衆議院

メインへスキップ



第2号 平成13年10月25日(木曜日)

会議録本文へ
平成十三年十月二十五日(木曜日)

    午前九時開議

 出席委員

   会長 中山 太郎君

   幹事 石川 要三君 幹事 津島 雄二君

   幹事 中川 昭一君 幹事 葉梨 信行君

   幹事 保岡 興治君 幹事 鹿野 道彦君

   幹事 中川 正春君 幹事 細川 律夫君

   幹事 斉藤 鉄夫君

      伊藤 公介君    伊藤 達也君

      今村 雅弘君    岡下 信子君

      奥野 誠亮君    金子 一義君

      後藤田正純君    高村 正彦君

      佐田玄一郎君    下村 博文君

      菅  義偉君    中曽根康弘君

      中山 正暉君    鳩山 邦夫君

      二田 孝治君    松本 和那君

      三塚  博君    森岡 正宏君

      山崎  拓君    小沢 鋭仁君

      大出  彰君    岡田 克也君

      小林 憲司君    今野  東君

      首藤 信彦君    仙谷 由人君

      筒井 信隆君    中野 寛成君

      中村 哲治君    永田 寿康君

      山田 敏雅君    上田  勇君

      太田 昭宏君    都築  譲君

      藤島 正之君    中林よし子君

      春名 直章君    山口 富男君

      今川 正美君    金子 哲夫君

      山口わか子君    松浪健四郎君

      近藤 基彦君

    …………………………………

   参考人

   (東京大学教授)     大沼 保昭君

   参考人

   (拓殖大学国際開発学部教

   授)           森本  敏君

   衆議院憲法調査会事務局長 坂本 一洋君

    ―――――――――――――

委員の異動

十月二十五日

 辞任         補欠選任

  西田  司君     後藤田正純君

  中村 哲治君     永田 寿康君

  山口 富男君     中林よし子君

  土井たか子君     今川 正美君

  野田  毅君     松浪健四郎君

同日

 辞任         補欠選任

  後藤田正純君     岡下 信子君

  永田 寿康君     中村 哲治君

  中林よし子君     山口 富男君

  今川 正美君     山口わか子君

  松浪健四郎君     野田  毅君

同日

 辞任         補欠選任

  岡下 信子君     西田  司君

  山口わか子君     土井たか子君

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 委員派遣承認申請に関する件

 日本国憲法に関する件(二十一世紀の日本のあるべき姿)




このページのトップに戻る

     ――――◇―――――

中山会長 これより会議を開きます。

 この際、委員派遣承認申請に関する件についてお諮りいたします。

 日本国憲法に関する調査のため、来る十一月二十六日、愛知県に委員を派遣いたしたいと存じます。

 つきましては、議長に対し、委員派遣の承認を申請いたしたいと存じますが、これに賛成の諸君の起立を求めます。

    〔賛成者起立〕

中山会長 起立多数。よって、そのように決しました。

 なお、派遣委員の人選等につきましては、会長に御一任願いたいと存じますが、御異議ありませんか。

    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕

中山会長 御異議なしと認めます。よって、そのように決しました。

     ――――◇―――――

中山会長 日本国憲法に関する件、特に二十一世紀の日本のあるべき姿について調査を進めます。

 本日、午前の参考人として東京大学教授大沼保昭君に御出席をいただき、国際連合と安全保障について御意見をお述べいただくことになっております。

 この際、参考人の方に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、御多用中にもかかわらず御出席を賜りまして、まことにありがとうございます。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたいと存じます。

 次に、議事の順序について申し上げます。

 最初に参考人の方から御意見を四十分以内でお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。

 なお、発言する際はその都度会長の許可を得ることになっております。また、参考人は委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。

 御発言は着席のままでお願いいたします。

 それでは、大沼参考人、お願いいたします。

大沼参考人 それでは、私の意見を申し上げます。

 まず、お手元にきょうの私の話の概要が二枚で届いているかと存じます。その順序に従いましてお話しいたします。さらに、資料一覧もお手元にあろうかと存じます。主に、この資料一覧の中の三番目と四番目の毎日新聞「「昭和憲法」考」というものにかなり言及することがあろうかと思います。本当は最初の「「平和憲法」と集団安全保障」という論文の方にできるだけリファーしてお話ししたいんですが、議員の方々は大変お忙しいでしょうから、私のこれまでの経験からも、余り長い論文をやるとかえって迷惑だという経験もございますので、新聞の論考に主にリファーいたします。

 それでは、まず第一の「護憲的改憲論」という点からお話しいたします。

 私は、既に改憲論の立場を一九九〇年代の初めから明らかにして、さまざまな媒体でこれを論じてきております。ただ、その改憲論というのは、現憲法の精神を重視し、また、現憲法が基本的には大変すぐれた憲法である、戦後日本の経済的な繁栄と平和と安全の確保に十分な役割を果たしてきた、そういう認識を持った上での改憲論でなければならないというのが私の立場であります。

 まず、現憲法は、第二次大戦で侵略戦争を行った日本が国際社会に受け入れられるための条件でありました。また、現憲法は、軍事費の負担を減らして、戦後日本の経済繁栄を支える重要な拠点でありました。またさらに、現憲法は、戦後専ら経済的な利益を追求してまいりました日本が、死の商人として他の国々の紛争から自分が経済的な利得を得ない、そういう道義性を世界に示す根拠でありました。そして、さらにまた日本国憲法は、戦争責任を認めようとしなかった日本が、辛うじて、日本はあの戦争を反省し、今後とも平和な国家として生きていく、そういうメッセージを国際社会に発信する根拠でありました。

 こういった現憲法の積極的な意義は「「平和憲法」と集団安全保障」の論文の十二ページから十五ページに書いてありまして、また毎日新聞のこの「「昭和憲法」考 上」の下から二段目と最後の段落に簡単に要約してあります。後で御参照いただければ幸いです。

 しかしながら、現憲法は、これを維持する上で巨大な自己欺瞞が日本国民の間にありました。この点についても、詳しくは毎日新聞の論考の「下」の方に最初から第四段落までまとめてあります。

 最も大きい自己欺瞞といいますのは、九条が、その立法者趣旨として求めた絶対的な平和主義の志向と、それから日本が、日本の平和と安全、そして経済的繁栄を確保するために受け入れざるを得なかった日米安保体制というものの間の矛盾、これを何らかの形で自己に納得させなければならなかった。

 しかしながら、この両者の間には非常に大きな乖離がありまして、この両者を自分が道義的な立場で、国民倫理的な立場で納得することは甚だ困難でありました。

 その困難があったにもかかわらず、日本は建前と本音の使い分けで、戦後の具体的な物質的利益、つまり経済繁栄と、それから一国の平和、日本が平和で他のさまざまな紛争から離れていられる、そういう状態を確保するために甘受してきたわけであります。

 そのことによって、我々は憲法に対して一種のシニシズム、冷笑主義というべき態度を持つに至りました。しょせん憲法に書いていることは紙の上のことであって、我々が実際に行っていることはそれとは別の本音ベースのことである、本音で切り抜けていけばよいのだ、そういう本音万能主義をもたらした一つの大きな問題点がこの憲法にはあった、特に第九条にはあったわけであります。

 もう一つは、一国平和主義批判という主張に代表される、日本人への偏愛と結びついた極端に利己主義的な平和観であります。

 つまり、日本が安全でさえあればよい、日本人が死ななければよい、危険なところには一切自衛隊は派遣しない、日本人が外国で死ななければよい、国際安全保障のことはすべて米国その他の国々がやってくれる、日本はそれに手を汚したくないという非常に極端な、利己主義的な平和観がはびこってしまった。

 しかしながら、このことは実は、いわゆる一国平和主義と批判されるこれまでの国会での野党の立場、あるいは岩波の進歩的文化人というものに限られたものではありませんで、例えば我々は日本のことをこれまで単一民族の社会であるというふうな形で考えてきたわけでありますけれども、この単一民族という神話、私はこれをずっと神話と言い続けてまいりましたが、そのことも要するに、日本社会には日本人という単一の民族が存在しているんだ、アイヌとか在日韓国・朝鮮人とか、あるいは海外からやってくるイラン人とかフィリピン人とか、そういった人々は日本の本来の構成メンバーにはなれないんだ、そういう日本人への偏愛と結びつくものだったわけであります。これは、むしろ野党というよりは国会の多数派を占めていた自民党にも非常に多い感覚でありまして、日本社会の恥ずべき一面であったわけであります。

 そういう意味で、日本国憲法というものは、極めて重要な戦後の日本の安全と経済的繁栄を支え、そうして道義性を発信する根拠であると同時に、我々の倫理的な退廃を招く、そういう面も持ってきたわけであります。

 戦後、日本国憲法は、五十年以上一度も改正されなかったわけであります。このことは、憲法が、先ほど申しましたような経済繁栄、ソ連に対する安全保障、平和主義の発信という本来両立しがたいぜいたくを日本国民に許してくれたその一つのかぎだったためであります。もちろん、具体的には、国会で憲法改正に反対する勢力が三分の一以上を常に占めていたということが具体的な理由でありますけれども、その根源には、今言ったようなぜいたく、これは言ってみれば日本国民の戦後のサクセスストーリー、日本国憲法はそういう日本のかぎ括弧つきの「成功」を支える根拠である、そのために我々は憲法を改正しなかったということがあるのだろうと私は思っております。

 しかしながら、こうした憲法もさまざまな点で現実との不適合が蓄積されまして、その現実との乖離というものはもはや限界に達しているのではないかというのが私の考えであります。もっとも、現実と不適合があるから憲法を変えるべきだというのは、やや単純化された議論であります。

 本来、法というものは、現実との乖離があって当然であります。もし法と現実とが完全に一致しているのであれば、法には存在理由はない。つまり、みんなが交通規則を守るのであれば、交通規則というのは要らないはずであります。みんなが速度八十キロで走ってしまうから、速度制限を六十キロにして事故を少なくするという法の存在理由があるわけです。その意味で、法というのは建前であり、我々が自分自身に課すやせ我慢の道具であります。

 ただ、法というものは、本来、現実との乖離をその本質的要素とするわけでありますけれども、それにしても限度というものがあります。憲法と現実との距離が余りに広がって、だれの目にも憲法と異なる現実の状態が続きますと、憲法という国家の最も重要な基本法に対する国民の広範なシニシズム、冷笑主義というものが生じてまいります。しょせん憲法というのは建前にすぎない、そういうシニシズムであります。

 私は、一九九〇年代ごろから、現憲法が、言ってみればそういういわば危険水域に入りつつあるという認識を持っておりまして、そのことが、私がこれまでの立場を若干修正して護憲的改憲論というものを九〇年代の初頭から主張するようになった基本的な理由であります。

 もう一つ、私が九〇年代から改憲論を主張してきた原理的な論点がございます。

 私の考えでは、憲法とは国家の基本理念の表明であります。もちろん、現在の日本国憲法というのは、これは自由主義、リベラリズムと民主主義に基づく憲法でありまして、その憲法の第一の存在理由は、基本的人権の尊重、国家の権力の抑制というところにあります。しかしながら、これはたまたま現在の歴史的段階の憲法がそういう内容を持つということでありまして、本来、憲法というものは、国家の基本理念を各世代の国民が表明し、これを定式化したものというふうに考えるべきであります。

 歴史的に見てまいりますと、それぞれの世代は、それぞれ自分たちの世代が考える基本理念というものを表明し、それに従って国家を運営する権利を有し、義務を負っております。

 ここで私が一つの世代と考えているのは、約二十五年であります。約二十五年たてば、社会を運営する中核部分というものが変わります。子供は親に従って社会の中で行動すべきものでありますけれども、その親も、老いては子に従えということであります。

 恐らく、ある社会の最も中核をなす世代は、四十代から六十代というほぼ二十五年間の世代でありましょう。この世代は、もちろん例外はございますが、平均してみれば、最も判断力が充実して、社会の背骨となって国家を運営する世代であります。

 ところが、今日、四十代から六十代の世代を考えた場合、現在の憲法というものは、自分が生まれる前か、せいぜい自分が十代の未成年の時代につくられたものであります。私自身は五十五歳でありますけれども、私にとっては、憲法というのは、自分が生まれたときにつくられたもので、私は何らこの憲法の制定に関与しておりません。こういう社会を運営する中核となる世代が、二世代前の世代がつくった憲法によってその基本的な枠組みを拘束されるということは、甚だ不自然であります。

 各世代は、自分たちがよしと考える理念を憲法という形で表明して、その枠組みをみずからが設定して、それに基づいて国家を運営すべきであります。もちろん、各世代は独立して存在しているのではなくて、世代的な存在というのは、その前の世代あるいはその前の前の世代からの蓄積に基づいて国家を運営するわけであります。ですから、革命ということは基本的に望ましくない。憲法を基本的に維持しながら、部分的な改正によって、各世代が最もその理念に適合した形の憲法につくり変えていく、そういう漸進的な営みが、国家を安定した形で運営していくかぎであります。

 今日、日本社会において、例えば宮澤元総理あるいは後藤田元官房長官といった世代にかなり強い護憲的な感覚があろうかと存じます。それはそれで、私は、大変理解のできる、またありがたい感覚であろうというふうに思います。しかしながら、その世代が国家の基本的な枠組みをつくったその憲法を、これからの二十一世紀の我々の世代、あるいは我々よりももっと若い世代がそのまま維持すべきかどうかということは、これはまた別の話であります。

 現在の憲法にかかわった世代はほとんどもう鬼籍に入っているわけでありまして、我々は、二十一世紀に当たって、現在の三十代から六十代あるいはせいぜい七十代、そういう世代が共通に合意できる、そういう憲法をつくって、またそれをもととして日本社会を運営していくべきであるというふうに考えます。

 次に、概要の2に移りたいと思います。

 「昭和憲法制定時から八〇年代までの日本と国際社会」についてごく簡単に見ておきたいと思います。

 憲法制定時の日本はどういう社会であったかということを考えてみますと、一人当たりのGDPは約百米ドル程度、つまり今日の三百分の一の非常に貧しい小国でありました。その時代は、第二次大戦によって強度の忌戦感情あるいは厭戦感情があり、また、戦争の被害者であるという意識が国民に広く共有されている、そういう時代でありました。他方におきまして、日本国民には、第二次大戦が日本の侵略戦争であったという意識は欠如しておりまして、専ら、戦争というのはもはや懲り懲りである、もう二度とこういう悲惨な思いはしたくないという被害者意識が支配的な時代でありました。そういう被害者意識と厭戦感情、忌戦感情をてことする強い平和主義が蔓延していた時代でありました。

 また、この時代には、あらゆる面で米国への崇拝と憧憬が支配的でありました。その結果として、戦前のほとんどすべての日本的なる理念、思想、制度、あるいはアジア的なる理念、制度、思想というものが否定されました。これは、私がかつて「倭国と極東のあいだ」という本で書きました周辺国家日本の発想が強くこういう形で出たわけでありまして、この基本的な枠組みは、残念ながら今日もそう変わっておりません。そしてまた、戦争に懲り懲り、国家はすべてあしきものという感覚が経済的な私的利益を追求することを万能とする思想を生み、それが蔓延した時代でもありました。

 さらに、この時代につくられた国連の集団安全保障体制とはどういうものであったかということを次に簡単にお話しいたします。

 第二次大戦後の国連の体制、その中核をなす集団安全保障体制を理解するには、この体制の構築者たちが第一次大戦後の国際秩序の構築を極めて失敗作であったというふうに理解していたという、その理解が極めて重要であります。

 彼らはどういう点を失敗の原因と考えていたかというと、まず第一に、第一次大戦後の国際連盟体制は集団安全保障体制として極めて弱体であったという認識があります。これは、米ソという非常に有力な大国が参加しませんでしたし、国際連盟における戦争違法化は不徹底であり、制裁は非軍事的制裁にとどまっておりました。

 さらにまた、第二に、第一次大戦後の講和というものは、極めて過酷で非現実的な講和でありました。つまり、ドイツに対して戦争責任を課し、極めて重大な賠償を課して、結局のところ、連合国はこの巨大な賠償を取ることはできなかった。逆に、そういう不正な講和を課したことがドイツ国民の恨みを生み、ナチス・ドイツの台頭を促した、そういう結果を招いた。他方で、英国などはそういう不正な講和だという負い目の感覚があり、それがナチスへの融和的な姿勢を生んだ。その結果として、ベルサイユ体制をナチス・ドイツが無視しじゅうりんしたときにさえ、英国は、そもそもベルサイユ体制自身が不公正だという思いがあったために、断固とした姿勢をとることができなかった。米国も同じであります。

 事情をさらに悪くしたのが、戦勝国の講和体制、つまりベルサイユ条約と戦後の国際秩序、国際連盟体制というものが同一視されていた。具体的には、国際連盟規約がベルサイユ条約の一部として構成されていたということであります。国際連盟体制が不公正なベルサイユ講和の一部だったために、ますます正当性を主張することができなかった。

 最後に、最も経済的に豊かで経済力のあった戦勝国の米国が、保護主義的、孤立主義的な政策をとって、国際経済の円滑な発展を阻害した。その結果、ドイツは国際経済を利用して経済的に復活することができない。日本も、第一次大戦の経済ブームが去ってしまうと経済不況で苦しめられて、近衛元首相のいわゆる英米本位の平和に対する恨み、怨念というものが出てまいりました。さらに事態を悪化させたのは、米国や欧州で人種差別が猛威を振るって、日本の移民を差別し、日本国民のプライドを傷つけるということがありました。その結果として、大恐慌、そして日独伊では、英米に対する強い反発を持つファシズムが台頭することになったわけであります。

 第二次大戦後の国際連合は、こういった失敗を繰り返さないという意識に支えられてつくられたわけであります。

 そのことが、第一に、国連において集団安全保障体制が著しく強化された。国連憲章の二条四項で武力行使を一般的に禁止し、これに反して違法な武力行使を行った国には軍事的制裁も含む集団的な措置をとるという集団安全保障の極めて強化された体制がつくられましたし、唯一の例外的な武力行使には安保理の、形式的ではありますけれども、コントロールをきかせるという形で、この集団安全保障体制を形式的には強化したわけであります。

 さらに戦勝国は、過酷な講和だった第一次大戦の失敗を反省して、日独伊に対して寛大な講和政策をとりました。日本は、サンフランシスコ条約その他で、甚だ日本としては少額の、当時高度成長しつつあった日本としては比較的余裕のある賠償で戦争責任をいわば免除してもらうことができましたし、中国は、信じられないことに、賠償を放棄するという大変寛大な態度をとりました。形式上日本の戦争の最高責任者であった昭和天皇は、戦争責任を追及されることなく終わりました。そうした寛大な結果を享受した日本とドイツは、経済的におくれた国々に今日では大量の経済的、技術的援助を行って、その寛大な講和にこたえることができたわけであります。そういう意味では、寛大な講和政策というのは非常に大きな成功をおさめたわけであります。

 第三に、日独の講和、日本の場合はサンフランシスコ条約であり、ドイツについてはなし崩しに講和が実現しましたが、これは、国連体制と切り離して行われました。

 そして最後に、米国は、自国の市場を開放した自由貿易体制をつくり上げ、他の経済的に苦しい状況にある日本やドイツあるいは戦勝国をも含めて、この経済が発展するように非常に寛大な経済政策を戦後とりました。そのことによって、第二次大戦後の国際体制は、米ソ対立というもう一つの非常に重大な問題がなければ、第一次大戦後の講和と戦後体制よりもはるかに成功した作品であったわけであります。

 3の、「二十世紀末(冷戦終結後)の国際社会」に移ります。

 今申し上げましたように、第二次大戦後の世界は、戦後体制の構築としては第一次大戦後の戦後体制よりもはるかに成功をおさめたにもかかわらず、冷戦というもう一つの大きな問題を抱えることによって、その問題が一九八〇年代までは大きな限界、問題となってさまざまな問題を生んでまいりました。ベトナム戦争がその代表例でありました。

 しかしながら、一九八〇年代末に冷戦が終結し、ソ連、東欧圏が崩壊し、米国の一極覇権が成立いたしました。この米国の一極覇権を支える実体的要因は、言うまでもなく米国の強大な経済力と軍事力であります。しかしながら、二十一世紀の国際社会を考える上で最も重要なのは、米国のソフトパワー、文化的な情報的な優位というものが続くだろうということであります。そのことによって、戦後の国際秩序を維持、支配してきた米国的な発想と生活様式は、二十一世紀もますます強化されて続くだろうというふうに思われます。

 この米国の一極覇権は、地球的な規模の資本主義的経済と結びついておりまして、いわゆるグローバライゼーションという形でこれが進行しております。そして、このことは、国境を越える普遍的な理念、この代表が人権と民主主義でありますけれども、この理念と結びついて、現在の途上国、非欧米諸国に対する非常に大きな圧迫、圧力となって二十一世紀も続いていくことになるでありましょう。

 他方で、東アジア、日本、それからNIES、そして中国といった国々が経済的な実力を向上させ、それに伴って一定の自信を回復してきました。二十一世紀の世界は、中国の超大国化というものを我々は必ず見ることになるだろうというふうに思っております。

 一九九〇年代の世界になりますと、集団安全保障の意義と限界というものが極めて明確にあらわれてまいりました。既に一九八〇年代まで、集団安全保障体制が東西の冷戦によってうまく機能しない、そのことから自衛権がむしろ常態化しておりました。NATOとワルシャワ条約機構がその代表であります。その結果として、国連の集団安全保障体制というのは、あたかも日本国憲法の九条的な地位に置かれることになった。つまり、理念として、規範としては一見それが原則でありながら、事実は個別的、集団的自衛権に基づく体制というものが現実である、そういう理念と現実の乖離が国際社会でも生じていたわけであります。

 そのすき間を辛うじて埋めてきたのが国連の平和維持活動、PKOでありますけれども、PKOというのは本質的に現状維持的な活動でありまして、これは、新たな暴力、戦争やテロリズムの攻撃には対処できない。そこで、一九九〇年代には、米国の単独行動主義かあるいは国連の授権に基づく多国籍軍か、そういう選択肢が多くの人々の目の前に提出されるようになったわけであります。

 最後に、九〇年代非常に明らかになってきたのは、グローバライゼーションの進展と米国の一極覇権による世界的な貧富の格差、文化、宗教的な衝突による敗者の側の怨念の蓄積であります。

 先日、九月十一日に生じた事態は、この怨念の蓄積がいかにすさまじいものであるか、そして、こういう非合理的な行動に対して先進国の安全保障がいかに脆弱なものであるかということを見せつけた典型的な事例だったわけであります。この点についての私の主張、意見はございますけれども、これは後から、もし皆様の方から質問があれば、お答えしたいと思います。

 次に、4と5を、残り時間が九分ほどですので、まとめてお話ししたいと思います。

 二十世紀末以来、日本は、さまざまな憲法についての問題を抱えながら、戦争直後の意識構造が八〇年代の国際化まではほとんど変わらずに来てしまった。九〇年代にもその意識はなお残存しております。例えば、その一つとしての相も変わらぬ米国崇拝と憧憬がありまして、このことは九〇年代のグローバライゼーションによってさらに強化された。今日の九月十一日事件以後の対応でもそうでありますけれども、常に米国の眼鏡を通してしか世界を見ることができないという問題性があります。

 第二に、憲法九条の厳格解釈にしがみつくことによって、戦争責任を認めないまま、二度とやりませんというメッセージを近隣諸国に発信するという構造はまだ変わっておりません。憲法九条というのは、本来、日本の自衛と国際社会の安全保障に対する参加を根拠づける条文であったわけでありますけれども、九条は、それとは異なり、日本が戦争責任を果たしてこなかったその代替機能、つまり、戦争責任を正面から認めることはしないけれども、実際上はあれを悔いているんだ、二度とああいうことはやらないんだというメッセージを諸国に発する、そういう根拠として用いられている。つまり、憲法九条は、本来の役割と違った機能を期待され、そういう機能を果たして今日まで来てしまった。

 日本社会の中では、戦争直後と違って、第二次大戦が日本の侵略であったという認識はようやく九〇年代に定着してまいりました。ただ他方、これに対して、これを認めることができない、感情的にこれに反発するという反動も生じておりまして、過去の所業を隠ぺいし強弁するという風潮が出ております。このことは、しかしながら、私の考えでは、日本の積極的な外交と対外的な発信をみずから損なう、そういう意味での愚行であるというふうに私は考えております。

 過度の米国モデルによって日本社会がさまざまな点で問題性を抱える、このことが九〇年代には非常に明らかになってまいりました。家庭と地域社会のモラルが低下いたしました。専ら被疑者、被告人の権利保障のみに偏った刑事法制度の問題性が噴出してまいりました。大量生産、大量消費、大量廃棄の生活様式が定着すると同時に、深刻な環境問題が出て、この解決策を我々は米国モデルの思考の中で見出すことができない。自由の名のもとで放縦が蔓延するという憂うべき現象も九〇年代には極めて明らかになりました。こういった問題状況というものは二十一世紀前半にも続くだろうというふうに思います。

 私は、九〇年代に、例えばPKOの本体業務凍結を解除するということは当然行っておくべきだったというふうに考えますけれども、九〇年代の日本は、バブルの後始末と経済不況への対応に追われて、こういうことをやってまいりませんでした。我々はそこで二十一世紀に入ってしまったわけであります。

 この二十一世紀で、我々が国際社会、特に国連の安全保障との関係で日本国憲法をどのように構想していくか。私は、ここで最初に申し上げたように、日本国憲法を今までの憲法の精神を十分生かしつつ改正すべきであるというふうに考えるわけであります。もちろん、憲法を変えずに解釈を変更する、例えば集団的自衛権というのは憲法九条のもとで許容される、そういうふうに憲法解釈を変えることによってやりくりをしていくという行き方もできないわけではありません。憲法というのは伸縮自在な規定であり、法としてかなり許容性の高い規範であります。

 ただ、私が最初に申し上げた二つの点、一つは、国家の基本原理にかかわる安全保障を憲法の解釈の変更という形でやるべきではない。そういうふうに憲法をそのままにしたまま解釈で切り抜けるというやり方は、ますます日本国民の憲法に対するシニシズムを強めて、我々が社会を運営していく上でどうしても必要な法に対する信頼、法に対する敬意というものを日本国民から奪ってしまう、そういう非常に重大な問題があろうかと思います。

 第二に、これも最初に申し上げましたように、各世代には、みずからの理念というものを憲法を通して表明し、その枠組みの中で国家を運営していく権利と義務があります。それを認めずに、半世紀以上前につくられた、その世代が最もよかれと思ってつくった憲法を維持していくことは、どうしても社会の運営に無理を来して、さまざまな問題を生むことになります。

 これまでの憲法が果たしてきた役割というものを十分評価し、その理念を最大限尊重した上で、我々としては二十一世紀の初頭に憲法改正をすべきであるというふうに考えております。

 以上で私の意見の開陳を終わります。御清聴ありがとうございました。(拍手)

中山会長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。

 速記を暫時とめてください。

    〔速記中止〕

中山会長 速記を起こしてください。

    ―――――――――――――

中山会長 これより参考人に対する質疑を行います。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。中川昭一君。

中川(昭)委員 大沼先生には、貴重なお話を短時間に簡潔にお伺いいたしまして、まことにありがとうございます。

 先生の今の説明の仕方は、現在から過去にさかのぼっていくという形でのお話であったというふうに流れとして解釈をさせていただきますが、私も、今いろいろな世の中の出来事、特に九月十一日のあの多発テロ以来、歴史をさかのぼりながらいろいろ考えているところが多いのであります。

 今、先生まさしくお話しになったように、ちょっと細かいところはお考えが違うかもしれませんが、今の憲法のあるべき姿と問題点、その憲法というのは、日本国憲法ができる前に国連憲章ができ上がって、書き出しが「連合国」という言葉で始まっていて、その前に国際連合の宣言というものがあって、その以前に大西洋憲章ができて、その前に、今お話があったような国際連盟のいろいろな問題点があって、その前にベルサイユ条約ができ上がって、その前にウィーン条約があって、そのもっと前にウェストファリア条約があって、ある人に言わせると、国家の、国際間の条約というのは、まさにウェストファリア条約の、三十年戦争の後からスタートしたんだというふうに言っている人があるのでありますが、そういう近代の法体系の一連の流れの中で現在が成り立っている。

 ただし、ここに一つ大きな、我々が注目しなければいけないのは、これは西欧の一つの約束事であって、したがって、我々の数百年前のアジアやあるいは当時の我々の知らない世界にとっては、直接的には関係のない、当事者ではなかったという一つの流れがあると思うんです。

 それをまた現代に戻してきたときに、先生からお話あったように、ベトナム戦争のお話もございましたし、また湾岸戦争のお話もあると思いますし、また今回の九月十一日という流れがある。その間には、国連においても、朝鮮戦争の、いわゆる正規かどうかは別にした多国籍軍の問題、あるいは湾岸戦争の問題、そして今回の九月十一日の国連決議、そして現在ああいう紛争というか戦いが続いているわけであります。

 そういう国家対国家という成り立ちの中で数百年続いてきたものが、国家を超えたもの、特に国際連合憲章というのは、我々はまだ敵国としての存在の位置づけがあるわけでありますけれども、これが現に明記されている状態の中で、しかし、冷戦体制あるいはまた地域紛争、そして今度は、国家を超えたといいましょうか、国家以前の存在が、今パクス・アメリカーナのお話がございましたけれども、その中枢に対して大変な攻撃をしたという流れを、先生のお考えの中では、今後に向かって、国連の本来あるべき集団的安全保障という観点から、どういうふうに今回の事件というものを解釈されておられるのでしょうか。

大沼参考人 九月十一日事件をどのように解釈するかという問題でありますけれども、私は次のように考えております。

 まず第一に、この事件は、もちろんその規模において極めて重大でありますけれども、既にこの二十年明らかになっている米国に対する、あるいは米国中心の現在の国際秩序に対する怨念の蓄積、それに基づくテロリズムの攻撃というものの一つであるということであります。

 私は、先ほどの話の中で「「平和憲法」と集団安全保障」という論文にちょっと触れたわけでありますけれども、この論文を書いた一九九三年の時点で既に、これからの国際安全保障というものはそういう怨念をもとにしたテロリズムの攻撃というものを、ロシアの脅威などよりははるかに現実的な脅威として考えなければならないということを書いているわけです。そういう目から見ますと、私は、現在の米国の自衛権を根拠とした対応というものが、テロリズムを根絶してより安全な国際社会をつくる上でどれほど有効かということに対しては、かなり大きな疑問を持っております。

