衆議院

メインへスキップ



第4号 平成13年11月29日(木曜日)

会議録本文へ
平成十三年十一月二十九日(木曜日)

    午前九時二分開議

 出席委員

   会長 中山 太郎君

   幹事 石川 要三君 幹事 津島 雄二君

   幹事 中川 昭一君 幹事 葉梨 信行君

   幹事 保岡 興治君 幹事 鹿野 道彦君

   幹事 中川 正春君 幹事 細川 律夫君

   幹事 斉藤 鉄夫君

      伊藤 公介君    伊藤 達也君

      今村 雅弘君    小渕 優子君

      奥野 誠亮君    高村 正彦君

      佐田玄一郎君    下村 博文君

      菅  義偉君    中曽根康弘君

      中本 太衛君    中山 正暉君

      西田  司君    鳩山 邦夫君

      二田 孝治君    松野 博一君

      三塚  博君    森岡 正宏君

      大出  彰君    岡田 克也君

      小林 憲司君    今野  東君

      島   聡君    首藤 信彦君

      仙谷 由人君    筒井 信隆君

      中村 哲治君    山田 敏雅君

      上田  勇君    太田 昭宏君

      都築  譲君    藤島 正之君

      塩川 鉄也君    春名 直章君

      山口 富男君    植田 至紀君

      金子 哲夫君    松浪健四郎君

      宇田川芳雄君

    …………………………………

   参考人

   (中部大学中部高等学術研

   究所所長)       武者小路公秀君

   参考人

   (城西大学経済学部教授) 畑尻  剛君

   衆議院憲法調査会事務局長 坂本 一洋君

    ―――――――――――――

委員の異動

十一月二十一日

 辞任         補欠選任

  近藤 基彦君     宇田川芳雄君

同月二十九日

 辞任         補欠選任

  佐田玄一郎君     中本 太衛君

  松本 和那君     松野 博一君

  山口 富男君     塩川 鉄也君

  土井たか子君     植田 至紀君

  野田  毅君     松浪健四郎君

  宇田川芳雄君     近藤 基彦君

同日

 辞任         補欠選任

  中本 太衛君     小渕 優子君

  松野 博一君     松本 和那君

  塩川 鉄也君     山口 富男君

  植田 至紀君     土井たか子君

  松浪健四郎君     野田  毅君

同日

 辞任         補欠選任

  小渕 優子君     佐田玄一郎君

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 日本国憲法に関する件(二十一世紀の日本のあるべき姿)

 派遣委員からの報告聴取




このページのトップに戻る

     ――――◇―――――

中山会長 これより会議を開きます。

 日本国憲法に関する件について調査を進めます。

 去る十一月二十六日、愛知県に、日本国憲法に関する調査のため委員を派遣いたしましたので、派遣委員より報告を聴取いたします。鹿野道彦君。

鹿野委員 団長にかわり、派遣委員を代表いたしまして、その概要を御報告申し上げます。

 派遣委員は、中山太郎会長を団長として、幹事葉梨信行君、委員鳩山邦夫君、委員島聡君、幹事斉藤鉄夫君、委員都築譲君、委員春名直章君、委員金子哲夫君、委員宇田川芳雄君、それに私、鹿野道彦を加えた十名であります。

 なお、現地において、小林憲司議員、牧義夫議員、瀬古由起子議員及び大島令子議員が参加されました。

 十一月二十六日、名古屋市のウェスティンナゴヤキャッスル会議室において会議を開催し、まず、中山会長から今回の地方公聴会の趣旨及び本調査会におけるこれまでの議論の概要の説明、派遣委員及び意見陳述者の紹介並びに議事運営の順序を含めてあいさつを行った後、名古屋大学名誉教授田口富久治君、主婦西英子君、岐阜県立高等学校教諭野原清嗣君、名古屋大学大学院法学研究科博士課程後期課程川畑博昭君、弁護士古井戸康雄君及び大学生加藤征憲君の六名から意見を聴取いたしました。

 その意見内容につきまして、簡単に申し上げます。

 田口富久治君からは、憲法は軍事的な国際貢献は想定しておらず、我が国は、今後も、国連難民高等弁務官事務所やユニセフ等を通じた非軍事的な国際貢献をなすべきであるとの意見、

 西英子君からは、日本は、平和的生存権の保障など憲法前文の理念に従って国際社会における役割を果たすべきであり、途上国への経済援助に際しては、貧困層の人々まで手の届くものとし、伝統的な生活様式や自然環境を破壊しない配慮が必要であるとの意見、

 野原清嗣君からは、大人が子供に対し、ルールやマナーを教えていないことを示すデータにかんがみて、自国の安全を他人任せにする憲法前文と九条に問題があり、普通の国が持つ自衛権を憲法上明記し、前文も日本人の顔が見える格調あるものとすべきとの意見、

 川畑博昭君からは、ペルーの日本国大使館に勤務した際に爆破テロに遭遇した経験を踏まえて、テロに対しては、暴力によってではなく、対話により解決を図るべきであるとの意見、

 古井戸康雄君からは、日本は国際社会における評価ではなく、国益の観点でその役割を考えるべきであり、資金援助中心の国際貢献だけでなく、人による国際貢献にも重点を置き、そのために人材育成を行う必要があるとの意見、

及び

 加藤征憲君からは、日本は国連の安全保障理事会常任理事国入りを果たし、核廃絶にリーダーシップを発揮すべきであり、そのためには、強いリーダーシップを持った首相を選ぶことが期待できる首相公選制を導入すべきであるとの意見

がそれぞれ開陳されました。

 意見の陳述が行われた後、各委員から、我が国のテロへの具体的対処法、環境に関する権利及び義務を憲法に明記することの是非、国連の警察軍的活動に自衛隊を参加させることの是非、テロ問題解決のための国連の役割、テロ特措法と憲法の関係、教育の現場における憲法についての教育の実情などについて質疑がありました。

 派遣委員の質疑が終了した後、中山団長が傍聴者の発言を求めましたところ、傍聴者から、

 平和憲法の理念を具体的に生かすべきであり、また女性の意見陳述者をふやすべきであるとの意見、

 憲法の重要性について子供たちに伝えるべきであるとの意見、

 憲法制定の経緯にかんがみて、日本人自身が議論をして憲法をつくり直すべきであるとの意見、

 日本が九条がありながら軍事力を拡大するなど、信用を失墜させており、平和憲法の理念を生かすべきであるとの意見、

及び

 日本国憲法は世界の英知を集め、国会の審議を経てつくられたものであり、平和憲法の立場を世界に示すべきであるとの意見

が述べられました。

 なお、会議の内容を速記により記録いたしましたので、詳細はそれによって御承知願いたいと思います。また、速記録ができ上がりましたならば、本調査会議録に参考として掲載されますよう、お取り計らいをお願いいたします。

 以上で報告を終わりますが、今回の会議の開催につきましては、関係者多数の御協力により、極めて円滑に行うことができました。

 ここに深く感謝の意を表する次第であります。

 以上、御報告申し上げます。

中山会長 これにて派遣委員の報告は終わりました。

 ただいま報告のありました現地における会議の記録は、本日の会議録に参照掲載することに御異議ございませんか。

    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕

中山会長 御異議なしと認めます。よって、そのように決しました。

    ―――――――――――――

    〔会議の記録は本号(その二)に掲載〕

    ―――――――――――――

中山会長 日本国憲法に関する件、特に二十一世紀の日本のあるべき姿について調査を進めます。

 本日、午前の参考人として中部大学中部高等学術研究所所長武者小路公秀君に御出席をいただき、人権保障に関する諸問題について御意見をお述べいただくことになっております。

 この際、参考人の方に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたいと存じます。

 次に、議事の順序について申し上げます。

 最初に参考人の方から御意見を四十分以内でお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。

 なお、発言する際はその都度会長の許可を得ることになっております。また、参考人は委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。

 御発言は着席のままでお願いいたします。

 それでは、武者小路参考人、お願いいたします。

武者小路参考人 武者小路でございます。きょう、参考人としていろいろ発言させていただきますことを、とても名誉に存じております。

 忌憚のない話をというお話なので、かなり忌憚のない、もしかするととげのある話をするかもしれませんが、その点はあらかじめお許しいただければと思います。そうはいっても、そんなに乱暴なことは申しません。ただ、尊敬する幾人かの先生方のお名前を出して、それでわかりやすい話にさせていただきたいと思います。

 きょうは、人権保障についてお話をしろという御指摘でございますので、人権保障の問題で憲法のこととどういう関係が問題になるかというところをお話しさせていただきたいと思います。

 一番先に、何を言おうとしているのかを先に申し上げた方が後の話がわかりやすいかと思いますので、種明かしをまずさせていただきたいと思います。

 つまり、人権保障の問題については、いろいろ国連の人権委員会で取り上げられておりまして、ことしも三月に、人権委員会の中の人種差別撤廃委員会で日本政府の報告が審議されました。

 その審議のときの委員会の最終所見がございまして、そこで幾つか相当厳しい日本の人権保障の問題についての問題点の指摘がございました。ちょっと手違いで、それをあらかじめお配りしてお話をさせていただきたいと思っていましたが、それが間に合いませんので、後で確かめていただければと存じます。

 そのことをお話し申し上げまして、その後で、一つ一つの人権の問題は実はばらばらな問題ではなくて、一つの問題にみんな集約されているということについて、そこで森総理の神の国発言に触れさせていただきたいと思います。森総理の発言がけしからぬということでお話をするのではなくて、今のグローバル化の中で日本が一つにまとまっていくためにどうしたらいいか、非常に苦労なさっていらっしゃる、そういうことで申し上げたいと思います。

 ただ、私がねらっておりますことは、日本だけで一つ固まっていくということはこれからとても難しい、むしろ日本人以外のいろいろな人たちがどんどん日本に入ってくる、そういうときの日本の国家理念というものをはっきり持つ必要がある。今までの国家理念というのは、日本が固まって一丸になるという国家理念だったけれども、それはもうこれからはなかなか使えないのではないか。そういう国家理念がもとになって人権法の法理念が出てきますから、そこの関係についてちょっと説明をさせていただきたいと思います。

 それで、新しいグローバル化の時代の国家理念としてはどういうことが必要かということで、実は、かなり忌憚のないというか乱暴な話で、昔の話に戻りたいと思います。

 つまり、聖徳太子の和の精神というものをどう解釈するかということに戻りまして、和というものを、日本人だけが集まって固まって和をとうとぶというのではなくて、日本の中にいろいろなエスニック集団がいて、その間の和をとうとぶというのが本来の聖徳太子の和であった。それが何か日本人だけで和をとうとぶという話になっちゃったところに問題があり、その問題を乗り越えようとして出てきたのが日本国憲法の前文にある平和的生存権ではないか。その生存権という言葉は使わないで、今、日本政府は国際的に非常に注目すべき理念を日本の国家の理念として売り出している。これは人間の安全保障という考え方です。

 その人間の安全保障という理念は、世界の理念でもあり日本の国家の理念でもあるということができれば、日本の国家は開かれた国家になり、人種差別撤廃委員会で指摘されているような問題はかなり解消されるのではないか。そういう日本の中の人権問題を解消するためには、人間の安全保障、そして人間の安全保障の法理念として掲げている平和的生存権という、日本国憲法の前文の考え方を一つの理念としてはっきり確立することがとても大事なのではなかろうかということをお話しさせていただきたいと思います。細かい人権のそれぞれの問題よりも、そういう理念をお立ていただくということが、とりもなおさず憲法のことを考えるときに一番大事ではないかということです。

 まず、国連の問題指摘、人種差別撤廃委員会では、ことしの三月八日から九日にかけて、日本の政府が、人種差別撤廃条約を締結したときに約束をしている国としての報告、ナショナルリポートを提出しました。

 それに対して、人種差別撤廃委員会でいろいろな委員からいろいろな質問が出まして、それに外務省、法務省、それから文部省その他幾つかの省庁からも出席されまして、それで、委員会を構成しているのは政府の委員ではなくて人権の専門家でありますが、その専門家のいろいろな質問に答えられました。その答えたことに対して、また専門家たちの方でいろいろ話し合って、そして最終的に自分たちはこう考えるということをまとめました。それが最終所見というもので、その最終所見を日本国政府は持ち帰りまして、それでそれに対する反論もちゃんとしております。その反論で、私が納得するところもあるし納得しないところもありますが、委員の方々は余り納得していないように聞いております。

 この最終所見は、次の日本国による報告、これはあと二年後に提出しなければいけないのですが、そこで、最終所見でこういうことをやってくれと言われたことをやって報告書をまとめるということになっております。

 この最終所見、皆さんの手元にまだ配っていないので、非常に簡単にざっと申し上げておきます。

 まず第一に、最終所見は悪いことばかり言っているのではなくて、肯定的な側面があるということで、例えば、「委員会は、アイヌ民族をその独特の文化を享受する権利を有する少数民族であると認定した最近の判決を関心をもって留意する。」というように褒めているところがあります。

 その後で、「懸念事項および勧告」ということで、まずこの報告書の中でもう少しいろいろな情報を、統計的な情報も含めて、韓国・朝鮮人のマイノリティー、部落民及び沖縄人集団を含む、条約の適用対象とするすべてのマイノリティーの状況を反映した経済的及び社会的指標の情報を置いてくれということがあります。これに対して、日本国政府は、沖縄民族はマイノリティーではない、でも委員の方では、固有の文化を持ったマイノリティーではないかということを言っております。

 それから、部落民については、ディセントの問題、世系あるいは門地、門地差別ということが、日本政府としては、これが人種差別撤廃条約には入っていない、要するに人種主義ではない、問題は問題かもしれないけれども、何もそれを報告することはない。委員会の方では、人種差別撤廃条約でディセント、世系というのがちゃんと入っているから、部落差別もちゃんと報告しろというようなことを要求しております。

 詳しいことは後でごらんいただければと思いますけれども、部落差別の問題、それからさっき言いました沖縄人差別の問題、在日朝鮮人・韓国人差別の問題、それから例えば、もっと一般的な、日本に居住する外国籍の子供に関する初等教育及び前期中等教育の義務教育となっていないことに留意する、だから、それを受ける権利を与えなければいかぬというようなこと、あるいは在日韓国人・朝鮮人の民族学校、朝鮮学校を含むインターナショナルスクールの卒業者が日本の大学に入れない、それから、アイヌ民族の権利についてもさらに努力をすべきであるというようなことがいろいろ出ております。

 それで、そのことについて考えます場合に、二つのやり方がございます。

 外務省は、当然、日本で今支配的な考え方になっています解釈法学に基づいて、どこどこの問題は、例えば部落問題はこれこれの理由で法的に条約に含まれていないとか、そういう細かいことで説明をしています。

 ただ、私がきょう憲法調査会の先生方に御提案させていただきたいことは、この人権法、ほかのことでもそうだと思いますけれども、特に人権法の問題は、これは単なる解釈法学では取り上げ切れない問題ではないかということを問題提起させていただきたいと思います。

 私が勉強したところでは、公法学は専門ではないのですけれども、公法学の考え方の中に、これはフランスの制度学派の考え方なのですが、法律を解釈するときには、法規範がどのように形成されたかというその形成過程を大事にする。法規範が形成されるその前提には、必ず何らかの法理念がある。だから、法理念をまず明らかにして、その法理念は幾つかの政治勢力が新しく出てきて、それが新しい法理念というものを提案する、その政治的な過程のこともちゃんと研究した上で、どういう形で、どんな法理念が提案されているのかということを調べた上で、それで法規範を解釈するということを行うのがその制度学派の考え方です。

 そこで考えますと、人権法の問題につきましても、解釈法学的に、この法律はこういうことでやっているんだ、アイヌ民族についてはこういうふうなことで、こういう法的なことが基本にあってこうやっているんだという話をすることはよろしいわけです。

 ですけれども、私が問題提起させていただきたいのは、いろいろ人種差別撤廃委員会で問題にされたことと、それから日本の人権保障についての実績というものとの関係を私なりに乱暴に整理したいと思います。乱暴に整理しますと、日本は人権法をちゃんと確立し、またかなりその人権を守っている国の一つではないかと思います。これは先生方も皆さんそうお思いになるでしょうし、当然のことを言っているとお思いになるかもしれません。

 アメリカなんかではいろいろな人種差別の血なまぐさい事例も、殺されたり、焼き殺されたりということがかなりありますが、日本ではそういうことはない。そういう意味では、かなり日本は人権の面で誇るに足る成績を持っているということをまず確認できると思います。

 ただ、それは裏の面の問題がありまして、日本の人権は、平均的な日本人の人権、そして平均的な日本人の生活の安全を保障するということ、そういう枠の中で、普通でない日本人の権利をいろいろ無視する場合がかなりあるという問題があるかと思います。

 国連でも問題になっていますし、日本で仕事をしているNGOのアムネスティが一生懸命言っていることでありますけれども、死刑廃止の問題があります。死刑を廃止しろという主張がなぜ国連でも多数を占めているかと申しますと、これはすべての人の権利ということを考え、死刑で死ぬ人の人権ということを特に大事にいたします。

 ですけれども、日本の場合に、死刑を廃止しないという考え方は、後ほど御叱責があれば甘受いたしますが、死刑廃止をなぜしないかというと、死刑を廃止したら、まともな普通の日本国民が、殺人とかいろいろ悪いことをしている例外的な日本人の犠牲になるではないか、だから、社会の秩序、社会の和、そういう治安の方が大事で、そのためには悪いことをしている非常に数の少ない人たちの人権というか、生命を絶つということもいいであろう、そういう判断ではないかと思います。

 ですから、マイノリティーの問題だけではなくて、例外的な人たちの問題ということは案外、要するに、大の虫のために小の虫を殺すというようなところがあるのではないかと思います。

 そこのところで、先ほど申しました人種差別撤廃委員会では、日本人以外の人たち、在日コリアン、在日朝鮮人・韓国人、あるいはニューカマーと呼ぶ場合もありますけれども、そのほかの日本に居住する外国籍の移住してきたいろいろな国の人々、あるいはその人々の中でも、子供たちの権利がうまく守られていないということを指摘しております。

 この問題は、先ほどちょっと申しましたように、グローバル化が進みますと、どうしてもたくさんの日本人でない人たちが日本に入ってまいります。そこで、日本に入ってまいりますと、その人たちとどう仲よくするかという和の問題は、日本人だけの和の問題ではなくて、日本人でない人たちとどううまくすみ分けていくか、うまく共存共生していくのかという問題がかなり大事になります。

 そういうことで、また乱暴なことを申しますが、ある私の友人は、二十一、二世紀は大丈夫だけれども、二十三世紀ぐらいになったら大和民族は日本列島での少数民族になってしまうおそれだってあるかもしれない。それだけ少子化の問題だとかいろいろなことが出てきているので、いつまでも日本人が日本列島に住む唯一の民族、単一国家を形成している単一言語の単一民族である、そういうことはこれからなかなかそのままやっていくことはできないのではないかということがあります。

 ですから、これは人権保障の問題をもう少し広い社会の変化、グローバル化の中で取り上げて考える必要が出てくるということを指摘させていただきたいと思います。そういうことが、国際化とか国際国家日本をどうつくるか、そういう問題になるかと思います。

 そこで、先ほど予告をしましたように、多少先生方に失礼なことを申させていただくことをお許しください。きょうお話をするつもりはございませんでしたが、ここに中曽根先生もいらっしゃいまして、中曽根先生は私は昔から非常に尊敬申し上げておりまして、随分昔、六五年ごろに、研究会でドゴールの外交の話をさせていただいたこともございます。

 ただ、中曽根先生もやはり失言を昔されたことがございまして、日本みたいにアメリカがなかなか経済が伸びないのは、もしかしたら不正確な引用になって申しわけございませんが、アメリカの場合には、アングロ・サクソンだけが住んでいればいい国になるのに、教育のない、あるいは麻薬をやる、そういうアフリカ系の人たちとかいろいろなマイノリティーがいるから大変なんだ、日本はそれがないから、これだけ頑張ってこれだけいい国になったという御発言を前になさったことがありまして、これは人権保障の立場からするとかなり問題があるということがございます。その流れで、最近問題になりましたのが森総理の神の国発言でございました。

 私がこれからお話し申し上げたいのは、それがいけないんだということを申し上げたいわけではありません。人権法の立場、法理念の立場からすると、これはとても困る考え方だということになります。なぜ困るかというと、これはゼノフォビアという、外国人嫌いあるいは自国中心主義の考え方ということになります。

 それで、この八月から九月にかけて南アフリカのダーバンで国連が開きました反人種主義の会議は、人種主義に反対をし、人種差別に反対をし、それからゼノフォビアに反対をする、自国中心主義に反対をするということが一つちゃんと入っております。

 実は、日本中心主義というものがやはり神の国という考え方の基礎にあるということは、かなり私には明らかでございます。違うということがありましたら後で教えていただければ、そのことは勉強させていただきたいと思います。

 しかし、私が申し上げたいのは、ゼノフォビアがけしからぬということを言おうとしているんじゃなくて、実は、日本中心主義、ゼノフォビアというものは、それがなかったら日本は国家として成り立たなかった、そういう歴史を日本が持っているということは、やはり研究者として確認をしたいと思います。

 つまり、明治の開国以来、日本が近代国家の仲間入りをしたときには四面楚歌で、要するに、先進工業諸国は北からも南からも東からも西からも日本に対して圧力をかけて、そういう植民地化の波が押し寄せてきていた。そこのところで日本民族が一丸となって、そして国家を形成する。それこそ、先ほど申しました和をもってとうとしとなす。それまで藩に分かれて争っていた日本が一つの国にまとまったということは、それがなかったら日本は独立国家として成り立たなかったということがあります。

 そういうことで、それ以来、日本の公教育、教育も、そういう国民を育てるということに一生懸命になりました。その結果、周りの国に対して迷惑をかけるような侵略をしたということも、実はそういう、日本を打って一丸とするということのとても残念な結果としてそういうことも出てきました。

 しかし、それを乗り越えて、第二次大戦後の日本が独立を回復して、そしてこれだけ平和な国になった。今いろいろ問題はありますけれども、しかしそれでも、昔に比べれば非常に豊かな国になったということは確認しなければいけないと思います。

 そして、その場合に、世界の中でも貧富の格差が最も少ない国の一つに日本はなっているということは、やはり日本が神の国であるおかげだというふうに考えることは無理もないことかと思います。ちょっと皮肉なことを申し上げて申しわけないのですが、要するに、日本が、一緒に日本人としてみんなで固まるということができるような、そういうイデオロギーがちゃんと天皇のもとで行われてきました。

 そして、そのイデオロギーを支えるものとして部落差別というものがうまく使われてきたという側面も同時に申し上げる必要があるかと思います。つまり、すべての日本人は、部落差別があるおかげで、一番下積みではないという安心感を持つことができます。そういうことで、部落差別というものは悪いと思いますが、しかし、日本国家をまとめるためには、そういう差別を一つ下敷きにして、そして普通の日本人はみんな中産階級であるということで安心できる、そういうイデオロギー的な基礎が実はあったということが、私は一つの大きな問題だと思います。

 ですから、日本中心主義といっても、日本の中でもだれかを差別しておかないとみんなは安心できない。これは、小学校でやっているいじめの構造とまさに同じで、だれかいじめられるような子がいてくれるから、いじめる側のクラスがまとまる、そういうことが実はいじめの構造のもとにある。部落差別の構造のもとも同じことではないかと思います。ですから、神の国ということで、みんなが神様の子供になればいいんですが、必ずしもそうでないというところもあるかと思います。

 ということで、和をもってとうとしとなすということで、日本人が一丸となって、部落以外の日本人が一緒になって一生懸命日本をつくった。これはとてもよかったんですけれども、それが成功したおかげで、例えば、いろいろな国の不法入国労働者がたくさん出てくるという問題が出てまいりました。そして、このことに非常に心配をされました石原東京都知事が三国人発言をなさいまして、三国人が災害のときに蜂起するおそれがあるから、それを鎮圧するために自衛隊が常日ごろから準備をする必要があるということを御指摘になりました。

 これは、日本国民の安全を守るという配慮から、日本人以外を警戒して、そしてやっつける必要がある、そういう考え方です。日本がグローバル化してきますとどうしても外国人が入ってきて、その外国人が悪いことをするという、実は悪いことをするのは普通の外国人じゃなくて、国際犯罪組織がやっているんですけれども、それも外国人ですから、その問題がクローズアップされる。そうなりますと、グローバル化が進めば進むほど、どうしても、外国人、あるいは外国から昔入ってきた三国人、あえて差別語を使いますが、在日朝鮮人・韓国人が警戒の相手になる。そういう形で、日本人だけの和を固めようという動きがかなり出てきているのではないかと思います。

 そして、森総理は、非常に熱心にIT、情報技術の問題を進められ、例えばインドからもITの専門家を呼びたいという努力をしておられました。このことは、要するに、都合のいい外国人は入れる、だけれども、日本の神の国としての結束は破らないような形で入れるんだ、そういう形のグローバル化を期待しておられましたが、実際には、そうではないグローバル化が今進んできているのではないかと思います。これが、東京の新宿歌舞伎町の問題がまさにそういうことです。

 実は、その問題を解決するために、多文化探検隊というNGOが歌舞伎町で防災訓練をやりました。歌舞伎町でやった防災訓練というのは、戦車を繰り出しての防災訓練ではなくて、むしろ、そこに奴隷働きをしているいろいろな国からのセックスワーカーがいます、タイとかビルマとかコロンビアとかポーランドとか。その人たちが、震災のときに、日本語がわからないと情報が伝わらないということで、どういうふうにしてその情報を伝えるかという訓練をして、タイ語ができる人とかいろいろな人を集めて、タイ人の多いところにはタイ語ができる人をつけるとか、そういう訓練をしました。

 この二つの例は、実は、和をもってとうとしとなすということの二つの考え方のあらわれ、両方とも和をもってとうとしとなす考えです。けれども、石原都知事がやったのは、和をもってとうとしとし、日本人の安全を守る。多文化探検隊は、日本というのは、単一文化だと言っているけれども、実はいろいろな文化がある、それが一番典型的にすばらしい多文化の基地になっているのが歌舞伎町である、そこで、その多文化を大事にし、入ってきている人たちの生命を大事にしよう、そういうこと。これは、まさに和をもってとうとしとなす。つまり、和の中に日本人だけではなくて、そこに入ってきている、あるいは人身売買で連れてこられたタイの人とかフィリピンの女性とか、いろいろな国の人たちも入れて、そしてみんなで和をとうとぶ、そういうことではないかと思います。

 実を申しますと、その意味で、この和をもってとうとしとなすということが二つの解釈がどうもあって、日本人だけでとうとぶ場合には、国連で非難されるような、マイノリティーに対する配慮が足りないという形で、和が日本の国家理念、日本の法理念としてマイナスに働く。ところが、グローバル化したところではそれでは困るので、やはり和というものは、日本人だけの和ではなくて、日本国籍を持っていない人たち、あるいは日本国籍を持っても大和民族でない人たちも含めての和ということを考える必要があるのではないかと思います。

 実はそこで、平和のうちに生存する権利ということが出てまいります。

 日本国憲法の前文でこの平和的生存権が出ているんですけれども、私なりの勝手な解釈をさせていただきたいと思いますけれども、日本は「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」名誉ある地位を占めたいということのその次に、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」だから、平和に生存するのは、全世界の国民、いろいろな国民がみんな平和のうちに生存する権利を持っている。それは、日本が国際社会において名誉ある地位を得るということと関係がある。

 つまり、日本だけが単一国家の平和主義とかそういうものでは全くなくて、平和というものは全世界のいろいろな国民が一緒に楽しむことにしなければいけないのだということで、ある意味では、和という考え方は、私は今西錦司先生のすみ分けという考え方とつながると思うんですが、それを世界的に押し広げようとしている。

 これを今の日本政府は、人間安全保障という名前で、一つの平和の理念として人間の安全保障ということを国際的に主張しておられる。それを国際的に主張するのなら日本の中でも主張すべきで、日本の中の人間の安全を保障するというときには、東京都民の安全も保障しなければいけないけれども、同時に、日本にあるいは東京に人身売買で連れてこられたタイの女性の安全も保障しないといけない。両方、共通の安全であるということを確認することが、和をもってとうとしとなすという聖徳太子の言われたことだったと思います。

 聖徳太子が言われた和というのは、当時は日本の中でいろいろな氏族が戦い、その氏族の中には、大和系の氏族もいれば、朝鮮系の氏族もいれば、中国系の氏族もいれば、蝦夷もいればあるいは隼人もいれば、いろいろな氏族がある。その間の平和共存ということ、平和に一緒に生きるということを和として教えられたので、江戸時代以来のように一つの国がみんな同じだから、均質だから和というのではない、むしろ異質だから和というものをとうとしとなすということだと思います。

 これを考えていただければ、人権保障を考えるときにも、日本の平均的な日本人だけではなく、ほかの国の人たちも、それから日本人の中で、殺人をしたり特別な境遇の人たちも同じ人間であるということでとうとぶ。それは別に人権という形ではなくて、和という日本の伝統的な価値をもとにした国家理念がもしもそこにあれば、人権を守るということを日本側の方から言うことができます。

 最後にもう一つだけつけ加えさせていただきたいと思いますけれども、実は、一九九八年に日本の隣の韓国のクァンジュ、光州で、一つの人権の集まりがありまして、そこでアジア人権憲章というものが発表されました。これは、アジアのいろいろな国、南アジア、東アジア、東南アジア、太平洋、いろいろなところの人権の運動家、専門家、研究者あるいは弁護士、そういう人たちが何回も集まって、ですから民間の人権憲章ですけれども、それをまとめました。

 そこのところで、この一番中心にあるのは、西欧的な人権の、例えば社会、経済、文化権と政治権、市民的自由、そういう区別ではなくて、むしろ生命から始まっています。生命の権利、次に平和の権利として、あらゆる人は、いかなる種類の暴力の標的になることもなく、肉体的、知的、道義的及び精神的能力を含むすべての能力を完全に発展させることができるよう、平和に生きる権利を有するということで、平和的生存権をアジアの一つの価値として、一番中心が生命、生命の次が平和に生きるという形で取り上げています。

 その意味で、もしも日本が、日本国憲法のこの価値を人間の安全保障ということで確立すれば、これは国家理念としても、あるいは人権保障のための法理念としてもとても大事だし、単に外から押しつけられたものとか舶来の人権とかということでは全くない、日本の、つまり和をもってとうとしとなすということを中心とする人権保障ができるし、すべきではないかということを提案させていただきまして、私の参考人としての問題提起を終わらせていただきます。

 どうも御清聴ありがとうございました。(拍手)

中山会長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

中山会長 これより参考人に対する質疑を行います。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。森岡正宏君。

森岡委員 武者小路先生、いろいろな御示唆に富んだお話をいただきまして、ありがとうございます。私も大変参考にさせていただきたいお話でございましたけれども、先生と考えを異にする面も幾つかあるなと思いながら聞かせていただいたわけでございました。

 まず、武者小路先生が先ほどおっしゃいましたように、ことしの夏に南アフリカ共和国のダーバンで開かれました人種主義に反対する世界会議に、日本政府の一員として、またNGOの代表として参加されたと聞いております。

 この会議のスローガンは、「ユナイテッド ツー コンバット レイシズム イコーリティー、ジャスティス、ディグニティー」「人種主義と闘うために団結しよう 平等、正義、尊厳」ということだったと伺っております。

 このときに、アフリカや中南米諸国から、私たちの国は過去において欧米先進国の植民地だったんだ、そして搾取されて、奴隷となって大変な迫害を受けてきた、だから貧しくなったんだ、したがって途上国が先進国から援助をもらうのは当たり前なんだ、先進国は援助する義務を負っているんだ、そういうお話があったということも聞きましたし、中東におけるアメリカやイスラエルの姿勢にアラブ諸国が不満をぶちまけられたということも聞きました。会議の途中で米国とイスラエルの代表団が引き揚げる事態になったということなども聞きましたけれども、そういうことで、その宣言文の取りまとめに先生も御苦労されたと伺っております。

 私たちの国を考えましたときに、我が国は、世界で一番の経済援助をしている国でございます。途上国から、当然の義務だ、こう言われますと、日本のタックスペイヤーは納得できないんじゃないかなというふうに思うわけでございまして、人権問題と南北問題をごちゃまぜにしてしまうのは不毛の議論だと私は思います。

 武者小路先生はこの点どんなふうに思われますでしょうか。日本のODAのあり方も含めて、簡潔にお答えをいただきたいと思います。

武者小路参考人 とても大切な御質問で、私なりにお答えさせていただきたいと思います。

 このダーバンの会議には、日本国を代表して外務省の丸谷政務官が御出席になり、それで発言をされました。その御発言については、幾つかNGOで不満なところもございましたが、しかし、非常に立派な発言で、その趣旨の一番中心にありましたのが、先ほど申しました人間の安全保障ということでございました。人間の安全を保障するために日本はあらゆる努力をするし、ほかの国にも努力するように呼びかける、そして、人間の安全を保障するということは、その人間の中でも一番安全が脅かされているマイノリティーとか、ダーバンで問題になっている人々の安全を守るということが一番大事なんだという御発言がございました。その御発言、まさにこれは一つの国家理念というふうに受けとめることができると私は思います。

 その場合、日本のODAも、ODAというのは、何か当然の義務ということではなくて、しかし当然の、国家理念から流れ出てくる行為である。つまり、和をもってとうとしとするということで、違った国で、違った境遇の中で暮らしている、そして非常に難儀をしている人たちが安心して暮らせるようにする、そのために欠乏と恐怖を免れるように努力をするということは、これは日本の国家の理念としてとても立派なものではないかと思います。

 しかし、この国家理念は、実は日本が苦労してきたことと関係がある。つまり、日本も植民地支配の対象になりかけて、ならないために一生懸命日本人だけで固まった、そして一生懸命固まって日本も周りの国を植民地化してしまった、そういう悲しい現実があるわけです。

 日本だけが植民地支配をしたんじゃなくて、日本が植民地支配の対象になりそうになったことに対する反応としてそういうことになってしまったというその歴史の流れの中で、日本は被害者でもあり加害者でもある。ある意味では、人種差別というものを国際社会で初めて問題にしたのは、国際連盟で日本が人種主義の問題を最初に出した、それだけ日本も人種主義の対象として苦労したことがあるわけです。

 ですから日本は、もらったり上げたり、歴史の中で起こった植民地支配の問題を清算するために補償を必要とするということは、私はとても大事だと思います。それはしかし、当然の義務ということではなくて、和をもってとうとしとし、そういう和によってつなげられるような世界をつくっていく、そのために金持ちが金を出す、そういうことではないかと思います。

 補償というのは、ただ金の問題ではなくて、昔の歴史が悪かったということ、それを正直に認めることで前に進むということであって、別にただ悪かったというだけのことではない。しかも、この場合には、実は日本よりもはるかに悪い国々がたくさんあるということがある中で日本の補償ということも出るわけで、それで初めてバランスのとれた歴史を理解して、一歩前進する。そして、みんながお互いに諸国民の間の平和に生きる権利を認め合う、そういう和の世界をつくっていく、これが日本の国家の理念であるということができれば、日本はすばらしい国になるわけです。

 ただ日本のための平和だけを守るとか、憲法の制約で日本はこれができないとか、そういう形の問題では全くなくて、世界を平和にしていく、そういう問題が日本の国家理念、課せられている問題ではないかと思います。

中山会長 参考人にこの際申し上げます。

 質疑時間が限られておりますので、御答弁はできるだけ簡潔にお願い申し上げます。

森岡委員 人種差別撤廃委員会の最終見解について先ほど先生はお述べになりました。先生がおっしゃっているように、世界じゅうの人たちと和をもってとうとしとなす、大変いい言葉だと思いますし、私も、世界じゅうの人たちと仲よくしていかなければならない、日本もそういう立場で国際社会で活動していかなければならない、当然のことだと思います。

 ところが、日本政府の反論を読んでみますと、ほとんど見解を異にしているように思います。その根底に、武者小路先生がおっしゃるように、自国中心主義があるという御指摘でございますけれども、我が国が国益を優先させながらODAなどの外交政策を考えていく、また外国人労働者の受け入れについても、日本人労働者の職域を確保するということを頭に置きながら入管行政が行われている、当然のことではないかなと思いますし、世界じゅうを見まして、自国中心主義をとっていない国などないのではないかなというふうにも思うわけでございます。この点をどんなふうに先生はお考えでございましょうか。

武者小路参考人 おっしゃるとおり、すべての国は自己中心的なところがございます。ですから、日本だけが悪いということは全くございません。ただ、すべての国は、それぞれの歴史的な事情の中で、やはり自国中心主義を乗り越える必要があると思います。

 御指摘のように、日本人の労働者の生活を脅かされないようにすることがとても大事だと思います。しかし、その場合に、どこから脅威が来るかと申しますと、これはいわゆる不法入国労働者が脅威をもたらしているのではなくて、むしろほかの先進国の、特にアメリカの企業が、グローバル化の中で日本の小さな中小工業と競争して入ってくる、そういうことで日本の中小企業がつぶれ、そして労働者が失職する。失職するのは、別にほかの国から移住労働者が来るからではない。グローバル経済の中で先進国の大企業がどんどん入ってくる、その対策をとることが、これは日本にとっても大事だし、それから日本に労働者を送り出す国々が送り出さなくなるようにするためにも、そういうグローバル経済を秩序あるものに変えていくということが一番大事であろうかと思います。

森岡委員 先ほど、先生は部落差別の問題を取り上げられました。私の選挙区は奈良でございますが、私の選挙区でも、部落問題、同和対策、これは大変重要な政治課題でございます。

 先生は先ほど、部落差別があるおかげで、この戦後の日本は、一番下でいないという中産階級をたくさんつくることによって日本国家をまとめることができたんだというような御発言で、何か部落差別があったおかげで日本がよくなってきたんだみたいな、そういう御発言でございました。しかし、戦後の日本が、同和対策特別措置法などによりまして、私が調べただけでも、昭和四十四年度から平成十三年度までに国費だけでも四兆三千億円が投じられておりますし、また県市町村分を加えますと、二十兆円近いお金を同和対策に充て、そして、かつてあったような貧富の差からくる部落差別というものはほとんどなくなってきた。私たち日本国民全体が一生懸命部落差別をなくそうとして努力をしてきた。そして、同和教育というものも行われておりますし、経済的には随分よくなったんじゃないか。

 むしろ私たちは、部落差別といいますと、経済的な問題じゃなしに、結婚とか就職についてまだ差別がある、これをどのように克服していくのかということが課題だ、私たちはそのことに一生懸命これからも取り組んでいかなければならないんだ、そんなふうに思っておりますし、武者小路先生の御認識と私は随分違うように思うわけでございますが、このことについて一言触れていただければありがたいと思います。

武者小路参考人 意見はそれほど違わない、私の表現の仕方がまずいということかと思います。

 私が、和が大事だということを申し上げましたが、まさに第二次大戦後の日本は、和をとうとしとしまして、そして同和対策というのは、まさに同和という、和をもってその中に部落民を入れよう、溶け込ませようという努力をしてきました。これは、日本の政府そして地方自治体も非常に努力をした。これはやはり和の精神、人間安全保障の精神というものが生きた一つの例で、私は、とてもそれはいいことだと高く評価しております。しかし、グローバル化でそれが続けられるかどうか、いろいろ難しくなっているということもあるかと思います。

 ただ、私が申し上げましたことは、むしろ今御指摘のように、いまだに結婚差別とか就職差別とか、そういうことで自殺する男女がいたりする。これは、日本人が均質であるということを本当に部落民も含めて言っていればそうならない。別の人たちがいるということが江戸時代から明治時代、それから今日までずっと続いている。

 これは、なくそうと政府がしている、国家がしていることは認めますが、なかなかなくならないのは、やはりそれが日本の近代化の礎になってしまった。そのおかげでというのではなくて、そういうことが、同和で、本当の日本人全体の和をつくる、それが今かなり前進しているということではないかと思います。

森岡委員 敗戦後、日本国憲法が占領軍から与えられまして、かつての日本にはなかったアメリカ型の民主主義が入ってまいりました。先生のお話を頭に入れながら、戦後の半世紀を憲法とともにちょっと振り返りたいわけでございますが、基本的人権とか平和主義とか主権在民などの思想が定着して、日本はこの五十年余りの間に世界レベルではかなりいい社会になってきたと思います。先生がおっしゃるように、人権を守り、人権では世界的に見ると誇るに足る実績を持っておるように私も思います。

 しかし一方で、規範意識が低下し、善悪の価値基準というものがなくなって、何もかも経済で片づけよう、損得で価値判断をしようというような風潮がはびこっておりますし、個人主義が行き過ぎて利己主義が非常にはびこっておる。義務を果たすことなく、権利意識ばかりというようなところがあらゆるところで顔を出しておるように思います。

 教育の現場そして青少年の犯罪、マスメディアのあり方、そういうところを見ておりますと、その風潮が著しく思いますし、日本人はこの半世紀の間に精神的なバックボーンを失ってしまったのではないか、私はそんなふうに思っておるのですが、先生は日本国憲法との関係でこういう風潮をどう総括されますでしょうか。一言でお願いいたします。

武者小路参考人 おっしゃるように、日本人は今精神的バックボーンをもう一回立て直すべき時期に来ていると私も思います。

 しかし、さっき申しましたように、それは昔のバックボーンそのままで、このグローバル化の中で日本人だけで固まるというバックボーンではなくて、お互いの安全を認め合う。だから、個人主義という形の人権思想ではなくて、和をとうとぶ。つまり、違う考え方、違う人種、違う民族、違う働きをしている、それをお互いに認め合って、それで和をもってとうとしとなすという多元的な和、すみ分けの和、共生の和、そういう新しい精神的なバックボーンを持たないと、このグローバル化の中ではとても金の力には勝てないということではないかと思います。

森岡委員 ちょっと安全保障の問題に触れさせていただきたいと思います。

 日本国憲法は、制定当時、国連常備軍があることを想定して、国連による強制担保措置が確保されていることを前提にできたものだと思われます。しかし、現実は全く違っておりました。今、我が国の安全保障を考えたときに、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」と前文に書かれておりますけれども、そんなのんきなことを言っていられる状況じゃありませんし、国連中心主義に頼ることも私は危険だと思います。憲法第九条の理念を世界に呼びかけ、平和憲法を守れと言う人たちもいらっしゃいますけれども、隣の中国は原子爆弾を持っておる、また日本全土を中距離ミサイルの射程内に置いて毎年二けた台の軍事増強を続けておりますし、朝鮮半島も不安定な状況にございます。

 我が国は、戦後、独立を回復すると同時に、アメリカと同盟条約を結んでその核の傘に入っておりましたし、自衛隊があればこそ、おかげで今日、半世紀の間日本は戦争に巻き込まれなくてこられたと私は思っております。しかし、憲法第九条をめぐって相変わらず神学論争が繰り広げられてきたことも事実でございます。

 私は、時の総理大臣によって憲法解釈が変わる、また学者によって全く違った見解を述べられる、こんな条文はそのままにしておくことはおかしいと思います。先生はこのことについてどうお考えでしょうか、一言でお願いいたします。

武者小路参考人 その点は、残念ながら先生と全く見解を異にしております。

 私は、日本国憲法は日本だけが守るということは全くおかしい。むしろ、その主張をもとにして、国連を改革し、アメリカが一極支配的な形で安全保障をやってきている、その安全保障が非常に危険な状況にありますから、それをつくりかえるために積極的に日本が、アメリカ中心でない、地域の安全を守るための地域的な取り決めとかいろいろな措置を組み合わせる。

 その出発点として、長期的な目標として、さっき申しました平和的生存権の実現の一つの手段として軍備を撤廃する、そういうことを日本だけがやるのではなくて、世界にやらせる。やらせるための一つの手段を持ち、そして日本が率先して、アメリカ中心の安全保障とは全く違った、軍事的な問題も含めて本当に人間を大事にする人間安全保障の新しい考え方を打ち出すべきだと思います。

森岡委員 先ほど先生がおっしゃったように、ヒューマンセキュリティー、人間の安全保障という概念が、一九九八年十二月に小渕総理大臣の政策演説で日本外交の中に明確に位置づけられまして、我が国はこの分野で世界の牽引役を務めてまいりました。

 この人間の安全保障という概念は、先ほどから先生お述べになっておりますけれども、今の日本国憲法にはない、はるかに超える大きなものだと思います。先生は、今の日本国憲法との関係から見まして、どのように位置づけたらいいとお考えでしょうか。余り時間がないものですから、一言でお願いします。

武者小路参考人 私は、人間安全保障は日本国憲法の平和的生存権を創造的に展開した考え方であると理解しております。だから、同じだと思います、同じ枠で広がっていると思います。

森岡委員 九月十一日にニューヨークとワシントンで起こりました同時多発テロについて、米英軍の軍事行動を指して、報復や暴力はけしからぬ、無辜の民を巻き添えにして殺傷するようなことは許せない、日本も米英に加担するのは間違いだ、こういう声がマスメディア、そして野党の一部の皆さん方からも聞こえてまいります。

 しかし、タリバンが崩壊ないしは崩壊寸前、こういう事態になりまして、アフガンの首都カブールなどでは、顔や体を隠すブルカを脱いだ女性たちの明るい笑顔が映し出される、また、解放されて自由を喜んでいる市民の姿がテレビを通じて見られるわけでございます。私は、本当によかったなと思います。

 アフガニスタンの人たちの人権を取り戻し、タリバン政権の抑圧から解き放ったのは、明らかに米英軍による空爆のおかげだと私も思います。北部同盟が独力で達成できたわけでもないわけでございます。テロリストは、アメリカで罪もない六千人の人たちを突然死に追いやったわけです。テロリストと被害者を同列に置いて、日本は中立であるべきだ、予算委員会などでもそんなことを言う議員もいらっしゃいました。しかし、だれの人権を守るのか、本末転倒してはいけないと私は思います。

