衆議院

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第13号 平成27年6月22日(月曜日)

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平成二十七年六月二十二日(月曜日)

    午前九時開議

 出席委員

   委員長 浜田 靖一君

   理事 今津  寛君 理事 岩屋  毅君

   理事 江渡 聡徳君 理事 松本  純君

   理事 御法川信英君 理事 長妻  昭君

   理事 下地 幹郎君 理事 遠山 清彦君

      井上 貴博君    小田原 潔君

      小野寺五典君    大西 宏幸君

      大野敬太郎君    勝沼 栄明君

      木原 誠二君    笹川 博義君

      白石  徹君    武井 俊輔君

      中谷 真一君    橋本 英教君

      平沢 勝栄君    星野 剛士君

      前田 一男君    三ッ林裕巳君

      宮川 典子君    宮崎 政久君

      宮澤 博行君    武藤 貴也君

      盛山 正仁君    山口  壯君

      山田 賢司君    若宮 健嗣君

      緒方林太郎君    大串 博志君

      後藤 祐一君    辻元 清美君

      寺田  学君    長島 昭久君

      青柳陽一郎君    太田 和美君

      柿沢 未途君    丸山 穂高君

      伊佐 進一君    佐藤 茂樹君

      浜地 雅一君    赤嶺 政賢君

      宮本  徹君

    …………………………………

   参考人

   (慶應義塾大学名誉教授・弁護士)         小林  節君

   参考人

   (弁護士)        阪田 雅裕君

   参考人

   (駒澤大学名誉教授)   西   修君

   参考人

   (法政大学法科大学院教授)            宮崎 礼壹君

   参考人

   (拓殖大学特任教授)   森本  敏君

   衆議院調査局我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別調査室長     齋藤久爾之君

    ―――――――――――――

委員の異動

六月二十二日

 辞任         補欠選任

  武井 俊輔君     三ッ林裕巳君

  橋本 英教君     前田 一男君

  原田 義昭君     井上 貴博君

  丸山 穂高君     柿沢 未途君

  志位 和夫君     宮本  徹君

同日

 辞任         補欠選任

  井上 貴博君     原田 義昭君

  前田 一男君     橋本 英教君

  三ッ林裕巳君     武井 俊輔君

  柿沢 未途君     丸山 穂高君

  宮本  徹君     志位 和夫君

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律案(内閣提出第七二号)

 国際平和共同対処事態に際して我が国が実施する諸外国の軍隊等に対する協力支援活動等に関する法律案(内閣提出第七三号)


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     ――――◇―――――

浜田委員長 これより会議を開きます。

 内閣提出、我が国及び国際社会の平和及び安全の確保に資するための自衛隊法等の一部を改正する法律案及び国際平和共同対処事態に際して我が国が実施する諸外国の軍隊等に対する協力支援活動等に関する法律案の両案を一括して議題といたします。

 本日は、両案審査のため、参考人として、慶應義塾大学名誉教授・弁護士小林節君、弁護士阪田雅裕君、駒澤大学名誉教授西修君、法政大学法科大学院教授宮崎礼壹君、拓殖大学特任教授森本敏君の、以上五名の方々に御出席をいただいております。

 この際、参考人各位に一言御挨拶申し上げます。

 本日は、御多用のところ本委員会に御出席いただきまして、まことにありがとうございます。参考人各位には、それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、審査の参考にいたしたいと存じます。よろしくお願いいたします。

 それでは、議事の順序について御説明申し上げます。

 まず最初に、参考人各位からお一人十五分程度で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答えいただきたいと存じます。委員の質疑時間は限られておりますので、お答えはできるだけ簡潔明瞭にお願いいたします。

 なお、念のため申し上げますが、御発言の際はその都度委員長の許可を受けることになっております。また、参考人は委員に対して質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。

 それでは、まず小林参考人にお願いいたします。

小林参考人 お手元にレジュメがあると思いますが、これに沿ってお話し申し上げます。

 まず、結論を明確に申し上げておきます。この戦争法案は、憲法に違反し、政策としても愚かであり、廃案にすべきであると考えます。

 一、長い議論を見ておりましたが、海外派兵を合憲とする政府側の根拠が大体見えてきたような、ようやく見えてきたような気がいたします。

 これは、国際法上、独立主権国家として自衛権を持っている、それは個別と集団が含まれている、それをどう行使するかの国内法上の制約として、憲法は、砂川判決にもあるように、自国を守るために必要最小限のことはできるとしている。そうすると、必要最小限の判断が国際情勢によるということで、つまるところ、これは程度問題、政府がどう判断するかでできるんだという、ある意味、事実上無限定の判断基準になってきているような気がいたします。そういう、程度、量の問題だけに矮小化されてしまっているような気がいたします。

 ただ、憲法には九条の二項もございまして、七十六条の二項もございまして、我が国は、やはり敗戦の反省と、それから、仮に押しつけられたのであれ何であれ、世界の意向がありまして、軍隊の保持と交戦権の行使が明文で禁じられております。それから七十六条の二項で、軍法会議も持てない。

 自衛隊発足時、警察予備隊という、正直に、名前が警察とありまして、第二警察、通常の警察の実力を超える危険が来たときに押し返す第二警察としてつくられております。ですから、いまだに法体系は警察法の体系で、警察比例の原則という、諸国の軍隊ではあり得ない縛りがかかっております。でありますから、警察を外に出して使おうにも、これは軍隊でないわけですから、反対側から見れば、それは海賊や山賊になってしまいますし、仮に免責したとしても、非常に働きにくい状態になるわけであります。

 もちろん、私はもともと、だからといって、憲法を守って国が滅んでいいとは全く思っておりません。この委員会でありましたと思いますが、かつて長島昭久代議士が質問しておられましたけれども、そんなに急ぐ急ぐとおっしゃるのであるならば憲法改正なしで、憲法破壊というよりも、むしろ簡単な、領域警備法を、これは単に法律でありますから、おつくりになって、海上保安庁と自衛隊の出動のタイムギャップをなくす。これはもちろん運用でも可能なはずでありますけれども。

 それから、武器の使用基準がよく問題になりますが、これは大臣訓令で、まあ通達の類いでありますが、決まっている以上、政権を持っている方たちが心配であればそれを変えればいいわけでありまして、何も憲法に触れるようなことをする理由はないと私は思います。

 その上で、我が国伝統の専守防衛に、ODAとか国連の財政支援とか、PKO、これは警察支援でありますし、それから災害派遣、これは消防支援でありますが、こういうことを重ねていくことが、戦場だったところの後に行った場合、日本の自衛隊は引き金を引かないという信用で、危険を招かないという実績がありますから、今度それを取り払ってしまうと、引き金を引く軍隊としての扱いを受けます。でありますから、我々のこの専守防衛の伝統プラスその他の国際支援を重ねていくことこそが、緊急に大変であるならば、我が国をより安全にする手法であると私は考えます。

 今回提案されておりますように、海外派兵を認めて、集団的自衛権の一部行使と、それから他国軍の後方支援という名の後方からの戦争参加を認めますと、その結果、味方の敵が自動的に敵になりますから、我々が一部イスラムグループの敵になるわけであります。そうすると、ニューヨークやワシントンDCやロンドンやパリやマドリッドで、全部キリスト教国ですけれども、起きたテロと同じものがこの東京で起きることは極めて自然なことになってしまう。大変大きなリスクをしょうことになります。

 それから、御存じのとおり、アメリカは今、年に一、二回、公務員の給与が遅配したりするわけでありますが、何のことはない、アメリカは、第二次大戦後には世界最大の富を積んだ国が、結局、戦争経済垂れ流しで、今、戦費破産状態にあります。それで、私も、アメリカの責任ある方から直接何度も聞かれたことがありますけれども、日本が世界の警察を手伝ってくれると助かる。それは、向こうの事情はそうだと思います。我々は、アメリカに続いて戦費破産の二の舞をこうむることになります。

 したがって、最初に、愚かな政策と申し上げたわけであります。単なる憲法論理でだめだからだめと申し上げているつもりはありません。

 首相の口癖が、過去一年間聞き飽きるほど聞かされましたが、丁寧に説明する。その言葉だけはクリアに入ってくるんですが、その後一度も丁寧に説明された記憶はありません。一生懸命聞いておりますけれども、丁寧に説明された記憶はありません。何か、紋切り型の決まり切ったお返事か、あとはレッテル張りと逆切ればかりであります。

 どうしてそうなるかを考えますと、やはり、この法案自体に無理があるから、私は、説明する当局も御苦労なすっているんだなと思いました。だからこそ、幾ら時間を重ねて同じことをおっしゃっても、主権者国民が理解できた、今、このまま先へ進んでいいという世論調査の結果は、立場の違いのあるメディア全てで同じ結論が出ております。

 それから、最近、首相が、国際情勢に目をつぶって従来の憲法解釈に固執するのは政治家としての責任放棄だと述べたことが報道によって知らされました。もちろん、それは、合憲で妥当な政策があるのにほっておけば、それは無責任です。だけれども、それを見えない、聞こえないようにして、野党はそれを指摘しているわけですけれども、やみくもに憲法を踏み越えて、違憲な、そして計算の合わない海外派兵に突き進む姿勢、これは、首相がよく国際社会でおっしゃる、法治主義とか法の支配に反した人治主義、これは中世の話でありますけれども、あるいは独裁政治、英語にするとアベノティラニーになるわけですけれども、アベノティラニーに向かう宣言をしているに等しいと思います。

 短いですけれども、以上でございます。(拍手)

浜田委員長 ありがとうございました。

 次に、阪田参考人にお願いをいたします。

阪田参考人 きょうは、お招きいただきまして大変ありがとうございます。光栄に存じます。

 現在、この委員会で審議をされております一連の安全保障関連法案は、日本の平和主義のあり方を大きく変えようとするものでありますし、国際平和協力支援法などにつきましても申し上げたいことがいろいろありますけれども、時間が限られておりますので、きょうは、専ら集団的自衛権と憲法との関係について、私が考えているところを申し述べさせていただきたいと思います。

 ちょっと中身が多いので少し早口になるかと思いますけれども、御容赦いただければ幸いです。

 私は、これまで、きょうもお見えですけれども、西先生らがおっしゃっていたような、憲法九条は何も禁止していない、集団的自衛権は全部できるんだ、これまでの政府の解釈は根っこから間違っている、これは改めなければいけないという御主張に対しましては、小林先生と同じように、これは立憲主義の完全な否定だということで強く異を唱えてまいりました。

 しかしながら、昨年七月の閣議決定、それから今回の法案に盛り込まれている内容を拝見しますと、集団的自衛権の行使を、いわゆる芦田修正説といったものを根拠にするのではなくて、西先生らのお考えではたしか間違っていたというはずの政府の従来の憲法解釈、九条の解釈を前提にして、その基本的な論理の枠内で説明できるものに限定してやれることにしようというものであるというふうに承知をしております。

 こうした考え方に対して、例えば安保法制懇に集っておられたような方々の御批判が余り聞かれないというのは少し不思議な感じもするんですけれども、いずれにしましても、私は、小林先生と少し違って、従来の政府の解釈と集団的自衛権の行使を整合させようという政府の姿勢、考え方自体につきましては、一定の評価ができると考えております。

 御案内のとおり、昭和四十七年の政府見解は集団的自衛権の行使を全面的に否定しているわけでありますけれども、その前提として、なぜ自衛隊が合憲であるのかということの説明もしております。すなわち、憲法九条は、外国からの武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるような事態においてまで国が必要な自衛の措置をとることを禁じてはいないということであり、これは、いわゆる砂川事件の最高裁判決の考え方と軌を一にするものであると考えています。

 その上で、その当時のといいますか、これまで政府はずっとそう考えてきたんですけれども、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される事態、これは、我が国自身が武力攻撃を受けない限り起こり得ないことだ、したがって、日本自身が攻撃をされていないのに外国での戦争に参加する集団的自衛権の行使が自衛の措置として認められるという余地はないのだという結論に至っていたわけですね。

 今回の法案に言っている存立危機事態が具体的に何を意味するのか、後ほど申し上げますように多少はっきりしないところがあるのですけれども、私なりにこれを善意に解釈いたしますと、我が国に対する武力攻撃の発生という、これまで政府が考えてきた自衛権の発動要件を、さらに一歩前に進めるといいますか、多少緩和しようということなのではないかと考えることができないわけではございません。

 どういうことかといいますと、我が国の周辺、例えば朝鮮半島で戦争が起こった、我が国はいまだ攻撃を受けていないし、我が国に対する攻撃の準備も進んでいないけれども、今攻撃を受けている国、例えば韓国が負けたら、次は日本が攻撃されるということが必至だというような状況、これを法文では「明白な危険」と呼んでおられるんだと思いますけれども、そうした場合に、韓国が負けてしまって日本に対する武力攻撃が始まるまで自衛隊は手をこまねいて見ていろということでなくてもいいのではないか、少し前広に武力行使ができることにしようということではないかというように考えることができるわけであります。

 そして、そのように理解する限りでは、今回の法案で可能になる集団的自衛権の限定的な行使が、これまでの政府の憲法九条の解釈と論理的に全く整合しないというものではないと思います。もちろん、そんな場合に限るのであれば、何もわざわざ集団的自衛権なんて言う必要はない、個別的自衛権で十分整理できるじゃないかという方もいらっしゃいますけれども、大事なことは中身なのであって名前ではない。ですから、これが集団的自衛権の行使と称されるからといって、論理の本質が変わるというものではないというふうに考えております。

 ただ、そうではありますが、集団的自衛権の行使だということになりますと、今申し上げました四十七年見解の論理との整合性の点は別としましても、その論理を前提として導かれた集団的自衛権の行使ができないという結論、それが大きく変わるというか、全然変わってしまうわけですね。したがって、政府の憲法解釈がその限りで変わる、これも事実だと思います。

 そこで、立憲主義という観点から、この変わるということをどう評価するかということになるわけでありますけれども、一般論として申し上げると、政府はいついかなる場合でも法文の規定の解釈を金輪際変えちゃいけないなんということはないのだと思います。法文の規定は、新たな状況に即応するように常に迅速に改正されるというふうには限りませんから、それまでのその規定の解釈が今の時代に合わない、いろいろな不都合が生じてくるというようなことになった場合に、これを現状に適合するように改めるということは間々見られるところでございます。

 私は、憲法だけが例外だというふうには思いません。憲法の規定であっても、合理的な理由がある場合には解釈の変更が許されないわけではないというふうに考えてはいます。けれども、そのような新しい解釈、解釈の変更が許容されるためには二つの条件があります。

 一つは、その新しい解釈が法論理的に成り立つものであること。言いかえますと、法文に書かれている言葉を離れて自由自在に解釈ができるというような性質のものではないということであります。

 そして、二つ目の要件は、なぜそのような解釈の変更が必要なのか。立法事実としばしば言われますけれども、そうした解釈の変更を必要とする事情なり理由なりをきちんと説明ができるということでございます。

 憲法九条が、集団的自衛権の行使を含め、海外での武力行使を例外なく禁止しているというのは、政府がきのうきょう言い出した解釈ではないのですね。自衛隊が昭和二十九年に発足してから六十年間、ずっと同じことを言い続けてまいりました。恐らく、歴代の総理もほぼ例外なく、この国会の席でその旨を述べてこられたと思います。

 その結果としまして、今日では、自衛隊は専守防衛なんだ、海外に出かけていって武力行使をすることはないのだというのは、いわば国民の常識になっていると言っても過言ではないほど、この解釈は定着しているというふうに思いますし、それによってこれまで不都合が生ずることもなかったというふうに考えています。

 私が申し上げるまでもないのですけれども、憲法は、政府や国会といった統治権力を縛る規範であります。その憲法を遵守すべき主体である政府みずからが、憲法の縛りがより緩くなるように、しかも、これだけ議論の積み重ねのある規定のいわば核心の部分についてその解釈を変えるということでありますから、なぜ変えなければならないのか、そのことを多くの国民が理解できるように説明するべきことは当然だと思っております。

