衆議院

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第7号 平成29年6月1日(木曜日)

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平成二十九年六月一日(木曜日)

    午前九時一分開議

 出席委員

   会長 森  英介君

   幹事 上川 陽子君 幹事 中谷  元君

   幹事 根本  匠君 幹事 平沢 勝栄君

   幹事 船田  元君 幹事 古屋 圭司君

   幹事 武正 公一君 幹事 辻元 清美君

   幹事 北側 一雄君

      赤枝 恒雄君    安藤  裕君

      伊藤 達也君    池田 佳隆君

      衛藤征士郎君    小倉 將信君

      大隈 和英君    鬼木  誠君

      神山 佐市君    熊田 裕通君

      後藤田正純君    佐々木 紀君

      佐藤ゆかり君    新谷 正義君

      園田 博之君    田畑 裕明君

      高木 宏壽君    土屋 正忠君

      長尾  敬君    野田  毅君

      福山  守君    藤丸  敏君

      古田 圭一君    星野 剛士君

      宮崎 政久君    村井 英樹君

      保岡 興治君    山下 貴司君

      山田 賢司君    井出 庸生君

      枝野 幸男君    奥野総一郎君

      北神 圭朗君    後藤 祐一君

      中川 正春君    古本伸一郎君

      細野 豪志君    太田 昭宏君

      斉藤 鉄夫君    浜地 雅一君

      赤嶺 政賢君    大平 喜信君

      足立 康史君    小沢 鋭仁君

      照屋 寛徳君

    …………………………………

   参考人

   (東京大学大学院法学政治学研究科教授)      宍戸 常寿君

   参考人

   (特定非営利活動法人情報公開クリアリングハウス理事長)          三木由希子君

   参考人

   (慶應義塾大学法学部教授)            小山  剛君

   参考人

   (東京大学大学総合教育研究センター教授)     小林 雅之君

   衆議院憲法審査会事務局長 阿部 哲也君

    ―――――――――――――

委員の異動

六月一日

 辞任         補欠選任

  辻  清人君     小倉 將信君

  宮崎 政久君     長尾  敬君

  村井 英樹君     神山 佐市君

  山際大志郎君     新谷 正義君

  山下 貴司君     熊田 裕通君

  岸本 周平君     後藤 祐一君

  山尾志桜里君     井出 庸生君

  遠山 清彦君     浜地 雅一君

同日

 辞任         補欠選任

  小倉 將信君     藤丸  敏君

  神山 佐市君     村井 英樹君

  熊田 裕通君     山下 貴司君

  新谷 正義君     大隈 和英君

  長尾  敬君     宮崎 政久君

  井出 庸生君     山尾志桜里君

  後藤 祐一君     岸本 周平君

  浜地 雅一君     遠山 清彦君

同日

 辞任         補欠選任

  大隈 和英君     古田 圭一君

  藤丸  敏君     辻  清人君

同日

 辞任         補欠選任

  古田 圭一君     山際大志郎君

    ―――――――――――――

五月三十日

 平和憲法の改悪反対に関する請願(畠山和也君紹介)(第一四五六号)

 立憲主義の原則を堅持し、憲法九条を守り、生かすことに関する請願(畑野君枝君紹介)(第一四五七号)

 同(畠山和也君紹介)(第一四五八号)

は本憲法審査会に付託された。

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制に関する件(新しい人権等)


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     ――――◇―――――

森会長 これより会議を開きます。

 日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制に関する件、特に新しい人権等について調査を進めます。

 本日は、本件調査のため、参考人として東京大学大学院法学政治学研究科教授宍戸常寿君、特定非営利活動法人情報公開クリアリングハウス理事長三木由希子君、慶應義塾大学法学部教授小山剛君及び東京大学大学総合教育研究センター教授小林雅之君に御出席をいただいております。

 この際、参考人各位に一言御挨拶を申し上げます。

 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただき、まことにありがとうございます。

 本日は、去る五月二十五日の自由討議に引き続き、特に新しい人権等についてさらに議論を深めるため、幹事会の総意に基づいた御専門の方々を参考人としてお招きしております。参考人それぞれのお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたいと存じます。

 本日の議事の順序について申し上げます。

 まず、宍戸参考人、三木参考人、小山参考人、小林参考人の順に、それぞれ二十分以内で御意見をお述べいただき、その後、委員からの質疑に対しお答え願いたいと存じます。

 なお、発言する際はその都度会長の許可を得ることとなっております。また、参考人は委員に対し質疑することはできないこととなっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。

 御発言は着席のままでお願いいたします。

 それでは、まず宍戸参考人、お願いいたします。

宍戸参考人 ただいま御紹介にあずかりました宍戸です。

 本日は、情報化社会におけるプライバシー権について意見を述べる機会をいただき、大変光栄に存じます。

 以下、お配りした資料に沿って意見を述べさせていただきます。

 まず、一、新しい人権の概念です。

 日本国憲法十三条の前段は、個人の尊重について定めております。これは、利己主義、エゴイズムとも、全体主義とも異なり、みずから生き方を選択し、その行動の責任を引き受ける、そのような自律した人格を持つ個人から成る公正な社会のあり方を指し示しております。

 基本的人権とは、このような個人にとって不可欠な、そして公正な社会の維持発展にとって重要な権利、自由の総体です。憲法第三章は、そのような人権として必要であると憲法制定の時点に考えられた表現の自由や生存権などを列挙しております。

 その後の社会の変化により、憲法に列挙されておらず、基本的人権にふさわしい権利、自由が登場した場合には、それを憲法改正により追加することが考えられます。しかし、憲法改正を待たなくても、法律レベルで新しい人権を実現することも可能です。さらには、裁判所の解釈によって、他の基本的人権と同じ憲法レベルで新しい人権を保障、実現することもできます。

 その根拠となるのが、憲法十三条後段の幸福追求権です。この幸福追求権は、全ての人権を包括するとともに、他の条項では保障されない権利をカバーするように補充的に機能する、そして、立法措置を待たず直接に国家権力を拘束し、国民が裁判で主張することのできる具体的な権利であると理解されております。

 昭和四十四年の最高裁判決は、憲法十三条が、国民の私生活上の自由が公権力から保護されるべきことを定めており、その私生活上の自由の一つとして、承諾なしにみだりに容貌などを撮影されない自由を有すると述べました。その後、裁判所は、みだりに何とかされない自由、こういう形で、新しい人権の保障を、謙抑的にではありますが、広げてきました。これからお話しするプライバシーは、そのような新しい人権の代表ということになります。

 そこで、二のプライバシーの概念でございます。

 もともと近代憲法は、全体として、私生活に対する権力の濫用を防止することを一つの目的としております。日本国憲法も、二十一条二項で通信の秘密を定め、三十五条では、住居などについて侵入などを受けない権利を保障しております。

 しかし、科学技術は常に発展し続け、それにより私たちの生活は便利になりますけれども、同時に、私生活が新たな形で侵害される危険も高まります。このような技術の発展に対して、個人の自律を守るための権利として、正面から、私生活、プライバシーそれ自体を内容とする権利が主張されるようになったわけでございます。

 そのようなプライバシー権は最初、ひとりで放っておいてもらう権利として、十九世紀末のアメリカで主張され、その後には、私生活への侵入や私事の公開など、幅広い問題がプライバシーの名のもとで扱われるようになりました。一九四八年の世界人権宣言は、十二条で、自己のプライバシーに対して恣意的に干渉されない権利を掲げました。

 現在では、世界の憲法文書を集めた比較憲法プロジェクトというデータベースによりますと、百六十七の憲法や人権法が、プライバシーを直接明文で保障しております。他方、アメリカやカナダのように、私生活の保護に関係する憲法規定を解釈することで、プライバシーを実質的に保障している憲法も存在いたします。日本国憲法もまた、そのような憲法の一つと位置づけられます。

 プライバシー権の内容は、科学技術の発展とともに、また発展してまいりました。二十世紀後半、コンピューターなどの情報処理技術が急速に発達すると、企業、政府などが保有する個人に関する膨大な情報が結合され、それによって個人の自律が脅かされる危険が意識されるようになりました。

 そこで、現代では、プライバシー権は、他人に知られていない、知られたくない私生活を暴かれない、そういう消極的な保障を超えて、より積極的な自己情報コントロール権として理解されるようになっています。これは、自分が特定の文脈で特定の相手方に開示した情報について、その適正な利用、管理を求める権利ということになります。またそれは、思想、信条のような機微な情報に限らず、氏名、住所などの個人を識別する単純な情報にも及びます。

 平成十五年の判決も、大学から氏名などを警察に提供することについて、本人の同意を得るべきであったと述べており、この自己情報コントロール権説に近い理解を示しております。

 自己情報コントロール権は、個人が、誰にどの情報をどの程度まで開示し、その利用を許すかを決めることを通じて、有意義な人間関係を取り結ぶために不可欠の権利となっております。

 人は、家族や恋人と秘密を共有します。人は、みずからの情報を社会に示すことで、新たな友人を得たり、職を得る機会を見つけたりします。プライバシーは、ひとりで放っておいてもらうだけではなく、社会生活に不可欠なきずなとしてのプライバシーでもあります。

 次に、三、憲法上のプライバシーに移ります。

 このような内容のプライバシーが基本的人権であるとはどういうことでしょうか。基本的人権は、まずもって国家権力の限界を定め、その限界を守るよう、個人がみずからのために国家に要求する防御的な権利です。

 最高裁の判例を見ますと、昭和四十四年の判決では、警察が公道上の容疑者の容貌などを撮影することが適法とされました。他方、昭和五十六年の判決では、弁護士会の照会に対して市役所が漫然と前科を回答したことが違法とされました。平成七年の判決では、本邦に在留する外国人に関する指紋押捺制度が合憲とされました。

 これらの判例において、最高裁は、さきに述べましたとおり、みだりに何とかされない自由、こういう形で憲法上の権利としてプライバシーを肯定しつつ、問題となった個々の情報の内容、性質と、それを公権力が取得、利用する目的、必要性などを総合的に比較考量して判断してきたものと見ることができます。

 平成二十年に最高裁は、個人に関する情報をみだりに第三者に開示、公表されない自由が憲法上保障されることを明言しつつ、住基ネットからの情報漏えいなどの具体的な危険がないということを理由に、当該自由の侵害を否定いたしました。

 この判決は、情報システム、情報ネットワークシステムが構築される中で、プライバシーを適正に取り扱う構造がハード、ソフトの両面にわたって確保されるということを憲法上要求したものと理解できます。マイナンバー制度についても、この判例の趣旨を踏まえて、慎重な制度設計が行われたものと理解しております。

 このように正当な目的のために、必要かつ合理的な範囲で憲法上のプライバシー権が制限されることはやむを得ないことでございますが、その中でも、刑事司法、犯罪捜査や国民の安全を守るための活動、セキュリティー対策は、プライバシーと対立する場面が生じます。また、テロ対策などのために、国内の機関同士あるいは国際的な情報共有が行われているのも現実でございます。我が国でも、事前にお配りした資料に示しましたが、テロ対策を理由としたムスリムに対する公安の監視活動に関連した情報の流出が違法とされた裁判例などがあります。

 私は、世界的な傾向として、安全を名目としてプライバシーを安易に侵害するのではなく、両者の最適な実現を図る、いわば安全かプライバシーかの二者択一ではなく、安全もプライバシーもというぎりぎりの模索が続けられていることを強調したいと思います。例えば、プライバシーを制限する実体的な条件を法律で定めるだけでなく、個々の判断が恣意的であったり過剰にならないよう、取得や保存、管理について適正な手続を定めるとか、プライバシーの保護について監督する組織の独立性を高めることなどが現在では重視されるようになっております。

 本年三月の最高裁判決は、車両に使用者の承諾なくひそかにGPS端末を取りつける捜査手法について、公道上だけでなく、プライバシーが強く保護されるべき場所、空間にかかわるものも含め、個人の行動を継続的、網羅的に把握して、プライバシーを侵害し得るものであると述べました。そして、憲法三十五条との関係で、GPS捜査が、原則として法律の定める要件のもとでの裁判官の令状を必要とすると判断いたしました。

 衆議院では、先日、GPS捜査の立法化を検討するという趣旨の附則を加えた上で、組織的犯罪処罰法改正案を修正可決されたものと承知しております。この特定の捜査手法に限らず、安全とプライバシーを多層的に調整することは、ほかならぬ立法府の責務であるということを心にとどめおきいただきたく存じます。

 次に、四、個人情報保護法とプライバシーに移ります。

 憲法上のプライバシーは、国家権力を制限するものですが、同時に国家は、他人の侵害から個人のプライバシーを守る責務も負っております。このような私人間でのプライバシーの実現は、経済活動のグローバル化や情報通信技術の発達とともに、早くから国際的な課題となってまいりました。OECDの一九八〇年ガイドラインやEUの一九九五年データ保護指令などの国際的な取り組みと各国におけるデータ保護法の整備が共鳴する形で、プライバシーの実現が進められてきました。

 我が国の個人情報保護法は、OECDガイドラインを参考に制定されたものですけれども、個人情報の有用性も踏まえつつ、個人情報、個人データ、保有個人データの各段階に応じて、本人と事業者の間で権限を分配することを通じて、保護と利活用のバランスを図ってまいりました。

 ちょうど一昨日、五月三十日に全面施行された改正個人情報保護法は、この保護と利活用のバランスをICTの発展を踏まえて新たに調整し直したものということができます。個人情報の定義の明確化など、慎重な取り扱いを求める一方、利用目的の変更緩和や匿名加工情報制度により、ビッグデータとしての利活用をより容易なものといたしました。

 AI、IoT、ロボットなど、第四次産業革命を進めて国民生活を向上させる、オープンデータにより透明性の高い政治、行政や社会を実現するためにも、データの流通を確保、促進する環境整備が不可欠となっております。

 EUでは、事業者の保有する個人データのセットをそのまま他の事業者に移転させるデータポータビリティーの導入が準備されております。我が国でも、プライバシーとデータ流通の自由を対抗的に捉えるのではなく、むしろ、本人の実効的なコントロールの確保を通じて、安心してデータが提供され、社会で流通させるためのルールが求められております。

 他方、集積されたデータから個人の趣味、嗜好を解析するプロファイリングは、電子商取引などで既に活用されていますが、誤った評価により、結婚、就職、融資などでいわれのない差別を受ける可能性もあります。個人が先回りされる形で自己決定の機会を失うこともありますし、選挙や世論に関係して無制限にプロファイリングが行われる場合には、民主主義のあり方にも多大な影響が生じます。

 直ちにプロファイリングを禁止すべきというわけではなく、社会的な差別の禁止とかかわることを含めて、プライバシーの観点からの検討が求められるところだと考えております。

 次に、五、私法上のプライバシーでございます。

 私人間でのプライバシーは、行政規制としての個人情報保護法のほか、例えば雇用関係では労働法によっても人格権として保護されております。表現の自由との調整については、昭和三十九年の「宴のあと」事件以来、裁判例が積み重ねられてきました。

 現在では、報道によるプライバシー侵害については、公表により得られる利益と失われる利益とを総合的に比較考量して不法行為の成立が判断されます。そして、報道された私生活上の事実が公知の事柄か非公知の事柄か、また社会の正当な関心事に当たるかという点が重視されています。

 また、肖像については、平成十七年の判決が、撮影公開を受忍すべきかどうかという観点を示しています。先ほどのGPS判決もそうですが、公道上ではプライバシーを合理的に期待できない反面、住居や私室の中ではそうではないといった、場所の公共性も重視されています。

 この関係で、インターネット上の検索エンジンで氏名などを検索して表示される前科にかかわるサイトへのリンクの削除に関する、この一月の最高裁決定に触れたいと思います。

 この論点は、EU司法裁判所の判決に倣って、忘れられる権利と呼ばれることがあります。しかし、これは、日本でいえば個人情報保護法上の保有個人データの削除に相当するものであり、EUでは、来年施行されるデータ保護規則でこの権利を明文化いたしました。

 これに対して、日本で検索結果の削除が争われる際は、人格権侵害を理由とする仮処分による差しとめとして、従来の私人間のプライバシーに関する裁判の延長線上に位置づけられるということに御注意をいただきたいと思います。

