衆議院

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第9号 平成22年4月2日(金曜日)

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平成二十二年四月二日(金曜日)

    午前九時一分開議

 出席委員

   委員長 鈴木 宗男君

   理事 木内 孝胤君 理事 小宮山泰子君

   理事 空本 誠喜君 理事 中野  譲君

   理事 和田 隆志君 理事 小野寺五典君

   理事 平沢 勝栄君 理事 赤松 正雄君

      大山 昌宏君    岡田 康裕君

      吉良 州司君    齋藤  勁君

      阪口 直人君    末松 義規君

      中津川博郷君    西村智奈美君

      萩原  仁君    浜本  宏君

      早川久美子君    平岡 秀夫君

      松宮  勲君    横粂 勝仁君

      岩屋  毅君    河井 克行君

      北村 茂男君    河野 太郎君

      高村 正彦君    笠井  亮君

      服部 良一君

    …………………………………

   外務大臣         岡田 克也君

   外務大臣政務官      吉良 州司君

   外務大臣政務官      西村智奈美君

   参考人

   (琉球大学教授)     我部 政明君

   参考人

   (大阪大学教授)     坂元 一哉君

   参考人

   (国際問題研究者)    新原 昭治君

   参考人

   (名古屋大学特任教授)  春名 幹男君

   外務委員会専門員     清野 裕三君

    ―――――――――――――

委員の異動

四月二日

 辞任         補欠選任

  武正 公一君     岡田 康裕君

  古川 禎久君     北村 茂男君

同日

 辞任         補欠選任

  岡田 康裕君     武正 公一君

  北村 茂男君     古川 禎久君

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 刑事に関する共助に関する日本国とロシア連邦との間の条約の締結について承認を求めるの件(条約第一号)

 刑事に関する共助に関する日本国と欧州連合との間の協定の締結について承認を求めるの件(条約第二号)

 刑を言い渡された者の移送及び刑の執行における協力に関する日本国とタイ王国との間の条約の締結について承認を求めるの件(条約第三号)

 国際情勢に関する件(いわゆる「密約」問題)


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     ――――◇―――――

鈴木委員長 これより会議を開きます。

 刑事に関する共助に関する日本国とロシア連邦との間の条約の締結について承認を求めるの件、刑事に関する共助に関する日本国と欧州連合との間の協定の締結について承認を求めるの件及び刑を言い渡された者の移送及び刑の執行における協力に関する日本国とタイ王国との間の条約の締結について承認を求めるの件の各件を議題といたします。

 各件に対する質疑は、去る三月二十六日に終局いたしております。

 これより各件に対する討論に入るのでありますが、その申し出がありませんので、直ちに採決に入ります。

 まず、刑事に関する共助に関する日本国とロシア連邦との間の条約の締結について承認を求めるの件について採決いたします。

 本件は承認すべきものと決するに賛成の諸君の起立を求めます。

    〔賛成者起立〕

鈴木委員長 起立総員。よって、本件は承認すべきものと決しました。

 次に、刑事に関する共助に関する日本国と欧州連合との間の協定の締結について承認を求めるの件について採決いたします。

 本件は承認すべきものと決するに賛成の諸君の起立を求めます。

    〔賛成者起立〕

鈴木委員長 起立総員。よって、本件は承認すべきものと決しました。

 次に、刑を言い渡された者の移送及び刑の執行における協力に関する日本国とタイ王国との間の条約の締結について承認を求めるの件について採決いたします。

 本件は承認すべきものと決するに賛成の諸君の起立を求めます。

    〔賛成者起立〕

鈴木委員長 起立総員。よって、本件は承認すべきものと決しました。

 お諮りいたします。

 ただいま議決いたしました各件に関する委員会報告書の作成につきましては、委員長に御一任願いたいと存じますが、御異議ありませんか。

    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕

鈴木委員長 御異議なしと認めます。よって、そのように決しました。

    ―――――――――――――

    〔報告書は附録に掲載〕

    ―――――――――――――

鈴木委員長 速記をとめてください。

    〔速記中止〕

鈴木委員長 速記を起こしてください。

     ――――◇―――――

鈴木委員長 次に、国際情勢に関する件、特にいわゆる「密約」問題について調査を進めます。

 本日は、本件調査のため、参考人として、琉球大学教授我部政明君、大阪大学教授坂元一哉君、国際問題研究者新原昭治君、名古屋大学特任教授春名幹男君、以上四名の方々に御出席をいただき、御意見を承ることにしております。

 なお、春名参考人は、強風のため列車がおくれまして、今こちらに向かっておりますので、着き次第、陳述をさせていただきたい、こう思っております。

 この際、参考人各位に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、お忙しい中、本委員会に御出席をいただきまして、本当にありがとうございます。実りある議論をしたいと考えておりますので、ぜひともなる御協力のほど、よろしくお願いいたします。

 次に、議事の順序について申し上げます。

 まず、我部参考人、坂元参考人、新原参考人、春名参考人の順序で、お一人十分以内で御意見をお述べいただき、その後、委員の質疑に対しお答えをいただきたいと存じます。

 なお、念のため申し上げますが、御発言の際は委員長の許可を得ることになっております。また、参考人は委員に対し質疑をすることができないこととなっておりますので、あらかじめ御了承願います。

 それでは、最初に我部参考人にお願いいたします。

我部参考人 おはようございます。我部政明です。

 きょうは、早速本題に入りたいと思います。

 なぜ今、密約を取り上げるのでしょうか。確かにこれまで、過去の密約について批判をしたり、うそをついたりということを指摘するのは、大事なことではあります。こうした機会は、これまでもあったのではないかと思います。しかしながら、なぜ今これについて答えるのかという視点がなければ、どうしても密約というのは過去に存在していただけだということになってしまうのではないかと思います。

 これまで政府の行ってきた調査を見ますと、なぜ今密約を取り上げるのかという視点が余りなかったかのような印象を持っております。確かに、昨年八月の総選挙の結果、政権交代が起きたのが直接的な契機だということは間違いありません。その意味での政権交代は、国民が知る権利を行使することに役立ったのだと思います。

 では、何のためにこの密約について知るのでしょうか。これまで、日本や日本国民の安全や公正について重大な事柄にかかわらず、国民に知らせずに、うその説明がなされてきた日米間の合意を今明らかにしなければならないのは、次の点にあると思います。

 今、調べることの積極的な意味は、過去の日本外交から、真摯な評価と反省から教訓を拾い上げ、冷戦後二十年の時代を経て、二十一世紀の新しい外交を構築していくために存在しているのだと思います。つまり、日本外交が日本の国民の信頼を受け、支えられるためには、日本が何をやってきたのかを知ることから始まります。国民が日本外交のありようを理解することが、まさに外交力の強化であり、諸外国から尊敬に値する国だと評価されるのだと確信しております。長い間にわたって密約は存在しないとして振る舞ってきた政府に対して、こうした外交力も尊敬もなかったのではないかというふうに感じざるを得ません。

 密約が明らかになった今、私たちが教訓とすべきは、外交記録の保存と公開であり、それに基づくさまざまな研究から学ぶことではないかというふうに思います。

 以上のことを念頭に入れて、さらに次の話へと進めたいと思います。

 ここでは、政府の行った調査で対象とされた四つの密約の中で、沖縄返還に際しての沖縄への核の再持ち込み、貯蔵を了解する佐藤・ニクソン共同声明への合意議事録について述べたいと思います。

 質疑において財政密約についての見解を述べる機会があれば、財政密約についてはそこで触れたいと思います。

 この沖縄への核の再持ち込み、貯蔵についての日米合意は、独立して存在しているのではありません。在日米軍基地の使用について、日本本土に比べて沖縄においてより一層のフリーハンドを与えたのがこの密約であり、いわば密約中の密約であるというふうに考えております。

 このことを説明するためには、一九六〇年の日米安保条約に附属する交換公文に触れなきゃいけません。それは事前協議制度であります。事前協議の導入は、対等なはずの日米関係において、日本が提供する基地を米軍が自由に使うことに対して、日本が何も言えないのはおかしいという日本側、当時の岸首相の提案に始まります。それに対して米側は、政治的に対等な二国間関係の構築が長期にわたり安定するということは理解できます、しかしながら、軍事的に作戦行動の柔軟性に制約を設けることについてはできないという見解を持っていました。

 そこで、こうした政治的要求と軍事的要求を同時に満たすために、表向きで日本が対等性を得、水面下で実質的な軍事的柔軟性を確保するという仕組みがとられたのです。この実質的な柔軟性というのは、核の持ち込み、イントロダクションということを配備、貯蔵と限定した定義とし、現行の手続の港湾、飛行場への進入、エントリーというふうに呼ばれていますが、それと部隊の移動を事前協議の対象としないという日米合意によって確保されたのであります。これらについて実際に記載されているのが、一九六〇年一月六日付のいわゆる討議記録であります。これは今回の外務省の一連の調査によって公開された文書の中に含まれております。

 そして、軍事的に米軍が基地を使う際に、日本の領域内における行動だけが重要ではありません。米軍にとって、日本にある米軍基地を、日本以外での作戦行動が自由にとれるようにしなければなりませんでした。むしろ、日本の領域外への作戦行動のための拠点が、米軍にとっての在日米軍基地の主要目的であります。

 当時の軍事的戦略環境において、米軍は、朝鮮半島への米軍の直接出撃が最も可能性があるというふうに判断していたために、直接的な日本防衛以外であっても、朝鮮半島有事に際して米軍が自由に作戦がとれるという措置を用意しなければなりませんでした。その結果が、先ほど紹介しました討議記録と同じ日に、藤山外務大臣とマッカーサー大使の署名入りで交わされたのが、朝鮮半島有事の際の事前協議適用除外の合意であります。これも今回の二つ目の密約として調査で紹介をされております。

 こうした二つの密約の内容を前提にして、基地のさらなる自由使用を認めたのが、沖縄への再持ち込み、貯蔵の密約であります。この合意では、極東におけるアメリカの義務を遂行するために、アメリカが有事の際に、核の再持ち込み、ここではリエントリーという言葉を使っていますが、再持ち込みと、通過あるいは一時通過の権利、トランジットライトというふうに書いていますが、を必要とし、有事の際に核兵器の貯蔵を必要とするというときには、日本は遅滞なく必要を満たすというふうになっております。

 つまり、ここでは、討議記録で言っているイントロダクション、持ち込みではなく、再持ち込み、リエントリーという言葉に変更されております。そして、貯蔵というものが討議記録では事前協議の対象とするというふうになっていたものを、ここでは、貯蔵も沖縄においては認められるというふうになりました。さらに、先ほど述べました朝鮮半島有事だけではなくて、極東の有事というものにおいて沖縄の基地を、このように再持ち込み、貯蔵できるというふうになっているのであります。

 さらに加えて、通過ないし一時通過という言葉が出てきますが、これは現在は、密約調査の段階ではアメリカの艦船への適用だけに解釈して論じられていますが、航空機の通過ないしは一時通過権も、ここに加わっています。

 一九六九年の当時の軍事的必要性から見れば、例えば、グアムから飛び立ったB52戦略爆撃機が沖縄の嘉手納基地に立ち寄って、つまり通過ないし一時通過をして、そこで給油するなり、爆弾を搭載するなり、搭乗員の休養をするなりした後で、通過をしてベトナムへ爆撃するという作戦がとられる可能性を当時持っていたわけです。

 いずれも、日本本土では事前協議の対象とされるべきことが、沖縄では事前協議とされる以前の段階で了解をされていた。つまり、事実上、事前協議が行われないということが、この佐藤・ニクソン共同声明に附属する合意議事録であります。そういう意味で、密約の中の密約だというふうに言えるかと思います。

 現在までの公開された情報によると、こうした極東有事というものがあったというふうに見られる事態はないようであります。ですから、核の再持ち込みとか核の貯蔵が、七二年以降、沖縄で行われたというようなことはないのかもしれません。アメリカが提供するいわゆる核の傘というものは、米軍が必要とするときに、少なくとも沖縄には核兵器を持ち込み、貯蔵ができるということを含めての米軍の基地の自由使用が、ここで担保されていたというふうに言えます。

 こうした密約を抱えた沖縄の米軍の基地の使用の問題を考える際においては、こうした密約の調査が不可欠であります。そういう意味で、現代的な今の問題とつながっているというふうに言わざるを得ません。

 さて、日本本土での基地においては、アメリカの航空母艦ミッドウェーの横須賀母港化が一九七三年に行われています。これは、戦術核を搭載した艦船の常駐化、一時寄港ではなく、通過でもなく、常駐化ということを意味しておりますが、当時の政府は、これらについての基地の使用についての見直しはしませんでした。そして、一九九二年になって初めて、アメリカが独自の判断で戦術核をアメリカの艦船からおろすという決断を行いました。そのときに初めて、日本では非核三原則が現実に実効を持ったというふうになったわけであります。

 そして、その後、一九九二年以降ですが、現在に至るまで、日本に核兵器が持ち込まれたという様子は、公開情報を見ている限りにおいてはないというふうに思います。

 むしろ、こうした機会において、日本が東アジアにおける核の不拡散あるいは削減、ひいてはこの地域の非核化ということに導くようなイニシアチブをとるべきではないかというふうに思います。それが密約を明らかにして、将来につなげていく道ではないのかというふうに考えます。

 こうした日本の安全保障政策の基本的な考え方、あるいは日本外交を左右する今後の日本の課題への挑戦の一つとして、この日米安保のこれまでの過去の道しるべを密約の存在を通じて知るということの重要性があるのではないかというふうに考えております。

 以上であります。

鈴木委員長 ありがとうございました。

 ただいま春名参考人が出席されましたので、皆さん方に御紹介申し上げます。

 きょうは、お忙しい中、ありがとうございます。

 参考人の意見陳述を続行いたします。

 次に、坂元参考人、お願いいたします。

坂元参考人 大阪大学の坂元でございます。

 本日は、お招きいただきまして、ありがとうございます。

 私は、十年ほど前から、いわゆる密約問題につきまして、政府、外務省はいつか本当のことを言わなければならないと言い続けてまいりました。したがいまして、今回、岡田外務大臣の指示のもと、政府、外務省がそういう努力を行ったことを大変うれしく思っております。

 もっとも、密約といいましても、今回取り上げられました四つの事例は、どれもこれまでに日米の関係者や研究者の指摘により公に知られていたものばかりでございます。したがいまして、何を今さらと、この取り組み自体を冷ややかに見る向きもあるかと思います。今このタイミングで取り上げれば、ただでさえぎくしゃくしている日米関係に悪影響を与えるのではないかとか、しょせんこれは旧政権に対する攻撃材料ではないかといった疑念や批判があろうかと思います。

 しかし、私は、国民の同意に基づく政治という民主主義の原理原則、また国民の理解と信頼を背景にした国民外交の推進、あるいは日米同盟の健全な発展ということから考えまして、政府、外務省が、冷戦中、国民に正直に説明していなかったことを、極秘文書の公開も含めて、今回詳しく説明する決断をしたことを高く評価しております。

 有識者委員会の報告書で、私は第二章を担当し、核搭載艦船の寄港問題に関連し、日米間にはこの問題の処理に関する暗黙の合意があったと結論いたしました。詳細は報告書をお読みいただければ幸いですが、簡単に申しますと、核持ち込みに関する事前協議を定めた交換公文の解釈において、日米両政府間には立場の差があった。両政府は、その立場の差を知りながら、あえてそれをあいまいにし、双方がそれぞれの解釈に従って行動したり、あるいは国民に説明したりすることを許した。ただ許すだけでなく、そういう状況が公になることを防ぐべく互いに協力し合う。そういう暗黙の合意があったというものでございます。

 こうした結論に至りましたのは、要するに、事前協議を定めた交換公文の文言があいまいでございまして、そこには、艦船や寄港はおろか、核兵器や持ち込みといった文言もございません。そこから、その文言から核搭載艦船の寄港も事前協議の対象になるんだと確実に言うためには、実は日米間には何らかの明確な了解が必要だったのですが、そうしたものがない。そういうものがないというのはどういうことかと考えた結果がこの結論でございます。何もないということは、核搭載艦船が事前協議なしに寄港することを事実上黙認することになるというのがこの第二章のいわば話のみそでございます。

 この結論については、納得していただく方もあれば、そうでない方もございます。本日もそうですが、これからも疑問や批判にはきちんとお答えしたく思っております。

 本日、私が呼ばれましたもう一つの理由は、その報告書で指摘しました文書管理の問題かと存じます。

 私は、今回の調査で利用できました外務省文書の量と質は問題の構造を大まかにつかむために十分だけれども、重要部分に欠陥があり、解明できないところが残ったと書きました。当然あるべき文書が見つからず、見つかった文書にも不自然な欠落が見られるので、そうなった経緯について事情調査が必要だと指摘したわけでございます。

