衆議院

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第3号 平成13年11月8日(木曜日)

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平成十三年十一月八日(木曜日)

    午前九時一分開議

 出席委員

   会長 中山 太郎君

   幹事 石川 要三君 幹事 葉梨 信行君

   幹事 保岡 興治君 幹事 鹿野 道彦君

   幹事 中川 正春君 幹事 細川 律夫君

   幹事 斉藤 鉄夫君

      伊藤 公介君    伊藤 達也君

      今村 雅弘君    奥野 誠亮君

      金子 一義君    高村 正彦君

      佐田玄一郎君    坂井 隆憲君

      下村 博文君    菅  義偉君

      谷本 龍哉君    中曽根康弘君

      中山 正暉君    西田  司君

      鳩山 邦夫君    松野 博一君

      松本 和那君    森岡 正宏君

      山崎  拓君    山本 公一君

      吉野 正芳君    江崎洋一郎君

      大出  彰君    岡田 克也君

      鎌田さゆり君    小林 憲司君

      島   聡君    仙谷 由人君

      筒井 信隆君    手塚 仁雄君

      中野 寛成君    中村 哲治君

      楢崎 欣弥君    山内  功君

      山田 敏雅君    上田  勇君

      太田 昭宏君    都築  譲君

      藤島 正之君    小沢 和秋君

      塩川 鉄也君    春名 直章君

      金子 哲夫君    原  陽子君

      松浪健四郎君    近藤 基彦君

    …………………………………

   参考人

   (東京大学法学部教授)  長谷部恭男君

   参考人

   (東京大学大学院法学政治

   学研究科教授)      森田  朗君

   衆議院憲法調査会事務局長 坂本 一洋君

    ―――――――――――――

委員の異動

十一月八日

 辞任         補欠選任

  佐田玄一郎君     坂井 隆憲君

  三塚  博君     谷本 龍哉君

  小沢 鋭仁君     島   聡君

  小林 憲司君     手塚 仁雄君

  今野  東君     楢崎 欣弥君

  首藤 信彦君     山内  功君

  山口 富男君     小沢 和秋君

  土井たか子君     原  陽子君

  野田  毅君     松浪健四郎君

同日

 辞任         補欠選任

  坂井 隆憲君     佐田玄一郎君

  谷本 龍哉君     松野 博一君

  手塚 仁雄君     小林 憲司君

  楢崎 欣弥君     鎌田さゆり君

  山内  功君     江崎洋一郎君

  小沢 和秋君     塩川 鉄也君

  原  陽子君     土井たか子君

  松浪健四郎君     野田  毅君

同日

 辞任         補欠選任

  松野 博一君     吉野 正芳君

  江崎洋一郎君     首藤 信彦君

  鎌田さゆり君     今野  東君

  塩川 鉄也君     山口 富男君

同日

 辞任         補欠選任

  吉野 正芳君     三塚  博君

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 日本国憲法に関する件(二十一世紀の日本のあるべき姿)


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     ――――◇―――――

中山会長 これより会議を開きます。

 日本国憲法に関する件、特に二十一世紀の日本のあるべき姿について調査を進めます。

 本日、午前の参考人として東京大学法学部教授長谷部恭男君に御出席をいただき、統治機構に関する諸問題について御意見をお述べいただくことになっております。

 この際、参考人の方に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にさせていただきたいと存じます。

 次に、議事の順序について申し上げます。

 最初に参考人の方から御意見を四十分以内でお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。

 なお、発言する際はその都度会長の許可を得ることになっております。また、参考人は委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。

 御発言は着席のままでお願いいたします。

 それでは、長谷部参考人、お願いいたします。

長谷部参考人 ただいま御紹介にあずかりました東京大学の長谷部恭男と申します。

 本日はお招きにあずかりまして、大変光栄に感じております。非常に簡単なレジュメしか御用意しておりません。失礼をいたしますが、こちらに基づきまして話を進めさせていただきます。

 事務局の方からあらかじめお話がございまして、首相公選制、それから衆議院と参議院の関係については必ず話をするようにという話がございましたので、その点からまず話を進めさせていただきます。

 まず、首相公選制についてでありますが、この問題に関する私の意見は、さきにこちらの調査会、平成十二年の十一月九日の会議で、現在東京大学総長の佐々木毅教授、私の先輩ですが、佐々木参考人が発言した点と趣旨においてはほとんど同じであろうかと思います。

 私が首相公選制と言うときに、主に念頭に置いておりますのは、最近までイスラエルで運用されていた首相公選制のことでございますが、ああいった形の首相公選制をとるとどういうことになるかと申しますと、レジュメの最初に書いておきましたとおり、首相の選択と議会選挙における政党の選択というものにずれを生ずる、そういう問題でございます。

 本来、議院内閣制のもとでの政党の役割はどういうところにあるかと申しますと、これは、社会の中の多様な意見ですとか利害というものを吸い上げ、それを集約しまして、それを一貫した政策の形に組み立てる、さらにそれを首相の候補者とワンセットで有権者に提示するという点にあるかと思います。その結果、総選挙で勝利した政党ないし政党連合のリーダーが首相になる。そうして首相になったリーダーは、議会多数派の支持を既に得ているはずでありますから、その支持を基盤にして、総選挙で有権者に訴えかけた政策を実現していくということになるはずであります。

 ところが、イスラエルにおいて実際に見られましたとおり、首相を直接公選にすることにいたしますと、こういう議院内閣制のもとでの政党の役割が機能不全を起こすことになります。つまり、有権者は、首相を選択する時点で既に国政の基本方針に関する選択を済ませたように感じる、そして、国会議員の選挙に際しましては、自分たちの属するより小さな、部分的な利益を代表する候補者に投票しようという行動に出ることになります。

 また、政党の方も、実は、社会の多様な意見を吸い上げて集約し、それを首相候補者とワンセットで有権者に提示するという役割から解放されることになってしまいますので、そうなりますと、やはり個々の議員がそれぞれの部分利益を代表するという役割の方により偏っていくことになるはずであります。

 そういたしますと、せっかく首相は選任されても、議会に首相を支持する安定した与党が存在しない。そのために、首相は、有権者に提示した政策を実行する手段を奪われてしまうということになるはずであります。そのために、首相公選制をとることによって首相の指導力を強化するというもくろみは外れることになったのだろうかと思います。

 ただ、この点につきましては、イスラエルの選挙制度がかなり純粋な比例代表制をとっている、それがこうした首相の指導力の弱化ということにより貢献したのではないかという見方もあり得ようかと思います。

 そういたしますと、例えば別のやり方、典型的には小選挙区制がそれになるかと思いますが、小選挙区制にすればもっとうまくいくのかという問題になります。私の予測では、余りうまくはいかないのではないかと感じております。

 と申しますのも、小選挙区制という選挙制度は、それ自体の制度の論理といたしましては、実はローカルな特殊利益を代表する国会議員を選出する傾向を本来は持っているはずであります。

 ただ、典型的に小選挙区制に基づく議院内閣制を運用しているイギリスはそうではないではないかという疑問が出てくるかもしれませんが、イギリスでそうした傾向が顕在化しないのはなぜかと申しますと、これは全国レベルで二大政党制が既に成立しておりまして、その全国レベルで首相の選択と結びついた国レベルの政策選択を行うという政治慣行ができているからであります。そのために、全国レベルの政策選択が地域レベルの利害の選択に優越するという状況があるからであります。

 なぜそうなっているかといいますと、これは議院内閣制をとっていて、議会の多数派の指導者が首相になるという制度の論理がとられているからであります。これに対しまして、首相公選制をとる、首相は別建てで直接公選だということになりますと、やはり、こうしたイギリスで機能しているような選挙制度の論理というものも機能不全を起こすであろうと考えられるわけであります。

 もう一つの制度の選択肢といたしまして、もう少しアメリカ型の純粋な大統領制にしたらどうなんだろうか、そういうアイデアも考えられるかと思いますが、ただ、この考え方もかなり大きなリスクを持っているというふうに私は考えております。

 と申しますのも、アメリカ型のかなり厳格な権力分立の体制、そういう大統領制をとっている国家で、長期的に安定した民主政治を運営している国はほぼアメリカ合衆国一国に限られているというふうに言うことができるのではないかと思います。

 現代国家と申しますのは、政府が社会経済の隅々にまでいろいろな形で干渉していく、介入していく、そういう必要がある国家であります。そういった国家で、立法と行政を厳格に分立するという体制をとって、うまくいく方がむしろ不思議であります。

 そうすると、アメリカではなぜそれがうまくいっているのかという方向に疑問が進んでいくのだろうかと思います。

 これはやはり、アメリカ独特の政治風土や政治慣行というものを考慮に入れなくてはいけないわけでありまして、これは先生方の方が御案内かと思いますけれども、アメリカでは議員立法が行われているというふうに言われてはおりますけれども、実は、少なくとも重要法案の大部分につきましては、行政府の側で法律案を用意しまして、それを議会の議員に提案して、そして議員立法として議会に提案してもらうという慣行がございます。そういう意味では、実際の立法活動では、行政府と立法府とが互いに協働する、協力して働いていくという慣行ができ上がっております。

 また、投票の規律というものがかなり緩やかでありまして、大統領と議会の多数派の間にたとえ食い違いが起こっても、それがそれほど政治運営のデッドロックを生じない、そういう状況。あるいは、外交防衛上の大きな問題が起こったときには、いろいろな政治的な立場を超えて一致する、国内でコンセンサスをつくり上げよう、こういう強い伝統があるということもあります。

 こういったアメリカ特有の政治風土なり政治慣行なりをほかの国に移植するということは、これはなかなか難しいのではないか。つまり、制度の枠組みを輸入することはできても、その制度をうまく運用させていく背景の風土なり慣行なりを一緒に輸入することができるのかどうか、そういう問題があるかと思います。

 したがいまして、このような形の制度の改革にもかなり大きなリスクがあるというのが私の考えであります。

 レジュメで次の問題で、衆議院と参議院の関係について話を進めさせていただきます。

 これまたよく言われることでございまして、特に物珍しいことを申し上げるわけではないんですが、二院制の妙味を生かすには両院の構成が異なっている必要があるというふうによく言われることでありますし、そのとおりであるかなと思います。

 ところが、日本国憲法下の両院制というのは、なかなかこの両院の構成を異ならせるためには不都合なところがございます。と申しますのが、参議院の権限が、第二院といたしましては比較制度的に見ても相当に強い権限を持っているということであります。つまり、衆議院と参議院とで法律案の議決が異なっておりますときには、衆議院がその最終的な結論を決めるためには三分の二以上の多数が必要であるということになっておりますので、そうなりますと、衆議院の多数を支配している与党・政府は、参議院の多数派をも同時にコントロールしなくてはその政策の執行に必要な法律を得られないという状況、これは憲法の論理から必然的に出てくる結論だということになります。つまり、衆議院の多数派は参議院の多数派をもコントロールせざるを得ないようになっているわけであります。

 そういたしますと、両院の構成を異ならせて二院制の妙味を生かそうといたしますと、非常に簡単な結論は参議院の権限を縮小するということになるはずでありますが、ただ、参議院の権限を縮小するということになりますと、これは憲法改正ということになりまして、憲法上、参議院議員の三分の二の賛成を得る必要がございますので、現実論といたしましては、かなり難しい問題になるかなと思います。

 そういたしますと、とりあえず考えられますのが、参議院がその権限を自主的に抑制して行使するような慣例、すなわち憲法習律の形成が必要なのではないか、そういうアイデアが考えられるわけであります。例えば、地方自治や司法の独立の保障といったかなり国政上の基本的な問題、あるいは国の長期的な政策構想にかかわる問題に限って衆議院と異なる機能なり発言なりをする、そういった形で権限の行使をみずから抑える、あるいは参議院議員からは閣僚、副大臣など政府の構成員を出さないといった慣行の形成等がとりあえずは考えられます。

 このように自主的に謙抑的に権限を行使するという慣行ができてしまいますと、実は、憲法改正の必要も逆になくなってくることになるのかなということであります。

 次に、レジュメの3と4の問題に入っていきたいと思います。

 レジュメの3と4でお話ししようと思っておりますのは、つまり、今までのような例えば首相公選制という形のアイデアが出てまいりますのは、やはりその背景には、現在の議院内閣制の制度の枠組みなり運用の仕方なりにつきまして、これを改善する余地があるのではないか、そういう問題意識があるからではないかと思うからであります。

 そこで、では、議院内閣制、あるいはもう少し広くとりまして、議会制民主主義というものは、本来どのように動くのが正しい姿なんだろうか、そういういかにも学者らしい問題につきましてお話をさせていただこうというわけであります。

 議会制民主主義につきましても、その正しい運用のあり方についての古典的なイメージというものがあります。これは十九世紀のイギリスにおける政治のあり方がモデルになっておりまして、そこでの古典的なイメージと申しますのは、言論、出版の自由が保障されて、社会の中に多様な見解が行き渡る。そして、そういった多様な見解を吸い上げる形で議会での公開の審議と決定が行われる。もちろん、結論は多数決で決まるわけですが、多数派もみずからの決定を説得力のある形で公開の議論の場で正当化する必要があるわけですし、そういった議論の過程を通じまして、少数派もあしたの多数派になる可能性を持っている。こうして、公開の場での審議と決定を通じまして、次第に、政治プロセス全体としては、客観的に存在する公益、社会全体の利益へと近づいていくことができるという、かなりユートピア的なイメージであります。

 ただ、こういった議会制民主主義の古典的な像というものは、もはや現代国家ではそのままでは動かなくなっているのではないかという非常に強い批判が、これはかなり昔から、二十世紀の初めのころからございます。

 よく知られておりますのは、ワイマール共和国の時期に行われましたカール・シュミットという憲法学者の批判であります。

 彼に言わせますと、大衆が政治の舞台にあらわれ、その大衆の支持を調達するために組織政党というものが発達してまいりますと、こういった組織政党というものは、政治活動のためのリソースとして特定の利益集団に依拠するようになる。そして、そういう特定の利益集団を代表する組織政党というものは、かたい投票規律でもって、メンバーが公開の場で話す議論の内容あるいは多数決で示す投票の結果につきましても、あらかじめ結論を決めてしまっている。このように、あらかじめ所属する組織によって結論が決まっているのであるといたしますと、公開の場での審議には意味はない、相手方の議論を聞いて結論を変えるわけではないからであります。そういたしますと、あり得るのは密室における特殊利益の取引と妥協だけではないか。これがシュミットの批判の概要でございます。

 こういった批判に基づきまして、シュミットが、ではどうするべきかと言ったかと申しますと、直接民主制だと。つまり、そういう秘密投票による、間接民主制での、結果としての密室での特殊利益の取引と妥協ではなくて、公開の場での喝采によって治者と被治者の自同性を直接に明らかにしよう、そういう提案であります。ただ、こういったシュミットの提案がどのような結末をもたらしたかということは、これも広く知られているところであります。

 このシュミットの批判についての対応の仕方でありますが、いろいろな対応の仕方が考えられます。

 一つの対応の仕方が、レジュメのその次に書いている受けとめ方でありまして、これは、シュミットの描くような現代の議会制民主主義のあり方というのが、議会制民主主義の、本来現代議会制として運用されるべき姿なのだ、そういうことであります。これは一種の価値相対主義に立脚している考え方でありまして、要するに、この世には客観的な公益などというものは存在しないという割り切りの上に成り立っております。実際には、多様な価値観や利害が存在しているだけであると。

 そういたしますと、残るところはどういうことかと申しますと、組織政党というパイプを通じまして、それを議会に代表する、多数決で結論を出すということだけであります。ただ、多数決で結論を出すプロセスでは、いろいろな妥協もあって、少数派の意見も取り入れられていく。したがって、すべての立場がそれ相応に満足を得ることができるではないか、そのことが重要なのだ、そういう立場であります。

 こういった見地からいたしますと、実は、間接的な民主主義をとるということにもそれほど大きな意味はないわけでありまして、いずれにいたしましても、客観的な公益は存在しない、個々のばらばらの利害や価値観があるだけでありますので、そういった個々の意見や利害というものを直接に政治的な取引の場に参加させるということが、むしろより本来の姿に近いということにもなるわけであります。

 こういった割り切り方も一つの立場ではありますが、ただ、政治の役割というのは本当にそういったことだけなのか、そういう疑問が当然のように出てくるわけであります。

 こういった価値相対主義の立場からいたしますと、公開の場におきまして国政について討議をすることにはほとんど何の意味もないということになりかねないことになります。

 そこで出てくる局面を打開する考え方が、レジュメで申しますと次に書いてある「討議民主主義」という考え方であります。これはデリバレーティブデモクラシーという英語を翻訳したものでありますが、議会制民主主義というのはやはり客観的な公益の実現を目指すべき討議の場でなくてはいけないのだ、そういう考え方であります。この考え方からいたしますと、いわゆる民主的な討議と多数決による決定というのは、実は、客観的にも正しい決定に至るからこそ、あるいは至る蓋然性が高いからこそ、これを設営することに意味がある、そういう考え方であります。

 これを基礎づける物の考え方というのもいろいろなアイデアがあります。例えば、よく引き合いに出される考え方といたしまして、これはパズルのような話なんですが、コンドルセの定理という考え方があります。コンドルセというのは、フランス革命当時に活躍したフランスの数学者ですが、彼に言わせますと、ある社会のメンバーが、平均して考えたときに、二分の一を超える確率、つまり五〇%を超える確率で正しい選択をする、そういう条件が満たされていますと、多数決で正しい選択がなされる確率は参加する人数がふえればふえるほど高まる、そういう定理であります。

 選択肢が二つしかない場合に、正しい方を人が選ぶ確率というのは、当てずっぽうで選んでも五〇%でありますから、公開の審議の場でいろいろな情報を聞いた上で各自が判断をして、五〇%を超える確率で正しい選択をする、そういう条件はそれほど非現実的なものとは言えないかなと思います。

 それからさらに、これはアリストテレス以来ある考え方でございますけれども、多数者の知恵、そういうアイデアがあります。これは、多様な経験や知識を持った人々が集まって討議を交わすことで、そのうちの最もすぐれた個人が独力でたどり着くよりもなおすぐれた判断というものができるはずだということでございまして、個人が独力で集められる知識や経験にはおのずと限りがございますので、多様な人々が集まって議論をすることは、そういった個人個人の能力の限界を超える意味がある、そういう考え方であります。

 ただ、こういったコンドルセの定理ですとか多数者の知恵というのは、話としてはなかなかおもしろいけれども、それが現代の議会制でそのまま通用するとは言えないのではないかという疑問が当然出てくるはずであります。

 これは、先ほど御紹介しましたシュミットの描いておりますとおり、現代の議会制民主主義というのは組織政党が主なプレーヤーでありますので、だれが何を語りいかに投票するかというのは所属する政党によってあらかじめ決まっている、公開の場での討議を通じて議員が見解を変えるということはそれほど期待はできないわけであります。したがいまして、多数者の知恵というアリストテレスのアイデアが働く余地もかなり限られているだろう。また、投票規律によって実質的な意味での投票者の数は減ってくるわけでありますから、先ほど御紹介いたしましたコンドルセの定理というのもそのままの形ではうまく働かないはずであります。

 ただ、この点で、あきらめてしまうのは実はまだ早い、そういう話がございまして、現代ドイツの社会哲学者でハバーマスという有名な人がいます。これは彼の提案でありますけれども、彼の提案では、現代の議会制民主主義というのはもう少し広がりを持った形で理解しなくてはいけない。つまり、現代の議会制民主主義では、公開の場での討議と決定を経て公益へと至るプロセスというのは、時間的にも空間的にもより広がりを持った形で実は行われているのだ、そういう話であります。

 つまり、議会での討論というのは、実は反対政党に対して行われているのではなく、むしろ世論一般に向けて語りかけられているのであるという形でありまして、世論一般では、それを受けて社会全体での討議というものが進んでいく、そういった社会全体での討議の結果というのは、引き続く選挙を通じて議会の構成へと反映されていくはずだという話であります。そう言って、時間的にも空間的にもより広がりを持った形で、公開の場での討議と決定というのは本当は進んでいるのだ、そういう見方であります。

 ただ、このハバーマスの見方につきましても、さらに本当にそのとおりなのかという疑問を出すことができるわけでありまして、これまたシュミットの指摘にさかのぼってまいりますけれども、議会で行われている討論というのは、本当は、客観的な公益を目指しているわけではなくて、特定の利益集団の主張を反映しているだけではないか、そういうかなりシニカルな指摘であります。

 これに対してどういうふうに答えるのかということでありますが、確かにそういったことはあり得るとは思います。ただ、こういった特殊利益なり部分利益を追求しようという立場からいたしましても、公開の場でそれをあからさまに示すということは、実はその目的自体に反しております。つまり、そういう特殊利益を追求しようという目的からいたしましても、公開の場におきましては、それがあたかも一般公共の利益になるかのように筋の通った議論を組み立てていく必要があるわけであります。ただ、そういった大義名分を立てた以上は、結論におきましても特殊利益や部分利益を丸出しにすることはできないはずでありまして、そういった大義名分に対する一定の譲歩は迫られるはずであります。

 これは非常に常識的な議論に戻っていってしまうわけでありますが、つまり、世の中では大義名分も大事でありますが、具体的に制度や仕組みを動かしていく人々の利害というものもやはり重要でありまして、いずれが欠けても制度や仕組みというのはうまく動いていかないものであります。今まで申し上げた話は、公開の場における討議と決定というものにはこの二つを近づけて両方の実現を図る効用がある、そういう話であります。

 したがいまして、結論といたしましては、非常に凡俗な話にはなりますけれども、一般公共の利益を目指す筋の通った議論というものを公開の場で展開するのが現代民主政治における政治家のあるべき役割だ、そういう結論になるかと存じます。

 以上で私の話を終わらせていただきます。御清聴ありがとうございました。(拍手)

中山会長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。

 速記をとめてください。

    〔速記中止〕

中山会長 速記を起こしてください。

    ―――――――――――――

中山会長 これより参考人に対する質疑を行います。

 まず、調査会を代表いたしまして私から総括的質疑を行い、その後、委員からの質疑を行います。

 それでは、ただいまからお伺いをさせていただきます。

 まず、参考人に、本日、大変貴重な御意見をいただいて、まことにありがとうございました。

 実は、小泉内閣総理大臣が、五月九日の衆議院本会議におきまして、首相公選制について発言をされておられます。参考人も御存じのように、このような発言が行われております。

  私は、この首相公選制というのは、政治の分野における規制緩和の一つだと思っております。今、国会議員だけが総理大臣を選ぶ権利を持っている、それを一般国民に開放するということでありまして、これは当然、憲法改正が必要だと思います。

  その際には、天皇制の問題とか今の議会はどうあるかと、いろいろな問題が出てまいります。この問題については、私個人だけの考えではなく、憲法学者初め多くの識者の意見を聞いていくべき問題であり、また、国民的な議論を盛り上げて、多くの国民が納得できるような首相公選制がいいなという気持ちで、早急に懇談会を立ち上げて具体案を提示していきたいと所信表明に盛り込んだつもりであります。

  今、私が考えるところは、当然、天皇制とこの首相公選制は矛盾しない、両立できる。そして、候補者も、県知事とか市長選挙みたいにだれでも立候補するということではなくて、国会議員から何名かの推薦を要件とするということになれば、いわゆる売名候補とか泡沫候補も阻止できるんじゃないか。

  いずれにしても、議会をなくす話じゃありません。議会とこの首相公選、両立できる、天皇制とも矛盾しない制度を考えてもらいたいという気持ちで、懇談会を立ち上げて、多くの学識者の意見を聞きながら具体案を提示していきたいと思っております。

このように本会議で述べておられます。

 この発言に国民は大きな関心を持っておられると思いますが、私ども当調査会の調査団は、本年八月にイスラエルへ参りまして、イスラエルのいわゆる首相公選制の状況とその経過について調査をいたしました。

 イスラエルは、先生からも御指摘のように、議院内閣制、そして議院の議席は百二十、閣僚は二十八、こういうことでございまして、結局、先生の御指摘のように、首相候補者の投票と、選ばれるクネセットの国会議員のいわゆる投票の質が違ってくる。つまり、御指摘のように、ローカルな利益あるいは宗教とのつながりの深い考え方で投票が行われた結果、このようなことになって、首相が提案する法律案というものが議会でなかなか通らない。この経過を五年やってみて、今年から首相公選制を憲法改正して廃止した、こういう説明を受けてまいりました。

 今ここで、小泉首相が首相公選制を我が国に導入するというお考えを明示されたわけでありますが、それには懇談会を立ち上げて意見を求めたい、こういうお話であります。

 先生は、首相公選制というものには極めて問題が多いという御指摘が先ほどありました。また、大統領制を導入しているアメリカはアメリカ一国のみで成功していて、これを他の国に移植することは非常に難しいという御指摘もされたわけでありますが、日本の場合には天皇制という制度がございます。もし首相公選制を導入した場合、国家元首というもの、そして首相の権限、こういったものと、国民からあるいは外国から見て、天皇制のもとでの首相の認証ということによって、国のいわゆる代表者、国事行為を行う代表者の立場というものがどのように変わっていくのか、この点について参考人から率直な御意見をちょうだいいたしたいと思います。

 よろしくお願いします。

長谷部参考人 どうもありがとうございます。

 イスラエルの調査からお帰りの先生方に対して、私のようにイスラエルに行ったこともない人間がお話をするのは、お経をとってきた三蔵法師に説法するようなお話だったかと思いますけれども、その失礼を省みずに、さらにお話をさせていただきます。

 首相公選制と天皇制との関係ということでございます。

 これは、イギリスの昔の政治学者でバジョットという人がいますが、彼がイギリスの国政について指摘した議論の中に、憲法には尊厳的な部分と機能的な部分があるんだ、ある種、国家の威権というものを象徴して国民の信従を調達する部分と、実際に統治を担っていく部分が区別できるのであるということを指摘しているわけなんです。仮に、今首相公選制を採用した場合におきましても、天皇と公選首相の間には、やはり尊厳的な部分と機能的な部分の区分というものは当然成り立ち得ますので、制度としてどうしても両者が矛盾をするということではないのではないかと思います。

 ただ、これは中山会長御指摘のように、首相が直接公選で選ばれるということになりますと、それはそれなりに一種のカリスマをそこで調達するということになりますので、そのために、事実上、国の象徴としての役割を果たすということは当然あり得るのであろうかと思います。

 これは、例えば現在のイギリスで、トニー・ブレア首相とエリザベス女王とで、いずれが英国をよりよく象徴しているとイギリス国民も思い、あるいは海外の人間も思うかという問題と関連をしているかと思います。この問題は意見の分かれるところではないかと思います。

 ただ、一言つけ加えますと、国の象徴がだれか、あるいはそれが何かという問題は、突き詰めて申しますと、結局は、個々の人が心の中でどう思っているか、個々の人が例えばエリザベス女王がイギリスの象徴だと思っているのか、あるいはむしろトニー・ブレア首相が国の象徴だと思っているのかという、個々の人の思いようの問題でございまして、法令や制度で定めるとそうなるという問題ではないのかなと思います。事実上の問題ということになりますので、制度を考えるときに、決定的な答えを決める際の条件になるということではないかなと思います。

 以上でございます。

中山会長 ありがとうございました。

 以上をもちまして私の質疑は終わります。

 次に、質疑の申し出がありますので、順次これを許します。保岡興治君。

保岡委員 きょうは、先生におかれましては、本当に貴重なお話を承らせていただいて、心からまずお礼を申し上げたいと思います。

 私も、今中山会長のお話しになった、総理が首相公選制の導入を考えて発言をされた、それには憲法改正を要する、ただ、多くの学者や識者や国民の理解が必要だという前提でのお話だったわけですが、これは、必ずしも小泉総理だけじゃなくて、国民が、自分が総理大臣を選べるということに対しては非常に期待感もあるし、今、いろいろな人に聞くと、総理を自分で選べるというのは賛成だという人もかなりいるわけですね。

 こういった首相公選論を期待するというか、それに賛成する、そういう風潮の背景がどういうものであるか、先生の御理解をお話しいただければと思います。

長谷部参考人 どうも御質問ありがとうございます。

 国民が直接総理を選ぶということで、国の基本的な政策決定にみずから参加をしていく、そういう満足感を得ることができる。国のリーダーをみずから直接決めることに参加をすることで、それで満足感なり責任感を得ることができるという考え方は確かにあり得るところかなとは思いますが、ただ、私は、満足感なり責任感なりを実現の目的として一定の制度を導入するということには、少し慎重でなくてはいけないのではないかなと思います。

 と申しますのも、先ほど私が御説明したような形で首相公選制を導入いたしますと、実際には、首相の直接公選によっても、国の基本的な方針を本当に決めたことにはならないのかもしれない。確かに、一定の政策を提言した首相を直接に選んだことは選んだのであるけれども、その政策を実施する手段となる法案なり予算案なりを、議会に安定した支持が欠けているために通し得ることができないということになりますと、結局のところは、直接に国政の基本方針を決定したことにはならないのではないかと思います。ですから、そうだといたしますと、首相公選制によって得られるのは、何となく国の基本的な方針に直接参加したかのような満足感であり責任感ではあるんだけれども、それは単なる感じにとどまっていて、実質は伴っていないということになりそうであります。

 そうなりますと、何となくそういう感じを実現するために、実質を伴わないような制度を導入してもいいのかどうか、そうなるリスクも十分にあるのではないかということはやはり心得なくてはいけないのかな、そういう感じがしております。

保岡委員 なるほど、先生のお話からいえば、確かに、総理を選ぶ満足感と責任感で筋を通しても、その総理が議会に提出した法案や予算その他の案件を議決してもらえなければ、結局は、実質、責任感や満足感は実現できない、そういう御指摘でございましたけれども、今、国民が首相を自分で選びたいというのは、一種の閉塞感があるんじゃないかと私は思っておるんです。非常に世界が大きく変わるというんでしょうか、世界や日本に連動する急激な大転換期だ、そういうことに対してなかなか、総理がくるくるかわってみたり、それから、本当に迅速的確な、国民に国の未来の進むべき道や社会像、あるいは生活がどう変わるか、そういったことが的確に行われているという満足感がない。したがって、自分で総理を選んで、何とか強いリーダーシップで政策決定のプロセスを筋を通して強力に進めて、国民の求める政策を実現していくことに非常に強い期待があるというか、それができないことに不満があるというか、そういう状況があるんじゃないかと思うんですね。

 それで、そういう国民の、強い総理のリーダーシップ、安定した政治を求めるということは、イスラエルにおいてもやはり同じ期待があったために首相公選制の導入というものに入っていったということで、そういった国民の、首相のリーダーシップや的確迅速な政策決定に対する期待というものを、もし我が国で首相公選制を導入しないとすれば、どういう形で実現していくべきなのか。

 今、日本は議院内閣制をとっているわけですが、そういった意味では、議会の多数の選ぶ総理大臣ということでございますから、本来ならば強いリーダーシップが働いてもいいはずだと思うんですね。事実、議院内閣制をとっているイギリスなどでも非常に強い総理のリーダーシップがある。一体なぜ、日本でこういう安定したあるいは強い総理のリーダーシップが得られないのか。これはどの政党から見ても当然の政治の一番の課題だと思うんですが、先生はどのようにお考えか、お聞かせいただければと思います。

