衆議院

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第7号 平成15年5月29日(木曜日)

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平成十五年五月二十九日(木曜日)
    午前九時二分開議
 出席委員
   会長 中山 太郎君
   幹事 杉浦 正健君 幹事 中川 昭一君
   幹事 葉梨 信行君 幹事 平林 鴻三君
   幹事 保岡 興治君 幹事 大出  彰君
   幹事 仙谷 由人君 幹事 古川 元久君
   幹事 赤松 正雄君
      伊藤 公介君    奥野 誠亮君
      倉田 雅年君    近藤 基彦君
      下地 幹郎君    谷川 和穗君
      谷本 龍哉君    中曽根康弘君
      中山 正暉君    額賀福志郎君
      野田 聖子君    野田  毅君
      平井 卓也君    福井  照君
      森岡 正宏君    山口 泰明君
      大畠 章宏君    桑原  豊君
      小林 憲司君    今野  東君
      島   聡君    首藤 信彦君
      末松 義規君    中川 正春君
      中野 寛成君    水島 広子君
      遠藤 和良君    太田 昭宏君
      斉藤 鉄夫君    武山百合子君
      藤島 正之君    春名 直章君
      山口 富男君    金子 哲夫君
      北川れん子君    井上 喜一君
    …………………………………
   衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君
    ―――――――――――――
委員の異動
五月八日
 辞任         補欠選任
  大畠 章宏君     鈴木 康友君
  今野  東君     近藤 昭一君
  藤島 正之君     一川 保夫君
同日
 辞任         補欠選任
  近藤 昭一君     今野  東君
  鈴木 康友君     大畠 章宏君
同月十三日
 辞任         補欠選任
  一川 保夫君     藤島 正之君
同月十五日
 辞任         補欠選任
  野田 聖子君     伊藤信太郎君
  島   聡君     中川 正春君
同日
 辞任         補欠選任
  伊藤信太郎君     野田 聖子君
  中川 正春君     島   聡君
同月二十九日
 辞任         補欠選任
  伴野  豊君     中川 正春君
    ―――――――――――――
本日の会議に付した案件
 日本国憲法に関する件
 派遣委員からの報告聴取
 小委員長からの報告聴取

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     ――――◇―――――
中山会長 これより会議を開きます。
 日本国憲法に関する件について調査を進めます。
 去る十二日、石川県に、日本国憲法に関する調査のため委員を派遣いたしましたので、派遣委員より報告を聴取いたします。仙谷由人君。
仙谷委員 団長にかわりまして、派遣委員を代表いたしまして、その概要を御報告申し上げます。
 派遣委員は、中山太郎会長を団長といたしまして、幹事葉梨信行君、幹事中川昭一君、委員桑原豊君、委員遠藤和良君、委員一川保夫君、委員春名直章君、委員金子哲夫君、それに私、仙谷由人を加えた九名であります。
 なお、現地において、奥田建議員が参加されました。
 地方公聴会は、五月十二日午後、金沢市の金沢全日空ホテルの会議室において、日本国憲法について、特に非常事態と憲法、統治機構のあり方及び基本的人権の保障のあり方をテーマとして開催し、まず、中山団長から今回の地方公聴会開会の趣旨及び本調査会におけるこれまでの議論の概要の説明、派遣委員及び意見陳述者の紹介並びに議事運営の順序を含めてあいさつを行った後、山本利男君、福井県立大学教授島田洋一君、弁護士岩淵正明君、弁護士松田智美さん及び大学教授鴨野幸雄君の五名から意見を聴取いたしました。
 なお、意見陳述を予定されておりました蓮池ハツイさんは、お身内に御不幸があったことから欠席されたため、意見陳述応募の際に寄せられた意見の要旨を事務局をして朗読させ、意見の概要を紹介いたしました。
 各意見陳述者の意見内容につきまして、簡単に申し上げますと、
 山本君からは、憲法を改正すべきであるとの立場から、前文における不自然な文言については削除すべきである、愛国心、郷土愛及び利他の心を明記すべきである、憲法改正手続を他の項目に優先して改正すべきであるとの意見、
 島田君からは、北朝鮮による邦人拉致は重大な人権問題であり、この問題の解決のためには、最終的には武力行使をも辞さないとの強い態度で臨むべきであって、そのためにも、前文及び九条を削除すべきであるとの意見、
 岩淵君からは、今求められているのは、日本と世界の現実の中で憲法の理念を確認して生かすことであり、北朝鮮問題についても、憲法の求める武力によらない平和的解決の手段を模索すべきである、九条の改正は歯どめなき軍事拡大路線へと進む可能性が大きく、断じて認められないとの意見、
 松田さんからは、憲法十三条が規定する幸福追求権により、新しい人権を保障することは可能であり、同条で保障された人権を具体的に立法化することによってその目的は達成できる、また、現在、国会で審議されている個人情報保護法案については、真に国民のプライバシー権を保護できるか否かという観点から、再検討すべきであるとの意見、
及び
 鴨野君からは、地方自治は、住民の自己決定権という人権保障の原理及び国民主権の原理に由来するものであって、地方自治体には国と対等、並立の関係に立って国民に対して協働する権限がある、
 現行法制で不十分な点については、実定法による補充が必要であるとの意見
がそれぞれ開陳されました。
 なお、蓮池さんから意見陳述応募の際に寄せられた意見の内容は、自分の息子が北朝鮮によって拉致され、二十四年間もその帰りを待ち続けた経験から、北朝鮮による邦人拉致は基本的人権侵害のきわみであり、国家主権の侵害である、また、到底許すことのできない凶悪犯罪であり、国家テロであって、基本的人権を保障するのが国家の役割だというのであるならば、日本国憲法など、この国では遵守されていないと言っても過言ではないというものでありました。
 意見の陳述が行われた後、各委員から、教育のあり方、北朝鮮による邦人拉致や核開発の問題についての解決策のあり方、北東アジア地域における平和構築のための方策、地方分権改革のあり方、市町村合併のあり方、新しい人権の保障のあり方や憲法への明記の是非などについて質疑がありました。
 派遣委員の質疑が終了した後、中山団長が傍聴者の発言を求めましたところ、傍聴者から、憲法の条文中には問題があるものが多いとの認識からの憲法改正の必要性、憲法の掲げる平和主義の立場からの拉致問題解決の必要性、国際的な人権侵害については武力ではなく国際法によって対処することの必要性、過去の戦争に対する反省をもとに憲法の理念を発展させていく必要性等についての発言がありました。
 なお、会議の内容を速記により記録いたしましたので、詳細はそれによって御承知願いたいと存じます。また、速記録ができ上がりましたならば、本調査会議録に参考として掲載されますよう、お取り計らいをお願いいたします。
 以上で報告を終わりますが、今回の会議の開催につきましては、関係者多数の御協力により、円滑に行うことができました。
 ここに深く感謝の意を表する次第でございます。
 以上、御報告申し上げます。
中山会長 これにて派遣委員の報告は終わりました。
 お諮りいたします。
 ただいま報告のありました現地における会議の記録は、本日の会議録に参照掲載することに御異議ございませんか。
    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
中山会長 御異議なしと認めます。よって、そのように決しました。
    ―――――――――――――
    〔会議の記録は本号(その二)に掲載〕
    ―――――――――――――
中山会長 次に、各小委員会において調査されたテーマについて、各小委員長からの報告を聴取し、委員間の討議に付したいと存じます。
 議事の進め方でありますが、小委員会ごとに、まず小委員長の報告を聴取し、その後、そのテーマについて自由討議を行います。
 なお、各テーマごとの自由討議における最初の発言者については、幹事会の協議決定に基づき、会長より指名させていただきます。
 自由討議の際の一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、会長の指名に基づいて、御着席のまま、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いをいたします。
 御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。御発言が終わりましたら、戻していただくようお願いいたします。
 発言時間の経過については、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせいたします。
    ―――――――――――――
中山会長 それでは、まず国際機関と憲法について、安全保障及び国際協力等に関する調査小委員長から、去る八日の小委員会の経過の報告を聴取し、その後、自由討議を行います。安全保障及び国際協力等に関する調査小委員長中川昭一君。
中川(昭)委員 本小委員会は、五月八日に会議を開き、参考人として、AMDAグループ代表・特定非営利活動法人AMDA理事長菅波茂君及び財団法人日本国際問題研究所理事長佐藤行雄君をお呼びし、安全保障及び国際協力の分野における国際機関と憲法をテーマとして御意見を聴取いたしました。
 会議における参考人の意見陳述の詳細については会議録を御参照していただくこととし、その概要を御説明申し上げますと、
 菅波参考人からは、
 まず、みずからの判断で危険を承知で平和の実現のために活動するNGOは平和主義者と言える。戦争をせず、金銭援助をし、メッセージを発するという国際協調主義を貫徹するためには、啓典の民との有言実行型の行動に基づく連携が不可欠である。現在は、ポジティブリストで行動する政府組織とネガティブリストで行動するNGOとの連携のもとに公益を確保すべき時代であるとの認識が述べられました。
 その上で、日本は、政府組織とNGOとの連携を図り、国民参加型人道支援外交を貫いて人間の安全保障を追求するなど、急激に変化する時代に対応するシステムを確立することにより、多様な社会におけるイニシアチブを発揮することができるとの意見が述べられました。また、殺人によるメッセージであるテロへの対策には、そのメッセージの分析が不可欠であるとの意見が述べられました。
 佐藤参考人からは、
 国連が、日本で一般に抱かれているイメージと異なり、安全保障理事会を第二次世界大戦の戦勝国が牛耳っていることを初めとして、未完成の組織であることを前提に、事務総長、総会・経済社会理事会及び安保理事会の現状、これらの機関への日本の関与等について説明がなされました。
 そして、これらを踏まえた上で、日本は、国連を重視し、その改善に尽力すべきであるとともに、みずからが常任理事国になるか否かの問題は別として、国連を機能させるため、安保理事国枠の拡大、新常任理事国の選定、拒否権の行使の態様等に係る安保理改革を主導していくべきであるとの意見が述べられました。
 また、国連の実態調査のため、憲法調査会として調査団を派遣すべきであるとの要望がなされました。
 その後、参考人の意見陳述を踏まえまして、質疑及び委員間の自由討議が行われました。
 そこで表明された発言を総括すれば、
 国際協力の分野においては、国連やNGOが重要な役割を果たしてきたことに対し一定の評価をし得るものの、テロ対策を初めとする安全保障の分野においては、イラク問題を契機として、国益と国益とが衝突する場という側面を有する国連の現状認識を踏まえ、国連のあり方が問われているとの点については、委員間でほぼ共通した認識が得られたものと思われます。
 他方で、国連の安全保障に係る機能をどのように改善し、これに我が国がどのような形で参画していくか、また、NGOをどのようなものとして我が国の社会システムの中に位置づけていくかといった点については、委員間で見解の違いが見られました。
 北朝鮮問題を初めとする現在の我が国を取り巻く国際情勢を踏まえれば、テロ対策は早急に講じなければならないこと、NGOの役割は今後一層重要となることが予想されること等にかんがみれば、これらの諸点に係る憲法上の諸問題につきまして、早急に合意形成を図る必要があると感じました。
 今後も、これまでの議論を踏まえた上で、我が国の安全保障及び国際協力等のあり方についてさらに議論を深めていくことが必要であると考えております。
 以上、御報告申し上げます。
中山会長 これより、国際機関と憲法、特に安全保障、国際協力の分野における諸問題について自由討議を行います。
 まず、金子哲夫君。
金子(哲)委員 私は、社会民主党・市民連合の金子哲夫です。
 国際協力と国連という観点で意見を述べさせていただきたいと思います。
 さきの小委員会で、佐藤参考人は、国連はまだまだ未完成な組織だということが指摘をされ、さらに、日本の国内で国連について抱かれているイメージと国連の実態は大変違うということを強調されました。確かに、ある意味ではそのとおりだと言えます。安全保障理事会常任理事国の拒否権の問題など、改革を進めなければならない課題は多くあるのは周知の事実です。
 しかし、佐藤参考人も指摘されたように、大切なことは、国連の今果たしている役割であります。国連が憲章でうたう精神と我が国憲法とがどのような関係にあるかということであり、さらに、今日の国際社会にあって、平和と安定にとって国連がどのような役割を果たしているのか、また果たし得るのかということをしっかりと検証することが重要であります。
 国連憲章は、その前文で、我らの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨禍から将来の世代を救うとし、さらに、国際の平和及び安全を維持するために我らの力を合わせると、その平和主義をうたい、さらに第二条では、すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないよう解決しなければならないと、国際紛争を平和的に解決するために最大限の努力を行おうとしています。
 まさに平和憲法と同じ精神を持っていると言うことができます。だから、日米安保条約においても国連ということが強調されていると思います。そうした考えと方向性を持って、世界は国連を中心に、世界秩序を維持するために戦後努力を続けてきたと言ってよいと思います。また、国連にその役割を求めたと言えます。特に我が国は、さきに述べた憲法の精神からも、そのような立場に立って、国連とのかかわりを強め、国際協調、とりわけ国連中心主義ということを強調してきたと言えます。そして、その国連に対する期待は冷戦崩壊後一層強まったと言ってもよいと思います。
 しかし、今回の米英両軍によるイラク攻撃は、国連決議がないばかりでなく、防衛とはいいながら、先制攻撃を行ったのであり、国連憲章がうたう方向とは相入れないものと言わざるを得ません。イラクへの米英軍による軍事行動は、今世界が求める方向性を否定したものと言わざるを得ません。
 その意味では、イラクの戦後復興をどう進めていくのかは、壊された国連の権威を回復し得るかどうかの試金石でもあると言えます。ですから、イラクの戦後復興は国連決議や合意に基づいて進めていくことが重要だと考えています。
 今後も、我が国は、国連を中心とした世界の平和と安定をつくり出すために全力を挙げるべきです。
 今、我が国においても、イラクの戦後復興に関して、自衛隊を派遣すべきだという議論が進んでいます。なぜ自衛隊なのかと率直に感じます。イラクにおいてアメリカ軍が歓迎されていないということがマスコミでも報道されています。このことは自国に他国の軍隊が進出することを歓迎しないということであり、いまだ新たな政権が確立していない状況であるということもしっかり認識することが大切だと考えております。
 大事なことは、国連を中心として枠組みをつくることであり、その上に立って、戦後復興をどのように進めるのか、その課題を果たすために我が国はどのような役割を果たせばよいのかをしっかり議論するということであります。とにかく、まず自衛隊の派遣ありきから出発する論議のあり方に大きな疑問を感じています。大事なことは、今イラク国民にとって最も必要とされていることは何かということ、そして、我が国は現憲法の枠内において何ができるかが政策検討の中心でなければならないはずだということを改めて強調したいと思います。
 次に、NGOについて意見を述べたいと思います。
 世界的にNGOの活動が大きな役割を持ってきていることは間違いありません。政府外交を補完する意味から、より積極的な人道援助外交としての役割を担うこととなってきていることを考えますと、NGOの活動と政府が進める外交とがより密接にリンクしていくことが重要になっているとも言えます。もちろん、当たり前のことでありますけれども、NGOの独立性と自主性が保障されることは当然なことです。
 私たちは、このNGOの活動をより積極的に評価していくことも必要ではないかと考えます。そして、そうした側面をより積極的に受け入れた外交を進めることは、自衛隊の派遣を強調することよりも、憲法の平和主義ともつながっていくように思います。
 以上、私の意見を終わります。
中山会長 御発言を御希望の委員は名札をお立てください。
奥野委員 自由民主党の奥野誠亮であります。
 今までの御報告や御意見を聞いておりまして、私は、国際協調主義、非常に大事なことだ、こう思っておりますし、また、国際社会に日本が貢献していくべきである、その姿勢も非常に重要なことだと思っておりますが、何でいつまで国連中心主義と言うんだろうか。私は、日本人は少し占領政策によって誤解させられている面が多分にあると思うんです。
 第一次世界大戦の後で、国際連盟が生まれました。そのときに、日本は、規約の中に人種の平等をうたい込もうとより努力をしたわけでございましたが、一部の反対でついになし得ませんでした。続いて、大東亜戦争の詔書には、一つは、自存自衛のために立ち上がらざるを得ないという言葉とともに、東亜が白人の植民地になっておるために生活に大変な不安を抱えているという意味合いの言葉がございます。そういう過程で、大東亜戦争と呼んだわけでございます。事実、アジアの大部分は白人の植民地でありました。しかし、日本は負けましたけれども、その後、多くの植民地がみんな独立を果たしてきたわけでございます。
 国際連合が生まれましたときには参加国は五十一カ国でありましたけれども、現在は百九十一カ国に及んでいるわけでございます。私は、日本の果たしてきた役割も非常に大きなものがあったと思います。しかし、国際連合が生まれましたのは、またと侵略戦争を起こさせない、そのためには国際連合自身が武力を持たなければ解決できないということで、国際連合みずからが武力を持つという規約になっているはずでございます。
 そして、連合国の主要な国が安保常任理事国になっておりまして、拒否権まで持っているわけであります。大多数の国が決めても一国が反対したら成り立たない規約になっているわけであります。そして、連合国と反対側に立った日本やドイツが敵性国家と規定されているわけであります。しかも、現在の国連の経費の、アメリカが二二%を持っております。日本は二〇%です。正確には一九・五%でしょう。三番目は、ドイツの一〇%であります。二位も三位も、経済的には大変な貢献をしながらも、敵性国家と規定されたままでございまして、言いかえれば、国際連合の監視を受けながらやっているような姿になっているわけでございまして、不名誉きわまることだと思うんであります。
 だから、私は、いつまでも日本が国連中心というようなことは言わないで、国際協調という路線を大きく出したらいいと思いますし、国際貢献ということも、我々は犠牲を払ってでも努力していかなきゃならないという姿勢は出すべきだと思いますけれども、やはり国連そのものを、国際連盟から国際連合になった、次はまた新しい国際組織をつくっていくという姿勢を、私は、日本みずから出して何もおかしくないんじゃないかと。
 いつまでも日本は、極東国際軍事裁判で決めつけられたように、侵略国家だ、侵略国家だという、何でそんなに萎縮したような考え方ばかり持っているんだろうか、持たされているんだろうか、こう思うわけでございます。しばしば私は、けんかというものは一方がよくて他方が悪い、そんなことはないのであって、両方が反省していかなきゃならないと思います。
 あの当時の国際情勢を考えましても、日本にも反省すべきことは多々ありましたけれども、世界にも同じように問題があったわけでございまして、やはり国民自身の考え方を、憲法調査会の論議を通じましても、真実を理解させる努力もしていかなきゃならないと思いますので、今のような国際連合についての考え方が従来どおりに通っていくことについては私たちも反省をしながら、今後の日本のあるべき姿を求めていきたいな、憲法との関係も求めていきたいな、こう思っておるわけでございまして、平和主義という、言葉は非常にいい言葉でございますけれども、やはりテロに対してはしかるべき対応をしていかなきゃならないんじゃないかなと。
 私がしばしば言います言葉に、いまだに何十年、飛行機に乗る場合には身体検査を受けるわけでありまして、こんなような姿を後々に残しておくということは、今に生きる者の恥辱じゃないか、こうまで思っておるわけでございますので、この辺は少し、極東国際軍事裁判で裁かれた姿そのままに思い込まされているような日本の姿は、もう一遍正しい姿を理解されるように努力をしていきたいな、こんなことを訴えておきたいと思います。
中川(昭)委員 まず、これは金子委員に対しての私の考え方が中心でありますけれども、先ほど私は小委員長として御報告申し上げましたが、佐藤参考人は、御承知のとおりつい最近まで国連の日本大使を務めておられた方でございますから、国連内部の実情についてはいろいろな意味で御存じだったというわけであります。
 そういう中で、これは私の感想でありまして、発言は私の責任で、佐藤さんにはありませんけれども、大変な御苦労と、それからまた、もっとやれることがあるのではないか、やらなければいけない、でも、できない。その一つの例が、安保理事会の常任、非常任理事国のメンバーになっていないと、本当に、例えは悪いかもしれませんけれども、廊下の外でマスコミのように取材をしまくって情報を集めているというこの現状というものに、日本が一定の貢献をなされるという、日本にはそれだけの能力があるにもかかわらずできないということの歯がゆさというものを、これは私の印象ですけれども、感じたわけであります。
 そういう非常に抑制された御発言をされたと私は思っておりますけれども、それにもかかわらず、それを超えて、佐藤参考人からは、国連は、日本でのイメージと、実際に中にというか、関係している人たちから見るイメージとはかなり違っているんだということ、それから、安保理というのは、いわゆる五常任理事国を中心とした第二次世界大戦の戦勝国が牛耳っているという、この牛耳っているという言葉に極めてその気持ちがあらわれているのではないかと私は思うわけであります。
 したがって、国連を本当に世界の、これは安保理だけではありません、経済社会理事会の人権問題とか貧困問題とかいろいろあるわけでありますけれども、本当の意味で国連を世界百九十カ国以上の国々の期待にこたえるためにどういうふうにしていったらいいのか、それができるのかできないのか、極端に言えば見きわめをどこまでつけるのかつけないのかという判断を、これは日本だけではなくて少なくとも世界の主要な国々が、今その判断を迫られているという時期だろうと思います。
 そこで、金子委員の先ほどの御発言についてでありますけれども、イラクにまず自衛隊が行くことありきということがいいのかどうかという御発言がありました。今、奥野委員からもお話ありましたが、システムとしては、国連軍というものがあることはあるわけであります。国連軍は、朝鮮戦争で国連軍が出ていったことになっております。国連の旗を持って行ったことになっておりますけれども、あれは実質米軍であった、あるいはまた、ソ連が欠席をした中での安保理決議であった、いろいろ問題点があることも私は承知をしております。
 今、国連軍という話をしたら金子委員は首をかしげておられましたが、何で国連軍なんだと。しかしそこに、今イラクには、まだ旧支配勢力が一体どの程度残っているのか残っていないのか、あるいはまた、どんなに危険な状況があるのかないのか、カンボジアの地雷とはまた違った意味の、もっと激しい危険な状況が現にまだ現在進行形にあるという事実をきちっと認識しなければならない。
 あるいは、周辺諸国からのいろいろな動きもあるわけでありますし、何よりも、我々にはちょっと想像のできない宗教的ないろいろな対立とか民族的な対立とかいったものも根深くあるわけでありますから、何とかあのフセインの独裁体制あるいはテロ体制を崩壊させたといっても、では、その後イラクを復興させるためにはどういう措置がいいのかということについては、では、一体だれが行ったらいいんですか、イラク支援そのもの、復興支援そのものを御否定なさるんですか。あるいは、最も危機管理に対応できる軍人さんが行かないとするならば、一体だれが行くんですか。金子さん方が行ってきちっとやってくれるんですか。
 そういう具体的な現状とそれに対する有効な対応策を示さないで、ただ、自衛隊が行くのはそもそも議論としてけしからぬとか、あるいはその前には、アメリカは自衛とはいえ先制攻撃をやったのはけしからぬとか、そういう昔からおっしゃっている、先制攻撃はいかぬ、あるいはまた自衛隊そのものが行動、ちょっと動くこともけしからぬという状況から、国際状況も常にいろいろな形で動いている。それに最善の対応をすることがどういうことなのかということを硬直的ではなくて柔軟に、その場その場のベストの対応ができるようにするのが、まさに今我々が求められている国際社会における貢献ではないかというふうに私は考えます。
 以上です。
春名委員 日本共産党の春名直章でございます。
 国際機関と憲法について議論する上で、やはり、今の中川委員のお話とも結びついた話になりますが、一つは、イラク戦争をどう見て、世界の平和秩序を展望する上でこれがどういう意味を持っているのか。二つは、その中で国連あるいは国際社会の動きをどう見るべきなのか。三つは、日本政府がとった態度をどう評価すべきかということが、国際機関と憲法について議論する上で非常に大事な局面だと考えております。
 参考人で陳述をされた元国連大使の佐藤さんが、アメリカの国連に対する態度は、利用しがいがあるときには利用するし、利用しがいがないときには無視とまでは言わないまでも軽視するというふうに陳述をされました。今、その方針が、国防報告などで明らかなように、気に入らない国は国連の決定がなくても先制攻撃を辞さないというところまで進みまして、イラク戦争はそれを実際に実行に移したあしき例になってしまったというふうに思うんです。
 今、国際社会が求められているという点について言いますと、アメリカによるイラク戦争を追認するのではなくて、やはりこの戦争の無法性や違法性についてきちっと徹底するということが引き続き大事であります。第二点目は、アメリカはイラク戦争後、シリアやイランや北朝鮮などの名前も挙げて、先制攻撃戦略の発動も選択肢にあるというふうに公言しておりますので、これ以上、無法なそういうやり方は拡大させないということをはっきり国際社会として進めていくことが大事だと思います。第三に、イラクの軍事占領をてこにして石油資源を収奪するなどという企図が語られておりますけれども、その意味では新しい植民地主義と言わざるを得ないような状況があるわけで、こういうことを許さないということが国際社会に今問われている局面だと私は思っています。
 第二に、イラク戦争との関係で、国連の役割についてであります。
 国連は機能不全に陥ったという議論もあります。しかし、これは大変一面的で皮相的な見方だと考えます。実際、時系列を見てみますと、イラク戦争に至る経過の中で、昨年九月からことしの三月にかけて国連安保理を舞台に大変激しい外交交渉をやられました。超大国の戦争をその意味で半年間食いとめることになったというふうに思います。外交的な戦いで、アメリカは国連の戦争容認の決議を得ようとして各国に圧力をかけましたけれども、国際社会は最後までその圧力に屈することなく、その意味で深刻な外交的敗北という中で戦争に突入するということになりました。
 国連が戦争を食いとめるための本来の機能と力を今回ほど発揮したことはないというふうに言えるんじゃないでしょうか。これらは、明々白々なアメリカのあの六〇年代のベトナムへの侵略戦争のときには、ほとんど国連はそういう機能を発揮できませんでしたが、その当時と比較しても、大変大きな歴史的な意味を持つものになっているというふうに考えます。
 金沢の地方公聴会が開かれましたが、その中で岩淵陳述人が、国連安保理がイラク攻撃容認の決議を許さない、アメリカが国際社会の正当性を得られなかったことをその意味で強調しました。国連は無力だったんじゃなくて、超大国アメリカの無法な戦争を食いとめるために力を発揮したということで、ここに世界の平和ルールを取り戻していく道があるということを発言されておられました。
 さて、最後に、日本政府の態度についてなんですが、この戦争に直ちに支持を表明したことに対して中東諸国民から、例えば、なぜ日本は戦争を支持したのか理解できない、原爆を落とされ、第二次世界大戦で被害を受けた日本こそ戦争の悲惨な実態を知っているはずなのにという批判がなされていることも受けとめるべきだと思うんです。
 今の自衛隊の部隊の派遣の問題について言いますと、自衛隊の派兵は、イラク国民の意思に基づく復興という点で考えれば、逆行する事態にならざるを得ないと思うんです。イラク国民の意思に基づく復興というのは国連中心にその役割を果たしてこそ可能になるので、米英軍支援のための派兵ということに今の形ではなりますので、これは有害無益になってしまうし、無法な戦争の上に今軍事占領を行っている米英軍による占領支配に参加することは、その意味で憲法が禁止している武力行使にもつながりますし、今、人道支援で国際機関がさまざまな努力をされていますので、そういう分野で貢献することは大いにやりながら、自衛隊派兵先にありきというやり方には私は異議を唱えるものであります。
 以上です。
中山会長 この機会に、先ほど中川昭一君の御発言に関連する限りで、ここで金子君を再び指名します。
金子(哲)委員 発言の機会をいただきまして、ありがとうございます。
 私は、中川幹事が発言されたことをすべて否定するわけでもありませんけれども、きょう私が発言したことは、ある意味では中川幹事がおっしゃったことと同じだと思うんです。今のイラクの状況を含めてしっかりと検証していく、そして、イラクの国民にとって何が今一番必要なのか、同時に、日本の憲法とのかかわりでどうやるべきかということを申し上げているわけです。
 私がなぜそのような指摘をしたかといいますと、五月の連休明け早々から、与党の幹事長を中心にして、イラクの復興には自衛隊の派遣という言葉がずっと出てきたわけです。なぜあの時期で、むしろ逆に言えば、まだあの当時はイラクの国内の安定も十分でない状況の中で自衛隊なのかということが問われているわけであります。さらに、今中川幹事からのお話の中でも出ておりましたように、今なおフセイン体制を支持する人たちの反抗の状況もあるということが仮に想定されるとすれば、場合によれば反撃、戦闘状況ということも想定しなければならない。逆の意味で言えば、そういう状況のときになぜ、いわば、外国から見れば軍隊とも見れるような自衛隊を出すことが今の時点での中東における諸国との関係の中でイラク復興に重要なのかということは、しっかり論議した方がいいということを申し上げております。
 それから、佐藤参考人のお話については一致をすると思います。ただ、大事なことは、やはり国連を中心にして、先ほど奥野委員のお話はありましたけれども、日本というのは国連を中心にしてやっていく、そのためにどのような努力をするか。今回不幸な事態が出てきたけれども、しかし、日本はやはり国連を中心とした国際秩序をつくっていくしかないということを私は強調したわけであります。