 外務省はその調査に踏み切るようでございますが、本日は、その調査の参考にもなればと思い、どういうところが不自然かというところを、四つのタイプに分けて要点だけお話ししたく思います。

 まず一つ目は、あるべき文書がないというタイプでございます。

 これには二つの種類がございまして、一つは、米側には文書があって、日本側も本来文書にすべきと思われる文書の不存在です。例えば、安保改定交渉の最初の段階でアメリカ側から事前協議の文言を提案された際に、日本側はその文言について六点にわたって意味確認を行っておりますが、その文書は、そのやりとりの記録が米側にしかない。

 もう一つの種類は、安保改定時の日米会談の中で、幾つかの会談については記録がないということでございます。これは、記録をとった当時の東郷文彦安保課長のきちょうめんさからいって、安保改定当時からなかったとは到底考えられないものでございます。

 次に、二番目のタイプでございますけれども、この二番目のタイプは、文書はあっても、その中に不自然な欠落があるというものでございます。これは、文書に附属すべき別添文書がついていないとか、記述のつながりがおかしくて途中が抜き取られているように見えるとか、そういうものでございます。

 以上、二つのタイプは、どちらも交換公文及びいわゆる討議の記録の形成過程をよく知るためには欠かせない文書でありまして、大変残念な欠落でございます。

 三番目のタイプは、討議の記録や朝鮮議事録などの文書に関して見られる不自然さのタイプ、すなわち、藤山外務大臣とマッカーサー大使のイニシャル署名が入った実物の文書が出てこずに、そのコピーしか残っていないということでございます。なぜコピーしか残っていないのでしょうか。

 討議の記録について言えば、今回発見されました二つのコピーは、それぞれ別に作成されたコピーで、どちらも一九六〇年代に書かれた内部文書に附属し、少なくとも一方は、実物と同じく、古い時代にタイプされたもののようでございます。そうしますと、実物の方は古いものだからなくなったということは言いにくいのでございます。

 コピーだけ残っているということで問題になるのは、この二つのコピーが附属している文書が、どちらも一般には知られていない文書であり、外からの特定が難しい文書だということでございます。これに対して、実物の方は、安保改定交渉の記録をまとめた全八冊の調書の中に入っておりました。この調書ファイルは、安保改定交渉について外務省内部で調査を行うときにはまず最初に調べるべきファイルでございます。

 さて、そこでですが、二〇〇〇年までに米側文書の公開により討議の記録の存在は世に知られております。そのため、私など研究者は、一九六〇年一月六日付の討議の記録、藤山外相とマッカーサー大使のイニシャル署名入りのものと指定して、これを情報公開法に基づき開示請求することができます。

 そうすると、請求された方は困ったことになります。コピーの方は、署名もありませんし、どこにあるかわかりにくい。仮にそれを見つけても、私が請求しているものかどうか特定できないとして処理できます。しかし、実物が調書ファイルの中にありますと、内部ではすぐに見つけることができますから、公開はしないまでも、少なくとも、その存否を言うかどうかの判断を迫られます。あると言えば今までないと言ってきたことと整合性がとれません、見つからないと言えばうそになります、あるともないとも言えないと言えば怪しまれるといった困った状況になるわけでございます。ですから、実物は残っていない方がありがたい。

 しかし、もし本当に隠したいなら、実物だけでなくコピーも残っていない方がよりありがたいんじゃないかとの疑問をお持ちになる方もおられるかもしれません。しかし、討議の記録は、米国との間に交わした公文書で、日米同盟の運用にかかわる重要文書であります。コピーさえ残らず記憶から消える、外務省の文書記録から消えるということになりますと、これは大変なことになるわけでございます。核兵器の持ち込みが事前協議の対象になるというのもこの討議の記録という文書の中に書いてあることでして、まさかその記録をなくすわけにはいきません。だから、コピーが残っているのは当然なのでございます。すなわち、コピーが残っていることをもって意図的な紛失ではないと推測することはできないわけでございます。

 さて、ここで誤解のないように申し上げておきますが、私は、だから実物の方は情報公開法施行の前後になくなった、あるいは破棄されたのだろうと言っているわけではございません。情報公開法のはるか以前になくなった可能性ももちろんあります。私が申し上げたいのは、重要文書について疑問の残る残り方だから疑惑が生じる、その疑いを晴らすためにも、紛失したなら紛失したで、単に古いものだからなくなりましたといった説明ではない、真剣な調査が必要だということでございます。

 最後、四番目のタイプは、東郷和彦元条約局長が一九九〇年代末に後任に引き継がれたという五つの赤い箱に入った重要文書でございます。

 聞くところによりますと、東郷さんは青い箱、黒い箱も残したとも言われていますが、赤い箱に関して、時間の関係で一つだけ申しますと、東郷さんが残された最重要文書十六点の中で出てきたものが八点あると報道されておりますが、それが本当に東郷さんが残されたものかどうか、あるいは別のコピーではないかということを調べる必要があると考えます。例えば、東郷さんが残されたという討議の記録のコピーは見つからなかったというのが私の印象でございます。

 いずれにしろ、東郷さんが文書を残されたのはたかだか十年前ですし、赤い箱という目立つ形で残されていますので、その後どうなったかは、少し調査をすればすぐに明らかになることと存じます。

 私は、以上のように、今回の調査による文書の見つかり方には不自然なところがある、だから事実関係の調査が必要だと考えます。

 その際、私が求めているのは、だれかの責任追及ではございません。そうではなくて、真相を徹底的に究明して今後の教訓にする、また、真相を究明して何がなくなったかをはっきりさせれば密約問題全体の解明がより一層進む、そのことを求めているのでございます。

 さらに、真相究明は、いつか本当のことを言うという外務省の姿勢をさらに確固としたものにすることでしょう。その姿勢を貫徹して、日本外交をこれまで半世紀以上悩ませた宿痾の問題から完全に脱却する。それは、日本外交のためにもなり、外務省のためにもなる。そう信じるものでございます。

 ありがとうございました。

鈴木委員長 貴重なお話、ありがとうございました。

 次に、新原参考人にお願いいたします。

新原参考人 御指名をいただきました新原昭治でございます。

 私は、アメリカの国立公文書館などで、一九八七年に初めて解禁文書調査を行いました。そのとき日本への核持ち込みに関する日米核密約の存在を裏づける解禁文書を見つけましたが、米解禁文書で日米核密約があるということがわかった最初の機会になりました。

 そういうわけで、私自身、大変強い関心を持ちましてこの問題を追い続けてきました。十年前に退職して、その後、ほぼ毎年、アメリカの国立公文書館や各地の大統領図書館で解禁文書調査を続けております。そういう一人の解禁文書研究者として、今回の有識者委員会の報告書について忌憚のない見解を述べさせていただこうと思います。

 私は、岡田外務大臣の指示で密約問題の調査が開始されたことに期待を持ちました。しかし、有識者委員会の報告書を見て、特に一九六〇年核密約をめぐって、見過ごすことのできない大きな瑕疵があるというふうに感じております。

 例えば、アメリカは、安保改定交渉において、核搭載艦船を事前協議の対象外にするという米側の解釈を日本側に明らかにした形跡がないと報告書は言い切っております。しかし、これには有力な反証があります。

 きょうお配りしております私の配付資料にも入れておりますが、一九五八年十月二十二日のマッカーサー大使発マニラのボーレン大使あての報告電報がございます。これは、安保条約改定交渉第一日の同年十月四日の協議の経過の詳細を報告したものですが、以下のように書かれております。

 「〔事前〕協議の定式は、」「一括提案の一部として、私から岸と藤山に提示された。」その一括提案には、「条約草案、〔事前〕協議の定式、その定式についてのわれわれの解釈の説明が含まれていた。その解釈は、国務省・国防総省共同の交渉訓令に従った」こう述べて、自分が従ったという訓令を、次のとおり引用符をつけて示しております。「(A)米軍とその装備の日本への配置は核兵器にのみあてはまる」「(B)核兵器を積載している米軍艦の日本の領海と港湾への立ち入りの問題は従来通り続けられ、〔事前〕協議の定式の対象にならない」。そして、この訓令に沿って、米側解釈を岸、藤山両氏に説明したと述べている電報であります。

 マニラでは当時、ボーレン大使が、フィリピン政府側と米比軍事関係の交渉を長らく行っていました。この数カ月前に、フィリピン国会が、核持ち込み問題で米国との事前協議を求める決議を採択しておりました。その関係で詳しい報告電報が送られたと見ることができます。

 このように、米側がその解釈を岸首相らに説明したとの報告電報があるわけですけれども、報告書が、核搭載艦船を事前協議の対象外にするとの解釈を米側が説明した形跡がないと断定しているので、驚いた次第であります。

 一方、この日米交渉で、日本側の外務省担当者など少数の関係者は、核密約の核心の一つが核搭載艦船の日本立ち入りを事前協議の対象にしない点にあることを間違いなく了解する一方で、六〇年二月に始まった第三十四国会で、その理解とは全く逆の表明や答弁を行いました。核搭載艦船は事前協議の対象という言明がそれであります。

 これについては、後になって、山田久就外務事務次官、この人は一九五八年から六〇年まで事務次官をやった人ですが、あれは国会での野党の追及を恐れる取り繕いにすぎなかったと告白した重要証言があります。国際政治学者の原彬久氏が得た証言であります。この山田次官の証言の肝心な点が有識者委員会の報告で活用されていないことに注目しております。

 この第三十四国会のための擬問擬答は、当時の高橋外務省条約局長が中心になって、外務省内で条約調印のすぐ後から準備したものですが、その高橋局長が、条約調印の翌日の一月二十日、米国務省極東局のマウラ次席法律顧問と会談しております。その会談記録を東郷和彦元外務省条約局長が整理し直した際、特に重要な文書の一つとして印をつけていたのに失われたという東郷さんの指摘は、本委員会で先々週行われたところであります。

 東郷さんが言われたように、マウラ法律顧問は、アメリカ側が核持ち込みと言う場合は陸上のことを指しており、海の上での核についてはアメリカはあるともないとも言わないという趣旨のことを言っていた記録だというのですから、その会談にすぐ引き続いて行われた国会用の擬問擬答づくりでのいわば核密約隠しの虚構の答弁準備と明らかに密接に関連したものと見られます。

 このように、少数の政府首脳、外務省首脳が、核搭載艦船は事前協議の対象にはならないという核密約の本当の内容を認識しながら、それとは逆のあからさまなうそを意図的に国会と国民に向かって吐いたという問題であります。

 アメリカの核戦略の内部文書とかそういうものを見ておりますと、核持ち込みは、それが自己目的ではありませんで、核使用政策の準備行動と位置づけられております。一方、被爆者を初め大多数の国民は、二度と広島、長崎を繰り返すなを悲願に、日本の非核化を求めて奮闘してきました。これに対して、うそをついて核持ち込みを認めるような意図的な行動をしたことは、核密約と、それを国民からひた隠しにしてきたことのいわばあくどさを示していると思います。有識者委員会がこの肝心の問題点に立ち入っていないのは、国民の立場から見て理解ができません。

 最後に指摘したいのは、日米両政府を代表する藤山外務大臣とマッカーサー大使が、一九六〇年一月六日に秘密の討議の記録にイニシャル署名をしたことの国際法的な意味の重大さであります。

 この問題をめぐる国際法学者のオーソドックスな見方は、秘密の討議の記録に双方がイニシャル署名をした事実こそが決定的意味を持つというものであります。これによって、秘密の討議の記録という名の密約が確定したのであります。

 一連の米解禁文書、例えばイニシャル署名の翌日の一月七日のマッカーサー大使発国務省あて報告電報が述べていますように、秘密の討議の記録は、改定安保条約を構成する文書群の一つと明確に位置づけられております。

 ところが、有識者委員会の報告書は、秘密の討議の記録がイニシャル署名されたということにはたびたび触れてはいますけれども、その法的重大性については言及を避けております。しかも、二十世紀初期当時の旧式の帝国主義時代の密約をひな形にして、今日の現実的問題の解明、特に日本の占領期の米軍特権のかなり多くを引き継いだ日米安保条約のもとでの米軍の権利保護のための両国間の密約究明には余り役に立たないような特異な密約論を物差しとして持ち出して、結局、問題の一九六〇年密約は、狭義の、つまり厳密な意味での核密約ではないと結論づけているわけであります。

 実際には、秘密の討議の記録こそは、改定安保条約の最大の目玉にされた事前協議制度の核心に位置するものでありました。これを厳密な意味の密約でないと言う以上は、今後とも放置しておくということでしょうか。

 沖縄の施政権返還に当たっての佐藤・ニクソン核密約についても、同じことが言えます。これらの対米密約によって生じた国際法的な米国の権利、日本が負わされた義務を今後どうするのでしょうか。これに手をつけないで日本の主権と日本国民全体の利益に責任が負えるのかどうか、また、日本の非核三原則は本当に守れるのかどうか、これは、この報告書の重大な手落ちだということを指摘したいと思います。

鈴木委員長 ありがとうございました。

 次に、春名参考人にお願いいたします。

春名参考人 名古屋大学の春名でございます。

 本日は少し遅くなりまして、失礼いたしました。

 これまでお三方が大体今回の調査の焦点についてお話しになりましたので、私はその他の問題についてお話しさせていただきたいというふうに思います。

 私は、外務省の今回の調査では、いわゆる密約、朝鮮半島有事の際の事前協議なしに在日米軍が出撃できるという密約についての調査を担当させていただきました。これにつきましては、日本側の文書とアメリカ側の文書が大体合致をしております。少し違うところがありますのは、日付とか手続とか、そういうことは違うところがあるんですけれども、いずれにしましても、一九六〇年の安保条約の改定の時期に際しましてアメリカ側が求めてまいりました二点の問題、つまり、朝鮮半島有事の際の在日米軍の出撃、もう一つは核兵器の持ち込みに関する問題、この二点のうちの一つであるわけでございますけれども、これにつきまして、日本側としては、やはり非公開の秘密の文書を取り交わすことについて非常にちゅうちょした面がございました。これは今回の調査で明らかになりました。

 その点につきましても、アメリカ側の文書では、日本側が不承不承合意したという表現がございました。この思いが日本の外務省にもあったものですから、一九六九年の沖縄返還交渉に際しまして、日本側は、この密約を失効させる、つまり効力を失わせる、それとともに、佐藤栄作総理大臣が一方的に、朝鮮半島有事の際に在日米軍が出撃することについては事前協議の対象にする、対象にするものの、それについては前向きかつ即座に、直ちに回答する、対応するという形で、一方的な表現で置きかえたわけでございます。アメリカ側はそれに対して一〇〇%同意したわけではございませんけれども、事実上、そういう形によりまして密約を表に出すという努力があったわけでございます。

 坂元先生が先ほど申し上げられたように、核兵器を搭載した艦船の日本への寄港並びに領海通過に関する密約に関しても、日本側は同様の努力をしようとした兆候がございます。

 それは、例えば、一九七四年のフォード・アメリカ大統領の来日に際しまして田中角栄総理大臣と会談した際に、何らかの形でこの問題を解消しようとした努力があったと思います。つまりは、非核三原則というものを事実上非核二・五原則に変えて、表向きに、表面に出すという試みだったというふうに思います。最近に至りますも、平成十五年に行われました外務省の政策評価パネルの討議の中でも、やはり二・五原則という問題が提起されているわけなんですね。

 しかしながら、その二・五原則を採用するということについては、やはり国民あるいはメディアの大変な反対があったというふうに理解しております。やはりこれは、核兵器に対する日本国民の意思というのがこの問題については大変重要な役割を果たしたのではないかというふうに思います。

 つまり、私は、今回の坂元先生が担当された密約に関しては、出発点はやはり広島、長崎への原爆投下にあったというふうに考えております。

 広島、長崎への原爆投下については、日本国民は核兵器、原爆は二度と使われてはいけない兵器であるという考えを持ったわけでありますけれども、アメリカ側はそれとは全く反対の結論を出しておりました。アメリカ側といいましても、アメリカ政府の戦略家でございますけれども、広島、長崎で生き残った人たちがどうやって生き残ったかということに注目をしたわけであります。つまり、戦後、核兵器は使われるということを前提といたしまして戦略を立てたわけでありまして、それに従って核兵器の軍備を拡張したわけであります。それに伴って、つまりは核兵器を搭載した艦船の自由通航ということを日本側に求めたわけであります。

 その点について、結局は日本側とアメリカ側の考え方が交わることは現在に至るもないというふうに思いますけれども、アメリカ側にやや、少し変化があらわれてきたというふうに言えるかと思います。

