衆議院

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第2号 平成15年2月27日(木曜日)

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平成十五年二月二十七日(木曜日)
    午前九時七分開議
 出席委員
   会長 中山 太郎君
   幹事 杉浦 正健君 幹事 中川 昭一君
   幹事 葉梨 信行君 幹事 平林 鴻三君
   幹事 保岡 興治君 幹事 大出  彰君
   幹事 仙谷 由人君 幹事 古川 元久君
   幹事 赤松 正雄君
      伊藤 公介君    奥野 誠亮君
      倉田 雅年君    小西  理君
      近藤 基彦君    下地 幹郎君
      谷川 和穗君    谷本 龍哉君
      中曽根康弘君    中山 正暉君
      長勢 甚遠君    額賀福志郎君
      野田 聖子君    野田  毅君
      平井 卓也君    福井  照君
      森岡 正宏君    大畠 章宏君
      桑原  豊君    小林 憲司君
      今野  東君    島   聡君
      末松 義規君    中川 正春君
      中野 寛成君    伴野  豊君
      水島 広子君    山内  功君
      太田 昭宏君    斉藤 鉄夫君
      武山百合子君    藤島 正之君
      春名 直章君    山口 富男君
      金子 哲夫君    北川れん子君
      井上 喜一君
    …………………………………
   衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君
    ―――――――――――――
委員の異動
二月六日
 辞任         補欠選任
  井上 喜一君     山谷えり子君
同日
 辞任         補欠選任
  山谷えり子君     井上 喜一君
同月十三日
 辞任         補欠選任
  北川れん子君     山内 惠子君
同日
 辞任         補欠選任
  山内 惠子君     北川れん子君
同月二十七日
 辞任         補欠選任
  山口 泰明君     小西  理君
  首藤 信彦君     山内  功君
同日
 辞任         補欠選任
  小西  理君     山口 泰明君
  山内  功君     首藤 信彦君
    ―――――――――――――
本日の会議に付した案件
 日本国憲法に関する件
 小委員長からの報告聴取

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     ――――◇―――――
中山会長 これより会議を開きます。
 日本国憲法に関する件について調査を進めます。
 本日は、各小委員会において調査されたテーマについて、各小委員長からの報告を聴取し、委員間の討議に付したいと存じます。
 本日の議事の進め方でありますが、小委員会ごとに、まず小委員長の報告を聴取し、その後、そのテーマについて自由討議を行います。
 なお、各テーマごとの自由討議における最初の発言者については、幹事会の協議決定に基づき、会長より指名させていただきます。
 自由討議の際の一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、会長の指名に基づいて、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いいたします。
 御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。御発言が終わりましたら、戻していただくようお願いいたします。
 発言時間の経過につきましては、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせ申し上げます。
    ―――――――――――――
中山会長 それでは、まず象徴天皇制について、最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員長から、去る六日の小委員会の経過の報告を聴取し、その後、自由討議を行います。最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員長保岡興治君。
保岡委員 最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会における調査の経過及びその概要について、御報告申し上げます。
 本小委員会は、二月六日に会議を開き、参考人として、國學院大学講師・東京経済大学講師・元共同通信記者高橋紘君をお呼びし、象徴天皇制について、特に天皇の地位、皇位継承を中心として御意見を聴取いたしました。
 会議における参考人の意見陳述の詳細については小委員会の会議録を御参照いただくこととし、その概要を簡潔に申し上げますと、
 参考人からは、
 まず、皇位の継承について、現在の憲法及び皇室典範の規定では、皇位は男系男子にしか継承できず、このままの状態で推移すれば、将来、皇位継承者はいなくなってしまうことから、皇室典範を改め、女子にも継承できるようにすべきである。その場合、皇統が男系から女系に変わることになるが、皇位は世襲という伝統が変わることはない。また、皇族の女子は結婚により皇籍を離れることになっているが、皇族が余りふえないよう配慮しつつも、結婚に際して皇族女子による宮家創設を認めるべきである。なお、皇位継承権は、男女の別なく長子優先とすべきであるとの意見が述べられました。
 次いで、象徴天皇について、天皇は、古来より象徴としての性格を有していたのであり、明治天皇のような軍服を着た天皇は歴代の中でごくわずかであった、また、現在の天皇は皇太子時代から象徴天皇のあり方を模索しており、その意味において伝統的な天皇の形をつくられ、日本国憲法のもとで即位した初代の象徴天皇と言ってよいとの意見が述べられました。
 なお、政治に対する要請として、
 天皇及び皇族の外国訪問から皇室外交と言われるような政治色を排除してもらいたい、
 国会では本来あるべき象徴天皇についてきちんと論議してもらいたい、
 皇室典範を改正し、皇位の安定を図ってもらいたい、
との意見が述べられました。
 このような参考人の御意見を踏まえて、質疑及び委員間の自由討議が行われ、委員及び参考人の間で活発な意見の交換が行われました。
 そこにおいて表明された意見を小委員長として総括するとすれば、まず、象徴天皇制全般については、天皇が我が国の元首であるか否か、天皇が元首である旨を明記すべきか否か、また、将来的にも天皇制を維持していくべきか否かといった点については見解が分かれるものの、現行の憲法第一章についておおむね維持すべきであるというのが各会派に共通した認識であったように思われます。
 次いで、女性による皇位継承を認めることについては、これを認容する意見が多く見受けられましたが、一方で、慎重に検討すべきであるとの意見もございました。また、女性による皇位継承を認めるとしても、その継承順位について、長子優先とすべきか、男子優先とすべきかについては見解の分かれるところでありました。
 今後は、皇室典範の改正の問題も含め、高橋参考人も言われていたように、ありのままの天皇制についての議論を深めていく必要があるのではないかと感じた次第です。
 以上、御報告申し上げます。
中山会長 これより、象徴天皇制について、特に天皇の地位、皇位継承を中心に自由討議を行います。
 まず、森岡正宏君。
森岡委員 私は、自由民主党の森岡正宏でございます。
 私は、天皇制に関して次の二点を申し述べたいと思います。
 第一は、天皇が我が国の元首であることを憲法に明記するべきであるということであります。
 小委員会の質疑の際にも申し上げましたが、私は、我が国において天皇制が果たしてきた役割は非常に大きかったと評価しております。我が国は、いつの時代も天皇を精神的な中心に置き、世界に誇るべき国柄をつくってきたように思います。また、天皇は、国民の敬愛の対象として非常に立派な務めを果たされてきたと思いますし、みずからは権力を振るうことなく、専らその時々の権力者に権限を与える立場にございました。
 ところが、明治憲法は天皇に権力と権威の両方とも与え、それが結果として強大なリーダーシップを発揮させ、日本の繁栄につながったのでありますが、軍の統帥権まで持たせたことが天皇を政治的に利用する道を開いてしまったことも事実であります。したがって、現行の憲法第一条の「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、」という文言は、私もこのままでいいように思います。
 しかしながら、その一方で、私は、この際はっきりと、天皇は日本を代表する元首であるということを憲法に明記すべきではないかとも考えております。
 先日、高橋参考人は、天皇に関する憲法の条文は基本的に変えなくていい、意識の中で天皇は元首であると思っておればいいのだというようなお話でありました。少なくとも、外国からは天皇は元首としての扱いを受けておられる、にもかかわらず、国内ではあいまいな形になっている状態は不自然であり、日本国を代表するお立場であることを憲法上はっきりさせるべきだというのが私の思いであります。
 第二は、女性による皇位継承につきまして、私はそれ自体を否定するものではありませんが、皇位継承という重大な問題にかんがみれば、その検討は慎重になされるべきだということであります。
 私は、この問題を、ただ単に男女同権の世の中であるからとか、あるいは皇室の構成が現状のまま推移すれば皇位継承権者が途絶えてしまうからということだけで女性にも皇位継承権を認めるべきであると論じるべきではないと考えます。
 また、私は、女性の天皇を容認するということになりますと、その配偶者をどう扱うかということが一番大きな問題ではないかと思います。皇位継承をめぐって皇族内部に確執が生まれるなどのさまざまな問題が生まれてくるのではないか、そのような危惧を持つものであります。
 高橋参考人は、皇室典範を第一子が皇位を継承すると改める案を出しておられました。仮に、第一子が女性だと、女帝が誕生し、女性天皇としての帝王学を身につけられる。ところが、続いて第二子が男性だとすると、女性天皇の配偶者、すなわち義兄との関係がどうなるのか。皇族の内部で皇位をめぐって波風が立つことのないよう、象徴天皇があくまで国民の敬愛の対象であり続けられるよう願うものです。
 したがって、皇位の継承に関しましては、これまで皇位の継承がずっと男系男子に限られてきたという歴史の重みを重く受けとめた上で、女性天皇を認めるべきか否か、認めるとするならば皇位継承の順位や皇族の範囲をどうするのかなど、皇室制度のあり方そのものにかかわる根本的かつ精密な議論が必要と考えます。
 最後になりますが、今後は、天皇制に関しましては、現行の規定を尊重しつつ、天皇が我が国の元首であることを明記することの是非について議論を深めていくべきであるということを重ねて申し上げ、私の発言を終わります。
中山会長 ただいまの森岡君の御発言は、天皇が元首であることを明文化することの是非及び女性による皇位継承の是非とこれに係る諸問題でありました。
 そこで、まず第一の問題、天皇が元首であることを明文化することの是非を中心に御発言をちょうだいしたいと存じます。
 御発言を御希望の方は、名札をお立ていただきたいと思います。
山口(富)委員 会長の方から議事の整理がありましたものですから、私は、もう少しいろいろ発言したかったんですが、とりあえず今提起された問題について考えてみたいと思います。
 私は、憲法規定の問題として、天皇について元首規定を設けるということについては反対です。
 といいますのは、日本国憲法は主権在民の憲法です。元首についての明文規定はありませんけれども、内政でも外交でも、国を代表するとなれば、当然内閣総理大臣がそれに当たるということは明瞭だと思います。
 それから、保岡小委員長の方から報告がありましたけれども、やはり、高橋参考人が述べましたように、主権在民下の初めての象徴天皇なんですね。ですから、一番最後におっしゃられましたありのままの天皇制についての議論を深めていく必要があるというのは、憲法に定められた天皇規定とは何かという点での議論だというふうに私は思うんです。
 その点では、国政に関与しない問題ですとか、国事行為について十項目きちんと定めている問題ですとか、そういうものをきちんと踏まえた天皇制論が必要であるというふうに考えます。
仙谷委員 二点、今の森岡委員の御提起に対しての発言をさせていただきたいと思うんです。
 一つは、元首性の問題でございます。
 日本国の元首を、天皇に対して元首性を与えるという主張でありますが、この場合の元首とは、現在の日本国憲法六条、七条に具体的に定められているいわゆる国事行為のほかに、何らかの権限を与えるということなのかどうなのか。つまり、実質的にどういうことを指しておっしゃっておるのかということを明らかにする必要があるのではないだろうかというふうに私は一つ考えております。
 それからもう一点は、女性の天皇を認めるかどうかということであります。
 今、山口委員の方から、国民主権下の天皇制、主権在民下の天皇制という提起をされたわけでありますが、私もその点ははっきりとより明確にさせた方がいいと思います。大日本帝国憲法下というのは、女性が参政権も認められない、そういう憲法秩序といいましょうか体制であったことは御承知のとおりでございますし、家制度のもとでその他のいろいろな諸権利を女性が認められていなかったこともまた事実であります。そういうところから日本国憲法が制定され、民法で最も劇的な制度改革といいましょうか変革を迫られたのは民法第四編でございますが、要するに、家族法、親族法の世界であったことも明らかであります。
 日本が今、私は、もろもろの事情といいますか、過去からの積み残しの中でこういう閉塞感にあえいでいる相当大きな問題の一つに、日本があくまでも男性中心社会を維持しよう、システムのもとで維持しようというある種の社会意識から含めて、制度に相当の問題があると見ております。これは、少子高齢社会と言われる少子の方の問題は、女性にしかるべく日本の社会の中で位置づけをしないというところに相当大きい問題があると思っておりまして、そういう観点からも、皇位の問題も男性女性変わることないんだということを内外に明らかにする方が、二十一世紀の日本の生きる姿として、あるいは象徴天皇制をもう一遍リフレッシュするものとしてはふさわしい、そういうふうに考えておるところであります。
島委員 中山会長の差配では、いわゆる元首の問題についてですけれども、そちらについて今御発言された森岡さんにお聞きしたいと思います。議院内閣制と元首の関係をどう考えているかということであります。
 御存じのように、議院内閣制というのは、バジョットの憲政論以来から権力と権威というのを分けるということであります。いわゆる権威を持つ者がイギリスでいえば王室、そして日本でいえば天皇であると私は考えます。選挙で選ばれた議院内閣制における首相が権力というものを行使する。権威と権力が分かれているという議院内閣制下における象徴天皇制というのは、非常にこれはいい形ではないのか。したがって、日本国憲法の第一条というのはこのままでも非常にいいんじゃないかと私自身は思っています。
 だから、森岡さんにお聞きしたいのはその一点でありまして、議院内閣制との関係をどう考えておられるのかということをお聞きしたいと思います。
森岡委員 島委員の御質問にお答えをしたいと思います。
 先ほど山口委員からも、国を代表するのは内閣総理大臣でいいじゃないかというお話がございました。しかし、アメリカのクリントン大統領が二期八年お務めになりました間に、日本の総理大臣は七人かわっているわけでございます。また、平成になりましても十三人の総理大臣がかわっております。
 このような方が、確かに権力は持っておりますけれども、日本国を代表する人だ、日本国を代表する資格を持った国家機関だということを対外的に言えるのか。私は、やはり日本国におきましては象徴天皇である、そして対外的に、少なくとも外国からは日本国を代表する人は天皇だと見られているわけでございますから、そういう人が元首だと呼ばれるにふさわしい、そんなふうに思っているわけでございます。
 以上です。
金子(哲)委員 私は、この憲法調査会でも、会長自身からも何度も確認されておりますように、主権在民主義という憲法の極めて基本的な意味というものは失われていないし、また、これは今後にあっても最も大切にされなければならないということが言われております。そういう意味で、この天皇制の第一章第一条にはまさに、主権の存する国民の総意に基づいてこのことが規定をされているということ、天皇象徴制も含めてあるということになっていますから、まず私は、大事なことはやはり、主権在民主義ということについて、主権が国民にあるということを改めて確認しながら、その中の天皇の位置づけというものを、この第一章にうたわれているようなことを考えるべきだというふうに考えております。
 先ほどの討論の中でも、政権の交代とかいろいろなことが言われましたけれども、それはあくまでも国民の意思による、主権者たる国民の意思によって決定をされたことと考えなければならないというふうに考えますから、そのことと元首の問題とは別の次元で考えなければならないというふうに考えております。
 さらに、やはり憲法の今の条文を見ましても、そしてまた現実の政治の世界においても、天皇の政治的利用にかかわる問題については厳しくお互いが戒め、そしてまたそういうことに至らないことをやってきたと思います。それはやはり、明治憲法下における天皇制ということに対する深い反省の中からこのことがうたわれているというふうに私は考えます。
 そうであれば、二十一世紀の時代はむしろ、より天皇を別格に置くことよりも、国民に近づける努力をどうするかということの方が私自身は二十一世紀にとっては重要だというふうに考えておるということを意見申し上げたいと思います。
