方とかにまた回せますので、人材としては、申し上げたような職種はもちろん望んではおりますけれども、それに限らず、さまざまな行政スキル等をお持ちの方は、ぜひお力添えをいただくべく、派遣等の対応をとっていただければ大変ありがたいなというふうに思っております。

 以上です。

中野委員 以上で終わります。ありがとうございます。

後藤田委員長 次に、林宙紀君。

林(宙)委員 みんなの党の林宙紀と申します。

 参考人の皆様、本日は、こちらまで足をお運びいただきまして、ここまで、大変忌憚のない、そして貴重な御意見をたくさん賜りまして、本当にありがとうございます。

 私自身も、宮城県選出の議員でございます。高校時代までは名取市で育っております。そういったことで、私自身が政治を志したというのも、直接的なきっかけは全てあの震災だったということで、ここまで二年余り、最先端で復興に取り組んでおられる皆様に改めて感謝を申し上げたいと思います。

 私の方からも幾つか質問をさせていただきたいと思います。

 私、三十代半ばなんですけれども、ちょうど私たちの世代というのは、子供がだんだん大きくなってきまして、大きい子だともう中学生だったりとか、小学生のお子さんがたくさんいる、そういった仲間がいる世代でございます。そうすると、この復興に関してもどういうことを考えるかというと、例えば復興に十年あるいは二十年とかかるのであれば、二十年たったそのときに、私たちの子供の世代というのは、もう社会に出て仕事をする、社会で活躍をする、そういった年代になってきます。私らの世代が、そのとき、子供たちにどういった社会を残せるのかなというところにまず最初の焦点が来るんです。

 そう考えると、いいとか悪いとかではないんですが、先ほど須能さんもおっしゃっておりましたが、今の復興交付金の事業の中には、経済産業省の所管事業というのがない。これは、私も、最初に知ったときは、なぜだ、なぜ入っていないんだということを物すごく考えたんです。いろいろと事情があってそうなっているというのは理解はしていないわけではないんですが、やはり二十年後を考えたときに、今の復興交付金の中で許されているものだけでは、到底、私たちが考える理想像には到達しないんじゃないかなというふうに正直に思っております。

 せっかく須能さんから経済産業省の事業を入れてほしいということもございましたので、私、できれば具体的に、この経産省の事業がもし入ったとすればどういったことをおやりになりたいか、活用したいかというものがもしあれば、お伺いしたいと思います。お願いします。

須能参考人 ちょっと筋道から外れるかもしれませんけれども、私は、今回の震災、これは、天の配剤として、最も我慢強い日本に、さらに最も我慢強い東北に試練を与えた。世界は、解決策を東北人がどうやるのか。そういう意味で、私は、今回、震災を受けたときに、三陸の海は日本の宝であり、それを加工している技術は日本のやはり宝ですから、国を挙げて支援してくれる。当然、そういうことからいえば、全く不安感なく今まで仕事をしてきました。そういう意味で、新しい価値観をつくる国をつくらなきゃいけないんじゃないかなと。

 そういう中でいたときに、今、日本の消費のあり方も含めて、先ほどちょっと言いましたけれども、私は、国際マーケットに通じるような水産業界をつくっていこうと。そのために、商品をつくったり、国際的な販売に行くためにも、そういうような事業をどんどんやれるような事業、あるいは、町づくりにしても、予算が、どれに交付金が使えるのかわからない、そういうことで、予算の制限によって夢が語れない、こういうことのないように、それぞれの町づくりなり産業をつくるときに、自由に発想ができて、その結果としてお金があるということで、最初から、産業省、商売のお話には乗らないで、ハード建設だけみたいな話の国づくりではないのか、そういう気がしてならないんです。

 ですから、私の方は、今回具体的には、石巻の魚市場周辺の町を、石巻は岸壁がやわらかくて重い荷をつけられないので、水揚げ場は一階建てなんです。ただし、避難ビルだとか、あるいはそこに町のにぎわいをつくるために、商店街だとか、子供たちが遊べるような学習の場だとか、そういうような複合ビルをつくろうとしております。

 そういうような発想をする場合に、商業予算が必要になるわけですね。ところが、今までの発想でいえば、市場ということになると、これは農水省の予算あるいは国土交通省の道の駅、海の駅とかいう話に限定されちゃうんですね。もっと発想を自由にする。

 そして、百社、二百社の工場群がありますので、私は、そこに大きな魚のステッカーを張って、十メーター、二十メーターの魚、石巻には二百種類の魚があるんです、ですから、空中水族館をつくろうとしています。この間、たまたま鈴木中小企業庁長官が見えましたので、こういうアイデアがあるのでぜひお願いしたいと言ったら、何とか考えましょうと言ってくれたので、言ってみてよかったんですけれども、こういうように、いろいろな発想ができるように最初から窓口を広げてもらいたい。

 そのために、なぜ五省庁四十事業なのか。そういう声は前から述べたんだけれども、今までそういうのは取り上げられていなかったので、あえて言うのは、誰もが町づくりをやるときに必要なのは商店街です、商店街はイコール中小企業です、そういう意味でお願いしたいというわけです。

