衆議院

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第6号 平成13年5月17日(木曜日)

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平成十三年五月十七日(木曜日)

    午前九時開議

 出席委員

   会長 中山 太郎君

   幹事 石川 要三君 幹事 津島 雄二君

   幹事 中川 昭一君 幹事 葉梨 信行君

   幹事 保岡 興治君 幹事 鹿野 道彦君

   幹事 仙谷 由人君 幹事 中川 正春君

   幹事 斉藤 鉄夫君

      伊藤 公介君    伊藤 達也君

      今村 雅弘君    大野 松茂君

      奥野 誠亮君    高村 正彦君

      桜田 義孝君    下村 博文君

      菅  義偉君    中曽根康弘君

      中山 正暉君    西川 京子君

      鳩山 邦夫君    松野 博一君

      森岡 正宏君    山崎  拓君

      山本 明彦君    生方 幸夫君

      枝野 幸男君    大石 尚子君

      大出  彰君    桑原  豊君

      小林  守君    島   聡君

      筒井 信隆君    細野 豪志君

      前原 誠司君    松沢 成文君

      上田  勇君    太田 昭宏君

      塩田  晋君    藤島 正之君

      小沢 和秋君    春名 直章君

      山口 富男君    阿部 知子君

      金子 哲夫君    日森 文尋君

      野田  毅君    近藤 基彦君

    …………………………………

   参考人

   (地方財政審議会委員)  木村 陽子君

   参考人

   (九州大学大学院法学研究

   院教授)         大隈 義和君

   衆議院憲法調査会事務局長 坂本 一洋君

    ―――――――――――――

委員の異動

五月一日

 辞任         補欠選任

  村田 吉隆君     山本 公一君

同月七日

 辞任         補欠選任

  小此木八郎君     松本 和那君

  七条  明君     高村 正彦君

  新藤 義孝君     今村 雅弘君

  渡辺 博道君     佐田玄一郎君

同月十七日

 辞任         補欠選任

  佐田玄一郎君     西川 京子君

  松本 和那君     桜田 義孝君

  三塚  博君     山本 明彦君

  山口 富男君     小沢 和秋君

  土井たか子君     阿部 知子君

同日

 辞任         補欠選任

  桜田 義孝君     松野 博一君

  西川 京子君     佐田玄一郎君

  山本 明彦君     大野 松茂君

  小沢 和秋君     山口 富男君

  阿部 知子君     日森 文尋君

同日

 辞任         補欠選任

  大野 松茂君     三塚  博君

  松野 博一君     松本 和那君

  日森 文尋君     土井たか子君

同日

 幹事新藤義孝君同月七日委員辞任につき、その補欠として津島雄二君が幹事に当選した。

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 幹事の補欠選任

 日本国憲法に関する件(二十一世紀の日本のあるべき姿)




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     ――――◇―――――

中山会長 これより会議を開きます。

 幹事の補欠選任についてお諮りいたします。

 委員の異動に伴いまして、現在幹事が一名欠員となっております。その補欠選任につきましては、先例によりまして、会長において指名するに御異議ございませんか。

    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕

中山会長 御異議なしと認めます。

 それでは、幹事に津島雄二君を指名いたします。

     ――――◇―――――

中山会長 日本国憲法に関する件、特に二十一世紀の日本のあるべき姿について調査を進めます。

 本日、午前の参考人として地方財政審議会委員木村陽子君に御出席をいただいております。

 この際、参考人の方に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたいと存じます。

 次に、議事の順序について申し上げます。

 最初に参考人の方から御意見を一時間以内でお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。

 なお、発言する際はその都度会長の許可を得ることになっております。また、参考人は委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。

 御発言は着席のままでお願いいたします。

 それでは、木村参考人、お願いいたします。

木村参考人 地方財政審議会委員の木村と申します。本日は、このような場にお呼びいただきまして、大変光栄に存じております。

 それでは、着席をいたしまして発表をさせていただきます。

 きょう、いただきました一時間以内の中で私がお話ししたいのは、高齢社会と社会保障、そしてまたそれに関連する地方分権ということについてでございます。

 社会保障がずっと、人口の高齢化とともに国民の経済活動に占める割合が増大しているのは皆様方既に御承知のとおりでございますが、一九五二年ごろには対国民所得比で見ますと四%ぐらいであったのが、九八年には二割弱に上昇しております。その中で社会保険料の割合は日本では大体七割ぐらいを占めますが、九八年の額を見ましても、社会保険料の収入が五十五兆円。国税が五十兆円、地方税が三十六兆円ぐらいでございますので、国税や地方税よりも額としてはしのぐぐらいの大きな額になっているということが言えるかと思います。社会保障費に占めます国庫負担の割合も二割ぐらいですし、地方も大体五%ぐらいになっております。この財源につきましては後でまた申し上げたいと思います。

 二十一世紀の日本のあるべき姿、特に社会保障ということを考えますときに、高齢社会から超高齢社会にまず移るということと、そして、その高齢社会から、もう既に始まっていることですけれども、今までの社会とはかなり質的にも違うんだということをまず頭に入れておく必要があるのではないかというふうに私は思っております。

 日本人の寿命が延びた、それからまた少子化が始まったということはそうなんですけれども、先進諸国の全体的なことで考えますと、人類の歴史の中で、高齢社会というのは二十世紀の後半、一九七〇年代になって初めて地球上にあらわれた社会であるということが言えると思います。一九七〇年代以降のこの先進諸国における変化というものは非常にダイナミックな変化でありまして、その変化は二十一世紀においても受け継がれるというふうに思っています。

 どういう変化かと申しますと、高齢化率が一四%を超える高齢社会が先進諸国においてあらわれたわけなんですけれども、それと同時に、七〇年代に合計特殊出生率が再生産率を先進諸国でも下回るようになりました。それが同時に起こったわけなんですが、その傾向は世紀の転換点を迎えましても、反転という動きはあるにしましても、傾向としてはどんどん続いております。

 どういうことが続いているかと申しますと、少子化の進展は言うに及ばずなんですけれども、家族におきましても、家族は集団ではなくてネットワークではないか、定義を変えなければならないのではないかというぐらいに変わってまいりました。シングル化も見えていますし、それから離婚、再婚もふえてきました。

 それから、企業においての変化は、年功賃金体系、そういったこともありますが、年金や企業福利の面におきましても、かなり変えていかなければならないのではないかというふうに変わってまいりましたし、地域におきましても、二〇一〇年には六十五歳以上の方が世帯主の世帯は地域の三分の一になるのではないか。そういった社会では、高齢期の生き方をどうするかというようなものはむしろぜいたくになってしまうかもしれない。高齢者が地域の中で活動してくれないと、もう地域が成り立たなくなっていくような社会になっていくだろう。

 公共部門としましては、大きくなった公共部門を縮小しようという考えの方もおられますし、そのままでいいという考えの方もおられますが、いずれにしましても、公共部門の生産性の向上ということは避けて通れない課題になってきました。

 これは、一九七六年にドラッカーが「見えざる革命」という高齢化の社会に及ぼす影響を述べた本で、高齢化というのは、それを補うべく労働生産性を高め、また労働力人口の減少に対処するように高齢者や女性が働き、それからまた貯蓄率の減少に対応するためには資本の供給をしなければならないし、それから公共部門は生産性の向上を図らなければならないというふうに提言しておりますけれども、まさにそういったことがもっともっと大きな課題になってきたということが言えると思います。

 この中で最も大きく変化したのは、恐らく女性であろうというふうに考えております。

 女性の労働力率は、この二十年間で、多い国では二〇ポイントぐらいふえておりますし、そして、子育て期にある女性の労働力率はどの国においても上昇してきております。そして、女性の雇用者という比率も大きくなりましたし、まだ低いですけれども管理職や専門職につく女性もふえてまいりました。子供が少なくなる社会ですが、女性のライフサイクルとしては、それに伴って非常に大きな変化が出てきたわけです。

 ここで一つ考えますのは、三木首相のときに、ライフサイクル計画、生涯設計計画というものが立てられました。あれは、私は、非常にアイデアはすばらしいものである、個人の生活設計を支援するために国がどう関与すべきかということについて書かれたすばらしい本だと思っておりますが、ただ、家族がどうなるのかということについては若干将来予測の誤りがあったのではないかというふうに考えております。

 あの生涯設計計画が出ました一九七五年というのは、世界は第一次石油ショックの後で不況に突入しておりました。それで、世界経済をどう立て直すかといったときに、国によっては、行き過ぎた福祉計画が経済成長を阻害したというような意見も出てまいりました。

 日本は、福祉後発国として、田中首相のときの福祉元年もスタートしたばかりですし、どういう福祉社会を建設すればいいのか、先進国の轍を踏まないためにはどうすればいいのかというので、日本型を考えてみようということが言われました。

 日本型を考えてみたときに、あのときは、子供との同居を日本の高齢者は非常に志向している。現実に、高齢者のうち八割程度が子世帯と同居しておりまして、特に子供夫婦世帯との同居率が高い。それで、厚生白書におきましても、同居は日本の含み資産であるというふうに言われまして、もっと日本型の社会を建設しよう、だから税制においても、親と同居する世帯には人的控除で税額を低くしてもいいのではないかというような提案がなされました。

 しかし、あれから二十五年ほど過ぎまして、日本の家族の形態、世帯の形態は非常に大きく変わった。むしろ、それは西洋型に近づいていったのではないか。七五年当時は一割から二割程度の高齢者だけの世帯であったものが、今は高齢者だけの世帯は、単身者それから夫婦を含めまして四割ぐらいになっているし、それはむしろ地方の方がその割合が高い。そういうふうなことを考えてみますと、アジア型の社会、アジア型の家族とかいうよりは、経済発展とともに、同じような家族の傾向、形態というものを日本もたどっていくのではないか。シングルペアレントの増加、そういったことは西洋社会において既に見られておりますが、日本でも増加しています。

 日本の社会は、こういった高齢社会で質的にも変化してしまった社会に対応すると同時に、国際的な経済競争にも耐えなければならないという二重の大きなテーマを背負って二十一世紀に入っていくということになります。

 考えてみますと、長生きするということは自分では選択できませんけれども、子供を産まない社会というのは、個々人にとれば自分で選択した結果でありますから、そういう社会は、ある意味で自分たちの人口をどんどん小さくしていこうというような社会であります。日本の人口減少がこのままいくと、大体千年ぐらいたつと日本人の人口は二百人ぐらいに減ってしまうんじゃないかというふうに言われています。

 子供を産まない社会というのは、ひょっとしたら社会のあり方でどこか問題があるのではないかというようなことになってきまして、それで、これからの新しい社会はどういう価値観をまず見るのだろうかといいますときには、結局はノーマリゼーションやリハビリテーション、機会の均等、それから男女共同参画社会というようなものが重要になってくるというふうに思います。

 それで、一つ申し上げたいのは、機会の均等ということにつきまして、恐らくこの十年間で日本の社会の中で大きな議論になると思われる一つは、年齢差別の禁止についてであろうというふうに思っております。

 いろいろな形で今基本的人権が保障されるわけですけれども、日本が高齢化して、人口の中で中高年以上の人が多くなってくるような社会に入っていくときに、今のように、四十歳を過ぎればほとんど仕事がない、求職の段階で年齢制限があるというような社会は、中高年の夢を閉ざしてしまうような社会だと思います。日本人の寿命があと二十年間で五年ほど延びるだろうという推計もあるわけですから、大体九十年ぐらいの平均寿命がある社会の中で、四十、五十はまだ働き盛りといいますか、人生の半分にしか来ていない。そういうような人たちが四十ぐらいで、能力も何もかも、いろいろなものがあるのに可能性を閉ざされてしまう社会というのは、日本のこれからの活力を狭めてしまう社会であるのではないかというふうに思います。

 これは年功賃金だからしようがないと言う方もおられますけれども、私は、それは半分当たっていて半分間違っている、うそだというふうに思っています。

 なぜうそだと考えるかといいますと、アルバイトの求人情報を見ましても、現に年齢によって応募資格があるからです。例えば、ウエートレスが三十五歳まで、それからお店で洋服の相談に乗るマヌカン、その人たちも三十五歳まで。そういったアルバイトの社会というのはそんなに年功で賃金が上がっていくものではありません。そしてまた、三十五歳になると手が震えてコーヒーカップが持てないというようなこともはっきりしていないのに、三十五歳で切られるわけです。

 アメリカでもちょうど同じような議論が四十年ほど前にありまして、人は本当に年をとると仕事をする能力が下がってしまうのか。例えばドイツでは医師の定年制が七十歳というのがありますが、私は個人的にはそれにも反対をしています。なぜ反対かというと、私たちは年齢についての思い込みがあり過ぎるのじゃないかというふうに思っているからです。

 先ほどのアメリカの話に戻しますと、アメリカでも、従業員の側はもっと長く働きたいという話があったのですが、雇用主側は、いいえ、年をとると仕事をする能力が低下するからむしろ早くやめてほしいということで、一つの争われたトピックがあります。それは、人間は本当に年をとると仕事をする能力が落ちるのかという問題であります。そこでは、研究者を含めた大論争が巻き起こりまして、実証的な研究を積み重ねた結果、結論としては、人は年をとっても仕事をする能力は落ちない、かなりの程度は経験によっても補うことができる。ただ、パイロット等は、当時の技術もあったかもしれませんが、裸眼の視力という点で六十歳でリタイアも可能であるというふうになったらしいですが、結論は、年が加わることによっても人間の仕事をする能力は落ちない。

 そういうことで、初めは四十歳から七十歳までの人をそうでない人に比べて差別してはいけないということだったんですが、現在ではその七十歳ということも取っ払った。七十五歳のスチュワーデスさんがいるというふうな話を聞いたことがありますけれども、年齢差別を禁止して、そして年にかかわらず働ける社会にする。そのためには、賃金体系とか職分とか変えなければならないコストがあることも大事ですけれども、むしろそういうコストを払ってでも年齢によるバリアがない社会を築くというのは、これからの日本を考えるときには重要なことではないかというふうに考えております。

 それでは、三番目の「国家はどこまで個人の生活に関与するのか」という点について、日常考えておりますことを話をさせていただきたいというふうに思います。それはどの程度憲法のあれに結びつくのかということはまた別の議論になるかと思いますが、とにかく、私が考えていることを申し上げます。

 社会保障の研究をしておりますと、これはあくまでも積極的に国家が個人の生涯設計に関与する、それもかなりの公権力を持って関与するという制度であると考えられます。公権力を持った国家というのは、願うことであれば、そんなに大きくない方がありがたいということになりますけれども、そういった思いがありながら、いろいろな国で、社会保障制度というものはずっと、先ほど申し上げましたように、戦後を見ましても、いわば拡張してきた制度であると思います。

 では、社会保障自体は、第二次世界大戦後、イギリスそれから北欧、そういうところで始まったわけですけれども、そこでは、結局、第二次世界大戦で疲弊した国民の心に新しくわき上がる希望といいますか、どういう国を建設すれば新しい夢を持って国民はもう一度立ち上がろうと思うのかという思いがあったわけです。そこでは、戦争の多い社会よりも、安定して生活できる社会をつくろうという思いがありました。

 そこで福祉国家というものが建設されていったわけなんですけれども、その福祉国家は、この五十年間を見ましても、非常に大きな紆余曲折を経てきたということがわかります。

 一九六〇年代には、経済成長をバックとしてずっとその対象範囲とか給付水準も拡大してきたのですが、七〇年代に入りまして、世界が大きな不況に陥りましたときに、福祉の見直しということも始まりました。そこで行われましたのは、給付水準をカットして、それから保険料率を引き上げるというような財政的均衡を確保しようということが大半だったのですが、八〇年代から議論が起こり、九〇年代の初めになって各国で起こっている変化は、社会保障の構造改革と言えるものであります。

 構造改革と言えるものは、今までの社会保障の改正と違ってどういう特徴があるかと申しますと、それは、制度のよって立つ原理原則を根本的に変えてしまおうじゃないかといったものが幾つかの国で見られるところが、研究者としては非常におもしろいというふうに思っております。この大きな改革の流れは、恐らく二十一世紀になっても続くと思いますし、日本の社会保障の改革にとりましても、大きな刺激になったりモデルになるようなものがあるのではないかというふうに思っております。

 それでは、「国家はどこまで個人の生活に関与するのか」ということですが、まず福祉国家とは何かということで、私なりに考えているものをお話ししたいと思います。それがまた、日本の憲法の二十五条にも入っていることだというふうに考えております。

 福祉国家というのはさまざまな面がありますが、社会保障制度に絞りますと、例えばスウェーデンが年金の給付水準をちょっとカットしたら、これは福祉国家の曲がり角、福祉国家の危機だというふうなことを言われる方がおられますけれども、そういうことは福祉国家の危機とかそういったものじゃないというふうに私は思っています。

 福祉国家の本質とは何か、個人の生活設計にかかわるもので本質とは何かということを考えますと、それは国家によるナショナルミニマムの保障である。この場合の国家というのは国あるいは地方の自治体も含みますけれども、それがそれまでの国家とは違うところであるというふうに思っております。

 では、ナショナルミニマムの保障ということを公的扶助に絞って言いますと、貧困観、貧しさをどう見るかということにかかわってまいります。十九世紀までは、人が貧しくなるのは個人の責任が多分にあるというのが大きな主流であったわけですけれども、さまざまな世界戦争とか大恐慌を経験しまして、個人の責任ではどうしようもなくて、一生懸命働いてきた人が自分の力ではどうしようもないことで貧困になることもある、そういったことに関して国家は何がしかの保障をしよう、そういう貧困観の変遷ということがあったと思います。

 それで、現在の生活保護、公的扶助の大きな特徴は、以下の三つにあると思います。

 それは、まず貧困原因を問わない。その人が怠けていたか怠けていないか、一生懸命生活してきたかといったことにかかわらず、現在貧困であるということを重視してナショナルミニマムを保障しましょう。それから、今までに税金を納めたかどうか、そういったことも問いません。そして、そういう社会的な給付を受けたとしても市民権は剥奪しません。そういった極めて近代的な考え方の上にナショナルミニマムの保障ということが成り立っていると思います。これが二十世紀になって地球上にあらわれた福祉国家の、社会保障から見た核とは何かというときに、個人的には恐らくここにあるのではないかというように私は思っております。

 先ほど申し上げましたように、家族というものは、高齢者自体を見ましても単身あるいは夫婦世帯だけというものが非常にふえておりますし、それはほかの年齢層においても同じであります。家族というものは、もはや生涯にわたる生活を保障させる基盤ではなくなってきた。企業もそうですね。

 そうしますと、これからの社会は、そういった非常にもろくなった家族、非常に自由なんだけれども、ある意味、生活保障手段としてはもろくなった、そういったものを側面的に外から支えるということが社会の安定にもつながることだし、個人の生活設計から見ても非常に重要なことになります。そういった、支えることが非常に重要になってくる。同じく、そういう意味で社会保障も、二十一世紀も重要であるんだけれども、ただ、高齢社会に耐えられる社会保障というものを構築していく必要があるということになります。

 先ほどの話に戻りますと、二十世紀の最後の方で、これも七〇年代以降、特に私がおもしろいと思っているのは九〇年代以降なんですが、国家観、社会保障と国家ということを考えますと、国家は個人の生活にどの程度関与するのかということにつきましては、三つぐらいの大きな流れというものがあったというふうに思っております。それは、どれが一番の主流を占めるかということではなくて、それぞれに併存している状態であるというふうに私は考えております。

 まず、新保守主義と言われるグループであります。

 この方たちは、政府の役割は最小限にとどめ、市場にできるだけ任せる方がいいということなんですが、こういったことの影響を受けた社会保障の改革というものもあります。そういうところでは、社会保障におきましても、最低生活の保障は国がするけれども、それ以外のところはできるだけ自助努力による方が望ましいという考え方であります。例えば、日本の年金制度の改革になりますと、基礎年金だけでもいいじゃないか、あとの厚生年金は市場に任せてもいいじゃないかというような改革案はこの分類に入るのではないかと私は考えております。

 それでスウェーデンのように、福祉国家というものは堅持するのだけれども、社会保障における原理原則といいますか、自立ということを非常に重要視するんだというふうに変わってきました。先ほどの新保守主義は、社会保障について、ナショナルミニマムの部分では、国家による保障ということは、福祉国家の思想の影響はそのまま社会保障については残してあると思います。

 それから、第三の道というものが、ドイツのシュレーダー内閣、それからイギリスの九七年に成立しましたブレア労働党政権で言われるようになりました。これは非常な注目を集めながら実態が余りよくわからないという側面がありますけれども、少し考えてみますと、これまでの福祉国家でもない、それから小さな政府主義でもない、第三の道を自分たちは見つけるんだ。

 その第三の道というのは、国家がこういうふうに給付をしてどうのこうのというのではなくて、むしろ国民が意思決定に参加してやっていく。恐らく、一九八〇年代からアングロ・サクソン諸国で始まりましたニューパブリックマネジメントの手法をかなり取り入れた考え方だというふうに思っておりますけれども、もっと能動的に個人が自立した個人として生活設計をしていくんだ。だから、福祉におきましても、ウエルフェア・ツー・ワーク、福祉から労働へというようなスローガンがブレア政権でもなされています。

 こういうふうに、国全体のあり方としてどういうふうにやっていくのかということは、当然社会保障の改革の折にも大きな影響を与えているのは御承知のとおりです。社会保障自体の改正というのは、EUの統合の折に、収れん条件というのがありまして、赤字をGDPの三%以内にするとか、そういったものがありましたが、そのときに、社会保障は国の支出の大きな部分でありますから、歳出抑制策というのはさまざまに行われました。私が今申し上げております改革というのは、そういうための改革というよりは、もっと根本的な原理原則にかかわる改革であった。

 では、今からその改革の幾つかを申し上げたいと思います。

 まず、ナショナルミニマムの保障を維持するのかどうか。国が最低保障を維持する、これは果たしてこれからも、二十一世紀も先進諸国において続くのだろうか。もしこれが崩される根拠というものが出るとすると、恐らくモラルハザードが非常に起こっているときだというふうに思います。貧困原因を問わないことがモラルハザードを引き起こしている可能性が出てきたというときには、恐らく、貧困原因によらず所得の低い人を救済するというようなことは変質していくのではないかと思います。

 まず、アメリカで九〇年代の半ば過ぎに大きな改革がありました。アメリカは、御承知のように、日本のように国民に対する包括的な生活保障をするという立場はとっておりません。障害を持っている方や、それから高齢者で貧困状態にある人に対する所得給付、それから医療給付、それから子供を持った方、それからフードスタンプというような分類をしております。今申し上げましたのは連邦の制度ですけれども、州によってはまたさまざまな制度があるということです。アメリカの改革の中で、子供を持った世帯に対する改革というものが九〇年代の半ば過ぎに行われました。

 それは、子供を持った貧困世帯に対する貧困家庭一時扶助という制度なんですけれども、そこで私が非常におもしろいと思いましたのは、これは州政府がそういうふうな事業をするときに連邦政府が補助金を与えるという、連邦政府側からしたらそういう制度なんですけれども、連邦政府の補助金を生涯における五年間に限定した。

 なぜそういうことをしたかといいますと、一つは、ナショナルミニマムの保障、アメリカはそこまでいっていないかもしれませんが、国家による生活の保障というのは果たして有効に機能しているんだろうか、もしこれが人々のやる気を損なっているような制度であるならば、制度としてはおかしい。そこで調べたのが、これは私が実際に調査したわけではなくて、文献によるだけですが、世帯によっては三世代にわたって生活保護で暮らしている人もいる。これはむしろ人間の尊厳を制度が損なっているのではないか。そういうこともありまして、生涯のある一定期間に限定するというようなことをしたわけです。

 もしこれが福祉国家と言われている国々、北欧あるいはイギリスとかそういった国で、生活保護の受給期間を生涯のうちの何年かに限定するというようなことが起きれば、これは国家観の非常に大きな変化であると考えます。

 イギリス、これはアメリカでもそうですが、主にシングルペアレントの貧困ということとかかわってまいります。日本は、赤ちゃんが百人いれば、そのうちの二人だけが未婚の親から生まれているような状況ですが、イギリスではもう既にベビーが百人生まれると三分の一が未婚の親からというような社会でありまして、そこで特に問題視されたのは、シングルペアレントの自立をどうするか。特に、貧しさの中にいるシングルペアレントの自立をどうするかということで、イギリスの改革も、職業訓練を受けることというふうに、とにかく働くインセンティブを非常に高めようという動きがあります。

 それで、日本でも、これはやや余談めいたことですけれども、国民年金の保険料を徴収に行くときに、国民年金の保険料を払うよりは、生活保護をもらう方が受給額が高いので、自分は国民年金の保険料を払わないというようなことを聞くことがあるというのを実際に聞いたことがあります。

 そういうことが非常に大きくなってくれば、国民年金の保険料を払わない人に対して、将来は生活保護も受け取らないというふうな念書を書かすとか、そういうことを言う人もおりますが、貧困原因にかかわらず救済するというふうな制度を立てた場合に、どの程度のそういうモラルハザードを認めるかという問題があると思います。

 モラルハザードが非常に大きくなってくるような社会では、こういった国家によるナショナルミニマムの保障というものを維持できなくなる可能性はあると私は個人的に思っておりますが、そのときには、では、そのミニマムの保障をどこでするんだ。食べるものがなくなったら刑務所に行くという選択もあるわけで、そういう社会は必ずしも望ましいものではない。結局、どちらをとるかということになると、出てくる弊害をどの程度の許容範囲の中で見るのかということになるかと思います。

 それで、次の論点ですけれども、「皆保険・皆年金か否か」ということがございます。

 日本の年金でも医療でも、社会保険で運営されておりますし、国民全員が対象になっているという制度を持っておりますけれども、これが果たして二十一世紀にどうなるのか。国民負担率等を下げるためにも、国家の保障はナショナルミニマムだけに頼っていいじゃないか。例えばアメリカのように、医療保険は高齢者だけで、あと所得の低い人は生活保護で医療を見る、そういうふうに対象を限定してもいいじゃないか。日本の国民全体を対象とすると言うからさまざまな問題が出てくるのではないかという意見があります。これは、今のところはそんなに注目されていないのですが、この十年間で、恐らくこの問題も大きな問題になってくるのではないかというふうに考えております。

 一つ考えてみますと、では、本当に対象者を限定することが国民負担率の低下になるのだろうか。もしその面からこの問題を攻めていくとすると、私は余り効果がないんじゃないかというふうに考えております。

 その理由はどういうことかと申しますと、お配りした資料の中で「国際比較」というのがございます。「国際比較」の中の図の一、また表の一のページをお開きください。表の一が一番わかりやすいかと思います。国民所得よりも対国内総生産比というものをとりたいと思います。国民所得でとってしまいますと、消費税の多い国はどうしても分母が小さくなってしまうということがございますので、対国内総生産比というのを見てみますと、これは社会保障の給付ですが、日本が九八年で一四%、アメリカが一五%、ドイツ二八、スウェーデンが三三になっております。

