衆議院

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第10号 令和5年12月7日(木曜日)

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令和五年十二月七日(木曜日)

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  令和五年十二月七日

    午後一時 本会議

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本日の会議に付した案件

 山口俊一君の故議員細田博之君に対する追悼演説


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    午後一時二分開議

議長(額賀福志郎君) これより会議を開きます。

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 故議員細田博之君に対する追悼演説

議長(額賀福志郎君) 去る十一月十日逝去されました前議長細田博之君に対し弔意を表するため、山口俊一君から発言を求められております。これを許します。山口俊一君。

    〔山口俊一君登壇〕

山口俊一君 三十三年にわたり本院議員を務められた前議長細田博之先生は、去る十一月十日、七十九歳の生涯を閉じられました。

 十月十九日、翌日から始まるこの臨時国会を前に、健康不安から海江田副議長に議長辞任願を提出された場に私も同席をしておりました。お疲れの様子ではありましたが、よもや、病状が悪化し、一月も経ないうちに訃報に接することになるとは、つゆほども思いませんでした。

 せっかくだからと細田議長の発案で撮影をした、海江田副議長とともに笑顔で写る写真には、回復を疑わない前向きな様子を感じ取ることができ、御本人も全く想像しない展開だったのではないかと思っております。

 御家族を始め、関係者の皆様の深い悲しみに思いを致すと、御心中いかばかりかと察するに余りがあります。

 私は、ここに、皆様の御同意を得て、議員一同を代表し、二年間、議院運営委員長として議長をお支えしてきた者として、また、初当選同期の長年にわたる友人として、細田前議長をしのび、謹んで哀悼の言葉を申し述べたいと存じます。

 細田博之先生は、昭和十九年四月五日、後に防衛庁長官や運輸大臣などを歴任されることになる鉄道官僚の父吉蔵先生と母静子様の御長男としてお生まれになりました。幼少期にピアノを習われるなど、教育にも熱心な御家庭に育ち、進学した当時の東京教育大学附属駒場中学校・高等学校では、勉学のみならず、陸上部や科学部において活躍をされたと聞いております。

 その後、先生は、昭和四十二年に東京大学法学部を卒業され、通商産業省に入省されました。この年は、高度経済成長期の終盤に当たると同時に、くしくも後に取り組むことになる、過疎という言葉が公に使用されるようになった年でした。

 通商産業省では、同僚や友人にも恵まれ、産業構造の変化や二度のオイルショックを経験する中で、様々な政策についても見識を深められました。

 また、二年間にわたり石油公団事務所長としてワシントンに勤務をされた際には、アメリカの国会議員、政府高官、経済人との交流だけではなく、全米中を自らドライブして旅行したり、占領期の進駐軍によって撮影をされたカラー写真の発掘に取り組まれたりするなど、公私にわたり充実した時間を過ごされたと伺っております。

 そして、十九年の公務員生活を経た昭和六十一年、物価対策課長を最後に通商産業省を退官し、父吉蔵先生の秘書を皮切りに、政治の道に進まれました。

 中選挙区制の当時、東西二百三十キロに及ぶ県全域を選挙区とする島根県において、三年余りの間、秘書として、過疎と人口減少問題に悩んでいる県内をくまなく回られた先生は、平成二年二月の第三十九回衆議院議員総選挙に島根県全県区より立候補され、見事に当選を果たされたのであります。

 細田先生は、人事を尽くして天命を待つを座右の銘としておられましたが、その政治家人生では、この言葉のとおり、一つ一つの与えられた職務に全力で取り組み、成果を上げてこられました。

 国会においては、運輸委員会、環境委員会、予算委員会、議院運営委員会、倫理選挙特別委員会を中心に、多くの委員会で委員、理事を歴任され、卓越した見識と優れた行動力をお示しになりました。

 この間、党内では交通部会長や外交部会長を務め、平成十一年の外交部会長時代には、コソボ紛争による難民支援のための与党現地調査団を率いて、混乱が続くアルバニアやマケドニアを訪問されました。議長就任後の海外要人との面会でも、この経験を度々紹介されていたと伺っており、後の議員外交の礎となったのではないでしょうか。