 しかし、今のままの姿でいいのかどうかということは、私も、先日参考人のお話を聞いて、改革をしなければならない課題はたくさんある、安全保障理事会のあり方もどうあるべきかというようなことも検討するべき課題だというふうに思います。その点では、前回の参考人のお話は十分私どもも参考になったと思います。ただ、今の状況というのは、基本的な考え、スタンスとして、やはり日本というのが国連を中心に考えていくのかどうかを今問われているということだというふうに思います。
赤松(正)委員 公明党の赤松正雄でございます。
 先ほど、金子委員の発言、それに対して中川委員の発言、また春名委員の御発言がございました。それに関連をいたしまして、直接でない部分があるかもしれませんが、その周辺のお話について意見を申し上げさせていただきたいと思います。
 今、まず自衛隊ありきという角度はおかしいというお話がございました。私も、何でもかんでもまず自衛隊というふうな考え方はとりませんけれども、しかし、今のイラクの事態を踏まえてイラクを復興支援するという観点からいけば、やはりいろいろな意味で、単にいわゆる武装云々ではなくて、あらゆる事態に対応できる訓練をした人間という意味で、さまざまなる事態に対するノウハウをしっかり踏まえた人たちという意味で自衛隊を考えることについては、そう異論はないといいますか、おかしいとかどうかというふうに最初から決めつける必要はない、そんなふうに思っております。
 実は、昨日、私どもの党で元国連事務次長であった明石康さんを招きまして、今のイラク復興支援の問題だけではなくて、広く日本の安全保障、国際社会における日本の位置づけ、そういった問題についてお話を聞き、そして意見交換をする機会がございました。そのときに極めて示唆に富んだお話をされておられたので、それを紹介するとともに、私の意見を申し上げさせていただきたいと思います。
 今、イラクの事態というのは、言ってみれば、国連PKOという形ではなくて、米英を中心とした多国籍軍による復興支援という、平和をどうもたらすかという事態が展開しようとしている場面であろうと思います。かつてブラヒミ報告の中で、PKOは平和、共生を担うものではなくて、多国籍軍しか本格的な治安維持は行えない、こういうふうな報告がありましたけれども、まさに、ある意味で、イラクの事態はこうしたブラヒミ報告に適合する場面ができてきているんだろう、そんなふうに思います。
 その際に、明石さんは、多国籍軍が行う活動に日本が協力する場合、一つは、国連安保理決議に基づく、二つは、物資運輸などの後方支援に限定される、二つの条件を守ることが必要であろう、そういうふうなことを強調されておりました。これについて、私どもも全く異論はございません。
 その上で、今度はイラク人への人道復興支援についてこういうふうに述べておられました。もし、特別立法に基づいて、当面の暫定統治に当たる米英両国の活動に仮に自衛隊を派遣し、協力をするのであれば、後方支援に活動を限定すべきであるけれども、直接的な治安維持活動との境界線が不明確になるおそれもあり、PKOに協力するときとは別の武器使用基準が必要になるかもしれない、こういうふうに述べておられました。
 実は、皆さんも御承知であろうと思いますが、この明石さんが中心となって、国際平和協力懇談会が昨年数回にわたって会議を開かれて、その集約的な報告を昨年末に出しておられますけれども、その中で、いわゆる武器使用基準なるものについて新しい立法の整備が必要であろう、こういうふうな提案をされております。
 一つはいわゆる警護任務、あるいはもう一つは任務妨害に対する対応、いわゆるbタイプというものについて可能になるような法整備を検討するべきだという提案をしておられることが非常に注目を集めていたわけですけれども、私は、昨日の会合の場で、明石さんに対しまして、今回のイラク支援というものを、仮に新しい法を考えるといった場合に、先ほど申し上げたような、国際平和協力懇談会の中でおっしゃっている武器使用基準について、新しい展開というものを必要と考えるかどうかという質問をいたしました。
 私個人としてはそういったことが必要であると考えているんですけれども、明石さんは、中長期的な課題としてそういうものは必要であるけれども、今回の場面でそのことを慌てて装備する必要はなかろう、こんなふうな考え方を申しておられましたことが極めて印象に残りました。
 ともあれ、憲法の枠の中での武器の使用、そして武力行使というものについては、今、改めて強く私たちは、憲法に基づく考え方はどこまでの範囲なのかという議論をいろいろな場面で展開していく必要がある、こんなふうに考えていることでございます。
仙谷委員 仙谷でございます。
 先般のAMDAの菅波参考人の御意見、そしてきょうの金子さんの御意見、その限りにおいて、私はそれほど異とするつもりはないわけでありますが、ただ、従来から、この種の議論でお願いしたいのは、やはりそこにおいて欠けているといいましょうか、あるいはあえて棚上げにしようとしておる部分があるのではないかというふうに感じてならないわけであります。
 それは、主要には、まさに自衛隊を憲法上どう位置づけ、あるいは国連憲章に基づく日本の軍事的といいましょうか、あるいは軍事技術的といいましょうか、そういう側面における協力について、全くこれを棚上げしてしまうということでは、いわゆる日本の領土、領空、あるいは国民の防衛といいましょうか自衛についての、せっかく村山内閣でお認めになった合憲論なり安全保障上の政策というものが忘れ去られてしまうという点において、半分抜けたような議論になっているのではないか。それは対国連との関係でも同様であります。
 こういうふうにお考えをいただきたいと思いますのは、この間、金子さんあるいは土井代表の御意見を伺っておりましても、例えば金大中さんの太陽政策、包容政策については非常に高い評価を与えていらっしゃったと思います。あるいは、今回のドイツのシュレーダー首相、フランスのシラクあるいはドビルパン外相の活動についての評価は多分プラスになっておるんだろうと私は思いますけれども、その際、例えば韓国のあの太陽政策は韓国自身の、あるいはアメリカ、あそこに常駐する国連軍との連携のもとにおける、国境線なりあるいは領海をきちっと守るという日常の緊張した防衛的な、軍事的な活動がその半分の側面にはあるということを決して忘れないでいただきたいと思います。
 そのことは、韓国が好戦的国家であるはずもなく、つまり、安全保障上、ある状況下でとり得る政策と制度的な保障というのはひとまず別問題という、つまり憲法上の問題もひとまず別問題という観点で考えていただかないと、絶えず憲法上の議論がすべて安全保障政策上の、つまり一つの憲法上の解釈がすべて安全保障政策を律するということになってきますと、これはもういかんともしがたい硬直した議論になって、多分そのことは、国民の心理的な不安感を解消させるといいましょうか、不安感を和らげることにもならないのではないかというふうに私は思います。
 もう五年ぐらい前になりますが、韓国に、金大中大統領の就任式、祝賀式典に行ったときに、当時の統一院長官と、康さんと言ったと思いますが、お会いして話しました。そうすると、韓国の備えというのは、政策としての平和外交政策といいましょうか、今度は盧武鉉さんは平和繁栄政策でありますが、そういう外交努力と、その基底をなすといいますか、底にある決然とした防衛の備えというものについては、やはり両面を持たない限り、とりわけ現在のような非常に複雑かつ混迷したアジアの中で我々日本も生きていけないのではないか、そんな気がしてならないわけでございまして、そのことを申し上げたいと思ってお願いをいたしました。
中野(寛)委員 中野寛成です。
 先般の菅波さん、佐藤さんのお話は、大変興味深いものがありました。井の中のカワズという言葉がありますが、ある意味で、井戸を飛び出して外を見てきた人の話を聞く思いがいたしました。
 そういう中で、国連の問題がクローズアップされておりましたが、たかが国連、されど国連、国連をないがしろにしてはいけないと思いますし、アメリカから見れば、時にたかが国連と見えるかもしれません。しかし、我々、我が国から見れば、されど国連という気持ちを忘れてはならぬと思います。とりわけ佐藤さんは、国連におられただけに、国連を過度に評価せず、かつまた軽視せずという姿勢をとられたと思います。
 そして、その未熟な部分を完成させるのが、ある意味我々日本の役割なのではないか、このようにも思います。あれだけの分担金を払いながら、その国連をないがしろにされるようなことを日本は許してはならない、こうも思います。もちろん、敵国条項も残り、そして、例えばPKOにしても、国連憲章の中に明記されないままに実行されている。また、常任理事国の構成、先ほど第二次世界大戦の戦勝国が牛耳っているという言葉がありました。まさにそうなのでありますが、だからこそ、むしろ国連改革を日本はもっと熱心にやっていくべきなのではないかと思います。
 私は、国家の主役、主人公は国民だ、こう言われますが、国連の主人公はその構成国家だと思います。そういう意味では、主人公としての役割を日本はもっともっと果たすべきだというふうに思っております。
 これから未来を考えるときに、国連以外に世界の秩序また国際世論を集約し得る場というものがほかに求められるだろうか、せっかくのもくろみとして始まって、そして五十有余年の歴史を経過した国連をいかにして完成させるかという視点に立ち、また、そこと日本国憲法の将来のあり方について関連をさせて議論をしていくことがむしろ大切なのではないか。国連がない場合を想定した日本国憲法という発想は、やはり我々はとるべきではないというふうに思います。
 と同時に、安全保障について、一つの特色としてこういう文章を読んだことがあります。英米は国益を中心にして考える。その政府の行動が法規範の枠内であるか、それを超越しているかという判断を後で議会や学者が議論をする。しかし、ヨーロッパ大陸の国、ドイツやフランスなどは、法律の、または憲法の枠内で政策の選択をするという習慣があるという話を聞きました。
 日本は、その英米とつき合いながら、みずから持っている方式はヨーロッパ大陸方式という実に相矛盾した政治を今の日本はやっているのではないのか、とりわけ最近の日本の政府の風潮はその傾向が大変強い、こんな感じがいたします。そこは、やはり硬性憲法を持っている日本の、ある意味では長所かもしれませんし、弱点かもしれません。
 よって、我々は、国際情勢の変化、時代の変化というものにも対応し得る憲法のあり方というものを、硬性憲法か軟性憲法かの議論も含めて、やはりなお詰めていきたいものだと思います。
島委員 島聡でございます。
 まず、イラクの復興支援に対しまして、これが現実に、きちんと言いますと、米英を中心とした多国籍軍によってなされるしかないであろうという赤松先生が言われた意見は、私も同じ現状分析をしています。
 そういうときに、まず具体論から言いますと、もちろん国連決議が必要であることは言うまでもない。本当に後方支援というのはどこまで線引きなのかというまた不毛の議論になるかもしれないということがあります。
 今、中野先生がおっしゃったことは、極めて私も重要だと思っておりますのは、イラクの戦争のときにも申し上げましたが、それは、政府は現実に即して行動せざるを得ないことがあります。だけれども、それが法規範に照らしてどうだったかということは、後できちんと立法府は検証し、かつ、それに対して実行した政府は責任をとらなくちゃいけない、そう思っております。
 今回も、このままいきますと米英を中心とした多国籍軍に参加するわけですから、それに自衛隊が参加するというのは、これは自衛隊が軍なんであります。私は、現実的にはそれも必要かもしれないと思うときもある。だけれども、それをいつまでも立法府におる者として、超法規的ならず超憲法的な行為をいつまでも許していていいのかという思いが私はあります。本当に超憲法的行為なら、これはきちんと議論しなくちゃいけない。新聞報道ですから確認していませんが、例えば小泉首相が自衛隊が軍であるとおっしゃったというなら、この中の私も含めて何人かが、それはある意味できちんとしなくちゃいけないなと思っている人も多いと思います。
 今回、もしイラク復興支援で多国籍軍に参加をさせる、またこれは拡大解釈で行かせるんだろうか、そういう思いがしてなりません。超法規的行為ならず、超憲法的行為が今相当行われていると私は思います。現実に対応するには必要だけれども、いつまでも立法府としてこれを許していていいのかということは、大きな問題として提起していきたいと私は思います。
 それこそ何度も言っていますが、この憲法調査会に小泉首相を参考人としてお呼びして、そこで議論をする、それが私は必要だと思います。それをやっていって、現実に、例えば今のままで自衛隊を送り出したら、現実的な問題として、本当にあそこに対応できるような訓練をされているのかどうかという問題もありますし、それから、本当に超憲法的行為で送り出していいのかというのは、我々立法府におる人間として非常に重要な問題でありますので、ぜひとも小泉首相を参考人としてお呼びして、きちんと議論をする、そういう方向性でやっていただきたいと思います。
 以上です。
中山会長 それでは、討議も尽きたようでございますので、これにて国際機関と憲法、特に安全保障、国際協力の分野における諸問題についての自由討議を終了いたします。
    ―――――――――――――
中山会長 次に、明治憲法と日本国憲法について、最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員長から、去る八日の小委員会の経過の報告を聴取し、その後、自由討議を行います。最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員長保岡興治君。
保岡委員 最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会における調査の経過及びその概要について御報告申し上げます。
 本小委員会は、五月八日に会議を開き、参考人として、東京大学名誉教授坂野潤治君をお呼びし、明治憲法と日本国憲法について、特に明治憲法の制定過程を中心として御意見を聴取いたしました。
 会議における参考人の意見陳述の詳細については小委員会の会議録を参照いただくこととし、その概要を簡潔に申し上げますと、
 参考人からは、
 まず、明治憲法の制定に関するこれまでの普通の憲法成立史には、自由民権運動を重視する民権派と伊藤博文らによる憲法制定の作業を重視する体制派の両者の憲法史の相互関係、及び明治憲法の制定過程と実際の運用に当たっての問題点との関連性が、ともに考えられてこなかったという問題点があるとの認識が示されました。
 その上で、伊藤博文の「憲法義解」や美濃部達吉の「憲法講話」等の諸資料からは、明治憲法が神権主義的な解釈からリベラルな解釈に至るまで多義的に解釈されていたことがわかるが、その理由は、明治憲法が、明治十四年四月に福沢諭吉を中心とした交詢社がイギリス型の議院内閣制を採用して起草したリベラルな私擬憲法案を、同年七月に井上毅が保守的な方向で手直しを行い、岩倉具視によって発表された大綱領を基礎としていたという制定過程の事情にあるとの説明がなされました。
 また、明治憲法が施行された明治二十三年以降において、板垣退助らの自由党は、議会の多数党であったにもかかわらず、議会の多数党が政権を担うとの発想を持たなかったため、明治十四年には岩倉具視の大綱領というリベラルな交詢社の私擬憲法案を基礎とした明治憲法の原案ができ上がっていたにもかかわらず、その後の大正デモクラシーのもとでの議院内閣論の再興、具体的には、大正三年の第二次大隈内閣の成立までに三十三年余りを要してしまい、このことが、明治憲法の例外的規定とも考えられた統帥権の独立について、リベラルな勢力が憲法解釈を再修正して軍部の独走を抑制するだけの時間的余裕を失わせてしまったとの考えが示されました。
 このような参考人の御意見を踏まえての質疑応答を通じて、委員及び参考人の間で活発な意見の交換が行われました。
 そこにおいて表明された意見を小委員長として総括するとすれば、
 まず、私どもが再確認をしておかなければならない点として、第一に、憲法を最高法規たらしめるについては、憲法をどのように解釈し運用していくのかという点において、政治の責任によるところが大きいということ。第二に、明治憲法体制のもとでの人権保障のあり方や統治機構の仕組み、その運用の反省に立って、日本国憲法の制定過程や運用の実際を検証していく必要があるということがございます。
 次いで、認識を新たにすべき点を挙げれば、第一に、明治憲法の成立過程というものは、従来のように民権派と体制派とに分けて考えるべきではなく、両者を統合して見ていく必要があるということ。第二に、明治憲法が天皇を元首と規定したのは、天皇に強大な権限を付与するためというより、むしろ天皇の権限を拘束する意図からであったということであります。
 最後に、今後、日本国憲法の制定過程及び運用の実際についての調査と関連して、明治憲法がリベラルな解釈運用も可能であったにもかかわらず、なぜあのような戦争に突き進んでいってしまったのかを考えると、憲法のさまざまなテーマについての解釈に当たり、政治が果たす役割の重さというものを改めて認識した次第です。
 以上、御報告申し上げます。
中山会長 これより、明治憲法と日本国憲法について、特に明治憲法の制定過程を中心に自由討議を行います。
 まず、葉梨信行君。
葉梨委員 自由民主党の葉梨信行であります。
 私は、明治憲法の制定過程やその運用に着目しながら、どのような方向で新しい憲法を制定すべきかについて意見を申し述べたいと思います。
 まず、憲法の制定に当たっては、新しい国家の創出という視点を失ってはならないと思います。
 幕末の開国によって、我が国は、長く続いた鎖国の時代に幕をおろし、新たな近代国家として出発することとなったわけであります。その際、明治天皇が神明に対して誓われた五カ条の御誓文は、まさに近代国家の創出に当たっての決意にふさわしいものでありました。私は、この五カ条の御誓文こそが明治国家の国是であり、明治憲法の基礎となったと思います。
 また、憲法の制定に際しましては、自国の歴史、国柄といったものを十分に考慮することが重要であると考えます。なぜならば、憲法の英訳はコンスティチューションでございますが、このコンスティチューションとは、国の仕組みやら成り立ち、すなわち国柄という意味があるからであります。
 明治憲法の制定過程を見てまいりますと、西欧近代国家に伍していくために、西欧の近代的な立憲主義の思想を学ぶと同時に、これと我が国の国柄を調和させるという難しい課題に直面し、明治二十二年の明治憲法発布に至るまで、起草者たちがさまざまな苦悩をした姿に十分に思いをいたさなければなりません。こうした明治憲法の起草者の姿勢を私どもは改めて認識しておく必要があると思います。
 翻って、現在の日本国憲法の制定過程を見ますと、そこには我が国独自の立場からの新しい国家の創出へ向けた決意であるとか自国の歴史や国柄といったものについての議論が全くと言ってよいほど感じられません。なぜならば、それは、日本国憲法がGHQによって押しつけられたものであるからにほかなりません。
 今日、明治憲法は天皇制絶対主義を掲げていたように理解されており、その評価は甚だしく低いものとなっているように感じます。明治憲法の実際の解釈、運用を見ればおわかりになりますように、明治憲法は決して天皇制絶対主義などという思想を持っておりません。私は、むしろイギリス型の立憲君主制を採用した憲法であったと考えております。
 この点につきましては、坂野参考人から、明治憲法の基礎となった岩倉具視の大綱領は、実際には交詢社の起草した私擬憲法案を井上毅が保守的な方向で手直ししたものであって、その交詢社による草案が採用しておりましたのはイギリス型の議院内閣制であったというお話があったわけでありまして、改めてその思いを強くした次第であります。
 戦後から半世紀以上を経た今日、我が国を取り巻く情勢は、東西冷戦の終結、グローバル化、情報化、少子高齢化など、大きく変わりつつあるわけであります。そのような中にありまして、むしろ我が国としてのアイデンティティーを重視して、歴史や文化を盛り込んだ憲法の制定こそが必要なのではないでしょうか。
 日本国憲法は、憲法研究会という民間の団体が起草した憲法草案要綱がGHQの目にとまり、これがマッカーサー草案の基礎となったという事実は私も承知いたしておりますが、実質はほとんどGHQによって作成され、押しつけられたものであります。そもそも憲法の制定はその時代の国民の英知を結集する形でなされるべきものであるにもかかわらず、昭和二十年の敗戦後に外国からの押しつけによって制定された苦い経験を心に銘ずべきであります。
 明治憲法の制定過程にあって、官民挙げての憲法創出の時期があったように、新たな憲法の制定に向けて、国民の中から再びそのような動きがほうはいと沸き起こってくることを期待するものであることを表明して、私からの発言を終わります。
中山会長 それでは、御発言を御希望の委員は名札をお立てください。
山口(富)委員 坂野潤治参考人は、私、学生時代に近代史を学んだ際に一番最初によく読んだものでしたので、二十数年ぶりにお会いして、大変懐かしく思いました。
 それで、参考人のお話でも、明治憲法が神権主義というものを中核にしながら、なぜ立憲主義という装いに立ったのかというなぞ解きをやられたようなお話で、大変興味深いものがありました。
 さて、日本国憲法というのは明治憲法の改正という形をとったわけですけれども、日本国憲法の前文の一番最初にそのこともありまして、明治憲法との関係をきちんと述べているんですね。それは、ちょっと読み上げますと、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」これが明治憲法を排除した規定なわけですけれども、明治憲法を考える場合は、やはりこれが出発点になると思うんです。そして、明治憲法から日本国憲法、それから今の二十一世紀ということを考えますと、私は、三つの点が大変大事になるんじゃないかなというふうに感じます。
 第一は、主権の問題なんです。
 明治憲法は天皇主権だったわけですけれども、日本国憲法が主権在民になりまして、そして二十世紀から二十一世紀の歴史の流れを考えますと、やはりこの主権在民の流れというのが世界の歴史の中で非常に大きな力を持ってきているわけですから、この点については、二十一世紀の憲法論を考えるときにも、当然土台に据えるべきものだというふうに感じます。
 二つ目は、基本的人権の問題なんです。
 これは、保岡小委員長もお触れになりましたし、当日の坂野参考人の話で、明治憲法というのは基本的人権という考え方がなかったんだという話をされました。これは、やはり二十世紀を考えましたときに、私たちは、世界の人権の問題で、大変ないろいろな問題を抱えているわけですね。それは、先ほど公聴会の話で、北朝鮮の拉致問題をめぐって深刻な提起があったという話もありましたけれども、崩壊したソ連を見ましても、やはり人権抑圧社会だったわけですね。もちろん、私たちは、あれが社会主義の社会だったとは考えておりませんけれども。
 このように、人権の問題というのは、やはり二十世紀から二十一世紀を考えたときに、私たちの憲法の問題としてどういう人権の保障というものをきちんとやっていくのかということは、明治憲法を考えても、日本国憲法を考えても、本当に土台に据えるべき問題だというふうに思います。
 それから三つ目は、いわゆる平和の問題です。
 明治憲法は天皇の大権で、特に軍事の問題については、いわゆる政府の関与も、議会の関与も一切許しませんでした。この点が当日の小委員会では、解釈の問題と政治の責任、どちらなんだという議論にもなったわけですけれども、その点でいいますと、私は最後に申し上げたんですけれども、これは解釈とかの前に、やはり明治憲法自身が大権条項を定めているというそこが出発点なんだというお話をいたしました。
 そういう意味では、葉梨委員は明治憲法の立憲主義的な解釈にお触れになりましたけれども、私は、伊藤博文自身が、明治憲法の公的解釈書と言われている「憲法義解」の中で、これはヨーロッパ型の立憲主義じゃないんだ、天皇の大権を定めたものだというふうに明確に言っておりますから、その意味では、やはり十九世紀後半から二十世紀前半の日本というのは専制的な社会だった、政治だったというふうに思います。
 振り返りまして、平和の問題は、今、国連憲章の問題からいきましても、二十一世紀にどういう平和の秩序をつくるのかというのが大問題になっているわけですから、やはりこの平和の問題というのが、明治憲法、日本国憲法、それぞれどういう規定になり、そして私たちが二十一世紀にどの点を引き継いでいくのか、もちろん私は恒久平和主義を引き継いでいくという立場に立ちますけれども、そういう三つの点を、明治憲法から日本国憲法、そして二十一世紀ということを考えたときに、私たちが国のあり方や憲法を考えるときに基本に据える土台になるべきことじゃないかなというふうに私は感じております。
北川委員 社民党・市民連合の北川れん子です。
 明治憲法制定前に出された私擬憲法草案、およそ九十四案近くあったと言われていますが、例えば立志社や交詢社、また植木枝盛の日本国国憲按、憲法草案を見てみますと、特に国民の権利を規定した条文が充実しており、現代にも通用するような死刑の禁止や拷問の禁止まで範囲に入れられており、実際、びっくりいたしました。私擬憲法草案が出された時代から現憲法に流れている主体的市民意識が、明治時代の諸先輩の方々から脈々と続いているという印象を受けました。
 GHQが参考にしたと言われる憲法草案要綱作成者の一人である鈴木安蔵氏は、私擬憲法草案の一つである植木枝盛の東洋大日本国憲法案を参考にしたとされています。また、マッカーサー草案自体、起草の段階において、既に日本国民の間で自主的に起草された民間憲法草案の内容を大幅に取り入れ、実質的にその当時の日本の状況が酌み取られていると評価する方もいらっしゃいます。
 このことを東京経済大学教授色川大吉氏は、現憲法の中には日本人民の平和と民主主義を求めた歴史的伝統が流れていた、植木枝盛らの起草した輝かしい憲法草案が、大正デモクラシー運動を経て吉野作造らによって再発見され、さらに敗戦直後に鈴木安蔵らによって民間の憲法草案に生かされ、それがGHQの憲法担当の中心人物ラウエル中佐やハッシー中佐らに重視され、十分な検討が加えられた上、押しつけと言われるGHQ草案の基礎として生かされた事実を私たちはまず確認したいのであると指摘されています。
 そしてまた、明治憲法は、一八八二年三月三日、伊藤博文は憲法起草のためにヨーロッパ立憲諸国において調査を行い、各国の政府及び学者について研究するよう勅命を受け、三月十四日、随員九名と出発、一八八三年八月三日帰国するまで一年五カ月がかかったと言われています。このとき、既につくべき政府をドイツ帝国、プロイセンに、その学者をドイツのベルリン大学教授ルドルフ・グナイストとオーストリアのウィーン大学教授ロレンツ・フォン・シュタインに内定したと伝えられています。
 また、明治憲法は一八八九年制定ですが、パリ不戦条約は一九二八年、ロンドン軍縮会議は一九三〇年、満州事変が一九三一年、国際連盟脱退が一九三三年。これら年表からもわかりますように、明治憲法は戦争が違法と国際社会が合意形成する四十年も前に成立しているため、不戦、非戦の思想を盛り込むことは無理であったろうと考えます。しかしながら、私擬憲法、交詢社においては統帥権の独立を認めていないので、シビリアンコントロールに近いものがあったと想像されます。
 また、坂野参考人も、危機になった折、どんな憲法を持っているかが大事だと強調されました。一九三一年解釈改憲していれば侵略に反対できた、また国家総動員法に反対するとき明治憲法を持ってきて反対するとか、戦前の議員というのは非常に真剣な人たちだったという言葉や、余りに立派な日本国憲法なので逆に憲法学者が育たないのではないかとも言われた言葉が印象に残っています。
 こう見てまいりますと、憲法というのは、時代の背景を受け、世界各国の影響を受けている事実を確認いたしました。憲法をめぐり、憲法調査会では議論を積み重ねていますが、このように坂野参考人が初めて私擬憲法草案に光を与えていただきました。草案から続く考え方が平和憲法の底流を流れている、だからこそそれを生かすことが私たちに求められているのではないかということを強く思った次第であります。
遠藤(和)委員 私は、小委員会で二つのことを質問したんですけれども、一つは、明治憲法下におきまして軍部が独走したのは、憲法自身に問題があったのか、それとも政治の責任であるかという点です。これに対しては、四分六という御答弁だったと思うんですけれども、双方に責任がある、こういうふうな見解だったと思ったわけでございまして、それが大変印象に残ったわけでございます。
 それからもう一点は、明治憲法が公布された後に帝国議会が開設をしているわけですね。したがいまして、普通、憲法をつくるときには、制憲議会があって、議会で議論をした上、憲法が公布されるわけですけれども、その逆になっているわけでございまして、憲法の制定過程に対する会議録は残っていない、こういう事情になっているわけですね。
 そこのところについて、どうしてそうなっているのかということを歴史的な経過を尋ねたわけですけれども、この議会開設が大変おくれたという政治的な事情等もあったようでございます。
 今後の議論といたしましては、やはり、憲法制定という大変重要な国のあり方を決めるものが、議会を経ないで決めて、そこでいろいろな、一つの条文に対して制定時から解釈が分かれていた。こういうものがあって、それがその後もずっと尾を引いている、こういう問題があるのではないかと思いますね。
 ですから、いろいろな説があるということは大変不幸なことでございまして、一つの条文に対して統一した見解というものがあって憲法が制定されるのが正しいのではないかな、このように思いますので、そういうことを今後の参考にしていくべきではないのかなと思っております。
 以上です。
中山会長 他に御発言はございませんか。
 それでは、討議も尽きたようですので、これにて明治憲法と日本国憲法について、特に明治憲法の制定過程を中心とした自由討議を終了いたします。
    ―――――――――――――
中山会長 次に、知る権利・アクセス権とプライバシー権について、基本的人権の保障に関する調査小委員長から、去る十五日の小委員会の経過の報告を聴取し、その後、自由討議を行います。基本的人権の保障に関する調査小委員長大出彰君。
大出委員 基本的人権の保障に関する調査小委員会における調査の経過及びその概要について御報告申し上げます。
 本小委員会は、五月十五日に会議を開き、参考人として、中央大学法学部教授堀部政男君をお呼びし、情報公開法制及び個人情報保護法制を含む、知る権利・アクセス権及びプライバシー権について御意見を聴取いたしました。
 会議における参考人の意見陳述の詳細については小委員会の会議録を参照いただくこととし、その概要を簡潔に申し上げますと、
 堀部参考人からは、
 まず、日本における知る権利・情報公開論議の経緯は、以下のように五つの時期に分けられるとの説明がなされました。
 具体的には、1.知る権利が、表現の自由を受け手の側から再構成した権利として認識され、その制度化が提唱される時期、2.ロッキード事件を機に情報公開の制度化が提唱され、地方自治体においてまず情報公開制度が実現される時期、3.地方自治体で情報公開制度が運用される一方、国においてその法制化が検討される時期、4.国において情報公開法の要綱案が公表されるなど制度の内容が明確になる一方、地方自治体において既に運用されていた情報公開制度が再検討される時期、及び5.情報公開法が制定され、運用される時期の五つであります。
 また、日本におけるプライバシー・個人情報保護論議の経緯は、以下のように四つの時期に分けられるとの説明がなされました。
 具体的には、1.プライバシー権がアメリカにおいて、ひとりにしておかれる権利、自己情報コントロール権として認識され、その制度化が提唱される時期、2.我が国において、まず、地方自治体においてプライバシー権保護の制度化が実現されるとともに、OECDガイドラインの公表を契機に、国においてその制度化が提唱される時期、3.行政機関における個人情報保護法の制定が検討され、個人情報保護ガイドラインが関係省庁で策定される一方、都道府県においては個人情報保護が条例化される時期、及び4.今日の国会審議へと至る個人情報保護関連法制が国会に提出される時期の四つであります。