 アメリカは、非常に対象を限定していると言いつつ、国内総生産比で見るとそれほど低下できていない。内訳で見てみますと、やはり生活保護とか医療が高くなっている。医療の価格を原則市場に任せてやるということがこういったことの原因とも思われますけれども、対象を限定することによって国民負担率を引き下げようという考えでは限界があるということの一つの参考になるのではないかというように思います。

 では、「皆保険・皆年金か否か」ということで、一つおもしろい改革があります。それはスウェーデンの改革なんですが、スウェーデンの年金の改革を一つ申し上げたいと思います。

 スウェーデンの年金の改革では、日本のように一階部分と二階部分の二階建てであった年金を、日本でいえば厚生年金部分だけ、報酬比例部分だけの年金にスウェーデンは新しく改革をしました。そして、その改革は、社会保障の研究者にとりましては非常におもしろい改革になっております。

 どういう改革か。その改革の特徴をかいつまんで申し上げますと、日本で言う基礎年金の部分は廃止してしまったわけです。本体の部分は厚生年金の報酬比例部分だけになったんです。それで、どういうことかといいますと、年金に入る人はある一定の所得以上ということになったので、皆年金というのは、本体部分については捨て去りました。ただし、年金がない人とか、それから年金額が低い人につきましては、最低保障年金というものをつくったわけです。本体の年金の額に応じて最低保障年金が減額されていくような制度をつくりました。今まで社会保障で重要とされていた所得再分配というものを、これは年金で見る限り、必ずしも所得の低い人が優遇されていなかったという反省点に立ったわけです。

 というのは、スウェーデンでは、年金の給付の対象となる期間をその人の働いている期間の三十年間を限度として、また一番いい期間の上位から十五をとりましてその平均をとるということにしたのですが、一見いいように聞こえますが、長く働いておられる方、それから一生働いてもそれほど賃金が上昇しない方にとりましては、こういった制度は優遇された制度ではありません。むしろ、賃金プロファイルが高いといいますか、高学歴で高収入の人、あるいは余り勤続期間が長くない女性、そういった人を優遇していた制度、もっと働くことが報われるような年金にしなければならないというので、保険原理と所得再分配というのを全く分離してしまいました。

 年金の本体の部分は保険原理でして、所得再分配にかかわるものは国庫負担でしようというように、社会保険料それから国庫負担の機能分担というものも明確にしました。これは非常におもしろいやり方ではないかというふうに思います。

 そしてまた、あとの一つは、確定拠出型の年金というものを公的年金で導入したわけなんですけれども、それにつきましては、ここではもう余り詳しいことは申しませんけれども、各世代ごとに保険料を積み立てておいて、その積み立て分を亡くなるまで年金としてずっと消費してしまうようにする。ということは、長生きすると予測される世代は毎年毎年の年金額が低くなる、だから長生きするリスクを各世代で負ってしまいましょう、そういった考えのもとにこの制度改正がありました。

 私たちの国が皆年金を維持するのか、あるいは皆保険を維持するのか、これは年金と医療ではかなり違うと思います。年金は本体の部分について所得のある人というふうに絞ることが可能ですが、医療については、私は個人的には、皆保険は堅持する方がいい。なぜかというと、医療については外部効果が大き過ぎるというふうに思うからです。

 それから、そのほかの国のおもしろい改革を申し上げますと、ドイツで注目している改革は、私たちが普通、日本だとそんなことは思いもつかないようなことなんですけれども、社会保険の保険者の自治能力の向上とか競争を推進するという意味で吸収合併を促しますし、それから各保険の財政調整は標準的な医療の支出までで、ほかは各保険で自己努力でやってください、被保険者が自分で保険者を選ぶこともできます、そういった改革が行われているということも大変おもしろい改革だと思います。

 そして、医療とか介護というものの重要性が高齢社会で高まると同時に、絶対欠かすことのできないものは、どうやって質を確保していくかということだと思います。日本では、こういう面で、まだ介護保険も始まったばかりですが、さまざまな心の痛む問題が起こっているということも事実です。

 それで、どういうように消費者を守ってサービスの質の確保をしていくのかということは、これは大変重要な問題ですが、私は個人的には、今イギリスで起こっております、どこが介護を供給する主体であれ、また在宅でされるサービスであれ、施設でされるサービスであれ、基準を設定して、それについての監査もやっていくという、二〇〇二年の四月から実施されるケアスタンダード法というのがありますが、そういった動きも重要であると思って、非常に注目しているところであります。

 では、皆年金か皆保険かという問題と、また社会保障制度が、年金にしろ、どの程度の給付水準まで給付するのかという問題がありますが、それを少しスキップしまして、「社会保障制度の及ぼす影響」、それは個々人の労働意欲とか貯蓄意欲とかいろいろなことに制度が、社会保障として強制的に入れということになって、そこに入って、あるいは入るか入らないかの決定をするときに、働く意欲に制度が悪影響を与えるようなものであっては、少子高齢社会では望ましくないのではないかと思っております。

 それは、例えばどういう制度があるかと言われると、もうよく御存じのように、国民年金の第三号被保険者問題とか、パート労働者の大体四割近くが労働供給を抑制しているとか、それから在職老齢年金の問題で、収入に応じて年金額を調整するというのは、これはむしろ働く意欲を阻害しているので、もう年金に対する税制の優遇措置をやめて、税制の優遇措置というのは年金をもらうときの優遇措置ですけれども、年金も丸々、それから賃金も丸々受け取って、その上で税金も払ってもらうというふうな制度の方が、これからの労働力の確保ということについては望ましいと考えます。制度が労働意欲を阻害するようなものであってはならない。

 また、社会保障制度をうまく使うことによって、例えば福祉機器の開発、そういったことで日本の新しい産業にできるというようなことも考えますが、特に社会保障制度というのは、公権力を持った国家の個人生活への介入ですから、十分いろいろな面で慎重であるべきところが多いということです。

 時間がそろそろ押し詰まってまいりましたので、次の、「ケア供給主体の多元化と公的補助金」ということですが、スウェーデンのような国ではほとんど見られていないんですが、アメリカでもイギリスでもフランスでもドイツでも、この介護サービスについて供給をするときの主体は、民間であったり、それからNPOであったり、公共部門であったりというふうに、さまざまに多元化しているということは周知のとおりであります。

 多元化して、介護保険では施設についてはまだ民間営利団体の参入は認められておりませんが、在宅については認められるようになってきました。これを新しい産業として育てるためにも、さまざまな支援措置がどの供給主体かにかかわらずなされなければならないし、競争条件もできるだけ同じにしなければならない。そのときに、公的な補助金を投入するときの制約というものがあっては残念なことではないかというように思います。

 それから、「地方分権と介護システム」ということで、最後の話をさせていただきます。

 介護という問題は、どの小さな自治体であっても、高齢者がいるという点においては同じでありますから、非常に重要な問題になってまいります。今市町村合併ということが言われていますが、少子高齢社会の日本を考えますと、今問題になっている財政的な側面以上に、これは問題である。

 これから二十年以後を考えましても、離島と過疎地では人口が激減しますし、それから人口の七割が都市部に集中するような社会になってくるときに、もう地域として成り立っていかない、人が少なくなって、スポンジのようにかすかすと言ったらちょっと口語的過ぎますけれども、そういった地域が日本でいっぱい出てくるわけです。私の出身の和歌山県では、九五年度で人口五千人未満の自治体は十二でしたけれども、二〇二五年には二十になります。そういう地域は日本にいっぱい出てまいります。

 一人頭の歳出が大体年額三十万から五十万ですが、こういった歳出の額は、人口が減るとずっと高くなってくるわけですね。この点を考えましても、自治体が自分たちの自治をやっていくということを考えましても、再編というものはしなければならなくなるだろう。介護というのは恐らくそのことを考えるきっかけになりますし、既に広域的な連携ということにおきましても、多くのことがなされている。

 では、将来的な自治体ということを考えますと、日本はどういう自治体を目指すのかということが一つあると思います。

 スウェーデンのように、全部の自治体を同じような規模、同じような財政力として再編してしまうのか、あるいはドイツのように、いろいろな規模の自治体があるままでいいというように、再編はしたとしてもそれほどそろえないというふうに考えるのかということで、大きな差があると思いますけれども、これからの日本を考える場合に重要なのは、地方への税源配分ということは重要ですし、それに並行して、自治体間の事務の配分、都道府県と市町村の事務の配分というものも重要になってくると思います。小さな自治体は多くの仕事をし過ぎるのではないか。例えば土木とかは、郡とか県のレベルに持っていってもいいのではないかというように考えます。

 今まで述べてまいりましたけれども、日本のあるべき姿、高齢社会と社会保障、地方分権を考えるときには、高齢社会とはどういう社会なのかということを抜きにしては、社会保障の分野ではなかなか難しいのではないかと考えております。

 申し上げられなかった点は、先生方から御質問をいただいたときに、関連するところがございましたらお話しさせていただきたいと思います。

 どうもありがとうございました。(拍手)

中山会長 どうもありがとうございました。

 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。

 速記を暫時とめてください。

    〔速記中止〕

中山会長 それでは、速記を起こしてください。

    ―――――――――――――

中山会長 これより参考人に対する質疑を行います。

 まず、調査会を代表いたしまして私から総括的質疑を行い、その後、委員からの質疑を行います。

 それでは、ただいまからお伺いをさせていただきます。

 参考人からいろいろと示唆に富んだお話をちょうだいしましたが、私どもは、世界に例を見ない少子高齢化が大変早いスピードで進んでおります。私どもの日本学術会議等もいろいろ研究しておりますが、そのデータを見ると、少子化と高齢化の同時進行は年金制度と社会福祉サービスに甚大な影響を及ぼしてくる。生産年齢人口が減少して高齢者人口が増加するために、年金、医療、福祉等の社会保障の分野において現代世代の負担が増大して、やがては限界に達し、制度の維持が財政的に困難になると予測しています。

 平成九年の厚生省の推計によれば、平成七年度で六十五兆円の社会保障給付費が、二十五年後の二〇二五年には二百十六兆から二百七十四兆に増大すると見込まれています。国民所得に占める割合が一八・五%から三〇から三五%まで上昇するだろうと推定をされております。社会保障給付以外の公費支出が現在の水準、二〇%で推移したと仮定して計算すると、将来の国民所得に占める公的負担、つまり租税プラス社会保険料の割合、すなわち国民負担率は五〇%を超える水準になると予測されますが、現代世代の手取り収入が所得の半分以下に減少することになるだろうと予測されています。

 この点に関して、木村参考人はどういうふうなお考えをお持ちでしょうか、まずお伺いをいたしたいと思います。

木村参考人 中山先生、ありがとうございます。

 私も、将来的な社会保障の給付は増大をするというふうに考えていることは同じでございます。ただ、それを、そうだからといって、どの程度まで削減するのかということにはかなり限界があるというふうに考えております。なぜそう考えるかといいますと、社会保障には、一つは縮小した家族機能の補完という面があるからでございます。かと申しましても、もし自分がそのときの稼得世代だと、かなりの部分を税金、社会保障で持っていかれる社会は、個人的にはそんなにいいものであるというふうには思っておりません。

 それで、どういうふうなことが考えられるかと申しますと、一つは、スウェーデンの年金で導入されました確定拠出型のように、各世代のリスクを各世代で担っていくんだというように原理原則を変えるということが一つでございます。

 あとの一つは、社会保障の中で何を削って何を守るかという問題が出てこようかと思います。私は、何を削って何を守るのかということを個人的にはどういうふうに考えておるかと申しますと、削れるとしたら健康な時期の年金であろう、体が弱ったときの介護とか医療は削れるにしても限度があるだろう、こういうふうに思っております。

 高齢社会というのは、基本は、公的な負担の多い社会であるというふうに考えておりますけれども、それが過度な負担になることは避けたいというふうに考えております。

中山会長 過度な負担を避けるべきだというお考えですが、好むと好まざるとにかかわらず、日本人の余命の延長が相当見込まれる。そうすると、後期高齢者の医療問題が医療保険のコストに占める比率が非常に大きくなるだろう。この問題を一体どうするのか。これを税で全部負担するのはどうか、ここが一番大きな問題だろうと思いますし、核家族化が進んでくると、孤独な老人たちが増大してくるだろう。これをどうするのかという問題が一つの大きな政治的な、また社会的な問題だろうと私は考えております。

 そこで、保険の原資を払う、掛けるべき人たちのいわゆる年齢がございます、定年制がございます。この定年制の延長を考えるのも一つの手ではないか。つまり、元気で健康な老人は、働く意欲があって働き口があればどんどん働く、こういったことが新しく見直されるときが必要になってくるんじゃないか、これが一点。

 その次の一点、最後のお尋ねは、年金の財源の問題が非常に緊迫していると私は思います。御案内のように、現在、厚生年金の保有量百三十三兆円、それから国民年金が十一兆円、百四十四兆円の資金を国民が預託しているわけですが、この資金の運用状況が非常に順調にいっていない。これがどういうふうになっているのか。つまり、出した資金の回収はおろか、さらに追加をしなけりゃならないような状況になりつつある。健全な財政運営をやっているのは、二十七の融資先のうちで、わずか三つぐらいですね。こういうデータを調べてみると、年金の原資が今までのような形でいいのかどうか。そういった点について、御意見があればお教えを願いたいと思います。

木村参考人 まず、一番初めにお話しくださった定年のことでございますが、私はもう定年なんか要らないというふうに思っておりまして、年齢差別の点から申しますと、定年はむしろ年齢差別である。本当に、能力があれば、年齢にかかわらずいつまでも御活躍していただける社会の方が望ましいというふうに思っております。

 それから、二番目に、年金の原資でございますが、もし私が先生がおっしゃったことをうまく理解していなければ申しわけありませんが、公的年金の、国民年金あるいは厚生年金というふうにとらえますと、私は、基礎年金の方の原資は目的税型の消費税でする、皆保険を維持する限りは賦課方式でやってしまうということが望ましい。それから、二番目の厚生年金の部分については、スウェーデンのようなみなし確定拠出ということで、将来の額を約束しないという点では保障水準は落ちるかもしれないですけれども、運用実績に応じて年金額が決まるということでも、維持可能性をとるとしたら、やむを得ないのではないかと思っております。

 以上でございます。

中山会長 ありがとうございました。

 以上をもちまして私の質疑は終わります。

 次に、質疑の申し出がございますので、順次これを許します。西川京子君。

西川(京)委員 西川と申します。よろしくお願い申し上げます。

 木村先生、大変多岐にわたるお話で、わかりやすく、大きな保障の流れをお話しいただきまして、ありがとうございました。

 言うなれば、ソーシャルセキュリティーというのは、悩みのない社会をつくるというのがまさに社会保障の原点だろうと思うんですが、そういうことを考えますと、まさに今の日本、本当に悩み多き現状だろうと思います。

 その中で、実は、先ほど先生のお話の中で、女性が最も大きく変化したというお話がありました。まさに、産業社会の成熟とともに、女性の社会参加ということが、本当に地域の構造から家庭の構造を大きく変化させたんだろうと思います。少子高齢化という問題がまさにこの問題とかかわってくるわけですが、少子高齢化の問題点と男女共同参画社会推進ということが、本当に表裏一体となった問題のように感じます。

 そういう中で、キャリアウーマンの草分けとして御活躍していただいた先生の、要するにそのせめぎ合いの中の問題点の解決法というんでしょうか、先生の今までのお覚悟なりなんなりをちょっとお聞かせいただけたらと思います。

木村参考人 西川先生、ありがとうございます。

 少子高齢化社会の問題点というのは、一番の問題は、やはり自分で選んで子供を産まない社会に突入したということが一つ。それから、女性が自分の力を試したいという欲求が非常に強いのに、それがなかなか達成されなかったのですけれども、ある意味で、例えば日本で男女共同参画基本法が成立しましたように、追い風が吹くということも事実です。

 ただ、そういうことを現実に持っていこうとしますと、家庭においても、それから職場においても問題は多々あります。

 私は、キャリアウーマンの草分けと言われましたら、私よりも何十年も前の世代の方のことだと思いますが、日本の社会は男女共同参画社会をやっていこうと決断したということは、今の労働力を確保しながら次の世代の労働力も確保していこうという一つの選択であるわけですね。

 そうしますと、特に子供を産んで育てている両親が働きやすい社会をつくっていこうということが非常に重要になりますけれども、それについては、今本当にいろいろ報道されていたり私たちが聞きますように、なかなか育児休暇をとりにくいとか、それから、会社にいる時間が長ければ長いほどいい、組織にいる時間が長いということが忠誠度の尺度であるような社会の中で、こういう勤務時間とか、変えていかなければならないものはたくさんあるというふうに思います。

 ただ、人口が減少する社会というのは、女、男、年齢、それから体に障害があるかどうか、そういったことにかかわらず、本当に、能力のある人にはどんどん発揮してもらう社会をつくるという必要に迫られている社会じゃないかと考えます。

 以上です。

西川(京)委員 実は、先生のお話と共通するんですが、先日、ちょっといろいろな資料を欲しくて厚生省の方にお願いいたしましたら、女性の課長補佐さんが来ていただきまして、いろいろな資料を持ってきていただいたその話以上に、彼女自身の今の現実を聞かされたんですね。小さなお子さんを育てていらっしゃる現実を聞かされました。

 その中で、いわゆる夜間延長の保育施設の充実だとかそういうこと以上に、やはり御主人の、男性の意識、この問題を解決しないと、恐らく、環境整備を幾らやっても、男性が子育てを全く同じ共通の課題として考えない限り、日本の現実が充実していくのは非常に難しい、あなたが今一番願っていることは何ですかと聞いてみたら、そういうお話が返ってまいりました。

 そういう意味で、これは政治の持っている課題としては一番やりにくいことで、意識変化ということは大変難しいと思うんです。

 私は、それとともに、少子高齢化の中で女性が働くための環境整備ということの中で抜け落ちていることが一つあると思うんです。それは、実は育てられる子供の視点がないということ、そのことが私は一番危機感を持っております。

 二十四時間保育とか夜間保育、そういうことを充実、整備していくのは、これから恐らくどんどんやっていかなければいけないことでしょう。しかし、それはあくまでも働く親の側の論理であって、二十四時間保育園に預けられる子供の立場というのは一体どうなるんだろう。そういう中で、人間らしい子供、そしてなおかつ、ある程度の公共心も持った子供たちを育てていくというのは本当に大変なことなんだろうと思います。

 環境整備その他に関連して、では子供の保育ということに関して、いわゆる物質的な環境整備ということ以上に、もっと本当に大きな精神面の問題も含めた子供の保育ということに関して、先生の何か御示唆のある御意見があったらお聞かせいただきたいんです。

木村参考人 先生がおっしゃられたように、今の日本の子育て環境というのは非常に難しいものが多いと思います。男の方はよく、女の人が子供を産まなくなった、子供を産まなくなったとおっしゃいますけれども、男の方に、御自分が子供を産めたら、今子供を産みますかというふうにお聞きしたいと思います。恐らく、多くの男の方は、このような環境では自分も産まないというふうに思っておられるんじゃないでしょうか。

 子供さんがおられたら、五時六時には走って会社を出なければならないとか、子育ては楽しみではありますが、今のような環境では犠牲になるものが多い。親もあるし子供もある。それは日本の次世代を育てるという目から見ると、本当に厳しい環境があります。

 私も、二十四時間保育の大変さ、預けなければならない大変さというのがわかりますが、本当に子供の立場から見るとどうなのかなということを考えるときがあります。それはやはり働き過ぎ社会、勤務時間の長過ぎる社会というのを本当に変えていかなければならないし、例えばスウェーデンのように、保育園は子供が家から歩いて行ける距離につくるのを基本とするというふうに、自治体が力を入れるというのも考えられますし、それから、少子社会というのは、学校へ行っても、人口構造の点で、学校の先生が五十代の方が多くて、小学生がなかなか一緒に遊べないというような問題が指摘されたりいたします。

 子供のいない社会の中で、昔、私たちが近所の子供あるいは多い兄弟の中で習った社会性とかを学べるようにしたり、ありきたりのことかもしれませんが、近隣で子育てに注意を配るというようなことが必要になるのではないのかなというような気がいたします。

西川(京)委員 ちょっと視点を変えまして、先ほど先生が市町村合併の問題にちょっと触れられましたけれども、介護保険の問題と市町村の合併というのは、ある意味では切っても切れない関係にあると思うんですね。その中で、ある程度の大きさがないと、介護保険というのは、小さな市町村でやっていくには余りに荷が重いという現実があります。なおかつ、しかし、パイを大きくすると、それだけ住民のきめ細かなサービスというのは、今度は逆に薄くなる。この辺の問題が、私は、常に市町村合併の問題で一番疑問に思っているところです。

 よりきめ細かな住民サービスということと、パイの大きくなる自治体ということ、この問題がすごく矛盾を感じるところなんですが、特に地方の小さな町になりますと、なかなか経済性が合わないとか需要が少ないという問題があって、民間の介護団体が育っていきません。結局、小さな自治体の社会福祉協議会あたりが当事者になるという現実があります。

 先ほど先生から、とにかく成り立たないのだから、ある程度大きくしていかなければいけないというお話がありましたが、この辺の矛盾点について、先生のお知恵が拝借いただけたらと思います。

木村参考人 私も全く同じことを考えております。

 これは本当に現行の当該自治体の規模がどの程度であるかということによってかなり変わってまいりますけれども、例えば、数千人規模の自治体であれば、広域連合よりは合併を促進するということが私はいいと思います。

 ただ、最適規模というのが大体五万人ぐらいじゃないかなと思っておりますが、では五十万人、数十万人のところはどうするかという問題があります。その問題については、例えばイギリスなんかではどういうふうにされているかと申しますと、その中で人口十万人規模別のブロックをつくって、そのブロック単位に物事を実行するというように決めるとか、そういった工夫がなされている。私も、そういった工夫をすることによって解消できるものはあるのではないかと考えております。

 以上でございます。

西川(京)委員 市町村合併の問題で当然起こってくるのが、どの程度のパイにすればいいかという問題、それと、ある程度市町村のパイが大きくなれば、今度は県との関係がどうなるか、いろいろな問題があります。

 そういう中で、道州制などという議論も起きておりますが、道州制という問題について、先生はどんなふうな御見解をお持ちでしょうか。

木村参考人 お答えいたします。

 私は、市町村合併だけではなくて、将来の日本のあり方を考えますと、道州制もその一つの選択肢としていいのではないかと考えております。ただ、それを守るための論戦を張れるとか、そういった部分にまでは、まだ道州制については自分の中では考えを熟させていないというところがあります。

西川(京)委員 実は、先ほどお話を伺っていて、社会保障制度がまさに産業構造、経済の動きに伴って本当に変わってきたという大きな流れがあると思うんですね。

 要するに、昔の産業革命以前の、日本においてもどこにおいてもそうでしょうが、自然な地域共同体のようなものがあって、その共同体がみんなで個人の生活なりなんなりもお互い助け合っていた社会があり、そして、それが産業革命以後、大いに経済発展する中で、だんだんに個というか、せいぜい家庭単位ですよね、大家族が核家族化してくると、家庭単位の社会保障というのが恐らくあったんだろうと思います。そしてさらに、今高度成熟社会の中で、より個別化、今度は単位が家庭というのではなくて、本当に個人を対象にした社会保障というのを考えなければいけないというようなお話があったと思うんです。

 そういう中で、私は熊本県の南の方の小さな田舎町に住んでいるものですから、地域に地域コミュニティー、優しさというのでしょうか、みんなで子供に注意したり、あるいは三世代住んでいる家庭があったり、そういうものがまだまだ残っています。そういうところの例えば介護とかの問題と、都市部のばらばらとなった、単身の家が多いとか、そういうところとはおのずから物すごく違うと思うんですね。

 だけれども、一つの世界の流れとして、情報が国境を越えて、今、グローバリゼーションの経済の中でどんどん、一つの大きな自治体と個との関係という社会になってしまうと思うんです。でも、そういう世界的な流れで、いや応なくそういう流れにみんなが乗ってしまって果たしていいのか。私は、個人的には、今のIT化とかグローバリゼーションの流れの中で、行き先の見えない船にみんなが乗りおくれまいとして乗っているような、そういう不安感を持っています。

 個別化していく社会の中で、では国家とは、どの程度のものを国家として呼ぶのかというような本当に大きな問題で、将来の描く国家像なんかが見えないんですけれども、そういう中で、地方のまだ温かいコミュニティーがあるもの、これはやはり守っていった方がいいと私は思うんですね。ある意味では、そういうものが消えていくところにもそういうものを再構築していく努力も必要なんじゃないかと思うんですね、保障の流れが全部個別化に行かないで。その辺はどんなふうにお考えでしょうか。

木村参考人 まず、二点ほど私の考えを申し上げたいと思います。

 介護という問題に特化しましても、コミュニティーの温かさというのは別にしましても、介護というのは、古いコミュニティーにおきましても、これまで恐らく家族で見てきた。親戚はそんなに見なくて、家族の中の嫁とか娘が見てきたのじゃないか。ですから、先生がいらっしゃるような温かいコミュニティーのところも、あるいは都市部におきましても、介護をコミュニティー全体で、社会全体で支え合っていこうというようなものは恐らく初めてのことではないかと思っております。

 それで、個に分化すれば分化するほど非常に弱いという側面が私たちはありますから、逆に、連帯というものが重要になってくると思っております。その意味では、先生がおっしゃったように、コミュニティーの再編のいい機会になるというのが、例えば介護を通じての住民参加とかNPOの活動であると考えております。

 ただ、今の古いコミュニティーがどこまで支え得るかというのは、高齢化によって私は非常に難しいと思っておりまして、先生がおっしゃったように、むしろつくり上げていく努力というものが重要であると思います。

西川(京)委員 この社会保障の問題というのは、ある意味では国家観にかかわってくるような問題のように思います。先生のさまざまな示唆に富んだ御意見その他を参考にして、私もこれから一生懸命勉強したいと思います。本当にありがとうございました。

 以上で私の質問を終わります。

中山会長 小林守君。

小林(守)委員 民主党の小林でございます。

 木村参考人、先生には大変御示唆に富んだ幅広い、またショッキングなというか、大変考えさせられるようなお話もいただきまして、勉強させていただいております。

 小泉内閣が誕生いたしまして、国民の大変な支持率を得ております。公約の中で、構造改革なくして日本の再生はないと、経済の構造改革とかさまざまな改革を掲げて登場した政権ですけれども、まだ具体的な中身がよく見えていないというような状況であります。私は、社会保障制度の改革、これも構造改革の大きな、日本再生の柱ではないか、このように考えているわけです。

 そこで、社会保障制度については、お話がありましたように、大変な国民の信頼を失い、将来生活への不安をつくり出している大きな問題なんだろう、このように思っております。さまざまな景気・経済対策を行っても国民の消費活動が活性化しない、抑制されてしまう。その根底には、やはり社会保障制度を初め雇用の不安等が横たわっていて、自分のことは自分で守るしかないというような思いで消費活動そのものも縮こまってしまう、こういう現象があるんではないかと思うんですね。