長谷部参考人 確かに、迅速的確な統治活動への期待、政治の指導力の強化への期待があるというのは、先生の御指摘のとおり間違いのないところかと思います。

 私が首相公選制に関して持っている考え方というのは、先ほども申し上げたとおり、どうも首相公選制を導入いたしましても、迅速的確な統治活動や政治の指導力の強化はちょっと期待薄であろうか、こういうことであります。

 他方、議院内閣制というのは、先生御指摘のとおり、うまく回っていれば、迅速的確な統治活動や強力な政治的指導力を実現できるはずの統治制度であります。

 イギリスと日本とでどうしてそういう違いが出てくるのかということになるわけなんですが、これはもちろんいろいろな要素が絡み合ってそういう結果になっているのであろうかと思いますが、恐らく、そのうちの一つは、日本におきましては、よく言われているところですけれども、政策決定が与党と政府とで二本立てになっているということが言われますが、イギリスにはそういったことはございません。つまり、与党というのは政府でありまして、与党の議員のかなりの部分が政府の中に入り込んでいる、政府の中にポジションを占めて政策決定に当たっている、そういう事情がございます。こういうふうに政策決定のプロセスを一本化いたしますと、的確かどうかはとにかく、少なくとも迅速にはなるかなと思いますし、それを束ねている首相の指導力もある程度は強まるに違いないかな、そういう考えを持っております。

 以上です。

保岡委員 議院内閣制でも本来総理の強いリーダーシップはとれるはずだ、それを妨げている一つの大きな要因は、政府・与党の政策決定が二元化していて、責任がどちらにあるかはっきりしないとか、与党が了承しなければ、政府は法案を国会に提出したりいろいろな施策の実現に向かえない、進んでいけないというようなところに問題があるんじゃないかというような御趣旨と受けとめました。

 確かに、先ほど先生が言われたように、与党の事前審査というのがあるわけですね。事前審査を経てくる法案というのは、与党はもう十二分に了解して出した法案だからということで、国会で与党が法案や案件をめぐって発言する機会が少なくなってしまう。

 また、先生がさっき、いわゆる公開の場での議論が適正に行われることによって、正しい多数の公益、客観的公益につながる蓋然性の高い議論や議決が保障、担保されるというようなことをおっしゃったわけですが、政府・与党の二元性と議会の空洞化、これとの関係について、先生はどういう御見解をお持ちでしょうか。

長谷部参考人 非常に重要な御指摘でありまして、イギリスの例をまた持ち出すことになりますけれども、イギリスにおきましては、よく知られておりますとおり、投票に関しては規律がありますけれども、議会での討論に関しては規律は存在しておりません。与党の議員でありましても、議会に何らかの法案が出てきて初めて、ああ、こんな法案が出てきたのかということを知らされる。ですから、その場になって、おかしいではないか、私はこの点は反対だという討議を行う例は非常にしばしば見られるところであります。

 ですから、先生がおっしゃるとおり、与党内部での事前審査をやめて、議会の場で、公開の場で討議をすることにすれば、より公益を目指す公開の場での審議というものが実質的に行われるではないか、そういうアイデア、考え方というのは当然あり得る考え方ではないかなというふうに考えております。

保岡委員 そうすると、議会を充実して政府提出の法案を審議していくためには、議会の運営に当たる議運とか委員会の委員長あるいは議長、こういった人たちが非常に公正な立場で議会を運営するという慣行が必要だと思うんですが、その点いかがでしょうか。日本の場合は、運営は国対という憲法などに規定のない機関が、与党機関と野党の機関が話し合いで進めるという慣行があるんですが、どうでしょうか。

長谷部参考人 一国の議会の中の運用の仕方というのは、さまざまな伝統があり、いろいろな時代の知恵が集まってでき上がっているものでありますので、軽々にここをああするべきだ、こうするべきだというふうに言い得るものではないかなとは思いますけれども、これまたイギリスの例を出させていただきますと、イギリスの特定の政策を審議する委員会は、与党、野党の立場を離れて、政府の政策が本当にいいのか悪いのか、適切なのか適切でないのかをまさに公平中立な立場で審査する、そういう性格を持っているものでありまして、公平中立な立場での審査をするがゆえに、そういった委員会の出すリポートも社会的に非常に高く評価をされる、そういった事情がございます。

 ですから、どのような立場で委員会等での審議を行い、どういった形での結論を出すかということは当然社会での評価にもつながってくる、そして、そういった慣行なり制度というものが再生産されていく、そういう事情ではないかなというふうに考えております。

保岡委員 先ほど先生、与党の政策責任者が政府に入って、そして、強力な内閣の主導というか、総理を中心とするリーダーシップを一元化して進めることがイギリスの行っている慣行だというお話がございました。

 私は、これは自分の意見なんですが、官僚の縦割りの弊害というんですか、そして官僚の持つ、目前にならなきゃ問題をやらない、あるいは中長期の展望に立った総合的な企画立案、将来の大きな構想みたいな、理念みたいなことには、これは、役人になじむというよりかは、むしろ国民と直接つながる政治家の責任ということを考えると、今先生が言われた内閣と与党の政策決定の一元化というのは、そういう点でも非常に重要な機能を効果的に発揮するんではないかと思いますが、いかがでしょう。

長谷部参考人 先生がおっしゃるとおり、そういう効果も確かに期待できるのではないかと思います。官僚制度にどの程度の役割を果たさせるかというのもこれまた国ごとに違うところでありますけれども、仮に、その官僚制度が現在のままでは中長期的な政策構想等に関しまして不十分なところがあるということでございますと、それを補完する形で、例えば民間のシンクタンクなり、あるいはシンクタンクとは言わないまでもさまざまな民間の団体、組織等の知恵を吸い上げていく、そういう試みもやはり必要になってくるのかなとは考えております。

保岡委員 今の我が国の置かれているというか、どの国もそうだと思うんですが、いろいろな制度や政策の見直しに迫られる。また、総理のリーダーシップ、内閣のリーダーシップ、的確迅速な政策決定というのは、だれが総理になっても、どの党が政権についても当然必要とされることなんで、首相公選制という問題は、決してそれ自体がいい悪いだけの問題ではなくて、その究極の目的である首相のリーダーシップ、それを発揮するための安定した政治という意味で、我々、大きな政治のテーマではないかと思います。

 最後に、衆議院と参議院のお話がございました。参議院が、権限が強過ぎると。確かに憲法上は、予算とか条約の優越権とか、法律も一定の条件のもとに優越性が認められてはいるものの、参議院の方も同じような選挙制度になっているし、大臣や政務官、副大臣等も政府に送るという形になっていて、余り機能の違いがない。

 ところが、衆議院は、総理の不信任決議が成立したら、総理がやめるか解散するかという、民意を問う仕組みがあって、国民とそういう点で密接につながる第一院としての機能も持っているわけですね。ところが、参議院は三年ごとに交代する、半数を入れかえるという形で安定させてある。

 ところが、参議院の与党が少数になりますと、今度は参議院の安定した数の不足が連立をつくる。要するに、どちらかというと、二院制で、コントロールしたり補完したりする議院の構成で肝心の政府の構成が決まってしまう、連立政権で。

 こういうことは、私は、この憲法の持つ最大の欠点じゃないか、連立政権のよしあしは別として、制度の大きな欠点ではないかと思いますが、いかがでしょうか。最大の憲法の改正の項目ではないかと思いますが、いかがでございましょう。

長谷部参考人 これは、先ほど私が冒頭の説明の中でも申し上げたところですけれども、二院制の妙味を生かすためには、両院の構成なりその役割が異なっている必要があるんです。ただ、参議院の現在の、特に法案の議決に関する権限が相当に強いものであるがゆえに、衆議院における多数派、そして政府というものは、参議院での支持も確保していなければ政策をちゃんと執行していけない、そういう実態にあるというのは、これは先生おっしゃったとおりのことでありまして、それがやはり問題と言えば問題だ。つまり、それでは、制度の論理からして、二院制の妙味というものを生かすことができないことになっているわけであります。

 ただ、これまた先ほど申し上げたことの繰り返しになってしまいますけれども、では、憲法上の権限を憲法改正を通じて縮減するのかと申しますと、それには参議院の特別多数の賛成を経なくてはいけない問題になりますので、現実論としては非常に難しいかなと。

 そういたしますと、そういった正面からの制度改正という非常に現実的には難しい問題よりも、その前に、今現実的な話といたしましては、自主的に謙抑的に権限を行使するような慣行をつくっていただく、そういう呼びかけをするというのがとりあえずは考えられる、そういうお話をしたわけでございます。

保岡委員 ありがとうございました。

中山会長 山田敏雅君。

山田(敏)委員 民主党の山田敏雅でございます。本日はどうもありがとうございました。

 最初に、首相公選制の背景というのを先ほどから保岡議員も言われました。この点について、ちょっとお伺いしたいと思います。

 先ほどから出ておりますように、まず非常に共通した認識として、リーダーシップが必要である。正しい、そして的確、そして迅速なリーダーシップが必要だ、これは私も同じ意見でございます。過去十年間に十人ぐらい総理がかわった。大臣に至っては数カ月でかわる。こういうことでは、国民が望む、そして日本の正しい将来は難しい、これが、私を初め国民の意見としてあるんではないかと思います。

 そこで、小泉総理は、総理になられたときに、私のケースは、疑似首相公選というか一種の首相公選によって選ばれた、すなわち、国民の望む改革をこの内閣ではやっていくんだというような意味を込めて言われました。田中外務大臣初め、外務省の機密の疑惑、これを改革していこう、これは一種国民の望む改革であります。

 この七カ月の間に、この一種の疑似首相公選制、これはどういうふうに評価、あるいは見ていらっしゃるか、お伺いいたします。

長谷部参考人 確かに、首相公選制に似たような形で小泉首相が選ばれたのであるということはいろいろなところで耳にし、あるいは目にする表現ではあるのですけれども、私は、小泉首相の選出の過程というのは、首相公選制とは違うものであるかなと思います。

 党内におきましてどういう形で党の党首を選んでいくのかは、それはそれぞれの党が内部的に決める話でありまして、公選制に近いような形で選ぶこともあれば、党の主要なリーダー間で話し合って決めるということも、その時々の政治状況においては当然あり得る話であります。今回はたまたま首相公選制に近いような形で選ばれているというふうに言えるかもしれませんが、これは、私が本日冒頭にお話しした首相公選制とは全く別の話かなというふうに考えております。

山田(敏)委員 私がお伺いしたかった点は、この七カ月の改革を進めようという点の評価を、もしよろしければと思ってお伺いしたんですけれども。

長谷部参考人 小泉政権の政策全体についての評価は、私は非常に狭い専門分野の人間ですので差し控えさせていただければと思いますが、首相公選制を目指す改革に絞ってお話をさせていただきますと、これは、例えば先ほどから会長の御紹介もありましたとおり、政界の規制緩和であるという形で、国民の直接参加という問題とつないだ形でお話をしておられるわけなんです。これまた、先ほどからの話の続きになってしまいますけれども、私は、規制緩和もそうだとは思うんですけれども、国民を直接に首相の選択に参与させるということでよりよい結果が生じるのであれば、それは大変よい改革であるかなと思います。

 ただ、私の考えは、先ほども申し上げたところですけれども、恐らく今よりもよい結果にはなりそうもない、そういう蓋然性はかなり低いだろうという考え方でございますので、この改革案自体について申し上げますと、よい改革案であるとはなかなか考えられないということになるかなと思います。

山田(敏)委員 先ほどから議論に出ております日本の官僚制度、過去四十年にわたって非常に肥大化して、そして、なかなか国民のいい方向にコントロールできない部分がたくさん出てきた。昭和十年には国家公務員、地方公務員合わせて五十万人であったのが、今はたしか四百万人以上の制度になってしまった、人口はその間、倍になったわけですけれども。どんどん増殖して、かつ、国民の立場に立ってコントロールができなくなっているということが言えるんじゃないかと思います。そこで、この首相公選制というのはある種の大きな役割を果たすのではないか。

 先ほど先生がおっしゃいました与党と政府の一体化、すなわち、単に今の副大臣、政務官という制度を超えて、審議官なりもっと別のクラスで、コントロールするようなところまで与党の議員が行く、こういうことで御提案されたように私は思うんですが、その点はいかがでございましょうか。

長谷部参考人 官僚制との問題でございますけれども、私の考え方と申しますのは、首相公選制というものを導入してしまいますと、先ほど申しましたとおり、社会全体のいろいろな利害なり意見なり価値観なりというものを集約して、それを首相とワンセットで有権者に提示する、こういう、従来議院内閣制のもとで政党が果たしてきた役割は確実に弱まると思います。どの程度弱まるかは、社会の中のほかの条件、あるいはいろいろな制度の組み方にもよりますけれども、弱まることは間違いがないだろうと思います。

 そういった形で弱まってしまいますと、実際のところ、政治的な資産として政策の形成及び執行するはずの、少なくともそれを指導するはずの首相の指導力もやはり弱まっていくであろう。したがって、官僚制度に対するコントロールというものもそれほど強くはならないのではないのか、そういう懸念を持っているわけであります。

 ですから、首相公選制を導入するべきなのかするべきでないのかというのは、現在の日本で、そういう社会の多様な利害なり意見なりを集約して、首相候補とワンセットにして提示するという政党の機能が強過ぎるということですと、それを弱めることには意味があると思うんですが、それがまだまだ不十分だということなのだとすると、それを今以上に弱めるには及ばない、そういう判断の分かれ方なのかな、そういう気がしております。

山田(敏)委員 アメリカのことをちょっとお伺いしたいんです。

 首相公選制の議論がいろいろあるんですけれども、一つのモデルとして、アメリカの大統領制が、この日本の政治的な閉塞感を打ち破っていくには比較的いいかなという感じがあると思うんです。

 先ほど先生は、アメリカのケースは日本と背景が違うとおっしゃったわけですね。アメリカの議会の下院議員というのは地元利益を最優先している傾向が非常に強いということが一点。もう一つは、外交防衛に関しては与党も野党も一致する伝統がある。この二点で、アメリカの制度をそのまま日本に持ってきた場合は機能しないんじゃないかということなんですが、アメリカの大統領制も長い間かかって築いてきたものであって、二大政党の役割も時間をかけてつくってきたわけですね。日本も、そういうものが理想である、こういうものをやろうという国民の意思であるならばですね。私は、先生のおっしゃった、規律が穏やかな二大政党であるということと、地元利益中心の下院議員がいる、それから、外交防衛に関して与野党が一致する伝統があるんだというようなことは、今の日本でそんなに不可能な、非現実的な話でもないような気がいたしますけれども、その点はいかがでしょうか。

長谷部参考人 もちろん、これは社会科学の問題でありまして、例えば中学校の理科の実験のように、確実に答えはこうなるというふうに決まったものではございません。どちらが蓋然的かという予測にとどまることは当然でありまして、アメリカ型の大統領制を導入すると、驚くべきことに日本ではうまくいったということはあり得るのかもしれませんけれども、ただ、それには非常に難しい条件をクリアしなくてはいけない。アメリカ以外の、例えばラテンアメリカ諸国の例を見ましても、どうもアメリカのようには民主政治というものがうまく働いていないということはよく知られている話でございまして、厳格に立法権と行政権とを分立してしまいますと、両者が対立するということになりますと、国政全体がデッドロックに陥ってしまう、そういうリスクが非常に高いわけであります。

 それから、アメリカの大統領選挙というのは、もちろん制度的には間接公選で、それが直接公選として実際上機能しているということなんですけれども、ただ、実際上直接公選として機能させる制度の運用というのは、イギリスの議院内閣制もそうなっております。アメリカも、実は、間接公選なのが直接公選として制度が運用されている、イギリスでも、議院内閣制で首相が有権者によって直接選ばれるように制度が運用されているということは全く同じだというふうに言ってよろしいのかなと思います。

 ですから、制度の枠組み自体を根本から変える以前に、制度の運用の点で知恵を出すということももちろんあるでありましょうし、また、アメリカの大統領選挙がそんなに見事に民主的な制度であるというふうには、必ずしもアメリカの国内でも一致して思われているわけではないという点は押さえておく必要があるのかなと思います。

 これは、アメリカの現代の有名な政治哲学者でマイケル・ウォルツァーという人がいるんですが、彼に言わせますと、現在のアメリカの大統領選挙というのは、大統領候補者がある州にやってきて演説をして、みんな拍手喝采して、風船をわっと飛ばして、それが終わると、すぐ次の州に行って演説をして、みんなで拍手喝采をして、風船をわっと飛ばしてと、そういうことをどんどん続けているだけで、先ほど私が申し上げた、公開の場での審議と決定という意味での民主政治とはちょっとほど遠い感じの選挙になっているのではないか、そういう話でございます。

山田(敏)委員 参議院と衆議院の関係についてちょっとお伺いいたします。

 憲法改正のハードルについていろいろここでも議論されたんですけれども、憲法の中で、憲法を改正するハードルが非常に高く、これは世界でも一番高いのではないかと思うんですが、出席議員ではなくて総議員の三分の二というようなこともございます。先ほど、参議院のあるべき姿はこうだといって参議院に諮る場合に、参議院の総議員の三分の二の賛成ということは、事実上何もできないと。憲法改正のハードルが高過ぎるんじゃないかということを私も感じておりますけれども、参議院のあるべき姿というのは国民の間で非常に大きな議論があると思います、同じようなことをやっていてはだめだと。

 そこで、憲法改正のハードル、このままでは、国民的な議論が起こっても憲法は改正されないという情勢が非常に長く続いている、今後も続く可能性があるんですけれども、例えば、参議院の改正については、参議院の三分の二ということではいつまでたってもできない、このハードルを越える方法は何か、憲法を勉強された先生として、何か御意見ございますでしょうか。

長谷部参考人 この点につきましては、全く何の奇策もございませんでして、憲法で三分の二が要求されていると三分の二が必要だという、それだけかなというふうに思います。

 参議院で三分の二の賛成を得るのは難しいので、その前に憲法改正の要件を緩和する憲法改正を行っておいて、その上で参議院の権限を縮減する憲法改正をしよう、そういうプロセスで進めようと思いましても、参議院の方々は、これに賛成すると自分たちの権限が減らされるということがわかってしまいますので、最初の時点で多分賛成をなさらないのではないかなという気がいたします。なかなか、うまくいく策を考えるのは難しいのではないかなと思っております。

山田(敏)委員 最後に、院の構成が異なるということは非常に重要なことだと私も思いますし、国民として意見はあろうと思うのですけれども、先生のお考えになる参議院の構成はどうあるべきかという御意見をお聞かせいただきたいと思います。

長谷部参考人 これは消極的な形で言うことは非常に簡単でございまして、よく言われるところの理の府という機能を果たしていくためには、余り政党色が強くてはいけないだろう。つまり、先ほど私が申し上げましたような、客観的な公益を目指すような公開の場での濶達な討議、そして所属している組織に縛られないような多数決というものが要求されるわけでありますので、政党の力が余り及んではいけないはずです。ただ、それが、現在は、参議院の権限が強過ぎるために、必ずしもそうはなっていないということであろうかと思います。

 先ほど申し上げました、民主的な公開の場での討議と決定という機能をよりよく果たしていこうということになりますと、やはりある程度の数は必要だろうと思います。それからさらに、多様なバックグラウンドを持った人をそこに選出していく、そういうことも同様に必要なことであろうかと思います。

 非常に一般論になって恐縮でございますが、その程度の話でございます。

山田(敏)委員 どうもありがとうございました。終わります。

中山会長 次に、斉藤鉄夫君。

斉藤(鉄)委員 公明党の斉藤鉄夫でございます。

 長谷部先生、きょうは大変すばらしい御講演、ありがとうございました。

 私は、まず首相公選制について質問させていただきたいと思いますが、三権分立との関係でございます。

 中学校で最初に、社会科で、三権分立という制度については、これは人類の長い歴史と経験から得た知恵であって、ほぼ正しいものである、このように教えてもらいましたし、私もそう思います。

 それで、三権分立が正しいとしての議論になるわけですけれども、議院内閣制と大統領制では、三権分立とはいいましても、軸足が少し違うのかな。この場合、司法はちょっとおいておきまして、議院内閣制ですと、日本国憲法でもそうですが、国権の最高機関は国会ということで、立法府に軸足がある、アメリカでは、大統領制では行政府に軸足がある、このように私自身感じております。首相公選制を導入するとなりますと、その三権分立との関係ということもしっかり議論をしておかなければ全体として整合性のとれた制度にならないと思いますけれども、この首相公選制導入と三権分立の考え方について、先生のお考えをまず最初にお伺いいたします。

長谷部参考人 どうもありがとうございます。

 三権分立というのは、御指摘のとおり非常に長い伝統のある概念でありますが、その中身につきましてはかなり多様な理解の仕方がございます。

 モンテスキューが「法の精神」の中で説いたのが三権分立に関する古典的な理解でありますけれども、あそこでモンテスキューが言っていること自体は、国の権限を立法、行政、司法の三つに分けて、一つの国家機関がそのうち二つを独占するようになっていてはいけないという、それ自体としてはかなり消極的な、それほど強い内容を持っていない主張をしているわけです。

 モンテスキューの「法の精神」での権力分立に関する議論のみそは、核心的な部分は実はその後にあります。

 つまり、そこでモンテスキューは当時のイングランドの議会の構成についての話をしているのですが、当時のイングランドの議会の構成というのは、御案内のとおり、国王と貴族院と庶民院、現在でも形式的にはそうなんですが、国王と貴族院と庶民院の三者が一つの法案について合意をしたときに初めて新しい法律が通る、そういう構成になっております。そのために、モンテスキューの指摘したところでは、こういった立法府の構成があることによって、国王と貴族と庶民の三者が一致したときに初めて法制度が変わるようになっている。ということは、でき上がった法律というのは、社会のすべての構成員の理解を得た、別の言い方をいたしますと、すべての構成員の利害にかなった法律になっている、だからよい議会の構成なんだ、そういう話であります。

 これはある意味では、先ほどからの話からいいますと、迅速的確な政策決定というものとはかなり無縁な制度でありまして、なるべく既存の政治制度を変えない、それぞれの構成員の既得権を守るのがよい政治だ、そういう考え方に立っている話になっているのだろうと思います。

 モンテスキューのころはもちろんそれでよかったのかもしれないのですが、現代国家というのは、先ほどからもいろいろな御意見の中で出てまいりますとおり、強力な指導力に基づく的確な統治活動というものが必要になっております。これは、どちらかと申しますと、モンテスキューが言う立法、行政、司法のどれにもうまくはおさまらない国家機能でありまして、最近の憲法学では、執政でありますとかあるいは統治、英語で言いますとガバメントに当たるわけなんですが、これに当たる機能をどうやって確保するか、そしてどこが担うか、そういう問題になってくるのだろうと思います。

 議院内閣制のもとにおきましては、通常は内閣がこの統治の活動を担っている。つまり、外交あるいは内政に関する基本的な政策を決定して、その方針に基づいてさまざまな法案なり予算案なりを用意して立法府の同意を求める、そして政策を執行していく、そういう役割であります。

 ですから、議院内閣制の場合、そういった役割を普通は内閣が担っている。大統領制の場合、これをどこが担うのかということになりますが、アメリカの場合ですと、大統領以下の官僚制がそれを担っているということになるのでしょうけれども、これまた先ほどからの話の繰り返しになりますが、大統領制をとったときに、必ず、この統治ないし執政の機能がうまく役割分担できるかという、そこがやはり問題になってくるのだろうかなと思います。

 以上です。

斉藤(鉄)委員 ありがとうございました。

 私もイスラエルに行ってまいりました。一番ショッキングな言葉は、向こうの学者の方だったんですけれども、首相公選制は政党政治の死を意味するとまではっきりおっしゃったわけです。しかし、私、それにまた反論いたしまして、選挙及び政党政治の役割というのは、一つは民意の反映であり、もう一つは多様な民意の集約である。その反映と集約を、首相公選制で集約を行い、また国会議員の選挙でそれぞれの民意の反映を行う、これがうまくドッキングすれば、ある意味で非常に理想的な姿になるのではないか。たまたまイスラエルの場合はいろいろな制度設計が悪かったがために、例えば、国会に不信任決議権を与えたり、比例代表制という制度だったり、そういう制度設計が悪かったからああいう結果になったけれども、民意の反映、集約という意味では理想的なんではないでしょうか、このように質問したところ、答えは返ってこなかったんですが、この集約、反映という観点から見た国会議員の選挙と首相公選制、これについて、先生、どのようにお考えでしょうか。

長谷部参考人 通常の議院内閣制の場合ですと、先生の御指摘の、社会の中のいろいろな利害なり価値観なり意見なりを集約するという役割は政党が担っておりまして、しかも、そうやって集約したいろいろな利害なり意見を一貫した政策の形に組み上げて、それを自分たちの首相候補とワンセットで総選挙の際に有権者に提示する、そういう役割を果たすんだろうと思います。

 ところが、首相公選制を導入してしまいますと、実はその役割を政党はもう果たす必要がなくなってしまうわけです。つまり、首相候補の側で一定の政策を提示するということになりますので。そういたしますと、首相を選んだということで、有権者としては政策を選ぶ。では、議会の議員の選挙のときには何が残っているのかといいますと、これは、ナショナルなレベルの政策選択はもう済んでしまったので、じゃ、自分たちのより部分的な利益をねらおうか、そういう傾向に流れるのは極めて自然なことではないかなと思います。

 ですから、先生の御指摘の政党の本来の役割というものをよりよく果たさせるという点から見ますと、どうも首相公選制というのは余りよいアイデアではないのではないか、これが私の見方でございます。

斉藤(鉄)委員 ありがとうございました。

 私自身も、首相公選制については積極的な意見を持っていたわけでございますが、イスラエルの例を学んで、政党の役割との関連でもう少し深く考えてみる必要があるかなと感じて帰ってきた次第でございます。

 あと二つだけ質問させていただきます。

 まず、現在の日本の選挙制度と日本の政治風土の中での政党の役割のあるべき姿について、御意見を賜れればと思います。

長谷部参考人 これは、私、冒頭のお話の最後のところでしゃべったことと関連をしている話かなと思います。

 つまり、こういう政治の場を通じていろいろな仕組みなり制度なりをつくっていくときに大事なことは、社会常識から考えまして二つあるのかな。

 一つは、きちんと筋が通っている、大義名分にのっとっている、そのとおりの筋の通った制度や仕組みになっているということも大事でありますが、それと同時に、直接その制度や仕組みの運用に携わる、それに関与する人々の利害もきちんと計算しているということだろうと思います。大義名分だけで突っ走っても、関係する人々の利害を全く無視しているということですと、結局そういう制度や仕組みはうまく動いていかないものだろうと思います。

 ですから、先ほど私は、部分利益だけを言ってはいけないということを主張してまいりましたが、部分利益もやはり考慮には入れなくてはいけないものなんだろうと思います。ただ、その部分利益を主張するときには、公開の場では部分利益をあからさまに主張するわけにはいきませんので、あたかも一般利益であるかのように主張する。しかし、公開の場でそう言ったからには、それに筋立てをして、部分利益丸出しの制度や仕組みにはできない、そういう効用があるのだということでございまして、政党が果たすべき役割というのもやはりそうなんだろうと思います。

 部分利益を反映し、政治の場でその実現を目指していくということも当然考えるべきことではあるんですけれども、ただ、部分利益丸出しではいけない。一般利益としての大義名分を実現するのだという形でそれを実現しないといけない。そういうことで両方がうまく回っていくということなんだろうと思います。

 ですから、首相公選制が持っている問題点というのは、言いかえますと、一般利益の選択の問題を首相の選択に、そして部分利益の選択の問題を議会の議員の選択に分割してしまうというところが問題でございまして、議院内閣制の本来の姿からいいますと、この両者は、両者相まって公開の場で討議され実現されていくべきものだ、そういうことになるんだろうと思います。

斉藤(鉄)委員 最後に、先ほど、選挙の役割として民意の反映と集約という機能があると申し上げさせていただいたんですが、そういう意味で、現在の、特に衆議院の選挙制度、小選挙区比例代表並立制ということについて、私は、特に民意の反映というところで大きな欠陥があるのではないかと思っておりますが、現在の選挙制度についての先生のお考えをお伺いします。

長谷部参考人 この小選挙区と比例代表を並立させるという制度は、なかなか理解の仕方の難しい制度でありまして、つまり、有権者に一体何を聞いているのかがよくわからない制度であるということだろうと思います。

 つまり、小選挙区で選択の対象になる人は、これは小選挙区の本来の制度の論理からいたしますと、一番当選に近そうな上位の二人、非常に有力な上位の二人の中からどちらを選ぶかという選択になりますが、比例代表の方は、そうではなく、自分の本来の支持する政党に投票するという選択を有権者はするということでございます。この両方を同時に一回の選挙でやるということでございますので、ちょっと有権者としてはわかりにくい選択をするという制度になるのかなという気がしております。

 ですから、むしろ比例代表での多様な選択のありようというものも保持し、同時に、安定した政権を担い得るような、ある程度議席数の多い政党をも議会の中に送り込む、そういう考え方を両方両立させようというのでありますと、現在フランスでとられているような小選挙区の二回投票制というのが一つのアイデアではないかなというふうに私は考えております。

斉藤(鉄)委員 ありがとうございました。

中山会長 次に、藤島正之君。

藤島委員 自由党の藤島正之でございます。

 これまでも議論になっておりますけれども、統治機構としては、大統領制と、議論になりました首相公選制と、純粋な議院内閣制とがあるわけでございますけれども、もし我が国に大統領制をとったとした場合に、どのような問題がございましょうか。

長谷部参考人 大統領制をとったときに生じ得る問題は、アメリカ以外で大統領制をとっている国々によく見られるいろいろな問題点が起こってくるかなと思っているんですけれども、それは、何しろ行政府と立法府とが厳格な形で分立しているということでございますので、仮に両者の考え方が非常に厳しく対立したということになりますと、もう政治のプロセス自体が非常に大きなデッドロックにぶつかってしまいまして、国政が本当に停滞してしまう。そういった局面で非常に心配されるのはクーデターということになるかなと思いますけれども、大統領制という統治の枠組みをとっている国ではクーデターが頻繁に起こるということ、これもよく知られているところでございます。

 アメリカではそういった問題を回避するためのいろいろな知恵というものがさまざまな政治上の風土や慣行といった形で蓄積されているのですけれども、そういったものをそのまま、つまり、法文に書かれていないような形の風土や慣行というものを制度の枠組みと同時に持ち込んでくるということは恐らく非常に難しいであろうかなと思っておりまして、したがって、そういった問題を回避するのもなかなか難しいだろうというふうに考えております。

藤島委員 我が国は天皇がおいでになるわけでありますが、象徴天皇ということで、はっきり元首というふうに書いていないんですけれども、私は、もうそこは明確にした方がいいのではないかなという感じがするんですが、その点はいかがでしょうか。