 その後も、党におきましては、国会対策委員長、幹事長、総務会長という数々の要職を歴任されるとともに、党内屈指の政策通として、その手腕を遺憾なく発揮されました。

 また、ライフワークとして、過疎や地域おこしに関する政策に携わり、近年では、特定地域づくり事業推進法の成立、森林環境税及び森林環境譲与税の創設に尽力をされました。

 中でも、特定地域づくり事業推進法は、地方の人口の更なる急減を抑止し、豊かな地方づくり、人づくりを推進しようとするもので、超党派での成立に全力で臨まれました。通称細田法案と言われるゆえんであります。本法の施行後も、各地の市町村長などに制度の活用を呼びかけられるなど、自ら行動する姿勢は議長就任後も一貫され、導入する市町村の数は、なお増え続けております。

 このほか、政策面では、党内外で選挙博士として知られ、数々の選挙制度改革において実務者として制度改革の実現に大きく貢献を続けられる等、全国の選挙区事情に精通をして、その博識ぶりには一同舌を巻いたものであります。

 初当選から二年後の平成四年には議員立法の提出者の一員として答弁に立つなど頭角を現され、現在の小選挙区比例代表並立制を導入する特別委員会の審査に当たっては、少数政党の扱いをどうしていくのかなどと鋭く指摘をし、少数会派を含む様々な党派の活動によって国会が運営されていることを意識して、活動を続けてこられました。

 内閣では、経済企画政務次官、通商産業総括政務次官を歴任した後、平成十四年九月、第一次小泉改造内閣において、沖縄及び北方対策担当大臣と科学技術政策担当大臣として初入閣を果たされ、平成十五年六月には、初代の個人情報保護担当大臣にも就任をされました。

 特に、沖縄科学技術大学院大学、OISTの設置に当たりましては、平成十五年四月に設置予定地として恩納村を選定され、大臣退任後も、その経験を生かし、議員連盟会長などの立場から、研究活動の充実に向けた支援を続けられておられました。近年のOISTの研究活動の成果は皆様方もよく知るところであり、その先見の明を改めて感じるところであります。

 第二次小泉内閣及び第二次小泉改造内閣では、内閣官房副長官、次いで内閣官房長官として、日々の記者会見に臨まれるとともに、国会との調整に奔走され、裏表のない実直なお人柄と、ひょうひょうとされる様子に親しみを覚える方は、与野党を超えて多かったのであります。

 これらの御経験の後、前回の総選挙において十一回目の当選を果たされた令和三年十一月、優れた人格と識見を買われ、先生は、第七十八代の衆議院議長に就任をされました。

 就任に際してこの議場で述べられましたとおり、議院の公正円満な運営に全力を傾注されるとともに、与野党から推挙していただいたことを踏まえ、常に中立であろうと振る舞っていらっしゃったことは、最も身近にいた議院運営委員長として、常に感じていたところであります。ここでも、人事を尽くすという言葉を実践されておられた細田先生でありました。

 海江田副議長とともにお支えをしたこの二年間、数多くの案件について相談をさせていただきました。与野党が納得をしていればお任せするという御様子がほとんどでありましたが、その中で、二回だけ、議長が主導された案件がありました。

 一つは、昨年行われたIPUのジェンダー調査であります。

 調査を行ってもらいたいと面会に訪れた野党の先生に対し、前向きな反応を示されるとともに、私に対して、御自身の男女共同参画担当大臣の経験や、自民党における女性議員の増加や活躍の取組を披瀝されつつ、検討を行うように指示を出されました。

 その後、事務局のサポートも得て、充実した調査結果が取りまとめられたことは皆様御承知のとおりでありますが、多くの同僚議員がどのような調査が行われるのか注目をする中、細田議長のリーダーシップによって実現をした、印象に残る出来事でありました。

 もう一つは、質問通告の在り方についてであります。

 細田議長は、御自身が霞が関に身を置いていた経験から、立法府と行政府の関係にも長年関心を寄せておられました。これまで質問通告の在り方等について政党間での申合せは行われておりましたが、さきの常会において、議院運営委員会理事会としては初めての申合せを行いました。これについても、細田議長が私に対し、何かできないかと相談を持ちかけられたことが端緒となったものでありました。

 その後、与野党各位の協力を得て取りまとめられたものでありますが、前例のない形での人事院総裁からの議運理事会での説明聴取など、細田議長に背中を押されたからこそ取り組めたものだったと思っております。