奥野委員 元首を規定するか規定すべきでないかということについては、いろいろな意見が出ているようでございますから、この制定の経過について私の承知していることをまず最初に申し上げたいと思います。
 マッカーサー元帥が三原則を示してスタッフに憲法原案を書かせた。そのときには、天皇は元首とすると書いてあったのであります。ところが、スタッフがいろいろ考えて、元首と書くと明治憲法と同じように誤解されるというようなことから、知恵を絞って今のような規定になっておるわけでございます。
 同時に、制定の過程におきまして、ソ連というよりも極東委員会と言った方がいいのかもしれませんが、「国民」の上へ「主権の存する」という言葉を入れることを求めたわけでございまして、その要請を受けまして、国会が「主権の存する」という言葉を入れたわけでございました。同時に、当時の政府答弁を見ておりますと、「国民」というのは天皇を含む国民だ、こう答えているようでございます。
 こういう経過から、だれが日本国を代表するのかはっきりしないような姿になっておるわけでございますけれども、海外はみんな、天皇だ、こういうふうに理解して折衝が行われているように私には思えるわけでございます。
 やはり、元首という言葉を使うか使わないかは別といたしまして、内閣総理大臣を任命するのは天皇でございますから、また、外国の使臣を接受するのも天皇でございますから、国民を代表する地位にあるのは天皇だということを明確にした方が私はいいと思いますので、意見としてそれを加えさせていただきます。
中川(昭)委員 今の金子委員の御発言でございますけれども、金子議員が所属しておられる、あるいはその前の流れをくむ政党時代からの年来の、もう数十年にわたる御主張でございまして、国民の一部の方々がそういう御意見を持っていることも事実だろうと思います。ただ、今の御発言というのは、ある意味では、国民に対して間違ったメッセージを与えるのではないかというふうに私は言わなければならないと思っております。
 つまり、主権在民を否定する国会議員あるいは国民は、国民についてはほとんどという言い方をしますけれども、国会議員では私はいないと思います。そのことと、権力の最高保持者である元首、イコール天皇というふうに短絡的に結びつけるのは、私は誤解を招く論法ではないかというふうに思います。
 あくまでも第一条は、「国民の総意に基く。」というのは、基づいている、そしてまた、これは国民によってそういうふうに決められているものであると。したがって、もっと言うならば、国民がそうでない場合に云々ということは、この条文からは私は読みとれない。あくまでもそういう前提でこの憲法が成り立ち、また、天皇陛下が存在するというふうに私は解釈すべきだろうと思います。
 それから、天皇を政治利用してはいけないというのは、私は、いろいろな意味でそのとおりだろうと思います。
 むしろ、天皇イコール元首、だからけしからないという立場の方々の方が、ある意味では天皇を政治利用しているというふうに私は思います。例えば、戦前のことと現在とを結びつけてであるとか、一部の外国あるいは外国人が日本の政治あるいは天皇について批判をすること等を援用して、そして、そのことと天皇の地位あるいはまた政治との関与というものを、誤解を招くような形で、現在の天皇に対しても政治利用をしているというふうに私は判断せざるを得ませんので。
 まさに、現在の天皇制度というのは国民の総意に基づいておりますし、また今後、その地位を、より我々の総意として何をしていただくか、あるいは何をしていただかないかということについて、より明確にするという意味で、私の言葉の定義において、元首という必要性、これは何も最高権力者ではない、国民の総意に基づいて元首としてどういうことをやっていただけるか、いただけないかということをより前向きに考えるべき、議論すべきことだろうというふうに考えております。
 以上です。
平井委員 この憲法の第一章の議論をするときに、やはり前回もお話ししましたが、天皇制は日本の国の文化であり、ナショナルアイデンティティーである。つまり、日本とは何かという、日本という国柄を踏まえた憲法の問題としてとらえるべきだと思っています。その意味において、第一章に象徴天皇制度ということが来ているということは、非常に大きな意味があるのだと思います。
 我々は日常ではなかなか意識していませんが、日本の皇室が、求心力と統合力といいますか、日本人の一つのユニティーみたいなものに与えている影響というのは非常に大きいと私は思います。ただし、そのことは、ふだんなかなか議論もしませんし、気づかない方も多いと思いますが、日本という国を考えた場合に、私はそこは非常に重要なことではないかと思います。
 また、元首の問題については、言葉の定義の問題等もあると思いますが、一方では、日本は世界の中で最大最古の君主国であるという見方も、これは正しいわけでありまして、その意味においては、君主とは国家元首の地位を世襲する者を指すという意味において、天皇陛下は、現行憲法下にあっても、対外的に我が国を代表するとともに、日本国及び日本国民統合の象徴としての国家の尊厳を体現し、かつ、国家統治についても重要な権能を有しておられる元首であるという見方は成立しているのではないかと思います。
 このことは、何よりもほかの国々の方々も認めていることであって、私は、憲法論としては、日本は世界最大最古の君主国であるという自己認識が基礎になった方が、国民の理解は得やすいのではないかと思っています。
 以上です。
谷川委員 憲法は、国権の最高法規であると私は理解をいたします。その憲法の中で象徴であっても、対外関係において、一般的に国を代表する者としての元首として理解される、その地位に天皇がおられるということは、それは解釈として一つも矛盾するものではない。私は、やはり天皇が一般的に国を代表する者としての元首であるというふうに規定した方がよろしい、こう考えております。
 それから、二つ目の問題として、国民主権と民主主義を混同すべきではない。立憲君主制というのは、現在でも恐らく十六カ国ぐらいあるのではないかと思いますが、その立憲君主国においても立派な民主的国家というのは幾つも存在するものであって、民主主義というのは、国権発動の形式の問題だというふうに私は理解をいたします。
 そして最後、明治憲法と今日の憲法との関係で非常に大きな問題は、統治権の総攬者として天皇を位置づけるのか位置づけないのか、そこに大きな問題があるのであって、この問題さえ議論すれば、天皇が元首であるということに対しては、私は一つも気持ちの上で整理がつかないということはございません。
 以上です。
野田(毅)委員 二つ意見を述べたいと思います。
 一つは、権威と権力という問題。この点について、必ずしも最高の政治権力がイコール権威ということではない。そういう意味で、元首というものを政治権力の最高の政治権力者であるという規定をすればいろいろな話が出るかもしれないけれども、今日では、おのずから異なっていると思っています。
 このことについて、外国の認識とそれから日本国内における認識と両面から見ても、今日、既に天皇陛下に対する諸外国の認識は、当然のことながら、最高の政治権力者としての認識ではない。しかし、明らかに元首としての認識ですべてがとり行われていると私は認識をいたしております。そういう意味で、定着しているのではないかということが一つ言えると思います。
 それからもう一つ、国内的に言えば、少なくとも日本の歴史の中で、これは実効上積み重ねられてきた一つの歴史があるわけで、それが日本の独特の我々の誇る文化と歴史と伝統の原点ということでもあると思っております。そういう点で、皇統の重みということも先ほどお話がありましたけれども、カリスマを感ずるか感じないかということの原点は必ずしも権力ではないのであるということを、我々はもう一遍思いをいたすべきではないかと思っています。
 そういう点で、主権在民という言葉が出ている、この主権在民という場合の主権というのは、明らかに政治権力ということを意味していることでありますから、そういう点で、私は、この際はっきりと元首ということを明記する形の中で、憲法問題、改正問題については臨んだ方がいいと考えております。
 以上です。
藤島委員 天皇と元首の問題ですけれども、今までいろいろ議論が出ているわけですけれども、先ほど奥野委員がおっしゃったように、条文がいろいろありますから、それを見れば大体、元首制というのはわかるわけですけれども、やはりこの際はっきり元首はということを明記する方が、すっきりしてわかりやすいんじゃないか、こう思いまして、奥野委員の意見に賛成でございます。
北川委員 私自身は、今、皆様方の御議論を聞かせていただいていて、最高権力者じゃない元首という定義の仕方がわからない。
 それで、元首というのは、先ほどどなたかのお言葉の中に、使うか使わないかは別としてという御発言をされた方もいらっしゃいましたし、元首という言葉の定義が今の議論をされている皆さんの中で一致をしたものではない中で賛成するとかしないとかと言うのもまた難しいという、先ほど島委員が聞かれた御質問に対しても、明確な回答というのを、言葉の定義と法律用語的にどうだというのを今論じることが不可能であるならば、賛成するとかしないとかという言い方をこの場でするのはとても難しいというふうに私は感じています。
葉梨委員 第一条の条文を読みますと、「象徴」という言葉でございまして、象徴というのは、権力は持っていないということだと思います。国民の総意に基づくという存在であって、象徴であるけれども政治権力を持っていないというふうに素直に読み取れると思います。
 そして、逆に、元首という言葉を使ったら天皇には権力がつくのかといえば、そういうことではない。現に、世界各国、王制あるいは大統領制をしいているところを見まして、王制をしいているところでも、元首という地位を持っておられて、しかも政治権力者は大統領であったり、あるいは首相であったりという国がたくさんあるわけでございます。そういう意味では、元首という言葉を使ったから大変なことになるとかおかしなことになるというようなことはないわけでございまして、元首の意味はそういうことだとはっきり解釈すれば、もう何も問題はない。
 私は、そういう意味では、元首という言葉を使ってもよいし使わなくても、この条文から素直にそういう御存在だということは読み取れると思います。
中川(正)委員 まず、先ほどから議論の中に出てくる元首という言葉の定義が、それぞれの思いの中で統一したものにはなっていないんじゃないかなというふうに思います。
 まず、そういう意味で、第四条で規定されている、国事に関する行為のみを天皇は行い、国政に関する機能を有しない。これは正しいことだと思います。これは基本だと思うんですが、それ以外に、先ほどから議論に出ているように、海外から日本を見た場合のいわゆる象徴としての、あるいは国を代表する一つの主体といいますか、やはりそういう意味での天皇というもの、それからもう一つは、国民を統合していく、法治国家として国家権力を行使するものとは違った形の、いわゆる精神的な統一主体としての、いわば我々の文化や心のよりどころとしての天皇、そういうイメージがあると思うんですね。
 それを世界的に考えてみても、さっきのような話を全部統合した形での元首という言葉を使って、例えば大統領制のもとでの大統領というものを定義している国もあるかというふうに思いますし、そうではなくて、日本のように、その二つ、いわゆる法治国家として、国家権力を行使する国会であるとかあるいは総理大臣であるとかというものと天皇とを分けて考えていくような国がある。これは、同じ元首という言葉を使っても、それぞれ世界的にその言葉の使い方が違うんだというふうに思うんですね。
 そういうことを前提にしていくと、素直に、この憲法の中に元首という言葉を使って表現するということが、注意深くならなければならないというふうに思うんです。その定義をはっきりした上で使っていくということ、これが大切なんだろうというふうに思います。
 そういう意味では、現在の第四条で決められているような表現の仕方というのは、これはそのままはっきりとした私たちのこの憲法の中で定める天皇としてのイメージを規定している言葉でありまして、これはこれでいいんじゃないかなというふうに思うんです。
 そういうことを申し上げて、少し我々の議論の中で、この元首という言葉についての再定義をさらに深める議論をしていかなければならないんじゃないかということを提起させていただきたいというふうに思います。
中山会長 時間の関係もございますので、冒頭の森岡君の御発言の第二の問題、女性による皇位継承の是非とこれに係る諸問題も含めて、これから御発言を願いたいと思っております。
島委員 第二の問題である、女性天皇を認めるかどうかということに関しましては、私は、これは賛成であります。
 二〇〇一年五月に雅子様が御懐妊されたときに、私はもう内閣委員会で、この問題について、皇室典範を改正すべきだということを聞きました。憲法は決して男性だけに規定しているわけじゃないということも答弁としていただいております。
 理由は二つあります。
 一つは、世界的な流れでありまして、ノルウェーも、王位は直系かつ男系の嫡出の男子のみに継承という憲法六条があったんです。それが一九九〇年に改正されています。ベルギーも同じように、男子から男子へとなっていたのを一九九三年の憲法改正によって女王誕生への道を開いています。スウェーデンも、一九七九年に王位継承法を改正しまして女子にも王位継承権を可能にしております。そういう世界的な流れがあります。
 大日本帝国憲法と現在の憲法を比べますと、大日本帝国憲法の方には、第二条で「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」と、「男子」という言葉があったわけですが、日本国憲法にはないわけです。ですから、女性天皇陛下が出るということは非常にいいのではないかというふうに私自身は思っています。
 今、大日本帝国憲法の話をしましたので、もう一つ、さっきの元首の話をしますが、元首という言葉が憲法上あらわれているのは大日本帝国憲法第四条であります。「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」とあります。
 大日本帝国憲法で「元首」、先ほど言葉の定義というのが随分ありましたが、憲法上あらわれているのは大日本帝国憲法の元首ですから、これとどう違うのか、あるいは同じなのか、そういうことの議論をしない限り、それに対して賛成か反対かということは言えないというふうに思うわけです。奥野先生おっしゃったことも私も重々承知いたしておりますが、元首の問題につきましては、そういう意味がありますので、言葉の定義をきちんとして、大日本帝国憲法の元首とどう違うのか、それをきちんとしないと賛成とも反対とも言えないので、慎重な議論をすべきであるというふうに思う次第であります。
 以上です。
近藤(基)委員 島委員と、世襲問題、女帝に関しては同意見であります。
 第二条で、皇位は世襲のものである、それ以外は皇室典範で決めるという話でありますので、現段階で、愛子内親王がお生まれになったことは大変喜ばしいことではありますが、男系に限るという話で、現皇室典範上いくと、このままの形では、もう既に現実的には二代後にはなかなか難しい話になってくるのかなと。
 私は、天皇制をずっと続けていただきたいと思っている一人であります。ですから、そういう意味では、憲法論議というよりも皇室論議という話に恐らくなるんだろうと思いますし、森岡委員の危惧されている皇室内での確執、これはやはり法律上きちんと定めをしておけば、そう問題があることではないんだろうと思っております。
 ですから、今の世界的な流れ、あるいは日本の国内の流れを見ても、女帝を頭から否定なさるという国民は少ないんだろうと私は想像をしておりますので、女帝でも一向構わないのかなと。ただ、その決め方が非常に難しいことは森岡委員の指摘なされているところで、一子、二子の問題、あるいは極論で言えば男女の双子が生まれたときとか、いろいろな問題があるんだろうと思いますので、それは憲法論議というよりも法律問題としてこれから議論を深めていくべき問題かな。
 ただ、元首の問題に関しては、前文で既に、国会における代表者を通じて我が国は行動する、そして主権が国民にあることを宣言しているわけであります。その後、その権威は国民に由来し、権力は国民の代表者が行うと。権威と権力をはっきり分けて、そして第一条で、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴ということでありますから、その権威は国民に由来し、そして総意として天皇が誕生なされておるということ、それは権威の部分であり、そして権力は国民の代表者、これがすなわち、内閣ではない、内閣総理大臣、いわゆる国会における代表者を通じ行動するという部分で、議院内閣制と分けて考えてもいいのではないのかなという私の持論であります。
中山会長 時間の関係もございますので、象徴天皇制に関する御発言は、現在名札を立てておられる委員に限らせていただきたいと存じます。
井上(喜)委員 まず、天皇制でありますが、現行憲法の天皇についての規定というのは明治憲法と全く違うわけですね。明治憲法の場合は天皇が元首である、これはもう明らかになっておりますけれども、現行憲法の第一条というのは違う。しかも、この規定というのは大変よくできていると思うのでありまして、歴史的な天皇制、あるいは国民が天皇に持っております感情といいますか考えというようなものを集約して書いているような感じが私はいたします。恐らく、外国の受けとめ方も、この一条に書いてありますようなことで天皇というものを理解していると思うんですね。
 現行憲法では元首の規定がないわけでありまして、そういったことから、元首はだれなのか、天皇なのかあるいは内閣総理大臣なのかといったような議論があるわけでありますけれども、先ほども議論が出ておりましたが、私はやはり、元首という定義をはっきりさせないと、どうも議論が収れんをしていかないんじゃないかと思うんですね。そういうことで、元首なるものの定義といいますか考え方をもう少し掘り下げて議論をしていくべきじゃないのか、こんなふうに思います。