 私は、そういう点からいえば、日本としては、もちろん積極的にテロリズムの鎮圧に対する主体的な行動をとるべきでありますけれども、そのあり方というのは、九〇年の湾岸戦争の、言ってみればトラウマにとらわれた、あの二の舞をしてはならない、だから米国の求めるところをとにかく先に読んで恥ずかしくないような対米協力をやるんだという発想ではなくて、既に何人かの方が言っておられることですけれども、アラブ、イスラム地域で日本が持っているこれまでの財産を最大限活用して、穏健派のアラブ諸国あるいはイスラムの過激派の不安におののいている諸国に対して、さまざまな形でこれを説得し、より厚みのある対テロのコアリション、いわば連合戦線をつくり上げる、そういう努力を目に見える形でやるべきだったというふうに考えております。

中川(昭)委員 ありがとうございました。

 湾岸戦争等の地域紛争と今回と違うのは、当事者が国家ではないということですね。そうしますと、先ほど申し上げた長い歴史の中で、戦争にも一応ルールをつくろうとか、あるいは戦争はしてはいけないとかいうルールが一応でき上がっているわけですけれども、今回の場合は、強固な意志、そしてお金による武器、そして訓練とによって、とにかくアメリカを中心にした西側世界、そこに支援する国々は同罪であるという形でありますから、これは、アメリカ同時多発テロではなくて、世界同時多発テロではないか。日本人も二十数名の方が亡くなっているし、六千人とも七千人とも言われている人々が行方不明、もしくは亡くなっているという状況を考えますと、これは、国連も新たな、国対国という枠組みの中で安全保障を考えるのではなくて、それ以外の、サブリージョナルよりもっと非正規的なものに対して、いつ何どき、これは太平洋の向こうの出来事を映画で見ているんじゃなくて、あすは我が身、そして、あすは我が身にしちゃいけないという努力をする必要があると思いますので、その辺をもう少し具体的に御説明いただければと思います。

大沼参考人 全くおっしゃるとおりだろうと思います。

 私は、国際法学者ですので、例えば武力紛争法、それから軍縮の問題をこれまで少し研究してまいりました。私の考えるところでは、化学兵器と生物兵器というのは、これはいろいろな方が既に言っておられますが、かなり容易につくれる武器、そういう意味で、貧者の大量破壊兵器である。日本だって例の七三一部隊はもう生物兵器をつくっていたわけですから、当時の日本程度のローテクの水準でも生物兵器はできる。

 ただ、戦後、生物兵器が非常に効果的な武器でありながら、なぜ諸国がこの開発にそれほど必死にならなかったのか。もちろん、ソ連は一定程度やりましたし、イラクとかそういううわさはありますけれども、本格的にやらなかったかというと、それは二つ理由があるわけです。

 一つは、生物兵器というのはコントロールが非常に難しい、敵をせん滅させることはできるかもしれないけれども、味方も非常に甚大な被害をこうむる可能性が高い、だから、兵器としてなかなか使いにくいというのが一つであります。それからもう一つは、自分が使ってしまうと相手方も報復でそれを使うだろう、そういうおそれがある、だから生物兵器は使わない、これが二つ目の理由であります。

 今、中川議員がおっしゃったように、現在問題となっているようなテロリストグループの場合には、この二つの前提がいずれも働かないわけです。つまり、自分は死んでも怖くないわけですから、自分が仮に生物兵器を使って死んだとしても、相手に害を与えれば、それはもう使うでしょう。それから、国家間関係でないわけですから、報復ということも考えずに使うことができる。ですから、テロリズムとの闘いというのは、今までの国家間戦争とは全く違った前提に立って考えなければならない、それはもう中川議員のおっしゃるとおりだと思うんです。

 私は、なればこそ、今回の米国の対応というもの、そしてそれをいわば全面的に支持した日本政府の対応というものがかなり疑問なのではないか。船橋洋一さんが九月十一日事件が起こった直後の朝日新聞で書いておられましたけれども、米国は武力行使を将来やるかもしれない、その時点ではまだやるかどうかわかりませんでしたけれども、そのことによってビンラディン一味を捕まえる、あるいは殺すことはできるかもしれない。そういう意味で、テロリストに対しては勝つことはできるかもしれない。しかし、テロリズムに対して勝利をおさめることは非常に困難だろう。つまり、第二、第三のビンラディン、アルカイダが出てくるであろう。そういう意味で、対症療法的な武力行使によるテロリズムへの対応というのは、非常に大きな限界があるということがもっと強く認識されていいというふうに私は思います。

中川(昭)委員 そういう先生のお考えは、ある意味では私もそうだと思うんですが、国対国、あるいはもっと言えば冷戦の巨大両国の対立から、今は多国間で紛争が起きる。今の九月十一日を初めとして、日本でもある宗教団体と言われている組織がああいうことをやったことが数年前ございましたけれども、こういうものに対して、先ほど先生はもっと厚みを持ってというお話がございましたが、やはり国際間でこういうことをなくすために、例えばマネーロンダリングをやるとか、あるいは入国管理をきちっとやるとか、あるいは今、国会で議論になっておりますけれども、我が国の重要施設をどうやって守っていくとか、これらはすべて、まさに、後ほどの先生の御結論にも関係があると思いますけれども、平和で安心して暮らせる日本国というものを今後も守っていくための一つの大きな柱であると思いますし、国際社会においても、新たなと言っていいんだろうと思いますけれども、いわゆる国連等を中心とした国際機関における大きな責任だろうというふうに思うわけです。

 その意味で、軍事的に言えばアメリカになるでしょうし、あるいはまた経済的にも日本とかEUとかいった国々、そして何よりも、多くの数を占める途上国も含めて、国連が一致して何らかの具体的な、国連憲章五十一条等の発動の新たな形としての何らかの制裁措置というものが、私は、強制措置として必要になってくるのではないかというふうに思いますが、その辺、もう一度先生のお考えをお聞かせ願いたいと思います。

大沼参考人 私も、おっしゃることにほとんど全面的に賛成でありまして、現在の五十一条を根拠とする、米国、英国、あるいはそれを支持するNATOの行動、あるいはそれを支持する日本政府の行動だけでは不十分である。新たな国連の枠組みによる制裁措置、それから、言ってみれば北風だけではだめであって、太陽を含んだ制裁措置というものが必要だろうと思います。

 私が先ほど厚みを持った対テロリズムの連合戦線を構築すべきだと申し上げたのは、こういう理由があるわけです。

 私は、たまたま九月二十六日から十月七日まで中国へ行っておりまして、中国のいろいろな人と九月十一日事件に対する反応について議論したり意見を聞いたわけですけれども、九九%の中国の人々の意見というのは、大変犠牲者には申しわけない言い方になりますけれども、率直に彼らの意見を伝えますと、ざま見ろ、自業自得だという意見だったわけです。これは、中国だけではなくて、途上国の非常に多くの民衆に共有されている感覚だと思います。

 日本はとにかく先進国であり、我々日本国民が目にする報道というのは、ほとんど先進国の報道です。ニューヨーク・タイムズであるとか、イギリスの新聞であるとか、ドイツの新聞であるとかです。我々がテレビを見るのも、CNNとか、あるいはそれをそのまま放送するNHKその他の放送です。

 だけれども、よくよく考えてみると、世界の六十億のうち、国際社会が米国の今の行動を支持しているといって、先進国は一体何割を占めるのか。二割しかいないわけです。八割は途上国の民衆であるわけです。途上国の民衆の感情を無視して、果たしてこの問題が解決できるだろうか。彼らは、本当にその大部分が、絶望的な貧困それから宗教的なふんまん、文化的な劣等感や非差別意識というものを持って今日の世界を暮らしている。そういう六十億のうちの八割の視点というものを見失って、国際社会が支持している、国際社会が行動をとっているということを余り簡単に言うべきではない。もし国際社会と言うのであれば、中川議員が今おっしゃったように、国連の枠組みを通して、国連の授権を得た上で、制裁をやるなり復興計画をつくるなりという行動をとるべきだ。五十一条による自衛権の行使というのはあくまでも例外的な措置であって、それに全面的に乗っかってしまうということは非常に危ういものがあるというふうに私は思います。

中川(昭)委員 今の先生のお話は非常に説得力があると思うのでありますが、よく考えてみると、この問題を、途上国と豊かな国、あるいは西洋近代国家とそれ以外の国というふうに仕分けするというのは、私は、ある意味では中国の一つの外交的な政策の手段ではないかと思います。

 例えば、中国においても、チベット問題とか奥地の問題あるいは台湾の問題とか、いろいろあるわけですから、これは何も先進国が一部のテロリストにやっつけられてざま見ろと言うのではなくて、先ほど日本のことを申し上げましたが、あすは中国かもしれないという問題を、世界共通に認識をしなければいけない、問題の本質はそこにあるんだろうと私は思っているのです。

 アメリカだからざま見ろとか、どこの国だからかわいそうだという次元でこの問題をとらえるのではなく、政治的にはいろいろあるんでしょうけれども、少なくとも論理的にといいましょうか、きちっととらえていかないと、何か、貧しい一部の人たちが豊かな人たちをニューヨークのど真ん中でやっつけた、拍手喝采だということだけで、だから同情しなさいよとか、アメリカはひどいことをやるなよとか、日本は余り協力するなよという理屈になっていくと、これはまさに南北問題であり、貧困問題であり、我々が注意しなければいけない宗教問題にまで入り込んでしまうということになると思いますので、やはりテロというのはどういう国家においてもいけないんだという前提で考えるべきだと私は思いますが、いかがでしょうか。

大沼参考人 私も、個人的には中川議員のおっしゃるとおりだと思います。

 これはやはり、別に貧困の人がみんなああいうむちゃな行動をするわけではもちろんないわけですし、また、宗教が違う、イスラムがみんなああいう行動をするわけでは毛頭ないわけです。ですから、それは中川議員のおっしゃるとおりなんです。

 ただ、問題は、そういうふうな冷静なとらえ方をできない人たちが世界に極めて多数いる。世界の六十億のうち八割の途上国の民衆のかなりの部分が、残念ながら、中川議員が今おっしゃったような見方をするのが困難である。それは現実なんですね。つまり、中国政府としては、もちろん中川議員が今おっしゃったような考慮がありますから、内心ではざま見ろと思っていても、やはり自分の利益があって、また建前上もあって、米国政府を一応支持するという形で来ています。だけれども、中国政府のそういう姿勢とは別個に、中国のほとんどの人が、インテリからタクシーの運転手さんから、あるいはホテルの掃除をしている人も含めて、ざま見ろというふうに見てしまっている。

 それはいけないんですよと、我々はもちろん言うことはできますよ。言うことはできても、そういう人が圧倒的にいるというその現実を無視して、我々が我々の見方を押しつけても問題の解決はできない。文明の対立ではないんだ、貧しい者と豊かな者の対立ではないんだと我々が幾ら言っても、向こうの側で、貧しい人たち、文明の対立だと思っている人たちがそういう主張を受け入れてくれなければ、問題は解決しないわけです。

 そこの現実を我々日本としてはもっと、米国は今興奮していますから、そういうことはとても考えられないので、せめて日本がそういうことを理解して、米国の同盟国として、こういう点もあるんだよ、こういう点を考えないと問題の本格的な解決はできないんだよということを伝えるのがまさに真の友人としての日本の役割ではないかというふうに私は思っているわけです。

中川(昭)委員 何か、生の政治家が理想論を述べて、大変著名な先生が現実論を述べているような感じになりますけれども、要は、こういうテロは絶対に撲滅しなければいけない、その意思を強固に発信することが国際社会においてまず必要なことだろうと私は思います。

 翻って、日本のことでございますが、あるべき姿、これは憲法調査会でございますので、より身近な我々の憲法でありますけれども、今回のいろいろなテロ対策関連法案は、根拠としては憲法前文というものを前提にしているわけでございます。

 憲法前文というのは、読むと、非常に高邁なすばらしい文章でありますけれども、これは、先ほども申し上げたように、この前の大戦を終わらせて、我ら戦勝国の人民は、もう一度繰り返しますが、要するに、戦勝国の枢軸国に対するある意味では国際平和組織の再構築というふうに私は位置づけているわけであります。したがって五十三条、百七条というものが現に今も生きておるわけで、これが条文的にどの程度実効性があるのかということになれば、それはもう現実そういうことはないでしょうとか、一方では、旧ソ連時代は、北方四島の占領の根拠として使っていた時期もあるわけでございます。

 そういう中で、日本国憲法、特に崇高と言われております日本国憲法の前文でありますけれども、これは一言で言えば、二度と戦争は繰り返しません、平和に生きてまいります、これはもうだれも否定することではないと思います。しかし、その前提には、諸国民の正義等に信頼してという、極端な言い方をすれば、世界の人たちはみんな平和を希求しているんだからその人たちと一緒になって名誉ある地位を占めたいんだ、つまり、人類性善説に立っているわけであります。

 しかし、過去五十数年の間にいろいろな対立もありましたし、いろいろな意図があったわけでございまして、そのときに、国家間のことはあえてきょうは横に置くとして、こういうテロ、日本もあすは我が身にしてはならないという現状の中で、この憲法前文というものが、まさに先生がおっしゃるように時代とともに、原則は変わらないという前提でございますけれども、こういう予測しなかったような出来事に対しても、平和に日本が発展をしていくためには、先生のおっしゃる、ただ何にもしないという一国平和主義、孤立的平和主義だけでいいのかということに、ここ十年間の湾岸戦争あるいはまた直接的な影響を、今回二十数名の我が日本人たちがああいう被害を受けたということも含めまして、この憲法前文というものの趣旨を体するためには、どういう憲法の改正なり法律的な改正あるいは制定が必要だというふうにお考えになりますでしょうか。

大沼参考人 まず最初に、中川議員の最初の方の御発言の中で、日本国憲法の前文と国連憲章の前文との若干混同があったかと思いますが、それはちょっと置きまして、日本国憲法の前文の趣旨を踏まえた憲法改正のあり方ということでありますけれども、私は、中川議員が最後の方でおっしゃったように、とにかく日本だけが平和であればよい、日本人の血が流れなければよいという基本的な姿勢を変えなければならないだろう。それは、我々国民一人一人がそういう気持ちをこれからつくり出していかなければならないという一つの作業があるだろうと思います。

 もちろん、国家というものは国民の生命と安全を保障する、それが国家の基本的な目的でありますから、国民の生命と安全は最大限尊重するように、保障するように憲法というのはつくらなければならない。しかし他方で、人間というのは必ず死ぬわけです。私は、どういう死に方をするのか、社会の中で自分がどういうふうに生きてどういうふうに死んだのか、それを自分が納得できる、それが国家のあり方であり、憲法のあり方だろうと思うのです。

 そういう意味で、私は、日本国の非常に利己的な、例えば経済的利益を追求するために自分が死んだり、自分の娘が、私は娘が二人おりますけれども、それが死ぬということは許せない。しかし、例えば自分なり自分の娘が、PKO活動に参加するとか地雷を除去するNGO活動に参加する、そういう過程でたまたま運悪く死んでしまった。それは非常に残念ではあるけれども、やむを得ないことであり、また、それは誇りに思うべきことだ、そういう基本的な考え方は大事である。

 もちろん、それと違った考え方を持つ人がいてもそれは全く構いませんけれども、しかし、日本国全体の基本的な国のあり方、二十一世紀の憲法をつくるあり方としては、人間というのはいつかは必ずどこかでどういう形かで死ぬのだ、だから、生きることそれ自体が自己目的ではない、現在、老人医療で次第にそういう考え方が支配的になってきたと思いますけれども、どういう生き方をするのか、どういう死に方をするのか、その公共的な意義づけが問題なんだ、そういう問題意識を持った改正の姿勢というものが大事だろうというふうに思っております。

中川(昭)委員 したがいまして、先生が二十五年のジェネレーションの中でどんどん変わっていくということで、私も、もちろん戦争のことは知りませんけれども、起こしてはならない。しかし、やむにやまれぬといいましょうか、ミサイルが突然飛んでくるとか、それこそ大規模なテロとかいうことに対しては、これはやはり国家のため、あるいは自分の子や孫たちのために毅然として戦わなければいけない。

 その場合に、特に前文、九条、あるいは九十八条の条約遵守義務等々を総合的に勘案しますと、私としては、整合性がとれていない、解釈でいけるんだという話も今回はあると思うのですけれども、中長期的にはいささか疑問があるのではないかというふうに考えておりますが、最後でございますので、結論だけお聞かせ願えればありがたいと思います。

大沼参考人 整合性がとれていないというのはどういう視点から見るかでありますけれども、第九条も、解釈によっては整合的に解釈することは不可能ではない。「前項の目的を達するため、」ということを「国際紛争を解決する手段としては、」ということに係らせた少数説をとれば、私はそれなりに整合性はとれていると思いますが、しかし、これまで支配的だった内閣法制局の解釈からすれば、それは整合性はとれていないというのは私も同じ意見です。

中川(昭)委員 終わります。ありがとうございました。

中山会長 中川正春君。

中川(正)委員 民主党の中川正春でございます。同じ中川が続きますが、よろしくお願い申し上げたいと思います。

 護憲的改憲論という一つの軸というのは私も非常に共鳴するところでありまして、恐らく、今この調査会の中の議論の大勢の中で、もしそれが憲法の精神を生かして政治的に本当に可能なものであれば、そして、その憲法の精神というものがそれぞれの思いの中で一つの形に終局していく、いわゆる日本の国家の意思というのがそれで決めていけるという前提に立っていけば、まことにそのとおりなんだろう。今、それぞれの立場で改憲ということに反対している政党の皆さんであっても、その前提さえ可能になっていけば、先生の、解釈だけでいくのはもう限界なんだという思い、その思いをそのまま受けながら、もっと積極的な議論に加わっていただけるのではないかなということを、改めて、きょうのお話を聞きまして、思いをいたすところでございます。

 その上に立って幾つかお尋ねをしていきたいと思うのですが、まず、さっきのテロの問題です。

 一つは、文明、宗教あるいは貧富の差、いわゆる構造的な部分であらわれてきている新しい体制に対する挑戦の形、これを言われたんだと思うのですが、今、それに対して、国家というもの、いわゆる国家権力というものは、どうもちょっと違った形で行動しつつあるんじゃないか。

 例えば、アラブ諸国の中で、本音のところはアメリカこんちくしょうと思っていても、テロを撲滅していく、テロに対して闘っていくというその大義にはやはり賛同せざるを得ない。その中で、国際秩序とアメリカの力というものを考慮に入れながら、アメリカの今の行動に対して賛成表明をする、あるいは国内にあるベースを貸していく、具体的にも軍事的な協力もしていく、そういう行動はやはり国家権力としての意思なんだと思うのですね。

 それに対して、先生の言われるのは、国民があるじゃないかと。いわゆる生活者といいますか、それぞれ国民個人のアメリカに対する感情。今、テロリズムというのが、その一人一人の発展途上国にあるうっせきされた怨念といいますか、そういう表現をされましたけれども、そういうものから発するとすれば、国連もその国家権力の集まりという定義の中で今運営がされておりますし、それぞれの集団安全保障あるいは個別の自衛権というような考え方も国家を一つの単位として考えられて、その枠組みの中で意思決定がなされていくということであるとすれば、それが新しい形態に変わっていくというのは、その国家を超えた中で意思決定の枠組み、それから、アメリカを含めた先進国がその新しい意思決定の枠組みをいかにつくり上げていくかということなのかなということを、先ほどの議論の中で思いをめぐらせてきたのですが、そういうことを、例えば、具体的に国連の中で、そして特にこの日本国憲法の中で新しい時代の流れとして組み込んでいくとすれば、どのような形、どこが問題であって、どう対応していったらいいのか、できるだけ具体的に先生のお考えをもう少し発展させていただきたいと思うのです。

大沼参考人 今の御質問に対してもしちょっと見当外れのお答えをしてしまったら、後でもう一度御指摘いただきたいのですが、私は、今回のようなテロリズムに基づく殺傷、国際秩序への攻撃に対して、またそれを含めて、二十一世紀の国際秩序というものをどういう形で構築していくべきなのか、日本がそういう国際秩序をつくる上でどういう役割を果たしていくべきなのか、それを憲法の条文の中でどのように基礎づけるべきなのかというふうに考えてお答えしたいと思います。

 私が先ほどから、日本としては、米国の自衛権の行使に基づく現在の攻撃に全面的にみずからを同化するという立場とはちょっと違った形の、より平和で安全な国際秩序に対する日本の役割の果たし方があるのではないかと申し上げたのは、私は、二十一世紀の、より害の少ない、より平和な秩序をつくり上げていく上で、三つのレベルの思考が求められていると思っているんです。

 その一つは、国際的な視点、これは国家間関係として国際社会を見ていくという視点です。もう一つは、民際的な視点、これはNGOとか多国籍企業とか、あるいはよくNGOが言う市民社会、国際市民社会的な視点です。第三番目は、文際的な視点、これは文明と文明との間の関係をどのように見るか。そういう三つの視点が必要だというふうに思っているわけです。

 国家間の視点はこれまで支配的であって、その限界が来ているというのは、お二人の中川議員とも恐らく共通の認識だろうと思うので、それを補完し、あるいはそれにかわるものとして、今、民際的な視点というのが非常にはやっているわけです。

 ただ、この民際的な視点の落とし穴というのは、これは非常に先進国中心である。NGOというのは、例えばアムネスティ・インターナショナルとかOXFAMとか、いろいろな有力なものがありますけれども、ほとんどが先進国のものです。メディアにしても、CNNとかニューヨーク・タイムズに代表されるように、これも欧米先進国のものです。ということは、先ほどから私が言っている、世界六十億の人口のうちの八割というものはそこでは代弁されない。その声というのが出てこない。その声を吸収しなければ、安定的で平和な国際秩序をつくれない。

 そこで必要になってくるのが文際的視点です。それは、例えばイスラム文明であるとか儒教文明であるとか、あるいはヒンズー文明であるとか、そういう文明を枠組みとして、現在の地球問題、国際問題を見ていく。その三つのレベルでの思考が必要である。

 私は、先ほどの中川議員の言葉をかりれば、近代が非常に欧米中心的な世界であった、ウェストファリア体制以来、欧米中心的な主権国家体制というものが世界を覆った。しかし、二十一世紀には、間違いなく中国が超大国化していくでしょう、ほかのさまざまな途上国もそれなりの存在理由というものを示すようになる可能性がある。そこでは、近代欧米中心の文明の中で今まで表面に出てこなかったさまざまな文明というものが自己主張して、その文明間の共存というものを真剣に考えなければならない、そういう時代になるだろうというふうに思うんです。

 前の中川議員の御質問との関連で言えば、私は、二十一世紀の日本国憲法の前文というのは、そういう文際的な視点というものを前文においてうたうべきだ。つまり、二十一世紀の国際社会というのは、複数の文明が共存して、その複数の文明のすぐれた点を我々が統合的に取り入れて日本国家をつくっていくんだ。それは、我々がこれまで生きてきた日本というもののあり方をはっきりした形で、つまり、米国の眼鏡を通してでなく、我々が自己認識する一つの非常に重要な視点だと私は思います。

 これは、別に反米でも何でもなくて、我々の日本という社会の、日本という歴史的な存在のアイデンティティー、自己認識というものをどういうところに求めるか。そうすると、日本は十九世紀中葉までは東アジアの文明の一員であり、日本独自の文化をその中ではぐくんできた。この一世紀半の間、ヨーロッパ文明を受け入れて、そしてアメリカ文明に憧憬を持って生きてきた。もちろん、その近代の遺産というのは大事にしなきゃならないけれども、それ以前の二千年にわたる遺産というのもやはり重要なんだ。二十一世紀というのはそういう文際的な視点で我々が生きていくんだということを、私は、憲法の前文では明示すべきだろうというふうに考えております。

中川(正)委員 その辺をもう少し深めてみたいんですけれども、時間の関係で、次に、具体的に、憲法九条と、先ほど先生の解釈の中で、特に周辺諸国との関係、この辺をもう少しお伺いしたいんです。

 今、国会で、自衛隊派遣をめぐるいろいろな議論があるんですが、先ほど、日本の本音というのは厭戦感と言われました。これはまだ続いているんだと思うのですね。武力を伴わずに貢献できれば、しかも、自衛隊というものが活用できればその道を探っていきたい、この意思だというふうに思うのですね。

 その上に立って、この自衛隊の問題が、自衛隊の規範というのは、憲法以前の、いわゆる個別的自衛権、これは憲法九条の設定以前の問題なんだ、だから日本は自衛隊が持てるんだ、こういう形で決められた、いわゆる解釈されたということであるにもかかわらず、この間の小泉総理の発言の中では、憲法九条と憲法前文の間にすき間があるという指摘があって、私のとらえ方としては、憲法九条に基づいた自衛隊というような発言であったように思うのですね。

 しかし、これは間違いなんだと思うのですね。基本的には、自衛隊そのものがいわゆる個別的な自衛権というもので設定されてある以上、ここで憲法九条は死んでいるんだろうというふうに思うのです。だから、国連憲章で改めて保障された個別的自衛権と、もう一つは、同じ国連憲章で設定された集団的自衛権、このはざまで漂っているんだということ、このことなんじゃないかなというふうに私は理解しております。

 だからこそ、解釈論だけでいくんじゃなくて、逆に、憲法で自衛隊のやるべきことを明文化していく、限定していってその役割と目的をはっきりさせていく、そういう設定が必要なんだということ、このことなんじゃないかなというふうに私自身は今解釈しているんです。

 その上に立って考えていくと、そうしたときに、周辺諸国の理解をどのように得ていくか。これまでは、先生のお話はまことにクリアだというふうに私は思ったんですが、この憲法というものを盾にとって、あるいはこれは看板にして、平和国家だからすべて許してくれ、こういう形できた。具体的に日本が進めてきたのは、ODAだとか技術援助だとか、歴代総理が行っておわびして、申しわけなかったという話をしてきたということなんですね。それを、周辺諸国との関係改善といいますか、本当の意味での信頼感を構築していきながら、憲法を自主的に、先ほどの話の、国家の意思として定めていくというプロセスに移っていくには、具体的に先生の頭の中に今あるのは、どのようなアクションを改めて周辺国家にとっていけばいいのかということです。このことをもう少し奥深く述べていただきたいと思うんです。

 今見ている限りでは、国家補償をどうするか、これをもう一回蒸し返して、日本はやりますよという話に先生は持っていくべきだとお考えなのかどうか、そんな話だとか、日本が構築していこうとしているアジアの中での平和秩序に対して、仮に平和機構みたいな、NATOを設定したようなものを現実的に提案していっても、今の情勢の中ではとても無理だな、これは全く筋違いな話だなというところで終わってしまうわけですが、そこのところを組み立てるとすれば、日本のスタンスとして具体的にどのような形のものを提案できるのか、先生の心の中に今ある部分をもう少し展開していただければと思います。

大沼参考人 私は、日本が自衛隊を含めて世界の平和秩序をつくり出して、それを維持していくのにもっと積極的な役割を果たす、日本はぜひそうすべきだというふうに信じておりますけれども、とにかくその仕事を進める上で大切なのは、日本が極めて明確な形で第二次大戦が日本の侵略戦争であったということを認めて、植民地支配についての具体的な反省、償いの気持ちを示す、そういう政策を進めると同時に、その事実を日本政府とメディア、さまざまなNGOが一体となって世界に発信していくことが非常に重要だというふうに思っています。

 よく戦争責任の問題で、ドイツは反省しているけれども日本は反省していないと言われまして、私はこれは甚だ一面的な評価だと思いますけれども、残念ながら、こういう評価は国際社会にもはや定着してしまった。定着した一つの非常に大きな理由は、ブラント首相が、ポーランドに行って、ワルシャワのユダヤ人ゲットーを訪ねて、そこでひざまずいたわけです。それでわびた。それが全世界的に報道されて、これがドイツの真摯な反省を示す象徴的な行為として定着する。ブラント首相は、たしか翌年、ノーベル平和賞をいただいたと思います。

 つまり、国家の指導者の象徴的な行動というのは非常に大きな意味を持つんですね。それを、残念ながら、戦後、日本の政府は一貫してやってくることができなかった。その結果として、日本政府は、積極的な国際平和、国際安全保障活動をやる上で常に近隣諸国に疑惑の目で見られて、PKO活動のような何ら問題のない、日本としては胸を張ってやることができるはずの行動でさえ近隣諸国に一々言いわけをしなければならない、本体業務を凍結するという愚かなことをこれまでずっと続けてきているわけです。

 やはりそれは、日本の指導者が、そういうだれの目にもわかるような形の、日本は悪いことをやったんだ、もう二度とやらないんだというメッセージを世界に発して、その上で、日本は積極的に自衛隊も出して国際平和秩序の建設に邁進するんだという行動をとるべきだというふうに思います。

 私は、小泉総理の考え方にはいろいろ違う点、例えば小泉総理が靖国参拝に行くと言い張られたことは非常に大きな間違いだったと思って、朝日にもそういうことを書きましたし、そのほかの点でも若干の意見の違いはありますけれども、小泉総理が持っておられる得がたい資質というのは、民衆に届く声を持っているということだと思うんです。これは、これまでの日本の総理がなかなか持ち得なかった資質だと思うんです。それをぜひ活用して、韓国なり中国の民衆に、本当に日本は悪かったと思っていると、例えば元慰安婦のところに行って、深々とお辞儀して元慰安婦を抱きかかえてあげるとか、そういう象徴的な行動をぜひ私はとっていただきたい。

 お金のことについては、私は、九五年に、日本政府と国民、双方が拠金し合って、大規模な、兆単位のいわば補償基金をつくって、それで一切これまでの日本のいわゆる戦後処理にかかわる問題を処理すべきだということを主張しましたけれども、当時は村山政権時代で、それを大変小さくした形のアジア女性基金ということになったわけです。今の経済状況では、私は、それが現実的な提案と言えるかどうかは非常に疑問に思っております。

 ドイツのやっていることを見ても、個々の犠牲者に対する現実の補償の額というのは、決してそんな大きいものではないんです。日本は、例えば元慰安婦に対しては、国民の償い金が二百万円で、政府の医療福祉事業が三百万円、合わせて五百万円を韓国と台湾の元慰安婦の被害者に対してはお払いしているわけですけれども、これは国際的な標準から見れば極めて高い。ドイツのいろいろなケースの補償よりも非常に高いものです。

