衆議院

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第5号 平成13年4月26日(木曜日)

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平成十三年四月二十六日(木曜日)

    午前九時開議

 出席委員

   会長 中山 太郎君

   幹事 石川 要三君 幹事 中川 昭一君

   幹事 葉梨 信行君 幹事 保岡 興治君

   幹事 鹿野 道彦君 幹事 仙谷 由人君

   幹事 中川 正春君 幹事 斉藤 鉄夫君

      伊藤 公介君    伊藤 達也君

      奥野 誠亮君    金子 一義君

      下村 博文君    菅  義偉君

      津島 雄二君    中曽根康弘君

      中谷  元君    中山 正暉君

      鳩山 邦夫君    森岡 正宏君

      森山 眞弓君    渡辺 博道君

      枝野 幸男君    大石 尚子君

      島   聡君    細野 豪志君

      前原 誠司君    松沢 成文君

      上田  勇君    太田 昭宏君

      塩田  晋君    藤島 正之君

      塩川 鉄也君    春名 直章君

      金子 哲夫君    小池百合子君

      近藤 基彦君

    …………………………………

   衆議院憲法調査会事務局長 坂本 一洋君

    ―――――――――――――

委員の異動

四月十二日

 辞任         補欠選任

  野田  毅君     小池百合子君

同月十六日

 辞任         補欠選任

  小池百合子君     野田  毅君

同月二十六日

 辞任         補欠選任

  田中眞紀子君     小此木八郎君

  中谷  元君     村田 吉隆君

  森山 眞弓君     七条  明君

  中田  宏君     桑原  豊君

  山口 富男君     塩川 鉄也君

  野田  毅君     小池百合子君

同日

 辞任         補欠選任

  塩川 鉄也君     山口 富男君

  小池百合子君     野田  毅君

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 委員派遣承認申請に関する件

 派遣委員からの報告聴取




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     ――――◇―――――

中山会長 これより会議を開きます。

 日本国憲法に関する件について調査を進めます。

 去る四月十六日、宮城県に、日本国憲法に関する調査のため委員を派遣いたしましたので、派遣委員より報告を聴取いたします。鹿野道彦君。

鹿野委員 団長にかわり、派遣委員を代表いたしまして、その概要を御報告申し上げます。

 派遣委員は、中山太郎会長を団長として、幹事葉梨信行君、幹事仙谷由人君、幹事斉藤鉄夫君、委員藤島正之君、委員春名直章君、委員金子哲夫君、委員小池百合子君、委員近藤基彦君、それに私、鹿野道彦を加えた十名であります。

 なお、現地において、菅原喜重郎議員及び菅野哲雄議員が参加されました。

 四月十六日、仙台市のホテル仙台プラザ会議室において会議を開催し、まず、中山団長から今回の地方公聴会開会の趣旨及び本調査会におけるこれまでの議論の概要の説明、派遣委員及び意見陳述者の紹介並びに議事運営の順序を含めてあいさつを行った後、仙台経済同友会代表幹事手島典男君、宮城県鹿島台町長鹿野文永君、東北大学名誉教授志村憲助君、東北大学文学部教授田中英道君、専修大学法学部教授・東北大学名誉教授小田中聰樹君、「憲法」を愛する女性ネット代表久保田真苗君、東北福祉大学助教授米谷光正君、弘前学院聖愛高等学校教諭濱田武人君、専修大学北上高等学校講師・志民学習会代表遠藤政則君及びみやぎ生協平和活動委員会委員長齋藤孝子君の十名から意見を聴取いたしました。

 その意見内容につきまして、簡単に申し上げますと、

 手島君からは、憲法制定後の内外の状況は大きく変化しており、憲法はこれに対応していくべきであるとの意見、

 鹿野君からは、地方分権に根差した町づくりを進めることが憲法を守り育てていくことにほかならないとの意見、

 志村君からは、環境問題については、人間中心の考え方ではなく、他の生物との共生に意を用いるべきであるとの意見、

 田中君からは、我が国の伝統に根差した見解に立って積極的に世界の平和に尽力できるような憲法をつくるべきとの意見、

 小田中君からは、現行憲法はその思想的・理念的構造において体系的一貫性を有し、現代的機能を果たしているとの意見、

 久保田君からは、女性の権利を認め、国際的に高く評価されている九条を有する現行憲法の理念を守るべきとの意見、

 米谷君からは、社会を超越した憲法をつくってはならず、意見の言いやすい身近な憲法に変えていくべきとの意見、

 濱田君からは、真剣に生徒に向き合う教師にとって九条は夢とロマンを与えてくれるとの意見、

 遠藤君からは、国民を本当の主権者とするために、速やかに憲法改正手続を整備すべきとの意見、及び

 齋藤君からは、今やるべきことは憲法を変えることではなく、憲法を誠実に守ることであるとの意見

がそれぞれ開陳されました。

 意見の陳述が行われた後、各委員から、憲法の定める公務員の憲法尊重擁護義務と改正条項の関係、九条、環境権、情報公開、首相公選制、憲法裁判所制度等に関する陳述者の見解などについて質疑がありました。

 派遣委員の質疑が終了した後、中山団長が傍聴者の発言を求めましたところ、傍聴者から、

 憲法調査会の議事をもっと国民に対して公開すべきとの意見、

及び

 国の基本的な問題について国民と直接に議論するこのような機会をもっと設けるべきとの意見

が述べられました。

 なお、会議の内容を速記により記録いたしましたので、詳細はそれによって御承知願いたいと思います。また、速記録ができ上がりましたならば、本調査会議録に参考として掲載されますよう、お取り計らいをお願いいたします。

 以上で報告を終わりますが、今回の会議の開催につきましては、関係者多数の御協力により、極めて円滑に行うことができました。

 ここに深く感謝の意を表する次第であります。

 以上、御報告申し上げます。

中山会長 これにて派遣委員の報告は終わりました。

 ただいま報告のありました現地における会議の記録は、本日の会議録に参照掲載することに御異議ございませんか。

    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕

中山会長 御異議なしと認めます。よって、そのように決しました。

    ―――――――――――――

    〔会議の記録は本号(その二)に掲載〕

    ―――――――――――――

中山会長 次に、委員派遣承認申請に関する件についてお諮りいたします。

 日本国憲法に関する調査のため、兵庫県に委員を派遣いたしたいと存じます。

 つきましては、議長に対し、委員派遣の承認を申請いたしたいと存じますが、これに賛成の諸君の起立を求めます。

    〔賛成者起立〕

中山会長 起立多数。よって、そのように決しました。

 なお、派遣期間、派遣委員の人選等につきましては、会長に御一任願いたいと存じますが、御異議ございませんか。

    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕

中山会長 御異議なしと認めます。よって、そのように決しました。

 次回は、来る五月十七日木曜日幹事会午前八時五十分、調査会午前九時から開会することとし、本日は、これにて散会いたします。

    午前九時六分散会

     ――――◇―――――

  〔本号(その一)参照〕

    ―――――――――――――

   派遣委員の宮城県における意見聴取に関する記録

一、期日

   平成十三年四月十六日(月)

二、場所

   ホテル仙台プラザ

三、意見を聴取した問題

   日本国憲法について

四、出席者

 (1) 派遣委員

      座長 中山 太郎君

         葉梨 信行君   鹿野 道彦君

         仙谷 由人君   斉藤 鉄夫君

         藤島 正之君   春名 直章君

         金子 哲夫君   小池百合子君

         近藤 基彦君

 (2) 現地参加議員

         菅原喜重郎君   菅野 哲雄君

 (3) 意見陳述者

      仙台経済同友会代表幹事 手島 典男君

      宮城県鹿島台町長    鹿野 文永君

      東北大学名誉教授    志村 憲助君

      東北大学文学部教授   田中 英道君

      専修大学法学部教授

      東北大学名誉教授    小田中聰樹君

      「憲法」を愛する女性ネ

      ット代表        久保田真苗君

      東北福祉大学助教授   米谷 光正君

      弘前学院聖愛高等学校教

      諭           濱田 武人君

      専修大学北上高等学校講

      師

      志民学習会代表     遠藤 政則君

      みやぎ生協平和活動委員

      会委員長        齋藤 孝子君

 (4) その他の出席者

                  高田  健君

                  佐藤 瑩子君

      衆議院憲法調査会事務局

      総務課長        橘  幸信君

     ――――◇―――――

    午後一時開議

中山座長 これより会議を開きます。

 私は、衆議院憲法調査会会長の中山太郎でございます。

 私がこの会議の座長を務めさせていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします。

 この際、派遣委員団を代表いたしまして一言ごあいさつを申し上げます。

 本調査会は、昨年一月二十日に設置され、現在、二十一世紀の日本のあるべき姿について調査を行っておりますが、調査を行うに当たり、広く国民各層の皆様方から日本国憲法についての御意見を拝聴するため、御当地で会議を開催することとなりました。

 ここで、意見陳述者、傍聴者の皆様の御参考のため、本調査会における現在までの議論の概要を御報告申し上げます。

 本調査会では、まず、日本国憲法の制定経緯の調査から始めることといたし、昨年の二月から四月にかけて、十人の参考人から御意見を聴取し、質疑を行ってまいりました。

 この参考人との議論を踏まえ、五月には、委員間で日本国憲法の制定経緯について締めくくりの自由討議を行い、日本国憲法の制定経緯に関する調査を終了いたしました。

 次に、憲法制定以来今日に至るまでの日本国憲法の歩みを、司法権による違憲審査を通じて検証するため、戦後の主な違憲判決をテーマとし、五月に最高裁判所事務総局より説明を聴取し、質疑を行いました。

 九月には、衆議院から欧州各国憲法調査議員団が派遣され、ドイツ、フィンランド、スイス、イタリア、フランスの欧州五カ国の憲法事情について調査をしてまいりました。

 調査内容を一部御紹介いたしますと、ドイツ基本法が規定する兵役義務及び良心的兵役拒否制度、フィンランド憲法におけるIT社会化に対応した情報アクセス権規定、スイス憲法における生殖医学・遺伝子技術の乱用からの保護及び移植医療に関する規定、イタリア憲法が規定する祖国防衛義務、ドイツ、イタリア、フランスの憲法裁判所制度がございます。

 これら五カ国を調査いたしました結果、訪問したすべての国において、憲法がその国の事情や社会の変化に応じて改正されているということ、しかも、政治の具体的な課題が、まさに憲法の条文をめぐって公明正大に議論されているということを痛感いたしました。

 そして、昨年九月からは、二十一世紀の日本のあるべき姿について、参考人から御意見を拝聴し、質疑を行っております。

 各参考人が提示された論点といたしましては、二十一世紀の世界の展望と国家の役割、良心的軍事拒否国家の実現、憲法の誠実な実践、科学技術の進歩と将来の課題、教育改革、グローバリゼーションと国家、国際社会における発言力と競争力、遺伝子解明の進歩と生命倫理の問題、避けがたい少子高齢化社会の到来と労働生産性の低下の問題、IT革命による人間社会の変化への対応、特にプライバシーの保護の問題、国家概念とその再構築の必要性、北東アジアにおける日本の役割などが挙げられます。これらの諸問題に関し、憲法との関係、あるいは憲法のあるべき姿について、多岐にわたって熱心な議論が現在行われております。

 今後も、憲法は国民のものであるとの認識のもとに、環境に関する権利、首相公選制等国民の権利の問題、国家の安全保障、自然災害等における危機管理のあり方等について議論を行いたいと考えておりますが、かつ、我々は、人権の尊重、主権在民、再び侵略国家とはならないという原則を堅持しつつ、日本国憲法についての広範かつ総合的な調査を行うこととしております。

 意見陳述者の皆様には、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。どうか忌憚のない御意見をお述べいただくようお願いを申し上げます。また、多数の傍聴者の皆様をお迎えすることができましたことに深く感謝をいたします。

 それでは、まず、この会議の運営につきまして御説明申し上げます。

 会議の議事は、すべて衆議院における議事規則及び手続に準拠して行い、議事の整理、秩序の保持等は、座長であります私が行うことといたします。発言される方は、その都度座長の許可を得て発言していただきますようお願いいたします。

 なお、この会議におきましては、御意見をお述べいただく方々から委員に対しての質疑はできないこととなっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。

 また、傍聴の方は、お手元に配付しております傍聴注意事項に記載されているとおり、議場における言論に対して賛否を表明し、または拍手をしないこととなっておりますので、御注意ください。

 次に、議事の順序について申し上げます。

 最初に、意見陳述者の皆様方から御意見をお一人十分以内でお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。

 意見陳述者及び委員の発言時間終了のお知らせでありますが、ベルを鳴らしてお知らせしたいと存じます。

 なお、御発言は着席のままで結構でございます。

 それでは、本日御出席の方々を御紹介いたします。

 まず、派遣委員は、民主党・無所属クラブ鹿野道彦会長代理、自由民主党葉梨信行幹事、民主党・無所属クラブ仙谷由人幹事、公明党斉藤鉄夫幹事、自由党藤島正之委員、日本共産党春名直章委員、社会民主党・市民連合金子哲夫委員、保守党小池百合子委員、21世紀クラブ近藤基彦委員、以上でございます。

 なお、現地参加議員といたしまして、自由党菅原喜重郎君、社会民主党・市民連合菅野哲雄君が参加されております。

 次に、御意見をお述べいただく方々を御紹介させていただきます。

 仙台経済同友会代表幹事手島典男君、宮城県鹿島台町長鹿野文永君、東北大学名誉教授志村憲助君、東北大学文学部教授田中英道君、専修大学法学部教授・東北大学名誉教授小田中聰樹君、「憲法」を愛する女性ネット代表久保田真苗君、東北福祉大学助教授米谷光正君、弘前学院聖愛高等学校教諭濱田武人君、専修大学北上高等学校講師・志民学習会代表遠藤政則君、みやぎ生協平和活動委員会委員長齋藤孝子君、以上十名の方でございます。

 それでは、手島典男君から御意見をお述べいただきたいと存じます。

手島典男君 手島でございます。

 御要請によりまして、意見を述べさせていただきます。

 衆議院の事務当局の方からいろいろな資料等をちょうだいいたしました。どこまで理解できたかわかりませんが、その中で私が一番関心を持ちましたのは、先ほどもちょっと御紹介ございましたが、衆議院の欧州各国調査団の報告書でございます。特に、各国の戦後における憲法改正の回数が非常に多い。例えば、ドイツは四十六回ということでございますが、これは私もそうでございますが、私どもの周りでも、こんなに多いということを知っていた人はほとんどおりませんでした。

 ドイツを例にとりまして、なぜこんなに多かったのだろうかということをちょっと調べてみますと、やはり再軍備、徴兵制の問題、災害などの緊急事態あるいは外部から侵略された場合の防衛事態に対する対処、それから東西のドイツ統合、EU統合という内外の大きな事件に対応するために改正されたということでございます。そのほかに、日本と違いまして、ドイツの場合は、州と連邦とから成り立っておりまして、州の力が非常に強いものでございますから、州と連邦との利害調整に問題が起きたときに、その都度改正しておったという結果が、四十六回という数字になったのだそうでございます。

 これは、向こうの専門家によりますと、国家を現実に適合させる必要があったためというふうに要約して言っておられます。

 そのほか、スイス、イタリア、フランス、いろいろございますが、スイスのごときも、昨年の全面改正で、最新の問題、遺伝子技術の乱用防止まで入れておる。世の中がどんどん変わっているので、これからも、今まで以上のペースで憲法を改正することもあるのだということを申していらっしゃるようです。

 こういうふうにきめ細かく改正を続けているということになると、初めて、憲法が我々の生活に直結した非常に関係の深いものであるということが国民の方に認識されるのではないかなということを感じた次第であります。

 なお、この報告書の中に一部ございました、ローマ史を研究されている御婦人の作家の塩野七生さんが、ローマ法は、法に人間を合わせるのでなく、人間に法を合わせるのが特徴だ、憲法の場合もしばしば変わる可能性を持った方がよいという趣旨の発言をなさっておられました。そして、改憲がしやすいように、改憲のハードルを少し下げたらどうだという御提案をなさっていらっしゃいます。

 一方、我々の憲法について顧みますと、現憲法の国民主権、平和主義・民主主義、基本的人権の尊重という三つは、非常に高く評価され、今後とも堅持されるべき大原則だと存じますが、一方で、法制定から五十年も経過しまして、内外の状況は大きな変化を遂げております。

 私ども、特にビジネスに当たっている人間から見まして検討してほしいと思われる点を述べます。

 例えば、戦争放棄という現行の理想に加えまして、現在も大量殺傷兵器の問題が大分出ておりますので、この廃絶を一歩進んで訴えるとともに、やはり自衛権を明記すべきではないか、そのための組織。

 それから、先ほどドイツでもございましたが、有事の際の危機管理、緊急事態に備えるための危機管理の原則を明文化すべきである。これは、いかなる企業もすべてこういうものを中で持っております。国がそういうものを持たない方がおかしいというふうに考えております。

 それから、国際機関の行う平和維持、人道支援活動のために公務員や自衛隊の一部を派遣する場合があること、これは既にPKOで実施されておりますが、こういうことも明記すべきではないだろうか。

 それから、プライバシーの保護、地球環境権規定の新設、これは最近の新しい各国の憲法ではほとんど入っておるというふうに理解しております。

 それから、総理大臣のリーダーシップを強化して、重要課題に迅速、機動的に対応できるようにする。要するに、各省庁の縦割り行政を打破してこういうことをやっていただきたい。

 それから、地方分権でございますが、現在の憲法では地方自治の本旨ということが書いてあるだけでありまして、この本旨というのが何なのか、中央集権と対峙する地方分権という思想がもうちょっと明確に出てもよろしいのではないか。

 それから、いろいろな法律問題について、憲法裁判所、これはヨーロッパ等で出ておりますが、検討されるべきではないだろうか。

 最後に、憲法改正規定の条件緩和、これは塩野さんがおっしゃったとおりでございまして、両議院の三分の二以上の賛成、発議、それで国民に提案して過半数の賛成を得るという条件がシビア過ぎるのではないか、これで結局改正をヘジテートしてしまうんではないだろうかということが考えられます。