 それから、皇位の継承問題で女帝の話がありますけれども、この種のことというのは余り早過ぎてもいけないし遅過ぎてもいけないのでありまして、こういったところで議論されることはいいかと思うのでありますが、いま一つ私は国民の世論というのがよくわからないんですね。よくわからないといいますか、はっきりしてきていないと思うのでありまして、そういう世論の動向とともに、この憲法調査会で議論を深めていくべきじゃないかというふうに私は思います。今、右にするか左にするか、この議論は結論を出すのにはいささか早いんじゃないかな、こんな感じがいたします。
中山会長 象徴天皇制について、特に天皇の地位、皇位継承を中心としての自由討議は、一応本日は終了させていただきます。
    ―――――――――――――
中山会長 次に、非常事態と憲法について、安全保障及び国際協力等に関する調査小委員長から、去る六日の小委員会の経過の報告を聴取し、その後、自由討議を行います。安全保障及び国際協力等に関する調査小委員長中川昭一君。
中川(昭)委員 安全保障及び国際協力等に関する調査小委員会における調査の経過及び概要について御報告申し上げます。
 二月六日に会議を開き、参考人として、拓殖大学国際開発学部教授森本敏教授及び法政大学法学部教授五十嵐敬喜教授をお呼びし、特にテロ等への対処を中心として、非常事態と憲法について御意見を聴取しました。
 参考人の意見陳述の詳細については小委員会の会議録を参照いただくこととし、その概要を申し上げますと、
 森本参考人からは、
 複雑かつ過激化し、また我が国にも対岸の火事ではなくなっているテロへの対応については、国家主権と国民の生命財産を守る観点からも、各国家機関を統一方針のもとに総合的かつ有機的に運用する必要があり、そのためには、国内法の整備、国家・社会体制の確立及び国民の意識啓蒙等が重要であるとの意見が述べられました。
 特に、国内法の整備については、
 第一に、非常事態における対応や権利義務関係の基本に関する原則的事項を憲法に明記すべきである、
 第二に、非常事態への包括的対応を可能とするため、当面、国家安全保障基本法を制定し、そのもとに、外国からの武力攻撃への対処を定める有事法と、テロ、自然災害等への対処を定める緊急事態対処法を制定すべきである、
 第三に、テロ対応に当たっては、自衛権という従来の形によるのではなく、非常事態に関する法整備を通じた抑止の戦略をとるべきである、
との意見が述べられました。
 五十嵐参考人からは、
 依存型社会である特に都市部で非常事態が発生した場合は、途方もない被害が発生することを直視した上で非常事態について考えるべきであるとの認識のもとに、危機対応に当たっては権限集中とともに事後点検をも重視しつつ、危機対応組織としてアメリカ連邦緊急事態管理庁を、危機管理体制として首相への権限集中と連邦議会によるチェックを規定するドイツ基本法の緊急事態条項を参考にすべきであるとの提案がなされました。
 また、有事に際しては、軍事によることは最低限とし、国連安全保障体制への積極的な関与、外交努力等の有事予防に万全を期すべきであるとの意見が述べられました。
 さらに、包括的な危機管理法の制定や、危機管理への包括的対応を可能とするための関係各機関から成る危機管理庁の設置について提案がありました。
 その後、参考人の意見陳述を踏まえ、質疑及び委員間の自由討議が行われました。
 総括すれば、さまざまな非常事態対応につきましては、その予防措置をも含め、何らかの措置を講ずる必要があるとの認識は各小委員が共有していると思われる一方で、その具体的手段をめぐり、非常事態法制を整備すべきとの見解、前文及び九条の精神から有事を生じさせない努力をすべきであるとの見解も示されました。
 また、国際的枠組みにおけるテロ対策のあり方に対する考え方についても、抑止論の是非、日本の協力参加のあり方等をめぐり、多様な見解が示されました。
 しかし、テロ活動が過激化かつ国際化するなど国際情勢が大きく変化しこれに積極的に対応する必要があること、国民の生命財産を守ることが政治の責務であること等にかんがみれば、引き続き総合的見地から議論を進めることを通じて、早急に合意形成を図る必要があると感じました。
 今後も、これまでの議論や、本小委員会の次回のテーマである自然災害等への対処を中心とした非常事態と憲法に関する議論を踏まえた上で、我が国の安全保障及び国際協力等のあり方について、さらに議論を深めていくことが必要であると考えております。
 以上、御報告を終わります。
中山会長 これより、非常事態と憲法について、特にテロ等への対処を中心に自由討議を行います。
 まず、藤島正之君。
藤島委員 自由党の藤島正之でございます。
 非常事態と憲法の問題でございますが、私は、まず我が国の安全保障について、二十一世紀に人類が起こした悲劇を繰り返さないために、現行憲法第九条の理念を継承すべきだと思います。
 しかし、国家の責務は、国の名誉と国民の生命と財産を守ることであり、そのために必要な体制を整備することが必要であります。実力組織としての自衛隊の権限と機能、内閣総理大臣の指揮権を憲法に明記すべきであると思います。
 そして同時に、二十一世紀においては、旧世紀の戦争観にとらわれない新しい安全保障の概念を創造する必要があります。新世紀において、日本が平和を維持し存続していくためには、国際社会と真の協調を図らなければならない。もはや個別的自衛権や集団的自衛権だけで自国の平和を守ることは不可能であります。そのために、日本は外交努力に全力を尽くし、国連による集団安全保障体制の整備を促進するとともに、国連を中心としたあらゆる活動に積極的に参加すべきであります。このことをまず申し上げておきたいと思います。
 さて、近年は、国家の非常事態として、直接侵略または間接侵略に加えて、複雑かつ過激化しているテロリストによる大規模な攻撃、大規模な災害、また騒乱等が対象とされるようになりました。私は、このような事態の対処について憲法に明記することが適当であろうと考えます。
 このような事態においては、国民の自由と権利について制限が加えられることがあり得ること、その場合、必要最小限でなければならないこと、また、損失があれば補償がなされなければならないこと、国、地方の役割を明確にする必要があること、内閣総理大臣の任務、権限等についても明確にすべきであることなどについて配慮する必要があるからであります。
 以上のような考えのもと、自由党は、非常事態対処基本法が必要であると考えまして、昨年五月に国会に提出したところであります。
 以上で終わります。
下地委員 この問題で、私は、非常事態という定義の中で国民の協力というのをお話しさせていただきました。そのときに、国際協調というのが憲法の中にも書いてありまして、非常に大事な部分でありますけれども、この国際協調というあいまいな基準でなくて、私は、国連という一つの定義をしっかりと書くべきではないか。そして、国連の定義に基づいて私どもは国際協調をしていくというふうなことをやるべきではないかということを私はお話をさせていただきました。
 また、そのときに、日本の安全保障の問題や国際協調という役割は、国民の多くの理解がなければ私は物事は前に進まないというふうに思っておりまして、その一つの基準として国連という、国連中心主義の考え方を持ったやり方をやるべきであるというふうに思っております。
谷川委員 日本国憲法が制定された半世紀前の状態と今日とでは、二つの面でこの問題に関して非常に違った問題が出てき始めたという感じがいたします。
 そういう意味からすると、私は、成文憲法を持つ以上、常にその成文憲法に対しては時代の変化とともに新しい物の考え方を加えていかないと非常にまずいことが起こり得るんじゃなかろうかという形からこの非常事態の問題を考えております。
 現行憲法五十四条には緊急事態というものが出てきておりますが、これはあくまでも、衆議院が解散されたときは参議院も自動的に休会に入る、日本の国は国会がなくなるわけです。そのときに緊急事態が生じた場合どうするかという条項でありまして、そこで決められたものが、選挙を終えて出てきた衆議院によって十日以内に結論が出なかったときにはもうこれは自然的に消滅しちゃうんだという条文になっております。これは、その六条後の憲法六十条が置かれているがためにどうしても必要な条項だと私は思います。
 憲法六十条は、予算の、執行は別として、決定は衆議院を中心にするという考え方ででき上がっている条文であります。したがって、この二つの、五十四条と六十条をあわせて見ると、ここで言われている緊急事態というものは、国のお金をどう使うかという、現在では国のお金というのはこういう事態に対しては予備費を考えておるけれども、それを超えるような状態が起こったときにこの五十四条が非常に大事なのであって、今我々がここで議論しようとしておる非常事態に対する法概念とは全く違うものの上に成り立っていると思います。
 それから、第二点、国と国との間で何か争いがあったときの非常事態。これに対しては、現行憲法が議論されるときには、憲法は国権の最高法規だけれども、占領下において議論されたのであって、占領というのは国家主権の制限の期間ですから、もし日本の国が何かの形で非常にまずい状態になった場合、日本の国の危機、非常事態に対して担当するのはだれか。当然、それは日本の国を占領する最高機関である占領軍最高司令官の責任であって、したがって、恐らくあの議論がなされたときにはそういう状態で、非常事態を議論する必要はなかったということだったんだろうと思うんです。
 幸いにして、その後五十年そういうことを考える必要がないような、ある意味で平和な中に我々は生活してきましたが、もう一つの問題として、五十年たって変わってきたことは、国家権力と国家権力の衝突ではなくて、ある政治的な意図を持った者が社会的に何らかの形で自分らの政治意思を通そうとして起こす騒動、これからの非常事態というのは、多分にその問題が起こってくるんだろうと思うんですよ。その最大のものがテロル、テロリズムの主張だと思うんです。
 これに対してどう対応すればいいのか。当然、最大の問題は、そういう事態が起こったときの国民の財産権の制限その他はどうあるべきかということは、やはり憲法に明記されていた方がいい。先ほど中川小委員長から懇切丁寧に参考人の議論を紹介していただきましたが、お二人の参考人の議論の中の大半は、立法技術の問題での御発言だったと思います。
 私は、やはり憲法の中に非常事態というものは明記しておくべきだ、そういう時代になった、こう判断をいたしております。
奥野委員 私は、今国際社会に大事なことは、テロ行為の起こらないような社会にしていく、大量破壊兵器が廃棄されるような社会にしていく、この二つが非常に重要なことだ、こう思っております。
 日本における議論を見ていますと、国際連合が平和維持活動をやる、その平和維持活動に日本が参加する場合でも、武器の使用の状態が起こるようなことには参加したくないというような意見がしばしば見受けられておりますので、この議題になっていないのかもしれませんけれども、日本の安全保障に関して、あの憲法制定の経過とそれから当時の国際社会における日本の地位、この二つをちょっと参考に私にしゃべらせていただきたいな、こう思うわけでございます。
 マッカーサー元帥がスタッフに日本国憲法の原案をつくらせましたときには、陸海空軍いかなる戦力の保持も許されない、みずからの安全を守るための戦争も許されない、こう書いているんですよ。みずからの安全を守るための戦争も許されないと。まさに憲法はそれに従って書いている、こう思います。
 同時に、国際連合が生まれましたときには、やはり侵略戦争を防止するためにはみずからが戦力を持たなければそれを達成することができない、戦力を持つ建前で国際連合規約ができたと思いますけれども、いまだにそれはでき上がっていないわけでございます。その過程で生まれてきたのが平和維持活動でございます。日本では、この平和維持活動に参加することもしばしばためらいがちな議論があるわけでございます。
 当時のアメリカの力というものは、経済力は世界の半分以上を一国で持っておりました。また、戦火を受けていないのはアメリカ本土ぐらいなものでございまして、アメリカ一国で全世界を相手に戦っても、アメリカは勝ったと思います。当時の日本はまだ、戦火を受けまして、バラックの建物がようやくできかけたような状態でございますから、私は、恐らく当時の日本の経済力は世界の総生産の一、二%だったんじゃないかと思います。戦力は全くありません。完全な武装解除をされたわけでございますし、戦力につながるようなものは全部廃棄させられたわけでございまして、民間といえども飛行機は一機とも持たせない、また同時に、大学の航空学科も廃止、航空学科の学生はほかへ回されたわけでございました。
 そういう状態と今を見ますと、自衛隊も相当な力になっているわけでございます。同時にまた、世界第二の経済大国になっているわけでございます。日本なんてどうでもよいわというようなアメリカの気持ちがあったかもしれませんけれども、今は、日本の協力を求めて世界の問題に対処しなければならないというようなアメリカの立場に変わっておりますし、日本も、国際社会に貢献する、協力する責任が非常に大きくなっているわけでございますから、テロの問題を考えるにいたしましても何にしましても、今のままでは本当に責任を果たせない、日本の国の名誉を守っていけないような状態になっていることだけを申し上げておきたいと思います。
 九条の問題は、私は、「国際紛争を解決する手段としては、」と書いてあるわけでございますから、侵略戦争のための規定だ、こう読めば、ある程度の戦力を持てるんだ、こう思います。
 そういう経過だけは理解した上で議論を進めていきませんと空回りをする議論になってしまうおそれがありますので、御参考に申し上げさせていただきます。
島委員 現行憲法は、私の目から見て、二つ、安全保障の観点から足らないと思います。
 一つは、非常事態時における国、政府、国民の状況ということをほとんど想定していません。それはよく言われる話であります。だから、非常事態法について議論する、これは私も賛成であります。
 もう一つは、いわゆるテロ、新しい戦争と私は定義しますけれども、テロという新しい戦争を想定していない憲法だと思うんですよ。例えば第九条でも、「国権の発動たる戦争」という言葉があります。これは、テロ組織が戦争のようなことをすることを想定していないというふうに思います。それに対して、きちんと議論が今なされていません。
 テロ対策特別措置法のときに、私も小泉首相の憲法論を聞いていました。小泉首相は、所信表明演説だったと思いますが、国際協調行動への根拠を憲法前文に求めました。覚えていらっしゃると思いますけれども。つまり、きちんと議論して、あのとき私も民主党として突っ込んでいけば、十分これは憲法論議だけで大きなことがあったんですが、非常に大きな観点から、私はあそこで憲法論議をやりませんでした。
 それで、この憲法調査会では、今までの九条論議、もうこれはある程度大きな方向性が出ていると思います。今までの九条論議というのは自衛隊がどうのこうのという論議でありますが、新しい戦争に対する、あるいは新しい国際社会、テロ組織に対する戦争に対して、この憲法というのは本当に想定していなかったと私は思います。無理やり読めば読めるという話でありますが、そこをきちんと調査して、ここが足らないということを提起するというのは、これは憲法調査会の大きな責務だと私は思います。
 その上で議論を進めていく。非常事態における体制を全然想定していなかったということは当然でありまして、それを超えて、現下の新しい戦争に対する体制というものを想定していない時代につくられた憲法ですから、そこは足らない、こういうふうにすべきだということをぜひとも憲法調査会の安全保障に関する小委員会でも議論をしていっていただきたいと思う次第であります。
伴野委員 民主党の伴野でございます。
 非常事態と憲法、この観点から私なりの意見を申し述べさせていただきたいと思います。
 その観点と申しますのは、目的と手段という観点から申し述べさせていただければと思うわけでございますが、テロ等、テロ事態において、国家として、国民の生命や財産を守るということ以上の目的というものは、私はないと思います。
 そういった上で、憲法すらその目的の前に手段であると思います。その目的を達成するために、脅威というものが時代とともに変化しているならば、手段である憲法も変えることを規定していなければ、最大の目的である国民の生命と財産を守ることすらできない。これができなければ、国政を預かる政治家としては、大目的を果たしていないと言われても仕方がないと思っております。今、脅威が非常に喫緊の課題としてあるこの時期において、私は、前広に国民に問いかけて、この問題に勇気を持って対応することが、国政を預かる政治家として喫緊であり、最大の責務であると思っております。
 以上です。
金子(哲)委員 きょうのテーマ、例えばテロということが定義づけされておりますけれども、往々にして、この非常事態の論議のときに、テロの問題、そしてまた戦争の問題、何を非常事態として考えるかというところがあいまいなままにいつも進むというふうに私自身は考えております。
 まず、テロの定義については、島委員からは新しい戦争という定義が出されておりますけれども、私どもは、テロはあくまでも国際犯罪な行為だというところから出発しなければならないと考えております。したがって、テロに対しては、やはり犯罪としてどう対処するかということにまず置かなければいけない。例えば国際刑事裁判所の問題もありますし、そういったものを確立していくということも重要だというふうに思います。
 しかし、不幸にしてテロが発生することは、では未然にすべてが防げるかといえば、そうでない場合もありますから、そのときにどのように対処をするのかという問題は、これは国民の安全を守るということで考えなければならないし、それに対処しなければならないと思います。