 以上です。

林(宙)委員 非常にクリアな御説明をいただいて、ありがとうございました。

 今いただいた御意見というのは、きっとこちらに今いらっしゃる委員の皆さんは、お話は非常に、そのとおりなんだろうなというふうに受け取っていただいているんじゃないかなと思います。問題は、ではそれをどう実現していくかというところでいろいろな壁があるのかなと思っていますので、私もそこを、何とかいい方向に向かえるように、尽力してまいりたいなと思います。

 二十年後とかあるいはもっと先なのかもしれませんが、そういった未来を見てやっていくといったときに、もう一つ、その前に必要なのかなと思っていることが実はあります。

 震災から二年ほど経過をいたしました。やはりこれまで、制度の運用上、問題がいろいろなところで細かく出て、それを直しながら来てということをやって今に至っているわけなんですが、そろそろ、ひとつレビューというか復習というか、これまでやってきた事業はどうだったんだろうかということを見直すというのも並行して始めていいんじゃないかなというふうに思っています。

 当然、今差し当たってクリアしなければいけない課題というのもありますし、事業によっては、それこそ十年とか長い年月がたってからようやくその評価ができるというものもありますが、先ほど女川の須田町長がおっしゃられた仮設住宅の規格の件などについては、これは地域によってやはり基準が違っていいと思うんですね。

 私は母方の実家が長野県でございますので、実は、東日本大震災の翌日に起きました長野県栄村の地震の件もそうですが、あちらでつくられた仮設住宅は、豪雪地帯であるにもかかわらず、屋根が平らな仮設住宅であった。これは非常に当初問題になりまして、途中で、雪が落ちやすいような規格になったんですけれども、こういったところを、復習できるものはしていく。なぜかといえば、先ほども門委員の方からございましたが、いつ南海トラフとかほかの災害が来るかわからない、そのための準備をしておくということも大事なのかなと思います。

 それで、お伺いしたいのが女川の須田町長でございます。

 まず、その前にということで、先ほども出ましたコンストラクションマネジメント方式による町づくりということで、これは非常に先進的な取り組みである。

 実は、せんだって、三カ月ぐらい前だったと思いますが、直接女川でお話を伺ったときに、この春からこれは着工して進んでいきますよということだったわけなんですが、今、被災地で非常に問題になっているものの一つに、いわゆる資材価格が高騰している、あるいは人件費が高騰しているといった問題があって、公共事業もなかなか入札が進まない、そういうのがございます。

 このコンストラクションマネジメント方式を取り入れたことによって、そういった資材価格、人件費高騰というのは影響があるのかどうか、それをまずお伺いしたいなと思います。

須田参考人 当然ながら、影響が皆無ということはないんだろうというふうに存じます。

 URとパートナーシップ協定を結んで、例えば区画整理事業等については委託業務としてお願いする。そこを、あと、CMR、コンストラクション・マネジメント・リーダーという、JVなんですけれども、が実際の工事をやっていく。

 だから、例えば、UR内部で価格の幾らかでも吸収できる余地があるのかもしれませんし、あるいはCMが、ここはあくまでリーダーとして全体をコントロールする立場なので、実際に専門業者、実際に工事をやる方におろしていって、そこで吸収できる可能性、素地がないとは言えませんが、ただ、それだけで本当に吸収し切れるのか、あるいは、全体の事業費が高騰していったときに、今の仕組みでどこまで実はやっていけるのかということは、やはり、これからちょっと推移を見ながら、対応を国の方にも予算面等を含めて御配慮いただくということがないと、立ちどまってしまう可能性というのは十分に現時点ではあるのかなというふうに思っております。

林(宙)委員 ありがとうございます。

 今の、まさしくおっしゃっていただいたとおり、この方式というのが少しずつフェーズが移るごとにどのぐらいの効果を生んできたのかということが検証されていけば、次の災害のときに、この方式を、では最初から導入した方がいいんじゃないかというような準備も恐らくできるんじゃないかなと思うんですね。

 そういったレビューをどんどんやっていくべきなんじゃないかなと思うところもありますが、一方で、これから、では何をやっていくかということももちろん大事なことでありまして、先ほど、同じく門委員の方から、被災地以外でこういうことをやってもらったらいいなと思うことは何でしょうかという非常に興味深い質問がございました。

 先ほどは須田町長にお答えをいただいたわけなんですが、私、個人的に非常に興味があるんですけれども、例えば水産という意味でいくと、ああ、一年前に戻れたら、こういうことをやっておけば大分被害が抑えられたんじゃないか、あるいは立ち直りが早かったんじゃないか、非常に難しいと思います、施設というものを大幅に変更することはできなかったと思いますので。

 ただ、今、これから新しく工場などを立地していくという場合に、あるいは船などをどこに泊めておくか、そういったことも全部含めて、水産という側面から何かやれることがあるのかどうかというものを、もう一度、須能さんにお伺いしたいなと思います。