 以上申し上げたどれが一体緊急なのかということは、これは私ども順番に申し上げただけでございますが、国会の中でぜひ御検討いただきまして改正の手続に入っていただいてはどうでしょうか。すべてを完璧に直そうとしますとまた膨大な年月がかかりまして、先ほどのスイスの全面改正も三十年かかったと言っておられますが、これではまた時代がすっかり変わってしまいますので、とにかく急ぐものにターゲットを絞って、コンセンサスを得やすいものに絞って改正をする、そういう実績をつくることが重要であると考える次第でございます。

 以上で終わります。

中山座長 ありがとうございました。

 次に、鹿野文永君。

鹿野文永君 鹿島台町では、新任や転任の一般職員そして教職員の職務宣誓式において、次の宣誓が行われております。「私は、ここに主権が国民に存することを認める日本国憲法を尊重し、かつ擁護することを固く誓います。私は、地方自治の本旨を体するとともに公務を民主的かつ能率的に運営すべき責務を深く自覚し、全体の奉仕者として誠実かつ公正に職務を執行することを固く誓います。」毎年四月、私は町長としてこの宣誓をみずからの面前で受け、教職員につきましては町の教育委員長が受ける場面に陪席してまいりました。

 ここに私は、現在の日本国憲法を堅持することを目指す立場から意見を述べさせていただきます。

 まず、私の日本国憲法に係る二つの原風景を申し上げます。

 一つの原風景は、私の十四歳の春、中学校の社会科の授業でありました。

 当時、社会科の副読本に「あたらしい憲法のはなし」があり、私は、昭和二十五年、中学三年生のときにこれを学んだのであります。

 私は、終戦を十歳の夏に経験し、戦後の変わり果てた日本の姿は私の心に驚きと悲しみと失望をもたらしておりました。このようなとき、憲法との出会いは私にとってまさに暗夜に光明を見出した思いであり、その感動は今も鮮明に記憶からよみがえってまいります。

 こうして私の脳裏にインプットされた日本国憲法は、戦争放棄、平和国家、文化国家の建設という、まばゆいばかりのあすの日本の姿をほうふつさせるものでした。しかも、荒廃した現実の日本は理想の文化国家とはほど遠く、それだけに一層、日本国憲法の放つさん然たる光は少年期の私の心に希望と夢をはぐくんでくれました。

 もう一つの原風景は、これも春四月、昭和四十六年に私が鹿島台町長選挙に立候補したことであります。

 私の町長選挙に立候補した目的は、地方自治の本旨を体することでした。

 当時、ササニシキの産地を誇る鹿島台町で稲作と酪農を営んでおりました私は、日本の米作史上初めての全国一律一割減反を迫られておりました。国が一方的に方針を打ち出せば、県も町も押しなべて唯々諾々としてそれに右倣えをするのか、国の中央集権の前には地方自治の本旨は存在しないのか、この地方分権への目覚めが私を選挙へ駆り立てたのでした。

 この二つの原風景を下地にして、私は、昭和五十年、町長に就任いたしまして、七期二十七年間、この職を続け、今日に至っております。

 さて、私が町長として意を用いてまいりましたことは、憲法を町づくりにどう生かすかということと、地方分権に根差した町づくりを全国に発信し、これを国の施策にどう反映させるかということであります。

 憲法を町づくりに生かすに当たり、教育基本法の前文で、「この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。」とうたわれておりますように、私は、まず鹿島台町の地域の特性と伝統を重んじた教育の実現を図ってまいりました。

 鹿島台町の地域の特性は、三百年続く品井沼という沼の干拓であり、伝統は、ササニシキなど国民の食糧の生産であります。そこで、鹿島台町で育つ全児童生徒に農業を体験してもらうための学童農園を建設しました。ことしで開園二十年を迎え、宿泊施設を兼ねたこの学童農園では、教育のカリキュラムに従って農業の体験学習が進められ、額に汗し手にまめして働く勤労精神が培われております。また、非核宣言や町民憲章、そして町の環境美化の促進に関する条例の制定は、国際平和、人権尊重、環境に係る生活権など、日本国憲法の理念を町民一人一人がより身近なものとしております。

 次に、鹿島台町からの全国への発信は、水害に強い町づくりであります。

 直轄河川鳴瀬、吉田両川に囲まれた鹿島台町は、品井沼干拓と水との戦いの歴史とともにあります。今から十五年前も、八・五豪雨災害により鹿島台町は未曾有の水害をこうむり、これを機に、水害に強い町づくりがスタートしました。これは町を水害に強い構造につくり上げていく事業であり、この地方分権に根差した町づくりに、国の河川事業が積極的に支援を行うものであります。ここでは、線の治水から面の治水へと、治水理念の展開も図られております。

 このように、ひとり鹿島台町のみならず、全国の各市町村は、憲法の理念の実現を目指し、地方分権に根差した地域づくりにいそしんでおります。この姿こそ、市町村が、大切な我が子を育てるように日本国憲法を守り育てている姿以外の何物でもないと私は信じます。

 結論を申し上げます。

 そもそも、日本国憲法こそ諸悪の根源と言い切る自由こそ、ほかならぬ日本国憲法によって初めて日本社会で承認されたものである。およそ批判の自由にタブーを設けないことこそ、日本国憲法を批判する人々自身が認めなければならない。タブーへの挑戦とは、あらゆるものを一たん疑うことである。だが、ある決まりが疑いに耐えて維持されたとき、それが本物の規範として受け入れられるとの説を私は支持し、よって、私は日本国憲法の堅持を主張いたします。

 今、私は、半生を振り返り、生きざまに照らして、改憲論議を聞き、日本国憲法についての世論調査を見るとき、日本国憲法がこれらの試練に耐えてこそ、人類普遍の原理として初めて本物の最高規範たり得るものとつくづく思います。よって、私はこれからも、地方自治の実践を通じ、この日本国憲法をなお一層町づくりに生かす決意であります。

中山座長 ありがとうございました。

 次に、志村憲助君にお願いいたします。

志村憲助君 志村でございます。

 このたびは、憲法調査会の皆様に、二十一世紀の日本のあるべき姿という主題のもとで発言をさせていただく機会を得ましたことを、大変うれしく存じております。

 私は、生き物の体の中で起こっている現象を主として科学的な立場から研究してまいった自然科学分野の者です。したがいまして、本日は、生命科学という立場から、環境問題に話題を絞って、私なりの意見を申し上げたいと存じます。多少耳なれない専門的用語が出てくるかもしれませんけれども、お許しいただきたいと存じます。

 まず最初に申し上げたいことは、地球資源の限界ということでございます。

 地球を構成する物質は、ふえも減りもしない、閉鎖された物質系です。その中で、多種多様の生命体が、三十五億年以上の長い間、生まれては死に、生まれては死にの生活を繰り返してまいりました。新しく生まれた生命体は、先に生を終えて分解されて生じた生命体の物質を材料として生育し、生命体としての活動を繰り返してきたわけでございます。これが生物の生きていく基本的な姿でありまして、生物圏の循環の原則として昔から知られてきたものであります。今日で言うリサイクルの原型と言ってよろしいと思います。

 その生物圏の循環の姿は、生体内の、我々の体の中で行われているミクロの世界をのぞいてみますと、一層はっきりと知ることができます。

 例えば、生命体にとって大切な構成物質の一つである核酸、これは皆さんも御存じと思いますが、遺伝子を形づくっている物質でありますが、この核酸は、炭酸ガスとアンモニアとグリシンといったような、簡単なアミノ酸から合成されております。これらの材料はいずれも、生命誕生時の地球環境において、多分海水中に豊富に存在していたものと推定される物質ばかりであります。それからまた、グリシンなどのアミノ酸は、原始アミノ酸と呼んでおりますが、生命誕生以前に、空中放電、つまり雷によって化学的に合成されて海水中に多量に存在していたものと推定されております。

 このように、生物が炭酸ガスやアンモニアやそれから簡単なアミノ酸を寄せ集めて遺伝子の本体である核酸を合成する反応をしているわけですが、この合成の仕方というのは微生物から人間に至るすべての生物において共通でありまして、長い年月を生きてきたにもかかわらず全く変わっていないということは、この反応様式が生物の生存にとって最も適した様式であるということを我々に教えてくれるものと私は理解しております。

 このようにしてできた遺伝子の情報は、さらに次にたんぱく質につくられていくわけですけれども、これもまた、我々の体は、生命を終えると同時に分解をすぐに受け始めます。その分解を触媒する種々の酵素も細胞中に十分用意されておりまして、我々は炭酸ガスやアンモニアやアミノ酸へと戻っていくわけです。生物界のリサイクルの基本の姿でありまして、限られた資源で多くの生物が今後も生き続けていくにはこの方法しかないではないかということを御理解いただければ大変幸いだと存じます。

 なお、当然のことですけれども、構成物質のリサイクルには、地球上の微生物、植物、動物すべてが関与しています。これらの生物の共同作業によって物質循環が円滑に進行しているということは、特に強調しておきたいところであります。

 日本国憲法にちょっと目を通してみますと、どうも、人間の生活に力点があって、他の生物との共生にはいささか関心が薄いように私には感じられました。しかし、今くどくど申し上げましたように、地球環境その他を考えますと、二十一世紀にはもはやそのような人間中心の考え方というものでは済まされなくなってくるのではないかと私は思っております。

 なお、リサイクルですが、リサイクルはバランスのとれたものであることが望ましいことは申すまでもありません。例えば、今問題になっております炭酸ガスの蓄積といいますか地球温暖化の問題と関連しまして、そのバランスが崩れておるわけでして、炭酸ガスの排出を規制して、そうしてその回収をその分だけするという努力をしなければならないわけで、当然の簡単なことでございます。

 ところが、このような簡単なことも人間社会ではなかなか話し合いができないということは、まことに厄介な人間社会の存在であるとつくづく思っております。

 最近、京都議定書の批准をアメリカが渋っておりますけれども、一体何を考えてこのような態度をしているのか、私にはちょっと理解のできない現実です。心ある世界の人々から反発を買うのではないかと心配しておるわけです。

 次の問題として、環境とエネルギーということを申し上げたいと思います。

 すべての生物は物質の流れの中で生きております。物質の流れを円滑に作動させるには、エネルギーを必要とすることは申すまでもありません。ところが、一九六〇年ごろから世界人口の増加が顕著になりまして、問題が顕在化されてまいりました。一九六〇年で四十億であった世界人口が、二〇〇〇年では六十億を超えたとされておりまして、二十一世紀の中ごろには百億に近くなるのではないかと言われております。それに伴ってエネルギーの消費も当然増大するわけでして、このままの人間社会の生活様式を続けていくと仮定しますと、石油はあと五十年、天然ガスが六十五年、石炭が二百二十年、ウランが七十四年、ほぼ地球上からなくなってしまいます。

 このウランを除いて、今申し上げたエネルギー源というのは全部、植物が光合成の作用によって固定して蓄積したものでありまして、太陽エネルギーが形を変えたものであります。このようなことを考えていきますと、地球上に注ぐ太陽エネルギーの賢明な利用こそ、今後の人間生活の基本的なあり方を示すものではないかということがおのずから理解されてくるのではないかと思います。

 いずれにしましても、今世紀半ばに近くなると、エネルギー問題は避けて通ることが許されない大きな問題となると思いますので、この問題について今後十分に論議を重ねていって、地球環境憲章のようなものの制定をお考えになってはいかがかと存じます。

 最後に、生命科学の視点から申しまして、私は、日本国憲法は全面的に賛成でありまして、大変貴重な内容を含んでおると思います。特に九条は、今後ますます輝きを増してくる性質のものと考えております。私どもは、覚悟を新たにして、武力のない平和な社会の建設に今後も貢献していきたいと考えておる者の一人でございます。

 以上でございます。

中山座長 ありがとうございました。

 次に、田中英道君にお願いいたします。

田中英道君 私は、歴史あるいは文化の問題について大学で研究しておりますが、ちょっとここにお渡しした、書いたものを読ませていただきます。

 簡単ですが、少し自己紹介をさせていただきます。

 私は、若いときにフランスで学位を取り、イタリア、ドイツに留学し、それぞれの国々の美術史を研究してきました。去年などは、一年だけでもアメリカ、イタリア、ポーランド、中国、イギリスなどの各国での学会に招かれて発表をしてまいりました。少なくとも、日本語を入れて五カ国語の言葉で発表してきましたし、そのことでもまあ国際的に活躍していると言っていいでしょう、これはちょっとあれですけれども。その経験をもとに、少しだけ日本の憲法について述べさせていただきます。

 日本は、経済では世界第二位と言われますが、日本のテクノロジーは、欧米が軍事的なものを中心にしているのに対し、人間の生活に関係するものが多く、その意味でも世界で第一位となっています。電気製品、コンピューター関係、時計、モーター、あるいはスポーツ用品まで、その浸透ぶりは、日本の位置を考えられている以上のものに押し上げております。世界は、これだけの平和的な技術をつくり上げた日本人の道徳、生活のあり方に注目しており、日本人による発言が期待されております。その文化的意義は大きく、これまで西洋の植民地にならずに、日露戦争でも白人大国を打ち負かしたというような歴史的評価だけではないのです。残念ながら、日本人は、国内向けの発言ばかりで、国外に向けておりません。

 また一方で、日本は世界で最も安全な国で、犯罪が少なく、それがすべて平等な経済性に依拠していることも知られております。日本は世界で最も貧富の差がない国家なのです。九〇%以上の人々が中産階級に属していると考えている国などどこにもありません。日本人はそれを余り誇りと思っておりません。北欧のことを言われますが、その経済力が違います。その平和的な生活ぶりは歴史的なものです。これは、既に七世紀に日本人みずからつくった憲法にあるように、和をもってとうとしとすというような言葉が実践されていると言ってよいのです。私は歴史家なので、そういうところを強調したいと思うのです。

 日本にはもともと、聖徳太子のつくられた十七条憲法があります。これを読む皆さんは、その内容が決して古代の道徳を説いたものではなく、その内容がすべて現代人にも通じることを理解されるでしょう。ここには既に民主主義さえ語られ、汚職をとがめる精神まで論じられています。これを中国の儒教、仏教、道教などを折衷したものだとよく日本の学者が述べています。第一条が有名な、和をもってとうとしとすなどという言葉が論語から来たとか、第二条では、三宝を敬えというのが仏教を取り入れたものだと言われ、三教を折衷したものだというのが学者の見解です。

 しかし、私の学者的体験からいうと、この十七条憲法のように、それまでの思想を選択し改変していくことが、外国の模倣であり、オリジナルなものではないというような見解は誤りであることを認識すべきだと思います。そうした誤った見解は、日本の歴史、日本の文化が単に模倣であるような誤解を生んでいます。つまり、日本の自己評価すべてに及んでおり、日本人の主張を全く弱くしております。それは学問というものを知らない日本の学者、知識人の責任なのです。

 日本人が外国と戦争を起こしたのは、七世紀の白村江の戦いと十三世紀の元との戦い、あるいは十六世紀末の豊臣秀吉による朝鮮戦役、そして第二次世界大戦を含めた日清、日露、あるいは中国、朝鮮との戦争でした。近代は、世界のすべての国が巻き込まれた戦争の時代であり、日本の参加が特別侵略戦争をしたなどと言う必要はありません。欧米の植民地にならないための防衛戦と言ってよいでしょう。しかし、それ以前の十数世紀間に、海外との戦争がたった三回、厳密に言うとあれですけれども、三回というのは、世界のどこの国家の歴史をひもといてもないことです。これは、それを自覚するもしないも、和をもってとうとしとすという聖徳太子の憲法が生きている証拠です。

 また、これは、日本の文化、例えば七世紀の法隆寺が木造であり、世界最古の建築や仏像や絵画を残していることでも端的に示されております。文化遺産として残る世界の名建築はほとんどすべて石づくりです。木造は、戦争や小競り合いのために破壊されたり、焼失したりして、西欧ではモニュメントとしてほとんど残されておりません。中国で残されている木造はほとんど明の時代以降のもので、奈良・平城京のもととなった長安のものなどは現在ではほとんど何も残っていません。それらを残しているのは、世界で唯一日本だけと言ってもよいのです。

 このようなことでさえ、日本にいる日本人がみずから認識できないでいます。外から見るといっても、外をよく知っていないとわからないのです。世界でも傑出した日本人の民度の高さがまだ理解されていないのです。この無理解は、日本人同士の不信感、そして政治家不信、学者不信にまで続いています。現代は年間千六百万人もの日本人が海外に行くようになっていますが、常に日本に対する劣等感があるために、自己評価ができないでいるのです。

 最後に、日本国憲法はどう改正すべきかという問題ですが、現在の日本国憲法は、日本のそうした長い伝統を少しも明文化しておらず、その意義を説いておりません。少なくとも、聖徳太子の十七条憲法を国是として、その上で、近代国家の法を説くことができるはずです。言うまでもなく、日本という国は、日本国民という共同体を構成する人々によってつくられています。したがって、当然、憲法は日本内部の国民の幸福のためということを前提にしていますが、それは内向きのことであって、国というものはほかの国に対する外向きの姿勢もとらなければなりません。

 前文に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、」などと書いてあります。しかし、この言葉のもとで、諸国で幾らでも残虐な戦争が行われてきたことはこれまでの歴史で明らかです。「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会」というのは、ほかの国を余りにも善意で見過ぎる見解です。無論、それぞれの諸国の主張は理想を掲げます。しかし、そこにあるのは常に利益の対立です。昨今のロシアの北方四島返還問題、北朝鮮の拉致問題あるいはミサイル発射問題、中国、韓国の教科書介入問題、あるいは尖閣諸島等の領有権問題、これは、一方で日本が相当の援助をしている国から起こっているのです。それぞれの国が公正と信義を主張して行っているのです。

 こうした外向きの問題に対して、前文で「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」などと言ったり、第九条のように、戦争の放棄をし、軍隊を禁止したりする偽善的な指示をしてはいけないと思います。つまり、それは現実認識がないこと甚だしいと言わなければなりません。現実では、軍隊を持たざるを得ないのは当然です。これが日本の戦争行為を懲らしめようとした占領下の憲法だと言われても仕方がありません。

