衆議院

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第15号 平成14年11月29日(金曜日)

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平成十四年十一月二十九日(金曜日)
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  平成十四年十一月二十九日
    午後一時三十分 本会議
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本日の会議に付した案件
 石原伸晃君の故議員石井紘基君に対する追悼演説
 憲法調査会会長の憲法調査会中間報告書についての発言


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    午後一時三十三分開議
議長(綿貫民輔君) これより会議を開きます。
     ――――◇―――――
議長(綿貫民輔君) 御報告することがあります。
 議員石井紘基君は、去る十月二十五日逝去されました。まことに哀悼痛惜の至りにたえません。
 石井紘基君に対する弔詞は、議長において去る七日既に贈呈いたしております。これを朗読いたします。
    〔総員起立〕
 衆議院は 多年憲政のために尽力された 災害対策特別委員長議員従四位勲三等石井紘基君の長逝を哀悼し つつしんで弔詞をささげます
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 故議員石井紘基君に対する追悼演説
議長(綿貫民輔君) この際、弔意を表するため、石原伸晃君から発言を求められております。これを許します。石原伸晃君。
    〔石原伸晃君登壇〕
石原伸晃君 ただいま議長から御報告のありましたとおり、本院議員石井紘基先生は、去る十月二十五日逝去されました。
 先生は、この日の朝、迎えの車に乗り込む際、御自宅の前で、刃物を持った暴漢に襲われ、目黒区内の病院へ運ばれましたが、御家族の願いもむなしく、帰らぬ人となられました。私がこの事件の第一報を聞いたのは、参議院予算委員会の質疑の場でした。居合わせた誰もが自分の耳を疑い、私は大きな戦慄を覚えました。
 今、石井先生が座るはずの議席は、空席のままです。この席に座る石井先生の姿を見ることも、声を聞くことも、もうありません。私達は、奪われた命の重さを忘れません。「民主主義の理想や原理原則の糸が切れた時、独裁や暴力は暴走し、体制を支配する」。先生は、そう言われました。先生が命をかけて問い続けた正義を、先生の孤独の戦いを、私は決して忘れることはありません。なぜなら、座る人のない先生の席から、「このようなことを二度と繰り返してはならない」、そう叫ぶ石井先生の声なき声が、私の耳にはっきりと聞こえるからです。
 石井先生は、誰よりも早く、この国の構造改革の必要性に着目され、一貫して、それを訴えてこられました。私が初めて行政改革に取り組んだ平成七年、先生には党派を超えて、またとない相談相手になっていただきました。以来七年、私は今も行政改革に取り組んでおりますが、その間、石井先生は、常にこの問題のエキスパートとして、自ら集められた膨大な資料を基に、この国が進むべき道を指し示してくれました。
 私は、ここに、皆様の御同意を得て、議員一同を代表し、謹んで哀悼の言葉を申し述べさせていただきます。(拍手)
 石井先生は、昭和十五年十一月、東京都世田谷区代沢で、明治薬科大学及び女子栄養大学の教授を歴任した父・嘉四郎さん、実践女子学園の教員をされていた母・緯子さんの御長男としてお生まれになりました。小学校時代から、生徒会長としてリーダーシップを発揮され、私立成城学園中学、高校時代には、勉学の傍ら、野球、卓球、乗馬などに情熱を傾け、やがて、中央大学法学部へと進まれました。
 時あたかも、六〇年安保闘争の高まりの中、大学の自治会委員長として、南通用門突破組だった先生は、デモ隊と警官がもみ合う騒乱状態の中で、全ての国会議員が避難した後、ただ一人で警官を抑え、放水を浴びながらも、必死に学生達を守ろうとする江田三郎氏の姿に心打たれ、政治の道を目指されました。後に先生は、「私にとって、生まれて初めて体験した壮大な政治ドラマだった。この闘争が、私が政治の道へ入る契機となった」と述懐されておられます。