 そういうことで、お話の中で、大変私ショッキングと言いましたのは、将来にわたって、生活保護費の支給と年金支給による生活のレベルが、むしろ生活保護費をもらった方がいい、だから年金には入らないというか、保険料を払わないというような現象が起こっているというお話を聞きました。あるいは、食えなくなったら刑務所へというようなお話、まあこれは一つの例えかもしれませんが。まさにモラルハザードと言っていいか。

 かつての社会では、少なくとも生活保護をもらうのは恥ずかしいというような意識、他人様のお世話になるのは申しわけないというような価値観が前世代には、日本にはあったと思うんですよね。これが決して立派なことだとは言いませんけれども、しかしながら、それが一定の自立意識というんでしょうか、自己責任原則みたいなものを保たせてきた規範ではなかったのかな、このように思います。しかしながら、そのことによって本来保障されるべき人たちが疎外をされてきたとか、保障されてこなかったというような問題も持っていたわけでありますから、社会的な保障を受けることが恥ずかしいとか悪いことなんだみたいな意識は改革されなきゃならないとは思いますし、介護保険制度の導入などによって随分変わってはきていると思うんです。

 しかしながら、社会保障制度の病ともいうべきモラルハザードが起こっておって、特に国民年金の空洞化が大変な状態になっているというのが報道されておりまするけれども、その国民年金の空洞化の原因として、制度に問題があるのか、先ほど先生がおっしゃったように、生活保護費の支給と年金の将来的な生活のレベルが、生活保護をもらった方がいいというふうに考えてしまう、当てにならないというような制度上の問題なのか、あるいは根本的なモラルハザードの問題なのか。この空洞化を解消していくためには政治や政府への信頼というのも大変大きいと思うんですが、その辺についてどうお考えになられているか、お聞きしたいと思います。

木村参考人 小林先生、御質問ありがとうございます。

 国民年金の空洞化という問題は、本当に大変大きな問題だと思います。これは幾つかの要因が重なり合った複合的な問題であると思っております。

 まず一つ、簡単な理由から申し上げますと、若い方は何十年も先の年金の重要性がわかりにくいという、割合人は、自主納付の場合はマイオピックな考え方をするというのが一つあります。

 でも、それ以上に、制度に対する信頼感が揺らいでいるということもあろうかと思いますし、それから、先ほど申し上げました生活保護との関係は、私の見聞でございますけれども、そういうふうに考える方もおられるのではないかと思います。徴収の仕方とか、それから定額の保険料というものは、所得の低い人にとってはなかなか納めがたいものでありますし、所得の高い者にとりましては保険としては取るに足らない額にすぎない、そういう制度的な特徴にかなりの部分絡んでいるのではないかと思っております。

小林(守)委員 保険料の免除者も含めると、二千万人加入対象者の中で七百六十四万人ぐらいが未納であり、未加入であり、保険料免除というような形で、三六%の空洞というか、国民年金の三分の一以上のところに大きな機能不全が起こっているというようなところでありまして、先生のお話では制度上の問題があるというようなことでございます。

 そうした場合に、私たちは、国民年金、いわゆる公的年金の基礎年金の部分、これは何としてでも確立し安定化させなければならない、セーフティーネットの根幹である、このように考えておるんですけれども、この基礎年金の部分について、政府の方では二〇〇四年までに公的負担を三分の一から二分の一に引き上げるというようなことになっておりまするが、私たちは、空洞化の問題も含めて、基礎年金は全額税方式でやるべきではないか、このように考えております。しかし、厚生年金の二階建ての部分とかそのほかについては基本的には賦課方式であるいは自己責任で積立方式でいいと思うんですけれども、基幹部分については税方式があるべき姿であろう、このように考えているんですが、先生は、制度上の問題としてこの基礎年金についてどのようにお考えになりますか。

    〔会長退席、鹿野会長代理着席〕

木村参考人 お答えします。

 私も、基礎年金の財源につきましては、目的税型の消費税がいいと思っております。その理由といたしましては、現在持っているような三号被保険者問題とか国民年金の空洞化の問題とか、そういった問題に対応できるというところを考えております。

小林(守)委員 先生の先ほどのお話の中で、いわゆる公的部分がどこまで負担すべきなのか、要は、ナショナルミニマムの観点からその内容は常に検証されていかなければならないというようなお話だったと思います。

 そういうナショナルミニマムという観点から考え、そして、日本のこれからの社会保障制度の構築の上で、根幹となるべき部分は税方式が望ましい、私はこのように考えるのですが、そのナショナルミニマムという観点からとらえた場合にどうなのかというところを、というのは、いわゆる自己責任原則をどう生かしていくかという観点が社会保障制度の中で問われているのだろうというふうに思うのですね。しかし、税方式ということになると、自己責任原則からは離れた公的責任というのでしょうか、ナショナルミニマム、国の責任だというようなところが明確に出るところだと思うのです。

 そこで、先生の、ナショナルミニマムの視点から見た場合に、基礎年金が全額税方式というのはどう位置づけられるべきなのかということをちょっとお聞きしたいのです。

木村参考人 もし基礎年金を税金ですることになりますと、日本のナショナルミニマムの考え方は、できるだけ生活保護を使わないでナショナルミニマムを保障する形態に変わるということになると思います。

 目的税型の消費税を仮に財源としますときには、私は、さっきの言葉と若干ずれるところもありますけれども、ナショナルミニマムの保障をするというときには、必ずその人が本当に貧しいかどうかということが問われるわけです。ですから、基礎年金で最低保障をするというときには、国の所得保障が、最低限度の生活を国が保障するというときとは少しずれて、むしろ、目的税ですから、どの税に行くかというのが非常に明確で、連帯の意味合いがかなり入っているのではないかというふうに私は考えております。

小林(守)委員 社会保障制度の考え方の中で、貧困からの救済と同時に、もう一つは、やはり連帯というか支え合いというような考え方、これが失われると社会保障制度そのものが欠けてしまうというように思いますので、私もそのように考えて大変共感するところです。

 モラルハザードの問題も、基本的には、何かただ単に制度が悪いから、あるいは家族や企業の社会が崩壊して、みんな砂のような個、個人に分断されてしまっている。本当に人間崩壊の状態というか、そういうところをもたらしてしまったのは、やはり社会保障制度そのものにソフトな部分というのでしょうか、要は連帯とか協力とか協同とか、そういう教育啓発部分が欠けて運用されてきたのではないか。何のために社会保障制度は必要なのかというようなものを常に現実の生活の場面で確かめ合っていくというのですか、そういう作業なしに、制度上の財政計算とかそういうだけで、あるいは国民の負担と給付だけの数字的なつじつま合わせで改革を考えてきたところに、私は本当に大きな問題を抱えているなというふうに思います。

 少なくとも、先ほども言いましたが、生活保護を受けたり他人様の世話になるのは恥ずかしいことだというような意識は決していいことではない、問題もある考え方ですけれども、しかし、その時点では、社会的な協同性なりモラルなり社会規範というのはあったのだと思うのですね。

 それが崩壊した後で新たな社会規範みたいなものが育っていないというところに、私は今日のこの空洞化の大きな原因があると思うし、逆に言えば、それが思い切った改革をなかなか政治にさせられない、させない要因でもあるのだろう、このように思うのです。そういうことで、小泉内閣が大変な国民の支持をいただき、期待をされているわけでありますから、やれるなら今ではないかというぐらいにかえって思うわけでございます。

 そういう意味で、私は、社会保障制度の改革というのは、ただ単に国レベルでの数値上の、あるいはシステム上の改革ではなくて、基本的にはソフトの部分における地方分権の中で改革されていくべきものではないかな、このように思えるのです。

 協同とか協力とかコミュニティーとかいうようなお話がございましたが、人というのは、そういう中にあれば恐らく、生活保護費の支給と年金支給を比べて、いや、生活保護の方がいいから保険料を払わない方がいいと、そういうことは全く協同性というのはないわけですね、助け合いというのもないわけですね。極端な話、先ほどもあったように、食えなくなったら刑務所に世話になっていれば食っていけるというような議論が出てくるわけでしょうが、やはり身近なところでの人間関係、コミュニティー、これが完全に崩壊された状況の中でそういうモラルハザードが起こってくるのだろう、このように思うのです。

 そういう点で、地方分権と社会保障制度の改革というのは連動して、セットで行われなければならないだろう、このように考えているのですが、いかがでしょうか。

木村参考人 私も、連動して考えなければならないというところは、先生と本当に同じ意見をさせていただきます。

小林(守)委員 ありがとうございました。簡単に同意されてしまいますと、私も質問がちょっと続けにくいのですけれども。

 それでは、一つだけ。先生のお話の中で、あるいは日経新聞の「経済教室」の中で論じておられます、日本のこれからの方向として中福祉・中負担というような制度であるべきだと。アメリカ型のいわゆる自由主義的な福祉国家というパターンと、あるいはドイツやフランスなどの新保守主義的な福祉の考え方と、それから北欧などの社会民主主義的な福祉国家観というふうに類型されるとなると、日本は中福祉・中負担の国だということになると、何か全部折衷をしていくようなスタイルなのかなというふうに思えてならないのですけれども、その辺についてどうなんでしょう。

 具体的に、社民主義的な福祉国家的なイメージと、自由主義的な自己責任を徹底させていくような、そういう個人責任に立脚するような福祉のあり方と、それからフランスやドイツのような、ちょっとよくわからないのですが、新保守主義的な国家観というふうに言われるようですが、そういうものの間をとっていくような形になるのかどうか。中福祉・中負担の日本の社会保障制度というのはどういうイメージになるのでしょうか。

木村参考人 非常に難しい問題であると思っております。

 中福祉にするのは大変な努力が要ると思っております。なぜかといいますと、先ほど中山先生がおっしゃったような、非常な激しい見積もりというのが通常の中で、それを中福祉に持っていこうとすると、私は無理やり持っていく必要はないと思うのですけれども、日本の国民性にとって、例えば北欧のような、どんな人生のパスを歩いてきても、高齢期になれば、まるで広さも同じ、そういう住宅に入るというようなことを日本人は好むだろうか。そういったことをいろいろ考えますと、中福祉というのが望ましいのではないかというふうに考えました。

 では、中福祉にするのはどういうことかと申しますと、先ほど申し上げましたように、年金を抑制するようなことになるかなというふうに思っています。

 では、小林先生が一番問われた国家観として、国家としてどういうものを希求するのかというときには、私は、シュレーダーのことはよくわかりませんが、ブレア政権がとっている、実現は難しいかもしれないですけれども、国民が意思決定にも参加して、そして事後的な、サービスの質、本当に受け手が満足しているかどうかを絶えず問うていくという第三の道というものに個人的には引かれております。

小林(守)委員 終わります。ありがとうございました。

鹿野会長代理 上田勇君。

上田(勇)委員 公明党の上田勇でございます。

 きょうは、木村先生の大変貴重なお話を伺いまして、ありがとうございました。先生のお話、高齢社会から超高齢社会へと、まさに日本が今直面しているさまざまな課題はここの高齢化という中に集約されている面があるというふうに思います。もちろん、社会保障制度の改革の問題もありますし、それから経済構造の問題もやはりこの高齢化ということを抜きには今語れないだろうというふうに思うんですが、残念ながら、経済の構造というようなことを考えるときには、どうもこういう高齢化という視点が、それが非常に重要な要素になっているという視点が少し欠けているのではないのかなというような感じもしておりまして、そういう意味で、きょう伺ったいろいろなお話、これからまた参考にさせていただきたいというふうに思っております。

 それで、先生に何点か御質問させていただきたいんですが、最初に、いわゆる雇用の年齢の差別の問題について先生は触れられたんですけれども、今非常に雇用が深刻でございます。特に、中高年の方々の雇用が非常に深刻になっておりまして、先日もある方からお話を伺ったら、求人広告を見て電話で申し込んだら、年齢を聞かれて断られた、ところが、それを同じところにいた息子さんが申し込んだら、あした来てくれというふうに言われたというようなお話もあります。

 先ほどの先生のお話では、アメリカの研究では加齢に伴って職業能力が必ずしも低下するということではないということでありますけれども、これから特に、経済の構造改革も進めていく段階で、やはり雇用の問題がより深刻になってくるんじゃないかというふうに私は思っています。もちろん、失業保険、失業給付とかの雇用のセーフティーネットが必要なのは当然のことなんですが、いつまでもそれに頼っているわけにはいかない。そうすると、特に中高年の方々の雇用をどういうふうに、また、新たな仕事をどういうふうに見つけていくかということが非常に重要だというふうに思います。

 もちろん、職種によっては身体的な能力が直接関係してくるものもあるんですけれども、先ほどのお話では多くのものではそういうことは認めにくいということなんですが、先ほどちょっと紹介させていただいた例のように、実質的には年齢制限、規制がある。

 そういう現状の中で、例えば法律によって、もちろん身体的な能力が直接問われないような職種に限られるのかもしれませんが、そういう年齢差別を禁止するような法律、年齢差別禁止法みたいなものを制定すべきではないかというような意見もあるんですが、そういったことについて先生はどういうようなお考えをお持ちでしょうか。

木村参考人 上田先生、ありがとうございます。

 端的に申し上げますと、私も、法律によって年齢差別を禁止することがこれからの日本に望ましいことであると思っております。

上田(勇)委員 それで、これからこういうような議論が行われていくと思うんですけれども、先生の今までのいろいろな研究の中で、諸外国、欧米先進国等においてはどういうような、そういう年齢差別に対する法制度みたいなものがあるのか、少し御紹介をしていただければ、お願いいたします。

木村参考人 私の知っている範囲では、年齢によって差別を禁止するというのを、はっきりしたものを持っているのはイギリスです。でも、これは法律までいかなくて、コードという説明を向こうの労働省の方はしておりました。

 結果として、アメリカでもイギリスでも、こういうものをつくったところで差別はあるんだけれども、あればちゃんと訴えることもできますし、こういう法律がないときよりはずっと事態は改善しているということを私は聞きました。

上田(勇)委員 それでもう一つ、今度はこれからの、将来にわたる労働力の問題についてちょっとお伺いをしたいというふうに思うんですが、高齢化社会に向かうとやはり労働力の不足というようなことが懸念もされるわけでありまして、昨今は特に経済界などからも、労働力の不足を補うために外国人の労働者を受け入れてはどうかというような提案も相当具体的な形で行われております。

 いわゆる単純労働だけではなくて、医療の分野であるとか、あるいは介護などの福祉の分野、それから公共の分野などでもそういう労働力の不足が実際これから懸念されるんじゃないかというふうに思うんですけれども、こうした将来的な外国人労働者の受け入れによる労働力の確保ということについて、もし御見解があればお伺いしたいというふうに思います。

木村参考人 外国人労働者の問題は、避けて通れない問題であると思います。反対にしろ賛成にしろ、どちらかの態度をとらなければならない時期に来ていると思います。

 私は思いますに、どういう理由で外国人労働者を欲しがるのか。もし、年金制度を健全化するために若い労働力を入れなければならないということで外国人労働者が欲しいということになりますと、ある研究では、年金財政の健全性を維持するためには、ある年に外国人労働者を一定の数入れて、それからまた数年あるいは数十年たってからこれだけの数を入れるというふうに、かなり計画性を持ってやらないと年金財政の健全性は維持されない。なぜならば、そういう方も受給者になっていくからであります。

 そういった面で、目的を明確にどこに置くか。私は、日本にいる人の雇用を守るということは、これは国としては当然のことであって、その雇用が脅かされるような外国人の労働者の受け入れというのは反対であります。

 ただ、受け入れのメリットというものも重々わかっておりまして、さまざまな多様性のある人たちが国に活気をもたらすというのはアメリカの移民の歴史を見てもそうでありますので、医療とか介護とか福祉の分野で専門家を将来的には受け入れていくということも考えられていいのではないかと思います。

 ただ、これは実証的にしたわけじゃなくて、スウェーデンなんかの聞き取りですと、老後に介護が必要になったときは自国の言葉がわかる人がいいと。ですから、移民が多い国ではいろいろな国からその分野で働き手が来ることもいいわけですし、外国人労働者の問題は一言ではなかなか言いがたい多面的な問題を含んでいますけれども、日本の雇用というものを守りながら、また新しい産業の創出のためには、そういう外国人の労働力というものも日本に入ってきていただくことは必要であろうと私は思っております。

上田(勇)委員 今先生おっしゃったように、本当にこれは難しい問題だというふうに、いろいろな面からの評価があることなので、ただ、これから、労働力人口の減少ということが起こっている中で、そろそろ具体的な検討を始めなければいけないときかなというふうに私も思っておるところでございます。

 それで、もう一つお伺いをしたいんですが、実はけさの新聞に、老人医療費の問題についての経済界からの提案についてちょっと記事が出ていたのですが、今の企業ごとの健保組合から老人医療の部分だけを独立させて新しい保険制度をつくるべきではないかという内容であります。

 これは、健保組合の方の財政がもたないという理由もあるんでしょうけれども、サラリーマンも、現役のときには職場中心の生活でありますが、リタイアすれば地域中心の生活になるので、確かにそういう意味では、老人医療について、企業の健保組合とはまた別の、地域をベースにした保険といったことも一案なのかなというふうにも思います。

 もちろん、それの裏づけとなる財政の問題もあるんですけれども、こうした老人医療費、今、現役世代についてはそれぞれ、サラリーマンの方は企業の健保組合、そのほか国民健康保険、いろいろな制度で入っているのですが、老人医療費だけを独立させて新しい制度を創設するというようなことについて、御意見があれば伺いたいというふうに思います。

木村参考人 老人医療費の問題は非常に大きな問題で、健保組合が二年ぐらい前に、十日間ほど拠出金をもう出さないというような事態を引き起こしたというぐらいに大きな問題であると思います。

 老人だけの医療の制度を独立させるということは、現在よりは保険料の徴収ができるとかいうようなメリットはありますけれども、私は、根本的解決にはならない、今よりはいいかもしれないですけれども、根本的な解決にはならないというように思っています。

 むしろ、個人的に引かれておりますのはドイツの改革でありまして、年齢にかかわらず、例えば日本の制度になぞらえて言いますと、退職しても若いときの制度にそのままいることができて、高齢者とか年齢にかかわらず一本の制度でやるということですね。分立した制度間では、標準的なところまでは財政調整をするという方の案に引かれております。

上田(勇)委員 最後に、もう時間もないのですが、公的年金についてのお話を伺いたいと思うのですが、先ほど先生、スウェーデンでの改革の事例などもいろいろ御紹介をいただきまして、本当に参考になりました。

 それで、今、国民年金の制度の議論の中でよく言われるのが、いわゆる被扶養者配偶者の問題があるのですけれども、サラリーマン家庭の専業主婦は、国民年金の保険料は払ったものとみなされるというようなことに現行制度ではなっております。

 これについてはいろいろな意見があるというふうに承知しておりまして、専業主婦の所得をゼロとカウントすれば別に不公平ではないんだという意見もありますし、ただ、女性が社会の中で活躍をされる機会は非常に大きく、むしろそれが普通になってきている中で、今の被扶養者配偶者の制度はちょっと現実的ではないのではないかということもそのとおりだというふうに思います。このことについて、先生のお考えを伺いたいというふうに思います。

木村参考人 第三号被保険者問題は、ぜひ解決しなければならない問題であると思います。その理由は二つです。

 一つは、結局、公平の原則に反するとか、それから、労働意欲を阻害して、そしてパートタイマーの待遇改善にもつながっていない、むしろそれを阻害しているという、よく言われる問題がありますけれども、一番大きなところは、高齢社会の中で女性が生きていくということを考えた場合に、この制度は、守っているようでいて実は守っていない。

 第三号被保険者で、百三万円以内あるいは百三十万円未満の中に自分の収入を抑えるということは、その女性の自分名義の年金は、高齢期になっても、今のお金でいいますと、月六万五千円ぐらいの年金しかありません。今、結婚生活二十年以上の離婚がこの二十年間で二、三倍になって、離婚の五件に一件がそういう離婚なんですが、女性が中高年期以降に離婚して一人になったときの生活設計を支援するようなものにはなっていない、わざわざその人の年金を抑えるような制度になっているということは、私は非常に大きな問題であると思っております。

上田(勇)委員 ありがとうございました。以上で終わります。

鹿野会長代理 藤島君。

藤島委員 自由党の藤島正之でございます。

 今までいろいろな議論が出ましたので、若干ダブる部分がありますけれども、二、三の点について教えていただきたいと思います。

 まず、年齢のバリアのない社会の件でございますけれども、先生は、年をとっても仕事の能力は落ちない、こういうふうに最初おっしゃったのですが、私自身がいい年になってみますと、かなりやはりいろいろな分野で落ちてきているような気がしまして、まだ働くということについてはもちろん意欲はあるわけですけれども、能力そのものはやはり落ちてくるということは確実に言えると思うわけですね。

 一方、先ほど会長の方から質問があったのですが、定年制の延長、私はこれは、ある部分は定年制の延長というのは構わないと思うのですけれども、これを余り延ばし過ぎますと、そこの年齢までは何をやっていようが、余り働かなくても収入はあるし、仕事はさせてもらえるんだということになりますと、非常に効率の悪い、本来の能力を発揮しないままいってしまう、こういう社会でいいのだろうか。これは、民間はなかなかきついと思うのですけれども、国ないし地方公務員のような場合はまさに端的にあらわれてくるので、やはり私は、ある程度の定年制は必要だろう、こう思うわけです。

 ただ、六十歳なり六十二、三歳まで定年としましても、その後まだ十分働けるわけで、逆に国やあるいは社会全体が、定年になった後も、同じ仕事を続けるというんじゃなくて、その人に合った、まだ活用のできる分野、こういう分野で仕事をやっていく、こういうことにむしろバックアップするような体制が必要じゃないかな、私はこう思うわけですけれども、先生の御意見をお聞かせ願いたいと思います。

木村参考人 藤島先生、ありがとうございます。

 私は、どう考えても定年はない方がいいと思っておりますので、先生がくださった御質問は、現行の定年制があるというもとで、定年された後でその方たちができる仕事があればいいということでございますか。それはそのとおりだと思います。

 定年制が延長してしまうと、人事のローテーションのために、もっともっと早い段階からいろいろな子会社とか附属の機関とかへ行くようなことになってしまうと私は思います。

藤島委員 この点はちょっと見解が違うようです。私は、民間の組織ですと、そのようなことをやっていると、海外の企業と果たして伍していけるのかどうか、あるいはそういう会社はつぶれていってしまうのかもしれないな、こういう心配がありますけれども、この件についてはこれ以上議論は避けたいと思います。

 二番目に、これは先ほど上田先生の質問にもあったのですけれども、年金と医療保険、医療保険の中でも老人医療の問題、それと介護保険、介護の問題、これはやはりそれぞれ別々に考えた方がいいんじゃなかろうかと思うわけです。

 もともと、基本的には、税金でどれぐらいを負担し、あと普通の保険制度でどれだけやるか、これはその割合をどうするか非常に難しい問題だと私は思うわけですけれども、私の基本的な考えは、先ほどナショナルミニマムの保障という言葉が出ましたけれども、この部分をどの程度やるかということに尽きるんだろうと思うのです。この最低の部分は国が税金を主として充てて保障して、それ以上それぞれが、もうちょっといい待遇といいますか、サービスを受けたい、こう思う人はふだんからその分を余分に負担しておく、こういうのがこれからの意欲と活力を持った社会には必要ではなかろうか、こう思うわけですね。

 したがって、年金制度にしても、最低のものは国が保障し、あとそれ以上の年金を将来もらいたいと思う人は、日ごろから自分の自助努力で負担しておく。介護保険についてもそういうことが言えるでしょうし、あるいは老人医療についてもそういうことが言えると思うのですね。最低限のものは、老人になって余り収入がない場合でも、生きていくための医療として最低限のものは国が保障し、それ以上自分がもっといいサービスを受けたいということを希望していた場合は、事前にそれなりの保険料を払うなり、あるいはその段階で自分の財産を充ててサービスを受ける、こういうふうな考え方がいいのではなかろうか、こういうふうに思うわけですけれども、先生のお考えはいかがでしょう。

木村参考人 二つほど、申し上げさせていただきたいと思います。

 まず第一点は、先生が、医療とか介護について最低の保障で、あと付加的な部分は御自分の意思でもっと余計にお金を払ってやってもらうとか、そういうことでいいのではないかとおっしゃったように理解をいたしました。私もこの考えは成り立つと思うのですが、年金よりも難しいと思っております。年金の場合は、最低保障で、あとはもう確定拠出で個人の年金に入ってほしいと言ってもいけると思うのですが、医療とか介護で最低保障とは何かというときに非常に難しい。

 最低保障だけの保障なんというのはむしろない方がいいかもしれない。先生は別のニュアンスでおっしゃっているのかもしれませんが、最低の保障というのは医療、介護では私はむしろあり得ないのではないか。最低の保障という場合には、アメリカのように対象者を限定することぐらいしかできないので、国民皆年金を前提とした最低の保障というのは、最低のラインをどこに引くか、最低の医療サービスとか介護サービスで何とか暮らしていけるようにするという言葉を成り立たそうとしたら、実態としては、少なくとも現行ぐらいの医療保障水準は必要ではないか、あるいは介護の保障水準は必要ではないかというふうに考えます。それが第一点です。

 第二点は、先生が本当におっしゃった税と社会保険料の財源構成の点でございますが、私は、日本の社会保障で今後考えなければならない一番大きなことの一つはこの点であろうと思っております。地方とか国とか、それから社会保険者の負担割合というのは、どの制度を見ましても、相乗り方式が非常に多いというのが私たちの国の特徴で、それぞれが出す意味合いというのを、あるいは責任分担、あるいは機能を明確にするという努力が払われずに、相乗り方式で、ほかの分野の補助金と同じような形でなされているということは問題。むしろ、なぜ税を出すのか、税を出すならばどこまでなのかというような議論の詰めが今後必要であると思っております。

 以上でございます。

藤島委員 今の一つ目の件ですけれども、私は、サービスというのはやはりレベルがいろいろあるのではないかなと思うのですね。先生は、もう今のが最低であるというふうに断じていらっしゃいますけれども、私は、サービスというのは、ある最低のサービス、それから中程度のサービス、もうちょっとレベルの高いサービスというものがあるのではないかなと思うのですけれども、もう少しその点について詳しく教えていただきたいと思います。

木村参考人 例えば、介護で見ますと、先生のおっしゃった意味を私は理解しているかどうかわかりませんが、同じ非常に重度な人に対してどの程度公的なサービスをするかというので、割合手薄いサービス、手厚いサービスという区別は確かにできると思います。

 だけれども、公的なサービスのかなりの部分で、私は、医療についてももっとミックスにする必要があると思っておりますけれども、中核的な部分を担わないサービスというのはほとんど役に立たないのではないかと思っておりますということです。