長谷部参考人 現在の日本国憲法のもとでだれが元首なのかという点につきましては、実は学界の中でもかなり意見が分かれております。これは御案内のことかとは思いますけれども、天皇が元首であると言う人もいれば、外交関係を実質的に担っている内閣という合議体が元首なんだという主張もございますし、また、内閣と天皇とが両方元首なのだという考え方もあれば、いや日本には元首と言えるような機関は存在しないのだ、そういう理解もあります。

 ただ、これは少なくとも、法律学者の立場として申し上げさせていただきますと、元首がだれなのかという問題は実はそれほど重要な問題ではございませんでして、と申しますのも、少なくとも、法律学的な観点からいいますと、何らかの国家機関が元首であるということから、当然にそれに何らかの法的権限を与えなくてはいけない、あるいは何らかの役割を付与しなくてはいけないということにはならないからでございます。そういう意味では、天皇が元首であるのか元首でないのかというのは、法律学者の観点からすると、余り実益のない問題だということになってしまうかなと思います。

藤島委員 確かに法律学的にはおっしゃるとおりだと思うんですが、私は、次の点との関係なんですけれども、先ほど来首相公選制についていろいろ議論があるのは、これまでの首相がなかなか主導権を発揮できなかったということから来ている、あるいは、最近は閉塞感をなかなか打開できないということから来ているんだと思うんです。

 主な原因は、今までの自民党政権の中で、いろいろな派閥があったために、首相になってもそのバランスの上に立って政治をやらざるを得なかったということで、どうしても自分の思う方向に全部を引っ張っていけなかった、そういうところから来ているんじゃないかなということなんで、これは別に首相公選制にする必要はないんで、完全な意味で、自分の出身政党、与党を完全に掌握しておればできることだろうと私は思うわけでありますけれども、もし仮に首相公選制にした場合には、やはり私は、今ちょっと私申し上げた元首的な性格という点で天皇との関係が大問題になるというふうに考えるわけですけれども、その点、いかがでしょうか。

長谷部参考人 この点についてなんですけれども、私自身といたしましては、天皇は儀礼的、形式的な機能を果たす、それから、公選で選ばれる首相は統治活動の実質に携わる、そういう切り分けは可能ではないかなという感じを持っております。

 ただ、これは、先ほども申し上げたことの繰り返しになりますけれども、公選で選ばれる首相というのは、民意を背景とするある種のカリスマを持つことになってしまいまして、イギリスのトニー・ブレア首相がそうであるような形の圧倒的な人気に基づくカリスマ性を備えたときに、伝統的なカリスマに依拠している天皇と、国の象徴としての役割分担が疑問になってくるということはあり得るのかもしれないですが、ただ、だれが国の象徴なのかというのは結局は個々人の心の思いようの問題でございますので、これは、制度の上でどうすればこうなるという、制度の論理の問題とはちょっと違うレベルの話なのかなというふうに考えております。

藤島委員 その点はちょっと私と考え方が違うようなのでおいておきまして、先ほど先生がおっしゃっているように、首相公選制と政党政治はかなり矛盾するところがあるんじゃないかなと思いまして、私としては、やはり首相公選制は日本には向いていないんじゃないかなと。

 特に、日本の場合は、風評で国民がどっと動かされる、そういう体質的なものを持っているような感じがしますので、そういう形で選ばれた首相が長続きするのかどうか。かえって混乱が生じる、そういう何か日本の国民性というか、あるんじゃないかなと思うわけですが、その辺はいかがでございますか。

長谷部参考人 申しわけありません、国民性について私は余り専門知識がありませんので。

 ただ、首相公選制が余りうまく働かない可能性が高いというところは、それは先生と恐らく同じ意見になるかなというふうに思っております。

 首相公選制をとることによって、首相の政治的な指導力が強まるかというと、むしろ弱まるというのが私の理解でございますし、また、社会の中のいろいろな利害や意見というものを少なくとも大義名分に沿った形の一貫した政策に仕組み上げて、それを首相の候補とワンセットで提示をするという政党の役割も、今に比べればむしろ弱まると思いますので、政党政治をよりよくする方向に働くかといいますと、そういう方向には働かないのではないかというのが私の考え方でございます。

藤島委員 私は、民主政治は政党政治であるべきだと思うんですけれども、その際に、二大政党制が本当に理想的なのか、あるいは、大政党が二つあって、その他にいろいろな、それぞれのまた小さな民意を反映するような政党が幾つかある、そういった政党政治が望ましいのか、この辺、御意見をお伺いしたいと思います。

長谷部参考人 先生御指摘の点につきましても、実は憲法学界の中でさまざまな見解がございます。

 一つの立場は、やはり二大政党制というものを組み上げて、言ってみれば対決型の政治をするのがいいのだという考え方があるんですが、こういった対決型の政治をしている、念頭に上がるのはアメリカ合衆国とかイギリスなんですが、こういった国の政治の中身を見てみますと、大抵の場合において政治の対立軸がかなり一元化してくる、主に社会経済的な政策上の対立という形で一元化してくる、そういう傾向がございます。それから、これは、社会の中のいろいろな集団や組織の動き方の問題として、いろいろ多元的な集団がイシューごとにわき上がるように組織されて、それが政治のプロセスにどんどん参加してくる、そういう自由な政治プロセスのあり方というのがございます。

 ところが、それ以外の国、主に念頭にありますのはヨーロッパの大陸諸国になりますけれども、そういった国々では政策対立の軸がなかなか一元化しないんですね。宗教ですとか、もちろん社会政策の問題もそうですし、言語上の問題もありまして、多様な対立軸があって、それを二大政党という形で集約していくことがなかなか難しいという問題もあります。そして、社会の中のいろいろな組織の行動様式というものを見てみましても、例えば労働組合とか教会組織というように、伝統的にでき上がった組織が、それぞれ非常に強固な組織を背景として自分たちの主張を政治のプロセスに反映させていこうとする、そういう違いがございます。

 ですから、これは、日本をどちらに近いと見るのか、あるいはどちらの方向に変えていこうとするのか、そこのところの判断の違いに帰着していくことになるんだろうかと思います。

藤島委員 それでは最後に、参議院の問題でございますけれども、参議院は、カーボンコピーと言われるように、衆議院のやっていることをそのまま同じようにやるわけですね。予算委員会でもそうですし、みんな同じことをやる。

 ある意味では、衆議院に反することを結論として出せば、これは国民の意見に反することにもなりかねないし、同じことであれば手間が二つかかるだけである、こういう意見があるわけです。そういう意味で、参議院の存在についてのお考えと、特に、六年ということで、三年ずつ交互にかわるわけですけれども、いずれにしても、六年間は、この変化の激しい時代にあってとても長過ぎる。むしろ、全部三年で衆議院より短くした方がいい。衆議院は解散があるわけですから長くても逆にいいわけですけれども、参議院の場合は解散がないために、むしろ衆議院より短い方がいいんじゃないかというふうな感じもするんですが、この二点についてお伺いしたいと思います。

長谷部参考人 御指摘の点でございますが、確かに、衆議院と同じことをやっているのでは参議院の存在意義が余りないのではないかという御指摘はそのとおりであるかと思います。

 ただ、これは冒頭のお話の中で申し上げたんですが、現在の参議院の権限をフルに使うということになりますと、制度の論理からして両者が同じことをやることになってしまう、そういう自然な流れがございますので、そこのところは何とかいろいろな工夫が必要になるかなという気がしております。

 議員の任期の点になりますけれども、恐らくこれは、比較制度的に見ましても、第二院の方が議員の任期が長いというのが一般的な傾向ではないかなというふうに思います。

 そうなりますと、それに対応いたしまして、第二院の方は、むしろ、その時々の政治需要に対応していくというよりは、もう少し中長期的な国の政策のあり方に重点を置いた審議をする、あるいは国政、国の制度の基本的な原則にかかわる点については発言をするけれども、日々の政治需要、行政需要に対応するという点については、これは衆議院にお任せをする、そういう考え方があり得るのかな、そういうことを考えております。

藤島委員 ありがとうございました。

中山会長 春名直章君。

春名委員 日本共産党の春名直章です。

 きょうは、貴重なお話をどうもありがとうございました。

 最初に、私の意見を一点だけ申し上げておきますが、衆議院と参議院の関係についてなんですが、今、参議院の権限を縮小していくということが出てきている文脈は、衆議院の多数派を基盤にした括弧つきの「果断な政治」を実施する、今なかなかできないというような思いから出てきている面が非常にあると思うんですね。

 ですから、制度の論理ということでいえば先ほどのお話はよくわかるんですけれども、ただ、文脈からいうと、そういうことから出てきている面があるものですから、私は、今日本の議院内閣制の課題というのは、そういう果断な政治とか首相のリーダーシップの強化というところに大きな本質があるんじゃなくて、国民主権に基づいて、議会による行政のコントロールを強化するというところに非常に大事な問題があると思っておりまして、そういう点で、参議院の役割というのはこの点非常に大きいなというように思っている者の一人です。これは質問ではございません。

 第一の御質問は、首相公選制についてでございます。

 その機能について、悲観的な見方をしておられる。そして、議会の多数派とのそごを来してリーダーシップの発揮にはならないという御説明を受けて、非常にしっかり受けとめたわけです。

 大きな話をちょっと聞かせていただきたいんですが、議会制民主主義の発展という大きな角度からして、一人の人間に大きな権力が付与されていって、その行動がいろいろ、国会、国民全体を左右していくとか、リーダーシップを強化していく、そういう方向自体が、議会制民主主義の発展という今日の課題、角度からして果たしてふさわしいのかどうか。非常に大きな漠とした質問で申しわけないんですけれども、私は必ずしもそういうふうに思わないし、議会制民主主義の発展というのは違う方向があると思っておりまして、その点についての御意見をお聞かせいただけたらと思います。

長谷部参考人 どうもありがとうございます。

 議会制民主主義のあり方という点につきましては、私は冒頭の話の中で御説明したところなんですけれども、ばらばらの部分利益の実現を目指すというのではなくて、やはり客観的な、社会全体に行き渡る公益というものをいかにして実現するのか、そのための手段は何なのかというものを公の場で理性的に討議する、そしてそれを決定して執行していくというのが、これが非常にざっくりとしたところの議会制民主主義の本来の姿であるかなと思います。

 そして、例えば首相の指導力の強化でありますとか迅速な政治決定ということが、必ずしもすべての政治目標を迅速に決めなくてはいけないというわけではないのは、これは先生御指摘のとおりでありまして、じっくり考えなくてはいけないことの方がむしろ多いんだろうと思います。

 ただ、そういうことが言われておりますのは、これは先ほどお話ししましたことの関連で申しますと、現在は、モンテスキューの時代と違いまして、なるべく国家が活動しない方がいい、なるべくそれぞれの社会階層の既得権益を侵害しないように、なるべく新しい法律もつくらないし政府も活動しない方がいいんだと。規制緩和というのは実はそっちの方向、神話的かもしれませんが。少なくとも、全体の歴史の流れはそうではないんだろうと思いますね。

 そうなりますと、それに対応した、モンテスキューのときには考えられていなかったような新たな国家の役割、これはですから、社会経済の分野にわたっても政府がさまざまに介入して活動していくということになりますと、それに即応して総合的な企画立案なり調整なりというものを考えていく、そういう役割がありまして、逆に、立法府の立法活動をも指導していく、そういう役割が現代国家ではいろいろな形で必要になってくるという認識があるからだろうと思います。

 ただ、そういう統治なり執政なりと言われる活動も、コントロールというものは先生の御指摘のとおり非常に重要でありまして、そのコントロールのあり方というのは、公開の場でいかに情報を的確に出して、そして的確な説明なり正当化なりの筋の通った議論がなされているかどうかという形で吟味をしていくということになるかなと思います。

春名委員 それにかかわって、討議民主主義の話が、非常に示唆に富んだお話をしていただいたのですが、今、国会は国権の最高機関という位置づけであるわけですけれども、私たちの責任は大きいのですけれども、ただ、例えばこの間のテロ特措法の議論なんか、衆議院で五日間、参議院で四日間しかやっていないわけですよ。国民に本当に開いて、国民の意見を集約して、そして議論してきちっと決めていくという点で見ても、私は、非常に形骸化しているという危機感を持っておりまして、この辺の今の国会の役割、議論のあり方などについて御意見を聞かせてください。

長谷部参考人 特定の法案についての審議のあり方というのは、私も事情をよく存じていないところもありますので、発言は差し控えさせていただきたいと思うのですが、確かに、重要な問題であればあるほど慎重な審議が必要であるということは、一般論としては先生のおっしゃるとおりであるかと思います。

 ただ、ここのところはなかなか一筋縄ではいかないところがございまして、結局のところ、先ほども冒頭のお話の中でいたしましたとおり、公開の場での議論とは申しましても、各党派のお互いの議論で党派の立場が変わるということはそれほど期待できるわけではありませんので、国会の中の狭い意味での公開の議論の場というものだけで完結した形で、議会制民主主義特有の公の場での冷静な議論の展開を期待するということは余り現実に合わないところも出てくるのかなというふうに考えております。

 国会での議論の様子がさまざまなメディアを通じて社会全体に伝わっていく、その社会の内部で、これについての公の場での議論というものが展開をされていく、それを通じて、より広い形で、あるいは時間的にも長いスパンを置いた形で公の場での議論を遂行していくということ、これが現代の政治の場では求められてくるのではないかな。ですから、これは、先生方のようなプロの政治家だけではなくて、それ以外の、マスメディアも含めて、一般市民がこの公開の場での討議に積極的に参与していくということがやはり必要になってくるのだろうかなと思います。

春名委員 議会制民主主義という角度から私は今ずっと聞いているのですが、代議制のかなめは、主権者である国民が平等に選挙などの方法で政治に参加をして、国民が政治の基本的な方向を決定していく機能を実体として持っているかどうかということにあると思いますし、今のお話も聞いて、示唆的だったのですが、国民の意思を正確に議会、議席に反映していくということが非常にかなめだと思っているのです。

 長谷部参考人がいろいろな論文の中で、日本は、イギリスなどと違って、比較的対立軸の数の多い国であると。言い方をかえれば、日本は多様な民意が存在する国であるというふうに私は受け取りました。そういう日本の現状を考えたときに、民主的な議会政治を担保する日本にふさわしい選挙制度を考える必要があると思うのです。だから、国民の多様な民意が素直に議席に反映される、そういう選挙制度が日本には望ましいものだなと私は考えております。

 それはさておき、昨今の選挙制度の改革について参考人はどう見ておられるのかをお聞きしたいのです。

 九四年の細川内閣時代において衆議院の小選挙区比例代表並立制が導入される、昨年は参議院に非拘束名簿式が導入される、今は、白紙状態になっていますけれども、小選挙区並立制の一部に中選挙区制を導入するというものまで、いろいろ出てきているわけですね。参考人がお述べになっているように、何のための民主主義かということが、選挙制度を論じる際にもどうも置き去りにされている議論がされているように思えてならないわけなんですが、こういう今の選挙制度の改革について、参考人はどう見ておられるのか、お聞かせください。

長谷部参考人 小選挙区比例代表並立制という現在衆議院でとられている選挙制度のありようにつきましては、これは先ほど申し上げたことの繰り返しになってしまいますけれども、有権者に対して一体何を問わんとしているのかという点で、制度の論理としてどうもわかりにくい点があるというふうに私は考えております。

 それから、これまたざくっとした一般論から申しますと、選挙制度というのも、これは代議士の先生方の職業生命にかかわる問題でございますので、先ほどの一般論との関係で申しますと、制度や仕組みに利害関係を持つ人々の意見がどうなっているのかということも当然考慮に入れた上で決められるべき問題であるとは思うのです。ただ、結果として出ている制度そのものは、大義名分としてちゃんと筋の通っているものでないといけない。筋が通っているかという意味では、多少問題がある制度になっているのかなというふうに考えております。

 私は、先生御指摘のとおり、日本というのは、どちらかといえば政治的な対立軸は多い国でありまして、そういう意味では、多様な選択肢を有権者に提示しておくということの意味は大きいだろうと思います。ただ、選挙制度の組み方といたしましては、安定した政治基盤を議会の中にどうつくっていくのか、そういう考慮もないではありませんので、それとの組み合わせで考えていきますと、これは先ほどの繰り返しになりますが、現在フランスでとられているような小選挙区の二回投票制というものも一つの選択肢かなというふうに私は考えております。

春名委員 ありがとうございました。

 最後に、よく、日本の議院内閣制の弊害ということで、政策形成過程における官僚と政治家のいびつな関係、あるいは、強大な官僚機構を統制できない内閣であるがゆえに改革がおぼつかないというようなことが指摘をされることがございます。

 この文脈の中から、日本の議院内閣制の弊害を、憲法六十五条の「行政権は、内閣に属する。」この規定に問題点を求めるという主張もございます。しかし、私は、憲法の規定に原因があってこれらの問題が生じているようにはとても思えません。むしろ、憲法の要請する議院内閣制を現実の政治が十分実行してこなかったところに問題があるのではないかと考えています。

 その点で、政治家と官僚、企業との癒着の問題、それから官僚の天下りの問題、こういう時の政権の政治運営に起因している問題、これを打開するといいますか解決することこそが憲法の要請ではないかと私は思っていますが、参考人は、憲法の要請する議院内閣制のあり方について、それから今日指摘されている政治家と官僚をめぐる諸問題についてどのようなお考えを持っているのか、お聞かせいただきたいと思います。

長谷部参考人 私自身も国家公務員ですので、果たして第三者的な公正中立な話になるかどうか、ちょっと自信がないのですけれども、実は、これまた先ほど申し上げました一般論で、言ってみれば常識論のような話ですけれども、こういう制度をどうやってつくっていくか、どうやって運営していくかというときには、大義名分として筋の通った論理がなくてはいけないということは当然のことですけれども、制度の運用にかかわる人々の利害を全く無視して制度をつくっていくというわけにもいかないところがございます。

 ですから、例えば、いろいろな規制、レギュレーションをつくっていくときに、その規制の対象になっている人々が一体どういうことを考えているのかということを聞きながら、その制度の制定なりその運用なりを考えるということは必ずしも悪いことではないというふうに私は考えております。

 ただ、それが、癒着というふうに見えるような形で隠微に行われるということは、これは問題があることだと思いますので、これはやはり、例えば規制官庁と規制される側の交渉の場に、第三者的な、例えば民間のボランティア団体の人々を同席させる、そしていつもモニターさせるという形で、ある種の情報の提供なり公開なりの筋道を図っていく、そういう方策も考えられるのではないかなというふうに考えております。

春名委員 どうもありがとうございました。

    〔会長退席、鹿野会長代理着席〕

鹿野会長代理 原陽子君。

原委員 社会民主党の原陽子です。よろしくお願いします。

 私はきょう、首相公選制について幾つかお聞きをしたいと思います。この首相公選制については、四月の自民党の総裁選挙で小泉さんが唱えたこともあって、私なりに関心を持って意見を考えてまいりました。それと、大学の後輩や友人たちと一緒に幾つか議論も交わしてきました。

 先ほどの御意見の中に、首相公選制には国民の期待感が大きいという意見があったかと思います。首相を公選で選ぶことによって、強いリーダーシップを与えて政策決定のプロセスを変えて、政治が変わるみたいな期待感が非常に大きいという意見があったのですが、果たして本当にそうかなというふうに私は思っております。

 それはなぜかと申しますと、私の後輩や仲間と議論をしていく中で、首相公選制については、どちらかというと、期待というよりは人気投票的な、私たちの言葉で言えば「ノリ」といった感じなんですが、そうした感覚が実は強いのではないかなというふうに思います。例えば、自分で直接小泉さんや田中眞紀子さんを選べるのは楽しそうとか、首相公選制はおもしろそうといったような意見を言う人が若者の中には多くいるというふうに思っております。

 ですから、首相公選制で政治が変わるという期待感というよりは、人気投票的なノリの部分、その気持ちが大きいのではないかなというふうに私は思うのですが、これは若者に限らないかもしれませんが、そうした人気投票的な部分について先生の御意見をお伺いしたいと思います。

長谷部参考人 私は、実は、そういう世論調査をしたこともありませんし、個別の人の意見を聴取したということもありませんので、現実の人々の感じ方についてはお答えする能力を欠いていると思うのですけれども、確かに、直接公選で自分たちも首相の選択に参加したいというときに、そういった人気投票的な感覚もその中に要素としては含まれるという傾向は当然あり得ることではないかなというふうに考えております。

原委員 次の質問なのですが、長谷部先生の論文を読ませていただきまして、首相公選制をとったからといって首相のリーダーシップが強化されるわけではないというようなことが書かれていたかと思います。私自身も、首相公選制と首相のリーダーシップ強化とは関係がないという先生の御意見は、全くそのとおりだというふうに思っております。

 先ほどからの議論の中にも、リーダーシップ、リーダーシップという言葉が非常に多く出てきておりますが、現在の制度でも、これまで十分に強いリーダーシップをとった首相もいたと思いますし、実際に、現在でも重要法案と言われるものを数日間で通すということは、私は、これは恐ろしいぐらい強いリーダーシップではないのかなというふうに思っているのですが、これからの日本の政治を考える上で、首相のリーダーシップというものは現在よりも強化されるべきなのでしょうか。この点について先生の御意見をお伺いできればと思います。

長谷部参考人 首相のリーダーシップがこれから強化されるべきなのか、強化されるべきでないのかというのは、一般論として申し上げるのは非常に難しい論点ではないかなというふうに思います。

 というのは、これは、個別の政策上の課題に応じて、強いリーダーシップが期待されるべき問題と、そうではなくて、ここは国家十年なり五十年なりの計であるから、もう少し慎重にいろいろな人々の意見を聞いた上で物事を決めなくてはいけないというところも当然ある話だろうと思います。

 さらに、首相のリーダーシップと言うときにも、恐らく首相個人が何でもかんでもリーダーシップをとるということが想定されているわけではないのであって、企画立案としていろいろな部署から積み上がってきたものが選択肢として首相に提示されたときに、自分はこちらでいく、こちらの案よりはこちらの案でいきたい、そう首相が決断した以上は、それをかなり効果的に審議、決定、そして執行に移していくということが想定されているのだろうと思いますので、それは積み上がっていくプロセスがどういうものなのかということも当然考慮に入れなくてはいけないのかなというふうに考えております。

原委員 次の質問なんですが、先ほどから、官僚機構の肥大化ということが議論の中に出ていたかと思います。私も、これは確かに大きな問題であるというふうに思っております。私が思うには、この官僚機構の肥大化の最も大きな問題点は、もちろん私も含めてだと思いますが、国会議員の勉強不足や、国会の立法活動さえも官僚に頼ってしまうというあり方が大きな問題点であるというふうに思いますし、私たち国会議員がもっともっと力をつけていく必要があると思います。

 つまり、立法府の機能強化ということが重要になってくると私は思うのですが、この点について先生の御意見をお伺いしたいと思います。

長谷部参考人 これは、バランスのとり方の問題もあるかなと思います。

 官僚機構にすべてお任せということでは、もちろん現在でもないはずですけれども、かなりの部分を官僚機構に頼って立法活動を進めざるを得ないというのは、これは日本に限らず、先進各国、いろいろな国で見られる話でありまして、情報を収集してくる能力でありますとか、それぞれの役所で研究会なり懇談会なりをつくって各界の意見を集約するシステムですとか、それこそ文案の作成の能力等につきまして、官僚機構は官僚機構なりに非常に貴重なノウハウを蓄積しておりますので、その既存のノウハウを利用しない手はないだろうと思います。まだ何も知らないという人が一からノウハウを蓄積していくよりは、既存のノウハウを使う、そういう道も当然あり得る話ではないかなと思います。

 それから、これは変な言い方になりますけれども、先ほどお話のありました有権者の選択の問題ですけれども、何しろ、主権者は国民、有権者でありますので、そういう人たちが自分たちで立法活動をする国会議員を選びたいと思うのでしたら、有権者は多分そうしていただろうと思うのですね。ただ、先生がおっしゃるとおり、官僚機構にかなり依拠してきた国会議員の先生方が実際には有権者によって選ばれていたというのは、そういった官僚機構にかなり依存するような国会議員の方が実は安心して選挙できるという選択だったのかもしれないわけでございまして、ここのところは、どうしても国会議員が御自分でということになる話でも実はないのかなということを考えております。

 もちろん、余り任せ過ぎますとコントロールが全くきかなくなってしまいますので、少なくともコントロールがきく程度にいろいろ勉強していただくというのは、これは当然必要なことかなというふうに考えております。

原委員 では、最後に一つ、そもそも何でということでお聞きをしたいと思うんですが、この首相公選制という言葉は、四月の自民党の総裁選で小泉さんが声高におっしゃったから、クローズアップされて国民の関心も高まったというふうに思うのですが、そもそも何であの時点で小泉さんが首相公選制というものを声高に唱えたのか、本当のねらいどころは何だったのかということを、これは先生のお考えあるいは感想などでお聞かせ願えたらなというふうに思います。

長谷部参考人 これは、私の考えというよりも、小泉首相御自身が、たしかこの憲法調査会の席上で、憲法改正の筋道を示すということがこの首相公選制を導入するねらいの一つであるということをみずから明言しておられることだと思います。

 ただ、そのこと自体は、私自身としては、少なくとも大義名分のレベルでは余り筋が通らないかなというふうに考えております。つまり、憲法改正自体が自己目的化するということはなかなか理解することが難しいところでございまして、改正した結果、何かいいことが起こるから改正を提案するというのが、これが本来の議論の筋道だろうと思うわけでありまして、そういたしますと、そういう改正をして本当にいいことが起こるのか起こらないのかということに議論が向かうわけでありますけれども、先ほど来、私、申し上げておりますとおり、そういういいことが起こる蓋然性はそれほど高くはないということでございます。

原委員 きょうは本当に貴重な意見をどうもありがとうございました。

 制度が変われば政治が変わるという考えではなくて、私たちは、首相公選制を導入する前にもっともっとやるべきことがあるのではないかということをまた改めて考えさせていただきたいと思います。どうもありがとうございました。終わります。

鹿野会長代理 松浪君。

松浪委員 保守党の松浪健四郎でございます。

 参考人におかれましては、早朝より貴重な御意見を賜っておりますことに感謝を申し上げたいと思います。

 首相公選制あるいは公選論等についてお尋ねをしたいと思います。

 きょうで、アメリカがアフガニスタンに空爆をして一カ月になろうとしておるわけでありますけれども、空爆が始まる前から、この問題でメディアでずっと言われてまいりましたことは、タリバン後という言葉であります。つまり、実質的にアフガニスタンを支配しているタリバンがいるにもかかわらず、タリバン後、アフガニスタンという国をどのような国にしていけばいいかという問題が今も大きくクローズアップされています。本当にタリバン後があるのかないのか、これもわからないし、そして、民族の自決の原則に基づいて国家というものが成立するのであるならば、国連や他国が干渉するというのはおかしいではないかというような議論はよけられまして、とにかくタリバン後という言葉がひとり歩きしている、こういうふうに思います。

 それはなぜなのかということになりますと、アフガニスタン国民の識字率が二〇%に満たない、そういうところではなかなか選挙というものができないではないか。そして、義務教育制度もきちんと発達していないし、行われていない。そこには、国民の知的水準というもの、これは疑わしいという思いがあって、そのようなタリバン後という言葉がひとり歩きしているような気がしています。

 そこで、我が国に首相公選論が持ち上がってきたという背景には、何人かの委員の方から御質問がございましたけれども、この首相公選論の背景には、日本国民の誇れる知的水準、それと、もしかしたならば、民主主義の円熟度、これが増してきたがゆえに、背景となって首相公選論というようなものが出てきたのかなという印象を持っておりますけれども、参考人はそのことについてどのようにお考えでいらっしゃいますでしょうか。

長谷部参考人 先生御指摘の知的水準と民主主義の円熟度との関連で具体的に小泉首相が提言をしておられるという経緯であるというふうには実は私は伺っておりませんでして、もう少し違う説明が、先ほど申し上げましたような説明が小泉首相御自身によってなされているところかなと思います。ただ、知的水準の高い国民ないし有権者の存在を前提といたしましても、その上で果たしてうまく機能する制度なのかということになりますと、それは恐らく別のレベルの話になるかなと思っておりまして、もちろん知的水準が低ければ、本来働くべき、機能すべきものもうまく機能しないということは当然あるかなとは思いますが、知的水準が高くても機能しにくい制度は機能しにくいところがあるかなと思います。

    〔鹿野会長代理退席、会長着席〕

松浪委員 今の話にかかわりがあるかもしれませんけれども、タリバン後という言葉がひとり歩きをしたと同時に、二十数年前からローマに亡命をしているザヒル・シャーのもとに国連の特使であるとかあるいはアメリカの共和党の議員が出向くというようなことになっておりますし、各メディアも、タリバン後、アフガニスタンにはどのような政権を構築するか、これらにつきましてはそのザヒル・シャーを中心に政権を考えていこうというような流れが出ているような気がします。

 このザヒル・シャーという元国王は、ロヤ・ジルガという大部族会議で選ばれた王であります。いわば正当な形で選ばれた王でありました。つまり、手続上にも瑕疵がなかった、こういうふうに思います。しかしながら、全国民が参加して選んだ国王ではありません。そういう意味におきましては、まず考えられますのは、伝統カリスマと民意のカリスマを足したような形であった王であるかもしれない、こういうふうに私は考えているわけなんです。

 そこで、首相公選制になって首相が選ばれるということになりますと、これは参考人がおっしゃいます民意というカリスマを得た首相が出現する。そして、伝統カリスマに依存する天皇との、対立というものではありませんけれども、元首論からしたときに、非常に危うい問題、理解のしにくい問題が出てくると思います。そういう意味においては、古典的なものと現代の調和、これらについても十分に考えていかなければならないというふうに思うわけでございますけれども、伝統カリスマに依存する天皇の存在、そして公選という民意によってできるカリスマを得た首相の存在、これをどういうふうに我々は理解していけばいいのか、つまり元首として理解していけばいいのか、このことについてお尋ねしたいと思います。

長谷部参考人 実は、私は法律学者でございまして、法律学者として理解する元首ということになりますと、これは先ほどの繰り返しになってしまうかもしれないんですけれども、元首という名前の国家機関であるからということで、そこから何らか特定の法的権限なり法的な役割なりが導かれるということはない、これが一般的な法律学界での理解でございます。ですから、元首であることに関して、たとえ公選首相があらわれたといたしましても、制度のつくりようが難しくなるということは恐らくないんだろうと思います。

 役割分担ということで大ざっぱに申しますと、やはり天皇の方が尊厳的な部分としての役割を果たし、公選首相の方が機能的な部分として統治の実質に当たるという形の役割分担が一応は可能であろうか。

 ただ、松浪先生御指摘のとおりに、民意を背景とするカリスマと伝統カリスマとが対置することになりまして、一体どちらが国の象徴なのかということで人々の感じ方が変わるということはあり得るんですけれども、これまた、象徴というのは、例えばハトが平和の象徴だというのも、みんながハトを見て平和だと思うからハトが平和の象徴でございまして、そういった形で、結局は個々の人々の心の持ちようの問題でございますので、制度の組み方の問題とは直接には関係しないことになるのかな、そういう感じを持っております。