 なぜそれが評価されないのかというと、結局、日本がそういうことをやっていることの発信が決定的に不足している。これは私、外務省にもずっと言ってきましたし、メディアに対しても言ってきました。日本がこれまでそれなりのことをやってきたんだということを発信する、世界のどの国の人が見ても、ああなるほど、日本はあの戦争のことについて反省しているんだということが非常に明快な形でわかる行動を指導者がとり、また、それを日本国全体を挙げて発信する。それと並行して、自衛隊をまずはPKOのようにその世界的な公共性というものが高く認知されている活動に参加させていく、できれば韓国や中国の部隊と一緒に活動させる、そういう工夫を凝らしていくべきだろうというふうに思います。

中川(正)委員 ありがとうございました。

中山会長 斉藤鉄夫君。

    〔会長退席、鹿野会長代理着席〕

斉藤(鉄)委員 公明党の斉藤鉄夫でございます。よろしくお願いいたします。

 先生のいわゆる現憲法の戦争責任代替機能というお話、大変興味深く伺いました。先生の戦争責任の論文の中に、在韓被爆者、韓国にいる被爆者の問題も取り上げられておりますので、このことにつきまして、私も大変興味を持っているものですから、まず最初に質問させていただきます。

 今、国内には被爆者援護法がございます。国内に居住している、これは日本人だろうと外国籍の方だろうとこの援護法が適用されますが、一歩日本の国を出ますと援護法が適用されなくなります。これは別に法律に書いてあるわけではないわけですが、行政庁がそのように解釈しているということでございます。

 これに対して裁判が二つございまして、一つは広島地裁での裁判、一つは大阪地裁での裁判です。この問うていることは必ずしも一緒ではないんですけれども、基本的には援護法が在外者には適用されないことについて、広島の裁判は、やむを得ない、しかし大阪の裁判は、これはおかしいということで適用すべきだ、このように裁判所の判断も割れているという状況でございます。

 そういう中で、これはまさしく自民党さんから共産党さんまで含めまして超党派で、在外被爆者に援護法適用をという議員連盟をつくっているわけですが、先週末、その議員連盟で、各党代表者が在韓被爆者の現状調査をしてきたわけです。私も行ってまいりましたが、大変重たい現実を目の前にして、私も本当に大きなショックを受けました。

 強制連行されて広島に来て被爆し、家族を失い、その後、日本人として扱われなくて故国に帰り、故国でも、日本から帰ってきたという差別、また被爆者という差別に耐えながら、また健康障害に悩みながら必死で生き抜いてきた方々の心の叫び、自分はあと数年で死んでしまうけれども、日本国内にいる被爆者と同じ扱いをしてほしい、自分の人格を認めてほしいという悲痛な叫びを聞いて、各党の代表者も本当に重い思いをして帰ってきた次第でございます。

 質問でございますけれども、この在韓被爆者と戦争責任ということに関しまして、先生のお考え、また、憲法に絡めてのお考えをお伺いできればと思います。

 もう一つ、そのときに、ある被爆者が、日本はなぜあれだけの、戦争の通常の手段とはとても言えないような原爆を落としたアメリカの責任を問わないのか、このような声もございました。このことについても、先生のお考えをお伺いできればと思います。

大沼参考人 私は、在韓被爆者の問題については余り自分で深く関与してきたわけではありませんので、あるいはちょっと見当外れのお答えになるかもしれません。

 日本は、戦後、サンフランシスコ平和条約、東南アジア諸国とのさまざまな賠償協定、日韓正常化に伴う請求権協定、中国とは日中国交正常化に伴う日中共同声明という形で、ほぼ、北朝鮮以外とは戦争と植民地支配に関する法的な意味での賠償問題を解決してきたわけです。

 ただ、その解決というものは、先ほど言ったように、戦後の米国や中国が、日本に対して非常に寛大な態度をとって、日本の経済力を復興させて、そして日本の国力を回復させることによって、むしろ戦後の平和で経済的により望ましい国際秩序をつくろうとしていたことから、日本にとっては、結果的には余り大きな負担を感じないで済む額の賠償で済ませてきたわけです。その結果として、また、その賠償金をもらった側の方が、特にアジアの近隣諸国の場合には軍事政権、独裁政権だったということがあって、日本からの賠償金というものを個人の救済には十分充てなかった、そういう事情もあって、個々の犠牲者の間には非常に大きな不満が残っている。

 その代表的な問題がいわゆる慰安婦問題であるわけですけれども、それ以外にも、私がずっと長年かかわってきたサハリン残留朝鮮人の永住帰国問題とか、在韓被爆者問題というものがあったわけです。在韓被爆者問題とサハリン残留朝鮮人の永住帰国問題は、一応、日本政府が在韓被爆者の救済の基金、それから、サハリンの残留朝鮮人については韓国に日本政府がお金を出して帰国者収容の施設と病院をつくるということで、私は、それなりの手当ては日本はやったというふうに基本的には考えてはおります。

 ただ、その後、この在韓被爆者の基金が必ずしも十分な被害者救済の機能を果たしていない、いろいろ問題を残しているということは私も耳にはしておりますので、そういう問題は、私の前からの持論ですけれども、戦争責任の問題というのは、二十世紀内にけじめをつけるとか、みそぎを済ますという問題ではなくて、被害者あるいは遺族の不満が残る限りは一つ一つ地道に対応していかなきゃならない。ですから、私は、先ほど申し上げた、国家の指導者の象徴的な行為と、個々の犠牲者に対する非常に地道な一つ一つの積み上げの両方が必要なんだろうと思うんです。

 ですから、被爆者救済基金を設ける形でこの在韓被爆者の問題は一応解決したはずだけれども、その後なお問題が残っているというのであれば、それは個別的に地道に対応していくべきだろうというふうに思います。

 それから、原爆投下を日本がなぜもっと批判しないのかというのは、おっしゃるとおりですけれども、そのことは、さっきから言っている、日本が自分がやったことが悪かったということを認めないことと表裏一体をなしていると思うんです。

 つまり、日本の真珠湾攻撃なりマレー半島の侵入作戦、それによって始まった大東亜戦争というものは、明らかに日本の侵略、あるいはそれ以前から中国に対して続いている侵略だったわけですから、それについて日本が自分は悪いことをやったんだと明確に認めるならば、米国に対して、自分はちゃんと認めましたよ、あなたも原爆投下という非人道的な武器使用をやったことの責任を認めなさいと言う道義的な基盤ができると思うんです。ところが、日本の側で、自分がやった悪いことを認めない。そうすると、自分で自分がよって立つ道義性に自信が持てなければ、米国が非道義的なことをやっても、その責任を追及することは難しい。私は、そういう悪循環があるんだろうというふうに思います。

斉藤(鉄)委員 ありがとうございました。

 あと一点、先生の御講演の中で、本来、九条というのは国際社会の安全保障への積極的参加をうたっているんだ、このような部分がございました。このことについて、もう少し詳しくお考えをお聞きできますでしょうか。

大沼参考人 これは、最初の中川議員の、前文と九条との間に整合性があるのかという御質問に対して、解釈の仕方ではあるというふうに私がお答えした点とかかわっているわけです。

 つまり、前文とあわせて読むならば、九条は、日本国民は、自己の独善的な利益を追求する、その結果生じた国際紛争を解決する手段としての戦争は永久にこれを放棄する、しかしながら、そのことは正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求するという九条の文言を何ら妨げるものではない。その結果として、前文がうたっている、みずからが国際社会で名誉ある地位を占める、そういう形での国際平和の維持と確立への積極的な姿勢を九条は何ら妨げるものではないんだ。

 そういう意味で、九条というのは、日本自身の安全保障の問題であると同時に、国際平和への積極的な参加に対する日本の行動を、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、」という文言からして基礎づける、そういう意味を持っていたはずだと。

 もう一つ申し上げますと、九条を解釈する上で、これまでの憲法学界を中心としたさまざまな議論が陥っていた非常に大きな問題点というのは、国権の発動として国家の利益を追求する武力行使と、国際公共利益を実現するための武力行使を峻別しないで、それを一緒にして議論してきた。九条は何ら後者を禁じていないというのが私の解釈です。

斉藤(鉄)委員 終わります。ありがとうございました。

鹿野会長代理 都築君。

都築委員 自由党の都築譲です。

 きょうは、参考人には大変貴重な御意見を伺わせていただき、大変ありがとうございました。何か、久しぶりに大学の講義を聞いたような感じがするわけでございます。

 私ども自由党の考え方は、きょうの大沼参考人の御意見に大変近いのかなというふうな感じを持っておりますが、大沼参考人の論文をちらっと拝見させていただきましたら、今回の世界同時多発テロといいますか、そういった途上国地域における多様な形態の暴力の発生の一つとして、テロ組織や武装集団によるテロが日常レベルで恒常的に先進国も巻き込んで行われるということを既に予見されてこられたわけでありまして、こういった考え方に基づいて政治がもっと真剣に取り組んでくるべきではなかったのかなということも思うわけであります。

 きょう、お話をお聞きいたしておりまして、国際公共価値志向の安全保障のあり方ということで大変勉強になったわけでありますが、先ほどのお二人の中川先生に対する御回答を聞いておりまして、私自身、ちょっとわからないところがありますので、教えていただきたいと思うのです。

 国際公共価値ということで先生が言われておりますが、今現実に同時多発テロが起こっておりまして、そしてまた、文明の衝突ではないというふうに先進国は言っているけれども、途上国はそうは受けとめていないのではないか、こういうことをおっしゃられるわけでありまして、世界の国々あるいは人々の国際公共価値ということについての本当の了解といったものはあるんだろうか。

 多くの国々が国連に加盟いたしておりますけれども、そして、憲法の前文でも、例えば基本的人権を人類普遍の原理と言い、また前文の中で、政治道徳はこれまた普遍のものである、こういうことを言っておりますけれども、国民主権とか基本的人権あるいは平和主義、民主主義、もっと言えば人命の尊重といったことにまで、我々は人類普遍の原理だということを言っておりますけれども、現実に行われていることはそうではないのではないのか。

 そしてまた、特に文明の衝突という観点からいきますと、正直申し上げて、キリスト教文明対イスラム文明の衝突を避ける必要があるということを議論しておりますけれども、現に、イスラム教国の多くの国々では、まだまだ基本的な人権さえ認められていない、女性の人権さえ与えられていない、民主的な体制もない、貧富の格差は極めて大きく貧困があまねくばっこしている。こういう状況を思うと、果たして、大沼先生が言われるような国際的な公共価値といったものを追求し得る状況にあるんだろうかということを思ってしまうわけであります。

 これは国際法の分野よりも国際政治の分類になってしまうのかもしれませんが、そこら辺、御見解をお伺いしたいと思います。

大沼参考人 国際公共価値というのは、そもそもあるのかないのかという問題の立て方をすべきではなくて、現在、どんなに辛うじてであっても、世界の諸国、諸国民が辛うじて、非常に薄い範囲ではあっても、共通に持てる部分が国際公共価値なんです。だから、どの時代、どれだけその利益や価値観が対立している時代であっても、国際公共価値というのは常にあるわけです。

 ただ、それを認識する上で一体何を手がかりにするのかということがはっきりしていないと、国際公共価値という形で実は違ったものを認識してしまうという、その怖さがあるわけです。私が先ほどから、先進国の政府の主張や先進国のメディアだけを見ていたのでは我々は国際社会というものを語れないということを繰り返し申し上げているのは、そういうことであるわけです。

 例えば、先進国のメディアだけを読んでいますと、人権、民主主義、市場経済、これはあたかも国際公共価値というふうに見えます。だけれども、果たして、市場経済というところまで途上国の非常に多くの民衆が国際公共価値と認めているかどうかということは非常に疑問です。

 それから、人権といった場合に、先進国が考える自由権中心の人権、例えば表現の自由であるとかプライバシーであるとか、そういう人権と、途上国が主張している生存権であるとか健康への権利であるとか住宅への権利とか、そういう社会権中心の人権は、同じ人権といっても、先進国が考える人権と途上国の民衆が考える人権との間では違いがある。我々が先進国の学者や政府やメディアだけに注目していると、表現の自由あるいはプライバシーといったものだけが人権であって、生存権とか健康への権利とか住居への権利、そういう大事な人権というものがすっぽり落ちてしまうという問題性があるわけです。

 私は、一つの非常に大きな手がかりは、レジュメの中で、「人権、国家、文明」という筑摩書房で出した本の中で、二ページの5のところにちょっと引いてありますけれども、この中で私が主張した考え方ですが、手がかりとしては、一九九三年にウィーンで世界人権会議というものが開かれました。ここでは、世界じゅうから先進国も途上国もすべて集まって、そして、世界じゅうでとにかく合意できる人権についてのウィーン宣言という宣言を採択したわけです。

 これは、百九十の国が参加して採択した文書であって、これまでのさまざまな文書、例えば世界人権宣言とか国際人権規約とか、あるいはさまざまな環境関係の条約に比べてはるかに広範な途上国の参加も得ている。しかも、このウィーン人権宣言を採択するときには、NGOも政府間代表の会議と並行して会議を開いて一定の役割を果たした。そういう意味で、非常に高い国際的な正統性を持つ文書なんですね。

 ですから、そういうものを我々が手がかりにして、本当に国際社会の六十億の人々が、辛うじてではあるけれども合意できるものというのは何なのかということを認識していかなきゃならない、先進国のメディアだけを見ていたのではそこはわからないということを申し上げたいわけです。

    〔鹿野会長代理退席、会長着席〕

都築委員 私自身は、政治と宗教との関係を考えるときに、日本の歴史もそうであったし、ヨーロッパの歴史もそうだったと思うのですが、宗教から政治を切り離してくる、宗教の非政治化といいますか、そういった歴史ではなかったのかな、そんなふうに思うわけでありまして、宗教は心の問題、心の救済、そして政治は現実的な生存の問題をどう取り扱っていくのか、こういうことを思っておったわけですが、今の先生のお話にございました、そして、文際的思考が求められる根拠があるということで今おっしゃられた中で、その関連で、先ほどもイスラム文明とかあるいはまたヒンズー文明とか、そういうふうなことをおっしゃっておられたのですが、私自身は、社会権と申しますか、そういったものに対する欲求というのは、当然、人類普遍の原理として位置づけていってもいいのではないかな、こんなふうに実は思っておるわけであります。

 ちょっと今の先生のお話をお伺いしておりまして、自由市場経済のお話とかあるいはまた移動の自由、交通の自由、さまざまな経済的な自由、あるいはまた基本的な人権に属するものでありますけれども、そういったものとの関連でいきますと、先ほど私が申し上げましたような宗教の非政治化といった問題がこれから非常に大きな課題になっていくのではないのかなというふうに実は認識をしておりまして、ちょっとそこのところは見解が異なるのかなという感じがするのですが、そこのところはいかがですか。

大沼参考人 いや、私はそれほど意見が違うようには思えないのです。

 といいますのは、私はやはり、今は非常に政治化しているイスラムを含めて、世界が今おっしゃったような方向に、つまり世俗化という方向に徐々に徐々に進んでいく、それをイスラムも受け入れるということは、世界での紛争を極小化していく一つの非常に重要な要因だと思うのですね。

 ちなみに、なぜイスラムが現在あれだけ原理主義化して、強硬な、不寛容な姿勢になっているかということは、さっきから私がお話ししている貧困の問題、それから差別の問題を抜きにしては到底理解できない。

 オスマン帝国の時代には、イスラムというのはキリスト教よりもはるかに寛容な宗教であって、例えばユダヤ人は、ヨーロッパからキリスト教の迫害を逃れて、オスマン帝国にみんな逃げてきたわけですね。オスマン帝国の支配地域においては、イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒、その他のさまざまな異民族、異宗教集団が平和的に共存していたわけです。それはキリスト教世界では到底考えられないことだった。それだけ寛容な宗教がなぜこれほど非寛容になってしまったか。それは、現在の差別的な地球構造、貧困、絶望というものと結びついている。

 そういう意味で、私は、今、都築さんがおっしゃった社会権が非常に重要である、それはウィーン人権宣言でも認められておりますし、そういう意味で、人間の生存と最低限の生活を保障する社会権というものが人権の一つの核である、それは国際公共価値であるということは、意見は変わらないと思います。

都築委員 少し具体的なことでございますが、先ほど、国権の発動たる武力の行使は禁じられているけれども、だからこそ国権の発動に当たらないようなPKOへというふうな形での自衛隊の派遣、こういったものは認められるべきだと。

 実は、ちょっとこれは具体的な、今現在、参議院で審議されておりますけれども、自衛隊の部隊、いわゆる武力の部隊を海外に派遣する、そのこと自体が国権の発動に該当するのかしないのか、そういう問題。特に、武力は行使をしないのだ、戦闘地域には出ていかないのだという説明であれば、それはなるほど、そこまでだったらという議論になるのかもしれません。しかし、一たん事があって応戦をした場合、それは国権の発動たる武力行使になってしまうのか、ならないのか。

 例えば、PKOということであれば、PKOは戦闘が終了した地域で、平和の回復というよりは平和の維持を実行していくということであって、もともと戦闘行為を予定していないということなのですが、今回の状況はちょっと違うのではないのかなというふうな感じがいたしておりまして、そこのところをどうお考えになるのか。

 それから、同時にまた、PKOの問題でも、例えばカンボジアで日本のPKO隊員が殺害をされるという事件がたしかあったと思います。そういったときに、いわゆる非常に軽武装で行って反撃の余地がなくやられてしまったとか、そういった事態も想定しながら、PKOといいながら実際にある程度の装備を持って平和の維持という活動が十分にでき、また実際に職務を遂行する人の安全も守れるような形でやっていくというときに、もし何かあった場合にそれは武力の行使には該当しないのかということをちょっと教えていただければと思うのです。

大沼参考人 後半の御質問に対しては、私は、私自身の解釈からすれば、それは何ら九条の禁止する武力の行使に当たらない。つまり、PKOというのは、さっきから申し上げているように、最も国際公共的な価値の高い、国際的な認知を受けた活動であって、もちろん、現実に戦闘行動が行われていない状態で行くわけですけれども、いつ停戦が崩れるかわからない、その際に武器を行使しなければならないときに、自衛隊がPKOの一員として武器を行使することは何ら第九条の禁止に反しないというふうに私は考えております。

 前半部分は若干問題がありまして、現在の米国の行動が、先ほどから申し上げているように、個別的自衛権に基づいた行動であるという正当化を米国はやっている。NATO諸国は、これに対して集団的自衛権として協力するということであるわけですが、日本政府の説明では、集団的自衛権ですらない、日本国憲法の前文それから一連の国連安保理決議を根拠とするという話でありますけれども、私は、これは法律学的には、少なくともPKOのように極めて国際公共的価値の高い行動というふうに説明することは非常に困難である。

 私はつくづく、今回のテロ特措法をつくる際の作業を見ていまして、ああ自分は外務省の条約局と法制局にいなくてよかったな、法律家としては甚だじくじたるものがあるだろうなと思いながら拝見しております。

都築委員 終わります。ありがとうございました。

中山会長 山口富男君。

山口(富)委員 日本共産党の山口富男でございます。

 二十一世紀を迎えまして、国際的な平和と安全を希求してそれを保全するというのは、日本にとっても、国際社会にとっても、本当に深刻に問われている問題だと思うのです。

 この問題を考えるときに、やはり私たちは、憲法、そして国際法の到達点にきちんとした足場を置いて考えていくのが当然のことだと思うのですけれども、きょうは参考人からお話しいただきまして、私は、参考人がおっしゃいました憲法と現実との乖離の問題について言いますと、これは自衛隊の存在の問題も含めまして、この乖離というものを、本来憲法が求めている立場を生かす方向で段階的に解決していくべきだというふうに考えております。その点で、自衛隊についての評価は別にいたしましても、その海外派遣という問題は、私たちは憲法上許されないというふうに見ております。

 それからもう一点、各世代にわたる意思表明の重要性について言及なさいましたが、日本の憲法というのは、大事な条文の各場所に「現在及び将来の国民」という呼びかけが必ず入っておりまして、その時々に生きている世代の意思表明をきちんと見ていきなさい、留意しなさいというのは憲法上の要請であって、これは参考人がおっしゃるように、憲法問題を考える上での大変大事な視点だというふうに私も感じました。

 さて、きょうお尋ねしたいのは幾つかあるのですけれども、まず最初にお尋ねしたいのは、国連憲章と憲法の関係の問題なんです。国連憲章の場合は国際関係という言葉を使い、日本国憲法の場合は国際紛争という言葉を使っておりますが、いずれにしろ、武力の威嚇や武力の行使は禁じるという点では共通の基盤があります。

 そういたしますと、戦争の違法化と平和主義の徹底という点で、国連憲章と憲法の共通性、それから日本国憲法が持っている独自の発展した部分、そういうものについて参考人はどのように見ていらっしゃるのか、まずお尋ねしたいと思います。

大沼参考人 私は、日本国憲法は、国連憲章がその非常に重要な一里塚である二十世紀の戦争違法化の中で、やはり非常に重要な地位を占めるべき文書であるというふうに思っております。

 そういう意味で、今おっしゃったように、国連憲章と日本国憲法との間には非常に多くの共通の要素がある。また、憲法九条を先ほどから私が申し上げているように解釈してくれば、私は、国連憲章と九条との違いというものは極めて小さいものとして理解できるだろうと思うのです。

 ただ、私にとっては非常に残念なことながら、日本は内閣法制局の解釈で、私の解釈とは違った解釈でずっと来てしまった。その結果、日本国憲法が求めているものと国連憲章が求めているものとの間で非常に大きな差があるような現状ができてしまった。それは、九条をどのように解釈するかという違いが、そういう国連憲章と日本国憲法の間の距離の大きさを必要以上に際立たせてしまったというふうに私は考えております。

山口(富)委員 私は、国際的な公共性の価値が高くても、それが軍事的な分野を含む場合は、日本の憲法の九条はこれを認めないというふうに解釈しております。

 ところで、参考人がおっしゃいました、その違いが極めて小さいか、それは解釈によっては極めて大きいという場合も起こりますけれども、憲法の制定当時、そういう共通的な基盤と違いについての認識というのは、憲法制定の議会などを含めまして、何らかの認識があったと見てよろしいのですか。

大沼参考人 憲法制定当時は、憲法と国連憲章との共通性と違いについての認識というのは決して十分なものではなかったと思います。

 ただ、憲法制定議会での、例えば南原繁議員その他の質疑などを見ますと、憲法制定当時は、御存じのように、吉田茂首相を含めて、今山口議員がおっしゃったような、いわば絶対平和主義的な解釈というものが支配的で、その点では、自民党も現在の共産党も同じような解釈を憲法制定議会ではやっていたわけですが、ただ、南原議員などは、そういう解釈では将来日本が国連に加入したときに困るのではないか、そういう問題意識を持った議論もしておられます。ですから、ごく一部にはそういう問題意識はありました。

山口(富)委員 今参考人がおっしゃったとおりなんですね。

 それで、この憲法制定議会で、憲法九条を持っている日本が国連に入った場合にいろいろそごが生まれてくる、それをどう考えるのかということで、当時、制定議会でも繰り返し答弁が出ておりますけれども、ここでは、武力の制裁などを国連に入って求められた場合は、九条があるからそういうことはできないということが政府の側からきちんと述べられております。

 そして、私、もう一つこの問題を考える上で大事だと思いますのは、先ほど参考人も引用されましたけれども、憲法の第九条で「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、」というふうになっているわけですが、この一句というのは、そういう議論を経て憲法制定議会の中で新たにつけ加えられた一句だというふうに見ているのです。ですから、このあたりは解釈の問題といいますよりも、一度よく、どういう経過だったのかということは、私も含めまして調査をしてみる必要はあるなというふうに感じております。

 さて、もう一点お尋ねしたいのですけれども、国連の目指す集団安全保障と個別的、集団的自衛権の問題なのです。

 先ほどのお話の中で、自衛権の問題について言いますと、これは極めて例外的な措置だったというお話がありました。それは実際に、国連憲章がつくられる過程のダンバートン・オークス会議でも、もともとはなかったわけですね。この点は、どういう経過の中で個別的、集団的自衛権の話が入れられ、それが国連憲章上何らかの矛盾を来しているのかどうか、その点をお伺いしたいと思います。

大沼参考人 前半については、私も、憲法制定議会における議論の大勢というものが今山口議員がおっしゃるような解釈である、絶対平和主義的な解釈で憲法を考えていた、それは全くおっしゃるとおりで、その歴史的事実を私は何ら否定するものではありません。私の解釈としては、その後の日本のあり方として、そういう絶対平和主義的解釈をやはり修正すべきではなかったかという立場からの解釈論であります。

 後半の御質問ですけれども、おっしゃるとおり、国連憲章五十一条の自衛権の規定というのは後からつくられた規定でありまして、当初は、地域的取極の五十二条と五十三条というもので、地域的な事実上の同盟条約を処理しようと考えていたわけです。ただ、地域的取極、地域的機関による紛争の実力による解決ということには安保理の許可を得なければならないということになりますので、これは、安保理で拒否権を持つ常任理事国の一国の反対でもあれば、地域的機関、地域的取極による強制行動ができないということから、五十一条の自衛権が規定されることになったわけです。

 この五十一条の中の個別的自衛権に関しては、戦前からあった権利でありますから、これは固有の権利、原文でいいますとインヒアレントライトでありますけれども、これはそのとおりであります。しかし、個別的自衛権というのは、実はこの憲章五十一条をつくるときに初めて出てきた概念でありまして、伝統的な自衛権にはこれは入っていなかったのです。むしろ戦前の、戦争は超法的現象であって、戦争は違法ではないという無差別戦争観のもとでは、当然、戦争の自由、それのいわばコロラリー、系としての同盟の自由というものが認められておりましたから、その同盟の自由が、言ってみれば、自衛権という衣をかぶって集団的自衛権という形で滑り込まされたというのが、この五十一条で集団的自衛権が規定された経緯だろうと思います。

 そういう意味では、集団的自衛権というものは、やはり個別的自衛権にも増して例外的に、極めて厳格に解釈しなければならないというのが、法の解釈のあり方として、あるべき態度だろうというふうに思います。

山口(富)委員 そうしますと、先ほど、今のアフガニスタンの事態をめぐって、アメリカが個別的自衛権で軍事行動を始めている、これに対して危うさがあるという言及をなさいましたけれども、その中身はどういうものなんですか。

大沼参考人 米国の自衛権の行使という主張には、二つ大きな問題があります。

 自衛権は、まず第一に、急迫な攻撃に対して反撃する権利である。ところが、九月十一日事件の場合には、一度大規模な武力攻撃をやっておいて、その後は基本的には沈黙を守っている、炭疽菌の散布というのが同じグループかどうかはわかりませんけれども。その意味で、果たして急迫不正というものが続いているのかどうか。

 これは米国が、いや急迫不正は続いているのだ、つまり、またいつ起こるかわからないから、要するにオン・ゴーイング・スレットである、現在進行中の脅威があるのだということで自衛権の行使を正当化しているわけですけれども、それを証明するに足る十分な証拠を示していないわけですから、その点で、やはり米国の自衛権の主張というのはかなり問題がある。

 それから、第二は、米国はあの攻撃が一応アルカイダであるというふうに言っているわけですけれども、実際に攻撃しているのは、タリバン政権それ自体を攻撃している。タリバン政権は、米国を武力攻撃したわけではなくて、アルカイダに対して基地と隠れ家を提供している。もちろんそれは悪いことでありますけれども、少なくともタリバン政権が武力攻撃したわけではない。そうすると、基地と隠れ家を提供しているタリバン政権に対して自衛権を行使して攻撃できるのかということは、かなり疑問がある。

 そういう点で、米国の自衛権の主張というのは、無理して基礎づけることができないというわけではないけれども、かなり苦しい議論ではあるということだと思います。

山口(富)委員 今の国際法上のお立場からの二つの危うさというのは、当然の御指摘だと思うのです。

 それで、今国際社会が心配しているのは、特に、罪のない一般の方への被害が広がっているというところに心配が出ております。最近、APECが首脳会談を行いまして、あそこで反テロリズムの共同の声明が上がっておりますが、先生、これはもうお読みですか。もしお読みでしたらどういうふうに評価されているのか、ちょっとお尋ねしたいのです、お読みでなければ結構ですけれども。

大沼参考人 詳細には読んでおりません。ただ、たしか国連の枠組みへの言及があったと思って、その方向でAPECの声明がまとまったのは好ましいことだというふうには思っております。

山口(富)委員 私も同感でして、あの会談では、マレーシアやインドネシアから、米国の武力行使についてのかなり批判的な言及があったわけですね。そのもとで、それについては触れずに、今度の対応で一体国際社会に何が求められるのかということで、国連を中心とした、きちんとした裁きをやるべきだというところで一致したというのが大変大事な点だったと思うのです。

 そうしますと、きょう参考人から、私、いろいろなことを教えていただいたのですけれども、国連の現在と将来を考えていく上で、結局、今度の問題について、国連憲章と国際法の立場でどう対応していくのかというのが問われていくときに、やはり原点に返りまして、もともと国連が持っている集団安全保障の機能というものをもう一度考えようじゃないか、そういう歴史的な時期に来ているというふうにもみなすことは可能だと思うのですが、最後にこの点をお尋ねしたいと思います。

大沼参考人 先ほど中川昭一議員の御質問にお答えしたときもお話ししましたように、私としても、現在の米国の行動というのは、きょうたまたま朝日新聞に中曽根元首相のインタビューが出て、中曽根元総理もおっしゃっていましたけれども、やはり米国が一極覇権の覇者として行動しているおごりの面がないとは言えないと思います。

 そういう意味で、今の米国は何を言っても聞かないという面があることは否定できないわけですけれども、そうはいっても、少しずつ米国を冷静に説得して、先ほど私が申し上げた、テロリストとの戦争には勝つことはできてもテロリズムは撲滅できないという結果に終わらないような、やはり国連を中心とした制裁と、さらに国連の枠組みを通したより基本的な問題の解決、復興問題、貧富の格差の是正、あるいは宗教的な憎悪を鎮静化させる、そういう行動にとにかく一刻も早く、日本がまさに主体性を持って行動すべきだろうということは、私も強く考えております。

山口(富)委員 ありがとうございました。

中山会長 今川正美君。

今川委員 私、社会民主党の今川正美です。

 大変ためになる御意見を聞かせていただきました。

 私も、随分以前からこの日本国憲法をめぐっていろいろな議論がある中で、まず最初に、国連憲章との歴史的な関係性において、先ほどお話にあったとおりなんですが、日本の憲法の平和主義というのは、まず何よりも、過去の侵略戦争の反省に立った上で、国際的な平和の問題なり日本の平和と安全を保障するのは、あくまでも、当時の歴史にさかのぼると、国連の集団安全保障というものに依拠したのではないかと思うのですね。