須能参考人 先ほど、BCPというお話をしました。

 実際に、私の方も、焼津の魚市場の方に、資材を、注文してもできませんので、貸してほしいという話を川勝知事に間接的にお願いし、川勝知事から打診していただいたんですが、なかなか、残念ながら、敵に塩を送ってはもらえませんでした。こういう意味では、ふだんからのコミュニケーションといいますか、そういうことが必要だったんだなと。ですから、我々も、今後何かあったときには可能な限り貸してやろうと。

 といいますのは、当然、ステンレスの機械ですから、材料から手配しますと三カ月から六カ月かかるわけですね。今回は岸壁が壊れていますので、なかなか水揚げがスムーズにはいかなかったんですけれども、例えば、海外まき網船というのは、冷凍してきたカツオをコンベヤーで直接、トラックに積んで、保冷車に積んで、そのまま焼津だとか枕崎とかへ運べばいいので、近場は焼津なんですけれども、そうすると、焼津にしてみれば、石巻で揚げて焼津に来るよりも、直接来てもらった方がいいわけで、そういう意味があって貸してくれなかったかどうかは別ですけれども、やはり、工場なんかでも、例えば、同じような機械で同じものをつくれるのであれば、今回、石巻の水産会社が、八戸だとか岩手県の一部の工場を借りて、そこで自分のブランドの商品をつくるようなことをやりました。

 そういうことで、やはりBCPというもので連携を強める、こういうことは大事だろうなと思います。

 以上です。

林(宙)委員 ありがとうございました。

 ふだんからの、いわゆる商売を超えた助け合いみたいなものも、もしかしたら、今後、全国的に考えなきゃいけないという示唆をいただいたのかなというふうに思います。

 最後の御質問となりますが、実は、石巻の桃浦の水産合同会社なんですけれども、あちらについては、須能さんと綱島さんからは、やはりもっとよく考えてやるべきだったんじゃないのかというお話をいただきました。

 私たちみんなの党の政策としては、これまでの、農業でも漁業でもそうなんですが、ああいった企業の経営の仕方を入れていくというのは、後継者問題などを解決するとか、高い付加価値をつけて売りに出すとか、そういった意味で、一つの解決策にはなるんじゃないかなというふうに考えていますが、確かに、ちょっと拙速だったんじゃないかなというところがございました。

 いずれにしても、その仕事をやっていくのはやはり地元の皆さんですので、地元の皆さんが納得できる形というものを実現すべきだったのかなというふうに考えています。

 その上で、最後にお伺いしたいのは、いわゆる会社というものに漁業権を与えること自体が反対なのか、それとも、それは一つの選択肢として、十分な話し合いをして、地元の漁業従事者の皆さんがある程度合意できる内容だったら、それはひとつやっていってもいいのかどうかというところをお伺いしたいと思います。

 こちらは綱島さんにお伺いできればと思っておりますが、いかがでしょうか。

綱島参考人 お答えします。

 私自身は、漁業権という問題よりも、今、特区の問題ということでいきますと、やはり水産業、平常な状態の中で将来のことをきちっと考えていく。現に、気仙沼の方たちがノルウェーの漁業を見に行かれました。非常に近代化された漁業を見てきたということはあるわけですけれども、そういう道があるんだなと。ただ、御意見を聞いてみますと、やはり日本的な、魚文化のにおいがする、きめ細かい漁業というものもまた必要になってきているねというような反応でした。

 そういう意味からいうと、私自身は、企業が漁業に出てくることについて、別に反対はしておりません。ただし、漁業権というのは、またちょっと違う問題があるのではないだろうか。これは長年にわたってきた資源の管理という問題ですので、やはり日本独特の権利で、世界的に見れば、それが物権化されているという点では極めて評価されている問題ですから、そこにさわらずに、企業と合同でやっていける仕組みというのもある。現に、西日本なんかでそういうことをやっているわけですので、そういうことと、また共販体制と企業の利益という点での問題点、これは議論しなければいけないわけですから、そういう問題を十分議論していくということが必要ではないのだろうか。最初に漁業権の問題ありきという議論ではなかなか進まないのではないだろうか。

 やはり日本という国は、先ほど言いましたように、リアス式の海岸というのはすばらしいところですし、そこでやはり浜の営みがあって初めて環境が保たれるというふうに私自身は思っておりますので、そういう点を含めて物を考えていくという点でいきますと、今の時点で、漁業権を民間に与えるということを目的とした特区ではなくて、もう少し議論を別の角度からやっていく必要があるのではないだろうか。そういう意味では、先ほど須能さんが言われた、いわゆる大人の解決策という議論の中には、そういう問題も含まれているんじゃないのかなというふうに私自身は思っております。

 十分ではないかもしれませんが、お答えといたします。

林(宙)委員 ありがとうございました。

 御質問できなかった参考人の皆様、申しわけございませんでした。

 以上で質疑を終わらせていただきます。ありがとうございました。

後藤田委員長 次に、高橋千鶴子君。

高橋(千)委員 日本共産党の高橋千鶴子です。

 きょうは、六人の参考人の皆さん、本当にありがとうございました。

 どなたの御意見も大変示唆に富んでおりまして、聞く方も答える方も時間が足りなくて、非常に申しわけないという思いでいっぱいですが、何とか、限られた時間、全員には多分質問できないと思いますが、端的に御答弁いただければありがたいかなと思っております。