 最高裁は、検索エンジンは情報を媒介するにとどまらず、検索結果を表示する、そういう表現行為をしているとしました。そして、検索エンジンがインターネット上の情報流通の基盤であり、削除が事業者の方針に沿った一貫性を有する表現行為の制約であるという点を重視して、比較考量においてプライバシーの利益が上回ることが明らかである場合に削除を認める、このような基準を示しました。

 私自身は、既にお配りした資料のとおり、仮処分が簡易迅速な手続であり、たまたま担当した裁判官次第で安易に削除が認められるようであれば、知る権利を不当に害すると考えておりますので、この判例の基準は、比較考量の結果として人格権の保護が上回ることが手続上明らかな場合に限って制限的に削除を認めたものと理解しております。しかし、この基準が広く削除を認めるものだ、そういう読み方もございます。実際には、今後の裁判例の運用、また事業者の自主的取り組みも慎重に見守る必要があると思います。

 一般に、過去の事実が、一定の時間の経過によりプライバシーとして保護されるべき場合がある、このことは確かですけれども、それが民主主義社会の血液である公共的な議論を狭めることのないよう、問題となる情報ごとに丁寧な議論が必要と考えます。

 特に、前科については、改正個人情報保護法が要配慮個人情報として慎重な取り扱いを求めているように、更生の利益は、本人はもちろん、社会にとっても重要なものです。犯罪の内容、性質にもよりますが、ただ検索エンジンだけ、インターネットだけの問題ではなく、現代社会における更生のあり方について、これも、差別の禁止とも関連して議論が必要と考えております。

 最後に、六、憲法改正とプライバシーの関係について申し述べたいと思います。

 第一に、憲法論議一般に言えることですが、憲法を改正すること、あるいは改正しないこと、それ自体を自己目的化するのではなく、それによって何をどこまで具体的に実現するのか、しないのかを意識する必要があります。これまでお話ししてきたとおり、プライバシーの概念は複雑で流動的ですので、とりわけ丁寧な整理が必要と考えております。

 伝統的な私生活の平穏と情報化社会におけるデータ保護の権利は、重なり合いながらも、異なる方向性と機能を有する権利です。したがって、それを分けて独立に規定することも考えられます。この点で、欧州基本権憲章七条、八条の整理が参考になると思います。

 第二に、憲法上の基本的人権であるプライバシー権は、第一次的には国家権力を限界づけ制限するものですから、通信の秘密や憲法三十五条もあわせて見直す必要があります。また、プライバシー権の制限がどのような場合に許されるのかについても、あらかじめの見通しが必要ということになります。明確な法律の規定に基づき、プライバシーを上回る公益の実現のために必要最小限度の範囲で制限が許される、そうでなければ違憲となるということをはっきりさせる、いわば制限の制限を織り込むべきだと考えます。この点で、ヨーロッパ人権条約の規定ぶりも参考になるかと思います。

 第三に、立法事実ならぬ憲法事実として、プライバシーをめぐる状況を把握し、憲法以外の法令による対応も含めて十分に調査、検討いただきたいと思います。

 二〇一三年のスノーデン事件以降、国民も議会も知らないままに、政治家を含む国民のプライバシーが国内外の情報機関によって包括的に侵害されているのではないかという懸念が世界的な共通の関心事となりました。それによって、例えばアメリカとEUの間のデータ移転に関する取り決めがEU司法裁判所により無効と判断されるなど、グローバルなプライバシー法は現在激動の時代を迎えております。

 つい先日も、新たに公開されたスノーデン・ファイルによれば、XKEYSCOREという特殊なプログラムが日本政府に対して提供されている旨のNHKの報道がございました。私は真偽を承知する立場にございませんし、個別の詳細については当然秘密保護の必要もあろうかと思います。

 しかし、国民の権利、自由について国民の代表者が関心を持ち、その制限の妥当性を判断し、国民に説明することは、立憲主義の要諦であります。国会は重要な憲法の番人でもあります。我が国において安全とプライバシーをどのように両立させるのか、させていくのか、そのために憲法改正が必要なのか、どのように改正するのかについて、基本的な事実関係を広く調査した上で、引き続き御検討いただきたいと思います。本日の私の意見陳述が、そのような憲法審査会での調査の御参考になるところが少しでもあったとすれば幸いでございます。

 私の意見陳述は以上でございます。御清聴まことにありがとうございました。(拍手)

森会長 次に、三木参考人、お願いいたします。

三木参考人 情報公開クリアリングハウスの三木と申します。

 きょうは、このような機会を与えていただき、大変感謝を申し上げます。

 私は、知る権利について、きょうここで意見を述べさせていただきます。私は、研究をしているというよりは、むしろ、みずから知る権利を実現し実体化するための活動をずっとしてきたという立場でございますので、やや、理論的というよりは、知る権利を市民がどう理解をし、認識をし、獲得するために努力をしているのかということと、あと、それから見た政府のあり方について意見を述べさせていただきます。

 私どもは一九八〇年から活動しております。もともとは情報公開法をつくるための活動としてスタートしております。その中で重要なキーワードとして常々ございましたのが、知る権利と表現の自由という二つのものでございます。知る権利が保障されていない社会では、民主主義の根幹である主権者の権利行使が非常に難しいという大もとの問題がございます。そこを受けまして、私たちは政府が持っている情報について権利を持つべきだということがもともとのスタートでございます。九九年に情報公開法ができまして、そこから、立法活動から制度をいかに使っていくか、あるいはそれを実現していくかということを活動の中心に据えております。きょうのお話は、そうした立場からのお話となります。

 まず最初に、確認的に申し上げますと、基本的人権としての知る権利の位置づけというのは、これは長い時間をかけて、国際的枠組みの中でも、日本の中でも議論がされてきて、蓄積をされてきているということに言及をしたいと思います。

 国際的枠組みでいいますと、市民権規約、自由権規約がございますけれども、ここの中では、表現の自由の一環として、情報を受けるということについて、その自由を含むということになっております。ですので、国際的な枠組みの中で、表現の自由の中にいわゆる知る権利、情報を受ける権利が含まれるということは、これは共通認識であろうというふうに思います。

 それから、ヨーロッパ人権条約でも同様の規定がございますけれども、近ごろ、欧州人権裁判所が、画期的というふうにヨーロッパの方では評価をされておりますが、判決を出しておりまして、情報への権利に関しては、公益がある場合は、情報公開請求権が及んでいないものについても一定の権利が及ぶというような判決を出しております。

 この間、一貫して、国際社会の中で主な関心になっておりますのは、情報を得る権利、情報への権利と、それから公益との比較考量でございます。ですので、表現の自由の中で、いかに情報を受け取り、それが公益的な議論に資するかということが非常に関心事としてあるということは申し添えておきたいと思います。

 以上のことから、表現の自由に包摂される、情報を受ける自由ということで基本的人権に位置づけられてきているというのがこれまでの経緯かというふうに理解をしております。それを実現するものとして、情報への権利とか情報にアクセスする権利、あるいは情報アクセス権として、情報公開法制の整備を進めてきておりまして、現在、世界で百カ国以上が情報公開法制を制定するという状況に至っております。

 日本の状況を簡単に振り返りますと、もともと日本で情報公開制度は自治体からスタートしております。一九八二年に最初に情報公開条例が制定をされまして、その条例の中では、自治体によりますけれども、情報を公開する権利そのものを、知る権利の保障、あるいは知る権利を尊重するということで、目的に位置づけて制度をつくってまいっております。知る権利を規定していない自治体条例も多数ございますけれども、基本的には、地方自治の本旨というような言葉を用いることで、その憲法的な位置づけを確保しているという条例が多数あるというところでございます。

 国における議論を振り返ってみますと、一九九六年に行政改革委員会が情報公開法要綱案というものを発表いたしまして、それに合わせて考え方というものを発表してございます。

 情報公開法制の議論の中で、一つの大きな関心事は、この法律の目的に、知る権利という言葉を規定できるかどうかということにございました。これは長い議論がございまして、結局、情報公開法要綱案の考え方のところで、一番下、下線部のところをごらんいただければと思いますけれども、知る権利ということについては規定をしない、そのかわりに、「国民主権の理念にのっとり」という表現を用いて、憲法の理念を実現したものとして制度を位置づけることになったというところでございます。その結果として、国民主権に対して、政府の説明責任を果たす、そういう仕組みとして情報公開法制が位置づけられてきたというところがございます。

 一方で、その制度は、市民が使う、あるいは請求者が情報公開を請求するという前提でできておりますので、制度を使う側にとってみると、政府の説明責任を求めるというよりは、みずからの知る権利をいかに実現するかということで行動するというところに制度を使う目的があるという点では、立法目的、立法趣旨と照らして、使う側の意識は必ずしもそこにないということは言えるかと思います。

 二〇一〇年に、閣法で改正情報公開法案が一度国会に出ておりますけれども、その閣法の法案をつくる過程で、当時、なぜ知る権利という言葉を設けなかったのかということについて説明的に述べられている資料がございますので紹介をしておきますと、知る権利よりもアカウンタビリティーの方が古い概念ということがわかったので、知る権利が設けられないが、説明責任という言葉を使ったということを塩野教授が申しておったということを最近把握しております。

 その後、二〇一一年四月に改正情報公開法案が閣法で提出をされておりますけれども、この段階では、知る権利ということを法律の規定に設けるということで、改正法案が作成をされたという経緯がございます。

 このときの特徴は、知る権利という保障の範囲が、単に開示請求権ということだけではなくて、情報提供というものも含めて、広く知る権利という言葉を位置づけたというところがございます。当初の立法趣旨については、御参考までに資料として添付をしておりますので、御確認いただければというふうに思っております。

 これまでの経緯を申し上げますと、むしろ、新しい権利として憲法に知る権利を規定すべきだという議論をしてきたわけではなくて、憲法二十一条の表現の自由を中心に、現行憲法において知る権利が保障されているということを前提に議論がされ、考えが蓄積されてきたという経緯があるということが言えるかと思います。その一環として、情報公開請求を求める権利、開示請求権がそこにあるということで議論がされてきているということであるというふうに考えております。そこから、条例化あるいは法制化という議論がされてきているという理解でおります。

 それで、開示請求権としての知る権利ということを申し上げますと、これは、制度を使う側からすると、ある種の欲求のあらわれということになります。

 もともと、自治体で条例化の議論が始まったときの一つのある種のキーワードとなっていたのは、情報なくして参加なしということでありました。情報公開というのは、実は最終目的ではないということがございます。それは、知る権利についても同じようなことが言えるかと思います。情報を得るということそのものが、社会への参加あるいは政府への参加というものを前提としたものでなくては、知るということが、次の行動ないし民主的社会の発展につながらないということになるからでもあります。

 ですので、主権者として、政府、自治体が何をしているのかをよく知るということを通じて、よりよい選択をするということが、まずこの権利の基本にあるというふうに考えております。それは、一つは選挙というプロセスになろうかと思います。さらにそこから、政治や行政の決定過程に参加をする、あるいは関与をするというところが主権者としての欲求にある。さらに、何をしているのかを知るということは、監視をするということでもあります。こうしたプロセスを通じて、よりよい政府、よりよい自治体、社会の実現というものが、さらにその先になければならないというふうに考えております。

 情報公開の問題になりますと、例えば政府や自治体の問題が暴かれるとか、それから追及がされるということで、非常に積極的に取り組まないという傾向もないわけではございませんけれども、一時的に問題があったとしても、それをどう乗り越えるか、あるいはそれをどう解決するかということを通じて、よりよい政府になっていけばそれでよいというのが情報公開制度の基本的な考え方かと思います。

 ですので、私たちが開示請求権を行使して情報を得るということは、あくまでも手段であるということであり、情報を必要とする目的は別にあるということをまず前提に考えなければならないということになります。

 したがいまして、知る権利ということを議論する場合は、知る権利が保障されればいいというよりは、知る権利が保障される必要はあるし、それを基本的な権利に据えるべきであるということはもちろんのことですけれども、それで権利が満たされる、あるいはそれで必要性が満たされるということには必ずしもならないという特徴があるというふうに言えるかと思います。

 そういう視点から考えますと、知りたい情報と知ることができる情報については、この間一貫して乖離があるというところがございます。

 日本の行政は、特に手続を重視するという傾向がございまして、適正な手続を踏めば、それによって適正な決定がなされるという前提で動いております。そのこと自体、否定をする必要はないかと思いますけれども、どちらかというと、国民の側からしますと、プロセスそのものに関心が及ぶというのが通常でございます。情報公開を求めるときは、結果よりも、なぜがわかる情報を必要とするというのが一般的な認識であります。

 例えば、誰がかかわっているのか、どういう状況分析、現状分析をして、なぜそうなったのか、あるいはどんな選択肢を検討したのか、選択肢として選ばなかったものは一体何なのか、その理由はなぜか、どのような議論を誰が行ったのか、誰の意見を聞いたのか、どのような意見を採用して、どのような意見を採用しなかったのか、あるいは、意見を聞いたのであれば、その意見を聞いた人を選んだ理由は一体何なのかというようなことを、むしろ情報としては知りたいというふうに思うわけでございます。

 ですので、意思決定手続に関しては、手続としての妥当性と正当性に偏重すると、行政運営そのものが、市民が知りたいとか、あるいは市民が関与したい、そういうプロセスと少し乖離をしていくという状況になります。こういう中で、情報公開というのは大変困難な状況に陥ります。それは、知りたい情報と、それから、実際に得られる情報に格差が生じるということになるからであります。このことそのものが、知る権利という観点からいいますと、知る権利そのものを阻害する要因になるということも言えるわけであります。

 もう一つ、知りたい情報と知ることができる情報の乖離の原因になるものが、不開示情報の範囲ということになります。

 政府や行政が持っている情報を全て公開できるというふうには私自身も思っておりませんけれども、何を不開示とするかということについては、客観的、合理的判断が常になされているというわけではないということは、一般傾向としているところであります。

 ですので、知る権利が情報公開法に明記されることによって、私どもとしては解釈運用の指針になる、基本的権利としての知る権利が、開示請求権の行使に対して、より具体的に保障するような解釈運用指針になるということの見解も一面ではございます。

 もう一点申し上げておきますと、知る権利というのは、これは抽象的な権利というよりも、むしろ具体的に私たち自身が獲得をしていきたい権利というところでもあります。ですが、権利保障制度であるための限界というのもございます。

 情報公開の仕組みは、情報公開請求をするということを通じて初めて情報が公開をされるという仕組みでございます。ですので、開示請求権の保障そのものは、機会保障的な制度というふうにも言うことができるわけです。請求権を行使しないと情報公開が進まない、こういう限界がございます。

 結果的に、情報公開請求した人の知る権利が満たされるという仕組みになっておりまして、一般的な知る権利が満たされるという仕組みにもなっていないということになります。これは、日本の今の枠組みの中では、実は公開情報の情報流通のインセンティブが非常に低い仕組みになっているということが言えるからです。

 一点が、手数料があるという点で、非常にこのインセンティブに欠ける仕組みになっているということがあります。それからもう一つ、日本の場合は、政府の持っている公文書に関しても著作権法の枠組みは基本的にかかるという仕組みになっておりますので、広く流通させる、情報を獲得した人間が流通させるということについてはインセンティブが働きにくいというような限界もあるというところがございます。

 ですので、知る権利が開示請求権制度に限定をされますと、一面、知る権利が具体的に保障される一方で、その請求をした人にしか知る権利が保障されないという限界が発生するというところがございます。

 そういうところから、私どもの関心としましては、権利の保障、開示請求権の保障というものは当然のことなんですが、一方で、義務的に情報を公表させていくような仕組み、あるいは情報提供を充実させるような仕組みがなければ消極的な権利保障にとどまるというところで、さらに政策的な展開を必要としているというふうに理解をしております。

 開示請求権制度から見た知る権利の前提ということで、少し意見を申し上げます。

 知る権利の制度的保障は、実質的保障に直ちにはならないという一面があります。それは、私どもの経験的にも、それから実体的にも理由がございます。開示請求権が実質を備えるためには、情報公開を前提とした政府運営への転換、改革というものが伴わないと実現しないという側面があるからであります。

 情報公開を前提としていない政府運営ですと、情報公開の前提となる記録が十分につくられていないということもございますし、それから、原則公開というのが基本的な枠組みではあるんですが、推定不開示という、原則的には不開示を前提に判断をしてしまうという消極的判断を招きやすいという側面があります。単純な話でございまして、情報公開を前提に政府運営をしておれば、情報公開に対しては常に前向きに取り組める、そういう関係になるわけであります。