 最後に、アクセス権については、現在、日本においては、マスメディアに対する権利として理解されるにとどまっておりますが、今後、諸外国に見られるように、知る権利や自己情報コントロール権等を含む、市民の情報への権利を統一的に把握できる権利としてとらえ、議論を深めていくべきであるとの提言がなされました。
 このような参考人の御意見を踏まえて、質疑及び委員間の自由討議が行われ、委員及び参考人の間で、活発な意見の交換が行われました。
 そこにおいて表明された意見を小委員長として総括するとすれば、
 知る権利・アクセス権またはプライバシー権に係る規定を憲法に明記すべきか否かという問題に関して、憲法に明記するべきであるという意見がある一方で、憲法十三条及び二十一条にその根拠を求めることができることから、憲法にあえて明記する必要はなく、立法によって具体化していくことこそ大切であるとの意見が出されました。
 また、個人情報の保護に関する問題については、特に、マスメディアとの関連で、活発な議論がなされ、マスメディアが情報の送り手として強い影響力を持つ一方で、情報の受け手である市民が弱い立場に置かれていることにかんがみ、表現の自由に配慮しつつも、マスメディアによるプライバシー権侵害などの被害を防止する何らかの手だてが必要であるとの意見が出された一方、表現の自由を尊重し、マスメディアに対して規制は行うべきではないという意見も出されました。また、報道の自由と市民のプライバシー権との調和を図る手段として、オンブズマン制度など、行政から独立した第三者機関によるチェック機能に期待する意見も見受けられました。
 知る権利・アクセス権及びプライバシー権は、いわゆる新しい人権と呼ばれ、戦後になってその議論が活発になされるようになった権利であり、国民の生活と密接に関連し、国民による高い関心のもとにあると考えるところでありますので、今後も、憲法の理念を実現するという観点から、これらの問題について議論を深めていくことが必要であると感じた次第です。
 以上、御報告申し上げます。
中山会長 これより、知る権利・アクセス権とプライバシー権について、情報公開法制、個人情報保護法制を含めての自由討議を行います。
 まず、小林憲司君。
小林(憲)委員 民主党の小林憲司でございます。
 済みません、ちょっとのどをからせておりまして。
 個人情報保護法が今月二十三日に成立いたしました。私は、先日の小委員会におきまして、包括法による規制ではなく、それぞれ性質が異なる個人情報ごとに個別法で対処する方がよかったのではないかと意見を申し上げたのですが、個人情報の中でも、漏えいしたら深刻なプライバシー侵害を引き起こす金融、通信、医療の三分野については、より規制が厳格な個別法の制定を急ぐ必要があると思っております。
 ところで、小委員長の報告の中でも触れておられましたマスメディアと個人情報の関連ですが、北朝鮮の拉致被害者曽我ひとみさんに届いた夫からの手紙の住所が、番地、団地名、部屋番号まで朝日新聞に掲載された件は、大変なショックでありました。北朝鮮で住所を公開すればどういうことになるか。単なるプライバシー侵害という以上の問題を含んでいると思います。
 それはともかくとして、マスメディアからの国民の保護という観点、プライバシー権と表現の自由との調和の問題、報道の自由を守ると同時に個人の情報を守るためには、やはり、行政から独立した第三者機関によるチェック機能が必要なのかという点、いろいろ議論はあると思います。
 いずれにしても、個人情報保護法制というのは、情報社会の中で、本来侵害してはならない個人のプライバシーや人権をどのような条件なら社会的に利用していいかというのが原点であるはずですから、今後の運用の中で生じるいろいろなケースを踏まえつつ、施行後三年をめどに検討すべき見直しの課題は数多く残されていると感じている次第であります。
 以上です。
伊藤(公)委員 基本的人権の保障という分野で、私は、新しい憲法を我々が考えるに当たって環境権というものをきちっと位置づけるべきではないかという立場から、発言をさせていただきたいと思います。
 最近、アメリカのNPO、これは学者の人たちが中心となったNPOの発表で、世界じゅうの車の、いわゆる環境にどれだけ配慮された車かというリストアップが発表されました。この第一位、第二位、第三位はいずれも日本の車であります。大変いいことだと思います。今、私たちの首都東京では、知事が中心となって排ガス規制が現実に行われているところであります。
 私は、これまでも戦後日本は、資源のない国ですから、科学技術創造立国だったと思います。しかし、これからの日本は、やはりこれからも科学技術創造立国だけれども、加えて環境先進国日本、これが私はこれからのキーワードではないかというふうに常に考えてきました。
 そこで、大気汚染であるとか水質汚濁あるいは騒音、振動などの公害が、特に六〇年代後半から、私たちの国でも大きな問題になりました。あの大阪空港の騒音訴訟もその大きな一つではございましたし、あるいは名古屋の新幹線の訴訟もその一つであったと思います。環境を保全して良好な環境の中で国民が生活できるための、新しい人権としての環境権が今大きなテーマになってきているときに、私たちの基本的な憲法ということの中でもしっかり位置づけていくべきではないかというふうに私は思います。
 この環境権の概念は、それぞれの識者によっても違うところであります。一般的には、健康で快適な生活を維持する条件としてのよい環境を享受し、これを支配する権利というふうに解されているわけでありますが、この場合に、大気、水、日照、景観などの自然的な環境に限定する考え方、またもう一つは、遺跡や寺院、または公園、学校などの文化的あるいは社会的環境まで含めるという考え方もあります。
 今、私たちの現行憲法の中では、あえて環境権というふうに読めば、憲法十三条に求める幸福追求権、それから憲法二十五条のいわゆる健康で文化的な最低限度の生活を営む権利などとして読むことができると思いますが、裁判の判例をずっと見ますと、下級審の判例の中には、必ずしも環境権とうたっていませんけれども、そう読み取れる判例もあります。しかし、現実に最高裁の判決の中には、環境権という名の権利を正面から承認した判例はないと思います。
 そこで、この環境権というものを位置づける場合に、幾つかの論点があると思います。
 一つは、環境保全について、国家が負う責任として位置づけていくのか、あるいは、よい環境の享受を妨げられない国民の権利、あるいは国民がよい環境の享受を請求するという権利として位置づけるのか、あるいはその両方を位置づけていくのかという選択があると思います。それから、環境の対象でありますが、先ほど申し上げたように、いわゆる自然的な環境に限定をするのか、あるいは文化的、社会的な環境まで含めていくのかということも論点になると思います。それから、その内容及び程度であります。国が負う責務、または国民の有する権利の内容あるいは請求権の程度をどのようなものにしていくかということも大事な論点であろうと思っております。
 恐らく、環境問題に特に最近厳しく取り組んでいる、あるいは原子力発電などでもいろいろな厳しい取り組みをしているドイツの憲法には、将来の世代に対する責任において環境を保全しなければならないと制定をしています。一九八〇年代以降、それぞれの国々がきちっと憲法の中に環境権というものを位置づけています。それぞれ内容については異なるところでありますが、例えば、韓国、フィリピン、スペイン、ベルギー、ポーランド、ロシア、南アフリカ、インド、カンボジア、中華人民共和国、スイス、ドイツ、フィンランド、タイなどであります。
 私は、日本のこれからの将来を考えたときに、我々が新しい憲法の中にこの環境権というものを、日本人がどう生きていくかということも含めて、きちっと位置づけをすべきだというふうに考えます。
 以上です。
春名委員 知る権利、アクセス権、プライバシー権というのは大変国民の関心も高いものですし、この間、情報公開法あるいは個人情報保護法などの審議で国会でも議論をされてきました。国民の権利を拡充するという上で、やはり大変重要な課題だと私も思っています。その点で、今大事なことは何かということを申し上げたいと思います。
 この分野の第一人者とも言われる堀部参考人が小委員会でお話しされたことで、この問題で日本は欧米と比べて二十年から三十年近くおくれている、なぜ日本がこれほどおくれたのかということについて、「情報公開あるいは個人情報を保護することによってこれまでの行政のやり方などを大幅に変えなければならない、そういうことに対する抵抗が非常に強いのではないか」とお答えされたことについて、大変重く受けとめることが大事だと思います。
 金沢の地方公聴会で松田陳述人が、権利の侵害の相談を受けても、個別に権利を保護する規定がなかったために、先輩の弁護士が憲法の人権規定をよりどころとして人権侵害の救済を訴えた。幾多の裁判を通じて、裁判例や判例によって憲法十三条で広く認められるようになった。憲法改正論議より、これらの権利を具体化する立法の制定について議論していただきたい。人権を擁護する最前線で活躍されている法律家の実感としてこのような陳述をされたことも、非常に印象的なことでありました。
 つまり、知る権利、アクセス権、プライバシー権、これらは憲法十三条をよりどころにして、国民の運動、裁判の判例、研究者の努力、これらの積み重ねによって確立してきた概念です。その具体化のための立法作業こそ今日課せられた課題だと考えますし、そのことに抵抗している政治の現実を正すことが喫緊の課題だと私は感じています。
 とりわけプライバシー権に絞って具体的に話します。
 私も議論を重ねてきた個人情報保護法の審議がやられて、参議院で通過をしましたが、大変重大な欠点を持っています。例えば、行政機関の個人情報保護法でいいますと、思想、信条などの個人の名誉や秘密にかかわる情報の収集を禁止する規定がない、これは民間のもそうですけれども。それから、個人情報の目的外利用について、相当な理由があるときはいいと、あいまいな規定で利用を認める。罰則の規定についても、職務のためであれば適用除外というようなことになっておりますし、民間の方の個人情報保護法は、主務大臣制が引き続きとられて、報道目的、著述目的など、これは国によって恣意的に判断されるおそれがあって、不当に表現の自由が侵害される危険性もあるというようなことが広範に議論をされてまいりました。
 もう一点、こういう議論の中で、防衛庁による自衛官適齢者リスト作成問題、地方自治体からの情報提供の問題が明るみに出ましたし、参議院の議論では、警察が保有する犯歴データをエンショップ武富士へ提供しているという重大問題も明らかになりました。こういうことを議論する一方で、実際に膨大な情報を抱えている行政、国がこういう形で、個人情報の保護とは名ばかりに、国民の人権を侵害しているという、目の前でそういう事例が次々と明らかになっているわけであります。こういう点を正さないと、問題は解決しない。
 その一方で、個人情報については、自己情報コントロール権という概念を法律に明記すべきであるということを野党が提案しましたけれども、残念ながらそのことすら認められませんでした。生成中の概念だからこそ、法案の中にこれを明記して後押しをするという立場に野党は立ちましたけれども、そのことを拒否されるという事態も目の当たりで起こっているわけでありまして、まさに今この立法措置の問題、これを発展させることを阻害している政治の現実の問題にメスを入れることこそ、この新しい人権を定着し、発展させていく大変大事なかぎを握っているということを改めて実感しております。
 以上です。
北川委員 堀部参考人にお越しいただいた折は、ちょうど参議院においてまだ審議中であったため、具体的な質問になると発言を控えていらっしゃったように思います。
 そこで、参議院での参考人質疑での堀部参考人の議論を読ませていただきましたら、官も民もともに独立した第三者機関が設けられるべきであるとはっきり言明されております。これは個人情報取扱事業者の定義のあいまいさが浮かび上がったことを受け、多くの国民に網をかけるものであることを踏まえ、堀部参考人自身が、第三者機関の設置、個人情報取扱事業者の定義を含め、できるだけ早い時期に見直していく必要があると主張されています。
 このように見てまいりますと、IT技術の進歩も、またプライバシーの概念、個人情報保護の概念等も日々市民は新たな地平を開拓していくものと予想されます。
 また、参考人は、九九年段階で、日本としては歴史上初めて個人情報保護のあり方を取り上げたため、まずは個別の省庁でやってきたことの保護指針を出す、あるいは基本法という非常に緩やかなものを考えたらどうかという二案を提案していた。特に、「日本は日本の独自の文化の中で、しかも今まで総体的には非常に個人情報保護の意識が低かった国ですから、そこを何らかの形でレベルアップするというのが私が最初に基本法ということで提示したところでありまして、」と発言されております。早急な個別法の着手も必要であると示唆されているわけであり、次に、個人情報保護法の審議において、官民一緒にまぜこぜにしたことがなお一層審議に深まりを与える機会を逃したと思っております。
 プライバシー権については、十三条に定める幸福追求権、知る権利については二十一条に定める表現の自由を根拠としていますが、知る権利は判例が確立していないという説もあります。
 行政機関の場合は、開示、訂正、利用停止請求については、個人と行政機関の間の権利義務関係の中で、その処分については行政処分となり、行政不服審査法、行政事件訴訟法の適用を受けるように、行政機関の行う処分について国民の権利が明確になっています。
 一方、民間の場合は、プライバシーの権利と事業活動の自由という二つの権利の中での合理性の判断が必要となり、開示、訂正、利用停止が拒否された場合は民民の問題として民事ルールでの争いになることからも、根本的に違うということを実態をよく知る方から指摘をいただきました。
 衆参ともに審議時間が十分ではなく、野党四党案と照らし合わせても格段に水準は低いものとなっています。本来の個人情報保護法たり得たものではないことを、私はここではっきりとお伝えしたいと思っております。これをもって住基ネット第二次稼働の免罪符とすることはできないと確信も深めている次第であります。
 きのうの報道によりますと、長野県本人確認情報保護審議会は、個人情報保護が十分なされていないため、当面住基ネットから離脱するよう報告書をまとめたとありました。さらに、同日の報道では、個人情報の官によるたらい回しと指摘された自衛官募集適齢者名簿の要求に対して、長野九自治体が法的根拠なしと提供を断るとあります。さらに、警視庁小岩署から留置の管理名簿、点検簿が外部に流出とあり、万全なセキュリティーはないことを知らせています。
 社民党は憲法を遵守する立場から、今後とも、プライバシーの侵害や住基ネットへの不安を共有する多くの市民、労働者とともに、真の個人情報保護の実現と住基ネット凍結、廃止に向けて粘り強く取り組むことをここで申し開きいたしたいと思います。
仙谷委員 知る権利、プライバシー権あるいはアクセス権等々の議論がされたわけでございますが、春名先生や北川先生の御議論に、その限りにおいて別に異を唱えるものでもございません。しかし、先般の金沢の地方公聴会でも、松田さんとおっしゃいましたか女性が議論をされて、つまり、法律で、あるいはもっと言えば基本法で定めれば憲法上規定をする必要はない、こういう議論がその場でもなされておりました。そしてまた、話が全然違うわけでありますが、いわゆる分権論議、その中での税源、財源論議を憲法調査会でやりましても、地方の首長さんあたりで相当税源、財源の分権化というものについて積極的な方でも、憲法上それを改めて規定をする必要はないんだ、基本法で定めればいいんだというふうな議論が多々見受けられます。
 これは私に言わせれば、もしそれが政治的な意味合いにおいて、いわゆる憲法改正、あるいは憲法条項の改定なり新しく規定をするということが嫌だという感情的な問題、あるいはそのことがいわゆる軍国主義化に道を開くとか、そういうおそれに基づいて、憲法をアンタッチャブルにしなければならない、この現行憲法に触れてはならないんだという心理から発せられているとすれば、二重の意味において間違っていると私はこの間感じております。
 一つは、法律の抽象化のレベル、具体化のレベルというごく常識的な、言語学的な問題でもあるわけでありますが、この観点からいって間違っている。つまり、簡単に、憲法条項をごらんいただいて、この憲法条項と日本における現行法規、民法から刑法から刑事訴訟法から、あらゆる法規がこの憲法条項と実は関係がある。最も高位で、上位にあって、なおかつ最も抽象性が高いのがこの憲法条項であるということは、これは憲法三十一条から四十条をごらんいただきましても、あるいは、憲法二十四条をごらんいただきましたら、これは民法の親族編、相続編の最もエキスがここに書かれているということがおわかりをいただけると思うんです。
 ただ、でき方は、判例やあるいは法律の集積から、その最も大事な原理原則を、あるいはエキス、エッセンスを憲法上の人権の規定として、あるいは統治機構のあり方として書くか書かないかということは、まさにこれは政治的な選択の話。そしてそれは、ある時代状況あるいは国際状況、国民の意識状況からして、そのことが非常に重要な原理原則である。つまり、現時点において環境に関する権利や、環境に関する公的な、国家や地方自治体の義務ということが極めて重要な原則になってきたということであれば、これを憲法上の規定にすべきだと私は思っているところであります。
 同様に、知る権利やプライバシー権、あるいは現在問題になっております自治体の課税自主権というふうなものも、私は、憲法上の権利、権限として書く、そういう議論をして規定をするということがない限り、現在の議論が整理をされてこない、あるいは国の形として新しい姿が提示されてこない、そういうふうに、非常に現在の議論のあり方について心配をしているところでございます。
 そこは余り、何かすべてを古い政治的な議論に流し込まないで、余り杞憂をしないで堂々と、この種の権利、権限が現代の日本にとって、あるいは二十一世紀の日本にとって非常に大事だということであれば、憲法上の権利や憲法上の仕組みとしてちゃんと改めて我々がやるんだということを議論し、あるいは構想を出すべきだ、こういうふうに考えております。
葉梨委員 自由民主党の葉梨でございます。
 我々のこの憲法調査会、始まりましてもう三年と五カ月になります。その間、基本的人権、人権につきましては、初めから熱心な議論が行われて今日に至っております。
 その中で、春名委員からは、法律事項は何も憲法に書かなくてもいいというような御意見もございまして、いろいろなことがあると私も思っておりました。今ちょうど仙谷委員が、整理をしたらどうかという御意見がございました。私も、二十一世紀の日本のあり方の中で特に大事な事項につきまして、象徴的といいますか、宣言的に書いたらどうかということをかつて放送討論会で申し上げたことがございます。それは環境権でございました。
 実は、最近、ある学者の方のお話を聞きまして、なるほどこういう課題もあったのかと思ったことがありましたので、御披露申し上げ、これからの御議論をしていただきたいといったことがあります。
 それは、これからの日本にとって大事なことの一つに、町づくりということがございます。実は私、外国視察に国会から派遣されてドイツに行ったときに、ドイツの町づくりというのは、都市計画を立てる段階から地域の方々、地方自治体、関係者がみんな参加して、この地域はどういう町をつくるか、一体何階建てにしたらいいか、どういうものを建てていいか、どういうものを建ててはいけないかというようなことを、もう時間をかけて議論して、そして整然たる、そしてまた快適な町をつくっていっている姿を見まして、大変うらやましく思っておりましたが、最近、どこの大学の先生でございましたか、都市計画権というものを憲法に書き込んだらどうかという提案を見まして、大変新鮮な印象を受けた次第でございます。
 そのことを本日は御指摘し、皆様に御披露申し上げておく次第でございまして、これから議論を皆様とともにしたいと考えるところでございます。
斉藤(鉄)委員 小委員会の議論の中にもあったようでございますけれども、最近、メディアが三権を超越した最大の権力ではないか、また、その物すごい権力を持っているメディアが商業主義に流されて、その過程で多大な基本的人権の侵害が行われている、私もそのように感じております。
 たとえ裁判に勝ったとしても、その補償額は非常に少額であり、それを見込んで、売れればいいという観点で、その損害賠償額も必要経費というふうな観点で出版をしている、そういう会社もあると聞いております。
 もう一つ、また、補償措置としての謝罪広告、これも本当に片隅にあるだけで補償になっていない、こういう指摘もございます。
 活字になっている場合はまだ裁判に訴えられるからいいわけですが、例えば映像の場合、確かにこの映像が放映されたと訴えても、それを放送した側は見せる義務はございません。したがって、裁判も起こせない、こういった現状があって、不当に報道される側が権利的にも低位に置かれている、これは何らかの形で今後考えていかなくてはならない、このように思っています。
 その問題を解決するのは、やはりこの憲法下においては、報道側の自主規制と、それから報道を受ける側のメディアリテラシーを高めるしかない。メディアリテラシーと難しい言葉が使われておりますが、我々一人一人が報道を見てそれを選別する能力、これを国民の側で高めていくしかないんだ、こういう議論になるわけですけれども、果たしてそうなんだろうか、このように思います。
 例えば、小委員会にも出ているようですけれども、懲罰的な損害賠償制度、これを導入する、こうすることによって、報道側も人権侵害に対して注意を払いながらの取材活動、こういうことも必要だと聞いておりますが、何かこの懲罰的損害賠償というのは、日本の現在の司法制度、そしてそれを支える憲法下からは無理だとも聞いております。
 こういう現状を考えれば、この知る権利、そしてプライバシー権についてもっと基本的な議論を深めて、本当に我々の基本的人権についてもう少し議論を深める必要があるのではないか。現代社会において最も大きな基本的侵害は、私はメディアによる名誉の侵害だと思います。このことについて憲法でももっと議論をしていくべきではないか、このように私は考えております。
中山会長 他に御発言はございませんか。
倉田委員 自由民主党の倉田雅年でございます。
 今、斉藤委員がおっしゃったことは、私はすべて賛成でございます。メディアの権力が非常に大きくなっている、これによる市民の被害というのは非常に大きいと思います。
 そこで、この間、小委員会の中での堀部政男参考人との議論とか、その後の自由討議で出てまいりましたけれども、メディアの自主規制というのがやはり基本的には正しいんだけれども、自主規制が自主的にいろいろ十分行われない危険があるからこそ、問題が大きいわけでございますので、第三者機関を設けるべきではないかという意見がございました。私もその一人でございますが、いわゆる国家権力からも独立した機関で、中山会長が、西洋の方にはオンブズマンという制度があるんだけれどもという御示唆がございました。私もそれに近いものが何かできる必要があるなと思います。
 ただ、私は、そういう第三者機関ができた場合に、その第三者機関がマスコミに対してただ注文をつけるというだけではなくて、その第三者機関自身に、マスコミに対してこうこうせよという、例えば謝罪をせよとかいう権限を法律によって持たせる。それをマスコミが事実上守らなかった場合には、その第三者機関からも裁判所へと訴えることができる、例えばそういうこと。そんなような仕組みをつくるべきではないかな。つまり、第三者機関自身は全く権力とは違うけれども、その第三者機関が十分機能し得るためのいろいろな手だてを法律でつくってあげる、こういうようなことも考えておりますので、ひとつ皆さん、今後の御検討をよろしくお願いしたいと思います。
中山会長 それでは、討議も尽きたようですので、これにて知る権利・アクセス権とプライバシー権について、情報公開法制、個人情報保護法制を含めての自由討議を終了いたします。
    ―――――――――――――
中山会長 次に、司法制度及び憲法裁判所について、統治機構のあり方に関する調査小委員長から、去る十五日の小委員会の経過の報告を聴取し、その後、自由討議を行います。統治機構のあり方に関する調査小委員長杉浦正健君。
杉浦委員 統治機構のあり方に関する調査小委員会における調査の経過及びその概要について御報告申し上げます。
 本小委員会は、五月十五日に会議を開きまして、参考人として、前内閣法制局長官・弁護士津野修君及び前最高裁判所長官山口繁君をお呼びいたしまして、憲法の有権解釈権の所在の視点から、司法制度及び憲法裁判所について御意見を聴取いたしました。
 会議における参考人の意見陳述の詳細につきましては小委員会の会議録を御参照いただくこととし、その概要を簡潔に申し上げますと、
 津野参考人からは、
 内閣法制局は、審査事務、意見事務等を通じて憲法解釈等について政府内の解釈を統一することにより、内閣の法律案提出に係る事務、法律を誠実に執行する事務等が法治主義の観点から適切に遂行され、また、国務大臣が負う憲法尊重擁護義務が適切に果たされるよう、内閣を直接補佐する機関であるとの御説明がなされました。
 その上で、憲法解釈を確定するのは裁判所でありますが、憲法に適合するように行政運営を行うためには、事前に政府として憲法解釈を行う必要がある。また、政府による憲法解釈は、論理的追求の結果であり、政府が自由に変更することはできないとの指摘がなされました。
 憲法裁判所の設置の是非を考えるに当たっては、国民主権、三権分立との関係、国会が唯一の立法機関とされていることとの関係、違憲判決を警戒して政治部門で過剰な自制がなされる危険性等について十分検討する必要があるとの御意見が示されました。
 山口参考人からは、
 まず、米、独、仏の憲法裁判制度について説明がなされた後、これらの諸国と我が国の裁判所を取り巻く環境の異同として、一つ、多民族国家であるかどうか、二つ、連邦制か中央集権体制か、三つ、政権交代の有無、四つ、立法過程における法案チェックの有無、五つ目、裁量上告制の問題が挙げられました。
 その上で、我が国の法令違憲判決が少ないことにつきまして、司法消極主義であるとの批判があるけれども、これは、我が国の裁判所を取り巻く環境に起因するものであり、少なくなるべくして少なくなったものであるとの見解が述べられました。
 そして、憲法適合性判断の今後のあり方に関連して、上告受理制度の定着を通じ、憲法判断の必要な事件がより早期に取り上げられるようになるなど、最高裁判所における憲法判断は一段と活性化し、新しい時代にふさわしい憲法秩序を形成していくことになるであろうとの展望が示されました。
 このような参考人の御意見を踏まえまして、質疑及び委員間の自由討議が活発に行われ、委員及び参考人の間で非常に興味のある活発な意見の交換が行われました。
 そこにおいて表明された意見を総括するのは難しいのですが、あえて総括するとすれば、
 裁判所が政治問題について憲法判断をすることについては、積極的な意見、消極的な意見の両論があり、これに関連して、憲法の有権解釈権の所在や憲法裁判所の是非についても質疑や意見表明が多々ございました。
 また、政府の憲法解釈変更の可否、内閣法制局や議院法制局のあり方等についても質疑やさまざまな意見表明がございました。
 立法、行政、司法はそれぞれの立場で憲法の解釈を行っておりますが、その解釈相互の関係をどのように考えるべきかということは、まさに統治機構のあり方そのものにつながる重要な問題と考えられます。
 次回の小委員会におきましては、財政、特に会計検査院制度と国会との関係をテーマとしておりますが、今後ともさまざまな角度から二十一世紀における我が国統治機構のあり方、さらにはこの国のありようというものを考えてまいりたいと思っております。
 以上、御報告申し上げます。
中山会長 これより、司法制度及び憲法裁判所について、特に憲法の有権解釈権の所在の視点からの自由討議を行います。
 まず、谷川和穗君。
谷川委員 自由民主党の谷川和穗でございます。
 私は、憲法の有権解釈権の所在の問題を考えるに当たりまして、次の三点を申し述べたいと思います。
 まず第一は、憲法改正の必要性についてでございます。
 小委員会の質疑の際に、津野前内閣法制局長官に、現実と憲法との乖離が著しい現在の状況に対応するためには、憲法解釈の変更ではなく憲法改正を考えるべきではないかとの質問をさせていただきましたが、津野前長官からは、現実と憲法の乖離については何らかの対応が必要であり、そのためには十分な論議をした上で憲法を改正するのが一番いい、ただし、その際、憲法改正手続が厳格であることがネックとなる、こういうぐあいの趣旨の御答弁をいただきました。
 現行憲法ができてから既に五十六年、米ソ対立は解消し、国際テロリズムへの対処や日本による国際貢献のあり方が問題となってまいりました。日本を取り巻く状況は、現行憲法の制定時とは全く異なったものとなっております。私は、成文憲法を持つ国は時代の変化に合わせて常に憲法に手直しを加えていく必要があると考えております。
 まず、日本国憲法第九条についてでありますが、世界第二位の経済力を誇っている国が、安全保障といわゆる信頼醸成という問題に全然タッチしないで、国際社会で今後も世界の国々から期待される地歩を築き上げることができるのか。これまでの法制局長官答弁をもってする憲法解釈上の、例えば集団的自衛権の行使の問題等を含め、その見直しを真剣に検討する時期がもう来ている、こう考えます。
 日本国憲法第九条は、国際政治学界の中でも、わかりにくい、理解しにくいと言われている条文であり、実際九条二項の「前項の目的」が後段の「国の交戦権は、これを認めない。」に係るのか係らないのかといった問題もあり、このような問題を明確にするといった観点からも、九条の改正を検討する必要があると考えております。
 さらに、国家権力と国家権力の衝突ではなくて、ある政治的意図を持った集団がテロを引き起こしたような場合、国民の財産権等をどのように制限できるのかといった新たな問題に対応するためにも、非常事態について憲法に明記すべきである、こう考えております。
 また、地方分権が進む中で、国と地方の関係、さらにはこの国の形を見直す必要に迫られている現在、憲法第八章の「地方自治」の九十二条以下の四カ条だけでは時代の要請にこたえていくことはもう既にできない状態になってきている、こう感じております。
 津野前長官の、憲法改正の際に改正手続の厳格さがネックになっておるとの御指摘も、非常に重要な御指摘であると考えます。憲法改正が不可避のものである以上、憲法改正手続にかかわる国民投票法などを早急に制定すべきと存じます。
 なお、憲法改正に当たっての憲法論議は、唯一の立法機関である国会が憲法九十六条の手続にのっとりまず主導すべきと考えますが、国会における憲法論議は議院法制局がこれを支えるべきであり、その権能の拡充や地位の強化が必要であると考えます。
 次に、憲法裁判所の設置に関してでございますが、先ほど杉浦小委員長から、裁判所が政治問題について判断することについては、積極的な意見、消極的な意見の両論がある、また、憲法裁判所の是非についても意見表明がなされたと御報告がございましたが、目まぐるしく変わる国際情勢等に対処するため、明確かつ迅速な憲法判断が必要とされていること等々を踏まえれば、憲法裁判所はこれを設置すべきものであると私は考えます。
 憲法裁判所の設置について、違憲審査が国民によって選ばれた議会の民主的な多数意見を裁判官が否定するという側面を持っているものであることから、その設置に消極的という御意見もございましたけれども、この憲法裁判所の構成の問題は、ドイツ等に見られるように裁判官の選出を議会が行うことなどでクリアできる問題であると認識しております。
 最後に、行政裁判所の設置に関してです。
 憲法七十六条二項において、特別裁判所の設置及び行政機関による終審裁判は禁止されておりますが、私は、この条項は、少しく厳し過ぎる条項、これは戦前の司法権が行政権の一部であったというその経験から出てきている条項だと思いますが、現在の時代には合わない。こういうことについては当然議論をすべきであると思います。