 最初に、桑原参考人に伺いたいと思います。

 六日付の河北新報のトップ、グループ化補助金について、交付決定前の復旧費をさかのぼって補助する遡及制度が三月の七次募集で打ち切りだという記事が報道されておりました。

 私、中小企業の問題は、震災直後の国会で、これは直接支援をやるべきだと取り上げたときに、中小企業庁が、塩釜の商工会議所に何度も足を運んで、被害の実態の大変さとか、支援を何としてもしなければならないということをお答えになって、グループ補助や仮設店舗ですとか、そうしたものができてきたという経過を見てきたものですから、非常に残念に思っているわけなんですね。

 やはり、大変歓迎もされている一方で、グループの相手が当時はいなかったとか、これからという企業もたくさんいるという中で、まだまだ拡充が必要ではないかなと思っていますが、御意見を伺いたいと思います。

桑原参考人 今先生がおっしゃるとおりでございまして、ただ、今回に関しましては、国の方で一応決めておることでございまして、私たちの方から言わせてもらうと、今回は、もう既にやってしまったところはそのまま、ただ、今後やるところを補助するというのが第八次と私は承っておったわけですね。

 ですから、全然更地の状態である、例えば石巻さんとか女川さんというようなところが今後課題になってくるということだと私は承っておりますけれども、私の立場からお話をすれば、まだまだ塩釜も残されているところがございますので、そしてまた、もう既に八次に向かって立ち上げて、補助金の申請を出そうと思っている会社もございます。ですから、できればそういったところも助けていただければというのが本音でございます。

 以上でございます。

高橋(千)委員 ありがとうございます。ぜひそのことを強く求めていきたいなと思っています。

 次に、須田町長に伺いたいんですけれども、震災の年に町長に就任されて、大変な御苦労をされたと思います。また、きょうも大変具体的な提言をしていただいて、ありがたいと思っています。

 女川は、やはり震災区域とか被害率が大変高いために、土地の利用ということでは本当に苦労をされたと思うんですね。仮設住宅の三階建てというのは、見るまではちょっと想像できなかったんですが、実際見てみると非常によくできていたということもあったかなと思うんです。

 そういうふうな経験を経て、先ほど土地の権利の問題などは十分お話しされましたけれども、今後、復興公営住宅を、やはり住民が望む形で、住民主役でなるべく進めていきたいというふうに思うんですけれども、その点でのお考えをぜひ伺えればと。

須田参考人 公営住宅の件について。

 住民が主役でというのは、どういう意味で捉えていいかちょっとわかりかねるところはあるんですが、基本的に、集合タイプかあるいは戸建てタイプか、そういう形で整備はさせていただくんですけれども、公営住宅という性格、つまり賃貸住宅という性格からいいますと、一義的には、やはり行政側、設置者側で、数であるとか、これはちゃんとニーズを伺った上で必要な分は全部きっちりやりますけれども、建設する場所ですとかタイプですとか、その辺は責任を持ってやっていく必要があると思っています。

 ただ、そこに、住民の皆さん、この地区にというようなお話で、いろいろな声はあるわけです。ただ、例えばAからEぐらいまで地区があって、ある程度まとまった一連の流れとすると、ここに希望が五戸ずつ、三戸、十戸あるからといって、そんな建設なんかできるわけはないんですよね。だから、ある程度大まかなまとまりの中での要望をきちっと伺いつつ、設定はもちろんさせていただくつもりであります。

 これも、あとは建築、時間の問題がありますので、その土地がいつ造成が完了するかというのが、どういうふうな形で対応していくかというところをかなり左右することになっていきますので、まずは面的整備を一日も早く完了箇所をふやしていくということが、その先につながる部分にもなっていくかなというふうに思っております。

高橋(千)委員 ありがとうございました。

 先ほど、仮設住宅の今後の整備をするとしたら、あと三坪あればということを町長さんはおっしゃいました。公営住宅も、間取りとか、ある程度は自治体に裁量が任せられているということで、やはりその地域の住民の要望を踏まえてやるべきではないかということを実は本委員会で取り上げたことがございまして、そうした点で、今課題となっている、先ほど町長がおっしゃったことを、これからの公営住宅の中にぜひ生かしていただければなと思って質問させていただきました。ありがとうございました。

 次に、水産特区の問題について、須能参考人と綱島参考人に伺いたいなと思っています。

 須能さんがおっしゃったように、漁協の独占について、言葉の暴力という指摘がありました。私も本当にそう思っているんですね。なぜそうなっているかということの歴史的な経過がちゃんとあって、資源管理や浜の秩序のために必要なものなんだということがあったと思うんですね。