松浪委員 参考人の論文を拝見していて、相当ダイナミックな御意見を吐かれている。もちろん、学問上それは当然許されることでありますけれども、現実に政治に携わる私たちからすれば、例えば首相公選制が導入されて、そして、公選によって民意というカリスマを首相が得た、そうしたときに、国の象徴としての地位が、天皇が脅かされるであろうという論点があります。これに対して、そういう問題が起こるけれども、そのときは天皇制を廃止することも一案ではないかというふうに参考人が述べられていると私は理解するわけであります。

 例えば、憲法を改正する云々があったとしても、天皇制を廃止するというようなことは、我が国の国民性から見て、私は現実的でないというふうに理解しているんですが、いかがでしょうか。

長谷部参考人 現実論のことを考えていきますと、いろいろなことがあり得るのかなというふうに思いますが、学者の議論として学界でどういうふうにとらえられているかということで申しますと、憲法改正の限界論という議論がございます。要するに、今定められている憲法改正の手続を踏んでもなおかつここは変えられない、そういう基本的な原則があるのではないか。例えば、平和主義というもの、国民主権という原則、あるいは基本的な人権を尊重するという原則はそうであるというふうに言われておりますが、天皇制という制度そのものについては、憲法改正をもってこの制度を変えることが許されないというふうには憲法学界では考えられていないところでございます。

 ただ、制度として変えた後におきましても、伝統カリスマは依然として従来の天皇が持っているということは十分考えられる話でありまして、したがって、憲法上の天皇制を廃止したからといって、従来の天皇が国の象徴でなくなるということではないのかもしれない。ですが、それはあくまで事実上の問題だと思います。

松浪委員 この八月に、憲法調査会はイスラエルに調査に出かけられました。首相公選制が失敗したというふうに我々は理解をさせていただいておるわけですけれども、イスラエルは、国会議員の選挙は比例代表制でやっておりました。もしこれが比例代表制でなければ首相公選制でもうまくいけたのではないのかという考え方もありますが、これについてはいかがでしょうか。

長谷部参考人 比例代表制ではないということになりますと、例えばどういうことになるかということなんですが、典型的な選択肢として考えられるのは、小選挙区の、それも一回投票制、つまり、イギリスやアメリカで現在施行されているような制度であるかなと思いますが、ただ、小選挙区制をとっても、私は、首相公選制というのは余りうまく機能しないのではないかというふうに考えております。

 と申しますのも、小選挙区制というのは、制度そのものの論理としては、地方のローカルな部分利益を代表する、そういう機能を持つ自然な傾向があります。これがイギリスのように全国レベルで、ナショナルなレベルで国の政策の選択と首相の選択が結びついているということになりますと、ローカルな利益の選択よりもナショナルな部分での選択をしようということになるんですが、首相公選でその部分が切り離されてしまうということになりますと、小選挙区制でも、結局、議会にはローカルな利益を代表するという、制度の本来の傾向に流れていく危険がかなり大きいだろうというふうに考えております。

松浪委員 貴重な御意見、どうもありがとうございました。

 時間が参りましたので、終わります。

中山会長 近藤基彦君。

近藤(基)委員 21世紀クラブの近藤基彦でございます。私が最後の質問者でありますので、もうしばらく御辛抱いただいて、長時間、大変貴重な御意見ありがとうございました。

 私もイスラエルに八月に行かせていただいた一人であります。イスラエルへ行く前に、首相公選制についていろいろなレクを受けさせていただいて現地へ赴いたわけなんですが、私の何も勉強しないときに理解していた形としては、どうも首相公選制を廃止した背景が、政治的な意味合い、いわゆる政治権力的な意味合いで廃止をしたのかなという誤った理解を実はして現地へ赴いたわけなんです。そのときに、先ほど先生がおっしゃったようなことで首相公選制を廃止したという事実を向こうで勉強させていただいていたわけなんですが、それ以前、あるいは今でも、もしかすると私の根底には、何とか首相公選制を日本で入れられないものかなと。

 それ以前は、四月に小泉総理が誕生したその背景が、国民的人気あるいは世論の支持率が非常に高い総理、これが世論と直接選挙が結びつくかどうかは別として、国民世論の声を背景に、かなり構造改革あるいは財政改革等いろいろなことを当時お示しをし、非常に期待感も高く、国民のこれだけの支持率をもってすればかなりの部分やれるのではないかという期待感があり、なおかつ、そこに首相公選制という話を出して、これがきちんと投票という形でバックにあれば、かなりのリーダーシップが発揮できるのではないかと期待をした国民はかなり多かったんだろう。あの当時、首相公選制というのは、若干のブーム的な言葉としてとらえられたのではないかなという気がしておるんです。

 先生の御意見とは違うんですが、もしも、現在の議院内閣制の閉塞性を考えて制度的な改革の論議が起こった場合、議院内閣制以外に、第二の選択というのは変な話なんですが、日本でとり得る制度が、先生の書いたものの中に、大統領制、半大統領制あるいは公選制、各国のいろいろな形を示して書かれておりますけれども、一番その中で日本に、これならば、この部分を変えれば何とか根づくかもしれぬというようなお考えがもしあれば、お聞かせいただきたいと思うのです。

長谷部参考人 結論から申し上げますと、実はないんです。

 現在よりもよりよい制度があるかなと思いますと、リベラルな民主的政治体制として挙げられますのは、先生が御指摘のとおり、議院内閣制か大統領制か、あるいはフランス型の半大統領制ないし準大統領制と言われているものか、スイス型の会議政体、議会統治制と言われるものもございますけれども、これはとっている国は極めてまれでありますので、一応考慮の外に置いてもいいかとは思いますけれども、その中で、現在日本がとっている議院内閣制よりも少なくともよりよくなることが明らかであるという制度は、私の見るところではどうも存在しないように思います。

 アメリカの大統領制には先ほど来申し上げたような問題がございますし、フランスの半大統領制はそういう問題はないんですけれども、なぜそういう問題がないかというと、事実上、議院内閣制と同じ形で運用されているからなんです。そうだといたしますと、現在の議院内閣制をわざわざ変えて半大統領制にする必要も恐らくないだろう。

 ということになりますと、今よりも政治体制をよりよくする制度改革案があるかといいますと、これはなかなか、悲観的にならざるを得ない。あとは、要するに運用の問題ではないかというのが私の考えでございます。

近藤(基)委員 私も、勉強すればするほど、なかなかいい制度的な部分としてはないなと思って、今現在いるわけです。

 そうすると、今の議院内閣制をよりよい形で高めていくという運用の部分で、例えばこの制度、今、多数党の代表が首相という形になっている。連立を組んだ中での代表が、今小泉総理という形になっているわけです。政党政治でありますので、政党の代表が総理に立候補するというのが筋なんだろうと思います。三権分立の話が随分出ていますが、行政と立法の部分で、立法府の代表であり行政府の代表という、ある意味、一元化に近い形で今行われているのが現実問題だろうと思うのです。

 例えば、総理あるいは内閣の一員になったときには党を離れるとか、それは基本的な政治的な信念とか信条まで変えるということではなくて、政党に縛られずに、中立的な立場で行政の長としての仕事をする。議員であることには変わりがないわけでありますから、運用的な問題になるのか、ある意味、制度改革が必要になるのかもしれませんけれども、法律改正的な部分で必要になるのかもしれませんが、そこまでは憲法ではうたっていないだろう。議院内閣制はうたっていますが、政党の代表じゃなきゃだめだとかということはありませんので、そのぐらいの分立をすべきではないか。そうすると、官僚と政治という部分でもある程度分けられるような気がするんです。

 そのほかの考え方でもいいのですけれども、運用面でもう少し強化できるようなことがあれば、御意見をお聞かせいただきたいと思うのです。

長谷部参考人 運用上でどういう改善点が考えられるかということになりますと、これは、保岡先生との話の中で出てまいりましたけれども、例えば、政策決定、意思決定のメカニズムを今の二元的な体制から一元的な体制に移していくことはどうか、あるいは、参議院がその権限を謙抑的、抑制的に使うような憲法慣行を成立させることはどうかと、いろいろなことが考えられるかと思います。

 先生の御指摘の、総理あるいは国務大臣、閣僚、どのレベルか、いろいろなレベルが考えられますが、それが所属する党派を離れる、あるいはさらに国会議員としての職を離れる、そういう制度も考えられないではないと思います。

 現在のフランスの第五共和制憲法は、国会議員が閣僚に任命された場合には国会議員としての地位を離れる、そういうシステムをとっておりまして、これは一つの理屈としては、先生御指摘の行政と立法の分離ということであるのです。

 つまり、第五共和制憲法の生みの親の一人であるドゴール大統領は、伝統的な議会政治に対して極めて批判的な人であります。要するに、議会に議席を占める職業政治家が国政を運用するからフランスの政治はよくならないのだという考え方をとっておりまして、そういう意味では、むしろ官僚機構にもっとその力を十分発揮させるべきだという考え方で、立法と行政の分離、国務大臣、閣僚も任命されたら国会議員をやめなさいという仕組みをつくったのです。

 ただ、実際に第五共和制憲法を動かしてみますと、結局のところは、法律をつくる立法府の了解がないことには国政の執行はままならないということがドゴール自身もわかってきまして、ですから、現在でも国会議員の地位を離れているのですけれども、実際上の制度の運用は、やはり国民議会の多数派の支持を得ている人が大統領になるか、あるいは大統領と国民議会の多数派が違うときには、国民議会の多数派のリーダーが首相になって国政を主導する、今、そういう形で運営がなされております。

 ですから、議院内閣制において、社会のいろいろ多元的な利害や意見を集約して政策の形に組み上げて、それをリーダーと一緒に有権者に示して勝利をした政党がその政策を執行していくというその枠組み自体は、基本的には変えようと思っても変えられないものでございますので、そういう意味では、所属党派を離れるということに意味があるのかどうかということになりますと、それほど大きな意味はひょっとするとないのではないかなというふうに私は考えております。

近藤(基)委員 貴重な意見を大変ありがとうございました。

 制度的にはいろいろなことが考えられるだろうと思いますけれども、とにかく現行の制度をよりよく運用していきながら、新たな制度を模索していかなきゃいけないのかなという思いで今いっぱいであります。

 どうもありがとうございました。これで終わります。

中山会長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、一言ごあいさつを申し上げます。

 長谷部参考人におかれましては、貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。調査会を代表いたしまして、厚く御礼を申し上げます。(拍手)

 午後二時から調査会を再開することとし、この際、休憩いたします。

    午前十一時四十九分休憩

     ――――◇―――――

    午後二時六分開議

中山会長 休憩前に引き続き会議を開きます。

 日本国憲法に関する件、特に二十一世紀の日本のあるべき姿について調査を続行いたします。

 本日、午後の参考人として東京大学大学院法学政治学研究科教授森田朗君に御出席をいただき、統治機構に関する諸問題について御意見をお述べいただくことになっております。

 この際、参考人の方に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、大変御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にさせていただきたいと存じます。

 次に、議事の順序について申し上げます。

 最初に参考人の方から御意見を四十分以内でお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。

 なお、発言する際はその都度会長の許可を得ることになっております。また、参考人は委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。

 御発言は着席のままでお願いいたします。

 それでは、森田参考人、お願いいたします。

森田参考人 森田でございます。本日は、この憲法調査会におきまして意見を述べる機会を与えていただきまして、大変光栄に存じております。どうぞよろしくお願いいたします。

 きょうは、統治構造に関する諸問題といたしまして、主として内閣制度のあり方を中心に私の意見を述べさせていただきたいと存じます。

 初めにお断りしておきたいと存じますけれども、私自身の専門としておりますのは、広い意味におきます政治学の一分野でございます行政学という学問でございます。行政学と申しますのは、行政組織であるとか官僚制であるとか、あるいは政策の形成過程、また、公務員制度のあり方、地方自治等、広く現代国家における行政と呼ばれております諸現象を研究の対象といたしております。

 したがいまして、憲法、行政法の専門ではございませんので、内閣制度、行政組織に関する厳密な法律論につきましては、専門的な意見を述べる能力は必ずしも有しておりません。しかしながら、行政という現象自体が憲法の枠の中で、あるいは法律に基づいて実施されますので、内閣制度を初めとしましてそのほかの行政制度のあり方については大変大きな関心を持っております。

 そこで、きょうは、行政学という学問の観点から我が国の統治構造の諸問題について述べさせていただきたいと存じます。

 なお、具体的な論点について私の意見を申し上げる前に、あらかじめ私が考えております憲法の問題の前提となる認識というものをお示ししておきたいと存じます。

 その第一は、内閣制度に限らず、政治、行政に関するあらゆる制度について言えることであろうと思いますけれども、制度といいますのは、それ自体、体系的で完結的なものでなければならない。言いかえますと、制度は、筋の通った論理に基づいて形成されていなければならない。ある意味では当然のことでございます。そうでない制度の場合には、運用の段階におきましていろいろと矛盾が生じてきたり、あるいは不合理な結果を招く可能性が多いということでございます。

 第二に、このような筋の通った制度というものを考えた場合に、この世の中に唯一ベストのもの、最善のものが一つだけあるかというと、そうではなくて、多数のものが考えられるのではないかと思います。こうした制度は、それぞれの国の置かれている状況、歴史的な背景であるとか、いろいろな要素によってベストのものが決まってくるということでございまして、その中からどれを選択するかというのがまさに制度選択の問題であろうと考えられます。

 第三点といたしまして、これは憲法にかかわることでございますけれども、我が国の憲法を初めといたしまして、国家の統治構造の基本を定めております憲法というのは非常に大まかな枠組みを示したものであって、その中で今申し上げましたような多様な制度の選択というものが可能であろうというふうに思います。その憲法の大きな枠の中で、それぞれの国は、その時代、その状況に適した形での政治制度を選択する、それが望ましいあり方ではないかというふうに考えるわけでございます。

 ただし、その場合に、ある制度が望ましいと思って選択しようといたしましても、どうしても憲法上の枠組みがその制約になる、それと抵触するという場合が生じてきますと、その場合に初めて憲法の改正ということを真摯に検討する必要があるのではないかというふうに考えます。そして、その憲法の枠内における具体的な制度と申しますのは、それぞれ、我が国で申し上げますと内閣法その他の法律によって規定していく、そこのところの選択の幅はかなり広いものではないかというふうに考えるわけでございます。

 以上、ある意味で当然のことかもしれませんけれども、あらかじめ申し上げさせていただきまして、続きまして、以下、具体的な問題点についてお話しさせていただきたいと思います。お話し申し上げる順番は、お手元のレジュメに沿って申し上げるつもりでございます。

 まず初めに、今申し上げました行政学におけるとらえ方というものについて簡単にお話をさせていただきます。

 現在、我が国の統治構造について、通説的な理解といいましょうか、一般的な考え方は、立法、行政、司法の三権分立を基本的な原理とするというものでございまして、これは憲法でもそれぞれの章が割り当てられているところでございます。これらの機関は、それぞれかなり自律性を持った機関として位置づけられており、相互には対等で、相互に抑制と均衡の関係にあるというふうに説明されてまいりましたし、私たちも子供のころから学校でそういうふうに習ってきた記憶があるわけでございます。そして、現在の統治構造の内容を具体的に定めております内閣法その他の法律も、こうした原理に基づいてつくられていると思います。

 その場合に、対等であってそれぞれ自律的であるとしますと、例えば憲法四十一条の「国権の最高機関」が何を意味するかというようなことがしばしば問題として指摘されるわけでございますけれども、それにつきましては、国会に対して一定の敬意を払う意味における美称説というのがかなり通説として理解されているように聞いております。

 我が国では、国の立法、行政、司法という機関についての分担あるいは関係についてこのような理解が一般的であると考えられますけれども、私が専攻いたしております、アメリカで誕生いたしました行政学という学問の観点からしますと、特に立法と行政の関係につきましては違った理解の仕方をしておりまして、それも可能ではないかと思われます。

 どういう理解の仕方をしているか、一言で申し上げますと、選挙で選ばれた人から成る政治の世界というものと、それとは別の、そこで決定されたことを実施する行政の世界というものを区分するという考え方でございます。その政治、行政という考え方自体は決して珍しいものではありませんけれども、それを別のものとしてとらえて、二者の関係として統治構造を見ていくというのが一つの行政学的な見方であろうと申し上げることができるかと思います。

 御存じのように、アメリカ合衆国という国は、建国以来、徹底した権力の分立、そして民主主義というものを原則として国の制度をつくってまいりました。そこでは、権力の集中を避けるためにそれぞれの機関にかなりの独立性を持たせ、そして相互に牽制させると同時に、さまざまな公職につく人はできるだけ直接国民の民意が反映されていることが望ましいという考え方から、多くの役職を選挙で選ぶというような制度を採用してきたわけでございます。

 これは、連邦政府の場合には限定されておりますけれども、州ないし地方自治体の場合には、かなりの公職が選挙で選ばれるという仕組みを採用してまいりました。これは、だれでも行政ができる、だれでも政治の職、公職につける、したがって、有権者の信頼を得た人がそのポストにつくのが望ましいという考え方であったわけでございまして、アメリカがかなり社会的にも素朴な社会構造を持っているような時代にはこれが十分機能した、こういう考え方で機能したというふうに考えられると思います。

 しかしながら、アメリカ合衆国も、十九世紀の後半になってまいりますと、社会が次第に複雑になってまいりました。それに伴いまして、行政の仕事の内容も高度化し、専門化してまいりました。そうしますと、そうした素朴な民主主義的なやり方では現実にはなかなかうまくいかず、いろいろな問題が発生してきたというのが歴史の示すところでございます。

 具体的に申し上げますと、高度に発展した行政について、だれでもできるというような形で、言うなれば素人の人が公職についてもなかなか実際の行政はうまく行えない。そこからいろいろと不合理が出てきたり、非能率が起こってくるということになります。他方、公的なポストがかなり大きなお金を動かすということになりますと、それが政治的な腐敗に結びつくということもございました。

 その結果、何がアメリカで起こったかといいますと、アメリカ流の民主主義も非常に重要なわけですけれども、それとは別に、きちっとした形での行政が行われなければならない、その行政の分野を機能的に政治と切り離すことが必要であるというふうに考えられるようになりました。そこから行政学という学問が行政の分野を対象として誕生することになったわけでございますけれども、その両者を区分する一つのポイントは、公職につける人をどのような形で選ぶのか、政治的に選ばれる人なのか、あるいは公務員という資格に基づいて公務員試験によって選ばれるのか、この公務員制度の発生、確立というのが、アメリカの場合、一つのそうした行政についてのとらえ方の画期になってきたわけでございます。

 他方、ヨーロッパの方はどうかと申し上げますと、これはそもそも絶対主義の時代におきましては、君主の統治権の担い手としてかなりしっかりとした官僚制、行政組織というものが確立されておりました。それが、市民革命が起こりまして、国民の代表によって政治が行われるべきである、民主主義の観点から制度がつくられるべきであるというふうに考えられるようになりまして、その結果、簡単に申し上げますと、議会というものが設けられ、そしてその議会が君主の統治権というものといわば対立するといいましょうか、対峙する関係で位置づけられるようになりました。

 最終的には、だんだん市民勢力といいますか市民階層の力が強くなるにつれまして議会がますます強くなり、議会の中から行政権のトップを選ぶという制度が確立されるようになってきたわけでございまして、これが議院内閣制というふうに考えられるわけですけれども、基本的にその議院内閣制が確立されるまでも、そしてその後の時代もと申し上げていいのかもしれませんけれども、統治構造の制度をつくる場合の一つの軸といたしましては、市民から構成されるところの議会というものと君主の側の行政権ないしは統治権というもの、この二つの対立関係がその統治構造の図式として存在していたということでございます。

 アメリカ、ヨーロッパと簡単にお話ししてまいりましたけれども、このように申し上げますとおわかりいただけると思いますけれども、政治と行政の対立する構図というのは、もちろん大陸型、ヨーロッパとアメリカ型とは少し違っておりますけれども、いずれにしましても、こうした民主主義の原則に基づいて行われる政治の世界とは、それとは別の行政の世界とどのような関係にあるのかということでございまして、言い方を変えますと、選挙で選ばれる方から成る選出部門とそうではない非選出部門、これは政治学の方でしばしばそういう言い方がされておりますけれども、その両者の関係としてとらえようというとらえ方が政治学ないし行政学的なアプローチではないかと思います。

 そして、行政学の場合、今日におきましては、具体的な統治制度のあり方を議論する場合に問題となりますのは、現代国家においてこの境界線をどのあたりに制度上引くのが望ましいのか。これは、一方におきましては、民主主義をどれくらいきちっと確立していくか、他方におきましては、高度の専門的な行政というものをきちっと行うような形をつくっていくのか、この両者のあり方が、特に人事の制度をめぐっていろいろと議論されてきたところでございます。

 このように申し上げますと、ここから先詳しい説明は不要かと思いますけれども、我が国の場合には、権力分立という通説的な考え方に基づきまして、立法機関である国会が政治部門というふうにとらえられるのは、今申し上げたアプローチと同じなわけでございますけれども、他方で内閣はどうかといいますと、内閣を構成する方々は、今の言い方をしますと選出部門に属するわけですけれども、これが我が国の場合には行政部門として位置づけられているというのが一般的な理解であろうかと思います。

 今申し上げてきたような考え方に立ちますと、それとは少し違いまして、政治と行政の境界線というのは、一方で、国会で選出される総理大臣と、総理大臣が任命する大臣、さらにはそのもとに置かれます政治的な任命職の行政上のポストの方、これが政治部門に属するというふうに考えられるわけでして、それに対しまして、他方、いわゆる公務員試験によって公務員として採用された方が行政に属するということになります。

 これから申し上げたいのは、我が国の憲法構造に基づく今の統治構造の理解の仕方は、そこのところのずれからいろいろな問題が生じてきているのではないかということでございます。

 簡単に、視覚的に御理解いただくために、学生向けにつくった図式で非常に粗っぽいものでございますけれども、添付しております「参考図」というのをごらんになっていただければと思います。

 これは、Bの方がどちらかといいますと現在の通説的な理解の仕方だとしますと、別な理解の仕方として、Aのような理解の仕方ができるであろう。これは別に私が初めて申し上げるわけではなくて、かなり大勢の方がこういう指摘をされておりますけれども、少し明確にわかりやすくかきますと、こういうことになるのかなというふうに思います。

 この場合、ごらんになればおわかりになると思いますけれども、内閣がどちらに属すると考えるのか、それによって制度の理解の仕方が違ってくるというふうに思われるわけでございます。

 さらに、こうした考え方、行政学的なとらえ方をした場合に、もう一言つけ加えさせていただきますと、それぞれの機関ないし部門、Bの方ですけれども、立法府と行政府というものは対等で相互に牽制し合う関係というふうにとらえられているところが多いと思いますけれども、民主主義という考え方、国民主権という考え方に立った場合には、これもしばしば指摘されているところではございますけれども、むしろその優劣関係というものをはっきりさせるというとらえ方もあるのではないかと思います。

 主権者であるところの国民が国会議員の方を選び、そして国会議員の方が構成する国会が内閣総理大臣を選び、そして内閣総理大臣が各国務大臣を任命し、そして各国務大臣が各省の行政官を指揮監督するという考え方でございます。これは別に、どちらが偉いとか偉くないとか、そういう尺度とは必ずしも一致いたしませんけれども、むしろ、主権在民の考え方に立った場合には、どちらが正当性の根拠が強いのかという理解の仕方があろうかと思います。したがいまして、例えば行政官の方がある決定をした場合に、その彼の決定が持つ正当性の根拠というのはどこから来るのか、そういう形での議論ができるのではないか、そういうふうに考えるわけでございます。

 海外の事例につきましては、それぞれの国が相当複雑な制度を持っておりますので詳細についてはよく存じませんが、議院内閣制のモデルとされております例えばイギリスにおきましては、議会と内閣の関係はかなり密接なものであるというふうに理解しております。そして、議会の優位というものを前提にして、内閣と議会がかなり一体化したものとして考えられている。そこでそれを結びつける要素といいますか、その基盤になっている要素がやはり政党であり与党であるということでございまして、そうした与党と一体化した政権党が政治の世界に属するわけでございますけれども、それが行政部門を監督している、そのような図式が議院内閣制のモデルとして考えられているのではないかと思います。

 したがいまして、イギリスの場合には、対立といいますか、対峙する関係にありますのが、議会と内閣というよりも、むしろ与党と野党というとらえ方をする方が自然ではないかなと思います。このことは、例えば大陸型の国会、我が国もそうですけれども、その国会の議席のレイアウトとイギリスの議席のレイアウトの違い、それにもあらわれているような気がいたします。

 ただ、もう一言申し上げておきますと、最後に少し触れさせていただく予定でございますけれども、こうしたイギリスのとらえ方というのはかなり伝統的なものでございまして、近年では、内閣総理大臣の位置づけが少し変わってきているというふうに理解しております。

 さて、今申し上げたことを要約いたしますと、議会と内閣の関係を、日本の場合にはかなり別なものとしてとらえられているように思いますけれども、これをむしろ一体として考える余地があるのではないか。そのように考えた場合に、具体的に我が国の内閣制度における問題点がどのようなものか、次にそちらの方の論点に入らせていただきます。

 私自身は、冒頭に申し上げましたように、いろいろな制度の理解の仕方があり得ると思いますし、憲法の許容する範囲内でそれをどう選択するかは、まさに政治的な選択の問題であろうかと思っておりますけれども、これから申し上げますような考え方というものも十分に成り立ち得るのではないかというのが申し上げたいことでございます。

 現在、政治優位、政治主導ということも言われておりますけれども、そのような観点から見た場合には、今までの通説的な考え方よりも、むしろ、今申し上げたような考え方の方が合理的とも言えるのではないか。この辺につきましては、もっと詰めて勉強しなければ答えは出せないところでございますけれども、そういう感触は持っております。

 以下、具体的に、三つの論点について述べさせていただきたいと思います。

 一つは、国会と内閣の関係でございます。

 今申し上げてまいりましたことから御理解いただけると思いますけれども、我が国では、権力分立の観点から、国会と行政府、内閣はいわば対立関係にある、そして抑制・均衡の関係にあるということはよく言われておりますけれども、今申し上げましたように、むしろ両者は一体として、近接性を持っているというふうに理解した方がいいのではないか、することもできるのではないかということでございます。

 内閣総理大臣が国会で指名され、内閣が連帯して国会に対して責任を負うということからも、国会、内閣を両者一体として考えることも可能であり、それが行政各部を監督するという図式が、先ほど申し上げました図でいいますと、左側のAの方になるというふうに考えられます。その場合には、先ほど申し上げましたように、対立関係といいましょうか、いろいろと議論をする関係になりますのは、国会と内閣というよりも、むしろ与党と野党の議会の場である、そういうふうに考えられるのではないかと思うわけでございます。

 このことは、時々聞かれることでございますけれども、例えば与党の側、政権党の側におきます与党と政府の間の二重性であるとか、そこの間の意見の違いであるとか、そういうことが問題になっているように聞いておりますけれども、そうした問題がなぜ生じてくるのかといいますと、やはりそこのところの関係のとらえ方が、両者を別のものとして、そこの間に線を引いているからではないかというふうに思いますし、さらに申し上げますと、与党の方が内閣に対して質問をすることの意味はどういうことなのかということも考えてみる価値があるのではないかと思う次第でございます。

 もちろん、こうした考え方をしていった場合に、解散権というものをどう考えるのか。これはなかなか難しい問題で、必ずしもこうであるというふうに私自身も整理できておりませんけれども、国会の優位といいましょうか、議会は与党を中心として国民から選ばれた機関であるという意味での優位性というものはあり得るというふうに理解できるのではないかと思いますし、そう考えますと、憲法四十一条の「国権の最高機関」という考え方も、そうした理解の方が素直に読めるのではないかと思うわけでございます。

 ただ、この場合、ここから先は私もまだ結論が出ているといいましょうか、十分に考えておりませんけれども、国会というふうに一言で述べましたけれども、今申し上げましたような議院内閣制のシステムに非常にうまく適合いたしますのは、どちらかといいますと衆議院の方でございます。他方で、参議院の方は不信任の権限もありませんし、解散もないということで、この参議院の性格と役割をどのように理解するのかというのは、よくわからないと申しましょうか、最初に使った言い方をしますと、制度の論理というものが必ずしもよく見えてこないような気がいたします。これは既に議論されているところではないかと思います。

 なお、さきの行政改革会議におきましては、さまざまな点の改革を、これまでの制度を大きく変えるという提言をされておりますけれども、国会と内閣の関係については直接触れられておりません、そのように理解しております。

 党派的な政治の世界と異なる行政の世界を前提にして、その中での改革というものをお考えになっていると思いますけれども、その行革会議が触れられなかった理由はわかりませんけれども、私自身は、そうしたものも通してですけれども、どうも、多様な党派から成り立っております政治の世界とは別に、まさに国全体を代表するような公共性というものが実体として存在する、それが行政を支える価値である。別な言い方をしますと、政治的な中立性というふうに言えるのかもしれませんけれども、そうしたイメージないし観念というものが、どうも制度を考えるときに存在しているのではないか、そのような印象も持たないわけではありません。

 さて、二番目の論点に入らせていただきますけれども、これは次のレベルといいましょうか、内閣総理大臣と他の国務大臣との関係でございます。

 内閣については、合議体であるということが強調されておりまして、そして、連帯して責任を負うというふうに説明されているわけでございますけれども、国会で選ばれますのは内閣総理大臣だけであって、内閣の閣僚みんながパッケージとしてその選挙で選ばれるわけでは必ずしもないわけです。内閣総理大臣が各大臣を任命する、そして、その任命された大臣と御一緒に内閣を構成するということになるわけですけれども、その任命関係と内閣の合議制というものをどのように考えるのか、この点につきましてもいろいろと問題があるような気がいたしております。

 自分が任命した者に自分の意見が拘束されるということになるのかどうか。国会で選ばれるのは内閣総理大臣だけでございますので、その内閣総理大臣がみずから任命した閣僚によって合議体として拘束される、この辺につきましては、内閣法の六条で、「閣議にかけて決定した方針に基いて、行政各部を指揮監督する。」ということの問題、あり方として、行革会議でも議論されたところでございます。

 また、さらに申し上げますと、内閣における閣議自体が、事前に調整されたアジェンダについて、全員一致という形で決定が行われているというふうに言われているわけでございまして、そうだといたしますと、全員一致の意味はどういうことなのか。一人でも反対された場合に、その決定をどのようにとらえたらいいのか。

 そこで、行革会議の特に中間報告の方では、たしか、多数決を入れることについても考えるという御意見があったかと記憶しております。その場合、多数決も、内閣総理大臣だけが少数になった場合にはどのように考えるのか、そういう問題も出てくるわけでございまして、基本的には、どのようにお決めになるのかというのはそれぞれの内閣がお決めになる話であって、制度で縛るのはいかがなものかという気もいたしますけれども、いずれにいたしましても、内閣総理大臣と他の大臣の関係というものももう少しはっきりさせた方がいいのではないかなという気がしております。

