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第1号 平成13年2月8日(木曜日)

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本国会召集日(平成十三年一月三十一日)(水曜日)(午前零時現在)における本委員は、次のとおりである。

   会長 中山 太郎君

   幹事 石川 要三君 幹事 高市 早苗君

   幹事 中川 昭一君 幹事 葉梨 信行君

   幹事 鹿野 道彦君 幹事 島   聡君

   幹事 仙谷 由人君 幹事 赤松 正雄君

   幹事 塩田  晋君

      大島 理森君    太田 誠一君

      奥野 誠亮君    久間 章生君

      佐田玄一郎君    新藤 義孝君

      杉浦 正健君    田中眞紀子君

      中曽根康弘君    中山 正暉君

      根本  匠君    鳩山 邦夫君

      平沢 勝栄君    保利 耕輔君

      三塚  博君    水野 賢一君

      宮下 創平君    茂木 敏充君

      森山 眞弓君    山崎  拓君

      五十嵐文彦君    石毛えい子君

      枝野 幸男君    大出  彰君

      中野 寛成君    藤村  修君

      細野 豪志君    前原 誠司君

      牧野 聖修君    山花 郁夫君

      横路 孝弘君    太田 昭宏君

      斉藤 鉄夫君    武山百合子君

      春名 直章君    山口 富男君

      辻元 清美君    土井たか子君

      野田  毅君    近藤 基彦君

平成十三年二月八日(木曜日)

    午前九時開議

 出席委員

   会長 中山 太郎君

   幹事 石川 要三君 幹事 新藤 義孝君

   幹事 中川 昭一君 幹事 葉梨 信行君

   幹事 保岡 興治君 幹事 鹿野 道彦君

   幹事 島   聡君 幹事 仙谷 由人君

   幹事 中川 正春君 幹事 斉藤 鉄夫君

   幹事 塩田  晋君

      伊藤 公介君    伊藤 達也君

      奥野 誠亮君    小島 敏男君

      古賀 正浩君    下村 博文君

      菅  義偉君    田中眞紀子君

      中曽根康弘君    中谷  元君

      西田  司君    鳩山 邦夫君

      二田 孝治君    三塚  博君

      森岡 正宏君    森山 眞弓君

      山崎  拓君    渡辺 博道君

      枝野 幸男君    大石 尚子君

      大出  彰君    桑原  豊君

      小林  守君    筒井 信隆君

      細野 豪志君    前原 誠司君

      松沢 成文君    山花 郁夫君

      上田  勇君    太田 昭宏君

      藤島 正之君    塩川 鉄也君

      春名 直章君    金子 哲夫君

      山内 惠子君    小池百合子君

      近藤 基彦君

    …………………………………

   参考人

   (岩手県立大学長)    西澤 潤一君

   参考人

   (東京大学教授)     高橋  進君

   衆議院憲法調査会事務局長 坂本 一洋君

    ―――――――――――――

委員の異動

一月三十一日

 辞任         補欠選任

  大島 理森君     金子 一義君

  太田 誠一君     二田 孝治君

  久間 章生君     西田  司君

  佐田玄一郎君     伊藤 達也君

  杉浦 正健君     菅  義偉君

  高市 早苗君     中谷  元君

  根本  匠君     森岡 正宏君

  平沢 勝栄君     保岡 興治君

  保利 耕輔君     津島 雄二君

  水野 賢一君     下村 博文君

  宮下 創平君     伊藤 公介君

  茂木 敏充君     渡辺 博道君

  五十嵐文彦君     生方 幸夫君

  石毛えい子君     大石 尚子君

  中野 寛成君     小林  守君

  藤村  修君     筒井 信隆君

  牧野 聖修君     中川 正春君

  山花 郁夫君     中田  宏君

  横路 孝弘君     松沢 成文君

  赤松 正雄君     上田  勇君

  武山百合子君     藤島 正之君

  辻元 清美君     金子 哲夫君

二月八日

 辞任         補欠選任

  津島 雄二君     古賀 正浩君

  中山 正暉君     小島 敏男君

  生方 幸夫君     桑原  豊君

  中田  宏君     山花 郁夫君

  山口 富男君     塩川 鉄也君

  土井たか子君     山内 惠子君

  野田  毅君     小池百合子君

同日

 辞任         補欠選任

  小島 敏男君     中山 正暉君

  古賀 正浩君     津島 雄二君

  桑原  豊君     生方 幸夫君

  山花 郁夫君     中田  宏君

  塩川 鉄也君     山口 富男君

  山内 惠子君     土井たか子君

  小池百合子君     野田  毅君

同日

 塩田晋君が幹事を辞任した。

同日

 新藤義孝君が幹事に当選した。

同日

 幹事高市早苗君及び赤松正雄君一月三十一日委員辞任につき、その補欠として保岡興治君及び斉藤鉄夫君が幹事に当選した。

同日

 幹事島聡君同日幹事辞任につき、その補欠として中川正春君が幹事に当選した。

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 幹事の辞任及び補欠選任

 参考人出頭要求に関する件

 日本国憲法に関する件(二十一世紀の日本のあるべき姿)




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     ――――◇―――――

中山会長 これより会議を開きます。

 この際、去る一月三十一日の議院運営委員会における幹事の各会派割当基準の変更等に伴い、幹事の辞任及び補欠選任を行います。

 幹事島聡君及び塩田晋君から、幹事辞任の申し出があります。これを許可するに御異議ございませんか。

    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕

中山会長 御異議なしと認めます。よって、そのように決しました。

 ただいまの幹事の辞任による欠員のほか、委員の異動に伴いまして、現在幹事が四名欠員となっております。その補欠選任につきましては、会長において指名するに御異議ありませんか。

    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕

中山会長 御異議なしと認めます。

 それでは、幹事に

      新藤 義孝君    保岡 興治君

      中川 正春君 及び 斉藤 鉄夫君

を指名いたします。

     ――――◇―――――

中山会長 日本国憲法に関する件、特に二十一世紀の日本のあるべき姿について調査を進めます。

 この際、参考人出頭要求に関する件についてお諮りいたします。

 本件調査のため、参考人の出席を求め、意見を聴取することとし、その人選等につきましては、会長に御一任願いたいと存じますが、御異議ございませんか。

    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕

中山会長 御異議なしと認めます。よって、そのように決しました。

    ―――――――――――――

中山会長 本日、午前の参考人として岩手県立大学長西澤潤一君に御出席をいただいております。

 この際、参考人の方に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にしたいと存じます。

 次に、議事の順序について申し上げます。

 最初に参考人の方から御意見を五十分以内でお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。

 なお、発言する際はその都度会長の許可を得ることになっておりますので、御了承を願います。また、参考人は委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おきをお願いいたします。

 御発言は着席のままでお願いいたします。

 それでは、西澤参考人、お願いいたします。

西澤参考人 小さな大学で仕事を務めさせていただいております現在でございますけれども、このような大変意味のある会に呼んでいただきまして、意見を述べさせていただくことを大変光栄に存じております。

 最初に申し上げたいことは、現在の憲法というものが、個人の権利を守るということについては大変丁寧に書いてあるわけでございますけれども、よく読めば書いてあるとは思いますが、逆に、そのような社会を守っていく責任が国民の一人一人にあるのだと。それから、もちろん個人差はございますけれども、自分の持っている資質を十分に発揮して、社会の一員として社会を維持するために努力を続けるということに関する義務があると思いますが、そのことに対する言及が少し足らないのではないかという印象を平素から持っているところでございます。

 その次の問題といたしまして、今の日本人の国を守るあるいは社会を守るという感覚が、軍事に関することがほとんど主になっているというふうに考えているわけでございますけれども、現代社会というのは、決してもう軍事だけではない。既に御存じのとおり、日本は軍事戦争には敗れたわけでございますが、その後の生産ということに関しましての国際戦争では大変な勝利をおさめたという言い方をお許しいただきたいと思います。

 しかし、それで少し慢心をいたしまして、現在、新しい分野の科学技術を展開していくという、ある意味からいえば世界の人間がすべてしょっている共通の義務に対しては、どうも十分な対応ができていない状態になっているのではないか。その原因としましては、国民一人一人の持っている資質を十分に発揮させていくということに対するやり方とか、あるいは努力が少し欠如しているというふうに見なければいけないわけだと思います。

 最近は、御存じのとおり、世界を通じてのマネー戦争で日本は大変ひどい敗戦を食ったという話を聞いているわけでございまして、なかなか真相は私たち素人にはわからないわけでございますけれども、そのようなこともやはり視野に入れて、我々、日本という国を守っていくということは必要ではないか。

 それから、基本的に国を愛するということがどういうことかということがまだ十分によく議論されていないように私ども一般市民としては感じているところでございまして、ほかの国をたたきのめして、自分たちの国だけが独善的な欲望を果たすことができるのが愛国だと考えていることは大変間違いだと私は思っております。

 隣の国の人たちも、またその隣の国の人たちも、みんながそれぞれの努力に応じて適切な生活が維持できるようにしてあげる、そういうことをいたしまして、世界の人たちが日本人に対して若干の尊敬の念を持って、日本という国は本当にいい国ですねという感謝の気持ちを言ってくれるようになったときに、初めて我々は国を愛するということが現実化できたというふうに考えるべきだと思っております。この辺のところも、でき得れば憲法の前文の中に入れていただく必要があるのではないかというふうに私は考えております。

 現在の社会の特徴は個人主義でございます。自分たちの恵沢を確保するために相応の出精が義務づけられる。つまり、自分たちが十分な幸せを味わわせていただくためには、当然のことでございますけれども、それに対応した努力を社会のために出すということは義務づけられているということが必要でございますけれども、どうも日本の場合には、憲法に十分に書いていないということが原因かもしれませんが、一般市民レベルでは、個人主義と利己主義はどう違うのだということを聞きましても、ほとんど明快な返事ができていないと思います。

 個人主義というのは、自分たちも恩恵に浴するが、周りの人たちに対する配慮も十分にする、社会を尊重してやっていくというのが個人主義だと私は考えているわけでございます。利己主義というのは、自分さえ権利を守ってもらえればいい、ほかの人たちはどうなってもいい、社会はどうなってもいいというふうに考えるのが利己主義であると思いますけれども、一般国民レベルではそういう区別がなかなかよくわかっていない。

 個人主義というと、まゆをひそめる方もいらっしゃるような誤解が一般社会にあるということ自体、自分たちの社会を尊重し、これを守っていくのは市民一人一人である、国民一人一人であるということをよくつかんでいないのが原因ではないかというふうに思っているわけでございまして、その点のところが今日本の社会のいろいろな問題を起こしている原因であろうというふうに考えているところでございます。

 二十一世紀になりますと、国際戦争は恐らく科学技術の展開になってくるのではないかと私は考えているところでございます。既にいろいろなところから出ておりますけれども、世界の人たちが非常に利益をこうむるような新しい科学技術を世界に先駆けて展開をしていくということがございますと、世界の人たちが大変感謝の念を持って新しい科学技術を受け入れるわけでございます。

 残念なことに、そのような科学技術を、十分な配慮もなしに、また十分な完成もしないうちから利益に結びつけていくというような行為が非常に世の中にマイナスの結果を、影の部分を生じますので、これが科学技術に対する非常な大きな不信感の原因になっていると思っておるわけであります。本来の科学技術というのは、そのような人間社会に負の姿を映すものではないと私は思っております。

 例えば、エジソンが発電所をつくりまして、電線を引っ張って各御家庭に電気をお配りする。事業所の方もそうでございますし、この議事堂でもそうでございますが、温度を上げようと思ったり、あるいは照明が欲しいときには、ボタン一つ押せば直ちに非常に安定した恩恵に浴することができることになったのは、もともとはこのエジソンがやった仕事でございます。彼は、残念なことに直流でやりましたので、変圧器が使えなかったために会社が倒産をするわけでございますが、その後、この改良をいたしましたウェスチングハウスは交流を使いまして、現在のような社会システムをつくったわけでございまして、これは大変大きな人間社会への貢献だと私は思います。

 夜中に子供が発熱をする。親はすぐに明かりをつけ、暖房で暖めまして、子供の看護に当たる。もしも家庭の治療で補い切れない場合には、医師のところに電話をして往診をしてもらうとか、あるいは診療所に子供を連れていって治療をしてもらう、そのときには多分自動車を使うわけでございます。それでも間に合わない場合には、夜中であろうと病院に連れていって緊急入院をさせるというふうなことによりまして、どれだけたくさんの子供たちが命を救われたかということを考えてごらんになればすぐおわかりいただけるだろうと思います。

 科学技術というのは、そもそもは人間が非常に悲惨な状態にあるのを助けてやろうということから出発をしたわけでございます。人間の文化的な最大の変化と言われる産業革命を思い起こしていただきたいと思います。

 そもそも、蒸気機関は、イギリスの中では比較的貧困なスコットランド地方で市民の手によってつくられたものでございます。そのうちの一人がジェームス・ワットでございまして、ワットは凝縮器という最後に蒸気を吸い出すところを改良したので、あたかも蒸気機関全体を彼が発明したようなことが言われるわけでありますが、実は最初は、フランスから帰化したパパンという人が原型をつくりました。これにニューコメンという人が蒸気を吹き込むという装置をつけました。最後にワットが吸い出す方をつけたわけでございまして、このようなスコットランドの一般市民が協力してああいう生活の道具をつくったわけでございます。

 そもそもあの辺は炭鉱とか鉄鉱石の出ます鉱山が多いところでございますから、穴の底に水がたまります。そのたまった水をおけに入れて、人間がしょって地上に持って上がるというふうなことで炭鉱は営業を続けたわけでございます。水がたまれば操業ができなくなるわけであります。まあ幾ら何でもということで、同情した人たちが牛や馬を使いました。ちょうど車を立てたようなやり方になるわけでありますが、牛や馬がぐるぐると車軸の周りを回りまして、巻きつけた縄が鉱山の底から、トロッコといいますか、あるいはおけでもいいわけでございますが、そういうものを引っ張り上げるというようなことによって人間はそのような苦役から解放されたわけでございますが、牛や馬がまたこれはかわいそうであるということで、ついに蒸気機関というものが出てくることになるわけであります。このような科学技術のそもそもの出発点をお考えいただければ、いかにヒューマニズムがその底に多くあったかということが御理解いただけるのではないかと私は考えているところでございます。

 しかも、東洋ではもっとそれが徹底しておりまして、言うなれば、私は、日本人の一つの精神的な特徴は宮沢賢治にあるのではないかということをしょっちゅう申し上げているわけでございますが、この間もドイツの大学の学長がやってまいりました。いろいろ話をしておりましたときに、ドイツ人のスピリットというのはワイマールのゲーテによって見事に象徴されているという話をいたしました。私は、日本のゲーテは宮沢賢治だと思いますという話をいたしました。

 これは、私が岩手で御厄介になっているのでつけ焼き刃ではございません。旧制高等学校時代に、ほとんど世の中に知られていなかった宮沢賢治の話を先輩に教えてもらいまして、それ以来一貫してそのような考え方を持っているわけでございますけれども、大変美しい日本人の心情というものが賢治の文学には極めて鮮明に記録されていると私は思います。

 言い過ぎとしかられるかもしれませんが、やはり日本の根本になるような憲法の中に宮沢賢治の精神が十分にうたい込まれているようになれば、私としては大変うれしいという気がするわけでございます。

 その後、NHKから、「視点・論点」という時間に出演を求められました。地方文化を育てるという題目でございました。私、たまたまそのワイマールのゲーテの話を紹介させていただいたわけでございますが、そのときに、少し個人的な見解をつけ加えさせていただきました。

 ゲーテの代表作といえば「ファウスト」でございます。昔は、青年時代には「ファウスト」などという作品は皆が争って必ず読むというふうになっていたわけでございます。このごろは知らない人が多いわけでございますが。ごらんのとおり、グレーチェンという若い娘をはらませて、ついに彼女をして死に至らしめる、しかし神は、ファウストがより向上していこうという精神を持っていることを理由にしてファウストを許したもうたのだという話が書いてあるわけです。

 宮沢賢治はそのようなことは全くしておりません。自分が身を慎んで、相手に悲しみを与えるようなことは一切しないという主義で一生を貫いているわけでございます。作品の方もそういうふうになっているわけであります。一体どちらが人間としてレベルが高いかということをそのNHKでお話をさせていただいたわけでございます。

 当然のことながら、宮沢賢治、例えば「銀河鉄道の夜」という作品がございますけれども、姉の言うことをよく聞かずに水に落ちて溺死しそうになった弟を救うべくその姉が一緒に飛び込んで、二人ともおぼれ死んでしまう。いよいよあの世に向かって出発しようという銀河鉄道に乗り込んできた二人がやっと会うわけでございますが、弟をひざの上に抱き取りながら流す姉の涙は、自分たち子供二人が一緒に死んでしまったということに対する、残された親の悲しみを思っての話だったというのがあるわけでありますが、こういうものをごらんいただければ、ゲーテの考えておりますような「ファウスト」というような作品に比べれば、はるかに人間的にはレベルが高いものであるということはおわかりいただけるだろうと思うのです。

 日本人のそもそもの麗しい誇るべき精神というのは、他人に対する思いやりだと思います。近代科学の導入とともに、このような大事な日本人の持っている心が次第に失われつつあるということが、今日のいろいろな悲惨な事件につながっているものだと私は考えているところでございます。

 科学技術をなりわいといたします私がこういうことを申し上げるのは、いかに高度の科学技術といえども、やはり清浄な心根を持った人たちが発展させていくものであると思います。

 先ほど申しましたように、蒸気機関をつくった人たち、あるいは電気配線をやって国民生活を豊かにしたジェームス・ワットであるとかウェスチングハウスというような人たちのそもそもの出発点を考えてみますと、人類に対する深い愛情に根差しているものだということを私は確信を持って申し上げたいと思います。

 ある方がおっしゃってくださいましたが、工学部とか工業という字は片仮名のエの字でございます。あの上の横一本棒というのは天が我々に与えてくれた自然であり自然現象である、下の横一本棒というのは地の上の人と社会だと。天の与えてくれた自然とか自然現象を有効に利用いたしまして、地の上の人と社会に幸せをもたらすのが、これが工というものの一番重要な精神なのだということを教えてくださった方がございます。これは中国に昔からある一つの学説でございます。これだけだとは申し上げかねますので、ほかの説もございますけれども、これが一つの学説になっております。

 ですから、東洋の工というものと、欧米で発達いたしましたサイエンスとかあるいはテクノロジーというもの、これはばらばらでございまして、間に点を打てと言った方もいらっしゃいますけれども、いずれにしましても、司馬遼太郎先生も若かりしころ言っておられますように、科学と技術というものが混然一体としているところが特に重要である、このような考え方は東洋のものであるということを言っていらっしゃいます。

 私は、科学技術というのはサイエンスそのものとヒューマニズムが融合したところに出てくるものだというふうに考えております。そのようなことで、やはり東洋の工という字がそもそもそういう形でつくられたのだということなぞを反省してみますと、我々はいささか科学をヒューマニズムに基づいて使うという観点が失われていたのではないかというふうに考えているところでございます。

 私自身も、そのような気持ちから自分の仕事に対する原動力を持ち続けたわけでございまして、そもそもは非常にすばらしいサイエンスの殿堂にあこがれたというところから出発しているわけでございますが、最終的には、そういうものを幾ら持っても、やはり人間社会のために役に立たなければ何もならないのだということを感じて、初めて自分の仕事に意義を見つけたような、全くみっともない話でございますが、戦後一貫して、新しい科学技術を日本から生み出していくということによって、日本の経済が保たれるのではないかということを考え続けてきたわけでございます。

 時々疑問にとらわれまして、本当にそうかなということを感ずることもございましたが、また原点に戻って考え直してみますと、科学技術というものがやはり人間社会にとっても非常に重要であるばかりではなくて、その中から、最近では、いわゆる持続可能な人間社会の発展ということが言われるようになったわけでございますが、そのようなものにも新しい科学技術が非常に重要である。

 また、そういうものを日本がつくって外国に分けてあげれば、世界の人たちは日本人に対して感謝と敬意を払ってくれることは間違いございません。人がつくったものと同じようなものをつくって売りまくるから、相手の産業は絶滅するわけでございます。そのようなことがとかく戦後の日本の展開の中にたくさん出てきたということが世界の日本に対する評価を非常に下げてしまっているというふうに、私はいろいろなことから体験をさせていただいたわけでございますけれども、本来の日本のあるべき科学技術の姿は、世界のだれもがやっていないようなことで、それができましたときに大変大きなプラスを人間社会に与えるというようなものでなければいけないと思っております。

 そのようなものをつくって売れば、世界じゅうが喜んで買いに来る、ないしは売れと言ってまいります。極端なことを言えば、売らなければ軍事戦争を起こすぞとまで言いかねないような重要な技術がやはり科学技術の中から生まれてくるわけでございます。そういうようなものを日本が次から次へと生み出していくということによりまして、資源のない我が国の経済レベルも維持することができるというふうに私は考えているところでございます。

 残念なことに、最近、新しい仕事が日本からなかなか出なくなったということを外国人は盛んに言うわけでございます。昔は、裏口で私どもにそういう話を聞かせてくれた外国人がたくさんおりましたけれども、最近は、堂々と一般大衆の前で、日本のオリジナリティーが下がったということを忠告してくれる親日的な外国人がかなり出てきているということもぜひ御記憶をいただきたいと思います。日本を非常に心配してくれている外国人がたくさんいるということは、やはり模倣の工業ではだめだよということを言ってくれているわけでございます。

 しかし、最近まで日本から出ましたオリジナリティーの高い仕事というのは、決して世界的に見て少ないわけではございません。

 明治以来、日本に欧米の学問、研究が導入をされました。たちまちにして、長岡半太郎先生とか北里柴三郎先生というふうな世界的な評価を受けた科学者が次から次へと生まれてきたわけでございます。その次の十年、二十年後ぐらいには、外国で勉強をして日本に帰ってきて、みずから新しい研究室をつくり、これを主宰して研究を始めることになるわけでございますが、そういう方々の中からまた世界レベルの仕事が続々とあらわれるようになってきているわけでございます。最後は、湯川秀樹先生のように一遍も外国に行ったことのない方が、世界の人たちがびっくりするような程度の高い、すばらしい仕事をするように日本はなってきたわけでございます。

 教育とか研究というものに対しまして、戦前の日本は極めて順調にそのレベルを上げつつあったということを申し上げたいし、また、これだけ効果的に実力を蓄えていった国民というのは、日本人をおいてほかにはいなかったのではないかと私は考えておるところでございます。

 残念なことに、このようなサイエンスの成果が工業水準になかなか結びつかなかったということが、その後の経済的な困窮を解決することにならなかったのではないかと思います。

 日本で日本人の発明、発見が工業に結びついた例というのは非常に少なくて、例えば御存じの、グルタミン酸調味料産業というんですが、こう申し上げるとなかなかおわかりにならないので、あるいは禁止条項に抵触するかもしれませんが、商標で申し上げれば味の素でございます。ほかにもいろいろ出しておりますが、オリジナルは味の素でございますが、これが、日本でできました研究の成果が工業に結びついた非常に初期のものでございます。ジアスターゼという薬はまだ薬屋さんで売っております。これも日本人がアメリカに行って発明をいたしました。高峰譲吉先生のお仕事でございます。

 そのようなことがすぐに出てきているわけでございますが、残念なことに、それほどの数がこなせていない。

 もうお忘れかと思いますが、戦争中に木綿が輸入できなくなりました。木綿のかわりの合成繊維がないかということで、京都大学の方々が中心になりまして開発に成功されましたのがビニロンでございます。このごろはビニールの方が有名になってしまいましたが、当時は、ビニロンというのは木綿のかわりになるような人工繊維でございました。戦争が終わりましたら、木綿は非常に安く日本に導入されることになりましたので、ビニロンの工業成果というものが余り評価されなくなってしまうことになるわけでありますが、そういう社会環境を考えなければ、やはり大変大きなお仕事だったと私は考えているところでございます。

 私たちの先達の八木秀次先生が、八木アンテナを、学生の卒業研究をやらせていたところから見つけられまして、デザインを完成なさいました。最後は宇田新太郎教授が手伝ったわけでございますが。このようなものが出てまいりまして、今振り返ってみますと、あの状態における電気通信の世界での八木アンテナの占めます位置は非常に高いものがあったというふうに思うわけでございます。

 二年後の一九二八年、昭和三年には、名古屋御出身の岡部金治郎という先生が東北大学を卒業して講師になりました。一年生の実験の手伝いをしておられたわけであります。たまたまその一年生の学生が出しましたレポートに非常に奇妙な実験結果が書いてあるのをごらんになりました岡部先生が、このような変な結果が出たときにはもう一遍実験はやり直してみなければいけないよという非常に重要なサジェスチョンをなさるわけであります。学生も素直にこれを受け取りまして、またその場ですぐに実験をやり直して持ってきた結果を見ますと、再び大変妙な結果が出ていたわけであります。

 私も東北大学におりましたときに、助教授室というのを使わせていただいた経験は全くございません。助教授は部屋なぞ持つものではない、実験室の中に机を置いて、そこで仕事をしていればいいということが言われました。これは学生とのコミュニケーションが非常によくなります。また、自分が学生の実験を見ておりますから、ひとりでに自分からも実験をすることになるわけでございますが、これは八木秀次教授の大学創立以来の一つの教育理念でございまして、私も大変よかったと思っております。

 そのようなことがございましたために、岡部先生は、データが二つ出てきたのをごらんになったときに、これはと思う勘が養成されていたわけでございます。すぐに御自分で調べてごらんになりましたら、これが多分世界記録だったんですね。その後いろいろなことを八木教授のアドバイスを受けながら試みられまして、このときをスタートといたしまして、戦争中ももちろん、戦争が終わった後、最後には大阪にいらっしゃるわけでございますが、その間いろいろな新しい試みを行われまして、二十年間にわたって、世界で一番高い周波数を発信できるという世界記録を維持し続けられるわけでございます。そのような大きな仕事が初頭からございました。

 この岡部型マグネトロンというのは、実は、多分先生方はお使いになることはないと思いますけれども、奥様とかお子様方は必ず毎日使っていらっしゃるいわゆる電子レンジの心臓部でございます。ところが、残念なことに、日本人の電子レンジを使う割合は五〇%は超えていると思いますが、その方の中で、これが東北大学で昭和三年に岡部金治郎教授が発明した改良型のマグネトロンであるということに心の中で感謝の念を持ちながらスイッチを入れていらっしゃる方は、多分一人もいらっしゃらないのではないかというふうに思うわけです。

 これは特にひどいわけでございまして、八木アンテナの方は八木と名前がついておりますからおわかりいただけるのだろうと思いますが、李鵬さんでしたか、名前がちょっと不確かでございますが、日本にやってまいりまして、一番先に田中元総理の御自宅にあいさつに行かれた。新聞記者の人たちの質問に対して、中国人は、田中当時の総理が中国と日本との間の扉を開いて、両国の間に正常な国交関係を樹立したということに対する敬意を今でも持ち続けているのだ、中国人は、その後の変化がどうなろうと、やはり最初に開いてくれた人に対して大変敬意を払うものであるということを言ったのを御記憶の先生方は多いと思います。

 これは中国のことわざで、井戸の水を飲む人間は、その井戸を掘ったのはだれかということをたまには思い起こせということわざがございます。言うなれば、日本人に対するちょっと皮肉を言ったわけでございますけれども、日本人は、せっかく岡部先生の御利益で極めて簡単に炊事ができるというふうなことになっておるのに、余り感謝の念を持っておらないというのは非常に残念なことであるし、今後とも、やはり国民の中から、国の中から出た、社会とか世界に貢献するような仕事をやった人がだれかということをもう少し尊敬するようにしなければいけないのではないか。人間一人一人が自分の天分を発揮することによって、日本の国はもちろん、世界に対して貢献をすることが非常に重要であるということを申し上げたくてこのような話をしたわけでございます。

 この岡部型マグネトロンと八木アンテナをつなぎますと、非常に高い周波数がちょうど棒のように細い電波のビームを形成いたしまして飛んでまいります。行った先に何かありますと、ぶつかって反射いたします。この反射するということも、当時、一九三六年でございますが、昭和十一年に、八木研の助手をしておりました松尾さんという高等工業学校しか出ていない人が実験中に見つけていることでございます。

 これに目をつけたのが英国でございました。ちゃんと八木先生のところにあいさつに来ておりますが、これを使いまして御存じのレーダーを開発することになるわけでございます。

 アメリカで出ました本で、第二次世界大戦の勝敗の帰趨を決めたのはレーダーであるということが書いてございます。いつイギリスが白旗を掲げるかとか、ドイツ軍がイギリス本土に上陸するのはいつかなどというふうなことが日本の新聞に出ていたわけでございますが、ある日突然このようなことが一切報道されなくなりました。次の報道は、ドイツの爆撃機隊が完全に壊滅したという報道だったわけでございます。これは、レーダーができまして、ドイツの爆撃機隊が離陸をいたしますと、イギリスは逐一これを知ることができるようになりました。このためにドイツの爆撃機隊は完膚なきまでにやられることになるわけでございまして、結果としては、第二次世界大戦が、いわゆるドイツ側が有利であった戦況が反対になるということになりまして、アメリカの本にそういうことが書いてあるわけでございます。

 戦争でございますから余り言いたくない例ではございますけれども、非常に顕著な、このような大きなものが実は東北大学に全部そろっていた。むしろ不明のいたすところでございまして、これらを組み上げればレーダーというもの、レーダーというのは平和用にも十分使えるわけでございますから、そのようなものになるのだということを見通してこれを活用しようという人が、一人はいらっしゃったという話でございますが、残念ながら具体化しなかったというふうなことも、いろいろな意味で歴史に大きな影響を与えていることになるわけであります。

 サッチャー総理大臣が、イギリスは基礎研究で立派な成果を出しているのに日本はちっともそういうことが出ていない、人の出した、イギリスの成果をただ同然で使って工業に結びつけてお金をもうけているのは非常にけしからぬということを言ったのを御記憶だろうと思います。私はイギリスに行きましたときに、残念ながらそのとおりですけれども、実際は日本でも非常にいいことをした例があるのだということで、ただいまのレーダーの仕事を紹介いたしました。サッチャーさんは、サンキューと言ったわけでございます。たったサンキューじゃもったいないというわけで、もうその後何回も使わせていただいたわけでございますけれども、そのような非常に誇るべき成果が日本の科学の中から出ているのだということもぜひ御記憶をいただきたいし、また、そういうものを今後活用するということをむしろ国としてやっていっていただかなければいけないということでございます。

 たまたま中山太郎先生が中心になられまして、尾身幸次先生その他の方の御努力で科学技術基本法が通り、研究費をまた格段にふやしたり、大変ありがたかったことでございます。大変申しわけないことでございますが、その後の配分が決していいとは言えない。何かお金の使い方に困って、いろいろな機械を大量に買い込んでビニールのシートがかぶっている部屋があるというふうな話も聞いております。片方では、前と同じように貧乏なまま一つの機械も買えないというふうな研究室もあるわけでございます。

 これは当然のことでありますが、成果が上がる研究室には研究費の配分がたくさんあって当然でございます。余り大した仕事ではなくて、学生に研究という考え方を身につけさせるために教官みずからがそれなりの研究をやってのけるという者もいるわけでございます。こういうところには余りお金が行かないというのが本当でございますけれども、しかし、実質は必ずしもそうなっていない。大変むだなお金をもらっているところもあれば、あるいは逆に、当然配分すべきものがなかなか行っていないというたくさんの例があるわけでございます。

 しかし、現在、例えば科学技術関係の重要な会議で決まりました結論でございますが、バイオ、IT、それからナノデバイス、その他環境問題とかいうようなことで五つの題目に絞り込みまして、それ以外の分野には研究費を配分しないというふうなことを言った方もいらっしゃいますけれども。たまたま、我々にとっては大変ありがたいことでございますが、従来、日本の中ではほとんど無視され続けておりました白川英樹教授がノーベル化学賞をおもらいになったわけでございます。このようなことがありまして、地に埋もれているようなところにはまだ日本にも相当いい研究があるのだということを国民の方々あるいは世界の方々に認識していただいたということは、大変我々にとってはうれしいことでございます。

 でき得べくんば、余計上げる必要はないと思いますが、白川先生が順調に御自分の所属しておられました大学の中で正当な評価を受け、また正当な成果を上げるために必要な人員あるいは研究費の配当が受けられるようになっていなかったということは、私どもやはり大いに反省の糧とすべきではないかというふうに考えているところでございます。

 そういう例といたしまして私がよく言うのは、定年のときに、その教授が文部省の科学研究費を幾ら配当を受けているか、あるいは科学技術庁から幾らお金を受け取ったか、あるいは企業からどれぐらいの奨学寄附金を受け取ったかを一人一人データとして整理していくというようなことを提案しているわけでありますが、いっかななかなかそれはやらせてもらえないわけであります。

 そういうふうな形で、要するに教官の、科学技術あるいはそれ以外の文化全部でいいわけでありますけれども、すべての学術の展開にあった貢献度がどういうような経済基盤のもとに花咲いたかということを表にしてよく整理をして、それに対する判断を続けていただくということができますならば、研究費の配当その他もかなりリーズナブルなものに近づけることができるのではないかというふうに考えているところでございます。

 具体的な提案がなくて申し上げるのは非常に僣越でございますので、私なりにいろいろ考えまして、例えば研究費を配当したときにその事後評価をすべきであるということを申し上げております。事後評価は、物が既にできておりますから、事前に評価するよりははるかにやりやすいわけであります。そういうことでございますから、事後評価をやって、研究費を配当した委員と、それから実際に研究を遂行した研究者両方に点数をつけるわけであります。これを何回か繰り返すうちに、この先生は研究者としては何点である、この先生は研究費の配分委員として非常にいい目を持っていて何点であるとか、あるいは見る目がないから三点であるというふうなことをつけてまいりましたならば、その次の配分委員として出ていただくのはやはり目ききの先生が出てきてくださいます。

 まだやらないことを評価するわけですから、これは勘に属するところが非常に多いわけでありまして、やはり一種の目ききでございます。研究者の方もそういうことでございまして、これはやってみなければ成果がどうなるかはわからない。いかに美辞麗句をもって研究計画を書き連ねましても、終わってみたら何もしていなかったということもあるわけでありますが、現在は事後評価がございませんから、そういう傾向に歯どめがなかなかかかりにくいのが現状でございます。