 これまでのお三方がお話しにならなかった点を二、三申し述べたいというふうに思います。

 今回の調査でございますけれども、調査のやり方につきましては、アメリカがとっておりますような議会における調査というやり方もあるかというふうに思います。その場合は、最初から文書を公開いたして、それを公聴会において専門家を招いて議論するという方法があるかというふうに思いますけれども、それにつきましては、やはりこの問題は非常にセンシティブな内容が含まれておりますので、やや、やはり今回のような調査につきましては参考にならなかったのではないかというふうに私は考えておりますけれども、今後につきましては、そういう方法もお考えになる方がいいんじゃないかというふうに思っております。

 例えば、オウム真理教の地下鉄サリンの事件に際しましても、アメリカの上院の小委員会は、日本における調査よりももっと徹底した調査をしていまして、大部の報告書をまとめております。

 こういうことからしましても、やはり対外発信という意味からしましても、今回の調査はまだ終わっていないというふうに思います。

 といいますのは、今回の調査によりまして、インターネットのウエブ上に調査結果が掲載されておりますけれども、すべてが日本語であります。一部の原典が英語でありますけれども、日本語であるということに対して、アメリカ側の研究者の中では失望感が出ているわけです。

 したがいまして、これを英語に翻訳する、しかも、原典につきましても英語に翻訳するということが望ましいかというふうに思います。ワシントンのウィルソン・センターにおきましては、冷戦の国際歴史プロジェクトというものを推進しておりまして、中国やロシアの歴史文書についても、英語に翻訳して研究の対象にしているわけであります。

 したがって、こういうこともお考えになっていただきたいと思いますけれども、つまりは予算が伴うことでありまして、お金が必要であるということで、皆様方にこの点を御検討いただけたらというふうに思います。アメリカ政府は、情報開示に関する予算は、例えば一九九七年から二〇〇七年までの間で十三億ドル程度のお金を費やしております。日本円にしますと一年間で百億円単位のお金を費やしているわけでありまして、この点もよく御検討いただけたらというふうに思います。

 最後に、その点に関連することですけれども、やはり文書がそろっていなかった、坂元先生の表現をかりますと、不自然ななくなり方をしていたという点につきましてですけれども、この点について、もしこれが意図的な廃棄があったとすれば、その動機が問われなければならないというふうに思います。これは、短期的な動機で廃棄することは極めて残念なことだ、やはり外交その他は歴史の長いスパンでもって検討すべき事柄かというふうに思います。

 どうもありがとうございました。

鈴木委員長 ありがとうございました。

 これにて参考人の意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

鈴木委員長 これより参考人に対する質疑に入ります。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。平岡秀夫君。

平岡委員 民主党の平岡秀夫でございます。

 きょうは、参考人の皆さん方、本当にありがとうございました。

 最初に、一九六〇年一月六日に藤山・マッカーサー間でイニシャル署名された討議の記録に関してちょっと質問をさせていただきたいというふうに思います。この部分は、坂元教授、新原先生が中心になると思います。

 この討議の記録に関して、今回の有識者の報告書では暗黙の合意という広義の密約というふうに評価をされておられるんですけれども、その有識者委員会の報告の前に外務省調査チームの評価というのが出されていまして、それを見ますと、同じように評価をしているところがあるんですね。その理由として、例えば、日米間の認識の一致を否定する多くの文書が見つかっており、現実は「日米間で認識の不一致があったということと思われる。」というふうに結論づけている。私は、この結論に有識者委員会がかなり引っ張られたのではないかというふうに思うんですね。

 そういう意味で、否定する多くの文書として例示されているものを見ますと、その交渉の当時の記録じゃなくて、その後、後づけで説明しているような文書がほとんどなんですね。そういう意味において、否定する多くの文書として、例えば坂元教授が見る中において、「日米間で認識の不一致があったということと思われる。」というふうに結論づける文書についてはどんなものがあったというふうに記憶でございますでしょうか。

坂元参考人 これはよく誤解されているところがあると思うんですが、その認識の不一致というのは、討議の記録の二項Cの解釈あるいは二項Aの解釈について認識の不一致があったということでございまして、問題の処理について日米間に認識の不一致があったということを言っているのではないんですね。

 ですから、私、外務省の調査は、日本側の文書を見て、確かに平岡先生おっしゃるとおり、後づけの文書だったと。それは後から考えたものでありますから、当時の文書が先ほどのような理由で足りないものもまだいっぱいあるわけでございまして、そういう認識の不一致は、後からといえば後からの話なところがあるわけなんです。

 私の報告のポイントは、二項Cの認識のいかんにかかわらず、その問題の処理については、お互いの解釈の相違についてそれをあいまいにして、そして、現実問題として、アメリカは核搭載艦船の寄港が可能になるし、日本は国民にはその問題についてもきちんとアメリカとの間に了解があるんだよというような不正直な説明をする、そういうところがポイントでございました。

平岡委員 そこで、先ほど新原先生が指摘された一九五八年十月のマッカーサー駐日米国大使からボーレン駐フィリピン米国大使にあてた電報なんですけれども、これは多分、外務省が有識者の皆さん方に示した書類の中には入ってはいなかったんだろうというふうに思うわけでありますけれども、この事実関係が新原先生から明らかにされたということをもってして、坂元先生にも聞こうと思いますが、広義の密約というふうに評価されたことについてはどのように今お考えになっておられるでしょうか。

坂元参考人 これは、私の報告書二十五ページから二十七ページを読んでいただければ、アメリカ側の訓令というもの、そして、アメリカ側の訓令に基づいてマッカーサー大使がどのように日本側に説明し、日本側がそれをどのように記録したかというのをやや詳細に説明しておるものでございまして、このことについても私は取り入れた上で議論をしているつもりでございます。

 先ほど新原さんからいただいたのは、私から見ますとやや誤解がありまして、説明した形跡がないと言ったのは、討議の記録というのは、一九五九年の春になってアメリカ側がこういう文書をつくりたいと言い出したわけなんですね。その際にきちんとした説明がされていないというのが私の主張でございまして、核搭載艦船の寄港を対象外にするといった説明というのは、ストレートな形じゃないにしろ、いろいろな形で、例えば、アメリカの艦船に核が積んであるかないかということだから言えないんだというようなことから、だからわかってほしいというような形で日本側に伝えられているというふうに私はこの論文の中で書いているわけなんですね。

 ですから、新原さんのおっしゃっていることと私の言っていることは、余り違いはないというふうに思うわけでございます。新原さんはマニラに転電した電報を参考にされましたが、私は、そもそも電報四七四という訓令電報そのものをアメリカの文書館で調査をして、その上に基づいて書いております。

 いずれにしても、この問題というのは、今回、米国側の資料だけに頼ってこの問題を考えるんじゃなくて、日本側の資料も踏まえてお互いどういうことがあったかということを明らかにして、一方的な歴史にならないようにするのが今回の調査の目的だったというふうに思います。

平岡委員 今の先生の説明を聞いていると、日本側には資料がなかったから確たることは言えないというような感じなんですね。むしろ、そうであるならば、広義の密約というふうに有識者委員会の方が評価してしまうのは逆におかしいんじゃないか、日本にそういう資料がないということなら、ないということとして私は評価すべきであったというふうに思います。

 何かありますか。

坂元参考人 申しわけありませんが、日本側だけじゃなくてアメリカ側にもそのような資料はないんですね、これを密約だとするような。実際、アメリカ側の資料では、一九六六年にこの問題に関して調査が行われまして、ややおくれた時期になるんですけれども、このときに、これは共産党が二〇〇〇年にこの文書をもって政府を追及した文書でございますが、この中にも、この問題について具体的な合意はできなかったというふうに書いているんですね、アメリカ側の文書も。すなわち、明確な合意がないと言っているわけでございます。

 ですから、アメリカ側の文書はそう言っているし、日本側の文書も、後からではありますけれども、そう言っている。今の状況は、そういう状況でございます。アメリカ側にも、明確な合意ができたという文書は一切ございません。

平岡委員 せっかくですから、新原先生も、先ほど説明されたので、この点について御見解が何かありましたら、簡潔にお願いします。

新原参考人 まず、坂元先生が先ほど言われた点ですけれども、この報告書の二十四ページに「交渉当時、」と一般的に書いておられるんです。「交渉当時、その解釈を日本側に明らかにした形跡はない。」その解釈というのは、核搭載艦船寄港を事前協議の対象外にするということなんですね。

 ですから、確かにフォーミュラを詰めたのはもっと後になるかもしれませんけれども、事前協議の定式、つまりフォーミュラ、これをアメリカが提案したのは一九五八年の十月四日が最初であります。その日のうちに既にマッカーサー大使がその訓令に基づいてちゃんと説明したと言っているわけですから、私は先ほど言ったとおりのことを考えております。

 それから、坂元さんの方から一九六六年の文書を挙げられました。多分これは我部さんがお見つけになった文書だと思いますが、私どもは5章文書と呼んでいますけれども、日本と沖縄の基地権の比較という大変詳細な分析文書です。正確に言うと、六六年じゃなくて六七年の可能性もあると見ておるんですが、その中に、この事前協議問題、特に核搭載艦船の寄港をめぐる秘密合意の問題が出てきまして、今ちょっと物がありませんけれども、日本側には明確な形でこういうことに合意できる人間がいなかったと。

 つまり、もし問題の秘密の討議記録に、あそこの二A、二C、特に二Cに、核を積んだ艦船はという、マッカーサーが訓令どおりに話したとおりの文言を書き込んだとしたら、それは、日本側の代表者がばれたときのことを恐れて署名しようとしなかった、そういうふうに読めるものでありまして、あくまでそういう限定的な意味であろうというふうに私は考えております。

平岡委員 先ほど坂元教授も、いろいろな問題というか指摘があればもっときちんと説明していきたいというようなことも言われておられたので、引き続き、少しまた国民の皆さんにもわかりやすいように説明もしていただきたいというふうに思います。

 ちょっと時間がないので、次に、私、今回の核持ち込みの問題について言えば、通過と寄港の部分がどうなのかというところにかなり焦点が当たっていたわけでありますけれども、一九八一年の五月に、国防総省の職員であったダニエル・エルスバーグ博士が、一九六七年ぐらいまでは確実に岩国基地に核兵器が貯蔵されていたというようなことを証言しているのが報道もされているわけですね。日本でも、一九七八年に共同通信、一九八〇年に朝日新聞、それから、最近ですけれども、毎日新聞で報道されていましたけれども、先月、ライシャワー元駐日米国大使の特別補佐官であったジョージ・パッカード氏が、一九六六年の少なくとも三カ月間は岩国基地に核兵器搭載の揚陸艦が係留されていたというような証言もしているということですね。

 これについて、今回の密約との関係でいうと、あれからいろいろ進展していかなければならない問題だったと思うんですけれども、これらの事実関係については、有識者委員会での調査の中では何か情報としてあったんでしょうか、さらには、これについての議論というのは何か行われたんでしょうか。坂元教授にお願いしたいと思います。

坂元参考人 今回は四つの密約ということに限っての議論なわけでありますけれども、その一九六〇年代のうわさにつきまして、もちろんそれは承知はしておりますけれども、特に調べるということをいたしませんでした。今回、この問題に関連して、まだほかにもいろいろとうわさや怪しいところとか、そういうのがあるかもしれませんけれども、今回、調査は限定したということで、そこのところは触れておりません。

平岡委員 密約の疑念がある討議の記録、これは米国側が単なる領海通過とか一時寄港というのは事前協議の対象にならないというふうに解釈している、そういうことの前提でありますね。

 しかし、今、私が指摘した話について言えば、一時寄港とか通過よりももっと、停泊をし、何カ月間もそこに停留しという状況ですね。これについてはライシャワーも激怒したというふうな話がジョージ・パッカード氏から出ていましたけれども、本来、事前協議の対象となるべきものであったにもかかわらず、それをしないで持ち込まれていた、そういう事実関係が私は推測されるんですけれども、坂元教授はどのように評価されますか。

坂元参考人 これはちょっと、事前協議の文言をやや厳密に言いますと、これはいつからあったかというのが案外大事なことだと思うんですね。つまり、安保改定以前からそこにあって、そしてそれがずっとそこにあるということになりますと、事前協議の文言からいいますと、それは持ち込むというか入れる場合でありまして、前からあったものについては、実はこれは事前協議の対象にならないとも解釈できるんです。

 しかし、うわさは、一たん出ていってまた入ってきた、こういうことを言っていますので、ライシャワーさんがそれだけ激怒したということは、明らかに何かの違反があったんじゃないかというふうに、私は、うわさの段階といいますか、ライシャワーさんの証言だけですけれども、あるいはライシャワーさんの部下でありましたパッカードさんの証言だけですけれども、あるいはほかにも証言がありますけれども、そういう方の証言を信じるとすれば、そういうことだと思います。

平岡委員 我部教授にも同じことをちょっと聞きたいんですけれども、今、坂元教授が言われた話について言えば、ダニエル・エルスバーグ博士は、一九六〇年代初めには、沖縄嘉手納基地でハイ・ギアという呼び名の沖縄から日本全土への核輸送計画があった、一九六〇年代にあったというふうに証言をしているわけですね。そうすると、説明としては、もともとあったというのは、それは一九六〇年の安保改定よりも前からあったという説明のような気もするんですけれども、それはちょっと何か私にしてはすぐには納得できなかったという部分でありますけれども、この点について、我部教授の御見解が何かありましたら、事前協議の対象とならない状態で持ち込まれていたのではないかということについて。

我部参考人 今の点につきましては、先ほど少し言いましたが、イントロダクションという言葉は何か。イントロダクションという言葉は、討議記録に出てきます。これが装備の持ち込みということ、日本語で言う持ち込みですが、それは、核兵器を日本において配備する、それから貯蔵する、配備、インプレースメントというふうに英語では言っていますが、それと貯蔵、ストレージということをイントロダクションと呼ぶと。ですから、そこにおいては陸揚げしていなければいけないというふうになるんですけれども、多分、今の揚陸艦の話は、LST、サン・ホアキンという船ですけれども、アメリカは、だからこそ沖に浮かべた船に貯蔵しておくということが一つあったと思います。

 それから、今おっしゃったハイ・ギア・オペレーション、作戦については、一九六二年に、アメリカが日本に核兵器を何とか持ち込んで、いわば朝鮮半島の有事の際に使えるようなものを検討しようということになったときに、日本には核兵器そのものは持ち込めないとわかっているので、そのときに事前に、その当時は核兵器等を二つに分けていたんです、コンポーネントというのとコアの部分と。そのものは後から日本に持ち込めばすぐに核兵器ができるということになっていたんですが、それを沖縄から常時、飛行機を飛ばして、十二機編成でしたか、板付と横田と三沢の三カ所に嘉手納から飛行機を順繰り、しょっちゅう回していれば、常時で瞬間がずっと継続していけば日本に核兵器がある、そこは航空機に載っけておれば貯蔵でもないし、航空機に搭載したままであれば関係ないということで検討したんですが、国務省の反対に遭って、これは日本に核兵器を二十四時間持ち込んでいるようなことをアメリカがみずから日本に暴露することになるので問題になるということで、これはやめた方がいいということでハイ・ギア作戦というのは実施されなかったという記録が、六二年の国防省と国務省の両方の会議であるということです。

平岡委員 私が言いたかったのは、一時寄港とかあるいは領海通過とかというものは、認識の不一致で広義の密約という話だというふうに整理されたんだけれども、さらにもっと期間が長い停泊なんかについては、私は、ちょっと概念としては、どうも我々の一時寄港とかあるいは領海通過という概念よりもっと超えるようなものじゃないかと。そうだとするならば、それはちゃんと事前協議の対象として両者が認識をされていたのであろうし、それが行われていなかったというのは、やはり米国側の問題もあるんではないかというふうに思っているものですから、何か坂元教授、あれですか、ちょっと時間がないので、少し端的に。

坂元参考人 それは要するに配置されている米軍の問題ということで、一時通過はいいとアメリカが考えたのは、これは配置されている米軍じゃないからいいんだと。ところが、空母が長いことそこにいて、その中に核が積まれている、これはやはり配置されているんだから、これは事前協議の対象になるんじゃないかというのが、実は日本側の中にもそういう考え方があったのは事実でございます。その辺があいまいにされてきていたのは残念だったというふうに思います。