 さきに申し上げました朝鮮半島有事についての懸念、これも今急に大きくなったということではないと思います。しばしば中国の脅威といったことが取り上げられますけれども、尖閣を含めて万一我が国が武力攻撃を受けるような事態になれば、直ちに自衛隊が防衛出動するわけですし、在日米軍も日米安保条約に基づいて共同対処をしてくれるはずだと思います。抑止力が言われることがありますけれども、在日米軍の兵力が大幅に削減されたというようなこともないのではないでしょうか。一体何が変わった、どのように変わったのかというのが理解できないということでございます。

 これまでは、そんなことをしなくても十分に国民を守れると考えられてきた集団的自衛権なのです。そして、これを行使するということは、進んで戦争に参加するということでありますから、つまり、敵となる相手国に我が国領土を攻撃する大義名分を与えるということでもあるわけですね。ですから、私のような者の目から見れば、国民を守るというよりは、進んで国民を危険にさらすという結果しかもたらさないような気がするのですけれども、これを前広に行使して戦争に参加するのでなければ国民の命と暮らしが守れないとすれば、それはなぜなのか、なぜそうなったのか。

 政府には、ただ、安全保障環境が変わった、グローバルなパワーバランスが変化したとかいった抽象的な言葉によるのではなくて、軍事技術的な面なども含めてもっともっと具体的にその理由を説明する責任があると思いますし、もし十分な理由、根拠が示されないとすれば解釈の変更が許されない、これは立憲主義の観点からして当然のことであろうと思っています。

 このこと以上に問題なのは、この法案が本当に集団的自衛権の行使を限定しているのか、また、政府にその行使を限定する意図があるのかということでございます。

 総理がしばしば集団的自衛権行使の事例として挙げておられるホルムズ海峡の機雷封鎖、これなどは、どう考えても、我が国の存立を脅かし、国民の生命、自由及び幸福追求の権利を根底から覆すというような事態に至りようがないと思えます。

 総理は、機雷除去が受動的で限定的だからいいのではないかといった趣旨の説明をされていると思いますけれども、問題は、そもそも、そこで起きている戦争に憲法九条のもとで我が国が加わることができるのかどうかということなのであって、加わった後の個々の戦闘行為が、その態様がどうであるかとか、リスクが大きいか小さいかといった問題ではないはずです。全く次元の違う議論だなというふうに思って聞いておりました。

 このように、中東有事にまで集団的自衛権の出番があるということだといたしますと、これは限定的でも何でもない、実は、単に我が国の重要な利益を守るために必要があると判断すれば集団的自衛権を行使できるんだと言っているのに等しいと思わざるを得ません。もしそうだとすると、これは到底、従来の政府の解釈の基本的な論理の枠内であるとは言えなくなります。

 四十七年見解において武力行使が容認されるとしている「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」、これは、まさに我が国が外国の武力攻撃を受けたときの状況を指し示しているわけですし、日本語を普通に読めば、それ以外にはこのような事態は起こり得ないということは明らかではないでしょうか。

 にもかかわらず、政府がそうした場合に集団的自衛権の行使を限定するのだということを明言されないというのは大変遺憾でありますし、先ほども申し上げましたように、もしもこの存立危機事態を、我が国自身が武力攻撃を受ける明白な危険がある場合に限られないんだというふうに考えられているとすれば、それは明らかに、四十七年見解の論理的前提を逸脱しておりますし、従来の政府の解釈の基本的な論理の枠内ではなくて、基本的な論理そのものを変更するものだと断ぜざるを得ないということでございます。

 ですから、少なくとも、今回の集団的自衛権の行使がこれまでの政府の九条の解釈の基本的な論理の枠内におさまるものであることをより明確にする、そのことは絶対に必要なのだと思っているのです。そして、それは、改正法案にある存立危機事態の定義を改めて、ただ単に、例えば、他国に対する武力攻撃が発生したことにより、我が国に対する外部からの武力攻撃が行われる明白な危険が生じた場合というようなことにでもすれば簡単にできることではないでしょうか。

 憲法九条は、政府の勝手には戦争をさせないという法規範です。そして、幸いにして発動されることはなかったのですが、これまでの我が国の武力行使の要件は、我が国に対する武力攻撃の発生という、極めて客観的で、かつ多くの国民の納得ができるものであったと思いますし、自衛隊の実力行使に対する明確な歯どめになってきたと思います。その歯どめをなくして、日本が戦争をするかどうかを政府の裁量や判断に委ねていい、そんなことを考えている国民は誰もいないだろうと思います。

 今回の集団的自衛権の行使を本当に従来の政府の九条の解釈の枠内で考えるんだ、国民の命や暮らしを守るためにしか行使しないというのであれば、ぜひとも、この妙な解釈の余地が残る「国民の生命、自由」云々という表現はやめて、すっきりとしたわかりやすい表現に改めてもらいたいと思います。

 武力行使との一体化についても一言申し上げたいと思いましたけれども、時間が参りましたので、これで終わらせていただきます。

 ありがとうございました。(拍手)

浜田委員長 ありがとうございました。

 次に、西参考人にお願いいたします。

西参考人 本日、このような場で私の見解を申し上げさせていただく、そういう機会を得たことを大変光栄に存じます。

 何分にも時間が限られております。特に私の場合は、全資料十一ページ、プラス新聞がありますので、とても不可能であります。まず最初に結論部分を申し上げ、そして、時間の許す限りにおいて御説明し、さらにまた、必要であれば資料などを利用したい、こんなふうに思っております。

 まず最初に、私は、戦争法案ではなくて、戦争抑止法案である、そんなふうに思います。

 そこで、以下、結論部分を、ここに十ありますので、まず、これをゆっくり申し上げ、時間がある限り説明をさせていただきたいと思います。

 憲法第九条の成立経緯を検証すると、同条と第六十六条二項とは不可分の関係にあり、自衛権の行使はもちろん、自衛戦力の保持は認められる。これは成立過程から見たわけでありますけれども。

 第二、比較憲法の視点から調査分析すると、平和条項と、集団的自衛権を含む安全保障体制とは矛盾しないどころか、両輪の関係にある。

 三、文理解釈上、自衛権の行使は全く否定されていない。

 四、集団的自衛権は、個別的自衛権とともに、主権国家の持つ固有の権利、すなわち自然権である、国連憲章五十一条であります。不可分であります。

 そこで、枝野幸男現在の民主党幹事長は、次のようにおっしゃっておられます。そもそも、こうして個別的自衛権か集団的自衛権かという二元論で語ること自体、おかしな話です、そんな議論を行っているのは日本の政治家や学者くらいでしょうと。私は、個別的自衛権とか集団自衛権、区別して論ずるのはもうおやめになっていただきたい。枝野幹事長のこの言葉、非常に強く、重く感じるわけであります。

 あえてこれについて言うならば、岡田党首は、党首討論において、最後に、私たちは個別的自衛権はやります、集団自衛権はやりません、たしかそんなふうにおっしゃっていらしたと思います。どうしてこれを分けるんでしょうか。どうやって分けるんでしょうか。また、やることにどんな意味があるんでしょうか。私は、あの言葉を聞いて、この枝野幹事長の言葉を思い出した次第であります。この点をぜひ御議論いただきたい、こんなふうに思うわけであります。

 第五、集団的自衛権の目的は抑止効果であり、その本質は抑止効果に基づく自国防衛である。そのような国際的な共通認識のもとに、世界では集団的自衛権の網が張りめぐらされている。北大西洋条約とワルシャワ条約の存在があったからこそ、ヨーロッパで冷戦が熱戦にならなかった。

 我が国は、国連に加盟するに当たり、何らの留保も付さなかった。国連憲章第五十一条、すなわち、集団自衛権、個別的自衛権が固有の権利である、これを受け入れたと見るのが常識的だろうと思います。何にも留保はないし、憲法に明確に否定されておりません。

 七、個別的自衛権にしろ集団的自衛権にしろ、自衛権の行使の枠内にあること、国際社会の平和と秩序を実現するという憲法上の要請に基づき、その行使は政策判断上の問題であると思います。どうも議論を伺っておりますと、憲法解釈と政策判断の問題を明白にしてこなかった、これが混迷の最大の要因ではないか、このように感じております。

 政府は、「恒久の平和を念願し、」「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」前文、それから「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」するという憲法九条冒頭、こういう国民の願いを真摯に受けとめ、国際平和の推進、国民の生命、安全の保持のため最大限の方策を講ずるべき義務を負っている、こんなふうに思います。

 そして、国会は、自衛権行使の範囲、態様、歯どめ、制約、承認のありようなどについて、もっと大きな視点から審議を尽くすべきである、このように思うわけであります。

 そして最後に、今回の安全保障関連法案は、新三要件など、限定的な集団的自衛権の行使容認であり、明白に憲法の許容範囲である、このように思うわけであります。

 あと十分ちょっとありますので、特に憲法九条と自衛権の行使との関係。

 六十六条二項「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。」これは御存じですよね。細かいことは省略しますけれども、あれがなぜ入ってきたのか。

 芦田修正とかかわるんです。芦田修正によって、「前項の目的を達するため、」。陸海空その他の戦力は持ち得るんだ、すなわち、一言で言うならば、自衛のためであれば陸海空その他の戦力は持ち得るんだ、これが芦田修正であります。

 本当に私は何カ月もかかって、アメリカ、イギリスで研究してきました。

 それを受けて、極東委員会ではどんな議論があったか。これであれば、芦田修正が、本当に、これがもう衆議院は通ったわけですから、であれば、自衛のためであれば戦力を持てるじゃないか、軍隊が持てるじゃないか、軍人が出るじゃないか、軍人が大臣になるじゃないか、それは、すなわちミリタリーコントロールじゃないか、絶対だめだということで、シビリアンコントロールにしなければいけない、これは極東委員会でかなり議論がありました。そして、その結果、日本にかなり強い形で要求をしてくるわけであります。このときは極東委員会です。もう衆議院は終わっております。何とか入れたい。その経過は省略しますけれども、いわば、半ば強引な押し込みになりました。

 七ページをごらんになってください。

 下から四、五行目ですね、宮沢俊義先生は、そのとき貴族院議員でした。十月一日、こんなことをおっしゃっております。「憲法全體ガ自發的ニ出来テ居ルモノデナイ、指令サレテ居ル事實ハヤガテ一般ニ知レルコトト思フ。重大ナコトヲ失ッタ後デ此處デ頑張ッタ所デサウ得ル所ハナク、多少トモ自主性ヲ以テヤッタト云フ自己僞瞞ニスギナイ」。後ほどかなり護憲の論陣を張られた宮沢先生、このとき非公開で、いわば非自発的である、非自主的である、自己欺瞞であると。

 こういう形で今の六十六条二項が入ったんです。強引に入れられたんです。

 ですから、六十六条二項の背景には憲法九条があったわけです。憲法九条を論ずる場合は、少なくとも、成立過程から見ると不可分の関係です。そういうことを解釈の原点に置かなければいけないんじゃないかということを強く申し上げたいと思います。

 第二、比較憲法的な側面から、これは資料でいいますと、第八ページと九ページにございます。

 私は、世界の成文憲法典、百八十八を調べてみました。これは大変でした。その中で、平和主義条項がどれだけあるか、態様は、この十七であります。結論、百八十八カ国中百五十八カ国にあります。平和憲法、平和憲法、世界は平和憲法は当たり前のことなんです。しかし、平和主義を置いてあるこの百五十八カ国中、国防体制、国防について規定のない国はほとんどありません。

 何を言いたいか。比較憲法の側面から見ると、一方で平和をうたうんだ、他方で国防をきちんとやるんだ、それが世界の現状です。

 そしてもう一つ、資料三をごらんになってください、八ページ。

 これは、この二十五年間、一九九〇年から二〇一四年までに制定された憲法、これも憲法典を全部入手しました。これも結構大変です。そして、これを幾つかの分類に分けて整理しました。時間がありませんから、七と九をごらんになってください。

 百二カ国中、平和主義条項を持っているのは、私が調べたところ、これは少なくとも誰もやっておりません、もしかして一カ国、もうちょっと違うかもしれません、百カ国ありました。国家非常事態条項は百二カ国、一〇〇%です。

 世界の憲法というのは、平和をうたい、平和を侵されないためにどうすればいいか、立憲主義の観点から立憲秩序をどうやって回復するか、これが世界の現状であります。

 私は、比較憲法それから歴史から見て、こういう結論を得ております。

 時間がありません、飛ばします。後で、集団自衛権とか最高裁判所判決ですとか、これについては時間がございません。

 そこで、私の治癒策ということで申し上げたいと思うんですけれども、その前に、五の、きょうは共産党の委員もお見えでございますけれども、九条については、共産党は、昭和二十一年八月二十四日、最後の何行かだけ読ませていただきます、こういうふうにはっきりおっしゃっております。

 現在の日本にとって憲法九条は一個の空文にすぎない、「日本共産黨ハ一切ヲ犧牲ニシテ、我ガ民族ノ獨立ト繁榮ノ爲ニ奮闘スル決意ヲ持ッテ居ルノデアリマス、要スルニ」、今の九条は、「我ガ國ノ自衞權ヲ抛棄シテ民族ノ獨立ヲ危クスル危險ガアル、ソレ故ニ我ガ黨ハ民族獨立ノ爲ニ此ノ憲法ニ反對シナケレバナラナイ、」。この九条は民族の独立のために絶対だめだ、これが憲法議会のときの共産党の発言です。代表発言です。

 そういう意味において、治癒策。私は、政府、学説は、憲法の原点に返る、国際連合憲章に入ったそのときの原点に本来は返るべきであります。しかし、それは不可能です。であれば、もう究極の国民投票をやろうじゃありませんか。

 要するに、誰が読んでも平和、一方で、誰が読んでも自衛戦力を持てる、もうそういう時代に来ているんじゃないんでしょうか。あれもこれもこれもこれも、もう解釈がめちゃくちゃ、全然わからない。そうしたら、ここで憲法改正、究極の二者択一の憲法改正、これを議論し、これを実施することによって、日本の平和と安全というものにもう一度戻って、憲法施行から七十年になると思いますけれども、そういう側面からぜひ御検討いただきたい。

 以上が私の見解であります。どうも失礼しました。(拍手)

浜田委員長 ありがとうございました。

 次に、宮崎参考人にお願いいたします。

宮崎参考人 宮崎でございます。

 憲法九条のもとで集団的自衛権が限定的にせよ認められるものかについて、内閣法制局に長年勤務いたしました経緯、経験を踏まえて意見を申し上げたいと思います。

 集団的自衛権というのは、現政権も認めておられるとおり、自国が直接の武力攻撃を受けていないにもかかわらず、自国と密接な関係にあるという理由で、そのような他国に加えられた武力攻撃に対し、みずから武力をもってこれを阻止、排除する国際法上の権利であります。つまり、その本質は他国防衛なのでありまして、歴代の政府もそう理解し、そのように表明してまいりました。

 第二次世界大戦までの長い間、国家の自衛権といえば、自国への侵略行為を排除する権利、すなわち個別的自衛権のことでありました。これに対し、集団的自衛権という概念は、周知のとおり、第二次世界大戦後、国連憲章五十一条によって新たに登場した概念であります。これは、憲章二条四項のもとに、国際間の武力行使は原則違法、侵略者には安保理主導の国連軍が対処するとの理想を掲げましたものの、折からの冷戦で常任理事国の一致が得られにくくなったということを背景に、米国及び米州機構諸国のいわゆるチャプルテペック決議の圧力によって、安保理が必要な措置をとるまでの間の暫定的違法性阻却事由として、個別的自衛権と並べて、妥協的に規定されるに至ったものであります。

 自衛権という名前こそついておりますが、このように、それは本来の自国への直接の侵略の排除という意味の自衛の権利とは異質な概念です。かつまた、集団的自衛権は、各国間の評価の違いが対立している状況でも、同盟国と自称する国家による介入的武力行使を容認するものでありますため、恣意的で過剰な武力行使を招く危険をはらむものであります。したがいまして、国際法上の権利だという形式だけ見て、大急ぎで我が国も追いつかなければならないという性質のものなのか、私には根本的な疑問がございます。

 さて、政府は、戦後一貫して、集団的自衛権は、我が国も独立国としてこれを有していることは自明であるが、憲法九条のもとではその行使を認める余地がないと解してきました。