 また、内向けの問題についても、第八十九条のように、国の宗教活動の禁止などといって、第一条の天皇の行為と矛盾せざるを得ないというのもおかしいです。この憲法そのものが矛盾しており、ほかの国の主張に屈するようにしむけていると言っても過言ではありません。

 日本自身の歴史がこれまで長い間とってきた見解をそのまま世界に普遍化し主張すべきです。それは決して世界の現実を見ることと矛盾しません。日本から積極的に世界の平和のために調停することも可能なのです。そのための憲法、すなわち内向けの憲法だけではなく、外向けの憲法であるべきです。

 以上です。

中山座長 ありがとうございました。

 次に、小田中聰樹君にお願いいたします。

小田中聰樹君 私は、これまで三十数年間、刑事訴訟法や司法制度論を中心に研究し、それとのかかわりにおいて、人権及び憲法のあり方についても考察を重ねてまいりました。本日は、そういう立場から意見を述べたいと思います。

 きょう述べたいことは三点です。第一は、憲法調査のあり方についてであります。第二は、憲法の思想的、理念的構造の体系的一貫性についてであります。第三は、憲法の現実的機能、役割と憲法擁護の現代的意義についてであります。

 私が述べたい第一は、今回国会内に設けられた憲法調査会は、憲法尊重、憲法擁護の観点に立って調査すべきだということであります。

 調査会の規程によれば、貴調査会は、日本国憲法について広範かつ総合的に調査を行うことを任務としています。しかしこれでは、何のために、憲法の何について、なぜ中立的な調査機関ではなく国会そのものが調査をするのか、全く不明確です。

 会議録等によれば、国内、国際情勢の変動、変貌があり、国家の基本的枠組みや国家像について議論が必要になったとする意見にリードされる形で調査が進められているようであります。これは憲法の抜本的な改正を目指す意図、目的に基づくものと受け取らざるを得ません。しかし、国会議員にはそもそも憲法九十九条により憲法尊重擁護義務があり、調査活動といえどもこの義務の枠内にとどまるべきものであります。

 しかも会議録によれば、右の意見は憲法の人権尊重、主権在民、侵略国家否定という理念は堅持するという前提に立つというのであります。つまり、憲法的国家像は堅持するというわけです。これは、憲法擁護義務がある以上当然であります。

 そうだとすれば、憲法調査会は何よりもまず、制定過程や二十一世紀の日本のあるべき姿、国家像の調査ではなく、憲法の定着、貫徹、確立の状態を国民の人権と生活、福祉の観点に立って調査をし、もし憲法の未定着、未貫徹、未確立、あるいは憲法との乖離の状態があるのであれば、その原因と対策を検討すべきものであります。

 私は、今後、貴調査会がこの立場に立って調査を進めるよう強く希望するものです。

 第二に、憲法は思想的、理念的構造の体系的一貫性において極めてすぐれているということであります。このことは、憲法の前文によくあらわれています。

 御存じのように、前文は、まず主権在民、国民主権を宣言し、国政は国民の信託によることを明らかにするとともに、それが諸国民との協和、自由の確保、戦争防止の決意に基づくことを表明しています。次いで、憲法は、平和を愛する諸国民の公正と信義に国民の安全と生存の確保をゆだねる決意を表明するとともに、恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を持つことを確認しています。ここで言う恐怖とは圧制、ファシズムを意味し、欠乏とは貧困を意味しています。

 このように憲法は、国民主権、民主主義、これは立憲民主主義であります、そして自由、平和、福祉が相互規定的、相互依存的な一体的な関係にあるとする思想、理念を表明しており、この点で極めて体系的一貫性のある思想、理念に基づいているのであります。

 しかもこの憲法は、国民主権、民主主義、自由、平和、福祉のいずれについても、その保障に向けかなり徹底した規定を置いています。例えば、平和主義貫徹のための戦争放棄、戦力不保持、交戦権否認を定めています。また、個人の尊厳を中核とする自由権、特に思想、良心、表現、信教、学問の自由について、その絶対性を保障しています。さらに、国に対し福祉保障を義務化しています。そしてさらに、行政権強大化への抑制システムとして、議院内閣制、司法への行政裁判権付与、違憲審査権付与などを行っております。しかも、この違憲審査権は国会の立法権をも抑制することとされています。

 私は、このような体系的一貫性とその徹底性は世界的に見ても例がなく、ここにこそ我が国の憲法のすぐれた点があると考えるものであります。つまり、憲法は、人類の歴史的体験や実践と思索との最も良質のものを取り入れて体系化しており、そのため、日本国民はもちろんのこと、他国の人々にも深い感銘を与え、今日に至るまで強くインスパイアしてきたのであります。このことは戦後の憲法擁護運動の歴史とその役割を見ればよくわかることであります。

 このように、憲法が、個々の規定もさることながら、個々の規定の文言を超え、国民の憲法的意識や思考を深いものにし、人権概念を豊かなものに発展させ、現実に次々に起きているさまざまな困難な問題、例えば環境問題、地域紛争問題などへの対処方法に関する理性的な指針を揺るぎなく与え続けてきたのは、まさにこの体系的一貫性と徹底性とによるものだと私は考えます。

 最後に、私は、憲法は極めてすぐれた国家社会像の形成、維持、確立に向け現実的機能を発揮していること、これからも発揮し得ること、したがって憲法擁護こそ私たちの任務であることを指摘したいと思います。

 憲法は、国民主権、民主主義、基本的人権、平和主義、福祉の理念を体系的に提示し規定化することにより、あるべき国家社会像を提示しています。それは、民主国家、人権国家、平和国家、福祉国家という国家像と、これに沿う社会像です。

 ところが、二十世紀末葉から、地域紛争の続発、グローバリズムや市場原理の拡大、さらには環境悪化の深刻化など対応の困難な問題が続発し、またその一方では、我が国の政治、行政そして経済の状態は混乱、腐敗の様相を強めています。この状況下にあって、九条改正による戦力保持と海外派兵、行政権の強化を目指す首相公選制の導入、環境権などの新しい人権規定の新設などを主な内容とする憲法改正にその打開策を求めようとする動きが次第に強まりつつあります。

 しかし、国民主権、民主主義、人権、平和、福祉という思想的、理念的構造の体系的一貫性と徹底性を持つ憲法は、実はこれらの問題についても、理性的に対処する際に必要な枠組みないし指針となるべきものを用意しているのであります。地域紛争については、平和的手段に基づく国際貢献による平和的解決の追求、グローバリズムや市場原理の進出、拡大による弱者淘汰に対しては、福祉、社会保障、生活権保障の強化による弱者救済、環境悪化に対しては、憲法十三条の生命、自由、幸福追求の権利及び憲法二十五条の生存権による防止、救済を、そして政治や行政の混乱、腐敗に対しては、国民主権原理による民主化の徹底、その対応の枠組みを指針として立派に用意しているのであります。

 九条改正による軍隊保有、海外派兵や、首相公選導入による行政権の集中強化は、憲法のすぐれた体系的一貫性、徹底性を破壊し、憲法の生命力を衰退させるだけではなく、かえって国際的地域紛争の解決を妨げる危険があると思います。

 私たち国民は、今こそ憲法のすぐれた価値を再確認すべきであります。

中山座長 時間が参りましたので、御発言をおやめいただきたいと思います。

 ありがとうございました。

 次に、久保田真苗君にお願いいたします。

久保田真苗君 「憲法」を愛する女性ネットの久保田真苗と申します。きょうは本当にありがとうございます。

 私は、終戦のときにちょうど二十歳でしたから、それ以前の古いこともそれ以後のこともかなりよく覚えております。

 戦前、女学生のとき、私は福沢諭吉の「新女大学」という本を読んだことがございます。それは、江戸時代のあの悪名高い「女大学」を一節ずつ引いて痛烈に批判し、男女平等を説いたものでしたが、その古い「女大学」の余りの女性べっ視に思わず本を壁に投げつけたことがあります。しかし、昭和十年代の私たちの女学校の修身の教科書は、言葉こそ違え、古い「女大学」の流れを多分にくむものだったと思います。

 そのころ、学校には、官製の冊子が大量に配布されてきました。「国体の本義」とか「臣民の道」とかいった名前の冊子です。それらは、神話の中の神勅による万世一系の天皇への絶対服従を求め、八紘一宇の精神によって、天皇を中心とする一大家長国家をあまねく四方八方に広げようという趣旨のものでした。ここでも、女性に対しては、個人や夫婦を基礎とする西洋流を退けて、日本の女は家に嫁するのであるから、家への服従、忍耐を旨とせよという息も詰まるようなものだったのを覚えております。

 ですから、私が今まで生きていた中で一番うれしいことは何だったかといいますと、真っ先に浮かぶのは実にささやかな景色なのです。それは、戦争が終わって黒い幕が取り除かれ、電灯の明るい灯がぱっとともった、その景色なんです。

 つぶされてしまった日本の婦人参政権運動にかわって、敗戦が婦人参政権を実現させ、女性議員も参加した国会で新しい憲法が審議されたあの時期は、私にとって何物にもかえがたく、精神の高揚を覚えた時期でございました。

 恐らく、戦前戦中のあの当時をよしとする方はここにはいらっしゃらないと思います。戦争の苦痛ばかりでなく、自国民にさえも振るわれたあの暴力的な支配をよしとする方は恐らく一人もいらっしゃらないでしょう。あの当時でさえ、純真な若者はともかく、まゆをひそめた大人は多かったに違いありません。それなのに、なぜ国民の生命財産を灰にしてしまうまで手もなく巻き込まれていったのか。ここはしっかりよく考える必要があると思います。多分、民権がまだよちよち歩きだったから、女権はまだ全く生まれていなかったから、そういうことかもしれません。今は全くそれとは違うのだと自信を持って言いたいものだと思っております。

 現在、私たちは、このネットワークをつくって、ささやかながら憲法調査会の傍聴をさせていただいております。ほかの傍聴者も多くて、憲法を気にかける市民はだんだんふえているということは御同慶にたえないことでございます。憲法の持つ主権在民、非戦平和、基本的人権の大原則は、人類の英知をもととし、広く国民の支持を受けていると思います。国会議員の皆様におかれましても、大筋それを重く受けとめている方が多いと感じております。

 しかし、一方には、これは占領憲法だから、あるいはこれは日本人の自律性が入っていない憲法だから否定しなければならない、やり直さなければならないと言う方々もございます。そういう方々は本当に幸せな方なんだと私は思います。

 当時憲法草案に参画して、昨年参議院の調査会に招かれたベアテ・シロタ・ゴードンさんの陳述によれば、草案の段階で男女平等の条項に対して日本政府側は猛反対したそうです。こういう女性の権利は全然日本の国には合わないと言って。

 したがって、私たちには、この憲法によるのほか人としての尊厳を得る道はなかったのでございます。この憲法を否定することなど思いもよらないことです。この憲法を生活の中に生かし徹底するよう努めてまいりたいと思っております。

 次に、戦争について一言言わせていただきます。

 私は、二十世紀に生まれて本当によかったと思っております。生きるかいのある世紀だったと思います。よく、二十世紀は戦争の世紀だったと言われておりますが、それも事実で、私なども大いに戦争を経験した者でございます。けれども、同時に、二十世紀は戦争防止のために多大の努力を払った世紀だったと思います。その努力にこそ注目して、二十一世紀にさらに発展させていきたいものだと思います。

 一昨年、ハーグで平和会議が開かれ、世界の百のNGO一万人が集まって、公正な世界秩序のための十原則を採択しました。その第一条はこう言っております。各国の議会が、日本の九条に倣って、政府が戦争することを禁止する決議を行うべし。短い言葉ですが、実に適切に行動の方向を示していると思います。九条、特にその二項は戦争禁止の手本になったのでございます。

 今から百年前のハーグ平和会議は、国際人道法の第一号と国際司法裁判所を誕生させました。その二つともが役に立って、四年前に、国連総会の要請を受けた国際司法裁判所が核兵器について意見を判示しました。核兵器による威嚇や使用は、一般的には国際法、特に人道法に反するというものでした。私たちは、現在核実験禁止条約を持っておりますが、核兵器廃絶条約にはまだ至っておりませんから、世界法廷のこの意見は極めて貴重で、国際世論に確信を与え続けるものと思っております。広島、長崎の市長の証言を通じて、原爆の犠牲者がこれに貢献したのだと思っております。

 二十世紀後半に、国際人道法は、二次大戦の犠牲を踏まえて飛躍的に発展しました。ジュネーブ四条約、その議定書、生物化学兵器禁止。対人地雷禁止条約では、日本人も参加した一市民運動が大奮闘してこれを成功に導いたことは、私どもの記憶に新しいところでございます。従来、人道法の受け皿が甚だ不十分でしたが、国際刑事法廷という芽も出てまいりました。為政者や軍による人道法違反の報いを無辜の民や難民が受けるというのでは全く納得ができないからです。

 人間の安全保障という言葉がUNDPから出てまいりました。森首相も所信表明演説の中で使っておられますが、失業、貧困、飢餓など広い原因に言及されたものと思います。私は、この概念を武力紛争にこそ持ち込むべきだと考えております。兵器の進歩そのものによって、軍隊が国民の生命財産を守るという考えはますます幻想になりつつあります。

 憲法前文の中には、「平和のうちに生存する権利」という言葉がありますが、同じ言葉を太平洋諸島の住民が使って、太平洋での核実験ができなくなるところまで成功しております。こうした一切の背景には、世界での民主化という一大潮流がありました。

 二十世紀は、奴隷制度を廃止し、植民地制度を廃止し、女性を解放することができました。二十一世紀は、これらの成果の上に立って、戦争廃絶まで、二十世紀にまさる世紀をつくってほしいと思います。そのために、微力でも力を添えてまいりたいと思っております。

 どうもありがとうございました。

中山座長 ありがとうございました。

 次に、米谷光正君にお願いいたします。

米谷光正君 東北福祉大学の米谷でございます。本日は、こういう席に参加させていただきましたことにまことにありがたく感謝を申し上げます。

 福祉というものを標榜する大学に勤務する者の一人として、二点に絞らせていただきまして、少しみずからの意見を述べさせていただこうと存じます。

 一つは、十三条でございます。

 御承知のとおり、これは幸福追求権でございますし、個人の尊厳をうたった大変な条文でございます。この十三条、個人の尊厳、いわば我々の人格をどのように尊重するかといったことについて述べておるわけでございますが、そもそもこの条文によりまして、我が国の場合、そこに住む我々国民がいかに個人というものを尊重され、同時に、個性というものの上に初めて国家というものをつくり上げていくという非常に大きな理想を掲げた、こういうふうに一般的に言われます。まさにそのとおりであろうとは思います。

 ただ、このような個人の尊厳あるいは人格といったものはどうしても何らかの限界が生じてまいります。

 一つは、この条文でも既にうたっておりますが、公共の福祉という概念でございます。どのような人格あるいは個性も、やはり公共の福祉というものの前では限界が存在する。

 それから、第二点が比較考量論でございます。既にここにもマスコミの皆様もいらっしゃいますけれども、有名なあの福岡の博多フィルム事件でございまして、ここで初めて比較考量論というものが展開されました。取材の自由と報道の自由、それから同時に個人の自由、どちらの自由権をどのように守るか、ここに比較考量論が使われました。

 さらに続きまして、二重の基準という点が挙げられる。私も憲法を学生の前で講義する手前、どうしてもこれは避けて通れない。

 となりますと、人権という言葉がここに出てまいります。ところが、この人権というもの、本来ですと、我が国の国家権力に対しまして、それぞれの国民がみずからの人格と個性のもとに抑制できる最高のもの、このようにうたわれているのが普通でございます。となれば、ここに明らかな矛盾が出てくるわけでございます。となりますと、人権というものにもやはり限界があるだろう。

 じゃ、人権というのは何だということになってきました場合に、人権というのは決して権利ではない。この二つでございます。人権と権利、これをよく間違ってしまう場合もあるわけでございます。あくまで、ここで言っていますのは人権にすぎない。権利というのはまた別の角度から出てくることになるだろう。

 しかし、よく我々、福祉の場合に聞きますのが、私には人権があるというような言葉を聞きます。確かに憲法は人権の擁護をうたっておりますけれども、人権があるんだから私には権利があるんだ、こういう理屈にはならないのではなかろうか。もっと言いますと、憲法上も、人権という概念と権利という概念を明らかにしておいていただけるならば、まことにやりやすいということにもなります。

 しかし、憲法が一々、一人ずつの権利について、こうですよ、こうですよと言うのも、これもおかしな話でございますし、同時に、憲法も法の一つでございますから、法がそこまでのことを言い切った場合に、果たして次の社会を生んでいくのか。やはり法というのは一歩引き下がったところから社会というものに追従していく、先ほど言われましたけれども、法に人間が縛られるのではなく、人間の方が法によって生かされる、要するに、法を我々が使うんだということになるとするならば、決して、社会を超越したような憲法をつくってもらってはこれも困る。

 ですから、今の憲法で足らない部分もございますけれども、逆にそれを余りにも急激的に、社会変化というものを度外視したような改正ということになりますと、これもやはり我々国民の権利を縮めてしまうということになりかねないのではないか。その辺が、もし憲法改正といった立場をとる、あるいはそういう議論をする場合に一番重要ではなかろうかと思います。

 もう一つが、生存権という有名な憲法二十五条でございます。

 一般的に、文化的最低限度の生活を営むことを保障するという、この条文でございますが、生存権の規定だ、あるいはその後段に続きます国の社会的使命をうたったものだと言われておりますが、果たしてこの規定が生存権の規定と言えるのかどうか。社会保障論あるいは社会政策などの専門の方に言わせますと、これは絵にかいたもちだ、果たして生存権があるのか、そういう話になります。

 事実、ここにいらっしゃる皆様は非常によくおわかりだろうと思いますけれども、生存権というのは、権利であるのか。もっと言うと、生存権の権利性とは何ぞやという問題が発生するわけでして、そういう面では、例えば最高裁判所の大法廷が出しました堀木訴訟を初め朝日訴訟、あるいは近年では塩見訴訟という大変大きなものが出たわけでございますが、こういった中で、果たして権利性とはと言われる。

