衆議院

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第3号 平成16年3月18日(木曜日)

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平成十六年三月十八日(木曜日)

    午前九時一分開議

 出席委員

   会長 中山 太郎君

   幹事 小野 晋也君 幹事 近藤 基彦君

   幹事 船田  元君 幹事 保岡 興治君

   幹事 木下  厚君 幹事 仙谷 由人君

   幹事 山花 郁夫君 幹事 赤松 正雄君

      伊藤 公介君    岩永 峯一君

      江渡 聡徳君    衛藤征士郎君

      大村 秀章君    倉田 雅年君

      河野 太郎君    下村 博文君

      杉浦 正健君    中谷  元君

      永岡 洋治君    平井 卓也君

      平沼 赳夫君    二田 孝治君

      松野 博一君    森岡 正宏君

      森山 眞弓君    綿貫 民輔君

      井上 和雄君    伊藤 忠治君

      大出  彰君    鹿野 道彦君

      楠田 大蔵君    玄葉光一郎君

      鈴木 克昌君    園田 康博君

      武正 公一君    辻   惠君

      計屋 圭宏君    橋本 清仁君

      村越 祐民君    笠  浩史君

      太田 昭宏君    斉藤 鉄夫君

      山口 富男君    土井たか子君

    …………………………………

   衆議院憲法調査会事務局長 内田 正文君

    ―――――――――――――

委員の異動

三月十一日

 辞任         補欠選任

  土井たか子君     阿部 知子君

同日

 辞任         補欠選任

  阿部 知子君     土井たか子君

同月十八日

 辞任         補欠選任

  棚橋 泰文君     江渡 聡徳君

  古川 元久君     井上 和雄君

  増子 輝彦君     橋本 清仁君

同日

 辞任         補欠選任

  江渡 聡徳君     棚橋 泰文君

  井上 和雄君     古川 元久君

  橋本 清仁君     増子 輝彦君

    ―――――――――――――

本日の会議に付した案件

 日本国憲法に関する件

 派遣委員からの報告聴取

 小委員長からの報告聴取


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     ――――◇―――――

中山会長 これより会議を開きます。

 日本国憲法に関する件について調査を進めます。

 去る十五日、広島県に、日本国憲法に関する調査のため委員を派遣いたしましたので、派遣委員より報告を聴取いたします。仙谷由人君。

仙谷委員 団長にかわり、派遣委員を代表いたしまして、その概要を御報告申し上げます。

 派遣委員は、中山太郎会長を団長として、幹事船田元君、委員渡海紀三朗君、幹事山花郁夫君、委員斉藤鉄夫君、委員山口富男君、委員土井たか子君、それに私、仙谷由人を加えた八名であります。

 地方公聴会は、三月十五日午後、広島市の広島全日空ホテルの会議室において、日本国憲法について、特に、非常事態と憲法、統治機構のあり方及び基本的人権の保障のあり方をテーマとして開催し、まず、中山団長から今回の地方公聴会開会の趣旨及び本調査会におけるこれまでの議論の概要の説明、派遣委員及び意見陳述者の紹介並びに議事運営の順序を含めてあいさつを行った後、公務員佐藤周一君、広島大学大学院教授・医師秀道広君、元広島平和記念資料館館長高橋昭博君、団体職員平田香奈子さん、社会福祉法人みどりの町理事長岡田孝裕君及び岡山県議会議員小田春人君の六名から意見を聴取いたしました。

 各意見陳述者の意見内容につきまして、簡単に申し上げますと、

 佐藤君からは、現在、失業問題が深刻である等、憲法二十七条や二十五条に反する状況にあり、これらの規定を実現するための諸施策により景気回復が図られる、憲法改正を議論する前に政府に憲法を遵守させ、人権を侵害させないようにすることが国会の役目である、戦争が最大の人権侵害であり、人権保障のために九条は絶対に変えてはならないとの意見、

 秀君からは、国家主権の侵害に対処するための備えをしておくべきこと、我が国の歴史、伝統、文化等の国家としてのアイデンティティーを明確化すべきこと、積極的な平和活動を実施すべきことを踏まえ、前文の全面改正や九条二項の削除等の憲法改正をすべきであるとの意見、

 高橋君からは、自分が被爆の苦しみを乗り越えることができたのは平和主義をうたった憲法があったからである、我が国は、九条を堅持し、平和外交を基調とする全方位外交を果敢に展開しなければならないのであり、憲法の見直し、とりわけ、九条の見直しには断固反対であるとの意見、

 平田さんからは、憲法は、日本が半世紀以上前、アジア諸国を侵略し、大きな戦争を引き起こしたことに対する反省と二度と戦争をしないという誓いのもとに生まれたものであるが、自衛隊のイラク派兵等はそれをないがしろにするものである、悲惨な戦争の体験、人類の自由を求める闘いの到達点が書き込まれている憲法は、全く変える必要がないとの意見、

 岡田君からは、地方自治の課題として、地方の自主自立の精神と自己責任を確立する必要性、国と地方の業務分担の見直しと地方財政の再構築の必要性、地方行政の重層構造等の簡素化の必要性が指摘できる、憲法の地方自治の規定をより具体的に規定し直す必要がある、道州制ひいては連邦制の導入も検討されるべきであるとの意見、

及び

 小田君からは、憲法は、制定過程に問題があること、施行後六十年近い時が経過したことの二点から改正が必要である、特に、統治機構については、議員の選出方法が酷似する二院制の見直し、形骸化している最高裁判事の国民審査の廃止、地方自治の本旨の具体化が必要であるとの意見

がそれぞれ開陳されました。

 意見の陳述が行われた後、各委員から、教育のあり方、国と地方の役割分担、道州制と二院制の関係、核抑止論を乗り越えるための理論構成、憲法の平和主義への思い、日本のアイデンティティーと九条との関係などについて質疑がありました。

 派遣委員の質疑が終了した後、中山団長が傍聴者の発言を求めましたところ、傍聴者から、軍隊や個別的、集団的自衛権の憲法上の明記の必要性、労働と教育の条件整備により憲法を生かすことの必要性、有事の際に家族や周りの人が命にかかわる状況に陥ることへの危惧等についての発言がありました。

 なお、会議の内容を速記により記録いたしましたので、詳細はそれによって御承知願いたいと思います。また、速記録ができ上がりましたならば、本調査会議録に参考として掲載されますよう、お取り計らいをお願いいたします。

 以上で報告を終わりますが、今回の会議の開催につきましては、関係者多数の御協力により、円滑に行うことができました。

 ここに深く感謝の意を表する次第であります。

 以上、御報告申し上げます。

中山会長 これにて派遣委員の報告は終わりました。

 お諮りいたします。

 ただいま報告のありました現地における会議の記録は、本日の会議録に参照掲載することに御異議ありませんか。

    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕

中山会長 御異議なしと認めます。よって、そのように決しました。

    ―――――――――――――

    〔会議の記録は本号(その二)に掲載〕

    ―――――――――――――

中山会長 次に、各小委員会において調査されたテーマについて、小委員長からの報告を聴取し、委員間の討議に付したいと存じます。

 議事の進め方でありますが、小委員会ごとに、まず小委員長の報告を聴取し、その後、そのテーマについて自由討議を行います。

 なお、各テーマごとの自由討議における最初の発言者については、幹事会の協議決定に基づき、会長より指名させていただきます。

 自由討議の際の一回の御発言は、五分以内におまとめいただくこととし、会長の指名に基づいて、所属会派及び氏名をあらかじめお述べいただいてからお願いをいたします。

 御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。御発言が終わりましたら、戻していただくようお願いいたします。

 発言時間の経過については、終了時間一分前にブザーを、また終了時にもブザーを鳴らしてお知らせいたします。

    ―――――――――――――

中山会長 それでは、まず、国家統合・国際機関への加入及びそれに伴う国家主権の移譲について、安全保障及び国際協力等に関する調査小委員長から、去る四日の小委員会の経過の報告を聴取し、その後、自由討議を行います。安全保障及び国際協力等に関する調査小委員長近藤基彦君。

近藤(基)委員 安全保障及び国際協力等に関する調査小委員会における調査の経過及び概要について御報告申し上げます。

 本小委員会は、三月四日に会議を開き、参考人として、駐日欧州委員会代表部ベルンハルド・ツェプター大使をお呼びし、国家統合・国際機関への加入及びそれに伴う国家主権の移譲、特に、EU憲法とEU加盟国の憲法、「EU軍」について御意見を聴取いたしました。

 会議における参考人の意見陳述の詳細については小委員会の会議録を御参照していただくこととし、その概要を簡潔に申し上げますと、

 ツェプター参考人からは、欧州統合が欧州諸国間の戦争を二度と起こさないという教訓のもとで進められ、欧州に平和や経済的繁栄をもたらしたこと、EUが、ある分野では国家主権の一部をプールし、他の分野では単に政府間協力を行うという国家と国際機関のいわば混成体であること、その発展過程には事前のゴールを設定した青写真はなく、加盟国が特定分野で合意した共通利益の上にボトムアップで構築されるプロセスをとっていること等について説明がなされました。

 次いで、統合の推進力は、協力、競争、連帯であること、EU立法は、加盟国の国内法に対するEU法の優位や、意思決定を可能な限り市民に近いところで行うとする原則等に基づくこと、域内の経済格差是正のために多額の資金援助が行われていること、外交政策問題に関して共同行動が試みられたが成功には至っていないこと等について説明がなされました。

 さらに、EU統合の深化と拡大は加盟国憲法の適合化を要求したが、主権の一部移譲を受け入れる政治、社会、文化の存在がこれを可能にしたこと、現在、討議過程にあるEU憲法草案は、EUの民主的正統性を強化し、ヨーロピアンアイデンティティーの必要性を強調し、透明で包括的な法体系を提示していること等について説明がありました。

 その上で、欧州の経験は、そのままでは他の地域のモデルにはならないが、統合の手法や手続等に関して参考になるのではないかとの見解が示されました。

 その後、参考人の意見陳述を踏まえて、質疑及び委員間の自由討議が行われました。

 そこで表明された御意見を小委員長として総括すれば、欧州との比較においてアジアの地域安全保障について議論がなされ、アジアの地域安全保障体制の構築が必要であるが、構築に当たっては安全保障に対する共通の基盤や経済分野等における信頼関係の形成が必要である、あるいは、地域安全保障と集団安全保障及び集団的自衛権との関係等について考え方を整理すべきとの見解が示された一方で、平和主義を踏まえた北東アジアにおける安全保障対話の必要性や集団的自衛権を是認するNATOは冷戦下に生まれたという背景があることについての発言がありました。

 参考人が意見陳述で述べられたように、欧州の経験は、歴史的、地理的、文化的な基盤と密接な関係があり、そのままでは他の地域のモデルにはなり得ないと考えますが、地域に政治的安定を醸成しつつ、一国だけで十分な対応ができない問題に対処するというEUの手法は、安全保障やテロ、国際犯罪といった問題のみならず、エネルギーや環境問題を初めとする多くの課題に対応するために参考にすべき点があると感じました。

 以上、御報告申し上げます。

中山会長 ありがとうございました。

 これより、国家統合・国際機関への加入及びそれに伴う国家主権の移譲、特に、EU憲法とEU加盟国の憲法、「EU軍」について自由討議を行います。

 それでは、まず、楠田大蔵君。

 なお、御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。

楠田委員 民主党の楠田大蔵でございます。

 先ほどの小委員長報告にありましたように、ツェプター大使からの御意見をもとにして、特に、国家統合・国際機関への加入及びそれに伴う国家主権の移譲について意見を述べさせていただきます。

 まず、憲法論議がこうしてこの場でもなされるようになった背景として、やはり時代の変化というものが挙げられると思います。例えば、国家間戦争から民族紛争や国際テロなど、多国間で共通の新しい脅威に対抗する時代への移行、環境権やコミュニケーションといった二十一世紀型人権の必要性、国境を越えた経済やエネルギー、食料問題の発生などです。そうした変化の中で、もしくはそうした変化を先取りしてEUというリージョナルコミュニティーが誕生しました。既に経済・通貨統合をなし遂げ、新たに欧州憲法条約締結、共通外交・安全保障の策定などを既に目指しております。

 その長い形成過程の中で、国家主権の制限と移譲という命題があらわれてきましたが、現にEUでは、一定の分野において多数決方式による立法も含む形で立法権限が移譲され、その定立する法に国内的な直接適用や直接効果が認められ、解釈、適用に関する裁判所を用意し、対外的な交渉権限を持つ超国家性を備えており、こうした点で既に国家主権の移譲がEUでは行われていると言うことができると考えます。

 こうした事例というより、ツェプター大使の壮大なEUにおける夢を目の当たりにいたしまして、翻って我が国の現在の状況、そして将来のあり方を考えますと、やはり戦略の欠如というものを感じざるを得ませんでした。アジアの中の日本として、中国や韓国、東南アジアとの関係をいかにしていくか、スピード感を持って具体的に想起する必要があると私も若い世代として考えたところでございます。

 私は、やはりアジア間での集団的安全保障というのは必要だと考えます。北朝鮮との関係における核兵器の拡散防止や大量破壊兵器の建設への懸念といったものは言うまでもなく、前回の小委員会で中山会長が御指摘されたように、エネルギー安定のためにアジアでパイプライン敷設というものを考えていく、そうしますと、その防衛やまた原子力発電の使用済み核燃料の処理をいかにしていくかといった問題など、アジア地域での安全に対する共通課題が多く存在すると考えます。

 こうしたものに対して、やはり日米安保という軍事同盟の枠組みだけでは対処できない、もしくはなじまない部分も多いと考えます。また、アメリカへの過度の依存にもつながる。この点、ツェプター大使も、EUにおいて独自の緊急対応部隊を編成するにおいて、地域の問題に対して、ヨーロッパの問題に対して、いつもいつもNATOに頼る必要はないということを示したかった、このような率直な意見も述べられておりました。

 こうしたアジアでの集団安全保障を想起する上で、やはり憲法において自衛隊に関する国家主権の移譲もしくは制限というものが一つ考え得るのではないかと私は思います。また、既に実行されておる国連の平和維持活動も、国連という枠組みのもと、自衛隊が派遣され、国連が具体的な行動をとる際にそれを使うことができると考えれば、同じく我が国の国家主権が制限、移譲されると考え得ると考えます。この点は既にドイツ連邦共和国基本法二十四条二項や、不戦をうたうイタリア共和国憲法十一条にも明記されており、我が国も平和と正義を確保する手段としてとの留保を条文に付して明文化してもよいのではと私は考えるところでございます。

 しかし、ここでつけ加えておきたいのは、やはりヨーロッパでこうした結論が導き出される過程には、多くの困難と歴史があったということでございます。ドイツ、フランス間における不戦の誓い、過去の経験に基づく不戦の誓いというものを共通の理想として出発し、その後、共同市場の形成や経済統合といった経済面での共通利害、そして欧州大陸という共通の社会、文化があって初めて可能となった。また、そうした土壌がありながらも、欧州憲法条約が既に決裂を一度し、またイラクへの対応で明らかなように、共通外交・安全保障でもまだ足並みの乱れがございます。

 こうした現実を考えると、アジアでの集団安全保障を現実ならしめるには、やはりそれとその前段階として、もしくは同時に、FTAや最近もう一歩進んで人的交流も含めたEPAの締結、また環境エネルギーにおける協力体制などを通じてお互いの信頼関係を醸成することがまず必要ではないかと考えます。また、我が国が、人権尊重や民主主義、核兵器の廃絶などをアジア共通の理念として掲げてその浸透を図るということも、アジアでの共同体形成の重要な手段になり得るのではないかと考えました。

 こうした経済面、人権面での共通規定をアジア相互間で共有するという選択においても、当然、国家主権の制限、移譲というものが憲法内で明記される、こうした選択の必要性が出てきます。

 我が国は、一国ではもはや生きられず……

中山会長 楠田君に申し上げます。申し合わせの時間が経過しておりますので、結論をお願いいたします。

楠田委員 済みません。ありがとうございます。

 我が国は、一国ではもはや生きられず、またアメリカに依存するばかりでは、その主体性も繁栄も維持できないという危機意識のもとで、未来へのあるべき姿としてこうした必要性をさらに議論すべきだと考えます。

 以上でございます。

中谷委員 ただいまの委員と同様に、私も、このヨーロッパの統合から見て、やはりアジアにおいても集団的安全保障の機構が必要であり、また日本という国家にとりましても、日米安保のみの選択から、幅広くアジアにおいても外交的選択を持つ意味からも、アジアにおける集団的安全保障機構の創設が検討されていいのではないかと思います。

 EUというのは、冷戦が終わって、イデオロギーの対立が解けてワルシャワ機構と融合した。そして、その後の問題として、民族、宗教、地域の対立を防ぐためにヨーロッパとして連合をしていこうと。また、アメリカ一国の力の突出から、やはりヨーロッパがまとまって経済的にもその力を発揮できるようなことで行われたと思います。

 しかるに、東アジアはいまだに冷戦の構造が残っており、北朝鮮や中国の体制、そして日本との関係など、やはりこのヨーロッパのような統合をモデルに、まずは経済的な統合として考えていくべきでございますが、安全保障の面においても、そのテーブルをつくる上において、より協力的な関係の構築が必要ではないかと思います。

 そういう意味では、現在、六者協議において北朝鮮をめぐる個別の案件についての話し合いのテーブルができておりますが、これを安全保障面に広げていって、関係する国々が協力した形で安全保障機構を目指していく。そのためには、集団的自衛権の問題が憲法的に議論されますが、そもそも自衛権といいますと、自然権的権利から発生しており、個別的自衛権であれ集団的自衛権であれ、国家にとって必要な生存権としての自衛権という範疇でございます。

 したがって、いずれの国もこれの権利を持つということ、そして行使をするということは国際的に認められており、アジアにおいて集団的安全保障機構を構築する際にこの集団的自衛権が行使できないという点は、国家としての責務やまた役割を果たせないということになりまして、この地域においては永久に集団的安全保障機構ができない。すなわち、日本の国の選択としては日米安保体制に依存せざるを得ない状況が続くわけでございますので、単に対米協力という見地での集団的自衛権行使ではなくて、アジア地域の平和、安全を守る選択肢を持つという意味での集団的自衛権の行使というものが憲法上必要になるのではないかと私は考えております。

 以上です。

斉藤(鉄)委員 公明党の斉藤鉄夫です。

 EUの問題に直接関連いたしませんけれども、国際協力という観点で、特に科学技術の国際協力という観点から発言をさせていただきます。

 今進んでおります巨大科学、ビッグサイエンスの成果は、ある意味で、各国の直接の利害に結びつくというよりも、人類共通の財産になる知識という形であらわれます。そういう意味で、特にお金のかかるプロジェクトについては国際協力というものが進められております。

 代表的なものは、宇宙ステーションを国際協力でつくっていく。これはアメリカが主導をしております。

 それから、国際協力で有名なのは、いわゆる素粒子科学。これは巨大な加速器をつくって、宇宙が生まれて十のマイナス三乗秒間どんな状況だったかというふうなことを研究する、いわゆる高エネルギー物理ですけれども、これはヨーロッパが中心になってCERNという加速器をつくって、これも国際協力で研究が進められております。

 そして三番目に、今大きな話題になっているのが国際熱核融合炉。太陽はいわゆる核融合でエネルギーを発しているわけですけれども、その核融合をこの地上にという、水素を原料とするエネルギー源ですけれども。この国際熱核融合炉、これはまだエネルギーを取り出すまではいきませんけれども、その大きな実験炉を国際協力で進めようということがもう十年来進んでいるわけでございます。

 ところが、その国際熱核融合炉をどこにつくるかということで、今参加している六極、アメリカ、日本、EU、ロシア、中国、韓国、これが全く三対三に割れているという現状がございます。先ほど言いましたように、宇宙ステーションはアメリカ、それから素粒子物理についてはヨーロッパにそれぞれ研究の中心があるわけで、もう一つの国際協力のこのITERの中心は、ぜひ、百二十度、百二十度、百二十度という角度からすればアジアに持ってきたいということで、日本がその名乗りを上げているわけでございます。

 もう一方名乗りを上げているフランスと日本が今対立をしている状況ですが、日本を支持するのがアメリカ、韓国、そして、フランスを支持するのがロシア、そして何と中国ということになっております。中国、日本、韓国、この東アジアで国際協力、それもいわゆる真理を追求するところの科学の拠点を置きたいというのが我々東アジアの願いでございますが、その中国がフランスを支持しているというところに大きな問題があるように思います。

 そういう意味で、この国際協力という観点、日本はもっともっと、これは非常に大きな意味を持つことになると思いますので、このITERについてももう少し国会の場でも議論していかなくてはいけないのかな、このように思っております。

 それから、もう一つエネルギーに関しまして、EUはいろいろなエネルギーに関しての考え方の国がございますけれども、例えばフランスは原子力、またドイツは脱原子力、このような形で、ある意味で全体として整合性がとれている。しかし、この東アジアで、我々の存在を保障するところのエネルギーについて、東アジアのエネルギー分野から考えたときの保障する体制をどうつくるかということの議論が全くこの地域だけおくれている。このことについても議論しなければならない、このように考えております。

 以上です。

山口(富)委員 日本共産党の山口富男です。

 私は、先日のツェプター大使のお話をお聞きしまして幾つか感じたんですけれども、まずEUの問題について言いますと、ヨーロッパで起きている試みというのは、いわゆる二十一世紀の主権国家の多様な社会が共存と安定を確保する上での非常に大きな実験だと思います。その実験を見る上で、大使は、やはり世界的に共通な普遍的な面と、それからヨーロッパ的な条件があるという特殊性の面と、両方から複眼的に見なさいというお話だったというふうに思います。

 その際に、EUで、私がお話を聞いて大事だと思っておりますのは、一つはやはり、あそこは戦場になりましたから、二度と戦場にしないという思いから出発しているという点で、侵略国家であったドイツやイタリーの戦争責任問題が戦後補償を含めまして非常に明確に対応がされたという点。それから、人権状況でも、各国の人権にかかわる問題が、共通の条件を持てるように、いろいろな条約や協定を結びながら、お互いの事態を高める方向で努力してきたという点が挙げられると思うんです。そして、もう一つつけ加えれば、安全保障の対話の問題ということになるだろうと思います。

 そういう面からアジアを見ますと、私は、アジアの場合は、日本の二十世紀前半の軍国主義のもとでの侵略戦争の問題もありますし、現時点での北朝鮮による拉致犯罪を初めとした一連の国際的無法行為がいまだに清算されていないということや、ヨーロッパとはステージの違うさまざまな問題が起きている、そういう中で、ヨーロッパの経験を我々がどう見るのかという提議だったというふうに思うんです。

 さて、北東アジアでの、もう少しアジアを広くとってもいいと思うんですが、地域の集団安全という問題になりますと、私は、これは即軍事的な面での安全保障ということで考える必要は全くないと思います。例えば、ASEAN諸国は、いずれも軍事同盟に参加をしない国々ですし、紛争や国際的な問題があれば平和的解決に努力しようという立場をとっておりますから、それこそ平和の安全保障対話という枠組みだと思うんです。今度の六カ国協議の場合も、やはり事態を交渉によって平和の立場で解決しようということで、到達点のいろいろな評価はあったとしても、そういう場を設けたことはやはり非常に高く評価されるべき点だと思いまして、こういう努力を尽くしていくことが大事だと思うんです。

 その点で、憲法制定議会の際に政府側が、日本国憲法と国際社会とのかかわりにつきまして、やはり九条を基本に置くということを繰り返し述べている点は留意すべきだと思うんです。

 例えば、一九五〇年代に国連に日本が入ったときに、直接その交渉やいろいろな問題を担当いたしました外務省の西村熊雄氏は、九条がある関係で、国連軍を含めまして国際的な軍事活動には参加できないという留保のもとで国連に加わったというふうに、六〇年代に内閣のもとでつくられました憲法調査会の際にそういう発言をしております。

 私は、その点で、やはり日本が憲法制定時の立場を今日生かすことがアジアの安定を考える上でも非常に不可欠となるというふうに思うんです。

 関連して、先日の広島公聴会なんですけれども、私が感心いたしましたのは、広島の記念資料館の元館長でありました高橋さんにしても、それから団体職員の平田香奈子さんにしても、平和への思いという点では、掛け値なしに、非常に胸を打つ話をされたと思うんです。

 私たちは、憲法論で議論いたしますと、どうしても九条の厳密な規定、それは当然そのことも踏まえなければいけないわけですけれども、そういう憲法というものが国民の日常生活の中でどういう力を発揮しているのかというときに、九条は変えてくれるなとか、三月二十日にイラクの戦争一周年ということで世界的に戦争反対の集会が開かれますけれども、平田さんという方が人文字でへいわという文字をつくりたいというお話をされていましたが、そういうところにあらわれてくる憲法の力というものを実感したというのが、地方公聴会についての私の感想です。

船田委員 自民党の船田元でございます。

 前回のEU大使のツェプターさんのお話、大変興味深く拝聴いたしました。私の耳に残っておりますのは、やはりこのEU統合というのは、まさに歴史そのものの進展である、歴史がそのEU統合をつくらしめたんだ、こういう御発言。それからもう一つは、これからどのようなEUの統合の形になっていくのか我々には青写真がない、一つ一つ問題を解決しながらつくっていくんだ。その二つが特に印象深く残った次第でございます。

 やはり、ヨーロッパは、言うまでもなく、ナチの問題等がありました。過去における戦争の反省、二度とこのヨーロッパを戦場にしてはいけない、こういうためにこのEU統合がここまで進んできたのだということを、私も率直に感じたところでございます。それだけに、EU憲法、今審議をし、そして採択の途上にあるというふうに伺っております。また、多少の困難を乗り越えようとしておりますけれども、やはりこのEU憲法が一日も早く加盟国において批准されるということを望まざるを得ないと思っております。

 翻って、我々の日本あるいはアジア地域、この統合、あるいはそれ以前のさまざまな分野の協力問題、こういったものを考えたときに、これまでもさまざまな方々から御議論がありましたように、やはりアジアの国々はヨーロッパの国々に比べて非常にそれぞれの国の要素が違っている、ばらつきがある、こういうことを非常に感じております。したがって、EUの歴史、あるいはそれを模範としてアジアがどうするか、なかなかそこには溝があるというふうに思っております。

 しかしながら、このアジア地域において、現状のままでの安全保障、あるいは経済上のさまざまな協力関係、こういったものを考えてみた場合に、地域的な困難さはあるにしても、一定のまとまりを持つということは、やはりアジア地域の安定と発展にとって極めて大事であるというふうに思っております。

 現在、ASEAN、それからASEANの拡大会議、あるいはARFの会議等々いろいろな枠組みで既に国際的な議論が始まっておりますけれども、これらの会議の中でお互いの信頼醸成を重ねていくということがもちろん大事であります。あわせまして、先ほど中谷委員からお話しいただいたような、現在北朝鮮の核の問題を主に議題として議論しております六者協議、やはりこれを、分野あるいは内容を少し拡大して、これをまた地域的な枠組みの一つの芽にするということは非常に意義のあることである、私はこう思います。

 ただ、これらを行う上においても、我々、個別的にアメリカとの同盟関係を結んでいる国々がアジアでは多いわけであります。アメリカとの関係をどうするのか、それから、このアジア地域において中国という非常に大きな国がございます。この中国との関係をどのように整理していくのか、この二つがやはりアジア地域における国家統合あるいはさまざまな協力関係において大きな問題である、こう考えております。

 特に、安全保障の面におきましては、これはやはり、我々日本においても、個別的自衛権のみでとどまるような状況では、アジア地域における問題を主体的に処理をしていく、積極的に処理をしていくことはできないと思っています。集団的自衛権あるいは集団的安全保障、この考え方がきちんと憲法の中に位置づけられる、こういうことをやった上でないと、やはりアジア地域においてこの日本がしかるべき役割を果たすということは極めて難しい、このように感じた次第でございます。

 以上であります。

伊藤(忠)委員 伊藤です。

 せんだって、EU大使のお話を聞きまして私の感じましたことを申し述べさせていただきますが、まさしく壮大な実験でございまして、歴史的に、第一次、第二次大戦を経まして、その反省からEUを立ち上げられたということだろうと思います。

 ハイブリッド国家、現状はそうだと思いますが、これまでの経過を見ましても、安全保障の面では、NATOは冷戦構造の中でヨーロッパ地域では一つの核になっていたわけですし、皆さん御承知のとおりですが、しかし、その後、安全保障というよりも経済の問題、これを両立させるというかむしろ先行させることによって、市場形成をどう図るかということがEUレベルで真剣に議論をされてきて、その中での統一通貨実現だと私は理解をしたわけでございます。

 今日の統一通貨・経済体制が組まれたにしましても、各国の格差というのは、なかなかこれは解消できません。今もお話あったようなエネルギー問題とかいろいろありますが、これはやはり各国間レベルの交渉とEUの統一政策の、言うならば二つの線でやらざるを得ないわけでございますから、EUのグローバルスタンダードと各国の利害関係というのは、簡単にはこれは解消できないわけでございまして、これからEUにとっては大きな課題であろうと思いますが、しかし、EU市場を形成するという、四極市場の形成をするというこの目的からしますと、非常に大きな成果を上げられていると私は感じたわけでございます。

 まさしく、この壮大な実験を私どもは教訓にしたいと思っておりますし、アジア圏、特に東北アジアに限定して考えましても、やはりこの経済が基本に据わって、もちろん大もとは信頼関係でございますが、市場がそのように各国の努力によって形成されていくことによって、当然、信頼関係も確立されるわけでございますから、それがベースになって初めて安全保障問題というものは語られるべきであるし、つくられていくべきであろう、私はこのように感じたわけでございます。

 船田先生が触れられましたように、現状は、アメリカとの各国の安全保障の体制が先行してできているわけですから、それをどのように止揚していくかということは新たな問題だと思いますが、ヨーロッパに比べてアジアは特に事情が違うんだという指摘もよく聞くわけですが、私は、必ずしもそうではないと思うんです。

 ヨーロッパの場合だって、各国の発展状況にはいろいろ濃淡がございましたし、随分歴史だとか文化も違うんだろうと思うんですが、そういう意味で引き直せば、アジアだってもちろん各国の克服しなけりゃいけない相違、困難な状況というのは横たわっているわけですが、それを克服していくということは、まず何といってもアジアの経済圏を確立するための日本の努力、これとあわせた安全保障の話というのをやっていかないことには、なかなか二十一世紀の私たちの姿というものは見えてこないのではないのかな、こんな感じがしましたので、そういう立場で安全保障問題も考えたい、このように思っております。

 以上です。

仙谷委員 ツェプター大使のお話で、ある種の想像力というかイメージを膨らませることができたのではないか、そんなふうに思いました。

 一つは、二十五カ国のEUが形成される、そういたしますと、従来、いわゆる国民国家、主権国家と言われてきたヨーロッパ大陸における国境線はどうなるのか、国境線を挟んで対峙をしてきた、つまり国境線を守るために対峙をしてきた国防軍の存在というのはどうなっていくんだろうかということに思いをはせたわけであります。

 そしてまた、EUの持つ、欧州諸国間の戦争を二度と起こさないというこの大きな目的。先般、広島の地方公聴会の席上で、平和は手段であって目的ではないとおっしゃられる方もいたわけでありますが、私は、平和というのは目的にすることに何らはばかることはないというか、平和というのは一つの大きな目的であるというふうに考えるところでございます。