藤島委員 それではもう一つ、時間の関係もありますので、お尋ねしたいのは、先ほども西川さんの方からちょっと議論があったのですが、やはり介護の問題というのは地域密着といいますか、生活密着型なものですから、地方自治体との関係が非常に密接な問題になると思うわけですけれども、私ども自由党は、今自治体が約三千あるわけですけれども、十分の一の三百ぐらいにして、すべてある程度の規模以上にすべきだ、こう考えているわけです。

 先ほど、西川さんの質問のときに、ある程度規模がないと運用がうまくいかないという点の主張と、しかしもう一方で、本当に地元の密着型なので余り大きくならない方がいいという面があるのではないか、こういう御主張に対して、そういうジレンマがあるというふうに先生はおっしゃっていたのです。

 私は、大きくて、その中で細分化して機能をやることは十分可能だ。もともと小さい、それこそ千戸ぐらいしかない村とか町で幾つか集まってやろうといっても、なかなかこれは、その村、その町の自我みたいなものがありますので、うまくいかない。そういうのは最初に大きくて、その中の機能として地域密着型、これは十分可能なので、何もジレンマに陥ることもなければ、問題はないのではないか、こう思うわけですけれども、いかがでしょうか。

    〔鹿野会長代理退席、会長着席〕

木村参考人 先生がおっしゃった意味を私がよくとらえられたかどうかは、今回についてはほとんど自信がないんですけれども、いろいろな事業を実施するためにはそれは大きな方がいいんだけれども、いろいろなコミュニティーのこととかを考えれば小さいままでいいかもしれないというふうなジレンマがあるというふうに申し上げたかと思うのですが、そのジレンマをどう解決するかというのは、合併の一つのイシューだと考えていまして、ジレンマじゃないんじゃないかともし先生がおっしゃられたのなら、私は、やはりジレンマだと考えると申し上げる以外にないというふうに思います。

藤島委員 この点については、どうも同じような考え方なのかな、こういうふうに実は思います。

 質問を終わります。

中山会長 春名直章君。

春名委員 日本共産党の春名直章です。

 きょうは、大変貴重なお話をありがとうございました。就職における年齢差別の撤廃の問題とか、次世代を育てる環境を整えるという点で、長時間勤務の解消、保育所の充実等々のことが御提案されて、私深く感銘を受けました。

 その点、憲法調査会としての議論にふさわしくと思って、憲法の条文に照らしてみますと、第十四条に法のもとの平等をしっかり明記されているんですね。性別で差別されない。二十四条は両性の平等、二十七条は勤労の権利と義務、十三条には包括的な幸福追求権、そういう人権規定が明記をされていて、やはりこういう憲法の中身に沿った社会づくりということがいよいよ問われているなというのを、私は率直にお話を聞いて感じた次第でございます。

 ところで、四月の四日に読売新聞が世論調査を発表しておりまして、そこで、憲法二十五条の例の生存権規定についての問いがあります。二十五条の生存権規定は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」ということと、「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」ということが明記されております。この世論調査では、その生存権が保障されていないというお答えをした人が三六%になっていまして、保障されているというのが一六%と、大きく上回っているということを報じています。一九七八年に調査をした同じ調査の比較でも、保障されていないというふうに答えている方が一二ポイントも増加しているということを報道しています。

 木村参考人にお聞きしたいのですが、どうしてこういう調査結果になっているのか、実感で結構でございますので、その点の御感想をお聞きしたいと思います。

木村参考人 春名先生、ありがとうございます。

 私は、どうしてそういう結果になったのかというのはわかりません。本当にわかりません。時間の経過とともに、社会保障制度に関する限りは、制度はむしろ充実をしてきたというように私は考えておりますので、介護保険もスタートしましたし、生存権規定が保障されていないという、この結果だけ見た理由というものは、大変申しわけないですが、理由はわかりませんということでお許しください。

春名委員 この読売のコメントでは、「年初から景気の後退局面が顕著になってきたことや、失業率が依然として四%台後半の高水準を続けていることなどが、生存権への厳しい見方に影響を与えているようだ。」社会保障ということよりも、景気の問題ということからコメントが出ているのですけれどもね。

 ただ、私、充実してきたということの思いが、十分国民の間ではそういうふうにとらえられていない、実態としてそうなっていないという側面も社会保障の問題でいえばあるのかなというふうに受けとめたわけです。私はこの調査結果を見て、生活面でこそ憲法の中身、生存権規定を生かしてほしいというメッセージが込められているのではないかなということを痛感するわけです。

 その点で、憲法二十五条の規定なんですけれども、この憲法二十五条は憲法草案の審議の過程で挿入されたものです。国家による生存の確保という発想は、ワイマール憲法を初めとした二十世紀に制定された憲法典の系譜を引くものだと思うのですね。それで、ワイマール憲法は国家の政策として国民生活の向上を掲げていただけだったのですが、日本国憲法の場合は、国民の生存を権利として国家が保障する、このあり方を規定したという点で、私、憲法史上でも非常に画期的なものだったというふうに思いますし、多くの学者がそういうふうに評価をされている。やはり社会保障の将来像を考えたときに、この二十五条の規定に込められた理念をどう現実化していくかということが引き続き今、重大な課題じゃないかというふうに思うのです。

 その点でお聞きしたいのは、ちょっと前で悪いのですけれども、一九五〇年に社会保障制度審議会が第一次勧告をお出しになりました。

 この勧告では、冒頭に憲法二十五条を引用しまして、これは国民に生存権があり、国家には生活保障の義務がある、こういう意味なんだ、これは我が国が世界の最も新しい民主主義の理念に立つことであって、これによって、旧憲法に比べて国家の責任は著しく重くなったと言わなければならないというふうに、憲法二十五条の解釈をここの勧告で述べて、そして国の責任をうたうとともに、現下の社会経済情勢並びに日本国憲法二十五条の本旨にかんがみ、緊急に社会保障制度を整備することが大事だということが勧告されて、御承知のとおり、前後して生活保護法とか、児童福祉法とか、社会福祉事業法とか、そういう一連の立法が成立するという経過をたどるのだと思うのです。

 木村先生にお聞きしたいのですが、この一九五〇年の勧告、どういう御評価をされているのかをぜひお聞かせいただけたらと思います。

木村参考人 一九五〇年の勧告は、これは私もすばらしいものであるというふうに思います。ただ、先ほど申し上げましたものとちょっと重複しますけれども、本当に先生がおっしゃるようにこれを維持しようとすると、大変な努力が要ります。

 先ほど、ナショナルミニマムの考えが二十一世紀の終わりまで果たして先進諸国の中で今のように維持されるのかどうか、その点について私はちょっと問題提起をしましたが、なぜかというと、運用の段階で、例えば先ほど申し上げましたようなモラルハザードを生じてしまうようなことがあれば、結局国民に支持されない。この制度を本当に国民全体で、国家が責任を持つということは国民全体で責任を持つということですから、支持されるためには大変な努力をしなければならないというふうに考えております。

春名委員 運用のモラルハザードということでは、私は、実態はそういうものではないのじゃないかなと思うんです。本当に今、生存権が脅かされるような苦労の中でもがいている国民が圧倒的であって、その点はちょっと見解を異にするということなんですが、とはいえ、この規定が憲法の生存権規定に沿ったものとして高く評価されるということは共通の認識だと思うのです。ただ、それが五〇年当時の勧告から見ても、現時点、今ナショナルミニマムを維持できるかどうかの瀬戸際だというお話なのですが、その時点から見ても、むしろそれが全面的に実現したとは言えない、後退しかかっているという印象を私は非常に持つんですね。

 そこで、私、具体的な話で一つだけ、どうしてもずっとひっかかっていることがありまして、介護保険法ができましたでしょう。私は、介護の社会化、公的に支えるということは本当に大事なことだと思いますので、それはいいのですけれども、ただ、その中で当初から大きな問題になってきたのは、低所得者に対する保険料、利用料の問題というのはずっと問題になって、今吹き出しているわけなんです。

 憲法二十五条の規定から、生計費には非課税、生活するにかつかつの人たちに対しては生計費非課税でいこうという規定が税制上できて、住民税非課税世帯というのがおりますね、お年寄り世帯が多いわけです。しかし、そういう部分に、残念ながら保険料はいただきますということになっているわけなんですね。

 これは、私は率直に言いまして、憲法二十五条の規定から見たときに、少しそごがあるのじゃないかというふうに感ぜざるを得ないわけです。そういう問題がやはりアンケートなどにも浮き出ているというふうな印象を私は受けるんですね。この点はどうお考えですか。

木村参考人 この点は春名先生とは、基本のところでは同じでも、こういう個別のことにつきましては意見が分かれると思います。まさにこれは意見が分かれるところでございます。

 私は、医療保険にしましても介護保険にしましても、保険形式をとるということになりますと、例えば保険料を無料にするとか、保険料を軽減するとかいうときには非常に重要な根拠が要ると思っております。例えば、その保険料を取ってしまうともう医療とか介護にアクセスできない、そういうことが非常に明確であれば話は別ですけれども、そういうことが明確でない限りは、また、保険料を払っていただくということは、別に私は二十五条には反しないというふうに考えております。

春名委員 そのお考えも私はわかるのですけれども、ただ、現実の実態に向き合っている自治体の皆さんから出てきているのは、約九百の自治体が保険料や利用料を減額、免除する制度を独自につくられて努力をされているというのも現実の姿としてあるんですね。ですから、本当にその人の生活の実態を見たときにこれでいいのかという問題が提起をされて、今努力が始まっている。そして、それを憲法二十五条の理念から見るときに、ここにやはり立ち戻るということを現実の社会が今問うているのじゃないかなということを、これは意見が違うかもしれませんけれども、私は実感させられているのです。

 もう一点具体的な問題で、二十五条あるいは十四条等々に違反しているという問題の最近の例でいいますと、ハンセン病の国家賠償裁判の熊本地裁判決があると思うのです。これは重要な問題を投げかけているというふうに感じるんですね。

 この判決の中では、遅くとも昭和三十五年以降においては、もはやハンセン病は隔離政策を用いなければならないほどの特別の疾患ではなくなっており、すべての入所者及びハンセン病患者について隔離の必要性が失われていた。したがって、厚生省としては同年の時点において隔離政策の抜本的な変換等をする必要があったが、新法廃止までこれを怠ったのであり、この点につき、厚生大臣の職務行為に国家賠償法上の違法性及び過失があると認めるのが相当であるということで、国の隔離政策を断罪することになりました。もちろん立法府の責任というのも問われているわけなんですが。

 私も、ハンセン病の療養所にも出かけていったんですけれども、やはり、隔離の上に断種をされる、あるいは改名される、強制労働される、およそ基本的人権からかけ離れたような実態、法のもとの平等に反するような実態、生存権も事実上否定されるような事態を見たときに、本当に日本には憲法のこの精神が根づいているんだろうかということを率直に感ぜざるを得ませんでした。

 私は、こういう点にも、今の国のあり方、憲法を本当に、ただ守るんじゃなくて、その精神を生かしていく、二十五条を生かしていく、十四条を生かしていくということがいかに問われているかということを感じるんですね。

 この点についての御感想をちょっとお聞かせいただけたらと思います。

木村参考人 ハンセン病の方の記事は、私は、恥ずかしながら新聞あるいはテレビで見た範囲でしかお答えできませんけれども、あれを読む限り、もし自分をその身になぞらえますと、非常に痛ましいと申しますか、基本的人権が侵害されるようなことであると。特に、ロビー活動のようなものがなされたということでございますから、大変痛ましいことであるというふうに個人的には思っておりますが。

春名委員 私、五〇年の勧告の話をさせていただいたんですが、今、木村先生も御努力されて、九五年の勧告ですかね、あれをお出しになられていると思うんですが、ここで私は一つだけちょっと気になったのは、九五年の勧告では、生存権に対する国の責任ということの根本には自己責任があるんだという論理といいますか、理念になっていると思うんですね。

 もちろん自己責任ということは大事だと思います。しかし、五〇年の勧告、四七年の憲法制定当時のこの二十五条の規定は、やはり生存権に対する無条件の国としての責任をまずしっかり持って、そこから物事を出発するということが理念なんじゃないかと思うんですね。

 自己責任が基底にあるということをもし言われると、少し違ってくるんじゃないかという印象を持ってしまったわけなんですが、その点はいかがでしょう。

木村参考人 私は、普通考えると、まず、自分の人生は自分で責任を持って生きる、それが普通だと思います。それが本当にできないところで、国家権力の介入というところに根拠が見出せるわけですから、別に自己責任を言うということは非常に望ましくないとかそんなことは考えないで、むしろ当たり前のことじゃないかと思います。

春名委員 時間が来ましたのでこれで終わりますけれども、ただ、国の責任を明確にするという点では、一言だけ言いますけれども、この二十年の間に、社会保障財源の国費の割合なんですが、最初に参考人言われましたけれども、国費の割合でいえば、一九八〇年には二九・二%だったのが、残念ながら九七年には一九%、二割とおっしゃったとおりで、三分の一ほど削られているというのは、やはり国の責任の後退ということに通じているなということを私は思いましたので、その点は一言言わせていただいて、私の質問を終わりたいと思います。

 どうもありがとうございました。

中山会長 阿部知子君。

阿部委員 社会民主党・市民連合の阿部知子と申します。よろしくお願いいたします。

 まずは、きょうは、木村参考人にあっては、包括的なお話、大変御苦労さまでございます。一時間というお時間でも語り切れないほどのたくさんの内容をいただきまして、当憲法調査会のメーンテーマである日本のあるべき姿ということの中で、本日は、特に日本の社会のあるべき姿あるいは人のあるべき姿についてお答えをいただいたように思います。

 特に、私にとって印象に残りますのは、いわゆる二十世紀が、二つの世界大戦に人類が出会い、そのことをもって逆に福祉国家という、戦争する国家じゃない、福祉を実現していく国家というところに範を求めたけれども、二十一世紀はどんな範を国なり社会に求めるべきかという、根本的な理念のところでの問題提起があったように思います。

 私自身は、長く小児科の医者をやっておりまして、議員になり国会の場に臨みましたのはまだ昨今でございますが、実は、社会保障政策ということに関して、理念の部分できちんと論じられたことがないというのが非常に私にとっても不満でございました。

 例えば、社会保障という文言の中にも、今のこの論議の中でも、国がどこまで保障するか、あるいは社会がどこまで保障するか、そして個人がどこまで保障するか、これは、実はおのおの少しずつ位相が違うことのように思います。今までは、日本の社会の論議の中で国と個人しかなかったところに、もう一度、社会保障という概念を二十一世紀サイズに見合って考えようという問題提起をきょうは木村先生にいただきましたので、その点、まず一言お礼申し上げます。

 では、私ども社会民主党は、今、二十一世紀初頭に当たって、この社会をどのように考えているかということについて、多少自己宣伝になりますが、させていただきます。

 きょうの木村先生のお話の中でも、いわゆるヨーロッパのスウェーデンやドイツやイギリス、いわゆる社民主義が政権をとった国のモデルがございましたが、実は、おのおのの国にはおのおのの歴史があり、また社会の仕組みがあり、日本は日本で独自の社会民主主義的な枠づけを求めていかなきゃいけないと思っております。

 では、根本的に社会民主主義をどういうふうに考えますかといった場合に、これは、国の果たすべき責任と、先ほどの個人の果たします責任の間に、いみじくも社会というものをもう一つ想定いたしまして、そこの中で取り組んでいく役割をもう一つ置いたとお考えいただければありがたいです。

 今、二十一世紀の初めに私どもの世界並びに社会が直面します問題は、どこの国でもそうですが、高齢化の問題でございます。これはどこの国も、全世界的、そして環境の悪化という条件もございます。あるいは、国家間の戦争は確かに減りましたが、内戦や飢餓、難民の問題もまことに広く世界を覆っておる。

 そしてもう一つは、経済のグローバル化という中で、ある意味の競争社会は国境を越えて広がり、これはネギの輸入問題等もそうでございますが、経済がグローバル化することによって過剰な競争ということも現実にはございます。

 その中にあって、じゃ、私どもが社会的に何を保障していかなきゃいけないかといった場合に、特に、私は小児科の医者でございますことを申し述べましたが、実は中山先生も小児科のお医者様でございますが、今の日本の社会で子供たちが置かれた状況というものが、非常にこの社会のありさまを反映している。

 どういうことかというと、この数年、新聞報道、子供たちの虐待とかお母さんの育児放棄とか、そして、大きく言えば、少子化という現象も女性たちが産むことを選ばなくなったということでございますから、小児科医である私にはとても悲しいことであります。

 じゃ、振り返ってみて、女性たちが、これは国から押しつけられるのではなくて、あるいは共同体から押しつけられるのではなくて、自分が産むことを選んでよかった、楽しい、ラッキーと思えるような社会の仕組みになっているかどうか。私にとっては、きょう木村先生、お時間の関係で、女性の年金の問題等々、十分なことを展開されられませんで残念でしょうと思いますけれども、女性たちが本当の意味でいろいろな選択ができる社会を実現していくということを第一に置きたいと思います。

 ここからは質問という形にさせていただきますが、先ほどの共産党の方との討議の中で、私も、過剰に自己責任が強調されますと、女性たちは産むことに恐れをなすと言うと変ですが、気持ちの上で萎縮してまいります。それが今の、子育てもお母さんの責任であるとか、あるいは、明らかに子供を産み育てるというのは、経済効率から申しませば、効率だけの論理に従えば、はっきり申しまして効率は悪い。大きく言えば再生産をしておりますんですが、女性にとっては時間のロス、いろいろなキャリアのロス。でも、そういうふうに考えることは、私は悲しいことと思っております。女性が産むということといわゆる自己責任ということについて、まず木村先生のお立場を、ちょっと変な軸を設けて申しわけないですが、私は、余り自己責任という言葉を強調されることの中に、今女性たちが産むのはやめてしまおうと思ったら悲しい立場ですので、ちょっとお願いいたします。

木村参考人 阿部先生、ありがとうございます。

 先生がおっしゃってくださったことを、私、うまくとらえられたかどうか自信がありませんが、自己責任というのは、どういう社会でも、人間が生きていく上での原則である。そこから少しイシューを変えまして、では、今の女性が置かれている状況と、それから子育ての中で自己責任が強調されるとはどういうことなのかと、先生のお話を伺いながら聞いていたのです。

 まるで、育児も含めて子育てを全部自分のところでやってしまって、社会的には援助しないのだというふうに仮にとらえたとしますと、そういう意味での自己責任の強化というのは、今の社会には合っていないのじゃないかと思います。家族機能を側面で支えていくのだというのは、これは二十一世紀になると今よりももっともっと重要になると思いますし、育児の放棄とか育児そのものとか、そういったことにはかなり社会的にコミットしていかなければならない。

 税制とか年金とか、先ほどの年齢差別、四十歳になって大学とか大学院に女性が再入学しても、後でまた仕事を持って次の人生をやり直せるような社会をつくるというのは、これは一つの社会の目指す方向ではないかというように考えています。この分野で、今後は社会的な関与というのはむしろ強まってくるのではないかというふうに、あるいは強まらざるを得ないのではないかというふうに私は考えております。

阿部委員 実は高齢化の問題も、これは、私は医者の世界に属しておりますが、医師会の会長がうまい表現をいたしまして、病気というのは受益ではなくて受難である。いわゆる高齢化とか病気というのは、もちろんお元気な高齢な方は、先生もおっしゃるように、移動の自由も含めてある程度自由はございますけれども、病気になるということは、選んでなるわけでもないし、責任放棄した結果なるのでもないというところで、今の日本の社会の成り立ちは、そういうところに関してのセーフティーネットという考え方が希薄になりかけているのではないかという危惧を私たちは持っているわけです。

 例えば、御高齢者に自己責任感を強く訴えるということも、実は今の日本の御高齢者たち、私から申しませば、失礼な言い方ですが、けなげでいらして、むしろ、いろいろなことで国のお世話にはなるまいと思っていらっしゃる方の方がマジョリティーだと思います。いわゆる生保の受給にしても、生保を何とか受給しないで、でもかつかつのところで暮らしていられる方が多いのも事実ですし、むしろその意味で、日本人の品性というのは、生保なんて受けないでという形である程度守られてきたものもあったと思います。

 でも、時代が高齢化すれば、当然病もいたし方ない部分ですし、先ほどの子育ても、大きな意味でのセーフティーネットがないと、女性たちが産むことを選択できない、産む産まないは決めるのは女性ですが、選択できないと思います。

 その場合に、当然ながら、これから、子産み、子育てあるいは介護は地域が担う役割が大きいと思いますが、介護保険の導入を見ましても、実は、地方自治体、財源的な問題で大変に苦労をなさっております。確かに、一部事務業務も含めて、権限は地方に移管されましたが、財源的な措置は必ずしも十分ではない。国の中で、地方分権が言われますが、財源の問題についてはこれまで余り立ち入って提案がなされてございません。地方財源の検討委員会でも、いわゆる所得税を地方に一部移管するという御意見ですが、東京都のように働く人が多いところはようございます。しかしながら、さっきおっしゃった過疎、そうしたところも含めて考えた場合に、地方で介護や育児、そうした生活関連分野が実際に行われる財源手当てについて、先生のお考えを伺いたいと思います。

木村参考人 この問題は、先ほど藤島先生がおっしゃった問題とも絡んでくると思うのですが、地方分権で、地方が自主財源を持つということは、これは非常に重要であると思います。どれぐらいの規模であれば自治体が自主財源を持つことが可能なのか。どのような税源であろうと、かなりの程度可能になるかということは、これは全国自治体を二百ぐらいにする方が、議論としてはすぱっといくと思いますが、現実はそういうことではないかもしれない。

 もし、ないかもしれなくて、基礎的な自治体の仕事として何が残るか。私は、問題意識としては、人口数百人、数千人の町で本当にやらなければならない仕事とは何か。それはやはり教育とか介護とかごく少数の仕事になってまいります。

 では、将来的に、そういう仕事が基礎的な自治体の仕事として残って、例えば、先ほど申し上げましたように土木のような仕事は県とか郡に持っていくとしましても、そういった仕事について、小さい自治体では自主財源を持てない可能性もあるということは出てまいります。

 そういうときには、私は一つ考えますのは、介護保険、あれは結局は全国的な介護を目的とした財政調整の制度でありますので、支出の保障的な部分については、ああいった保険ということでかなり保障される部分があるのではないかというふうに思います。ただ、今の介護保険、保険者である市町村の規模については、先ほど申し上げましたような、人口が日本じゅうででこぼこに、あいているところも、すいているところも、緻密なところもなっていくという状況の中では、国民健康保険とあわせまして、保険者の規模は市町村の合併とは別に考えていかなければならないだろうと考えています。

 以上です。

阿部委員 私に残されました時間がもうほとんどございませんので、先生の論文の中で一つだけ私が気になる部分、私も医療分野ですので、いわゆるNPOあるいは国という提供主体、公という提供主体だけでは、実は医療や介護という分野は私はうまく運ばないだろう。もう一つ、いわゆる生協方式のような、出資金を出し合って地域で支えるという仕組みを私自身は考えておりますが、時間との関連で、提案とさせていただきます。

 ありがとうございました。

中山会長 近藤基彦君。

近藤(基)委員 21世紀クラブの近藤でございます。

 木村先生、大変長時間、貴重な意見をありがとうございました。最後の質問者でございますので、あと十五分我慢をしていただきたいと思います。

 高齢化社会から超高齢化社会へということで、高齢化社会の問題、大変大きな問題があります。逆に言えば、我が国が長寿の国になってきているということは大変望ましい、喜ばしいことだろう。逆に、少子というのは大変悲しいことではありますが、何か、高齢化がよくないことだという発想以前に、大変いい国になってきているのかなという思いも実は半面あるわけです。

 そういう観点からすると、先ほど先生が冒頭に定年制のことをおっしゃいましたが、逆に言えば、お年寄りの方も、年金が要らないからもっと働かせてほしい、そういう人もたくさんいらっしゃる。もちろん、肉体的なことでだんだん働けなくなってこられて、保障制度を利用されている方もいらっしゃいますが、元気なお年寄りの方が逆にふえているのかな。そこへ定年制をかけ、昔でしたら地域に戻って町内会の活動あるいは趣味に生きてくださいというような形であったのですけれども、最近は、定年制が若干延びているとはいえ、定年制の方が追っつかなくなっている部分も逆にあるのかなと思っています。

 ただし、年をとってくれば、肉体的な部分では衰えてこられる部分が当然あるだろうと思いますので、肉体労働的に無理をしてでもということではないのでありますが。そういった意味で、私も木村先生の御意見には賛成であります。

 ただ、高齢化が、先生も途中でお話しなされましたが、過疎地、あるいは私どもの選挙区では離島を持っているのですが、離島の地域では非常に進みが激し過ぎる。いわゆる昔の田舎のコミュニティーが既に破壊されている部分がたくさんあります。

 私自身は佐渡島なんですが、平成八年の選挙のときには七万八千という人口だったのですが、去年の十二年の選挙では七万、もう既に四年で一割減。これは、亡くなっただけではなくて、もちろん島を離れる人数も多くなってきているということではあります。ただ、残されるのが、大多数が高齢者ということで、高齢化率三〇%という大変高齢な島、それを逆手にとって、頑張っているお年寄りの島という言い方をする人もいるのですが。ただし、そこでも働きたくても働けない、働く場所がないという方が実は大変ふえております。

 というのは、もともとそういう離島あるいは過疎地には、知的な仕事場というのは現実的には余りございません。農山漁村が多いわけですから、農業あるいは漁業、林業の従事者の方々が大変多い。工場といっても少ない。あとはせいぜい土木関係に従事をする。そうすると、肉体的には衰えてきているのだけれども、何とか働きたいんだという。

 ですから、地方分権、先ほど、合併も含めてですが、少し地域間格差が激し過ぎる。二百の合併がいいのかどうかわかりませんが、やはりカントリーとシティーという考えをもう一度改めて考えるべきではないのかな。例えば、一極集中をばらけさせて、地方に、日本国が一つなんだという考えで一つに持っていくという考えもあるでしょうけれども、そうなると、国力的には若干弱くなるのかなという気もいたしますし。

 その辺、もし先生の、これは長期の話になるかもしれませんが、お考えがあればちょっとお教えいただきたいと思うのです。

木村参考人 ありがとうございます。

 先生がおっしゃってくださったことを私うまく受けとめられているかどうか、もし受けとめられていなかったらまことに申しわけないと思いますが、考えを述べさせていただきます。

 今後の高齢社会の到来ということを考えたり、あるいは地方分権とか日本のあるべき姿ということを考えるときには、国土の均衡ある発展というものはもう捨て去る時期だろう、地域間格差ということはある程度受け入れるときなのではないかと考えております。離島とか過疎地で、第一次産業が多くて、仕事をしたくても仕事がないということも、それはかなりの程度受け入れなければならない現実としてあると思います。

 ただ、老後の暮らし、高齢期の暮らしとして見ますと、離島の方が、私たちがモデル地区として見学に行くところは非常に多い。それはなぜかといいますと、御自分の裁量で今までされてきた農業とか漁業等を体に合ったように何十歳までも続けておられる方が多いからであるとの印象を持っております。