 ここのところは、実は党内のことを言って恐縮なんですが、我が党の場合には、国連で言う集団安全保障、当然、いわば最後の手段として軍事制裁を含んでいますので、党の公式見解から私は外れるのですけれども、それも含む集団安全保障に依拠したはずであって、しかし、あの戦争が終わってから六年後に旧安保条約、つまり米国との間に事実上同盟を組むことで、そこに安保法の体系みたいなものが持ち込まれたことで、本来、理想とし目指そうとした、国連を頼りにして、何か国際ルールを違反した場合には国連がいろいろな制裁を科したり説得をしたりというふうにするはずのものが、結局、平たく言うと、アメリカに依存せざるを得ないという現実にぶち当たってしまった。

 ですから、そういった意味では、出発点というのはやはり自主防衛でもなければアメリカ依存ということでもなかったはずなんですけれども、そこの点、もう一度、再確認の意味で御意見をお聞かせください。

大沼参考人 私は、憲法制定時は、先ほど山口議員の御質問にお答えしたように、そういう国連の集団安全保障体制と日本国憲法をリンクさせて、それで、それを持つ日本の安全を考えるべきだという考え方が非常に整合的な形で考えられていたというふうには必ずしも思わないのです。

 ただ、今川議員がおっしゃったように、漠然と国連に対する期待というものは憲法制定当時からあったし、それは今日でも続いているということは、そのとおりだろうと思います。

今川委員 次に、これも私の個人的な見解ということで受けとめていただきたいのですが、社民党の基本的な見解をはるかに踏み越えたようなことをお尋ねします。

 現在、国連はまだ頼りないという見方がされていて、そういった意味では、五大国による拒否権の問題だとか、古くは旧敵国条項だとか、いろいろな角度からの国連改革を前提とした上で、なおかつ、非常に非現実的と言われても仕方のないようなことを申し上げるのですけれども、現在は、幸いなことに、国家間の戦争が随分減って、二十世紀の最後からこの二十一世紀にかけては、地球のあちこちで幾つかの地域紛争が残っていることと、今回、とんでもないテロ事件まで含めて出てきましたけれども、いずれにせよ、国際紛争だとかいろいろな争い事を解決するには、極論しますと、世界の中で軍備はもう国連に収れんさせてしまう。

 そうである以上は、これは物すごい時間がかかる話なんですけれども、少なくとも各国の軍備を国連の水準からはるかに下げる。もっと言えば、究極的には、各国はもう軍備を放棄する。わかりやすく言えば、国際的なルール違反を起こすような国なり集団なりが出てきた場合には、世界で唯一、怖いお巡りさんは国連軍というふうな姿、そういう方向性をまず持って臨んだらどうなのか。

 そうすると、例えば宗教戦争というふうに一口で言いますけれども、私が思うのは、お釈迦さんとキリストがいきなりけんかをするわけではなくて、宗教戦争なるものも、一皮二皮めくってみると、やはりいろいろな利害の対立なり、あるいは特に貧困だとか差別だとか抑圧だとか、そういう要素というものがあるから、そこを取り除くことの方がよほど大事だという気がします。

 そういった意味では、国連には力もなければ金もないということであれば、先ほど申し上げたように、各国の軍備をはるかに減らしていくことで、そこで浮き出た資金を国連に投入して、そういう貧しい国あるいは争い事が起こりそうな地域にいろいろな形での財政援助をする。それが紛争を除去していく、減らしていく一つの有効な手段じゃないかと思うのですね。それが一つです。

 ただ、そう考えたときに、なおかつ、湾岸戦争以降約十年ぐらいの間にいろいろな紛争があっていまして、そうすると、武力をそこに介入させてみて瞬間的には鎮静化する場合もあるかもしれませんが、やはり武力投入、介入させるということの有効性という意味で一体どうなんだろう。現実的に見ると、では、各国も一切軍備を持たない、国連まで一切の軍備を持たない状況で、いろいろな形での争い事、紛争というのがおさまるのかなという悩みもあるわけですね。だから、そこの道筋といいますか、どういうふうに考えたらいいのかというのを少しお聞かせ願えればと思うのです。

大沼参考人 私は、基本的に国際社会というのはレッサーイービル、つまり、より少ない害悪をどう求めてそれを維持するか、そういうさめた認識でないと国際社会の問題というのは対応できないというふうに考えておりまして、そういう意味では、もちろん理想というものは重要ですけれども、その理想というものは、そういう非常にさめた現実認識と組み合わせなければならない。

 私は、今、今川議員がおっしゃったことで共鳴できるのは、やはり国連を強化して、そうして各国の軍備を少しずつ縮小させていかないと、集団安全保障体制というのは決して機能しない。つまり、ある程度中規模の国家の内戦ですら、それを鎮圧するために必要とされる軍事力というのはかなりのものが必要で、そこでは必ず戦士は死ぬ、民間人は死ぬわけですから、それに対して各国が、幾ら集団安全保障の大義だといっても、協力しにくいというのは当然のことなわけです。

 ですから、各国の軍備を縮小して軍縮を進めていくということは、集団安全保障体制の強化にとってはもう不可欠な、ともに行っていくべき行動である。ただ、それは非常に時間のかかることであって、そう一日二日でできることではない。

 その関連で、私は極めて現実的な点から申し上げますと、なぜ米国が今日のように国連を軽視して勝手な行動をとることができるのかといえば、米国の力の方が国連よりもはるかに強いから米国はそういう行動をとれるわけですね。国連の力がなぜ弱いかというと、国連という実体があるわけではなくて、国連というのはあくまで各国の意思に基づいて動くわけですから、言ってみれば、米国にとっては国連というのは強くない方が望ましいわけですね。自国の一極覇権にとっては国連が余り重要な存在だと困るわけですから、国連はできるだけ無視したい。

 今回、米国は、中国政府が最初から建前上支持するという姿勢を示した以上は、国連安保理でもっと明確な武力行使に関する許可、授権を得ることは、湾岸戦争のときのお父さんのブッシュ政権がやったぐらいの汗をかいて努力をすれば不可能ではなかったと私は思います。にもかかわらず、なぜ米国が五十一条の自衛権でやってしまったかといえば、それは、米国としては、一々国連の安保理のお墨つきがなくとも自分は行動するのだという姿勢を示したいと。一々国連の安保理の授権を得ていたのでは、それが先例になってしまって自己の単独行動主義に将来マイナスになるという判断が恐らくあって、一生懸命国連安保理の許可を得る努力を払わなかったのだろうというふうに私は思うわけです。

 そういう姿勢はやはり非常に危険であって、それはなぜ危険かというと、さっきから私が言っている、テロリストに対しては勝ててもテロリズムを根絶することはできないという意味で、米国自身にとっても危険。それはやはり米国のおごりが招いている危険性だと思うのです。そういう米国を説得するには、やはり国連を強化するしかない。国連を強化するには、日本であるとか、米国以外の国々がとにかく国連に十分な力を持たせる。

 そういう意味で、私は、日本の一部の野党の方々が、国連を大事にしろと言いながら、日本が安保理の常任理事国になることに消極的だというのは非常におかしい。私は、日本は積極的に安保理の常任理事国となって、そして日本が、米国とは違った立場から、国際の平和秩序をつくり出していく上でもっと力を注ぐべきで、とにかく米国に対抗できる国際的な勢力をつくらないことには、米国の単独行動主義というのはなかなかチェックできないというふうに思います。

今川委員 私も、今おっしゃった点なんですが、うまくして国連を強化するという方向に向かう、そして、アメリカがいつまでもわがままな行動をとらずに、それはそれで国連を強化しようということが仮にある場合に、先生のいろいろな論文も読ませていただいたのですけれども、おっしゃるように、我が国の国権の発動としての戦争はしないが、国際的な平和をつくっていくためにはもっと積極的に出ていくべきであるという論でございますね。そうした場合に、私も個人的には本当にそう思うのです。

 ただ、国連常備軍ができたとして、自衛隊をそのまま、そこに差し出すか出さないかという議論にすぐなってしまうものですから、では自衛隊の創設以来の歴史性の矛盾だとか、少なくとも冷戦が終わって欧米各国が軍備縮小する中で、日本の場合に残念ながらそうなっていないという問題であるとか、あるいは現実に、憲法をただ守るというのではなくて、もっと積極的に国際社会の中に生かす方向で論議をするという場合に、残念ながら、今の日本の国政の場、政治の世界では、力関係で、そういうあるべき姿に冷静な議論が果たしてできるのかというのが私の実感としてあるのですね。

 ですから、ややもすると、今回もそうですし、湾岸戦争直後もそうでしたけれども、一部の政治家なり政党の皆さんというのは、何かの機に乗じて自衛隊を目立つところに出してしまうという、非常にゆがんだ議論になりかねない。ですから、憲法を生かすということよりも、一番憲法の大事な、基本的なところを壊してしまいかねないのではないかという危険性、危惧を抱いて、どうしても、やはり我が党の場合も、護憲に徹するというところで立ちどまらざるを得ないという現実があるのですけれども、いかがですか。

大沼参考人 私は、それは言ってみれば、鏡だろうと思いますね。つまり、今おっしゃっているのは、自民党の中の一部の人々がそういう口実で自衛隊を強化して、いわば軍事大国化を目指す、だから我が党は護憲というかたい姿勢をとらざるを得ないと。しかし、自民党の方々からいえば、今川さんの社民党が何でもかんでもだめだと言うから、そういうかたい態度をとるから、とにかく今のような機会をとらえてやるべきことをやってしまわないとだめなんだと。

 例えば、私が繰り返し、PKO法の本体業務凍結は、もっと前にやっておくべきだったということを申し上げました。だけれども、それに対しても、例えば社民党は恐らく消極的だったのではないんでしょうか。私は、別に、ずっと社民党の行動を注視しているわけではないですけれども。そういうことも社民党が反対するようでは、やはりこういう機会にやるべきことをやってしまおうという発想が自民党の側にわくのは、私はしようがない、それはまあどっちもどっちだというふうに私には思えます。

今川委員 もう質問時間が終了しました。ありがとうございました。

中山会長 松浪健四郎君。

松浪委員 参考人におかれましては、長時間卓見を御披瀝いただいておりますことに、まずお礼を申し上げたいと思います。保守党の松浪健四郎でございます。

 いろいろな議論が大体重なるような形で行われているような気もいたしますので、私の方からは、ちょっと違った視点からお話をさせていただきたい、こういうふうに思います。

 我が国の人口は一億二千六百万でありますけれども、その中で、外国人登録をされている外国人は百六十万人であります。そのうち、朝鮮半島の方が約六十万、そして中国からは密入国者を含めて約四十万、こういうふうに言われております。したがいまして、中国の方と朝鮮半島の人で百万を占める。あとの六十万の皆さん方は、フィリピンを初め欧米諸国、世界じゅうからお見えになっておるわけであります。

 そこで、国会では、日本が単一民族国家であると言うことは許されておりませんけれども、お許しをいただいて使わせていただきたい、こう思いますけれども、私も、日本は大ざっぱに言えば単一民族国家である、こういうふうに思っております。

 参考人は、「単一民族社会の神話を超えて」という著作がございます。これからの日本を考える上において、やはり単一民族国家としては無理ではないか、現憲法下にあっては、一国平和主義であるとか、あるいは利己的な平和観を持ってずっとやってこれたけれども、二十一世紀を考えたときに、それは破綻を来すのではないのか、そういうふうに私は受けとめさせていただいたわけですけれども、それについてお尋ねしたいと思います。

大沼参考人 私が単一民族社会の神話を超えてということを主張してきましたのは、そもそも、戦後あるいは戦前を通じて、日本は実は単一民族であったことは一度もないのだ、要するに我々の目が、在日韓国・朝鮮人であるとか在日中国人であるとかアイヌの人々の存在を見ようとしてこなかった、黙殺してきた、抹殺してきた、そこに我々の非常に大きな問題があるのだということを主張して、単一民族の神話を超えてということを言い続けてきたわけであります。

 そのことを前提に今の御質問にお答えいたしますと、私は、後半の認識には全面的に賛成であります。日本社会の非常にすぐれた面というのは多々ございます。私は、日本国民の多く、特に知識人が、なぜこれほど自虐的なのかということは、これまで非常に疑問であり、しばしば批判してまいりましたけれども、私の考えでは、日本は極めてすぐれた社会である。これだけ平和で安全で経済的に繁栄し、社会的なサービスが迅速で信頼できる、そういう社会というのは現在の国際社会で本当に数えるほどしかない。私は、これまで米国に三年間暮らして、また、ヨーロッパやオーストラリア、いろいろなところで合わせて一年ぐらい暮らし、また世界じゅうの途上国を回ってまいりましたけれども、日本というのは本当にすばらしい社会だというふうに思っております。

 ただ、私は、そのすばらしい特質を持ったこの日本の社会で大きな問題があるとすれば、その一つは、今松浪議員がおっしゃった、日本人が異質の社会的構成員をなかなか認めようとしない。そのことは、日本社会の非常に大きな弱さ、日本の国力を著しく阻害している。米国がなぜあれだけ豊かな国力を持っているかといえば、その異質の存在を認めて、むしろそれを積極的に活用している、世界じゅうから才能を受け入れてそれを使っている。やはりそういう面がないと二十一世紀の日本はだんだん衰亡していくだろうということを、私は非常に危惧しております。

松浪委員 この国で難民申請をしますと、ほとんど許可されることはありません。したがいまして、参考人のような発想をもってするとしたならば、もう少し寛大な処置があっていいのではないのか、こういうふうな気がいたしますけれども、ある政党は、アフガン難民を一万人ぐらい受け入れるべきだという主張をされております。私は、この主張に対しては、実は真っ向から反対をさせていただくものであります。

 なぜ難民が出たのか、どのようにすれば難民が出ないようになるのか、この議論をまずしなければ、難民の申請許可を容易にするということになりますと、雪崩を打ってこの国は難民王国になり、そして、最終的には我が国もモザイク国家になってしまう、この危険性をはらむ、そういう思いもあります。いずれにいたしましても、私たちは寛容な精神を持って、そして利己的な平和観を持たずに、二十一世紀の国家、これを模索していかなければならない、こういうふうに理解をいたします。

 私どもは、与党の中にイスラム議連というのをつくっておりますけれども、過日、三十数カ国のイスラム関連諸国の大使及び代理大使をお招きいたしまして、そして、テロリストあるいはテロリズムの問題について御意見を伺ったわけでありますけれども、大使が一様に言われたことは、テロの定義、概念をはっきりすべきだ、それをきちんとみんなが相互の理解を深めなければならないという発言をされました。そして、この前のAPECでも同じような問題が出ておったわけですけれども、これはまさに目からうろこでありまして、私たちは、テロといえば世界じゅうの人たちが共通認識を持っておる、こう思っておったのが、そうではなかった。そこで、そのことについて参考人にお尋ねをしたいと思います。

大沼参考人 前半部分と後半部分について、それぞれお答えしたいと思います。

 私は、前半部分については、これも日本が八〇年代後半以来議論を深めて、二十一世紀の、より多民族的な日本に社会をつくりかえるための努力を怠ってきたツケが今来ているのだろうというふうに思います。

 一九八〇年代の後半に、いわゆる開国論と鎖国論ということがジャーナリズムをにぎわしたということは御記憶があろうかと思いますけれども、私はその中で、いわば漸進的な開国論というものを主張して、その根拠は、一つは今松浪議員がおっしゃいましたように、一挙に開国すればこれは大変な混乱になる。日本社会で非常に根深い異質性の排除、在日韓国・朝鮮人問題などに見られる差別感情というものを放置したままに安易に開国すべきではない。しかし他方で、長期的には、先ほど言ったような理由から、日本はいずれにせよ開国していかなければならない、それを私は今も主張したい。

 私は、アフガン難民を一定程度受け入れるべきである、ただ、それが社会的な非常に大きな混乱を起こさないで、日本国民が拒否反応を示してしまうような形ではなくということは、おっしゃるとおりだろうと思います。

 それから、後半部分でありますけれども、これは私がきょう一貫して申し上げておりました、先進国のメディア、先進国の政府の主張だけで国際社会を理解してはならないということに通じるわけでありまして、例えばビンラディンは、米国の、イスラエルのような行動をほうっておくことこそがテロリズムだという言い方をしているわけです。もちろん、イスラム諸国、アラブ諸国はビンラディンの主張を支持しているわけではありませんけれども、先ほど申しましたように、そういう主張を支持する民衆レベルの声はかなり強いものがあるわけでありまして、現在イラク以外はすべての国が米国の行動を支持している、そういう世界の政府の支持というのは非常にシンサポートである、非常に支持の基盤が薄い、いつひっくり返るかわからない、そういう支持であるということが、今松浪議員のおっしゃった、テロリズムの定義自体が、先進国と非常に多くの差別されてきた途上国との間では違うということかと思います。

松浪委員 たくさんのことをお尋ねしたいわけでございますけれども、限られた時間でございますので、順序立てて質問をしていけばよかったんですが、時間がございませんので、最後のところをお尋ねしたいんですけれども、テロリストに勝利できてもテロリズムに勝てない、そのように私も思います。

 そこで、今回アメリカが軍事行動をアフガニスタンで起こしておるわけでありますけれども、軍事的にアメリカは勝利できても、国際世論、国際政治にアメリカが勝利できないのではないのか、私はこういう危惧を抱くものであります。つまり、それは泥沼化の方向に陥らないか、そして、そうなってしまえば必ずアメリカは国際政治に敗北を喫する、私はこういう懸念を抱いておりますけれども、参考人は、その考えにいかがお考えでいらっしゃいましょうか。

大沼参考人 私もその危惧は共有しております。のみならず、私は、泥沼化というのが、アフガニスタンにおける軍事行動の泥沼化ばかりではなくて、我々先進国の住民が、これから十年、二十年と常に生物兵器、化学兵器にびくびくしながら生活を送らなければならなくなる。

 そういう意味で、米国は、恐らくある時点で、国内向け、国際向けで勝利宣言をして一定の形はつくるでしょうし、そこで平和が回復したということは主張するでしょうけれども、そこで回復された平和なるものは、一般市民にとって非常に危険の高い、じくじくとした生物兵器や化学兵器によって自分の安全が絶えず脅かされて、その神経戦に耐えなければならない、そういう意味では、人間の安全の水準が非常に下がってしまう、そういうかぎ括弧つきの「平和」なのではないか。

 それを回避するためには、もちろん、そういう事態はいかなる努力を払ってもある程度はやむを得ないこれからの時代で、それは我々が甘受しなければならない時代というものだと思いますけれども、その程度を低くする。一般市民の被害をできるだけ、一万人よりは五千人、五千人よりは三千人という低水準に持っていくためには、何といっても、米国の軍事中心的な行動を、これから後の復興、貧困の格差の是正、それから宗教的憎悪の減少、そういう方向にいかに向かわせることができるか、ひたすらそこにかかっているというふうに思います。

松浪委員 時間が参りましたので、これで終わります。どうもありがとうございました。

中山会長 近藤基彦君。

近藤(基)委員 21世紀クラブの近藤と申します。

 長時間、大沼先生には本当に貴重な御意見をお聞かせいただきまして、ありがとうございます。最後の質問者ですので、もうしばらくおつき合いをいただきたいと思いますが、いつも最後の質問者でありますので、大体議論が出尽くしてしまうのがちょっと私の悩みの種で、ちょっと別な視点からお伺いをさせていただきたいと思います。

 先生は東京大学の教授ということで、若い人間の教育に当たられているということでありますが、この夏、憲法調査会で私も海外派遣議員の一員として調査に参加をさせていただいて、モスクワからイスラエルまで訪問をさせていただいて、そのときに私自身が一つのテーマを持って参加をさせていただいた。

 そのテーマというのは、教育の現場で憲法がどのように扱われているのか。初等中等教育あるいは高等教育ぐらいの中で、大学の専門の憲法ということではなくてですね。というのは、憲法論議をするに当たって、いかに国民にこの憲法が理解をされているのか、国民なりの、読んだことがあるのかからまず始まるのだろうと思うのですが、各国のそういった教育現場の中で、憲法が例えば教科書の中でどう扱われているのか。今頼んであって、まだ結果が出てきていませんので、ほかの国のことは言えませんけれども、日本国内ではほとんど、私自身、過去を振り返って、憲法そのものを読んだことが果たして学校であったかなというと、甚だ疑問に思う一人であって、大変申しわけないのですが、この憲法調査会に参加をさせていただいてから具体的に読んだのかなと。

 先生のそういった憲法のとらえ方、教育の中で憲法をどういうふうな形で指導していく、あるいは教科書の中でどういうふうな形でとらえられていく、あるいはとらえなければならないのか、あるいはそれは社会に出てからでもいいのか、漠然としていますけれども、その辺、お考えがあったらお聞かせいただきたいと思います。

大沼参考人 近藤議員の御体験は、恐らく日本の一般市民の共通の体験だろうというふうに私は想像いたします。もちろん、憲法に日本の国民一人一人が早い時期から親しんで、これを知っておかなければならないということはそのとおりでありまして、そのために、やはりさまざまな工夫を凝らす必要があるだろうというふうに思います。

 そういう意味で、私は、憲法の条文を抽象的に、平和主義、国民主権、人権の尊重というような形で教えるよりは、もっと具体的な事件に即して教えるということを現場の先生方がやっていただければなというふうに思うわけです。

 例えば、今回のこういう九月十一日事件が起こった際に、米国がアフガニスタンのタリバン政権を攻撃している、それに対して小泉内閣はこれを支持する、そういう場合に、一体、九条はどういう意味を持つのかという形でありますとか、あるいは、この間靖国問題が生じたときに、日本の中で、憲法の前文、それから九条ができた経緯、それは日本が第二次大戦を戦ったからだ、第二次大戦で日本は侵略行為を行って、中国で一千万人以上の人を恐らく殺した、そういう背景があって、なぜ中国があれだけ反発をするのかということが理解できる、そこで日本の憲法の前文と第九条の意義づけがわかるとか、そういう少し具体的な形で教育を行って、憲法の意識を普及させるべきではないかというふうに常日ごろは考えております。

近藤(基)委員 あわせてでありますが、戦争責任と国際貢献、分けてというか並行的に考えるべきで、それを一緒くたに考えるべきではないというお話、九条を国際公共的な部分で大いに活用すべきだという先生の御意見でありますが、ことしの前半に大変な歴史教科書問題というものが勃発したというか、教科書検定という問題もあるのですが、周辺各国からの非難がかなり集まった。

 これは非常に難しい問題で、先生は先ほどから、戦争責任に関しては、NGOもすべて含めて、とにかく発信をしていく、発信し続けていくことが必要だとおっしゃっています。教科書の中で戦争責任を扱う、あるいは扱うこと自体も私自身は余り賛成ではないのですが、扱うこと自体、周辺国に発信をしたという一つのプレゼンテーションになるのかどうなのか、その辺お考えがあったらお聞かせください。

大沼参考人 私は、一国の歴史というのは、特に近現代史になりますと、他国とのかかわりなくては理解できないという性質を持っていると思いますので、日本が行った第二次大戦、その結果として例えば中国やフィリピンその他の国々にどれだけの被害をもたらしたのか、それを生んだ日本の戦前の体制というものはどういうものであったのか、そういうことをきっちりと教えるということは、また、そういうことを教えているということを発信すること、これは極めて重要だろうというふうに思います。

 私、先ほど、九月二十六日から十月七日まで中国へ行ってきたと申しましたけれども、そこで、当然のことながら、教科書検定の問題が非常に中国側から何度も何度も提起されまして、そこで出てきた共通の意見というのは、なぜ日本政府はああいうけしからぬ教科書を検定で通すのかという意見でありました。

 私は、それは全く違う、それはあなた方が日本の憲法のあり方をわかっていない、日本は、たとえ教科書の内容を政府の責任ある人がけしからぬと考えたとしても、それを検定でそういう内容に立ち入るということは非常に重要な人権を侵すことであって、表現の自由を侵すことであって、それは許されないことなんだ、それは中国側としても理解すべきであるということを言いました。

 私が非常に印象的だったのは、韓国の学者が二人おりまして、私がそういうふうに日本の立場を説明していた後で発言してくれまして、自分は韓国の教科書と日本の教科書を比べたことがある、日本の教科書の方がはるかにましである、韓国の教科書は日本の教科書よりももっとずっとナショナリスティックで好ましくないということを、一人の韓国の学者が言ってくれました。

 もう一人の韓国の学者は、私の言うように、思想、表現の自由を守るということがいかに大事であるか、それは韓国が民主化して自由を守っていくという上で非常に重要だと考えている、中国も、今は政府が自分の気に入らない表現の自由を弾圧するということをやっているけれども、将来そういうふうになるだろうということを言ってくれました。

 この韓国の学者二人は、韓国の中で極めて良質な学者であって、そういう客観的な冷静な評価をしてくれたわけですけれども、やはり、日本としては、私もあの、いわゆるつくる会がつくった教科書自身は、個人的には非常によくない教科書だと思いますけれども、しかし、それを検定で禁止するというようなことは日本としては決してすべきではない、また、そうしてはならないということを諸外国にもきっちりと説明し、発信をする。そのことは、別に日本政府があのつくる会の教科書の歴史認識を共有していることでは毛頭ないという発信を絶えず続けることは極めて重要だろうというふうに思います。

近藤(基)委員 あと五分ということで最後の質問になるだろうと思いますが、私自身は、きょう安全保障の問題ということなんですが、教育が将来においての最大の安全保障だと思っていますので、教育の問題、ちょっとお聞きをしたのです。

 先ほど今川議員の方から国連に関していろいろな質問が、もしかすると重なるかもしれませんが、先生の場合は、PKO活動あるいはそういった公共的な価値の高い国際活動に積極的に自衛隊そのものも参加をしていくべきだとおっしゃっていましたけれども、例えばPKO、あるいは将来的において国際救助隊とか恐らくその辺まで視野に入れておられるのだろうと思うのですが、湾岸のときに多国籍軍というような形がありました。これは、先ほど今川議員は、自衛隊を出す、参加させるという意味なのかちょっとよくわかりませんが、国連が独自に軍を持った方がいいとお考えなのか、それとも多国籍軍という形で、何か破壊活動があったようなときに組織をした方がいいとお考えなのか。常時、国連軍というものを、ある程度の軍事組織として国連の傘下で持っていた方がいいとお考えなのか、ちょっとその辺のお考えをお聞かせいただきたいと思います。

大沼参考人 私は、理想的には、国連軍という形で各国が緊急の事態に対応できる部隊を持っておくことは、これは大変望ましい。例えば、皆様も御記憶かと思いますけれども、ルワンダの内戦で五十万以上の人が虐殺されたわけです。あのときに、結局、国連も米国も欧州も、もちろん日本も介入しないで、みすみす五十万以上の人が虐殺される。そういう場合に、国連が待機部隊の形で強制的に介入できる部隊を持っておけば、初期の段階で迅速に介入できる可能性はある。そういう意味では、あった方がいいことは当然であります。

 ただ、現実の選択肢として、そういう国連軍を現状のもとで組織することができるか。PKOは別ですよ。PKOに対しては各国が待機部隊を持つという制度が既にありますので、PKOは別ですけれども、実際に武力行使をする、国際公共価値を背負って武力行使をして、武力を鎮圧する、そういう国連軍を今各国に待機部隊として持たせることができるかといえば、これは私は、非常に非現実的で、将来の理想としてはそういう方向を目指すべきだけれども、現在のところでは、先ほど私が言った、より少ない害悪を甘受するという意味では、多国籍軍、国連の安保理の許可を得て、米国を中核としていろいろな国が参加して、日本ももちろん参加する多国籍軍を湾岸戦争のときのように展開させるということが、比較的難点の少ない、現実的な対応策だろうというふうに思います。

近藤(基)委員 もう一問だけ。

 仮定の話で申しわけないんですが、現状の段階で、例えば湾岸戦争のようなものが起こった場合、今先生がおっしゃったように、多国籍軍にもちろん日本も参加をするという、多国籍軍そのものに参加ができるとお考えですか、武力行使云々という話もありますけれども。

大沼参考人 九条の解釈について、私がこの会でずっと申し上げていたような解釈をとれば、もちろん可能です。ただ、現在の内閣法制局の解釈をとる限りでは、もちろんそれは無理だということになると思います。

 自衛隊自身が、そういう多国籍軍の一員として実際的な行動ができるかどうかという点については、私はある程度のことはできるだろうというふうに思っておりますけれども、軍事の専門家ではありませんので、その点は控えます。

近藤(基)委員 どうも長時間ありがとうございました。

中山会長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、一言ごあいさつを申し上げます。

 大沼参考人におかれましては、貴重な御意見を長時間お述べいただきまして、まことにありがとうございました。調査会を代表して、心から御礼を申し上げます。(拍手)

 午後二時から調査会を再開することとし、この際、休憩いたします。

    午後零時九分休憩

     ――――◇―――――

    午後二時二分開議

中山会長 休憩前に引き続き会議を開きます。

 日本国憲法に関する件、特に二十一世紀の日本のあるべき姿について調査を続行いたします。

 本日、午後の参考人として拓殖大学国際開発学部教授森本敏君に御出席をいただき、国際連合と安全保障について御意見をお述べいただくことになっております。

 この際、参考人の方に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただき、まことにありがとうございます。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたいと存じます。

 次に、議事の順序について申し上げます。

 最初に参考人の方から御意見を四十分以内でお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。

 なお、発言する際はその都度会長の許可を得ることになっております。また、参考人は委員に対し質疑することはできないこととなっておりますので、あらかじめ御承知おきお願いいたします。

 御発言は着席のままでお願いいたします。

 それでは、森本参考人、お願いいたします。

森本参考人 本日、憲法調査会の場にお招きをいただき、大変光栄に存じます。

 私は、安全保障を専門としておりますので、本日は、二十一世紀のあるべき姿を、特に国際社会、とりわけ国連との関係において、安全保障の側面から二十一世紀の日本のあるべき姿について申し述べ、最後に、幾つかの今後の我が国が直面する課題について申し述べてみたいと思います。

 言うまでもなく、冷戦が終えんいたしましておおむね十年を経過し、この間、国際社会は冷戦後の秩序を模索してまいりましたが、依然として、その姿について、明確な新しい秩序についての結論を得るに至っていないと思います。この間、サミュエル・ハンチントンの文明の衝突といった幾つかの注目すべき議論が出てまいりましたが、しかし、これとて、冷戦後の国際社会の秩序を意義づける、あるいは定義づける新しい論理にはなり得ていないと思います。