 政府の憲法解釈というのは、単なる説の一つではありませんで、各種法案の提出の際、あるいは毎年の防衛予算の承認を求める際などの都度、これがどの範囲で使われるものなのかということを政府が責任を持って説明するため、国会で累次表明してきたものであります。単なる法制局長官答弁などではありませんで、累次の総理答弁、あるいは閣議決定を経て出されます政府答弁書等においても表明されてきました。国会もまた、その説明を前提に、法律を制定し、予算を承認し等々の歴史を積み上げてきたものであります。

 その歴史は昭和四十七年から数えても四十数年に達し、今や、集団的自衛権行使が九条のもとでは認められないということは、我が国において確立した憲法解釈であると考えるべきであります。その政府自身がこれを覆す内容の法案を国会に提出するというのは、禁反言の法理にも反し、法的安定性をみずから破壊するものと言わなければなりません。

 ところで、政府は、今回の法案は全面的な集団的自衛権を解禁するものではない、そうであれば違憲でもあろうが、限定的な集団的自衛権を認めようとするものであるから従来の政府見解にも基本的には反するものではないと主張し、昭和三十四年の砂川判決や昭和四十七年十月の政府意見書をその根拠に持ち出しております。

 その主張は、要するに、憲法九条も最小限度の自衛の措置を否定するものではなく、集団的自衛権も自衛の措置なのだから、最小限度でさえあれば本来行使可能であった、ただ、当時としてはそこまでは必要な国際情勢ではなかったので、最小限度基準の当てはめの結果として集団的自衛権は最小限度の自衛権を超えると書いてあるにとどまるというふうにあります。

 しかし、これはとんでもない話であります。以下、やや詳しく述べることにいたします。

 まず、砂川判決でございます。

 そもそも、自国への侵略を排除する本来の国家の自衛権と集団的自衛権とは、先ほど述べたとおりはっきりと別物なのでありますから、裸で自衛権と言った場合、前者のみを指している場合が多いのであります。

 砂川判決は、自国の領土、領海を守り国民の生存を全うする最小限の個別的自衛権は九条のもとでも否定されず、したがって、その防衛力、すなわち我が国領土防衛の能力の不足、この不足というのは、砂川判決も述べておりますように、九条二項の戦力不保持からくる不足を補うために友好国の軍隊に駐留してもらうことも一見明白に憲法に違反するとは言えないというのがその趣旨、内容であります。防衛力の不足を何とかすると言っている文脈で、他国防衛たる集団的自衛権の話は入り込む余地はありません。四十七年政府意見書に至って九条解釈を砂川判決よりも絞り込んだのだという言い方がされることがありますが、それ自体が根拠を欠くと言うべきであります。

 次、四十七年政府意見書とはどういうものかであります。

 限定的な集団的自衛権なら合憲であり得るという主張は、まず、四十七年意見書の文言自体に反します。同意見書は、結論として、「したがつて、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。」としているのでありまして、留保なしに論理的帰結として記述しています。どうしてこの文書を集団的自衛権容認の根拠として使えるのでありましょうか。

 文言に反するさらなる点を指摘します。

 同意見書は、九条も、我が国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでを放棄していないことは明らかであるが、しかしながら、それは、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、身体、幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態に対処するためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであると指摘しています。

 この部分は、昨年七月一日の閣議決定にもそのとおり引用され、「この基本的な論理は、憲法第九条の下では今後とも維持されなければならない。」と言われています。

 この「外国の武力攻撃」とは何を指すかであります。外国とは相対的な概念でありますから、その後に「国民」とありますので、それとの関係において考えるしかありません。つまり、外国の我が国に対する武力攻撃によって我が国民のと読むしかないのであります。

 四十七年意見書と同趣旨を述べている平成十六年六月十八日答弁書というのがありまして、そこには、「外部からの武力攻撃によって国民の生命や身体が」と言っています。これは同じことなんですが、これを見れば、外部から我が国に向けてなされる武力攻撃のことだけを指していることはより明白でありましょう。

 ところが、現在の政府答弁は、四十七年意見書に我が国に対すると明白には書かれていないから、「外国の武力攻撃」とある表現には、我が国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃も含むと読めると強弁して、いわゆる新三要件には四十七年見解との連続性があると主張しているわけですが、これは、いわば黒を白と言いくるめる類いと言うしかありません。同年意見書における集団的自衛権違憲との結論は、その文章構成自体からも論理の帰結として述べられているのであって、当時の状況のみに応じた、いわば臨時的な当てはめの結果などと解する余地は全くないと思います。

 さらに、四十七年政府意見書から、集団的自衛権の限定的容認の余地を読み取ろうというのは、前後の圧倒的な経緯に明らかに反します。

 まず、四十七年意見書がなぜ参議院決算委員会に提出されたのかのいきさつであります。

 これに先立つ同年五月と九月に、野党の水口委員という方が、当時の法制次長と法制局長官に対し、集団的自衛権についての論争を挑みました。これに対して当時の真田次長、吉国長官は、最高裁の砂川判決で自衛権が承認されておりますと紹介しつつ、ある他国が仮に我が国と連帯的関係にあったからといって、我が国自体が侵害を受けたわけでないにかかわらず、我が国が武力をもってこれに参加するということは、よもや憲法九条が許しているとは思えない、論理の帰結として、いわゆる集団的自衛権の権利は行使できない、これは政策論として申し上げているわけではなくて、法律論として申し上げているつもりと繰り返し答弁しました。

 それに対し、質問者から、それではその点明確に文書で回答願いたいとの要求があり、それに対して政府の回答として出されたのが、この四十七年政府意見書なのであります。だからこそ、その意見書は、冒頭に、政府は、従来から一貫して、いわゆる集団的自衛権を行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界を超えるものであって許されないとの立場に立っているが、これは次のような考え方に基づくものであるとの書き出しをもって始まっているのです。

 さて、四十七年見解の後について見ても、集団的自衛権は、論理的に、留保なしに憲法に違反するというのが政府の一貫した明示の立場でありました。一例だけ申し上げます。

 平成十六年六月、先ほど申しましたように、島聡議員という方から質問主意書が出され、政府から正式な答弁書が出されております。同議員は、ちょっと省略しますが、「場合を限局して」、限って「集団的自衛権の行使を認めるという解釈をとることはできないか。」と質問しているのですが、同答弁書は、先ほど述べたとおり、四十七年政府意見書とまさに同一の論理でこれを否定しているのであります。

 今回の法案は、昨年の閣議決定で決めた「我が国の存立が脅かされ、」云々を存立要件と称し、集団的自衛権の行使が限定的である歯どめだとしています。しかし、いわゆるホルムズ海峡の答弁や、米軍の存在が我が国の死活的利益であるとの外務大臣答弁を見れば、この要件が何らの歯どめになっていないことは既に明らかになっていると私は思います。

 最近、政府当局者は、自国を守るための集団的自衛権とそれ以外の集団的自衛権を分け、後者をフルスペックの集団的自衛権と称し、前者は合憲、後者は違憲と言っています。しかし、自国防衛と称して、攻撃を受けていないのに武力行使をするのは、違法とされる先制攻撃そのものであります。また、自国の利益とかかわりのない、あるいは希薄な集団的自衛権などというものがかつて主張されたことがあったでしょうか。どこの国も、自国の死活的な利益にかかわると称して集団的自衛権行使の軍を出しているのであります。

 かようなものだけをフルセット集団的自衛権と定義するなどは虚構であり、まして、四十七年政府意見書を含む累次の政府見解が違憲と言ってきたのはこのフルスペックの集団的自衛権のことであったなどというのは、歴史を甚だしく歪曲するばかりか、仮にそうであるならば、従来の政府解釈を変更したというみずからの言明との矛盾も来すものであります。

 以上、集団的自衛権の行使容認は、限定的と称するものを含めて、従来の政府見解とは相入れないものであって、これを内容とする今回の法案部分は、憲法九条に違反し、速やかに撤回されるべきものであることを述べました。

 法案のその余の部分については、直ちに憲法に抵触するとは私は考えるものではありませんが、一つ、他国の治安維持に自衛隊を投入し、他国軍からの要請に応じた駆けつけ警護と任務遂行妨害を排除するための武器使用を追加している部分は、停戦合意が崩れればたちまち深刻な混乱を招き、結果的に憲法違反の武力行使に至るおそれが大きいと憂慮いたしますし、二つ、改正自衛隊法九十五条の二で米国の武器等を自衛隊が防護する規定も、我が国の防衛力を構成する重要な物的手段だとの評価に重大な疑問があり、また、事前の回避義務、それから事後追撃禁止の条件を米軍自体に約束させるという前提でなければ、その自衛隊、自衛官による防護は、容易に違憲の武力行使に至るおそれがあると考えます。

 以上でございます。(拍手)

浜田委員長 ありがとうございました。

 次に、森本参考人にお願いいたします。

森本参考人 本日は、当特別委員会の参考人として意見陳述の機会を与えられたこと、光栄に存じ上げます。

 時間的な制約もあり、また、私は法律の専門家ではありませんので、法解釈というより政策論の観点から、特に重要と思われる問題について、二点に絞ってお話を申し上げたいと思います。

 基本的な考え方はレジュメに書いてあるのでございますけれども、まず、一番最初に、多くの国民は、なぜ今この時期にこの一連の安保法制を、採決を目指して国会で審議しているかについて素朴な疑問を持っているんだろうと思います。

 事務的に言いますと、昨年七月、武力行使に関する閣議決定があり、今年四月の末に日米防衛協力ガイドラインの合意ができたわけですが、この二つは、そのまま放置すれば、つまり実行できない。

 つまり、日本の法制というのは、自衛隊を運用させる、動かすためには、それに必要な法的根拠を明確にするという必要があるわけで、したがって、昨年の閣議決定、そして今年日米間で約束されたガイドラインを実際に実行するための法的根拠をつくるということが事務的に必要で、政府は、これを準備し、予算の審議が終わった後、今次通常国会において審議が始まっているので、まさにこの時期になっている。

 これがいわば事務的な理由ですが、それでは、そういう事務的な理由というより、むしろその背後に、なぜ昨年七月閣議決定に至ったのか、なぜことしガイドラインの合意ができたのかということが説明されなければ、なぜ今かということを説明することはできないんだろうと思います。

 これは、私は、このレジュメに書いてある2ポツのところの(2)、(3)、(4)を要領よくお話しすることになるんだろうと思いますが、その2の(3)で書いてある、多くの方が指摘されますように、安全保障環境がこの八年から九年、急速に変化し、それも、科学技術の変化や、あるいは武力行使を行う主体が必ずしも国家ではない、しかも予期できない、目的もはっきりしない、様相も不透明であるといった、幾つかの国際情勢の変化に、我が国の領土、国民の安全を維持しなければならないという客観的な情勢が出ているのではないかと思います。

 もっとはっきり申し上げると、私は、二〇〇六年ごろから東アジアにおける構造的な変化が起きていて、特に北朝鮮と中国は、相互に関連して、その時期をはかっているわけではないと思いますが、御承知のとおり、二〇〇六年以降、北朝鮮は三回にわたる核実験と数回にわたる弾道ミサイルの発射を行い、その射程がどんどん延び、いつこれが我が国の領域に近づくか、必ずしも相手の意図も様相もわからず、どの程度核兵器がいわゆる弾道ミサイルの弾頭部分に載っているかも必ずしも定かではない。報道も推測も幾つもありますけれども、安全保障というのは、常に、いかなる場合であれ、最悪の事態に備えるためにどのような予防措置をとり、抑止をきかせるかということでありますので、ある一つの情報と推測で政策をつくることはできないわけです。

 中国に至ってはもっと複雑で、はっきり申し上げると、二〇〇八年ぐらい、中国は、アメリカに太平洋二分割論を、公式であるか非公式であるかわかりませんが、アメリカ側に提案をしたこの時期から、明らかに太平洋に、外洋に出てくるという行為が毎年少しずつ東側東側に広がっていって、二〇〇八年から二〇〇九年、日本列島を越えて太平洋側、あるいは津軽海峡を越えて日本海に入っていくという活動が広がっていったわけです。

 後でお話をすることをやめて、今あらかじめお話をしておいた方がよいと思うのですが、二〇一二年の八月、私がたまたま大臣であったときに、ワシントンにおけるパネッタ国防長官との日米の会談において、日米防衛協力ガイドラインを研究したいということを提案し、当時、事務当局は、防衛省であれ外務省であれ、必ずしも全員がこの意見に賛成するという状況ではありませんでした。明らかに国際環境が変わっているのですけれども、日本側の対応が全く変わらないのであれば、日米防衛協力のガイドラインを見直して新しいものにするほどの必然性というのが見出せないというのが多くの意見でした。

 これは民主党時代の一つの限界であったと思いますが、その後、安倍政権になって安保法制懇もでき、安全保障環境だけではなくて、今から申し上げるもう一つの要素があって、日本側の役割あるいは機能の分担を広げていくという決断をして、そのことによってガイドラインの中身が変化できる、つまり修正できるということになり、これは当時の外務省、防衛省の努力もあったと思いますが、御承知のとおり、二〇一三年の十月に行われた2プラス2で正式に日米間でガイドラインの見直しの合意が図られ、昨年十月に中間報告、今年四月の末に最終合意ができたわけです。

 したがって、まず、安全保障環境の変化だけでガイドラインの変更が行われたわけではないということで、これはまさに、日本の政策変更というものとセットになって初めてガイドラインの見直しということができたんだろうと思います。

 それでは、一体、日本側の政策変化、政策修正というものの背後に何があったのかということについて、これは全く私の臆測なので、必ずしも明白な根拠をお示しすることができないのですが、私が指摘したいと思っている点が二つあって、それが、2の(2)のところと2の(4)のところとに書いてあることです。

 第一の問題は、日米安保条約というのは、五一年旧日米安保条約が一九六〇年に改定されたことは御承知のとおりであります。この改定された今の条約第五条には、締約国は、日本の施政のもとにある領域におけるいずれか一方に対する武力攻撃を、自国の平和と安全に対する危険であると認め、それぞれの憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するよう宣言すると書いてあります。

 自衛権とは国家の権利であって義務ではありませんが、この条約を結ぶことによって、日本の施政のもとにある領域に対する武力攻撃があったとき、アメリカは日本を防衛する義務を共同運用という形で負うことになり、他方、アメリカの施政のもとにある領域が攻撃された場合、日本は条約上の義務を負いません。この片務性を解消することが、日米同盟の最も大きな、一九六〇年に改定された安保条約の最大のテーマであったと思います。

 もっとも、この片務性を解消するために、安保条約は、第六条において、合衆国軍隊に日本の施設・区域を提供し、それを国際の平和と安全のため、日本の平和のために使用することができる便宜をアメリカ側に与えて、五条におけるアメリカの日本防衛の義務とバランスしているという議論がありますけれども、アメリカから見ると、アメリカの兵員の犠牲を負い日本を防衛する義務は、日本が施設・区域を提供するという、アクセスを与える影響とはとてもバランスができないと考えている人がいて、その結果、日米関係が難しくなるとき、必ずアメリカ側からフリーライド論、つまり安保ただ乗り論というのが出てきたわけであります。

 日米同盟をいかにしてイコールパートナーシップに近づけることができるか、これは大きな政策課題で、完全に同盟を運命共同体にするためには、多くの方が認められているように、憲法を改正して、相互補助、運命共同体としての共同防衛を結ばないといけないということだと思います。

 現在の憲法の枠の中で、できるだけこの片務性を、解消はできないものの、アメリカに対して必要な貢献や、あるいは役割の分担を図ることができないのか、これがガイドラインを見直した第一の理由です。

 もう一つの理由は、ここに書いてありますように、国際社会における日本に対する期待、これは、アメリカの期待のみならず、多くのアジア太平洋諸国が持っておる期待。そして、日本が将来にわたりこの地域でリーダーシップを発揮するために、日本は今までにない日本の役割を機能的に発揮する必要があり、しかも、多国間の安全保障協力というのは、まさに一国では国家の安全が維持できない安全保障環境の中で、この多国間安全保障協力に積極的に参加するためには、今の法制度では必ずしも十分ではない。この問題を解決するということがガイドライン見直しの大きな背後要因であったと思います。

 この二つの理由があって、二つの法的措置がとられて、これを法律の形にするということが今立法府で御議論いただいている安保法制の背後関係だというふうに私は理解しています。