 まだ残念なことに、どうしても事後評価をしていただけないようでございます、一部ではやっているという話は聞いておりますけれども。そういうふうなことをやっていけば、あの先生は研究者として平均何点である、研究成果は何点上げている、あるいは目ききとしては何点であるというふうなことを一人一人の先生方がお持ちいただければ、これに基づいて措置ができるというふうに今具体的提案をさせていただいております。

 もちろん、事後評価の先生によっても点数の配点が変わってまいります。しかし、事前評価よりは的確性がある。したがいまして、事後評価をやる先生にもできふできはあるわけでございますが、比較的的確な評価が与えられるものではないかと考えております。

 例えば白川先生のお仕事のように、終わった時点でもまだ評価し切れないことがあるわけであります。国内で白川先生のお仕事に注目した方はほとんどいらっしゃらなかった。十年たって評価をされたという場合には、従来の評価点に、例えばプラス七点であるというふうにしたといたします。十年たって七点上がったというときには、その先生の配点には十掛ける七を加えるべきであるということを申し上げております。これは適当な係数をつけてよろしいわけでございますが。そんな形でやっていけば、比較的的確な、妥当な研究費の配分ができるのではないかということを言っているわけでございますが、なかなかこれが実行されていないということは、国費を使わせていただいている身としては大変申しわけないことであるというふうに考えているところでございます。

 七十歳を過ぎた人間はそろそろ引っ込めということが言われておりまして、私も引っ込まされることになるわけでございます。まあ少しは嫌になりまして、そろそろ引っ込みたいなと思うこともあるわけでございまして、今、細々と若干の研究費の審査は続けさせていただいておりますが、何とか本当の意味の科学技術ないしは科学の日本における成長を望むためには、的確な評価制度を確立していただきたいというふうに考えているところでございます。

 日本人の本来持っております創造能力というのは、最初に申し上げましたように、世界の人たちに比べて決して引けをとるものだとは思っておりません。十分にその場を与え、的確な評価を与えていけば、世界の人たちがたまには目をむくようなすばらしい仕事をやることができる民族であるということは、歴史がこれを証明しているわけでございます。ぜひ先生方に、そのような才能が花咲くことが多くなりますように御配慮をお願いしたい。

 研究費をいただくときにさんざんお願いをしておきながら、今ごろになってからこんなことを言う不明を恥じなければいけません。思い起こしてみますと、中山先生お一人が、評価制度の確立しないうちに研究費をふやしてもむだであるということをおっしゃったわけでありまして、私は、そういうことで時間がおくれる方が問題じゃないかということを申し上げて先生のなだめ役に回らされたのでありますが、今反省してみますと、どうも私の方が不明を恥じざるを得ない状況にあったということを確認しているところでございます。

 そんなことでございまして、大分逸脱した点があるかと思いますが、今申し上げたようなことから、国民一人一人の特性を伸ばしていくということが非常に重要である。そのための教育制度も実はぼろぼろになってしまっているということを申し上げなければいけません。

 時間がそろそろなくなってきておりますが、先日、教育難民という言葉を聞かされました。私は知らなかったのでございますが、教育流民とも言うそうであります。どういうのかと申しますと、もう日本の学校教育は当てにはできない。特に高等学校から始まるわけでございますが、今一つのファッションになっておりますのは、アメリカ東部に非常に戒律の厳しい高等学校がある、こんな話はようやくこのごろ出ました本に紹介をされただけでありまして、従来、そういう話がほとんど日本には伝わっておりませんでした。

 とかくいい点が日本には伝わっていない、悪い点が余り入ってこないというのがちょっと問題ではないかと思いますけれども、そういう東部の戒律の厳しい学校に、日本の父兄の方々が御自分の子弟を留学させるわけであります。そこで教育をさせる。ところが、向こうの学校も、もちろん日本人ばかりそんなに入ってきては困るわけでございますから、余りたくさん入れてくれないわけでございます。そうしますと、この大学の方々は入れないものでございますから、日本人がお金を出し合って、このような教育が受けられるような学校をアメリカにつくり上げよう、こういう構想まで出ている。

 お金が集まり切らなくてできないとか、集まったからできたとかいうようなことが言われるわけでございますけれども、この問題は中曽根先生が早くも警鐘を鳴らされた点でございまして、しっかりした教育というものが日本から崩れ去ってしまっているということは、大変憂慮にたえないところでございます。現在、日本人の持っておりますバックボーンがなくなってしまっている、それが第一でございます。

 第二番目は、そのような個性を伸ばすということがうまくいきませんので、いろいろな問題を生じている。個性を伸ばすためにはまず型にはめることが大事であるということを言ったのは野村萬斎さんでございますが、このようなことが日本の教育の原点から欠落してしまっているというのが実情でございまして、日本人が自分たちの持っているすばらしい特徴を発露させることによって世界の文化に貢献するという、一番日本としてとるべき基本姿勢が崩れているということが大変問題ではないかというふうに考えているところでございます。

 最後にまた一つお願いをつけさせていただきたいと思います。

 我々、いよいよ年をとったから引っ込めと言われるわけでございますが、憲法を見ますと、男と女の差別をしてはいかぬと書いてございますが、年寄りを差別してはいかぬと書いていないですね。これは、今日本は、日本民族の中にあるすべてのすぐれた才能を十分に使わなければ、日本から世界的に影響のあるような大きな仕事は出てこないと思います。年寄りだから出るなとか、若いから出ろとか、あるいは学歴がいい人間が出ろとか、学歴が悪い者は引っ込めとか、そういうようなつまらない差別をしていたのでは、日本人から十分な文化の発信というのはできなくなってまいります。そのような生ぬるい時代ではございません。日本人の持っているすべての特徴を育て上げ、これを一斉に世界に向かって発信していくというふうなことをやらなければ、日本はそもそもの戦後ベースといたしました平和国家としての自立がなかなか難しいのではないかということを私は大変心配しておるところでございます。

 そろそろ時間でございますので、以上で私の発言を終了させていただきたいと思います。いろいろ失礼なことがありましたらお許しをいただきたいと思います。(拍手)

中山会長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

中山会長 これより参考人に対する質疑を行います。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。葉梨信行君。

葉梨委員 自民党の葉梨信行でございます。

 ただいまは西澤先生から大変含蓄、示唆に富んだお話を伺いまして、心から感謝を申し上げます。

 科学技術の担い手として、その基本にヒューマニズムがある、そのヒューマニズムを具現している人の一人として、あるいは日本の代表として宮沢賢治があるというお話、大変うれしい御指摘でございました。それから、最後に、科学技術については事後評価ということも必要だという具体的な御指摘もございまして、それを中山会長がかねて主張しておられるというお話を伺いまして、私も改めて感銘しているところでございます。

 ところで、科学技術の担い手は、今いろいろの場に働いていらっしゃいます方々でございますけれども、次の時代の日本の科学技術を発展させるのは、今学窓にある人たち、あるいはもっとさかのぼれば、義務教育課程にあります幼子たちでございます。

 そういう意味で、今、新聞などで見まして、学校の中が大変規律が乱れた、荒れているということ、この間の成人式などもその一つの例でございますが、規律の問題と、それから、大学の学生の学力が大変落ちてしまって、中には、小学校か中学校でできなきゃならない計算問題ができないような人がいる、そういう記事を読みますと、大変憂慮にたえない次第でございます。

 先生は長く大学で研究と教育に携わられましたけれども、その現状はどうかということも伺いたいし、それから、もっと基本にさかのぼって、戦後、民主教育あるいは自由主義を基本とした教育理念のもとにずっと青少年が教育を受けてきたわけでございますが、そこのところで、特に、ゆとりのある教育ということを十年かそこら前から言われまして、そして現在に至っております。そのゆとり教育ということについての先生の御見解も伺いたいと思います。

 いろいろございますが、まず、そのことについてお話を聞かせていただきたいと思います。

西澤参考人 それでは、私の見解を申し述べさせていただきます。

 戦後、個性を尊重するとかいうことがうたわれまして、親が子供に干渉することが非常に悪いようなことを考えてきたのではないかと思っております。もう少し早くそういう点に対する注意をすべきではなかったかと思っております。今、親も先生も代がわりをしておりまして、そういう方々がお子さん方のしつけをしないわけでございます。ですから、そういうやり方とか理念が既に失われておりまして、これは急速にある程度日本の古来のやり方に戻そうと思いましても、大変な抵抗がございます。

 現実に小学校の先生方あるいは中学校の先生方などといろいろとお話をしてみますと、現状がほとんど把握されていない。また、先生方御自身が、そういうことに対して、自分たちが積極的に身を張って事件が発生しないようにするという気持ちがどうも足りない方々がかなりいらっしゃるということも感ずるわけでございます。

 悲しいことに文部科学省の方々は、御自分で教壇に立って、あるいは子供たちの中に入って子供の教育を身をもって体験した方は多分今一人もいらっしゃらないんじゃないか。地方に行かれまして視学その他としていろいろ働いた体験をお持ちの方はたくさんいらっしゃいますけれども、子供たちにどういうふうに接触しなければいけないかとか、教員と子供がどのような形で接触をしているかということをやはり自分で体験しなければ、なかなかこういう行政管理も難しくなるのではないか。もちろん、全部そういう体験をしなければいけないというふうには考えておりませんけれども、何割かの方々はやはり現場体験が必要ではないかというように考えているわけでございます。

 今、例えばしつけということに対しても、戦後かなりの傾向が、そういうことをやることがむしろ悪いことだというふうなことを考えた方がいらっしゃるわけでありますが、これは科学的に見ればすぐわかるわけでございます。例えば、ローレンツという有名な生物学者が、人工ふ化をいたしましたアヒルのひなの前に自分の顔を最初にさらしたことが運の尽きでございまして、そのアヒルたちは一生の間、このローレンツ先生の後を一日じゅう追っかけ回す、よたよたおしりを振りながら後をついて歩くという非常にユーモラスな写真がいろいろなローレンツ先生の著作に紹介をされております。

 そのようなことでございまして、アヒルと人間とはもちろん同一だとは思いません、かなり類似性があると思うんでありますが。目をあけた途端に見た相手を自分の保護者だと思い込むというのがアヒルには非常に顕著にあるということがそれからわかるわけでありまして、人間にそれがないとはなかなか言い切れない。同じ生物でございます。そういうことでございまして、もう少し、今までのやり方というものもそう簡単に捨て去っていいものではないんだろうと思うんです。

 現に、母乳を飲ませるのは非常に悪いことだというようなことが言われた時代がございますけれども、その後研究が進みますと、母乳を通しましていろいろな抗体が、要するに病菌に対する抵抗力その他が赤ん坊のうちにはちゃんと伝わっているというようなことがだんだん明らかになってきまして、また母乳で育てなければいけないということが言われるようになったというようないきさつもその例でございます。

 やはり幼児教育のときにちゃんと基本的な人間としての生き方に基づいたしつけを親がするということ。このごろ、子供にしつけをすると子供をいじめているというふうなことを言う方がいらっしゃいますけれども、決してそういうことではないんでありまして、親の本当の愛情は、子供が世の中に一人前として出ていったときにちゃんと義務と責任が果たせるということを親が心配してしつけるわけであります。

 アメリカの将校の家族をいつか見ておりましたら、屋根がスイッチで上がったり下がったりする車に乗っておりました子供が、動くのでおもしろがって手を出すわけであります。それを母親が何遍も注意するのに、大声を上げても言うことを聞かない。とうとう母親が怒って子供を車から抱き取りまして、おしりをきつくたたいておるのを見て大変感銘を覚えた思い出がございます。

 これは決してそのことだけではなくて、しつけというものでそういうことはたくさんあるわけであります。一概にそういうことが悪いと思ってしまったことにも相当問題があるのではないか。例えばオオカミ少年、オオカミ少女というのがありますけれども、子供にしつけをしないで放置しておいたらこれにだんだん近くなってくるわけでありまして、せっかく積み上げてまいりました人類の文化というものがこういうところから根底を覆されるということにもなりかねない。

 ですから、私は個性を尊重するということは非常に大事だと思っておりますし、現在でもそういうことでいろいろな運動をしているところでございますけれども、子供のときからやりたい放題やらせていいかということになりますと、これは決して個性を尊重することではないわけであります。個性というものは、最初に申しましたように、やはり個人主義の中にちゃんとおさまるような個性でなければいけない。自己評価のない個性というものは、これは自殺行為だと思っております。

 そのようなことでございまして、やはりきっちりとした基準だけはちゃんとはめながら子供を育てるということが必要でございます。

 野村萬斎さんがNHKの放映のときに出てきまして、出身小学校に行って後輩に狂言の基本を教えておりました。大変型にはまった教えでございます。生け花、茶道その他、初歩は極めて型にはまっております。そのように最初に型にはめることによって、最終的には個性が出てくる。型にはめるというのは個性を出すためにはめるのだということを最後に言っておられましたし、その過程で、騒いでいる子供をつかまえて大声を上げてどなりつけているのを見て、大変私も感銘を受けたところでございます。

 古典というべきそのような日本の芸の道でも、昔から守破離という言葉がありまして、守というのは、生け花でも、最初はこのようにセッティングしなさいということをちゃんとルールにはめて教えるわけでございます。それをマスターできますと、次は破の境地に入る。つまり、今まで教えられたことを破ってみる。そこに新しい創造が入ってくる。ついには、離となりまして、離れて一家をなす。今まで教えられたことから完全に切り離された独創的な道をみずから編み出す、個性をちゃんと発揮させていくということがこの日本の古い芸の道にもちゃんと言われていることでございます。北辰一刀流でも同じことが言われていたと聞いております。

 そのような非常に重要な教育の根幹にかかわることが日本にもちゃんとあったんだということを私は今さらながら勉強させられているところでございますが、もう一つ重要な点は、一律教育が非常に間違っているということであります。もちろん、子供のうちから羽目を外すということはおかしいわけでありまして、人間としての基本的なところは大体共通でございますから、そこは型にはめるわけでございますけれども、それを過ぎました場合には奔放に個性を伸ばす段階に入る。言うなれば、昔でいえば旧制高等学校に入った人たちというのはそういう扱いを受けたわけでございまして、同じく高専校に入った人たちは余り自由を与えられずに専門家として育成されたわけでありまして、そのバラエティーがあった。いろいろな特徴のある育て方をしたということも戦前の教育が非常にうまくいった原因でございます。

 旧制高等学校に入りますと、私どもまさにカルチャーショックを受けたわけでありまして、朝、かばんを持って学校に行こうと思いますと、先輩が万年床の中から首を出して、ばか、学校に行くやつがあるかと言ったわけでありまして、これはまさにどうしていいのかわけがわからなかった。しばらく迷い果てたあげくわかりましたことは、自分が本当に調べたいと思うことを徹底して調べるということがこれから高等学校を出るような人間にとっては義務づけられているのだ、それが一番大きな社会的な責任を果たすことになるのだということに最後に達するわけでございますが、これを、教えるのではなくて自分で考えさせたというところがまた非常にユニークなことでございます。

 今でも文部省の方々でも、旧制高等学校の成功というのは日本の教育界の中でも予想しなかった成果をおさめた非常にすばらしいシステムだったと言う方がいらっしゃいますけれども、しかし、ではそれをやろうということはなかなかおっしゃいません。

 このごろ、事故、災害を起こす不心得者がいっぱい出てきている。これは、最初に申しましたように、社会に対する自分たちの責任をちゃんとつかんでいないからああいうことをやるわけであります。ところが、見ておりますと、大変すばらしい学校でありながら、安全という授業をやるんだと。そんなことを教えようと思ったらすべてのサイエンスを教えなければいけないわけで、とても間に合いません。社会に対する責任感というものを十分に植えつける、また、社会のエリートはそういうときに自分で考えて自分で危険を予知する、対策をするという態度でなければいけないと思います。

 根本的には、余りにも暗記教育が進みまして受験勉強対策に明け暮れているわけでありますので、人間が考えるということをしなくなりました。考えない人間からは創造は生まれてこないわけでございます。これは後でまた御質問でもあればお答えをさせていただきたいと思いますので、以上で打ち切らせていただきます。どうもありがとうございました。

葉梨委員 発達段階に応じた教育の仕方があるというお話だと伺いました。特に、全国どこでもそうだということではないと思いますが、義務教育、小学校あたりで、子供と先生は同じ権利を持っておる、同じ立場だからというようなことが基本にあって先生方が子供に臨まれる。そこに、今先生言われたようなしつけとかそういうことはもう一切拒否されるというような一部偏った行き方があると聞いておりまして、先生が言われたような日本古来の伝統とか文化の中にこそ本質的な教育のあり方があるんだなということを今つくづく感じたところでございます。

 ところで、昔から読み書きそろばんという言葉がございます。特に初等教育では大事なことだと思いますが、先生のお考えを聞かせていただきたいと思います。

西澤参考人 木村尚三郎先生あたりがよく言われることでございますが、先ほど来私が申し上げましたように、明治以降の日本の展開というものは、世界のトップの幾つかに入るほど見事な展開をやったと私は思いますけれども、木村先生は、そのためには、江戸時代に培ってまいりました日本古来のベースがあるんだ、先生のおっしゃいました読み書きそろばんというふうなものがその後の大変急速な欧米対応の新しい展開の基礎として非常に有効だったということを言われるわけでございます。

 まさにこれは多様化が必要ではございますけれども、例えばあるケースでは、四書五経というものを幼児期から暗記させられる。これは暗記もいろいろあるわけでございますが、非常に基本的なものを少量暗記させたということがあるわけでありまして、これがその後の日本人の生き方、人格の構成に非常にすぐれた効果があったわけでございますので、その辺のところはやはりよく反省をいたしまして、こういうものを取り込んでいくということが必要だというふうに考えております。

葉梨委員 最近、小学校の教科に、特に英語という話が出ておりますが、英語を取り入れて教えたらどうか、こういうお話がございます。それと加えまして、今度のゆとりある教育の中で、学習指導要領が来年、再来年から改訂になりますけれども、授業時間数、総時間数が減るというお話を聞いております。そこでまた英語をやるということになりますと、大事な読み書きそろばんがどこへ行っちゃうんだろうかということを憂えておりますが、その点について御見解を伺いたいと思います。

西澤参考人 大変重要な御指摘であると思います。

 今もお話しのとおり、私もたまたま、そういうことを決めました教育課程審議会に三浦朱門会長のお供をして出席させていただいたわけでございまして、現在の日本人の学力といいますか、非常に国際的に見てレベルが下がってしまっている、ゆとりなぞつくっている余地はないのではないかということを申しました。

 それに対して、担当官の説明は、余りにも日本の子供は勉強が嫌いになってしまっている、だから思い切って時間数を減らしてみる、そのうちに勉強がおもしろくなってくるだろうから、それからもう一遍締め直すというふうな答弁がございました。私は、そこで、ではこれは暫定措置ですねということを申し上げて、議事録に多分残っていると思います。

 そういうことでございますので、本来、私もあのようなやり方が適切だとは思っておりません。ただ、自分が参画しました審議会の中でああいう決定が出ているということに対しては、重大な責任を感じているところでございます。

 ちゃんとした勉強をさせようと思えば、何でもかんでも暗記するということは忌み嫌うべきでございますけれども、先ほども申しましたように、基本にかかわることは早いうちから覚えさせるということが必要でございます。その辺のところの長い間の日本の経験というものを無視して、いわゆるアメリカのマルチプルチョイス方式というものを表面だけ取り入れた。実体はなかなか日本に入ってきておりません。

 余り時間がございませんので詳しいことを申し上げる余地はございませんが、例えば、試験問題をつくるのは試験法の専門家がつくっております。日本では学校の研究者を呼び集めてつくるわけでありまして、研究者としては一流の方々でありますけれども、いわゆる教育ということに対しては、ちょっと言い方が悪いですが、素人でいらっしゃいます。そういう方々が将来人間がどっちの方に伸びていくかということを判断することはそう容易ではございません。そういう蓄積が今日本にはないものでありますから、とかく知識量で規定をしてしまう。

 アメリカは、試験問題は公表いたしません。今日本でそういうことをやりましたら大問題になるかと思いますが、公表いたしません。もちろん、新聞社が出口調査をやりまして受験生に一々聞けば、どんな問題が出たかは類推可能でございますから、その日の夕刊は難しいかもしれませんが、翌日の朝刊には、きのうの試験はどうだったかということが模範解答つきで出せるはずでございます。ところが、それがないんです。

 それからまた、よく日本の大学で、我々にも体験がございますが、某教授試験問題集というのをつくるわけでございますね。あの先生は試験のときに必ずこういう問題を出すぞというのは先輩から後輩に申し送りになっておりまして、その試験問題を勉強していくと大体合格ができるという悪いカンニング方式があるわけでありますけれども、同じことをアメリカの入学者が次の年受験する後輩に向けて教えたとしたら、これは公表しないという意味はなくなるわけでございますけれども、現実にはそういうことが一切ないわけです。

 つまり、アメリカ人が、試験というものはいかにあるべきものかということをよく把握しておりまして、そういうものに対する違反行為を厳格にやらないでいるという大変な謹直を持っているということが大事な問題ではないかというふうに考えているところでございます。

 それから、今お話がありました英語でございますけれども、いろいろ自分自身の物の考え方を分析してみますと、いろいろな論理を展開するときに、どうしてもやはり日本語をベースにして考えているということが自分でもわかるわけでございまして、世の中の識者に伺いますと、人間というのは自分の教えてもらった母国語で物を考えているということが言われるわけであります。

 そういうことを考えますと、日本語をちゃんとマスターした人間というのは、やはり文化的に見ても、あらゆる意味で日本人としての文化をちゃんと踏襲した人間であるということが言えるわけでございますが、日本語の習熟も十分でないうちに英語の勉強をしてしまいますと、これは英語国民国家の人間にだんだん変わっていくわけでございます。

 そういう点からいえば、十分に誇るに足る日本文化というものを考えてみますれば、やはり日本人がこれから日本人としてのいい特質をちゃんとキープし、これを洗練させていくという義務をしょっているのではないかと思います。その段階で、日本語の時間が非常に削減されてしまっている、それで英語の方をやろうじゃないかという話が出るということは、ある意味からいえば、先ほどの棄民と難民というものに通ずると思いますけれども、日本人がみずから日本人たるところを捨ててしまっているということになるのではないかということを非常に心配しております。

 いずれにいたしましても、どんなに自由を大事にしたり個性の尊重をしようと思いましても、最初はちゃんと型にはめて授業をやるというような方式を、まだ完成されてはおりませんけれども、そういう方向を目指して、むしろ戦前に戻るぐらいのつもりでやり直した方がより効果的ではないかというふうに考えているところでございます。

葉梨委員 御示唆に富むお話、大変ありがとうございました。

 終わります。

中山会長 筒井信隆君。

筒井委員 民主党の筒井信隆です。貴重な意見を大変ありがとうございました。

 先生の御意見を憲法に反映させるとすれば、どういう形になるのかという点から少しお聞きをしたいと思います。

 最初に、権利は義務を伴う、義務に関する規定も必要ではないかという御意見についてなんです。

 調べてみますと、例えばポーランドの憲法が、他の者と連帯する義務を憲法上規定しておりまして、そして、こういう条項もあるんですね。何人も、人格の発展にふさわしい環境を享受する権利を有し、及びこれを保護する義務を負う。両方とも確かに規定しているわけです。

 おもしろいのがインド憲法でして、次に掲げる事項は、すべてのインド公民の義務である。十項目にわたる義務が規定されているんですが、その一つが、多面的要素を含んだインド文化の豊かな伝統を尊重し維持すること。それからもう一つが、森林、湖、河川及び野生動物を含む自然環境を保護、改善し、生物をいとおしむこと。これは特に、先生、別の共著で、人類は八十年で滅亡するという非常に衝撃的な本を出されております。ただ、八十年に限定されたわけではなくて、二百年以内かもしれないという先生の御意見もあるようですが、その点から見ると、こういう自然環境を維持、いとおしむ義務というのは極めて重要な課題になるのかなと思うんです。

 もう一点、きょう先生が強調されました科学技術に関する公民の義務も規定されておりまして、科学的気質、人間性及び研究と改革の精神を発展させること。

 各国の憲法を見ますと、いろいろな義務規定があるわけですが、こういうふうな条文を入れるべきだというお考えだというふうに理解してよろしいのですか。

西澤参考人 大体において、先生のおっしゃるとおりと思います。

 ただ、最初に申しましたように、日本の憲法も、よく読めばやはり社会に対する義務ということも書いてありますけれども、権利を守ってやるというふうなところに非常に重点が置かれておりまして、とかく戦争の後でございましたからそういうふうになったのだろうと思いますけれども、やはり書く量とか書く場所、そういうことを考えていただいて、前文の中にそういうところをかなりバランスがとれる格好で足していただくのがいいのではないかというふうに考えているところでございます。

 それから、最前も申しましたように、どうも日本人はまだ戦争ということに頭が固定されていると思います。最初に申しましたように、軍事戦争だけがこれから日本の社会を破壊する外からの力だと考えている時代ではないのではないか。ですから、そういう意味ではもう少し広範囲にわたって我々の社会を守るという形で構成をいたしまして、その例として、いろいろな条文の中で今先生のお話しになったようなものをうたっていただくということが必要だろう。

 自分たちの社会を守るということは、当然環境を守るということに通ずるわけでございますし、今余り騒がれておりませんけれども、既に水の問題であるとか、あるいは空気の問題も一部は騒がれましたが、まだ基本的には余り問題にされていないこともあるわけでございます。我々科学者というのは、そういう問題を一般国民に先立って見つけ出して、これを社会に訴えていくという義務があるわけでございまして、私も妙なことからそういう分野に足を踏み込むことになったわけでありますが、本来でしたら、専門からかなり離れておりますので、本当は余り口は出したくなかったのですが、しかし、見るに耐えかねてそういう話もさせていただいているわけでございます。

 そういうことで、これからもまた出てまいります。そういうものに対する国民としての態度をしっかり決めていただくということが、憲法の場合には一番重要なのではないかというふうに考えているわけでございます。

筒井委員 その関係で、憲法に対するイメージをちょっとお聞きしたいのですが、憲法は国とか自治体とか公務員に対しての規定である、一般民間人に対しての規定ではない、そうなると、一般民間人、一私人が憲法違反行為をするなんというのはそもそもあり得ないことだというふうな考え方もあるようなんですが、先生の今言われたことによると、憲法というのは、そういう行政的な公務員や公的なものだけではなくて、全国民に対する規定の趣旨を含んでいる、こういうふうな御理解なんでしょうか。

西澤参考人 おっしゃるとおりでございます。

 社会の成果を活用しながら生きている国民一人一人がそれに対して適切な見返りをするということ、これは近代社会に生きていく人間としては当然必要なことであると思いますので、権利を享受している限り、やはり義務を生ずるものだというふうに考えております。

筒井委員 今も言われましたが、安全保障は軍備だけではないという点を次にお聞きしたいのですが、食料安全保障という言葉もありますように、軍備だけでない、もっと包括的なものだと。その場合に、先生は軍事に限らない国防に関する表現法を検討すべきだと。これがちょっとまだイメージがわかないのですが、どんな感じなんでしょうか。

西澤参考人 大変難しい問題で、私が少し生意気なことを申し上げたということが原因だと思いますけれども、やはりそれは法律の専門家の先生方に私どもがよく趣旨を申し上げて、これを成文化していただくという筋道を通らなければいけないのではないかと思っております。

 戦前、東北大学に非常に変わった講座がございました。いわゆる立法学の講座があったわけでありまして、それ以外の大学には立法学の講座がなかったと私承っておりますけれども、日本の法学の中に立法という考え方をもう少し積極的に導入していただくことも非常に大事なのではないかということで、専門外のことを、僣越なことを申し上げますが、耳学問で以上のように考えているところでございます。

筒井委員 その場合に、科学技術の問題が非常に重要だと先ほども強調されておられましたし、先生の御専門でもあるし、またいろいろな論文や講演でもその点を強調されておられるようですが、もし憲法上そういう御意見を反映するとすれば、やはり科学技術の重要性の規定、あるいは科学技術を国が奨励する、こういうふうな規定になるのかなという感じで、これも各国の憲法を調べたところが、いろいろな国の憲法で確かにそういう規定がございます。

 フィリピン憲法では、科学技術は国家の進歩発展の核心をなすものである、国は、研究開発、発明、工夫及び実用を重点施策とし、科学技術教育、訓練、利用に関しても同様とする。それと同時に、人材開発の規定も憲法上ありまして、国会は、基礎及び応用科学研究計画において、減税等の優遇措置により民間の協力を推進するものとする。奨学金、補助金その他の優遇措置が、能力ある自然科学の学生、研究者、学者、発明家及び特に才能ある市民に適用される。

 こういうふうに国として科学技術を奨励するという規定が中国の憲法にもありまして、インド憲法でも、ちょっとまたこれも変わっているのは、文学的、芸術的、科学的及び技術的作品並びに創造の権利を国民の権利として認めている。それから、大韓民国の憲法は、今度は国家が科学技術の奨励に努めなければならないというふうな規定になっているんです。

 結局、方向としては、国が科学技術を奨励する、あるいは国民が科学技術に携わる権利、創造する権利を認める、この両面から考えられるのかな。さっきの科学技術を含めた国防全体の表現法というのはちょっとわからないのですが、科学技術に限定すれば、今言った二方面からの憲法上の規定が考えられるのかなと思うんですが、その点どうでしょうか。

西澤参考人 先生のおっしゃるとおりだと思っております。

 それからもう一つは、憲法に書いていない各国民の了解事項みたいなものがあると思います。私が間違って聞いているのかもしれませんが、イギリスの裁判の判決で、シェークスピアはこう言っているというのがあったという話を聞いているわけでございますから、これはいわゆる法律で締めるだけではなくて、慣習として締めているという一つの表現かと思います。いずれにいたしましても、憲法に書いていない各国民の物の考え方というのがベースにありまして、その上に法律ができてくるものだと思っておりますので、専門の先生方にぜひ私の考え方を酌んでいただいて法制化をしていただければ大変ありがたいというふうに考えております。

筒井委員 その科学技術の場合、憲法の問題からちょっと離れるんですが、先生先ほどもちょっと言われました交流、直流の関係で、ほかの論文でしたか講演でしたか、その組み合わせによって、例えばラオスやインドから水力発電によって日本にまで送電することができる、その熱効率は極めて高いというふうなことが言われておりました。

 科学技術の中身として、そういうふうな大規模技術と、そういう外国から送電線をずっと引いてくるというんじゃなくて、例えば日本国内における水力発電がもういっぱいとすれば、もっと小規模の水力発電にしたり、あるいはバイオマスといいますか、植物や何かの生物資源を小規模な形で使う、こちらの方が環境には優しいし、先生のおっしゃる人類は八十年で滅亡するというのを防止するためにも、そっちの方に重点を置くべきではないかというふうに思うんですが、その点はどうでしょうか。

西澤参考人 おっしゃるとおりでございますが、ただ、例えばバイオマスがどれぐらい利害得失があるかということなぞもいろいろと検討してみますと、オールマイティーではないと思っております。

 それから、現在もう一つの候補になっております太陽電池がございますけれども、現在の太陽電池は私が発明した形のものになっております。それでありながら私は余り熱心ではないのでございますが、それはなぜかというと、残念なことに、製造技術がまだ完成していないために、値段がかなり高くつきます。そういうことでございますから、今私が先頭に立って太陽電池をぜひやっていただきたいということを申し上げることは控えさせていただいております。

 現在私どもが集め得る範囲の中でいろいろなデータを収集いたしまして、やはりこれが一番いいのではないかというふうに考えて、遠距離送電をお願いいたしまして、私にはなかなか言ってくださらなかったんですが、現在、関電の方で、一つの直流送電技術の開発といたしまして、四十五万ボルトの海底送電ケーブルを和歌山と徳島の間に敷設して使っている。それから、今度大阪と淡路島の間に引いてテストするんだという話がございまして、私もちょっと安心したところでございます。

 やはり定量的に物を考えて議論するということをやらないと、悪いところは必ずどこにもございます。いいところも大抵持っております。ですから、どれがどれぐらい悪くて、どれがどれだけいいかというふうなことをしょっちゅう科学者が調べて、これを政治の世界に御報告申し上げるというまじめさが要るのではないか。

 最近でもそうでありますが、炭酸ガスが、本当はもっとふえなきゃいけないのに、ちっともふえていないんですね。だから人間が生きていられるんでありますが。私は炭酸ガスの行方が心配でたまらなかった。やっとわかりましたのは、海の底にあったということでございます。そうしたら、またこれをくみ上げて燃そうというずうずうしい方が出てきている。神様が人間をそこまで甘やかしてくれるかどうかはわからないわけでありまして、これが一体海底に沈んでいってどういうメカニズムでメタンになるのかということが追求されなければ、くみ上げて燃すということは、ある意味からいえば地球破壊行為であるというふうにも見られないことはない。どうも私はそっちの方が強いのではないかと思っております。

 ところが、科学者がそういう問題を指摘してから既に十年以上たっているんでありますが、やっていらっしゃらないんですね。ですから、やはり科学者がちゃんと将来の人類社会に対して責任を感じて、自分たちの研究をそちらの方に向けていくという人間としてのまじめな態度がもう少し必要なのではないかというふうに考えているところでございます。先生の御質問に対してもまだ追求不十分な点がたくさんありまして、利害得失を見ながら選んでいくということをやらなければいけないというふうに思います。

筒井委員 太陽電池を先生がつくられて、しかし今それを訴えるのを差し控えているという点をもうちょっとお聞きしたいんです。

 海底ケーブルとか長距離の送電線にしたって、やはり化石資源を大量に使わなければいけないのではないか。その場合に、化石資源というのが炭酸ガスをいっぱい含んで地下に潜ってくれているのに、それをわざわざ人間が今掘り起こしていると今も言われましたし、先生の著書にもそういう話があります。長距離の送電線をやれば、それをまた掘り起こすことになるのではないか、先生の太陽電池の方をもっと活用した方がいいのではないかと素人目では思うので、それをなぜ控えておられるのか、その点、ちょっとまた説明いただきたいと思います。

西澤参考人 定性的には先生のおっしゃるとおりでございますけれども、では、ケーブルというのがどれだけの量を新しく使わなければいけないかというふうなことをやはり考えなければいけないわけでございます。量的にはそんなに大量のものではございません。ただ、これはやってみなければわからないということで、国の中でどなたかがとにかくテストをしてみてくださるということが非常に重要でございます。