 ただ、この平和を求める、あるいは平和をつくるということにおいて、日本はもう少し具体的、制度的に考える必要があるのではないか。このことを単に守る守ると百回繰り返しても守れないということは、ある意味で、これだけのEU統合をなし遂げて、先ほど申し上げましたように、国境防衛という古典的な意味での国防軍の意味がほとんどなくなる、あるいはそれをなくしつつあるEUの中で、先般スペインで鉄道爆破テロが起こってしまうというこの現実を、私どもは安全保障の観点からよく考えて、このようなことから国民の人権あるいは市民権を守り得る体制あるいは制度を構築しなければならないと改めて考えたところでございます。

 もう一つ、ツェプター大使のお話の中で、はっと目を見開かされるような話が私にとってはございました。

 それは、人権について、なぜある意味で具体的にプライバシーの権利とか個人情報の保護の権利というものをEU憲法草案で書こうとしているのか、こういう質問に対して、それは国民がわかりやすいからだと極めて簡潔明瞭なお答えでございまして、つまり、憲法学者や裁判官の解釈によってつくられる、あるいは、それはそれで決して間違っていないことなのかもわかりませんし、時代の進展とともに、ある種の憲法条項を解釈して、そこに個別具体的な、新しいといいましょうか、時代によって守られなければならない人権が含まれるというふうに解釈すること自身は間違っていないわけでありますけれども、その蓄積の上に立って、憲法の文言の上でもそのことが明確にされることが国民にはよくわかるんだ、憲法典というのは国民が見てすぐわかるようなものであることの方が必要なんだ、こういう趣旨のお答えには、私は感銘を受けたわけであります。

 したがいまして、私どもは、さらにこのEU憲法草案の持つ制度的保障といいましょうか、独立の救済機関というような書き方とかあるいは欧州オンブズマンの制定とか、こういうふうな条項とか考え方を見てみますと、やはり具体的に、観念的にでなく具体的に、人権を守り平和をつくるためにどういう制度構築をすべきなのか、改めて思い知らされたような気がいたします。

 以上であります。

武正委員 民主党の武正公一です。

 先ほど議論の中で、東アジアでエネルギーのある面話し合い、あるいはある面の相互の協力関係についての議論があったと思うんですけれども、今、これは石油ショックのときにかなりこのアジアで石油価格が高騰をしたということの反省に立って、ヨーロッパで原油の備蓄の相互依存ということが既に行われていることを踏まえて、この東アジアでそれぞれやはり原油備蓄を進めようという動きと、そしてその中で相互協力体制いかにということの話し合いが始まっているというふうに伺っておりますので、これは一つつけ加えさせていただきたいと思います。

 そして、過日のツェプター大使の御議論の中で、EUとNATOと、これがやはり政策の一致をどうやって見ていくのか、こういったところでの御苦心を伺ったわけでございますが、そのときに、自由討議で私も後ほど触れたんですが、ドイツがボスニアに関してNATO域外にPKOを送ったときに、やはり連邦憲法裁判所に提訴が行われ、その判例では、域外も、これは当初予定した任務ではないが、これは認められるというようなことになりましたが、ただし、やはり事前に連邦議会の個別の同意が必要であるという判示が出た。これは、やはり私は、日本も参考にしてよい、いわゆるシビリアンコントロールでの国会の事前承認ということではないかということをツェプター大使のお話の中から参考にさせていただいたところでございます。

 以上です。

土井委員 きょう近藤小委員長からの御報告をいただきました先日のEUの統合の問題について、ツェプター参考人からのお話の冒頭には、欧州統合が欧州諸国間の戦争を二度と起こさないという教訓のもとで進められたということが、きょうも小委員長からの御報告の中にもまず最初にございました。これは、私は非常に大きな意味を実は持っていると思っております。

 先ほども、このアジアの地域においても、特に北東アジアの地域では、統合と言うかどうかは別として、北東アジアの安全保障という側面は軍事面において考えられる必要はないというふうなお話がありましたけれども、むしろ、これからの状況からすると、脅威という存在をなくして協調という体制を確立していこうという方向で冷戦構造が崩壊してから後の国際社会の趨勢というのは動いていっているというふうに私は思うんです。その一つの示唆というか、典型的な姿が今のEUの姿形になって出てきているという意味で、私はこれからも見ていきたいと思っております。

 この今の脅威的存在というのをなくして協調体制をつくっていくということからすると、まさしくこの北東アジアでその方向に向けての努力をしようとすれば必ずできる、そのむしろ先導役と申しますか、中心的役割を日本が果たさなければならないという気持ちを私自身も持ちまして、二十一世紀の平和構想というのは、まさにこの基本的な姿勢ということを持つことによって、構想内容というのは具体化して進めていくことができるんじゃないかというふうに思いまして、今から二年前にその構想の内容を発表させていただいたわけです。

 端的に申しますと、二国間の安保から多国間の協調へということの基本姿勢ということをやはり念頭に置いて中身を考えたわけでございまして、特に、多国間の協調というふうなことが、これからは多国間の協調システムということをつくっていくというもとになりますし、一大超大国が一国主義ということを披瀝して、そしてそれを徹底的に出していくという問題に対して、むしろそれ自身がお互いの間の協調を阻害するものでこそあれ協調体制ということを促進することにはならないということをこれはもうはっきりさせるという点においても、北東アジアでこの多国間の協調システムというのは大変大事になってくる。

 その際、経済的協調、それからいろいろな環境問題に対してもお互いが協力し合える協調体制、そういうのはもちろん現実の問題として先行するでしょうし、具体的に動かしていくことに対しては大事でございますけれども、一つはっきりさせなければならないのは、その中で核という問題がどのように取り扱われてこれから動いていくか、エネルギー、資源なんかを考えた場合に非常に大きな意味をこれは持つわけですね。

 それで、場所は広島でございましたから、公聴会の節にも、これからの核に対しての取り扱いがどうあるべきかと。これはやはり、核に対しては抑止力を主張される方が片やあるかと思うと、一方では、もちろん広島の心ということもしっかり、高橋さんなどは、公述人として典型的な、聞いておりまして非常に感銘を受けた公述人としての御発言でございましたけれども、広島の心というのはあくまでやはり核を廃絶するところにあるということから、よい核と悪い核があるはずない、すべての核兵器に対しては、廃絶ということに向けての努力こそ肝心ということを、心を込めてこれは訴えられたと私申し上げていいと思うんですね。

 北東アジアでも、非核地帯構想というのを持って、具体的にこれは進めていくことができるんじゃないんでしょうか。そのときには、私はモンゴルの、この問題に対しての提案を持って御意見を聞きに参りましたときに、首相は、大国がこの問題に取り組む中心になるよりも、むしろ中小国が中心になって進めるということの方が話はまとまりやすいんだということを言われましたけれども、もう一つ言うと、非核保有国同士がこの問題に対して、やはり核廃絶に向けての提携をしっかり固めて、そしてこの北東アジアでも核を非核地帯として具体化していくという努力こそ、私は大変大きな北東アジアでの多国間の協調内容を具体的に人類社会に対して提示していくことができるというふうに思っています。

中谷委員 協調、協力、連帯ということで平和を維持していくということは非常に重要なことだと思いますが、核の存在にしても、現実問題としまして、中国もロシアも米国も保有しておりますし、北朝鮮も、我が国の外交姿勢として、このような戦後の協調主義、また、時には経済支援もしたことがありますけれども、外交的な努力を続けておりましたし、また、二年前に小泉総理が北朝鮮に行きまして、日朝共同宣言をしまして、核も持たないようにするということを調印したわけでございますが、しかし、その裏では北朝鮮が核開発や研究をずっと続けていた。これは北朝鮮自身も認めておりまして、協調とか外交努力だけでは非核構想というものは実現し得ないということは、事実として受けとめなければならない問題だと思います。

 そういう意味では、抑止をもって核放棄をということで、北朝鮮がいかなる形で放棄をするかということは、今後の話し合いにもよるわけでございますが、この東アジアにおいて大量破壊兵器というものの拡大、拡散をなくしていくために、では、いかなる方法があるのかということでございます。

 それから、もう一点の問題点としては、テロ集団の撲滅ということで、これまた国際的なネットワークでありますので、我が国においてもテロ攻撃を受ける可能性というものはございます。また、不審船とか海賊とか犯罪防止、こういった点では、やはり一国だけの努力でなし得ない問題がありますので、多国間で、大量破壊兵器やテロ、不審船、海賊などを現実的にいかになくしていくかというと、どうしても、協調以外に、抑止また集団的に防止をするという試みが必要でございますので、こういう観点で、現実問題としまして集団的自衛権の存在によって我が国がこういったことにかかわれないということにおいてはその目的を達成し得ないわけでありますので、この非核構想を推進していく上においても我が国のあり方というものは検討し直さなければならないと思います。

 そしてもう一点、いつまでアジアにおいて冷戦構造的なことを続けていくのか。やはり、ヨーロッパも安全保障の基盤があるから経済協力ができるわけでありまして、アジアの違った要素、ばらつきをなくす意味でも、またアメリカと太平洋を挟んだアジアとの連携を持つ意味においても、我が国としては地政学的にこのような地域の橋渡しをする役割が必要でありますので、日本がイニシアチブをとりまして、アジア太平洋の集団的安全保障体制、またテロ撲滅体制のあり方について提言をし、かかわっていく必要があるのではないかというふうに思います。

土井委員 今、中谷委員の御発言を承っておりまして、私、一言申し上げます。

 核に対しては、核抑止というのは現実の問題として大事であるという、必要視されている御発言でございました。しかし、核抑止という中で何が進んでいっているか。これはやはり脅威的存在ということに意味が非常にあるわけですから、したがって、核競争というのが当然のことながら核兵器競争という形で展開されていることも現実の問題です。その中で、ダブルスタンダードで核兵器に対しての核抑止力ということを問題にしているのが非常に危険な状況をつくってきているんじゃないですか。

 例えば、イラクの核はけしからぬけれども、パレスチナ、イスラエルのこの問題をめぐって、イスラエルの核に対しては黙っている、この行き方は許されていいはずはないんですね。北朝鮮の核はけしからぬけれどもアメリカの核はいい、やはりこの認識も、これは国際的規模で考えた場合には許されるはずはない。

 そういうことからすると、核抑止ということを是認しながら核廃絶に向かうというのは、これは矛盾していますよ。本当に核抑止ということが核廃絶に向けて意味があるのならば、そして効果を上げるという確信があるのなら、そのところは一つ聞かせていただきたいものだと私は思うわけで、核抑止論をとりながら核廃絶に向けての努力をすると言ったって、それはそうはいかないということは既に明々白々であろうと私は思います。

 核廃絶に向けての努力こそ私は肝心と思っていますが、その間においては核抑止論を認めるわけにはいかない、そのように私は思いますよ。

中谷委員 ただいまの御意見につきましての反論でありますが、リビアとかイランもこういった核開発の疑惑がありましたが、やはりこれは話し合いだけでは解決せずに、結果として、抑止また圧力をかけたことによってこの構想を放棄して、結果的には核開発をやらないということを宣言いたしました。

 北朝鮮につきましては、協力、協調だけでは核を廃絶しないという事実がありますので、何らかの力がなければ北朝鮮は放棄をしない。そして、現実問題として、核抑止につきましては、日本は、北朝鮮が核を保有した場合、また、現在もミサイルの射程内に入っておりますが、現実に日本に核を搭載したミサイルが飛んできた場合には大変な被害が出るわけでありまして、ミサイルが飛んできた場合、核を保有した場合に、じゃ日本はいかに自国の安全保障を守っていくかということにつきましては、残念ながら、アメリカの核抑止、またアメリカの軍事力、偵察衛星や機動的打撃力、こういうことに依存しないと、日本の国民の防衛が、安全が保たれないという現実の世界がございます。

 そういう点では、協調をしていくということは当然必要なことでありますが、やはり抑止また何らかの圧力によってこういったものを放棄させていくということは必要な現実の世界でありますので、こういう点も踏まえながら、我が国としても国家としていかに対処すべきかということを考えていかなければならないと思います。

山口(富)委員 日本共産党の山口富男です。

 私は一点だけ申し上げたいんですが、中谷委員とは私、随分これまでいろいろな委員会でも議論してまいりましたけれども、きょうの御発言は、いわば集団的自衛権万能論と言ってもいい御発言だと思うんです。

 といいますのも、海上警備にかかわる問題ですとか警察力にかかわる問題ですとか、そういうものをいろいろ例に挙げながら、結局、集団的自衛権を持つことが必要であるという議論に行ってしまうんですね。問題に応じてアジアでも共同対処を考えるべきであって、私は、やはり日本の場合は、そういう立場で考えるのは間違いを犯すことになるというふうに思います。

武正委員 以前、当憲法調査会で、中谷委員は、私が、現憲法の前文を例に、前文には国際協調は書いてあります、日米同盟は書いてありません、国際協調と日米同盟は概念が違います、国際協調は日米同盟の上位概念ですねという発言をし、中谷委員もそれをお認めになられております。過日、川口外務大臣に外交姿勢を聞きますと、日米同盟がまず、そして国際協調ということでございました。

 日朝平壌宣言のお話がございましたが、拉致問題の解決、これは国民の総意であるという、過日、外務委員会でも決議をいたしましたが、しかしながら、国内で日ごろから人権というものをやはり国是としてとらえているかという、その迫力というものが外交の場面でも問われてくるわけでございます。

 既に、戦後、アメリカの核の傘に守られていたことは明々白々でありますが、そのことを政府は国民にどれだけ伝えてきたのか。あるいは、非核三原則が守られていなかったことを、いや、守られているということがもしかして詭弁であったということがあったのではないか、ここら辺もやはり正直に国民に伝える努力というのが実は必要ではないか。

 そしてまた、一つ守らなければならない国是として、やはり唯一の被爆国である。ですから、今議論に、核を持ちたい、核を持たなければならないという議論をする議員あるいは関係者もいますが、ここはやはり日本として守らなきゃいけない。そういうような何か、外交において、絶対これは譲れないんだ、これは憲法論議とも重なってまいりますが、こういったものがないから、国際協調あるいは外交努力じゃだめだよというような話になるんであって、やはり日本としてはこれは譲れない、これは守らなきゃいけない、こういったものをしっかり国民議論の中で固める、そうした努力の中で、それを外交交渉で生かしていく、こういったことが必要ではないかと考えます。

河野(太)委員 自民党の河野太郎でございます。

 私は、土井委員がおっしゃったように、アメリカの核も北朝鮮の核も同じように悪いと言い切る自信はまだないわけでございますが、中谷委員がおっしゃったように、アメリカの核に守ってもらう、アメリカの核抑止力を頼ってというふうに言い切ることも私はどうもできないような気がしております。

 広島あるいは長崎のことを常に我々日本国民は考えていて、それを世界に向かって訴えていかなければいけないというときに、ある意味で、核廃絶と言いながら核抑止ということを同じレベルで言っていて本当に説得力があるんだろうかという問題、それから、アメリカの核の抑止力というのが本当に破れ傘でないと言い切る自信もございません。ロサンゼルスを犠牲にしてアメリカが東京を守ってくれるかといえば、恐らく答えはノーなのではないかと思います。かつて、河野洋平外務大臣に外務委員会でこの問題を質問したときにも、明確なお答えはありませんでした。

 そういうことを考えると、アメリカの核抑止でない何か日本の防衛の仕方というのをやはり研究をしていかなければ、このダブルスタンダードからはなかなか日本という国は逃れられないと思いますし、今、武正委員がおっしゃったように、これまで、この核の問題について、実際に何があったのかということを、戦後五十年たち、冷戦が終わった今、きちっと戻って、何か秘密になっている事項があるならばそれをオープンにして、これから先の議論をやっていくということも必要だろうというふうに思います。

 世界の中で唯一、広島そして長崎という核の犠牲者を出した国として、余り安易に核抑止という言葉を使うのはいかがなものかと思っております。

中山会長 国家統合・国際機関への加入及びそれに伴う国家主権の移譲につきまして活発な御議論をいただいておりますが、時間の関係もございますので、この問題についてはあとお二人の方に限って御発言を願いたいと思います。

中谷委員 先ほどの武正議員の、国際協調か日米同盟かという話につきましては、憲法では国際協調と書かれておりますが、現実的には、この憲法ができたときには米国の占領下にありまして、当然、その当時は国連が機能して国際協調の社会を目指してということを想定したと思います。

 しかし、残念ながら冷戦時代になって、国連が機能しない。現在も国連が安全保障を取り仕切るぐらいの力を持っておりませんが、国連が機能していないということ。それによりまして日米同盟は、では今の外務省の姿勢、防衛庁の姿勢としては、国連が機能するまでの間は日米同盟を堅持するということになっておりますので、目指すべき方向としては、国連がしっかり機能できるようにしていくということで、国際協調の方が憲法的には優先をするのではないかと思います。

 それから、核抑止の問題につきましては、残念ながら、日米安保を結んだ当時は日本の自衛権というものが確立をしていなくて、昭和二十五年当時に講和条約を結んだ際に日米安保条約を結びましたが、日本の安全保障を米国に協力をしてもらうということでございます。

 したがいまして、自衛隊がその後発足をしても、日米安保と二本立てだったんですね。自衛隊や日本の個別的自衛権、必要最小限度の自衛力の範囲での自衛隊という能力だけでは、日本は防衛が完全にできない、安全保障が保てないという観点で、足らざるところを米国に日米安保という形で依存をしてきた面もございます。

 したがって、真に日本が自立できるところまでいくとしては、やはりこの自衛権の問題において、集団的自衛権というところまで日本がしっかりとやっていく体制でないと、日米安保というところから切り離すことはできないわけでございますので、この核の問題も、現実の問題として北朝鮮が核開発をしている、また我が国に対して脅威を与えているという観点におきましては、この必要な部分としての日米同盟という面がかかわってくるというふうに思います。

 しかし、それがないと国は守れないというわけではなくて、現にヨーロッパは、集団的自衛権、集団的安全保障という体制で各国の安全を保障しておりますので、我が国の場合におきましても、やはりこの核の脅威から日本を守るという観点では、日米間の集団的自衛権並びにアジア全体の集団的安全保障、自衛権ということがどうしても必要であるというふうに私は考えております。

大出委員 民主党の大出彰でございます。

 核の問題、安保の問題、テロの問題を話されているわけですが、現実を見据えてといいますか、今とっている措置だとか、政府の側等もさまざまなものを見て論じていないのではないかと思うことがよくあります。

 というのは、防衛庁の新しい社屋ができたときに行ったんですね。そして、質問していいと言うから質問しました。核攻撃を受けたら、これは守れますかと言ったら、守れませんとおっしゃるんですよね。本当ならば、まずはそういう、受けたら守るようなことにしなきゃいけないだろうし、向いている方向が違うんですね。北欧だとかヨーロッパなどは、核問題が起こったときにはシェルターを一生懸命つくったりしましたよね。あれは、それがいいかどうかは別としても、国民を守ろうということを本当に考えているわけですよ。ところが、そうではない。

 それで、核の議論をしていますが、北朝鮮に対して考えるんだったら、米軍のトマホークはどうなんだということになるわけですよね、セットで考えた場合には。そして、核の問題を考えたときに、私は、日本海側にある五十二基の原発について質問しまして、ちゃんと守れるんですかと言ったら、ええ、五十基はまず何とかと。え、あとの二基はどうしたんですかと聞いたら、なかなかすぐには守れないと言うんですよ。それが現状ですし、原発だけでなくても、いや、原発は上から落とさない限りは大丈夫なんですと言うんですよ。だから、では、石油タンクが幾つあるか知っていますか、ガスタンクが幾つあるか知っていますかと聞いていると、余りよくわかっておられない。五百キロ以上のものが一万三千以上あるんですよ。それをねらわれたらどうするんですかという話。現実に、本当に防衛を論じているのかと思うようなところが多々あることがあります。

 そして、安保の条文を読んでいただければわかるように、国連憲章のもとにあるんじゃないですか。だから、安保と並立なわけがないんですよ。

 それから、テロの問題でも、日本とかアメリカで、テロでお亡くなりになった方というのは、本当にどれだけいるんですか。九・一一はありますが、アメリカでさえ、交通事故で死ぬ方の方が多い、自殺者の方が多い。日本だって自殺者三万人以上ですよ。そうしたら、テロよりも自分自身が凶器じゃないか、その自殺ということから考えたら。それをちゃんと見て言わなければ、まともな議論をしているのではないのではないかと私は思います。

 以上です。

中山会長 まだ御発言の御希望もあるようでございますが、これにて国家統合・国際機関への加入及びそれに伴う国家主権の移譲、特に、EU憲法とEU加盟国の憲法、「EU軍」についての自由討議を終了いたします。

    ―――――――――――――

中山会長 次に、直接民主制の諸制度について、最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員長から、去る四日の小委員会の経過の報告を聴取し、その後、自由討議を行います。最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員長保岡興治君。

保岡委員 最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会における調査の経過及びその概要について御報告申し上げます。

 本小委員会は、三月四日に会議を開き、参考人として、大阪産業大学人間環境学部助教授井口秀作君をお呼びし、直接民主制の諸制度について御意見を聴取いたしました。

 会議における参考人の意見陳述の詳細については小委員会の会議録を参照いただくこととし、その概要を簡潔に申し上げますと、

 参考人からは、直接民主制には純粋直接民主制型と半直接制型があり、主として問題となるのは後者である、昨今の国民投票の増大はレフェレンダム旋風と呼ばれることもあるが、地域的な偏りなどの点で、この増大も相対化して見る必要がある、増加しているのは、国民からの要求による下からのレフェレンダムが制度化されている国であることなどの認識が示された上で、国民投票制度の諸類型について説明がなされました。

 続いて、直接民主制の日本への導入については、直接民主制を排除することを特質とするような憲法原理は現行憲法下では採用の余地はなく、また、直接民主制の困難性も相当程度に克服されていると考えられるが、直接民主制を導入した場合、立憲主義との関係では、違憲審査制が十分に機能していない現状では少数者保護がなされない危険性があること、政党との関係では、国民投票の結果次第ではマニフェストによる政権選択の意義が薄れる危険性があること、他方で、討議民主主義との関係では、国民投票は国民の間に議論を誘発する効果があることなどが述べられました。

 さらに、現行憲法下では、住民投票の充実、諮問型国民投票の導入、一定の要件のもとで国民に法案の発案権を与えることが考えられるが、直接民主制は、国民主権の具体化、民主主義の強化に重要な役割を果たす手段ではあるが、一つの手段にすぎない、また、直接民主制導入の議論を避ける必要はないが、すべてが解決できるかのような過大な期待はすべきでないとした上で、直接民主制にたえ得るような議会、政党、司法の整備が必要であり、それは日本国憲法の理念の具体化にほかならないとの見解が述べられました。

 このような参考人の御意見を踏まえて、質疑及び委員間の自由討議が行われ、委員及び参考人の間で活発な意見の交換が行われました。

 そこにおいて表明された意見を小委員長として総括するとすれば、まず、直接民主制の諸制度が主権者である国民に対して直接に意思表明の機会を提供するものであり、また、議会制民主主義を補完する機能を有しているという点については、各会派に一致した見解であったと思われます。ただし、この制度を導入することについては、委員の間に、積極論、消極論が存在しており、また、憲法改正を要するか否かについては、意見の分かれるところでございました。

 自由討議におきましては、直接民主制の諸制度に絡めて国政選挙における投票率の低下の問題につきましても議論がなされましたが、この問題も含め、国民主権主義や民主主義のあり方といった憲法の根幹にかかわる問題を議論することの意義を改めて認識した次第です。

 以上、御報告申し上げます。

中山会長 これより、直接民主制の諸制度について、自由討議を行います。

 それでは、まず、大出彰君。

大出委員 民主党の大出彰でございます。

 井口参考人による直接民主制に関する御意見を伺った後に質問いたしましたので、重立った質問の報告とともに、意見を述べたいと思います。

 第一に、プレビシットとレファレンダムの区別についてお尋ねしました。参考人は、レファレンダムの悪用の形態をプレビシットととらえている御認識でした。そして、

 フランスにおいても、一般的に何か特別なものがあるわけではありません。プレビシットの一番の批判のポイントは何だったかというと、まず、ナポレオンの国民投票から概念化されました。つまり、民主的な国民投票という形態を使って、実は独裁につながったではないか、これを批判する概念としてプレビシットというのがあったわけです。

  ですから、一番典型的なのは、国民投票で、政策、法律についてかけているはずなのに、実はナポレオンだとか、シャルル・ドゴールであるとか、ヒトラーであるとか、実は個人への信任投票になっているのではないか、それが恐らくフランスでは、もともと従来一番強かったというふうに思います。

  しかしながら、もう一点つけ加えさせていただきますと、かつてであれば、そういうむしろ自分の責任を国民投票にかける、つまり、国民投票にかけて、もし国民投票が反対多数で否決されたならば自分は辞任するというふうに言って、言ってみれば恫喝をする、これがプレビシットだという批判がありました。実際、フランスではシャルル・ドゴールは、何度もそういうふうにしましたし、最後は実際に退任するわけですね。

  しかし、それを今ではフランスでもプレビシットと呼ばずに、むしろ民主主義の正常な形なんだ、政治責任をかけてそういうふうに国民投票に信任を問うこと自体は、実はプレビシットでも何でもない、むしろ民主的な政治の形態なんだというふうに主張する学説もあります。

と参考人はおっしゃり、さらに、

  私は、必ずしもそうは思っておりませんが、そういう点で、人物云々というのが一番のポイントだと思いますが、フランスでもプレビシットの概念というのは非常に揺れているということが現状であろうかと思います。

と続け、参考人の認識とともに、プレビシット概念の難しさを指摘されました。

 第二に、私は、プープル主権、ナシオン主権と違憲審査制との関係を尋ねました。参考人は、

  私は広い意味で多分プープル主権学派という中に入るんだろうと思います。プープル主権を主張しない人たちが、むしろプープル主権は、論理を貫いていけば、国民の主権者の意思によって表明された法律は絶対であって違憲審査は及ばないと考えるはずだというふうに思っている、批判されている、あるいは主張されているということであって、しかし、プープル主権というのは別に人権保障を無視しているわけではありませんから、多数決であっても決定できないことがあると考えるべきですから、私は、必ずしもプープル主権をとっているからといって違憲審査が及ばないというふうには考えていません。多数決でも決めてはいけないことがある。

  つまり、自分たちのことは自分たちで決めるということと、自分のことは自分で決めるということは、少し緊張関係があるわけですね。自分たちの中にも少数意見があるという、これをむしろ尊重すべきであるというふうに考えますから、論理的に言ったら、必ずしもプープル主権だからといって違憲審査制が否定されるわけではないというふうに考えております。

と見解を述べられました。

 私は、参考人は杉原教授のお弟子さんだからプープル主権学派に入るのかなと納得しながら、憲法十三条がうたっている個人の尊重、日本国憲法のもとで、極端にプープル主権に考えを寄せることはないのだなと賜っていました。

 また、一方の頭の中で、歌手のSMAPが歌う「世界に一つだけの花」はこのことを歌っているんだよなと考えていました。

  そうさ僕らも

  世界に一つだけの花

  一人一人違う種を持つ

  その花を咲かせることだけに

  一生懸命になればいい

  小さい花や大きな花

  一つとして同じものはないから

  ナンバーワンにならなくてもいい

  もともと特別なオンリーワン

 まさに、日本国憲法は個人の尊厳を認め、一人一人の人間はかけがえのない、価値ある個性を持った人間であるから、その一人一人を人間として最大限尊重しよう、そのことを一番の価値観としようと考えています。SMAPのこの歌は、まさにこのことを歌っているのだと考えながら、参考人の御意見を聞いたところでございます。

 時間になりましたから、以上でございます。

中山会長 御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。

赤松(正)委員 公明党の赤松正雄です。

 先日行われました最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会の二回目の直接民主制の諸制度にまつわるお話、私も参加をさせていただきましたが、実は、大変残念ながら、最後までいませんでしたので、自由討議における各委員間の討議を聞かないで退席してしまいました。

 今、手元に配られました衆議院憲法調査会ニュースを拝見させていただいて、中山太郎会長の御発言並びに山口富男共産党委員の御発言のやりとりを読ませていただいて、若干、感想というか、私の意見を述べさせていただきたいと思います。

 いわゆる九十六条の憲法改正の発議に対する国民投票制度等の細目について触れられなかったということについて、会長は残念であるということを表明され、憲法改正の制度を憲法に規定しておきながら、実施方法が決められていないのは法治国家としてはおかしい、立法府の不作為ではないか、こういうふうな指摘があった。それに対して、山口委員の方から、立法の不作為ということについては言えないということ、憲法調査会で憲法についての総合的な調査を行うとされているけれども、現状においては九十六条についての法律の具体化は求められていないと考えると。それに対して会長が、あらゆる条項について調査を行うことが目的だ、きちんと議論しておくことは決してマイナスでない。こういうふうな意見のやりとりがあったということを今拝見しました。

 実は、今から二年前、中山会長とともにヨーロッパに憲法調査の調査活動に出ましたときに、イタリアに行ったときに、イタリアで塩野七生さん、日本の女流作家で、「ローマ人の物語」、今十二巻まで出ていますが、あの塩野さんにお会いしたときのお話が極めて印象的でした。彼女は、ともかく憲法改正云々の議論よりも、やはり九十六条の問題というものを真っ先に取り上げるべきだ、こうおっしゃったのが極めて印象に残りました。ずっと頭に残っております。

 私は、結論から申し上げますと、憲法について議論をしたあげくの果てに、真っ先に取り扱うべきテーマは九十六条だろうと思います。しかし、今直ちにではなくて、当調査会において広範囲な議論がなされている、この作業が一段落する、明年の一月だったと思いますけれども、そこまでの議論をしっかりした上で、それを踏まえて、その次の段階として、さあどうするのかというその最初に取り扱うべきテーマが九十六条だろう、そんなふうに思います。

 山口委員が、前回の会合の最後に、現在求められているのは憲法改正ではなくて憲法の理念の具体化であるという立場から参考人が陳述をされたというふうに考えるという発言がありましたが、当の参考人の意見どうこうとは別に、私は、憲法の理念の具体化ということと同時に、それは憲法の改正という問題も含めて、広範囲に今私たちは議論をやっているその一つの出口として、方向性として、最初に取り扱うべきは九十六条の問題だろう、こんなふうに考えている次第でございました。

 以上、前回の委員会に関する感想を申し上げさせていただきました。

船田委員 自民党の船田元でございます。

 いわゆる直接民主制のあり方等々をめぐりまして、大変貴重な御意見とまた議論を聞かせていただきました。

 私は、代表民主制と直接民主制、これは過去におきまして、何かトレードオフの関係にあるんじゃないか、つまり、代表民主制がうまくいかないときは直接民主制によって、それにかわって一般意思を政治に反映させる、このような考え方でおりましたけれども、井口参考人あるいはその他の委員の皆様の御発言を聞いておりますと、これはトレードオフではなくて相互補完的に考えてもいいのではないかという考え方に大分変わってまいりました。

 確かに、代表民主制の根本である議会制民主主義、これは政治の道具としては極めて効率的であり、有効であると思っております。しかし、それは決して万能ではない。時間的にずれが生じたり、あるいは政党間のさまざまな議論あるいは争いというものが国民の一般意思と少し離れる場合もあるかもしれない。そんなことがやはり現実として起こり得るわけであります。

 そのことを考えますと、これから日本の民主主義が健全に発展をしていくためには、議会制民主主義ももちろん努力をしなければいけませんが、同時にそれを補完する形としての直接民主制、その代表であるいわゆる地方自治でいえば住民投票、あるいは国政全般でいえばレファレンダム、この手法をきちんと憲法の中に取り入れておくということは民主主義が発展する上でとても大事だな、このように感じた次第であります。