 時間がありませんので、もう一つだけ。

 それでは、この安保法制、私は基本的に、我が国の安全保障にとって極めて重要な意味と役割を有する法制であって、しかしながら一方、この法制に対する十分な国民の理解と支持を広げることが何よりも必要であると考えていますが、それを行うためには、この法律をつくるためにできた新しい用語や定義が必ずしもまだ国民の中に浸透しておらず、言葉を聞いただけでもなかなかよくわからない。したがって、当然中身についても理解が広まらない。この問題をこれからの国会審議でどのように具体的な例を挙げて国民にわかりやすく説明していただけるか、これは立法府における審議の大きな課題であると考えます。

 同時に、リスクというものの議論がありますけれども、リスクというものは常にあるもので、リスクのあるなしを議論するというより、むしろ、どのようにしてリスクを管理し、管理をすることの前提としては、リスクが起こることを予見し、情報収集を強化し、対策をとり、訓練を行い、訓練を行うための必要な手順をつくり、体制を整え、この法体系を満足にかつ効果的に実施できるような体制を今後どのようにしてつくっていくかということが、この法制をより実効性のあるものにするための措置と手段であるというふうに考えます。

 いずれにせよ、私の結論は、今申し上げたように、現状及び将来の安全保障環境の中で、国の存立、国民の安全を効果的に守るために、周辺諸国の脅威に対応する十分な体制が今の法体系でできているのか、私は必ずしもできていないと思います。

 同時に、日米同盟は、日本の防衛力とともに安全保障の基盤であり、最も重要な安全保障課題。これはアメリカのリバランスをどのように同盟国として補完し、この地域の抑止と対応の能力をつけることができるか、これがこの法制の抱えている最も重要な命題ではないか、かように感じているわけでございます。

 以上でございます。ありがとうございます。(拍手)

浜田委員長 ありがとうございました。

 以上で参考人の意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

浜田委員長 これより参考人に対する質疑を行います。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。平沢勝栄君。

平沢委員 自民党の平沢勝栄でございます。

 五人の参考人の皆さん方には、大変お忙しい中おいでいただき、貴重な御意見を本当にありがとうございました。

 そこでまず、今お聞きしまして、西先生にちょっとお聞きしたいんですけれども、西先生、枝野民主党幹事長の御発言に言及されました。それで、資料を読ませていただきますと、枝野幹事長は、そもそも、こうした個別的自衛権か集団的自衛権かという二元論で語ること自体、おかしな話です。そんな議論を行っているのは、日本の政治家や学者くらいでしょうと。

 なかなか立派なことを言っておられるなと思いましたけれども、そこで西参考人にお伺いいたしたいと思いますけれども、これは文芸春秋のおととしのものに出たということでしょうね。ですから、つい最近のお話ですよね。ということを確認させていただきたいのと、それからもう一つは、こういったお考えについて先生はどうお考えになられるか、それをちょっとお聞きさせてください。

西参考人 申し上げます。

 この本であります。文芸春秋、二〇一三年の十月。なぜこれが頭にあったかというと、枝野先生のこの部分、私はむしろ非常に共感を覚えたんです。それまでずっと、やれ集団的自衛権やら、やれ個別的自衛権やら、いろいろ議論がありました。でも、これを見て、本当に目からうろこといいますか、なるほど、集団自衛権と個別自衛権を分けることは無意味である、こんなようなことを私はこのとき記憶をしていたわけです。そして、この間、岡田党首が、絶対に個別的自衛権はやる、集団的自衛権はとおっしゃったから、あれ、あの本はどうなんだろうかということで、これをもう一度見直した。

 私は、この部分は非常に大切だと思うし、私もこれを分けること、そのことが無意味であるということで、非常に頭に、印象に残ったということでございます。

 以上です。

平沢委員 今、民主党さんが言っておられることと完全に違うなという感じがしますけれども、枝野幹事長にはぜひ、最近言われたことですので、御自分の政治的信念を貫いていただきたいなと思います。

 そこで、次の質問に移らせていただきますけれども、憲法審査会が先日、四日に行われたときに、小林参考人もおられましたけれども、三人の参考人の方全員が、今回の平和安全法制については違憲である、疑いが強いということを言われたわけでございますけれども、まだ賛成の参考人の方から意見を聞いておりませんので、国民の皆さん、非常にわかりにくいという声がありますので、西先生に、今回の平和安全法制はなぜ違憲でないか、わかりやすく御説明いただけませんでしょうか。

西参考人 私の見解を申し上げます。

 衆議院の憲法審査会の速記録で、長谷部参考人、小林参考人それから笹田参考人の、それぞれの違憲の立場を少し読ませていただきました。

 長谷部先生はこんなふうにおっしゃっておられます。私は集団自衛権は憲法違反であると思う、従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつかない。これが非常に大きな理由になっていらっしゃいます。

 私、考えるわけであります。政府の従来の基本的な論理にかんがえて憲法違反だということですよね。憲法がここにあります。憲法がここにあります。憲法に対する政府の見解はその上にあるわけです。解釈がいろいろあるわけです、裁判所もあります、学説もあります。憲法に違反するかどうかは、憲法の解釈の枠を対象にするものではないと思います。憲法に反するかどうかは、政府の憲法解釈の枠ではなくて、憲法そのものについて憲法違反かどうか、これを考えるのが憲法学者ではないか。

 おわかりですね。政府の憲法解釈云々の枠を超えておるから憲法違反だと。憲法そのものの枠の中で憲法違反かどうか考えるべきだと思います。

 笹田先生も同様であります。笹田先生は、この速記録によると、私は、従来の法制局と自民党政権のつくったものがここまでだよなと本当に強く思っていた、でも、お二方の先生がおっしゃったように、今の言葉では定義を踏み越えてしまった。政府、要するに従来の法制局と自民党政権がつくったものを超えてしまった、だから憲法違反だと。

 やはりこれは、政府解釈とか、これが憲法違反の判断になっているんですね。憲法判断なんだから憲法そのものでしょう。だからもう的が違う、お二人について私ははっきり思います。

 それから、小林先生、ここにいらっしゃいますけれども、先生は二項違反だということで、こんなふうにおっしゃっております。「少なくとも、仲間の国を助けるために海外に戦争に行く、これが集団的自衛権でないと言う人はいないはずです。」と。

 集団自衛権、これは、今の政府の新三原則、あえて必要ないと思います。それから、政府は、他国の防衛、それ自体を目的で今の限定的な集団的自衛権を使うのではないんだとはっきり言っています。新三要件をここに繰り返すことはないと思いますね。我が国の存立とか国民の生命、自由、幸福、財産が根底から覆される明白な危険、このときにだけ使うわけですね。ですから、小林先生がいらっしゃいますけれども、やはりそういう政府のきちんとしたものを踏まえて解釈をなさったのかどうなのか。

 そこで、小林先生、さっき御自分で「憲法守って国滅ぶ」ということを、御著書を挙げられました。ここではっきり申し上げております。「わが国は自衛戦争と自衛軍の保持までも自ら禁止したのだという意味」があるけれども、そういうふうに「九条を読まなければならない理由はない。」この本では、自衛軍の保持まで認めていらっしゃるわけです。

 そして、「それによって私達はもはや被害者にもなり得ないと思い込んだり、万一被害を受けても無抵抗でいる……などと決意したならば、それは、しばしば皮肉を込めて呼ばれている「理想主義」などではなく、もはや、愚かな「空想主義」または卑怯な「敗北主義」と呼ばれるべきものであろう。」自衛戦争とかを禁じた、まさに空想主義、敗北主義であると。

 私は、そんなふうになりたくないと思っております。私は、現実主義、現状を見たい。

 いずれにしましても、このお三方の憲法審査会の憲法違反の理由を見ると、全く的外れか、根拠は極めて薄弱である、私はそんなふうに断言をしたいと思います。

 以上です。

平沢委員 ありがとうございました。

 では、次の質問に移らせていただきます。

 今回の問題で、憲法学者の多くの方は違憲としておられるわけでございますけれども、今まで学者の方とそれから政治が対立したことは、重要な局面で、特に外交、安全保障の重要な局面で何回もあったわけでございます。

 一番昔でいうと、日本が国際社会に復帰するときの、全面講和か単独講和か。あのときに、学者の方は全面講和を主張して、日本は、政治は単独講和を選んで、それは大成功だったということは御案内のとおりでございます。安保条約改定のときもそうだったし、自衛隊を、憲法学者の多くの方は違憲ということをずっと言っておられたわけですけれども、もし自衛隊がなかったら今の安全保障環境の中で日本はどうなっていたのかと思うと、学者の意見に従っていたら大変なことになっていたなと。

 少なくとも今までは、いろいろな局面で学者の意見は必ずしも正しくなかったということは歴史が証明しているわけですけれども、そういった中で、一番直近の例でいいますと、一九九二年のPKO協力法案のとき、あのときに、御案内のとおり、あの当時の新聞を見ましたら、憲法学者の多くはPKO協力法案に反対しておられるんです。

 そこで何と言っていたかというと、憲法違反であるということと、もう一つ言っておられたのは、もし自衛隊が海外にPKOで行くことになれば、アジア諸国は猛烈に日本に反対する、反発する、関係が悪くなるということを言っておられたんです。その後の歩みは皆さん御案内のとおりでございまして、日本とアジア諸国が反発し合っている、関係が悪くなったというような例は全くないわけでございます。

 あのときに、PKO法案のときに、たしか西先生は国会に呼ばれて発言されたと思いますけれども、あのときの御経験をちょっとお話しいただけますか。

西参考人 私も、PKO法案合憲の立場でありました。そのとき何と言われたか。憲法学者では圧倒的少数だと言われました。でも、私は、今言ったような立場を自分は堅持してきたつもりであります。

 今、何か報道によると、三対百四十とかなんとかかんとかと言われていますけれども、その多くの憲法学者で、先ほど言いました、憲法九条の成立をきちんと踏まえているかどうか、比較憲法の中でやっているかどうか、そういう面から私は百四十何人の人たちの憲法九条論を聞いたことがございません。

 私は、そのとき民社党の推薦でありましたけれども、たとえ少数説であっても、これは説の多寡ではないと思っております。私は、自分の説は正しかった、そしてそれがそのとおり来たというふうに、自分の説に自負を持っております。

 以上です。

平沢委員 森本先生にもちょっとお聞きしたいんです。

 PKO法案、憲法学者の多くは当時の報道を見てみますと反対していたんですけれども、PKO法案はその後二十数年の歩みがあります。これは憲法学者の反対を押し切った形になるんですけれども、実際にこういう形で成功してよかったと思われるのかどうか。森本先生、いかがですか。

森本参考人 確かに、先生御指摘のように、PKO法案を国会で成立させるとき、国内世論も必ずしも賛成者が多くあったわけではなく、学者の多くの方は御反対であったという記録を持っております。

 しかし、最新の世論調査、内閣府の世論調査では、積極的にもっとPKOに参加すべきだ、あるいは今までのレベル、今までやってきたレベルの活動を続けるべきだという二つに賛成する合計が八三・七%。参加すべきでないというのが一・五%。

 ということは、これは、自衛隊も、あるいは日米安保条約も大体八、九割、そういう結果になっているんですが、それでは、賛成できないという人は一体日本の国内でどういう人なのか。憲法学者とそのお弟子さんなのか。私はそう思いません。

 そう思わないのは、私は、日本の国民というのは、憲法の解釈は解釈、それは極めて重要でありますけれども、現実の国の安全あるいは現実の政策というものが法理の解釈どおりに対応できているとは必ずしも考えていない、非常に現実的な判断をしていろいろな問題に対応しようとしているのではないかと思うんです。

 PKOも、実際に出るときは大変な懸念があり、私も隊員を見ていたときに、何か、涙ながらに、みんな永の別れをするような、決死の覚悟でPKOに出ていったわけですけれども、日本人が行った、組織のマネジメント能力の高さ、活動の効率さ、そしてその結果として、日本の活動が規律正しく、かつ命令指揮系統が極めて厳格で、そのことについて国際社会に高い評価が伝わって、それが国内にはね返って、国内の世論が支持にどんどんと回るという状態もあったわけです。

 そういう意味で、日本の国民はバランスよく法律と現実社会というものを見て対応しているということと同時に、初めにリスクがあるんですけれども、自衛隊は、そのリスクをいかに少なくするかということを、知恵を絞って知恵を絞って、隊員の身の安全を維持できるようにいろいろな配慮をして領域外に出しているので、私は、現在の自衛隊の隊員の組織管理の能力というものについては大変信頼しているということでございます。

平沢委員 ありがとうございました。

 次に、時間がないので急ぎますけれども、砂川判決についてお聞きしたいと思うんです。

 砂川判決について先ほど宮崎参考人も触れられましたけれども、この砂川判決については、自衛権については触れていますけれども、集団的とか個別的とか触れているわけじゃないので集団的自衛権は認められたものでないという意見がある一方で、これは当然、集団的自衛権も認められる、そういうふうに言われてもいるわけでございます。

 それから、先ほど西参考人がお配りした資料を見てみますと、一番最後の方に、当時の田中耕太郎長官の補足意見が出ていまして、大変におもしろいなと思ったのは、

 自衛はすなわち「他衛」、他衛はすなわち自衛という関係がある

ということも言っておられますし、

 自国の防衛を全然考慮しない態度はもちろん、これだけを考えて他の国々の防衛に熱意と関心とをもたない態度も、憲法前文にいわゆる「自国のことのみに専念」する国家的利己主義であつて、真の平和主義に忠実なものとはいえない。

田中耕太郎長官もいいことを言われたなと思いますけれども、こうした砂川判決について、西参考人の御意見をお願いいたします。

西参考人 時間がもうほとんどないわけですよね。では、ごく簡単に申し上げたいと思います。

 三ページに、砂川事件についての最高裁判決があります。よく知られているのは、

 わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。

ということはあります、ここのところはよく引用されるんですけれども、むしろ先生方に読んでいただきたいのは、時間の関係もあるかと思って、これは読み上げるだけで失礼させていただきます。十ページの真ん中、ここを読み上げさせていただき、ほんの一言だけ私の意見を申し上げて、終わらせていただきます。

 その前にちょっと一言申し上げると、旧日米安保条約というのは、もともと我が国の安全と集団的自衛権について、九ページをごらんになっていただければわかるように、国際連合憲章で個別的、集団的自衛権があるわけです、そして、これらの権利の行使として、日本はアメリカに駐留を許すんだ。全ての国は個別的自衛権、集団的自衛権を持っている、これらの権利というのは当然入っているわけです。

 そして、それを前提にして、時間がございませんので、ちょっと早口で申し上げます。十ページ目。

 わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであつて、憲法九条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである。 平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認しているのに基き、わが国の防衛のための暫定措置として、武力攻撃を阻止するため、わが国はアメリカ合衆国がわが国内およびその附近にその軍隊を配備する権利を許容する等、わが国の安全と防衛を確保するに必要な事項を定めるにあることは明瞭である。それ故、右安全保障条約は、その内容において、主権国としてのわが国の平和と安全、ひいてはわが国存立の基礎に極めて重大な関係を有するもの

であって、

 また、その成立に当つては、時の内閣は憲法の条章に基き、米国と数次に亘る交渉の末、わが国の重大政策として適式に締結し、その後、それが憲法に適合するか否かの討議をも含めて衆参両院において慎重に審議せられた上、適法妥当なものとして国会の承認を経たものであることも公知の事実

「憲法の条章に基き、」とはっきり書いてあるわけであります。

 田中長官の最後のところに、

 自国の防衛を全然考慮しない態度はもちろん、これだけを考えて他の国々の防衛に熱意と関心とをもたない態度も、憲法前文にいわゆる「自国のことのみに専念」する国家的利己主義であつて、真の平和主義に忠実なものとはいえない。

我々は、国家的利己主義ではなくて、真の平和主義に基づいたものを考えていかなきゃならない、それがこの最高裁の言っていることでありまして、最高裁は、集団的自衛権、個別的自衛権、先ほどの枝野論理であれば余り問題はないんです。本当に固有の自衛権を行使する、それが一番大切である、私はそういうふうに申し上げて、終わります。