 現に北海道は電力が足りないが九州は余っているという事態が起こったときに、これをバーターすることがなかなか難しいんですね。それを、例えば日本列島に沿うて海沿いに高圧直流海底ケーブルを引けば、これが融通可能になってくるわけでございます。このときにエネルギー節約が随分できるわけです。こういうものを調べようと思えば、直流高圧ケーブルが何年間使用に耐え得るかというふうなこともわからなければやれないわけでございます。

 現実には、中国の三峡ダムの開発にいろいろな形でコミットすることになりまして、現場にも二回行っておりますし、何回か出かけていって、我々のようなやり方を採用すべきであるということを言ったわけでございます。ところが、残念なことに、日本側からの直流送電システムの入札は全部とれなかったんです。結局、そういうことを先行開発しております、スウェーデンとスイスのつくっておりますABBという会社が一〇〇%注文をとってまいりました。ですから、こういうことは、そういう先行開発が、外国がもしも認めるような有意義なものであれば、今日の経済にすぐに響いてくるという一つの事例でございます。

 先ほど来大きなことばかりという話もございましたが、それは、私が前に衆議院に喚問されたのは発光ダイオードの話でございまして、このごろ日亜化学の中村さんが有名になってきておりますが、中村さんは青をやったんでありまして、私はその前に赤と緑をやっております。光の三原色のうちの二つは私どもがやりまして、現在非常に安い値段で使っていただいておりまして、例えば高速道路の上の標示板は、全部私どものやりましたものが今お役に立っているわけであります。昔は太陽の光が当たったら見えなくなるぐらいしか光が出ないと言われておりましたのが、現在、日中でも十分にお読み取りいただけるような明るさが現実にできているわけであります。

 この間は、ある方に、自分の前にいる車がブレーキをかけた途端に余りにも明るい光を出すので、頭が痛くなったといってしかられたわけでございます。これは、ちゃんと科学技術をもうちょっと使えば、ゆっくりブレーキをかけたときはそんなに光が出ない、急ブレーキをかけたときには、後ろの車にすぐに注意を喚起するために、頭が痛くなるぐらいの光を出した方がいいわけでございますから、そのような使い分けも本当はもう少し技術を活用すればできる話であります。そういうようなことを目指しながら、徐々に解決をしていくことも同時に私としてはやっているわけでございまして、決して大きなことを言っているわけではございません。

筒井委員 最後の質問なんですが、年齢差別の点。

 確かに日本国憲法では年齢差別はないので、あるかなと思って調べてみたら、カナダの憲法で、年齢差別をしてはならないというのがありました。ほかの日本と同じような規定と同時に、年齢もしくは精神的または肉体的障害に基づく差別、これを禁止しているので、こういうふうな規定を入れるべきだという御意見というふうにお聞きしたんですが、その場合に、精神的または肉体的障害に基づく差別、これも日本の場合に憲法十四条にはないわけでして、こういうのもやはり入れるべきだというふうな御意見としてお聞きしてよろしいのですか。

西澤参考人 おっしゃるとおりでございまして、ちょっと例を申し上げた方がいいかと思いますが、私のおやじは百三歳で亡くなりました。老人ホームに最後ちょっといたわけで、日曜日に見舞いに行きますと、別な人がいましたので話を聞いてみたら、私と同い年でございました。車いすに乗っておりました。私はおやじと同じ年まで働くといたしますと、あと三十年間働かなければいけないわけでございまして、むしろ、自分の持っている才能があるとすれば、それに応じて社会に対する奉仕を続けていくことが大事ではないかというふうに考えているわけでございます。

 先ほど申しましたように、国民一人一人が自分の才能に応じて社会に貢献をするということがやはり大事なもう一つの要素ではないか。十四条に入れていただくのはもちろんその一つでございますけれども、やはり才能に応じた努力を続けさせるということを憲法に入れていただかなければ、要するに矛盾が来るのではないかというふうに思うわけでございます。

筒井委員 ありがとうございました。時間が来ましたので。

中山会長 斉藤鉄夫君。

斉藤(鉄)委員 公明党の斉藤鉄夫でございます。

 きょうは大変ありがとうございました。四点、もし時間があれば五点お伺いしたいと思います。

 まず第一点は、科学技術に対する民間と国の役割の問題ですが、研究開発費ベースでいきますと、日本の場合は、民間が八、国が二。その国の中には大学ももちろん入っているわけですが、これが欧米ですと、民間が六、国が四というふうなことも言われております。この科学技術研究開発に対する国の役割を基本的にどのようにお考えになっているかについて、まずお伺いいたします。

西澤参考人 ちょっと前になるわけでありまして、昔のことを言うと嫌われますけれども、ある超一流会社の社長が、大学なぞというものは研究なぞやらぬでもよろしい、研究はすべて会社がやるからいいんだ、大学の先生は教育を熱心にやって、就職した翌日から会社のために貢献できるようにちゃんと教育しろということを言った方がいらっしゃいました。これが戦後の日本社会の大学に対する考えの一つの典型的な例ではないかと思うのでありますが、実際、過去において科学技術に対する大きな貢献というものがどこから出たかということを手繰ってまいりますと、日本の明治以来の中で約七〇%から八〇%近いところが大学から出てきております。

 ドイツでは、戦後に、どうして条件の悪い大学がこういう成果が上がるのかということをいろいろと追跡調査をいたしまして、若者と触れ合いながら自分の頭を整理している教官が結局そのときに非常におもしろいアイデアを見つけるのだという結論を出しているわけでありまして、これは日本の対応の仕方とドイツの対応の仕方がまるっきり反対である。せっかくいいものがあるのを無視してしまおうという考え方と、いいものがあるから、それがどういうところからきているかを調べて、それをどんどん強化していこうというドイツの態度は、やはり私は大変大事ではなかったかと。

 実は、私ども、産学協同の重要さということに――先ほど申しましたように、戦後の日本を救うには科学技術を展開する以外にないのだということを幼い頭で考えたところから自分の人生が出発しているわけでございます。ところが、後で見れば、東北大学というのは、産学協同を早くから実施した本多光太郎、八木秀次両先生のお仕事なぞがあるわけでございます。

 決して自分が初めて始めたわけではございませんが、先輩教官に、大学の外に研究所をつくって産学協同をやれということを命ぜられました。ばか者でございますから、それにうっかり乗ったのが運の尽きで、大変な苦労をしょうことになったわけでございます。

 成果といたしましては、この間エジソン・メダルをちょうだいすることができましたSITという新しいトランジスタ、日本では非常に評価が悪うございます。アメリカでは何と言っているかというと、二十一世紀のトランジスタはSITになるだろうと言っておりますし、現在、IGBTという特別な半導体が世界の市場を独占したみたいになっているわけでありますけれども、その発明者が、自分がIGBTを考えたのは西澤のSITを見て考えたのだということをちゃんと論文に書いております。評価をしてくれるのは外国でございまして、日本はそれとまるきり反対でございます。光通信の三要素というものも世界の何年か前に考えたわけで、これは八木先生のアドバイスというものが根本にあったわけでございます。

 そういうことで先鞭をつけることができたわけでございますけれども、残念なことに、日本の方々はそれに対してフォローしていただけなかった。それで、しようがなしに、特許だけ取って威張ってもしようがないわけでありますから、実際に実現しようと思って官庁研究所に研究費を助けてくださることをお願いに行ったわけでございますが、そんなできるかできないかわからない部門に金が出せるかと言われたので、私もばか正直でございますから、できるとわかったらこんなところに金をもらいに来ますか、できるかできないかわからないからやるためにもらいに来たんですと言ったら、タクシーを呼んだからすぐ帰れと言われて追い出されてしまいました。

 このような体験が、今、決して変わっているわけではございません。実は約二週間前に、私どもが主宰して、四十年間必死の思いで持ち続けてまいりまして、光通信にしろSITにしろ、そういう成果を上げることのできた研究所のヘッドを、おまえ、やめろということを某企業の重役から言われたところでございます。これをどう処置するか、今思いあぐねているところでございます。

 いずれにしましても、日本の中からそういう新しいものをどんどん育て上げていこうという風潮がいかにまだ不十分なものであるかということは、以上の事例をもっておわかりいただけるのではないかと思っております。何とかしてこういうところから変えていかなければいけない。もう私は年でございますからいいかげんに引退したいと思いますけれども、後の方々のためにそういう社会を残しておきたくないというのが私の今一番考えているところでございます。

斉藤(鉄)委員 国の役割は、大学、国立研究機関、基礎研究に非常に力を入れるということだと思うのです。国立研究所の方は大分改革が進んできたかな、例えば理研に見られますような改革が進んできたかなと思うのですが、問題は、大学改革ができるかどうかというところの一点に尽きると私は思っているんですが、この点についての先生のお考えを伺いたいと思います。

西澤参考人 大学だけが悪くてほかが皆いいというふうには私は考えておりませんけれども、いずれにしましても、一番大事な、例えば白川先生のおやりになったような仕事が日本の中から出たということが戦前の一つの特徴でございました。だれもが気がつかないところからすばらしいものを掘り出すというところで随分成果を上げたわけでございます。八木先生のものにしましても岡部先生のものにしても皆そうでございます。ところが、今そういう分野をやる方がいらっしゃらないのです。

 とにかく世界の人たちが騒ぎ出したところに研究者が集まり、研究費が集中いたします。戦前の大学では講座費というものがありまして、この範疇の中では、何らの制約を受けずに各教官が学生相手に自分のアイデアを実証していくという試みができたのですね。これが今なくなってしまいました。騒ぎ出されておるところにはお金が出ますが、騒がれていない、将来の芽生えを育てるようなところにはほとんどお金が来ないというのが実情でございます。私どもも、おやじ以来の教えで、人のやらないことをやれと言われたものですからこのような変わった息子ができてしまったわけでございますが、とかく人のやっていないことをやっておりますので、研究費に恵まれないわけでございますね。

 そういうようなところは決して大学だけではない。大学の問題というのはむしろ入学試験の問題がかなりきいているわけでございまして、暗記に集中いたしまして物を考えない若者が非常にふえているということが大きな原因と思っております。そういうところは社会機能としては十分に変える必要があると思っておりますけれども、やはりこれは社会全般に、最初に申しましたように、失礼ながら、井戸の水を飲む人間はその井戸を掘った人がだれかを思い起こせという中国のことわざを引いて申し上げましたけれども、とかく先覚者を尊重しない。

 ちょっと脱線いたしますが、アメリカの東部の学校で高校生たちに一番重要なものとして教えているのが、フェアであれということである。それから、いわゆるプレージャリズムという言葉があるそうでございますが、日本語で言えば人のアイデアを自分が考えたような顔をしてしゃべるということに対して極めて厳しい規範を持っておりまして、そういうことをやった生徒は退校になるそうでございます。大変厳しいのですね。

 そういうようなことが社会のバックグラウンドにありまして、非常にすばらしい人がどんどん伸びていくというような風潮がより強められているのではないかというふうに考えているところでございます。

斉藤(鉄)委員 評価と基礎研究についてちょっとお伺いしようかと思いましたが、先ほどのお答えの中に入っておりましたのでこれをちょっとスキップいたしまして、ちょっと観点を変えて、先生、エネルギー問題についても大変に御造詣が深いわけでございますが、私は、日本の平和の基礎は食料とエネルギーだと思っております。今世紀の日本を語る上で、エネルギー問題を基本的にどう考えていらっしゃるか。特に、いろいろ社会の中では悪者になっておりますけれども、原子力、高速増殖炉、こういう観点も含めてお伺いできればと思います。

西澤参考人 仰せのとおりでございまして、エネルギーが人間生活に非常に重要なものだということは、日本人は余りわかっていないのではないか。

 シベリアのノボシビルスクは極北の地でございますが、気象が急変いたしまして、予定の重油では足りなくなりました。町のセントラルヒーティングがとまりそうになったわけであります。そこで、トラックの運転手の中から、物騒な言葉でございますが現実にそうでありまして、決死隊を募集いたしました。コーカサスまで輸送車を運転していって石油をとりにいったのですね。ところが、途中で、雪が積もっていて突破できなかったり、あるいは車が故障を起こして動けなくなった運転手は全部凍死したのです。現実に決死隊になったわけでありますが、辛うじて何割かのトラックが石油の輸送に成功いたしまして、ノボシビルスクの市民は暖房を切ることなしに生活ができたわけでございます。

 極北の地でエネルギーの供給がとまるということは、まさに食料がなくなったのと匹敵するような大惨事でございます。こういうこともやはり日本人はよく考えなければいけない。

 確かに原子力というのは非常に危険でございます。だれもやりたいとは思っていないと思います。しかし、人間生活を安定させるためには、従来の火力が非常に大きな問題をはらみながら、知られずに今日まで非常に重用されてきたということもございまして、これから先、どういうふうに切りかえていくかということに対して、もうちょっと積極的に展開を図るべきではないかというふうに考えるわけでございます。

 私も実は、原子力に対しては全くその恩恵に浴したことがないわけでございまして、隣の研究室は、将来のエネルギーは原子力なのだから原子力関係には特別に手厚く研究費を支給するが、おまえたちは我慢をしろと言われた方でございます。随分たくさんの研究費をお持ちだなと思って、それは逆に言えば少しぜいたくだなと思うこともあったわけでありまして、指をくわえて眺めていたというのが本音でございます。

 しかし、その後「もんじゅ」の事故を見ますと、あれは機械工学科の一年生が見てもとんでもないことをやったなというていの事故でございます。そんなことを言っておりましたら、回り回って、私の大学の卒業生がたまたま担当課長でございましたので、私に、どう解決するかという懇話会の座長をやれということを依頼に来たわけです。私は、とんでもない、そんなことに差し出がましい顔をする理由は全くないんだと言ったのでありますが、だれもやってくれないから頼むと言われて、しようがなしに引き受けて「もんじゅ」の解決をやったわけでございますが、最初に宣言をいたしました。うそ偽りは一切言わないということでやりましたところが、極めて簡単に解決いたしまして、後始末が済み次第、即刻再開という結論を出したわけでございます。

 ですから、すべてのことに危険がございますけれども、ちゃんとした自分の職業に対する責任、言うなれば社会に対する責任感を持って平素からエリートたちがちゃんと努力をしていったならばあのような事件は起こらなかったはずだと思っております。次のJCOもそうでございます。一連の原子力事故を見ますと、やはり担当者のエリート意識が妙なぐあいに働きまして、とにかく大事なことを見落としているということを申し上げてもよろしいかと思っております。現実にこういう問題を早く締め上げなければ、重要な日本の生命線と言えるものがこれから安全にキープできなくなるのではないかと思っているわけであります。

 そういうことで私が水力の応用ということを言ったわけでございまして、これは計算しますと、全世界の水力の〇・一%を活用するといたしますと、世界じゅうの全エネルギー需要は賄えるという勘定になってまいります。そんなことで、早く日本がそういうことに対するテストをやってみるべきだということで、先ほど申しましたように、ようやくテストが始まったのを聞いて安心をしたわけでございます。

 やはり利害得失をよく比較いたしまして、私は、原子力は緊急用に非常に重要である。例えば一年間の日本人の全生活のエネルギーをウラニウムで賄ったといたしますと、一年間に一万トン要ります。それぐらいの備蓄が要るわけでございますが、「もんじゅ」がうまく回転いたしますと、百七十トンで済む。六十分の一になります。これは大変大事なことでございます、資源保護とかあるいは放射性廃棄物がかなり減るわけでございますから。そういう点から、できることならなるべく早く運転すべきであるというので、先ほど申し上げたような結論を出したわけでございます。

 やってみなければ、まだ最終的に十分に安心して使えるものになるかどうかはわからないわけでありまして、十分にエンジニアが責任を持ってこういう問題を解決していってくれることを私は心から願っているわけでございます。

 大体以上であります。

    〔会長退席、鹿野会長代理着席〕

斉藤(鉄)委員 最後に一点、科学技術の国際協力という観点ですが、国際熱核融合炉ITERの誘致の問題が今科学技術の世界で大変大きな問題になっております。この点に関しましての先生の御意見をお伺いして、終わります。

西澤参考人 しかられることになるかと思いますが、一つ非常に不満がございますのは、自分たちが前にやった「もんじゅ」の運転が十分に見きわめられない状態のときにその次に目をくれるというのは、同じ科学者としてはちょっと腹が立つわけでございます。自分たちがやった仕事の後始末をつけてから次に行ったらいいじゃないかという気が強くございます。

 しかし、国際的に見て、次のエネルギーソースとして見た場合に、やはりITERも一つの担い手でございます。そういうものも力を出して協力をするということが必要だろう。

 ただ、日本には、京都大学の教授だった宇尾先生のおやりになりました非常にオリジナルなヘリオトロンというものがありまして、これが現在岐阜県で動いております。私が聞いた範囲では、従来ITERで対象にしております機械よりも案外いいのではないかということすら言われているのですね。ところが、ITERを動かそうと思うとお金が足りなくなるというので、ヘリオトロンの方の運転研究を中止するんじゃないかという話が流れておりまして、これは私は大変心配をしております。

 まず日本で自分たちが出したものを、だめだとわかれば別でございますけれども、とにかく、むしろいいのではないかという声もある状態のところで中途半端にするということは非常に残念である。でき得れば並列、もしどちらかを選べと言われたら、私としたらヘリオトロンの方を選んでしまうのではないかというふうに考えておりますので、以上でお返事とさせていただきます。

鹿野会長代理 藤島君。

藤島委員 自由党の藤島正之でございます。

 三点、もし時間があれば四点質問させていただきたいと思います。

 まず最初に、先生は利己主義と個人主義の関係についてお話しされました。確かに、日本の憲法では、権利についての規定はかなり多いんですけれども、その裏にある責任といいますか義務に関する規定が少ない。こういうことは背景にあるかもわかりませんけれども、ただそれだけで現在の日本の皆さんが個人主義というよりは利己主義の方に傾いているというものでもないような気もするんですね。外国においても若干そういう傾向があるんじゃないかなという感じがするんですけれども、それは経済的な豊かさとか何かと裏腹な関係にあると思うんです。

 この点について、先生はこれから利己主義からいい意味での個人主義に変えていかなきゃいかぬという御意見なんですけれども、どういうふうにしていったらいいのか、そういう点、御意見をお伺いいたします。

西澤参考人 大体おっしゃるとおりでございまして、しかし、例えばアメリカなんかもかつてはボトムアップをする、みんながちゃんと市民として活動できるようなレベルを保たせるということに集中しておったと伺っております。しかしそれでも、当時、日本人であちらの学校の先生をしている人に直接聞いた話でございますが、その時代、一九六一年前でもクラスは能力別になっておった、一番レベルの低いと言われている学級の担当教官は、前に進まなくてもいいから後ろに下がらせるなというガイダンスを受けるそうでございます。

 今、日本で能力別クラス分けをするというふうなことになりますと大変なことになるわけでありますけれども、もちろん、多民族構成でありますから、アメリカ人には能力の分布差範囲が非常に広いということでそういう手法が容認されているのかと思います。日本にそのまま持ち込むのがいいか悪いかということは問題でございますが、とにかく、能力の方向も考えずに全部一律に、最初の初等教育は別でございますけれども、昔は中等教育からは職業学校にも分かれましたし、いろいろな分散をしたわけでございます。

 そういうような、言うなればDNAに合わせた教育の選択をやらせていたということは非常に効果的ではなかったか。今、そういうことをすること自体が差別と言われてしまっているということは、十分に伸びるべき才能を伸ばしていないということに尽きるのではないかと思っております。

 スプートニクでロシアに水をあけられた、そこまでは行ってなかったと思いますが、アメリカが急に慌ててやりましたのは、むしろトップを伸ばしていくという方向に教育の方向を切りかえていく。

 これは又聞きでございますから正確かどうかはわかりませんが、例えばビル・ゲイツという人は日本では天才児で大変すばらしい人だという評価が定着をしておりますが、アメリカの場合にはアウトローだという評価も同時にあるわけでございます。つまり、いろいろと社会の規範を乱してしまっているむしろネガティブな要素も十分にとがめられているということをやはり忘れてはならないのではないかと思います。

 いずれにしましても、そういうことに耐えても、ビル・ゲイツの持っている才能を伸ばすということによってアメリカの国力を上げていくということにアメリカは既に目を変えているということでございます。日本の場合には、それがいつまでたっても初めから終わりまで一律ということであります。そういうことが、むしろ日本人の持っているDNAを十分に発揮して、すばらしい仕事を一人一人のDNAに基づいてやってもらうということに対応していないのではないかというふうに考えているところでございます。

藤島委員 次に、科学技術の研究に対する費用といいますか、この点でございますけれども、先ほど先生は事前評価、事後評価、こうおっしゃっておりますけれども、私はむしろ、こういう研究というのは余り成果を期待しないでどんどん金をつぎ込んでいく、その中で、万に一つとは言いませんけれども、確率は少ないけれども非常に光るものが研究開発されていく、これが非常に価値があるといいますか、意味があるような感じがしております。

 米国での科学技術に対する投資というのは膨大なものがあるわけですね。我が国も一生懸命やっておるわけですけれども、規模から見ると何十分の一ぐらいにしかならない。こういうことではこれからどんどん差がつけられていくんじゃないかなという感じがしまして、むしろ、我が国も公共投資などにどんどん金をつぎ込んでいるよりは、きょう、あしたの話ではなくてもうちょっと先を見て、やはり評価よりも、評価も大事なんですけれども、お金をどんどん科学技術にむだなようでも費やしていくということが大事じゃないかと思いますけれども、いかがでしょうか。

西澤参考人 大変ありがたいお話でございます。ただ、日本の科学者に必要なだけ金をやるよと言ったら、国の財政は破綻をいたします。ですから、大事なことは、十分にはできないかもしれませんが、精いっぱいの評価をして、いい仕事をする方にはたくさん差し上げるというふうなことをやらざるを得ないと思っております。

 アメリカでもこれはやっているわけでございまして、私がよく申しますのは、たまたま今度のITの基礎になったのは、私どものやりました光通信とベル電話研究所、それから、この間ノーベル賞をもらった、必ずしも妥当ではない人がもらったのかなとは思いますけれども、集積回路の提案者がもらっているわけでございます。

 この集積回路、トランジスタと光通信が融合をしてITになっているということでございますが、そのトランジスタの研究が始まったのはいつかというと、一番最初にアイデアを出したのは大正十五年でございます。これは、ユダヤ系ドイツ人のリニエンフェルドという人が、ナチス・ドイツの政策に圧迫されて、ドレスデン大学の教授をやめてアメリカに逃げ出したわけです。ゼネラルエレクトリックの研究所の所員となりまして、現在のトランジスタの半ばほどのアイデアを含んだ特許の出願をいたします。今読みましても、大変中身がしっかりしておりまして、まさに舌を巻く思いをするわけでございます。しかし、これを実際につくってみようという人はなかなかあらわれませんでした。

 とうとうあらわれましたのは、ベル電話研究所のケリーという人なのでありますが、これが昭和十一年でございます。ケリーは当時副所長だったのでございますが、この人にトランジスタの開発をやらせることにベルの首脳部が決めまして、予算をつけました。ちょうどMITを卒業したウィリアム・ショックレー、彼の友人でワシントンの海軍技術研究所におりましたジョン・バーディーン、それからもともと所内で半導体の仕事をしておりましたブラッテンというのが中心になりまして、研究チームが組織されるわけでございます。

 これで始めましたのが、リニエンフェルドの考えていることを蒸着膜でつくろうという基本的に間違った発想で始まった。結局、いい単結晶をつくらなければいけなかったのでありますが、当時結晶というものの理解が十分ではなかったので、蒸着膜でやって大変むだをしたわけでございますが、何と十一年間失敗の連続だったのです。ところが、ベル電話研究所はこれを中止させませんでした。

 ふまじめなことを申し上げてしかられるかもしれませんが、よく日本では一度失敗したら永久に窓際族と言われておりました。関西某メーカーだけはもう一遍だけは失敗をさせるということでございます。ところが、今私が不謹慎なことを言っておりますのは、景気が悪くてリストラの時代でございまして、一遍失敗したら窓の外だと私は言っているわけでございます。一遍で会社から追放されてしまうわけでございます。

 こういう実情のもとで、それは確かに先生がおっしゃってくださるようにもう少しいろいろなオリジナルな仕事をやらせるべきでございますけれども、アメリカですら、これはケリーだからやらされた。しかも、始めた以上は、十一年間失敗に次ぐ失敗であるのにかかわらず、仕事をやめさせなかったわけです。日本は二、三年間やらせるのが精いっぱいでございまして、その間にうまくいかなければ窓の外になってしまいます。

 そういう現実との間をとろうということになりますと、やはりある程度の評価をやって、要するに能力のある人を発見するという努力が要る。過去の歴史の上でいいまして、立派な仕事をした方が評価されるのは結構でございますが、その方の後ろに、大抵の場合にはその方を認めて仕事をさせた方がいらっしゃいます。そういうことをやはり考えていかなければいけないのでございます。

 私たちは大学の先生に自己評価をしなさいとよく言うわけでございますが、私どもはやってまいりました。当時、会社からお金をもらうということも日本ではほとんどなかったことでございますから、一遍失敗したら二度とくれないわけです。もちろん、文部省からお金を出す能力もございませんでした。そういうところで必死になって考えて、これなら絶対に間違いないなと思うようなことだけをやったわけであります。幸いにして、最初のうちは百発百中ということになったわけでございます。

 自分の能力を評価して、これならばいけるぞ、つまり、半導体でレーザーができるんじゃないかということを考えたときに、先ほど申しましたようにお金をもらいに行くわけでございますが、そのときに自分で反省をしたわけです。今まで自分ができそうだと思ったことがどれだけできているか、まだやられていないものもありますけれども。自分ができないと思ったことができているというふうなことを見まして、自分の評価が少し自分に対してきつかったなと思ったものですから、半導体レーザーの場合には、いろいろな人のデータを使ってスペキュレートいたしますと、できそうでもあり、できそうでもなしというようなことがありましたので、それでは今までの自分の評価が少し厳しかった方にかけるかということでお金をもらいに行ったわけでございます。追い出されましたけれども、後でやはり出してやればよかったなと言ってくださる方が出てくることを期待したわけでございますが、残念なことにそういうことを言ってくださった方はいらっしゃらなかったようでございます。

 やはり徐々にそういう形でまじめに科学者の方も自己評価を続けながら、社会に御迷惑をなるべくかけまいという意識で研究を展開するということがベースにどうしても必要であるというふうに考えております。

藤島委員 確かに、民間ベースで考えますと、一回しくじったら窓際というのはよくわかるのですけれども、やはりこれは国の投資もその辺を補完していかなきゃいかぬなという感じは強くしているわけでございます。

 時間がありませんので、もう一つだけ。

 個人の特徴を生かした社会といいますか、これを我々は活力のある社会ということで考えているわけですけれども、個人個人、最低限の生活をできるものは基本ですけれども、それ以上はそれぞれが本当に活力を持って生きていかなきゃいかぬわけであります。

 先生先ほど、年寄りは引っ込めというような話があったということですけれども、私は科学技術についていいますと、先ほどちょっと例をお挙げになりましたけれども、八木アンテナのお話あるいは白川先生のお話、いろいろありましたけれども、立派な発明発見というのはどうも二十歳前後ぐらいで、もう六十を過ぎた人からはそういう発明というのは、頭脳の問題があるのかもわかりませんけれども、なっていくような感じがしまして、それはそれでそれぞれが役割みたいなものがあるわけでありまして、やはり科学の研究の方もうまく管理することによって、そういう若い人の発明発見をすごく伸ばすようなこともあるわけでありますので、その辺は先生、どういうふうにお考えになっておりますか。

    〔鹿野会長代理退席、会長着席〕

西澤参考人 仰せのとおりでございます。

 大体若いうちに仕事ができる分野は基礎知識の余り要らない分野でございまして、例えば数学なぞは、ガロアなんという人がいまして、妙な女性にほれて友人と決闘したわけであります。そのときに、ピストルの撃ち方には自信がなかったと見えまして、遺言状に自分が温めておりました数学上の業績を書き残したんですね。これが死後に発見されまして大変な評価を受けたというようなおもしろい話があるわけでありますが、数学とか理論物理というのは余り基礎知識が要りません。湯川先生の中間子理論、それからハイゼンベルグの量子力学、それからアインシュタインの相対性理論、いずれも二十七歳と言われております。

 ですから、理論物理も余り余計なことを知らなくてもそういう世界的な仕事ができる分野でございまして、だんだん基礎知識の要る分野の方がふえてまいりまして、化学とか医学の分野では、かなりのお年になってからいい仕事をしていらっしゃることがあるわけでございます。

 これは、私もこんな生意気なことを申し上げますから自己評価はちゃんとやらなければいけないと思っているわけでございまして、今一つ申し上げておきたいことでございますが、ちょうどバブルが始まる寸前の不景気のとき、何という不景気だったか覚えておりませんが、たまたま私どもがある仕事がしたくなって会社に研究費をおねだりに行きました。そうしましたら、重役の方が二つ返事で出してあげますと言ってくださったんですね。私はびっくりしまして、今不景気だと聞いておりましたのに、こんなに出していただけるということは、実は失礼ながら想像もしておりませんでしたということを、余りにも感銘が深かったので申し上げました。

 そんなことを言うなら減らすぞと言われるのではないかということを心配しておりましたけれども、その方がおっしゃいました。会社の出す研究費というものは、現在会社に入った若い人、あるいは将来の社員のために研究費を出すんです。そういう人たちが働き盛りになったときに、我々が出した研究費の成果が会社に戻ってくることを期待してやっているのです。今は確かにうちの会社の経営がよくなくて我々は非常に苦しんでおりますけれども、これは自分たちのやり方が悪かったからこういうことになったんです。だから、自分たちが苦しむのは当たり前です。自分たちのやり方が悪かった責任を将来の社員の方に影響を与えてしまうということは根本的に間違っていますと言われて、私は大変な感銘を受けて帰ってまいりました。

 そういうことがございましたけれども、最近見ておりますと、その当時に比べれば日本の会社の方も決してそんなにお困りの状態ではないのに、どうも聞くところによりますと、一番先に研究開発部が削減されてしまうというふうなことを聞いて大変心配をしているわけでございます。

 ただこの間も、ちらっと私にかかわる事件を申し上げましたけれども、今見ますと、アメリカが、次の二十一世紀にはSITの時代が来るとまで言ってくれる、研究は確かに始めているのでございます。それを始めた我々に対しては何も考えていただけないんですね。省庁から補助金をもらっていらっしゃいますけれども、我々の方には一銭も回ってまいりません。言い出しっぺは何にも恩恵に浴さない。光通信にしたところで、我々はあの時点でもっと物をつくって積極的に展開をしていきたかったわけでございますが、それが許されませんでした。というようなことでありまして、まだ心に温めておるものがかなりございます。

 ところが、今、日本の企業というのはどちらかというと外国のやり方を非常に踏襲する方が多いということをおっしゃるのは決して私だけではないわけでございまして、学界の大きな組織の中で、さっき申しましたように、五つの題目以外には金を出さないようにしよう、つまり、新しい予想外のものが出てくるということに対する配慮が欠けているということがおわかりいただけるだろうと思うんですね。これは日本全体の一つの傾向だと私は思っております。

 そういう問題を掘り上げるのはやはりこれはある種の天才が必要でございまして、そういう目ききを日本の中から拾い上げる。そういう方はいらっしゃらないわけではありません。十分にいらっしゃいます。そういう方々に現在目ききをお願いしていないというところに非常に大きな問題があるのではないか。

 ありがたい話ではございますが、我々自体が何でも自分がやりたくなったことをそのままやらせていただけるというのでは、とても社会が成立しないだろうと思っております。そのうちから選んでやっていただきたい。適切な目ききの方に判定をしていただきたいというのが私の願いでございます。

藤島委員 終わります。

中山会長 塩川鉄也君。

塩川(鉄)委員 日本共産党の塩川鉄也でございます。

 西澤先生の貴重なお話、本当にありがとうございました。

 最初に先生は、憲法について、義務についての記述が不十分ではないかというお話をされましたけれども、私は、憲法というのは、国民が国家に対して権力を授けるけれども、その権力の運用に対しては厳しく制限を設けて、個人の権利や自由を確保するためにつくられたものだというふうに考えています。ですから、国家権力の行使に限界を設けるというところに本来の憲法の存立意義があるのかなと思います。その点で、義務の記述が不十分という御指摘がこの立憲主義に即してそぐわないものではないかなというふうに思います。

 あと、年寄りを差別してはいけないと憲法に書いていない。差別すること自身が問題でありますし、この点でも、憲法十四条の平等原則の冒頭に、すべて国民は法のもとに平等であると規定もしておりますし、いわばいかなる差別も許さないというのが大前提だと思います。その点で問題なのが、このような憲法の理想が生かされていない日本の現実の方が問題だと思うのです。例えば、雇用の際に年齢の差別がまかり通るような実態など、この理想が生かされていない日本の政治の現状を改めていくということが問われているのかなと思うのです。

 学問研究分野でも憲法と現実の乖離があるのじゃないかというふうに思うのですね。その点で、私は先生の著作などを幾つか拝見させていただきましての御指摘を受けて御質問をさせていただきたいのですが、学問研究分野についての独創性について先生は大変強調されて言及をされていらっしゃいます。

 憲法では、学問研究にかかわって、二十三条に「学問の自由は、これを保障する。」と規定しておりますけれども、この学問の自由を思想一般の自由に解消せずに、いわば一項目起こして記述しているのは世界でもまれだというふうに聞いております。しかしながら、日本の現状はこれが生かされていない実態だと思うのですね。いわば学問研究の発展の土台づくりが損なわれているのじゃないかというふうに思うのです。

 先生は、例えば大学教員の任期制の導入の問題について、あるいは講座費の削減の問題などについてもその問題点を述べておられますけれども、大学人の自由な研究条件を保障していく上で、憲法の掲げた理念と今の政府の貧困な大学政策のもとでのこの現実のギャップをどのように受けとめていらっしゃるのか、最初にお聞きしたいと思います。