 大学を御卒業後、先生は、早稲田大学大学院法学研究科へ進まれ、日ソ青年友情委員会代表であった作曲家・芥川也寸志氏の勧めと、「鉄のカーテンに包まれたソ連を見たい」という探求心から、昭和四十年に、モスクワへ留学されました。モスクワ大学大学院法学部では、デニソフ教授の「国家と法の理論」を専攻し、ドクターの称号を得られました。
 六年間にわたるモスクワ大学時代に、モスクワ国立国際関係大学の学生だった奥様のナターシャさんに出会われました。モスクワ時代、飼っていた子犬が、先生からナターシャさんへプレゼントしたブーツに穴をあけてしまいました。怒るナターシャさんに、先生はやさしく、子犬をかばわれたそうです。弱い子犬を守ること、それは、弱い立場の人を守るという先生の信条として、その後の政治の道で花開きます。そんな御縁もあって、お二人は御結婚されました。
 平成二年二月、先生は、長年培った政策を自らの手で実現すべく、社会民主連合から第三十九回総選挙に立候補されました。「政治改革のただ一つの道は、国民と政治との密接なつながりを取り戻すことである」と訴え、旧東京都第三区で熱い戦いを繰り広げられたのですが、健闘むなしく、次点となられました。
 夢破れ、肩を落とす石井先生を支えたのは、奥様のナターシャさんでした。奥様は、NHK国際部に勤務され、また、早稲田大学でロシア語講師を勤める傍ら、先生の一番の理解者として、支持者の方々を回り、二人の夢の実現のために尽くされました。
 NHKで働く奥様の帰りが遅い時、先生は、御自分で包丁を握り、丸ごと買ってきたアジをさばき、奥様にアジのタタキを振る舞われたそうです。そのアジが余りにおいしくて、「政治家になるのは止めて、お魚屋さんになれば。そうすればいつも一緒にいられるし」と言う奥様に、石井先生は、「僕には、国のためにやらなければならない仕事がある」と、その時だけは厳しい顔でおっしゃったそうです。
 こうして、雌伏三年。政治改革が争点となった、平成五年七月の第四十回総選挙に「責任ある政治、真の政治改革は国民の手で」を旗印に日本新党から立候補、激戦の末、見事トップ当選を果たされました。(拍手)
 その時、先生は、「僕が代議士になれたのは、女房のおかげです」と公言して憚りませんでした。また、初当選の後、年金で暮らすお年寄りから五千円の寄付が入った手紙をもらい、「こうやって陰ながら応援してくれる人のために、私は頑張らなくてはいけない」、感謝で胸を詰まらせながら語る石井先生は、その志をいつまでも失うことはありませんでした。
 平成八年十月の第四十一回総選挙には、初の小選挙区制度の下、東京都第六区より旧民主党から二度目の当選。さらに、平成十二年六月の第四十二回総選挙では、民主党から立候補され、三期連続当選を果たされました。その間、先生の政治活動の手助けをされたお嬢様のターニャさんの存在も、忘れることはできません。
 当選されてからの先生は、旧決算委員会、現在の決算行政監視委員会、また、安全保障委員会などの理事や委員を歴任され、常に、国民の目線に立った質疑を展開されました。今国会の冒頭には、推されて、災害対策特別委員長に就任されたばかりでした。石井先生は、本院に在職された九年五カ月という日々を力強い足取りで駆け抜け、政治家として、誰もが忘れ得ぬ足跡を国政に残されたのです。
 振り返れば、石井先生は、安保闘争の最中、またとない師にめぐり合い、その薫陶を受け、自らの理想を実現するために、この数年来の政界再編のうねりの中を、迷うことなく歩まれました。そして平成八年、現在の民主党の前身となった「民主党設立委員会」に参加され、新しい政治を切り開こうとされたのです。そして、羽田内閣においては、総務政務次官として、大臣を補佐し、行政改革の推進を初めとする各般の課題に取り組まれました。
 先生は、常に、誰もが恐れて手を出さなかった領域をあえて選び、身体を張って取り組んでこられました。夏休みの土曜日曜も、クーラーの止まった議員会館に一人こもり、Tシャツ姿で、汗をかきながら仕事をしていた先生。石井先生は、常に全てのデータを御自分で集め、綿密に分析され、検証されました。先生が御著書の中で、「私は、この本の内容の全てに、自信を持ち、責任をとる」と述べられているのは、まさに、政治家・石井紘基先生の真骨頂であったと言えます。(拍手)
 本年四月の内閣委員会の席。御自分で集められた、道路公団のファミリー企業の詳細なデータを片手に、先生は、公団と関連企業の不明朗な関係を追及されました。「改革への抵抗勢力は、前にも増して深く潜行し、強大になってきているのではないか」、そう警告する石井先生の声を私の耳は決して離れていきません。この問題提起をきっかけに、現在、民営化推進委員会による道路公団関連企業の全国調査が行われ、数々の問題の温床と言われた道路公団ファミリー企業の厚いベールが、はがされようとしているのです。