 その場合、内閣総理大臣の権限を強化するということにつきましては、余りにも強い権力を持ち過ぎるのではないかという意見もあるわけでございますけれども、逆に言いますと、内閣総理大臣だけが国会から選ばれているということでございますので、その辺をどうするのかということにつきましては、幅広くもっと議論をする必要があるのではないかと思っております。

 ちなみに、今次の行政改革では、内閣法の四条で内閣総理大臣の発議権というものが認められるようになったわけでございますけれども、先ほど言いました指揮監督権につきましては、弾力的に運用するという前提のもとで、制度についてはさらに幅広い検討が必要であるという指摘にとどまっているわけでございまして、これはまた、残された論点であろうかと思っております。

 さて、三番目の論点として述べさせていただきたいのが、今度は、大臣と各省行政組織、各省の関係でございます。

 むしろ、行政学という観点からいいますと、先ほども申し上げましたように、政治と行政のインターフェースといいましょうか、接触面はこの部分になるわけでございまして、ここの関係をどうするかということが大変大きな関心事でございます。

 しかしながら、先ほどから何度も申し上げておりますように、我が国の場合には、憲法でいいますと内閣と行政各部、それが一体として行政権というふうなとらえ方をされているために、必ずしもそこのところの違いといいますか区別が国会と内閣ほど強く意識されていないのではないか、そういう気がしないわけではございません。これは、内閣法における問題としましては、主任の大臣という概念であるとかあるいは分担管理という概念、これをどのようにとらえるかということにかかわってくるのではないかと思います。

 分担管理の原則については、それに対する批判的な見解が行政改革会議の最終報告書等でも述べられているところでございますけれども、その分担管理ということの意味を、一体として行うには困難な仕事を分担して行うという組織の基本的な原則として考えるならば、これはある意味で当然のことでございます。

 しかしながら、どうも我が国の分担管理の原則にはもう少し強い意味が込められているように思われるわけでございまして、むしろ、その分担管理の原則によって、それぞれの省の所管する行政事務の範囲が非常に強く、聖域化されていると言うと少し言い過ぎかもしれませんけれども、そうした形でしっかりと確立されている。そのことが、一定の分担管理の範囲内におきましては、事務の円滑な遂行あるいは内部における調整ということを可能にするわけでございますけれども、それを超えた事務の調整というものを非常に困難なものにしている。これが、行革会議でも触れられておりますように、いわゆる総合調整をどのようにやっていくか、それにコストがかかるということが現在のそれぞれの行政組織の問題ではないかというふうに指摘されているところではないかと思います。

 この点に関して申し上げますと、我が国の場合には、これはすべてかどうか確認したわけではございませんのでわかりませんが、多くの先進諸国の中では例外的に、行政組織法定主義というふうに言っておきますけれども、行政組織のかなり細かいあり方についてまで法律で定められているということでございます。具体的に申し上げますと、各省設置法によって決められているということになっているわけでございまして、いわば行政組織の編成のあり方も立法府が決めているということでございます。

 これは、ある意味では、行政に対する立法府、国会の側の一つの統制の手段である、あらわれであるというふうに考えられないこともないわけでございますけれども、先ほどから申し上げておりますように、国会と内閣がもう少し一体的に結びついたものとして考えますと、自分たちが選んだ、信頼を置いている内閣が行政組織をいろいろと改編する、その改革というものに対してかなり厳しい制約を課しているというふうにも理解できるわけでございまして、その意味でいいますと、行政組織を弾力的につくり、そして、それをしばしば変えると言ってはあれですけれども、それをうまく使って政策を実施していく、これはその政権、内閣の責任ではないか。その意味でいいますと、行政組織法定主義というのも一つの、先ほど言いました通説的な考え方のあらわれではないかというふうに思うわけでございます。

 もう一つは、主任の大臣というふうに申し上げましたけれども、大臣は、よく言われておりますように、いわゆる政治の世界に属する国務大臣としての性格と、もう一つは、主任の大臣としての、各省庁の行政組織の長としての性格を持っている。少し言葉は悪いかもしれませんけれども、いわゆる二重人格を持っていらっしゃるわけでして、その部分で、行政に対する政治の統制をうまく働かせるというのが議院内閣制の仕組みではないかと思われるわけでございますけれども、我が国の場合には、行政組織が非常に自律的である、分担管理の原則で自律性を持っているわけでございます。その組織のトップとしての性格、そちらの側面が強く出ますと、今度は、内閣における統合といいましょうか、政治的な一体性というものに制約となるところもあるのではないかという気がいたしております。

 もちろんこれは、そのレベルの話になりますと、個々の政治家の方、個々の大臣、個々の内閣がどのようにそれを運用されるかということによっているわけでございまして、その方がうまくいくケースもあろうかと思いますけれども、今申し上げておりますのは、制度のあり方の問題といたしまして、どのような状況においても、どういう形で内閣あるいは政治状況が展開したといたしましても、それなりにうまくいく仕組み、制度というものを考えなければいけない、そういう観点から見た場合に、今申し上げましたような問題点が指摘できるのではないかと思っております。

 その意味でいいますと、次に出てきますのは、行政改革会議の方でも議論になったところでございますけれども、内閣の機能を強化していく、それによって、それぞれの行政各部、行政省庁の活動に対するコントロールを強化していくという考え方であり、そのための制度をどうするかという話になるわけでございます。

 これにつきましては、先般の行政改革におきまして内閣機能の強化ということが言われ、そして、そのための内閣に属する一つの機関として新たに内閣府というものが設けられました。これは、今私が申し上げておりますような方向での一つの改革であるというふうに思われますけれども、内閣府の性格につきましてはなかなか微妙なところもあろうかなというふうに思っておりまして、果たして、今申し上げました私の区切りでいいますと、政治の世界に属して行政をきちっとコントロールするという意味での組織的な性格が明確に与えられたかといいますと、ここのところはまだ議論の余地があるのではないかと思います。

 ただ、このレベルの組織になりますと、今も触れましたけれども、運用のあり方によってかなりその様相が変わってまいりますので、早計に結論を出してどうこう判断する、評価をするというのは問題があろうかと思いますけれども、そういう問題点をはらんだ形での改革というものが実施されたというふうに認識しております。

 さて、今申し上げてまいりましたこと、時間もありませんので主要なことだけしか申し上げませんでしたけれども、結論として申し上げたいのは、我が国の場合に、内閣をどう考えるかということもございますけれども、やはり政治部門の範囲をしっかりさせる必要があるのではないかということでございまして、そのためには、国会と内閣の関係をもう少しきちっとしておく、それと同時に、行政との関係をもう少しこれも別な意味ではっきりさせるということでございます。

 今のままですと、どうも内閣自体が行政の中に取り込まれているわけでして、そのことが、立法府によるさまざまな法規制もありますけれども、内閣の活動、そちらの持っております政治的なダイナミズムをむしろ制約しているのではないか、そのような気がいたしているわけでございまして、政治主導という観点から見ても、もう少し内閣がそのダイナミズムを発揮できるような形での制度というものを考えてもいいのではないか。

 そして、今申し上げましたような筋からいいますと、現在の憲法の中でもかなりそうした形での制度というものをつくることが可能ではないかと思っております。

 ただ、ここで一言申し上げておきますと、政治の優位ないし政治の主導ということを、そういう観点からどのようなことが考えられるかということを申し上げてまいりましたけれども、現代国家におきまして、行政がけしからぬとか、行政が権力を持ち過ぎているということを言うつもりは必ずしもございません。現代国家におきましては、非常に社会が複雑になっておりますし、先ほども申し上げましたように、行政の専門性というのは非常に高まってきております。

 こうした高度の専門性を担い、そしてそれに対してきちっとした政策の提言をする、そのためには優秀な官僚機構というものは必要であろうというふうに思います。むしろ、そうした優秀な官僚機構をどのように政策の場に政治が使っていくのか、それがうまくできるような制度というものを考えるべきではないかということでございまして、現在の場合には、立法と行政というその区切り方が、どうもその使い方というものを、十分な能力を発揮させないようになっているのではないか。一つの考え方としては、それを遮断している神話といいましょうか考え方として、やはり立法と行政の区別、権力分立、そして政治的中立性、これは要らないというものではございませんけれども、そのとらえ方をもう少し柔軟に考える必要があるのではないか、そういうふうに思う次第でございます。

 さて、時間がなくなってまいりましたので、あとは少し簡単にお話しさせていただきたいと思います。

 それでは、今のような内閣といいましょうか、我が国の統治構造の考え方がどこから来たのか。これは、これからどう考えるかである以上、それほど問題でないのかもしれませんけれども、一言触れさせていただきますと、やはり明治憲法下における天皇の行政権、統治権と帝国議会の関係、そのモデル、これ自体は我が国固有のものではなくて、先ほど申し上げましたように、ヨーロッパ、大陸系の国で君主と議会の関係にかなり近いものがあると思いますけれども、こうした図式がそのまま戦後も引き継がれたのではないか、そういう気がいたしております。

 戦後の場合には、確かに現在の憲法ができました。そして、申し上げてまいりましたように、現在の憲法ではいろいろな形での制度の設計の余地があったのではないかと思いますけれども、それが今のような形で定着してまいりましたのは、やはりそこに議会と行政府という二項関係、二元的な関係というものが、どうも、我が国のそのときの制度をつくった方の頭の中に、あるいは国民の意識の中にあったのではないかと思うわけでございます。

 そして、それをある意味できれいに説明するといいましょうか、サポートするような理屈が、やはりアメリカ的な権力分立のあり方、考え方ではないかなと思っております。

 アメリカ的な権力の分立、アメリカの大統領制というのは、これは、大統領制をしいている国は世界でたくさんございますけれども、かなり例外に属するのではないかなと思っておりまして、確かに権力分立の考え方、それはそれなりに意味を持っておりますし、我が国においてもそういう原則に従って制度の設計を考えていくことは必要であると思いますけれども、アメリカ型の権力分立だけが絶対的なものでは必ずしもないのではないか。むしろ、議院内閣制と言われながら、権力分立と言われておりますけれども、イギリスの場合に、本当に同じような意味でそれが使われているのかどうか、私もよく存じませんけれども、必ずしもそうではないような気がいたしております。

 そういった意味で、戦前の発想、呪縛と言いますとちょっと強過ぎるかもしれませんけれども、それが継承されてきているということはしっかりと認識しておく必要があるのではないかというふうに考えております。

 さて、時間が残り少なくなりましたので、最後に、内閣制度の変化ということで、今議論になっております首相公選制について少し触れさせていただきたいと思います。

 首相公選制については、私としましては、ほとんどこれまで考えたこともなかったわけでございますし、問題そのものが唐突に最近出てきたので非常に戸惑っております。

 しかしながら、首相公選制をサポートするような流れがこれまでなかったかというと、必ずしもないわけではないと思います。どういうことかといいますと、やはり内閣総理大臣のあり方、国民にとっての受けとめ方が、特に二十世紀の後半になって大きく変わってきたということです。

 二つ理由があると思いますけれども、一つは対外的な関係であって、非常に国際関係の密度が高くなってくる。そして、即座にといいましょうか、緊急にその国の考えないし意見を決めなければならない、表明しなければいけない。特に、その国の顔というものが必要になってくる。そういう場合において、どうしても、内閣総理大臣の地位、それの対外的な顔、日本を代表するという意味でのとらえ方というものが強調されてきたのではないかということです。

 もう一点は、やはりこれはマスメディアの影響だと思います。かつてはどうだったか知りませんけれども、内閣総理大臣が何を言うか、どうしているかということが余り国民の目に触れることはなかったのではないかと思います。テレビの時代、さらに申し上げますとインターネットの時代になり、一挙手一投足が国民の目にさらされる。それについて、必ずしも政治的な考えだけではなしに、さまざまな面から国民がコメントをする。

 このことは二つあるわけでございまして、一つは、そういった意味でいいますと、国民は、総理大臣が非常に重要な人物だと、実際以上に政治的に重要な存在としてとらえるようになるのではないか。だから、そういう人たちは、自分たちが選ぶことがいいのではないか、選びたいという意識が出てくるかと思います。

 また、内閣総理大臣の方も、今までは議会をベースにして選出されていたのかもしれませんけれども、まさに国民の支持率がみずからの正当性といいましょうか、力に結びついてくるということになりますと、そちらの国民の直接の支持というものに総理大臣の側も非常に関心を持つ。その両者が結びついたときに、やはり首相公選制という主張が出てくるのではないかなと思っております。

 これは首相公選に限らず、このメディアの持つ力で出てまいりましたのは、最近で申し上げますと、住民投票制度創設の要求というのも同じような流れではないかなという気がいたしております。国民が主権者として、自分たちでこれを決めたい、決めさせてほしい、そういう要求が非常に強くなってきたのではないかと思います。

 それ自体、民主主義の観点から批判すべきことではないとは思いますけれども、ただ、非常に多くの情報の中で、確かに国民の判断というものは正しく、また判断能力が高まっている、こういう言い方をしては失礼かもしれませんけれども、そのように考えるといたしましても、限られた時間の中で大量の情報を正確に把握して複雑な問題を理解した上でどう判断するのか、これはなかなか難しいところではないかと思います。

 そこで、具体的に首相公選制について最後に触れさせていただきますけれども、今まで申し上げてきた流れの中から、むしろ私自身は、議会と内閣は政治部門としてある意味でもう少し緊密性、一体性を持った方がいいのではないか、そういう考え方を持っておりますので、議会とは別な正当性根拠を持たせることになる首相公選制については、必ずしも積極的な考え方は持っておりません。ただ、これはまだ十分勉強しておりませんので、最終的にそういうふうに判断というところまで行くかどうかわかりませんけれども、今はそう考えております。

 それにつきましても、首相公選制の場合にはいろいろな問題が存在していると思います。例えば、選出する場合でも、相対多数で、複数の候補の中から一番得票をとった人が首相になっていいのか、あるいは、ある国の大統領選挙に見られますように、かなりフィクションを使っても、過半数をとるまで複数回選挙をする、それによってより正当性を高めるという制度もあり得るわけでございまして、どういう形をとるのか。また、これは憲法改正が必要だと思っておりますけれども、アメリカであるとかフランス、ドイツ、いろいろな国で大統領制を持っておりますけれども、議院内閣制と大統領制を組み合わせたような制度もございますので、それらをどういうふうに考えるのかということにつきましては、もっと情報を集めて真剣に、慎重に検討する必要があるのではないかと思っております。

 ただ一点、やはりどうも難しいのではないかと思いますのは、国民が選挙によって選ぶということはかなり可能かもしれませんけれども、政治的なリーダーの存在をできるだけ民意に沿った形にしておくためには、どういうときにやめさせることができるのか、ちょっと表現は悪いかもしれませんけれども、その制度についても一緒に考えなければならないのではないかと思っております。近くアジアの国で大統領を弾劾するというケースが複数回ございましたけれども、それを見ておりましても、やめさせることが非常に難しいという制度はそれなりに別の問題を持っているのではないか。もちろん、これもいろいろ考えてその問題点をクリアできるのかもしれませんけれども、それにつきましては、もう少し勉強してから私として考えをまとめていきたいと思っております。

 少し時間をオーバーいたしましたが、以上でございます。どうもありがとうございました。(拍手)

中山会長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。

 速記をとめてください。

    〔速記中止〕

中山会長 速記を起こしてください。

    ―――――――――――――

中山会長 これより参考人に対する質疑を行います。

 まず、調査会を代表いたしまして私から総括的な質疑を行い、その後、委員からの質疑を行います。

 それでは、ただいまからお伺いさせていただきます。

 まず、先生のお手元に既にお届けしておりますけれども、日本の天皇は、日本国及び日本国民統合の象徴として、外交官の認証、外交使節の接受等を行う行為はなされておりますけれども、国政に関する権能は有しておられないものとしています。一方、国民の選挙で選ばれたアメリカのブッシュ大統領、フランスのシラク大統領などは、国家元首として国政を担当し外交活動を活発に行っております。我が国に首相公選制を導入した場合に、国民の選挙で選ばれた首相が国家元首になるというものも出てくると思われますが、これについてまずどういうふうにお考えでしょうか、お答えを願いたいと思います。

森田参考人 今のは公選で選ばれた首相の地位と憲法上に定める天皇の地位との関係はどうかという御質問だというふうに理解いたしましたけれども、憲法における天皇制の問題、あるいは我が国の統治構造のもとにおける天皇制、天皇の地位の位置づけというのは大変難しい問題でございまして、憲法学の方でどのように議論されているのか私も詳細は存じておりませんし、また、これについてどう考えたらいいのか、私自身も明快な回答は持っておりません。

 しかしながら、私自身現段階で思いますところでは、一つは、天皇の地位というのは象徴的なものでございまして、天皇の持っております地位の正当性と申しますのは、憲法にあらわされましたまさに国民の総意に基づくものというふうに考えられますし、他方、公選でもし選ばれたといたしますと、その総理大臣の持つ正当性というのは、具体的な状況における国民の、総体的かどうかは知りませんけれども多数の支持に基づく。これはまさに象徴的な機能と実質的な機能というものが抵触するのかどうか、両立する可能性もあり得るのではないかなというふうに思っております。

 ただ、今も御質問の中にございましたけれども、選挙で選ばれたアメリカの大統領の場合には、いわゆる機能的な意味における国の代表、リーダーという意味だけではなくて、むしろ国をあらわすという意味での尊厳といいましょうか、ウォルター・バジョットの言い方を使いますとディグニファイドパーツという部分に当たるわけですけれども、そうした役割も担っているところがあろうかと思いまして、それをもし公選で選ばれた総理大臣も持つということになりますと、その関係というのは少し微妙なものになるのかなという気がいたしております。

 ただ、これは制度的に公選の首相をどのように位置づけるかということにもかかわってくるわけでございまして、絶対的にそれが抵触するかどうかということについては必ずしもそうではないのではないか。では、どうすれば両立し得るのかということにつきましては、現段階では私はちょっと明確な考えを持ち合わせておりません。

 以上でよろしゅうございますでしょうか。

中山会長 ありがとうございます。

 もう一問お尋ねしたいと思います。

 首相公選制をやった場合に、国民の直接投票で首相が決まるわけでございますから、議会によって、首相を不信任決議案を出して罷免することができなくなると私は考えております。そういった場合の議会の対応をどうするのか。また、公選で選ばれた首相が議会から内閣の閣僚を選ぶ場合に、一体性というもの、内閣は一体として国会に責任を負う、この憲法上の規定と相矛盾するところが出てくるのではないか、このように考えておりますけれども、これについての先生のお考えをお伺いさせていただいて、私の質問を終わりたいと思います。

森田参考人 お答えいたします。

 その点につきましても、議会と公選で選ばれた内閣総理大臣の関係は大変難しゅうございますし、いろいろな条件によって変わってくるのではないかと思います。

 いずれにしましても、内閣総理大臣の存在自体が議会以外のところにその正当性の根拠を持つということですので、二元的な代表関係になるわけでございます。その場合に、両方を選ぶ国民の意思が一致しておりまして、同じ考え方、同じ政策の人を両者で選ぶとしますと問題はないわけでございますけれども、問題になりますのは両者がずれた場合、わかりやすく言いますと、少数与党の形で議会ができた場合にどうなるかということだと思います。これにつきましては、いろいろな可能性があろうかと思います。今、不信任ができないのではないかというお話がございましたけれども、考え方によってはそういう制度もないわけではないと思われます。

 両者の関係について簡単に論理的な可能性を考えますと、全く対等な場合と、首相の方が議会よりも優位に立ち得る場合、両者を調整しなければなりませんので、どちらかが優位な最終的な決定になるという形をとる場合、そして、議会の方をむしろ逆に優位にする場合、論理的にその三つの可能性があると思います。

 両者が純粋に対等な場合というのは、権力分立の観点からいいますと、集中させないという意味ではいいわけですけれども、両者の意見が対立して、それが譲り合わない場合には、これはいわゆるデッドロック状態になりまして、国政に停滞を生じるということにもなりかねません。これが非常に難しいところでして、次第に両者が妥協し、歩み寄るというようなメカニズムがあればいいわけですけれども、制度的にそういうものはなかなか考えにくいのかもしれません。

 具体例で申し上げますと、そうした形での権力分立というものをとっておりますのは、恐らくアメリカ合衆国だけではないかと思います。かの国の場合には、いろいろな地理的な条件もございますし、かなりデッドロック状態があったとしても、粘り強く妥協点を探していくような政治的な習熟というものが今日ではできているのであの国の制度は動いているかなという気がしますけれども、ほかの国がそのまま採用できるかどうかは別の問題でございます。

 次に、首相の方が優位というのはどういうのがあるかわかりませんけれども、首相ではございませんけれども、我が国における地方公共団体の首長、知事、市町村長とそれぞれの議会の関係は、ある意味でいいますと、長の方が優位に立つ関係ではないかと思います、こちらでは不信任と解散が置かれているわけでございますけれども。逆に、この場合には、少数与党になった場合には、野党の多数党の方もそれほど大きな力を発揮できないという現象があらわれてくるのではないかなと思います。

 当然のことですけれども、総理大臣の方が何らかの意味で強い地位に立つとしますと、相当大きな権力を持つわけですから、独裁化というのはちょっと言い過ぎかもしれませんけれども、よく言われているように多大な権力を持ち過ぎてしまうという危険がある。こういう場合に、もしその人がふさわしくない場合にどういう形でやめさせるのかというのが大変難しい問題になろうかと思います。

 他方、今度は、議会が優位の場合はどうかといいますと、これは、実際にリーダーシップを得て国民から選ばれた総理大臣なわけでございますけれども、その総理大臣は議会に対してかなり気を使わなければいけない、そのことがリーダーシップの発揮をかなり妨げることになるのではないかと思っております。

 これにつきましては、にわか勉強でございますけれども、資料をいただきまして少し見てまいりましたけれども、イスラエルの首相公選制はこの形ではないかな、議会優位の首相公選制ではなかったかなという気がしております。かの国の場合には、かなり自立的な少数政党がたくさんあるという政治情勢のもとで、しかも、比例代表制を採用したのが、この仕組みがうまくいかなかった原因のように言われております。

 いずれにいたしましても、百二十人の議会のうち、六十人で不信任で、八十人で罷免ですか、数はちょっと正確に覚えておりませんけれども、そうした形で議会が力を持っているところでは、公選首相の場合には、議会に正当性の根拠を持っていないだけにかえってリーダーシップを発揮しにくくてよくない結果になってしまったのではないか、これがイスラエルではないかと思っております。

 結論といたしましては、なかなかベストの答えというものはないわけでございますし、私自身は、冒頭に申し上げましたように、そういうこともございまして余り首相公選制については積極的な考え方は持っておりません。

 以上でよろしゅうございますでしょうか。

中山会長 ありがとうございました。

 以上をもちまして私の質疑は終わります。

 次に、質疑の申し出がございますので、順次これを許します。坂井隆憲君。

坂井委員 自由民主党の坂井隆憲でございます。

 ただいま先生の方から、イギリスの議院内閣制、議会と行政の対立よりも、与党と野党という形のことを言われました。ちょうど先生は地方分権、地方自治制度についても御専門でありますので、その点でもちょっとお聞きしたいと思います。

 イギリスの場合は、御承知のように自治体の長というのは間接公選ですから、政党に入っておかないと大体トップになれない。中央の政党の力が非常に強くて、地方自治体は、いわゆる包括的な権限を与える包括権限付与方式と制限的な権限を与える付与方式とありますが、イギリスの場合、どちらかというと制限的に渡されている。ですから、そういう意味で、政党に入るのが当たり前になっているのがイギリスの場合です。

 日本の場合は、御案内のとおり、県も市町村長も選挙で選ばれますし、そして予算の編成権が行政権にあります。しかし、一般的には、大統領制のもとでは行政府が予算編成権を持つのは本当はおかしいんですけれども、日本の場合は、地方自治体は行政権が予算編成権を持って、議会も選挙で選ばれますが、それをいわば監査するといいますか、チェックするといいますか、ひどい話になると、自分の地域に予算をもらいたいというような陳情だけに終わってしまっているというのが実態のような感じがします。

 そうなりますと、全国の地方自治体を見ても、大体、県市町村議員というのは政党に所属しない方が得だという形で、特に町村議員ほどそうですが、無党派になりやすい。その場合には、地方がそういうことですから、どうしても国と地方を結ぶパイプがなくなっていきます。これから地方分権がどんどん進んでいくときに、地方分権を進めるのはいいんですが、どういう形で国と地方を結んでいくことを考えればいいのか。

 例えば、御案内のとおり、ヨーロッパではパリ市長を国会議員が兼ねるというケースもありますし、あるいは、昔、日本でも東京都議会議員が国会議員を兼ねるということもありました。あるいは、地方に国のいろいろな出先機関をつくって、相互牽制し合うという形でのパイプもありました。

 そういう意味で、これからどういう形がいいのか。これは、憲法の九十三条上の地方自治体のトップをどういうふうに選ぶかということにも絡んできます。これは、御案内のとおり、GHQが直接選挙を推奨し、当時、内務省はどちらかというと間接選挙だったわけですが、その辺について、地方分権の絡みの中で政党等の話も出ましたので、御意見を伺いたいと思います。

森田参考人 お答えいたします。

 今、我が国における地方公共団体の制度と、特に国との関係、あるいはその内部における行政機構のお話だったと思います。

 論点は二つあると思いまして、一つは、国との関係で地方自治体はどうなのかということと、もう一つは、地方公共団体の内部における首長と議会の関係をどうするかという点に分けられるかと思います。

 前者について申し上げますと、現在、地方分権改革推進会議の方でそのことを検討しておりますけれども、前にございました地方分権推進委員会の方で行いましたのは、国と地方の関係といいましても、幾つかのパイプといいますか、幾つかの側面があるわけでございまして、国が地方に対して何らかの統制を行う、それを排除するのが地方分権ということになるわけですけれども、国が地方に対してかかわるかかわり方としましては、一つは事務権限をどれくらい与えるかということ、もう一つは財源をどれくらい与えるかということ、三番目は、事務権限、財源を与えたとしても、事務の遂行の仕方についてどれくらい国が統制を及ぼすかということ、さらに第四点目を挙げますと、地方で働く公務員の人たちの人事をどこがどういうふうな形で行うのかということかと思います。

 我が国の分権改革、地方分権推進委員会の勧告が制度化される前の段階で申し上げますと、少なくとも人に関して言いますと、ごく一部を除きましては、地方は自律的な人事を行う。もちろん、実質的には中央の方も随分地方へ行かれておりますけれども、制度上は別になっている。そして、仕事の配分の面につきましても、地方の方には相当量の仕事が行っている、事務権限が移っている。

 そして、問題になりますのは、財源の点で、地方が十分にそれを行うだけの自主財源を持っていないのではないかという論点、そして最後の点が、国が地方の仕事の仕方について関与をかなりしている、介入をしているということでございまして、我が国の場合には、分権改革におきましては、その関与の部分をなくすというのが機関委任事務制度の廃止に象徴的にあらわれているわけですけれども、改革の眼目になりました。

 ただ、問題になりますのは財政面の改革で、それは前の分権推進委員会では十分な改革は行えなかったというので、現在課題になっているところでございますけれども、私自身は、国と地方の関係は、そうした意味でいいますと、きちっとした自主財源でもって、みずからの権限をみずから雇う公務員でもってできるという形に切り分けていくというのが分権後のあり方ではないかなというふうに思っております。

 ただ、現実の問題といたしましては、グローバライゼーションでありませんけれども、これだけ国内においても自治体の境界を越えた移動というものが多くなってまいりました。さらに申し上げますと、都市化に伴いまして農村部と都市部の格差が非常に大きくなってまいりますと、完全な完結的な自治体というものを制度的につくったといたしましても、それが実際に機能するような形で動かしていく、支えていくというのはなかなか難しいのではないか、その辺の制度のあり方が現在検討されているところではないかと思います。

 二点目の、先ほど、イギリスの地方の場合には首長は間接選挙で選ばれる。我が国でもそういうのがあった。また、外国におきましては、国会議員の兼任というのがあるというふうなお話でございました。

 この兼任の問題につきまして初めに申し上げておきますと、これはどういう制度がいいのかわかりません。我が国は少しあったと聞いておりますけれども、現在、恐らく世界の中でも行われているのはフランスだけではないかと思いますけれども、この仕組みが本当にうまくいくのかどうか、首相と首長と兼ねて首長の仕事が本当にきちっとできるのかどうかということも含めてですけれども、難しいところがありまして、それについては明確にちょっとお答えいたしかねます。

 もう一つ、間接選挙ではどうかということですけれども、これは我が国の場合も可能性としてはあり得ると思いますし、分権推進委員会の最終報告、本年の六月に出ましたけれども、その最終報告の中では、それぞれの自治体の中でどのような行政組織を編成するか、その地方行政組織の編成権自体が地方自治のかなり重要な権限ではないかと。

 そういう意味でいいますと、それを一律に地方自治法なりなんなりで法律で縛るという制度、これを見直す必要があるのではないかという提言もしているわけでございまして、この点につきましては、私はそうした方向で、例えばアメリカに見られますようなチャーター制度もそうですけれども、検討に値するのではないかと思っております。

 ただ、その場合に、よく言われますのは、今議員も御指摘になりましたけれども、憲法九十三条の問題があるのではないかということですけれども、これは、必ずしも別々に公選で選べというところまで言っているのかどうかということについては、読み方の問題があるのではないかと思います。私は、間接であるにせよ、少なくとも上からの任命制でない以上は、かなり広く考える余地があるのではないかとも考えております。

 ただ、これにつきましては、法律の専門の先生方は必ずしもそうではないという御意見もあるようでございまして、現時点ではその程度しかお答えできないというところでございますが、よろしゅうございますでしょうか。

坂井委員 ありがとうございました。

 いずれにしても、党と党との形ということにするためには、やはり地方までそういう形にしていかないと、なかなか難しいと思います。

 そこで、地方の問題と関連するかもしれませんが、政治とは何かというと、基本的には、よく言われているのは、希少資源の権力的配分ということがよく政治権力として定義されているわけでありますが、そのときに、どういう形で配分していくかということが政治のかなめです。

 日本の行政組織を見ますと、いろいろな審議会があります。その審議会が、見ていますと、いろいろな形態がありまして、例えば、議を経なければいけないという審議会もあります。それから、意見を聞くものとするというものもあります。その構成も、例えば使用者側と労働者側みたいな形で、相対立するところが一緒の審議会になっていることがかなり多いわけです。

 そういう意味で、審議会というのがいわば権力調整の場になっている。各省庁に置いてある審議会が権力調整の場になっているとすれば、結論が出た後にそれぞれの政党が意見を出すということは、中立的にまとまった意見を壊すものだというようなイメージになってしまう。すなわち、行政主導というものがそこで崩せなくなるんですよ。