 生存権とうたうのであるならば、やはりある程度の権利性というものを、ほかの法律にどのように影響するかということを考えた上での規定にしていかざるを得ないのではないだろうか。確かに、生活保護法を含めまして、他の法律によって生存権規定は生きているのだ、こういうふうには言われますが、もう既にこういった解釈で済ませる時代ではないのではないか。今言いましたように、あくまでも社会とともに法というものは変わっていかねばなりませんけれども、この点につきましては、少し我が国の憲法、そろそろ、長期にわたったためにある種の硬直化を来している点があるのではなかろうか、このように思ったりもいたします。

 確かに、憲法ができて既に半世紀以上たったわけでございまして、そろそろ社会の実情と憲法の理念が少しどこかで食い違いつつあるのではないか。すべてが食い違っているとはもちろん申しません、今でもこの理念は残していかねばならぬと思う理念もたくさんございます。が、時として解釈に余りにも流れ過ぎてきたのではないか。もっと言いますと、解釈学の限界がそろそろ見えてきたような点もあるのではないか、そのように私個人としては思っております。

 少し話を戻しますと、例えば、先ほど言いました人権でございますが、問題は、この人権という言葉が持っております意味なのではないかと思います。それは、我々は決して神でもなければ仏でもないわけでございまして、すべてが同じ人格を持っているというのは、これはもちろん違うわけでございます。となれば、すべてに人権なりあるいは人格といったものを同じように見るということは、明らかにこれは矛盾するのではないか。となりますと、権利といったものに結びついていく段階で、ある程度人権というものの限界も出てくる、そのように思います。

 ただ、今言いましたように、現在の生存権の規定などからいいますと、少しそういった面が、余りにも、憲法ではないほかの法だけによって実施されていく。同時に、既に言いましたとおり、その権利があくまでも自分には当たり前にあるんだ、そういうふうな考えをしてしまわれる方もたくさんいらっしゃるわけでございます。

 そうしますと、その調和をどのように図っていくか。やはり憲法の理念というようなものも、先ほどお話がございましたけれども、本当に我が国の民主国家、民主主義といったものに立脚した憲法というのであるならば、やはりある一定の指針を示すことによって、もっと言いますと、より具体的なものをお示しいただければ一番いいのではないかなと。

 実は、私も憲法を講義いたしますときに、よく学生に言われるのですね。憲法ぐらい取っつきやすいものはない、しかしやってみればこれほどわけのわからないものもない。これは本当に私も同感でございまして、私もそういうふうに常に思っておりますので、もう少し、憲法というのは日本のいわば根本法、我々国民がよって立つところでございますので、我々が常に身近に感じ、身近に意見を言える、そういう憲法にぜひしていただければと思うわけでございます。

 本日はまことにありがとうございました。

中山座長 ありがとうございました。

 次に、濱田武人君にお願いいたします。

濱田武人君 津軽という片田舎で教師をしていて、日々生徒の目の前に立って、私が何を生徒に働きかけて、あるいはしゃべり、また、私自身がどういう目標に向かって頑張っているかという視点から、最近すごく強く意識する事柄を原体験を含めて述べながら、私は、憲法第九条というのは、教師にとっては、教師の夢とロマンを語って生徒に訴えていく、あすを担う日本の若者たちを育てるにはとても大事な条文じゃないかという視点からお話を述べさせていただきたいというぐあいに思っています。

 私は、ここ十数年、努めて、先生方と会うたびに、先生は何で教師をやっているの、どうして先生になったのという質問を発することが多くなりました。それに対して回答は、私が接触する範囲内では、私はこういうことを生徒に教えたいんだ、こういうぐあいに育てたいんだというような返事がなかなか返ってこない、あるいは、そのことで議論をして自分の教師としての資質を高めたり、そういうことに議論が発展するということはほとんど少ない、何と悲しいことかというぐあいに思うことがしばしばです。

 しかし、じゃ、自分はどうだったのかということを考えてみたときに、最初の勤めた十年間ぐらいは似たような感じだったかなというぐあいに思います。あえてだれかから聞かれたら、詰まってしまって言えない自分を意識します。

 およそ十年ぐらい過ぎてから、私は、たまたま県と文部省関係の方でアメリカの教育視察に派遣されたことがありました。それなりに勉強したことがあったのですけれども、まず単純に、そのときアメリカの高等学校を訪ねたときに、たばこを吸う先生が非常に少なかった。何でですかと聞いた。そうしたら、校長先生が、たばこのラベルに体に悪いと書いてあるでしょう、悪いことをやって見せるのが教師ですか、まあ、法律では禁止されていませんから吸う人はいますけれども、大分そのことによってたばこを吸う人は減ってきました。私が見た十数校ぐらいの学校では、職場の一割弱、二、三%ぐらいの先生はたばこを吸う方がいましたけれども、ほとんど吸わない。

 単純に考えると、余りよくないこと、まずいこと、それは教師はしてはいけないんだというぐあいに思うようになりました。それまで、私はヘビースモーカーでした。ばかばかしくなってぽんとやめて、それ以来すっぱりたばこをやめることができました。きょうで何本吸った、きょうで何本吸ったと言う同僚は、みんな失敗しています。私は、実にたばこを吸うことがばかばかしく感じたのです。

 その校長先生と話をしているときに、物を盗めと教師は教えるんですか、人を殺せと教師は教えるんですか、教師という職業はどういう職業でしょう。わかり切ったような返事が返ってきました。私も自己反省しました。

 教師は授業が命です。絶対教室には遅刻すまい、外部から電話がかかってきても、今は授業ですから一時間待ってください、アポイントメントない来訪者には、悪いけれども待ってください、あるいは、日を改めてください、どんどんはねつけました。最初は冷たいと言われました。しかし、生徒にも同じようなことを要求します。今、授業に行くのに、先生、ちょっとお話が。僕は生徒を何十人か待たせている、それを見捨てるわけにいかない、待ってくれ、あるいは、別の日にしてください。

 これが私の最初の教師としての原体験でした。

 二つ目は、今から十年ちょっとぐらい前になるかと思いますが、これも政府系の関係でしたけれども、東南アジアに、アジアへの日本の経済援助のあり方を見てきたらというのがありまして、派遣される機会に恵まれました。そのときに、タイの国を訪ねたときに、タイの高校生が私に、いろいろ話をしているときに、田舎へ帰ったら、村のために橋をつくりたいんだ、私は保健婦となって村の医療に貢献したいんだ、こういう話をしてくださいました。

 私はそれを聞いて、自分の教えている子は一体何を考えているんだろうか、何を目標に頑張っているんだろうかとふと考えてみました。ほとんど自分のため、自分の生活を豊かにするため、こういうことに愕然と気がついて、私は本当にいたたまれないような気持ちになりました。それから、私の教師生活はどんどん変わっていきました。英語教師ですけれども、さまざまなことをやはり生徒に訴えていかなければならない、そういうように思いました。

 津軽には白神山地があります。この問題にも生徒と取り組みました。今から十数年前、医療の廃棄物、注射器が海岸沿いに捨てられているという問題、それから、消費税が初めて日本に導入されるときに消費税の問題、それから、隣、韓国との問題。これは韓国の高校生が、日本の高校生と言ってもいいのですけれども、八〇%以上の高校生が日本を嫌っているぞという話をしたことから始まりました。何で隣の韓国の高校生が日本をそんなに嫌いなのか。あるいは、青森には三内丸山遺跡というのがあります。これも、発掘されたとき、本当に足の踏み場もないような場所に行こうよと、行きました。沖縄問題が騒がれました。この問題も、何で騒がれているか考えようと、こういうことを生徒と一緒になって、いろいろな作品ができ上がって、今手元に持ってきていますけれども。

 そういうことから始まっていくと、教師と生徒は語り合わなきゃならない、面と向かって話していかなきゃならない。教科だけやっていればいいのではない。教科だけやって、大学に合格できるような人間だけ育てればいいのではない。心にどうやって入っていくか、対話をしなければならない。

 そう思い返すと、自分の育ってきた過程でも、小さいときながら先生が夢を語ってくれた。こういう世の中にしたいね、こういうところに行くとこういう風景がある、すばらしいよ、そういうことを思い出しながら私は生徒に向かわなきゃならない。教科だけに縛られるのではなくて、教科をやりながらも、そういう場面を生徒と持っていかなければならない。

 そう考えてくると、物を盗んではいけない、人を傷つけてはいけない、今いじめの問題も騒がれている、人権もある、さまざまな問題、人間そのものに触れていかなきゃならない、環境問題もある。そのときに、憲法第九条、これ、チャールズ・オーバビーさんという人が、九条の会をつくって、日本人でないのに、日本人の憲法九条はすばらしい、守ろうじゃないか、これを世界に広めようじゃないかというぐあいに頑張っている人を知りました。びっくりしました。田舎の教師だけれども、何でそんなことに気がつかなかったのか。こういうことを生徒に訴えていかなければ、日本の教育の再生はあり得ないし、きちっと世界とつながっていく日本人はあり得ない、そのように考えるようになりました。

 そして今、そういうような日々を、もう教師生活は残り少なくなりましたけれども、やはり私は、自分の夢、何か、平和を希求する人間を育てたい、そのことに敏感な若者を育てたい。自分の利益だけを考える、他人の迷惑を何とも思わない、そういう子供には育てたくない。僕と接した生徒は、少なくともそういうことに関して敏感で、そうだなと、十年後、母親になり父親になっていったときに必ず思い返してもらえる、そういう教師になりたいと思って、今私は現場にいます。

 ですから、憲法九条というのは、教師にとって、自分の夢を子供に語り、そして一緒になってその夢を育ててはぐくんでいく、教師のロマンというものを育てていくにはとても大事なものだというぐあいに考えています。

 少し視点を変えたような話でしたけれども、ありがとうございました。

中山座長 ありがとうございました。

 次に、遠藤政則君にお願いいたします。

遠藤政則君 私のような者につたない意見陳述の機会をちょうだいしまして、貴重な時間を割いていただきまして、まず御礼申し上げます。

 地方公聴会、それから意見陳述人の一般公募、私、これで出てまいったのですが、これもやはり民主主義の一つなんでしょうななんて思っておるわけですが、民主主義といいますと、直接民主制あるいは直間併存の政治、あるいは電子投票、電子政治などという主張もございます。さらに、代表民主制は民主主義ではないんだという主張もございます。

 そこで、なぜこういう主張が出てくるのかと考えますと、国民は本当の主権者になっていない、されていないといううめき声ではないだろうかという感じがするわけでございます。ところが、一般の国民はというと、政治的無関心、政治不信、投票率の低下、これでは有権者としての権利と義務を放棄したものと言わざるを得ないと思います。

 私は、高等学校で長い間政治・経済という科目を担当してまいりました。子供たちに、もし仮にあなたたちに選挙権があったとしたら、今例えば衆議院の総選挙があったならば、投票に行きますかと聞きますと、行かないというのが過半数以上、六〇%ぐらいになるのです。

 その子供たちが成人してそれが変わっていくだろうか、実態は余り変わりないというのが現実ではないかと思うのです。授業中に、きちっと投票してくれないかな、一票を大事に投票してくれないかと思いながら授業をするのですが、非常にじくじたる思いで、教師の至らないところを痛感しておるわけでございます。子供たちに、抽象的に、選挙というのは大事なんだよ、一票一票を大事にしなさいよと言っただけでは解決しないと思うのです。

 そこで、どうするかということなわけですが、政治参加のチャンスをふやす。簡単に言えばこういうことでありますが、チャンスがふえても青島・ノック現象があるんじゃないかという指摘もあるかと思います。

 選挙民は、民主主義は愚民が集まっているんだなどと言われておりますが、それでは政治家は賢者、賢い人たちなんでしょうか、目の前にして失礼でございますが。真理を知り、絶対に正しいということを判断し実行できるのが賢者、賢い人間であるとするならば、国民はもとより政治家も愚者である、愚かな者ではないだろうか、愚者が集まって民主主義だろう、こう思うわけでございます。私は、それでいいんじゃないかと思うのです。政治は真理を探求する場ではないと思うからです。政治課題を選択していく、これが政治だろう。

 選択といいますと、政治家は政策の実行者であり政策の提示者だ、我々国民はそれの選択者だ、こう思うわけです。ところが、選択の機会というのは、普通の選挙のときは別ですが、ないのですね。憲法上規定されているのは、九十六条の憲法改正と国民投票の規定、それしかレファレンダムはないわけです。まず、私は、その九十六条を活用していただきたい。

 そこで、九十六条に関して申し上げますと、これも失礼な言い方になるかと思うのですが、九十九条の憲法尊重擁護義務というのがあるわけですが、これに対して、いまだ九十六条が制定されていないということは、九十九条違反だと言わざるを得ないのではないかと思うのです。この九十六条による国民投票の改正手続の法律がまだできていないということです。

 この法律につきましては、昭和二十八年閣議提出されたものがあると聞いております。最近では、ある政党ではこの手続の要綱を党議決定しているのではないかと承っております。

 ところが、この手続法だけでは私は不十分だと思います。といいますのは、九十六条に例えば総議員の三分の二とあるが、総議員とは何だ、在籍議員なのか定数なのか、こういう問題がございますね。それから、内閣に提案権があるのかないのかというのも、これもはっきりしておらないわけです。

 そこで、私は、ただ単なる国民投票手続法じゃなく、例えば憲法九十六条に関する基本法、国民投票基本法と言ってもいいと思うのですが、それの制定が必要じゃないだろうかと思うわけでございます。つまり、九十六条に疑義がある点を基本法に明示するということでございます。

 この私のつたないレジュメにあるのですけれども、例えばこの中で、四番目に、議案の提案、審議、採決などの一切については党議拘束しないと書いておきましたが、法律にこれを書くとはとんでもないと言われるのも承知の上です。政党政治を否定するのかという反論があることも重々承知の上です。

 こう言ってはなんですが、政治課題がどんどん出てまいります。それを解決しない、未解決のままのものがたくさんあるんじゃないだろうか。我々国民の価値観も多様化しています。変遷しています。こういう状況で、一つの政党があらゆる問題にすべて対応できるのでしょうか、これを教えていただきたいことなんです。

 党内で一致することがあればそれで結構です。ところが、一致しないことが非常に多いんじゃないですか。そのために党議拘束を外す、これをお願いしたいという意味であえてこれを書いてみたわけで、基本法に入れるとか入れないということではないのです。

 さて、調査会は、いわゆる調査するのだということでございます。具体的な成案を出すということじゃないということでございますので、ならば、議員提案で、この手続法を含んだ基本法というものの成立をお願い申し上げたいと思います。これこそ私は護憲だと思います。

 基本法が成立しましたその後の課題はといいますと、九十六条の改正でございます。三分の二を過半数にする。

 過半数という考え方について、先ほど塩野七生さんの話もあったのですが、彼女とは私はちょっと違うのです。国民投票は絶対欠いてはならないということです。いろいろな方、あるいはマスコミも憲法案を出しておりますけれども、国民投票を欠いても憲法改正はできるということになっているのですが、これでは国民が主権者であるとか、国民が政治判断することはできないということで、過半数は絶対入れなきゃならないということです。

 時間になりましたが、最後に一つだけ、申しわけありません。

中山座長 時間が参りましたので、ひとつ御協力を願います。

遠藤政則君 はい、どうもありがとうございました。

 説明が足りないところ、至らないところ、私も勉強したいものですから、質疑のときによろしくお願い申し上げます。

中山座長 ありがとうございました。

 次に、齋藤孝子君にお願いいたします。

齋藤孝子君 私はふだんスーパーマーケットでパートとして働いています。そして、月に一度、みやぎ生協の平和活動委員会でみやぎ生協のメンバーたちと平和について考え、学習し、活動しています。今回のこの公聴会のことは、みやぎ生協の方から声をかけられ応募しました。応募のときの原稿を読みたいと思います。

    憲法について思うこと

  私が日ごろ憲法について感じていることは、日本において憲法は実際のところ守られていないんじゃないかということです。男女平等といっても、仕事や家庭、社会通念においても平等ではないと感じています。個人レベルで改善される問題はあると思いますが。

  三月十日の新聞に掲載されていた記事で、広島の高校の卒業式での話ですが、君が代斉唱の最中に男性教諭の一人が着席したままだったことについて、校長が翌日の職員朝礼で、辞表を書いてもらいたいと発言したそうです。この男性教諭は、これまで自分は日の丸・君が代を強制することの問題点を生徒に話してきた、それに反するような行動をとることができなかったと言っていたそうです。どちらに非があるのでしょうか。こういう教師こそが憲法で守られるべきだと思いました。

  教師や国が、個性を伸ばし、自分の考えを表現できる人間を育てると言っても、教育委員会や校長がこのような実態であれば、個性的で自分の考えを自由に表現でき、創造性に富む人間が育成されるとは思えません。誠実な人間が処分され、心の中でどう思おうとも教育委員会や校長の言うことを聞く人間が優遇されていくのを見て育てば、社会や子供たちの心が荒れていくのは当然のような気がします。

  やるべきことは、今憲法を変えることではなく、たくさんの犠牲を払って生まれてきた憲法を誠実に守ることだと思います。特に憲法九条を。

  日本は、明治以来、富国強兵政策のもと、たくさんの戦争をしてきました。その結果、甚大な被害を出し、近隣諸国へ多大な迷惑をかけてきました。戦争はアジア太平洋戦争で最後だとしてきたはずです。当時、国民は戦争なんてもう懲り懲りだと思ってきたはずです。私たちは戦争の加害者にも被害者にもなりたくありません。

  憲法は時代に合っていないということはありません。憲法は、これから先、より誠実に生かして、守っていくべきだと思います。

というようなものでした。

 さて、今、憲法はアメリカの占領軍に押しつけられたものだからよくない、日本独自の、日本文化を大事にし、日本を誇りに思えるような、そして今の時代に合った憲法をと言っていますが、そういうことよりも、なぜ日本にこのような憲法が生まれたのかということをもっと考えた方がいいと思います。