西澤参考人 大変重要な問題でございまして、私も理解が十分にできているかどうかわかりませんけれども、英米法というのは慣習重点であって、条項は必ずしも完全ではないということが言われるわけでございます。さっきもちょっと申しましたように、法律というのは国民の一般的な慣習とか感情というものがベースになってできているわけで、当たり前だと思っているとつい文書の中に書き落とすということもあり得るのだろうと思います。問題が出てきたときにまたこれを直していくということで今日に至っていると思います。

 いずれにしましても、先ほど来申し上げておりますように、権利の方に関しては非常に克明に検討されたということもよくわかります、戦後でございますから。ただし、そのとき、これから日本の中で生活をする人間がどのような義務をしょい、どのようにして社会を維持していくかということに関しては、やはり書き方が不十分だったのではないかなという気持ちを、今先生のお話を伺いましてもちょっと変える気にならないということを私は申し上げておきたいと思います。

 何かイギリスなんぞは、例えばバートランド・ラッセルというとんでもない人がいるわけでございますが、あの人が自分の全集の序文の中に、イギリスには専門家は一人もいない、素人だけであるということを書いてあります。つまり、学校教育というものは人間のベースを上げるためにのみ存在するのであって、それから後の専門知識については各人が自分で勉強しろということを言っているわけですね。つまり、実力主義の世の中でございます。ただ、時代対応が遅くなりますので、とかく欧米は対応が遅いということが言われるのはその結果ではないかなというふうには思っておりますけれども。

 これから日本民族が、もう一遍考え直して、適切な対応がとれるようなやり方を考えていかなければいけない。そういうことに関しまして、例えば教育問題にしましても、人間すべて平等、対等だということはよろしいわけでございますけれども、才能の育成の仕方まで同じ型にはめてしまおうということは、むしろ日本民族にとって大変大きなマイナスではないかというようなことを、教育研究を今まで自分でやってきた身から見ましてぜひ申し上げておきたいと思ったのがきょうのお話でございます。

 そういうことで、また細かい話はいろいろございますけれども、きょうはこれだけにさせていただきたいと思います。

塩川(鉄)委員 白川英樹先生も大学の研究条件のお話で、サポーティングスタッフのことで、研究者八人に一人しか配置をされないような実態はどうだろうかというお話をされていたというふうにお聞きしました。この点でも、研究者の方が自分の問題意識に沿って研究ができるような環境づくりにもっと努めるべきではないかと思うのですが、その点ではいかがでしょうか。

西澤参考人 仰せのとおりでございまして、実は、最初は平教授でございますから、中では申しますが、外に対して申し上げることは、当然権利がないわけでございますから申し上げませんでした。そのうちに所長にされ、最後は予想もしない学長にされたときに、学長会議で、今先生のおっしゃった補助職員がなくなったということが、今でいえば物づくりという、あるいは別な言い方をすれば、現実を見ながら学問を展開していくという新しい学問の誕生に日本が非常におくれてしまったことの原因であるということで申し上げたわけでございます。

 教授は、いろいろな会議がまたふえておりますから、自分から、手ずから実験装置をつくったり、あるいはこれを使っていろいろな測定をするということができなくなる。また、そういう影響を受けて学生どもがそれをやらなくなるわけでありまして、今の学生がほとんどパソコンにばかりくっついているということになってきて、本当の意味の新しい学問の展開がなくなってきております。

 それから、今悲劇的なことは、物をつくるという技術が日本から失われつつあるのじゃないか。物をつくるという技術は中国にどんどん移っていっております。そのお手伝いもしているわけでございますけれども。

 いずれにしても、日本が自分で持っておった非常に大きな長所をなくしつつあるということはゆゆしき問題でございまして、そのうちの一端が、変な話をするとお思いになるかもしれませんが、補助職員の欠落でございます。

 学長会議で再三これを申し上げましたけれども、取り上げていただけないので、先生方にお願いをいたして歩きました。ここにいらっしゃる何人かの先生のところにも、今お話をいたしました研究費をふやしていただくことと、補助職員を、そのときはふやしてくれと申し上げるのはちょっとなかなか通りにくいので、減らさないでいただきたいというようなことをお願いに上がったわけでございます。研究費をふやすということにつきましては、中山先生、尾身先生を初め、私が予想したよりもはるかによく御理解をいただきまして、現実化していただけたというのが現在までの経過でございます。私も、本来、それを非常に重要な三項目の一つとして申し上げました。

 それから、もう一つついておりましたのは、教官の待遇改善でございます。ところが、教官の方でも非常に反対なさる方がいらっしゃる。我々、場がエンジニアリングでございますから、ちょっといい学生がいると思いますと会社の人が来てさらっていっちゃうのですね。昔は一番いいのが大学に残ったのです。今はどこにも行けないのが下手をすると大学に残るということすら、まあちょっとこれは言い過ぎでございますが、ということすら起こっている。いい教官のところからいい学生が出てまいります。教官がよくなかったらいい学生は出ないのですね。

 それは、一つには、一律化が進み過ぎている。いろいろな大学があってしかるべきでございます。それを某大学の名誉教授がやったという本がこのごろ出たわけで、これは決してアメリカ軍の指導ではなかったんだということが出て、我々もびっくりしているわけでございますけれども、戦後の誤った平等、対等、一律主義というのが一つの原因になったのではないか、いろいろな種類の大学があっていいのではないかというふうに考えております。

 以上でございます。

塩川(鉄)委員 西澤先生の独創的な学問研究を重視されているというのも、その原点として終戦直後の体験がおありだというふうにお聞きしました。戦後の日本人がひもじい思いをしないで生きていくには、外国の模倣ではない独創的な研究を積み重ねて、科学立国となり、産業を興していくことにあると思い定めたというふうに聞いております。

 私、今の憲法の原則の一つであります恒久平和主義というのは、そのときの、終わったばかりの戦争の悲惨な実態を再び繰り返さないという国民の決意のあらわれだったと思います。

 西澤先生御自身、身近な先輩の方々が学徒動員で戦場に散った年代だというふうに思います。この戦後政治の原点というべき平和主義についてどのように認識していらっしゃるか、お聞きしたいと思います。

西澤参考人 素人でございますので、余りよくまとめていないのでございますが、例えば、隣の国が軍備をしないときに軍備をするのはばかだと思います。さればとて、「イワンの馬鹿」という小説がございますけれども、外国が侵略してきたときに手もなしに全部国をとられてしまうということは、物語ほど簡単なことではないと思うのですね。そういう意味からいえば、これは現実対応型であると思います。したがいまして、どれだけ軍備を持つかということは、今になって振り返ってみれば、軍備をあれだけ心配になるぐらいまで減らしてしまった吉田茂総理大臣の先見の明というのは、やはり大変な称賛に値するものではないかという気がするわけです。結果論でございます。

 ただ、最初に申しましたように、今の平和というものは、決して軍備だけで守り切れるものではないわけであります。マネー戦争があり、生産戦争あり、これからは科学技術の戦争が始まって、国民の適正な食料の支給ができなくなる可能性がここからも出てくるわけでございます。そういうことに対しても十分に配慮をしなければいけない、軍備だけにこだわっている時代ではないのではないかというふうに私は考えているということは、先ほど御説明を申し上げたところでございます。

塩川(鉄)委員 軍備だけにこだわるべきではないという、いわば二十世紀の歴史の流れそのものが、戦争が違法なものだというのは国際的なルールになった歴史ではないかなと思うのです。第一次大戦、第二次大戦という二度の大きな惨禍を経まして、戦後の国連の憲章そのものに武力行使や威嚇の禁止、その発展として今の憲法九条があると思います。

 ですから、今日本が目指すべき外交のあり方、努力の方向というのは、いわば非軍事の方向での大きな取り組みが必要だろう。紛争解決に当たっても、軍事優先ではなく話し合いによる平和の解決を最優先させる問題ですとか、過去の侵略戦争や植民地支配の反省をいわばアジア外交に取り組む大前提とすることが必要ではないかなというふうに思っています。

 その上で、非軍事の問題で私が思うのは、科学者にとっての平和主義は、いわば科学技術の平和利用ということで生かされてくるのかなと思うのです。この点で、先生も引用されていらっしゃる宮沢賢治の言葉でも、全世界の人たち一人残らず幸せでなければ個人の幸福はあり得ない。きょうのお話の中でも、科学技術というものは人間が悲惨な状態にあるのを助けるもの、こういう立場からも非軍事の方向での努力がますます必要ではないかと思うのですが、その点ではいかがでしょうか。

西澤参考人 仰せのとおりでございまして、私は、自分から武器を持って平和な国に入っていこうなどということは全く考えておりません。これは愛国ではないと思います。最初に申し上げたとおりでございます。

 例えば明石さんは、どちらかというと平和主義の立場をとられて国連で働かれたと思うんでありますが、カンボジアでは結構成果を上げられた。しかし、ボスニア・ヘルツェゴビナに行ったときに、首脳部との方針が必ずしも適合しなくて地位を去られることになるわけでございますが、明石さんの特徴とされたのは、非常に日本的ないわゆる話し合い主義だったのですね。しかし、ボスニア・ヘルツェゴビナに行ったときにはなかなかこれがうまくいかなかったという現実はやはり無視することはできないだろう。あのまま続けていったときにうまくいったかもしれませんけれども、少なくとも、世界の人たちがそれに対して、しかも世界のハートと言ってもいいような重要な部分を主宰していらっしゃる方々にすらそれがすぐにはわかっていただけなかったということは無視ができないんじゃないか。

 例えば、三千年前の首都を取り戻そうということを、亡国の民となりながら忘れることなしに、今そういうことを現実化しようという強烈な民族の意思を持った民族もいるわけでございます。そういう国と例えば日本が境を接していたとしたらどうなりますでしょうか。

 やはり時と場合によっていろいろなことが重要でございまして、そういうことを考えますと、私は、もうちょっとはっきり自分で専門として分析していれば、再軍備した方がよろしいとか、どれぐらいの兵力を持つべきだということを堂々とここで申し上げるつもりでございますが、そういう方面は今まで全然専門ではございませんでしたので、現実的に軍備が要るとか要らないとかいう、それは多分ソリューションは真ん中ぐらいにあるんだろう、全くなくても困るだろうというふうなことぐらいはわかりますけれども、それは国連軍として出す方がいいとかいうようなことをいろいろ申し上げられると思いますが、今私としてはそれだけの勉強がございません。

 ただ、それはむしろ国連のポリシーをどういうふうに考えていただくかということに対して、それこそ日本が国連に出かけていって、堂々たる大演説をして、世界の人たちにそれを納得させるというふうなことをやはり我々としては第一目標にすべきではないかなというふうに考えているわけです。

塩川(鉄)委員 ありがとうございました。

中山会長 金子哲夫君。

金子(哲)委員 社会民主党の金子でございます。

 先生のお話、私にとっては、科学技術とかそういう点については不勉強な点もありましたので、非常に関心を持って聞かせていただきました。

 先ほどの塩川先生の質問のつながりで一つだけお聞きをしたいと思います。

 きょうはお話の中ではそんなに詳しくお話しになりませんでしたけれども、この事前にいただきましたレジュメの中で、今の平和主義といいますか、憲法九条との関連で再軍備の問題等を先生取り上げていらっしゃいますけれども、特にその中で私が非常に興味を持ちますのは、日本が「軍備をするか否かは、相手次第で、切り離して軍備の可否を論ずることはできない」、それから「その他の国防をも含めるようにして、軍事に限った国防に関する記述だけではない表現法を活用すべきである。」

 後段の部分については、少し立法の問題でお話を伺いましたけれども、私自身は、この憲法九条の平和主義というものがこれからも大切だと思っております。

 先生にちょっとだけお伺いしたいのは、いわば相手次第ということを言われておりますけれども、今日の日本を取り巻く状況の中で、周囲の国々を考えてみたときに、そのことについてどのような評価をされているか、少しお聞かせいただきたいと思います。

西澤参考人 非常に不勉強なところでございまして、そこにそれだけ書かせていただいたのは、それが結論だということでございますので、余りそちらの方は、御質問をいただきましても自慢のできるようなお返事ができないという意味でございます。

 それはやはり、「イワンの馬鹿」はつまり現実的ではないだろう。侵略されても黙って無抵抗主義でいったらいいのかということになると、必ずしもそうではないだろうと思っておりますし、さればとて一歩たりとも入れるなという考え方でやることもなかなか現実的ではない。やはりそういう予算があったらほかの方に転用して、ほかの意味の国力を上げるということで日本の安全保障をやることも可能なのではないかというふうに考えているという意味で、それだけを書かせていただいたわけでございます。

金子(哲)委員 侵略という言葉も出ましたものですから、私は、お聞きしたかったのは、客観的な事実として、今の日本を取り巻く状況の中で、そういう国が想定されるだろうかという思いでちょっとお聞きしたんですけれども。

西澤参考人 それも、私いろいろな国の中を比較的歩いている方でございますが、確信を持って申し上げることはできないんですね。

 例えば、中国が猛烈な軍備をしているという時代に私が中国に行きましたときに、どうもこれは言っているほど軍備をやっていないのじゃないかなと思ったわけでございます。現実にはどうもそのようだったわけでございまして、外に対する発表というものをそのまま見ていると、非常に失敗をすることがあるわけであります。非常に強烈な軍備を持っているようなことを言っているけれども、それはそういう形で煙幕を張って侵略を恫喝しているという見方もできるわけでございますので、今先生のせっかくの御質問でございますが、私が確信を持って、この国は危ないですよとかこの国は安全ですよということを申し上げるだけの基礎知識がございませんので、その点お返事ができないということでお許しいただきたいと思います。

金子(哲)委員 ありがとうございました。

 先生もおっしゃいましたように、科学技術は根底にヒューマニズムがあるということをおっしゃいまして、そして、隣国との関係についても、まさにそうした科学技術によって発展したさまざまな力をお互いが共有し合うということが非常に大切だということをおっしゃっていたと思いますけれども、私もそのとおりだと思います。日本が進むべき一番の道は、憲法の今の平和主義を生かす道としては、そのことがまさに今隣国との関係、特に例えば日朝の国交回復なども、急いでそういう関係を築くことが大切ではないかというふうに思っていまして、そんな思いを持っているということだけ申し上げさせていただきたいと思います。

 それで、次に教育の問題、私もなかなか不勉強な点もあるのですけれども、先生がいろいろ教育問題で、例えば、私は事務局の方からいただいた一月三十一日の産経新聞のコピーなどを拝見させていただきますと、最近の十六、七歳の悲しい事件の続発、そんなものにもっと早く着手をしておればというような思い。それから、今日の長期的な景気の低迷の状況に対しても、回復を緊急に図らなければいけない。そのために、科学技術のレベルアップが非常に重要だというようなことを強調されておっしゃっていると思いまして、私もそのとおりだと思います。ただ私は、こうした問題が起きている原因、さまざまな立場で原因が考えられていると思いますけれども、この原因を究明していくということは非常に重要ではないかというふうに私自身思っております。

 それで、私自身の思いなのですけれども、確かに教育内容とかも非常に重要ですし、今の教育制度の問題も非常に重要だと思いますけれども、全体としてもっと大切なことは、子供たちにとって今の大人社会全体がどのような姿にあるかということが私は非常に重要ではないかというふうな思いを持っております。特に、今の十六、七歳の子供たちが、いわば心の形成の時期といいますか、そういう時期がちょうどバブルの時代であったように私は思うわけです。

 そして、その時期というのは、私たちもそうですけれども、まさにまじめに一生懸命働いている人たちよりも、株や土地転がしの人たちの方が、一晩に百万円、二百万円というお金が、主婦でも株を買ったことによって入ってくるような、そういう時代をかなり長い時間日本は過ごしてしまった。私は、科学技術にしてもそうですけれども、いわばまじめな基礎研究とか、一生懸命働くことの大切さといいますか、そういったことを忘れた時代が今の不幸な時期をつくっているのではないか。

 例えば、私なんかは信じられないのですけれども、日本の人工衛星があんなに相次いで失敗を繰り返す。かつての日本では考えられない状態だと思うのですね。そうすると、そういうことも含めて、まさに大人のそういう社会、バブル期だけではないかもわかりませんけれども、そういう社会のひずみが今日の問題として出ているのではないかというふうに私自身は思っております。

 例えば、KSD問題で今いろいろ言われておりますけれども、そういう延長線の上にこんな問題もあるのではないかということで、そういう意味では、いろいろな制度の問題もそうですけれども、そういう時代をつくってしまった大人の社会の本当の反省というものがまだ行われていないのではないか、そこのところが大切ではないかというふうに私は思うのですけれども、いかがでしょうか。

西澤参考人 仰せのとおりでございますが、最近は、また連日のごとく、十六、七歳が終わったと思いましたら、高級官僚の汚職問題が連発しているわけでございます。特権階級というのは、自分のやるべき義務をちゃんとつかんでいれば、これは当然なければいけない社会の一機能だと思いますけれども、とかくそういう地位に上がった人たちが、自分が社会的な責任を負ってそういう権限を与えられているのだということを忘れがちでございます。これは大学の先生なんかにもたくさんおりますから、人ごとではないわけでございますが、いすがいいからおれは偉いのだぞと思うということが非常に基本的に間違っていると思うのです。

 それが、ひいては子供たちに対して、大人は偉いのだから子供たちはこうしろと言っていたところでいろいろな反感が出たのが戦前のしつけでございますけれども、大人がみずから考えて、これはやはりちゃんと子供のうちから守らせた方がいい。ちょっと変な話になりますが、このごろ骨とう品ブームでございますが、骨とう品の真贋が見分けられるようにするためには、初めのうちはいいものだけを見せなければいけないということが言われております。

 ですから、フィーリングで物を考えるということを言われますが、そういう才能が発展するのはむしろ小学校就学以前であるということも言われるわけでございまして、こういうような経験を通しますと、才能を伸ばすためにいろいろな組織づくりをする。また、しつけのときからそれをよくのみ込んでやらなきゃいけない。これは、やってみなければわからないですね。最近で言えば、複雑系の科学でございまして、そういうのはやはりやってみなければわからないのですね。そういうことをこれから日本の新しい道徳というものに展開をしていく、家庭教育をいかに持っていくかということを教育者たちが率先してトレースをやりながら編み出していくということが必要でございます。

 ところが、残念なことに、余計なことを言うのでいつも物議を醸すわけでございますが、教育学というのがトップダウンが多いんですね。そうではなくて、現実の社会から見ていって、自分たちの体験をだんだん組織化していくというのが、これが本来の学問でございます。これは科学的手法というわけでございまして、教育もよくその辺を調べながらやらなければいけない。

 細かいことでございますが、最後にロケットについて申し上げますと、原子炉を間違って爆発させるということになれば、これはゆゆしき問題でございますから、最初は相当余剰のお金をかけて安全サイドに設計をずらしているわけであります。でき上がったものを測定いたしまして、これならば大丈夫ということでだんだん経済性を高めながら、要するに、安全サイドから外れることのないように設計を変えていくというのが大体こういう仕事の進歩の過程でございます。

 ところが、ロケットの場合には、初めから安全サイドにとってばかでかい大きなものをつくってしまうということがなかなかできないわけでありますので、ある程度初めから限界すれすれの経済性を保つようなものをとらないといけない。つまり、ちょっと大きなロケットをつくると、燃料がそれに伴ってまた要るわけであります。ちょっと目方をふやしただけでロケット全体が十倍、百倍になるということがあり得るわけでありますので、この辺のところはなかなか最初のゆとりを持った展開ということが難しい分野に入ってまいります。

 したがいまして、私が、たまたまロケットの方も事故が起こるたびに引っ張り出されるわけで、どうしてこういう因果な仕事ばかりやらされるのかなと思って、嘆いているところでございますが、ロケットの場合には、今回のは相当限界の数値をとって設計してあるから、落ちるかもしれませんよということを予告して打ったらどうですかということを言っているわけですよ。全然落ちないというのはマージンがあるのですよ。だから、やはり経済性を無視しないでやろうと思えばたまには落ちると。ですから、今回は危ないのですと言いながらやる。それから、大事な機械は二号機以降に乗せて飛ばす。最初のものはセメントの塊でも乗せて飛ばせばいいわけでございまして、そういうことをやるべきではないかということを申し上げました。

 ですから、先生のおっしゃったことは、半ばは本当でございまして、やはりどこかにたるみがあって、予測しない事故が起こっている。それから、大体あそこは開発の経験が余りないところであります。アメリカから技術を買ってきてやっていた世界でございますから、自主開発がなかなか難しい。糸川先生が、日本の中で自主開発の道を広げられたわけでございまして、この流れと外国から技術を買ってきた流れとが、日本のロケットの中に二つございまして、その二つができ得れば共存した方がまともな展開で、早く世界レベルに到達することができるのではないかと思っております。

 かつては中国のロケットが続けざまに落ちた。アメリカのロケットが続けざまに落ちたという時代もございます。これは、新しい展開過程に入ったときにある程度やむを得ないことであるということもぜひ御理解をいただいて、御見解を賜りたいと思います。私は打っておりませんけれども。

金子(哲)委員 先ほど、斉藤先生の質問の中で原子力の平和利用の問題についてお触れになりましたが、私も広島の出身なものですから、お聞きをしたもので、一言だけお話をさせていただきたいと思いますけれども、先生が大変危険だということをおっしゃっておりました。今事故ができるだけ起きないようにということで、当然のこととしてやられていると思いますけれども、先生がおっしゃいましたように、事故は、確かに今までに起きた事故でも、起こってみれば、後でなぜこんなことがということがほとんどの場合だと思います。

 私も、原子力の問題については、一たん事故が起きた場合、チェルノブイリに見るまでもなく、その世代のみならず次世代、三世代にまで及ぼす影響、そして広範囲に及ぼす影響があるというふうに思っておりまして、しかもそこに放射能被害というものの特殊性があるように思っております。

 そのことからいいますと、原子力を二十一世紀に推進していくというよりも、むしろ、先生の専門の分野でありますほかの代替エネルギー源の開発にもっと早急に力を注ぐ、お金を注ぐことの方が、より安全性といい、人類の将来にとってはいいのではないかという思いを持っておりますが、その大変な危険性について先生の見解をお聞きしたいと思います。

西澤参考人 おっしゃるとおりでございまして、その後一遍に原子力関係の重要な審議会の委員から、「もんじゅ」の再開を決めた途端に首になりまして、お払い箱になったわけでございますが、そうしたら、原子力産業会議というのがございまして、その方面の会長をやれと言われた。副会長は広島の御出身の方でございまして、私の専門ではないので、本当ならどなたかにやっていただきたいのですが、みんな嫌って逃げちゃうものでございますから、私が今原子力産業の矢面に立たされている。

 危険でございますが、日本の国情からいえば、もっと安全サイドにいって予算を余計使ってもいいというだけのゆとりがなかなか厳しい。日本というのは不幸な国でございまして、生まれたままの環境というのは決して楽ではございません。資源が何もありません。そういう中で国民生活を安定化していこうと思えば、我々技術者が人一倍頑張って、危険を生じさせることなしに、防御の手を打って、国民の生活に恩恵を与えていくということを目標にすべきではないかというのが私の信念でございます。

 そんなことで、これからも万が一のこともあり得るわけですが、私としては、そういうことはもう絶対に起こしてくれるなということを平素から言っておりますが、その基本にありますのが、ふたをあけてみれば今先生のおっしゃったとおりで、何だこんなばかなことをしてということをやるわけですね。しかも、大変な学歴を持った人たちがやるわけであります。非常に知識程度は上がっているわけですが、エリートが大事な心を失っている。自分が社会に対して果たすべき義務を忘れてしまっているのではないかということを感じまして、いろいろなところに書かせていただいたり、また会議の中でも絶えずそういう発言を繰り返させていただいているところでございます。何とか、日本の国民が危険をちゃんと防止しながら幸せを獲得していくということを現実化していきたいというのが私の願いでございます。

金子(哲)委員 ありがとうございました。

 私自身も大事故が起きないということを願っておりまして、そういう点で、またぜひいろいろと御意見、お教えをいただきたいと思います。ありがとうございました。

中山会長 小池百合子君。

小池委員 本日は、大変御示唆に富んだ御意見を拝聴することができまして、うれしく思っております。

 私の方から二、三質問をさせていただきたいのですが、もちろん先生は理系として、そしてまたさまざまな発明と申しますか研究を重ねてこられて、大変高名な方でいらっしゃいますが、その中で、先ほど宮沢賢治の詩についてお触れになったことは、大変私は印象深く思いました。

 私は、例えば大学の入試制度の流れから、どうも日本の場合、文系と理系と余りにもはっきり分け過ぎる。例えば理系の中でも医学などということについては、まさに生命倫理であったり、人間の心とは何ぞやといったような部分が非常に大切である。また、最近は医療ミスがあちこちで続発いたしておりまして、病院に行くと、大丈夫かしらというような大変な時代になってまいりました。

 そんなことから、文系、理系の分け方、またそれを誘引している受験の制度、これについて先生のお考えをお聞かせいただければと思います。

西澤参考人 文系、理系の間にギャップがあるという先生のお考えは、まさにそのとおりであると思っております。

 ただ、昔は旧制高校というのがありまして、もちろん全員ではございませんけれども、ある程度のパーセンテージの人間が、高等学校時代というのはむしろ理系の人間が文系を勉強する絶好のチャンスでございまして、私も変な本ばかり読んでおりましたので、今、少しは文系のこともわかったような顔をすることができるのはやはりあの当時の教養の蓄積でございます。

 先ほど申しましたように、バートランド・ラッセルが、イギリス人は全部素人であって専門家がいない国だということを言ったのも、大変これはそういう点に合致したすばらしい考えだと思うのです。なかなかそこの理想まではいかないと思いますが、教養部がそういう役割を担っていたのでございますが、非常に教育の手法の違う教養部と専門教育というのが同居したところに新制大学の一つの悲劇が始まったのではないかという気がしております。

 それを十六、七歳のころからやるべきでありまして、今教養大学をつくれというふうな動きもございますけれども、私は、方向としては大変ありがたいことでございますが、ちょっと始めの年がとり過ぎている。言うなれば、思春期に人間は一番成長するわけでございまして、そういう人間教育を対象とした学科課程がちょうど十六歳ぐらいからスタートしてくれることが一番いいのではないかというふうに考えて、いろいろ政府にもお願いをしているところでございまして、先生のおっしゃったとおり、そこがこれからの日本にとって一番大事な点の一つでございます。

 それから、試験制度が次のかなめでございまして、先ほどもちょっと申し上げましたけれども、問題の選び方によっては、マルチプルチョイス方式であっても、どれぐらい物事を深く考えているかということがある程度判定できる問題の出し方があるということがアメリカで言われております。私がアメリカのそういう人たちに接触したときに、先ほどもちょっと申し上げましたけれども、そういう問題に非常に興味がありますので、三組ぐらい売っていただきたい、分けていただきたいと思うのですと。ところで、お金は幾らぐらい準備したらいいでしょうかと言いましたら、お金万能と言われるアメリカ人が、こんな大事なものを金なんかで売れるかと言ったんですね。これはもう、私は大変びっくりいたしました。

 日本へ帰ってきてそんな話をしましたら、そんな問題、手紙を出せばただでくれるのじゃないかという極めて軽率なことを言う方がいっぱいいらっしゃる。それぐらいテストというものがアメリカでは重く考えられ、日本ではかなりなおざりに考えられているということです。そういう意味で、一つの原因でありますところの、教官がいわゆる問題解答型の、記述式の試験を非常に忌避するというところが悪いわけでありまして、これがもう全部、政府お任せのマルチプルチョイスの問題になる。あれを見ればたちまちにして記憶力重視であるということがおわかりいただけるわけでございまして、そういうことに対する判断をちゃんとやらなければいけなかった。

 それから、余計なことを申しますが、差しさわりのあることをいつも申し上げておりますけれども、これは宮城音弥先生という方がお出しになっております、岩波新書に「天才」という本がございます。その前に講談社から出ました「天才の通信簿」という本がございまして、世界の歴史に残るような学者、芸術家十人ずつを選びまして、子供のときまで、どんな子供だったかという追跡調査をしております。

 その結論でございますが、少し私の言い間違いがあるかと思いますが、その点はお許しをいただきたいと思います。以上、世界の歴史に名をとどめた学者、芸術家十人ずつについて、子供時代、小学校時代の状況を追跡してみると、頭のよかったのは一人もいなかったと書いてあったように思いますが、これはちょっと間違いだと思いますので、要するに、よく物を覚えていた人は一人もいない、学校の成績がよかったのは一人もいないと書いてある。要するに、記憶力はからきしだめな人が学者、芸術家として世の中に名をとどめている。政治と軍人はちょっと違うということがそのドイツの本に書いてございますけれども。

 ですから、これは日本でもそういうことを追跡調査をしてみる必要があるんですね。そういうことで、そちらの方に向いた人たちを国民の中から選んでいって、早くからその天分を発揮させるというふうなことをとらないと、死ぬまでに、持っておりますせっかくの天分が全く伸びない。

 これはイギリスの教育哲学者のアーサー・ウィリアム・ワードという人が言った名言でございますが、凡庸な教師はただしゃべるだけである、ちょっとましな教師は理解させようと努める、すぐれた教師はみずからやってみせる、最高の教師は子供たちの心に火をつけるというのがあるんですね。しかも、彼らが理想の教育者としていろいろなケース・バイ・ケースの研究をしておりましたのが、実は吉田松陰であるということになっております。

 ですから、日本にも世界の人たちが模範と考えるようなすばらしい教育があった時代があるわけでありまして、もちろん、人間にはすぐれたところが必ずあると思います。DNAにはそういうようなことがあるわけでございます。毛利藩の下級武士の子弟が集まって吉田松陰の周りでいろいろな話を受けたわけでございますが、実質は約八十人、又聞きを入れると二百人とか言われます。半数の人たちがみずから命を捨てるまでのことをやって、これだけ画期的な近代革命に成功したということが欧米の教育界で非常に話題になったということでございます。

 そういう意味ですから、吉田松陰は、若者たちの血液の中にありますDNAの長所を遺憾なきまでに発揮させた最高の教育者でなかったかということだと思っておりますので、我々としても、ああいう方々を理想に持ちながら、早く子供たちの天分に花を咲かせてやるようなことを目標としなければいけないというふうに考えておるわけでございます。

 ところが、数学でも暗記科目でございまして、あんなもの、本当は暗記する必要が非常に少ない学科だと思うのでございますが、考えていると暗記が十分できないということのために、考えるのを抑止しながら覚える。だんだん年をとってまいりますと、最後は抑止効果だけが残りまして、考えない民族になってしまっている、これは外国人が言うわけでございます。それが、せっかくの日本人のDNAが十分に発揮できない最大のポイントではないかと思っておりますので、また御指導を得ながら、せっかくの日本人の天分発揮ができるように力を尽くしていきたいと思っております。

小池委員 ありがとうございます。

 まさに教育は百年の計でございますので、憲法の中にそういった形で、日本国民を育てる教育とは何ぞやという大きな部分も必要かなと今お話を伺って思いました。

 また一方で、たしかIBMの社是だと思いますが、一言、シンク、考える、これが会社を引っ張る、社員の心に火をつける言葉だと思いますが、忙しい時代になってまいりますと、なかなか考えるということをしなくなってしまったような気がいたしまして、今のお言葉は大変示唆に富んだものだと感じました。

 また、先ほど申し上げましたように、理系、文系と分かれている、そしてそれが受験のいわゆるシステムに沿ったものである。また、受験生たちのことを考えて、学校じゃなしに、逆に塾の経営をしておられる方が、こんなのでいいのだろうかということで、塾でいわゆる一種の道徳の教育であるとか思いやりの教育であるとか、そういったことで作文などを書かせようとすると、子供たちはすごく楽しくそれを書いてくるけれども、大体言ってくるのは親の方でして、そんなことをやっている時間があったらもっと勉強させてくださいと言ってクレームがつくということを塾の関係の方々、結構何人かから伺ったことがございます。いろいろなシステムを考えたとしても、結局親の価値観でまた流れてしまうということなんだろうと思います。

 それからもう一点、きょう御示唆いただきましたところで、年齢による差別をするなというお話がございました。もう年なんだからといって、それは大変な差別であるという御指摘、まことにそのとおりだと思います。一方で、若過ぎるからだめだというようなことも一種の差別になってきているのではないかというふうに思います。

 差別規定といいましょうか、平等の原則ということで、第十四条、確かに年齢については触れておりません。そこまで憲法で書き切れるのかどうか。ほかのところにはいろいろな波及の部分があるとは思いますけれども、これから高齢化社会なわけでございますから、年齢で区切ってしまうと非常に硬直化した社会になるということで、私も心配もするところでございます。なかなかそのあたり、指針をつくるのは難しゅうございますが、もう一つアイデアなどちょうだいできればと思います。

西澤参考人 簡単に申し上げますと、先生のように教育問題をよく理解してくださっている方がいらっしゃることは、我々にとっては大変力強く思うわけでございまして、実は、親が間違った方向に引っ張るというお話がございましたけれども、もう少し早く教育改革をすべきでございました。世代がわりがしております。先生方も同じでございます。その辺が今の教育改革をやるときに非常に難しい問題を誘発しているのではないかというふうに思うわけでございますが、教育に携わる人間自体がそういうことに目覚めるのが遅過ぎたということを私ども大変申しわけなく思っているところでございます。

 今の入学試験が暗記力テストになってしまっている。最低の先生はただしゃべるといいますが、現在の先生方は、暗記させるためのことだけをしゃべるだけでありまして、質問もさせないようなことで、一方的につぎ込んでいく。つまり、今の試験というのは知識量それから記憶力で決まっているということに一つの悲喜劇がございます。学者は、むしろその後のいわゆるシンク、考えるという能力で実は決まっているわけでございますけれども、もちろん記憶力も要るわけですが、それほど大幅ではないんだというふうなことをよく見直して、やはり教育のあり方を根本的に変えなければいけないのではないかというふうに考えているわけでございます。

 先ほど来申し上げておりますように、日本のこれからの将来というのは、日本人の持っている頭脳が主役でございますので、そういう意味で、ぜひ先生にもいろいろお教えをいただきながら、私たちも努力を続けていきたいと考えているわけでございます。

 年齢については、ありがたいことでございます。

 実は私が申し上げたのは、私が申し上げてもしも年齢制限を撤廃すると言われたときには、私は既にお払い箱に入っておりますから復活するチャンスはないのでございますが、言いかえますと、そういう差別をするなということは、実は実力主義でいけということなんですね。そこら辺までちょっとよくわかっていないのじゃないか。