 その上で、三月から、実際には合同会社は漁協に加盟してカキ漁を始めている。なので、本当は現行制度でもそんなにそごはないんじゃないかと率直に思うんですね。必要性はないんじゃないかと思うので、その辺のことをぜひお話しいただければと思うのと、綱島さんからは、プロセスの不透明さの問題のお話がありました。これはやはりトップダウンということで、いきなり、最初から漁協が反対していたのに、最後まで意見が聞いてもらえなかったというふうなことがあると思うんですね。

 でも、綱島さん自身は、漁協の皆さんやいろいろな方たちの意見も聞いているし、アンケートも随分把握をされている。そういう中でやはり切実な声も出されていると思うので、そこら辺も紹介していただきながら、少し補足していただければと思います。お願いします。

須能参考人 宮城県の漁業特区なんですが、漁業者のためといって、漁業者が反対することは漁業者のためでしょうか。結婚を勧めていながら、結婚式まで私を信用していなさいというようなことをまさしく言っているので、村井さんは、改革という名のもとに、何か第三者の力を入れて突破をしないと農業も水産も改革できないということで、最初に改革ありきで議論を進めたことに問題があると思います。

 ですから、私は、加工業界や流通業界の力をかりることは必要だと思っております。否定はしておりません。現に、西日本のマグロの蓄養などは、浜に余裕があれば、そこを大手の水産会社、商社に貸して、そのかわり、漁協が冷蔵庫なり製氷工場なりあるいは資材会社をつくって、それを利用してもらって雇用の場を確保し、漁場の面積を貸すことによって収入も得て、それこそウイン・ウインの関係でやっているわけです。

 ただ、三陸の海は、海に余裕はないんです。今まで過密状態でやっているんです。ですから、第三者が入る余裕がない。たまたま今回、被災して船がないからやれない。やる人の場合、桃浦の場合は、最初に県の方がこういう提案でやれ、やらないというものに無理無理させたような話なんです。

 ですから、漁業者が何とかして立ち上がりたい、それに皆さんの協力を得たというのであれば、誰もが納得するわけですよ。そして、特定の人だけが得られれば、もともと漁民の人たちは等しからざるを憂えているわけです。ですから、皆さん、浜全体がレベルアップすることが目的なんです。それが特定の人だけが得られるような特区制度というのは、基本的に認められないんです。ですから、私はそういうことでやってほしい。

 私は、元大洋漁業で、トロール船、それからサケ・マスの独航船に五年、最終的には四十三隻の独航船を引き連れる船団長をやりました。また、アメリカには二年駐在、ロシアには三年駐在して、一応国際の漁業も知っているつもりでおります。

 皆さん、ノルウェーだとかニュージーランドを美化しますけれども、あの国は、国で魚は食べません。消費しないから、水産業は輸出産品としている輸出産業なんです。日本は、ほとんどのものは国内消費するための、加工業界を含めた産業なんです。そういうような風土の違いを無視して、輸出産業のものを日本に持ってこようとするような、竹と木を結びつけるような話をしているんです。

 ですから、もっとじっくり時間をかけて話をすれば、いい点は我々も何ぼでも採用するべきだと思っていますし、漁協も制度疲労を起こしていることは事実です。その点については大いに反省してもらうべきものもあります。その辺をなぜかやらずに、一方的な論理だけで淘汰しようとする、やはりこれは間違いではないかな、このように私は思います。

 以上です。

綱島参考人 二つほどお話をしたいと思います。

 一番最初は、状況判断の点で、非常に、特区の導入という議論が漁民に大きな精神的な打撃を与えたということが大きいと思います。

 一つは、岩手県知事は、百十一の港全てを復興しますということを明言されました。そのときに、宮城県の場合には、水産復興特区によって民間を導入することによって復興するんだということと、拠点の漁業構想ということを言ってしまいました。宮城の場合には百四十二の浜があるわけです。ですから、それを統括している県漁協としてみれば、みんなの、その百四十二の港の浜の漁民全体の気持ちを考えたときに、これは反対せざるを得ないという状況で、ですから、その一言が混乱のもとになってきたということになっております。

 ですから、先ほど、平時のときに議論すべきだというのは、そういう意味で申し上げました。ですから、そういう点で大事だと。

 それからもう一つは、特に特区ということでいきますと、仙台水産という会社はもともと大手の卸でして、浜の漁民とは非常に大きくかかわっていて、いろいろな海産物を市場に出している大きな会社です。そしてまた、実際、被災時にも支援をしていたところなんですね。

 ですから、御本人は、お会いしたときには、ある面では漁業権には関係なく、漁業の振興のために我々は頑張っているんだということをおっしゃっていたということもありますので、そういう意味では、昨年の十一月の末に合同会社として漁協に入っていただきました。入っていただいたという言い方はおかしいですが、入った選択をしたわけですね。ですから、漁協の組合員として動いていたわけですから、その時点で、いわゆる特区を申請する理由はなくなったのではないかというふうに私自身は思っています。

 ところが、その中でやはり問題になってきましたのは、先ほど制度疲労を起こしているというふうに須能さんがおっしゃいましたように、確かに漁協の方にも問題があります。共販制度の問題が大きく仙台水産の仕事を妨げるというようなことにもなりますので、そこで話し合いをしていた最中なんですね。