 去年の五月、私たちのみやぎ生協平和活動委員会では、新しいメンバーを迎え、ことしはどんな学習をしていきたいかと話し合ったときに、森首相の神の国発言がありました。そのとき、メンバーは、なぜ日本はいつもこうなのか、また、なぜいつも大臣の失言が続くのかという発言が出されました。そして、日本はなぜアジアの国々からいつも謝ってほしいとか補償をしてほしいということを言われ続けるのかということが話題になりました。

 現在の日本がこうなのは、日本の戦後の歩みに問題があるのではないか、日本が戦後処理というものをきちんとしていないからではないかということになりました。日本の戦後を理解するためには、日本がしてきた戦争というものをわかっていないとだめだろうということで、満州事変から敗戦までをメンバーみんなで学習してきました。このとき教えてくださったのは元中学の社会の先生でした。

 学習するに当たって気がついたことは、私たちはまともに近現代史を義務教育の中で、あるいは高校で学習した記憶がないということでした。江戸時代、明治はそれなりの時間をとるのですが、大正、昭和になると、三学期の慌ただしい中、超スピードで進み、あっという間に戦争が始まり、そして終わり、新しい憲法ができて、国際連合に入り、日本は国際社会の仲間入りをして一安心というところで終わった気がします。だから、戦争というものを根っこの部分で理解しないままこの年まで来てしまったという感じがあります。

 今、新しい歴史教科書をつくる会主導の教科書が文部科学省の検定を通りました。中国や韓国を初めとするアジア諸国から非難を浴びています。歴史の事実を変えることはできません。私たちは歴史の事実に学び、反省し、二度と同じ間違いをしないようにしなければなりません。二十一世紀を担う子供たちには歴史の事実が書かれた教科書を使ってほしいのです。そして、その教科書で、今を左右する近現代史の部分を、戦争の歴史を、時間をかけて、ゆっくりと、わかるように学ばせてほしいし、学んでほしいと思っています。

 近現代史を勉強すると、なぜ日本に日本国憲法ができたのかということの事情が非常によくわかります。日本国憲法は、日本が長年してきた戦争を反省する上に立ったものであり、日本国憲法は、日本国民が、庶民が待ち望んでいたものであり、革命的な憲法であったと思います。憲法のおかげで私たちは五十五年間戦争をしないで済みました。憲法のおかげで夫や子供は徴兵されずに済みました。憲法のおかげで私たちは自由に物が言え、安心して暮らすことができました。私たち日本国民は、日本国憲法前文どおりに、恒久の平和を念願しています。そして、平和のうちに生存できる権利があるはずだと信じています。

 去年の十一月、私は、全国の生協のメンバーの人たちと沖縄の戦跡と基地を見学してきました。そして、嘉手納基地周辺に住んでいるメンバーさんから、騒音による被害の話などを聞いてきました。四月一日、アメリカの軍用機はここの嘉手納基地から飛び立ち、中国の軍用機と接触事故を起こしました。沖縄の人たちはとても怖い思いをしたことでしょう。沖縄の人たちにも平和に暮らせる権利があるはずです。

 私としては、日本国憲法には手をつけてほしくないです。もし時代に合わないところがあるというのなら、法律をつくって賄えばいいと思います。日本国憲法に手をつけられるのは非常に怖いです。憲法九条はずたずたですが、それでもきっと日本国憲法でしょう。憲法に一度手をつければ、一つが二つへ、二つが三つへと変えられていくでしょう。そして、それは日本国憲法ではなくなってしまうでしょう。

 消費税にしても、猛反対の中導入され、三%が五%へと簡単に変えられてしまいました。さきの日の丸・君が代だって、初めは強制しないと言っていたものが、今では強制むき出しです。国民性なのか人間性なのかわかりませんが、一つ崩れると、なし崩し現象というか、拡大解釈がまかり通ったり、何でも先回りしてしまう怖さが日本にはあると思います。

 ある新聞に、憲法調査会の議論が改憲論に流れつつあると書いてありましたが、だれがそういう流れにしているのでしょうか。憲法調査会ではなぜそんなに急いで憲法を変えたがっているのでしょう。どうか、すぐに結論を出さずに、憲法調査会の中だけで議論をせずに、広く行ってください。また、すべての情報を公開し、すべての国民が、今憲法調査会の中で何が行われているのか、どんな意見が出されているのかを知ることができるようにしてほしいと思います。そして、国民も意見が言えて、その意見を酌み取ってほしいと思います。

 最後に、憲法調査会はくれぐれも慎重に審議を重ねてほしいと思います。そして、私たちももう一度憲法を読み直してみましょう。私たちは恒久の平和を念願しています。日本国憲法は世界に誇れるすばらしい憲法だと思います。私たちはこの憲法を、二十一世紀の子供たちのために、世界の人々のために、私たちのために、大事に扱い、残していきたいと思っています。

 終わります。

中山座長 ありがとうございました。

    ―――――――――――――

中山座長 これより意見陳述者に対する質疑を行います。

 まず冒頭に一言、調査会長としてお断りをしておきたいと思います。

 ただいま齋藤孝子さんから、調査会における議論を公開しろという御意見がございましたが、あらゆる議事録は、衆議院憲法調査会のホームページに記載されております。外国からも日本の国会でどんな憲法論議がされているかを認識してもらうためには、英文でこれもホームページに記載をいたしております。議事録は全国会議員にも配付されておりますし、そのたびごとに憲法調査会ニュースも発行いたしております。これには、各党の幹事及び委員が全員異議を唱えておりません。

 そういうふうに、私どもは、公開で全面的に国民の皆様方に御理解をいただく、つまり、国民がこのすべての憲法の権利を握っているという認識のもとに運営していることを御理解しておいていただきたいと思います。

 きょうは、派遣委員団からいろいろとこれから御質問も出るかと思いますけれども、その前に、私から一点、総括的に質疑をさせていただきたいと思います。

 先ほど、遠藤政則君から御発言がございました。また、ほかの委員からも憲法の改正は反対であるという御意見もございましたが、私は、この件に関して、先ほども話がございましたが、憲法改正の発議、国民投票及び公布、憲法九十六条は、「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。」こういうふうに明記されております。ここで、あくまでも国民が主権者であるということをこの憲法は明確に示していると私は認識をしております。この条項が憲法九十六条の第一項であります。

 この手続を経た後で、もしその改正に対する国民の賛成が多かった場合に、そこで、第二項で「憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。」と明記されております。

 つまり、この憲法を守るということが私どもの義務であります。それはすなわち、先ほどお話のありましたように憲法尊重擁護の義務、九十九条で「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」と明記されております。憲法を守ることがここで義務づけられておりますけれども、この憲法の条項の中に改正の条項というものが明確に出ている。この問題について、きょう御出席の皆様方はどういうふうにお考えになるのか。どうぞひとつ、きょう御発言の順番に従って、それぞれ一言ずつ御発言を願いたいと思います。

 それでは、最初に手島さん、どうぞよろしくお願いいたします。

手島典男君 御質問でございますが、衆参両議院のそれぞれ三分の二以上の賛成で発議、それから国民に提案してまたその過半数の賛成を得るという二重の縛りは非常に厳しい条件でありまして、これでは、今までの歴史から見まして、ほとんど実現が難しいのではないかというふうに想像されますので、なるべくならばこの条件の緩和をすべきではないかと私は考えております。

 以上です。

鹿野文永君 九十六条、九十九条について私は異議を唱えるものではもちろんございません。九十六条、九十九条があることを承知の上で、現段階での憲法改正の議論はまだ拙速ではないかという考えを持ち合わせておるものでございます。

 以上です。

志村憲助君 私は、現行のままで厳しくしておくぐらいの重要なことであるというふうに理解しております。

田中英道君 これは、状況というものが刻々変化する中で、どういうふうに憲法というものをその状況に合わせて、そして日本の国民は正しく行動できるかということなので、ここのところをやはりもっと柔軟に解釈すべきだと思うのです。

 ですから、ここに三分の二とかあるいは過半数とか言っているのは、一体どういうことを意味するのか、もう少し再検討するべきだと思います。

 以上です。

小田中聰樹君 私は、我が国の憲法において、憲法改正には限界があるというふうに考えています。このことは、日本国憲法みずからが、例えば基本的人権については、永久の権利という、永久性、恒久性という言葉、これをいろいろなところで使っていることからも明らかなんですが、原理的に考えてみても、憲法改正には、その憲法の基本原則を否定するような改正は許されないという意味において、限界があると考えています。したがって、九十九条の憲法尊重擁護義務というのは、これは非常に重いものがあると考えるわけです。

 他方において、九十六条は改正を予定しています。しかし、この改正は、先ほど言いましたように、限界のある改正というふうに私は考えているわけでありまして、その意味で、私の先ほどの立論を敷衍して今の会長からの問いに答えるとすれば、九十六条には限界があるというふうに言わざるを得ないと思います。

久保田真苗君 私は、九十六条に改正の手続があるということは、非常に慎重ながら、絶対に憲法が完全無欠なものではないということを憲法は一応認めていると思います。ただ、十一条にありますように、基本的人権につきましては、侵すことのできない永久の権利だと、このことについて特に限定を付しているということがございます。

 また、改正がしにくいということですが、基本法でございますから改正がしにくいのは当たり前で、アメリカの憲法などは、三分の二のほかに州の四分の三という極めて難しい条件がついているくらいでございまして、日本の憲法は、特にそれ以上に難しい条件を付していることはないと思います。過半数ならば、普通の法律と同じという、憲法の地位を大いに下げることになると思います。

 どうもありがとうございます。

米谷光正君 ただいまの質問でございますが、九十六条の言っています改正手続というのはどういうふうに読むかという考え方に立ちますと、憲法というのは社会と国家と国民のために存在するという概念からいきますと、常に変更はし得るもの、改正は常にできるという最低限度のそれが原則であろう。そうしておかなければ、改正についての条文を置く意味はないだろう。

 それから、永久性とか恒久性という言葉は、これは永遠不可欠ということを言っているものではないと思っております。

 そういう面でいきますと、九十九条の憲法尊重擁護義務というのは、そういう認識のもとに憲法を考えるのであるならば、常にこれはし得る、当然そのことがむしろ憲法を擁護するもの、そのように思っております。

濱田武人君 国会でもいろいろな法律が過半数で成立しています。仮に国会で過半数で成立した場合、割と国民が考える間もなく過半数という形になってしまうおそれがあります。国会で三分の二というのは、かなり議論をし、かなり国民を納得させなければあり得ない。つまり、その議論をしている過程が国民に知れて、本当に変える価値がある内容があるというのであれば、恐らく国会議員の三分の二は可能性を持ってくるだろう。そういう議論をする場としては、三分の二という条項は、僕はとても大事なものだというぐあいに今考えています。

遠藤政則君 世論調査では、憲法を変えてほしいというのが半分以上、六〇%も行くんだと、いろいろな調査はあるわけですが、私は、具体的にこの条文をどう変えるというふうな提案をした場合に、果たして個々の改正条文に過半数の国民が賛成するものがあるだろうかと考えた場合、ほとんど、少ないんじゃないかなと思うのです。ですから、国会の過半数にしても、そんなに危惧することはないだろうと。国会が過半数なら法律と同じじゃないかというのですが、国民投票というのがその後にあるわけですから。

 それからもう一つつけ足させていただきますが、最高裁判所の裁判官の国民審査というのがございますが、国民審査するためのルールが決まってあるわけですね。なのに、憲法改正のルールがなぜ決まっていないのか、素朴な疑問、これが私が言うところの国会の怠慢じゃないかな、こう思っておるところでございます。

 ですから、最初に、九十六条を変える前に、九十六条の手続法というか基本法、それを実現していただきたいなというのでございます。

齋藤孝子君 よくわかりませんが、変えてほしくないので、改正しにくい方がいいと思っています。

中山座長 以上をもちまして私の質疑を終わらせていただきます。

 次に、質疑の申し出がございますので、順次これを許します。葉梨信行君。

葉梨委員 自由民主党の葉梨信行でございます。

 まず、手島陳述人にお伺いいたします。

 七項目につきまして、いろいろ検討すべきであるいう御指摘がございましたけれども、特に喫緊の課題として早急に対処すべきであると考えておられるのはどの項目でありましょうか。また、その理由をお聞かせいただきたいと思います。

手島典男君 七項目の中で一番私どもが懸念しておりますのは、現在の有事の際の危機管理のルールがはっきりしておらないという状態でございます。これにつきましては、自衛権の問題も関係はございますけれども、一つは、現状は、先ほどお話がございましたが、平和が非常に続いて、それを享受していると申されますが、我々の地域におきましては、いまだにミサイルが飛来してきたり、それから難民問題の到来とかいうような危険は絶えずあるわけでございまして、こういうときにどういうルールで国土を守り、皆さんの生活を守っていくかというルールがどうもはっきりしておらない。これはやはり一番急いでやらなければいけない問題じゃないだろうか。

 それから、自衛権の問題がはっきりしておりませんが、やはり我々の家を守るのと同様でございまして、家を守らなくてもいい、かぎはつけなくてもいいということで、相手方の善意で安全が守れるかというと、決してそうではないと思います。現行では、そういう不用心なところにはやはり入っていく、土足で入っていくというような感じの事件が非常に頻発しておりますので、こういうのはどこの国でも自衛権は明記しておりますので、この危機管理の前提として自衛権はぜひ明記していただきたい。我々が今一番心配しているのはこのことでございます。

 以上でございます。

葉梨委員 ありがとうございました。

 次に、濱田陳述人、遠藤陳述人、齋藤陳述人、それぞれ先ほど御意見を述べられまして、重複するかもしれませんけれども、皆様方それぞれお仕事を持っていらっしゃいまして、生活上の実感からいって、憲法と現実とがミスマッチをしているというようなことを実感しておられることもあろうかと思います。具体的に、どのような場面があるのか、そしてまたその原因はどこにあると考えておられるか、それぞれ簡潔にお述べいただきたいと思います。

濱田武人君 ミスマッチということですが、教師という立場で生徒に当たっている感覚からいいますと、私は、ミスマッチしていないという感じを持っています。細々といろいろなところにおいては確かにあるのかもわかりませんが、それは法律である程度解決していけるだろう。しかし、憲法の訴えている項目については、教師としては、教育現場で十分それを生かしていけるものだというぐあいに思っています。

    〔座長退席、鹿野座長代理着席〕

遠藤政則君 それでは、一つだけ例を申し上げます。

 私は、現在は私立高校なものですから、例えば、憲法学習をしているときに、まず八十九条の条文を読ませるわけです。いわゆる私学助成の問題ですけれども、やはり私立高校ですから助成を受けているわけです。君たち、それは八十九条に照らしてどうなんだと聞くと、二つの意見が出てくるわけですが、私、今行っているところでは、憲法に違反していないと言うのですね。これは、条文もきっちり読まないからなのか、あるいは助成をもらっているからそれでなきゃ困るのか、世の中がそうなっているからというのですが、私は、これは明らかに違反だと思うのです。私学助成は違反じゃないという学者の理論立ても最近出てきたようでございます。どうもおかしい、生徒たちは本当はそう思っているのですね。

 九条だってそうなんです。九条についても、必要か必要でないか、いろいろ、時々授業の初めか最後にアンケートをとっているわけですが、ただいまは私学助成の問題ですが、公立高校の場合と私立高校の場合、生徒たちの反応が違うのですね。だけれども、結局拡大解釈されている。もっと言葉を悪く言えば、大人たちは詭弁を弄している、うそをついている、こういうことなんです。じゃどうするかということは、言わなくてもわかるかと思いますので。

 以上でございます。

齋藤孝子君 私の職場では、今まで有給休暇は全部使っていたのですけれども、不景気になってきているということで、有給休暇が毎月とれないというか、そういう部分を求められているようなところがあるので、そういうところとかを感じたりしています。

葉梨委員 どうもありがとうございました。

鹿野座長代理 仙谷由人君。

仙谷委員 民主党の仙谷由人でございます。

 大変長時間をお使いいただきまして、公述人の皆さん方にきょうこうやって御意見を陳述していただきましたことを心から御礼申し上げます。

 そこで、先ほどこの憲法調査会の公開の問題が出ました。憲法調査会は、先ほど中山会長がおっしゃったように、すべて丸裸の公開がされているというふうに私も考えておりますので、その点の疑念はなきようにしていただきたいと思います。

 そしてまた、こういう議論をするときには、本当は私の意見をまず申し上げた方がいいわけでありますが、時間の関係で申し上げられませんので、私の意見は、この間憲法について考えてきたことを相当ホームページに載せてございます。民主党のホームページからリンクしていただければ、私のヨーロッパの訪問の感想等々を含めて、二十一世紀の日本の国の形をどう考えるか、憲法的に考えればどうなるのかということも含めて記載をしてあるつもりでございますので、皆さん方の御批判、御意見をいただければと思います。

 そういうことを前提にして、ただ、極めて簡単にスローガン的に私の意見を申し上げますと、今、日本あるいはヨーロッパ先進国が置かれている状況は多分、スローガン的に言えば民主主義の民主化、つまり、もっと民主主義を、もっと民主化を、もっと国民主権制を強くということが一つのコンセプトといいましょうか、共通のテーマだと思います。そして、日本的に言いますと、もう一つは、アジアの平和を実体的にどうつくっていくのか、その枠組みの中で日本がどう貢献し、関与し、共同作業をしていくのかということが実は問われているのだろうと思います。

 ただ、きょうはそこまで議論が発展しなかったものですから、ひとつ民主化の方、国民主権制の方をまず鹿野町長さんと手島さんにお伺いしたいのでございますが、日本の行き詰まりの最大の原因は、これはある種の憲法秩序、行政権は内閣に属するということが、すべて中央集権的な官僚機構のもとで行われていいんだというところに帰しているのではないかと私は思っております。

 そこで、先ほど来、本当の分権をどうやって実現するのかということが課題になっているのだと思いますし、地方分権推進法等々ができましたけれども、しかし実体的にこれが進まないのは、まさに財政、財源のところが何ら保障されていないというところに最大の問題がある。裏返していけば、分権と言いながら、依然として補助金行政を延々と続けるというこの構造が日本の病気の最たるものだ、つまり、ある種のモラルハザードを自治体の方にも起こす一方、とんでもない財政赤字の原因にもなっていると私は考えております。