平岡委員 その点も、もう少し突っ込んだ調査というのをぜひ今後も継続してやっていただきたいというふうに私は思います。

 沖縄に関する密約の関係で、財政経済取り決めの点について、これは我部教授にお聞きしたいと思うんです。

 私、今回の調査を見まして、外務省の調査チーム、有識者委員会の調査、それから財務省の調査というのがあるんですけれども、これらの調査の中身を見ても、例の無利子預金の話はかなり詳細に経緯が書いてあるんだけれども、それ以外の事項、例えば四億六千五百万ドルのアメリカの受け取りとか、その内訳とか、その使途とかいうふうなものについての話がほとんど何も触れられていない。これは財務省の方の調査ですけれども、それが私は非常に不自然だというふうに思っていまして、我部教授も随分いろいろなところで記載されておられますけれども、今回の沖縄密約の部分で、柏木・ジューリック間の密約についての調査のあり方というか結果については、どのようにお考えになっていますか。

我部参考人 これについては調査において全く触れられていないということですが、存在していないというのが財務省の回答のようです。これは先ほどの不自然な損失というよりも、沖縄返還にかかわる財政取り決め、沖縄返還での財務省ないしは大蔵省のかかわりを示す文書は一切ないということは、外務省よりも大変深刻な問題ではないかというふうに思います。

 一億ドル余りのニューヨーク連銀への預金については、これは菅大臣の記者会見の説明ですけれども、たまたまニューヨーク連銀からの報告があったからわかったということですね。これが一つの大きな理由で、そして、柏木・ジューリックについて公文書館に職員を派遣して見つけた、確認したというこの二つの点が、先ほどの菅大臣の記者会見の、これまでの前の事実、なかったということと、あったということの大きな二つしかないんですけれども、いずれも財務省が、記録はない、しかも覚えている人もいない、だけれども、この二つの点のみで密約があったんだ、財政取り決めについての疑惑は大きいんだという説明になっていまして、結局、そういう意味では、この記録の不存在というんですか、大きな欠落というのは、外務省以上に大変大きな問題ではないのかというふうに考えております。

平岡委員 前回の参考人質疑のときに、西山毎日新聞の元記者も、あるいは我部教授の著作の中にも、沖縄返還の際の財政経済取り決めというのは、その後の思いやり予算という新しい枠組みをつくっていくことにつながっていったんだというような評価をされているということで、私は、この密約の部分について、どういう経緯で、どういう内容のもので、将来どういう影響があるのかというようなことについても、もっとしっかりとやはり調査をされるべきではないかというふうに思うんですけれども、その点について我部教授はどのような御見解を持っておられるでしょうか。

我部参考人 思いやり予算というものと、沖縄返還のお金の財政の取り決めがどういうふうにつながっているかといいますと、思いやり予算といいますか、ホスト・ネーション・サポートでもいいんですけれども、基本的に、日本側がアメリカ軍のいろいろな支援をしていますけれども、一つは移転費、移設費というものですね。例えば普天間の移設について日本政府が何かさも当然のように負担するということになっているのは、沖縄返還のときの基地の移設に伴って日本側が負担したところからすべて始まっています。移設費は日本側が負担するというのはどこにも書いていませんが、慣行としてそういうふうにはなっているというのが一つ目です。

 それから、もう一点目は、施設改善費、多分、防衛省の言葉ではFIP、ファシリティー・インプルーブメント・プログラムというふうな言葉を使っていますが、ファシリティー・インプルーブメントというのは施設改善ということです。施設改善費というのも、沖縄返還のときにアメリカが日本側に要求したお金の、全部で三億九千五百万ドルですが、その中に入ってくるものとして施設改善費ですね。

 つまり、移転費及び施設改善費というものは、すべて沖縄返還の際の合意の柏木・ジューリックの中で出てきた項目であります。その後、これらは移設費も含め施設改善費。施設改善費については、特に地位協定の二十四条の中では、基本的には施設改善は米軍の負担であるというふうに示しています。

 ですから、そこは大変大きな問題になっているので、七八年になっても、いつも問題になっているところですが、この施設改善、移転という言葉が既に沖縄返還の協定の中で出てきているというところが、思いやり予算のいわば原型になっているということであります。

平岡委員 最後の質問にします。

 これも坂元教授と我部教授にということです。お二人のインタビューみたいな記事を見ての話なんですけれども、今回の有識者委員会の報告書の四十四ページには、今回の密約調査についての非核三原則へ与える影響みたいな話として、「米国の政策が再転換した場合はどうなるかという問題は残った。」というふうに坂元教授は評価をされているということであります。

 私は、密約が明らかになったからといって、世上言われている非核二・五原則にすべきであるというようなことじゃなくて、本来、非核三原則という政策を持つということと、それをどういうふうな手段で遵守していくのかというのは、ある程度違う概念であるということであって、非核三原則というのはやはり変更すべきではなくて、国是としてこれまで進めてきたことはしっかりと守っていくべきだというふうに思うんですけれども、同じようなことをお二人ともインタビューで言っておられたので、お二人にその辺の見解をお聞きしたいというふうに思います。

我部参考人 私は、非核三原則は堅持すべきだと考えております。

 まさに非核三原則が、一九九一年、二年もですね、日本においては言葉どおりには実現しなかったということは、最近の研究でははっきりとしているわけです。しかも、それをまた外務省の元職員たちもおっしゃっているわけです。しかしながら、九二年以降は、まさに日本に核が持ち込まれていないということになります。しかしながら、核は持ち込まれなくても、アメリカの核の傘にあるのは間違いないということですね。

 これは、理由は簡単であります。日本に核を持ち込まなければアメリカの核の傘は提供できないということではないということを今、示したわけです。ですから、今日本では平和が続いているわけでありまして、つまりは、科学技術の進展によって、日本に核を持ち込まなければ核の戦略は打ち立てられない時代ではもうないということであります。

 それから、もう一点目は、そういうこと以上に、この地域からこうした状態を少しでも改善していくためには何をすべきかという点を考えれば、核の削減、あるいは核の拡散を防止するためには日本が何をするべきかという点を考えるべきで、今日本に核がないということは、核の拡散は日本に及んでいないということを指し示しているんだと僕は思います。

 そういう意味では、非核化あるいは核の削減、あるいは、もうちょっと近いところでいえば、核の不拡散というものを実現していくためにこそ、日本の非核三原則がもっと堅持され、より多くの諸外国に、現実のものとしてあるんだということをもっとより胸を張って言うべきことではないかというふうに思います。

坂元参考人 私も、非核三原則は国家の政治、外交原則として守っていくべきだと考えております。

 それでうまくいかない事態が来る、国家危急存亡のときが来るということがもし万一あるとしましたら、そのときはまた政治の判断が必要になることもあるかもしれません、そう思っております。

鈴木委員長 次に、服部良一君。

服部委員 おはようございます。社会民主党、服部良一です。

 きょうは、参考人の皆様方には、大変長い間この密約の問題を研究もし、調査もし、アメリカに行って資料を調べたり、大変な御苦労をなさってきたというふうに承知しております。心から敬意を表したいというふうに思います。

 今回の報告書の中で、まず沖縄への核の再持ち込み密約について御質問いたしますけれども、今回の報告書におきましては、密約とは言えない、こういう判断がなされているわけです。

 そこで、有識者委員会を御担当された坂元、春名両参考人にお聞きいたしますけれども、この報告書の中には、三ページに、「全員で議論を重ね、統一をはかってはいるが、必ずしも細部に至るまで全員が一致しているわけではない。」という文言のくだりがあるわけですけれども、沖縄への再持ち込み疑惑は密約と言えないという判断の部分について、両参考人のこの結論の部分についてはどういうお考えだったのかをお聞きしたいと思います。

春名参考人 密約の基本的な問題にかかわると思うんですけれども、私の解釈としましては、やはり、佐藤栄作総理大臣はこの問題をいわば外交技術の一環として利用されたのではないかというふうに思います。若泉敬さんという密使を務められた方の本がございます。「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」なんですが、この中で若泉さんが紹介しているのは、佐藤総理はこの密約の紙などは破ってもいいんだよというふうに言っていたということが書かれているわけなんですね。

 したがって、これを本当に実効あるものとして残すためには、やはり佐藤さんは関係部局に対して連絡をして周知徹底をすべきだったのではないかと思いますが、そういうことが行われていないということだというふうに思います。

坂元参考人 調査を始めまして、いわゆる密約について調べなさいということでしたので、いわゆる密約というのは一体何が起こったかということの、その真相の解明にもちろん力点を置いたわけでございます。

 実は、それを何と呼ぶかということについては最後まで余り大きな関心を払っていたとは言いがたくて、私自身は、何が起こったのかということを暗黙の合意という形にしたわけでございます。それを密約と呼ぶか呼ばないかということで、またそれがその後、問題になりまして、特に第三密約のことでございますけれども、委員の中にはいろいろな議論がございまして、私も、この第三密約について、必ずしも第三章の執筆者と同じ見解ではないということでございます。

 結局、最後に、全員の意見が一致しての結論ということではなくて、それぞれ担当者の結論を尊重しようということになった次第でございます。

服部委員 そうしますと、坂元参考人はこの結論部分については異論があると。春名参考人についてはどうなんですか、ちょっと結論の部分が聞けなかったんですが。

春名参考人 やはり、この結論については議論があるということは十分承知しております。

 しかしながら、密約かどうかという判断をする場合においては、この結論はやむを得なかった結論であるというふうに思っております。

服部委員 先ほど我部参考人からは、この沖縄核再持ち込み密約は、密約の中の密約だというふうに言われたわけですね。非常に解釈が大きく違っているわけです。

 一九六九年十一月十九日のニクソン・佐藤合意議事録は、佐藤内閣の後継内閣を拘束する効力を持っていない点が密約でないという大きな判断材料になっているわけですけれども、坂元参考人にお聞きしますが、一方でアメリカ政府にとってはどういう効力を発揮したのか、その点についてはどのような検証なり議論がされたんでしょうか。

坂元参考人 私も最初、この検証を始めるといいますかこの調査を始めるときは、すべての文書を読んで、全部についていろいろなことを調べようと思ったんですが、とても時間がございませんで、私のところだけで時間がタイムアップになってしまったわけでございますが、しかし、その限界の中で申し上げますと、今の御質問は、申しわけございません、もう一度御質問を。ちょっと誤解したらいけませんので。

服部委員 アメリカがどう受けとめているか。アメリカ政府がどう受けとめているかということに対する検証ですね。

坂元参考人 大変失礼いたしました。

 アメリカ側がどう受けとめているかの前に、まず佐藤以降はということはあるんですが、その佐藤政権下においては、やはりこれは効力を持っているわけなんですね。ですから、そこのところをどう考えるかというのが一つ問題があると思います。

 それから、アメリカのことなんですけれども、それこそ、これはアメリカ側でまだ文書が出ておりませんし、それからこれについての議論はほとんどなくて、一体、アメリカ側もどういうふうに引き継いでいるのか、全くわからない状況でございます。

 ただ、これは我部先生が詳しいところでございますけれども、アメリカ軍がこうした文書なり何か保証なりを求めていたのは事実でございますから、軍の方に何かこういうことを行ったよというようなことを言っているとしたら、軍はそれがあるから沖縄返還にも我々としても応じようということになったとしましたら、割とこれは重要な文書だったということになるわけでございます。それは我部先生からお聞きいただければと思いますけれども。

服部委員 同じ質問をちょっと先に春名参考人にお聞きしたいわけですが、参考人がお書きになった二〇〇八年七月の文芸春秋、「日米密約 岸・佐藤の裏切り」という文章がございまして、その中には、日米で密約に対する認識の違いがある、アメリカにとって密約というものは、「大統領の個人的判断などではなく、あくまでも組織として機関決定し、政府対政府が取り交わすものであり、政権が変わっても受け継がれる、」というふうに書いてございます。

 私もそうだと思うんですね。大統領と日本の総理大臣が署名した密約があって、それが密約でないということがどう考えても私には理解ができないわけですが、同じ質問なんですけれども、結局、アメリカ側がどうこれを受けとめていたかということに関して、どのような御見解をお持ちでしょうか、あるいはどのような検証をされたんでしょうか。

春名参考人 あの文書を私は大変重大な文書と思っております。アメリカ政府においては非常に重要に受けとめたというふうに考えております。

 といいますのは、再持ち込みをするという場所まで設定しておりまして、しかも、スタンバイだというふうに書いているわけなんですね。つまり、有事の際には配置できるように常に備えておかなければならないという意味だと思います。

 しかも、嘉手納、那覇、辺野古、ナイキハーキュリーズ、この四カ所を示しておりまして、アメリカは核兵器の置く場所については非常に厳重な基準が決まっておりまして、核兵器を扱う人員につきましてはテストを通らないと扱えないようになっているわけでありまして、したがいまして、非常に重大な危機が生じたときには、それが実行できるような状態をアメリカが保っている可能性が十分にあるというふうに考えております。

 ただし、これについては、やはり事前協議の対象になるわけなんですね。これも事前協議ということが考えられますので、その歯どめがあるんじゃないかということも言えるかというふうに思います。

服部委員 これが密約でないという二つ目の理由として、この合意議事録が共同声明の内容を大きく超える負担を約束していないという指摘があるわけですけれども、この点については、先ほど我部参考人の方からそうではない、今、春名参考人の方からも、中身的には違うという御見解だったというふうにも思うわけですね。

 私も、先ほど出ました若泉敬さん、この方が、決定的なことをやってしまった、沖縄に申しわけない、あるいは、歴史に対して負っている私の重いその結果責任をとって自裁しますということで、現実にみずから命を絶たれたという非常に重たい事実があるわけですね。それがどうして表にある共同声明の内容を大きく超えてないというふうに言えるのか。

 この点も、私も非常に、どう考えても納得ができないわけなんですけれども、その点について、短くで結構ですので、有識者委員会を担当された両参考人から一言ずつコメントをいただきたいと思います。

坂元参考人 私自身も、あのような文書がなければ、あの時点で、沖縄が核抜き本土並み、そういう形で返ってこれたかどうかということには、やや疑問を感じているわけであります。大きな文書だったというふうに考えております。表に出たものより、やはり踏み込んだものだったというふうに思っております。

 ですから、若泉さんのなさったことというのは、非常に大きなことだった、歴史に非常に大きな結果を残されたというふうに思っております。

春名参考人 表に出たものを超えているのは確かでありまして、ただ、アメリカ側が認識していたのは、つまり、首脳会談の席で通訳も席に置いたまま小部屋に入っているわけなんですね。通訳も入れていない。日本側に伝わらないということはアメリカ側も知っていたと思われるんですね。

 それとともに、若泉さんが交渉の経緯の中で話されているのは、この問題は四人しか知らないというふうにも書いているわけなんですね。そういうことで有効性が保てるのかどうかというところについては、やはりニクソン大統領と軍部との関係について、軍部に知らせるだけの目的だったのかもしれませんし、その辺にやや疑義があるということが言えるかというふうに思います。

服部委員 これはちょっと、ぜひ引き続き議論すべきだなというふうに私は考えております。

 私たちは、非核三原則というものを国是とするという、実は、この国会決議は衆参において六回も上がっているわけです。しかし、現実には、これはある種、虚構であったということが言えると思うんですが、この非核三原則を改めて我々は守っていかなければいけない、そのためには法制化という考えも提起をさせていただいております。

 あるいは、神戸市は、一九七五年に非核港湾決議というものをして、入港する外国艦船に核兵器を積んでいないということを証明する積み荷証明書の提出を義務づけておるわけですけれども、その結果として、三十五年間、米艦船は一度も入港していない、こう言われているわけですね。

 だから、そういったことも含めて、非核三原則をどうやったら担保できるのかということを真剣に考えていく必要があるというふうに私は思うわけですが、先ほど我部参考人の方から、九二年以降は公開情報を見る限り核の持ち込みはない、そういうお話があったと思いますけれども、そういう認識でよろしいんでしょうか。

我部参考人 はい、そのとおりです。

服部委員 同じことを新原参考人にお聞きしたいと思います。

 本当に非核三原則は今現実、九二年以降も守られているのか、私は非常に疑問だなというふうに思っておるわけですけれども、よろしくお願いします。

新原参考人 実は、九一年、九二年のときに一つの問題がありました。NCND政策、つまり核兵器の所在を海外で否定も肯定もしない政策、これを続けるということを九一年当時に国務、国防両省の首脳が明らかにしまして、その理由として、再び有事その他のときに海外に持ち込む必要があるだろうからということを言いました。

 それから、もう一つは、クリントン政権になりまして、九四年の九月に核体制見直しを出しました。そのときに、水上艦艇からは核兵器をおろすけれども、攻撃型原子力潜水艦に核巡航ミサイルを積載する体制をとり続ける、これがずっと続いております。続いている証拠に、二〇一三年ごろ、それをやめにするかどうかということで、麻生政権のときに、それをやめる前に相談してくれということを秘密のペーパーでワシントンの日本大使館が申し入れたというのが比較的最近流れたニュースです。