 なかなか日本の社会、実力主義でやる、つまり、先ほど来自己評価ということを言っておりますけれども、基本的にはそういう考え方で対社会的な責任を果たしていこうと思えば、当然自己能力の評価をやる、社会全体がその地位に携わる方々の評価をちゃんとやるということでなければ、これは結末がつかないのでございますね。

 そういう意味で、評価ということがどうも日本民族の中から欠けてしまって、何でもいいから勝手にやりなさいよというようなことになっているのではないか。目を覚まさせるためには、対社会的責任ということをやはりちゃんと書いていただくということで、別に老人ということは書かなくてもいいのではないかというのが私の本音でございます。

 どうもありがとうございました。

小池委員 また、これは先に入手させていただきましたレジュメの中に、憲法の問題で第九条を書き直すべきであると明確にお書きになっている。まさに国家の安全保障というのは、防衛のみならず経済の安全保障なども含めてそれを守るということは大変重要な項目であるというふうに考えているわけでございます。ということで、この第九条ということにお触れになり、また、それについてのお考えを明確にお示しいただいたことに大変感謝をいたしております。

 時間が参りましたので、これを、質問というよりも、最後に意見とさせていただきます。ありがとうございました。

中山会長 近藤基彦君。

近藤(基)委員 21世紀クラブの近藤でございます。大変長時間、先生ありがとうございます。私が最後の質問者でございますので、もうしばらくおつき合いいただきたいと思います。

 憲法調査会にはもしかするとそぐわないかもしれませんが、先生は「もんじゅ」の解決にお働きになり、なおかつ今原子力産業会議の会長さんということで、私の選挙区が世界一の原子力基地を持っておる柏崎市を含んでいる選挙区なものですから、あえてお聞きをいたしますが、現行ですと一万数千トンという年間のウラニウムが、高速増殖炉ができれば百数十トンになるという話。今その中間で、プルサーマルというエネルギーの問題が若干脚光を浴びているのですが、この問題に関して、先生、もし何か御見解がありましたらお教えいただきたいと思うのです。

西澤参考人 これは必ずしも専門家とは言えない人間でございますので、間違いを申し上げるかもしれませんが、一つの暫定手法としては、今随分処理済み燃料がたまっておりますからやむを得ないのかなという感じはいたしますけれども、でき得ればオーソドックスな、例えば「もんじゅ」を使ったやり方とか何か、そういう方法を早くやる方が効率がいいというふうに考えておりますので、そちらの方向を目指すべきではないか。

 ただ、どういうわけかわかりませんが、私が再開を決めてからもう既にかなりの年月がたっておりまして、どうも少し困ったものだなというふうには思っておりますが、とにかく利益という問題ではなくて、国民の将来の生活安定のために、我々が日夜身を削っていくような努力を重ねなければいけないということでございます。

 今、原子力委員の偉い先生方がいっぱいいらっしゃったのでございますが、そういう先生方に一つ私がお願いをいたしましたのは、町の本屋さんに行っても、正常な原子力に関する知識が得られるような本がございません。むしろ、どちらかといえば、反対派と言ったらちょっとしかられるかもしれませんが、心配をなさっている方々の本が並んでいるのですね。これでは日本の国民に原子力に対する正当な判断をしてくれと言う方がおかしいわけでございまして、そういうことがわかるような本をぜひ書いていただきたいということをお願いしたのですが、ある新聞記者の方が一つ書いてくださいましたが、そのほかは余りそれらしきものがまだ出ていないのが現状でございます。

 いずれにしましても、正当な知識をちゃんとまず最初に国民の中に差し上げるということから出発すべきものではないかというふうに考えておりまして、大事な日本の生命線を預かるお役目をいろいろな批判にめげずにやってくださっていることに対しましては、心から感謝の意を表させていただきたいと思います。

近藤(基)委員 大変ありがとうございます。

 そういった本が並ばないのは、もしかすると我々にも責任があるかもしれませんので。

 私自身は、決して原子力を否とするものではありませんけれども、ただ、危険が伴うことも確かでありますので、代替エネルギーがあれば、できればなくなった方がいいのかな。先ほど先生も緊急措置的な部分では大いに活躍をした方がいいという。先生はそちらの方の分野で、我々も自然エネルギー促進議員連盟というのをつくって、何とかクリーンなエネルギーをと考えておるんです。

 今後、遠い将来的にはどうなるかわかりませんが、今発電だけでいけば火力、水力、原子力という形でやっておるわけですが、先生の太陽光もしかりですが、近々に多少なりとも開発余地ができる自然エネルギーに関しては、どういったものが想定できるとお考えでしょうか。

西澤参考人 これは私の私見が入らざるを得ないわけでございまして、でき得れば水力というふうに考えております。ただ、いろいろな事故がありまして、高圧ケーブルが例えばオフしてしまうというふうなことが起こりますと、これは大変大きなショックが生まれます。

 そういうことでございますので、そういうときには緊急用に何か運転することによってその危機を逃れるというふうなものが必要でございまして、それはどうも原子力が一番合っているのではないかなということを申し上げておりまして、そんなことを先ほど御紹介いただいた本にも書かせていただいた。ただ、最初に本屋さんに原稿を渡したのは出版された二年前ぐらいでございますが、どういうわけかなかなか出版されませんで、少しは様子を見ていたんじゃないかと思うのですが、そろそろ大丈夫かなと思って出してくださったようでございます。

 私は、先ほどお話があったように、自分がやれる一番正確な方法として、一つの推計法を使いまして二百年ということを言ったわけでございます。それから、もしも本当に致命的で救いようがないんだといたしましたら、私は、今の自分の考え方からいえば、それはどなたにも申し上げません、それこそホスピスの一種でございますから。

 しかし、私としては水力を開発していけば何とかなるのではないかなという気持ちがあるものでございますから、もちろん、補助的には太陽電池とかその他もろもろも活躍してもらわなければいけないと思いますが、そういう手法で今回の人類に対する危機は何とか回避できるんじゃないかという気持ちがあったものですから、ああいう本を出させていただいたわけでございまして、不勉強ではございますけれども、今のところでは私の勉強結果では水力だと。

 炭酸ガスというのは一遍出しちゃいますとまだ海の底でどうなるかがわかりませんので。既に、時々異常気象のために海底からメタンハイドレートが深海流に乗って上昇してまいりまして爆発するんですね。それで、見つかった端緒というのは、イギリス海岸を航行中だったオランダ船が爆沈して姿が見えなくなったということから、調べてみたら、どうも深海底から巻き上がってきたメタンハイドレートが爆発したためだということになりまして、これで初めてメタンハイドレートが海底に既にもう満ちあふれているんだというような話になってきたわけでございます。

 この計算をなさいましたのは、プリンストン大学の教授をしておられました真鍋先生という方でございまして、コンピューターシミュレーションで海底のメタンハイドレートの量からいろいろな計算をなさいますと、もうそろそろ下はいっぱいだと。あと五十年たつと大気中にその傾向があらわれてきて、メタンがふえることと炭酸ガスがふえまして温暖化がなお進むだろうと。温暖化が進みますとますます海底からメタンが上がってくるということになって、恐らく地球は破滅するのではないかということが言えるような推計結果をお出しになっていらっしゃるわけです。

 しかし、これは我々としてはやはりなるべく早くそれに対する対応をとらなければいけない。水力資源の活用でも、早くやるように準備をしなければ急の場には間に合いません。また、石油産業に携わる方々がこれによって生活権を奪われる可能性もあるわけでございますから、でき得ればなるべく早目に申し上げて、あらかじめ手を打っていただく。その場になってから申し上げるというのは、まさにこれは非常に厳しい行為でございますので、そういうことが起こった場合にはなるべく早く申し上げておいて、徐々に年次計画でクエンチしていただくという方向を目指すべきではないかということを考えるわけでございます。

 私のこの話に目をつけて一番最初に私を呼んでくれたのはOPECの総裁でございます。インドネシア人でございますが、石油産油国会議の方から私にこの話をしろといって呼びに来たわけで、いつもは余り心配してくれない弟子どもに向こうへ行ったら殺されますよと言われて出かけたわけでございますが、非常にまじめに聞いてくれました。私も大変感激したわけでございまして、やはりこれは世界人類が一体となって解決をやっていかなければいけない問題じゃないか。

 しかし、これで終わりではないと思います。またこれから先、いろいろな人間の生活の様式が変わってくるとともに、次の第二、第三の人類の危機が我々の前に姿をあらわすことと思います。

 しかし、かつてエンゲルスが言いましたように、人口爆発の危機も、恐らく科学技術者たちが一生懸命になって解決策を見出してくれるのではないかということを言ってくれているわけでございまして、我々、残念なことに、そのエンゲルスの期待に十分に沿っていなかった。しかし、幸いにして、まだそこに至る前に危機が予想されることになりまして、今我々としても必死になってその対応の手段をいろいろと編みながらやっていく。

 ただ、先ほども申しましたように、科学技術者がこういう問題に対してすぐに対応してくれない。これは、やはり社会に対する責任感が十分ではないということになると思いますけれども、今もって、十年以上たつのに、そういうやり方がいいか悪いかということに対するコメントは科学者から出ていないんですね。そういうことは非常に私としては責任を感じているということを申し上げておきたいと思います。

近藤(基)委員 水力という、先生の著書の中に、アジア諸国での海底ケーブルの送電という形。国防的に言うと、世界的にエネルギーをどこかの地域で供給をし、ただ、科学技術戦争あるいはマネー戦争、それ以前の軍事戦争、それに一つエネルギー戦争がもしかすると加わってくるのかもしれない。となると、国内で賄えるだけのエネルギーを緊急的には確保しておかなければいけないことになるだろうと思うのですが、国内で水力というと限界が恐らくあるだろう。そうすると、今原子力が約三〇%強のエネルギー供給をしているわけですが、その三〇%強を代替エネルギーで、火力にも限界があるだろう。エネルギー戦争になれば石油産油国、石油が入ってこないということになれば火力にも頼れない。

 国内である程度賄えるだけの代替エネルギー、例えば風力あるいは地熱、波力とかいろいろ言われておりますけれども、可能性があるとすれば、もし国内で賄えるだけの代替エネルギーができるかどうか、現段階で。ちょっと御見解を。

西澤参考人 先ほどちょっと御質問に対してお返事を十分にしていなかった点もございますが、外国でいろいろなことが言われた可能性をまた日本でみずからやってみている。例えば瀬戸内海でやりました太陽熱発電というのがございます。太陽の光を熱に変換しまして、これで発電をしようと。ところが、これは外国の人たちが今までやったところで、皆失敗だという判定がある。それから波力発電ですね。これはとれる量が非常に少ないということが言われております。

 それから、やってみてうまくいかなったのは潮力発電でございまして、海流のエネルギーを使おう。エネルギーは結構ございますけれども、あれはのれんに腕押しという言葉でわかることでございまして、要するに、膜みたいなものでエネルギーを収集しなければいけないものでございますから、非常に効率が上がらないんですね。

 そういう点からいいますと、大体今お話の出ましたようなものに可能性が絞られるわけでございますけれども、過去において、人の言っていることをそのまま信用しないというのも非常にいいところもございますが、何もわざわざ太陽熱発電までやらなければいけなかったのかということは非常に私としても疑問に思うわけでございます。

 いろいろなことを考えますと、やはり結果的には私としては水力が主流でいいのではないか。もちろん、大石武一初代環境庁長官が反対なさいまして尾瀬ヶ原の水力開発ということは差しとめられたという、非常に大変ないい仕事をされたわけでございますから、一概に物質だけで議論できる問題でもございませんけれども。

 例えば、ラオスのために日本が賠償物資としてあそこに水力発電所をつくってあげているわけです。これが今ラオスの経済に大変大きな効果を持っておりまして、ラオスは電力輸出で国際収支経済を黒字に持っていっているわけでございます。こういうところにどんどん、もちろん無償とばかりは限りませんが、そういうものをつくってあげるというふうなことが世界的なエネルギー不足を緩和することになり、また、彼らから非常に感謝を受けることになるわけでございますから、こういうこともむしろ積極的にやるべきではないか。

 水力というと、必ず環境破壊だとおっしゃられる。どの手法をとっても環境は壊れます。ただ、水力発電の場合には、大きなダムをつくるのは、あれは農業用と兼用にするからでございまして、水力発電だけでしたら階段さえあればいいわけでありまして、水は全然たまらなくてもよろしいという極論も、ちょっと言い過ぎではございますけれども、できないわけではないわけであります。そういうところをよく見きわめて、道を選択しながら、また、学者がそういうことを、可能性のあるものは根気よく調べて、このときならこれがいいということがすぐにお返事できるように準備するということしかないんじゃないか。

 食料も完全自給というのは夢になってしまいました。エネルギーも、残念なことに水力は海外に依存しなければいけない。そういう意味で、日本が絶えず技術供与をするというふうな形で向こう側が感謝をしてくれるような国であり続けなければ、いざとなったときに、向こうは水力資源を使わせないよということまでいってしまう可能性もあるわけでありますから、あえて別な言い方をすれば、日本は技術で世界に貢献をすることによって、世界じゅうの人たちからありがたいね、いい国ですねと言われるような国になっていなければいけない。これが最終的な我々の愛国心ではないかというふうに考えているところでございます。

近藤(基)委員 どうも大変貴重な意見、ありがとうございました。

 以上で終わらせていただきます。

中山会長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、一言ごあいさつを申し上げます。

 西澤参考人におかれましては、貴重な御意見をお述べいただき、まことにありがとうございました。調査会を代表いたしまして厚く御礼申し上げます。(拍手)

 午後二時から調査会を再開することとし、この際、休憩いたします。

    午後零時一分休憩

     ――――◇―――――

    午後二時二分開議

中山会長 休憩前に引き続き会議を開きます。

 日本国憲法に関する件、特に二十一世紀の日本のあるべき姿について調査を続行いたします。

 本日、午後の参考人として東京大学教授高橋進君に御出席をいただいております。

 この際、参考人の方に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただき、まことにありがとうございます。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたいと存じます。

 次に、議事の順序について申し上げます。

 最初に参考人の方から御意見を一時間以内でお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。

 また、参考人は委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。

 御発言は着席のままでお願いいたします。

 それでは、高橋参考人、お願いいたします。

高橋参考人 高橋でございます。よろしくお願い申し上げます。本日は、本調査会で発言の機会を与えていただいたこと、光栄に存じております。

 本日私がお話しさせていただくテーマが、レジュメにもありますように、「グローバリゼーションと国家」ということにさせていただきました。そして中身は、現在西欧諸国で行われている経験ないしは動向を中心にしながらお話をさせていただこうかと考えております。そのため、どれだけ本調査会の先生方のお役に立つのか全く自信がないというのが実情でございます。ですが、私が西欧の政治を研究しております関係で、このようなテーマでお話をさせていただくことをお許しいただければと考えております。

 それでは、恐縮ですが、レジュメに沿いまして話を始めさせていただこうかと考えております。

 まず、「はじめに」というところで西欧政治の最近の特徴ということを挙げさせていただきました。私の目から見てみますと、西欧の政治は、近年さまざまな政治の実験が行われているように映っております。

 まず第一番目になりますが、その担い手になっております一つの政治勢力が、一に掲げましたような中道左派政権ということになっているわけでございます。西欧の政治では、近年、中道左派政権が続々と生まれまして、それが政権を担っているということになっているわけでございます。その詳しい中身は先生方も御存じだと思いますので、割愛させていただきます。

 恐縮ですが、レジュメの二枚目の表2で、主要国の政治変動につきまして簡単にまとめたものを掲載させていただきました。

 特にイタリア等の場合には、第一共和制から第二共和制へという形で、大きな政治体制の変動を経験しているというのが実情ではないかと思っております。そのほかの諸国も、長期政権の後に新しい政権が生まれるということがありますとか、さまざまそのような動きを経て現在のような中道左派政権が誕生してきているということでございます。

 イタリアではことしの春、またイギリスでもことしの五月、総選挙があるのではないかと言われておりますので、そのような中道左派政権がかわる可能性もあるわけでございますが、特にEU諸国の中では、このような中道左派政権が多数になっているということは確かなことではないかと考えております。

 それから二番目の方に移らせていただきますが、理念の面での論争も活発になっております。代表的なものが、ブレア・イギリス首相が掲げました第三の道と言われる路線に関するものでございます。

 その第三の道の説によれば、古い社会民主主義が第一の道であり、サッチャー政権がとりましたような新自由主義の路線、ネオリベラルと言われておりますが、それが第二の道であり、ブレア政権、ニューレーバーの場合には、いずれとも違う第三の道を歩むということをうたっております。

 幾つかの特徴点があるわけでございますが、第一の道というものが結果の平等ということを重視したのに対しまして、この第三の道は機会の平等ということを非常に重視し始めた。そのため、さまざまな新しい施策等々を実施し始めているということがあるわけでございます。それから第二の道につきましても、それは市場原理主義ではなかったのかという批判を加えておりまして、その中で、社会的公正等々を加味したものをどう受け継いでいくのかというような路線をとろうということをしているわけでございます。

 このような路線につきましては、中道左派政権等々を構成している政治勢力、政党ばかりではなく、保守政党を巻き込みながら今さまざまな論争が行われているというのが実情ではないかというふうに思っております。

 それから第三番目が、EUの深化と拡大と言われるものでございます。EUの場合には統合現象と我々は言っておりますが、そのようなものをどうこれから深めていくのかということを意味する言葉として深化という言葉が使われ、その代表的な例が、最近ではユーロ導入ということになるわけでございます。また、加盟国の増大の問題が近々迫っておりますので、そのような問題を拡大と言いまして、それをどう処理していくのかというのがEUの大きな問題になっているわけであります。

 ですが最近、EUの政体、政治体制にかかわる議論もEU内部で生まれてくるようになりました。これにつきましてさまざまな見解がありますのでその詳細も省かせていただきますが、一つの大きな論争を呼びましたのは、昨年五月、ドイツのフィッシャー外相がヨーロッパ連邦とヨーロッパ憲法ということを打ち出しました。つまり、EUレベルでヨーロッパ連邦、これは議会と執行府から成るわけでありますが、そのことにつきましてヨーロッパ憲法を定め、それによってヨーロッパ連邦に正統性を与えるべきではないのかということを提案したわけであります。極めて大胆な提案でありましたので、その後の論議はさまざまな経過を経ているというのが実情でありましたが、大きな反響を呼んだことは事実ではないかというふうに思っております。

 最後の四番目が、グローバリゼーションあるいはグローバル化と言われる問題でございます。この問題につきましては、最近、ヨーロッパの一つのホットテーマといいますか、学問の分野で言わせていただきますと、私が知る限り、国際政治関係の学会に出ておりますと、ほとんどのテーマがグローバル化になっております。また、現実の政治のレベルでも、グローバル化にどう向き合っていくのかというのが極めて大きな論点を構成しているというような現象が目立つようになりました。

 先ほど、ブレア首相が掲げている第三の道について簡単に説明をさせていただきましたが、これをめぐる議論もグローバル化という現象と深く関連しております。ある意味では今ヨーロッパ各国は、EUという問題があるわけでございますが、もう一つ、グローバル化という問題にどう向き合っていくのかという形で、さまざまな実験といいますか模索といいますか、そのようなものに取り組み始めているというのが実情ではないかというふうに考えております。

 このような最近の西欧政治の特徴ということを踏まえて、第二番目の、それでは一体グローバル化、グローバリゼーションとは何かということにつきまして、簡単に説明させていただければというふうに思っております。

 実は、グローバル化という言葉は非常によく使われる言葉でありますが、これはさまざまな議論を呼び、いまだに明確な定義を与え切れていない言葉であります。ですので、この言葉を使うさまざまな人によりましてさまざまな意味というものが込められており、それがある意味では議論の混迷を呼び始めているということすら言えるのが現状ではないかということになります。しかし、そのような状況だけでは済みませんので、ここでは、政治、経済、通信、文化、アイデンティティーなどの各領域があるわけですが、それらの領域で地球上の各地域の相互連携が強化されている現象というふうにとりあえず考えさせていただきます。

 グローバリゼーションといいますと、特に通貨や株式取引などの国際資本市場、あるいは通信面でのインターネット等々が言われるわけでありますが、そればかりではなく、さまざまな領域でグローバル化ということが言われております。特に政治の分野では、それが国家をどのように変化させるのかということが非常に大きなホットテーマになっているというのが実情でございます。

 そこで、極めて抽象的な話になりまして恐縮でございますが、グローバリゼーションに対する立場というものを整理しますと、二枚目の表1のように整理できると現状では言われております。非常に横文字の多い、一読しただけでは極めてわかりにくいような内容になっておりますが、その立場といいますか、一番上の項だけ説明させていただきますと、ハイパーグローバリスト、超グローバル主義者という方々が一つおられる。それからもう一方では、懐疑派と言われる方がいる。それから第三の解釈として、変容派と言われるグループがこれまた存在する。このような三つの潮流は、グローバル化の解釈をめぐって今さまざまな論争が起きているということでございます。

 幾つかの論点があるわけでございますが、一つの大きな論点は、グローバル化は本当に起きているのかという問題です。

 実はそうではないという意見も存在します。それが第二の懐疑派が考えていることでございまして、グローバリゼーションというものは新しい現象ではなく、十九世紀末からそのような現象というものは既に起きており、その規模が拡大し、その強度が強まって、その速度は非常にハイスピードになりましたものの、本質においてはほとんど変わりはないのである。極めて極端に単純化させていただきますと、グローバリゼーションというものは神話でしかないというのが懐疑派の意見でございます。

 それに真っ向から対抗していますのが、第一番目のハイパーグローバリスト、超グローバル主義者の議論であります。これらの人々は、これもまた極めて単純化して説明させていただきますと、時代はグローバルな時代であり、世界経済はこれからグローバル経済に移行し、そこにおいて主権国家というものは無力化される、しかもこの流れは不可逆的であるということを主張しております。ですので、このような流れをずっと推し進めていきますと、最後はグローバルな文明、グローバルシビリゼーションと言われるものすら、これから先生まれていくのではないかということを主張しているわけであります。ですので、表1の要約のところに、このハイパーグローバリストの方々のポイントと言われますものが、国民国家ないしは主権国家の終えんという形で整理されているということになるかと思います。

 ですが、実はハイパーグローバリストと言われましても、中身におきまして二つのグループにさらに分けて考えることができるかと思います。それは、グローバリゼーション、グローバル化を推進せよと主張しているグループと、グローバリゼーションに反対するというグループであります。グローバリゼーションに反対するという方々は、反グローバリズムあるいは反グローバリストということで整理されている、そのようなグループが存在するということがあります。

 推進派の方々は、グローバリゼーションのよい面を強調し、さらにこれを一層推進すべきということを主張しているわけでございます。それに対しまして、反対派の方々は、このようなものを推し進めていきますと、世界の南北格差は固定され、国内の不平等も強まり、弱体化された主権国家はデモクラシーにとっても危機であるということを主張しているわけであります。しかしながら、推進派及び反対派におきましても、グローバル化が時代の基本的なトレンドであるということは一致しているということになるかと思います。

 この二つの論争が、実は九〇年代に入りまして続けられていたわけですが、最近になりまして、第三の解釈、変容派と言われる立場をとる人たちがふえてまいりました。ヨーロッパ、特に西欧では、この変容派と呼ばれることを主張する人々が多数を占めているというような印象を持っております。

 この変容派の立場によりますと、グローバル化というのは、主権国家の持つ国内と国外そのものの壁が解消されるプロセスであり、そして世界の中で政府や社会がそれに適合せざるを得ない、そのような歴史的なプロセスである、このようなプロセスはいまだかつて先例のないプロセスであるということを主張しております。ですので、ハイパーグローバリストの主張とこの点では一致を見ているわけでございますが、次のような点で、変容派はハイパーグローバリストと一線を画しております。

 第一は、グローバリゼーションのこれから行き着く先というものは、グローバル経済と言われるような固定されたものではなく、その先は極めて不透明であるということがあります。

 では、なぜそれが不透明なのかというのが第二のポイントになるわけですが、グローバリゼーションというものの過程は、経済ばかりではなくさまざまな領域での互いに矛盾し合う推進力によってできており、そのため、ある時点でのグローバリゼーションの現象というものは、その時点での偶然的な組み合わせによって決定されるにすぎないというふうに主張しております。

 そして第三になりますが、国家がどうなるのかということにつきまして、ハイパーグローバリストは、国民国家ないしは主権国家の終えんということを言っているわけですが、この立場は、確かにグローバリゼーションは国際社会のあり方を大きく変えている、したがって、今まで主権国家が独占していたパワー、権力の中身も変容させている、ですが、グローバル化の時代になりましても、主権国家、国民国家は形を変えながら残っていくことになるであろうということを主張しております。

 最後が、第四番目になるかと思いますが、ハイパーグローバリストが、グローバリゼーションは不可逆で人間がほとんどコントロールできない歴史的な流れと考えておりますのに対し、この立場は、グローバリゼーションというものがより可変的であって人間の力によって将来のあり方はコントロールできるということを主張しております。

 そして、先ほどグローバリゼーションを推進する矛盾した力ということを言わせていただきましたが、そのときのキーコンセプトになりますのが、グローバリゼーションは一方で世界を一体化、統合させる力を持つと同時に、世界をさらに断片化、分断化していく、そのような力を同時に生み出している。ですので、国際資本市場みたいなものが成立する一方で、民族紛争というようなものも同時に起こさざるを得ないのがこのグローバリゼーションの矛盾した推進力になっているという考え方をとっております。

 そこで、第三番目の問題になります「グローバリゼーションと国家」というところに入らせていただければというふうに考えております。

 グローバリゼーションの中で国家がどのような方向に変容しているのかという問題ですが、正直申しまして極めて難しい問題であります。研究におきましてもその緒についたばかりでありまして、いまだ暗中模索の中にあるというのが実情でございます。ですが、最近幾つかのことが言われるようになってまいりました。

 そこでまず最初に、一の「グローバリゼーションと国家の変容」というところでは抽象的な話を若干させていただきまして、具体的な話は三番目の西欧国家の対応パターンという形で整理させていただければと思います。

 まず、国家がどのように変わるかといいますと、国家は残るだろう、当たり前といえば当たり前かもしれませんが、その役割は変容するであろうということが挙げられます。これが基本的な出発点ということになります。ですので、今までのような国家ではなくなるだろうということになります。

 そこで、第二点、国家と市場、マーケットとの関係になるわけでございます。

 極めて単純化して言わせていただきますと、主権国家あるいは国家がマーケットに介入して何かを実現するというよりは、マーケットで企業などが活動できる基本的なルールをつくるという方向に変容していくのではないかということが言われております。

 そこで、レジュメにも書かせていただきましたインエーブリングということがよく言葉として使われまして、だれだれに何かをさせる、することを可能にさせる、そのようなことをやるのがこれから先国家の役割になっていくのではないのかということが言われおります。同じようなことを別な表現をとらせていただきますと、実体的に何かをやるというよりも、むしろ手続的に何かを誘導するという方向に国家は変わっていくのではないのかということがマーケットとの関係では言われているということになります。

 したがって、マーケットの関係で言わせていただきますと、国家は前景から後景に引き下がるというわけですが、逆にマーケットがグローバル化すればするほど、国家の役割は、今説明させていただきましたような点で重要になっていくということが言われるようになってまいりました。

 第三点は、グローバル化に伴い、国内と国外の区分が極めて不分明になってきている現象が起きております。このような状態になってまいりますと、国家は、国民の利益の増進なり、国民を外敵から擁護するだけの、二十世紀型の主権国家が果たしてきたような基本的な役割だけでは済まなくなってきているのではないかということが言われております。それに加えて、国外と国内の間の利益の調整というものも行う必要が出てきたのではないのかということが言われるようになってまいりました。

 このように言わせていただきますと、国外の利益に一方的に譲歩することになるのかというような解釈も出てくるかと思いますが、ここでのポイントはあくまでも調整にありまして、場合によっては国外の利益に対して断固たる態度をとる場合も当然あるということを意味しております。

 実は、本日は余り深入りすることは避けさせていただきますが、この問題の根っこといいますか、背後には民主主義の問題が存在しております。

 今、グローバル化と民主主義というものもこれまた大きな問題になってきております。世界でグローバル化が進行しているといたしましても、それを民主主義的にコントロールできるような仕組みというものはいまだでき上がってきておりません。そのため、民主主義的な国家が、グローバル化している世界から入ってくるさまざまな利益というものに対して、国民を擁護するということもある場合には必要になってくるということが当然言われるわけでございます。

 そのようなことも確かにあるのではありますが、多分、これから先、グローバル化した世界でそのような仕組みが徐々に組織されていく、そのような長い移行の過程というものが始まっていくのではないのかということがありまして、したがって、擁護ということを行う場合、場面もあるということを含みまして、基本的には調整という役割がこれから先非常に大きくなっていくのではないかということでございます。

 それから、最後の第四点になりますが、国家にとりまして、多国間主義、マルチラテラリズムと言われるものが極めて重要になってくるということがあります。

 グローバル化された世界は、場合によっては乱気流を起こすことがあります。アジア通貨危機等々が近年では起きたわけでございます。そのような乱気流を制御する必要がますます高まってきているという事実も存在するわけであります。

 そのような中で、多国間主義というものを通して、そのようなものを制御する一つの基盤づくりを行う必要があるのではないのかということが強調されてくるようになってまいりました。多国間主義の一つの例は、G8サミット、そればかりではありませんが、そのようなものが既にさまざま存在しているわけでございます。

 では、一体なぜグローバル化の中で多国間主義というものが重要になっているのかという点につきましては、これまた幾つかのことが言われております。

 一つは、グローバル化の乱気流に対しまして、一国で対応してもそれがなかなか対応し切れないという現実が既に存在してきているということでございます。

 第二番目に、多国間主義によってつくられた合意というものがそれほど強い強制力を持たないといたしましても、グローバル化の進行の方向を、ある程度可能とさせるような監視、サーベイランス等々によって誘導することができるのではないのかということが言われるようになってまいりました。どちらかといいますと余り強いパワーを持っているわけではありませんが、そのようなことを通して誘導するような役割というものを現に行い始めたのではないのかということすら主張されるようになってまいりました。確かに、WTOに見ますように、多国間関係の中でそれを調整するということ自体、そう簡単なことではございません。しかしながら、現状の中では、グローバル化の乱気流を制御するための必要な手段として、このような多国間主義が存在するのではないかということでございます。

 それから、第二番目の政治的な反応ということに移らせていただきますが、グローバル化に関しましては、学問的な議論の対象になっているばかりではなく、さまざまな政治的な反応と申しますか、それにつきましてのさまざまな政治的勢力を既に生み出しております。

 まず第一番目には、グローバル化肯定派の勢力がございます。これは二つのグループに大別できるのではないかと思います。

 一つは、新自由主義的なネオリベラルに立つグローバリゼーション推進派でございます。それは、市場重視の立場から競争力を、強い企業、国家などを強調し、そのようなために国家がさまざまな努力をすべきではないかということまで主張している一つの流れがございます。

 もう一つは、それに対抗する勢力でありまして、違った形でグローバリゼーションをこれから先進めるべきではないかという勢力でございます。この勢力は、グローバル化された国際金融市場がいわゆるカジノ経済をもたらし、競争力優位主義がリストラというものを通して失業を増大させ、また世界的には貧富の格差というものを増大させているということでございます。さらに、国家がなすべき活動すらも否定している。それを何とか是正することができないのかということを考えているグループでございます。

 第二番目が、グローバリゼーションに反対する勢力でございます。反グローバリズムに立つ勢力でございます。これも一つではなく、少なくとも三つぐらいには分けることができるのではないかと考えてございます。

 まず第一番目にありますのが本源的な反グローバリズムでございます。それはグローバリゼーションのもたらす変化に抵抗し、従来ありましたような国民国家あるいは国民経済あるいは文化などを死守しようという勢力があるわけでございます。国境の壁を低くしようとするグローバル化の流れに対して、国境の壁をむしろ高くして、何とか今説明させていただきましたものを擁護あるいは保護しようとする、そのような勢力があるかと考えております。

 そして第二番目が、グローバリゼーションはとかくアメリカナイゼーション、アメリカ化ということが言われておりますが、このアメリカ化であるがゆえにグローバル化に反対するという流れがこれまた存在するわけであります。

 第三番目が、グローバリゼーションがもたらすグローバルな貧富の格差、これをグローバルアパルトヘイトと呼んでおりますが、そのような貧富の格差がこれからますます増大し、それがますます固定化されていくのではないか。したがって、グローバリゼーションに対して反対あるいは否定的な見解をとるという流れになっております。

 そのような形で政治的な勢力をまとめることができるかと思いますが、それでは、具体的には西欧各国はどのようにグローバリゼーションに対応しているのかという問題があるかと思いますので、ここでは四つの国に絞らせていただきまして、お話をさせていただければと思っております。

 ですが、この四つの国々の対応の違いは決してグローバル化だけに由来するものではございません。当然、福祉政策のあり方あるいは財政問題、またその国の持っている政治的な特性に由来するものも多々あるということでございます。ですので、ここではその個別的な政策に立ち入ることは控えさせていただきまして、その基本的な流れといいますか基本的な特徴につきまして簡単に説明させていただければというふうに考えております。

 まず、イギリスでございます。

 ニューレーバーに変容したブレア政権が最もグローバル化に積極的に対応しているというふうに考えることができるかと思います。金融市場のグローバル化、財の市場のヨーロッパ化、それからイギリスという国の持つ経済立地条件をめぐる競争というものがブレア政権の出発点になっておりました。そのため、国家が市場へ介入することに対して消極的でありますし、また財政健全化政策もとっておりますし、福祉財政の増大に対しましても消極的な姿勢というものを見せております。この意味で前の政権との継続性がある程度見られるというのがブレア政権の特徴になっております。

 このように説明させていただきますと、ブレア政権の性格を誤ってお伝えすることになりかねませんので、簡単に補足をさせていただきますと、ブレア政権の場合、当然のことながら社会的公正というものを重視しております。ですが、福祉政策も、従来型というよりは、極めてその中身を大きく変えた形で展開をしようとしております。また、機会の平等というものも重視しておりまして、給付型といいますか、そのような福祉から、労働のための福祉によって個々人の持っております雇用能力の強化に力点を置こうという方向を打ち出しております。