 それは、犯罪として考えれば、警察権力を含めた問題としてどのように対処するかということを考えなければならないし、さらに、九・一一以降の世界の全体の状況を見てみましても、このテロの問題というのは、基本的にはやはり、憲法の前文にもうたわれておりますように、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努める国際社会において名誉ある地位を占めるという、今、例えば貧困、経済的格差の問題、この根本的な問題の解決に私ども日本はもっと積極的にかかわるということなくして、また世界がそのような努力をすることなくして、テロの根絶ということはあり得ない、軍事力によってすべてテロを抹殺しようとしても、根本的な経済的な問題の解決がない限りテロを防ぐことはできないというふうに私は考えております。
 そういうことから考えれば、日本の国内に不幸にしてテロが起きた事態に対してどう対処するかという問題、これは想定をしながら考えなきゃいけないと思いますけれども、同時に、日本がもっと積極的な役割として果たすべき課題は、憲法の精神、前文の精神に基づいて、小泉首相流の憲法前文の解釈もありましょうけれども、しかし問題は、世界のそういうことが発生をしていく根源というものに対して、どのようにやはり対処をし、努力をしていくのか。
 その意味で、私は、もっと積極的な国際協調の関係というものを、南北間の格差を含めたそういう問題解消のための日本の役割ということをもっと考えるべきだ、そのことを通じてしかテロ問題の根本的な解決はあり得ない、このように考えております。
 以上です。
春名委員 日本共産党の春名直章です。二点ほど申し上げたいと思います。
 やはり、国民の命や安全、生命を守ることは、政治の務めであるし、根本問題だと思うんですね。ただ、非常事態ということで漠然とした話にしないで、やはり実態に即してそのことをどう達成するかということが大事だと思います。
 国の安全保障ということでいいますと、今、やはり国連の平和の秩序、このルールをいかに守るか。イラクの戦争との関係でも今大きな問題になっていますよね。そういうルール、国際的なルール、この問題がありますし、それから軍事同盟をどうするのかという問題もありますし、大量破壊兵器ということが問題になっていますが、核兵器そのものの廃絶ということでのイニシアチブの問題だとか、そういうことが大きく問われる、平和外交をどう進めるのかということが問われるわけですよね。
 それから、テロの問題、今議論になっていますけれども、例えば、九・一一の教訓を踏まえて、国際刑事裁判所ですか、ことしの九月に、九十カ国ぐらいが今批准していると思いますが、つくられていくということになっていますが、日本はもっと積極的にそういう問題にもかかわっていくことが大事で、警察力、司法の力、こういうことをどうルール化し、強化するのか、同時に、その温床を根絶するという真剣な努力、こういうことをトータルにやはり考えていかなきゃいけないと思うんですね。
 それから、災害という問題でいいますと、やはり阪神大震災の教訓を踏まえて、消防力の抜本的な強化、学校の耐震性を強化する問題だとか、消防力基準以下の消防の職員を充足させる問題だとか、広域な消防行政だとか、観測体制だとか、そういう問題が議論になってくる。そういうふうに一つ一つ具体的な問題だと思うんですね。
 そして私、最後に、二点目に言いたいのは、それはやはり憲法の要請だと思います。
 先ほどの議論の中で、国家の緊急権、非常事態権というのが明記されていないから明記すべきだという御意見もありますけれども、御存じのとおり、これは長い議論があると思うんです。
 憲法学界の中でも、肯定派と否定派といいますか、説というのがありますけれども、多数は、国家緊急権というのは積極的に否定して、国家にそういうものを与えることを国民は授権しなかった、与えることをしなかった。逆に、憲法九条や前文の精神に沿ってしっかりと国民の安全を守っていくという点で、戦力放棄、戦力不保持の条項の存在によって、国家緊急権によって対抗しなければならない国家緊急事態、それ自体を否定するとともに、裏を返せば、そういう状態を回避するための努力をやはり命じている、そして何らかの緊急事態が発生するとしても、国家緊急権以外の手段で対処する。こういう認識をたくさんの憲法学者の方が持っているし、そういう努力をやろうということを呼びかけている。そういう中身が一番目に言ったような中身だと私は思いますので、そういう具体的な話が大事なのじゃないかなと私は認識をしております。
大出委員 テロと非常事態の問題ですが、対処という場合に、まず、やはり根本的な部分を抜きにして考えてはだめだと思うんですね。テロの原因の中に貧困や差別や抑圧というのがやはりあるということと同時に、アメリカのユニラテラリズムということも原因は当然しているわけでございまして、そういうのをやはり考えていくべきなのではないかと思うんですね。そして、アメリカと同盟国であるならば、アメリカが酔っぱらっているんだとすれば、おい、余り酔っぱらって先走るんじゃないというふうになだめるのがやはり同盟国の友人としての務めであろうと思うわけなんです。
 そして、テロのことで申し上げれば、ある程度というかかなりの部分がこの間、改正もされましたので、テロに対する法律的な整備としては整っているだろうと思います。
 ただし、問題点としては、大体挙がっているんですね。この問題点は、私はすべて変えることに肯定しているわけではございませんけれども、例えば、自衛隊の行動は警察や海上保安庁が独力で対応できない場合だけに限定されているとか、武器使用の要件が厳し過ぎるだとか、交戦規則が不存在だとか、情報収集・伝達能力の不足だとか、るるありまして、例えば最近よく言われているのは、海上警備行動では排他的経済水域における危害射撃が禁じられているではないかとか、あるいは不審船を取り締まる根拠法令が漁業法しかないではないかとるる言われてきたことがあって、これをいかにするか、賛成、反対が当然ありながらの話ですが。このテロの問題に関しては、そういうふうにある程度日本の法整備ではできていて、それでどうするかというふうに考えるべきだと思うんです。
 こういうものを考えるときに一番やはり問題なのは、私は、憲法が価値として一番重要だと思っているところの個人の尊重、十三条ですが、個人主義だと思っているんですね。というのは、一人一人の人間がかけがえのない個人として最大の尊重を必要とするんだというのが日本国憲法の一番の価値観なわけですね。国家でもない、個人なんですね。その部分を基本に、やはりあらゆる問題を考えたときに考えていかなければいけないと思うんです。
 そうでないと、国家という名のもとに、こういう場合は基本的人権を制限しても構いませんとすぐ言い始めるんですね。ところが、個々人の、一人一人の個人が大切なんだという価値観ででき上がっている憲法でございますので、その部分を無視して、高度の公共の福祉ならいいんだという理屈にはならないと思うんですね。公共の福祉と使うときには、個人と個人の権利がぶつかったときに調整するのが公共の福祉でありまして、それを超えたところの、確かに国家だとか国民の生命だ財産だ、こう言うんですが、これは個々人のじゃないんです。抽象的で、中には、おまえは国民の中の一人です、おまえの生命は守ってやるよと言ったときに嫌だよと言っていいことになっているわけですから。
 ですから、どんなに有事のときであっても、逆に個々の国民を信頼していただいて、ちゃんと発言ができたり、反対をしたりとかすることができることが今の日本の憲法の一番の重要なところだと思うんですよね。それを変えてしまうような方向でやるのは間違っているだろうというのが一つでございます。
 そしてまた、地方公共団体との関係も、住民自治と団体自治があって、団体自治というのは国家からの自由というきっかけででき上がっているのでありますし、住民自治の方は民主主義の契機ででき上がっているわけですが、この部分を法律をもって変えてはならない、法律でも変えられない部分なんです。
 ところが、一言だけ言いますが、有事法制などの場合には、首相の指示だとか執行権だとか代理権だとか、余りにも地方自治を飛び越えている発想が出てきてしまいますので、それはやはりやめていただきたい、そういうふうに思っているところでございます。
 以上です。
今野委員 私も、非常事態、テロ等は、起こらないための、起こさないための最大の努力を国際間で協調してしなければならないと思っております。しかし、これだけ多様化している世界、社会でありますから、そうであっても非常事態は起こり得るのだということは想定できます。非常事態が起こるということを前提に考えれば、安全保障に対する法整備はしておく必要があるというふうにも思います。
 しかし、私たちは現憲法の範囲の中で整備された幾つもの法律を持っておりまして、テロやあるいは災害といった非常事態が起きた場合に、その整備されている法律の中のどこが使えるのかということを作業としてしなければならないのではないかと思います。今のこの有事法制等の場合、あたかも全くないかのような議論の前提の上に立っているような気がいたします。そうではなくて、私たちが持っている法律の中でどこがどのように対処できるのか、それらを整備してみる、取り出してみる作業も実は必要なのではないか。そして、その結果、足りない部分はどういうところなのかというのを議論していかなければならないのではないかと思います。
 非常事態に対処をする場合、余りにも内閣総理大臣に権限が集中するようなことでは、これは逆に危険な対処方法になってしまうということもあり得るわけでありまして、これは強い国会の関与が必要であると思います。こうした非常事態に対処する、その方策を始める場合にも、またやめる場合にも、強い国会の関与が必要であるというふうに考えております。
 以上でございます。
赤松(正)委員 公明党の赤松正雄です。
 先般、先ほど中川小委員長から御報告があった小委員会でも、若干関連して発言をさせていただいたことでありますけれども、私は、憲法第九条というものの位置づけと、それから昨今のいわゆる国際テロ活動に対して日本の行動がいかにあるべきかという問題は、明確に分けて考えた方がいいのではないかと思います。
 九条については、先ほど大先輩の奥野誠亮議員からもお話がありましたけれども、私は、九条第二項については、日本国国家としてのいわゆる個別的自衛権を放棄したものではないと。したがって、わかりづらさというか、現状の日本という国の安全ということを考えた場合における自衛隊の存在というものについて、いささかのわかりづらさはあるものの、あえてそのままにしておくということもいいのではないか。
 そうして、その上で、一方、先ほど来お話が出ているような、国際の安全を脅かすようなさまざまなる行為があった場合、とりわけ昨今は国際テロというものが強く意識されるわけですけれども、それに対して、国際テロを撲滅するための、国家を乗り越えた警察行為としての、諸国家の連合的な、そういうものを鎮圧するグループというものを、条約、同盟、そういったものを基礎にしてつくる。そこに日本の自衛隊を参画させるときにおける行動というのは、国家としての武力行使というものにつながるわけではないわけでありますから、そこにおける自衛隊のさまざまな武器の使用というものは、旧来的に、いろいろ自制的な角度から、憲法の九条の読み取り方から出てくる、そういう武力行使と一体化する武器の使用というふうな議論を卒業することができるのではないか、そういったことを一つ考えます。
 さらに、それと敷衍した形で、現在ある国連平和維持活動、PKO活動についても、旧来的によく議論される武器の使用と武力行使の一体化というものとの連係というか、そこの延長線上に同じグループとしてとらえる考え方というのは、今や乗り越えていかなければいけない、そういった方途をしっかり私たちが議論していかなくちゃいけないんじゃないのか、そういうふうなことと憲法九条の問題を分けて考えることはできるんじゃないか、そんなふうなことを考えております。
 以上です。
井上(喜)委員 安全保障の問題、それから国際協力でありますけれども、私、ちょっと席を外しておりましたけれども、赤松議員と同じような意見が多かったんじゃないかと思うんです。
 安全保障の規定を整備するというのは、国家としては当たり前のことだと思います。特に、憲法というのは国の基本法でありますから、国民の生命財産を守るために安全保障の体制を整備する必要がある、これはもう言をまたないわけでありまして、そのための根拠法を、根拠規定を憲法の中に置くということは不可欠だと思います。今の九条で本当に十分なのかどうか、もう少し規定を整備する、思想は大変いいものがあると私は思いますけれども、もう少し、規定としてはきちんと真っ正面から整備をしていく、こういうことが必要だと思います。
 それからまた、国際協力につきましても、一定の場合、やはり国際協力をしていく必要がありますので、そういったことも今以上にできるような規定を憲法に置くべきじゃないか、こんなふうに思います。
 それと、この安全保障に関連いたしましては、安全保障を実施するといいますか、担保をする組織、行政組織、責任者、こういったものの権限、組織をどうするか。責任者、内閣総理大臣が責任を持つということになると思いますけれども、その組織、それから権限、いろいろな場合があると思います。地方自治体に対する指揮命令権限でありますとか、あるいは一定の場合、基本的人権を制約する場合もあると思うのでありまして、そういった規定、あわせてこの安全保障に関連した規定として置くべきじゃないか、こんなふうに思います。
 以上です。
中山会長 時間の関係もございますので、非常事態と憲法に関する御発言を御希望の委員は、速やかに名札を立てられるようにお願いをいたします。御発言は、名札を立てられた委員までといたしたいと存じます。
小林(憲)委員 先ほど来、皆様お話ししております、テロは戦争であるかどうか。これはまさしく、セプテンバーイレブンスが起こりましてすぐにブッシュ大統領が声明を出したわけです、テロは戦争だと。これが出た途端に、私は思うのですが、いろいろな議論ではなくて、日本はアメリカとは日米安保条約、そしてアメリカのベースが実際日本にある以上は、テロは戦争だとなった以上は、日本には何の示唆もないわけです。ですから、テロ自体は犯罪であるという見識だったとしても、テロは戦争だと。今回、そういうことがあったんだ、これは戦争だというふうにアメリカは定義するんだと大統領が言った以上は、これはそういう解釈で進んでいくのではないかなと私は思いました。
 そしてまた、アメリカは今まで自国における、自国内の攻撃というものを受けていないわけですから、初めてこれでホームランドセキュリティーという言葉が出て、それを強化するための軍事的な動きがあったと聞いております。
 ですから、この安全保障と憲法の問題になりますと何か小手先の議論が多くて、先日の北朝鮮による、ミサイルではないのだという定義でありますが、何か飛んできたときに情報がある程度いろいろなところに行き渡らなかった。情報をいろいろなところで上げるということは大切なことでありますし、情報が行き渡ることも大切です。
 しかし、情報、情報と言っても、その情報によって何が今この日本の国にできるんでしょうか。もしこれが、例えばマスコミなども、何か間違った映像で、全然違うものが飛んでくる。前のテポドンですか、あの映像を流しているところもあったり、いろいろな意味で何か慌てているような印象を海外に出すことこそが一番いけないことであって、それは、今井上委員の方からおっしゃられたように、各組織、そして各命令系統、そして情報系統が、それぞれ把握をしてきちんとしていれば、ミサイルでないものが飛んできているわけですから慌てることも何もないですし、何のコメントも出す必要もない部分もあるわけであります。
 ですから、そうしますと、防衛庁がいつまでもエージェントであるということがまずだめじゃないか、国防省になるべきじゃないかとか、組織的な情報はどこでどういうふうに責任をとって、そこが責任を持っていればここでは声明は出す必要はないとか、そういうすべてのことに関して国家として当たらなければいけない。それが憲法のもとに行われなければいけないので、やはりこの安全保障の問題を語るときには、抜本的な、すべて憲法上のことをきちんと国民として未来に考えるような、そんな議論がなされなければならないと私は思っております。
 ですから、今国際情勢の中で日本がどのように対応をするのか、前のような、湾岸戦争のようなことがあってはならないとか、いろいろな議論がある中で、根本的に、情報、情報と言って情報をすべてとればいいのか、情報をすべて流せばいいのか、国家として今後の大事な問題です。
 先ほど安全保障委員会の方に私出ておりましたら、先輩議員の方から、金容淳さんとの会談の様子をいろいろ聞きました。しかし、八分でミサイルが飛んでくるところに我が国がいて、そして迎撃できないできる、そんな状態のところでこの小手先の議論があってはならないと私は強く思いました。
 以上です。
中山会長 時間の関係もございますので、名札を立てておられる四委員の方は簡潔に御意見をお述べいただきます。
杉浦委員 簡潔に申し上げます。
 私は、現在の憲法においては、島委員はテロ等の対処で欠落しているというお話がございましたが、国連憲章のもとにおける安全保障措置、その他の国連の場における国際協力についての部分が全く欠落していると思うわけでございます。
 今イラクに対する国連の決議のもとにおける武力行使が問題になっておりますが、ヨーロッパの議論を聞いておりますと、議員の人たちは、決定そのものが若者を戦場に送る、イラクへ送るという前提で、極めて真剣な議論をいたしております。
 日本は国是として自衛隊は武力行使の場には派遣しない、はっきりしておりますから、総理も明言しておりますし、イラクについて国連が武力公使を決議しても自衛隊は派遣しない、これははっきりしておりますから、国内の議論も私どもの議論も非常に気迫に欠けるわけであります。
 これは、日本の国のあり方と非常にかかわることでございまして、国連のもとにおける集団安全保障、国際協力、こういった問題について新たな憲法は明確な規定を置くべきである、広範な国民的議論が必要であると私は思っております。
谷本委員 簡潔に述べたいと思います。