 結果的に、ここの転換、改革が進まない限りは、実は、知る権利ということを幾ら法律上規定をしても、その実体化が難しい。結果的に、閉鎖的な行政運営、政府運営をしておりますと、情報を得たとしても参加、関与が困難ということが結果的に起こるわけであります。

 開示請求権や知る権利の前提としては、公文書が作成、取得されていなければならないということも大きな課題としてございます。

 この間、公文書をめぐりさまざまな問題が具体的に起こっておりますけれども、公文書が存在をするということは、適正な政府運営を確保する手段として本来は重視されるべき事柄であります。活動に関する記録を作成、管理する組織への転換をするということは、適正な行政運営に対して前向きに取り組むということでもございます。

 それはなぜかと申しますと、行政組織が何をしたのかということについては、記録がなければその正当性を証明する手段がないということになるからであります。この人が言ったから信じるとか、それから、説明するあるいは説得するということではなくて、記録を通じて判断材料を示すとか説明責任を果たすということが本来は必要とされるわけであります。それをできない組織であると、それは私たちの知る権利を大きく阻害する要因にもなるということになりますし、記録化されていなければ、時間と空間を超えて情報の共有ができないというそもそもの大限界があるというところの限界をみずからつくるということになります。

 そういうことを考えますと、政府運営の転換が、知る権利や開示請求権の本来的効果を発揮するためには不可欠であるということになりますし、それが果たされる政府であれば、それは市民とのよい相互効果を生み出すことができるということになるだろうということになります。

 一面、それができておりませんと、制度を使えば使うほど不満、不信感が募るということになります。不開示が広い、不存在が多いとなりますと、情報を出さない政府という消極的な認識に請求者側はなるというところでありまして、制度を使えば使うほど不信感や不満が募るという悪循環から逃れられないということになり、それが政府の正当性にかかわる問題になるというふうに考えてございます。

 そういうことを考えますと、知る権利の保障といったときには、具体的な権利の保障として開示請求権というものもございますけれども、それを前提にした政府の運営そのものの転換につなげていく、そういう考え方あるいは議論が一方で必要だということになるかと思います。

 情報公開あるいは知る権利の問題でいいますと、非公開、秘密保護の問題も大きなテーマでございますので、意見を述べさせていただきたいと思います。

 非公開や秘密保護が成り立つ大前提といいますのは、政府そのものが信頼できる、あるいは信頼されるための努力をしているということが大前提となります。

 非公開や秘密保護というのは、これは事実上、政府自身がアカウンタビリティーを回避している状態でありますし、市民に対する、知る権利を制約しているという状態でございます。それであっても政府にそれを委ねられるということは、信頼性を獲得する努力なしには実はなし得ないというところがあります。

 しかも、非公開や秘密が多い分野は、外交や安全保障、治安維持など、人権とぶつかりやすい分野でございます。こういう分野について非公開や秘密保護という議論をする場合は、それは、いかに政府がその分野についての信頼を獲得する努力をするかということとセットであるというふうに言えるわけであります。

 そのためには、非公開や秘密保護と知る権利の調整は大変重要でありますし、それから、それを、知る権利の保障といったときに、いかに情報を出すかということだけではなくて、いかにその活動を監視するかとか、監視活動、検証結果について積極的に情報公開をするかとか、あるいは、その情報公開の結果、私たち自身が理解をする、何が起こっているかを理解し、監視をする一端を担うということが必要になってくるだろうというふうに考えているわけであります。

 そう考えますと、知る権利をどう保障し、アカウンタビリティーを政府が果たしていくのかということの議論の射程は意外に広いというふうに私自身は考えております。

 知る権利と憲法改正について申し上げますと、知る権利の法的性格は、これまで議論されているとおり、非常に複合的であるという一面はございます。ですので、何の知る権利を保障するのかという議論が非常に重要かと思います。例えば、今、行政機関に対する情報公開法制はございますが、国会である立法府にはない、あるいは司法にはないということもございます。

 ですので、国の機関という位置づけで考えますと、知る権利という議論をするときに、一体何を保障するのかという議論は必ず必要になってくるであろうというふうに考えます。かつ、知る権利で何が達成、実現するのかという議論をしていただくということが非常に重要であるというふうに考えております。これを憲法に位置づけることがどのような展開になるのかということについて、十分な御議論をいただきたいというふうに考える次第でございます。

 以上でございます。ありがとうございました。(拍手)

森会長 次に、小山参考人、お願いいたします。

小山参考人 慶應義塾大学の小山と申します。

 本日は、新しい人権の一つである環境権につきまして意見を申し上げる機会を与えていただきまして、大変光栄に存じております。

 私が扱うこの環境というものの重要性については、恐らく国民の間にも争いはないし、もちろんこの国会においても争いがない、そのようなテーマだと思います。

 他方で、果たして憲法に環境権を明文化する、それに意義があるのかどうか、あるいは、憲法に明文化するとして、どのような体裁の条文にするのか、これについてはいろいろと議論があるところではないかと思います。

 まず、明文化することに意義があるのかにつきましては、その争いといいますのは、一つは、環境保護というのが、先ほど申しましたように、重要であるということについて一致が成立しているため、また他方で、環境保護については、既に多くの法律が制定され、一定の法体系が成り立っているため、憲法に書くというのが後追いという形にならざるを得ないためです。それが、昭和二十年当時の日本国憲法制定のときの、例えば憲法二十五条の生存権、これを制定したときなどとは明らかに違うところだと思います。

 ただ、きょうは、その明文化に意味があるのかどうかには立ち入らないことにいたしまして、どのような条項が考えられるのか、そちらの方についてお話しすることにしたいと思います。

 条項について争いが生ずるのは、例えば表現の自由のような自由権と異なりまして、書き方に複数の方法があり得る、また、その複数の方法を組み合わせるというやり方があり得るためでございます。また、それとは別に、環境権あるいは国家の責務をどれくらい詳しく具体的に書くのかという書き方の密度の問題がございます。

 まず、どのような体裁があり得るのかの話をいたしまして、次に、どれだけ詳しく書くのかというお話に進みたいと思います。

 まず最初に、権利、国民の責務、国家の責務のところですけれども、諸外国の憲法を見てみますと、環境条項にはいろいろな書き方がございます。

 例えば、ここに挙げてありますのはブルガリア憲法ですけれども、「市民は健康で豊かな自然を」「享受する権利を有する。」これは権利として書いている。「市民は、環境の保護を義務づけられる。」これは国民の責務として書いている。その二つを組み合わせている例でございます。

 また、一番有名な憲法の一つでありますドイツの基本法の二十a条、これは国家の責務として環境保護を書いております。この条文は、「国は、」ちょっと省略いたしますと、「自然的生命基盤および動物を保護する。」要するに、国は保護するという条文になっております。

 それに似たような形の条文が日本国憲法にないかと探してみますと、まず、権利といたしましては、典型的には、二十一条一項の表現の自由のように、国が一切の表現の自由、それを制限してはならない、全ての国民というのが表現の自由を有するという、これは権利規定ですね。

 それからもう一つ、生存権のように、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」したがって、解釈上は、国はそれに対して必要な手当てをしなければいけないという、これは多分、環境権に近いように、国に作為を求める、そのような条項だと言うことができるかもしれません。

 そして次に、国民の責務の条項といたしましては、ほかにも納税の義務などがありますけれども、「すべて国民は、勤労の権利を有し、」の次の「義務を負ふ。」これなどは、国民に対して勤労の義務を課すということで、一つの類似の例になるんじゃないかと思います。

 国家の責務に似た規定なんですけれども、例えば、同様の構造を持っている条文としまして、二十五条の二項の方に、「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」条文上は努めるというような努力義務になっていますけれども、これなどは国に一定の責務を課している、そういったタイプの条文だということになります。

 ここで国家目標規定という言葉を使っていますけれども、国家目標規定というのはドイツで使われている学問上の概念でして、それはどういうようなものかといいますと、下の脚注一にありますけれども、市民に権利を与えることなく、国家権力を特定の目的の遂行に向けて法的拘束力を持って義務づける、そのような憲法規範と通常定義されております。これについてはまた後に立ち戻ることにしたいと思います。

 では、環境について、権利がいいのか、国民の責務あるいは国の責務がいいのかというお話なんですが、まずは、環境権につきましては、現行憲法の解釈として、通説、肯定論、肯定論といいますのは、良好な自然環境を享受する権利としての環境権が、憲法十三条それから二十五条によって基礎づけ得るというふうに解しております。

 ただ、御存じのように、消極論も有力でして、その消極論の理由としては、保護されるべき環境の範囲だとか権利主体の範囲等々について不明確で漠然とし過ぎている、裁判においてこれは使い物にならないということが言われたり、あるいは、環境権というのは、保護の対象となる環境自体が特定の権利主体に帰属しない、一種の公共財である、そのような意味から、環境権というのは理念的な主張にとどまるんじゃないか、そういった批判が加えられたりもしております。そして、このことは、仮に憲法で環境権を明文化しても同じ批判が妥当するのではないかと思います。

 次に、国民の責務を書くことについてはどうかですが、肯定論としては、国民の日常の活動も環境汚染をもたらす原因の一つなんだから、国民の義務規定も必要だというものがございます。

 他方、消極論としては、国民の責務を書いても、これまた理念的なレベルにとどまって、実践的な意義は持たないんじゃないか。憲法二十七条一項の先ほど御紹介した国民の勤労の義務というのがありますけれども、勤労の義務というのはやはり理念的な性格のものでして、そこから働くことを強制させるような拘束力というのは生じないわけなんです。

 次に、国の責務、国家目標規定についてお話ししたいと思います。

 国家目標規定とは、先ほどもお話ししましたけれども、市民に、国民に権利を与えるものではない、国家権力を特定の目標に向けて法的拘束力を持って義務づける、そういったタイプの憲法規範であるとされております。

 ここで、法的拘束力を持ってとありますように、これはいわゆるプログラム規定とも違うものだというふうに考えられております。要するに、政治的、道義的な責任が生ずるにすぎないものではなくて、法的拘束力があるわけですから、場合によっては憲法違反になり得るということです。

 その利点なんですが、法的拘束力があるわけですから、環境保護立法を促進し得る、あるいは行政の環境保護政策を推進する、そして、全体として、国家の環境保全義務を根拠づけることになるという利点があるというふうにされております。

 他方で、国家目標規定にも限界というものがありまして、それは環境保護についてだけではないんですが、一般的な限界として言われていますのが、拘束力がそれほど強くないということでございます。

 国家目標規定というのは、いわゆる自由権とかなんとかの基本的人権、典型的な基本的人権と違いまして、直接に適用可能な法という性格を持たずに、国家の活動の目標とか方向を指し示すにすぎない。したがって、立法府が国家目標規定についてそれを具体化していかなきゃいけないわけなんですけれども、その際に、どのような手段でという手段選択だけではなくて、目標自体をより細かく具体化する、その意味で非常に広い形成の余地、裁量の余地というのが生じます。

 したがって、立法府の裁量の余地というのが非常に広いということから、仮にそれが憲法違反になるとしますと、完全な立法不作為あるいは明らかに不十分な立法など、極めて例外的な場合に限られるというふうに考えることができます。

 そして、今の日本では相当程度の環境保護法体制が整備されておりますので、そのような違憲になり得る場合というのは恐らく観念するのが難しいのではないかというふうに思っております。

 次に、今お話しした国家目標というものと権利規定の互換性についてお話をしたいと思います。

 これはどういうことかといいますと、仮に権利という形で書いても、解釈上、国家目標規定と解釈されるような例がある。逆に、国家目標規定として書いても、解釈上、権利になる場合もある、そういうお話でございます。

 生存権ですが、憲法二十五条一項につきまして、これは最高裁判決ですが、最高裁はどういうふうに言っているかといいますと、二十五条一項というのは「国の責務として宣言したものである」、二行目に国の責務という言葉があります。要するに、条文では権利という言葉が使われていますけれども、最高裁は国の責務という解釈をしております。そして、同条二項、先ほどちょっと読み上げました二十五条二項ですけれども、それも国の責務として宣言したものであると最高裁は解してございます。

 ちょっと途中を飛ばしまして、最高裁判決の最後の方の行ですけれども、「このように、憲法二十五条の規定は、国権の作用に対し、一定の目的を設定しその実現のための積極的な発動を期待するという性質のものである。」これは先ほど申し上げた国家目標規定の定義とほぼ同じ内容だというのがおわかりじゃないかと思います。

 他方、今度は、ドイツの連邦憲法裁判所の判例なんですが、ドイツには日本国憲法のような生存権の規定はございません。

 ドイツ憲法ではどういう規定があるかといいますと、社会国家原理とよく言われているんですけれども、それは、二十五行目のところにあります、「ドイツ連邦共和国は、民主的かつ社会的連邦国家である。」この社会的というところをとって社会国家原理と呼ばれております。この社会国家原理というのは、先ほど説明した言葉で言いますと、国家目標規定の一種であるというふうにされております。

 連邦憲法裁判所は、この社会国家原理とドイツ基本法の一条一項の人間の尊厳条項、これを一種の掛け算をいたしまして、そして、その結果どうしたかといいますと、最低限の生活に必要な金額については、国は、それを社会給付によって保障しなきゃいけないし、そして、その生存最低額に対して国は課税をすることは許されない、そして、それに反するような場合には、当該国民は憲法裁判所に訴え出ることができるという、そのような判決を出しております。

 要するに、条文の書き方というのはあくまでも一つの目安でして、結局、日本の場合ですと、二十五条が国家目標規定的に解釈され、逆に、ドイツの場合ですと、社会国家原理が先ほど申し上げました掛け算によって権利規定として解釈されているということでございます。

 続きまして、詳細な規定と簡潔な規定というところに進みたいと思います。

 ここはどういうお話かといいますと、先ほど申しましたように、書き方として、環境権、国民の責務、それから国の義務と三通りがあるんですけれども、それとは別に、どれだけ詳しく具体的に憲法に書き込むかという問題もあるというお話でございます。

 ここに挙げておりますのは、一番最初のものが、ブランデンブルク州という、これはドイツの州ですが、そこの州憲法の規定、そして二番目に、簡潔な規定として挙げてありますのが、スイスの連邦憲法の規定、そして、中間的な規定というのはたくさんあるんですけれども、ここではとりあえずスロバキア憲法の規定というものを挙げてございます。

 まず最初に、ブランデンブルク州の憲法なんですが、そこの第八章というのが自然と環境というところでして、この後にも条文があるんですけれども、とりあえず三十九条、自然的生活基盤の保護というところだけを、仮訳ですけれども、訳し出しております。

 それの一項を見ますと、現在及び将来の生活の基盤としての自然等々を保護することは、ラント及び全ての人間の義務であるということで、これは国の責務と国民の責務、それを両方同時にうたっております。

 二項、これは国民の権利という体裁で書いてあります。そして、三項は動植物の話でして、ちょっと飛ばしまして、四項、これは国の環境政策について注文をつけている。そして、五項、六項、七項と見ていきますと、これは非常に細かい話をしているということがおわかりいただけるんじゃないかと思います。

 この中で目新しい条文といいますのは、あるいは入れることに意義があるかもしれない条文というのはこの八項ですね。団体訴訟を許容する、それから、環境団体をいわゆる行政手続に参加させるという条文でございます。これは恐らく、憲法条文があることによって、こういった条文がありますと立法しなきゃいけなくなりますから、一定の意味はあると思うんですけれども、あとは、なくても済む話か、余りにも細か過ぎる話という印象を先生方もお持ちになるんじゃないかと思います。

 他方、簡潔な規定として、スイス憲法ですけれども、第二条というところに、スイス連邦、正確には誓約者同盟の目的という規定がありまして、その中に、「スイス誓約者同盟は、自然的生活基盤の持続的な維持と平和的で公正な国際秩序のために尽力する。」という大変簡潔な規定を置いています。

 ただ、補足いたしますと、このスイス憲法、実は後ろの方にやたら細かい規定がたくさん置かれておりまして、例えば、航空機の燃料に課税する、その航空機の燃料に課税したうちの一定額は環境保護のために使わなきゃいけないといったえらい細かい規定がありまして、環境という言葉はスイス憲法中に十カ所以上出てまいります。ただ、冒頭の二条のところでは非常に簡潔に規定しているということでございまして、これも一つの参考になるんじゃないかと思います。