 審議会も、いろいろ見ていますと、例えば地方制度調査会みたいに、法律で国会議員をメンバーの中に入れるというものもあります。ただ、ほとんどの場合は国会議員が入っていません。

 私は、これからの政治主導をしていくためには、そういう審議会の中に与党の国会議員をぴしっと位置づける。それによってぴしっとしていかないと責任がはっきりしないし、行政主導のままになる審議会だと思っていますが、この審議会のあり方についてどういうふうに思われるか、御意見を伺いたい。

森田参考人 お答えいたします。

 今お話しになったところで、審議会のあり方、その政治的な機能の問題であろうかと思います。これにつきまして二点申し上げたいと思います。

 一点目は、最初から申し上げましたように、審議会が公正に、公共的な利益をといいましょうか、公共性を追求して一つの答えを出して、それに対して政党が物を言うのはいわば部分的な利益であるというお話ございましたけれども、これは、先ほど申し上げましたように、日本の行政についての一つの考え方は、実体としての公共性、公共的な利益というものが存在し、それが行政機関によってあらわされるというイメージでありまして、さまざまな政治的なやりとり、今、希少資源の権力的な配分というふうなお話ございましたけれども、さまざまな議論の結果出たものが公共的な利益というとらえ方とは少し違っているのではないかと思います。

 後者の方が政治的な場であり、前者の方が行政の公共的な利益である。前者の方が、ある意味で、本当の公共的な利益という考え方が少し我々の意識の中にあるのかなということで、その点の問題からいいますと、別な形での公共性というものを政治が主張されるというのは、別に、私自身は、それは問題はないのではないかというふうに考えます。

 二番目に、審議会に対する国会議員の参加の問題でございますけれども、これは審議会の性格づけがどういうものかということにもよると思います。

 審議会はあくまでも審議する機関でありますから、さまざまな意見を持っている人あるいは利益の代表の方が集まって、そこで合意できるような一つの見解を出す。そして、それを一つの案として国会ないし正式の決定の場に送って、それを素材にして国会で法律をつくられるなり決定を行われる。ということになりますと、そもそも、公正中立にといいますか、前提の段階でそれぞれ専門家なり関係者の方が議論されている場に、後の決定に参加される、後の決定の場のメンバーである方が加わるというのは、それはどういうことなのかなという問題も出てまいります。

 しかし、そうではなしに、あわせた形で、いろいろな形、その中には法律をつくる国会議員の方も入ったところで一つの考え方を出す、そこでいい知恵を出す場と考えますと、お入りになるということにそれなりの理由もあるのかなという気がしております。

 これは、審議会をどういうふうに性格づけるのか、そして、それをどういう位置づけにするのかということにかかわってくると思いますけれども、私自身は、どちらかといいますと、審議会は、正式な政策決定の場と離れたところで議論をする場としておいた方がいいのではないかなという気がしないではありません。

 以上でございます。

坂井委員 審議会の役割は私も認めますが、例えば日経連の代表の人と、連合の代表の人と、第三者、中立的な学者が入ってもし意見が決まったとしたときに、やはりそれは、そこで合意を形成されたという話になってしまうんですね。ですから、本来はそれぞれの政党を支持している団体がそれぞれの政党に意見を具申し、そこで調整するというのが本当の政党間の問題になってくるわけです。

 それが必ずしもいいとか悪いとか言っているんじゃなくて、それを政治主導、政党同士の話ということにしていく場合に、行政主導でないという形にしていく場合に、どういう形がいいのか。本当は、そういう第三者の人たちも入って与党と野党との間で調整していく形の方が好ましいのかな。そういう意味で、審議会というあり方も、内閣、政治主導ということを考えた場合に、見直していかないといけないのかなという個人的な感じがするわけであります。

 ちょっと時間がありませんので、そのほかの議題に移りますが、さっきの市町村合併の絡みの話の中で、地方分権の話の中で、戦後すぐは、教育委員会を含めて独立行政委員会が非常に多くできました。教育長も当時は教育委員の互選で決まっていたわけです。

 恐らくこれから、二十一世紀、どんどん市町村合併が進んでいってかなり広域化されていくときに、どういうように基礎的なコミュニティーをつくっていくかということが議論になっていきます。

 それは、今総務省でも議論を始められているところでありますが、学校が土曜日休みになっているときに、最近は、学校教育、社会教育のほかに地域教育という言葉が出てきました。その場合に、中学校区なりそういう校区単位に、どういうようにボランティア活動を含めてやっていくかということが重要な問題になってきますので、独立行政委員会方式の行政単位というものがこれからまた改めて議論されるときに来ているんじゃないのかな。戦後すぐはちょっと難しかったんですが、アメリカの地方自治体というのは、基本的に行政委員会スタイルで権力の分散を図っているわけですね。その辺についての先生の御意見を伺いたいと思います。

森田参考人 お答えいたします。

 日本の行政委員会制度につきましては、今もお話ございましたように、戦後の改革時期には、特にアメリカの示唆もございまして、たくさんつくられました。ただ、その中には純粋なアメリカモデルのものと、あるいは日本的な、いわゆる一元的にやるのが望ましくないと日本で判断したものと、あるいはまた、今もございましたけれども、労使協調とか利害調整の場として機能させるようにした方がいいのではないかと。最近、そういう研究が出始めたわけでありますけれども、いろいろな形があるわけでございまして、一概に独立行政委員会というのはこうあるべしというふうにはなかなか言えないように思います。

 ただ、これからは、その独立委員会制度のあり方というものをもう少し生かしていく、特に、今もお話ございましたように、地方自治体のコミュニティーレベルにおいてさまざまな方の参加を奨励するという意味では、この制度のあり方というものは非常に重要になってくるのではないかと思います。

 ただ、現在の教育委員会もそうですけれども、今度は、市町村長あるいは知事との関係をどうするか、議会との関係をどうするか。これにつきましては、もう少し、問題点を整理して、きちっと考えていく必要があるのではないかな、そこは問題であろうかというふうに思っております。

 よろしいでしょうか。

坂井委員 それでは次に、先生は今、首相公選の絡みに関連してマスコミの話をされましたけれども、私は内閣府の副大臣をやっていまして、政府広報を担当していたんですが、政府広報と、内閣官房広報官というのができました。それから、総務省は情報公開法を担当していまして、行政情報をどうするかということをやっているんです。例えば、こういう憲法論議なんかでも、政府としてどこの部署でこういうものの論点整理を広報するかという場がないんです。

 私は、それを内閣府の政府広報担当でやろうと思ったんですが、なかなか時間がなくてできなかったんですけれども、情報をどういうふうに国民に一元化して示すかといったときに、総務省の行政情報部門、あそこで今全部やっているんですね。それからもう一つは政府広報、あと内閣官房広報、このあたりがばらばらになっていまして、情報の収集、そして情報のポータルサイトの国民への提示の仕方、そういうものが非常にばらばらな感じがいたしますが、今回の省庁再編の姿として、個人的にはちょっと疑問に思っているんですが、もし先生の御意見ありましたら教えてください。

森田参考人 お答えいたします。

 今おっしゃった政府広報というようなものは、そのときの内閣、政権が、国民に対してあるいは外国に対して発するメッセージだと思います。そういう意味で、きちっと責任ある対応をするということであれば、やはり内閣が、あるいは内閣のもとにある機関が行うというのが、先ほどから申し上げてまいりました私の考え方からすれば、筋ではないかなと思います。

 しかしながら、内閣の中の組織、あるいは内閣の所轄しております各省庁にどういう事務を割り振るかということ、これ自体も、ある意味でいいますと内閣が決定されることであろうと思われますので、そうだといたしますと、そうした仕事をそれぞれ分担管理するということはあり得るかと思います。

 ただ、今それが、どちらかといいますと、それぞれの内閣でその判断をし決定するということができない、法律によって縛られている。その状況は、先ほど申し上げましたように、少し問題があるのではないかというふうに考える次第でございます。

坂井委員 では、もう時間が来ましたので、これで終わらせていただきます。ありがとうございました。

中山会長 筒井信隆君。

筒井委員 民主党の筒井信隆でございます。

 先生、今、行政制度、官僚制度、特に内閣制度についての意見を述べていただきました。これらの制度、いずれも、明治以来百年を過ぎて、戦後五十年を過ぎて、現実との乖離が生じている。制度的にもう疲労に陥っている、行き詰まっているというふうに思うわけでして、だからまた、これらの制度、システムそのものを根本から変える構造改革が必要である。

 ただ、その際に、こういう旧制度あるいは現行制度によって利益を受けている人たちがやはり改革に反対をする。私は、これらの制度について言えば、省庁、官僚あるいは族議員、あるいは特定業界がそういう人たちだと思いますし、さらには、これらの制度で現状に満足している人たち、こういう人たちがそういう抜本的な改革にやはり抵抗を示す。こういうことについてのお考えと、それから、ことしの一月から行政改革が実施に移されました。この既に実施されました行政改革も、やはりそういう抵抗勢力との妥協の産物の最たるものじゃないかと思うんです。だから、ことしの一月一日から始まりました改革で行政改革は終わったわけでは全くない。これからさらにもっと抜本的な改革が必要だというふうに考えるんですが、それについての御意見もお聞かせください。

森田参考人 お答えいたします。

 まず最初に、制度が現実と乖離してまいりまして制度を変えようという場合に、現在の制度でさまざまな利益を持っていらっしゃる方、あるいはそれになれていらっしゃる方が改革に対して抵抗するというのは、確かにそのとおりだと思います。したがって、いずれの改革も、歴史上行われました行政改革というものも、やはり相当大変な努力をしてそれをなし遂げられたのではないかと思っております。

 それでは、具体的にどのような形でやればできるのかということについては、これはそれぞれの状況によって違っておりますけれども、私が、あるとき行政改革の先行しております国へ行ってお話を伺ったときに聞いた話は、やはり、ある程度多くの方が今のままではいけないという認識をお持ちになるという社会情勢と、もう一つは、それをきっかけに一つの改革の方法を明確に示してそれに引っ張っていく政治的なリーダーシップ、その二つの条件がそろわないと、社会的な情勢が煮詰まらないところで強いリーダーシップがあってもなかなか改革はうまくいかないし、また、そのリーダーシップがないと、みんなが何とかしなければいかぬと思ってもなかなか改革が進まないのではないか。

 ただ、社会情勢にいたしましても、政治的リーダーシップにしましても、これをつくろうと思ってつくれるものではないわけでして、ある意味でいいますと、リーダーシップの方は意識的にある程度つくることはできるのかもしれませんけれども、社会情勢については認識の問題でもあろうかと思いますし、それをどのようにやっていくかということにつきましては、私は、現時点ではこうすればいいという方法はちょっとお話しできません。申しわけございません。

 現在の行政改革ですけれども、今進行しているものはまたこれからの課題になるかと思いますけれども、ことしの一月から制度が変わりましたけれども、おっしゃるように、その段階でもさまざまな政治的な妥協といいましょうか、いろいろな形で合意に達したところであの形ができているものだと思います。そういう意味でいいますと、冒頭に申し上げました制度の論理というものを考えた場合に、必ずしもそれが貫かれていないという部分は幾つかあろうかと思います。

 先ほども報告で少し触れさせていただきましたのは、一つは、内閣府の性格が非常にあいまいになったのではないかな。内閣府というのは内閣の機関であって、各省の上に立ち、それを、ある意味でいいますとコントロールし、管理するような機能を持つ役所として位置づけられるべきではないか。これが、例えばアメリカの大統領府なんかはそういう性格を持っているのではないかなと思われるわけですけれども、我が国の内閣府の場合には、知恵の場という位置づけがされたり、あるいはかなりの実施事務を持たれた。さらには、その実施機関であるところの外局もそこに帰属しているという意味でいいますと、これからの内閣府をどのような形で運用していくのか、そこにこれからの改革のあり方、その成果というものの示し方が出てくるのではないかな、かように思っております。

 同じような問題は、先ほどちょっと情報のことでございましたけれども、総務省の方にもあろうかと思います。

筒井委員 憲法四十一条の、国会は国権の最高機関であるという条項についても触れられました。

 ここで、国会と内閣の関係について、先生のお考え、ほぼはっきり言われたと思うんですが、両者一体の中で実質的に議会が優位に立っていると先生は考えられているという先ほどの御意見だったと思うんですが、私もそれは賛成でございます。

 ただ、どうも多くの考え方は、先生が言われた美称説ですか、あるいは政治的宣言説とでもいいますか、単なる政治的宣言にすぎないというふうな考え方が多いようでございますが、それは間違いだと私は思います。

 しかし、その間違いの考え方に基づいて現在の内閣法とかいろいろな行政関係の法律ができ上がっているんではないか。その点についての確認と、とすれば、現在のそういう間違った考え方に基づいた内閣法等々のいろいろな法律改正、改革、これもやはり必要なんではないですか。この点について御意見をお聞かせください。

森田参考人 あらかじめ申し上げておきますけれども、美称説に関して言いますと、私はもう少し素直に読んでもいいのではないかという考え方をお示ししたわけでございますけれども、両者の関係において、国会の方が内閣よりも完全に優位であるというところまで申し上げたつもりではございません。ちょっと限られた時間で明確に申し上げようと思ったものですから、そのような表現をとったかと思いますけれども。

 私が申し上げたかったのは、確かに国会に基づいて内閣がつくられているわけですけれども、両者は、ある意味でいいますと、与党、政党を通して一体化して政権を担うべきではないかという考え方でございます。むしろ、それと行政との間の境界というものを明確にする必要があるのではないかと。これは、そういう意味で矛盾といいましょうか、私が一番問題として申し上げたのは、内閣が行政に属するために、国会によってかなり、これは抑制と均衡の関係ですけれども、いろいろな制約が課されているのじゃないかと。もう少し国会と一体化することによって、そちらに接近することによって、政治的なダイナミズムというものが発揮できるのではないかということでございます。

 そういう観点から見ますと、現在、例えば内閣法もそうですし、国家行政組織法もそうですけれども、その二つの法律がそうですけれども、やはり今私が申し上げた、これも絶対的に正しいというふうに言い切るつもりはありませんで、そういう考え方があり得るし、そちらの方が合理的ではないかという程度でございますけれども、問題点が幾つかの法律で見られるというのは間違いないところだと思います。

 一例を申し上げますと、今度、いわゆる副大臣、大臣政務官が設けられましたけれども、その規定は、内閣法に置かれないで国家行政組織法に置かれております。

 内閣法が内閣に関する取り決めといいますかルールを決める法律であるとしますと、国家行政組織法は各省についての規定を決めるわけでございまして、副大臣が政治の世界に属するとしますと、これは極めて形式的なことかもしれませんけれども、内閣法で決めてもいいのではないかなという、これは、必ずしも法律の専門ではございませんけれども、そういう気がいたしておるところでございます。

筒井委員 先生は内閣法六条についても言及をされました。私は、総理大臣が各大臣を通じて各省庁を指揮監督できるとすべきではないかというふうに考えておりますが、この内閣法六条をそのまま解釈すれば、閣議にかけて決定した上でしかできないということになれば、それをそのまま厳格解釈すると、内閣総理大臣は、現状では、大臣を通じて各省庁を指揮監督できないということになってしまうと思うんですが、そういう規定はやはりおかしいんではないか。本来、今度の行政改革、一月一日から実施の前にこの点を改革すべきだったのに、先ほどの抵抗勢力との問題もあったんだと思うんですが、この点はあいまいに残されてしまった。これがやはり残された大きな課題だと考えますが、その点、どうでしょうか。

森田参考人 私もそのように考えます。

 ただ、もう一言言わせていただきますと、では、今度は内閣法で内閣総理大臣が行政各部を指揮監督できるというふうに書くべきかといいますと、それもいかがなものかと思います。と申しますのは、内閣のあり方について、内閣法でもって細かく取り決めするということ自体がそれほど必要なのかどうか。憲法では、内閣の構成については法律で定めるというふうに書いてありますので、法律はつくらないというわけにはいかないのかもしれませんけれども、内閣の構成であるとか内閣における物事の決め方であるとか、そういうことについて法律できちっと縛るといいましょうか、決めておく必要があるのかなということは、ちょっと疑問には思っております。

筒井委員 それはそう思うんですが、六条では、閣議にかけて決定しなければできないというふうに解釈される可能性が強い、これ自体はやはりやめるべきではないかという点を確認したいんです。

森田参考人 失礼いたしました。

 それはおっしゃるとおりでございまして、その点についてはいろいろ議論が、既にそうした主張はかなり出ていると思いますし、さらに申し上げますと、刑法上の内閣総理大臣の職務権限をめぐってもその種の議論があったというふうに記憶しております。

筒井委員 今度、総理大臣の政策発議権が初めて内閣法に規定された、これ自体も大体、今さらというか、今までなかったのが不思議な話で、これが規定されても内閣法六条は変わっていない。いずれにしろ、どうこれから規定するかは別にしても、内閣総理大臣の権能といいますか位置づけが明確ではない、日本の内閣法においては。内閣総理大臣の各省庁に対する指導性とか、あるいは総合調整機能が現在のままでは弱過ぎる、こうは言えませんか。

森田参考人 おっしゃるとおりで、全く私も同じ意見でございますけれども、それも、それぞれの内閣で、それぞれまさに内閣の掲げた政策を実施される上でベストな形を選択できる、それが望ましいのではないかなというふうに思っております。

筒井委員 現状はそうで、各省庁に対して直接大臣を通じてでも指揮監督できないような解釈も可能な状況になっている。現在、総理大臣は単独で内閣の意思を決定し得ると言えるんでしょうか。あるいは、内閣を代表する権能を有しているというふうに言えるんでしょうか。その点、どうでしょうか。

森田参考人 その点は、内閣のあり方というのは、多分に、それぞれの内閣、あるいはそのときの政治的な考え方、内閣を構成する方の御意見等によっていろいろあると思います。実質的に強いリーダーシップを発揮されて物事をお決めになる総理大臣がいらっしゃるということもあり得るかと思いますけれども、私が申し上げておりますのは、私が総理大臣だからこうするというときに、それは法律に反しますからできませんというようなことを、それが可能であるという制度のあり方はいかがなものか、そこを申し上げたかったということでございます。したがいまして、実質、すべての総理大臣がリーダーシップを発揮できないということでは必ずしもございません。

筒井委員 各大臣と省庁の関係についても述べられました。二重人格という表現が一部、これは例えだと思うんですが、ございました。各省庁の事務について分担管理する主任大臣の面と、あるいは、内閣から派遣されて出てくるんだから、内閣の執政部門の一員としての面、この両面を持っているという意見がございました。より強く持つべきなのは、内閣の執政部門の一員としての国務大臣、こういう面の方をより強調すべきだと私は思います。それについての先生の意見と、現状を見てみますと、どうも小泉内閣においても、全部が全部とは言いませんが、分担管理する主任の大臣の面が強いんじゃないか。

 例えば、具体的に言うと怒られるかもしれませんが、国土交通大臣とか経済産業大臣等もそういう感じがいたします。外務大臣はどっちにも分類できないのかなという感じがしますが。

 現状は、そういうふうに、分担管理する主任大臣の面が結構今に至るも強いんじゃないか。だけれども、本来、目指すべきなのは、執政部門の一員としての側面の方を強く持つべきではないかという点に関してはどうでしょうか。

森田参考人 お答えいたします。

 基本的には先生と同じ考え方を持っております。

 ただ、現在のところは、やはり主任の大臣の方が非常に強く出てまいりますのは、例えば、行政上の細かい法律をめぐる議論などにおきまして、やはり分担管理の原則が非常に大きな重みを持っているというふうに感じるからでございます。

 私自身も、地方分権推進委員会で、地方への権限の移譲といいましょうか、機関委任事務制度の廃止とその後の事務の整理について少しお手伝いをさせていただきましたけれども、そのときの印象でも、大臣を頂点とする法体系といいましょうか、それの持っている重みというのが日本の行政の中で非常に大きいのではないか。その法体系の持つ重みのゆえに、大臣自体もなかなか政治的なリーダーシップを発揮できないというふうになっているのではないか、その辺がかなり問題ではないかなというふうに思っております。

 具体的な大臣のあり方につきましては、ちょっと私はお答えできませんので。

筒井委員 もし、二つ目の、分担管理する主任大臣としての面が強くなって、それが一般化してしまうならば、各省庁の自律性が余りにも高まって、内閣というのは単に各省庁の穏やかな調整機関みたいな形になってしまうおそれがあると思うんですが、その点どうでしょうか。

森田参考人 おっしゃるとおりでございます。

 ただ、その分担管理の前提になります各省の存在自体が、これが法律事項になっているわけでございますけれども、先ほども申し上げましたけれども、外国すべてではございませんけれども、主要な先進国を見ている限りで言いますと、各省の再編成が内閣のリーダーシップでかなり頻繁に行われるのではないか。そうしますと、分担管理をするその組織自体が相当弾力的、柔軟に変更されるわけでございまして、そちらの制度にしますと、主任の大臣とか分担管理の原則、それの持つ強さというものもまた変わってくるのではないか。分担管理の原則そのものを問題にするよりも、むしろ省組織の編成のあり方をもう少し柔軟にするというのも、方向としては考えられるのではないか。私自身は、そちらの方がベターではないかという気がいたしております。

筒井委員 先ほど内閣府についても、まだまだ不十分な点があるという話をされました。本来、政治の行政に対する統制の強化を目指してつくられた内閣府が、必ずしもその趣旨が貫徹されていない。これはやはり、先ほどの統制される側の抵抗との妥協の産物でそうなったというふうにお考えになりませんか。

森田参考人 どういう方がどういう形で抵抗されたかはちょっと存じませんので、実際の抵抗がどういう形で行われたということはわかりませんけれども、いずれにしましても、私も、行政改革会議でいろいろ審議がされ、そして最終的に最終報告が出されまして、そしてそれが中央省庁等改革基本法になり、さらに個別的な法になるという経緯を見ておりますけれども、その中では、やはりなかなか、いわゆる制度の議論といたしましても、きちっとした形で筋を通すということは難しかったのかなという気がします。

 これは、一つの筋が通った制度の考え方があったとしましても、それだけですべて貫いてしまってうまくいくということはなかなか難しゅうございまして、いろいろな形での原理原則との調和を図りながらしていかなければいけない。そこのところの議論はもっとする余地があったのかなという気がしますし、ほかの原理に対してうまく調整を図るような知恵というものはもっと出せたのではないかな、それは時間の問題もございますけれども、そういうふうに考えるということでございます。

筒井委員 少なくとも内閣府は他の省庁とは違う位置にある、その違う位置にあるという形をもっと明確に出すべきだし、出すべきではなかったか、それが何かどうもあいまいな形で終わってしまったというふうにはお考えになりませんか。

森田参考人 お答えいたします。

 私もそのように思います。

 私もその過程で少しお手伝いをさせていただいたわけでございますけれども、例えば、中央省庁等改革法の中にございますけれども、「府省」という言い方で内閣府と各省を一緒に扱っているところもございまして、これは法律を書くときの技術的な問題も多分にあろうかと思いますけれども、やはりそこのところを明確に線を引く必要があったのではないかと思っております。

 ただ、内閣府自体が、先ほど申し上げましたように行政の実施機能もかなり中に持っておりますので、そういう意味でいいますと、行政組織としての性格の共通性というのはもちろんあり得ることだと思いますけれども、組織そのものの持っている性格というものはもう少し明確にされてもよかったのではないかというふうに考えております。

筒井委員 ありがとうございました。

 終わります。

中山会長 次に、太田昭宏君。

太田(昭)委員 現実的な問題について幾つかアドバイスをいただきたいというふうに思います。

 内閣機能の強化や国会審議の活性化ということについては、いろいろな試みがこの数年行われてきたことは事実だと思います。それが果たして本当に機能しているのかなということについては、私たち自身がかなり疑問を持ったり、またもとに戻す、また改める、さまざまなことをしなくてはいけないというふうに思っています。

 内閣機能の強化という点で、先ほども話に出ました副大臣や大臣政務官については、かなり特徴的なことであったのですが、先ほどは、内閣法ではなくて国家行政組織法にあるということで、内閣法であるべきだという話もされたわけですが、これがうまく機能している、またいい方向に行っているという認識を持たれているかどうかということについて、率直な意見をお聞きしたいと思います。

    〔会長退席、鹿野会長代理着席〕

森田参考人 お答えいたします。

 制度の持つ問題点については少し指摘させていただきました。

 そして、それが実際に機能しているかどうかにつきましては、私自身は確かにうまくいっているという感触は得ておりませんけれども、果たしてそれが制度としてよくなかったのかどうかということについては、現段階でまだ評価をするには早過ぎるのかなと思っております。特に、外から見ている者といたしましては、まだ現段階では、制度を変えたからといって、現実がそれほど急速に変わるということもなかなか期待できないのではないか、もう少し長い目で見ていきたい、それから評価させていただきたいというふうに考えております。

太田(昭)委員 国会改革の中で、先ほど、同じ議院内閣制でもイギリスと日本との違いということで、イギリスの場合は与党が行政部門を管理監督するということで、与党対野党という図式になるという話がありまして、クエスチョンタイム、いわゆる党首討論、あるいはその場合の議席のレイアウト自体を変えたり、この委員会もいろいろ変えたりというようなことが行われてきたのですが、本会議場は、御承知のとおり政府対議会、国会対内閣という図式で、日本の議会制度というものが議席的にも構成されてきているわけです。

 内閣対国会あるいは議会、これが歴史的な経緯の中から出てきたことは事実ですが、私は、この方式の中でさらに充実をしていくということが大事なんだろうというふうに思っておりまして、与党対野党という対立の図式とはちょっと違うのじゃないかというふうに実は思っているわけです。

 先ほども、与党が内閣に質問するというのはどういう意味があるのかなという御指摘がありましたが、現実に連立政権を我々が構成しているという場合、単独政権と違います、我々が連立政権の与党として存在していて、自分たちのポジショニングも、また意見も、内閣あるいは国民の人にわかっていただけるということの中で発言をしたり質問をするという場面が当然あってよい。それは、国会対内閣という対立の図式の現在の状況の中に、それを連立政権という形の中でもより鮮明にするということは大事なことではないかというふうに思っておりますが、一時行われた与党対野党の対立の図式のレイアウトということと、私の申し上げました連立政権の中での与党が内閣に質問するということについての意味といいますか、感想をお聞かせください。

森田参考人 お答えいたします。

 レイアウトの問題といいますのは、多分にまさに物理的な空間の話でございまして、それぞれの方が向かい合って議論するのか、あるいは横に並んで、いわば意見の違う、討論の相手として考えるのか、そうした多分に心理的な問題であると思いますので、レイアウトを変えたからといってすぐ変わるというわけではないし、あるレイアウトだからどうしてもそうなるというものではない。レイアウトそのものはそういうふうに考えております。

 そして、今、与党と野党との関係という御議論ございましたけれども、確かにそれはおっしゃるとおりでございまして、連立政権の場合には、必ずしも私が申し上げたようなことは当てはまらないのかなという気もいたしております。

 そのことと関連して申し上げますと、先ほどイスラエルの首相公選制のときでもちょっと触れましたけれども、内閣と議会の関係を考える場合には、多分に選挙制度のあり方とも結びついているかなという気がいたします。イギリスの場合には、御存じのとおり、小選挙区制と与党、野党の構造というものがかなり密接な関係にあり、その両者を切り離す形でうまく機能するかどうかというのは、これはもう少しきちっと検証してみなければならないところではないかと思っております。

 与党質問についてですけれども、これは確かに、連立内閣の場合に、連立政権を構成する一つの党が内閣についていろいろ議論をするというのはあり得ることかなというふうに思いますけれども、一つは、我が国の場合には必ずしも連立政権でない時代からそういうことが行われてきて、それが慣行であったのではないかなという気もいたしております。その点が一つ。

 もう一つは、連立政権とはいいましても、連立政権の政策自体は連立政権のそれぞれの与党内での協議できちっと決められているとしますと、ある意味でいいますと、みずからそれに参加し合意した政策について、また同じ党の人が質問するということはどういう意味を持つのかなという疑問を感じないわけではございません。

太田(昭)委員 特に、いわゆる職業としての政治家と職業としての行政官ということの関係性を先ほど先生は述べられておりましたが、私たちも、政治家は政治家の果たすべき役割がある、役人の人は役人の果たすべき役割がある。それは、何も政策的に詳しくて、役人よりも詳しいというよりは、もう少し大局的な判断というようなもの、あるいはまた、国民に対する、直接要望を聞き、そしてまたその結論を国民に対してメッセージ性のあるものとして発信をする、そうしたさまざまなことが政治家は必要であろうというふうに私は思っております。

 ただ、いわゆる物を考える主体がどっちにあるのかということの、政策の作成能力とかブレーン集団をどうつくるかとか、日本の中には欠けている要素がさまざまあるのではないかというふうに私は思っておりますし、また同時に、第三者機関にこれをゆだねていきましょう、これは審議会に聞きましょう、これは学者の先生に聞きましょう、さまざまなことは大事かもしれないけれども、それをゆだねていい事項と、政治家が判断すべきものと、また、大綱は政治家が決めればいいのですが、細かいことまで、何から何まで政治家が決めるというような国会に持ってくるというようなことはまたいかがなものかということで、相当第三者機関のあり方、政治家の果たす役割、そして職業としての行政官の果たす役割というものの整理をする必要があろうというふうに私は思っているわけですが、その辺はいかがでしょうか。

森田参考人 私も、基本的に先生と同じような考え方を持っております。

 現在の行政の水準といいますか、政府のやっている仕事というのは、何度も申し上げますけれども、大変高度で複雑なものになっておりまして、これはなかなかその専門家でなければ理解することはできませんし、それに適切な解決策としての政策をつくるということも大変難しいことだと思います。

 そうした能力を、政党の側、政治の側が、どこからどういう形でそのサポートを受けるのか、その仕組みが、今おっしゃっていることと同じだと思いますけれども、最大の論点ではないかなというふうに思っております。

 私が日本の制度について少し批判的に申し上げましたのは、今の場合には、なかなかそうした形で、それぞれの政党がそれぞれの価値観に基づいて、そしてそれにふさわしい政策をつくる、そのための体制がきちっとできていないのではないか。行政の側は、政治と切り離された形で、非常に自律的な世界をつくっていて、政治的中立性の名のもとでそれが行われている。

 そうではなしに、もう少し、ある意味でいいますと、政策能力を持った行政官の方が政治の世界に入っていく。逆に、政治の世界の方も、もう少し細かい点まで、といっても本当に詳細なところは別ですけれども、細かいところまで政策のことに踏み込んでいく。両者が結びついて、それぞれの政党がきちっとした政策をつくり合って、国民の前でそれを評価してもらう、そういう仕組みに持っていくのが一番いいのではないかと思っております。

 そのためには、それぞれの政党がそれぞれの価値観を具体化するような、かなりしっかりした政策をつくれるような、今第三者というお話ございましたけれども、自前のシンクタンクのようなものをお持ちになるというのは一つの考え方ではないかなと思っております。