 以上をもって、私の意見表明といたします。
中野(寛)委員 私も、この中で特に憲法裁判所について触れたいと思います。
 私は、ぜひドイツ型の憲法裁判所を日本こそつくるべきではないかというふうに思っております。ややもすると、ドイツもそうかもしれませんが、神学論争の好きな国民性があるところは、とりわけ憲法裁判所というのはどうしても必要になると思います。
 内容的には、言うならば、一たんどこかで有権的解釈をする場というのをまず設けることが必要だと思います。特に、よく憲法九条で論争をされますけれども、ややもすると、憲法九条の中で注目を集めるところは、例えば最後の「国の交戦権は、これを認めない。」などのところが注目されるのですが、しかし、憲法九条第一行目「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、」、誠実に希求するためにどうするのかということについて論じられることは大変少ないと思います。
 例えば、今の自衛隊を違憲とする、または、集団的自衛権あるいは個別的自衛権を認めるが、その行使を否定するなどという論議がなされることがありますが、もしそうだとするならば、この九条というのは、一項、二項、二つも必要ではありませんし、五行も必要ではありません。日本はあらゆる戦争を放棄すると一行書けば済むことであります。
 ここに一項、二項を並べ、そしてまた五行も使って、そして「国際紛争を解決する手段としては、」というような限定的用語を使いという形でこの条項がなされていること、そのことが大変神学論争を生む原因にもなっているとするならば、一たん有権的解釈を下し、そして、その解釈に反対をする人は改憲運動を起こすべきだと思いますし、そして、その一たん下された憲法裁判所の有権的解釈に賛成の方々はそれに基づいて行政執行に当たっていくという、どこかでけじめをつけるべきだと思います。
 そして、その有権的解釈をなされたその結果について、国会で論じ、国会において、それが不都合である、または国民の利益に反する内容だということになれば、これは当然、憲法裁判所が改憲や修正をするわけではありませんから、そのときに、その結論に基づいて国会がその後いかになすべきかを論じます。すなわち、憲法についての主役、提案権が国会に厳然として存在するという姿は、それによっても全く変わらないということなのではないかというふうに思います。
 よくこの例えとして、ドイツ憲法裁判所のソマリア出兵のことが引用されますが、私のお聞きするところ、やはりそのような議論を生む余地のあった基本法について、その部分については改めてその後修正もなされた、改正もなされたと聞いております。そういうめり張りのきいた、けじめのついた憲法解釈、それに基づく合憲的行動ということが、日本の場合はとりわけ必要なのではないかという気持ちがいたします。
杉浦委員 私は、集団的自衛権について、我が国政府は有するけれども現行憲法はそれを行使できないという趣旨の解釈をしている問題について、意見を申し上げたいと思います。
 今度の参考人質疑は、前法制局長官の津野修さんを呼んで、非常に興味深いものでございました。彼も建前論を言っておりました。非常に含蓄のあることをいろいろ言っておられましたので、議事録を後で詳細、精査したいと思っておりますが、井上委員の、そんなばかな解釈をなぜするんだという質問に対して、非常に苦悩しながら答えておったのが印象的でございました。
 国際連合憲章がその五十一条におきまして、そのまま読みますと、「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。」と明確に規定しております。
 我が国の憲法解釈、政府見解で、あのような憲法上の文言にもかかわらず、小学生が読んでも自衛権を否定しているとしかとれない文言であるにもかかわらず、固有の自衛権はあるという解釈のもとで自衛隊を創設したことはもう周知のことでございますが、それを認めて行使しておりながら、集団的自衛権についてはあるけれども行使できないというような解釈をするなどとは、およそ、およそ、私も法律家の端くれですが、考えられないことでありまして、これは解釈を変更してよいと私は思っております。
 しかし、津野さんが言うように、政府による憲法解釈は論理的追求の結果であって、自由に変更できないんだというふうな考えをとるのであれば、私は、憲法を改正して、明らかに固有の権利はある、行使できるとするように改正すべきであると言わざるを得ないわけであります。
 しかし、日本の憲法は非常に改正が難しい、リジッドであって、文言改正は難しいということであれば、解釈を変更して、行使できるとするのは私は当然のことだと思っております。
 集団的自衛権の我が国の行使、行使といいますか、ちょっと片務的ですが、やっておるのはただ一つ、アメリカとの関係であります。安保条約に基づいて、日本の防衛についてアメリカの協力を得てきておるわけであります。安保条約は、アメリカがその行政区画において攻撃を受けた場合、日本が共同して行動をとるということは決めておりません。片務的と言われるゆえんでございます。
 これは、一種の集団的自衛権の行使の態様だと私は思いますが、憲法の解釈を明確にして、日米が真の同盟関係に入っていける、経済的、文化的、さまざまな意味で、日米は、唯一と言っていい、非常に友好関係にあるわけですが、軍事的にも、国連憲章で定める集団的自衛権をお互いに行使するんだ、アメリカが攻められたら日本も、日本の武力はアメリカの防衛に役に立たぬかもしれませんが、さびた刀を抜いてでも駆けつけるという気概が日本に求められているんじゃないか。
 そういうお互いの信頼関係、お互いの国をお互いに防衛し合うという面における心の結びつきというのがないと、アメリカも、日本が万一武力攻撃された際に本気になって防衛してくれるかどうか、信頼関係の基礎になると私は思うわけでございます。
 そういう意味で、非常に興味ある津野長官の参考人としての発言でございました。あの発言を詳細に分析して、私は、政治家として、内閣に対して有権解釈の変更を求めていきたい、憲法が改正されるまでの間。今後、努力してまいりたいと思っておる次第でございます。
末松委員 私もそこは、この前の審議を通じて感じましたのは、やはり日本にも憲法裁判所といったものが必要だなというのを強く感じたわけです。
 実際に私の感じでは、今、憲法の有権解釈権者はだれかというと、実質的には内閣法制局が担っている、そういう感じが特にいたします。特に、内閣法制局には全行政機関が協力して、それの法的な解釈の最高権者という形になっていて、その整合性を見る上で、極めて行政情報が活用しやすいという話になります。それがために、非常に迅速的であるということで、そのニーズを満たしているがゆえに、内閣の政策は内閣法制局によって規定されている、あるいは定められているというようなことが起こっております。
 一方、国民の側から裁判所、最高裁を通じて憲法解釈という話になってみると、とてもじゃないけれども、国民の側から見たら使いにくい。例えば、具体的な訴訟の利益がないとだめだとか、あるいは実際に自分の主張を通そうとすると、生業を持っていて、それで、時間的余裕もなければ資料集めの余裕もないとか、あるいは組織的な援助も受けにくいとか、そういった観点から考えると、国民から数年かけて裁判を行っていくということは非常に厳しい話であろうと思います。
 また、裁判官の立場に立ってみた場合、法律の中で生きていて、非常に清廉潔白で生きていらっしゃるかもしれないけれども、例えば国民の生活をどの程度知っておられるか、そういうことを見るとやや心もとないし、時代の要請ということに関してもやや感度が薄いようなことがあるやにも聞いております。
 そういったこともありますし、また、司法が消極主義という立場をとって、統治行為論とか高度な政治判断は判断をすべて避けるという話になれば、ほとんど議論に貢献していない、そういうことが考えられます。ですから、裁判所を憲法解釈の最終的な権者にするということは、私としては、なかなか困難が強いあるいは厳しいという思いでいっぱいです。
 ただ、内閣法制局で実際に憲法判断をずっとやっていくと、時の政権とかあるいは時の行政に極めて有利な形にも流れやすいものですから、そういった意味で、ある意味じゃ、国会に置くのかどこに置くのか、ちょっとそこら辺はまだこれから検討の余地がありますが、憲法裁判所というものを設置して、抽象的な違憲審査権を認めて、そして迅速な判断を行う。
 そういうことで、その判断の当否はある程度そこで疑義が生じるかもしれませんが、そこで矛盾を感じたということをきっかけとして憲法改正のいろいろな議論が出てくる。そういうふうにして憲法の発展ということも十分考えられますから、そういう観点からも、憲法裁判所というものをこれから設立するということは極めて意義深いものと思っております。
 以上です。
奥野委員 今御議論を聞いていながら、今の憲法を基礎にして憲法裁判所を設けても私は片づかないと思うんです。むしろ、これだけ変化が激しい時代、環境が重視されて、経済的な利益よりもさらに進んで、今後は自然環境権までつくれというような議論が発展してきているわけでございます。
 そのような中で、昭和三十年だったと思いますけれども、革新政党は一つになった、保守政党も一つになった、自社対決の政界が生まれまして、護憲か憲法改正かはずっと続いてきたわけでございます。
 なぜなら、今の憲法がそういう性格を持っているからでございまして、私は、将来はもう少し柔軟に憲法も改正できるような仕組みをとったらいいじゃないか、やはり一番基本になるのは我々国会じゃないだろうか、国会が、必要となれば、三分の二なければ改革に踏み切れないというようなことではなくて、もう少し柔軟に改正できる、そして国民投票にかけて決めるような仕組みをとるのが一番ベターじゃないかな、こう思います。
 そういう意味合いで、私はちょっと憲法の制定のときのことを振り返らせていただきたいのでございます。
 我々はポツダム宣言の受諾で戦争は終わったと思っておりましたが、連合国軍は、日本全土を軍事占領して、軍隊が上陸してきたわけでございます。そして、最高の主権者は連合国軍総司令部総司令官マッカーサー元帥でございました。
 そして、彼らが書いた憲法を日本に渡すに当たりまして、日本側がどうしても改正できないのはどこですかと聞いたら、全部だと答えているのであります。しかし、理解しやすいように、てにをはの部分などは改正が許されるだろうと答えておるわけでございます。
 その中で、日本の手順がおくれているということで法制局次長が報告に行った総司令部にとめ置かれまして、夜を徹して翻訳を始めたわけでございました。その翻訳が閣議に運ばれるたびに閣議を再開する、途絶えると休憩をするというようなことで、あの憲法がまずでき上がったわけでございました。
 そのときのアメリカの管理政策の基本は、日本が再びアメリカの脅威となるような存在になってはならないということでございまして、これは勝った国としては当然のことだろうと私は思います。でありますから、例えば、軍隊は持たせないどころじゃありませんで、軍隊につながるようなものは一切禁止されたわけであります。飛行機は民間といえども一機たりとも持たせない、大学の航空学科は廃止になりまして、航空学科の学生はほかへ転科させられたわけであります。
 あの憲法ができるときの衆議院は、選挙に当たりまして、まず、立候補するについても資格審査があったわけであります。アメリカの邪魔になるような者は立候補も認めなかったわけであります。そういう衆議院を経て議決になってきていることも忘れてはならないことだ、こう思うわけでございます。
 そして、あの憲法が施行になりますと、内閣法制局は佐藤氏をおいて全員入れかえを命じたわけであります。これは公式に入れかえを命じているわけでございまして、それで、各省から法制局に人間が派遣されまして、それらの人たちが内閣法制局の人間になっているわけでございますから、私は、内閣法制局は占領政策が伝統的に受け継がれていっているというような気持ちを強く持っているわけでございます。
 同時にまた、国民の側でも、憲法の宗教的活動をしてはならないという言葉を基礎にして、靖国問題に関することについては、いろいろなささいなことについてまで一々出訴して違憲を訴えますけれども、例えば伊勢神宮に内閣総理大臣がお参りしましても、いささかの訴訟も起こっていないわけでございます。
 また、そういう事情もございまして、憲法に書いてある宗教に関する規定と教育基本法に書いてある宗教の規定とは違っているわけでございます。いろいろな矛盾があります。
 この矛盾を、憲法裁判所を設ければ解決できるという性格のものじゃ私はないと思うのであります。日本の将来を考えたら、私は、憲法裁判所の是非は言いませんけれども、やはり国会がもっと時代の変化を先取りしながら日本のあるべき姿を考えていくべきであり、したがって、必要に応じて改正できる、今のような三分の二の多数をまずやめてしまうべきじゃないだろうかと思うのでございます。
 それよりもむしろ、司法裁判所というものは権利義務を中心にして物を裁いていくわけであります。行政事案というものは権利主義だけでは片づかないわけでございまして、国民の福祉とか国民の安全を考えまして、いろいろな面から判断をしていかなきゃならないわけでございます。しかし、今の司法裁判所ではなかなか裁判官――私はかつて、もう少し行政事件、事案というものを勉強させてくれということを最高裁判所の事務総長に国会の場で訴えたことがございました。
 むしろ、戦前はあったわけでございますけれども、司法裁判所を置くか置かないかについて重点を置いて私は論議をすべきものだ、こう思っておりますので、やはり今の憲法を改正する以外に問題は解決しないのじゃないかな、こう思っているところでございます。
中山会長 ただいまの奥野君の御発言に関連する限りで、ここで中野君を指名します。
中野(寛)委員 奥野先生の御発言、実は私も全面的に否定するものではないのですが、ただ、私と末松君の発言に対する誤解がまず先にあったように思いましたので、一言申し添えます。
 私どもは、憲法改正に反対をしておりませんで、私も民主党の憲法調査会長をいたしておりますが、党の調査会の一応の結論としては、創憲と申し上げております。むしろ、新しい時代に対応し得る憲法を考えましょうということを提起しているぐらいでございます。
 憲法裁判所は、現行憲法のもとにおいて憲法裁判所と申し上げたわけではありません。むしろ、新しい憲法の中に憲法裁判所を、いわゆる今のような神学論争をまた次の時代にも繰り返すことがないようにするために、ひとまずはどこかでけりをつける、決着をつける憲法裁判所をつくる、そしてその結論に基づいて、その後、そのままで、その解釈の憲法でいいのかどうかを国会が判断をして、またさらに改正をするなり、また行政判断にゆだねるなり、その結論はあくまでも国会が最終の結論を下すというシステムをつくりましょうと申し上げているわけでありまして、そこは誤解なさらないでいただきたいと思います。
山口(富)委員 日本共産党の山口富男です。
 私は、三つ発言したいと思うんです。
 第一は、憲法裁判所をめぐる問題なんですけれども、憲法裁判所をめぐる議論というのは、憲法論の非常に大きなテーマだと思います。同時に、憲法裁判所即憲法改正かということになりますと、そういう提起をされていらっしゃる方もおられますし、同時に、ここの参考人質疑の中でも出ましたが、以前は、現在の最高裁の中に憲法部という形で設けて、その審議を行うという提案もありました。そういうことも含めまして、憲法裁判所をめぐる大きな議論というのは、それとしては憲法論の大きな問題だと思います。
 同時に、私は、これを考えるときに、今の日本国憲法の八十一条の規定しております司法審査権という制度設計に問題があるのか、それともその運用に問題があるのか、この両面を考えなきゃいけないというふうに思うんです。その意味では、先日の山口参考人、私と同じ名前なんですけれども、のお話では、やはりさまざまな環境の中で、司法消極主義と言われるような批判もあるというお話をされていましたけれども、私は、憲法裁判所の問題については、消極的立場をとって、現行憲法の八十一条の規定の運用をきちんとすべきだというふうに考えております。
 それから二つ目に、憲法九条をめぐる問題です。
 これにつきましては、内閣法制局の見解を変えた方がいいという提案がありました。私も、内閣法制局の見解を変えるという点では賛成です。しかしそれは、憲法九条の正しい意味での解釈をしてほしいという意味での立場です。例えば、先ほどのお話ですと、集団的自衛権を持つが行使できないと。私は、これは、現行憲法は集団的自衛権については認めていないというふうに考えるべきだというふうに考えております。そして、この九条は、やはりいろいろな経過の中でつくられましたけれども、まだ一度として実現していないわけですから、これを立法府としてどういうふうに実現するのか、大いに考えるべきじゃないかなというふうに思います。
 それから三点目に、憲法制定過程にかかわりまして、押しつけ論という話もきょうはございました。
 しかし、憲法の素案をGHQが準備したのは間違いないわけですけれども、これが政府の原案となり、あの憲法制定議会で議論される中で、例えば憲法第九条でいいますと、第一項に「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、」という部分が新たに盛り込まれたり、それから第二十五条で生存権の規定が入ったり、それから一院制の提案を二院制に変えたり、憲法の大事な中身のところでも、あの憲法制定議会での議論というのは、強弱はありますが、なかなか値打ちのある議論をやったように私は思うのです。
 そしてその後、実際に憲法が国民の皆さんの支持を得て、そして五十数年こうやって運用されてきているわけですから、そういう全体から見ましたときに、やはり今日の日本国憲法は押しつけられたものだというふうに判断することは私はできないというふうに考えております。
井上(喜)委員 私は、まず、憲法裁判所のことから申し上げたいのであります。
 原則的に今の憲法の司法の制度は、私は、これでいいんじゃないかと思うのでありますけれども、ただ問題は、一つは統治行為について、これが憲法解釈と関連してくるような場合は、私は憲法裁判所で判断すべきじゃないかと。私が憲法裁判所と言いますのは、国会において、そういう高度に政治的な問題については国会の中の憲法裁判所が判断するのが適当だ、こんなふうに思います。
 それからあとは、違憲立法審査権でありますけれども、これも、全面的に最高裁判所が立法措置が憲法に適しているかどうかを判定するというのは、やはり問題があるんじゃないかと思うんですね。
 これは中身によりますけれども、私は、そういうことで、統治行為について憲法問題が問題になるときと、特定の違憲立法審査をする場合、これについては憲法裁判所で判断をする、そしてその憲法裁判所は国会の中に設置をする、これがいいんじゃないかと思うんですね。つまり、いろいろな政治とかその他の情勢を勘案しながら判断をしていく、そういう特殊な分野じゃないかと私は思います。
 それからもう一つは、憲法というのは、憲法解釈の分野というのがあるわけですね。しょっちゅう憲法を改正するわけじゃありませんから、そういう分野があると思いますが、それも大変重要な分野だと思うんです。
 今の憲法でいいますと、九条が一番問題になるんじゃないかと思うのでありますが、自衛権というのには、言うところの個別的自衛権と集団的自衛権が含まれることは当然のことなんですね。九条をよく読んでみますと、侵略戦争をしないということなんですよ。それがこういうような形になっているわけでありまして、今議論されている自衛権と九条というのは直には関係はない、私はそんなふうに思います。
 そもそも、この自衛権が問題になりかけたのは、鳩山首相のころからじゃないかと思うんですね。鳩山首相の発言は、これも確かめる必要がありますけれども、要するに、自衛のことについてきちっと書いていないじゃないか、だからこれについては、これについてはということは自衛権がある、こういうような私は発言だったように思う。要するに、座して死を待つわけにはいかないというようなことを言われたように思うのであります。
 それから、今宮澤さんも若干集団的自衛権に関連するような発言もしておられるわけですね。例えば、アメリカ近海で何か紛争があった場合に、日本はのこのこそんなところまでは出ていけないけれども、日本近海でアメリカが攻撃された場合に、果たしてそのままほうっておけるのかというような発言を何回かしておられるわけでありまして、これは直接的に集団的自衛権どうのこうのという発言じゃありませんけれども、それに類した、関連した発言じゃないかと私は思うんです。
 自衛権は、要するに九条には規定をしていないわけでありまして、まさに九条というのは侵略戦争をしちゃいけない、これは当たり前の話であります。自衛権といいますのは、自分を守る、こういうことでありますので、もちろん自分自身で自衛をする場合もありましょうし、集団的自衛権でもって自衛をしていく、あるいはある一定限度において他国を応援していくということは当然あるんじゃないかというふうに思うのでありまして、今法制局がやっておりますのは、自衛権はあると言いながら、その解釈を、侵略戦争をしてはいかぬ、そこの条文でもって解釈していて、木と竹とを接いでいるような解釈じゃないか、私はこんなふうに思います。
    〔会長退席、葉梨会長代理着席〕
金子(哲)委員 社会民主党・市民連合の金子です。
 私も、さきの小委員会に参加をしておりまして、一つは、やはり裁判所が持つ違憲審査の問題について、大変興味を持って山口参考人のお話を伺ってまいりました。
 現憲法で三権が分立されて、その中にあって最高裁判所にそのような違憲審査の資格を与えているわけですけれども、なぜそれが機能しないのかということをやはりもっと検証してみる必要があるんじゃないかというふうに思います。この間、山口参考人は、私がお聞きするところでは裁判官に一定の権力といいますか、その背景がない、力がないということ、その例として、裁判官は国民の選挙によって選任されていないということが、非常に政治的な問題を判断する上では、できない要因だということをお話しになったと思います。
 もし仮にそうだとすると、私は、例えば今お話しになっているような憲法裁判所をつくっても、結局のところ同じようなことになるのではないか。むしろ、やはり憲法に則して、確かに立法する国会に最高権力がありますけれども、それすらも憲法で保障されて初めてそのことが、日本の国会に最高権力があるということがうたわれているわけでありまして、その憲法に照らしてだれが最終的な判断を下すかといえば、最高裁判所にその役割を憲法は与えたわけですから、やはりその憲法が与えた役割というものを最高裁判所が果たしていくというのは、現憲法の中にあっては当然の責務ではないか、そのことを承知しながら、最高裁判所裁判官の任命の仕方、さらには国民審査の方法等が今、一定に、制度的に組み立てられているのではないかというふうに私は思います。
 もし仮にそのことを是認しないとしたら、憲法を変え、仮に憲法裁判所をつくってみたとしても、国民の投票を受けない裁判官には権力がないとすれば、結局のところは意味をなくしていくのではないかということを、私はこの間のお話では非常に強く感じました。
 そのこととあわせて、やはりなぜそれまでに最高裁判所がそこの責任を持たなければならないかということ、先ほど来、憲法の解釈問題が出てまいりましたけれども、私は、仮に憲法が変えられたとしても、そういう状況というのは非常に出てくると思います。今日の日本国憲法の憲法改正の手続からしますと、簡単に憲法を変えられないということになりますと、常にその解釈の問題をめぐって、また法律をめぐって、そのような憲法とのかかわりを判断しなければならない事態が必ず登場してくるということになれば、さらに重ねて、やはり最高裁判所、三権分立の役割というものをもう一度検証し直していくということがこの憲法調査会でも非常に重要ではないかというふうに私は思います。さらに、そのことがしっかりと論議をされれば、今日、残念なことですけれども、違憲審査について非常に消極的になっている最高裁判所に対して、もっと力を与えていくことになると私は思います。
 今井上委員から、国会の中に憲法の判断をということでありますが、立法する側が同じことを判断するということは、明らかに、そのことに正しい判断が与えられることにはならないというふうに私は思います。
 それから解釈の問題、内閣法制局の問題を言われておりますけれども、私は、いみじくも杉浦幹事がおっしゃいましたけれども、今日の状況は、自衛隊の問題にしてみても、余りにも憲法の解釈を、憲法の法文を拡大解釈をしていっている。子供でも読んでもとおっしゃいましたけれども、まさにそのとおりでありまして、そこのところをむしろ、そういう解釈をどんどん変えていくことによって行う政治というのはやはり正しくない。やはり憲法が現にあるわけでありますから、むしろ憲法の条文に沿って解釈を変えていく、そしてまた現実の政治も変えていく努力というものをやっていくということが重要だと私は思いますし、逆に言えば、今のような、むしろさらに拡大をしていく、集団的自衛権の問題にまで踏み込もうとするような論議の余地をむしろ与えている、そういう余地を与えているということにつながっているというふうに私は思っております。
 その意味で、やはりもう一度、逆に言えば、この憲法調査会も憲法に照らしながらの論議というものをもっとしっかりやるべきだということを申し上げておきたいと思います。
葉梨会長代理 他に御発言はありませんか。
 それでは、討議も尽きたようですので、これにて自由討議を終了いたします。
 次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。
    午前十一時四十四分散会
     ――――◇―――――
  〔本号(その一)参照〕
   派遣委員の石川県における意見聴取に関する記録
一、期日
   平成十五年五月十二日(月)
二、場所
   金沢全日空ホテル
三、意見を聴取した問題
   日本国憲法について(特に、非常事態(安全保障を含む)と憲法、統治機構(地方自治を含む)のあり方及び基本的人権の保障のあり方)
四、出席者
 (1) 派遣委員
      座長 中山 太郎君
         中川 昭一君   葉梨 信行君
         桑原  豊君   仙谷 由人君
         遠藤 和良君   一川 保夫君
         春名 直章君   金子 哲夫君
 (2) 現地参加議員
         奥田  建君
 (3) 意見陳述者
      無職          山本 利男君
      福井県立大学教授    島田 洋一君
      弁護士         岩淵 正明君
      弁護士         松田 智美君
      大学教授        鴨野 幸雄君
 (4) その他の出席者
                  諸橋 茂一君
                  木村 吉伸君
                  菅野 昭夫君
                  世戸 玉枝君
     ――――◇―――――
    午後一時開議
中山座長 これより会議を開きます。
 私は、衆議院憲法調査会会長の中山太郎でございます。
 私がこの会議の座長を務めさせていただきますので、どうぞよろしく御協力をお願いいたします。
 本調査会は、平成十二年一月二十日に設置されて以降、日本国憲法につきましての広範かつ総合的な調査を進めてまいりましたが、憲法は国民のものであるとの認識のもと、広く国民各層の皆様方から日本国憲法についての御意見を拝聴し、本調査会における議論の参考にさせていただくため、一昨年四月以降、宮城県仙台市、兵庫県神戸市、愛知県名古屋市、沖縄県名護市、北海道札幌市及び福岡県福岡市において地方公聴会を開催してまいりました。
 そこで、本日は、御当地にて地方公聴会を開催することと相なった次第でございます。
 ここで、意見陳述者及び傍聴者の皆様方の御参考のため、本調査会の現在までの活動状況を簡単に御報告申し上げます。
 本調査会は、平成十二年に設置されて以降、日本国憲法の制定経緯、戦後の主な違憲判決及び二十一世紀の日本のあるべき姿をテーマに、日本国憲法についての広範かつ総合的な調査を行ってまいりました。
 昨年からは、本調査会のもとに小委員会を設置し、専門的、効果的な調査を進め、今国会においても引き続き議論を重ねているところでございます。
 また、本調査会のメンバーをもって構成された調査議員団が三度にわたり海外に派遣され、一昨年は、ロシア、東ヨーロッパ諸国、イスラエル、昨年は、イギリス、タイ及びシンガポールを初めとする東南アジア五カ国、中国及び韓国の憲法事情について調査をしてまいりました。
 そして、昨年十一月一日には、これまでの調査の経過及びその概要について取りまとめました衆議院憲法調査会中間報告書を衆議院議長に対して提出し、さらに同月二十九日には、中間報告書の提出の経緯及び概要について、衆議院本会議において報告を行ったところでございます。
 本調査会におきましては、今後とも、人権の尊重、主権在民、再び侵略国家とはならないとの三つの原則を堅持しつつ、新しい日本の国家像について、全国民的見地に立って、日本国憲法に関する広範かつ総合的な調査を進めてまいる所存でございます。
 意見陳述者の皆様には、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。どうか忌憚のない御意見をお述べいただくようお願い申し上げます。
 また、多数の傍聴者の皆様方をお迎えすることができましたことに深く感謝をいたしたいと存じます。
 それでは、まず、この会議の運営について御説明を申し上げます。
 会議の議事は、すべて衆議院における議事規則及び手続に準拠して行い、衆議院憲法調査会規程第六条に定める議事の整理、秩序の保持等は、座長であります私が行うことといたしております。発言される方は、その都度座長の許可を得て発言していただきますようお願い申し上げます。
 なお、この会議においては、御意見をお述べいただく方々から委員に対しての質疑はできないこととなっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。
 また、傍聴の方は、お手元に配付しております傍聴注意事項に記載されておりますとおり、議場における言論に対して賛否を表明し、または拍手をしないこととなっておりますので、御注意ください。
 次に、議事の順序について申し上げます。
 最初に、意見陳述者の皆様方から御意見をお一人十五分以内でお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。
 意見陳述者及び委員の発言時間の経過のお知らせでありますが、終了時間五分前にブザーを、また、終了時にもブザーを鳴らしてお知らせいたします。
 御発言は着席のままで結構でございます。
 なお、委員からの質疑終了後、時間の余裕がありましたら、本日ここにお集まりいただきました傍聴者の方々から、本日の公聴会に対する御感想を賜りたいと考えておりますが、員数には制限をさせていただきたいと思います。
 それでは、御出席の方々を御紹介いたします。
 まず、派遣委員を御紹介いたします。
 民主党・無所属クラブ仙谷由人会長代理、自由民主党葉梨信行幹事、自由民主党中川昭一幹事、民主党・無所属クラブ桑原豊委員、公明党遠藤和良委員、自由党一川保夫委員、日本共産党春名直章委員、社会民主党・市民連合金子哲夫委員、以上でございます。
 なお、現地参加議員といたしまして、民主党・無所属クラブ奥田建君が参加されております。
 次に、御意見をお述べいただく方々を御紹介させていただきます。
 山本利男君、福井県立大学教授島田洋一君、弁護士岩淵正明君、弁護士松田智美君、大学教授鴨野幸雄君、以上五名の方々でございます。
 なお、本日、意見陳述者として出席をお願いしておりました蓮池ハツイ君から、諸般の事情により出席できないとの申し出がありましたので、御了承を願います。
 それでは、山本利男君から御意見をお述べいただきたいと存じます。
山本利男君 小松から参りました山本でございます。
 基本的人権などについては、日本国憲法前文に、「これは人類普遍の原理であり、」「これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」とまで言い切っています。したがって、これが改廃は軽々に論ずべきでないことはもちろんであります。本件については、憲法の他の重要要素である絶対平和、主権在民との関係もありますが、一応私は、基本的人権の保障を中心にして意見を述べさせていただきます。