 しかるに、現実社会はどんどん進みますし、また、この十年、実際の国際社会を見るに、二つの新しい変化が生じつつあると考えられます。

 その一つは、この十年、米国のみがぬきんでて支配的な影響力を持つ、いわゆる米国の一極制という世界になりつつあることでありますが、同時に、国際社会は、いろいろな問題について多国間協力を進め、これによって国際社会の平和と繁栄を維持しようと努めております。すなわち、第一に申し上げたい点は、この米国による一極制と多国間協調主義あるいは多国間協力主義との調和をいかにして図るかということに、この十年、国際社会は努力をしてきたと言えるのではないかと思います。

 これがどのような形になるのかということについては、後ほど、今回のテロ事件及びこのテロ事件に対する対応の結果、この米国の一極制に与えるインパクト、インプリケーションについて簡単に申し述べたいと思いますが、それがまず私が申し上げたい第一点です。

 もう一つは、この間、世界のグローバル化というものが急速に進展したことについては御承知のとおりでありますが、グローバル化にはいわばよい面と悪い面とあって、よい面は、我々の生活をより安定し、豊かに、そして安全にするわけですが、同時に、グローバル化には影の部分があり、それが今日、例えば、地域紛争の広がりあるいは大量破壊兵器の拡散、今回に見られるようなテロの広がり、環境問題、経済格差、難民あるいはエイズのような伝染性の疾患と、いろいろのマイナス要因が国際社会の中に広がりつつあり、国際社会は、このグローバル化の光と影をいかようにして調和し、マネージしていくかという問題に直面していると思います。

 さて、アジアもこの例に漏れず、今申し上げた、いわゆるアメリカのぬきんでたユニラテラリズムとマルチラテラリズムをどのように調和させるのかという問題、そして、グローバル化の光と影の部分をどのように調和するのかという問題に直面していますが、とりわけアジアは、その中で多様性という性格を持っており、さらに、中国の将来がアジアの平和と安定にいかなる影響を与えるかという、深刻かつ重大な課題を我々は持っていると思います。

 したがって、アジアは、その他の地域といささか異なっておりまして、巨大な中国、そしてインドという、およそ今世紀の中ごろには三十億になんなんとする人口を抱える大国二つを持っており、この二つがともに核保有国であるということがアジアの将来に極めて重大な問題を投げかけていると思わざるを得ないと思います。

 この二十一世紀の国際社会がいかようなものになるかということについては後ほど簡単に触れますが、まず、概観を以上のとおりお話をし、その次に、今回の米国で発生した同時多発テロ事件と、これに対する米国を中心とする対応が国際社会にどういう影響を与えるかということについて簡単に述べたいと思います。

 言うまでもなく、九月十一日の同時多発テロ事件は、米国にしてみれば、単なる警察機関が取り締まるような犯罪というカテゴリー、次元を超えた、主権国家として個別自衛権を行使しなければならないような事態であると考えていると思います。したがって、米国は国連憲章第五十一条に基づく個別自衛権を行使してこれに対応しようとしており、NATO諸国は、同盟国米国に対する明白な攻撃があったものとみなして、集団的自衛権を行使してこれに共同歩調をとろうとしていることは御承知のとおりであります。

 しかし、この場合、米国の個別的自衛権の行使というものには二つの課題があり、一つは、一体、主権国家でもないこの種のテロという集団に国家が個別的自衛権を行使できるのかという国際法上の問題が第一です。

 もう一つは、自衛権とは急迫不正の侵害があった場合、これを排除するために国家としてとらざるを得ない必要最小限度の対応措置でありますが、かかるテロ行為が終結して、今日テロ行為が持続していないという状況があった場合、このことをもって個別自衛権を行使して他国に対する武力攻撃ができるのかという問題については、米国は、今回のテロ事件を起こした主犯がアフガニスタンのあるところに現に現存している限り常に急迫不正の侵害があり得るとみなして、個別自衛権を行使し得る事態であると考え、今回は個別自衛権を行使して、武力を使ってアフガニスタンの中のいわゆる国際テロ集団に対する軍事攻撃を続行しているものと考えます。

 この軍事作戦がいかような推移を今後たどるかについては、私個人、ある種の推測を持っておりますが、本日の課題ではないので、ここは控えます。

 問題は、この一連の作戦は、自分の解釈では、つまり第一期の限定的な目標に対する限定的な作戦にすぎないということであり、その次の段階として、第二期に、戦域を拡大する次の段階の作戦がいずれの時期にか大統領の決断によって行われ、さらに戦域を広げて作戦が続行されるのではないかと考えます。

 問題は、この種の一連の軍事活動が終結した後、米国のこの種の対応措置が国際社会の秩序と国連の将来にいかような影響を与えるかについてであります。この点について、二つ申し上げたいと思います。

 第一は、冒頭申し上げた米国のユニラテラリズムとマルチラテラリズムとの相関関係において、もしアメリカがこの一連の作戦に成功すれば、米国はユニラテラリズムがますます強化され、アメリカは国際社会における相当多くの分野におけるリーダーシップがさらに強化され、アメリカの協力、アメリカの支援なくして国際社会の諸問題を解決できないという重要な位置を占めるに至ると思われることであります。その点について言えば、アメリカのユニラテラリズムというのは今世紀末まで続き、恐らくアメリカが圧倒的に支配的な影響力を持つに至るであろうということです。

 他方、この軍事作戦に何らかアメリカが傷つき、軍事力を撤退しなければならないような事態にもし至れば、アメリカは、このユニラテラリズムというものを捨て、国際協調主義から退き、再び孤立主義へ回帰するという可能性があるということです。私は、同盟国の一員としてこのような事態を望みません。これが第一です。

 もう一つの問題は、冒頭申し上げたように、国際社会の冷戦後における秩序は、ハンチントンの言う文明の衝突論が必ずしも国際社会の中で通用していないにせよ、今回の事件は、明らかにイスラムと反イスラムの対立構造が現象として出ているということであります。米国は、これを宗教戦争ではないと説明をし、一連の軍事力を行使しているわけですが、しかし、このことは、将来、米国が持っておるある種の価値観、我々の言葉で言えば、法と正義に基づく秩序あるいは民主主義あるいは自由あるいは市場経済体制といった、我々が日々目にする米国の価値観を共有することのできる人々あるいは国々と共有できない人々、グループに、ゆっくりと国際社会の秩序が価値観というイデオロギーに基づいて構成され、新しい秩序がそのような形ででき上がる可能性があると思われます。

 したがって、この行方は、いずれにせよ、米国が今後行う軍事作戦がどのような形で終結し、米国が本来持っている作戦目的を達成し得るかどうかということによって、米国のリーダーシップと米国のユニラテラリズムというものが今後どのような形に残って、冷戦後の秩序がゆっくりと形成されるかどうかの分かれ道が来るということであり、その点で、米国が今日いわゆる主導的な役割を果たしつつ行っている軍事作戦の行方は極めて重要な意味を持ち、影響を持つと思わざるを得ないことであります。これが、現在我々が直面している一連のテロ事件及びこのテロ事件に対する対応措置が今後の国際社会に与える影響です。

 ついでながら言うと、国連との関係について言えば、今回、冒頭申し上げたように、米国は、国連安保理決議によらず、個別自衛権を行使して一連の軍事活動を行っており、国連が本来果たすべき役割というより、むしろ米国を中心とする同盟によって問題が解決されるという事態が今後とも続くのであれば、国連は本来持っている役割と機能を低下させざるを得ない、されざるを得ないと思います。その意味において、この米国の作戦も国連の将来に非常に大きな意味を持つと思います。私は、どちらかというと、国連の将来、国際社会の平和と安定のために果たすべき役割と機能について、楽観的に見てはおりません。

 さて、以上申し上げたことが日本の今後の安全保障課題にいかなる影響を与えるかということと、この問題が憲法との関係においていかような意味を持っているかということについて、最後に結論部分として申し上げたいと思います。

 第一に、日本という国が今後国際社会の中で重要な役割を果たすとき、日本という国の国家のあり方というものがまず問われているわけですが、戦後我が国の国家の政策は、どちらかといえば憲法を中心とする法的枠組みの中で何ができるかということを中心に政策が論じられ、国家としてどのような戦略があり得るのか、どのような政策をとるべきなのか、どのような政策をとるのが我が国の国益に合致するのかという視点がいささか欠落していたように考えます。

 それは、戦後の日本の国のありようの中で、やはり国益という概念あるいは国家観というものを余り明確な形で出さずに国家の政策や戦略を論じ、かつまた政策を立案、実行してきた弊害がここに来ているのではないかと思います。

 この際、我々として考えるべきことは、主権国家というものが二十一世紀末もなくなることはないということを前提に考えれば、国家として明確な戦略をまず打ち立てて、その上に立って個々の法的な枠組みや政策を論ずることが最も健全でかつ正しい道なのではないかと考えます。この点が私が申し上げたい第一点です。

 その次に、今申し上げたように、そもそも我が国の政策は、基本的な戦略、これは国家目的、国家価値、その国家目的と国家価値を最も効果的に遂行、達成するための国益、そして国益を実践するための戦略、こういう基本的な国としての要素がどちらかというと余り議論されずに、先ほど申し上げたように、憲法の枠の中でどのような政策が現実問題としてとり得るのか、ぎりぎりまで憲法の解釈を突き詰めてみれば何ができるのかという点に立脚して政策が議論され、あるいは法案が議論されてきたことが、今日我が国の個々の政策を非常に行き詰まらせているのではないかと思います。

 例えば、今回のテロ問題についても、我が国の対応措置を考えるときに、まず今回のテロ特別措置法案を通さなければいろいろなことができない。つまり、何かするときに法律をまず通さないとできないという先進国は世界の中で余り例がないわけでありまして、このことは日々、我々の法的枠組みが現実の政策をとり得る柔軟な枠組みには必ずしもなっておらず、事態が起こるたびに法案が新しくつくられるという問題を我々が抱えているということなのではないかと思います。

 したがって、これを突き詰めて考えると、安全保障上の政策というものを考えた場合、政策上の与件となっている基本的な法的政治的制約をこの際根本的に見直す必要があると思います。でき得れば、憲法を改正する前に、現在の憲法のもとで国家の安全保障に係る基本法を制定することが望ましいと考えますが、しかし、それも現在の憲法の枠の中でしかできませんので、やはり突き詰めて考えると、憲法第九条の、特に第二項を改正し、自衛権を明記して、自衛力の保有と国家の危機管理に関する内閣総理大臣の責任と権限を明確にすべきであり、その際、加えて国民の権利義務を明確にするということによって、国家の安全保障に必要な法的枠組みを確立させることが必要なのではないかと考えます。

 この二つのことができれば、我が国の外交というものについても、今までどちらかといえば、外交政策というものはあるのでございますが、外交戦略というものは必ずしも国民に十分わかりやすく説明されてきていない弊害があり、この点についても必要な問題を十分に突き詰めて、あるべき姿を考えてみると、外交政策については、当然のことながら、日本国が持つ国益を明確にし、特にその中でもアジアに関する基本的な戦略、そして国連を中心とする国際協力についての戦略につき、明確な国益追求の観点から、総合的な国家戦略を再構築すべきであると考えます。

 以上のことを考えるときに、もう一つ我が国に欠落しているのは、そもそも同盟という選択を戦後我が国が行い、そして我が国の国家の安全保障を日米同盟に深く依存して今日まで国家の繁栄と安定を維持してきたわけですが、この日米同盟というものと日本の国家の持っている防衛力との相関関係をどのような形にするのかということについて必ずしも十分な説明が今までできておらず、この点についても今後、もう一度脅威の見積もりと、そして冷戦後の新しい国際環境を再検討して、日米防衛協力をより強化するという観点から、同盟戦略を再構築する必要があるのではないかと思います。

 その際、米国の戦略が今回のテロ事件後にかなり劇的に変化する可能性があり、米国の国防戦略の変化を冷静に見きわめながら、日米同盟の将来像について、日本として明確な像を描きながら、今申し上げた日米防衛協力と日本の国家の防衛戦略との関係を明確にしていく必要があると思います。

 御案内のとおり、日米安保条約と日本の自衛隊法を中心とする防衛関係法には法的にも直接の関係がなく、双方に余り明確な言及がないという不思議な法的な枠組みにずっとなっているわけでありますけれども、本来であれば、日米安全保障条約の中に日本の国家の防衛のあり方との関連が明記されており、また、日本の自衛隊法の中に、日米安保条約との関連について、日本のあるべき防衛戦略が書かれているのが当然であると考えます。

 冷戦期を長く無事に過ごした我々の先人の知恵というものが今日我が国の平和と安定を維持していることは明白でありますけれども、日米同盟を補完する側面を持っている部分の防衛力については、今後は米国は必ずしも我が国周辺の問題に十分な国益を見出さない可能性もあり、その際は、我が国がより独立完結性の高い防衛力を保持し、この保持した防衛力を日米同盟とどのように関連づけるかということをもう一度見直す必要があり、その際、現在我が国が持っている防衛大綱を、もう一度新しい環境と米国の国防戦略に基づいて再構築する、見直しを行う必要があるのではないかと考えます。

 戦後、日本は、今申し上げましたとおり、米国との同盟関係を選択し、安定と繁栄を確保してきましたけれども、思うにこの半世紀、日本の中では、占領政策の負の遺産を多く抱え、また、先ほどからるる御説明申し上げているとおりの憲法上の枠組みあるいは憲法上の与件というものが、国家の発展や日本の社会の現状にひずみをもたらしつつあります。したがって、これを抜本的にこの際改革しなければならないと思います。

 現在、日本はあらゆる種類の改革を進めておりますが、その最後の改革とは安全保障改革ではないかと考えます。また、その際、国家のあり方あるいは国家像について明確な目標を描くことが必要であり、将来の国力がどのような推移をたどるのかということを十分に予測して国益を明確にし、そして日本のあるべき姿を具体的に展望し、日本がアジアの中でいかような国として今後存続していくべきかということを国民的議論を通じて行いつつ、我が国の国家戦略を模索する必要があるのではないかと考えます。

 以上申し上げたことは、すなわち二十一世紀の日本というものが今後直面する問題と、そしてその問題の中でどのような課題を日本が抱えるかについてであります。

 しかしながら、先ほど申し上げたように、繰り返しになるわけですが、現在アメリカが行っているテロ対応措置としての一連の軍事作戦は、単なる軍事作戦ではなく、米国の国家戦略あるいは国防戦略や、場合によってはアジア太平洋における基本的な米国の戦略並びに国際社会の新しい秩序に与える影響が極めて重大であると考えますので、この一連の軍事作戦の成り行きを十分によく分析して、これが我が国の国益に与える影響をさらに綿密に調べた後、我が国として新しい時代に対応できる国益をもう一度定義し直して、我が国のあるべき姿を模索することが望ましいのではないかと思います。

 その日本のあるべき姿を考えれば、憲法の問題はその結果として出てくる結論部分でありまして、憲法をどうするかというより、まず国のあるべき姿をどのようにするかということが先に論議され、先に結論が得られるならば、憲法をどのようにして今後見直していくかはむしろ法的なテクニカルな問題にすぎないと考えます。

 以上が、私が本日与えられた課題について、参考人として特に申し述べたい諸点でございます。

 以上でございます。ありがとうございました。(拍手)

中山会長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

中山会長 これより参考人に対する質疑を行います。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。伊藤公介君。

伊藤(公)委員 自由民主党の伊藤公介でございます。

 外交、防衛、安全保障の専門家として森本先生から大変有意義な御報告をいただきました。いろいろ参考にして、私どもの今後の活動に生かさせていただきたいと思います。

 まず、具体的な御質問をさせていただく前に、ちょうど今、私たちの国会では、参議院で特措法の審議を進めているところでございます。これは恐らく、かつての五五年体制のような状況ではもっと対立的な法案になったと思いますが、私が想像する以上にスムーズに審議が進んでいますし、やはり国際情勢や置かれている状況が非常に大きく変化してきた。そしてまた、審議を通じて、これまで安全保障とか我が国の防衛という複雑な難しい歴史を抱えてきた問題を、これまでのような内閣法制局の答弁ではなくて、総理みずからが非常にわかりやすい言葉で、国会からメディアを通じて国民の皆さんの理解を深めてきたということも大きな要因であろうと思いますけれども、多くの国民の皆さんが日本の安全保障ということを非常に身近に理解を深めていただいているのではないかというふうに私は思っております。

 そこで、これまでの法律とは違って、新しい法律を私たちは二十一世紀の初めこの国会で成立をする運びでありますが、森本先生はこの法案について率直にどのような御感想を持っているかを伺いたいと思います。

 私は、たまたま今度のテロ事件のときにアメリカのシカゴにおりました。そして二日半後のニューヨーク、現地に行ったわけでありますけれども、文字どおり、報道でもありましたように、アメリカの現地は戦争前夜というのが率直な印象でございました。私は、帰ってきて、日本のこの新しい法律の審議を身近にしながら、恐らくアメリカの大統領や政治家は日本のこの国会の議論がわかると思いますが、アメリカの国民や多くの世界の人々は本当に理解できるだろうか。私は、世界の常識が日本の常識になるように、新しい時代にしっかりとした法律をつくり、また、我が国の安全保障ということを国民の皆さんの深い理解の中でさらに進めていかなければならないという率直な実感を持っているものでございます。

 今度の法律の中では、これまでありました周辺事態法と基本的にそんなに大きくは変わりませんけれども、例えば武器の輸送に関しましても一歩前進をしたと思います。しかし、それが、他国の領海はいいけれども陸はだめであるとか、どこまでがいわゆる武力行為と一体であるのかないのか、今度のテロ事件のような問題を含めますと、一体どこまでが後方でどこからが前線なのかという区別ができるのだろうか。そして、憲法が非常に大きな問題になってきたということを私たちは身近に感じます。

 そういう意味では、この憲法調査会の審議というものはさらにスピードアップをしていかなければならないという実感を私は持っているわけでありますが、それらを考えながら、今度の新しい法律の国会の審議などについて、御専門の立場から、森本先生から率直な御感想をまず伺いたいと思います。

森本参考人 今回のテロ事件について、日本人として、あるいは日本として考えるべき基本的な認識というのは、二つの側面によって構成されていると思います。

 一つは、要するにこれは他人事ではないということであります。すなわち、今回のテロは、総理が日々強調されているように、まさに文明社会に対する攻撃でありあるいは挑戦であり、したがって国際社会全体への挑戦であり、我々はこれを他人事として受けとめてはならない。この問題に国際社会が対応するのであれば、日本は日本として主体的にこれに協力し、積極的にこれに支援をするということは国家として当然であり、そのようなことがなければ、日本といえども、テロを受けたときに諸外国は助けてくれないであろう。したがって、我が国としては力強い支援と協力を他人事と思わず積極的に行うべきであるという側面です。

 この点を突き詰めて考えると、一言で言うと、これはある種の国際協力という言葉に尽きると思いますが、この点については国内の世論が、一連の日本が今後行おうとしているいろいろな国際協力、これは復興支援であれ難民支援であれ、あるいはこの特措法に基づく被災民の救援であり、あるいは南西アジアの安定のためのいろいろな経済協力等、いわゆる非軍事の面での国際協力に強く支持をしていることは御案内のとおりです。

 しかし、この問題にはもう一つの側面があり、それは、とはいいながら、今回のテロ事件の被害を受けたのは現実問題としてはまず米国あるいは米国民であり、その米国民がここまで精神的な打撃を受け、物理的に打撃を受け、そして今日でもまだ戸惑い、怒り、苦悩し、そしてテロに対応するために多くの犠牲を払って先頭に立って闘っているこの同盟国を、今日、同盟国の日本として助けなければ日米同盟の将来はないという考え方であります。この点を突き詰めて考えると、これは日米同盟協力という点に集約されると思います。

 総理の七項目は、まさにこの国際面での協力と同盟協力という要素が二つ極めて適切な形で盛り込まれており、私は、総理の七項目にわたる対応措置は大変適切でよいものと考えます。これを実行するために幾つかの措置をとらなければならないに際して、今回テロ特別措置法案が議論されていることは、先ほど申し上げたように、いささか、平生から国家としてもう少し法的な枠組みが、つまり包括的な法的枠組みがあればこのようなことをやらずに済むのですが、残念ながらそのようになっていないので、したがって立法府の中で大変な御努力をされて立法の手続が行われていることを我々は大変高く評価していますし、また、国民は非常に強い関心を持って見ていると思います。

 この法案の中身について、私は幾つか感ずるところがあるのですが、一番強く感ずることは、現在の日本の憲法の枠の中で、従来いわゆる集団的自衛権問題や武力行使の一体化論として行われてきた議論の中で、おおむねできる限界に来ているのではないかと感ずることです。裏返して言うと、これ以上のことをやるならば、もうここから先は憲法を議論していただかないと困るということです。つまり、現在の憲法の枠の中でできることはもう大体限界に来ているのではないかと思います。

 個々の問題を余り事細かに議論する考えはありませんが、二つだけつけ加えて申し上げれば、武器使用というものについてですが、これも日本の非常に大きな特色なのですが、軍隊が武器を使用するために国内法で何らかの規制があるというのは非常に例外的な国でありまして、本来、武器というのは、軍がその作戦目的を達するため、いかなる武器であれ、いかなる使い方であれ、軍の本来の目的のためには許されるわけであり、国内法によってこれが規制されるというのは極めて例外的な場合に限られると思います。

 国際条約によってある特定の兵器、武器が使用を禁じられたり、あるいは非人道的な使い方ができないようになっているのは、これは条約及び協定上の国際法上の問題でありまして、これを遵守するために国内法が整備され、批准に必要な国内法があるという国はもちろんありますけれども、日本のように、武器を使用することについて、いわばネガティブリストの形で国内法が制定されているというのは、ミリタリーの活動をするものとしてはやや不自然なものを感ずるわけです。

 将来のことを考えると、軍には任務を与え、そして目的を与え、そして、それに必要な武器の使用は指揮官に最大限の権限を委任するというのが本来のありようではないかと考えます。それが第一です。

 もう一つは、国会承認についてです。

 国会承認について、ずっと衆議院の特別措置法案の審議の過程の中で行われてきた議論については、私の答えはイエス・アンド・ノーであります。すなわち、どういうことかというと、これは別にアメリカの戦争権限法を例にとる必要はありませんけれども、自衛隊が海外でこの種の活動を行うときに、立法府が事前に十分な審議を行い、承認を得ていただくのは、本来、民主主義のルールからして、シビリアンコントロールの原則に合致するものだと考えます。

 しかしながら、事柄の内容に立脚して言えば、すべての問題を事前に承認をするというような内容では必ずしもないものが含まれており、例に取り上げるのは余り適当ではないのですが、例えば捜索救助の活動をするときにそのことをすべて事前承認を行ってやるということは、これは法の成り立ちよりも、むしろやろうとしている事柄の実態に立脚して考えれば、やや不自然なものを感じるわけです。

 したがって、あるものは事前承認、あるものは事後承認、それは、内閣総理大臣が適切に判断できる余地を柔軟に残すのが法の成り立ちといいますか、法の枠組みとして適切なのではないかと私は考えます。

 以上でございます。

伊藤(公)委員 今度のテロ特措法では、さらに後方支援ということでありますけれども、少なくとも周辺事態法よりは地理的に、極端なことを言えば、地球の裏側までも後方支援で自衛隊が行けるということになったわけでありまして、そういう意味では、私は、一歩世界の常識に近づいたのかなというふうに思います。

 しかし、今先生のお話にもありましたように、テロ特措法と憲法の問題については後ほどもし時間があれば私も質問をさせていただきたいと思いますが、少し具体的な問題についてお伺いをしたいと思いますが、安全保障のいわゆる概念の質的な変化についてまず伺いたいと思います。

 冷戦の終えんによって、かつては安全保障とか安全という言葉は、ある意味ではディフェンス、軍事、そういう文言でとらえられてきましたけれども、冷戦構造が終わってから、むしろ総合安全保障、あるいは人間の一人一人の命や財産の保護を重視するという立場から、人間の安全保障というふうに、言ってみればヒューマンセキュリティーという概念が生まれてきているように思います。これは、国連の中でもそうした提唱があるところでもございます。貧困であるとか、環境の破壊だとか、先ほど御指摘もございましたけれども、人口の問題あるいは人権侵害、それからテロ、難民の流出などなどであります。

 人間の自由とか豊かな可能性を確保するためには、私は、従来とは異なって、人間の一人一人に注目をする、いわゆる人間の安全保障という視点から、国家、NGOあるいは国際機関、市民社会が連帯をしてさまざまな問題に取り組むということが重要になってきているのではないかと思いますけれども、これらの概念の質的な変化についても若干の先生の見解を伺えればと思います。

森本参考人 この点については、先生の御指摘のとおりであると私も考えています。

 冷戦後の安全保障というのは、まず主体が変化しているということであり、本来、安全保障というのは、国家の機能として、つまりネーションステートの機能として発展してきた概念でありますが、もはや国家だけではなく、国家を構成する集団あるいは組織、あるいは先生の御指摘のように、最後は個々の人々というふうに安全保障の主体が変化し、上は地球から、下は個々の人々に至るまで、安全保障の主体が変化します。変化すると、安全保障というのは、その主体に対する明示的な脅威を未然に察知し、これを排除するために行う一連の活動でありますので、したがって、当然、国際社会における脅威、リスクと国家に対するリスク、あるいは個々の人々に対するリスクは極めて広範な次元を持ったものになりつつあるということであります。

 しかも、それが脅威というものではなく、危険とかリスクとかといった主権国家の意図が入らないような事象に至るまで安全保障の対象になると、第三に、安全保障の手段が、先生の御指摘のように、非常に総合的なものになり、従来のように外交とか軍事だけではなく、経済だとか、エネルギーだとか、環境だとか、科学技術だとか、文化だとか、あるいは人のネットワークだとかといったいろいろ広範な手段が考慮されるようになり、まさに総合性を帯びるといいますか、本来、安全保障というのは総合的な概念として発達してきたものなのですが、ますます国家の政策としても総合政策でなければならないという要素がふえてきていると思います。

 その意味において、日本の安全保障政策というのは、どこかある特定の官庁が果たせばよいというものではなく、内閣総理大臣が持つ極めて総合的な国家戦略あるいは国家の総合政策としての機能をつくって、その中でそれぞれの省庁の機能を総合的に発揮させて、国家の安全保障を維持するという政策機能を働かさなければならないような状況になりつつあるのではないかと思います。その点については、まさに先生の御指摘のとおりであると考えます。

伊藤(公)委員 少し個々の問題を取り上げてお伺いしたいと思いますが、人権抑圧などの国内問題に対して国際社会がこれからどのように対応していくかという問題であります。

 例えば、コソボ紛争やルワンダの内戦において、人権の抑圧などの事態から、それは一つの国内の問題でありますけれども、人道的な見地からこれまで国際社会にいろいろな問題が提起されてきました。そうした場合に、国際社会による国家への介入というものをしていくのか、その是非、あるいは介入する場合の枠組み、仕組みというものについて、これからどう国際社会で対応していくかということが、私は、これからこういう内政のような問題が大きな国際問題になっているときに、非常に重要だというふうに思います。

 ソマリアの問題では、少なくとも三十万人以上の死者と百万人以上の難民あるいは被災民が発生したと当時報告をされました。あるいは、コソボでは、これはNATOの空爆で最終的にはコソボの解放を実現したわけですけれども、しかし、その中でも、多くの方々がその空爆によって亡くなったということも問題になりました。さらに、ルワンダでは八十万人を下らない方たちが組織的に虐殺されたと報告をなされているわけであります。

 そういう中で、実は、これは前のアルジェリアの外務大臣ブラヒミさんが委員長になりました国連平和活動検討委員会の、注目をされるいわゆるブラヒミ報告というのがあるわけでありますが、つまり、この報告の中ではこう記してございます。

 九〇年来のPKOについて、この十年の間、国連は戦争の惨事から将来の世代を救うことについて繰り返し失敗をし、今日の国連の能力は改善されていないと総括をされました。そして、制度を大改革し、財政支援を強化して、加盟国が国連に対する責任のあり方を一新しなければ、国連は、加盟国が国連に割り与えている平和維持と平和構成という重大な任務を今後実行していくことはできない、と問題意識を明確にしたという報告であります。つまり、これまでのPKOの活動が、その権限においても力が十分でなかったという報告だと思います。

 こういうことを含めて、しかし、こういうような事態が現実には、今までのように国と国との戦争ではないことが日々起きておりますこの地球上で、これから、ある意味では一つの国の中に国際的にどのように介入していくかということが非常に重要なテーマになってきていると思いますけれども、これらのことについて、先生のお考えも少し聞かせていただければというふうに思います。

森本参考人 先生の御指摘は非常に重大で、現在国連が直面している最も深刻な問題の一つを端的に御説明になったのではないかと思います。

 現在の国連憲章は、言うまでもなく、さきの大戦が終戦を迎える前の年から基本的な草案が行われ、議論をされ、そして一九四五年、欧州における大戦が終わった直後にサンフランシスコにおいて署名された際、基本的な枠組みは、第二次世界大戦後の国際社会の秩序が、いずれかの国の武力攻撃によって再び第三次世界大戦が生起するのであればそれを防止し、そのためには連合軍を再び再編してこれに当たることによって国際社会の秩序を維持するということが国連憲章の基本的な思想であったと考えます。

 したがって、この国連憲章の成り立ちは、あくまで、主権国家が他国に武力を行使する、武力攻撃を行うということをいかにして防ぎ、国際の平和と安定を集団的措置によって維持するかということで国連憲章ができているわけです。

 ところが、冷戦が終わって以降この十年、まず湾岸戦争においてイラクがクウェートに武力をもって侵略するという行為があり、国連は、この地域紛争なるものによって国際社会の秩序が侵害されたので、これを回復するために国連安保理決議六七八を通して、湾岸戦争を無事にいわば乗り切ってきました。

 その後、ユーゴ紛争の後に起きたコソボについては、先生御指摘のように極めて重大かつ深刻な人権の侵害という問題が起き、これを、武力を行使してこの人権の侵害をいわば是正するという措置をとってきました。当時、これが、いわゆる国際法上、NATOが武力行使をする根拠たり得るかどうかということについて議論がありましたが、イギリスを中心とする国際法の学者は、前例はないが、前例をつくるための軍事活動という考え方もあって、NATOが武力行使に至ったのではないかと思います。

 最近になって、しかしながら、コソボのこの種の軍事活動が必ずしも国際法上の新しい根拠たり得ないという議論が国連では多く行われていると承知しておりますけれども、今回のテロ事件はこれに次ぐ新しいケースでありまして、先ほど冒頭に申し上げたとおり、国際的なテロという、主権国家でもないこの種の攻撃に米国を初めとする各国が武力を行使して、この場合はアフガニスタンの中にあるテロ集団を軍事力を使って攻撃できるかどうかということを国際法上ぎりぎりと詰めてみますと、これはなかなか難しい、前例のない新しいケースが起きているんだろうと思います。