 ただ、いわゆるレファレンダム、国民投票のやり方において、確かに幾つか問題点も指摘をいただきました。

 一つは、例えばこの国民投票が頻繁に行われることによって、国民の嫌気というんでしょうか、疲れというんでしょうか、そういうものが生じて投票率が低下をしていく。これはヨーロッパの幾つかの国でそういう現象が見られておりますが、この投票率の低下ということにどう対応すべきか。

 あるいは、先ほど大出委員からも御指摘ありましたように、レファレンダム威嚇であるとか、あるいはプレビシット。為政者が自分の立場を正当化するためのいわゆる国民投票という形でのプレビシット。そういうものに陥らないためにはどうしたらいいか。

 あるいは、アメリカでよく聞かれることでございますが、住民投票あるいは国民投票の際に、意見、アンケートをまとめて、そしてそれを持って歩いて、それぞれの行政に働きかけをする、あるいは国民に対して直接働きかけをしていくというような、イニシアチブ産業というんでしょうか、一般意思、世論というものが意図的につくられてしまう。そういう危険性に対してやはり歯どめをかけるべきだというのが、私も大変強く必要性を感じたところであります。

 最後に、赤松委員からお話をいただいた九十六条関連の国民投票法案でございますが、我々自由民主党としては、国会の責任として憲法改正のための国民投票の制度的な保障、こういったものを現時点においても用意しておかないということは、やはり国会の怠慢ではないかなということを率直に思っております。

 もちろん、タイミングの問題がございます。憲法の問題について、現憲法をどう生かしていくか、あるいは現憲法と現実の社会との乖離があってそれをどのように克服していくかという議論はもちろんこれからも続けていくべきであると思っております。ただ、やはりこれまで国民投票についての法律あるいは手続が決められていなかったこと自体に私は大変責任を感じております。そういう点で、議論のタイミングということはあるかと思いますけれども、私は、現状においてその制度がないこと自体が大きな問題である。

 ですから、これは速やかにその準備をしておく、これが国会の役割である。こういう観点から、国民投票法案については何とか私どもも進めていきたいという気持ちでいっぱいでございます。

 以上であります。

山口(富)委員 日本共産党の山口富男です。

 先日の井口参考人のお話というのは、日本国憲法の理念の具体化というところに一番力点があったと思います。

 確かに、日本国憲法は、代表民主制を基本としながら、地方自治の問題でも九十六条にかかわる問題でも、それから最高裁にかかわる国民審査制の問題でも、直接民主主義の枠組みというものを入れております。これは、参考人の趣旨からいえば、どちらが主でどちらが補完かという考え方でなくて、国民主権といういわば日本国憲法の理念を具体化するという点では、方向性は同じものなんだというのが参考人の一番強調したかった点だと思うんです。

 その点で、最後に参考人が、憲法改正の呼び水として直接民主制論についてあれこれ議論するのは問題外だということをあえて指摘されたのは、そういうことにかかわる問題だろうと思います。

 それから、九十六条をめぐって、確かに前回の小委員会で私と中山会長とやりとりをしたわけですけれども、その詳細は議事録で確認していただきたいですし、どうしてもニュースはその部分、部分をとりますから、どういう条件のもとでやられた発言か現実にはなかなかわかりにくいですから、議事録で確認していただきたいんです。

 私は、その際も申し述べましたように、参考人の発言との関係でいいますと、憲法改正が今必要だという立場でなくて、憲法の原則の理念の具体化が必要だという立場をとる以上、九十六条に踏み込んであれこれ言わないというのは一つの見識だというふうに理解をしたわけです。

 私自身について言いますと、そしてまたこれは日本共産党の立場であるわけですけれども、九十六条にかかわる国民投票法の具体化がないというのを、国会の怠慢あるいは立法不作為というふうにとらえて議論を組み立てることはやはりできない。

 なぜなら、もともと立法不作為というのは、国家賠償にもかかわるように、ある法律があったり、あるいはある法律があってもそれを改善しなかったために主権者国民の権限が、権利が侵害されるということにかかわって生まれてくる問題であって、この約六十年間、国民の憲法改正権がそれによって侵害されたかといえば侵害されていないわけですから、私は、議論の組み立てとして立法不作為論の立場に立つべきでないということを申し上げたわけです。

 それからまた、現実の問題として、これは確かにいろんな報道で、私は行っておりませんが、憲法調査会の海外調査の際にイタリアで塩野さんにお会いして九十六条論が大分盛んになったというのは、大分論評として出ております。

 しかし、もともとこれはハードルの高い低いを争う問題じゃなくて、国民主権の主権原理を憲法改正権としてどう具体化するかということの問題ですから、私は、現時点において、その法律の具体化というものは必要もないと思っておりますし、これが仮に、今各党から憲法改正という問題が現実の問題として提案されているわけですから、それとの絡みで国会に提出されるようなことがあれば、これはやっぱり反対するということになると思います。

中山会長 山口委員と私との意見の交換の中で話が出たという御指摘ございましたが、私の基本的な考え方は、主権者が国民であるということを国民の皆様方にもっと自信を持っていただくことがこの民主主義の基本であるという考え方で申し上げておるということを申し上げておきます。

玄葉委員 きょうのテーマになっている直接民主制に関連して、首相公選論というのが出ておりますので、それについて一言だけ触れさせていただきたいというふうに思います。

 私も、国民による直接選択あるいは強いリーダーシップということで、首相公選というものを実は唱え始めたときがありましたけれども、今私が考えているのは、やはり、本筋は議院内閣制の本来の機能を発揮させることだというふうに考えております。

 そこで、マニフェストの導入等々も私個人も図ってきた一人でございますが、一言だけ憲法との関連で申し上げておきたいことがございます。

 憲法は、第六十六条で、内閣総理大臣の権限を首長というふうに規定しているわけでありますけれども、これが、残念ながらといいますか、なぜか内閣法等にいきますと大きく後退をしているわけです。

 御案内のとおり、例えば内閣法の六条は、閣議の決定方針に基づいて総理大臣というのは行政各部を指揮監督するんだと。閣議で決めなければ基本的に何もできないというと大げさかもしれませんが、そういう書きぶりになっているわけです。そこで、どうしても日本の場合、総理大臣のリーダーシップというものが発揮されにくいという状況が生まれているのではないかというふうに感じている一人です。

 したがって、このような憲法解釈を生まないようなより明確な規定、つまりは、内閣総理大臣、議院内閣制という機能を維持する、私は維持した方がいいと思いますが、維持するということであれば、内閣総理大臣の職権あるいは責任、こういったものについて、より明確に規定を置くべきではないかということを、一言だけ触れておきたいと思います。

 以上です。

中山会長 他に御発言ございませんか。

 それでは、討議も尽きたようでございますので、これにて直接民主制の諸制度についての自由討議を終了いたします。

    ―――――――――――――

中山会長 次に、人権擁護委員会その他の準司法機関・オンブズマン制度について、統治機構のあり方に関する調査小委員長から、去る十一日の小委員会の経過の報告を聴取し、その後、自由討議を行います。統治機構のあり方に関する調査小委員長木下厚君。

木下委員 統治機構のあり方に関する調査小委員会における調査の経過及びその概要について御報告申し上げます。

 本小委員会は、三月十一日に会議を開き、参考人として、東海大学政治経済学部教授宇都宮深志君をお呼びし、人権擁護委員会その他の準司法機関・オンブズマン制度について御意見を聴取しました。

 会議における参考人の意見陳述の詳細については小委員会の会議録を参照いただくこととし、その概要を簡潔に申し上げますと、

 宇都宮深志君からは、まず、世界のオンブズマン制度の発展、議会型オンブズマンが多いこと、法律による導入の可能性、一九五〇年代以降に普及した理由について説明がなされました。また、日本における取り組みとして、国レベルでの検討や地方レベルでの導入について説明がなされました。

 次に、オンブズマン制度の特色として、立法府の公職者であること、公平な調査官であり、政治的に立法府からも独立していること、行政府の行為を取り消す等の権限は有さず、意見表明、勧告等の権限のみを有しており、調査の客観性等により影響力を保持していること、職権調査権限を有しており、これが行政統制に有効に機能していること、苦情の処理は、直接的で、迅速、かつ無料であることが指摘されました。

 また、オンブズマンの機能としては、行政統制・行政監視機能、苦情の受理と処理機能、行政改善機能が挙げられました。

 さらに、オンブズマン制度導入の必要性が現在の日本においてますます増大しており、その導入は憲法改正によらず、法律の制定によっても可能であり、議会型オンブズマンと行政府型オンブズマンのいずれも可能であるが、行政監視機能が有効に働くことから、議会型が望ましいとの見解が述べられました。

 また、国会の有する行政監視機能を強化し、護民官的機能を有するものとしても議会型が適しており、請願権を具体化するものとして、現行憲法上正当化されるとの見解が述べられました。

 このような参考人の御意見を踏まえて、質疑及び委員間の自由討議が行われ、委員及び参考人の間で活発な意見の交換が行われ、オンブズマン制度導入の必要性の有無、その根拠を憲法に規定することの是非等についてさまざまな意見が述べられました。

 そこで表明された発言を小委員長として総括すれば、議会型オンブズマンの設置が必要であるとの見解、その設置を憲法で規定すべきであるとの見解、既存の行政相談制度の活用や衆参の行政監視に関する委員会の機能強化をまず図るべきであるとの見解等が示されたほか、オンブズマンの憲法上の位置づけ、特殊オンブズマンや地方オンブズマンの必要性の有無、オンブズマンを導入する際の留意点、情報公開制度との関係、オンブズマンの組織のあり方、その任命における党派性の排除の可能性等をめぐり、多様な見解が示されました。

 現代行政国家において、オンブズマン制度の導入の是非が大きな論点であること等にかんがみれば、引き続き総合的見地から議論を深める必要があると感じました。

 今後も、本小委員会のこれまでの議論を踏まえた上で、今後の国の統治機構のあり方について議論を深めてまいりたいと考えております。

 以上です。

中山会長 これより、人権擁護委員会その他の準司法機関・オンブズマン制度について、自由討議を行います。

 それでは、まず、永岡洋治君。

永岡委員 自由民主党の永岡洋治でございます。

 前回の統治機構のあり方に関する調査小委員会では、東海大学の宇都宮先生から、オンブズマン制度について、これを積極的にとらえる立場から意見陳述をいただきました。

 私は、オンブズマン制度について、より広く、国会による行政のチェックという視点も含めて、意見を述べさせていただきます。

 宇都宮参考人からは、オンブズマン制度がスウェーデンにおいて発祥し、一九五〇年代以降、世界各国に普及してきたことについて紹介がありました。

 日本における行政統制の取り組みとしては、旧行政管理庁に設置されたオンブズマン制度研究会や臨調等においてオンブズマン制度が検討されてきたほか、一九九七年には、衆議院決算行政監視委員会、参議院行政監視委員会がそれぞれ設置されてきたところであります。

 自由民主党は、国民に開かれた立法府、審議の活性化、立法機能の充実等を図り、衆参両院の国会改革を推進してきたところであります。オンブズマン制度の導入もさることながら、まずは、衆議院決算行政監視委員会、参議院行政監視委員会という現にある制度について、事務局機能の強化等を行うなどして審議を一層充実させ、より効果的な国会による行政のチェックを行っていくことが必要であると考えます。

 オンブズマン制度に関連して、我が国には既に行政相談制度があり、日本型オンブズマンと言われております。オンブズマンを直ちに導入すべきとの議論もありますが、私は、こうした現にある制度につきまして、まず十分に機能しているかを検証し、必要があればこれらを補完、充実すべきであると考えます。新たな制度の構築は、多大な労力、費用等が伴うものであるのは言うまでもなく、いたずらに屋上屋を重ねないということが肝要であります。

 宇都宮参考人の説明によりますと、現在、川崎市を初めとして、特殊オンブズマンを含めて、四十近いオンブズマンが地方において導入されております。住民と行政がより身近である地方での経験につきまして、十分に検証し、よりよい制度を構築していくべきであります。

 ただ、国レベルでのオンブズマン制度を考える際には、一般に、国レベルの行政が担う公益性は地方レベルよりもはるかに重大であると考えられること、また、国会の行政監視のための委員会の活用、充実を図ることが先決であることなどに留意する必要があり、その導入は慎重に検討する必要があります。そして、将来オンブズマン制度を導入するといった場合には、果たして憲法に規定することが適当なのか、それとも新たな法律を制定することで十分なのかを、諸外国の憲法の規定例も見つつ考えていくべきであります。また、制度導入の場合には、議会型オンブズマンがふさわしいと考えますが、この点、宇都宮参考人と同じ意見であります。

 宇都宮参考人からは、スウェーデン型オンブズマンの特色として、オンブズマンが、裁判所と異なり、決定を破棄する等の権限は有さず、勧告権限のみを有しているということが挙げられました。また、行政はこの勧告にほぼ従っているということであります。

 このように、オンブズマンが権威を有し、制度を成功させるためのかぎとなるのは、国民の理解と支援であります。宇都宮参考人の説明では、スウェーデンでは、国民のだれもがオンブズマンについて知っているということであります。こうしたことを踏まえるならば、オンブズマンについての正しい理解を国民の間に醸成することが極めて重要であります。

 なお、ややもすると、いわゆる市民オンブズマンと公的オンブズマンとの混同が見られるところでありますが、宇都宮参考人も述べられたように、市民オンブズマンと、ここで言うオンブズマンとは違うものであることを常に念頭に置く必要があると考えます。

 行政が肥大化する中、個人に対する権利救済の道を広げていくことも必要ではありますが、行政は、個人の権利と公益のバランスのもとで日々運営されており、余りに個人の権利を強く打ち出すことにも注意が必要であります。そうであるならば、オンブズマン制度が導入された場合にも、申し立てをした個人の権利だけではなく、行政が担う公益を含め、幅広い見地から適正な解決を図るという運用が必要であると考えます。

 以上をもって、私の発言とさせていただきます。

 ありがとうございました。

中山会長 御発言を希望される方は、ネームプレートをお立てください。

山口(富)委員 日本共産党の山口富男です。

 私は、先日の宇都宮参考人のお話を聞きまして、認識を新たにした点があるので、その点だけ発言したいと思うんです。

 従来、オンブズマン制度といいますと、憲法で言う六十二条の国政調査権、あるいは行政監督権、参考人は行政監視権と呼ぶべきだとおっしゃっていましたけれども、それに基づくものという制度設計として考えていたんですが、参考人が特に強調されたのは、第十六条にある請願権にかかわるんですという御指摘だったと思います。

 第十六条では、「何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。」と。この請願権にかかわるのが、オンブズマン制度の憲法論上の根拠にあるという話だったんですが、となりますと、やはり、国民の負託を受けた立法府としての国政調査権と、それから、主権者たる国民自身の主権行使としての請願権と、こういうものとして、二重に包まれるものとしてこのオンブズマン制度が有効であるというお話でしたから、これは、私は、積極的に受けとめて、その具体化を図っていくことが大事だというふうに思います。

鈴木(克)委員 民主党の鈴木克昌でございます。

 私も、宇都宮参考人のオンブズマンに関するお話を伺いまして、勉強させていただくことが非常に多かったなというふうに思っております。

 先ほど木下小委員長から報告がありましたように、オンブズマン制度の特色というのは、まず、立法府の公職者であること、そして公平な調査官であり、政治的に立法府からも独立しておること、それから、行政府の行為を取り消す等の権限はないけれども、意見表明や勧告等の権限は持っておる、そして調査の影響力を保持しておる、それから、苦情の処理は直接的、迅速、かつ無料であるというようなことが先ほど御報告されたわけでありますが、オンブズマンについて、そういったもろもろの権限を持って活動をされておるということがよくわかりました。

 そこで、私が申し上げたいのは、そのときに私も意見を少し申し上げたんですが、コストの問題を、私は、どちらかというと税金のむだ遣いを徹底的になくしていくべきだ、こういう観点なんです。もちろん、それによって国民の権限が縮小されたり、守られなければならないということは当然でありますけれども、そういったことを考えていったときに、先ほどのお話のように、行政相談制度や会計監査制度等々、本来、そういった機能が十分働いておれば、また、議会が本当に機能しておれば、そういったものは必要ないということになっていくんではないかなというふうに私は思っておるわけであります。

 しかし、その後いろいろ考えてみまして、やはり本当に専門的な知識が必要な分野というのもあるわけでありまして、例えば警察問題だとか、それから医療の問題とか、本当に特殊な、しかも非常に専門的な知識の必要な分野についてはこういう制度も必要なのかな、こんなことを実は今考えております。

 したがって、憲法上で規定するということもできるし、それから法律によって設置もできる、こういうことを伺ったわけでありまして、とりあえず、憲法でこのオンブズマン制度を制定するということの前段階として、私は、やっぱり法律で必要な、先ほども申し上げたような、そういう特殊な分野についてのオンブズマン制度というものを導入できるという形にして、そして、先ほどもお話がありました、本当にまだまだ国民の中に十分このオンブズマン制度というのが認知されていない、理解されていないという状況だというふうに思いますので、そういうものがよく理解をされてからまたきちっと憲法上に位置づけるというのも手法としてあるんではないのかな、こんなことを実は考えておるわけであります。

 先回も、参考人の御意見の後、自由討議でも申し上げました。繰り返しになりますけれども、議会が本当に十分な機能を果たしておればそういうものは必要ないはずだという信念、それから、いたずらに屋上屋を重ねるような制度でコストをふやしていくということも厳に慎まなければならない、この考え方は基本的には持っておるわけでありますけれども、さりとて、今申し上げるように、専門的な分野についてはやはり必要なのかな、今、こんな考え方でおるということを御報告させていただきたいと思います。

 以上であります。

辻委員 民主党・無所属クラブの辻惠でございます。

 統治機構のあり方については、三権分立というのが一つの歴史的現実であります。十八世紀末から十九世紀にかけて、王権と貴族階級と新興ブルジョワジーの対抗関係の中で、三権分立制度というものが歴史的な知恵として生み出されてきた。そのことが、十九世紀の後半から二十世紀の半ばにかけて、俗に戦争と革命の時代というふうに言われると思いますけれども、例えば統治形態については、一九一七年のロシア革命で成立したソビエト連邦というのは、もともとは、各地域のソビエトというものを基礎体として、それの連邦体、連合体であるということで、新たな統治機構の試みの一つであったのではないかというふうに私は思いますが、結果的には、非常に中央集権的に行政権が肥大化し、国家の諸権力が、諸権能がすべて集中するような、そういう統治形態に変遷していった、変化していったということだと思います。

 二十世紀後半からの課題としては、市民社会の成熟ということが一方でありますが、行政、司法、立法の諸権能が、議院内閣制の国はもちろん、大統領制の国においても行政権能というのが肥大化していって、行政国家化していく。したがって、行政統制をどのようにチェックしていくのかというのが大きな課題になっている。

 そういう意味におきまして、二十一世紀に問われている統治形態というのは、従来の国民国家の成立と軌を一にして出発した三権分立を枠組みとして前提にすることは必ずしも妥当ではない、このように思うわけであります。

 やはり、行政というふうに言ったときに、控除説ということで、立法、司法を除いたものが行政で、全部それが含まれるということでありますけれども、私は、二十一世紀は、一方で、市民社会の成熟ということに基礎を置いて、地方の共同体を基礎にして、そこを生活なり統治の単位として考える必要があるのではないか。そういう意味におきまして、補完性の原理というものをきちっと生かしていって地方分権を徹底させる、そして、地方に根差した共同体、コミュニティーというものを基本に統治のあり方を考えていく、そして、国家的な単位では、なお警察とか、まあ警察はともかく、国家として残る権能についてそのチェックをする機能をどのようにシステムとしてつくり上げていくのか、このことが重要になってくると思います。

 その観点から見て、オンブズマン制度というものが非常に有益、有効ではないか。とりわけ、その過渡的なプロセスとしては、警察や刑務所や軍隊という、ある意味では統治権能の強権の執行をする、その行政権能にきちっとした批判的なチェックの機能を及ぼす意味においてのオンブズマン制度というのが非常に重要なのではないか、このように考えます。

 以上でございます。

船田委員 自民党の船田元でございます。

 オンブズマン制度について、私もこの制度そのものについてなかなか今まで勉強する機会がなかったんですが、改めて勉強する機会となりました。

 最初は、オンブズマンというふうに聞きますと、国民の多くは、現在各地で自発的に成立をしている、いわゆる市民オンブズマンというものを想起する場合が多いと思っております。この市民オンブズマンもいろいろな形態があり、いろいろな方々が先駆的な取り組みをして、それなりに大変大きな効果を出しているというふうには思っておりますが、また一方で、行政側からいたしますと、この市民オンブズマンの行動につきましてやや警戒感を持っている、こういうことがあります。

 また、我々一般市民の間でも、市民オンブズマンのこれまでの活動ということについて、非常に大きく評価する人もいれば、あるいは一方で、行政の執行に対して意見を言い、またある意味で、これは言葉にちょっと語弊があるかもしれませんが、邪魔をするというような、そんな印象をどうしても受けている国民が割合多いということを指摘しなければいけないと思います。

 ですから、市民オンブズマン、この先駆的取り組みは大変評価すべきものとしても、やはり多少その印象において誤解をされている部分が日本には多いということで、これは本来の公的オンブズマン、そういうあり方についてもっと我々は政治のレベルにおいても議論をし、そして公的オンブズマンを認知していく、こういうプロセスがこの過程においては必要であるというふうに感じております。

 翻って、現在の日本のオンブズマンに対する考え方をひもといてみると、これはやはり行政オンブズマンという動きがこれまでずっと来たと思っております。かつての総務庁、そして現在では総務省になりますけれども、いわゆる行政相談制度あるいは行政苦情救済推進会議などなど、そういった行政相談業務というものがやはり一つ行政オンブズマン的性格を持った組織として現存しているというふうに感じております。

 しかしながら、この行政相談制度もなかなか国民の知るところとならない。あるいは、その活動において権限を持って行政をチェックするということがまだ十分にはできていないということで、一つは、これを育成していく、充実していくという必要があると思っております。

 しかし、そうはいいながらも、行政に足元を置いたそういうオンブズマン制度にも、どんなにそれを改善したとしてもおのずからやはり限界はあると思っております。参考人がお話しになった議会中心、議会制のオンブズマン、こういう形がやはりこれから望まれるオンブズマンの方向ではないか、このように考えております。

 現在でも、既に衆議院で決算行政監視委員会、参議院でも行政監視委員会が置かれておりますが、これはやはり、先ほど行政オンブズマンで申し上げたと同じように、議会型オンブズマンではあるけれども、これまたその役割、機能がまだまだ不十分であるということで、これを育てていくということが極めて大事だと思っております。

 ただ、気をつけなければいけないのは、議会型オンブズマン制度といいましても、やはり各政党の思惑あるいは政党の意見とか、そういったものがこのオンブズマンに影響を与えるということは、これは避けなければいけない。いかにその政党のさまざまなしがらみからこの議会型オンブズマンを独立させるか、このあたりがやはり大きな課題ではないか、こう思っております。

 なお、憲法上の問題としては、山口委員から御指摘をいただいたように、第十六条の請願権を保障するという形でのオンブズマンのあり方、そういう規定はできるのかなというふうに思っております。

 以上であります。

武正委員 民主党の武正公一でございます。

 行政の複雑化、肥大化というのは多くの識者が指摘するところでありまして、三権分立の考え方からは、この立法府である国会の不断の努力で行政のチェックを行ってきているところでございます。また、今般、司法制度改革によって三権分立の司法権を強めようといった試みもございます。

 ただ、しかし、いわゆる行政の裁量行政あるいはさじかげんといったところの指摘の中で、過去、例えば行政手続法などの、行政の仕組みをできるだけ国民にわかりやすくしていこうという試みもありました。ただ、一方、逆に、前国会でございますが、前期でございますが、自治法の改正によって行政訴訟法を二段階に、ある面後退をさせよう、こういった動きもあったわけでございまして、そういった中では、今回のこのオンブズマンというものも、やはり行政を専門家の手によってわかりやすく解きほぐして、それを国民に伝え、国民の信頼を行政に得るということでは評価すべきだと思っております。

 先ほど、最初の第一小委員会のときに指摘もしましたが、日本の外交についての力強さ、たくましさを得るためには、やはり国民の信頼というものが欠かせないというふうに思っております。行政の運営にはやはり何といっても国民の信頼が欠かせません。

 そういった意味で、戦後日本の民主主義を考えますと、やはりGHQによっていろいろな形で主導されてまいりました。その中で、一つございましたのが、国家行政組織法、いわゆる三条委員会でございます。戦後二十二あったこの三条委員会が次々に減らされていって、現在では七つ。これは、民主党が三条委員会の設立をいろいろな場で申し上げておりますが、残念ながら政府・与党からは行政改革に反するという一点張りでございますが、私はやはり、準立法、準司法的な機能を擁するこの三条委員会というものも、オンブズマン制度と同様に日本として取り入れていくべきことだというふうに思っております。

 具体的な例を挙げると、これは民主党が出しております通信・放送委員会設置法というものでございますが、例えば放送の独立性といったものを堅持するためにも、放送局の許認可権を総務大臣が持つのではなくて、第三者の三条委員会である通信・放送委員会が持つ、こういったくくりでございます。

 以上でございます。

山花委員 民主党・無所属クラブの山花郁夫でございます。

 今も武正委員から御発言あったこととも関連するかもしれませんが、従来、オンブズマンの制度というのは、議会による行政統制という観点から論じられてきたことが多かったのかなと思っております。そういたしますと、議会型のオンブズマンの方が適切だろう、こういう方向性の議論になるのは比較的素直な方向性なのかなと思うんですが、先ほども出ておりました、屋上屋を重ねるような形のものはいかがかという御発言もありましたが、それは、現行の制度が本当に機能しているかどうか、もう一度検証が必要なのではないかと思っております。

 さきの国会まで、私、法務委員会におりまして、前法務大臣も当委員会にいらっしゃいますが、随分議論させていただきました。例えば刑務所なりあるいは入国管理局なり、先ほど辻委員からもお話がありましたように、強制力を発動する契機がある役所があって、その役所のもとに、例えば人権擁護局があるという形になっていますが、本当にそれでいいのかどうか。さきの国会に提出をされ、衆議院の解散によって廃案になっております人権擁護法というのがございましたが、ああいった形ではなくて、やはり第三者機関がそういったことに対して責任を持つというオンブズマンというのがあり得るのではないかと思います。

 なお、オンブズマンということを従来の講学上の概念で考えるとすると、いわゆる独立行政委員会的な議論になるのかなと思います。つまり、四十一条で立法権が国会に独占され、六十五条で行政権が内閣に、七十六条で司法権が裁判所にとなっていて、準司法的あるいは準行政的権限を行使するものが憲法上どういう位置づけになるかという立て方になりますので、そういたしますと、独立行政委員会の合憲性という有名な論点がありますけれども、そういったフレームで議論していくことになろうかと思います。

 したがって、先ほど船田委員から御指摘がございましたけれども、その中で、余り党派的な色が出てもいけないんじゃないかという話がありましたけれども、独立行政委員会、なかんずく三条委員会などのような形での人選であるとか、そういうやり方を行うことによって色を薄めることができるのかな、このように思います。

 ただ、問題は、それを制度として見たときに、憲法上の位置づけまでするということなのか。あるいは、私は、独立行政委員会と同じ、パラレルに考えれば、これは法律でつくるということでも可能なのではないかと思っております。ただ、さきの宇都宮参考人からの御指摘ですと、憲法上明確にした方が、その地位といいますかステータスもはっきりするという指摘もございましたので、そういったことになりますと、またこれも憲法改正が必要かどうかという話になってまいりますので、効果あるいは位置づけ等について、やはりこれからももっと積極的に議論をして、検討されるべきテーマの一つではないか、このように思います。

 以上です。

中山会長 他に御発言はございませんか。

 それでは、討議も尽きたようでございますので、これにて人権擁護委員会その他の準司法機関・オンブズマン制度についての自由討議を終了します。

    ―――――――――――――

中山会長 次に、市民的・政治的自由について、基本的人権の保障に関する調査小委員長から、去る十一日の小委員会の経過の報告を聴取し、その後、自由討議を行います。基本的人権の保障に関する調査小委員長山花郁夫君。

山花委員 基本的人権の保障のあり方に関する調査小委員会における調査の経過及びその概要について御報告申し上げます。

 本小委員会は、三月十一日に会議を開き、参考人として、学習院大学法学部長野坂泰司君をお呼びし、市民的・政治的自由、特に、思想良心の自由、信教の自由・政教分離について御意見を聴取いたしました。

 会議における参考人の意見陳述の詳細につきましては小委員会の会議録を参照いただくこととし、その概要を簡潔に申し上げますと、

 参考人からは、まず、思想、良心の自由に関して、これが人間存在にとって根源的な自由であること、思想、良心の自由が憲法に規定されるに至ったのは、明治憲法下において思想の自由が抑圧された苦い経験への反省に基づくものであるとの説明がなされました。

 その上で、三菱樹脂事件やアメリカにおけるヘイト・クライムの加重処罰などを取り上げながら、思想、良心の自由の内容についての説明がなされました。

 中でも、国旗・国歌の問題は、思想、良心にかかわる最も重要な問題の一つであり、国が国旗や国歌のようなシンボルを用いて国民の統合を図ることは民主主義国家においても否定されるべきことではないが、これに反対する者が内心を理由として式典に参加しないことまで否定することは憲法上問題があるのではないかとの指摘がありました。

 次に、信教の自由に関しましては、これは思想の自由と並んで、人権宣言の中核をなす最も重要な人権であり、内心の自由としての信仰の自由は絶対的に保障されるが、信仰に基づく行為の自由は、必要不可欠な公共的利益を達成するための最小限度の制約に服するとの説明がなされました。

 その上で、信教の自由の保障を促進または補強するために政教分離の原則があり、憲法上、厳格な分離が要求されていることは疑いの余地がないという指摘がなされました。ただし、政教分離原則違反の有無を判定する基準としての判例の目的効果基準はその客観性に問題があり、本格的な再検討がなされるべきという問題提起がありました。また、内閣総理大臣の靖国神社参拝等を例にとりながら、政教分離原則のもとで許される国家行為についての検討がなされました。内閣総理大臣の靖国神社参拝問題については、靖国神社を中心的な戦没者追悼施設として公的資格で参拝するとすれば、特定宗教との特定の結びつきとして憲法に違反することになるとの指摘がありました。

 このような参考人の御意見を踏まえて、質疑及び委員間の自由討議が行われ、委員及び参考人の間で活発な意見の交換が行われました。

 そこで表明された意見を小委員長として総括するとすれば、思想、良心の自由については、憲法上、内心にとどまる限り無条件に保障されるが、ドイツの闘う民主制のように、いかなる思想等をも保護するものではなく、ある程度の限界が設けられるべきではないかとの意見が出されました。

 また、信教の自由については、それが政治に翻弄され、十分な保障が確保されなかった歴史的な反省に立って、政教分離原則が制度的保障として規定されているのであり、この観点を十分踏まえて、靖国参拝の問題等について考えるべきであるとの意見が出される一方、靖国問題などは誤解に基づく不毛な議論と言えないこともなく、これらの問題については判例を深化させると同時に、国民的議論を呼び起こしていく必要があるとの意見も出されました。この点、付随的な違憲審査制の限界から、靖国問題などについて最高裁の憲法判断がなされていないことに関連して、地方自治法の住民訴訟のような制度を国についても設けることは、立法政策として検討に値するのではないかとの議論がありました。

 思想、良心の自由ないし信教の自由は、中世の宗教的な圧迫に対抗し、苦難の歴史を乗り越えてかち取ってきた歴史的に大変重要な意義を持つ自由であり、また、人間存在の根源にかかわる自由であります。現在においても、さまざまな国の憲法及び人権宣言において、この精神が受け継がれ、人々の最も根本的な自由として明記されております。また、我が国においては、戦前、国家権力によって、とりわけこの二つの自由が抑圧されてきたという苦い経験に基づいて、現憲法がその保障を特に強く要請していることも認識しなければなりません。