 以上でございます。

近藤(基)委員 過疎地あるいは離島で高齢化が進むというのは、もしかすると日本人的発想なのかもしれません。そこの地域に根差すとそこの地域に、先祖伝来という言い方をするのですが、そこで、あるいは七十超えても農業を続けていらっしゃる方が確かにたくさんいらっしゃいます。

 ただし、生産的には、そういう人たち、所得的に考えればやはり若い人たちが働くよりはかなり落ちていることも確かであります。そういうところに日を当てるのがもしかすると我々政治の仕事の根本なんだろう、弱者救済というのが、社会保障も含めて根本だろうと思います。

 先生が先ほどからおっしゃっている自己責任、これは私も同感であります。ただ、保障すべき弱者、赤ん坊、障害をお持ちの方あるいは病気でもう働けなくなった方、これは年齢を問わずでありますが、そういう方にはやはりナショナルミニマムが必要だろうと思います。

 先ほど、医療の問題あるいは介護の問題で、医療がどこの水準が最高か最低かというのがはかれない。死なない程度に生かしておくのが最低の医療なのか。医療というのは、お医者さんもたくさんいらっしゃいますので変なことは言えないのですが、病気を治してやってやはり社会復帰をさせるのが最終目標だと私は思います。普通の体に戻してあげるということが医療の根本だろうと思っております、究極の目的は。どうしてもまだ原因不明で痛みを和らげるだけしかできない、これは多分お医者さんとしては一番悲しい部分なんだろうと思います。

 社会復帰を目指すということは、やはり自己責任にもう一度戻っていただく、自己責任の社会にもう一度戻っていただくというのが原点だろう。ですから、社会保障もそういう部分で給付されるべきものだろうと思っておるのですけれども、先生のお考えをお聞かせいただきたいと思います。

木村参考人 社会保障の給付のあり方というのは、医療に関しては、健康体に戻っていただくというのが一つの目標だと思いますし、もう治る見込みのない方もきちんと療養していただくということも含みますし、一つに絞るということは非常に難しいかと思いますが、全般に言えることは、本当にその人の必要に合っているかということをきちんとチェックして、必要とされると判断されるところに、私たちの資源には限りがあるわけですから、そこに資源を投入していくということが重要であると思います。

近藤(基)委員 もう一つ、ちょっと別な観点から、余り時間がないので、多分最後の質問になるかもしれませんが。

 男女共同参画の時代と言われて、そう言われたから少子化が進んだのかどうかはちょっとわかりませんが、きのう、テレビの再放送を見ていて、アメリカの女性運動家の方の言葉でちょっと印象に残ったのがあるのです。男性ができる仕事を女性ができるということは大体の人が理解を示してきた時代に入ってきた、ただし、女性ができる仕事を男性がすべてできるということを理解している人はほとんど少ないと。

 まあ、ある一部を除いてのことだろうと思います。子供を産むという作業はなかなか男性ではできませんので、それを除いて、つまり、育児からいわゆる家庭内のこと、とにかく、女性ができることも男性はできるし、男性ができることも今までの感覚で女性ができる。もっともなことだなと思っております。先生の論文の中にも、常に専業主婦の主婦の下に括弧書きで主夫という形でただし書き的についているのも、多分その辺のあらわれなのかなという気がします。

 ただ、理念的な理解はできても、なかなかそれが社会におりてこないことも現実であります。ですから、そういった意味でも、我々も、男女共同という形では常に考えていかなければいけないことだなと思っております。先生も、専業主婦優遇制度の見直しによる労働供給の増加なんかが重要になるだろうとお書きになっております。

 そういった意味で、女性が最も大きく変化をしてきている昨今でありますけれども、その中で、老人の対象が今までどうもお年をとった女性に向いていかなかったという嫌いが何となくあるような気がして、お年をとった男性が、働き場所あるいは働きたいという意欲、私は、女性も、意欲がない人はいないのかな、ゼロならいいのですが、そういう人もたくさんいるのじゃないかな。

 そういう人たちに、もう七十、八十ぐらいになって、もういいですわという方は別にして、今現在、通常の働き手の女性でもなかなか、男女の差別がまだ残っているようなこともありますけれども、どうも若干その辺に、さっきの年金制度もそうなんですけれども、そういう残りがまだ残っているのかなという、これは私が本当にふと気がついたというような形の、これで勉強してきたわけではありませんので、大変お答えしにくいかもしれませんが、もし先生に何かお考えがあれば、最後にお聞かせをいただきたいと思います。

木村参考人 高齢期の男性についてはかなり光が当てられてきましたけれども、高齢社会は女性の高齢者が非常に多い社会であるのに、その女性の高齢者がどういった就業行動を望んでいるのかというのには余り光が当てられていなかったというのは、おっしゃるとおりだと思います。

 中高齢期にある労働力率で今上昇しておりますのは、男性よりも女性の方が大きいということで、この問題は今後非常に重要になると私も思います。

 以上でございます。

近藤(基)委員 どうもありがとうございました。

中山会長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、一言ごあいさつを申し上げます。

 木村参考人におかれましては、貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。調査会を代表いたしまして、厚く御礼申し上げます。(拍手)

 午後二時から調査会を再開することとし、この際、休憩いたします。

    午後零時四分休憩

     ――――◇―――――

    午後二時二分開議

中山会長 休憩前に引き続き会議を開きます。

 日本国憲法に関する件、特に二十一世紀の日本のあるべき姿について調査を続行いたします。

 本日、午後の参考人として九州大学大学院法学研究院教授大隈義和君に御出席をいただいております。

 この際、参考人の方に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたいと存じます。

 次に、議事の順序について申し上げます。

 最初に参考人の方から御意見を一時間以内でお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。

 なお、発言する際はその都度会長の許可を得ることになっております。また、参考人は委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。

 御発言は着席のままでお願いいたします。

 それでは、大隈参考人、お願いいたします。

大隈参考人 九州大学大学院で憲法学を講じております大隈でございます。

 ちょうだいいたしましたテーマは、二十一世紀のあるべき姿でございました。ところで、あるべきとは、あるはずのという意味に置きかえることもできるかと思います。ここでは、私は、そのような意味で、今後見込まれる地方自治の姿という意味を含めた二十一世紀のあるはずの姿について、本調査会が地方からの発言を望まれていると読み込みました上で、レジュメにお示ししました問題、国と地方のかかわりを素材にして論じてみたいと思います。

 なお、このようなテーマを取り上げることに関してでございますが、私は、憲法について考えることの究極の目的は、生活の場で現実に暮らしている国民、住民の幸福、福利の充実を目指すことにあると思っております。

 この点で、我々国民、ひいては人類は、この二十一世紀には十九世紀、二十世紀とは異なる社会状況、社会条件のもとに置かれることが見込まれていると考えます。その第一は、限られた自然環境のもとにあるということ、第二は、それぞれの地域が独自の文化をはぐくみ、その中で人々が生活するということ、第三は、昨今IT革命とも言われております高度情報化の中に人々が置かれているということでございます。

 このような条件は、十九世紀、二十世紀に経済問題を中心に東西問題あるいは南北問題として論じられてきました点、あるいはこれらと並行してあらわれてきました、国の権力の自由民主主義的なつくり方と権威主義的なつくり方との対峙といった問題と重複しながら考えていかなければならないものではございますが、この状況の中で二十一世紀の人々はそれぞれの地方でそれぞれに個性豊かに生きていくことになるということでございます。

 そして、ここでの地方の住民が、民主主義の学校、小学校になぞらえられた舞台での小学生ならぬ一人前の大人、民主主義の主役を担う存在、すなわち、民主主義の原動力として政治の中心的役割を担っていくということでございます。したがいまして、当然のことながら、地方自治も、民主主義の小学校、学校であるどころか、民主主義の展開の上で枢要の地位を占める舞台そのものということになります。

 このような意味で、とりわけ栄誉ある本衆議院憲法調査会が、地方での公聴会に加えまして、また、地方からの発言ということでこの機会を設定していただきましたことに対して、委員の皆様に深甚の敬意を表する次第でございます。

 そこで、既に地方分権一括法四百七十五本の整備にも取り組まれてまいりました皆様には、釈迦に説法ともいうべき論点も含めまして、次にまず、本日の報告の結論を提示いたしておきたいと思います。

 結論の第一は、地方団体が有する権利、すなわち地方自治権は、人権にも比較し得るような、自治体が本来固有に持っている権利であり、国民主権ないし民主主義の根幹を支える制度であるということ。したがって、我が国の憲法にあっては、地方自治権は、人権と同様に、憲法改正によってもその存在を否定できないものであり、今次の憲法のあり方をめぐる調査検討におかれましても、憲法上の確固たるものとして錨着されるべきものであるということ、地方自治はそれほどの重要性を持って保障されるべきものであるということでございます。

 第二は、この点と関連しまして、今後一層自治権の強化が望まれるということでございます。現在、例えば住民投票のように、住民が自治に直接参加するという点につきましては、代表民主制を理由にして、一般には憲法上例外扱いされている状況にございます。

 しかし、地方自治、ひいては住民自治の強化を目指す観点からは、この考え方をコペルニクス的に大転換し、国民主権の内容を、従来は代議制民主主義と結びつけて考えておられました方々が、理念としては直接民主主義的に理解し直すべきであるということ。したがって、住民参加、とりわけ住民投票を積極的に再評価することこそが憲法上確立されるべきということでございます。

 また第三は、この第二点に関連いたします。以上のような国民主権の理解の仕方からは、地方議会の場合も含めまして、議員の皆様方が国民ないし住民の代表であるということの内容として、代表者は当然に、特にすぐれた能力を有するから代表であるというわけではございませんで、国民の中の同僚ないし仲間として選出されているということになるのでございますが、それにもかかわらず、実はこのような以上の要求とは矛盾したことではございますが、国民、選挙人は、代表者の皆様に対しましては、どん欲にも高い知見と倫理的高潔さを求めるものであるということでございます。このことは、具体的には、国政及び地方自治のいずれの場合にも、政治の担当者が、国民、住民に対して、高い識見を持って、真に守るべき対象は何か、反対に、国民及び住民の何を侵害してはならないのかを的確に判断されるようにと期待しているということでもございます。

 以下、これらの三点につきまして、少し詳しく論じてみたいと思います。

 まず第一の地方分権、地方自治の基本的考え方に入ります。

 まずは、自明のことであるとの御批判を恐れず、地方自治の憲法的足場を固めることの重要性について再確認しておきたいと思います。

 歴史的には、明治憲法のもとでは、国家としての中央集権体制のもと、国と地方の関係はといえば、国の権力が地方へと腕を伸ばして支配する関係にあったこと。その後、現在の憲法が地方自治を規定し、憲法制定直後、その充実を期待するシャウプ勧告がなされたことは周知のとおりでございます。

 ところで、このような事態に対し、戦後、学問的には、一般にその施行過程で明治の歴史的経験を払拭することができませんでした。すなわち、通説的には、戦後のシャウプ勧告が示した方向への展開を強力に推進する考え方まで及ぶことができず、防御的な姿勢に立って、地方自治とは単に憲法によって制度化されたもの、したがいまして、憲法改正によれば廃止することもできるものであるという論理を内に含んでいる考え方をとっておりました。

 しかし、地方自治に関するこのような理解の仕方に対しましては、既に憲法制定当初より対立する見解がございました。地方団体は自治に関して人権にも類する固有の権利を持っているとする見解、いわゆる固有権説がそれであります。ここではその内容の詳細は省き、その根拠としているところを簡単に述べさせていただきます。

 その一つは、歴史的には初めに地方ありきということであったはずだということでございます。蛇足ながら、我が国においても古くから、「くに」という場合に、漢字では、大別すれば、日本国の国を指す場合と、故郷あるいは地方を指す場合のあることを考えますと、このことが地方も統治の主体であることを思わせて、意義深く感じられるところでもございます。

 どなたも御承知のとおり、このところ、この国の形、このときの国は文字どおり日本国の国という字でございますが、この国の形がいかにあるべきかというテーマ、これはもう憲法調査会の専売ということではなく、さまざまな分野で取り上げられてきておりまして、私の所属する日本公法学会においても、今年の議論の柱とされているところでもございます。しかし、本日は、これとは異なる意味で、この国の形の基礎となるものを検討することの大切さ、すなわち、地方ないし故郷という意味でのこの「くに」の形をいかに構成するかということこそが日本国の命運を決するのだという点を強調したいと思います。

 さて、地方自治権の性質をめぐる議論が今日的に整理されてきますと、その理解の仕方は国民主権及び人権の保障という点から新たに基礎づけられて、改めてそれは地方団体に固有のものであるというように主張されることになります。私も地方自治権を自治体に固有のものとするこの見解にくみするものでございますが、このことから、まずは次のような結論が引き出されます。

 すなわち、代議士の皆様も、現在の憲法のもとで国民主権と人権の保障ということを憲法改正により削除してしまうことはできない、すなわち憲法改正の限界をなすものだとお考えになられているかと思います。そうしますと、国民主権と人権保障とに基礎を置く、また逆にそれらを支えるための不可欠の基盤である地方自治も改正不可能になるということでございます。否、むしろ、こういうような見解、理解からは、地方自治は一層充実の方向こそが目指されてしかるべきであるということでございます。

 この節の副題に「攻めの地方自治へ」とつけてございますが、こういう副題をつけましたのもこの意味でのことであり、例えば、日本経済新聞社が行った憲法に関する有権者の意識に関する世論調査、五月三日の分によりますと、地方自治の考え方が不徹底だとする見解が、首相公選制導入についての五六%、環境権など時代への対応三四%に次いで、二五%と第三位を占めていることも、この攻めの姿勢を支援してくれるものであるというふうに思います。

 そこで、次に第二の、国民主権と住民主権、住民自治ということに入らせていただきます。

 以上のような自治権の理解の仕方につきましては、従来からその内容として二つの要素を憲法学では取り出しております。一つは、自治体は、その地域において住民が主体となって自治を行っていくべきであるということ。いま一つは、自治体が団体として、住民の安全と福祉、人権の保障のために、統治の任務を担いつつ、あわせてこれらを侵害するものに対抗するということ、言いかえれば住民の側に立って防壁としての役割を果たすべきということでございまして、これこそが自治体の団体としての存在意義でもあるということであります。

 このうち、後に申しました団体自治の側面につきましては、国の三権との対比で申しますと、今般の地方自治改革に伴い、行政権の場では地方への事務の移管が見られましたり、立法権に対応しましては、例えば住民投票や自主課税権をめぐり条例化が問題とされてきましたり、また理論的にとどまるとしましても、司法改革の面では自治司法の可能性すらも想定することができるなど、分権改革が目指す国と地方の対等・協力の関係を実現するための胎動も見られ始めております。今、日本中央競馬会の売り上げに課税する横浜市の勝馬投票券発売税導入をめぐりましては、横浜市と国との間に早くも国地方係争処理委員会の場での全面対決さえ始まっているようでございます。

 したがいまして、ここでは、この方面での目的の実現へ向けては皆様の一層の御尽力をお願いいたすこととしまして、以下では、前に申しました住民自治の側面、すなわち、住民がみずから主体となって自治を担っていくべきであるということ、住民自治ないしは住民参加の問題に焦点を当ててお話ししたいと思います。

 さて、住民自治の内容につきましては、固有の自治権ということの基礎づけとなりました国民主権、これと密接にかかわる民主主義をどのように理解するかにより、その結論が全く異なったものとなります。従来、我が国の国民主権のもとでの民主主義体制のあり方につきましては、一般に、国政及び地方政治の場では議会の代表者や行政の長が、また学問の場では旧来の通説が、これを議会制民主主義、代表制民主主義として理解してきております。そして、その内容として、国民ないし住民の代表者は、いわゆる選良としてすぐれた能力を持ち、国民、住民の意思に命令、拘束されることなく、自由な議論を通して、全国民、全住民のために行動すれば足りるものだというふうに理解されてきております。

 その一例は、例えば、過ぎる四月、柏崎刈羽原子力発電所のプルサーマル計画の是非をめぐる住民投票に関しまして、村長が、住民投票は代表民主制では極めて補完的な制度だという見解を示していることにも見られます。この点は一歩進めた認識としまして、行政学の立場から、例えば東京大学の森田教授が、特に住民投票に関してですが、間接民主主義を重視するのか、あるいは直接民主主義が原則なのかという比重の置き方については必ずしも議論が整理されていないのが現状だというような指摘もなされているところであります。

 しかし、憲法学の場におきましては、既に昭和三十年代以来、少なくとも事実上のこととして議会の代表者が国民、住民の意思に現実には拘束されているということを共通の認識とした上で、今日まで、研究者はこれを憲法学的にどのように構成すべきかということに心を砕いてきておりました。

 そこでの、代表ということの性質をめぐる問題の核心は、議会代表者を国民の中のエリートの集団というふうに見立てて、国政の最終的決定を挙げて代表者にゆだねることこそが民主主義の理念であるのか、それとも、理念としては本来は国民こそが最終的決定権を持っているけれども、現代国家の規模を考えますと、技術的に主権の行使をひとまず代表者にゆだねていると見るべきなのかということにあるのでございますが、この問題に対する結論は、私にとっては明らかなように思われます。

 国民を愚民視して、こういう言葉も使われますが、直接民主制の恐怖ということを語るのならばいざ知らず、二十一世紀の国民、住民が民主主義を担う主人公であるということを確認しますならば、今や民主主義というものは、理念としては、ここでは理念ということをあえて強調いたしますが、理念としては本来は直接民主制を原理に据えるものであるはずであります。

 こうして、本来は直接民主制を理念とするものであるということが明らかになりますと、地方自治の場における住民の自治というものは、民主主義の基幹をなすものとして、それこそ理念としては一層住民の直接参加を求めるということになるかと思います。

 こうした地方自治における住民参加の必要性については国際的にも認識されておりまして、昨年十月十一日の官庁速報による、当時自治省の仮訳の世界地方自治憲章草案によりますと、その十条には、地方自治体は、意思決定に係る住民参加の適当な形を規定する権能を有しなければならないとされているところでございます。

 また、このような直接的な住民参加の採用に関しましては、特に今日住民投票制が議論の的となっております。そして、この実施に際しての費用や技術の面での問題が指摘されないわけではありませんが、既に国内的にも電子政府の可能性が模索される中で、新聞報道によりますと、国としての電子投票システムの本格的検討も始まっているようでありますし、また、広島市では、今年十一月の県知事選で電子投票制を試行する意欲を見せているとのことでもありますので、今後この難点は遠からず克服されるものと考えられます。

 ただし、以上のような国民ないし住民による直接的な決定への参加、住民投票ということにつきましては、もとより投票に至る過程で、主題について十分に調査と議論がなされる必要があることは言うまでもありません。また、住民投票で決定するという場合、それはすべての問題についての決定を行うべしというわけでもございません。直接民主制は理念としてそうあるべきということであり、代表者は常にこの理念を踏まえるべきであるということでございます。

 念のためにつけ加えておきますと、住民投票制度を現実に作動させるとなると、難問が山積しております。一般的な制度としてどういう性質の制度をつくるのか、とりわけ法的拘束力をどのようなものとするのか、また、それを発動する条件としてどのような場合に住民投票にかけるのか、住民の請求と議会の議決、あるいは首長の決定との関係はどうであるのか、あるいは住民投票にかけるタイミング、時期はいつであるべきか、投票の成立要件として最低投票率を考えるべきであるのか、地域の要素を中心とする有権者の範囲はどうするかという問題、あるいは昼間人口と夜間人口との相違の問題、何を対象にして住民投票をするのか、さらには投票の仕方や区域の問題といった技術的な点はどうするかなどなどがそれであります。詰めて考えなければならない問題は余りにも多岐にわたっております。

 しかし、それにもかかわらず、我々は、さきに述べたとおり、国民主権、住民主権の持つ理念としての直接民主主義的本質を見逃してはなりません。これまでは国、地方を問わず、政治の場で時に代表者の側から見て都合のよいときにだけ、民の声は神の声であるとか、見えざる声に耳を傾けるということが言われてまいりましたが、代表者あるいは為政者は、その政治的判断に際して、見えない神の啓示に頼るのではなく、重要な場面では、現実に表明された国民の声、国民の意思に耳を傾けるべきであります。したがいまして、これまでは例外扱いされてきた以上のような制度こそが本来はあるべき姿であるという考え方に道を開くような憲法規定こそが望まれるということでございます。

 そこで、第三番目に、「議会代表等と国民の声」という項目に入らせていただきます。

 これは、最近の首相公選制をめぐる調査についてのもの及び私が行いましたアンケートから取り急ぎ拾い出した部分だけを持ってきておりますが、このアンケートに基づいて話をさせていただきます。

 そこで、次に耳を傾けるべき国民の声が、さきの直接民主制についてどのような期待を持っているか、さらに言えば、以上のような主張を支持しているかということについて、最近の世論調査と私の調査の二つで検証してみたいと思います。

 まずその第一は、過ぎる三月三十一日と四月一日の両日に日本世論調査会が行った憲法に関する世論調査の結果についてでございます。ちょうど地元紙から持ってきておりますが、西日本新聞の一面、それからその具体的なアンケート内容がその次に付してございますので、ごらんいただきながらお聞きいただければ幸いでございます。

 この調査項目の問いの八によりますと、「重要な問題は国民投票で直接決めるべきだという意見があります。あなたは、この意見に賛成ですか、それとも、反対ですか。次の中から一つだけお答えください。」というものでございます。賛成は七二・六%という高率に及んでおります。

 また、直接には、さきに述べた議会代表者ということについてではございませんが、問い五を見ていただきますと、国会議員が国会議員の中から首相を選ぶ今の議院内閣制よりも、国民が直接首相を選ぶ首相公選制を導入すべきだという意見についての賛否を尋ねているところですが、賛成の意見は、御承知のとおり、何と七九・九%にまで及んでおります。

 そして、問い六によりますと、そのうちの半数を超す五二・四%が、賛成する最も大きな理由として「国民の声を国政に反映することができるから」と答えているところでございます。

 このような調査結果を見ますと、今や国政の場面で国民参加への国民の声、要請がどれほど強いものであるかということについては、余りにも明らかでありましょう。

 問い八では、国民はさらに、重要な問題の場合に、できるならばみずからの声を直接国政の場に及ぼしたいと考えております。

 また、ほかに種々考慮に入れなければならない要素が考えられるにもかかわらず、首相公選制についてさえ半数の人々が国民の声の反映こそを願っているというわけでございます。

 ところで、このような国民の声、住民の声の反映ということに対しまして、代議士の皆様の場合はひとまずおくとしまして、地方議会の議員諸氏はどのような意識を持っているでありましょうか。この住民の意向に対し、議員はいかなる態度をとるべきと考えられているかという点につきまして、その結果は、議員諸氏が直接民主制と密接に結びつく姿勢を示されているということ、これが私の第二の論証いたしたい点でございます。

 この点に関しまして、幸いに、私がほんのついせんだって、住民投票に関しまして地方議員諸氏の意識について行いました書面によるアンケート調査の結果がございます。これは、文部科学省科学研究費の御援助をいただき、今年三月末締め切りで行いましたもので、本日の報告のために、急ぎ手作業で必要な項目だけを粗集計したにとどまるものでございます。

 その結果は、次のとおりでございました。資料の「科学研究費アンケート調査結果」という方をごらんいただければ幸いでございます。

 なお、あらかじめ確認しておきますと、このアンケートは、四つの県議会の議員二百五十七名、八市議会の議員三百七十六名、七町村議会の議員百二十四名、合計七百五十七名の方々について行ったものでございまして、三月末現在、まだその後も送り返していただいた方がおられるのですが、三月末現在で、県議会議員につきましては八十名、市町村議会議員につきましては百五十九名、県議会、市町村議会という所属について無回答の方五名を含めますと、合計二百五十一名、三三・一六%の方々の御協力、御回答をいただくことができたものでございますが、いずれも自由記入の欄に非常に熱心なコメントを記入されたものでございました。

 この意味では、回答を寄せていただいた方々の本当に真摯なかつ高い政治的見識に大いに敬意を表しているところでございます。

 さて、ここで取り上げる質問の第一は、第六の質問でございます。

 質問六では、「あなたは直接民主制の方が民主主義のあり方としてはより好ましいと思いますか」と直截に聞いたものですが、県議会の議員諸氏は、肯定、「はい」とする者が一八・七%、否定が三八・七%、「どちらともいえない」とする方が四一・二%でございました。ここでは、ひとまず直截な質問に対して、県議会議員のレベルでは肯定と否定の明確な見解が一対二の比率を示しているということ。肯定、否定いずれとも言いがたいとする中間的な回答が、否定される方とほぼ同率を示している点に御留意ください。

 これに対しまして、市町村議会議員の諸氏については、「どちらともいえない」とする回答が三九・六%、「はい」と肯定する回答が二七%となっており、その比率は県議会議員の場合と比べてほとんど変わらない数値を示しております。しかし、「いいえ」と否定する回答が三一・四%と減少し、肯定の比率とほぼ拮抗する数値を示しております。すなわち、肯定と否定の比率は一対一に近くなっております。

 これと同じ傾向は、議員がどの程度に住民の意思に即して行動すべきと考えるかを尋ねた質問十二の回答からも見ることができます。

 ここでの質問は、「あなたの自治体で住民投票を行った場合、その結果についてどのようにお考えですか。」と尋ねているものです。この質問について、県議会議員諸氏の回答は、一の「議会はその結果に拘束される」とする者が二三・七%、二の「その結果に拘束されない」とする者が四七・五%、三の「その他」が二三・七%となっております。

 ここでは、皆様は、さきに見た質問、直接民主制と間接民主制のいずれを好ましいと見るかという質問での対比とちょうど符合するように、一と二の比率が一対二を示していることにお気づきになるかと思います。

 これに対しまして、市町村議会議員諸氏の場合には、一が四〇・八%、二の回答が四一・五%、「その他」が七・五%、無回答が一〇%でございました。とりあえず、三の「その他」と無回答を一まとめにいたしますと、一と二の比率はここでもほぼ一対一となっております。

 こうして、これらの質問に対する回答から見ます限り、県と市町村のレベルでの議員の皆様の意識としていえば、現在のところ、地域住民により一層密接に活動している市町村議員諸氏の方が直接民主主義を支持する傾向にあると見ることができるように思います。

 そこで、書き方が難しかったのでございますが、四の選挙人の複雑な願いということでお話しさせていただきます。

 以上、学問的な考察の結果としての、代議士の皆様、地方議会議員諸氏の憲法的な地位についてということと、国民の直接的な政治参加への願い、願望について述べましたが、それはそれとして、私には、国民ないし住民は、以下のように実は矛盾した別の要求も持っているというふうに思われます。

 前の節で見ましたように、議員の皆様自身は、基礎的な地方自治体の場合になるほど住民の意思に拘束されると考えております。これに対応して、国民ないし住民は、エリートとしての代表者ではなく、政治的参加の能力において自分たちと同じレベルの仲間から選んだはずの議員諸氏に対して、その態度、意思の表明に際しては、みずからの意見、住民の意見を踏まえて行動してほしいと願い、各種の要望を出していることは、皆様もつとに御経験のあるところであるかと思います。もちろん、この点は今後のアンケートなどによる検証を必要とするかと思います。したがいまして、ここでは推測にとどまりますけれども、そのようであるかと思います。