 非常事態と憲法ということで、基本的に、人がつくったものに完璧なもの、完全なものというのは存在しない、これは当然のことで、基本法たる憲法というのも例外ではないと思います。その中で、非常事態あるいは新しい形のテロというものの規定が、明確なものがないのは明瞭であります。そういう中で、この人権の制限の可能性がある分野について、これを解釈とか読み方という形でやっていくというのは、逆に非常に危険ではないかというふうに考えております。
 当然、テロあるいは非常事態という事態を避けるための最大限の努力、原因やそういうものを追求することは大切ではありますけれども、どういう理由であれ、一度非常事態あるいはテロという状況が起これば、国民の生命財産を守らなければならないのは当然でございます。
 そういう観点から、しっかりと議論を尽くして、解釈論でいくのではなくて、明確な規定をつくることが国会議員の責務であると考えております。
 以上です。
野田(毅)委員 二つ申し上げたいと思います。
 一つは、もう既にいろいろな方面から何度も指摘されておりますから、くどくど申しませんが、制定経過ということもあって、少なくとも、日本が無条件降伏をして、それだけじゃなくて、武装解除させられたという状況下において憲法がつくられている。したがって、日本の国の安全に関して自己管理をしてはならないという前提で憲法がつくられているということをやはり思い起こすべきである。したがって、いろいろ後から解釈をして、生存本能、自衛権だけは何人も否定できないとかいろいろあるけれども、正面からきちんとそのことは、当然のことであって、規定すべきは規定すると。本来、二十七年の四月二十八日に独立を回復したならば、その時点できちんとしておくべきです。
 そういう意味で、今日の憲法体系は正常な国家としての憲法体系になっていない。自立と自己管理を否定しているということだけは、私は、きちんとした形をつくるべきである。これが第一点です。
 第二点は、危機管理体制は、その結果、全体的に、日本の国際的な問題だけでなくて、国内における治安体制においても自己管理をきちんとできる形になっていない。本来、危機管理法制というのは当然のことながら私権制限を伴うものであって、私権制限を伴わない危機管理法制というのはあり得ない。したがって、やはり、そういうきちんとしたテロ対策なりいろいろなことをやろうとするならば、そういった意味でもこれは、憲法九条ということとは別途の問題として、危機管理、非常時における体制というものを確立しておくということが必要だと思います。
 それに連動して、いざ非常時ということさえあれば大丈夫かというと、そうではないので、もう一点言うならば、平時における未然の危機防止体制というものを別途必要とする。これは、スパイ防止の問題であったり、あるいは諜報活動等々の問題であったり、正常な国であれば、当然そういったことがトータルとしてできるはずだ。特に、日本の軍事力を使っていろいろなことを展開しようということを否定しようとすれば、なおさらのこと、その分野というのは非常に大事だというふうに思いますが、これも場合によっては私権の問題と抵触することも今日の憲法下ではあり得ると思いますので、そういった角度から、ぜひ正常な国の形をつくっておきたいというふうに思います。
 以上です。
仙谷委員 有事あるいはテロ等々、いろいろな言葉が語られるわけですが、その規模の大小にもよるんでしょうし、その語られる非常事態あるいは緊急事態の中身というのは、必ずしもイメージが一定しない。この議論をするときには、私は、すぐれてある種のイメージの共有化を図る、それから、この問題はすぐれて憲法的な問題であるということを確認して行わなければならないと思います。
 つまり、憲法論議を避けて非常事態の問題あるいは有事の問題を議論するということは、どうしてもいびつな形になる。野田委員も指摘されておるようでありますけれども、基本的には危機管理にとどまるといいましょうか、つまり、いわゆる有事というふうな大事態でない場合においても国民の権利義務と明確に衝突する場合が出てこざるを得ない。あるいは先ほども指摘がございましたけれども、国とは異なるもう一つの行政主体である自治体というんでしょうか、地方公共団体の諸権限とも明確に衝突する。そして、一元的に事を緊急に処理しなければならないというのがまさに緊急事態とか非常事態でありますから、この点は、憲法上の議論をした上で、憲法上の規定として記載をすべきだと私は思います。
 そのときに私は、いわゆる基本的人権の規定の中で、現在の日本国憲法でいいますと十八条、十九条あるいは二十条、二十一条、あるいは二十三条、その他三十一条以下の人身の自由の規定というのは、原則としてというよりも徹底的に保障されなければならない。それが、現代的な危機管理とか、有事下における一元的な行政の行為というのがあっても許されるということではないだろうか、そういうふうに考えているところでございます。
中山会長 非常事態と憲法について、特にテロ等への対処を中心としての自由討議を一たん終了いたします。
    ―――――――――――――
中山会長 次に、地方自治について、統治機構のあり方に関する調査小委員長から、去る十三日の小委員会の経過の報告を聴取し、その後、自由討議を行います。統治機構のあり方に関する調査小委員長杉浦正健君。
杉浦委員 小委員長を仰せつかりました杉浦でございます。
 統治機構のあり方に関する調査小委員会における調査の経過及びその概要について御報告申し上げます。
 本小委員会は、二月十三日に会議を開きまして、参考人として、岩手県知事増田寛也君をお呼びし、地方自治、特に道州制、都道府県合併について御意見を聴取いたしました。
 会議における参考人の意見陳述の詳細は小委員会の会議録を御参照いただきたいと思いますが、非常に有意義なものでございました。その概要を簡潔に申し上げますと、
 増田寛也君からは、
 まず、これまでの青森県、岩手県、秋田県の北東北三県による観光、環境、産業廃棄物等の分野における広域連携の実績につきまして御説明がございました。
 その後、
 一、自己決定、自己責任という地方自治の基本的な考え方を貫徹するため、行政は優先的に住民に最も身近な市町村が行い、市町村ができないことは都道府県が、都道府県ができないことは国が補完するという補完性の原理に基づき、経済的自立を確立するとともに、国、地方の役割分担の大幅な見直しを図るべきであり、都道府県は、小規模自治体の支援、市町村と中央の連絡調整、広域的課題への対応等を行う機能が重視されることとなる、
 二、社会経済情勢の変化を背景に、国家的課題として広域自治体の制度を構築する必要があり、現場の意見を十分に踏まえた上で、一国多制度の発想と住民との協働という観点から制度設計を行うべきである。また経済的自立、県間の機能分担、国から地方への権限、財源、人材の一括移譲等を図ることが重要である、
 三、道州制や都道府県合併については、全国一律ではなく、多様な選択肢が示された上で、これを地方が選べるようにすべきであり、現行憲法の範囲内でもとり得る手段は多い、
という御意見が述べられました。
 このような参考人の御意見を踏まえまして、質疑及び委員間の自由討議が行われ、委員及び参考人の間で活発な意見の交換が行われました。
 道州制や都道府県合併と憲法との関係、市町村合併、基礎的自治体のあり方、地方の自主財源確保等についてさまざまな意見が述べられました。
 会議を通じての小委員長としての感想を申し上げますと、憲法において制度的に保障されている地方自治を今後さらに充実させるためには、現在進められている地方分権改革を一層推進する必要性を改めて感じました。そのためには、地方分権の名にふさわしい税財源の確保、配分、地方分権の担い手である市町村及び都道府県の改革が不可欠であり、そのような観点から、道州制の導入を含め自治体の広域化を検討する必要があると改めて痛感いたしました。それによりまして、現在国の喫緊の課題でございます国、地方を通じての、行政組織をスリムにし、行政経費の大幅な節減も可能になると考える次第でございます。
 実は、私は、自由民主党の有志で結成しております道州制を実現する会、約百人参加しておりますが、その会の幹事長を仰せつかりまして、市町村合併そして道州制の導入によって日本の姿形を変えることが二十一世紀の日本にふさわしいということで、いろいろ検討もし提言もいたしているところでございます。そういう意味でも、増田知事のお話は大変有益に感じました。
 行政経費の大幅な節減でございますが、私どもの実現する会の試案による試算によりますと、国、地方を通じまして、少なくとも十兆円の節約が可能だという試算ができております。民主党も御検討なさっておられますが、民主党の案ですと、国、地方を通じて三十兆節約が可能だという数字が出ております。いずれにいたしましても、十兆から三十兆円ぐらいの節約になるものと思っております。
 次回の小委員会におきましては小規模自治体の実態をテーマとしておりますが、市町村合併の進展等を踏まえながら、市町村、都道府県のあり方、さらには今後の国の統治機構のあり方について議論を深めてまいりたいと考えております。
 以上、御報告申し上げます。
中山会長 これより、地方自治、特に道州制、都道府県合併について自由討議を行います。
 まず、斉藤鉄夫君。
斉藤(鉄)委員 公明党の斉藤鉄夫です。まず私の方から発言をさせていただきます。
 先ほど小委員長から御報告がありましたように、先日、増田寛也岩手県知事をお呼びして、地方自治、特に道州制、都道府県合併について議論をいたしました。その中で感じましたことをお話ししたいと思います。
 我が国の基本的な統治機構として、基礎自治体としての市町村、その上に都道府県、そして国という三重構造がございます。現在、基礎自治体としての市町村のあり方が論じられ、市町村合併が大きな議論となっているわけですが、しかし、中間機構であるところの都道府県については、その存在は動かしがたいものとして、存廃も含め合併、機能、権能のあり方等が論じられることは余りありませんでした。
 憲法では、第九十二条に「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。」とあります。この三重構造が定められているわけではありません。ましてや、中間機構である都道府県の権能、機能についても規定されておりません。したがって、この憲法調査会において、現三重構造についてその根本から議論し、地方自治の本旨から他の構造、例えば国と基本自治体だけの二重構造であるとか、現在の三重構造とは全く別な形の三重構造となる道州制などを論議することは大変有意義である、また、調査会としてなさねばならないことと強く感じた次第でございます。
 増田知事のお話、それから私ども議員として地元を歩いておりまして感じますことは、都道府県の権限がこの五十年の間、大きくなり過ぎているのではないかという点でございます。よく国の権限が強過ぎるということを聞きますが、市町村から見れば、県の権限が強過ぎるということでございます。
 昨日、予算委員会の公聴会がございまして、NPOであります構想日本の代表加藤秀樹氏が、国と地方の税制を考える会の活動ということを報告されました。このNPO構想日本で、十六県の知事と勉強会を開かれているそうですが、その勉強会の中で六県をまないたに上げ、その県の仕事を歳出ベースで仕分けをした結果、本来県がやるべき仕事は、現在県がやっている仕事の五三%にすぎなかったということが報告をされました。
 例えばハイテク犯罪システム整備など、全国的な対応が必要とするものは国に移管してもいい、その国に移管してもいいというのが六%、それから、例えば緊急街路整備事業費など広域的な対応の必要のないもの、これは市町村に移管してもいい、この市町村に移管してもいいものが三〇%、それから、例えばビジネスサポートセンター運営費補助金など、受益者の自己負担が相当として、民間に移管すべきものが七%、また、不要なものが四%ということで、現在やっております県の仕事のうち、五三%しか本来県がやるべき仕事ではないのではないかという一つの材料が提起をされました。
 このような問題の提起を一つの材料として、これから都道府県合併、また統治機構のあり方について議論をしていくことが必要ではないかと強く感じた次第でございます。
 以上です。
平林委員 地方自治の問題につきましては、ただいま斉藤委員がおっしゃったように、都道府県が百年以上今の地域のままである、そして、戦後、地方自治の制度が改まりまして、知事が公選になったという変化がございますけれども、市町村は明治の二十年代に一度相当大きな合併をしております。それから、昭和の三十年代の初めに大きな合併をしている。今また市町村の規模の是正をやろうとしておる、そういう状態でございますから、憲法との関係において今どういうことを議論すべきかということは、やはり都道府県がずっとあり続けたという問題をどうするか、それから、市町村を合併した場合にいろいろな規模の町村ができるであろう、それを前提にして考える必要があるのではないかと私は思っております。
 それで、基本的に申し上げますと、実は、日本全国で過密、過疎の問題が起こって、これはもう数十年前から起こっておりますけれども、他方では非常に過密な大都市ができる、他方では人口がどんどん減って田舎の町村は困っておる、こういう両方の悩みがあるわけで、これに対応するには、都道府県のあり方、あるいは大都市のあり方、地方都市のあり方、町村のあり方、非常に小規模な町村はどうするかという問題、こういうぐあいの問題を各種の見地からこれから検討する必要があると思います。これはやはり、府県の廃置分合は法律で定めるとなっておりますから、そこら辺のところも含めて議論をする必要があるのであろう、そう思っております。
 それから、市町村の行政にありましては、特に画一的な大きな都市も、小さな町村も、組織においてはいわば画一的な組織になっておると申してよかろうと思います。これは、憲法の規定によりまして、地方公共団体の長と議会の議員は住民の直接公選だということになっております。
 ところが、本当に小さな町村で存続をしていく場合には、果たしてこの長と議会という、いわば大統領制のタイプよりも、議院内閣制的な、議会の議員が、ある人は長になり、またある人は課長さんになりというようなことも考えていいんではないかという議論が、我が党の一部には既にございます。
 でありますから、私どもは、憲法との関連において十分に注意しながら、憲法の改正を要する問題が出てきたときに、憲法調査会にまた議論をお願いしなければいかぬな、そういう気持ちでおるところでございます。
 以上、現状を申し上げましたけれども、私は、地方自治というのは、やはり日本の国政において最も重要な、特に民主政治というものをこれから維持発展していく上に最も重要なものと考えておりますので、その点をつけ加えて申し上げます。
中川(正)委員 今、市町村合併が進んでいますが、各地域でさまざまな議論がある中で、相当の混乱も起こってきております。
 それの一番の原因というのは、これからの国と地方の役割分担、これは、例えば機関委任事務を整理するという、事務の整理じゃなくて、権限、どれだけの基準を国がつくって、どれだけのものを地方がつくっていくかという、権力にまつわる、あるいは法律事務にまつわる部分での役割分担というのを整理しないままに、あるいは財政分担ということもそうですが、それを整理しないままに市町村合併というものを進めていくということが、将来の絵が見えない、合併した後は一体どうなるんだということ、これに各首長も、あるいは地方議会も答えることができないまま、まあとにかくこの時代だから大きくなっていこうよ、こういうことで進めているということが非常に大きな混乱をもたらしているということ。
 さらにそれに輪をかけているのは、ニンジンぶら下げて、合併したらこれだけの交付金をおろすよという、これはもう本当に卑劣な話でありまして、住民自治あるいは地方自治というのを踏みにじるような形で進めているということ、これが大きく反省をしなければならないことなんだろうというふうに思うんです。
 その上に立って、この憲法の分野でも、決めているのは「地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。」こういうことになっておりまして、大きく憲法で定義するというよりも、この役割分担というのは法律でやっていこうよということでありますから、これは早急に私たちの議論の俎上に上げて具体的なものをつくる、できれば国の権限を限定するような形で法律をつくるよりほかないんじゃないかと、具体的にやっていくには。これ以上の細かい法律はつくるなと。
 例えば、大枠で基準づくりはしなきゃいけませんよというところを法律でくくったとすれば、あとは省令とか政令でつくる部分を、例えば、それは各地方自治体の条例で定める。省令、政令じゃなくて条例なんだということ、それぞれが自治体で基準づくりをしてくださいよという、まあ背中押しをする程度の法律のつくり方、そういう形態に変えていくとかというようなこと。これをできる部分から国会がやっていかなければならないんじゃないかということ。これを、議論の過程から、もう実際私たちが実施をしていくという過程に移っていくべきだというふうに思っております。
 それからもう一つ、さっきの地方自治体の形態の話が出ましたが、憲法でいくと、九十三条の2のところで、「地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する。」という規定になっておりまして、先ほどちょっとお話が出ましたように、私も賛成なんですが、各地方自治体で大統領制を統一して画一的にとる必要はないと。自治体によっては、議院内閣制なり、あるいはシティーマネジャー制なり、あるいはカウンシル制なりという、さまざまな形態があっていいんだということに私も賛成なんですけれども、しかし、それをやろうとすると、ここの憲法の条項を変えていかなければならないんだろうというふうに思うんです。そういう意味で、その問題を指摘させていただきたいというふうに思っております。
 以上です。
谷川委員 戦後我々はアメリカ、あえて的という言葉を使わせていただきますが、アメリカ的な地方自治をずっとフォローアップしてきたような感じがいたします。しかし、今、ヨーロッパで起こりつつあることについてもう少しチェックをしてみる必要があると思っております。