 国民の生活と身近なところには、思想、良心の自由及び信教の自由に関連する実に多くの問題がいまだに存在しております。このように、憲法の人権規定が、具体的な事例にいかなる影響を及ぼし、また、及ぼし得るのかといった点も踏まえ、今後も、基本的人権に関する議論を深めてまいりたいと考える次第です。

 以上、御報告申し上げます。

    〔会長退席、仙谷会長代理着席〕

仙谷会長代理 これより、市民的・政治的自由、特に、思想良心の自由、信教の自由・政教分離について自由討議を行います。

 それでは、まず、小野晋也君。

小野委員 先ほど、小委員長から御報告がありましたとおり、この小委員会におきましては、野坂参考人の陳述のもとに、思想、良心の自由の問題、とりわけ宗教における信仰の自由の問題等についての議論が行われてまいりました。この問題を、自由全体の議論ということで、少し広げてのお話をきょうはさせていただきたいと思うわけであります。

 私は、戦後日本において、この自由の議論が余りにも拡大されて主張されたがゆえに、日本社会の中に著しいダブルスタンダードを推奨するような気風を生み育ててしまったというところに一点の危惧を抱いているものでございます。

 つまり、内心の自由は、これは当然のことでございますが、その内心の発露における行為、言動においてもこれが完全に自由であるということを主張するがゆえに、みずからに利益のあることについてはこの自由を最大限発揮しようとする、しかしながら、自分自身に対して害を及ぼす、損害をもたらすような他人の自由に対しては批判を行い、それを制限しようとする。全く同種類の行為であるにもかかわらず、自分に利があるとなればそれが善であり、自分に害があるとなればそれはマイナスのものである、こういうような形で、同じ行為に対していろいろな評価が生まれてくる。

 これは、人間社会でありますから、これを完全に除き去ることは当然できない問題ではございますが、利害対立が生まれてくるとなると、それが裁判の場に持ち込まれて、そして他の力によってその調整を図るというようなことが常態化しつつあるわけでございます。

 私は、人間というものは、自分自身の自律的な判断において、もっと調和的に社会を築く、みずからがみずからを抑制しつつみずからの権利や自由の主張というものをコントロールするところに一つの大きな価値がある、こう考えているものでございまして、今起こってきつつある、日本の国の中における自由礼賛に伴うダブルスタンダード化の進行という問題について危惧を持っているものでございます。

 前回の議論の中におきましては、総理の靖国神社参拝問題についていろいろな議論がありました。これは、靖国への総理の参拝を嫌悪する人たちにとってみると、確かにみずからの心情に対してそれに圧力をかける行為というふうに映るでありましょうが、同時に、靖国神社に参拝をし戦没者を追悼するのが当然であり、そこに心の安らぎを覚える人たちにとってみれば、総理が靖国参拝をしてはだめだということが主張されることが彼らにとっての心に対する圧力になっている。こういう二面性を持っていることにも十分な配慮をしていかねばならない問題であり、法律においてこういう問題を裁くことはなかなか困難な問題であると私は判断をいたしております。

 したがいまして、憲法の中において、この種の問題に対しての方針を示すという意味において、個人がみずから権利や自由について自己抑制することの重要性、そしてまた他との調和を図るということの重要性をうたうということを一つ提案したいと思います。

 そして、それと同時に、法によって裁き切れないものを私たちの社会でどう扱ってきたかというと、長い年月を経る中において、伝統として、文化として、または慣例としてこういうものを裁くということをやってきたわけでございますから、憲法前文等の中において、改めて、日本社会が長期間にわたって先人たちのいろいろな葛藤、思索を通して培われてきたところの伝統や文化、歴史、慣行、こういうものの尊重ということをうたいながら、法において判断し切れないものはこれらのものを重視しつつ判断していく、こういう姿勢を示すべきだというふうに感じた次第でございます。

仙谷会長代理 御発言を希望される方は、お手元のネームプレートをお立てください。

辻委員 民主党・無所属クラブの辻惠でございます。

 小委員会でも小野委員と少しやりとりをさせていただきましたが、今おっしゃられたことについて、若干私なりのコメントをさせていただきたいと思います。

 権利、自由ということだけを強調するのではなくて自己抑制をすることが必要である、社会的調和を図ることが必要であるということをおっしゃられているように思います。

 確かに、個人の振る舞いとして、バランスを考え、社会的な調和なり協調を考える、これは、私もそういうことを尊重したいというふうに考えておりますけれども、憲法の問題として権利、義務、自由ということを論ずるときに、では、自己抑制すること、社会的調和を図ることを憲法上どう規定するのか、それはだれが判断するのかということがやはり問題になるわけであります。

 信教の自由で、例えば靖国参拝について、それが必要だとお感じになる方もいらっしゃるでしょうし、それは問題だというふうにお感じになる方もいらっしゃるでしょう。では、なぜ憲法二十条で制度的保障としての政教分離原則が認められたのかということをやはりそのときには考える必要があると思います。

 単に国家からの自由としての信教の自由ということを唱えていただけでは、戦前のような、いわば国家神道的な、国家神道にくみすることが社会と調和することであり、自己抑制するというのはそれとの調和を図ることなんだということで、結局のところ信教の自由が奪われていったという戦前の歴史の反省に踏まえて、それを制度的保障として政教分離原則というのをやはり憲法は明文でうたっているということの意味、これは単に、ある意見のどちらが正しいとか間違いだとか、それを権力的に抑制する、そういう問題ではなくて、そういう内心の自由なりそれぞれの表現の自由なりは当然保障することの前提の上で、戦前の反省に踏まえて制度的保障として政教分離原則がうたわれたんだということの意味をもう一回振り返ってみる必要があるのではないかというふうに思います。

 以上でございます。

山口(富)委員 日本共産党の山口富男です。

 私は、二点発言したいと思うんです。

 一点は、先日の野坂参考人の意見なんですけれども、山花小委員長が報告されたとおりなんですが、私が特に感心しましたのは、非常に学問的に、この問題をめぐる論点がどこにあるのかというのを示されたわけですけれども、その際に、思想、良心の自由や政教分離の原則がなぜ憲法の条文として位置づけられたのかというその歴史的背景をきちんと押さえなさいということを盛んに強調されました。

 今、自由討論の中でもこれは出ているわけですけれども、やはり日本の場合は、戦前の天皇絶対の専制政治と侵略体制というものとの決別ですね、参考人の言葉をかりれば治安維持法体制の拒絶であるという指摘でしたけれども、これにかかわる問題として考えることが大事である。憲法調査会で各条文について議論する場合も、私は、そういう点では、そういう条文に至った歴史的な根拠についてよく見ていくことが大事じゃないかというふうに思います。

 それから、二つ目に発言したいのは、先ほどの小野委員からの指摘というのは、私は結局、立憲主義をどうとらえるかにかかわってくると思うんです。個々の人々の、いわば市民社会における私人間関係の問題と、国家と市民との関係の問題、いろいろ区分けして考えなきゃいけない問題がそこにはあるように思います。

 それで、靖国神社への首相の参拝の問題なんですけれども、私は、内閣総理大臣という憲法に位置づけられた存在が特定の宗教施設に繰り返し行くという問題は、やはり、岩手の靖国違憲訴訟が仙台の高裁で示しましたけれども、これは憲法二十条第三項にかかわる違憲の行為だ、そういうふうに思います。憲法二十条第三項は、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」というふうに定めているわけですけれども、仙台高裁の判決というのは、首相の公式参拝が、靖国神社を公的に特別視し、ほかの宗教団体に比して優遇的地位を与えているとの印象を社会一般に生じさせる、そして、国の宗教的中立性を没却する違憲の行為だ、これは一九九一年ですけれども、こういうふうに判決しておりますが、私は、これはやはり基本だと思うんです。

 そして、もう一点つけ加えれば、靖国神社というのは、やはり、戦前の場合、天皇のための戦死を営々として祭るという一種の宗教的な軍事施設であった、しかも、戦後もA級戦犯を祭っていることも含めまして、海外マスコミからはいまだに戦争神社ということまで言われている。そういう歴史的経過のある神社ですから、そこに首相が繰り返し行くという問題は、やはり、憲法の平和主義の立場からいっても、あの戦争への反省という問題をないがしろにする面をはらみますから、これは許されないというふうに思うんです。

 そして、最後に、公的参拝について違憲の疑いが強いという高裁判決が出て以降、公人か私人かをはっきりさせないという形での参拝になっていくわけですけれども、これは全く、いわばそういう批判があるからそれから逃れるための一種の言い回しであって、現実には、だれが見ても内閣総理大臣であるという方が参拝を続けるわけですから、これは憲法上も憲法違反であるというふうに私は考えます。

小野委員 いろいろと御意見をいただきましたので、そういう点について少し議論させていただければと思います。

 まず第一点目に、辻委員からは、歴史的背景について十分に配慮しながらやっていくべきだという御指摘でございますが、この小委員長報告の中においても、野坂参考人から、こういうものが制定された背景には、「明治憲法下において思想の自由が抑圧された苦い経験への反省に基づくものである」、こういうふうなことが語られたとございます。

 その点は確かにそのとおりでございましょうけれども、ならば、今私たちがここで憲法の議論をするというものは、かつて制定されたときに、日本の国がいかなる国であるかということも一つの材料ではございますが、現代社会において日本の国がいかなる国であるべきであり、そのために政治がいかなる努力を行うべきかというような論点に立ちました場合には、自由を余りにも論じ過ぎるがゆえに起こっている弊害に対して目を向けずして、同じように、自由の推進といいますか、自由の擁護ということばかり論じ過ぎている姿というものが果たして妥当な姿であるのか。現在を生きる政治家としての姿勢としてこの姿でいいのかどうかということが、やはり一つの議論の論点に挙がってくるのだと考えております。

 余りに自由を論じ過ぎるがゆえに社会の中にさまざまな弊害が生まれているということは、委員の皆さん方も御承知のとおりでございましょうし、先ほど私の方から指摘をいたしましたダブルスタンダードが常態化しつつある、こういうふうな姿をどういうふうにおとらえになられるのか、こういう点についての御意見がございましたら、ぜひお聞かせをいただきたい点でございます。

 それから、山口委員の方から、特に靖国参拝の問題についての違憲性の問題についての御指摘がございました。私どもも、司法というものは非常に尊重しながらやらねばならない立場でございますから、こういう判断は判断としてきちんと受けとめねばならないと考えております。

 しかし、それならば、私どもが疑問を呈したいのは、靖国参拝というのが、戦後のある時期までは全く憲法問題として提起されない状態で総理を初め多くの閣僚が参拝していたにもかかわらず、ある段階で突然にこれが違憲問題であると提起されてきたということは、一体、いかなる事情なんでありましょう。

 さらに、もう一つ申し上げますならば、こういうところに違憲のおそれがある、しかし、国民感情として、慰霊の上に靖国神社というものが重大であるというふうな意見を持つ国民がかなりの数おられるということであるとするならば、むしろ、憲法そのものを改正するということに対して皆さん方がちゅうちょしておられるというのは、私には納得のいかない点でございます。

 ですから、そういうことも含めて、憲法改正の議論というのを前向きにとり行っていくべきでありますし、先ほどの議論の中で出てまいりました国民投票法案の問題につきましても、改正の手続を定めるということに改正への意図を感じてそれは反対である、こういうふうな議論というのはいささか自己矛盾を来しているのではなかろうか、私はこんな印象を持つところでございますので、意見の表明とさせていただきたいと思います。

山花委員 民主党の山花郁夫でございます。

 私ごとで恐縮ですが、私は、幼稚園、小学校とカトリックの教育を受けまして、今時点でクリスチャンではありませんが、イエス・キリストに対しては畏敬の念を持っております。そうした幼稚園、小学校の教育の場でも、例えば、原爆が落とされた日であるとか、あるいは終戦記念日、夏休みですけれども、テレビを見て、当時は神にお祈りをしてという子供でありました。

 ただ、ちょうどそのころぐらいなんでしょうか、突如としてという表現がありましたけれども、総理の靖国参拝というのがニュースなどで流れるようになりまして、当時、シスターも大変困った表情をされていて、子供たちにどう説明するのかということだったのを今思い出しました。つまりは、教育の現場にとっても余り好ましい話ではないのではないかということであります。

 もちろん、戦争で亡くなった方の霊に対して祈るという気持ちは決してこれは否定はいたしませんけれども、しかし、個人的な感情だけで言わせていただければ、私的にも参拝はもう御勘弁いただきたいというのがあるんですが、法律の理屈としてということであれば、せめて公式の形でやるのは憲法上も問題があるでしょうし、また、今後の日本の姿としても本当にそれでいいのかという思いはあります。むしろ、国立の戦没者追悼施設などをつくるということの方が前向きの議論ではないかな、このように思っております。

 ところで、突如として憲法問題になったという御発言がありましたけれども、一つは、これは技術的なことですけれども、これを憲法問題として取り上げるということについては、実はテクニカルなところで疑義があったわけで、住民訴訟でやるというやり方でいけるという判断があって憲法問題になりました。似たような話が、衆議院の定数不均衡の訴訟がこれであります。

 あれも同じような表現ができると思います。突如として裁判になったんですが、普通の解釈でいって本当にそれでできるのかというのは疑義があるんですが、裁判所がその形で憲法問題を提起できるという判断があったから、ある一時期から議員定数の、全く中身は違いますけれども、玉ぐし料の訴訟であるとか、あるいは定数不均衡であるとか、信教の自由に関連して言うと、地鎮祭訴訟であるとか、住民訴訟の形でできるという当時の法曹関係者の知恵がそこまで結集することによってそういう形になってきたわけであって、決してある時期突然そういう議論が沸き起こったということでもないのではないかと思っております。

 以上です。

辻委員 民主党の辻惠でございます。

 私は、現在の日本及び民族と言っても差し支えないと思いますけれども、現状について非常に大きな危惧感、危機感、このままでいいんであろうかという危機感を持っているところであります。やはり、私どもの世代も含めて、人に対する思いやりとか、死者に対する哀悼の気持ちとか、年配者の方に対する敬う気持ちとか、そういうことを態度であらわし、表現であらわしていくということがおろそかになっている。これは、何とかしなければいけないというふうな非常に強い思いがあります。

 そういう意味におきまして、現状を、権利を、自由をとにかく叫び続けていればいいんだなんということは決して思っていない。それは、この場にお集まりになられるすべての方がやはり、議員としてお集まりになっておられるわけですから、国の未来、民族の未来を考えて発言されているというふうに思うわけであります。

 ですから、先ほどから言われている、論議になっている問題につきましては、やはり憲法がどういう射程範囲を持って機能すべきなのかという問題ではないかと。個人と個人の私人間の問題と、国家と私人との間の問題、そして今、政教分離原則で問題になっているのは、そういう私人間の価値なり理念なりのどちらか一方に軍配を上げるということではなくて、信教の自由をより保障するために、国家機関に対して、政教分離の問題について抑制的に振る舞うべきなんだというふうに、国家機関に向けられたものとしてこの制度的保障の制度があるという意味におきまして、ダブルスタンダードということをどういう意味でおっしゃっているのか、ちょっと私、理解がよくできておりませんけれども、何か、参拝することと参拝しないことについて自由に程度の差がある、ダブルスタンダードをしているんだ、そういうことでは、全く違う。私人間同士の問題、国家と私人間の問題、そして制度的保障というのは、それぞれ位相の違う問題であって、政教分離原則というのはまさに国家機関に向けられたものなんだということで、やはり整理すべき問題ではないか、このように考えます。

 以上でございます。

山口(富)委員 日本共産党の山口富男です。小野委員から意見をいただきましたから、それにかかわって発言したいと思うんです。

 最初の、靖国神社にかかわる問題が急に問題になったというお話がありましたけれども、その点は山花委員が指摘されたとおりで、かなりそれでも早い時期から、キリスト者を初めとして宗教家からは、これは問題だという議論は随分早く起きたんです。ただ、これを違憲訴訟としてやっていくにはどうするのかというのは長年の憲法運動の背景があったと思います。

 それから、国際社会で問題になったのは、やはり日本が、講和条約後、各国との平和関係を築いていく中で、首相自身が靖国神社に参拝するのはおかしいという意見、これは政治問題、国際政治の問題として生まれたわけですから、そういうものとして広がりを持ってきたというふうに思います。

 それからもう一点なんですが、私は余りこういうことは発言したことはないんですけれども、やや私的な話をさせていただきますが、私自身も、父は特攻隊で、あと数日でも敗戦が遅くなっていたらその機に乗っていたという父の息子なんですね。私が大変ショックを受けたのは、その同窓会名簿を見ましたときに、半数の男性が全部戦死なんですね。それで、ちょうど一九二六年ですから大正でいうと十五年になるんですが、その生まれの世代というのはあの戦争で大体二十前後の方ですから、たくさん亡くなっているわけです。そういう私たちより上の世代間的な感性みたいなものもありますけれども、そういうものとして、やはりこの問題を憲法改正というところに議論を進めていくというのは、私は全く理解できません。

 問題になるのは公的な参拝、靖国神社参拝が問題になるんだから、そうならないように、国民の皆さんの中にやはり戦没者を、戦死者を悼む気持ちが強くあるわけで、それは単に戦場で亡くなった方だけじゃなくて、原爆の被害者やいろいろな方々の犠牲の上に今の私たちの社会があるわけですから、そういう方々を悼むきちんとした場をつくっていく、この問題はそういう方向で解決すべき問題であって、憲法の改正とは全く無縁の問題だというふうに私は思います。

船田委員 自民党の船田でございます。

 思想、良心あるいは信教の自由という条項が大変クローズアップをされて議論されておりますが、私は、小野幹事の最初の御発言にちょっと敷衍をした形で申し上げたいことがあります。

 それは、私自身も小委員会で少し申し上げたことでありますが、確かに日本国憲法は、内心の思想、良心あるいは信教の自由については非常に、これはほぼ無条件に保障するという形をとっております。それは戦前に対する大きな反省がある、これは言うまでもないことでございます。

 しかしながら、例えばドイツにおきまして、これは統一前の西ドイツのボン基本法、現在はドイツ基本法として継承されていると思いますが、ボン基本法時代の十八条にこういう言葉がございます。基本的人権を自由で民主的な基本秩序に敵対するために乱用する者は、これらの基本権を喪失するということであります。これは有名な条項でありまして、闘う民主制とも言われております。つまり、どんなに憲法そのものや、あるいは民主主義の原理そのものを否定する思想を持った場合、それが内面にとどまる限り日本国憲法ではそれは自由であるけれども、しかし、ドイツにおいては、みずからを否定するような、みずからの民主主義を否定するような思想あるいは良心を持つということは、これはやはり一定の制限を加えなければいけないんではないか。

 ドイツにおいての特殊な過去の事情もございましょうし、また、ドイツの合理主義の思想のあらわれかと思いますけれども、ここはやはり一つの、他山の石ということで大いに参考にすべきものというふうに考えております。これが先ほど小野幹事の言われたダブルスタンダードの話に通じるものではないかというふうに思っております。

 もう一つ、靖国神社の公式参拝につきまして、これは議論が大変活発に行われております。非常に重い議論でございますので、軽々にすることはできないと思いますが、私は、やはり大変不幸な状況が今、日本に存在していると思っております。

 それは、戦没者の皆様が過去において、靖国に帰ろう、あるいは靖国で会おうということで、その気持ちを持ったままで戦死をされた、そういう方々が非常に多いわけであります。そして、その英霊の気持ちを十分に尊重しようとするのであれば、やはり、現在の靖国神社において総理大臣が参拝をされるということは、これは人間としての自然の発露であって、これを憲法上どうこうということは、コメントをすることはとても重い話ではないか、こう思っております。

 私は、アメリカで行われていた目的効果基準、いわゆるレモン・テスト、こういうものをやはり靖国神社の参拝においても冷静に適用していく必要があるのかなというふうに思っております。いろいろな議論があると思いますが、私は、アメリカの方で広く採用されている目的効果基準からすれば、靖国神社の総理大臣の参拝については大きな問題はないというふうに思っております。ただ、過去において例えば、二礼二拍手一拝ではなく、一礼をすればそれで宗教的な意味合いが薄れるからそれでいいのであるというような解釈をされた場合もありますが、これは少しこそくな手段ではないかというふうに考えております。

 それから、よくマスコミなどで、公式参拝ですか私的な参拝ですか、こういうお話を参拝をした閣僚にされる話がございますが、私は、公的か私的かということは、これこそその人々の個人的な内面の問題であって、これをどちらに区別をするかということはある意味でナンセンスであるというふうに思っております。総理大臣が靖国神社へ参拝するときには、総理大臣として参拝をするということであり、それ以上でも以下でもない、そして、それは目的効果基準に照らせば大きな問題にはならない、このように感じておるところでございます。

 以上です。

山花委員 民主党の山花郁夫でございます。

 靖国の参拝に関しては、せめてプライベートで行くと言っていただきたいというのが願いなんでありますが、そのことはさておくにしても、現行の憲法に照らしてどうであるかということも大事なことではありますが、先ほど少し申し上げましたように、例えば、議員定数の不均衡についても、もともと、今は恐らく多くの方がああいう形で争われるのは当然だと思っていらっしゃるかもしれませんけれども、あの争い方というのは、本当は、公職選挙法で、ちょっと個別の条文は今はわかりませんけれども、例えば、詐偽投票などが多くあったので、この選挙は無効である、したがってやり直せ、そういったルートに乗っかっていって、一票の格差がおかしい、この選挙区はおかしい、したがって公職選挙法の別表全部がおかしいんだというような形で争うということを裁判所が認めたことによって、こういった訴訟が比較的多く提起されるようになったという事情があるわけです。

 信教の自由の関係でも、例えば、地鎮祭が最初リーディングケースでありましたけれども、ああいったことについても、政教分離というのは、これは客観的な制度であって、権利侵害はないから争えないと考えられていたものが、地方自治法の規定で、住民訴訟で、金銭の違法な支出である、この理屈でどうだということで争えるようになったということであって、したがって、仮に国のお金を使ったとしたケースであったとしても、これはなかなか現行の訴訟のルールでは難しいのかなと思います。

 私は、別に訴訟のテクニックについて今議論しようとしているのではありません。憲法保障という観点から、つまり人権を保障するという観点からいたしますと、必ずしも政教分離は人権ではないかもしれません、制度かもしれませんけれども、それを保障しようとしたときに、争うルールがないということになると、まさにこれは絵にかいたもちになってしまうわけであって、一つは、過日、参考人から御意見があったように、法律の制度として住民訴訟のような制度をつくるだとか、あるいは、そういうせりふは出てこなかったかもしれません、客観訴訟の制度を設けるということも一つの手かもしれませんし、それは法律論なんでしょうけれども、場合によっては、憲法論としては憲法裁判所をということも一つの考え方なのではないかと思います。

 以上です。

仙谷会長代理 予定の時間もございますので、御発言は、現在ネームプレートをお立てになっていらっしゃる園田君、小野君までとさせていただきます。

園田(康)委員 民主党の園田でございます。

 私も前回の小委員会のときに述べさせていただいたわけでございますけれども、今回のこの靖国問題、地鎮祭事件問題、あるいは玉ぐし料事件と、さまざまな日本の判例をかいま見たときに、先ほど山花委員からもお話がありましたように、五十二年の津地鎮祭事件がある種リーディングケースとなってきたわけでございます。しかし、残念ながら、その日本の判例の中におけるリーディングケースは、アメリカの目的効果基準、先ほど船田委員からも御指摘がありましたけれども、日本の目的効果基準と、それからアメリカの目的効果基準、これが若干違う部分がございます。

 すなわち、日本の場合は、アメリカと比べてどちらかといいますと厳格さに欠けている。すなわち、社会通念上に照らし合わせて過度のかかわり合いがあるかどうか、政治とそれから宗教とのかかわり合いがあるかどうか、社会通念上に照らし合わせて考慮する、判断するというところに不幸な、私から申し上げさせていただくならば不幸な歴史が出てきてしまったのではないのかなという気がいたしております。

 したがいまして、先ほどの話の中で、この信教の自由あるいは自由権の話の中で憲法改正論議に発展するのは考えにくいというお話がありましたけれども、どちらかというと、私見でございますけれども、日本の判例をもう少しきっちりと見直していくということを考えれば、憲法改正は、十分この中に、信教の自由の中でも当たるのではないか。すなわち、小委員会のところでも申し上げましたけれども、二十条一項の後段のさらに別段で、目的効果基準というものを明確にこの中に明記することによって、日本のこれからのこういったさまざまな政教分離に関する議論が明確になっていくのではないかというふうに考えております。

 以上でございます。

小野委員 いろいろな議論がございますが、この点は非常に根本的な部分の問題でございますので、あえてもう一言発言させていただきたいと思います。

 私がずっと申し上げてきた問題というのは、ダブルスタンダード化を生み出すのは、これは自由、権利の問題だけではなくて、法のもとにおける統治ということをすべてのところに及ぼそうとすると必ず起こってくる問題であると私は思うんですね。

 例えば、先ほどの靖国神社の総理参拝の問題につきましても、法における統治ということを言われるのならば、なぜ、その憲法のもとに、総理大臣は靖国神社に参拝してはならないという法律をつくらなかったんだろうと。つまり、学界の大勢がどうだとか判決において違憲のおそれがあるとか、こういうふうなあいまいなことを言いながら、それを実際やれば皆さんが批判を行うという、こういうあり方が本当に法のもとの統治の姿なのかという問題を一度考える必要があるような気持ちがいたしております。

 これは、ちょっと横道に入りますけれども、例えば政治家のさまざまな世論から指弾を受けるような問題についてもそうでございますが、法のもとにおいて政治家は制限をされる活動をしなきゃいけないということであるならば、法のみによって制限されるのであって、倫理的にどうであるという問題において批判されるいわれはない。こういうことも、その議論の中からは指摘できる問題になってくるわけでございますね。

 ですから、本当に法というものを日本社会がどうとらえながら今やってきているのか、理論としての議論と実態の国民が持っている感覚と、このあたりの乖離状態をきちんとやはり押さえながら論じていく必要があるという気持ちがいたしております。

 なお、いろいろと御指摘がありました、辻委員の方からは、私人と国家の関係でこの憲法があるんだという話。それならば、納税の義務にしろ勤労の義務にしろ就学の義務にしろ、なぜ国民に対する義務規定が憲法の中に入っているのか。このあたりも一度整理する議論を行わないと、一方では国民に対する義務を明記しておきながら、これは単に国民側が政府だけを制限するためにつくった契約なのだ、こういう議論はやはり成り立たない話だろうという気持ちがいたしている次第でございます。

 それともう一点、憲法というものは、日本の今までの政治的な意識からいくと、政府も国民も敵対するものというよりも、ともに社会をつくる存在としてあったような気持ちがしているところがあって、私は、二十一世紀には、こういう考え方の方が、お互いが敵対関係にあり、お互いが批判し合い制限し合うという関係ではなくて、お互いがいいところを伸ばし合う関係という、非常にこれはロマンチックな考え方だと批判されるかもしれませんが、理想を語るとするならば、そのような部分を織り込んだ憲法改正論を考えるべきだ、こんな思いを持っておりますので、その点、付言をしておきたいと思います。

    〔仙谷会長代理退席、会長着席〕

中山会長 それでは、これにて自由討議を終了いたします。

 次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。

    午前十一時五十八分散会

     ――――◇―――――

  〔本号(その一)参照〕

   派遣委員の広島県における意見聴取に関する記録

一、期日

   平成十六年三月十五日(月)

二、場所

   広島全日空ホテル

三、意見を聴取した問題

   日本国憲法について(特に、非常事態(安全保障を含む)と憲法、統治機構(地方自治を含む)のあり方及び基本的人権の保障のあり方)

四、出席者

 (1) 派遣委員

      座長 中山 太郎君

         渡海紀三朗君   船田  元君

         仙谷 由人君   山花 郁夫君

         斉藤 鉄夫君   山口 富男君

         土井たか子君

 (2) 意見陳述者

      公務員         佐藤 周一君

      広島大学大学院教授・医師   秀  道広君

      元広島平和記念資料館館長   高橋 昭博君

      団体職員   平田香奈子君

      社会福祉法人みどりの町理事長   岡田 孝裕君

      岡山県議会議員   小田 春人君

 (3) その他の出席者

                  井坂 信義君

                  今谷 賢二君

                  濱 喜代子君

     ――――◇―――――

    午後一時開議

中山座長 これより会議を開きます。

 私は、衆議院憲法調査会会長の中山太郎でございます。

 私がこの会議の座長を務めさせていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします。

 本調査会は、平成十二年一月二十日に設置されて以降、日本国憲法についての広範かつ総合的な調査を進めてまいりましたが、憲法は国民のものであるとの認識のもと、広く国民各層の皆様方から日本国憲法についての御意見を拝聴し、本調査会における議論の参考にさせていただくため、これまでに宮城県仙台市、兵庫県神戸市、愛知県名古屋市、沖縄県名護市、北海道札幌市、福岡県福岡市、石川県金沢市及び香川県高松市の八カ所において地方公聴会を開催してまいりました。

 本日は、九カ所目として御当地にて地方公聴会を開催することとなった次第でございます。

 この広島の地において、憲法調査会が地方公聴会を開催し、憲法に関する皆様方の御意見を伺う機会を得ましたことは、大変意義深いことであると考えます。

 広島市は、昭和二十年八月六日の原子爆弾の投下により、幾多のとうとい生命が一瞬にして失われた地であります。現在は、市民の皆様方の長年の御努力により、平和文化都市として発展を遂げていますが、それが過去の多くの犠牲を礎としていることを、我々は忘れてはならないと考えております。

 本日ここに、原子爆弾によりとうとい生命を失われた数多くの方々のみたまに対し、謹んで哀悼の意をささげるものでございます。そして、今なお原爆の後遺症に苦しんでおられる方々に対し、心からお見舞いを申し上げます。また、原爆で破壊された廃墟の中から立ち上がり、今日、百十万人の人口を擁する中枢都市を築き上げられた市民の皆様の並々ならぬ御努力に対し、深く敬意を表します。

 ここで、意見陳述者及び傍聴者の皆様方の御参考のため、本調査会の現在までの活動概要を簡単に御報告申し上げます。

 本調査会は、平成十二年に設置されて以降、日本国憲法の制定経緯、戦後の主な違憲判決及び二十一世紀の日本のあるべき姿をテーマに、日本国憲法についての広範かつ総合的な調査を行ってまいりました。

 一昨年からは、本調査会のもとに小委員会を設置し、専門的、効果的な調査を進め、今国会においても引き続き議論を重ねているところでございます。

 また、本調査会のメンバーをもって構成された調査議員団が四度にわたり海外に派遣され、一昨年は、英国、タイ及びシンガポールを初めとする東南アジア五カ国、中国及び韓国の憲法事情について、昨年は、米国、カナダ及びメキシコの憲法事情について調査をしてまいりました。

 一昨年十一月一日には、それまでの調査の経過及びその概要について取りまとめました衆議院憲法調査会中間報告書を衆議院議長に対して提出し、さらに同月二十九日には、中間報告書の提出の経緯及び概要について、衆議院本会議において報告を行っております。

 本調査会におきましては、今後とも、人権の尊重、主権在民、再び侵略国家とはならないとの三つの原則を堅持しつつ、新しい日本の国家像について、全国民的見地に立って、日本国憲法に関する広範かつ総合的な調査を進めてまいる所存でございます。