 しかし他方で、こういった要望と裏腹に、国民、住民は、こうした皆様を初め議員諸氏に対して、議会では一般の政治参加者以上に政治的判断においてすぐれた結論を引き出すこと、かつ皆様が人格において高潔な存在であることを望んでいるところでもあろうかと思います。この点は、地方の場合、家族をも巻き込む形で政治倫理条例というものがつくられておりますのを初め、きっかけが何であったかは別としても、国の場合には国会法による政治倫理審査会の設置も見ていることにあらわれているようにも思います。

 こうしまして、実は議員は、以上のような意味では矛盾する要請を受けとめる必要に迫られることになるかと思います。

 ここで、もう一度、このような事態に係る私の調査結果について触れてみたいと思います。それは、質問十七で、「あなたは自らを「選良」(すぐれた人を選び出すこと、また、その選ばれた人)であると自負しますか。」ということを尋ねてみました。

 実は、回答の中には、このような質問には意味がないという厳しいおしかりの言葉をわざわざ付記された方も二、三あったことを御報告しなければなりませんし、この質問には少々私の方での意地の悪い点も含んでいたかとは思うのでございますが、質問のねらいは、さきに述べました議員の地位を選挙人との関係でどのようにとらえるものであるかという根本的な内容を、したがいまして議員諸氏はどのようにとらえられているかということにございました。

 この問いに対する回答としては、私にとってはいずれの回答も非常にありがたい、うれしい結果を示してくれることになりました。

 回答は、県議会議員の場合に、一が六三・七%、二が八・七%、無回答が二三・七%、しかも付記の形で「どちらともいえない」とする方が別に五%でございました。市町村議会の議員の場合には、一が五九・一%、二が一三・二%、無回答が二一・三%、付記して「どちらともいえない」とされる方が六・二%でございました。

 ここでは、県、市町村のレベルを問わず、選良と自負される方が三分の二の多数を占めており、この意味で、表面上は、さきに述べたエリートの人々による政治を裏づけているというふうにも我田引水的な読み方をすることは可能でございますが、実は、二の回答や無回答、または「どちらともいえない」とする回答の中に、そうなるように努力したい、ないしは努力していると付記されている方々が多数見られました。

 この付記された回答は、質問者の意図を超えたものでございましたが、議会の議員諸氏が現在意識されているところを余すところなく示してくれているように思います。一でそのように自負されている方々を含めますと、大多数の方がそうあるべきと考えられている証左であると思うからであります。言いかえれば、地方自治を今後取り上げるにつきましては、地方自治それへの信頼こそが出発点になってよいと思われるところでございます。

 結論はもう初めに述べましたが、重複を顧みず、いま一度まとめの言葉を述べさせていただきます。

 まずは、初めに述べました内容的な側面についての確認でございます。冒頭に、あるはずの地方自治と申しましたが、自治の流れはまさしく二十一世紀のあるはずの姿へととうとうたる流れを見せており、社会自体が、今や予言どころではなく、今世紀のあるべき姿を見せ始めております。学界は既に、その発展を目指して財源の充実を点検課題とし始めております。

 憲法学では、憲法九十二条の地方自治の本旨が何を意味するのかと追い求めてまいりましたが、このチルチルとミチルが追い求めてきた幸せの鳥ということにも擬せられたものが、今や私たちの足元で、各地方で現実の面からその存在を主張している姿が見られるのであります。

 ただ、実現まではいまだ山ろくというほかありません。税財政制度にかかわって、これはそちらの方での御専門の神野教授が、全国的に、統一的、画一的に供給される公共サービスに多様な地域社会での人間の生活を合わせるのではなく、多様な地域社会での人間の生活に公共サービスを合わせる、これが地方分権の約束の地であるといったようなことを言われておりますが、今後はこの点を地方自治の橋頭堡とすることこそが課題となります。憲法学の場においてこそ、地方分権の約束の地への道筋、神野教授の言葉で言えば、地方政府のもとでの自己決定権の確立強化ということが問われているのでございます。

 こういう状況を踏まえまして、議員諸氏におかれては、地方自治ということの原点に立ち返って、まずは代表民主制を原理としてきた発想を転換し、国民、住民が本来直接に参加し判断すべきところを代議士、代表者の皆様にゆだねていると考えること、理念的には本来は直接民主主義の方こそが原理であることに思い至っていただきたいと思います。

 今や、国及び地方の民主主義政治は、住民の参加と監視に根差していることを根本に据えて、情報公開制度の充実も見つつあります。このことは、今後の政治のあり方をますます国民、住民が直接に政治に参加する民主主義の方向に促進するものでありましょうし、それに応じて、直接民主制の理念としての重みも再確認されてくると思います。

 以上の点にかかわる問題としまして、最後に、もしも憲法改正ということが検討の対象になるとするならばということで、形式的、技術的な側面、改正の手続に関して若干述べさせていただきたいと思います。

 本日はいただいたテーマを中心に報告いたしましたが、改正に関する対象の特定ということなどについては、言うまでもなく、問題が国家的重要課題であるだけに、十分に慎重な調査の手続を必要といたしますし、その上で手順を尽くした議論をお願いしたいということでございます。

 この点でお話ししたい点は、本報告で憲法改正問題に絡めて陳述することができましたのは、実は地方自治に焦点を絞ってのことであったからということでございます。

 言いかえれば、改正については、変えようとするものと変えてはならないとするものをはっきりさせ、何をどのように変えるべきかという点を明らかにしなければなりません。そのためには、実際には個別の修正こそが可能なのであり、地方自治の場に限れば、憲法改正が民主主義の強化面に関する限りという点で、まず最初に促進されるべきであるということであります。

 このことへの示唆は、つい最近のフランスの国民投票の事例からも得ることができます。

 現在調査中でございますが、フランスは、昨年九月に、憲法改正国民投票により大統領の任期を七年から五年へ縮減いたしました。このときの改正をめぐる意見の対立の状況は、政党に応じて十幾つかの多岐に分かれ、国民にはまことにわかりにくく、また、投票当時オリンピックが開催されていたということもございまして、投票率はわずか三〇%を示すにとどまっております。

 これを他山の石として我が国の場合を考えれば、憲法改正に関して、手続的には、本委員会の検討にも見られますように、広い範囲のテーマを丁寧に議論する手順を尽くした上で、実際の改正としては、テーマを絞り、他の条項との関連など深く議論を尽くし、その上で、論点を単純化し、明確化した上で行わねばならないであろうということでございます。

 例えば、ここでの地方自治の強化や、文脈の中で触れました首相公選制についての憲法改正という場合、憲法中の他の規定との関連性を問題とせねばならないことになります。例えば首相公選制の場合、議会が公選された首相を辞職させられるかなど制度上の理論立てが難しいといった発言、反対論も見られますように、現在の議院内閣制と異なるシステムの構築を必要とすることになり、国の権力関係図の抜本的改革を必要とすることになりましょう。

 ただ、本調査会で、昨年十一月に石原都知事がこの問題について、国民の政治に対するコミットメントの意識を育てると述べられていますが、本日報告の憲法における地方自治規定の改定に問題を移しますと、他の憲法規定との整合性に大きな問題を生じることなく、自治の強化という方向での改定、民主主義の強化こそが望み得ると思いますし、石原発言に即せば、国民のコミットメントの意識を育てるのではなく、国民の政治参加を強化するということに焦点を当てることができると思います。

 住民自治強化の規定に加えて、その趣旨をさらに進め、法律についても一定の国民参加を論じるということまで問題を広げるとなれば、論点はますます複雑化しますので、それだけ議論の仕方が難しくなることも否めなくなるかと思います。

 こういった技術的な問題と別に、まさに文字どおりの手続、制定過程で一定の案が浮かび上がった場合、本日のような機会も含めまして、多様な検証の場を設けていただければと思います。

 憲法学の場では、既に、字句上のこと、文言に関しても、文字どおり文法上意味の通りにくい条文のあることが指摘されておるところでございまして、それにもかかわらず、そしてまた政治の場がバーゲニングのプロセスであることは承知の上ですが、時に出される改正私案の中には、そういった条文の字句上の問題等に気づかずにそのまま踏襲するような場合も見受けられますので、改正を論ずるか否か、またそこでの論点の内容は別としましても、現行憲法における文意あるいは条文間の関連が定かでない条文もあるということを考えますと、こういった点検には国民多数の目、多くの専門家の目を通すことが有効な手だてではないかと思う次第でございます。

 結局、二十一世紀に見込まれる国と地方のかかわり方としましては、このような意味で、国政の重要な場面で住民が直接に意思を表明することのできるような可能性を含んだ民主主義的運営の中で、国と地方は、それぞれに担当する仕事を分担しながら、国民ないし住民の幸福、福利の実現に努めていくことになると思われます。

 もとより、その根底には、それぞれの個性、特色を持った地域ごとに、限られた自然環境の中で、世界的な広がりの情報をみずからのものとしながら、それぞれの文化的果実を豊かに享受して生き生きと生活する住民の姿があることは言うまでもありません。

 以上をまとめの言葉とさせていただきまして、御報告を終わらせていただきます。御清聴ありがとうございました。(拍手)

中山会長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。

 速記をとめてください。

    〔速記中止〕

中山会長 それでは、速記を起こしてください。

    ―――――――――――――

中山会長 これより参考人に対する質疑を行います。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。西川京子君。

西川(京)委員 西川でございます。よろしくお願いいたします。

 大隈先生、国と地方の形についての具体的なアンケートなどを踏まえたお話、大変ありがとうございました。先生のお話を聞いておりまして、この地方自治というものが、人権と同じように、本来絶対侵すべからざる、あるものだ、そういうお考えを伺いましてちょっと新鮮な印象を受けました。

 その中で、結局、直接民主制が一つの理想の形だというお話がありました。たしか、紀元前、ギリシャのアテネで、まさにアクロポリスの丘のもとに直接民主制の理想の形ができてきたわけですけれども、人間の本当に基本的な部分では全部そういう形だったと思うんですね。

 それで、結局、産業社会の構造、その他の変化とともに、より複雑なさまざまな行政の形態が出てきて、この二十一世紀の初頭に当たって、そういう大きく複雑になってきた形がまたばらけつつあって、グローバルな国境を越えた経済システム、産業システムの中で、個人の意識も国を飛び越えていくような、そういう動きが出てきた中で、よりシンプルな政治形態がいいんじゃないか、そういう一つの芽生えというか、ある意味では原点に戻るような動きのようにもちょっと私は印象を持ったんですが、そういう中で、住民投票ということが大分お話の中に出てまいりました。

 この問題で、住民投票というのは本当にそこに住んでいる人間が直接意思を示す大変貴重な権利だ、私もそういうふうに解釈をしています。そして、そういう中で、現在、この住民投票の実態が、非常に成功した例、あるいはまた、非常に疑問を感じる面、これは必ずしもそれがすべていいとは言えないし、すべて悪いとは言えない、やはり非常に複雑な状況があると思うんですね。

 結局、住民というのは、自分の直接目に見えるところ、考えの及ぶ範囲には非常に興味を持たれますけれども、少々問題が複雑になったり抽象的になると割合どうでもよくなる、そういうところがあると思うんですね。そういう中で、ある意味では住民の地域エゴのような問題が出てまいります。

 そういう具体的な例として、例えばその地域の住民、地方自治体を越えた、範囲の広い公共工事の問題、例えば吉野川の河口堰なんかの問題ですと、一県の県の単位を超えた広範囲な問題になるわけですね。そういうときに、川上の住民の住民投票と川下のあれとはまた違ってくるという問題が出てきます。それとか、国の安全保障にかかわる問題が、例えば沖縄の名護市の住民投票の結果で、投票では反対だったんだが、実はそれを進めると言った市長がまた今度は選ばれてしまったというような、非常にそごを来す結果が出ているような問題が出ているわけですね。

 こういう、理想どおりに、理論どおりにはいかない住民の複雑な思いというか、ある意味では複雑とは言えない、単純なのかもしれませんが、そういうことに対するさまざま具体的なケースについて、先生はどういう御所見を持っていらっしゃるか、ちょっとお聞かせいただきたい。

大隈参考人 お答えいたします。

 ただいまの御質問につきましては、御報告の中でも触れさせていただきましたが、抽象的には非常に地域の様相を中心とする範囲の問題であるとか等々で大いに問題があると御報告いたしましたところで、実は個別の問題では、御指摘のとおりのような問題がありますので、私もそう思いますし、学界の各検討されておるところでも、何が最も住民投票にふさわしいかというのは非常に難しいと申しましょうか、問題でございまして、かなり住民投票にかける対象が狭まってくるのではないかという気はしております。よろしいでしょうか。

西川(京)委員 具体的には、先生は大体どういうものがふさわしいとお思いですか。

大隈参考人 ただいま御指摘いただいたような件につきましては、私も吉野川を見に行ったりしましたけれども、それこそ周辺八市町村、広がればずっと上流までございますので、なかなか一つの都市だけの住民投票ではおさまらないと思います。

 これが具体的にいいということになる実例は今挙げられませんけれども、国政の場で決定すべきものもございますので、先ほど御指摘のあったような事例については、そのところだけでの住民投票では決せられないのではないかと思っております。

西川(京)委員 結局、この住民投票の規定ももちろんありまして、例えばその町の町長が余りふさわしくない人物である、議会も打ち合わない、そういうときに住民投票でかえられる、こういうのはまさに住民の固有の大事な権利で、私は、こういう場合なんかはぜひ住民投票をやるべきだと思うんですね。

 ただ、現状の社会のあり方の中で、ややもするとマスコミあたりが取り上げる題材としては、住民投票になじむ題材よりも、むしろなじまない題材についての住民投票の結果などが非常に大きくクローズアップされているという現状が私にはあるように思えるんですが、その辺に関して先生のお考えはいかがでしょうか。

大隈参考人 ネガティブリストと申しましょうか、そういったリストをまず挙げることの方がやりやすいのではないかとは思いますが。

 直接お答えになったかどうか、もう一度お伺いしたいのですが。

西川(京)委員 例えば、今の沖縄県なり吉野川なり、こういう問題はとても大きく扱われますね。でも、現実には住民投票にはどちらかというとなじまないものだと私は思うんですね。ですから、そういう今のマスコミのとらえ方と、現実に先生のおっしゃっているこの住民投票の大事さ、そういうものとがちょっとずれているような気がするんですね。そういうことに対して先生のお考え、御印象はどんなふうに思われますか。

大隈参考人 御指摘のとおり、先ほどネガティブリストと申しましたが、まずはそういうものになじまないもののリストを挙げることの方がたやすいといいましょうか、わかりやすいのではないかというふうに考えております。

西川(京)委員 あともう一つ、首相公選制についてちょっと御意見をお伺いしたいと思うんです。

 私どもも、自民党が大逆風の中で、まさに党員を含めた世論という、ある意味では国を挙げての住民投票のような形の中で小泉総理が誕生されました。自民党のある意味では悪い部分、古い部分に対する大きなショックにもなったし、またいろいろな意味での反省点にもなって私どもも大きな期待を寄せているんですが、反面、ちょっと怖いものも感じるんですね。やはり九〇%の支持率というのは、これはひょっとしてファッショではないかというような思いも、正直ちょっと怖さを感じます。

 本当に目に見えない部分で動いている政治、それは目に見えないというのは必ずしもマイナスなイメージではなくて、こつこつと毎日の仕事を積み上げている部分の政治というのが恐らく八割だろうと思うんですね。マスコミを通じて出てくる政治の姿というのは二割、一割ではないかと私は思うんです。そういう中で、国民の皆様に本当はもっと説明責任というのを例えば国会議員なり地方議員なりは果たしていかなければいけないわけですが、そういうのがなかなか機会が少ないという現実もありますし、もちろん議員の努力不足ということもあると思いますが、そういう部分で評価される以上に、メディアを通じての評価というのがこれからは物すごく多くなると思います。

 そういう中で、首相公選制というのが、ある意味ではポピュリズムというんでしょうか、そういう面に対する怖さを正直ちょっと感じるんですね。その辺に関しての先生の御意見はいかがでしょうか。

大隈参考人 直接のお答えになるかどうかはわかりませんが、報告の中でも触れましたように、首相公選のそのところだけの話じゃなくて、首相公選という場合には、恐らく国家機構全般にかかわってくるつくり方のやり直しといいましょうか、場合によっては、議会との関係でどのようになるかであるとか、あるいは任期の問題もございましょうし、全体的に見ないといけませんので、そこのところだけを取り上げて公選制賛成云々ということには、あるいは住民投票的な、国民投票的な性格を入れるというわけにはいかないのではないかと思います。

西川(京)委員 首相公選制というのは、ある意味で大統領制に近いという意見もあります。それで、日本の場合、天皇制との整合性をどうするんだといういろいろな意見もありますが、もちろん議院内閣制であっても首相公選制というのは可能だろうと思います。そういう中で、先生はどういう形がなじむと思っていらっしゃいますか、例えば首相公選制されるのでしたら。

大隈参考人 私は今、議院内閣制のもとで首相を公選するというところだけでは済まないのではないかということを申し上げておるつもりでして、恐らく、首相公選制ということを論じる場合には、例えばアメリカの大統領制の場合といったような形のものまで含めての大幅な憲法全体の手直しが必要だということで、それだけ取り上げては私の頭には描いていないんですよ。

西川(京)委員 もちろん、ここは首相公選制だけを論じる場ではないと思いますし、問題が大き過ぎて、もうちょっと時間が必要だと思いますので、余りそれにこだわるのはやめたいと思いますけれども、ある意味では小さい市町村はまさに大統領制そのものだろうと思うんですね。それが結局、ある程度面積の問題もありましょうし、人口の問題もありましょうが、一人の人間の守備範囲がおのずから限られている中では、この公選制というのは、私は一番民主的でわかりやすい手法だと思います。

 それが国という形にまでなると、これが果たしてどうなのかなという思いが正直ありますけれども、この問題はここで結論を出せる問題ではありませんので、余りしつこく議論を深めるつもりはありません。

 今の先生の直接民主制ということで、地方自治の現状、その辺についてちょっと御意見を伺いたいと思うんです。

 この九十二条に地方自治の本旨という言葉が出てまいりますが、この法律用語がある意味では大変わかりづらい。地方自治法なりなんなりがありますが、本当に国というものを見据えた中での地方のあり方をもうちょっと具体的にわかりやすくきちんとした方がいいのではないかということで、例えば地方自治基本法というようなものが論議を呼んでおりますが、その辺について先生はどんなお考えですか。

大隈参考人 御指摘のとおりでございまして、本旨というような言葉を憲法で用いたがために、これまで五十年以上にわたって学問的にも悩んできたところでございまして、そういった言葉をもっと今のお話のように明確に、例えば報告に出しました固有の自治権でありというようなものを含めた書き方で、今の基本法も含めて対応していただければ一番ありがたいかなとは思います。

西川(京)委員 例えば、地方自治の基本法なりをつくる場合に、どの程度のパイの大きさの地方政治というものを想定してつくるかということがやはり一番の問題になるんだろうと思います。

 今、三千以上ある市町村の中で、まさに合併の動きというのが政権与党を通じて、あるいは総務省を通じて出ておりますけれども、この合併という問題に関して、私は大きければいいというものではないという思いを非常に持っております。ドイツあたりが、大小いろいろなそれなりの地域性なりなんなりがあるから、それほど大きさにこだわらないでやろう、そういう地方自治を想定しているようですが、先生がごらんになって、大体理想的と言える、なかなか難しい問題がありましょうが、どの程度のものが地方自治として一番動きやすいあれだと想定していらっしゃいますか。

大隈参考人 非常に難しい御質問でして、おっしゃるとおりに自治体さまざまだと思います。標準的なものがどれかと言われても非常にお答えしづらいところがございます。

 むしろ、現在の市町村合併の動きなどについては、国や県はサポートする立場にはあっても、自治体自身の側から動き出して、必要とされるところが主体となって行うべきではないかというふうに思っております。

 御質問にお答えしておりませんが、失礼します。

西川(京)委員 確かに、今の地方自治体の市町村の合併問題はある意味では国の主導と言えると思うんですね。財政上の優遇措置なりなんなりをとって十七年度までにある程度の形を示そうという一つの動きがありますが、これがまたみんなどんどんあちこちで全部やっていたら、国の財政はパンクしてしまうというような問題も出てくるのですけれども、やはりその地域性なりなんなりあることですので、あくまでもその自治体に住んでいる住民の意思、その人たちが本当に合併を望むのかどうなのか、そういうことはやはり大事にしていただきたいし、私たち国政を預かる者もそうするべきだと思います。

 ただ、今こういう厳しい国の財政状況あるいは地方の財政状況の中で、余りに過疎の進んだ地域で、持ちこたえられない地域もあるわけですから、その辺はうまく調整していかなければいけない問題だろうとは思います。

 最後に、小さな自治体がある程度大きくなっていく場合に、これから本当にきめ細かな住民サービスというのがむしろ届かなくなるような気がするんですね。そういう中で、ある程度パイを大きくした上でのきめ細かな住民サービスというものの一つの形というんでしょうか、方法というんでしょうか、そんなもので何かいい御意見でもおありでしたら聞かせていただきたいと思います。

大隈参考人 交通手段の進展とかございますので、住民が往来する範囲は広がっているとは思いますが、具体的にそれできめ細かい配慮ができるかというと、そればかりではありませんでしょうし、特に今お答えするものを持たないわけですけれども、やはり現場で自分の生活に密着したところでの行政の手当てが受けられるような、それはもちろん私はもう最初のお話から賛成でございますが、ちょっと、今何かアイデアというとございません。

西川(京)委員 済みません。余り細かいことをお聞きして恐縮でございます。

 ちょっと視点を変えまして、先生のお話をずっと伺っておりまして、いろいろなレシピを拝見しまして、それこそ私たち国会議員なりなんなりの意識の持ち方、選良なんという言葉を使われると甚だ恥じ入るものがありますが、そういう私たちが自覚しなければいけないことまで御指摘いただいて、大変ありがたいお話を伺ったと思います。

 それともう一つ、先生のお話を聞いていて、現憲法に対する先生のお気持ちというんでしょうか、憲法を改正する場合は非常に限られる、地方自治に関してだろうとは思うんですが、そういう結論が出ていらっしゃるように思いましたが、先生自身の現憲法に対する評価を、大ざっぱで結構でございますからお聞かせいただけますか。

大隈参考人 現在の憲法自身で、人権の問題など非常に保障されてきているかとは思います。ただ、話の中でも出ましたような二十一世紀に向けての新たな環境、状況というものがございますので、そういったこれまでの状況の展開に対して対応し切れていないようなものも出てきて、解釈だけではどうにも対応が難しい新たな人権の登場というものも考えられますので、そういった人権の強化であるとかという意味では、個別にテーマを絞ってということでお話しいたしましたが、その時々にやはり対応していく必要はあるのではないかと思っております。

西川(京)委員 新たな時代の対応にと言われますと、例えば環境問題に対する配慮とかそういう問題があると思います。それと、今先生が人権に対するとおっしゃったんですが、この人権ということに関して、今まだまだ足らない部分もあるでしょうし、それとまた反面に、私は、権利というものの裏側には必ず義務があると思っております。

 今、憲法に保障されている人権の問題に関する三十の項目の中で、義務というのが三つしか入っていないという現実は、やはりもう少し国民全体で、ともに私たちの問題として考えなければいけないように思うんですね。この義務に関しても、教育と勤労の義務に関してはある意味では権利に入るような問題でありますから、義務に関するものとしては、唯一納税の義務しか記していないわけですね。

 国という形がこれからもっともっと大きくきちっとした形になる時代では恐らくないんだろうと思うんですね。世界の流れの中で、国というものに対しての概念はもっともっと希薄になっていくんだろうと思うんですね。個人対より大きなもの、世界全体を見据えた人間の意識というふうになっていく中で、国に対する思いということは非常に、それぞれ、そこに住んでいる人間の心の問題に帰していくようなものになっていくような気がします。

 そういう中で、唯一の最後の、国に対するあるいは地域に対する義務というものに、もう少し今の私たち、現代に生きている人間は思いをいたした方がいいのではないかという印象を私は持っていますが、先生はどのように思われますか。

大隈参考人 この点につきましては、恐らく御意見、反対といいましょうか一致はしないと思います。私にとってはあるいは多くの憲法学者にとってそうだと思いますけれども、憲法というものは、そもそも国民の側が国家あるいは政治をとる側に対して突きつけて、保障していくものを書き込んでいるというようなことを原則にしているということでございますので、人権を中心に書き込むことこそが憲法の建前と申しましょうか根本にあるということで理解しておりますので、義務の強化というところにつきましては、これは、要求する側の方からいいますと、それに応ずる最小限のものをひとまずは含めておけばいいのではないかというふうに考えております。

西川(京)委員 それと、先生にもう一つお聞きしたいのは、先ほどの問題にちょっと返るかもしれませんが、例えば、大きな政府、小さな政府という問題がありますが、国が受け持つ守備範囲と、地方にどんどん委任すべきだというものとありますが、国が受け持つ範囲というのは大体どの辺の分野までだと思っていらっしゃいますか。大ざっぱで結構でございます。

大隈参考人 これも世上よく言われておることかとは思いますが、外交であり、あるいは国全体としての平和の問題でありといったようなもの、あるいは国全体にかかわる問題、抽象的になりますが、そういったことになるかと思います。

西川(京)委員 例えば教育の問題なんかはいかがですか。

大隈参考人 教育につきましては、実は、これはそれぞれの地域に密着した特色のある個性豊かな教育が可能であると思っておりますので、一定の地域の広がりの中でゆだねてよろしいのではないかと思っております。

西川(京)委員 例えばドイツあたりでは、何世紀も前に移民した先まで宣教師なりなんなりを送って、自分の母国語を忘れないように教えるというような徹底した、ある意味ではナショナリズムというんでしょうか、そういう考え方があったと思うんですね。

 今、世界じゅう国境が怪しくなる反面、むしろナショナリズムの火がついている、そういう相反する動きというのはあると思うんですが、私はやはり、教育というのは、今先生がおっしゃったように、地域に本当になじむ、地域独自の教育というのは非常に大事だと思っています。特に、伝統芸能なり、その地域の本当に詳しい、よって立ってきたことを教える、そういうことはすごく大事だと思っていますが、それともう一つ、自分の国の成り立ちなり自分の国の言葉、これは、その国に住んでいる以上きちっと教えていかなければいけない。これはやはり、国の責任を持った一番大事な仕事だと私自身は思っております。

 そういう意味で、今、先生の教育を地域である程度やれるんではないかというお話を伺いながら、ぜひ両方、そういうものを考えながらも、やはり、国というものに対して国民がもう少しみんなもう一度ゆっくり考えるべきだと思うんですね。国というのは、あくまでも、抑えつけるとかそういうものではなくて、ここに住んでいる人たちみんながきちんと考えていくべき一つのテーマだろうと思います。