 していた最中に特区を申請してしまったということで、その話し合いもできなくなってしまったということで、そういう意味ではかなり無理な状況に置かれているということで、今現在、私たちはそういう意味では大人の解決策という議論を非常に大事にして、ああ、僕もそう思っているなということで、先ほど申し上げた次第です。

 以上です。

高橋(千)委員 ありがとうございました。

 多分、みんなが浜を何とかしたいと思っているんだから、できることがもっとあるのではないかということを、お二人の御意見を伺って改めて思いました。

 須能参考人にもう一問伺いたいんですが、水産業とTPPの問題について。

 農産品に比べて、水産関係は関税率も低くて、既に十分に開放されている、だから余り影響がないんじゃないかという議論もあるんですよね。でも、本当はそうじゃない。単なる関税の問題だけではない、表示から、各種補助金から、さまざまな問題があってのやはり影響なんだということであると思うんですが、ぜひ御意見を伺いたい。

須能参考人 私、先ほども述べましたけれども、それぞれの国には国の事情がある。そういう中で、少なくとも食料といいますか自然環境、こういうものを大事にしなくちゃいけないと思います。ですから、お金の勘定じゃなくて、心の感情を大事にする国になってもらいたい。そのためには、自然産業である水産業、農業、林業、畜産業を大事にしてもらいたい。

 現実に、木材の自由化をした結果、日本の山は死んでしまったわけです。その結果、大雨で山が崩れる、こういうことがもう各地で起きているわけです。こういうことがわかっていながら、なぜやるのか。私は、関税の問題とはそういうものじゃなくて、守らなきゃいけないものを存在する産業として置かなきゃいけないんだ、そういう認識でやるべきだということで、水産の問題も含めて自然産業を大事にする、そういう立場から、TPPについて基本的に懐疑的に考えております。

 以上です。

高橋(千)委員 ありがとうございました。

 もっともっと伺いたいことがあったんですが、時間ですので終わります。

 きょうは本当にありがとうございました。

後藤田委員長 次に、畑浩治君。

畑委員 生活の党の、岩手選出の畑浩治でございます。

 皆様と同じ被災地の沿岸の出身でございまして、本当にきょうは皆様のお話が身につまされるというか、実感される思いで聞いておりました。長時間、本当にお疲れさまでございます。

 さて、早速質問に入らせていただきます。

 まずは小堀内専務にお伺いしたいと思います。

 小堀内専務は、宮古で私の選挙区ですが、新進気鋭の経営者として、変化しないと成長もない、昔からの体質を変えていかなければならないというモットーでいろいろ経営をされておられるようであります。そういうことで、単に支援してくれというんじゃなくて、いろいろな制度を十分かつ適切に活用して、みずからのビジネスモデルに当てはめてやっていく、そういうことをやっておられると思います。

 実は今、私の地元、NHKの朝のテレビドラマで「あまちゃん」というのをやって、大変ブレークしておりますけれども、私、これを見ていると、三陸は観光資源だけではなくて、やはり水産物資源も大したものだなと思っております。実は、岩手のウニというのがあのテレビによって今ブランドになっているんだそうでして、ありがたいことでありまして、結局、こういう気づいていない地域資源をやはり少し意識して、どうやって活用していくかというのが非常に大事なんだろうと思っております。

 そういうことから申し上げますと、震災から会社を立て直して、よりよい経営に乗せてきて、そういう経験もあって、そして震災前よりも収益もよくなっていると伺っておりますけれども、この御経験から、結局、震災復興において何が必要なのか。そして、被災地の資源を生かした前向きな復興ということで、いつまでも被災地だから助けてくれというんじゃなくて、いいものがあるんだと誇りを持って復興を進め、前向きにやっていくんだという時期に来ているんだと思います。そのために何が必要かというのを改めて伺いたいと思います。

小堀内参考人 復興において必要なことは、やはりスピードだと思います。少しでも早く工場を稼働させて生産体制に入ることで、売り上げの確保など、必要なところにつながってくる。そして、地域間連携の中で互いの思いを共有し、そして信頼関係を築きながらいくことも必要で、ビジネスマッチングやさまざまな活動の中で信頼関係を構築しながら、水産物の魅力を今まで以上に発信していきたいと思っております。

畑委員 ありがとうございました。

 次の質問に入らせていただきます。

 これも水産業というか水産加工業も含めた御質問を、産業一般ということも含めて、桑原会頭、須能社長さん、そして小堀内専務さんにお伺いしたいわけですが、これまで、中小企業グループ補助金やら水産業共同利用施設の補助金等については大変評価をいただいていると思って、大変役立った制度であってよかったなと思っております。ただ、今後難しいのは、これもこれで、これからの段階としては、被災地の復興がまだ不十分な中で、新しい、ちょっとアゲンストの風が来ているなと。