 意見陳述者の皆様には、御多用中にもかかわらず御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。どうか忌憚のない御意見をお述べいただくようお願い申し上げます。

 また、多数の傍聴者の皆様方をお迎えすることができましたことに深く感謝をいたしたいと存じます。

 それでは、まず、この会議の運営について御説明を申し上げます。

 会議の議事は、すべて衆議院における議事規則及び手続に準拠して行い、衆議院憲法調査会規程第六条に定める議事の整理、秩序の保持等は、座長であります私が行うことといたしております。発言される方は、その都度座長の許可を得て発言していただきますようお願い申し上げます。

 なお、この会議においては、御意見をお述べいただく方々から委員に対しての質疑はできないこととなっておりますので、あらかじめ御承知おき願いたいと存じます。

 また、傍聴の方は、お手元に配付しております傍聴注意事項に記載されているとおり、議場における言論に対して賛否を表明し、または拍手をしないこととなっておりますので、御注意をお願いいたします。

 本日の地方公聴会の議事は、衆議院における議事規則に準拠して行われます。

 衆議院憲法調査会規程第二十二条第二項には、「会長は、秩序保持のため、傍聴を制限し、又は傍聴人の退場を命ずることができる。」との規定がございますし、また、衆議院規則第七十四条には、「委員長は、委員会の秩序を保持するため、必要があるときは、傍聴人の退場を命ずることができる。」との規定がございます。

 傍聴されている方は、これらの趣旨を踏まえ、改めてお手元の傍聴注意事項をお読みいただき、御理解をいただきたく存じます。

 次に、議事の順序について申し上げます。

 最初に、意見陳述者の皆様方から御意見をお一人十五分以内でお述べいただき、その後、委員からの質疑にお答え願いたいと存じます。

 意見陳述者及び委員の発言時間の経過のお知らせでありますが、終了時間五分前にブザーを、また、終了時にもブザーを鳴らしてお知らせいたします。

 御発言は着席のままで結構でございます。

 なお、委員からの質疑終了後、時間の余裕がありましたら、本日ここにお集まりいただいた傍聴者の方々のうち何人かの方に、本日の公聴会に対する御感想を承りたいと存じます。

 それでは、御出席の方々を御紹介いたします。

 まず、派遣委員は、民主党・無所属クラブ仙谷由人会長代理、自由民主党船田元幹事、自由民主党渡海紀三朗委員、民主党・無所属クラブ山花郁夫幹事、公明党斉藤鉄夫委員、日本共産党山口富男委員、社会民主党・市民連合土井たか子委員、以上の方々でございます。

 次に、御意見をお述べいただく方々を御紹介させていただきます。

 公務員佐藤周一君、広島大学大学院教授・医師秀道広君、元広島平和記念資料館館長高橋昭博君、団体職員平田香奈子君、社会福祉法人みどりの町理事長岡田孝裕君、岡山県議会議員小田春人君、以上六名の方々でございます。

 それでは、佐藤周一君から御意見をお述べいただきたいと存じます。

佐藤周一君 まず初めに、意見を述べさせていただく機会をいただいたことに感謝申し上げます。

 私、佐藤周一です。

 私は、現行憲法が十分守られていないということを申し上げた上で、政府に現行の憲法を守らせることをまず徹底すべきであり、憲法の改定は必要ないとの立場から発言させていただきます。

 私は、地方公務員で、労働関係、それから現在は高齢者福祉関係の仕事をさせていただいております。また、平和について海外の人に伝えていく活動もお手伝いさせていただいております。そうしたこともあり、基本的人権をいかに保障するかを中心に申し上げたいと思います。

 現在、失業率は五%前後であり、特に若者では約一割に達しています。四百十七万人の若者がフリーターとなっています。広島県では、大学を出ても就職できない学生が、昨年の十一月末でも半分以上いました。フリーターは好きでやっているとか、若者の職業意識が低いからだとの議論もありますが、国民生活白書の調査でも、約七割がやむを得ずフリーターをしています。年金保険料なども払えない若者が大勢います。

 もちろん、中高年の失業も深刻です。職業訓練を自治体でも実施していますが、それを受けても就職口がない人が大半です。憲法の第二十七条は、「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。」としていますが、権利が侵害されている上、義務も果たしようのない人が多くいます。一方で、職につけたとしても、不安定、低賃金、長時間労働に甘んじざるを得ない人が多くいます。

 また、自殺者が全国で年間三万人以上に上っています。健康で文化的な最低限度の生活を送れない人が多く出ています。表面的には、株価や景気指標などが持ち直しているように見えますが、庶民の暮らし向きは苦しいままです。憲法二十五条に反する状況が生まれています。

 その上、今年度からは、地方交付税の大幅カットや年金保険料の引き上げ、高齢者への課税強化なども実施されます。自治体の首長からも、地方交付税のカットは詐欺的行為だとか、やみ討ちだといった怨嗟の声が上がっております。これでは、住民の暮らしを支えるための十分なサービス提供に支障が出てしまいます。せっかく回復の兆しが見え始めた景気に冷や水を浴びせることになるでしょう。

 かつて、生活保護をめぐる裁判で、憲法は努力目標という判断を裁判所が出したこともありました。当時の経済状態ならそうした弁明の余地もあり得たかもしれません。

 しかし、不況とはいえ、今や日本は世界最大の債権国でもあります。経常収支の黒字は過去最大です。財政が苦しいと言われています。確かに、国債の発行残高が巨額になっているのは事実なのですが、一方で、政府は昨年だけで二十兆円のドル買いの為替介入を行い、外貨準備高はウナギ登りになっています。この大半がアメリカの国債であり、アメリカの財政赤字を支えるためならお金を惜しまない日本政府が、日本国民のためにお金を惜しんでいる状況があります。また、金融機関には、いわゆる金融再生法によるものだけで二十五兆円の公的資金が投入されています。しかし、銀行の貸出額はふえず、むしろ銀行の国債保有額がふえているだけです。また、大手企業の多くも過去最高の利益を上げています。

 もし、こうしたゆがみを正し、例えば、失業保険の給付期間を現行法の枠内でも緊急に延長するとか、医療費の負担増はやめる、増税は当面見送るなどすれば、個人消費が回復するでしょう。ひいては、外需に頼らずに景気全体も回復します。改革なくして成長なしではなく、人権なくして成長なしではないでしょうか。憲法第二十五条に基づく経済政策を強く求めます。そもそも、経済とは経世済民の略です。庶民を苦しめることをしないでいただきたいと思います。憲法は、第九十九条にもあるとおり、政府が守るべきものです。

 また、ほかの人権についても、実際には十分保障されていないのが現状ではないでしょうか。言いかえれば、過度に制約されていると言えるのではないでしょうか。

 人権が制約されるのは、他者に迷惑をかける場合ということに限定的に解釈されるべきではないでしょうか。例えば、公務員については労働基本権が制限されています。また、国家公務員法による政治活動の制限などにより、市民的な自由も制限されています。しかし、例えば勤務時間外で公務員が選挙運動を行ったからといって、だれが迷惑するというのでしょうか。フランスでは、国家公務員である郵政職員が大統領選挙にも立候補したことが知られています。ドイツやアメリカでも、勤務時間外であるなら政治活動は自由です。日本の現状は行き過ぎではないでしょうか。

 現在、憲法を改定しようとする議論が高まっていますが、まずその前に、政府に現行憲法を守らせること、そのことを通じて人権を侵害させないようにするのが国会の役目ではないでしょうか。そのことがなければ、百歩譲って改憲の立場に立ってさえ、実は、改憲は何ら意味をなさないでしょう。なぜなら、そうなれば、変えられた後の憲法には何の重みもないからです。

 さて、基本的人権が保障されるためには、戦争がないことが絶対条件です。戦争は最大の人権侵害です。戦時には戦争がすべてに優先されてしまいます。戦争に役立たないとされた人が差別や迫害を受けたこともありました。そこまでいかなくとも、物を言いにくくなる雰囲気が醸成されるものです。

 政府は、復興支援の名のもと、全土が戦闘地域であるイラクへの自衛隊派遣を行いました。戦争に行くのではないと総理が幾ら答弁しても、アメリカ政府の高官はイラクを占領する連合国に加わってくれたと喜んでいます。また、今国会では、国民保護法制を初め、いわゆる有事法制の整備を急ごうとしています。

 軍服を着た組織の活用が、果たして、日本国民の、ひいては世界の人々の人権保障につながるものでしょうか。全くそうは思えません。これらの法律は、アメリカ政府の要求に応じて、アメリカの起こす戦争に日本が加担するために整備が進んでいるものです。アメリカ軍のために人権が制限されます。そして何より、日本国民のみならず、アメリカが攻撃する相手の国民の生存権を侵害するものです。

 イラクの人々に対して支援を行うことにはだれも異存はありません。しかし、問題は方法です。昨年来、私は、イラクの医師の方や現地で活動されているNGOの方からお話を伺う機会がありました。そこから考えるに、イラクの現状に対しては、深刻な失業率の改善や子供たちへの医療支援などが緊急の課題ではないかと考えます。そのことは、憲法二十五条や二十七条を世界に広げることでもあります。

 自衛隊の派遣のために三百億円もの予備費が必要と聞いていますが、それだけのお金があれば、ほかのことに使えたはずです。日本は、迷彩服ではなく、日本のやり方で立派に貢献できるのではないでしょうか。医療支援やインフラの復興など、民間人の手で十分行えます。

 第九条が一国平和主義であると批判する意見もありますが、九条の精神を生かし、米英軍の撤退を求めイラク人による国づくりを応援することが立派な国際貢献ではないでしょうか。

 といいますのも、イラクでは、米英軍による占領が始まってからテロと呼ばれる事態が起きるようになっています。また、自衛隊を派遣すれば日本にテロを行うという警告がテロリストから出ている今、加害者にならないことが被害者にならないということにつながる、このことがまさに言えるのではないでしょうか。何より、米英軍は劣化ウラン弾を使用し、放射能による環境汚染をもたらしました。この戦争は事実上の核戦争と言えます。こうした戦争の加害者の側に日本が立つことは、被爆県の県民として到底許せないことを強く申し上げます。

 さて、私は、インド、パキスタンの若者に広島に来て核の恐ろしさと平和について学んでいただく事業に携わっています。

 印パ両国は、イギリスの植民地支配の経緯から、分裂して独立し、戦争と軍拡競争を繰り返してきました。最近は関係も改善の動きもありますが、一時は核戦争のおそれさえありました。特に、パキスタンの国家予算の約四割が軍事費に注ぎ込まれ、経済発展と生活の向上を妨げてきました。

 先ほど、日本国内において、生存権の保障が不十分と申し上げましたが、今まで、憲法第九条があったがために、日本の防衛予算が抑えられ、その恩恵で、日本の経済も発展してきたし、一定程度は国民に生存権を保障してきたことは否定できないのではないでしょうか。そのことは、大いに世界に広げていくべきことではないでしょうか。世界的な軍縮の先頭に立つことが日本の役目ではないでしょうか。

 戦争や軍事による問題解決を志向する政治は、庶民に痛みを押しつけます。すなわち、基本的人権を保障していくには、平和が不可欠だと考えます。

 さて、我々が呼んだインド、パキスタンの若者も、多くの両国の人々と同様、核開発を肯定している場合もありました。しかし、そういう若者も、一週間という短期の間ではありますが、見る見るうちに成長していきました。平和の大使になると決意し、帰国していきました。核開発や軍備のために投資するのではなく、人間の安全保障のためにお金を使うべきといった発言が出るようになりました。最後には、インドの若者も、パキスタンの若者も、すっかり仲よく行動するようになりました。インドの若者三名は、先ごろ開かれた世界社会フォーラムで活躍しました。

 外交といえば、国家間の外交ばかりが着目される嫌いがあります。国際社会というとき、それは、国家だけで構成されている社会を想定しがちではないでしょうか。そして、憲法論議もそうした前提でされがちです。

 しかし、国家の指導者は、しばしば、自分たちが勝手に主張する正義の名のもとに戦争を行ってきました。その結果、多くの人の人権が破壊されてきました。時には民主主義の名のもとに他国への軍事介入が行われ、多くの市民が殺されました。先ほど触れましたイラク戦争もその例外ではありません。戦争により被害を受けるのは、いつも一般市民です。戦場で戦うのも、指導者ではなく、多くの場合、庶民が戦うのです。そして、指導者は、みずからの政治基盤を固めたり、経済的利益を手にしたりしているものです。あるいは、戦争までいかなくとも、例えば、いわゆるグローバリゼーションの美名のもと、指導者が一部の企業などの利益を図る政治を行う場合も多いのではないでしょうか。それによって、環境が破壊され、庶民の生活基盤が脅かされる場合もあります。

 日本国憲法で、主権者が国民であり、それを前文の精神に沿って世界に拡張して解釈するならば、地球に住む市民一人一人が主権者と言えます。国家は、万人の万人に対する闘争にならないよう主権者から権限をゆだねられているだけであり、憲法は、主権者が国家を規制する道具です。地球の主権者と言える市民同士が横で連帯し、信頼を醸成していき、また、それぞれの国の政府を変えていき、平和な世界を実現していくというのも、これからの人権保障のビジョンではないでしょうか。主権者が、法による支配を国際社会に取り戻させることが平和への道ではないでしょうか。広島に来たインド、パキスタンの若者のような人をふやしていく、そのことが平和につながっていく一つの手段ではないでしょうか。

 それが、憲法前文の目指す世界ではないでしょうか。そのことを考えれば、憲法第九条こそ人権を保障するための世界の指針ではないでしょうか。九条を絶対に変えてはいけないということを強く申し上げます。第九条を今からわざわざ変えることは歴史への逆行と言わざるを得ません。

 市民の横の連帯を政府は後押しすべきで、成果を台なしにするような行動はしないでいただきたいと思います。あるパキスタンの若者は、広島について、この町は、私にとって平和の使節であるだけでなく、平和の達成を目指す私を励まし、支えてくれる町ですと感想を述べています。この若者を失望させるべきではありません。

 さて、最初に、機会をいただき感謝申し上げますと述べましたが、この公聴会には私の多くの友人も意見陳述をしたいと応募しました。ところが、友人の仲間の中で選ばれたのは私だけです。

 いや、そもそも、この公聴会自体、どれほど多くの広島県民の方が御存じでしょうか。主権者を本当に主権者と考えておられるのであれば、もっと多くの方の意見が発表できるようにすべきではないでしょうか。せめて各県庁所在地では開いていただければと思います。

 そして、まず、憲法を政府が守っているかどうかを主権者が徹底的に検証し、国政に生かしていく場にしていくべきではないでしょうか。それがまず国会の役目ではないでしょうか。

 今回の公聴会をされたことをもって主権者の声を聞いたと安心されないよう、強くお願い申し上げます。

 御清聴ありがとうございました。

中山座長 ありがとうございました。

 次に、秀道広君にお願いいたします。

秀道広君 まず初めに、このような発表の機会を与えていただきました中山座長以下調査会の委員の先生方に深謝申し上げます。

 私は、世界で最初の被爆都市である広島に被爆二世として生を受けまして、私も、そして私の妻も何人かの親戚の命を原爆で失いました。当然、私は、広島で教育を受けてまいりましたから、原爆資料館を初めとして、種々の原爆での被害というものを学びながら育ってまいりました。その意味だけでも、広島は今回の安全保障に関して発言するのにふさわしい都市だと思っておりますが、広島にはまだ幾つかの要件というのがございます。

 広島には江田島という島がありまして、そこには、旧海軍兵学校、現在、海上自衛隊術科学校になっておりますが、そこの教育史料館には数々の遺書、遺品がありまして、人々の国や家族を守る気概とか生きざま、そして死にざまに触れることができます。

 近くは、北朝鮮に拉致されてその存否も危ぶまれております横田めぐみさんは、実は小学校時代を広島の小学校で過ごされておられまして、そのような意味で、私は、本日、今生きている人と、それから既に他界した人々に思いをはせながら、意見を陳述させていただきたいと思います。

 私の意見陳述の立場は、我が国が積極的に国際平和に貢献するために、憲法の前文の改正と九条二項の削除を求めるものでございます。

 およそ人と社会が生きて活動を営む限り、それが天災であれ人災であれ、予期し得ない出来事が起こるということは、だれも防ぐことはできないと思います。

 心ある人であれば、だれもが平和を望みます。だれもが争いは避けたいと願っていると思います。しかし、人々にはそれぞれの利益や考え方がございまして、国家もまたしかりでございます。それぞれの国は、独自の考え方と利害があります。イラク、イスラエルに代表されるように、今なお世界のあちこちで、国家間の意見の相違や対立、それからテロや武力紛争が頻発しています。その犠牲となられた人たちのことを思うと大変心が痛みますけれども、では、このような国際的な対立ということが、未来、将来、完全になくすことができるかといいますと、対立そのものがなくなるということは不可能であると思います。

 したがって、武力衝突をなくすための努力は必要ですけれども、一方的に日本だけが武力を放棄すれば問題が解決すると考えるのは余りにも楽天的であって、なおかつ、行政府がそのような立場に立つということは、この上ない無責任だと私は思います。

 幸い、我が国は、戦後五十九年の長きにわたって、平和憲法を掲げて、平和と個人の権利、自由の拡大を享受してくることができました。しかし、それはむしろ僥幸というべきものであって、今後とも長く同じ状態が続くという保証はどこにもないと思います。

 我が国の周辺では、中国による我が国の排他的経済水域における不法な観測が行われておりますし、北朝鮮船舶による覚せい剤の密輸、それから、我が国の頭越しにミサイルの発射実験が行われたことは、広く国民の知るところでございます。そして何よりも、昨今明らかになったことは、何人もの日本人同胞の、日本国民の北朝鮮による拉致の実態でございます。

 これらの事象に関して、一部には、我が国が憲法の精神を守らずに、それらの国への謝罪が足りないから起こるという考え方を持った人もおられるようでございます。しかし、どれほどの人が本気でそのようなことを考えておられるのか、私は甚だ疑問でございます。

 謝罪と補償が不足していると言われるのであれば、具体的に、どれぐらい不足しているのか、いつまでに幾らのお金を払えばよいのか、具体的な目安をぜひ示していただきたいと思います。少なくとも、歴史的には、我が国は、サンフランシスコ条約等で戦後処理というのは既に清算しておりますし、たくさんの犠牲あるいはお金を払ってきた経緯がございます。本来、不足しているのは、いつまでも日本がそれらの国々に対して謝罪や補償を繰り返すことではなくて、既にやってきたことについての啓蒙も必要ではないかと思います。

 一方、海外に目を向けますと、経済は限りなくグローバル化を続けておりまして、現在、日本人は世界じゅうに散らばって働いています。でも、一歩日本を出たときに、日本の国民の生命と安全を守るものは何かといいますと、その視点で、我が国の国民は甚だ危険な状態にさらされていると言わざるを得ません。

 イラクでは二人の日本人イラク大使が殺害されたことは記憶に新しいですし、湾岸戦争のときには、在イラクの日本人は、戦時に際して国外避難をする必要がありましたけれども、そのときの輸送機すら日本国内からは確保されなかったことも比較的記憶に新しいところでございます。

 日本人が現在のような生活を、あるいは国際的な活動を続けるために、もはや戦争あるいは国際紛争に巻き込まれることなく暮らしていくことはできないというのが現在の状況であると思います。

 また、我が国は、好むと好まざるとにかかわらず、世界的に見て、人口、経済活動、技術力などのいずれの面でも国際的に大きな影響力を持っています。ODA協力のみならず、近年、多くの国際紛争の場にPKFあるいはPKOの形で貢献をしてきています。今般の自衛隊のイラク派兵については、アナン国連事務総長は、二十四日の国会演説で自衛隊のサマワ派遣を高く評価しました。事ほどさように、我が国は世界各国から種々の形で国際貢献を求められているということは逃れることはできないと思います。

 私は医療の現場で働いておりますけれども、昨今の医療の現場で特に強調されていることの中に、リスクマネジメントという言葉がございます。それは日本語では危機管理と訳すことができるかと思います。その精神というのは、医療事故は必ず起こる、どんなに防ごうとしても必ず起こるという前提に立って、むしろ、起こさないことよりも、起きてしまったときに、それが最小限の被害で済むように、また、一たん起きたことは二度と同じことが起きないようにしようという立場でございまして、それは、単に事故を起こさないという決意だけではなくて、具体的な対策を立てることを重視する姿勢でもございます。

 同様に、国家にとっても、戦争、拉致、領土の侵犯といったような国家主権の侵害はあってはならないことではございますけれども、万一起こったときには対応できるための準備をしておくということは、ぜひ必要なことであると思います。

 目的は戦争を起こさないということにあるのであって、軍隊を持たないということが目的ではないと思います。憲法もまたそのための手段であって、最終目的ではないと思います。憲法が時代に合わなくなってきているわけですから、憲法の方を変えるべきであると思います。

 以上のような現状の認識は広く国民の間に認識されていて、我が国独自の軍隊及び関連法案の整備が必要なことは多く国民の同意するところとなっていると思います。広島の市民、県民、あるいは被爆者が、私を含めまして、すべて自衛隊の国軍化に反対していると思うのは誤った状況認識であると思います。

 政府は、我が国の国防に関する事項については、過去何度もアジア近隣諸国への配慮という言葉を使ってこられました。中国、韓国、北朝鮮の行政府は、自国の政治的利害から、我が国が軍隊を持つことには反対されるかもしれません。それは、行政的な立場からその国の主張の自由でございます。ただ、それがどこまでアジア諸国の多くの国民の声を反映したものであるかということについては甚だ疑わしいのではないかと思います。

 以上、軍隊を持つ必然性について述べてまいりましたけれども、もちろん、軍隊の設置に関しては幾つかの危険性や留意事項がございます。そもそも、軍隊というのは人の生命を殺傷する能力を持つ組織でございます。歴史上、軍の暴走が悲惨な結果をもたらした例があるということは、だれもが認識していると思います。問題は、それをいかに正しく機能させるかということにあると思います。現状では自衛隊というのは極めてあいまいな位置づけにございます。

 では、国軍に必要なことはどういうことでしょうか。それは名誉と責任と可能な限りの安全対策を与えることであると思います。現在では、イラクに派遣された自衛官は、名誉も自分自身を守る生命の安全も極めて劣悪な条件にあります。遺書を書いてまで中東の危険地域への任務につかれている自衛官には大変申しわけない思いでございます。

 それから、シビリアンコントロール。これは当然、軍の横暴や暴走の可能性は意識して、それを防ぐためのシステムは必要でございまして、できる限り国民にわかりやすい説明が必要であると思います。

 そして、何よりも大切なことは、軍隊の守る国家アイデンティティーの明確化でございます。国家の役割というものは、生命と財産及び自由を守ることだとよく言われます。しかし、それはいわば行政府の役割でございまして、軍は、独立した国家の成り立ち、特にその国の歴史を踏まえた誇りある理念に立脚したものである必要があると思います。軍隊が守るものは、国民の生命、財産、自由とともに、国民の名誉であるべきであると思います。そのような精神のないところからは、命がけで国民を守るという働きは生まれないと思います。したがって、憲法の九条二項の削除と同時に、その点を明らかにすべく、憲法の前文の改正が必須であると思います。

 我が国は、さきの大戦を通して、なかんずく広島は、平和のための使命を帯びたと言ってよいと思います。多くの国民も市民も、平和に対して強い気持ちを持っていると思います。そして、高い技術力、経済力を背景に、国際社会の中において名誉ある立場を占めたいという気持ちも、また多くの国民の共有するところであると思います。ただ、その気持ちは、現状のような交戦権の放棄と戦争回避のための思考停止ではなくて、積極的な平和活動として表現されるべきであると思います。

 現在の憲法の最大の問題点の一つは、戦争の開始、あるいは起きてしまった戦争の被害を最小限にとどめるための方策を立てる気持ち、あるいは命がけで平和を守るための心すらも失わせたところにあると思います。自衛隊が合憲か違憲か、あるいは戦争があるかないかという議論は、いわば不毛な議論でありまして、平和で生きがいのある社会をつくっていくための具体的な議論が今後必要であると思います。

 このような主張をいたしますと、おまえは広島で生まれ育って、平和運動についてどのように思うのかということをしばしば聞かれることがございます。私のこの憲法改正の意見陳述を通して申し上げたいあるべき平和運動の姿というのは、他者に対する恨みや要求から出発する運動ではなくて、死者に対する悼みや感謝から出発する運動である必要があると思います。平和は、そのものが目的ではなくて、人々が生きがいを持って生きるための手段であって、みずからをも犠牲にして守るという決意に裏打ちされたものである必要があると思います。

 最後に、誤った平和運動、あるいは誤った憲法によって、日本は消えてなくなってしまった方がよいという気持ちになるような平和運動や教育であるのは間違いであって、先人の志を継いで日本をよい国にしていこうという気持ちが喚起されるような平和運動であり、憲法あるいはその前文であることを主張して、私の意見陳述とさせていただきます。

 御清聴ありがとうございました。

中山座長 ありがとうございました。

 次に、高橋昭博君にお願いいたします。

高橋昭博君 私は高橋昭博と申します。どうぞよろしくお願いいたします。

 さて、去る二月十四日、海上自衛隊の輸送艦「おおすみ」が軍艦マーチの演奏に送られて呉港を出港する様子を見て、かつての戦争中をまざまざと思い出しました。日の丸の小旗を振って出征兵士を送る日々のことや、ラジオから流れる軍艦マーチの前奏の後の大本営発表のことなどを思い出しました。自衛隊のイラク派遣を支持する人々の中にも、何で軍艦マーチなのか、まるで戦争に行くようなものだといぶかる人がかなりいました。自衛隊はまさに軍隊そのものであると強く感じました。今や日本は恐ろしい時代に突入したと、背筋の寒くなる思いがいたしました。

 私は、第二次大戦下を小学生として、また中学生として生きてきました。小学生のとき、「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」という教科書で軍国教育を受けてきました。中学生になって、私は、茨城県霞ケ浦にあった海軍少年航空隊に志願することを強く望んでおりました。七つボタンの格好いい海軍少年航空兵にあこがれていました。そして、少年航空兵になった暁には、敵地に乗り込んでいって敵兵を一人でも多く殺してやろうと意気込んでいました。日本が戦争に勝つためには、敵兵を殺すことは正しいことだ、必要なことなんだと、軍国教育の中で教えられ、それを信じて生きてきました。

 一九四五年八月十五日、日本は戦争に負けました。軍国主義の誤りもわかりました。さらに、中国を初めとするアジア諸国に侵略戦争を起こし、朝鮮半島に対しては三十六年間にわたって植民地支配を行い、アジア諸国民に大きな苦しみと深い悲しみを与えたこともわかりました。日本は大きな過ちを犯しました。日本のこうした戦争責任は、基本的には日本政府にあることは言うまでもありません。しかし、戦争中たとえ私が少年であったとはいえ、戦争中を生きてきた日本人の一人として、私自身も日本が引き起こした戦争には深く反省をしなければならないと思っております。人を殺すことが正しいことだ、そういう軍国教育を受けたとはいえ、そのような考え方を持ったこと自体、やはり間違いであったと強く反省をしております。

 そうした日本が引き起こした戦争の中で、一九四五年八月六日午前八時十五分、世界最初の原子爆弾が広島に投下されました。私は中学二年生、十四歳でした。爆心地から一・四キロメートルの校庭で被爆しました。後頭部、背中、両手、両足など、体の三分の一以上に大やけどを負い、一年半の闘病生活の後、文字どおり九死に一生を得ました。級友およそ六十名のうち、私を含め十四名が現在生き残っています。私はわずかな生き残りの一人でございます。級友たちは、原爆の威力、破壊力を試す実験によって無残に殺されました。あえてアメリカが殺したとは言いませんが、アメリカはむごいことをしたものです。なぜ、いたいけな少年少女たちが一度に大量に殺されなければならなかったのでしょうか。

 亡くなった級友たちの死をむだにしないために、私たち生き残った者が、亡くなった級友たちにかわって、平和に生きる世界を築く責任を果たしていかなければなりません。忌まわしい戦争を再び起こしてはならない、核兵器は絶対悪として一日も早く廃絶しなければならない、それらを実現することが、亡くなった級友たちへの務めを果たすことになると思っております。級友たちのありし日を思い出しながら、近く七十三歳を迎える私は、今なお生きることの意味を問い直す日々でございます。

 私は、被爆の後障害と思われる慢性肝炎を初め、間質性肺炎、白内障、両ひざ関節炎など、幾多の病気を抱えています。殊に、慢性肝炎は一九七一年の発病以来、既に十四回の入退院を繰り返しながら、今なお一週間に三、四回の注射のため通院しております。私は日々が不安でなりません。今、生きることの苦しさ、生きることの厳しさを痛感しております。このような病弱な体にむち打ちながら、被爆体験を語り始めて三十二年、ざっと三千回、三十万人の若い世代を中心にした人たちが耳を傾けてくれました。

 私は、被爆の苦しみや悲しみ、そして憎しみを乗り越え、恨みつらみを克服して、戦争のない平和の喜びをかみしめながら立ち直ることができました。それは、世界に冠たる戦争放棄と平和主義をうたった日本国憲法があったからにほかなりません。その憲法を見直しすることが本格的に政治日程に上がってきました。私は、憲法の見直し、とりわけ第九条の見直しには断固反対であります。第九条は平和国家日本の魂であります。光り輝く宝石でもあります。戦争の廃絶を目指し、時代を先取りしたすぐれたものであります。平和に生きる私の強い支えになってきました。

 第九条の条文を素直に読めば、自衛隊は日本にはあってはならない存在です。自衛隊は戦力であり軍隊であります。仮に一歩も二歩も譲って自衛力として認めるにしても、自衛隊が重装備でイラクへ派遣されることは憲法じゅうりんも甚だしいと言わなければなりません。営々と築いてきた平和国家日本の歴史的大転換であり、今、その日本ががらがらと音を立てて崩れています。さらに、政府は、事もあろうに報道管制をしこうとしております。今や日本は、戦前へ戦前へと大きくかじを切り、逆戻りをしております。

 十年前、郵政大臣であった小泉首相は、日本人が血を流して戦うのは自国民の平和と自由が侵されたときだけであり、残念ながらよその国のためにそこまでの国際貢献はできないと世界に表明したのであると言っています。同じ人間が、今回、自衛隊をイラクに派遣しました。同じ人間としての整合性は全くないと断じざるを得ません。

 一方、二〇〇二年の段階で、日本は米国に次いで世界第二位の軍事費大国になっています。こうした軍事費大国を憲法は決して許していないと思います。軍事費大国になるために私は血のにじむ思いで税金を納めてきたのではありません。

 第九条の見直しによって見えてくるのは、徴兵制の施行であり、核兵器の保有であります。もとより、非核三原則の見直しも視野に入っています。被爆者として絶対に黙視することはできません。

 私がユネスコ活動で出会ったある女性の大学生の息子さんが、僕が戦争に行くことはまずないんだろうね、だが僕の子供は将来戦争に行くことになるかもしれないねと言ったということです。その女性は言葉を失ってしまったそうです。もう一人、やはりユネスコ協会で一緒に活動しているある男性は、僕がたとえ殺されても、相手を殺す人間にはなりたくないと言いました。そして、第九条は世界に広く発信すべきすばらしい条文だと言いました。彼は、一九九〇年から二年間、ドミニカ共和国へ、電気関係技術供与のため、海外青年協力隊の一員として出向きました。彼には頭脳明晰なすばらしい二人の息子さんがいます。彼らが、いつか来た道を歩き、戦場へ駆り出されることのないように祈るばかりです。いま一人、マレーシアのマハティール前首相は、戦争世代がいなくなったら日本は核兵器を持つだろうと言っています。