 ですが、ブレア政権におきましても、グローバル化によって、イギリス国内で貧富の格差がさらに拡大し、社会の分裂が大きくなりますことにつきましても極めて警戒を抱いており、社会的紐帯、これはブレア首相の言葉によればコミュニティーになるのですが、そのようなことも強調しているということがイギリスの場合であるかと考えております。

 第二番目がオランダでございます。

 なぜオランダかと言わせていただきますと、今オランダ・モデルということが言われておりまして、いろいろと注目されております。今回、ドイツは省かせていただいたわけでございますが、ドイツの場合も一部で、オランダをモデルとして、その方向にこれからのドイツを引っ張っていこうというふうに考えている、そのような意見を持っておられる人もいるというわけでございます。

 何がこのオランダ・モデルと言われるものの特徴かということになるわけですが、一つが労働条件の柔軟化でございます。グローバル化によって、当然のことながら競争力を強化していかざるを得ない。競争力を強化していきますと、当然のことながらリストラ、失業というパターンが考えられるわけであります。そのような失業の恐怖ということも相まって、労働時間の柔軟化という仕組みがとられるようになってまいりました。

 例えば、夫婦共働きのようなケースを考えさせていただきますと、男性の場合には週二十八時間しか働かない、女性は週十七時間しか働かない。すると、二人で週四十五時間になるわけですが、これがなぜよいのかといいますと、例えば二人で働き二という収入を得るというよりも、基本的には二人で一・五という形でよいのではないのか。二に固執して一の方が失業することを考えれば、一よりは一・五の方がまだよいのではないのかというのが基本的な考え方になっております。

 オランダの場合には、このような労働条件の柔軟化と言われますものは、オランダ特有の決定方式が大きく作用しておりました。その背後にありましたのがコンセンサス重視の方式でありまして、政党間あるいは諸団体間におきまして妥協を形成し、そこで合意を生み出し、それによって新しい制度等々をつくっていく、そのような伝統をオランダは持っておりますので、その流れに沿ってこのようなものが生まれてきたのではないかと言われております。

 それから、第三番目がフランスになるわけですが、フランスの場合には、そこにもありますように国家主導、国家主義的、フランスの場合にはエタティズムと言われているわけですが、そのような伝統が非常に強く現在でも生き残っております。グローバル化につきましても民営化などで対応しているわけでございますが、基本的にはこのエタティズムの伝統というものを余り変えていないという印象を持っております。

 そして、フランスの場合、一つほかの国と違いまして顕著なことは、グローバル化につきまして、二つのフランスと言われるような分裂現象が目立っているということがあります。といいますのは、エリート層の人々がグローバル化を支持し、一般の人々がむしろグローバル化に関しては非常に消極的な立場に立っている。その溝というものがやはり非常に大きくなっている。そうでありますがゆえに、なかなかグローバル化ということには一直線にはいかないというような状況になっているのではないかと思っております。

 最後になりますが、スウェーデンでございます。

 スウェーデンといいますと福祉国家になるわけですが、実は、九〇年代前半に社会民主労働党の長期政権が敗れまして、それにかわる政権が生まれました。そこにおきまして、競争力の強化を掲げ、市場重視の政策を採用したわけですが、その成果ははかばかしくないまま終わってしまったということがありました。その後、また社会民主労働党の政権が復帰したわけでございます。

 その中で、福祉国家の改革を行ったということが言われているわけでございます。つまり、福祉国家とグローバル化をどのようにつなぐのかに関しまして、新たなストラテジー、戦略を採用し始めたのではないかというふうに考えることができるかもしれません。

 それには幾つかのことがあるわけですが、一つは、スウェーデンはOECD諸国の中で昔から世界に開かれていたということがありました。そして、前からサプライサイドの側面を極めて重視していたということがありました。その流れに沿って財政健全化を進めたということが一つあったのではないかということであります。

 それから第二番目に、積極的な雇用創出政策を採用していったということがあります。そして、狭い意味での福祉政策に関しましても、いわゆる個人の責任ということを前よりも重視し始めたというような形で、グローバル化と福祉国家を何とかつなごうという流れにはあるのではないかというふうに考えることができるかと思います。

 そして、最後のテーマがマルチレベルガバナンスという、また片仮名で恐縮だったんですが、その前の中身の問題は、そこにあります地域主義の問題でございます。

 グローバリゼーションの問題と並んでリージョナリズム、地域主義もまた大きなテーマになっております。例えば、EU、APEC、ASEAN、ASEANプラス3等々があるわけでございます。そこで、今EUあるいはASEAN、APEC等々をリージョナリズムという視点から考えてみようという立場もあらわれてくるようになりました。

 その中で、EUがリージョナリズム、地域主義の代表的な存在になっており、そしてEUがグローバル化の影響のクッションの役割を果たすと同時に、グローバル化に対応する一つの拠点を形成するようになっております。ここでは、リージョナリズムという視点から見てEUというものをどう考えることができるのかということにつきまして、三点だけ指摘させていただければというふうに思っております。

 EUは、主権国家を超えた超国家的機関というふうに言われております。主権をプールしている機関ということになります。まず、そういうものではあるのですが、EUの場合に、その将来像はオープンエンドであって、将来像を決めていないということが強調されております。よくEUの最終形態はヨーロッパ合衆国というふうに言われるわけでありますが、少なくともそのような方向にはならないということが研究者等々ではよく強調されております。むしろ、そのような最終形態よりは、その統合に向かうプロセスというものをずっと続けていく、そのような特色をEUは持っているのではないか、むしろそちらの方にEUは重点を置いてきたのではないかということが言えるかと思います。

 簡単に言えば、プロセス志向ということになるかと思います。最終目標を立てるよりも次の目標を立ててそれにまずは向かう、そして、それが実現しそうになりますと次の目標を設定してまたそれに向かう、そのようなやり方をずっととっているのではないのかということが、EUの歴史を見てみますと言えるのではないかというふうに考えております。

 それから、EUは、リージョン、地域なのでありまして、英語のエリアではないということです。エリアも日本語では地域と訳されます。ですが、エリアとリージョンというものはやはり違っております。エリアの場合には、東南アジアあるいは南アジアなどのように、距離的に近く、また歴史的、文化的にも似たような状況にあるということでエリアというくくりをつくるわけでありますが、リージョンはそのような近さ、あるいは歴史的、文化的な近似性、近さというものも土台にしているわけですが、そこから新しい共通項を形成して、そして新しく統合の方へ向かっていくという意味で、極めて人為的で政治的な創造物だというふうに言われております。

 かつてメッテルニッヒは、ヨーロッパは政治的空間だということを言っておりましたが、EUの場合にもそのような空間であり、これからつくられるかもしれませんリージョンとしての東アジアと言われますものも、そのような人為的、政治的な空間になるのかもしれません。

 それから第三点のことになりますが、そのようなリージョンを形成しようとするとき、少なくともEUに関します限り、安全保障のような各国の利害対立が激しくなるようないわゆるハイポリティックスを重視するよりも、経済の特定分野などから協力あるいは統合を進めていくローポリティックスが一つの特徴点になっております。そのようなローポリティックスの積み重ねということによって、EUはその統合を進めてきたということになるかと思います。

 そして、今、東アジアと申しますか、あるいはアジア太平洋と申しますか、そこにもいろいろなリージョナリズムが見られるようになってまいりました。APECがあります。またASEANもあります。また最近はASEANプラス3が出てくるようになりました。このようなものがこれから先どのように進んでいくのかということは、私も門外漢でありますので何とも言うことはできませんが、EUの方向を照らしていきますと、ローポリティックスの方向を進めていき、さらにその中での協力関係というものが強まっていくのではないのかというような感じがしております。そのための分野が、通貨、貿易、環境、国際協力などのさまざまな領域があるわけでありますが、このようなローポリティックス重視の方向で向かっていくのではないのかというフィーリングを持っております。

 その場合、リージョンですので、そこでの関係は当然ヒエラルヒカルな縦の関係ではございません。それをむしろ水平的な横の関係というふうに考えていくことが必要なのではないかというふうに思っております。

 そこで、マルチレベルガバナンスということになるわけですが、今、EUの中で、大体三層構造でこれからのガバナンス、統治を進めていこうという考え方が主流になってまいりました。

 一つはそこにありますようなEUのレベル、それから第二番目に中央政府に代表されるナショナルなレベル、それから地方に代表されるローカルあるいはリージョナルなレベルというふうに三層構造に分かれていくのではないのかというふうに言われるようになってまいりました。

 それは、地方ができることは地方で、中央ができることは中央で、EUのレベルでできることはEUでやる、そのような三層のレベル分けがまずありまして、それをいかに組み合わせていくのかというのが、恐らく中央及びローカルのこれからの一つの課題になっていくのではないのかということでございます。

 例えばイギリスでも、憲法的な問題ということをブレア政権が強調しておりまして、その一つが分権であったわけであります。その分権の中で、ブレア政権の場合には、スコットランドとウェールズの分権を実現してまいりました。その背後にあった考え方は、今御説明させていただきましたようなマルチレベルガバナンス、そのような考え方に沿ったものとも言われております。特に、スコットランドとEUとの関係は極めて強化されておりますので、そのような関係の中で考えていくというような考え方があるのではないかと思います。

 これはあくまでEUの話になりますので、日本あるいは東アジアにつきましては適切な例になるとは思ってはおりませんが、日本の場合でも地方分権ということが言われてまいりました。このような観点から見させていただきますと、地方分権の潮流の背後には、やはり一つ、グローバル化あるいはリージョナリズムという問題もあるのではないかというふうに考えております。

 最後に、「おわりに」というふうに書かせていただきました。

 今まで本当にどれほどお役に立つのかわからないような西欧についての政治の話ばかりさせていただきました。また、その点で能力もないような者が先生方の前で何かということを話すことは不適切というふうにも感じております。ですが、その二点につきまして、どちらかといいますと補足になるのかもしれませんが、そのことにつきまして説明をさせていただければというふうに思っております。

 どのように説明してよいのかわからなかったために「「国家のかたち」と「グローバル化した世界のかたち」」というような変な表現をさせていただくようになりました。

 これから恐らく国家の将来像ということを御論議される際にも、グローバル化の中でどのような形で世界がつくられていくのかということも、もう一方、あるいは底流として存在しているのではないかという印象を持っております。

 しかしながら、それはグローバル化が進むものに単に国家の将来像を合わせるというような消極的な立場にはならないであろう。むしろ、日本の国家の将来像を御議論され、それがどのような方向をとるかということによって、グローバル化された世界の像というものもまた変わっていくのではないのか。そのような相互関係というものも存在するのではないかというような印象を持っております。

 昔、日本が必要とする世界と世界が必要とする日本というような言い方がなされたことがありましたが、このような言い方といいますものは、グローバル化ということにつきましても当てはまるのではないかというふうに考えております。

 それから、第二点といいますか、最後の点になりますが、もう一つ、実はグローバル化の問題として、先ほども説明させていただきましたように、デモクラシーの問題があり、もう一つは、市民社会と申しますか、そのような社会構成の問題も存在しております。

 恐らく、グローバル化が進展する中で、社会と社会の間の相互連携あるいは国境を超えた関係、それをトランスナショナルと言っておりますが、そのようなトランスナショナルな関係というものもこれから強まっていくことになるだろうということになっております。

 ただ、かつてこのようなものを延長して地球的市民社会ということが言われたわけでありますが、どうもそこに一直線に達成するというのはなかなか難しいのではないのか。また、そのようなものにいくまでにもさまざまな経路あるいはパス、道というものが存在するのではないかということでございます。

 さまざまな問題にわたり過ぎ、また本当に西欧の話ばかりで申しわけございませんが、私が本日用意させていただきましたものは以上ですので、これで私の話を終わらせていただきたいと思います。どうもありがとうございました。(拍手)

中山会長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。

 速記をとめてください。

    〔速記中止〕

中山会長 それでは、速記を起こしてください。

    ―――――――――――――

中山会長 これより参考人に対する質疑を行います。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。下村博文君。

下村委員 自由民主党の下村博文でございます。きょうは貴重な先生のお話をいただきまして、まことにありがとうございます。

 今のお話の中で、特にヨーロッパ諸国、西欧政治を中心としたグローバリゼーションのお話をしていただきましたが、これは地政学的に考えて、EUもある意味では経済のブロック体制という中で生まれてきた部分もあるのではないかというふうに思いますが、アメリカとの関係の、地政学的な意味でのヨーロッパにおける最近の特徴という位置づけもやはりあるのではないかというふうに思います。

 つまり、ヨーロッパにおける今の政治状況が、ある意味では地域的な、地域における状況であるということもあると思いますし、同時に、二十一世紀という新しい世紀の世界的な普遍作用の中での特徴としてあらわれている部分もあるかというふうに思いますが、しかし、必ずしもヨーロッパの状況が、先生もおっしゃっているとおり世界全体に広がっていくわけではありませんし、特に、今後アメリカとの関係でヨーロッパ、EUは位置づけられる部分があるのではないかというふうに思っております。

 その点で、ちょっときょうは触れられていらっしゃいませんでした、アメリカとEUという関係を、地政学的な観点から見てどう分析されるのかということもあわせて敷衍をしていただければありがたいと思います。

高橋参考人 今先生の方から、アメリカとEUの地政学的関係ということであるわけですが、幾つかのことがアメリカとEUについては言えるのではないかというふうに思っております。

 一つはユーロの問題があります。恐らく、EUの中で今のユーロの現状を見ますと、ドルにかわるような通貨にすぐになると考えている方はほとんどいません。ですが、将来的にある程度ドルの補完通貨ぐらいにはなるのではないのか、そのような中で、恐らくドルの一極体制というのはやはり修正あるいは是正される、そのような方向で持っていくべきではないのかということが一つあるかというふうに思っております。

 それから第二番目には、それこそ地政学的観点になるわけですが、今のEUが一番苦慮しておりますのは、やはりロシアとの関係がございます。ロシアをヨーロッパあるいはEUの中に組み込むのか組み込まないのかということによりまして、いわゆるEUとアメリカとの関係が今後大きく変わっていくという状況が一つあるということは間違いありませんが、現状におきまして、ロシアは、EUとの関係は違った関係で強化すると思いますが、恐らく加盟国の中に入ってくるということはちょっと考えていないのではないのか。ですので、地政学的に見ますと、ロシア、中にEU、そしてアメリカという形に並んでいくことが将来的には考えられるのではないかなというふうに思っております。

 お答えになりましたかどうかわかりませんが、以上です。

下村委員 グローバルスタンダードという言葉の中で、アメリカにおけるグローバルスタンダードと、ヨーロッパにおけるグローバルスタンダードというのは考え方が違うのではないかということで、先生の著書の中にもあったというふうに思います。

 我が国が、特にグローバルスタンダードといっても、アメリカ的なグローバルスタンダードを導入することによって市場における規制緩和ということが、例えば商店街等もそうなんですが、かえって混乱に陥っているといいますか、日本の伝統とか文化とか歴史という観点から見て、アメリカにおけるグローバルスタンダードということが本当にこの国にとっていいのかというような考え方を持っている人たちもたくさんいるわけであります。

 そういう中で、アメリカにおけるグローバルスタンダードあるいはヨーロッパにおけるグローバルスタンダード、その辺の違いについて、特にヨーロッパにおけるグローバルスタンダードについてお話をしていただければと思います。

高橋参考人 規制緩和ということになるわけでございますが、やはりその背景に、これから先どのような形での資本主義をつくっていくのかという問題があるのではないかなというふうに考えております。

 昔は、アングロ・サクソン型資本主義と、あとドイツを中心としますようなライン型というようなことが言われていたわけでございますが、今見ますと、イギリスがアメリカの方から若干シフトし始めてきまして、それで、アメリカ型、イギリス型、そして恐らくヨーロッパ大陸の中においてはドイツ、スウェーデンに代表されるような、そこの中間にちょうどオランダが来るのかもしれませんが、そのような資本主義という形の方へどうも向かっているというような印象を私は持っております。

 その意味で、規制緩和ということに関しましては、イギリスにおきましても前政権が行ったようなものをもう一回もとに戻そうというような動きが若干起きていますし、むしろヨーロッパ大陸の方においては、おくれて規制緩和を進めたところでありますので、そのようなところを、現状を維持しながらどのような形で進めていくのかということがあるのではないかなという気がしております。

 ただ、この議論がグローバル化の問題と実は関連しているところがありまして、研究者の間では、グローバル化というものが各国の資本主義のタイプを一定の方向に収れんさせるのか、あるいは違ったままにずっと残すことを可能とさせるのかということをめぐって議論がずっと起きておりまして、この点につきましてはまだ明確な議論というものが起きていないという印象を私は持っております。

 以上です。

下村委員 先生の御専門のヨーロッパにおける比較政治学の中で、イギリスそのものもこれからユーロ加盟等課題があるわけでありますし、一方で、最初にお触れになりましたが、ドイツのフィッシャー外相がヨーロッパ連邦構想を発表した、またヨーロッパ憲法というのも提案したということをおっしゃっておりましたが、このようなヨーロッパ憲法を作成する流れというのがほかの国に広がっていくのか、あるいはこれが時代的なトレンドとして必然的な方向に行くのかということについて、もうちょっと詳しくお話をしていただければと思います。

高橋参考人 先ほど、昨年五月のフィッシャー外相のヨーロッパ連邦構想に触れさせていただいたわけでありますが、実は、あのときの提案のもう一つの大きな柱としまして、極端に言いますと、積極的な国だけでまずは進んでいこうということも提案したわけであります、基本的にはドイツとフランスになるのですが。

 それに対する実は反発というものも非常に多くありまして、ヨーロッパ連邦構想の問題と並んで、その進め方につきましてのもう一つの議論が大きく出始めてきた。そして、この進め方について、イギリスがなかなか消極的な立場を崩さないということもありますので、私は、現在では、現実の政治の論点を形成しているというよりは、一種の将来の方向づけという形でこのような議論が今起きてき、まだ数年ぐらいはそのような形で議論が進んでいくのではないかなということを考えております。

 ですので、十二月のニースのサミットにおきましても、各加盟国の構成員数をめぐる議論に終始したという流れもありましたし、最近では独仏和解みたいなものがその流れの中では出てきているわけでございますが、基本的には、まだ本当の中核となるような大きな問題、現実的な政治の問題という形にはなっていないのではないかなというふうに判断しております。

下村委員 グローバリゼーションと国家という中で、一方で国連の存在というのがあるのではないかと思います。

 今、我が国においては、国連に対する拠出金がアメリカと同じく世界トップの拠出額になってきている。また、安全保障理事国のアメリカ以外の他の四カ国の合計よりも日本の拠出金の方が多いという中で、今後、我が国の国連におけるさらなる重要な位置づけ、あるいは安全保障常任理事国そのものの数を拡大するという中で、日本が国連を通じて国際貢献をする、あるいは国連そのものの位置づけをさらに国際社会の中で拡大をしていくということも、今後、世界平和の中で大変に重要なことであるというふうに思います。

 この国連の存在とあわせて国家という存在、これがきょうは触れられておりませんでしたが、これからのグローバリゼーションの中で大変重要な位置づけになってくるのではないかというふうに思いますが、国連については先生はどんなふうにお考えでしょうか。

高橋参考人 基本的にといいますか、グローバル化が進み、それと同時に地域主義みたいなものが台頭してきまして、それに国連がこれから乗っかっていくといいますか、一種のグローバル的な機関であると同時に、ただ、各地域のことについては国連のそれなりのところが地域的なことも行っていくというような流れが出てくるのではないかなというふうに考えております。そして、グローバルなところの領域におきましては、環境問題のようなテーマがそこに上ってくるであろうかと思いますし、それとリージョナルの方におきましては、その地域の経済協力といいますか、そのようなところ、あるいは場合によっては、PKOを必要とするようなポスト民族紛争のようなところという形で分かれていきまして、そのような形。

 ですので、ガバナンスの上でもグローバルとリージョナルに分かれ、また分野におきましても各地域あるいはグローバルという形で分かれていくというような流れがあるのではないかなと思っています。これを、一部の国連を研究されている方々は複合的ガバナンスという言い方をずっとしているのですが、そのようなことが一つの基本的なアーキテクチャーとして考えられるのではないかなというふうに思っております。

下村委員 その中で、グローバル化と地域主義、地域化の中で、ヨーロッパのようなEU的な、ある意味では地域主義といいますか、このような状況が、ほかの地域でもそういう方向に必然的に行くのかどうか。ちょっと触れられておりましたが、例えばASEAN、我が国を含めた東南アジアというのが、学問的に見てこのEU的な流れとして必然的に行くのかどうか。その見通しについては先生はどんなふうにお考えでしょうか。

高橋参考人 恐らくEUと同じようなものがこれからできてくるということはほとんど考えられないというふうに思っております。

 ただ、それを前提としまして、EUの場合をハードなリージョナリズム、ASEANあるいはAPECのようなものをソフトなリージョナリズムという言い方で区分をずっとしてきたわけですが、どうも後者のソフトのリージョナリズムの方も、ハードまでにはいかないのですが、ハードの中間ぐらいのところまで制度化といいますか、いろいろな体制を整備していくというような流れはいろいろとつくられ始めてきたのではないかなと思っております。

 ただ、その場合、EUと対比してソフトという言い方をしたわけですので、実は、ソフトはソフトとしての将来的なあり方というものを本当はそれなりに考えられるのかもしれません。そこのところが今までちょっと議論として不十分であったのかなというような印象を持っております。

下村委員 EUにおける同じ第二次世界大戦の敗戦国であるドイツと、それから東アジアにおける日本というのは、戦後の位置づけがほかの国との関係でかなり異なっているのではないか。ある意味では、我が国においては、ソフトな部分を含めまして、あるいは北朝鮮との関係もそうですが、戦後処理が終わっていないという状況があるのではないかというふうに思います。そういう意味で、これから日本という国が二十一世紀という新しい世紀の中で、特にASEAN、東アジア諸国に対してどんなこの国の形を考えるかということが重要ですし、またそれ以前に、戦後処理をどう考えるかということも当然必要になってくるというふうに思います。

 まず、その中での我が国の憲法のあり方でありますけれども、そういう戦後の呪縛から脱していないとはいっても、戦後五十五年もたって憲法を一度も改正も修正もしていない。これだけ大きな時代の変化の中でしていないということは、やはりこの国がまだ自立をしていないということにもつながっていくのではないか。一方で、ドイツにおきましては、今までもう数十回の憲法の修正、改正を積み重ねてきて、新しい時代に沿った憲法というのを考えてきた。その辺の違いがあるのではないかと思いますが、御専門の立場から、ドイツと日本における憲法、その相違なり、あるいは今までの歴史的な変化についてお話をしていただければと思います。

高橋参考人 ドイツといった場合、統一前は西ドイツを念頭に置かせていただきますが、先生方御存じのとおり、西ドイツの場合には憲法はつくらなかったわけです。ですので、ボン基本法という名前をつけまして、前文等々に西ドイツは暫定国家であると、暫定性ということをずっと強調し続けました。そして、国際法の面ではさまざま、ちょっと議論としてはややこしいところがいろいろあるのですが、基本的に、ドイツが統一するまでは国際法上もさまざまな制約を受けざるを得ないということがありました。そのようなために、ある意味で国際環境等が変わったときには、そればかりではないのですが、その基本法を変えていかざるを得ないという流れがあって、ですので、日本国憲法的な意味で西ドイツ時代の基本法が憲法かといいますと、若干議論として難しいところがあるのではないかなという印象を持っております。

 といいますのは、五五年に西ドイツがNATOに加盟するわけですが、そのときまで西ドイツには三カ国による高等弁務官の制度が置かれておりまして、そこがある程度コントロールするということをやらされておりましたので、そことの関係もあって基本法改正という問題がいろいろあるのではないかなというふうに思います。

 そのような流れで現状のものもあるわけですので、そこの戦後の歩みの違いといいますか、そして、戦後の歩みの違いの一つの動きは、やはり国際環境の違いというものがあって、そのような改正という形で西ドイツはしばしば行ってきたのではないかなというふうに考えております。

 ですので、NATOの問題、そしてそれに関連する国防軍創設の問題等があり、あるいは近年ではマーストリヒト条約等々の問題もあって、その前に当然統一の問題があるわけですが、そのようなことがあってさまざまな手当てということをせざるを得なかったのではないかなというふうな印象を持っております。

下村委員 その中で、日本国憲法については先生はどんなようにお考えになっていらっしゃいますか。

高橋参考人 日本国憲法が、ある意味では現状にそぐわない点も幾つか持ち始めているといいますか、これから先何か行うためにも、憲法で行いますかほかの措置で行いますかはこれからいろいろ御議論があるかと思っておりますが、そのことは明らかに出始めているのではないかなというふうに考えております。

 一つは平和主義という問題がありますが、恐らく平和主義に何かをこれから国際面でも加えていかざるを得ない。それが何主義になるかというのは私もまだ明確なことを申し上げるまでに至っておりませんが、そのようなことは幾つかの点でも言うことができるのではないかなというふうに思っております。

下村委員 「文明の衝突」という有名な本の中で、日本という国が一つの独特な文明を持っているということの中で、グローバル社会の中で生き残っていく状況として非常に厳しい部分があるのではないか、こういうようなことを分析されている方もいらっしゃいます。一方で、先生の最初の、ヨーロッパ諸国における近年の政治体制が期せずして同じような方向で進んでいる部分があるという分析をされていらっしゃいます。

 これは一つの時代的な流れですから、これからまたどんなふうに行くのかというのはその国々の状況によっても違ってくるのではないかというふうに思いますが、ただ、国際社会の中で、先進国の一つとして、日本もあるいは西欧諸国も含めまして、政治的な一つの流れといいますか、影響というのはやはり受けてくるのではないかというふうに思います。

 こういう中で、日本における特殊性というのも一方でありますけれども、やはり普遍性というのもあるわけで、その辺については、西欧における諸国家と比べて、我が国の特徴とかあるいは普遍性とか、どんなふうに分析をされていらっしゃいますでしょうか。

高橋参考人 私がヨーロッパの政治をやっており、しかも比較政治ということもあるのかもしれませんが、正直申しまして、日本の政治を語る場合に、日本の特殊性というものがどちらかというと強調され過ぎる嫌いがあるのではないかなというふうに思っております。

 例えば、九〇年代に入りまして先進国共通に言われておりますものが投票率の低下という現象であり、それが政治不信という言葉も使われていたわけです。それは決して日本ばかりではなく、西欧各国においても同じような現象が起こっておりました。

 そのような幾つかの点、すべての点であるということは当然言えませんが、幾つかの点では同じような傾向というのはやはり起きており、その意味で、西欧の政治で恐らく起きる、そして先進国の政治として恐らく起こらざるを得ないといいますのが、先ほど、簡単ですが言及させていただきました政治の実験といいますか、僕らは政治のイノベーションと言っているのですが、そのような政治のイノベーションというのも、やはり先進国共通の課題の一つとして、恐らくこれは普遍的に起きていかざるを得ないのではないかな、そういう印象を持っております。

下村委員 その中で、特にイギリスにおけるブレア政権が、今後EUへの影響というのは、日本と同じですが、ヨーロッパにおける一つの島国という位置づけもありますし、また、EU加盟問題もあります。また、サッチャー政権を引き継いだ後、先生もおっしゃっていましたが、必ずしもかつてのような労働党的な主張ではなくて、新しい労働党としての、特に教育を中心とした政策転換を行っているということの中でのほかのヨーロッパ諸国に対する影響もあるのではないかというふうに思います。また、ブレア政権のイギリスにおける支持率も大変に高いものがある。

 このイギリスのブレア政権が今後ヨーロッパの諸国に対して影響を与えるようなことが出てくるのかどうか、あるいは、今のようなことがイギリスの中でしばらく体制として続くような状況があるのかどうか、この辺についてはどんなふうにお考えでしょうか。

高橋参考人 ブレア政権は、幾つかのことをやり、そしてその中で、今先生がおっしゃいましたように、既に幾つかの点では、西欧各国、東欧も含むのかもしれませんが、影響力を与え始めているということは言うことができるのではないかと思います。

 一つは、先ほど言いました第三の道をめぐる問題があり、それは既にドイツにおきましては新しい中道という言葉となって同じような共鳴現象を見せておりますし、そのような理念上の問題としての影響力が一つ確実に起きているのではないかなというふうに考えております。

 そしてそればかりではなくて、各個別政策におきましても、ブレア政権がどこまで成功しているかという話は別にしまして、新しい取り組みをしようとしております。

 そのうちの一つとして福祉の問題があり、ブレア政権が掲げてきた社会的排除、ソーシャルエクスクルージョンと言っているんですが、そのような政策を一体どうするかということは、ある意味では西欧各国のその他の福祉政策にも影響を与え始めているということもあります。

 もう一つは、経済の立て直し、特にサプライサイドによる知識産業ということを言っているんですが、それがほかの国にも恐らく同じような影響力を及ぼしているということで、その意味で、幾つかの点で影響力を及ぼしていることは、先生のおっしゃるとおり間違いない事実だと思っております。

下村委員 もう時間がなくなってまいりましたので。

 先生が、十二月一日の日経新聞で論文を書かれていらっしゃいます。この中で、「二十一世紀の日本の「国家のあり方」や東アジアの動向を考えるとき、EUでみられるような、視野の広い骨太なガバナンスの再編論も必要」ではないか、最後にこういう先生としての結論を書かれていらっしゃいます。

 先生御自身が、我が国における骨太なガバナンスの再編論について、ヨーロッパ諸国の動向から何かお考えになっていらっしゃることがあればお話をしていただければと思います。

高橋参考人 正直言いまして、書かなかった方がよかったかなという印象を持っているわけなんですが。

 頭にありましたのがマルチレベルガバナンスの問題でして、ガバナンスということを言わせますと、とかく、中央なら中央の問題、あるいは国内では中央と地方をつなぐ問題ということになるのですが、先ほども簡単に触れさせていただきましたが、面としての東アジアというものがもし生まれてくるような方向にあるとすれば、そこを含んだような形でのガバナンスというものもやはり考えていかざるを得ないのではないかというふうに思っております。

 といいますのは、日本ではほとんど研究がなされていないのですが、先ほどリージョンということを言わせていただきましたが、そのリージョンの下、サブリージョンというのが既に生まれてきている。どこまで現実に進んでいるのかという点では、幾つかの論点といいますか解釈を残していることがありますが、例えば、表現がそれでよいのかどうなのかという問題もあるのですが、環日本海圏構想ですとか、そういうレベルの取り組みというものも出始めてきている。

 そのようなことを踏まえて行います場合に、やはりそこまでも射程に含めたガバナンス論というものも考えた方がよいのかなというのが、私のこの時点での念頭に置いていたことであったという形で説明させていただきます。

下村委員 お考えについてはそのとおりだと思うんです。

 ただ、その出し方の問題といいますか、我が国のリーダーが、あるいは我々がこれを出すということが、必ずしも今の東南アジアにおけるソフトな部分で適切でない場合もあるわけでありまして、そういう意味での政治状況といいますか、過去の歴史的な、地政学的な部分から、タイミングの問題とか、あるいはどういう形でどんなふうに出すかとか、だれが出すかとかいう部分が、東アジアにおいては大変重要なポイントであるというふうに思います。

 そういう観点から、先生のより具体的なお話があればお聞かせ願いたいと思います。

高橋参考人 歴史の問題になるということは、ドイツと日本ということに照らしてそれは間違いないことではないかなというふうに思っております。ドイツ流にいきますと過去の克服という言い方になるのですが、どのように行うのかということにつきましては、やはりいろいろな難しい問題があるということもこれまた間違いない事実だと思っております。

 ただ、ドイツのやり方を一つ見てまいりますと、単に、いかなる形で経済的にどうするかということばかりではなく、やはり相手方との歴史の一定程度の共通理解だけはつくろうかというような動きも存在しているということも、これまた間違いない事実でありまして、例えばドイツとポーランド、あるいはEU諸国になりますと、EU加盟国での一つの歴史教科書をつくるということが既に行われておりますし、それと同じような、EU諸国全体によるEUの歴史みたいなものをいろいろ編んでみようということも既に行われているということもありますので、そのような作業もやはり同時に必要なのではないのかなというふうに考えております。

下村委員 ありがとうございました。

中山会長 枝野幸男君。

枝野委員 民主党の枝野でございます。本日はどうもありがとうございます。

 今の地域主義的な問題のところから少しお尋ねをさせていただきたいと思いますが、ヨーロッパではEUというハードなリージョンが早い段階から形成をされてきている。今先生おっしゃられたとおり、東アジアでこれからそういったものがソフトな形でもできていくかどうかということを考えるときに、ヨーロッパには、よく言われるのは、キリスト教文明という一つの共通の基盤があるとか、あるいはローマ文明という共通の源を持っているというようなことが語られて、そこが東アジアと決定的に違うんだというような言われ方をします。

 あえて西洋の思想史ではなくて現状の政治を分析されている立場から、こうしたキリスト教やローマ文明の影響というものがEUの形成などについてどの程度の影響を持っているというふうに受けとめていらっしゃるのか、教えていただければと思います。

    〔会長退席、鹿野会長代理着席〕

高橋参考人 少なくともEUの歴史を見ている限り、ローマ等は余り大きな影響力は持っていなかったのではないかなというふうに思っております。それよりも、やはりEUというのは政治的、人為的につくっていくのであるという意識が非常に強くありましたので、従来、歴史的に存在したヨーロッパあるいは文化的に存在したヨーロッパよりは、これから違った意味での新しい政治空間としてのヨーロッパあるいは経済空間としてのヨーロッパをつくっていくという意識が非常に強くあったということがありますので、確かに歴史的なものがあったということは否定できないことは間違いないのですが、その意味で、余りローマ等は影響は与えていなかったというような気がします。

 その一つの証左になりますのが、早い段階からヨーロッパということをEUは言っているわけですね。ところが、歴史上のヨーロッパといいますと、どうしてもロシア史も含んでいるのがヨーロッパですので、現状として入っていない段階でヨーロッパという言葉を使うのは僣越なのではないかといろいろ批判ができたのですが、そこに込められた意味は、新しいヨーロッパみたいなものをつくっていくのであるという意味を込めてヨーロッパという言葉をあの段階であえてつくり、あえて西ヨーロッパとは言わなかったということにもあらわれているのではないかなと思っています。

枝野委員 もう一つ、ヨーロッパでのリージョンの形成と東アジアの今後を考えたときに客観条件で大きく違うなと思いますのは、ヨーロッパの場合も、ドイツ、フランスが相対的には大国であるということは言えるのかもしれませんが、そうはいっても、同じような大きさの国が幾つかあるという状況だと思います。