 武者小路先生は、この点、どんなふうにお考えでございましょうか。

武者小路参考人 この点も先生と意見を異にしております。

 それは、おっしゃるように非常に明るい面がテレビに映し出され、テレビというものは非常に偏っているという印象を持っております。つまり、今、全く泥沼にどんどん足を突っ込んで、勝った者が新しいアフガニスタンの国づくりをするといっても、ゲリラはどんどん地下に潜って、これから大変なアフガニスタンの情勢がずっと続く。それに対して日本もいろいろ援助をしなくてはいけない。だから、明るい面は表だけで裏はとても暗い、そういうことをしてしまったことは、やはりアメリカの一つの責任だと思います。

 そして、その問題は、要するに、テロ対策だけではなくて、なぜテロが起こったのかという、その裏にあるいろいろな問題について、日本はもう少しイスラム圏のいろいろな、穏健な考えの人たちと一緒に協力をする必要がある。結局、タカ派同士がいがみ合って、そして、普通の人の安全がどんどん脅かされていく。それに対して、日本が中心になって、人間の安全を大事にしようということでハト派をまとめていく、そういう外交努力というものを日本がやる必要があると思います。

森岡委員 時間が参りましたので、終わります。

 ありがとうございました。

中山会長 細川律夫君。

細川委員 民主党の細川でございます。

 本日は、大変貴重な御意見をありがとうございました。

 先生の方で憲法の平和的生存権について述べられまして、私も、憲法前文に書かれております文言は大変大事だというふうに思っております。憲法の勉強を始めた当初から、この前文の、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」私は、これはすばらしい文章だというふうに思っております。

 憲法制定当時の恐怖というのは圧制とかファシズムのことでありますし、現在では、この恐怖というのはテロリズムも入っているのではないかというふうに思いますし、また、欠乏というのは貧困、飢餓でありますけれども、これまた、まさに現在も世界的に大変大きなテーマだというふうに思っております。

 そこで、先生が先ほど言われました人間の安全保障、ヒューマンセキュリティー、このことも憲法の平和的生存権のいわば発展的なものだというふうに、あるいは憲法の方が発展的なのか、まさにそういう意味では、理念は同じようなところにある、私自身はそういうふうに思っております。

 そこで、そういうことを前提としながらお聞きしたいと思いますけれども、日本に現実に差別がまだたくさん存在している。先生のお話からも、国連からの指摘もあったということでございます。

 日本では、在日韓国あるいは朝鮮人への差別、部落差別の問題、あるいはまた現在では、特に外国人労働者への差別、とりわけジェンダーの差別、こういうものもあります。私どもはこういう差別に対して、それでは、日本の国内でそういう差別を禁止する法律がきちんとなされているかどうか。先生は、ある程度、日本はそういう面が保障されている国ではないかというふうなお話もありましたけれども、私は、まだまだきちんとしなければいけない問題をたくさん残しているのではないかというふうに思っております。

 そういう意味では、日本では、法的な措置としては、アイヌ新法とかあるいは人権教育啓発法、それぐらいのもので、余りないわけなんです。だから、私たちとしては、いわゆる差別をしない、差別を禁止するような法律をつくらなければいけないというふうには思っておりますけれども、しかし、なかなか政治家だけではできないところもございます。そうしますと、差別してはいけないという法律をつくるには、それぞれの運動があって、それが社会の多数の認識あるいは共感を得るようになって初めて、そういう差別を禁止する法律ができるというふうに思います。

 そうしますと、これから先、どういう運動をやり、どういうことをすることによって、そういう差別を禁止する法律などをつくっていけるのか。具体的にどういうような形でやっていったらいいのか。先生はいろいろ運動にも携わっておると思いますけれども、そういう点をお聞かせいただきたいと思います。

武者小路参考人 とても大事な御質問、ありがとうございます。

 先生の御指摘で、私がはっきり言わなかったことをまず訂正いたします。

 日本が人権でいい国であると申しましたのは、これは正確に言うと、自由権とか思想、言論の自由とか、そういう差別されていない国民にとっていい国だ。だけれども、差別がなくていい国だというのではなくて、差別が片一方ではあるということを言いたかったわけで、その差別をなくすための法律体系をつくるということはとても大事で、これは人種差別撤廃委員会でも指摘されていることです。

 それをつくるためにはどうしたらいいかという御質問に対しまして、時間がありませんので、簡潔に申し上げてしまいます。

 一つは、市民がしっかりしなければいけないのですが、市民はどうしても、差別をしている日本人の市民が多い。ですから、例えばジェンダー問題を一生懸命やっている女性の方々も、マイノリティーの女性ではなくてマジョリティーの女性が一生懸命やっておられる。女性運動は、マジョリティーの女性とマイノリティーの女性が一緒になるべきだし、ほかの市民運動も、マジョリティーの運動がマイノリティーの運動と一緒になるということが大事です。

 それからもう一つは、ヨーロッパみたいに、ドイツでは労働組合とNGOが一生懸命一緒に運動をしていますが、労働組合と市民運動とのつながりをもう一つつくる必要があります。

 それからもう一つは、やはり下から、地方分権ということで地方自治体が一生懸命いろいろ日本では動いています、差別と闘ういろいろな動きに。部落の問題なんかも一生懸命やっていまして、地方自治体をベースにして、上からではなくて、地方から中央にという形の運動をする必要があるのではないかと思います。

 そういうことで反差別立法ができることを期待しております。

細川委員 次に、先生の話の中で、人間の安全保障、これについては、私も、大変重要な概念で、これからも、国家理念といいますか、そういうことにこの人間の安全保障ということを持ってきながらいろいろな政策をつくり上げていく、こういうことは非常に大事だというふうに思いますけれども、一方では国家の安全保障ということも、国家がある以上、これは至極当然のことだろうというふうに思っております。

 そこで、ある学者の方がこういうふうな言葉を使っておられるんです。国家の安全保障から人間の安全保障へという考え方の転換。要するに、国家の安全保障から人間の安全保障へ転換の時代だ、こういうふうな扱い方で人間の安全保障というふうなことを言われております。このことは、ずっと長い物差しで見ましたらあるいは正しいかもわかりませんけれども、しかし、現実に国家が対立をして対峙しているときに、国家の持つ安全保障を否定することはちょっとできないんじゃないかというふうに私は思っております。

 そこで、国家の安全保障といわゆる人間の安全保障を対立的に考えることは私はいかがなものかというふうに思っておりますけれども、先生が考えられる国家の安全保障と人間の安全保障はどういう関係にあるのか、そういうところを御説明いただきたいと思います。

武者小路参考人 私も先生と全く同意見です。国家安全保障と人間安全保障を対立させるということは全く無意味だと思います。むしろ、人間の安全ということを基準にして国家安全保障政策を立てる、国家安全保障の基準に人間を中心にするということが大事だと思います。

 人間といってもいろいろな人間集団でありまして、結局、アフガニスタンの問題も、国家の安全ではなくて、タリバンがいなくなった後のいろいろなエスニック集団の安全、人々がどういうふうに自分たちの安全を考えるかで安全保障を、軍事的な安全保障も含めて考える必要があります。

 そういうことで、人間の安全を大事にするという国家安全保障は、例えば、非攻撃的な防衛ということを国がやる、それから、地域で核を入れないという非核地帯をつくるとか、いろいろな形で、人間を大事にする国家の安全保障、あるいは国際的、地域的な安全保障の形というのは幾つもあります。

 それから、国連がやるときにも、国家の立場ではなくて、人間を守るために介入するというときに国益がいろいろなふうにぶつかりますから、それを人間の安全ということを物差しにして、国家安全保障の中で国家の利害だけが先走りするのをどういうふうに抑えるか、それを抑えるということも人間安全保障の大事なことです。

 あと、国家安全保障ということと、それからグローバル経済の中で、金融面とか経済面とか、そういういろいろな計算が入って、今の国家の安全というものは、実は軍事面だけじゃなくて経済面とかいろいろな問題が入ってくる。このアフガニスタンの問題も、石油のパイプラインとか、そういう非常に生々しい経済利害の対立が国家の間にありますから、国家の安全保障だけじゃなくて、国家の利害というものを何とか人間を中心にして評価する。何がよくて何が悪いかを人間を中心にして評価し、そして国際的な同意を形成するということがやはり人間安全保障の一番大事なことだと思います。

細川委員 次に、先ほども他の委員から御質問が出ておりましたけれども、今度のアメリカによるアフガニスタンへの進攻について先生の御意見をお聞きしたいと思います。

 先生の論文を拝見いたしますと、最近のアメリカの総合的安全保障戦略というものを覇権的国際安全保障理論というふうに呼ばれまして、人間の安全保障に対する諸脅威に対して有効な対策を提供しないどころか、むしろその問題を複雑にしている、こういうふうに述べられております。また、国家に対する処罰の威嚇をし、威嚇の実施としての戦争が起こった例としては湾岸戦争が典型であるというふうに書かれておりました。

 そういう先生の論説をたどっていきますと、今回のアメリカのアフガンへの進攻というものは、覇権的安全保障が具体化した戦争ということになるとも考えられるわけなんです。

 しかし一方で、テロというものは最大の暴力の一つでありまして、完全な生存権の侵害であるということは間違いないことでございます。オサマ・ビンラディンらのアルカイダ組織がテロを行って、かつアフガニスタンのタリバン政権が彼らを支援しているということならば、今回のアメリカの行動も、単にその覇権的安全保障あるいは処罰という形の安全保障措置という側面だけでは語り切れないんではないかと私は思います。確かに民間人の殺傷だとかあるいは誤爆であるとか、いろいろな問題はあるにいたしましても、テロを根絶するための行動だということの側面は否定し切れないところがあるだろうと思います。

 そうしますと、今回のアメリカのアフガニスタン進攻そのものも、やはり肯定的な評価ということも十分可能だと思いますけれども、その点について先生の御意見をお聞きしたいと思います。

武者小路参考人 反テロ戦争は非常に複雑な戦争で、幾つもの原因、結果が組み合わさっていると思います。

 その中の一つとして、アメリカがタリバンとあそこの石油のパイプラインについて秘密交渉をずっとやってきていたのが、七月ごろに決裂して、それでアメリカはタリバンをやっつけるという決定を七月ごろから下していたという話が、これはフランスの新しい本に出ていますけれども、そういう側面もある。だからといって、テロがいいというわけじゃ全くありません。だけれども、アメリカが、いろいろな形で自分を中心にした世界的な軍事体制をつくろうとしているということ、そして、それをつくることによって今の経済的なバブルがはじけたことを何とか抑えようとしているということは、やはり一つあると思います。

 それだけではありません。それからもう一つあることは、テロは悪い、絶対いけません。しかし、テロがなぜ出てくるかというと、やはり毛沢東主席が言われたように、魚は水があってそこの中を泳ぐ。テロはゲリラの一種で、ゲリラをやるときには、支持をする人たちがいるから、そこでテロもできる。

 ですから、テロを力で抑えちゃいけないとは言いませんが、ただ抑えるだけじゃだめで、やはりその裏の問題を、つまり、イスラム圏の中にわだかまっている不満とか恨みとか、そういうものを何とか解決しないと、幾らオサマ・ビンラディンをやっつけても、ほかの後継者が出てくる。そっちの面の手当てということをアメリカは全然やらないで、ただ文明の名においてやっつけることばかり考える。ですから、その場合には、やはり日本がもう少し別の立場で考える。

 タカ派としてアメリカがどんどんやっつけるのは、これはアメリカの一つの文明的な資質ですから、とにかく力で抑えることしかわからない。我々は和をもってとうとしとなすということがわかる文明を持っているから、我々は別のことをやるべきだ、日本は別のことをやるべきだと私は思います。

細川委員 ありがとうございました。

中山会長 上田勇君。

上田(勇)委員 公明党の上田勇でございます。

 きょうは、武者小路先生、大変貴重な御意見を賜りまして、まことにありがとうございます。先生にお話をいただいた中で何点か、また多少補足をしていただければというふうに思いますので、そういう観点からちょっと御質問をさせていただきます。

 まず一点目は、先生がお話の中で何回か触れられました、今日本国内におります外国人のいわゆる労働者の方々にかかわる日本の入管行政の問題について、お考えを伺いたいと思います。

 先生もおっしゃったように、これだけ経済がグローバル化してくれば、当然のことながら人間というのは、歴史的に見て何千年にもわたって、貧しいところから豊かなところに人の流れが常に動くのは必然でありまして、そういう意味では、日本国内に外国人の労働者の数がふえていくというのはもう必然的なことなんだと考えております。

 ただ、日本の入管行政は、いわゆる外国人労働者を対象としては、依然として極めて抑制的であるのは間違いがないんだというふうに思うんですが、その結果として、結局は不法という形での滞在者を生んでしまっているわけであります。

 ここで、今、いろいろな御意見の中に、二つあるんだと思うんですが、これはやはり不法であるから、行政なりからの光が当たらないので余計そういう社会的な差別も含めて差別が増幅されるということもあって、もっとそういう意味では入管行政を広げるべきではないか、外国人労働者の流入は避けられないし、日本の経済社会の一部になっている以上は、そういった不法状態というのは極力避けてもっと寛大にすべきではないかという意見が一方にあります。

 しかし、他方、我が国の場合にはまだ余り、それはむしろ経済的というよりも社会的なさまざまな理由で、多くの外国人を受け入れられるような環境が整っていないというのもまた事実なんだと思います。これは、実際の近隣の中でなじみがないとか、やはりまだまだ排他的な面というのも日本の社会にはあるので、そうすると、そういう用意ができていないときに入管の規制を緩和していくと、これが全く逆に際限がなくなって余計流入がふえて、かえって反外国人的な感情をあおるんではないか。だから、やはり今のように抑制的にしておく方がいいんだという意見もあるんですが、この辺について、先生、この入管行政の基本的な考え方については、どちらの方がこれから望ましいというふうにお考えでしょうか。もし御意見があれば伺いたいと思います。

武者小路参考人 とても大事な御質問でございますが、広げた方がいいか厳しくした方がいいかということではなく、両方組み合わせるべきではないかと私は思います。

 その一つの具体例で、今研究していることですけれども、例えば、フィリピンからの女性の移住について、エンターテイナーとしての資格を持てば、その資格で日本に来て六カ月あるいは一年間滞在して仕事ができることになっています。これは、一九七三年にマルコス政権ができて、それでやっと、アメリカが力を使って、フィリピンと日本を仲よくしようということで、フィリピンの議会が抑えられるようになったので、それで日本とフィリピンを仲よくさせるためにエンターテイナーを日本に送る、そういうことで出てきた非常におもしろい人間の安全の制度です。

 ですけれども、エンターテイナーとして日本に来た人たちの大部分は、みんなダンスをしたり歌を歌うのではなくて、セックスワーカーとして使われる。そして、セックスワーカーとして使われている間に長期滞在して、不法滞在者になってしまうという場合がとてもたくさんあるようです。

 ですから、これは広げるか広げないかの問題ではなくて、フィリピンから入ってくる人たちを、本当はエンターテイナーじゃない、セックスワーカーになってしまうということがわかっているのにそういうことで取り締まっている。そうではなくて、もっと広げて、セックスワーカーでない、例えば老人介護のための仕事とかいろいろな仕事ができるような体制をつくって、しかも、それで入ってきた人たちはちゃんと人権を保障する必要がある。

 ところが、例えば歌舞伎町にはいっぱい、そういう不法入国をしただけではなくて、借金奴隷として働かされている人たちは全く放置されているわけです。これは、ちゃんとその人たちの人権を守るために警察は入っていって何かをするべきなのに、それはしていない。だから、それはもう少し厳しくやるべきだけれども、厳しくやるときには、ちゃんと相手の人権というものを、あるいは人間としての安全を、安心感というものが持てるような歌舞伎町にするとか、そういう形で入管あるいは警察の仕事を人間を中心にちゃんと手厚くやる、そういうことがとても大事だと思います。

 ですから、野放しにしてどんどん入れろということでは全くありません。しかし、どんどん厳しくしろというのではなくて、その本人の立場に立って見る、そして日本の立場に立って、両方折り合いをつける。そういう立場で入管行政あるいは警察行政を組み立てて、不法入国者が被害者でもある、搾取もされているんだという、そこのところをちゃんと見ておく必要があるのではないかと思います。

上田(勇)委員 今のお話のとおりだと思うのですけれども、ただ、私がちょっと問題意識として持っている面というのは、そういういわゆる風俗関係で働いている女性の方もさることながら、そうでなくて、今、日本産業の、いわゆる製造業の現場でも、あるいはサービス業の現場でも、相当外国人の労働者、しかも資格としては、合法の方もいらっしゃるけれども、不法という資格になっている状況があるので、その辺を入管行政としてどういうふうに考えていくかということを今問い直さなきゃいけないのじゃないのかなということで質問させていただいたのですけれども、その辺は、もうちょっと対象を広げた形で言うと、先生のお考えはいかがなんでしょうか。

武者小路参考人 今、一番極端な例を申し上げてしまいました。

 おっしゃるように、いわゆる不法入国者もいれば、いわゆる不法滞在者もいれば、いろいろな形で日本で仕事をしている人たちがいる。その場合に、二つのことをちゃんとはっきり分けて考える必要があると思います。

 つまり、その本人をどう取り扱うかというときに、幾らいわゆる不法に入国をしても、その人は、基本的な人権は人間である以上みんな持っている。だから労働権も持っている。ですから、労働するときの例えば時間外労働も払ってもらえるという権利が実はあるはずだと。まともな仕事ができるという、今ILOで言っているディーセントワークをできる権利を保障される必要があるということが片方であります。

 そのことと、だけれども野放しにするというのではなくて、ですから、どういう形で入管を、これからどういう人たちが、どういうふうに入ってきたときにそれを許すかというところで、今かなり差別を助長する形がとられています。

 つまり、情報産業のITをやる人たちはどんどん歓迎する、そして単純労働の人たちは歓迎しない。ところが、実際に日本に来たい人たちの多くは単純労働で、ITは入ってこない。だから、むしろバランスをとって、いろいろな職種の人たちがバランスよく入ってくるようにするということが、一つ入管の問題としてあります。

 それと同時に、やはりこれはODAの問題だと思うのですが、要するに、貧困のために日本にみんな来るということがありますから、その来そうなところに対する、むしろ日本に来なくても、向こうで仕事ができるように仕事を与える、そういう形をとる。それをとり過ぎると、今度は日本から企業がどんどん離れて東南アジアの方に行くという問題がありますから、とても難しいのですけれども、そういう空洞化しないようにしながら、しかし、東南アジアとか、そういう移住者が来る国の中でまともな仕事にありつけるように協力をする、そういうことを組み合わせる必要があるのではないかと思います。難しい問題ですけれども、そういう組み合わせがとても大事だと思います。

上田(勇)委員 最後にもう一つ、若干これは視点が変わるのですけれども、きょうの先生のお話にもありましたし、先生から配付していただいている資料の中で、ヒューマンセキュリティーを柱とした日本外交について、先生からのペーパーの中に御提言もあるのですけれども、その中で、国連の平和維持・平和強制予算と加盟国の軍事予算を節約して社会発展予算に振り向けることというのをその御提言の一番最初に挙げているのです。

 ただ、そこでぜひ教えていただきたいのは、私が考えると、もちろんこういう経済的な発展、社会的な安定というのも必要なんですが、まず一番最初にヒューマンセキュリティー、人間の安全保障で来るのが、戦争とか内戦とかいろいろな暴力から命や身体をまず守ってもらう、そのことがこの人間安全保障の一番最初に来るのではないのかな。そういう意味では、それを国連が世界各地で、PKO活動の中で結構いい貢献をしているのではないのかなと私は思っているのですけれども、その辺についての先生のお考えを、認識が違うのかもしれませんけれども、少し補足していただければと思います。

武者小路参考人 確かに、紛争が起こってしまったところで、命を失いそうな人たちの命を守ることは人間の安全保障の一番大事なことだということは、先生のおっしゃるとおりだと思います。

 ただ、政策として申しますと、なぜ紛争が起こるのかという、その紛争を未然に防ぐ、そういう意味での社会発展ということが大事で、例えば戦後の復興の問題になりますけれども、アフガニスタンでこれからもゲリラ活動が出てきまして、村人が脅威にさらされる、それをどうするかということは、確かに一つとても大事です。

 しかし、もう一つ大事なことは、やはりいろいろなところで、例えばケシ畑で生活している人たちが、ケシ畑は使えなくしなければいけない、ではそのかわりに何を栽培するか、そういう問題を解決しないと、ただ会議をしてどういう政府をつくるかということだけじゃ問題は解決がつかない。だから、どうしても今アフガニスタンで一番大事なのは社会開発だし、それも、ある地域だけが豊かになっちゃうとまたけんかになりますから、バランスよく、いろいろな地域の、タジク人とかそれぞれの、それこそ人間集団の、共同体の間のバランスのいい発展ということが一番今大事ではないかと思います。だから、両方必要だと思います。

上田(勇)委員 終わります。

中山会長 次に、藤島正之君。

藤島委員 自由党の藤島正之でございます。

 二、三の点について質問させていただきたいと思います。

 まず、人権という問題なんですけれども、先ほど先生、部落差別の問題をお引きになりまして、日本人はそれとの比較で中産階級だと思っているというようなお話があったわけですけれども、そもそも人権というのは絶対的なレベルを議論すべきなのか、あるいは、今のケースですと相対的なレベルの議論だと思うんですけれども、どういうものなんでしょうか。

    〔会長退席、鹿野会長代理着席〕

武者小路参考人 人権は絶対的です。ただ、人権政策をどうするかというときにはいろいろな別の要素が入ってくる。

 ですから、私は、部落差別が部落を一番下に置くという形で起こった、これは研究者として、歴史的にそうだったということを言っているので、それは人権としてよかったとは全く思っていません。ただ、それを普通の日本人は全然意識していない。意識していないけれども、やはり下に人がいるから自分たちは中産階級だということで天皇のもとでまとまる、そういう安心が生まれた。社会的な分析をするとそういうことだと思うんです。

 だから、人権というのは、そういういろいろな歴史的な条件で、みんなが、政府だけじゃなくて市民も、意識していないところにいろいろな差別が出てくる。それをむしろ取り出して、そして、これは問題だぞということを言うために、絶対的な価値を持った評価基準として人権というのはあります。

 それと安全を組み合わせるととてもいいと申しますのは、安全はそういう絶対的な評価基準じゃなくて、みんなが主観的に、自分の安全がとにかく大事で、人の安全よりも自分の安全を大事にしましょうということで国もやるし、エスニックグループもする、市民もする。そういう利己的な安全観というものをどう折り合いをつけるかという、こっちは完全に相対的なことだと思うんです。ですから、人権は絶対、安全は相対、両方組み合わせるとうまく和がつくれると。

藤島委員 もう一つ、日本はまさに単一民族国家なんですけれども、アメリカのような多民族国家と人権に対する考え方が何か違うような感じがするんですけれども、その辺はいかがなんでしょうか。

武者小路参考人 先生の御指摘は、日本が単一国家であるというお話は、単一国家であると日本国民の大部分が信じ込んでいるという意味での単一国家であって、本当は単一国家ではない。そこに矛盾があって、そこのところに差別の問題が生ずるし、そこのところにNGOで多文化探検隊が出てくる。だから、そこのところで、単一だと思い込んでいることをどう乗り越えるかというのが日本の課題。

 アメリカにはそういう課題はない。だから、むしろアメリカの方がずっと日本よりも楽だという面があります。つまり、多様であるということはもうわかっちゃって、目に見えちゃうから。

 問題なのは、アメリカの人権問題はそこのところで、要するに顔、色も全部違う、アフリカ系とアングロ・サクソン系と違う。とにかく違うということはもう初めからわかっている。わかっていながら一緒にするために、人権だけじゃわからないから、憲法で定められた権利だということで、アメリカの人権というのは公民権として、要するに憲法で、アメリカ人であればアフリカ系であろうがアングロ・サクソン系であろうが一緒なんだ、そういう憲法に頼って人権を守るということを一生懸命やっているわけです。

 日本の場合には、むしろ憲法が国際的な人権法というものの大きな枠を受け入れて、そしてそれと協力をする、そういう違いがあると思います。

 その場合に、それがとても大事なのは、これはホームレスの問題を一つ例に挙げたいと思います。

 国連の人権法の議論では、人間の安全の権利があると。だから、自分が安心して自分の住んでいるところに住み続ける権利があるというのが人権委員会では常識になっていて、それが居住権ということになっています。

 ところが、日本のホームレスの裁判が大阪であって、そこで証人になりましたけれども、日本では、ホームレスの問題は、要するに自分たちが所有していないところに不法に住んでいることの方が問題で、所有権が優先する。ところが、国連の方では、所有権よりも、安全に暮らす、だから所有権を持っていなくてもいい。

 その違いというのは、世界じゅうに十億人ぐらい自分の土地に住んでいない人がいる。だから、それを全部だめだと言えない。ところが、日本ではホームレスは少ないから、やはり所有権の方が大事になりますので、日本国憲法を考えるときには、国際的な常識もちょっと参考にして、それで、マイノリティーが実は世界的にはマジョリティーなんだということを認識しないと、国際的な感覚を持った憲法にならない、解釈にならないということはあると思います。

藤島委員 もう一つ、先ほど人間安全保障と国家安全保障との関係が議論あったわけですけれども、両立しているうちはいいんですけれども、究極的には国家安全保障の方が優越するんじゃないかなというふうに考えられるわけですね。その際に、いろいろな問題が起きたときに、国連ないしいろいろな国がそれをどこまで援助していけるか、こういう問題じゃないかと思うんですが、いかがでしょうか。

武者小路参考人 おっしゃるとおり、国家安全保障はその背後に力がありますから、人間はそんな力がないから、やはり力があるものが勝つ。

 その場合に、しかし、国の安全保障といっても、結局は国の中で一番力のあるアメリカの安全保障というものが全世界の安全保障の中心に今なってしまっています。それを小さい国がみんな認めるのか、あるいは日本みたいな割に大きい国が認めるのか。そういう国家安全保障同士の折り合いをつけるときに、人間というものを出して、そして人間の立場から、アメリカの非常に一方的な国家安全保障、自分の国家安全保障を世界の安全保障と人間の安全保障と一緒にしてしまう、それに対してやはり反対をする必要がある。その反対をするときの一つの根拠として、人間の安全ということが、要するに論争するときに非常に説得力があると。

 そういうことで、私は、人間安全保障が、勝つからいいのではなくて、むしろ負けるからこそそれを頑張って主張するべきだと思います。

藤島委員 最後に、人権の問題は、やはり官と民の関係が今まで大きかったと思うんですね。ところが、最近は、特にマスコミとの関係等で、民と民といいますか、官と個人の関係ではなくて、個人と個人の関係における人権の問題がかなり大きな問題になっているんじゃないかと思いますけれども、最後にその点をお教えいただきたいと思います。

武者小路参考人 御指摘のとおり、民と民の人権問題がとても大きくなっています。ただし、これは個人と個人ではなくて、企業と個人である場合が非常に多い。あるいは企業と関係のある人と関係のない人、あるいは大企業の人と中小企業の人、あるいは工業の人と農業の人、そういう力関係が、グローバル化とともにバランスが非常に悪くなってきて、どんどん大企業が中小企業をつぶすとかそういうことが起こっている。

 そこのところで起こっている人権問題というのは、これは国家は小さい国家になれということで、かかわっちゃいかぬ、そういう主義がありますけれども、私は、やはりその場合には国家がむしろ弱い者の見方になるというか、人間の安全を大事にする立場から、国家の人権保障がとても大事になってきている、特に経済問題で大きくなっていると思います。

藤島委員 終わります。

鹿野会長代理 塩川君。

塩川(鉄)委員 日本共産党の塩川鉄也です。きょうは、貴重な御意見、ありがとうございました。

 平和的生存権を考えるときに、アメリカでのテロ事件というのが、市民の平和のうちに生存する権利を侵害した点で、大変許すべからざる事件だったと思います。

 同時に、今日の世界で最も人権が踏みにじられているのがアフガニスタンの国民の皆さんではないかと感じています。パキスタン駐在のジャノウスキー国連難民高等弁務官事務所の報道官も、空爆や治安の悪化で数十万の新たな避難民が生まれていると述べておりましたし、国連の大島賢三事務次長も、この前国連大学で、アフガニスタンで苦しんでいる、無言の、無辜の市民に救助の手をと訴えております。

 最も悲惨な目に遭うのが女性や子供、老人など、弱い立場の人でもあります。こうした難民の救援と、難民の増大を抑える国際的な努力に積極的、主体的にかかわることこそ、この平和的生存権を訴える、平和憲法を持つ日本の使命だと思います。この点で、難民支援活動ではどんな活動が具体的に現場では求められているのか、先生の体験を通じてお話しいただければと思います。

武者小路参考人 今の先生の御指摘、とても大事なので、一つだけつけ加えさせていただきたいと思いますけれども、人間の安全保障というときに、日本では豊かな人たちの安全をどう守るかということの方が大事になっているところもありまして、そうではなくて、一番安全を脅かされているところから安全を守るというのが人間の安全保障の非常に大事な原則だと思います。

 その場合に、やはり御指摘のように、アフガニスタンの弱い立場にある人たちの問題があります。その場合に二つあります。

 一つは、先生の御質問の難民の問題がありますが、そのほかに、難民にもなれない人たちがいろいろなところにいるわけです。つまり、経済的にとても、もう三年ぐらい気象異変で、農業がだめになっている、牧畜がだめになっている、それをどうするかという問題が実はもう一つあります。特に冬になって、どうしても行けないところにいる人たちをどう食糧援助をするかという、これは難民ではなくて、難民にさえもなれないで山の中に閉じ込められている人たちのためにどうするかという問題が一つあります。

 それからもう一つ、難民の問題につきましては、実はこれは非常に複雑な問題にこれからなると思いますが、難民の中にはタリバンの人たちも、タリバンを支持する人たちもいますし、難民の中に隠れてゲリラ活動がこれから続くと思います。その場合に、だれがゲリラで、だれがそういうことをしない難民かということはとても判定ができない。そこをどうするかという、実はかなり大変な問題があります。

 つまり、難民を救援するときに、全部怪しいからやっつけちゃうとか、怪しいから閉じ込めちゃうとか、そういう傾向が実はアフリカなんかの場合にも出てきていましたので、そういうことにならないように、難民一人一人をそれこそ人間として尊重する。怪しいから世話をしないということでは困る。だけれども、それだからといって野放しにしちゃうと、ゲリラがどんどんのさばってアフガニスタン全体の治安はなかなかよくならない、そういう問題があります。

 だから、そこの問題で、その場合に、最終的には、食糧とかそういう問題も大事ですけれども、やはり一人一人の難民の心の支えというか、自分の将来を、要するに国に帰れるか帰れないかとかいろいろなことがありますから、そういう将来に対する心配をなくすように、難民の人たちと話し合って、何をしてもらいたいかということをよく聞いた上でやらないといけない。

 何か、難民というと対象みたいにされていますけれども、実は難民自身がこれからアフガニスタンをつくる人たちなので、その難民をちゃんと助ければ、そういうゲリラ活動をしなくても済むようになりますから、難民がゲリラを助けなくなれば、そこにゲリラが隠れることもできない。ですから、それだけ、難民自身との対話をして、そして難民が将来に安心できるような、とても難しいことですけれども、何かそれを努力しているんだということがわかれば、難民も一生懸命協力してくれると思います。

塩川(鉄)委員 ありがとうございます。

 テロ事件をめぐる日本の対応にかかわって二点ほどお伺いしたいんです。

 この前新聞で、三井物産の戦略研究所の寺島所長が、私はこれまで、日本が武力をもって紛争にかかわらないという立場を説明し、国際社会で孤立感を覚えたことはない、憲法の制約があるから後ろめたいというのは、それこそ卑屈な説明だ、憲法は制約ではなく、国際社会に説明すべき理念のはずだと述べています。この点で、国連大学での御活動ですとか国際社会でのいろいろな活動をお持ちの先生自身の、日本の憲法を説明するときの体験といいますか御経験を少しお話しいただければということが一つ。

 また、この寺島さんが、日本政府が拙速な軍事支援を打ち出し、評価をしてもらいたいというのは、アメリカのフィルターを通してしか世界を見ていないからだとも言っています。先生も、拝見した「軍縮問題資料」の論文の中で、「非西欧世界を無視してアメリカに尻尾を振るようになったのは残念なこと」と述べておられますが、この日本のアメリカに対する関係は今どうあるべきなのか。この二点、お伺いしたいと思います。

武者小路参考人 かなり乱暴な意見を持っているので、乱暴な意見を申し上げます。

 アメリカがテロ対策あるいはテロ戦争をやっているのが本当に人間のためになるのであれば、私は、日本は全面的にそれに賛成し協力すべきだと思います。しかし、アメリカがやっていることは、本当は、自分の国の利益とか自分の経済が危うくなってしまったことをどうにかバランスをとろうとか、それは、やるのは国益の立場から当然ですけれども、そういういろいろな計算があるということが一つ。それから、全く世の中がわからない、イスラム世界については、全くアメリカ的な理解しかできないということで、要するに見当違いである。そういうことで、アメリカのやっていることはかなり怪しい。

 だから、もしも日本がアメリカの友好国であれば、アメリカが間違ったことをしたときにちゃんとそれを正すのが友達であって、日本みたいにただ言うことを聞くのは本当の友達ではない。やはりアメリカとしても日本は信用できない、すぐにわあわあくっついてくるから全然信用されていないというのが、国際関係の研究者としては、その辺とてもおかしいと私は思っております。

 ですから、やはり日本は、湾岸戦争のときに金を出して認められなかったから今度は認められようと、認められることだけを考えていて、別にテロ問題をどう解決するかということを考えているわけでは全くないと私は乱暴に思います。

 だけれども、本当はそうではなくて、日本は、むしろテロ対策をちゃんとイスラム世界とも話し合って、そしてもっと文明的な問題も含めて対策をする。それこそ和をもってとうとしとなすということで、西部の荒くれ男的なやり方でないテロ対策、ハト派連合をつくる、そういうことを日本は、少なくとも今まで日本の中でやってきた知恵を使えばいろいろできるはずなのに、全然それをやらないでアメリカにくっついているという、今の引用なさったことと全く同じ意見を持っております。

塩川(鉄)委員 ありがとうございます。

 アメリカでも、いわば自国のこと中心にという現状の問題点があるわけですが、今の日本の憲法の立脚点というのは、侵略戦争の反省の上に立って、つまり、自国のことのみに専念してはならない、この立場が出発点であり、この過ちを繰り返さないためにも民主主義を貫く、この決意を行ったことにあったと思います。

 それが、残念ながら、戦争責任をあいまいにするような戦後政治のもとで、アジアの国々や人々との真の友好関係を築くことができなくなっているだけでなく、国内においても、在日朝鮮・韓国人の皆さんへの差別を生み出す背景にもなっていると思います。

 外国人に対しても開かれていない日本の現状を危惧するものですが、先生もおっしゃられた、自国中心主義と言われる現状は、私は、侵略戦争と植民地支配への反省という憲法の立脚点が損なわれているところにもあると考えますが、先生はどのようにお考えでしょうか。

武者小路参考人 私も全く同意見です。

 ただ、補足して申しますと、日本がとにかく明治維新以来一生懸命やってきたこと、そして、それによって日本人が豊かになったということは絶対評価すべきだと思います。思いますけれども、それが、周りの人たちの迷惑になるような侵略になったり植民地化になったり、朝鮮から労働者を連れてきて日本でこき使ったり、いろいろな悪い副産物がたくさんあった。

 そのことを認めることは全然恥ずかしいことじゃない。ヨーロッパの国だってアメリカだってひどいことをたくさんして、だけれども、立派なのは、それをちゃんと認めて何とか手当てをしようとしているところがいいわけで、日本も、いいことをしようと思いながら悪いことをしたことをちゃんと認めて、そして補償もするし、教科書にもちゃんと書いて、むしろそれをやる方が立派なんだということを何とかわからないと、日本中心主義というのは克服できない。

 だから、日本中心主義を否定することは、日本を否定することでは全くないわけです。むしろ、本当の日本を大事にするためには、日本中心をやめて、日本もほかの国と同じような一つの国として、いいことも悪いこともした、悪いことをしたら謝ればいい、そしてみんなで和をもってとうとしとしよう、そういうふうになるべきなのに、何か日本が中心で、日本がいいことをしたか悪いことをしたか、そこに全部話が集中することが間違いのもとではないかと思います。

塩川(鉄)委員 終わります。ありがとうございました。

鹿野会長代理 植田君。

植田委員 社会民主党・市民連合の植田至紀です。

 きょうは、先生におかれましては、忙しいところ貴重なお話をお伺いさせていただきまして、御礼申し上げます。

 非常に共感する話ばかりでしたので、逆にむしろ質問がしづらいわけでございますが、先生のお話の順序からいきますと、一番最後にされた聖徳太子の和をもってとうとしとなす、この言葉がまさに憲法前文の平和的生存権に相通ずる、非常にそれを私自身興味深く聞かせていただいたわけです。当然、その和の中には、他文化共生の視点でありますとか、また多様性を許容し合うという精神がなければなりませんし、そして、その前提にすべての人が平等であるということが事実としてなければ、和というものも成立しないだろうと思います。

 そういう意味で、この間の質疑でもありました部落差別にかかわって言いますと、まさに先生おっしゃるとおりでございまして、日本の近代化において、部落というものが封建遺制であるはずなのに、言ってみれば鎮め石として置かれていたというのもそのとおりだと思います。その点について、かつて部落解放の父と言われた松本治一郎が、見事に、貴族あれば賤族ありと喝破した。それはまさに私は名言だと思うわけでございますが、このことは何を意味するかというと、賤民、賤族というものが存在するということは、その対極にとうといとされる人たちがいる、貴族ありということでございます。

 その意味において、私は今回、憲法について議論するときに、貴族、憲法の条文でいけば一条から八条、日本にとって、もしくは日本人にとって天皇制というものがいかなるものであったのかということを真摯にまず検証しなければならない。そして同時に、その今後のありようについても論議をしていかなければならない。その議論を抜きにした憲法論議というものは画竜点睛を欠くものではないかと考えておるわけですけれども、先生の御見解をお伺いしたいと思います。

武者小路参考人 まさに私が言いたいことをおっしゃってくださったので、松本治一郎先生の言われたことは全く正しいと思います。

 先ほど、部落差別、部落民を一番下に置くということと、一番上に天皇を置くということをちょっと言って、余り天皇制のことは言わなかったんですが、日本の明治国家をつくった人たちの、非常に残念なことではあるけれども非常に賢い、悪賢いことかもしれないんですが、そういうサンドイッチにして日本国民を均質な国民に仕立てるための構造をつくってしまったということはあると思います。しかし、その構造はだんだん崩れてきているということはあります。

 その場合に、天皇制というものをどう考えるかということは、これはいろいろな考え方がありますけれども、少なくとも、ただ象徴天皇制ということであればそれでいいかという問題が実は残っております。象徴天皇制であるからいいというのは、本当にその裏に隠れた考え方を持った人たちがいなければ象徴天皇制というのはいいんですけれども、実は、象徴天皇制の裏には、靖国神社にどうしても首相も参拝に行かなきゃいけないような、そういう雰囲気というものが、やはり隠れたものがある。それを表に出して、要するに、天皇制の裏にある神話的なものをもう一回表に出して、それで国民が本当に統合のシンボルをどうするのか、必要なのかどうかということも含めて議論するべきときだと思います。特に、グローバル化の中で、多様な日本をつくるときにはシンボルが必要だという考え方はもちろんあり得ると思いますけれども、そのシンボルが神の国のシンボルであったらやはり困るという問題があるかと思います。

植田委員 ありがとうございます。

 この種の議論をするとき、私も勇気が要るわけです。まして、皇室の慶事を前にいたしまして、勇気が要る。これは実は悲しいことだと私は思っています。

 といいますのは、憲法調査会というものがあって、日本国憲法を論じるというときに、その国の政体が今後どうあるべきかということを抜きにして議論はできないにもかかわらず、一条から八条に係る部分にかかわって論じようとするときに、今の象徴天皇制をどうしていくのか、それがかつての復古的な色彩を持つものもありますし、一方で、共和制を含めてそれは廃止するという議論も当然あるだろうと思います。しかし、そこに話が及んだ瞬間、まだこの日本社会においては、こうして私が申し上げていても、社会の集団から、社会から排除されるのではないかとか、時として生命の危険を伴うのではないかとか、やはりそういう心配をしながら話をしなければならない。その意味において、自由に憲法を論じようとしても何となくタブーが存在しているということは、それは事実ではないということは決して言えないだろうと思うんです。

 その意味において、日本国憲法の精神がいまだ十分に浸透していない、日本が成熟した民主国家であるかというと、まだまだそういうことにはなり得ていないだろうというふうに私などは考えておるわけですが、その点もちょっとお聞かせいただければありがたいんですが。

武者小路参考人 こういう話をすることが非常に難しいということはおっしゃるとおりです。難しいからこそ忌憚のない話をというお話がありましたので、私の、もしかするとまじめには聞こえないかもしれませんが、一つの代案があり得るということで、ただ、これはすぐに皆さんに御検討いただくということは申しません。

 それは、日本列島連邦共和国をつくる、日本列島を一つの連邦共和国にする。そして、都は東京から那覇に遷都をする。そういうことをしたら、日本は、ずっとアジアに向かって開かれるし、東京一極主義を乗り越えることができる。北海道は、五稜郭で頑張っていた人たちが負けちゃったから、北海道は一つの、日本に道州制というのがあっても、なかなか北海道のあれはない。それから沖縄は沖縄で、独自の文化を持っていながら、日本、ヤマトンチュに支配されている。そういうことをもう少しちゃんと考えると、私は、連邦制が大事である。ドイツがやっているような連邦制でいいと思いますけれども、連邦制にして、しかし東京を首府にしている間はまたいつまでも一極中心が残りますので、那覇に都を移す。それぐらいの構想を持つ必要があると思います。

 思っていますが、そのことを憲法調査会で御検討くださいと言うだけの非常識な感覚は持ってはいないので、ただ、そういう考えを持っている人もいるということを御参考までに申し上げます。

植田委員 今の先生のお話が、少なくとも憲法調査会の議事録にはきちっと残るであろうということだけでも、私は本当にきょうは意味があったなとうれしく思っておるところでございます。

 ちょっと話題を変えまして、冒頭話された話にもなるんですけれども、平均的な日本人の人権というものは保障しているけれども、それ以外の方々、要するに、差別を受けておられる方々、人権侵害を受けておられる方々の人権が果たして保障されているのか。それが在日外国人であり、被差別部落であり、女性であり、いろいろあるかと思うわけですが、私自身そういう意味で、憲法十一条、十四条を出すまでもなく、日本の法体系はしっかりしているわけですけれども、差別の解消という視点はやはり欠如しているところが多分に見られるというふうに思うんです。

 一例を挙げますと、アイヌ民族問題、アイヌ文化振興法というのができましたが、あくまでもこれは、まさに名のとおりアイヌ文化振興法であって、アイヌ民族の民族的権利、そしてそれの回復を目指すものではないわけです。少なくとも、政府は先住民族としてアイヌ民族を認知しているわけではありません。そういう意味で、先住権の話にすぐに入ってしまうわけなので、それで面倒なのでそういうことになるわけですけれども、こういうふうに個々壁があると思うんです。

 そういう意味で、普遍的な人権立法が、先行的に人権擁護施策推進法等々できており、また審議されているわけですけれども、差別、人権侵害にかかわる問題というのは、例えば被差別部落の問題にせよ、在日の問題にせよ、沖縄にせよ、アイヌ民族問題にせよ、それぞれ固有の淵源を持っておりますし、固有のありようがありますし、また現行の法体系の中で、法的には保障されているけれども実体が伴っていないとか、法自体全然ないとか、事業はされているけれども社会意識としての差別が残っているとか、多様なやはり差別の実態があるかと思うわけです。

 そういう意味で、本来は、そうした個別課題ごとの人権立法というものがやはり必要だろう。これは政治的になかなか難しいとは思うんですが、理屈の上では、そうした個別課題ごとの差別撤廃、人権確立の立法というものが要請されるんじゃないかというふうに私は考えておるんですが、その点については先生の御見解はいかがでしょうか。

武者小路参考人 まず第一に、先ほど申しました法理念と法規範の問題があります。

 やはり理念がはっきりしていない。つまり、アイヌ民族が先住民族であるということは、これは国際的な常識で、国連でもアイヌ民族の代表が先住民族の代表として発言をしたりしているので、それを日本政府が認めないということはかなり非常識だと思います。ですけれども、二年か三年ぐらい前にやっと日本政府はアイヌ民族をマイノリティーとして認めた。だから、少しの前進はある。

 これはやはり理念としての問題がありまして、日本が一つだということを言うときには、どうしても、アイヌ民族が別の民族であるということを認めることさえもおかしい、やりたくない、都合悪い。それを克服する必要があると思います。だから、教育の問題とか全部入ってくるので、この問題は、そういう法理念をはっきり法規範に翻訳するための人権についての基本法がやはり一つ要ると思います。

 しかし、それと同時に、それぞれの差別の形は先生がおっしゃるようにかなり違うわけで、基本法のほかにやはりそれぞれの、アイヌの問題あるいは部落解放の基本法とか、そういうことをはっきりさせる必要があると思います。それと、反差別の基本法という考えもありますし、私は、人権の基本法というものを反差別を中心とした基本法にすることが日本の場合には一番いいんじゃないかと思います。

植田委員 ありがとうございました。

 終わります。

鹿野会長代理 松浪健四郎君。

松浪委員 参考人におかれましては、長時間、まことにありがとうございます。示唆に富んだ御意見をいただいておりますことに感謝を申し上げたいと思います。そして、長年、参考人は、人権問題につきまして我が国を代表する立場で、多大なる成果と業績を残されてまいりました。このことに対しても、改めて敬意を表したいと思います。

 限られた時間でございますので、早速質問をさせていただきたいと思いますけれども、我が国にありましては、根強く死刑廃止論があります。申すまでもなく、この死刑廃止論は人権問題と強くリンクしているところであります。

 そこで、死刑を廃止して、そのかわりに終身刑を導入しようというような意見もあります。ところが、死刑ではなく終身刑にした場合、終身ずっと刑務所の中で暮らさなければならない、そのプロセスの中で必ず精神障害を起こして、このことの方が人権侵害になるのではないのかというふうな議論があったりして、いまだどういう方向に進むのか全くめどが立っておりませんけれども、この死刑廃止論について参考人はどのようにお考えであるか、お尋ねしたいと思います。