 我が国は、第九条を堅持し、平和外交を基調とする全方位外交を果敢に展開しなければなりません。世界に一つや二つ、軍隊を持たない国があってもいいではありませんか。被爆国日本として、そうした理想と気概を持ってもいいではありませんか。かつての沖縄戦で日本の軍隊は住民を守りましたか。守るどころか、むしろ盾にして集団自決を強いたではありませんか。私は、もう軍隊は真っ平です。戦争は真っ平御免です。

 「国家であれ、民族であれ、外からの攻撃によって崩壊するのではなく、内に創造力が失われた瞬間から滅亡が始まる」、二十世紀の最もすぐれた文明史家であるイギリスのアーノルド・ジョセフ・トインビーの言葉を私たちはかみしめたいものです。我が国は今、まさに崩壊過程にあるように思えてなりません。憲法の見直しより、政治家も国民もともに英知を結集し、総力を挙げて解決しなければならない緊急な課題が山積しているではありませんか。

 なぜ政治家や官僚の汚職がなくならないのでしょうか。政治不信を一刻も早く解消しなければなりません。少し明るさが出てきたと言われる経済をさらに再生させ、金融破綻を克服しなければなりません。その金融破綻によって自殺者が非常に多くなっていることは大きな社会問題であります。教育、とりわけ家庭教育を破壊から救い、親子のきずなを早急に取り戻さなければなりません。

 治安が乱れに乱れています。各地の刑務所が満杯と聞きます。いかに犯罪者が増加しているかを如実に物語っています。昨年一年間に殺人や強盗などの凶悪犯罪を起こして補導された十四歳未満の少年は、前年比四七・二%増の二百十二人と、一九八七年以来十六年ぶりに二百人を超えました。凶悪犯罪で摘発された十四歳以上の少年も、二千二百十二人で、昨年より一一・四%ふえました。犯罪大国に成り下がったのでしょうか。この状況を放置することはできません。さらには、医療ミスが相次ぎ、狂牛病や鳥インフルエンザなどの被害が多発し、食料の自給率が低い日本は深刻な課題を改めて突きつけられています。情報流出が後を絶ちません。

 憲法を見直すより、自衛隊をイラクに派遣するより、世界一安全で平和な日本の復活をなし遂げる努力こそ、今最大の急務と言わなければなりません。

 本日、私にこのような機会をお与えくださった皆様に心から感謝いたします。ありがとうございました。

中山座長 ありがとうございました。

 次に、平田香奈子君にお願いいたします。

平田香奈子君 岡山で平和の運動を進めていく団体の事務局員をしています平田と申します。よろしくお願いします。

 私は、高校生のころ、海外の自然や文化にとても興味があって、英語も好きでしたし、国際とかインターナショナルとつくものが大好きでした。ですから、いろいろな環境問題、国際問題をそれなりに知るようになり、自分がそういう問題に対して何かできないかと思うようになりました。NGOのボランティアに参加して、マレーシアで植林をしたり、地雷撤去の団体にもかかわった経験があります。

 そして、そういった国際的な問題を知ったときに、自分の国は何をしているんだろう、どういう立場をとっているんだろうと気になりました。難民問題への態度や、環境と原発問題、核兵器のことなどを知るにつれ、どうも納得できないことが多いと感じました。

 核兵器の問題でいうと、サミット参加国の多くが核兵器を保有していて、何万発もの核兵器が実際に今も存在しています。核兵器が要らないことは、私たちの感覚からすればとてもはっきりしているし、唯一の被爆国である日本が、核兵器をなくしていこうと言っていくべきではないのかというふうに思います。

 それから、よく私が思ってきたことは、戦争責任についてです。なぜちゃんと謝っていないのだろうと思ってきました。日本がアジア諸国を侵略したことは明らかなのにです。それが、いまだにアジアの人々を苦しめています。

 日本では、学校教育で本当の歴史がちゃんと教えられていないと思います。私は、アジアの国々が特に好きだったのですが、本当の歴史を知っておかないと、もし自分がアジアに行ったとき恥ずかしい思いをする、旅行にも行けないと思ってきました。これからの日本を担っていく私たちの世代がこうした歴史を知ることは、友好関係や平和な世界をつくるために絶対に必要なことだと思います。なぜしっかり教えてくれないのでしょうか。過ちから目をそらすことより、過ちから学び、同じ過ちを繰り返さないことの方が、よっぽど誇れる態度ではないでしょうか。

 また、私は、小中高と学校で憲法を学んだ記憶がほとんどありません。それでも、日本の憲法が平和憲法であること、戦争は二度としないとうたっていることは知っていました。平和憲法を持って、経済的にも先進国だと言われている日本が、なぜ世界の平和を先導していかないのか、苦しんでいる人々に対して本当に必要な、喜ばれる支援をしていないのか、疑問に思ってきました。

 こういったことを漠然と感じていたわけですが、二〇〇二年に有事法制が国会で議論されるようになったとき、これは何となくやばいと感じました。どういうことだと思って、本を買って勉強しました。私が政治の問題に関心を持つようになったのはこのときからです。

 そして、昨年秋の総選挙で、改憲が公約にはっきり掲げられました。正直、とても驚きました。憲法が変わることはないだろうと思ってきたからです。とんでもないと思いました。こうした動きが出てきてから、私は憲法を本格的に勉強するようになりました。

 憲法を学び始めて一番強く感じたのは、やっぱり憲法は変える必要がないということでした。憲法に書かれていることを今の政府や国の政治を担っている人たちが全然守っていない、実行していないということの方に問題があると思いました。だから、現実と憲法とにギャップがあるなんて言うのは、ギャップをつくってきた人たちが言うべき言葉ではないと思います。

 国の安全保障について言えば、戦争を前提にしてはいけないと思います。有事法制は、戦争を前提に持ってきているところが全然だめだと思っています。非常事態と言われるものを起こさないようにするのが本来の外交です。

 日本は、半世紀以上前、アジア諸国を侵略し、大きな戦争を引き起こしました。その戦争でたくさんの人々の命、生活を奪いました。その反省と、もう戦争は二度としないという誓いのもとに日本国憲法は生まれたのだと思います。そして、実際に、日本はそれから一度も戦争をしていないし、武力を持って他国の人を殺すこともありませんでした。

 ところが、今の政府のやっていることは、そうした約束をないがしろにして、自衛隊のイラク派兵や有事法制の整備など、戦争への道をどんどん突き進んできています。それがアジアの人々に対してどれだけ脅威となり、また、怒りを生んでいるでしょうか。小泉首相が靖国神社を参拝するたびに、よくそんなことができるなと思います。あの行為がどれだけアジアの人々を傷つけているかと思います。やめてほしいです。

 私は、アジアの人々と対等な関係になりたいと思っています。今は対等でいることができません。日本があの戦争で与えた加害の事実を、政府が認めず、反省もせず、十分な補償も行っていないからです。これらの問題に対しては、日本人の関心の低さもありますが、きちんと学校で教えられないからだと思います。中国における毒ガス兵器の遺棄、在日コリアンへの差別、従軍慰安婦問題など、たくさんあります。それらが解決されるまでは対等な関係はつくれないと思っています。

 日本人が思っているより世界の人々は日本のことを見ています。アメリカのイラク攻撃に日本がいち早く支持を表明したことで、中東では反日感情が生まれてしまいました。反日デモまで起こりました。とても悲しいことです。

 そして今、自衛隊はイラクへ人道復興支援を掲げて出ていきました。しかし、その法的な地位は占領軍の一員であり、連合国暫定当局の指揮下に置かれています。戦時と同じように、人道という言葉が使われていることに注視しなければなりません。つい二日前も、戦争体験者のお話を聞く機会がありました。日の丸の旗を振って自衛隊を見送る家族の姿があの時代のようで本当に恐ろしいとおっしゃっていました。

 私たちは、戦後生まれで、戦争を知らない世代ですが、戦争を起こさないようにする責任はあります。私は、平和な世界をつくっていきたいと思います。それは、憲法の掲げる理念と同じで、戦争が嫌だからです。戦争で死ぬなんてばからしいと思います。そんなもったいない死に方をするために生まれてきたわけではありません。だれでも幸せを追求する権利があります。国のために死ぬのが名誉だなんて、絶対おかしいです。

 正義の戦争というものもありません。自衛や安全保障を掲げて武力を持つことも時代おくれです。暴力に対して暴力では何も解決できません。今度のイラク戦争や中東問題の歴史を見れば、それがわかるはずです。

 テロは貧困から起こります。世界は僕らを見てくれていないという絶望から起こっています。貧困や差別を世界からなくす努力をしよう、そして、平和の中で生存する権利がどんな人々にもあるのだということを世界に向けて唱えているのが、憲法です。全然、理想主義ではありません。

 憲法は、武力を持つことも放棄しています。弱そうに見えて、実は一番勇気の要る態度です。こちらが武器を持ちながら相手に戦争をするなと言っても、半分説得力がないのです。

 日本は、どこかで紛争が起こったら、真っ先に丸腰で飛んでいって、戦争はだめだ、それは私たちも嫌というほど体験した、対話で解決しようと言うべきなのです。これはなかなか説得力があると思います。唯一の被爆国であり、憲法九条を持つ日本だけができる外交です。それでこそ、国際社会において名誉ある地位を得られるのだと思います。

 また、二十一世紀に平和な世界をつくろうという流れは、ますます強まっています。イラク戦争では、米英の戦争を支持する国の数より、戦争を支持しない国の数の方が圧倒的に多かったのです。

 世界各地では、数千万の人々がデモや集会に参加しました。これまでデモや集会が原則禁止だったエジプトでは、イラク戦争に反対する集会が何度も開かれ、時には百万人を超えた集会も開かれたということを知りました。アメリカと長年の同盟国であるトルコでも、イラク戦争のときは、アメリカの地上軍にトルコの領土を使わせませんでした。

 戦争はやめよう、平和な世界をつくろうという世界の人々の思いは、どんどん広がり力強くなってきていると思います。

 私の住む岡山でも、三月二十日のイラク戦争一周年の日、千人が集まって、人文字やピースウオークなどの平和の取り組みを予定しています。若者が中心となって実行委員会をつくってやっています。スローガンは「戦争でなく平和を」です。それが普通の人々の当たり前の思いなのだと思います。こういう時代だからこそ、憲法の平和主義を世界に広げることができるし、また、それが必要なのだと思います。

 私は、この憲法は世界に誇れるものだと思います。全然、変える必要なんてありません。

 憲法を調査する前に、日本の政府や国会は憲法を守ってください。憲法に書いてあることを真剣に実行してみて、その結果を調査してほしいと思います。

 憲法は日本の最高のルールです。それはだれかが勝手に頭で考えたものではなく、あの悲惨な戦争の体験、人類の自由を求める闘いの到達が条文に書き込まれているのです。

 私は、憲法を変えることに反対します。

 以上で終わります。

 ありがとうございました。

中山座長 ありがとうございました。

 次に、岡田孝裕君にお願いいたします。

岡田孝裕君 広島県の岡田孝裕であります。

 私は、統治機構、特に地方自治について意見を陳述いたします。

 我が国の地方自治は、長い間三割自治と言われてまいりました。このことは、民主主義国家を形成する上で最も重要な役割を持ちその基盤となるべき地方自治が、不十分で未発達であることを如実に示しております。明治以来、欧米先進国に追いつくため強力な中央集権国家の形成を目指した国家目標が、戦後も一貫して受け継がれ、国による地方統制、国と地方の主従関係が定着してまいっております。

 近年、この問題に関する世論の高まりから、地方分権一括法の制定等により、理念、法制両面の改革は一定の成果を得ておりますが、三割自治とやゆされたその実態は変わらず、特に地方自治の根幹である財政面において国に大きく依存し、地方の自立を弱めております。

 私は、長い間地方政治にかかわった経験から、二十一世紀を展望しますとき、内政としては地方自治の確立こそ最も重要な課題であると考えております。

 まず最初に、地方自治の現状と問題点について述べてみたいと存じます。

 高度成長期を契機として、過密過疎の問題、特に東京への一極集中が進行し、政治、経済、社会各面において中央集権的意識が醸成され、大きなひずみをもたらしますとともに、常に東京の気配をうかがって物を考える中央志向の弊害をもたらしてまいりました。政治的な面で申し上げますと、霞が関で計画された政策が全国一律の画一的事業となって展開され、地方の創意工夫を減退させ、国に頼っていれば何事も無難であるという受け身の態勢をつくり出してきております。都道府県、市町村の首長は、中央への陳情、予算獲得が最も重要な仕事であったと思います。よらしむべしという封建社会の政治の風土が、二十世紀後半においても形を変えて生き続けてきた感がいたしております。

 自主自立の精神と自己責任が求められる地方自治の基本原則において、このことを大きな課題として認識すべきものと考えております。

 第二は、国と地方の業務分担と財政についてであります。

 小泉首相は、構造改革の中で、地方にできることは地方にと言われておりますが、現在でもその業務の割合は、国が四に対して地方が六の割合になっております。この業務の割合からいけば、当然収入もそのような割合になるべきところですが、実際は六対四と逆転した状況になっており、余った二の部分を地方に分配する仕組みであります。補助金や地方交付税等、財政を通した国から地方への関与が深まり、地方は財源保障を求めて国に依存し、国はこれによって地方をコントロールしていく仕組みができ上がっております。三位一体の改革は、この状況を変革していこうという考えに基づくものです。補助金と地方交付税を減額すると同時に、それにかわる税源を地方に移譲して地方財政の自立を図ろうとするもので、方向性としては間違いではないと思いますが、その実現は容易ではない現状にあります。

 私が特に強調いたしますことは、地方交付税制度が大きな問題をはらんでいることであります。

 地方の財政的格差を是正、補完する本来の役割が地域振興や景気対策にまで拡大され、交付税措置という形で肥大化、多様化され、地方交付税特別会計は膨大な赤字が累積されております。このようなことが持続可能であるとは考えられません。抜本的な改革が求められております。これらの課題を含め、地方財政を地方自治の原点に照らして再構築することが必要であります。

 第三は、地方自治の階層制と自治体の規模の問題であります。

 一般的に都道府県と市町村の二層制と考えられますが、国と県との間に存在する国の出先機関、いわゆる地方局と、県と市町村の間に存在する地域事務所、このことを考えますと、市町村から国まで四層になっていることになります。この重層制の存在、なかんずく国の出先機関は、国の政治と地方の政治を雑然と重複させ、官僚政治を助長して地方分権を阻害しているように思います。

 人口の都市への集中と山間部や中山間地域の人口減少によって、自治体の規模は二極化し、巨大都市と極小町村を生んでおります。都道府県の中にあるにもかかわらず、同じような権限を持つ政令都市が指定され、議員の重複構造や対抗意識等問題があります。人口規模による権限の大小は当然でありますが、対症療法の継ぎはぎから生まれたいびつな構造を改める必要があると思います。

 次に、現憲法における地方自治の位置づけについて申し述べます。

 第八章四カ条の簡単な文言になっております。

 当時の状況を推察いたしますと、敗戦によって国家が崩壊した直後、民主主義国家建設の全く新たな実験をしていく状況の中では貴重な条文であったと評価できます。しかし、憲法制定後五十数年を経過した現在、民主主義は定着し、その理念は深く浸透して、国民にとってかけがえのない財産になっております。このように成熟しつつある民主主義をさらに強固なものに育てていくには、憲法における位置づけも現状のままでは不十分と考えます。

 しかも、この四カ条を読んでみますと、法律で定めるとか法律の範囲内で等、法律に授権する条項が多く、中核的文言である地方自治の本旨も極めて抽象的表現で、内容が不明確であります。ぜひとも地方自治の基本理念をあらわすものに改正が必要であります。

 次に、私の地方自治の理想像について申し述べます。

 我が国は、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重を目指した現憲法のもと、平和で民主的で豊かな国に成長してまいりました。その間、消費財の充足によって基本的な欲求がかなえられ、人々の新たな関心は、楽しみや知識、言いかえれば、芸術、科学、文化、教育、スポーツ等の人生の喜びや楽しみという非物的価値観を重視する生活スタイルに傾斜してきております。これらを実現する場は、家族、近隣社会、地域社会という狭い範囲、顔の見える身近な地域であろうと考えます。国家から見れば一つ一つの細胞のような小さな存在である地域社会が、基礎自治体の中にあって生きた活動体として住民自治と地域福祉が着実に行われることに期待するものであります。

 次に、基礎自治体と言われる市町村であります。

 昭和三十年前後に実施された昭和の大合併、これによって成立した自治体は、平均八千人以上の人口を持つ町村を目標に、国の強力な指導のもとに誕生いたしました。成立後十五年を経過した昭和四十五年には、過疎対策特別措置法等、国による強力な支援を受けましたが、広島県を例にとってみましても、平成十四年時点で、人口五千人以下の町村が、全八十六市町村のうち三十四町村もできました。あわせて住民の高齢化が進み、過疎地域にある約二千三百余の集落のうちには、葬式も出せないというようなことが起こっております。

 この実態を見ますと、現在進行中の市町村合併は避けて通ることができない必然性があると思います。基礎自治体を強化し、行政の効率化を図って、周辺にある条件不利地域の面倒を見ていくことを目指すべきであります。

 市町村の単位を人口一万人以上とすることは当然であり、もし、それ以下の人口の町村を現状のまま維持しようとするならば、行政権限を縮小し、業務を減らしてスリム化を図らなければならないと思います。全国の基礎自治体を千前後に持っていくことが妥当であります。

 そして、大切なことは、基礎自治体に住んでいる人口の半分以上が地方交付税を受けなくても自前の税財源だけでやっていける体制に持っていきたいものです。大部分の市町村が地方交付税によって運営されている現状を一日も早く改善する必要を痛感いたします。そして、自分たちが納める税金によって市町村の業務や事業が実施されているのだという受益と負担の相互関係が確認されない現状は変えていかなければなりません。このことが地方自治の原点であり、基礎自治体の成立理念であってほしいと思います。

 二十一世紀の基礎自治体のあるべき姿として、もう一つ、直接民主制の原則があります。首長と議員は直接選挙で選出し、住民に不利益を与えたり名誉を傷つけた場合には、解職させることができる住民による公務員任免の権限も強化すべきでありますし、首長の多選禁止の要件はぜひとも導入すべきであります。

 次に、道州制導入について申し上げます。

 我が国の経済的豊かさはGDPの数値において先進国を凌駕するまでに成長し、世界一の長寿国の地位も達成しております。しかしながら、社会全般に何となく閉塞感が漂い、目標を失った感があります。フリーターの若者四百万人とか犯罪の多発等、連日報道されるニュースは、暗いニュースが多く、夢がありません。現在の時代変革は明治維新や終戦後の大改革に匹敵するとも言われ、社会全般に一大改革の必要性があると感じております。地方の中心都市を州都として活力を与え、南北に長い我が国の自然風土を生かし、これにはぐくまれた固有の文化を育成することが期待できます。

 道州制導入については、三つの方式があると言われております。一は、立法権や司法権も含めた準国家的機能を与える連邦制。二は、広域自治体に国の出先機関の機能も吸収するブロック制。三は、単純な都道府県の合併であります。この三は論外でありますが、二は、市町村合併の終了を目途に速やかに実現すべきであります。

 私は、最終目標として、憲法改正による連邦制を目指すべきことを提案いたします。明治維新も戦後の大改革も共通していることは、大きな目標を掲げて、現在ある制度を根本的に改革し、国民に新時代の夢を与えたところにあります。幕藩体制という中央集権体制の中にあって、これに対抗した西南の雄藩、薩長土肥に有能な人材が輩出したことを教訓として、地方の文化や教育の振興に道州制は最も効果的刺激材料を提供すると確信いたします。

 論議のたたき台として、九道州を提案いたしました。

 道州制を導入した場合の中央政府と地方政府の関係について、二点申し上げます。

 第一は、国と地方の役割を明確に規定し、これを憲法に明記することであります。地方自治確立の観点から、中央政府の役割は限定し、地方政府の役割を確実に設定することが大切であります。

 第二は、財政自主権が保障されることであります。国税に偏った現在の税体系を抜本的に再編成し、業務に応じた地方税の充実を図ることが必須要件であります。その場合、当然税収の地域格差が生じますので、その調整を図る財政調整制度の創設も必要と考えます。現在の地方交付税制度の反省に立って、ナショナルミニマムを保障するとともに、その配分は第三者機関に移すなど、透明性を確保する必要があります。

 終わりに、私たちは、憲法が生活の中で目に見えない形で生きていくことを望んでいます。基礎自治体における住民自治の確立こそ、平和主義につながり、人の心に平和のとりでを築くことになると思います。

 今世紀の早い時期にアジア共同体が日の目を見ることと思われます。人々の生活場面は、国家を超えてグローバル化が進んでまいりますが、たとえそのような時代が到来したとしても、自分を含む家族の生活の拠点である地域をしっかりした住民自治の土台に構築し、地域の文化に根差した国際人として活躍の場が開かれるためにも、地方自治の確立、平成の国づくりと私は申し上げたいんですが、これこそ私たちの使命であることを強調いたしまして、私の意見陳述を終わらせていただきます。

 ありがとうございました。

中山座長 ありがとうございました。

 次に、小田春人君にお願いいたします。

小田春人君 このように衆議院憲法調査会地方公聴会において意見陳述の機会を与えていただき、ありがとうございます。

 一国民、一県議会議員として、憲法改正賛成の立場で意見を申し上げます。

 まず最初に、総論的なことをお話しいたします。

 私は昭和二十三年二月生まれで、いわゆる団塊の世代に属します。団塊の世代を昭和二十二年から二十五年までととらえれば、一千万人を超えます。就学、就職、結婚、子育てのそれぞれのライフステージにおいて、経済を拡大し、社会をにぎやかにし、流行をつくってきたことは間違いありません。

 片方、意識の面では、私も議員になる前はそうでありましたが、戦後民主主義教育の影響で、愛国心や日本の歴史、伝統、文化を大切にする心が相対的に薄い世代のように思えます。各種世論調査でも、今や憲法改正賛成が過半数となっていますが、団塊の世代は、若い世代よりも賛成者が少ないとの調査も見た記憶があります。数年後には退職、続いて年金受給世代に移行します。その中で、わずか四年間で総人口の八%を占める大きな塊である団塊の世代は、立場はどうあれ、より積極的な憲法論議に参加する意識を持つべきだと考えています。

 もう一点指摘したいのは、学校における憲法教育であります。

 かねてより、学校の場においてどのような憲法教育がなされているのか気にはなっていました。小学校、中学校、高等学校の社会、政治・経済等の教科書を二冊ずつ読んで、愕然としました。日本国憲法の三つの基本原理、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を説明している内容をじっくり読むと、ある種の特徴が見えてきます。

 平和主義について言えば、平和主義イコール非武装とまでいうべき極端な平和主義であります。基本的人権の尊重では、人権の尊重を強調する余り、ある高等学校の教科書では、人権について十七、八ページぐらい書いてあります。片方、人権の制約と義務についてはわずか一ページでありまして、その中でも、義務については七、八行であります。そして、このように書いてあります。義務というのは、権利とは違って、憲法で定めなくても法律で定めればよい性格のものであるとまで書いてあるのです。まさに驚きであります。

 また、ある社の教科書は、小中高校とも、「あたらしい憲法のはなし」を戦争放棄の挿絵とともにその内容を紹介しています。「あたらしい憲法のはなし」というのは、一九四七年、新憲法施行直後に文部省がつくった中学校一年生用の社会科の教科書であり、五年間で廃止された代物であります。「こんどのあたらしい憲法は、日本国民がじぶんでつくったもので、日本国民ぜんたいの意見で、自由につくられたもの」ですと大変のんきなことが書いてあります。この復刻版を私は読んでみましたが、その中身を見てみますと、特定な意図なしには取り上げない資料であるというふうに思えました。

 小学校の学習指導要領には、「我が国の歴史や伝統を大切にし、国を愛する心情を育てるようにする。」と目標づけしてあります。文部科学省の教科書検定に大いなる疑問を持ちますし、果たしてこのような教科書で国を愛する心情を持つ国民を育てることができるのか、甚だ心配になってまいります。偏った憲法教育の是正をすべきだと強く主張したいのであります。

 そして、憲法調査会でも、学校教育における憲法教育の実態を詳しく調査していただくよう要望いたします。

 さて、本論に移りますが、私が憲法改正に賛成するのは次の二点からです。

 私が大学で憲法を学んだころは、憲法解釈が主体で、憲法制定過程が問題になったという記憶がありません。公文書の情報公開によるなど識者の研究によって、わずか十日余りで連合国総司令部によって原案が作成され、その後多少の変更はあっても原案を押しつけられたこと、そしてそれはハーグ陸戦法規に違反していたのではと言われていること、世界共通の理念は書いてあるものの、日本固有の歴史、伝統、文化の尊重や健全な愛国心の涵養等がうたわれていない、やや国籍不明の観のある前文に不満があることなどが第一点。

 第二点は、もともと問題がある条文は改正すべきであり、また施行後六十年近い時の経過の中で、内容をつけ加えたり変更したりする必要が出てきたことであります。

 具体的に、統治機構について何点か意見を述べます。

 まず、国会の衆議院、参議院についてであります。

 憲法第四十三条は、「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。」と規定しています。衆議院も参議院も、議員は直接選挙で選ばれ、すなわち同じ選出方法で選ばれ、権限では、予算の承認、条約の承認、内閣総理大臣の指名の議決については衆議院に優越権を与えています。片方では、法律案については参議院の拒否権に強い権限が与えられています。

 現在、世界で議会を持つ国は約百八十で、二院制を採用している国は約六十とのことです。衆議院に当たる下院は直接選挙、参議院に当たる上院は間接選挙や任命制が多く、両院とも直接選挙の国は二十に満たないと言われています。そして、同じ選出方法の国では両院の権限を対等にし、選出方法の異なる国では直接選挙で選ばれる下院に優越権を与えるのが一般的とされます。その意味で、日本の二院制は独自性があります。

 選出方法が違えば、おのずと両議院の役割も異なってまいります。二院制の使命は、多様な民意をより正確にくみ上げ国政に反映させることであり、憲法制定時に言われた抑制と補完機能を果たすことにあります。しかしながら、選出方法も選挙区と比例代表と酷似してきたことと、政権の安定のために参議院が完全に政党化され、衆議院のカーボンコピーとまでやゆされる現状が最大の問題であります。国会議員になれるならばどちらでもよく、衆議院で落選すれば参議院へ、その逆もありのくらがえは、信頼の喪失に拍車をかけています。このままでは、一院制にしてもほとんど差し支えありません。

 私は、単一民族で同質性の強い日本の国情からすれば、一院制に改正しても構わないと思います。二院制を残すとすれば、間接選挙や任命制と、まず選出方法を変更し、両院の権限関係も見直すべきであります。

 次に、最高裁判所の裁判官の国民審査について申し上げます。

 第七十九条は、「最高裁判所の裁判官の任命は、その任命後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際国民の審査に付し、その後十年を経過した後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際更に審査に付し、その後も同様とする。」この場合において、「投票者の多数が裁判官の罷免を可とするときは、その裁判官は、罷免される。」と規定しています。

 国民審査制をどのように評価すべきでしょうか。

 今この原稿を書いていて、私は、不勉強ながら、最高裁判所の十五人の裁判官の名前をただの一人も思い出せません。不勉強は恥じるにしても、私のような有権者が圧倒的に多いのではないでしょうか。名前すらわからなくて、その人の適否を判断できるかといえば、否でありましょう。わからないから気まぐれにバツをつける人が一〇%弱いると言っては失礼になるかもしれませんが、実質的に監視機能を果たすことのできない国民審査制度は、改正によって廃止してもよいと考えています。

 最後に、地方自治制度について陳述します。

 私が初めて議員になった平成三年は、地方分権の動きはほとんどありませんでした。一九九三年に衆参両議院で地方分権推進決議をして以来、十年間で現在に至っています。都道府県では行財政改革に真剣に取り組み、議会においても政策条例の制定等活性化が活発に実施されるようになりました。市町村合併によって大変動が起きています。こうした動きはすべて地方分権推進の一環であり、今や道州制や都道府県合併まで現実に議論され出しました。

 憲法制定時には想定できなかったとはいえ、第九十二条の「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。」では、余りにも簡単過ぎます。統治機構において地方自治制度は飛躍的に重要性を増しており、法律でこれを定めるのではなく、根本規範たる憲法で定めるべきであります。

 団体自治と住民自治で説明される地方自治の本旨も、より具体的にわかりやすく憲法に明文化する必要があります。また、国と自治体の関係や役割分担も明確に規定すべきであると思います。

 以上、意見を申し上げさせていただきましたが、今や憲法改正はタブーではなくなりつつあります。こういった中で、それぞれ意見や立場は違っても、今の憲法を、本当にこれからの日本国にとっていいものであるかどうかお互いに考え、私は当然改正すべきだと思っておりますけれども、そういった国民的議論が巻き起こり、国会においても国民投票制の手続法も早期に制定してほしいと思いますし、衆参両議院での大いなる議論が憲法改正へ結びつくことを心から念願して、意見の陳述とさせていただきたいと思います。

 ありがとうございます。

中山座長 ありがとうございました。

 以上で意見陳述者からの御意見の開陳は終わりました。

    ―――――――――――――

中山座長 これより意見陳述者に対する質疑を行います。

 まず、派遣委員団を代表いたしまして、私から総括的な質疑を行い、その後、委員からの質疑を行います。

 きょうは、参考人の皆さん方には貴重な御意見をいただきましたが、教育問題について、今全国的に大きな国民の関心の的になっております。私は、教育について皆様方の御意見をまず承りたいと思います。

 憲法を議論するに当たっては、日本が将来どのような国の形をつくるべきかということが大切だと考えております。とりわけ、将来の我が国を担っていく子供たちが果たしてどのような人間として育っていくのか、そして育てられるのか、子供たちの教育がどうあるべきかという問題は喫緊の課題と言うことができます。なぜなら、教育は国の礎であり、教育がしっかりしていてこそ国が成り立つと言うことができるからであります。

 現在、学校教育は教育基本法のもとで行われております。しかし、今日、学級崩壊、犯罪の低年齢化、子供たちを取り巻く社会環境の悪化、家庭の崩壊、社会道徳の崩壊や倫理観の欠如など、最近起こった少年による殺人事件等も含めて、私どもは大きな問題を抱えており、社会の倫理観というものの欠如をまざまざと感じるものであります。これらは、ある意味で教育の失敗があったということも認識されるのではないでしょうか。

 また、平成十一年二月、県立高校の校長先生が、卒業式の国旗掲揚、国歌斉唱に関する問題を苦にして自殺するという痛ましい事件が起こっております。広島は人類史上最初の被爆地であり、世界に平和を発信する拠点として期待され、平和教育が実践されてきました。しかし、この事件は、広島の教育現場に何が起こっているのか、そして公教育はいかにあるべきなのか、大いに議論を呼ぶきっかけともなりました。

 教育基本法は、その前文において、憲法の理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものであると宣言し、日本国憲法の精神にのっとり、教育の目的を明示して、新しい教育の基本を確立するために制定されました。しかし、憲法とともに、戦後六十年近くの間、一度も改正されずに来たこともまた事実であります。現在、教育基本法を見直すことを初めとした新しい教育のあり方が模索されており、特に、公と私の関係、共同体の役割をいま一度考え、歴史や伝統を再評価すべきではないかという議論も行われております。

 我が国は、今、国際化の流れの中にあります。世界とのつながりなくして国民の生活が成り立たないことを痛感すると同時に、世界のさまざまな分野で活躍する日本人の姿に胸を打たれることも多い時代でもあります。私は、日本人は我々の先祖から受け継がれてきた日本の古来の伝統や文化といったものも忘れてはいけないと思います。むしろ、日本を知らずして真の国際人は育たないのではないかと考えております。