 東アジアを見たときには、現状を考えると、中国が圧倒的に大きな面積、人口を抱えている、あるいは資源も含めて抱えているという、地理的というか条件を抱えております。EUがある程度リージョンとしての形をつくってこられたのは、その格差があるとはいっても、アジアにおける中国と他の国との差ほどは大きくない、あるいはフランス、ドイツという、あるいはイギリスも含めてもいいと思いますが、ほぼ同じぐらいの力を持った国が相互にいい意味でも牽制をし合えるような大きさであった、規模であったということがあるのではないかなと思うのですが、アジアにおけるリージョンを今後形成していく場合における中国の大きさを、ヨーロッパのリージョン形成のプロセスから見て、どう御判断されるでしょうか。

高橋参考人 確かに先生おっしゃるとおりで、ヨーロッパの方がサイズからいえば似通った国があり、それである程度の均一性を持っていますので、そのようなリージョンづくりというのはより容易であったという点は間違いないと思います。

 ですが、東アジアの方へ行きますと、中国というものがやはりより大きな形で考えられ過ぎているんじゃないのか、それは一体なぜなんだろうというのが一つずっとありまして、それは昔からの、中国は独自の朝貢システムをつくっておりましたので、昔の東アジア国際体系みたいなものをつくっておりましたので、そこが根っことして一つあるのではないかということがあります。

 それからもう一つは、将来的に恐らく、中国が今のような経済成長率を誇り、今のような人口数等々でいけば、確かに非常に大きな国になるということも間違いないのですが、これは私だけではなくて、元のゲンシャー外相等々も言っていたのですが、逆に、そういうサイズになればなるほど非常に難しい点が出てくる、大きいがゆえの悩みといいますか、大きいがゆえの弱さというものも出てくる。ですので、その点もやはり見てみる必要性があるのではないかなということが一つあるかと思います。

 それからもう一つは、先ほどの東アジアの昔の関係に帰するのですが、ヨーロッパと、EUの場合と違いますのは、先ほども簡単に触れさせていただいたのですが、横の関係なんですね。ところが、何となく東アジアの中でまだ縦の関係として国際関係を考えていくという面がある程度見られていますので、そこをどう変えていくのかということがあると思います。

 それから最後の第四点になりますが、恐らくそうであるがゆえに、私は、最初の段階から中国にリージョンづくりの中に加わってもらった方がよりよいのではないのかというような印象を持っておりまして、確かに難しい点があるということは間違いありませんが、ただ、ASEANプラス3等にも入っておりますし、APECにも入っておりますし、そのような点からして、それなりの加わってもらうことに対する合理性みたいなものはある程度あるのではないかなというふうに考えています。

枝野委員 先ほどマルチレベルガバナンスの話のところで、イギリスが、ウェールズですか、スコットランドですか、EUと直接の結びつきが強くなっているというようなお話があったかと思うのですが、要するに、主権国家というものを考えたときに、イギリスの一地方であるところと国家を超えたガバナンス機能を持つEUとが直接結びつくという状況が進んでいきつつあるという中で、例えば、特にその地域に住んでいる人たちの意識として、ロンドンにある主権国家というものをどういうふうに見ているんだろうか。非常に複雑な感じなのかなという気がするんですけれども、この辺について、もし何かわかることがあれば教えてください。

高橋参考人 イギリスというより、この場合UKと言った方がいいのですが、UKの場合には、御存じのとおり、サッカー等々でもそれこそスコットランド、ウェールズ、イングランド等々で出てきますので、その問題につきましてはちょっと、どれほど強いUK意識があるのかという点をもし質問されますと、これは非常に難しい問題があるというふうにまずは指摘させていただきます。

 それよりもむしろドイツのケースを言わせていただきますと、ドイツの場合は明らかに考え方が三層構造になっています。一つは、自分たちの州のアイデンティティーといいますか、そういうものをある程度重視するというのが一つあります。そして、それと同時に、ドイツならドイツということを重視する、それのアイデンティティーがあります。

 それからもう一つは、必ずしもブリュッセルではないんですが、ヨーロッパをヨーロッパとして重視する。ですので、アイデンティティーが必ずしも一つに向かないで、三つのものを共存させながら抱いていくという現象がドイツの方が非常に強く、また前から見られたような現象であり、恐らくUKのスコットランドの場合にも同じような方向に行くのではないかなというふうに考えております。

枝野委員 今のドイツの場合のアイデンティティーの対象としての欧州というのは、先ほど話に出たリージョンとしての欧州でよろしいんでしょうか。それとも歴史的な、それはやはりそこではまざっているんですか。

高橋参考人 正直言いまして二様あると思います。一つは、現状の、EUをヨーロッパとして抱くヨーロッパに対するアイデンティティーがあるんですが、もう一つ、ドイツの場合は、ロシアまで含めてヨーロッパとしてとらえ、これを全体ヨーロッパという言い方をしているんですが、その全体ヨーロッパに対してヨーロッパのアイデンティティーを抱くという形で、その点に関してはちょっと人によって違うというところがあるのではないかなというふうに私は思います。

 ですので、その意味で、ではドイツで考えるヨーロッパは本当に均一かといいますと、まさに今説明させていただきましたように、ある程度ばらばらというところがあるのかな、そのような印象を持っております。

枝野委員 ドイツの州に対する意識というもので、物を知らないので大変恐縮なんですが、ドイツの州というのは歴史的に見たときにどれぐらいの古さを持っているんでしょうか、アイデンティティーの対象になるような単位として。余り長い歴史とも思えないような気がしますし、そういったところが連邦の中でアイデンティティーの対象になるような存在になっているというところについて、もしわかれば教えていただきたいと思うんです。

高橋参考人 ドイツの州、ラントという言い方をしているんですが、基本的には神聖ローマ帝国ぐらいのときに基本的な原型がつくられていって、それが徐々に発展していったということがあるのではないかなと思っています。

 その前提につきましては、なぜあそこまで固まっていったのかということについては幾つかあるんですが、一つは、やはりそのラントの境界を越えてどこかへ行く、あるいは移住するという流れがそう強くなかったということが一つありますし、それからもう一つは、文化的な意味で、ドイツという文化は一つかといいますとこれまたいろいろありますので、例えばミュンヘンを中心とするような、バイエルンであればバイエルン文化みたいなことが言われ、そのようなことがありますので、そのような形で独自の文化性みたいなものを各ラントがずっと強めていった、そのようなことがあって最近までずっと残ってきているというところがあるのではないかなと思っています。

 ただ、人造的な州というのも戦後できました。ですから、ちょっと細かい話になって恐縮なんですが、一番大きなのがデュッセルドルフがあるノルトラインウェストファーレンという州なんですが、ここもラインラントとウェストファーレンの合併州。ですので、今でも、実は二つの、カルチャーは違うのですが、ラインラントとウェストファーレン。あと南の方も、バーデンビュルテンベルクなんですが、これもまた全然違っているという形で、その意味で、現状の行政州と、どちらかというと昔から根っこを持っている文化的な州というものは違うのかなという感じを持っています。

枝野委員 分権に非常に関心を持っているので、そういった視点からもう一つ、EUと地方との関係で、イタリアなどの場合はどうなんでしょう。

 つまり、ここはよく、我々の知る範囲では、北と南で格差があって、イタリアの国内でその地域間格差の問題の議論がある。それから、かつてのローマ帝国の時代を別とすると、イタリアがあの単位で国家として機能したのは歴史的に非常に短い。それまでは都市国家的な意味で地方が分立をしていたという中で、そういう非常に薄っぺらい歴史的な知識から見ると、ここは地域ごとに、イタリアという主権国家の概念の意識が小さくなっていって、地域とEUとの結びつきが強くなりそうなイメージがあるのですけれども、実態はどうなのでしょうか。

高橋参考人 実は、歴史的にEUには日本的にいいますと国土軸みたいなものがありまして、これを僕らはマンチェスター―ポーラインという言い方をしているのですが、イギリスのマンチェスターから始まって、ライン川沿いにずっとおりてきて、スイスを経由して北イタリアへ行く地域、ここはヨーロッパで一番栄えてきた地域であり、かつまた都市国家の地域なんですね。ですので、ここの伝統を持っている限りは、今先生おっしゃったように、非常に分権性が高く、そのようなところの伝統が今でも非常に強く残っている。それはそのような歴史性が一つあるということに由来するのではないかなというふうに考えます。したがって、その意味で、ポー川より南のイタリアといいますのはどちらかというと従来型の国家構造みたいなものをとってきましたので、そことのクッションのやり方みたいなものが非常に難しく、今でもまた出てきているというような印象を持っています。

枝野委員 今度はEU全体の話なんですが、歴史的に見て、経済問題などからリージョンの形成をしていったということも、理由も含めて非常に理解できるんですが、きょうのお話の中で、安全保障とか、そういった話があえて余りお触れにならなかったのか、グローバリゼーションの中で、リージョンとしての形成が順調にと言っていいんでしょうか、特に進んでいるEUの中で、そういうことがそれぞれの主権国家ごとの安全保障に対してどういう影響を与えているのか、そして与えていくのかということについて教えていただければと思います。

高橋参考人 私自身は、確かにEUというのは、最初は石炭、鉄鋼ですから、経済面から始まっていったんですが、実は、動かしたものは明らかに政治的な意思でなかったのかと思っています。ですので、つぶれてしまったんですが、それと並行裏にヨーロッパ防衛共同体構想というのがありまして、そこで安全保障面をどうするかということがずっと話し合われてき、それが、フランス下院が批准に失敗してついえてしまったんですが、そこではやはりヨーロッパ各国軍の合同体のヨーロッパ共通軍をつくると。流れがずっとそのときから存在したと思っています。

 ですが、それがつぶれたためにNATOということが起こり、NATOの場合にもドイツ軍はちょっと違った位置づけが行われていたんですが、それがずっと続いて、冷戦が終わった段階で再び、先ほど言ったようなヨーロッパ共通軍といいますか、そのようなものをつくり出していこうというのが、今一部、徐々に徐々に始まっていったのかなと印象を持っています。

 それに、EU国内で少なくとも従来型の戦争というものが起きるということはほとんど考えられなくなってきましたので、そこでのミッションはコソボですとかそのような問題の方にずっと限られていくのではないのか。そのときには、やはりヨーロッパがそういう形で共通軍構想というものを持ってもよいのではないのかなと考え始めたのかなという気になっています。

枝野委員 そうしますと、今まではなかなか難しかった、結果的にうまくいかなかったけれども、今後は共同軍的なものまで含めた形になっていくことは、もちろんいろいろな、所与の条件が変わってくる可能性もありますけれども、期待をできるという理解でよろしいんでしょうか。

高橋参考人 これが前から、マーストリヒトの段階から言い始めてきました共通の外交・安全保障政策というものをEUで打ち出していまして、それと先ほどの問題とどうリンクするかはまだちょっと難しいところがあるんですが、そのところも踏まえて、だんだん共通軍的なものを強めていくのではないのか。ただ、各国軍はそれとは別に残ると思います。ですから、二段構え的なものであって、共通軍がどちらかというとタスクフォース的な軍になって、それと同時に、ちょっと違った構成をとるのかな、そういう印象を持っています。

枝野委員 どうもありがとうございました。

鹿野会長代理 上田君。

上田(勇)委員 公明党の上田勇でございます。

 きょうは大変貴重なお話をいただきまして、まことにありがとうございます。幾つか御質問させていただきたいんですが、まず最初に、先生のお話の中で、グローバリズムとリージョナリズムというのが二つ出てきたんですけれども、その関係性をどういうふうに考えておられるのか、ちょっとお聞きしたいと思うんです。

 先生のお話では、グローバライゼーションにはイギリスが極めて積極的で、フランスがいわば懐疑的であるというお話でありました。EUの深化ということについては多分逆の対応なんだというふうに思うんですが、ということは、このEUというリージョナルな統合の動きというのは、グローバル化とは逆方向に向かっているものだというふうに認識をされているのか。あるいは一方で、先生のさっきのお話では、EUがグローバル化のクッションになっているというようなお話もあったんですけれども、ということは、ヨーロッパにおいては、このEUというのはグローバル化に向かってのステップというか段階として認識されているのか、その辺のお考えを伺えればと思います。

高橋参考人 リージョナリズムとグローバライゼーションの関係は先生御指摘くださったわけですが、実はちょっとこれは難しい問題をいろいろ抱えていまして、EUの場合は説明しやすいところなんですが、EUの場合には、まずEUがあって、それでだんだんやってくるうちにグローバリゼーションの波をかぶって、それだったら自分たちのところはリージョナリズムととらえてみようかと再定義を行ってきたような側面があると思うんです。

 それと比較しまして、東アジアの場合は、確かにASEANはある程度説明できるんですが、ほかのAPECですとかASEANプラス3になってきますと、正直言いましてそこの関係性が非常にぼけていますので、僕らから見てみますと、APECは非常に定義しにくいんですね。ですから、ある研究者はセミグローバルという言い方をしているんです。アジア太平洋というのは本当にリージョンと言えるのかということも含みましていろいろな議論がありますので、その意味で、APECというのは、ある意味では、どちらかというとグローバリゼーションの流れの中の地球上のある一定的に区切った地域という考え方もできるのではないかなと思っております。

 ただ、それと比較してASEANプラス3はちょっと違った側面を持っていますので、これはやはりグローバリゼーション対応型のリージョナル化の始まりなのかな、そういう印象を持っているところです。

上田(勇)委員 もう一つ、ヨーロッパのお話で、きょうはEUのいろいろなお話を伺ったんですけれども、ヨーロッパには従来から、ヨーロッパ評議会というんですか、あと軍事面ではNATOというのもありますけれども、そういうようなさまざまなリージョナルな機関とか組織があるんですが、こうした機関とEUというのは、とにかくいずれの機関も、多分ヨーロッパを協力して、あるいはお互いの関係をよくし、意思疎通を図っていこうということでできたんだというふうに思うんですが、こうした機関とEUというのはやはり本質的にその目的や性格というのも違うのではないかというふうに思うんですけれども、その辺のそうした機関や組織とEUとの関係の現状、それから、これからの将来の展望についての先生の御意見を伺えればというふうに思います。

高橋参考人 リージョナリズムといいますものの基本設計が実は一つではありませんで、EUの場合には、どちらかというと独仏等が基本になってお互いが大体水平的に一致になって進めていったというところがあるのではないかなと思います。ですが、もう一つのやり方といいますか基本設計は、これはアメリカが、その当時は地域主義とは言わなかったのですが、ずっと行ってきたことで、スポーク・アンド・ハブのやり方でもこれはいくのではないのかなというところがありまして、そこはある程度の大きな国が中心となって全部スポークを伸ばしていくという関係ですので、そこのところの違いというのがヨーロッパと東アジア方面でちょっと残っているのかなという印象を持っています。

 ですので、EUの場合には、端的に言いまして、私は、最も簡単に説明しろと言われれば、ドイツとフランスの間の不戦共同体でありまして、そこで経済から始めていったというところが非常に強かったために、まずその限りにおいてはアメリカは余り考える必要がなかった。逆に、ソ連という存在がずっと冷戦時代ありましたので、そこにおいてはやはりNATOに持っていかざるを得ない、そのような関係にあったのではないかなというふうに思っております。

上田(勇)委員 先ほど先生の方から、ヨーロッパの諸国もグローバル化の波を受けて、それに対して対応するというような形で最近の動きが出ているというようなお話であったのですが、今度、当然我が国も、日本の場合もグローバル化の波をかぶっているんだというふうに思うんですけれども、その辺、先生が研究されているヨーロッパ諸国の立場から見て、日本のそうしたグローバル化への対応ということについて、評価というのでしょうか、考えというのはどういうようなものがあるのか、教えていただければというふうに思います。

高橋参考人 どういう形でお話しさせていただければよいのかわからないんですが、日本の場合には、グローバル化という言葉は使われるんですが、少なくとも、研究者的なサイドから見ますと、本当にグローバル化がどれほど日本の政治や経済や社会に影響を与えたのかなということに関する分析に関しては、私はヨーロッパと比較して極めて少ないと思っています。

 ですので、ヨーロッパ各国、特にイギリス、フランスはグローバリゼーションに関する研究所みたいなものをつくり始めましたし、そこでその問題に絡めてどうなっているのかということをきちんと分析した上で、どう対応措置を考えようかということを始めているんですが、それに比べますと、日本の場合にはそこの基本的なところがまだできていないのかな、それは私どもの怠慢であることは間違いないんですが、まだそのような段階にあるというのが実情じゃないかなというふうに思っています。

上田(勇)委員 次に、既にちょっとお話が出た部分もあるんですけれども、この東アジアのリージョナリズム、先生はソフトなリージョナリズムというふうにおっしゃいましたけれども、今後それがどのレベルまで進むのかということを考えるときに、東アジアの国々、これは日本も含めてですけれども、貿易や投資といったような経済関係というのは既に相当関係が強くなってきております。

 これをEUと比べてみると、EUも最初はEECみたいな段階から入っているのではないかというふうに思うのですが、ということを考えると、EECあるいはECの段階型、そういうような形式まではこの東アジアのリージョナリズムは進むのではないかというふうにも私は思うのです。

 ただ、そこから先、EUの場合には、今度は法律や制度を統一していく、あるいは人の移動とか交流も相当促進をした、これは労働力も含めての話ですけれども。ただ、そうしたことは、現状では、このアジアでは進んでいないわけですけれども、今後、このソフトなリージョナリズムというんですか、例えば法律や制度のハーモナイゼーションだとか、労働力も含めての人の移動とか交流というようなところまで進むんでしょうか、またそうあるべきなんでしょうか。その辺の御意見を伺えればというふうに思います。

    〔鹿野会長代理退席、会長着席〕

高橋参考人 私、印象論になって申しわけないんですが、人の移動、あるいは経済、貿易等の交流といいますか、相互の行き来等々から考えますと、今まで東アジアで起きていないことが起きているんじゃないかなという印象を持っているんです。確かに、ヨーロッパに比べれば、パーセンテージ的に言うと低いことは間違いないんですが、その前の歴史的な状態をずっと勘案させていただきますと、やはりそれなり、体制の違いがあれ、いろいろなことがありながらもここまでいろいろ人が行き来していたり交流してきたことは今までなかったことであって、そして、恐らく現状から見ますとそのようなものはこれから先も伸びていかざるを得ないのではないかという印象を持っていますので、その意味で、リージョナリズムをつくるような下支えみたいなところは徐々に強固になっていくのかなという印象を持っています。

上田(勇)委員 最後に、これからの日本の将来像ということなんですが、今の先生のお話で、東アジアの地域の、統合という言葉が適切なのかどうかわかりませんが、リージョナリズムに向けての下地は相当できている。したがって、これから経済の関係も一層深まっていくでしょうし、先ほど言った人の移動、交流といったこともさらに大きくなっていくことが予想されるというふうに思います。そうなると、先生も、ASEANプラス3とかが、EUのような形、主権のプールというようなところまでは多分いかないだろうというような御意見だったというふうに思うんですけれども、ただ、相当程度、法律や制度のハーモナイゼーションというのもやっていかなければいけなくなるんだろうというふうに思うんです。

 そうすると、日本の国のいろいろな諸制度というのも、地域の中で、今後いろいろな国の利害を含めてハーモナイズしていくようなことになるんでしょうし、また、多分、これは労働力も含めた人の移動、国内でもそういうような地域との労働力の移動というようなことが促進されるんではないかというふうに思うんです。

 とにかく、日本の社会がそういう意味で東アジアをベースにして、さらに、人も多分、その地域の人が日本にももっと居住し、働くようなことになるんではないかというふうに思うんですが、日本の将来像というのが、やはり東アジアをベースにしたリージョナリズムをベースに、そういうような社会になっていくのかなというふうにちょっと今イメージを抱いたんですが、その辺、先生、取りとめのない言い方になって申しわけないんですが、御意見をいただければというふうに思います。

高橋参考人 今先生は東アジアという言葉を使われたんですが、東アジアという言葉を使いますと、アメリカはどうなるというところなんですね。アメリカを入れているの、入れていないのという問題が一つ実は残っていまして、恐らくASEANプラス3とかASEMにアメリカが加わってくるということは将来的に余り考えられませんので、アメリカとの関係のリージョナリズム的なものというとAPECになってこざるを得ないと思うんですね。

 そうしますと、このことはよく誤解されるのですが、リージョナリズムというのは決して互いに排除するものじゃないんですね。そのために、よく開かれたリージョナリズムという言い方をするんですが、むしろリージョナルとリージョンというのはフュージョンする可能性がある、融合化する可能性も考えられないわけではありませんので、そこのところをこれから先のことでもお考えいただくことが必要なのかな、そういう印象を持っています。

上田(勇)委員 以上で終わります。

中山会長 塩田晋君。

塩田委員 自由党の塩田晋でございます。

 先生には、非常に貴重な意見を公述いただきまして、ありがとうございました。非常に参考になるところが多いわけでございますが、先生、恐縮ですが、いただきましたペーパーの二枚目、表1の上から六段目「主要な動機」というところ、これはハイパーグローバル化、懐疑派、第三の解釈とありますが、これをもう少し詳しく御説明いただきたいと思います。

高橋参考人 実は、ちょっとこれは直訳に近い形でつくってありますのでなかなか御理解いただけない側面も残しているのかというふうに思っております。

 ハイパーグローバリストの言いますグローバル資本主義というのは、資本主義が世界じゅうすべてグローバル資本主義という一つの資本主義で一本化される、そういう意味でグローバル資本主義ということがずっと主張されております。

 懐疑派の方になりますと、各国は各国の経済をきちんと持っており、そことそことの関係というものが非常に強まっているんだというような形でずっと解釈しまして、その裏で言っていることは、グローバル資本主義というのはできないということを言っております。

 それで、第三の解釈のシックなグローバル化ということは、濃密なという意味なんですが、そのどちらへ行くのかは現状においてはよくわからなくて、違った形のものになる可能性はあるというのがこの「主要な特徴」というところの三つの項で書いてあることの説明ということになるかと思います。

塩田委員 「主要な動機」のところに「マクドナルド」というのがございますね。「国益」それから「政治共同体の変質」と。このもう少し詳しい御説明をいただきたいと思います。

高橋参考人 「主要な動機」の「マクドナルド」というのは、もう先生方御存じのマクドナルドのことを言っておるわけでございまして、つまり世界じゅう、現実は大分違っているという説もあるんですが、世界各国同じような食べ物がずっと出ていきますし、それがまた可能であるということをハイパーグローバリストの人たちは考えているんではないのか。ですから、世界じゅうどこへ行っても同じことが可能なんですから、世界じゅう、出ていけば出ていくほど利潤という面であれば当然上がってくる可能性は非常に高くなるということになっているわけなんです。

 ただ、もう一つ、懐疑派の方になりますと、主要な動機につきまして、やはり国が国の利益を追っておりますので、そのようなマクドナルド云々が出ていくという行動だけではなくて、そのようなものが嫌だという形で国益が出る場合もありますし、あるいは自分たちの国の利益を出すという意味でそこが出てくるという側面があるかと思います。

 それから、第三の解釈は、これは「政治共同体の変質」などというわからない言葉になっているんですが、国際政治のところの諸関係というものがむしろ非常に大きく変わってきているのだ、現状ではそこまでぐらいのことしか言えないという意味でここでは「政治共同体の変質」ということが書かれているというふうにお考えいただければというふうに思います。

塩田委員 今、世界のグローバル化の潮流というのは、これはだれしも認めるところだし、この潮流に逆行することはないだろうと思われます。

 その中で、現在及び将来の方向として世界の三極化構造ということが言われておりますが、南北アメリカ大陸、そして今のヨーロッパ、EUを中心とした一極と、そしてもう一つは、先ほど来出ております東アジア、これに南太平洋を含めての海洋を中心とした一つの極、リージョンといいますか、そういうものを三極構造と、これには大陸国であるロシアとかインドとか中国は入っていないわけですけれども、それはそれとしまして、経済的な結びつきの点から見ると、この三極構造というものがどんどん進んでいっている。その最も進んだのがやはりEUではないか、今のところ。

 また、それに対して、各国とも非常な苦労をしながら、いろいろな問題を解決しながら進んでいっている、こういう形だと思います。それは、ヨーロッパの長い歴史の中で、各国が戦争を繰り返した。長いときは三十年というふうな長い戦争をやって、しかも悲惨な第一次、第二次世界大戦を経たという経験の中から、ヨーロッパは一つであるという統一体への志向、平和を目指しての志向、こういうものが基本的にはあったと思うんですが、一番の動機はやはり経済だと思うんですね。

 経済のグローバル化、貿易であり資本、そしてまた労働力の自由な移動、もちろん文化交流もスポーツ交流もありますけれども、そういった方向でどんどん進んできている。しかし、基本的には経済だと思いますね。そのためにも、EU参加の条件として、各国の税制につきましても付加価値税にするとか、そういった条件を満たして入っていくという形でどんどん経済統合が進んでいっている、これが基本だと思います。

 このヨーロッパのEUを中心としたリージョンと東アジア・太平洋、このリージョンとは、経済的に言いますと、かなり密接な関係で東アジア・太平洋も進んでおりますけれども、ヨーロッパのEUのような形ではまだまだ進んでいない。EUにおいてはユーロという共通の通貨もできるという中で、まだまだ到底、東アジア・太平洋といってもそういう状況にはないということでございます。

 ただ、EUと違っておりますのは、現在においても日本が経済的に非常に大きな力を持っておるし、また、経済にかなりの大きい影響力を持ち、ODAを通じての各国への経済援助、これはウエートはだんだん相対的に小さくなっていくとは思いますけれども、まだ大きな力を発揮しているというような状況があると思います。

 先生は、ヨーロッパのグローバル化、経済統合を通じて、この東アジア・太平洋の海洋国を連結してのこういった経済的な統合、あるいはそういう方向に向かってのプロセスですね、どのような段差といいますか、格差といいますか、おくれているものがあると評価しておられますか。お伺いいたします。

高橋参考人 先生の御質問を幾つかに分けてお答えさせていただきたいと思うんですが、一つ、経済がどこまで密接に結びつき合っているのかという点になりますと、私どもの見解では、EUと例えば東アジアというものを比較して何かを言うこともできるのですが、むしろそれよりも、東アジア各国の中の歴史的、通時的なデータを見て、それがどこまで密接にかかわり合ってきたかということを見た方が評価しやすいのではないかという立場が一つございます。といいますのは、EUと東アジアを比較しますと、EUの相互の貿易云々の方が高いというのはもう歴史的にありますので、それと東アジアを比較しましても、何かを言うということになりますと、どちらかというと否定的な見解しかそこから生まれてこない場合もあるということがあるかと思います。

 あともう一つの違いなんですが、単一市場になるということはまずあり得ませんが、第一番目のハードルとしまして、自由貿易的なものの協定が実際どこまで張りめぐらされていくのかということが、これから先の東アジアでの経済的な問題が一つあるのではないかなということがあります。

 それから第三点、そのときのボディーが一体何なのかといいますと、ヨーロッパの場合には、ユーロの前に明らかにEMSという、ヨーロッパ通貨システムというシステムをとりまして、そこで違った形での共通経済通貨みたいなものを既に、バーチャルなものだったんですが、それをずっと置いていましたので、そのようなものができるかできないかちょっと私にはよくわからないところがあるんですが、そのようなボディーができるかできないかによって、今後の進展の道及び速度というものが変わっていくのではないかなというふうに考えております。

塩田委員 時間がありませんので、二問まとめてお伺いいたします。

 一つは、先生がおっしゃいましたように、現在のEUの動向というものは、三層といいますか、EUと各国の中央政府と、これはナショナルですね、地方、ローカル、この三層構造で進んでいる、こういうことでございまして、結論的に先生が言われましたのは、地球的市民社会へ直線的に進んでいくのではなくして、その過程でいろいろな問題を抱えながら、それを解決しながら、いろいろなプロセスを経てそちらの方向にかなりの時間をかけて行くだろう、こういうことではなかったかと私は受けとめたわけでございます。

 EUにおきましても、二つの議会、上院と通常の議会と、EU議会を置くということでございますが、その場合に、地球的市民社会という観点から、だんだん国家的なナショナルというものが薄れていく。それは一つ、先ほども出ましたように、軍事的な面におきましても、各国の国軍はなくならないとはおっしゃいましたけれども、ウエートは非常になくなっていく。

 EUの中における互いの国が戦争し合うということはまずなくなっていく、そのためには国軍も必要なくなってくる、こういうことになっていくと思いますが、NATO軍なりEU軍が、統一的な共通軍というものができるとしまして、どういう役割を本当に果たすのか。国連警察軍的な役割を果たすのか。あるいはまた、コソボあるいはセルビア等に出ていったああいう形のもの、まだしかし、ソ連の後のロシアが今後どういう軍事的な動向を示すか、これは問題ですし、中国としましても、かなりの軍事力の増強があるのではないかと思われますが、そういった軍事面の問題、これをお伺いしたいと思います。

 そしてもう一つ、第二問ですけれども、地方政治における在住している外国人に対する地方参政権、これは、EUの今の動向からいいますと、相互主義というか、お互い与え合うということで進んでいると思うのですが、アジアにおける日本と、先ほど来お話ありましたように非常に違うものですから、EUでこうやっているから日本もそうだということにならないと思いますけれども、ヨーロッパの方でそういう参政権を与えることによって、国内問題として、特に日本では報道されておりませんけれども、ヨーロッパ各国の地方選挙においてもこの問題が非常に大きな争点になっていることは御存じのとおりだと思うのです。こういったものがどういう方向で今後動いていくか、その辺についてのお考えをお聞きしたいと思います。

 この二点、お願いします。

高橋参考人 最後の方からお答えさせていただきます。

 EU加盟国に住んでいる人たちは少なくともEU市民権ということがありますので、自治体レベルでの選挙云々という形にはほぼ間違いなく大丈夫になっているのですが、問題は、EU域外から来た人たちがどれほどかということにつきましてはまだEU各国にばらつきがあり、そこでいろいろな対応策がなされているということはありますが、方向性としては徐々に、年齢なりさまざまな条件等もあるのですが、それを踏まえて認めていこうという方向にあることは間違いないというふうに思います。

 それから、先生が掲げられた第一問なんですが、いろいろなお考えがあると思うのですが、ただ、よく誤解されるような点が一つありますことは、ヨーロッパでEUが強くなっていきますとナショナルなものがむしろだんだん衰退していくのではないかということになるのですが、逆に言いますと、先ほど言った点での、多層レベルでのガバナンスというのはむしろある意味ではナショナルな役割を強めているようなところも一つあるということがありますし、もう一つは、アイデンティティーとか文化ということから言わせますと、EUの統合が強まったがゆえに、各国間のアイデンティティーといいますか、文化的な違いみたいなものはむしろ強烈になっていったというところがありまして、必ずしもナショナルがそこでなくなって全部ヨーロッパで一本化されるという方向には余り動いていないというのが現状ではないかなというふうに分析しております。

塩田委員 ありがとうございました。

中山会長 春名直章君。

春名委員 日本共産党の春名直章です。きょうは、グローバリゼーションについて本当に示唆に富んだお話をしていただきまして、ありがとうございました。

 それで、資本主義の中で、貿易や投資や市場が国境を越えて広がっていく、グローバル化というのは避けられない傾向だと私も思います。問題は、グローバル化という名前のもとに、アメリカを中心にした、マクドナルドという言葉も出ていますけれども、多国籍企業と国際的な金融資本が無制限に利潤を追求する、それを最優先にする経済秩序が全世界にある意味で押しつけられている、そこに一番問題があるように私は思います。それは規制緩和であり市場万能主義等々だと思うのですけれども、そういう点での問題点ということで少し御意見を聞かせていただけたらと思いますが、いかがでしょうか。

高橋参考人 先生の御質問から幾つかの論点があるかと思うのですが、一つは、今の国際金融市場がグローバル化しているということはほとんど皆さん一致している点ではないかと思っています。

 ただ、それが本当にアメリカだけでやられているのかという点になりますと、若干難しいところがありまして、といいますのは、金融に携わるさまざまなところを見てみますと、アメリカの企業なのかヨーロッパの企業なのか、どこの企業なのかわからないところが動かし合っているというところがありますので、いわゆるアメリカ云々ということがよく言われるのですが、そこの分析はなかなか非常に難しいということがあるかと思います。

 それから、先ほど金融市場の乱気流というようなことを言わせていただいたのですが、そこが構造的に必然的に起こらざるを得ないものなのか、ある程度の是正措置をかければそれは防げるものなのかということについて、少なくともグローバルなことをやっている経済学者の間でもちょっと解釈に差が出ているというところがあるのではないかなと思います。

 多数派はどちらかといいますと後者の方で、ある程度の是正措置と言っているのですが、ある程度の是正措置の中身がこれまたばらばらなところがありまして、その乱気流を解消するのになかなかうまくいっていないというところが現状として残っているのではないかなというふうに思っています。

 ですが、恐らくヨーロッパの方は何らかの形でそれを防ぐようなさまざまなやり方を、どういう形で出してくるのか、これも諸説あるのですが、最低限小出しのサーベイランスのようなところから始めて、いろいろなところの段階までそれを出してくる方向にもはや来ているのではないかなという感じを持っています。

春名委員 三章の御説明のところで、国家の変容ということが議論されて、先ほどのお話と結びつく質問なのですが、民主主義の問題が根幹にあって、要するに、コントロールする仕組みがまだできていないと。これを、国民を擁護するような仕組みをこれから徐々につくられていくという、今のお話もありましたけれども、その点にかかわって少しお聞きしたいと思うのです。

 今、こういう形で、グローバル化の名前でずんずんやられていく中で、例えば国連の社会開発研究所というところが去年の五月に、見える手、社会開発に責任を負うというレポートを出していまして、多国籍企業への強力で効果的な規制が今必要になっているという結論づけをされています。それから、世界の百三十三カ国の発展途上国がグループ77というのを組織しているのは御存じのとおりですけれども、昨年の四月には、初首脳会議ですか、南サミット、これが開催されて、その宣言の中で、公平さと平等性に基づいた国際経済関係を確立することを国際社会に対して厳しく要請する、こういう宣言を出す、こういう状況になっていると思うのですね。