 次に、中間的な憲法なんですが、多分このあたりが、憲法で環境を導入するとした場合に、多くの人が念頭にイメージするような感じの条文ではないかと思います。

 一項で環境権、そして二項で国民の責務、三項はちょっと念押し的な規定で、四項が国の責務ということになっています。

 このアンダーラインはどういう意味かといいますと、大した意味はございませんで、アンダーラインは二〇〇一年の最終改正で追加された部分、アンダーラインのないところが一九九二年のもともとのテキストから入っていたものでございます。

 新しく追加された五項を見ますと、「一項から四項の権利および義務の詳細は、法律でこれを定める。」となっておりまして、結局は、やはり法律がないと回っていかない、そのようなものになっております。あるいは、環境を憲法で書く場合には、あわせてどういう法律を整備するか、それによって環境保護の実効性というのは大きく変わってくる、要するに、憲法だけで片づく問題ではないということになります。

 時間も余りありませんので、最後の、憲法全体との整合性についてお話をいたしますと、まず、先ほどの細かい条文から簡潔な条文まで、どのような条文がいいのか、あるいは環境保護を書き込んだ方がいいのかについては、いかなる憲法典を望むのか、それについて自覚的に検討することが必要だというふうに思います。

 例えばワイマール憲法、これはドイツの法文化の結実であって、将来の文化的、社会的な生活の諸原則を憲法に全部書き込むという大変意欲的な憲法として制定されたんですけれども、それに対して、戦後のドイツ基本法というのは、無駄な装飾をできる限り省くという大変実務的な憲法として制定されました。そういった大きく二つのタイプの憲法がある。

 それから、どれくらい細かい条文を憲法に書き込むのか。日本国憲法の場合には、結構簡潔な条文になっていると思います。それは連邦制じゃないということもありますけれども、日本国憲法の簡潔性というのは際立っているんじゃないかと思います。

 簡潔な憲法にはやはり長所というのがありまして、それは裁判所やあるいは学者なんかを含めた解釈の余地が大きいということ、そしてもちろん、国会が立法によって肉づけをしていく、立法の余地が極めて大きいということ、その結果どうなるかといいますと、その憲法自体が非常に長もちするということでございます。他方、そのような憲法というのは、裁判所ですとか立法府にその実効性が委ねられていると言うこともできるんじゃないかと思います。

 以上、時間になりましたので、私の発言はこれまでとさせていただきたいと思います。どうもありがとうございました。(拍手)

森会長 次に、小林参考人、お願いいたします。

小林参考人 東京大学の大学総合教育研究センターの小林と申します。

 私は、学生への経済的支援、とりわけ奨学金について研究してきておりまして、今般、所得連動返還型奨学金制度あるいは給付型奨学金ということが創設されましたが、そのお手伝いをさせていただきました。そういう立場から、きょうは意見を述べさせていただくことを大変光栄に思っております。

 ここでは、教育権、特に憲法二十六条でありますけれども、それの基盤になっております教育費の公的負担のあり方、あわせて無償化の問題について、そもそもこれはどういうことを意味するのかということを少し考えてみたいと思っております。

 発表の順番といたしましては、まず教育費の負担論というのはどういうことを意味するのかということを簡単に意見を述べまして、その後に、そういった中で特に公的な負担の根拠、それについて幾つか根拠を挙げますが、私は、特に教育の社会経済的な効果を強調することが重要だというふうに考えておりまして、これが所得の増加でありますとか経済成長、あるいは格差の是正につながっているということをお話ししたいと思います。

 ただ、世論は、こういったことを示しましても、教育に対して税金を使うということ、公的負担に対して必ずしも肯定的ではないということがありまして、そのあたりのことも含めて、では今後どうしたらいいかということを考えていきたいと思っておりまして、そのような立場から、教育の無償化論、それについてさまざまなクリアすべき条件があると考えておりますけれども、その辺についてお話をしたいと思っております。

 初めに、誰が教育費を負担するのかという問題なんですけれども、これは大きく分けますと公的な負担と私的な負担に大別されるわけでありまして、私的な負担というのはまた民間の負担と家計負担というふうに二つに分けられます。ただ、どこの国でも民間の負担、これは企業やあるいは慈善団体の寄附などによるものですけれども、そういったものは大きくないので、それに対しまして家計の負担というものは、親負担、保護者負担、それから子負担、つまり学生本人の負担ということになります。したがいまして、負担は、公的な負担、親負担、子負担の三つに大きく分けることができるわけです。

 スライド四の図を参照していただきたいのですけれども、これも非常に大まかな図ですけれども、国によってこの考え方が非常に違います。

 公的な負担をとっているのはスウェーデンを初めとする北欧諸国、あるいはドイツ、フランスのような国でありまして、これは、教育は社会が支えるという、教育費負担の福祉国家主義的な考え方があるわけで、ほとんど無償原則がとられているというところであります。

 それに対しまして、日本とか韓国で非常に強いのはやはり家族主義でありまして、これはまた後でエビデンスを示しますが、親負担という考え方が非常に強く残っております。

 それに対しまして、アメリカとかオーストラリア、あるいは近年のイギリスがそうですけれども、こういった国では本人負担ということでありまして、もちろん学生本人が負担できるというのは限界がありますので、ローンで卒業後に返済するという考え方をとっております。そういう意味で個人主義的な考え方と言うことができると思います。

 さて、そうした中で、公的な負担の根拠なんですけれども、これはスライドの五ですが、やはり教育の機会均等という、それ自体、公正の理念でありまして、これは実現すべき理念であります。日本でも、憲法二十六条、教育基本法第四条に義務教育の無償規定がある。このあたりのことは、前回の速記録を拝見いたしましたけれども、この場でも議論されておりますので、細かいことは申し上げませんが、国際人権規約等で高等教育の漸進的な無償ということも言われているわけであります。

 これ自体がもちろん教育費の公的負担の根拠になっているわけですけれども、私はそれだけでは不十分ではないかというふうに考えております。それは後ほど示しますが、こういったことを示しましても世論は余り関心がありません。格差の是正だけでは公的な負担の説得力のある根拠にならないというふうに考えております。

 むしろ、教育の社会経済的な効果を示すこと、あるいは格差の是正にそういったことが非常に重要であるということ、あるいは人材の浪費を防ぐというような意味合いがあるということ、さらには、こういったいわゆる経済的な効果だけではなくて、外部効果と言われるような効果を持っているということ、さらに、最近言われておりますのは、少子化の是正でありますとか、準公共財としての教育とか、社会的共通資本というような言い方もされますが、これについては時間の関係で今回は省略いたします。

 初めに、世論が関心を持たないということ、あるいは公的な負担を支持しないということなんですけれども、スライドの六をごらんください。大学までの教育費を軽減するためなら税金を値上げしてもいいという意見は、支持が二割しかございません。それから、一番下ですけれども、大学までの学費、授業料は税金で無料とすべきだ、いわゆる無償化論ですが、これについても三分の一程度の賛成しかないわけです。これは一つの調査ですけれども、それ以外、新聞各紙の調査等でも、高等教育の無償化の賛成というのはたかだか半数程度の賛成しか得られておりません。

 七に行きますけれども、もう一つの調査の結果といたしまして、増税によってどのような施策を強化したらいいかということについても、年金の安定化については非常に支持が高いわけですが、公立中学、高校の整備でありますとか、借金なしの大学進学機会の確保というのではやはり三割程度の支持しか得られていないということで、こういった各種の調査を見る限り、やはり公的負担に関しては日本では三割程度の支持しか得られていないというのが現状だというふうに考えております。

 さらに、八のところですが、左の図をごらんください。これは進学率に非常に格差があるということで、緑のラインですが、大体二倍の格差が所得によって生じています。こうした格差の実態を示して、それに対して、税金を使っても返済義務のない奨学金や授業料減免を積極的に取り入れていくかどうかということを問うても、こういった左のグラフを示さない場合とほとんど変わらない。これは一種の社会実験ですけれども、ほとんど変わらないわけですね。ですから、格差がある、だから奨学金が必要だというふうに言われても、なかなかそれだけでは世論は動かないということであります。

 それでは、どのようにしたらいいかということなんですけれども、一つは、やはり経済的な考え方で、社会経済的な効果を示すことが重要であるというふうに考えております。

 スライドの九ですが、これは下の十を見ながらお聞きいただければ幸いですが、まず、教育によるスキルとか技術が向上することを人的資本の蓄積と申します。これによって生産性が向上し、これは個人には所得の増加、あるいは社会全体では経済成長がもたらされるということになるわけでありますが、さらに、教育による所得再分配によって経済的な格差が縮小し、これがさらに、次世代の教育の格差が縮小するという循環が起きるわけでありまして、こうして、世代を超えた格差の是正効果があるというのが一般的に言われているわけであります。

 ただ、ここで重要なことは、こういった教育の経済効果が認められるとしても、教育を受けられない者が存在するという教育の格差がありますと、結果として、教育の効果の所得分配に、受けた者と受けられない者という差が生じる。端的に言えば、非進学者の方にはそういった効果がないわけです。

 そのためには教育の格差を是正しなければいけない。これが教育を受ける機会均等が重要な理由だろうというふうに考えられるわけです。その教育の機会均等を実現するためには教育費の公的負担が必要になるというふうに考えることが必要だろうというふうに考えています。

 それ以外にも、スライドの十一になりますが、こういった経済効果以外にも、市場を経由しない、価格にあらわされない効果というものも存在します。こういった効果が存在する場合には、その費用を誰も負担しないので、公的な負担が必要になる。これも大きな公的負担の根拠なんですが、高等教育の場合にはこの効果は非常に小さいということが言われておりまして、逆に、義務教育になりますとこの効果が非常に大きいために、ほとんどの国では義務教育というのは無償であるというふうになっているわけであります。

 では、実際に教育の効果がどの程度あるかということを示した一つの試算がスライドの十二になります。これを見ますと、費用が大体二百五十万程度かかって、その便益として六百万程度で、差額として、一人当たり三百五十万程度の便益があるということが言われているわけです。

 これについてはいろいろな試算があるんですけれども、次にスライドの十三をごらんください。先ほどの調査の例ですけれども、ここでは、大卒になると将来払う税金が大体千五百万円くらい増加するということを示して、示さない人との差を見ると、大体七%程度ですけれども、大学教育にかかる費用は社会が負担すべきであるというような支持がふえるわけであります。こういったエビデンスを示すことで、世論も少し動かすことができるのではないかというふうに考えます。

 大体これが私の報告の前提なんですけれども、それでは、具体的に授業料無償について考えていきたいと思います。ここにはクリアすべき問題が非常に多くあるというふうに考えております。

 第一に、今言った、教育によって所得がふえたり、経済成長が促進されたり、格差が是正されるというのは本当なのかという問題です。

 それから、授業料の無償ということは、その分、家計の消費が拡大することで、経済にも好影響を与えるということが言われておりますが、これも十分実証されていることではありません。

 それから、もう一つ大きな問題としてよく言われるのは、現在の授業料無償とか公的補助というのは、先ほどお示ししましたように、大学生は高所得層出身者が多いために、非大学生、非進学者、これは低所得層が多いわけです、そういったところから、大学生、高所得層への所得の逆進的な分配になるということがしばしば主張されております。この点についても考慮する必要があります。

 それから、無償になりますと、もともと進学を希望している者についても補助することになりますので、格差の是正の効果ということは限定的になるということもしばしば問題にされております。

 それから、逆に、今度は低所得層の方ですけれども、低所得層が進学するためには授業料無償だけでは不十分で、生活費あるいは放棄所得といったようなものも補助する必要があるというふうに言われております。

 巻末の方に、スライドの三十四に示しておきましたが、放棄所得というのは大学の場合には大体一千万円近くになりますので、非常にコストがかかるわけでありまして、この分まで含めますと非常に大きな補助が必要だということになります。

 それからもう一つ、これは私自身答えを持っているわけではありませんけれども、無償になった場合に、税金で教育を受けるという意識、あるいは補助があるというような意識が持てるのかということについて疑問があります。

 というのは、国立大学については約一兆一千億円、私立大学でも三千億円以上の補助が入っているわけですけれども、現在、学生はそういうことはほとんど意識しておりません。私たちのところで卒業時に東大の学生に調査をしておるんですけれども、国立大学で税金で教育を受けたという意識がある学生というのは、これまで八回やっているんですけれども、全て半分です。しかも、理系とか文系とかは関係ありません。

 そうしますと、税金で教育を受けたという意識があるために社会貢献をしようということも、そういう意識も芽生えると考えられるんですけれども、いわゆるノーブレスオブリージュということが達成できないのではないかということが心配されるわけです。

 それ以外に、次の十五のスライドに行きますけれども、無償化の大きな問題点として、これは余り議論されていない点だと思いますけれども、教育の質の維持と向上という点についてかなり疑問があります。

 授業料の無償化ということは、当然ながら公的な補助に代替するわけでありますが、これは、現在の公的補助がふえない限り質は同じということになります。特に、高等教育の場合でいいますと、現在でも投資の額が低いために日本の高等教育の質は高くないということが問題にされているわけでありますので、現状を固定化するおそれがあります。もう授業料を取ることはできないということになりますので、そういった問題点が生じると思います。逆に申しますと、質を維持向上させるためには、無償化した以上に公的な補助を今後必要とするということであります。

 それから、これは私も委員として参加したんですけれども、教育再生実行会議の第八次提言が二〇一五年に出ているんですけれども、ここで約五兆円の教育投資ということが提言されております。これは、当時わかった金額だけでこの程度のことが要るということなんですけれども、全く実現しておりません。

 それから、文部科学省では教育振興計画を立てておりますけれども、これは全く数値の裏づけがない、いわば予算の裏づけがないわけであります。

 先ほど、冒頭申しましたけれども、給付型奨学金の創設にかかわってまいりましたが、結果としては、次年度ですけれども、総額二百十億円程度になります。所得連動型についてもこれから数百億円の規模の公的負担が予想されているわけでありますけれども、これに比べまして、高等教育の無償化というのは数兆円規模ですから、桁が一桁違うわけでありまして、そのあたりをどういうふうに考えていくのか。財源の問題、これはやはり、ここでも議論されておられますように、非常に大きな問題だというふうに考えております。

 それから、次の、無償化の範囲につきましては、これも議論されておりますので、ここでは省略いたします。

 それから、次の、憲法と教育基本法との関係ですが、これも省略いたしますが、一つ、十七の下から二つ目の行ですけれども、補助によって政府のコントロールが強化されるのではないかということが懸念されるということが意見として出されております。これは、現在、国立大学、私立大学ともに、類型化によって補助金を出すというやり方が非常に行われるようになってきましたので、こういったことがコントロールの強化につながるのではないかということが懸念されるわけであります。

 以上、私の方で申し上げてきたことをまとめますと、十八のところになりますが、ここで最後に、下から二つ目の丸ですけれども、きょう申し上げたかったのは、教育費については親負担主義というものが日本では非常に強く支持されておりますので、なかなか公的な負担というのは難しいということであります。

 最後のところですけれども、もし憲法改正で高等教育が無償化されても、現状では世論の支持が得られないおそれというのが非常に強いわけです。国民投票を行った場合に否決されるおそれもあります。そうしますと、実質的な無償化というのはむしろさらに遠のくという危険性さえあるというふうに考えられます。ですから、このあたりのことを十分考えていく、これから検討していく必要があると思います。

 これについては、私は憲法学者ではありませんので法律的なことはわかりませんけれども、プログラム規定だったらいいのではないかという説もあるというふうに聞いていますけれども、この辺を含めて議論する必要があるのではないかというふうに考えております。

 十九のスライドに行きますけれども、世論の支持を高めるために、先ほど申しましたように、教育の社会経済的な効果あるいは外部効果というもののエビデンスをこれから示していく、そういうことで少しずつ世論を変えることができるのではないかというふうに思っております。

 先ほどのスウェーデンは教育費は無償でありまして、これは私立大学も含めて無償なんですけれども、こういったことは実は一九六〇年ぐらいから起こってきたことであって、決して古いことではありません。もともとは教育の家族責任主義だったものを社会責任へと制度的に転換していったということがスウェーデンでは言われているわけでありまして、こういったことを考えていく必要があると思います。