 石井先生の遺作となった「日本が自滅する日」において、先生は、「日本には、ベルリンの壁がある。その向こう側に『本当の日本』がある。権力が経済を侵食し、うわべの数字と裏腹に、国家破綻が進行する」と述べられております。先生がいち早く問題提起された道路公団、石油公団などの特殊法人は、全て今回の整理合理化計画の対象となり、廃止、民営化、もしくは独立行政法人化されようとしています。先生の先見の明が、まさに証明されたと言えます。
 先生は、闘志に満ち溢れた政治家であると同時に、温かく、やさしいお人柄の持ち主でした。昨年末、特殊法人整理合理化計画の取りまとめに苦労する私の肩をたたき、「頑張れよ」と言ってくれた先生のやさしい笑顔を、私は忘れることができません。
 誕生日には欠かさず奥様に花を贈り、愛煙家でありながら、家族の前では決してタバコを吸わず、雨の日には自宅の庭で傘をさしてタバコを吸っていたという石井先生。今日まで、石井先生と共に歩み、支えてこられた奥様とお嬢様の胸中を思う時、私には、お慰めする言葉もございません。
 お嬢さんのターニャさんが十二歳の頃、石井先生は、こう言われたそうです。「人間の本当の美しさは、外見ではないんだよ。内面の美しさこそが、本当の美しさなんだ。少しくらい欠点があったほうが可愛いもんさ」、今でもターニャさんは、先生のこの一言を大切にされています。そして、お嬢さんのちょっとした一言に、「お母さんがどんな思いで君を育てたと思うんだい。お母さんは、ターニャのために人生を捧げ、生きてきたんだよ。」そう諭されたという石井先生のやさしさ。そのやさしさと強さは、奥様とお嬢さんの胸の中に、そして私達の心の中で、これからも生き続けていくことでしょう。
 「もともと地上には道はない、皆が歩けば道になる」という信念のもと、自らの政策を語りかけ、問い続け、石井先生は、国家国民のために、我と我が身を捧げられたのです。残念ながら、もはや再び、この議場で先生のお姿を見ることはできません。
 内外の諸情勢が極めて多難なこの時期に、政治家として、いよいよ円熟味を増していた先生。幅広い活躍、中でも、一貫した行政改革への取り組みに大きな期待が寄せられていたこの時に、前途有為な政治家・石井紘基先生を失ったことは、ひとり民主党にとどまらず、本院はもとより、国家国民にとってのまことに大きな損失であり、遺憾の念にたえません。
 このような許されざる暴挙が二度と繰り返されない社会にすることを、今ここで、改めて先生にお誓いいたします。
 最後にもう一度、先生の遺作から一言御紹介させていただき、結びといたします。「政治が、国民の未来に奉仕する、名誉あるものに生まれ変わることが先決である。日本の政治文化は、いずれにしても、国民の手にかかっている。」
 ここに、謹んで石井紘基先生の生前の御功績をたたえ、追悼の言葉といたします。(拍手)
     ――――◇―――――
 憲法調査会会長の憲法調査会中間報告書についての発言
議長(綿貫民輔君) 憲法調査会会長から、去る一日、議長に提出された憲法調査会中間報告書について発言を求められております。これを許します。憲法調査会会長中山太郎君。
    〔中山太郎君登壇〕
中山太郎君 憲法調査会中間報告書につきまして、その提出の経緯及び概要を御報告申し上げます。
 まず、本中間報告書の提出の経緯についてでありますが、憲法調査会は、日本国憲法について広範かつ総合的な調査を行うため、第百四十七回国会の召集日である平成十二年一月二十日、本院に設置されました。
 本調査会の任務は、この設置目的に従って調査を行い、その調査の経過及び結果を記載した報告書を作成して、これを議長に提出することであります。
 本調査会は、設置当日に初回の会議を開き、その活動を開始して以来、本日に至るまでの間、日本国憲法に関する調査を着実に進めてまいりました。
 まず、日本国憲法の制定経緯に関する調査から開始し、次いで、戦後の主な違憲判決に関する調査、続いて、二十一世紀の日本のあるべき姿に関する調査を行い、本年一月からの第百五十四回国会においては、その間に浮かび上がってきたさまざまな論点について、より具体的な調査を行うため、本調査会のもとに、基本的人権の保障に関する調査小委員会、政治の基本機構のあり方に関する調査小委員会、国際社会における日本のあり方に関する調査小委員会及び地方自治に関する調査小委員会の四つの小委員会を設置して、専門的かつ効果的な調査を行ってまいりました。