 この実態は続いておりますから、我々が知らないうちに持ち込まれている可能性は、実際に存在していると思います。

服部委員 そうしますと、非核三原則を担保するためにはどうしたらいいのかということになるわけですけれども、新原参考人のお考えはいかがでしょうか。

新原参考人 端的に言いますと、非核神戸方式のような方式を国がとる、あるいは非核三原則を例えば法制化する、あるいは、政府の方針としても、相手側に、入ってこようとするすべての国の軍艦に核兵器を積んでいないということを証明させる、そういう措置をとって、やはり非核三原則を実際に守るしかないんじゃないかと思います。

服部委員 同じく我部参考人にお聞きしますけれども、九二年以降は持ち込まれていないというふうな御発言だったんですけれども、ということは、今、非核三原則は担保されているということで理解をしていいのか、あるいは、担保するためにもっとこういうことを国の政策としてすべきではないかというようなお考えがあれば、ぜひお聞かせいただきたいと思います。

我部参考人 私の知る限りですから極めて限定的な情報しか入っておりませんが、核兵器の持ち込みはないというふうに考えております。

 先ほど新原さんの方から出ていましたけれども、攻撃型原子力潜水艦の戦術核というものがあるのかもしれません。それについては確認はしていないのでよくわかりません。

 ただ、そういったことで非核三原則をどうすべきかという点でありますが、この点は、核兵器について、特に軍事力というのは、どちらかというとあいまい性を持っているものであります。これはどこでもそうですが、軍事機密について余り公言をしないというのが、日本でもそうですし、どこの国もそういうことをとっています。これがある意味でいえば抑止力を持っているというふうなところであるので、当然、それを突き詰めようとすると、軍隊を持つ限り無理だと思うんですね。軍隊がある限りにおいて、どこかでグレーゾーンが生じることは明らかではないかと思います。

 ただ、問題は、そういうグレーゾーンの問題ではなくて、国是という意味と基本の原則という意味はどうするかというところの方がより重要であって、有事の際のことをいつも考えるのではなくて、平時の際のことの方がより日常的、ふだんのことなんです。そのことがないという平時の際のことを担保していくことの方がより重要であって、有事の際のことを基準にして物事を考えていくのは間違いではないのかなというふうに思います。日常生活は平時なんです。

 例えば、嘉手納飛行場の騒音というのは、有事の際の訓練をしているんですね。そのために、人々は平時の生活をしているので、あの飛行機の音のうるささは有事の際の準備をしているから我慢しろということになるわけですが、それはできないわけです。日常生活は、平時の際において飛行機がうるさいんだと言っているわけですね。

 やはり、我々の政治の基本は、平時の中でどういうのが担保できるかということを基本に考えるべきであって、有事の際のことを基準に考えていくのは戦時であるのかということを意味しているわけですから、そうではないんだと思います。

 以上です。

服部委員 ありがとうございます。

 今回、四つの密約の問題について解明がされているわけですけれども、実は、戦後の日米関係の中の密約というものは、もっとこれ以外にもいろいろあるというふうに指摘をされているわけです。

 新原参考人におきましては、特に砂川事件、伊達判決にかかわる密約問題、あるいは米兵との事件、事故に関する日本側の第一次裁判権の放棄にかかわる密約の問題等を御指摘されているわけですけれども、そういったことも含めて、今回、四件の密約以外にどのような密約がほかにあるのか、あるというふうにお考えなのか、ないしはまた、それを引き続き解明していくべきというふうにお考えなのかどうか、その部分をお聞きしたいと思います。

新原参考人 まず、今回の四密約の問題と非常に接近している問題で、さっき岩国の問題でほかの委員の方がお尋ねになったこととも関係しますけれども、一九六〇年の核持ち込み密約には実はもう一本あるということはアメリカの解禁文書からわかっています。これは、イントロダクションについての文字にされない口頭の了解というふうに理解していますけれども、もし核を貯蔵するということについてアメリカが申し入れてきた場合に好意的に回答するという内容らしいと私は見ています。

 それから、今おっしゃいましたが、裁判権放棄の密約、これは実は、今回発表されました外務省の関連文書の中に、一九五八年十月四日の岸首相とマッカーサー大使が出ました第一回改定交渉の記録がありました。その中に図らずもこのことが出ていまして、裁判権放棄密約を公開してくれということをマッカーサーの方が言うんですね。日本側はこれをそのときはオーケーを言っていない、実際は拒んだわけですけれども、これがれっきとしたもので、一つの焦点になっています。

 それから、ほかに、原子力艦船が日本に寄港した場合の密約があると思われていまして、非常に明確にわかっておりますのは、一九七一年の末に、アメリカ側が、それまで空中のサンプリング、モニタリングを原子力艦の二十メートルそばまで近づいてモニタリングをしてよかったのを、異常放射能が出たものですから五十メートル以上離れろということを要求しまして、二年がかりで密約がつくられた。これは非常に明確な密約があります。

 それから、非常に大きな問題としていいますと、一九六〇年の安保条約改定のときに、かなり対米追随的でなくなったかのようなことを岸内閣は当時言ったんですけれども、実際には、新しく地位協定になった元行政協定の第三条に関する密約がありまして、基地の権利、ベースライトと英語で言うんですけれども、基地の特権と言ってもいい、基地権を旧安保条約の当時と同じまま続けるということが密約されております。

 それから、やはりこういう問題について、国会の皆さんの方でも今後とも調査あるいは解明をぜひ進めていただいたらと思います。

服部委員 同じことを我部参考人にもお聞きしたいと思うんですが、特に沖縄の基地問題、直近の問題でいきますと、外務省、防衛省がオスプレーの配備を隠しているとか、いろいろありますけれども、そういった今日の沖縄の基地問題につながるような、今日的な密約の存在ということがあるのかないのか、その辺、お考えはいかがでしょうか。

我部参考人 密約について調査委員会がやっていたことの一つは、密約という紙があるか否かということです。先ほど春名さんの方から、紙についての佐藤の認識、そういうものだけに限定をしていけば、余りないのかもしれません。なぜならば、紙をつくるということについての責任が後で問われるので、紙はつくらない方式の方がいい。

 日米関係の中で、アメリカは、日本に対して軍事的な作戦行動にかかわるような情報については一切基本的には出さない方針のようです。ですから、日本側も聞かなければ、アメリカも答えない。日本は、むしろ聞きたくないことについては話してほしくないという関係になっています。今指摘になったオスプレーについても、日本側はこの話は聞かなかったことにするというふうなのが記録に出てきますので、結局こういうふうな形で、日米間の、密約と言ったら変ですが、というよりもやりとりをこれまで何度も繰りかえしてきているので、何らかの形で、何かこれを合意するということはありません。

 先ほど新原さんの方から出ていた密約というものは、日本側の行動を規制するものです。それは、アメリカ側の行動を規制するものではなくて、日本側の行動を規制するために密約は必要になってくるわけです。つまり、日本側はどうしろということをやるためであって、アメリカのことを規制するようなものは基本的にはとても数が少ないというふうに考えるべきだと思いますね。

 以上です。

服部委員 この四件以外にもいろいろ密約があるという今のお話もありました。また、先ほど平岡委員の方からも、財務省の問題もまだ解明されておりません。今後とも、この密約の解明ということで、委員長におきましてはぜひ引き続き御努力の方をよろしくお願いしたいということを申し上げて、質問を終わります。

鈴木委員長 次に、河野太郎君。

河野委員 自由民主党の河野太郎でございます。

 まず、我部参考人に、今お話しになられましたオスプレーの件ですが、もう少し詳細をお話しいただけますでしょうか。

我部参考人 今、オスプレーについては、一九九七年の十二月に、今の普天間飛行場の移転計画の中で、SACO、いわゆる沖縄に関する特別行動委員会というんですか、これが2プラス2のもとでつくられて、その2プラス2のSACOの協議の中で、移設について日米間で話がなされます。

 これについての資料は、ちょうどサンフランシスコの連邦地裁でジュゴン訴訟が行われたときに、ペンタゴンが要するに裁判所に提出した資料の中に記載されているものであります。それは、日本側とどのような話し合いをしたのかということがこの記録にあって、その中で、普天間飛行場を辺野古の、その当時は辺野古の沖につくるという案が出ていて、そのときに必要な滑走路の長さとか、いろいろないわゆる軍事的なリクワイアメント、そういうものを日米間で話をしているときに、オスプレーの配備について、いろいろあるけれどもこれをアメリカはやるつもりだというふうに言うと、これについては日本側としては聞かない方がいいと。つまり、新しい航空機の配備については、従来の普天間飛行場の機能を移設するというふうに国民には説明する以上、新型の飛行機が配備されるということについては大変支障があるということになったということです。

 それで、SACOの合意の内容を見ればわかりますが、固定翼とか回転翼という言葉が使われていまして、その進入にも対応できるような滑走路の長さというふうになっていっています。それは、日本側の提案によって固定翼ないし回転翼という言葉になっていて、実際にはその固定翼というのは、ただ単に今あるKC130というような飛行機ではなくて、オスプレーも含んで、どちらも含めるような形で、表現が変わったというのがこれらの記録から明らかになっているわけであります。

 以上です。

河野委員 米側がオスプレーについて話をしたその相手の日本側はだれだったか、あるいはどの役所だったか、外務省だったか防衛省だったか、そうした記載がございましたでしょうか。

我部参考人 ちょっと今記憶ははっきりしませんが、当時、日本側もこの協議に対応していて、JSOだったと思いますが、統合幕僚監部という、多分日本語ではそういうところだと思うんですが、そこから代表が出ていたようです。あと、その一連の文書を見ていると、名前が挙がってくるのは、多分国会でも一度審議されたかもしれませんが、ちょっと名前は忘れましたが、防衛省の文官の方もそこには登場してきますし、それから、さっき言いました統合幕僚監部の人ももちろん出ているようです。

 以上です。

河野委員 坂元参考人にお伺いをしたいと思いますが、最初のお話の中で、今回の調査は半ば公になっている四つの密約という話でございましたが、坂元参考人はそれ以外にどういうものがあるというふうに思っていらっしゃるんでしょうか。

坂元参考人 先ほど新原先生がおっしゃいましたけれども、安保条約と安保改定に関しまして、刑事裁判権の問題で申し合わせ、重要な犯罪以外は起訴を見送るというような、そういったたぐいの、その細部は承知しておりませんけれども、申し合わせというものがあって、それは一九六〇年の安保改定のときにも更新されたのではないかというふうに考えておりますけれども、そういうものなどだと思います。私が資料から見る、これはアメリカ側の資料にも実は出ておりまして、それでもう前からそれはわかっていた話ではありますけれども、そういうものがあるかなと思います。

河野委員 今回の有識者会議の調査の中で、この四つの取り上げられた密約以外に、存在する蓋然性のかなり高い密約をこの有識者委員会で含めるということは有識者委員会で議論されたのでしょうか。

坂元参考人 最初の段階で、これはもうその四つだけでもすごく大変なもので、まずこの四つをやるということに決めました。決めましたといいますか、まず、大臣の御指示がこの四つの密約についてということでしたので、それ以外のものについては、それに関連するもので何か重大なものが出てくれば考えるということでした。

 その中で、例えば横須賀の空母母港化の問題がありますが、そういう中で何か密約があったのかどうかといった報道もあったので、それで少し調べもしましたけれども、時間の関係ということがございまして、このような調査に終わった次第でございます。

鈴木委員長 春名参考人、御意見ありますか。

春名参考人 そういう議論はなかったと思います。

河野委員 坂元参考人にお伺いをいたします。

 今回の調査は、まず外務省の内部調査が行われ、その結果を有識者委員会が評価するということだったと思うんですが、有識者委員会の委員の皆様が目にされた、手にとられた文書というのは、有識者委員会の委員の皆様が現実に外務省の中のその文書があるところを探して行かれたのか、あるいは、外務省の内部調査チームがどこかの書庫から抜き出してきて有識者委員会に持ってきたものを手にとられたのか、そこを少し明確にしていただきたいと思います。

坂元参考人 答えは後者でございます。

 これは、四千点以上の書類、文書を内部から探し出すという作業は、とても数名の研究者ではできない作業でございまして、十五名の外務省のチームにそれはお任せしたということでございます。ですから、外務省にもとからあるファイルの中からそれを、例えば討議の記録なら討議の記録に関するものを、すべてこれをコピーするということでしていただいて、そのコピーしたものを見せていただく、そういうことでやらせていただきました。

 それで、実は、その後、それではやや文書の保存状況とか管理状況がよくわからないので、ですから、実際にあるものも、サンプルですけれども、見せていただきたいということで、例えば先ほど申し上げました安保改定に関する調書八冊のうちの一部を見るというようなことをいたしましたけれども、基本的には、これは時間と労力の問題ということもございまして、外務省の調査チームが集めてきたものを見て、その中から判断するということでございます。その限界をわかった上での議論をしております。

河野委員 先ほど、原本が欠落していてコピーが残っていたというような話がありましたが、有識者委員会の委員の皆様がごらんになったのは、すべて外務省の調査チームがコピーをしたコピーをごらんになったということなんでしょうか。

坂元参考人 そうでございます。

 討議の記録に関して言いますと、コピーと申しましても、それはタイプされた複写ということでございまして、我々が見たものは、そのタイプされた複写をまたコピーして、現代のコピーにして、それを見ているものでございます。

河野委員 コピーを見て、そのコピーのもとになったのが原本かコピーかというのはどう判断できるんでしょうか。

坂元参考人 そこが実は大事なところでございまして、これは複数のコピー資料、アメリカ側の資料とこれを突き合わせて、恐らく原本に近いだろうということしかわからないわけでございます。

 アメリカ側でも、実は、討議の記録、原本は出ておりません。アメリカ側で出ておる記録というのは、これは一九五九年、安保改定、一月六日ではございませんで、五九年の五月の段階で出てきた文書の写しでございます。写しがまた、それ一枚だけ単独であるのではなくて、ある研究文献の中にそのままタイプされている、そういうものでございます。

 ですから、これは、絶対にこれだということは原本がないと言えないことでございますけれども、諸資料から見て、そしてまたいろいろなインタビューから考えて、その原本、間違いない、原本と同じ内容であると判断いたしました。

河野委員 コピーのもとが原本であるか、それ自体コピーであるかが非常に重大な意味を持つものについて、有識者委員会の委員の皆様は、原本を、そのコピーのもととなったものを有識者委員会に提出するようなことを要求いたしましたか。

坂元参考人 一部、重要なものは見せてほしいということを言いました。それで、我々、仕事に入りましたら、もうとにかく日本側の資料を読んで、それだけではなくて、アメリカ側の資料も読み、新聞資料も読み、これまでの研究文献も読み、調査も行い、インタビューも行いということでございましたので、ややその時間の忙しさに取り紛れておりまして、最終段階で、この原本、討議の記録に関しまして残っているコピーの原本、それを見ることはいたしませんでした。

河野委員 そうすると、不自然な欠落があったというのは、実は、欠落しているのではなくて、そこで外務省が隠していた、つまり、それをコピーして有識者委員会に提供しなかったということも考えられるわけですね。

坂元参考人 今回、それを疑いますと調査は成り立たないというふうに思います。ですから、これはまず信用するというところから始めました。

 ただ、これはレーガン大統領じゃありませんけれども、トラスト・バット・ベリファイということでございまして、他の文献から、外務省が出しているものがどのくらい正直なものであるかということは、私なりに学者としての判断で、これは本当のことを言うという熱意を感じた次第でございます。

河野委員 これまで相当長きにわたり組織的に隠ぺい工作を行っていた組織の人間が、熱意があったかどうかは知りませんけれども、うそをついていないというふうにどうして信ずるに至ったんでしょうか。

坂元参考人 それは私の人のよさかもしれませんけれども、しかし、これは、アメリカ側の文書と突き合わせるということが今回できるわけなんですね。ですから、出てきたものがそれと余りにも離れているということになれば、それはちょっとおかしいねということになるというふうに思います。それから、欠落があるものもそのまま出しているわけなんですね、それを隠すことなく。そして、これはこれまでだったら大変な問題になるね、一内閣がつぶれるねというような文書も次々に出てくるわけでございます。そういうことも総合的に見て、これは信じるに足る、そういう判断をしたわけでございます。

河野委員 少なくとも、泥棒に金庫の掃除をさせたような気がして私にはならないんですね。本来、この密約というものを調査するのであるならば、少なくとも、隠ぺい工作を行っていた組織から完全に独立した組織が調査をすべきものだったのではないのか。