 それは、先ほど来話があったTPPが特に農業を中心にかなり被災地に不安を与えていますし、そして消費税増税も、上がるとすればやはりそこも不安なわけですね。あるいは、急速に円安が進んで、資材価格とか人件費がただでさえ高い中で、またそこの円安の影響も出てきている。結局こういうのは、有利な人というか都会は別として、もともと厳しい東北は厳しい状況に立ち至るわけですが、そういう中で、さらに被災地においてはやはり厳しいしわ寄せが来るんだろうと思います。

 結局、こういう状況を踏まえて、被災地のさらなる復興の支援策、特に産業、水産業等に対する支援策としてどのようなものが求められるのか、改めてお伺いしたいと思います。

桑原参考人 先ほどからいろいろこちらの方もお話が出ておりますけれども、まず、復旧復興した場合ですけれども、復旧も、そのままの状態ではないと先ほど私も言ったように、プラスアルファのことで考えていかなくてはいけない。新しい製品を開発していかなければ、なかなか消費に結びつかないということであります。ですから、そういったことを国の方でもいろいろ補助していただくということが一つだと思います。

 それと、今原発の問題とかいろいろありますけれども、今一番問題になっているのは何かというと、販路の問題です。では、国の方ではその販路に対してどのような政策を打ち出しているのですかということが、私、思っておるところであります。

 ですから、こういった販路を拡大するためには、地場の産品であったり、先ほども私はお話をちょっと出しましたけれども、そういった県産品の展示、それから新しいもの、あと農業の方も結構です、そういったものを展示する場所、皆さんに紹介する場所を、こういった東京であったり、ほかのところのアンテナショップみたいなところを設けていただいて、そういったところに対して、いろいろな我々が持ち込んだものを皆さんに紹介していく。安心だよということも含めて、そういったことをしてもらえればいいのではないかなと思います。

 我々もいつまでも、要するに、助けてください助けてくださいということばかりではなく、逆に販路を開拓していくために、そういったチャンスを与えるような場をぜひともつくっていただきたい、このように私は考えております。

 以上でございます。

須能参考人 復興には、先ほどお話がありましたスピードが大事だということで、震災の年の三月三十日に我々水産業界は第一回目の復興会議をつくりました。それで、定期的に開催しておりまして、今月の十六日で第四十九回を迎えます。最近は月に一回あるいは二月に三回ぐらいのペースになりましたけれども、この四月からは、支援を受ける立場じゃなくて、先ほど言いましたように、新規参入者として、チャレンジャーとして行こうという形で我々業界は思っております。

 そのためのスピードアップとして、今までの、業界が行政に注文し、行政が事業化し予算化し、それを議会の承認を求めてやっていくというようなシステムでは遅過ぎるということで、行政と議会と民間が一体となってやっていくようにということで今提案を進めております。

 すぐには簡単にはいかないと思いますけれども、そういうことで一度にやるということになりますと団結心がふえます。団結心がふえれば、先ほどお話がありましたように、販路拡大とかベストマッチングだとか、いろいろなアイデアが出てきます。そういうものをどんどん提案していく。そのためには予算が必要です。

 そのために、先ほど来言う、経産省の予算化されているということと、千年に一遍ということですから、例外があって当たり前というぐらいの弾力的な発想をしないと、この急場はしのげないんだと。皆さんのお考えの中ではやはりまだまだ、法律に基づいてということで、例外を官僚はつくりたくないわけです。例外をつくれば官僚制度は要らなくなってしまうわけですから。そこを時限立法で、これからあと三年間は例外を認める、こういうような弾力的なこともひとつ念頭に入れて、我々からどんどんアイデアを出しますので、それを採択していただきたいと思います。

 以上です。

小堀内参考人 まず最初に、グループ補助金の評価についてですけれども、ただ交付金をもらうだけではなくて、グループ内の横のつながりだったり販路の共有化だったり生産の分業化だったりするもの、今までにない流れができまして、ある意味、交付金だけじゃない政策だったのかなと、本当にありがたく思っております。

 そして、消費税増税される中での事業、税制上の支援措置として何が必要かということで、岩手県の産業再生特区に認められる事業所で、法人税の特別控除、被災雇用者に対する給与等の一〇%を法人税額の二〇%まで、向こう五年間、認定されてから受けられるという制度がありますが、震災により被害を受け、債務超過が発生し、債務超過を少しでも早く解消するためにやはりキャッシュフローに厚みを増すことが大事でありまして、そして資金繰りが楽になるためには、ぜひ法人税額等の特別控除のところを制度をさらに延長してもらいたいと思います。

畑委員 ありがとうございました。

 皆様の前向きな、そして非常に積極的なお答え、本当に感謝申し上げますとともに、私はこれを聞いていて、私のふるさと東北は必ずや近いうちに復興すると思いました。この気構えで、もちろん政治家は今言われたことを、提言をしっかり受けとめてやらせていただきたいと思います。