 まず第一は、国民の権利及び義務として、憲法第三章、第十条から四十条の三十一条でございますが、権利義務は表裏一体であるべきなのに、権利のみが際立ち、義務が余りにも少ないということであります。
 具体的には、第十二条で権利の乱用禁止、利用責任を規定してはいるものの、純然たる義務規定は第三十条の納税の義務だけだと思います。
 次に、諸権利や義務は、時代が大きく転換し、事情変更の原則や法の類推解釈などでは到底不可能な現状に目が閉じられているということであります。
 例えば、憲法が施行された昭和二十二年の国民平均寿命は、やっと人生五十年が現実のものになった、男五十歳、女五十三歳でございます。また、三年後の昭和二十五年でさえ、国民所得は一人当たり百二十三ドルで、米国のわずか八%にすぎません。当時は、大都市は焼け野原、エンゲル係数は一〇〇%に近く、国民全体がどん底にあえぎ苦しんでいる時代で、現在とは全くかけ離れた社会情勢の中で制定されたのがこの憲法でございます。
 三番目。道徳教育を徹底すること。
 現在の親たちは中小学校で日本古来の道徳もよき伝統も学ばず、加えて、核家族化により祖父母等との影響は希薄になり、まことに憂慮すべき状況にあります。また、宗教とは何か、なぜ人間は宗教を必要とするのかの基本を教えるべきであります。これは、一宗一派に偏したり、国が宗教に関与したりすることではありません。憲法で信教の自由を言っているが、現在二十万近くもある宗教法人を選ぶ尺度が必要であるということであります。
 四番目。前文の中ほどにある「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」についてです。
 アといたしまして、これは生物の自己防衛という自然界における法則に反する不自然なものだと思います。お肉やお魚はもちろんのこと、一粒の米、一片の菜っぱにも命があります。残念ながら、人間は他のものの命を奪わなくては生きていけません。これは人間だけではありません。この地球上におけるすべての動植物は、こんなことを言っていたら一日も生存することは不可能であります。敗戦のショックと自己喪失で茫然自失していた終戦直後ならいざ知らず、世界に類例のない不法則であると考えます。
 ならず者が平和な家庭の茶の間に土足で上がり込み、子供でなく一人前の立派な息子や娘をかっさらっていっても、私はあなた様の公正と信義に信頼しますと二十年も三十年もほったらかしておく、こんなことは世界に類例がないではありませんか。これは人類普遍の原則というよりも、もっと広範囲な、生物普遍の原則であります。本件については、党派を離れて、衆参両院は全会一致で直ちに削除すべき問題と思います。
 イといたしまして、我らの安全と生存を他国にゆだねるという考え方は、国民を根なし草にし、多くの若者をフリーターにしています。これは就職難だけとは言えません。日本の常識は世界の非常識と言われ、平和ぼけと言われるところのゆえんはここにあると考えます。
 五番目。国を愛するという愛国心や郷土愛、親子兄弟等の家族関係、師弟関係及び社会に奉仕するという利他の心を挿入すべきであると思います。
 アといたしまして、利他の心。自分のためでなく何かをしたときに、結果として返ってくる人生の豊かさ、人に喜んでもらったことが照り返しのように自分に戻ってくる。自分のためだけの楽しみを追っていても満ち足りないものが残る。他者を生かす奉仕の喜びを知れば、穏やかで満ち足りた心、生き生きとした充実感を味わうことができると思います。
 イといたしまして、親子、師弟関係は、三尺離れて師の影を踏まずとか長幼序ありとかいうのではないけれども、そこに尊敬の念がなければ、しつけも教育も成り立たないと思います。
 ウといたしまして、国を愛するという言葉は憲法の中には一言半句も出てこない。これは、占領下にあって、日本が独立していないときに押しつけられたものであることを如実に物語っていると思います。日本国憲法は、占領軍の命令によって国会に提出され、わずか二カ月足らずで両院を通過しました。当時は、天皇も国会もすべて占領軍総司令官の指揮下にありました。
 当時、私は外地にいましたが、現地の新聞に次のようななぞなぞがありました。「マッカーサーとかけて何と解く。おへそと解く。その心は、朕(珍)の上にあり」というコント漫画でありました。当時の日本人の心情は、無条件降伏をし、国土は焦土と化し、飢えにおびえ、今後日本の受くべき苦難はもとより尋常にあらず、時運の赴くところ、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲すということであります。当時の国会議員を初め全国民は涙をのんでこれに賛成したのであります。
 六番目。日本国憲法は旧帝国憲法を改正したものではありません。
 すなわち、旧帝国憲法七十五条には憲法改正が述べられておるわけでございますが、「摂政ヲ置クノ間之ヲ変更スルコトヲ得ス」とあります。同じく十七条及び皇室典範では、摂政を置くのは次の二項目であります。アといたしまして、「天皇が成年に達しないとき」。イといたしまして、「天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないとき」。
 当時の天皇は、前述のコント漫画のごとく、敗戦という重大事により、摂政どころではない、国事行為など全く不可能な状況にありました。日本国憲法は、旧憲法から言えば間違いなく無効憲法であり、また占領地の法律を変えてはならないという国際法違反の不法憲法であると考えます。同じ敗戦国でも、ドイツは自主憲法を制定し、軍隊を持ち、その後何回となく憲法改正を行っていることは御承知のとおりであります。
 最後に、第九十六条の憲法改正の手続をまずほかの項目に最優先して改正すべきであると考えます。
 アといたしまして、主権在民であるのに、憲法改正という重大事を国会の発議にのみまつということは全く矛盾しております。国民がみずから発議できるように改正すべきであると考えます。
 イといたしまして、我が国が独立国になって五十年、いまだに憲法改正の発議すらできないということは、一つは改正手続が余りにも硬直化しているということ、そしてもう一つは国会の怠慢にあると思います。これではいつまでたっても国民に提案されることはないのではないかということで、非常に懸念されます。主権者である国民が直接発議に関与するか、または国会議員自身に自覚猛省を促すかのいずれかしかないのじゃないかと考えるものであります。奴隷の境遇に長くいた者は、またみずからも奴隷となる。
 以上のとおり、このままでは国家百年の計を誤り、取り返しのつかないことになりかねません。私も長年、憲法擁護論者でしたが、確かに日本国憲法にはよい面もたくさんあり、功罪はあります。しかし、時代は大きく変化した。日本国憲法よ、御苦労さまでした。もうあなたの出番はとっくに終わっています。
 以上でございます。
中山座長 ありがとうございました。
 この際、本日欠席されました蓮池ハツイ君が意見陳述応募の際に寄せられた意見陳述の概要を御紹介いたしたいと存じます。
 事務局におきまして朗読させます。
    〔参事朗読〕
  私は、北朝鮮に拉致された蓮池薫の母で、ハツイと申します。
  私は、年老いた一年金生活者ですので、日本国憲法の細かい解釈などはよくわかりません。しかし、今回のテーマである基本的人権の保障のあり方という言葉を聞くと、ただむなしさだけを覚えます。果たしてこの国において基本的人権の保障など存在するのだろうか。だれがそれを保障してくれるのか。二十四年間息子の帰りを待ち続けて、ずっと考えてきたのがそのことです。
  息子は、決して裕福とは言えませんが、普通の家庭に次男として生まれました。確かに、小学生時代交通事故に遭い、両足に重傷を負ったため、切断の危機に瀕しました。しかし、それも見事に克服し、中学校時代は野球部のキャプテンとして活躍するまでになりました。そのようにして立派に成長し、幸福な日々を送っていたと思います。あの忌まわしい昭和五十三年七月三十一日の夕方までは。
  息子の姿が見えなくなってからの気持ちは一言では言いあらわせません。悲しみ、苦しみ、むなしさ、あきらめ、悔しさ、怒りなどなど、いろいろな気持ちが私の心の中で交錯していました。どのような因果かわかりませんが、昨年十月十五日、息子は二十四年ぶりに故郷の土を踏みました。そして、積年の願いがかないました。しかし、いまだに息子たちの子供たちは北朝鮮の人質としてとらわれの身にあります。さらに、まだ生存が確認されていない拉致された日本人が大勢います。これらのことを考えると、まだまだもろ手を挙げて喜べないのが本当の気持ちです。
  基本的人権とは、何事にも侵されることのない、生命、自由、幸福を追求する権利であると伺っています。私の息子は、あの日、そういった権利を一瞬のうちにすべて奪い取られました。だれもが夏を満喫するごく普通の国内の海岸で、北朝鮮の工作員という海外からの侵入者の手によって突然自由を奪われ、拉致されました。そのとき息子がどんなにか恐怖におののき、生命の危険さえ感じたかは、想像を絶するものがあります。
  その後、息子は恋人と結婚し、二子をもうけ、朝鮮語も覚え、二十四年間生活してきたといいます。しかし、それは決して幸福などと言えるものなどではなく、かの国で何とか生き延びるためのすべであったとしか言わざるを得ません。祖国のことを日々考え、救出の兆しさえ見えない中、どんなにか苦しい生活をしていたのかを考えるとき、息子たちがふびんに思えてしようがありません。
  北朝鮮による日本人拉致は基本的人権の侵害のきわみです。そして、何事にも侵されることのない権利が他国によって侵されているのですから、これは国家主権の侵害です。到底許すことのできない凶悪犯罪であり、国家テロです。どうしてこのような状態が二十四年以上も続いているのか、不思議でなりません。基本的人権を保障するのが国家の役割ではないのでしょうか。日本国憲法などこの国では遵守されていないと言っても過言ではないと私は思っています。
中山座長 意見陳述者からの御意見の開陳を続けます。
 島田洋一君、お願いいたします。
島田洋一君 福井県立大学の島田です。また、北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会、略称救う会の副会長も務めております。
 その関係で、ことしの三月上旬に拉致被害者家族会の方々とともにアメリカ・ワシントンを訪れて、アメリカ政府の高官たちあるいは連邦議会の議員たちといろいろ意見交換をし、また拉致問題の早期解決に向けた協力を訴えてきたところです。
 その前に、二月にもいわば先遣隊という格好でワシントンに行って、同じく意見交換をしてきたのですけれども、きょう蓮池さんが身内の不幸で急遽欠席ということでもありますので、私が本来予定していたよりも拉致問題と憲法という点により比重を置いて、意見陳述をさせていただきたいと思っています。
 アメリカの議員等々と話をしていると、例えば具体的には、今後、国連の安全保障理事会で北朝鮮の核兵器開発に絡んで制裁決議等が当然議論されることになるけれども、その際に、日本政府としては、日本人拉致を含む人権問題も制裁事由に含めるように大いに国際社会に訴えるべきだ、アメリカ政府もそれを最大限バックアップするし、アメリカの議員なんかは、自分たちもアメリカ政府に対してさまざまに影響力を行使するから、ぜひ日本政府は拉致問題を国連の制裁論議の場にはっきり持ち出すべきだといった意見を聞きました。
 アメリカ側が日本人の拉致問題に関して大いに国連の場でバックアップしてやろうと言っているのに、日本政府が制裁等で北朝鮮を刺激したくないと及び腰になっているというのでは笑いものになりますから、そのあたり、日本政府においてもしっかり意識を持ってもらわないといけないと思います。
 なお、昨年の秋にできましたイラクに対する国連安保理決議一四四一号では、大量破壊兵器の問題に加えて、イラクの人権抑圧というのもはっきりとイラクに対して厳しい対応の理由の一つとして挙げているわけですから、北朝鮮問題で同じく決議が安保理でなされる際、人権に触れないという方がむしろ不自然であると私は思います。
 アメリカでは、拉致問題に関する話をしていると、これはもうとんでもない犯罪行為であって、子供を人質にとっているというような状況も許せない、海兵隊を送り込むべきだというような発言をした議員もいますけれども、センド・イン・マリンズ、英語ではそうなります。
 別のアメリカ人から聞いた話をもう一つ紹介すれば、もし例えばキューバがフロリダからアメリカ人を拉致したとしたら、アメリカ大統領は即座に米軍に対して軍事的に奪還する計画を立てるように命令を下すだろうと。実際、軍事力を行使するかどうかは別にして、ほかのオプション、経済制裁等で解決するということができれば、それはそれでいいわけですから。ただし、軍事的に奪還するという作戦を直ちに立てろ、それを大統領が軍に対して命令しなければ、その人物は大統領にとどまることはできない、アメリカではそれが常識だという発言を聞きました。
 無理やり力ずくで連れ出されてしまった自国民を、必要とあれば力ずくでも奪還するという姿勢、これが、やはり日本の場合、憲法上それはできない云々といった話に遮られてしまうという現状があると思うわけです。
 まず第一に、自国民、私の国の国民を拉致したら力ずくでも奪還するぞという姿勢を持っている国に対しては、相手も安易に手を出せません。その意味では、力ずくで奪還するという姿勢を持つことが抑止力として働く、大変重要な第一のポイントであり、また、テロ勢力に対して交渉によって物事を解決するという場合にも、交渉に応じないんだったら力ずくで解決するぞという姿勢があって初めて交渉が成り立つという現実があります。そのあたりのことを例えば今の川口外務大臣あたりは全然わかっていないというか、わかろうともしていないようです。
 参考のためにアメリカの事例を言えば、一九九四年、前回の核危機のときに、結局アメリカは、北朝鮮との交渉解決、いわゆる枠組み合意というものをつくりました。アメリカ側の交渉を担当した当時のガルーチ国務次官補が後に証言していますけれども、北朝鮮がこのまま核兵器開発を続けるんだったら、アメリカとしては軍事力行使というオプションも排除しないし、国連において経済制裁決議案を通すという作業を進める、そういう姿勢をアメリカ側が示したから、北朝鮮側も交渉解決に応じてきた、その後の交渉が大変やりやすくなったということを言っております。
 日本国憲法の平和主義と言われるもの、またその一般的解釈においては、国際的規模で発生した不正行為を解決するために日本という国が力を用いることが悪であるという発想、強制力によって不正を終わらすのは悪であるという発想があるようですが、これは大変論理的な一貫性も欠きますし、正義という理念と相入れないと思うわけです。
 まず第一に、もし日本国内でギャング、やくざがだれかを拉致して、人質にして閉じこもった、それを警察力によって解放するのは、だれが考えても正義、正しいことであるわけですが、その同じような状態が、一歩国境線を越えて、国境線の外へ連れていかれた途端、一切力の行使は考えてはいけない。これはいわば国境線というものに対するカルト信仰と言わざるを得ない。
 もう一つ例を挙げれば、例えば、アウシュビッツに閉じ込められているユダヤ人、ただ殺されるのを待っているだけのユダヤ人を、国際的な救出部隊を派遣して武力で解放しようという場合に、いや、日本は平和憲法の国ですから参加できない。これが一体、世界から尊敬される態度かどうか、自明のことだと思います。
 さて、拉致というのは、他国の領土に工作員を送り込んでその国の住民を連れ去るというのは明らかに戦争行為であり、さらに言えば、戦時中においても民間人の拉致というのは許されませんから、戦争犯罪行為であります。当然、最低限経済制裁等を打ち出して、厳しく相手に解決を迫る、これは当然のことだと思うわけです。
 北朝鮮がいわゆるNPTから脱退した、あるいは平壌宣言を含むさまざまな核に関する国際合意を露骨に破っているという状態に対しても、唯一の被爆国云々ということを世界に対して訴えてきた日本政府としては、やはり経済的な制裁等も含め厳しく対応し、強い意志を示すべきだと思います。
 最終的には軍事的オプションもあるぞという姿勢を示すことが交渉解決に当たっても重要だということを言いましたけれども、ブッシュ政権などもそういう姿勢で対応してくる、まずは経済的締めつけでということになると思いますけれども、拉致被害者家族会あるいは支援団体である我々救う会においても、もちろん軍事力行使というのは最後のオプションであると考えております。それは当たり前のことであって、もし軍事力行使ということになれば、民間人にも被害が及ぶ。その一般人の中には拉致被害者だって含まれるかもしれないわけですから。
 したがって、よく家族会のことを、特に蓮池透氏などの発言をとらえて、戦争待望論者だというような非難をする左翼系のメディアなんかもありますけれども、とんでもない話であります。家族会の方々としては、もちろん戦争など避けたいわけですけれども、とにかく、北朝鮮が制裁は宣戦布告とみなすと恫喝をかけてくる中で、そこでびびってしまえばもう交渉にならない。やはりむちを用意しない粘り強い交渉などは先送りにすぎないということを経験上思い知らされていますから、したがって、強い態度に出るべきだという主張をしているということであります。
 憲法との絡みで言えば、やはり日本としては、例えば北朝鮮が、日本による経済的締めつけに対して、それでは東京を火の海にするぞなどと言って、日本に向けたミサイルに燃料を注入する、そういう事態が起これば、その段階で、撃たれるのを待っているのじゃなくて、敵の、相手方の基地を先制攻撃する。これは自衛の範囲内だということを防衛庁長官も言っているわけですから、政治家がそこまで言った以上、トマホークの購入等々、きちんと実際それができる能力を備えるべきである。
 最後に、集団的自衛権は日本もあるけれども行使できない云々といった解釈、これも極めて非常識なものですから、即座に集団的自衛権を行使するという格好にすべきだと思います。
 今の状況だと、例えば、戦闘行為の中で、アメリカ兵が飛行機を撃ち落とされて海上に浮いている、それを日本側が助けに行った場合、そこに北朝鮮の飛行機が一機飛んできて、そこが戦闘区域だということになれば、戦闘区域では協力体制が組めないということになっていますから、救出を中断して引き揚げないといけない。こういう解釈が成り立つ憲法というのはいわば敵前逃亡憲法とも言うべきであって、およそ世界から尊敬されるものではないと思います。
 憲法九条及び前文、前文の空疎性については山本さんからお話がありましたけれども、九条及び前文は削除するというのが正しい方向ではないか。警察力に関しても個別法規で規制をきちんと規定しているわけですから、安全保障問題についても個別法規で規定して、憲法上どうこうというようなスコラ談義に時間を空費するのはやめるべきである、そのように思っております。
 とりあえず以上です。
中山座長 ありがとうございました。
 次に、岩淵正明君にお願いいたします。
岩淵正明君 弁護士の岩淵です。
 私は、今の御意見とは正反対の立場で、今求められているのは、日本と世界の現実の中で憲法の理念を確認して生かすことであり、決して憲法改正でないことを主張したいと思います。
 憲法の前文は、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることがないように決意した上で、バランス・オブ・パワーの考え方をとらずに、諸国民の公正と信義に信頼して我々の国の平和を確保しようとしています。しかも、これは強調しておきたいのですが、他国の力にまつというのではなくて、平和の実現のためのあらゆる努力をする積極的平和主義の立場を打ち出しています。この平和主義の具体化として、憲法九条の戦争放棄の規定が生まれたものであります。
 私は、今の日本と世界の状況を踏まえると、武力、戦争による紛争解決は行わず、平和的に他国との関係においてあらゆる努力をするという、この日本国憲法の積極的平和主義が今ほど現実性を持ってきたことはないというふうに確信しています。憲法の出番はこれからなのであります。
 先般のアメリカによるイラク攻撃の件で明らかになったのは、世界は国際法と国際協調によって新しい秩序を構築していこうという流れをつくり始めているということであります。
 マスコミではフセイン政権打倒が大きく報道されていますが、そのことよりも、唯一の超大国アメリカでさえイラク攻撃容認の国際連合の決議を得られず、国際社会の正当性を得られなかった事実の方がむしろ重要なんです。アメリカ、イギリスは十五カ国の安保理理事国の中で四カ国の賛同しか得られなかったのであります。中間派六カ国のうち三カ国はアフリカの国で、アメリカはこれらの国は圧力などで意見を変えられるという認識だったようでありますが、将来発生するかもしれない武力攻撃に備えて、今先制的に武力攻撃しておくという超大国アメリカの論理が国際法に反しているということを理由に、これらの国も最後まで意見を変えなかったのであります。
 加えて、アメリカを含む世界の国内世論が戦争に対して強く反対の意思を表示してきたことの意味も大きいと考えます。ことし二月には、世界六百の都市、六十カ国で一千万人以上の人が反戦デモ、集会に参加をしました。三月にも大規模なデモ、集会が開催されました。
 世界は、戦争の自由を否定して、国際関係における武力の行使を回避しようとし始めているのです。今こそ、同じ思想に立ち、再び戦争をしないという、戦争を放棄した日本国憲法の出番であるということを主張したいわけであります。
 アメリカによるイラク攻撃が現実に実行された現在において明らかになったことというのは、一つには、戦争には正当な理由などあり得ないということであります。二つ目には、戦争では結局は何の罪もない市民、国民が多数犠牲になるということであります。
 アメリカの戦争目的は変遷をしてきました。当初はイラクとビンラディン、アルカイダとのつながりが戦争目的でしたが、これが立証されないことが判明して以降は、大量破壊兵器の武装解除が戦争の最大目的となりました。しかし、イラク戦争開戦から一カ月以上たった今なお、大量破壊兵器は見つかっていません。そもそも九五年に亡命したフセイン大統領の長女の夫フセイン・カメル氏も大量破壊兵器は既に廃棄したと述べておったのでありますが、アメリカはこのことを知りながら戦争目的をイラクの大量破壊兵器廃棄としたものであって、戦争目的がいかに虚構に満ちたものであったかが今明らかになっています。
 また、イラクの民主化、体制変革も戦争目的とされましたが、一たび戦争となれば、民主化の恩恵を受けるべき一般市民の被害は甚大でした。アメリカ、イギリスの平和活動家らでつくる市民団体、イラク・ボディー・カウントは民間人の死者数を推計していますが、現在のところ、兵士を除く一般市民の死者は、少なく見積もって二千百八十人、多く見積もれば二千六百五十三人にも及んでいます。一般市民の犠牲を抑えるという主張もいざ戦争になると虚偽にすぎないことをこの事実は明らかにしています。しかも、大規模戦闘が終結した今も、イラクでは不発弾などの爆発で市民が傷ついています。
 戦争目的がどのようにでもつくられ、結局多数の市民が殺される戦争を放棄した、こういう日本国憲法の先駆性こそが再確認されるべきであると考えます。
 二十一世紀が国際法と国際協調の世界になるという潮流の中で、日本は本来、武力によって国際紛争を解決する立場に立たず、戦争を放棄する日本の憲法の理念こそ一歩先を行く理論だという確信を持って、今こそ憲法九条の先見性を世界に示すべき好機と考えるべきでありました。
 にもかかわらず、日本は戦争による紛争解決を優先するアメリカを支持しましたが、これは、憲法九条一項の、国権の発動たる戦争と、国際紛争を解決する手段としての戦争を永久に放棄するとした理念に真っ向から反するものであります。
 また、イラク国民をフセイン独裁政権から解放するためとしてイラク国民に甚大な犠牲を強いるのは背理も甚だしく、これが、同じく憲法前文がうたった全世界の国民がひとしく平和のうちに生存する権利を侵害することも明らかであります。
 このような憲法の精神に違背するアメリカの行動をほかならない日本が理解、支持するというのは、政府に課せられた憲法遵守義務に対する著しい違反であると考えます。
 先見性のある憲法を持つ日本は、米国との論理の違いを明らかにしてこそ世界から尊敬されるのです。世界が大量破壊兵器にこれほど関心を持っている今だからこそ、日本は、広島、長崎の経験を踏まえて、大量破壊兵器の廃絶のために憲法に従った論理を主張すべきでした。
 最近、北朝鮮の核保有発言に関連して、北朝鮮情勢が議論されていますが、冷静な判断が必要だと考えます。
 結論として、憲法の求めるように、武力によらない平和的解決を求めて他国との関係においてあらゆる努力をすることで解決が可能であると考えています。
 現に、近隣諸国を含め、世界各国も平和的解決を目指しています。
 アメリカ、中国、北朝鮮の三カ国協議の翌四月二十六日には、中国国家主席とブッシュ大統領は電話で、核問題を外交手段と対話を通じて問題解決することで一致していますし、ロシアの外務次官は四月二十五日、朝鮮半島の安定を平和的手段によって実現するという立場を強調しています。北朝鮮とは伝統的友好国である中国、ロシアのいずれもが朝鮮半島の非核化と安定化を望んでいることは重要な事実です。
 韓国は、盧大統領があくまで核問題を平和的に解決するとの姿勢を示して、北朝鮮との南北閣僚級会談で、核問題については、対話を通じて平和的に解決していくために継続して協力していくとした共同報道文をまとめています。この点では、あくまで平和的解決を目指そうとする当事者である韓国の姿勢こそ注視すべきであります。
 これら各国の協議の結果得られた平和的な結論だけが朝鮮半島の大惨事を防ぐことができます。軍事力による解決は、韓国に甚大な犠牲を強い、あってはならない選択であります。
 避けられる危険は避けるように努力するのが安全保障の核心です。今回の北朝鮮の核問題を好機として、中国、ロシア、韓国、アメリカと連携しながら、北東アジアに長く欠落していた多国間の安全保障体制の芽を育てるために、日本が積極的に行動するときだと考えます。軍事力によらずに紛争を解決することを目指す日本国憲法の精神に沿った行動が今こそ重要なんです。
 次に、北朝鮮問題で問題なのは、最近の日本における軍事優先、軍備増強の議論です。
 備えあれば憂いなしとして、軍事優先の思想の有事法案が国会に上程されています。しかし、最大の備えは、平和外交を展開して、戦争が起こらないようにすることです。無用な備えはかえって北東アジア地域の軍事的緊張を増します。
 さらに、最近、防衛庁サイドからはミサイル防衛の積極的導入を主張する声が聞こえ、防衛庁長官からも、ミサイル発射前の敵基地攻撃が可能であり、敵基地先制攻撃能力の保有も検討に値するとされ、防衛庁ではトマホークの導入も検討の俎上に上っているとされています。日本の軍事戦略は専守防衛から先制攻撃へとシフトしているようです。
 また最近では、日本の核武装化なども積極的に議論されています。福田官房長官の発言、安倍副官房長官の発言は御存じのとおりでありますし、最近、ボイスという雑誌で、政治評論家の福田さんと中西京大教授らは「日本核武装宣言」と題する対談を行っておりますが、この中で、北朝鮮に核ミサイルを発射させないようにする一番の方法は、日本も核武装するという宣言をいち早く総理大臣がすることであるというふうに述べています。核武装論議は数年前では到底考えられなかったところまで来ています。
 これらの主張の根底には、武力によらなければ安全は確保されないという思考がありますが、このような思考は核兵器を含め最強兵器の保有へと行き着き、軍拡競争を呼び起こし、かえって北東アジア地域の軍事的緊張を高め、平和を阻害することになります。
 日本国憲法が、積極的平和主義を定め、戦争放棄の憲法九条を有しているにもかかわらず、このように軍事力によって解決しようという方向に軍備が拡大されようとしていることにかんがみれば、九条等を改変すると、ますます歯どめのない軍事拡大路線をとる危険性が大きいのです。したがって、憲法改正は断じて認められてはならないと考えています。
 以上です。
中山座長 ありがとうございました。
 次に、松田智美君にお願いいたします。
松田智美君 弁護士の松田です。
 私は、基本的人権の保障のあり方について、特に、新しい人権の保障のあり方について意見を述べさせていただきます。
 日本国憲法は、憲法十三条以下で国民の基本的人権を保障しています。そして、憲法十四条以下で特に詳細な規定を置いています。これら十四条以下の規定されている権利は、現憲法制定前の過去の歴史において、特に国家により国民に対する権利侵害が強かった権利、自由を規定したものです。
 しかし、憲法は、歴史上権利侵害が強かった権利、自由のみを保障しているわけではありません。憲法は、十三条で「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と規定し、十四条以下に規定されている人権に限らず、幸福追求に対する国民の権利についても広く保障をしています。
 戦後の目まぐるしい産業の発達により、大気汚染、騒音、水質汚濁など国民の健康被害に対する関心が高まり、新たに国民の権利として環境権が提唱されるようになりました。また、情報化社会の発達により、個人のプライバシー権や肖像権が国民の権利として提唱されるようになりました。
 これらの権利は、個別に権利を保護する規定がなかったため、権利侵害による被害の実態及び救済の相談を受けた私たちの先輩の弁護士が、憲法の人権規定をよりどころとして、人権侵害の救済を訴えてきました。そして、そのような幾多の裁判を通じて、裁判例や判例により、憲法十三条で保障されている権利として広く認められるようになりました。
 昨今、このような新しい人権は、憲法を改正し、新たに憲法上で明記すべきであるとの議論がなされています。しかし、これまでの裁判例や判例から明らかなように、新しい人権は憲法十三条で保障されることが可能であり、あえて憲法を改正して、憲法上に明記をする必要はないと考えます。
 また、現在の社会は日々目まぐるしい変化を遂げており、それに伴い、現在まで新しい人権として挙げられている権利以外にも、今後新たに保障されなければならない権利が出てくることも容易に予測されます。そうだからこそ、憲法はあえて具体的な人権規定以外に十三条で包括的な人権規定を置いているのであり、新しい人権を創設することは、憲法十三条の意味をないがしろにするものにほかなりません。
 そして、重要なことは、生存権を保障した憲法二十五条がプログラム規定説と論じられ、生存権を具体化する立法により初めて具体的な権利となると言われているように、これら新しい人権も、いずれも国民の権利として保護されるために、具体的な立法の制定が必要不可欠であるということです。したがって、憲法を改正して新しい人権として規定したとしても、何ら権利の実現には結びつかないのであり、本当に国民の権利として保障することを考えるならば、憲法改正を議論することより、これらの権利を具体化する立法の制定について議論をすべきと考えます。
 ここで、プライバシー権の関係で、現在法案が審議されている個人情報保護法案及びその関連法案について意見を述べさせていただきます。
 去る五月六日、個人情報保護法案と関連四法案が衆議院本会議で可決されました。そもそも、これらの法案は、住民基本台帳法改正により、住民基本台帳ネットワークシステム、いわゆる住基ネットの導入が決まった際に、国民すべてに番号を付し、氏名、住所、生年月日などの基本情報をコンピューターネットワークにより全国的、一元的に管理することで行政上の申請に住民票の写しをつける手間が省ける一方で、個人情報が過度に国家により集約管理され、その情報が大量に漏れるおそれがあるなど、極めて国民のプライバシー権を侵害する可能性が高いことから、住基ネット法の施行に先立ち、審議されたものです。そのような審議過程からすると、まず、住基ネットの実施に密接にかかわることとなる行政機関を対象とする法制こそが必要とされるべきです。
 しかし、現在の法案には、以下のような問題点があります。