 国民国家のたそがれという言葉がございますが、まさに経済に関する限り国境がなくなりつつある、グローバリズム。そこで、ヨーロッパでEC統合の考え方が起こってきたときに、この地方分権の問題が同時に浮上した。仮に三%の赤字と、マーストリヒト条約は、あのときに国の財政の問題が議論されましたけれども、国だけでなくて、政府というものは、国の政府と地方の政府ともう一つ全然独立しておる社会保障、この三つから成るんだ、それぞれみんな同じだという考え方でヨーロッパで今起こりつつあるのが、いわゆる地方分権の動きだと思います。
 日本の場合には、単一国家としてずっと長くやってきましたけれども、今お話がございました、中川委員からもございましたけれども、国家がすべて物を決めなければならないという発想から、もう既にヨーロッパ的な、地方それぞれが自分のことは自分で決める。ガバメントというのはガバンというものにメントがついた動名詞ですから、それにセルフをつければ、みずからを自分で治める。この発想を日本の場合導入しないと、このデフレの穴からですら抜け出せない。国家の中央政府がいかに、通貨の膨張政策をとるとか何か知りませんが、あるいは大増税をするかどうか知りませんが、赤字から抜け出すような体制を整えても、地方では地方のそれぞれの仕事があるわけですから、地方の赤字というものは、みずから自分らでどうするかということを決めることから始めないと、日本の二十一世紀の発展はない。
 私は、そういう意味で、憲法九十二条から九十五条までの四カ条だけですべてが済む時代ではなくなった、こう判断をいたしております。
古川委員 私は、地方自治については、憲法でどう規定するかというのは、実はこの国の仕組みというものを考える上で非常に大事じゃないかというふうに思っております。
 と申し上げますのは、今の憲法は、先ほど来からもお話が出ておりますように、基本的には主権はすべて国が持っていて、その一部を法律で定めるような形で地方に授権するような仕組みになっているというふうに思うわけなんでありますけれども、道州制を今後目指していくということであれば、そのときに本当にそれでいいのかどうか。
 谷川委員からもお話があったように、地方が、自分のところでできることは基本的に自分でやるんだということになれば、それを国から授権された形でやるというのか、あるいは、それともむしろ地方がみずからその部分については主権を持っていると考えて地方で、そこでできない外交とか防衛という部分については、アメリカ合衆国のように中央政府に、逆にそこの部分は、それこそ補完性の原則で、やれない部分だけのそこの部分は国がきちんと持っている、身の回りのことは、これは地域のところが憲法上も権限を持っているというような形に規定するのがいいのかどうか。道州制の議論をしていくときには、まずそこのところの、主権がどこに存在するのかということの議論までしていかなければいけないのではないかなというふうに思います。
 そういう観点では、地方分権という言葉を使っていますが、この言葉も、分権というのは、実はもともと主権は中央にあって、それを分け与えるということになるわけなんですけれども、そうじゃなくて、むしろ地方主権、地域主権というような形で、地域に主権があるという前提での道州制議論を組み立てていくか、あるいは、中央に主権があって、それを分けるような形で道州制を組むかということによって、この国の仕組みというのが大きく変わってくるんじゃないか。ですから、これからこの地方のあり方ということを議論するに当たっては、その主権の存するところがどこにあるというふうに考えていくのかという中で、言葉の使い方も気をつけていかなければいけないんじゃないかというふうに感じております。
 そして、とりわけ、この前、知事からお話を聞いた中でも感じたのは、やはりそういった意味で地域が自立をしていく、その中心になるのは、地域や自分たちで課税権を持つというその財源の財政的な自立というところがきちんと規定をされていかなければいけないというふうに思っています。今の憲法では、その地方のところについて、そうした財政的な自立をきちんと裏づけするようなそういう規定というものはありません。やはり、これは今後のこの国の地域の自立、自立した地域ということを考えるに当たっては、そうした面も非常に大事なポイントでありますから、きちんと規定するようなことを考えていかなければならないのではないかというふうに思っております。
    〔会長退席、仙谷会長代理着席〕
山口(富)委員 私は、この間、小委員会で増田県知事の話を聞きまして、地方自治と憲法をめぐって三つのことを強く感じたんです。
 第一は、知事が現場に来て初めてわかる感覚というのがあるんだということをたびたび強調されていました。それは補助金行政にかかわる問題もありますし、自主財源が少な過ぎるという問題もありますし、特に印象的だったのは、人材という問題を地方は今考えなければいけないということを提起されたことは非常に印象的でした。そういう意味で、私たち自身が、いわば国と地方自治というのは協力の関係なんですから、お互い起きていることを本当によく知り合いながらこの問題を考えていくべきだなということを感じたんです。
 それから、二点目に感じましたのは、日本国憲法は、地方自治について、地方自治の本旨に基づく地方自治の尊重、それから地方公共団体の機関のあり方、それから地方公共団体が持つ権能、それから国とのかかわりで、平等の問題がありますので特別法の制定という問題、四条を定めているわけですけれども、増田知事も繰り返し、憲法の九十二条の地方自治の本旨ということでいろいろなことができるんだということを強調されていたのが大変印象的だったんです。それは、今北東北三県が広域行政に乗り出していますけれども、それをやっていく場合の足場は地方自治の九十二条にあるということを確認することが大事だと思ったんですね。
 先ほど谷川委員の方からヨーロッパの地方自治をめぐる紹介がありました。私もヨーロッパでの地方自治をめぐる動向に関心を持つべきだという点は全く同感です。特に、あそこはEU憲法との関係でも地方自治をどう位置づけるかが大問題になっておりますから。ただ、結論部分のところは一致できないんです。憲法の地方自治をめぐる四条でいいのかというお話のところは一致しませんが、しかし、ヨーロッパをめぐる問題については共通の問題意識を持っております。
 特にそのことを痛感しますのは、例えば経済の問題でも、これだけ経済のグローバル化が進んできますと、地方自治体にとっては県内の雇用や暮らし、職場をどういうふうに安定させるかという問題と同時に、アジア経済圏とのかかわりで、自分の県内をどうするのかという問題がどうしても不可避的に出てくるわけですね。そういうことを国との協力の関係でどう解決するのかということが大きな課題になっております。
 また、私が知事に直接申し上げたんですけれども、岩手の場合、小児救急医療の体制が本当にほころびがあって、昨年の九月に八カ月になるお子さんがきちんと医療を受けられずに亡くなったんですね。私この間、御両親と一緒に厚生労働省へ行って改善の署名を提出してきたんですけれども、この問題を考えるときも、小児救急医療の体制の責任は県なんです。国はあくまでそれを援助するという形なんですが、しかし、実際には小児科医が足りないんですから、国の責任というのが問われてくると思うんですね。そうすると、その地方自治の本旨で言っているような地方自治体の責任という問題と国の政治がどう絡むのかというのは、経済の問題でも身近な救急医療の問題でも、やはり今問い返すべき時期に来ているなということを感じたんです。
 それから三点目は、中川委員がおっしゃったことと関連するんですが、実は増田知事はいわゆる西尾私案について大変批判的なコメントを述べられたんです。特に小規模自治体について、人口で切っていくようなことに私は賛成できない、やはり地方自治体の、小規模自治体のじかの努力をよく重視していただきたいということを言っておりました。
 私はその三点、憲法と地方自治をめぐっては大事な問題だなということを感じましたので、発言いたします。
中山(正)委員 日本は、幕末には大名の数は二百七十四人しかいませんでした。それから、地方に領地を持っている旗本が大体大きなところで三十家ぐらい。年末、総理大臣にも私、自民党の都市対策協議会の会長という立場で話をしたんですが、総理が、あっ、それで三百諸侯と言うんですねという話でした。
 今は、しかし、三千二百十七の自治体、市だけで六百七十一、過疎市町村が千百七十一、そういう非常にバランスの悪い、特に自分のところを言って悪いんですが、私も政治家としての出だしは、大阪市会議員が出だしでございまして、昭和三十八年でございましたが、そのときから、大阪府、市はもう逆転現象が起こっているんですね。大阪市の方が昔から、明治二十二年、日本で最初の市でございますから、大変伝統がある。昔は総理大臣よりも大阪市長の方が給料が高かった。東京都議会議員と大阪市会議員、その次が大阪府会議員の給料だったんですね。ですから、東京市、昭和十八年まで東京市でしたが、昭和十八年に帝都という形で東京都になりました。
 これから一体、この憲法の中でどういうふうに自治体というものを見ていけばいいのか。大阪市なんかは五兆数千億、国に税金が上がりますが、大阪に返ってくるものは七千億ぐらいしかありません。だんだんこれはよそへとられていって、今WTOなんというのを見ていると、農村に都会から上がった税金を振りまき過ぎたから、今はそれがギャップになって大きな農業問題になっているのを見ると、一体今まで何だったんだろうな、金の卵を産む都市をどう思っていたのかなという感じがするんです。
 大阪を例にとって恐縮ですが、大阪市は四兆四千億の予算、大阪府は三兆八千億ですから、一般の府県と逆転現象が起こっているんですね。私は、だから大阪府、市、早く合併しなさいと。皆さんも御承知のように、伊丹のところでモノレールはとまっていますし、大阪市から地下鉄は外へ出ていかない。そんなところにオリンピックは来ないよと私は初めから言っていたんです。大阪府と市が、市内には大阪府は何の権限もありません。ところが、税金を取るための府税事務所というのだけがあるんですね。例えば、USJという、第三セクターでやりましたが、あれの法人事業税は大阪府に上がるんです、大阪市がやっていながら。大きな矛盾があるから、早く合併しなさいと。府、市がうまくいかないのは、これが本当の不幸せなんて私は言っているんですが。
 そういうことを一体どうするかという問題。私は、臨海地域開発整備法という、平成四年に大阪湾を取り囲むところに大きなプロジェクトいっぱいありますが、それを私は、その地域を都制をしきなさいと。今十年間の間に大阪からもう九千社の会社が抜けていきました。五年間で一万五千人の大阪商工会議所会員が減りました。西日本が物すごく疲弊しているんですね。ですから、私は、東京都一極集中、何でも東京、東京は百階建てみたいなのが七十棟も建設予定があります。
 それから、もう一つつけ加えて言っておきますが、防衛の問題です。
 この間、ブルーリッジという第七艦隊の旗艦が大阪に入るときに、大阪市長は来ていない、大阪府知事は来ていない、港湾局長すら来ていない。国防の問題と地方自治の問題をどうセパレートして、大阪府には防衛庁、防衛局もないんですから、この防衛の問題におけるいわゆる自治体と国との関係というのをはっきりしないと日本はえらいことになります。
 私は、大阪市議会に当選して最初に、七日目でしたが、大阪湾に米原子力潜水艦寄港阻止決議案というのが出ましたときに、地方自治に関係がないと私が反対討論をやりました。そのときからの懸案の問題だと思っていますので、地方自治体と防衛の問題、これをはっきりと私は憲法の中に規定するような改憲をすべきだと思っております。
仙谷会長代理 続いて、井上喜一君にお願いしますが、時間の関係もございますので、地方自治に関する御発言を御希望の委員は、今、武山委員がお札を出されておりますので、中野寛成君と武山百合子君に限らせていただきたいと存じますけれども、よろしゅうございますでしょうか。
井上(喜)委員 地方自治につきましての憲法の規定は四条あるわけでありますけれども、私は、地方自治につきましては、この四条で十分だろう、こんなふうに思います。といいますのは、今の自治体の組織一つにしましても、非常に大きな転換期といいますか変革期にあると思います。そういったことで、余り地方自治体の組織をこういったところで特定をしていく、あるいは権限を特定していくというのはいかがなものか、こういうことであります。
 例えば一つは、私は、今、都道府県というようなところは権限が集中し過ぎておりまして、本当に強大な自治体になってきている。かえってそのことが基礎的自治体の自治を妨げるといいますか、そんなような傾向すら見えるわけですね。そういう意味で、私はやはり、どうも都道府県制というのは考え直すべきときに来ているんじゃないかというのが一つであります。
 それからもう一つは、昨日の予算委員会で問題になりましたけれども、例えば神奈川県なんかをとりましても、横浜市と川崎市がありまして、それを除きますと一体神奈川県なんて何なんだ、あれは郡じゃないかなんというようなことまで言われるような状況でありまして、県、県といいましても、非常に実態が違ってきていると思うんですね。
 そういう意味で、今の都道府県制というようなものを前提にして自治体を考えていくというようなことはいかがなものか。そんなこともありまして、私は、この地方自治に関連した条文というのはこの程度の、中身がどんどん法律であるいは条例で変わるような中身の方がよろしい、こういう理由からそういったことを申し上げるわけでありまして、以上です。
中野(寛)委員 私は、基本的に道州制、いわゆる都道府県を幾つか合併をさせた形の道州制、そしてまた、せいぜい三百程度の市にまとめることについては賛成でありますが、やり方について、国の方で決めて押しつけ的にそれをやっていくということはむしろいかがか。やるとすれば、国は道州だけ決める、そしてそれぞれの道州がみずからの州の中の市町村あるいは市のあり方について決めていく。例えば、東京近郊と大阪でさえもやり方は違わざるを得ないだろうと思いますし、ましてや北海道、九州、必ずしも同じ州や道としてのルールを持っていなければいけないということではないんだろうというふうに思います。
 統治機構というタイトルでこれは議論をしているのでありますが、地方自治についてはむしろ統治機構の統治という言葉さえ発想の転換が私は必要なんではないかと。国が治めやすい方法はどういうものかという視点ではなくて、国民あるいは住民のためにいかなるサービスの仕方、選択の仕方ができるのかという視点に立って、より一層議論を重ねていくことが大事なのではないかというふうに思います。よって、日本のそれぞれの、道州制がしかれた場合、州によってそれぞれ市町村のあり方が違っていい。
 先ほど自民党内での御議論として披瀝されましたが、恐らく、アメリカの小さな市のシティーマネジャー制度のことをおっしゃられたんだと思います。憲法に従いますと、村長や町長なども住民の直接投票でなければいけないことになっておりますが、シティーマネジャー制を置いているいわゆる弱い市長と言われるところでは、メーヤーを必ずしも住民投票では選んでいない。数人の市議会議員のもとで、互選で、議長兼市長が要請を行い、シティーマネジャーを雇ってやっているというシステムなどは、私は、大きな市をつくった、そのもとで、コミュニティーをいろいろなやり方で、その州なり大きな市がコミュニティーのつくり方を判断して決めていけばいい、その中にそういうシステムをとるところができてもいいのではないか、こんな感じがいたします。
 これから国の仕組みも変わっていくと思いますし、それは、より一層国民や住民が選択しやすい場を広げていくということだろうと思います。逆に言えば、世界のシステムも変わっていくんだろうと思います。
 きょう、冒頭、元首の問題、天皇と元首の問題が論じられましたが、私は、近い将来元首という言葉自体が死語になっていくのではないかという感じがいたしておりまして、必ずしも元首という言葉を憲法に規定しなければならないという時代ではないのではないか、そんな感じがいたしております。
 言うなれば、世界に目を開いても、また生活の場に逆に目を落としてみても、これからの仕組みというのは、より一層人々が生活しやすい場をつくっていく視点から憲法論議というのは進めていくべきではないか、こんな感じがいたしております。
武山委員 先ほど古川委員もお話しされていましたように、地方分権という言葉、やはり上から見た場合の分権であって、地方は主権という立場でこれから考えていくべきだと思います。
 それから、地方主権といった場合、地方自治という言葉、地方自治という言葉そのものの持っている重みというのは大変重いものだと思うんですね。ところが、実際に地方自治といいましても、権限や財源を見たとき、本当にどれだけ充実しているのかというと、やはり財源は三割自治と言われている現状なんですね。
 ですから、これは本当に、地方主権、地方自治そのものが、先ほどある委員からもお話が出ておりましたけれども、今大きな転換期に差しかかっておって、五年、十年たたないとどんな状態になるかというのは、想像ではできますけれども、現実には本当にどうなっていくのかなという問題もあると思うんですね。
 その中で、やはり、もう一般的には周知徹底を図られておりますように、消防の機能は広域化でやられていると思うんですね。それから清掃組合も広域化でやっている。国民健康保険も、もう現実に破綻してしまって、広域化でやっていかなければならないという現実問題もあるわけですね。
 そうしますと、私はぜひ、教育も画一的に考えるのではなく、先ほど過疎過密というお話も出ておりましたけれども、過疎の地域は隣の村や町と広域で教育を行うということも考えられるのではないかと思います。欧米ではそういうことはもう本当に日常的に行われておるわけですから、やはり欧米のいいところを、今このように、新しい展望が実際に開けないで議論ばかりをしている国会という現実があるわけですから、そういうものもやはり手本として参考にしてもいいんじゃなかろうかと思います。
 以上です。