武者小路参考人 先生の御質問の中には、死刑廃止論は無理があるという御指摘があり、そういう無理があるということは承知の上で、私はあえて死刑廃止ということを、やはり大事だと思っております。

 そして、終身刑の問題は、絶対死ぬまで刑に服さなければいけないということにすればおっしゃるような問題がありますけれども、終身刑の場合には、いろいろな段階で、悪いことをしたという痛悔の気持ちがはっきりして、そして、社会に復帰したときに再び犯罪を犯すことはないであろうということがわかったときには釈放するとか、そういう形の手当てができるのではないかと思います。

 死刑廃止が難しいということを私も認めておりますのは、例えば、ヨーロッパで、このテロの問題とかがあって、死刑は廃止すべきではなかったという考え方が出てきていますし、アメリカでは、拷問をむしろやってもいいという法律を通そうという動きもあります。そういうことで、非常に世間が騒がしくなると、やはり死刑が大事だという意見が強くなるということは認めます。

 認めるからこそ、そういう形で死刑が――要するに安全に生活をしている市民の安全だけを考えて、死刑にされる人たちの境遇の中で、だからかなりぶれがありますけれども、アメリカなどの場合には、死刑にされる人たちはかなりマイノリティーが多いということがあります。日本の場合にはそういうことはないと思います。そこにかなりの違いがありますが、やはり個人の人権と安全ということを最後まで徹底して考えれば、殺してしまうことは、いい悪いの問題以前に、国家としてそれだけの権利があるかというところで、私は、国家は、生かす権利はあるけれども殺す権利はないと思っております。

 ですから、この問題が非常に深刻であるということは認めますが、認めれば認めるだけ、やはり死刑は、人間を大事にする以上、廃止すべきであると私は思います。

    〔鹿野会長代理退席、会長着席〕

松浪委員 二十一世紀のあるべき姿として、また人権の問題として、今参考人がおっしゃられましたように、死刑は廃止すべきである、このようにも実は私は考えるのです。

 それでは、その代案は終身刑なのか。

 私たちの言う終身刑というのは、文字どおり終身まで国がその犯罪者を管理、拘束するということであるわけですけれども、今の参考人の御意見をお伺いしておりますと、限りなく無期懲役に近い、再び社会に復帰をするということが前提での終身刑。これで話を進めていきますと、死刑容認論者をなかなか説得することができない。

 これは、人権問題について我が国民が希薄なのか、それとも、死刑という刑罰に対して絶対的な自信を持っているのか、その辺が明確でありませんし、一つの国民性であるのかもしれませんけれども、終身刑と無期懲役刑、これをどのようにして死刑容認論者を説得していくのか、これがかぎだというふうに私は考えておるのですが、いい方法はございますでしょうか。

武者小路参考人 こういう方法がいいということは申し上げられません。ただ、私の考えだけ申し上げさせていただきたいと思います。

 実は、死刑というものが戦後日本の刑法の中で維持されていた裏には、東大の小野先生が刑法の権威として死刑を非常に強く支持しておられました。小野先生の死刑論はいわゆる応報刑法で、人を殺したら殺されるべきであるという、要するに社会刑とかそういうことではなくて、応報刑として死刑ということを主張しておられました。ですから、応報ということを認めるか認めないか、別の考え方に応報という考え方は変えられないかという問題があります。

 実は、関係ないみたいですけれども、反テロ戦争は応報戦争で、テロをやったからそれに対して仕返しをするという因果応報の考え方のアメリカ版というところがあります。

 結局、応報刑法のもとは、小野先生の場合には仏教から出てきているのですけれども、仏教思想が本当に応報しか考えないのかという問題が実はあると思います。釈尊の到達した境地からいえば、応報というものは、それを乗り越えるべきなので、応報ということをそのまま認めることが仏教ではない。だけれども、何かそういう形の誤解がどうも日本の仏教界にはあってそういうことになったことがあるので、もしかすると、その問題をもう一回掘り下げることが死刑廃止の問題を考えるのに必要なのではないかと思います。

 実際にどうするということよりも、そういう理念的なところでひっかかりがあると思います。

松浪委員 最近の国民感情として、また、少年法の一部を改正する法律案等から考えてみますと、遺族の立場、被害者の立場から法律あるいは罰則を考えるという傾向が強まってきたような気がしてならないわけですね。

 無期懲役、これが文字どおり無期であったならばおおむね終身刑に等しいわけでありますけれども、今までの例でいきますと、無期懲役を食らった人は平均二十二年で社会復帰しておるというデータがあって、無期懲役イコール実質的懲役二十年じゃないのかというような議論があって、なかなか終身刑が受け入れられない、こういう状況にあります。

 これは、やはり人権に対する哲学を持つか持たないか、あるいは参考人がおっしゃったような宗教観も大きな問題でありますが、これは何としても、今世紀、我々はできるだけ早く克服をしていかなければいけない。そして、憲法を改正したとしても、基本的人権の尊重というものは無視し得ないし、そのまま置いておかなければならない。

 そこで、私は、この死刑廃止論というものを真剣に議論していかなければいけないし、どのような形で我々はクリアしなければならないのか、こういうふうに考えておりますけれども、その点について参考人の御意見をお伺いしたいと思います。

武者小路参考人 全くおっしゃるとおりだと思います。

 技術的な問題としましては、終身刑というものを限りなく緩めるという、そのことを私が申し上げましたのは、二十二年というのは、いつか許そうという立場で初めから対処していることが前提になっていると思うのです。そうではなくて、終身であることの方を前提にして、しかし、途中で病気になったり、はっきりした理由があったときにはそれを解く、そういう形で終身刑をやわらかくすることができるのではないかということが一つあります。

 それから、もう一つありますのは、社会刑の問題で、人を殺した人は悪いけれども、その悪い人がなぜ出てきているのかという社会の責任の問題が実はあると思います。精神的にアンバランスな人を野放しにしている周りの社会をどうすればいいかとか、そんな問題もありますし、それから、貧困ゆえに人を殺した場合にどうするのかとかという問題もあります。

 それから、日本の刑法の中でかなり問題が指摘されていますのは、正当防衛という考え方が非常に狭くなっている。正当防衛で人を殺した場合にもこれは殺人だ。つまり、どこまでが正当な防衛かということが非常に狭く解釈されている。これは、さっき言った、悪いことをしない平均的な日本人が安心して暮らせるということを優先させるからそうなるので、そうではなくて、犯罪を犯した人のことも考える。

 確かに、殺された人の家族のことも考える必要がありますけれども、それはまさに、その家族のことを考え、そして犯罪者のことを考え、両方を考えて折り合いをつける、それが人間の安全を守るための知恵だと思うのですけれども、そこのところを掘り下げていく必要がある。だから、人権だけの問題ではなくて、社会の責任をどういうふうに満たすか、それから、社会がそういう殺人とか犯罪を犯すようにしむけているものをどう減らすかという問題がとても大事です。

 これはテロの場合も全く同じことで、テロは処罰すべきですけれども、テロがなぜ起こるのか、殺人がなぜ起こるのか、そこのところをどう減らすかという、その努力はかなり必要だし、精神分析学とか社会の中のいろいろな問題、犯罪学とかだんだん進んできていますから、そういうものをどうしたら減らせるかということが出てくるのではないかと思います。

松浪委員 死刑のなくなることを期待して、私の質問を終わらせていただきます。

 どうもありがとうございました。

中山会長 宇田川芳雄君。

宇田川委員 21世紀クラブの宇田川芳雄でございます。

 先生、大変お疲れでしょうが、最後の質問でございますので、よろしくどうぞお願いを申し上げたいと思います。

 先ほど来お話が出ておりましたが、武者小路先生の、和をもってとうとしとなすという、まさに聖徳太子の言葉を引用されて平和理論を展開され、平和憲法というものを表現されたことは、まことに的確な表現だと思って、本当にうまいことおっしゃるなと思って敬服をしていたわけです。確かに、日本国憲法の前文の中には、読み上げるまでもないのですが、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」これはまさに和の精神そのものだと思うのです。

 しかし、考えてみれば、この日本国憲法ができて間もなく朝鮮動乱が起こりましたし、やがては泥沼のようなベトナム戦争もあり、湾岸戦争が起こって、今回の同時テロによるアフガンの争いということになってきているわけでありますけれども、こういう大きな争いを除いても、もうずっと地域紛争というのは事欠くことがなかったような気がするのですね。

 そうしますと、まさに崇高な理想的な法文ではあるのですけれども、この和の精神だけではなかなか、日本の国が世界に伍してやっていくことは困難じゃないか、果たして性善説だけでこれからの国家をしっかりと守り育てることができるのだろうかという心配が今出てきているところだと思うのです。

 この憲法ではなかなかそこまでは説明し切れないから、憲法に載っていないところは特別の法律をつくって特別法で補足していこうかというようなこともあって、今度の特措法なんかもそういう形だろうと思うのですが、そういうことをやればやったで、また国論を二分するようないろいろな議論も出てくる。

 そういうことを考えますと、憲法がこういう和の精神を盛り込む、これはすばらしいことですけれども、そういう理想的な文言だけで果たしていいのだろうか。今後、そういったことも含めて、憲法の和の精神をしっかりと生かしながら、現実に合った、いわゆる理想と現実のそごを埋めるような形のものを議論しながらつくり上げていくべきなのか、そんな点について先生のお考えをまずお聞きしたいと思います。

武者小路参考人 理想というものは、実現できるから理想を主張するものではなく、実現できないからこそ理想は理想としてあると思います。

 和をもってとうとしとなすということが本当にできないからこそ、聖徳太子はそういうことを主張し、そして、蘇我氏はそれでつぶれて、全く和の精神は崩れてしまった。ですから、私が申し上げたことは、人間の安全を大事にしましょうというのは、人間の安全が守れるからじゃなくて、守れないからこそ、国家の安全保障だけで物が動いているから、それを変える。

 だから、恐怖と欠乏からの自由ということで、グローバル経済で、痛みを覚えないと改革ができないということで、どんどん痛まされる人たちがふえてくる、そのことがない世界ができるということは私は全然思っていません。だけれども、その世界が悪いということを認識するために理想というものを持ってくる。

 それで、私はやはり、日本が平和的生存権ということを主張して、そういう一つの理念をちゃんとはっきりさせて、今度の特別措置法をつくらない、別の特別措置法をつくる、本当に和に基づく特別措置法をつくるべきだったと思います。

 なぜかと言うと、今の特別措置法は、結局は、アメリカの非常に間違った見当違いなテロ対策、テロ対策は絶対必要ですけれども、それは法律でやるべきで、軍事的にやるべきではない、ちゃんと刑事裁判所で裁くべきです。そういう間違った方向にどんどん行くのを避けるためには、ただ、日本は出しません、憲法の制約だから出しませんというのではいけないと思います。何か理屈があって、それは日本のためだけじゃなくて、憲法の制約ではなくて、日本は、一つの信念を持って、そういうことではテロ対策にはならないから協力しない、そういうはっきりした立場をとるべきであったと今も思っています。

 ですから、理想というのは、できないから妥協しましょうではなくて、妥協しないために、つまり間違った方向にどんどん今世界は行っている、軍事的にも経済的にも。要するに、恐怖がますますふえる、欠乏がますますふえる世界になっているからこそ、欠乏と恐怖というものを免れるという、今じゃ絶対できないことをとにかく掲げて、そして日本は、何もほかの国の言うことを聞く必要はない、孤立してもいいから、日本の信念、これが人類の信念であるということで頑張るということができるし、すべきだと思います。

宇田川委員 戦争とか軍事とかになるといろいろ議論もあるところですから、これは別の機会にまたゆだねることにしまして、国のあり方というのは、やはり国民の安全を守って、生活を保障するところにあると思うんですが、そうすると、戦争をしなくても、経済活動の中でも、今先生おっしゃったように、経済で、それぞれの国が自国の利益をかざしながら、お互いに、言葉は悪いですけれども、戦い合うということがあるわけですね。

 WTOなんというのは、そういうことを解決するために、何とかみんなで相談し合ってやろうよということの一つなんですけれども。それでは、ヨーロッパの今度のEUのように、幾つかの国が一緒になって協力し合うようなものを地球上全部につくればいいじゃないかというお話もあるかもしれませんけれども、私は、EUにしたって、一つの国だけじゃなかなか経済的に競争が成り立たないから、十幾つかの国が一緒になって頑張ればほかの国と対抗できるだろうという形、経済の戦いの中でできた一つの集まりだと思うのです。

 そういう面から見ると、「諸国民の公正と信義に信頼して、」という精神論的な形だけで憲法は制定されているわけですけれども、ただ単に精神的なものだけで、国民の利益を守り抜くことはなかなか私は困難じゃないかという感じがするわけですね。

 そういう面において、もっと憲法としては、具体的にそういう面も加味した、なかなかずばりとは言えませんけれども、加味したものも加えていかないと、本当に和の精神を的確に守り通すということは困難になるんではないかという感じがするのですが、大変抽象的な言い方ですが、先生いかがでありましょうか。

武者小路参考人 私の方もまた抽象的な答えになってしまいます。ですけれども、抽象的な問題はとても大事だと思うのです。

 私は、法律学ではなくて政治学をやっていまして、政治学というのは、法律は法律のためにあるんじゃなくて力関係の中で利用するんだ、そういう立場で考えております。ですから、憲法に書いてあることは、本当に信用するに足りる国々が世界にあるとそのときは思っていたかもしれませんが、実はそうではない。日本を経済的に侵略しようとねらっている、国よりも企業がたくさんある。そういうところで日本は頑張らなくちゃいけない。頑張るときに、一つの理想を掲げて、日本はこういうことで頑張っていますよということを言うことで、いろいろなところに利用されることを避ける必要があると思います。

 あえて申しますと、ベトナム戦争のときに、韓国は巻き込まれて、いまだにいろいろ苦しんでいる人たちがいるわけです、韓国から正兵隊で行った人たち。日本はベトナムに、憲法があったから派兵しなかった。派兵しないから憲法に書いてあることが全部できたというわけでは全くない。だけれども、それを使って、日本は、少なくとも日本だけの一国平和主義というものを守った。それがいいかどうかは、私は余りいいとは思わないけれども、もっと世界を平和にすべきだけれども、アメリカにくっついてそういうことをやることはないと思います。

宇田川委員 もう一点、人種差別の問題。先生、大変丁寧にお話しされましたので、そのことでちょっと気になることがあるんです。

 特権的差別という言葉を使っていいのかどうかと思うのですが、例えば、部落民のお話が出ましたけれども、今、同和というのは、地方の行政では非常に大きなウエートを持っていろいろ行政措置をしているんですよ。ですけれども、法律上、はっきり申し上げて、もう戸籍の中には同和も何もないわけですから、その人たちが黙って日常活動をしていればわからないわけですね。結婚だって自由にできるわけです。その人たちが、特に自分たちは同和なんだと言って、例えば日本同和会であるとか組織したりする。なぜそういったことをするかというと、同和であるということを打ち出すことによって、行政上の優遇措置を受けることができる。例えば、東京都の場合は、都営住宅に優先的に入れるとか、あるいは事業に対する助成なども受けることができるわけですよ。

 そういうことを考えると、例えば今度の、現実に出ている問題だから言っていいのかどうか、朝鮮信用組合の問題にしたって、やはり朝鮮総連とか、朝鮮公民と言うんですが、朝鮮公民の人たちが自分たちの特権を生かして、それでああいう制度をとってきたから今度のような問題が出てきたわけです。

 そういう、逆に特権的な差別を持つということについて、人種差別の一つの考え方として、これは行政あるいは法律上やるべきことかどうかと思いますけれども、その点について、やはり別の面で考えていかないと、人種差別問題は全面的に解決するというわけにいかないと思うんですが、先生、最後にその点について御意見を。乱暴な言い方ですから、乱暴な御意見で結構でございます。

武者小路参考人 先ほど申しましたように、差別の問題というのは力関係の問題です。結局、力関係の問題ですから、差別をなくそうとすると、差別されている方が得をする。それがもちろん差別している側は気に食わない。だから、そういう闘いの中でいろいろな同和行政の問題も出てきているということがあります。

 逆に申しますと、今、自分はアイヌ民族に属していると言う人が四万人か何かと言われていますけれども、公に認められているのはもっと少ない。要するに、アイヌ民族であることを言うことは損なわけです。だから、それが得になるようになったらアイヌ民族は六万人ぐらいはいる。

 だから、問題は、どっちを大事にするかということがあると思います。結局、差別をなくすために同和行政をやると、必ずそれを利用する、えせ同和という形の利用の仕方さえも出てくる。あらゆる差別問題は、差別問題をなくそうとすると、差別されている側に手厚く待遇を与える。必ずそれによって得をしようとする人が出てくる、それは当然なことです。特に、差別されていればそれだけ、それこそ人間的な不安が多いわけだから、そういう形で安心をしたいということがあります。

 だから、差別をなくすということはきれいごとでは全くない。それにもかかわらず、そういうマイナスがあってもそれをなし遂げる。なし遂げている間にいろいろな汚いことはたくさんあるという、それを認めて、それでも差別をなくすか、それとも、汚いことは困るから、安心して差別をされていない日本人だけが幸福な日本をそのまま持ち続けるかという、そこの選択の問題だと思います。

宇田川委員 ありがとうございました。

中山会長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、一言ごあいさつを申し上げます。

 武者小路参考人におかれましては、貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。調査会を代表いたしまして、厚く御礼申し上げます。(拍手)

 午後二時から調査会を再開することとし、この際、休憩いたします。

    午後零時十二分休憩

     ――――◇―――――

    午後二時四分開議

中山会長 休憩前に引き続き会議を開きます。

 日本国憲法に関する件、特に二十一世紀の日本のあるべき姿について調査を続行いたします。

 本日、午後の参考人として城西大学経済学部教授畑尻剛君に御出席をいただき、人権保障に関する諸問題について御意見をお述べいただくことになっております。

 この際、参考人の方に一言ごあいさつを申し上げます。

 本日は、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。参考人のお立場から忌憚のない御意見をお述べいただき、調査の参考にいたしたいと存じます。

 次に、議事の順序について申し上げます。

 最初に参考人の方から御意見を四十分以内でお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。

 なお、発言する際はその都度会長の許可を得ることになっております。また、参考人は委員に対し質疑することはできないことになっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。

 御発言は着席のままでお願いいたします。

 それでは、畑尻参考人、お願いいたします。

畑尻参考人 ただいま御紹介いただきました城西大学の畑尻と申します。

 本日、私の報告のテーマといたしましては、人権の迅速かつ適切な保障のために、憲法裁判所という制度を我が国でも導入すべきかどうかということ、これが最も大きなテーマではないかと思われます。そのテーマに即してお話をさせていただきたいと思います。

 先に結論部分をお話しした方が以下の議論が明確になると思われますので、申しわけございませんけれども、レジュメの最終ページ、十二ページの「結語」というところをごらんいただきたいと思います。

 私のきょうの報告の結論部分を先に申しますと、簡単に申しますと、憲法改正ではなくて、裁判所法を改正することによって、上告裁判所としての最高裁判所以外に、憲法裁判を専門に扱う専門裁判所としての最高裁判所を設けるということでございます。そして、その裁判所にどういう手続を割り当てるかといいますと、これは後で具体的にお話ししますけれども、ドイツで採用されております具体的規範統制という、そのような手続をただいま申しました憲法裁判を専門に行う最高裁判所に権限として与える。これが私の本日の結論部分になると思います。

 以下、もう一度レジュメの一ページから少し具体的にただいまの主張をお話ししていきたいと思います。

 なお、若干レジュメの量が多くなりましたのは、憲法裁判所というものをつくる、つくらないという問題については、さまざまな意見がございます。したがって、そのさまざまな意見をやはり集約する形で検討することが望ましいと思われましたので、ここにさまざまな意見をそのままの形で載せさせていただきました。したがって、レジュメとしてはちょっと例外的に量が多くなったと思いますけれども、そのような趣旨であることを御了解いただきたいと思います。

 さて、順番に従ってお話をさせていただきます。

 まず、「問題の所在」ということですけれども、従来から、憲法学界にあっては、最高裁判所を頂点とする裁判所の違憲立法審査権の行使について、非常に消極的であるという意見が非常に多く出されておりました。あるいは、それを違憲審査の閉塞状況というふうな言葉であらわす研究者もおりました。

 端的に申しまして、最高裁判所が現在まで法令違憲審査で当該法令を違憲とした件数は、これは若干数え方によっても違うんですけれども、明白な形では四件あるいは五件と言われております。具体的に言うと、昭和四十八年の尊属殺重罰規定違憲判決、五十一年の衆議院議員定数不均衡判決、一年前の薬事法の距離制限違憲判決、そして六十二年、森林法共有違憲判決、この四つが一般的に指摘されておりますし、数え方によっては昭和三十七年の第三者没収の判決をそれに挙げる方もいらっしゃいます。四つあるいは五つというのが憲法学説では一般的に紹介されている判例になります。

 この五つあるいは四つという数を多いのか少ないのか、これはいろいろな評価が分かれるところですけれども、いずれにせよ、他の憲法裁判所の国々、あるいは他の司法裁判所で日本と同じような形で違憲立法審査権を行使している国々と対比しても、決してこの数は多いというふうには言えない。あるいはむしろ、先ほど言いましたように、非常に消極的であるという評価が一般的なようであります。

 さて、そのような評価がしばらく行われておりましたけれども、一九九〇年代に入りますと、政治の枠組みの大きな変動に伴って、最高裁判所が従来の消極的な態度から積極的な態度に移行するのではないかという期待がかなり高まった時期がございます。

 実際に判例をちょっとひもといてみますと、平成八年の神戸高専の剣道受講拒否事件であるとか、次の年の愛媛の玉ぐし料訴訟であるとか、この二つの判例に代表されるように、最高裁判所自身が少数者の人権に配慮した上での憲法判断を行うというかなり積極的な姿勢も見られないことはないと思われます。

 しかし、今の二つの判例以外の、総体として考えますと、一九九〇年以降も、大きな政治の変動はあったとしても、積極的な憲法判断に踏み込んだ流れが最高裁判所に定着している、あるいはその萌芽が見られるかというと、必ずしもそれも肯定的に答えることはできないように思われます。

 それの最も典型的といいますか象徴的な例が昨年の平成十二年九月六日に下されました参議院の議員定数不均衡事件の判決でございます。ここでは詳しいその内容は御承知だと思われますので省きますけれども、参議院の選挙について、最大格差一対四・九八というこの格差が憲法十四条の法のもとの平等に反するのではないかというふうな形で争われたわけでありますが、御承知のように、参議院の議員定数不均衡事件について、最高裁判所は十対五という形で合憲判決を下しております。五人の裁判官が反対意見を述べまして、一対約五という格差は参議院であったとしても違憲であるというふうに述べておりますけれども、特にその中で注目されるのは、福田博判事の追加反対意見でございます。

 そこに最後の結論部分だけを載せておきましたけれども、簡単に申しますと、多数意見が立法府の広い裁量論を展開して合憲判決を導き出したのに対して、反対意見は、そのような広い裁量論で国会に広く裁量の余地を認めることはできないんだ、むしろ、この問題については積極的に最高裁判所がはっきりと違憲状態である、あるいは違憲であるということを明言すべきであるというふうな立場から書かれたものでございまして、その最後に、福田裁判官はこのような意見を述べて判決の追加意見をくくっております。

 アンダーラインの部分だけ読みますけれども、「我が国憲法の定める三権分立構造の中で、司法の独立を堅持し、民主主義の基盤を成す司法の権威、ひいては法の支配を維持、確保するには、最高裁判所は、憲法により与えられた違憲立法審査機関としての責任をも十分に果たしていかなければならない。司法がその地位に安住して違憲立法審査権を適切に行使しないことは、もはや許されないのである。」こういう形でかなり強い調子で消極的な最高裁判所の多数意見を批判しております。

 もちろん、この判決自体についてはさまざまな意見があるとしても、現職の最高裁判所の判事が、少数意見の中で、消極的な態度はもはや許されないんだというふうな形で判決文を書いているということは、やはり我々としても注目せざるを得ないように思われます。

 したがって、1を簡単にまとめますと、最高裁判所の違憲立法審査権の現状は、期待とは裏腹に、かなり消極的な姿勢に終始しているのではないかということになると思います。

 さて、そのような最高裁判所の消極的な姿勢、これはいろいろな評価の可能性はあるとしても、やはり先ほど述べました、人権の迅速かつ適切な保障のためには、これを活性化する必要は多くの人々の認識になっていると思われます。

 さて、そのような問題状況に対してどのような処方せんが可能であるかと申しますと、一応選択肢としては三つの可能性が考えられるように思われます。

 一つは、現行制度の運用自体を再検討する、つまり、現行制度をそのままに、その運用を再検討するというやり方が一つのやり方だと思われます。

 これについては、最高裁判所の判事をおやりになっていました大野元裁判官が、その著書の中で幾つか現行制度の運用の再検討について述べておられます。簡単に言いますと、大法廷の積極的な運用であるとか、あるいは改正民訴法の上訴制限をより合理的に活用することであるとか、あるいは最高裁判所の裁判官の構成を、裁判官、弁護士、学識経験者という五対五対五という当初の比例に戻すべきであるとか、そのような幾つかの提言が著書の中に見られます。これは簡単に申しますと、現行制度をそのままに、その運用をもう一度考え直そうではないかという考え方だと思われます。

 さて、それ以外に、現行制度の運用だけでは限界がある、したがって、やはり現行制度自体を改革すべきであるというふうに考えるといたしましても、選択肢としては、法律のレベルでこれを改革するということと、憲法裁判所というものを憲法改正して設置するという、この二つの選択肢があろうと思われます。

 今申しました三番目の憲法裁判所を憲法改正によって設置するという考え方については、後で少し触れますけれども、一九九四年の読売新聞の憲法改正試案がそのような形の提言を行っております。

 本報告の態度といいますか基本的な方針なんですけれども、本報告では、やはり現行の制度の運用を見直すというだけでは必ずしもうまく解決しないのではないかという認識の上で、かといって直ちに憲法改正によって憲法裁判所を設けるということにもさまざまな難点がある。したがって、まず法律改正のレベルで憲法裁判所的な手続や制度を導入することができないかどうか、これをまず探っていこうではないか。ただ、そういうふうな提言といいますか方向性で、もしそれがうまくいかない場合、あるいは憲法解釈上問題があれば、それはもちろん憲法改正も含めた広い視点から考えなければいけない。もちろんそのことは、制度改革自体、現行の制度運用自体を否定するものではなくて、同時並行的に運用の改善も行っていきながら、同時に新たな制度提言というのも行っていく。そのことによって、逆に言えば運用の問題点も明らかになるように思われます。

 したがって、以下の議論では、この二番目の選択肢を中心に考えていこうと思っております。

 さて、レジュメの二ページになりますが、先ほどちょっと申しましたけれども、一九九四年に読売新聞が憲法改正試案というものを発表いたしました。内容については既に御承知だと思われますけれども、その中で、憲法裁判所というものを設置するということが大きく主張されておりました。

 レジュメの二ページの1のところに簡単なその説明がありますけれども、上告裁判所としての最高裁判所以外に、憲法裁判を専門に行う裁判所として、新たに憲法裁判所を憲法改正によって設置する、裁判官は長官を含めて九名で、その選出母体は参議院になる、そして憲法裁判所には、後でこれも詳しく述べますけれども、いわゆる抽象的規範審査と具体的規範審査、そして憲法異議というものを権限として与える、これが読売憲法試案の骨子でございます。

 この読売憲法試案は、その一年前に出されました元最高裁判所判事の伊藤正己先生による「裁判官と学者の間」という本、この提言がかなり大きな影響を与えているように思われます。これも後で言及したいと思うんですけれども、この「裁判官と学者の間」という本は、伊藤正己先生が、最高裁判所の判事としての経験の中で、やはり現行の司法裁判所による憲法裁判には限界があるんだということをはっきりと主張されて、かなり学界でも議論になった著書でございます。

 私は、ここで、この読売憲法試案の是非というか当否をお話しするのではなくて、その読売憲法試案が出されたことによって学界に大きな憲法裁判所論が沸き起こりました。もちろん、そこには積極論もございましたし、逆に消極論もございました。その読売憲法試案や伊藤正己先生の御著書によって提起された、いわゆる憲法裁判所積極論、消極論、この両者の論拠を少し詳しく見ていくことによって、これから検討しようとする制度がいかにあるべきか、その内容の一つの指針になるのではないかと思われました。そこで、三ページ以下、詳しくこの議論を御紹介したわけであります。

 三ページをごらんいただきたいのですけれども、最初にお断り申し上げなければいけないのは、この積極論、消極論、でも、憲法学界では消極論が数からいうと多数を占めるということは言えると思います。ただ、積極論を展開されている研究者の中にはかなり有力な研究者もありますので、数からいうと消極論が圧倒的であるけれども、かといって、積極論がその説得性といいますか、そういうものがないということでは必ずしもございません。

 以下、具体的にもう少し検討していきたいわけですけれども、ここでは、一応積極論を先に述べて、それに対して、同じ論点について消極論はどう答えているのかという形で議論をまとめてみました。

 まず、根本的な認識として、積極論は、もちろん現在の閉塞状況を打破するためには制度自体の改革が不可欠なんだ、そういう認識に立っております。それに対して消極論の方は、憲法裁判所さえ導入すれば違憲立法審査権が活性できるというのは、これは少し議論としては安易ではないか、導入すべき制度については、それぞれの歴史的な背景であるとかあるいは政治、社会状況等があるのではないか、それを抜きにして、制度がいいからといってそのまま導入するというのは、これは必ずしも妥当なやり方ではないというふうな批判がございます。

 そういう基本的な認識の違いは、以下の2)からの個別的な論点にも反映されておりまして、例えば2)の論点というのは、要するに、現行法では非常に時間がかかるということであります。

 非常に象徴的な事件を一つだけ簡単に御説明しますと、いわゆる、憲法二十五条の生存権が争われた朝日訴訟というものがございます。これは提訴をされたのが一九五七年、昭和三十二年ですが、地裁、高裁、最高裁判所と上がってきまして、最高裁判所の判決が下ったのが実に昭和四十二年という、十年の年月がかかっております。

 この最高裁判所の判決が出る前に、原告である朝日茂さんは既に死亡しておりまして、結局、最高裁判所としては、この事件自体は、生活保護請求権は継承できないということで切っております。ただ、憲法判断、つまり憲法二十五条の健康で文化的な最低限度の生活水準が果たして当時の具体的な受給額に合致しているのかどうかについて、補足という形で若干述べられているにとどまっているわけです。

 このように、憲法裁判というのは非常に時間がかかる、一審、二審、そして最高裁判所という形の通常の手続をとりますと非常に時間がかかる、したがって憲法の迅速かつ適切な解決を阻むのではないかというふうな指摘が積極論からなされております。それに対して消極論からは、確かに迅速な判断は望ましいとしても、迅速な合憲判断が乱発されることによってむしろ憲法議論が消極的になってしまうのではないか、そういうふうな反対論もございます。

 ただ、いずれにせよ、現在、さまざまな問題が国会でも社会でも議論になっておりますけれども、例えばクローン研究の問題あるいは体外受精の問題等々をとらえてみた場合にも、この問題が裁判所に行った場合に十年間かけて一つの判断が出るということでは、かなりその判断の妥当性自体も疑われてしまうということは言えると思います。

 さて、その裁判の長期化というのは、単に迅速な解決を阻むということだけではございませんで、三ページの下から四ページにかけて書いてございますように、実際に、現状の最高裁判所が違憲立法審査権の行使について消極的である、その消極性の原因にもなっているのであるということ、あるいは下級裁判所自身も、結局、裁判が長期にわたるということは予想されますので、無用な負担をかけないで、要するに法律レベルで解決をすれば、むしろ憲法判断というところに立ち入らないという考え方が下級裁判所にも広く浸透しているのではないかということも指摘されるわけです。

 簡単に申しますと、裁判の長期化は、人権の迅速な解決を阻むというだけではなくて、現在の消極的な違憲立法審査権の行使の要因にもなっているということ、これが指摘されるわけであります。それに対しては、もちろん、五ページの反対論もございます。したがって、その反対論というものもしっかり視野に入れた上でこの議論を展開しなければいけないということは、そのとおりではないかと思います。

 さて、先ほどちょっと御紹介いたしました伊藤正己教授、元判事の著書、あるいは同じく最高裁判所をおやめになった後で大野元判事がお書きになった著書、それに見られるのが五ページの下、5)の議論でございます。

 簡単に申しますと、いわゆる上告裁判所としての裁判所の裁判官に求められる現実処理能力といいますか法的な思考と、憲法裁判所の憲法裁判官として求められる能力といいますか資質はやはり違うんだ。ですから、現在の年間上告件数が三千七百件余りの最高裁判所に対して、そもそも積極的な判断を求めること自体がかなり制度的にも無理があるんだ、したがって、積極的な判断をするためには、上告裁判所としての最高裁判所以外に、憲法問題を専門に扱う裁判所がどうしても必要なのではないかということ、それが五番目の主張としてなされております。

 以下、六ページの主張は、それに対する反論ということもありますけれども、また、それ以外の、憲法裁判所制度についての根本的な疑念というのがあります。

 ここで簡単に申しますと、六ページの二番目の矢印の議論なんですけれども、要するに、憲法裁判所による積極的な憲法判断というものが、むしろ政治の司法化あるいは政治の裁判化というものを生むことになる、それが結局、議会制民主主義を弱体化させるということでございます。

 つまり、政治が本来持っていたダイナミズムが失われて、常に憲法裁判所での憲法判断というものを念頭に置いた形で議会の議論が進んでしまうということ、これは議会制民主主義にとっても望ましい姿ではないのではないか、そのような批判がやはりございます。

 さて、簡単ではありますけれども、今さっと幾つか積極論、消極論を見てきたわけでございますけれども、私のあるいは報告者の立場は、七ページにも書いておきましたけれども、これら積極論、消極論というものをよく検討しますと、積極論も消極論も、その重点やニュアンスの置き方に違いがあったとしても、両者を必ずしも一刀両断的に否定することはできないわけです。しかも、憲法裁判所制度というものを構築するためには、かなり幅の広いコンセンサスというものが、それが実際にうまく活用される、あるいはうまく機能するためには不可欠であろうと思われます。したがって、その点でも、この積極論、消極論両者の議論というものを踏まえた上で、できるだけ両者の論拠を受け取って、最もその両者の主張に適合的な制度とは何かということを考えていくことが必要なのではないかというように思われます。

 したがって、簡単にまとめますと、憲法裁判所の導入というものを考えるとしても、七ページに七つほど挙げておきましたけれども、このような観点を抜きにして具体的な議論をすることはできない。あるいは、逆に言えば、このような七つの従来出ておりました主張を踏まえた形で、これに最も適合的な制度とは何かということを模索する方がいいのではないかというように思われます。

 簡単に申しますと、安易な制度論になることのないように、まず憲法裁判所制度ありきということではなくて、現状を改善するためにはどのような制度やどのような権限、あるいはどのような手続が有効なのかということを個別具体的に考える。あるいは、迅速な憲法判断は確かに必要だけれども、迅速な合憲判断によって、一件落着的な憲法議論の封じ込めは避けなければならない。裁判の長期化に伴うさまざまな弊害、これは先ほど簡単に御報告いたしましたけれども、ぜひこの点は除去しなければならないであろう。

 あるいは、下級裁判所裁判官の人権感覚にすぐれた判断といいますか意見も十分尊重し、酌むことはできないかどうか。あるいは、事件裁判官としての職業裁判官の能力と憲法的な見地から行う憲法裁判所裁判官の両方のよい面を生かすすべはないか。あるいは、先ほどちょっと述べましたけれども、司法の政治化という危険が指摘されておりますけれども、それに十分対処できるような制度はないか。

 あるいは、そもそも憲法裁判所というものはもろ刃の剣である。確かに、現状を打破するための特効薬ということもありますけれども、同時にそれはかなり大きな副作用も生むのであるというふうな根本的な疑念が憲法裁判所にはどうしてもつきまといます。したがって、そのような根本的な疑念にもこたえつつ制度構築をしていく必要があるのではないか。

 以上述べました七つの点を考えながら、具体的な制度について考えていきたいと思います。

 さて、七ページから八ページにかけて、現状のドイツの連邦憲法裁判所を原型とするさまざまな憲法裁判所の制度についての紹介をしております。これも、簡単にまとめますと、現在多くの国で採用されております憲法裁判所制度というものの原型をドイツの連邦憲法裁判所制度に置くことが最も妥当であると思われますので、その中で、中心的な手続である三つの手続を簡単に御説明したいと思います。それが八ページの三つの手続でございます。

 一つは、抽象的規範統制と呼ばれるもので、これは、先ほどの読売憲法試案にも出ておりましたけれども、政府や議会の議員のある一定数の申し立てに基づいて、具体的な紛争が生じる以前に、簡単に言いますと、その法律が公布される段階で憲法裁判所にその法律の憲法適合性の審査を求める、そういうふうな制度であります。憲法裁判所の中で最も憲法裁判所的な制度、あるいは憲法の番人という性格が最も出ている制度だと言われております。

 次が、具体的規範統制という制度ですけれども、これは提訴権者は裁判所ということになります。通常の裁判所の裁判官が、適用法令について違憲であるというふうな確信を抱いた場合には、その違憲であるという意見を憲法裁判所に移送するということになります。

 ただ、若干注意しなければならないのですけれども、憲法問題を下級裁判所の裁判官が丸投げするというわけではございませんで、あくまで下級裁判所の裁判官は、法律が憲法に違反するという形の結論を出します。つまり、違憲立法審査権を行使するわけです。それを踏まえて、下級裁判所の違憲立法審査権の行使の結果としての移送決定が果たして妥当であるかどうかということを憲法裁判所が判断する、これがいわゆる具体的規範統制でございます。

 もう一つが、憲法異議という制度がございます。

 これは、連邦憲法裁判所の制度の中で最も活用されている。実際の申し立て件数の、現在まで十二万件の中の約九六%がこの憲法異議手続になります。これは、一般市民が提訴権者となりまして、国家行為、もちろん法律もそうですし、行政行為あるいは裁判所の判決が憲法に違反する、憲法のみずからに認められた人権を制限するものであると考えるときには、それを憲法裁判所に持っていくという制度がこれであります。

 ただし、これは、括弧にも書きましたけれども、通常の裁判所の救済をすべて尽くしているということが前提になりますので、まずもって憲法裁判所に持っていくということではございません。

 このような三つの主要な手続を持つ連邦憲法裁判所が原型となりまして、その後、世界にこの制度が広がっております。主要な国の制度を以下に掲げておきましたけれども、簡単に申しますと、憲法裁判所制度をとる国々はたくさんございますが、国によってこの三つの制度のさまざまな組み合わせ、バリエーションというものがありまして、この連邦憲法裁判所の三つの制度を三つともそのままの形で採用しているという国はむしろ少ないように思われます。細かい説明は省きますけれども、さまざまの形でそれが自国の政治状況や文化状況に合わせて採用されているというのが現状のようであります。

 さて、その憲法裁判所の手続を実際に運用する憲法裁判官ですけれども、憲法裁判官についてもさまざまな理念像がございまして、簡単に言いますと、憲法判断と法的判断、あるいは法的判断と政治的な判断を、どちらを優先させるかということでも、国によってさまざまな考え方の違いがあります。

 そのことは同時に、手続の違いにもあらわれておりまして、一つは、憲法裁判所を構成する裁判官一人一人が非党派的な性格を持つ者でなければならないと考える考え方と、そうではないのだ、一人一人は政治的であったとしても、裁判所全体として超党派的であればそれでいいのだ、そういうふうな考え方もあります。現在のドイツの憲法裁判所の選出や理念像はむしろ超党派的な構成を目指しているようでありますけれども、それについてはもちろん反論もございます。

 さて、現在の各国の状況を簡単に見てきたわけですけれども、そのようなことを踏まえて、あるいは先ほどの要請を踏まえて、現行の日本でどのような制度や手続を導入すべきかということになりますと、九ページからその議論になるわけです。

 簡単に申しますと、憲法解釈上の難点というのが従来指摘されておりましたけれども、現在では、司法権概念の検討が進むことによって、従来のように、憲法七十六条一項の司法権、それを踏まえた八十一条の違憲立法審査権では、憲法裁判所制度は一切導入できないんだというふうに考える考え方はむしろ少なくなってきているように思われます。

 もちろん、そうはいっても全く憲法上フリーハンドというわけではないんですけれども、憲法上さまざまな議論はあるにせよ、全く現行憲法上憲法裁判所的な手続を導入できないのかというと、そうではないというのがある程度現在では一般的といいますか、かなりそういう主張がなされるようになってきているように思われます。

 十ページをごらんいただきたいんですけれども、さて、そういうふうな前提のもとで、どういう手続をどのような形で導入すべきかという議論になりますと、そこにもさまざまな選択肢が可能であろうと思われます。

 結論部分だけ簡単に申しますと、上告裁判所としての最高裁判所とは別の、主要問題として憲法問題を扱う独立した裁判所あるいは独立した部を設けるという提案がなされておりますし、これは賛同できるのではないかと思われます。

 組織としての専門の憲法裁判所というものにどのような裁判官を張りつけるかということについても、先ほどのような憲法裁判所裁判官の理念像をどう見るかによって、さまざまな選択肢があろうと思われます。それが十ページの(2)のところで、主な考えるべき論点について指摘をしておきました。

 時間がございませんので、最後に簡単にお話をいたしますと、さて、そのような専門の裁判所あるいは専門の部というものにどのような権限を張りつけるかということになりますと、私の結論的なお話ですと、そこにはやはり、まず具体的規範統制というものを張りつけるべきであろうと考えられます。

 抽象的規範統制については、これも簡単に述べますと、やはり政治の司法化という懸念が十分に払拭できないという問題がありますし、憲法異議手続については、これはかなり魅力的な手続ではあるのですけれども、先ほど言いました、九六%を占める申し立てが行われているということ、それによって過重負担という問題が常に連邦憲法裁判所にはつきまとっているということ、あるいはもう一つは、判決に対する憲法異議が圧倒的多数であるのですけれども、その判決に対する憲法異議が、要するに、一般の裁判所の判決の再チェック、いわゆる第四審的な働きをしているということ、憲法裁判権と一般裁判権のいわば垣根というものがあいまいになってしまう、そういうおそれがドイツでも指摘されているということを考えますと、まずもって導入すべきは具体的規範統制ではないかと思われます。

 その具体的規範統制が現行憲法上導入できるかどうかという議論を十一ページの3)でしております。時間がございませんので、これは読んでいただければと思います。

 最後に、これを導入した場合の実際上の論点について、十一ページの終わりから十二ページの初めにかけて書いておきました。

 これもかなり長い文章になるわけですけれども、簡単に言いますと、この具体的規範統制というものによって、先ほど言いましたような憲法裁判所積極論、消極論のそれぞれの論拠について、ある程度までそれぞれの主張を酌み取ることができる制度として最もすぐれている、あるいは、現実妥当性や実現可能性からいっても最もすぐれているのではないかということで、まず検討すべきはこの手続ではないかと思われます。

 もちろん、その検討は他の手続を否定することでも排除することでもなくて、まず検討の道筋として、あるいは検討のたたき台としてそのようなことを考え、それで不十分であれば他の手続もという形で一つ一つ、最初の議論に戻りますけれども、まず憲法裁判所ありきということではなくて、現状の閉塞状況を打破し、人権の迅速かつ適切な保障のためにどのような手続、制度が可能なのであるかという具体的な検討をしていくということがやはり求められるのではないかと思います。

 若干時間をオーバーいたしましたけれども、以上をもって報告とさせていただきます。(拍手)

中山会長 以上で参考人の御意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

中山会長 これより参考人に対する質疑を行います。

 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。今村雅弘君。

今村委員 自由民主党の今村でございます。

 きょうは、先生、貴重な話をいただきまして本当にありがとうございます。また、きょうはこの格調高い調査会で質問の時間をいただきまして、会長、ありがとうございます。

 早速でございますが、きょうは、大変難しいといいますか、憲法の違憲審査権等々含めたこういった新しい制度を構築するということで、ちょっとふだんなかなかなじみの薄い問題なので、私も質問するのに何を聞こうかと大変迷っておったわけでございます。そういうことで、いろいろそれなりに勉強はしてまいったのですが、二つ三つ先生の御意見をぜひお聞かせいただきたいと思います。

 何といっても、憲法は最高法規ということであるわけです。そして、もう一つ、四十一条に「国会は、国権の最高機関」ということがうたってあるわけでございます。これについては、まさに戦後の新しい憲法をつくるときに、戦前の天皇制あるいは官僚制、そういったものの反省に立って、もっと民意を反映して日本の民主化を進め、そして政治を進めなければいけないということが大きな動機になっているというふうには私も思うわけでございます。

 この点について、この「国会は、国権の最高機関」といったことが、あるところでは、これは非常に政治的な意味合いが強いよということで、また実務は別ですよということを言われる方もあるわけでございますが、戦前戦後の流れを見ると、必ずしもそうじゃないと思う、ここにやはり大きなウエートがあるんじゃないかと。そして、それに従って、例えば内閣等も議院内閣制ということでつくられているし、あるいは司法の面においても最高裁の判事は内閣が任命する、そういったことになっている。

 こういった新しい仕組みをつくるにしても、ここで言うところの「国会は、国権の最高機関」ということについて、まず、先生がどういう御理解をされておられるか、ちょっと御意見を伺いたいと思います。

畑尻参考人 ただいま御質問がありました憲法四十一条の最高機関性についてですけれども、既に委員もおっしゃいましたように、この最高機関性については、一般的には、実質的な最高機関というよりは、いわゆる政治的な意味の最高機関であるというふうに言われております。