 我が国の場合には、なかなかそうした形でのシンクタンクというのはつくりにくいというお話も聞いておりますけれども、例えば、外国の場合ですと、アメリカの場合は特に典型的かもしれませんけれども、そうした政策集団が、大統領がかわるごとにかなりの行政のポジションも占めるという形になっていて、党の信条に賛成する人が、それを具体化する形での政策をつくると同時に執行するという形になっている。それは政権交代とともにかわるわけですから、ある意味で不安定ということになるのかもしれませんけれども、民意を反映した形での政策をつくり、運営していくという観点から見ますと、その方が望ましいのではないか。

 日本の場合には、行政と政治の間が、私申し上げてまいりましたように、かなり深い溝があって、なかなか政党の価値ないし理念を追求した形での政策がつくりにくいのではないか、そこが問題ではないかと思っております。

太田(昭)委員 私も、どの党も今そこは大きな悩みではないかというふうに思っておりまして、そこのブレーン集団あるいは政策をくみ上げてくるシステムをどう育てるかというのは非常に難しい問題なんですが、同時に、公務員の人たちも、相当たたかれたりいろいろしまして、自信がなくなったりやる気を失ったりということも現実にはあるわけですね。

 その辺で、きょうはもう時間がありませんから、結論だけ、一言だけで結構ですが、現在の公務員の人たちが、倫理面とかそういうことで直すべきものは直さなくちゃならぬ、そして惰性も、これは切らなくちゃならない。しかし、ブレーン集団として果たしてきた役割は当然ある。そこで、もう一歩、この人たちにやる気を与えるようなことはどうすればいいのかというふうに、感想で結構ですが、お答えいただければと思います。

森田参考人 お答えいたします。

 今の問題に直接お答えするのは非常に難しいと思いますけれども、一つ、例えば、私どもの学生で官界を目指す学生もかなりおりますけれども、政治家になりたいと言う学生もいるのでございます。しかしながら、今の日本では、なかなか政治家に、このトラックに乗れば将来政治家になれるというような、キャリアパスといいましょうか、そういうルートがないわけでございまして、それが非常に彼らがルサンチマンを持っている原因になっているわけでございまして、これは恐らく、かつては政治家への一つの近道といいましょうか、ルートであったところの行政官、その道を目指して入られた人たちも、同じような思いがあるのではないかなというふうに思っております。

 直接お答えしておりませんけれども、御理解いただきたいと思います。

太田(昭)委員 ありがとうございました。

鹿野会長代理 都築譲君。

都築委員 自由党の都築譲です。

 今のお話を聞いておりまして、公務員の政治的中立性の問題がございました。漠とした、何か中立性を保った行政機関のイメージが定着しておりますが、裏返して言うと、それは、国民の行政に対する意識が、お上意識のようなものとして、いまだに根強く相当残っているのではないか。だから、規制される、それは当然のこと、そしてまた、何か困ったらお上に頼って補助金や何かをねだる、こういう風潮がまだ蔓延し続けているのではないかなという思いがするわけでありまして、それを統治機構の中で整理していくとなると、どういうことが可能になるのか。

 公務員制度のあり方、あるいはまた、国民が選挙で選んだ政治家、そしてまた、それが選んだ内閣、こういったものにも影響が及ぶのかもしれませんが、例えば、フランスの第五共和制憲法の最初の方には、たしか、それこそリンカーンの言葉、人民の、人民による、人民のための政府といったものが引いてあるようなことを聞きますと、憲法上の規定ということで、こういった国民の意識を変えていくことができるのかどうか。その点をちょっとお聞かせいただけますでしょうか。

森田参考人 お答えいたします。

 私自身は、制度を変えることによって意識を変えるということはもちろん可能であるし、それをしなければならないと思いますけれども、一部の制度を変えたからといって国民の意識が大きく変わるかといいますと、なかなかそれは難しかろうと思います。

 むしろ、意識を変えるといいますのは、今のようにマスメディアが発達した時代はまさにそうですけれども、その制度のもとで実際にどのような形での政治をなさるか。それを国民が見ておりますと、それに対して、こちらの方がいいのだ、確かにこの方がうまくいくとか、あるいはこうすべきではないか、そういう反応が出てくるのではないかと思います。

 それにつきましては、今多数の方がいろいろコメントを寄せる機会もたくさんございますし、いかなる形でそうした新しいイメージというものを形成していくのか、それがこれからは重要になってくるのではないかなというふうに思っております。

都築委員 参考人の御著書の中で、たしか天皇の官吏から全体の奉仕者へというふうな言葉が時々使われておりました。全体の奉仕者といいながら、実は、現在の公務員制度、それぞれ参加している公務員の皆さんも、各省に対する忠誠というか省益を最優先にした、何か運命共同体のようなものとしてお考えになって、一たん就職するとずっと面倒を見てくれる、だからこそ忠誠心も働くし、滅私奉公ということで働き続ける、こういった風潮がまだあるのではないか。

 ただ一方、民間の方は、中高年の最近のリストラに見られますように、働くときは一生懸命働かされたけれども、いよいよ回収期に入ったかなと思ったら、景気が悪くなって構造が変わって首になります。こんなことで、企業に対する忠誠心といったものも相当薄れてきた。

 そんな中で、そういった日本的な意識を維持しているのが、何か官公庁の仕組みではないのかな。こんな思いもするわけでありまして、そういった官庁の雰囲気、そしてまた同時に、一たん組織ができると自己増殖をしていく、そういったものを民主的に統制していくことがやはり政治の役割ではないか、こう思うのですが、その点についてはいかがでございましょうか。

森田参考人 お答えいたします。

 最初に触れました、天皇の官吏から全体の奉仕者へという表現を私も確かに使いましたけれども、そのことの意味しておりますところは、国というものが公共性を持っているとしますと、それに対して自分を殺して仕えるのが官吏たる、公務員たる者の務めであるという考え方であろうかと思いますし、そうした考え方自体は、マックス・ウエーバーの「官僚制」のモデルもそういう官僚のあり方を示していると思います。彼自身は非常に中立的に表現していると思いますけれども、それが官僚制といいましょうか、公務員の世界では非常に価値あるものとして位置づけられている。特に、戦前のように、天皇の官吏というふうに位置づけられた場合には、それが公務員の人たちの自己規律というものをもたらす大きな源泉だったのではないかと思います。

 戦後もそうした考え方が継承されてきたというふうに考えておりましてそういうふうに書いたわけでございますけれども、先ほど申し上げましたように、実体としての本当の公共性というのは、一体どういう形で、だれが見つけ出していって決めるのかという議論になりますと、戦前の場合には、天皇が主権者であり、そういう憲法の体制だったわけですけれども、戦後の民主主義のもとで、国民が主権者のもとで、どのような形でそれを見出していくのか、その見出す手続についての議論が必ずしも十分されていなかったのではないか、それがまた制度の形できちっと埋め込まれていなかったのではないかというのが、きょう申し上げたかったところなわけでございます。

 それは、むしろ政治が部分的な利益であるとしますと、それから遮断された全体の利益を代表するのが行政であるというふうに考えられていて、そこでまた、公務員の人たちもそのために一生懸命働きましょう、働くべきであるという考え方が出てきたのではないかと思われるわけです。

 その場合に、国としての全体的な利益について国民の間にコンセンサスがある時代には、まだそれほど制度上の問題は出てこなかったのかもしれませんけれども、最近になりまして、そのコンセンサスが崩れてまいりますと、そこのところの制度のほころびというものをどうするのかというのが問題になってきたのではないかと思います。

 もう一つ、公務員の方は、今申し上げましたような、一種の倫理観でもって公務員の規律というものが存在していると思います。ただ、これにつきましては、現在、公務員制度の改革が議論されているようでございますけれども、どういう形で最終的な公務員制度というものが提案されるかまだわかりませんけれども、だんだんかつてのような公務員のあり方というものは変わってきたのではないか、変わるのではないか、そういう傾向があらわれているのではないかというふうには思っております。

 ただ、もう一点申し上げますと、日本の公務員についての規律はかなり厳しい。特に政治的な中立性については厳しいものがございまして、例えば諸外国、ヨーロッパ諸国では比較的よく見られます、地方公務員の方が例えば地方議員になるというような可能性、これについて、我が国の場合では、立候補の段階から辞職をしなければならないということになっております。

 これは、民間企業でもそれに倣ったような形で就業規則がつくられているところが多いというふうに聞いておりますけれども、地域に住んでいる人たちが自分たちの政策決定に携わるということになりますと、もちろん、自分の勤務しております地方自治体の議員になるというのはいささか問題あろうかと思いますけれども、例えば休職制度をつくるなり、あるいはほかの自治体の議員になることを認めるなり、その辺はもう少しフレキシブルに制度を変えていく方がいいのではないか、そのように考えております。

都築委員 最初の議論に戻ってしまいますが、政治的中立性といいながら、実は政権与党の政策を実行することになるわけでありまして、政権与党の政策が実は官僚制度のブレーンによってつくられてきている。ほとんど実は、今の選挙制度の中で、各政党が公約を掲げ、政策を訴え、理想を訴えて投票してもらっているという状況ではないんではないのかというところに今の根本の問題が一つあるのじゃないかなというのが私の印象でございまして、だからこそ、政治的中立性といった隠れみのの中に隠れている公務員の権力の実態といったものを、もっともっと本当に国民本位の政治に変えていく、そのために政党が政策を磨き、理想を掲げて活動をしていくことが必要だろう。

 ということで、副大臣や政務官が、議員の立場でありながら政府の中に入って政策を立案し、それに参画していく、こういうことになったわけでありますが、政府サイドの方は改革されましたが、例えば明日の内閣といった野党第一党の政策立案機能を制度的に保障していくようなもの、そういったものについてはどうお考えになりますでしょうか。

森田参考人 最初の御発言でございましたけれども、与党の方がつくった政策を実施しているのではないかという御発言ございましたけれども、政治的中立性といいますのは、そのときの政権党の政策を忠実に実行していくというのが一つの政治的な中立性の基本的なところだと思いまして、むしろ、与党の提示された政策以外のところに、これが本当の公共的な政策だというふうに行政の方がおっしゃるとしますと、そちらが問題であるということでございます。そこのところは、実質的にどちらのアイデアをどなたがどういう形で決定して採用されるかというのは、これはケース・バイ・ケースによって違うと思いますけれども。

 いずれにしましても、多数の与党のプラットホームというものが選挙によって承認されたとしますと、それを忠実に実行していく、そのためにいろいろな政策の知恵を出して助けていくというのが行政の役割であろうかと思います。その意味でいいますと、政治的な中立性というのも、内容的には非常に弾力的なものとして考えるべきではないかというふうに考えるわけでございます。

 明日の内閣は、今のところとは少し違う話になるかと思いますけれども、先ほど出たところかと思いますけれども、それぞれの内閣とか政党をどうするかというのと、特に与党、野党という、モデルを非常に簡単にきょうお示ししたわけですけれども、この形になるためには、やはり選挙制度のあり方とか政党の構成のあり方とも密接にリンクした問題でございまして、ある部分だけを変えてうまくいくかというと、必ずしもそうではない。

 これは仮想例ですけれども、イスラエルが首相公選制をとりましたけれども、例えば小選挙区制のもとであれをやった場合には本当はどうなっただろうか、これは政治学者にとっては大変興味深い仮想ケースといいますか、思考実験になるわけでございますけれども、そういう可能性を含めて、いろいろな可能性というものを検討していかなければならないのではないかと思います。

 したがいまして、明日の内閣の位置づけにつきましても、全体との関連でそれをどのようにとらえていくかということもありますし、私の考えとしましては、内閣とか政党内部については、法律で制度を決めるというようなことは余り好ましくないのではないか。それは、政党みずからが御自分でおやりになるというふうに考えた方がよろしいのではないか、私はそう考えております。

都築委員 そういうお考えかなと思っておりましたが、もう一つの問題は、非常に高度多様化、複雑化する行政需要に対して、そういったものにこたえ得るのが、専門的にその道一筋三十年という行政官とかそういった人になってしまうわけで、どうしても、ぽっと出てきた政治家というのは、そういった行政機関の職員に対抗できない。だから結局、おみこしの上に乗ってしまうというのが今の状況ではないのかな、こう思うわけで、だからこそ明日の内閣といったものを制度化して、野党の時代から政策を練って、専門性を身につけて、そして、一たん政権を担うようになったら、堂々と政府の中に入って一般の公務員を指示する、こういうのが望ましいのではないか。

 ただ、そうはいっても、先ほど先生のお話にありましたように、学生でも政治家へのパッセージが閉ざされている、こういうことで、欲求不満になっている方もいらっしゃるというふうなことでありましょうが、実際に政治家というのは非常にリスキーな職業でありまして、はるかに公務員の方が安定している。退職すれば退職金がちゃんともらえる。ところが、落選すればただの人になってしまう、こういうことでございまして、だからこそ、明日の内閣を制度化して、そういったシンクタンクといったものが実は抱えられる。

 あるいはまた、先ほどいろいろな議論がございましたが、例えば審議会とか行政委員会の一部、これから活用が図られるんでしょうけれども、私自身は、行政府がそういった膨大な審議会を学者の先生方の参加を求めて維持しているということ自体が、実は国会の議論を行政府が先取りをしているようなものではないのかな。むしろ、審議会は全部国会に附置して、役所の審議会は全部廃止して、そして、その審議会の活動を支えるスタッフを国会に置くということで充実させていく、あるいは政策秘書も充実させていくという形になれば、そこで、いろいろな機関があり、いろいろな人がおり、そこに雇用される可能性も出て、政治の勉強もできる、国民の声も聞くことができる。そういう人材リクルートの道を法制上用意していく必要がこれからのことを考えたらあるのではないか、こんなふうに思うわけでございますが、いかがでしょうか。

森田参考人 お答えいたします。

 最初の点で、この道三十年でやってきた行政官は大変な専門的な能力を蓄積しているとおっしゃいました。確かにそれはそうだと思いますし、その三十年の経験なり蓄積を政策に生かすということは、我が国にとりまして、国民にとっても大変な利益になることだと思います。

 しかしながら、多くのそういう形で研さんを積まれた公務員の方というのは、自分の専門とされる範囲のことについては非常にお詳しいわけですし、その部分についての利益ということについてはかなりセンシティブなお考えをお持ちかと思いますけれども、むしろ、そうした多数の専門分野の間のバランスをどう使うのか。先ほどどなたか先生のお話にございましたように、希少資源の権力的な配分をどうするかというのが政治の問題だとしますと、そうしたそれぞれの分野間の統合、調整、そして、率直に申し上げますと、進むべき分野には十分に資源をつけるわけですけれども、もう不要と思われた部分からは資源を引き揚げる、その決断をきちっと行うのがやはりトップの政治の責任であるし、政治の機能ではないかなと思っております。

 それを制度的にどのように支えていくかという細かいところについてはまだ私も十分考えておりませんけれども、基本的には、きょう最初に申し上げましたような方向で政治のあり方、内閣のあり方というものを考えていく必要があるのではないかなと思っております。

 その意味でいいますと、二点目に触れられました、審議会を行政の場に置く、私も幾つかの審議会といいましょうか、そういう会議に参加させていただいておりますけれども、それについてはどうかということでございますけれども、私の立場としましては、それは行政府に置かれているかどうかというよりも、専門的な見地から一つの知恵を出す、そこで英知を結集していいアイデアを出すという場は、どこに置かれても、それはそれなりに、使い方の問題であって、機能するのではないかなと思っております。

 しかしながら、私の申し上げてまいりました筋からいいまして、やはり立法府がその政策形成において重要な機能を果たすという観点から申し上げますと、これを審議会という名前で置くのがいいのかどうかはわかりませんけれども、国会がその立法機能を高めるということは国民として大いに望みたいところだと思いますし、行政を研究している者としても、それは大いに充実させる必要があるのではないか、かように思っております。

都築委員 ありがとうございました。

    〔鹿野会長代理退席、会長着席〕

中山会長 次に、塩川鉄也君。

塩川(鉄)委員 日本共産党の塩川鉄也です。きょうは貴重な御意見をありがとうございました。

 統治機構の問題を考えたときに、やはり国民主権をどのように実現していくかという手だての問題でもあります。お話の中で、参考人は、この国民主権、民主主義の実現を、内閣機能を強化することを通じて担保していこうというお考えだと受けとめました。私も、国民主権を土台とした議院内閣制が確立されることが大切だと考えるものであります。

 そこで、この国民主権原理に基づく議院内閣制といった場合に、国民の政治参加が、選挙のときだけではなくて、選挙から選挙の間の期間も含めて日常的に保障されることが必要だと思います。この点で、内閣機能の強化によって国民の日常的な政治参加がどうなっていくのか疑問に思うところがあります。参考人のお話の中でも、公職者を選挙で選ぶことで民意の反映を実現する。選挙で国会議員を選び、国会を構成し、首相を選び、内閣をつくるというお話で、いわば一度の選挙によって構成された内閣に政策を白紙委任的に任せてしまうようなことになりはしないか、政策立案や決定過程に国民の意思が反映される余地がどのようにあるのかと思うからであります。

 それで、この内閣機能の強化を法制化した一連の法律がこの一月から執行されておりますけれども、この制度のもとで、国民意思の反映、あるいは行政に対する国民の監視とコントロールがどのように働いているのか、この点をお聞かせください。

森田参考人 お答えいたします。

 私、少し説明が不十分だったのかもしれませんけれども、きょう、私が申し上げましたのは、内閣機能の強化と言いましたけれども、別にこれは議会に対して内閣の方を強化するという趣旨ではございませんで、内閣機能の強化について触れましたのは、行政各部に対する内閣機能の強化でございまして、むしろ、内閣は議会と一体化する、接近するという形で成る方が民意の反映に近づくのではないかというふうに申し上げたつもりでございます。したがいまして、内閣機能の強化が国民の政治参加と矛盾するのではないかというような御指摘であったかと思いますけれども、決してそういうことを申し上げたつもりではございません。それが第一点でございます。

 あと、日常的な政策決定への国民の参加のあり方というのは、これは大変難しい問題でございます。行政そのものが非常に難しくなってまいりましたし、それを、なかなか、一般の方が判断し、的確に政策形成に参加するということは非常に難しい問題でございます。しかしながら、それじゃ、それを専門の方にゆだねておくというのはどうかといいますと、これについても、原子力発電所の問題ではございませんけれども、別な面での難しい問題がございます。

 したがって、私の専攻しております行政学でもそうですけれども、どうすれば一番よく民意を反映する形で専門的な政策をきちっとコントロールできるのか、これは課題でございます。一つのあり方としましては、国民の直接の意思表明というものをしてはどうか。投票制度というようなものも言われておるわけでございます。

 他方では、その前段階として、いずれにしましても、国民がいろいろ発言する、マスメディアがそれをほかの国民と同時に政治の世界に伝える、その制度は完備してまいりましたので、そういう仕組みが非常によく動くようになってまいりましたので、そういう意味でいいますと、国民が正確に物事を知って判断できるのがいいのではないか。そこから情報公開というものが出てきたかと思っております。

 これはそうですけれども、やはり一番国民の要望をくみ上げて、そして、かなり専門的なことも含めてですけれども、政策に結びつけるというのは、これは議会の議員さんのお仕事であり役割ではないかな、若干僣越かもしれませんけれども、私はそういうふうに考えているということでございます。

塩川(鉄)委員 ありがとうございます。

 この間、内閣でタウンミーティングが行われまして、山梨などでのお話をお聞きしましても、ある参加者の方から、小泉内閣は少し性急過ぎる感がある、自衛隊の集団的自衛権の法的解釈の拡大の問題など、緊急ならば何をやってもよいのかというような意見もあります。衆議院での審議時間が三十六時間ということについて、こういう短時間の議論でよいのかという声もお聞きするわけです。

 そういう意味でも、日々新しい課題が起こったときに、その問題について、国民の意識も大きく変わっていきます。そういう点では、選挙と選挙の間における国民の意識の動態的なものをしっかりと視野に入れていくことが必要だと思いますし、この点で、先生もお話しになったような、国民が直接働きかけることができるのはやはり議員や政党であり、こうした実体的な裏づけが必要だというふうに改めて思うものです。

 それから、次に、内閣総理大臣とその他の国務大臣との関係の問題ですが、首相の指導性と内閣の合議体制の関係ということでもあると思うのですけれども、私、いろいろな方のお話もお聞きしながら、これをどちらかを優先するということではなくて、議院内閣制においては、首相のそれということではなくて、内閣が共有すべき政治方針というのは、先ほども言ったような、選挙や立法過程を含む政治過程において形成される国民の意思に基礎を置くことになると思いますし、総理大臣の指名選挙で首相がそれを体現するとしても、個々の政策については、何が国民の負託であるのかは、それぞれの各閣僚の判断を前提に合議によって決することになるのではないか、こういう御意見もお聞きするわけですけれども、この点については、お考えはいかがでしょうか。

森田参考人 今御指摘になりました問題点は、いずれも重要なところだと思います。

 先ほどから申し上げておりますけれども、国民の意向ないし民意というものをどのような形で政策に結びつけていくのかというのは、行政学のみならず政治学、法律学においてもかなり重要な問題ですけれども、なかなかベストの答えといいましょうか、いい方法が見つからない。今の制度をいろいろ工夫して修正しながら、できるだけそれに望ましいものをつくっていくのか、そういう形での議論しかできないのではないかと思います。

 今先生がおっしゃいました、民意ということですし、国民の意思ということですけれども、それ自体が、一体、実体としてどうなのか。これは、さかのぼりますと、ルソーの議論とか、いろいろ出てまいりますけれども、いずれにいたしましても、それが何なのかというのは一定の政治的な手続を経て確定されることになるわけでして、その手続の設計の仕方がどういうのがいいのかというのをずっと議論してきたところでございます。そこのところをどのように考えるのか。

 いずれにしましても、自分の意に沿わない方は、自分の意思は反映されていないと言う可能性が高いわけでございまして、それを客観的にどの制度がいいと判断するのか。これは直接お答えにならないかもしれませんけれども、大変難しい問題ですが、いずれにしましても、民意の反映の仕方というのは、多分に制度の設計と手続の問題であり、最終的には、ある段階でそれは制度として割り切るということが必要なのではないかなというふうに思っております。

塩川(鉄)委員 ありがとうございます。

 やはり、政党や議員の力量や役割を高めることを通じて、本当に国会の審議が実質的なものになっていく、そういう中で、多様な国民の意見が反映をされて、そういうことを通じての国民の意思が熟成されていくといいますか、そういう過程が改めて大事だというふうに思っております。

 次に、政治行政関係、政官関係についてですけれども、政官関係という際に、今、やはり国民の皆さんが問題と感じているのが、政官財の癒着、政官業の癒着の問題と言えると思います。

 この間でも、郵政官僚の公選法違反事件など、行政の政治的中立性が失われているという問題もありますし、保守政党の中での人材とか政策が官僚依存になっている問題もありますし、さらに高級官僚のいわゆる天下り問題などがあるわけです。

 私は、政官関係を考えたときに、こういった問題の解決こそ求められていると思うんですけれども、いかがでしょうか。

森田参考人 政官業の癒着でございますか、確かに、一部にはそうした刑法上の犯罪になるような形での癒着の現象が見られると思いますけれども、これは全面的、構造的にそれを癒着と呼ぶかどうかということについては、私自身はもう少し慎重に考える必要があるのではないかと思っております。

 これは、癒着がないということではございませんで、どういうことかといいますと、例えば、公務員制度をどういうふうに設計するのがいいのか。できるだけ優秀な方が一生懸命働く、そのモラールを維持するために公務員制度をどのように設計するのがいいのか。あるいは、政治家の方が、政策をつくるための情報をどういう形で入手すればいいのか。そして、決定を公正に行うためにはどのような制度が必要なのであるか。そういうことを総合的に考えて、その中でどういう構造がいいのか、何がいいのかということを判断していかなければならないところではないかというふうに考えております。

 したがいまして、そうした癒着の問題であるとか汚職の問題は、もちろん法律に触れるといいましょうか、犯罪になる部分についてはきちっと処断する必要があろうかと思いますけれども、別な面につきましては、制度の一部だけで、そこを改善すればすべてがうまくいくとか、あるいは万能薬的な仕組みがあるというふうに考えるのは少し単純に物事を考え過ぎるのではないか。ちょっと失礼な言い方をしてしまいましたけれども、そのように理解しておりまして、もう少し問題は複雑でございますので、いろいろな観点から少しでもよくなる方向で考えていく必要があるのではないか、かように思っております。

塩川(鉄)委員 ありがとうございます。

 先ほどの質疑の中でも、時の政権政党の政策を立案する、これも公共性であり、政治的中立性というふうにおっしゃいましたが、この点は意見を私は異にするわけで、日本の政治行政に必要なことは、やはり政と官の実質的な分離の明確化であり、それを伴わない官に対する政の主導性は、政治と行政の関係の本当の意味での改革につながらない、これは私自身の思いであります。

 その上で、次に、民主主義に基づく政治の世界は選挙で選ぶということでのお話がありました。

 この選挙制度の問題ですけれども、日本国民は、正当に選挙された代表者を通じて行動するという、議会制民主主義に基づいて政治を行うということが憲法にうたわれております。

 しかしながら、現状におきましては、一票の格差の問題とか、過剰なほどの規制が行われているような公職選挙法の問題もありますし、マスコミなどでも党利党略とも論評されるような選挙制度のたび重なる改変など、選挙制度のゆがみが指摘をされておりますけれども、こういった選挙制度の現状をどのようにお考えでしょうか。

森田参考人 お答えいたします。

 最初の、政官を分離してという話ですけれども、これも私の真意をもう一度申し上げさせていただきますと、いわゆる一定の政治的な民主的な手続を経て国の意思とされた場合に、それは多数の意見であったとしても、それ以外の公共性というものはどういう根拠でもって出てくるのか。

 もちろん、これは最高裁判所が憲法の観点から判断をすることはございますけれども、今、その裁判自体が民主的な仕組み、これは下級審の方ですけれども、そういうことを検討されているわけでございまして、そういう意味で言いますと、実体として、これが国益である、公共の利益であるということをきちっと説明する根拠というのは一体何なのか。あるのかもしれませんけれども、それについてきちっと議論する必要があるのではないかというふうに今申し上げたかったわけでございます。

 選挙制度につきましては、私も一応政治学者の端くれですので関心は持っておりますけれども、今の日本の現状の選挙制度について、それの是非、問題点等につきましては、必ずしも細かく勉強しておりませんので、ちょっとその点はお答えいたしかねます。お許しいただきたいと思います。

塩川(鉄)委員 ありがとうございます。

 それでは、公職者を選挙で選ぶという問題とのかかわりで、今の日本の現状、選挙での公約が守られていないという問題、尊重されない、その公約が破られる、ここにやはり今の民主主義を侵すものということでの批判の声があるわけです。

 選挙での公約違反の問題、それは基本の問題だと思うんですが、この点についてはどのようにお考えでしょうか。

森田参考人 公約は、選挙のときに有権者に対する約束ですから、それを守らなければならないということは言うまでもございません。それを守らなかった場合には、次の選挙において、やはり国民の側がきちっとした評価を下すべきことだと思います。

 ただ、公約と言われるものをどのように考えるかというのも、これまたいろいろな問題があろうかと思います。例えば、ある条件のもとでこうなるはずである、現状の条件が続く場合にはこういうことをするといったときに、例えば今の国際情勢でも何が起こるかわからない時代ですから、そのときに、前提条件が変わった場合にその約束はどうなるのか。

 それについては、発生した問題状況に対して誠実に対応するというのが責任の果たし方ではないかなというふうに考えているわけでございまして、その場合に、最初に掲げた公約を破ったということになるのか、誠実に守ろうとしたというふうに評価すべきなのか、この辺はかなり難しい問題ではないかなと思っております。

 お答えにならなかったかもしれませんけれども、私は現時点ではそれしか申し上げられません。

塩川(鉄)委員 ありがとうございます。

 最後に一言申し述べて終わりたいと思うんですが、私は、国民主権を土台とした議院内閣制を構想する場合に、政治に対する国民の日常的な参加の問題や、政府の政策決定過程や執行過程などにきちんと国民の目が行き届く、コントロールがしっかりと保障されることが大事だと思いますし、それを通じて国民の政治的な力が向上していくということを考える場合には、やはり内閣機能の強化という方向ではなくて、憲法が定める国権の最高機関たる国会を中心として構想すべきだ、このことを申し述べて、終わります。どうもありがとうございました。

中山会長 次に、金子哲夫君。

金子(哲)委員 社会民主党・市民連合の金子哲夫でございます。

 幾つか御質問をさせていただきたいと思いますが、用意したものの中でもう既に出たものもございますので、それを除いて質問したいと思います。

 最初に、先生の話の中で、総理とその他の大臣との関係についてお話しになりました。総理の力が十分に発揮できているかという問題もあると思うんですけれども、お話の中にもあったように、実は私は、今、憲法調査会として、日本の憲法の中では明確に首相、総理の位置づけというのはあるのではないか。

 そして、大臣との関係についても、第六十六条では「その首長たる内閣総理大臣及びその他の」ということで、明確に内閣総理大臣の位置づけというものが規定されておりますし、それから六十八条の一項においては「内閣総理大臣は、国務大臣を任命する。」ということが言われておりますし、それから六十八条の二項では罷免の権利すら認めているということになっておりますし、それから七十二条でも「内閣総理大臣は、内閣を代表して議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する。」ということが規定されている。

 実際のところは、先ほどお話がありましたように、内閣法とか、そして国家行政組織法などによって、内閣総理大臣の権能というものがいわば大臣と同じレベル、合議制の問題も含めてですけれども、低められることによって、結局リーダーシップが発揮できないような、私は、必ずしも強力な権力だけを持てばいいということではなくて、憲法を遵守して、内閣法なり国家行政組織法などが補完すべきであるのにもかかわらず、憲法の規定を実はおとしめるような状況の中で今進んでいるのではないかということを思っております。

 必ずしも法律の専門ではないということもおっしゃっておりましたけれども、先生のお考えをお聞かせいただきたいと思います。

森田参考人 お答えいたします。

 私が申し上げましたことは、既に何回か出ている質問に対してもお答えしましたとおり、現在の内閣制度のあり方の場合に、それぞれ国会の信託を受けて内閣が構成されているわけですから、その内閣の御判断でもう少しフレキシブルにいろいろな仕組みをつくって動かすということがあってもいいのではないか。それに対しまして、現在の内閣法ないし国家行政組織法というのはそれを制約する形で制度が置かれているのではないか、そこのところは問題にしたかったわけでございまして、それは今の先生のお考えとかなり一致するところではないかと思います。

 今度は、どういう形でそれを考えたらいいのかということになりますと、基本的に余り規則で縛らないような形で、それぞれのところがおやりになるというのが望ましいのではないかなというふうに考えているわけでございまして、特に、内閣総理大臣の憲法上の地位というのは非常に強いものがある、それはそのとおりですけれども、それをどう行使されるかは、それぞれの内閣総理大臣がお考えになっていいのではないかということでございます。