 どうもありがとうございます。

平沢委員 時間が来たから終わりますけれども、今回の法案についてはいろいろ反対がありますけれども、諸外国は、南米や中東の国も含めて全て、私が知っている限り全ての国が賛成している、歓迎している。近隣の中国、韓国、ロシアは賛成とは言わないけれども、注視しているというような言い方をしているわけでございます。これは、別にこの法案に反対しているわけじゃなくて、やはり、歴史認識とかいろいろな問題があるから注視しているということを言っているわけでございまして、そういった世界各国の期待に応える必要があるんじゃないかなということをつけ加えさせていただきまして、私の質問を終わります。

 ありがとうございました。

浜田委員長 次に、大串博志君。

大串(博)委員 おはようございます。民主党の大串博志でございます。

 早速質問に入らせていただきます。

 五人の参考人の先生方、本当にありがとうございました。貴重な御意見をいただきまして、大変勉強になりました、参考にもなりました。

 そこで、少し、さらに質問させていただきたいと思います。

 まず、西先生に少し御所感をお伺いしたいと思いますけれども、西先生は、るる今御説明あったように、いろいろな御意見をお持ちで、かつ、安倍政権における安保法制懇の唯一の憲法学者としての参加者として理論的支柱でいらっしゃると、私、そういう目で先生のことをフォローさせていただいております。

 そういう中で、先ほど先生がおっしゃった中で、集団的自衛権が憲法に反しないという御主張の中で、憲法の基本的枠組みと政府は言うけれども、憲法の基本的枠組みにどうかということに政府がとらわれるのではなくて、それを超えた、憲法そのものと相対峙していく、そういうふうな考え方なんだというふうにおっしゃったものですから、あれっと私が思ったのは、政府が今合憲だと言っている論拠たる、いわゆる基本的論理、七二年見解の基本的論理にのっとって、我が国の権利が根底から覆される、我が国を守るための集団的自衛権だから合憲なんだという理屈よりもさらに幅広い考え方で、集団的自衛権は合憲だと考えていらっしゃるのかなというふうに思った、これが私の感想であるのが一つ。

 質問させていただきたい点は、先生、最近、徴兵制に関してもいろいろな議論がこの委員会でるる出ておりますけれども、徴兵制に関して、憲法十八条の定める、その意に反する苦役に該当するかどうかということで、先生は、書物等々でも、政府の、徴兵制というのはその意に反する苦役なんだという考え方は世界的には通用しない考え方だ、こういうふうにおっしゃっていらっしゃいます。

 この点に関して、今でもこういう考え方を維持されていらっしゃるのか。かつ、これはかなり、いわゆる学界の中では少数の考え方ではないかなと思うんですけれども、どういうふうに御認識か、御所見をいただきたいと思います。

西参考人 私の徴兵制に関するごく最近の考え方につきましては、私のこの「いちばんよくわかる!憲法第9条」にございます。別に、自己宣伝するわけじゃありません、今何も持ってきていないものですから。

 そこでは、徴兵制に行き着くという飛躍した論理があります、でも、私は、このような考え方はいかがかと。そこで、これは全部読むと時間がありませんので、ごく簡単に申し上げますと、私はなぜこういう徴兵制に行き着くかというような感情的な考え方に反対か。

 一つは、政府は、徴兵制を憲法違反であると解釈し続けております。政府は、十三条、十八条、こういう条項によって、意に反する苦役は、これはだめですと。政府としては、横畠さんですか、従来の解釈を踏襲して、平時、有事を問わず、憲法上、徴兵制をとることはあり得ず、憲法解釈上の変更の余地はない、こういうことを明言しているではないか。

 それから第二には、二つに、現代の兵器水準は徴兵制をほぼ無用にしております。私は、今の徴兵制というのは、無用論、不要論、非現実論。今の軍隊というのはプロフェッショナルの集団でありまして、だからこそ、ドイツ、イタリア、これは徴兵制を憲法で規定しているんですよ、憲法で規定しております。憲法で規定しておるそのドイツ、イタリアでも、これは今志願制です。

 ヨーロッパで徴兵制はスイスですよね。スイスは徴兵制、憲法で規定してあります。軍隊を持っています。しかし、あれは御存じのように、ハリネズミのような国防体制、徴兵制です。我が国がもし非集団自衛権論をとるならば、スイスのような、あのような、ハリネズミのような国防体制をとるのか。これは、私はナンセンスだと思います。であるならば、日米安保条約というものを強化して、そしてお互いに助け合う、これが私は一番重要である。

 それから第三には、何か、これは、徴兵制をとられると、例えば、もう自衛官はだめだからということで防衛大学校生も少なくなると。しかし、防衛大学校の志願者は多くなってきている。

 それゆえ、集団的自衛権の容認が徴兵制に結びつくというのは、国民の感情論に訴えた非現実的な反対論だということで、非現実性を言っておりますけれども、そこで、私については、いろいろな案を、グループで憲法案を書いております。私の考え方が一番出ているのは、創憲案というのがあります。旧民社党の人たちの創憲案。その創憲案の第三条にはっきり書いてあります。兵役はこれを認めない、徴兵制はこれを認めない、これが私の現在の徴兵制論であります。

 以上です。

大串(博)委員 書物に、先生、徴兵制は、兵役は苦役に当たるという考え方は世界的な流れに反するというふうな御指摘があられましたものですから、確認をさせていただきました。

 それでは、小林先生にお尋ねさせていただきたいと思いますけれども、先ほど来話のある集団的自衛権の議論でございます。西先生からもいろいろな話が先ほどございました。

 その中で、私、これまで議論していて、集団的自衛権はフルセットではこれまで政府は認めてこなかったけれども、限定的な、自国を守る集団的自衛権であれば限定的に認めていこうというのが政府の考え方のように思われます。

 この間、法制局長官からフグの例えがあって、肝を外せばいいんだということでありましたけれども、どうも、調べてみると、フグには皮や肉にも毒のあるところがあるそうで、なかなか難しいもののようでございます。

 そういったものも含めて考えて、先生、私はやはり、限定的だからいいんだ、限定的だから集団的自衛権はいいんだという考え方、これまでの政府、あるいは憲法の考え方として本当に整合するんだろうか。この辺のことを小林先生の御意見をいただきたいというふうに思います。

小林参考人 国際法の話ですから、もともとぼさっとした話なんですけれども、個別的自衛権というのは、自分がやられて自分がやり返す、集団的自衛権というのは、仲間の誰かがやられたとき、仲間の誰であれそれに参加してやり返すということで、今回の政府の説明では、自国の利害にかかわりがあるときだけの集団的自衛権だからオーケーなんだと言いますけれども、問題は、それを集団的自衛権という言葉で世界に向かって発信してしまっておりますから、しかも、状況認識が政府の裁量事項みたいな運用がなされますので、まさにフルセットの集団的自衛権を宣言したとしか世間的には思われないし、法的にも歯どめが発見できない。

 それから、私は思うんですけれども、我が国の利害に関係があるときだけの集団的自衛権というんだったら個別的自衛権で説明がつくわけで、要するに、口実として私の利益にかこつけて、相手を助けに行く事例にすぎないと、今言われたものは思います。

 ですから、やはりこれは、前提としての集団と個別の概念ははっきりしておりますから、憲法上の問題もあるし、それから政策的な当否もありますし、余りに危険が大き過ぎますので、憲法が認める伝統の個別的自衛権に閉じこもるべきだと私は思っております。

 以上です。

大串(博)委員 憲法審査会で三人の憲法学者の皆様が違憲だという考え方を述べられたところからいろいろな議論が起こっているわけでございますけれども、また小林先生にお尋ねしたいと思うんです。

 よく、憲法のことを判断するのは最高裁なんだ、最高裁なんだから、逆の意味は、憲法学者の方々の意見というのは軽く見ていいものだみたいな雰囲気を私は受け取ったんですけれども、私も法学を学んできて思ったのは、最高裁の、いろいろな判例の勉強もします、勉強してきた中で、最高裁が、あるいはいろいろな裁判所が判例をつくっていく、裁判の判断をしていく中において、やはり憲法学界あるいはいろいろな法学界における学者の先生方の通説あるいは多数説あるいは少数説、これは現状あるものとして、それを前提として、それを踏まえた上で裁判所もいろいろな判断をしていっている。そういう意味において、やはり学界の説というのは大変重要なものではないかと私は思うんですね。

 先ほどPKOの話がありましたけれども、PKOのように新法をつくったときと今回の場合はかなり違っていて、何十年という憲法解釈が既にあって、議論の積み上げがあって、政府答弁があって、それを今回変えていこうという話と随分違うんじゃないかと思うんです。そういう意味で、積み上げという意味においては、学界の議論も積み上げが相当あった中で、これを、学界の声を無視していいものかという論点は私はあると思うんですね。

 先生にお尋ねしたいのは、いろいろな、裁判実務等も含めてこれから行われる中で、やはり学界の声というのは相当無視できない、これが日本の法学界の実態ではないかと思うんですけれども、いかがでしょうか。

小林参考人 難問ですけれども、ただ、一般論から入りますと、憲法の有権解釈をする権限は、国会と内閣と最高裁にそれぞれ対等にあるんですね。まず、内閣が政策目標を決めるに当たって、どこまで憲法で許されているか、内閣法制局の意見を聞きながら内閣の解釈を固める。そして、国会には衆参にそれぞれ法制局があって、その意見を聞きながら、国会としての、要するに法律が通ったということは合憲ということですから、有権解釈。それが、後に事件があって数年後に最高裁にたどり着いて、最高裁がその事件の限りで有権解釈をする。それがもし違憲だったら、尊重して、そこから今度、話がめぐっていくわけですよね。

 学者の仕事は何かというと、今回もそうなんですけれども、政治家というのはそれぞれ現実と向き合っています。ですから、国会にもたくさん法律家たる政治家がおられますけれども、その方たちは政治家として言動をしておられますよね。だから、やはり必要優先の議論をなさる。それに対して、過去、現在、未来にわたって一貫した法治国家でなきゃいけないという点から法制局の方たちもお話しするし、我々も、我々は、逆に言えば、利害を超えた世界の、坊主みたいなものでありまして、大学というところで伸び伸びと育ててもらっている人間ですから、利害は知りません。ただ条文の客観的意味はこうなんですという神学論争を言い伝える立場にいるわけです。

 それは当然参考にしていただかなきゃ困るので、事実として、そうか、神学でいくとまずいんだ、ではもとから変えていこうというふうに政治家が判断なさることはあると思うんですね。

 そういう意味で、我々は字面に拘泥するのが仕事でありまして、それが現実の政治家の必要とぶつかったら、それはそちらで調整なさってください。我々に決定権があるなんてさらさら思ってもいません。問われたから、我々の流儀でお答えしたまでのことでございます。

大串(博)委員 ありがとうございます。

 阪田先生にもお尋ね申し上げたいと思います。

 大変クリアな御説明、ありがとうございました。よくわかりました。

 七二年見解、基本的な論理、これとの整合性をできるだけ保とうと努力した跡も見える、そういう意味では評価もできる政府の今回の考え方というふうな御意見があり、しかし、その上で、それを見ると、今回の政府が示している集団的自衛権の三要件を見ると、普通に考えれば、我が国が直接的に武力攻撃を受けるような明白な危険があるような場合にのみそれで武力攻撃ができる、こうしか読めないにもかかわらず、例えばホルムズ海峡とかそういった事例に関しても、もうかなり何度も、代表的な事例としてこういう場合に行使をするんだというふうに言われておるというところに関しては、どうしても歯どめがないように思われて仕方がない、こういうふうな御意見だったというふうに思います。

 今、政府は、法律のみならず、法律をつくるときの国会での答弁、これらも一つのベースとなって法律が動かされていくということになります。今回の法律が仮に通ったら、ホルムズ海峡は一つの実例だということを前提にこの法律は運用されていくんだというふうに思うんですね。実際ホルムズ海峡のようなことが起こったときには存立危機事態となるかということを本当に考えていこうということになるんだと思うんです。

 そういった答弁が積み重なっているという、運用の見通しも含めて考えると、今回の法律、基本的論理との整合性を苦心しているところだというふうに理解しつつも、でも、運用まで含めて考えると、この法律及び運用も含めたところは、やはり憲法との関係では整合的なのかどうか、先生のお考えを聞かせていただきたいと思います。

阪田参考人 お答えをします。

 四十七年見解もそうですし、政府がずっと言ってきたのは、要するに、それは自衛隊が合憲であるということの論拠でもあるわけですけれども、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利」ですからね。またはではないので、全部が根底からひっくり返る、それはつまり有事だ。有事のときに、手をこまねいて、外国の軍隊が国土をじゅうりんするのを見ているというのが憲法の求めなのか、そうではありませんというのが政府の考え方。これは砂川事件の最高裁判決もそうだと思います。

 ですから、自衛のために必要な武力の行使はできるというところが一点で、だとすると、海外に、なぜそんなために出ていかなければいけないのかということだったわけですよね。

 ただ、そういう状況が被害の発生を意味していなかったわけで、我が国が攻撃されるといっても、それは攻撃の着手でもって足りるということも言ってきたわけですから、常に現実の被害がなければいけないということではない、そういう意味で、多少の裁量の余地はあったと思うんです。ですから、それが、向こうが攻撃に着手するまで待っていたんではとても守り切れないんだというような状況があるというのが、私は今回の政府のお考えなんだろうと思っている。

 そういう、現実に我が国が攻撃をされるというようなおそれが全くないというようなときに、これを、出かけていってやっつけるというのは、少なくとも四十七年見解や、今まで集団的自衛権がだめだ、自衛権はいいんだと言ってきた論理からは大きく外れていると思いますし、これはもう自衛のための集団的自衛権ではないので、まさに、国際的な貢献という意味で必要な集団的自衛権であって、従来の政府の論理を根底から変えますというふうにおっしゃって議論をしていただかないと、どっちがどっちなんだ、非常に、ああ言えばこう言う、こう言えばああ言うというのでは、やはり話がかみ合わないんだろうなというように思っています。

大串(博)委員 ありがとうございます。

 宮崎先生にもお尋ね申し上げたいと思いますけれども、他国領域での武力行使についてです。

 きょうは、説明を本当にありがとうございました。非常にクリアな説明で、砂川事件が集団的自衛権の根拠となり得ないこと、また、七二年政府見解をベースに考えても、七二年見解にある外国からの武力攻撃というものが、密接他国への武力攻撃というものを含んでいなかった、歴史的に含んでいなかったということもよくわかりましたので、基本的な論理という政府の説明をベースに集団的自衛権が限定的に合憲だということはなかなか言えないということはよくわかりました。

 その上で、先生にお尋ねしたいんですけれども、他国領域での武力行使の話がよく出てきています。政府は繰り返し、第三要件、必要最小限のところから、一般的に他国領域での武力行使は認められない、こういうふうに言ってきています。しかし、それは、もともとの、これまであった集団的自衛権は認められないとする立場において私は非常にすとんと落ちてくる話であって、もし、本当に集団的自衛権が行使できるということになった場合には、本当にそんなに簡単に、一般的に他国領域で武力行使しませんよとなり得るんだろうかという気がするんです。集団的自衛権を行使するというのは、むしろ他国領域で使うという方向になってしまうんじゃないかという気がしてならない。

 そういう意味で、本当に、ストレートに、集団的自衛権の場合でも一般的に他国領域では武力攻撃はできないんだとストレートに言えるものかどうか、その場合の必要最小限度の物差しというのはやはり変わってきちゃうんじゃないかという危惧があるものですから、この辺に関する御所見をいただけたらなというふうに思います。

宮崎参考人 おっしゃるとおりだと思うわけでありまして、一般にというのがどういう意味で言われているのか判然といたしません。一般的に言えばということだと思います。総理も、例外はあるんだということをおっしゃっていますので。

 その上で申し上げると、ホルムズ海峡の問題について言うと、他国の領海に入ることもあるということをお認めになっています。

 もう一つは、いわゆる策源地攻撃ですね。ミサイル等がどんどん飛んできて、一つ一つ落としていたのでは間に合わないというふうな場合には、その策源地まで攻撃することは理論上は自衛権の範囲だという答弁があって、これは集団的自衛権の場合も同じだという答弁があります。