 というのは、いわゆる民主的な正当性ということからいえば、まさに国民によって選ばれている議員によって構成されているということで、そのような意味ではまさに最高機関であるというふうに思われます。ただし、現在の日本国憲法が採用しております三権分立の制度でいきますと、必ずしも実質的な意味で国会の意思が他の二権に優越するということではございませんで、さまざまな形で、この三権のチェック・アンド・バランスというものによって統治全体が運営されているというのが現状でございます。

 特に、御質問の趣旨だと思われますけれども、国会の最高機関性と、その国会が制定した法律について違憲立法審査権でそれをノーと言う、この関係でございますけれども、一般的には、憲法学説の方では、いわゆる国権の最高機関性という意味の国会では、多数派民主主義といいますか、多数意思といいますか、国民の多数の意思が国会に反映されている。それに対して憲法自身は、多数の意思が反映されるべく民主主義を採用していると同時に、少数者の人権の保障というのも同時に保障しているわけです。

 ですから、少数者保護という観点からいえば、まさに裁判所が、場合によっては国会による多数意思に抗しても少数の意思を尊重せざるを得ない、憲法自身の、憲法条文による権利保障からいって、それを尊重せざるを得ない場合もあるのだという意味で違憲立法審査権というものがとらえられているようでございます。

今村委員 この辺が、今後この問題を議論するのに非常に大きなかぎになってくるのではないかと私は思います。

 例えば、先ほど先生もちょっと申されておりますが、現行、最高裁でもって違憲であるかどうか判断するわけでございますが、そこの裁判官が内閣に任命されている、内閣は議会の多数でもって成り立っているということであれば、判事さんの任命権も、間接的でありますがやはり国会が持っているということになるわけです。

 そしてもう一つは、いろいろ違憲判決が出ますが、では違憲判決が出た後、本来ならば、どうしろこうしろと手順を決めておかないと、これは余り意味がないのではないか。そういったことを考えると、司法権というものは、ある意味では、国権の最高機関である国会の活動なり、暴走といってはなんでございますが、そこを要するに自己規制する一つの仕組みではないか。あくまで自己規制ですから、これが違憲状態だからといって、それはだめよと効力までとめるということにはなかなかならないのではないかという感じがいたしております。

 そういう意味で、今の点で、任命のやり方、それから違憲状態をどういうふうに改善するか、ほっといていいのかどうか、その辺のことで、今言った最高機関性と国権のあり方について、先生はどういうふうにお考えでしょうか。

畑尻参考人 ただいまの御意見ですけれども、一般的にはこういうふうに考えていいかと思います。つまり、違憲立法審査権というのは、確かに、国会が制定した法律について、場合によっては違憲、場合によっては無効というふうな形で、多数意思を無視するといいますか、多数意思に抗するということもあると思うのです。

 ただし、それは国家構造全体からいきますと、国会がやったことについてノーを言うということではなくて、国会が場合によっては憲法の条規に反するような法律をつくる可能性もある、それに対していわば診断を行います。つまり、先ほど申しましたように、議会は議会の論理というものがございますので、必ずしも憲法条文だけで判断してある法律をつくるわけではないと思います。それに対して、違憲立法審査権を持っている裁判所としては、憲法からいうとこういうことなんだよという形の一つの診断を下すと思われます。それが違憲だということになると思うのですね。

 ただし、それですべてが解決したわけではなくて、今度は、そういう判断を踏まえて具体的に、では今後、法律をどう改正するのか、あるいは違憲状態を合憲状態にどう戻すかというのは、まさに最高機関である国会の重要な役割だと思います。

 ですから、そのような形のキャッチボールを行いながら、できるだけ憲法の趣旨に合致した憲法現実を構築していく、その意味でいえば、まさに国会も裁判所も二つの車輪というふうな言い方をすることができて、片一方の国家機関の意思を無視するということでは必ずしもないというふうに考えております。

今村委員 そうすると、ちょっと話が先に飛んで恐縮でございますが、先生は今、私案ということで御提言なされている、最高裁判所に別の部をつくって云々というこの案でございますが、例えばこの案でいくと、違憲状態ということを仮に指摘された場合に、その後、それを指摘するだけにとどめるのか、しかし、それだったら今とそう変わりはないではないか、効果面としては。その辺は、先生、どのようにお考えなのですか。

畑尻参考人 ただいまの御議論ですけれども、ちょっと話が広くなってしまうのですけれども、例えばドイツの憲法裁判所におきましても、ある法律を憲法に違反するというふうな判断をした場合でも、必ずしもその法律が直ちに無効かといいますと、違憲無効という判決ももちろんあるのですけれども、場合によっては、これは違憲状態にあるよとか、違憲であるけれども無効ではないよというふうな、いわば違憲という診断を下す程度にとどめておきまして、後は議会、国会の具体的な立法手続にゆだねるという、そういう判決形式が結構たくさんございます。

 ですから、先ほど言いましたように、外科的な手術として憲法裁判所があって、ある法律については憲法に違反する、だから無効であるというふうに直ちに外科的な処置を講ずるだけではなく、違憲という診断をした後で、具体的に健康状態に戻すにはどうしたらいいのかということはむしろ議会にゆだねている方が多いのでございます。

 ですから、違憲立法審査権あるいは憲法裁判所というものが設けられたからといって、直ちにそれが立法府と常に対立関係にあるかといいますと、必ずしもそうではなくて、例えば今回のような私案で、最高裁判所に憲法部というものが設けられるとしましても、あくまで裁判所が行うことができるのは法的な判断でございまして、それを具体的にどうこうしていく、その現実的な解決方法はやはり議会が握っているように思われます。

 ですから、現在よりもかなり権限の強いものを設けたとしても、ドイツがそうでありますように、裁判所としても十分に立法者あるいは議会の意思を尊重するということは当然の前提になっておるようでございます。

今村委員 わかりました。ある意味では自己診断、自己改革ということになるのでしょうが、それは結構です。

 それでもう一つ、先ほどの案でいきますと、途中から憲法判断が必要だということになったときには、最高裁のつくられたところに上げますよと言われますが、争訟事件、これは多かれ少なかれやはり憲法上の判断、特に人権とかなんとかになってくると、生存権の問題から始まって、およそすべて、その気になれば憲法裁判所的なところに上げることもできることもあり得ると思うのですが、その辺はどういうふうにお考えですか。

畑尻参考人 私が考えております具体的規範統制の場合には、あくまで提訴権を持つのは裁判官でございます。ですから、当事者が、裁判の中で違憲の主張があったとしても、それは必ずしもそれを取り上げて、必ず憲法裁判所に持っていかなければいけないということはございませんので、先ほどちょっと御紹介いたしました憲法異議に比べると、より乱訴の弊というのは少ないように思われます。

今村委員 わかりました。

 それから、ちょっと話が飛んで恐縮なんでございますが、憲法でいうところの、まさにこれは最高法規ですから、それに違反しているかどうか判断は非常に難しいものがあります。一方、もう一つ、さっき言った話にかかわりますけれども、今度最高法規性の中で、条約との関係がよく議論されるわけであります。特に、昨今は、今回の危機管理あるいはテロ対応あるいはPKO等々含めて、非常にグローバル化する中で、国際関係の中で生きていかなければいけない。そういうときに、いろいろな条約とかなんとか、そういったこととの関係が深くなってくるわけでございますが、条約と憲法、どちらが優位なんだ。

 これはいろいろ、条約優位説から折衷案からあるわけでありますけれども、こういったものについてはどういう対応をしていくということにお考えなんでしょうか、この先生のおっしゃっている案でですね。

畑尻参考人 私の私案の中に何を対象とするかについては特に言及しておりませんけれども、従来の違憲立法審査権の通説的な見解によれば、条約も違憲審査の対象となるというふうに考えておりますので、当然この私案の中でも対象となるように思われます。

今村委員 対象となるということは、もう一つ突っ込んで申しますと、対象にはなるけれども、そこから先は、どっちを優先する、優位に立つということまではまだこれからの課題ということですか。

畑尻参考人 対象となるということになりますと、当然、法的な優位関係でいえば憲法の方が条約よりも優位にある、したがって、優位にある憲法に適合しているかどうかの条約の審査を行う、そういう意味でございます。

 ただし、具体的にどこまで踏み込むかという問題になりますといろいろな考え方がございますので、それはそこまで踏み込むべきでないというふうな意見もございます。ただ、審査ができるかどうかという観点からいえば、できないことはないということになります。

今村委員 はい、わかりました。

 それから、実は、憲法裁判所というとやはりドイツということでよく出てくるわけでございますが、ドイツは非常に州権が強いですね。そして、まさにドイツの憲法裁判所は、こういった州権と連邦法とのコンフリクト、あるいは憲法とのコンフリクト、そういったものを主としてやるわけです。各州がそれぞれ地域性あるいはオリジナリティーを発揮していろいろな法律をつくる、それがある程度の範囲におさまらないとちょっとまずいところもあるというふうなことがあるから、憲法裁判所といったものをつくってそこをうまく調整しようじゃないかということじゃないかと思うんですね。

 その点、日本の国はまだそこまで実は行っていない。そういうところで、果たしてドイツのようなところと同じように考えて、そういった制度をつくることがいいのかどうか、その辺、御意見をお伺いしたいと思います。

畑尻参考人 確かに委員おっしゃったように、連邦憲法裁判所制度の目的の一つは連邦制の維持というものでございます。ただし、連邦憲法裁判所自身は、それは目的の一つであって、やはり基本法という憲法を保障するため、あるいはその基本法によって保障された人権を保障するためというのが、目的としてはそれよりも上位にあるように思われます。

 確かに憲法裁判所というものが連邦制の維持のためにも非常に必要な機関であるということ、きょうちょっと時間がなくて御説明はできなかったんですけれども、先ほど挙げた主要な三つの制度以外に、委員御指摘の連邦制を維持するための制度もたくさん設けられております。

 ですから、連邦制の維持というものも憲法裁判所の目的の一つではあるんですけれども、必ずしもそれがすべてということではなくて、先ほど言いましたように、人権保障と憲法保障というものがむしろ目的としては優位に立っているのではないかと思われます。そのことは、必ずしも連邦制をとっていない国においても憲法裁判所が現在たくさんの国で採用されているということでもうなずけるのではないかと思われます。

今村委員 そうすると、特に連邦制をとっているから、あるいは道州制といいますか、だから憲法裁判所的な、あるいは行政裁判所、特別裁判所が必要だということでもないということでよろしいのですか。

畑尻参考人 どちらがどちらかということは言えないと思うんですけれども、連邦制をとっているから必ず憲法裁判所が必要かといいますと、例えばアメリカの場合は、連邦制をとっておりますけれども、憲法裁判所制度はとっておりません。そのように、憲法裁判所制度が連邦制の維持や発展のために重要な役割を果たすということはそのとおりだと思うんですけれども、逆に、連邦制をとっていないから憲法裁判所が必要ないという議論には必ずしもならないように思います。

今村委員 それに関連してですけれども、最近は憲法裁判所的なものをつくる国がふえている、あるいはそれが世界の趨勢だと言われておりまして、先生の御意見もある意味ではその流れに乗っていると思うんですが、何でこういった司法審査型から憲法審査型に移っていっているのか、その辺の原因といいますか理由は何だとお考えでしょうか。

畑尻参考人 憲法裁判所制度というのが、戦前にはオーストリーにしかその原型がなかったのに比べて、戦後はドイツの憲法裁判所を初め多くの国にその制度が導入された理由は、一つは、法治国家としての原理といいますか、法治国家として再建するに当たって、やはり強力な手段となり得るんだという一般的な認識がそこにあったように思われます。

 それは、例えば一九九〇年以降、いわゆる東欧革命と呼ばれる中で、東ヨーロッパの国々が次々に憲法裁判所を導入したというのは、まさに法治国家の再建という意味で憲法裁判所の役割が評価されたのではないかと考えます。

 それともう一つは、一般的に、憲法裁判所制度というものが戦後多くの国によって採用された。これもいろいろな議論があると思いますけれども、やはり憲法価値のより速やかな実現という意味で、憲法裁判所の方が一般裁判所よりもいいのではないか、そういう認識も確かにあるように思われます。

今村委員 今のお話と関連して、ちょっと話が戻って恐縮ですけれども、昔の憲法では日本にも特別裁判所あるいは行政裁判所的なものが規定されていたわけですね。そうすると、むしろ戦後の民主化の中でこれがなくなったということは、今先生が言われたこととはちょっと逆みたいな感じがするわけですが、この辺は、先生、日本の憲法がどうしてそういった裁判所をなくしたのか、そしてまた、これが今後必要だということに今なってきているんですが、そのなくなった理由はどういうふうにお考えですか。

畑尻参考人 私、必ずしも専門ではないので、一つ一つの、いわゆる特別裁判所が廃止された理由はよくわかりませんけれども、ただ、戦後、日本国憲法のもとで、司法を一元化することによってより民主的かつ迅速な人権保障というものを目指したことは、これは確かなことでございます。

 ただ、例えば行政裁判所の問題にいたしましても、きょうは憲法裁判所のお話が中心でしたので議論はいたしませんでしたけれども、学界の中にも、従来の一般裁判所による行政事件の判断というものが必ずしも活発ではない、これはやはり専門の行政裁判所を設けるべきではないかという意見が現在では結構主張されております。

 その観点からいきましても、歴史的には一九四五年の段階で一度は一元的な司法という形をとったとしても、やはりここでもう一度、専門裁判所としての例えば行政裁判所、例えば憲法裁判所というものが必要であるという認識は高まっているということはあるように思われます。

今村委員 そうすると、こんなこと言っちゃなんですが、戦後、戦前あった裁判所をなくしたのはやはりちょっと間違ったかなということになるんですかね。

畑尻参考人 これまた私専門ではありませんので詳しいことは述べられませんけれども、例えば戦前の行政裁判所というものがあったとしましても、具体的な行政裁判所で行われているような手続とかあるいは具体的な判断においては、やはりかなり問題があった、限定的であったということは言われているようです。

 ですから、同じ名称を持つ行政裁判所の設置を今主張される方も、必ずしも戦前の行政裁判所を復活しよう、そういう意見ではもちろんないわけで、戦後の司法が一元化された、つまり特別裁判所がすべて廃止されたのにはそれだけの原因があるわけですから、それを踏まえた上で、新たなものとして行政裁判所なり憲法裁判所というものを考えよう、いわゆる特別裁判所を考えようということになると思われます。ですから、必ずしも戦前がよかったから戦前に戻ろうということではないように思われます。

今村委員 それでは、時間がもうちょっとですが、もう少し質問したいと思います。

 日本国憲法も、正直言って、なかなかつじつまが合わないというか、ちょっと首をかしげる中身、条文あるいは構成の仕方等々多いし、戦後五十年も六十年もたとうとしている中で、合わないところも確かにあるのですね。それは思います。

 そういう中で、先ほど言いましたドイツにしてもそうだし、あるいはフランス、あるいはアメリカにしてもそうですが、憲法改正を随分やっていますよね、頻繁に。唯一やっていないのは日本だけというような感じなんですが、憲法改正が多いということは、こういった憲法裁判所の存在があって、そこでいろいろ頻繁にそういった判断を下すといったことが一つの要因になっているのじゃないかなという気もしますが、先生はその辺はどういうふうにお考えですか。

畑尻参考人 今の問題、非常に難しい問題で、憲法改正、例えばドイツの場合は四十何回という憲法改正をやっておりますけれども、以前に、憲法裁判所のリンバッハ長官にお会いしてお話を伺う機会があったときに、ドイツの憲法改正は非常にたくさん行われているけれどもどうなんだというふうな質問のときに、ただ、本質的な部分ではほとんど改正されていないんだ、細かいところでいろいろな制度やあるいは手続が追加されたり削除されたりしているだけで、基本的な原理原則が変わっているわけではないんだ、だから、必ずしも憲法改正の多さ少なさというのは比較の対象にならないのではないかというふうなお話を伺ったことがございます。

 ですから、委員の御指摘の前者についてはそのような意見があるということで、後者については、確かにおっしゃったように、憲法裁判所の判決を踏まえて憲法改正がなされるということも多々あると思われます。

 ただ、それは基本的なところでのではなくて、指摘されたところによれば、これは憲法違反になるから、むしろ憲法違反にならないような形で法律を改正するのではなくて、憲法自身も変えていこうじゃないか、そういう姿勢は確かにあると思うのです。ただし、それは、基本的な原理や原則についての改正ではなくて、あくまで個別の手続や細かい規定についての改正であるということになると思います。

今村委員 私は、憲法裁判所をつくることによって、本来、いろいろな法律なり事象が憲法に合っているのか合っていないのかということをやらなければいけない。ところが、非常に最近世の中が急速に変わってきている中で、なかなか合わない面がある。

 そういう中で、それにもかかわらず、憲法の基本理念というのはそんなに変えてはいけないというふうに思うのですが、ただ、憲法裁判所をつくることによって、迅速にそういった法令違反の判断が出たりなんかする。それは非常に多くて、しかし、どうも現実から見ると、むしろ今の法律なりの方がおかしいねということがある。

 そうなってくると、そのもとになっている憲法もまたおかしいのではないかということになって、むしろ憲法を、ある意味じゃ安定性を増して、そして法律自身をきちんと審査しなければいけない、そのためにつくる憲法裁判所的なものが、逆にこういった憲法判断をいろいろやっていく中で、みずから憲法を自己否定するよう、みずから変えていくといいますか、そういった働きになってしまうのじゃないかという感じがするわけでございますが、その辺は御意見どうでしょうか。

畑尻参考人 委員御指摘の点は、確かに否定できないと思われます。

 ちょっと話が横にずれるかもしれませんけれども、昨年八月に韓国の憲法裁判所を訪問する機会がありまして、そこで所長とインタビューをいたしました。そのときに所長が一番最初におっしゃったことは、韓国の憲法裁判所ができて十二年になるわけですけれども、その最も大きな成果は何かというと、それは国民が憲法を身近に感じることになった、つまり国民の憲法意識が高まったのだということをおっしゃいます。

 ですから、国民の憲法意識が高まった上で、その憲法をどうするのかという議論は、これは高まった意識の中で議論をすべきことであって、直ちに憲法改正の問題と結びつくというふうには思っておりませんけれども、確かに、その前提となる国民の憲法意識が憲法裁判所の設置によって高まるということはあるように思われます。

今村委員 ありがとうございました。

中山会長 次に、中村哲治君。

中村(哲)委員 こんにちは。民主党・無所属クラブの中山哲治でございます。

 先生のお話を伺いまして、正直、こういう方法もあったのだなと感動しております。今の憲法の枠内でこういう手法がとれるのであれば、積極的に立法化を検討していってもいいのではないかというぐらいまで、私はこの案を見て思いました。そういう立場を前提にして、お話をさせていただきたいと思います。

 まず、きょうの議論でまだ出てきていなかったのが、立法府の権限として憲法の解釈権があるということです。違憲審査という言葉だけ聞くと、裁判所が何でも判断していいというようなことを一般的には考えられがちですが、憲法学説上、憲法の解釈権は第一義的には国会にあるということになっていると思うのですけれども、その点のお考えをお聞かせください。

畑尻参考人 憲法学説でいきますと、憲法の最終的解釈権というのは、違憲立法審査権との関係でいえば、立法ではなくて裁判所ということになっております。

 もちろん、議会は、ある法律をつくる場合に、これは違憲な法律であると考えてつくるわけではございませんので、もちろん憲法の趣旨に沿ったものであるというふうな解釈をとりましてつくるわけでありますけれども、その考え方は、八十一条の違憲立法審査権を行使する裁判所によって、場合によっては否定されるということですので、一応、現在の制度からいきますと、最終的憲法解釈決定権というのは、むしろ裁判所、最高裁判所にあるという考え方が憲法学説では通説だと思われます。

中村(哲)委員 私が申したのは、最終的な判断というのではなくて、一番最初に考える、解釈する権限は立法府にあると。国民の代表者が選ばれる立法府にあるからこそ、合憲性の推定と言われるものがあるのではないかと思うのですけれども、その点についてのお考えをお聞かせください。

畑尻参考人 まさにそのとおりでありまして、議会が法律をつくる段階で、それが憲法に違反するかどうかという点について十分審議するわけですから、解釈権がまず立法府である議会にあることは、これは間違いございません。

中村(哲)委員 国民の代表者である国会議員が審議をしてつくる立法ですから、基本的には憲法には違反していないことだろう、そういうふうなことを前提として司法が審査しているのだ、これは国会議員は共通認識として持っておかないといけないと思うのですね。

 同僚議員と話していても、このことが余り認識されていないような気がします。例えば、集団的自衛権の行使の問題にしても、これは国会議員がまず一義的に考えなくてはいけない問題だということが余り議論されていないということもありまして、この点だけ確認させていただきたかったわけでございます。

 次に、この制度ができたときに、下級裁判官がどういうふうに判断していくかなということをイメージしながら、頭の中でシミュレーションしながら聞いていきたいと思います。

 この制度で、下級裁判所裁判官が判断するというときには、まず原告から、この状態は違憲じゃないですかということを聞かれて初めてできるわけですね。だから、まず原告が、違憲だということを判断してくださいと言われて、かつ、下級裁判所の裁判官が、これが違憲かどうかまず判断する、それで、これは違憲だと思ったら上告審というか最高裁の憲法部に申し立てをするというか、そういうふうにしていくという手続になるということでよろしいんですね。

畑尻参考人 うんと雑な言い方をしますと、現在、下級裁判所の裁判官が、例えばこの前の熊本のハンセン病訴訟の五月十一日の判決で、立法府の不作為の違憲性を述べておりますけれども、それと同じような形で、つまりこの手続にあっても、全くああいう形で違憲判断をするわけです。ただし、最終的に、判決の中でそれを違憲と言うんではなくて、それがいわゆる移送決定という形で最高裁判所に新しくつくられる専門部に持っていかれる、そういうことです。ですから、逆に言えば、それ以前の手続は、まさに下級裁判所の裁判官が自分で違憲判決を書くのと全く同じ。ただ、それが熊本地裁五月何日判決ということにはならないというだけの違いです。そのほかは全く同じように考えております。

中村(哲)委員 その例に引いて私も考えますと、移送決定、移送手続というのが公開されなくてはいけないんじゃないかなと思うんですが、その点はいかがでしょうか。

畑尻参考人 もちろん、移送決定は公開をされる必要があると思います。その点について憲法裁判所の例を挙げますと、そういう質問をある先生に、移送決定というのは、例えば日本で下級裁判所の違憲判決が出ますと新聞の一面を飾るということになるわけですけれども、そういう形で一般には取り上げられているんですかというふうに御質問したところ、いや、移送決定が多過ぎてニュースのソースにならない、ニュースバリューがないんだというふうにおっしゃいました。ですけれども、もちろん大きい事件の場合は当然に取り上げるということになると思います。

中村(哲)委員 ハンセン病の事件に引き直して考えますと、移送決定が公開されればそれだけで大きなインパクトを持つ決定になるんじゃないかと思うんですね。そして、その決定を受けて、今度は、最高裁の方がそれが違憲かどうかを判断して、また決定になるんでしょうか、それをまた公表する過程になる。それを受けて、今度は下級裁で、熊本地裁は判決を出す、こういうふうなプロセスになるわけですね。

畑尻参考人 まさにそのとおりでありまして、憲法問題について、違憲であるという主張を最高裁判所あるいは憲法裁判所に上げます。憲法裁判所はその問題についてだけ判断をしまして、例えば現行の規定が違憲だという判断が下りますと、その判断が、事件がとまっています熊本地裁に戻ってまいります。熊本地方裁判所は、その違憲という判断を踏まえて、具体的に、例えば損害賠償だったらどうするのかとか、細かい実定法上の規定の問題に移ってくるというふうになります。

中村(哲)委員 そのようなお話を伺っても、私は、この制度は現行憲法下で導入できるのだから、積極的に導入した方がいいんじゃないかという思いを強く持っております。

 先生にきょう来ていただいてお話を伺ったということに関しては、先ほども申しましたように非常に感動しているわけでございますけれども、どうか、きょう出席されている先生方も少ないですし、また聞いていらっしゃらない先生もたくさんいらっしゃるでしょうけれども、これは大きな国の流れを変える制度の変更になり得るんじゃないかということで、積極的に推進していただきたいと思います。

 この制度は、先ほども先生とお話させていただいたように、国会議員の機能をそぐという制度変更ではないわけです。国会議員が立法する場合の憲法の解釈権を縛るわけでもなく、裁判所の違憲審査の判断を迅速かつ多重的に、下級審と上級審とのダブルチェックも踏まえながら早急にやっていくという制度ですので、これは与野党超えて法案化していってもいいんではないかというふうな感じが私はしております。

 さて、話をまたもう少し卑近な例に引き直して考えたいと思うんですけれども、七十六条三項の裁判官の独立の問題でありまして、一般的に、違憲審査を下級審の裁判官がやると出世に影響すると言われておりますけれども、こういうことに対しては先生、いかがお考えでしょうか。

畑尻参考人 なかなか難しい問題ですけれども、確かにその点を指摘する研究者も多くはいます。ただし、実際問題としてそれがどうなのかというと、これはなかなか検証することが難しいと思われます。

 ただ、一つだけ言えることは、であるからこそ、つまり従来の制度でいうと、そういうふうな圧力がないかあるかはともかくとして、やりにくい状況にあるのであれば、こういう移送決定という形で、もう少し目立たないといいますか、下級裁判所の非常に積極的な判決が常にマスコミでトップで取り上げられる、それで一人二人が目立ってしまうということは少なくとも移送決定の場合にはないように思われます。それだけ数が多くなるということになりますと、違憲という下級裁判所の判断が必ずしも特異な例ではなくなりますと、特に違憲という判断をしたからといって、それが人事上どうなるという問題ではなくなるように考えております。

中村(哲)委員 そのお話を伺いますと、今も最高裁の判断とは違う判断を下級審はなかなかしづらいところがあると思うんですけれども、この制度を導入することによって、そのあたりの関係がどういうふうに変化するとお考えでしょうか。

畑尻参考人 先ほど詳しくは述べなかったんですけれども、最高裁判所の人事あるいは判例の拘束力の問題等で、下級裁判所がなかなか違憲判断が下せない、積極的な憲法判断が下せないという状況は確かにあるように思われます。

 ただ、一つ検討しなければいけないのは、先ほど消極的にならざるを得ないような理由の中に、それ以外にも下級裁判所の積極的な憲法判断を阻んでいる制度的な要因があるわけですから、それをまず解決する。まずというか、同時にと言っていいかもしれませんけれども。もしそういう判例の拘束力とか人事権の問題があるんだとすれば、同時に、今言ったようなそれ以外の消極的な要因を排除するということは、これは非常に重要なことであるように思われます。

 それと、例えば最高裁判所の上告裁判所としての裁判所と憲法裁判所としての裁判所が分かれますと、当然、いわゆる人事権とかの問題も分散するということが考えられますので、従来のような最高裁判所のいわば一元的なものから多元的なものへ移行するということで、あるかないかはともかくとして、そういった問題についてもある程度解決できるのではないかというふうに考えております。

中村(哲)委員 そうすると、人事の問題が非常に大きなウエートを占めてくるんじゃないかと思います。

 そして、先生のレジュメの最後のページにあるんですが、「九名の憲法裁判官は、裁判官任命諮問委員会の諮問にもとづき内閣が任命する。」と書いてあります。内閣の任命というのは七十九条で書いてありますから憲法上の規定だと思うんですけれども、この裁判官任命諮問委員会というのはどういう委員会だと考えればよろしいんでしょうか。

畑尻参考人 この機関については、現在の最高裁判所ができた当初、第一回目の構成に当たっては、内閣の中に諮問委員会というのを設けまして、そこの中には裁判官経験者であるとか、あるいは現職の裁判官であるとか、さまざまな形の委員が集まりまして、そこで検討したことを内閣に諮問をするというふうなことが第一回目はたしかとられていたと思います。それが、それ以降現在まで行われていないわけですけれども、私がイメージしましたのは、一番最初に現憲法のもとで行われていたような諮問委員会というシステムでございます。

中村(哲)委員 そうすると、内閣の中に設けられるということを考えればいいわけですね。そうすると、その諮問委員会の委員を選んでくるのはどこがやるのか。議院内閣制のもとで、与党から選ばれた内閣総理大臣のもとに構成される内閣が人事権を持っていると考えればいいのか、そのあたりのことをお教えください。

畑尻参考人 ただいまちょっと第一回目の、最高裁判所ができた当時の諮問委員会をイメージしてというふうに申しましたけれども、実際にそれをつくるという段階になりますと、それを内閣に設けるのか、あるいは内閣とは別の組織でやるのか、あるいはその委員をどのような形で任命するのかについては、これは工夫ができるように思われます。つまり、法律でさまざまな形の議論が可能です。

 ただし、委員先ほどもおっしゃったように、この諮問委員会の答申が内閣を法的に拘束するということになりますと、内閣が現憲法で持っている任命権というものと抵触するおそれがあります。ですから、それに抵触しない限りでは法律でさまざまな工夫が可能ではないかというように考えます。

中村(哲)委員 そこら辺の先生の具体的なイメージを聞かせていただいたらいいのではないかと思うんですけれども、具体的なイメージはおありになるでしょうか。

畑尻参考人 現在のところは、その点では持っておりません。

中村(哲)委員 私、政治的には、これは非常に大きな意味を持ってくるように感じます。

 ドイツの場合では、先ほど超党派的とおっしゃったんだと思うんですけれども、中立というのではなく、構成メンバーにいろいろな考え方の人がはまるような運営の仕方がなされていると思うんです。そういうふうなことをこの国がもし導入するのであれば、そういうことを担保できるようにしないといけないと思うんですけれども、ドイツの場合はそのあたりのところ、どのようにされているんでしょうか。

畑尻参考人 ドイツの場合ですと、基本的には裁判官を選出する母体は議会になります。連邦議会と連邦参議院。連邦議会と参議院では若干その手続は違うんですけれども、私の記憶で言いますと、連邦議会の方は、連邦議会議員の政党比で比例代表というふうな形で選出委員会をつくります。連邦参議院の方は、たしか総会みたいな形で全員で決めるということになります。いずれも三分の二という特別多数を必要としますので、極端な形で政党の支持が反映されるということはないように思っております。

 ただし、先ほど言いましたように、基本的には議会が選ぶということで、基本的にはどの党の推薦だということははっきりしております。ただ、現在の手続ですと、簡単に申しますと、議会の勢力範囲がほぼそのままの形で憲法裁判所を構成する裁判官の色合いにも反映するという意味で、そういう意味で超党派、非党派というよりは超党派の手続なんだということになると思います。

中村(哲)委員 ありがとうございました。終わらせていただきます。

中山会長 次に、太田昭宏君。

太田(昭)委員 過去の違憲判決の例ということからいきますと、薬局距離制限訴訟とか、共有林の分割訴訟であるとか、愛媛の玉ぐし料の問題とか、あるいは尊属殺人の問題であるとか、一票の格差ということがあったということですが、なかなか消極的といいますか、これが閉塞状況にあるということから論を立てられたわけですが、昨今、これらのことについての新しい事態が本当に生まれているんであろうかという感じがしてならないわけです。ITの時代であるとか、あるいは人権意識の高まりであるとか、さまざまなそうした人心の変化というものはあろうと思います。

 しかし一方では、選挙制度の問題、政教分離の問題、あるいは尊属殺等の問題、あるいは自衛隊のあり方というようなことで、かなり限られてきている問題については判例が積み重なってきているような気がしてならないわけです。それらのことを超えて、今憲法裁判所という形が本当に必要なんだろうかという必要性、緊要性について、もう一度端的にお答えいただければと思います。

畑尻参考人 先ほどもちょっとお話をしたんですけれども、今おっしゃったような既に判例の蓄積がある問題も確かにたくさんございます。しかし、逆に言えば、例えばクローン研究を規制する場合に、その規制が憲法二十三条の学問研究の自由とどういうふうに結びつくのかという問題、あるいは体外受精等が生命倫理とか個人の尊厳とどう結びつくのかという問題、あるいは高度情報化社会の中で個人の情報がいかに保護されなければいけないのかという問題等々、解決を迫られている現代的な問題はたくさんやはりあるように思われます。それについて、裁判所として一定の判断を必要とするという事態も今後やはり出てくるように考えております。

太田(昭)委員 私は、憲法というものを考えるときには、未来志向で考えなくてはいけないということで、過去から振り返ってきて現在がなかなか憲法は事態に合っていないというよりは、新しい社会、三十年後の時代を想定してみるときに、キーワードとしては、ITであるとかゲノムであるとかあるいは住民参加であるとかということを置いているのです。それは、憲法裁判所という以前に、憲法を変えるか変えないかというそれ自体を論ずることで十分まず根底的には足りるのではないかという気がしてならないんですが、重ねてその辺についていかがでしょうか。

畑尻参考人 確かに、憲法を変えなければいけない、そういう議論もあろうとは思われますけれども、現憲法の中の基本原理、例えば生命の尊重であるとか個人の尊厳であるとか、先ほどちょっと述べましたような研究者の自由であるとかという観点からいっても、現在、委員おっしゃったようなITであるとか国際化であるとかあるいは高度情報化社会であるとか、あるいはいわゆる高齢社会であるとかということに伴ってさまざまな施策が必要となると思います。そのさまざまな施策が、基本的な理念である個人の尊重とか個人の尊厳あるいは人間の尊厳という観点から見てどうなのかということは、やはり検証を必要とするような問題ではなかろうかと思います。

 もちろん、それについて、解決の方法として憲法を変えるということも一つの選択肢としてあるとは思うんですけれども、たとえ憲法を変えたとしても、変えた憲法で、今度はその憲法とそういうクローン規制の問題がどうなのかということは当然に出てくるように感じます。

太田(昭)委員 ドイツと日米という簡単な比較をさせていただくと、憲法裁判所については、物の考え方がすごく違う気がするんですね。戦後、大変そういうことをとる国がふえてきて、オーストリアから始まった話が先ほどあったりして、また今村先生から、ドイツの場合は連邦制の維持というようなことで州権が強いということから、一体性が大事であるというような観点がありましたが、もっと根源的に言いますと、ナチス・ドイツというあの時代において、緊急事態等で、立法というものが、いわゆる憲法を踏みにじるようなものがさまざまつくられていって、じゅうりんされてきた。三権が並立的にあるというよりは、立法権が人民を弾圧するという形で展開されるということに対して、強くこれを規制しなくてはいけないという、立法権の突出ということについての歯どめとしての憲法裁判所というものができてきたような気がしてならないわけですね。

 先生のきょうのレジュメの中にも、お触れになりませんでしたが、歴史的経過があってという言葉が出てきますけれども、ちょっとその辺についてお答えいただきたい。

 また、アメリカ、あるいは日米ということでいうならば、私は、不十分だとはいえ、三権はどちらかというと横並びの形であると思うのですね。憲法裁判所というのは、立法が危ないことをやる、突出するということについての歯どめということからいくと、日本、アメリカ等においては、これは特段必要ではないのではないかという感じがしてならないのですが、この点、いかがでしょうか。

畑尻参考人 歴史的に戻りますと、アメリカの司法裁判所による違憲立法審査権の根本的な思想の中に、当然、立法府に対する不信というものがございます。ですから、多数意思、つまり国民の多数によって選ばれた議員が構成する議会によってつくられた法律に対してノーと言うということは、当然、その前提には、議会に対する不信とか、あるいは議会がやってきたことに対する大きな信頼の欠如というものがある。これは、アメリカでも日本でもドイツでも同じだと思うのです。

 ただし、現在の違憲立法審査権の場合には、議会に対する不信というよりは、役割分担といいますか、議会は議会、立法権としての役割を果たした上で、それに対して、憲法裁判所あるいは裁判所が、場合によっては誤ることがある議会の行動を正す、それで、ともに憲法価値の実現を目指していくのだ、そういう、敵対関係というよりは、先ほどちょっとお話をしたように、車の両輪というような関係です。

 議会は議会のダイナミズムを大事にしながら、そこで出てきた結果が必ずしも憲法の条文に適合したものじゃない可能性も否定できない。それに対して、いわば憲法の番人たる裁判所が、これは憲法に違反しますよという判断をする。それを踏まえた上で、今度は議会が、だったら、こういう形で法律を直そうじゃないかとか、あるいは違憲状態を回復しようじゃないかという形で、新たな治癒策を出す。治癒策を出したら、それについてまた憲法適合性があるかどうかを判断するという、いわばキャッチボールといいますか、そのようなダイナミックな動きの中に裁判所と議会を位置づけるという考え方が現在では一般的なように思っております。

太田(昭)委員 ドイツ、フランス、あるいは東欧諸国がそうした憲法裁判所をつくってきたという経過は、ナチスというのがかなり底流にあるのじゃないでしょうか。いかがでしょうか。

畑尻参考人 もちろん、特にドイツの場合に、戦後、憲法裁判所を制定する上で、ナチス・ドイツの不法国家に対する反省というのは、かなり大きなファクターとしてあったことは事実でございます。

 ただし、一つ申しますと、ただそれだけではなくて、やはりドイツにはドイツでの違憲立法審査権や憲法裁判という考え方が、底流には十九世紀あたりからありまして、それがまた、アメリカの違憲立法審査権と影響し合うということもあるように思われます。

 ですから、憲法裁判所による違憲立法審査権と、司法裁判所による違憲立法審査権というのはかなり違った、要するに主体が違うわけですから、普通の裁判所がやる場合と、憲法裁判所がやる場合は非常に違ったようですけれども、それを支える理念というのは、それほどアメリカ型とドイツ型では違うということは言えないように思います。特に、憲法裁判所をつくる段階でも、あるいは、その前のワイマール憲法の段階でも、ドイツの思想の中にかなりアメリカの司法審査の考え方も入ってきておりますので、憲法裁判所だからこうで、司法裁判所だからこうなんだということは、そういう歴史的な経緯を見てみましても、余り言えないように考えます。

太田(昭)委員 きょうのお話の中でも、司法裁判所による違憲審査での時間がかなりかかることとか、裁判の長期化とか、あるいは職業裁判官的思考では違憲審査を積極的に行うことは期待できないとかいうお話があったわけです。理念ということからいきますと、現実にはそうなってきているという批判が当然あって憲法裁判所ということが出てくるわけですが、先生のおっしゃるのは、そうすると、憲法裁判所というのは、むしろ司法権というのは憲法を守るとりでであって、憲法と真正面から向き合うシステムが必要だというようなお考えがあるでしょうか。

畑尻参考人 委員御指摘の点について、逆に、先ほども指摘しましたように、職業裁判官による違憲立法審査権の活性化こそが重要であるという意見もございます。私が今回提起しました制度は、そういった意見も踏まえた上で、つまり、現在の司法裁判所ではだめなんだ、だから全く違ったものとして憲法裁判所を考えようという全否定的なことではなくて、むしろ、現在行われているような一般裁判所による違憲立法審査権の行使も十分にそのメリットを踏まえた上で、そのデメリットを解消するためには、プラスアルファとしてどういう制度が必要になるのか、そういうふうな考え方に立った一応の私論でございます。ですから、委員御指摘の点は、決してそれを否定するものではございません。

太田(昭)委員 きょうの冒頭、違憲判決の例として一票の格差の話がありまして、昭和四十七年の衆議院議員の一対四・九九ということ、我々は今、格差二倍以内に抑えようという政治的な判断ということですね。もっと言えば、個人的には、私は、四捨五入して一になるような、アメリカ型の一・四九までというようなことが望ましいと実は思っているわけですが、一票の権利を守るというのが一番の構造改革であるという感じがするのです。

 その違憲ということと、四・九九と二ということの、どのあたりのどういう判断によって、これは先生のお考えで結構です、その最高裁の判例というのではなくて、その辺の、政治的判断、そして法的違憲状態という判断の基準みたいなものはどうお考えなんでしょうか。

畑尻参考人 これは、必ずしも私個人の意見というわけではございませんけれども、今の憲法学説でいきますと、やはり一対二というのがリミット。つまり、一対一・九九九九ということで、〇・九九九九の中で立法府は、人口の変動であるとか、その他の政治的な配慮を行うべきであって、やはり、一人の一票と二人の一票が同じ価値であるという段階になると、これはもうだめなんじゃないか。まあ、〇・九人というのは実際にいないわけですから、一人対二人になってしまったらまずいというのが、大体憲法学説では今よく主張される考え方だと思いますし、私も、それは妥当ではないかと考えております。

太田(昭)委員 終わります。ありがとうございました。

中山会長 次に、都築譲君。

    〔会長退席、鹿野会長代理着席〕

都築委員 自由党の都築譲です。

 貴重な御意見を本当にありがとうございました。ちょっと私、中座しておりまして、大変失礼を申し上げまして、もし以前の質問者と質問が重なりましたら、その旨おっしゃっていただければと思います。

 私ども自由党は、憲法についての基本方針を持っておりまして、司法権についても、二十一世紀の新しい法秩序を維持するため、また真の司法権の独立という観点から憲法の見直しを行うべきではないか、こういうことを考えております。その中では、憲法裁判所を設置し、形骸化した違憲立法審査権の機能を再生させる、同時に、特定の行政訴訟等も担当するものとするということで、また、一般裁判所の業務を軽減することになって、迅速で適切な事案の処理が可能となるのではないか、こんなことを実は考えておるわけでありまして、その点を基本に据えながら、参考人にお伺いをいたしたいと思います。

 畑尻参考人の御意見は、要は、三つの選択肢、現行制度の運用の再検討、法律改正によって制度改革、あるいは憲法改正によって憲法裁判所を設置するということですから、二段階どまりということで御理解をしていいかな、こう思うのですが、そういった意味では非常に一貫した考え方に貫かれておるのかな、こう思うのでございます。

 一つは、今までの、裁判が長期化しているとか、いろいろな理由が確かに違憲判断を裁判所が下す上でためらう理由となっているということはわかるのですが、実際に違憲の判断を下した場合の法律的な効果といったもの。例えば、一票の格差是正といった問題でも、実は、次の参議院の選挙が行われちゃった、衆議院の選挙が行われてしまって、もう原状回復できないではないか、こういった問題とか、あるいはまた、例えば尊属殺の場合は、恐らく相当議論になっておりますけれども、裁判は、あれはたしか尊属殺の規定が適用されないように、刑法を改正するという形にたどり着いたのかな、こう思うのですけれども。

 いずれにしても、実際に既成事実ができ上がってしまって、それをどう回復していくのかという問題はどういうふうにお考えになるのか、そこら辺をまず教えていただけますか。

畑尻参考人 今、御質問が二つあると思うのです。

 具体的な判決の効果といいますか、これは、憲法裁判所制度をとったから、では直ちにその判決が、普通、憲法裁判所制度をとりますと、その事件について個別的に判決の効果が及ぶだけではなくて、一般的にその法律を改廃するだけの力を持っているというふうに考えられるわけです。しかし、だからといって、その法律が直ちに改廃されれば、つまり、違憲無効と言えばそれで問題が解決するかというと、必ずしもそうではありません。例えば、委員御指摘の公職選挙法の別表の議員定数不均衡について、それが違憲無効だと言った場合に、では、どのような選挙区割りでやればいいのかという新たな問題が生じると思います。

 ですから、これは憲法裁判所のやり方でもあるのですけれども、必ずしも違憲で無効というふうな判決を下さないで、違憲であるという判決を下しておいて、新たにそれをどう是正するのかは立法府に任せるというふうな手法もあります。ですから、実際に違憲という判断をして、その違憲という判断が最も実効性を持つためには、やはり判決の形式の工夫というものも現在なされているように思われます。

 それは、我が国の最高裁判所の議員定数不均衡に対する判決も同じでありまして、必ずしも違憲無効という判決ではなくて、事情判決の法理を援用するという形をとったり、当該状況は違憲状態であるが、いまだ憲法に違反するという、無効という状態まで至らないとか、そういう形でさまざまな工夫をしながら、裁判所の判断ができるだけ政治部門にも生かされるような構成をとっているように思われます。

 もう一つは、先ほどおっしゃった尊属殺重罰規定の四十八年四月四日の判決なんですけれども、これは御承知だと思われますけれども、刑法二百条の規定が直ちに憲法に違反するというわけではなくて、つまり、尊属殺と一般の殺人、百九十九条と二百条を分けて規定していること、それ自体が違憲ではなくて、刑法二百条のいわゆる刑罰が重過ぎるという形の意見が多数意見であったものですから、刑法二百条を直ちに改廃しなければいけないかどうかということは非常に議論になったことはなったわけです。

 ですから、判決の下し方によっては、随分その後の立法府の対応にも相違が出てくるということは確かに言えることなんです。

 ですから、最高裁判所の四十八年四月四日の判決以降は、先日の改正の前にはすべて百九十九条で、通常殺人で処理をしているということがあったようでございます。

都築委員 ありがとうございました。

 それからもう一つ、今まで裁判所が判断を回避するケースとして、いわゆる統治行為論のようなものが出て、立法府の裁量にゆだねられた事項であるという形で避けてきた部分があるのですが、もしそういった議論がこれからも裁判所の姿勢として続くとすれば、憲法裁判部を設けても結局同じことになるのではないのかという思いがするのですが、その点はいかがですか。

畑尻参考人 今の点につきましては、二つ議論があると思います。つまり、先ほどおっしゃった、広く立法府の裁量を認めるかどうかという裁量の問題と、裁量にかかわらず、とにかく非常に政治的な問題であるから裁判所はタッチすべきでないという、この二つの問題があると思います。

 憲法裁判所制度を設けたら、直ちにこの二つの問題について裁判所が立ち入るかどうか、これはまた別問題でありまして、もちろん、憲法判断を専門に行う裁判所としては、従来のような立法府の広い裁量というものを認めるよりは、より厳格な審査を行っていくということは当然に予想されるのですけれども、それでは政治的な問題についてもすべて判断をするかといいますと、これはいわゆる統治行為論ではない形でさまざまないわば回避の方法がございます。

 ドイツの憲法裁判所の場合も、政治問題については必ずしもすべて、もちろん、憲法裁判所の場合には、いわゆる統治行為というのはないと言われておりますけれども、場合によっては、つまり、その問題を判断することが政争の渦中に連邦憲法裁判所を投じることになるというふうな場合には、判断をおくらせたり、その他の議論によって必ずしも明確な意思表示をしないという場合も多々あると思います。