 もう一つは、現在の決め方が、憲法について、今おとしめるというような表現があったかと思いますけれども、それは評価の問題ですので、私自身はそういう評価は差し控えさせていただきますが、私自身として申し上げたかったのは、現在のような形での内閣制度のあり方も、現在の憲法の中ではあり得るのではないかと思っております。それはそれなりの一定の論理に従って、かなり貫かれているのかもしれませんけれども。

 今の日本にとって、あるいは民主主義なり議院内閣制なりといろいろな考え方をとっていった場合に、違う制度の論理でもって内閣制度なりなんなりを考えることもできるのではないか。それは、かなり現在の憲法の中でもそういう解釈は可能ではないかというふうに考えるわけでございまして、私個人としてはそちらの方が、我が国の政治、政策をつくっていく上では望ましいのではないかというふうに考えているということでございます。

 ただ、先ほどの首相公選制の話のときにも少し触れさせていただきましたけれども、現在の社会は、技術の進歩の成果でもありますけれども、この議院内閣制の基本的な仕組みがつくられたときとはかなり時代が変わってきておりますので、現在に応じた形でその制度をどのように位置づけていくのか、新しい制度をどういうふうに修正し設計していくのか、これはまだ私もどうすればいいかという明確な答えを持ち合わせておりませんけれども、現在の課題はそこにあるというふうに認識しております。

金子(哲)委員 ありがとうございました。

 もう一つお伺いしたいのは、内閣が行政に取り込まれているという、表現は別にしましても、実態上、非常に行政の側の力が強い。私も、在外被爆者に援護法を適用させようということで取り組んでおりますけれども、大臣がかなりその強い意向を示されても、従来の流れとかそういうことで官僚の側がどんどん押し込んでいくということで、今実は大変困っている問題もあるわけです。

 その点に関して、先ほど言われた内閣法の流れからいっても、主権者たる国民が選んだ国会、そして国会によって指名された内閣総理大臣、そして内閣総理大臣によって指名された国務大臣ということからいえば、一番の責任を持つべきは有権者に対してということになりますと、官僚というよりも行政機構が、国務大臣のやるべきこと、やらなければならないことに対して制約を持っていくというシステムはどうもおかしいのではないか。

 そこを改善するというのはなかなか難しい問題でもありますけれども、もし先生のお考えがあれば、お聞かせいただきたいと思います。

森田参考人 お答え申し上げます。

 私は、現在の制度の場合は、先ほど、国会と内閣の関係、あるいは内閣の中における総理大臣と各大臣の関係、そして各大臣と行政の各省との関係において、政治的なリーダーシップが非常に振るいにくいような、そうした形の制度的な制約があるというふうに申し上げましたけれども、現在の制度上も、大臣の責任、大臣の権限、それぞれの主任の大臣の指揮監督に伴う権限は相当強いものがございます。したがって、現段階においても、政治的なリーダーシップをその形で発揮できないかというと、必ずしもそうではないわけでございます。

 今おっしゃいました個別的な政策についての問題の場合には、それぞれの政治家の方、大臣の方が、官僚と言われる行政官の方と議論した上で、きちっとした形で説得できるかどうかというところもかなり重要なのではないかと思っておりますし、それは、先ほどどなたかの御質問にございましたけれども、いわばそれに対抗できるような形での議論、政策論争ができる能力、これは組織的な能力ですけれども、それを政党の側、政治の側が持つということが重要ではないか。

 先ほどからございますように、能力があったとしても、それを制約するような制度であるとしますと、それを変えなければいけませんし、そうした能力が発揮できるような形での制度的な基盤が必要だとしますと、それは整備していかなければならないというふうに考えているわけでございます。

 実質的な、個別的な政策をめぐりまして、どういう形で議論が展開されているかということにつきましては、今まで申し上げてきたことと若干違う方向を向いているようにお聞きになるかもしれませんけれども、私もそうした行政官の方としばしば制度をめぐって、地方分権関係もそうですけれども、議論をさせていただきますけれども、非常に緻密な法律論、非常に緻密な理論武装をして政策を考えていらっしゃいます。その能力は非常に高いわけでございまして、それと対抗できるような能力を政治の側が持つ、これも必要なことではないか。これが、必要というよりも、もっと大事なことではないか、こういうように考えております。

金子(哲)委員 それでは、きょうのお話の中にはほんの一言触れられた問題なんですけれども、住民投票の問題についてちょっとお伺いしたいと思います。

 憲法の中で規定されている住民投票というのは、第九十五条で、その特定の地域にかかわる法律が制定される場合には住民投票によって最終的に決定する。これは例えば、私は広島の出身ですけれども、広島の平和都市建設法がまさにその法律で、住民投票をやって圧倒的に支持を得て、この法律が今なおその性格を発揮しております。

 その点はさておきましても、近年、自治体にかかわる問題で、重要な課題について住民投票が行われたり、住民投票を求める声が強くなったりしていると思います。この問題は、本来ならば、議会選挙なり首長の選挙を通じてその政策を反映するというのが選挙制度の基本的なありようだとは思いますけれども、しかし、特に自治体選挙などになりますと、議員を選出する際には、必ずしも争点になっている問題で有権者が選ぶということではなくて、むしろ身近な問題、地域の問題とか、そういったところで意思表示をするということが多いわけで、結果としては、その重要な問題が選挙結果とは必ずしも一致しないというようなこともあって、住民投票を求める声が非常に強くなっているというふうに思うんですね。

 これが最近は、住民投票を求める動きも強くなっておりますが、議会で否決されて、実際には要求が通らなかったりしている事例も多いと思いますけれども、私は、今、地方自治を住民の側に身近なものとして政治をつくっていくという意味からいいますと、この住民投票という問題が一つの大きなかぎになっているのではないかというふうに思っております。その点について、先生の御意見をお伺いしたいと思います。

森田参考人 お答えいたします。

 住民投票につきましては私自身も関心を持っておりますが、最近、特に原子力発電所のみならず、いろいろな関連で住民投票の動きが出ております。

 これは、住民投票制度を設けるということで、地方公共団体レベルですと、いわゆる諮問的投票と申しましょうか、条例で定めるものであって、その選挙結果そのものが自治体の正式な決定になるものでは決してありません。あくまでも参考意見にすぎないわけですけれども、大抵多くの条例の場合には、政治的尊重義務を課しているわけでございまして、実質的な重みというものはあろうかと思います。

 こうした住民投票条例の請求が出てきた背景といたしましては、やはり住民の方が、公共施設の建設もそうですけれども、いろいろな御不満を持っていらっしゃったり、要望を持っていらっしゃる。それが本来の、議会であるとか行政に対していろいろ要求をする、そうした正規のルートではなかなか反映されないということがあろうかと思います。

 もちろん、これは国策に関する施設を地方の政策に反映させるというのはどういうことかという問題もございますけれども、そうした一種の不満ないし要望というものが、発言のルートを求めて、かなり住民投票制度に対する期待というものになっているのではないかと思っております。

 そういう意味でいいますと、まさに民意が反映されるという形での住民投票制度は、民主主義の観点からいっても望ましい、そのようにも考えられるわけでございますし、我が国の場合、今も御指摘ございましたように、憲法九十五条では、憲法上、一つの地域に適用される法律に関しては住民投票というものが定められております。さらに、まだ法律が通ったかどうか確認しておりませんけれども、今度市町村合併の特例法の改正によりまして、合併協議会の設置について、初めて法律上いわゆる拘束型の住民投票制度というものが設けられるようになったというふうに聞いております。

 ただ、この住民投票制度というのは、あくまでも住民全員の意思であるという点で大変重い決定であるわけでございますけれども、ある時点において、ある特別な問題について、しかもイエスかノーかという形で答えを聞くというものです。したがいまして、一たび決定がなされますと、それを修正するということは非常に難しいわけですし、いろいろな形で解決策があるときにも、○か×か、イエスかノーかという形で問題を提議しなければいけない。そういう意味でいいますと、この制度をどう生かしていくかということについては、大変難しい問題があろうかと思います。

 私自身、個人的にいろいろなところでそういう話をしたり研究もしたりしておりますけれども、そうした制度を設けることが、民主主義の観点からいって、否定するというわけではございませんけれども、やはり十分に議論した上で、最後の決定という形でそれを行う、そういう制度にうまく設計できないものか、その辺はまだなかなかいい知恵が出ませんけれども、考えているところでございます。少なくとも、ある問題が起こって意見が対立したときに、軽々に投票に持ち込んで決着をつけるというのは、この制度の使い方として大変危険ではないかと思っております。

 さらに申し上げますと、住民投票制度はそうした性質を持っておりますので、住民の方のいろいろな御不満であるとか要望が出てきた場合には、やはり本来のそうした要望に対してこたえるルートであるところの地方議会なり地方の行政機関の参加の仕組みというものを充実させていくのがまず先ではないか、これが私の意見でございます。

金子(哲)委員 ありがとうございました。

 住民投票、いずれにしても、できるだけ住民の声、国民の声がしっかりと反映をしていくことが議会制度の中心にならなければならないと思いますので、私もその点を望むわけですけれども、実際に起こっている問題は、往々にして必ずしも十分にそれが反映できていない場合もあるわけで、やはり住民投票というのも一つの大きな選択肢の一つかな、これだけに頼るという意味ではなくて、先生もおっしゃいましたけれども、今後検討していく方向が必要ではないかというふうに思っております。

 大変ありがとうございました。

中山会長 次に、松浪健四郎君。

松浪委員 保守党の松浪健四郎でございます。

 まず、二時から始まりましてもう三時間になろうとしておりますけれども、参考人におかれましては、長時間貴重な御意見を開陳していただいておるわけでございますけれども、感謝を申し上げなければなりませんが、数分の休憩は必要ございませんでしょうか。

森田参考人 大丈夫でございます。

松浪委員 休息は必要ないということでございまして、やはり真摯に深遠な真理の学問に打ち込まれている人はスタミナもあるんだなということで驚きを覚えます。

 この国は、長い間、官僚支配の国だ、あるいは官僚主導の国で政治が行われている、このような批判をずっと受けてまいりました。そこで、政治的任命職を拡大して、副大臣あるいは大臣政務官制を導入いたしました。これらについては、参考人は既に、まだ始まったばかりだから結論を得るに至っていない、その動向を見ていかなければならない、こういう御発言でございました。そのとおりであるかもしれませんけれども、政治主導の強化は政策への民意の反映を促進する、こういうふうに私たちは考えます。他方で、行政の専門性あるいは中立性を損なうことになる、こういう危惧もございます。

 それで、行政の政治からの遮断は、社会の変化を反映した政策転換及び行政の民意からの離反、そして行政の正当性の喪失を招くことになりかねない、このように参考人はおっしゃっておられますけれども、やはり政治主導の方が、当然のことながら、憲法の前文一行に書かれておりますように、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、」とあるように、官僚主導よりも政治主導でなければならない、こういうふうに思うわけであります。これからどんどんこの政治的任命職が広がっていく可能性がある、こういうふうに思いますし、私ども与党の人間はどんどん政府の中に入って仕事をしていくべきだ、こういうふうに考えておりますけれども、参考人の御意見はいかがでしょうか。

森田参考人 お気遣いいただきましてありがとうございました。

 今の御質問に対するお答えですけれども、現在の行政と政治の関係、政治と行政の関係というのは、先ほどの冒頭の話でも申し上げましたように、これは一つはバランスの問題でございます。政治と行政の境界線をどこに引くのが制度上望ましいかという話でございまして、一〇〇%民主的なコントロールが望ましく、一〇〇%官僚支配というのはもちろんあり得ない、よくない、両方とも度を過ぎた場合にはやはり問題が出てくるわけでございまして、どの時点でバランスをとるのかということでございます。

 私が申し上げたかったのは、我が国の場合には、もう少し政治のリーダーシップといいましょうか、行政に対して政治が入っていくということがあってもいいのではないか、政治の軸をもう少し行政の軸の方にずらすという形での制度のあり方が望ましいのではないかということを申し上げたわけでございまして、そのために障害になっているさまざまな制度上の考え方が何かということを申し上げてきたつもりでございます。

 ただ、これはバランスの問題と申し上げましたのは二点目のことにかかわってまいりますけれども、政治的任命職をふやすということは、確かにそういう意味でいいますと望ましいことですけれども、アメリカで行政学が誕生した経緯は、冒頭に申し上げましたように、アメリカの場合には、過度の民主主義が制度の中に取り入れられておりました。非常に多くの人が政治的任命職だったわけですけれども、そこから何が起こってきたかといいますと、やはり政治的な腐敗と、行政における非能率とか不合理が起こってきたわけでございます。

 現代の場合には、行政の難しさというのはもっと水準が高いものになっておりますので、そこのところのバランスをどうするのか。政治的任命職をふやすとしても、その人たちの役割、あるいはその人たちの倫理規範というものをどのように考えるのか。それはセットで考えなければ、政治的任命職をただふやせばいいというわけではもちろんないわけですけれども、その辺の制度をどう設計していくかというのが、非常に難しいけれどもこれから必要な論点である、そのように考えます。

松浪委員 この前新聞を読んでおりますと、航空・鉄道事故調査委員会委員長の時給が八十四万円というふうに新聞に出ておりました。当然これは高いという批判であります。しかし、よく読んでみますと、それは、それだけの時間しか会議が開かれていない、しかしながら、毎日のように役所に来て、日進月歩の最新技術、高度化していく技術等について研究をしておるというふうな解説もついておりましたけれども、何ともうらやましいという印象を読者が受けるような形でありました。

 景気がこれだけ低迷してまいりますと、日本人は何と申しましても親方日の丸的意識を十分に持っておりまして、公務員になりたい、安全な職業につきたい、こういうような人たちがふえてまいります。

 かつて福沢諭吉は、能力のある人間は産業界に出ていけ、そして業を起こして社会、国のために貢献しろというようなことをおっしゃいました。ところが、近年、押しなべて優秀な人間がどうも公務員に走っているのではないのか。そして、この国の伝統としては、例えば中国の古くからある科挙、これらの伝統を引いてきて、この国も、公務員になる、高級官僚になるのは難しいんだ、こういうふうに言われ、その伝統を今も引いているような気がするわけです。高等教育機関等において人材を育成するときに、優秀な人材を公務員として政府あるいは役所に送り込むことが国家として得策なのか、あるいは民間の企業等に人間をある程度送り込まなければいびつな国家、社会になってしまうのではないのかというような心配をしております。

 となりますと、公務員の待遇の問題それから将来、天下りの問題。天下りの問題も極めて批判が大きいわけでありますけれども、しかし、人事という面について考えてみましたときには、ある意味では天下りも必要ではないのか、こういうふうに私は思っております。

 ただ、行政改革、特殊法人の改革等で極めて厳しい意見が公務員に出されておりますけれども、今、何点か申しましたけれども、これらについての御意見をお伺いしたいと思います。

森田参考人 お答えいたします。

 冒頭の何とか審議会の委員長の給与の額ですけれども、その給与の額が高いか低いかということについて私は何とも申せませんし、もう一つ申し上げますと、いわゆる一般職の公務員の方とこういう特別職の方と同じレベルで議論するというのは少し無理があるのかなということを最初に印象として申し上げておきます。

 次に、公務員制度のあり方ですけれども、おっしゃるように公務員にも優秀な人材が集まる、民間企業ではなく、優秀な人材が集まっているのかもしれませんけれども、これは何が優秀かということもございますけれども、公務員ばかりが優秀な人材が集まっているとも必ずしも言えないのではないかと思いますし、公務員には優秀な人材が要らないということもまして言えないと思います。そこは、どちらも優秀な方がそれ相当にお入りになる、そういう世界であっていいのではないかと思います。

 さらに申し上げますと、公務員の世界に優秀な人材が行くとか民間企業に優秀な人材が行くという場合に、前提とされている人事のあり方は、やはり終身雇用制というものを念頭に置かれているのではないかなという気がしております。

 これは、確かに今までの公務員の場合には、一種の公務員という身分になったら一生そこで過ごす、したがって天下りの問題も出てきたということでございますけれども、最近は、この制度のあり方自体を少し見直す必要があるのではないかという議論も出てきておりますし、実際の問題といたしまして、職種間の流動性というものも高まってきているのではないかと思います。

 海外なんかの場合を見ますと、こうした、いわゆるクローズドシステムといいましょうか、閉ざされた公務員制度を採用している国もございますけれども、最近の行政改革が進んでいる国におきましては、むしろ公務員制度をオープンにする、それぞれの職には公募して優秀な人を入れてくるという仕組みを採用しようとしているところが出てきているわけでございます。そこでは、それ相当の能力のある人はそれ相当の報酬とそれ相当の、金銭的報酬のみならず社会的な報酬があって初めてそういう人たちが来るわけでございまして、そうした社会におけるエリートの中にもある程度の市場メカニズムというものが入ってくる、そういう方向へ向かっていくのではないかと思います。

 現在の公務員制度の改革で、そうした要素も含めた形での改革も検討されているように聞いておりまして、そこのところはこれからは少し変わってくるのではないかな。変わってくるとしますと、今先生が問題とされたようなところもまた違った形であらわれてくるか、あるいは解決するか、そうなるのではないかな、そのように考えております。

松浪委員 話は変わりますけれども、我々、私はまだ国会に議席をいただいて五年しかたたないわけでありますけれども、毎日のように参議院の先生と一緒に勉強をしておるわけであります。

 ところが、二院制でありますから、院には院の特徴があって若干の違いがあります。特に、憲法第五十四条、五十九条、六十条、そして六十七条は、読み方によれば衆議院の優位性を示している、こういうふうな気がするわけであります。

 こういう憲法に基づいて国会が運営され、そして民主的に機能を果たしている、こういうふうに思いますけれども、帝国議会にありましては、衆議院と貴族院はどういう関係にあって、現在の二院制とどういうふうに違うのか、これをお示しいただきたいと思います。

森田参考人 私、憲法史あるいは憲法学の専門ではないので正確なことあるいは詳しいことは存じませんけれども、明治憲法下におきます貴族院の場合には、いわゆる貴族という身分の中から任命されるということで、選挙で選ばれるわけではないわけでございます。そういう意味でいいますと、これはかなり特殊な、民主主義の民意を反映した機関として位置づけるということはできないのではないかと思っております。

 明治時代になぜ貴族院がつくられたのか。これはイギリスでも現在ございますし、そのあり方をめぐって議論があるというふうにも聞いておりますけれども、一つは、明治政権をつくった方々が、安定した政権を維持するために、維新後の混乱でさまざまな政治勢力が出てきた、自由民権運動とかいろいろ運動があった、そうした政治勢力に対して安定した政権基盤をつくる。

 そのためには、わかりやすく言いますと、そうした民意を反映する場として衆議院をつくったわけですけれども、その衆議院の役割というものをある程度限定したものにする。別な言い方をしますと、衆議院に対して牽制をするためのさまざまな仕組みを考えておく、そういう配慮があったのではないかというふうに考えております。その一つとしまして、同じ帝国議会でありながらも、いわば天皇が任命する形での貴族院を置くと。

 また、先ほど申し上げましたように、天皇の統治権、行政権というものと議会の間にはかなり深い溝を入れて、両者は別の世界で行く、そうした制度設計上、統治構造の設計の配慮があったのではないかというふうに推測しております。

 戦後の参議院においてそれがどういうふうに連続されたのかということについては、ちょっと私は詳しくは存じておりません。いろいろと調べたり聞いたりしておりますけれども、参議院の性格づけそのものはかなり早い段階からそういう議論も行われているようでして、明確に私自身が、なるほどそうなのかというような説明の理由というのはいまだもってまだ見ていないというのが正直なところでございます。

 したがいまして、今の議員のお尋ねについて、真っ正面からこうであるというふうにはお答えできないというのが正直なところでございます。お許しいただきたいと思います。

松浪委員 どうもありがとうございました。時間が参りましたので、これで終わります。

中山会長 次に、近藤基彦君。

近藤(基)委員 21世紀クラブの近藤基彦でございますが、先生には長時間、大変御苦労さまでございました。最後の質問でございますので、もうしばらくだけ辛抱していただきたいと思います。

 先生は行政学の御専門ということで、ずっと国サイドの行政ということで、各省庁、今年から再編されて、ある意味スリムな形、国の財政難も含めて、縦割りの官僚から、政府としては小さくなるのかもしれませんが、役所としては少し大きくして横の連携、あるいは財政的にも少し規模を大きくして、ある意味国民へのサービスをよくすると、いろいろな目的があったんだろうと思います。行政的な面でもかなり高度になってきておるということでありますが、これはひとしく言えば地方でも同じ現象が起こっているんだろう。

 明治の大合併あるいは昭和の合併、二十八年前後ぐらいでしょうか、大体五十年に一遍ぐらいずつ合併という話が出てきているように思う。明治の合併は大概今年度が百周年という形で各地で記念事業が行われておりますし、昭和の合併の方は大体五十年ということで、来年、再来年行われるやに聞いております。

 地方の方は、行政の高度化というのもありますが、財政難というのが一番の問題点かなという気がいたします。ただ、十七年度までの特例ということで、中には、先ほど先生がおっしゃった住民投票法も含まれて特例措置が設けられておるわけであります。先生お書きになったところに、幾つか分類をなされて合併の形状的なものをお書きになっておりますけれども、私どもの選挙区ですと、やはり中山間地を多く抱えて、あるいは離島を抱えておるわけなんですが、そういったところの合併に関して、何となく今私どもの県でも、一律、似たような形の、ある意味人口で割ったというような、あるいは地形的な部分でつくられたという、それぞれの特徴がなかなか生かし切れないでいるんですが、その点、先生、何かいいアイデアがあればお聞かせいただきたいと思うんです。

森田参考人 最初にお答えしますと、いいアイデアはなくて、私もいろいろと考えあぐねているところでございます。

 合併の問題につきましては、今大変大きな議論になっておりまして、私も地方分権推進委員会のときから、あるいは旧自治省での合併研究会の座長をやらせていただきまして、いろいろと、合併推進の立場で発言したりお手伝いをさせていただいております。

 その観点から見ますと、今日市町村合併が進められますのは、やはり財政上の問題が一番大きいと思いますけれども、他方におきましては、この合併は、今五十年ごとに行われているというふうにおっしゃいましたけれども、今問題になりますのは、ある意味でいいますと、五十年後の日本の地域社会の姿でございます。

 その場合に、二〇〇七年とかそれぐらいと言われておりますけれども、我が国は恐らく歴史上初めて、人口がそこから減少し始めるという傾向を迎えます。それが均等に減少するならともかく、地域的な格差がございまして、特に農村部における人口減少が進むであろう。その場合には、先立って高齢化も進むであろう。その中で、今のような社会福祉を初めとします行政サービスを地域社会で今後も維持していくためには何が必要なのであるか、これが合併問題の中で一番大きな課題でございまして、これに対する一番いい方策は何かというのを検討しているところでございます。

 一つは、合併することによって、スケールメリットを働かすことによって、それだけの能力をできるだけ維持する、サービスを効率的に供給する仕組みを考えるべきではないかということでございます。ただ我が国の場合には、人口が三百五十万近い横浜市も、あるいは二百人ぐらいの村が二つほどございますけれども、そちらも同じ基礎的な自治体として位置づけられております。もちろん、政令指定都市制度を初めとしまして、配分されている事務権限においては差がありますけれども、基本的な基礎自治体として同じ仕組みがベースにあるということでございます。

 それでいいのかどうか、合併して大きくすることによって問題が解決するのかどうか、これは大変難しい問題でございまして、今お話しございましたように、離島であるとか中山間地の場合には、もし一定の効率性を発揮する規模まで合併するということになりますと、相当広大な面積をカバーしなければいけない。それを一つの基礎自治体とすることが果たして地域社会のあり方として望ましいのかどうか、これは大きな問題でございます。

 現在のところは、都市化に対する対応であるとか、行財政能力を強化するという意味で合併が望ましいと考えられるところは多数ございますけれども、今おっしゃいましたような一部の中山間地域のようなところにおいては、これはかなり難しいということも確かかと思います。まだ私も詳しくは把握しておりませんけれども、恐らくその場合には、これからはそうした中山間地域のあり方も含めて、今までとは違った形の自治体の仕組みというものを検討していかなければいけないのではないか。

 これは、それこそ百年ぐらい続いてまいりました都道府県、市町村制度を見直すということになるのかもしれませんけれども、そういう課題といいましょうか、そういう観点からの検討が必要なのではないかということが言われ始めているところであると認識しております。

近藤(基)委員 最後に先生の方で、都道府県、市町村制の見直しというお話でありましたけれども、その延長線上で、以前にこの憲法調査会でも道州制という議論が多少質問の中でなされたことがありますが、道州制ということになれば、国としては連邦政治ということになるのかもしれませんが、その辺は先生、何かお考えがありますでしょうか。

森田参考人 道州制の話はかなり前から出ておりまして、最近、市町村制、都道府県制の見直しという観点から、またかなり活発に議論されるようになってきたかと思います。

 なお、一言お断りしておきますと、連邦制といいましても、アメリカとか西ドイツのような連邦制の場合には、恐らく我が国の憲法を根本的に改正しなければあの形での連邦制はできないと思いますので、いわゆる連邦制に近いような道州制というのは、現在の憲法体制のもとで大きな単位をつくり、そこに大きな権限を法律上付与する、そういうものと考えられるのではないかと思います。

 道州制については、その単位を大きくする、それによって広域化した、特に大都市圏などにおきます行政をより効率的に、そして円滑に行うあり方として言われているところでございますけれども、私自身、関心は持っておりますけれども、まだまだもっと議論をしなければならない論点がたくさんあるのではないか。その論点が必ずしも議論されない段階で、道州制の導入ということを余り早急に考えるべきではないのかなという気がしております。

 一点申し上げますと、道州制、州というものを置くとしまして、その州の中のまさに統治機構といいますか行政組織をどのように考えるのか。州知事は大統領制にして公選にするのか、あるいは、先ほどから出ております議論ではありませんけれども、議院内閣制にして間接的に選ぶのか。

 これは、もし直接公選、今の県知事と同じような形での公選ということになりますと、首相公選ではありませんけれども、相当強大な権限、権力を持った方が知事になるわけでございまして、そこと議会の関係をどうするのかは、ある意味でいいますと首相公選論とパラレルな議論になるかもしれませんけれども、そういったことについてやはりきちっと詰めて議論した上で、さらに検討を進める必要があるのではないか、そのように認識しております。

近藤(基)委員 私の選挙区で住民投票が二度行われております。一つは巻町の原発建設に対する住民投票、それから、ついこの前行われました刈羽村でのプルサーマル導入問題。いずれも国策を否決された形の結果になっております。

 その結果云々は別として、私自身は、例えば合併したときに町の名前をどうするかとか、あるいは、その地域の中の問題でどうかという住民投票はあってもいいのかなという気はするのですが、しかし、国策を反映するような問題の場合、イエス、ノーの結論を出すに当たって、刈羽の場合は実は中間を設けた。○、△、×みたいな形で中間を設けたのですが、中間がかなり多いのかなと思っておったら、○、×どちらかにほとんどの方がつけていた。

 ただ、住民投票ですからイエス、ノーということになるのですが、その後のしこりが非常につらいものが実はあります。国策ですから、諮問型にしても、それを重く受けとめることは確かでありますが、それでは国の立場として、地域の住民がノーと言ったので、ではやめますと言うわけにもいかず、逆に説得に当たるというような形で、地域が二分されたような形で最後までしこりが残る。巻町など、数年前ですが、今でもしこりが残っているような状況があります。

 ですから、相当国民的な、全国的な議論が行われた中で当該地域の人の意見を聞くということはいいのかもしれませんが、全くそこの地域だけの利害関係で住民投票が行われたという、どちらかというと、最悪の結果になったような気が実はするのです。住民にアンケートをとる程度のことならばいいのかなとは思うのですが、その点、住民投票に関する先生の、先ほどもちょっとお話を伺いましたけれども、もう一度お願いしたいと思います。

森田参考人 お答えいたします。

 住民投票制度を導入する場合、今一番大きな問題になりますのは、今おっしゃいましたように、国策にかかわるようなことを住民投票の対象にできるのかどうか。これは、住民投票の対象事項というような呼び方をしていますけれども、その範囲をどうするかというのが大変難しゅうございます。

 確かに、原子力発電所とか米軍基地であるとか、そうした事項について、一地域の住民投票で物事を決めるのがなじまないということはかなりはっきりしておりますけれども、それでは地域の意向をどういう形で反映させるのか。別の仕組みを考えた場合、これまた大変難しいことがございます。ただ、巻町の場合もそうですけれども、直接原子力発電所そのものを問うたのではなくて、発電所の建設のために必要な私有地の売却についての投票という形だったと思いますので、そういたしますと、いわゆる市町村に属する権限の範囲内では投票はいいけれども、それ以外のことはだめだという基準も使えない。

 ここのところはいろいろと制度について検討している場合も一番悩ましいところでございまして、一番確実なのは、今も出ましたけれども、市町村の名称とか役場の位置とか、これは全く反対はないだろう。しかし、合併の問題になりますと、隣接するところの意見はどうなるのか。片方だけ投票して賛成で、片方は反対したという場合にはどう考えるのかということもございますし、さらに、例えばごみ処理施設等の施設の建設にいたしましても、広大な面積を持つ地方自治体の端っこの方にそういうものをつくる場合に、その市域全部で投票するということが果たして適正な投票の決定の仕方であるかどうか、こうしたテクニカルな問題が非常に多くございます。

 いずれも、いろいろ考えて解決策を探しているわけでございますけれども、なかなかいい方法がないわけでございまして、結論的に申し上げますと、原子力発電所のような問題について、国策にかかわるようなことについては、やはり住民投票はなじまない。むしろ別な形での、地域の意向をどうくみ上げるか、どのように話し合うのか、そこのところの手続は相当コストをかけてもいいのではないかと思いますけれども、それを投票によって決めるということはかなり問題があるのではないかと思います。

 今、住民投票制度を設けるという要望が随分出ておりますけれども、それの一番の問題点と思いますのは、そのことについてどうも多数派の支持が得られそうだと思ったところが政治的に利用する、それでもってこのことを決着して固めてしまおう、そういう形で住民投票が使われるというのが一番よくないのではないかと思っております。その意味でいいますと、今の質問に対するお答えになるかどうか知りませんけれども、やはり伝家の宝刀としてなるべく抜かないような形でつくる、同時に、そのほかのそうした問題については別の解決の方法を一生懸命考える必要があるのではないか、その場合の特に地方議会の役割は大変重要ではないか、かように考えます。

近藤(基)委員 どうもありがとうございます。

 一番の責任は、多分、有権者に選ばれている我々政治家、地方議員も含めて、我々が民意をなかなか酌み取れないという、我々に一番責任があるんだろうと思いますので、最善の努力をまた尽くしたいと思います。本当にきょうはありがとうございました。

 以上、終わります。

中山会長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、一言ごあいさつを申し上げます。

 森田参考人におかれましては、貴重な御意見を長時間お述べいただきまして、まことにありがとうございました。調査会を代表いたしまして、厚く御礼申し上げます。(拍手)

 次回は、来る十一月二十九日木曜日幹事会午前八時五十分、調査会午前九時から開会することとし、本日は、これにて散会いたします。

    午後五時十三分散会


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