 それで、それは撃つ方は海上か我が国かもしれませんけれども、策源地というのは他国の領土上なわけですから、そこに効果が発生するわけであります。そこでももう莫大な影響、もう既に例外が生じておると思いますので、一般にというのは例外は含むということ、それから、領海はもう場合によってはやるんだ、策源地というふうなことであれば外国領土も戦場になってもやむを得ないんだということまではもう政府が認めているんですね。

 もう一つだけ申し上げると、第三要件というところは、確かに文言上は、必要最小限度のものでなければいけないということであります。しかし、第一要件で、我が国に対する武力攻撃ではないけれども、他国に対する武力攻撃で一部は排除できるんだということが認められるわけですから、そのための必要最小限度というのは、当然、第一要件が膨らんだ分だけ緩むということにならざるを得ないと私は思います。

大串(博)委員 ありがとうございました。

 大変勉強になりました。私たちもさらに議論を尽くしていきたいと思います。ありがとうございました。

浜田委員長 次に、柿沢未途君。

柿沢委員 五人の参考人の皆さん、ありがとうございました。

 まず、委員長にお伺いをしておきたいと思います。

 この参考人質疑ですが、もともと、憲法や法律の専門家から、今回の安保法制の憲法適合性について深刻な疑義が投げかけられたことを受けて、その論点を深めるために開会されることになったものと承知しています。通常の重要法案の審議のときに、採決の前提として、手続の一環として、いわば一里塚として開かれる参考人質疑とは全く位置づけの違うものだと思っています。つまり、これをやったからといって採決の前提が満たされるなどとは到底言えないものだと思います。

 きのうの共同通信の世論調査でも、安倍政権が安保法制について国民に十分に説明できているか、できていない八四%、できている一三%。今国会成立に賛成二六%、反対六三%。今回の安保法制が一体何であるのか、また、なぜ今必要なのか、聞けば聞くほどわからない、こういうことなのではないかと思います。

 この状況の中で、数で押し切って、形式的に審議時間を積み重ねたからといって、採決ということは、これはやはり許されないのではないかと思います。

 戦後七十年、平和国家として歩んできた日本の歩みを大きく変える、言ってしまえば、日本の国柄を大きく変える可能性のある、そうした法案について、国会議員が国会の中に閉じこもって議論をしていてはいけない。日本はどういう国としてこれから生きていくのか、議論を深めて国民的な合意を形成しないといけないと思います。

 そういう意味で、これから、参考人質疑も二回、三回と重ねていって、十分な時間をかけて、そして国民的な合意を形成する、そうした委員会運営を委員長にお願いしたいと思いますが、いかがでしょうか。

浜田委員長 冒頭に申し上げましたように、この法案の議論を深めるために、今回の参考人を招致して、御意見をいただいて、そこで議論していくということでございますので、当然のごとく、今回の参考人の招致というのは、我々の議論を深めるためのものというふうに解釈をしておりますので、これからも必要があればさせていただくということだと思っております。

 以上です。

柿沢委員 御答弁をいただきました。

 それでは、参考人の皆さんにお伺いをしたいと思います。

 安保法制の憲法適合性について、衆議院の憲法審査会で、小林先生を初め憲法学者から、そろって、憲法の枠を逸脱していると痛烈なだめ出しを食らって、取ってつけたように、今度は合憲性に関する政府の見解のペーパーが六月の九日に出されました。

 しかし、これを読んでみると、「我が国の存立を脅かすことも現実に起こり得る。」とか、「我が国を防衛するためのやむを得ない必要最小限度」とか、読めば読むほど、では、なぜこれをわざわざ集団的自衛権と言わなければならないのか、首をかしげたくなるような説明がつらつらとあのペーパーには書かれているんです。

 あくまで我が国防衛だから合憲なんだとする政府の説明なわけですけれども、しかし一方で、国会の答弁を聞いていると、ホルムズ海峡の機雷掃海もどうしても集団的自衛権でやりたい、また燃料不足でも、また冷蔵庫が空になっても武力が行使できる、またサイバー攻撃でも武力行使ができると、拡大解釈の余地がどこまでもどこまでも広がりつつあるわけです。

 限定容認と言いつつ、新三要件がこのように歯どめとして機能しそうにないことが今回の安保法制に内在する根本的な問題であると私は思います。結果として、状況を見て総合的な判断をする、こういうことを名分として、時の政権に、安倍総理じゃないですよ、その後もそうです、時の政権にフリーハンドを与える、こういうものになっていることが問題だと思うんですよ。

 私は、昨年五月、政府が与党協議で示したいわゆる十五事例について当時検討させていただきましたけれども、例えば、朝鮮半島有事が発生したときに我が国近隣の公海上を航行する米艦船を防護するとか、あるいは発射されたミサイルが日本上空を通過するときに、日本が、どこに向かっているかわからないけれども撃ち落とすとか、こういうことを、集団的自衛権だからやってはいけないというふうには私たちも全く思っていません。しかし、それは、次の瞬間に我が国が攻撃の対象になり得る、そういう事態とみなせるからであって、そうした状況の中で我が国が座して死を待つわけにいかないということだからだと思っています。

 つまり、これらについては、基本的に他国防衛と見られている集団的自衛権をわざわざ根拠とする必要がない、こういうふうに思うわけなんです。

 その上で、昨年九月、我が党の結党時にまとめた自衛権に関する見解では、自衛権の再定義というコンセプトを打ち出して、今回の安保法制の議論においては、我が党の独自案として、日本の防衛に資する活動を行っている他国の軍あるいは部隊が武力攻撃を受けた場合であって、これを排除しなければ我が国に対する外部からの武力攻撃が発生する明白な危険が切迫すると認められるに至ったとき、このときに我が国防衛のための事態対処として武力行使が可能となる、こういうふうに、いわば厳格な要件づけを行うことを検討しております。

 こういう整理であれば、今さんざん言われている、憲法に基づく国是である専守防衛の範囲を逸脱する、政府法案の新三要件のような拡大解釈の余地はほぼなくなるというふうに思います。憲法適合性への深刻な疑義の問題もなくなる。同時に、これまでできないかのように言われていたミサイル撃ち落としなどを初め、十五事例のようなケースにおいて、日本と自衛隊の事態対処は可能になります。

 このような整理が、私は、現行憲法がある中では妥当ではないかというふうに思いますが、小林先生また阪田先生の御見解をお伺いしたいと思います。

小林参考人 詳しく説明していただいたので、全く申し上げることがない。私自身ももともとそういう整理をしておりましたので、全く同感でございます。

阪田参考人 大変大事なポイントを紹介されたと思いますけれども、一つ忘れてはいけないのは、我が国に対する武力攻撃はないという状態で我が国が武力行使に及ぶということなんですね。それは、いわば宣戦を布告する、敵になるということなんです。ですから、さっきもちょっと申し上げましたけれども、それをやらないと本当に守れないのか、やったことによって、むしろ相手方が我が国の本土を攻撃できることになるわけですね、国際法上。そういう新しいリスクが起こるということも十分やはり考えておく必要があると思っています。

 その上で、そういうリスクが十分評価された上で、さらに限定をする。限定するということは、もう絶対、いずれにしろ必要だと思っているんですけれども、なぜ、限定的にでも、今までもずっとそういうことはあり得たわけですよね、今までやらなくてよかったことが、どうして今やらなければいけなくなったのかということについて、やはりきちんと説明がされるということは大前提ではないかというふうに考えています。

柿沢委員 我が党は、今阪田先生もおっしゃっていただいたような部分についても検討を加えて、最終的に独自案をまとめて各党にお示しをしたいと思っておりますけれども、いずれにしても、こうした、やはりきちっとした歯どめをかけるという議論が今の憲法の枠内では必要になってくるというふうに思います。

 ちょっとお伺いをしたいと思うんですけれども、宮崎参考人にお伺いをしたいと思います。個人の話をして恐縮ですが、横畠法制局長官についてお伺いしたいと思うんです。

 過去、第一次安倍政権のときに、この集団的自衛権の行使容認の議論が起きたときに、これは懇談会を設置したときに、横畠長官は、当時第二部長で、宮崎長官とともに、強引に推し進めるようなことがあれば辞表を提出することも辞さない、こういうふうに迫られたということを報道で拝見しております。真偽のほどは定かではありませんが、しかし、宮崎長官の先ほどのお話を聞いていると、さもありなんかなということも感じるところでもございます。

 それが、今、横畠さんが今度は法制局長官になって、四十七年見解また砂川判決をいわばひねくり出して、そして、フグも肝を外せばおいしく食べられる、まあ、これは例え話としては私はあり得る話だと思いますけれども、しかし、これは、国会で、国民が見ていて、非常に、こういう説明の仕方をすることについてはかえって逆効果になっているように思います。

 こうした形で、今、いわば政府の安保法制に対して憲法適合性に疑義が示されているときに、いわば政府の強弁を担う役割を果たされているということは、私は、横畠長官は、ちょっと言い過ぎですけれども、不誠実だと思いますし、また一方で、お気の毒だな、こういうふうにも感じているところでもあります。

 これについて、宮崎法制局元長官はどういうふうに感じられているか、お話しできる範囲で結構ですので、お話をいただきたいと思います。

宮崎参考人 現在の長官に対する個人的な感想は差し控えさせていただきたいと思います。

 ただ、当時、辞表をたたきつけてとか胸にとかいう話が何か新聞に出ておりましたけれども、私としては、当時、いわゆる四事例が、まあ、建前としては問題として投げつけられていたわけなので、それについては、総理なり内閣に対して、できる法律の整備というのはまだ幾つも残っているので、そういうものから誠実に努力をしたいということを粘り強く説明して納得していただこうということしか頭になかったわけでありまして、辞表をたたきつけるというふうなことは考えたことはございません。

柿沢委員 ありがとうございました。

 次に行きます。

 この安保法制をこのまま認めて通した場合、我が国の自衛隊が今持っている実力、キャパシティーの限りにおいて、私は、つまり、大規模な軍拡をなし得なくとも、当面想定されるような事態対処は、日本は世界のどこでも行えるようになるというふうに思います、これはよくも悪くも。

 あらゆる事態を想定した切れ目のない法制度の整備と安倍総理は言っているわけですから、そういうことになるのは、これは論理の帰結としてある意味では当然なんだと思います。そこに歯どめや限定なんか設けたら、法律上それはできませんということになって、そういう余地が残ってしまえば、あらゆる事態を想定した切れ目ない対処ができないでしょうということになるわけです。つまり、切れ目がないということは、歯どめがないということと同義なんですよ。

 ここで西先生にお聞きをしたいんですけれども、西先生は憲法九条改正を目指しているという立場だと思います。政府の安保法制をこのまま通したとすると、私は、憲法九条改正の必要性も、またその機運も当面なくなってしまうのではないかと思いますけれども、そのことについてはどうお考えになられていますか。

西参考人 私の九条に関する見解は先ほど申し上げました。今の憲法九条のもとでは、自衛権も自衛戦力も認められるし、それから、留保なしにやったということで、一応解釈上は集団自衛権、個別的自衛権は認められる。

 しかしながら、だからといって何でもできるわけじゃない。いわゆる憲法上の自衛権とか、憲法上の理念に、これは当然従わなければいけない。

 そこで、私は、今の憲法の中でこれは十分可能である、そんなふうに思います。ですから……(柿沢委員「九条改正の」と呼ぶ)ちょっとそれは後で、憲法九条は後で言います。

 御存じのように、今の新三要件のもと、そしてまた国際法上は、ニカラグア事件判決で、要請が必要である。要請、必要性、均衡性、そういうやはり国際法上、憲法上、制約があるわけですから、今の憲法のもとでも可能だと思います。

 ただ、先ほど一番最後に言いました、こんなに大きな意見が乱れている、乱れているというか、分かれている。分かれている以上は、これはスイスでやったんですね、スイスの場合は軍隊を持っています。軍隊を持っているんだけれども、スイスで軍隊を持っているのが合憲か違憲か、二回とも全部、圧倒的多数で否決されました。スイスは徴兵です。徴兵制もスイスで国民投票をやりました、これも否決されました。であれば、こんなに乱れている中で、私は、最終的には憲法改正もいいのではないか。

 ただ、その前に、今の法制を通すために憲法改正はする必要がない。今の法制は憲法の枠内で十分入りますということを申し上げているわけであります。その辺、誤解のないようにしていただきたいと思います。

 以上です。

柿沢委員 続きまして、森本参考人にお伺いをしたいと思います。

 先ほど、自衛隊あるいは我が国の実力、キャパシティーの問題についてお伺いをしました。よく言われる比較ですけれども、専守防衛を疑いなく国是としてきた例えば冷戦時にどうであったかといえば、例えば陸上自衛隊の兵力十八万人、そして海上自衛隊は六十隻、航空自衛隊は四百三十機、こういう体制をしいていた。一三中期防、二〇一三年の中期防でどういう計画になっているかといえば、十年後の整備の計画として、陸上自衛隊が十五・九万人、海上自衛隊が五十四隻、そして航空自衛隊が三百六十機、こういう体制なわけですよね。冷戦時と比べても、今の十年後の日本の防衛力の姿というのは、単純な比較をするとそれほど変わらないというか、むしろ今の単純な比較でいえば同じところまでいっていない、そういう体制なわけです。

 そういう中で、例えば他国が武力攻撃を受けたときに、日本に関係があるということであったとしても、例えば自衛隊を出動させて武力の行使に、共同対処で行っていくとかいうことをやっていこうとなると、それはできることはおのずから限られてくるのではないかというふうに思うんです。そういうところで、ある種フルスペックで、あらゆる事態を想定して切れ目のないということを強調し過ぎると、ある意味では自分の能力が及ばない範囲のことをできるということにするということになっていく可能性があると思います。

 この自衛隊の、あるいは我が国の今の持っているキャパシティーということについて認識をお伺いできればというふうに思います。

 もう一点御答弁をいただきたいと思いますので、小林先生にお伺いをするんですが、憲法前文に「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」ということが書いてあります。例えば集団安全保障等々の国際社会に対する脅威を除去するための措置ということを考えると、日本はこの憲法前文の理念もある意味では大切にしなければいけない面があるというふうにも思います。

 したがいまして、私は、国連決議等に基づく集団安全保障措置としての事態対処ということについては、日本は一定の役割、貢献をこれから負っていく必要はあるのではないかと思っていますが、この憲法前文に照らして、日本が求められている役割ということについて何か御認識があればお伺いをして、全て終わりたいと思います。

森本参考人 今回の安保法制、十一に分類されている法律が全部成立するという場合に、一体、それを執行するに必要な自衛隊の体制がどうあるべきであるかということは、法律が通った後、防衛省・自衛隊として別途検討し、法律には施行の期間がありますので、施行の期間までの間に必要な準備を整えるということになると思います。

 先生今御指摘のように、今の自衛隊のポスチャーというんですか体制で新たな任務が十分にできるのかというお問いかけについては、これは、新しい法律に基づく新たな任務を実行するために、幾つか必要な手順を変えたり、あるいは追加的な役割とか任務を部隊に与えたり、それに伴う必要な訓練を行ったり、そういう必要は当然あると思います。

 また、多国間といろいろな協力をしなければならないときに、例えば日米韓だとか日豪の関係だとかで、多国間の協力を進めるために必要な情報の交換やいろいろな作業の手順について細かに規定するという必要があると思います。

 しかしながら、今の防衛力、あくまで日本の国の防衛を主として行うに必要な装備と人員を防衛費の中でお認めいただいているわけで、その中でできるだけのことをやり、できないことはできないときちっと言えるようにしておかないといけないということだと思います。

 ただ、一つだけ、やはり一番重要なのは、隊員のリスクをできるだけ減らすためにどういうことを考えるかということは、これは現実の社会の中の、例えばいろいろな活動を行うために各国が行っている努力を参考にすると、例えば隊員が持っておるいろいろな装備のうち、個人の装備だとか通信機だとか、そういうものについて幾つか技術的な改良を必要とする部分はあるんだろうと思います。

 しかしながら、全体として、今のお話のように、現在の大綱並びに中期で認められた防衛力を大きく変えることなく、新しい任務を自衛隊として満足に実行できる十分な能力と体制はでき上がっている。これからやるべきことは、今申し上げたように、法律ができてから別途防衛省の中でお考えいただくということになるのではないかと思います。