 きょうの先生のお話、具体的ないろいろなアンケート結果などを踏まえて勉強させていただきまして、本当にありがとうございました。まとまりもない質問で大変御迷惑をおかけしたかと思いますが、私の質問をこれで終わらせていただきます。ありがとうございました。

中山会長 生方幸夫君。

生方委員 民主党の生方でございます。きょうは大変貴重なお話を聞かせていただきましてありがとうございました。

 まず最初に、憲法改正について最後にお述べになられたことからお伺いをしていきたいと思うんですが、私もこの憲法調査会に入ってから、憲法をずっと条文を読んでまいりまして、例えば、地方自治に関して言いますと、九十二条から九十五条まで、わずか四つだけ述べられておって、今西川委員も指摘したように、九十二条では「地方自治の本旨に基いて、」と書いてあって、本旨がどこに書いてあるんだろうと思ってまたずっと読み返してみたんですけれども、この本旨が何もないというようなことでございまして、読みようによっては非常に不備な条文でもあるなという感じはいたします。

 しかし一方で、我々はローメーカーでございまして、法律をつくるという立場から考えまして、私もこれまでにいろいろな法律を審議してまいりましたが、この憲法があることによってつくれないという法律はないんですね。この憲法をここさえ変えればこういう法律ができるのにということはないということは、逆に言うと、この憲法によってあらゆる法律をつくることができる。

 今の九十二条に関しても、例えば、地方自治基本法というようなものを新たに法律で担保をすれば、地方自治に関してきちんとした国民の権利を守ることができるということにもなるんで、私は先生の意見と同様に、軽々に憲法を変えるというよりは、むしろ、どうしても憲法を変えなければできないということがあるんであれば、そこを具体的に出した上で国民の皆さんと論議をしていくべきだというふうに考えているわけです。環境権の問題なんかも、ここにはもちろん盛られてはおりませんけれども、法律でつくろうと思えば幾らでもつくれるわけでございまして、私としては、先生が慎重にしたいという御意見に、賛成という私の意見をまず最初に述べさせていただきます。

 その上で、先生は、住民投票ということを非常に今熱心にお話をしていただきました。

 私たちも、国民の皆さん方の意見が政治に反映していないということが政治不信につながっているんだと。我々も、私は衆議院議員でございますから、いかに国民の皆様方の意見を国政に反映するかということに努力をしなければいけませんし、県会議員、市会議員の皆さん方は、その地方自治体に国民の皆さん方の意見をどのように反映するかということで日々腐心をしているんじゃないかなというふうに思います。

 もちろん、歴史の流れからいえば、最初は直接民主制から、人口がふえたり地域が非常にふえてきたりしたということによって間接民主制に流れてきたという動きがあったんですが、IT革命というものが進むことによって、逆に言うと、国民の皆様方一人一人のところへ端末機を置きさえすれば瞬時に国民投票というものができるような時代にもなってきているわけですね。

 だから、住民投票の実現性というのはかつてに比べれば非常に簡単になってきたということがある一方において、住民投票の重要性を私も十分承知をしているんですが、それももちろん自分たちの身近な問題に対する住民の皆様方の意見の表示ということになるんですが、最も基本である選挙における投票率がやればやるほど下がってきているという現実がある中で、これはもちろん代議制のもとにおける投票でございますが、本当に関心が――今、小泉さんが誕生したことによって政治に対する関心が高まってきているということは私は非常にいいことだというふうに思っていますが、実際に住民投票というものを取り入れることになった場合、投票率というんですか、本当にそれが住民の意思を代表することになるのかどうか、まず第一点お伺いしたいと思います。

大隈参考人 どうも御指摘ありがとうございます。今お話しいただいたところ、大いに問題点を共有していただいているかと思います。

 結論だけ申しますと、もちろん住民投票の意思にできるだけよるべきだと思っております。今お話しの電子投票のところも含めまして、実は私は、理念として直接民主主義をと言いまして、最後、踏まえられるところにその意識を持っていただきたいということをお話ししておるわけでして、電子投票云々の話も、実はその前に、それこそ倫理的に要求される議員の皆様の資質を踏まえて、十分な議論をしていただいて、そして住民、国民に投げかける問題としては明確な形でやっていただきたいということでございますので、まずは大いに議論が必要で、それは直ちに投票だけでは済まない話だと思っております。

生方委員 ヨーロッパなんかでは住民投票を取り入れている国がたくさんあって、その流れは二つあって、一つは、非常に簡単に住民投票ができる、だけれどもその結果は法的拘束力を持たないという流れと、もう一つは、住民投票をするのは非常に難しいけれども、そのかわり、した結果については法的拘束力を持つんだという、二つの流れが多分ヨーロッパにはあると思うんです。先生がお考えになっている住民投票というのは、そのどちらの流れの住民投票が日本にはふさわしいというふうにお思いになっていますでしょうか。

大隈参考人 今もお話しいたしましたが、十分に議論を尽くした上で、最終的にかける部分については拘束的であっていいと思っております。その議論を尽くすのが住民同士では人数が多過ぎてできないということもございますので、代表者の方々にそのところを十分に議論をしていただいて、問題点が明らかになって投票するということが私の頭の中にはございます。

生方委員 もう一度お伺いしますが、要するに、住民投票を簡単にできるという国は、結果についても参考程度でいいよという考え方でやっているわけですね。もう一方の国は、住民投票をかけるには非常に手続が面倒くさいけれども、そのかわり、できた場合は、きちんとそれには法的拘束力がありますよという立場をとっているわけで、先生がお考えになっている日本にとってふさわしい住民投票制というのは、その二つ大きな流れがあるとすると、どちらの方の流れにより近いお考えなのかということをお伺いしたいんです。

大隈参考人 最終的に目指すところは、きちんとした手続を経て拘束的であるというのが私の論理を立てましたところからは出てまいります。

生方委員 その場合、住民の皆さん方が判断する材料をどこがどういうふうに出してくるのかというのが非常に問題になってくると思うんですね。

 ことしの四月から情報公開法が施行されましたので、情報公開の量というのは非常にふえてきたと思うんです。ただ、国民の皆さん、住民の皆さんが判断するための情報というのは、第一義的には多分官庁、役所から出てくるということになりまして、あの吉野川河口堰の住民投票のときも、私も現地に行って見てまいりましたが、私は二回しか行っていないですからはっきりこれは断定をするわけじゃないんですけれども、賛成する側は、県やら市やらが出す情報ですからこんなたくさん情報があって、逆に反対する側は、一生懸命情報を出すんですけれども、お金の問題やら何やらがあって、多分情報量からすると十対一ぐらいだったと思うんですね。それでも結果は、必ずしも官庁側が望んだ結果にはならなかったわけです。

 ああいうふうにマスコミで非常に大きく取り上げられるような住民投票に関しては、住民の皆さん方も十分豊富な判断材料が得られると思うんですけれども、さっき先生がおっしゃったように、細かいと言ったらあれですけれども、もうちょっと身近な問題になってくると、本当に判断するに十分な情報が両方のサイドから出てくるということが保障されないと、なかなか判断のしようがないと思うんですね。

 吉野川のときも、反対派の住民の方たちは、全部自費でその情報を我々がつくらなければいけなかったということで、そのお金がどこから出るわけじゃないということで非常に苦労していたのを聞きましたので、住民投票をする場合、両側の十分な情報を出すための保障をどのようにしたらいいというふうに先生はお考えになりますでしょうか。

    〔会長退席、鹿野会長代理着席〕

大隈参考人 これも非常に難しい御質問をいただいているかと思うのですが、今のところは、まさにおっしゃったように、情報公開制度の充実とそれの住民の方々での利用しか手だてがないのではないかと思いますし、また、それを当面はまず全国的にも充実させていっていただきたいというふうに思っております。

生方委員 これは我々もぜひ聞きたいんですけれども、投票率を上げなければいけないということで、我々も非常に努力をしているわけですけれども、国によっては、オーストラリアのように投票を義務づけるというところもございますね。オーストラリアの場合は、義務づけるといっても、登録した方が投票するという格好になっていますけれども。私なんかも、投票を義務づけるのがいいのかどうかわかりませんけれども、少なくとも、五〇%を切るような投票率で選ばれた方が本当に代議員として責任を果たせるかということには大いに疑問があるんです。

 先生は、住民投票制も含めて、投票率を上げるためにはどうしたらいいのかという、もしアイデアがございましたら、ぜひお伺いしたいんです。

大隈参考人 直接にはこれもアイデアといってございませんけれども、まさにきょう御報告させていただいた、自治の場面での、それぞれのところでの身近な問題についての住民投票ということになりますと関心も深く、これがまた、御報告にも出しました、地域の広がりやら、有権者の方をどこまで広げてしていただくかということで難点があり、具体的にこうだということがすぐには出せない、学界でも学問的にも検討しなきゃいけないところだと思います。

 それこそ、地域で身近な問題になると、あるいは住民に直接かかわるものであると、投票率は随分上がるのではないか。あるいは、先ほど御指摘の政治不信のお話もありましたが、国民は何も投票に全く関心がないわけではなくて、テーマ、問題によっては大いに投票に参加していただけるのではないかと思っております。

生方委員 その住民投票、私ももちろん反対をしているわけじゃないんですけれども、身近な問題として、例えばごみの処理場が近くにできるとかあるいは斎場が近くにできるとか、住民の利害に直接関係することであると、恐らく身近な人はほとんど反対をしてしまうということになって行政が立ち行かないという問題があって、もう一方は、今度はもっと大きな問題で本当に判断をされちゃった場合、その調整ができないんじゃないかということで、本当に住民投票として取り上げるのにふさわしい、さっきネガティブリストというふうにおっしゃいましたですが、ふさわしい問題が何であるのかというのを具体的に詰めていくと、結構難しい問題があるなという気が私はしないでもないんです。

 トータルの考えとしては、もちろん主権は国民ですから、主権者たる国民があらゆる場において意見を発表するということにおいては、投票行為というのは何年かに一遍になるわけですから、それよりももっと頻繁に主権者たる国民の声を聞くということが非常に大事になってくると思うんです。

 さはさりながら、具体的な問題になってしまうと、余り身近な問題を全部住民投票にかけてしまえば、それはみんな反対をされてしまって、全体の利益から考えると、行政がなかなか立ち行かなくなるおそれもあるんじゃないかなというふうに思って、具体的にどこら辺の問題がいいのか、私もアイデアがあるわけじゃないんですけれども、その辺の兼ね合いが私は非常に難しいと思うんですが、いかがでございましょうか。

大隈参考人 全く御指摘のとおりでございまして、住民投票は賛成なんですが、それにふさわしいリストと言われると非常に狭められたものになってくるかと思います。

 ただ、私が本日申しましたのは、そういった住民投票とかを行う余地を残すということにつきまして、従来の考え方だと、すべて補充的なといいましょうか、例外扱いをされてきている学問状況にある。これを、むしろ原則としてそれは可能だという読み込みが可能なようにしておかないといけないという趣旨で、原理のところを申したつもりでございます。

生方委員 これはいろいろな例が出てくる中で恐らく明らかになってくると思うので、今まで例が少ないので、余り私どもがここで論議していても問題点がクリアになってこないんだと思うので、できる限りそういうものを取り入れる自治体が出てきて例をふやしていけば、いいものができるんじゃないかなというふうに私も思います。

 それで、もう一個の質問なんですが、今、市町村合併が大変大規模に行われていて、住民が協議会をつくるのを発議してもいいというようなことにはなっております。しかしながら、現実に自治体を合併させようとした場合、首長さんの反対とか、議員さんにとっては自分たちの身分にかかわる問題というのがございまして、なかなか協議会ができるまでに至るところもないし、協議会ができたとしても、実際にそれが本当の合併にまで発展するということがないという現状があるんです。

 先生は、市町村合併と地方自治が充実していくという、これはもちろん行政改革とか財政の問題もございますから、一義的には論じられないかとも思いますが、今の合併をずっと推し進めて自治体の数を少なくしていって行政を効率化していこうという流れと、地方自治で住民たちの思いが実施できる政治というものの関係はうまくいっているのか、あるいはばらばらになっちゃうのか、どちらのお考えでございましょうか。

大隈参考人 最も難しい点かと思いますが、先ほどのお答えにも出したつもりでございますが、自治体の側での意思といいましょうか、自治体の側での考えに応じて合併を行っていくべきもので、それが市町村合併のところでそれぞれの地域で行われていくのならば、それであれば望ましい、それがよいということを考えておるんです。

生方委員 地域の大きさやら、いろいろなケースケースがあるので、何人がいいということはなかなか言えないと思うんですけれども、私なんか五十万人程度の、私のところがたまたま五十万人ぐらいなので、そのぐらいの規模だとちょうどいい行政サービスができるかなと。ただ、これも、千葉県でございますので五十万人でちょうどいいのですけれども、北海道の五十万人というときっと広過ぎるのかもしれないというようなこともございますので、我々もこれからいろいろ考えていきたいと思います。

 きょうはどうもありがとうございました。

鹿野会長代理 太田君。

太田(昭)委員 公明党の太田昭宏です。三つぐらい質問させていただきます。

 私は、二十一世紀の憲法論議は未来志向でなくてはならないとかねがね言ってきました。この調査会でも、まず憲法制定過程というのを学んだわけですが、それを踏まえることは大事かもしれない。しかしまた、憲法制定当時と今が、服装でいうと随分ずれてきてしまっていますね、その違いを合わせるというか、そうした視点での憲法論議というのもあったと思います。

 しかし、一番大事なのは、二〇二〇年、三〇年、まあ五〇年というとちょっとよくわかりませんから、私は二〇三〇年ぐらいを、想定できるかどうかはわからないけれども、その日本を想定しながら現在というものをどう考えるかという中で、四つのマグマがあるというふうに思っていたのです。一つはIT、一つはゲノム、一つは環境、そして四番目に住民参加という四つのキーワードがあるのではないかというふうに思ってきました。

 まず初めに、地方自治は民主主義や民主政治の学校であるという以上に、非常に大事な原動力である、そういう視点をきょう先生が出されましたが、言葉として、言葉というのは非常に大事だと思います、地方主権という言葉もあるし、地方分権という言葉もあるし、そして住民主権という言葉もあると思うのですが、一番適切だという、リード役になる言葉は何という言葉がいいのでしょうか。

大隈参考人 これは学会で報告いたしましたときにも触れた点でございますが、今おっしゃったような主権という言葉をつけた住民あるいは地方云々という言葉が言われております。しかし、ここでは、今どれがふさわしいか。憲法用語として用いるのであれば、主権云々は地方自治ということで考えておりまして、主権の話は、国民主権等使う場がいろいろ違うものですから、どこをつかまえて言われるのかで用い方が違ってきますので、今どれが最もふさわしいかと言われても、直ちにお答えはできかねております。

太田(昭)委員 学者の先生としてはそういうお答えになるかと思います。

 地方あるいは住民が大事である、またそれが時代の潮流であり、そして調査をするとそういうことが出てきますよということはよくわかりますが、潮流に迎合するというのが何もいいわけではありませんから、思想的な拠点というのは一体何であろうかというと、人権に匹敵するものだという、普遍的な概念としての地方主権というような言い方をされたと思いますが、私は、国家としてのこれからのあり方というものを考えると、思想的にもう一つの角度があるのではないかというふうに思えてならないのですね。

 二十世紀というのはネーションステーツとさりげなく言うけれども、ネーションとステーツというのは本来違うものである。ネーションという、どちらかというとナショナリズム、文化というようなものの中で生まれる言葉としての国家と、ステーツという、機能という側面でのものがある。ネーション・プラス・ステーツということが二十世紀で確立されたがゆえに、ネーションステーツのぶつかり合いというものが、奪い合う、戦争の二十世紀というものの起点にかなりなっているのではないか。

 そうすると、国家をどうするかという、国家というものを考えても、私は、二十一世紀というのはどちらかというと、文明の衝突というふうにハンチントンが言うのですが、文化の衝突の時代が二十一世紀であろう。そして国家というものは、ネーションとステーツが分離しながら、そしてステーツというのは、どちらかというと、二十一世紀型はそうした機能国家に国家としてはなって、むしろネーションの部分というのは、ナショナルアイデンティティーとしての地方分権とか住民主権とかいうようなこと。

 むしろ、愛国心という言葉をパトリという言葉で、郷土愛というような観点で、地域の中での共生あるいは共同体意識というものを形づくっていくという方が、私は、二十一世紀は文化の時代であって、ナショナルアイデンティティーとしての地方主権というような角度というものがあるのではないのかな。そうした観点での論議というもののゆえに、地方というものにより強く比重を置くことが二十一世紀の国家論としても正しいのではないかというふうに私は思うわけですが、いかがでしょうか。

大隈参考人 今のお話でよくわかりました。

 今おっしゃる意味につながるのかどうかわかりませんが、私が人権類似のと申しましたのも、地方自治体が、まさに人権類似のそういった住民の領域としての地域が国に対して主張していくべきもの、そこに住民が自治を行うという意味でのものを中心にしながら考えておりますので、そういう意味ですと、今おっしゃったような地方主権ということも当然使うことができますし、また国際化、主権の揺らぎということも言われております。これも学界でのテーマになっておるところですけれども、同じような意識を私も持っております。

太田(昭)委員 最後になりますが、今、国会で永住外国人の地方参政権付与法案というのが、私どもにとりましては、主張してきまして、大詰めを迎えているというふうに思います。

 私は、今申し上げたような観点からも、三つの観点があると思って、この法案がいいというふうに思っているのです。一つは、共生ということです。二番目には、人権という角度から必要であるということです。三つ目には、地方分権という観点から必要であるということです。この三つの軸をもって、地方参政権というものが二十一世紀の日本の国の形というものの中で非常に大事だ。

 外国人に一番大事な選挙権を付与していいのかと言いますが、私は、大事なものだからこそ付与してあげるという方がはるかにいい。この間ここに姜尚中さんが来られた。そのときに、同じ民族で全部集まってやるという国家が必ず自家中毒を起こすという指摘をされました。

 私は、日本の中に愛国心とか伝統とか文化とかいうものが希薄になっているということは、それはそれとしてしっかりやらなくちゃいけない。しかし、それをしっかりやらないから一方で地方参政権に対して非常に戸惑いが出てくるというのじゃなくて、地方参政権は自信を持って与えて、同時に、そうした文化とか伝統というものはしっかり角度をつけて、これからどうするかということを教育や国家のあり方ということでやっていくという形がいいのではないかというふうに私は思っておりますが、先生は永住外国人の地方参政権付与法案をどういうふうにお考えになっているのか、これが一つ。

 それから、共生とか人権とか地方分権という三つの角度からということを私は言いましたが、何ゆえの角度からそう思っていらっしゃるのか。

 三番目に、憲法十五条と九十三条、特に九十三条の住民という概念は、私は、きょうの話を聞いて、今までの住民概念よりももっと積極的な住民という概念でこれからとらえるべきだという思いがしたわけですが、この憲法十五条、九十三条についての見解をお聞きしたい、こう思います。

 以上です。

    〔鹿野会長代理退席、会長着席〕

大隈参考人 まず、永住外国人の問題についてどう考えるかということですが、これは今、国会の方でも努力されておられるような形で、私も、地方の段階では容認されるべきもので、大いに賛成しているところでございます。

 次の、角度については、視点についてはどうかという問題でございますが、一番最初に、今述べられました共生ということについては、実は私も、二十一世紀については、これまでの十九世紀の自由主義国家の時代、二十世紀の社会国家の時代に続いて、この世紀は共生の時代になるのではないかということで大学でも講義しておるところでございまして、大いに賛成ですし、もちろん報告に置いた分権あるいは憲法の基礎になる人権という考え方も、これも角度としては今言われましたような視点を十分踏まえてのことでございます。

 それから、十五条、九十三条の観点。これも住民自治ということで、最近は住民というこの言葉に大いに注目する若い研究者の方々も出ておりますが、同じように、これをなおいかに解釈的に整合させるかで、なかなか現在の憲法で、解釈ですべて対応するということは限界がございますので、それも含めて、今後憲法について調査していただくときには、この点を強化するという立場からお考えいただければと思っている次第でございます。

太田(昭)委員 現在の憲法ということでの十五条、九十三条の問題は、この間の最高裁判決とかさまざまなことの中で承知しているつもりですが、きょう先生のおっしゃった、この住民ということをこれから単なる解釈だけでなくて広げていくという方向は望ましいということは、私にとりまして大変参考になりました。

 終わります。ありがとうございました。

中山会長 塩田晋君。

塩田委員 自由党の塩田晋でございます。非常に貴重な示唆に富む御意見をいただきまして、ありがとうございました。

 先生が、地方自治は民主主義展開の最も枢要な舞台である、このように言われました。現在の憲法の条文、百三条ありますが、そのうち地方自治、第八章、わずかに四カ条しかないわけですね。これについて今どのような評価をしておられますか。これで十分だというお考えか、いや、これは足らない、もっとちゃんと、いろいろな今お話がありましたようなことを盛り込むべきだとお考えか、お伺いいたします。

大隈参考人 今御指摘の点につきましては、条文の数ではなく内容の問題としてお答えしたいと思いますが、九十五条のところに、直接に住民のかかわる問題についての最終的な賛成を必要とするような条文がございますが、こういったものが従来例外扱いされておりました。そこのところをむしろ逆転させて、それこそが中心だという趣旨を報告いたしましたし、また、今御指摘のように、自主財源についての問題等、憲法では十分にまだ触れてないところがございますので、そのあたりの強化はなお必要ではないかと思っております。

塩田委員 直接民主主義は理念としてこれを入れるべきだというように受け取れましたのですけれども、この第八章の地方自治の中にそういった文言を入れてはっきりさせるべきとお考えかどうかということ。それは、地方自治の本旨という抽象的な一つの言葉で、これからすべての地方自治関係の法律が出ているということですね。こういう地方自治の本旨といった、非常に漠然とした、何でもやれるかに受け取れる表現の文言がなおあっていいものかどうか。むしろ、先生の御意見ですと、代議制の地方自治よりは直接民主主義の地方自治ということを考えておられるとすれば、その地方自治の本旨というものはこれだということをはっきりと書いた方がいいように思うのですけれども、先生のお考えはいかがでしょうか。

大隈参考人 ここのところは、憲法の中に文字どおりの直接民主主義という言葉を入れるということは考えておりませんで、学問的にも、文言として代表という言葉が出てきたりするのを代表民主制と呼んでおるところでございまして、自治に関しては、九十三条のところで直接に自治体の長を選ぶとかということが具体的にあらわれております。

 ですから、そういった形の対応の仕方で十分です。ただし、直接住民がかかわることを例外扱いされないような書き方、ちょっと具体的にまだこういう言葉だとは考えておりませんが、そういった表現が必要かと思います。

塩田委員 ここでは憲法の条文の一言一句を議論する場ではございませんので、この辺でおきたいと思いますけれども、この地方自治の本旨という憲法の規定から、現在は代議制をとっておるわけですね。しかし、直接民主主義あるいは住民投票ということもここから引き出せるのだということであればそれでいけると思うのですが、先ほども出ましたけれども、住民という言葉ですね。これは、憲法学者の中に今いろいろと議論があるとしましても、また、最高裁では、ここの住民は、国民たる住民である、日本国民としての国籍を持った者である、こういう最高裁の認定があるわけですね。

 それから、あと住民と出てまいりますのは、九十五条のいわゆる住民投票のところに、住民の投票においてその過半数の同意を得なければならないという条文があるわけですが、その辺はどのようにこの住民という表現、最高裁のとおりと思っておられるのか。先生のお話、直接はなかったですけれども、それを延長線上で考えますと、その地域に住まう人、すなわち日本国籍を持った者は当然、そのほかにも、持たない者、外国人、こういった者を含めての住民、その直接投票による、こういうふうに考えておられるのかどうか、お伺いします。

大隈参考人 一点目の、本旨ということについては、非常にあいまいであるので、もう少し明確に原理であるとかそういう言葉でしないと、もうかなり学問的には悩んできましたという話でございました。

 二点目になりましょうか、したがって、それと今御指摘のとおり、住民ということにつきましては、最高裁の判決の云々はございましたが、この住民というのは、憲法上は、今御指摘のとおりの形で、永住外国人の参加も含めるような、それを容認しているレベルにはあるというふうに考えております。

塩田委員 最高裁の判決の中にある解釈でなくして、そこに住まわっている、国籍を有するか有しないかは別として、すべての住民があるということでございますね。

大隈参考人 御指摘のとおりです。

塩田委員 地方公共団体というものはこの条文から出てくるわけですけれども、地方公共団体は何であるという特定はなされていないわけですね。これは、いわゆる都道府県、そして市町村、そのほかにも組合等、そういう団体があると思うのですが、これは、都道府県は必ず置かなければならないものでしょうか。その点についてお伺いしたいと思います。

 それは、大きさだけで言うわけではないのですけれども、明治の初めは、日本国じゅう、最初四十六だったのですか、一番大きい人口のところが新潟県、百七十万ぐらいですね。東京が百六十万。一番小さいところでも、現在も同じく鳥取の四十万ぐらいですね。その差は四倍です。現在は、御承知のとおり東京都は一千二百万を超えている。相変わらず鳥取県は、六十万ぐらいになったでしょうか、二十倍の差ですね。東京都におきましては、東京都の一つの区で六十万、七十万の区があるわけですね。百三十年を過ぎてこれだけ大きな変化が起こっておる。いつまでも都道府県、現在の形でいいのかどうか、地方自治体として。

 そこで、先ほどお話がありました機関委任事務、これは明治以来、国の出先機関というか、組織機関として役割を果たしてきた、これが都道府県ですね。現代、戦後は違った、また最近の一括法によって自治事務と法定委任事務と分けて、国と都道府県と市町村、並立する形になった。こういう中で、今までの考えと違った状況になってきておりますから、都道府県が地方公共団体だと言わなければならないのか、また、なければならないのか。

 私は、一遍にはできませんけれども、都道府県が果たしている役割はもうなくてもいい。市が、全国市町村の三千二百が三百とか五百程度の大きな市になれば、政令指定都市が現在都道府県とほとんど変わらないような権限も持っている中で、都道府県はなくていい。これだけ情報化が進み、交通が便利になった中で、必要ないのじゃないか、こういう思いがするのですが、先生、いかに御判断されますか。

大隈参考人 御指摘の点につきましては、市町村が地方自治の最も基礎的な自治体ということで、これはどうしても必要だということで考えております。

 それから、あと都道府県の問題につきましては、これは名称にはこだわりませんけれども、この中間の団体というのは、今のお話とは私の考えは違いますが、事務が直接に今度は国まで広がっていってしまうのかというと、やはりそこを考えなければいけないものもあるのではないかとまだ思っておりまして、名称にはこだわらず、何らかの形でこういった中間的なものも存在意義があるのではないか。