 ですから、それは、憲法裁判所というものを設けた、あるいは専門部を設けた中で、今度は、先ほど言いましたように、車の両輪の一部としてどう対処していくのかというのはまた次の議論が必要かなというふうに考えております。

都築委員 非常に初歩的でありますが、それで、憲法の七十六条の二項には、「特別裁判所は、これを設置することができない。行政機関は、終審として裁判を行ふことができない。」こういう形になっておりますが、例えば労働裁判所とか、そういういろいろな仕組みもあろうかと思うのですね。

 ただ、この憲法裁判所というのは、今畑尻参考人が言われるのは、現行憲法を改正せずに、最高裁に憲法裁判部を設けるというふうなお話ですから、そこら辺のところは、実質この憲法の七十六条二項を骨抜きにするような話になるということではないのでしょうか、仕組みとしては。

畑尻参考人 もちろん、憲法の解釈論で、確かにそういう考え方は可能だと思われますけれども、ここで言う特別裁判所というのは、まさに通常の裁判系列以外のものというふうに一般的には考えておりますけれども、一応、憲法裁判所も憲法裁判部も最高裁判所を頂点とする司法権の機構の中に入っているというふうな解釈をとれば、必ずしもこれが特別裁判所というふうに、例えば家庭裁判所という裁判所がございますけれども、これはもちろん特別裁判所ではないわけですね。つまり、事件によって違った裁判所を設けることを七十六条二項は必ずしも否定しているわけではないように考えております。

都築委員 そうすると、要は、先ほども議論が出ていたと思いますが、裁判官の任用の方法として、キャリアの裁判官とそれから学者的な裁判官とやはりあるのではないかというふうなお話がありました。私の印象は、余り理論ばかり積み上げてやっても、果たして本当にそれで現実の世界に対応した的確な判断かどうかという思いもするわけであります。

 ただ、そのことも踏まえて、全体の裁判官の任用の問題、今、内閣と最高裁の事務局と法務省が一体となって、いろいろな考え方で裁判官を指名をしたり任命をしたりする手続を実質とっているのだろう、こう思うのですが、一つ風穴をあけたのは、細川連立のときにもとの労働省の女性局長の高橋さんを任命したケースがありましたが、あとはもう大体、司法界、法曹界あるいはまた外交関係、こういった人たちが選ばれてくる。そんな中で、実際に人を得なければ、幾らいい仕組みをつくったってできない。人を得る仕組みとして、今畑尻参考人がお考えになっているようなことで本当に十分なのかという思いがするんですが、いかがですか。

畑尻参考人 確かに私の私論というのは、現憲法のもとで行えるぎりぎりの工夫としてどういうものがあり得るのかということになると思います。ですから、例えば、細かいことを申しますと、現憲法の中で国会の関与をできるような仕組みをつくることはできないかどうか、あるいは各議院の国政調査権というものを使いまして、候補者に対する公聴会というふうな形でチェックをすることができないかどうか、さまざまな工夫は可能であると思います。

 ただし、それは、先ほどからお話を申しているわけですけれども、現憲法下でどこまで可能かというのは、かなり憲法学説上でも微妙な問題をはらんでおりますので、少なくとも、今回私が提示したのは、ここら辺まではとにかく従来行われていたことでもあるし、大丈夫なのではないか。ですから、レジュメの十ページにも書きましたけれども、これでもうすべてオーケーということではなくて、それプラスアルファとして、委員おっしゃったようなさまざまな工夫は可能であると思われます。

 ですから、それは議論の中で、例えば先ほど言いましたように、国政調査権に基づく公聴会をやることが果たして妥当かどうか、あるいは憲法解釈上問題があるかどうかということを一つ一つ検証しながら、できるだけ、いわゆる憲法裁判官の選出に求められる政治的中立性の確保と透明性の確保という、この二つの要請をどういうふうな制度であれば満たすことができ、しかも現憲法下でも可能であるかを検討していかなければいけないというふうに思っております。

都築委員 最後、時間がもう参りますのであれですが、もう一つ。

 行政裁判所といったものを設けるとすると、これは憲法規定を改正しなければいけないのかなと思うんですが、実際には、国を相手に行う訴訟、立法関係の訴訟、こういったものは大体そこに当然起因してくるわけでありまして、ハンセン病の問題も、立法の不作為が大きく議論になりましたが、実際には厚生行政の中での問題、それから損失の補てんとか謝罪とか、いろいろな問題が出ております。だから、そういった意味で、憲法裁判所に行政訴訟を担当させるというふうなことはいかがでしょうか。

畑尻参考人 もちろん、委員おっしゃったように、いわゆる新たな制度として行政裁判所を設けるということも一つの案としては可能だと思いますけれども、それを考える上では、行政裁判所というものをつくった場合のメリット、デメリットを今回のような形でもう一度具体的に検証しながら、まず行政裁判所ありきということではなくて、現状ではどうしてだめなのか、果たして行政裁判所というものを設けることによってどの程度解決できるのかというのをやはり逐次細かく検討していく必要がある、こういうふうに考えます。

都築委員 ありがとうございました。

鹿野会長代理 山口富男君。

山口(富)委員 日本共産党の山口富男です。

 きょうは、裁判所の違憲審査をめぐる問題を中心にしまして、憲法の規定の問題、それから、その運用の改善の方向が選択肢の一つとしての憲法裁判所ということで、まとまった参考人の見解を報告していただきました。

 これは、なかなか学問上の論争もはらむ問題提起で、今後多面的な検討が不可欠になると思うんですけれども、この違憲審査をめぐる問題に接近するためには、私は、本来、憲法上の法規範としてどういう内容だったのかということと、それが五十五年間どういうふうに働いてきたのかという両面からきちんとした検証をすることが大事だと思うんですね。

 そこで、それらの問題を中心に幾つかお伺いしたいと思うんです。

 まず第一は、明治憲法の場合は、外見的立憲主義という言葉もありますけれども、本来の立憲主義じゃありませんから、違憲審査権なんかは当然ないわけですね。戦後の憲法の中で初めて違憲審査権が設けられたわけです。これは、憲法の平和と民主主義の全体の法規範と一体のものとして考え、制度設計されたというのは当然のことだと思うんですけれども、これが持つ現憲法に盛り込まれたその本来の意義について、今参考人はどういうふうに見ていらっしゃるのか、この点、まずお伺いしたいと思います。

畑尻参考人 かなり大きな問題ですので、一言でお答えするのは難しいんですけれども、日本国憲法の平和主義、あるいは基本的人権の尊重、国民主権主義という基本的な理念といいますか、そういう憲法価値の番人として違憲立法審査権がつくられたというのは、非常に大ざっぱな言い方ですけれども、言えるのではないかと思っております。

山口(富)委員 それは世界史的な流れの中に位置づけることができるという理解でよろしいんですか。

畑尻参考人 先ほど、ナチス・ドイツの経験が憲法裁判所をつくる大きな要因になったというふうに申しましたけれども、同じく一九九〇年代の東欧の各連邦憲法裁判所、ポーランド、ハンガリー、スロベニア、クロアチア等、チェコ共和国、スロバキア共和国もそうですけれども、エストニア、ラトビア等のバルト海諸国の憲法裁判所もそうですけれども、やはり同じような趣旨でつくられているというふうに考えます。

山口(富)委員 きょうのお話の中で、この違憲審査をめぐって、参考人の方から人権の適切かつ迅速な保障が大事なんだというお話が繰り返しなされたと思うんです。その点でいいますと、この違憲審査をめぐる閉塞状況と名づけられましたけれども、それは主に最高裁判所の問題として述べられましたけれども、下級審にとってみますと、例えばきょうも引証されました朝日訴訟での生存権の規定の問題、それから長沼訴訟で、初めて裁判の規範上、平和的生存権を認める、そういう画期的な判決というものもあったわけですね。

 そういうふうに見ますと、国民の具体的訴えの中で憲法判断が示されて、そのことが、憲法の解釈もあるんでしょうけれども、いろいろ憲法運動に非常に大きな影響を与えた。その意味で、先ほど、憲法の価値の番人としてこれは機能しなきゃいけないんだというお話がありましたけれども、こういうような積み重ねについては今どういうふうに見ていらっしゃるんですか。

畑尻参考人 先ほど、憲法裁判所論の積極論と消極論の中で、委員今おっしゃったように、市民の下からの積み上げによる憲法価値の実現というのも非常に重要なんだというふうな主張も学界ではつとに指摘されております。ですから、委員御指摘の件についてはまさにそのとおりだと思います。

 ただ、注意しなければいけないのは、例えば長沼ナイキ訴訟の福島判決でありますとか、あるいは先ほど述べた生存権裁判の第一審の東京地裁の判決でありますとか、要するに、憲法理念をより具体化する形での下級裁判所の判決も多々あるわけです。ただし、それは下級裁判所の判決全体から見れば、目立つんですけれども、パーセンテージとしてはかなり少ないと思われるわけです。ですから、そういう意味でいえば、憲法裁判所をつくることによって、下級裁判所の積極的な憲法判断というものを排除してしまうような、そのような制度であれば、これはかなり問題だと思われます。

 ですから、先ほどから述べているように、私の考えた憲法裁判所的な手続というのは、まさに委員がおっしゃったような下級裁判所の積極的な違憲判断というものも生かした形で憲法裁判所による迅速な事件処理もできないかどうか、その点では具体的規範統制手続というのがかなりいい制度ではないかというふうに思っております。ですから、私も、問題意識は委員と共通のものがあります。

山口(富)委員 私は、その点では、制度設計として、現行制度のいいものを引き続き伸ばしていくという方向で考えるということになりますと、必ずしも新たに憲法部というのですか、仮称ですけれども、そういうものを設ける方向をとらなくても可能だというふうに考えるんです。ただ、これは私どもの考え方ですが。

 それで、今おっしゃられました違憲審査制とのかかわりで、憲法裁判所的なものをつくられたときに、裁判官がどうなるかということが非常に問題になるわけですね。

 それで、レジュメですと十枚目のところで、現行任用制度と諮問委員会の設置というものを重ねていくんだということがお話に出ました。

 それで、戦後の場合、先ほどもちょっと出ましたけれども、憲法がつくられまして、一九四七年の四月に裁判所法が設けられて、この中で、最高裁については、裁判官任命諮問委員会に諮問して構成していくということが決められたわけですね。ただ、その間に一度総選挙が挟まったものですから、実際にそれが政令の形で実現したのはその数カ月後ですけれども。

 これは、戦後初めての最高裁を構成する上では非常に力を発揮しまして、当時の資料を読みますと、つくられました委員会が百三十九人の候補者をリストアップした、そこから裁判官候補者として三十名を選んで当時の片山内閣に諮問をして、そこから十五人が、法曹の分野、学界の分野等々から選ばれたということなんですけれども、残念ながら、これをつくられて七カ月後に廃止されたんですね、裁判所法の中で。

 先ほど、そういう戦後のものもイメージに置いてこれを考えているというお話でした。当然、この制度設計というのは、イメージだけでなくて中身が伴わないとおかしなことになりますので、そういう点では、やはり、広く人々の目が裁判官をどうするかということに注がれていきますから、その点の積極性を買っているというふうに理解してよろしいんですか。

畑尻参考人 先ほど中村委員の御質問にお答えしたときに申したことなんですけれども、私が今イメージをしている諮問委員会というのは、まさに今おっしゃった形の、戦後の第一回目のやり方です。そのことによって、いわば政治的中立性の確保と透明性の確保という要請にある程度こたえることができるんではないか。

 もちろん、そういう制度にしたから万全かというと、それはまた直ちにそういうことは言えないとしても、おっしゃった一つの制度設計の案として、戦後のすぐに行われた諮問委員会というものも十分考慮すべきであろうというふうに思っております。

山口(富)委員 そうしますと、諮問委員会の設置というものは、最高裁全体に係るんではなくて、参考人のおっしゃる提案では憲法裁判官に限定されたものなんですか。

畑尻参考人 私の現在の私案では、そういう憲法裁判部といいますか、それに限定しております。

山口(富)委員 この諮問委員会の問題は随分日弁連なんかからも提案されているようですけれども、私は、広げて、最高裁自身がなかなか違憲審査制の問題では機能しないという一つの背景として任命制の問題が出ておりますから、しかしこれは、憲法上は内閣の任命、認証というのは入っておりますので、それを内実のあるものにする上でも、諮問委員会をつくっていくということが合理的な方向だと思うんです。

 さて、もう一つお尋ねしたいんですが、時間の都合で余り言及されなかったことなんですけれども、部分部分にはお聞きしたんですが、報告レジュメの一番最後のところで、参考人がおっしゃるような方向の作業を進めることが、安易な制度改革論にも歯どめをかけることができるものだというふうにおっしゃっていますけれども、ここでおっしゃる安易な制度改革論、それから、それに歯どめをかける、これはどういう意味合いを持つのか、お願いします。

    〔鹿野会長代理退席、会長着席〕

畑尻参考人 それは一番最初にも申したんですけれども、まず憲法裁判所ありきという、まず、とにかく憲法裁判所さえつくれば何とかなるんではないかという発想はやはりやめた方がいいんじゃないか。

 だから、私自身、憲法裁判所的なものを提案しているんですけれども、提案するにしても、現実にそういう制度がつくられたときに、それがうまく機能するためにはできるだけ広いコンセンサスの上でそういう制度ができないといけない。ということは、さまざまな意見、消極論、積極論を踏まえた上で、できるだけそれらの要求にこたえることができるのはどういうものなんだ、そういう発想で検討しなければいけないんではないか。

 ドイツの憲法裁判所は非常にすぐれている、だから、その制度を日本に持ってくれば違憲審査は活性化するんだ、これはやはり、ある意味ではちょっと乱暴な議論ではないかというふうに考えております。

山口(富)委員 それから、先ほどの質疑でもありましたけれども、参考人のおっしゃる、現行憲法のもとでも、これは恐らく裁判所法か何かを改定することになると思うんですが、最高裁のもとに憲法部というものを設けていく。この考え方に対して、その方向をとるのは憲法の解釈上難しいとか、当然批判があると思うんですけれども、それはどんな論点で批判がなされているんですか。

畑尻参考人 これは、解釈論上は二つからあると思います。

 憲法解釈上の問題点については、従来の見解との整合性については九ページ、そして、その具体的規範統制云々ということでは十一ページに出てくるわけですけれども、例えば、最も予想される批判といいますか、論点としては、憲法問題だけを主要問題として判断するということは、少なくとも、七十六条一項の司法権の行使として認められる違憲立法審査権では無理なんではないか、そういう意見がございます。

 これについては、手続にもよると思います。例えば、先ほど言いましたように、抽象的規範統制という、法律が制定されてすぐに、具体的な事件もないのに、紛争が生じないにもかかわらず、意見が違うというだけで、議会の三分の一や政府が憲法裁判所へ持っていく。この制度を導入するかどうかについては、これはかなり憲法解釈上も問題があると思います。

 ただし、具体的規範統制になりますと、その点では、一応紛争というものが存在することが前提にありますから、その点では、そういう議論はクリアするのではないかと思われます。

 それと、今申しましたように、主要問題として憲法判断を行うということは抽象的審査になるんだ、憲法問題だけを挙げるのは抽象的審査になって、これは七十六条一項からは問題があるというふうな指摘に対しては、今言いましたように、具体的規範統制というのは、一般裁判所によるものと最高裁判所の専門部によるものの合体をした複合的な手続なんだから、憲法裁判部だけの判断で、抽象的だ、主要問題だ、だからそれは排除されているんだというふうには必ずしも言えないんじゃないか。

 もう少し具体的に言うと、現在、最高裁判所でも大法廷への論点の回付という手続がありまして、小法廷で具体的な事件で処理している中で、憲法問題だけを、具体的事件と離れて論点という形で大法廷へ上げて、大法廷はその憲法上の問題点についてだけ判断をして、また小法廷に返すというのが現実に行われているわけですね。

 そういう点を考えますと、そのことはまさに、新しく制度でつくられる憲法専門部と名前を変えただけでも同じじゃないかというふうに考えると、憲法解釈上も問題ないのではないかというふうに説明が可能ではないかと思われます。

山口(富)委員 どうも説明ありがとうございました。

中山会長 金子哲夫君。

金子(哲)委員 社会民主党・市民連合の金子哲夫です。

 憲法裁判所にかかわるいろいろなお話をお聞かせいただきまして、ありがとうございました。

 最初に、私の聞き方が悪いのかもわかりませんのでお聞きをしたいと思いますけれども、憲法裁判所をつくっていく方向性、また、現在の憲法の中でやろうとしたらどういうことになるのかというお話を伺ったわけですけれども、現行の憲法の中で、違憲審査というものが、そもそもの今の最高裁判所のシステムの中で、なぜこれだけ、最初に先生、停滞しているということをおっしゃっておりましたけれども、その理由とか経過についてちょっとお話をお聞かせいただければと思います。

畑尻参考人 もちろん、それについては、裁判官の憲法意識が必ずしも高くないであるとか、あるいは、最高裁判所を頂点とする人事云々という議論もあると思われます。

 しかし、その中で、きょう私が強調したかったことは、確かにそういう問題、つまり、個々の裁判官の憲法意識の問題もあるけれども、それ以外に、現行制度でもやはり消極的にならざるを得ないような制度的な要因もあるんじゃないか。

 具体的に言うと、先ほどもちょっとお話をしたんですけれども、裁判の長期化に伴う問題として、裁判の長期化が、結局は合憲判決、違憲判決を下さない、あるいは積極的に憲法問題に立ち入らないということの大きな要因になっているんじゃないかということ、それがやはり意識として大きいものですから。であるならば、そういう裁判の長期化の要因となるような制度を解消することによって違憲審査権のいわば活性化につながるのではないか、あるいは、憲法裁判部ということで、憲法問題を専門に扱う裁判官、裁判所を設けることによってより活性化につながるのではないか、そういうふうな考え方できょうお話をしました。

金子(哲)委員 ありがとうございました。

 先ほど先生の提案された制度の中で、裁判官をどう選ぶかという制度の問題が非常に重要だというお話がありまして、私もそのとおりだと思うんです。としてみますと、現行の裁判官の任命の制度、そのこと自身にも大きな欠陥がある、そのことも違憲審査を行わない大きな要因の中の一つにあるのではないかというふうに私は実は思います。

 といいますのは、言うまでもなく、七十九条で、内閣がこれを任命することになっております。そして一応、形式上といいますと申しわけないんですけれども、衆議院選挙の際に裁判官を国民審査に付すということになっておりますが、実態は、国民審査に付すと言われてみても、有権者の場合、この裁判官が一体どういう人たちであって、またこれだけ専門的なもので、国民が審査をするといったって実際はできない。しかも制度上は、批判をする場合にバッテンをつけるだけで、何もしなければ信任をされるという制度もあって、実質上は、内閣が任命した最高裁判官がそのままということ。

 しかも、日本の場合に、九〇年代、先生もちょっとお書きになっておりますけれども、それで変化が起きるのではないかと言われた連立政権の時代がありましたけれども、圧倒的には自民党の単独政権が長期に続いている。ということは、自民党内閣によって任命された最高裁判官がほとんど圧倒的であったということも大きな要因ではないのかというふうに考えておりますけれども、そういう問題について、先生、何かお考えがありましたらお聞かせください。

畑尻参考人 もちろん、そういうふうな考え方も可能であると思われますし、一部は私もそれに賛成するものであります。ただ、逆に言えば、その点を改善すれば直ちに違憲立法審査権が活性化するかというと、何回も申しますけれども、やはり制度上の問題点も指摘できるのではないか。

 だから、一人一人の裁判官の憲法意識や、あるいは憲法意識の高い裁判官を選出しなければならないという、その点を過度に強調することではなくて、その点ももちろん改善すべき一つの点ではあったとしても、それと制度改革を模索することというのは同時並行的に行ってもいいんじゃないかというふうに思っております。

 ですから、私、ここでも書きましたけれども、制度改革論や現行の制度の運用自体の問題点を指摘していくと同時に、制度改革案というのも提案していく。この中で果たしてどの制度がいわゆるあり得べき違憲立法審査権としていいのか、個別具体的に検討していくことが必要ではないか、こういうふうに考えております。

金子(哲)委員 先生のお話のとおりで、私もこの違憲審査というものがもっと進んだ方がいいと思いますし、今のシステムでいろいろ矛盾があるとすれば、改善をしてどうしていくかということで先生の一つの提起であります。

 といいますのも、ことしの憲法調査会の調査に私も一緒に海外に行かせていただきまして、さまざまな国の憲法裁判所の様子等を聞きますと、憲法裁判所に対して、例えば先生のドイツのお話の中で、数万件の単位で行われて、しかもこれは九六%ぐらいが憲法異議で、しかもそれは直接的に市民が、個人が訴えることができるというシステムになっているという話もありまして、そのことがある意味で、先生の先ほどのお話にもありましたけれども、憲法を国民の中に定着させていくという側面から見ても、そういうことが必要だとは思いますので、改善をしていかなければいけないと思います。

 ただ、先生の今度の提案の中では、具体的規範統制を中心にというお話だったと思うんですけれども、今言いましたように、憲法異議の申し立てをできることが非常に件数を上げている。逆に言いますと、裁判所の側はその件数が多過ぎて、どうさばいていくかという問題もありますけれども、国民の側と憲法との関係でいいますと、そのことがかなり大きな意味を持つように思うんです。

 今回の制度でもできなくはないと思うんですけれども、あえてそのことを外されたことは、まずそこから出発しようということではないか、入りやすいところはとりあえず入れて改善しようということだと思うんですけれども、国民と憲法との関係からいいますと、市民が直接問うことのできるシステムが非常に大きな役割を果たすのではないかというふうに思うんです。それは、今の憲法、先生が提起されている中にもそういう機能さえ入れればできるのではないかと思うんですが、どうでしょう。

畑尻参考人 委員御指摘のとおりでありまして、ドイツにおける憲法異議というのは、ドイツの憲法裁判所を市民裁判所としているということで、確かに件数が多くて、その過重負担の問題が常に憲法裁判所法の改正においては主たる問題となっている。にもかかわらず、ちょっと先ほども申しましたように、リンバッハ長官もこの前の来日講演の中で、この憲法異議というのは、市民裁判所としての憲法裁判所の最も重要な機能なんだというふうにおっしゃっております。

 ですから、委員御指摘のように、憲法異議も同時に提案するということも確かに必要だとは思うんですけれども、やはり憲法異議についてはそれに伴うさまざまな問題があるわけで、それは憲法裁判所でも指摘されていることであります。ですから、その問題について、具体的にかつ詳細に検討した上で、どういうふうにすべきかを決めるというふうな作業手順が必要だと思います。

 ですから、おっしゃったように、まず現実に可能なところから制度改革を行っていって、それを踏まえた上で、やはり憲法異議も必要なのではないかということで新たに憲法異議を設けるというふうなこと。あるいは、同時並行的に憲法異議もいいんじゃないかという形で設ける。これは、私の今回の私案でも決してそのことを排除しているわけではございません。

金子(哲)委員 そのことと関連して、資料の八ページの「憲法異議」のところに、最後に括弧書きで、「裁判上の救済手段を尽くしていることが前提」ということがちょっと書かれております。その意味はどういうことなんでしょうか。

畑尻参考人 これはドイツの憲法異議の特徴の一つですけれども、通常の人権侵害、例えば行政行為によって人権侵害がなされたとか、ある法律によって人権が侵害された、あるいは判決によって人権が侵害されたというふうに考えた場合でも、直ちにそれを憲法裁判所に持っていくことはできませんで、通常、法律で認められた他の救済手段を全部尽くした後で持っていかなければいけないという、補充性といいますか、そういう原則があります。そうでないと、違憲だと思った事件がすべて連邦憲法裁判所に持ち込まれるということになりますので、一応、裁判上の救済手段を尽くすということが前提となっております。

 そして、あえてもう一つ申し上げますと、人権救済手段というのは決して憲法裁判所だけではなくて、当然、通常裁判所でも人権救済が行われるわけですし、その他の特別裁判所でも行われているわけですから、その他の従来ある人権の救済手段というものを十分尽くした上でないと、憲法裁判所が何か突出した救済機関になってしまうということも、この尽くすということの要件のつくられた背景にはあると思います。

金子(哲)委員 ちょっと話があれなんですけれども、先般いただきました資料の中に「法学新報」の第百三号のコピーが入っておりまして、その中で、「職業裁判官による違憲審査行使の活性化の可能性」というところに奥平先生の発言を引用されまして、市民参加型の憲法の実現にとって、より適切な現行制度の改革のためには職業裁判官の市民化が必要であるという表現を、これは奥平先生の表現だと思います。

 いわば、人権の問題、権利の問題にしても、市民の一人一人の生活の問題、そのことが、裁判官の側、裁判の制度としても中身としても、そういう市民型にこたえていくということになると思いますけれども、その裁判官の市民化という表現の意味、先ほど先生も言われたように、例えば裁判官の選考のこともあると思いますけれども、今の日本の制度を含めまして、どういう点をもっと考慮すべきことなんだというふうにお考えでしょうか。

畑尻参考人 奥平先生の用語はかなり難しいんですけれども、私なりに解釈をしますと、やはり裁判官と市民の意識のずれというものが今随分指摘されていると思うんです。ですから、まさに市民感覚を持った裁判官による判断が必要だ、そういう意味で、市民感覚を持つという意味のいわゆる裁判官の市民化というんですか、市民感覚や市民意識を持って裁判を行ってもらいたいというのが恐らく奥平先生の言われる裁判官の市民化という言葉ではないかというふうに解釈しております。

金子(哲)委員 ありがとうございました。

 いずれにしても、憲法判断ということについては、例えば今回の自衛隊派遣の問題にしても、ある種焦眉の急の問題もあると思うんですね。その際に、やはり迅速なことというのは結構求められると思うんです。そういう問題については、憲法裁判、今度のシステムができたとしても、先ほどもありましたけれども、実際には実行している、判断を仰ぐのはもっと遅い時期になるというような問題があります。そういう極めて、政治が決断すべきことだと思いますけれども、最終的にそういうものを救済していくとか、そういうものについての判断を仰ぐ場合に、今先生がおっしゃっていたシステムだけで十分な機能を果たせるかなという問題があるんですが、最後に一言、済みません。

畑尻参考人 確かに、委員おっしゃったとおり、少なくとも私が今回提案した具体的規範統制手続では、通常の民事、刑事、行政訴訟が提起されることが前提ですので、今回のような問題について、迅速かつ適正な判断ができるかどうかというのは、少なくとも私の現在提案しているような手続ではそれはちょっと望めないように思います。

 その点では、先ほどからの議論の中では、いわゆる抽象的規範統制というものが、まさにそのような機能を果たすものとしては、手続としては最適というふうに言うことができると思います。ただし、それについては、先ほどから議論になっています政治の司法化であるとか政治の裁判化であるとか、あるいは議会制民主主義において議会がその判断を裁判所に丸投げしてしまうという危険性も指摘されておりますので、いわば特効薬と副作用みたいな形で、副作用を十分考慮した上で特効薬を使うかどうか、これはまた別に検討が必要な問題だと思われます。

金子(哲)委員 ありがとうございました。

中山会長 次に、松浪健四郎君。

松浪委員 保守党の松浪健四郎でございます。

 参考人におかれましては、長時間にわたりまして示唆に富んだ御意見をいただいておりますことに感謝を申し上げたいと思います。

 最初に、先ほど金子委員が、最後、自衛隊の派遣についての御質問がありましたけれども、ちょっと似たような話題からお尋ねしてまいりたいと思います。

 今、衆議院の小選挙区は違憲である。つまり、大きく二倍を超えておる。そこで、五増五減で落ちつくのではないのかというようなことで、今審査、審議されているところでありますけれども、これは、国勢調査の結果を待って、それから区画を定めていくというようなことでして、違憲であるとかないとかという結論が出た後、さらに時間を要する。

 そうしますと、憲法第十四条の趣旨からいうならば、やはり迅速性が求められる、けれども、他の要因があってなかなかその違憲から脱し得ないというような問題が起こってまいります。ましてや、衆議院にありましては、いつ解散になるかわからないということになりますと、違憲下で民意を問うというような形になってしまいます。

 それで、民主主義を標榜する国の中で、また民主的でなければならない選挙制度の中にあって、このような状況を参考人はどのようにお考えになられるか、お尋ねしたいと思います。

畑尻参考人 具体的にその問題についてどう考えるかというのは、私、結論的には持っておりません。

 ただ、一つ言えることは、国会は、例えば議員定数不均衡の問題にしても、客観的に例えば一対四になるとか一対五になる、それが認定された段階で直ちにそれが憲法十四条に違反する、だから、議会のいわば不作為といいますか、公職選挙法別表を改正しないことは違憲になる、そういう論法は普通とっておりませんで、違憲状態になったとしても、それを解消するための合理的期間というのを国会に裁判所としても認めております。例えば二年であるとか三年であるとか。

 その二年であるとか三年であるとかという、つまり、違憲状態を国会議員あるいは国会が認識してから何年間かは、やはりいろいろな作業が必要になると思いますので、あるいは政治的な判断が必要になると思いますので、当然そこで認められていると思うんですね。

 問題は、その合理的期間を過ぎてしまった段階にはどうなるか。これは、はっきり、その段階では立法府としての任務を放棄したものというふうに裁判所によって判断されてもしようがないのではないか、そういうふうに考えております。

松浪委員 そういう状況の中で、憲法学者がそう理解いたしましても、一般国民はやはり違憲審査をというようなことで裁判になる。また、違憲審査権というものが乱用されるというようなことになってくる。そうするときに、やはり憲法裁判所が必要になるのかなというふうな思いを私は持っておりますけれども、私自身は、憲法裁判所は必要だ、こういうふうに思っております。

 しかし、今の状況の中でつくるのか。憲法改正時につくった方が国民に理解されやすいのではないのかという思いを持っておりますけれども、この意見に対して、参考人はどのようにお考えでいらっしゃいますか。

畑尻参考人 私、一番最初に選択肢として三つあると。現行制度運用を検討すること、あるいは法改正によって議論を進めること、そして憲法改正によって。

 それぞれメリット、デメリットがあると思うんですけれども、ただ、一つ言えることは、確かに憲法改正という形で抜本的に新たな制度を構築するということには大変な魅力を感じます。ただし、憲法改正となりますと、やはりその実現可能性とか、あるいは他の条文、つまり、七十六条一項や八十一条だけを改正する憲法改正なのか、他の一条から始まるたくさんの条文についてこれを改正する、その中で八十一条や七十六条一項も変えていくのかという大変な問題が出てくると思うんですね。

 ですから、もちろん憲法改正を行ってやるということは魅力的なんですけれども、現実、まずは実現可能な範囲から現行法の中でやっていく、そのことが改革の第一歩だというふうに私自身は認識しております。

松浪委員 一九九四年十一月三日に、読売新聞社は憲法改正試案を発表いたしました。この試案の中には、八十五条、八十六条に違憲審査権の主体としての憲法裁判所の設置をうたっておるわけでありますけれども、この読売新聞の憲法改正試案について、まず参考人はどのような印象をお持ちであるのか、お尋ねしたいと思います。

畑尻参考人 先ほどもちょっと申しましたけれども、八十七条の手続のところで、ドイツが採用しています抽象的規範統制、具体的規範統制、あるいは憲法異議というのも、若干は限定された範囲ではありますけれども、ほぼそのまま導入しようという考え方だと思います。

 それで、そこの下に書いておきました「憲法二十一世紀に向けて」という、実際この案についての解説や資料を読んだ場合でも、なぜ抽象的規範統制が必要なのか、あるいはなぜ具体的規範統制が必要なのか、あるいはなぜ憲法異議なのかという点について、必ずしも説得力ある議論が展開されていないように私自身が考えております。

 もちろん、こういう形で提案するということは、それは一つの意味はあると思うのですけれども、私思うに、やはり先ほどから私自身が行っているような形で、現行のどこの部分が問題なのか、なぜ迅速かつ適正な憲法判断を阻んでいるのか、その要因は何か、その要因を解決するためにはどのような手続であれば可能か、そういう一つ一つ、地道ではあっても具体的かつ詳細な検討を踏まえた上で、だったらこの制度がドイツにあるんだけれどもこれはどうか、これはどこどこにあるんだけれどもどうかという形で議論をすべきであって、非常にこの読売憲法試案は魅力的ではあるのですけれども、果たしてこの三つをそのままの形で並べることが直ちに活性化につながるのか。

 なぜならば、ちょっと先ほども申しましたように、憲法裁判所をとるほかの国でも、必ずしもこの三つが全部そろっているわけではありませんで、場合によっては、例えばお隣の韓国の憲法裁判所の場合、抽象的規範統制はございません。というように、国情に合った形で選択をしている。にもかかわらず、憲法試案の場合はどんとこの三つをすべてメニューみたいな形で出してきている。だからその点では、魅力的ではあるのですけれども、もう何段階か議論をしなければならない、そんな印象を持っております。

松浪委員 今参考人が述べられました印象の中で一つ、私、憲法の全くの素人で、十分な知識を持たないものでありますけれども、試案では、憲法裁判所の長官は、参議院の指名に基づいて、天皇が任命する。これは八条の二項になっております。そして、八十九条では、憲法裁判所のその他の裁判官八名、これも参議院の指名に基づいて内閣が任命するという形になっておりまして、衆議院が介在しないようになっているんですね。この意味は一体どういうことなのかということを参考人にお尋ねしたいと思います。

畑尻参考人 これは、私はあくまで読売改正試案の解説を読む限りなんですけれども、なぜ参議院に与えたかというと、やはり参議院の活性化といいますか、従来どうしても二院制の中で参議院の意味というものが、失われると言うと語弊がありますけれども、消極的にとらえられているところが大きい。したがって、参議院の存在意義を高めるためにも、選出母体を参議院とするんだ。

 もう一つは、衆議院に比べて六年間という任期がありますので、これは非常に昔の言い方ですけれども、数の衆議院と理の参議院というふうな一つの理念もやはりあると思うのですね。ですから、衆議院、参議院比べますと、より政治的な意思が直接に反映されないのは、どちらかというと参議院ではないか。そんなニュアンスで、今言った二つの趣旨で恐らく参議院というふうになったのではないかと推測します。

松浪委員 となりますと、まず衆議院の軽視、そして二院制の軽視、これにつながると思うわけですね。そして、選挙制度も甚だ異なるというのであるならばもしかしたら納得できるかもわかりませんけれども、現行の参議院は、政党政治であると言っても過言でないくらいの状況であります。

 そうしますと、この読売試案の第八十九条、これはなかなか我々は容認できないというような気がするんですが、衆議院側の立場としては当然そうなろう、こう思っておりますけれども、参考人、どうでしょうか、この辺の御意見は。

畑尻参考人 なかなか難しい質問なんですけれども、これはあくまで読売憲法試案なんですが、参考に申しますと、先ほどちょっとお話をしたように、ドイツの場合は、参議院に当たる連邦参議院というところもそうですし、連邦議会、いわゆる衆議院に当たるところ、この二つが半分ずつ選出するという制度をとっております。その点では、委員御指摘の二院制ということからいえば、むしろ、もし同じく両方とも議会によって選出されるのであれば、参議院だけではなくて衆議院もということも、今、比較法的にも十分説得力ある議論ではないかと思われます。

松浪委員 あと、八十七条の第三項にあります憲法異議手続ですね。これは随分限定されておる。具体的訴訟事件の当事者が最高裁判所の憲法判断に異議のある場合に限定されておる。そうしますと、せっかく憲法裁判所ができて、そして迅速に審議をするというような形でやっていけるのに、これではなかなか憲法裁判所まで持ち込むのは難しいのではないのか。それは、違憲審査の乱用を防止する目的があるんでしょうけれども、これではせっかく憲法裁判所をつくっても意義が薄らぐのではないのかという気がしておるのですが、その辺はいかがでしょうか。

畑尻参考人 確かに、読売憲法試案にあらわれている、最高裁判所の憲法判断に異議のある場合についてのみ憲法異議を認めるというこの制度は、おっしゃったように、迅速な人権救済という点からいうと、これはあくまで、地裁、高裁、最高裁と行った上で、そのまた最高裁の判断に異議がある場合ですから、まさに四審的な意味を持ってくると思います。

 ですから、憲法異議は確かに訴訟手段を尽くした上でということですけれども、その訴訟手段を尽くした上でというのを、このように最高裁判所の憲法判断を踏まえた上でというふうにより限定してしまいますと、おっしゃったような本来の制度趣旨からいうとかなり後退した機能を果たすように私も思います。

松浪委員 時間が参りましたので、終わります。どうもありがとうございました。

中山会長 宇田川芳雄君。

宇田川委員 21世紀クラブの宇田川芳雄でございます。

 畑尻先生には、長時間本当に御苦労さまでございます。私が最後の質問でございますので、お疲れでしょうが、どうぞよろしくお願いを申し上げたいと思います。

 いろいろ議論が交わされてまいりました。憲法というのは、日本の国民にとってそれはそれは一番大事な柱になるものだし、これがなかったら日常生活も成り立たないということはみんながよく知っていますけれども、しかし、それでは憲法というのは何だろうということになると、なかなか多くの人に理解されるということがないんですね。きょうは早朝から傍聴人の方が熱心に傍聴してくだすっているんですが、御苦労さまでございます。こういう皆さん方が真剣に社会の中でまた憲法を論じていただければ、まだまだ多くの人に理解できるんでしょうが、大方はそういうものじゃない。

 そういう多くの、九九%と言ってもいいんじゃないですかね、九九%の国民にとっては、憲法の違憲審査をする、つまり憲法違反だということをやる裁判所というのは、これは最高裁判所がやるんだと根っから思っていると思うのです、もう五十年たっているわけですから、この憲法ができてから。いや、何でも最高裁まで行けば大丈夫なんだよ、憲法でやってくれるからというのが大方の国民の考え方でして、裏返して言えば、最高裁が憲法裁判所だと思っている人が大部分だと私は思うのですね。八十一条の中に、ちゃんと最高裁判所は憲法裁判所だと書いてあるわけですから、専門家の方は、これは違憲立法審査権だよと難しいことを言いますけれども、普通の人が見れば、これはやはり憲法裁判だと思うのですね。

 それが、例えばきょうの議論なんかが新聞に載って、これから憲法裁判所ができるかもしれぬというような話を聞くと、では今までの最高裁判所というのは何だろうという、かえって素朴な疑問が出てくるような環境ではないかと思うのです。

 そういう形の中で、今まで最高裁判所が半世紀にわたって努力してやってきてくれたわけですけれども、だけれども、先生がおっしゃったように、最高裁の中での判決、長引いちゃってしようがない、長いのは十年もかかっている。これはやはり憲法に関する違憲審査については別枠でやった方がいいのではないかというようなことから、学者の先生方の間でもこのような議論が出てきているし、先ほどお話があった読売新聞の憲法試案にもそんなことが述べられているということだと思うのです。

 しからば、今まで五十年間やってきた最高裁判所の判例の中で、憲法裁判所ができていたとすればそっちでこれだけのことができた、最高裁としては別の考え方で普通の判例をこれだけやればよかったよというような比率、どのくらいの比率でそれはあったのかというようなことは、統計はとれているのでしょうか。

畑尻参考人 かなり難しい問題で、どういうふうに統計をとるかにもよると思うし、あるいは、憲法裁判所があれば必ず違憲判断をしてもらえるということでもありませんので、必ずしも今委員おっしゃったような形で統計がとれるかというと、それはかなり難しいと思います。

 ただ、先ほども議論したのですけれども、例えば朝日訴訟の場合に憲法で問題となったのは、憲法二十五条の健康で文化的な最低限度の生活を営む権利というのは、具体的な権利なのかあるいはそれは単なるプログラムなのかという議論、これは憲法上の議論でございます。

 ですから、その問題について、もし例えば現在の私が提案しているような具体的規範統制手続があるとするならば、東京地裁の判決が三十五年に出ておりますので、その三十五年の判決がほぼ移送決定ということになると思うのです。ですから、少なくともそれから一、二年がたったとしても三十七、八年にはこの憲法問題についての判断は下るだろう。そうすると、少なくとも四十二年までかかって、朝日茂さんがお亡くなりになるというふうな状況にはならないであろう。

 つまり、健康で文化的な最低限度の生活を営むことができるのが具体的な権利であるというふうに朝日茂さんが主張されることが通るか通らないか、これはまた別問題なんですけれども、少なくとも御存命中に憲法上の問題点について一つの判断はなされるであろう、こういうふうに思います。

宇田川委員 素人なものですから、もう一つお聞きしたいのですが、憲法裁判所がもしできたとします。そうすると、憲法裁判所に下級裁判所から案件が送られてきてそこで審理される場合に、最高裁で審理されてしかるべき問題もあるわけですね、一つの案件の中に、憲法のことだけではありませんから。そうすると、憲法裁判所と最高裁判所と、両面並立して審理をするようになるのでしょうか、それとも、それを含めて憲法裁判所でやるようになるのでしょうか。これからの法律のつくり方でしょうけれども、考え方としてはどうなんでしょうか。

畑尻参考人 私が提案というか、ここで私論としてお話をしている最高裁判所の憲法部というのは、あくまで憲法問題だけを扱うということになります。

 したがって、その点で、憲法問題を解決しなければ通常の訴訟が解決できないということを前提に憲法問題を上げるわけですので、当然通常の訴訟は、例えば地裁だったら地裁、高裁だったら高裁にかかっている事件はその場にとどまるということになると思います。そして、最高裁判所憲法部だったら憲法部の判断がなされてから、合憲だったら合憲という形でその法を適用してその問題が解決され、違憲だったら違憲という形でその具体的な問題が解決されるというふうになると思います。

宇田川委員 先生の、いただいた資料の七ページにいろいろ問題点が出ていまして、そういうことを考えると、先生がおっしゃる憲法裁判を今の最高裁判所の中の機能の一部に持っていくという形が、そうすれば、今お話のあったように、両面作戦でこれはやっていくことができるということになると思いますが、憲法裁判所というものを独立してつくりますと、どうも、えてして役所というのは独立したところに権限が行きますから、そういう面でやっていけば、やはり長引くものは長引くんじゃないかなという感じがするわけですね。そこら辺がちょっと心配だったものだからお聞きしたのです。

 しかし、いずれにしても、これから憲法裁判所をつくる、これは憲法を改正しなきゃできないわけですから、憲法裁判所をつくるというのは容易なことじゃないだろうと思うのですが、だとすれば、今先生から資料をいただいた形の中で、憲法に関するものを最高裁判所の中の一つの機能として裁判を担当するような形に持っていく方が機能的だし、また、国民にとってもわかりやすいようなそんな気がするわけです。

 もう一つは、下級裁判所が、憲法裁判所というものが独立してできた場合は、憲法にちょっとでも絡みそうなものはやはり自分のところで裁定を下すのはたじろぐことが多いだろうと思うのですが、下級裁判所が、今の形の最高裁判所の中で、判例を前提にしながら、いろいろ裁判所としての考えを提示することができるとするならば、もっと下級裁判所の裁判の担当者の人たちも、気楽にという言葉は語弊がありますけれども、自分の能力の範囲でどんどん処理することができるようなそんな感じもするわけです。

 これからどういうふうに進んでいくかわかりませんけれども、私は、先生がおっしゃったような形でこれからの憲法判断というものが進められれば、大変これはベターじゃないかなという考えを持っているわけですが、大方の憲法学者の皆さんは、先生方のお仲間の中では、大体どういう考えが進んでいるのでしょうか。

畑尻参考人 我々憲法学者はたくさんおるわけですけれども、先ほどもお話をしたように、この憲法裁判所というものを設けて、現行法で設けるかあるいは憲法改正するかはともかくとして、憲法裁判所をつくるということについては、学界ではむしろ消極論が多数を占めているということは、これは事実であります。

 それに対して、私は、先ほどからお話をしているように、消極論の議論を全く無視することはできない。しかし、消極論のようにつくってはだめだということではなくて、その消極論も踏まえた上での制度設計をして、制度設計をした上で現行の運用だけではだめなんだというふうに議論を展開する。つまり、現行の運用だけで果たして解決するのかということを議論していく、そのためには、ある程度具体的な提案といいますか、具体的な制度設計があって初めて議論が展開されるように思われます。

 ですから、一番最初に申したように、決して現行の運用で解決できるんだという考え方の方が、むしろ新たな制度提案よりは多数を占めているというふうに認識しておりますけれども、あえてその制度設計を提起したのは、そういったいわば運用で解決できるんだという考え方に対する一つのたたき台として、こういう制度だったらではどうなのかという問題提起として考えているわけでございます。

宇田川委員 先ほどから申し上げているように、国民の憲法に対する理解度というのは、大変失礼な言い方ですけれども、アバウトなものが多いわけです。しかし、その中でも、最高裁に対する信頼感というのはすごく大きいと私は思うのです。その最高裁に対する信頼感というものを損ねたら、やはり私は、国民の裁判に対する信頼というものを損ねる一つの大きな原因になるような気がいたしますので、最高裁への信頼感を保ちながら、新しい制度の中で、憲法に対する判断をどうするかということをしっかりと受けとめられるような制度ができればありがたいということを願って、終わります。

 先生には大変御苦労さまでございました。

 以上で発言を終わります。ありがとうございました。

中山会長 これにて参考人に対する質疑は終了いたしました。

 この際、一言ごあいさつを申し上げます。

 畑尻参考人におかれましては、貴重な御意見を長時間お述べいただきまして、まことにありがとうございました。調査会を代表いたしまして、厚く御礼申し上げます。(拍手)

 次回は、来る十二月六日木曜日幹事会午前八時五十分、調査会午前九時から開会することとし、本日は、これにて散会いたします。

    午後五時散会

     ――――◇―――――

  〔本号(その一)参照〕

    ―――――――――――――

   派遣委員の愛知県における意見聴取に関する記録

一、期日

   平成十三年十一月二十六日(月)