 非常に大きな問題が山積しているということを申し上げて、こういった問題をクリアすることが教育の無償化を実現するためには必要だということを申し述べて、私の意見陳述とさせていただきます。

 どうもありがとうございました。(拍手)

森会長 以上で各参考人の御意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

森会長 これより参考人に対する質疑を行います。

 質疑者におかれましては、本日の議題に沿った質問をしていただくようお願いいたします。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。船田元君。

船田委員 自由民主党の船田元でございます。

 きょうは、四人の参考人の皆様に大変お忙しいところをおいでいただきまして、また、それぞれの分野で専門家としての大変参考になる御意見をいただきましたことを、まずお礼を申し上げたいと思っております。

 時間もありませんので、順次それぞれの参考人に御質問をいたしますが、できるだけ簡潔によろしくお願いいたしたいと思います。

 まず、宍戸参考人でございますが、プライバシー権を中心としてお話をいただきました。

 実は、ネット社会がここまで進展をしてくるということはなかなか昔は想像できなかったことでありますが、そういうネット社会の進展に伴ってプライバシー権というものもだんだん変容、変質をしている。特に、先生がおっしゃった自己情報コントロール権というように、自分の情報がいろいろなネット上にあふれている、あるいは電磁的に保存されている、どういうふうに保存されているのか、それをまた公開されることの自由とか、あるいは公開されないことの自由とか、そういったことまで考えていかなきゃいけない、そういう大変奥の深い議論をいただいたと思っております。

 そういう中で、一つ、忘れられる権利ということについて、ちょっとお話を聞きたいと思っております。

 これは先ほど先生も例示をされましたけれども、ある男性が、検索エンジンの結果に自分の過去の犯罪歴がずっと出ている、それに対して、公の利益を超えて個人の利益が侵害されているんだということで訴えを起こしたわけでありますが、ことしの一月、最高裁が判決、結論を出したわけであります。忘れられる権利ということは言及はしなかったものの、事実を公表されない法益が情報を検索結果として提供する理由に優越する場合は削除することができるという一定の見解を示されたというふうに聞いております。

 このことについての先生の評価がどういうものであるかということをお聞きしたいのと、それから、時の経過というものがありまして、電磁的記録では永久的に残るわけであります。そうしますと、忘れられる権利というのがどんどん縮小されまして、事実だけがネット上にずっと残ってしまっている。そういうものに対しては、やはり時の経過ということによって、忘れられる権利というのがより強くなっていくのではないか、こういう指摘。あるいは、この分野での一つの弁護士の象徴とも言われる神田知宏弁護士と前にお会いしたことがあって聞いたことがあるんですが、忘れられる権利ということについては、EU基本権憲章を参考にして、やはり何らかの立法措置、あるいは憲法の中でもプライバシー権とともに忘れられる権利を置いた方がいいのではないか、こういった御指摘も聞いたところでございますが、先生の御見解を伺いたいと思います。

宍戸参考人 御質問をありがとうございました。二点、簡潔にお答えを申し上げます。

 第一に、先ほど私の報告でも言及いたしました本年一月三十一日の最高裁決定の評価でございますけれども、私は非常に好意的に受けとめております。

 つまり、検索エンジンがインターネット上で社会的基盤として重要であるという側面と、それからやはり、先生御指摘のとおり、時の経過によって、過去の前科のような不名誉な事実であったり知られたくないような情報というものについて保護のバランスをとらなければいけない、その考え方に立って一定の枠組みを示したという点において、私はこの決定を評価するものでございます。

 二点目に移りますが、御質問において、時の経過によって不名誉な事実などがいわば忘れられるということについて、憲法改正ないし立法で一定の措置をとる必要があるのではないかという御質問でございますが、私は、現時点ではやや時期尚早ではないか、否定するものではございませんが、時期尚早ではないかというふうに考えております。

 と申しますのは、そこで問題になる情報の性質の中にも、前科のようなものもあれば、あるいは犯罪被害にかかわるようなものもあれば、例えば弁護士でありますとか医者でありますとか、ある種の専門家のような方が一定の処分を受けたということを早く消したいというような行政処分にかかわるものまで、非常に多様なものがございます。

 また、現在、忘れられる権利を裁判で訴えられる方の多くは、やはり一定の訴訟で争える方ということが多くて、現に訴訟で争えないようないわば声なき声というものを事業者の自主規制あるいは官民の共同規制などでどうやって実現していくか、非常に難しい状況にありますので、現在は、裁判例など、あるいは事業者の取り組みというものを見守って、それが見えてきた段階で一定の立法化というものを考えたらよろしいのではないか、このように現在考えているところでございます。

 以上です。

船田委員 ありがとうございました。

 次に、三木参考人に御質問をいたしますが、先ほどのお話の中で、まさに知る権利というのは民主主義を進展させる土台であるということとか、あるいは情報なくして参加なしというような、これは自治体におけるさまざまな情報公開の段階のときに議論された言葉だというふうに思っております。このことについては、私も大変重要な指摘だなと思っております。

 昨今、行政文書の公開という問題がありますけれども、それはちょっと別といたしまして、国会の文書、これに対してのアクセス保障というのをちょっとお伺いしたいと思っております。

 国会がつくる、あるいは国会に残るさまざまな文書、これもやはり一定の公開をする必要はあるかと思っております。国民を代表する国会の有権者への説明責任、これを果たすという意味では、極めて重要なことだというふうに思っております。

 そういう中で、例えば、我々よくこれまで議員立法をやってまいりました。議員立法過程のさまざまな資料、どういう人の意見を参考にしたとか、どういう文献を参考にしたとか、あるいはどういう話し合いがあって、何が採用されて何が採用されなかったか、こういった資料を公開するということは大変大事だと思っておりますが、これを公開するときに、国会として、どういう基準といいましょうか、あるいは条件というものを付して公開していくべきなのか、こういうことについて、もし御意見があれば伺いたいのが一つ。

 それともう一つは、昨年、国立公文書館、これがもう手狭になりまして、新しい公文書館を憲政記念館の脇につくろうということで、昨年の衆議院、参議院、議運の庶務小委員会でその新設が決まったわけでありますが、その中身についてはまだ議論が続いているのかと思っております。

 この公文書館が果たす役割ということについて、三木参考人はどういう期待をお持ちになり、またどういう要望があるかということを簡潔にお願いいたしたいと思います。

三木参考人 重要な御質問をいただいて、ありがとうございます。

 国会の情報公開は、これはかねてからの課題であるということは論をまたないところでありますが、議員立法の記録については、大変難しい問題があると思っております。それは、議員立法の記録は、国会の中だけではなく、政党あるいは議員個人の事務所というところに、さまざまなところに分散をしているというのが現状であるという、まず大きな課題があるのではないかと思います。

 一番集約的に持っているのは恐らく法制局ではないかというふうに思われますので、そこはある意味国会の文書ということで検討はしやすいのではないかと思います。

 そこで、私どももかかわる形で、NPO法の立法過程については、議員の方が持っている文書、それからNPO法の立法を推進したNPOが持っている文書を全部集めまして、それを編さんして国立公文書館に寄贈するというプロジェクトをしておりまして、今月やっと寄贈が完了するというところまで来ております。

 それだけ外にもたくさん貴重な資料があるということでございますので、むしろ、国会の情報公開を、国会として持っている文書をどうするかということと、それからあと、議員立法については、どのように記録をつくるか、あるいは編さんをするか、集約をするかという議論と両方していただく必要があるのではないかというふうに思っております。

 国会については、議事録とか基本的な情報は公開をされているという状態でございますので、それ以外のところで、現在も立法調査文書というのはアクセスができないという状況でございまして、憲法調査会は資料がホームページ上で公開されておりますけれども、一方で、通常の国会審議で配付されている文書も、実際には、私たちは外部からアクセスができなくて、議員の方にお願いをする以外になかなか入手ができないという問題とかもございますので、まず、今除外をされている立法調査文書のうち、一般に対してアクセスを認めるような文書を広げていくというところからぜひ議論を着手していただきたいというふうに考えております。

 それからあと、国立公文書館については、新施設ができるということで、そこは大いに期待をしているところでございますが、日本の公文書館の課題としましては、一点、公文書館にどういう権限を認めるかというところが、課題として、大きな問題としてあると思います。

 現状、大変権限がない、独立行政法人であるという前提がございますので、多くの役割を記録の管理の大きな体系の中で位置づけるというふうにはなかなかいっていないというところがあるかと思います。

 そのため、この間いろいろ調査をしまして、国立公文書館は歴史文書の保存に関して行政機関、政府に対して意見を言えるという権限が公文書管理法上ございますけれども、これまで実績がないということがわかっております。

 ですので、公文書館については、中身としてどういう権限を持つかということと、あとは、一般に開かれた施設としてどのような役割、機能を果たすのかということでは、単に歴史を振り返るということだけではなくて、政府の信頼性を高めるために公文書館が果たす役割は何かということをやはり検討していく必要があるのではないかというふうに考えております。

船田委員 ありがとうございました。

 それでは、小山参考人、お話を聞きたいと思いますが、環境権につきましては、もう既に環境関係の法令がかなり整備されているということでありますが、私はやはり、環境権ということを人権カタログにしっかり入れていくということは、憲法を考えた場合に後追いであってもやるべきだと思っておりますが、問題は、やはり先生御指摘のように環境権の規定の仕方。

 これが、国民の権利として規定するか、あるいは国民の義務として規定するか、あるいは国の責務、すなわち国家目標規定ということで設定するか、三つの方法を先ほどお話しになりましたが、先生個人としてそのいずれが望ましいのかということについて、ちょっと聞かせていただければありがたいと思います。

小山参考人 簡潔にお答えいたします。

 私個人としては、国の責務、国家目標規定が一番よいんじゃないかと思っております。

 その理由は、先ほどのスイス憲法、実は、物すごく細かいと言いましたけれども、十カ所以上環境が入っている。それは多くが国の責務についての規定なんですね、立法であったり行政であったりしますけれども。

 そういうふうに、環境保護を実現しようと思いますと、まずやはり国が、自治体も含めてですけれども、何を行うのか、それをはっきりさせることが大事になってくる。国の責務規定を置きますと、仮に抽象的でもその動機づけになるという意味で、国の責務というタイプが一番いいのではないかと思います。

 もちろんほかのものを組み合わせてもいいですけれども、基本は国の責務だと考えております。

船田委員 ありがとうございました。

 最後に、小林参考人にお話を聞きたいと思いますが、先ほど小林参考人は、教育の無償ということについては、財源問題をやはりきちんと考えていかないとなかなか前に進まないだろうという話でありました。

 もう一方で御指摘いただいたのは、教育の無償化については、もし憲法に規定をするのであれば、それはプログラム規定として、そして財源問題についてはその後に補強していく、あるいはつけ足していくということが大事ではないか、こういったお話もちょっと聞かせていただいたんですが、もう少しそこをお聞かせいただけましたら。

小林参考人 私が申し上げたのは、プログラム規定という考え方もあるのではないかということを申し上げたのでありまして、私は憲法学者ではありませんので、そのあたり、どのような規定がいいかということはここで十分御議論していただくことだというふうに思っております。

 いずれにいたしましても、何らかの形で憲法に盛り込むとしたら、いろいろなことをクリアしなければいけないということが私が言いたかったことです。

船田委員 ありがとうございました。

 終わります。

森会長 次に、後藤祐一君。

後藤(祐)委員 民進党の後藤祐一でございます。よろしくお願いいたします。

 まず、環境権に関して、小山参考人にお伺いしたいと思います。

 私、実は、環境基本法制定時、通商産業省環境政策課で多少携わった経験があるんですけれども、先ほど小山参考人は、国の責務、国家目標的な規定の方がいいのではないかというお話がございました。私も同じ意見を持っております。

 そういった意味で、環境基本法というのはある程度よくできていると思っておりまして、特に環境基本法の三条というところで、「現在及び将来の世代の人間が健全で恵み豊かな環境の恵沢を享受するとともに人類の存続の基盤である環境が将来にわたって維持されるように適切に行われなければならない。」という規定は非常に画期的な規定で、それまでの公害対策基本法からすると、請求権しか規定されていなかったものが国の責務規定が加わったというのが、法律上先に進んだというふうに理解しております。

 御質問は、これが現行の憲法との関係において十三条ないし二十五条でカバーし切れていないのではないか。つまり、環境基本法で予定しているようなこういった「現在及び将来の世代の人間」ですとか、あるいは生物多様性まで含めると、現行の憲法で保障している部分を超えた議論が既に法律の方で進んでいるという気がいたしまして、むしろ憲法の方が後づけなのかもしれませんが、少なくとも、環境基本法レベルのことは憲法に位置づけた上で国の責務として規定すべきではないかというふうに考えます。

 特に、二十五条二項で「公衆衛生」という言葉がございますが、これは二十年代、三十年代においてはよかったのかもしれませんが、現代においてはやや狭い言葉になっておりまして、例えばこの二十五条二項の書きぶりを、あるいは追加する形でもいいんですが、環境という形に広げていくというようなやり方もあるかと思いますが、いかがでしょうかということ。

 もしそういった規定が憲法上明文で置かれた場合に、実際に立法が変わってくるような、裁判の判決が変わってくるというところまでいくかどうかはともかく、少なくとも、明確に違憲になるような法令が出るかどうかというのはともかく、AにしようかBにしようかというときに、この規定があればBにすべきじゃないかというような議論が立法府においてされやすくなる、あるいは世論がそういう方向に向かいやすくなる、そういった側面はあるのではないかと考えますが、いかがでしょうか。

小山参考人 御質問ありがとうございます。

 二点御質問があったと思うんですが、一つは、憲法十三条、二十五条で、今の環境基本法が掲げているような国家目標ですか、それをカバーできるのか。

 私個人としては、十三条、二十五条からいわゆる環境権を基礎づけることはできないというふうに考えております。これはずっと以前からそう考えています。

 ただ、憲法学の通説はできるとしておりまして、かつまた、その対象となる環境というのは、生物多様性はちょっと含むかどうかわかりませんけれども、結構広いので、したがって、通説からしますと、完全な後づけというか、屋上屋を重ねるようなことになるのかなと思います。

 私が十三条、二十五条からできないと思っているのは、十三条というのはやはり個人中心的な規定でして、また、二十五条というのはいわゆる社会国家という、これはいわゆる社会問題の解決、社会問題というのは貧富の差とかなんとかが典型だと思いますけれども、そういったものを念頭に置いて書かれた条文ですので、やはり環境というのは別のカテゴリーだと思っています。

 ドイツなども、それで、日本に似た規定はあったにもかかわらず、別に、二十a条という環境国家条項というのを書いた。それはやはり社会国家とも違う。そして、通常の自由権とかあるいは人間の尊厳とか、それとも違う。要するに、新しい目標なんだということで書いたというふうに理解しております。

 二番目の御質問が、やはり明文の規定があった方がいいんじゃないかということだと思います。

 これについては、結局は、先生もおっしゃったように、立法をどうするか、要するに、立法レベルでどうやってそれを具体化していくかというところでございまして、もしも、この環境権あるいは環境保護条項がないと立法の際にほかの公益とか私益との調整の面で負けてしまうというのであれば、それはやはり環境条項はあった方がいいとは思いますが、ただ、期待を込めてですけれども、日本の立法府はもっとしっかりしているんじゃないかと私は思っておりますので、別に、なかったからといって環境保護が後退するということはないんじゃないかと思っております。

後藤(祐)委員 ありがとうございました。

 次に、教育を受ける権利に関して、小林参考人にお伺いしたいと思います。

 小林参考人は、教育の無償については否定的な御見解だと推察いたしましたが、これを憲法に、経済的理由によって教育を受ける権利が奪われないというレベルの書き方をすることについてはどうお考えでしょうか。

 特に、平等権を規定した十四条の書き方というのは、「法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」と書いてあって、社会的身分は理由になっているんですが、経済的な状況というのは理由の方になっていないんですね。

 それとの関係で、要は、二十六条と十四条との関係において、経済的理由によって教育を受ける機会を奪われないというのがどの程度読み込めるかといったときに、十四条は実は頼りになっていないのではないかという気もするのです。

 そういった意味で、現行の二十六条一項の中の「ひとしく教育を受ける権利」という中で、経済的理由によってという部分はある程度読み込めているとは思うのですが、これをあえて書き出す、経済的理由によってというところを明文化することによって差が出てくる部分はあるのかどうか。特に、無償化までいけないにしても、財政面で大変厳しい中で、よりこういった教育について支出をふやしていくという根拠にはなり得るという御意見もございますので、これについての御意見を伺いたいと思います。