 そこで、これを法律的、憲法的に考えますと、やはり自治体と国が対等であるというこの原則は何らかの形で憲法上規定した方がいいのではないかというのが一つ。もう一つは、同時に、課税自主権を憲法上の自治体の権限としてきちっとうたい込まなければ、こういういい加減なと言っては怒られますが、いい加減な資源配分が行われるようなといいましょうか、中央の官僚がいいようにするようなことになってしまっているのではないか、こんなふうに思っておるのですが、いかがでございましょうか。

鹿野文永君 申し上げます。

 地方分権に関しまして、財源の配分を強く求めていることにつきましては、委員のおっしゃるとおりでございまして、私も同感でございます。その措置を憲法の新しい枠組みの中で考えていくのかどうかということについては、私どもはそこまで踏み込んでおりません。むしろ、現在の地方自治の本旨の中で、法律でもって別に定めるとございます。その中で進めていただくように私どもは声を大にしていきたい、このように考えております。

 いま一点、内閣とのかかわりでございまして、分権とのかかわりでございますが、私の持論といたしましては、市町村と都道府県とそれから内閣、国の政府と、ある意味では地方政府が二重構造になっているわけであります。私は、そこに一つの問題があるし、現在推進されているところの市町村合併に関しましても、都道府県に関しましては全くコメントがないし、地方分権推進委員会でもその議論はおかれているわけでございます。そういう中でもって市町村合併の話が先行しているというのは、やはりそこに現実的な欠陥というか、議論の熟度がまだ足りないという判断に立っている。都道府県の問題と市町村の問題は一体で議論すべきではないか。そういった議論の結実のもとで、さらにその先に憲法というものとのかかわりがあるならば、そこで大いに議論しようじゃないか、私はそのように考えております。

手島典男君 今の御質問でございますが、日本の場合は、とにかく、もともと地方自治体の力というのは非常に弱くて、中央政府の任命とかなんとかで生まれてきたものでございますので、この辺が、ヨーロッパが、まあアメリカもそうでございますが、初めに州ありきということで、州が中央政府と約束して自分のいろいろな権限をつくり上げていったのと大いに違っているところではないかと思います。恐らく戦後の憲法をつくるときにもそういった欧米の例が頭にあったのではないかと思います。しかし、日本では、どういうふうに地方自治の本旨というのを説いたらいいかという答えが思い浮かばないまま、本旨という言葉が出ただけではないかと思っております。

 しかし、余りにも中央集権が進みまして、また経済的にも、とにかく中央の方にエネルギーが吸収されてしまって地方はなかなか力が出てこないというのが現状でありますので、もう一度ここで、その中枢になります地方自治の問題について、例えば中央政府は小さな政府としてどういう仕事をやっていくのか。これは、たしかドイツにあったような気がいたしますが、外交、国防それから経済の根幹にかかわるような問題、警察の問題、こういったことに限定するとか、そして地方はどの仕事を持つというようなことも思い切って規定していくということも必要ではないか、検討すべきではないかと思っております。

 それから、課税権の問題もやはり触れなければどうにもならない。今のところは、中央のいろいろな施策に対して地方も相乗りしてつき合っていくために、両方の赤字がふえているという状況でございますので、これも一つ出すべきではないかと思っております。

 簡単ですが、以上です。

仙谷委員 ほとんど時間がなくなりましたので、小田中先生に一点だけお伺いします。

 先ほど違憲立法審査権のお話をされました。しかし、日本の場合、最高裁判所の持つ違憲立法審査権がやや機能不全といいましょうか隔靴掻痒といいましょうか、なかなかうまく回転しない。それは、個別事件を通してしか審査できないというところに相当の原因があるのではないか。

 私ども、ヨーロッパを見ておりますと、憲法秩序が、法の支配あるいは法治主義ということが真っ当に行われるためには、どうも憲法裁判所なり憲法の審査院みたいなものがあった方がいいのではないかという気がするのですが、いかがですか。

小田中聰樹君 私は、刑事訴訟法という分野で研究してきた者なんですが、抽象的な法の解釈がどのようにして発展していくのかといいますと、通常は、やはりケースの中で生まれてくるのですね。ある事件に直面し、裁判官あるいは裁判所は、良心に従い、独立してぎりぎりまで考える。その中で、法の解釈というものが大きく動いていくことがあるわけです。その状況を考えてみますと、憲法の場合でも全く事柄は同じだろうというふうに思います。

 憲法判断というものが、最高裁判所も含めて下級裁判所等でもこれまで幾つかなされているわけですが、いずれも、ケースに即してぎりぎりのところの判断として、例えば違憲、合憲の判断が出てくるわけですね。ですから、私は、憲法裁判所をつくれば違憲立法審査権が活性化するというのは幻想ではないか。むしろ逆に、ケースに即して、一審、二審、三審と、具体的な事実と法に則しながらぎりぎりのところで出てくる憲法判断こそが本当の意味での憲法判断だし、そういう方向での活性化の道はまだまだ残っているというふうに考えています。その意味で、私は、憲法裁判所構想には疑問を持っています。

    〔鹿野座長代理退席、座長着席〕

中山座長 次に、斉藤鉄夫君。

斉藤(鉄)委員 公明党の斉藤鉄夫でございます。きょうは、貴重な御意見、本当にありがとうございました。

 最初に志村さん、それから濱田さんに同じ質問をさせていただきたいと思います。

 志村さんの意見陳述の中に、地球資源の限界それからエネルギー問題も含めまして、環境ということがこれからの生命、生物、人間にとって非常に重要な問題になってくる、この問題を見据えて、国のあるべき姿の論議が必要だということだったかと思います。そういう意味で、環境権ということを憲法の中に明記すべきだという意見がございますが、この点につきましてどのようにお考えか。また、濱田さんは、生徒との対話の中でこういう議論をされているということでございますので、お二人の陳述人の御意見をお伺いしたいと思います。

濱田武人君 環境権を憲法に盛り込むかどうかということについては、正直言って、盛り込むべきかどうかという迷いがあります。というのは、そこまで議論を進めていいかどうかというところが、まだ私の職場を含めても、広く議論されたり意見を聞いたりする場がないということがあるのかもしれません。

 ただ、環境のことに関しては、少なくとも生徒と渡り合っていろいろやっている限りにおいては、もっと人間の心を素直に持ち込むというか感じるというような視点の教育がなされないと、環境問題は全然そっちのけに置かれてしまうということが、生徒と会話をしてよくわかります。ですから、権利というよりももっと自然にわき起こったものとして、人間の心がよみがえるといいますか、そういう教育がなされるかどうかというところがまず一番大事なんじゃないだろうか。

 ところが、現場に行くと、英語の点数何点上げる、数学の点数何点上げるというようなことが主流であって、それ以外のところが非常におろそかにされているのが今の教育だというぐあいに私は思っています。

 ですから、そういう意味で、この環境権というものについては、先ほど言ったように、将来的にコンセンサスが成るのであれば、やはりそういう方向に憲法に盛り込んでいってもいいのではないかなとうっすらと思わないわけではないのです。だけれども、現時点では、もっと国民にそれをわかるように議論を巻き起こすことが先じゃないかというぐあいに思っています。

志村憲助君 斉藤さんの御質問ですけれども、私も、環境権というものが具体的にどういう形になるのか、余りイメージはしっかりしたものは持っておりませんので、しばらくはそういうことを念頭に置きながら、憲法調査会の中あるいは一般の国民の間で議論をして、そして環境問題というのは、先ほどちょっと申し上げましたように、地球レベルの話でございますので、ほかの国へ強力に呼びかけていく、それは今絶好のタイミングじゃないかと思っているのです。

 そして、各国の間でまとまりつつある一つの人間としての考え方を、時期が来たら日本の憲法にも入れるというところまで行くか、あるいはほかの法律でそれを何か処理する段階が入るか、私は法律のことを全然知らないものですから、そんなふうに考えております。ぜひ活動はしていただきたいというふうに思っております。

斉藤(鉄)委員 次に、もう一度志村さんにお伺いいたします。

 九条の問題で、最後に、相当な覚悟を持って九条は堅持すべきだ、こういうふうにおっしゃいました。どういう覚悟でございましょうか。

志村憲助君 それは甚だ表現しにくいのですけれども、先ほど手島さんもおっしゃいましたように、日本でも具体的なことが心配されるというようなことが起こっておりますけれども、九条のこと、それから今後の二十一世紀の人間のあり方を考えたときに、日本としては、平和で、武力を使わないでそういう問題を解決していこう、そういう覚悟をまず決める、要するにその覚悟ですね。

 それは、非常に危険な面があるかもしれないけれども、武力を使わないということ、今そういう憲法を持っているわけですから、その考えを改めて、いや、そろそろいろいろなことで心配になってきたから日本も武装しますよ、そして結局は武装すると原子爆弾まで行くと思いますけれども、そういう方針に変えましたということをもし仮に世界に宣言するようなことがあったら、全く逆方向に向かってしまうというふうに考えておりまして、まずは九条の線でいくという覚悟。

 それからもう一つは、そうなると、いろいろな心配事があるときには、常日ごろからその心配に対して手を打っていく、話し合い、結局は人間性に対する信頼性を基礎にして相手の国なり民族と話をしていくということなんですが、これは大変なことだと思います。武力でいきなり、暴力で相手を張り倒すというようなことよりはもっともっと大変なことだとは思っております。時間と労力がかかると思いますけれども、その時間と労力がかかっても、それをやり遂げることが今後の日本民族のあり方ではないか。そういう辛抱強い覚悟。二重の意味で、私はそちらに希望を持っております。

斉藤(鉄)委員 手島さん及びこの件について御意見を持っていらっしゃる方、どなたでも結構なんですが、首相公選制についてお伺いします。

 首相公選制について今いろいろな論議が巻き起こってまいりました。しかし、これは政治のリーダーシップを取り戻すためということですが、憲法改正がなくてはできない問題でございます。

 この点についてどうお考えか、手島さん、そしてもしそのほかで、ぜひ言いたいという方がいらっしゃれば、お願いいたします。

手島典男君 首相公選制につきましては、恐らく、余りにも現在の政党政治のグループというか派閥運営の結果がすっきりしないので、国民の大多数の方が業を煮やしておる、それならばおれたちが直接選びたいという気持ちから出ているのではないかと思います。

 しかし、公選につきましてはいろいろな問題もあるのじゃないかと思いますし、また、イギリスの議院内閣制におきましても、現に立派な首相が選ばれてリーダーシップを発揮している実例がいっぱいございますので、必ずしも憲法を変えてまで公選制に踏み切る必要があるのかどうか、私は大いに疑問を持っております。

 なるべくならば現制度の中で、そういう弊害を除去しながら、リーダーシップをとれる方を選んでいただければというふうに思っております。

遠藤政則君 首相公選制に賛成か反対かというだけでは、私は簡単にどちらとも言いかねるのです。

 といいますのは、ただ公選だけじゃないと思うのですね。天皇との関係がどうなるのか、議院内閣制がどうなるのか、いや、首相公選でも議院内閣制がやれるんだということもありますし、そういう具体的な案、それが出てきて議論しなければいけないのじゃないか。

 だから、抽象的な議論の段階ではないのじゃないか。首相公選制がいいと思われる方は具体的にたたき台を出していただきたいと思う、条文化したものを。そうなれば、我々国民も、職場でも少し話をする雰囲気が出てくるのじゃないかな、こう思うわけでございます。

中山座長 次に、藤島正之君。

藤島委員 自由党の藤島正之でございます。

 憲法問題を考えるには、やはり第九条の問題を避けて通れないと私は思うわけであります。先ほど手島さんは、その点かなり明確におっしゃっておられるし、非常に短い中で憲法全般についてよくおまとめになられていると思います。

 私は、憲法九条の理念は、侵略戦争をやらないということだろうと思うんですね。解釈についてはいろいろあるわけですが、基本はそこにあるというふうに考えております。

 どういう人間であろうと正当防衛権があるわけでございまして、急迫不正な侵害があり、他にとるべき手段がなく、そういう場合には必要最小限度で抵抗するといいますか、反撃する権能、これはだれにもあるわけでございまして、国家にも同様のことが言えるわけであります。したがいまして、ある時期にどういう憲法があろうと、国家として存続を否定できない以上、私は、自衛の権利はある、こう思うわけであります。

 先ほど、内向き外向きというようなことを田中さんはおっしゃっておりましたけれども、この点についてどういうふうにお考えでしょうか。

田中英道君 これは、日本人が、善意を持って、隣国や世界各国が平和を維持し、公正と信義を持っているというふうに思いたいわけですけれども、具体的にはそうではないんですね。それは、各国はそう思っているんです。しかし、国と国とのコンフリクトの場合には、それが相反することが多いわけですね。現実にそういう問題が起こっているわけです。

 ですから、皆さんの話を聞いていると、非常に平和であると。今までの五十年の日米安保条約があったおかげもあるし、自衛隊があったおかげもあるわけですけれども、そういうことで、確かに日本国は平和であったわけですが、そういうことが続くということを信じ切っているわけですね。あるいは、そういうことがあたかも当然のように思っているんですが、しかし、これはそんなことではないんですね。

 外向きというのはまさにそういう問題であって、そういうことを政治家の皆さんが、いわゆるぬくぬくといくことになれている人々に、いざというときにどうなるかという問題を常に問いかけておかないと、そのときになって、そんな話がなかったというようなことでは困るのです。そういう問題をぜひ具体的な問題の中で、それはまあ、ジャーナリズムを初めすべてがやはり平和ぼけになるわけで、そういうことではないんだということを今回も、台湾の問題にしても北方四島の問題にしても常にあるので、そのビビッドな対応ぶりを政治家が持っていないとこれは説得することもできないということなので、その辺でちょっとお話ししたいと思います。

藤島委員 ありがとうございました。

 おっしゃるように、十年前の湾岸戦争でも、イラクが突然にクウェートに進撃して、クウェートはもうめちゃめちゃになって、人権も何もないような状態になったわけであります。

 先ほど濱田先生、いろいろ教育の理念のようなことで、私は、濱田先生のような方が今高校で教鞭をとっておられるのを非常に心強く感じたわけであります。その際、九条の夢とロマンというものを非常に大事にしている、こうおっしゃったのですけれども、夢とロマンは非常に私も好きであります。よく理解できるのですが、今申し上げたような形で、現実にああいうことが起こり得るわけですね。そういうことに対して、教壇の場ではどういうふうに教えていらっしゃるのでしょうか。

濱田武人君 まず、今まで起きた紛争なり戦争なりを見ていると、太平洋戦争ぐらいまでは、いわゆる第二次世界大戦と言ってもいいのですけれども、やはり植民地支配下に置きたいという潮流の中で相手国に侵略していく。しかし、今このような図式が考えられるかどうかというのが、僕は一つの疑問です。

 仮に、湾岸戦争の場合、悲惨な目になりましたけれども、結局はいわゆる合同軍といいますか、ああいう形で問題解決しました。仮に、日本が同じような目に遭ったときに、世界がほっておくだろうか。ただ、多数の日本人が死ぬということは目に見えていますけれども、それにしても、日本人の生きるべき道というのは、多大な犠牲を払ったにしても、守っていけるだろうと私は考えています。

 それから、今一番心配なのは民族の問題です。

 これは宗教と絡みますけれども、ユーゴのあのさまざまな問題。大まかな言い方をしますと、日本にも少数民族はいますけれども、大枠、日本民族と言ったらいいでしょうか、こういう一つの形である程度コンセンサスを得、それから言葉も一つの言葉で大体話されているという国の中で、これが分裂を起こし、そして内部戦争が起きるということは、私には考えられない。

 そういうようなことを考えれば、確かに地球上ではまだ火種というのはありますけれども、幸いなるかな、日本はそういうことを乗り切っていける。その中で、いわゆる範たるものを世界に示していけるのではないか。民族なり宗教なりそういうもので対立していったならば、国家を滅ぼす、民族を滅ぼすといういい事例があるではないか。そうじゃなくて、やはりいろいろな形でまとまって協力し合っていける、そういう国づくりに入らなきゃいかぬ、それがおまえたちだということを私は生徒たちには言うんです。

 以上です。

藤島委員 最初の部分で、相当大きな犠牲があるかもしれない、あるいはあってもいいと、ここの部分は私はとても賛成しかねるわけでありまして、そういうふうなことがないようにする、これが現実の国家の最大の役目でなければならないんじゃないかなと思うんですが、この点について、遠藤さんはどうお考えですか。

遠藤政則君 個人的な意見という前に、一つ御紹介しておきたいことがあるのです。九条の問題ですが、子供たちに、具体的に自衛隊は憲法違反か違反じゃないか、必要あるかないかということを質問しますと、これは時代によって、二、三十年前には、違憲だ、違憲だということですが、最近随分変わってきた。

 それから、調査のときに、主として私は学校でやっている、生徒対象なんですけれども、学校によって五%、一〇%の違いが出てくるのですね。

 そういうことでお聞きいただきたいのですが、ことし、授業に入る前に、生徒にアンケート調査した項目があるわけですが、自衛隊は九条に違反するかしないかというと、違反するというのは二〇%、しないというのは四〇%なんですね。ああ、これは逆転したなという。それよりも、わからないというのが四二%。いろいろな調査でもわからないという層が相当出てきた。これは、生徒だけじゃない、国民にもそういう傾向があるんじゃないか。いろいろ考えてみたけれどもわからないということと、最初から考える気がなくて、そんなことわからないということがあると思うのです。

 それから、では、憲法違反であるかないかは別として、必要であるかないかと聞きますと、必要だというのは六三%なんです。必要ないというのが七%、わからないが二九%です。それで、おお、随分必要がいるなということなんですが、この内訳というか、どうして必要なんだろうと思って、別な項目を見ると、自衛隊の印象に対して、災害救助に活躍するのが自衛隊だ、印象がこれが一番大きい。攻められたときに守るんだとかなんとかというようなことよりも、それが圧倒的に多い。それが自衛隊に対する子供たちの認識だろうと思うのです。