 つまり、まず、隠ぺい工作を行っていた組織の人間が出してきた調査あるいは資料をもって検証をするということ自体、それはどんなに熱意があろうが、人がいい悪いはあるかもしれませんけれども、そこに、これが正しいものである、あるいは出てきたものはそうかもしれませんけれども、突き合わせのできないものが隠されている可能性、蓋然性というのはあるわけですから、本来、有識者委員会は、内部調査を検証するのではなく、原本の資料を当たるところからやらせろと言うべきであったのではないのか。人数が少なければ、それに必要な人数を集めてでも、外務省から独立した委員会をつくって調査をすべきだったのではないかと思いますが、そうした議論が有識者委員会の中であったでしょうか。

坂元参考人 それはございませんけれども、河野先生がおっしゃるようなことであれば、これを第一歩として、これからそういうことをやっていけばいいんじゃないかというふうに思うわけでございます。同じような調査を何度繰り返してもいいわけでございまして、今回、これで終わりにしないということでいいのではないかなというふうに思っております。

 それから、ない資料が、何かちょっと、泥棒に何とかというのは、いかに河野先生のお言葉とはいえ、やや言葉が過ぎるのではないかと私は思うのですけれども、しかし、いずれにしろ、そこを疑うのであれば、もっときちんとした調査をするということは、別に外務委員会で要求なさるということは、それは構わないことだと思います。

河野委員 これはぜひ外務委員会から外務省に対して、外務省が関与しない、独立性の高い委員会を新たに組織して、再度調査をするように委員会から要求をしていただきたいというふうに思います。

鈴木委員長 ただいまの河野委員の発言は、理事会で協議をして、極力その方向に向かっての努力はしていきたいと思っています。

河野委員 坂元参考人にお伺いをいたします。

 東郷文書、赤い箱、青い箱、黒い箱というのがあったということでございますが、その赤い箱に入っていた十六の文書のうち相当数の文書が欠落をしていた、その赤い箱は、東郷さんから谷内さんに引き継がれ、そのコピーが藤崎さんにも渡されているということでございますが、その赤い箱の文書の欠落がわかった時点で、有識者委員会の委員の皆様は、谷内さんに、まずその文書が引き継がれていることを谷内さんから御確認されましたでしょうか。

坂元参考人 それはいたしておりません。

河野委員 なぜそれを行わなかったんでしょうか。

坂元参考人 これは谷内さんに渡したということを、確かに東郷さんの証言はあったわけでございます。ですが、我々、今回は、文書の破棄の問題を調べるというよりも、一体何が起こったのかということを調べる中で、その主眼は核密約、いわゆる密約なるものがどういうものであったか、この真相を明らかにすることに専念しておりましたので、ですから、私は、最後に、今後さらなる調査が必要だと申し上げたのでございます。

河野委員 その東郷文書の赤い箱は核密約に関する箱だったというふうに認識をしておりますが、核密約の問題を調査するためには、その箱の中に入れられたはずの十六の文書を検討するというのが非常に大事なことだったんだと思うんです。

 ところが、有識者委員会に提供されたコピーからは相当数のものが欠落をしているとなれば、その箱が東郷さんから谷内さんに渡された、しかし、現在はないというならば、そこから谷内さんが幾つかのものを仕分けして、別な谷内さんの赤い箱、黄色かもしれませんし青かもしれませんが、谷内さんの箱に入れた可能性が高いわけでありますから、そこは谷内さんがその文書をどうされたのかということを聞くというのは、これは至極当然のことだと思うんですが、なぜそれを有識者委員会は行わなかったんでしょうか。

坂元参考人 それは、ですから、今後やっていただきたいことでございます。

 東郷さんが残されたファイルの中で、私のパートで一番関心のありましたのは、一九六〇年一月二十日の、先ほどから出ておりますけれども、高橋条約局長とアメリカ大使館マウラ氏の会談記録でございます。幸い、これにつきましては、東郷さんが内容を覚えておられまして、その内容について書いておられますので、それを参考にすることができたということで、もし、そういう内容がわからないで、これは大事だということであれば、そうした可能性も探ったかもしれませんけれども、この問題につきましては、それこそ外部の識者が調べるといいましても、何か、我々の仕事がまず真相究明ということでございましたから、ですから、繰り返しになりますが、私が調査が必要だというふうに書いたのはそのことでございます。

河野委員 それでは、外務委員会に谷内さんにおいでをいただいて、東郷さんの赤い箱をどう引き継ぎ、さらに谷内さんからどう受け渡されたということをお聞きしたいと思います。

鈴木委員長 ただいまの河野委員の谷内さんに外務委員会に来ていただきたいというお話についても、理事会で協議をして、河野委員の今の貴重な御指摘、御意見でありますから、国民への情報開示、情報の透明性、有識者委員会でのうそを述べていた、さらには国民に対して不正直だったという結論も出ておりますから、その線に沿ってまた討議をさせていただきたい、こう思います。

河野委員 坂元参考人にお伺いをしたいと思いますが、アメリカは艦船に核兵器を搭載しているかどうかを否定も肯定もしないということでずっと来ていたと思いますし、その方針というのは今も変わっていないというふうに認識をしておりますが、坂元参考人はどうお考えでしょうか。

坂元参考人 これは、確かにそういう政策自身を捨てたということではないのかもしれませんが、一方で、冷戦が終わりましてからは、海軍の艦船や飛行機に戦術核を積まないということを言ったわけですね。ということは、それらの船には戦術核がないと言っているわけでございますから、SLBMを積んだ潜水艦は別にしまして、通常の艦船というものに核兵器はないということをアメリカの政府は言っていると言っていいのじゃないかと思います。

河野委員 何か有事が発生した場合にアメリカが艦船に戦術核を搭載する可能性というのが残されていると坂元参考人はお考えでしょうか。

坂元参考人 そう考えます。

河野委員 その際、米軍は、否定も肯定もしないという方針を捨てていないならば、戦術核を艦船に搭載しましたという発表を何らかの形でするとお考えでしょうか。

坂元参考人 それは、私にはわかりかねます。そういう問題だと思います。難しい問題だと思います。

河野委員 そうすると、例えば北朝鮮が核ミサイルを配備するような事態が起きたとき、あるいは何らかの勢力の転換が東アジアで起きたときに、米軍は、核兵器を艦船に搭載し、それについて否定も肯定もしないという状況が再び来るということが予測され得るでしょうか。

坂元参考人 それは、予測され得ると思います。

河野委員 その際、我が国が非核三原則を維持しているという状況になると、かつての密約と同じように、我が国は入ってきていないよと言うけれどもアメリカはそれを否定も肯定もしないという状況が生まれる可能性がありますか。

坂元参考人 あると思います。

 そこで、私の考えですけれども、今後は、NCND政策をアメリカがとるということであっても、日本については、日本との間でその際の事前協議ということをやっていただくように今後話し合って、そういう協議システムをつくっていくべきだと私は思います。

河野委員 NCND政策を維持していながらも日本とは事前協議をするということがもし実現した場合、その事前協議があったということをその時点で公開できるでしょうか。

坂元参考人 ですから、そこは考えどころですけれども、そういうことになりましたら、その時点では公開できないような、何かそういうやり方を考えなければいけないと思います。

 今回、こうやって暗黙の合意が明らかになったわけで、今や暗黙の合意でございませんけれども、とりあえず今は、通常艦船に核兵器は積まれておりませんので、将来もしもそういうことがあったときのことを考えて、今からそういう場合の対応というのを考えていく必要があると思います。

河野委員 アメリカからそうした事前協議があった際に、非核三原則があるのでお断りをしますということでは恐らくこのメカニズムは成り立たないんだと思います。事前協議をやるということは、断ることもあるかもしれないけれども受け入れることもあるという前提でなければこの事前協議のシステムは動かない。というと、非核三原則は事実上維持できないということになりませんでしょうか。

坂元参考人 それは、その際の国際環境と我が国の国益で判断すべきものだと思います。

河野委員 残念ながら時間切れでございますので、ここで終了させていただきます。

 参考人の皆様、本当にありがとうございました。

鈴木委員長 ちょっと速記をとめてください。

    〔速記中止〕

鈴木委員長 速記を起こしてください。

 次に、赤松正雄君。

赤松(正)委員 公明党の赤松正雄でございます。

 きょうは、四人の参考人の皆様、お忙しいところ、また、大事な御意見を述べていただきまして、本当にありがとうございます。

 引き続きでございますが、既に同僚の委員が三人質問をされました、幾分重なるところもあろうかと思いますけれども、よろしくお願いを申し上げます。

 まず、私の方も、有識者委員会の皆さんが大変な労作報告書をつくられたわけですけれども、この報告書だけでも読むのはなかなか私にとっては大変でございましたけれども、読ませていただきました。

 それで、先ほども出ておりましたけれども、要するに密約ということについての認定というんでしょうか、密約とは思えないというふうなことの位置づけとして、「第四章 沖縄返還と有事の核の再持ち込み」については、七十九ページのところに「冒頭の定義に照らして言えば、必ずしも密約とは言えないであろう。」こういう表現で書かれているくだりが若干いろいろなところで話題になっているという側面があろうかと思うんです。

 きょうは、坂元参考人、春名参考人と、この報告書作成にかかわられた、大変御努力されたお二方がいらっしゃって、お二方のところについては、文書が発見されないというところについて、それぞれ、完璧かどうかは別にしまして、坂元参考人のお書きになったところ等、なかなか感情のこもった書き方と言うべきでしょうか、文書がなかったというところについて、なかなか注目されるべき書き方、今回の調査では見つかっていないとか、いろいろ表現を変えて、ないということについて書いておられるわけですね。例えば、「今回見つかった文書の見つかり方」というなかなかおもしろい表現もあったりするんです。後で、この「見つかった文書の見つかり方」というのはどういうことかというのをお聞きしたいと思うんです。

 それはさておきまして、私が今冒頭でお聞きしたいのは、必ずしも密約とは言えなかったという、この第三の密約について河野さんが書いておられる中で、お二方に比べて、こういう比較は余り意味がないかもしれませんが、ないということに対する坂元先生、春名先生の記述に比べて、河野さんのところは、一カ所こういうくだりがあるんです。「他方で、今回の調査では、「合意議事録」も、これに関連する資料も外務省内では発見されなかった。外務省がこの「合意議事録」作成には関与していなかったことが窺われる結果であった。」これは五十八ページなんですが、つまり、「関与していなかったことが窺われる」という表現で、資料紛失とか破棄だとか、そういう、何かある種意図的な意味における文書が発見されないというふうにつながっていかない書き方をしておられる。たった一カ所、ここだけなんですね。

 四人の方の四つのいわゆる密約についての調査の報告を見ますと、お二方の書き方と、それから密約はなかったとされる方の書き方の間に明らかに違いを感じるんですけれども、このあたりのことについて、最終的に、何回か討議をされて、先ほど坂元先生が、必ずしも全体についてみんなが意見一致したわけではないということをおっしゃっておりましたけれども、これは春名参考人にお聞きしますけれども、そういう全体の調整という中で、今私が申し上げたような、文書の発見のされ方ということについて、いわゆる第三の密約のくだりについてのほかの部分との差ということについて、議論になったんでしょうか。

春名参考人 委員も御承知のように、ニクソン・佐藤栄作合意議事録なんですけれども、そのものは、佐藤信二さん、佐藤栄作さんの息子さんの自宅で見つかったということでありまして、その経緯が書かれているということだと思いますけれども、やはり、それぞれの委員の方々が忙しいものですから、それぞれの仕事を持っているものですから、内容の書き方についてはそれぞれの委員に任されたわけであります。したがって、この第三の密約については、河野先生は河野先生の手法でおやりになったということではないかというふうに思います。

赤松(正)委員 春名参考人に引き続きお聞きしたいんですが、先ほどの冒頭の御発言の中で、文書の破棄のされ方について、短期的な意図ですか、正確な言葉はちょっとあれしましたけれども、短期的という言葉をつけられましたけれども、これはどういう意味なのか、少し詳しくお願いしたいと思います。

春名参考人 どういう意図なのかよくわからないわけなんですね。これも意図的に廃棄された可能性があると思いますけれども、もしそれが事実であれば、やはり外交というものは長期的な観点に立って評価されるべきものではないかというふうに思うんですね。

 私は、いろいろ御議論があるかと思うんですが、特に、坂元先生が担当された第一の密約、核持ち込みに関する密約について、正直言いまして、外務省の歴代の次官を含めまして、相当な悩みというものも読み取れるわけであります。東郷元条約局長につきましても、大変な悩みを持って対応されたというふうに思われます。

 これが、要するに密約はなかったということを言いたかったのか、あるいはそれに類する文書を消すということだったのか。特に、先ほど坂元先生がおっしゃったように、高橋・マウラ会談記録というものがなくなっているわけですが、これは核兵器の存在について否定も肯定もしないということに関する文書だと思うんですが、これは、これをなかったことにするという意図がどういうことだったのかわからないわけなんですけれども、恐らく、日本側がそれに理解を示すということだったのではないかというふうに思われます。

 タイコンデロガというアメリカの航空母艦が沖縄の沖で核兵器を落としまして、それが起きたのは一九六五年なんですが、その後、二日後に横須賀に入港しております。そのことが発覚したのは一九八九年の時点でありまして、その時点で、日本政府の方からアメリカ政府に対して、核兵器の存在を肯定も否定もしないというNCNDの原則についての尊重を求めるというふうに日本側からアメリカ側に指摘があったという文書がアメリカで見つかっております。これも恐らく高橋・マウラ会談に通じるような文書ではないかと思うんですが、そのような形で、やったことを消したかったのかというふうに思うわけです。

 長い目で外交を見ますと、私は、核兵器の非核三原則というのは当然守るべき原則だと思いますけれども、それほど間違っていた外交だったか、まずかった外交ではなかったのではないかというふうに思っているわけなんですね。といいますのは、非核三原則は結果的に守り通しました。内容的には事実上非核二・五原則だったかもしれませんが、非核三原則は守り通した。非核三原則を厳密に実行しようとしますと、ニュージーランドのロンギ政権のようになった可能性があります。

 したがって、長期的に見て、東郷さんに代表されるような悩み、そういうものもすべて残して、外交がどういうことだったのかということを、すべての文書を残した上で、後世の歴史の判断にゆだねながら、教訓として残すということが極めて重要じゃないかと思いましたので、そのように申し上げました。

 長くなって申しわけございません。

赤松(正)委員 それでは、坂元参考人に、先ほど申し上げました「見つかった文書の見つかり方」というくだりと、それから、例の東郷和彦さんの三つのファイル、これは赤いファイル以外のものについては今回のことに当面関係がないわけですけれども、そのまますべてはあったのかどうか、ロシア関係あるいはアジアでしたでしょうか、この部分についてはどのような形で文書があったのか。この二点についてお願いいたします。

坂元参考人 これは私は、そういう話を聞いただけで、詳しいところを承知しておりません。ただ、赤い箱だけじゃなくて、青い箱、黒い箱があったというのがやや何かドラマチックだったもので、そういうふうに申し上げたものであります。

 しかし、これは実は大きな問題が含まれているかもしれないというふうに思います。赤い箱について、出てこなかったものは何であるかというのは大体わかっておりまして、私に関するところですと、一番重要なのは先ほど申しました高橋・マウラ会談なんですけれども、幸い、これについては内容がわかっているのでよかったんですけれども、この青い箱、黒い箱とかいったものがどういうファイルなのか、それを私も全然知りませんし、ただ、外交をこれから行っていく上で案外大事な話なのかなという感じもいたします。これはロシアとおっしゃっていましたし、それからもう一つはアジアですか、それは私はよく存じ上げませんけれども。そういうことでございます。

 見つかり方がというのは、要するに、できれば隠したいといいますか、そういう意図といいますか、そういう気持ちのある中で紛失したのか、もっと意図的に何か行われたのかという問題がある、そういうふうに一般的に疑われている中で、文書の中にやはり不自然な欠落とか、あるいは、署名のある目立つ文書がなくなっていて、コピーだけで目立たないところに置いてある文書だけ残っているということ、こういうところとか、それが不思議だなという感じがするのでございます。

 会議録も、安保改定の非常に大事な会議録で、実は、先ほどから安保改定に関する調書、全八冊の調書と申し上げておりますけれども、これは一九六〇年代の早い段階で読んだ人が、この会議の会議録にこういう記述があるというふうに言っている、この会議の会議録といいますか、この会談でこういうことが話し合われたと言っているものが、それを見て言っているわけなんですね、それが我々が見ても、ないとか、そういうところもありまして、これは長い時間にわたって何か紛失したのかどうなったのかわかりませんけれども、そういう不自然なところがあるということなどがあったわけであります。