小林参考人 ありがとうございます。

 この点についても、私は、なかなか、憲法学ではないのでお答えしにくいところはあるんですが、現行でも教育基本法の第四条ではそれが加わっておりますので、そういった形で加えるということは検討に値するのではないかというふうには考えます。

 実際の問題といたしまして、きょうお示ししましたように、ただ、それだけ申し上げても、なかなか現実は動かないというようなことがありまして、むしろ懸念されるとしたら、逆に、経済的な理由というのを入れることによってそれに限定されるということもありますので、そのあたりはよく御検討されることを望みたいと思います。

 ありがとうございました。

後藤(祐)委員 ありがとうございました。

 続きまして、プライバシー権に関して、宍戸参考人にお伺いしたいと思います。

 宍戸参考人のプライバシーも安全もという考えに、私も賛同いたします。これを余り対立的に見て、どっちかに極端に寄るというのは非常に非生産的であって、どう両方カバーするかということに関しては、特にEUで大変議論の積み重ねがあるので、むしろ日本はこれにきちっと追いつくということが大切ではないかというふうに考えるのが私の立場でございますし、宍戸参考人も先ほど、これをしっかり両立させていくことは立法府の責務だという御趣旨の御発言があったと理解しております。

 特にEUは、特に安全との関係において、EUの持っている情報を第三国に移転する際の判断において、EU法秩序の保護水準と全く同一であることまでは要求しないものの、基本権及び基本的自由の保護に本質的に同等の保護水準を求めているということは、先生の論文の中で拝見させていただきましたし、実際、EUの各指令に対応していなければ、なかなか、テロ対策ですとか、安全を守っていくという観点でも、不十分な体制になってしまいかねないと思うんですね。

 そういう観点から、プライバシー保護を、請求権としてどこまで書くかはともかく、国がきちっとこれを守っていかなきゃいけないという国家目標的な形で規定することは、むしろ安全を確保する上でも必要なことではないかというふうに私は考えておりますけれども、これについてどうお考えでしょうかということ。

 あと、実際に、先ほどとちょっと似ているんですが、憲法条文に規定した場合、きょうの先生の資料にもありますけれども、欧州基本権憲章の七条ですとか八条ですとか、とりわけ、個人情報を保護される権利を持つという非常にシンプルな条文もこの基本権憲章の中にあるわけですが、こういった規定を日本国憲法の中に明文化した場合に、プライバシー保護と安全というのを両立させる上でプラスの側面があるのではないかと思いますが、いかがお考えでしょうか。

宍戸参考人 御質問ありがとうございます。二点、それぞれ簡潔にお答え申し上げたいと思います。

 先ほど、私、安全かプライバシーかではなく、安全もプライバシーもということを申し上げ、また、後藤先生の方から、そういう考え方は非常によいのではないかということを御指摘いただいたこと、大変私も力強く感じた次第でございます。

 その上で申しますと、やはりプライバシーの保護ということを憲法上国家目標として掲げるということは、例えば世界各国から、日本はちゃんとプライバシーを保護した上で安全を実現しようとしているのだということを明示する、そういう政策的な、あるいは政治的な宣言として非常に重要だと思います。

 同時に、例えばEU各国あるいはアメリカ、さまざまな国から情報提供を受けるといった場合、あるいはこちらから情報提供を出すということを考えた場合におきましても、それが憲法上請求権であるかどうかは別として、実効的な保護措置、組織であるとか手続といったような、さようなやり方があると思いますが、そういったものも含めた現実の措置をとる。そして、その現実の措置をとるために、大きな動因として、憲法上国家目標としてプライバシーを書くということは、私は非常にあり得るのではないかというふうに思っております。

 これが一点目に対するお答えでございます。

 それから、二点目の、さらに進んで、EU基本権憲章のような形で、私生活の平穏とそれからデータ保護というそれぞれの具体的な独立の権利として憲法にプライバシーを書くということでございますけれども、具体的な憲法上の権利、裁判上、立法、行政、司法を拘束する権利としてこれは書くことになりますので、そのようなものとして非常に人権保障には資するということになります。

 他方、同時に、安全対策、安全を実現するということとの関係では、これらの権利を憲法に書く場合であっても、それがどのような場合に制限できるのかということについてのあらかじめの見通しがやはりあって書くべきことだろう、このように考えております。

 以上でございます。

後藤(祐)委員 最後に、知る権利について、三木参考人と、もしできれば宍戸参考人にもお伺いしたいと思います。

 これも同じように、知る権利を何らかの形で、別途、二十一条とは別に憲法に規定した場合、どういう差が出てくるかという観点から考えたいと思うのです。

 まず、情報公開法については、現在、不開示理由が情報公開法五条で示されております。私はこれの改正案の実は提出者なんでございますけれども、特に、不当に国民の間に混乱を生じさせるおそれがある場合には、意思形成過程における役所の文書は出さなくていいという理由になっているですとか、知る権利の観点からは非常に不十分な部分があると私は考えております。

 知る権利をきちんと憲法に明文化することによって、例えば今の情報公開の不開示理由を狭く改正させる。あるいは、最近の一連のさまざまな事件、森友問題ですとか加計問題ですとか、ちょっとさかのぼるとTPPの話ですとか、あるいは南スーダンの日報の話もそうなんですが、一年未満の保存期間の文書は捨てていいというような実質的な運用がなされているということについては、公文書管理法の改正案、私が提出者になって、もう間もなく提出を予定しているんですが、例えばこの知る権利を憲法に明示的に位置づけることによって、この公文書管理法のあり方、一年以内は捨てていいなんていうことにはならないような公文書管理法をきちんとつくるですとか、そういった立法をしていくという上でも、実際に差が出てくるのではないかなというふうに考えます。

 実際、今、二十一条の表現の自由を根拠に知る権利が構成されているということの限界、それを別途、知る権利を条文で明確に位置づけることによってどういう差が出てくるかということについて、三木参考人と宍戸参考人の御意見を最後に伺いたいと思います。

三木参考人 大変難しい質問で、なかなかお答えしにくいところはあるんですが、確かに、知る権利を憲法上の権利であるというふうに位置づけた場合には、少なくとも今後、法改正において現状の水準を下回る改正は、これはできなくなるだろうということは確実にあるとは思うんですね。

 あともう一点が、では、知る権利を憲法に位置づけることによって、さらに個別の制度の改正にまですぐに動くかということになりますと、実際にその知る権利が一体何を保障するものなのかというやはり個別法の議論が必要になってくるということになりますので、結論的に言いますと、法改正でどこまでできるかというのは、恐らく、憲法上に書かれているから確実にいい改正ができるというよりは、やはり個別制度の中の議論がまず大前提ということになろうかと思います。

 ただし、この間、不開示情報の範囲というのは、いろいろな問題は確かにございまして、それが多くの人たちが困っている原因でもあるんですけれども、これについては、やはり公開することによる公益と、それから非公開によって得られる利益みたいなものの比較考量を、なかなか行政組織が上手にできないというか、うまくできないという問題がありまして、そうなったときに、知る権利をより高位に位置づけられていることによってより公益的な判断を促す、そういう効果はあるかもしれないというふうには考えています。

 あるいは、知る権利を憲法上の権利と位置づけることによって、法改正の議論について、その権利を基本的人権として保障するということになりますと、例外をより狭く検討しなきゃいけないというようなそういう効果も期待はできるのかなというふうには考えておりますが、ただし、それは実体的に憲法に知る権利をどういう権利として位置づけるかということと一体の問題であるというふうには考えております。

 それから、公文書の管理の問題は、知る権利を保障するためには記録が残されていなきゃいけないという本質的なところの議論につながってくるかと思います。

 この問題についても、基本的には個別法をきちんと整備していく、あるいは個別法の抜け穴をいかに対処するかという議論に尽きるのではないかとは思いますけれども、ただし、憲法上の権利を保障するために、より法律をそれに合わせた、基本的人権を保障する形に合わせた改正をしていく、そういう議論の手がかりになる可能性はあるかと思います。

 ただ、それはあくまでも知る権利をどういう権利として位置づけるかということと一体であると思いますし、それが現状の表現の自由という規定を超えたものとして何らか規定ができるのであれば、それは議論の余地があるのではないかと思います。

宍戸参考人 時間もあるかと思いますので、手短にお答えいたします。

 基本的には三木参考人の意見陳述及び現在の回答と同じでございますけれども、若干補足をいたしますと、現状の判例上も、国民の知る権利、知る自由、それ自体は憲法上のものとして保障されていると解されております。

 したがいまして、ここでの問題は、情報公開制度というものと、それから憲法上の知る権利、知る自由とのリンケージといいますか結びつきが、今のところ弱い形で設定されているということが真の問題ではないかというふうに私は考えております。

 そして、その結びつきを強めるためには、やはりこれも三木参考人御指摘のとおり、知る権利というのはそもそもどんな権利なのかということが問題になり、やはり民主主義ということとの結びつきというものを深く、強く意識したような形で知る権利ということを例えば憲法に書く。ただ知る権利と書くのではなくて、例えば国民に対する説明責任をしっかり果たさせるために知る権利を書くんだという趣旨がもう少しわかるような書きぶりをする。そうすると、例えば文書の扱いというふうなことについても、立法あるいは法律の解釈上有意義な差が出てくるのではないか、このように考えております。

 以上でございます。

後藤(祐)委員 ありがとうございました。

 同性婚に関する二十四条の問題ですとか、犯罪被害者、犯罪者の人権ですとか、こういったところにも検討の余地があるということを最後に付言しまして、終わります。

 四人の参考人の皆様、本当にありがとうございました。

森会長 次に、斉藤鉄夫君。

斉藤(鉄)委員 公明党の斉藤鉄夫でございます。

 四人の参考人の先生方、きょうは本当にありがとうございます。

 それでは、早速質問に入らせていただきます。

 まず初めに、宍戸参考人に、総論的なことで、いわゆる新しい人権を憲法につけ加えることについてお伺いさせていただきます。

 党内の議論におきましても、また、この憲法審査会の議論におきましても、大きく分けて二つの考え方があろうかと思います。

 一つは、憲法十三条や二十五条は非常に懐の深い憲法であってそこから全て導き出せるんだという考え方で、いわゆる権利のインフレを招くべきではないという考え方に対して、やはりしっかりとした、憲法で明記をして事前の人権保障をしっかりさせる方がいいのではないか、こういう考え方、二つの流れがあろうかと思います。

 前回の審査会におきましても、国家の多数決をもってしても侵し得ない普遍的な人権を憲法上明文化することには検討の余地があり、そのような権利として環境権や知る権利を示唆する発言もございましたし、犯罪被害者の権利を挙げる発言などもございました。

 こういう議論の中で、我が党も加憲という立場から新しい人権について議論を進めているところでございますが、このような審査会における議論を踏まえまして、新しい人権を憲法に加えることについての宍戸先生のお考えをお聞かせ願えればと思います。

宍戸参考人 御質問ありがとうございました。総論的な御質問でございますが、できるだけ簡潔にお話ししたいと思います。

 憲法十三条及び憲法二十五条あるいはその他の、知る権利であれば憲法二十一条という既存の条文からこのような憲法上の権利、自由が解釈上導けるということと、それから、それを新しい人権として憲法で書くということは、これは両方、論理的には両立するものでございます。したがって、その導けるということを超えて憲法に新しい人権を加える、例えば加憲をされるということをするかどうかというのは、突き詰めますと、最終的には憲法政策上の判断でございます。

 そして、その憲法政策上の判断をする上でよく御検討いただきたいと思いますのは、それもやはり、なぜその当該具体的な権利を憲法に書くのかということについて議論を詰めていただく必要があると私は考えております。

 やはり、その際に、人権のインフレ化ということを先生は御指摘になりましたが、そのまさに人権のインフレ化ということで懸念されているのは、人権の数がふえていくことではなく、既存の人権規定の保障水準が下がっていくことでございます。

 したがって、書くときには、やはり、これに強い保障の水準を与えるのだ、それだけの覚悟と、先ほど私の報告で申しますと、どのような場合にその人権というのは制限されるのかということについてのあらかじめの見通しを持つ、そこまでやった上で、例えばプライバシー権であるとか、あるいは先ほどお話のありました環境権あるいは責務としての環境保護であるとか、そういったことについて議論があり得るのではないかと私は考えております。

 以上でございます。

斉藤(鉄)委員 ありがとうございます。大変明確なお答え、ありがとうございました。

 次に、環境権につきまして、小山参考人、それから、最初の冒頭の御発言にはされておりませんが宍戸参考人に、二点お伺いをしたいと思います。

 まず第一点は、我々、憲法審査会で平成二十六年にヨーロッパの調査を行いました。環境権条項を持つギリシャ、スペイン、ポルトガルを訪ねたわけです。そのポルトガルのリスボン大学のゴメス助教授から最終的に、これは引用ですが、ポルトガル憲法では権利と義務が両方規定されているが、個人的には、個人の意見としては権利を規定したのは間違いであったと思う、権利を主張すれば個人主義に走る場合もあるし、権利ばかりになってしまってもいけない、憲法に環境問題について何か書くとすれば義務だけでよいのではないかという指摘をいただきました。

 きょう、小山先生のお話でも、環境条項は、権利規定よりも国家目標規定の形式の方が望ましい、つまり、国民に権利として規定するよりも国の義務として規定する方が望ましい、こういうお話も伺ったところでございます。これに対しての両先生のお話を伺えれば、これが第一点です。

 それからもう一つは、環境権、七十年前には環境という概念そのものが余りなかった。それから、この環境権が言われるようになった一九六〇年代、七〇年代から現在に達して、環境というものに対しての概念が少しずつ変わってきている。

 一番根本的に違うのは、いわゆる人間、人も大きな地球環境、生態系の一部である。西洋に端を発したこの憲法の基本的考え方は、やはり人間が中心の世界観といいましょうか、そういうものがあったかと思うんですが、現在、生物多様性の議論の中で、人間も生態系の中の一部であるという考え方も含めて考えなくてはいけないという考え方が入ってきた環境権、これは二十一世紀に入ってからの流れかと思いますけれども、こういうことをどのようにこの環境権の議論の中で今後我々はしていけばいいのか。

 この二点についてお伺いをしたいと思います。

小山参考人 具体的に環境条項を入れるとして、権利規定に弊害はないのかというのが一点目の御質問だと理解いたしました。

 私は、仮に権利と書いても、実際にはそれほど強い規範的な意味は持ちませんので、ですから法的には害はないとは思うんですが、ただ、権利と書くことによって、逆に過大な期待を与えてしまうことはあるんじゃないかと思います。

 やはり権利という言葉は、普通に理解いたしますと、特に一般の国民の皆さんが理解いたしますと、何か自分が要求できるものがそこにあるという受けとめをされることがあると思うんですね。でも、実際にはそういうものはないんだということがわかると、今度は落胆とか何かが生ずるのではないかと思います。

 ですから、先ほど申しましたように、国家の責務中心でいくのがよろしいかと私は思っております。

 二点目が、環境条項を入れる場合に、人間中心主義か生態系中心主義かという御質問で、これはドイツで二十a条を入れるときにも随分議論があったことなわけなんですけれども、私としては、その両方は排斥はしませんから、両方を入れるような形の条文の書き方というのもあり得るのではないかというふうに思っています。

 特に、生態系中心主義といいますのは、やはり憲法を改正してわざわざ環境条項を入れるのであれば、通常の憲法の他の条文からは出てこない、あるいは通常の人権の発想からは出てこない、そういったものを入れることには十分な意義があるのではないかと思います。

 以上でございます。

宍戸参考人 御質問をありがとうございました。それでは、私からも二点、お答えを申し上げたいと思います。

 最初に、権利としてではなく、国の義務として書くということがよろしいのではないかという御質問でございますが、これについては、結局のところ、やはり環境権を憲法に書く際に、それで何をしたいのかということに帰着するのではないかというふうに私は思っております。

 それは、突き詰めますと、環境という利益の主体あるいは利益を享受する主体が誰と考えるかによります。今現に存在する個々の住民が、例えば、何か環境が害されるような行為を差しとめたい、その利益に保護を憲法上与えたいというのであれば、これはやはり権利として個々の国民に環境権を規定するということになります。