 つまり、国連が予測していなかった、国際社会の秩序が次々に主権国家ではない他の主体によって侵害され、これを回復するために、最終的には国連憲章に頼らずに武力行使をしてこの問題を是正しなければならないという事態に直面している。そのことは、国連憲章が当初は予期しなかった事態なのではないかと思います。

 その意味において、私は、国連憲章の精神にある集団的措置によって平和と安全を維持するという当初の構想は、幾つかの例外的問題に直面して、今日見直しが図られる必要があるのではないかと考えます。

 しかし、これは冒頭に御説明申し上げたとおり、今回の一連のテロ対応措置の軍事作戦がどのような形になって決着するかに大きく依存していると思いますので、その結論を見て、国連のありよう、あるいは国際法上の根拠というものについてもう一度考え直すところに来ており、それをやらなければ、国連そのものが、先ほど申し上げたように、本来の機能と本来の役割をどんどん失うという事態が起こるのではないかと考えます。

 以上でございます。

伊藤(公)委員 国連の果たす役割はこれからますます大きくなると思います。そして、特に私たちは、我が国の自衛隊が地球の裏側まで出ていくということに、我々はその決意をしました。いうからには、私は、ますます国連という機能を強化していかなきゃならないし、その中における我が国の果たす役割というものは極めてこれから大きくなると思います。そういう意味で、国連の改革をどうしていくのか。

 また、我々はこれまで、今世界で断トツにODAの援助をしています。アメリカを抜いて日本は世界で一位です。そして、国連の分担金も日本とアメリカで約四〇%です。そういうことを考えますと、国連の機能の改革について、私は、日本が主導的にもっと主張してもいいし、また、その役割を担っていかなければならないと思います。

 国連の問題についてもちょっと何点か伺いたいと思いましたが、時間がなくなりましたので、最後に、安全保障はもとよりでありますが、二十一世紀の日本のあるべき姿について、先生にグローバルなお立場から御意見を伺いたいと思います。

 今、私たちは、日本の外交の基本は言うまでもなく日米基軸であります。そして、国連中心主義、また、アジアを初めとして自由主義の国々と連帯をする、これが我が国外交の三つの大きな柱だと思います。

 そこで、これから、経済を含めて世界はいろいろな競争社会になっていくと思いますが、例えば経済で見ますと、ヨーロッパは非常に成熟した社会になりつつあると思います。EUは、人口でいうと三億七千四百万人、GDPで九百二十七兆円。NAFTA、アメリカとカナダとメキシコを一つの社会とすると、人口は三億九千万人、これでGDPは九百三十九兆円。

 そこで日本は、もう言うまでもありません、一億二千万人で、平成十二年の統計ですと五百十三兆円のGDPでありますが、日本を含めてアジア約三十七カ国、人口は三十五億人であります。そしてGDPは九百二十九兆円。経済の大きさは、アジア、NAFTA、EU、それぞれが、丸い数字でいえば三極と申し上げていいと思います。

 しかし、圧倒的に違うのは、何といっても人口です。三十五億を超える人口を抱えたアジアは、間違いなく世界の主役である。しかも、今人口は六十億と伺っているわけでありますが、やがて八十九億から百億になるというわけであります。そのとき、世界のエネルギー、食糧は、恐らく大変危機的な状況を迎えるのではないかとも予測をされています。

 一転して日本は、御案内のとおり、今、穀物の自給率はわずかに二七%です。エネルギーの最も主要な石油は、九九・七%を外国に依存している。その七〇%は、政情不安な中東に我々は頼っているわけであります。世界のそうした大きな経済やさまざまな国の動きの中で、日本とアメリカ、日本と中国、またアメリカと中国、そういう関係をどのようにこれから我が国が外交や安全保障で展開をしていくか、日本は今重要な岐路に立たされているように思います。

 イギリスという国は、EUに籍を置きながら、アメリカとの関係を非常に強いきずなにしながら、EUの中における強い地位を確保していると思います。私は、必ずしもイギリスと同じとは思いませんけれども、日米という関係を本当に成熟した関係にしながら、十三億、年々一千三百万人の人口がふえている中国あるいは朝鮮半島という国々を隣に置きながら、私たちは、アジアというところにもう一つの軸足を置いて外交や安全保障を展開していかなければならないというふうに思いますが、先生の御専門の立場から、最後に一言お伺いをさせていただきたいと思います。

森本参考人 先生の最後の御質問は、まさに今日我々が考えるべき主要な課題がすべて網羅されており、大変感銘を持ってお聞きしました。私も、この点については全く同様の懸念を持っております。これについて何らかの明確な、そしてお話しできるような哲学を私は持っておりません。

 しかし、どういう印象を持っているかということについて二つ申し上げると、一つは、冒頭御説明したように、中国の将来というものをどのように予測するのかということがまず第一です。

 言うまでもなく、中国はなかなか予測できません。しかし、私の見るところ、現在の中国の社会主義市場経済なるものが今のペースで進展をしている限り、共産党一党独裁体制がいつまでも続くようにはとても考えられません。もし仮に続くとしても、十五億以上の人口になったとき、それを一つの政治体制で統治するためには非常に大きな求心力を必要とし、その求心力は国内の軍事力をおいてはほかにありません。そのことは周辺諸国に、近代化された中国の軍事力は大きな脅威を与えるということになります。

 他方、共産党一党独裁政権が仮にゆっくりと崩壊をし、中国が緩やかに分裂するというプロセスをもし経た場合、この点についても、実は、中国の軍事力の行方というものが非常に不透明となり、中国が緩やかに分かれていき、実態として中国が幾つかの国にはならなくても、内部の混乱と内部の分裂は周辺諸国に別の意味での大きな混乱あるいは不安定な要因を与えることになり、どの道を中国が選んでも、中国の将来は我々に非常に重大な意味合いを持ってくると思います。

 その際、日本を初めとする東アジアの国だけで中国を封じ込めたりマネージすることは到底できないことは明々白々でありますので、どうしてもアメリカを、この地域に関心を持ち続け、この地域に国益を見出すように、この地域にとどめておくということが、同盟国として日本が果たすべき最も重要なアジアの安定のための貢献であるともし考えれば、我が国としての将来を考えた場合、アジア太平洋全体の平和と安定を考えた場合、日本のとるべき道は一点に集約されると思います。それは、日米同盟をより強化することしかありません。

 この場合、日米同盟を強化するとはどういう意味かというと、よりイコールなといいますか、平等にはなり得ないのですが、より平等に近い役割と機能を果たす同盟国に向かってできるだけの努力をするということであると考えます。

 アメリカと同様の役割を果たす必要はありませんし、アメリカと肩を並べることができるはずがありません。しかし、アンフェアなといいますか、不平等な、片務的な形で同盟を維持しているということは、同盟関係をむしろ不健全なものにすると考えます。その意味において、我が国は今後、この日米同盟というものをどのようにして質的に量的に強化できるかということが、日本の将来の安全保障にとって極めて重要であると考えます。この点が第一点です。

 それから二点目は、とはいいながら、中国をこの地域の不安定要因にしないようにするためには、中国をインディペンデントな国にしないようにするということです。できるだけアジア太平洋の諸国の中に取り込み、中国がこの地域の中で、この地域の諸国の協力なくしては自国の繁栄と安定があり得ないという形にすることが最も望ましく、まずその第一段階として、日本は、現在シンガポールと進めつつある自由貿易協定の枠組みをその他の東アジア太平洋諸国と緩やかに拡大しながら自由貿易圏を進め、やがて、中国の将来像を見きわめながら、中国をゆっくりとアジア太平洋の自由貿易圏の中にもし取り込むことができれば、この地域における地域的発展に日本が重要な役割を果たしつつ、中国の不安定要因を未然に防止することができるのではないかと思いますが、そのような姿、そのような方向が見えるのは、恐らく今世紀の中ごろ以降のことではないかと私は考えます。

 この二つの問題が、恐らく日本の将来の、経済を含む安全保障の最も重要かつ究極的な目標になるのではないかと考えます。

 以上でございます。

伊藤(公)委員 ありがとうございました。

中山会長 小林憲司君。

小林(憲)委員 私は、民主党の小林憲司でございます。

 本日は、大変に貴重な御意見をいただきまして、ありがとうございます。先生のいつも歯切れのいい、はっきりと物をおっしゃるそのお話には、テレビを見ていて、そうだと私もいつもうなずいておるわけでございますが、本当に、新しい二十一世紀を展望した上で日本という国家のあり方をまずは考えなければならないということが、先生のきょう一番お訴えになっていたことではないかなと私は思いました。

 今のこのグローバル化の世界において、安保の問題、そしてまた環境の問題、これは、食糧が世界的になくなっていく、環境破壊になれば、独自の国の平和どころではない、地球が危なくなっていく、そういう状況になっていく中で、本当に、二十一世紀は国際社会の一員としてどう生きるかということを考えるのが、我々国会議員の考えることではないかな、そう思います。

 安全保障の問題について、そしてまたこれから地球に起こることを考える上では、狭い了見で与党だ野党だと言っていたのではいけないんだ、そういう警告を先生はされているように私は思います。何か、一つの党の意見で反対しますと、違う党に行くんだろうなんというようなことを言っているようでは、本当に政治家としていけないんじゃないか、私はそう思います。

 この憲法調査会で、私は先輩から聞きましたが、中曽根元総理がおっしゃったそうです、これからは、二十一世紀の憲法というのは、地球規模で、宇宙規模で物を考えなきゃいけないというお話をおっしゃったと。まさしくそれに類似することが起こってきているんだな、あのときの言葉が実際になってきているんだな、そう思っております。

 そしてまた、どうも済みません、ちょっと余談になってきておりますが、先輩議員に先日言われました、エドモンド・バークを知っているかと。これは、ブリストルというところで演説をしたんだけれども、自分のことばかり考えて言っていてはいけないんだ、選ばれたからには、エドモンド・バークは大英帝国の代議士であって選挙区の代議士ではない、国の方針を考えなきゃいけないんだ、だから政治家はいつも骨太の政策を持ってしっかりと世界を見詰めていかなきゃいけないんだと先輩議員に言われました。本当に、まさしくそういう時代が来ている。これがまた、これからの二十一世紀の中で日本の位置を決めていくんだなと思いながら、先生のお話を聞かせていただきました。

 そこで、世界で何が起ころうとも、関与に消極的である、そういう姿勢を崩さないこの国のあり方が果たしていいのかどうか、こういうことを今問いかけられているのではないでしょうか。

 そういうときに、この残虐で本当にひきょうなテロリストの行為がございました。そして、今先生がおっしゃったとおり、今のようないびつな形で、みずからの手足を縛られているような状況では、今の日本の姿はやはり健全な姿ではないと思われるというようなお話だったと思います。

 そして、先生が今、明確で柔軟な内容の国際貢献というお言葉を使われたと思うんですが、これは諸外国と同様に日本もまた集団的自衛権の行使を正面から認めるべきだということをおっしゃっているのかなと思いましたが、そのところを教えていただけますでしょうか。

森本参考人 日本の政策は、結局のところ、我々の過去半世紀の間、日本の国の安定と国民生活の繁栄をいかにして向上し達成するかという、この一点に絞られて議論されてきたわけですが、現実問題として、立法府並びに行政府の中で政策を議論されるときに、どうしても政策上の予見というものが、先ほど御説明したように、憲法の枠の中でしか考えられないという状態であったことは、これは明らかだと思います。まず、国としてどうすべきかということを議論して、そしてその中で、法的にできないこと、できること、できないことであれば法をどこをさわればよいのかという議論を余りやらない。

 私は、ワシントンの日本大使館に四年半勤務している間、アメリカの国務省、国防省と随分と政策の議論をしたんですが、日本の官僚として勤務していながらアメリカの政策立案者と話したときに、決定的にその政策を議論するときの物の考え方が違うのは、アメリカは、一つは、考えられないようなシナリオまでまずシナリオを考える。シナリオシンキングというのでしょうか、問題を解決するためにどういうシナリオがあり得るのかというオプションを幾つか挙げて、そして一つずつ問題解決をしていって、どのシナリオが最もポシブルか、最も可能性が高いか、そしてどういうオプションが一番現実的なのかという議論をして、常にそれで政策を議論し、アメリカの議会でも議論をしていく。

 第二に、それがリーガルに、法的にどうしてもだめな場合はどういう手を打ったらいいのか、これは憲法の中でもできないと考えるのか、あるいは法案を出すのかということを次に考える。こういうアプローチなんです。

 どうも日本は、自分の失敗といいますか体験を率直に申し上げると、ここまではもう法制局によって答弁されてしまっているとか、過去の大臣によって答弁されてこれはできないというのは、最初から頭の中で全部デリートしてしまって、オプションの中に初めから入れないわけです。そうすると、初めからオプションが一つしかないとか、あるいは、あっても二つで、二つをよく見ると同じものであるとか、あるいは、初めから法的な枠組みの中でできることは自分で頭の中で全部絞ってしまって、それをどのようにするかという方法論でしかない。

 こういう柔軟性を欠いた政策議論をずっと続けてきたという貧しい経験を考えると、大学のゼミであってはいけないのですが、やはりもう少し自由にオプションなりシナリオを考えて、当然のことながら、国としてどうあるべきかという観点から政策を議論し、そして、憲法上それが非常に問題があるのであれば、どのようにそれをブレークスルーするか、どのように考えればよいのかということを次に考えていくという習慣を我々がつけていかないと、私は、極端なことを言うと、国民的議論を起こして憲法を改正するという手続を行っても、この弊害がいつまでも残る、相変わらず改正された憲法の枠の中でしか考えられない政策決定がずっと行われるということになるのではないかと思います。

 これはむしろ、日本人としての性格的な欠陥なのではなく、戦後の日本の政治がそういうふうにさせてきたのではないかと思います。

 安全保障について言えば、先生の御指摘のとおり、とにかく集団的自衛権という問題に集約されると思います。

 この点について言えば、今回のテロ措置法案の中で、特別措置法が集団的自衛権に抵触するしないという議論は、私は当てはまらないと思います。これは武力行使の一体化の議論であって、集団的自衛権の問題ではない。集団的自衛権の問題を議論するのであれば、むしろ、今後送られるかもしれない自衛隊の艦艇を派遣し、その派遣された自衛隊の艦艇がアメリカやイギリスやフランスやカナダやオーストラリアの艦艇と同一行動をとるときに生起する可能性がある活動なのであって、可能性があるということは、そのような集団的自衛権を行使しなければならないようなケースのときに、それを可能とするかどうか、つまり、可能とするような任務を最初に与えて出すかどうかという問題なのであって、今回の特別措置法に係る一連の法案の審議の中で、集団的自衛権の問題は基本的には起こらないと私は考えています。

 以上でございます。

小林(憲)委員 ありがとうございました。

 先生がおっしゃるように、私もまた、集団的自衛権の行使を正面から認めていくことが望ましいのであるけれども、今の段階ではそういうことにはならないというふうには思っております。

 この問題は、長期的に憲法の条文の改正ということが一番すっきりする形になっていくのではないかと思いますが、先生御指摘のとおりに、そのシナリオシンクといいますか、その中でどのような解釈をしていくか云々という範囲を決めてしまっている以上は、なかなか改正とか法解釈で可能と言うのは難しいということも今のお話でよくわかりました。

 先生も御指摘のように、政府の見解は一貫して、我が国は国際法上集団的自衛権を当然に有している、しかしながら、憲法第九条のもとにおいてはその行使はできないという旨の解釈が維持されていくということだと思うんですが、この憲法第九条の解釈にはいろいろな議論があります。先日も、総理もその辺をおっしゃっておられたと思うんですけれども、個別的自衛権の行使すら禁止されており、違憲であるという見方もございますし、個別的自衛権のみならず集団的自衛権の行使もいいんだという見方もあるということでございますが、先ほど来お話しになられました、二十一世紀の新しい時代、憲法起草後の国際情勢の変化並びに新しい世紀におけるこの国のあり方を考えた場合に、先生はこの解釈はどのようにお考えでしょうか。

森本参考人 我が国がさきの大戦後に憲法を発布し、その直後、予期せぬ朝鮮戦争が一九五〇年に発生をし、米国のアジア戦略あるいは当時の冷戦期の国家戦略に基づき、日本を西側の一員として位置づけるためにまず主権を回復させるという手続をとろうとして、一九五一年の九月、我が国はサンフランシスコ平和条約によって主権を回復し、同日、旧日米安保条約を結んだことは御案内のとおりであります。

 その際、この旧安保条約の前文の中にありますように、我が国は固有の自衛権を行使する有効な手段を持たないので、米国が引き続き日本及びその周辺にとどまることを日本政府はこれを許容するという条約の枠組みになって旧日米安保条約ができ、占領軍が在日米軍という形になって、一九五一年、我が国が主権を回復して以降、我が国周辺に駐留することになったわけですが、一九五三年の七月に朝鮮戦争が終結するや、当時つくっていた警察予備隊と海上警備隊を、再編をして保安隊、そして翌一九五四年、自衛隊を創設した際、自衛隊法を国会で通過させるときにできた有権解釈は御案内のとおりでございます。繰り返して説明する要はないと思います。

 私は、このときの有権解釈はどのような政治的背景があってできたのかということについて、当時の経緯を、国会答弁をつくるために、外務省員として当時安全保障課に勤務していましたので、随分と外務省の倉庫というのでしょうかの中で勉強した経緯があります。これは国家公務員法に触れるので細かく申し上げることは適切でないと私は考えますが、私の印象は一言で、日本がこのときとった有権解釈は、当時の有権解釈として非常に適切なものであったと考えます。

 それはつまり、当時、自衛隊が憲法違反であるという国内世論が非常に強く、そうではなく、国家として、いかなる国家であれ固有の自衛権というものが行使できないはずがなく、我が国がつくろうとしているこの自衛隊はまさに個別自衛権を行使する実力部隊として、実力組織として認知されるべきであるということを国内的に説明すると同時に、この自衛隊を決して領域外に出さないのだということをアジアの諸国に説明できるようにすることによって、すなわち集団的自衛権の行使という手をみずから縛ることによって、内外に、自衛隊が個別自衛権を行使する実力組織であるから当然現行憲法の中で認められるのだということを国内に説明し、同時にアジア周辺諸国には、この自衛隊を決して領域外に出さないのだということを説明する、二つの背景というか目的があってこのような有権解釈が確立していったのではないかという印象を持っているわけです。

 私は、先ほど申し上げたように、そのことは、当時の日本の置かれた内外の政治情勢の中で適切な判断であったと考えます。しかし、五十年たった今日、適切であるとは考えません。ましてや、今後五十年、この解釈が適切であるとは到底思えません。

 したがって、当時の状態の中で行われたこのある種の政治解釈という政策判断が仮に正しかったとしても、その後半世紀にわたる日本の国家の安定と、今日、日本が置かれている国際情勢と、そして二十一世紀の国際情勢と日米同盟の内容を考えると、これはしかるべき時期に、自衛権そのものを、集団的自衛権と個別自衛権というような分け隔てなく、自衛権として国家が普通に行使できるようにするのが最も正しくかつ適切な道なのではないかと考えます。

 したがって、繰り返しになりますが、私は、有権解釈はこの五十年、それなりに日本の安定と繁栄のために重要な役割を果たしてきた、それは歴史的に評価されてしかるべきであると考えます。しかし、それが今後半世紀、引き続き妥当なものであるかどうかについて、私は、今申し上げたように、全く別の見方を持っているということでございます。

小林(憲)委員 ありがとうございます。

 こんなにわかりやすい憲法第九条のお話を聞いたのは、私は初めてであります。本当に、まさしくそのつくられたときの方からお話を聞きまして、そしてまた今後は変わっていくんだということで認識を得たと思いまして、若い世代として変えていかなければいけないと強く思いました。

 最後に質問ですが、私ごとではございますがちょっと頭を整理したい部分がございまして、テロ対策関連法案のことでございますが、国会審議における焦点の一つとして、国会の承認のあり方というものがございました。先ほども伊藤議員の方からお話がありまして、重なるかもしれませんが、もう一度整理して教えていただきたいのです。

 この点は、シビリアンコントロールを確保する上で非常に重要な意味を持ち得る点だと思います。実際、国会の承認が事前なのか事後なのかをめぐって、我々民主党は政府案に対して反対の立場をとることを決定いたしました。そこで私は混乱したわけでございますが、教えていただきたいわけですが、原則的に事前の承認を義務づけ、緊急時には事後の承認も認める民主党案の立場と、派遣命令後二十日以内の事後承認を義務づける政府案の立場との違いは、本質的な相違とまで言えるのでしょうか。

 自衛隊の派遣が必要となるような緊急事態においては、刻々と変化する情勢をにらんだ速やかな判断が不可欠だと先ほど先生もおっしゃられました。そのような判断は内閣総理大臣に一任することが適切だろうということも先ほどおっしゃられたと思います。また、仮に事後的な国会承認が得られない場合は直ちに自衛隊を撤退させるべきですが、この点は政府案も民主党案でも同様に確保されていたものであります。

 この両者の間には本質的な違いは一体あったのかなかったのか、私はちょっと混乱をしておりますので、ぜひとも教えていただきたいと思います。

森本参考人 日本の議院内閣制と、その議院内閣制のもとでの立法府と行政府の役割を考えれば、自衛隊を海外にこの種の任務を与えて出す際、国会で十分に御議論いただき、事前の承認を得て出すのが、法の成り立ちとか立法府と行政府の役割という点では、本来原則としてあるべき姿なのではないかと私は思います。

 つまり、大統領制とは違いますので、議院内閣制のもとでの総理大臣はあくまで国会に対して責任を負っているわけでありますから、国会に対して責任を負っている内閣総理大臣が、仮に基本計画が閣議において承認されたとはいえ、内閣総理大臣の一任で自衛隊を海外に出せるというふうなシステムを法の成り立ちとしてつくってしまうことはいかがなものかと考えます。

 しかし、それは原則であります。すべてのことがそれを適用されるべきであるというふうに私は考えません。事柄の内容に立脚してここは考えるべきであって、あくまでこの原則を成り立たせる要件とは、十分に時間のいとまがある、あるいは事柄が極めて重大である、あるいは自衛隊を海外に出すその活動によって我が国の国益が著しく大きな影響を受けるといった幾つかのケースの場合、これは立法府で十分な審議をされて出すのが、私は、議院内閣制のもとでの立法府と行政府との関係において正しいやり方だと思います。

 しかし、周辺事態法のときもこういう議論がありましたが、周辺事態法や今回の法案は、これは、いわばある種の紛争や戦争が領域外で起きていて、極めて緊急に判断をし、また、行うべき活動に十分な時間的余裕やあるいは調整などがないというケースが多いわけでありまして、事柄に立脚すれば、場合によって内閣総理大臣がみずから判断をし、責任を負って、自衛隊をまず出し、事後に報告をするというやり方が望ましく、結論としては、与党がいわゆる政府原案としておつくりになったやり方が、つまり、プラスマイナスありますが、トータルでよろしいのではないかと私は考えます。

 あくまで、原則と法の運用というものをどう考えるかということですが、一番大事なことは、実際に活動をやるときに、部隊の指揮官なり、あるいは出ていく自衛隊がどのようなやり方で基本計画をつくるかということに立脚すれば、すべての問題を事前に承認を得て出なければならないということにはならないのかなと私は考えているわけです。

 以上でございます。

小林(憲)委員 終わります。

中山会長 上田勇君。

上田(勇)委員 公明党の上田勇でございます。

 きょうは、森本先生には大変貴重な御意見をいただきまして、まことにありがとうございました。

 先生のお話の中で、何点か質問させていただきますが、まず最初に、先生が、二十一世紀初頭の国際社会の形の特徴といたしまして、一つが、米国、アメリカの一極集中、もう一つが、価値観、これは市場経済とか民主主義というようなものを挙げられましたけれども、これに基づく国際秩序が形成される。これは日本も、アメリカやヨーロッパと多くの価値観を共有するという意味で、そのグループの中に含まれるんではないかというふうに思うんですけれども、こういうような方向に進むというお話がございまして、現実にそういうような傾向があるという中で、私も、二十一世紀というのは本当にそういう方向がもっと顕著になってくるということは考えているんです。

 ただ、そうすると、先生のお話の中にもあったんですが、いわゆる持てる国と持たざる国の格差というのはますます拡大するんではないかというふうに思います。これは、今の南北問題がさらにもっと深刻になるんではないか。そうすると、途上国では、先進国に対するいろいろな不満が高まっていって、そうしたフラストレーションが結果としてテロリズムというようなことになったり、それだけじゃなくて、さまざまな脅威が増大してくるんではないかというふうに思うんです。これを回避していくためには、先生のお話の中にあったアメリカのユニラテラリズム、これを見直さなければいけないし、先進国グループから、いかにして途上国も組み入れたような秩序をつくっていくかという努力が必要なんだろうというふうに思います。

 特に日本の場合には、アメリカのように一極の集中している大国でもなければ、周囲に同じような価値観を共有する国々に囲まれているような環境でもないということになると、こうした途上国を含めた秩序づくりが日本の国益にとって必要なんではないかというふうに思いますけれども、先生のその辺の、先ほどちょっとお話の中にも触れていただいたんですが、もう少し御説明をいただければというふうに思います。

    〔会長退席、鹿野会長代理着席〕

森本参考人 こういうことではないかと思います。

 まさに先生の御指摘のとおりなのでございますけれども、アメリカのユニラテラリズムというのは、結果として、冷戦後に、国際社会の政治、経済、軍事、あるいは科学技術、あるいは情報、宇宙、文化といういろいろな分野において、アメリカがぬきんでた支配力と影響力を持つに至ってしまっているという現象をユニラテラリズムと私は申し上げたわけです。

 一方において、今回アメリカが、例えばテロの一連の対応措置をとるときに、同盟国や、あるいはアラブ社会、あるいは中国、ロシアを含めた多国間の協力を得てこの問題を解決しようとして外交努力をしてきたことも、同時に我々の十分に見るところです。

 しかし、先ほど申し上げたように、ユニラテラリズムというものとマルチラテラリズムというものがあったときに、このアメリカのユニラテラリズムをマルチラテラリズムの中にどのように組み入れるか、調和するかというのが国際社会の非常に重要な課題に今なっているわけですが、このテロ事件の前の、例えば米欧関係を見ますと、アメリカの中に起こりつつあるある種の新保守主義と、ヨーロッパの多くの国々を支配するいわば社会民主主義とが鋭く対立して、それが、例えば京都議定書、あるいはミサイル防衛、あるいは食品衛生管理、遺伝子組み換え食品、あるいはCTBT、WTOと、個々の問題で非常に深い亀裂が入っていたことは、これは事実です。アメリカとロシア、中国の関係も同様のものでありました。

 このようなアメリカのユニラテラリズムに対して、今申し上げたように、個々の重要な問題を多国間協調主義によって解決すべきであるという、この二つの大きなダイナミズムをどのように調和させるかということは、なかなかうまくいかなかったわけです。今回、テロ事件が起きた直後、アメリカは、ユニラテラリズムの中ですべての問題を解決するのではなく、できるだけ多国間協力の輪をつくってこの問題を解決しようと現在していると思います。

 問題は、この作戦が成功裏に終わったときに、どのような方向が明白になってくるかということを先ほど申し上げたわけです。私は、アメリカのこのマルチラテラリズム、つまり多国間協力というのは、しょせんはアメリカのユニラテラリズムを貫くための手段として使っているのにすぎず、アメリカのユニラテラリズムはその本質において変わっていないと思います。変わっていない。そのユニラテラリズムがむしろ強化されるだけにすぎない。

 だから、第一期の軍事作戦が仮に終わって、大統領がしかるべきに決断をして戦域を拡大して、世界じゅうのテロ集団に軍事攻撃をかけるという決断が行われるのであれば、その際、それでは多国間協力主義あるいは多国間協調が根本的に壊れるという重大な警告、勧告というんでしょうか、あるいは忠告というものを同盟国米国にやっていける国というものを考えた場合、それはやはりイギリスとか日本しかないと私は思います。

 今回、アメリカの中で限定作戦か拡大作戦かという選択を大統領が迫られたときに、イギリスのブレア首相は直ちにワシントンに行って、ブレア首相が強く主張して、結局、第一期の作戦をいわば限定的な目標に絞って今回の軍事作戦をやるという大統領の決断につないだと聞いています。イギリスこそ、現在はそのような役割を果たし得る唯一の国であります。

 日本は、アメリカがこのような戦域を拡大し、将来何年もにわたる軍事作戦に突入するということは、ぜひ同盟国として防がないといけないし、また、そうなったときに、場合によっては米国の凋落が始まると思います。私は、そういうことを考えた場合に、日本の役割は非常に重要でありますが、要は、それまでの間、日本が十分なる協力、これは国際協力の面、つまりアメリカができない例えばアフガンの復興や経済協力と、アメリカに対する十分な実質的な同盟協力の二つをやっていなければ、決してアメリカに必要な警告ができる立場にはなり得ないわけでありまして、その意味において、アメリカが現在行っているユニラテラリズムに基づく軍事作戦に対して十分日本が協力して、初めて多国間協力の道に戻るようアメリカに勧め得るのではないかと考えます。

 その意味において、今申し上げたように、このユニラテラリズムかマルチラテラリズムかというのは、今行っている軍事作戦がどのような経緯をたどるのかということによって非常に大きな影響を受けるのではないかということを先ほど申し上げたわけでございます。

 以上でございます。

上田(勇)委員 もう一つ、先生のお話の中で、これからの日米同盟を考えていくときに、脅威の見積もりと防衛協力のあり方というお話がございました。

 この脅威の見積もりということなんですけれども、冷戦後の世界では、それ以前と比較しますと、最も大きな脅威の中身が大きく変質しているんではないかという感じがいたします。

 冷戦下では、いわゆる東西対立の中で東側からの侵略の脅威といったものが最大のものだったんでしょうけれども、それにかわって今は、今回起きたテロであるとか、あるいは環境破壊の問題とか、麻薬とか、武装した国際犯罪組織だとか、そうしたものが新たな、そして最も重要な脅威になりつつあるんではないかというふうに思うんです。

 こうした新しい形の脅威というのは、先生はここで見積もりというふうにおっしゃったんですが、それを全部防ごうと思うと大変な対策が必要だし、すごく見積もりがしづらい部分なんではないか、把握しづらい部分なんではないかというふうに思うんですけれども、その辺、これからの脅威といったものに対して、同盟ではどういうふうに対処しなければいけないのか。また、我が国独自の防衛のあり方について、もしお考えがあればお聞かせいただければと思います。