 これらの調査活動の中では、憲法学、政治学を初めとする社会諸科学はもとより、人口論、ゲノム、ITなど自然科諸学分野の有識者をも参考人として招致し、意見の聴取を行いました。また、質疑を行うとともに、委員間での活発な自由討議も行ってまいりました。
 他方、この間、国民各層の意見を聴取するため、全国各地で地方公聴会を開催し、国民の憲法に関する生の声を現場で伺うとともに、憲法調査会委員で構成された憲法調査議員団による海外調査を行い、比較憲法的な観点から諸外国の憲法事情についても調査を行っており、本調査会では、これらの調査の成果をも踏まえながら、調査を進めているところであります。
 本調査会の調査期間は、議院運営委員会理事会の申し合わせにより、「概ね五年程度を目途とする。」こととされておりますが、第百五十四回国会をもちまして、その調査期間の折り返し点となる二年半が経過いたしました。
 そこで、去る十一月一日、本調査会として、これまでの調査の経過及びその内容を取りまとめた中間報告書を作成し、同日、議長に提出いたした次第であります。
 次に、本中間報告書の構成と概要について御報告いたします。
 本中間報告書には、第百五十四回国会閉会中の海外調査の成果なども可能な限り取り込むように努めながら、最終的には、第百四十七回国会から今国会、第百五十五回国会の平成十四年十月二十四日までの本調査会の活動について収録いたしました。
 その構成は、第一編「憲法調査会の設置の経緯」、第二編「憲法調査会の設置の趣旨とその組織及び運営」、第三編「憲法調査会の調査の経過及びその内容」及び第四編「資料」から成っておりますが、調査の経過を一覧的に整理した第三編第一章並びに調査の内容をまとめた同編第二章及び第三章がその中核的な内容をなしております。
 特に、第三編第二章においては、調査会及び小委員会での議論の概要はもとより、地方公聴会や海外調査の概要についても時系列的に要約、整理しておりますし、また、七百六ページに上る本中間報告書のうち五百十四ページを占める同編第三章では、約二年半の本調査会での委員及び参考人等の多様な発言を、日本国憲法の各条章に沿いながら、それぞれの論点ごとに分類して要約、整理いたしました。
 以上の調査の主な論点あるいは議論を総括すれば、次のとおりであります。
 まず、日本国憲法の制定経緯に関する調査では、現行憲法制定にまつわる歴史的事実の検証を行いました。
 日本は、昭和十六年十二月に第二次世界大戦に参戦しましたが、昭和二十年八月にポツダム宣言を受諾することによって連合国側に降伏いたしました。
 これにより、日本占領に関して実質的に最高権限を有するGHQによる間接統治を受けることになったわけでありますが、この間接統治下において、昭和二十一年三月にGHQの起草に係る総司令部案をもとにした憲法改正草案要綱が政府案として発表されました。
 衆議院は、前年の十二月に解散されておりましたが、現職議員にも及んだ公職追放などを経て、昭和二十一年四月に衆議院議員総選挙が行われました。この総選挙後に召集された第九十回帝国議会において、この憲法改正草案要綱を条文化した帝国憲法改正案が提出され、審議された結果、同年十一月三日に日本国憲法が公布、翌昭和二十二年五月三日に施行されたのであります。
 このような制定経緯に関する調査を通しまして、これに対する評価は別といたしましても、日本国憲法の制定にまつわる一連の客観的な歴史的事実については、各委員がおおむね共通の認識を持つことができたものと存じます。
 なお、本年四月に地方公聴会を開催いたしました沖縄では、その後、四半世紀を経た昭和四十七年の本土復帰を迎えるまで、この日本国憲法の実効的な適用がなされてまいりませんでした。この事実を私たちは忘れてはなりません。
 次に、戦後の主な違憲判決に関する調査では、日本国憲法制定以来、今日に至るまでの憲法の歩みについて、最高裁判所の下した違憲判決を検証することを通じて、我が国の違憲立法審査制及びその運用実態等を明らかにしたところでありますが、我が国の裁判所は、行政府及び立法府の行為に関する訴訟において憲法判断を行うことには極めて消極的であり、憲法が裁判所に期待する法の支配の担い手としての使命を必ずしも十分には果たしていないとの意見も述べられたところであります。