 そうではなくて、例えば国民全体、それも現に生きている国民だけではなく、将来世代の国民を含めた全体として豊かな環境をまさに保全すべきであるということであれば、それを現実に担うのは、やはり現在の時点においては国家でありますので、国家の責務として書くということが合理的であるということになろうかと思います。

 したがいまして、これは、誰の利益、誰の法益として環境を考えるかということに帰着しようかと思います。

 ただ、もう一点だけ指摘しておきたいのは、環境を国の義務として書くにしても、しかし、それは、例えば事業者の経済活動の自由とは当然対立する概念でございますので、そういった意味での法的な効果というものは、いや応なく派生し得るだろうというふうに私は考えております。

 以上が一点目でございます。

 二点目でございますけれども、憲法が人間中心主義ではないかという御指摘はそのとおりでございますが、これは、そもそも、近代法であるとか近代国家、社会というものがこれまで人間中心主義でございまして、それをやはり生態系の中で、生態系中心に人間も一員として変えていくというのは、これはひとり憲法だけではなく、全ての法秩序あるいは社会のあり方全体を変えていくということになろうかと思います。

 その一つのきっかけとして、憲法でできることは限られているかもしれませんが、憲法に書くということは、私は一定の意味があるものというふうに考えております。

 以上でございます。

斉藤(鉄)委員 ありがとうございます。

 それから、小林参考人に教育の問題についてお伺いいたします。

 我が党も、経済的事情によって、大学、高等教育が受けられないというようなことがあってはならないということで、奨学金制度の拡充に全力を尽くしてまいりました。高等教育の無償化につきまして、まだ我が党として結論を出しているわけではありませんけれども、高校への進学率は現在約九九%ということで、高校無償化についての社会全体で負担するという前提は成り立っていると思うんですが、大学、短大への進学率は約五割ということで、大学に進学しない若者が約半数いる中で、大学における教育費用を社会全体で負担するというのは果たして成立するのか。

 やはり、一人一人に着目して、それを支援するという方が現実的ではないかという意見が我が党の中では比較的強いんですが、この点についての小林参考人の御意見を伺いたいと思います。

小林参考人 ありがとうございます。

 範囲の問題ですけれども、きょう発表では落としたんですが、スライドの十六をごらんください。そこにありますように、高等教育というのは、実は現在、四種類ありまして、専門学校まで含めますと、これがよく誤解されるんですけれども、高等教育は現在、進学率は八割になっております。したがいまして、いわゆる非進学者と言われる人たちはもう二割という、マイノリティーになっているというのが現状です。

 ただし、ここのどこまでを高等教育にするかということは実は余り明確になっていないというところがありまして、そのあたりをきちんと議論しないと、今の問題というのは、範囲の問題というのがあるかというふうに考えております。

 もう一つの問題といたしまして、奨学金制度というのは、私の方は、やはり、非常に目標も明確で効果もありますので、現在の限られた財源の中では一つの効果的な方法であるというふうに考えておりまして、これが、ただ、創設されるまでに七十年かかったわけですから、戦後、日本育英会から、やっと七十年かかってできたというのが現状ですから、なかなか動かすのは難しいというのが率直な意見です。

斉藤(鉄)委員 ありがとうございます。

 最後に、三木参考人にお伺いいたします。

 ことし三月、令状なしのGPS捜査は違法だという、ある意味でプライバシー重視の判決が示されました。一方、それに先立つ一月には、先ほど来話題になっております、インターネット検索サイトでの過去の逮捕歴を削除する、そのことがある意味では最高裁で認められませんでした。この点では、プライバシーよりも国民の知る権利に重点を置いた判決が下されたように思います。

 この二つの最高裁の判決を見られて、どのようにお考えになるか、端的にお伺いいたします。

三木参考人 私自身も、忘れられる権利については、非常にまだ未成熟な議論であるというふうには認識しております。

 一点、忘れられる権利というのは、検索エンジン上からの検索結果の削除という以上のものではなく、事実に関しては、どこまでその保護の対象として一度流通したものをするかということについては、これは公益との比較考量で判断をしていかなきゃいけない問題であると思っています。

 プライバシーの問題は非常に重視をされなければいけないと思っておりますが、それによって、社会が知るべきことが消し去られるような、そういう制度実態になっていく、あるいは法律の運用実態になっていくこと自体は、ある局面ではそれは成り立ったとしても、大きな局面で見たときに、果たして公益にかなうのかという問題は出てくるかと思います。

 ですので、基本的には、未成熟な議論であるがために、公益上どういうふうに扱うかという議論をまだ十分にする必要があるということなんだということを最高裁の判決を見て考えたという次第であります。

 令状なしのGPS捜査の関係で申しますと、もともと、刑事司法分野のアカウンタビリティーとか適正手続がどうあるべきかという課題は、ずっとある課題だというふうに認識をしております。

 刑事司法分野、治安維持分野は情報公開が大変難しい分野でございまして、その結果、人権侵害と割とすれすれのところがあるにもかかわらず、十分にそこの分野の民主化とか適正化みたいな議論が進んでいないという一面があるという理解をしております。

 そういう意味では、手続的には、GPS捜査について、手続規定をきちんと整備していかないと、この先、違法性が問われるということになったこと自体は大変よかったと思っておりますし、むしろ、そういう最高裁の判例を受けて、GPSだけではなくて、そもそもその刑事司法分野における適正手続とか、あるいはアカウンタビリティーのあり方ということの議論が広がっていくことに期待をしたいというふうに考えております。

斉藤(鉄)委員 ありがとうございました。

森会長 次に、赤嶺政賢君。

赤嶺委員 日本共産党の赤嶺政賢です。

 参考人の先生方、本日は、大変含蓄の深いといいますか参考になる貴重な御意見を聞かせていただきまして、本当にありがとうございます。

 少し角度を変えてお聞きしたいと思いますが、宍戸参考人そして小山参考人の先生方の憲法に対する御意見、メディアや雑誌等でも学ばせていただきました。

 この間、五月三日に端を発しました安倍首相による改憲発言、これが問題となっています。

 安倍首相は改憲派の集会へのメッセージで、二〇二〇年を新しい憲法が施行される年にしたいと改憲の期限を区切り、具体的な項目についても、憲法九条に、九条一項、二項を残しながら、自衛隊を明文で書き込むと表明をいたしました。その後、ラジオでも、自民党案を年内にまとめる、このように発言されておりますが、憲法尊重擁護義務を負う現職の首相が改憲を主張するなど初めてのことでありますし、しかも、安倍首相は、自衛隊を九条に明記する必要性を、多くの憲法学者や政党の中には自衛隊を違憲とする議論が今なお存在していると発言されております。

 こうした安倍首相の発言についてどのように思われますか。宍戸参考人そして小山参考人、憲法学の専門家の立場からお伺いをしたいと思います。

宍戸参考人 簡潔にお答えを申し上げたいというふうに思います。

 政党の党首である方が同時に内閣総理大臣を務めるということが想定されている議院内閣制のもとで、総理大臣であるところの与党党首であられる方が憲法改正をしかるべき場でしかるべきやり方でおっしゃるということは、これは一般的に私は憲法尊重擁護義務に反しないものと考えております。

 以上の一般論で、私のお答えは以上とさせていただきたいと思います。

小山参考人 宍戸参考人がおっしゃったことにほぼ尽きます。

 あと、憲法改正の発議をするのは国会なわけですから、要するに、国会の憲法改正発議権を侵していないのであれば、侵していないわけですけれども、特に憲法上の問題はないのではないかというふうに私は思っております。

赤嶺委員 私は、この憲法審査会で憲法学の専門家の先生方に専門的な知見を一般的に聞いたことでありますし、自分たちの政党の意にかなったら拍手をするとかしないとか、こういうのはもうちょっと冷静にしていただいた方がよろしいんじゃないかな、このように思いますので、よろしくお願いをいたします。(発言する者あり)ですから、まさに議題とルールに沿っての発言であることを申し上げたいと思います。ちょっと静かにしていただきたいと思います。

 宍戸参考人、小山参考人にさらに伺いますが、安倍首相は二年前、歴代政府の憲法解釈を覆して集団的自衛権の行使を容認した安保法制を、憲法学者や歴代の内閣法制局長官、最高裁判所長官を初め国民多数の反対を押し切って強行いたしました。安倍首相は自衛隊を明文で書き込むと言いますが、それは安保法制のもとで集団的自衛権の行使を可能にした自衛隊を書き込むことにほかなりません。こうしたもとで自衛隊を憲法に明記することになれば、日本社会の軍事化を一層推し進めることになるんじゃないかと私は懸念をしておりますが、宍戸参考人、小山参考人の御意見を伺いたいと思います。

森会長 それでは、宍戸参考人、小山参考人の順で御答弁いただきますが、議題の範囲内で御答弁いただければ結構でございます。

宍戸参考人 それでは、会長御指示でございますので、議題にかかわる範囲でお答えを申し上げたいというふうに思います。

 すなわち、具体的にどのような憲法改正の提案が例えばこの場で、あるいは国会として発議されるか、そして、その具体的な提案の内容を見ないと、先ほど来私が新しい人権についてお話ししているのと同じ、例えば憲法九条にかかわる問題についても、それがいかなる現状の変更をもたらすのか、もたらさないのか、それはちょっと、今のところ、私としてはいかんとも判断しかねるというのが私の考えでございます。

 以上でございます。

小山参考人 ちょっと議題と結びつけるのは結構難しいんですけれども、例えば知る権利と結びつけますと、十分情報を提供するですとか、例えば自衛隊の諸活動についてですね、あるいは、ドイツでは国防軍は議会の軍隊などと言われていますので、議会そして国民が十分コントロールできるようにするとか、そういったたてつけが必要なのではないかというふうに考えております。

赤嶺委員 ありがとうございました。参考人の先生方の大変貴重な御意見だと思います。

 それで、委員の発言中はできるだけ、できるだけじゃなくて、やじは控えるように、冷静な議論ができなくなりますから、そこは会長からぜひとも注意していただきたいと思います。

 三木参考人にお聞きいたします。

 この間、国会では、公文書の取り扱いをめぐって大きく問題となっています。森友学園の問題では、契約締結後すぐに売買の交渉記録が破棄され、加計学園に関しては、前事務次官が本物だと証言した文書の存在が確認されないまま、再調査されません。南スーダンの日報でも、陸自で保有していながら、破棄したと説明して公表せず、その後データを消去したという証言も出ています。

 このように、安倍政権下での一連の公文書や行政資料の取り扱いについて、三木参考人はどのようにお考えになるでしょうか。

三木参考人 公文書の問題は、知る権利の問題に直結するという問題でございますので、非常に重要な問題だと思っております。

 この間問題になっておりますのは、短期保存文書ということが特に問題になっているかと思います。

 この短期保存文書については、行政組織として必要かということと、それからアカウンタビリティーを果たすためにどれだけ持っているべきかというところが整理されないままこの間来ているがために、短期に廃棄をされているものの、アカウンタビリティーを果たすためには必要であったという文書がかなりあるようだということがわかってきたということがこの間の問題から言えるかと思います。

 ですので、政府としてのアカウンタビリティー、それから市民の知る権利の保障、あと行政として文書を持っている必要性、ここの調整を十分に図っていく必要がある、それが図られないと、政府そのものの信頼性を落としていくことになるということであると思います。

 この間一貫して問題になっているのは、文書のあるなしだけではなくて、行政組織の仕事が信頼できるかというところが問われている問題でもあるというふうに考えておりますので、ここは、個別の法制だけではなくて、もう少し大局的に立って、国会においても御検討、御議論いただきたいというふうに思っているところでございます。

赤嶺委員 小林参考人にお伺いをいたします。

 私は、教育の無償化実現のために必要なことは、憲法を変えることではなく、今すぐでも教育予算を抜本的にふやし、学費の引き下げを行う政策判断をすることだと思いますが、九条改憲の手段として教育無償化が使われようとしているのではないかと大いに疑念を持っているところです。

 こういう現状について、教育無償化が改憲論ということで出てきている現状について、小林参考人の御意見を伺いたいと思います。

小林参考人 私がきょう申し上げたのは、憲法に書くかどうかということについては非常に難しい判断が、いろいろこれから検討していただきたいということを申し上げているわけでありまして、直ちに憲法に書き込むことに賛成であるとか反対であるとかということは申し上げておりません。

 その上で、教育の無償化については、これは国際人権規約等でも、批准しているわけですから、政府の目標として、まさに責務としてやっていかなければいけないということであります。

 その上で、今回申し上げたかったのは、今のままでは憲法に書いても国民投票で否決されるのではないか、そういうことを申し上げたのであります。それは懸念でありますから、今後十分検討していけばよろしいことだと思いますけれども、現在のままではそれは難しいのではないかということを申し上げているのでありまして、九条との関係というのは私のところでは判断ができかねます。

赤嶺委員 どうもありがとうございました。

 きょうの私の質疑で、前段、一部委員からの勝手な発言で混乱、参考人の先生方に私の質問の意が十分に通らなかったなと思っておりますが、いずれにしましても、四人の先生方の貴重な御意見を参考にして憲法の調査をしていきたい、このように思います。

 私たちの立場は、憲法審査会は改憲につながり、動かすべきではないということでもありますので、そこもまた御理解いただけたらと思います。

 きょうは本当にありがとうございました。

森会長 次に、足立康史君。

足立委員 日本維新の会の足立康史でございます。

 我が党は既に、昨年三月に憲法改正原案を公表させていただいています。その中で、憲法裁判所、それから統治機構改革に加えて教育無償化の提案をさせていただいていますので、本日は、本日のテーマのうち教育無償化に絞って、限られた時間でございますので、質問させていただきます。したがって、小林参考人中心になりますが、他の三人の参考人の皆様には御理解をいただければと思います。

 まず、ちょっと入り口のところで、後藤委員が、きょう、小林先生の御説明を伺って、憲法に教育無償化を規定することにネガティブでいらっしゃると理解したような御発言がありましたが、先ほど繰り返しおっしゃったように、憲法に規定すること自体の賛否ではなくて、むしろ教育無償化自体の困難性について御説明いただいた、こう理解をしています。

 それはそういうことでよろしいかどうか、一言で結構です。

小林参考人 私は、先ほど申し上げましたように、学生への経済的支援ということで、特に奨学金中心にやってきたわけでありまして、それについては外国の調査も多く行っております。

 この二月にフランスに、国民教育省にその調査に参りましたときに、なぜこういうことをするのかということをお聞きしました。それから、日本では進学する人としない人の格差が問題になっている、特に、経済的な支援を受けられない人、先ほど申し上げましたけれども、そういうことが起きていることが問題になっているということを申し上げましたけれども、そのとき、フランスの国民教育省では、これは正義の問題である、国の、国家の責務であるということを明確に言われました。

 ただ、日本がここまでそういう形で言えるかということについて、私はかなり疑問を持っているわけであります。それはどうしてかというと、先ほど来申し上げておりますように、世論は、教育は家族の責任である、したがって教育費も家族が出すべきだという考え方に基づいているということがあります。

 一つの例を申し上げますと、きょうは幾つかの調査結果を申し上げましたが、現在、孫への相続税を、教育用に充てますと控除になるという制度がございます。これが現在約一兆円規模です。

 ですから、それだけ孫へは出す、しかし税金としては納めたくないというのがまだ多くの国民の声でありますので、そこを変えていかない限り、どうしようもないのではないかというふうに思っております。

足立委員 ありがとうございます。

 中身をちょっと順番に、きょういただいた御説明に沿って、幾つか御質問させていただきます。

 まず、いただいた資料の四ページに、三つの主義ということで、大体、各国の位置づけを御説明いただきました。日本が親負担から本人負担の方に、若干の矢印を書いていただいています。

 私、そういう現状にあるとは思いますが、これは日本が、あるいは国民が個人主義を積極的に選びとって矢印ができているというよりは、家族主義が壊れていく中でやむを得ず個人がそういう負担を背負っている、個人が背負うようになってしまっている、現状はそういうことだ、こう理解していますが、御認識はいかがでしょうか。

小林参考人 ありがとうございます。

 これはおっしゃるとおりで、やむを得なくという面がかなりございます。

 それは、やはり公財政が逼迫していく、オーストラリアとか一部の国を除いてほとんど公財政が逼迫しておりますし、中国においても、現在、高等教育が非常に拡大しておりますので十分にその手当てができないというようなことで、かなりローンを入れているというような状況があります。