二、場所

   ウェスティンナゴヤキャッスル

三、意見を聴取した問題

   国際社会における日本の役割

四、出席者

(1)派遣委員

    座長 中山 太郎君

       葉梨 信行君   鳩山 邦夫君

       鹿野 道彦君   島   聡君

       斉藤 鉄夫君   都築  譲君

       春名 直章君   金子 哲夫君

       宇田川芳雄君

(2)現地参加議員

       小林 憲司君   牧  義夫君

       瀬古由起子君   大島 令子君

(3)意見陳述者

    名古屋大学名誉教授   田口富久治君

    主婦          西  英子君

    岐阜県立高等学校教諭  野原 清嗣君

    名古屋大学大学院法学研

    究科博士課程後期課程  川畑 博昭君

    弁護士         古井戸康雄君

    大学生         加藤 征憲君

(4)その他の出席者

                土井登美江君

                林 八重子君

                森  圭三君

                渥美 雅康君

                安良城文生君

     ――――◇―――――

    午後一時一分開議

中山座長 これより会議を開きます。

 私は、衆議院憲法調査会会長の中山太郎でございます。

 私がこの会議の座長を務めさせていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします。

 この際、意見陳述者、傍聴者の皆様の御参考のため、本調査会における現在までの活動の概要を簡単に御報告申し上げます。

 本調査会は、昨年一月二十日に設置されて以降約二年が経過するところでございますが、日本国憲法の制定経緯、戦後の主な違憲判決についての調査を経て、現在、二十一世紀の日本のあるべき姿をテーマに、参考人質疑を中心として、日本国憲法についての広範かつ総合的な調査を進めております。

 なお、この間、本調査会のメンバーをもって構成された調査議員団が二度にわたり海外に派遣され、本年は、ロシア、東ヨーロッパ諸国、オランダを初めとする王政諸国及びイスラエルの憲法事情について調査をしてまいりました。

 また、国民各層の方々の御意見を拝聴するため、本年四月には仙台市において第一回目の地方公聴会を、六月には神戸市において第二回目の地方公聴会を開催いたしました。

 そして、本年九月からの臨時国会におきましては、国際連合と安全保障、統治機構及び人権保障の三つの視点を切り口として、今世紀の我が国のあり方、すなわち、グローバル化した国際社会において我が国が占めるべき地位、担うべき役割とは一体いかなるものであるのか、また、それらをどのように憲法に反映させるべきなのかという点について、人権の尊重、主権在民、再び侵略国家とはならないという原則を堅持しつつ、引き続き議論を重ねております。

 そこで、憲法は国民のものであるとの認識のもと、広く国民各層の皆様方から国際社会における日本の役割についての御意見を拝聴し、本調査会における議論の参考にさせていただくため、御当地で地方公聴会を開催することとなった次第でございます。

 意見陳述者の皆様には、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。どうか忌憚のない御意見をお述べいただくようお願い申し上げます。また、多数の傍聴者の皆様をお迎えすることができましたことに深く感謝をいたします。

 それでは、まず、この会議の運営につきまして御説明申し上げます。

 会議の議事は、すべて衆議院における議事規則及び手続に準拠して行い、衆議院憲法調査会規程第六条に定める議事の整理、秩序の保持等は、座長であります私が行うことといたしております。発言される方は、その都度座長の許可を得て発言していただきますようお願い申し上げます。

 なお、この会議におきましては、御意見をお述べいただく方々から委員に対しての質疑はできないこととなっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。

 また、傍聴の方は、お手元に配付しております傍聴注意事項に記載されているとおり、議場における言論に対して賛否を表明し、または拍手をしないこととなっておりますので、御注意願います。

 次に、議事の順序について申し上げます。

 最初に、意見陳述者の皆様方から御意見をお一人十五分以内でお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。

 意見陳述者及び委員の発言時間の経過のお知らせでありますが、終了時間五分前にブザーを、また、終了時にもブザーを鳴らしてお知らせしたいと存じます。

 なお、御発言は着席のままで結構でございます。

 それでは、本日御出席の方々を御紹介いたします。

 まず、派遣委員は、民主党・無所属クラブ鹿野道彦会長代理、自由民主党葉梨信行幹事、自由民主党鳩山邦夫委員、民主党・無所属クラブ島聡委員、公明党斉藤鉄夫幹事、自由党都築譲委員、日本共産党春名直章委員、社会民主党・市民連合金子哲夫委員、21世紀クラブ宇田川芳雄委員、以上でございます。

 なお、現地参加議員といたしまして、民主党・無所属クラブ小林憲司議員、日本共産党瀬古由起子議員、社会民主党・市民連合大島令子議員が参加されております。

 次に、御意見をお述べいただく方々を御紹介させていただきます。

 名古屋大学名誉教授田口富久治君、主婦西英子君、岐阜県立高等学校教諭野原清嗣君、名古屋大学大学院法学研究科博士課程後期課程川畑博昭君、弁護士古井戸康雄君、大学生加藤征憲君、以上六名の方でございます。

 それでは、田口富久治君から御意見をお述べいただきます。

田口富久治君 田口でございます。

 この地方公聴会におきまして国際社会における日本の役割というテーマが選ばれたのは、九月十一日のいわゆる同時多発テロ事件と、これに対するアメリカ・ブッシュ政権の軍事報復、それによって引き起こされたアフガニスタン戦争、さらにそれに対する日本政府の対応の是非をめぐる論争とかかわっていることでありましょう。

 そこで、本題に入る前に、このテロ攻撃とこれに対するブッシュ政権の対応について、私見をまず簡単に述べておきます。

 九月十一日のテロが天人ともに許すべからざる悪逆非道の暴力行為であり、その諸原因を確かめ、その再来を防止すべきことは、平和友好諸国民共通の全人類的課題であります。問題は、これに対するブッシュ政権の対応が国際法的に合法と認められるかどうか、そしてまた、政治的にテロ再発防止に有効と考えられるかどうかということであります。

 前の論点については日本の国際法学者の発言は少ないのですが、その一つとして、雑誌「世界」十二月号の名古屋大学法学部の国際法教授松井芳郎氏、これは私の元同僚でありますけれども、彼の「米国の武力行使は正当なのか」という論文があります。松井論文は、テロの国際法上の規定、国連憲章第五十一条の規定の解釈等からいって、米英によるアフガニスタンに対する武力攻撃は、国際法上は一切正当化できないと断定しております。

 また、アメリカの自国の自衛権を根拠とする報復戦争がこのようなテロの再来防止に政治的に有効なのかどうか。この点については、十月八日以降のアメリカの空爆が続けられている中で、十一月十三日には首都カブールが北部同盟に奪回される、タリバン政権の崩壊が伝えられている現状におきましては、アメリカの戦争目的はその一半を達成したかに見えるかもしれません。テロの首謀者とされておりますオサマ・ビンラーディン氏らの「ギブ アス アワ エネミーズ デッド オア アライブ」、これはブッシュさんの表現なのでありますけれども、これはこの大統領のカウボーイ気質といいますか、西部保安官型のメンタリティーがよくあらわれております。

 しかし、この点については、例えばイギリスのロンドン経済政治カレッジの、今イギリス政治学界の第一人者と言っていいと思うのですが、デビッド・ヘルド教授、この人は既に九月十四日の時点で、彼らがやっておりますホームページ、オープンデモクラシーというもので、テロに対する対応として、実は、国連のもとでのニュルンベルク型及び東京軍事裁判型をモデルとした国際的な司法裁判手続を提案されていたのであります。そして、このヘルドさんは、九月二十七日には、同大学のメアリー・カルドアという教授、この人はイギリスの反核運動の中心人物でありましたけれども、この方とともに、ブッシュ政権等の古い戦争型の反応の効果は狂信者たちのネットワークを拡大させるだけであり、彼らは恐るべきさまざまな武器への接近を図ろうとするであろうというふうに予測しておりました。そしてそれは、事実、炭疽菌事件という形で、既に最初の姿をあらわしているわけであります。

 次に、この事件についての日本政府の対応について話を進めますが、本題に入る前に、アメリカの国務省高官が日本側に対してショー・ザ・フラッグと述べた、この言葉の意味は一体何だったのかということであります。

 幾つかの辞書を調べてみましたけれども、オックスフォードのアドバンスト・ラーナーズ・エンサイクロペディアというものでは、これは訳すと時間がかかりますのでこのまま読みますが、「make known one's support of or loyalty to one's country,party,movement,etc.esp.in order to encourage others to do the same.」というのがOEDの規定であります。

 それからもう一つ、これは非常にいい辞書ですけれども、研究社のディクショナリー・オブ・イングリッシュ・コロケーションズ、コロケーションというのは連語という意味です。後者の辞書では、この意味を、英国船が外国の港を訪問すること、及び自国ないし自分について相手の認識を求めるという訳がついております。これが多分正解でありまして、つまり、アメリカ高官が言ったことは、アメリカの立場を日本はよく理解してくれという意味だったわけであります。

 それを、外務省ないし防衛庁のお役人は、語学力が不足なのかあるいは語学力があり過ぎたのか、多分わざと誤訳いたしまして、文字どおり旗を示す、旗を立てるというふうに考えられた。つまり、結局イージス艦は派遣はされなかったのですけれども、日本のいわゆる軍艦が旗を立ててインド洋に出かけていって、そうして米軍の後方支援に当たるという方向にこの発言が持っていかれたということであります。

 軍事用語では、後方支援ないしはロジスティックというのは、兵たん、つまり輸送、糧食、武器弾薬の供給等を意味しておりまして、これは中山会長だけが恐らく御承知だと思いますけれども、日本の戦前の陸軍用語では輜重というふうに言われたわけであります。これは兵種の一種ですから、このような後方支援ないし後方勤務が軍事行動の一環を構成するということは軍事学上の常識なのですけれども、テロ対策支援法案、ほかに自衛隊法改正、PKO法の改正等におきまして、政府は何とかこの点をごまかす答弁に終始しているというのが私の印象であります。

 さて、アメリカの報復戦争に対する小泉政権の態度は、私が十一月四日の東京のある集会でのメッセージで述べましたように、一言で言えば、事態に対して自立的見識も自前の政策も全く持たない対米追従の姿勢だと思います。ブッシュという保安官の新米の第二助手という役どころでありましょうか。第一助手は、言うまでもなく、イギリスの労働党出身の首相のトニー・ブレアさんです。

 しかも、この事態を奇貨として、自衛隊を、アメリカの戦闘支援を目的に、極東の範囲どころではない、地球上のどこへでも派遣するテロ対策特別措置法等を、与党と、実態的には民主党多数の賛意をも得つつ通過させました。国会でこれに反対いたしましたのは、社民党、共産党、自由党等の少数野党だけでございました。このような政府・与党の動きは、私の見るところでは、集団的自衛権行使への政府解釈の縛りを解き、さらに憲法第九条改定の地ならしの一里塚としての位置づけをしているのではないかと思われます。

 さて次に、国際社会における日本の役割に係る法的根拠規定論の問題に入ります。

 日本国憲法の前文の第二項以下第四項までは、ここでは時間の都合でその全文を読み上げませんけれども、日本国憲法の根本原則としての民主主義との関連での国際平和主義を力強い言葉で宣言したものだという評価、これは文部省が一九四七年八月に発行いたしました「あたらしい憲法のはなし」の中でそういうふうに表現されております。これが憲法第九条の戦争放棄の規定につながっております。

 そして、一九四五年十月二十四日発効した国際連合憲章の第一章第一条、これはちょっと時間の都合ではしょりますけれども、この第一章第一条の第一項の規定に照応する形で、第二条の第四項の方では、実は日本国憲法の前文の表現とほとんど全く同じ表現があるわけでありまして、つまり、脱軍事化の国際規範としての戦争違法化の規定という点では、この国連憲章の規定と日本国憲法の前文及び第九条には確固たる共通性があるのであります。

 したがって、国連憲章も日本国憲法第九条も、日本の国際貢献のあり方としては、軍事的貢献を原則として予想していないということは断言できることであります。

 しかし、国連憲章が予想していた第二次大戦後の集団安全保障の体制が、戦後の米ソ冷戦などによって十分には確立されない、また、戦後日本の外交と安全保障においても、一九五一年の講和条約と同時に締結された日米安保条約の調印、そして一九六〇年におけるこの安保条約の改定によって、憲法第九条と安保条約との極めて深刻な法制的、現実的な矛盾が生じてまいります。

 いずれにしろ、こういうことで、現在の我が国の状況におきまして、この問題は非常に難しいところになっているわけでありますけれども、しかし、私の見るところ、このアフガン戦争につきましても、また、今後の日本の国際貢献ということのあり方につきましても、基本的には非軍事的な貢献の方向をとるべきであるというふうに私は考えているわけであります。

 そして、そういう非軍事的な国際貢献と並びまして、例えば核軍縮の問題につきましては、実は日本政府は核防止の決議案を提案いたしました、これはアメリカは反対いたしましたけれども。それから、アジア太平洋地域における協力型の安全保障というようなもの、あるいはARF、アジア地域フォーラムの機能転換など、それから、特に今度の事件との関係におきましては、日本の政府あるいは外務省等がイラン、中央アジア等のアフガンの周辺諸国との間に築いてきた非常に貴重な外交経験というようなものが積極的に生かされるべきであろうというふうに思います。

 そして、国連憲章第九章の経済的及び社会的国際協力に係る活動を活発化し、特に、最近まで日本の緒方貞子氏が高等弁務官を務めておりました国連難民高等弁務官事務所の活動、あるいはユニセフ、世界食糧計画の活動等々への一層の協力が必要になってまいります。

 そして、実はこの国際貢献という場合には、日本政府による援助だけではなくて、NGOやINGOによる援助活動が極めて重要であります。

 私が最近聞いたNHKのラジオ深夜便、十一月十七日放送ですけれども、宝塚市のアフガン友好協会をやっておられる西垣さんという方のアフガンにおける女子教育への貢献、これについての継続的な支援活動、あるいはそれとは別の、JICAで義足づくりを指導されてきた方が、地雷で足を吹っ飛ばされたアフガンの女の子に義足をつくって送る話など、あるいはペシャワール会の活動など、この種の日本の普通の人々のヒューマニスティックな支援のエピソードは非常にたくさんあります。日本政府は、国際機関としてのUNHCR、さらにこのようなNGOの活動にも支援を与えながら、アフガン復興支援に国際的にもイニシアチブを発揮してほしいというふうに私は考えております。

 以上です。

中山座長 ありがとうございました。

 次に、西英子君にお願いいたします。

西英子君 西でございます。このレジュメに沿ってお話しさせていただきますので、よろしくお願いいたします。

 憲法前文に「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」とあります。私は、この理念をもとに、日本は国際社会における役割を果たしているのかということについてお話しさせていただきます。

 最初に、「恐怖と欠乏」が意味する、主に貧困と環境悪化、人権侵害について述べます。

 ことしの世界人口白書によりますと、世界の人口の二〇%の最も豊かな層が個人消費総額の八六%を占め、最も貧しい二〇%は一・三%しか消費しないと述べております。また、貧富の格差の変化を一九六〇年から二〇〇〇年までの過去四〇年間で見てみますと、富裕層の二〇%の個人消費額が七〇・二%から八六%にふえております。貧困層の二〇%の個人消費額は二・三%から一・三%に減少しております。つまり、富裕層は一層豊かに、貧困層は一層貧困になっているということです。

 二次大戦後、日本と欧米先進国は途上国への経済援助を行ってきたにもかかわらず、このような結果を生みだしたのはなぜでしょうか。

 日本についていえば、政府開発援助、ODAと民間直接投資のあり方にも問題があるのではないかと私は思います。日本は、一九九八年の実績では一兆四千億円、これは世界で一番多い開発援助になっております。ただし、GNP比率では二十一カ国中十二位、国民一人当たりでは二十一カ国中九位になっております。

 しかし問題は、日本のODAや企業の投資が、必ずしも受け入れ国の貧しい人々を支援するものになっていないのではないかということです。

 確かに、日本のODAが途上国の人々の生活水準の向上に役立っている部分もあります。しかし、貧困層はその恩恵を受けるどころか、犠牲を強いられているのではないかと思います。また、その結果生じる自然破壊は、その国のかけがえのない財産を壊しています。これらの点は、諸外国からも厳しい批判が出されております。また、援助の質、内容の面でも、諸外国と比べ贈与、無償援助の比率が低く、貸し付けの比率が高いことも、日本のODAの評価を悪くしていると私は思います。

 これらの点について、例を三つ挙げて簡単に説明させていただきます。

 一つ、よく知られたことですが、一九六〇年代から東南アジアの熱帯林が日本の企業によって伐採されて、その多くの部分が日本へ輸入され、合板などに加工されております。東南アジアの国々が伐採され尽くすと、一九九〇年代からカナダやシベリアへ移っております。東南アジアでは、伐採した木材の運搬道路や橋をつくるのにODAのお金が使われました。その結果、すさまじい自然破壊はもちろん、そこに住む先住民の伝統的な生活様式が破壊されて生活できなくなり、いわゆる環境難民となっております。

 二つ目、東南アジアのある国では、日本からの開発援助によって、余り電力需要のない地域で、その国の権力者の都合に合わせてダムがつくられました。それは、現地の住民の反対を権力で抑えて、何万人かの人々をまともな補償もしないまま強制的に立ち退きせてしまったのです。このダム建設は、日本のゼネコンと権力者に近い現地企業によって受注されました。

 三番目、日本の企業が、国内では公害規制が厳しくてできない事業を規制のない途上国で行って、環境を破壊しております。つまり公害輸出です。

 以上の三つはほんの一例にすぎません。

 私は、援助や投資に際しては、貧困層の人々にまで手の届く援助と、そこに住む人々の伝統的な生活様式や自然環境を破壊しない援助を行うという立場を貫くべきだと思います。以上のような態度に徹して日本の政府と企業が途上国に対する援助を行うことによって、初めて日本の役割が果たせることになると強く思います。

 続いて、レジュメ3に移りますけれども、憲法前文の「全世界の国民が、」「平和のうちに生存する権利」について、アフガニスタン問題と関連して意見を述べてまいります。

 アメリカの国民がテロの恐怖を感じることなく生存する権利があると同様に、アフガンの人々も爆撃に脅かされずに生存する権利があります。テロに対して報復することは、次のテロを生み出し、際限のない悪循環に陥るのです。テロの背景には、二次大戦後のアメリカの中東政策が暗い影を落としています。そのことと関連して、貧困がテロを生み出す土壌になっております。

 ことしのノーベル経済学賞を受賞した元世界銀行首席エコノミスト、ジョセフ・スティグリッツ氏は次のように語っております。テロ後、持つ者のと持たざる者の格差に人々の関心が向き始めた、世界をより安全にするには、貧富の差の解決に取り組むしかないと語られております。今、世界の先進国は、このテロの背景にある貧困対策に真剣に取り組まなければならないと私は思います。

 アフガンについてですが、現在の軍事攻撃がなかったとしても、数十万の餓死者が出るのではないかと警告されております。その上、爆撃によって死傷者や難民が続出する戦争は直ちにやめるべきだと私は切実に思っております。

 そのために日本は何をすべきか。幸い、アフガンを初め中東諸国と日本は友好的な関係にありました。中立的な立場だからこそ、和平に向けて日本が主体的な役割が果たせるのではないかと私は考えていました。

 しかし、アメリカの軍事的支援のためにテロ特措法が極めて短期間の国会の審議で可決されてしまいました。そして、自衛隊が初めて戦場近くまで派遣されてしまったのです。自衛隊が米軍に対して戦闘に必要な物資を供給する行為は、戦闘行為と一体のものであって、憲法九条では認められていない集団的自衛権の行使になります。憲法に違反してまでなぜ自衛隊を派遣しなければならないのでしょうか。

 ペシャワール会の中村哲医師は、衆議院テロ対策特別委員会に参考人として出席されまして、自衛隊派遣は有害無益だと警告されました。さらに、雑誌「世界」十二月号で中村医師は、日本は憲法九条を前面に押し出すべきです、それで日米関係が悪化して、経済的不利益をこうむって多少貧しくなったとしてもいいと私は思うと語っておられます。十七年間もアフガン難民の医療活動を続けてこられた中村医師ならではの発言として、私は重く受けとめました。中村医師は今、餓死の危機にある最も貧しい人々に生きて何とかこの冬を越させようと、緊急食糧援助のために奮闘されております。

 米軍に協力する自衛隊が昨日派遣されてしまいました。日本は今までのようにアフガンの人々の信頼を得ることができなくなって、難民支援を行っている日本のNGOなどの活動がやりにくくなるのではないでしょうか。日本の果たすべき役割は、自衛隊以外の政府による人道支援を、NGOなどと協力して、被災者と難民の救済のために緊急に行動することです。そして、アフガン初め中東諸国の人々が、戦争の恐怖と貧困から解放されて、平和な生活を送ることができるよう力を注ぐことです。

 最後に、戦争終結後、アフガン復興のため、日本は経済面での役割を国際社会から期待されてくると思われますが、アフガンの極貧困層、最も貧しい人々が人間らしい生活ができるような援助であってほしいと私は願っております。そして、テロの温床になるような貧困は世界から除去していかなければならないと思います。憲法前文に言う「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」ようにすることこそが、国際社会における日本の役割だと思います。

 今回、私がこのような貧困の問題をお話ししようとしたのは、毎日毎日テレビに映し出されるアフガンの子供たち、あのような貧しさの中でも必死にたくましく生きようとする子供たちに何としてでも生きてほしいと私は願っております。そのために私たちは何をしなければならないか、また、何をしてはいけないのかということを本当に今真剣に考えなければならないと思います。

 以上です。御清聴ありがとうございました。

中山座長 ありがとうございました。

 次に、野原清嗣君にお願いいたします。

野原清嗣君 岐阜から参りました野原でございます。公述意見を述べさせていただきます。

 ハニー、僕は戦うべきだろうか、受話器から押し殺したような夫の声が聞こえました。テロリストにハイジャックされた旅客機が既に世界貿易センタービルに、国防総省に突っ込んだらしいことを機内の乗客たちは携帯電話を通じてつかんでいました。乗客たちは、ハイジャックされた自分たちの旅客機も同じ運命をたどるのではないかと直感しました。テロリストと戦おうと考えた乗客たちの中に夫はいました。妻は少しためらいながら、しかしきっぱりとした口調で、あなたは戦うべきよと答えました。ありがとう、やってみる、じゃあ元気でと言って、夫の電話は切れました。こうしてテロリストたちのもくろみは失敗しましたが、旅客機は山中に墜落してしまいました。

 先般起きた米国の同時多発テロで明らかになったこの事実は、大変悲しい結末に終わったわけですが、もし乗客たちが立ち上がらなければ、恐らくもっと多くの人的被害が出ていたでありましょう。もちろん、このようなテロ事件が起こる可能性を少なくしていく、未然に防いでいくことができればよいのは言うまでもありません。しかし、テロ事件というものはある意味で予測不可能であって、仮に防ぐことができるものであるとするならば、一番必要なのはテロを許さないという国民の断固とした意志と行動でしかないことをこの事実は教えています。

 今回のテロ事件では、米国の軍事行動に協力すべきか否かという他人事のような報道ばかりがマスコミをにぎわしていますが、私は、この事件を日本自身が突きつけられた問題として受けとめなければならないと思います。人はだれしも平和な生活を望んでいる。しかし、その平和が脅かされたとき、私たちはどうするべきなのか、それを今回のテロ事件は教えてくれている気がします。

 ところで、最近、青少年による凶悪事件が頻発し、大きな社会問題となっています。そのような事件には至らないまでも、今の子供は何かおかしいと多くの人が感じるようになっています。ルールを守らなかったり、公共の場でのマナーの欠如、少しでも我慢することに耐えられないなど、さまざまな問題点が指摘されています。私は、このような青少年の問題は、そのようなルールやマナーを教えてこなかった大人である私たちの問題としてとらえる必要があると思います。

 委員の先生方にはお手元に資料をお配りしてございますが、お手元の資料は平成十三年版の青少年白書から引用しました。「お父さんやお母さんから言われること」ということで、日本も含めた世界の幾つかの国の子供たちにとったアンケートの結果でございます。

 「弱いものいじめをしないようにしなさい」「うそをつかないようにしなさい」「先生の言うことをよく聞きなさい」「物を大切にしなさい」、これらは親が子供たちの規範意識を形成する基本となる言葉かけであると思うのですが、日本の親は、韓国やアメリカ、イギリスなど諸外国と比較しても最低です。

 それから、下には、それに対して子供たちがどのような行動に出たかということをやはり各国にアンケートをとったものでございます。「いじめを注意したこと」「友だちのけんかをやめさせたこと」「悪いことをしている友だちに注意したこと」、これらは正義感のあらわれとしての子供の行動ですが、いずれも諸外国と比較して日本の子供たちは最低の数字になっているのはある意味で当然と言えましょう。逆に、「学校の規則をやぶったこと」については、日本が最高の数字となってあらわれています。

 このように、大人が自信を持って子供たちに向き合えない、自分たちが正しいと思っている価値観を自信を持って正しいと言えない大もとには、私は、憲法の問題があると思っています。

 憲法はその国の姿を法典の形であらわしたものだと思います。人に人柄があるように、国にも国柄があります。憲法を読めばその国の顔が浮かんできます。

 日本国憲法の前文では、国際社会で名誉ある地位を占めたいと言い、「全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」と述べていますが、何かうつろに響きます。格好のよいことを言ってみたものの、何となく自信のなさそうな、頼りなげな表情が浮かんできます。

 それもそのはず、前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とあるように、自国の安全は他人任せになってしまっているからです。これでは、名誉ある地位も崇高な理想も単なる絵にかいたもちにしかすぎなくなってしまうおそれがあります。

 この前文を受ける形で憲法第九条が存在するために、自国の安全を守るという、独立国としては当然の権利に対し、さまざまな解釈がなされる始末です。これは普通の国では考えられないことであり、自国を守ることは、世界じゅうのどこの国においても、国民の崇高な権利であり義務であると位置づけられております。一市民として生活していても、一たん緩急あれば自国を守る意識の中で普通の国の国民は生きています。であるからといって、それらの国々を侵略的な軍事国家だと非難する人はいません。

 ところが、日本人だけにその意識はありません。国を守る義務のない日本人にあるのは、個人の安心立命だけです。そうやって生きてきた私たち大人が個人を超える価値観を子供たちに自信を持って伝えられないところから、今日の教育問題は起きているのではないでしょうか。

 ところで、私は現在、勤務する学校で世界史を教えております。今、十九世紀のあたりをやっているのですが、西欧列強が主導する弱肉強食の厳しい国際社会の現実の中で、当時の日本人はどのように生きたのかを生徒たちと考えております。

 先日、その教材として、明治二十三年、一八九〇年に起きたエルトゥールル号事件のことを取り上げてみました。この事件は、紀州沖で難破したトルコ軍艦エルトゥールル号から瀕死の状態で漂着した六十余名の乗組員を、わずか五十戸ばかりの小さな漁村の人々が自分たちの非常用の食料まで投げ出して救った話です。まだ明治時代前半の離島の漁村ですから、外国人を見るのさえ村人は初めてだったでしょう。

 私自身、この話を知ったのは最近のことなのですが、大変に感動しました。トルコでは教科書にも載っていて、だれでも知っているそうです。以前にトルコ大使をされた遠山文部科学大臣も、ある対談の中で、このエピソードに感動した思い出を語っておられました。

 私の話に生徒たちは目を輝かせながら聞き入ってくれました。そのとき生徒たちが書いた簡単な感想文がありますので、一つ紹介させていただきますが、高校三年生の男子生徒です。

  やはり、お互い助け合い、協力し合うということは大切なんだと思いました。自分だけがよければそれでいいという考えを持っていたら絶対にできない行動だと思いました。日本人がこんなに勇敢とは思ってもみませんでした。自分も、その場にいたら同じ行動がとれるような人間になりたいと思いました。

時間の都合で一つだけにさせていただきますが、このような感想を生徒たちは持ってくれました。

 私は、日本人の伝統的な精神の中にこのようなオープンマインドの精神があると信じております。そして、このような日本人の生き方に素直に感動できる青少年がまだいるうちは、日本も決して捨てたものではないと思いました。

 今の青少年の現状については、余り明るい話題がありません。現在の日本が抱える閉塞感と青少年の心は相互に関係しているからであると思います。

 彼らが自分の生まれた国に感謝するところから、日本人に生まれた喜びを持つところから、積極的な前向きな生き方が見つかると思います。そして、自国への信頼が回復することにより、二十一世紀の国際社会に貢献できる日本人が必ず数多く出現すると信じています。そのためにも、憲法の中に、まず普通の国が持っているところの自衛権を、あいまいな形ではなく、はっきりとうたうべきではないでしょうか。同時に、前文の内容を日本人の顔が見える堂々とした格調のあるものにすべきであると私は考えます。

 私は一介の教員で、憲法問題の専門家ではありませんので、今回のテーマにふさわしいお話ができたかどうかわかりませんが、発言の機会を与えていただいた中山先生初め憲法調査会委員の諸先生方に厚く御礼申し上げて、意見陳述を終わらせていただきます。

中山座長 ありがとうございました。

 次に、川畑博昭君にお願いいたします。

川畑博昭君 川畑です。

 私は、一九九〇年代の十年間に、二度にわたり、通算四年間、南米ペルーに滞在し、現場でテロ、爆弾、軍事力行使というものを実際に目で見、そのような武力による問題の解決という方法がもたらす死の恐怖というものをみずからも体験しました。本日のテーマについて、私は、そのような死の恐怖という実体験に基づきながらお話ししようと思います。

 それは、昨今の世界の政治状況のみならず、目を国内に転じてみても、軍事報復、テロといった暴力に対して暴力で対抗する、あるいはそれに協力するということが、何の緊張感もなく、いとも簡単に主張されているのですが、そこには、そのような手段のもたらす帰結について、どれほど真剣に考えられているのかということに疑問を抱かずにはいられないからであります。そのような軍事的協力などというのは、私のような経験をしてきた者から見れば、平和の中に安住してきた者の発想であり、それこそ平和ぼけと称するにふさわしいものであります。この意味で、現場で実際に体験したことをお話しすることによって、武力などといった手段による解決方法を持ち出すことがいかに危険かつ恐ろしいものなのか、その主張の浅はかさに注意を喚起したいと思います。

 以下では、私自身が経験した三つの事件に触れながら、日本の役割について考えてみたいと思います。

 私は、まず一九九一年から九三年まで派遣員として在ペルー日本大使館に勤務し、その後、九七年から九九年までは専門調査員として再度同じ大使館に勤務しました。

 第一回目の滞在は、ちょうどフジモリ政権の発足から間もないころでありまして、当時のペルーといえば、毎日のように車両爆弾や銃声が聞こえていた時期でした。そしてそれは、テロに屈しないというフジモリ政権の強硬姿勢が明確に打ち出されるに伴い、一層激しくなりつつありました。日本政府はといえば、当時のフジモリ政権が世界初の日系人大統領の誕生だということもあって、以後さまざまな援助を大幅にふやし、ペルーは、ブラジル、メキシコを抜いて中南米で一位の援助額を占めるまでになります。そこには、フジモリ政権、すなわち日系大統領という特殊性が多分にあったことは否めませんが、また、そうであったからこそ、日本もテロの標的となったという側面もあります。

 そこで、まず第一の事件についてです。

 着任から四カ月ほどたった九一年七月、援助の第一線に立っておられた国際協力事業団、すなわちJICAの専門家の方々が三名、見せしめ的に殺害されるという実に痛ましい事件が起こりました。援助を行うに際しては人員の安全が第一という理由から、その後、JICAの援助に携わる方々は、一部を除いてほぼすべて引き揚げるという決定が下されます。そして、その時期あたりから、ほぼ毎日のように、夜になると、停電、銃撃戦、車両爆弾が繰り返され始めました。当時は、テロ活動のほとんどが夜に行われるということが特徴的でありまして、まず停電、その後に標的とする建物を爆破するということが一般的でした。

 そのような状況でしたので、実際に、近くの政府機関が爆破され、私の自宅の窓ガラスも割れるということもありましたし、日本大使館にも真夜中に手りゅう弾が投げ込まれるといった事件は既に何度かありました。しかし、九二年十二月二十八日には、白昼堂々と、直接、日本大使館が車両爆弾の標的となりました。これがここでお話ししたい第二の事件であります。

 事件当日は、まだ出勤したばかりの午前九時十五分ごろだったかと思います。毎日のように爆音や銃声を聞くような生活を繰り返しておりますと、幸か不幸か、雑音の中からでも銃声が聞き分けられるようになるものです。当日も、手りゅう弾が投げ込まれたような音がした途端、大使館の建物の出入り口付近で銃撃戦が始まりました。銃撃戦の後に車両爆弾があるというのは、当時のペルーではいわば常識といいますか鉄則でありましたので、私は銃声を聞くなり避難場所に逃げ込んだのですが、今でも、その一、二分間の出来事を覚えておりません。文字どおり必死でした。

 非常ベルを聞いた瞬間の次に思い出せるのは、狭い避難場所に集まっていた大使館職員のこわばった表情だけです。全員がいることを確認し扉を閉めた瞬間に、物すごい爆音がして、その爆風で全員が一斉に床に倒れました。そのときに考えたことは皆同じだったと思います。つまり、このままテロリストが進入してきて爆弾をもう一発撃ち込めば、大使館もろとも自分たちは吹き飛ぶんだということでした。死ぬんだということを初めて実感した瞬間でした。

 幸い今日までこうして生き長らえていますが、当日は、安全が確認された後に戻った自分の執務室の状況を目の当たりにして、逃げおくれていれば確実に死んでいたことを確信しました。自分の背後にあったガラスはすべて砕け散り、防弾扉も難なく吹き飛ばされていました。これらの光景は、さすがに爆弾なれしている者にとっても、想像を絶するものがありました。

 そのようなテロ活動も、とりわけ九四年、九五年あたりからですが、フジモリ政権のテロに屈しないという強硬姿勢が功を奏したのか、ペルー国内におけるテロ活動は鎮静化し、ペルーにはもはやテロなど存在しないという空気が支配的になっていきました。そのやさきに起こったのが、まだ皆さんの記憶にもあるかと思いますが、九六年十二月の日本大使公邸占拠事件でした。これが第三の事件です。

 事件勃発当時、私はまだ日本におりましたが、事件が長期化の様相を見せ始めた翌九七年の四月に、同大使館に再度赴任することになりました。どうも私はペルーのテロ事件といったものと縁があるのか、着任一日目にしてペルー軍による軍事突入が起こりました。日本人人質の死者はゼロでしたが、ペルー人人質が一名、ペルー軍兵士が二名死亡し、公邸占拠グループ十四名も突入の際の爆破で死亡したというふうに報じられました。

 ここでは、最後まで平和的解決を要求していた日本政府のあずかり知らぬところで、しかも、その日本の主権が及ぶ領域において他国軍が進入するという決着が図られたわけです。このような武力突入に対して、最後まで平和的解決を要求し続けてきた日本政府は、そのような武力による解決に謝意を表明しました。しかし、元人質の方々がその後の証言で述べておられるように、公邸内に四カ月も拘束された人質こそ、だれよりも政府の軍事突入を恐れていたという点は忘れられてはなりません。なぜ軍事突入を恐れるのか。言うまでもなく、それは、人質の方々の生命そのものが危険にさらされるからであります。人質救出の名目で行われる軍事作戦が武力によるものである以上、何ら人質の生命を保証することはあり得ないからです。

 フジモリ大統領は、そのようなみずからの軍事作戦を今でも誇らしげに語っておりますが、しかし、人間の命に価値の優劣がないとすれば、まさにその軍事作戦によってペルー人の人質及び兵士の方が亡くなったことを軽く受けとめてはならないでしょう。私は、事件終結直前に赴任しましたので、亡くなったペルー人人質及び兵士の方々の葬儀の際には遺族の方々に付き添い、その後も遺族の方々を慰問するということを職務上行わなければならなかったのですが、そのような中で、日本人人質だけが助かったらそれでいいと考えてはならないことを常に実感しておりました。

 私は、大使公邸占拠事件で人質となったわけではありませんし、その意味での当事者ではありません。しかし、さきに述べましたように、私自身が経験したことからこの事件の結末を見た場合に、軍事的解決などと簡単に言われることの中に、実はそのような当事者という視点が欠落しているということがあると思います。

 私がペルーで体験したことは、何よりも、暴力で暴力に報いるという現実の恐怖そのものでした。テロと呼ばれる暴力行為は、言うまでもないことですが、いわば無の状態から生じるということはあり得ないわけで、常にその因果関係が背後に存在しております。ペルーという国における社会状況を考えた場合、貧困や社会正義の欠如という現実がテロと呼ばれる暴力を生み出す側面が実態としてはあったと思います。しかしまた、そのテロに軍事力という暴力で対抗しようとすれば、よく言われる暴力の悪循環が生じてしまいます。

 テロという暴力が、貧困層を含め一般の人々を巻き添えにしてしまう性質のものである以上、その暴力行為自体への支持が失われていくことは当然でありますし、また実際にも、そのようにして、ペルーにおけるテロ組織は人々の支持を失い、自滅していきました。したがって、テロを行う暴力行為が、排除、忘却された人々の声を代弁しているわけでは決してありません。

 しかし、だからといって、このことが、その取り締まりのために軍事、警察力を行使する国家の側の暴力に社会正義が存在しているということを意味しているわけでもありません。強硬にテロ対策を行ってきたフジモリ政権が、さまざまな方面から、在任中、人権侵害のかどで批判され、非難され続けてきたことは周知のとおりであります。そうしたテロに屈しない姿勢を貫いたフジモリ政権下で、とりわけ軍部が、テロを一掃するといううたい文句によって多くの無辜の人々を殺害したことは、今でもペルーの内外を問わず問題になっているところであります。

 暴力が暴力を呼ぶ悪循環には、こうして常に、罪のない人々を犠牲者として投げ出す構造があります。これらのことは、何もペルー一国内の話ではなく、最近のアフガニスタンに対するアメリカ軍の誤爆によって多数の一般市民が犠牲になったことからもおわかりでしょう。したがって、ペルーにおいて、それがテロと呼ばれる組織によるものであろうと、軍事力という国家によるものであろうと、暴力というものの恐ろしさや愚かさを体験してきた私には、現在起こっている事態の中にも同じような構図がかいま見えます。

 テロ対策特措法の制定といった現在の日本の政治状況の中では、日本は、テロに屈しないという姿勢を堅持しなければならず、そのために応分の軍事協力を負わなければならないと主張されます。そして、それに反対する見解は、九条を初めとする日本国憲法のもとでの平和ぼけとして嘲笑されもします。しかし、果たして本当にそうなのでしょうか。暴力や死の恐怖というものを現実の生活の中で経験してきた者からすれば、テロに屈しないの一言で、何らちゅうちょすることなく、それを軍事報復と結びつけて、その協力を日本の役割として声高に主張する見解こそ、暴力がもたらす死という恐怖に余りにも鈍感な議論であると言わざるを得ません。これこそ冒頭で述べましたように、平和ぼけそのものだと考えます。

 テロという暴力に屈しないことが大切であることは言うまでもありません。しかし、人間の命のとうとさという点に立てば、安易に、血を流さなければならないなどと言えるはずはありません。繰り返しますが、そのような命のとうとさという側面に目を向けず、そのもたらす本当に悲惨な帰結を真剣に考えることなく、安易に軍事報復、そのための協力などといったことを主張することは、思考の怠慢以外の何物でもありません。

 そうすると、問題は、どのようにしてテロに屈しない姿勢を考えるのかということでしょう。命のとうとさという観点からいえば、それがいかに忍耐と時間を要するものであろうとも、和解という以外にあり得ません。そして、それを実現するものとしての対話ということが最も重要になってきます。

 私はさきに、大使公邸占拠事件において最後まで平和的解決を要求した日本政府が、事件終結後に、ペルー政府による軍事的決着に謝意を表明したことに触れましたが、本当に最後まで平和的解決を要求したのなら、文字どおり最後までそのような姿勢を貫くべきであったと思います。つまり、あの事件が軍事突入によってその場しのぎ的に終結させられるのでなく、対話によって真の解決が図られるべきであったことを、ペルー政府にしっかりただすべきだったと思うのです。ここにこそ日本の役割の本道があり、テロイコール軍事報復という、一般的ではない、ペルーという社会の実情に応じた日本の役割を考える絶好の機会だったと思うのです。しかし、昨今の日本の対応ぶりは、私の目からは、日本は再びそのような絶好の機会をみずから放棄したとしか映りません。

 さまざまな国が、それぞれ独自の歴史なり文化なり社会背景を抱えながら構成している国際社会なるものは、軍事力という手段で問題が解決されるほど、決して単一的で単純なものではありません。そのような、本来は複雑であるはずの国際社会における日本の役割を真剣に考えるのであれば、人間一人一人の命のとうとさという観点に立ちながら、それぞれの国情に応じて、何がその国で生きる人々にとって一番大切なのかということを真剣に考え、そのための協力を行っていくことでしょう。あたかも、一つの既に形づくられた国際社会なるものがあるかのように考え、そこにおける日本の役割を単一的に論じることこそ、日本の役割として放棄されるべき考え方だと私は思います。

 以上です。

中山座長 傍聴の方に申し上げます。

 議場におきます言論に対して賛否を表明し、また拍手をしないこととなっておりますので、御注意ください。傍聴の方は、お手元に配付しております傍聴注意事項に記載されているとおりでございます。

 それでは、次に、古井戸康雄君にお願いいたします。

古井戸康雄君 愛知県半田市で法律事務所を経営しております古井戸康雄と申します。

 司法試験の科目の中に憲法がございまして、随分勉強いたしました。もう細かいことはすっかり忘れてしまっておりますが、憲法の精神の何たるかは何度も答案に書いた記憶がございます。

 本日はいささか緊張しており、また、一介の市井弁護士でありますので、認識不足の点もあろうかと思いますが、御容赦願います。

 まず初めに、冷戦終結後の国際社会について述べさせていただきます。

 東西冷戦終結後の国際社会の変化にはさまざまありますが、中でも、まず、米ソのイデオロギー対立の消滅によって、カンボジアやユーゴなどの地域・民族紛争が多発し、最近ではテロ対反テロという新たな世界戦争が勃発している状況にあります。

 次に、ソ連の消滅でアメリカが唯一の超大国となり、経済を中心として、アメリカングローバリズムの波が世界を席巻しております。私ども法曹の世界にもこの波が及んでおります。

 日本を取り巻く東アジアの情勢の変化について目を向けますと、これも非常に変化してきております。中国と台湾の問題、北朝鮮ミサイル問題など緊迫の度を増す問題のほか、経済自由化とともに軍事大国化しつつある中国の今後の動向も目が離せません。

 ここ十数年で日本を取り巻く経済ないし安全保障面で国際情勢が激変した、このような認識のもと、国際社会において日本はいかなる役割を果たしていくべきか、今まさに問われていると考えます。

 次に、これまで果たしてきた日本の役割と、湾岸戦争後のその役割の変化について若干述べさせていただこうと思います。

 日本は、戦後、高度経済成長を経て、世界の経済大国に成長してまいりました。また、平和憲法によって、自衛隊の海外派遣に厳格な枠がはめられてまいりました。そうした状況のもとで日本がとり得る国際社会での役割は、当然のことながら、経済面に限定されてきたと言えます。

 国際社会における日本の役割は、お金を出すことしかできないし、その枠内でいかに貢献していくかが重要なんだ、日本政府も日本国民もそう考え、信じて疑わなかった。他のどの国にも負けないくらいお金を出しているので、国際社会からも当然評価されているという自負がありました。例えば、ODAや国連への潤沢な負担金拠出などであります。つまりは、戦後、国際社会における日本の役割といえば、金だけによる国際貢献であったと言えるのではないでしょうか。

 ところが、金だけではだめだということが痛いほど思い知らされる事件が起こりました。湾岸戦争でございます。すなわち、湾岸戦争において百三十億ドルもの戦費を拠出したにもかかわらず、国際社会からは批判を浴びました。命が惜しくて金だけ出す日本としてやゆされ、評価も感謝も全くされなかった。お金による貢献が唯一の道と信じて疑わず、一生懸命に国際貢献をしてきたこれまでの日本の姿勢そのものが否定されてしまったわけであります。正直で純粋な日本人は大変悔しい思いをいたしました。

 これがその後の日本のトラウマとなり、また、金だけでなく人による貢献の必要性を日本は初めて痛感しました。金だけの貢献ではいけない、そんなことはわかっている、しかし、日本には憲法の枠があるから人は出せない、国際社会はそれを理解してくれているだろう、そんな日本の甘えがあの一件で一気に吹き飛んだと言えます。

 そこで、金だけではなく人による貢献もということで、九二年にPKO協力法をつくって、PKO活動をやるようになった。その後の状況は御案内のとおりであります。

 そして、九月十一日の米国中枢同時テロが発生した。日本は、待ってましたとばかり、憲法解釈ぎりぎりの自衛隊の海外派遣ができるような法律を次々と現在つくっております。これで湾岸戦争当時の汚辱を晴らし、これで国際社会からの侮辱を受けずに済む、こういうムードが現在の日本にはある。金だけではなく、人による国際貢献の流れができ上がったと言えるのではないでしょうか。私は、このお金から人による国際貢献の流れは当然のことだと思っております。

 そこで、今後の日本の役割についての視点、この点の私の考えを三つほど述べさせていただきたいと思います。

 まず一つ、評価を追うのではなく、国益で考えるべきではないかということです。

 国際社会からどう評価されるか、これまでの日本の対応は、国際社会の評価を非常に気にしてきました。特に湾岸戦争のときのあの一件がトラウマになって、PKO協力法の際の議論しかり、今回のテロ関連法の議論もしかりであります。

 九月十一日のテロ事件後にとった日本の措置が国際社会からどのような評価を得られるかはわかりません。しかし、日本が集団的自衛権行使に向けて大きくかじ取りをしたことで、少なくとも米国からはかなりの評価を得られるものと思います。

 しかし、何かが違うんじゃないかという素朴な感情がわいてまいります。評価よりももっと大切な何かがあるのではないか。つまり、日本が物事を決める上で一番大切な要素である日本の国益については余り議論がされておりません。国際社会の評価に関係ないところの国益、日本独自の意思という観点からもっと議論すればいいではないか、評価は二の次のはずではないかという疑問がございます。日本は、国益の観点から、うちはお金しか出しません、何を言われても人は出せないのですとはっきり言えばいいし、また、人を出すことが日本の名誉、国益なのだとはっきり言えばいい。国際社会の評価と切り離してなぜそれが言えないのであろうかという疑問です。