 こうした流れを踏まえて、教育のあり方全般について、皆様の御意見を伺いたいと思います。

 それでは、まず、佐藤周一君にお願いいたします。

佐藤周一君 教育問題についてという御質問なんですが、まず申し上げたいのは、大人は子供の鏡だということです。

 ところが、今、指導的立場にある大人の人たちによる不祥事が毎日のように報道されています。非常に、これは子供たちに対して絶大なマイナスの教育効果をもたらしているのではないでしょうか。あるいは、内閣総理大臣である小泉純一郎さん、彼が、イラクへの自衛隊派遣について、多くの国民が、賛成の人も含めて納得していない状況で派遣された。だから、余り説明責任を果たさないままそういうことをしてしまうということを子供たちが見たらどう考えるのかなと大変心配です。

 さらにまた、子供たちが高校、大学を勉強して出たとします。就職口がなかなかありません。広島県内でいえば、半分以上が就職できない状況が昨年の十一月末現在でありました。これでは、若い人は本当に希望が持てないんではないでしょうか。若い人の職業意識が低いとか言われていますが、手に職をつけようとして職業訓練を受けに来る人がたくさんいます。それを受けてもなかなか就職できないという状況もあります。これでは、若い人は本当に希望が持てないなと思います。

 やはり、そういう希望の持てない状況であることを子供たちが薄々感じてしまうものなんです。本当に希望を与えるような社会にしていくというのが、最大の大人の役目ではないかというふうに思います。私、別に子供がいるわけでもないし、学校の先生でもないんですが、本当に希望を与えるような社会に大人がしていかなければいけないのではないか、こういうふうに感じております。

 以上です。

中山座長 ありがとうございました。

 次に、秀道広君。

秀道広君 基本的に、中山座長の御提言されました現在の教育の荒廃の背景に、全く同感でございます。

 昨今の学級崩壊、家庭崩壊あるいは倫理観の喪失はいかなるところからきたかと申しますと、そもそも、親を敬う心、教師を敬う心、先祖を大切にする心が十分に涵養されていないところ、さらに踏み込んで言うならば、個を超えた存在を敬うことの否定的な教育の中から現在の荒廃は生まれてきたと思えてなりません。これは、私が先ほど意見陳述いたしました平和の問題とも軌を一にすることでございまして、現在の問題、社会の問題、国際情勢の問題を、他者に対する恨みや、あるいはみずからの生活を改善するための他者への要求のみの教育から、困難を克服する人間の力を養成する教育は決して生まれてこないと思います。

 そもそも、すぐれた人間をつくるには、自分自身に潜在的に宿る可能性に対する自信や期待、あるいはみずからの命がよって立つところの国の歴史というものに対する喜びや誇りなくしては、みずからの力を引き出す気持ちというのはわいてこないのでございまして、現在の教育の問題の解決はこの点を外してはあり得ないと思います。

 そして、現在の教育基本法は、憲法の成立過程と同様でございまして、戦後十分な議論を経て形成されたというよりは、占領下の体制の中において、憲法と同様に、いわば占領軍から押しつけられる形で成立してきたことは、既に歴史研究の明らかにするところでございます。したがいまして、教育基本法あるいはそれに関連するさまざまのあり方も、我が国の歴史、伝統に基づいて、我が国の歴史、伝統に誇りを持つ形から組み立て直す必要があると考えます。

 以上でございます。

中山座長 ありがとうございました。

 次に、高橋昭博君、お願いいたします。

高橋昭博君 私は、先ほどの陳述の中でも申し上げましたように、本当に治安が乱れに乱れております。なかんずく、年少者による凶悪な殺人事件が多発をしている。このことは、とりもなおさず、私は家庭教育の貧困であるというふうに思うわけです。少年が親を殺し、親が少年を殺す、そういう事態。ですから、今は、家庭における親子の情愛あるいは他人への思いやり、そして日本が古くから伝統としています謙譲の美徳、そういうものが失われつつある、そういうところからやはり家庭の崩壊が、どんどんどんどん乱れているんではないかというふうに私は思います。

 一方、学校教育の中では、私は、先ほどの陳述の中でも申し上げましたように、被爆体験を三十二年間語り続けてきました。これは学校の修学旅行生が主体でございますが、大変よく聞いてくれます、子供たちは。一生懸命聞いてくれます。教科書から戦争の記述がだんだんだんだん薄れていきます。もう今では皆無に等しい状態ではないでしょうか。それを先生の力で今、平和教育がなされているという現状でしょうから、ぜひぜひ学校教育の中で戦争を教える、やはり歴史を踏まえて戦争をじっくり教える、そこから人の痛みがわかる心が醸成されるというふうに私は思いますから、学校教育の中では、やはり平和教育、とりわけ戦争を教える教育をやってほしいと思います。

 そして、小学生から英語教育を導入されるということを聞いていますが、私はそれは間違いだと思います。

 今、国語が乱れに乱れています。国語教育をやはりしっかりと根本からやり直さなければ、日本人の国語というのは本当に乱れていますよ。そういうこともやはり、犯罪を誘発する、そういう原因にもなっているのではないか。国語教育を徹底してやってほしい。その後に英語教育です。英語教育をやっちゃいかぬとは言いませんが、まず国語教育を立て直してほしいというふうに思います。

中山座長 ありがとうございました。

 次に、平田香奈子君、お願いします。

平田香奈子君 学級崩壊や、子供が犯す凶悪犯罪と言われるものが起こっていますが、いつでも子供は悪くない、その子供を取り巻く環境に責任があると思っています。

 憲法や、戦争で何が起こったのかを学ぶ中で、教育の重要性というものをとても痛感しました。先ほどの発言でも申し上げたように、本当の歴史というものをしっかり教えることが必要だと思います。

 今の子供たちは、塾に通ったり、いい大学や学校へ入るために勉強に忙しいようですが、伸び伸びと育つような環境をつくっていくことが大事だと思います。

中山座長 ありがとうございました。

 次に、岡田孝裕君、お願いします。

岡田孝裕君 私は、十二年間中学校の教員をしておりましたので、教育の現場におった経験からちょっと申し上げてみたいと思います。

 戦後は、私は、特に教師集団のイデオロギー体質が非常に強かったという感じを持っております。非常にイデオロギーを根拠にした教育が観念的に行われてきたということがあります。

 常に毎年毎年新しい子供が入ってまいります。子供の心は純真なわけですね。それに対して、イデオロギー優先の教育が行われた場合には、やはり、道徳の問題一つとりましても、道徳は人間の生きる道、人はどういうふうに生きたらいいかということを教えていかなければいけないんですけれども、それが邪魔をしまして、なかなかそういうところへ深めていくことができなかったんではないかという感じを、反省として私は持っております。

 それともう一つ、どちらかというと観念論に教育が取りつかれて、体験というものを非常に軽視してきたことがあろうと思います。

 ですから、私は、今の子供のいろいろな問題点が出ておりますが、体験の不足からきたものというものが非常に大きいと思いますから、教育の中で体験学習をこれから深めていく必要があると思いますし、人間の生き方を教えるんだったら、もっとマナー教育をやるべきだというふうに思っております。

中山座長 ありがとうございました。時間に限りがございますので。

岡田孝裕君 よろしくお願いします。

中山座長 ありがとうございました。

 最後に、小田春人君。

小田春人君 まず、教育基本法のことについて申し上げたいと思います。

 私たち岡山県議会では、私たちの自由民主党県議団の発案で、昨年の二月議会、そして十二月議会、二回にわたって、国へ教育基本法の早期改正を求める決議案を採択させていただきました。

 今の教育基本法というのは教育の憲法と言ってもいいわけですが、日本国憲法ができた後、昭和二十二年に成立しております。その前に、アメリカから教育調査団が来まして、六・三・三・四制等、いろいろなことについて提言をしていっております。ドイツにも同じように来ましたが、ドイツはその提言について一切聞いておりません。しかし日本は、教育基本法をつくるときに、教育基本法自体は日本で考え、つくったものでありますが、これが憲法とは違いますけれども、それに対して、その中で伝統や文化の尊重であるとか宗教心の涵養であるとかいうことについては厳しく制限されて、その条項は消されております。それはやはり、日本をどのように統治するかということが一番にあったわけであります。

 そのような教育基本法というのは早期に改正して、先ほど申し上げましたように、国を愛する心や伝統、文化の尊重、そして家庭教育のこと、こういったことをきちんと書くべきであります。憲法も教育基本法も同じようなところがありますが、現象面がここまで来た場合には、やはり、根本たる幹をきっちりと変えない限りよくならないと思います。

 それから、もう一点だけ申し上げますと、今、国の方針は、詰め込み教育はいけない、それから受験戦争がいけない、ゆとりを持たなければいけないということで、昭和五十五年から指導要領、教育内容が変わりまして、今は、二回にわたる改訂で約半分になっております。

 一九九〇年ごろから、生徒の自主性や個性を尊重しなきゃいけない、先生は教える立場からサポートする立場であるべきだというふうな、全くもって先生と生徒が同等であるはずがないわけでありまして、教える立場がサポートするようなことで教育が成り立つことは到底あり得ないと思います。

 そして、個性というのは鍛えてこそ個性でありまして、小学校に入った一年生が持っているものが個性とは到底言えないわけであります。

 そして、最近のゆとり教育については、私は全く反対でありまして、遠山文部科学大臣の確かな学力のすすめから文部科学省も転換を図りまして、指導要領も、昨年九月に中央教育審議会が、わずか一年で変更するということをうたっております。

 しかしながら、私も随分読んでみましたが、ただの一行も、新しい学習指導要領が間違っている、こういうところが問題であるということが書いてありませんで、文部科学省のやっていることは間違いないんだ、しかしこういうふうに変えると、それだけでありまして、これでは、これからの教育がいいようにいくとは到底思えないわけであります。

 それと、長くなりますからもう申し上げませんが、数年前、歴史教科書の問題がありました。

 そのときに、私は、新しい歴史教科書を七冊全部読んでみました。皆さんも機会があったら読んでほしいと思いますけれども、明治以降は約三分の一ぐらいのページ数を占めておりますが、これを読んで、ほとんどの教科書は暗たんたる気持ちにさせられますし、こんな暗い日本、暗い教科書で日本の将来の展望を広げるとは到底思えなかったということが、全部、それも詳しく読んで思いました。

 以上でございます。

中山座長 ありがとうございました。

 以上をもちまして、私の質疑を終わります。

 次に、質疑の申し出がございますので、順次これを許します。渡海紀三朗君。

渡海委員 自由民主党の渡海紀三朗でございます。

 本日は、陳述をいただきました皆さん、本当に皆さんの思いを聞かせていただいた、そんな思いでございます。

 たしか、議事録を見ますと、福岡の公聴会でありますけれども、陳述人のお一人が、公聴会というのは、実は間接ではなくて、国民の声をじかに聞いていただく、そんな貴重な機会なんだということをおっしゃっておったわけでありまして、私もそういう思いできょうは話を聞かせていただきました。

 限られた時間でございますから、まず、皆さんにお伺いをしたいと思います。

 私は、従来から、憲法というものは不磨の大典ではない、時代に応じた改正というものは不断の努力としてやっていくべきであるという立場に立っております。そして、これは決して、九条を改正しようとかそういうことをまず前提にしているのではなくて、憲法というのは国の基本法でありますから、その基本法が、現在の社会、現在の日本、また日本がこうあるべきだ、先ほど中山会長から国の形という話がございましたが、そういった姿に適当かどうかという検証は常にやっていかなければいけないと思います。

 もちろん、政府がやるさまざまな法律にしても社会にしても、憲法が守られていなきゃいけないということは、これは当たり前のことでありまして、最高法規のもとに法律があり、そして法治国家である日本として、国民も、もちろん我々立法府もそのことを守る、これは前提であります。しかしながら、同時に、時代の変化に応じて、これからあるべき日本の姿、またこうあってほしい、なければいけない、こんなことは常にやはり議論として行われなければならないというふうに思っております。きょうの皆さんのお話は、そういった一つのお話なんだと聞かせていただいたつもりでございます。

 そこで、きょうはさまざまなテーマがあったわけでございます。佐藤さんからは主に人権を中心にして社会保障の話、秀さんからは主に安全保障の話、高橋さんからは、大変な経験を御苦労をもとに、平和のとうとさ、安全保障の話、平田さんからは、安全保障、国際協力といった観点、また、岡田さんからは、統治機構、主に地方自治に焦点を絞ってお話をいただきました。小田さんからは、統治機構の中でのさまざまなお話があったわけでございます。

 きょう皆さんがお話しになった部分をより強調していただいても結構ですし、また、これが言い足りなかった、私は同時にこういう日本の国であってほしいと思っているという、皆さんがきょうお述べになった別の点で御意見がございましたら、端的に各皆さんから御指摘をいただければ幸いというふうに思っております。よろしくお願いいたします。

    〔座長退席、仙谷座長代理着席〕

佐藤周一君 先ほど述べさせていただいたことでちょっと補足させていただきますと、今の経済政策というものが、一部の大手企業は利益を上げるけれどもやはり失業者が多いという状況を招いているという、それがどうしてかということをちょっと補足したいと思います。

 失業の問題とか社会保障の問題あるいは増税されているということは、内需の低迷を招いて、巨額の経常黒字と不況が共存する状況を生み出しているということになると思います。経常黒字がやはり円高を招いていますし、それが、せっかく企業がリストラしたとしても円高になって帳消しになってしまう、こういう状況があると思います。あるいはまた、財政を再建する必要はあるんですけれども、急ぎ過ぎるとデフレ圧力が強まってさらに財政が悪化してしまうということになると思いますので、これは急ぎ過ぎないで、やはり、せっかく景気の指標が明るくなったことを続けるためにも、増税とか負担増は中止していただきたいということ。

 あるいは、労働条件なんかも、パートの労働条件なんというのは非常に悪いものがあります。私も福祉の関係を担当していますけれども、福祉労働者とかパートの労働条件というのは非常に悪いものがありますので、そういうことも底上げして内需拡大を図っていただきたいと思います。

渡海委員 佐藤さん、恐縮でございますが、皆さんにお伺いしたいので、細かい政策というよりも……。

佐藤周一君 済みません。

 言いたいことは、財政再建だということで緊縮財政をやっているんですけれども、結局、巨額の為替の介入という形で財政を出動させているということは強調させていただきたいと思います。

 以上です。

秀道広君 国家の安全保障というのは、国民一人一人が自分自身を超える価値に対する感覚を開くところからしか生まれないと思っています。

 私は広島の被爆の経験を少しお話ししましたけれども、それ以外にも、沖縄の資料館、鹿児島の知覧特攻隊出撃基地、そして東京の大空襲等、日本はたくさんの犠牲を払って今日の繁栄と平和を持っております。安全保障とは、生きている人間だけではなくて、歴史の中に生きる死者に対する責任と感謝あるいは慰霊の気持ちを養う中からしか生まれない。そして、広島の復興にかかわった人たちは、多くは物言わぬ人々です。黙々と広島の再建のために働いて死んでいった人たちのことを考えると、今後の国のあり方は、観念的なよい悪いではなくて、具体的にどのようにすればよいのか、そして亡くなった人たちにこたえるには我々はどういう気持ちであるべきかというところから出発したいというふうに思います。

 以上です。

高橋昭博君 私は、先ほどの陳述の中で、世界で一つや二つ軍隊を持たない国があってもいいではないですかと言いました。そのためには、平和外交を基調とした全方位外交を果敢に展開すべきだと。この全方位外交というのはかつて福田赳夫総理がおっしゃった言葉でありますけれども。では、軍隊を持たないで日本が守れるのかということですね。私はそういう御質問があろうかとも思って、自分でまとめてきたものをちょっと御紹介いたします。

 全方位外交を展開するためには、私が政治家になったつもりで申し上げます、外務省を充実強化します。世界を、第一、アジア、二、中東・アフリカ、三つ、ヨーロッパ、四つ目は北米・南米と、四つのブロックに分けて、それぞれ副大臣を置きます。そして、全方位外交を果敢に展開していく。

 国際的には、防衛庁を廃止します。それで、国際貢献省というものを創設いたします。そして、自衛隊を改組し、国際貢献隊を創設いたします。この国際貢献隊は、国土建設、緊急災害救助、教育、文化など、民間では人的、物的に困難であろうという仕事を受け持つ。そして、例えば、日本が中心になって今進めておりますが、バーミヤンの修復作業のような、そういうものをやっていく。また、平和部隊を創設いたします。これは今のNGOを、それぞれの自主性を十分重んじながら、相互の連絡調整を図りながら、側面的に、この平和部隊というのが積極的に支援を行っていきます。そして、従来からの海外青年協力隊を十分活用しながら、国際貢献では世界で一番すばらしい日本だと言われるような国になりたい。それで軍事に対抗していくということを思いました。

平田香奈子君 私は、一人一人が生きるということを楽しめる社会であってほしいと思います。朝から晩まで働いて、帰って寝るだけの生活ではなく、自分の趣味や家庭や子供の教育にも十分時間をとれるような生活をしたいと思います。

 そして、海外に目を向けると、一日一ドルで暮らすような最貧国の国民などに対して、もっと人生を楽しめるような貢献をしていく国であってほしいと思います。

仙谷座長代理 時間が限られておりますので、申しわけございませんが、簡潔にお願いいたします。

岡田孝裕君 私は、地方自治を充実することによって平和がもたらされるんだという観点があります。戦争のときに国民総動員法がつくられて、そして戦争に地方も動員されていったという反省の上に立てば、もっと住民自治を中心にした地方自治を確立していけば戦争を防ぐことができるというふうに思いますので、ちょっと回り道かもしれませんが、そういうことも、いわゆる戦争、私も戦争は嫌いですから、絶対戦争はしてはいけないという不戦の誓いを持っておりますが、しかし、それを言葉で言うのでなしに、やはり側を固めていくという、平和のとりでをつくっていく地方自治を確立した方向でやっていきたいと思います。

小田春人君 それでは、一点だけ申し上げたいと思います。

 私は、今の地方分権推進の中で、規制緩和と権限移譲をもっともっと進めていただいて、競争原理を導入できるような体制をやってほしいと思います。

 一例だけ申し上げますと、議会も前は、例えば政策県議会を標榜しようにも、政策条例をつくろうにも、機関委任事務が七割から八割のときにはつくる分野というのがもうほとんどないわけですね。今は、自治事務はもちろんのことですが、法定受託事務についても全部条例制定ができるというふうになりました。そのおかげで、全国の県議会が先を競って政策条例をつくろう、今こういうふうになっております。

 こういうふうに、仕組みを変えれば必ずそういうことで競争原理も働きますし、頑張っていける。ですから、憲法改正も当面すぐにできるわけではありませんから、地方自治を大事にして地方分権を推進する、権限移譲、そして規制緩和、競争原理の導入、これをぜひともお願いしたいと思います。

渡海委員 余り時間がないようですが、岡田さん、一つだけお聞きしたいんですが、国がやるべき役割は基本的に何とお考えですか、国と地方の役割分担という点で。

岡田孝裕君 一般的によく言われておりますが、外交、自衛権、それから金融政策とかいうようなものは、当然これは国がやるべきであって、あとは、とにかく住民に身近なところでいろいろなものが行われる。そして、それがどうしてもできない場合に、補完性の原則で、都道府県へ行ったり、あるいは国へ行くという、住民中心の、いわゆる自治中心から出発したものにしてほしいというのが私の願いでございます。

 ですから、国の役割は限定的にすべきだという気持ちを持っております。

渡海委員 時間が来たようですから、これで質問を終わらせていただきます。

 ありがとうございました。

仙谷座長代理 次に、山花郁夫君。

山花委員 民主党の山花郁夫でございます。

 きょうは大変貴重な御意見をお聞かせいただきまして、ありがとうございました。

 最初に小田さんに質問をしたいんですけれども、何点か御意見、陳述された中で、最後に地方自治のお話をされまして、私なんかも、道州制的な方向にこれから移行すべきではないかという議論の中で、日本国憲法第八章の規定というのは本当にこれで十分なのかなという気持ちも少し持っております。特に地方公共団体、憲法上のものは何かということに対して、判例及び通説ですと、都道府県及び基礎的自治体の市町村である、こうなっていますから、仮に道州みたいな構想を立てたときに、本当に現行のままでいいのかどうかという疑問が出てくるわけです。

 あわせて、岡田さんにも少し御意見をいただきたいんですけれども、小田さんは先ほど衆参両院について一院制でもいいのではないかというような御意見だったと思うんですけれども、これも大いに議論があっていい問題だと思います。一院制という議論もあり得るんですが、要するに、分権をこれから進めていって道州ぐらいのところまでいったときに、今の日本国憲法の四十三条ですと衆参両院とも全国民を代表するという話になっていますが、そういったブロックあるいは県を代表するという上院、下院、特に、下院は全国民を代表するということになりましょうけれども、上院の形というのがあってもいいのではないか。

 例えばアメリカですと、上院は各州二名ずつだったと、ちょっと人数は正確には覚えておりませんが、たしか二名ずつだったと思います。そういう形で選出をするというやり方をしております。我が国では、残念ながら、先日も最高裁から、参議院の議員定数について今度やったら憲法違反になるぞというような感じの意見が出ておりますが、そういった形で上院、下院、違う構造にするということであれば、いわゆる一票の格差は上院について問題とならないということにもなりましょうし、国の議会のあり方としてそういうことも考えられるのではないかと思います。

 もちろん、岡田さんが言われるような道州制をとったとしても、一院制でいいんだという議論も選択肢としてはあり得るんだと思うんですが、両名のお方に、地方自治の推進ということと中央の議会のあり方についてどのようにお考えになるかということについて、御意見をいただければと思います。

仙谷座長代理 小田春人君、座長の指名を受けてから発言をしてください。

小田春人君 私は道州制のことは申し上げませんでしたが、道州制を将来の日本のあり方として、市町村合併の先に道州制、都道府県合併あるいは連邦制というのがあるわけですが、憲法を改正すれば連邦制もできるとは思いますが、私は、道州制が一番好ましいんではないかなと思っております。

 例えて申しますと、岡山県には七十八市町村がございます。それから中国五県で三百十余り市町村があるんですが、五県の合併パターンをつくったのを全部いきますと六十ぐらいになるんですね。今の段階でも百ぐらいには減るようになっていると思います。これから、来年三月が終わりではないわけで、そうしますと、一県であったぐらいの町村が中国五県でなる、これは例えばの話ですが。そういうときに、現実的な問題として県がこれだけあっていいのかといったら、そういうところからも、ある程度の大きな塊をしてやるべきでありましょうし、そのときに一番問題になるのは、どういうふうに道州制をつくるかということと、国から権限をどれだけするかということであります。

 その中で、先ほど私は一院制にしてもいいと言ったのは、今のようなままであったら一院制も二院制も全く意味がないということを極論したわけでありますけれども、道州制が実現できるような暁には、今先生が言われたように、二院制であれば、まず選出方法を変えた方がいい、任命制あるいは間接選挙ということで、そういうふうに選出方法を変えることが必要だろうと私は思っていますから、道州制が将来できる暁には、道州の代表が、まあそれだけでいいかどうかということはありますけれども、衆議院ともう一つの参議院に当たる院の方にはそういった代表が入ってもらって議論するということもいいんではないかなと思います。

 以上です。

岡田孝裕君 私は、地方分権の立場から道州制をぜひ導入すべきだ、しかも、連邦制の道州制を導入すべきである。これは憲法を改正しなければ導入できないと思います。といいますのは、準国家的な、いわゆる立法権、司法権を持った連邦制ですから、そうした場合に、道州を幾ら日本でつくるかということですが、七から十一ぐらいの案が出ておるようでありますが、いずれにしましても、十前後の道州ができて、そしてそこで本当の、いわゆる一つのステートができればいいなという気持ちを持っております。このことを憲法改正の一つの目標として実現していただきたい。

 衆参両院については、参議院はそのできた道州制の中からアメリカ方式で選出していけばちょうどいいんではないかというように思います。まあ百人前後でいいんじゃないかと思いますが。そして、衆議院の権能と参議院の権能はやはり違うんだというところを憲法で明記していただいたらいいんじゃないかと。

山花委員 あと四名の方にお伺いをしたいと思うんです。

 憲法の議論ということになりますととかくやはり九条の議論が、憲法改正と言うと、九条ですかというような形で聞かれたり言われたりすることがあるんですが、例えばほかの条項でもいろいろと検討すべきではないかなと思われるところがあって、例えば、有名な話ですけれども、憲法の八十九条、公のお金を公の支配に属しない教育事業に出してはいけないとなっていますから、素直に読めば私学助成というのは憲法違反になるわけで、宮沢俊義さんという大変有名な、高名な昔の東京大学の先生を初め、どうも国公立系の学者の方は、憲法違反じゃないかと言う方が多くて、私立大学の憲法学者の方は、いや合憲だと一生懸命言うような傾向が見受けられたりとか、ある意味、政治的ではないけれども、イデオロギッシュな解釈論争のあるところなんですけれども。

 私は、こういうふうに、ある条項について例えば緩やかに解釈してもよくて、ある条項については厳格にという話というのは、よっぽどの理由がなければいけないんじゃないのかなと思うわけであります。

 ところで、九条については比較的緩やかに解釈をされ続けてきておりまして、私自身は、今回のイラクの派遣については、先日もブッシュ大統領が、相手方の、今、大統領選の民主党の候補者を指して、あいつは戦時の大統領には向いていないと、戦時だとはっきり言っていますから、日本の政府がどう言い繕おうと、戦地に武装した日本の組織が行くのだということで、どう読めばいいのかというのはわからない一人ではあるのですが、ただ一方で、解釈でここまでできるのだという形で、日本政府がここまで来ております。

 ところで、その解釈については、最終的には最高裁判所の判断で一応決着をつけるという建前にはなっているんですが、日本の憲法裁判のあり方としては、付随的違憲審査、具体的な争訟事件、具体的な事件があって初めて審査できるのだというふうに解釈をされていますから、皆さん方があれは憲法違反じゃないかと訴えても、それは判断されない。秀さんはそういう主張ではなかったと思いますが。憲法違反だと思う人が裁判所に行ってもそれは判断されない、最終的には政府の見解によるという形になっています。

 憲法の議論をするということであれば、例えば護憲的な議論をされる方であっても、憲法保障のあり方について、もうちょっとこうあるべきじゃないかという意見というのは、もしあったら教えていただきたいということが、平田さん、高橋さん、佐藤さんに対する質問です。

 そして、秀さんに対しては、むしろ逆に、緊急事態のためにしっかりとした対応をとるためには改正した方がいいという話でしたけれども、その改正のあり方として、例えば自衛のために戦力を持つということをはっきりさせるべきだというお話なのか、あるいは、海外にも例えば集団的自衛などの形で行くことも含めて考えるべきだという御意見なのか、そこのところをお願いしたいと思います。

仙谷座長代理 時間が限られておりますので、簡潔にお話しをいただきたいと存じます。

高橋昭博君 今、山花先生のおっしゃることが、私はよくわかりません。ですから、どうお答えしていいかわかりません。

 私は、いずれにしても、第九条は、改正は反対、もうこの一点ですから。それ以外にないんです。

 今はもう解釈改憲ですよ。解釈改憲で今、事がなされているということですからね。これをもとに戻してほしい。解釈で何事も行うということはやめてほしいということです。

山花委員 そういったお立場であることは理解はするんですけれども、例えば、そういった立場を保障するというようなシステムに今なっていないのではないかと。つまり、裁判所に訴えても門前払いのような形になってしまいます。つまり、九条をという話ではなくて、例えば憲法裁判所を設けることは考えたらどうかとか、そういった御意見はお持ちではないのでしょうかという質問なんですけれども。

仙谷座長代理 平田香奈子君、お答えなければ、お答えないということでお答えくだされば結構です。

平田香奈子君 わからないので。済みません。

佐藤周一君 結局、それはもう最高裁判所の裁判官の怠慢という以外にないと思います。それは、何でも政治判断に任せるということになってしまっているので、これは憲法の問題というより、やはり最高裁判所の体質の問題だと思います。

 あえて言うのであれば、国民審査の前に、その裁判官がやってきた判例なんかをもっと候補者並みに詳しくやって、例えば、政見放送まではいかないけれども、そういうことをするとかして、国民が判断できるような材料にしたらいいと思います。

仙谷座長代理 残念ですが、時間で、終了いたしましたので、秀さん、申しわけございません。時間がなくなりましたので、失礼します。

 次に、斉藤鉄夫君。

斉藤(鉄)委員 公明党の斉藤鉄夫です。

 きょうは本当にありがとうございました。

 早速質問させていただきたいと思います。六人の方にそれぞれ別な質問をさせていただきますので、済みません、簡潔にお願いをいたします。

 まず、佐藤さんにお伺いいたします。

 基本的人権について、御意見ありがとうございました。憲法というのは、一つは統治機構をきちっと定めるということと、もう一つの役割は人権宣言的なところに憲法の意義があると思います。日本の憲法は、ある意味で、佐藤さんおっしゃった二十五条、それから第十三条の幸福追求権、非常に大ざっぱな枠でがんととらえて、あと個別的な基本的人権については別個に定めるという形になっておりますけれども、そうではなくて、一つ一つ個別的な基本的人権について憲法の中で詳しく定めるべきだ、そのことが本当の意味の人権宣言的な憲法の役割を果たすことになるんだ、こういう意見もございますが、この点についてどうお考えでしょうか。

佐藤周一君 例えば、おっしゃることに環境権とかがあると思うんですが、でも、環境が悪ければ、例えば健康で文化的な生活はできないと思います。あるいはプライバシー権なんかも、例えば安心して暮らせるためにプライバシー権があるわけで、憲法前文の平和的生存権のところにかかっていくんじゃないかと思いますし、逆に言えば、例えば九条なんかも実はそうで、戦争によって環境破壊とかがやはり起きていますから、そういうことを考えると、環境破壊をなくすにはやはり九条、戦争をしないということが必要ですので、新しい人権をカバーするのには何ら不足はないという立場です。

斉藤(鉄)委員 ありがとうございました。

 次に、秀さんにお伺いいたします。

 二点お伺いしたいと思うんですが、第一点は、お話の中で、守るべき名誉というお話がございました。それから、いただいたレジュメの中に、「守るべき国家アイデンティティを確認する」という言葉もございます。いわゆる、ここで言う国家アイデンティティー、名誉というのは何なのかということが第一点でございます。

 第二点目の質問は、集団的自衛権の問題でございますが、現在の憲法九条の政府解釈は、ある意味で、各国に固有に持つけれども、日本はこの憲法九条の制約によって集団的自衛権は持たない、こういう解釈でございますが、この九条を変えるべきだとおっしゃいました。この集団的自衛権についてはどのように明記をすべきか、その二点をお伺いいたします。

秀道広君 一点目の守るべき国家アイデンティティーの問題については、我が国の誇りある歴史、伝統、文化という言葉に集約されると思います。それ以上、その言葉を個々がどのようにイメージするかということについては、もっと十分な議論が必要であると思います。集約して言えば、その言葉だと思います。強いて言えば、歴史上の人物の誇りや名誉ということと言ってもよいと思います。

 もう一点の集団的自衛権については、先ほどの山花先生の質問とも重なると思いますけれども、自衛隊あるいは国軍を海外に派遣してもよいか否かという点についてお答えすれば、海外に派遣することはよしとすべきだと考えています。

 ただ、それ以上に大切なことは、軍隊を持つか持たないかということもさることながら、いかなる軍隊を持つのか、そしてその軍隊はいかなる制御を受けるのかというところにこそより重要な命題はあるのでありまして、そこを抜きにして、ただ憲法を改正する、軍隊を持つということは、日本は非常に危険な道に踏み込むという可能性は十分に踏まえておく必要があると思います。