 議長退任前の今年の九月、北海道厚岸町で開催をされた、衆議院議長が主催者である第四十二回全国豊かな海づくり大会は、天皇皇后両陛下をお迎えして、無事に成功を収められました。既に御病気の関係で服用すべき薬があったにもかかわらず、その副反応により出席できなくなる事態を避けるために、周囲の心配を顧みず、御自身の判断で薬の服用を減らすなど、まさに御自身の体を欺いて、事に臨まれたのであります。今にして思えば、議長としての最後の務めとの強い思いがあったのかもしれません。

 そして、その成功を見届けた後、臨時国会が迫る中で、これ以上は迷惑をかけられないと、議長職を辞するという苦渋の決断をされたのであります。議長を任期途中で辞するのは大変なことであり、九腸寸断の思いであったことでありましょう。

 議長退任までの一年十一か月、外国の議長との面会は延べ二十六名、大統領や国王といった元首は六名、首相や閣僚は十二名など、歴代の議長と比べても遜色のないペースで海外の要人との面会を重ねられました。その際にも、緻密な歴史観に裏づけをされた意見に誰もが耳を傾けたことと存じます。

 これまでの御経験の集大成の一つとして、九月のG7下院議長会議の開催に向け、周到な準備を重ねられておられた中で、欠席のやむなきに至ったことは、代理をお務めになられた海江田副議長に感謝をしつつも、痛恨の極みであったでしょう。

 このように激務をこなす一方、趣味として知られるピアノ演奏は、長らくの中断を経て再開をされておられたと聞きました。以前、党本部の大ホールでもベートーベンやショパンの曲を滑らかに演奏され、その腕前は、世界的なピアニストであった故中村紘子氏から、感受性が強く、音楽的な演奏で、びっくりするほどロマンチックとの高い評価を受けておられました。そのことも、忙しい中でも練習に取り組むことの後押しとなったに違いありません。

 退任の記者会見の最後、会見時間の延長を求める怒号や再度の会見を求める声を浴びながらも、先生は、会見ではなく会話をしましょうと、体調の優れない中、ひょうひょうと答えておられました。様々な報道に対しても、事実ではないと御自身が考えることについて、それを証明することは本当に難しい、そうお悩みのようでありました。会話をしましょうというのは細田流の最大限の誠意の表れだったのかなと思っておりますし、特段隠すことなく素直に話されていたと感じたのは私だけではないと思います。

 議長として人事を尽くしてこられたからこその振る舞いであったと思いますし、このような先生の姿勢についての理解が広がることを願ってやみません。

 こうして議場で追悼の言葉を述べておりますと、懐かしさに、ふと昔のことも思い出されます。数々の要職を歴任して、三権の長まで務められた細田先生でありますが、当選同期同士、若かりし時代には、共にやんちゃもやりましたね。

 細田先生が交通部会長、私が通信部会長のときに、私が唆す形ではありましたが、橋本内閣の中央省庁再編の折、総務省を自治省、郵政省、総務庁の合併とするのではなくて、運輸省と郵政省を合併させようと二人でもくろみました。昔の逓信省の復活であります。しかし、結局、党の総務会で、当時、加藤紘一幹事長、また山崎拓政務調査会長から、みんなの前で手ひどくどなりつけられ、叱られ、二人の計画が幻と消えたことを、今になって楽しく思い出されます。

 先生は、私にとって、よき友であり、同志でもあり、そして選挙や議会制度に関する卓越した見識を有する先輩でもありました。私は、議院運営委員長として細田議長にお仕えをし、立法府の長としてのあなたをお支えすることができたことを心から光栄に思います。

 ここに、細田博之先生の生前の御功績をたたえ、その人となりをしのびつつ、謹んで御冥福をお祈りいたします。

 先生を今日まで支えてこられました御家族の皆様の胸中に深く思いを致すとともに、公私にわたって先生を支え続け、昨年二月に先立たれた最愛の洋夫人の元に旅立たれた、その魂の安らかならんことを心から願って、追悼の言葉といたします。(拍手)

     ――――◇―――――

議長(額賀福志郎君) 本日は、これにて散会いたします。

    午後一時二十三分散会


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