仙谷会長代理 これにて地方自治、特に道州制、都道府県合併についての自由討議を終了いたします。
    ―――――――――――――
仙谷会長代理 次に、教育を受ける権利について、基本的人権の保障に関する調査小委員長から、去る十三日の小委員会の経過の報告を聴取し、その後、自由討議を行います。基本的人権の保障に関する調査小委員長大出彰君。
大出委員 基本的人権の保障に関する調査小委員会における調査の経過及びその概要について御報告申し上げます。
 本小委員会は、二月十三日に会議を開き、参考人として、慶應義塾学事顧問、日本私立学校振興・共済事業団理事長鳥居泰彦君及び早稲田大学教授岡村遼司君をお呼びし、教育基本法改正を含む教育を受ける権利全般について御意見を聴取いたしました。
 会議における参考人の意見陳述の詳細については小委員会の会議録を参照いただくこととし、その概要を簡潔に申し上げますと、
 鳥居参考人からは、まず、
 一、エデュケーションの日本語訳である教育には、能力を開発するというニュアンスが含まれておらず、これからは能力を開発するという側面こそ重視されなければならないこと、
 また、
 二、教育の内容には、人間形成、基礎知識、専門知識、学習、学習の方法、学習の支援、成長の支援、人生設計の支援があり、これらは教育を待って初めて実現されるものであることの指摘がありました。
 さらに、
 三、新旧憲法下における教育を受ける権利についての差異、日本国憲法の教育を受ける権利の内容についての紹介がなされました。
 その上で、
 四、イギリス、フランス、韓国の教育基本法においては、生涯にわたり学習する権利を有することが明記されているのに対して、日本においては従来その点の認識が弱かったという指摘がなされ、これからはその点を重視しなければならないという意見が述べられました。
 岡村参考人は、
 その内実にふさわしい価値を獲得することによって権利は生まれるという意味で、権利は義務を伴うものであるとし、加えて、人権は自由権から社会権へと重層的に拡大してきたという認識を示した上で、教育を受ける権利について、
 一、教育基本法は憲法二十六条を根拠とし、憲法の要請に基づいて制定されたこと、
 二、教育を受ける機会の均等と結果の不平等の問題は実践的な課題であること、
 三、権利の性格を積極的にあらわすならば、二十六条は、例えば教育を営む権利ととらえ直す必要があること、
 四、平等の教育という観点から、等しい教育を受ける権利という条文が望ましいなどといった考えを述べられました。
 また、今必要なのは、教育基本法の理念がどこまで実現されているかを検証することであり、不足を補うような安易な方法で改正を図るべきではないということ、憲法を根拠にしている以上、それと切り離して改正することは、教育基本法の性格をいびつなものにし、同時に憲法の精神までないがしろにしてしまうということを主張されました。
 このような参考人の御意見を踏まえて、質疑及び委員間の自由討議が行われ、委員及び参考人の間で活発な意見の交換が行われました。
 そこにおいて表明された意見を小委員長として総括するとすれば、まず、憲法二十六条自体については、その権利性をさらに強めるべきであるなどの意見はありましたが、おおむねよくできているというのが各会派に共通した認識であったように思われます。
 一方、制定以来五十数年を経た教育基本法につきましては、複雑化した現代社会における教育に関し、規定されていない部分も見受けられる点があるという意見が述べられました。
 また、モラルの低下と他者の人権についての教育の関係などに関して活発な議論が行われました。
 今後、教育にかかわるさまざまな問題を解決するための議論を深めていくことが必要であると感じた次第です。
 以上、御報告申し上げます。
仙谷会長代理 これより、教育を受ける権利について、教育基本法の改正に関する議論も含め自由討議を行います。
 まず、平林鴻三君。
平林委員 私は、教育を受ける権利を議論するに当たりまして、次の三点を申し述べたいと存じます。
 まず第一に、憲法第二十六条及び教育基本法を議論するに当たっては、その成立の経緯を頭にとめておかなければならないと思います。過去のことであり、また今さらあれこれ言っても仕方がないという御意見もありましょうが、やはり成立の経緯をよく理解してこそ、憲法二十六条及び教育基本法についての深い議論をすることができると考えております。
 第二に、中央教育審議会の中間報告にも触れておりますが、学校教育の成否は教育の直接の担い手である教員の資質に大きく左右され、子供の人格形成にかかわる教員の資質の向上は、教育上の最重要課題であると考えます。
 この点は、近年の教育の現場を見る場合に痛感するところでございます。現場の先生方ももちろん頑張っておられる、このことは十分承知しておりますが、現在の日本の教育界において卓越した指導者がなかなか出てきていないのではないかと危惧をいたしております。教育界における人材の育成は日本の教育の弱点であり、どのようにして卓越したリーダーができていくか、どのようにすればよいかということを真剣に議論しなければいけないと思っております。
 第三に、学級崩壊、青少年犯罪、家庭崩壊、日本人のモラルの低下など、教育を取り巻く課題は現在山積をいたしております。これに対処するために一体何が必要なのか、その観点から教育基本法を論ずる必要があると存じます。
 現在、少人数学級や総合学習などいろいろな処方せんが試みられておりますが、これらの処方せんを出発点として、教育基本法が今までどのような役割を果たし、現在どのような役割を果たしているのか、そして、これからの日本の教育に関して教育基本法はどのような役割を果たすのか、あるいはもはや果たし得ないのか。教育こそ国家の基本でありますことから、今、教育基本法自体の熱心な議論が求められていると考えているところでございます。
 以上です。
仙谷会長代理 それでは、御意見のございます方から自由討議の御意見を伺いますが、いかがでございますか。
谷川委員 大出小委員長の御報告の中に、参考人の御発言、憲法二十六条に準拠して教育基本法が云々というお話がございましたが、私は、この憲法二十六条に対してちょっと疑義を持っておるんです。というのは、あの条文そのものは多分に財政的な面を意図しながらつくられているんじゃなかろうか、教育基本法というのはそういうものとは性格的に違うんではないかという感じが一つしております。
 なぜかといいますと、憲法二十六条に二つあるんですけれども、そのうちの前段の方の「法律の定めるところにより、」と、そこで義務教育費国庫負担法の第二条に「公立の」という三文字が入っていますが、そんなことを考えてみると、このために、昭和二十四年の学制改革以降、日本の国の教育というのは大半が学校教育の議論に終始してしまったと思っております。
 教育基本法の表題には、学校教育基本法とないのであって、教育基本法であって、当然社会教育も家庭教育もあってしかるべきであるが、どうも、戦後の日本の憲法のつくり方自体がそうだったのかもしれませんが、教育というのは大変大きなお金を必要とする国家的な事業ですが、それに財政的な制限が非常に加わった。これから先我々が議論するときには、さっきもう一人の参考人である前の慶應義塾の塾長の御発言の中に、エデュケーションというのは引っ張り出すという意味があると言われたことがございましたが、やはり教育本来の持っている機能を徹底的に大きくしていくという意味で、新しい角度で憲法の中では教育を位置づけるという必要があるような感じがいたしております。
 以上です。
    〔仙谷会長代理退席、会長着席〕
葉梨委員 参考人から大変内容の豊かな大事なお話を伺って、感銘をした次第でございます。そして、教育基本法についていろいろなお二人の参考人からの御意見で私は感想がございます。
 教育基本法と憲法との関係について、岡村参考人は、憲法と切り離して改正することは、教育基本法の性格をいびつなものにし、同時に憲法の精神までないがしろにしてしまうという御主張がございました。私は、憲法の精神というのは三つの理念、これが基本にあって、いろいろな条章が展開されている、この三つの理念を尊重していく限り、教育基本法につきまして、これは一般法でございますから、教育のあり方をどうこれから改革していくかという観点で見直し、改正をしていくということは、当然であると思う次第でございます。その内容をどうこうということは、今中教審の審議もございますし、これはまた次の問題として申し上げたいと思います。
 それと、教育基本法では、初等中等教育、義務教育を中心として書かれているんじゃないかという鳥居参考人の御指摘はまことにごもっともでございまして、広い面に基本法の対象を広げるべきであるという御主張は、私は肯定するものでございます。
 ただ、初等中等教育につきましては、こういうような子供を育てたい、子供というものはやはり一定の教育方針のもとに、教師、家庭あるいは地域社会が、若い、幼い子供の中で、規範意識やあるいは忍耐とかあるいは努力をするとかいうことを教え込むという意味で、自由にすればいいということではないということ、このことを鳥居参考人は特に非常に広い視野から、またイギリスの例などをいろいろ引いてお話をいただきましたが、これは十分私どもとして参考にして議論をしていくべきであろうと思うのであります。
赤松(正)委員 公明党の赤松正雄です。
 この問題についての私の基本的な考え方、とりわけ教育基本法をめぐる問題についての考え方を申し上げさせていただきたいと思います。
 憲法の第二十六条における教育というものに関する、「教育を受ける権利」、さらに「普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」こういった憲法の二十六条の規定、あるいはまた八十九条の財政に関する規定がこれでいいかどうかということについては、さらに広範な議論が必要だろう、こう思うんです。
 実は、当面、今この国会でも課題になろうとしております教育基本法の改正についての考え方は、結論的に言うと、私は、憲法と教育基本法というのが際立って離すことのできない、まさに不可分の関係にあるという認識の上に立って、教育基本法を改正するということについてはいま少し時間をかけた方がいい。改正をしないという意味ではなくて、改正をする、私は基本的には改正すべきだと思いますが、ただ、いつ改正するかというのは際立って当憲法調査会の議論と並行していった方がいい。憲法調査会での議論を経て、憲法調査会としての、いわゆる衆参両院の五年の経緯を経た後の取り扱いの流れの中で、教育基本法も改正への動きを進めていけばいい、こんなふうに思います。
 そこで、教育基本法は、先ほども平林委員からお話ございましたように、教育基本法の経緯というものは非常に大事だろうと思いますが、その後の改正の動きも注目する必要があると思います。
 昭和二十四年の吉田総理から始まって、二十六年の天野貞祐当時の文部大臣の国民実践要綱構想、あるいは昭和三十一年の清瀬一郎当時の文部大臣の臨時教育制度審議会設置法案提出の中における、国家、公に対する忠誠を基本法に入れるべきであるというふうな主張、あるいは昭和三十八年の荒木文部大臣の中教審へ期待される人間像の諮問の中で、立派な日本人をつくる観点から基本法再検討を、あるいは昭和三十二年から三十九年にわたる憲法調査会法に基づく調査会報告書の中における、憲法二十六条だけでは不十分だ、教育勅語にかわる基準を、こういったふうな一連の過去における戦後日本の教育基本法改正の動きにおける中身というものは少しくしっかり考える必要があると思います。
 これは恐らく、私の思うところ、戦前の日本はいわゆる滅私奉公的スタンスが非常に強かった。滅私奉公的な生き方ではなくて、違う、そういったものを乗り越える教育でなくちゃいけないということから、結果的にいわゆる滅公奉私、ちょうどひっくり返した、公を滅して私に奉ずる、そういう滅公奉私的な生き方が強まってきたということが、私は、今の現時点でそういうふうな教育の現状というか、日本人のありようというのを見たときに、どちらかといえば、滅私奉公の裏返りとしての滅公奉私という状況が非常に強いというふうな危惧を抱くんです。
 しかし、戦後直後から、先ほど申し上げた昭和二十四年の吉田総理の教育勅語にかわる道徳的指針としての教育綱領の作成というところから始まって、ずっと続いてきた教育基本法改正の動きというのは、必ずしもそういった、今、結果としての滅公奉私というものを踏まえてのことではなくて、いささか戦前的傾向にすごく依拠した主張ではないのか。そういうところを今持ち出すというのはいささか問題が多いんではないか、そんなような思いでおります。
 いずれにしましても、しっかりとこの教育基本法改正という問題を議論する。憲法の全体の枠の中でしっかり議論するということの後に、教育基本法の改正についてもしっかりと取り組んでいくべきである、こんなふうな考え方を持っている次第でございます。
 以上です。
大畠委員 教育問題ではございますけれども、私は、二つほど問題提起といいますか、私の考えを申し上げさせていただきます。
 確かに、憲法では、二十六条に「その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」ということが書いてあるわけでありますけれども、現実問題、いろいろな、子供たちを取り巻く環境が変化しておりまして、私も非常に今心を痛めているのは、最近捨て子が非常に多くなってきている。私の身近といいますか、私の県の茨城県内でも最近、去年の暮れから二人ですか、生まれたばかりの赤ちゃんが放置されるということがありまして、その赤ちゃんは、運よく病院に収容されて命は取りとめたという話なんですが。
 それからもう一つは、親から暴力を受ける子供たちを隔離するための子供たちのための施設があるんですが、定数八十人で満杯。そして、小学校、中学校に通っているわけでありますけれども、その小学校、中学校では子供たちが減少しているという中で、施設に入りたいという子供が定数よりあふれておりまして、これはどういうことなんだろうか。私は子供たちを取り巻く環境の変化というものの一つのあらわれではないかと思っています。
 もう一つは、先週といいますか前の日曜日のある新聞の報道でありますが、中学生にアンケート調査を行った、その結果として非常に象徴的なものが二つ。一つは、日本の未来が暗いと答えた子供が七五%。それから、一生懸命頑張れば頑張っただけ報われないというアンケート結果が同じように七五%。これが今の子供たちを取り巻く環境になっているわけですね。
 したがって、どうも憲法で目指した、昭和二十二年の五月に発布されました憲法の理念とは異なる社会になり始めているんじゃないかということが現実の問題だと思うんです。
 もう一つ申し上げたいことは、今の子供たちを取り巻く環境下では、お金持ちの子供がまたお金を稼げるような社会に入る。いわゆる学習塾が非常に多くなってきまして、お金が十分にないといわゆる一流のところになかなか入りにくい。ですから、教育の目的というのがどうも、お金を生むという、まあそういう社会的な背景もわからないわけじゃないんですが、それにだんだん特化されてきて、お金がない階層の子供たちは非常に苦労をしながら生きなければならない。そこに、先ほどの中学生の子供たちの、一生懸命やってもどうも報われない社会じゃないかというアンケート結果にもあらわれているんじゃないかと思うんですね。ここら辺を憲法といいますか、国の方でといいますか、社会的に、全体的にどういう形にしていくか、これが私は非常に今の課題ではないかと思います。
 もう一言申し上げますと、過日、新聞報道でもこれはあったんですが、八十数歳のお母さんのところで五十歳前後の子供たち三人が一緒に生活をしていた、お母さんがどうも殺されたようでありますが、その三人の子供たちはお母さんの年金で一緒に食べていた、無職でおられたそうであります。どうも、私たちが理想を追う社会的な状況の中で、現実的には何か恵まれた人と恵まれない人の階層が非常に激しくなってきている、こういう状況が生まれているんじゃないかと思うんです。
 そういうことを考えながら、果たして日本がどういう子供たちを取り巻く教育環境をつくるか、ここら辺も含めて憲法の調査会の中でも御議論いただきたいという問題提起であります。
春名委員 春名です。
 子供の荒れ、教育の荒廃について真剣に考えています。国民みんなが今、力を合わせるときだと思います。ただ、その原因を教育基本法にあるというふうにすることにはくみすることはできません。根拠がありません。そのことをまず申し上げておきたいと思います。
 とりわけ、議論になりましたときに、鳥居会長がいらっしゃって中間報告の御説明もいただきましたが、突如、たくましい人間をつくるというのが教育の理念であるということが提起をされましたが、なぜそういう事態になったのかの明確な御説明をいただけませんでした。残念でしたけれども。
 翻ってみれば、教育基本法の中には、人格の完成を目指すということを明記し、こういう特定の人間観を押しつけることを根本から排除するという立場に立っているわけでして、こういうたくましい人間像だとか、伝統、文化、アイデンティティーだとかそういう徳目的なものが並べられて、今日の教育の荒廃が、そのことの改正で解決するという道理と道筋がありません、私はそういうふうに認識をしています。
 具体的に、子供の荒れをどう解決するかということについて、やはり競争と管理の教育を根本から改めて、教育基本法が言っているように、子供の成長と発達を本当に中心に据えるという真剣な努力が要ると思います。子供に基礎学力を保障するためには、新学習指導要領の内容またスピード、その改訂も必要です。それから、過度の競争教育の制度の是正も大事です。
 先ほど平林委員からお話が出た教職員の力量の向上は、私たちも必要だと思いますが、ただ、指導力不足教員というのをレッテルを張って探すようなそういうやり方をしても、その力量の向上には役に立ちません。自主的な研修、それから多忙化の解消、そういう努力こそ私は大事だというように考えています。