 しかし、やはり何といっても、この東郷さんが残されたものは、一九九九年ですかね、条約局長として引き渡されたのは。ですから、私は、これは調べることは割と簡単なんじゃないかなというふうに思うんですね。これは、何が起こったかということを正直ベースで皆さんが言っていただければ、それでよろしいんじゃないかなというふうに思います。

 先ほどの繰り返しになって恐縮ですけれども、私の関心は、だれかの責任追及ということでなくて、これは場合によっては、失われたものがまた出てくる可能性だってまだあると思うんです。それがもし出てくれば、これは歴史の研究にとってすごくプラスになることですし、また日本外交のためにもいいことだと思いますので、本当に責任追及ではない、真相究明というものをぜひお願いしたいというふうに思っておるわけであります。

赤松(正)委員 先ほど河野委員あるいはほかの委員からも似たような発言がありましたが、今回の調査を踏まえて、先ほど来いろいろな問題点も提起されているわけですが、今委員長が理事会で検討するという話に引き取られましたけれども、皆さんにお聞きしたいんですが、今後、仮に第二段階として調査が行われるとしたら、どういう観点に力点を置いて調査をしていったらいいか、どのように考えられるか、我部先生からお願いします。

我部参考人 幾つかのレベルがあると思います。

 一つは、調査委員会がやったような、密約と言う場合には、署名が入っているもの、しかもそれがオリジナルがあるというような、大変限定的にやるというのもやりましたが、先ほど河野委員の方から質問が出ていましたオリジナルとかコピーとかいうのは、役所で働いている人がいればすぐわかりますが、協定で結んだようなオリジナルの紙というのは、ほとんど公文書館では見ることは余りありません。これはどこで保管されるかというと、多分、儀典局とかいうようなところとかであるので、そういうようなものは基本的になくて、例えば、日本国憲法だって僕らは六法全書でしか見ないわけで、ああいうふうなものを、実際に内閣で署名したものを、あれが原本だといって、日本国憲法はあれを見なければ日本国憲法じゃない、見てないじゃないかというふうにはならないわけで、コピーするときは、タイプで当時はやっていましたし、そのものから複写をすることも基本的にはないようです。ですから、すべて、リタイプというんですか、そういうことで文書は成っていますが、そういう中でのもっと広い意味で調査をしていく。

 特に、調査の流れは、基本的には、文書があって、そのあり方を全部見ていくというものからしないと、欠落部分というのは当然あるのかもしれません。アメリカの資料の中にも当然あります。というのは、当時の段階から既に重要なものを抜いておくことはあって、返さない場合があるんですね。そういう意味では、ないからではなくて、前後のものを見ていけば、ここは当然あるべきものがあるぞということです。

 ちょっと先ほど言いましたが、コピーというのは一部のためにあるわけじゃくて、ほかの人が見るためにコピーがつくられていますので、外務省のどこかは知りませんが、基本的に文書が並んでいるところ以外のところにもこのコピーが回っていて、例えば北米局なら北米局が条約局に送っている。だから、条約局にも北米局にも同じものがあるはずなんです。ですから、一つだけ調べるのではなくて、いろいろな所管、関係しそうなところ、あるいはしないところもあるかもしれません。例えば、外務省なら大蔵省に送っているかもしれません。大蔵省のものは、外務省に送っているのも写しがあると思うんですね。

 そういう意味では、ただ単に外務省だけではなくて、大蔵省なり、あるいはそれに関連するような、防衛庁なら防衛省なりというところにも複写があって、それぞれの役所では、簡単に言うと、自分たちにとって大事なものはよくわかります。ほかから来たものは余り大事でないので、ある意味でいえば、保管としては結構抜いたりしないんですね。ですから、自分たちの利益に、省の利益にかかわるものは、ちゃんと大事に、抜いたりしますが、ほかから来たものについては、ほかのものだから余りしないという意味では、外務省だけではなくて、外務省の中の他の部局も含め、あるいは外務省以外の、その交渉にかかわったような他の省庁の記録も一緒に見ていかなければよくわからない。例えば、今でいえば、外務、防衛と、お金が絡んでいますので、大蔵と防衛と外務というところを、三カ所同じような形で調査していくことが必要かと思います。

 以上です。

赤松(正)委員 時間がないので、では、携わられた坂元先生と春名先生はあれにして、新原先生、今の同じ、第二段階で行われるとしたら、どういう観点を望まれるか。

新原参考人 先ほどもちょっとほかの委員からの御質問で申し上げましたけれども、今、日米間にこういう密約があるとわかっているものがありますね。やはりそこに一つは的を絞って調査をする。それは外務省がやるということもあるでしょうし、またやはり国会が主導してやっていただくということもあるでしょうけれども、今回の経験に学んで、今回の、よかった点も当然あると思いますけれども、やはり改善しなきゃいけない点もあると思うんですね。

 同時に、そういう第二段に踏み出しながら、やはり情報公開法の改善とか、あるいは、公文書管理法もいよいよ施行されたわけですけれども、それについても、関係の専門家からは、アメリカの公文書管理法と違って公文書の概念規定が欠けている、このために非常に大きな欠落が今後とも生じ得るということが言われていますから、やはりそういう根本的な手直しも並行してやっていくということは大変大事じゃないかと思っております。

赤松(正)委員 我部参考人にお聞きしたいんですが、先般、当外務委員会の理事、委員長を先頭に、沖縄に行ってまいりました。沖縄の例の普天間基地の移設の問題をテーマに行ってきたんです。そのときに、私も、いろいろな方々と、もちろん短い時間でしたからすべてを尽くしているわけじゃないんですけれども、非常に強く印象に残ったのは、県知事が最後の会談で言われたんですけれども、こういうふうな県外という今の県民の希望というものが今のような形で損なわれるということになると、要するに歴史認識の問題が起こってくるということを非常に懸念するんだという意味合いのことを言われました。

 私は、今まで、さっき我部先生御自身が使われたいわゆるホスト・ネーション・サポート、日本の広い意味でのホスト・ネーション・サポートに対して、アメリカ並びに米軍のいわゆるゲスト・ネーション・マナーが足らなさ過ぎる、そういう次元で、ホスト・ネーション・サポート対ゲスト・ネーション・マナーという観点でとらえていたんですが、これはいかにも表層的なとらえ方かなという自分自身の反省もあって、要するに、これは、それこそ日中関係、日米関係のひそみに倣って言うと、日沖関係というか、日本対沖縄という次元の話が深層部分ではあるな。それはやはり、みんな大人で、そこに余り触れない格好で来ていたのが、こういう形になるとそういうことがむき出しになってくる、そういう懸念というものを県知事は感じていたと思うんですが、私自身もそういう側面があるなということを強く感じてまいりました。

 それで、今回の二つの、沖縄にまつわる三と四の問題も含めて、今申し上げたようなことについて、我部先生のお考え方を聞かせていただきたいと思います。

我部参考人 ありがとうございます。

 先ほどから、核の艦船の寄港をして、日本では二・五原則。なぜ二・五か。御存じかどうかは知りませんが、多分、核の持ち込みの中で、貯蔵は〇・五あるけれども、あとの〇・五は核を搭載した船は日本の港に入ってきてよろしいという主張で二・五と言っているんだと思います。

 二原則ではなくて二・五と言っているわけですが、先ほど少し述べましたが、沖縄の基地には、核を搭載した船の寄港問題ではなくて、沖縄には核を貯蔵するという持ち込みということがあって、先ほどの佐藤・ニクソン共同声明の中でいえば、沖縄については、有事の際には二原則になってしまうということになります。日本本土においては二・五原則ということを唱えていれば済むように考えられていますが、沖縄において貯蔵するということは二原則になってしまうというところが大きな違いであります。

 それが、先ほど、普天間移設問題で県外というのは、日本本土においては、県外というのはつまり日本本土かというと、それだけのことを言っているわけではありませんが、沖縄だけにこうした二原則が当てはめられ、もう少し言いますと、二・五原則の〇・五というのは、ただ単に、先ほどからしょっちゅう出てきますが、艦船だけの問題であります。航空機については全く論じられておりません。今回の公開された外交文書においても、航空機についてはどうするかということについて、外務省は、これは痛い問題だ、これについてはすぐには結論が出ないというところで見送っておりますが、すべて議論を艦船だけに集中させておりますが、それは間違いであります。

 トランジットというのは、御存じのとおり、航空機でトランジットという場合は、目的地があって、途中で寄るところをトランジットといいます。目的地があるんですよ。日本に入ってくるのがトランジットとすれば、航空機の場合、常識的に考えると、どこかへ行くということを指しているわけです。これは、ただ単に核兵器を搭載している以外に、直接の作戦行動がここで行われる可能性があるということを含んでいるわけですので、ただ単なる日本の核の持ち込みの非核三原則よりも、自由な基地の使用というのが沖縄を経由してなされるというのが、先ほど出てきました佐藤・ニクソン共同声明の根幹にあるところであります。

 そういう点が日本の本土においては余り重視されていないというところが、県外への移設というものが沖縄の中から強く出てこざるを得ないのは、これは保守であれその他の野党であれ、どういう人たちにとっても、共通に、本土がそういうふうに見えてしまうというところがあるんだと思います。

 以上です。

赤松(正)委員 ありがとうございました。

鈴木委員長 次に、笠井亮君。

笠井委員 日本共産党の笠井亮です。

 きょうは、大変お忙しいところを、我部参考人、坂元参考人、新原参考人、春名参考人、大変貴重な御意見ありがとうございました。きょうは、私、最後になりますので、よろしくお願いいたします。

 まず、新原参考人に伺いたいと思いますが、参考人は、八七年以来、アメリカの解禁文書を追っかけておられるということで、この日米の密約をめぐる問題についてこだわって追求されてきたということもお話を伺いました。今回の問題というのは、まさにキーワードは、先ほどほかの参考人の方もありました、密約があったのかないかという問題、そして、なぜ今ということも議論があったわけですが、私は、なぜ今という以前の、そもそものところで、密約とは何かという問題に関連して伺いたいと思うんです。

 なぜ、日米安保条約をめぐって、核持ち込みにせよ、あるいは朝鮮半島の有事にせよ、沖縄返還と有事の核の再持ち込みにせよ、原状回復補償費の肩がわりにせよ、こうした問題を非公式な合意文書、密約にしなければいけなかったのか。旧安保条約以来の日米の軍事の取り決めと、それから国民の意思あるいは国民の気持ちというのがありますね。やはり二度と戦争を繰り返させない、あるいは被爆国としてということがありながらの、その根本矛盾ということにかかわっているんじゃないかということも思ってはいるんですが、この密約論について、なぜそもそもこの問題を密約にしなければいけなかったのかということについて、参考人の御意見を伺えればと思いますが、いかがでしょうか。

新原参考人 お答えします。

 私は、先ほど我部さんもちょっとお触れになったんですけれども、日米の密約をずっと見ていると、言葉は違うかもしれませんが、日本側の行動を束縛したりするものが多くて、アメリカ側の行動を束縛するような密約はないという趣旨のことを言われたと思うんです。

 それで、戦後の密約を見ていますと、やはり日米安保条約の根幹から来ている。その日米安保条約というのも、七年間にわたる全面占領、沖縄の場合は一九七二年まで続いた二十七年間の全面占領があって、そのことでアメリカが行使してきた軍事的な特権というのがきちっと清算されないまま続いてきた、これにやはり根本的な原因があると思います。

 今の日米安保条約というのも、かなりの程度アメリカに対する従属的な仕組みというのが続いていまして、アメリカのための軍事的特権を相当膨大に保障していると思います。そういうことを書いたアメリカの解禁文書がありまして、日本では基地の権利、基地権が大変寛大に保障されているということを言っております。

 そういうやり方というのは、実は、七年間の全面占領から旧安保条約に移るときにも見られたことで、あのときは、一九五一年九月八日にサンフランシスコで対日平和条約が調印されましたけれども、その日の午後、吉田全権などが米軍基地の中に、第六軍の基地の中に連れられて、旧安保条約の調印を、前の晩十一時ごろになって初めて言ってきて、急にやるというので、日本から行きました六人の全権の二人は抗議して参加しませんでした。そして、四人の全権が出席したんです。これは一九五〇年代の後半の国務省の極秘報告書にあるんですけれども、アメリカ側は旧安保条約で四人が署名した、日本側は吉田茂氏一人しか署名しなかった。それはなぜかというのをアメリカの解禁文書が明らかにしています。

 それは、日本から来た六人の全権のうち、前もって日米安保条約の案を読んでいたのは吉田茂一人だったからだ、こういうことなんですね。だから、終わった段階では公表されましたけれども、調印までは一切報道も禁止されました。だから、まるでこれは密約のような結ばれ方だったと思うんですね。

 なぜそうしたかというと、特に当時は、戦争が終わって、もう二度と戦争に巻き込まれたくない、日本はやはり中立化すべきだという世論が非常に強かったわけですから、国民世論の大勢と矛盾するような、アメリカの軍事的特権を保持した安保体制をつくるということに非常に矛盾があった。だから、安保条約そのものも結ぶまで秘密にしたけれども、それに伴っていろいろな密約ができた。最初にできた密約は、先ほど言いました裁判権放棄の密約です。

 今度は、なぜ一九六〇年の安保条約改定のときに幾つもの密約が出てきたかというと、これはやはり岸信介首相が、今度は自主独立の日本になるんだ、今までは非常に対米追随的な安保条約だったけれども、今度は自主的な条約にするんだというふれ込みだったんですね。そのふれ込みの一番の光る目玉というのは、事前協議だったんです。

 ところが、その事前協議というのをアメリカは一応受け入れたんだけれども、交渉をやっている過程で出てくるのは、アメリカはやはり軍事的な自由を損なわれたくない。もちろん日本の本土に核兵器を貯蔵するについては日本側ともよく協議していくけれども、艦船、航空機に核を積んだものはそのまま入れたいということで、そこを了承したのが核密約ですけれども、そういうものを表向きにしたが最後、今度は内閣がつぶれるかもしれない、そういうことが考えられる事態ですね。そういうことが次々に密約になっているんです。

 これは後の話ですけれども、一九七四年にラロック元海軍提督が大変重要な証言をしまして、核積載能力のある艦船は日本を含む外国の港に寄港するときには前もってそれを外す、おろすことはしないと言ったんですね。

 これは非常に大きな衝撃を与えまして、一九七六年一月の米国務省の「日本外交のトレンド」という極秘報告書を読みますと、もし本当に日本に核兵器を積んだ艦船や航空機が入ったという確かな証拠を持って国民の前に暴露されたら、次の幾つかのオプションの一つが起こり得る、第一は、日本政府は崩壊する、第二は、今、日本政府に厳しく批判をしている野党の指導者に対する日本国民の信頼が急に高まる、こういうふうなことを言っているんですね。

 ですから、この密約を結んだ当事者、アメリカであり、当時の日本の政府の指導者というのは、もし密約で結んだような内容をオープンにしてしまったら、それはとてももたないし、政府自身が崩れるかもしれない、そういう思いであったんだと思うんです。

 ということは、要するに、もう少し言葉をかえて言うと、今の日本で、先ほどの我部さんの話もそうですけれども、アメリカの軍事的特権が非常にたくさん守られている。それで、非常に目立つようなこと、あるいは国民の意思に明らかに反するようなことをやるときには、やはりこれを隠し立てしなきゃいけない。そういうことで密約ができたと思います。

 先ほど別の委員の方からの御質問に答えて、どういう密約がまだ残っているかということを言われまして、一つ言い忘れたことがあります。

 これは大変深刻な問題ですが、旧安保条約当時、旧行政協定の二十四条、これは今の安保条約の五条に相当するんですが、これに絡む密約があったということがわかっています。それは、有事の際に日米が共同作戦をする、そのときに米軍の指揮下に自衛隊が入るという密約、これがわかっております。これがその後も続いたんじゃないかという疑惑を持っております。

 いずれにしても、アメリカの日本における軍事的権益、それからアメリカの軍事戦略のもとで自衛隊を含む日本の国土とかさまざまなものをアメリカの戦争政策のために使う、そういうことで、国民との間の矛盾が一番甚だしくなるところを密約にするということだと思います。

笠井委員 次に、坂元参考人に伺います。

 先ほども議論があった問題ですが、一九五八年から六〇年の日米安保条約の改定の交渉における事前協議の問題の協議の過程のことなんですけれども、先ほど新原参考人から、報告書にかかわって、交渉当時、核搭載艦船を事前協議の対象外とするとの米解釈を日本側に明らかにした形跡はないという部分に関連しての反証として、一九五八年十月二十二日の解禁文書の存在ということでここでも紹介されたわけですが、これは明らかに、日本側に明らかにした、説明したという一つの文書だというふうに言えるんじゃないかと思うんですが、それはいかがですか。