森本参考人 冷戦後に、日本とかアメリカといったいわゆるネーションステート、主権国家の国益に対する侵害あるいは侵害する要因を脅威だと表現すれば、私は、冷戦後の脅威というのは、脅威並びにリスクや危険という広範な阻害要因があるのではないかと思います。

 脅威と、危険とかリスクというのはどう違うかというと、多くの部分がオーバーラップしているわけですが、唯一の違いは、主権国家の意思がそこに入るかどうかです。

 例えば、脅威というのは、ある国がある国の国益を侵害せんという明白な意図を持ってある国に行う脅迫あるいは威嚇、あるいはそのための行動であります。ただ、危険とかリスクというのは必ずしも主権国家の意図が入るとは限らない問題で、例えば、この地域の不安定がこの別の国に多量の難民の流出をもたらす、あるいは、この国が他の国からたくさんの武器を供与され、この国がこの別の国の周りに武器をトランスファーすることによってこの地域の不安定がもたらされるというときに、この国の明示的な意図があるかどうかということが必ずしも明白でない場合、我々はこれをリスクとか危険と言います。

 いずれにせよ、この場合のリスクとか危険は、したがって、明々白々な主権侵害のための要素ではなく、先生の御指摘のように、例えば領土を争う、領土確定だとか、海洋の不安定な状態、例えば海賊事件だとか、もちろん環境だとかテロだとか麻薬だとか経済格差だとか難民の流出だとか、あるいは不法労働者の移動だとかという広範多岐にわたるリスクとか危険を、国益を侵害するような行為がもしあるとすれば、それをもう一度見直してみましょうと。

 その結果どういうことが言えるかというと、明らかに日米の関心は、冷戦時代のような旧ソ連を中心とする北東アジアから、どんどんと南西アジアというか南東アジアの方にシフトしているのではないか。つまり、地理的にもシフトし、内容においても変化している。

 その場合、今回の作戦の後、南アジアがどういう形になるかわかりませんが、東南アジアや南アジアの地域的変化を見ながら、その間の、例えば海上輸送路の安定あるいは地域的安定を維持するために日米が協力できるところ、あるいは、できないところはそれぞれ単独でオペレーションをしたり、日本は日本で単独の独立完結性のある防衛力をもって、どこまでは日本が守り、そこからは双方が利益と認めたときだけは共同作戦を行い、そこから先は、アメリカが国益を見出して、アメリカだけが単独にオペレーションする。

 そういうことが行われた場合、その場合、ロールズ・アンド・ミッションというか、日米がどういう役割を分担するかという問題がそこで議論されるべきである。その役割を分担した場合、日本の持っておる防衛力はここの部分が足らない、あるいはここの部分は質的に向上しないといけない、例えばここの部分はもっと広範な海上防衛力と航空防衛力を持たないとアメリカとの防衛分担ができないと。

 つまり、防衛分担というと何か経費分担に思いますが、そうではなく、新しい脅威を見積もりしながら、地域的に、内容的にもう一度それぞれの役割を見直してみましょうということが、ここで述べている脅威見積もりと防衛協力のあるべき姿という意味でございます。

上田(勇)委員 以上です。

鹿野会長代理 藤島君。

藤島委員 自由党の藤島正之でございます。幾つか質問させていただきます。

 まず、日米同盟の重要性、これについては、先生もう再三言っておられるんですけれども、私もそのとおりだと思うんです。重要なことと、盲従するような形がいいかと、これはまた別でございまして、かつてこの内閣ができたときに田中眞紀子外務大臣が、まさに戦後五十年で踊り場に来ておるんじゃないか、自主的に冷静にもう一回考えてみる時期に来ているんじゃないか、こう言っていたんです。外務大臣は就任早々の直観で言ったのかもしれませんけれども、まさにそういう時期じゃないかと私は思うんです。最近の、今度のテロに関係しますと、まさに盲従のような感じがして、ちょっと心配だなという気はするんです。

 ところで、我が国がアジアにおいて、やはり安全保障という問題、一番大事だと思うんですけれども、先ほど先生は、中国の存在について伊藤委員の質問に答えられておりましたけれども、その中で、二つ方法があると。その一つは、後の方でおっしゃったように、アジアの中で中国を押し込めていくというようなことをおっしゃっていましたけれども、これは私は、アメリカを含めてもなかなか、押し込めるというのは理想であってもなかなか難しいのであって、むしろ前半でおっしゃったように、共産主義、共産党一党支配から、純然たる民主主義国家に育てていくといいますか、変質していってもらった方がいいんじゃないか。

 アメリカがあれだけ強大な国でもそういう脅威を感じないのは、非常にいい意味での民主主義国家だということなんだと思うんですけれども、その辺は先生、どういうふうにお考えでしょうか。

    〔鹿野会長代理退席、葉梨会長代理着席〕

森本参考人 まず、中国が民主国家になるか、つまり民主化が進むかという命題は、実は最近随分いろいろなところで専門家が議論しているところです。私も幾つか議論に加わったことがありますが、中国を専門とする人々は、中国の中に確実に農村自治のようなものが行われ、部分的に選挙が行われて、中国は民主化の方向に進みつつあると主張している専門家が多いわけです。

 しかし、何をもって民主化と言うのか。つまり、民主化の基準というのは、最後は、自由な政党がつくれること、政治指導者が国民の投票によって選ばれること、この二つがなければ、私は、民主主義あるいは民主制度、民主化とは言わないのではないかと思います。

 しかし、この場合もう一つ問題があって、それでは自由な政党ができているのが本当に民主国家か、世界を見渡して。例えば、多数党がある国が本当に民主的なのかというと、これはなかなか難しい問題で、国の名前を挙げることは控えますけれども、アジアの中でも、政党が幾つかあってもとても民主化が進んでいるとは思えない国があって、これはなかなか評価の難しいところであると思います。

 いずれにせよ、中国の中で民主化が進むとはいえ、共産党というものの一党独裁が存続する限りにおいて、それを民主化あるいは民主主義国と言うかどうかは大いに疑問であります。その意味において、もし中国の民主化と言うのであれば中国共産党一党独裁が崩壊するときでありまして、そのこと自身が、非常に事柄が重大だと思います。それを中国の安定と言うかどうかは私は非常に疑問だと思います。

 十五億の人々が自由に物が言え、自由に政党をつくれるならば、これは極端に言うと中国大混乱の世界が待っていると思わざるを得ません。それは数千年の中国の歴史というものを見ると明らかなような気がします。したがって、中国の民主化が他のアジア国にとって真に望ましいのかどうかということは、私はなかなか解答の出ない問いなのではないかというふうに考えます。

藤島委員 どうもありがとうございます。

 次に、東西冷戦が終わりますと、国連の機能が非常に働きやすいんじゃないかなという感じがするのですね。これまでですと、利害が必ず相反するところがあるものですから、安保理の中で常任理事国が反対するというようなことがあるわけです。前回の湾岸のときのように、国連軍そのものはなかなかつくれないと思うのですけれども、安保理の決議による多国籍軍、こういうものがつくりやすい、そういう環境になってきていると思うのですね。

 我々自由党は、やはり国連中心主義ということで、国連の決議に沿って、その中で自衛隊を活動させるべきだということで、実は、先ほど先生も包括的な枠組みというようなこともおっしゃいましたけれども、我々は今回の臨時国会におきまして、自衛隊を海外派遣する場合については二つの枠組みで、一つは、我が国が攻撃されたときに自衛権として行動する、もう一つが、国連の決議に基づいて、国連の指示に従って行動する、この二つで海外で自衛隊が行動するという考え方なんですけれども、この点について先生のお考えをお聞かせいただきたいと思います。

森本参考人 国連が国際の平和と安定を維持するために重要な枠組みであることは言うまでもないと思います。国際社会は、できるだけ国連の理想を達成すべく国連改革を進め、その機能を強化すべきです。この点については、私も先生と全く同様の意見です。

 他方において、国連が現在のような安保理常任理事国の拒否権を認めた形で、最終的に安保理決議によってすべての運営が行われているという現実が存続し、かつ、冷戦後に拒否権を発動されることがより少なくなったものの、国連安保理決議を起案する段階で、そもそもそのような国連安保理決議を安保理そのものに提示するというか、評決に付すということが非現実的な状態である場合、しばしば国連安保理決議は評決に付されない。初めからあきらめるというか、評決に付される前に、P5各国の大使が議論して、議論しても決着がつかずに決裂する、あるいはそのまま上げてもだれかが拒否権を発動することが明々白々のときには初めから上げない方がよいという判断が働くことによって、結局安保理が事実上機能しないということが大いにある、この十年あったわけです。

 今回のテロなども、例えば、国の名前を挙げることは必ずしも適当ではありませんが、中国は、今回のAPECに見られるように、テロというものに断固反対するという立場を貫きつつ、現実には、安保理決議によって武力を行使するという安保理決議を、一三六八以外に通過させることを最後まで拒否したために、結局アメリカは、先ほど申し上げたように、安保理決議によらない個別的自衛権の行使という道を選択せざるを得なかったのだろうと思います。

 裏返して言うと、安保理常任理事国の国益が非常に鋭く反映されるような事態が発生した場合、安保理は動かない。その結果、国連は機能しない。したがって、アメリカを中心とする同盟によって問題を解決せざるを得ない。そのことによって、結果として、国連はしばしばその機能と役割をどんどん低下させるという非常に不幸にして残念な事態が起きて、国連は結局、できることというのは、国際の平和と安全を維持すること以外の、経済社会理事会の機能を中心とする活動にとどまるということになってきたのだろうと思います。冷戦期の五十年、そして国連ができて六十年、このような現実がずっと続いてきたのだろうと思います。

 私は、これをもとに戻す方法は、国連の改革じゃなくて、安保理そのものの改革、それとアメリカの国連政策というものが少し変わらないと、このような国連が本来の役割と機能を取り戻すことができそうにないというふうに考えざるを得ないのです。

 したがって、先生のお言葉はよくわかるのですが、国連に依存してすべての活動を決めるということになりますと、今回のような場合には身動きがとれない。この問題をどう解決するかということが、私はなかなかうまく整理ができないのだろうと思います。

 確かに、理想は、すべての問題について国連が必要な措置をとればいいのですけれども、しかし、国連憲章五十一条は、安保理がその必要な措置をとるまでの間、そのいとまがないときの自衛権として認めているわけでありまして、そのことの矛盾を我々はまだ解決できないでいるということなのではないかと思います。

 以上でございます。

    〔葉梨会長代理退席、会長着席〕

藤島委員 おっしゃることもよくわかるのですけれども、冷戦時代に比べれば、安保理の各国の利害がそれほど鋭利に対立するというような状況でもなくなってきているのではないかなという感じが実はしております。

 今回、先生おっしゃるように、一三六八のほかに幾つか出ていますけれども、湾岸戦争のときのような具体的な武力行使に関する決議は出ていない。それは、先ほど先生がおっしゃったように、アメリカがそれを求めてもなかなか時間的に間に合うような範囲で決議が得られない可能性があるというようなこともあったのではないかなと思いまして、余り働きかけずに自衛権の行使ということでいったのではなかろうかなと思うわけです。

 もう一つ質問としまして、私は、我が国の憲法は個別的自衛権と集団的自衛権とは区別していない、こう思っておるわけですが、先ほど小林委員の質問に対して先生は明確にお答えになっておられて、今までの解釈も、これは政治的に非常に意味はあったし、それはやむを得なかった、しかし五十年たって、現在考えるとこれでいいのかという問題を非常に提起しておられまして、我々はそういう考え方に立って、今回の措置も、集団的自衛権、個別的自衛権に区別することなく、憲法上の考え方を整理した上で、きちっとした上で自衛隊を派遣すべきだ。

 そうでないと、御承知のように、途中で戦闘状態になったときは同盟国をほうって帰ってこにゃいかぬ、また、武器等を持っていっても、自己保存の防護程度の行為しかできない、非常に危険なことが起こり得る。総理も、安全なところだけ行くというのじゃ自衛隊じゃなくてもいいんだ、危険なところにも行くかもしれないんだというようなこともおっしゃったりしているわけですね。そういうことの中で自衛隊を送ってもいいのかというのが、私非常に懸念でございます。

 それはそれとして、最後に、今回のテロに対する対抗措置として、米国は個別的自衛権、イギリス等は集団的自衛権でやっておるわけです。我が国は確かに二十数名犠牲になったわけですけれども、我が国が、仮に、今回のケースでアフガンに個別的自衛権あるいは集団的自衛権としてみずからの自衛隊を派遣できるのかどうか、特に個別的自衛権として派遣できるのでしょうか。

森本参考人 この点について、まず、アメリカがどのように考えているのかということについて少し率直にお話ししてみたいと思います。

 先ほど申し上げたように、アメリカは、今回のテロは米国の国益に対する重大な侵害であって、テロという犯罪ではない、したがって、安保理に依存せず、個別的自衛権を行使してこれに対応するケースである。ここでまずマルなんです。日本は、先生の御指摘のように、ニューヨークで米国民と同様の被害を受けたのであるから、日本もイギリスとともになって個別自衛権を行使することが適切であると考えるというメッセージが日本政府には入っているはずです。

 したがって、アメリカは、アメリカだけが個別的自衛権を行使するのではなく、ほとんどすべての同盟国は個別自衛権をひとしく行使して共同行動をとるべしという考え方をとっていたわけです。

 NATO同盟国は、このケースは個別自衛権を行使するケースではないと考え、北大西洋条約第五条を適用して集団的自衛権を行使していることは御承知のとおりであります。

 日本は、しかしながら、確かに先生がおっしゃるように、ニューヨークでアメリカ人のみならず同様の犠牲を生んでいるわけですが、このケースをもって、私は、日本国が国家として個別自衛権を行使するケースには当たらないと考えます。当たらない。しかし、集団的自衛権を行使することについて、総理はあくまで憲法の枠内で行うとおっしゃっているので、いずれにせよ自衛権を行使するケースではない。

 したがって、安保理の決議もない、自衛権を行使するケースでもない、そして、法をつくって協力するときのその活動は、先生のお言葉ではありますが、少なくとも自衛権を行使するケースでない限り、このテロ特別措置法に基づく我が国の活動は、つまり集団的自衛権を行使するというケースには法的にはならない。ならないし、また、そのような活動ができるとは思わない。

 私が先ほど申し上げたのは、そうではなくて、この特別措置法に基づく自衛隊の派遣がせいぜい議論すべき問題は、憲法の問題ではなく、武力行使の一体化という従来の議論のどこまでを読み取れるのかという議論の枠の中で議論すべき問題であって、そこから上の、いわゆるグレーゾーンを超えた真っ黒な集団的自衛権のところには入らないということを繰り返し申し上げているのです。

 しかしながら、総理が別途、対応措置の第二項目に言っておられる自衛隊艦艇の派遣という行為は、これは特別措置法と無関係に、現在、防衛庁設置法第五条に基づく情報収集のために派遣する自衛隊の艦艇が、現地において米国その他の国の艦艇と同等の活動をするとき、その米国の艦艇に何かあった場合、逃げて帰るわけにはいかない、そこから離脱するわけにはいかない、情報収集だといって黙っているわけにはいかない。そのような任務を与えて出すべきでない。しからば、どういう任務を与えて出すべきかというと、必要な場合きちっと対応することをしかるべしという任務を指揮官に与えて出すのが、これは国際通念上正しい方法だ、自衛隊の艦艇を出す場合。そこに集団的自衛権の問題が起こり得ますねということを申し上げているのです。

 私は、テロ措置法には集団的自衛権の問題は生起しないということを先ほど申し上げたわけでございます。

 以上でございます。

藤島委員 終わります。

中山会長 春名直章君。

春名委員 日本共産党の春名直章です。きょうは、どうもありがとうございます。

 テロの根絶という問題では、まさに二十一世紀の人類の生存の問題ということで、本当にこれは今、力を込めて国際社会がやらなければならない問題だと思っています。どうやって実行するか、それを実現するか、そして、日本がどのような役割を果たすかということについて、幾つかお聞きをしたいと思います。

 一つは、今米英が軍事攻撃を行っていますね。それで、世界はこの軍事攻撃を一枚岩で支持しているという状況ではないように思います。

 例えば、十月二十日から開かれたAPECの首脳会議、その声明では、国連が重要な役割を果たす、国連憲章や国際法に従ってテロ行為の防止、抑止、このことを厳しく訴えるということが表明されていて、米英軍のアフガニスタン攻撃については一言も触れていないという状況がつい最近も起こっているわけですね。

 この軍事攻撃について、今世界はどう見ているのか。それから、ますます報復の色が濃い軍事攻撃になってきていると思うのですね。これが与えている世界への否定的な影響、この点などについて、専門家から見てどう見ていらっしゃるのか、お願いします。

森本参考人 今回の米英の一連の軍事攻撃は、私は、やはり我々の社会は法と正義というものによって成り立っていて、民主主義のルールに従って我々は日々の平和な生活をし、それが法と正義によって守られているということであるから、初めて我々はいわば安心して日々の生活ができるわけで、法が常に破られるという世界の中では、我々は一日たりとも安定にかつ安全に生活ができないのだろうと思います。

 今回のテロ行為というのは、全く無辜の民間の人々を、いわば民間航空機をハイジャックしたという形で無辜の人々を凶器に使ってこの種のテロを行い、数千人に及ぶ人の犠牲を生んでいるということであり、これがいかなる原因といかなる背景によって行われたかについては我々は必ずしもつまびらかにしませんが、その実行犯の背後に、現在アフガンの中にいるテロ組織が深くかかわっているというのであれば、これを軍事力によって物理的に壊滅状態にし、我々が平和を取り戻すのは、私はやむを得ざる手段であると考えており、その意味において、米英が多くの政治的、経済的、軍事的犠牲を払ってこの種の作戦を行っていることは、僕は、歴史的に正しい評価を受けるのだろうと思います。

 ただ、先ほどから申し上げているように、それが明確な目的と、それから明確な地理的範囲をもって限定的に行われる限りにおいて、国際社会はこれを支持し、そして、一部イスラムに反対があることは我々は承知しますけれども、しかし、物事の論理として、この種のテロというものを容認したり、この際これに対して手を緩めたりするというのでは、我々は、二度、三度、四度とこの種のテロの被害を受けるということを甘んじて受けざるを得ず、それは我々の将来を極めて不安な状態にすると思います。

 その意味において、むしろ私は、アメリカを中心として非常にたくさんの犠牲をこれから払いつつこの種の攻撃を行っていることを、我々はでき得る限り支援し、支持する必要があるのではないかと考えております。

 以上であります。

春名委員 テロを容認しないからこそ、今、この報復の色の濃い軍事攻撃が大変大きな否定的な影響を与えているという事実も、一緒にやはり私は見る必要があると思うのですよ。非人道的なクラスター爆弾が使われるとか、非常にそういうことが起こってきて広がってきている、市民に影響を与えている。

 それから、今一番大事なのはテロ根絶に世界が大同団結することなのに、残念ながら、アメリカとイスラム国との戦いだなんという扇動の条件を与えたりとか、いろいろな亀裂が入っているという側面は、これはもう否定せざる事実であって、この点はやはり明確にして私はこれに臨む必要があるのじゃないかと思っています。

 そこで、二点目にちょっとお聞きしたいことは、参考人は、このままでは国連の本来の機能である集団安全保障の機能が何なのかということにならざるを得ないと先ほどからの議論もあるのですが、テロ根絶のための国連の果たす役割の問題なんです。しかし、今それはそういう機能が何なのかという状況になっているんだけれども、テロ問題の解決を見た上で国連のあり方を見直すべきだという趣旨のことをおっしゃられたように思うんです。ただ、今、今日のこのテロとの闘いの中でこそ、国連がその機能を果たしていくようにどうするのかということが大事なんじゃないでしょうか。そのことを通じて国連機能を強化するということが今は問われているように私たち思うんですね。

 一点は、テロとの闘いということで言えば、国連は一九六〇年代以降、十二の国際テロリズムに対する協定を採択してきました。九四年には国際テロリズムを排除する措置に関する宣言、これも採択をしました。九九年には、テロ根絶のための安保理決議一二六九、これも採択をする。こういう形で、言われているテロ根絶のための法と正義、こういう基本ルールを積み上げてきたというのが一つあると思うんですよ。

 もう一点は、今、アメリカが個別的自衛権の行使、そしてNATOは集団的自衛権の行使という形で、軍事攻撃に任せているということになっているんですが、これでいいのかという問題がやはり問われていると思うんですね。国連中心にあらゆる非軍事的な措置を徹底的にとる、その上で軍事的な措置の道ということも、プロセスとしてはあるかもしれません。しかし、そういうことがやられていない。結局、アメリカ同盟国対イスラムの戦いというような形にならざるを得ない、そういうことが言われている。それはまずいと思うんですね。

 ですから、国連が本当に今こそ機能を発揮するという方向に進んでいく、日本がその役割を果たすことが大事じゃないかなというふうに私は思っているんですが、その点はいかがでしょうか。

森本参考人 テロを根絶するために国連が今までいろいろなルールづくりに努力してきたことは、先生の御指摘のとおりです。しかし、そのルールづくりというのは、今回のように破られ、そしてテロが平然と行われるという現実を見た場合に、現在のような枠組みでは到底無理である、つまり実行可能性がないということが国連の中で議論されているので、先月からテロというものを国際法の中で禁止するための条約について討議が始まったことは御承知のとおりです。しかしながら、テロそのものを定義するという第一段階のところで既にこの議論はとんざしているというか停滞している、とまってしまっているという状態です。

 といいますのは、テロを根絶するということになるとテロをどう定義するかということになり、その定義に、例えばある特定の国家体系、国家のシステムあるいは集団というものをテロに概念してしまうと、その国家そのものを、国際社会の中で存在そのものを認めないということになり、テロを定義すること自体がパワーポリティックスの中にある極めて重大な問題になりつつあるからだろうと思います。

 テロは、国際法上、まだ十分に禁止されるという包括的な条約の対象には必ずしもなっていないわけです。戦争については、戦争を禁止するということは、これは国際法の最も根本的な役割であります。むしろ、国際法とは戦争を禁止するためにできた法の仕組みであります。今回、米国がこれを新しい戦争だと概念している理由は、私はここにあると思います。

 この場合、新しいとは何をもって新しいと言うかについてアメリカは十分に説明しておりません。しかし、考えてみると、これは従来の戦争の概念を超えたものであり、従来、戦争が主権国家によって争われたものであるのが、今回のように、テロの集団あるいはネットワークのような、主体が既に変化しているということであり、第二に、この主体が使う手段が、従来の戦争概念であれば、軍備だとか兵器体系というものであったわけですが、今回の事件を見て明らかなように、民間航空機という、兵器でも軍備でもないものが凶器になって使用されているということであります。

 そして、あえて言うならば、この戦争には、いわば目的が必ずしも明確でない。従来、戦争というのは、領土を確保したり、あるいは領土を拡張したり、あるいは民族の独立をかち得るという明確な目的があり、宣戦布告が行われて戦争行為が行われるということでありました。しかし今回は、宣言もなく声明もない、テロの実行犯がかち得たものは余りよくわからない、何であったかわからない。したがって、開戦もなければ終戦もない、終戦処理もなければ停戦合意もない、こういう非常に不透明な状態が起きつつあります。

 そして、最も重要なことは、もはや戦場というものがなくなっているということであります。従来、戦争とは、ある特定の戦場があり、そこに兵士が送られて戦闘行為が行われるということでありますが、今回のテロ事件、その後の生物兵器テロを見てもわかるように、日常性の中に戦争というものが入り込み、我々は、届けられる郵便物そのものをあけるかどうかということがある種の戦争行為になっております。私も、アメリカから届いた数通の手紙がいまだに私の庭の中に放置されたままであります。

 このような日常性の中に入り込んでいる新しい性格の戦争を、我々は国連がどのようにマネージするかということを考えた場合に、とりあえず目の前にあるこのテロを起こした実行犯を物理的に壊滅状態にするという英米軍を中心とする軍事行動をこちらで支援しつつ、一方において、しかしながら、アフガンを中心とする一般の人々の非常に悲惨な状態が現実の姿としてあるわけで、これを国際協力によってお救いするという行動を、国連を中心として、特にUNHCRを中心として行いつつ、この一連の活動が終結した後、一体、国連が、戦争にかわるこの種のテロというものを新しい戦争と概念して、国際法の中でどのように位置づけ、どのように対応するかということを改めて議論すべきであって、今現実に軍事作戦が毎日行われているときにこのような議論を起こしても、残念ながら英米を中心とする国々は、この一連の作戦の結果が不透明である限り、恐らく深刻かつ真剣にこのような議論には加わらないんだろうと思います。

 その意味において、まず解決すべきことをきちっと解決して、しかる後に、国連のありようについて我々は真剣にもう一度見直してみる、これが現在のとるべき姿なのではないかと考えます。

 以上です。

春名委員 テロの行為の定義については置いておくとして、現在、あの九月十一日の犯人も国連として特定もしていませんし、そして引き渡しを要求することもしていませんし、当然非軍事的な措置を徹底的に四十一条でとるということもやっていませんし、そういうことの積み重ねの上にということが大事なんで、そういう役割を今国連が果たすべきではないかということを、私は改めて申し上げておきたいと思います。

 それで、三番目に、時間がありませんので、今先生、日本の貢献のあり方についていろいろお話を伺ったんですが、集団的自衛権という問題について、直接の武力行使が集団的自衛権というような印象で私は受けとめたんですが、NATOの諸国が八項目の集団的自衛権の行使というのを決めましたね。燃料の補給、空港、港湾の使用許可、米国施設などへの警備強化、地中海東部への艦艇の派遣、早期警戒機の提供、情報の交換等々、これを集団的自衛権の行使という形で実施をするというふうになっていて、つまり、世界の常識は、後方支援、兵たんも集団的自衛権の範囲としてやるということがこれでも明らかではないかと思うんです。

 その点でいいますと、日本が決めた七項目、そしてそれの多くが今度のテロ特措法にも入っているわけですが、これは世界の常識で見れば集団的自衛権そのものというふうに見えるんじゃないかと思うんですが、その点は先生いかがでしょうか。

森本参考人 NATOが今回の一連の作戦について米国を支援し協力するために挙げた八項目と集団的自衛権との関係については、私の理解するところ、八項目のすべてを集団的自衛権の行使と概念して説明しているのではないというふうに私は理解しています。

 すなわち、NATO諸国がアメリカを中心とする軍事活動をどのような形で支援するかといういわば支援する項目をこういう形でまとめただけであって、その根っこというのでしょうか、その行為そのものの法的根拠、条約上の根拠を北大西洋条約第五条に基づいて行っているということであって、個々の活動が即集団的自衛権の行使に当たるというふうには私は概念できないと思います。

 つまり、例えばある後方支援を行うときに、後方支援を行うことに伴って、例えば集団的自衛権を行使しなければならないような直接戦闘行動がこの行為に伴ってあり得るということであって、ある後方支援をすること自身が集団的自衛権の行使に直接当たるというふうには私は解釈できないのです。

春名委員 時間が参りましたので終わりますけれども、日本の場合は九条を持つ国として、やはり非軍事の貢献を本当にやるということが今問われているんだということを私申し上げて終わりたいと思います。

中山会長 金子哲夫君。

金子(哲)委員 社会民主党・市民連合の金子哲夫でございます。

 まず最初に、国連の本来のあり方といいますか、国連が目指しているもの、そして私は、それは日本国憲法とつながるものであるというふうに考えておりますけれども、先生の少し古い論文ですけれども、九八年十二月「国際問題」にお書きになった論文をちょっと読ませていただきました。国連は、国際連盟を含めて、この近代の戦争がとりわけ一般民衆を含めて多くの被害を与える戦争の惨禍というものの中で、戦争行為あるいは武力による威嚇、武力の行使を進める方向をできるだけ抑止していく、なくしていくということを、現実的にどこまで進んだかは別にしましても、少なくとも大きな理想といいますか、目標を持って国連がつくられ、そしてまたそれは、私は、それをむしろ先駆けて体現したのは日本の平和憲法の前文から九条につながる戦争放棄の、武力放棄の問題だというふうに思っております。

 その点については、国際紛争をいわば未然に防いでいくための努力、戦争に至らないための努力ということが本来国連の憲章にも書かれていることの基本にあるように思うんですが、その点についてまずお伺いをしたいと思います。

森本参考人 その点については、私は、日本国憲法の成立の経緯に係る問題なのですが、私の理解する限りは、物事の順序として、一九四五年に国連憲章ができた後に、一九四六年に日本国憲法の起草が始まり、四七年に発布するという経緯と、その前にあった不戦条約というものが日本国憲法の起草に深くかかわっており、特に憲法第九条の条文は一九二八年の不戦条約の精神が多く取り入れられていることにかんがみれば、何となく、私の持っている印象は、順序が逆なのではないかなという印象です。

金子(哲)委員 順序の問題は別にしても、目標とする理念、その点については私は同じだというふうに思いますので、その点については、きっと先生も理念については否定をされないというふうに思いますので、先に質問を進めさせていただきたいと思います。

 そういう上に立ちますと、きょうも安全保障の問題を提起されておりますけれども、今テロが発生したものですからそのことが中心になって論議をされる傾向もありますので、私はあえて原則的なことでお尋ねをしたいと思いますけれども、その論文の中で、

 安全保障上の対象である脅威についても、軍事的な脅威のみならず、地球的規模の諸問題を含めた多種多様なリスクや危険に対しての安全保障を考えざるをえない状況になっている。その結果、安全保障上の手段も従来のような同盟や自国の防衛力による抑止と対応の機能のみならず、国家や地域を不安定にしないためのさまざまな努力――例えば、難民、経済発展、環境、テロ、兵器拡散などに対応するための多国間協力、地域紛争を未然に防止するための予防外交や予防防衛、平和維持活動といった広範な措置が、安全保障政策の主体を占めるようになりつつある。

とされて、そして、そのことを「安全保障の質的変化」というふうにおっしゃっております。

 きょうお話をお伺いした中では、残念ながらこの点については余りお触れになりませんでしたけれども、むしろ私は、この考え方、安全保障の質的変化と言われる部分、難民、経済発展、環境問題やそういった問題に対しての積極的な貢献こそが日本の進むべき安全保障のあり方ではないかというふうに考えておりますけれども、先生のお考えをお聞かせいただきたいと思います。

森本参考人 確かに、冷戦後の安全保障というのは、脅威が非常に多種多様になっておりますので、つまり、従来の安全保障概念でやるように、軍事力を行使するという活動のみによって地域及び国家の安全保障を確保していくということでは必ずしもないわけです。