 そして、時間的に最後の質問になりますが、須田町長さんにお伺いしたいと思います。

 復興についての財政支援制度なんです。

 きょう、いろいろ、いろいろな方から、例えば経産省の事業が五省庁四十事業に入っていない、須能さんからもお話がありましたし、そして弾力性が足りないとか、須田町長の資料でも、被災自治体の復興進捗と状況に合わせた制度設計というのは恐らくそうなんだろうと思います。がちがちに決まった補助金ですが、必要な前にエントリーしなきゃいかぬという矛盾も出ていると。

 結局、私は、こういうのを考えるとき、一から制度を設計するのであれば、大規模災害復興の法律が災害対策基本法とともに今度出るわけですが、本当は、ああいうことをやるのであれば、これからの東南海、東海、首都圏直下型に対して考えるとすれば、抜本的な、自由度の高い財政支援制度をつくるべきなんだろうと思います。

 さはさりながら、今、東日本大震災の復興は進んでおりまして、現行の制度に復興交付金と復興基金があります。これは、私も被災地の首長さんと議論すると、実は復興交付金は補助金の寄せ集めで使いでが悪い、だから、自由度を高めるためには復興基金の方をむしろ積み増ししてほしい、拡充してほしいんだという声がかなり聞かれます。

 逆に、復興交付金の自由度を高めていくというやり方ももちろんあるわけだと思うんですが、実際、首長として携わっておられて、新規の財政支援制度をつくるという提言で、もちろんそれはそれで一番抜本的なもので真っ当なんですが、現行の実務もあるでしょうから、どういうところの制度を変えていって積み増ししていくのが、首長として自由度の高い財政支援制度としてありがたいのか、そこの御提言というか、お考えをいただきたいと思います。

須田参考人 被災自治体の長である私がこういうことを言うのも実はちょっと変かもしれませんが、やはり国の支援だって限りはあるんですよね。今ほど私もあそこでそれぞれの参考人の皆さんのお話を伺っていて、助けてくださいと言うところはもうだめなんだと皆さんおっしゃっていますね。まさにそこだと思うんです。風化のこともよく言われるんですけれども、風化してしまう、忘れられてしまう、しまうという言い方は他者に委ねている。

 では、我々が阪神のこと、新潟のこと、奥尻のことをどこまで本当にちゃんと覚えていましたか、あの当時。ということをやはり振り返るわけですよ。だったら我々自身がもっとメッセージを出して、我々はこうする、あるいはこうしていく、そのためにこう力を合わせていく、だからそこを支えてほしいと言っていかなくちゃならぬのだというふうに思います。

 財源の部分でいいますと、補正でも追加措置をいただきまして、十分かどうかはわかりません、あくまで私は本町の部分しか見えていない部分がございますので、全体から見ればどうかわかりませんが、少なくとも、積み増ししていただいたことは非常にありがたいことだと思っています。

 先ほど来の五省四十事業ということですけれども、例えば効果促進事業というのがある。今、基幹五事業に対して、まず二割分を先行でということで自動的につけていただいている部分はありますが、あくまで、効果促進というのは各事業の効果を後押しするんですよね。これは、復興全体の絵で一つに見たときに、この全体を押す、効果を促進するというもので仮にあったとしても、個別の事業を押せないということであれば、多分それはノーというか、使えませんというお話になってくるんだと思います。

 制度ですとか、あるいは運用の幅だとかその裁量、予算額じゃなくて今そういうソフトのお話にだんだん変わってきて、これは民間の皆さんもそうですし、行政側からもそうなんですけれども、我々の要望というのは多分そういうふうにもうシフトしてきているわけでございます。全体の枠、予算があるのであれば、それは当然の話だと思いますし、いつまでも甘え続けられるわけではありません。

 ただ、今は、ある枠をより有効に、意味あるものとして、将来につながるものとして使わせていただけることが、納税をいただく、将来世代の負担も発生するわけですから、それに対して応えていく。また、全国から支援をいただいている皆さんに、ああ、こういうお金の使い方をして、こういう復興事業をやって、こう立ち直ったんだねとやはり見せていく責任だって我々はあるわけですよね。

 そこをやはり認識を共有させていただきながら、現行制度をいかに柔軟に解釈してやっていけるようにしていただくか、ここが、これから復興事業が本格化していきます、これの成否を大きく左右することになるのではないかというふうに思っています。

 だからといって、何でもかんでも使っていいという話でもないわけでして、その辺のモラルですとか節度、あるいはその目的に対してやはり共有の認識を持って、現行制度の中も駆使して進めさせていただくということが必要になるのではないかというふうに思いますし、その辺をぜひ後押しを皆様からいただければというふうに存じます。

畑委員 参考人の皆様、長時間ありがとうございました。大変参考になりました。

 これで終わらせていただきます。

後藤田委員長 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、参考人各位の皆様に一言御礼を申し上げます。

 皆様方におかれましては、大変遠方より、また大変お忙しい中、我が委員会にお越しをいただき、貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。

 当委員会としましても、皆様の御意見をしっかりと行政に伝える努力を今後ともしてまいりたいと思いますので、何とぞよろしくお願いしたいと思います。

 委員会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。ありがとうございました。(拍手)

 次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。

    午後四時五分散会


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