 以上でございます。

小林参考人 憲法の前文に書いております国際的な責任なんですけれども、前文というのは憲法の基本精神を明らかに書いておるところですから、とても大事だと思います。

 ただ、敗戦国の反省で九条が入っていますから、軍事的貢献についてはちょっと条件つきで。だからこそ、戦後日本は国連にたくさんお金を拠出しているし、PKO、これは警察ですからお手伝いしているし、それから災害派遣、これは消防ですからお手伝いしているし、それから、たくさん留学生を招待していますし、大学でもたくさん出会いました。それから、研修生の受け入れとか。先ほどODAを申し上げたかどうかはわかりません。だから、そういう意味で、国際的な責任は果たしつつある。

 ただ、軍事的なものについてははっきりしていると思います。世界がいわば派閥に分かれて、組同士の出入りみたいになっているとき、我が方の組に属する者として、他方の組と出入りがあったら助けに行く、これは集団的自衛の話で、これは憲法に触れると私は思います。

 だけれども、国連で、安保理で拒否権が発動されなかったということは、これは世界の意思として特定のならず者を討ちに行くわけですから、これは派閥の出入りではなくて、世界対その者の、警察関係ですよね。だから、国際社会のいわば警察戦争みたいなものには、参加する義務は抽象的にある。ただ、手続的にどうするかは、また別の議論だと思います。

 以上です。

柿沢委員 例え話は注意してやらなければいけないなとも思いますが、本当にわかりやすい御説明、ありがとうございました。

 以上です。ありがとうございました。

浜田委員長 次に、遠山清彦君。

遠山委員 公明党の遠山清彦でございます。

 五人の参考人の先生方、きょうは大変貴重な御意見、ありがとうございました。

 私も、昨年から一年間、昨年の閣議決定、そして今般の平和安全法制の整備のたたき台をつくった与党の安保協議の一員として、先生方の御意見を伺いまして、大変共感する部分もございましたし、また、一部、私どもが考えたことと違うところがございましたので、それを整理するためにも貴重な機会だと思いましたので、お話を聞かせていただきたいと思います。

 まず、森本参考人に伺いたいと思います。

 民主党政権時代に防衛大臣を経験されたお立場から、二つのことを簡潔にお答えいただきたいと思うんですが、まず一つは、切れ目のない安保法制の必要性について、これは参考人の皆様のお話の中にもありましたけれども、なぜ今必要なのか。

 それから、この後、私、ちょっと質問させていただきますが、論理的な帰結の部分である結論のところを、昭和四十七年見解ですけれども、変えた、その変えたのは基本的論理ではなくて、事実認識を変えたのだ、こういう立場を私どもはとっているわけでありますから、当然にこの事実認識に当たる部分、つまり、日本が置かれている安全保障環境がどのように変化をしたのか、これは変化といった場合には、質的な変化、量的な変化、そしてまた脅威というものの定義というものが時代の流れの中で変わってくると思うんですね。

 私がイギリスの大学院で学んでいるときには、脅威というのは、潜在的に我が国の敵になり得る国の攻撃の意思と、そして実際に遂行する攻撃の能力、基本的には意思と能力を正確に分析するところから脅威というものを算定するのであるということを、二十年前ですけれども、私は大学院で教わりました。

 しかしながら、今は、この脅威の定義自体が変容しているわけですね。これはもう私の目の前にお座りの先生方はみんなおわかりだと思います。攻撃の意思とか能力をはかれないような主体によって我が国が攻撃を受ける可能性がありますし、その攻撃の手段も多様化しているわけです。

 ですから、我が国ではそういう議論は余りまだ成熟しておりませんが、米国などでは、サイバー戦というものを第五の戦場と位置づけて、武力攻撃の対象にも公式に入れているというところまで来ております。

 そういったことも踏まえまして、改めて、森本参考人から、日本が置かれた安全保障環境というのは今どうなっているのかということについてお聞きしたい。

 それから、あわせて、当委員会の今までの審議を聞いておりますと、日米安保協力の重要性ということについての議論が少し不足しているのかなと私は感じております。やはり日本を守っていく、これは当然に一義的には日本政府の責務でございますが、同時に、この戦後の国際環境を考えたときに、やはり日米安保というものが一つの中核になって日本の安全を確保していかなければならないという観点から、日米安保協力体制の重要性、今日的な文脈の中でどうなっているのか。

 この二点についてお答えをいただきたいと思います。

森本参考人 現在の我が国を取り巻く客観的な安全保障環境の変化をどのように説明するのかというのは、切り口が幾つかあると思うのですけれども、過去百年ぐらいの歴史を振り返ると、二十世紀はまさに戦争の世紀でした。第一次、第二次大戦、それから、後半は朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争。しかし、悪かったことだけではなくて、この百年にできた唯一のメリットは、戦争を禁止する国際法ができたということです。

 ただ、それが制度的に、安保理の常任理事国の拒否権という制度があるがゆえに、必ずしもうまく機能しないという状態が今世紀に至ってもまだできていて、その結果、例えば、国際法を無視した解釈に基づいて、力による国際秩序を損なう行為がある。はっきり申し上げると、ロシアのクリミアへの主権の侵害というのもそうでしょうし、ISILによる非常に非人道的な行為もそうでしょうし、中国が行っている排他的経済水域の中を自国の海洋国土と称して軍事的な脅威を周辺国に与えている行為もそうでありましょう。これら全て、安保理決議は通らないわけであります。

 こういう、力で、国際法を勝手に解釈して周りに脅威を与えるという状態が常に出てきた。

 しかも国家領域が未画定である領域、例えばどういうところかというと、海洋とか宇宙空間とかサイバー空間、これはどこからどこまでがどこの国の国境と決まっていないところに、力を使って外へ出てくるという行為が広がっている。この広がっている行為がどのような形で我が国に及ぶかわからないという問題が我々の周りに存在しているということがやはり一番大きいと思います。

 もちろん、それに加えて、さっき先生の御指摘のように、非国家主体による不法な行為、いわゆるハイブリッド戦争などと言われるような、脅威の態様、脅威の様相が変わっていって、しかも、その中で、兵器の精密度、攻撃度、破壊力あるいは射程というものがどんどん伸びて、脅威がなかなか予見できない。しかも、あったとしても一つの国だけでは守れないといういろいろな環境の中で、今までのような、従来の安全保障の対応ではやっていけない環境が生まれつつあるし、また、将来はもっとこれが深刻になるという状況がある。

 その中で、やはりアジア太平洋の安定というものにきちっと対応してくれる能力を持っている、その機能を持っているアメリカが、国防予算上いわゆるリバランスという政策をとらざるを得なくなって、この地域を重視していると言いながらも、実際には、全ての地域の安定をアメリカだけで守ることができず、同盟国が彼らの、アメリカの持っておる機能や役割を相互補完しなければならない状況にある。

 その意味で、アメリカが日本や豪州に期待しているところは非常に大きいと思います。大きいということは、今までの、従来の法解釈のもとで日本がやれたことでは、もはや、アメリカと一緒になって、アメリカのこの地域における抑止力を有効に発揮できないような実態が現に生まれているし、今後もっとこれが深刻になる。

 したがって、平常時からは当然のことながら、緊急事態も、あるいは我が国にとっての有事も、我が国にとっての有事でも平時でもない中間のあらゆる様相に、常に対応できる法整備を平生から行って、実態として、何か起きたときに慌てて立法府で時間をかけて法整備をするのではなく、平生から法律上の根拠を明確にして自衛隊の体制を整えておくということが今日的な意味であり、この安保法制の最も重要なまさに肝ということになるんだろうと考えております。

 以上でございます。

遠山委員 ありがとうございます。

 森本参考人のお話の中に、なかなか予見できない脅威があるというお話がありました。私ども、そういう感覚を強く持っているわけでありますが、しかし、そもそも論を考えてみますと、国家の安全保障というのは万が一への備えでございます。万が一というのは、一万分の一は〇・〇〇〇一%でございますから、これは議論として非常に難しい面が本質的にあるんですね。〇・〇〇〇一%、もしかしたらそれ以下の確率しか発生する可能性がないものについても想定をして議論するのが国家の安全保障でございます。

 ただし、この後阪田参考人にお伺いをしたいと思いますが、ただし、我々、この国会において国家の安全保障を論ずるときには、我が党の北側副代表が当委員会の総括質疑で申し上げましたように、憲法の適合性をまずしっかり考える。二つ目は、法制度。法治国家ですから、法制度に基づいてどう自衛隊を動かすかということを考える。最後に、そのさらに下に政策判断、運用というものがある。この三つの次元を混乱せずにきちんとわかりやすく議論をするということがなかなかこの委員会でできていないので、国民の皆様の理解が進んでいないと私は個人的に感じております。

 そこで、一番大事な憲法適合性のところについてお伺いをしたいと思います。

 私どもは、一年間、与党安保協議で、昭和四十七年見解に基づいて、今回の新三要件というものを導き出す議論をしてまいりました。それは、端的に言えば、昭和四十七年見解の基本的論理を維持しながら、そこに、たった今森本参考人がおっしゃったような新たな安全保障環境からくる事実認識を当てはめまして、そして、結論部分におきまして、先ほど宮崎参考人はそこの結論部分について留保のない結論と表現されましたが、私どもはちょっと異なりまして、文章の中に「そうだとすれば、」というところから始まるのが結論部分でありますから、ここは事実認識が変わって、基本的論理は変わっていないけれども、当てはめて導き出される結論の一部が変わるということは論理的にあり得る、それが新三要件だというふうに出しました。

 この新三要件でございますが、阪田参考人にお伺いをしたいのは、私どもは、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、」、ここは「他国に対する武力攻撃が発生し、」と確かに書いております。これが契機で始まる事態なんですね。ただ、私どもとして実は強調したいのは「これにより」なんです。「これにより」の五文字なんです。

 これは英文ではアズ・ア・リザルトと翻訳されておりますが、この密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生をした、これが契機なんですが、これによって我が国の存立が脅かされ、我が国の国民の生命、自由及び幸福の追求の権利が根底から覆される明白な危険のある場合と。ですから、ここは因果関係が必須だと、論理的に。だから、単に他国に武力攻撃が発生しただけでは絶対にいけない。その因果関係がしっかりある形で、我が国の国民の生命、自由、権利が覆されるということが明白な場合というふうにしております。

 よって、我々与党安保協議会のメンバーの共通認識は、これは現行憲法のもとで日本がとり得る自衛の措置の限界を明らかにしたんだと。よって、高村自民党の副総裁が、与党協議がまとまった直後の記者会見で、これ以上のこと、つまり、みずからは攻撃されていないし死活的影響も来ていないのに、他国を専ら守るために武力を行使するということは、憲法を改正しなければできないんだ、ここが限界なんだというコメントをしているわけでございまして、私は、これは今までの政府の憲法解釈と論理的整合性はある、このように思っておりますが、阪田参考人の御意見を聞きたいと思います。

阪田参考人 他国への攻撃によって何が侵害されるのかというところがポイントなんだと思うんです。それが契機であるということはおっしゃるとおりだと思うんですけれども、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される、これはずっと、我が国が武力攻撃を受けたときの状態を指して使ってきた言葉なんです。また、我が国自身が武力攻撃を受けない限り、そんなことは起こり得ない。

 ですから、そこをはっきりさせていただきたいと思うんですね。どこか遠くで、油が入りにくくなった、備蓄が少なくなった、そんな話まで入るんだというのなら、それは満州事変のときの自衛と同じことになってしまうわけですから。

 ですから、やはり、その結果何がもたらされるのか、我が国に対する攻撃が差し迫っているんだ、たまたま契機としてということなんだということをぜひとも明確にしていただきたいと思います。

 今、森本先生からもずっと、環境が変わったということについてお話がありましたけれども、それは、今の憲法自身は何も変わらないわけで、ずっと、政策判断あるいは国際貢献をどうするかというふうなことが優位ではないので、憲法の中でそういう変わった環境に対して日本として何ができるかということを考えるべきなので、変わった環境に軍事的に十分に応えなければいけないから憲法の中で何でもやってもいいということにはなりようがない。

 もしそれがどうしても必要であるとすれば、それができるような憲法に改正するというのが政治の王道なんだろうと思いますね。ということだけ申し上げておきたいと思います。

遠山委員 我々、何でもやれるというふうに考えていないので新三要件を論理的に導き出したというふうに思っておりますし、戦前の満州事変と同じになるという参考人のお話がありましたが、私は、戦後の自衛隊と戦前の軍隊は根本的に違うと思っております。

 戦前の日本軍は、ネガティブリストでございますので、自衛という大義名分のために、どこにも行けたし何でもできた、それは事実です。しかし、戦後の自衛隊は、まさに法制局長官の歴代の皆様が御答弁されているように、極めて抑制的に、しかもポジティブリスト、法律に書いていることしかできないということでございますので、そういう危険性はそもそも極めて少ないというふうに思っております。

 時間の関係で、森本参考人にもう一回お伺いをしたいと思います。

 海外に派遣される自衛隊員のリスクについて、当委員会でも大分議論がございました。私ども公明党は、与党協議の中で、相当いろいろな歯どめをかけさせていただいたという自負がございます、自民党の皆様にも御理解をいただいた上ででございますが。

 例えば、新たな後方支援をする新法、恒久法と言われている国際平和支援法におきましても、例外なき国会の事前承認がついておりますし、参加する国際共同対処事態も国連決議がなければならないと。そして、後方支援、協力支援活動に従事する自衛隊員の武器使用基準は自己保存型だけに限定をしておりますし、もちろん、戦闘現場でないところで活動を行うと。また、PKO法の方は、PKO五原則の堅持もさせていただいておりますし、安全確保等についても新たな配慮規定を入れたわけでございます。

 なぜ日本の国民の皆様が、この自衛隊の国際貢献、PKO活動等を今高い支持率で賛同してくださるかといえば、やはり私は実績だと思っております。

 二十三年間、PKOに派遣された自衛官の数は三万人を超えます。一人も亡くなっておりません。そして、一人も撃っておりません。これは、運もあると言う方がおりますけれども、例えば、三万人の一%は三百人ですからね。一%の派遣された自衛隊員が戦闘に巻き込まれたとしても三百人、それがゼロです。これは偶然ではありません。これは、民主党政権時代も含めて、政府がいかに抑制的にやってきたか、そして、自衛隊の皆さんが練度が高く、なるべく武器使用をしなくてもいい状況になるように努力してきたからだというふうに思っております。

 この実績をもとに、我々としては今後も同じ運用の姿勢で安全確保に配慮しながらやっていきたいと思っておりますが、この歯どめの部分と、そして、政府が今までやってきた運用、抑制的な運用という実績を踏まえ、今後、業務が拡大されたとしても安全にやっていくことができるのだと我々は考えているわけですが、森本参考人の御意見をいただきたい。

森本参考人 自衛隊が、過去、PKO、二十二年以上海外で勤務し、それ以外に、もちろん海賊対処、あるいはインド洋の給油、現在は南スーダンにPKOを出したり、いろいろな法律に基づいて海外で多数の隊員が活動して、それが高い国際評価を受けてきたこと、それから、一発も撃たずに一発も撃たれずに今日まで済んできたこと、これは、国会でのいろいろな歯どめということもありますし、自衛隊の持っている管理の能力、隊員の個々の高い自覚、任務意識、それがトータルで今日まで来たんだと思います。

 今後ともこれが続くことを我々は期待するんですけれども、役割と仕事がふえると、やはり客観的に言うと人間が住んでいるところというのは常にリスクがあるわけで、リスクがこれより減っていくということは少し考えにくい。そのリスクをいかにして管理していくか、危険を少ないものにしていくかというのは、これ以上の努力が必要だと思っています。

 やはり重要なことは、周りで起こっていることに対する非常に高い情報収集の能力あるいは警戒監視の能力というのが一つだし、それから、外に出ていって活動する隊員の体制の整備、これは先ほど申し上げましたが、いろいろな整備のやり方があると思いますが、規則やマニュアル、あるいはそれに伴う訓練、あるいは関係諸国との事故防止協定や連絡メカニズムをきちっとするということも重要だと思います。