 その理由はだれの目にも明らかなのではないでしょうか。国益の観点から日本がやるべきことは決まっております。しかし、憲法の制約があるのでそれができない。そこで、国際社会の評価を持ち出して、憲法を拡大解釈する、曲げるということをする。国際社会における日本の役割は、みずからの国益の観点で決めていくべきで、評価が後からついてくるようにしないといけないと思います。

 二つ目、国際社会における理想と現実の平衡をとっていくべきではないかということです。

 日本は、理想と現実のはざまで悩み、葛藤していくことが大切です。必要です。その中で日本の役割を考えていかなければならない。

 まず、従来の金による貢献という観点からですが、日本は、重債務貧困国に対する政府開発援助、ODAを行っております。その際、日本政府は、重債務国から返済を受けるたびに、返済額と同額の無償資金を提供するという債務救済無償資金協力という政策をとっております。いたずらに債務帳消しをするのではなくて、あくまでも債務返済計画をその国に自分で考えさせ、債務国の自助努力を促すというこの政策は、日本独自のものとして評価するに値すると思います。

 今後は、ODA資金の使い道を監視するシステムを、NGOと連携して、よりODAの精神が生かされる形で考えていく必要があると思います。

 人道的支援による貧困国の市民の救済という理念と、被援助国のモラルハザードの危険という現実の平衡をとった好例だと思います。

 十一月十三日の東京読売新聞で、杉浦正健外務副大臣がアフガニスタンの復興に対する日本の役割に触れ、ODAについて、「財政は苦しくとも、国際社会の一員として相応の協力はしなくてはならない。」と積極的に語っておられますが、その姿勢を今後も堅持され、今後のODAのあり方を、葛藤を乗り越えて決断した日本の意思として国民に示していただきたいと思います。

 それでは、金だけではなく人による貢献という流れからは、いかに理想と現実の平衡をとっていくべきでしょうか。

 さきに述べましたとおり、国際社会では、国連憲章、平和憲法の理想と、世界の緊迫した軍事情勢という現実がございます。ここで、日本の安全保障政策のあり方が問題になってまいります。

 日本には、大東亜・太平洋戦争において、その戦争目的については議論のあるところでございますが、いずれにしろ、アジア周辺諸国を戦渦に巻き込んだという歴史がございます。そのような歴史を踏まえて、日本の安全保障政策については、他国に誤解を与えないような慎重な配慮が必要です。日本は軍事大国の道を絶対に歩んではならない、これは日本が追求していかなければならない理想であります。安全保障政策における十分な国内世論の形成と、これと並行して、アジア周辺諸国に対する配慮、粘り強く理解を求めていくことが非常に重要なことです。

 ところで、国民の生命身体の安全を確保するということは国家の最重要課題であります。官民の日本人が海外で活躍する機会がふえればふえるほど、どうしても彼らが危険にさらされる事態は避けられない。また、国内の日本国民の安全さえ脅かされる場合がないとは言い切れません。そのような場合、当然、国家は国民の生命身体を全力で守っていかなければなりません。

 日本には現在、自衛隊があります。国内では現在、軍隊ではないと解釈されております。憲法上軍隊と認めていないということで、必要な有事法制の整備がおくれております。このような状況のもとで、万一、多数の日本国民の生命が他国またはこれに類する集団の明らかな理不尽によって危険にさらされる事態が発生した場合、私が憂慮いたしますのは、憲法の制約のもと、自衛隊が国民の安全確保、国土防衛という本来の目的さえ達成できないような機能不全に陥ってしまうか、または、自衛隊が憲法の枠を完全に外れてしまい、無制御状態の自衛隊が、安全保障の名のもとに、国民の諸権利をじゅうりんする事態に陥ってしまうか、そのいずれかの事態に陥ってしまう可能性があるということです。

 さらに、私が憂慮しておりますのは、平和を享受し、半分眠っている日本国民が、他国から突然攻撃を受け、有事に至ったとき、例えば米国中枢テロと同じようなことが東京の中心地で発生した場合、さて日本国民はどのような反応をするかということです。

 日本人の頭の切りかえの速さたるや、明治維新や終戦直後の状況を見れば想像以上のものがございます。しかも、上下左右に極端に振れる可能性がある。そういたしますと、有事に直面したとき、国内世論が国益のみに過度に傾き、好戦的な感情が蔓延する可能性があるということです。そうなった場合には、もはや歯どめがきかなくなってしまう。教科書問題などで見られる特定諸国の日本に対するたび重なる干渉は、日本国民の心の深いところに言い知れぬ反発心を醸成している可能性がございます。あることをきっかけに、その反発心が堰を切って噴出することが非常に心配でございます。

 日本は今、議論を十分に重ね、かつ、アジア周辺諸国の一定の理解を得た上で、平和を願う国民によるコントロールのきいた独自の軍隊を持つことを前向きに考えるべきであります。国益の観点からも、アジア周辺諸国への配慮という点からも、そう考えるべきであります。日本人が、世界平和を希求すべき人類の一員であるという立場と、日本の国益を考えるべき国民の立場のはざまで葛藤し悩んだあげくの結論は、そういうことではないかと思うのであります。

 最後に、人材の育成に重点を置いていくべきであります。

 金とともに人を出す、この国際社会における日本の役割の大きな流れにおいては、これまで以上に国際社会で活躍する人材の育成が必要であります。理想と現実の葛藤の中にこそ日本の役割が見えてくるという私の考えでは、日本国民一人一人がそのような思考ができるようにならなければならない。

 国にできることは限られております。その点で、NGOなどの活躍が期待されているわけでありますが、日本の若者がこれからこれらに積極的に参加して、国際社会とはどういうところなのか、その中の日本がどういう立場に立たされているのか、自分は国際社会に対して、また日本に対して一体何ができるのかを考えてほしいと思います。明石康元国連事務次長のような、理想と現実のはざまで悩みながら、信念を持って活躍する日本人の姿が世界の各地で見られるようになってほしいと思います。

 以上であります。

中山座長 ありがとうございました。

 次に、加藤征憲君にお願いいたします。

加藤征憲君 名古屋大学経済学部四年の加藤征憲と申します。

 私は憲法を専門に勉強しているわけではありませんので、勉強不足な点もあると思いますが、よろしくお願いします。また、現在の大学生、若者の一意見として聞いていただければと思っております。

 国際社会において、日本はこれまで以上にリーダーシップを発揮すべきだと考えております。これは世界平和のために必要なことだと考えています。しかし、世界的に見て、日本は世界のリーダーという認識はされていないのではないかと思っています。世界のリーダーというと、アメリカ、イギリスなどの国がイメージとしてわきますが、日本がリーダーであるというような印象は、私には現在ありません。これは、日本に真のリーダーが不在であるということから来ているのではないかと考えています。

 では、日本はどのような形でリーダーシップを発揮すべきかという点について、私の意見を述べさせていただきます。

 世界じゅうのだれもが世界平和を求めていると思っています。それを実現するためには、日本がリーダーシップを発揮していくことが必要となってくるのではないかと考えています。

 世界平和の実現には、既存の国際連合を中心とした努力が必要です。このような世界平和の構築のために、まず日本が国連の安全保障理事会の常任理事国入りを果たすことが急務だと思われます。憲法第九条で示されるように、日本が平和を希求する国であることを世界にアピールすべきだと思っています。このような憲法を持った国は世界じゅうに類を見ないからです。

 世界平和のために核兵器は廃絶されるべきだということは、だれもが思っていることだと思います。しかし、現在の常任理事国の五国はいずれも核保有国です。そのため、核廃絶に関する議論がなかなか出ないのではないかというふうに感じています。核非保有国である日本が常任理事国入りすることによって、核廃絶への道へと一歩踏み出せるのではないかというふうに考えています。

 全世界の国民が望んでいる世界平和の一端を担うことが、世界のリーダーとしての日本へとつながるのではないかと思っています。

 しかし、現在の日本は、リーダーシップが不足しているのではないかと思っています。今でこそ私たち国民の現内閣に対する支持率はかなり高いものがありますが、これまでは、総理大臣のリーダーシップには疑問を持たざるを得ないこともありました。日本が世界でリーダーとなるためには、まず日本国内で強いリーダーシップを持った指導者、つまり総理大臣が必要となってくるのではないでしょうか。これまでの選挙制度の中ではなかなか難しいと思っています。ここで必要とされるのが首相公選制だと思っています。

 首相公選制によって、これまでとは違った、強いリーダーシップを持った首相が生まれるのではないでしょうか。これは、直接国民から選ばれるという意識を総理大臣自身が持つことによって、より強い責任感、リーダーシップを期待できるのではないかと考えるからです。

 また、首相公選により、例えば四年間というような任期が保証されれば、より長期的視野に立った政策が実現可能であると考えます。私は、昭和五十四年、西暦では一九七九年生まれ、現在二十二歳ですが、私が生まれてから、これまで十四人の総理大臣が登場しています。特にここ十五年間では、十一人もの総理大臣が生まれています。このように一年やそこらでは、長期的な視野に立った政策はできないと考えています。よりよい日本、そして世界を築いていこうと考えるなら、長期的な目で考えた政策をとっていかなければならないのではないでしょうか。

 そして、国民が直接リーダーを選ぶということにより、私たち国民が深く政治に興味、関心を持つことができるということも、首相公選制の大きなメリットではないでしょうか。このことによって、より民意に即した政治、その民意にこたえなければならないという強い責任感が生まれ、今まで以上に強いリーダーシップが期待できるのではないかと思っています。また、このような気概を持たない首相は生まれてこないと思います。

 このような首相公選制に対して、人気投票になるのではないかというような意見もありますが、市長や知事などの地方自治体の首長は直接選挙をしているのに、なぜ総理大臣を選ぶ場合だけはいけないのでしょうか。これは、国民を全く信頼していない意見ではないでしょうか。国民と信頼関係のある総理大臣が必要なのです。もしそれでもいけないというのならば、例えばフランスのようにある程度の立候補要件を設ければ、このような心配はなくなると思っています。

 また、リーダーには決断力というものが要求されると思っています。政党の派閥の力学や政党間の駆け引きから独立した政治を行うことができる首相公選制によって、意思決定のスピードの速い総理大臣を生み出すことができると思っています。

 ほかには、議院内閣制とは整合的ではないというような意見も聞かれます。議会と総理大臣が対立した場合のことです。しかし、もしこのようなことが起きれば、国民全体を巻き込んだ論争となり、国民が政治に関心を持ち、政治によい意味での緊張感が生まれるのではないでしょうか。また、国の将来を考えられない政治家は淘汰されるべきだと思いますし、また今後、淘汰されていくと思っています。

 このように、国民が将来のことを考えて選挙に臨むことによって、よりよい日本へとつながっていくのではないでしょうか。また、これが世界平和へもつながると考えております。

 世界のリーダーとしての地位を確立するために、経済的貢献もさることながら、世界平和への貢献も不可欠です。また、このためにも、これまでとは違った、日本としての意思をはっきりと主張し、素早い行動、決断力のある国にならなければならないと思っています。そのためには、まず強いリーダーシップを持った総理大臣が必要です。このために首相公選制が必要だと思われるし、また、国民全体を巻き込んで、このことについて真剣に議論されるべきだと考えています。

 以上です。

中山座長 ありがとうございました。

 以上で意見陳述者からの御意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

中山座長 この際、議事の途中でありますが、ただいま現地参加議員として民主党・無所属クラブ牧義夫君がお見えになりましたので、御紹介をいたします。

    ―――――――――――――

中山座長 これより意見陳述者に対する質疑を行います。

 まず、派遣委員団を代表いたしまして、私から総括的な質疑を行い、その後、委員からの質疑を行います。

 私からの質問は、安全保障という概念が最近大きく変わってきたように思います。きょうは各陳述者からの御意見の中にも出ましたが、米国の同時多発テロ、これを見ておりますと、民間航空機を使って民間人が一挙に数千人の人を殺害するといった、今まで考えられなかったようなことが起こってまいりました。また、炭疽菌の入った郵便物を送るということで、個人的な安全が脅かされる、こういう事態になってまいりました。

 今までの安全保障の概念は、国家間の問題、国家対国家、こういう考え方が典型的な安全保障の概念でございましたが、この国家の安全保障に加えて、例えばヨーロッパ連合と言われるような地域の安全保障、こういう一つのテーマも現実に、現在、存在しております。

 また、世界の安全保障という、あるいは人類の安全保障といったようなスケールも最近、環境問題も含めて出てきております。――傍聴席からの発言は、憲法調査会規程第六条によって、議事の妨げになりますので、これ以上お続けになれば、座長として御退出を要請いたします。――退出してください。憲法調査会規程第六条によって議事の整理をいたします。――退場を命じます。――退場を命じます。――冒頭に、発言は会長の承認を得て行うということになっております。――当憲法調査会は、地方公聴会においても、国会法第四十八条の規定に従って、座長が議事を整理し秩序を保つことに相なっております。――それでは、私からの質問を続けさせていただきます。

 個人の安全保障ということが大きなテーマになって登場してまいりましたが、各意見陳述人からの御意見を改めて伺いたいと思います。

 田口富久治君。

田口富久治君 私は、自分の専門の関係もありまして、会長から口頭で出ていた質問について、今までの議論はどういうふうになっているかということを大体調べました。

 一九五〇年代は、例えば有名な「政治学事典」という辞典があるのですが、これの安全保障の項目を書いているのは、後に東大の国際法の教授になった寺沢一さんです。この寺沢さんが書いたものでは、安全保障というのは外部からの侵略に対して国家の安全を保障することという古典的定義を採用されているわけです。それに対して、今会長が言われたような問題提起が出てきますのは、実は、一九九〇年代になってからの学界の動向だと思います。

 一々は御紹介しませんけれども、例えば一九九三年の「国際政治経済辞典」というものがあります。これの安全保障の項目などを見ますと、これはやはり第二次大戦後の、特に一九七〇年代初頭以来の経済的、社会的次元における国際的相互依存の増大に伴う安全保障概念の変化ということで、経済安全保障というような概念が日本で生まれる、それから総合安全保障というような概念も日本で生まれてくる、そういうことが指摘されております。それから、環境安保なんという言葉もその前後に出てくると思います。

 それから、二〇〇〇年刊の、猪口孝さんたちの編さんした「政治学事典」の安全保障の項目でも、蝋山さんがお書きになったものとほぼ同じような認識が示されております。

 それで、一番新しいところで申しますと、伝統的なナショナルディフェンス、国防ということの同義と見られていました安全保障概念を――国連の本来の安全保障の概念は集団安全保障の概念です。国連の場合には、基本的にはそれに置きかえられています。さらに、経済安保とか総合安保とか、それから貧困や経済成長に伴う格差などに対して弱者の人権の視点を強調する人間の安全保障、ヒューマンセキュリティーという概念も国連などで主張されるようになったということも御承知のところでありまして、特にこの人間の安全保障の概念は、九一年のUNDP、国連開発計画の年次報告で打ち出され、緒方貞子さんなどがこの実現に随分尽力されてきた、そういう概念だと思います。

 それで、この辺の問題について、私が知っている限りで一番新しい国際政治経済学の教科書は、実は、この調査会の平成十二年四月六日の意見聴取で、筑波大学の進藤教授がやられましたが、この進藤教授の、この十月に出されました「現代国際関係学」という有斐閣から出たテキストブックがあります。この中では、今会長の質問にありましたような点を含めて、特に人間的な安全保障というような問題についてかなり詳しい解明がなされている。

 ちょっと長くなりましたけれども、私の調べてきたことは大体そんなことです。

中山座長 ありがとうございます。

 西英子君。

西英子君 私は、会長がおっしゃった個人の安全保障、人間の安全保障、そのことと、今田口先生がおっしゃいました人間の安全保障の立場から意見を言わせていただきます。

 私は、テロの防止というのは軍事力では不可能であると思います。私は、先ほどこのことについて意見を述べてきましたが、テロが起こらないようにするためには、テロの温床である社会経済問題に対処して、テロが生まれない土壌をいかにつくるかということが私にとっては一番大事なことだと思います。それこそがテロに対する安全保障だと私は理解しております。

 それで、人間の安全保障の中には経済の安全保障というものがあるのですけれども、今、経済的安全が保障されているのは世界の全人口の四分の一にすぎないと言われております。貧困、経済成長に伴う格差などに対して弱者の人権を強調した人間の安全保障の観念が、国連でも注目されています。私は、そのような人間の安全保障が確立されることによって、根底には私たち個人になりますので、個人、国家、地域、世界というふうに置いて考えるならば、軍事力によらない安全保障が可能ではないかというふうに思っております。

 以上です。

中山座長 ありがとうございました。

 時間の関係で、私の持ち時間に制限がございますので、何人かの方にお尋ねする予定でしたが、お一人だけにさせていただきます。

 古井戸康雄さん。

古井戸康雄君 安全保障にもさまざまな概念があると思います。先ほど座長のおっしゃったように、個人、人間の安全保障、これは最近非常によく出てきた概念でございますが、私としては、その概念を混同することは必ずしも望ましいことではない。

 考えることは非常に大切ですが、まず国家間、国連による安全保障という枠組みをきちっと議論した上で、それを補完する意味で、人間、個の安全保障というものを考えていく、そちらの方が頭の整理にもなりますし、非常に充実した議論もできるのではないか、こう考えております。

中山座長 ありがとうございました。

 最後ですが、加藤さんからお話のありました首相公選制については、当憲法調査会の会議でも参考人をお招きしていろいろと議論を行いました。

 御出席いただいた参考人からの御意見は、首相を直接に国民が選ぶということは、長所もあれば欠点も大きいと。つまり、国民が直接選挙するわけですから、国民と選ばれた首相との間の信頼関係が優先されて、国民の代表である国会との関係で、首相の政治行動に不信が大きくなってきた、その場合には首相を罷免する権利は国会にはないという結論でございまして、そのところをどういうふうに考えていくのか、いろいろと御意見がございました。議事録をお読みいただければ十分御理解いただけると思いますので、どうぞその点、御理解をいただきたいと思います。

 以上をもちまして、私の質疑を終わらせていただきます。

 次に、質疑の申し出がございますので、順次これを許します。鳩山邦夫君。

鳩山(邦)委員 鳩山邦夫でございます。

 台湾を代表する言論人であり、また実業家でもある蔡焜燦さんが書かれた、私は何度もお会いをしたことがありますが、「台湾人と日本精神(リップンチェンシン)」という名著がございます。もちろん、台湾の有識者の中の一部を代表する意見でありましょうが、我々は、日本が台湾にいたときに、すなわち日本が領有をしていたときには非常にいいものを学ぶことができたし、そこにはすばらしい秩序があった、日本は確かに大東亜戦争を戦って敗れた、しかしながら、敗れたからといって、いいものも悪いものもすべて悪いものとして葬り去るような結果となった、そのために今の日本人は、昔は立派な背骨があったのに、何かクラゲのように見える、ああいういいものをもう一回復活してもらいたい、そういうようなことが書かれてある。

 あの時点で憲法がつくられた。そして、戦勝国が負けた国を裁くという、世界史的に考えがたいような、もはや司法とも言えないような東京裁判というものがあって、その結果を受けたいろいろな事柄が、戦争で負けたショックからか、あるいは日教組の活躍によるものか、日本人はこれを受け入れなくてはならない、そういう空気が非常に強かった、そういう中で我々は育った。その我々が育てた子供たちが教育問題の中で今いろいろと苦労しておられる。そういう意味で、私は、憲法というものはもっと、本当にいいものにつくりかえなければいけないと思っております。

 そこで、ちょっと御質問をしたいのは川畑さんですが、あなたは、ペルーでの貴重な御経験を持っておられる。あるいは、日本の役割の本道というのはこれこれであるということもおっしゃった。しかし、現実に今回のようなテロが起きておって、あなたは、日本はどう対処すればいいと思っておられるのでしょうか。

川畑博昭君 私は、私の公述の中でもお話ししたかと思いますけれども、テロが起きたから、だからそれに対して武力で報復するのだというのは、私自身が体験したことに基づいてお話ししましたように、それはやはり問題の解決にならない。人間の歴史というものを本当に長期的に見ていくのであれば、平和構築というのはあくまでも対話。対立があるからこそテロなるもの、もちろんその社会背景にあるものもそうですけれども、その対立をなくしていく方向でやっていかなければいけないんじゃないかというふうに考えております。

鳩山(邦)委員 もう一度お尋ねしますが、そういう世の中がすぐ来るとお考えですか。

川畑博昭君 すぐに来るかどうかというのは、それを努力してみなければわからない話でありまして、すぐ来るように努力をするということをまず先に考えるべきではないでしょうか。思考が、本末転倒といいますか、逆になっているような気が私にはします。

鳩山(邦)委員 具体的にどういう努力をするのでしょうか。

川畑博昭君 私は、公述の中で直接例に出しましたが、南米というところにいまして、日本が、あるいは日本政府のODAの話もありましたけれども、貧困撲滅のためにやってきていた側面というのも現地で見ております。そういうことの一つ一つの積み重ねというものが、人間の歴史ということを考えたときに、やはりこの一つ一つ、一段階一段階でしかないんじゃないでしょうか。そういうものをやっていくべきだというふうに考えております。

鳩山(邦)委員 田口さんに御質問申し上げますが、私が聞き漏らしたのか聞き間違ったのかわかりませんが、先ほど意見をお話しされた中で、今回のテロに対して司法裁判のようなものの形が考えられないかとおっしゃったのでしょうか。もしそうであれば、そこのところを御説明ください。そのときに、例えば東京とかニュルンベルク裁判のようなものをお出しになりましたが、それは、あのような戦争と今回のテロの状況の違い、あるいは東京裁判自体が、私は最初に申し上げたように、およそ司法の名に値しないものと思っておりますが、その辺を御説明ください。

田口富久治君 先ほど私が御紹介申し上げた話は、イギリスのオープンユニバーシティーという大学、これは鳩山議員も御存じだと思いますが、そこから今ロンドンスクールの方に移りましたデビッド・ヘルド、今一番注目されているイギリスの政治学者なんですが、彼らがオープンデモクラシーというホームページを立ち上げているのです。これには、イギリスだけではなくて、アメリカからも非常にたくさんの人たちが、特にこのテロ事件の問題についてはいろいろな意見を寄せているものです。

 それで、先ほど紹介しましたのは、ヘルドが、事件が起こったたしか三日後ぐらいだったと思うのですが、そのホームページの中でそういう議論を打ち出している。しかし、私も、つまりブッシュさんがああいう対応をされたわけですが、ああいう対応じゃない、もう少し国連の側の行動に傾斜をつけて、そして国連の側でそういう国際的な司法的な措置をとる、そういう方向を追求する可能性もあったというふうに考えております。だから、その限りでヘルドさんの議論には賛成だというふうに申し上げたわけです。

鳩山(邦)委員 加藤さんに御質問いたしますが、あなたは、世界のリーダーとして日本が活躍をすべきである、世界平和を訴えろと言うのですが、平和というのはどういうことでしょうか、御説明ください。

加藤征憲君 私は、個人が死の危険などにさらされない状況にあるというのが平和だと考えています。

鳩山(邦)委員 私はちょっと変わった考え方をしているのですが、正しい考え方をしているつもりですが、平和というのは大事だと思います。戦争の危険がないというのは悪いことではないと思います。しかし、日本が世界に対してリーダーとしての姿を示すならば、むしろ環境のリーダーであるべきではないか。

 つまり、世界は平和である、あるいは経済は発展をしている、それは、人類が自分で自分の首を絞めるだけの結果になる。貧困の問題、貧困があればテロがあるというふうに私は単純に考えてはおりませんし、貧困というのはテロを正当化するものとは思っておりませんが、貧困もなくさなければならない。しかし、六十一億か二億と言われている人類が、もしすべてが日本人のような生活をすれば、一年か二年でこの地球環境は破壊をされて、もしそういう人類の発展を望むならば、地球があと三個ぐらいないとやっていけないというのは、環境問題の専門家ならばすぐわかることだと思います。

 今回のCOP7も、私は、世界的に、世界人類をごまかす仕組みだと思っています。一九九〇年に比べて二〇一〇年の日本の森林の二酸化炭素の吸収量、いわゆるシンクは確実に減るのです。減るのですが、ふえたことに計算をして三・七%を認めさせようということでルールがつくられようとしている。ということは、環境という意味で、日本は世界のリーダーとしての道を探っていない、アピールしていない、私はそう思うのです。

 平和でも、経済が発展しても、人類は滅びるかもしれない。自然環境を壊し、地球システムから何を奪ってもいいというおごりを続けたために人類は滅びる可能性がある。とすれば、憲法にすばらしい内容をつけ加えて、日本は自然との共生や環境のリーダーとなる、そんな憲法改正を、西さん、お考えになりませんか。

西英子君 お答えさせていただきます。

 現在、憲法の改正の問題で、盛んに環境論というものが出てきております。私は、環境をよくするとか、そういうことは現在の憲法の中で十分できると思います。

 私がとても不安に思うのは、環境論とか、そういうものが出てきた場合に、必ず憲法改正の影があるのですね。だから、現在の憲法を守るために、改正するためにはこうしたらいいのかとか、そういうものは一切私は考えません。環境をよくするとか、そういうことについては現在の憲法でできると私は思っております。

 以上です。

鳩山(邦)委員 私は、憲法改正に関しては、環境権などということがよく言われてまいりましたが、そうではなくて、自然と共生する義務、環境の義務というような形で、日本自体の義務あるいは世界に対する義務というものをきちんと書き込んでいくことが一番いいと思っています。

 そこで、最後になるでしょうが、野原さんに御質問申し上げます。

 あなたの御意見は、私にとっては非常に共感を覚えるものであり、胸のすくような御意見の発表であったわけですが、先ほど私が申し上げたように、日本人の基本というのか、司馬遼太郎さんに言わせれば、まさに日本という国のあるべき形、これがはっきりしない。憲法を改正してそれをはっきりさせれば、そこで子供たちも自信とプライドを持って育つ。というか、大人が自信を持って子供を教育できるだろうと思っていますが、あなたのお考えをもう一度お聞かせください。

野原清嗣君 今先生がおっしゃった内容と私も同じようなことを思っておりますが、先ほど先生が環境義務というようなことをおっしゃったわけですけれども、日本の伝統の中には、そのようなものを大事にしてきた、そういう伝統というものを、ヨーロッパの文化に先立つずっと前から日本人は持ってきたと思います。ところが、そういったことを全く今の教育現場では教えていないし、あるいは我々自身が気づいていないというのが現実ではないでしょうか。ですから、そういったことをもっと我々自身が子供たちに自信を持って語るべきだというふうに思っております。

中山座長 以上で鳩山邦夫君の質問は終わりました。

 次に、島聡君。

島委員 民主党の島聡でございます。

 公述人の皆さん、きょうは本当にありがとうございました。

 私は、テロ対策特別委員会の委員でございます。その審議にずっと参加をしてきました。テロ対策特別委員会の審議の中でずっと思っていたのは、ローマの哲学者キケロが、戦争になると法律は沈黙すると言った、そういう事態にしてはいけないと思いながら、立法者として携わってきました。ただ、その中で、テロというものに対して今断固たる措置をとらなければ、国民の生命と財産を守るという政治家の責任を果たせないのではないかということを感じながら、審議に携わってきました。

 集団的自衛権の考え方について、田口先生にお尋ねをしたいと思います。

 今回の審議の中で、私は実は直接は耳にしていないのですが、小泉総理が、これは国際的に見れば集団的自衛権の行使だと言ったということが報道されていました。私、直接耳にしていません、ただ報道で聞きました。

 集団的自衛権、日本の解釈は、一九七〇年ぐらいから内閣法制局が解釈していますが、日本と同盟関係あるいはそれに準ずる関係にある国が侵略された場合、自国が侵略されていないにもかかわらず、武力の行使によってそれを助けるものというような定義がございます。その厳格な定義によると、今回のものはぎりぎり集団的自衛権の行使には入っていないと思っています。

 ただし、集団的自衛権というのはもっと幅広い概念があります。これは内閣法制局の定義であって、岸内閣の時代には、例えば、先ほど兵たんの話をされたと思いますが、兵たんとか、あるいは、日本が基地を貸し与えて、それを守ろうとすると、それは集団的自衛権だという答弁もあるのです。その中においてずっとやってきて、限定した集団的自衛権だから今はいいというのが今の解釈だと私は思っています。これはもう本当にぎりぎりだなと思いながら審議していました。

 そのときにずっと考えていたことがあります。ぎりぎりなんだけれども、これは、政府がどんどん解釈を変更していったことによって、今ぎりぎりセーフだという話になっている。一部には、この集団的自衛権の解釈をまた変更して、いろいろな政府の行為を可能にすればいいという話がある。

 私は、基本的にこう思っているのです。憲法調査会の調査で塩野七生さんの話を聞かれたことがあります。そのときに、ローマ人がずっと繁栄してきた原因は、法に人間を合わせるのじゃなくて、人間に法を合わせてきた、そういう言葉があった。

 今、新しい国際社会になってきました。集団的自衛権の概念を一々解釈で変更していくことは、私は反対です。しかし、新しい国際社会になってきた以上、この集団的自衛権も含めて、憲法をきちんと新しくし直すとした方が望ましいと私は考えているのですが、いかがでしょうか。

田口富久治君 先ほど私、ちょっと時間を不足させまして、今の御質問のところは省略したところでございました。ちょっとお話しさせていただきます。

 一つは、議員が御承知のとおり、現行の日米安全保障条約の前文には、「両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認し、」云々という規定があることは御承知のとおりでございます。しかし同時に、この日米安保条約の第三条では、憲法上の規定に従うことを条件としている。これも御承知のことであります。それゆえに日本政府は、少なくともこれまでは、集団的自衛権の行使を否認し、専守防衛に徹して、軍事同盟強化と軍事大国化への道に一応の歯どめをかけてきたということは言えると思うのです。

 さて、問題は、実は、この集団的自衛権及び集団的安全保障の権利というものが今の国連憲章上どういう扱いになっているかということにちょっとさかのぼる必要があるのですね。これは、亡くなったハマーショルド国連事務総長がおっしゃいましたように、国連憲章の第六章の平和的解決と第七章の強制的解決、このちょうど中間の問題として、いわゆる六章半の措置ということで、例えばPKOの問題とかPKFの問題というのは出てきているわけです。

 私の考えでは、ともかく日米安全保障条約におきましても、さきのような規定によって、日本の場合、日本国憲法の規定によって制約をされるということが縛りになっていますから、私の記憶では、多分、中曽根康弘内閣のころからだんだんその点が緩んできたようには思いましたけれども、一応その規定があったということだと思うのです。ところが、九〇年代に入りまして、湾岸戦争が始まりまして、ここでPKOとかPKFという問題がずっと出てきているということなんだろうと思うのです。

 結論的に申しますと、先ほど議員が言われたように、どうも私の憶測では、例えば小泉内閣、あるいは小泉内閣と与党というふうに言ってもいいかもしれませんけれども、今のところ、集団的自衛権の行使に対する日本政府の参加というものに対する歯どめは、内閣法制局がやっている歯どめだけなんですね。だから、憲法改正というような方向をあえて選択しなくても、例えば、政府の集団的安全保障についての考え方を変えることによって、事実上それと同じ状況をつくっていく。全体としては、そういう方向に政府なり与党なりの対応は動いているのじゃないか、そういうふうに思っています。

 この点について一つだけ追加させていただきたいことは、こういうことです。

 議員は一九六〇年のときの安保論議はもちろん御記憶はありませんね。(島委員「ありません」と呼ぶ)あのときは、実は極東の範囲というのが日米安保論争の一つの大きな焦点だったのです。これは、社会党の非常に有名な議員たちが極東の範囲で政府と随分言い争いました。しかし、今度の措置法の場合はインド洋まで出ていくわけですよ。それで、イギリスとアメリカの共通の基地になっているところでいわゆる兵たん活動をやる、こういうことになっているわけです。

 実はこの問題は、冷静に考えてみれば、今はアフガンと世界最大最強の軍事大国としてのアメリカとの対決ですから、私の解釈では、恐らく今度の例えば海自の派遣というようなものも、厳密に解釈していけば、アメリカとの関係で集団的自衛権の行使に日本政府が参加したという解釈がほかの国によって与えられても不思議はない事態だと思っています。

 ただ、アフガンの方は今、軍事的な対抗力は全くないわけです。もしアフガンの方に軍事的な対抗力があったら、今はそう大げさになっていませんけれども、弾薬や燃料を補給するとかそういうことまで含めて、あれは集団的自衛権の行使に日本政府が参加しているのだから、これを参戦行為とみなして、軍事的に、対国家的な軍事報復として報復するということが、実際にはあり得ないけれども、論理的にはあり得る、そういう事態だというふうに私は今の事態を見ているのです。そういう意味では、やはり今の事態については大変な危機感を持ちます。

 議員の御質問には十分に答えていないかもしれませんが、私はそういう考えです。

中山座長 意見陳述者にお願いいたしますが、議員の質疑時間が限られておりますので、その点、十分御理解をお願いいたします。

島委員 若い方ですので、加藤さんにお聞きします。

 きのう、私のボランティアの人が、ペシャワール会に寄附をするために七万七千六百円を、フリーマーケットでいただいたのでそれを、と言って持ってきました。少なくて恥ずかしいのですがと言われたので、とんでもない、これで三百八十八人の方が助かりますという話をしました。一カ月一人二百円あれば、今アフガニスタンでは生きていけるそうであります。

 それで、質問ですけれども、今、若い方は、こういうボランティアとか、それから例えば阪神大震災のときのボランティアとか、随分やられていると思います。今、日本の憲法は、よく言われるのは、権利は多いけれども義務が少ないという話をされます。御存じのように、納税、教育、勤労の義務しか今のところありません。私は、そんな徴兵の義務なんということを全然考えておりませんが、例えば、若い人が今後、災害が起きたときに国家の安全に奉仕するとか、そういうような義務というもの、あるいは、先ほど鳩山議員が言われましたけれども、環境を守るための義務とか、そういうものを憲法に規定するとしたら、若い人は反感を持つでしょうか、それとも、そういうことだったらそれは必要だと思うでしょうか。若い感性でお答えいただきたいと思います。

加藤征憲君 私の周りですと、今現在、私は多少ボランティアとかに携わっているのですけれども、そのような話をしますと、よくやるねというような意見が結構ありますので、義務化というのにはやはり相当な反対が多いのではないかというふうに思っています。

島委員 ありがとうございました。

 最後に、環境の話をもう一度西さんにお尋ねしたいと思っています。

 私はウィリー・ブラントという政治家が好きでありまして、あの人が援助の哲学というのをされた。平和の戦略としての援助の哲学、援助をすることは、貧困を除去し、それが平和へつながるんだということでやられたと聞いております。

 今、憲法の問題に、私は、鳩山議員と同じように、環境権も必要だし、同時に、日本の国家アイデンティティーとして、環境の権利と義務というものを世界に提示することが今の日本に必要ではないか。それは、日本が世界の環境を守る、憲法九条が戦後、平和国家日本としての思いをどんどん伝えたように、環境を守る日本ということを伝えるための一つの大きな手段になると思って、新しい憲法をつくるべきだと私は思っているのですが、いかがでしょうか。

西英子君 お答えさせていただきます。

 私は、憲法にあえて環境権の条項を入れなくても、現在の憲法の中で、今先生がおっしゃったような環境についてのことはできると考えております。

 日本が世界に率先して環境をやっていかなければいけないとおっしゃいましたけれども、私は、先ほど述べましたように、ODAの問題でも、確かに日本は世界一位ぐらいの援助をしていますし、これからアフガン復興に対してもしていくわけですね。そのときに、あえて憲法の中に条項として入れなくても、今非常に環境に配慮していないところがありますので、まずそういうところを日本が反省して、今後のODA援助をやっていかなければいけないと思います。

 それは、公害輸出とか自然を破壊するとか、それから、現地へ行って先住民の人たちの生活様式を破壊してしまうということは、私は、先ほどおっしゃった地域の安全保障というものを考えない方策だと思いますので、そういうところを、憲法に入れる前にまず考えなければいけない問題が非常にたくさんあると思います。

中山座長 以上で島聡君の御質問は終了いたしました。

 次に、斉藤鉄夫君。

斉藤(鉄)委員 公明党の斉藤鉄夫でございます。

 きょうは、六人の陳述人の方、本当にありがとうございました。

 早速質問をさせていただきます。まず最初に、西さんと川畑さんにお伺いいたします。

 お二人の御意見、私は大変共感を持って聞かせていただきました。暴力に暴力でもって対応すれば新たな暴力を生む、対話を醸成する機運を盛り上げていかなくてはならない、まさしくそのとおりだと思います。ただ、私も政治家の一人として、現実を目の前にしたときに、はたと困ることがございます。今回のテロ問題にいたしましても、例えば、対話ができる相手だろうかと。非常に訓練をされた、国家ではない、巨大な犯罪組織でございます。この組織が、例えば、ペルーの問題もそうでした、今回の問題もそうでしたけれども、背後に麻薬の問題もございます。その麻薬が日本に来て、一兆円を超えるブラックマーケットで日本の若者をむしばみつつあるという現実もございます。今、断固たる措置をとらなければ、現実問題として、人間の安全保障、我々の基幹が徐々に脅かされつつある、こういう現実もございます。暴力で対応してはいけない、しかし、断固たる措置をとらなければ徐々に私たちの安全保障がむしばまれていってしまう、そのはざまで本当に立ちすくんで悩んでいるというのが我々の現状でございますが、この点につきましてお二人の御意見をお伺いできればと思います。

西英子君 お答えさせていただきます。

 私どもが考えている、テロの根底にあるものをまず解消していかなければテロがなくならないということなんですけれども、それにも確かに時間がかかります。でも、先生がおっしゃるように、それよりも、とりあえず、こういう言葉ではおっしゃらないのですけれども、私が受け取ったのは、軍備ですね、そういうものでもって安全保障を確立してやっていかなければいけないというふうに私は解釈したのですけれども、ではそれで現実問題として本当にテロがなくなるのだろうかということを考えたときに、私は、ならないと思ったから、極めて長期的であるかもしれないけれども、まず最初に言いますのは、アメリカのとってきた今までの中東政策を見直していくとか、それから、非常に世界の貧富の格差がありますので、そういうものを何とかして除去していかなければいけないということをまず考えて、そういうことでもってやっていかなければいけないと思うのです。

 だから、ここで軍備をやってすぐなくなるということは、私は到底考えられませんので、私はこういう意見を持っております。

 以上です。

中山座長 次に、川畑博昭君。

川畑博昭君 若干私なりの考えを述べさせていただきます。

 こういう私のような公述をしますと、現実的に、現実的にどうするのかということを必ず言われます。断固たる措置ということをおっしゃいますけれども、私もその意味では今のお答えの趣旨と大体同じなのですが、その断固たる措置なるものをして本当に今後のことが保証できるのかできないのかということはやはりあると思います。起こるかもしれないから未然に防がなければいけないというのと同じように、未然に防ぐ努力あるいは措置なるものをとったからといって、それが起こらないことにはならないわけです。

 ただ、今の御質問の趣旨は若干違うのかというふうに思ったのですが、麻薬という問題があるというお話でした。もちろん私は、麻薬が横行することがいいなんというのは全く思っていませんし、麻薬がいかに社会をむしばんでいくかというところも実際に見てきたところであります。そうしますと、その麻薬を取り締まるなり、それに対応しなければいけないというのは警察がありまして、私がよくわからないのは、その断固たる措置をとらなければいけない、そしてその対象が例えばこの場合麻薬だといった場合に、なぜそれが軍あるいは軍の論理というもので解決されなければいけないのかということがいまいち明確でない。

 もっと言わせていただければ、例えばそれが今回のアフガニスタンということを想定して言われているのだとすれば、そしてそれが国際社会というきょうのテーマにかかわって言えば、公述の中で私も若干お話ししましたが、その国際社会というのを逆に私はお聞きしたい、どういうものを国際社会として描いていらっしゃるのか。

 例えば、私みたいな一市民が見る限り、あれはあくまでもアメリカを中心とした、あるいはアメリカがこうやれと言った、その構図でしかない。国際社会はふぞろいであっていい。そのふぞろいの国々あるいは人々から成る国際社会というものを想定して、今回の問題、もっと歴史的に、人間の歴史、人類の歴史といったものを考えていく必要があるのではないかというふうに思います。

斉藤(鉄)委員 ありがとうございました。

 次に、野原さんにお伺いをいたします。

 野原さんの御意見の中で、現在の憲法が、はっきりとした、我々が目指すべき像を示していない、ここが今、教育の荒廃の原因の一つになっているのではないか、このような御意見だったかと思います。

 私の個人的な意見ですが、その当否はともかくとして、今の日本国憲法は、その前文と第九条はそれなりに論理的な整合性があり、一つの理想像を示している。ただ、これが現実と合わない。その現実と理想のギャップに子供たちが悩んでいるのではないかな、このように私自身は思っておりますが、それに対する御意見と、それから教育の憲法ともいうべき教育基本法について、今改正すべきだという議論も国会の中で起きてきております。御意見を伺えればと思います。

野原清嗣君 理想と現実がかけ離れているということでございますけれども、憲法が目指したところの理想というものが、確かに、戦争が終わった後、いろいろな意味でもう二度と戦争はしたくないというふうな背景の中であの憲法が出てきた、そういう事情は私も、私はその時代に生まれておりませんでしたのであれですけれども、十分理解できるつもりです。

 しかし、現実に、今の子供たちがいろいろな問題に対処しようとするときに、つまり、子供たちの生きる力といいますか、そういったものの根本というのは、彼らは自分に今自信が持てないのですね。だから非常に、いろいろなところで聞いても、自己肯定感がないと申しますか、そういう子供が多くなっている。そういうところから、例えば国際社会に貢献しようといっても、そういったエネルギーは出てこないのではないか。

 いろいろな意味で、そういうのを見ていきますときに、前文と九条が整合性があるというのは先生のおっしゃるとおりでございますけれども、それは、では積極的に国際社会に対して何かしよう、そういう理想なのかというと、私はその点については疑問を感じております。

 それから、教育基本法の問題については、私が公述の中で述べさせていただいた内容とちょっとダブるわけですけれども、やはり非常に抽象的な内容が羅列されているだけでありまして、本当に我々の心に響いてくるところの、日本の中にあった、もっと日本人が大事にしてきたもの、そういったものを教育基本法の中に盛り込んでいくということが今求められているのではないか。そういったものが盛り込まれたときに、彼ら子供たちの中には、本当に生きる力として、これから周りの人に、身近な人にまず始まって、それがやがて社会に、そして国際社会にと及んでいくのではないかなというふうに私は思っております。

斉藤(鉄)委員 ありがとうございました。

 古井戸さんにお伺いをいたします。

 評価を追うのではなく国益で考えるべきだと。私は、これまでの日本、軍事的な貢献ということはありませんでしたし、ある意味では経済的な繁栄ということを追い求めてきた日本として、国際的な評価がすなわち国益につながる、そういう大前提があったからこそ、評価を大変気にしてきた、私自身はそう思っておりますけれども、ここで古井戸さんがあえて、これからは国益をもう少し全面的に考えるべきだ、こうおっしゃる裏には、新たな、日本の国際社会の中でのあるべき姿、今までとは違うんだということがあるかと思うのですが、御意見の中で何となくうっすら見えてはきたのですが、もうひとつはっきり言っていただけますでしょうか。

古井戸康雄君 まず、評価と国益、全く違うものではなくて、今先生がおっしゃいましたように、やはり評価と国益の観点は可能な限り全く同じものにしていかなければならない、こう考えております。ただ、外国の評価というのがちょっと議論の中で先行していたのではないか、こういう意味でございます。全く対立するものではございません。

 次に、国益とは何かということなのですが、まず一つは、今回、国際社会における日本の役割ということで、私も実は野原先生と全く同じような考え方を持っております。

 憲法十三条に個人の尊厳というものがございます。これは非常に大切で中心な概念であると私は思っておりますが、ただ、五十年後の今の状況を見ると、個人の尊厳が全然守られていないのではないか、大切にされていないという現状を私はひしひしと感じます。何かというと個に還元し過ぎて、周りの物事が見えなくなってきているということを考えます。

 どういうことかといいますと、自立ということです。要するに、個が自立するためには、やはり周りとのかかわり合いの中でしか自立はできないわけです。今、日本は、一応憲法の制約があって、アメリカの庇護のもとに政策とかいろいろなことを考えておるわけですが、自立して、自分の足で立たなければいけない。よって立つ国の基本的なもの、国民の中の道徳のコアみたいなものが今かなり衰退しているのではないか、僕はこういう認識を持っております。

 先ほど言った国益と今私の言ったのがちょっと離れているかもしれませんが、日本の国内で、自立した考え方、要するに、個人の尊厳と、全く同じようにではないですが、もっと大切な何かがあるのではないか。これを日本国民が自覚して、その上であらゆる物事に立って判断していく、それを積極的に外国に対して発信していく、こういうことを、すなわち私が先ほど申し上げました国益という言葉で表現させていただいた、こういうことでございます。

斉藤(鉄)委員 ありがとうございました。

 最後に、加藤さんにお伺いします。

 首相公選制についての御意見を伺いました。私もこの夏イスラエルへ行ってまいりまして、イスラエルの首相公選制を勉強してきたのですが、会う人ごとに、首相公選制はやめておいた方がいいよと。イスラエルは首相公選制を実際に体験した国ですけれども、今廃止をいたしましたが、やめておいた方がいいよという御意見でした。ある人が、首相公選制はすなわち政党政治の死を意味するとまで言い切りました。今、日本の制度は、政党が民意を反映し、かつ集約をして、その代表である国会で議論をするということになっておりますが、その政党政治の死を意味するとまで言い切った人がいたわけです。

 加藤さんから見て、ここに今政党の代表が並んでおりますが、若い人にとって日本の政党がどう見えるか、率直な御感想をお伺いいたしたいと思います。

加藤征憲君 今の学生、私を含めて、まず、余り政治に興味を持っていないというのが現状だと思っています。選挙とかあっても行かないという人が結構周りには多かったですね。なので、自分の周りの意見としてどのように思っているかということはよくわからないのですけれども、政党政治に対して否定的な考えというのは余りないというふうに思えます。