 それから、私の県の高知県では、開かれた学校づくりというのに取り組んでいまして、地域に学校が出ていく、住民の皆さんが学校に参加をする、そういう教育改革を進めています。そういう努力も非常に今大事になっていると思います。さらに、二十一県で既に実施をされている三十人学級の実現、これらを国としても支援していく、そして、学べる学校環境をつくっていくということも非常に大事だと思います。翻ってみれば、そういうことは教育基本法の理念の実現ではないかと思います。
 最後に、教育改革国民会議の委員で、リコーの浜田会長が、こういうふうに言っておられます。初めて教育基本法を読んで、すばらしいと思いました。なぜ、あえて変える必要があるのでしょうか。むしろ基本法に書いてある目的を実現できなかったことが問題のように思います。こういうふうにおっしゃっていることも紹介をして、私の発言といたします。
中山会長 予定の時間も参っておりますので、教育を受ける権利に関する御発言を御希望の委員は、速やかに名札を立てていただくようお願いをいたします。御発言は、名札を立てられた委員までといたしたいと存じます。
北川委員 私は、この憲法調査会が改正議論の前提の場所ではないというところを踏まえて、一言述べさせていただきたいと思います。
 学級崩壊や家庭崩壊、少年犯罪といった事象を学校の現場や教育もしくは教育基本法というところに絡めて論ずるのは、私は賛成ではない立場をとっております。なぜならば、この問題をそちらの面からだけ述べることは、抜け落ちる視点が多々出てくるというふうに考えております。
 それは、一つには経済の格差の問題、また超資本主義社会における競争の問題、また自然環境の破壊における子供たち世代に及ぼす影響等々、そちらの点を現実社会から見て、この学級崩壊や家庭崩壊や少年犯罪といった問題を照射する、そういう論じられ方がなければいけないのではないかというふうに考えます。
 一九七三年から、教員免許の資格から日本国憲法の必須というのが削除されてまいりました。日本国憲法というのを必須にしていた時代から大きくさま変わりをして二十数年たち、教育基本法というもの自身を読んだことも見たこともないという国民の数が圧倒的に多いというアンケート数字も出ている次第であります。
 先日の岡村参考人がおっしゃられた、必要なのは教育基本法の理念がどこまで実現されているかを検証することではないか。私はこの考え方に賛成であります。この中で、何度も述べられました、「真理と平和を希求する人間の育成を期する」というふうに書いてあるこの教育基本法の理念、これに沿った人材、平和の貢献ができる人材、国際化の流れの中で他民族、他国家のために幾ばくの平和を築くことに貢献できる人材等々が、教育の観点からどれぐらい実現できたのかという検証も必要ではないかというふうに考えております。
 それで、国際的な条約というものがございます。国際人権規約または女性差別撤廃条約または子どもの権利条約、人種差別撤廃条約などなど、日本は多くの条約を批准してまいりました。殊に、子どもの権利条約は一九八九年発布されたわけですが、日本が九五年、先進諸国の中でも遅いという声が外の世界から、まず国際的にも指摘をされました。国内の中では、本当に地道な声というものが酌み上げられずに、九五年まで批准がされておりません。
 この中では、子供の意見の表明権というものがあります。教育のことを論ずるときに、ここもすべて大人という年代の方で構成されているわけですけれども、子供自身が、当事者自身がその場においてどういう状況にあるかということを大人に伝える、そういう場の設定がないということも関係しているのではないかと思われます。
 そして、私自身の経験から、私の尼崎市では民族学校が二校ございますが、この七、八年、地域に向けての授業参観等々の営みというものを続けてまいりました。また、一条校への格上げということをうたって日本国籍有籍者ともどもやってきたわけですが、先日の文科省における遠山大臣、民族学校も二つに分ける。アジア系、多くいえば中華同文か朝鮮人学校というふうになると思います、それとインターナショナル、欧米系の学校で、大学への受験の資格を分けると。これは、まさしく教育の理念に反するものではないかというふうに考えます。
 国際化という名のもとにおきましては、今、統計によれば、二十組に一人が国際結婚をしている日本であり、多民族国家であるということはどなたも御理解いただけている状況の中で、当の文科省自身が、そういう分け方というものに整合性の理論を持たずにして検討をしていたということがわかったということ自身をもってみても、国際化という意味のとらえ方一つにおいて、教育の現場では違ってきているのではないか。ということは、文化、伝統、民族のアイデンティティーということで、一つの民族への集約というところに力を尽くそうという勢力が台頭してきたことが、混乱をなお一層深めているというふうに思います。
奥野委員 奥野誠亮です。
 今、岡村参考人の話が出ておりましたが、私もその小委員会に出ておりましたので一言言いたいと思ったんですけれども、差しかえの手続ができていないということで発言できなかったことでございます。
 私が憲法の秘密委員会の議事録を読んでおりましたときに、こういう内容を発見いたしました。この秘密委員会の議事録の閲覧は、独立してからも、特定の政党の主張で長く許されないできたことでございました。
 それを読んでおりますと、憲法には、「国及びその機関は、」「いかなる宗教的活動もしてはならない。」と書いてあります。このことにつきまして、学校において宗教教育という問題は非常に大切なことではないか、その大切なことができないということでは困る、しかし、学校における宗教教育はできるんだということを、何らかの形でこの文言を修正してもらいたい、占領軍がどうしても許さないとするならば、政府なり何かの機関において、できるという見解を明らかにしてもらいたい、こういう記述がございました。
 それから、同じ国会で教育基本法が制定されたのであります。教育基本法のその部分に関する規定は、国及び地方公共団体が設置する学校においては、「特定の宗教のための」という言葉が加わりまして、「特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。」ということで、「宗教的活動」の上の「いかなる」という表現も削られたわけでございまして、そういう経緯をお互い理解しておきたいと思いますし、同時に、教育基本法の原案にありました伝統の尊重ということも許されませんでした。宗教情操の涵養ということも許されませんでした。私は、教育というものは、伝統や歴史や文化を後世に伝えていくという役割も非常に大事な役割だと思っておるわけでございますけれども、そういう部分が削られておるわけでございます。
 日本が戦争に負けました昭和二十年の十二月に早くも神道指令が出されておるわけでございまして、神道に対してはいかなる国の援助も許されないと規定されておるわけでございますし、神道に関係を持つ記事は教科書から全部削らされたわけでございまして、したがいまして、自来、神話、伝説が教えられないで今日に至っておるわけでございます。国体という言葉も禁句になったわけでございまして、その中には、神道と国家の関係が切断された暁には関係者の希望があれば宗教として許される、こういう規定もその指令の中に入っているわけでございます。
 私は、占領軍は神道の抹殺を考えたんだろうと思うんでございますけれども、結果的には、神道が宗教としての届け出をすることによって、全部、国家神道、神社神道が宗教の方に追い込まれる、憲法の規定でそれの活動を抑えていくというふうな方針をとったんだな、こう思っているわけでございまして、私は、教育基本法につきましては速やかに改正をする、もう敗戦から五十数年たっているわけでございますから、ぜひ宗教情操というものが涵養されるような社会になっていくことを心から期待しておりますし、いびつな形になっているところは直されるべきだ、こう思います。
大出委員 まず初めに、今奥野先生のお話でございますが、むしろ逆に、国家神道を支柱として、外に対しては侵略行為を行い、内に対しては人権弾圧を行った、それに対する反省からということで今の憲法になったんだという認識で理由があることだとは思っているわけなんですが、私たちが危惧することは、教育を国家が支配した時代というのがあったことは事実なので、それがあっては困るということが根底にあるんだと思うんですね。こんな話をするつもりじゃなかったんですが、今奥野先生がおっしゃるので。我々の出発点は、私は一九五〇年ですから、まさに今の憲法とともに生きているようなものですけれども。
 まず、そういう認識のもとに、先ほど申し上げたように、何が重要なのかといえば、教育でいえば、子供さんが自分の自己を完結するために学習をする、こういう権利であるわけで、これは子供だけじゃなくて、生涯教育も入れれば生涯そういう学習権としてあるわけで、それを大切にしようということであって、それから、なぜそうなるかというと、先ほど申し上げたように、日本の憲法というのは、個人というものに最大の価値を置いているんだという、一人一人の人間はかけがえのない価値ある個性を持った人間なので、その一人一人の人間を最大限に尊重しようとしていこう、だから自由を認めていこうというのが根本的な一番大きな理屈なわけでございまして、そのことがあるからこそ、国ということの名前でもって自由を勝手に抑えてはいけないよということで、私はその自由というのを非常に大切にしているわけですね。この部分を壊されたくないなという思いがあるものですから、奥野先生とは多分考え方が違うんだろう、こんなふうに思っているところです。
 そこで、言いたいことはこれではなくて、その前提のもとに、地方自治の絡みの中で、義務教育費の国庫負担という問題が、一般財源化といいますか、見直しということの中で気がついたことがあったんですね。というのは、どうもいろいろな理屈はつけているんですが、だんだん義務教育費の国庫負担が減ってきているというのは事実なんですね、これは。一九八〇何年ぐらいからずっと減っているんですね。これも確かに減って、地方が見るんだったらそれはいいんですが、そうではなくて全体的に減っているんです。
 これは、アメリカでも教育費が減っているんですね。そのことによって何が起こるかと一番心配しているのは、アメリカの現状なんですね。どういうことを言いたいかというと、教育現場にお金がないから、企業からお金をもらってこようとするんですね。企業は、子供さんたちを取り込めば物が売れるから、取り込むんですよ。
 どんなことが起こるかというと、例えば、教科書が宣伝入りになったりするんですね。こんなのまだかわいいんです。教科書の中の算数の計算するときの写真が、キャンデー会社が提携しているものですから、そこのキャンデーなんですよ。そこのキャンデーが五個、六個並んでいて、一個、二個と数えるというようなことになっているわけですね。
 そうかと思うと、学校の中に自動販売機で、コカコーラから始まってコーラ類を売っているわけですね。ハンバーガーも売っているわけですよ。それを食べているものだから肥満になってしまったりするという。当然、アメリカのお父さん、お母さんはばかじゃありませんから、お砂糖入りのはやめろとか、いろいろなことを言うんですよ。そうすると、それはそれなりのことをやるんですが、小さいときからハンバーガーの味も覚えるし、コーラの味も覚える、それが教育現場に浸透してきてしまっているという現状がアメリカの中にあって、結局、義務教育費をどんどん減らしてくるとそういうことが起こってくるんではないかということを非常に心配しているんですね。
 ひどい例になりますと、ペプシコーラの日とかいうことになって、みんながペプシのTシャツを着て、逆もある、それに反するものを着てきたら懲罰されちゃうというようなことが現実に起こっているようなんですね。あるいは、飛行場に近いところの学校だとすると、屋根全部ペンキを塗って広告をしてしまう、こういうことが起こって、当然お金は入るんです、学校に。ですが、それでいいのかなと思うことがありまして、これ以上言いませんが、以上でございます。
葉梨委員 この前の小委員会で、仙谷委員が、子供たちの大変憂うべきいろいろな状況があるけれども、それは大人の社会の反映である、子供だけどうしようと言ってもそれはだめで、全体として日本の社会のあり方を直していかなきゃいけないという御指摘がありまして、ごもっともだと思っておりました。
 同時にまた、義務教育課程の子供については、我々は、次の時代の日本を背負う大事な人たちで、大きな期待を持っているわけでございます。その意味で、鳥居先生がいろいろお話しになりましたこと、例えばまた、水島委員、今いらっしゃいませんけれども、あれは不登校についての御答弁であったと思いますが、感銘深く私は伺いました。
 今、春名委員から、たくましい子供に育ってほしいという御指摘に対しまして、そんなことはというお話がありましたけれども、私は、たくましい、かわいらしい、桃太郎さんじゃありませんけれども、そういう子供に育ってほしいというのは自然な感情だと思うんです。
 私どもはまさに、戦前の軍国主義の時代に戻ろうとか、戻そうとか、いろいろなそういう底意などは一切、我々自民党の委員も、ほかの皆さんもそうだと思いますけれども、ないんですね。もう少し率直に物を考えて、子供たちがすくすくとたくましく育って、そしてそれぞれが自己実現をし、また、立派な、健全な家庭を営み、社会人として活躍し、そしてまたそれが国を支える人材になる、そういう意味でたくましい子供として育ってほしいという意味と私は承っていたわけでございまして、そこら辺、二十一世紀の教育のあり方を考えるときに、そういう観点をしっかり持っていきたいなということを申し上げておきます。
春名委員 申しわけありません、一言で終わりますので。
 今お話が出たことで私感じていることですが、たくましいそのもの一般を否定はしないんですが、たくましい子供の方がいいに決まっているので。ただ、そのたくましいというのは何を意味しているのかはよく見えないということが一つ。
 もう一つ、私が言っているのは、教育基本法というのは、教育の目的に人格の完成を据えて、平和的な国家及び社会の形成者の育成を期すということを掲げたわけですよね、戦前の反省から含めて。要するに、これは公権力が教育に特定の立場とか人間観を持ち込むことを戒めたものだと思うんですね。そのことを私は言っているのでありまして、そこをぜひ議論していただければと思うんです。
 以上です。
中山会長 これにて教育を受ける権利について、教育基本法の改正に関する議論も含めての自由討議を終了いたします。
    ―――――――――――――
中山会長 本日は、この国会で初めての四小委員長の報告を受けての調査会における自由討議であり、その自由討議の冒頭では、幹事会での協議に基づきまして、議論の口火を切る基調的発言をちょうだいするなど、全体として実に活発な御発言が行われたと思います。
 そこで、最後に、これらの報告及び自由討議を踏まえまして、会長として、一言所感を申し上げたいと思います。
 いわゆる国家の非常事態とは何かということは、憲法上、何ら規定はございません。これが国家にとっての一つの大きな問題であろうと思います。
 主権在民という憲法の基本的な理念に基づいて国会というものが構成をされておりますが、私がちょうど参議院の議院運営委員長をしておりましたときに衆参同時選挙が行われました。そのときに、私は、当時の植木事務総長を招きまして、国家に緊急な事態が発生したときにはどういうことが考えられるかということを尋ねて確認したわけでございます。
 そこは、憲法の五十四条に「衆議院が解散されたときは、参議院は、同時に閉会となる。但し、内閣は、国に緊急の必要があるときは、参議院の緊急集会を求めることができる。」こういうふうに規定されております。
 同時に、衆議院は解散されておりますから、衆議院議員という国民の代表は一人もいないわけでありまして、残されているのは参議院議員だけであります。参議院の特色として、参議院の選挙はその任期内に必ず行う、半数改選が行われますけれども、選挙をやっている人たちも現職議員の立場で次の選挙に臨んでいるわけでありまして、その場合に、緊急集会を求められたときに参議院の議長はどう判断するかということが一つの論点になりました。
 そのときに、植木事務総長が私に申しましたことは、まず第一に、いわゆる外国からの侵略がある場合。それから、天皇のお体に急変が起こって亡くなられるようなとき。また、内閣総理大臣が急病で亡くなるとき。あるいは、大規模な自然災害が発生したとき。これ等を対象にして緊急集会を参議院議長は議院運営委員長に要請して、議運の理事会を開いて決めるというふうな手続を説明されたことがございますが、皮肉にも、そのときに大平内閣総理大臣が急逝されたわけであります。
 この国家緊急事態の項目の一つがそのときに発生をいたしましたが、私は、そのときにまず植木事務総長に、緊急集会を開くかどうか、内閣からの要請があったかどうかということを確認いたしましたが、当時、内閣総理大臣の大平総理は口頭で、内閣総理大臣の体に異常があった場合には官房長官、伊東官房長官を代行に指名していたということでございまして、この場合は、内閣総理大臣が倒れたということで伊東内閣総理大臣臨時代理が内閣の責任者になったわけでありますけれども、当時の安井参議院議長は、緊急集会を開く必要はないということを私に連絡してこられました。
 しかし、そのときの状況を踏まえまして、今考えてみると、国家の緊急事態というものは、今申し上げたような項目以外に、新たに、個人の安全保障を中心としたテロの問題、テロによる内乱の問題、こういった問題等も国家の安全のためには考えておく必要が現時点では発生してきたということで、国の緊急事態とはいかなるものかということを自然災害を含めて憲法上規定していくことが非常に大切であり、今まで申し上げたことはすべてそのときの責任者の個人の判断によっているものでございまして、憲法上の規定がやはり国民の了承のもとに国会で決定されるということは非常に重要であるということを認識したことを、この機会に申し上げておきたいと思います。
 次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。
    午後零時二十三分散会

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