 第一に、現在の行政機関個人情報保護法案では、思想、信条などの個人の名誉や秘密にかかわる情報について、その収集を禁止するという規定がないことです。昨年、防衛庁が情報公開法に基づく請求者の身元を独自にリストにし、かつ、その情報には請求者の所属する市民団体や、反戦自衛官、反基地運動の象徴などの請求者の思想にかかわる記載をし、幹部らの間で閲覧をしていたという報道がなされたように、行政機関で思想や信条などの情報が私たち国民の知らないところで収集されるおそれがある以上、そのような情報については収集の禁止が規定されるべきです。
 第二に、同法案は、個人情報の目的外利用について、「相当な理由のあるとき」というあいまいな規定で利用を認めています。しかし、つい数週間前に新聞やテレビ報道などで大きく取り扱われたように、防衛庁が各自治体に対し、自衛官応募適齢者の情報を提供させていたことが明らかとなりました。さらに石川県の一部では、適齢者の家族構成や健康状態など、極めてプライバシー性の高い情報まで提供されていました。そのような実態からすれば、思想、信条にかかわる取得を禁止するのはもちろんのこと、目的外の利用は極めて厳格に規定されなければならないはずであるのに、同法案では相当な理由があるというあいまいな理由で、個人情報が行政機関で自由に行き来する危険があります。
 第三に、罰則規定についても、職務のためであれば適用が除外されるという極めて甘いものとなっています。このような甘い規定では、今ほど述べたような情報の流出に歯どめがかかるとは思えません。
 一方で、民間事業者に対する規制については、報道の自由に対する不当な制限につながりかねないとの批判があったことから、報道目的や著述目的である場合には規定の適用が除外されています。しかし、取り扱う目的が報道目的か著述目的かは、事業者を監督する主務大臣にゆだねられており、国により恣意的な判断がなされ、不当に表現の自由が侵害され、かえって国民の知る権利が侵害されるおそれは払拭されていません。少なくとも、報道目的か否かは、行政機関から独立した公平中立な第三者機関にゆだねるべきです。
 しかし、そもそも、個人情報の取得、利用目的の異なる団体を一まとめにして規制の対象としていることが問題であり、逆に報道の自由や学問の自由を不当に制限するおそれがあり、各種の団体に応じて個別具体的な規制をするべきです。
 個人情報保護法案は、現代のIT社会において、憲法十三条で保障されている国民のプライバシー権を保護するために重要な法案ではありますが、上記のように、まだまだ国民の権利を保護するには不十分な法案です。このような法の不備は、憲法に新しい人権規定を創設することによって変わるものではありません。新しい人権が国民に保障されるために今行わなければならないことは、現在の法案が真に国民のプライバシー権を保護することができるのかという観点から、再度法案を検討し直すことであると思います。
 また、個人情報保護法案制定のきっかけとなった住基ネットについても、行政上の申請に住民票の写しをつける手間が省ける、全国どこでも住民票をとることができるなどの利便性をうたってはいますが、今後、氏名、住所等の基本情報のみならず、さまざまな個人情報が付加されることが予定されており、それだけ国民一人一人の情報が国家によって管理される危険性が高いことはさきに述べましたが、住基ネットの仕組みがどうなっており、今後どのように情報が付加されていくのかが国民に十分に説明されていないと思われます。
 住基ネットは国民のプライバシー権に密接にかかわる制度であり、法制度を詳細に国民に説明し、国民が真に利便性から住基ネットを必要としているか否か、広く国民の声に耳を傾け、その内容を再検討すべきであると考えます。
 以上です。
中山座長 ありがとうございました。
 次に、鴨野幸雄君にお願いいたします。
鴨野幸雄君 鴨野と申します。昨年、金沢大学を定年退職しまして、現在、朝日大学というところへ勤めております。
 皆様にあらかじめ「意見の概要」というのを出しておいたのですが、もう少しそれを補強するという意味で、本日、補充書ということでお手元に行っているかと思います。それとあわせてしゃべらせていただきたいと思います。
 前に出しておいた「意見の概要」の数行ですが、「わが国には、明治憲法以来、また、現憲法の下でもゆるぎない中央集権体制とこれに依存する国民意識があり、これらの複合したものが政治、経済、社会、文化の諸領域を支配してきた感はいなめない。」このような書き出しになっておりますが、皆さんも御存じのとおり、今、日本及び日本人といいますか、まさに先のない、あるいは不安な、自信のない生き方、このようになってしまっているというのは非常に残念なことであります。
 なぜそうなったのか、あるいはその他のこともいろいろ考えてみたいと思うのですが、そんなことをやっていたら十五分がすぐ終わってしまいますからやめますが、やはり最終的には、憲法に書かれている、結局は自由と民主といいますか、自立的な日本人、それが立ち上がらなかったというところに基本的なテーマがあると思います。
 そのようなテーマをつくるのに、ある人は軍事を利用して、軍事大国的に世界に顕示すべきであるという考え方をとる人もいますし、いや、そうではなくて、もっと地道な生活の中から人間をつくり出していく必要があるというような考え方、もしくは精神論的には、教育基本法を改正して、そこに日本人論を展開すべきである、そういうさまざまな見解があり得ますが、私は、現憲法の中にそれを見出したいと思うわけであります。その中で、地方自治といいますか統治機構、皆さんがおっしゃっておる第九条もしくは人権という大きなテーマよりも、むしろ生活に立脚した小さなサークルの中でのテーマからこのことを考えてみたいと思います。
 きょうお渡しした一枚のレジュメですが、「地方自治について―地方分権型行財政システムの確立」ということです。
 その一として、少なくとも日本国憲法の基本原理としての先見性あるいは固有性としては、どなたも御存じの、基本的人権の保障、国民主権原理、恒久平和主義、権力分立の原理、地方自治の保障あるいは国際協調主義、この六つのテーマは、まさに人類多年にわたる汗と命、そういう努力の結晶でありまして、これを発展させることは可能だと思いますが、後退させることは憲法改正をもっても限界があるのじゃないかと思っておるわけであります。その一つ一つを説明はいたしません。
 その憲法の基本原理の一つである地方自治についてお話ししたいと思います。
 我が国が明治以来、まさに明治以来どころか大化の改新以来、中央集権的な発想をとって、そのような国民性をつくってしまった。それがまた、今日、我々が余り日本人として、自信のなさをつくっていく。それは結局、憲法の解釈、あるいは人類が多年にわたってつくってきた、人間というものをどう考えるかということ、そこにかかわってくるんだろうと思います。それが地方自治の本旨あるいは地方自治権の本質というところにあらわれていると思います。
 憲法九十二条は、地方自治の本旨に従って、法律で地方自治体の運営を定めると書いてありますが、プリンシプルズ・オブ・ローカルオートノミーというのはどういう意味かというと、それは自治体の自己決定権、今日はやりの言葉で言う自己決定権ですね。自治体のそういう自己決定権というものは、一人一人の住民の自己決定権、先ほどお隣の松田さんがおっしゃいましたけれども、憲法十三条に言うところの幸福追求権という人権なんですね。それに支えられているわけです。
 すなわち、人権の本質というものは、だれでもこれ以上かけがえのない人生というものを自分でつくり出して、自分で決めて、自分で演出していく。まさに自分がその舞台装置の演出者であるわけです。それを助けていく、そういうものが基本的人権であるわけでして、その心髄というのがまさに自己決定権です。今日の言葉で言えば、自己決定、自己責任というのがはやっておりますが、これはもともと自治の本質であるわけです。
 このようなことは、人間は、自分の生活、これから始めていきますね。その次に、一番最愛の家族にそれを求めて、一緒に暮らしていきます。ここまでは、だれが否定しても、本源的なものだという感じがあります。それを地域という、行政体というか自治体というものをつくっていくわけですね。そこに自分も参加して、自分のあり方、将来の生き方を決めていくというところであります。そこでできないものが、次に国家というものが生まれて、さらに公益的にとらえて、その国家概念を超えて、今日グローバル的に世界というところに反映していくわけです。
 ですから、本当の根底には、自立した個人の自己決定というもの、それに支えられた、委託を受けた家族、自治体、国あるいは世界、そういう広がり、それは相互補完関係の中にあるんだということ、この認識が憲法論として必要だろうと思います。
 さらにもう一つは、憲法前文の中のいわゆる統治権。これは、立法、行政、司法はもちろん、地方自治も入りますが、それは国民主権から由来しているわけです。決してどこからか由来するというものではありません。国民主権というのはまさに憲法の一番の基本原理でありまして、憲法があろうとなかろうと、当然の原理としてそこにあるわけですから、地方自治も同じように国民主権の原理に由来しておるわけです。みずからが参加し、みずからのことを決めていくということですね。
 二の方へいきますが、地方自治権はそういう人権保障原理と国民主権原理に基づいているものと理解してみますと、これによって成り立つ地方自治体というのは、やはり国民の人権なり参加権等を認めていく国家も同じですが、国家と対等あるいは並立、そして国民に対してはお互いに協力し合う関係になっていくということです。
 あえて言えば、地方自治体の方が絶えず国民に接しているわけですから、そこの正統性というのはより強い、あるいは濃いわけですね。そういうことが言えると思うのです。ただ、そこまでは余り徹底的にしないで、同じ国民である住民を、一緒に協力しながら、対等に人権を保障していこうという機構装置であるわけです。我が国にそういう発想があったかというと、全くありませんでした。
 三番に、地方自治の本旨あるいは地方自治権の本質というのは、一定の範囲で、国の法律あるいは政策を拘束する憲法的な規範性は持っている。このような発想がありませんでしたから、現在でも同じです。国が法律をつくって、それをどんどん自治体に施行させていくといいますか、そういうことが続いてきてしまったところが問題だと思うんですね。
 だからその辺は、政策あるいは政治の問題としてとらえられやすいのですけれども、これは憲法の問題です。憲法は単なる政策ではありませんで、一つの法的な規範性といいますか、拘束力を持っているわけで、それに違反すれば、違憲だということが言えるはずなんです。
 ただ、違憲であっても、現在の裁判制度では、個々の国民が制度が異なった運用だから訴えるということができないために、ここまで来たわけです。これは、たまたま今回、地方分権一括法によって変わりまして、国と自治体で争いがあったときは紛争処理委員会に持ち込めることになりました。そこで法の解釈を争う、それがだめでしたら次の裁判所へ行く、それができるようになりましたから、ある程度は前進しました。そういう意味では、全く国と地方が法の解釈において同じになった、対等になったというのは大きな意味がありますね。
 それから四番目が、権限あるいは事務の上昇的な配分というのがあるわけです。
 国民主権に結びつきますと、自分の生活に一番近いところに自分が参加してやるんだということはもう自然的な、本質的なもので、これは近接性の原理と申します。そういうもので、そこでできない、かえってそれが人権保障にマイナスになるというときに、次のレベル。ですから、市町村でできない事務は、次は県がそれを補完するといいますか、そういうふうに上がっていくわけです。それでもできないのは国が持つのです。
 我が国はそんな発想が全くないんですね。最初から国だ。国が持ってきて、地方にそれをやらせるのです。それは機関委任事務というもので、今までありました。とんでもないものがある。我々はそういうことを憲法違反だと主張しても、それを訴えることができませんから、めったに裁判にはならなかった。そういう問題で裁判になったのは、沖縄の少女暴行事件のときの代理署名の事件とか、あるいは砂川の、同じように事務の長が拒否した事件とか、若干ある程度でして、よほどの元気のある自治体でなければそういうことをいたしません。
 ともかく、そういう権限の配分というものは、補完性の原則、これはもう世界的にもグローバル化されていまして、世界地方自治憲章の四条にも同じようなことが書かれて、ほぼ世界的認識にはなってくるわけです。
 そうしますと、その権限は基本的には、一番近いところに国民主権原理があるので、その仕事、権限に見合った財源がないということもおかしいんですね。それはまさに地方自治権あるいは地方自治の本旨に反していく。いわゆる憲法的な拘束から免れないはずなんですが、それを現在、我が国では、憲法を無視して政策論の中に入ってきているんですね。それはとんでもないことだと思います。
 そのためにどういうことがあるかといいますと、もし医者にかかりたいという方が地方にいて、その人が医者にかかれない、そのために死んでしまった。それは、自治体は金がないから大変なんだというのでいろいろ切っていく、そういうことは目に見えない。そういうところにいくんですね。そういうことを放置して、これを政策だなんて言っている、そういう憲法解釈論というのが今までまかり通っていたということがそもそもおかしいと思います。まさに地方自治権は人権と主権の問題なんです。
 このような地方自治体というのは、本来、地方政府と言うべきですが、もう時間がありませんから、ここに書きました三ですね。自治体の存立権、住民の直接民主的参政権、住民の自治体機関任免権、自治体の固有事務遂行についての対国家的全権(組織権、人事権、立法権、財政権、行政権、司法権を含む)、それから国と地方との協働権、本来これらのことが必然的に存在するべきなんですが、現行法制上不十分なところは、実定法で補充が必要だと思います。
 四に、若干の各論として、自主立法権。教育、福祉、環境、まちづくり。
 今、道徳教育、その他さまざま言われますが、このようなことを文部省が、今は文部科学省になりますが、画一的なことを全国に広めていく、そういうあり方自身が問題なんですね。やはり地域の、知恵を持ったいろいろな人たちの生活に密着した、そこからどういう教育をつくっていくのか、そういうことを本来フリーな形でやらせるべきなんです。それをやってこなかった五十年があるわけです。
 ですから、生活というのは、そこから自然と、道徳が出てきます、老人を大切にしよう、あるいは子供はボランティアをやれ、それも地域の教育委員会で単位とすべきだったんですね。それを自治体に与えない。今たまたま、自分はどうやるかわからないから、特区をつくって何とかやれという、とんでもない話だと思います。中央のやり方が破綻した後で自治体にやらせる。だから、もう一度この自治というものを考えて、全く自由な領域というのが本来なければならないということですね。そういうようなことがあります。
 あとは、自治体財政権も先ほどお話ししました。
 それから、本来、法令解釈権はもう当然持っているべきでしたけれども、今まで通達ということで不可能でした。
 自治体外交権もあります。ですから、国家があることを敵視していたとしても、自治体及び市民というのは、決して我々国民は自分たちの命までを国家に預けてはおりません、自分は自分として自己決定を持っております。ですから、政府がそのような形をとったとしても、自治体としては、あるいは市民としては、その国民と仲よくしていくんだ、そういうことは十分あり得るはずで、それは、東アジアの平和をつくるときに我々の市民外交が大きな意味を持っていくということを、特に日本海に住んでいる人間として主張したいと思います。
 さらには、住民投票。これは言うまでもなく、国民主権の活性化という意味では、可能な限りこの方策がとられるべきだと思います。細かなことは申し上げることはできません。
 それから、広域行政において問題になっている市町村合併あるいは道州制。それなりのメリット、デメリットはあり得ますが、やはり問題なのは、そこの地域を決めるのは主権者である市民である、町民である。ですから、みずからの町がどうなるかということについては自分で判断していくべきだろうと思います。
 最後になりますが、地方自治は単なるこういう制度ではなくて、本来的には、そこに生きる人々、そこからつくられていった人権なんです。それを経て、自立的に何が大事か。みずからの権利と義務をしっかりした自立的な国民、市民が生まれていく、それは民主主義そのものなんですね。このような国の形、日本は新しくそういう地方自治の活性化の中の、そういう連合体として生きていくべきであります。
 国家論よりももう少し地方自治論の中に、そして国家の壁が狭くなって、むしろ地域から世界へ、こういう議論で問題をとらえていくということ、それはただ、理屈ではなくて、みずから行動するということですね。だれでも言っている、まさに考えることはグローバルに、行動することは地域からということで、このようなことを次の子供たちに、絶えず日常生活の中、教育の中でそれを進行していくべきだろうと思っております。
 以上です。
中山座長 ありがとうございました。
 以上で意見陳述者からの御意見の開陳は終わりました。
    ―――――――――――――
中山座長 これより意見陳述者に対する質疑を行います。
 まず、派遣委員団を代表いたしまして、私から総括的な質疑を行い、その後、委員からの質疑を行いたいと存じます。
 私は、教育のあり方について、きょうの参考人の皆様方の御意見を承りたいと思います。
 いろいろと御意見を陳述いただきましたが、私どもは国会においても議論をしておりますけれども、憲法が制定されましたのは、マッカーサー司令部の間接統治下にあった日本の国会において、憲法は昭和二十一年十月に制定されたわけであります。
 こういった憲法百三条のそれぞれの条項の理想を達成するための手段としての法律、これが約千八百ございますけれども、その法律の中に、前文というものが書かれている法律が一つございます。それはどういう法律かというと、教育基本法であります。この教育基本法の中にはこういうふうな前文の一文がございます。「ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。」と書かれております。
 しかし、五十数年間のこの憲法下、教育基本法のもとで社会教育、学校教育が行われてまいりましたが、今日の学級崩壊、そして犯罪の低年齢化、また子供たちを取り巻く社会環境の悪化、家庭崩壊、社会道徳の崩壊や倫理観の欠如、こういったモラルの低下など、大人の社会にも広くその影響が出てきております。
 このようなことに対して、近代立憲主義の普遍的な諸原則を踏まえ、さらに国際化が進展してまいりますこの日本人の生き方について、教育を通してどのような人づくりをしていけばいいのか。また同時に、日本社会に根差した伝統や習慣、よき共同体としての支え合いをしっかりと認識した国民教育が必要になってきていると思います。最近、中教審において教育基本法の改正案が審議されておりますが、これについて、出席していただきました参考人の皆様方はどのような御意見をお持ちでしょうか、順次お述べをいただきたいと思います。
 それでは最初に、山本参考人、お願いいたします。
山本利男君 私は、昔の人間でございまして、もう八十も過ぎておりますけれども、戦前の道徳それから戦後の道徳、こういうものを全部見てまいりました。現在、やはり一番問題は、四十、五十の人に苦言を言うようですけれども、日本の伝統的な道徳とか習慣とか、こういうものを若い方々は戦後全然学ばれなかったというところに一番問題があると思います。
中山座長 ありがとうございました。
 次に、島田洋一君、お願いいたします。
島田洋一君 教育基本法の法律としての細かい部分については私もさほど専門的に研究したわけではありませんけれども、日本の教育全般を見ていて、やはり安全保障に関する、現実の世界がどうなっているのか、その現実の世界に対応するにはどのような姿勢が大事なのか、その現実から入っていって、安全保障の問題をきちんと考えるという教育が必要だと、かねてから教育問題では思っております。
中山座長 ありがとうございました。
 次に、岩淵正明君、お願いします。
岩淵正明君 会長の御指摘になりました学級崩壊とか、子供を取り巻く問題がかなり危機的な状況にあるというふうな御指摘でありますが、これは決して教育基本法の問題ではありません。ましてや憲法の問題でもありません。むしろ、子供たちがそういう危機的な状況に陥るのは、これから先の自分の人生に夢と希望が持てない、そういう社会になっているからではないかというふうに考えています。
 なぜそういう社会になっているかというと、例えば政府の経済政策で、現在こういう長期の不況になっていますが、こういうことの中で、今現在、高校生は卒業しても半分しか仕事につけないのです。それでは社会にこれから先の希望は持てないのじゃないでしょうか。
 それから、現実に仕事についている人たちもどうなっているかというと、毎年三万人が自殺するんです。交通事故死約一万人ですが、それを三倍上回る人たちが自殺し、その半数以上は経済的な原因で自殺するんです。私たち、弁護士ですから、個人破産の申し立てをやっておりますが、最近の個人破産は、この前までは数万件、十万件を超えるかと言われていましたが、昨年は二十一万件なんです。いわゆる社会で生活している人たちもこれから先の希望が持てない社会、こういう社会をむしろ変えなければいけない問題ではないか。
 決して教育基本法や憲法の問題ではありません。むしろ教育基本法の、先ほど御指摘のありました前文の個人の尊厳、これをもっと教育の中で生かすべきだったというふうに思います。個人の尊厳というのは、結局、自分の個人を尊重してもらうと同時に、他者である他人の人権とか尊厳も尊重しなければならないことが当然必然的に出てくるわけです。そのことをきちっと教育してこなかったことの方がむしろ問題なので、むしろ今からやられるべきことは、教育基本法の改正じゃなくて、教育基本法を実践することが必要であるというふうに考えます。
中山座長 ありがとうございました。
 次に、松田智美君、お願いします。
松田智美君 私は、教育基本法について詳しく勉強しているわけではないのですけれども、やはり今、学級崩壊であるとか犯罪が低年齢化をしているということは、今の教育基本法に問題があるということではなく、これまでの教育のあり方自体に問題があったのではないか、いわゆる知識だけを詰め込むというようなこれまでの学校のあり方に問題があったのではないかと思います。
 私はたまたま、きのうなんですが、学校の授業について報道されていたテレビを見まして、それは石川県の学校だったんですけれども、クラスでいじめが起こったという場合に、そのいじめがあったということについて、クラス全体で、一人一人に自分の意見で、さまざまな意見、議論を闘わせたり、あとは、ある生徒の父親が死んだことについて、クラス全体でその死についていろいろ語ったりというようなことを学習している。クラスでそういう取り組みをしているというような学校があるということを見ました。
 それを見ますと、そのような学校での授業を通じて社会道徳、実際自分の身に起こっている実体験を通じて道徳、単に教科書的に教えられるわけではなく、実体験に基づいた社会道徳という勉強ができるのではないかと思いました。
 そのようなことを見ますと、やはり、知識を詰め込むというだけではなくて、これまでの学校の教育のあり方自体そのものをもう一度再検討すべきではないかというふうに考えております。
 以上です。
中山座長 ありがとうございました。
 鴨野幸雄君、お願いいたします。
鴨野幸雄君 今みんなに言われてしまったような感じがします。だから私は、地方自治じゃなければいけないということなんです。
 文部省が今まで、これの単位はこれだけで、こういうことを教えなさいと、今でもそういう傾向が強いですが、学習指導要領でこういう中身のことにかかわるということは、それはもういい加減に、大体のところで、それはあくまで基準だ、どうぞあなたたち自由にやりなさいと。その地域には、先生方を加えて、まさに古老とかいろいろな人がいます。そういう人がさまざまに教えて、昔話や地域の話を教えたり、いろいろなことをみんな、それも授業の単位として入れていく。だから、むしろ地域の教育委員会に大きな裁量権を与えて、教育というものはあらゆることの総合性なんですから、そのことをしていくべきだろうと思います。
 だから、農業の時間というのもやってみたり、そこでウサギを飼ったり鶏を飼ったり、自分で学校の田んぼをつくったり、都会の人はそれができなければ、今は経済が豊かですから、夏休みに集中で二週間ぐらい山なり農家へ行って、それを授業の単位として与えるとか、もっともっとそういう自由な裁量権というのを、それをしてこない、そういうのを認めない。そういうような中央集権的な、画一的なことをして、全く自然に親しまない、そういうことがこういう問題のもとになってしまったんですね。
 だれだって、自分の親を尊敬したり愛したり、あるいは自然を愛したり動物を大切にするのは当たり前です。それを、教育基本法がこうだから。そういうものじゃなくて、人間というのは実体験というのを持たないと、幾ら頭の中で文章化してもそこにはありません。こういう本のページの間に問題の本質というのが出てくるのじゃなくて、実体験ぐらい重要なことはないということ。
 そういう意味では、地味なようですけれども、日本において、さまざまな分野で地方に、まさに自治ですね、教育における自治というのを展開していかなければいけない。別にアメリカのことを言うわけじゃありませんが、本当に地域の教育委員会に大きな権限を与えて、自由にやってみようじゃないか、それで社会の底辺から少しずつ変えていこう、そういうことが非常に重要ではないかと思っております。
中山座長 ありがとうございました。
 以上をもちまして、私の質疑を終わりといたします。
 次に、質疑の申し出がございますので、順次これを許します。中川昭一君。
中川(昭)委員 きょうは、お忙しいところを貴重な御意見をいただきまして、まことにありがとうございました。
 実は私、きのう、新潟県の柏崎の蓮池キクイさん、九十三歳の方のお通夜に行ってまいりました。人生の四分の一以上を愛する孫に会いたくて会いたくてということで、去年、七カ月前にやっとお会いできましたけれども、今度はひ孫さんが依然として向こうにいるということで、やはり憲法、さっきからいろいろな方のお話がありますように、人権、安全保障、人づくりという大きな柱の中の、安全という、一番人間にとって貴重な生命の保障、日本国憲法の中でも、基本的人権あるいは奴隷的な状況からの解放というものがポイントにあるわけであります。
 そういう中で、岩淵さんにちょっとお伺いをさせていただきたいと思います。
 岩淵参考人のお話を伺っていますと、北朝鮮には拉致は存在しないんだということを何十年間か主張してきた政党あるいは政治家と非常にお考えが似ているような印象を持たせていただきました。
 そういう中で、人権、平和、それから日本がいつか突然世界に向かって戦争を始めるんだみたいな御趣旨の御発言があったと思いますが、私個人としても、戦争は絶対にしてはならない、侵略戦争をしてはならない。ただし、自衛のための戦争というものは、政府としても、また憲法においても認められているわけでありまして、現に、この三十年や四十年、国民が、まさに島田先生がおっしゃられたように国家的な戦争犯罪行為によって、数十名、数百名、御家族を入れると千名を超える人たちが大変長い間厳しい状況にあるわけでございます。
 そこでお伺いしたいのでありますけれども、この北朝鮮の日本人を拉致していることについて、どういう御認識をお持ちなのか。解決すべきなのか、すべきでないのか。するとするならば、どういうふうにしていったらいいのか。一部マスコミのように、とにかく話し合いが大事だというのんきな社説が時々見えますけれども、どうやったらこの拉致という、普通に暮らしている人たちの安全、もう取り戻すことのできない長い期間でありますけれども、国家としてこの問題にどう取り組んでいったらいいのかについて、岩淵さんのお考えをお聞かせいただきたいと思います。
岩淵正明君 拉致をされた方々それから御家族の方々に対しては、大変痛ましいことであり、原状回復という観点では最大限の努力をしなければならないという考え方については、私も同一であります。
 この問題の解決は、まず一つは、今行われようとしている、平壌宣言で確認された日朝正常化交渉の中で包括的に解決されるということが、現在の状況の中では最も現実的なのかなというふうに思っています。もう一つは、先ほどもお話が出ましたが、国連を通じてのいろいろな議論というのもこれまたあるかと思います。そういう方法で速やかな解決、原状回復がなされることを私の方も考えています。
 ただし、そのことと、先ほどお話がありましたが、拉致があったことが、犯罪行為ではありますが、戦争行為ではないという認識は持っています。それ自体はとがめられるべき問題でありますが、過去の拉致行為に対して、こちらが軍事力で対応するという問題ではないという認識は持っておりますので、その点は補足をしておきます。
中川(昭)委員 小泉首相も、拉致問題の解決なくしては正常化交渉はないということ、そして多くの世論調査でも、まず拉致の問題を解決しなければならないというのが国民の圧倒的な意見だろうというふうに私は思っておりますし、先ほど島田さんからもお話がありましたが、アメリカ政府、議会、マスコミ、そしてこの前、島田先生とジュネーブの国連人権委員会に行って陳述をしてまいりました。またその後、私はEUの人権担当の人ともじっくり話をしましたが、この問題については本当にテロである、そして制裁が必要であるという多くの方々の意見で私は一致をしたところでございます。
 そこで、島田さんから、ここ数カ月、特に海外での関心が非常に高まっていると。長い間、日本では、我々政治も、あるいはまた政府も、そしてまた多くの普通の国民も実はほとんど関心がなかったということは、私自身強く反省をしていかなければならないわけでありますけれども、ですからこそ、一日も早く全面解決というために、これはもうオール・ジャパンで全力を挙げて取り組んでいかなければならないと思いますが、冒頭、岩淵さんから島田さんとは意見が違うんだというところからお話がありましたので、島田さんの方から何かこのことについて御意見があれば、お聞かせいただきたいと思います。
島田洋一君 アメリカに行って、向こうの政治家、議員などと話をしていて非常に感じるのは、例えば、帰ってきた五人の人たちの子供が人質状態に置かれているんだといったことをこちらが言うと、もう顔を真っ赤にして、本当に許せない、子供を人質にというのは最も卑劣な行為であって、許せないと。他国民の話でありながら、本当に心の底から怒りを表明する議員なんかが非常に多い。日本の場合も、もちろんそうした意識の議員はおられますけれども、こちらが話をしていても、起きているのか寝ているのかわからない、そういう反応の議員も残念ながら日本の場合多いと思うわけです。
 拉致問題の解決に当たっては、私、以前、例えば河野洋平外務大臣などとも面会したことがあるのですけれども、河野さんあたりの発想では、とにかく日本側からさまざまな援助物資も送って、盛んに友好ジェスチャーを送って、独裁者の気持ちを和ませることによって解決が図れるのじゃないか、そういう発想が露骨に見えまして、私はこういうのを喜び組外交と言っておるのです。実際の北朝鮮の喜び組というのは、強制されて、金正日を喜ばせるためにああいう踊り等をやらされているわけですけれども、日本国内には、まさに金正日の前で喜び組的な、何とか機嫌をとって、そのことで解決をというような、極めて非常識かつ全く気概のない対応がかなり見られたし、今でもそういった方向がいいんだと考えている政治家等も多いようですけれども、これは国際的にもばかにされますし、やはり毅然たる対応。
 とにかく、お願いして帰してもらうという話ではなくて、蓮池透氏の最近の著書の表題にもありますように、奪還するんだ、そういう気持ちからやはり政策というのを考えていかないといけない、基本的にはそう思っています。
中川(昭)委員 先ほど日朝平壌宣言のお話が出ましたが、正確に申し上げますと、今後、国民の生命と安全に関して話し合っていくというのが日朝平壌宣言の三項目めであります。拉致という言葉は入っておりません。