坂元参考人 私は、説明したと言っているんですね。説明した形跡がないというのは、二項Cの意味について説明した形跡がない、こういうふうに申し上げているのです。

 そこは誤解がありまして、核搭載艦船の寄港を対象外とするというのは、NCNDだからできないんだというような説明はしているんですね。これは、後で中をお読みいただくと書いておりますけれども、藤山外相のそういう回顧談があるわけでございます。

 それから、新原さんの、先ほども申し上げましたけれども、訓令に基づいて述べたと言っていますが、少し訓令とは違う、オブラートに包んだ言い方をしているんですけれども、その経緯、それから日本がどう受け取ったかという経緯を全部この中に書いた上での話でございまして、私は、核搭載艦船の寄港を対象外とするとの説明を受けていないと言っているんじゃないんです。それについての合意がなかった、こういうふうに言っているわけなんですね。

 それは実は、日本側だけじゃなくてアメリカ側の文書にも、共産党がお使いになった文書にもはっきり書いてあるんですね。お読みしてもよろしいんですけれども、そういうことでございます。

笠井委員 いや、私は、報告書に形跡がないというふうに書いてあるから、そのことについて言っているのでありまして、同時に、今、参考人がおっしゃったんですが、いずれにしても、米側に明確な合意の文書が一切ないというふうにおっしゃるんですが、それについても、例えば一九五九年の六月二十日付のマッカーサー大使がアメリカの国務長官にあてた交渉の合意成立当時の交渉過程を伝える報告電報がございます。

 これを見ますと、五九年の六月十八日に、マッカーサー大使が、条約、それから公表用の事前協議のフォーミュラ、定式を含む交換公文、その定式を説明する討論記録などの米側最終案を手渡して、そしてこれは単一のパッケージだということも言って、丸ごと全体を受け入れるか拒否するかの回答をしてほしいと日本に迫ったと。これに対して、翌日、日本側が岸首相の意思として、三文書のすべてのポイントを受け入れるけれども、交換公文について一点だけ修正を求める回答を行ったということで、これを米側が二十日に承認して、完全な合意に達したということも、経過が明記されているわけですね。

 だから、こういう文書もあるわけですから、形跡がないどころか、きちっと経過もあって、そして完全な合意に達した文書もあるということは明らかではないかと思うんです。

 それで、今手を挙げたのに対して、ついでに、時間の関係もありますので伺いますが……(坂元参考人「よく読んでください」と呼ぶ)いや、読んで言っているんですけれどもね。

 参考人が書かれた本で「日米同盟の絆」という本がございます。私も拝見しまして、読ませていただきましたが、ここにも、五九年の五月十日、大使館発国務省電の文言を引用されて、これを示された日本側は、艦船の寄港は事前協議の対象外にしたいというアメリカ側の意向を十分理解していた、交渉の過程で、ということまで言われているわけですが、それはそういうことではっきりしているんじゃないんでしょうか。いかがですか。

坂元参考人 ですから、そこは、二項Cについて、その解釈についてよく説明された形跡はないのは事実でございます。

 そうじゃなくて、核搭載艦船の寄港は対象外だ、そのようなことを言っているのは、私は言っているというふうに書いているわけなんですね。ですから、そこは大きな誤解がまずあるわけでございます、今の笠井委員のお話に。

 それからもう一つ、やはり読み上げた方がいいと思うんですけれども、共産党が二〇〇〇年にお使いになった文書の中にも、結局、核搭載艦船それから飛行機の問題については、はっきりと、直接的には日本側との間で問題にならず、「ノー スペシフィック アンダースタンディング ワズ リーチド」と書いてあるんですね。つまり、具体的な合意ができなかった、何らできなかったと書いてあるんですね。

 私は、今回、共産党からもっと褒められてしかるべきだというふうに思うわけです。というのは、明確な合意がなかった、しかし密約はあったというのが私の主張なわけなんですね。それが何かお気に召さないようですけれども、お使いになった文書の中に、明確な合意はないというふうに言っているわけですから、何かちょっとおかしいなと私は思うんです。

笠井委員 私は、先ほどの六六年の文書については、先ほど新原さんが言われたような経過で、きちっとそういう話があったということは先ほど説明があったとおりで、解釈についての説明がなかったということについて、そういう事実はないという証拠が何かあるんですか、逆に伺いますけれども。それについては何か文書がありますでしょうか。

坂元参考人 だから、説明した文書はないんです。それぞれ、日本側は説明されていないと言っているわけであります。アメリカ側は、この二項Cを出したときに、日本側がわかっているかどうか疑念があった、そういう文書が実はあるんですね、日本で今回出たときの中に。ですから、私は、そういうことを総合判断して申し上げているんです。

 繰り返しになりますが、「ノー スペシフィック アンダースタンディング ワズ リーチド」と書いてあるわけなんですね。これをお使いになって政府を追及なさったときに、なぜここのところを説明なさらなかったのかと私は思うわけであります。

笠井委員 その文書については、それも含めたいろいろな問題についてきちっと提起した上で言っているわけですよ。そして、アメリカ側の文書を見ますと、時間の関係で言えませんが、いろいろな形で、アメリカ側の解釈はこうであるということもやりながら、やりとりして、日本側も最終的に合意したということになっているわけです。

 それで、坂元参考人にぜひ私も伺っておきたいのですが、先ほど来、参考人御自身が報告書の二章の最後のところを引用されながら、外務省の文書については重要部分に欠陥があって解明できないところが残った、当然あるべき文書が見つからずに、また見つかった文書に不自然な欠落があるのは遺憾だということまで言われているわけですね。

 先ほどもおっしゃっていましたけれども、米側の資料だけじゃなくて、日本側の資料でもやらなきゃいけない。しかし、日本側の資料には重要な欠陥があるというふうに言われた上で、なおかつ、密約があって、褒められてしかるべきとおっしゃいましたが、密約はあったとは言われていないわけです、暗黙の合意という形でしか言われていないわけですから。暗黙の合意としか言われていない。そして、密約はなかったということになってくると、では、なぜ暗黙の合意という形でやれるような結論づけができたのか。つまり、日本側の文書に欠落があったのに、なぜそういう結論が出せるのか。

 米側について言うと、先ほどの新原さんが示された資料もそうです。それから、二〇〇〇年のときにもさまざまな文書を私たちも出しました。そして、その上で議論して、さらに新たな文書も出たということで先ほど五九年の六月二十日付の問題を申し上げたんですけれども、そういうことがあるのに、なおかつ日本側には欠落があると言いながら、なぜそういうふうに結論づけることができるのかな、私は率直な疑問なんですけれども、いかがでしょうか。

坂元参考人 どうも申しわけございませんが、笠井さん、アメリカ側の文書に欠落がありまして、アメリカが残して出てきたものはいっぱいあるわけなんですね。しかも、アメリカ側の文書だけで一方的な解釈をしないというのが今回の調査の非常に重要なポイントなんですね。日本側と突き合わせてみてどうかということでございますから、もうちょっと日本側と文書を突き合わせて、せっかく出てきたんですから、突き合わせてみて、これまで共産党がお示しになった見解が正しいかどうかということを検証なさったらいかがかなと思います。

笠井委員 突き合わせる文書といいますが、それぞれ、まだ全部があるかどうかはあれですよね。ただ、アメリカ側にある文書で日本側にないものがあるとか、そして、日本側がどうなっているかというのは大事な問題があるとさんざん議論があったわけです。

 つまり、そういう状況の中で、有識者委員会として第二章を担当される坂元参考人がこう結論づけるとおっしゃられる、断定できる、判断できるというのは、私は非常に理解に苦しむところだなと思っております。

 例えば、先ほどのボーレン大使あての電報文ということで、これも拝見しましたけれども、日本にいるマッカーサー大使が本国からの訓令を受けてやったことについて、これをフィリピン大使に伝えるということでありますが、そのときに、ここにもありますが、そういうことでその訓令に従ったもので、以下のとおりと言いながら、「私は岸と藤山に、合意した解釈をどうしたら最もよく記録に残せるかについて、彼らの意見を尋ねた。」というやりとりを含めてやっている。

 そこまでやっているという状況の中で、もしマッカーサー大使が、この報告書には二十五ページ以下にいろいろ書いてありますが、きちっと訓令どおりにやっていなかったことを、ほかの任地の大使にあてて私は訓令に基づいてこうやった、事実は違ったなんということがわかったら、これはもうマッカーサー大使自身が任務を果たしたかどうかという根本が問われちゃう問題ですね。ここまで出てきている文書があるわけですよ。

 だから、そういう問題について、私はやはりきちっと検討する。少なくとも米側には欠落がある、日本側にも重要部分で足りないと坂元参考人もおっしゃっているのであれば、その時点ではまだ結論づけられないというふうにされるのが少なくとも研究者としてされることではないかな、私はそのことを非常に痛感いたします。

坂元参考人 誤解があったらいけませんので、申し上げます。

 私は、自分の結論が絶対正しい、そういうことを言っているわけじゃございません。今後、新しい資料が出てくればそういうことについてまた考える、よりよい結論が出る可能性を否定するものではございません。それは歴史家として当然のことでございます。ですから、私は、そこのところに何か誤解があるのだったら、その誤解は解いていただきたいというふうに思うわけでございます。

 それから、アメリカ側の資料にも欠落があり、日本側の資料にも欠落がある、その中での話をしているわけでございまして、そこで完全な結論じゃないじゃないかとおっしゃられても、それは今の調査のこれまでの限界だということだと思います。

笠井委員 ただ、これは学術研究をなさっていただくということじゃなくて、外務省がやってきたこと、日本政府が歴史的に五十年以上にわたっている問題について、大変な問題があった、密約があってうそをついてきたということも含めて報告書の中でも触れられています。そういう問題について、外務省が有識者の方々に集まっていただいて、どうかということで報告書を出していただくという問題の性格です。

 そして、外務省は、日本政府は、それに基づいて、有識者委員会の報告を了とするとしながら、今後の外交政策をやる、非核三原則もどうするかという議論もしていく。国会にもそれが報告されて、大臣に伺っても、大臣は有識者会議の報告によればということで、これはそれだけの責任を持って皆さんがなさっていることなので、個人研究論文じゃないと思うんですよ。

 だから、まだ足りないものがあればそれで結論づけて、いや、歴史の研究ですから今後もやっていきますということでおっしゃるのは、それは個人としてはあると思うんです、私は率直に。しかし、これは本当に日本政府、日本国の、あるいは日本国民にとって命運がかかった問題、それだけの重大問題についてなさっているということについては、ぜひ私はそういう立場で今後の対応もしていただきたいなと思います。

 時間が限られておりますので、新原参考人にあと若干伺いたいんですが、NCND政策ということで先ほど来ありましたけれども、こういう政策をアメリカがとってきたねらいというのがどこにあるのかという問題。

 それから、あわせて、今回の報告書を受けて、まさに政府がそれに基づいて答弁をするということでやられているわけですけれども、そして、質問主意書も、この問題で我が党の志位委員長も出して、答弁書も来ましたが、その答弁ぶりを見ますと、一九九一年にアメリカがとった核政策を根拠にして、「現時点において、」「核兵器を搭載する米国の艦船の我が国への寄港はないと判断している。」というふうに言うばかりであります。

 しかし、そこには、一九九一年のブッシュ政権による海外からの戦術核兵器引き揚げ以降、九四年にはアメリカはNPR、核体制の見直しということもやっておりますが、それを含めた核戦略の事実関係がどうもきちっとやはり踏まえられていない、隠されているというふうに思うんですけれども、NCNDの問題と九一年以降の米核戦略とのかかわりでの御意見を伺えればと思うんですが、いかがでしょうか。

新原参考人 まず、NCND政策の問題ですけれども、私は率直に言いまして、今回の有識者委員会の報告書のアメリカの軍事戦略の歴史を書いた部分で大変がっかりしたんです。本当の意味でアメリカの核戦略をちゃんと勉強した人が書いたのじゃないという気がするんです。

 ニーザー・コンファーム・ノア・ディナイ、アメリカの核兵器の所在を否定も肯定もしない、確かに日付だけ書いてあります、一九五八年一月二日、国務省やその他のアメリカの省庁が集まってこれをやったというのですけれども、実はアメリカでは、一九七四年に米上院外交委員会で、このNCND政策はなぜできたかという大変重要な聴聞会を開きました。そこに出てきたのは、ポール・ウオンキという、もう亡くなりましたけれども、軍備管理軍縮局長、それからモートン・ハルペーリン、これは国家安全保障会議のシニアスタッフで、沖縄核密約の作成に関係した人間なんです。

 その二人が大変重要なことを言っていまして、要するに、ウオンキは、これは同盟国での核持ち込みへの反対勢力への恐れを動機としたものだ、特に海軍のそれであるということを言っています。

 それから、ハルペーリン、これは現存の人なんですけれども、例えば、当時、これは七一年にワシントン・ポストに書いたものなんですけれども、敵、その当時はソ連とか今では中国という敵から隠すためというけれども、そんなことはない、それはもうそれぞれちゃんと軍事衛星とかいろいろなことで調べている、要するにこれは同盟国の国民を封じ込めることをねらったものであるということを言っているんです。これが本質なんですね。

 ですから、やはり今後とも核持ち込みがあり得るからNCND政策を続けるというのが九一年の声明でしたし、現に、ここにも持ってきましたけれども、二、三年ごとに米海軍がNCND政策の指示書を出しています。一番新しいものは九六年の二月のものであります。

 だから、そういうことを解明した上で今回の密約の分析調査をやられてほしかったんですけれども、そこは非常に、率直に言って、通り一遍のものにすぎないものになっているというふうに思います。

 それからもう一つの、今の核持ち込み体制というのは、今回、閣議で決定されて共産党の志位委員長に出された答弁書というものもありますけれども、結局、九一年、九二年のことしか書いてありません。九一年のパパ・ブッシュによる決定が九二年の七月に完成したという発表があって、そこまでのことしか書いていないんです。

 ところが、実は、先ほどもちょっとほかの委員に触れましたが、九四年、クリントン政権のときに、核体制見直し、NPRをやって、水上艦船からは核兵器をおろすけれども、攻撃型原子力潜水艦の核トマホーク積載能力、これを続けるということになっております。そして、二十一世紀になって、しばしばこのことを米政府は公式に繰り返しています。そして、昨年、米議会の特別委員会で今後の戦略体制をどうするかということを決める報告書を出しましたら、この中で、特にアジアにおいては、核巡航ミサイルによる核抑止力に依存するところが大きいということを言っております。

 私自身が、アメリカの核専門家のハンス・クリステンセンから提供を受けたことがありますが、二〇〇〇年現在で、太平洋地域に二十数隻攻撃型原子力潜水艦がいたときに、十隻が核巡航ミサイルを積載する特別の体制と認証を受けているということで、その十隻の名前も知らせてくれたことがあります。

 これが今もずっと続いていて、今、二〇一三年にやめるという発表に一応なっているんですけれども、最近の報道を見ましたら、どうもオバマ政権がこの問題でも足踏みしているらしくて、二〇一三年には漸次的に減らすという報道に切りかわっています。ということは、二〇一三年になってもやめないで続けるということではないか。

 最近は、ヨーロッパのB61核爆弾についても、ヨーロッパ側から撤去という要求は出ているんですが、最近のAP電によりますと、これもオバマ政権は足踏みして慎重になっているということでありますから、そういう傾向はずっと続いている。

 だから、核持ち込みの可能性、危険というのは決して過去のものではないということを言いたいと思います。

笠井委員 時間になりました。

 オバマ政権になってもそういう状況は続いているということでお話があったと思います。

 我部参考人と春名参考人、時間の関係で伺えなくて大変失礼しました。また別の機会にいろいろ伺いたいと思います。

 ありがとうございました。

鈴木委員長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、参考人各位に一言御礼を申し上げます。

 坂元参考人、春名参考人におかれましては、有識者委員会での貴重なお話をこの国会の場で披瀝をいただきまして、本当にありがとうございました。また、我部参考人、新原参考人におかれましては、これまでの密約問題に取り組んでこられました非常に見識のあるお話をこの場で御披露いただきまして、大変ありがたく思っております。

 また、参考人各位から、さらなる真相解明、今回の外務省の調査だけで終わらせないで、国民に対する真相解明、歴史の検証をぜひともしていただきたいという話を言われましたので、委員会としても重く受けとめて、さらにこの真相解明に向けての努力をしていきたい、こんなふうに思っています。

 重ねて厚く御礼を申し上げます。

 次回は、来る七日水曜日午前八時五十分理事会、午前九時委員会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。

    午後零時三分散会


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