 なかなか理解しがたいことかもしれませんけれども、実は、ローンというのは親負担から子負担への移転なわけですね。将来、子供が払っていくという意味では、子負担に移転しているということでありまして、これは世界的な傾向でありますので、足立先生がおっしゃるように、これはむしろやむを得ない結果だというふうに考えております。

足立委員 次に、このまさに同じ図で、上のスウェーデンを初めとする北欧、ドイツ、フランス等が福祉国家主義の傾向、位置づけ、カテゴリーになるという御説明がありましたが、私たち、教育無償化を提案している日本維新の会としては、日本が福祉国家主義になるべきだとは思っていません、全体として。

 例えば、医療、介護、年金、こうしたものは、まさに保険事故を念頭に、保険的性格は維持した方がいい、年金についてはいろいろ議論がありますが、そう思っています。ただ、そういう社会保険制度を支えていくためにも、経済成長、子供の貧困対策あるいは少子化対策、これが必要だという考え方から教育の無償化を提案しているということを、ちょっとこれは補足的に当方の考え方として御紹介を申し上げておきたいと思います。

 それから、クリアすべき課題がたくさんあります。

 先ほど小林先生の方から、親世代が子、孫の世代に教育費として移転している、控除の規模として一兆円とおっしゃったかな、御紹介がありました。まさに今回クリアすべき課題のところの一つに、実は先生の方から逆進的再配分になるんじゃないかという論点提起がございましたが、仮に財源を高齢世代、特に資産形成に成功された方々の高齢世代に財源、税源を求めると考えれば、これは大変日本として問題になっている世代間格差の解消にもつながるので、先ほどおっしゃった一兆円の資産移転を、自分の子供、自分のお孫さんに限らず、広く子供世代、孫世代に、資産形成に成功された部分の一部を社会的に提供いただく、お願いするということは私はあり得ると思いますが、その点いかがでしょうか。

小林参考人 この点につきましては、スライドの二十八に、教育による所得再分配について少し御紹介させていただいております。

 時間の関係で紹介できませんでしたが、これは有名な論争がありまして、一九六〇年代のアメリカで提起された問題で、公立大学が非常にその当時授業料が安かったために、進学しない人との間で格差があるのではないかという議論がありました。それに対してアメリカでは活発な論争が繰り広げられまして、そこに反論として書きましたように、高所得者は累進的な税も多く払っているとか外部効果があるとかいろいろなことが言われまして、現在でもこの論争は五十年たっても決着しておりません、それは外部効果の測定が難しいというのが一番の理由なんですけれども。

 そういったこともありまして、こういったことを十分に考えなければいけないということでありまして、高齢者あるいは高所得層から税を取るというような仕組みをつくっておけばこの問題はクリアできるというのは、足立先生の御指摘のとおりだと思います。

足立委員 ありがとうございます。

 次に、同じ十四ページの、クリアすべき課題のもう一つとして、放棄所得の御指摘をいただいています。

 これは、だから財源がたくさん要るんだよという御指摘なんですけれども、逆に言うと、大学進学の問題を個人で乗り越えるということは、さらに、みんなが思っている以上にこれは難しいハードルなんだということを示していると私は理解をしますし、逆に言うと、高所得層であっても進学をすればそれだけの放棄所得があるわけでありますので、必ずしもこの点は、クリアすべき課題というよりは、無償化をしなければならない理由の一つにもなり得る、こう思いますが、いかがでしょうか。

小林参考人 これは全く制度設計の問題だと思います。

 放棄所得についてはスライドの三十四に示してありますが、一般にはこれは学費とはみなされていないわけでありまして、三十三の方が学費なんですが、これは日本は国際的に見て非常に高いわけでありますけれども、それ以外に放棄所得というものも考えなければいけないということを申し上げたわけであります。

 例えば、教育が無償になりますと、奨学金とかは生活費の援助になる、あるいは放棄所得の援助になりますから、性格が変わるわけですね。ですから、必ずしも矛盾した議論にはならないと思います。制度設計のあり方だと思います。

足立委員 ありがとうございます。

 質問を五月雨式に申し上げて恐縮ですが、たくさん伺いたいことがありまして。

 それから、クリアすべき課題のもう一つ、次のページに、現状固定化というイメージですね。

 大学はいろいろ問題が多い、これを固定化するんじゃないかという議論がありますが、我々、無償化にも、これはもう仕組みの問題で、機関にお金を投げるんじゃなくて、利用者にお金を投げれば、これはむしろ質の低い機関は淘汰されていくと。

 大阪で実際に高等教育の、私立も含めた無償化をやっているのは、公立と私立の線引きも超えた競争をむしろ促して、切磋琢磨を促す、そして、それぞれの教育機関が質を高めるインセンティブを与えるという趣旨で実は大阪は取り組んでいまして、無償化イコール固定化ではないと私は思いますが、いかがでしょうか。

小林参考人 これもいろいろ検討しなければいけない問題が入っておると思います。一つの可能性として申し上げたのでありまして、さらに詳しく検討しなければならないと思います。

 今、個人補助の問題というふうな形でおっしゃったと思いますけれども、教育に対する公的負担は、今回は詳しくは申し述べませんでしたけれども、機関補助と個人補助という形態があるわけでありまして、機関補助が国立大学への運営費交付金でありますとか私学助成になっているわけでありまして、それ以外に給付型奨学金のような個人補助と、両方の組み合わせがあるわけであります。これは、どこの国でも、どちらかだけでやっているという国は余りないわけでありまして、この二つをどういうふうに組み合わせるかということが一番焦点になるわけですね。

 ですから、これから、これもやはり具体的に制度設計をどのように考えていくか、よりよいあり方がどうかということを考えていくということが必要だろうというふうに思っております。

足立委員 御質問としては最後にいたしたいと思いますが、二百十億円の給付型奨学金ができた、これは本当にすばらしい、先生も御努力いただいた成果だと思いますが、まさに桁が一つというより私は二つ足りないと思っていまして、国会でゼロを、桁を一つ、二つふやしていくのは、私は不可能だと思っています。

 きょう聞いていただいても、民進党も、もう出席率も悪い状況ですから、したがって、やはり国会が、特に、シルバー民主主義と言われるような中で現役層から高齢層に税源をぐっと動かしていくというのは、これは大変な政治エネルギーがあります。そういう政治エネルギーでは七十年間できてこなかったこの教育の分野の構造改革を、むしろ国民の手で、国民投票にかけて、国民が政府を縛る形でやるのが私は憲法改正の意味だと思っています。

 きょう御懸念を示された、では否決されたらどうするんだという問題は、実は九条についても同じことが言われています。自衛隊を書こうといって否決されたら、これは自衛隊を否定することになるのかといった議論も一部にはございます。

 したがって、私は、憲法改正とは何だ、これは国民が政府を縛るんだという趣旨からいえば、むしろこれは、法律論では無理で、憲法改正こそ唯一の道である、こう主張しますが、一定の御理解をいただけますかどうか、ちょっと所感をいただければと思います。

小林参考人 きょういろいろ申し上げましたけれども、私の方では、考えなければいけない問題が非常にたくさんあるということを申し上げたかったわけであります。

 一つの方向性として、教育の無償化というのは、目標として置くということは非常に賛成であります。ただ、それを憲法に書いたときにどういうことになるかということは、これからいろいろ考えていかなければいけないというふうに考えておりますので、現在ではその点については判断はできないというふうに考えております。

足立委員 参考人の先生方、ありがとうございました。

森会長 次に、照屋寛徳君。

照屋委員 社民党の照屋寛徳です。

 きょうは、参考人の先生方に貴重な御意見を賜り、大変ありがとうございました。

 最初に、宍戸参考人にお伺いをいたします。

 憲法第十三条の幸福追求権を主要な根拠として、判例、通説によって認められているプライバシーの権利は、私生活をみだりに公開されない法的保障ないし権利と位置づけられ、憲法に基礎づけられた私法上の権利として認められるようになったと理解しています。

 最近の情報化社会の進展に伴い、自己に関する情報をコントロールする権利、いわゆる情報プライバシー権が、自由権的側面のみならず、プライバシーの保障を公権力に対して積極的に請求していくという側面が重視されるようになってきていると憲法学者芦部信喜氏は論述しております。

 社民党は、プライバシー権は、憲法十三条の幸福追求権と人格権などによって憲法上の権利として確立をしており、改憲の上、新しい人権の一つとして明文化する必要はないと考えますが、参考人の意見を伺います。

 もう一点。

 ところで、自民党日本国憲法改正草案第十九条の二は、「何人も、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してはならない。」と規定し、プライバシー権の保障に資するための改憲案だとしております。社民党は、これでは、国民に個人情報不当取得等禁止義務を課すもので、新しい人権ではなく国民の新しい義務だと考えていますが、参考人の考えを伺います。

宍戸参考人 御質問ありがとうございました。二点いただきましたので、お答えを順に申し上げます。

 まず第一に、先生御指摘のとおり、憲法十三条の解釈としてプライバシー権が憲法上の権利として確立しているというのは、これこそまさに確立した解釈というふうに私も理解しております。

 その限りで、現状の判例法上あるいは学説上認められているプライバシーをこのままどんどん豊かにしていくんだということであれば、憲法改正は不要だということになります。そうではなくて、具体的により強く、あるいは何か違う形でプライバシーの意味を与え、そしてそれに法的な拘束力を持たせたいというのであれば、それは憲法改正の議論に入るということになります。

 したがいまして、プライバシーという一つの言葉の中に多様なものが含まれておりますので、どのような内容の利益をどこまで保障しようとされるのか、それによって憲法改正が必要かどうかということは変わってくるのではないか、これが一点目のお答えでございます。

 それから二点目に、自民党憲法改正草案の、何人も個人情報をというあの規定についての御質問をいただきました。

 まず最初に、基本的に、憲法においては、個人の国家権力に対する権利を保障するのは基本でございますが、憲法の規定の中には、例えば児童労働の禁止など、私人間において直接に拘束力を発生させることを目的とした規定を置けないわけではないものというふうに考えております。

 ただ、その上で自民党憲法改正草案の当該規定について申しますと、委員御指摘のとおりでもございますけれども、例えば、表現の自由とプライバシーの調整というのをこの「不当に」という言葉の中でどう読み込むのかといったような問題でございますとか、先ほどの私の意見陳述で申しますと、私生活の平穏と個人データの扱いというものは私人間においても分けて考える必要があるのではないか、あるいは、事業者と消費者の間での個人情報保護法が規律しているような世界におきましては、事業者の経済活動の自由というものも当然ございますので、そのあたりでもう少し自民党憲法改正草案の規定についてはいろいろ御議論が必要なのかなというふうに思っております。

 私からは以上でございます。

照屋委員 ありがとうございました。

 次に、三木参考人に伺います。

 憲法第二十一条が保障する表現の自由は、思想、情報を発表し、伝達する自由であります。一方、情報化が進展した現代社会にあって、表現の受け手の自由としての聞く自由、読む自由、見る自由を保障するため、それを知る権利として捉えることが必要となってまいりました。

 知る権利を新しい人権として、改憲の上、明文化すべきとの意見もありますが、社民党は、知る権利は憲法に明文の規定がなくても憲法第二十一条などを根拠に認めることができるとの立場です。参考人の意見をお聞かせください。

 ところで、個人情報保護法が改正され、個人情報保護を理由に一層匿名社会が進み、表現の自由を保障した憲法第二十一条のもとにある取材、報道の自由、国民の知る権利が損なわれるのではないかと日本新聞協会が声明を発表しておりますが、この日本新聞協会の声明に対する三木参考人の意見も伺います。

三木参考人 一点目でございますが、表現の自由の中には表現を受け取る自由があるということが既に定説というか確立をしているかと思います。ですので、表現を受け取る自由、表現を受けるということについて憲法改正が必要かと言われれば、改正をしなくてもそれは含まれるということに尽きるのかと思います。

 知る権利の問題につきましては、先ほど来申し上げていますとおり、一体何の知る権利として位置づけるのかによって議論の中身が大分変わってくるのではないかと思っております。ですので、一般論で言えば、表現の自由の中における自由があるので、その限りにおいては必要がないのではないかというふうに言えるかと思います。

 それから、個人情報保護法の改正に伴って日本新聞協会が声明を出されているということは承知をしております。

 個人情報の問題と表現の自由、取材の自由、報道の自由は、これは余り対立的に考えるべきではないというふうに考えております。確かに、個人情報保護法は個人情報を取り扱う事業者を規制する法律でございまして、報道機関を直接、報道の自由の限りにおいて、縛るものではないと考えておりますが、一方で、取材対象である個人情報を取り扱う事業者側から情報がとれなくなるというところが一番の大きな対立点になろうかと思います。

 これは、法制度上の問題だけではなくて、恐らく、報道機関に対する信頼とかジャーナリズムに対する信頼みたいなものと、それからどの程度の情報が個人情報であっても報道機関に提供されるのかということとセットの問題ではないかというふうに考えております。

 個人情報保護法があるから報道の自由が阻害をされるとか侵害をされるという単純な議論ではなくて、むしろ、社会としてどういう状況がより公益にかなうのか、どういう状況が望ましいのかという大局に立った議論をしていただかないと、報道の自由そのものが縮小していく可能性をはらんでいるというふうに考えております。

照屋委員 次に、小林参考人にお伺いをいたします。

 あらかじめ配付された参考人の論文を読みました。参考人の論文の中で、教育費の公的負担の根拠は何よりもまず教育の機会均等に求めることができる、教育は社会経済的格差を生み出す重要な要因となり得るので、教育の機会は平等に提供されなければならないのであるとの論述がありました。私も、参考人のお考えに賛成であります。

 ところで、去る五月三日、安倍総理が、高等教育無償化を明記した改正憲法の二〇二〇年施行を明言しました。社民党は、高等教育無償化は、改憲によらなくとも、法律の制定と予算措置、すなわち時の政権担当者の政策実現意欲で可能と考えますが、参考人の見解を伺います。

小林参考人 これも重複するかもしれませんけれども、お答えいたします。

 私自身は、繰り返して申し上げておりますように、教育の無償化というのは非常に大きな目標であるというふうに考えておりますが、それがなぜなかなか世論を動かせないのかということをきょうは取り上げたわけであります。そのことが憲法に例えば明記されたということになったときに、むしろ国民投票で否決されるのではないかということまで申し上げたのは、そういうことであります。

 また繰り返しになりますけれども、そういった観点から申しまして、憲法に書くかどうか、改正するかどうかということについては、これからいろいろな条件を検討していかないとなかなか難しいのではないか、この場で議論していただければということで申し上げました。

 以上です。

照屋委員 小林参考人にお尋ねしますが、高等教育無償化のための改憲の必要性の世論は高いと思っておられますか。また、高等教育無償化実現のためにクリアすべき政策課題にはどのようなものがあるとお考えでしょうか。

小林参考人 これも重複いたしますが、きょうのところで申しますと、スライドの十八、十九、あるいは、きょうは時間がなくて申し上げられませんでしたが、スライドの十七の憲法八十九条との関係とかいろいろな問題がこれから出てくると思います。

 それから、具体的な問題で申しますと、さらに財源論とかさまざまな問題がありますので、私はその辺は必ずしも定かではありませんけれども、プログラム規定というのも一つの考え方であるし、逆に申しますと、プログラム規定でないとすると違憲になるおそれが現在ではあるのではないか、つまり、財源がないところで書き込めるのか、そういう点を検討していただきたいということで申し上げました。

照屋委員 小山参考人にも質問を準備しておりましたが、時間がありませんので割愛いたしますけれども、一言申し上げますと、私は沖縄に住んでいる。沖縄では、憲法法体系に優先する安保法体系や日米地位協定によって、例えば、膨大な米軍基地が大気を汚染し、それから地下水を汚染し、爆音によって県民の環境が重大に阻害されるという状況があります。そういうことを指摘して、時間ですので、この次にまた小山参考人にいろいろ教えていただきたいと思います。

 ありがとうございました。

森会長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、一言御挨拶を申し上げます。

 参考人各位におかれましては、貴重な御意見をお述べいただき、ありがとうございました。憲法審査会を代表して、心から御礼を申し上げます。(拍手)

 次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。

    午前十一時五十九分散会


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