 現在、この拉致者が、さっき申し上げたように数十人、数百人いるという、現在進行形の国家犯罪、国家の意思による犯罪だということでありますから、これはもう国民の皆さんのバックアップを得ながら、国政の場あるいは政治の場、政府の場、そして国際社会においてこの問題に取り組んでいかなければいけないということで、きょうお集まりの皆様方にも、ぜひともこの問題にみんなで取り組んでいっていただきたいということを最後にお願いして、終わらせていただきます。
中山座長 次に、桑原豊君。
桑原委員 民主党の桑原でございます。
 きょうは、五人の皆さん、それぞれに大変示唆に富んだお話をいただきまして、本当にありがとうございました。私は、せっかくでございますので、全員の皆さんから一問ずつにお答えを願いたい、こういうふうに思っておりますので、どうかよろしくお願いします。
 まず最初に、鴨野公述人にお尋ねをいたしたいと思います。
 私は、さまざまな改革がございますけれども、やはり日本の構造改革の最も重要なものは、地方分権改革といいましょうか、本当に憲法に定めた内容に沿って地方自治が達成をされていくということがいろいろな意味で非常に重要だ、こういうふうに思っております。鴨野公述人が、自治体の自己決定権というものを、個人の基本的な人権、幸福追求権、そういったものと結びつけて、その基本はやはり人権にあるんだ、こういうふうな問題の立て方、考え方をされておるということに非常に感銘を覚えておるわけでございます。
 そこで、現在、自治体の多様性でありますとか、あるいは自治体間の連携とかいうことがいろいろ言われております。そして何よりも、私は、自治体の自立というところが改革の大きなポイントであろうというふうに思うんですね。何が自立性をつくっていくためのポイントなのかということで、先生がどう考えておられるのかということと、あわせて、今進められております合併あるいは道州制の議論、そういうものについて、自立という観点から何か所見がおありでしたら、お願いしたいと思います。
鴨野幸雄君 難しい問題ですが、自治体の自立というのは結局は、そこを構成する職員の意識改革、それと住民の方々の意識改革ですね。
 我が国が今日までこれだけの財政赤字をつくってきたのは、全部中央集権、国が一定の公共事業を自治体に押しつけたような形で自治体がそれを下請して、たくさんの赤字をつくってしまって、もうあらゆることが中央集権的な事柄で、逆に言えば、自治体がそれにおんぶをしてきた。皆さんには悪いかもしれませんが、中にはその仲介役をやっていた国会議員の方もかなりニュースでは聞いております。そういうようなもたれ合いの政治というのは、本当にそこがいけないことだと思いますね。
 地方自治が何のためにあるかというと、それは制度自体のためにあるのじゃなくて、最終的には、住民であり、その住民の集合である国民の自立、みずからの生活を描いて自分で決定していく、そういう民主主義の担い手である住民、国民をつくっていくことにあるわけです。
 ですから、何が一番必要かというと、やはりそれは、職員の方の意識改革を大きくしてもらうし、またそこに住む方々が、さまざまな生活体験を通じて、あるいは子供たちまで含んで生活体験を通じながら、やはり自分の人生あるいは地域は自分たちでつくっていく、そのことで初めて幸せだという感じを持つといいますか、そういうことに尽きるのじゃないか。余りにも抽象的ですけれども、そういう訓練がないので、我が国は、まさに大化の改新以来、そういう発想は全くありませんでした。絶えず上がつくってきて、それを下が引き受けるということ。本当に逆転の発想というのをぜひ、少しずつでいいから進んでいかなければできないだろう。そこはもう本当に時間のかかる、国民意識の問題は、半世紀、一世紀かかるようなロングランのテーマだろうと思います。
 それからもう一つ、具体的に市町村合併のことをどう思うかということです。
 これも結局、財政危機ということで、地方が百九十五兆も負担を抱えている、それを何とかしなければいかぬということですが、いわゆる特例法を期限を切って、これに乗ればこれだけの補助を与えるというやり方自体は余り感心しないです。
 ただ、そこには、確かに合併することによってプラスとマイナスがあります。そのプラスというのは何かというと、やはり生きていくのは、教育なり福祉なり環境等々にとってどれだけ大きい意味があるのかということを、合併の方の情報をよく提供するわけですね。マイナスの方はマイナスとしてやる。それを総合して考えながら、情報を十分上げた上で、住民がみずから決めていく。
 最低限、吸収合併される方、自分の町村がなくなる人たちにとっては、住民投票をすべきだと思います。できるなら高校生以上ぐらいの、自分の将来の町を知っている人たちも含めて意見を聞く、そのことが自分たちの将来のあり方を決めていくということで、可能な限り住民投票というのは入れていくということ。もちろん吸収する方はそれほど必要ないのかもしれませんが、される側にとっては大変だと思います。
 それでも、なおかつ、小さなところに手が届かなくなることも確かですから、それの手当て。そこは、地域審議会等々つくりますが、もうちょっと権限のあるような、今、地方制度調査会でも若干進めているそうですけれども、やはり、自分たちが住んでいたところの伝統、習慣、文化、芸能、そういうものを残していく、その発言も残していきながら全体としてつくっていく、両者を混合していくということですね。特にそれは、中山間地の遠い人たち、弱い人がつらい思いをしないような、そこまで、かゆいところに手が届いている、そういうような合併をしていかなければいけないのじゃないかと思います。
桑原委員 どうもありがとうございました。
 それでは、松田公述人にお伺いしたいと思います。
 新しい人権については、憲法の改正ではなしに立法ということで臨むべきだ、こういうお考えで、プライバシー権の問題をおっしゃられましたけれども、今、そういう意味で立法が急がれているものが何かということで、簡単に、これが次に必要だというようなものがあれば、ぜひお伺いしたいと思います。
松田智美君 今現実に審議されているので、プライバシー権に関して、やはり個人情報保護法案というのは、そもそも制定の経緯が、住基ネットが施行されるということがきっかけであるとはいえ、住基ネットの問題だけではなく、これから情報化社会に伴って、自己の情報というものが至るところに流出する可能性があるので、これに関する規制は一番大事なものであるのではないかと思います。
 あとは、環境権に関しての立法というのも、これまで公害裁判など幾多と裁判がなされていますけれども、やはり立法がない、憲法上規定がないというようなことで、これまで必ずしも環境権という国民の権利が守られてはいない、保護されていないという観点からすると、これに関してもきちんと立法化をして、国民の健康を保全するという必要があるかと思います。
 以上です。
桑原委員 ありがとうございました。
 それでは、岩淵公述人にお伺いしたいと思います。
 私も、北朝鮮問題の緊迫した状況、深刻さ、とりわけ日本にとっては拉致問題あるいは核兵器、ともどもに本当に深刻な課題だ、こういうふうに思うのです。ただ、これを解決していく手法、手だて、何があっても戦争とか大混乱とかということになってはならぬわけでございまして、あくまでも平和的な解決が大事だというところは全く同感なんです。
 私は、とりわけその中でも、いわゆる北東アジアの諸外国との連携というのが大変大事だと思うんですね。特に韓国、新しい盧武鉉政権は、金大中さんの太陽政策を引き継いで、平和繁栄政策というものを打ち出したわけです。そして、北東アジア全域の平和機構といいましょうか、そういうものを展望して、行く行くはEUのようなものをつくっていくんだと大変戦略的なんですけれども、この盧武鉉政権の対応についてどう考えておられるのか、一言だけちょっとお伺いしたいと思います。
岩淵正明君 韓国の姿勢はもう一貫しておりまして、イラクの戦争に派兵をしたのですが、そのときに、なぜ派兵をするかというと、アメリカに、派兵をして、その結果として、北朝鮮問題については平和的に解決をしてほしいということをメッセージとして送るんだ、そういう国会発言をして、派兵をようやく可決した、そういういきさつがあって、やはり自分たちの国の問題、そして北朝鮮、同じ民族の問題を何とか平和的に解決しよう、そういう姿勢は物すごく大事だし、私たちは、アメリカよりも、中国よりも、何よりも韓国の方向を今注視すべきだというふうに考えています。
 それと、先ほど申し上げたように、中国、ロシア、アメリカと連携して、北東アジアの集団的な安全保障体制というものをつくっていくという方向を模索する、ちょうど今好機ではないかというふうに考えます。
桑原委員 どうもありがとうございました。
 それでは次に、島田公述人にお伺いしたいと思います。
 先ほどから、拉致問題に非常に積極的に取り組まれて、そして、アメリカ、EUあるいはジュネーブの人権委員会、そういったところに出向かれて、いろいろな御努力をされておられるということでございます。
 私は、今ちょっとお話がありましたように、北東アジアの平和と安定にとって、この拉致問題の解決というのはもう避けて通れない重大な課題だというふうに思います。そういう意味では、韓国との連携でありますとか、あるいは中国やロシアとの協力関係、そういうものも大変大事だろうというふうに思うのですけれども、その点についてのお考えをお聞かせいただきたい、こういうふうに思います。
島田洋一君 現在、韓国の盧武鉉政権、それからその前の金大中政権も、太陽政策等々と称して、ほぼ一方的に、南から北に対して資金、さまざまな物資等を援助するという政策を続けてきたわけですが、そのお金や物を使って北朝鮮側が何をしてきたかといえば、核兵器開発であり、ミサイル開発であった。食糧援助に関しても、韓国政府は全く条件をつけずに北朝鮮当局に渡しますから、そのほとんどは一般民衆を抑圧しているような秘密警察等々の体力維持に使われてきたという現実があると思うわけです。
 拉致問題に関しても、韓国人の方がたくさん拉致されていて、韓国政府が認めているだけでも四百八十六名、朝鮮戦争中に八万三千人以上が拉致されている。非常に典型的なことに、北朝鮮・金正日政権は、日本人拉致の事実は認めましたけれども、韓国人拉致に関しては、いまだに存在しない問題という言い方をしております。日本人拉致被害者は、とにかく五人は帰ってこられたわけですけれども、韓国人の拉致被害者は一人も帰ることができない。
 これは、少なくとも日本の場合、小泉政権が、拉致問題の解決なくしては国交正常化、すなわち日本からの大規模経済支援はあり得ないという立場をとった、その点に関しては一貫している。ところが、韓国の場合は、北朝鮮を刺激するとまずいというので、拉致問題も正面から持ち出さずに、一方的に金を送った。その結果、北朝鮮は韓国人拉致については事実関係すら認めていない。これは非常に象徴的な事実だと思います。
 私は、基本的には、北朝鮮に対しては、やはり行いを改めない限り圧力を強化すべきだと思いますので、時間のない中で一言で言うと誤解を生むのですけれども、ブッシュ政権の姿勢が基本的には正しいと私は思っております。
桑原委員 どうもありがとうございました。
中山座長 次に、遠藤和良君。
遠藤(和)委員 公明党の遠藤和良でございます。
 きょう、私は、五人の公述人の皆さんに同じ質問を一問だけしますから、よろしくお願いいたします。
 きょうは、公述人として予定されておりました蓮池ハツイさんが身内の方のお葬式で欠席をされたわけですけれども、先ほどその御意見が代読されたわけでございまして、それを聞いておりまして、胸が締めつけられる思いがいたしました。
 拉致問題の解決を願わない日本国民はいないと私は思います。どういうふうにすれば解決ができるのかということにつきまして、きょうのお話の中で、大きく二つの御意見が出たのではないかと思っています。それはこの国の形あるいはこの国の憲法のあり方にも反映する考え方であろうと思いまして、その二つの考え方について、五人の公述人の皆さんの御意見を賜りたいと思います。
 一つの考え方は、軍事力を背景にした話し合いでなければ解決にならないのではないか。すなわち、単なる話し合いでは先延ばしされるだけである、こういう考え方ではないかと思います。
 もう一方の考え方は、日本の国の憲法というのは、武力による威嚇とか武力の行使は国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄している立場である、したがって、あくまでも平和的な話し合いで解決すべきであって、この憲法の規定こそ先駆的な規定であって、それを実行するというのが日本の立場であり、そのことによって解決すべきである。
 こういうふうな二つの意見であろうと思うのですけれども、これに対して、五人の皆さんはどのようにお考えになるかということをお聞きしたいと思います。
山本利男君 実は、私も、拉致とは言わなかったですけれども、戦が終わってから、シベリアに三年間拉致されました。どんなにひどい目に遭ったかということはよく存じております。
 しかし、今おっしゃったように、第九条と絡めるのはちょっと問題があると私は思うのです。むしろ国内的に国民が団結するような、さっき申し上げましたように、人類普遍の原則と言うけれども、実際は生物普遍の原則というものがあるわけですから、人間とやっても全く一緒なんですから、私は、さっき申し上げましたように、前文の中ほどにある項目は、そういう九条の問題に絡めなくて、もう本当に超党派的に削除してほしい。そして、やはり日本人にも五分の魂があるんだということを外に見せてやらないと、これは変な言い方ですけれども、ばかにされます。私はそう思います。
 以上です。
島田洋一君 拉致問題の解決に関しては、非常に率直に言うと、被害者全員が子供たちも含めて日本に帰ってこられる、現在認定されていない人たちまで含めて全員が解放されるためには、金正日体制が倒れなければならないと思っております。ヒトラーを倒すのが正義であるならば、金正日体制を倒すのも同じく正義であって、そこに疑問の余地はないと私は思っております。
 ただ、私は、基本的考えについては先ほど言いましたので、一点だけ補足すれば、北朝鮮の場合、石油資源が豊富にあったイラクとは違って経済的資源もありませんし、いろいろあった資源に関しても、金正日、その前の金日成体制下、ぼろぼろにされてしまっておりますから、経済的な締めつけを通じて内部崩壊という可能性がイラクの場合に比べてはるかに高い。
 最も平和的な解決というのは、北朝鮮内部で有志が決起して現在の独裁者を排除する、これが最も平和的な解決だと思っておりますので、それに向けて経済的圧力を強化する。それに対して、もし北朝鮮側が、彼らが言っているとおり、経済制裁は宣戦布告とみなすなどと言って武力行使を向こうからやってくれば、これは自衛権の発動として、こちらとしても軍事的に決着をつけざるを得ないわけですけれども、基本的には経済的な圧力で解決を図るのが正しいし、常識的だと思っております。
岩淵正明君 この点については、先ほども一部申し上げましたが、要点の一つは、拉致は犯罪行為ではありますが軍事行動ではありません。したがって、それに対する軍事力の行使ということは、憲法上は当然あり得ないと考えていますが、論理上もあり得ない。
 それから、イラクのフセイン体制を倒したような、政体を変更することを目的とする軍事行動。これは、イラクの攻撃のときに国連決議が通らなかったのです、国際法違反だという前提で通らなかったのです。そういう議論は国際法上も認められていない。もちろん日本国憲法の上では全く認められていない。
 アメリカが、アメリカ国民が拉致された場合には海兵隊を送って連れ戻してくるということには、国際法上の問題は全くないのでしょうか。軍事行動を相手がアメリカにしているわけではありません。にもかかわらず、海兵隊は軍隊です。軍隊を送れるという議論は少なくとも国際法上はないのじゃないでしょうか。もちろん、少なくとも日本国憲法の上ではありません。
 以上です。
松田智美君 私も、日本国憲法の規定上、軍事によって解決すべきではなく、あくまでも平和的な解決に、拉致問題もそのような形で解決すべきであるというふうに考えております。
 拉致問題と直接的に結びつかないとは思うのですけれども、やはり今のイラクの戦争を見ても、戦争が一応終わってはおりますが、それによってイラクの国の中が正常な形に戻っているかというと、戦後の処理というのは全く進んでいない。そういうことからすると、結局、軍事力をもって何かをするとしても、それで最終的な解決になるのか、拉致問題が解決できるのかという点には非常に疑問があると思います。
 今はまだ日朝正常化交渉が始まったばかりと言ってもいいと思いますので、そのような中で、話し合いによって解決をすべき問題であるというふうに考えております。
 以上です。
鴨野幸雄君 私も、基本的には、小泉総理と金正日との条約といいますか、平和裏に解決する方法というものを追求していくのが基本的な、今のところ当然のあり方だろうと思います。
 むしろ私たちが今日まで、国家の論理で考えていきますと、北東アジアにそのような憲法に従った平和的な措置というのをとってきていたのか。結局それをしないで、北朝鮮は怖い国であるという、アメリカの言葉どおり、ならず者国家、それに同調しながら、一番近いところの隣人というもので、そこにそういう政策をとろうとしない、いわゆる憲法に基づく政治というのを行ってこなかった。それが攻めてきたらどうなるか、そういうことを中心として考えていくのは本当の平和の実現ではないんですね。
 むしろ、同じだけの努力をするなら、極端に言えば、命をかけてやる、国益を守るんだ、それと同じことをもっともっと早くから、北東アジアにおける平和機構というのをつくっていくべきなんです。それの中心にはもう一つ経済的なアジア基金とかそういうものをつくって、そこで豆満江の開発だとかそのようなことをどんどん進めていくんですよ。それをやらないでいて、怖い、攻めてくるかもしれない、そういうことが先行になった議論というのは本末転倒だろうと思うのです。今からでも遅くないですから、それをどんどん自分からやっていくということの方がはるかに憲法的ですし、あるいは人間的というか、そういう感じを持ちます。
遠藤(和)委員 まだ少し時間があるようですから、あと一問だけいたします。これもできれば、短くて結構ですから、五人の方にお答えいただきたいのです。
 新しい基本的人権あるいは地方分権のお話が出まして、これを憲法の中で議論して、憲法を修正するあるいはそれを加筆する、そうした方がいいのか。あるいは、これはもう既に憲法に書かれていることであって、憲法の精神を法律で具体化すればいい。こういう二つの意見ができると思うのですけれども、これについて、それは憲法に加えた方がいい、あるいは憲法はそのままでいいから法律でいい、こういうふうに頭を整理すると、どちらの意見に賛成でしょうか。
中山座長 それでは、ただいまの遠藤委員の御質問に対して、時間も制限がございますので、簡単に、憲法に書くべきか、あるいは書かないでいいのか、山本利男参考人から順次お答えを願いたいと思います。
山本利男君 私は、憲法を改正すべきであると思います。
 ただ、一つ言いたいことは、さっきも申し上げたのですが、憲法改正の手続を、何を差しおいても改正すべきである。余りにも硬直しておって、これでは困るんですね。今も憲法全部をやっておるわけでしょう。それで、反対、賛成が非常に極端に出てくる。憲法を改正して、もうちょっとやりやすくして、一つずつやっていけばいいのじゃないか、そういうふうに思います。
島田洋一君 私の専門分野でもないので、ごく一言だけ言えば、拉致問題なんかでも、とにかく被害者の家族の方々は高齢ですからどんどん、昨年だけをとってみても、地村保志さんのお母さんが亡くなりましたし、増元るみ子さんのお父さんも亡くなった。だから、早急に結果を出さなければならないという問題がいっぱいあると思いますから、そういう意味では、とにかく機動的に対処していただきたいということです。
岩淵正明君 法律に制定すれば十分である。
 一言だけちょっとつけ加えさせていただきますが、私は、環境権という権利を主張して何回も訴訟を起こしましたが、みんな負けました。その理由は、法律に定めもなく、かつ、権利の範囲もはっきりしていないということで、何回も負けました。それを今、憲法に書くというふうにされる以前に法律に書いてください。まず法律に環境権というものがどういう権利であるか書いていただければ、私、訴訟に勝てます。
松田智美君 私は、改正の必要はないという意見です。その理由については、先ほど意見陳述で述べたとおりです。
鴨野幸雄君 先ほど来述べておりますように、まだまだ憲法の実態を、そこまで行っていない、それどころか本当に数割しか行っていないですから、これの実現を図って、それの先で考えていく必要があるだろうと思うのです。だから、今のところは憲法政治を求めたいと思います。
遠藤(和)委員 ありがとうございました。
中山座長 次に、一川保夫君。
一川委員 本日は、意見陳述者の皆様方、御苦労さまでございます。
 私は、自由党の一川保夫と申します。
 まず最初に、島田さんそれから岩淵さんの方にお尋ねしたいのです。
 今、まさしく国会でも我が国の安全保障の議論がなされている最中でございますけれども、そのことに関連いたしまして、私たちの基本的な考え方は、現憲法の九条の理念なり憲法前文というような理念というものはしっかりと受け継ぎながら、二十一世紀は、新しいそういう安全保障の概念を導入しながら、我が国の安全なり世界の平和を保つべきであるという基本的な考え方に立っております。
 そういう考え方の中で、これまでの日本の安全保障というのは、残念ながら、政府の憲法解釈によって、場合によってはなし崩し的に解釈されてきたり、あるいは恣意的に行われてきたような部分もございました。また一方、現在の国際社会の情勢を見たときに、皆さん方が非常に安全保障に関心を持つような事態になってきておるわけです。
 今我が国が、こういった安全保障に対する原則、国民のどなたが考えてもほぼ同じような解釈ができるというような原則なり、あるいはまた、そういったものに基づく自衛隊の行動原則というものをしっかりと確立しておく必要があるのではないか、そういったことを内外にしっかりと宣明しておく必要があるのではないかというふうに思っております。そういった考え方の上に立って、非常事態においての我が国の国民の生命財産あるいは権利等をどういった手段、方法で守っていくかということをしっかりと定めていく必要があるというふうに考えているわけです。
 本来であれば、憲法の中にそういう規定が、しっかりとしたものがあればいいのでしょうけれども、現憲法ではそういうはっきりしたものがございませんので、我々は、とりあえずは基本的な法律を制定して、そういった憲法解釈というものを確定しつつ、安全保障に対する我が国の基本的な考え方、また非常事態に対する基本的な考え方というものを明確にしておく必要がある、そういう問題意識をまず持っております。
 そこで、お二人の先生方にちょっとお尋ねするのは、我が国が直接武力攻撃を受けた場合には、自衛権を発動してのいろいろな対応というのは当然だというふうに私は思いますけれども、国際的な紛争なり我が国の領域外でのいろいろなトラブル、そういったことに対しては、国連中心的に対応すべきだというふうに考えております。
 今回のイラクの戦争のことについても、国連の新たな決議の問題が議論されましたけれども、これからの我が国のそういった安全保障の中で、国連中心的に集団的な安全保障体制というものを整備していく必要があるのではないかという考え方を基本的に我々は持っているわけです。
 島田先生なり岩淵先生は、こういった国連を中心とする我が国の安全保障という考え方について、基本的にどういうお考えをお持ちなのか、そういったところをちょっとお聞かせ願いたいと思います。
    〔座長退席、仙谷座長代理着席〕
島田洋一君 戦後かなり長い伝統もあり、それなりの組織も確立した、そして相当予算も使っておる国連というものをできるだけ生かすということは必要だと思いますが、ただ、安全保障問題で言えば、現在の国連安全保障理事会、これは例の五つの国が拒否権を持っているという状況にあるわけです。したがって、日本の安全保障にとって大変重要な問題だという場合に、例えば中国が拒否権を行使したら、日本自身としてはやるべきだと思うのに行動がとれないというのでは全く話になりませんし、あるいは、ロシア一国が反対したから動けないというのでは話にならない。逆に、国連安保理が仮に全会一致で決定した措置であっても、日本から見てこれはおかしいと思えば、参加すべきじゃないでしょう。
 そういう意味では、国連での議論というのは当然重視しないといけないわけですけれども、安全保障、自国の国民の安全を確保するというのがその国の政治家の最大の使命ですから、拒否権を与えられている国があるという中で、国連が日本外交にとって足かせになる部分が出てきた場合には、やはり自主的な判断で行動すべきである。だから、余り国連というものにげたを預けるという姿勢は問題であると思っています。
 そして、その前のお話の関連ですけれども、今、有事法制等議論になっていますけれども、外国から侵略を受けた場合に、日本という国は混乱なく対処できるんだ、排除できるんだという姿勢をつくっておくことが抑止力になるわけですから、やはり早急に整備する必要があると思います。
岩淵正明君 国連による安全保障の議論も含めてでありますけれども、要は、御指摘になっているのは、軍事力による安全保障なんでしょうか、どうなんでしょうかというところの問題なんです。
 私の方は、先ほど来から申し上げているように、特に日本国憲法は、さらに国連憲章よりも一歩先を行っている先見性のある憲法でありますので、軍事力によらないという精神を貫いている憲法であります。したがって、もちろん自国がそういう軍事力を持たないということは当然でありますけれども、軍事力によらない国際紛争の解決というものを、国連であれ、その他の国際機関であれ、求めていくという立場をとることになるというのが私の結論なので、国連による安全保障といっても限度がありますということを申し上げたいと思います。
 それから、重層的な考え方をいろいろする必要があると思いますし、国連だけではなくて、国連ということになりますと、例えばフランスも全部入り、いろいろな地域の人も入りますが、もっと一番密接に関連する北東アジアの地域的な安全保障というものも重層的に考えていく必要があるというふうに考えております。
一川委員 次に、先ほどの質問とちょっと重複するかもしれませんけれども、鴨野先生にお伺いするのです。
 地方自治の重要性というのは、先ほど来お話しのとおりでございます。当然、私自身も私たちの政党も、これからの健全な民主主義というものをさらに発展させて、より豊かな国民生活というものの実現を図るためにも、地方分権というものが非常に大事だということで、本当の、真の地方自治というものを確立しなければならないというふうに考えているわけです。最近、地方自治体と中央政府とを対等に扱うような対応の仕方が徐々に入ってまいっておりますけれども、まだまだ不十分だというふうに当然思っております。
 そこで、憲法の第八章に地方自治のところがありますけれども、過去の反省も踏まえて、これからの新しい時代に向けての地方自治の意義、それとまた、中央の政府と地方自治体との役割みたいなものを憲法上もう少し明確にした方がわかりやすいのではないかという考え方があるわけですけれども、そのあたりについて先生の御意見をお聞かせ願いたいと思います。
鴨野幸雄君 私も、そこら辺は、自分でもまだ悩んでいる部分がないわけではないですが、ともかく、今は端緒についたばかりですから、国と自治体の役割分担というのをはっきりさせて、今、地方自治法の改正の中では、国は、国際的な活躍する場面、あるいは全国的な、統一的な標準、そういうものをつくるということ、あとは、住民の身近な仕事はすべて自治体が持つ、そういう方向性を一応出してくるようになりましたから、それがそのとおりに実現していくなら、先ほど私が申し上げた補完性の原理といいますか、本来は、自分と家族あるいは地域で全部できるのですけれども、それができないのが上へだんだん上がっていくというふうに近づいていっている。これはもう少し試行錯誤してやっていかなければいかぬと思いますので、まだまだこれから見守っていかなければいけないと思います。
 もう一つは、それに見合った財源ですね。確かに富裕自治体とそうでない自治体との差があるというのは事実ですから、財政調整はある程度残すけれども、今のような極端な、六・五対三・五ぐらいの、出入りが全く逆転しているのは、やはり憲法上問題だと思いますね。極端に言えば、憲法違反の可能性がある、そういう主張をしてもいいと思います。
 ですから、それを解決して、それでもうまくいかないかどうかを見た上で憲法の改正論を議論しなければいけないので、今はその方向性を、この方向性ができ上がるのは、本当に四分の一世紀あるいは半世紀もかかるかもしれません、気の長い話で。いきなり憲法改正といいますか、そこまでを経なくも、この方向性は出始めてきているわけですから、やはり住民の主体的な活躍といいますか、そこに信頼を置いて、住民あるいは自治体の人に頑張ってもらって、本来の形、いわゆるこの国の形の一つですね、国内的な形というのができ上がるのを待った方がよいのではないかと思っております。
一川委員 では、最後に山本さんに一つお伺いするわけですけれども、国民のもろもろの権利と義務という問題について、先ほどちょっとお話があったと思うのです。権利が多過ぎて義務はちょっと規定が少な過ぎるというようなお話もございましたけれども、我々が本当に自由な生活をして、より豊かな生活を求め、また国家としての社会の秩序を保っていくという中では、おのずとして一つのルールがあるわけでございます。
 そういった中にあって、日本の本当によき文化とか伝統とか、そういったものを踏まえながら、いろいろな権利というものを一方では守りながら義務を果たしていくというところのその調和というのは非常に難しいところがあるわけですけれども、憲法の条文の中には、公共の福祉という言い方が書かれているわけです。この公共の福祉という概念をもう少し明確に、わかりやすくした方がいいのではないかという考え方もあろうかと思うのですけれども、山本さんはそのあたりをどのようにお考えでしょうか。
山本利男君 私は、先ほど申し上げましたように、もうちょっと国民を束縛するようなことをせよということを言うておるんじゃないのです。基本的人権というものは、これは本当によいと思いますし、それを守るためにはどうするかということについては、やはり精神的なものも出してやらないとわからないのじゃないかと。
 それで、さっきちょっと申し上げましたけれども、例えば宗教の問題ですけれども、信教の自由を認めておるんだけれども、宗教は乱立しておるでしょう、わからないです。それは、小学校も高校も何も宗教の問題をあえてないですからね、すぐ変な宗教のところに行ってしまうわけですよ、わからないから。やはりそういう信教の自由を守らせるためには、そういう具体的なものもつくってやらないとわからないということ。
 それから、さっきちょっと忘れたのですが、非常に公害が多いですから、公害の問題とか、あるいは情報とか、こういうものもやはり憲法の中に入れた方がいいと私は思うのです。
一川委員 ありがとうございました。
仙谷座長代理 次に、春名直章君。
春名委員 日本共産党の春名直章でございます。
 きょうは、五人の陳述人の皆さん、ありがとうございました。
 まず最初に、島田参考人に少しお伺いしたいのですけれども、お話を聞いていまして、私たちも、そして皆さんもそうだと思いますが、拉致の問題や核開発の問題について、大変な危惧と憤りを持っています。拉致は国家犯罪ですし、原状の回復、そしてこれの補償も含めて、そして全容解明も強く求められていると思います。また核開発の問題は、北朝鮮自身が入っているさまざまな条約、取り決めをみずから破るものですから、これは本当に許されないという気持ちでいっぱいであります。ただ、きょうもお話しいただいたわけですが、そういう問題についてどう解決をしていくのかということが非常に大事なんですね。
 そこで、島田さんにまずお聞きしたいのは、まず経済制裁をやって、それを今、北朝鮮は宣戦布告とみなすというふうに言っている。そうすると、攻撃をしてくる可能性がある、それに対して先制攻撃をこちらは準備する、だから憲法を変えなきゃいけない、こういうお話だったんですね。私、これでどうして拉致問題が解決されるのかということを率直に思います。むしろ日本の国民の命も安全も今まで以上に脅かされることにならないでしょうか。拉致問題の解決がもっと先に行ってしまうのじゃないでしょうか。そういう常識のないと言われている国だからこそ、道理をもって尽くすという外交以外にないのじゃないかというふうに私は改めて感じるのですけれども、それはどうでしょうか、島田さん。