 ただし、それは、住民の側に立って国と、一つは先ほど報告にも入れましたが、対抗とは申しませんけれども、対等・協力の関係にあるというような立場ででも、国と対応する観点からいっても、これは一段階よりも二段階ある方が憲法的には適合的ではないか、地方自治には適合的ではないかというふうに考えております。

塩田委員 最後にお伺いいたしますが、現在の憲法上あるいは法律上で、地方公共団体ではない地方の自治組織というものがありますね。市町村の中に町内会とか自治会とかあるいは隣保、私のところはまだ田舎ですから隣保がありますね。直接民主制といいましても、今のこの現状からいいますと、直接過半数の同意を得るための住民投票ということになりましても、十分にその直接民主主義、理念どおりのものが実行できるかどうかということを非常に懸念するわけでございます。

 それは、隣保なり自治会あるいは自治連合会、町内会、こういったものがありますね。上から指示がおりてくる。そして、時には投票はこれというようなことまで指示がおりてくる。これに背くと村八分ということもあり得る。そういう状況がまだあるわけですね。都会はそうでもなくなっておりますけれども。何か集会をするにしても、責任出席という言葉があるのですね。何名ずつこの町内会は人を出しなさい、どこどこへ行ってください、こういう指示を受けるわけですね。それをやらなかったらまた村八分。こういう状況の中で、果たして直接民主主義というものが我が国において成り立つのだろうかという問題。

 それから、住民投票をやる際に、いろいろな技術的な問題があるということを言われました。これは一々言いませんけれども、いろいろな問題があるということを指摘されましたが、投票率が低い。フランスの場合を言われましたね、三〇%で憲法改正を決めたという。これは別としまして、そういうことも念頭に置かないといけないし、あるテーマについて明確にしてやるとしましても、外からの、その地域の住民でない人たちが来て盛んにあふる、あるいは妨害さえするかもわからない。こういうことも十分に考えなければならない問題で、住民投票といい直接民主主義といいましても、これを実現するのは非常に技術的に難しい問題があるのじゃないか。このように思いますが、いかがでございますか。

大隈参考人 今お話に出ました件につきましては、妨害であるとかあるいは強制であるとかということになりましたら、これはもう自治の名には値しないことになりますし、そのことも含めて、直接民主主義という理念とそれから住民投票ということをすべて直接に結びつけるわけではございませんで、やはり住民参加といいましょうか、住民が参加していく場面という意味で申しております。そうすると、人権に絡む問題であるとかで触れられないものもありますから、これは報告の中にも出したつもりですが、何を対象にするか、何の問題について直接住民参加で行っていくかというのは、かなり厳密に考えていかなければいけない、限られているのじゃないかと思います。

塩田委員 ありがとうございました。終わります。

中山会長 山口富男君。

山口(富)委員 日本共産党の山口富男でございます。

 きょうは、公法学会などでの地方自治論の研究を踏まえまして、参考人から意見をお聞かせいただいたということで、どうもありがとうございました。

 私は、日本の憲法は、直接民主主義と間接民主主義を結びつけながら国民主権を徹底する、そういう方向で法規範がつくられていると考えているのです。それで、参考人がおっしゃった、地方自治に民主主義の大きな力を見るということはもう全く同感で、これは憲法上の要請だと思うのです。その意味で今、各種の調査の中で、きょう示していただきましたけれども、国民の皆さんが政治参加への要請の声を上げているということをきちんと見ることが非常に大事だというふうに思うのです。

 さて、戦前の憲法と現在の憲法との大きな違いなんですけれども、その一つが、憲法第八章での地方自治の保障にあるわけです。これは確かに四条ですが、憲法第二章の戦争放棄は一条ですから、これと並んで、今の憲法の非常に大事な特徴をなすわけですね。それは、参考人がおっしゃったように、この規定は、戦前の場合中央が、先ほど腕を伸ばし支配する関係にあったというふうに特徴づけられましたけれども、そういう中央政治の実態への反省から生まれたものであるということ。それからもう一つは、歴史上日本の中で初めて認められた権利であり制度でありますから、それだけに、地方自治の本旨の明確化ですとかその実現にさまざまな困難があったのはもう間違いないと思うのです。

 それで、国と地方の関係について考える場合に、私は、それだけに、地方自治の本旨が生かされてきたのかどうかということを実体的によく検討することが欠かせない作業だというふうに思うのです。学界でも多数の認識として、地方自治の本旨の中身なんですけれども、これは、国から独立した地方公共団体が存在をし、原則として国の監督を排除して自主的、自立的に、直接間接を問わず、住民の意思によって、地方の実情に即して個性豊かな仕事を大いにやるということになると思うのです。

 ところが、実際には国と地方の関係において、先ほども出ましたけれども、三割自治という言葉が示すように、事務の面でも財政の面でも、それから通達行政と言われるような面でも、政府による自治体への関与の仕組みというのは相当なものがあるわけですね。

 そこで、参考人にお尋ねしたいんですけれども、憲法五十年の中で、地方自治にかかわる憲法の精神、これが国政と地方政治のそれぞれできちんと生かされてきたと考えていらっしゃるのか。それから、実現を阻まれた分野があるとすれば、その点をどういうふうに評価されていらっしゃるのか、この点をお聞きしたいと思います。

大隈参考人 今も御指摘いただいたとおりでございまして、この五十年というのは、憲法に込められた、私初め学界で意識しておるような内容が、機関委任事務等を通して随分制限されてきておりましたので、それが今回の分権改革で随分まさに改革されたのではないかと思っております。ただし、まだ一番肝心の財政問題であるとか等々が残されておりますので、より一層また立法等でも御尽力を願いたいと思っておるところでございます。

山口(富)委員 今御指摘のように、憲法に反する実態というのはかなり広範にあるわけですから、そこを改めていくことが二十一世紀に憲法と地方政治の精神をはぐくみ、国と地方のあるべき姿を切り開いていく大きな道になるというふうに思うんです。

 次に、住民自治の問題なんですけれども、住民投票にかかわって二点お尋ねしたいんです。

 一点は、参考人が指摘されたように、吉野川可動堰の是非、それから大型公共事業、原発、産廃施設、米軍基地問題、こういうことで地域住民の方が意思を直接あらわす住民投票の動きが広がっているわけです。私は、ここに住民投票の非常に大きな意義を見るんですけれども、現状ではいろいろな住民投票に至る経過があるわけです。直接請求によって住民投票条例をつくれというような場合も、なかなか議会がそれを認めないで実現しなかったり、いろいろなことがあるわけですね。参考人は、作動のための難問は多岐にわたるというふうに先ほどおっしゃいました。そうしますと、憲法上の要請として、そういう難問をクリアしていく、打開していく、どういうことを憲法は求めているとお考えですか。これが一点です。

 それから、続けてもう一点お聞きしたいのは、きょうも議論になりましたが、住民の皆さんが意思表明をする場合に、それは地方政治だけに限らず、国政にもかかわってくる問題が非常に多いわけですね。この点は政府の責任にかかわる問題なんですが、どのように先生はお考えでしょうか。

大隈参考人 二番目の問題、ちょっと聞き漏らしましたので、まず一番目の問題ですが、議会等ではむしろ反対の場面もあるのではないかというお話かと思いますが、従来ですと代議制を原則に考えて例外扱いに皆さんしてきていた、まさにそこのところを、基本の考え方を変えていただきたいということを申し上げたつもりでございます。

 それから、申しわけありません、二問目をもう一回。

山口(富)委員 二問目は、住民投票で問われる問題が、地方政治の問題だけでなくて国政にかかわる問題が含まれてくるわけですね。この点は住民投票の意義との関係でどのようにお考えかとお尋ねいたしました。

大隈参考人 これは、先ほどのお答えの域を出ないのですけれども、かなり住民投票で取り上げ得るものが限られてくると思いますけれども、それにしても、まずやりやすいのは、今御指摘のような形で、これはなかなか対象にはしにくいといったような否定的な、ネガティブなものをまずは考えていくのが考えやすいのではないかというふうに思っております。

山口(富)委員 今、例外というその考え方を基本で改める必要があるというふうにおっしゃいましたが、私も全く同感で、もともと住民自治というものを国民主権の大事な内容に憲法は定めておりますから、私は、住民投票の制度化、法制化というのが必要になると思うのです。

 私ども日本共産党は、昨年十一月に、住民の意思表明の機会を安定的に確保する、しかも、そこで示された結果について地方公共団体の長や首長が結果を尊重し、あるいは条件によっては拘束される、そういうことで法制化の方の大綱について提案をいたしましたが、決して例外でなくて、やはり憲法で定められた地方自治の内容からいって、住民投票を尊重するという態度が求められると思うのです。

 次に、永住外国人の地方参政権の問題なんですが、これも私ども、参政権といった場合に、選挙権とともに被選挙権も含むと考えているんですけれども、地方自治の発展において、参考人は、永住外国人の地方参政権の実現、これをどのように位置づけられていらっしゃいますか。

大隈参考人 これも一言で、自治の充実といいましょうか、自治の場で生活する人々のことを私は取り上げたつもりでございまして、今の永住外国人についての参政権も、地方の場合には憲法は容認しておると思うのですけれども、これを認めていくことがより充実した自治の実現になると思っております。

山口(富)委員 国と地方の関係の問題でいろいろ検討しなきゃいけない問題はあると思うんです。例えば、先ほども挙げましたけれども、地方への国の規制や干渉の問題ですとか、地方の行政とそこに住民参加がどのように実現するのかとか、そういういろいろな問題がありますけれども、やはりいずれの問題も考える場合は、憲法の規定に則して検討するということを基本に据えるべき態度だというふうに思うんです。そして、二十一世紀の国と地方の関係のあるべき姿を考えた場合、私は、一度憲法で定めた地方自治の原則をきちんと実現して、それを育てていくという態度こそが求められると思うんです。

 きょうのお話ですと、永住外国人の地方参政権の問題でも、それから住民投票の問題でも、参考人のお立場からの発言でいえば、いずれも憲法の規定する、憲法の要請する仕事じゃないかという御指摘がありました。

 どうでしょう。私最後にもう一言申し上げたいことがあるので、簡単にお答え願えればと思うのですけれども、二十一世紀に国と地方の問題を考えた場合に、やはり今の憲法の定める地方自治の原則、これにのっとって展望することが大事だというお考えと考えてよろしいんですね。

大隈参考人 はい。これをもっと充実させてほしいということでお答えしたつもりです。

山口(富)委員 きょうは、いろいろ地方自治の問題をめぐって大変興味深いお話をいただきました。

 それで、参考人の陳述の中でも、地方自治の強化という方向がはっきり示されましたけれども、それは決して地方自治の憲法上の規定そのものを改める、そういうような積極的な契機をそこに求めたものじゃなかったというふうに思うんです。いわば憲法の大事な精神、それは解釈上の問題もありますし、いろいろ起こるでしょうけれども、その中身をより豊かにしていこうということで、随分得るところがございました。

 なお、きょうは首相公選制について少し議論がございましたけれども、私は今出されているものについて言いますと、先ほど世論調査の結果も発表されましたけれども、これはやはり、今の政治に対する国民の批判が非常に強いですから、もっときちんと声を聞けという一つのアピールだと思うんです。同時に、今出されている首相公選制論というのは、結局、九条を変えていく方法論という言葉もありますし、突破口という特徴づけも出ておりますけれども、そういうふうに位置づけられているということ。それから、そもそも、参考人が御指摘になったように、憲法の議院内閣制を初めとするいろいろな規定と非常に大きくきしみ合うわけですね。

 そういう点からいって、これは行政権の独走の条件を広げるということにもなりますし、私どもとしては賛成し得ないということを申し添えて、私の質疑を終えたいと思います。

 どうもありがとうございました。

中山会長 日森文尋君。

日森委員 社民党の日森文尋でございます。

 先生、きょうはお疲れのところ、大変恐縮でございます。

 私も、十五年間自治体の議員をやっておりまして、トラバーユをして国会に来たのですが、きょうの先生のお話の中で、地方自治というのは民主主義の学校、もうこれを卒業して、民主主義の原動力だということを強調されまして、まさにそのとおりだというふうに大変勇気づけられました。

 民主主義の原動力になるために、地方自治体を強化していかなければいけない、それは憲法が求めるところだというお話だったのですが、その中身の問題として、財政自主権、これをきっちり強化していこう、いわば歳入自治を確立しようというお話だったと思うのです。

 残念ながら、分権の中でも、先生再三再四おっしゃられましたけれども、財政の問題についてはほとんど手当てされていない。非常に残念な中身で、いわばこれはもう分権の四分の三が進まないという格好にもなるのではないかと思っているのです。

 実は先日、どことは言いませんけれども、ちょっと過疎の地域に別の調査で行く機会がありました。そこの町長さんや助役さんとお話をしたのですが、共通して言われたことは、分権というのは一体どこにあるのだ、実感として何も持っていないと。自己責任は押しつけられるけれども、自己決定権を行使できる財政措置は一切ないからだというふうにおっしゃっていました。これは、その地域に限らず、恐らくどこの市町村でも、あるいは自治体でも共通した認識なのでしょう。

 そこで、財政自主権を強化していくという中身については、一つは課税自主権、分権一括法の中で一定程度間口が広がったというお話ではございますけれども、横浜の例を見るまでもなく、国の財政政策と合致をしない場合は不同意という形で却下をされていく、それで係争になっています。

 それからもう一つは、今の税財源の配分比率を大胆に変えるということがないと、本当に分権を推進するための、いや、地方に自己決定権をきちんと与えていくための財源措置ができないのではないか、こんなふうに思っているのですが、財政自主権ということについて先生のお考えがあったら、まずお聞きをしておきたいと思います。

大隈参考人 財政自主権についてどこまでお答えできるかわかりませんが、今お話のあったとおりでございまして、課税自主権といいましょうか、そこのところをもちろん今後取り組んで充実していただきたいというふうに思っております。

日森委員 もう一つ、団体自治の強化という意味では、条例制定権の問題があると思うのです。これも大変重要な問題で、今度の分権一括法の中でもそれなりに前進をした面があるということなのですが、これまでの国と自治体との関係で言うと、条例というのはどうも国の法律の下位に置かれている。国の法律の枠を超えて条例をつくってはいかぬというふうなことがずっと言われてきて、これはどうも憲法の求めていることと違う、先生もそういうようにお書きになっています。むしろ法律も条例も、いわば憲法に規定されるのであって、国の法律が条例を規制して、国を超えてはいけないなどということはそもそも誤りではないかというふうに思っているのです。

 特に、分権推進法を含めて、国と自治体のあり方が対等・平等というふうになったわけですから、そういう意味で、先ほどから言われています二十一世紀の自治体の条例制定権の行使のあり方といいますか、その辺について先生のお考えをお聞きしたいと思うのです。

大隈参考人 これも今御指摘のとおりでございまして、従来は、法律が条例に対して非常に強く規制する面が強うございましたので、これを法律が禁止しない限りでは自由に動けるぐらいの読み方、書き方はやはり条例制定権についても必要ではないかというふうに考えております。

日森委員 その条例制定権との関連ですが、先ほどずっと議論になっていました住民投票の問題なんです。法で整備をするということは、もちろん私どもも異存はないのですが、しかし、いろいろな問題が今までやられてきた中で生じているということも事実なんです。

 ですから、当面この条例制定権ということをきっちり行使して、これは一方でいえば、条例制定権というのは団体自治として持っているわけですが、もう一方、条例を制定させていくというのは、一つは住民自治の重要な課題でもあるわけですから、各自治体でその実情に合って、画一的ではなくていいと思うのです。住民投票条例を全国各地で必要があればどんどんつくっていく。そういう運動を通じて、法整備だとか、あるいは先ほどからいろいろな方々が言われた問題点も整理をされていくのではないか、そんな気がしているのですが、先生のお考えをお聞きしたいと思います。

大隈参考人 これまでも自治体で随分努力されているところもございまして、お話しのとおり、まさに自治の問題で、みずからがそれぞれの地方で努力されて、これに対する対応がなされていけばよいのではないかと思っています。

日森委員 時間がもう余りありません。

 一つだけ、これと関連して、住民投票の制度を実は合併特例法の中で組み込んだというお話がございました。それは、合併の是非を住民投票で問うということではなくて、住民発議で出た合併協議会の設置をめぐって、もちろんもう先生御存じのとおりで、出されたわけですね。それで、議会が否決をしても、住民投票をやって、その投票結果が是と出れば議会が認めたことにするということなんですよ。どうも、この問題もやはり間接民主主義といいますか、代議、代表制の問題と直接制の問題とのぶつかりが随分ここで出てくると思うのですが、その辺の感想ですね。

 もう一つ、なぜ地方自治法でそう決めないで、その特例法である合併特例法で住民投票制度を入れたのか。自治法上に直接入れることは、非常に今無理があるのか。それともとりあえず、大体法律は特例法から始まって一般法へ格上げされていくような傾向が強いというふうに聞いていますけれども、そんな感じであればちょっと問題だなという気もしているのですが、この辺についての御感想というか、御意見がございましたら、最後にお聞きしたいと思います。

大隈参考人 これも、報告の中にも出したかと思いますが、その対象等をどう考えるかは非常に難しゅうございますので、まずは最もわかりやすい形で合併特例法がつくられたのかなと思っております。

 地方自治法の中に一般的に入れるには、まだ、何をどう住民投票で用いるかというのが難しゅうございましょうから、この特例法でまずなされたということは、私にとっては非常に、きょうの報告の趣旨からも大いに賛成というか、意を強くしたところでございます。

日森委員 それでは、首相公選制の話にちょっと移りたいと思うのですが、政治に対してうまく国民の意見が反映できるという先ほどのアンケートの結果がございました。

 しかし、むしろそれよりも、本当に政治を身近に感じる、あるいは自分たちの意思、要求、要望、これらを政治に反映させるということであれば、先ほどから先生おっしゃっていますけれども、住民投票制度、こういうものをきちんと法律的にも整備して、そういうところでもちろん訓練もしながら、直接政治に参加するということを進めていくのが先だというふうに私は思っているのですが、その辺は先生、どうでしょうか。

大隈参考人 私も申し上げたかと思いますが、全くそのように思っております。

日森委員 最後に、地方自治の本旨ということについて、今度の地方自治法の一部改正だとか、分権の中でも言われております。この中身がそれぞれ、先生の書いたものをお読みしたのですが、判例によっても徐々に前進をしてきて、本当に自治体の固有の権利といいますか、人権にも等しいような権利として認められつつあるというふうに前進をしてきたというお話なのですが、一言で言って先生の地方自治の本旨ということは、最初に聞きましたけれども、もう一度御確認の意味でお話しいただけたらと思います。

大隈参考人 本旨という言葉が非常にあいまいでわかりにくいということのために、むしろきちんと、固有の自治権であることをはっきりさせたらということを御報告したつもりでございます。

日森委員 ありがとうございました。

中山会長 近藤基彦君。

近藤(基)委員 21世紀クラブの近藤でございます。よろしくお願いします。

 大変長時間ありがとうございます。毎回言うことなのですが、最後の質問者でございますので、もうしばらく我慢をしていただきたいと思います。

 憲法調査会ですので、余り選挙区事情でお話をするのはよくないのだろうと思いますが、午前中もちょっと選挙区事情を絡めて御質問した部分があるので。

 ちょうど住民投票ということでいろいろな先生が御質問をなされた。先生のお話の中で、たまたまといいますか、今住民投票が行われている新潟県の刈羽郡刈羽村、ちょうど私の選挙区でありますので、どうしても質問をせざるを得ないかな。しかも運命のいたずらか、きょうが住民投票の告示日に当たっております。しかも私の選挙区で、そのときには私自身まだ国会に入っておりませんでしたが、もう一つ、巻原発で住民投票が行われた最初の町、これも私どもの選挙区であります。

 原発に関しては大変悩むところではあるのですが、今回行われております住民投票というのは、実は、去年というか一年半ぐらい前に議会で事前了解を済ませ、しかも行政もオーケーを出し準備を始めていた、そして粛々と進めていたプルサーマル、原子力発電所の中で使う燃料のリサイクル化という問題なのです。

 はっきり言って、私自身が見て、私の勉強不足もあるのですが、刈羽村で今行われている、四千人前後の人口のところでありますけれども、果たして理解が各住民にきちんと行き渡っているのかどうか、甚だ疑問な点があります。私自身もこの問題が起こってから、つけ焼き刃の勉強ではありましたけれども、一生懸命勉強しておるのですけれども、いまだにどっちがいいのか判断がつきにくい問題ではあります。もしかすると、この問題は住民投票になじまないのかもしれません。

 そういった意味で、先ほどもどなたかの発言の中で、住民投票への訓練というものが少し必要なのではないか。先生がおっしゃった、住民投票にかけた方がいい問題、かけられない問題、いろいろあるでしょう。それを含めて、現在一生懸命、住民投票を告示しながら行っているわけですから、それはそれ、真摯な気持ちでその投票結果を受けとめなければいけないのかもしれません。そういう意味で、住民投票の結果、一応今のところの見解では法的根拠はないということになっておりますけれども、重く受けとめるという首長さんあるいは議員さんもいらっしゃいます。

 先生は、最終的には議論を尽くして拘束性を持った住民投票を目指すべきだと。私もそれはそれなりに、住民投票を否定するわけではありませんから、そういう十分な議論が尽くされる住民投票ならば私も大賛成ではあるのですけれども、そういった意味で、今回の住民投票に関して、あるいは過去に行われた住民投票に関して、先生の御意見があったらお聞かせいただきたいと思うのです。

大隈参考人 ただいまのお話につきましては、具体的な問題にお答えするというわけではございませんが、住民の方々の理解を十分に得なければならないという点で、事前の議会了解から、行政の運び方からというところも含めて、ますます先ほども触れました情報公開と申しましょうか、十分に住民の方が理解された上での議会の決断なり、あるいは、それだけの情報を住民の方々が理解された上で最終的にそういった住民投票というところに進むことが重要だというふうに私も思います。

近藤(基)委員 私どもの選挙区で二度目の住民投票なのでありますが、最初の住民投票が大変不幸な結果を現在でも招いている現実があります。今回の刈羽村での住民投票はどういうわけか、賛成、反対、保留という、保留が一つあるのですが、前にやられました巻町での原子力発電所建設に関しての是非を問う住民投票は賛成、反対という二つの選択肢、イエス、ノーということでありまして、これが町を二分して、そのしこりが今でも延々と続いている。

 そのしこり、あるいは反対派、賛成派が今度は刈羽村へ行って、原子力関係のことでまたぞろそれを、賛成なのか反対なのかという署名運動あるいは毎日の戸別訪問という形で、理解をきちんとしている方はそれなりにきちんと態度表明ができるのですが、どうも何となく、あの人が頼みに来たから賛成だとか、この人が来たから反対だとかいうふうに流されやすい。しかもそれが、結果は別にしても、最後までしこりに残ってしまうというようなことは避けなければいけないことだろうと思いますし、ぜひ避けていただきたいと思う。

 そういう意味では、住民投票を実施するには、日本国内では訓練がまだまだ足りないのかなという思いがありますが、その点は先生、いかがでしょうか。

大隈参考人 おっしゃるとおりでございますが、まさにどこかで出発して、確かに私は住民の方々を主役に据えております、原動力に据えておりますが、何せ今まではまだ、先発のところを除けば、ほとんどまだこのシステムはとられておりません。したがいまして、そういった意味では、原動力ではありますが、まだなれていないところがあるので訓練というお言葉も出たと思いますけれども、このあたりはまさに、これからやはり積極的に取り組んでいくべきシステムではないかと思います。

近藤(基)委員 どうも大変ありがとうございます。

 我が県でも、国と地方のあり方、かかわりということで合併が進められております。国としての方針ももちろんあるのですが、それを受けて、県レベルとしての方針を打ち出している。各県そうでありますが。

 ただ、先ほどもどなたかから御質問がありましたけれども、県という単位を超えられない。例えば、合併をするにしても、我が県は富山県あるいは長野県と県境を接しておりますけれども、では、長野県の方の町村と合併をしたい、あるいは富山県の方の町村と合併をしたい、あるいは山形県、県を境にしているところはほかの県でもたくさんあるわけです。

 そういった意味で、国、地方の間の県のあり方というのが、やはり今後合併を進めていくには考えていかざるを得なくなってくるのではないか。例えば、県を一つのステートと考えて、アメリカのような州制度をとるのか、あるいは県を廃止して、一つの自治体が直接国とかかわり合うのか、現段階での先生のお考えをお聞かせください。

大隈参考人 これは、先ほど別の流れでお答えしたところでございますが、県というものの名称にはこだわりませんけれども、やはり県あるいはもう少し広い州のレベル等で対処すべき事務もまだ考えられるかと思います。また、そういう広域の問題が必要かと思いますので、名称にこだわらず、やはり何らか、これは自治の側からの観点として出てくるものであれば憲法に適合的な存在ではないか、あるいはそういった団体が主張すべき余地がまだあるというふうに考えております。

近藤(基)委員 地方自治を考えるとき、自治体の自治主権というのは大変重要なことだろうともちろん思っておりますが、現況を考えれば、地方同士の格差の問題ですが、例えば、過疎地と大都市圏での地方自治のやり方は当然違う、あるいはサービスの程度も違う。ただ、そこにいる住民はそこでの暮らしをよくしたい、そこでのサービスが欲しいという意味で、過疎地は過疎地のいいところがあるといえばいいところはもちろんあるのですが、さりとてこれだけの情報化時代の中で、どうも取り残されていっている部分があるのではないか。住民サービス的なものでも精神的なものでも、どうも気持ちも過疎化していっている部分があるのではないか。

 そういった意味で、住民主権をとられるときに、その平等化という部分で先生はどういうふうにお考えですか。

大隈参考人 今のお言葉での住民主権ということで申しますと、それぞれの自治体でみずからが特色のあるみずからの地域の文化にかかわっていくという意味で非常に重要かと思いますが、お話の平等化の観点では、やはりそこのところは一定の限度では、財政面も含めて全体として考えていかなければならない基準というものが出てくるかと思います。

近藤(基)委員 そこが国がかかわれる一番の重要な部分だろうと私自身は実は思っております。

 合併を進めるにしても、地域格差が出てくることは当然だろうと思う、地方自治の問題でも当然だろうと思います。そこを別に平均的にするということではなくて、それぞれの地域文化、あるいは特色のある、個性のある郷土というものがあるわけで、先生は、故郷、地方を「くに」とお書きになっていますが、そういう特色を生かした中で国が、財政ももちろん含めての話でありますが、どこまで協力できるのかという部分がこれから非常に重要になってくると私は思っております。

 ただ、もっともっと活気ある地方自治を進めていくためには、やはりある程度地方に財政も権限も移譲しながら、自主的な活躍をしていっていただかなければいけないという部分では先生の御意見に大賛成で、きょうは大変示唆あるお話を聞かせていただいたと思っております。大変ありがとうございました。

 以上で終わります。

中山会長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、一言ごあいさつを申し上げます。

 大隈参考人におかれましては、貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。調査会を代表いたしまして、厚く御礼申し上げます。(拍手)

 次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。

    午後四時五十五分散会




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