 海外調査の結果明らかとなってきた諸外国の憲法裁判所の活動実態と比較するとき、今後、検討しなければならない課題は多いように思われます。
 また、二十一世紀の日本のあるべき姿についての骨太な議論、さらには小委員会での専門的かつ効果的な議論におきましては、日本国憲法をめぐるさまざまなテーマについて、多様な観点から議論が行われました。
 その詳細は本中間報告書を御参照いただくこととして、そこで議論になった重要な観点、現在の憲法を眺める際の重要な観点を一つだけ指摘するならば、次のようなことがあります。
 すなわち、日本国憲法制定後五十有余年を経た今日、我が国を取り巻く国内外の情勢が制定当時には想像もつかなかったほど大きく変化しており、これを憲法にどのように反映させていくべきかどうかという観点であります。
 これらの変化の中には、国家の枠組みや人権保障のあり方といった、憲法を支える基本的な考え方に影響を与えるものも少なくないと思われるからであります。
 例えば、安全保障に関する概念は、国家の安全保障から地域の安全保障、そして人間の安全保障へと大きく変化してまいりましたが、これは、我が国の安全保障のあり方、国際協力のあり方に大きくかかわるものであります。
 また、科学技術の発展に関しまして申し上げますと、情報技術の革新は高度情報化社会をもたらしましたが、その反面、個人のプライバシーを大きく脅かす側面をも有するようになってまいりました。さらに、生命科学や医療の分野での技術革新などは、人間の尊厳や生命倫理の根幹を揺るがしかねないところまで進展してきております。
 このような変化は、憲法の骨格ともいうべき人権保障のあり方に大きな影響を与えるものであります。
 また、これまで三度にわたり実施いたしました海外調査では、王室制度を有する国、中立政策を維持してきた国を含む西欧各国、ロシアを初めとする旧共産圏に属する東欧各国、中東に位置するイスラエル、東南アジア各国、そして、我が国の隣国である中華人民共和国及び大韓民国など、二十四カ国の憲法事情について調査を行ってまいりました。
 印象的でありましたのは、これらのいずれの国においても、国際社会の変化や、それぞれの国が抱える国内事情を背景としながら、それらの諸事情の変化に対応して憲法改正に係る論議が国民に提示され、その国民的な論議を通じて、例えば、生命倫理に関する規定でありますとか情報アクセス権、あるいはプライバシーの保護に関する規定でありますとか、随時、憲法改正が行われているという点であります。
 また、多くの国々で導入されている憲法裁判所においては、法律、行政命令を含む法令の合憲性審査を行うことによって権力相互の抑制に資しているだけでなく、直接に国民からの権利救済申し立てを受けるなど人権保障のとりでとしての機能をも果たしている点について、大いに考えさせられました。
 さらに、小泉政権の誕生により注目を浴びた首相公選制についても、イスラエルを訪問して、政府及び議会の要人、学者等と会談し、その導入及び廃止の経緯、これに対する評価等について詳細な調査を行いました。
 本調査会においては、その調査結果を踏まえて、種々の観点から活発な議論が行われましたが、首相公選制の導入については、国民の直接選挙により選出された首相と天皇制との関係や議会との関係、例えば、首相の失政に対する国会の不信任決議の可否、弾劾の実効性などの諸点にかんがみて、慎重あるいは消極的な意見が多数を占めたように思われます。
 以上、本中間報告書の提出の経緯及び概要を御報告いたしましたが、全百三カ条の規定を有する日本国憲法のもと、その理念を生かすために、現在、約千八百件の法律及びその下位法令として五千三百件を超える政令、府省令等が制定されており、これらの法規範が一体となって、国民生活に関するあらゆる局面について規律しておるのであります。まさしく、憲法は、国民生活の基本法、国家の根本規範であります。
 国際情勢が極めて緊迫する中、また日本国内の経済情勢も極めて不安定な折、本調査会におきましては、今後とも、人権の尊重、主権在民、そして再び侵略国家とはならない、との三つの理念を堅持しつつ、新しい日本の国家像について、全国民的見地に立って、広範かつ総合的な調査を、各会派の協力のもと、進めてまいる所存であります。
 以上、御報告といたします。(拍手)
     ――――◇―――――
議長(綿貫民輔君) 本日は、これにて散会いたします。
    午後二時三分散会


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