島田洋一君 経済制裁は宣戦布告とみなすということを北朝鮮側が以前から言っていますけれども、それは裏を返せば、向こうが経済制裁を非常に恐れている。経済的に締め上げられれば体制が維持できなくなる。すなわち、金正日のごく周辺にまでいろいろな物資等を配れなくなって、非常に体制が不安定になることを恐れているということでしょう。
 私、さっきも言いましたけれども、拉致問題の解決に関して、何ら幻想は持っておりません。完全解決するためには金正日体制を倒さなければならないと思っております。そのためには、先ほども言ったように、経済的締め上げ、だから、何も経済制裁という言い方を日本政府がする必要は全然ないと思っています。それは以前から言っているのですが。現実に経済的に締め上げて、そして有志の決起によって現政権のトップが排除されるという状況をつくっていくのが実は最も解決の近道であり、最も現実的な方策であるというふうに考えております。
 だから、北朝鮮に関して先制攻撃を軍事的にやるんだというようなことを私は全然言っていないわけで、最初の陳述で言いましたけれども、それをやれば、まさに向こうにとらわれている拉致被害者が巻き添えを食って亡くなってしまうという可能性も十分あるわけですから、経済的な締め上げ、制裁という言い方をする必要は何もありませんから、締め上げによって体制変革を促す。向こうは経済的にはぎりぎりのところに来ていますから、本格的に締め上げれば、体制が倒れるのはそんな先のことではないと考えております。
春名委員 今の島田さんの御意見について、岩淵参考人はどうお考えになっているか聞きたいのです。
 一つ参考に私も申し上げておきますが、実は、九四年に北朝鮮の核危機がありました。あと一歩手前のところで戦争になるという危険性があったときに、韓国の大統領が電話で直談判して、それを押しとどめて、そんなことをやっても韓国の兵は一兵たりとも動かないと押し戻して、そのときにアメリカも韓国も北朝鮮も、実際、戦争を始めたら、人口密集地で地上戦になって、おびただしい犠牲が避けられないということで、戦争という手段をやめたという経過があることはもう御存じのとおりであります。
 現実を見たときに、そのような方向ではなくて、本当に道理をもって外交で尽くす。だから日朝平壌宣言が大事なのであって、これを守らせる責務が日本の政府にあるわけですし、また閣僚級会議を開いて平和的解決をやろうという努力、そういう努力が今世界でもやられ始めている、そういう努力が始まっている段階だと思うんですね。そういう努力を推し進めることが大事だと私は改めて感じるわけなんですが、岩淵さんの御意見をお聞かせいただきたいと思います。
岩淵正明君 まず、経済制裁ではないというふうなお話なんですが、確かに、今御指摘のように、北朝鮮における経済的な状況というのは極めて悪化しているということは事実であります。そのことをわかっていて、封鎖ではないけれども、経済的な何らかの措置をとるということは、対応としてはかなり過度な対応ではなかろうかというふうなことを思うことが一つ。
 もう一つは、先ほども御指摘がありましたように、北朝鮮は、経済制裁あるいはそれに類する対応については多分、宣戦布告とみなすということは言っておりますので、暴発ということをよく議論されておりますが、そういうことはあり得ないのかどうか。要するに、さらに軍事的な緊張を増して、それが爆発してしまうという状況にならない保証があるのかどうか。これについては、私は大変大きい危惧を持っております。むしろ逆に、そういう暴発も場合によってはあり得るということを前提に、経済的な封鎖とか経済的な制裁とかあるいは経済的な措置をとられるのであれば、これは挑発ではないですかというふうな気もいたします。
 いずれにしても、そういうやり方というのは緊張を増すだけで、反対です。
 もう一つつけ加えれば、九四年のときに、戦争になったときにどれくらいの死傷者が出るかというのはちゃんとアメリカは計算をしておりまして、死傷者は米軍で五万二千人、韓国軍で四十九万人、韓国の民間人が百万人、こういう数字がもう既に出ております。
春名委員 ありがとうございました。
 同じく、これは本当に今、国の大きな問題ですので、鴨野参考人にも、この北朝鮮問題について、どういう方向で解決する必要があるかということについて御発言をお願いします。
鴨野幸雄君 今の北朝鮮問題をどう解決するか、これを解決するべき手段を求めるというのは、本当に苦しいです。
 何度も申しますが、本来なら、憲法の平和主義に基づいて、北東アジアにそのような平和の機構、それはEUと同じように、あるいは東南アジア機構と同じようなものを、ここでも日本がその先手をとりながら、また経済の活発な時代に、特にそこは経済の基金をつくって、北朝鮮あるいは中国の豆満江の開発などにどんどん投資しながら、同じアジアの人間、漢字圏の人間だといってやるべきだったわけですけれども、その一方では、苦し紛れに拉致事件という許すべからずのことが起こりました。
 では、それをどう解決するかというのは、本当に今苦しいですが、でも、よく考えてみれば、我々は過去に同じようなことを当時の朝鮮国にもっともっと数としては多くやっておったわけです。これに対する戦後補償というのも、非常に細かいことの反省もしないまま、今日まで来てしまっているのが実態です。ですから、拉致された家族の方の悲痛さということには、それは激しい怒りを感じますけれども、それだけで戦争行為に進む、軍事的な解決にするのは、それはやはり行き過ぎだろうと思います。
 まだまだ小泉さんと向こうの金正日さんとの締約といいますか、条約があるわけですから、それの完全履行を求めていくということを繰り返し繰り返し、それは米韓日、中国、ロシアを交えた形で進めていくということ。そこに国連からもプッシュしてもらうような、そういうやり方をまず進めてみることが前提であって、直ちに軍事行動の方に移るということは、やはり憲法から考えていっても、あるいは我々の長い戦争観というものから考えていっても、とるべき措置ではないと思っております。
春名委員 続いて、松田参考人に伺います。それから、岩淵さんも同じ質問です。
 北朝鮮のそういう脅威があるので日本は有事法制が必要であるということが、今、国会で最大の議論になっているわけですね。ただ、私たちは、議論してきて、これは日本の国内の国民を守るという法制ではなくて、率直に言って、アメリカが引き起こす先制的な戦争に日本も参加をし、動員をされていくという仕掛けもはっきり入っているということも問題視し、これらは許されるものではないということを私たちはまさに今議論している最中であります。
 この有事法制の問題について、松田参考人、岩淵参考人から御意見を伺いたいと思います。
松田智美君 私は、有事法制に関しては勉強不足で、余り勉強していないと言っていいのですけれども、今思うことは、今こういう事態になっているからこそ、今制定されている日本国憲法、平和主義の憲法をもう一度再認識して、それによって、世界的に平和主義ということを根拠にして、全世界が平和に解決できるという方向を探っていくべきで、有事法制自体は、今後、国民の安全を保障するということで必ずしも必要なものではないというふうに考えております。
 以上です。
岩淵正明君 有事法制については幾つかの問題点がある。特に、憲法の平和主義に反するとか人権侵害のおそれが大きいとかいうことで、幾つかの論点で、私たちが全員加盟している日本弁護士連合会も理事会とか人権大会の決議でその廃案を求めているところでありまして、これは私も同意見でありますので、そのように御理解をください。
 根本的には、幾つかの問題点、法律の問題点というよりも、軍事力によって物事を何かしようという法律であること自体がそもそも間違っているというふうに私は思っています。
春名委員 最後に、松田参考人にもう一問だけ。新しい人権問題についてなんです。
 私、個人情報保護特別委員をやって、ずっと議論してきたんですよ。その間に例の自衛隊適齢者名簿事件というのが石川県を中心にして出まして、これは大問題だということで、行政は勝手に個人情報をこうやって活用する、四情報、それ以外の情報もというようなことをやっている、その中で個人情報保護法の議論はされている。
 それから、新しい人権というのは、確かに五十六年前にはそういう概念はなかったです、環境権もプライバシー権も。しかしそれは、やはり国民の運動によってその概念をつくってきたのじゃないでしょうか。私は、そういう立場から言えば、やはりおくれているのは、憲法にその規定がないからというよりも、やはり現実の中でこれをつくり出し、生み出してきた。ところが、個人情報保護法の中には、自己情報コントロール権というのを明記し、きちっとそういう立場に立つべきだという論戦を私たちはしましたが、それは拒否されるわけですね。新しい人権を保障していく上で、やはりおくれているのは社会と政治の方じゃないかということを私自身も実感している日々なんですが、その点について最後にお伺いして、終わりたいと思います。
    〔仙谷座長代理退席、座長着席〕
松田智美君 私も春名委員と同意見です。
 今、個人情報保護法案が審議されている間に防衛庁の適齢者に関して情報を集めていたという問題が出てきたことによって、それまで個人情報保護法案について、やはり国民の認識が余り、プライバシー権についてかなり関心が低かったのではないかという面もあるかと思います。ただ、このことがあらわれてきたことによって、国民全体も、これから自分たちの情報が国家によって全部集約されて、情報を握られるのではないかという意味で、新たにこのことが出てきたことによって危惧感を抱いたのではないかと思います。
 これまで、我々の先輩である弁護士がいろいろと裁判を行ってきたことを通じて、以前から権利としては主張されてきたにもかかわらず、今まで、憲法改正云々の前に、その立法化ということに全く触れてこなかったということ自体がやはり一番の問題であるかと思います。
 以上です。
春名委員 どうもありがとうございました。
中山座長 次に、金子哲夫君。
金子(哲)委員 社会民主党・市民連合の金子哲夫でございます。
 五人の皆さんには、ありがとうございました。
 最初に島田さんにお伺いをしたいのですけれども、お話を聞きますと、かなり力の解決ということを強調されているようですけれども、島田さん自身も、もしこの問題が話し合いによって解決すれば、それが最もいい方法だということには賛同していただけると私は思うのです。
 問題なことは、今、残念ながら、北朝鮮側が平壌宣言もありながら対話の場に出ていない、対話ができない状況にあるというのが非常に残念なことだというふうに私は思うわけです。その後、核問題も出て、非常に緊張した状況が今あります。
 しかし、最近の状況では、御存じのとおり、四月二十三日から二十五日にかけて、朝米中三カ国を中心として北京で会談が行われたわけです。その意味では、ようやく対話の場に北朝鮮側が出席をしたということでありますし、最近のニュースでは、六月の終わりごろには再度この会議を持とうということが言われております。私どもは、四月の二十八、二十九、三十日と中国に行って、胡錦濤国家主席ともお会いしたのですけれども、やはりこの二十三、二十四、二十五日の一番大きな成果は、話し合いの場所が持てたということ、そして、このことを通じて問題を解決しようということをお互いが合意したということです。
 しかし、解決しなければならない困難な問題は随分たくさんあるということを胡錦濤主席もおっしゃっておりましたけれども、つまり、この流れを我が国としてどう促進していくのかということが極めて重要だというふうに私は思っております。
 特に、北朝鮮の問題を考えるときには、朝鮮半島が分断されているということを抜きには考えることはできない。我が国と北朝鮮のみの問題で解決できない。そのことは、いわば韓国の国民がいやが応でも巻き込まれていく問題だ。そうしてまいりますと、今韓国がとっている太陽政策と言われる平和政策というものは極めて重視をしなければならないのではないかというふうに思うのです。
 そういう意味で、私も、拉致問題がなかなか解決の方向に向かっていかないということを残念に思いますけれども、しかし、今流れている対話の方向というものをもっと重視していく、この四月の三国の対話というものを発展させていく、そしてそれに力を入れていくということが重要ではないかというふうに思うのですけれども、その点についてはどのようにお考えでしょうか。
島田洋一君 もちろんお話し合いをするというのは大事なことであるわけですけれども、ただ、お話し合いと称して要するに時間稼ぎをして、その間に核兵器をため込もうというようなことを許してはならないというのも一方で考える必要があります。
 また、エンドレスに話し合い話し合いと言っているうちに、被害者の家族の方々がどんどん亡くなっていく。被害者の家族も皆さん亡くなって、被害者自身も北朝鮮で亡くなる。あっちは平均寿命四十歳代というような国ですから、被害者及び家族がみんな死んでしまえばある意味では問題は解消するわけですけれども、そういうことも許してはならない。
 だから、基本的に、話し合うといっても、ある程度期限を切って、例えば、いついつまでに人質にしている子供たちをとにかく一たん日本に出せ、出さないのなら経済的な締めつけに出ざるを得ないですよと。やはりそういったむちの部分を用意した上で話し合わなければ話し合い自体が進展しないというのが、あの国とのやりとりの歴史から言えることだと私は思っているわけです。
 アメリカ側が米朝二国間協議じゃなくて多国間協議が必要だと言っている意味ですけれども、これはケリー国務次官補等が米議会でもはっきり証言していますけれども、つまり、北朝鮮側がまた合意を破ったときに、周辺諸国どこからも経済的支援などが流れないようにしないといけない、つまり、むちの部分で周辺諸国が足並みをそろえる、それが必要なんだという趣旨を強調しております。その意味では、周りの国がそろって圧力をかける枠組みをつくって、そのことによって話し合いなりを進展させようというのがアメリカ政府の意向ですけれども、それに北朝鮮側が乗ってくるかどうかわかりません。
 一番重要なポイントは、やはり期限を切って対応を求めていくというやり方をひとつ考えないといけないのじゃないかと思っております。
金子(哲)委員 ありがとうございました。
 最初にも言いましたように、対話を否定されているわけでもないと思いますし、もちろんアメリカも、核問題というのは極めて重要な、場合によれば、ある意味で北の核開発の進行速度というものをかなり意識してこの話し合いというものをやっているわけですから、私は、それなりに時間というものも意識しながらこの話し合いというのは進んでいくだろうと思いますから、その道というのはこれからの解決の大きな道だというふうに思っております。
 松田陳述人にお伺いしたいのですけれども、先ほどお話の中で、憲法が生まれた中に、こうした基本的人権がかなり強調して書かれているということについては、過去の国家との関係、国家によるいわば国民に対する権利侵害ということ、国家とのかかわりということをおっしゃったと思うのです。
 最近の立法の状況を見ますと、先ほどの個人情報保護法もそうですけれども、国の政府機関がこれを判断するとかいう問題、それから、さまざまなところで国益ということが強調されるような政治の状況というのが多いわけですけれども、むしろ、憲法にうたわれている国家との関係が強調されていくような法律が今日成立してきているのではないかというふうに思っているのですけれども、弁護士の立場から、その辺はどのように評価されているのでしょうか。
松田智美君 先ほど個人情報保護法案の問題でも取り上げたのですけれども、個人を保護するという点で、結局は何らかの対極する、個人情報保護法案で、民間との関係で言えば、ある程度表現の自由は侵害されかねないという点があるかとは思うのですけれども、そういう場合に、その判断をするという機関がやはり国家にゆだねられている。今の個人情報保護法案では主務大臣が行うという意味で、国家にゆだねられているという点は、そもそも憲法自体が、歴史的に言えば、国家が国民の権利を侵害してきたという点からすると、問題があると思います。
 以上です。
金子(哲)委員 岩淵陳述人にお伺いしたいのです。
 先ほど春名委員からもちょっとお話が出たのですけれども、有事法制そのものについては今お答えがありましたので、本来それ以上聞くのはおかしい話なんですけれども、今、国会、衆議院、有事法制をめぐって修正論議とかいろいろなことが言われております。特に基本的人権の問題とかが言われておりますけれども、そういう論議をお聞きになって、私は、そもそも有事法制そのものは、基本的人権を制約することを目的にしてやらなければそういうことが遂行できないために有事法制というものがつくられてきているので、そこに基本的人権を保障していくというような精神というのは相入れない矛盾があるというふうに思っているのです。今そこら辺をめぐって国会で修正論議も含めて行われているわけですけれども、その点についてはどのようにお考えでしょうか。
岩淵正明君 今御指摘の御意見と全く同じ意見でありまして、有事法制と言う以上は、軍隊が最優先する法律でなければならない。そのときには人権は軍隊の後ろに下がるということにしなければ、有事法制はつくれないのです。だから、有事法制をつくる以上は、基本的人権が必ず制約される。我々はその点を物すごく問題にしているという点が一点。
 それからもう一点は、軍事力の行使のいろいろなルールをこの有事立法でつくる。そのときに、軍事力によって国民は守れるのかという議論がちょっと置いてきぼりになっているのではないか。私は、軍事力によっては国民は守れない。自衛隊は戦争をするけれども、国民を守る軍隊ではありませんので、守れない。
 今回の法律を見ると、国民保護法制と言われる部分が実は政府の案では全部積み残しになって、それは後回し。国民を守らない有事立法、国民を守る部分の法制度を後回しにする有事立法というのは、一体何のための有事立法なんでしょうかという疑問を持っています。
金子(哲)委員 鴨野陳述人にお伺いしたいのです。
 先ほども出てまいりましたけれども、市町村合併とか道州制ということが盛んに言われておりまして、市町村合併が今進んでおりますけれども、今、市町村合併の進み方というのは、どちらかといえば中央主導のような形になって、結局、余り住民との話し合いがないままに進んでいって、途中で住民の側からどうもおかしいのじゃないかというような意見が出て、むしろ地域社会における混乱を引き起こすようなところも、すべてとは言いませんけれども、出てきております。
 私は、その意味で、住民合併というものが一番言われております、きょうのお話にもありましたように、そもそも地方自治というものが、住民に身近なところ、国民に身近なところで、より民主主義というものを実感する、体験していく場所でもあるように思うのですけれども、その点でいいますと、今進んでいる市町村合併のさまざまな論議というのが、必ずしも、そういう役割といいますか、十分果たし切っていないのではないか。
 そしてもう一つは、特に、先ほど自立した個人とかいうことを言われておりましたけれども、個というものが非常にこの中で消えていくのではないか。特に私は、田舎といいますか、過疎地域の合併状況を見ますと、広域化することによって、地方行政を頼りにしなければならない人が地理的にもいろいろな意味でむしろ遠ざかっていくというような側面を持っているのではないかというようなことを常々思っているのです。
 その意味で、むしろ、身近な住民との関係の中における地方自治体の役割ということになると、そこのところが論議が余り進んでいない、財政面だけが強調されて論議をされているように思うのですけれども、その点についてどのようなお考えをお持ちでしょうか。
鴨野幸雄君 全くおっしゃられるとおりだと思うのです。
 ただ、もう事態が、これは自治体の責任でもない部分もあるのですが、国がそういうたくさんの公共事業を自治体にやらせて、それが赤字の原因にもかなりなった部分がありまして、持ち出しで、ほとんど県債あるいは地方債を食いつぶしてやっているところが多いようですが、でも、ここまで来て、緊急避難という要素もないわけではないんですね。
 余りにも財政が逼迫している。そうしますと、小さな自治体では医療とか福祉というのに十分手が回らないというのも、もう実態としてそこまで来てしまった。だから、来てしまったのをどうしようかと。放置しておけば、それで小さな自治体はますます、今おっしゃったような、見捨てられていくといいますか、お医者さんにかかりたいけれども遠くまで行かなければないとか、近くに総合病院がない、そのために医者にかからないで命を早く縮めていく。これは大変なことなんですね。そこまで追い込まれたときにこの合併論が出てきて、特例法でここまですればこれだけ優遇するからということですから、本当に自治体は、まさに大化の改新以来、ずうっと苦しい思いをしてやられているわけです。
 ですから、理念だけでは食えないというところもありますけれども、合併して一番大事なのは、やはり人々の健康ですね。それをより充実させていけるか、福祉を充実させていけるかというところのその議論を何度も何度も展開して、より高度医療がかけられるか、より質の高い教育とか生活の質がつくれるかというのを比較考量しながら進めていくというのが基本だと思うのです。それをみんなに問うていくわけですね。特に、吸収される自治体にとっては、住民投票にかけて自分の将来を見てもらうということをしていくのですが、やはりそれでも山間部の遠いところの僻地の人たちの生活では、要するに人権というのが失われていくというのはあるんですね。
 では、そこをどうするか。制度としては、地域審議会なり、あるいは一定の権限を持った公共団体というのがそこに残しておくかどうかというので議論していますが、だから、そこの小さなサークルというのをどうやって残して、生かして、そこはやはり公がお金を振り込んでもやってあげるかということを、そこの相克を絶えず絶えずみんなで議論していかなければいけないと思うんですね。
 だから、期限を切ってしまうというのは、そういうやり方はまさに中央集権的なやり方であるなと思います。ですから、このやり方を、切らないで、あるいは法が切れるのでしたら、同じような条件をもう少し先に延ばして少し考えてみたらどうだ、そういうチャンスを与えながら自分たちで決めていくようにするべきだと思いますね。
金子(哲)委員 ありがとうございました。
中山座長 これにて委員からの質疑は終了いたしました。
    ―――――――――――――
中山座長 この際、暫時、予定の時間よりも早く終わりましたので、約十五分から二十分の間に、きょうの公聴会にせっかく御参加いただいた皆さん方、四名の方からきょうの公聴会の御感想を承りたいと思います。
 なお、御注意を申し上げておきますけれども、この調査会地方公聴会は、衆議院憲法調査会規程第二十二条二項「会長は、秩序保持のため、傍聴を制限し、又は傍聴人の退場を命ずることができる」、国会法第五十二条三項「委員長は、秩序保持のため、傍聴人の退場を命ずることができる」、衆議院規則第七十四条「委員長は、委員会の秩序を保持するため、必要があるときは、傍聴人の退場を命ずることができる」、この国会法の中で本日の公聴会を開いておりますので、この国会法の趣旨を十分御理解の上で、御発言いただく方は自分の御感想をお述べいただきたいと思います。
 御希望の方は手を挙げてください。それでは、赤いネクタイの後ろの方。
諸橋茂一君 諸橋と申します。
 山本さんが言われましたように、現憲法は、ハーグ陸戦法規に著しく違反をして、我が国が占領時代に、米国の植民地であったフィリピン憲法をもとにして、わずか一週間余りの間に英文で作成されたものが和訳をされて、占領下の我が国に押しつけられたということは、もう周知の事実でございます。
 その中でいろいろな問題点がございますが、まず、前文の中に、
  われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
ということがありますが、この文章を皆さん、また後からじっくりとお読みいただきたいと思いますが、これは主語が二つあるような日本語になっておりまして、日本語として完結された文章になっておりません。我が国の基本法である憲法がまともな日本語になっていないということは非常におかしいです。
 また、憲法八条と八十八条、ここには皇室財産について触れてございますが、八十八条には、皇室財産は国家に属するというふうに書いてありまして、皇室財産の私有というものを認めておりませんが、憲法八条には、皇室財産の私有を認めるような前提での文言になっております。これは、やはり一貫性がないということは非常におかしいです。
 憲法二十四条には婚姻と離婚のことが書いてありますが、何と離婚が先に書いてございます、「離婚並びに婚姻」と。こういうばかげた憲法の文言があってよいのかというふうに思います。
 また、幾多の方々が御指摘をされておりますように、憲法八十九条には、今現在、私学助成法によって私立の大学等に助成金などが間接的に拠出されておりますけれども、憲法八十九条を素直に読めば、公以外の慈善、教育、福祉に関して公金を支出してはならないというふうなことが書いてあります。しかし、これらは支出をするべきであって、今の憲法がおかしいというふうに言わざるを得ません。
 以上によって、現憲法を一日も早く改正すべきであるというふうに思います。
 以上です。
中山座長 それでは、どうぞ、次の方。
木村吉伸君 きょうのお話の中に、経済的締めつけという表現が何度かされました。締めつけられるのはだれなんだろうかという印象を持ちました。
 イラクの問題でも、水や電気、ライフラインが断たれて、経済制裁でも何百万人の方が命を落とした。それから、戦争のさなかでも、水がバグダッドでも四割しか供給されない中で、しかもその水は大変感染症を起こす、そういうふうな事態でした。罪もない人々がそういう中で命を落としていく、こういう映像を我々は目の当たりにしました。
 ただ、まだメディアの中で、イラク戦争そのものの国連を含めた経過の中で、事実や実態、それから戦争そのものの真実をどれだけ我々は目にしているかということでは、まだまだ不足をしているというふうに思います。医師も、薬が全くない、抗生物質がない中で、泣きながら治療に当たっているというのがイラクの実態でした。
 経済的締めつけと聞いたときに、国家利益というよりは、大変多くの方々の、罪のない人々の命が奪われていく、こういうことを実感しました。そして戦争そのものが、お話にあったように、韓国にしろ、さまざまな近隣諸国も含めて、その事態が引き起こす現状を私たちは目の当たりにしているわけです。それらのことが締めつけという表現で使われることに大変違和感を覚えました。しかもそれが、トマホークを持つ必要がある集団自衛権、あるいは九条の削除、どうしてそこまで飛躍をするのかというのが私は理解できません。
 教育の問題にしても、さまざまなお話、御議論があった内容にしても、世界に輝く憲法の立場で拉致問題の解決も貫くべきだ、こんなふうに思います。
中山座長 ありがとうございました。
 はい、次、どうぞ。
菅野昭夫君 菅野と申します。私は弁護士をしておりますので、その点で二点ほど申し上げたいと思います。
 先ほど公述人の一人がこういうことをおっしゃいました。日本国憲法のもとで軍事力を行使することは悪であるという考えが形成されているけれども、これは誤りであると。例えば、国内で人質事件が起きたときに、警察力で人質を奪還することは当然である、国際的においてもしかりである、こういう発言をされました。私は、法律家として、このような議論についての感想は、これは法律的に間違っていると思います。
 国内において人質事件が起きたときに、もちろん各国の国内法がこれを律します。刑法、刑事訴訟法、日本で言えば警察官職務執行法、これで警察力を使って奪還することは当然合法であります。しかしながら、国際的な紛争あるいは国際的な人権侵害が起きたときに、これを律するのは、国内法ではなくて国際法であります。
 日本国憲法は、御承知のとおり、締結された国際条約そして確立された国際法規、これを誠実に厳守すると書いてあります。そして、これまでの世界史において、国際的には、警察権の行使だとか自衛権の行使だということで、第二次大戦まで何千万もの命が失われたわけであります。こうした教訓を踏まえて、各国は勝手に警察力を行使したりあるいは自衛権を行使してはならないという国際法規が確立されたわけです。そして国連憲章ができているわけであります。したがって、こういうような議論は、私は、法的に間違っているという感想を持ちました。
 それから、こういう発言もありました。日本国憲法は敵前逃亡の憲法であって、外国からばかにされると。私は、これは全く逆だと思います。私もかなり多くのアメリカ人を初め外国人の友人を持っていますけれども、こういうことを聞いたことがありません。むしろ、日本は、憲法九条を持っていて、軍隊を持たないあるいは戦争をしないという国で、それは非常に立派なことであるということをいつも聞いております。もっともそれは、私と発言者の交際の範囲が違うからかもしれません。
 しかしながら、一九九九年に、御承知のとおり、オランダのハーグでハーグ平和会議の百周年が行われて、世界から百カ国以上の一万人の市民が集まって、そこには国連のアナン事務総長とか南アフリカのツツ大司教などのそうそうたるメンバーが集まって、そこで公正な世界平和を確立するための十原則が決議されて、その第一原則は、各国政府は、日本国憲法第九条のように、政府が戦争をしないという決議をすべきであるということを採択したわけですね。これは、日本国憲法が世界的に尊敬を集めるという何よりの証拠じゃないでしょうか。
 したがって、私は、そういう議論にくみしないという感想を持ちました。
 以上であります。
中山座長 ありがとうございました。
 次に、最後のお一人です。それでは、女性の方、どうぞ。
世戸玉枝君 世戸と申します。
 道徳の問題で発言がありましたけれども、道徳で一番悪いのは、悪いことをしても反省しないということが一番問題だと思います。そういう意味で、二千万のアジアの人たちを殺してきた第二次世界大戦の強い反省のもとで今の日本国憲法ができたと思います。
 南京大虐殺の記念館を訪ねていきますと、「許そう、でも忘れない」と書かれてあります。私たち日本人は、第二次世界大戦の大きな反省のもとに、日本国憲法を、もっともっと精神を発展させることがアジアの人たちへの反省を示すことだと思っています。でも、日本の政府がやっていることは全く逆のことで、自衛隊をつくったり、いろいろな憲法の平和精神をないがしろにしてきている。むしろ逆の方向を行っていると思います。
 先ほど、北朝鮮の問題も、二十四年間もこんな状態でほったらかしにされていたということで、すごく怒りが起こっています。私も本当に問題だと思います。でも、二十四年間この問題が解決されなかったのはどこに問題があるのかをもっと真剣に考えるべきじゃないかと思います。
 拉致問題がないないと言ってきた北朝鮮に一番の責任があるとは思いますけれども、この二十四年間、金賢姫の問題で日本人が拉致されているということがわかってからでも、それからでも随分この問題は放置されたままでおったのじゃないでしょうか。むしろ北朝鮮を孤立させるような外交をやっていった日本の政府にも大きな問題があると思います。
 今こそ日本国憲法の精神でこの北朝鮮問題も、長くかかったかもしれないけれども、私も四人の子供を育てていてわかりますけれども、体罰で抑えつけて言うことを聞かせたって、それはそのときだけの逃れで、本当の根本的な解決にはならないと思います。子供のしつけと一緒で、やはり外交も説得と話し合いで決めていくしかないと私は思っています。
 以上です。
中山座長 ありがとうございました。
 まだ御発言の御希望もあろうと思いますけれども、時間が参りましたので、ここで終わらせていただきます。
 この際、一言ごあいさつを申し上げます。
 意見陳述の方々におかれましては、長時間にわたりまして貴重な御意見をお述べいただき、まことにありがとうございました。ここに厚く御礼を申し上げます。
 また、この会議開催のために格段の御協力をいただきました関係各位に対しまして、心より感謝を申し上げます。
 それでは、これにて散会いたします。
    午後四時九分散会

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