 それはもちろん当然のことで、つまり、コアになる軍事的な手段によるもの以外に、非軍事的な手段によってよりよい環境をつくり、そのような深刻な軍事力を行使しなければならないような事態を未然に防止し、よい環境をつくり、周りの国との良好ないわゆる安全保障環境をつくることが、費用対効果の面からいえばむしろよい。紛争が一度起きてしまうと、それをもとに戻す努力、もとに戻すために必要なコスト、リソースというのは大変膨大でありますので、したがって、平生からそのような地域をつくり、信頼醸成を進め、紛争を未然に防止することができるのであれば、それは最も望ましいと思います。

 その二つの努力というものが総合的に調和のとれたものでなければならないと思います。それが国家の安全保障の非常に重要な役割だと思います。したがって、国家の安全保障は軍事面と非軍事面というものが大変適切に調和されたものでないといけない、このことは国家のみならず地域においても同じことだと思います。

 私が先ほどから強調しているのは、しかしながら、一たんここに何か起きた場合、現実にここで軍事力の行使が起きる、あるいは、ある国がある国に武力を行使する、ある国がある国に重大なテロを行うという現実がここで起きた場合、これはある種、紛争でいえば、ディスピュートというのがコンフリクトになってしまっているわけで、一線を越えてしまっているわけです。

 一線を越えたものをもとに戻す努力というのは、ある種、国連で言うピースメーキングという活動を今やっているわけですよ。今は平時じゃなくて、ある武力行使の敷居の一線を越えた状態が起きていて、それが去る九月十一日の事件だったと思います。それをもとに戻す努力というのはピースメーキングで、このピースメーキングをやってそれをもとに戻してから、つまり、今申し上げたように、例えば予防外交だとかPKOだとか、あるいは復興援助だとかという努力があるわけで、この四つの機能というものが見事に達成されていないといけないんです。

 不幸なことに、今起きている現象というのは、一たんテロという重大なる武力行使が行われ、それをもとに戻すための努力を英米が中心となってやっているということであって、これをまずもとに戻す努力をして初めて次の段階が起こるのであって、今は、だから、そういう意味では平常時じゃない、そういうふうに考えているので、ピースメーキングに重点を置いて申し述べたわけでございます。

金子(哲)委員 私は、その際であっても、各国の基本法というのは、憲法なり、憲法がないところでは基本法とも言われておりますけれども、結局のところ、それは確かに国際的な問題であったとしても、対応については各国の憲法の範囲といいますか、ここに規定をされていくことは当然のことだというふうに思っておりますので、その点で、私はちょっとほかの質問もしたいものですから、私の意見だけ述べるようで大変申しわけございませんけれども、今の現状の中では、日本のとっている政策は憲法の九条を含めた精神の範囲を超えているのではないかという見解を持っております。

 それで、実は私は広島から出ておりますので、少し具体的なことでお伺いをしたいんですけれども、このアフガニスタンの戦争、戦闘状態と言っていいと思いますけれども、私は二つ大きな問題があると思うんですけれども、大きな問題が残る可能性があるのは、一つは、パキスタン、インドの核兵器保有の問題です。

 最近、日本政府も、緊急援助の枠を超えて、制裁措置そのものも解除をするような方向に進むということが言われておりますけれども、今日のアフガンのさまざまな内戦の状態というものも、ソ連のいわば侵入といいますか、その後に多数の武器が、米国を中心として、反ソ連派といいますか、そういったところに供給をされた苦い歴史があると私は思うんですね。そういう武器の供与というものが、今日のアフガニスタンにおける紛争の中の、主要なとは言いませんけれども、そこに使われている武器のほとんどがそういう時期に持ち込まれたものだと思います。

 そして、今回、アフガニスタンのタリバン政権を攻撃するということで、パキスタンの上空を通りたいということが大義名分になって、パキスタンの核の問題というものが、いわばちょっと追いやられた形になっておりますけれども、そうしてみますと、もし仮にこの問題が解決した時点を見ますと、結局のところ、パキスタンとインドは核保有国として認知をされていくような状況が出てくるのではないか。

 そうすると、結局のところ、核拡散の問題について言いますと、この紛争の状況の中で、新たな核保有国を世界的に認知して、拡散を許してしまったという結果になるのではないかというふうに私は考えておりますけれども、その点についてはどのようなお考えでしょうか。

森本参考人 今起きている英米を中心とする軍事作戦の結果がいかなる推移をたどるかについて我々はつまびらかにいたしませんが、アメリカが一番懸念しているのは、この一連の作戦が終わった後、南アジアが中東湾岸に次ぐ紛争地になるということであると考えます。それは、アメリカにとって最悪の事態であります。

 しかし、だからといって、アメリカはタリバン後のアフガンの政治体制を構築するために、紛争後にも最大限の努力をし、関与し続けるようには私は思えません。どうもアメリカの国益にはならないのではないかと考えます。裏返して言うと、アメリカはこの地で血を流してしまいますので、新しい政治体制をつくる調停役としてはむしろ余り適当でないということで、緩やかに手を引いていく可能性があると思います。

 他方、パキスタンという国の安定についてアメリカは非常に大きな懸念も持っており、かつ、パキスタンの安定はアメリカの国益につながると今は考えております。

 私は、今はということを申し上げたのは、実は冷戦時代、アフガンにソ連が侵攻しているとき、アメリカはパキスタンを後ろで支え、十万のソ連軍に対して戦いを挑んでいるアフガンの中にいる反体制ゲリラを間接的に支援していた。その意味において、パキスタンは冷戦時代、アメリカにとって利用価値があったのに、ソ連が撤退した後、アメリカにとってパキスタンの利用価値が減ったために、アメリカはパキスタンから一切手を引き、そのため、パキスタンはいわば放置された形になって、隣国インドの脅威を排除するためにやむなく中国に接近して、今日のパキスタン―中国の戦略的関係ができ上がった。いわばアメリカの南アジア政策は一度ここで失敗したんだろうと私は思います。

 パキスタンの恐れていることは、この紛争が終わった後、アメリカが再び手を引いて、関心を失い、放置されることであると思います。したがって、パキスタンは、何としてもアメリカの国益をこの地に引きとどめるためにどうしたらよいかという後のことを考えて、いろいろな手を打っているのではないかと思います。

 一方、そのことを考えてみても、アメリカは、パキスタンの核を認知するということを今まで一度もやっていません。パウエル国務長官のパキスタン訪問のときのムシャラフ大統領との会談を思い起こしていただきたいのですが、アメリカは一切核の問題を取り上げていません。核の問題を取り上げることは、先生の御指摘のように、核開発というものを暗に認知してしまうからであり、それはアメリカにとってできない話であります。世界のNPT体制というのはここで崩れてくるわけでありまして、その意味において、アメリカは、インドとパキスタンの核保有を今日でもNPT体制の中では認知しておりません。

 もちろんアメリカは、パキスタンの核がそれ以外のところの手に渡ったり、あるいはパキスタンの政権が極めて不安定になって、この核がどのような形になって、管理がほかの人の手にゆだねられるなどというワーストケースが起こることを非常に気にしていることは確かです。しかし、懸念をしているということと、核の存在を認める、核開発を認知するということとは全く切り離して、アメリカはこの問題を処理しようとしているということではないかと思います。

金子(哲)委員 ありがとうございました。

 時間ですので終わりますけれども、今お話があったように、アメリカは核問題については非常に慎重な対応だと思いますけれども、日本の政府では、これはマスコミの報道するところですから正確な情報かどうかわかりませんが、制裁問題について方針を変更するのではないかということを伝えられておりますので、そうなりますと、今先生のお話をされたアメリカの方針とは若干違うことになって、大変な危惧を感ずるところであります。

 そういうことで考えてみますと、先生が言われた第二段階になったときに、日本が本当にアメリカに対してきちっとした物が言えるのだろうかどうだろうかということは、今のお話を聞いておりましても率直に、ことしの秋の国連に対する核兵器全面廃絶の道程決議案の提出の案文を見ましても、アメリカに非常に配慮をしまして、CTBTの発効時期の期限を明確に示さない決議案を出すような状況を考えてみますと、私は、その点では、先生がおっしゃったように、日本の政府がアメリカ政府に対して、日本の立場として、明確な姿勢をもっと強くはっきりと言うべきだということを思っているということを最後に申し上げまして、終わりにしたいと思います。

 ありがとうございました。

中山会長 松浪健四郎君。

松浪委員 始まりまして二時間四十分になろうとしておりますけれども、参考人には一回も休憩がないんですけれども、参考人に聞いていただいて、数分休憩をとるべきじゃないかということをまず提案させていただきたいと思います。

中山会長 いかがですか。

森本参考人 長きにわたって非常に熾烈な自衛官としての訓練を受けておりますので、この程度の試練には耐え得るように鍛錬されておりますので、私は何ら休憩を必要といたしません。(拍手)

松浪委員 保守党の松浪健四郎でございます。

 参考人におかれましては、長時間、本当に有意義な御意見、御示唆いただきまして、ありがとうございます。心から感謝をさせていただきたいと思います。

 おおむね、いろいろな安全保障にまつわる問題が出たというふうに思いますけれども、私は、幾つか素朴な問題について御質問させていただきたいと思います。

 各党の皆さん方は、本当に国連が頼りになるんだ、そして、国連のやることが正しいんだ、こういうふうな見方でいらっしゃるなというような印象を受けましたけれども、極めて素朴な問題でありますけれども、アフガニスタンは国連に加盟しております。しかしながら、その加盟しておるアフガニスタンは、わずか国土の五%しか持たない北部同盟の代表が国連に出ておって、九五%を支配するタリバン政権は国連に加盟することが許されておりませんでした。これは一体どういうことなのか、まずお尋ねしたいと思います。

森本参考人 何か外務省の条約局みたいな答弁をして、先生には大変申しわけないのですが、御承知のとおり、国家承認と政府承認というのは分けて日本政府は考えておりまして、日本は国家承認の制度も政府承認の制度も持っておりますので、あくまでアフガニスタンという国家を国家として承認し、それから正統政府を正統政府として承認し、その正統政府が、言い方はよくないんですが、例えばクーデター等で転覆させられたときに新しい政権を政府承認するかどうかということは、いろいろなルールに従って政府承認しているわけで、一たん政府承認をした政権が、そのときの情勢によって、例えば国内で不利な状態になるかどうかによって、我が国は政府承認を取り消したり、また認知したりするという手続をしておりません。したがって、現実政治の中で、例えばAという勢力とBという勢力が争い、Aを承認したところ、Aがどんどんと劣勢に回るというようなことは、その国の内情の問題であって、政府承認の問題とは切り離して考えているというのが建前でございます。

松浪委員 結局、その建前によって、実質的に支配している勢力が国連に加盟することができなかった。しかも、その勢力が二度にわたり強度な経済制裁を受けるということになりました。

 今回のアメリカの軍事行動、これについて私は異議を挟むものではありません。しかしながら、テロを根絶するためにやるとしたならば、何も全域的に、全土的に爆撃を展開する必要がないのではないのか。むしろ、アメリカの今回の軍事行動は、テロ根絶に加えて、ほかにもう一つ目的、ねらいがあるような気がしてならないんですが、参考人はどういうふうに見ておられるんでしょうか。

森本参考人 これは、アメリカの今回の一連の作戦の大統領が決裁したときの作戦目的と、そして統参本部長を経由してCENTCOM、つまりセントラルコマンド、中央軍司令官フランクス中将がつくった作戦計画に深くかかわる問題だと思います。

 私の認識は、今回の作戦は、アメリカの作戦計画をつくっている人は非常に明確な目的を持っていて、アルカイダという、どれぐらいなんでしょう、最大二、三千、我々は正確にわかりませんが、それは外部から入ってきた外国人部隊ですが、イスラム原理主義のエキストリーミスト、それの中核にいるビンラディンというのをまず物理的に壊滅させる、そして、それと表裏一体にあるタリバンという、どれぐらいなんでしょう、それもよくわかりません、四万五千とか五万とか最大六万ぐらいの兵力、これを根絶させない限り、第二、第三、第四のテロが発生する可能性がある。しかも、そのようなテロというのは最後まで追い詰められて根絶させられるということを、世界じゅうにいるテロ集団に、抑止の機能を果たすためにきちっと見せるということが非常に重要で、つまりテロをかくまうとこういうことになるということを世界じゅうにきちっと示すためには、これは物理的に根絶するまで作戦を途中でやめないと思います。

 そういう作戦計画がきちっとつくられて、それを物理的に根絶するためには、通常、陸上作戦だと、こちらからぐっと面を押していくんですが、今回の作戦は、特殊な地形にあるがゆえに、面を上から一斉にたたくということでないと、こちらから押していって最終目標が達成できるのではなく、上から一斉にたたいておいてから一つずつつぶしていくという作戦計画をつくって今回の作戦が遂行されているので、先生のお言葉はよくわかるのですが、しかし軍事作戦の計画は必ずしもそうなっていないのではないかという印象を持っています。

松浪委員 米軍が軍事活動を展開する以前に、パキスタン側にアフガン難民は二百万、イラン側には百五十万の難民がおりました。しかも、知識人、私もかつてあの国で三年間大学の教壇に立った者であります、三千人強の教え子がおりましたけれども、今国内に一人もおりません。結局、外国に出て仕事のできる者は、残念なことに国を捨てて他の国で活躍をするというのが現実であります。

 したがいまして、二十三年間アフガニスタンの国民は平和を享受することはありませんでした。アメリカは、テロ根絶と同時に、アフガニスタンの国民に、タリバンという政権を倒せば平和になる、そして平和になれば難民が母国に帰ることができるではないか、こういう思いから思い切った軍事行動に出ている、そして全土的に攻撃を展開しているというふうに私は見ておるんですが、これはアメリカびいき過ぎるでしょうか。

森本参考人 これも今回の一連の作戦の目的に深くかかわる問題で、我が国政府は一片の情報ももらっておりませんので、もらっていたとしても私は申し上げられませんけれども。

 私の理解するところ、アフガンの一般の人々にとってはいささか残酷な言い方になりますけれども、そもそもタリバンなる政権を、いわば自分たちの意思に反するものであれ、国内にそういう政権が現に存在し、それを認知していることは、つまり広い意味では国民の責任だとアメリカは考えている。

 このことは、私は、非常に残酷な物の言い方をしますけれども、要するに民意がそのようなレベルだと言ってしまえばそれだけなんですが、しかしアメリカというのは非常に現実主義的な政策をとる国ですから、とにかく目的のためには手段を選ばない。今の目的というのは、そこにいるまさにアルカイダという組織、これをとにかくできるだけ物理的に壊滅状態に追い込むということでなければ、アメリカの国家、アメリカの国民、社会、アメリカのみならず自由社会というものの安全が維持できない、ここは非常に強い決意があるんじゃないかと僕は思います。

 もちろん、今回の作戦をやりながら御承知のとおり食料を投下して、なるべくいろいろな配慮をしていますけれども、それは人民に対する配慮というよりか、むしろ国際世論に対する配慮というものなんではないかなというふうに考えます。

松浪委員 参考人は冒頭、今回のアメリカの軍事行動等を文明の衝突とは言いにくい、こういうふうにおっしゃっておられました。しかし、私は、かの国に三年住んだ人間として、これはまさに文明の衝突だ、こういうふうに理解をしております。

 と申しますのは、タリバン政権はイスラム原理主義でやっておる、当然のことながらイスラムの戒律というものでやっておるわけでありますけれども、イスラム教がアフガニスタンに入ってまいりましたのは十世紀であります。政府の要人も、また各ニュースも、安易にアフガニスタンのことをアフガン、アフガンと呼んでおりますけれども、これは大きな間違いであります。なぜならば、アフガンというのはイコール、アフガン族でありまして、イコール、パシュトゥン族を指します。アフガニスタンは御案内のようにモザイク国家で、厳密には十数種類の民族が生活をしておるわけでして、その人たちをひっくるめてアフガニスタンと呼ぶわけでありますから、アフガンとアフガニスタンは全然意味が違います。

 こんな細かいことを言っていますと前へ進みませんから横に置きますけれども、百年ちょっと前にクーベルタンがオリンピックムーブメントを始めました。平和活動であります。これは問題がなかったんです。なぜなかったのかといえば、女性が肌をさらすような種目が当初なかったから問題がなかったんです。しかしながら、シドニーのオリンピックで高橋選手が金メダルをとって我々は喜んだけれども、イスラムの国々の人からすれば、なぜ女性がパンツ一枚で走るんだ、肌をさらすということは許されない、この価値観、これがあります。

 したがいまして、女性の水泳選手であるとか陸上選手が世界一だといっても、実は世界の四分の三のチャンピオンでしかないということでありますけれども、この十世紀前に何があったのかといえば、パシュトゥン族にはパシュトゥン族のおきてというものがずっとあって、今日まで続いております。これをプクトンワリと呼びます。これは慣習ですから、当然のことながら慣習法というふうに呼んでいいと思いますけれども、この第一にバダルというのがあります。これは復讐ということであります。そして、多くの国々に囲まれる、いろいろな民族に囲まれますと、復讐心というものを常に表面に見せておかなければ、自分たちが安全を保つことができないというような面があります。

 幾つかあるんですが、もう一つ、メルマスティアというのがありまして、これは客人を最大限もてなすということであります。これはイスラムの中にもありますけれども、つまり、悪人であるかどうか、犯罪者であるかどうかわからないけれども、オサマ・ビンラディンを自分たちは守り抜かなければならないという考えを結局タリバンは持っておるがゆえに、国連が言い、アメリカが言い、いろいろな国々が言っても、オサマ・ビンラディンを渡さないということになっておるわけです。それに対して、悪は悪だという我々の考え方で攻撃をするということはまさに文明の衝突ではないのか、こういうふうに私は思っておるわけでございますけれども、参考人はいかがお考えでしょうか。

森本参考人 いや、とても先生にはかないません。文明の衝突論を議論したって到底かないそうにありませんが、これは繰り返すまでもないと思いますが、アメリカが文明の衝突論を言いたくないのは、一つは、アメリカの国内政治上の問題とイスラム社会との関係であります。

 もう一つは、あえて言うならば、先ほど冒頭に私申し上げたように、これは宗教対立にしたくないという、つまり、宗教戦争にすると際限のない世界の中に入っていくというのはだれが考えても当然帰着する結論でありまして、そのことを考えると、文明の衝突論というふうにこの問題を概念してしまうと、まさにイスラム対反イスラム、あるいは、場合によってはイスラム対キリスト教社会、あるいはイスラム対いわゆるアメリカ、こういう戦争になる。アメリカはそういう概念で今回の作戦を進めたくない。

 しかし、私の説明は、先生のおっしゃるような要素が十分にあるので、私は、その結果、この一連の作戦が終わったときに、必ずしも文明というのではなく、価値観――価値観はイコール文明じゃないと思うんです。アメリカ人であるイスラム教徒だってアメリカの価値観を多く共有するわけで、イスラム対反イスラムが、価値観を共有できるものとできないものとにはイコールにはならない。ならないんですけれども、しかし、どちらかというと価値観という新しいイデオロギーによってゆっくりと秩序が形成されるのかなと思っているわけです。

松浪委員 私も、これがイスラム対アメリカの戦いにならないように切に願うものであります。そして、そういう方向に我々も協力をしていかなきゃいけない、こういうふうに思っております。

 有意義な御意見、ありがとうございました。

中山会長 近藤基彦君。

近藤(基)委員 21世紀クラブの近藤基彦でございますが、森本先生には、大変長時間ありがとうございます。最後の質問者でございますので、もうしばらく我慢をしていただきたいと思います。

 先ほど自由党の藤島先生の御質問に、今回のテロの事件に関して、自衛権の問題で、個別自衛権あるいは集団的自衛権に今回日本としては当たらないとおっしゃっていましたけれども、一般的に言って、先生の個人的御意見で結構なんですが、日本が万が一個別的自衛権を発動できるとすれば、その条件というのはどんなものが想定できますでしょうか。

森本参考人 従来国会で議論になっている個別自衛権の行使の要件というのは、もちろん御案内のとおりであります。しかし、これはあくまで要件なんでありますけれども、個別自衛権を行使するようなケースというのは、国連憲章上明確な武力攻撃があった場合に私は限られると思うんです。裏返して言うと、例えば日本の領土というものが明らかに侵略を受けるというふうなケースで、だれが見てもそれが国益に対する重大な侵害であると明々白々の場合に限られると思うんです。

 例えば、非常に例がよくないんですけれども、非常によくない例だということをお断りしながらわかりやすく議論をすると、例えば竹島という問題があって、竹島は我が国固有の領土だというふうに我が国政府は説明しておりますが、それが事実上韓国によって実効支配されているということを我が国領土に対する侵略行為だとみなして、これを取り返しに行くということになると、これは個別自衛権の行使とは概念されないということです。現に実効支配されている領土が我が国が主張する領土だという場合でも、これは個別自衛権ということにはならない。むしろ、これは国連憲章上武力の行使とみなされる可能性が非常に高いということです。北方領土についても同じだと思うんです。

 ところが、尖閣列島のように日本が実効支配しているところを、極めて明確な形で別の国がこの島を軍事力を行使して占拠した場合、これを取り戻しに行くという行為は、私は個別自衛権として十分に説明できると思います。

 余り例がよくないので、やや自分でいい例ではないなと思いながら、もしこれをわかりやすく説明するとそういうことなのではないかと思います。

近藤(基)委員 あくまでも領土、いわゆる日本の固有の領土内で起こった場合。先生の場合、そうすると、例えば今回のように国外で、九月十一日の米国で起こった同時多発テロに関して、米国が個別自衛権を行使したということに関してはどうお考えですか。

森本参考人 米国が今回の事件を個別自衛権の行使だと概念していることについては、国際法上は問題があるというか、我々として考えるべき点が二つあると冒頭に申し上げた。

 その二つとは何かというと、ある国に対してテロが行われたということが、一体、国家として個別自衛権を行使するケースなのかということなんですよ。例えば我が国に対して、国じゃなくてどこかからテロを受ける。それは一体、国際法上個別自衛権を行使するケースなのかということを、例えば国連憲章を解釈すると、これはなかなか難しい話です。国連憲章上は、すんなりと自衛権を行使するようなケースであるかどうかというのはなかなか疑問の出るところだ。これは、コソボに対する人権侵害を武力行使によってNATOが解決したのと同様の問題がここで起こると思うんです。

 ただ、アメリカの立場に立って議論をすると、これはテロと言うけれども、先ほどから申し上げているように、通常犯罪行為としてのテロの領域を超えている。だから、警察が取り締まって犯人を追っかけるというふうなテロではもはやない。それは何かというと、宣戦布告なき宣戦布告に等しい。だからこれは新しい戦争だと言っているわけです。

 新しい戦争だとは、アメリカが戦争を仕掛けられたという意味です。このアメリカが言う戦争とは何かというと、国家と社会のシステムが根本的に破壊されるような破壊行為であるということだと思うんですね。そうでなければ、主権国家として個別自衛権を行使するようなケースとは解釈できないんだろうと思うんです。アメリカのそのような説明が果たして国際法上通用するかどうかという問題が、第一の問題です。

 二番目に、仮にそうだとしても、さっき申し上げたように、自衛権とは急迫不正の侵害があった場合ですから、例えば、私がこの委員会から夜出て、自分の職場まで戻る間、暴漢に襲われた、だれがやったとも判別もつかないという事例が起きて、そのときはそれで終わって、一カ月ぐらいたったときに、よく思い出すとあれはA君に違いないと自分で考え、A君の家に行って報復するという行為は、国内法で認められる刑法三十六条で言う正当防衛かというと、私は、法の成り立ちとして、それは答えはノーなんだろうと思うんです。正当防衛というのは、まさに急迫不正の侵害が起きている場合に、この急迫不正の侵害からみずからの基本的人権を守るために必要最小限合理的と認められた対応措置が法のもとで認められているわけです。

 だから、テロが行われたときに、テロが行われて終わっちゃった、一カ月ぐらいたってあそこにいるといって軍事力を使って攻撃するということは、一体自衛権の行使かという問題について疑問が残ると私が申し上げたんです。

 ただ、アメリカの説明は、現にそこにアルカイダという実行犯がいる、そして、何にも攻撃を受けていなくて、現存する限り常にかかる第二、第三のテロ行為が行われる可能性があるから、したがって、自衛権を行使するような急迫不正の侵害が持続しているという考えなんです。持続しているんだから、これをやっつけるまでは自衛権が行使できる。しかし、そんな法の解釈が一体国際法上あり得るのかということを私は先ほど申し上げたわけです。

 だから、アメリカが自衛権の行使と言っているけれどもどう考えるのかという先生の御質問に対して、二つの側面から、十分に私は納得していませんし、問題がありますねというのが私の答えです。

 以上です。

近藤(基)委員 冒頭、先生のお話で、今後の展開が、現状行われている第一段階、それで第二段階が、先生の想定の中では何となく多分あるだろう、戦線の拡大という形になるのかどうかわかりませんがあるだろうと、先生のお話の中で理解をしたのですが、そうなると、今回のアフガニスタン攻撃、報復と言われている英米の攻撃の終結点というのは、先生がお考えになるには、どの点をもってこれが終了したと解釈できるんでしょうか。

森本参考人 私は、便宜上先ほど第一段階と申し上げて、その第一段階というのは、特にこれはイギリスのブレア首相の主張によって採用された第一段階の作戦目的が、ある限定的な明確な目的と目標と地域を設定して行われつつあるということを申し上げ、しかしながら、それはやがてどこかで大統領の決定が別途行われて第二段階になる可能性が高い。しかしながら、第二段階が軍事的な作戦であるかどうかについては、必ずしもそこまでは決まっていない。非軍事的な手段と軍事的な手段が総合されて行われるという可能性もあるので、そこは予断を許さない。

 しかし、現在行われている第一段階の作戦目的は、明らかに、先ほど申し上げたようにアルカイダ、その中核にいるビンラディン並びにそれを支えている表裏一体のタリバンを物理的に壊滅状態に追い込むことによって、三つの目的を達する。さらなるテロが行われる当面の脅威を排除すること、第二に、米国がその威信を回復すること、第三は、この種のテロ集団を支援すると同様の運命をたどるということを世界に知らしめることによってさらなるテロを抑止すること、この三つの目的を持って限定作戦をやっているのではないかと考えます。

近藤(基)委員 今回のテロというのは、テロネットワークとよく言われていますけれども、アルカイダあるいはビンラディンを逮捕あるいは抹殺といいますか、物理的に排除をしたとして、それで果たしてテロの第二、第三の攻撃がとまるのかどうかというのは甚だ私自身は疑問に思っている一人なんであります。

 そうすると、タリバン政権を物理的に排除をした後、アフガニスタンの復興問題にかかってくるわけですけれども、その復興に関して国連が果たせる役割、あるいはイニシアチブ的に当然、個別自衛権で戦争を起こし終結させたとした場合に、米国側としては国際貢献的にもかなり評価が高くなってくるのだろうと思いますが、これはやはり米国を中心とした復興のイニシアチブになるのか、それとも国連を中心とした形のものになるのか。

 アフガニスタンの人たちが自発的にそういった政権づくりができればいいですが、そんな国力は恐らく残っていないでしょうし、そこまでアフガニスタン国内に任せて、北部同盟が戻ってきて政権をつくるだけの力的に残っていないだろうと思うので、どこかがやはり手助けをしなければいけないと思っておるのですけれども、どこがイニシアチブをとって復興努力の援助をすればいいとお考えでしょうか。

森本参考人 これを議論する前提は二つあって、一つは、この一連の第一期の作戦がどのような形で決着をするかということに非常に深くかかわっていると思います。つまり、北部同盟がどこまで支配地域を広げるか、あるいはタリバンが本当に全滅してしまうのか。あるいは、タリバンには中核に保護すべきアルカイダがいるとすれば、その周りに非常にラジカルなメンバーがいて、そのさらに外にいわば部外から集まった勢力というのがあって、北部同盟はどちらかというとその一番外枠にいる勢力に戦いを挑んでいるという状態ですから、中核の部分とはまだ本格的な戦闘をやっていないと思います。

 したがって、その北部同盟がどういう形で残るか、戦闘の成果と経緯というものと、それからもう一つは、アメリカが一連の作戦をどのような形で終結させるかということにかかわっていると思います。もちろん、その前提といいますかその背後には、イスラムの社会のいろいろな影響力とパキスタンの内情というのがありますが。

 以上のことを考えて、現在の状態で、あり得るシナリオというのは、私は三つあるんだろうと思っております。

 一つは、アメリカが非常に影響力を行使した形で、タリバン後のアフガニスタンの政治体制についてイニシアチブをとるというシナリオ。

 第二は、カンボジアのように、コンタクトグループといって、アメリカはもちろん、イギリスのみならず、日本も含めた主要国、ロシアも中国も入れた、そういった影響力のある国がみんなで集まって、ある種のコンタクトグループを使って、パリ平和会議のような、つまりカンボジア問題の和平会議のような枠組みをつくって、そこで協議をしてつくっていくというやり方。そうなると、ロシアだとかインドだとかパキスタンだとか中国だとかという、非常に難しいけれども、しかしこの地域に重要かつ重大な国益を持っている国の影響力と関与を十分に活用して政治体制がつくれるというメリットがあります。

 第三は、今の東ティモールのように、国連が暫定行政機構をつくって、国の再建をエンカレッジしながら、人民がまさにその政治体制を選ぶという選択をするまでの間、国連がずっと、つまり国家の再建をお手伝いするというやり方です。

 雑に考えると、大体三つぐらいあるんだろうと思います。

 先ほどから申し上げているように、どのような形になるかは、この戦闘がどういう形になって残るか、一体、タリバンの勢力が残った形で終結するのか、北部同盟がどれだけ勢力を広げるのか、それが我々にはわからないわけですね。そのときの終結のやり方によって、今の三つのオプションのどれかに偏っていくのではないかなという印象を私は持っています。

近藤(基)委員 時間ですので、長時間、どうもありがとうございました。

中山会長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、一言ごあいさつを申し上げます。

 森本参考人におかれましては、長時間にわたり貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。調査会を代表いたしまして、厚く御礼申し上げます。(拍手)

 次回は、来る十一月八日木曜日幹事会午前八時五十分、調査会午前九時から開会することとし、本日は、これにて散会いたします。

    午後五時十三分散会




このページのトップに戻る
衆議院
〒100-0014 東京都千代田区永田町1-7-1
電話(代表)03-3581-5111
案内図

Copyright © Shugiin All Rights Reserved.