 以上です。

斉藤(鉄)委員 ありがとうございました。

中山座長 以上をもって斉藤鉄夫君の御発言は終わりました。

 続いて、都築譲君。

都築委員 自由党の都築譲です。きょうは、意見陳述人の皆様には、大変貴重な御意見を聞かせていただき、ありがとうございました。それぞれになるほどと思うところも多々あるわけでございます。

 持ち時間が十五分と限られております。私は、三分、質問の趣旨を述べさせていただきますので、各意見陳述人の皆さんは、今度は加藤さんの方からそれぞれ二分ずつでお答えをいただきたい、こんなふうに思います。

 質問の趣旨は、きょうも大きく取り上げられておりましたテロ問題がございますが、国際社会の中で、国際連合が国際警察軍的な集団安全保障機能を果たしていくときに、日本は自衛隊を参加させるべきかどうか、そういう点に尽きると思います。

 私は、自由党の人間でありますから、人間はもともと自由に生きていくのが当たり前である、そう思っておりますが、ただ、同時に社会的な存在でもありますから、社会の中で生かされている、こんなふうにも思っておるわけでございます。

 国ということを考えると、日本も一つの国でありますから、一国で自由に生きていく権利もありますが、しかし、国際社会の中で、これほど緊密化した国際関係の中でお互いに助け合って生きていく、あるいは生かされていく、こういうものではないのかな、こんなふうに思うわけであります。

 国際社会での役割を日本がどうやって果たしていくかということを考えますと、今までは経済的な活動が活発でございました。よい製品、良いサービスを各国に供給し、あるいはまた資本を投下して工場をつくってその国の雇用を生み出す、こういったこともあったろうと思いますし、先ほど来意見陳述人の皆さんからいろいろ意見が出ておりますように、貧困の解決、あるいはまた医療や教育の支援などの民生の安定、あるいはまた地球環境の保全、さまざまなものがあると思います。

 しかし、今回のテロ事件のことを思いますと、確かに貧困が原因かなというふうに私も思いますし、また一面では宗教的な面も否定できないのかな、こういうふうにも思うわけであります。

 しかし、思い出されるのは、この豊かな日本で、今から六年前に実は地下鉄サリン事件というものが発生し、一般市民が何十人も殺害され、そしてまた何百人の人がいまだに後遺症で苦しむような、そういうテロ事件が起こったわけであります。こういった事件に対して、実は、警察力がそのテロ活動の封じ込めという活動をやったわけでありまして、テロ活動に対する警察力の行使といったものの必要性は皆さんも否定されることはないのではないかな。

 ただ、今国際社会の中でいろいろな国、またいろいろな法制がそれぞれにあります。しかし、大体どこの国でも、人を殺せば罪となり、物を盗めば罪となると思いますが、国家の問題となるとこれまたどうも、第一次大戦、第二次大戦といろいろな反省を繰り返してまいりましたが、なかなかそうできていないところが現状ではないのかな、そういうふうに思うわけであります。

 ただ、国際連合憲章は今、集団的自衛権とは違いますが、集団的安全保障という観念で、国連警察的な機能を果たすべきだ、こういうことを実は条文の中に書いてございますが、今まで、東西の冷戦あるいはまた米ソの対決の構造の中で拒否権の応酬が行われて、実は全然機能してこなかった。しかし、今回のテロ事件に対してはどの国も、常任理事国の五カ国がみんなテロ撲滅、テロに敢然と対決するんだということで一致をしている。

 そういうことを思うと、今この国際社会の中で、こういった国際的な犯罪を撲滅していく、そういう気運を盛り上げ、組織を盛り上げ、体制をつくっていく絶好の好機ではないか、その中で日本も一生懸命果たしていくべきではないか、こんなふうに思うわけであります。

 しかし、日本が一生懸命やろうやろうと言いながら、日本は金は出しますけれども実力は出せません、そういうことでほかの国々を説得する力が出てくるのかな、こんな思いもするわけであります。

 私ども、実は先週の金曜日に、政府の出したPKO法の改正案に対しまして、国際平和協力支援法案ということで、国際連合のそういった活動に自衛隊が積極的に参加するような、そういう法案をつくっていこうということで、提出させていただきました。ぜひ皆様方のお考えを聞かせていただきたい、こんなふうに思っております。

中山座長 それでは、加藤征憲君から順次御発言を願いますが、所要時間が二分という規定でございますので、その点、御理解をいただきたいと思います。

加藤征憲君 余り知識がないのでしっかりとしたお答えができるかわかりませんけれども、日本がお金だけ出すというのは余り賛成できません。世界平和のためという名目ならば、自衛隊の派遣というのもすべきではないかというふうに考えています。それがどこかの特定の国の国益のためというものであるのならば、断固として派兵すべきではないというふうに考えています。

 以上です。

古井戸康雄君 先ほど地下鉄サリン事件のお話が出ましたが、私は平成七年のあの日に東京地裁で修習しておりまして、十五分早く地下鉄に乗っていたらここで発言をしていないということで、あれは非常に印象的でございます。神谷町から東京地裁まで、信号がすべて救急車とパトカーで埋まりました。交差点に担架が十幾つも並べられておりました。今でもあの光景は忘れられません。

 私が先ほどいろいろ述べましたこと、非常に危機感を感じております。今回の米国の多発テロをテレビで見ていて、あれがもし日本で起こったら日本はどうなるんだろうかということが私は頭から離れないのですね。

 そういうことはさておき、自衛隊を集団的安全保障の枠内に入れるべきかどうか。私は入れるべきであると思います。

 どうして入れないのか。かつて侵略国家であった日本はそういう資格がないと言われればそれは大変悲しいことで、他国を侵略しようとかそういうことを考えているのは、私ども一億三千万人、多分だれ一人おらぬと思うのですね。ただ、日本が、我々は過去を引きずって、そういうものに積極的に参加しないということを言い続けると、例えば周辺諸国は、ああそうか、日本は、もし憲法を改正して軍備したときにまたあれをやる、みずからそういう不安を抱えているのかという変な誤解を与えてしまうのではないかということも、私はちょっと考えております。

 結論を述べますと、私は、日本は国連集団安全保障の枠内に入って、その中で積極的に活躍をしていくべきではないか、こういうふうに考えております。

 以上でございます。

川畑博昭君 私は、先ほどからずっと、徹頭徹尾、武力に反対という立場を明確にしてきましたので、その意味では、なぜ自衛隊を送らなければならないのかという疑問がまずあります。つまり、私は、自衛隊は憲法上違憲だというふうに考えております。

 したがって、当然その違憲のものを、国連といえば、いわば金科玉条のごとく、あたかも中立的に振る舞うかのように言われますけれども、そういうところに出すべきかどうかというのは、私の中では問題として存在していないというふうに言っていいかと思います。

 むしろ平和的に、もっと日本ができる、お金があるのであれば、極端なことを言えば、お金を出せばいいじゃないかというふうに私は思います。日本が豊かになった、豊かになったという中で、そしてその同じ豊かさをほかの国が求めれば人類が滅びるというのであれば、その豊かさこそを考えながら日本の国際貢献なるものを考えていくのがやはり本道じゃないかというふうに考えております。

 それから、何度か御質問の中であったかと思うのですが、憲法にこれこれを書くために新しい憲法をというふうによく言われます。でも、憲法に書かれていたことが守られなかったこの日本の政治の状況の中で、書けば守られるのかという疑問を、純粋な疑問として私は持っています。そうではない、もし国際社会におくれをとるというふうに言われるのであれば、それは、その平和的な道ということを説得できない日本の外交、政治のレベル、それは現状のレベルでしかない、そういう認識に至らざるを得ないのじゃないかというふうに私は考えております。

 以上です。

中山座長 傍聴者は、拍手は御遠慮ください。

野原清嗣君 端的に申し上げます。

 私は、今の国際社会の現状を考えると、日本がそういった形で今後国連の中でそれ相応の働きをしていくということはやはり必要なことだというふうに思います。

 ただ、これからそういった国際社会に対しての日本なりのメッセージといいますか、日本はこういう形で国際社会に貢献していくんだという力強いメッセージというものが必要なのではないでしょうか。

 以上です。

西英子君 私は、現在の憲法の平和主義のもとで、自衛隊の派遣は憲法違反になりますので、一切してはいけないと思っております。

 現在のテロ特措法がばたばたと決まって、きのう自衛隊が派遣されたわけなんですけれども、あれがなぜ派遣されなければならないのかというのが、私は市民として全然わからないのです。あれは単なる政治的メッセージだと私は思っております。

 先ほどの、集団安全保障の方に自衛隊を参加させようということについても、そういう憲法の平和主義の立場から、私は必要ないと思っております。日本はせっかく憲法九条それから前文に平和主義を掲げておりますので、そういうものをきちっとやっていけばいいのじゃないか、憲法をいろいろと解釈しながらやっていくということはおかしいと思います。

 そして、私が市民の一人として今ひしひしと感じているのは、日本も世界も、テロを何か一つの仮想敵国みたいに扱って、国際的な軍事同盟というか、軍事力を強化していくのじゃないかということをとても恐怖として感じております。一市民の意見です。

田口富久治君 私も、集団的安全保障の枠に日本の自衛隊を入れるというようなことに全く反対です。

 むしろ、戦後の日本の防衛と自由をめぐる論争史をちゃんと調べていきますと、例えば、国連の安全保障体制の中に日本が、自衛隊と無関係に、国連軍の中に日本の人的貢献を行うという構想は、これはかなり前ですけれども、坂本義和氏によって提案されております。やはりそういう系譜をもう少しちゃんと調べる必要があります。

 それからもう一点、先ほど鳩山議員から環境安保の問題が出ましたけれども、これは非常に結構なことなんですが、私は、憲法を改正することなく、グローバルな環境安保の体制をぜひつくるように、鳩山議員、そのお隣の議員などには努力をしていただきたいということを要請いたします。

都築委員 ありがとうございました。終わります。

中山座長 次に、春名直章君。

春名委員 日本共産党の春名直章でございます。

 きょうは、六名の陳述人の皆さん、本当にありがとうございます。

 二点、最初に私から申し上げておきたいと思います。

 十月の末から十一月の最初に、日本共産党の国会議員団が現地パキスタンの実態調査をしてまいりました。そこの中で、パキスタンのシンクタンクでプロフェッショナル・フォーラムというところがありまして、そこの代表の方からこういうお話を伺ってきました。日本が自衛隊を派遣することは間違っている、日本はこの地域ではどの国からも、どの民族からも恨まれたことがない、自衛隊の派遣は、日本が紛争にかかわることになるし、アメリカの軍事行動を支援することになる、日本が我々の友人でなくなることを意味する、日本には軍隊を持たない憲法があるのだから、その方向に沿って役割を果たしてほしい、広島、長崎の原爆で戦争の悲惨さ、無実の市民の犠牲の重さを知っているわけだから、なおさらである、こういう発言をいただきました。私は、大変示唆に富んでいる、しっかり受けとめなければならない中身だということで、御紹介しておきたいと思います。

 もう一つは、憲法前文と九条の関係ですが、これはまさに一体になっていると思います。つまり、平和的共存の道を日本民族自身が本気で歩んでいこう、侵略戦争への反省を踏まえて、その道を歩んでいこうということを前文でうたい、そして、憲法九条でその中身を具体化しているわけですね。ですから、私は、この道こそ子供たちに勇気と展望を示す道だということを最初に申し上げておきたいと思います。

 田口先生にお伺いしたいのです。

 きょうの議論の中でキーワードになっているテロの問題をあれにして、軍事力と武力の行使という問題がさまざまな角度から議論されました。そこで、少し大きな視点で語っていただきたいのですが、人類の歴史は、戦争、武力行使という歴史をどういうふうに流れてきたのかということについてです。

 田口さんのお話の中にも、憲法九条と国連憲章の二条四項の話が出ました。二条四項には、武力による威嚇または武力の行使をすべての加盟国に対して禁止する、こういうふうになっているわけですね。そして五十一条で、例外措置として、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、限定してやっても仕方がないと。

 つまり、軍事力の行使というのは、人類の営々とした努力の中で、これをなくしていこう、そうでない道を進んでいこうというのが大きな流れではないかと私は理解をし、九条はその先駆にあると思っているのです。

 ちょっと大きな話で申しわけないのですが、そのあたりの田口さんの御見解をお聞きしたいと思います。

田口富久治君 今議員がおっしゃったことは、そのとおりだと思います。

 特に、日本国憲法の前文の第二項以降と第九条に対して、一九四六年にできた国連憲章の先ほどの第一条、第二条の影響というのは非常に強くあると思うのです。だから、その限りでは、実は、第二次大戦後、国連憲章が出発したときに、ユナイテッドネーションズが持っていた目的、理想というものを日本の憲法の前文と第九条は引き継いでいる、そういうふうにも解釈できるわけであって、ただ、戦後の国際政治の現実は、冷戦の問題その他ありまして、最初の目的どおりいかなかったというだけのことでありますから、私は、その点は自信を持ってやっていっていいのじゃないかというふうに考えています。

春名委員 ありがとうございました。

 川畑陳述人に二点お伺いしたいと思います。

 一つは、ペルーの経験から、暴力が暴力の連鎖を生むというお話をしていただき、非常に示唆に富んでいました。その目から見たときに、改めて、今のアメリカの空爆の問題をどういうふうにとらえればいいのか、本当の解決の道になっているのかどうか、この問題が一点。

 第二点は、世界の人たちが、特にペルーでほかの国々の方々とお話をされていると思いますので、日本の憲法に対する評価、特に九条の評価について、どんな意見があるのか、どういうふうに見られているのか。もしそういう経験がおありでしたら、その点もぜひ聞かせていただきたいと思います。

川畑博昭君 まず、一点目の御質問についてですけれども、これは公述の中でも若干触れたのですが、暴力が暴力を呼ぶという悪循環からすれば、今のアフガニスタンに対する誤爆ということがいい例かと思いますけれども、私からしますと、あれが本当の解決になっていないということは改めて言うまでもないというふうに考えております。

 先ほど現地調査のお話がありましたけれども、ああいう現地の実情というものに沿いながら、日本に何ができるのかということを考えていくことこそ積極的な日本の役割だというふうに私は考えていますので、したがって、この問題についての本当の解決ではないというふうにまずお答えします。

 それから二点目ですけれども、例えば、私が滞在していましたペルーにおいて九条がどのように見られていたか。私などは、九条はもちろん学校で習って知っていましたが、これは私自身のすごく恥ずかしい経験でもありますが、日本には九条があるから軍隊はないというふうに私は小学校、中学校で習ってきました。したがって、現地で、日本には軍隊はないんだよと言っても、しかし、自衛隊というスペイン語を出しながら、あれは軍隊じゃなくて何なんだということを何度も聞かれた記憶があります。第一回目の滞在のときにそういうことがよくあったのですが、当時まだ不勉強だった私などは、なかなか答えに窮するということがありました。

 その意味で、やはり私は、憲法の精神に従って、そういうものに忠実に、既成事実の積み重ねではなく、本筋でいくべきなのじゃないかというふうに改めて海外で思ったという経緯があります。

 以上です。

春名委員 どうもありがとうございました。

 議論の中で、お金だけではなくて、人ももっと出した方がいいというお話も出たのですけれども、パキスタンの調査の中で、ダニエル・ケリーさんという国連の地雷除去担当の責任者の方にお話を伺ったときに、こういう話が出てきました。日本政府は以前には地雷撤去のために重要な拠出金を出していた、しかし、昨年もことしも一円も出しておりません、現地の大使館に何度も要請したのですが、音さたなしです、これは一体どういうことでしょうか、こういう話でした。

 そういう点では、お金ももっと出さないとだめですね。こういう難民の支援だとか地雷撤去のためにもっと力を尽くすということが、私、本当に今大事だなと感じております。

 西陳述人にお伺いしたいと思います。

 この中でただ一人の女性でございますので、命を生み出す母親としての率直な感想を聞きたいのですけれども、憲法九条について、この力と国民の力があって、戦後一度も他の国に戦争することなしに、人を傷つけることをしなくて来た。私は、これは日本国民の誇りだと思うのです。憲法九条の持っている価値というのですか、特に女性の視点とまでは言いませんけれども、それを今どういうふうにお感じになっているのか、その点をお聞かせいただきたいと思います。

西英子君 私は現在六十四歳で、小学校二年生のときに敗戦になりました。戦争の体験もありますし、空襲の体験もありますし、敗戦のときに非常に大変な生活を送ってきました。それで、今テレビで映し出されるアフガンの現状を見ていると、本当にダブって感じられるのです。

 女性は、原則としまして、平和主義者なんです。だから、九条を守っていかなければならないというのは、男性の悪口を言ってはいけませんけれども、男性よりはむしろ女性の方が多いのですよ。

 そのことについて、私は最近、朝日新聞の天声人語で読んだのですけれども、現在のアフガンのことでも、イギリスの新聞が世論調査をしたときに、圧倒的に女性の方がこの戦争はやめてほしいとか、もっと具体的に言えば、この戦争は今ちょっと中止して、アフガンの餓死寸前の人たちに食料を運んだらどうかという感覚は、本当に女性の感覚なんですね。そういうことを一つのイギリスの問題として読んだことがあるのです。

 私は、絶対に九条というものは守っていかなければならない、私の経験からもそういうふうに感じております。

春名委員 加藤陳述人にお伺いしたいと思います。

 常任理事国入りの話はちょっと置いておいて、核兵器の廃絶ということに対して、日本がもっと大きな役割をぜひ果たしてほしいという趣旨の御発言をされたと思うのです。そして、憲法九条を持っている国として、平和のそういう役割を果たすべきだという御発言だったと思うのです。

 それで、学生の加藤さんの目から見て、唯一の被爆国であるこの日本が、今、核兵器の廃絶という点でどういう努力が必要なのか。

 といいますのは、私の問題意識は、まだまだ努力が尽くされていないと思うのです。例えば、戦略防衛構想、NMDというのがありますね、アメリカのああいう計画に協力しましょうかという話になっていたり、それから、究極的廃絶ということは言われるのだけれども、本当に期限を切っていち早く、新アジェンダ連合とかそういう提案をしていますね、そういうことをやはり率先してもっとやっていく。今の政府だからこそ、広島、長崎を経験しているからこそ、イニシアチブをとれることはたくさんあるのじゃないかと思うのです。その点ではどういうふうにごらんになっていますか。

加藤征憲君 全くそのとおりだというふうに思っています。断固として核兵器を廃絶すべきだと思っていますので、期限を決めて、きっぱりとやめるという姿勢を先頭に立って貫くべきだと思いますし、意見をまた世界じゅうに述べていくべきだというふうに思っています。

 以上です。

春名委員 最後に、田口陳述人にもう一度お伺いします。

 テロが起こりまして、アメリカの個別的自衛権の行使という形でああいう形になっているのですけれども、一方でいいますと、テロリストを許さない、テロ組織を根絶するという点で、今までになく世界が一致団結できる新しい条件が生まれているわけですね。ですから、一番大事なことは、国連を中心に、今国連の機能をそういう意味で強化して、制裁と裁きの道をつけていくということが、逆に言えば、今やらなければならないし、そういう時期じゃないかというように私は感じるのです。

 国連の役割はこれからどうあるべきなのか、その点について御意見を聞かせていただきたいと思います。

田口富久治君 おっしゃっているとおりでしょうね。

 実は、あのテロが発生して、もちろんブッシュさんの反応は早かったんだけれども、国連が、安保理事会が中心になってもっと早くあの時点で動かなければならなかったのですね。その動きが非常におくれたというのは、私も残念に思っています。だから、あなたのおっしゃるとおりなんじゃないでしょうか。

春名委員 個別的自衛権の行使ということで今やられている状況の中で、アメリカ対イスラム諸国というような違った対立軸がつくられたり、無実の方が亡くなられることによって、新たにビンラディンを賛美するような雰囲気が生まれたり、非常に困難をつくり出しているという面は真正面からとらえて、この問題を解決していく、日本はそのために役割を果たしていくことが大事だなということを改めて私は感じておりますので、そのことを最後に申し上げまして、私の質問にさせていただきます。

 ありがとうございました。

中山座長 次に、金子哲夫君。

金子(哲)委員 田口さんにお伺いをしたいのです。

 今回のテロ特措法及びその関連として三法案が国会に上程されて衆参通過したわけですけれども、審議時間の問題ももちろんでありますけれども、憲法とのかかわりにおいて、私は、余りにもこのことが無視されてこの法案審議が進んでいったのではないかということに対して、非常な危惧を持っております。

 私は、何人かの陳述人の方もお話しになりましたように、自衛隊も憲法九条違反だというふうに思っておりますけれども、とりあえずそのことをおいたとしても、例えば自衛隊法とのかかわりですら、今回の問題は、これまでの法体系ともいわば矛盾する法案の中身であったと思う。しかも、この国会論議の中においても、小泉総理のさまざまな答弁や、また国会のみならず、その他のところの発言などを精査してみても、憲法とのかかわりについては、例えば、神学論争をこれ以上やってもしようがないとか常識の範囲でとかいうことが発言の中にあったように、私は、憲法というものは日本の法治主義の中においては最高の位置を占めなければならないし、その憲法に基づいてさまざまな法律がつくられ、そして我々の生活が、政治があるというふうに思うのです。

 その点で言いますと、今回のテロ特措法にかかわるこの一連の動きの中で、憲法というものがむしろないがしろにされ、無視されてきたことが一番大きな問題ではないかというふうに私は思っておりますけれども、その点について田口さんの考えをお聞かせいただきたいと思います。

田口富久治君 私もそのような印象を持っております。

 特に、小泉首相のこの問題をめぐっての憲法問題についての発言というのは、法治国家の首相にはあるまじき発言が多々ありました。彼には、法治主義、法による支配ということの意味が必ずしも十分にわかっていないのではないか。私は大昔の法学部の学者なんですが、それにしても余りにもひど過ぎる発言が多かったと思います。

 それから、先ほど私は一九六〇年安保のときの話を出しましたけれども、これは集団的自衛権のかかわりですが、例えば日米安保における自衛隊の行動範囲の問題なんかだって、六〇年のときは、まさに極東の範囲そのものが最もホットなあれになっていたわけでしょう。今度のテロ対策法等によりますと、あれはとにかく、同盟国とされているアメリカが軍事活動を行っているところには、日本の自衛隊、当面は海自の軍艦ですけれども、これがどこまでも出ていっていいというような、そういう趣旨の使われ方になっていますね。それから、武器使用の、つまりグレードの緩和とか、そういう幾つかの問題がありまして、ああいう、つまりこの問題を憲法問題として扱うことを神学論争というふうにいかにも評論家ふうに論評する首相をいただく日本国家というのが、果たして本当の意味で法治国家なのか。

 それから、議会におけるテロ特別対策法その他の審議も、時間も非常に短かったですし、審議の中身も十分には私は突き詰められていなかったのではないか、そういう印象を持っています。

金子(哲)委員 川畑さんにお伺いをしたいのですけれども、私は、まず川畑さんのお話を聞いて、特に命のとうとさということをおっしゃいました。個人的な問題でありますけれども、私自身が名刺の表に命とうとしという言葉を印刷させていただいておりますけれども、何よりも、政治もすべてにかかわって、人の命が大切にされる、そのためにこそ政治があり憲法があり法律もあるというふうに思いますので、そのことについて、しかも非暴力という考え方でお話しになったことに感銘を受けます。

 外交の経験といいますか、大使館にお勤めの経験もありますので、ちょっとお伺いをしたいのです。

 加藤さんの発言にもありましたけれども、核兵器廃絶の問題で、実は今回でもそうですけれども、日本の政治の場合、随分とアメリカ一辺倒の政治姿勢が強いわけですけれども、核政策の問題について、先般の十一月の国連総会においては、残念なことですけれども、昨年の日本が提案した国連決議から見ますと大幅に後退した。まさにアメリカのために後退させた。例えばCTBTの成立過程について、期限を二〇〇三年と昨年の決議では書いていたのを削除するなど極めて後退した決議を出し、しかも、アメリカに反対されるというお粗末な外交だったわけです。

 唯一の被爆国といいつつ、実際にそういうかなりアメリカ一辺倒的な、外交政策全体がそうでありますけれども、特に核政策にかかわっても日本の独自性などが見えないというふうに私は感じているのですけれども、その点についてどのようなお考えでしょうか。

川畑博昭君 今のお話は全くおっしゃるとおりだというふうに私自身も考えているところではあります。

 その意味でも、先ほどから何度も繰り返していますように、これからやらなければいけないことが山積しているときになぜ逆の方向に行くのかということを、いま一度やはり、それこそ冷徹に考える必要は、私などからするとあるのではないかというふうに考えております。

 以上です。

金子(哲)委員 ありがとうございます。まさに日本が果たすべき国際貢献、さまざま言われておりますけれども、おっしゃるとおり、もっと果たすべき役割は十分広い場所にあるはずですので、そういう意味では、核兵器廃絶などに果たすべき役割はもっと重要視されなければいけないのではないかというふうに私自身も思います。

 野原さんにお伺いをしたいのです。

 先ほど春名委員からもお話がありましたけれども、私どもも十月二十日過ぎに国会調査団を三名パキスタンに派遣しました際に、私がその報告の中で一番印象に残っておりますのは、広島、長崎のあの悲惨な体験を経験した日本がなぜアメリカの軍事行動に協力し支援をするのか私たちにはわからない、もっと日本としての、悲惨な我々の実態に対しての支援をしてほしいということがありまして、私も広島の人間として、その重みを感じております。

 野原さんのお話の中で、憲法の前文の問題について、私のメモで、表現がちょっと違うかもわかりませんけれども、単に絵にかいたもちだというような表現もあったように思います。

 私は、憲法の前文、第九条にかかわっては、ちょっとおっしゃいましたけれども、かつての日本の侵略戦争の歴史、そして広島や長崎、沖縄、日本全土にあった空襲による民衆の被害、これは軍人ではありません、まさに民衆が、広島ではたった一発の原子爆弾で十数万の命が奪われた、そういう背景の中にこの日本国憲法の平和主義というものがあるというふうに私は思っております。その点について言いますと、教育の問題をおっしゃいましたけれども、そのことがどのように教育の現場の中で大切にされて子供たちに教えられているのか、このことが私は大事だと思うのですよ。

 その点について、先生の体験の中で、教育現場において日本国憲法の平和主義というものについてどのようなことを生徒の皆さんに教えられた経験があるか、お話しいただければと思います。

野原清嗣君 私は、直接、今、授業の中では憲法の問題だけということで取り上げたことはございませんので、先生の御質問に的確にはお答えできないかもしれませんけれども、やはり平和というものは大切なものだということは、これは先生のおっしゃるとおり、日本人がみんな共通に思っている、そういう気持ちだというふうに思います。ただ、現実に、では、その平和をどうやって維持していくのか、どうやってつくり上げていくのか、それをやはり考える必要があるのではないかというふうに思っております。

 そのために、ただ何もしないということが本当に平和になるのか。ダチョウという鳥がございますが、ダチョウは、危険が迫ると首を穴の中に突っ込んで、一時的にその危険が見えなくなった状態になって安心をするんだそうでございますが、そういうダチョウの平和ではだめなんじゃないか。平和に向かって何ができるのかということ、これは、いろいろなオプションがあると思いますので、必ずしも軍事的なそういった問題だけではないと思いますが、逆に言うと、なぜ軍事的なオプションだけ外さなければいかぬのかということが私は不思議に思えてなりません。普通の国と同じようにとは言いませんけれども、最低、日本なりのやり方というのがあるのではないかなというふうに私は思っております。

金子(哲)委員 私に若干意見はありますけれども、きょうは交換する場ではありませんので、私が一方的に申し上げるのは大変失礼なので申し上げません。

 最後に、加藤さんにお伺いをしたいと思います。

 今の野原さんのお話ともかかわりがあるのですけれども、最近、残念なことですけれども、このテロ事件以降、沖縄に行かれる修学旅行生が急減した。そして、沖縄から変更されて、広島に随分修学旅行生もふえたと聞いております。原爆資料館を見学した後の最後に自分の感想を書くノートがあるのですけれども、最近、地元の中国新聞が報道しております中には、あの資料館を見学した後に思う気持ちだと思いますけれども、この今の時期、アフガニスタンではアメリカの空爆によって子供たちの命が奪われている、これは一日も早く中止してほしい、大人たちはなぜこんな戦争を繰り返すのだろうか、こんな感想文が随分たくさん寄せられていると中国新聞に報道されておりました。

 私は、教育というものは、本当にそういう、まさに体験の中、そういうことの中から子供たちがさまざまなものを考えていく、またそのことを通じて変わっていくのではないかというふうに思っております。

 加藤さんは一番若いものですからお聞きするのですけれども、これまで小学校、中学校、高校、学校のさまざまな体験の中で、平和憲法といいますか、憲法の平和主義といいますか、そういったことについて、先生の授業とか、また課外も含めてですけれども、そういうことに触れた機会、またどういう体験をされたか、もしお持ちでしたら、お聞かせをいただきたいと思います。

加藤征憲君 特に小学生のときには、社会科で原爆のビデオを見たりだとか、あとは国語の教材でも原爆を扱った文章というのを何度か読みました。

 小学生のときはそのようなことについて考える機会が結構ありましたけれども、中学、高校になってからは、やはり受験というか、そのような弊害かもしれないですけれども、ただの事実としてしか扱われなかったような気がしています。

金子(哲)委員 ありがとうございました。終わります。

中山座長 次に、宇田川芳雄君。

宇田川委員 21世紀クラブの宇田川芳雄でございます。陳述人の皆さん方には大変御苦労さまでございます。長い時間になりましたが、私が最後の質問者でございますので、もうしばらく御協力をお願いしたいと思います。

 きょうの公聴会のメーンテーマは、国際社会における日本の役割ということになっております。まさにいろいろ御意見が出されましたように、同時多発テロ、そして続くアフガンでの戦争等、世界じゅうの人たちがこの国際社会における役割というものを考えざるを得ない時点の中で、しかも、憲法の中で第九条というのは早くから議論の的になった大きな課題でありますが、それを取り上げてのこの公聴会、今までの憲法調査会はそれぞれに大切な議論を続けてきたのですけれども、こんな大きな問題をこんな時期に話し合う機会を持てたということは、憲法調査会にとっても大変大きな意義のあることだと思います。それだけに、それぞれの陳述者の皆さん方の御意見、しかと承ったところでございます。

 ところで、申し上げましたように、憲法第九条というのは、これはもう本当に国論を二分するような意見の多い科目でありますが、五十年前に憲法が制定されて、吉田内閣の時代にこの憲法論議が大変騒がれたわけですけれども、その当時からこの憲法九条の解釈というのは、なかなかずばりとした結論が出ていなかったことは御承知のとおりです。私も、学生時代でしたが、学校で教授が憲法の講義をするときに、第九条になるとさらっと、これはなかなか、意見が分かれているところであって、解釈は困難だ、やがて歴史的な過程の中でいろいろ解明をされていくことだろうぐらいのところでお茶を濁されて終わりだったということは今でも記憶しております。

 そこで、加藤さんにお伺いするのですが、大学生ですから、今の大学の憲法の授業の中で、憲法第九条というのはどういう形で教授が指導をしておられるのか、解釈をしておられるのか、それを受けて、学生の間でこの憲法九条について意見を闘わせることがあるとすれば、仲間の人たち、あなたも含めてですけれども、どういう考え方でこの九条を理解しているのか、その点をひとつお答えいただきたいと思います。

加藤征憲君 私は、申しわけないのですけれども、憲法の授業を受けたことがありませんので、なかなかお答えできないのですけれども。

宇田川委員 お仲間の皆さんと憲法問題について、議論をしたという大げさなことではなく、話し合ったようなことはありませんか。

加藤征憲君 そのようなことは特に話題には、今の一般的な学生の間ではなかなか議論にはならないと思います。

宇田川委員 今加藤さんのお話を伺って、これが今日本の国民の一般的な憲法に対する理解度かなというようなことを感じたわけです。いつも話が出るのですが、憲法というのは本当に大事なことだ、これが私のうちの憲法よなんておかみさんがよく言っていますけれども、憲法よと言いながら、では憲法とは一体何だと言われると、ずばりよくわからないというのが実態だと思います。

 しかし、私は、やはり日本の憲法というものをしっかりした形の中で我々が理解しないと、今いろいろ御意見が出たようなそごが出てくる。そして、国民の間に何か問題が起こったときには、マスコミ等を通じて騒がれた問題だけが大きく浮き上がってしまって、本当に憲法の精神はどういうところにあるんだ、憲法が日本の国民をどうやって守ってくれるんだ、国民性を発揮できるんだ、国外にそういう意味での日本をアピールすることができるんだということまでなかなか出てこないという感じがいたします。

 私は、その意味において、憲法調査会が地方公聴会を開いて多くの皆さん方に改めて憲法というものを理解していただく機会を持ったということ、そしてこれからも持つということは、非常に大きな意義があると思うわけでございます。

 先ほど野原さんからのお話で、一般の生活の中でも国際社会でも、当然の常識がちゃんと生きている憲法であってほしい、こういうお話がありました。私は、これが大事だと思うのです。そういう形の中で今回の国際貢献の問題というものも考えていかなければいけないのじゃないかと私は思います。

 そこで、まず古井戸さんにお聞きしたいと思うのですけれども、古井戸さんは、国際紛争に巻き込まれる危険もだんだん増加してきている、だから、同盟国の役割を果たすために、国民が制御し、有事法制の整備された独自の軍隊、軍隊という言葉がいいかどうかは別としても、軍事力を持つべきだという御意見を出されておられます。この、国民が制御し、有事法制の整備された独自の自衛力というものを、今の憲法第九条の条文のままでそれがしっかりと統御できるかどうか、そういう点を含めて、もう一度御意見をお聞かせいただければと思います。

古井戸康雄君 憲法第九条を見る限り、別に法律家じゃなくても、一般の方がこれを見ると、未来永劫日本は丸腰でおれということなんですね。これはやはりおかしいと僕は思うのです。

 先ほど加藤さんから、そういう議論を友人とは余りしたことがないというお話が出ました。私も余りしたことがない。それは、これを字面どおりに見れば丸腰でおれということが書いてあるものですから、ここからどんなに積み上げても、非常に苦しい解釈になっていくと思うのです。これはやはりおかしい。

 ですから、先ほど私が発表させていただいたように、日本は、軍隊という言葉はともかくとして、同じ自衛隊であっても、もっと柔軟な形で行動ができる、しかも、有事というのは国家緊急事態でありまして、憲法がもう機能しないという状況も考えられるわけであります。そういった場合も、自衛というものをきちっと国民に責任を果たす形で行える、そういう軍事力というものをぜひ持ちたい、持っていただきたい、私はこう考えているわけでございます。

宇田川委員 そこで、野原さんにお聞きしたいのですけれども、先ほどの私が申し上げた野原さんの持論で考えますと、日本の憲法の中には、第三章に「国民の権利及び義務」として、大変行き届いた項目がずらっと並んでいるわけです。これは日本の国民に対しての権利及び義務でありますけれども、今は国際社会というものを切り離して日本の国内社会というものは考えるわけにはいかないわけですから、国際社会の中においてもこの第三章の権利義務というものはきちっと生かされるべきだと私は思うのですが、野原さんのお考えはいかがでございましょうか。

野原清嗣君 国際社会の中に生かすというのは、具体的にどういうことをしていくことなのかというのはちょっと今思いつきませんでしたので、何と申し上げていいのかわかりませんけれども、ただ、今先生がおっしゃいましたところで、権利と義務ということの関係につきましては、権利ということが非常に今言われておりますけれども、しかし、その権利の裏には義務がある、そういったきちっとした権利義務意識が本当に現在の日本に育っているのかなということを私は思いますので、そういう意味での権利義務ということを我々自身がもっとしっかり学ばなければならないし、そういう意味で、憲法に書かれていることを我々はしっかり見ていかなければいけないのではないかなというふうに私は思っております。

宇田川委員 今回のテロに対して先ほどからお話がいろいろ出ましたが、軍事力によらないで平和的な解決、あるいはボランティアであるとか環境問題であるとかお話があったわけですけれども、現実にテロが発生して、現実にアフガニスタンであれだけの戦いが行われているということをやはり忘れるわけにはいかないわけでして、そのためには、現状は軍事力というものを無視するわけにはいかないと私は思います。これが解決したとしても、これからたくさんの国際紛争が出てくるだろうと思うのです。

 野原さんがおっしゃった、お人柄と国柄というのがみんなあるわけでして、それぞれが自分たちの国の利益をしっかりと守るために頑張っているわけです。浜の真砂は尽きるとも世に紛争の種は尽きざりと言っていいのじゃないかと思うような現実の中で、日本は、日米安全保障条約という一つの大きな条約の中で、戦後、経済発展を遂げてきた。そういう事実を顧みて、今後、そういう形の中で日本の国を守っていく、危機管理の一環として守っていくという方策を講じなければいけないと私は思っているのですが、野原さん、その点はいかがでしょうか。

野原清嗣君 私は、今先生がおっしゃったことで少し理解できたような気がしたのですけれども、国の独立ということがきちっとあって初めてその国の国民の権利というものは守られるのではないかなと思います。国というものがなくなってしまって、あるいは国そのものを形成できないで苦しんでいる、そういう人々が世界にはたくさんいる、そういうことを考えたときに、我々はそのことをもっともっと日本国民として考えていかなければならないのではないかなというふうに思っております。

宇田川委員 最後ですから、公述人の皆さんそれぞれにイエスかノーかでお答えいただきたいのですが、憲法改正、反対でしょうか、賛成でしょうか。田口さんからどうぞ。理由はよろしいです。

田口富久治君 私は反対です。

西英子君 反対です。

野原清嗣君 賛成です。

川畑博昭君 反対です。

古井戸康雄君 賛成です。

加藤征憲君 賛成です。

宇田川委員 ありがとうございました。

中山座長 これにて委員からの質疑は終了いたしました。

    ―――――――――――――

中山座長 この際、暫時時間がございますので、本日ここにお集まりをいただきました傍聴者の方々から、本日の公聴会に対する御感想を承りたいと存じます。指名させていただいた方にマイクをお渡しいたしますので、お名前と御職業をおっしゃった後、御意見をお述べください。

 それでは、御意見のある方は挙手をお願いいたします。

 この通路の突き当たりの手を挙げていらっしゃる方、どうぞ。

土井登美江君 会社員で、土井と申します。

 きょうは、国際社会の中での日本の生き方ということで、それぞれの皆さんから、それから議員の皆さんから大変参考になる意見がいただけたというふうに思います。

 今回、アフガンの問題を通じて、私が思ったのは、どうも私たちはアメリカの方からの見方で国際社会を見る傾向が非常に大きいな、イスラムの側、そういう各国からの状況というのがすごく入ってきたなというふうに思っているのです。

 そういう中で思うことは、日本の憲法がすごく各国の人々から歓迎されていて、そのために日本が信頼されているんだということをもう一度感じたのです。ですから、西さんとかきょう御発言になった川畑さんとか、そういった方のおっしゃることは、非常に私は胸にすとんと落ちました。

 そして、やはりこの平和憲法を、確かに普通の国としては随分と特殊な憲法を持っているわけですけれども、今、その平和主義こそこれから徹底的に生かしていく。そのためには、核の問題であるとかあるいは環境問題でありますとか、小火器の問題ですとか地雷の問題ですとか、お金も人も出すことは本当にいっぱいあるわけですから、ぜひともそういう観点で、平和憲法を本当に具体的に生かすということをやっていく必要があるのではないかということが一点でございます。

 それからもう一点、今回非常にがっかりしたことが一つあるのですけれども、それは、女性の発言者が一人しかいなかったということなんです。先ほども御発言ありましたけれども、世論調査なんかでも、今回の問題で女性はかなり、平和的な手段で解決していきたい、そういう声が出ていたこともあります。それだけではありませんけれども、全般にわたって、地方公聴会の公述人、ぜひとも女性の割合を、六人いるなら少なくとも二人とか三人とか、私はぜひ三人を望むのですけれども、そういう形で、女性の公述人をもっと多く採用していただきたいというふうに思いました。

 以上です。

中山座長 御意見どうもありがとうございました。

 それでは次に、女性が発言の機会少ないそうですから、奥の方、どうぞ。

林八重子君 ありがとうございます。

 私は、小学校の教師をやっている岐阜県の者です。岐阜県の高校の先生があんな発言をされてとても残念です。

 憲法調査会に来て、しかも大学の生徒さんも、僕は憲法を学んでいないとおっしゃって、よく出てくるなと私は思ったのですけれども、もっと憲法が大事だということを本当に伝えていくためには、子供たちに教えなきゃいけないと思うのですね。私は、小学校では、先ほどおっしゃったように、「一つの花」とか「ちいちゃんのかげおくり」とか、国語では教材がありますし、五月三日の憲法記念日には、小さい子には、小さい子にわかるようにと思って一生懸命、憲法の話を朝の会で少しはしています。

 もっと本当にみんなが憲法のことを、こんな調査会をやられて偉い人ばかり話してみえても、みんなが知らないといけないし、中学校、高校でもっと大事に教えていくように文部省にも言っていただきたいと思いますし、私たち教員もそういうことを肝に銘じないといけないなと思いました。

 それから、パキスタンの人が、日本は広島、長崎の経験があるんじゃないか、その苦しみがわかっていたら何でそんなことするんだと言われたという言葉を聞いて、どきっとしました。

 一刻も早く、そんな軍事行動をしないで、平和のためにお金も人も使っていただけたらいいなと思います。私も、ボランティアがあったら参加します。

中山座長 御意見ありがとうございました。

 それでは、そちらの方にいきましょう。その男性の方、どうぞ。

森圭三君 森圭三と申します。もう八十一歳で、職業なしでございます。一言、一番基本のことだけ申し上げたいと思います。

 今の日本の憲法は、これは日本人がつくったものではない、マッカーサーが押しつけたものであるというその基本を忘れないで国会の方も議論をしていただきたいというふうに思います。これは、マッカーサーがつくったときは、日本を再度アメリカの対抗勢力にしないために、日本を弱体化することを目的としてつくった憲法であります。

 今、平和憲法として結構でございますが、日本人が同じ憲法をつくっても結構ですから、日本人で議論してつくり直していただきたいと思います。

中山座長 御意見ありがとうございました。

 それでは、そっちのグループにいきましょう、どうぞ。そちらの方でどなたか御発言はありますか。後ろから二番目の方。

渥美雅康君 四十五歳、弁護士をやっております渥美といいます。

 きょうの公聴会での公述人の意見をいろいろ聞いて感じたことが一つございます。

 きょうのテーマは国際社会で我が国が果たす役割といったことだったと思いますけれども、これまで日本が国際社会の中で十分尊敬を受けるような役割を果たしてきたかどうか、こういう問題意識が多分憲法調査会のいろいろな委員の方にもあるのだろうと思うのです。

 そのときに忘れてならないのは、憲法九条を持ちながら、戦後、日本が軍事力を有し、それを拡大してきた、あるいは、戦前、日本が朝鮮半島や中国大陸を軍事侵略したという明白な事実があるにもかかわらず、歴代の政府のお偉い方々が、侵略はしていなかったとかいろいろな放言をして世の中の信用を失墜させてきた、こういう政治のあり方が、日本がこれまで国際社会の中で十分な尊敬と名誉ある地位を占めてこなかった大きな原因の一つではないか。このあたりのことを十分反省して、憲法を本当に守るためにいろいろな努力をしてきたのか、ここから憲法の議論を始めるべきではないだろうかと思うのです。

 軍事力を海外に派遣して国際貢献になるというのは、余りにも単純かつ粗暴な議論だというふうに思います。平和憲法の範囲内で、平和憲法の理念を生かすためにこれまでどこまで努力をして具体的な政策を積み重ねてきたのか、これをきちんと親が子に、教師が生徒に説明できれば、できていれば、先ほど来言われている教育の荒廃などという現象もやはりなかったのだろうというふうに思います。そのあたりのことをもう少し議論を積み重ねていただきたい、これが一番感じたことであります。

中山座長 ありがとうございました。

 閉会の予定時間が参りましたので、あと一人の御発言を。それでは、大きな紙を上げていらっしゃる方、どうぞ。

安良城文生君 安良城文生と申します。団体職員です。

 今、世界の流れは、第二次大戦後、戦争が違法である、軍事力行使が違法であるというのが流れですね。日本は、平和憲法を持って、軍事力を持たないということです。それで世界が批判するのであれば、世界がみんなそういう憲法を持てばいいわけです。だから、日本は堂々とその平和憲法の立場を世界に示していくべきであります。

 それから、先ほど押しつけられた憲法であると言われましたが、これは、当時の世界の英知を集めてつくられた憲法、そして日本の国会議員もそれにさらに建設的な意見を述べてつくられた憲法であるということ。

 そして、今学校では、私も教師の経験がありますが、ほとんど、受験の勉強のために憲法の学習が非常におろそかにされているということです。今、教育の中でこの平和憲法の学習が非常にいいかげんにされているからこそ、そして日本の政治家が世界で非常に破廉恥な立場をとってきた、そういうことで、子供たちが自信を持てなくなっている、日本の国に自信を持てない、誇りを持てない状態がつくられてきている。今のそういう文部行政の責任であると思います。

 以上です。

中山座長 ありがとうございました。

 まだ御発言の御希望もあるようでございますが、予定の時間が参りましたので、ここで終わらせていただきます。

 この際、一言ごあいさつを申し上げます。

 意見陳述の方々におかれましては、長時間にわたりまして貴重な御意見をお述べいただき、まことにありがとうございました。ここに厚く御礼申し上げます。

 また、この会議開催のため格段の御協力をいただきました関係各位に対して、心より感謝を申し上げ、お礼の言葉といたします。

 それでは、これにて散会いたします。

    午後四時二十七分散会




このページのトップに戻る
衆議院
〒100-0014 東京都千代田区永田町1-7-1
電話(代表)03-3581-5111
案内図

Copyright © Shugiin All Rights Reserved.