斉藤(鉄)委員 済みません。そのことに関連してもう一つ。

 ということであれば、例えば現在の第九条はそのままにしておいて、しかし固有の自衛権である自衛権は持っている、したがって自衛隊は合憲であり、日米安保に代表される集団的自衛権の範囲の中で、現在の解釈の中で十分自衛は可能であるということにもなるんですけれども、この点についてはどうお考えでしょうか。

秀道広君 それは、現実に合わせるために、いわば解釈的に運用しているのが現状だと思います。その結果あらわれた大きな問題は、海外に派遣まで受けた自衛官の人たちは、気持ちの上では、命を賭す、命をかけてまで任務に赴くといいながら、十分な名誉、祝福されることもなく海外に派遣されている。十分な身を守るためのすべも持たされていないというのは、現地に赴く人たちへの冒涜でもあり、いわば国内にいる人々は、自衛隊の方々を犠牲にしてみずからの国際的な立場を守っているということにもなると思いますので、それは現実に合わせて条文の方も第二項は削除する、そして前文でもその精神は明記することによって、解釈だけではなくて正式に位置づけるということが、自衛隊あるいは国軍にかかわる人たちの士気あるいは名誉にかかわることであると思います。

斉藤(鉄)委員 ありがとうございました。

 次に、高橋さんと平田さんに、最初にまず同じ質問をさせていただきたいのです。

 核廃絶を目指していかなくてはいけないわけですけれども、その前に大きく立ちはだかる壁として、いわゆる核抑止論というものがあります。核が余りに巨大な破壊力を持つがゆえにだれもボタンを押せないという、そのことによって、力による平和、均衡の平和ということが言われるわけで、その論そのものは核の存在を認めてしまっているわけです。これをどう乗り越えるかということが論理的には非常に大切だと思いますけれども、この点についてどのようなお考えをお持ちか、お伺いいたします。

高橋昭博君 私は、先ほどの陳述でも申し上げましたように、核兵器そのものは絶対悪ですから、一日も早くすべてをなくするということです。とはいうものの、それは容易でないことはよくわかりますが、例えばNPT体制というのがありますね。五カ国の核兵器はいいんだ、あとの核兵器はだめなんだということなんですね、平たく言えば。そんな不条理な国際社会はないわけですから、NPT検討会議で、とにかく年月を区切って、アメリカもロシアもイギリスもフランスも中国も、この五カ国の核兵器は年月を切っていついつまでに廃絶するという目標を来年のNPT会議では立てて、それに向かって廃絶に努力をするということをしなければ、いつまでもこのままの体制では廃絶に向かうことはできない。要は、来年のNPT会議にかかっているというふうに思います。

平田香奈子君 核を持っている国があるゆえに、ほかの国も秘密につくってしまったりとか持ってしまったりしていると思います。核兵器が要らないことはとてもはっきりしていることなので、廃絶の運動をとにかく進めていかないとと思っていますが、日本もそうした態度をとってほしいと思っています。

斉藤(鉄)委員 高橋さんにもう一度、この件に関して。

 核兵器廃絶に向けての運動について、日本の憲法九条が大きな力を持つと私は思いますけれども、この点についての高橋さんのお考えと、先ほど手を挙げられました、何かございましたら。

高橋昭博君 十分持つと思います。したがって、憲法九条は改正すべきではないと思います。

 それと、やはり今、国際社会が矛盾なんですよね。例えば、北朝鮮の核はだめだけれども、アメリカの核はいいよと。その核兵器の傘で日本は守られているわけですから。そういう矛盾はないと。ですから、北朝鮮から見れば、アメリカの核は脅威なんですよ。だから、アメリカの核兵器もなくしてもらわなきゃいかぬ。最近の小型核兵器、使える核兵器の研究がありますが、これに対して日本政府は全然ノーですね。黙っていますでしょう。だめだということを言ってほしいということを、私は強く先生方にお願いしたい。

斉藤(鉄)委員 それでは、岡田さんと小田さんにお伺いいたします。

 義務教育費国庫負担制度、今、三位一体改革で一番大きな議論になっているところでございます。憲法二十六条に、「すべて国民は、」途中省略しますが、「ひとしく教育を受ける権利を有する。」そして「義務教育は、これを無償とする。」と憲法にうたわれております。これを実質的に担保する制度が義務教育費国庫負担制度、もう国が責任を持つ、全国どこに生まれようがある一定以上の教育を受ける、これは日本国に生まれた者にとって非常に重要な条文だと私は思います。ところが、知事会等は、この義務教育費国庫負担制度をやめて一般財源として地方に渡してほしい、このような要望をされております。地方分権の考え方に従って、使い方はこちらが考える、こういう趣旨だと思います。

 先ほど岡田さんは道州制を主張されましたけれども、ある意味では、そこら辺、地方分権が進むということはいいわけですけれども、逆な面から見ると、ひとしく、全国どこに生まれてもある一定レベル以上の教育を受けるという基本的な権利を失ってしまうのではないかという強い心配をしております。この問題について、岡田さんと小田さんのお考えを聞かせていただければと思います。

岡田孝裕君 私は、義務教育の国庫負担については、これはナショナルミニマムだと思うんですね。ですから、どこのへんぴな地域に生活していようとも、教育を受ける権利は当然基本的人権としてあるわけですから、これを保障するということは当然でなけりゃいけんと思います。ですから、国庫補助負担金でやっておりますけれども、これはナショナルミニマムは何と何だというふうに決めれば、ちゃんとした交付税措置の項目を決めていけば、私はそれはクリアできるものじゃないかというふうに思います。

 義務教育をやるという場合に、例えば学級が三十人学級がいいとか三十五人学級とか、それぞれ、僻地の教育なんかの場合に、いろいろ手当てをしてやっておりますね。都道府県によっては先生を特別につけたりというようなことがありますので、そこらのところの違いから、都道府県知事とすればそういう要求が出ておるんじゃないかというふうに私は推察いたします。

 以上でございます。

小田春人君 義務教育の全国的にひとしくというのは、もともと文部省はそれをかたくなに守ってきたわけでありまして、警察と並ぶ極めて中央集権的なやり方をやってきたわけでありますけれども、今やっと規制が緩やかになりました。四十人学級をそれ以下にしてほしいというのは、これはある意味ではひとしくということにならないわけでありまして、既に山口県など、来年から全小学校、中学校三十五人学級、岡山県はそこまでいっておりませんけれども、小学校や中学校一年生については三十五人学級をやっていくとか、全国それぞれやっております。

 しかし、これをひとしくというふうに考えるとおかしいわけでありまして、ですから、あくまでも最低限これだけのことは確保して、例えば四十人学級というのは確保して後は任せる、要するに、一般財源化して、地方にそれだけの創意工夫ができて、教育も地方独自の教育、その中で最低限のことだけやらなきゃいけない、こういうふうにしていくべきだろうと思います。

斉藤(鉄)委員 ありがとうございました。

    〔仙谷座長代理退席、座長着席〕

中山座長 次に、山口富男君。

山口(富)委員 日本共産党の山口富男です。

 きょうは、参考人の皆さん、どうも意見陳述ありがとうございました。それからまた、会場の皆さんも、お集まりいただきましてありがとうございます。

 私は、日本国憲法につきましては、二十世紀前半までの専制政治と侵略戦争のあの体制を拒否した平和主義と民主主義の憲法原理として、二十一世紀にこれを引き継いでいかなきゃいけないという考えを持っております。それで、私自身、おばが被爆しておりまして、被爆者援護政策の充実や強化の問題でも、再び原爆被害者をつくらない問題でも、やはり憲法九条を守って核兵器廃絶と平和に向かうということが本当に大事な仕事になると思うんです。

 初めに、私、高橋さんにお尋ねしたいんですが、先ほどの意見陳述の中で、大変な被爆の苦しみの中でいろいろな思いもお持ちだったと思うんですが、それを乗り越えてくる、立ち直るきっかけというのが平和主義を掲げた憲法だったというお話がありました。その点について、もう少し詳しく教えていただけないでしょうか。

高橋昭博君 お話をした以上のことはちょっと申し上げられませんけれども、私の気持ちの中には、陳述の中でも申し上げましたように、たくさんの友人たちを亡くしています。私と同じように動員学徒に駆り出されて死んでいった、動員学徒自体で六千三百ですから、そういう友人たちの死を決してむだにしてはいけないと、それが私は憲法第九条につながっていくんだという気持ちでずっと戦後を生きてきました。

 ですから、絶対にもう九条は、改正などというのは私の頭の中には毛頭ございませんから、憲法九条こそが日本の誇りであり魂であり、これを世界にやはり広げていくということですね。この九条を、輝かしい九条を世界に広げていく、それを私は命のある限りはやっていかなきゃならぬ。そのことが、私は、私の被爆体験を語ることと同じことだというふうにずっと考えてまいりました。

山口(富)委員 もう一点高橋参考人にお尋ねしますが、二十一世紀に憲法九条を引き継いでいく場合に何が大切かということなんです。

 高橋さんの経験の中には平和記念資料館の館長もお務めになったわけですけれども、私もけさ寄ってきまして、四回目になるんですが、行くたびにやはりみずからの足場を見詰め直す機会になっているように思うんです。

 そうしますと、世代を超えてこの九条を伝えていかなきゃいけないわけですけれども、その際にどういう点が高橋さん御自身の経験からいきましても大切になるとお考えなのか、幾つか示していただきたいと思います。

高橋昭博君 九条を伝えることですか。これはもう、戦力不保持ということを若い人たちに伝えていくことが第一ですね。どうも、今の平和教育の中で憲法を教えるというのをやっていないんですね。憲法の平和主義、戦争放棄というものをもっともっと平和教育、学校教育の中で教えてほしい。私は、それが今の若い人たちのよりどころになるんじゃないかというふうに思います。そういう平和教育を受けた子供たちが広島、長崎に来て、あるいは沖縄に行って、戦跡をあるいは資料館を見学する。そうすれば、子供たちの心に平和のとりでが宿るということになるんではないかというふうに思います。

山口(富)委員 次に、平田参考人にお尋ねしたいんですが、先ほど、イラク戦争への自衛隊派兵の問題について、これは許せないというお話がありました。確かに、イラク戦争は国連が認めていない違法な戦争であって、それに自衛隊を送るようなことがあれば、これを追認しますから、国際社会との関係でも問題がある。しかも、先ほど占領軍の一員になるという指摘がありましたけれども、現実に憲法九条の禁じる交戦権の行使や武力の威嚇または行使に通じるという点で、私も、この自衛隊のイラク派兵は絶対に許せないというふうに考えております。

 それで、先ほど、三月二十日に人文字アピールをやるというお話があったんですが、この人文字というのは、先ほどのお話ですと、「戦争でなく平和を」という人文字をつくるんですか。それからもう一点は、そういう運動の中で、きっと若い皆さんがお集まりになって、いろいろな話を交わされていると思うんです。一体皆さんがどういう思いをその人文字に込めて語ろうとしているのか、もう少し話していただきたいと思います。

平田香奈子君 人文字は、平仮名でへいわと書いて、ピースマークをする予定です。

 今集まっている若者というのが、いつもピースウオークを一緒にしたりとかそういう集まりでやっていて、もっとほかの、運動はしていない若い人たちにも、自分の立場で、いろいろな思いで、それぞれ表現できる場をつくっていきたいということで、今回はちょっとお祭り的な集会を開くことにしました。

山口(富)委員 そういう取り組みというのは、皆さん方でやはり憲法のよさ、平和主義や民主主義を見直すいい機会になっているんですか。

平田香奈子君 やはり憲法が一番だと言って参加してくる若者もいますし、情勢をめぐる勉強をしている中でも、そういう発言が出たりします。

山口(富)委員 もう一点だけ平田さんにお尋ねしたいんですが、先ほど意見陳述の中で、昨年の選挙の中で改憲が政党の公約に盛り込まれたことについて大変驚いたという指摘がありました。

 それで、確かに、皆さんは憲法九条を守ろうということで運動もされているわけですけれども、国民の中にある、そういう平和の憲法を大事にしようという気持ちと、それがなかなか国会状況や政党状況にあらわれないというか、ゆがみが生まれてくるという点については、一体どうしてこうなるのかなとか、そういう何か考えはお持ちですか。

平田香奈子君 国会が国民の代表の集まりであるということに対して、その中で改憲が掲げられるということに対しては、これが本当に国民の意思を反映したものであるかということに疑問を一番感じます。

山口(富)委員 ありがとうございました。

 続きまして、基本的人権にかかわって佐藤周一参考人がお話しになりましたので、何点かお尋ねしたいんです。

 まず、憲法二十五条なんですけれども、日本国憲法は、二十五条に限らず、かなり広範な人権の規定を定めております。この背景には、戦前の専制社会を拒否したことと、それから、ちょうど憲法をつくった時期に国連憲章も生まれたり、各国で社会権と言われるものが生まれてきましたから、それを取り入れたことによって、日本国憲法は大変豊かな人権規定を持つようになったように思います。

 お尋ねしたいのは、きょうは二十五条を中心にお話しされましたので、佐藤参考人が考えております、その他の人権条項の問題で、こういうところは、やはり日ごろの、お仕事は公務員ということでしたけれども、公務員は憲法を守るという立場を表明して仕事に尽くされるわけですが、日本国憲法の人権条項のすばらしさというのはどういう点でお感じになりますか。

佐藤周一君 意見陳述で述べさせていただいたとおりなんですが、特に二十五条につきましては、いろいろほかの国の憲法も比較させていただいたんですが、ここまでばっちりと生存権を定めているのは余り見たことはないんです、社会保障とか、そういう表現ではしているんですけれども。これほど健康で文化的で最低限度の生活を保障しているというのが、先進国でほかに余り見られないというか、私が不勉強なせいかもしれませんが、ほかの国を見ると、社会保障ですとか、そういう感じの表現です。

 だから、社会保障以外にも、例えば労働条件ですとか、環境の問題ですとか、あるいは九条の方とも連動してきて、やはり戦争になったら本当に殺されたりして生きていけないわけだから、非常にうまく各条項が連動して、全体としてうまくできているなという印象を受けております。

山口(富)委員 もう一点佐藤さんにお尋ねしますけれども、先ほど年金制度の問題が一言だけ言葉としては出ました。今これは大問題になっておりまして、政府案を見ますと、これは、十数年から二十年余り、国会の審議抜きに、保険料は上がるけれども給付水準は下がるという案が提起されていますね。これは当然憲法二十五条の問題が生まれてくるわけですけれども、この点についてはどういうお考えをお持ちですか。

佐藤周一君 今の年金の、例えば国民年金の水準でも、やっと夫婦二人で生活できるかどうかという状況の方をお見かけする場合も結構あります。

 今、負担増あるいは給付カット、こういうことが提起されているわけですけれども、こういうことをしていきますと、逆に、景気という意味でも余計に悪くなって、やはり後でまた年金の財政は余計に悪くなります。

 例えば、株とかで年金を運用していますから、景気が悪くなったら株が下がったりして、やはり運用益の損も出てくると思います。あと、年金の基金が、いろいろ何か事務費に使われていたとか、いろいろな施設ですね、グリーンピアに使われていて、それが損害を出しているとか、そういうむだもありますし、あるいは積立金が毎年百何十兆円も巨額にある、こんなに必要かという問題もあって、今急いで積み立てるよりも、もうちょっと積み立てを減らして、給付を今保障した方が、景気もよくなって、かえって後で増税とかもしなくて済むんじゃないかというふうに考えております。

山口(富)委員 岡田参考人に一点お尋ねしますが、日本国憲法の地方自治の規定というのは、地方自治の本旨というのが明確に規定されておりますから、地方の行政については、きちんと地方の皆さんの意見を聞きながら、国の干渉を排して地方がやりなさいという立場をとっております。きょうのお話ですと、冒頭に、国による中央統制や国と地方の主従関係が定着してきてしまったという点に、これは問題であるというお話があったんですが、そうしますと、これは現状の憲法からいっても、今の状態というのは憲法条項に反する状態が生まれているという認識をお持ちなんですか。

岡田孝裕君 地方自治の本旨というのが、解釈によっていろいろとれると思うんですよね。ですから、地方自治の本旨というのを、本旨そのものを憲法へ書いた方がいいと思うんですよ。法律で、地方自治法でそれを定めるとかいうようなことでなくて、基本になる、いわゆる地方自治の基本的な考えというものを、私は、憲法に明記すべきである、授権的なことは排除すべきだという考えでございます。

山口(富)委員 憲法規定は、初めて戦後の憲法に盛り込まれたものですから、地方自治の本旨という形で明確に盛り込んだということなんです。

中山座長 時間が超過していますから。

山口(富)委員 ちょっと私の質問にはお答えいただけませんでしたが、終わります。

中山座長 次に、土井たか子君。

土井委員 最後の発言者になりました。社民党の土井たか子でございます。

 きょうは、公述人で御出席の皆さん、ありがとうございました。

 最後ですが、今までの発言の中で、大体、お聞きしたいと私が思っておりましたことがもう済んでしまっているという格好なので、二度三度繰り返し聞くということはちょっと余り意味がないなと思いながら、ただいま二問お尋ねをさせていただきます。

 一つは、国家のアイデンティティーとは何ぞやという質問がございました。それに対しまして、秀公述人は、国家の誇りある伝統、文化とおっしゃったんですが、私自身、国家の誇りある伝統、文化、日本の場合は、さまざまございますけれども、一番忘れちゃならないと心して思うべきは、伝統であり、文化であり、日本の誇りとなるもの、これはやはり最高法規である日本国憲法の第九条そのものが日本の誇りある伝統であり、文化だと思っています。したがって、大分にこれは認識が違うなと思っているんです。

 もう一つは、きょう、ここは広島ですが、広島の体験ということを日本のアイデンティティーにするということの大切さというのがあると思うんですね。きょうは、いろいろお話を承りました中で、高橋公述人の具体的におっしゃってくださる一つ一つが、やはり広島の体験そのものが日本のアイデンティティーになるということではないかと私は勝手に思って承っていたんですけれども、その問題をどのように考えましたらよろしゅうございますか。

秀道広君 私は、日本の誇りは九条にあるとは思っておりません。九条は、あるいは憲法は、平和を守るための手段であって、それそのものが目的であるとするのは、現代の社会に生きる者の観念であると思います。

 そして、山口様から御指摘がありましたように、被爆者援護、そして二度と被爆者をつくらないという思いは、まさに私たち広島に住む者たちの強い思いであると思います。問題は、それをどうやって実現するかというところにあるのではないかと思っています。

 先ほど医療の、私の職場の現場のこともお話ししましたけれども、幾ら万全の体制を整えても、人は病気になりますし、病気で死んでいきます。国と国が存在する以上、国の対立というものは、大小さまざまなものはありますけれども、避けることのできないものであると思います。問題は、最悪の事態をいかにして避けるかということにあると思います。

 被爆体験は、今後とも日本が世界に向かって永遠に語り継いでいくべき体験であると私も深く認識しています。ただ、それだけでよいのかということでございます。被爆者をつくらないということは、地上から核兵器を廃棄するというのはとてもすばらしい方法で、ぜひそのための努力も続けていくべきでございます。

 しかし、技術的には、たとえ核兵器があっても、それが国土に落ちてこないようにするための技術開発も必要でございましょう。たとえ核爆発が起きたとしても、五十九年前の技術と今の医療では随分違いがありますから、今の医療技術であれば救える人も、救えたであろう人もたくさんおられます。そうであるならば、戦争の被害や核の被害に関して、さまざまの面から現実的に、あとう限りの方法で考えていく努力を私たちはするべきだと思っています。

高橋昭博君 私は、もう陳述の中でるる申し上げたとおりであります。何といってもやはり憲法は改正すべきではない、なかんずく九条は絶対に守っていかなければならないと。

 私は、今、被爆体験を聞いてくれた子供たちの中から、大体百人前後の若い人たちと交流を続けております。沖縄にあったり、北海道にあったり、東京にあったり、大阪にあったり、それぞれの地域で今働き、学校に行っている若い人たちです。その人たちに私は言います。もし、憲法改正、国会の三分の二の議決を経て国民投票にかけられた場合は、必ずあなたたちは反対してほしい、ノーだと言ってほしいということを言いましたら、必ず国民投票のときにはノーだということを僕たち、私たちは言いますということを、その百人前後の若い人たちは言ってくれておりますから、また、その百人の若者たちがさらに輪を広げていってくれる、そういうことを私は期待しながら、これからも、いわゆる体験継承、若い人たちに被爆体験を伝える、同時に、戦争のない平和な国をつくる、そのためには日本国憲法は必要なんだ、改定してはならないんだ、そういうことをやはりこれからも訴え続けてまいりたいと思います。

 以上です。

土井委員 ありがとうございました。

 きょうは、この会場にいらしている傍聴者の皆さんも、応募された結果、ここに御出席だと思うんですね。きょう、意見陳述をこの場でしてくださった皆さん以外に、公述者としてこの席に臨むことを希望なすった方がほかにもたくさんあるわけです。公述人となる前に、御自身がどういう考えで、何をここに持ち臨まれるかということを簡単な文章にして出していただいているのを、私はここに参ります前にいただいて、ずっと目を通してみました。圧倒的多数の方が今の憲法の改憲に対して反対です。そして、その意見の中身では、多いのは、求められるのは憲法の改憲ではない、憲法の完全な実施ですという意見なんですね。

 この中身ということを、私たちはお一人お一人の御意見として承らなければならないんですが、きょうは、最初の佐藤公述人もおっしゃったんですけれども、この広島というのが地方公聴会の最後になります。ここでの公聴会の意見を聞いて、もう国民の意見を聞いたというふうに思わないでほしいというふうにおっしゃったんですね。私のところにも、各都道府県の県都で公聴会開催というのはせめて最小限度考えられるべきではないかという意見もいただいたりいたしておりますけれども、皆さんの御意見というのを私たちはしっかり踏まえなきゃならぬと思っていますが、これから公聴会のありようというのをどのようにしていくことがいいというふうに思っていらっしゃるか、御意見があったら、また、それに対して何かこういう方法はどうだろうというふうなアドバイスがございましたら、お聞かせいただきたいと思います。

佐藤周一君 陳述で述べさせていただいたとおりなんですが、やはり中国地方五県といいましても、これが今回の対象地域なわけですけれども、例えば鳥取県とか島根県からわざわざ仕事を休んで来るとなると非常に大変なものがあると思います。あるいは、平日開催ということで、なかなか本当に仕事を休めないという方もいらっしゃると思うし。私なんかの場合だったら、まだ休みがとりやすいような職場ですから、まだ来れたということもあります。

 やはり、本当に意見を集約しようと思えば、先ほど申し上げたとおり、せめて各県庁所在地で開催していただくということ、それから、できれば、本当にぜいたくかもしれませんけれども、平日とあと土日に分けて二回ぐらい、だから日曜日と月曜日ぐらいに二日間開催ぐらいにして、六人と言わず、例えばその倍ぐらいにしていただいたら本当に、まあ衆議院の方の執行体制の問題もあるとは思いますけれども、ぜひそういうふうにしていただきたいと思います。

 今ちょっとお伺いして、憲法を守れという意見陳述を応募された方の方が多数と聞きまして、非常に驚いております。その辺の比率というものもやはり考慮していただきたいなという感じはします。例えば本当に純粋な意味で、逆に人数を多くして抽選にしてしまうとか、そういういろいろな方法もあると思いますけれども、ちょっとその辺は、委員の先生方がまたよろしく工夫していただければと思います。

土井委員 今、そういう意見がたくさんあったので驚いたというふうに佐藤公述人はおっしゃいましたけれども、手元に参りました受け付け総数というのは四十五人なんです。きょう御出席の皆さんもこの中にいらっしゃるだろうと思いますが、名前が出ておりませんから。年齢と、それから今のお仕事がどういうことになっているかというのだけが表示されておりますので。だから、その辺はお名前がないのでわかりませんが、人数はそういうことになっております。

 それから、先ほど秀公述人の御意見を承って、いよいよ私は、どうしてそれなら憲法の九条に対して変える必要があるのかという気持ちになっております、おっしゃったことについて。なおかつ、またこれは、きょうはもう時間がございませんから、別の機会にその辺はしっかりひとつ承らせていただくということでお願いしたいと思います。

中山座長 これにて委員からの質疑は終了いたしました。

    ―――――――――――――

中山座長 この際、暫時時間がございますので、本日ここにお集まりいただきました傍聴者の方々から、本日の公聴会に対する御感想を承りたいと思います。時間の制限がございますので、皆さん方全員にお話をいただくわけにまいりません。そういうことで、発言を御希望の方三名に限って御発言を願いたいと思います。指名した方にマイクをお渡しいたしますので、お名前と御職業をおっしゃった後、御感想をお述べいただきたいと思います。

 それでは、御感想のある方は挙手をお願いいたします。一番左の、手を挙げている、今、首を振った方。

井坂信義君 団体職員をしております井坂信義と申します。

 きょうの白熱した真剣な公聴会を聞かせていただいて、本当に感動しております。しかしながら、その多くが、なかなかこの短い時間では突っ込めない、さまざまな問題をはらんでいるかというふうに感じました。

 そして、私、思いますのは、やはり憲法改正はしなければならない時期に来ているのではないかということでございます。

 そして、特に、なかんずく今お話の中心になりました憲法九条、日本は平和主義を変える必要は全くないと思います。むしろやはり平和を守るその先頭に立つべきだと思いますが、そのためにも、平和を守るための軍隊、あるいは自国を守るための軍隊を持つということは明記すべきだと思いますし、また、個別的自衛権、そして集団的自衛権も含めて明記される、あるいはそれがあるということを確認する必要があると思います。よって、憲法九条、なかんずく戦力保持を禁止した第二項は、やはり現状に合わせて削除すべきであるということを非常に痛感いたしております。

 この憲法にそういうことが書いてあることによって、国を守るという意識が国民から薄れ、そして政府においても、国民を守るという意識が薄れているんではないか。それが具体的にあらわれたのが拉致問題であり、二十六年にわたって、国民が拉致されているということがわかっていながら、これを議論することさえ封殺してきた、ここにもそういうことをしてきた政党の代表の方がおられますけれども、そういったことがなされてきたということは非常に残念なことであり、これが平和憲法と言われる実態であるということが非常に残念だというふうに思われます。

 やはり平和を守るために、そして国民を守るために、この憲法、なかんずく九条二項、そして前文をやはり改正していただきたい。これは、秀陳述人がおっしゃっていたことに非常に全面的に私は賛同いたした次第でございます。やはりこういったことがきちっと議論される、そして観念的な平和の議論ではなくて、本当に実際に即した議論であるべきであるというふうに思います。

 最後に、イラクに派遣されている自衛官の方々、本当にありがたいと。それは、自分の命は朽ちるとも任務を果たしたい、戦後の日本においてそういう決意を表明してくださった自衛官の方々に本当に感謝をしたいというふうに思っております。本当に一人も欠けることなく無事に帰っていただきたい。そのためにも、国民として、この憲法をきっちり変えてあなた方の名誉を守りますということを表明したいというふうに思います。

 以上です。

中山座長 ありがとうございました。

 次に、真ん中の、私の頭と同じような形をした人。

今谷賢二君 広島市西区に住んでおります、労働組合の役員をしています今谷と申します。

 御議論を聞いていて、二点ほど私の意見を申し述べて意見表明にさせていただきたいと思います。

 一つは、国を愛する心あるいは国家アイデンティティーなどのお話がありました。なかなか具体的なお話をお聞きすることができなくて残念でありましたが、私は、憲法があくまでも目的でなく手段であるとの主張には、そのとおりだと思います。

 そして、その結果としてつくられる私たちが望む社会は、今憲法が規定をしている、国民が主権者として重んじられる社会であり、だれもが人間らしく生き、働くことができる、そういう社会を実現すること、そして、そのことが一人一人の国民にとって、この国で暮らしてよかった、このように思える、そういう社会を実現することではないかと思います。

 その柱は、私は労働と教育にあると思います。

 労働にかかわっては、佐藤さんがおっしゃられた若者の雇用問題などに早急に取り組み、憲法が規定をする、勤労が義務であり権利であるということを実態として実現をする、このことが最も大切ではないかと考えます。

 あわせて、教育にかかわっては、憲法が規定をするように、能力に応じた、だれもが人間らしく成長する、そういう教育をやはり保障することが求められます。今の学校においては、条件整備の不十分さもあって、一人一人の能力に応じた教育が十分に実現をされているとは言いがたい実態があり、そのことが結果として生存権の保障などにも不十分さを残しているのではないかと考えています。そういう意味では、土井さんも指摘をされた、今、憲法を守り生かすことの方がより重要ではないかと考えます。

 第二に申し上げたいのは、せっかくの場でありましたけれども、例えば、公述人の中からも、事実にも反する単一民族であるとか、最高裁の裁判官の国民審査に当たって国民があたかもみずからの判断をしていないかのような発言があったことが残念でなりません。

 私は、今のような状況にあっても、国民が最大限の権利行使をしていることを大切に考えるべきだと思いますし、何より、基本的人権と義務を対立するような関係ではなく、表現の自由は持ちながらも、その表現によってその人権が侵される人がいることも重々に承知をしながら発言をする、このことが基本的人権を本当に尊重する道につながるのではないか。こういう場であるからこそ、このことを銘記いただきたいとお願いをして、発言にさせていただきます。

中山座長 ありがとうございました。

 最後は、御婦人にひとつ御発言を願いたいと思います。御婦人の方、どうぞ。それでは、その白い洋服を着た方、一番右の端。

浜喜代子君 看護師をしております浜喜代子と申します。

 現在の日本を見てみますと、周辺諸国の事情ですとか周辺諸国からの脅威によって、有事関連の法案ですとか、それから九条の改正などについて語られている、そういう状態なんですけれども、私、靖国神社ですとか、その対面にあります昭和館などで展示物を見まして、とても悲しい思いをいたしました。

 これからはちょっと感情論になるので、皆さんのおっしゃったレベルの高いお話とはちょっと変わってくるんですけれども……

中山座長 御静粛に願います。

浜喜代子君 ちょっと変わってくるんですけれども、看護師をしておりまして、突然に命を奪われるような疾患にかかられる方、その方はもとより、その周辺にいらっしゃる、取り巻く方の悲しみというのははかり知れないものがあります。看護師をしていて、共感しろとか援助をとかと言われても、当事者でないとわからない悲しみや苦しみというものはたくさんございます。

 有事の際に、本人の好むと好まざるとにかかわらず、そのような、自分の命にかかわるようなそういう状況に立たされる、参加させられる、そういう悲しい状態に皆さん陥ってほしくないと思います。医療従事者であるならば、命と健康を守るという視点に立ちまして、そういうことは申し上げておきたいと思います。

 それから、女性として、自分の愛する夫や子供たち、そういう愛する人たちが自分の命を侵される、そのような状況に立たされるということも悲しむべきことだと思います。本当に感情論のお話をして申しわけないんですが、そういう者もおりましたことを心にとめておいてください。

中山座長 ありがとうございました。

 まだ御発言の御希望もあるようでございますが、予定の時間が参りましたので、ここで終わらせていただきます。

 静粛に願います。

 この際、一言ごあいさつを申し上げます。

 意見陳述の方々におかれましては、長時間にわたりまして貴重な御意見をお述べいただき、まことにありがとうございました。ここに厚く御礼を申し上げます。

 また、この会議開催のため格段の御協力をいただきました関係各位に対しまして、心より感謝申し上げ、御礼を申し上げます。

 それでは、これにて散会いたします。

    午後四時二十分散会


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