 つまり、グローバル化が進んでいるからこそ、その名前で無秩序なことが結構やられているからこそ、強者による支配への規制、それから経済主権の確立、あるいは公平、平等な国の関係、こういう精神がいよいよ大事になってくる、こういう流れが生まれていると思うのですよ。

 私は、こういう精神がこれからの国際関係を律するグローバルスタンダードというふうに考えているのですけれども、その点での御見解をお聞かせいただきたいと思うのです。

高橋参考人 恐らく、現在のグローバリゼーションは、当然のことながらも、先生が今御紹介くださいました、光の部分と影の部分を持っていますので、その影の部分を一体どうするかというのは非常に大きなテーマになると思うのですが、短期的にどうこうするかという問題と、長期的にどうこうするかという問題はやはりちょっと違っている側面がありまして、恐らく短期的には、今先生が御紹介くださったような方向で私はある程度乗り切れると思うのですが、長期的には相当難しいのではないのか。

 あくまでも守るという姿勢が若干強過ぎますので、自国の例えば経済発展みたいなことを考えていってそこをどうするのかという長期的な視点で考えますと、そこまで結びつけていくにはやはりちょっと難しいところがあるのかなという印象を持ちます。そこのところで実は今、途上国のこれからのグローバル化の中の援助政策あるいは経済開発をどうするかというところにおいて、いろいろな議論が出始めてきていて、その一つは、もう先生方御存じだと思いますので、経済学者のセンのような考え方をどう具体におろしていくのかというような方向がある程度強まってきている、そういう状況にあるのではないかな、そういう印象を持っています。

春名委員 私がそこに注目したのは、ここは憲法調査会の場ですので、そういう目で今の世界の流れと憲法を見たときに、例えば憲法の前文の中にこういう表現があるのですね。

 われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

例えばこういう表現がありまして、やはり規制緩和と、弱肉強食と言ったらいいのでしょうか、そういうことに対置する考え方として、先ほど長期的にはどうなるかわからないというお話なんですけれども、こういう憲法前文の精神がこれからいよいよグローバル化の中で生かされなければならないのじゃないか、こういうふうに私思ったものですから、そういう目で改めて読んでみて、なるほどなと思いまして、質問させていただいた次第です。

 さて、そこで、アジアに目を移してみると、国家間の紛争などについてはっきり言えるのは、軍事力に頼らないで自主的な話し合いによって物事を解決しよう、こういう流れが生まれているということを私は注目しているわけです。したがって、この面でも、二十一世紀の世界ということを考えたときに、憲法の恒久平和主義が全面的に力を発揮していくということにしなきゃいけないし、なるというふうに私は思っているのですが、この点で参考人の御意見をお聞かせいただけませんか。

高橋参考人 先ほども簡単に触れさせていただいた点と重なることになるかもしれませんが、平和主義ということと、何か加えるということもあると思うのですね。ですので、これからのグローバル化とかいろいろなことが起きてくる段階のときに、狭義の意味での平和主義というのは安全保障とかそういう分野に限られてくる側面を持っていますので、そうしますと、それ以外の側面でどうするのかということがあるかと思うのです。

 ですので、国連改革のときに一つ議論になりましたのは、国連は二つの機能を持っていると。一つは、世界的な安全保障をどうするかという問題があります。それからもう一つは、民生的に、例えば開発援助とか何かをずっと行っているような国連、環境問題を扱うような国連、それはグローバル国連と呼んでいいんじゃないのかと。その後者の側面を、ですから、これはある面ではグローバルジャスティスの問題にかかわってくるところがありまして、その問題を一体どうするのかなというところもやはり一つのこれからの大きな論点あるいは主義にかかわる問題になってくるという感じを持っています。

    〔会長退席、鹿野会長代理着席〕

春名委員 日本国憲法はやはり深いなと私は思っていまして、憲法九条というのは国の関係、武力の問題等々が書いてあるのですけれども、前文や全体像を見てみると、そういう今言われたような民生的な問題、環境問題、国際社会の中で、グローバル化の中でどういう方向で日本は進んでいったらいいのかということを示唆している中身が随分ちりばめられているというか、それこそが精神だというか、平和的な貢献をするという見地が非常に鮮明になっているように思いましたので、改めてそのことを、私自身が感じていることを言っておきたいと思います。

 それで、参考人にもう一つ違う角度からお聞きしたいのですが、ヨーロッパの政党や政治統治のあり方、非常にお詳しいので、幾つか論文を読ませていただいて感銘を受けているのですけれども、そういう専門家の目から見ていただいて、日本の外交のあり方について一言ちょっと聞いておきたいと思うのです。

 ホットな話であれなんですけれども、先日、ちょうど在沖米軍トップの四軍調整官が、海兵隊の削減を求めた沖縄県議会の決議にかかわって、稲嶺県知事や金武町長それから県議会議員に対して、頭の悪い弱虫だという暴言を吐いてしまったわけですね。

 二月七日、きのう付の琉球新報を取り寄せてみたら、社説で、「今回の発言はトップとしての認識に疑義があり、「占領意識の表れ」と批判されても、弁明の余地はなかろう。」こういう厳しい社説を載せています。それから、同じく二月七日付の沖縄タイムスでも、「選挙によって選ばれた議員が会派を超えて全会一致で決議したことに関連して、ゲストである米軍人が「腰抜けども」と批判するのは、許される一線を超えたものだと言わなければならない。」こういう批判をされているのですね。

 残念なことですけれども、爆音をまき散らすNLPの訓練だとか、私は四国ですけれども、超低空飛行訓練が繰り返されて非常に危険な目に遭っているとか、沖縄で相次ぐ凶悪犯罪とか、ある意味植民地のような実態というふうにも言う人もいますけれども、そういう事態が放置をされているというのは日本的特徴じゃないかと私は思うのです。

 ヨーロッパの各国は、もちろんNATOに加盟されている国は多いですけれども、国としての自主的な判断、そういう点での自立は非常にはっきりしていると思うのです。日本はその点で、ヨーロッパの外交や国のあり方から見ても、なかなか普通の国と言い切れない、こういう状況ではないかと私は思っているのですけれども、どういう御感想をお持ちでしょうか。

高橋参考人 先生が今おっしゃられた前者の問題に関して私のコメントを述べるような場ではないと思いますので、後者の方に言わせていただきますと、非常に自立性を高めるという前提と、お互いに相互の協力関係を強めていくというのは、相まって出てくると思うのですね。ですので、その両方がなくてお互いにずっとなっちゃうということになりますと、逆に変な方向に行くときもありますので、そこのところのバランスといいますか、兼ね合いみたいで両方ずっと進んできた。それを象徴的にあらわしているのが戦後のドイツとフランスとの関係で、ある意味では非常に独立性が強くなってけんか寸前のところへいってみたり、ある意味では非常に協調関係を強めていってみたり、そういう過程でジグザグコースをたどってきたということの一つのゆえんといいますか、そういうものはそういうところにあるんじゃないのかなという気がしています。

春名委員 どうもありがとうございました。

 最後に、二十一世紀の日本の政治システム、統治機構ということについてお考えをお聞きしたいと思います。

 きょう、日本と引きつけてお話しするということが講義の中身の中心ではなかったので、また答えにくかったら申しわけないのですけれども、お許しいただきたいと思います。論文を幾つか読ませていただいて、日本の政治システム、統治機構の問題も深い見識をお持ちですので、あえてお聞きしたいのです。

 この十年間見てみると、最初、政治改革というのが出発したのですが、その過程が、リクルート事件や佐川急便事件とか、政治と金の問題ということがやはり出発点だったと思うのですね。それが政治改革の出発点だったのですが、残念なことに、今の国会もこういう事態になっているということで、結局、根源の問題としての腐敗、政治と金のつながりということがいまだに解決していない。政治統治機構の今後の発展方向を考えるときに、この問題を本当に解決しないと先へ進めないという印象を私は持っているのです。

 その点での御感想や御意見を伺いたいと思います。

高橋参考人 いろいろなお考えはあるかと思うのですが、やはり政党政治というのが基幹ですので、そしてもう一つ、政党政治を考えるときに、個々の政党ばかりではなくて、政党システムの問題が一つあるような気が私はするのです。そこのところが、いろいろな御議論をお聞きしている限り、まだ一定の方向性、一定の方向を出すことがいいのかということの問題もあるのですが、それがある程度出てこないままにずっと来てしまっているところがあるのかな。そうしますと、それが選挙制度の問題にはね返るなり、またいろいろなところへはね返ってくるところがありますので、私は、そこのところの問題があるような気がしています。

春名委員 どうもありがとうございました。

鹿野会長代理 山内君。

山内(惠)委員 初めまして。社民党の山内惠子と申します。

 広い視野からの先生の御提言、大変重要な提言であったというふうに思って、感謝をしています。

 ヨーロッパの流れがこういう状況にあるだけに、今の時代だからこそ、今春名さんもおっしゃいましたこととダブるように思いますけれども、日本の憲法の前文と九条の精神は輝いていくのではないかというふうに私は思っています。

 先生は何かを加えるというふうにおっしゃいましたけれども、先生のお話と憲法の関係で、三点質問したいと思っています。

 一つは、アジアとの関係。これもたくさんの方が御質問されていますけれども、社民党は、二十一世紀に入った一月八日から、土井党首と一緒に一週間中国を訪問してきました。軍事によらない北東アジア総合安全保障機構または非軍事多国間安全協議というような構想と、それから北東アジア非核地帯化構想というのを提案し、意見交換をしてきたところです。

 短い時間ではありましたけれども、平和外交ということでは少し踏み出してお話ししてくることができたかなと思っているところなんですけれども、日本国内では、自主防衛ということの主張、それからアメリカとの軍事同盟の強化というような動きが高まっているだけに、このアジアブロックで、憲法九条を中心に非核、非武装でアプローチしていくということは不可能なのでしょうか。先生にそこのところをお聞きしたいと思います。

    〔鹿野会長代理退席、会長着席〕

高橋参考人 若干理論的な話とこれから現状のシナリオがどう進むかという話によって先生に対するお答えが違ってくると思うのですが、基本的に言いますと、私はこれからの安全保障みたいなもののコアが四つぐらいあるんじゃないかなと思っています。

 そのときにどのような具体的な政策が出てくるかというのは、場所と時間と状況によるのですが、一つは、まず国際と国内と分かれていまして、国際の方では、今までずっと言われてきたような、軍事に大きく依存するような安全保障、それは国内においても同じような安全保障ということがあるかと思います。

 それと、恐らく国際の方で、先ほどのお話とある程度重なる部分があるのですが、いかにしてインターナショナルピースみたいなものを逆につくっていくのかということが一つありまして、そこのつくり方もこれまた多様ですので、ヨーロッパであればEUみたいな形でそれをやってしまったわけなんですが、そういうようなところのものを一体どう考えていくのかというところがあって、そこのところは、先ほども説明させていただいたとおり、まず主になるのがローポリティックスの分野であって、そこから始めないとここはなかなか難しいのではないのかなというところがあると思います。

 そして、そこのインターナショナルピースをどうつくるかというところに絡んで、ナショナルの安全保障に加えて、さまざまな、先ほど言った、そこのところにかかわるような、一番大きな分野はODAになるのかもしれませんが、そこのところとどう組み合わせていくのかというような形のものが、抽象的、理論的には考えられるんじゃないのかな、そういう気はしています。

山内(惠)委員 どうもありがとうございます。またそこのところをぜひお聞かせいただきたいというふうに思います。

 一昨年、私の連れ合いがイギリスの大学に一年間行っていましたので、私も夏休み、冬休みに行ってまいりました。

 当時、労働党のブレア首相が、EU加盟に反対するイギリス国民に対して、ユーロという単一通貨は、単に経済政策ということだけではなくて、究極の平和政策なんだ、ユーロは最大の安全保障だと言っておりました。本当にそうだと私も思います。EUの中核となっているフランスとドイツは、この数百年の間、血みどろの戦争を繰り返してきた国ですから、その国がEUにともに加盟したということは、不戦の誓いをしたということではないかと私は思っています。

 ところで、高橋先生にお聞きしたいのは、先ほどのところに絡むのですけれども、日本の憲法や九条が日本の二十一世紀のあるべき姿としてEUの行き方と重なっていると思われるのかどうか、そこのところをもう一度お聞かせいただけないでしょうか。

高橋参考人 どうお答えしていいのかちょっとわからないところがあるのですが、EUは、先ほど違った形で説明させていただいたのですが、基本理念に当たるようなところが幾つかあると思うのですね。

 一つは、明らかに、加盟国内で戦争をやりたくないという意味での不戦。それから第二番目に、お互いにそれなりに栄えていきたい、その意味で、お互いに国と国の間での経済的な協力関係というものを強化していきたいということがあります。そしてもう一つは、それに加えて、戦後のことだからそうだったのかもしれませんが、ヨーロッパの復権みたいなものを図りながら各国の復権も図っていきたい。そういうような流れの中で、私は何かヨーロッパの方が出てきたような気がするのです。

 その理念に当たる部分はいろいろなところでいろいろな形で適用されているわけなんですが、戦後の東アジアの状況と戦後のヨーロッパの状況が違っていたこともありまして、そこのところがEUほど鮮明には余り出てこなかった。

 冷戦後ということになりますと、そのことずばりというわけではないのですが、そのような方向性みたいなものをもう少し積極的にいろいろな形で言い、そして、それに賛同くださるほかの国々の方々というものも見出してもいいのではないのかな、私はそういう気にはなっています。

山内(惠)委員 どうもありがとうございます。その観点では、これからもう少し深めた勉強をしていかなくちゃならないというふうに思っているのですけれども。

 ところで、二十一世紀の日本の進む道として、今先生のおっしゃった御提言について深めていきたいというふうに私も思っているのですが、どうも最近の日本ではナショナリズム、先ほどもナショナリズムが出ていらっしゃるのですけれども、随分このところ声高に言われて、しかも、それが強制力を感じるこのごろです。

 特に、私は教育に携わってきただけに、教育勅語によいところがあるという言われ方とか、それから、日本の侵略戦争を賛美し加害を否定する中学校の歴史教科書の採択に向けて、地方の議会決議が上げられ始めているというような状況、そして、私の出身である北海道では、日の丸・君が代問題で、日の丸の掲揚率が低いから処分をする、そういう強硬な姿勢が見られています。

 そういう意味では、ヨーロッパがこのEUに加盟する過程でさまざまな経験をしてきているあたりをお話しくださっていますが、今の日本のナショナリズムは今後も続くと思われますか、そこのところをちょっとお聞かせいただきたいと思います。

高橋参考人 ナショナリズムといっても、言葉の問題になって恐縮なんですが、実は、非常に物すごく多義的な意味を持っていますので、どこまでがナショナリズムでどこまでがナショナリズムではないかという点では非常に難しいのですが、最近になって出てきたのは、グローバリズムに対して、先ほど言いましたようないろいろなものを守りたいという意味でのナショナリズムみたいなものが一方において出始めてきているということは、これは先進国各国それなりに出てきている、そういう諸現象ではないのかなという気がしています。

 ただ、それは、正直言いまして、ナショナリズムということよりも、私どもは、むしろアンチグローバリズムですとかそっちの方で御理解いただいた方がわかりやすいのかな、そういう印象を持っております。

山内(惠)委員 ヨーロッパではネオリベラリズムというのを先生は御本の中では相当丁寧に書かれている部分があるのですけれども、今の日本の状況を、どのようにしてこのアンチグローバリズムということを深めていけばいいのかというあたりをもうちょっとお聞かせいただけませんでしょうか。

高橋参考人 アンチグローバリズムも、例えばヨーロッパでいいますと、一番アンチグローバリズム的で鮮明に出てきましたのが、一つの流れとして、ヨーロッパ各国に見ている新右翼と僕らが言っています諸政党がありますし、それで、昨年いろいろ問題を醸し出したのが、オーストリアのハイダーさんのところだったわけなんです。そのような形のところを見てみますと、単にアンチグローバルな感情だけではなくて、それをポピュリスティックに動員されるということが加わりますと、ちょっと見ていますと、民主主義等々にとっても危険なサイドみたいなものが出てくるのかな、そういう印象を持っています。

山内(惠)委員 時間がなくなっていますので、最後にお聞きしたいと思います。

 世界の核戦争の問題では、核戦争何分前という時計があるということに対して、先生、新聞に書いていらっしゃったのでしょうか、平和の温度計はあるのだろうかというのを書いてあったのがあるので、ぜひあそこのところ詳しく教えていただくことで、私は日本の平和ということで進むヒントになるのではないかと思いますので、最後にお聞かせいただきたいと思います。

高橋参考人 平和というものを古典的な形で定義しますと、戦争のない状態という形で定義されるのが普通なんですが、このようなグローバル化等が進んでいる現象では、それだけではやはりちょっと済まないだろう。

 例えば、先ほど言いましたような世界的な公正、それがそのまま実現するとは思いませんが、そのようなものをどうある程度進めていくのかということも考えていかざるを得ないだろうということが一つあるのですが、一つは、施策みたいなことをいいますと、三つぐらいのやり方があるのではないかなと思います。

 一つは、他国との理解をどうするのか、あるいはその次に他国と協力して何をやるのかということと、もう一つは、他国と連帯して何かやるのかというぐらいのところがありまして、そこがどこまで進むのかということが、先ほど言いました平和の温度計を政策レベルで判断するときの一つの物差しぐらいにはなるのかなというふうに考えています。

山内(惠)委員 どうもありがとうございました。

 ただいま御提言いただいたことを踏まえて、平和的に、それから地球市民社会を目指して頑張っていきたいと思います。きょうは本当にありがとうございました。

中山会長 小池百合子君。

小池委員 高橋先生にはいろいろな場で御示唆をいただくことが多く、また本日はこの憲法調査会にて御意見を拝聴することができて、大変うれしく思っております。

 本日は、「グローバリゼーションと国家」ということでお話をいただいたわけでございますが、今まさに企業が、または人が国家を選ぶ時代に入ってきているということは、これまで移動がなかなかかなわなかったりした時代から比べますと、この点が二十世紀もしくはその前の世紀、そしてさらには二十一世紀の時代と大きく違う点であろうというふうに認識をいたしております。

 最近は、企業にもマルチナショナルな企業がどんどんふえてきております。マルチナショナル、例えば日本の自動車産業を見ましても、今二大自動車会社の社長は青い目の方でございますし、また企業としてもアメリカ工場、ヨーロッパ工場などを有した上で世界的な展開をしていかなければやっていけないというような事情でございます。そういった意味で、本日の話はさまざまな観点から有益であったというふうに思うわけでございます。

 ただ、この日本国憲法をどうするのかといった観点での憲法調査会でございますけれども、例えば日本の企業の中には、日本の憲法に縛られることによって自分の会社が守られないのではないかという危惧を抱く企業もございます。例えば、中東の地域で事業展開をしている企業が、アラブの場合はよく最後にインシャーラという言葉を書き添えます。書類などでも書き添えます。これは、神がお望みならばというような意味で、彼らからすればアイウィルとかアイシャルとかそういう意味で使っているのでございますけれども、それは、都合によっては契約が履行されないのではないかといったような感覚を抱く方もおられます。

 ただ、そういった場合、例えばアメリカの会社は、海外で展開している企業を国家が守るというようなことが往々にしてございます。そういった意味で、中東で事業を展開している会社は、日本はひょっとしたら守ってくれないのではないかということで、アメリカ国籍の企業になった方がいいのではないかというような、ビジネスでございますから、ここは非常に冷徹に現実的な判断をされるところでございますけれども、そういったのも判断材料になる時代が来ているのだということを強く感じるわけでございます。

 そういった意味で、我が国の日本国憲法がこれからもグローバリゼーションにたえ得るのかどうか。もちろんこれは国の考えであり国がこうするんだという指針でございますから、たえ得るかたえられないかはそれぞれが判断すべきことだと思いますけれども、非常にざっくりとした質問でございますけれども、先生の御意見を伺いたいと思います。

高橋参考人 お答えになっておるかどうか私もちょっと自信がないんですが、先ほど先生が企業ということをずっと出されているんですが、例えばドイツの場合、唯一資本主義に名前をつけた国になっておるわけです。社会的市場経済という名前をつけ、その精神と原則にのっとり企業活動等々をずっと行ってきたという歴史を持っていますので、必ずしも企業が企業独自の判断だけでマーケットのプレーヤーになり、企業だけのという、変な言い方ですが、それだけで行動するということでもない資本主義というものもまた考えられるのではないかという気が一つしております。正直申しまして、そのようなドイツ経済、グローバル化の中でどうするかが一つの大きな問題になっているということがあるかと思います。

 それから、それと関連していることになるのかもしれませんが、一体そのようなときに、グローバル化の問題というのは各国どう対応するのかといいますと、憲法の問題なのかどうかは御判断いろいろあるかと思いますが、国の基本構造をどう考えるかとだんだんタッチしていかざるを得ないのではないかという意見が非常に強くなってきまして、いろんな回答例がそこで出されているというところが今の現状ではないかなというふうに思います。

 そのとき、今はやり言葉みたいになっているんですが、ガバメントよりはむしろ皆さんガバナンスという言葉を使いまして、そこでどういうような基本的なアーキテクチャーをこれから描いていくのかということの方向にまでやはりグローバリゼーションというのはインパクトを与えているのかな、また与えているのがヨーロッパの実情なのかなと考えております。

小池委員 ありがとうございます。

 また、先ほど御意見がございましたけれども、私はある意味で百八十度違いまして、むしろ国旗・国歌というものは明確に示すべきだと思いますし、そのための法案の成立だったと思いますし、さらにはそれを学校の場で実施するのは当然のことであるというふうに思っております。

 また、いろんな意味で、先ほど御指摘がありましたオーストリアのハイダーのようなネオナチというようなこと、これは全く論外ではございますけれども、しかしながらグローバリゼーションが進むからこそ、国家とは何なのか、そしてまた我々は一体何なのかというアイデンティティー、それを明確にすることこそが日本がグローバリゼーションの中で生きていくまず基本の基本ではないかというふうに考えております。これは先ほども先生お話しになられましたので、お返事の方は結構でございます。

 突然ですが、先生とは日本の政治もしくは政党ということについて、いろいろと議論も重ねさせていただいて、政治改革ということを進めてまいったその弟子の一人でございますけれども、なかなか紆余曲折がございます。

 政治主導を進めるというのも一つ大変大きなテーマでございます。私なりにこの国会で短いながらもいろいろと経験させていただいた中で、本当の意味で政治主導を進めていくということは、ある意味時間的な問題もあるなと思いました。

 それは、例えば、私もせんだってまで政務次官を務めさせていただきましたが、十カ月程度でございます。それから、せんだって終わったクリントン政権の間に我が国の総理大臣は八人ですか、入れかわった。こういうことで、役所の側から見れば、ある種の通行人が十カ月か一年ぐらいすれば過ぎていくわけでございまして、そこでなかなか腰を据えた政策を実行することができない。そしてまた、政策というのはすぐに効果が出るものではございませんので、前任者がつくった政策ということ、これに魂がそのまま入ればよろしいんでございますが、なかなかその辺の魂の受け継ぎがうまくできていない等々で、かえってパッチワーク的になってきてしまっている。

 これは憲法の問題というよりも各政党のあり方、姿勢の問題だとは思いますけれども、やはり、私は、一選挙一内閣ということで臨んでいかなければ本当の意味の政治主導というのはできないのかなというふうにも考えております。

 議院内閣制でございますし、また衆議院の場合にはいつ選挙があるかわからないというような問題点もございますけれども、この政治主導を実現するための、今私が触れました点でも結構でございますので、先生の御意見を伺わせてください。

高橋参考人 一つは、例えば、大統領制をとっていない、議院内閣制をとっているのがイギリス、まあドイツはどこまで入れるかちょっと難しいところなんですが、大統領制に近くなってきたという言い方は従来までされてきたんですが、今そういうやり方を、日本語になっていないんで申しわけないんですが、コアエグゼクティブ、中核的執行集団という名前でとらえ直して、大統領制とは違うんだけれども、やはりリーダーシップを発揮できるようなシステムというものをそれなりにつくり出していったという考え方が非常に強まってきました。

 ですので、議院内閣制であるから政治主導という、正論的にはそうもいかないですし、また大統領制だからそうということも話としてはいかなくなってきているだろう。そこをどう乗り越えていくのかというようなことを行ってき、実は、そのやり方を最初に導入したのがサッチャー首相なんですね。その手法を最も鮮明に打ち出してやったのがサッチャー首相なんですが、それが今のブレアさんのところにもずっと引き継がれているというような流れが一つあるのではないかなと思います。

 あともう一つは、選挙のレベルでいいますと、今、ヨーロッパに関する限り、選挙というのは次の首相にだれを選ぶかという要素が非常に強くなってきている選挙をやっていますので、その意味で、各党とも次の首相候補者という点を非常に強く配慮するようにこれまたなってきたということの二点になるのかな、そういうことを考えております。

小池委員 ありがとうございます。

 私は、いろいろ考えて、やはり十カ月、一年ではない、より長い期間で、間違った人材が長い間いられるとこれも国民にとって迷惑な話だろうとは思いますけれども、しかしながら、腰を据えた形でやっていかないと、政党の活力化にはつながるかもしれないけれども、国家国民にとればいかがなものだろうかということは非常に痛感をしているところでございます。

 きょうはヨーロッパのお話を伺ったわけでございますが、日本も連立時代に入りまして、いろいろと各国の連立政権での経験ということもこれから学んでいかなければならないと思います。きょう、もう時間が参りましたのでこれで終わらせていただきますけれども、その意味で大変貴重な御意見を伺えたことに御礼申し上げまして、私の質問を終わらせていただきます。ありがとうございました。

中山会長 近藤基彦君。

近藤(基)委員 21世紀クラブの近藤でございます。大変長時間ありがとうございます。私で最後ですので、もうしばらくおつき合いをしていただきたいと思います。

 先生はきょうはヨーロッパを中心にお話をしていただきましたので、最初に、EU統合後第一段階がユーロの単一通貨で、今後新たな第二段階に入っていくんではないか、深化と拡大という表現でお話をなさっておりますけれども、統合されたわけですからそれを強固にしていくというのは当然のことだろうと思いますが、その拡大の部分で、今現在EUが考えている加盟国の増強といいますか、どの範囲まで頭に描いているのか。例えば、中央ヨーロッパあるいはひょっとすると中近東といいますか、トルコあるいはギリシャあたりまで考えて進んでいくのか、その辺の見解がありましたらお願いいたします。

高橋参考人 拡大は、現状十五なんですが、恐らく二十五から三十ぐらいまでいっちゃうのではないか。ですので、現状のロシアを除いたところもひょっとすると入ってくる。ウクライナは多分入ってくるんではないかというような見通しが高いですし、もう一つ、それとの関係で、北アフリカの国々もひょっとするとということになりまして、そうなりますと、一番困るのは物の決め方みたいなものを一体どうするかということで、もう既にEUがその問題で非常に頭を痛めており、実はヨーロッパ連邦構想もそれにどう対応するかのときの一つの代案として出てきたようなところがあるかと思います。

近藤(基)委員 それに伴って、先ほどちょっとどなたかの質問で光と影の部分をお話になっておられましたけれども、北アフリカぐらいまでもしかすると視野に入るのかなというお話でありますが、それに引き続いた中央アフリカあるいは南アフリカが若干影の部分としてもしかすると残るんだろう。その光がこうこうと輝くようになってくると、影の部分がもっと影になってくるという可能性が高くなる。そうすると、光が影をのみ込んでいってしまう危惧がないのか。昔で俗に言う植民地化という、北アフリカまで視野に入れているとなれば、地続きなわけでありますから、そういった危惧がないのか、可能性としてあるのか、ちょっと見解をお聞かせください。

高橋参考人 まさに今先生がおっしゃったところで、一つ現実に起きていますことは、国家が崩壊してもうどうしようもなくなっているというところは確実に二、三出てまいりました。

 もう一つは、まだ現実に起きていないんですが、まさに先生がおっしゃったことで、望まれた植民地という説がありまして、昔の植民地は押しつけられたんですけれども、今こうなってみると、むしろそっちで預かってもらっていた方がよいのかなというところも一部出始めてきまして、まさにその意味で、先生おっしゃるとおりに、光の部分が影の部分をそういう形でのみ込まざるを得ないというシナリオも考えられないわけではないというところまで、南の国の一部は来ていると思います。

近藤(基)委員 それが、昔で言う植民地政策的なものじゃなくて、保護主義的なものになっていってくれればいいなという期待も持っておるのですけれども。

 日本の方に話を移しまして、先生は先ほどサブリージョンという、リージョンよりも若干地域限定という形に考えられるのだろうと思うんですが。私自身は新潟県の選出でありますので、環日本海構想というのは新潟県が非常に強く推し進めている構想で、現実的には、極東アジアと韓国に航空路と航路とを持って、あるいは中国に目を向け、特に黒竜江省あるいはモンゴルあたりを視野に入れて、環日本海構想ということで頑張っているんです。

 これはある意味で、地方が国を超えて独自で行っているということでありますが、そのほかにもこういうサブリージョン的なものが、拡大をしていくというよりも、もう少し地域が、サブリージョン的なものは今環日本海がありますが、ほかにもふえていく可能性があるのか、それとも、サブリージョンが発展していってリージョナル的な部分まで巻き込んでいけるものなのか、その辺をお聞かせいただきたいと思います。

高橋参考人 サブリージョンみたいなものは、東アジアでも、例えば台湾とその相手方のところですとか、あとシンガポールとインドネシアのこちらですとか、昔からいろいろなことが言われてきていまして、そこが恐らく着実にいろいろな形で関係性を強めているということは、これは間違いないというふうに思っています。

 そのとき、単にリージョンの中にサブリージョンができるということ以上に、サブリージョンの場合には、僕らの言葉を使わせていただきますと、国境のインターフェースなのですね。要するに、相互乗り入れ地域みたいな役割をそこが果たすことによって、ですから、リージョンの中でもそのサブリージョンというところが、その意味での国際交流ですとか、そこのところを非常にくぐりやすくさせていくというような効果が一つありますし、恐らくテクノロジーとか文化とか何かいいますと、インターフェースになったような地域のところの方が何かおもしろいものが出てくるということがよく言われていまして、そのような効果というものもある程度将来的には考えられるということで、サブリージョナルということが今いろいろと注目されているという現象は起きているというふうに思っています。

近藤(基)委員 これは、そうすると、東アジアだけじゃなく世界的に起こっている現象だととらえてよろしいのでしょうか。

 新潟県がやっていることですから、ひとつ意を強くして、また推し進めていきたいと思っております。

 ユーロで、単一通貨で一つの段階が終わったということでありますが、グローバル化の波が世界的な現象で、国家間以外で、例えば情報通信の分野でかなり急激に起こっている部分がある。例えば、今持っている携帯電話が世界各国で使えるようになるとか、インターネット上の電子商取引が盛んになりつつあって、ひょっとすると現在使われている通貨そのものがなくなってしまう可能性が、可能性としてでありますけれども、電子マネーという部分で今も何種類かもう現実に二、三年前ぐらいから稼働している、今のところ大変小さなマーケットの中だけなのですが。

 となると、経済的な形も、ユーロは統一して、それはユーロを統一したことが平和につながるんだというような話もありますが、逆に、経済的に、世界的に統一通貨の時代にもしかすると入っていかざるを得なくなってくるんではないかなという気がするのですけれども、その辺は先生はどうお考えでしょうか。

高橋参考人 バーチャルな形での統一通貨みたいなものをここからずっと進めていきますと出てくる可能性は高いという説はあると思います。

 ですけれども、バーチャルですから、そこをどうやって裏打ちをとるかといいますと、今のユーロよりは、その前の、EMFでECUでやっていた時代があるのですが、あれは完全なバーチャルな通貨ですから、あれみたいなものを下に置いておいてそこで何か乗せますと、意外と、現状のデビットカードみたいなものの発展からいいますと、考えられないことはないのではないのか。ただ、それが全部の市場を覆うというよりは、各国通貨と、あるいはドルとか何かの基軸通貨との兼ね合いということになるのかもしれませんが、決してその意味で考えられない話ではないのではないかなという気がしています。

近藤(基)委員 そんな中から世界市民といいますか地球市民的な感覚が出てくればなという気もしないではないんですが。

 そんなことの中で、多分私自身が考えるに、一番おくれているのが政治の世界のグローバル化だと思って、グローバル的な部分では経済の方がはるかに、先ほど小池先生のお話もありましたけれども、マルチメディアという形で進みつつあると思っておりますので、そういった意味では、政治、外交手腕といいますか、そういった部分でかなり日本も緊張感を持ってこれから進んでいかなければいけないのではないかなと思うのです。

 そういった意味で、先ほど三極化だとかいろいろな話が出ていましたけれども、総体的にこれから日本が、アジアあるいはヨーロッパ、アメリカ、後進国と言われている部分と当然いろいろなおつき合いをしていかなければならないわけですが、先生が考えるに、グローバル化の中で日本が今進めていくためには、やはり東アジアに目を向けるべきなのか、あるいは、ヨーロッパあるいは対岸のアメリカに目を向けるべきなのか、短期的で結構なんですが、その辺をお聞かせいただきたいと思うのです。

高橋参考人 私は、アメリカとの関係からいいますと、二国間ですから、点といいますか線になると思うのですが、東アジアの場合は、面といいますか、やはり多国間主義に立つことが非常に多くなるのではないのか。アメリカの場合、どことのケースを見ても多国間主義になかなか乗ってこないところがありますので、そこと多国間云々というのはちょっと難しいのかなという印象を持っています。ですが、逆に東アジアで二国間主義というのは限界に来過ぎているところがありますので、当面は二国間主義を補う多国間主義という形で、だんだん多国間主義的な色彩を強めていく、そういうことが必要になってくるのではないかなという気がしています。

 特に、ヨーロッパと比べて、政策分野からいいますと、一つ確実に早急に立ち上げなければいけないのは環境の分野ですね。そこを一体どうするのかというのは、多国間主義でしかここはできない分野ですので、そういうところのものもいろいろ考えられるのではないのかな、そういう印象を持っています。

近藤(基)委員 時間ですので終わらせていただきますが、大変貴重な時間を長時間ありがとうございました。以上で終わります。

中山会長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、一言ごあいさつを申し上げます。

 高橋参考人におかれましては、長時間にわたり貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。調査会を代表いたしまして、厚く御礼を申し上げます。(拍手)

 次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。

    午後五時十九分散会




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