 私自身、九条については、はっきり申し上げましてどうすればいいのかわかりません。憲法を変えないで、三項を設けたらいいんじゃないかという議論もあります。それから、平和基本法というのか何というのか、それでやればいいんじゃないかという考え方もあるようでございます。いずれ、これもやはりどこかで具体的なものを提示して、それが国会の過半数を通らなくても、国民の過半数を通らなくてもいいんじゃないかと私は思います。国民がそれをチャンスにして議論する、これが大事じゃないか。だから、思っていられる方、ちゅうちょなさらず踏み込んでいただきたいということでございます。

藤島委員 終わります。

中山座長 春名直章君。

春名委員 日本共産党の春名直章です。きょうは、十名の陳述人の皆さん、本当にありがとうございます。

 最初に、小田中陳述人に二点お伺いします。

 先ほど、民主主義、自由、人権、平和、これが一体的に一貫性を持って体系づけられている、これが日本国憲法であるというお話をしていただきました。その中身を二つの角度から少し突っ込んでお話しいただきたいと思います。

 一つは、前文や九条に示された、今お話も出ましたが、恒久平和主義の問題です。この先駆性という点がどういうところにあるのか。同時に、その九条を今二十一世紀に実現していく条件や可能性といいますか、こういう問題も今大事になっているというふうに思うのです。この点について、ぜひ御意見を聞かせていただきたい。

 二点目は、人権規定の問題です。日本の憲法は、三十条にわたって豊かに人権の規定があります。特に、お話があったように、生存権だけではなくて、社会権そして自由権、こういう人権規定が世界の中でどのように先駆的なのか、また、どうこれから生かしていったらいいのか、そのあたりについてお聞かせいただきたいと思います。

小田中聰樹君 私が、日本国憲法が一番すぐれていると思うのは、実は九条なんですね。戦争放棄というものあるいは平和主義の徹底という点においては、世界にほとんど例を見ないほどの条文であることは皆さんも御認識のとおりなわけです。

 よく考えてみますと、人権を考えていけば、やはり平和に行き着くわけですね。つまり、平和に生きる権利というものが憲法学界でも主張されているくらいに、人権というものを徹底的に考えていけば、やはり平和でなければいけない、平和でなければ人権はあり得ない。これは、日本国もまた太平洋戦争等において体験したところであるわけです。

 同様に、自由権にしても社会権にしても、平和というものと結びついたときに初めてこの生存する権利というものも具体化されていくし、自由権もまた平和というものと結びついたときに初めて活性化してくる。つまり、基本的人権とか自由とか民主主義とかあるいは社会権、生存権、これが実に見事に一体的なユニットをなして構成されている。そこにおいて一点の曇りもないというところが日本国憲法のすぐれたところだと私は思うのです。

 そういう日本国憲法であればこそ、私が先ほど強調したことは、いろいろな問題が戦後五十年間出てまいりました。日本の国外、国内、さまざまな問題が出てきましたけれども、大局において、日本は戦争に加担せず、それからまた、経済の面においても、人権を少しずつ発展させながら、経済発展も遂げながら、そして民主主義というものについても、少しずつであっても前進させてきた。それは、憲法があればこそ、つまり、もっと正確に言えば、憲法をよりどころにした憲法運動があればこそ、それが国会内にも反映し、行政にも反映していった結果ではないか。私は、そういう立場に立って先ほど申し上げたわけです。

 そういう意味でも、全体的なすぐれている点を私は強調したいというふうに考えているわけですが、御質問の点は、恒久平和というものの先駆性についてどう考えるかという御質問でありました。

 私は、非常にその意味で先駆的なものだと。つまり、不戦条約などが戦前から国際的に結ばれたりしてまいりましたけれども、戦後、国際連合というものが世界人権宣言のもとに結集しながらつくられている。そして、集団安全保障というものがそこで形成されている。しかし、日本国憲法はもう一歩進んで、戦力を保持しない、武力を行使しない、侵略戦争はしないという決意を国是として表明したわけですね。

 これはまことに先駆的なものであって、先ほど久保田先生からもお話があったように、世界的にも非常に評価されてきているといいますか、知られるようになれば評価されるということでもあるのですが、そういうことになっているゆえんだと思います。その意味で、日本国憲法はまさに二十一世紀の憲法であるということを私は申し上げたいわけです。

 条件は果たしてあるかという御質問ですけれども、条件は、まさに今のように、世界的にもすぐれている、先駆性がある、徐々に認められつつあるというところに、我々は生存をかける条件があるのではないかというふうに考えるものです。時間があれば申したい点は多々ありますけれども、基本的にはそのように考えております。

 それからもう一つ、生存権、社会権というようなことについても、やはり日本国憲法は先駆性を持っているわけです。ワイマール憲法が社会権というものを認知したことで有名ですけれども、日本国憲法もまた、そのワイマール憲法に倣いながら生存権というものを保障した。これは、先ほどもちょっと総論的な意見陳述でも述べましたように、例えばグローバリズムとかあるいは市場原理というものが入ってきて、いろいろな国は、ヨーロッパも含めて、その対応に苦慮しているわけですね。

 その中で、日本国憲法は、社会権、生存権という規定を憲法に置き、その問題に対してどう対処すべきかという道筋は既にあるわけです。私はそのことを強調したいと思うのです。その意味でも、日本国憲法は二十一世紀にふさわしい憲法である、我々にとって大変大切な憲法であるということを強調したいわけです。

春名委員 鹿野町長さんにお聞きしたいと思います。

 地方自治を担って住民の暮らしを守る最前線にいらっしゃるわけで、先ほどの陳述、大変感動をもって受けとめさせていただきましたが、そういうお立場にある町長さんにとって、この日本国憲法はどういう重みを持っていて、そして、これから地方自治や暮らしを守るという点で憲法の精神や理念や条文、中身をどのように生かしていくのか、こういう点でもう一つお聞かせいただけたらと思います。

鹿野文永君 実は、今回の機会をいただきまして、私も大変感謝申し上げております。

 それで、私の原風景をインプットしていただいた母校、鹿島台中学校にいま一度訪ねまして、現在の憲法教育について、校長と担当の先生から承ってまいりました。切り口は、私どもが逐条的に教わった時代とは五十年たっておりますので変わっておりまして、今度は人権という観点から、もっと具体的な事例から、そこから敷衍して憲法全体について理解を求めていくという教育方法をとっているということを聞いてまいりました。しかし、基本は、やはり情熱を持って、しかも日本国憲法のまさに人類の規範的な原理であるところのものを説くことについては、非常に、まさに目の輝きを持って教育に当たっている様子が私にはよくわかったわけです。

 それで、思ったことでございますが、しかし、それらの教育の時間とか体制とか、そういうものについてどれだけ確保されているかということになると、大分また時代が変わっていて、十分な時間が指導要領その他の中で今後確保されるということについては、かなり選択制が高まっているというふうに判断したところでございます。一概に減っているとかどうかということについては私も検証いたしてございませんが、かなり流動的なところにあるように感じられたところでございます。

 つきましては、やはり、そのことについて地元の教育委員会が中心になりまして、憲法教育というものを、十五の春になる以前から十分に、これからの時代を担う青少年に教育を施すような環境をつくっていくべきではないか、このように思ってまいりました。

 一方また、私の恥を申し上げるのでございますが、ちっちゃなちっちゃな町の、図書館とは言えないのですけれども、ただ本が置いてあるだけで、県内でも一番貧しい図書館を抱えておりまして、私の恥なんでございますが、そこに憲法コーナーを設けてあったんだろうかと確認をしに行ったのでございます。残念なことに、地方自治に関する全集のたぐい、それからまた六法全書のたぐいはたくさんあったのでございますが、憲法コーナーは全然なかったんです。まず自分がしなきゃならぬことはそういうことなのかというふうに思いました。

 一々の施策その他につきましては、また機会を見てと思っております。

春名委員 どうもありがとうございました。

中山座長 以上で春名君の質問は終わりました。

 次に、金子哲夫君。

金子(哲)委員 社会民主党の金子哲夫でございます。

 最初に手島さんにお伺いをしたいのですけれども、お話の中で、平和主義・民主主義、基本的人権の尊重など高く評価をされて、また、戦争放棄という現行の理想に加えて、大量殺傷兵器の廃絶を訴えることも重要だということをおっしゃっておりまして、私はその点については非常に同感なんですけれども、そこから自衛のための組織というところにいくのが私にはちょっと理解できないわけです。

 その点をおきましても、お伺いしたいのは、日本国憲法が成立した時点で、手島さん自身はどのような考えをお持ちだったか、お聞かせをいただきたいと思います。

手島典男君 当時の制定経過を皆様からちょうだいした資料で拝見いたしますと、当時の条文におきましても、「前項の目的を達するため、」ということで、自衛のための組織はある程度認められるような話もあったと言われておりますし、また現に、もう既に自衛隊も何年か前の連立政権で半ば存在を認知されたというようなこともございますので、事実上存在しているのではないかと思うのです。しかし、先ほど学校の先生のお話を聞きますと、まだ非常に疑問を持っている方がいる、何だかよくわからないという方もおりまして、それは、やはり文言があいまいなためにそういうことになっているんじゃないかと思います。

 私が考えておりますのは、とにかくどこの国の憲法でも、自分の国を守れないということはないはずなので、どこの国でも自衛権というのはお持ちだと思っております。しかし、周辺に誤解を避ける意味で、また何か日本がやり出すのかというような誤解を一切避けるために、今まで掲げました戦争放棄とかそういうことについては厳然として強調するとともに、もう一度、大量殺傷兵器の廃絶というのは、これは核だけでなくて、現在いろいろな地域で行われております、若干プリミティブではありますが、地雷のようなものまでも全部禁止すべきではないかと、それを日本がまず先駆けて訴えてもいいんじゃないかというふうに考えております。

 しかし、とにかく自衛権というのは、それを自分が捨てたからといって、これは非常に結構だ、あなたの国には絶対に乗り込んでいかないという保証はないわけでありまして、これ幸いと何か乗り込んでくる方もいないとも限らない。こういうことはやはりまずい。どこの国の憲法もここまでは言っていないはずだから、これはきちんとしておいた方がいい。しかし、誤解を避けるために、先ほどのような殺傷兵器の廃絶とか、要するに、もし何かあった場合の、緊急事態の、有事の際の危機管理、これだけはきちんと定めておくのはやはり政治の責任ではないかと思っております。

 それから、先ほどからちょっと二十一世紀向けの憲法をつくれつくれというお話がございましたが、やはりこれはもっと二十一世紀らしい、二十一世紀に当面するであろう問題に対しても正面から取り上げた条文の提示があっていいわけでありまして、地球環境の問題とか国際機関の行う平和維持とか、そういったものに総合的に日本は二十一世紀には取り組むんだよという姿勢を見せれば、先生のおっしゃるような疑問、あるいは各国が持つであろう疑問もだんだん消えていくのではないかというふうに思っております。

中山座長 質疑時間が限られておりますので、御答弁は簡潔明瞭にお願いをいたしたいと思います。

金子(哲)委員 私は先ほど、質問は、その憲法が成立したときにどのようなお気持ちをお持ちだったかということをちょっとお聞きしたかったのですけれども、それを答えてもらえなくて残念です。

 久保田さんにお伺いしたいと思いますが、私は、広島におりまして、この憲法を考えるときに何よりも大切なのは、この憲法がどんな背景で生まれたかということを抜きにしては、憲法問題は論じられないと思っております。

 それはやはり、広島や長崎、そして沖縄だけでなく、アジアの人たち、とりわけ私は、戦争の中において民衆が大きな犠牲を受けたということが一番大きな、この平和憲法があのとき多くの国民に支持をされて迎えられたその背景にあると思うのですね。ですから、私は、その歴史というものを決して忘れてはならないし、そのことを原点にしなければこの憲法を論ずることができないのではないかというふうに思っておりますが、どのようにその辺はお考えでしょうか。

久保田真苗君 広島で長くお暮らしになった経験をお持ちで、実際にその当時のことはもう議員の方がよく御存じだと思います。ただ、あのとき確かに、大変な原子爆弾の被害、沖縄の被害、それから東京大空襲を目の当たりに見た、そういったものがありまして、一日も早くこの戦争の地獄というものから逃れたいと思っていたけれども、なかなかその時期が訪れなかった。だから、このときに、もう二度とやらないという、これは本当に私どもは歓呼の声を上げてこの九条を、あるいは前文を歓迎したところでございます。それなのに、今それがなくなって、忘れちゃったからもういいんだということにはなかなかならない。

 それは、その被害を受けているのが、日本人でもあると同時に、近隣諸国の民衆でもあるからです。第二次大戦以降、民衆の受ける戦災が非常に多くなりまして、今では、兵隊は死なないけれども住民は死ぬ、財産を失う、そういう状態でございますから、私は、この九条というのは、実際の実態に照らして、どこを一体相手にそういうことができるのか。もうあるものなんですから、この九条を取り下げるということは、一体だれがどう思うのかというところをよくお考えいただきたいと思っているのです。

金子(哲)委員 実は、私は、ちょうど一週間前に中国へ行ってまいりましたけれども、北京大学の学生とお話しする機会がありました。歴史教科書の問題を中心にしてお話をしたのですけれども、十五名参加予定のうち九名しか出席がありませんでした。その中に、歴史問題についてもうこれ以上触れたくない、つまり、繰り返し繰り返し日本の中でこういう問題が起こることに対する怒りというものが非常に強くありました。

 遠藤さんにお聞きしたいのですけれども、先ほど、現実の自衛隊に対する認識とかそういうアンケートのお答えをいただきました。今、先生の学校では、いわば戦争の歴史といいますか、戦前の歴史についてはどの程度授業の中で教えられているのでしょうか。

遠藤政則君 結論から申し上げます。

 時間不足で、十分というよりもまさに不十分でございます。個々の先生によって若干違いはあると思いますけれども。

 あと、やはり歴史教育でしょうね。政経の科目も、二、三十年ぐらい前までですと明治の憲法から結構入っているのですよ。最近の教科書は、その辺は大分カットされているのですね。だから、どうしても日本史の授業は歴史教育となるのですが、現実は、そこまで進まないでしまうことが多いんじゃないでしょうか。ただ、受験校の場合は、やらなきゃならないものですから何とかかんとかやりました。だけれども、それは受験のためですから違ってくるのですよ、いかにして点数を拾うかということなものですから。

 私、個人的な感想で言うと、トータルでいけば不十分だろうと思います。

金子(哲)委員 ありがとうございました。

中山座長 以上で金子哲夫君の質問は終わりました。

 次に、小池百合子君。

小池委員 本日は、皆様方、ありがとうございます。

 かつては、憲法を国会で論じるということは、予算委員会の場でわずか論じてもすぐにストップをしてしまうということで、ある種タブー視されていた時代が長く続いたと思います。その意味では、こうやって地方にも出かけ、公聴会を開き、憲法をそれぞれの視点から語り合うというのは、これまでになかった新しいフェーズに入ってきたのではないかと私自身は大変うれしく思っております。

 そういった中で、幾つかお伺いもしたいところでございます。

 これまでの議論では、例えば、憲法を擁護する義務があるのだから、それに対して改正云々を言うのはおかしいといった御意見などもございましたけれども、憲法問題、往々にしてオール・オア・ナッシングの議論になってしまうということで、手島様の方からは、それよりも、むしろ一つ一つ実績をつくって進めるのが現実的ではないかというお話があったかと存じます。

 私は、むしろオール議論でございまして、時代に合わなくなったからとか世界の流れと合わなくなった、もしくは、外国ではしょっちゅう変えているじゃないかといったような議論もございますけれども、むしろ私は、一度、真っさらな段階から、我が国はこうあるべきだ、こういう方向を目指すのだといった形で書き直した方が早いのじゃないか、そういうスタンスを持っている一人でございます。

 そしてまた、それを積み重ねていくことによって、現在の憲法に極めて近いものになるかもしれませんし、条文の中には似通ったものも出てくるかもしれない。むしろ、そういった発想も必要なのではないかというふうに感じているところでございます。

 スイスではそれをやって三十年かかったということでございますから、先ほどの手島さんの御指摘の現実論というのも、それも考え方だと思いますが、私自身は、オールの議論から入るのも一つではないかということで提案をさせていただいておるところでございます。

 そしてまた、完全無欠ではないということもお話ございました。

 これは先にお名前を申し上げておきますと、鹿野さんと久保田さんと米谷さんからそれぞれ御意見を伺いたいと思います。

 私は、その中で、憲法の中にどうしても本来は組み入れるべきではないかと思っているのが、情報公開でございます。きょうは、残念ながら、時間の制約もあって、情報公開の話、その点についてお挙げになった方はほとんどいらっしゃらなかったと思います。地方におくれをとって、ようやく国、中央の情報公開も始まりました。もちろんそれは情報公開法が施行されたからでありますが、これはむしろ憲法に掲示すべき項目ではないかと私は考えております。

 今の政治と行政のさまざまな問題、これは多くの部分で、情報公開によってかなり前進する部分がある。そしてまた、透明性を持つ部分がある。そして、国民が政治、行政に対しての信頼を寄せる、その逆になるかもしれませんが、そういった一つの大きなアイテムだと思うわけでございます。その考え方について、どういうふうにお感じになるのか。今申し上げました三名の方からお答えをちょうだいしたいと思います。

鹿野文永君 一言で申しまして、情報公開を憲法にうたわなくても情報公開が不可能でないことは既に実証されているわけでございます。それぞれが進めております。

 憲法が掲げている理念の中に情報公開という言葉がなければそれを足さなければならない、オール・オア・ナッシングの中のオールの中にそれを加えるべきであるというのは、議論としてあると思いますが、では、それを理由に改正を進めるのかいうこととは別な議論だと私は理解しておるわけでございます。

 以上でございます。

久保田真苗君 情報公開そのものは大変必要なことです。ただ、私、一般法で早く具体的にやる方がいいと思うのです。

 憲法でやるということは、小池先生のおっしゃるように、書き直した方がいいとまで言うことになりますと、これは今の憲法との間の関係の調べがまた非常に大事だというふうに思いますから、三十年、五十年とかけてもよろしいのじゃないかと思うくらいです。それならば、ぜひ一般法で早く、できるだけ具体的にお願いしたいなと思っております。