 重要なことは、やはり同盟協力や多国間協力が多いわけですから、日米間でどのように情報交換をし、こちらが必要な情報を持っているかということと、それから、多国間協力にできるだけ参加することによって周りの状態、周りの国が考えていることを鋭く把握するということも必要だし、それが、トータルなものとしてリスクの管理ができるということだと思うんです。

 結局は、運がよかったか運が悪かったかということではなくて、リスクというものを、いかなる生物体であれ、人間が成り立っている社会というのは、リスクを予知し、これを予見し、予防し、対策を講じることによって、防止をし、抑止ができるということなわけですから、その努力を今後とも続けるということによって、一方で任務を効率的に実施しながら、一方で隊員の安全を維持する、この二つをどのようにしてトータルでマネージしていくかということは、これから防衛省や自衛隊が真剣に考えてくれるのではないかと考えます。

 しかしながら、現在の自衛隊というのは自衛隊の任務を行うために必要な体制と予算が認められてできているわけで、これ以上のことを諸外国に対して、例えばそれが後方支援であれ行うためには、今のような状態では少し不足の部分があって、何をふやさないとそれが実施できないのかということを考えること、そしてそれに必要な隊員の練度を向上するための訓練を行うこと、非常にたくさんのことをこれから実施機関である自衛隊・防衛省がやらないといけないということになるんだろうと思います。

 以上でございます。

遠山委員 ありがとうございました。終わります。

浜田委員長 次に、赤嶺政賢君。

赤嶺委員 日本共産党の赤嶺政賢でございます。

 きょうは、五人の先生方、本当にありがとうございました。

 まず、小林参考人にお伺いをいたします。

 今月四日の憲法審査会で、三人の憲法学者が今回の安保法制は憲法に違反すると述べられました。それを契機として、憲法研究者はもとより、学者、知識人、文化人、あるいはまた自民党や政府のOBの方々を含めて、国民各界各層から、自衛隊の違憲性をめぐる立場の違いを超えて、反対の声が大きく広がっております。その世論の変化について先生はどのようにお考えなのか、お願いします。

小林参考人 世論調査の数字はお互い見ることができるんですけれども、私の生活感覚でいきますと異常なことが起きておりまして、宅急便を届けに来てくれたおじさんとか、それから、タクシーをおりようとしたら運転手さんから声をかけられるとか、もちろん初対面ですけれども、それから、町を歩いていると、高齢の女性がにこやかに私の知り合いのような顔をしてやってきて、中には、握手を求められたり、色紙を書いてくれとか、すごく異常なことが起きている。

 それで、改めて新聞などを見ていますと、もう耐えられなくて外へ出てきた人がたくさんいる。ああ、そうなんだなというふうに感じております。

 以上です。

赤嶺委員 ありがとうございます。

 次に、阪田参考人と宮崎参考人にお伺いをいたします。

 きょうのお話を聞いておりまして、今回の安保法制は歴代政府の憲法解釈の根幹を変えてしまうものだという思いを強くいたしました。

 憲法九条が戦争放棄、戦力不保持、交戦権否認を規定したもとで、歴代政府は、自衛のための必要最小限度の実力組織だから自衛隊は憲法に違反しない、自衛隊が武力を行使できるのは日本が武力攻撃を受けたときに限られる、このように説明をしてまいりました。

 九〇年代以降の自衛隊の海外派遣に際しても、私たちは憲法違反だと主張しましたが、当時の政府は、武力行使と一体化しない後方支援だと説明をしてまいりました。政府の説明の大前提にあったのは、武力行使には至らないということでありました。

 ところが、今回の安保法制は、日本に対する武力攻撃が発生していないもとで、日本が海外で武力を行使することを可能にするものです。これは、従来の憲法解釈からは導きようがないものだと私たちも思いますが、そのような理解でよろしいでしょうか。

阪田参考人 お答え申し上げます。

 先ほど来申し上げていますように、私は、宮崎参考人とは多少違って、本当に限定的な範囲であれば、そしてそのことが十分に説明できるのであれば、それは従来の憲法論理、政府の解釈の論理から導き出せないものではないというふうに申し上げております。

 ただ、余り議論されていないのですが、それで話が終わるわけではないので。

 実は、交戦権がないということを明確に書いてあるわけですね。交戦権がない結果として、従来、我が国は、外国が攻めてきたときも、まさに必要最小限度の実力行使しかできないんだ。それは何のための必要最小限度であったかというと、その外国の侵略行為を排除するために必要最小限度なので、敵が撃ち方をやめているのに、ずっと追っかけていって外国の領土、領海に入る、そして敵をせん滅するというようなことは許されないと述べてきたわけですね。

 今回、もし集団的自衛権を、限定的であるとしても行使するとした場合に、そもそもそれは外国に行って戦うということを意味するわけですから、この交戦権との関係で、必要最小限度というのは一体何なんだろうと。

 武力攻撃事態法を見ますと、いわゆる存立危機事態ですか、政府は速やかに終結させなければならないというようなことになっているわけです。これを速やかに終結させるということは、つまりは戦争に勝っちゃうということでしかないわけで、そのためには最大限の実力行使を恐らくしなければならないんじゃないかと思いますので、今回の自衛措置の発動要件の第三要件にも必要最小限度と書かれているんですけれども、それは一体何のための必要最小限度なんだろうなんというようなところで首をかしげるところもあります。

 赤嶺先生もつとに御案内のとおり、政府といいますか、この国会での憲法論議というのは、ほとんど第九条に集中してきたわけですね。しばしばガラス細工だというふうに言われることはありましたけれども、ずっと、海外での武力行使はできない、そして自衛隊は合憲だという前提の上に、非常に精緻な論理の体系が積み上げられてきたと思っています。

 そこの土台が、根っこから覆るということではないかもしれませんけれども、相当大きく変わるわけですから、その上に本当に今までのような整合的な論理が積み上がるのかどうか、一つの法体系としてきちんと国民に説明できるようなものができるかということに対して、まだまだ十分な御審議をいただかなければいけないと思いますし、確信が持てないでいるということでございます。

宮崎参考人 私は、御指摘のとおりだと思います。

 一言つけ加えますと、我が国を防衛するためのというのが多義的に使われているわけですが、我が国が直接武力攻撃を受けていないのに日本の防衛をするというのは何であるかということになってしまうわけでありまして、それは、先ほど申し上げたように、従来、先制攻撃はできません、日本に対する武力攻撃が開始されたときは、それはできると。開始というのは着手と言ってもいいというふうに言ってきたことと根本的に違うと思います。

 誤解のないように一つだけ申し上げますと、従来の政府は、そうすると非常に極楽トンボみたいなことを考えていたのかということがよく問題になるわけですけれども、そこのところは、そこはさすがに考えていたわけなのでありまして、有事法制のときに、平成十五年、十六年のときに、日本に対する武力攻撃というのは何であるかということが随分問題になりました。

 例えば、当時の福田官房長官は随分と質問の矢面に立ったわけですが、結局、我が国に対する組織的、計画的な武力攻撃があるかということで総合的に判断するんですということでありまして、その中には、我が国が、我が国を離れて公海にいる艦船、我が艦船に対する武力攻撃、武力攻撃というか攻撃があったときはどうなんだということにつきましても、それは一概にノーとは言わない。

 それから、我が国に対して、日本を守るために派遣された公海にある米艦船、これに対する攻撃はどうなんだということについても、それも場合によっては我が国に対する組織的、計画的な武力攻撃に当たると考えれば当たる、こういうふうに言っていて、もちろん、それをポジティブリストみたいに、これはあれでこれはだめというふうなことを言うのは賢明でないから言わないけれども、そういうものだということを言っているわけですから、そこのところは、日本の防衛ということに本当の意味で必要なことは武力行使をできるということを従来も政府は言ってきたのであると私は理解しております。

赤嶺委員 ありがとうございました。

 いろいろ議論を私たちも積み重ねてきた立場でありますが、それで、今回の特別委員会の議論でちょっと気になる点を伺いたいんですが、宮崎参考人に伺いたいと思います。

 政府は、今回の憲法解釈の変更について、砂川判決と軌を一にしたものだと説明をしております。しかも、横畠長官は、引用箇所は傍論部分であることを認めながら、それなりに重みがあるなどと答弁をしておられます。

 こうした説明についてどのように考えておられるか、御意見を伺いたいと思います。

宮崎参考人 御指摘につきましては、もう多くの人が反論をしておりますので詳しくは申し上げませんが、一つだけ、先ほどちょっと私が申し上げたことを申し上げると、当該砂川判決は、我が国の防衛力の不足があるので、それはなぜかというと、戦力を持てないというところからくる根本的な不足があるので、これを補うために米軍に駐留してもらうんだということは一見明白に違憲とは言えない、これが中心的なテーマなわけです。

 その不足ということは、つまり、我が国は自分を本当の意味で侵略から守るという能力が不十分になってしまうからということ以外ではないはずで、例えば、アメリカを助けるための能力がないからアメリカが駐留するとかいう論理になるはずがないわけですから、ほかの方がおっしゃっていることは繰り返しませんが、その点を小さいことながらつけ加えたいと思います。

赤嶺委員 ありがとうございました。

 もう一点、宮崎参考人に伺いたいんですが、きょうのお話の中で、日本が武力攻撃を受けていないもとで集団的自衛権を行使することになれば先制攻撃になる、こう説明をされました。

 また、米軍等の武器等防護についても、違憲の武力行使に至るおそれがあると述べられました。

 その点について、もう少し詳しくお聞かせいただければと思います。

宮崎参考人 前者については、ちょっともう必要が薄いだろうと思うんですね。後者について申し上げます。

 自衛隊法に九十五条という地味な規定がございまして、武器等防護を自衛官が行うという根拠規定であります。これは、もともと武器等だったんですね、武器弾薬だけだったんですが、昭和時代の終わりころに、艦船、航空機もその対象につけ加えるという法改正がなされました。そうすると、だんだん大きくなって、それはもう大きな武力の、力の行使ではないか、自衛官というのがその主語ですから、それでいいのかという議論がされまして、政府はいろいろ答弁をし、統一見解のような紙も出しました。

 その中で、その九十五条でできる自衛官の武器使用というのは、まず、あらかじめ守ろうとしている武器等を隠すとか退避させるとかということで、できるだけ事前に回避する、そういうことが先行しなければならないのだよと。二つ目に、もし壊されたり、それから奪い去られたりした場合には、追撃してこれを奪い返すとか、あるいは報復のために武器を使うということもいけないのですよと。このような極めて受動的、限定的な武器使用なので、それで武力行使に当たりませんということでございました。

 その後、PKO法のときに、この九十五条が使えるのかどうかというのも深刻な問題になったんですが、その論理を維持いたしまして、現在、限定的、受動的というふうに武力行使について言われているのは本来おかしいのでありまして、本来は、九十五条の武器使用について、それが何で武力行使に当たらないのか、命が危なくなっているのと違って武器等じゃないかという問題があったのについて、そういう説明をしたというのがもともとなのでございます。

 それで、今度、米軍の武器等を自衛官が防護することにしようというのが提案されておって、九十五条の二というところに書いてあるわけですが、それは、先ほど申し上げたように、我が国の物的な防衛手段に該当するというのが非常にわかりにくい説明であるだけではなくて、もし本当にそれが同じような趣旨であるということであるならば、米軍そのものが、攻撃にさらされている武器等や艦船や航空機をまずは隠すとか退避するとかいう義務を、義務というか、そういうことをしてもらわないと要件に当てはまらないですよねと。

 もう一つは、壊されたり運び去られたりした場合に、追撃して奪い返すとか、それを報復するとかいうことはしませんねということについて協定を結んで約束してもらわないのであれば、自衛隊だけがそのつもりだといったのではどんどん放し飼いになってしまうではないかということを申し上げたつもりでございます。

赤嶺委員 それでは、阪田参考人にお伺いいたします。

 政府は、今回の憲法解釈の変更の根拠として、安全保障環境の根本的な変容を挙げています。先日、ホルムズ海峡の問題をめぐって、私もどのような変容があったのかとただしましたが、まともな説明はありませんでした。

 先ほどの意見陳述の中で、阪田参考人は、朝鮮半島有事をめぐっても十分な説明がされていないと述べられました。政府は、この間、安全保障環境の変容についていろいろと説明しておりますが、十分な根拠が示されているとは言えないということを阪田参考人はおっしゃった、そのように理解してよろしいでしょうか。

阪田参考人 日本がなぜもっと積極的な国際貢献をしなければならないのかということについての御説明はとてもたくさんあったと思うんですよね。ですけれども、一国では守れないというようなことは、これはもう昔からそうなので、したがって、日本は、いわばアメリカの核の傘の下にいる、それから米軍の駐留を求めているということだったんだろうと思うんです。

 今回の問題は、日本を守るために、日本の国民を守るために、国土を守るために、これまでの論理の延長線上であるとすれば、日本が直接武力攻撃を受けないように、あるいは受けたときに迅速に対応できるようにということなのでしょうから、そうであるとすれば、なぜ今の状態では自衛隊が十分に国防ができないのか、それから、米軍が日本が攻められたときに共同対処をきちんとしてくれないのか、これだけ駐留米軍がいるわけですが、日本が有事になった途端にみんな逃げてしまうんだというような話なのかというところがよくわからないということなんですね。

 ミサイルが飛んでくるという話もありますけれども、ミサイル防衛なんというのも昭和三十年代から議論はされていることでありまして、したがって、そういうような場合には、場合によってはミサイル基地を攻撃することも、それこそ海外で武力行使をしないということの例外としてあり得るんだと言ってきたわけで、急にミサイルが現実化したわけではない、むしろ防御の手段はふえているとすら考えられるわけですから、やはり私は、説明が尽くされていないと考えています。

赤嶺委員 ちょっと時間が限られてきましたけれども、少し新ガイドラインについて小林参考人と森本参考人にと思ったんですが、小林参考人に絞らせていただきまして、今度の新ガイドラインと憲法、そして日米安保条約との関係についてどのようにお考えか、お願いします。

小林参考人 筋論としては、一番上に憲法があって、憲法の範囲内で条約が結ばれて、それを実際にオペレーションする際の、ガイドラインというのは目安ですから、何というか、ある意味で法的拘束力のない行政取り決めであって、ところが、何か逆立ちになっているなという気はいたします。

 ただ、それで大ごとと見る意見もあるけれども、私は、しょせんガイドラインというのは英語の直訳で言っても努力目標ですから、そのぐらい、実現しなかったときに余りパニクることはないと思うんですね。

 ガイドラインを先に約束するのは筋違いではありますが、政治の世界ですから後先というのはあるわけで、それが実現しなくても、もとより法的拘束力はないものでありますから、双方の賢い役人たちはそれで矛をおさめられると私は思っております。

 以上です。

赤嶺委員 森本参考人、短い時間なんですけれども、私、今度の新ガイドラインでは、グローバルな役割、任務を背負うということになりますから、沖縄の基地負担というのはこれは極めて増大するんじゃないか、このように考えておりますが、この点、ずっと大臣時代から議論してきたことでありますが、いかがでしょうか。

森本参考人 新しいガイドライン、既に日米間で合意されたガイドラインというのは、まさに説明されているように、切れ目のない日米協力がいろいろな分野で、しかも従来考えておられなかった、つまりグローバルな役割まで含む日米間の相互協力が規定してあって、その中で、法律として安保法制の中に入れなければ日本が実行できないものだけは法制の中に入れてある。ガイドラインが全部法律になっているわけではないです。

 例えば、ガイドラインの中に、同盟の調整メカニズムだとか、あるいは共同計画の策定、これは別に法律に書かなくても、武力行使には至らないので、通常から日米間でそういう作業をしておればいいわけです。

 当然のことながら、沖縄も日米協力の非常に重要な根幹を占めるわけで、従来からガイドラインの中で沖縄が占める位置あるいは沖縄を含む在日米軍を安定的に運用することは変わりはなく、このガイドラインによって沖縄というものの持っている意味が根本的に変わっている、そういうことではないと理解しております。

赤嶺委員 ありがとうございました。

 これで終わらせていただきます。

浜田委員長 以上をもちまして参考人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、参考人各位に一言御挨拶申し上げます。

 参考人各位におかれましては、貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。委員会を代表いたしまして厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。(拍手)

 次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。

    正午散会


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