米谷光正君 御指摘のことでございますけれども、情報公開というものでしたら、憲法にわざわざ入れる必要はないだろうと私も思っております。

 ただ、現在の情報公開法では甚だ不十分でございますし、特に人権との関係でいきますと、情報公開なくして人権云々はもう言えない時代でございます。そういう面では間違いなく必要なことだろうと思いますが、憲法に入れるとなりますと、今度は、プライバシーの問題との関係の方もまた、これは同じ人権との関係で、まさに比較考量の問題になってしまうおそれがあるのではないか、その辺を認識した上での情報公開であってほしいと思っております。

 今すぐに入れるというのはちょっと難しい点があるのではないかとは思いますが、全部初めからやってしまう、初めから書き直してしまうのだという部分であるならば、入れる可能性は十分あるのではないか、そういうふうに思っています。

小池委員 最初に申し上げたところのインパクトが強過ぎたのかもしれませんが、情報公開の部分を入れるか入れないかのことのみを伺ったわけでございまして、それで一気に何か進めようという魂胆で、そのツールとして使っているわけではないということを明確にしておきたいと思っております。

 もう一点でございますが、今度は、手島さんと田中先生に伺いたいと思っております。

 特に田中先生の方は、十七条の憲法を引き合いに出されまして、和をもってとうとしとなすという懐かしい言葉を引き出していただいたわけでございます。まさに今リーダーシップが問われていて、和をもってとうとしとなすというのは、また別の言葉で言うとコンセンサスという言葉にもなる。

 リーダーシップとコンセンサスが両立しないことは全くないと思っております。いろいろな民主的な状況を踏まえて、その上で、最後に決断を下すというリーダーシップが当然あり得るべきだとは思うわけでございますが、このところの政治不信等々も、このリーダーシップというのが本当にあるのかどうなのか、もしくは発揮されていないのではないのかといったような不満もあるところでございます。また、ある種のリーダーシップを振るうと、どうもそれは民意と違うというふうなことで、そごを来したりする。どうもこれは、政治の世界のみならず、今、日本のどの部分を見ても、リーダーシップの欠如ということも言われて、感じられてきているのではないかと思います。

 内閣総理大臣というのは、これはむしろ内閣法の方に記されているわけでございます。また、これまでの、戦前の、それこそいろいろな悪夢などを振り返ってみますと、どのような形で権限を持たせていくのかというのは大変難しいといいましょうか、重要なポイントになってくると思っております。

 憲法の中でのリーダーシップということに限らず、最近の状況、もしくは理想とするリーダーシップなどについて、今のお二方、手島さんの方からお伺いさせていただきたいと思います。

手島典男君 もう一度お伺いいたしますが、リーダーシップというのは、政府というか憲法自体の……

小池委員 憲法を通じてということで伺わせていただきます。

手島典男君 日本の場合は、今までほとんど憲法の改正がなかった。特に、ほかの国と比べますと、だんだんと一般の我々の生活感覚と離れてしまいまして、あの憲法は一体何なんだろうというような感じが出てきているのじゃないかと思います。

 ですから、現にいろいろ出ている問題、それから特に二十一世紀に大きく問題になるだろうというようなものにぜひタックルしていただいて、それに対して憲法がどういう指針を出してやるか、あるいはビジョンを出してやるかというような、例えば環境問題、情報問題もあるかもしれませんが、そういうのを入れていただくと、我々にとって非常に身近な憲法になってくるのじゃないかと思います。

 そういう、改正といっても、いい方に向かう改正もあるわけですから、ぜひ前向きに取り組んでいただければなというふうに思っております。それが結局、憲法の吸引力というかリーダーシップになるのではないかと私は思っております。

田中英道君 まず、この憲法自体が、いわゆる西欧の市民主義とか、あるいはフランス革命以後の西欧のある種の民主主義というものをとにかく日本に持ってきて、そして、一応西欧の支配の最後の、東京裁判なんかはそういうところがあるのですが、ゆえなき裁判をやって、ある意味で日本というものを否定したということがあるわけです。その後の巧妙な宣伝が非常にうまくいったために、アメリカが検閲をどんどんやりまして、それ以後の言論をいつの間にか消していったわけですね。我々は、それが民主主義だと思って、戦後ずっと来たわけですが、それは巧妙な作戦だったということがだんだんわかってきたわけです。

 日本人というのは決して、右翼とか皇国史観とか、戦前のいろいろなことを今極端に言いますけれども、やはり普通の方々が生きてきたわけで、そういう中で、日本人の知恵というものがあるし、それから、今おっしゃるように、リーダーシップの問題もあったわけです。日本というのは、私が聖徳太子のことを挙げたのは、和をもってとうとしとすというのは、そういうところにもう既に民主主義があるのですね。必ずしも一人の独裁者みたいなリーダーシップを必要としないのだという、またそれのコンセンサスもあるわけです。

 ですから、問題は、今何か日本人同士が不信感を持ち合っているようなところがある。政治家を、一度首相になると、すぐに引きずりおろすような、恐らく西欧だったら、この程度のことだったら絶対やめさせることがないようなことでも、例えば法案を出して失敗したり、総攻撃を受けたりというようなことじゃないわけですね。そういうことまで不信感を持つような、和をもってたっとしとすべしということが悪用されているというか、また引きずりおろすようなところに持っていっている問題がある。

 私は石原慎太郎を見ているのですけれども、決して、前のようなナショナリストでも、前のような右翼でもないのですね。今、外向きの、つまりアメリカに対しても中国に対しても韓国に対してもはっきり物を言う。そうしないと、日本がアイデンティティーを持てないわけですよ。

 教科書問題だって、中国の教科書をごらになってください、日本は全く悪者ですから。そういうことに全く触れないで、日本が悪い悪いというふうに思い続ける、そういう姿はやはり日本人は今少しは反省しなくちゃいけない。

 それから、戦後五十年というのは、そういう問題をしなくちゃいけないのです。なぜかというと、冷戦が過ぎまして、いわゆる共産主義、資本主義の対立がなくなった。中国でさえも資本主義化しているわけですから、そういう中での新しい日本の構想というのは、日本がこれだけのことをやれた、やってきたということへの自信をもう一度持つこと、そして、それをまたもう一度吟味するということ、そこがないと、二十一世紀なんて言えるわけはないのです。

 今、日本は平和だ、あるいは平和が来たのが平和憲法のおかげだなんて、そんなことはないのですよ。大体、今だって駐留軍があるのですから、それから日本の自衛隊もあるわけですから。そういうことです。

小池委員 ありがとうございました。

中山座長 以上で小池百合子君の質問は終わりました。

 次に、近藤基彦君。

近藤(基)委員 21世紀クラブの近藤でございます。

 私は、この憲法調査会に入れていただいたのがこの前の総選挙後であります。まだ一年生議員であります。そのときに、まだ憲法をそれほど勉強していない時期に、私自身のつたない意見を述べさせていただいたのは、この日本国憲法というのは、理念的には大変立派にできている、ただ、基本法で、国の礎でありますから、非常に難しいというのは確かだろうと思います。難しくて、権威があって、もしかするといいのかもしれませんが、別な意味で、もう少し平易な言葉で、解釈を入れずに読みやすい、サブ的なものがあってもいいのではないかという話をして、実は、原文を、これは英文になっていますが、若い大学生に、今の憲法じゃない、もう少しわかりやすい文章で訳してみてもらえないかと依頼をしたことがあります。返ってきた答えは、大変いい現行憲法の条文である、これ以上平易にすると解釈がいろいろ出てきてしまって、我々の力ではちょっと難しいだろうということでありました。

 今、高校で現実に教鞭をとっていらっしゃいます濱田先生と遠藤先生にお聞きします。

 憲法を生徒たちが読んでいるか読んでいないかは別にしても、当然、読ませる努力というか、授業ではあるだろうと思うのですが、そのときの憲法そのものに対する、中身じゃなくて、そのものに対する、見たときの印象でも結構ですし、あるいは文章的、もう簡単なことで結構なんです。難しくてよくわからぬとか、そういうことで結構なんですが、ちょっとお聞かせいただけるとありがたいのです。

遠藤政則君 私も、憲法を平易にするということは、先ほど時間がなくなって述べられないでしまったんですけれども、全く同感ではございます。

 ここに、やはり調査したのがあるんですね。生徒たちはどうして憲法が理解しにくいかということがあるんですが、時間の関係で省略しますけれども、とにかく、生徒のためというよりも、一般国民は、こう言ってはなんですが、憲法を理解していないどころか読んでいない。なぜ読まないのか。日常的に必要ないからということもあると思いますが、読もうとしても抵抗を感じるようですね。

 先ほど書き直しのお話がございましたけれども、全文わかりやすく書き直すというのなら私は賛成です。そうでなかった場合、一たん今のものを廃止するということでしょうか。そうすると廃憲ということなんですが、そうすると百何条か何かの条文がだあっと出てきますね。仮に国会で三分の二で通ってそれを国民投票としたとき、国民全部、一人一人判断できるでしょうかということですね。それから、憲法改正するしない、書き直した方が手っ取り早いんじゃないかということもあるけれども、やはりこれは、国民の方から考えたら一つ一つやっていくことだろうと。

 スイスでは、あるいはフィンランドでしたか、去年ですか、新しい憲法ができた。スイスも新しい憲法にしたというんですけれども、今までスイスなんかは何回か改正しているわけですね。そうすると、整合性が合わなくなったのかどうかわかりませんが、何かごちゃごちゃになっちゃったからなんでしょうね。それをすっきりするために書き直したんだというふうに私は理解しておるんですが、もし違っていたら後でお教え願いたいんですが、そういう形の書き直し、あるいは文章表現。

 「口語憲法」とか「口語民法」とかというのが出ていますけれども、自由国民社だったかな、あれを読んでもわけがわからないですね。

 以上でございます。

濱田武人君 うちの学校では、社会科の先生が大体年一回、全校生徒に向かって憲法の前文と第九条のことを放送なり全校生徒の前で聞かすという場面があります。その場面、毎年三年生まで行きます。三回聞きます。三回ぐらい聞いてくると、授業での補足ということも当然考えられますから、三年生ぐらいになってくると、ナウいねという感覚を持つ生徒がかなり出てきます。最初は違和感を持っていても、やはり二度、三度、そういうものに聞きなれてくると、なかなか意味深いねという言葉とか、それはいい意味で意味深いねということで、いいじゃん、こういうような反応が圧倒的に多くなってくるのがうちの学校です。

近藤(基)委員 米谷先生に一つだけお聞きをしたいのです。

 十三条と二十五条を引用されて、先生の福祉の関係の項目でありますが、人権と権利というのは二重権利、あるいは生存権の乖離性という話。別に十三条、二十五条に限ったことではなくて、我々が例えば議員立法をつくるときに、あらゆる法律の基本が、あるいは国の基礎が憲法だということは承知をしておっても、じゃ、憲法からその法律を始めようかとする人はだれもいないと思います、多分。よほど人権あるいは個人情報法とかプライバシーに関すること、そういうことがうたわれていればそうですが、基本法の中でも例えば農業基本法あるいは水産基本法、ひょっとすると教育基本法を考えるときにも、憲法というのは我々議員の頭の中にあるのかどうかわかりません。

 そういった意味で、各条文にのっとった法律あるいはそれに関連した法律というのを非常に今拡大解釈をし過ぎている部分が出てきているんではないのか。あるいは、もう拡大解釈をしないと今の現代社会に合ってこない、ただし、それももうそろそろ限界に来ているのではないかという議論もありますけれども、先生のお考えをお聞きしたいのです。

米谷光正君 まさにそうでございまして、先ほど挙げました堀木訴訟、朝日訴訟、塩見訴訟もそうでございますが、実際の法律と現場とが相当食い違ってくる。最終的には、最高裁も裁量権だと逃げていくしかないわけでございます。

 そうしますと、じゃ、憲法の生存権の規定は一体何なんだ、こういうふうに翻って論理的に考えてみますと、果たして本当に、行政権の裁量の部分にだけ最後任せてしまう、立法府の裁量権だとかあるいは行政府の裁量権というところに行ってしまわざるを得ないんだろう。ですから、まさか最高裁が現場の事務所のやったことに対しまして、これは憲法に違反する、これはなかなか言い切れないだろうと思います。

 そうしますと、やはりそういう具体的な訴訟が実際に起こった場合に、現在の法律をもう少し変えやすいように、あるいはそういった面で生存権の規定等をより明確にできるような段階にしておいていただければありがたいなと。特に法の改正とかいうような場合にもそれは言えるんではないか。

 ですから、具体的な訴訟事件の紛争解決策としての生存権の規定というものの意味は、本当にほとんどないではないか。ただ、理念としては間違いないんだろう。もちろんそう思っておりますけれども、今度は、そういう条文を具体化するときには、よりすばらしい法律をいかに早く的確に作成していただけるかといったことが一番大きな問題になるのではないか、そのように思っております。

近藤(基)委員 もう時間が来ているみたいです。本当に長時間ありがとうございました。大変短い時間の中でおまとめをいただいたということで、まだ言い足りない方もたくさんいらっしゃると思います。

 ただ、我々は、こういう地方に出て、憲法の改憲、護憲という前提じゃなくて、もっと国民の人たちに憲法を知ってもらいたい、そして論議に参加をしてもらいたい。どこがいいんだ、あそこが悪いんだと国民一人一人に憲法を考えていただく場にしたいと思っておりますので、皆さんの職場はもちろんでありますが、周りの方、個人的にも、憲法を少なくとも一度は改めて読んでみていただけるような機会をぜひつくっていただければなと。学校で教えるというのは当然のことかもしれませんが、一般の社会の中でも、特に齋藤さんなんかには、ぜひまた主婦の立場で、久保田先生もそうですが、よろしくお願いをして、質問を終わらせていただきます。ありがとうございました。

中山座長 以上をもって、委員の質疑は終了いたしました。

    ―――――――――――――

中山座長 この際、暫時時間がございますので、本日ここにお集まりをいただきました傍聴者の方々から、きょうの公聴会に対する御感想なりを賜れば大変ありがたいと思います。時間の都合上、お二人に限らせていただきますが、御発言の御希望の方は手を挙げていただきたいと思います。どうぞ。お名前を名乗っていただきたいと思います。

高田健君 私は高田健といいます。東京から参りました。

 先ほど会長の方から、この公聴会が公開されているんだというのを再度強調されました。私は、国会の憲法調査会も傍聴しているんですけれども、必ずしもまだ十分に公開されておるように思えません。国会の傍聴も非常にたくさんの手続が必要で、人数が限られています。

 それから、こういう地方公聴会がやられることについても、どれだけ公開されているか、私は非常に不安です。例えば、これ、東北ブロック全体のきょう一回の公聴会です。これで東北の人たちの意見を聞いたということになると、私は、本当にそういうものだろうか。

 まして、インターネットということが繰り返し言われます。私はインターネットをやっていますけれども、日本の中でインターネットでこれを見る人がどれだけいるでしょうか。

 そういうところを含めて、改めて御検討をお願いしたいと思います。

中山座長 ありがとうございます。

 事務局から、現在のいわゆる議論の国民への告知をやっている状況について、もう一度改めて説明を願います。

橘参事 衆議院憲法調査会事務局の橘と申します。会長の御指名ですので、衆議院憲法調査会の広報活動について御報告させていただきます。

 きょう傍聴人の方々に御配付させていただきました「衆議院憲法調査会」というパンフレットがございます。これの「参考条文」のちょっと前の二十四ページになりますが、「6.憲法調査会のことを知るには」というページがございます。会長から御報告がございましたように、衆議院のホームページにおきます活動の概要のPR、広報のほか、「衆議院憲法調査会ニュース」、これをファクス及びメールマガジンで配付してございます。その他、各県の議会図書館には会議録を配付してございます。それで見ることができると思います。

 まだまだ不十分だと存じますが、末尾に書いてございます「意見窓口「憲法のひろば」」等に、もう少しこうしたらいいのではないのかという御指示、御示唆がございましたならば、お届けいただければ幸いでございます。きょう御出席の会長、会長代理、幹事、オブザーバーの先生方には、その原文をすべてお届けしてございます。

 以上でございます。

中山座長 ほかにもう一方、どうぞ、御婦人の方。

佐藤瑩子君 佐藤瑩子と申します。

 皆様の真摯な議論を聞かせていただきまして、大変ありがとうございました。

 国会の中での議論というのは、どちらかというと政党の方針に従ったものという印象が非常に強かったので、今回は、皆様それぞれが、今私たちが持っている憲法を非常に大事に思っていらっしゃるということはよくわかりました。とても心強く思いました。

 その中で、二つほどなんですが、自衛権の問題と基本的人権の問題、これは特にもっともっと議論をしていいものではないかと思うんです。

 例えば、国会議員さんでも県会議員さんでも市会議員さんでも、議員さんにこの問題について直接議論をするということが、私たちにとってはなかなかできません。けれども、これは、国政についても、自治体の決議においても、議員の考え方というのは直接反映できるものです。ですから、ぜひ議員の方々が、自分の身に引き比べて、自分ならどう思うという考え方を、政党とはひとまず離れて、日本国民の立場であるいは人類の立場で考えていただきたい。もっともっと議論を深めていく必要が十分あるのではないか。

 そういう意味で、こういう地方公聴会が、仙台で初めてとのことでしたが、私、実は前に公聴会に公述人として出たことがあるのですが、それが、仙台の場合が一番最後でありまして、次の日にもう採決という状態になりまして、大変むなしい思いをいたしました。もっともっと国民的な議論を巻き起こしていくべきではないかと思いますので、何回でも仙台に来ていただきたいと思います。よろしくお願いします。

 どうもありがとうございました。

中山座長 ありがとうございました。

 まだまだ御発言の御希望もあろうと思いますけれども、予定の時間が参りましたので、ここできょうの御発言は一応終了させていただきます。

 この際、一言ごあいさつを申し上げます。

 意見陳述の方々におかれましては、長時間にわたりまして貴重な御意見を賜り、まことにありがとうございました。ここに厚く御礼申し上げます。

 また、この会議開催のため格段の御協力をいただきました関係各位に対しましては心より感謝を申し上げ、お礼を申し上げます。

 それでは、これにて散会いたします。

    午後四時三十三分散会




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